明治演劇年表 岡本綺堂 Guide 扉 本文 目 次 明治演劇年表 明治元年(戊辰) 一八六八 二年(己巳) 一八六九 三年(庚午) 一八七〇 四年(辛未) 一八七一 五年(壬申) 一八七二 六年(癸酉) 一八七三 七年(甲戌) 一八七四 八年(乙亥) 一八七五 九年(丙子) 一八七六 十年(丁丑) 一八七七 十一年(戊寅) 一八七八 十二年(己卯) 一八七九 十三年(庚辰) 一八八〇 十四年(辛巳) 一八八一 十五年(壬午) 一八八二 十六年(癸未) 一八八三 十七年(甲申) 一八八四 十八年(乙酉) 一八八五 十九年(丙戌) 一八八六 二十年(丁亥) 一八八七 二十一年(戊子) 一八八八 二十二年(己丑) 一八八九 二十三年(庚寅) 一八九〇 二十四年(辛卯) 一八九一 二十五年(壬辰) 一八九二 二十六年(癸巳) 一八九三 二十七年(甲午) 一八九四 二十八年(乙未) 一八九五 二十九年(丙申) 一八九六 三十年(丁酉) 一八九七 三十一年(戊戌) 一八九八 三十二年(己亥) 一八九九 三十三年(庚子) 一九〇〇 三十四年(辛丑) 一九〇一 三十五年(壬寅) 一九〇二 三十六年(癸卯) 一九〇三 三十七年(甲辰) 一九〇四 三十八年(乙巳) 一九〇五 三十九年(丙午) 一九〇六 四十年(丁未) 一九〇七 四十一年(戊申) 一九〇八 四十二年(己酉) 一九〇九 四十三年(庚戌) 一九一〇 四十四年(辛亥) 一九一一 四十五年(壬子) 一九一二 明治時代の劇を研究する人々の参考にもなろうかと思って、左の演劇年表を作ってみた。勿論完全な物ではないが、先ずこのくらいの事は知っていても好かろうという程度で編集したのである。但しその年表が東京だけにとどまって、関西方面まで手が廻らないのは、編者が関西劇界の事情をよく諳んじていないがためである。 明治の初年は、江戸から東京へ移った過渡時代で、編入すべき事項も頗る多いが、ここにはその大体を記すにとどめて置く。あまり繁瑣にわたることを避けたためである。 (岡本綺堂) 明治元年(戊辰) 一八六八 ○天下の形勢不穏のため、猿若町の三座とも正月興行を休み、二月に至りて漸く開場。 ○五月十五日、市村座と守田座の開演中に、上野彰義隊の戦闘あり。その後も市中おだやかならず、劇界不振をきわむ。 ○八月、市村家橘改名して五代目尾上菊五郎となる。時に二十五歳。 ○九月二十三日の夜、河原崎権之助、今戸の宅にて浪士の強盗に斬殺せらる。養子権十郎は幸いに免かる。 二年(己巳) 一八六九 ○三月、河原崎権十郎、養父のあとを襲いで七代目河原崎権之助と改め、市村座において「勧進帳」の弁慶を勤む。 ○八月、市村座において「桃山譚」を初演。権之助の地震加藤、大好評。 ○劇場は依然として不振の状態をつづけ、各座いずれも経営に苦しむ。 三年(庚午) 一八七〇 ○三月、守田座において市川左団次の丸橋忠弥初演、大好評。 ○四月、三代目沢村田之助、再び脱疽のために残る片足を切断す。 ○六月、市村座六月興行の入場料は、桟敷代八十五匁、高土間八十匁、平土間七十五匁。  参考のために市村座の入場料を掲げたるが、他も大同小異と知るべし。これは桟敷または土間一間の価にて、その当時の一間は七人詰なり。江戸時代には桟敷三十五匁、土間二十五匁が普通にて、それに比較すれば明治以後は大いに騰貴したる次第なるが、一匁は一銭六厘五毛なれば、平土間七十五匁は一円二十三銭七厘五毛、それを七人に割付けるときは、一人前は十七銭六厘余に相当す。 ○十二月十八日、三代目関三十郎死す、六十六歳。 四年(辛未) 一八七一 ○一月、中村翫雀大阪より上京し、守田座における御目見得狂言の三浦之助、好評。 ○七月、守田座にて「亀山の仇討」を開演中、石井兵助を勤むる嵐璃鶴が召捕られて、後に懲役三カ年を申渡さる。小林金平の妾おきぬが璃鶴と私通し、遂に金平を毒殺するに至りしより、おきぬは死罪、璃鶴は連坐の刑に問われしなり。 ○十月二十二日、六代目市川団蔵、大阪に死す、七十二歳。彼は前名を九蔵といい、天保十一年河原崎座において「勧進帳」初演の当時、富樫左衛門を勤めたり。 ○十月、仏人スリエ、九段招魂社にて曲馬を興行す。 五年(壬申) 一八七二 ○二月、守田座の座主守田勘弥、猿若町より京橋区新富町六丁目へ転座を出願し、四月に至って許可せらる。  天保以後、明治の初年に至るまで、三座はみな浅草の猿若町に封じ籠められ、中村座は一丁目、市村座は二丁目、守田座は三丁目にあり。江戸が東京と改まりしに就ては、劇場が浅草のごとき偏寄りたる場所にあるは不利益と観て、市の中央たる京橋に打って出づることを企てしは、守田勘弥の慧眼というべし。 ○二月、二代目岩井紫若、八代目半四郎と改名す。 ○五月、中村座の大切浄瑠璃に「音響曲馬鞭」を上演、そのころ渡来せる西洋曲馬を脚色したるものにて、菊五郎が伊太利人ジョアニに扮して好評。 ○八月二十七日、各劇場の座主は東京府へ召喚せられ、興行中は見物人の多少にかかわらず、桟敷、土間の間数を標準として、日々百分の一の税銀を上納すべしと申渡さる。劇場に対する観覧税の始めなり。 ○新富町守田座、新築落成して、十月三日より開場。狂言は一番目「三国無双瓢軍扇」、二番目「ざんぎりお富」にて、権之助、左団次、仲蔵、半四郎、翫雀ら出勤す。同座は在来の構造に種々の改良を加え、その当時の劇場としては、もっとも進歩したるものと称せらる。 六年(癸酉) 一八七三 ○三月、村山座の一番目「酒井の太鼓」にて、権之助の酒井左衛門尉と菊五郎の鳴瀬東蔵との渡り台詞に「かく文明の世の中に、開化を知らぬは愚でござる」といい、観客はその時代違いを咎めずして、大いに喝采せり。いわゆる文明開化という言葉が、いかに流行したるかを察すべし。 ○六月、中村座の二番目「梅雨小袖昔八丈」を初演。菊五郎の髪結新三、仲蔵の家主長兵衛と弥太五郎源七、いずれも好評。 ○九月、河原崎権之助は市川三升と改名。 ○十一月、守田座にて「東京日日新聞」を上演。新聞物を舞台に上せたる嚆矢なり。 ○東京府令によって市内の劇場を十カ所と定められたれば、在来の三座のほかに、京橋区中橋の沢村座、日本橋区久松町の喜昇座、おなじく蠣殻町の中島座、四谷の桐座、本郷区春木町の奥田座など、相前後して新築開場せり。 七年(甲戌) 一八七四 ○一月、中村座の番附に「午前七時より相始め、午後五時迄」と記載す。これまで劇場の開演時間に一定の制限なく、単に多年の習慣に因って、「早朝より相始め」というに過ぎざりしに、中村座が初めて開場と閉場の時間を番附に明記したり。 ○五月、沢村座の番附に、桟敷代上等金一円八十五銭、中等一円四十銭、高土間上等一円七十銭、中等一円三十銭、平土間上等一円五十銭、中等一円十銭と記載す。劇場の観覧料は多年の習慣に従って、今まで銀何匁と唱え来たりしが、この座が初めて何円何十銭に改め、爾来その例に倣うもの続々あらわる。 ○七月、芝新堀に河原崎座の新築落成して開場。市川三升は九代目市川団十郎を襲名して座主となる。時に三十六歳。 ○九月、嵐璃鶴は満期出獄して団十郎の門下となり、市川権十郎と改名して河原崎座に出勤す。 八年(乙亥) 一八七五 ○一月、守田座は新富座と改称す。巨額の負債の嵩みしためなり。但し一月狂言の「大岡政談」に、彦三郎の越前守、菊五郎の天一坊、左団次の伊賀之亮、いずれも好評。 ○一月、東京府令により、俳優は税金として上等五円、中等二円五十銭、下等一円、劇場附の茶屋は一円を納むることとなる。いずれも月税なり。 ○六月十四日、二代目尾上菊次郎大阪に死す、六十二歳。江戸末期を盛りとしたる女形にて、名人小団次の女房役者として世に知らる。 九年(丙子) 一八七六 ○三月、中村座の二番目に新作「偽織大和錦」を初演。仲蔵の馬子丑蔵が田舎訛りのベエベエ詞のゆすり場、大好評。 ○片岡我童、片岡我当の兄弟、大阪より上京して、中村座の三月興行より出勤。 ○五月、中村座にて「重盛諫言」を上演。団十郎の重盛は毀誉相半ばしたるが、いわゆる「活歴」なる史劇の新形式は、この頃よりおいおいに芽を噴きたるなり。 ○五月、市川女寅が本郷の春木座へ稽古に通う途中、湯島切通しの坂へ差しかかりし時、俄かに眩暈を感じて人力車を降り、路ばたの西洋小間物屋へ転げ込みしに、店の人々は大家の夫人と見誤まりしという。この当時の女形の風俗を察すべし。 ○十一月二十九日、日本橋区数寄屋町より失火して、中橋座も新富座も類焼す。 ○十二月三十一日、浅草区馬道八丁目より出火して、中村座も村山座も類焼す。 十年(丁丑) 一八七七 ○四月、新富座の仮普請出来して開場。俳優菊五郎、左団次、仲蔵、半四郎、芝翫の一座にて、大阪より中村宗十郎も上京して加入す。 ○八月七日、三代目桜田治助死す、七十六歳。明治以後は多く振るわざりしが、江戸末期における著名の狂言作者の一人にて、黙阿弥らの先輩なり。「鬼神お松」「鈴木主水」「おその六三」「明がらす」など、その当り作として知らる。浄瑠璃にも有名の作少なからず。 ○十月十三日、五代目坂東彦三郎、大阪に客死す、四十六歳。江戸末期より明治の初年にわたる名優の一人にて、団十郎、菊五郎も一時は彼に圧倒されたるなり。 ○十二月、新富座にて「黄門記童幼講釈」を初演。団十郎の水戸黄門、菊五郎の河童の吉蔵、仲蔵の盲人玄碩、いずれも好評。 十一年(戊寅) 一八七八 ○二月二十三日より新富座にて、西南戦争を脚色したる「西南雲晴朝東風」の通し狂言を上演。八十余日間打ち通して、古今稀なる大入と称せらる。明治時代における長期興行のレコードなり。 ○五月十二日、五代目市川門之助死す、五十八歳。江戸以来著名の女形なり。 ○六月、新富座の本建築落成。七、八の両日を以て盛大なる開場式を行い、顕官紳士一千余名を招待す。舞台開きの狂言は「松栄千代田神徳」にて、団十郎、菊五郎、左団次、仲蔵、半四郎ら出勤。いわゆる新富座時代はこれより始まる。 ○この興行より新富座に、初めて花ガスを点じ、大いに見物をおどろかしたり。 ○七月七日、三代目沢村田之助死す、三十四歳。中村芝翫と共に、江戸末期より明治初年にわたって、満都の人気を集めたる女形にて、脱疽のために両足を切断し、更に両手を切断して舞台に立ちたるは、劇界有名の事実なり。 ○八月、新富座は大暑のために午後五時より開場し、夜芝居という。わが劇界における夜間開場の嚆矢とす。 十二年(己卯) 一八七九 ○二月三日、『歌舞伎新報』第一号を発行す。編集者は久保田彦作にて、仮名垣魯文その補助たり。劇界唯一の機関雑誌として好劇家の間に歓迎せらる。この以前に『劇場新報』なるものありしが、局外者の編集とて十分に手が廻らず、久しからずして廃刊したるために、『歌舞伎新報』が更に現われたるなり。 ○三月、新富座の一番目「赤松満祐」中幕「勧進帳」二番目リットンの翻案「人間万事金世中」、大入りにて、六十余日を打ち続け、京浜在留の外国人より、引幕を贈りて総見物あり。 ○五月八日、初代市川女寅死す、二十八歳。容貌技芸共にすぐれ、前途多望と称せられたる女形なり。 ○七月十六日、東京府民有志の発企にて、来朝中の米国前大統領グラント氏を新富座に招待し、新作の史劇「後三年奥州軍記」と芸妓の手踊を演ず。 ○久松町の喜昇座は、改築と共に久松座と改称して大歌舞伎となり、八月六、七、八の三日間にわたりて開場式を挙行す。 ○久松座の舞台開きに、大阪の尾上多見蔵上京して出勤。八十三歳にて石川五右衛門の宙乗りを勤め、東京の観客を驚かしたり。 ○九月、新富座にて新作「漂流奇談西洋劇」を上演。劇中劇として、外国の男女俳優一座を登場させたるが、甚しき不評に終りて莫大の損失をきたせり。守田勘弥の蹉跌はこれに始まると伝えらる。 十三年(庚辰) 一八八〇 ○一月、新富座にて各新聞記者を招待して劇評を依頼す。劇場に新聞記者招待の始めなり。 ○二月三日、日本橋区橘町より出火し、久松座は新築後半年にして類焼す。 ○三月、狂言作者二代目河竹新七向島の梅屋敷に初代新七の石碑を建立し、荵塚という。 ○十一月、新富座の二番目に「木間星箱根鹿笛」を初演。神経病の怪談にて、菊五郎の娼妓おさよ、好評。 十四年(辛巳) 一八八一 ○二月三日、三代目中村翫雀、大阪に死す、四十一歳。大阪の俳優なれど、東京にても評判好かりき。初代中村鴈治郎の父なり。 ○四月、新富座にて「天衣紛上野初花」を上演。河竹新七がその旧作を改訂せるものにて、団十郎の河内山、菊五郎の直侍、左団次の金子市之丞、半四郎の三千蔵、梅五郎の按摩丈賀など、いずれも無類の出来と賞讃せらる。 ○六月二十八日、三代目瀬川如皐死す、七十六歳。江戸末期には黙阿弥と対抗する著名の狂言作者にて、「佐倉宗吾」「切られ与三郎」「うわばみお由」など、その代表作と称せらる。 ○六月、新富座にて尾上梅五郎は名題に昇進し、四代目尾上松助と改名す。 ○八月二十五日、北海道官有物払い下げ問題について、福地源一郎、沼間守一らが、新富座において、政談演説会をひらく。劇場を演説会場に使用せし嚆矢とす。 ○十二月、新富座の二番目に「島鵆月白浪」を初演。二代目河竹新七が引退の作にて、菊五郎の明石島蔵、左団次の松島千太、いずれも好評。新七は三代目を門弟の竹柴金作に譲りて、おのれは古河黙阿弥と改む。時に六十六歳。 ○十二月、柳亭燕枝、春風亭柳枝、桂文治らが、春木座にて落語家芝居を催す。案外に成績の好かりしために、その後もしばしば催したり。 十五年(壬午) 一八八二 ○一月二十三日の夕刻、猿若座の興行中に出火して全焼。幸いに怪我人少なし。 ○二月十九日、八代目岩井半四郎死す、五十四歳。粂三郎といいたる青年時代より、美貌を以て評判の高き女形なり。 ○六月、大阪の市川右団次上京して猿若座に出勤し、中幕に望月を勤む。一番目は「川中島」、二番目は「大丸屋騒動」。団十郎、菊五郎、左団次は勿論、家橘、芝翫、高助、福助、秀調、海老蔵、小団次、松助に、大阪方の璃寛、右団次を加えたる大一座にて、俳優の共進会と称せらる。 ○十一月、猿若座にて沢村清十郎は名題に昇進し、四代目沢村源之助と改む。 十六年(癸未) 一八八三 ○四月、春木座にて「菅原実記」を上演。右団次の菅丞相が天拝山祈りの場にマグネシヤを用いて電光を見せ、大いに観客の喝采を博す。 ○五月、市村座にて「新皿屋敷」を初演。菊五郎の魚屋宗五郎の酒乱、大好評。 ○十月、新富座にて「妹背山」を上演。団十郎のお三輪が評判となる。 十七年(甲申) 一八八四 ○四月、新富座の一番目に「二代源氏誉身換」を初演。団十郎の仲光は活歴熱の頂上に達したりと称せらる。 ○十一月、猿若座は猿若町を去って、浅草西鳥越町に移転し、新築落成して十六、十七の両日開場式を行う。舞台開きの狂言に、団十郎は北条高時の天狗舞を初演。好評。 ○この頃より演劇改良の声ようやく高まりて、在来の演劇は荒唐無稽なりといい、猥雑野卑なりというたぐいの議論がしばしば繰返さる。しかも傾聴に価するほどの名論は殆どなかりしなり。 十八年(乙酉) 一八八五 ○久松座の再築落成して、千歳座と改称し、一月四日より七日まで開場式を行う。一番目に左団次の「碁盤忠信」、二番目に菊五郎の「筆売幸兵衛」、いずれも初演にて好評。 ○一月二十三日、猿若座より出火して全焼。新築後わずかに二回目の興行中なり。 ○五月、春木座にて大阪俳優の値安芝居を興行、俗に鳥熊の芝居という。毎月の興行大入りを続けて、他の大歌舞伎も一時圧倒されたる観あり。 ○九月十八日、大阪の初代実川延若死す、五十五歳。大阪にては和事師の随一と呼ばれていたり。 ○十月、猿若座の焼跡へ小屋を作りて、大阪文楽座の人形芝居を興行。人形使いは桐竹紋十郎、吉田玉造。太夫は越路太夫、住太夫、津太夫らなりしが、東京の人気に適せず、早々に引揚ぐ。 ○十一月、千歳座にて「四千両小判梅葉」を初演。九蔵の藤岡藤十郎、菊五郎の野州の富蔵、いずれも好評。大詰の伝馬町牢内の場が眼新しく、市中の評判となる。 十九年(丙戌) 一八八六 ○二月二日、四代目助高屋高助、名古屋に客死す、四十九歳。東京においては随一の和事師と称せらる。 ○三月二日、二代目尾上多見蔵、大阪に死す。八十八歳の高齢にて、大阪劇壇の重鎮と仰がれいたるなり。 ○五月、新富座にて「夢物語盧生容画」を初演。団十郎の渡辺崋山、左団次の高野長英、いずれも大好評にて、四十五日間も打ち続けたり。 ○八月、演劇改良会起る。発起者及び会員は朝野知名の政治家、実業家、学者を網羅し、その宣言は堂々たりしが、実績の見るべきものなくして終れり。 ○八月、東京にコレラ大いに流行し、日々の新患者数百人、すべての興行物は停止を命ぜらる。 ○十月、警視庁令によって、劇場の興行時間を八時間と定めらる。 ○十月二十六日、河竹能進、大阪に死す、六十二歳。黙阿弥の高弟にて大阪における著名の狂言作者なり。 ○十一月十二日、八代目市川海老蔵死す、四十二歳。団十郎の実弟なり。 ○十二月、千歳座にて菊五郎はチャリネの曲馬を演じて好評。 ○十二月十日、三代目中村仲蔵死す、七十八歳。近代の名人と呼ばれて、生涯の当り役甚だ多く、なかんずく「源氏店」の蝙蝠安、「村井長庵」の早乗三次、「髪結新三」の家主長兵衛など、いつまでも好劇家の話柄に残れり。彼は文筆の才ありて『手前味噌』『絶句帳』などの著述あり。 二十年(丁亥) 一八八七 ○三月、中村福助の人気頂上に達し、新富、市村、千歳の三座かけ持ちにて出勤。 ○四月二十六日より四日間、麻布鳥居坂の井上外務大臣邸において演劇天覧あり。在京の主なる俳優は殆ど全部出演し、わが劇界空前の名誉なりと喧伝せらる。第一日は聖上陛下の天覧、第二日は皇后陛下の台覧、第三日は外国公使その他の招待、第四日は皇太后陛下の台覧あり。 ○七月二十一日、三代目河原崎国太郎死す、三十八歳。女房役者として有望と称せられたる女形なり。 ○十二月、版権条例改正。脚本楽譜のたぐいも出願次第その版権を附与せられ、作者の権利はここに初めて完全に保護せらるる事となれり。 二十一年(戊子) 一八八八 ○一月、猿若町市村座の新築落成し、八日より三日間、開場式を行う。団十郎、芝翫、福助、我童、権十郎、松之助ら出勤。 ○四月、市村座にて「本朝廿四孝」を上演。団十郎の八重垣姫が呼び物となる。 ○五月、中村座にて「月梅薫朧夜」を初演。菊五郎の花井お梅の箱屋殺し、好評。 ○五月、千歳座にて「籠釣瓶」を初演。左団次の佐野次郎左衛門、大好評。 ○七月、演芸矯風会起る。さきの演劇改良会が更に組織を変えたるものにて、これも一向に振わざりき。 ○七月十五日、磐梯山噴火。それを当込みて、中村座の十月興行に「音聞浅間幻灯画」を上演し、団十郎、菊五郎、秀調、松之助、家橘ら出勤。浅間山の噴火が評判となる。 ○十二月、角藤定憲の一派が大阪において壮士芝居を創め、三日より新町座にて開演。これを新派劇の開祖とす。 二十二年(己丑) 一八八九 ○二月、俳優の等級を定め、更に正副頭取を置く。頭取は団十郎、副頭取は菊五郎と左団次。 ○十月八日、大阪の中村宗十郎死す、五十五歳。屈指の名優にて、東京の観客にも好くその名を知られたり。 ○十一月、市村座にて「蔦模様血染御書」を初演。左団次の大川友右衛門好評にて、火がかりの大道具が観客を驚かせり。 ○歌舞伎座新築落成して、十一月二十一日より開場。狂言は「黄門記」と「六歌仙」にて、団十郎、菊五郎、左団次、秀調、源之助、家橘ら出勤。入場料は桟敷一間四円七十銭、高土間三円五十銭、平土間二円八十銭。 二十三年(庚寅) 一八九〇 ○一月、団十郎は京都花見小路の祇園館に乗込み、大阪の鴈治郎、福助らと合同して開演。 ○二月九日、十三代目長谷川勘兵衛死す。江戸末期より明治時代にわたる劇壇大道具の名人にて、新しき仕掛け物はその工夫に成るもの多し。 ○三月、桐座の二番目に「め組の喧嘩」を初演。菊五郎のめ組の辰五郎、好評。 ○三月、歌舞伎座にて「相馬平氏二代譚」を初演。市川新蔵の美女丸、好評。 ○五月六日、千歳座より出火して全焼。 ○五月、中村鴈治郎大阪より初めて上京し、歌舞伎座と新富座に出勤。いずれも不評。 ○六月二十三日、本郷の春木町より出火、春木座も類焼。 ○不景気のために難渋の者多ければとて、市川派の俳優が組織せる三升会は、七月七、八の二日間、新富座に慈善興行を催し、その純益金を東京府庁に寄附す。つづいて新富座もみずから発起して、十、十一の二日間、慈善興行を催せり。これが例となりて、その後にも各種の慈善興行がしばしば催さる。 ○八月、劇場取締規則改正。劇場は大劇場と小劇場との二種にて、大は十カ所、小は十二カ所に制限せらる。同時に俳優税も改正、大劇場附俳優は上等三円、中等二円、下等は三種に分れて、一円、五十銭、十銭。小劇場附俳優は上等一円、中等五十銭、下等十銭。 ○十一月、歌舞伎座の中幕に「戻り橋」を初演。菊五郎の鬼女、左団次の綱、いずれも好評。 二十四年(辛卯) 一八九一 ○六月、歌舞伎座にて福地桜痴居士作「春日局」を初演。団十郎の春日局、好評。 ○六月、川上音二郎、藤沢浅二郎の書生芝居が中村座に乗込み、意外の大入りを占む、東京における書生芝居の始めとす。その後、各種の書生芝居、続々起る。 ○十一月、歌舞伎座にて新作「太閤軍記朝鮮巻」を上演。第四幕の朝鮮王妃王子らが捕虜となる件りは、朝鮮公使の抗議に遭い、半途よりその一幕を削りて、更に「義経腰越状」を加う。 ○十一月、伊井蓉峰、水野好美らが済美団を起し、浅草公園の吾妻座にて開演。女優として千歳米坡も出演す。 ○十二月、春木座の新築落成して、四日より開場。八百蔵、猿之助、勘五郎、芝鶴ら出勤。 二十五年(壬辰) 一八九二 ○一月、歌舞伎座にて三遊亭円朝の「塩原多助一代記」を脚色して上演。菊五郎の多助、馬の別れが大好評。それより円朝その他の人情噺、または講談のたぐいを脚色する事しばしば行わる。 ○一月、中村雀右衛門、芝雀の父子、大阪より上京して、春木座に出勤。 ○二月、左団次一座、大阪の浪花座へ乗込む。 ○三月、菊五郎一座、大阪の角座へ乗込む。 ○四月、浅草猿屋町に沢村座の新築落成し、沢村訥子、沢村田之助ら出勤。 ○七月、書生芝居の山口定雄一座、市村座に旗揚げをなし、これも相当の成績を収む。 ○七月、歌舞伎座にて円朝の「牡丹灯籠」を脚色して上演。一月の「塩原多助」にも劣らざる好評。 ○九月、青年俳優練習のために、市川家門下の俳優らが、赤坂の稽古座にて開演。大劇場附きの俳優が小劇場に出勤するは組合規約に違反すという反対論多く、諸新聞の攻撃もまた猛烈。それがために団十郎は遂に頭取を辞するに至れり。 ○十一月、市村座の新築落成して、十日より開場。元地の猿若町に最後まで踏み留まりし同座も、遂に下谷二長町に移転したるなり。舞台開きには左団次、小団次、米蔵、家橘、権十郎、秀調ら出勤。二番目の「松田の仇討」好評。 二十六年(癸巳) 一八九三 ○一月、市川右団次上京して春木座に出勤。 ○一月二日の夜、春木座の出方が赤馬車数台に乗込みて、銀座尾張町のやまと新聞社を襲い、社員を殴打して暴行を働く。右団次出勤に就きて、同新聞が不利益の記事を掲載したるに激昂せるなり。 ○一月二十二日、浅草西鳥越町より出火して、鳥越座も類焼。同座は遂に再興せず。江戸の三座随一たる中村座の櫓もここに滅亡せり。 ○同日、河竹黙阿弥死す、七十八歳。狂言作者として南北以後の大家と称せらる。その伝記は余りに好く知られたれば、ここにいわず。 ○三月十八日、坂東家橘死す、四十八歳。菊五郎の実弟にて和事を得意としていたるが、晩年は団十郎張りとなりて評判よく、その死は楽屋の内外に惜しまる。 ○三月二十八日、神田和泉町より出火して、市村座も類焼。 ○五月、時事新報社にて前途有望なる青年俳優の投票募集を行う。かくの如き投票は、これが嚆矢なれば、各贔屓連はその運動に狂奔し、開票の結果、市川米蔵、市川猿之助、尾上菊之助の三優当選せり。 ○十月、神田錦町の新声館にて東京の人形芝居を興行。吉田国五郎、西川伊三郎を始めとして、在京の人形使いはすべて出演。太夫は綾瀬太夫、播磨太夫らにて、相応の人気あり。その後四、五年間は殆ど毎月開演す。 ○十一月一日、日本橋区久松町に新築中の明治座落成して、その舞台開きを行い、左団次、権十郎、小団次、米蔵、福助、団十郎ら出勤。 二十七年(甲午) 一八九四 ○二月、新富座にて「忠臣蔵」を上演。九蔵の師直、由良之助、勘平の三役が評判となる。 ○五月三十一日、四代目嵐璃寛、大阪に死す、五十八歳。大阪にては一方の覇たりし女形なり。 ○七月、市村座の再築落成して、十四日より開場。菊五郎、芝翫、猿之助ら出勤。 ○日清戦争開く。歌舞伎座にては七月二十八、二十九、三十の三日間、出征軍人慰問劇を興行し、来遊中のフランス女優テーラー嬢も団十郎の一座と共に出勤。 ○八月三十一日より浅草座において、川上音二郎一派が「日清戦争」を脚色上演して、近年稀なる大成功を収め、それに倣いて日清戦争劇が各劇場に続々上演せらる。 ○十月、明治座にて「会津𪤕明治組重」という日清戦争劇を上演。 ○十一月、歌舞伎座にて日清戦争劇「海陸連勝日章旗」を上演。菊五郎の原田重吉が玄武門破り、不評。 二十八年(乙未) 一八九五 ○一月、新富座の中幕「鎌倉三代記」にて、菊五郎の三浦之助、好評。 ○二月、川上音二郎一派は市村座にて「明治四十二年」を上演。男女合同劇を標榜して、市川九女八、市川かつらの女優も出勤。 ○四月十五日、十代目片岡仁左衛門大阪に死す、四十五歳。 ○五月、川上音二郎一派は歌舞伎座に出勤して「威海衛陥落」を上演。書生芝居が歌舞伎の本城を奪いしとて、好劇家は驚異の眼をみはり、書生芝居の地盤もここに漸く固まる。川上の人気盛んなり。 ○七月二十日、二代目中村雀右衛門、大阪に死す、五十五歳。 ○十月二十九日、さきに亡びたる中村座の座主、十三代目中村勘三郎死す、六十八歳。 ○十一月、新富座にて円朝の「指物師名人長次」を脚色して上演。菊五郎の長次、好評。 ○十一月、歌舞伎座にて団十郎は歌舞伎十八番の「暫」を勤め、連日売切れの大入りを占む。 二十九年(丙申) 一八九六 ○三月、明治座の「堀川」にて、菊五郎の与次郎、生きたる猿を舞台に使いて失敗す。 ○四月、歌舞伎座にて団十郎は十八番の「助六」を演じ、前年の「暫」に劣らざる好評。 ○六月、明治座「文覚勧進帳」にて、文覚を勤むる団十郎が舞台にて負傷し、半途にて興行中止。 ○川上音二郎の創立せる神田三崎町の川上座、新築落成して七月二日より開場。 ○八月三十一日、中村寿三郎死す、六十三歳。初代左団次の兄なり。 ○九月九日より三日間、歌舞伎座において東京養育院慈善演劇を催し、貴婦人令嬢らが売店を開く。それが流行となりて、その後十余年間はこの種の慈善演劇しばしば催さる。 ○十月、沢村源之助は五年ぶりにて大阪より帰京し、市村座の二番目「鈴木主水」に白糸を勤めて、好劇家を喜ばしむ。 ○歌舞伎座は株式組織となり、十一月十一、十二の両日、新会社としての開場式を行い、団十郎は景清と袖萩を演ず。 ○この頃、在来の義太夫狂言について版権を得たりと称し、大阪及び東京に事務所を置きて、各劇場の興行ごとに苦情をいい込む者あらわる。しかも在来已に行われいたる浄瑠璃本などに因って興行する者に対し、その苦情は無効なりと当局者に認めらる。 三十年(丁酉) 一八九七 ○一月、皇太后陛下崩御。各劇場は十三日より十五日間休場。 ○二月、歌舞伎座にて「関の扉」を上演。団十郎の関兵衛、菊五郎の墨染は、双絶と称せらる。菊之助の小町姫も好評。 ○三月、神田三崎町の東京座、新築落成して十日より開場し、団十郎の国姓爺、好評。 ○五月、歌舞伎座にて「侠客春雨傘」を初演。団十郎の大口屋暁雨、大好評。それより渋蛇の目の雨傘が暫く流行す。 ○五月、浅草座にて子供芝居を興行。俳優は沢村小伝次、中村吉右衛門にて、意外の大入りを占む。その以来、各種の子供芝居一座続出し、子供芝居繁昌の一時代を作れり。 ○六月、市川九蔵は七代目市川団蔵と改名し、明治座に出勤して「金閣寺」の松永大膳を勤む。 ○六月二十八日、尾上菊之助死す、三十歳。菊五郎の養子にて近来興行ごとに好評を博しいたるなり。 ○七月九日、市川新蔵死す、三十七歳。俗に十代目団十郎の候補者と呼ばれたる有望の俳優にて、菊之助と共にその死を惜しまる。 ○七月、歌舞伎座にて菊五郎、福助らが「小猿七之助」を上演。卑猥残忍の批難攻撃甚しく、遂に警視庁の注意を受けて半途休業。 ○八月二十一日、十二代目守田勘弥死す、五十二歳。明治以後、演劇の向上に尽力したるは周知の事実にて、古河新水の名を以て上演したる自作の脚本「文珠九助」「島の為朝」「三府五港写幻灯」などあり。 ○十月、明治座にて「大森彦七」を初演。団十郎の彦七、女寅の千早姫、いずれも好評。 三十一年(戊戌) 一八九八 ○一月三日、狂言作者久保田彦作死す、五十三歳。 ○一月、歌舞伎座にて黒岩涙香の小説「捨小舟」を脚色して上演。涙香の探偵小説全盛の時代なれども、その成績思わしからず。 ○二月、大阪梅田の劇場に団十郎乗込み、二興行の給料五万円は余りに法外なりという物議を醸す。 ○三月二十三日、本郷区春木町一丁目より出火して、春木座類焼。 ○九月、川上音二郎はボートに乗込み、南洋探検を企つると称して漕ぎ出でしが、航行意の如くならず、伊勢の海岸に上陸す。 ○去年以来の子供芝居いよいよ繁昌す。 三十二年(己亥) 一八九九 ○一月十六日、四代目中村芝翫死す、七十歳。江戸時代には満都の人気を一身にあつめしと伝えらるるも、晩年落寞、小劇場などに出勤していたるなり。 ○四月、歌舞伎座の中幕「勧進帳」にて、菊五郎は初役の富樫左衛門を勤め、左団次に比較して毀誉いろいろの批評あり。弁慶は団十郎、義経は福助。 ○六月二十六日、二代目尾上多賀之丞、石川県金沢に死す。一時は頗る人気ありて、団十郎の与三郎を相手にお富を勤めたるほどの女形なりしが、晩年は旅廻りに寂しく終れり。歿年は明らかならず。 ○春木座の新築落成して、七月十四日より開場。猿之助、訥子、富十郎、市蔵ら出勤。 ○八月二十四日、沢村小伝次、急病にて箱根に死す、十六歳。子供芝居の座頭なり。 ○十月、明治座にて松居松葉の史劇「悪源太」を初演。劇場以外の文士の作を舞台に上せたる嚆矢にて、左団次が悪源太に扮す。 ○十一月、新富座にて化物芝居というを興行し、喜知六の由良之助と夕霧、団八の判官、翫太郎の伊左衛門などにて、大いに観客を笑わせたり。 三十三年(庚子) 一九〇〇 ○一月、演劇雑誌『歌舞伎』第一号を発行。劇評家三木竹二の主宰なり。 ○一月十五日、劇場取締規則改正。大小劇場の数は従来二十二カ所に限られいたるを、更に二十七カ所に改む。それと同時に、在来の興行時間は八時間に限られいたるを延長して、九時間に改む。 ○三月、歌舞伎座にて「夜討曾我」と「河内山」を上演。その十日目に団十郎がインフルエンザに罹り、半途にて興行中止。 ○四月歌舞伎座にては一番目を「千本桜」に換え、二番目をそのままにして、菊五郎が河内山を勤めたるも、不入りに終る。 ○七月一日、歌舞伎座にて仏国人の魔術を興行。その技術あまりに拙しとて、観客は総立ちになりて喧騒をきわめ、結局一夜かぎりにて中止となる。 ○八月十一日、落語家三遊亭円朝死す、六十二歳。近世の名人と称せられ、その口演になる「牡丹灯籠」「塩原多助」「粟田口」「名人長次」のたぐいはしばしば脚色して各劇場に上演せらる。 ○十一月、歌舞伎座にて「忠臣蔵」と「国姓爺」を上演。菊五郎は初役にて道行の勘平、国姓爺などを勤めいたるが、七日目より脳貧血に罹りて欠勤す。団十郎、菊五郎、近来著しく老衰し、好劇家は一種寂寥の感を禁ずる能わず。 三十四年(辛丑) 一九〇一 ○一月十日、三代目河竹新七死す、六十歳。黙阿弥の高弟にて、上演されたる新作狂言は八十余種の多きにのぼる。なかんずく有名なるは「忠臣蔵年中行事」「塩原多助」「牡丹灯籠」「籠釣瓶」「お祭佐七」「細川の火事」などなり。 ○二月、川上音二郎、米国より帰朝。市村座にて「洋行中の悲劇」を上演。 ○二月、歌舞伎座にて墺国俳優チャーレー・テーラー一座の西洋演劇を一週間興行。 ○二月十四日、鳥居清貞死す、五十八歳。鳥居派の芝居画の名家なり。 ○二月二十一日、三代目中村富十郎死す、四十三歳。大阪出の女形にて、大兵ながら女房役者として用いらる。 ○三月、春木座は二万円の負債のために競売に附せらる。 ○五月、中村福助は養父の名を継ぎて五代目中村芝翫と改名し、歌舞伎座の中幕に「楼門」の石川五右衛門を勤む。 ○九月二十九日、二代目坂東秀調死す、五十四歳。女形として容貌は揚がらざりしが、伎倆抜群の聞えあり。団十郎、菊五郎らの女形役者として知らる。 ○十月、深川座にて黙阿弥作の「弁天小僧」を無断上演して、作者の遺子吉村いと女より告訴せらる。裁判所は坪内逍遥博士に鑑定を命じ、結局原告の勝訴となる。 三十五年(壬寅) 一九〇二 ○一月、菊五郎は病気のために、歌舞伎座の春興行に欠勤。 ○四月、菊五郎は病気全快して歌舞伎座に出勤し、新作の「山中平九郎」を勤めしが、足の不自由なるが眼に立つ。菊五郎と入代りに、団十郎は病気にて欠勤。 ○八月、大阪文楽座の人形使い桐竹紋十郎、吉田玉助ら上京し、明治座にて人形芝居を興行。太夫は伊達太夫、相生太夫らにて、今回は評判よし。 ○十月二十七日、大阪の勝諺蔵死す、五十九歳。河竹能進の子にて、明治三年以来大阪に赴き、遂に京阪随一の狂言作者となる。その作頗る多し。 三十六年(癸卯) 一九〇三 ○一月二十八日、花柳寿輔死す、八十三歳。振附師の名家なり。 ○二月十八日、五代目菊五郎死す、六十歳。明治時代における代表的の名優にて、いわゆる団菊左の一人なり。 ○二月、川上音二郎は明治座にて「オセロ」の翻案を上演す。 ○三月、菊五郎の遺子栄三郎は六代目梅幸、丑之助は六代目菊五郎、英造は六代目栄三郎と改名し、歌舞伎座にて団十郎が改名の口上を述ぶ。 ○四月六日、神田三崎町の改良座より出火、全焼。 ○四月、本郷座にて藤沢浅二郎が徳冨蘆花の小説「不如帰」を初めて脚色上演。大入りを占む。 ○五月、大阪より高砂屋福助父子上京して、市村座出勤。 ○五月、市川染五郎改名して、八代目市川高麗蔵となる。 ○七月十五日より歌舞伎座にて、歴史活人画を興行。 ○八月、文楽座の人形一座再び上京して、歌舞伎座にて開場。今度は評判思わしからず。 ○九月十三日、九代目団十郎、相州茅ヶ崎に死す、六十六歳。団菊の両名優、半年の差を以てこの世を去れるなり。 ○十月、川上音二郎は本郷座にてお伽芝居を三日間興行す。この種の芝居の嚆矢なり。 ○十月、大阪より片岡我当上京して歌舞伎座に出勤。 ○この興行より市村家橘改名して、十五代目市村羽左衛門となる。 ○近来、川上その他の新派劇は毎回大入りを占めて連戦連勝の勢いを示し、団菊の両名優をうしないたる歌舞伎劇はとかくに圧倒せらるるの観あり。 ○十二月三日より七日間、市村座創業二百五十年の祝賀として、諸芸有名会を開く。 三十七年(甲辰) 一九〇四 ○二月、日露戦争開く。 ○三月十六日、清元延寿翁死す、七十三歳。江戸末期より明治にわたれる清元の名人にて、最初は四代目延寿太夫という。黙阿弥物の清元は皆この人に語られたるなり。 ○三月、東京座にて坪内博士の「桐一葉」を初演。我当の片桐且元、芝翫の淀の方、いずれも好評。 ○三月二十七日、市川権十郎死す、五十七歳。大阪俳優嵐璃鶴の後身にて、出獄の後、団十郎の門に入りて追々に昇進し、気品ある役々を得意としたるより殿様役者として知らる。 ○歌舞伎と新派とを問わず、大小劇場が競って日露戦争劇を上演。しかもその興行成績は日清戦争当時の如くならず。 ○四月、歌舞伎座にて戦争劇「艦隊誉夜襲」を上演して不評。それと同時に、森鴎外博士作「日蓮聖人辻説法」を上演して、好評。 ○五月、明治座にても一種の戦争劇たる「敵国降伏」を上演。この興行中より市川左団次病む。 ○八月七日、市川左団次死す、六十三歳。団菊は前年を以て逝き、左団次はこの年を以て逝く。三名優みな亡びて、歌舞伎の劇界暗澹。新派劇ますます盛んなり。 ○左団次の遺子莚升、父のあとを享けて明治座を経営する事となる。時に二十五歳。九月十五日より「牛若丸」と「疎忽の使者」を上演。 ○十月、坂東勝太郎、三代目坂東秀調と改む。 ○戦争の影響にて、各劇場の興行成績思わしからず。 三十八年(乙巳) 一九〇五 ○一月、明治座にてユーゴーの「エルナニ」五幕を上演。松居松葉が八犬伝の世界に翻案したるなり。 ○二月十五日、三代目坂東玉三郎米国にて客死す、二十三歳。守田勘弥の娘なり。 ○三月、明治座にて「瑞西義民伝」を上演。シルレルの「ウィルヘルム・テル」を巌谷小波が翻案したるなり。 ○四月、歌舞伎座にて、市川高麗蔵が初めて歌劇「露営の夢」を上演。作譜は北村季晴。 ○九月、日露戦争の講和条件不満のために、市内各所に焼撃ち騒動勃発し、それがために六、七の二日間は各劇場の興行を休む。 ○九月二十三日より十五日間、歌舞伎座にて市川団十郎追善興行を催し、市川家の一門みな出勤す。 ○十月十三日、英国名優ヘンリー、アーウィング、舞台にて脳溢血を発して死す、六十八歳。 三十九年(丙午) 一九〇六 ○一月四日、福地桜痴居士死す、六十六歳。明治初年は新聞記者として、政論家として著名なりしが、後に転じて小説家となり、劇作家となり、歌舞伎座創立以来、同座にありて専ら団十郎のために筆を執れり。 ○坪内博士を会頭としたる文芸協会は、二月十七日の夜、芝公園の紅葉館において第一回の試演を催す。土肥春曙、東儀鉄笛、水口薇陽ら出演。狂言は新作の「妹背山」と「孤城落月」の糒蔵。 ○三月十一日、四代目岩井松之助、北海道の旅興行中に死す、四十九歳。大酒のため晩年は振わざりしが、壮年時代は団十郎菊五郎の相方を勤めたる有名の女形なり。 ○四月、明治座は喜劇曾我廼家五郎と十郎の一座にて開場。東京における喜劇の初演なり。 ○五月六日、常磐津林中死す、六十五歳。美音を以て聞えたる太夫なり。 ○五月八日、五代目市川寿美蔵死す、六十二歳。晩年は浅草公園の宮戸座に出勤していたるが、以前は団菊の舞台に出勤して、老役を得意としたり。 ○九月、明治座にて市川莚升は二代目左団次を襲名し、親譲りの丸橋忠弥を勤む。 ○十一月十日、文芸協会は第一回公演を歌舞伎座に開く。狂言は「桐一葉」「ヴェニスの商人」「常闇」。 ○十二月十一日、三代目片岡市蔵死す、五十六歳。敵役と老役を以て知らる。 ○十二月十二日、市川左団次、演劇研究のために欧米旅行の途にのぼる。 四十年(丁未) 一九〇七 ○一月、演芸画報社より『演芸画報』第一号を発刊。 ○一月二十日、角藤定憲、大阪に死す、四十一歳。壮士芝居の開祖なり。 ○二月二十五日、西園寺首相邸に晩餐会あり、芝翫、八百蔵、高麗蔵などの歌舞伎座幹部俳優みな招待せらる。 ○四月十四日、清元梅吉死す、五十八歳。 ○六月一、二日、本郷座にて清国留学生の春柳社演劇を催す。狂言は「アンクルトムス・ケビン」にて、好評。 ○八月二日、初代市川荒次郎死す、五十八歳。初代左団次の弟にて、敵役と道化役の達者なり。 ○十月二日、山口定雄死す、四十七歳。これも新派劇の一頭領なり。 ○十一月十一日、満鉄総裁後藤新平が主宰となり、清国の溥倫貝子殿下を歌舞伎座に招待して演劇観覧。 ○十一月二十二日、文芸協会第二回公演。狂言は「ハムレット」「浦島」「大極殿」にて、土肥春曙のハムレット好評。 四十一年(戊申) 一九〇八 ○一月、歌舞伎座の二番目「競馬春廼魁」にて、競馬場の舞台に本馬を用う。騎手は団子、栄三郎。 ○一月十二日、三木竹二死す、四十二歳。森鴎外博士の弟にて、医学士、劇評家。雑誌『歌舞伎』の発行者なり。 ○一月、明治座は左団次帰朝後の第一回興行として開場。諸事を改良して、欧米の劇場にならいたる興行法が、一般観客の反感を買い、さんざんの不評に終れり。 ○二月、歌舞伎座にて海事協会の寄附興行あり。協会の懸賞募集脚本に、長谷川時雨女史の史劇「花王丸」当選して、一番目に上演。 ○六月十七日、歌舞伎座にてコッホ博士歓迎観劇会を催す。 ○九月、川上音二郎の妻貞奴、女優養成所を開く。第一回の入学生は森律子、村田嘉久子、初瀬浪子、河村菊江ら十数名なり。 ○九月、川上音二郎は革新劇を標榜して、明治座と本郷座にて興行。明治は左団次一派、本郷は新派の深沢恒造らにて、いずれも大入りを占む。 ○九月、歌舞伎座にて沢村訥升は七代目沢村宗十郎を襲名し、「高野山」の苅萱道心を勤む。 ○十月五日、本所の寿座より出火して全焼。 ○十二月一日、麹町区有楽町の有楽座落成して開場式を挙ぐ。華族紳士連の発起にて、高等演芸場の目的にて建築されたるものなるが、のちには劇場同様となれり。 四十二年(己酉) 一九〇九 ○二月、歌舞伎座にて五代目菊五郎追善興行。 ○六月二十六日、井上竹次郎死す、六十歳。明治三十年より三十九年まで歌舞伎座の社長たり。 ○六月、歌舞伎座にて市川団蔵、一世一代の仁木弾正を演じ、好評。 ○小山内薫、市川左団次共同して、十一月二十七、二十八の両日、有楽座にて自由劇場第一回公演。狂言は「ボルクマン」にて好評。 ○十二月七日、依田学海死す、七十七歳。明治二十年前後には演劇改良に尽力し、自作の戯曲「吉野拾遺名歌誉」「政党美談淑女操」など数種あり。 四十三年(庚戌) 一九一〇 ○四月、中村吉蔵監督のもとに、東京座にて新社会劇団第一回公演。 ○五月二十八日、有楽座にて自由劇場第二回公演。狂言はウェデキント作「出発前半時間」、森鴎外作「生田川」、チェホフ作「犬」。 ○六月、歌舞伎座にて市川女寅が六代目門之助を襲名し、伊原青々園作「出雲の阿国」を勤む。 ○九月、明治座にて先代左団次七回忌追善興行。同時に市川荒次郎の遺子福蔵、二代目荒次郎を襲名す。 ○九月、歌舞伎座にて市川猿之助は二代目段四郎と改名して、歌舞伎十八番の「鎌髭」を勤む。 ○十一月、井上正夫は新派を脱して新時代劇協会を興し、有楽座にてショウの「馬泥坊」、チェホフの「熊」を上演。 四十四年(辛亥) 一九一一 ○三月一、二の両日、帝国劇場は開場式を行い、四日より興行す。狂言は山崎紫紅作「頼朝」と「伊賀越」「羽衣」。俳優は梅幸、高麗蔵、宗十郎、宗之助、松助、鴈治郎にて、見物席をすべて椅子席とし、入場料を切符制度としたる外国風の興行法が人気を呼びて、連日満員。 ○五月、明治座にて岡本綺堂作「修禅寺物語」を初演、左団次の夜叉王、好評。 ○五月、帝国劇場にて初めて女優劇を興行。主なる女優は森律子、村田嘉久子、初瀬浪子らにて、女優劇の名が好奇心を誘い、意外の大入りを占む。 ○五月、帝国劇場にて文芸協会公演。狂言は「ハムレット」。 ○七月、柴田環女史、帝国劇場に出勤して独唱。 ○八月、松竹会社が歌舞伎座を買収せんとし、同座一部の役員間に紛糾を生じたるが、結局松竹が手を引くことになりて和解す。それと同時に座附の芝居茶屋全廃論も出でたるが、未解決に終れり。 ○十月二十六日より二日間、帝国劇場にて自由劇場第五回公演。狂言は「寂しき人々」。 ○十一月、歌舞伎座改築興行。中村芝翫は五代目歌右衛門と改名。 ○十一月、帝国劇場にて、市川高麗蔵は七代目松本幸四郎と改名。 ○十一月十一日、七代目市川団蔵死す、七十六歳。前名を九蔵といい、佐倉宗吾、仁木弾正、実盛物語などをその当り役としたり。団菊に次ぐ名優と称せらる。 ○同日、川上音二郎大阪に死す、四十八歳。書生芝居を初めて東京へ輸入して、新派劇の基礎を作りたる功労者なり。 ○十一月十八日より一週間、帝国劇場にて文芸協会公演。狂言は「人形の家」にて、松井須磨子のノラ好評。 四十五年(壬子) 一九一二 ○一月七日、中村善四郎死す、六十六歳。晩年は振わざりしが、久しく市村座を経営したる劇界功労者の一人なり。 ○三月、川村花菱主宰にて有楽座に土曜劇場第一回試演を催す。俳優は藤沢浅二郎経営の俳優学校卒業生なり。 ○三月、歌舞伎座にて福地桜痴居士建碑興行。狂言は桜痴居士の著作のみを択みて、「春日局」「義士誉」「春雨傘」「新七つ面」。 ○四月、博文館より『演芸倶楽部』第一号を発刊。三年の後、『演芸画報』に合併す。 ○四月二十七日より二日間、帝国劇場にて自由劇場第六回公演。狂言は「道成寺」「タンタヂールの死」。 ○七月、明治天皇御不例に付き、各劇場は二十日頃より相前後して休場。 底本:「明治劇談 ランプの下にて」岩波文庫、岩波書店    1993(平成5)年9月16日第1刷発行    2008(平成20)年2月15日第3刷発行 底本の親本:「明治劇談 ランプの下にて」青蛙房    1965(昭和40)年6月初版発行 ※底本の奥付では、「明治劇談 ランプの下にて」となっています。 ※カッコ内の書入れや、一字下げにて記載せしものは、三好一光氏の編集によるものより削除しました。 入力:川山隆 校正:仙酔ゑびす 2011年3月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。