大岡政談 尾佐竹猛校訂 Guide 扉 本文 目 次 大岡政談 解題 大岡政談首卷 大岡政談首卷 大岡越前守出世の事 第二回 第三回 天一坊一件 天一坊一件 第一回 第二回 第三回 第四回 第五回 第六回 第七回 第八回 第九回 第十回 第十一回 第十二回 第十三回 第十四回 第十五回 第十六回 第十七回 第十八回 第十九回 第二十回 第二十一回 第二十二回 第廿三回 第二十四回 第二十五回 第二十六回 第二十七回 第二十八回 第二十九回 第卅回 第卅一回 第卅二回 第卅三回 第卅四回 第卅五回 第卅六回 白子屋阿熊一件 白子屋阿熊一件 第一回 第二回 第三回 第四回 第五回 第六回 第七回 煙草屋喜八一件 煙草屋喜八一件 第一回 第二回 第三回 第四回 村井長庵一件 村井長庵一件 第一回 第二回 第三回 第四回 第五回 第六回 第七回 第八回 第九回 第十回 第十一回 第十二回 第十三回 第十四回 第十五回 第十六回 第十七回 第十八回 第十九回 第二十回 第二十一回 第二十二回 第二十三回 第二十四回 第二十五回 第二十六回 第二十七回 第二十八回 第二十九回 第三十回 第三十一回 第三十二回 第三十三回 第三十四回 第三十五回 第三十六回 第三十七回 直助權兵衞一件 直助權兵衞一件 第一回 第二回 第三回 越後傳吉一件 越後傳吉一件 第一回 第二回 第三回 第四回 第五回 第六回 第七回 第八回 第九回 第十回 第十一回 第十二回 第十三回 第十四回 第十五回 第十六回 第十七回 第十八回 第十九回 第二十回 第二十一回 第二十二回 傾城瀬川一件 傾城瀬川一件 第一回 第二回 第三回 第四回 第五回 第六回 第七回 第八回 畔倉重四郎一件 畔倉重四郎一件 第一回 第二回 第三回 第四回 第五回 第六回 第七回 第八回 第九回 第十回 第十一回 第十二回 第十三回 第十四回 第十五回 第十六回 第十七回 第十八回 第十九回 第二十回 第廿一回 第廿二回 第廿三回 小間物屋彦兵衞一件 小間物屋彦兵衞一件 第一回 第二回 第三回 第四回 第五回 第六回 第七回 第八回 第九回 第十回 第十一回 第十二回 第十三回 第十四回 第十五回 第十六回 第十七回 後藤半四郎一件 後藤半四郎一件 第一回 第二回 第三回 第四回 第五回 第六回 第七回 第八回 第九回 第十回 第十一回 第十二回 第十三回 第十四回 第十五回 第十六回 第十七回 第十八回 第十九回 第二十回 第二十一回 第二十二回 第二十三回 第二十四回 第二十五回 第二十六回 第二十七回 第二十八回 第二十九回 第三十回 第三十一回 第三十二回 第三十三回 第三十四回 第三十五回 第三十六回 第三十七回 第三十八回 第三十九回 第四十回 第四十一回 第四十二回 第四十三回 第四十四回 第四十五回 第四十六回 松田お花一件 松田お花一件 第一回 第二回 第三回 第四回 第五回 第六回 第七回 第八回 第九回 第十回 第十一回 第十二回 第十三回 第十四回 嘉川主税一件 嘉川主税一件 第一回 第二回 第三回 第四回 第五回 第六回 第七回 第八回 第九回 第十回 第十一回 第十二回 第十三回 第十四回 第十五回 第十六回 第十七回 第十八回 第十九回 第二十回 第二十一回 第二十二回 第二十三回 第二十四回 第二十五回 第二十六回 第二十七回 小西屋一件 小西屋一件 第一回 第二回 第三回 第四回 第五回 第六回 第七回 第八回 第九回 第十回 第十一回 雲切仁左衞門一件 雲切仁左衞門一件 第一回 第二回 第三回 第四回 第五回 第六回 津の國屋お菊一件 津の國屋お菊一件 第一回 第二回 第三回 第四回 水呑村九助一件 水呑村九助一件 第一回 第二回 第三回 第四回 第五回 第六回 第七回 第八回 第九回 第十回 第十一回 第十二回 第十三回 第十四回 第十五回 第十六回 第十七回 第十八回 第十九回 解題 法學博士 尾佐竹 猛  古來名判官といへば大岡越前守にとゞめをさすが、その事蹟といへば講談物や芝居で喧傳せられて居るのに過ぎないので、眞の事蹟としては反つて傳はつて居るものは少いのである。  所謂大岡裁判なるものは、徳川時代中期の無名の大衆作家の手に成り、民衆に依つて漸次精練大成せられて、動かすべからざる根據を植付けられたのであるから、その生命は最も永いのである。我國に於ける大衆文藝として最も優れたるものゝ一つである。  その何が故にかゝる聲譽を得たかといへば、これは我國の文藝に乏しき探偵趣味のあるのが、その主たる原因である。  古い處では青砥藤綱はあるが、これはあまりに古く、また事柄も少いから、一般人士の耳には入りがたい、さりとて本朝櫻陰比事の類はあるが、これは支那種でもあり、少し堅過ぎる。大岡物はこの間にありて異彩を放つて民衆向である。中には支那種の飜案物もあるが巧みに其種を知らしめざる程日本化して居る。それに當時の民衆の最も敵としまた最も非難多き奉行の處置振りに慊らざるものは理想的の大岡物を讀んで、密に溜飮を下げたといふのも、大岡物を謳歌する一理由ともなつたであらう。  しかし嚴格にいふときは大岡裁判は探偵趣味といふよりは、寧ろ裁判趣味といつた方が適當である。巧妙なる探偵術に依つて犯人を搜査するといふよりも、法廷に曳かれて白状せざる奸兇の徒を如何にして白状させたかといふことに、興味がかゝつて居るのである。勿論その白状さす爲めには種々の探偵術を用ひて居るが、物語の骨子は證據はあつても白状せぬ被告人を白状させる處に、大岡越前守の手腕を見るのである。  これは徳川中期の産物であるから、かゝる作品が出來たのである。犯罪の搜査も裁判も町奉行の職權であるから、與力同心さては目明し岡ツ引輩の探偵の巧妙だけでは町奉行は光らない。否その巧妙な探偵もこれは奉行の指圖から出るのが原則であるから、町奉行の手柄としては白状させることに重きを置かなくてはならぬ。  それに當時は拷問を用ふることは當然とされて居つたが、それも漸次進んで、今日の言葉でいへば、拷問は訴訟手續であつて、證據方法では無いのである。即ち證據を得る爲めに拷問するのでは無くて、證據が十分あつても白状せぬものを白状させる爲め、換言すれば如何に證據十分でも本人が白状せぬ以上は裁判することは出來ぬから、その手續を完結する爲め、拷問を用ふるといふのが、當時の法制の原則であつた。  そこで奉行は證據を集めつゝ、その證據に基いて白状せしむるといふのが、大岡裁判物の狙ひ所である。  また一面、當時の裁判の實相といへば、奉行の實權は與力に、與力は同心に、同心は目明し岡ツ引の徒に、漸次權力は下推し、奉行は單に形式的に裁判し、盲判を押すに過ぎなかつたから、こゝに明斷察智の超人的奉行を主人公とし、その縱横の材幹に由り、疑獄を裁斷するといふことが時流に投じたのである。  古くは最明寺時頼の廻國物語、近くは水戸黄門の廻國記の如き、密に諸國の人情風俗、政治の良否を知り、是非を裁斷するといふ英雄崇拜の片影ともいふべき物語が、民衆の頭に成長しつゝあつた處へ、わざ〳〵廻國はせなくても、一大理想的奉行があつて、淨玻璃の鏡に照すが如く、如何なる疑獄難獄も解決するといふ物語の出現したのであるから、大向ふの喝采するのも尤である。それに實際大岡越前守は事務に練達湛能の能吏であつたから、これを理想的に祭り上げ何んでも箇でも持つて行つて、名判官一手專賣としたのも、自然の勢である。  こゝに於てか、大岡越前守は理想的名判官として民衆の間に活きて居るのである。  そこで、所謂大岡裁判なるものに付て述べんに、大岡裁判を書いたものは板本に「大川仁政録」があり、寫本には「板岡實録」「大岡板倉二君政要録」「大岡政要實録」など數種あり、また一事件毎に單行本として傳はつて居るものがある。講談の種本は概ね此單行本である、或は講談物を單行本としたかと思はるゝものもある、また「大岡政談」「大川政談」として殘つて居るものもあるが、これは右の單行本を纒めたものらしい。大岡政談といへる始めからの一册本が後に數種の單行本と分れたものと見るよりも、寧ろ單行本を纒めたのが大岡政談といふ方が正しいやうである。謂はゞなんでも名裁判物語を書き立てゝ、これを大岡越前守に持つて行くから、一層これを纒めて一册にしたならばといふのが大岡政談らしい、後には件數に依り「大岡十八政談」といつたものもある。こんな工合であるから「大岡政談」といつても各事件毎に文體筆勢が異り、記述の態樣も區々であるが。多年無名の民衆に依つて作り上げられたる眞の大衆向のものであるから、幾多の大岡物の内からこの「大岡政談」を採録したのである。 斯く大岡物にも幾多の種類があるから、その事件の數も各書に依つて異同がある。内田魯庵氏が 大岡政談が越前守以前の「櫻陰秘事」更に又以前に遡つた傳説野乘の作り換へであるのは誰も氣が附く、其の中にソロモン傳説が混入して居るのは必ずしも伴天連僧の持つて來たもので無く、或は亞剌比亞や波斯を經由して支那から傳はつたものであるかも知れぬが、切支丹僧が多くの傳説や神話を授けたのは爭はれない。(日本文學講座第十八卷「日本の文 學に及ぼしたる歐洲文學の影響」) の所謂ソロモン傳説たる、二人の女親と稱する女に子供の兩手を引張らせて眞僞を判じた事件はこの政談の中に入つて居ないから割愛するが、通常「大岡政談」に收められてあるものは、 天一坊、白子屋お熊、烟草屋喜八、村井長庵、直助權兵衞、越後傳吉、傾城瀬川、畔倉重四郎、小間物屋彦兵衞、後藤半四郎、松田お花、嘉川主税、小西屋、雲切仁左衞門、津の國屋お菊、水呑村九助 の十六件である。  この内最初の天一坊一件は大岡裁判の中最も有名で、この事件の爲め大岡越前守が立身した如く喧傳せられて居るが、その實大岡越前守に關係はないのである。尤もこの事件と相似たものに、關東郡代伊奈半左衞門の手で審理せられたるのがあるから、これを大岡越前守に持つて來たとも見られるから、その事件の概略を述ぶれば 天一坊惡事露顯の端緒は享保十四年三月五日の事とかや浪人本多儀左衞門、關東御郡代伊奈半左衞門の屋敷に來り、當御支配内の儀に付御用役衆へ御意得たくと申出、半左衞門用人遠山郡太夫面會の處、儀左衛門申樣、下品川宿秋葉山伏赤川大膳方に居られ候源氏坊天一と申すは、當上樣の御落胤にて、大納言樣御兄の由、内内に日光御門主まで仔細申上られ、既に上聞にも達し、御内々一萬俵つゝ御合力米下し置かるゝ由申弘め、浪人共多分御抱入に付、我等も目見いたし奉公相望候てはと申勸るものあり、右源氏坊は全く左樣の御方にて候や、御支配内の儀に付此段内々御樣子承度との儀なり、郡太夫聞て大に驚き、そは怪しからぬ次第なり、支配内に左樣の疑しきもの罷在事是まで少くも存ぜず候、貴殿御咄にて初めて承り候、最早其儘には捨置がたく早速吟味を遂ぐべく、御迷惑ながら其許を勸めたるものも其許も掛合にて候間、名前書出すべく左樣御心得あるべしと申すに儀左衛門仰天なして早々歸りたり。郡太夫は直に此事を主人半左衛門へ申聞、早速品川宿名主年寄を呼出して吟味に及びし處、成程去年以來大膳方に富貴なる山伏居候へども、大納言樣御兄とか又は浪人召抱の沙汰は更に承はらず、其故御話も申上ず候との答なり。郡太夫、其山伏事御用の仔細あり、取逃しては相成らず、直樣立歸り逃げざる樣心付べしと申渡し、自分も組子引連、後より品川宿へ出張なし、山伏常樂院方に赴き、源氏坊天一と云へるもの住居致すやと尋ねければ、手前屋敷の裏に住居罷在と答へたり、即ち常樂院を案内に天一居宅に至り見れば、中々に構造も美を盡し、室内に裝置せし諸道具類は皆花葵の蒔繪紋散しにして、座敷の上手には一段高く上げ疊をなし、何樣將軍家の御由緒にてもあるべく思はれたり。程なく天一、白紗綾の小袖に白無垢を重ね、着用して出でけり。郡太夫慇懃に口上を演べ、主人半左衛門儀御尋ね申度仔細あり御同道致すべき樣に申付候、其儘御越し成さるべくと申すに、天一聊か躊躇の氣色もなく、畏り候と傍なる大小刀をも渡したり。郡太夫天一を駕籠に乘せ、常樂院をも共々召連て屋敷へ歸りければ、半左衛門早速對面なせしが、最初の程は將軍家御落胤の虚實も分明ならざりし故、待遇言葉遣も丁寧になし、一室にて密々の取調なり、常樂院をはじめ關係の諸浪人共をも召出して一應訊問に及びし處、全く詐欺なりとの見込ありて、遂に評定所一座吟味となり、夫々取糺せし所、此天一の母は紀州田邊の者にて名をよしと稱し、紀州侯家中某方に奉公中、主人の寵を受けて妊娠なし、若干の手當金を貰ひ郷里に歸りし後、男の子を生み落したり。是則ち天一にて幼名を半之助と稱し、四歳の時母諸共叔父の徳隱といへるもの、江戸橋場總泉寺末某寺の住職たりしを手寄りて出府なし、其世話にて母子共に淺草藏前町人半兵衛方へ縁付しが、天一十歳の時母病死なし、其砌養父半兵衛も身代取續がたき事ありて家をたゝみ、天一は徳隱の弟子となし、自分は何處ともなく廻國六部と成て出たり。母の存生中常に天一への物語に、其方は元來下賤の身の上ならず、歴々由緒あるものゝ胤なれば、何卒して武家に取立たくと申聞け、由緒書もありて叔父徳隱の預り居たりしが、享保六年火災に逢うて燒失せり。其由緒書の内に源氏とありしより、徳隱取て源氏坊天一と名乘らしめしとぞ。然るに徳隱は享保十二年病死せし故、天一傳手を求めて修驗堯仙院の弟子となりたり、天一幼年の時より酒を嗜なみ酒僻ありし故、叔父徳隱存生中は堅く戒めて飮せざりしに、死去の後は頭の押へ手なきより常に大酒を飮み、我が由緒の歴々なるを誇り散らして亂妨に及ぶこと度々なりければ、堯仙院も幾んど持餘し、寺社奉行へ召連出て懲戒を請ひたりしが、酒狂の上なれば能々意見を加へよとまでにて差たる咎もなかりけるより、天一彌〻増長なし、畢竟我が身分の歴々なる故公儀にても御咎なしと猶も大言を吐て更に愼む樣子なければ、堯仙院も捨置がたく、孫弟子の品川常樂院に仔細を云ひて預けたりしが、此常樂院中々の横着者にて、天一が紀州にて生れ由緒ありと云ふを奇貨として惡計を廻らし、終に將軍吉宗公紀州潜邸の時の御落胤なりと僞り、内々は日光御門主より上聞に達せられ、既に一萬俵づつの御合力米をも下され、追付表向の御對面、御披露もありて御三家同樣の大名にも御取立成さるべき御内意ありたり。抔と觸廻りて金銀を借入又は諸浪人どもを抱へて、夫々の役向をも定めたり。即ち常樂院は自ら家老となり赤川大膳と稱し、其他南部權太夫、本多源右衛門の兩人を用人となし或は番頭、旗奉行、槍大將又は大目附、町奉行、勘定奉行、小納戸役、近習、使番抔種々役々を申付しもの數十人に及び、次第に世間へも聞え、終に浪人本多儀左衛門の口より洩れて惡事露顯に及び一同逮捕せられて刑に處せられたり。 四月二十一日於評定所申渡之覺 天一坊改行 酉三十一 僞の儀どもを申立浪人共を集め公儀を不憚不屆に付死罪の上獄門に行ふもの也 常樂院 改行申旨に任せ浪人共集候儀其分に仕改行宿を仕所の役人へも不屆重々不屆に付遠島申付るもの也 本多源左衛門 南部權太夫 矢島主計 改行慥成儀も不糺身非一人無筋儀を申觸し浪人大勢引付公儀を不憚仕方不屆に付遠島申付るもの也 これが天一坊事件の梗概である。  次に「白子屋阿熊一件」これは實際大岡越前守の取扱つた事件である。芝居でする「お駒才三」である。  お熊が引廻しの際、上に黄八丈の大格子、下着は白無垢、髮は島田に結ひ上げ薄化粧さへ施し、手には水晶の珠數をかけ馬上に荒繩で結られて行く凄艷なる有樣は好箇の劇的場面であつた。本文に 此時お熊の着たるより世の婦女子、黄八丈は不義の縞なりとて嫌ひしは云々 とあるのは眞實である。 「煙草屋喜八一件」は『耳袋』にある。「煙草屋長八」の事件に似て居る。長八一件ならば大岡越前守より後の依田豐前守正次の江戸町奉行在勤中の事柄にて勿論大岡越前守に關係が無い。 「村井長庵一件」これは架空の物語である 「直助權兵衛一件」これは實在の事件である。 本書に 近き頃まで、諸所の關所に直助が人相書有りしを知る人に便りて見たる事あり、云々 とあるは眞實で、有名な事件であつた爲め、芝居の「四谷怪談」に「直助權兵衞」といふ一人物あるは、此事件からの思ひ付きである。 「越後傳吉一件」は大岡に關係なく、津村宗庵の「譚海」中にある物語である。これが後には「鹽原多助」の粉本にもなつて居る。 「傾城瀬川一件」は吉原耽美の風潮に迎合した小説である、本文に 遊女が鑑と稱られ夫が爲め花街も繁昌せし由來を尋るに云々 とあるのが作者の本音であらう。 「畔倉重四郎一件」これは伊奈半左衞門の取扱つた事件と傳へられ居り、そのことも多少疑問はあるが、兎に角大岡には關係の無い事件である。 「小間物屋彦兵衞一件」は支那種の飜案である。 「後藤半四郎」「松田お花」「嘉川主税」はいづれも文士の筆の先で出來た物語に過ぎぬ。 「小西屋一件」これは支那種で、同種の飜案に「會談與晤門人雅話」がある。 「雲切仁左衞門」「津の國屋お菊」はいづれも小説、「水呑村九助一件」は支那種に近世的探偵趣味を多分に盛つてある。特にその首と屍のことは「棠陰比事」の『從事函首』から出て居ることは明白である。 「大岡政談」の正味を一々檢討すれば以上に述べた如くである。 しかしなにしろ、多年大衆向きとして、講談に芝居に叩き上げられたことなれば、益〻精練せられて今では殆んど確定的の事實として、大岡越前守の名奉行振りを稱へられて居る。謂はゞ大衆向きの作品としてこれ程大なる價値を有するものは無い。  さればとて、大岡政談が悉く事實でないから大岡越前守は凡庸の町奉行に過ぎなかつたかといへば、さうでは無い、町奉行二十年寺社奉行十六年といふ勤續である。この多年の經驗だけでも他に比肩するものは無い。啻に奉行といはず他の如何なる職でも、これ程永く勤續したものは無い。これ丈けでも立派な模範官吏である。しかも太平の世の中に何等の武勳無くして、六百石の旗本から一萬石の大名に陞進したのである。徳川時代としては空前絶後の出身といつても可なる程目醒しい昇進振りである、如何に事務に練達湛能であつたかを知るべきである。  その一生の事蹟を仔細に研究すれば、行政上の治蹟が著名であつて、反つて司法上の事蹟に付てはさまで顯揚して居らぬのは、世評と正反對の奇なる現象である。これは一體に行政事務は華やかで、司法事務はヂミなのが常であることは今日でも同じである。大岡の江戸町奉行に就任した際は、市政も未だ整つて居らなかつたときであつたから、充分腕を振ふ餘地もあり、從つて其事業も華々しかつたのである。司法に關しては法典編纂の一人として、「科條類典」即ち徳川初期よりの法令並に先例判決例を蒐集したもので、徳川氏最初の立法事業に干與して居る。それから個々の裁判例に付ても幾多の法律問題に苦心したことの見るべきものが多い。司法事務本來の性質としてヂミな骨の折れる職務に數十年從事したといふこと丈けでも充分立派な明判官たる資格があるのである。所謂大過なくして永年勤務したといふこと夫れ自身が非凡なる人材である。  世人は往々にして大岡時代は法律の適用解釋が自由であつたから、理想的の裁判が出來たといふものがあるが、遵據すべき正確なる條文無き時代に事相に適する裁判を爲すことは反つて骨が折れるのである。立派な條文が完備して居れば寧ろ裁判には樂であるともいひ得られるのである。況んや法律の解釋適用は自由なりとはいひながら、故例格式の八釜しかつた幕府時代に於ては、その無意味の桎梏の力強くこれを打破するに足る法理の無かつたことは、或は觀方に依つては法律の解釋適用は今日よりも不自由であつたともいひ得らるゝのである。然るにも拘はらず永く名判官の名聲を維持して、昇進したのは偉材といはねばならぬ。  本書の首卷に「大岡越前守出世の事」の一卷がある、これは何等かの隨筆物などの一節で、この記事が大岡越前守の事蹟の全體若くは逸事であつたものが、後に他の幾多の物語が出來た爲め、茲に首卷として採録したものらしい。その始めに 當世奉行役人百姓を夜中にてもかまはず呼出し、腰かけに苦勞させ、おのれら我意に任せて退出後にゆる〳〵休息し、酒盛などして夜に入て評定し又もなかれて歸すなど云々 とありて、時の裁判振りを慨する徒輩が、大岡裁判に假託して時事を諷したとも見らるゝが、この首卷の中の事柄は眞實の事らしい。猶ほ官歴のことも書いてあるが、十分でないから、左にその大要を掲げんに 延寶五年江戸に生る、大岡美濃守忠高の四男、幼名求馬 貞享三年十二月 大岡忠右衞門忠眞の養子となる、十歳 貞享四年 通稱を市十郎と改め、忠相と稱す、十一歳 元祿十三年七月、養父病死、家督を相續し、養家歴代の通稱忠右衞門と改む。六百石寄合旗本無役、二十四歳 元祿十五年五月、御書院番士  二十六歳 寶永元年十月 御徒頭  二十八歳 同  年十二月 布衣 同 四年八月 御使番  三十一歳 同 五年七月 御目附  三十二歳 正徳二年正月 伊勢國山田奉行   同年三月 從五位下 能登守 この時山田に赴任し、有名なる紀州領と松坂の住民との訴訟を裁判し、後年江戸町奉行に榮轉の素地を爲したのである。しかしこゝに注意すべきは山田奉行といふからには、田舍の區裁判所判事の如く思ひ、從つて江戸町奉行の轉任は未曾有の拔擢の如く考へるものがあるが、山田奉行の地位は伊勢神宮所在地なるが爲め、重要なる地位である。故に從五位下能登守と叙爵したので、謂はゞ指定地の勅任所長ともいふべきで、それが、東京地方裁判所長に轉任したのであるから、榮轉は榮轉であるが、未曾有の榮轉といふ程でもない、即ち能登守が越前守に轉じた叙爵の形式から見ても想像がつく、 享保元年二月 御普請奉行 歸府 四十歳 同 二年二月 江戸町奉行、越前守 四十一歳 同 十年九月 二千石加賜、遺領と併せて三千七百二十石 四十九歳 元文元年八月 寺社奉行 二千石加賜 猶ほ廩米四千二百八十俵を足高とし、一萬石の高となし、大名の格式となる、六十歳 同年十二月 雁の間席並 寛延元年閏十月 奏者番 寺社奉行故の如し、從前の足高廩米を廢し更に四千二百八十石加賜、全く一萬石藩列に入る、七十二歳、三河國額田郡西太平を居所とす。 寶暦元年十一月病の爲め職を辭す、寺社奉行を免じ奏者番を許されず 此年十二月十六日薨ず、享年七十五歳、法名松運院殿興譽仁山崇義大居士 墓は神奈川縣高座郡小出淨見寺にあり、裏面には「御奏者番寺社奉行俗名大岡越前守藤原忠相行年七十五歳」と刻してある。また別に、芝區三田聖坂功運寺にも墓がある、これは後年追墓合葬したもので、數多の戒名があり、右より五番目に「松運院殿前越州刺史興譽仁山崇義大居士、寶暦元年辛未十二月十六日」と刻してある。功運寺は其後、府下野方町に移轉し、淨見寺は大正十二年の大震災にて大破したから、有志に於てこれが修繕の擧ありと聞く。  淨見寺の東南、土地高濶遙かに富士山を望み要害の地がある、これは大岡氏の陣屋址で、二代目忠政の時こゝに土着したが、後江戸に移住したのである。  大岡越前守は曩に從四位を贈られたが、これは主として民政上の功に依る。とのことである、司法官としての功績に付ては未しであるのは遺憾である。 大正四年十一月四日 穗積陳重博士淨見寺の墓に詣でて 問ひてましかたりてましをあまた世を          へたてゝけりな道の友垣 と詠ぜられ、穗積八束博士また參詣せられた、この二大法曹の參詣を受けては地下の大岡越前守も定めて滿足したであらう。 ──解題終── 大岡政談首卷 大岡政談首卷 大岡越前守出世の事  大聖孔子の曰訟へを聞事我猶人の如くかならずうつたへなからしむとかや今いふ公事訴訟願ひ事になりたとへば孔子聖人には公事訟訴出來たる時は諺にちゑなきとの事我猶人の如くと也さりながら孔子聖人奉行となつて其訴へ自然と世の中にたえるやう天下ををさめ仁義をもつて民百姓をしたがへ道に落たるをひろはず戸さゝぬ御代とせんとなりまことに舜といへども聖人の御代には庭上に皷を出し置舜帝みつから其罪を糺しあらためあしき御政事當時は何時にても此皷を打て奏聞するに帝たとへば御食事の時にても皷の音を聞給ひたちまち出させ給ひ萬民の訴を聞給ふとなりまことにありがたき事なり然るに當世奉行役人は町人百姓を夜中にてもかまはず呼出し腰かけに苦勞をさせおのれら我意に任せて退出後にゆる〳〵休足し酒盛などして夜に入て評定し又もなかれて歸すなとよく〳〵舜帝の御心を恐れながらかんがへ學ぶへき事なり然るに舜帝のつゝみ世こぞつて諫鼓のつゝみと云其後程なく天下よく此君にしたがひ徳になつきければ其皷自然とほこりたまり苔を生し諸鳥も來りて羽を休めけるとなん此事を諫皷苔ふかうして鳥おどろかずと申あへりいまもつぱら江戸大傳馬町より山王御祭禮に皷の作りもの出し祭禮の第一番に朝鮮馬場において上覽是あるなり往古常憲院さま御代までは南傳馬町の猿のへいをもちし作りものゝ出でしを第一番に渡し諫皷は二番に渡しけるが或時の祭禮に彼猿の出し作ふひまに先へ拔たり此時よりして鳥の出し一番に渡るとの嚴命にて長く一番とはなりにけり是天下太平の功なり 此猿の面は南傳馬町名主の又右衞門といふもの作りて主計が猿といふよし今以て彼方にあるよしなり 然りといへども繁華の日夜に増けるゆゑ少々つゞの訴へはふん〳〵として更にやむことなしさればこそ奉行は是をえらむべきの第一也三代將軍の御代より大猷公嚴有公の兩君にまたがりて板倉伊賀守同周防守同内膳正は誠に知仁の奉行なりと萬民こぞつて今に其徳をしたふか板倉のひえ炬燵とは少しも火がないといふ事なり非と火と同音なればなり夫より後世の奉行いつれも堅理なりといへども日を同じく語るべからず然るに享保の初大岡越前守忠相といふ人町奉行となつて年久しく吉宗公に勤仕しける此人あつぱれ大丈夫にして其智萬人にすぐれ遠き板倉の輩に同じされば奉行勤仕勤功同越前守よく〳〵上をうやまひ下を憐みてすたれたるをおこしたへたるをつくろひ給ふ事誠に賢なりといふべし扨大岡忠右衞門とて三百石にて御書院番勤し其後二百石加増あつて五百石と成を越前守家督を繼て御小姓組と成勤仕の功を顯し有章公の御代に御徒頭となり其後伊勢山田奉行仰付られ初て芙蓉の間御役人の列に入りけるなり 第二回  諺にいはく千里の道を走る馬常にあるといへども是を知る伯樂もなく其智者にあへはなしとかや人間も又同じ忠信義信の人多くあつても其君のこゝろくらくして是を用ゆる事なくんばむなしく泥中玉をうづめんが如くに成りて過るなしすべての人の君たる人はよく〳〵これ察すべきことなり舜も人なり我も人なり智に臥龍孔明の 事なり勇に關羽の如きもの當世の人になからんや爰に有章院殿の御代大岡越前守伊勢山田奉行となりてかしこに至り諸人公事に彼地にて多く裁許あり先年より勢州路紀州領の境論の公事ありてやむ事なし山田奉行替りのたび事にねがひ出るといへども今もつて落着せず是は先來紀州殿非分なりといへども御三家の領分を相手なれば御大身をおそれ時の奉行も捌きかねてあつかひを入て濟すといへども扱ひ崩れ訴へ出る事たび〳〵なり然るにこの度大岡越前守山田奉行と成て來りしかば百姓ども又々境論を願ひ出づるを忠相段々聞れける所紀州殿方甚非分なりとてあきらかに取捌けり只今までの奉行いかなれば穩便にいたし置けるにや幸ひに越前守相糺すべきなりとて紀州の方まけと成て勢州山田方理運甚だしかりき爰において年頃のうつぷんを散じ大いに悦び越前守の智をかんじける誠正直理非全ふして糸筋の別れたるが如くなりしとかや其後正徳六年四月晦日將軍家繼公御多界まし〳〵則有章院殿と號し奉る御繼子無是によつて御三家より御養子なり東照宮に御血脉近きによつて御三家の内にても尾州公紀州公御兩家御帶座にて則ち紀州公上座に直り給ふ此君仁義兼徳にまし〳〵吉宗公と申將軍となり給ふ其後諸侯の心を考へ給ふ處におよそ奉行たる者は正路にあらざれば片時も立難し其正直にて仁義のもの當世に少し然るに大岡越前守伊勢山田奉行として先年の境論ありし時いづれの奉行も我武威をおそれ我方非分と知りながら是を捌く事遠慮する所彼越前守は奉行となつてたちまち一時に是非を糺し我領分をまけになしたる段あつぱれ器量は格別にして智仁勇三徳兼備の大丈夫なり彼を我手取に呼下し天下の政事を統しなば萬民のためならんとの上意にて則ち大岡殿を江戸へ召寄られける夫より越前守早速はせ下り吉宗公の御前へ出けるにぞ則ち忠相を以て江戸町奉行仰付られけり誠君君たれば臣臣たるとは此事にて有るべき 第三回  享保の初の頃將軍吉宗公町奉行大岡越前守と御評議あつて或は農工商罪なるものに仰付けられ追放遠島の替りに金銀を以て罪をつぐのひ給ふ事初り今是過料金といふなり大に益ある御仁政然るに賢君の御心をしらず忠臣の奉行をしらざる輩は此過料金の御政事を難していはく人の罪を金銀を以てゆうめんする事上たる人の有ましき事なり第一欲にふけり以の外いやしき掟てなり然らば金銀あるものは態と惡事なしむつかしき時にはわづか金銀を出せば濟事也と抔高をくゝり惡事をなさん是却て罪人多くならん媒也とあざけりし人多しとかや是非學者の論なりといにしへより我朝の掟にぞかゝる事なけれども利の當然なり新法を立らるゝ事天晴器量といひ其上唐土にも周の文王民百姓の罪あるものを金銀を出させて其罪をつぐなうとあれば聖人の掟にも有事なり然らば惡き御政事にてはなきと决せり又非學者の難じて曰く文王は有徳な百姓町人の罪死けいに非るものを過料を出させて其金銀を以て道路にたゝずみ暑寒をしのぐ事あたはざるもの飢餲にうれふるものには其金銀を與へてくるしみを除き給ひしが當時のありさまを見るにさしてこゝ一日人を救ひ給ふ事もなし皆公儀の用意なるはいかにと言是又上の御賢慮奉行の良智をしらざるゆゑなりその者よびとひて聞せん今江戸其外所々より出す過料金銀は公儀に御入用抔には決して用給ず唯橋道等の御修復金と成る多くは橋の普請のみ入用に成事なり是にて飢ゑ凍ゑる人を救道利にてみな此内にこもる聖君の御賢慮御いさをし也 橋功徳經にいはく  渡りに船を得たるが如く暗夜にともし火を得たるが如なり將經文の心を得たるが如く也此經文の心にて見ればうゑたるもの食を得たるか旅人のこめなればひとへに裸なる者衣類を得たるか如くにてあれはこゝえる人に衣を下さるをなさけに同じ事なりうゑたるもの食を得たるが如くとあれば御憐愍の御政事爰を以て知るべし有る時常憲院樣五十の賀の時何をもつて功徳の長と成べきと智化の上人へ桂昌院樣一位樣御尋ね遊ばされしに僧侶答て申上げるは凡君たる人の御功徳には橋なき所へ橋をかけ旅人のわづらひを止め給ふ事肝要ならんと申ければ則兩國橋と永代との間へ新大橋を懸られ諸人の爲に仰付られけるとかや右過料の御政事圖に當りて誠諸人の爲と成て可なりしとかや江戸池の端本門寺は紀州の御菩提所なれば吉宗公と御簾中本門寺御葬送を被遊て源徳院殿と號し奉るなりよつて去頃家重將軍是へ爲成候に付御成まへ俄にあたら敷御成門として出來ければ淨土宗のともがら是をねたみ御成門へ夜の内に大文字にて祐天風の南無阿彌陀佛と書たり誰とも知れざれども不屆の仕方なりよつて御成門を又々改め新に立直し奉行所へ申上て昨夜御成門へ徒仕りしが南無阿彌陀佛と書しは淨土宗のともがらねたみしと相見え申候如何計申べしや何卒公儀御威光を以て徒ら者これなきやう仰付られ下し置れ度願ひ奉るとぞ訴へおけるが大岡越前守是を聞給ひもつともの願ひなり御成門の儀は大切にかきりなし夫をわきまへずして大膽の者ども不屆千萬言語同斷の致し方なり然しながら御門の事なれば其方ともにも嚴敷取計も成難し斯せよとて大岡殿白紙へ一首の狂歌をなされ是を御門へ張べしとなり 其狂歌にいはく 西方のあるじと聞し阿彌陀佛        今は法花の門番となる 斯の如く遊されて本門寺へ渡し是を御門へ張置べしと仰渡されけり依て右の狂歌を張置ければ是に恥て重ねてさやうないたづらをばせざりしとかや 大岡政談首卷終 天一坊一件 天一坊一件 第一回  下野國日光山に鎭座まします東照大神より第八代の將軍有徳院吉宗公と稱し奉つるは東照神君の十一男紀伊國和歌山の城主高五十五萬石を領する從二位大納言光貞卿の三男にて幼名を徳太郎信房と稱し後に吉宗と改たむ御母は九條前關白太政大臣第四の姫君お高の方にて御本腹なり 假令三家方にても奧方は江戸に在べき筈なり紀州にての御誕生を本腹なりとは大納言光貞卿紀州和歌山にて大病につき奧方國元へ入せられ直に看病遊ばされたきよし度々の願ひ先例にはなく共格別の家柄ゆゑ聞濟に成り國許へ登らせられ御看病遊ばし平癒の後懷姙なる故和歌山にて御誕生ありしなり 扨奧方ある夜の夢に日輪月輪を兩手に握ると見給ひ是より御懷姙の御身とはなり給ふ 夢は五臟のわづらひといひ傳ふれども正夢にして賢人聖人或は名僧知識の人を産むは天竺唐土我朝ともにその例し少なからず已に玄奘法師は夢を四ツにわけ一に現夢二に虚夢三に靈夢四に心夢とす現夢とはうつゝまぼろしのごとく見ゆるをいふ虚夢とは心魂の勞れよりして種々樣々の事を見るをいふ靈夢とは神靈佛菩薩の御告をかうむるをいふ心夢とは常平生こゝろに思ふ事を見るをいふなりこの時奧方の見給ふは靈夢にして天下の主將に成べき兆を後々思ひしられたり 奧方にはあまりふしぎなる夢なれば迚大納言光貞卿に告給へば光貞卿深く悦びこの度懷姙の子男子ならば器量勝れ世に名を上る程のものならんと仰ありしことなり頃は貞享元甲子正月廿日卯の刻玉の如くなる御男子誕生まし〳〵ければ大納言光貞卿をはじめ一家中萬歳を祝し奉つれり奧方看病のため國元へいらせられ若君誕生にては公儀へ對し憚りありとて内々にて養育のおぼし召なりまた大納言光貞卿は當年四十一歳にあたり若君誕生なれば四十二の二ツ子なり何なる事にや昔しより忌きらふ事ゆゑ光貞卿にも心掛りに思召ある日家老加納將監をめし其方の妻女近き頃安産いたせしと聞及ぶ然るに間もなく其兒相果しよし其方は男子の事なれば左程にも思ふまじけれども妻女は定めて懷さびしくも思ふべし幸ひこの度出生せし徳太郎は予が爲には四十二の二ツ子なり依て我手元にて養育致し難し不便には思へども捨子にいたさんと思ふなりその方取上げ妻女の乳を以て養ひくれよ成長の後其方に男子出産せば予が方へ返せ若又男子なくばその方の家名相續いたさすべしと仰ありければ將監謹んで忝けなくも御本腹の若君を御厄年の御子なりとて某に御養育を命ぜらるゝ儀有がたく存じ奉つる然しながら上意のおもふき愚妻へ申聞かせ其上にて御請仕つりたし小兒養育の儀は偏に女の手に寄處にて私しの一存に行屆申さずとて急ぎ御前を退き宿へ歸りて女房に御内命の趣きを申し聞せければ妻女大に悦びさりながら御本腹の若君を我々が手に下されん事は勿體なし御幼年の内は御預り申上御成長遊し候後は太守樣の御元へ御返し申上何方へなりとも然るべき方へ御養子に入らせらるゝ樣に御取計ひ有て宜しかるべし當家相續などとは思ひも寄らず私し今日より御乳を奉つりて御養育を申上んといふにぞ將監も道理なりと同心し早速御前へ出て妻が申せし趣きを言上に及ぶに光貞卿深く悦び然らば暫らくの内其方へ預け置べしとて城内二の丸の堀端に大木の松の木あり其下へ葵紋ぢらしの蒔繪の廣葢に若君を錦につゝみ女中一人外に附の女中三人添の捨子とし給ふ加納將監は乘物を舁せ行き直樣拾ひ上乘物にて我家へ歸り女房に渡して養ひ奉つりぬ加納將監は本高六百石なるが此度二百五十石を里扶持として下し置れ都合八百五十石と成いよ〳〵忠勤を盡けり爰に徳太郎君は日を追て成長まし〳〵器量拔群に勝れ發明なれば加納將監夫婦は偏に實子の如く寵くしみ育ける扨或日徳太郎君に附の女中みな集り四方山の咄などしけるが若君には御運拙なき御生れなりと申すに徳太郎君御不審に思めし女中に向ひ其方ども予が事を不運なりとは何故ぞと仰せければ女中ども若君には實は太守光貞卿の御子にておはし候へ共四十二の御厄年の御子なりとて御捨遊ばされしを將監御拾ひ申上將監の子と成せ玉ひしは御可憐き御事なり御殿にて御成長遊ばし候へば我々とても肩身ひろく御奉公も勤むべきに殘念の事なりと四人ともども申上しを聞しめし然らば予は太守光貞卿の子とやと仰せありしが夫よりは將監が申事も御用ゐなく殊の外我儘氣隨に成せ給へりある日書院の上段に着座まし〳〵て將監々々と呼せ給ふ聲きこえければ將監大いに驚ろき何者なるや萬一太守の御出にもと不審ながら襖を少し明けるにこは何に徳太郎君には悠然と上段に控へ給ふ將監この形勢を見て大いに驚ろき其方は狂氣せしか父に向ひて無禮の振舞何と心得居るやと申ければ徳太郎君仰けるはいかに隱すとも予は太守光貞の子なり然れば其方は家來なるぞ以後はさやう心得よと仰ありて是迄は將監を實の親の如く敬ひ給ひしが其後は將監々々と御呼なさるゝ故加納將監も是よりして徳太郎君を主人の如くに敬まひ侍づき養育なし奉つりける 第二回  扨徳太郎君は和歌山の城下は申すに及ず近在なる山谷原野の隔なく駈廻りて殺生し高野根來等の靈山後には伊勢神領まであらさるゝ故百姓共迷惑に思ひしが詮方なく其儘に捨置けり爰に勢州阿漕が浦といふは往古より殺生禁斷の場なるを徳太郎君此處へも到り夜々網を卸されける此事早くも山田奉行大岡忠右衞門聞て手附の與力に申付召捕には及ず只々嚴重に追拂ふべしと申含ければ與力兩人その意を得て早速阿漕が浦へ到り見れば案に違はず網を卸す者あり與力聲をかけ何者なれば禁斷の場所に於て殺生いたすや召捕べしと聲を掛くれば彼者自若として予は大納言殿の三男徳太郎信房なり慮外すな此提灯の葵の紋は其方どもの目に見えぬかと悠然たる形容に與力は手荒にすべからずと云付られたれば詮方なく立歸り奉行大岡忠右衞門に此趣きを達すれば殺生禁斷の場所へ網を卸せしと見ながら其儘に差置難し此度は自身參べしとて與力二人を召連れ阿漕が浦に到れば其夜も徳太郎君例の如く網を卸して居られし故忠右衞門大聲にて當所は往古より殺生禁斷の場所なれば殺生する者あれば搦捕るなりと呼はるを徳太郎君聞給ひ先夜も申聞すごとく予は紀伊大納言殿の三男徳太郎信房だぞ無禮致すな提灯の紋は目に見えぬか慮外せば赦さぬぞと宣まふ大岡大音あげ紀伊家の若君が御辨へなく殺生禁斷の場所へ網を入させ給ふべき這は全く徳太郎君の御名を騙る曲者それ召捕と烈しき聲に與力ども心得たりと左右より組付難なく繩をぞ掛たりける徳太郎君當然の理に申譯なければ是非なく山田奉行の役宅へ引れ給へり扨其夜は明家へ入れ番人を付て翌朝白洲へ引出し大岡忠右衞門は次上下に威儀を正し若ものを發たと白眼汝れ何者なれば殺生禁斷の場所を穢し剩さへ徳川徳太郎などと御名を騙不屆者屹度罪科に行べきなれども此度は格別の慈悲を以て免し遣す以後見當候はゞ決して赦さゞるなり屹度相愼み心を改むべしと申渡して繩を解てぞ放しける徳太郎君は何となるべきと案じ煩ひ給ひしに斯赦され蘇生せし心地し這々の體にて和歌山へ立歸り此後は大人くぞなり給ひけるとなん斯て徳太郎君追々成長まし〳〵早くも十八歳になり給へり此年加納將監江戸在勤を仰付られけるにぞ徳太郎君をも江戸見物の爲に同道なし麹町なる上屋敷に住着たり徳太郎君は役儀もなければ平生閑に任せ草履取一人を連て兩國淺草等又は所々の縁日熱閙場へ日毎に出歩行給ひければ自然と下情に通ず萬端如才なく成給へり程なく一ヶ年も過將監も江戸在勤の年限果ければ又も徳太郎君を伴ひ紀州へこそは歸りけれ爰に伊豫國新居郡西條の城主高三萬石松平左京太夫此程病氣の所ろいまだ嫡子なし此は紀伊家の分家ゆゑ家督評議として紀州の家老水野筑後守久野但馬守三浦彈正菅沼重兵衞渡邊對馬守熊谷次郎南部喜太夫等の面々打より跡目の評議に及びける時水野筑後守進出て申けるは各々の御了簡は如何か存ぜざれ共左京太夫殿お家督の儀は御國許加納將監方に御預け置れ候徳太郎君を然るべく存ずると申出たり一同此儀然るべしと評議一決しければ急ぎ此趣き和歌山表へ早飛脚を以て申送れば國許にても家老衆早々登城の上評議に及ぶ面々は安藤帶刀同く市正水野石見守宮城丹波川俣彈正登坂式部松平監物細井圖書等なり江戸表よりの書状を披見に及べば此度松平左京太夫殿御病死の所御世繼これ無に付ては加納將監方へお預け遊し候徳太郎君御跡目しかるべしとの事なり此儀尤もの事なりとて早速加納將監へ其段申渡しければ將監かしこまり急ぎ立戻りて其趣きを徳太郎君に申上出立の用意に及び近々江戸表御下りとは相成ける。爰に又和歌山の城下より五十町道一里半ほど在に平澤村といふ小村あり此處へ先年信州者にて夫婦に娘一人を連し千ヶ寺參の平左衞門と申者來りぬ名主甚兵衞は至て世話好にて遂に此三人を世話して足を止め甚兵衞は己が隱居所を貸遣し置り其後平左衞門病死し後は妻のお三と娘なりお三は近村の産婆を渡世としお三婆々と呼れたり娘も追々成長して容貌も可なりなるにはや年頃に成ば手元に置も爲によからじ何方へ成とも奉公に出さんと口入の榎本屋三藏を頼み和歌山の家中加納將監方へ奉公住込たりこゝにて名を澤の井と呼腰元をぞ勤ける此女へ何時しか徳太郎君の御手が付人しれず馴染を重ね終に澤の井懷姙してはや五月帶を結ぶ時とぞ成にき澤の井密に徳太郎君に向ひかね〳〵君の御情を蒙り嬉しくもまた悲しくいつか御胤をやどり最はや五月に相なり候と申上げれば徳太郎君聞し召甚だ當惑の體なりしが稍有て仰けるは予は知る如き部屋住の身分箇樣の事が聞えては將監が手前も面目なし予もまた近々に江戸表へ下り左京太夫殿の家督を相續する筈なれば首尾よく右等の事の相濟し上は呼迎へて妾となすべし夫迄は其方の了簡にて深く愼み猥に口外致すべからず併五月にも相成る上は奉公も太儀なるべし其方は病氣と披露し一先宿へ下り母の許にて予が出世を相待ち懷姙の子を大切に致すべしとて御手元金百兩を澤の井へ遣はされたり澤の井は押戴き有難よしを御禮申上左樣なれば仰に隨がひ私儀は病氣の積りにて母の許へ參るべし併ながら御胤を宿し奉りし上は何卒御出生の御子を世に立度存じ奉れば後來迄も御見捨なき爲に御證據の品を下し置れ度と願ければ徳太郎君も道理に思し召て御墨付に御短刀を添て下されけり澤の井は押戴き御短刀を能々拜見して偖申やう此御短刀は私し望御座なく候何卒君の常々御手馴し方を戴き度旨願ひければ君も御祕藏の短刀を遣はさるゝは御迷惑の體なりしが據處なく下されて仰けるは此品は東照神君より傳はれるにて父君にも深く御祕藏の物なるを先年自分に下されしなり大切の品なれども其方の願も點止し難ければ遣はすなりと御墨付を添て件の短刀をぞ賜はりける其お墨付には 其方懷姙のよし我等血筋に相違是なし若男子出生に於ては時節を以て呼出すべし女子たらば其方の勝手に致すべし後日證據の爲我等身に添大切に致候短刀相添遣はし置者也依而如件 寛永二申年十月 徳太郎信房 澤の井女へ と成され印を据し一書を下し置れ短刀は淺黄綾の葵の御紋染拔の服紗に包て下されたり。扨又徳太郎君には道中も滯ほりなく同年霜月加納將監御供にて江戸麹町紀州家上屋敷へ到着と相成り夫より左京太夫殿家督相續萬端首尾よく相濟せられたり。然に澤の井は其後漸く月重り今は包に包まれず或時母に向ひ恥かしながら徳太郎君の御胤を宿しまゐらせ御内意を受け御手當金百兩と御墨附御短刀まで後の證據に迚下されしこと逐一物語ればお三婆は大いに悦び其後は只管男子の誕生あらんことをぞ祈りたるが已に月滿て寛永三年三月十五日の子の上刻に玉の如くなる男子を誕生し澤の井母子の悦び大方ならず天へも昇る心地して此若君の生長を待つより外は無るべし 第三回  然にお三婆母子は若君誕生ありしに始めて安堵の思ひをなせしが老少不定の世の習ひ喜こぶ甲斐もあら悲しや誕生の若君は其夜の七ツ時頃虫の氣にて終に空くなり給ひぬ母澤の井斯と聞より力を落し忽ち産後の血上り是も其夜の明方に相果ければ跡に殘しお三婆は兩人の死骸に取付天を仰ぎ地に俯し泣悲しむより外なきは見るも哀れの次第なり近邊の者ども婆が泣聲を聞つけ尋ね來り見れば娘の澤の井と嬰孩の死骸に取付樣々の謔言を言立狂氣の如き有樣なれば種々賺し宥め兩人の死骸を光照寺といふ一向宗の寺へ葬むりしがお三婆は狂氣なし種々の事を叫び歩くにぞ名主の甚兵衞も持あまし其隱居所を追出しけり然ばお三婆は住家を失なひ所々方々と浮れ彷徨しを隣村平野村の名主甚左衞門は平澤村の甚兵衞名主の弟なるがこれも至つて慈悲深者にてお三婆の迷ひ歩行を氣の毒に思ひ何時まで狂氣でも有まじ其内には正氣に成べしとて己が明家に住せ此處にあること半年程にて漸やく正氣に成しかば以前の如く産婦の世話を業として寡婦暮しに世を渡りける。爰に寶永三年四月紀伊大納言光貞卿御大病の處醫療叶はず六十三歳にて逝去まし〳〵ける此時松平主税頭信房卿は御同家青山百人町なる松平左京太夫の養子となり青山の屋敷に在せり扨また大納言光貞卿の惣領綱教卿は幼年より病身と雖も御惣領なれば強て家督に立給しが綱教卿も同年九月九日御年廿六歳にて逝去なり然るに次男頼職卿も早世なるに依紀伊家は殆ど世繼絶たるが如し三男信房卿同家へ養子と成せられて間は無れ共外に御血筋なき故まづ左京太夫頼純の四男宗通の次男を左京太夫頼淳と號して從四位少將に任じて家督とし主税頭信房卿は是より本家相續に相成り紀州和歌山にて五十五萬五千石の主とは成玉へり舍兄綱教卿は忌服十二月朔日に明け翌二日從三位中納言に任ぜられ給ひけり。扨寶永は七年續きて八年目の五月七日に正徳元年と改元あり正徳は五年續き六年目の三月朔日に享保元年と改元ある然るに正徳三年の九月六代の將軍家宣公御他界あり御幼年の鍋松君當年八歳にならせ給ふを七代の將軍と崇め家繼公とぞ申したてまつる此君御不運にまし〳〵間もなく御他界にて有章院殿と號したてまつる是に依て此度は將軍家に御繼子なく殿中闇夜に燈火を失ひたる如くなれば將軍家御家督の御評定として大城へ出仕の面々には三家十八國主四溜老中には阿部豐後守政高。久世大和守重之。戸田山城守忠實。井上河内守正峯。御側御用人間部越前守詮房。本多中務大輔正辰。若年寄には大久保長門守正廣。大久保佐渡守常春。森川出羽守俊胤。寺社奉行には松平對馬守近貞。土井伊豫守利道。井上遠江守正長大目付には横田備中守重春。松平安房守乘宗。中川淡路守重高等なり此時井伊掃部頭發言により松平陸奧守綱村卿進み出て申されけるに天下の御繼子の儀は東照神君御血筋近き方より繼せ玉はす事こそ順當なるべし然れば紀州公は神君の御彦に當らせ給へり紀州公こそ然べからんとぞ申されける諸侯其儀道理然るべしと異口同音に賛成なれば彌々紀伊家より御相續と相極まる是に因て同年八月吉宗公と御改名あり 正二位右大臣右近衞大將征夷大將軍淳和奬學兩院別當源氏長者 右の通り御轉任にて八代將軍吉宗公と申上奉つる時に三十三歳なり寶永四年紀州家御相續より十月目にて將軍に任じ給ふ御運目出度君にぞありける是に依て江戸町々は申すに及ず東は津輕外が濱西は鎭西薩摩潟まで皆萬歳をぞ祝し奉つる別して紀州にては村々在々まで殊の外に喜び祝しけるとぞ。扨も平野村甚左衞門方に世話に成居るお三婆は此事を聞より大に歎き悲み先年御誕生の若君の今迄も御存命に在まさば將軍の御落胤なれば何樣なる立身をもすべきに御不運にて御早世なりしは返す〴〵も殘念なりと獨り泣悲しむも理りとこそ聞けれ扨も八代將軍には或時御側御用取次に御尋ね有やうは先年勢州山田奉行を勤し大岡忠右衞門と申者は目今何役を致し居るやと御尋に御側衆申上げる樣大岡忠右衞門儀未だ山田奉行勤役にて罷在る旨を申上ければ吉宗公上意に忠右衞門は政事に私なく天晴器量ある者なり早々呼出すべしとの事故に台命の趣を御老中に申達しける是に依て御月番より御召出の御奉書勢州山田へ飛脚を以て遣さる大岡忠右衞門には御奉書到來し熟々考ふるに先年徳太郎君まだ紀州表に御入の節阿漕が浦にて召捕吟味せし事あり此度計ずも將軍に成せられたれば此度の召状は必定返報の御咎にて切腹でも仰付らるゝか又は知行御取上かさらずば御役御免なるべしと覺悟し用意も匇々に途中を急ぎ程なく江戸表へ着しければ早速御月番御老中へ到着の御屆に及び此段上聞に達しければ早々忠右衞門に御目見仰せ付らるべきの趣きなれば大岡忠右衞門早速御前へ罷出て平伏しける時に將軍の上意に忠右衞門其方は予が面體に見覺え有かとの御尋なり此時忠右衞門畏まり奉る上意の通り私し儀山田奉行勤役中先年阿漕が浦なる殺生禁斷の場所へ夜々網を入れ殺生する曲者ありとの訴へに付私し出役仕つり引き捕へ吟味仕り候處に彼曲者は紀伊家の徳太郎信房卿の御名前を僞はる曲者ゆゑ篤と吟味に及び候恐れ乍ら右曲者の面體君の御容貌によく似申す樣に存じ奉るとぞ御答申上ければ將軍家には深く其忠節を御感心遊ばされ忠右衞門宜くも申たりとて御譽の御言葉を下され直に江戸町奉行をぞ仰付られける。是に因て越前守と任官し大岡越前守藤原忠相と末代までも名奉行の名を轟かしたるは此人の事なり將軍家には其後も越前は末代の名奉行なりと度々上意ありしとかや 第四回  爰に長門國阿武郡萩は江戸より路程二百七十里三十六萬五千石毛利家の城下にて殊に賑はしき土地なり其傍らに淵瀬といふ處あり昔此處に萩の長者といふありしが幾世をか經て衰破斷滅し其屋敷跡は畑となりて殘れり其中に少しの丘ありて時々錢又は其外種々の器物など掘出す事ある由を昔より云傳たりまた里人の茶話にも朝に出る日夕に入る日も輝き渡る山の端は黄金千兩錢千貫漆千樽朱砂千斤埋ありとは云へど誰ありて其在處を知る者なし然ども時として鷄の聲などの聞ゆる事ありて此は金氣の埋れ有故なりと評するのみ又誰も其他を定に知るもの無りける然るに其屋敷の下に毛利家の藩中にて五十石三人扶持をとる原田兵助と云者あり常々田畑を耕作する事を好みしが或時兵助山の岨畑へ出て耕作しけるに一つの壺瓶を掘出たり密に我家へ持ち歸り彼壺を開き見るに古金許多あり兵助大いに喜び縁者又は親き者へも深く隱し置けるが如何して此事の漏たりけん隣家の山口六郎右衞門が或日原田兵助方へ來り稍時候の挨拶も終りて四方山の咄に移りし時六郎右衞門兵助に向て貴殿には先達て古金の入し瓶を掘出されし由を慥に承まはり及たり扨々浦山敷事なり何卒其古金の内を少々拙者へ配分致し賜れと云ふに兵助は發と思へど然有ぬ風情にて貴殿には然ことを何者にか聞れし一向蹤跡なき事なり拙者毛頭左樣の事存じ申さずと虚嘯き何にも不束なる挨拶なるにぞ六郎右衞門は勃とし彼奴多分の金子を掘り出しながら少の配分をも拒み夫のみならず我に對して不束の挨拶こそ心得ぬよし〳〵其儀なら爲ようこそあれと急ぎ我家へ立歸り直樣役所へ赴むき訴へける樣は原田兵助事此度畑より金瓶を掘出し候處上へも御屆申上げず密に自分方へ仕舞置候旨をば訴へに及びたり役人中此由を聞き吟味の上兵助を役所へ呼寄其方事此度畑より古金の瓶を掘出し其段早速役所へ屆け出づべきに然は無して自分方に隱置其方一個の得分に致さんとの心底侍にも似合ず後闇き致し方にて重々不屆に思召さる依て相當の御咎をも仰せ付らるべきを此度は格別の御慈悲を以て永の御暇下し置る早々屋敷を引拂ひ何方へなりとも立退べし尤も掘出せし器物は其儘に上へ上納すべき旨申渡されける原田兵助は驚ながらも御請致し是全く六郎右衞門が訴人せしに相違なしとは思へど今更詮方なければ掘出せし金瓶は役所へ差出し家財は賣拂ひ一人の老母を引連て泪乍らに住馴し萩を旅立て播州加古川に少の知音のあれば播州さしてぞ立去ける老母を倶せし旅なれば急ぐとすれど捗行ず漸々の事にて加古川に着たれば知音を尋ね事の始末を委く咄し萬事を頼みければ異議なく承知し暫くの内は此處の食客となりしが兵助は外に覺えし家業も無ければ彼の知音の世話にて加古川の船守となり手馴ぬ業の水標棹もその艱難云ん方なし然ど原田兵助は至て孝心深き者なれば患難を事ともせず日々加古川の渡守して貧しき中にも母に孝養怠らざりし其内老母は風の心地とて臥ければ兵助は家業を休み母の傍らを離ず藥用も手を盡したれど定業は逃れ難く母は空敷なりにけり兵助の愁傷大方ならず然ど歎て甲斐無事なれば泣々も野邊の送りより七々四十九日の法なみもいと懇ろに弔ひける。扨又山口六郎右衞門も此度訴人の罪に依て是亦永の暇となりて浪人の身となり姿を虚無僧に替て所々を徘徊せしがフト心付き原田は播州へ行しとの事なり今我斯樣に浪々の身となり艱難するも元は兵助が事より起れりと自身の惡事には氣も付かず只管兵助を怨みいざや播州へ赴き兵助に巡逢此無念を晴さんと夫より播州指てぞ急ぎける所々方々と尋ぬれど行衞は更に知ざりしが或日途中にて兵助に出會しも六郎右衞門は天蓋を冠りし故兵助は夫とも知ず行過んとせしに一陣の風吹來り天蓋を吹落しければ思はず兩人は顏見合ける此時兵助聲をかけ汝は山口六郎右衞門ならずや我斯零落せしも皆汝が仕業ぞと傍にある竿竹を把て突て掛る六郎右衞門も心得たりと身を飄し汝此地に來りしと聞渺々尋ねし甲斐有て祝着なり無念を晴す時到れり覺悟せよと云さま替の筒脇差にて切かゝり互ひに劣らず切結びしが六郎右衞門が苛つて打込脇差にて竿竹を手元五尺許り斜かけに切落せり兵助は心得たりと飛込其斜かけに切れし棹竹にて六郎右衞門が脇腹目掛て突込だり六郎右衞門は堪得ず其處に倒とぞ倒れたり兵助立寄六郎右衞門が持し脇差にて最期刀をさし無念は晴したれど今は此地に住居は成じと直樣此處を立去り是よりは名を嘉傳次と改め大坂へ出夫より九州へ赴き所々を徘徊し廻り〳〵て和歌山の平野村と云へる所に到りける此平野村に當山派の修驗感應院といふ山伏ありしが此人甚だ世話好にて嘉傳次を世話しければ嘉傳次は此感應院の食客とぞ成り感應院或時嘉傳次に向ひ申けるは和歌山の城下に片町といふあり其處に夫婦に娘一人あり親子三人暮しの醫師なりしが近頃兩親共に熱病にて死去し娘計りぞ殘れり貴公其所へ養子に行て手習の指南でもせば宜からんといふ嘉傳次是を聞成程何時迄當院の厄介に成ても居られず何分にも宜しくと頼みければ感應院も承知なして早速彼片町の醫師方へ往右の咄をなし若御承知なら御世話せんといふに此時娘も兩親に離れ一人の事なれば早速承知し萬事頼むとの事故相談頓に取極りて感應院は日柄を撰み首尾よく祝言をぞ取結ばせける夫より夫婦間も睦しく暮しけるが幾程もなく妻は懷妊なし嘉傳次は外に家業もなき事なれば手跡の指南なし傍ら膏藥など煉て賣ける月日早くも押移り十月滿て頃は寶永二年戌三月十五日の夜子の刻に安産し玉の如き男子出生しける嘉傳次夫婦が悦び大方ならず程なく七夜にも成りければ名をば玉之助と號け掌中の玉と慈しみ養てける然に妻は産後の肥立惡く荏苒と煩ひしが秋の末に至りては追々疲勞し終に泉下の客とはなりけり嘉傳次の悲歎は更なり幼きものを殘し置力に思ふ妻に別れし事なれば餘所の見目も可哀しく哀れと云ふも餘りあり斯くて有べき事ならねばそれ相應に野邊の送りを營み七日々々の追善供養も心の及ぶだけは勤めしが何分男の手一ツで幼き者の養育に當惑し晝は漸く近所隣に貰ひ乳などし夜は摺粉を與へ孤子なればとて只管不便に思ひ養ひけり扨て玉之助も年月の立に從ひ成長しければ最早牛馬にも踏じと嘉傳次も少しく安堵し益々成長の末を祈りし親の心ぞ切なけれ其夏の事とか嘉傳次は傷寒を煩ひ心の限り藥用はすれども更に其驗なく次第々々に病氣の重るのみなれば或日嘉傳次は感應院を病床に招き重き枕を上て偖申けるは抑々私しが當國に杖を止めしより尊院の御厚情に預りし其恩を謝し奉つらずして此度の病氣迚も全快は覺束なし何卒此上とも我なき跡の玉之助が事偏に頼み參らすると泪ながらに述にける感應院は逐一に承知し玉之助の事は必ず氣に懸られな萬一の事あらば拙者が方へ引取て世話し遣すべし左樣の事は案じず少も早く全快せられよ夫れには藥用こそ第一なれなど勸ければ嘉傳次は感應院を伏拜み世にも嬉げに見えにけるが其夜嘉傳次は獨の玉之助を跡に殘し後れ先立習ひとは云ひながら夕の露と消行しは哀れ墓なかりける次第なり感應院夫と聞き早速來り嘉傳次の死骸をば例の如く菩提寺へ葬り僅かなる家財調度は賣代なし夫婦が追善の料として菩提寺へ納め何呉となく取賄ひ最信實に世話しけり然ば村の人々も嘉傳次が死を哀み感應院の篤き情を感じけるとかや 第五回  光陰は矢よりも早く流るゝ水に宛似たり正徳元年辛卯年と成れり玉之助も今年七歳になり嘉傳次が病死の後は感應院方へ引取れ弟子となり名をば寶澤と改めける感應院は元より妻も子もなく獨身の事なる故に寶澤を實子の如く慈みて育けるが此寶澤は生ながらにして才智人に勝れ發明の性質なれば讀經は云に及ず其他何くれと教るに一を示して十を覺るの敏才あれば師匠の感應院も末頼母しく思ひ別て大事に教へ養ひけるされば寶澤は十一歳の頃は他人の十六七歳程の智慧有て手習は勿論素讀にも達し何をさせても役に立ける此感應院は兼てよりお三婆とは懇意にしけるが或時寶澤を呼て申けるは其方の行衣其外とも垢付し物を持お三婆の方へ參り洗濯を頼み參るべしと云付られ元來寶澤は人懷のよき生れなれば諸人皆可愛がる内にもお三婆は取分寶澤を孤子也とて愛しみ味き食物等の有ば常に殘し置て遣はしなどしける此日師匠の用事にて來りける折から冬の事にて婆は圍爐裡に煖りゐけるが寶澤の來るを見て有あふ菓子などを與へて此寒いに御苦勞なり此爐の火の温ければ暫く煖まりて行給へと云に寶澤は喜びさらば少時間あたりて行んと頓て圍爐裡端へ寄て四方山の噺せし序で婆のいふやうは今年幾歳なるやと問ふに寶澤は肌を寛ろげ掛し守り袋取出してお三婆に示せば是を見るに寶永二年三月十五日の夜子の刻出生と印し有ければ指折算へ見るに當年恰十一歳なり忘れもせぬ三月十五日の夜なるがお三婆は頻に落涙しテモ御身は仕合物なりとて寶澤が顏を打守りしみ〳〵悲歎の有樣なれば寶澤は婆に向ひ私し程世に不仕合の者はなきに夫を仕合とは何事ぞや抑も當歳にて産の母に死別れ七歳の年には父にさへ死れ師匠の惠に養育せられ漸く成長はしたるなり斯墓なき身を仕合とは又何故にお前は其樣に歎き給ふぞと尋けるお三婆は落る涙を押拭ひ成程お身の云ふ通り早く兩親に別れ師匠樣の養育にて人と成ば不仕合の樣なれ共併しさう達者で成長せしは何よりの仕合なり譯と云ば此婆が娘の産し御子樣當年まで御存命ならば恰どお身と同じ齡にて寶永三戌年然も三月十五日子の刻の御出生なりしと語り又も泪に暮る體は合點のゆかぬ惇言と思へば扨はお前のお娘の産し孫ありて幼年に果られしや开は又如何なる人の子にて有しぞと問に婆は彌々涙にくれ乍らも語り出る樣私に澤の井といふ娘あり御城下の加納將監樣といふへ奉公に參らせしが其頃將監樣に徳太郎樣と申す太守樣の若君が御預りにて渡らせ給へり其若君が早晩澤の井に御手を付け給ひ御胤を宿したれど人に知らせず婆が許へ呼取しも太守樣の若君樣が御胤なれば竊かに御男子が御出生あれと朝夕神佛へ祈る甲斐にや安産せしは前にも云へる如く御身と年月刻限まで同じ寶永二年の三月十五日夜の子刻なりき取揚見ば玉の如き男子なれば娘やばゝが悦びは天へも上る心地なりしが悦ぶ甲斐もあら情なや御誕生の若君は其夜の明方無慘や敢なく御果成れしにぞ澤の井は是を聞と齊しく産後の血上り是も續きて翌朝其若君の御跡慕ひ終に空しく相果たり獨り殘りしばゝが悲み何に譬へん樣もなく扨も其後徳太郎樣には御運目出度ましまし今の公方樣とは成せ給ひたり然ば娘の持奉りて若君の今迄御無事に在まさば夫こそ天下樣の落胤成ば此ばゝも綾錦を身に纒ひ何樣なる出世もなる筈を娘に別れ孫を失ひ寄邊渚の捨小舟のかゝる島さへ無身ぞと叫と計りに泣沈めり寶澤は默然と此長物語を聞畢り實に女は氏なくて玉の輿と運が有ば思の外の事もあるものと心の内に思ふ色を面には顯さず夫は氣の毒にも惜き事なり併し夫には證據でも有ての事か覺束なし孫君の將軍の落胤でも輙く出世は出來まじ過去し事は諦め玉へと賺し宥ればばゝは此言葉を聞宜くも申されたり實に幼くして兩親に離るゝ者は格別に發明なりとか婆も今は浮世に望みの綱も切たれば只其日々々を送り暮せど計ずも孫君と同年と聞思はず愚痴を翻したり偖も干支のよく揃ひ生れとて今まで人に示ざりしが證據といふ品見すべしと婆は傍への古葛籠を明け彼二品を取出せば寶澤は手に取上先お短刀を熟々見るに其結構なる拵へは紛ふ方なき高貴の御品次に御墨付おし披き拜見するに如樣徳太郎君の御直筆とは見えける諺に云へる事あり蛇は一寸にして人を噛の氣あり虎は生れながらにして牛を喰ふの勢ひ有とか寶澤は心中に偖々此婆めが善貨物を持て居ることよ此二品を手に入て我こそ天下の落胤と名乘て出なば分地でも御三家位萬一極運に適ふ時はと漸と當年十一の兒が爰に惡念を起しけるは怖ろしとも又類ひなし寶澤は此事を心中に深く祕し其時は然氣なく感應院へぞ歸りける偖翌年は寶澤十二歳なり。其夏の事なりし師匠感應院の供して和歌山の城下なる藥種屋市右衞門方へ參りけるに感應院は奧にて祈祷の内寶澤は店に來り番頭若者も皆心安ければ種々の咄などして居たり然るに此日は藥種屋にて土藏の蟲干なりければ寶澤も藏の二階へ上りて見物せしが遂に見も慣ざる品を數々並べたる傍には半兵衞と云ふ番頭が番をして居たり寶澤側へ寄て色々藥種の名を聞ば半兵衞も懇篤に教へける中に遙か離して一段高き所に壺三ツ并べたり寶澤指さし彼壺は何といふ藥種の入ありやと尋ければ半兵衞のいふ樣彼こそ斑猫と砒霜石と云ふ物なるが大毒藥なれば心して斯は遠くに離したりと聞て膽太き寶澤は態と顏を皺めテも左樣の毒藥にて候かと恐れし色をぞ示したり折節下より午飯の案内に半兵衞は暫し頼みまする緩々見物せられよと寶澤を殘し己は飯喰にぞ下りけり跡には寶澤只一人熟々思ひ廻らせば今此の二品を盜み置かば用ゆる時節はこれ斯と心の中に點頭つゝ頓て懷中紙を口に啣へ毒藥の壺取卸し彼中なる二品を一塊づつ紙に包て盜取跡は故の如くにして何知らぬ體にて半兵衞が歸るを待居たり半兵衞は頓て歸り來り偖々御太儀なりしお小僧にも臺所へ行て食事仕玉へと云ひければ寶澤は嬉し氣に下行食事も畢ける頃感應院も祈祷を仕舞ひければ寶澤も供して歸りぬ彼盜取し毒藥は竊に臺所の縁の下の土中へ深く埋め折を待て用ひんと工む心ぞ怖しけれ 第六回  頃は享保三丙申年霜月十六日の事なりし此日は宵より大雪降て殊の外に寒き日なりし修驗者感應院には或人より酒二升を貰ひしに感應院は元より酒を少しも用ひねば此酒は近所の懇意の者に分與へける寶澤師匠に向ひ申やうは何卒那酒を少し私しへ下さるべしと乞けるに感應院其方飮ならば勝手に呑べしと云ふ否々私しは爭でか酒は用ひ申べきお三婆は常々私しを可愛がり呉れ候へば少し戴きて渠に呑せたしといふ感應院これを聞て能こそ心付たれ我は婆の事に心付ざりし隨分澤山に遣はせと有ければ寶澤は大いに悦び早速酒を徳利へ移し肴をば竹の皮に包み降積もりたる大雪を踏分々々彼お三婆の方へ到りぬ今日は怪からぬ大雪にて戸口へも出られずさぞ寒からんと存じ師匠樣より貰ひし酒を寒凌ぎにもと少しなれど持來りしとて件の徳利と竹皮包を差出せばお三婆は圍爐裡の端に火を焚居たりしが是を聞て大きに悦び能も〳〵此大雪を厭ず深切にも持來り給へりと麁朶折くべて寶澤をも爐端へ坐らせ元より好の酒なれば直に燗をなし茶碗に汲て舌打鳴し呑ける程に胸に一物ある寶澤は酌など致し種々と勸めける婆は好物の酒なれば勸めに隨ひ辭儀もせず呑ければ漸次に醉出て今は正體無醉臥たり寶澤熟々此體を見て心中に點頭時分は宜と獨り微笑み傍を見廻せば壁に一筋の細引を掛て有に是屈竟と取卸し前後も知らず寢入しばゝが首に纒ひ難なく縊り殺し豫て認置し二品を奪ひ取首に纒ひし細引を外し元の如く壁にかけ圍爐裡の邊りには茶碗又は肴を少々取並べ置死したるお三婆が體を圍爐裡の火の中へ押込み如何にも酒に醉潰れ轉げ込で燒死たる樣に拵へたれば知者更になし寶澤は然あらぬ體にて感應院へ歸り師匠へもばゝが厚く禮を申せしと其場を取繕ひ何喰ぬ顏して有しに其日の夕暮に何とやらん怪しき匂ひのするに近所の人々寄集りて何の匂やらん雪の中にて場所も分らず種々評議に及び斯る時には何時も第一番にお三ばゝが出來り世話をやくに今日は如何せしや出來ぬは不思議成とて囁きける爰に名主甚左衞門の悴がフト心付お三ばゞの方へ到り戸を押明て見れば此は抑如何にお三ばゝは圍爐裡の中へ頭を差込死し居たり匂ひの此處より發りしなれば大いに驚ろき一同へ告げ親甚左衞門へも此事を通じけるに名主も駈來り四邊近所の者も追々に集り改め見れば何樣酒に醉倒れ轉込死したるに相違なき體なりと評議一決し翌日此趣きを郡奉行へ屆ければ早速檢使の役人も來り改め見しに間違もなき動靜成ば名主始め村中は口書を取れ大酒に醉伏燒死たるに相違なき由にて其場は相濟たり是に依て村中評議の上にてお三ばゝの死骸は近所の者共請取菩提寺へぞ葬りける隣家のお清婆と云は常々お三ばゝと懇意なりければ横死を聞て殊更に悲歎の思ひをなし昨日の大雪にて一度も尋ざりしゆゑ此事を知ざりしぞ不便なれとて歎きけるとぞ是より日々墓へ參詣して香花を手向ける扨も寶澤はお三ばゝを縊殺し彼二品を奪ひ取旨々と打點頭此後は我成長して此品々を證據とし公方樣の落胤と申上なば御三家同樣夫程迄ならぬも會津家ぐらゐの大名には成べし併ながら將軍の落胤なりと欺く時は如何なる者をも欺き負すべけれども爰に一ツの難儀といふは師匠の口から彼者は幼年の内斯樣々々にて某し養育せし者なりと云るゝ時は折角の巧も急ち破るゝに相違なし七歳より十二歳まで六ヶ年が其間養育の恩は須彌よりも高く滄海よりも深しと雖ども我大望には替難し此上は是非に及ばず不便ながらも師匠の感應院を殺し誰知ぬ樣になし成人の後に名乘出べしと心太くも十二歳の時始て起す大望の志ざしこそ怖ろしけれ既に其歳も暮て十二月十九日と成ければ感應院には今日は天氣も宜れば煤拂ひをせんものと未明より下男善助相手とし寶澤にも院内を掃除させけるが稍片付て暮方になり早殘る方なく掃除を仕舞ければ善助は食事の支度をなし寶澤は神前の油道具を掃除しけるが下男の善助は最早膳部も出來たれば寶澤に申ける御膳も出來候へばお師匠樣へ差上給へといへば寶澤は此時なりと兼て巧みし事なれば今われ給仕しては後々の障りに成んと思ひければ善助に向ひ我は油手なれば其方給仕して上られよと頼むに何心なき善助は承知して今水一荷を汲て後に御膳を差上べしといひ表の方へ出行たり跡に寶澤は手早く此夏中縁の下へ埋置し二品の毒藥を取出し平と汁の中へ附木にて匕ひ込何知ぬ體にて元の處へ來り油掃除して居たりけり善助は爭で斯る事と知るべき水を汲終り神ならぬ身の是非もなや感應院の前へ彼膳部を持出し給仕をぞなし居たり感應院が食事仕果し頃を計り寶澤も油掃除を成果て臺所へ入來り下男倶々食事をぞなしぬ胸に一物ある寶澤が院主の方を密かに窺ふに何事もなし扨不審とは心に思へど色にも顯さず已に其夜も五ツ時と思ふころ毒藥の効總身に廻り感應院は俄に七轉八倒して苦み出せば寶澤はさも驚きたる體にて泣ながら先近所の者へ知せける土地の者共驚き慌て早速名主へ知せければ名主も駈付醫者よ藥と騷しに全く食滯ならんなど云儘寶澤は心には可笑けれど樣々介抱なしゐしが夥だしく血を吐て遂に其夜の九ツ時に感應院は淺ましき最期をこそ遂たりける名主を始め種々詮議すれば煤掃の膳部より外に何にも喰ずとの事なり依て膳部を調れども更に怪しき事なければ彌々食滯と決し感應院の死骸は村中より集り形の如く野邊の送りを取行ひける扨此平野村には感應院より餘に修驗もなきことゆゑ村中に何事の出來るとも甚だ差支へなりと名主甚左衞門は感應院へ村中の者を集め扨相談に及ぶは此度不圖も感應院の横死せしが子迚も無ればあと目相續さすべき者なし然とて何時迄も當院を無住にも爲て置れず我思ふには年こそ行ねど寶澤は七歳の時より感應院が手元にて修行せし者なり殊には外の子供と違ひ發明なる性質にて法印の眞似事は最早差支なし我等始め村中が世話してやらば相續として差支へなし然すれば先住感應院に於ても嘸かし草葉の蔭より喜び申すべし此儀如何と述ければ名主どのゝ云るゝ事なり寶澤は七歳の時から感應院の手元で育ち殊には利發で愛敬者なり誰か違背すべき孰も其儀然るべしと相談爰に決したり 第七回  斯て名主甚左衞門は寶澤を招き申渡しける樣は扨も先達て師匠の死去せしより當村に山伏なし且又感應院には子もなければ相續すべき者なし依て今日村中を呼寄相談に及びしは其方は幼年なれども感應院の手許にて教導を受し事なれば可なりに修驗の眞似は出來べし我々始め村中より世話をすれば師匠感應院の後住にせんと村中相談一決したり左樣に心得べしと申渡せば寶澤は謹んで承はり答へけるは師匠感應院の跡目相續致し候樣と貴殿を始め村中の厚き思し召の程は有難く幼年の私しの身に取ては此上もなき仕合に存じ奉つり早速御受すべき處なれど師匠が存命中申聞せ候には凡山伏と云者は日本國中の靈山靈場を廻り難行苦行をなし或は野に伏し山に伏し修行をする故に山伏とは申なり扨亦山伏の宗派といツパ則ち三派は分れたり三派と云は天台宗にて聖護院宮を以て本寺となし當三派は眞言宗にて醍醐三寶院の宮を本山とす出羽國羽黒山派は天台宗にて東叡山一品親王を以て本山と仰ぎ奉る故に山伏とは諸山修行の修學の名にて難行苦行をして野に伏し山に宿し戒行を勵ゆゑに山伏といふ又修驗といツパ其修行終り修行滿たる後の本學とあれば難行苦行をなし修行終て後の本名なり故に十界輪宗の嘲言に徹すれば厭ふべき肉食なし兩部不二の法水を嘗れば嫌ふべき淫慾なしと立る法なり三寶院は聖護大僧正を宗祖とし聖護院は坊譽大僧正を宗祖とするなり然ども何も開山と申は三派ともに役の小角が開き給ひしなり扨亦山伏が補任の次第 小阿闍梨 大々法印 金蘭院 律師 大越家 一山大先達 内議僧 院號 坊號笈籠 權大僧都 七道具左之通 篠掛 摺袴 磨紫金 兜巾 貝 貝詰 護摩刀 評に曰此護摩刀のことは柴刀とも申よし是は聖護院三寶院の宮樣山入の節諸國の修驗先供の節柴を切拂て護摩の場所を拵へる故に是を柴刀とも云なり 斯の如く山伏には六かしき事の御座候よし兼て師匠より聞及び候に私事は未だ若年にて師匠の跡目相續の儀は過分の儀なれば修驗の法を一向に辨へずして感應院後住の儀は存じも寄ず爰にされば一の御願ひあり何卒當年より五ヶ年の間諸國修行致し諸寺諸山の靈場を踏難行苦行を致し誠の修驗と相成て後當村へ歸り其時にこそ師匠感應院の院を續度存ずるなり哀れ此儀を御許し下され度夫迄の内は感應院へは宜き代りを御入置下され度凡五ヶ年も過候はゞ私し事屹度相戻りますれば何卒相替らず御世話下されたし尤とも此事は師匠存命の内にも度々相願しかども師匠は私しを慈しむの餘り片時も側を離すを嫌ひて幼年なれば今四五年も相待べしと止め候故本意なくは思へども師匠の仰せ默止難く是迄は打過候なり此度こそ幸ひに日頃の宿願を果すべき時なり何卒此儀をお許し下されと幼年に似合ず思ひ入たる有樣に聞居る名主を初め村中の者は只管感心するより外なく皆々口を閉て控へたり此時名主甚左衞門進出て申す樣只今願の趣き委細承知致したり扨々驚き入たる心底幼年には勝りし發明天晴の心立なり斯迄思込し事をむざ〳〵押止んも如何なれば願ひに任すべしさらば五ヶ年過て歸り來る迄は感應院へは留守居を置べし相違なく五ヶ年の修行を遂げ是非とも歸り來り師匠の跡目を繼給へとて名主を初め村中も倶々勸めて止ざりけり偖も寶澤は願ひの如き身となり旅の用意もそこ〳〵に營なみければ村中より餞別として百文二百文分に應じて贈られしに塵も積りて山の譬へ集りし金は都合八兩貳歩とぞ成にける其外には濱村ざしの風呂敷或は柳庫裏笈笠蜘の巣絞の襦袢など思々の餞別に支度は十分なれば寶澤はさも有難げに押戴き幼年よりの好誼と此程の淺からぬ餞別重々有難き仕合せと恩を謝しいよ〳〵明日の早天に出立致す故御暇乞に參り候なりと村中へ暇乞に廻れり此時寶澤は漸く十四歳の少年なり頃は享保三戌年二月二日成し幼年より住馴し土地を離るゝは悲けれど是も修行なれば決して御案じ下さるなとて空々敷も辭儀をなし一先感應院へ歸り下男善助に向ひ明朝早く出立すれば何卒握飯を三ツ許り拵へ呉よと頼み置き床房へ入て休ける其夜丑滿の頃に起出て彼の握り飯を懷中なし兼て奪取し二品を所持し最早夜明に程近し緩々と行べしと下男善助に暇乞し感應院をぞ立出たり馴路とて闇をも厭はずたどり行に漸々と紀州加田浦に到る頃は夜はほの〴〵と明掛りたり寶澤は一休せんと傍の石に腰を打掛暫く休みながら向を見れば白き犬一疋臥居たり寶澤は近付彼の握飯を取出し與へければ犬は尾を振悦び喰居るを首筋を掴んで曳やつて投つけ起しも立ず用意の小刀を取出し急所をグサと刺通せば犬は敢なく斃れたり寶澤は謀計成りと犬の血を己が手に塗付て笈笠へ手の跡を幾許となく捺り付又餞別に貰ひし襦袢風呂敷へも血を塗て着たる衣服の所々を切裂これへも血を夥多に塗付誰が見ても盜賊に切殺れたる體に拵へ扨犬の死骸は壓を付て海へ沈め其身は用意の伊勢參宮の姿に改め彼二品を莚包として背負ひ柄杓を持て其場を足早に立去しは恐しくもまた巧みなる企てなり稍五ツ時頃に獵師の傳九郎といふが見付取散せし笈摺并に菅笠を見れば血に塗れたる樣子は全たく人殺しにて骸は海へ投込れしなるべしと早速土地の名主へ屆けゝれば年寄等が來り改めしに死骸は見えねども人殺しに相違なければ等閑ならぬ大事なりと此段奉行所へも屆出しにぞ其事平野村へ聞えければ同村の者共馳來れり此品々を見れば一々寶澤へ餞別に遣はしたる品に相違なし依て平野村の者より右の次第を濱奉行に訴へ私し共見覺ある次第を述村方感應院と申す山伏が昨今病死し其弟子當十四歳なる者五ヶ年間諸國修行の願にて昨日出立につき村中よりせん別に遣したる金子は八兩貳歩あり此品々も跡々より贈し物なり幼年にて多分の金子を所持し候を見付られ斯の仕合全く賊の爲に切害せられ候なるべしと申上ければ濱奉行も是を聞如何樣盜賊の所爲なるべし此品々は其方共へ戻す譯には參らず欠所藏へ入置るゝなり何分にも不便の至りなりとて其場は相濟たり偖も寶澤は加田浦にて盜賊に殺され不便の者なりとて師匠感應院の石塔の側に形ばかりの墓を立てられ村中替々香花を手向跡念頃に弔らひけるとなん 第八回  寶澤は盜賊に殺害されし體に拵らへ事十分調ひぬと身は伊勢參宮の姿に窶一先九州へ下り何所にても足を止め幼顏を失ひて後に名乘出んものと心は早くも定めたり先大坂へ出夫より便船を求めて九州へ赴かんと大坂にて兩三日逗留し所々を見物し藝州迄の便船あるを聞出て此を頼み乘しが順風なれば日ならずして廣島の地に着せしかば先廣島を一見せんと上陸をぞなしにける抑々此廣島は大坂より海上百里餘にて當所嚴島大明神と申は推古天皇の五年に出現ましませし神なり社領千石あり毎月六日十六日祭禮なり其外三女神の傳あり七濱七夷等を廻り夫より所々を見物しける内一疋の鹿を追駈しが鹿の迯るに寶澤は何地迄もと思あとを慕しも終に鹿は見失ひ四方を見廻らせば遠近の山の櫻今を盛りと咲亂れえも云れぬ景色に寶澤は茫然と暫し木蔭に休らひて詠め居たり此時遙の向より年頃四十許の男身に編綴といふを纏ひ歩行來りしが怪しやと思ひけん寶澤に向ひて名を問ふ寶澤答て我は徳川無名丸と申す者なり繼母の讒言により斯は獨旅を致す者なり又其許は何人にやと尋ね返せば彼者芝原へ手を突へ申けるは徳川と名乘せ給ふには定めて仔細ある御方なるべし某事は信濃國諏訪の者にて遠州屋彌次六と申し鵞湖散人また南齋とも名乘候下諏訪に旅籠屋渡世仕つれり若も信州邊へ御下りに成ば見苦くとも御立寄あるべし御宿仕らんと云にぞ寶澤は打點頭扨は左樣の人なるか某も此度據なき事にて九州へ下るなれ共此用向の濟次第に是非とも關東へ下向の心得なれば其節は立寄申べしと契約し其場は別たり扨寶澤は九州路を徊歴し肥後國熊本の城下に到りぬ爰は名に負五十四萬石なる細川家の城下なれば他所とは替り繁昌の地なり寶澤は既に路用を遣ひ盡しはや一錢も無なりいと空腹に成しに折節餠屋の店先なりしが彳みて手の内を乞と暫縁の下に休ひぬ餠屋の店には亭主と思しき男の居たりしかば寶澤其男に向申けるは私しは腹痛致し甚だ難澁致せば藥を飮たし御面倒樣ながら素湯一ツ下されと乞けるにぞ其男は家内に云付心よく茶碗へ湯を汲て與へたり寶澤は押戴き懷中より何やらん取出して飮眞似せり此時以前の男寶澤に向ひ尋けるは其方は年も行ぬに伊勢參宮と見受たり奇特の事なり何の國の生なるやと問ふ思慮深き寶澤は紀州と名乘ば後々の障なるべしと早くも心付態と僞りて私しは信州の生れにて候と云亭主此を聞て眉を顰め信州と此熊本とは道程四五百里も隔りぬらんに伊勢參宮より何ゆゑ當國迄は參りしやと不審を打れ敏速の寶澤は空泣して扨も私しの親父は養子にて母は私しが二ツの年病死し夫より祖母の養育に成長しが十一歳の年に親父は故郷の熊本へ行とて祖母に私しを預け置て立出しが其後一向に歸り來らず然に昨年祖母も病死し殘るは私し一人と成り切ては今一度對面し度と存ず夫故に伊勢參宮より故郷を跡にして遙々と父の故郷は熊本と聞海山越て此處迄は參り候へ共何程尋ても未だ父の在所が知申さず何成過去の惡縁にて斯は兩親に縁薄く孤子とは成候かと潸然々々と泣沈めば餠屋の亭主も貰ひ泣し偖々幼少にて氣の毒な不仕合者かなと頻に不便彌増偖云やう其方の父は熊本と計りでは當所も廣き城下なれば分るまじ父の名は何と申し又商賣は何渡世なるやと尋ねられ寶澤は泣々父は源兵衞と申し餠屋商賣なりと口より出任に答ければ亭主は是を聞き實事と思ひ然らば我等と同職なれば委く尋る程ならば譬へ廣き御城下でも知ぬ事は有まじ今夜は此方に泊り明日未明より餠屋仲間を一々尋ね見るべし我も仲間帳面を調べ遣んとて臺所へ上て休息させける扨其日も暮に及び夕飯など與へられ夜に入て亭主は仲間帳面を取出し源兵衞といふ餠屋や有と繰返し改めしに茗荷屋源兵衞と云があり是は近頃遠國より歸し人と聞及ぶ定めて此成んと寶澤にも是由を云聞せ明朝は其家に至り尋ぬべしと云れたり翌朝夫婦共に彼是と世話し件の茗荷屋源兵衞の町所を委く書認めて渡されしにぞ寶澤は態と嬉げに書付を持茗荷屋へと出行たり其夕暮寶澤には歸り來りいと白々しく今朝茗荷屋源兵衞樣方へ參り尋ねたれど私の親父にては是なきゆゑ夫より又々所々尋ねたれ共相知申さずと悄々として述ければ餠屋夫婦も氣の毒に思ひ其夜も泊て遣し又翌朝も尋に出したれ共元來知る筈はなし其夜寶澤は亭主に向申けるは扨々是迄淺からぬお情にて御城下は荒まし尋ねたれども何分父の居所は相知申さず何時迄も仇に月日を送らんも勿體なし明日よりは餠を背負てお屋敷や又は町中を賣ながら父を尋ね度存ずるなり此上のお情に此儀を御許し下されなば有難しと餘儀なげに頼むに夫は宜思付なり明日より左樣いたし心任せに父の在所を尋ぬべしとて翌日より餠を背負て出せしに元より發明の生なれば屋敷方へ到りても人氣を計り口に合やうに如才なく商ふゆゑに何時も一ツも殘さず皆賣て夕刻には歸り來り夫から又勝手を手傳などするにぞ夫婦は大に悦び餠類は毎日々々賣切て歸れば今は店にて賣より寶澤が外にて商ふ方が多き程になり夫婦は宜者を得つと名も吉之助と呼び實子の如く寵愛しけり或夜夫婦は寢物語に吉之助は年に似氣なき利口者にて何一ツ不足なき生れ付器量といひ人品迄よくも揃し者なり我々に子無れば年頃神佛に祈りし誠心を神佛の感應まし〳〵天よりして養子にせよと授け給ひし者成べし此家を繼せん者末頼母しと語合を吉之助潜に聞て心の内に冷笑へど時節を待には屈強の腰掛なりと心中に點頭これよりは別して萬事に氣をつけ何事も失費なき樣にして聊かでも利分をつけ晝夜となく駈廻り働く程に夫婦は又なき者と慈しみける扨も此餠屋と云は國主細川家の御買物方の御用達にて御城下に隱もなき加納屋利兵衞とて巨萬の身代なる大家に數年來實體に奉公を勤め近年此餠屋の出店を出て貰ひ夫婦とも稼暮す者なりフト吉之助の來てより家業も忙がしく大いに身代を仕出たり光陰矢の如く享保も七年とは成ぬ吉之助も當年は十八歳と成けり夫婦相談して當年の内には吉之助へも云聞せ良辰を撰みて元服させ表向養子の披露もせんとて色々其用意などしける處に或時本店の加納屋より急使來り同道にて參るべしとの事故餠屋の亭主は大いに驚き何事の出來せしやと取物も取敢ず急ぎ本店へ赴きけるに利兵衞は餠屋を奧の一間へ呼入れ時候の挨拶終り扨云やう今日其方を招しは別儀にも非ず此兩三年はお屋敷の御用も殊の外鬧敷相成ど店の者無人にて何時も御用の間を缺甚困り入が承まはれば其方に召仕ふ吉之助とやらんは殊の外發明者の由なり拙者方へ召使たしとの事なるが何共迷惑に思ども主人の頼なれば否とも云れず據なく承知なし早々我家へ歸り女房にも此事を相談しければ妻も致し方なく頓て吉之助を呼び今日本店よりの使は斯々にて本店無人に付暫くの内其方を借たしとの事なり未だ其方に話は致さねども當年の内には元服させ養子にせんと思しも本店へ引取れては我が所存も空しく殘念なれども外々ならば如何樣にも斷わり申すべきが本店の事なれば是非に及ばず明日よりは彼處へ參り一入出精し奉公致し呉べしと申渡しければ吉之助は心中に悦び是ぞ運の向處なり我大家に入込まば一仕事が成べしと思ふ心を色にも見せず態と悄々として是迄の厚き御高恩を報じもせずして他家に奉公致す事は誠に迷惑なれども御本店の事なれば致し方なしと誠に餘儀なき體に挨拶をぞなしにける 第九回  然程に吉之助は其翌日彼加納屋利兵衞方へ引移り元服して名をば吉兵衞と改め出精して奉公しける程に利發者なれば物の用に立事古參の者に増りければ程なく番頭三人の中にて吉兵衞には一番上席となり毎日々々細川家の御館へ參り御用を達しける萬事利發の取廻しゆゑ重役衆には其樣に計ひ下役人へは賄賂を贈り萬事拔目なきゆゑ上下擧つて吉兵衞を贔屓し御用も追々多くなり今は利兵衞方にても吉兵衞なくては叶はぬ樣に相成けり然共吉兵衞は少も高ぶらず傍輩中も睦しく古參の者へは別して親みける故内外共に評判よく利兵衞が喜び大方ならず無二者と思ひけり然に吉兵衞は熟々思案するに最早紀州を立退き夥多の年を過したれば我幼顏も變り果見知る者無るべし然ば兩三年の内には是非々々大望の企てに取掛るべし夫に付ては金子なくては事成就し難し率や是よりは金子の調達に掛らん物をと筆先十露盤玉にて掠め始めしが主人は巨萬の身代なれば少しの金には氣も付ず僅に二年の内に金子六十兩餘を掠め取り今は熊本に長居は益なし近々に此土地を立去んと心に思ひ定めける頃しも享保十巳年十二月二十六日の事なりし加納屋方にて金四十七兩二分細川家の役所より請取べき事あり右の書付を認め吉兵衞に其方此書付に裏印形を申請御金會所にて金子受取參るべしと云遣けるにぞ吉兵衞は彼書付を懷中なし爰に彌々決心し兼て勝手を知し事なれば御勘定の部屋に到り右の書付を差出ければ役人は是を改め見るに金四十七兩二歩とあり頓て調印をなし渡されたり此部屋に勘定役四五人有て夫々に拂方を改ため相違なければ役所にて金子何程錢何貫文書付に引合せて渡さるべしと裏印なし其書を金方の役所へ廻し金方にて拂を渡す事なり今吉兵衞が差出たる書付も役人が改め添書に右の通り認め調印して渡ける此勘定部屋と金方役所とは其間三町を隔ちたり吉兵衞は御勘定部屋より金方の役所へ行道にて件の書付を出し見るに〆高金四十七兩二分と有しかば竊に腰より矢立を取出し人なきを窺ひ四十の四の字の上へ一畫を引て百十七兩二歩と直し金方の役所へ到り差出し加納屋利兵衞御拂を下さるべしといふ役人請取改むるに勘定方の添書印形も相違なければ頓て百十七兩二分の金子を吉兵衞に渡されたり吉兵衞は悠々と金子を改め一禮述て懷中し歸宅の上主人利兵衞へは四十七兩二歩を渡し殘六十兩は己が物とし是迄に掠取し金と合せ見るに今は七百兩餘に成ければ最早長居は成難しと或日役所にて態と聊かの不調法を仕出し主人へ申譯立難しとて書置を認め途中より加納屋へ屆け其身は直に熊本を立退先西濱指て急ぎ行り此西濱と云は湊にて九州第一の大湊なり四國中國上方筋への大船は何も此西濱より出すとなり然に加納屋利兵衞方にて此度天神丸と名付し大船を造り極月廿八日は吉日なりとて西濱にて新艘卸しをなし大坂へ廻して一商賣せん積りなりし此事は兼て吉兵衞も承知の事なれば心に思ふ樣是より西濱に到り船頭を欺き天神丸の上乘して上方筋へ赴かんと胸に巧み足を早めて西濱に到ければ天神丸ははや乘出さん時なり吉兵衞は大音上オヽイ〳〵と船を招けば船頭杢右衞門が聞つけ何事ならんと端舟を卸して漕寄見れば當時本店にて日の出の番頭吉兵衞なれば杢右衞門は慇懃に是は〳〵番頭樣には何御用にて御出成れしやと尋ければ吉兵衞答て御前方も兼て知らるゝ如く此吉兵衞は是迄精心を盡して奉公せし故御主人方にても此兩三年は餘程の利分を得られたれば此度旦那の仰に別家でも出し遣すべきか幸ひ天神丸の新艘卸なれば其方上乘して大坂へなり又は江戸へなり勝手な所で一旗揚べしとて手元金として七百兩を下されたり若も商賣の都合で不足なれば何程でも助力して遣さんと御主人の厚きお心入辭退も成ず夫故斯火急の出立にて參りしなり今日より天神丸の上乘方と成り一まづ上方へ參る積なりと申ければ船頭杢右衞門は是を聞て大きに悦び是迄何事に依ず御運強き吉兵衞樣の商賣初といひ天神丸の新艘卸し傍々以て御商賣は御利運に疑ひなしお目出度〳〵と祝ひつゝ吉兵衞を端舟に乘て天神丸へぞ乘移しけり扨杢右衞門は十八人の水主を呼出し一人一人に吉兵衞に引合せ此度は番頭吉兵衞樣御商賣のお手初め新艘の天神丸の上乘成るゝとの事なり萬事御利發のお方なり正月三日のお祝は番頭樣の奢り成ぞ皆々悦び候へと語りければ水主等は皆々手を突て挨拶をぞなしたり其夜吉兵衞には酒肴を取寄せ船頭はじめ水主十八人を饗應し酒宴を催しける明れば極月廿九日此日は早天より晴渡り其上追手の風なれば船頭杢右衞門は水主共に出帆の用意をさせ然ばとて西濱の港より友綱を解順風に眞帆十分に引上走らせけるにぞ矢を射る如く早くも中國四國の内海を打過ぎ晝夜の差別なく走て晦日の夜の亥の刻頃とは成れり船頭杢右衞門は漸く日和を見て水主等に此處は何所の沖なるやと尋けるに水主等は確とは分らねど多分は兵庫の沖なるべしと答けるにぞ杢右衞門は吉兵衞に向番頭樣貴所の御運の能ゆゑに僅た二日二夜で數百里の海路を走り早攝州兵庫の港に參たり明朝は元日の事なれば爰にて三ヶ日の御規式を取行ひ四日には兵庫の港なり共大阪の川尻なり共思し召に任せ着船すべしと云ふ吉兵衞熟々考ふるに今大阪へ上りても兵庫へ着ても船頭が熊本へ歸り斯樣々々と咄さば加納屋利兵衞方より追手を掛んも計難し然ば一先遠く江戸表へ赴きて事を計ふに如ずと思案し杢右衞門に向申けるは我種々と思案せしが當時大阪よりは江戸表の方繁昌にて諸事便利なれば一先江戸を廻りて商賣を仕たく思ふなり太儀ながら天氣を見定め遠く江戸廻りして貰たしといふ杢右衞門は頭をかき是迄の海上の深淺は能存じたれば水差も入らざりしが是から江戸への海上は當所にて水差を頼までは叶ふまじといへば吉兵衞は夫は兎も角も船頭任なれば宜樣に計ひ給へとて其議に決し此所にて水差を頼み江戸廻りとぞ定めける 第十回  享保十巳年も暮明れば同き十一午年の元日天神丸には吉兵衞始め船頭杢右衞門水主十八人水差一人都合二十一人にて元日の規式を取行ひ三が日の間は酒宴に日を暮し己が樣々の藝盡して興をぞ催しけるが三日も暮はや四日と成にける此日は早天より長閑にて四方晴渡り海上青疊を敷たる如く青めき渡ければ吉兵衞も船頭も船表へ出て四方を詠め波靜なる有樣を見て吉兵衞は杢右衞門に向ひ兵庫の沖を今日出帆せんは如何といふ杢右衞門は最早三が日の規式も相濟殊に長閑なる空なれば御道理なりとて水差を呼て只今番頭樣より今日は殊によき日和ゆゑ出帆すべしとの事なり我等も左樣に存ずれば急ぎ出帆の用意有べしといふ水差是を聞て如何にも今日は晴天にて長閑にはあれど得て斯樣なる日は雨下しといふ事あり能々天氣を見定て出帆然るべしといふ吉兵衞始め皆々今日のごとき晴天によも雨下しなどの難は有べからずと思へば杢右衞門又々水差に向ひ成程足下の云るゝ處も一理なきにも有ねど餘り好天氣なればよも難風など有まじく思ふなり強て出帆すべく存ずると云に水差も然ばとて承知し兵庫の沖をぞ出帆したり追々風も少し吹出し眞帆を七分に上て走せハヤ四國の灘を廻り凡船路にて四五十里も走しと思ふ頃吉兵衞は船の舳へ出て四方を詠め居たりしが遙向に山一ツ見えけるにぞ吉兵衞は水差に向ひ彼高き山は何國の山なりや畫に描し駿河の富士山に能も似たりと問ふ水差答へて那山こそ名高き四國の新富士なりと答ふる折から此は抑何に此山の絶頂より刷毛にて引し如き黒雲の出しに水差は仰天しすはや程なく雨下しの來るぞや早く用心して帆を下よ錨をといふ間も有ばこそ一陣の颺風飄と落し來るに常の風とは事變り潮波を吹出て空は忽ち墨を流せし如く眞闇やみとなり魔風ます〳〵吹募り瞬時間に激浪は山の如く打上打下し新艘の天神丸も今や覆へらん形勢なり日頃大膽の吉兵衞始め船頭杢右衞門十八人の水主水差都合二十一人の者共肝を消し魂を飛し更に生たる心地もなく互に顏を見合せ思ひ〳〵に神佛を祈り溜息を吐ばかりなり風は益々強く船を搖上げ搖下し此方へ漂ひ彼方へ搖れ正月四日の朝巳の刻より翌五日の申の刻まで風は少しも止ず吹通しければ二十一人の者共は食事もせす二日二夜を風に揉れて暮したり漸く五日の申の下刻に及び少し風も靜まり浪も稍穩かに成ければ僅かに蘇生の心地して悦びしが間もなく其夜の初更に再び震動雷電し颶風頻りに吹起り以前に倍して強ければ船は搖上げ搖下され今にも逆卷浪に引れ那落に沈まん計りなれば八寒八熱の地獄の樣も斯やとばかり怖ろしなんども愚かなり看々山の如き大浪は天神丸の胴腹へ打付たれば哀やさしも堅固に營らへし天神丸も忽地巖石に打付られ微塵に成て碎け失たり氣早き吉兵衞は此時早くも身構へして所持の品は身に付ゐたるが天神丸の巖石に打付られし機會に遙の岩の上へ打上られ暫は正氣も有ざりける稍時過て心付拂と一息吐夢の覺し如く然にても船は如何せしやと幽かに照す宵月の光りに透し見ば廿人の者共は如何にせしや一人も影だになし無漸や鯨魚の餌食と成しか其か中にても我獨辛も命助かりしは能々運に叶ひし事かな然ど二日二夜海上に漂ひし事なれば身心勞れ流石の吉兵衞岩の上に倒れ伏歎息の外は無りしが衣類は殘らず潮に濡惣身よりは雫滴り未だ初春の事なれば餘寒は五體に染渡り針にて刺れる如くなるを堪て吉兵衞漸々起上り大事を抱へし身の爰にて空しく凍死んも殘念なりと氣を勵まし四方を見廻せば蔦葛下りて有を見付是ぞ天の與へなりと二品の包みを脊負纒ふ葛を力草漸々と山へ這上りて見ば此は何に山上は大雪にて一面の銀世界なり方角はます〳〵見分がたく衣類には氷柱下り汐に濡し上を寒風に吹晒され髮まで氷りて針金の如くなれば進退茲に極まりて兎にも角にも此處で相果る事かと思ふ計りなり時に吉兵衞倩々思に我江戸表へ名のり出て事露顯に及時は三尺高き木の上に命を捨る覺悟なれども今爰て阿容々々凍死んは殘念なり人家は無事かと凍えし足を曳ながら遙か向ふの方に人家らしき處の有を見付たれば吉兵衞是に力を得て艱苦を忍び其處を目當に雪を踏分々々たどり行て見れば人家にはあらで一簇の樹茂りなれば甚く望みを失ひはや神佛にも見放され此處にて一命の果る事かと只管歎き悲みながら猶も向を詠やれば遙向ふに燈火の光のちら〳〵と見えしに吉兵衞漸やく生たる心地し是ぞ紛ひなき人家ならんと又も彼火の光を目當に雪を踏分々々たどり行て見ば殊の外なる大家なり吉兵衞は衣類も氷柱垂れ其上二日二夜海上に漂ひ食事もせざれば身體疲れ果聲も震へ〳〵戸の外より案内を乞しに内よりは大音にて何者なるや内へ這入べしといふ吉兵衞大いに悦び内へ入りて申やう私し儀は肥後國熊本の者なるが今日の大雪に道踏迷ひ難澁いたす者なり何卒御情にて一宿一飯の御惠を願奉ると叮嚀に述ければ圍爐裡の端に年頃卅六七とも見ゆる男の半面に青髭生骨柄は然のみ賤しからざるが火に煖りて居たりしが夫は定めし難澁ならん疾々此方へ上り給へ併し空腹とあれば直に火に煖は宜からず先々臺所へ行て食事いたし其後火の邊へ依玉へと最慇懃に申けるに吉兵衞は地獄で佛に逢たる心地なし世にも情あるお詞かなと悦び臺所へ到りて空腹の事ゆゑ急ぎ食事せんものと見れば何れも五升も入べき飯櫃五ツ竝べたり飯も焚立なりければ吉兵衞は大きに不審し此樣子では大勢の暮しと見えたれども此程の大家に男は留守にもせよ女の五人や三人は居べきに夫と見えぬは最不審如何なる者の住家ならんと思ひながら飢たる儘に獨り食事し終り再び圍爐裡の端へ來りて彼男に厚く禮を述ければ先々緩りと安座して火に煖り給へといふ吉兵衞は世にも有難く思ひ火に煖れば今まで氷たる衣類の雪も解て髮よりは雫滴り衣服は絞るが如くなれば彼男もこれを見て氣の毒にや思ひけん其衣類では嘸かし難儀なるべし麁末なれども此方の衣服を貸申さん其衣類は明朝まで竿にでも掛て乾玉へと殘る方なき心切なる言葉に吉兵衞はます〳〵悦び衣類を借て着替濡し着類は竿に掛け再び圍爐裡の端へ來りて煖れば二日二夜の苦しみに心身共に勞れし上今十分に食事を成して火に煖まりし事なれば自然と眠氣を催しける然ど始めて宿り心も知れざる家なれば吉兵衞は氣を張居れども我知ず頻りに居眠りけるを彼男は見兼たりけん客人には餘程草臥しと見えたり遠慮なく勝手に休み給へ今に家内の者共が大勢歸り來るが態々起て挨拶には及ばず明朝まで緩りと寢れよ夜具は押入に澤山ありどれでも勝手に着玉へ枕は鴨居の上に幾許もありいざ〳〵と進めながら奧座敷は差支へ有れば是へは猥りに這入給ふな此儀は屹度斷わりたりと云ふに吉兵衞委細承知し然らば御言葉に隨ひ御免蒙るべしとて次の間へ到り押入を明て見るに絹布木綿の夜具夥多く積上てあり鴨居の上には枕の數凡そ四十許りも有んと思はれます〳〵不審な住家なりと吉兵衞は怪みながらも押入より夜具取出して次の間へこそ臥たりける 第十一回  扨も吉兵衞が宿たる家の主人を何者成と尋るに水戸中納言殿の御家老職に藤井紋太夫と云ふあり彼柳澤が謀叛に組して既に公邊の大事にも及べき處を黄門光圀卿の明察に見露し玉ひお手討に相成ける然るに紋太夫に一人の悴あり名を大膳と呼べり親紋太夫の氣を受繼てや生得不敵の曲者成ば一家中に是を憎まぬ者なし紋太夫が惡事露顯の節に扶持高も住宅をも召上られ大膳は門前拂となり據ころなく水戸を立去り美濃國各務郡谷汲の郷長洞村の日蓮宗にて百八十三箇寺の本寺なる常樂院の當住天忠上人と聞えしは藤井紋太夫が弟にて大膳が爲には實の伯父坊なれば大膳は此長洞村へ尋ね來り暫く此寺の食客となり居たりしが元より不敵の者なれば夜々往還へ出て旅人を刧し路用を奪て己が酒色の料にぞ遣ひ捨けり初の程は何者の仕業とも知る者無りしが遂に誰云ふとなく旅人を剥の惡黨は此頃常樂院の食客大膳と云ふ者の仕業なりとをさ〳〵評判高くなり何と無く影護くなり此寺にも居惡く餘儀なく此處を立退一先江戸へ出ん物と關東を心ざし東海道をば下りけり懷ろ淋しければ道中にても旅人を害し金銀を奪ひ酒色に酖り急がぬ道も日數經て漸やく江戸へ近づき神奈川宿の龜屋徳右衞門といふ旅籠屋へ泊り隣座敷を窺へば女の化粧する動靜なり何心なく覗き込ば年の頃は十八九の娘の容色も勝て美麗きが服紗より一ツの金包を取出し中より四五兩分て紙に包み跡をば包て床の下へ入し嵩は百兩ほどなり強慾の大膳は此體を見るより粟々と喜び乍らも女の身として斯る大金を所持し一人旅行するは心得がたしと先宿の下女を招き密に樣子を尋ねければ口惡善なき下女の習慣那こそ近在の大盡の娘御なるが江戸のさる大店へ嫁入なされしが聟樣を嫌ひ鎌倉の尼寺へ夜通の積りにて行れるなり出入の駕籠舁善六といふが強ての頼み今夜は茲に泊られしなりと聞かぬ事まで喋々と話すを大膳は聞濟し夫は近頃不了簡の女なりなど云程なく枕には着たり已に其夜も追々に更わたり丑滿頃となりければ大膳は密かに起出間の襖を忍明ぬき足に彼女を窺へば晝の疲かすや〳〵と休み寢入居り夜具の上より床も徹れと氷の刄情なくも只一突女は苦痛の聲も得立ず敢なくも息絶たれば仕濟したりと床の下より件の服紗包を取出し大膽にも己が座敷へ立戻り何氣なき體にて明方近くまで一寢入し俄に下女を呼起し急用なれば八ツ半には出立の積り成しが大に寢忘たり直に出立すれば何も入ず茶漬を出し呉よと逆立てられ下女は慌て膳拵すれば大膳は食事を仕舞ひ用意も底々に龜屋をこそは出立せり最前の如く江戸の方へは行ず引返して足に任せて又上の方へと赴きける主人の徳右衞門は表の戸を明しに驚き偵が旅宿屋の主人だけ宵に斷りもなき客の急に出立せしは何にも不審なりとて彼の座敷を改めしに變る事も無れば隔座敷を窺ふに是も靜なれど昨日駕籠屋善六に頼まれし若き女なればと案じて座敷へ入り見れば無慚や朱に染て死しゐたり扨こそ彼侍が女を殺して立退しと俄かに上を下へと騷動し追人を掛んもハヤ時刻が延たり併し當人を取迯しては假令訴へ出るとも此身の科は免かれ難し殊には一人旅は泊ぬ御大法なり女は善六の頼みなれば云譯も立べけれど侍ひの方は此方の落度は遁れ難し所詮此事は蔽すに如じと家内の者共に殘ず口留して邊の血も灑拭ひ死骸は幸ひ此頃植し庭の梅の木を引拔深く掘りて密に其下へ埋ける爰に駕籠舁の善六と云は神奈川宿にて正直の名を取し者なり昨日龜屋へ一宿を頼みし女中は今日は通駕籠にて鎌倉迄行べき約束ゆゑ善六は朝早く龜屋へ來り亭主に斯と言入れ約束の駕が迎ひに參りたりと云せたり徳右衞門は南無三と思ふ色を隱し何氣なき體にて彼女中の客人は今朝餘程早く立れたり貴樣の方へは行ずやと云善六頭を振左樣の筈はなし其譯は昨日途中にて駕籠へ乘時駕籠蒲團許りでは薄しとて小袖を下に布しが今日も乘るゝ約束成ば小袖は其儘我等が預り置て只今持て參りたり然ば一應の咄も無て出立すべき筈は無と云ば徳右衞門押返しいや決して僞り成ず實に昨夜女中よりの咄には明日鎌倉の尼寺まで通駕籠で參る約束はしたれ共那駕籠屋は何とやらん心元なし明朝迎ひに參らば程能斷り呉よと頼まれたり若僞りと思はゞ家探しなり共致さるべし何とて詮なき僞り申すべきやと云ひけるに善六は此を聞不審とは思へ共兎にも角にも爭そふも詮方なし勿論昨日の駕籠賃はまだ受取ず今日一所に貰ふ筈なりしが早立しとなれば是非もなし過分なれど此小袖は昨日の駕籠賃の質に預り置べしと善六は駕籠を舁げて出行たり跡は徳右衞門を始め家内の者もホツト溜息を吐計なり斯て善六は神奈川臺へ行て駕籠を下し棒組と咄しけるは只今龜屋方の挨拶に昨夜の女客の今朝早く出立せしとは不審なり殊に亭主の顏色といひ何共合點の行ぬ事なりと咄居る處へ江戸の方より十人計の男の羽織股引にて旅人とも見えず然とて又近所の者には非ずと見ゆるが息を切て來りつゝ居合はせし善六に向ひ尋ぬる樣に昨日年頃十八九の女の黒縮緬に八丈の小袖を襲着せしが若や此道筋を通りしを見懸られざりしや後の宿にて慥に昨日の晝頃に通りしと聞り若見當り玉はゞ教玉はれといふに善六は件の小袖を取出し其尋ぬる人は此小袖の主にや此は斯々にて今朝迎ひに參りしが龜屋の亭主に傳言して先刻お立なされしとの事なり此小袖は昨日の賃錢に私が預りたり私へ沙汰なしに立れしは合點行ずと今も咄てをる所なり不審に思はれなば精くは龜屋にて尋ね給へといふにぞ中にも年倍の男が進出尋ぬるは此人に相違なし扨も駕籠の衆種々とお世話忝けなしと一禮述實は我々仔細有て其女中を尋る者なり何共御太儀ながら今一應其旅籠屋まで案内して呉まじきやと云にぞ夫れは易き事なりと善六は先に立件の人々を伴なひて龜屋徳右衞門方へ到り人々を亭主に引合はせぬ徳右衞門は一大事と尚も然氣なく善六に答へし如く此者どもにも咄たり然ばとて十人の内より三人を鎌倉の尼寺へ遣はし殘り七人は其儘龜屋に宿りて鎌倉の安否を相待ける其日の夕暮に及び尼寺へ行し人々は立歸けるが女中にはまだ彼寺へは來らざる由なれば皆々只驚く計りなり就ては龜屋徳右衞門に不審が掛り追々疑はしきこともあれば此事終に代官所の沙汰となり吟味強くなりて龜屋徳右衞門の家内は殘らず呼出され跡へ役人來りて家搜せしに庭の梅の木の下の土の新しければ怪しとて掘發すに果して女の死骸の埋め有しとぞ龜屋徳右衞門は其儘牢舍せられ度々の吟味に始めて前の次第を逐一に白状には及ぬ然ば殺害せしと思ふ當人を取逃し殊に御法度の一人旅を泊し落度の申譯立ちがたく罪は徳右衞門一人に歸し長き牢舍のうち憐むべし渠は牢死をぞなしたり一旦の不覺悟にて終に一家の滅亡を來せしは哀れなりける災難なり 第十二回  爰に大膳は神奈川の旅店にて婦人を切害し思ひ懸ぬ大金を奪取たれば江戸は面倒なるべし如ず此より上方に取て返し中國より九州へ渡んにはと遂に四國に立越しが伊豫國なる藤が原と云ふ山中に來り爰に一個の隱家を得て赤川大膳と姓名を變じ山賊を業として暫く此山中に住居しが次第々々に同氣相求とむる手下の出來しかば今は三十一人の山賊の張本となり浮雲の富に其日を送りける然るに一年上方に住し折柄兄弟の約を結し藤井左京と云者あり此頃藤が原へ尋ね來り暫く食客と成て居たりしが時は享保十一午年正月五日の事なりし朝より大雪の降出しが藤井左京は大膳に向ひ某し去冬より此山寨へ參り未だ寸功もなく空く暮すも殘念なり我も貴殿の門下となりし手始めに今日の雪を幸ひ麓の往來へ罷出一當あてんと存ずるなり就ては御手下を我等に暫時貸給へ一手柄顯はし申さんと云ふ大膳斯と聞て左京殿に我手を貸はいと易けれど此大雪では旅人も尾羽を束ね通行する者あるべからず折角寒氣を犯し行かれしとて思ふ如き鳥も罹るまじ先今日は罷に致し玉へ手柄は何時でも成る事と押止めけれど思ひ込たる左京は更に聞き入れず思立しが吉日なり是非とも參りたしと強ての懇望なれば然程に思はれなば兎も角もと手下の小賊を貸與たれば左京は欣然と支度を調へ麓を指て出で行きし跡に大膳は一人つぶやき左京めが己れが意地を立んとて此大雪に出で行きたれ共何の甲斐やあらん骨折損の草臥所得今に空手で歸り來んアラ笑止の事やと獨り言留守してこそは居たりけり 却て説吉兵衞は宿りし山家の樣子何かに付て疑はしき事のみなれば枕には就けど寢もやらず越方行末のことを案じながらも先刻主人の言葉に奧の一間を見るなと固く制せしは如何なる譯かと頻りに其奧の間の見ま欲くて密と起上り忍び足して彼座敷の襖を押明見れば此はそも如何に金銀を鏤ばめ言語に絶せし結構の座敷にて先唐紙は金銀の箔張付にて中央には雲間縁の二疊臺を設け其上に紺純子の布團を二ツ重ね傍らに同じ夜具が一ツ唐紗羅紗の掻卷一ツあり疊の左右には朱塗の燭臺を立床の間には三幅對の掛物香爐を臺に戴てあり不完全物ながら結構づくめの品のみなり内ぞ床しき違棚には小さ口の花生へ山茶花を古風に揷たり袋棚の戸二三寸明し中より脇差の鐺の見ゆれば吉兵衞は立寄て見れば鮫鞘の大脇差なり手に取上鞘を拂て見るに只今人を殺めしが如くまだ生々しき膏の浮て見ゆれば偵に吉兵衞は愕然として扨ても山賊の住家なり斯る所へ泊りしこそ不覺なれと後悔すれど今は網裡の魚函中の獸また詮方ぞ無りければ如何はせんと再び枕に就ながらも次の間の動靜を如何ぞと耳振立て窺へば折節人の歸り來りて語る樣は棟梁の仰の通今日は大雪なれば旅人は尾羽を縮案の如く徒足なりしとつぶやきながら臺所へ上る其跡に動々と藤井左京を初め立戻り皆々爐の端へ集まりぬ此時左京は大膳に向ひ貴殿の御異見に隨はず我意に募て參りしか此雪で往來には半人の旅客もなし夫ゆゑ諸方を駈廻り漸く一人の旅人を見つけ溌さりやつて見れば一文なしの殼欠無益の殺生に手下の衆を勞し何とも氣毒の至りなり以來此左京は山賊は止申すと云ふに大膳呵々と打笑ひ左京どの沙彌から長老と申し何事でも左樣甘くは行ぬ者なり山賊迚も其通り兎角辛抱が肝心なり石の上にも三年と云へば先づ〳〵氣長にし給へ其内には好事も有るべし扨また我は今宵の留守に勞せずして小千兩の鳥を押へたりと云ふに左京は是を聞て大いに訝り我々は大雪を踏分寒さを厭はず麓へ出て網を張ても骨折損して歸へりしに貴殿は内に居て爐に煖り乍ら千兩程の大鳥を掛られしとは更に合點の參らぬ事なり此は貴殿の異見をも聞ず徒骨折しを嘲弄さるゝと思はれたりと云へば大膳は莞爾と打笑否とよ此大膳何しに僞を申べき仔細を知らねば疑はるゝも道理なりいで其譯は斯々なり宵に御身たちが出行し跡へ年の頃廿歳許の容顏麗しき若者來れり何れにも九州邊の大盡の子息ならずば大家に仕はるゝ者なるべし此大雪に道を踏迷ひ此處へ來りて一宿を乞し故快よく泊置て衣類は濡たれば此方のを貸遣したるが着替る時に一寸と見し懷中の金は七八百兩と白眼だ大膳が眼力はよも違ふまじ明朝まで休息させ明日は道案内に途中まで連出して別れ際に只一刀大まいの金は手を濡さずと語る聲を次の間に寢入し風の吉兵衞は委く聞取り扨こそ案に違はざりし山賊の張本なりけり斯深々と穽の内に落し身の今更迯とも迯さんや去乍ら大望のある身をむざ〳〵と山賊どもの手に懸り相果るも殘念なりと頻りに思案を廻らしける此時藤井左京は大膳に向ひ某し近頃此地へ參り貴殿の門弟とは相成たれど未だ寸功も立てざれば切て今宵舞込し仕事は何卒拙者に料理方を讓り給はるべし手始めの功とも致したく明朝とも云ず今宵の中に結果申すべしと云ふに大膳のいふ樣貴殿が手始めの功にしたしと有るからは仕事を讓り申べしと聞て左京は大に悦び然ば早々埓明んと立上るを大膳は暫しと押止め先々待たれよ今宵の仕事は袋の物を取り出すよりも易し先々一盃呑だ上の事とて是より酒宴を催しける次の間なる吉兵衞は色々と思案し只此上は我膽力を渠等に知らせ首尾よく謀らば毒藥も却て藥になる時あらん此者共を刧やかし味方に付る時は江戸表へ名乘出るに必ず便利なるべしと不敵にも思案を定め彼奧座敷に至り燭臺に灯りを點し茵の上に欣然と座を占め胴卷の金子は脇の臺に差置き所持の二品を恭々敷正面の床に飾り悠々として控へたり大膳左京の兩人は斯こととは爭で知るべき盃の數も重なりて早十分に醉を發し今は好時分なり率や醉醒の仕事に掛らんと兩人は剛刀を携へ次の間へ至りて見れば彼若者は居ず大膳不審に思ひ然にても慥に此處へ臥せしに何方へも行氣遣ひなしと此所彼所と探して奧座敷へ至れば此は抑如何に若者は二疊臺の上に威儀堂々と恐れ氣も無控へたれば兩人は肝を潰し互ひに顏を見合せて少時し言葉も無りしが大膳は吉兵衞に向ひ我こそは赤川大膳とて則ち山賊の棟梁なりまた此なるは藤井左京とて近頃此山中に來りて兄弟の縁を結びし者なり汝當所へ泊りしは運命の盡る處なり先刻見置し金子はや〳〵拙者どもへ差出せよと荒々しげに申ける吉兵衞は少しも惡びれたる氣色もなく此方に向ひ兩人ども必ず慮外の振舞を致す事なかれ無禮は許す傍近く參るべし我は忝けなくも當將軍家吉宗公の御落胤なり當山中に赤川大膳といふ器量勝れの浪人の有るよしを聞及びしゆゑ家來に召抱へたく遙々此處まで參りしなり聊かの金子などに心を掛る事なく予に隨身なすべし追ては五萬石以上に取立て大名にし遣はすべし迷を取ず聢と返答致すべしとさも横柄に述けるに兩人再び驚きしが大膳は聲を勵し汝天下の御落胤などとあられもなき僞りを述べ我々を欺むき此場を遁れんとする共我何ぞ左樣の舌頭に欺むかれんや併し夫には何か證據でも有て左樣には申すか若も當座の出たらめなれば思ひ知すと睨付れば吉兵衞莞爾と打笑ひ其方共の疑ひも理なきにあらず先づ是を見て疑念を散ずべしと彼二品を差示せば大膳は此品々を受取先御墨附を拜見するに正しく徳太郎君の御名乘に御書判をさへ据られたり又御短刀を拜見し暫く見惚て有りしが大膳急に座を飛退り低頭平身して敬ひ私儀は赤川大膳とて元水戸家の藩中なれば紀伊家に此御短刀の傳はりし事は能々知れり斯る證據のある上は將軍の御落胤に相違なし斯る高貴の御方とも存じ申さず無禮の段恐れ入り奉りぬ幾重にも御免しを蒙り度此上は我々共御家來の末に召し出さるれば身命を抛つて守護仕るべし御心安く思し召さるべし然れども我々は是迄惡逆をなせし者なり江戸表へ御供致せば惡事露顯いたすべし然れば忽ち罪科に行はれんが此儀は如何あらんと云ふに吉兵衞は答へて予が守護を致し江戸表へ參り親子對面する上は是迄の舊惡は殘らず赦し遣すべしとの言葉に大膳は有難く拜伏し茲に主從の約をなし左京をも進めて此も主家來の盃盞をさせにける此時吉兵衞は布團の上より下り兩人に向ひ申けるは我將軍の落胤とは全く僞りにて實は紀州名草郡平野村の修驗者感應院の弟子寶澤といふ者なるが平野村にお三婆と云ふ者あり其娘こそ誠にお胤を孕し此御墨附と御短刀を戴きしが其若君は御誕生の日にお果なされ其娘も空しくなり此二品は婆の持腐にしたるを我十二歳の時婆を殺し此品々を奪取江戸へ名乘出んとは思しが師匠感應院の口より泄んも計りがたければ師匠は我十三歳の時に毒殺したり尚も幼顏を亡さん爲に九州へ下り熊本にて年月を經り大望を企つるには金子なくては叶ふまじと此度金七百兩を掠め取り出奔なし船頭杢右衞門を誑りて天神丸の上乘し不慮の難に遇て此處まで來れる事の一伍一什を虚實を交へて語りければさしもの兩人も舌を卷き恐れ其不敵なるを感じ世に類ひなき惡者も有れば有る者とます〳〵心を傾けて兩人とも一味なして寶澤が運を開き西丸へ乘込の節は兩人とも五萬石の大名に取立らるゝ約束にて血判誓詞にぞ及びける 第十三回  扨も赤川藤井の兩人は寶澤の吉兵衞に一味なしけるが此時大膳は兩人に向ひて我手下は今三十一人有ども下郎は口の善惡なき者なり萬一此一大事の手下の口より漏んも計り難し我に一の謀計こそ有後の災ひを避んには皆殺しにするより外なし夫には斯々と密に酒の中へ曼多羅華といふ草を入惣手下の者へ酒一樽與へければ爭でか斯る工のありとは思はんや夢にも知ず大に歡び頓て酒宴を開きけるに皆々漸次に酩酊して前後を失ふ程に五體俄に痿痺出せしも只醉の廻りしと思ひて正體もなきに大膳等は此體を見て時分は宜と風上より我家に火をば懸たりける折節山風烈くして炎は所々へ燃移れば三十一人の小賊共スハ大變なりと慌騷ぐも毒酒に五體の利ざれば憐れむべし一人も殘らず燒燗て死亡に及ぶを強惡の三人は是を見て大に悦びまづ是にて災の根は斷たれば更に心殘りなし大望成就は疑ひなし今は此地に用はなし急ぎ他國へ立越ん幸ひ濃州谷汲の長洞村法華山常樂院長洞寺の天忠日信と云は親藤井紋太夫の弟にて我爲には實の伯父なるが斯る事の相談には屈強の軍略人にて過つる頃大恩を受し師匠の天道と云を縊殺し僞筆の讓状にて常樂院の後住と成り謀計に富たる人なりと云ば寶澤は打點頭そは又妙なりとて則ち赤川大膳が案内にて享保十一丙午年正月七日の夜に伊豫國藤が原の賊寨を立去三人道を急ぎ同月下旬美濃國なる常樂院へ着し案内を乞拙者は伊豫國藤が原の者にて赤川大膳と申す者なり參りし趣き取次玉はるべしといふ取次の小侍は早速此事を奧へ通じたれば天忠聞て大膳と有ば我甥なり遠慮に及ばず直に居間へ通すべしとの事なれば取次の侍案内に及べば大膳は吉兵衞左京の兩人を次の間へ控させ己れ獨り居間へ通り久々の對面に互ひに無事を賀し暫し四方山の話に時をぞ移しける時に天忠は大膳に向ひ先達ての手紙にて伊豫の藤が原とかに住居たる由は承知したり彼地にて家業は何を致し候や定めて忙しき事ならんとの尋に大膳は然氣なく御意の如し藤が原に浪宅を營み候へ共彼地は至て邊鄙なれば家業も隙なり夫故此度同所を引拂ひ少々御内談も致度事これありて伯父上の御許へ態々遠路を厭ず參りしと云ば天忠聞て其は又何事ぞや夫には何ぞ面白き事でも有やと申けるに大膳答て參候隨分面白からぬにも此なし萬よく仕課せなば五萬石位の大名には成るゝ事なれ共夫には我々の短才では行屆き申さず依て伯父御の智慧を拜借仕つり度是迄推參候といふに強慾無道の天忠和尚滿面に笑を含み夫は重疊の事なり扨其譯は如何にと尋ぬるに大膳は膝を進め聲を低くし申けるは此度藤が原より召連れ候者あり只今御次に控させたり其中一人の若人吉兵衞と申す者實は生國は紀州名草郡平野村なる感應院と申す修驗者の弟子にて寶澤と申す者なりしが今より十餘年前此平野村にお三婆といふ産婆ありその娘の澤の井と云が紀州家の家老職加納將監方へ奉公せし折將軍家は其頃徳太郎君と申し御部屋住にて將監方に在しけるが彼澤の井に御手を付させられ懷姙し母お三婆の許へ歸る砌御手づから御墨付と御短刀を添て下し置れしが御懷姙の若君は御誕生の夜空しく逝去遊ばせしを見より澤の井も産後の嘆きに血上りて此も其夜の中に死去したり依てお三婆は右の二品を所持なせど更に人には語る事も無りしが寶澤は別して入魂の上に未だ少年の事なれば心も許して右の次第を物語りしかば寶澤が十二歳の時彼婆を縊殺し其二品を奪ひ取大望の妨げなればとて師匠感應院をも毒殺し其身は諸國修行と僞り平野村を發足し其翌日加田浦にて白犬を殺し其血にて自分は盜賊に切殺されし體に取拵へ夫より九州へ下り肥後の熊本にて加納屋利兵衞といふ大家に奉公し七百兩餘の金子を掠め夫を手當として江戸表へ名乘出んとせし船中にて難風に出合船頭も水主も皆々海底の木屑となりしが果報めで度吉兵衞一人は辛ふじて助かり藤が原なる拙者の隱れ家へ來り右の次第を物語れり證據の品も慥なれば我々も隨從して將軍の御落胤なりと名乘出ん所存なり萬々首尾よく仕課せなば寶澤の吉兵衞には西の丸へ乘込か左無とも三家の順格位は手の内なれば此度同道仕つりしと詳らかに物語れば天忠は始終を聞て思ず太息を吐驚き入たる大膽の振舞其性根ならんには首尾よく成就なすべしと偵の天忠も密に舌をば卷て先兎も角も對面せんと大膳に案内させければ吉兵衞左京の兩人は天忠和尚に對面にぞ及びたり此天忠の弟子に天一と云ふ美僧あり年は廿歳許なり三人へ茶の給事などして天忠の傍らに控へける此時天忠は天一に向ひ用事有ば呼べし夫迄臺所へ參り居よと云ば天一は勝手へと退きける強慾の天忠は兩人に向ひ委細の事は只今大膳より聞及び承知したり併し箇樣の大望は中々浮たる事にては成就覺束なし先根本より申合せて巧まねば萬一中折して半途に露顯に及ぶ時は千辛萬苦も水の泡と成計か其身の一大事に及ぶべし先名乘出る時は必ず其生れ所と育し所を糺さるべし其答が胡亂にては成ず即ち紀州名草郡平野村にて誕生と申立る時は差向紀州を調べられんには忽ち化の皮の顯るゝなり此儀は既に疾差支なく整のひ居るにやと問に大膳始め吉兵衞左京も未だ其邊の密議に及ばねば礑と返答に當惑なしぬ時に大膳は了簡有氣に其儀は先達てより心付き種々工夫は仕つれど未だ然るべき考へも付ず願くは伯父上の御工夫をといふを聞て天忠暫し兩手を組て默然たりしが稍有て三人に向ひ拙僧少し所存あり夫は只今此所へ茶を汲て參りし者は當時は拙者弟子なれども元は師匠天道が弟子にて渠は師匠が未だ佐渡の淨覺院の持主たりし時門前に捨て有しを拾上げ養育して弟子と成ける者なり天道遷化の後は拙僧が弟子となして永年召使ふ者なれば何にも不便には存ずれど大功は細瑾を顧みずと依て彼を殺し其後吉兵衞殿に剃髮させ面ざしの似たるを幸ひ天一坊と名乘せ御出生の後佐州相川郡尾島村の淨覺院の門前に御墨付と御短刀を添て捨て有しを天忠が拾上げ養育なし奉つり其後當所美濃國常樂院へ轉住の頃も伴なひ奉つりたれば御成長は美濃國と申立なば誰有て知者あらじ然すれば紀州の調べも平野村の糺も無して事の破る氣遣なし此儀如何にと申ければ三人は感じ入誠に古今の妙計と一同是に同じける此時常樂院また申けるは今天一を殺は易けれど爰に一ツの難儀といふは小姓次助佐助の兩人にて渠は天一とは幼年より一所に育し者なれば天一を殺せば兩人の口より密計の露顯に及は必定なり然ば兩人とも生し置難し無益の殺生に似たれど是非に及ばず此兩人をも殺害すべし扨彼兩人を片付る手段といふは明日各々方に山見物させ其案内に兩人を差遣はすべし山中に地獄谷と云處あり此所にて兩人を谷底に突落して殺し給へ必ず仕損ずる事あるまじ其留守には老僧天一を片付申すべし年は老たれどもまだ一人や二人の者を殺すは苦もなし拙僧の儀は御氣遣有べからず呉々小姓共は仕損じ給ふなと約束し夫より酒宴を催し四方山の雜談に時を移し早子の刻も過たれば皆々臥房へ入にける天忠は翌朝は何時より早く起出小姓の次助佐助兩人に今日は御客人が山見物にお出なれば其方共御案内致すべし別して地獄谷の邊は他國の人には珍らしく思はるべければ能々御案内申せよと言付られ神ならぬ身の小姓兩人は畏まりしと支度して三人を伴ひ立出たり 第十四回  去程に常樂院の小姓次助佐助の兩人は己が命の危きをば知よしなく山案内として大膳吉兵衞左京の三人を伴ひ山中さして至る事凡一里許なり爰は名に負地獄谷とて巖石恰も劔の如きは劔の山に髣髴たり樹木生茂りて底も見え分ぬ數千丈の谷は無間地獄とも云なるべし何心なき二人の小姓は師匠の詞に從がひ爰こそ名に高き地獄谷なり能々御覽あれと巖尖に進て差示せば三人は時分は宜ぞと竊に目配すれば赤川大膳藤井左京直と寄て次助佐助が後に立寄突落せば哀れや兩人は數千丈の谷底に眞逆樣に落入て微塵に碎けて死失たりまた常樂院は五人の者を出し遣し後に天一を呼近づけ今日は次助佐助は客人の山案内に遣し留主なれば太儀ながら靈具は其方仕つるべしと云に天一畏まり品々の靈具を取揃へ先住の塚へ供にと行跡より天忠は殊勝氣に法衣を着し内心は惡鬼羅刹の如く懷ろに短刀を用意し何氣なき體にて徐々と歩行寄けり天一は斯る惡心ありとは夢にも知ず靈具を供畢り立上らんとする處を天忠は隱し持たる短刀を拔手も見ず柄も徹れと突立れば哀むべし天一は其儘其處へ倒れ伏ぬ天忠は仕遂たりと法衣を脱捨裾をからげ萬毒の木の根を掘て天一が死骸を埋め何知ぬ體に居間へ立戻り居る所へ三人も歸來り首尾よく地獄谷へ突落せし體を告囁けば天忠は點頭て拙僧も各々の留主に斯樣々々に計ひたれば最早心懸りはなし然ばとて大望の密談をなし已に其議も調のひければ急に本堂の脇なる座敷に上段を營へ前に簾を下し赤川大膳藤井左京の兩人は繼上下にて其前に控へ傍らに天忠和尚紫の衣を着し座す其形勢いと嚴重にして先本堂には紫縮緬に白く十六の菊を染出せし幕を張り渡し表門には木綿地に白と紺との三筋を染出したる幕を張惣門の内には箱番所を置き番人は麻上下の者と下役は黒羽織を着し者を詰させ檀家の者たりとも表門の通行を禁じ裏門より出入させ墓場への參詣をば許せども本堂への參詣は堅く相成ざる由を箱番所の者共より制させける是則ち天一坊樣の御座所と唱へて斯の如く嚴重に構へしなり又天忠は兩人の下男に云付る樣は天一坊御事は是迄は世を忍び拙僧が弟子と披露し置候へ共實は當將軍家の御落胤たるゆゑ近々江戸表へ御乘出し遊ばされ公方樣と御親子の御對顏あれば多分西の丸へ入らせ給ふべしさすれば再び御目通りは叶はざる樣なり依て近々御出立前に格別の儀を以て當寺の檀家一同へ御目見を仰付らるべし此旨村中へ申達すべしとの事なり下男共何事も知らざれば是を聞て肝を潰し此頃迄臺所で一つに食事をせし天一樣は將軍樣の若君樣なりしか然ばこそ急に簾の中へ入せられ御住持樣も打て替り御主人の樣に何事も兩手を突て平伏なさると下男共は此等の事を村内へ觸歩行しゆゑ村中一統此頃の寺の動靜扨は然る事にて天一樣は將軍家の御落胤にて今度江戸へ御出立に成ば二度御目通り成ねば當前然ば今の内に御目見を仰付らるゝは有難い事迚村中の者共老若男女殘りなく常樂院へ集來り天忠に就て取次を頼めば和尚は大膳に向ひ拙寺檀家の者共天一坊樣御暇乞に御尊顏拜し奉り度由哀れ御聞屆願はんと申上れば是迄の知因に御對面仰付らるゝとて御座の間の簾を卷上れば二疊臺に雲間縁の疊の上に天一坊威儀を正して着座なし大膳が名前を披露に及べば天一坊は言葉少なに孰も神妙と計り大樣の一聲に皆々低頭平身誰一人面を上て顏を見る者なかりしと爰に浪人體の侍の身には粗服を纏ひ二月の餘寒烈きに羊羹色の絽の羽織を着て麻の袴を穿柄の解れし大小を帶せし者常樂院の表門へ進み入んとせしが寺内の嚴重なる形勢を見て少し不審の體にて箱番所の前を行過んとすれば箱番所に控へし番人は聲をかけ貴殿には何人にて何へ通り給ふや當時本堂は將軍の若君天一坊樣の御座所と相成り我々晝夜相詰罷ありと咎れば浪人は拙者は當院の住職天忠和尚の許へ相通る者なりと答ふ然ば暫時此處に御休息あるべし其段拙者共より方丈へ申通じ伺ひし上にて御案内せんといふに彼浪人も夫は尤もの事なりと自分も番所へ上れば番人は浪人の姓名を問に只先生が參りしと申給へと云ば番人は顏見合せ先生と許では何先生なるや分り申さず御名前を承まはりたしといふ左樣ならば方丈へ山内先生が參りしと申し給へとの事なれば早速其趣きを通じければ山内先生の御出とならば自身に出迎べしと何か下心のある天忠が出來る行粧は徒士二人を先立自身は紫きの法衣に古金襴の袈裟を掛頭には帽子を戴き右の手に中啓を持左の手に水晶の念珠爪ぐり沓を踏しめ徐々と出來る跡には役僧二人付そひ常に替し行粧なり頓て門まで來り浪人に向ひ恭々しく是は〳〵山内先生には宜こそ御入來成たり率御案内と先に進ば浪人は臆する色なく引續いて隨ひ行ぬ扨此浪人の山内先生とは如何なる者といふに元は九條前關白殿下の御家來にて山内伊賀亮と稱せし者なり近年病身を云立九條家を退ぞき浪人して近頃美濃國の山中に隱れ住ければ折節この常樂院へ來り近しく交はる人なり此人奇世の豪傑にて大器量あれば常樂院の天忠和尚も此山内伊賀亮を敬まふ事大方ならず今日計ずも伊賀亮の來訪に預かれば自身に出迎ひて座敷へ請じ久々にての對面を喜び種々饗應して四方山の物語りには及べり天忠言葉を改め山内先生には今日幸ひの處へ御入來なりし拙僧も大慶に存ずる仔細は拙僧が甥なる赤川大膳と申者此度將軍家の御落胤なる天一坊樣のお供致し拙寺へ御入にて御逗留中なり近々江戸表へ御名乘出にて御親子御對顏遊ばす筈ならば時宜に依ては西の丸へ居らせらるゝか左無とも御三家順格には受合なり然時は拙僧も立身の小口に先生も御隨身の思召あらば拙僧御吹擧に及ぶべしといふ伊賀亮は是を聞暫し思案して申ける樣和尚は何と思はるゝや拙者大言を吐に似たれども伊賀亮程の大才ある者久しく山中に隱れて在は黄金を土中に埋むるに均し今貴僧の咄さるゝ天一坊殿にも此伊賀亮の如き者一人召抱に相成ば此上もなき御仕合と申もの也我も立身に望なきにあらず老僧宜く取計ひ給へと申ける常樂院大に喜こび早速大膳にも相談に及びし所ろ大望を企つるには一人も器量勝れし者を味方にせねば成就し難し夫は屈強の者なりといふにぞ天忠は打悦び天一坊へ申けるは今日拙寺へ參る所の客人は舊京都九條家の御家來にて當時は浪人し山内伊賀亮と申す大器量人なり上は天文地理を悟り下は神儒佛の三道に亘り和學軍學に至るまで何一ツ知ずといふ事なき文武兼備の秀才士なり此人を御家來と成れなば何なる謀計も成就せん事疑ひなしと稱譽して薦ければ天一坊は大に悦喜し左樣の軍師を得る事大望成就の吉瑞なりと云ば天忠は早々御對面ありて主從の契約あるべしと相談茲に一決し天忠は次へ退ぞき伊賀亮に申樣只今先生の事を申上しに天一坊樣にも先生の大才を御稱美ありて早速御召抱へ成るべくとの由なれば直樣御對面あらるべし就ては先生の御衣服は餘り見苦し此段をも申上たれば小袖一重と羽織一ツとを下置れたり率御着用有りて然るべしと述ければ伊賀亮呵々と笑ひ貴僧の御芳志は忝けなけれど未だ御對面もなき中に時服頂戴する謂れなし又拙者が粗服で御對面成れ難くば夫迄の事なり押て拙者より奉公は願ひ申さずと斷然言放し立上る勢ひに常樂院は慌て押止め然ば其段今一應申上べしまづ〳〵御待下されと待せ置て奧へ行き暫時にして出來り然らば其儘にて對面有べしとの事なりと告れば伊賀亮は然も有べしと頓て粗服のまゝ天忠に引れて本堂の座敷へ到れば遙の末座に着座させられぬ 第十五回  此時上段の簾の前には赤川大膳藤井左京の兩人繼上下にて左右に居並び常樂院天忠和尚が披露につれ大膳が簾を卷ば雲間縁の疊の上に錦の褥を敷天一坊安座し身には法衣を着し中啓を手に持て欣然として控へたり頓て言葉を發して九條家の浪人山内伊賀亮とやらん其方の儀は常樂院より具に承知したり此度予に仕んとの志ざし神妙に思なり以後精勤を盡すべし率主從の契約盃盞遣さんと云ばこの時兼て用意の三寶に土器を載藤井左京持出て天一坊の前に差置ば土器取あげ一獻を飮干て伊賀亮へ遣す時に伊賀亮は頭を上つく〳〵と天一坊の面貌を見て土器を取上ず呵々と打笑ひ將軍の御落胤とは大の僞り者餘人は知らず此伊賀亮斯の如き淺はかなる僞坊主の謀計に欺むかれんや片腹痛き工かなと急に立退んとするを見て赤川大膳は心中に驚き見透されては一大事と氣を勵まし何に山内狂氣せしか上に對し奉つり無禮の過言いで切捨んと立よりて刀の柄に手を掛るを伊賀亮ます〳〵わらひ茲な刀架め其方如き者の刄が伊賀亮の身に立べき切ば見事に切て見よと立掛るを左京と常樂院の兩人は中へ分入押止めければ天一坊は疊の上より飛下伊賀亮に向如何に伊賀亮予を僞者との過言其意を得ず何か證據が有て左樣には申すや返答聞んと詰寄ば伊賀亮動ずる色なく慥に證據なくして麁忽の言を出さんや其證據を聞んとならば禮を厚して問るべし先第一に天一坊の面部に顯はれし相は存外の事を企つる相にて人を僞るの氣慥なり又眼中に殺伐の氣あり是は他人を切害せし證據假初にも將軍家の御落胤に有べからざる凶相なり僞物と申せしがよも誤りで厶るかと席を叩て申ける天一坊始め皆々口を閉て茫然たりしが大膳堪へ兼御墨付と御短刀を持出し伊賀亮どの貴殿只今の失言聞惡し則ち御落胤に相違なき證據は是にあり篤と拜見あるべしと出し示せば伊賀亮苦笑しながら然ば拜見せんと手に取上これは紛なき當將軍家の御直筆なり又御短刀を拔て詠むるに是も亦違もなき天下三品の短刀なりと拜見し畢りて大膳に戻し成程御證據の二品は慥なれ共天一坊殿に於ては僞物に相違なしといふ此時天忠席を進み遖れなる山内先生の御眼力恐入たり左樣に星を指て仰らるゝ上は包み隱すに益なし此上は有體に申べし實に斯樣なりと大望を企てし一部始終落なく物語り此上は何卒先生の知略を以て此證據の品に基づき事成就致すやう深慮の程こそ願はしと述ければ伊賀亮は欣然と打笑ひ左こそ有べし事を分て頼むとあれば義を見て爲ざるは勇なしとか惡とは知ども一工夫仕まつて見申べしと稍暫く思慮に及びけるが人々に向ひ先天一殿の面部は當將軍家の幼稚の御相恰に能似しのみか音聲迄も其儘なれば十が九ツ此企て成就せんと云に皆々打悦び茲に主從の約をぞ結び五人頭を差寄て密談數刻に及びける伊賀亮申す樣斯樣なる大望を企てるには金子乏しくては大事成就覺束なし第一に金子の才覺こそ肝要なれ其上にて計らふ旨こそあれ各々の深慮は如何と申ければ天一坊進出て其金子の事にて思ひ出せし事あり某先年九州へ下りし砌り藝州宮島にて出會し者あり信州下諏訪の旅籠屋遠藤屋彌次六と云ふ者にて彼は相應の身代の者のよし語ひ置し事も有ば此者を手引とし金子才覺致させんには調達すべき事もあらんと云に任せ遂に其儀に決し密々用意して天一坊と大膳の兩人は長洞村を出立し信州下諏訪へと赴たり漸く遠藤屋彌次六方へ着し案内を乞先年の事を語れば彌次六は先年の事を思出し早速出迎へ能こそ御尋ね下されしと夫より種々の饗應に手を盡しける天一坊は大膳を彌次六に引合せ種々と内談に及びぬ爰に諏訪明神の社人に諏訪右門とて年齡未十三歳なれど器量拔群に勝れし者有り此度遠藤屋へ珍客の見えしと聞より早速彌次六方へ來り委細を聞遂に彌次六の紹介にて天一坊に對面を遂げ是も主從の約をぞ結びける是より彌次六は只管天一坊を世に出さんものと深く思ひ込兎角して金子を調達せんと右門にも内談をなすに右門の申樣は我等同職の中にて有徳なるは肥前なり此者を引入なば金子の調達も致すべし此儀如何有んと申ければ彌次六も大いに悦び早々夫となく彼肥前を招き樣々饗應ゐる内天一坊には白綾の小袖に紫純子の丸蔕を緊め態と庭へ出て小鳥を詠め居る體にもてなし肥前が目に留りて心中に怪しと思はせん者と圖るとは毫知らざれば肥前は亭主の彌次六に向ひ只今庭へ出給ふ御方は如何なる客人にや當人とは思はれずと云に彌次六は仕濟たりと聲をひそめ彼御方の儀に付ては一朝一夕に述がたし先は斯樣々々の御身分の御方なりとて終に天一坊と赤川大膳に引合せ則ち御墨付と御短刀をも拜見させらるれば元より肥前は篤實の者故甚く恐れ敬ひぬ彌次六右門の兩人は爰ぞと何れにも天一坊樣を御世に出したし夫には少し入用もあり何卒貴殿の周旋にて金子の御口入相成まじきやと餘儀もなく頼みければ肥前は然る儀なれば拙者には多分の儀は出來兼れど少々は工夫せんと聞て兩人は大に悦びいよ〳〵金子御調達下さるれば天一坊樣江戸表にて御親子御對顏相濟なば當明神を御祈願所と御定め一ヶ年米三百俵づつ永代御寄附ある樣に我々取計ひ申べし然すれば永く社頭の譽れにも相成候事なり精々御働き下されと事十分なる頼みの言葉に肥前の申樣は御入用の金子は何程か存せねど拙者に於ては三百兩を御用立申べし其上は自力に及び難しといふ彌次六申やう御入用高は未だ篤と相伺はねば先貴殿方の御都合もあれば夫だけ御用立下さるべしと云に肥前は委細承知なして歸宅せしが早速右の金子三百兩持參しければ此旨天一坊大膳へ申し談じ則ち天一樣御出世の上は永代米三百俵づつ毎年御奉納有べしと認めし證文と引替にし金子をば受取一先美濃國へ立歸らんと天一坊は大膳右門遠藤屋彌次六との三人を同道して常樂院へ歸り來りて右の首尾を物語れば常樂院もさらば拙僧も一目論して見よと庚申待を催し講中の内にて紺屋五郎兵衞蒔繪師三右衞門米屋六兵衞呉服屋又兵衞の四人を跡へ止め別段に酒肴を調のへ一間へ招きて酒も餘程廻りし頃常樂院申けるは各々方も御承知の如く是迄は拙僧の弟子と致し世を忍び給ひし天一坊樣は實は佐州相川郡尾島村の淨覺院の門前に捨られ給ひしを師匠天道和尚の拾ひし上弟子に致置れしが全くは當將軍家の御部屋住の内の御落胤なり此度御還俗遊ばし我々御供にて江戸表へ御上り遊ばすなり御親子御對顏の上は御三家同樣の御大名にならせらるゝは必定なり夫に付ては差向金子御入用なるが只今御用金とし金百兩差上る者には則ち三百石の御高を下され五十兩には百五十石三百兩ならば千石其餘は是に准じて宛行はるゝ思召なり然れば各々方も今の内に御用金を差上られなば御直參に御取立に成樣師檀の好みを以て拙僧宜く御取持せん思し召もあらば承まはらんと説法口の辯に任せて思ふ樣に欺りければ四人の者共は先頃よりの寺の動靜如何樣斯有んと思へど誰も貯へは無れど永代の家の株と無理にも金子調達仕つらんそれには御實情の處も伺ひたしといふに心得たりと常樂院は奧へ赴ぶき此由を咄し直に四人を伴なひて客殿の末座に待せ置き其身も席へ列なりける四人は遙か向ふを見れば上段の簾の前に頭は半白にして威有て猛からぬ一人の侍ひ堂々として控へたり是ぞ山内伊賀亮なり次は未壯年にして骨柄賤しからぬ形相の侍ひ二人是ぞ赤川大膳と藤井左京にて何れも大家の家老職と云とも恥かしからざる人品にて威儀を正して控へたれば其威風に恐れ四人の者は只々頭を下る計なり 第十六回  扨も常樂院は紺屋五郎兵衞を初め四人の者共に威を示し甘々と用金を出させんと先本堂の客殿に請じ例の正面の簾を卷上れば天一坊は威有て猛からざる容體に着座す其出立には鼠色琥珀の小袖の上に顯紋紗の十徳を着法眼袴を穿たり後の方には黒七子の小袖に同じ羽織茶宇の袴を穿紫縮緬の服紗にて小脇差を持たる剪髮の美少年の面體雪を欺くが如きは是なん諏訪右門なり其傍らに黒羽二重の小袖に煤竹色の道服を着したるは遠藤屋彌次六一號鵞湖山人なり孰も整々として控たれば四人の者は思はず發と計りに平伏す時に天一坊聲清爽に其方共此度予に隨身せんとの願ひ神妙に存ずるなり依父上より賜はりし證據の御品拜見さし許し主從の盃取らすべしとの詞の下藤井左京は彼二品を三寶へ戴て恭々敷持出し四人の者へ拜見致させたり四人は此二品を拜見して驚き入り何卒御家來に御召抱下され度と詞を盡して願ひける是に依て四人より金子四百兩を才覺して差出し御判物を戴き帶刀苗字をゆるされしかば夫々に改名して家來分となりにける先紺屋五郎兵衞は本多源右衞門呉服屋又兵衞は南部權兵衞蒔畫師の三右衞門は遠藤森右衞門米屋六兵衞は藤代要人と各々改名に及びたり中にも呉服屋又兵衞は武州入間郡川越に有徳の親類あれば彼方か御同道下さらば金千兩位は出來すべしといふにより山内伊賀亮は呉服屋又兵衞を案内として武州川越在の百姓市右衞門方へ到着し是又以前の手續にて辯に任して諸人を欺き櫻井村にて右膳權内馬場内にて源三郎七右衞門川越の町にて大坂屋七兵衞和久井五兵衞千塚六郎兵衞大圓寺自性寺其外寺院にて七ヶ寺都合廿七人金高二千八百兩出來せり偖千塚六郎兵衞は帳本にて金子は常樂院へ持參の上證文と引替る約束にて伊賀亮に附從ひ川越を發足せしが此六郎兵衞は相州浦賀に有徳の親類有ばとて案内し伊賀亮又兵衞と三人にて浦賀へ立越六郎兵衞の勸に因て江戸屋七左衞門叶屋八右衞門美作屋權七といふ三人の者より金子八百兩を差出して天一坊樣御出府の節は途中迄御出迎仕つらんとぞ約束をなし是より伊賀亮等の三人は美濃へ立戻り川越浦賀の兩所にて金子は三千兩餘出來せしと物語れば皆々大に悦び先六郎兵衞に夫々の判物を渡せしかば六郎兵衞は是を請取川越の地へ歸りけり跡に皆々此圖を外さず近々に江戸表へ下らんと用意にこそは掛ける先呉服物一式は南部權兵衞是を請込染物は本多源右衞門塗物の類は遠藤森右衞門が引請夜を日に繼で支度に掛ば二月の末には萬々用意は整のひたり爰に皆々を呼集め評定に及ぶ樣は直さま江戸へ下るべきや又は大坂表へ出て動靜を窺はんやと評議區々にて更に決着せざりしにぞ山内伊賀亮進み出て申樣は直に江戸表へ罷下らん事先以て麁忽に似て然べからず其仔細は先年駿河大納言殿の御子息長七郎君も先大坂へ御出の吉例も有ば此先例に任せ一先大坂へ出張ゆる〳〵關東の動靜を見定め變に應じて事を計らはんこそ十全の策と云べしと理を盡して申ければ皆一同に此議に同ず道理の事とて評議は此に決定したり然ば急ぎ大坂へ旅館を構へ是へ御引移有べしとて此旅館の借受方には伊賀亮が内意を受則ち常樂院が出立する事にぞ定まりぬ頃は享保十一午年三月朔日常樂院は美濃國長洞村を出立し道を急ぎ大坂渡邊橋紅屋庄藏方へぞ着しける此紅屋といふ旅人宿は金比羅參りの定宿にて常樂院は其夜主人の庄藏を呼近づけ申樣は此度聖護院の宮御配下天一坊樣當表へ御出張に付御旅館取調べの爲に拙寺が罷越候なり不案内の事ゆえ萬端其許をお頼申なりとて手箱の中より用意の金子を取出しこれは些少ながら御骨折料なりと差出しければ庄藏は大いに悦び委細畏こまり候と翌日未明より大坂中を欠廻り遂に渡邊橋向ふの大和屋三郎兵衞の控家こそ然るべしと借入のことを三郎兵衞方へ申入れしに早速承知しければ庄藏は我家へ歸り其趣きを常樂院へ物語れば常樂院は偏に足下の働らきなりしと賞賛し庄藏を案内として大和屋三郎兵衞方に赴き辯を飾りて申樣此度拙寺が本山天一坊樣大坂へ出張に付旅館として足下の控家を借用の儀を頼入しに早速の承知忝けなしと述終り此は輕少ながら樽代なりと金子を贈り借用證文を入れ則ち借主は常樂院請人は紅屋庄藏として調印し宿老へも相屆け萬端事も相濟たれば常樂院は尚も紅屋方に逗留し翌日より大工泥工の諸職人を雇ひ破損の處は修復を加へ新規に建添などし失費も厭はず人歩を増て急ぎければ僅の日數にて荒増成就したれば然ば迚一先歸國すべしと旅館へは召し連下男一人を留守に殘しいよ〳〵天一坊樣御出張の節は斯樣々々と紅屋庄藏大和屋三郎兵衞の兩人に萬端頼み置き常樂院には大坂を發足し道を急ぎ長洞村へ歸り大坂の首尾斯樣々々の場所へ普請出來の事まで申述ければ常樂院が留守中に此方も出立の用意調ひ居れば然あらば發足有べしとて其手配りに及びける頃は享保十一年四月五日いよ〳〵常樂院の許を一同出立には及びたり其行列には第一番の油箪掛し長持十三棹何れも宰領二人づつ附添その跡より萠黄純子の油箪白く葵の御紋を染出せしを掛し長持二棹露拂二人宰領二人づつなり引續きて徒士二人長棒の乘物にて駕籠脇四人鎗挾箱草履取長柄持合羽籠兩掛都合十五人の一列は赤川大膳にて是は先供御長持預りの役なり次に天一坊の行列は先徒士九人網代の乘物駕籠脇の侍ひは南部權兵衞本多源右衞門遠藤森右衞門諏訪右門遠藤彌次六藤代要人等なり先箱二ツは手代とも四人打物手代とも二人跡箱二ツ手代とも四人傘持草履取合羽籠兩掛茶辨當等なり引續いて常樂院天忠和尚藤井左京山内伊賀亮等孰も長棒の乘物にて大膳が供立に同じ惣同勢二百餘人其體美々しく長洞村を出立し大坂指て赴き日ならず渡邊橋向の設けの旅館へぞ着したり伊賀亮が差圖にて旅館の玄關に紫縮緬に葵の御紋を染出せし幕を張渡し檜の大板の表札には筆太に徳川天一坊旅館の七字を書付て門前に押立玄關には取次の役人繼上下にて控へ何にも嚴重の有樣なり是等は夜中にせし事なれば紅屋大和屋も一向に知ざる處ろ翌朝に至り市中の者共は是を見付て只膽を潰すばかりにて誰云となく大評判となり紅屋は不審晴ず兎も角もと大和屋三郎兵衞方へ到り前の段を物語り後難も恐ろしければ何に致せ表札と幕をば一先外させ申べしとて兩人は急に袴羽織にて彼旅館へ赴き中の口に案内を乞ば此時取次の役人は藤代要人成しが如何にも横柄に何用にやと問ば庄藏三郎兵衞の兩人は手を突私共は紅屋庄藏大和屋三郎兵衞と申て當町の者なり何卒急速に常樂院樣に御目通り願ひ相伺ひ度儀ありて推參仕れり此段御取次下さるべしと慇懃に相述れば藤代要人は承知し中の口に控させ此趣きを常樂院へ申し通じければ天忠和尚は偖は紅屋等が何か六かしき事を申越たかと伊賀亮へ此由を談ずれば伊賀亮打點頭夫こそ表札幕などの事にて來りしならん返答の次第は斯々と委細に常樂院へ差圖したりける 第十七回  斯て常樂院は伊賀亮の内意を請徐々と出で來り彼庄藏三郎兵衞の兩人に對面するに兩人は口を揃て申す樣何とも恐入り候事ながら貴院先達て仰聞られ候には聖護院宮樣の御配下にて天一坊樣の御旅館とばかり故庄藏御世話申三郎兵衞の明店御用立差上候ひしに只今御玄關を拜見仕つるに徳川天一坊樣御旅館との御表札あり又御玄關には葵御紋の御幕を張せられしが右樣の儀ならば前以て私共へお話の有べき筈なり若し此事町奉行所より御沙汰あらば貸主三郎兵衞は勿論世話人の庄藏までの難儀なり何卒右の表札と御玄關なる御紋付のお幕はお取外しを願ひ候といふに常樂院は兩人の言葉を聞て打笑乍ら申けるは成程仔細を知ねば驚くも無理ならず然ども御表札と御紋付の幕を暫時なりとも取外す儀は叶ひ難し其故は聖護院宮樣御配下天一坊樣御身分は當將軍吉宗公の未だ紀州公御部屋住の時分女中に御儲けの若君にて此度江戸表へ御下向あり御親子御對顏の上は大方は西の丸へ直らせらるべし左樣に輕からぬ御身分にて徳川は御苗字なり又葵は御定紋なり其方輩が少しも案じるには及ばず若も町奉行より彼是を申出ば此方へ役人を遣はすべし屹度申渡すべき筋も有其方共も落度には毛頭相成ず氣遣ひ無用なり何分無禮の無樣に致すべしと云渡しければ兩人は是を聞て肝を潰し將軍の御落胤との事なれば少こし安堵しけれども後々の咎を恐れ早速名主組合へ右の段を屆け夫より町奉行の御月番松平日向守殿御役宅へ此段を訴へける是に依て東町奉行鈴木飛騨守殿へも御相談となり是より御城代堀田相模守殿へ御屆に相成ば御城代は玉造口の御加番植村土佐守殿京橋口の御加番戸田大隅守殿へも御相談となりしが先年松平長七郎殿の例もあり迂濶には取計ひ難し先々町奉行所へ呼寄篤と相調べ申べしと相談一決し御月番なれば西町奉行松平日向守殿は組與力堀十左衞門片岡逸平の兩人を渡邊橋の天一坊の旅館へ遣はさる兩人は玄關より案内に及べば取次は遠藤東次右衞門なり出て挨拶に及ぶに兩人の與力の申には我々は西町奉行松平日向守組與力なるが天一坊殿に御重役御意得たし少々御伺ひ申度儀ありと述ぶ取次の遠藤東次右衞門は早速奧へ斯と通ぜんと先兩人を使者の間へ請じ暫く御待有べしと控へさせける間毎々々の立派に兩人も密かに肝を潰し居しが頓て年頃は三十八九にて色白く丈高く中肉にて人品宜しき男の黒羽二重の小袖に葵の御紋を付下には淺黄無垢を着し茶宇の袴を靜々と鳴して出來るは是なん赤川大膳なり頓て座に就て申樣拙者は徳川天一坊殿家來赤川大膳と申者なり何等の御用向にて參られしと尋ければ與力等は平伏して私し共は當月番町奉行松平日向守組與力堀十左衞門片岡逸平なり奉行日向守申付には天一坊樣へ日向守御目通り致し直に御伺ひ申度儀御座候得ば明日御役宅迄天一坊樣に御入來ある樣との趣きなりと述ければ大膳は篤と聞濟し其段は一應伺ひの上御返事に及び申べしと座を立て奧へ入しが暫く有て出來り兩人に向ひ御口上の趣き上へ伺ひしに御意には町奉行の役宅は非人科人の出入致し穢はしき場所の由左樣の不淨なる屋敷へは予は參る身ならず用事と有ば日向守殿に此方へ來られよとの御意なれば此段日向守殿へ御達し下されと言捨て奧へぞ入たり兩人は手持無沙汰據ころなく立歸り右の次第を日向守へ申聞れば此は等閑ならぬ事なりとて又も御城代堀田相摸守殿へ申上らるれば左樣の儀ならば是非なし御城代屋敷へ呼寄對面せんと再び堀片岡の兩人を以て御城代堀田相摸守殿屋敷へ明日天一坊殿入せられ候樣にと申入ける此度は異儀なく承知の趣きの返答あり依て日向守殿には與力同心へ申付る樣天一樣定めし明日は乘物なるべし然ど御城代の御門前にて下乘致さすべし若も下乘なき時は屹度制止に及ぶべしと嚴重にこそ申渡し翌を遲しと待れける頃は享保十一丙午年四月十一日天一坊は供揃ひして御城代の屋敷へ赴むく其行列には先に白木の長持二棹萌黄純子に葵御紋付の油箪を掛け宰領二人づつ跡より麻上下にて股立取たる侍ひ一人是は御長持預りの役なり續いて金御紋の先箱二ツ黒羽織の徒士八人煤竹羅紗の袋に白く葵の御紋を切貫し打物を持せ陸尺十人駕籠の左右に諏訪右門本多源右衞門高間大膳同じく權内藤代要人遠藤東次右衞門等また金御紋の跡箱二ツ簑箱一ツ爪折傘には黒天鵞絨に紫の化粧紐を懸銀拵への茶辨當合羽籠兩掛三箇跡より徒士四人朱網代の駕籠侍ひ四人打物を持せ常樂院天忠和尚引續いて同じ供立にて黒叩き十文字の鎗を持せしは山内伊賀亮なり其次にも同じ供立に鳥毛の鎗を持せしは藤井左京なり少し離れて白黒の摘毛の鎗を眞先に押立麻上下にて馬上なるは赤川大膳にて今日の御供頭たり右の同勢堂々として渡邊橋の旅館を立出下に〳〵と制しをなし御城代の屋敷を指て來りければ道筋は見物山をなして夥だしく既に御城代屋敷へ到り乘物を玄關へ横付にせん氣色を見るより今日出役の與力駈來る是ぞ島秀之助といふ者なり大音上て下乘々々と制せしが更に聞ぬ風して尚も門内へ舁込んとす此時島秀之助駈寄天一坊の乘物の棒鼻へ手を掛て押戻し假令何樣なる御身分たりとも此所にて御下乘あるべし未だ公儀より御達し無うちは御城代の御門内打乘決して相成申さず是非御下乘と制して止ざれば然ばとて餘儀なく門外にて下乘し玄關へこそは打通りぬ 島秀之助が今日の振舞後に關東へ聞え器量格別の者なりとて元文三年三月京都町奉行を仰付られ島長門守と言しは此人なりし同五年江戸町奉行となり延享三年寅年免ぜらる 此時天一坊の裝束には鼠琥珀に紅裏付たる袷小袖の下には白無垢を重ねて山吹色の素絹を着し紫斜子の指貫を帶き蜀紅錦の袈裟を掛け金作り鳥頭の太刀を帶し手には金地の中啓を握り爪折傘を差掛させ沓しと〳〵と踏鳴し靜々とぞ歩行ける附從がふ小姓の面々には麻上下の股立を取て左右を守護しける引續いて常樂院天忠和尚は紫の衣に白地の袈裟を掛け殊勝げに手に念珠を携へて相隨ひ山内伊賀亮には黒羽二重の袷小袖に柿染の長上下その外赤川大膳藤井左京皆々麻上下にて續て隨ひ來る其行粧は威風堂々として四邊を拂ひ目覺しくも又勇々敷ぞ見えたりける斯て玄關に到れば取次の役人兩人下座敷まで出迎へ案内して廣書院へ通せしを見るに上段には簾を下し中には二疊臺の上に錦の褥を敷て座を設けたり引れて此處へ着座すれば左右には常樂院天忠山内赤川藤井等の面々威儀を正して座を占たり 第十八回  大坂御城代堀田相摸守殿の屋敷へ天一坊を請し書院上段の下段に御城代相摸守殿を初として加番には戸田大隅守殿同植村土佐守殿町奉行には松平日向守殿鈴木飛騨守殿大番頭松平采女正殿設樂河内守殿御目附御番衆列座し縁側には與力十人同心二十人出役致しいと嚴重に構へたり時に上段の簾をきり〳〵と卷上れば御城代堀田相摸守殿平伏致され少し頭を上て恐れ乍ら今般如何なる事ゆゑ御上坂町奉行へ御屆もなく理不盡に御紋付の御幕を御旅館へ張せられ町家には御旅宿相成候や剩さへ御苗字の表札を建させ給ふ事不審に存じ奉る此段伺ひ申さん爲今日御招き申したり御身分の義明かに仰聞せられたしとぞ相述らる時に天一坊言葉を柔げ相摸殿よく承はられよ徳川は予が本性ゆゑ名乘申す又葵も予が定紋なる故用ゆる迄なり何の不審か有べきとの詞を聞より相摸守殿は恐ながら左樣の仰聞らるゝ計にては會得も仕つり難し右には其御因縁も候はんが其を委敷仰聞られ下されたしといふ其時伊賀亮少しく席を進み相摸守殿に向ひ相摸守には上の御身分を不審せらるゝ御樣子是は尤も千萬なり御筋目の儀は委敷此伊賀より御聽せ申べし抑々天一樣御身分と申せば當上樣未だ御弱年にて紀州表御家老加納將監方に御部屋住にて渡らせ給ひ徳太郎信房君と申上し折柄將監妻が腰元の澤の井と申女中に御不愍掛させられ澤の井殿御胤を宿し奉つり御形見等を頂戴し將監方を暇を取生國は佐渡なれば則ち佐州へ老母諸共に立歸りしが其後澤の井殿には若君を生奉つり産後肥立兼相果られ其後は老母の手にて御養育申せしが右の老母病死の砌り若君をば同國相川郡尾島村淨覺院と申す寺の門前に御證據の品を相添捨子として有しを是なる天忠淨覺院住職の砌り拾ひ上て御養育申上し處間もなく天忠には美濃國各務郡谷汲郷長洞村常樂院へ轉住致し候に付若君をも伴ひ奉つれり依て御生長の土地は美濃國にて候此度受戒得道なし奉つり常樂院の後住にも直し申べくと存じ候得ども正しく當將軍の御落胤たるを知つゝ出家になし奉らんは勿體なき儀に付今度我々守護し奉つり江戸表へ御供仕つるに就ては一度江戸表へ御下りの上は二度京坂の御見物も思召に任せられざるべしと依て只今の内京坂御遊覽の爲當表へは御出遊されしなり委細は斯の如し相摸殿にも是にて疑念有べからずと辯舌滔々として水の流るゝ如に述たり是を聞居る諸役人御城代を始めとし各々顏を見合せ誰有て一言申出る者なく如何にも尤もの事と思ふ氣色なり此時御城代相摸守殿申さるゝ樣は成程段々の御申立委細承知せり併し夫には慥に御落胤たるの御證據を拜見願ひたしと申さる依て伊賀亮は天一坊に向ひ御城代相摸守より御證據拜見の願ひあり如何仕まつらんと云に天一坊は願の趣き聞屆けたり拜見致させよとの事なり則ち赤川大膳御長持を明て内より白木の箱と黒塗の箱とを取出し伊賀亮が前へ差出す時に伊賀亮は天一坊に默禮し恭しく件の箱の紐を解中より御墨附と御短刀とを取出し相摸殿率拜見と差付れば御城代初め町奉行に至る迄各々再拜し一人々々に拜見相濟む是紛もなき正眞の御直筆と御短刀なれば一同に驚き入る是に於て疑心晴相摸守殿には伊賀亮に向ひ斯確なる御證據の御座ある上は將軍の御落胤に相違なく渡らせ給へり此段早速江戸表へ申達し御老中の返事を得し上此方より申上べし先夫れ迄は當表に御逗留緩々御遊覽有べき樣言上せらるべし御證據の品々は先御納下さるべしと伊賀亮へ返しぬ是より種々饗應に及び其日の八つ過に御歸館を觸ぬ此度は相摸守殿には玄關式臺迄御見送り町奉行は下座敷へ罷出で表門を一文字に推開けば天一坊は悠然と乘物の儘門を出るや否や下に〳〵の制止の聲々滯ほりなく渡邊橋の旅館にこそ歸りける今は誰憚る者はなく幕は玄關へ閃き表札は雲にも屆くべく恰も旭の昇るが如き勢ひなれば町役人どもは晝夜相詰いと嚴重の欵待なり扨御城代には御墨附の寫し并びに御短刀の寸法拵へ迄委敷認め委細を御月番の御老中へ宛急飛を差立らる爰に又天一坊の旅館には山内伊賀亮常樂院赤川大膳藤井左京等尚も密談に及び大坂は餘程に富地なり此處にて用金を集めんと評議に及び即ち紅屋庄藏大和屋三郎兵衞の兩人を招き帶刀を許し扨申談ずる樣は天一坊樣此度御城代の御面會も相濟たれば近々江戸表よりの御下知次第江府へ御下り有て將軍へ御對顏相濟ば西の御丸へ直られ給に相違なし依て兩人より金三百兩づつ御用金を差出すに於ては返金は申に及ばず御褒美として知行百石づつ下し置れる樣拙者どもが屹度取り計ひ遣すべし若し御家來に御取立を望まずば永代倉元役を周旋すべし依て千兩は千石の御墨附と御引替に下し置るべしと語らうに兩人とも昨日の動靜に安堵しければこの事を所々へ取持たれば其を聞傳へて申込者は鹿島屋兵助鴻池善右衞門角屋與兵衞天王寺屋儀兵衞襖屋三右衞門播磨屋五兵衞等を初として我先にと金子を持參し少しも早く御用立る者は知行多く下さるとて毎日々々紅屋方へ取次を頼み來る有徳の町人百姓又は醫師など迄思ひ〳〵に五百兩千兩と持參する者引も切ず其金高日ならずして八萬五千兩に及びければ一同は先是にて差向の賄ひ方には不自由無し此上案じらるゝは江戸表の御沙汰ばかり今や〳〵と相待ける 第十九回  扨も大坂御城代の早打程なく江戸へ到着し御月番御老中松平伊豆守殿御役宅へ書状を差出せば御同役松平左京太夫殿酒井讃岐守殿を始め自餘の御役人列座の席にて伊豆守殿大坂御城代よりの書面の儀を御相談あり何れも慥なる證據と有上は大切の儀なり宜しく上聞に達し御覺悟有せらるゝ事成ば急ぎ當地へ御下り申し其上何樣とも思召に任せ然るべしと評議一決しけるが此儀を上へ伺ふには餘人にては宜からず兼々御懇命を蒙る石川近江守然るべしとて近江守を招かれ委細申し含め御機嫌を見合せ伺ひ申べしとのことにて先夫迄は大坂の早打は留置との趣きなり近江守は甚だ迷惑の儀なれども御重役の申付是非なく御機嫌の宜き時節を待居たり或日將軍家には御庭へ成せられ何氣なく植木など御覽遊ばし御機嫌の麗く見ゆれば近江守は御小姓衆へ目配せし其座を退ぞけ獨り御側へ進寄聲を潜て大坂より早打の次第を伺ひたれば甚だ御赤面の體にて知ぬ〳〵との上意なれば推返して伺ひけるに成程少し心當りはあり書付を遣はせし事ありとの上意なれば近江守は御答の趣き早速松平伊豆守殿へ申通じければ又々御役人方御評議となり御連名にて返翰を遣されたり其文は先達て仰越れ候天一坊殿の儀石川近江守を以て御内意伺ひし處上樣には御覺悟有せらるゝとの仰なり隨分粗略なく御取計ひ有べく候尚御機嫌を見合せ追て申達すべしとの返翰なり斯樣に江戸表より粗略にすべからずとの儀なれば御城代の下知として俄に天一坊の旅官を前後左右に竹矢來を結び前後に箱番所を取建四方の道筋へは與力同心等晝夜出役して往來の旅人馬駕籠は乘打を禁じ頭巾頬冠りをも制し嚴重に警固せり天一坊方にては此樣子を見て先々江戸表の首尾も宜しき事と見えたりとて各々悦び勇み居たりけり 第二十回  去程に御城代より天一坊の旅館を斯く嚴重に警固有ければ天一坊伊賀亮大膳左京常樂院等の五人は一室に打寄事大方は成就せりと悦び然ば此上は近々の内當所を引上出立し京都に赴き諸司代にも威勢を示し其より江戸表へ下る可と相談一決せしが未だ御家來不足なり大坂にて召抱んと夫々へ申付此度新規に抱たる者共には米屋甚助事石黒善太夫筆屋三右衞門事福島彌右衞門町方住居の手習師匠矢島主計辰巳屋石右衞門番頭三次事木下新助伊丹屋十藏事澤邊十藏酒屋長右衞門事松倉長右衞門町醫師高岡玄純酒屋新右衞門事上國三九郎鎗術指南の浪人近松源八上總屋五郎兵衞事相良傳九郎と各々改名させ都合十人の者を召抱へ先是にて可なり間に合べし然らば片時も早く京都へ立越べしと此旨を御城代へ屆ける使者は赤川大膳是を勤む其節の口上には近々天一坊京都御見物の思召あれば御上京遊ばすに付當表の御旅館御引拂ひ成べくに付此段お達しに及ぶとの趣きなり夫と聞より大坂の役人中は疫病神を追拂ふが如くに悦び片時も早く立退かせんと内々囁やきけるとなり斯て天一坊の方にては先京都の御旅館の見立役として赤川大膳は五六日先へ立て上京し京中の明家を相尋ねしに三條通りの錢屋四郎右衞門方に屈竟の明店有を聞出し早速同人方へ到り掛合樣此度聖護院の宮御配下天一坊樣御上京に付拙者御旅館展檢の爲上京し所々聞合せしに貴所方明店然るべしと申事なり何卒御上京御逗留中借用致し度との旨なりしが四郎右衞門は異儀なく承知しければ同人の口入にて直樣金銀を吝まず大工泥工を雇ひ俄に假玄關を拵らへ晝夜の別なく急ぎ修復を加へ障子唐紙疊まで出來に及べば此旨飛脚を以て大坂へ申越ば然ば急々上京すべし尤とも此度は大坂表へ繰込の節より一際目立樣にすべしと伊賀亮は萬端に心を配り新規召抱の家來へも夫々役割申付用意も荒増に屆きたれば愈々明日の出立と相定め伊賀亮常樂院等の連名にて大膳方へ書翰を以て彌々明十日大坂表御出立明後十一日京都御着の思召なれば其用意有べしと認め送れり頃は享保十一丙午年六月十日の早天に大坂渡邊橋の旅館を出立す其行列以前に倍して行粧善美を粧ひ道中滯りなく十一日晝過に京都四條通りの旅館へぞ着なせり則ち大坂の如くに入口玄關へは紫き縮緬の葵の紋の幕を張渡し門前へは大きなる表札を立置ける錢屋四郎右衞門は是を見て大に驚き赤川大膳に對面して仔細を問に天一坊樣は當將軍の御落胤なれば徳川の表札御紋付の幕も更に憚る儀にあらずと彼紅屋等に語りし如く空嘯ふいて告ければ四郎右衞門は今更詮方なく迷惑が無ればよしと心中に思ふのみ乍ら捨置ては無念ならんと此段奉行所へ町役人同道にて訴へ出其趣は此度錢屋四郎右衞門方へ聖護院宮樣の御配下天一坊樣御旅舍の儀明家の儀なれば貸申候に昨夜御到着の後玄關へは御紋付きの御幕を張剩さへ徳川天一坊旅館との表札を差出され候故其仔細承はり候に天一坊樣には當將軍家の御落胤にて徳川は御本姓葵は御定紋との趣きなり依て此段念の爲御屆申上るとの趣きを書面にし訴へ出町奉行所にては是ぞ大坂に噂の有者併し理不盡の振舞なりとて早速役人を出張せしめ速かに召連參るべし仰せ畏り候とて手附の與力兩人を錢屋方へつかはさる兩人の與力は旅館に到り見るに嚴重なる有樣なれば粗忽の事もならずと先玄關に案内を乞重役に對面の儀を申入取次は斯と奧へ通じければ頓て山内伊賀亮繼上下にて出來り與力に向ひ申す樣各々には何用の有て參られしやといふに答て餘の儀に非ず譬何樣の御身分なりとも町旅館なさるゝ節は當所支配の奉行へ一應御屆有べき筈なるに其儀もなく剩さへ徳川の御表札に御紋付の御幕は其意を得ず依て町奉行所へ御同道申さんため我々兩人參て候なりと聞て伊賀亮は態と氣色を變へ夫は甚だ心得ざる口上なり各々には如何樣の身分にて恐れ多も天一坊樣を奉行所へ召連奉らん抔と上へ對し容易ならざる過言無禮とや言ん緩怠とや言ん言語に絶せし口上かな忝なくも天一坊樣には當將軍家の御落胤にて既に大坂城代より江戸表へも上申に相成御左右次第江戸へ御下向の御積其間に京都御遊覽の爲め上京此段町奉行にも心得有べき筈不屆至極の使者今一言申さばと威丈高に遣込其上汝知らずや町奉行所は科人罪人の出入する不淨の場所なり左樣なる穢れし場所へ御成を願ふは不埓千萬なり伺ひ度儀あらば奉行が自身に參上すべき筈なり今般の儀は役儀に免じ御許しあるべし此趣き早々罷歸り奉行に申達すべしと云捨て伊賀亮はツと奧へ入ば兩人は散々に恥しめられ凄々と御役宅へ歸り奉行へ此由を申せば其は捨置難しと早速諸司代へ到り牧野丹波守殿へ此段申上るに然ば諸司代屋敷へ相招ぎ吟味を遂相違無に於ては當表よりも江戸へ注進すべしと評定一決し牧野丹波守殿より使者を以て招がれける此方は思ふ壺成ば此度は異儀無參るべしと返答し諸司代の目を驚かし呉んものと行列を粧ひ諸司代屋敷へ赴むきしかば牧野丹波守殿對面有て身分より御證據の品の拜見もありしに全く相違なしと見屆け京都よりも又此段を江戸表御月番御老中へ御屆に相成る先達て御城代堀田相摸守殿よりの早打上聞に達せしに御覺悟有せらるゝの上意なれば京都に於ても麁略無樣計らひ申さるべしとの事故然ば其儘に差置れずと俄に組與力等出張せしめ晝夜とも嚴重に固めさせける此方にては愈々上首尾と打悦び又も近邊の有徳なる者どもを進め用金をば集めける京都にても五萬五千兩程集まり京大坂にて都合十五萬兩餘の大金と成ば最早金子は不足なし此勢に乘じて江戸へ押下りいよ〳〵大事を計らはんは如何にと相談有しに山内伊賀亮進出て云やう京坂は荒増仕濟したれど江戸表には諸役人ども多く是迄とは違ひ先老中には智慧伊豆守あり町奉行には名代の大岡越前など有ば容易には事を爲難し依て一先江戸表へ御旅館を修繕篤と動靜見計ひ其上にて御下り有て然るべし其間には江戸表の御沙汰も相分り申さん變に應じて事を計らはざれば成就の程計難しといふに然ば江戸表に旅館を構ゆる手續に掛らんとて常樂院の別懇に南藏院と云江戸芝田町に修驗者あれば此者方へ常樂院の添状を持せ本多源右衞門に金子を渡し先江戸表へ下しける源右衞門は道中を急ぎ江戸芝田町南藏院方へ着し常樂院の手紙を渡し其夜は口上にて委細咄に及べば南藏院は篤と承知し早速懇意なる芝田町二丁目の阿波屋吉兵衞品川宿の河内屋與兵衞本石町二丁目の松屋佐四郎下鎌田村の長谷川卯兵衞兩國米澤町の鼈甲屋喜助等の五人を語らひ品川宿近江屋儀右衞門の地面芝高輪八山に有を買取て普請にぞ取掛りける表門玄關使者の間大書院小書院居間其外諸役所長屋等迄殘る所なく入用を厭はず晝夜を掛て急ぐ程に僅かに五十日許りにて荒増出來上り建具屋疊張付諸造作庭廻りまで全く普請は成就して壯嚴美々敷調ひけり依て本多源右衞門と南藏院の兩名にて普請出來せし旨を京都へ申遣はしければ天一坊は伊賀亮大膳等の五人と密談を遂いよ〳〵江戸の普請成就の上は片時も早く彼地へ下り變に應じ機に臨み施す謀計は幾計もあるべし首尾能御目見さへ濟ば最早氣遣ひなし然ば發足有べしと江戸下向の用意にこそは掛りける 第二十一回  斯て江戸高輪の旅館出來の由書状到來せしかば一同に評議の上早々江戸下向と決し用意も既に調ひしかば諸司代牧野丹波守殿へ使者を以て此段を相屆ける頃は享保十一午年九月廿日天一坊が京都出立の行列は先供は例の如く赤川大膳と藤井左京の兩人一日代りの積りにて其供方には徒士若黨四人づつ長棒の駕籠に陸尺八人跡箱二人鎗長柄傘杖草履取兩掛合羽籠等なり其跡は天一坊の同勢にて眞先なる白木の長持には葵の御紋を染出したる萌黄緞子の油箪を掛て二棹宰領四人づつ次に黒塗に金紋付紫きの化粧紐掛たる先箱二ツ徒士十人次に黒天鵞絨に白く御紋を切付し袋の打物栗色網代の輿物には陸尺十二人近習の侍ひ左右に五人づつ跡箱二ツ是も同く黒塗金紋付紫きの化粧紐を掛たり續いて簑箱一ツ朱の爪折傘は天鵞絨の袋に入紫の化粧紐を掛たり引馬一疋銀拵への茶辨當には高岡玄純付添ふ其餘は合羽籠兩掛等なり繼いて朱塗に十六葉の菊の紋を付紫の化粧紐を掛たる先箱二ツ徒士五人打物を先に立朱網代の乘物には常樂院天忠和尚跡は四人の徒士若黨長棒の駕籠には山内伊賀亮外に乘物十六挺駄荷物十七荷桐棒駕籠五挺都合上下二百六十四人の同勢にて道中筋は下に〳〵と制止聲を懸させ目を驚かすばかりいと勇ましく出立し既に三河國岡崎の宿へぞ着しける此岡崎の城下は上の本陣下の本陣迚二軒あり天一坊は上の本陣へ旅宿を取表に彼の大表札に徳川天一坊旅宿と書しを押立玄關には紫き縮緬の幕を張威儀嚴重に構へたり此時下の本陣には播州姫路の城主酒井雅樂頭殿歸國の折柄にて御旅宿なりしが雅樂頭殿上の本陣に天一坊旅宿の由を聞及び給ひ御家來に仰らるゝ樣兼々江戸表にも噂有し天一坊とやら此度下向と相見えたり此所にて出會ては面倒なり何卒行逢ぬ樣にしたしと思召御近習を召て其方密かに彼が旅宿の邊へ參り密々明日の出立の時間を聞合せ參るべしと申付らる近習は頓て上本陣の邊りへ立越便宜を窺がへば折節本陣より侍ひ一人出來りぬれば進み寄て天一坊樣には明日は御逗留なるや又は御發駕に相成やと問けるに彼の侍ひ答て天一坊樣には明日は當所に御逗留の積なりとぞ答へたり是は伊賀亮が兼ての工にて若も酒井家より明日の出立を聞合せて參るまじきにも非ず其時は逗留と答へよと下々迄申付置しに是は雅樂頭殿に油斷させ明朝途中にて行逢威光を見せんとの謀計なりしとぞ斯る巧のありとは夢にも知ず其言葉を實と思ひ早速立歸て雅樂頭殿へ此由を申上れば然ば明朝は未明彼に先立出立せん其用意致すべしと觸出されける然ば其夜何れも寢る者なく早も用意に及び寅の刻にも成ければ出立いたされ暗きに靜々と同勢を繰出さる天一坊方には山内伊賀亮が計ひにて忍びを入れ此樣子を承知して遠見を出し置雅樂頭殿出門有ば此方も出門に及ぶべしと悉く夜の内に支度を調へ今や〳〵と待居たり只今雅樂頭出門との知せに直此方も繰出せり酒井家は斯あらんとは少しも知ず行列嚴重に來懸る處此方は御墨附御短刀の長持を眞先に進ませ下に〳〵と制止を懸れば雅樂頭殿是を聞玉ひ驚かれしが今更跡へ引返さんも如何なり何とかせんと猶豫の内に最早御墨附の長持と行逢程に成たり此に至つて雅樂頭殿は據ころなく駕籠より下て控られ御墨附の通る間雅樂頭殿には頭を下て居給へり元來巧し事なれば天一坊の乘物も此日は此長持に引添て來り天一坊は駕籠の中より聲を懸酒井殿乘打御免と云捨て馳拔ければ思はずも雅樂頭殿には天一坊にまで下座をし給ふ此は無念なりと蹉跎なして怒給ひしが今更詮方も無りしとぞ假初にも十五萬石にて播州姫路の城主たる御身分が素性もいまだ慥ならぬ天一坊に下座有しは殘念と云も餘りあり天一坊は流石の酒井家さへ下座されしと態と言觸し其威勢濤の如くなれば東海道筋にて誰一人爭ふ者はなく揚々として下りけるは大膽不敵の振舞と云べし扨も享保十一午年九月廿日に京都を發足し威光列風の如く十三日の道中にて東海道を滯りなく十月二日に江戸芝高輪八山の旅館へ着せり玄關には例の御紋附の幕を張徳川天一坊殿旅館と墨黒に書し表札を押立たれば之を見る者扨こそ噂のある公方樣の御落胤の天一坊樣といふ御方なるぞ無禮せば咎も有んと恐れざる者もなく此段早くも町奉行大岡越前守殿の耳に入り彼所は當奉行支配の地なれば捨置難しと密々調べられし上この段御老中筆頭松平伊豆守殿へ御屆に及ばるれば早速御老中若年寄御相談の上先伊豆守殿御役宅へ相招き實否取糺しの上にて御落胤に相違なきに於ては速かに上聞に達し取計ひ方も有べしと評議一決し則ち松平伊豆守殿より公用人を以て八山なる旅館へ申遣しける趣きは此度天一坊樣御下向に付ては重役の者一統相伺ひ申度儀こそ有ば明日五ツ時伊豆守御役宅へ御出あらせられ度との口上を申入るれば頓て山内伊賀亮出會し再び出來り御申越の趣き伺ひし處明日伊豆守殿御屋敷へ入せられ候儀御承知の御返答なり其節萬端宜く伊豆殿に頼み入趣きなりとの挨拶なり扨翌朝になり八山にては行列を揃へ今日は先供として山内伊賀亮御墨附の長持を宰領す供には常樂院大膳左京等皆々附隨がふ程なく伊豆守殿御役宅に到るに開門あれば天一坊の乘物は玄關へ横付にしたり案内の公用人に引れ廣書院へ通り上段なる設の席に着す常樂院伊賀亮等は次の間へ着座す又此方に控へらるゝ御役人方には御老中筆頭松平伊豆守殿を始め松平左近將監酒井讃岐守戸田山城守水野和泉守若年寄には水野壹岐守本多伊豫守太田備中守松平左京太夫御側御用人には石川近江守寺社奉行には黒田豐前守小出信濃守土岐丹後守井上河内守大目附には松平相摸守奧津能登守上田周防守有馬出羽守町奉行には大岡越前守諏訪美濃守御勘定奉行には駒木根肥前守筧播磨守久松豐前守稻生下野守御目附には野々山市十郎松田勘解由徳山五兵衞等の諸御役人輝星の如く列座せらる此時松平伊豆守殿進出て申されけるは此度天一坊殿關東下向に付今日御役人ども御對面を願ふとの趣なり此時隔の襖を押明れば天一坊威儀を繕ろひ然も鷹揚に此方を見廻せば一同平伏ある時に伊豆守殿は伊賀亮に向はれ申さるゝ樣天一坊殿御出生の地并に御成長の所は何の地なるやと尋らるゝに此時常樂院は懷中より書付を取出し御身分の儀は委細是に相認め御座候と差出す伊豆殿請取て開き見らるゝに佐州相川郡尾島村淨覺院の門前に御墨附に御短刀相添て捨是有しを淨覺院先住天道是を拾ひ揚て弟子とし參らせし處天道先年遷化の後天忠即ち住職仕つり其砌に天一坊樣をも附屬致され後年御世に出し參らすべしとの遺言なれば天忠御養育なし參らせし處其後天忠美濃國谷汲郷長洞村常樂院へ轉住せしに付御同道申上同院にて御成長に御座候と書認めたり伊豆殿見終り玉ひ御書面にて先御誕生後御成長迄は分りたれども未だ如何なる御腹に御出生ありしや不分明なり此儀は如何にと問れたり 第二十二回  此時山内伊賀亮座を進申樣天一坊樣御身分の儀は只今の書付にて委しく御承知ならんが御腹の儀御不審御尤ともに存候されば拙者より委細申上べし抑當將軍樣紀州和歌山加納將監方に御部屋住にて渡らせ給ふ節將監妻の召使ふ腰元澤の井と申婦女の上樣御情懸させられ御胤を宿し奉りし處御部屋住の儀成ば後々召出さるべしとの御約束にて夫迄は何れへ成とも身を寄時節を待べしとの上意にて御墨附御短刀を後の證據として下し置れしが澤の井儀は元佐渡出生の者故老母諸共生國佐州へ歸り間もなく御安産なりしが産後の血暈にて肥立かね澤の井樣には相果られ其後は老母の手にて養育申上しが又候老母も病氣にて若君の御養育相屆かず即はち淨覺院の門前に捨子と致し右老母も死去致したるなり淨覺院先住天道存命中の遺言斯の如し依て常樂院初め我々御守護申上何卒御世に出し奉らんと渺々御供申上候なりと辯舌水の流るゝ如く滔々と申述ければ松平伊豆守殿初め御役人方いづれも詞は無く只點頭ばかりなりしが然ば御身分の儀は委敷相分りたり此上は御證據の品々拜見致し度と申されければ伊賀亮は天一坊に向ひ伊豆殿御證據の御品拜見を相願はれ候如何計ひ申さんといふに天一坊は許すと計り言葉少なに言放せば大膳は鍵取出し二品を取出し三寶に載持出伊豆守殿の前に差置にぞ伊豆守殿初め重役の面々各々手水して先御墨附を拜見に及ばる其文面は例の如く 其方懷妊の由我等血筋に相違是なし若男子出生に於ては時節を以て呼出すべし女子たらば其方の勝手に致すべし後日證據の爲め我等身に添大切に致し候短刀相添遣し置者也依て如件 寛永二申年十月 徳太郎信房 澤の井女へ とあり御直筆に相違なければ面々恐れ入り拜見致されまた御短刀をも一見するに紛ふ方なき御品なれば御老中若年寄には愈々將軍の御落胤に相違なしと承伏し伊豆守殿則ち伊賀亮を以て天一坊へ申上られける樣は先刻より重役ども一同御身の上委細承知仕り斯の如く慥なる御證據ある上は何をか疑ひ申べき將軍の若君たるに相違なく存じ奉る此上は一同篤と相談仕り近々に御親子御對顏に相成候樣取計ひ仕るべし夫迄は八山御旅館に御座成れ候樣願ひ奉ると言上に及ばる是にて御席相濟伊豆守殿より種々御饗應有て其後歸館を相觸らる此度は玄關迄伊豆守殿初め御役人殘らず見送りなればいとゞ威光は彌増たり是にて愈々謀計成就せりと一同安堵の思ひをなしにけり扨又伊豆守殿御役宅には天一坊歸館の跡にて御老中には伊豆守殿松平左近將監殿酒井讃岐守殿戸田山城守殿水野和泉守殿若年寄衆は水野壹岐守殿本多伊豫守殿太田備中守殿松平左京太夫殿等御相談の上にて御側御用御取次を以て申上られけるは先達て大坂表より御屆に相成りし天一坊樣御事今般芝八山御旅館へ御到着に付今日伊豆守御役宅にて諸役人一同恐れ乍ら御身分の御調べ申上げ御證據の品々拜見仕りしに御血筋に相違御座なくと存じ奉り候今日は御歸館なさせ奉りしが何れ近日吉日を撰び御親子御對顏の儀計らひ奉るべく就ては御日限の儀御沙汰願ひ奉るとの儀なれば將軍吉宗公には是を聞し召れ限りなき御祝着にて片時も早く逢度との上意なりし御親子の御間柄また別段の御事なり扨も大岡越前守殿には數寄屋橋の御役宅へ歸り獨熟々勘考有に天一坊の相貌不審千萬なりと思はるれば翌朝未明伊豆殿御役宅へ參られ御逢を願はれしが此日も伊豆殿の御役宅には御内談有て松平左近將監殿酒井讃岐守殿御出なり其席へ越前守を招かれける時に越前守低頭して恐れながら越前守申上候は昨日御逢これ有りし天一坊殿の儀御評議如何候や伺ひ度參上せりと聞れ伊豆守殿の仰せに天一坊殿の御身分の儀昨日拙者どもにも御落胤に相違無と存ずれば依て上聞に達せしに上にも御覺悟有らせられ速かに逢度との上意なれば近々吉日を撰び御對顏の儀取計ひ其上は上の思召に任すべきに決せりとの事なり此時まで平伏せられし越前守頭を少し上げて伊豆守殿に向ひ御重役方の斯く御評議御決定に相成候を越前斯樣に申上候は甚だ恐入候へ共少々思付候仔細御座候是を申述ざるも不忠と存候此儀私事には候はず天下の御爲君への忠義にも御座あるべく依て包まず言上仕り候越前儀未熟ながら幼少の時より人相を聊か相學び候故昨日間は隔ち候へ共彼の方を篤と拜見候處御面相甚だ宜しからず第一に目と頬との間に凶相現はる是は存外の謀計を企つる相にて又眼中殺伐の氣あり是は人を害したる相貌なり且眼中に赤き筋ありて此筋瞳を貫くは劔難の相にて三十日立ざる内に刃に掛り相果るの相なり斯る不徳の凶相にして將軍の御子樣とは存じ奉り難し越前守が思考には御品は實なれど御當人に於ては何とも怪しく存ずるなり愚案は御目鏡には背き候へども何卒此御身の上は今一應越前へ吟味を相許し下されたし越前篤と相調べ其上にて御親子御對顏の儀御取計ひ有るとも遲かるまじくと存ず此段願ひ奉るとの趣きなり伊豆守殿斯と聞給ふより忽ち怒り面に顯れ越前守を白眼へ越前只今の申條過言なり昨日重役ども並に諸役人一同相調べし御身分將軍の御落胤に相違なしと見極め上聞にも達したる儀を其方一人是を拒み贋者と申立慥なる證據もなく再吟味願ひ出るは拙者どもが調べを不行屆と申にや何分にも重役どもを蔑しろに致す仕方不屆至極なりと叱り玉へば越前守には少しも恐るゝ色なく全く越前自己の了簡を立んとて御重役を蔑しろに致すべきや此吟味の儀は御法に背き候とは苟くも越前御役をも相勤る身分なれば辨へ居候へども只々天下の御爲國家の大事と存じ聊か忠義と心得候へば何卒枉て御身分調の事一應越前へ御許し下されたしと押て願ひ申されける此時松平左近將監殿仰せらるには是越前其方は重役共の吟味を悖き再吟味を願ひ若將軍の御胤に相違なき時は其方如何致す所存にやと仰られければ越前守愼んで答らるゝ樣御意に候再吟味願の義は越前が身に替ての願ひに御座候へは萬一天一坊殿將軍の御子に相違なき時は越前が三千石の知行は元より家名斷絶切腹も覺悟なりと御答に及ばれける此時酒井讃岐守殿の仰には越前其方は飽まで拙者共を蔑しろにし押て再吟味願ふは其方の爲に宜しからぬぞ控られよと仰せらるれども假令身分は何樣に相成候とも苦しからず君への御爲天下の爲なり幾重にも再吟味の儀御許し下され度偏に願ひ奉と再三押て願はれければ伊豆殿散々に氣色を損ぜられ其方左程に再吟味致し度とあれば勝手にせよと立腹の體にて座をば立たまひたり是に依て御列座も皆々退參と相成りければ跡に越前守只一人殘て手持なき體なりしが外に詮すべもなくて凄々として御役宅を立ち去り歸宅せられしが忠義に凝なる所存を固め種々に思案を廻し如何にも天一坊怪敷振舞なれば是非とも再吟味せんものと思へど御重役方は取上られず此上は是非に及ばず假令此身は御咎を蒙るとも明朝は未明に登城に及び直々將軍家に願ひ奉るより外なしと思案を極め家來を呼び出され明朝は六時の御太鼓を相圖に登城致す間其用意いたすべしと云付けられたり 第廿三回  扨も松平伊豆守殿には大岡越前守の戻られし跡にて熟々と思案あるに越前定めし明朝は登城なし天一坊樣御身分再吟味の儀將軍へ直に願ひ出るも計り難し然ば此方も早く登城し越前に先を越申上置ざれば叶ふ可らずと是も明朝明六時のお太鼓に登城の用意を申付られたり既にして翌日御城のお太鼓六の刻限鼕々と鳴響けば松平伊豆守殿には登城門よりハヤ駕籠をぞ馳られけり又大岡越前守には同く六のお太鼓を相圖に是も御役宅を立出たり然るに伊豆守殿御役宅は西丸下なり越前守の御役宅は數寄屋橋御門内なれば其道筋も隔たれば伊豆守殿には越前守より少しく先に御登城あり御用取次は未だ登城なく御側衆の泊番高木伊勢守のみ相詰たり乃ち伊豆守殿芙蓉の間に於て高木伊勢守を召れ突然と尋ねらるゝは貴所には當時の役人中にて發明は誰れとの評判と存ぜらるゝやと尋らるゝに伊勢守は不思議の尋なりと當惑ながら暫く思案して答へられけるは御意に候當節御役人の中には豆州侯其許をこそ智慧伊豆と下々にては評判も致し御筆頭と申し其許樣に上越す御役人はこれ有まじとの評判に候と申さるゝに伊豆守殿是を聞かれいやとよ夫は差置外々の御役人にては誰が利口發明なる噂にやと仰せらる其時伊勢守參候外御役人にては町奉行越前など發明との評判に御座候やに承まはる旨を答らるゝに伊豆守殿點頭れ成程當節は越前を名奉行と人々噂を致すやに聞及べり然ど予は越前は嫌ひなり兎角に我意の振舞多く人を輕んずる氣色ありて甚だ心底に應ぜぬ者なりと申されける是は只今にも登城に及び若直願の取次等を申出るとも取次させまじと態と斯は其意を曉らせし言葉なるべし 扨又大岡越前守には明六のお太鼓を相圖に登城なされしが早伊豆守殿には登城ありて芙蓉の間に控給ひ伊勢守と何か物語りの樣子なれば越前守には高木伊勢守を密に招き語る樣は此度江戸表へ御下向有て芝八山の御旅館に在ます天一坊樣儀は一昨日松平伊豆守殿御役宅にて御身分調べあり御重役方は御相違なしとて近々御對顏の儀取計らはるゝ趣き拙者に於ては萬事其意を得ざる事と存ず其譯と申すは天一坊樣の御面相を拜するに目と頬の間に凶相顯はれ中々以て高貴の相貌にあらず拙者の勘考には御證據の品は實ならんが御當人は贋者なりと決したり依て天下の爲再吟味を重役方へ願ひしが早評議一決の由にて聞屆られず由々敷御大事ゆゑ君への御奉公再吟味の儀御許し下され候樣に直願仕り度何卒此段御取次下され度と思ひ込で申ける高木伊勢守も打聞て甚く驚きしが先刻の口上もあれば迷惑に思はれたり其故は越前守の願ひ言上に及べば御發明の將軍家御許も有べし然すれば伊豆守殿には不首尾と相なるべし當時此人に憎まれては勤役なり難しと思案し斯は大岡越前守が願ひ取次も御採用ひなき樣に言上するより外なしと思案を定め伊豆守殿の方へ向き目配せしつゝ越州御願の趣むき早速上聞に達し申さんと立て奧の方へ到り將軍の御前へ出て申上ける樣は恐れ乍ら言上仕り候此度御下向にて芝八山の御旅館に在ます天一坊樣御事は先達て伊豆守役宅へ御招き申上御身分篤と御調申上しに恐れながら君の御面部に其儘加之ならず御音聲迄も能似遊ばし瓜を二ツと申事且つ又御墨附御短刀も相違御座なく在せらるれば近々御親子御對顏の御儀式執計ひ申すべき段上聞に達し候處芝八山は町奉行の掛りなれば越前再吟味願度由此段伺ひ奉ると言上に及びければ將軍には聞し食れ天一は予に能似て居るとや音聲迄も其儘とな物の種は盜むも人種は盜まれずと世俗の諺さもあり爭はれぬ者かな早々天一に逢度との上意なり世の中の親の心は闇ならねど子を思ふ道に迷ふとか云ひて子を慈しむ親の心は上將軍より下非人乞食に至る迄替る事なき理りなり其時また上意に芝八山は町奉行の支配なりとて越前我意に募り吟味を願ふとな既に重役ども取調べ予が子に相違なきに極りしを一人彼是と申拒むは偏執の致す處か再吟味は天下の法に背く相成ぬと申せとの事なれば伊勢守は仰せ畏まり奉り候迚頓て芙蓉の間へ出來り上座に着越前上意なりと申渡さるゝに越前守には遙に引下りて平伏なす此時高木伊勢守申渡す樣は八山御旅館に居らせられ候天一坊身分越前我意に募り再吟味願の儀は已に重役ども篤と相調べ相違なきを一人彼是申拒むは重役を蔑しろに致す所行殊に再吟味は天下の大法に背く間相成ぬとの上意なりと嚴重にこそ申渡しける越前守は發とばかり御受を致され恐入て退出せらる跡より大目附土屋六郎兵衞下馬より駕籠に打乘御徒士目附御小人目附警固して越前守を數寄屋橋内の御役宅へ送られ土屋六郎兵衞より閉門を申渡し表門には封印し御徒士目附御小人目附ども晝夜嚴重に番をぞ致しける良藥は口に苦く忠言耳に逆ふの先言宜なるかな大岡越前守は忠義一圖に凝固まりて天一坊の身分再吟味の直願を致されしが輕からざる上意にて今は閉門の身となりけれど此事は中々打捨置難き大事なれば公用人平石次右衞門吉田三五郎池田大助の三人を招かれ申されけるは予は天一を贋者と思ひ定め再吟味の儀を重役へ願ひしが自己の言状を立んとて取上られず據ろなく今朝直願に及びしが是又御親子の御愛情に惹され給ひ筋違ひの事重役を蔑如し大法に背くとの趣きにて重き上意を蒙り予は閉門を仰付られしが一同とも神妙に致し居る樣申付くべしとの言葉に三人は平伏して御意の趣き委細承知仕れり實に月に浮雲の障り花に暴風の憂ひ天下の御爲忠義を思召ての再吟味の御願ひ御許しなきのみか剩さへ閉門を仰付られ候段は誠に是非もなき次第なり此上は何樣の御沙汰有んも計り難しと愁傷の體なれば越前守には此體を見られ澘々と落涙せられ此方はよき家來を持て滿悦に思ふなり三人の忠節心體見えて忝けなし去りながら我深き存意も有れば密かに申聞すべし近ふ〳〵と三人を側近くこそ進ませたり 第二十四回  其時越前守は平石次右衞門吉田三五郎池田大助の三人を膝元へ進ませ申されけるは其方共家の爲め思ひ呉る段忝けなく存るなり依て越前が心底を申聞すなり今越前不慮の儀に及び候へば明日にも御對顏仰せ出さるゝは必定なり萬一御對顏の後に贋者と相分るも最早取戻しなり難し然すれば第一天下の恥辱二ツには君への不忠なり依て越前は短慮の振舞致さず今宵計略を以て屋敷を忍び出んと思なり仔細は斯樣々々なり先次右衞門其方の老母病死なりと申僞り不淨門より出て小石川御館へ推參し今一應再吟味の儀を願ふ所存なり萬一小石川御屋形に於ても御取用ひなき時は越前が運命の盡る期なり其時予は含状を出して切腹すべし然有時は將軍にも何程御急ぎ遊ばすとも急ぎ御對顏は能ふまじ其内には天一坊の眞僞必ず相分り申べし依て今一應小石川御屋形へ此段を願ひ申さんと思ふなれば急ぎ其支度を致すべしと申付られける公用人等は早速古駕籠一挺古看板三ツ并びに帶三筋女の掛無垢等を用意なし日の暮をぞ相待ける扨夜も初更の頃に成しかば越前守は掛無垢を頭より冠りて彼古駕籠に身を潜むれば公用人三人は中間體に身を窶し外に入用の品々は駕籠の下へ敷込二人にて駕籠を舁き今一人は湯灌盥に杖を添て荷ひ不淨門へ向ひ屆ける樣は今日用人平石次右衞門老母儀病死致候依て只今菩提所へ送り申なり御門御通し下さるべしと斷りけるに當番の御小人目附は錠を明け駕籠を改め見るに如何さま女の掛無垢を冠りしは死人の體なれば相違なき由にて通しけるこれより數寄屋橋御門へも此段相斷りそれより御堀端通りを行鎌倉河岸まで來りたれば先此所にて駕籠を卸し主從四人ほツとばかり溜息を吐ながらも先々首尾よく僞り出しを喜び最早氣遣ひなしと爰にて越前守には麻上下を着用なし三人は何れも羽織袴に改め駕籠等は懇意の町人の家に預置小石川指て急ぎ行に夜は次第に更稍四ツ時と覺しき頃小石川御館には到りたり頓て御中の口へ掛りて案内を乞に取次出來れば越前守申さるには夜中甚だ恐入存ずれど天下の一大事に付越前推參仕つて候何卒中納言樣へ御目通の儀願上奉る旨を述らる取次は此段早速御奧へ申上ければ中納言綱條卿は先達てより御病氣なりしが追々御全快にて今日は中奧に移らせ給ひ御酒下されて御酒宴の最中なり中にも山野邊主税之助と云ふは年は未だ十七歳なれど家老職にて器量人に勝れしかば中納言樣の御意に入りて今夜も御席に召れ御酒頂戴の折から御取次の者右の通申上ければ中納言樣の御意に越前夜陰の推參何事なるか主税其方對面致し委細承まはり參るべしとの御意に山野邊主税之助は表へ出來り越前守に對面して申けるは拙者は山野邊主税之助と申する者なり越前殿には中納言樣へ御目通り御願の由然る所中納言樣には先達てより御所勞なり夜陰の御入來何樣の儀なるや御口上承まはる可との御意なりと叮嚀に相述ければ越前守頭を下扨申されけるは越前斯夜中をも省みず推參候は天下の御大事に付中納言樣へ御願ひ申上度儀御座有ての儀なり此段御披露頼み存ずるとぞ述られたり主税是を聞て尋常の儀ならんには主税及ばずながら承まはり申べきが國家の御大事を拙者如き若年者の承まはる可事覺束なし兎も角も中納言樣へ言上の上御挨拶すべし暫く御控へ有べしと會釋して奧へ入り綱條卿に申上げるは町奉行越前守に對面仕り候處天下の一大事出來に付夜中をも憚からず推參仕り候趣き若年の私承たまはらん事覺束なく存じ此段言上仕り候と申上らる中納言綱條卿聞し召深く驚かせ給ひ天下の一大事出來とは何事ならん夫は容易ならざる事なるべし越前を書院へ通すべし對面せんとの仰なり是に依て侍ひ中御廣書院へ案内せらる最早中納言樣には御書院に入せられ御寢衣の儘御着座遊ばさる越前守には敷居際に平伏せらる時に中納言樣には越前近ふ〳〵との御言葉に越前守は少し座を進み頭を下て申上らるゝ樣御恐れながら天下の御大事に付夜中をも省みず推參候段恐入奉り候御病中も厭せ給はず御目通仰付られ候段有難き仕合に存じ奉ると申上らる此時綱條卿には御褥を下られ給ひ天下の一大事たる儀を承たまはるに略服の段は甚だ恐れ有と病中の儀越前許し候へとの御意なりしと此時大岡越前守は恐入て言上に及ばれけるは定めて御承知も有せらるべきが此度八山御旅館へ御下向有し天一坊樣儀先達て伊豆守御役宅へ御招ぎ申し御身分調申せしに將軍の御落胤たるに相違無御證據の品も御座あれば近々御對面の御儀式有せらるべき間取計ひ申べしとの事に候然るに私聊か相學を心掛候に付き間も隔候へども伊豆守御役宅に於て天一坊樣御面部を竊に拜し奉りしに御目と頬の間に凶相あり此は存外なる工みあるの相にて又眼中に赤筋有て瞳を貫き候は劔難の相にて三十日以内に刄に掛るべき相もあり旁々斯る凶惡上將軍の若君たるの理あるべからず如何にも御證據の品は實なるべきが御當人に於ては贋者必定と見究め候依て重役共へ再吟味の儀度々申立候へども相許さず據ろなく今朝登城仕り高木伊勢守を以て言上に及び再吟味の儀直願仕りしが御親子の御愛情にや越前が願ひは御聞屆なきのみか重役を蔑しろに致候上再吟味は天下の御大法に背くとて重き上意の趣きにて越前閉門仰付られ既に切腹とも存じ候へ共若明日にも御對顏ある上萬一贋者にてもある時は取返し相成らず御威光にも拘はり容易ならざる天下の御恥辱と存じ越前惜からぬ命を存らへ御尤めの身分を憚からず押て此段御屋形樣へ言上仕り候此儀御用ひなき時は是非に及ばず私し儀は含状を仕つり其節切腹仕るべき覺悟に候然らば當年中にはよも御對顏の運びには相成まじく其内に眞僞判然も仕らんかと所存を定め候間今晩は亡者の姿にて不淨門の番人を僞り御屋形へ推參奉りて候とまた餘儀もなく言上に及ばる綱條卿聞し食され越前其方が忠節頼母しく存ずるなり能も其所へ心付きしぞ予は病中成れども天下の一大事には替難し明朝登城し將軍家へ拜謁し如何樣にも計らふべき間其方安心致し此上心付候へとの御意にて又仰せには明朝予が登城致す迄に萬一切腹の御沙汰あらんも計り難し假令上使ありとも必ず御請を致さず押返して予が沙汰に及ばざる内は幾度も御斷り申立べし是は其方より上意を背には非ず言ば我等が御意を背儀なれば少しも心遣ひなく存じ居べしと御懇切なる御意を蒙り越前守感涙肝に銘じ有難く坐ろに勇み居たりけり 第二十五回  水戸中納言綱條卿は越前守に打對ひ給ひ其方死人の體にて不淨門より出たりとの事なれば歸宅むづかしからんとの御意に越前守平伏して御意の通御役宅を出候には番人を僞はり候へども歸の程甚だ當惑仕まつると申上ければ中納言樣には主税之助を召れ其方越前を宅迄送屆け申べし此使は大切なるぞ其方より外に勤る者なし必ず後れを取候な其刀を遣す程に若無禮の振舞致す者あらば切捨に致せ予が手打も同前なるぞと仰せらる主税之助は委細畏まり奉つると直に支度を調へ侍ひ兩人に提灯持鎗持草履取三人越前守主從四人都合十人にて小石川御屋形を立出數寄屋橋御門内なる町奉行御役宅を指て急ぎ行早夜も子の刻を過ぎ屋敷に近付一同に表門へ懸り小石川御館の御使者山野邊主税之助なり開門あるべしと呼はれば夜番の御徒士目附答へて越前守には閉門中にて開門叶ひ申さずといふ主税之助越前殿閉門は誰より申付候やと尋ぬるに御徒士目附申やう土屋六郎兵衞殿の申付なりと此時主税之助態と憤りの聲を振たて何と申され候や土屋六郎兵衞の詞が夫程重きか中納言樣の御詞を背くに於ては仰付られの心得ありと大音に呼はりければ何れも肝を潰し時を移さず開門に及べば山野邊主税之助先に立て門を通らんとする時御徒士目附聲を懸暫らく御待有べし小石川御屋形の御使者御供の人數を調べ申さんと有ゆゑ主税之助答へて篤と念入調らるべしと主税之助主從十人と數へてぞ通しける主税之助は越前守の主從を無難に屋敷へ送込奧へ通り呉々も越前守に申含めけるは明朝早々御屋形御登城有て御取計ひ有べし夫迄は大切の御身と主人よりも申付て候何樣の儀候とも小石川御屋形の御意と御申立あるべし其内には屹度宜しき御沙汰有べしと申置暇乞して歸りには主從六人にて表門へ出來り小石川御屋形の御使者只今歸申す開門ありたしと申ければ番人また人數を改め四人不足なれば主税之助に向ひ最前の御人數は侍ひ分六人中間三人主從十人に候處只今御人數は侍ひ四人不足なり如何の儀に候やと云主税之助は威丈高になり各々には何と申さるゝや先刻よりは人數四人不足とや御手前方は何の爲に閉門の御番をば致さるゝや小石川御館にては閉門の屋敷へ參り居殘致す者は一人もなし狼狽たる申分かな彼是申さば切て捨んと大言に叱り付られ番衆も據なく開門して通しける主税之助は首尾能仕課せ急ぎ小石川へ歸り御前へ出て右の次第を委敷言上に及びければ中納言樣には深く御滿悦遊ばし汝ならでは然樣の働きは成まじとの御賞美の御意なりまた御意には越前はさぞ夜明が待遠成べし明朝は六ツ時登城すべし然樣に計ひ申す可との御意なれば夫々の役々へ御登城の御觸出しに及びける夫よりは御寢所へも入せられず直樣御月代を遊ばされんとの趣きなれば主税之助初め御病中御月代の儀は御延引遊ばし然るべしと申上らる中納言樣には長髮にて登城し將軍の御前へ出るは失敬なり我將軍を敬はずんば誰か將軍を重ずべき病中とて苦からず月代せよとの御意なれば掛りの役人も是非なく御櫛を取上ける夫より御行水相濟頃はハヤ御本丸の六ツの御太鼓遠く聞えれば御供揃にて直に御登城遊ばせしが時刻早ければ未だ御役人方は一人も登城なく御側衆泊番太田主計頭のみなり主計頭を召れ天下の一大事に付將軍へ御逢の爲登城に及べり此段取次申せとの仰なれば主計頭其趣きを言上に及ばれける將軍家聞し食させ大に驚かせ給ひ早速御裝束を改めさせられ御對面あるに此時將軍家の仰に中納言殿には天下の一大事の由何事なるやと御尋あれば中納言綱條卿には衣紋を正し天下の一大事と申候は餘の儀にも候はず先伺ひ度は町奉行越前を名奉行と宣ひしは抑も誰にて候やとの御尋なり是は先年松平左近將監殿へ御意に大岡越前は名奉行なりと仰せられし事を中納言家には御存じゆゑ斯樣に仰上られしものなるべし此時將軍には御不審の體にて御在ますにぞ又申上らるゝ樣は斯綸言は汗の如しまた武士に二言なしとか君のお目鏡にて名奉行と仰せられ候越前天下の御爲を存じ君へ忠節を盡す心底より天一坊殿御身分再吟味願候に越前へ閉門仰付られしと承まはる町奉行たるものが支配内の事を吟味致すに筋違とは如何なる儀にや此段承まはりたしと御老人の苦り切たる有樣なれば將軍にも御當惑の體にて偵が名君の理に伏し見え給ひ殆ど御困の御樣子にて太田主計頭を召し上意には其方只今より越前宅へ罷越呼參れとの上意なれば主計頭は御受に及び直樣馬を飛せ鞭を加へて一散に數寄屋橋の御役宅へ來り御上使々々々と呼はりければ大岡の屋敷にては上下是を聞付スハ切腹の御上使と一家中色を失なひ噪ける表門には御上使と有に開門しければ主計頭には急ぎ玄關へ通り越前守に對面ありて上意の趣きを相述べ急ぎ登城あるべしとの事なり越前守委細承知し則ち馬を急し家來に申付火急の御用なり駕籠は跡より廻せと申付麻上下に服を改め主計頭と同道にて登城にこそは及ばれたり跡には皆々打寄只今御上使と御同道にて御登城有しは迚も御存命覺束なし是は將軍の御手打か又は詰腹か兎に角大岡の御家は今日限り斷絶成べし行末如何成事やらんと主の身の上より我行末迄も案じやり歎に沈まぬ者もなし扨も將軍家には中納言綱條卿と御對座にて御座まし越前が登城今や〳〵と待給ふ時しも太田主計頭が案内にて越前守恐る〳〵御前へ出遙か末座に平伏す時に主計頭座を進み只今越前召連て候と申上るにぞ將軍の上意に芝八山に旅館の天一坊身分再吟味の儀越前其方が心に任申付るぞと仰なれば越前守には發と計り御請申上らる將軍は又も中納言樣に向はせ給ひ水戸家只今聞せらるゝ通り越前へ右の如く申付たり御安心これ有たしと宣ふに綱條卿には實に御名將の思召潔よく御座候と申上られ是より中納言樣には御老中御列座の御席へ渡らせ給ひ越前守をも此席へ召れて中納言樣の仰に芝八山に旅宿致さるゝ天一身分再吟味の儀今日より越前に任すとの上意なれば一同左樣に心得られよ取分予が申渡すは天一身分吟味中越前が申す事は予が言葉と心得られよ越前も又左樣相心得心を用ゆべし越前には少身の由萬端行屆まじお手前達に於て宜く心付致さるべしとの御意なれば越前守は願の通り再吟味の台命を蒙り悦こび身に餘り勇み進んで下城にこそは及ばれたり下馬先には迎の駕籠廻り居て夫に乘徐々と歸宅せられたり頓て屋敷近くなりし頃押へが一人駈拔て表門よりお歸り〳〵と呼はれば此を聞て家來の男女はまた驚き恙なき歸りをば悦び且疑ふばかりなり 第二十六回  扨も大岡越前守には三人の公用人を呼出され今日より天一坊吟味の儀越前が心任せとの台命を蒙り又天一坊吟味中越前が申詞は小石川御館樣の御言葉と心得よとの御意なり然ば次右衞門其方は只今より八山へ到り明日辰の上刻天一坊に越前が役宅へ參り候樣申參べし必ず町奉行の威光を落すなと申付られ又吉田三五郎には天一坊の召捕方を池田大助には召捕手配方を申付られたり是に依て吉田三五郎は江戸三箇所の出口へ人數を配り先千住板橋新宿の三口へは人數若干を遣し固めさせ外九口へは是又人數若干を配り海手は深川新地の鼻より品川の沖迄御船手にて取切備船は沖間へ出し間々は鯨船にて取固め然も嚴重に構へたり扨又平石次右衞門は桐棒の駕籠に打乘若黨長柄草履取を召倶し數寄屋橋の御役宅を出芝八山へと急ぎ行次右衞門道々考へけるは天一坊家來に九條殿の浪人にて大器量人と噂ある山内伊賀亮には逢度なし然ば赤川大膳を名差にて對面せんと思案し頓て芝八山なる天一坊が旅館の門前に來りける箱番所には絹羽織菖蒲皮の袴を穿控居し番人大音に御使者と呼上れば次右衞門は中の口に案内を乞けるに此時戸村次右衞門と云者次上下にて取次に出來れば次右衞門は懷中より手札取出し拙者は町奉行大岡越前守公用方平石次右衞門と申者なり天一坊樣御重役赤川殿へ御意得て越前守が口上の趣きを申述度存ず何卒此段御取次下さる可と云に戸村は承知して大膳に斯と申通ずれば大膳は聞て眉を顰め町奉行大岡越前守より使者の來る筈は無しと不審に思へば伊賀亮が居間に到り只今町奉行大岡越前守公用人平石次右衞門と申す者來り某しに面會し主人越前が口上を述たしとの事なれど町奉行より使者の來る譯はなき筈ぢやが如何の者かと聞ければ伊賀亮成程越前より使者を遣はす筋無れど貴殿名差とあれば何用とも計れず兎角御逢めさる方然るべし併し目の寄る所へ玉とか申し越前守は大器量人なり然ば使者の平石とやらんも一癖あるべし貴殿應對は氣遣ひなりと小首を傾けられて大膳は氣後れし然らば拙者は病氣と披露して貴殿面會し給はれと云ふに伊賀亮夫は何より易けれども平石次右衞門と手札を出し大膳殿へ御意得たしと申せし時に大膳儀は不快ゆゑ同役山内伊賀亮御目に懸るべしと申せば宜に今となりて大膳儀病氣なれば伊賀亮御目に掛ると申す時に赤川は取に足ざる者ゆゑ出會ぬと見えたりと貴殿の腹を見透さるゝ樣な物なり夫共事成就の上此伊賀亮は五萬石の大名に御取立になり貴殿は三千石の御旗本位是が御承知ならば伊賀亮何樣にも計ひ對面すべしと云に強慾無道の大膳是を聞夫なれば某し對面し口上を承まはらん併し返答に何と致して宜しかる可やと云に伊賀亮打笑ひ未だ對面もせぬ先に返答の差圖は出來ず夫こそ臨機應變と云者なり向ふの口上に因て即答あるべきなり口上を聞もせぬ内其挨拶が成べなやと云ば大膳は益々氣後せし樣子に伊賀亮も見兼て大膳殿左程に案じ給ふならば極意を教べし先平石の口上を聞て返答に差詰りし時は暫く控へさせ上へ伺ひ申して後返答致すべしとて奧へ來り給へ其口上に依て返答の致し方は種々ありと教ければ然らば對面致すべしと取次の者を呼で次右衞門を使者の間へ通すべしと申渡せば戸村は中の口へ來り平石に向ひ率御案内申すべしと先に立使者の間の次へ來る時戸村は御使者には御帶劔を御預り申さんといふ平石次右衞門脇差を渡さんと思ひしが待暫し主人が八山へ參り町奉行の威光を落すなと仰られしは爰なりと平石は態と聲高に拙者は何方に參るも帶劔を致す身分なればお預申事は相成がたしと云に戸村は町奉行公用人衆は外々の公用方と御身分違候や何の公用方でも此處にて帶劔は御預り申候御老中方公用人の御身分は何なる物にやと問ければ御老中方の公用方は御目附代ゆゑ御直參同樣に候と答へけるまた御城代公用方の御身分は如何と問に是は中國四國九州の探題の公用方なれば矢張御直參同樣に候と答へける戸村然ば御城代諸司代御老中と夫々の公用人何れも帶劔を御渡し成るゝに町奉行の公用人のみ御渡し成れぬは御身分でも違ひ候やと言ければ平石は町奉行の公用人とて別段身分は違はず併し乍ら赤川大膳殿には何程の御身分にて帶劔の儘お目に懸れぬや又此處は天一坊樣の御座の間近ければ帶劔のならざるや又大膳殿には御座の間近くより外へは御出席なされぬや拙者は只赤川殿に御目に懸り主人越前守の口上を述候へば夫にて使者の役目は相濟事なれば假令御廊下の端御玄關の隅にても苦からず帶劔の出來る所にて御目に懸り度存候なり此段御伺ひ下されと申けるにぞ戸村も此詞に閉口し大膳に右の次第を委しく咄せば大膳はいよいよ驚き迚も平石に對面は致し難しと又々伊賀亮の居間に來り貴殿の眼力の通り越前守が使者と申奴は頗る秀才の者と見えたり其譯は今戸村が使者の間へ案内し帶劔を預らんと申せしに斯樣々々の挨拶の由拙者對面しなば後々の障碍と成べし伊賀亮殿御太儀ながら御逢下さるべしと又餘儀もなく頼むにぞ伊賀亮も承知なし成程目の寄所へ玉とは能も申たり越前守は能家來を持羨ましと譽めながら戸村を呼彼使者に大膳殿は今日御上御連歌の御相手にて御座の間より外へ出席成難し同役山内伊賀亮非番なれば代りて御目に懸らんと御使者の間へ通すべしと言付られて此趣きを平石へ申通じける平石は伊賀亮と聞て迷惑に思へども今更詮方なく控へ居る頓て山内伊賀亮は黒羽二重の小袖に繼上下を着出來り申けるは町奉行大岡越前守公用人平石次右衞門と申は其方なるか拙者は天一坊樣重役山内伊賀亮なり未だ大岡には對面せねど勤役中太儀と然も横柄の言葉なり平石次右衞門は平伏し御意の通り大岡が使者平石次右衞門に候天一坊樣益々御機嫌能く恐悦に存じ奉つり候大岡參上し以て申上べき處當八山は奉行支配場にて參上仕り兼候間使者を以て申上奉つり候明日辰の上刻天一坊樣大岡役宅へ入せられ候樣申上奉つるとの口上なり山内聞いて町奉行宅は罪人科人の出入する穢の場所なり左樣な不淨の處へ天一坊樣には入せられまじ假令御入成るとの御意ありとも此の山内に於て屹度御止め申なり此段立歸り大岡殿へ申されよと云にぞ平石は案に相違しけれど此儘にては天一坊には御役宅へ來らじと言葉を改め申けるは此度天一坊樣御身分調の儀に付ては越前守申す事は小石川御屋形の御言葉と心得よとの儀にて大岡が言葉を背かるゝは則ち上意を背くも同然の事なりと云ふにぞ山内も上意とあれば輕からざる儀なり先づ一應伺ひの上返答致すべし暫く控へられよとて奧へ入り良ありて再び出で來り次右衞門に向ひ町奉行大岡越前守より申上の趣き伺ひし處大岡の申す條なれども公方樣の上意とあれば如何にも其の刻限に御出あるべしとの上意なり明日は山内にも御供を仰付られたれば何れ大岡殿に對面致すべし宜しく申し傳へ給はるべしと謂捨て奧へは入たり次右衞門はホツと溜息を吐き門前より駕籠を急がせお役宅さして歸りける 第二十七回  扨も平石次右衞門はお役宅へ歸り來り早速主人のまへにいづれば大岡の曰く次右衞門其方に申付べき事をツヒ失念したり天一坊の家來に山内伊賀亮といふ器量人あり渠に逢ては惡かりしが何人に逢しやと尋らるゝにぞ次右衞門いふ私しも左樣に心づき候ゆゑ名差にて御重役赤川大膳殿へお目に懸りたしと申入しに赤川殿は御連歌のお相手にて御座の間より外へ出席なり難故非番の山内伊賀亮が對面致すとて面談せしに明日刻限通り參らるべしとの儀なりと述ければ越前守大きに悦び明日は大器量人の山内伊賀を越前が一言の下に恐れ入せんものとぞ思はれける爰に八山には次右衞門の歸りしあとにて山内は役人を招ぎ御上には天文お稽古中なれば天文臺へ入せらるゝなり其用意すべしと申付るにぞ役人は早速其用意をなし先天文臺へは五色の天幕を張廻し長廊下より天文臺まで猩々緋を布續ける山内は天文臺へ天文教導の役なればとて先に立ち續いて天一坊常樂院天忠和尚赤川大膳藤井左京の五人にて進み行けり扨臺上へのぼりて山内は四人に向ひ町奉行越前宅より使者を以て明日我々を呼寄るは多分召捕了簡と見えたりと述ければ大膳は肝を潰し果して大事の露顯なす上は是非に及ず皆々切腹なさんといふ山内また云やう未だ二度に切拔る事も有べし早計玉ふな明日大膳殿には先驅なれば某しが警戒べき事あり其は越前守の役宅にて必ず無禮を働くべし決して怒を發し刀などに手を掛給ふな町奉行の役宅にて劍㦸の沙汰に及べば不屆者と召捕て繩を掛ん呉々も怒を愼み給へと云含め猶種々と密談に及びし内既に黄昏になりしかば山内は四方を屹と見渡し大いに驚き大膳殿品川宿の方に當り火の光見るが那を何とか思るゝやと問へば大膳是を見て那こそは縁日抔の商人の燈火ならんといふに山内首を打振否々然に非ず夫等の火光は人氣和融なれば自然とそらへ丸く映るべきに今彼光は棒の如く尖りて映れり彼人氣勇烈を含むの氣にて火氣と云ひ旁々我々を召捕んとて出口々々を固めたる人數の篝火なるべし此人數は凡そ千人餘ならんと又一方を見渡し深川新地の端より品川沖まで燈火の見るは何舟なりやと問ふ大膳那こそ白魚を漁る舟なりと云ば伊賀亮大に打笑ひ那燈火も矢張我々を召捕ん爲舟手にて固めたる火光にして其間に丸く見る火光こそ全くの漁船なり海陸とも斯の如く手配せしは越前が我々を召捕べき手筈と見えたりと聞て四人は色を失ひ各々顏を見合て然ば今宵の内に皆々自殺なさんと云ば伊賀亮推止め未だ驚くには及ばず明日こそは器量人の越前を此伊賀が閉口させて見すべければ呉々も大膳殿明日は怒を發し給ふなと戒め夫より翌日の支度にぞ掛りける早其夜も明て卯の上刻となれば赤川大膳先驅として徒士四人先箱二ツ鳥毛の一本道具を駕籠の先へ推立長棒の駕籠に陸尺八人侍ひ六人跡箱二ツ引馬一疋長柄草履取合羽等にて數寄屋橋内町奉行の役宅へ來り門前にて駕籠を下表門へ掛る此時大膳は熨斗目麻上下なり既にして若黨潜門へ廻り徳川天一坊樣の先驅赤川大膳なり開門せられよと云に門番は坐睡し乍ら何赤川大膳ぢやと天一坊は越前守が吟味を受る身分なり其家來に開門は成ぬ潜より這入べし彼是云ば繩目に及ぞと云に大膳斯と聞て伊賀亮が戒めしは爰なりと思ひ大膳一人潜より入り家來は殘ず門外に殘し置玄關へかゝれば取次として平石次右衞門出來りて大膳を伴うて間毎々々を經庭へ下り向の物置部屋へ案内したり爰には數十人の與力同心番をなし言語同斷の無禮を働くにぞ大膳は元來短氣の性質なれば無念骨髓に徹すれども伊賀亮が戒めしは此所なりと憤怒を堪へ居たりける斯て八山の天一坊が行列には眞先に葵の紋を染出せし萌黄純子の油箪を掛たる長持二棹黒羽織の警固八人長持預り役は熨斗目麻上下の侍ひ一人其跡は金葵の紋付たる栗色の先箱には紫の化粧紐を掛雁行に并べ絹羽織の徒士十人宛三人に并び黒天鵞絨へ金葵の紋を縫出せし袋を掛たる長柄は金の葵唐草の高蒔繪にて紫縮緬の服紗にて熨斗目麻上下の侍ひ持行同じ出立の手代一人引添たり又麻上下にて股立取たる侍ひ十人宛二行に並ぶ次に縮ら熨斗目に紅裏の小袖麻上下にて股立取たるは何阿彌とかいふ同朋なりさて天一坊は飴色網代の蹴出付黒棒の乘物にて駕籠脇十四人熨斗目麻上下にて股立とり跡より沓臺持一人黒塗に金紋付の跡箱紫きの化粧紐を掛乘物の上下には朱の爪折傘二本を指掛簑箱一ツ虎皮の鞍覆たる引馬一疋豹の皮の鞍覆たる馬一疋黒天鵞絨に白く葵の紋を切付たる鞍覆馬一疋供鎗三十本其餘兩掛合羽駕籠茶瓶等なり續て常樂院天忠和尚四人徒士にて金十六菊の紋を附たる先箱二ツ打物を持せ朱網代の乘物にて陸尺六人駕籠脇の侍ひ四人跡箱貳ツ何も紫きの化粧紐を掛たり黒羅紗の袋を掛たる爪折傘に草履取合羽籠等なり引續て藤井左京も四人徒士にて長棒の駕籠に乘若黨四人黒叩き十文字鎗を持せ長柄傘草履取合羽駕籠等なり少し後て山内伊賀亮は白摘毛の鎗を眞先に押立大縮ら熨斗目麻上下にて馬上なり尤も若黨四人長柄草履取合羽駕籠等相添へ右の同勢にて八山を出下に〳〵と呼り數寄屋橋を指て練來るしかるに往來の横々は木戸を〆切町内の自身番屋には鳶の者火事裝束にて相詰たり程なく惣人數は數寄屋橋御門へ來しに見附は常よりも警固の人數多く既に天一坊の同勢見附へ這入ば門を〆切夫を相圖に外廓の見附は何も〆切たり斯て越前守の役宅へ近付ければ只今天一坊樣入せられたり開門せよと呼れば此日は池田大助門番を勤め何天一坊が參しとや天一坊は越前守が吟味を受る身分開門は相成ず潜りより這入れと云に徒士等之を聞て膽を潰し其旨供頭の伊賀亮へ告ければ伊賀亮は天一坊の乘物の側へ來り奉行越前は將軍の御名代なれば開門致さぬとの事潜より御通り然るべく存じ候と申ければ天一坊は父君の名代と有ば是非に及ばず潜りより通る可と云ひて乘物を下沓を穿て立出ける其衣服は葵の紋を織出したる白綾の小袖を着用し其下に柿色綾の小袖五ツを重ね紫きの丸帶を締古金襴の法眼袴を穿ち上には顯文紗十徳を着用し手に金の中啓を持頭は惣髮の撫附にて威風近傍を拂つて徐々と進み行く續いて常樂院天忠和尚は紫きの直綴を纏ひ蜀紅錦の袈裟を掛けて手に水晶の念珠を爪繰たり其の跡は藤井左京麻上下にて續いて山内伊賀亮は上下なり四人の者潛りより入りて玄關式臺の眞中を悠然として歩み行く門内には與力同心の數人スハと云へば搦め捕んと控へたり 第二十八回  既にして天一坊玄關へ來ければ取次案内として平石次右衞門出迎へ平伏し先に立て案内す天一坊は沓の儘にて次右衞門に伴られ行に常樂院は天一坊の未だ沓を脱ざるを見て其の前へ走寄り沓へ手を掛ければ天一坊は常樂院を見るに早沓を脱たりまた後を振返り伊賀亮左京をも見に何も履物を穿ざれば天一坊も沓を拔捨ける夫より案内に從ひ行き遙か向を見れば一段高き床を設け其上に越前守忠相丸に向ふ矢車の定紋を付繼上下にて控へ左右に召捕手の役人數多並び居るにぞ如何なれば大坂御城代を始京都所司代御老中の役宅にても自分を上座に据ゑしに越前守のみは自ら高き處に着座なすやと不審に思ひつゝ立止れば此時越前守には先達て伊豆守殿役宅にては間も隔し故若見違もやせんと思ひしが今天一坊の面貌熟々視るに聊か相違なければ彌々僞物に紛なしと見究しも未だ確なる證據なき故召捕ること叶はず如何にせんと思ひしが屹度して大音に天一坊下に居れ此賣主坊主餘人は欺くとも此越前を欺かんとは不屆至極なりと叱付れば天一坊は莞爾と打笑ひ越前は逆上せしと見えたり此頃まで三百俵の知行なりしが三千石の高祿になり當時町奉行を勤め人々尊敬すればとて慢心増長なせしか若予が答を爲ば不便や其方切腹せねば成まじ唯聞流にして遣さんに篤と勘考すべしとて悠然と控へければ頓て常樂院を始め皆々着座なす時に常樂院天忠和尚進出越前守殿には只今上に對し賣主坊主僞物なりとの過言を出さるゝは何故なるぞ大坂京都及び老中の役宅に於て將軍の落胤に相違なしと確認の附しを足下のみ左樣に云るゝは如何なりと云に越前守假令大坂御城代并に御老中迄將軍の落胤なりと申さるも此越前が目には僞物に相違なしと思はるゝといふ常樂院又云ふやう夫は越前守殿の上を委く承知なされぬ故なり兎角に知ぬ事は疑心の發るもの然ば拙僧が詳細認めて御目に掛んと筆を取出し佐州相川郡尾島村淨覺院門前に捨子に成せられしを此天忠拾ひ上參らせ御養育なし奉りしが其後天忠美濃國各務郡谷汲郷長洞山常樂院法華寺へ轉住すれば御成長の地は美濃國なりと認め差出すに越前守は是を受取再三見終り如何にも斯樣に委しき證據あれば概略は知たりと云つゝ又熟々思案するに斯る事に繋り居ては面倒なり山内めを呼出し渠を恐入らせんとて大音に御城代所司代并に御老中の役宅にて喋々と饒舌し者は此席に居や罷出よ吟味の筋ありと呼はれば山内は最前より餘人に尋んより我に問ば我一言の下に越前を屈服させんと待處なれば今此言を聞て進み出京都大坂并に老中の役宅にて取切て應答せしは拙者なりと云にぞ越前守は其方なるか然ば手札を出すべしと云ふに山内懷中より手札を差出す越前守は手に取克々見て其方の名前は山内伊賀亮かと尋ねられしに如何にも左樣なりと答ふ越前守推返して伊賀亮なりやと問ひ扨改めて伊賀亮といふ文字は其方心得て附たるや又心得ずして附たるやと尋ねらるゝに山内その儀如何にも心得あつて附し文字なりと答ふ越前守また心得有て附たりと有ば尋る仔細あり此亮と云文字は則ち守といふ字にて取も直さず其方の名前は山内伊賀守なり天一坊の家來にて何を以て守を名乘るやと咎むれば山内答へて越前守殿よく聞かれよ此の山内の身分は浪人は愚か如何に零落するとも正四位上中將の官は身に備りたりと云ふにぞ越前守は大音聲に默れ山内其方以前は九條家の家來と有ば正四位上中將の官爵も有べけれど退身すれば官位は指おかねば成ぬ筈なり然るを今天一坊の家來也とて正四位上中將の官位にて山内伊賀亮と名乘は不屆なりと叱り付れば山内から〳〵と打笑ひ越前守殿には承知なき故疑ひ有も道理なり此伊賀亮の身分に正四位上中將の備りある次第を咄さん拙者は九條家の家來なり一體公家方は官位高く祿卑きもの故に聊か役に立者有ば諸家方より臨時お雇ひに預る事あり拙者九條家に在勤中は北の御門へ御笏代りに雇れ參りし事折々なり此北の御門とは四親王の家柄にて有栖川宮桂宮閑院宮伏見宮を四親王と稱す當時は伏見宮を除き三親王なり此伏見宮を稱して北の御門と云其譯は天子に御世繼の太子在さぬ時は北の御門御夫婦禁庭へ入る宮樣御降誕あれば復たび北の御門へ御歸りあるなり扨御門の御笏代を勤る事は正四位上中將の官ならでは能はず其時には假官をなし大納言と爲るなり扨御笏代りとは北の御門參殿の節笏にて禁中の間毎々々に垂ある簾を揚て通行在せらることにて恐れ多くも龍顏を拜し玉ふ時は此笏を持事の叶はぬ故御笏代りとて御裾の後に笏を持ち控居て餘所乍ら玉體を拜するを得者なり拙者先年多病にて勤仕なり難きゆゑ九條家を退身の節北の御門へ奏聞を遂しに御門は御略體にてお目通りへ召れ山内其の方は予が笏代りをも勤め龍顏をも拜せし者なれば縱令九條家を退身し何國の果へ行も存命中は正四位上中將の官より下らず死後の贈官正二位大納言たる可との尊命を蒙むれば山内此末非人乞食と成果るも官位は身に備れば伊賀亮の亮の字も心得て用ひ候也と辯舌滔々と水の流る如くに述ければ流石の越前守も言葉なく暫時控られしが稍有て山内に向かひ其方の身分委く聞ば尤もなり併し天一は似物に相違なければ召捕可といふに伊賀亮容を改め越前守殿何故に天一樣を似者と云るゝやと尋ければ越前守然ば似者に相違なきは此度將軍へ伺ひしに毫も覺なしとの御事なれば天一は似者に紛なしと云ふなりと山内是を聞將軍には覺なしとの御意合點參ず正く徳太郎信房公お直筆と墨附及びお證據のお短刀あり又天一樣には將軍の御落胤に相違なきは其御面部の瓜を割たるが如きのみか御音聲迄も其儘なり是御親子に相違なき證據ならずや今一應將軍へ御伺ひ下されたし克々御勘考遊ばされなば屹度御覺有べしと述れば越前守は大音に伊賀亮默れ天一坊の面體よく將軍御幼年の御面部に似しのみならず音聲まで其の儘とは僞り者め其方紀州家の浪人ならばいざ知ず九條家の浪人にて將軍の御音聲を知べき筈なしと咎められしに山内は嘲笑御面部また御音聲まで似奉る事お咄し申さんに紀州大納言光貞公の御簾中は九條前關白太政大臣の姫君にてお高の方と申し其お腹に誕生まし〳〵しは則ち當時將軍吉宗公なり御幼名を徳太郎信房君と申せし砌拙者は虎伏山竹垣城へ九條殿下の使者にて參りお手習和學の御教導をも爲し故御面部は勿論御音聲までも能承知致せばこそ將軍の公達に相違なしとは云しなり如何に越前守殿お疑ひは晴しやと言詰るに越前守は亦た言葉なく何を以て此の山内を言ひ伏んやと暫し工夫を凝して居られける 第二十九回  扨も大岡越前守は再度まで山内に言ひ伏られ無念に思へども詮方なく暫時思案ありけるが屹度天一坊の乘物に心付き心中に悦こび此度こそは閉口させんと山内に打對ひ天一坊は將軍の公達ならば官位は何程なるやと問ふに山内最初の官なれば宰相が當然なりと答ふ越前守又宰相は東叡山の宮樣と何程の相違ありやと問ふに山内宮樣は一品親王なり夫一品の御位は官外にして日本國中三人ならではなし先天子の御隱居遊されしを仙洞御所と稱し一品親王なり又天子御世繼の太子を東宮と云是又一品親王なり又東叡山の宮樣は一品准后にして准后とは天子の后に准ずる故に准后の宮樣とは云なり然ば宮樣の御沓を取者の位さへ左大臣右大臣ならでは取事叶ざれば御登城には御沓取なくお乘物を玄關へ横付にせられ西湖の間にて將軍に御對顏あらばお沓はお用ひなし故に宮樣と宰相とは主從の如くなれど今少し官位の相違有んかと答へらる越前守是を聞れ然らば天一坊を召捕といふ山内また何故に天一坊を召捕と云はるゝやと云せもあへず越前守大音に飴色網代蹴出黒棒は勿體なくも日本廣しと雖も東叡山御門主に限るなり然程に官位の相違する天一坊が宮樣に齊き乘物に乘しは不屆なれば召捕と云しなり此の時山内から〳〵と打笑ひ越前守殿左樣に知るゝなら尋ぬるには及ばず又知ざれば尋ねらるゝ事もなき筈なり今ま山内が此所にて飴色網代のお咄申さんに先將軍の官職より解出さゞれば解し難し抑々將軍に三の官ありしは征夷大將軍とて二百十餘の大名へ官職を取次給ふの官なり尤も小石川御館のみは直に京都より官職を受るなり二は淳和院とて日本國中の武家を支配する官なり三は奬學院とて總公家を支配する官職なり然れど江戸にて斯京都の公家を支配する譯は天子若關東を圖せらるゝ事有ては徳川の天下永く續き難き故東照神君の深慮を以て比叡山を江戸へ移し鬼門除に致したしと奏聞ありしが許されず二代の將軍秀忠公へ此事を遺言せられしに秀忠公も亦深慮を廻され京都へ御縁組遊ばし其上にて事を計はんと姫君お福の方を後水尾院の皇后に奉つらる之を東福門院と稱し奉つり此御腹に二方の太子御降誕まし〳〵ける其末の太子を關東へ申降し給ひ比叡山延暦寺を關東へ移し東叡山寛永寺を建立す是宮樣の始めにて一品准后の宮と稱し奉つり天子御東伐ある時は宮樣を天子として御綸旨を受る爲なり然ども天子には三種の神器あり此中何れにても闕れば御綸旨を出す事能はざるなり故に三代將軍家光公武運長久を祈る爲と奏聞有て草薙の寶劔を降借せられ其後返上なく東叡山に納たり夫寶は一所に在ては寶成ず故に慈眼大師の御遷座と唱へ毎月晦日に三十六院を廻るは即ち此寶劔の事なり尤も大切の寶物ゆゑ闇の夜ならでは持歩行事ならず依て月の晦日は闇なれば假令晝にても燈火照して御遷座あるは此譯也斯く如く宮樣の御身分は今にも天子に成せ給ふや又御一生御門主にて在せらるゝや定めなき御身の上なればお乘物の中を朱塗になし其上に黒漆を掛るは是日輪の光りに簇雲の覆し容を表したるにて是を飴色網代蹴出黄棒の乘物といふ今天一坊樣の御身も御親子御對顏の上は西丸へ直らせらるゝや又御三家格なるや將會津家越前家同樣なるや抑々御譜代並の大名に成せ給ふや定めなき御身分ゆゑ朱塗の上に黒漆を掛て飴色網代に仕立しは此伊賀亮が計ひなり如何に越前守此儀惡かるべきやと問詰れば越前守は言葉なく無念に思へども理の當然なれば齒を切齒りて控へられしが稍ありて然ば證據の御品拜見せんと云ふに山内は天一坊に向ひ奉行越前御證據の御品拜見願ひ奉つると云ひければ天一坊は奉行越前へ拜見許すと云ふ頓て藤井左京長持の錠を開て二品を取出し越前守の前に出す越前守は覆面もせず先墨附を拜見するに將軍の直筆に相違なく亦短刀を拜見するに疑ひもなき天下三品の短刀にて縁頭は赤銅斜子に金葵の紋散し目貫は金無垢の三疋の狂獅子作は後藤祐乘にて鍔は金の食出し鞘に金梨子地に葵の紋散し中身は一尺七寸銘は志津三郎兼氏なり是は東照神君が久能山に於て御十一男紀州大納言常陸介頼宣卿へ下されし物なり又同じ拵へにて備前三郎信國の短刀は御十男尾張大納言義直卿へ又同じ拵へにて左兵衞左文字御短刀は御十二男水戸中納言左衞門尉頼房卿に下されたり是を天下三品の御短刀と稱す斯て越前守は拜見し終りて故へ收め俄に高き床より飛下低頭平身して斯の如き御證據ある上は疑ひもなく將軍の御息男に相違有ましく越前役儀とは申乍ら上へ對し無禮過言を働き恐れ入り奉つる何卒彼方へ入らせらるゝ樣にと襖を明れば上段に錦の褥を敷前には簾を垂て天一坊が座を設たり頓て赤川大膳をも呼來り簾の左右には伊賀亮常樂院其次には大膳藤井左京等並居る此時越前守は遙か末座に跪づきてお取次を以て申上奉つる役儀とは申乍ら上へ對し無禮過言の段恐れ入り奉つる是に依て越前差控へ餘人を以て吉日良辰を撰み御親子御對顏の御式を取計ひ申べくと云ければ伊賀亮此由披露に及ぶ簾の中より天一坊は越前目通り許すとの言にて簾をきり〳〵と卷上天一坊堂々と越前守に向ひ越前予に對し無禮過言せしは父上の御爲を思ひてなれば差控へには及ばず越前とても予が家來なり是迄の無禮は許すといひ又越前片時も疾く父上に對面の儀取計ふべしと有ば越前守は恐れ入て有難き上意を蒙り冥加に存し奉つる近々御對顏の儀取計ひ申べければ夫れまでは八山御旅館に御休息ある樣願ひ奉つると云へば山内も越前殿呉々も取急ぎて御親子御對顔の儀頼み入と云に越前守には何れにも近々の内取計らひ申べしと返答に及れける是より歸館を觸出して天一坊は直樣敷臺より乘物にて立出れば越前守は徒跣にて門際まで出て平伏す駕籠脇少し戸を引ば天一坊は越前居かと云に越前守ハツと御請を致されたり斯て天一坊の威光熾盛に下に〳〵と呼りつゝ芝八山の旅館を指て歸りける此時大岡越前守には八山の方を睨付て云と計り氣絶せしかば公用人を始め家來等驚いて打寄氣付藥を口へ吹込顏に水を灌ぎなどしければ漸々にして我に復りホツと息を吐乍ら今日こそは伊賀亮を閉口させんと思ひしに渠が器量の勝れしに却つて予が閉口したれば餘り殘念さに氣絶したりと切齒をなして憤られしも道理なる次第なり 第卅回  去程に大岡越前守は今日社は山内伊賀亮を恐入せ天一坊始め殘らず召捕んものをと手當にまで及びしが思ひの外越前守は言伏られ返答にさへ差閊へたれば一先恐入て天一坊に油斷させ自ら病氣と披露し其内に紀州表を調んものと池田大助を呼で御月番の御老中へ病氣の御屆けを差出させ又平石次右衞門を呼で八山へ使者に遣しける八山にては天一坊を始め常樂院藤井左京等打寄て越前を恐入せし上は外に氣遣ふ物なし近々の内には大岡の取計ひにて御對顏あるに相違なし事大方成就せりと悦びけるが山内は少しも悦ぶ色なく鬱々とせし有樣なれば大膳は山内に打ち向ひ今日町奉行越前を恐入せしからは近日事の成就せんと皆々悦ぶ其中に貴殿一人愁ひ給ふは如何成仔細に候やと尋ねければ山内は成程各々方には今日越前が恐入しを見て實に閉口屈伏したりと思はるゝならんが此伊賀亮が思ふには今日大岡が恐れ入りしは僞りにて多分病氣を申立引籠るべし其内に紀州表を調ぶるは必定越前が恐入しは此伊賀亮が爲に一苦勞なりと云に大膳始め皆々驚愕然ば大岡が恐入しは僞りなるか此後は如何して宜らん抔案じけるに山内笑ひて大岡手を變へて事を成ば我又其裏をかく詮方ありと皆々に物語る處へ取次戸村馳來り只今町奉行方より平石次右衞門使者に參り口上の趣きには天一坊樣御歸り後大岡氣脱致し候や癪氣さし起り候に付今日より引籠候との由なりと云ふに山内是を聞て扨こそ只今申通り我々を召捕了簡と相見たりと云へば皆々山内が明察を感じて止ざりしと扨も越前守は若黨草履取を供に連紀州の上屋敷へ到り門番所にて尋ねらるゝ樣此節加納將監殿には江戸御在勤なるやといふに門番答へて加納將監樣には三年前死去せられ只今は御子息大隅守殿御家督に候と云ければ一禮を述加納大隅守殿の長屋を聞合せ直樣宿所へ趣き案内を乞大隅守殿へ御目通り仕つり度儀御座候に付町奉行越前守推參仕まつり候御取次下さるべしと云に取次の者此由を通じければ大隅守殿早速對面あり此時越前守には率爾ながら早速伺ひ申度は今より廿三年以前の御召使ひに澤の井と申女中の御座候ひしやと聞に大隅守殿申さるゝは親將監三年以前に病死致し私し家督仕つり候へども當年廿五歳なれば廿三年跡の事は一向辨へ申さずと答へらる越前守推返して然らば御母公には御存命に御座候やと申さるに大隅守殿拙者儀は妾腹にて養母は存命いたし候へども當年八十五歳にて御逢なされ候とも物の役には立申さずと言るゝに越前守御老體御迷惑とは存候へども御目通り願ひ度候と言るゝに大隅守殿は據ころなく奧へ行き養母正榮尼に向ひ只今奉行大岡越前守殿參られ御目通り願ひ候が定めて御政事の事なるべし母上には御當病と仰られて逢なされぬ方宜からんと云に正榮尼いやとよ奉行越前守が折角來り給ふを對面せぬも無禮なり逢申べし大隅心遣ひ無用なり假令何事を申す共八十五歳の老人後々の障になることは申すまじよし申にもせよ老耄致し前後の辨へ無と申さば少も其方の邪魔には成申すまじ氣遣ひ無此方に案内致す可と申さるゝ故大隅守殿には越前守殿を案内せられ老母の居間へ來らる越前守殿正榮尼に初ての對面より時候の挨拶を述次に御六か敷とも御母公へ伺ひ度儀あり此廿二三年以前に御召使ひの女中に澤の井と申者候ひしやと尋らるゝに母公答て私し共紀州表に住居致し候節召使の女も五六人宛置候が澤の井瀧津皐月と申す名は私し家の通名にて候故何の女なりしや一向に分り兼候と云越前守然らば其中にて御家に御奉公長く勤め候女中御座候やとあるに母公然ば和歌山在西家村の神職伊勢が娘の菊と申者私し方に十五年相勤候此外に長く居し者なく其菊と申すは當時伊勢の妻に成しと承まはり候と云るゝに越前守更に手懸なく然ば廿二三年跡の澤の井が證文御座候やと聞けるに正榮尼申けるは奉公人の證文は一通も御座無斯樣に計り申ては何か御不審も有べけれど紀州の國法にて男女共に主人方にては奉公人の宿は存じ申さず其譯は和歌山御城下に奉公人口入所二軒あり男の奉公人は大黒屋源左衞門世話致し女は榎本屋三藏世話にて此二軒より主人方へ證文差出し抱へ候にて主人方にては一向奉公人の宿を存申さず親元よりは口入人の方へ證文を出し候由承まはり候然ば奉公人の宿を御尋成り候には紀州表にて口入人を御調なされずは相分り申まじと云に越前守委しく承まはり左樣ならば紀州表へ參らずば相分り申まじ然らば御暇申べしと一禮述急御役宅へ立歸り公用人平石次右衞門吉田三五郎を呼出し其方兩人は是より直樣紀州表和歌山へ赴き大黒屋源左衞門榎本屋三藏の兩人を調べ澤の井が宿を尋ね天一坊の身分を糺し參べし萬一澤の井の宿榎本屋三藏方にて分り兼候はゞ和歌山在西家村の神職伊勢の娘菊と申す者加納將監方に十四五年も相勤め居候由成ば此者を呼出しなば手懸にも相成べし此旨心得置べし此度の儀は國家の一大事家の安危なるぞ急げ〳〵途中は金銀を吝むな喩にも黄金乏ければ交り薄しと云へり女子と小人は養ひ難しとの聖言を守るなと委細に申付られしかば次右衞門三五郎の兩人は主命畏り奉つると早速先觸を出し直樣桐棒駕籠に打乘白布にて鉢卷と腹卷をなし品川宿より道中駕籠一挺に人足廿三人を付添酒代も澤山に遣す程に急げ〳〵と急立ける御定法の早飛脚は江戸より京都迄二日二夜半なれども此度は大岡の家改易に成か又立かの途中なれば金銀を散財して急がせける程に百五十里の行程を二日二夜半にて紀州和歌山へ着しける此時和歌山の町奉行鈴木重兵衞出迎へ彼奉行所本町東の本陣に旅館致させけるに次右衞門三五郎の兩人は休息もせず鈴木重兵衞へ申達し大黒屋源左衞門榎本屋三藏の兩人を呼出し澤の井の宿所を尋ねしに大黒屋源左衞門は男のみ世話する故女の奉公人の儀は存じ申さずとの事なれば然ばとて榎本屋三藏に澤の井が宿所を糺けるに親三藏は近年病死致し私しは當年廿五歳なれば廿二三年跡の事は一向覺えなしと云にぞ然らば廿二三年前の奉公人の宿帳を調べしと申付るに三年以前に隣家より出火致し古帳は殘らず燒失致し候と云故少も手懸り無れば次右衞門三五郎は三藏に向ひ和歌山に西家村と云處有やと云へば是より一里許り在に候と答へけるにぞ寺社奉行へ達し西家村の神職伊勢同人妻菊同道にて東の本陣へ罷り出べき旨差紙を遣はしける神職伊勢は差紙を見て大いに驚き女房に向ひ申けるは何事にや有らん是は定めて其方和歌山加納樣方に奉公致し居候節の事なるべし御本陣へ參りて御役人より何事を尋ねらるゝ共一向覺え申さずと云ふべし憖ひに知顏なさば懸合となりて甚だ面倒なりと能々申合ければ菊女も委細承知なし少しも案じ給ふ事なかれ何事も知らずと申すべしとて夫れより夫婦支度をなし急ぎ本陣へ赴きけり 第卅一回  神職伊勢は女房菊同道にて東の本陣へ到り此由通じければ早速兩人を呼出さる吉田三五郎は伊勢に向ひ西家村の神職伊勢同人妻菊と申すは其方なるかと云に漣で御座ると答へける又取返して伊勢の妻菊と申すは其方なるかと尋るに只々漣で御座ると答へ一向に分り兼れば平石次右衞門心付き伊勢には舞太夫を致さるゝやと尋ねけるに御意の通り舞太夫を仕つり候と答へければ然ば妻女の名前を漣太夫と申さるゝやと聞に如何左樣に候と答ける此時次右衞門漣太夫に尋る儀あり其方事は加納將監方に數年奉公したりと聞實以て左樣なるやと尋ければ菊は一向存申さずと云に押返して將監方に奉公致たるに相違有まいなと尋るに更に存申さずと答へければ否々廿二三年跡其方奉公中傍輩に澤の井と申す女中有しと存じ居べしと尋ねけれ共一向存申さずと云に次右衞門は是は伊勢より女房に口留したるに相違なしと心付たれば懷中より小判十枚取出し紙に包みて差出し漣どの此金子は將軍樣より其方へ下さるゝ金子なれば有難く頂戴致されよとて渡し更めて申けるは當將軍樣には加納將監方にて御成長遊ばし御幼名を徳太郎君と申し其方には厚く世話になり玉ひし由依て此金子を遣はせとの上意なり又澤の井をも召出し御褒美下さるゝとの儀にて我々澤の井の宿を調べに參りし也其方存じ居ば教へ申可と和かに諭ければ菊は十兩の金を見て心打解成程考へ候へば加納將監樣の呉服の間に澤の井と申て甚だ不器量の女中御座候やに存じ候去乍宿の儀は存じ申さずと面なげに云を次右衞門は聞て然ば澤の井の宿を存じたる者は無やと尋ぬるに菊は暫く考へ成程其節小買物を致惣助と申者澤の井に頼れ手紙を持て折々宿へ參りし事有と云に其惣助と申す者は當時何方に居や申聞すべしといへば只今は御普請奉行小林軍次郎樣方に中間奉公致し居候と申にぞ然ばとて早速使を仕立御差紙を以て小林軍次郎召使惣助同道にて早々本陣へ罷り越べき旨申達せしに軍次郎は大に驚き惣助を腰繩にて召連來れば直に惣助を呼出し其方事加納將監方に奉公中澤の井と云女中に頼まれ手紙使に折々宿へ參りし由定めて澤の井の宿を存じ居べし何方に候やと尋けるに一向に覺え御座なく候と答へける吉田三五郎懷中より又金子十兩を取出し菊へ渡して此金子を其方より惣助へ遣はし澤の井の宿を尋呉よと言ければ菊は惣助に向ひ此金子は徳太郎樣より其方に下さるゝとの御事にて澤の井樣をも召出し御褒美下さるゝ筈なれ共今は宿を知たる者なしお前は頼まれて度々お宿へ參りし事あれば能々考へて御役人樣へ申上られよと聞き惣助も十兩の金子を見て肝を潰し頻りに金の欲さに樣々と考へ成程澤の井さんに頼まれて折々手紙を持參りしが其頃澤の井さんの申には糸切村の茶屋迄持て行ば宿へは直に屆くと申されしゆゑ茶屋迄は度々持參りしと云にぞ能こそ知したりとて彼十兩は惣助へ遣し然らば惣助を案内として其糸切村へ參らんと支度をなし神職夫妻には暇を遣次右衞門三五郎寺社奉行差添小林軍次郎奉行遠藤喜助同道にて夜四ツ時過より淡島道五十町一里半を揉に揉で丑滿の頃漸々にて糸切村に着し彼の茶見世を御用々々と叩き起せば此家の亭主何事にやと起出るに先惣助亭主に向ひ廿二三年跡に澤の井樣より手紙を頼まれ毎度頼み置し事有しが其手紙は何方へ屆けしやと尋ねけるに亭主答へて私し方は道端の見世故在々へ頼まれる手紙は日々二三十本程も有ば一々に覺え申さず殊に二十二三年跡の事なれば猶更存じ申さずと答へけるにいよ〳〵澤の井の宿所の手懸なく是に依て次右衞門三五郎の兩人は色を失なひ斯迄千辛萬苦して調ぶるも手懸りを得ず此上は是非に及ばじ此旨江戸へ申送り我等は紀州にて自殺致より外なしと覺悟を極めしが三五郎フト心付き懷中より又金十兩取出し亭主に向ひ其方澤の井の手紙を頼まれ宿へ參らず共村名位は覺の有さうな物なり今十兩遣はす程に能々考へて思ひ出せと申にぞ亭主は金を見て思ひも寄ず十兩に有付事と兩手を組で樣々と思案をし稍暫く有て思出しけん申樣澤の井殿の宿の村名は私しの弟の名の字を上へ付候樣に覺え申候と云に其方の弟の名を何と申すやと尋ぬるに弟は平五郎と申し候と答へけるに郡奉行へ談じ急ぎ平の字の付たる村々を調べさせけるに十三ヶ村有れば是を始より一々亭主へ讀聞すに平澤村と云に到りて亭主礑と手を拍其村で御座候といふに然らば是より平澤村へ立越んと爰にて大勢支度をし先平澤村へ先觸を出し其跡より百五十人餘の同勢にて平澤村指て急ける扨此平澤村と云は高二十八石家數僅二十二軒にて困窮の村なり澤の井の事に付ては是迄度々尋ね有しか共懸り合を恐村中相談なし何時も知ぬ旨趣を申立通したりとか然ば平澤村には先觸來れば又例の澤の井の調べなるべし是迄の通り村中少しも存じ申さずと言放し懸り合に成ぬ樣に致事第一なりと申合せ役人の來るを待しに此度は是迄とは變り凡百五十人餘りの大勢にて名主甚兵衞方へ着し直に村中へ觸を出して十五歳以上の男子を殘らず呼集め次右衞門三五郎正座に直り座傍には寺社奉行并びに遠藤喜助小林軍次郎等列座にて一人々々に呼出し澤の井の宿を吟味に及ぶも名主を始め村中殘ず存じ申さずとの答へなれば少しも手懸りはなきに次右衞門の思ふ樣是は村中申合せ掛り合を恐れて斯樣に申立るならんと席を改ため威儀を正して申けるは是名主甚兵衞其外の百姓共能承たまはれ將軍の上意なれば輕からざる事なり然るに當村中一同に申合せ知ぬ〳〵と強情を申募るに於ては是非に及ばず此大勢にて半年又は一年懸りても澤の井の出所を調ねばならぬぞ左樣に心得よと威猛高になりて威すにぞ村中の者肝を潰し此大勢にて十日も逗留されては村中の惣潰れと成るべし如何はせんと十方に呉誰有て一言半句を出す者なし此時末座より一人の老人進み出で憚りながら御役人樣方へ申上ます私しは當村の草分百姓にて善兵衞と申す者なるが當時此村は高廿八石にて百姓二十二軒ある甚だ困窮の村方なれば斯御大勢長く御逗留有ては必死と難澁に及ぶべし澤の井の一條さへ相分り申せば早速當村を御引取下され候やと恐る〳〵申すにぞ次右衞門答へて澤の井の一條さへ相分り候へば何故に逗留すべき直我々は出立致すなり其方存じ居るやと尋ねければ善兵衞は然ばにて候澤の井が身の上は村中に覺え居候者は有間敷只だ私し一人委細心得罷り在候間申上可當村の名主甚兵衞と申は至つて世話好にて先年信州者にて夫婦に娘一人を連同行三人にて千ヶ寺參り旁々當地へ參りしを彼甚兵衞世話致し自分の隱居所を貸遣はし世話致し候ひしに兩三年過右當人平右衞門死去致し跡には女房お三と申婆と娘の兩人に相成しがお三婆は産の取揚を家業とし娘を育てしが追々成長するに隨ひ針仕事を教へ居し内年頃にて相成候へば何處ぞへ奉公に出し度由お三婆より私へ頼みに付私し右娘を同道致し城下へ參り榎本屋三藏に頼み加納將監樣へ御針奉公に出し遣し候に其後病氣なりとて宿へ下り母の許に居候が何者の胤なるか懷姙致し居候故村中取り〴〵噂を致し候に翌年三月安産せしが其夜の中に小兒は相果娘も血氣上りて是も其夜の曉に死去致し候に付き近邊の者共寄集り相談するも遠國者故菩提所も無依て私しの寺へ頼み葬むり遣し候其後お三婆は狂氣致し若君樣を失なひて殘念なりと罵詈狂ひ歩行候ゆゑ甚兵衞も迷惑に存じ隱居所を追出せしにお三婆は宿なしと相なりしを隣村の名主甚左衞門といふ者當村の名主甚兵衞が弟にて慈悲深人にて是を憐み何時迄狂氣でも有まじ其内には正氣に成るべしとて連歸り是も隱居所へ入置遣はせしに追々正氣に相成ければ又々以前の如く産婦の取揚を致し候が十年程以前病死致し候由に御座候是にて澤の井の一條は御得心に相成候やと云に次右衞門三五郎は是を聞何にも概略は相分りたり其若君と澤の井を葬ぶりし寺は當村なりやと尋ぬるに向ふに見え候山の麓にて宗旨は一向宗光照寺と申し候と聞て然らば其節の住持は未だ存命致し居やと有に參候其節の住持祐然と申すは未だ壯健に候と答へける吉田三五郎然ば光照寺住持祐然を爰へ呼參る可との事なれば早速村の小使を走せ江戸表より御着の役人方より御用の由早々名主宅迄御出なさるべしと云すれば祐然は聞て驚き何事やらんと支度なし急ぎ甚兵衞方へ赴きけり 第卅二回  光照寺祐然は江戸表より御役人到着にて召呼るゝと聞き何事やらんと驚きながら役人の前へ出ければ次右衞門三五郎の兩人祐然に對ひ廿二三年以前當村に住居致し候お三が娘澤の井并に若君とかを其方寺へ葬りし趣きなるが右は當時無縁なるか又は印の石塔にても建ありやと尋けるに此祐然素より頓智才辨の者故參候若君澤の井の石塔は御座候も香花を手向候者一人も是なし併し拙僧宗旨の儀は親鸞上人よりの申傳にて無縁に相成候塚へは命日忌日には自坊より香花を手向佛前に於て回向仕つり候なりと元より墓標も無を取繕ひ申にぞ次右衞門三五郎口を揃へて然らば其石塔へ參詣致し度貴僧には先へ歸られ其用意をなし置給へと云に祐然畏まり候と急ぎ立歸りて無縁の五輪の塔を二ツ取出し程能所へ据置左右へは新らしき樒の花を揷香爐臺に香を薫し前には莚を敷て今や〳〵と相待ける所へ三五郎次右衞門寺社奉行郡奉行同道にて來りしかば祐然は出迎へ直に墓所へ案内するに此時三五郎は我々は野服なれば御燒香を致すは恐あり貴僧代香を頼み入と云に祐然則ち承たまはり代香をなし夫より皆々本堂へ來り過去帳を取出させ委細を調べける 寶永二酉年三月十五日寂  釋妙幸信女  施主 三 寶永二酉年三月十五日寂  釋春泡童子  同人 右の如くに記し有しかば住持祐然に書寫させ其奧へ右之通り相違御座なく候に付即ち調印仕り候以上月日寺社奉行何某殿と奧書を認めさせ次右衞門是を受取ば三五郎懷中より金二十兩を取出し祐然に與へ是は輕少ながら我々より當座の回向料なり尚又江戸表へ立歸らば宜く披露致し御沙汰有之候樣取計ひ申すべしと挨拶に及び夫より祐然に暇を告げ光照寺をば立出ける是にて平澤村の方は調べ埓明しかば直樣隣村平野村へ立越名主甚左衞門方へ落付村中殘らず呼集次右衞門三五郎の兩人は名主甚左衞門に向ひ其方に尋ねたき仔細あり今より廿二三年以前に平澤村のお三と申す婆當村へ參りしと承まはるが其者は未だ存命なるやまた何方へか參りしやと尋けるに甚左衞門仰の通り慥に寶永二酉年三月頃と覺え候が右お三儀は其娘澤の井と申者相果候より狂氣なし平澤村を追出され所々を流浪致し居不便に存候故途中より連歸り私し明家へ住居させ候に追々狂氣も治り正氣に立歸り以前の如く渡世致し居候内享保元申年十一月廿八日かと覺え候が其日は大雪にて人通りも稀なるにお三には酒に醉ひ圍爐裏へ轉び落相果申候と聞て次右衞門三五郎は役柄なれば早くも心付其死骸を見付し者は何者なるやと尋けるに甚左衞門彼の死骸を最初に見出し候者は私し悴甚之助に御座候其仔細は同日の夕刻雪も降止候に何となく怪き臭致せば近所の者共表へ出で穿鑿致し候に何時何事にても人先に出て世話致し候お三婆のみ一人相見え申さざれば私し悴甚之助不審に存じ渠が家の戸を明初て見出し申候と云に次右衞門は悴甚之助は其頃何歳なりしやと尋るに然ばに候悴儀は寶永元年の生れにて十三歳の時に御座候と答へけるに然らば其甚之助は只今以て存命なるやと尋ねるに甚左衞門參候親の口より我子を譽候は恐入候へ共幼年より發明なれば末頼母敷存居しに生長に隨ひ惡事を好み親の目に餘り候事度々なれば十八歳の時御帳に附勘當仕つり候其後一向に行衞相知申さず村の者共渠が噂を申し甚之助には能方へ赴けば鎗一筋の主共成るべきが惡方へ趣けば馬の上にて鎗を跡へ持せる身に成るべしと專ら取沙汰致候程の者なれども親の心には折々思出し不便に存じ候と涙ながらに申立しにそ此時次右衞門三五郎は顏を見合せ互に心中は今江戸表八山に居る天一坊は多分此甚之助に相違あるまじくと思ひしが然あらぬ體にて其方の悴甚之助は生れ付體面如何有しやと尋ぬるに甚左衞門私し悴は疱瘡重く候故其痕面體に殘り甚だ醜く候と云に扨は人違ならんと又問けるは其方の悴に同年か又一二年違の男子が當村に居しやと尋ぬるに甚左衞門は即ち人別帳を調べ寶澤と申す者有しが夫は盜賊に殺されしと云に其仔細は如何にと尋ぬれば甚左衞門は答へて右寶澤と申すは九州浪人原田何某の悴にて幼年の頃兩親に別れ夫より修驗者感應院の弟子と成りしが十三歳の暮感應院には横死いたし候に付右寶澤へ跡を繼候樣村中相談の上申聞候に渠は幼年ながら發明にて我々へ申候には山伏は艱行苦行する者にて幼年の私し未だ右等の修行も致さず候へば暫く他國致し苦行を修め候上立戻り師匠の跡を繼申度と強て申聞候故村中より餞別に取集め遣はし候金子八兩二分を所持致し出立せしが右金子を所持せし故にや加田の浦にて切害され死骸は海中へ入申候しか相見え申さず此浦には鰐鮫住候故大方は鮫の餌食と相成候事と存られ候衣類并に笠は血に染り濱邊に打上是有候故濱奉行へ御屆に相成候且村中不便に存じ師匠感應院の墓の側へ塚標を相立懇篤に弔ひ遣し候と云に兩士は是を聞より其寶澤の身の上こそ不審なりと思ひ其寶澤と云は常々お三婆の所へ往復致せしかと尋るに如何にも寶澤は常にお三婆の所へ參り既に相果候跡にて承はり候へば其日寶澤は師匠より酒肴を貰持參せし由其酒にて醉伏相果候事と存じられ候と聞より彌々不審思ひ次右衞門申樣右寶澤の顏立下唇に小き黒痣一ツ又左の耳の下に大なる黒痣有しやと聞に如何にも有候と答るにぞ然ば天一坊は其寶澤に相違なしと兩士は郡奉行遠藤喜助に對ひ其寶澤の衣類等御座候はゞ證據にも相成るべく存じ候へば申受度と云に喜助申樣夫は先年某濱奉行勤役中にて笈摺笠衣類は缺所藏の二階の隅へ上置候へば當時の濱奉行淺山權九郎へ申談じ差上申べしと其旨濱奉行へ申達し右の品々を取寄兩人の前に差出せば次右衞門三五郎は改めて見に笠衣類笈摺等一々疵付有共其疵口の不審さに流石は公儀の役人是は盜賊の所爲ならず寶澤人に殺されし體に自身に疵付し者ならんと血に染たる所を見れば年限隔りて黒染みの樣なれば人間の血の染たるとは大に異なりしかば寶澤こそ天一坊に相違なしと三五郎は名主甚左衞門に向ひ山伏感應院の死去せしは病氣なりしやと尋ねけるに甚左衞門病氣は食滯と承はり候と云然らば其時は醫師に見せ候やと聞に參候當村に清兵衞と申す醫師有て夫に見せ候と答ふ然らば其醫師を是へ呼べしとの事に早速人を走らせ清兵衞を呼寄ける三五郎清兵衞に向ひ其方醫道は確と心得ありやと尋けるに少しは心得罷居候と云に又押返して確と醫道を心得居るやといふに今度は確と心得候と答へける然らば感應院病死の節は其方病症をば慥に見留たるやと申すに清兵衞答て感應院の病症は大食滯に候去ながら私し事は病症見屆けの醫には候はず病氣を治す醫師なれば食滯と申し其座を立退候病症見屆の醫師に候はゞ大食滯を申立其場は立去申まじと答ければ感應院の死去は全く毒殺と社知られけり抑々此清兵衞と云は元紀伊大納言光貞卿御意に入の醫師にて高橋意伯とて博學の者なりしが光貞卿の御愛妾お作の方といふに密通なし大納言殿の御眼に觸れ其方深山幽谷に住居すべし家督は悴へ申付捨扶持として五人扶持を遣はすとの御意にて暇になり又た作の方も直に永の暇となり意伯と夫婦に成べしとの御意にて是も五人扶持下し置れしかば意伯はお作の方と熊野の山奧に蟄居し十七年目にて御目通りなし又増扶持として五人扶持下し置れ都合十五人扶持にて平野村に住居し名を清兵衞と改めしなり斯る醫道に精き人なれば今此返答には及しなり然ば天一坊は寶澤に相違なしと郡奉行の荷物を持來し善助と云ふ者元感應院に數年奉公せし故能存じ居ると云を郡奉行へ相談の上見知人の爲江戸表へ連行事と定めけれど老人なれば途中覺束なしと甚左衞門をも見知人に出府致す樣申渡し直に先觸を出し東海道は廻遠し難所にても山越に御下向有べしとて勢州田丸街道へ先觸を出し桐棒駕籠二挺には次右衞門三五郎打乘宿駕籠二挺には見知人甚左衞門善助の兩人打乘笈摺衣類の證據に成べき品々は駕籠の上に付紀州和歌山を出立なし田丸越をぞ急ぎける 第卅三回  此時江戸表には八代將軍吉宗公近習を召れ上意には奉行越前守は未だ病氣全快は致さぬか芝八山に居る天一坊は如何せしやと發と御溜息を吐せ給ひながら是は内々なり必ず沙汰す可らずと仰られたるが斯吉宗公が溜息を吐せ給ふは抑々天一坊の身の上を思し召ての事なり世の親の子を思ふ事貴賤上下の差別はなきものにて俚諺にも燒野の雉子夜の鶴といひて鳥類さへ親子の恩愛には變なし忝なくも將軍家には天一坊は實の御愛息と思召ばこそ斯御心を惱せられし成るべし此は容易ならざる事成と御側御用御取次より御老中筆頭松平伊豆守殿へ此由を申達せらるゝに伊豆守殿も捨置れずと御評議の上小石川御館へ此段申上られける此時中納言綱條卿思召るゝ樣奉行越前病氣屆致せしは自ら紀州表へ取調に參し者か但は家來を遣はしたるか何にも今暫らく日數も掛べし然ながら捨置がたしと伊豆守殿へ仰けるは越前守役宅へ上意の趣き申遣はすべしとの事なれば早速伊豆守殿より使者を以て越前守方へ此度將軍の上意に越前守には未だ病氣全快致さぬか芝八山に居る天一坊は如何せしやとの御事なれば明朝は早速に登城致し御返答申上らるゝか今宵の内に御役御免を願ふか兩樣の内何共決心致さるべしとの趣きを申遣はしたるに此方は越前守は公用人次右衞門三五郎の紀州表へ出立せし其日より夜終行衣を着し新菰の上にて水垢離を取諸天善神に祈誓を懸用人無事に紀州表の取調べ行屆候樣丹誠を凝し晝は一間に閉籠りて佛菩薩を祈念し別しては紀州の豐川稻荷大明神を遙拜し晝夜の信心少しも餘念なかりしに斯る處へ伊豆守殿より使者を受け口上の趣きを聞き茫然と天を仰ぎて歎息なし指屈て數ればハヤ兩人出立なしてより今日は七日目なり行路三日歸り路三日紀州表の調べ早して三日なり然ば九日ならでは歸り難し然るを今宵の中に御役御免を願ば今宵か明日は御親子御對顏あるに相違なし然すれば是迄盡せし千辛萬苦も水の泡となり諸天善神へ祈誓を懸し甲斐もなく嗚呼是非もなし明朝六ツの時計を相圖に悴忠右衞門を刺殺し我自ら含状を致して切腹なすべし然らば當年の内はよも御對顏は有まじく其内には紀州へ遣はせし兩人も調べ行屆て歸るべし斯れば我果しとて後忠義の程顯るべしと覺悟を定め當年十一歳なる悴忠右衞門を呼出し委細に言含め又家中一同を呼出して今宵は通夜を致し明朝六ツの時計を相圖に予は切腹致すなりと申渡されけるに家中の面々大に驚き今宵こそは殿樣への御暇乞なりとて不覺に涙を流し各々座敷へ相詰ける越前守は家中一同を屹度見て池田大助を側近く呼て申樣汝に遺言する事あり明朝は忠右衞門も予と共に切腹致せば予がなき跡は三日を待ず其方并びに次右衞門三五郎は當御役宅へ奉公すべし必らず忠臣二君に仕へずとの聖言を守るなよ此三人は予が眼鏡に止りし者なれば屹度御役に立者なり必ず〳〵此一言を忘るゝな次右衞門三五郎等歸府なさば此遺言を申し聞すべしと言又家中一同の者へ其方共予がなき跡は三日を待ず夫々へ奉公すべし兩刀を帶する者は皆々天子の家來なるぞ必ず忠臣二君に仕へずとの言葉を用ゆるな浪人を致して居て越前の行末かと後指を指るゝな立派な出世致すべし斯てこそ予に對し忠義なるぞと申聞られ一人々々に盃盞を下され夫より夜の明るを待ける此時越前守の奧方には奧御用人を以て明朝君には御切腹悴忠右衞門も自害致し死出三途の露拂ひ仕つるとの事武士の妻が御切腹の事兼て覺悟には御座候へども君に御別れ申其上愛子に先立れ何を樂みに此世に存命べきや何卒妾しへも自害仰付られ度と願はれければ越前守是を聞道理の願なり許し遣はす座隔たれば遲速あり親子三人一間に於て切腹すべければ此所へ參れとの御言葉に用人は畏こまり此旨奧方へ申上げれば奧方には早速白裝束に改められ此方の一間へ來り給ひ涙も溢さず良人の傍に座て三人時刻を待は風前の燈火の如く哀れ墓無有樣なり皆々は目を數瞬き念佛を唱へ夜の明るを怨に長き夜も早晩更行き早明六ツに間も有じとて切腹の用意に掛らるゝに明六ツの時計鳴渡れば越前守は奧方に向ひ悴忠右衞門切腹致さば其方介錯致せ其方自害せば予が直に介錯すべし予が切腹せば介錯には大助致すべしと言付て又忠右衞門に向ひ最早時刻なるぞ後れを取なと言るゝに忠右衞門殊勝にも然らば父上御免を蒙り御先へ切腹仕つり黄泉の露拂ひ致さんと潔よくも短刀を兩手に持左の脇腹へ既に突立んとする折柄廊下をばた〳〵と馳來人音に越前守悴暫しと押止め何者なるやと尋ぬれば紀州よりの先觸と呼はりける越前守是を聞き先觸を此處へと申にぞ其儘に差出せば急ぎ封押開見て是は三五郎の手跡なり此文體にては紀州表の調方行屆たりと相見え勇たる文段なり然ながら兩人の着は是非晝過ならん夫迄は猶豫成難し餘念ながら是非に及ばず悴忠右衞門後を取な早々用意を致せと云言葉に隨て然ば御先へと又短刀を持直しあはや只今突立んとする時亦々廊下に物音凄じく聞えければ越前守何事やらん今暫くと忠右衞門を止めて待るゝに次右衞門三五郎の兩士亂髮の上を白布にて卷野服の儘にて刀を杖に越前守殿の前に駈來り立乍ら大音上天一坊は贋者にて山伏感應院の弟子寶澤と云者なり若君には寶永二酉年三月十五日御早世に相違なし委細は是に候とて書留の控へ差出し兩人は撥と平伏なし私共天一坊贋者の儀を早々申上御安堵させ奉つらんと一圖に存じ込君臣の禮を失ひ候段恐入奉つり候依て兩人は是より差控仕つる可と座を退かんとするを越前守大音上次右衞門三五郎暫待と呼止れども兩士は強て退座せんとするに兩人參らずんば越前守直に夫へ出向ぞと言に兩人は是非なく立戻り越前守が前に出て平伏す是時越前守には次右衞門三五郎の手を取られ兩人の丹精忝けなく思ふなり予が家來とは思はぬぞや迚夫より伊豆守殿より使者に預り捨置難ければ親子三人覺悟なし只今既に忠右衞門切腹するの所ろ兩人の歸着こそ神佛の加護とはいへ全たく誠忠の致す所なりと物語られ悴忠右衞門一代は兩人をば伯父々々と呼べしと言ければ兩人は有難涙に暮厚く御禮申上召連し見知人甚左衞門善助は名主部屋へ入置休息致させける是に依て越前守には池田大助に命じ全快屆の書面を認めさせ公儀へこそは差出されける 第卅四回  扨も越前守には紀州より兩臣歸着にて逐一穿鑿行屆たれば直樣沐浴なし登城の觸出し有て御供揃に及び御役宅を出で松平伊豆守殿御役屋敷を指て急がせられ既に伊豆守殿御屋敷御玄關へ懸て奉行越前守伊豆守殿へ御内々御目通り致度と申入るに取次の者此趣きを申上ければ伊豆守殿不審に思はれ奉行越前は昨夜の内に御役御免を願ふ筈なるに今日全快屆を出し予に内々逢たしとは何事ならんと早速對面ありしに越前守申さるゝには少々御密談申上度儀候へば御人拂ひ願ひたしとの事故公用人一人殘し餘は皆退けらる越前守は再び公用人をも御退け下さるべしと言るゝに伊豆守殿顏色を變是れ越前其方は役柄をも相勤候へば斯程の事は辨へ居るべし老中の公用人は目付代りなり役屋敷に於て密談致す事は元より御法度なりと申さるゝを越前守少しも臆せず左樣に候はゞ是非に及ばず天一坊儀に付少々御密談申上度存じ態々推參仕つり候御聞屆無に於ては致し方なし然れば御暇仕つらんと立懸るに伊豆守殿天一坊の事と聞て何事やらんと心懸りなれば言葉を和らげられ越前天一坊儀と有ば伊豆守も承はらねばならぬ事也とて頓て公用人をも退けられ今は全く二人差向ひに成れける此時越前守申さるゝ樣は私し先達てより天一坊の身分再吟味の役を蒙り候處病氣に付御屆申上引籠り罷在其内に家來を以て紀州表へ調方に遣はし候ひしが今朝漸く歸府仕つり逐一相糺し候處當時八山に旅宿致し居天一坊といふは元九州浪人原田嘉傳次と申者の悴にて幼名を玉之助といひ幼年にて父母に別れ紀州名草郡平野村の山伏感應院の弟子となり名を寶澤と改め十二歳の時お三婆を縊殺し御墨附短刀を奪ひ取十三歳にして師匠感應院を毒殺し十四歳の時村中を僞り諸國修行と號し平野村を立出其夜加田の浦にて盜賊に殺されし體に拵へ夫より同類を語らひて將軍の落胤なりと名乘出候に相違有間敷候此度見知人も是有彼地より兩人同道にて連參候なりと委敷申述けるに伊豆守殿斯と聞て仰天し暫々言葉も無りしが稍有て仰けるは越前は能も心付たり定めて御褒美として五萬石は御加増有べし夫に引替此伊豆守は半知と成て御役御免に相成可しと悄々として言ければ越前守打點頭私し儀御加増を望立身を心懸候心底には候はず左樣の存じ寄あらば何とて今日御役宅へ御密談に參り可申や配下の身として御重役の不首尾を悦ぶ所謂なし只今申上候御密談と申は外の儀に候はず伊豆守殿には拙者より先へ御登城なされ將軍家へ天一坊儀は重役共より先達て身分相調べ候處全く將軍の御子樣に相違なく存じ奉つり此段言上仕り候へ共退いて能々勘考仕つり候へば不審の廉々も御座候故奉行越前心付し體に仕り内々吟味致させ候に天一坊儀は全く贋者にて山伏感應院の弟子寶澤と申す賣僧に御座候と仰上られなば伊豆守殿の御落度にも相成まじ又私しよりも伊豆守殿の御心付にて御内密仰含められ候に依て内々にて吟味仕り候處贋者に紛れ御座なく候と言上仕り候らはゞ双方の言葉符合致すべしと云に伊豆守殿には聞て大に悦び給ひ然らば越前其方が申通り伊豆守より言上致すべし其方も相違なく左樣に言上致され候や其節に及び双方の申立相違致ては伊豆守が身分にも相懸候儀なれば能々承知有たし只今の口上に異變なきやと再應仰らるゝにぞ越前守顏を正し私しより申上候儀なれば毛頭相違は御座なく候と答へらるゝに然らば越前同道にて登城可致と御供觸を出され御同道にて御登城に及ばれ伊豆守殿には御用御取次を召て仰けるは伊豆守越前守倶に言上の儀有之候に付御目見得下し置れ候樣御取次有べしとの事なれば御用御取次は此段早速言上に及ばれける將軍家にも奉行越前病氣全快と聞し召れ御悦氣にて早速召出され御目見仰付らる此時伊豆守殿には天一坊儀上樣の御落胤に相違なしと存じ奉つり先達て此段上聞に達し候へ共退きて倩々考へ候へば聊か不審の事も御座候故御證據は慥の御品ながら當人は若紛らはしき者にやと心付候へ共重役共一同申上候儀を變じ候も如何と存じ奉つり越前へ内意仕つり同人心付候由にて吟味致させ申候處果して天一坊儀は贋者に相違御座なく候と委敷言上に及ばれければ將軍には能々聞し召れ越前守に向はせ給ひ予は全く越前が心付しと存ぜしが實は伊豆が心付て内意有たるに相違なきや越前如何ぢやとの上意に越前守發と平伏なし只今伊豆守より言上仕り候通り毛頭相違御座なく候委細は此書面に認めしとて書付を出さるれば御用御取次是を受取將軍家へ差上る御直に御覽あるに當時天一坊と名乘候者は元九州浪人原田嘉傳次の悴にて幼名玉之助と呼幼年にて兩親に別れ平野村の山伏感應院の弟子となり寶澤と改名し十二歳にしてお三婆を縊殺御墨附御短刀を奪ひ取十三歳にて師匠を毒殺し十四歳の春紀州加田の浦にて盜賊に殺されし體に取拵へ夫より所々を徘徊なし同類を語らひ此度將軍家の御落胤と名乘出候に相違御座無確と記し有を御覽遊ばし殊の外御顏色變らせ給ひ憎き坊主めが擧動なり仕置の儀は越前が心に任すべし此段兩人同道にて水戸家へ參り左樣に申べしとの上意に直樣伊豆守殿越前守同道にて小石川の御館さして急行ける小石川にては綱條卿今朝奉行越前病氣全快屆けを出せし由定めて屋形へも越前參るべしと思召遠見を出すべしとの御意にて則ち遠見の者を出されけるに此者下馬先にて越前守伊豆守殿と同道にて小石川御屋形の方を指て來るを見るより急ぎ馳歸りて只今松平伊豆守殿大岡越前守御同道にて御館を指て參られ候なりと申上るに中納言綱條卿斯と御聞とり遊し伊豆守同道とは何事ならんと御待有けるに間もなく兩人御館へ參られ伊豆守越前守同道參上仕り御目見を願ひ奉つると取次を以て申上るに中納言綱條卿は如何思召けん伊豆守は控させよ越前守ばかり書院へ通せとの御意にて越前守を御廣書院へ通し伊豆守殿をば使者の間へ控へさせられたり間もなく綱條卿には御廣書院へ入らせられ越前守に御目見仰付らる此時越前守少しく頭を上申上らるゝ樣は先達て私し心付候由にて天一坊身分再吟味の儀願ひ奉つり則ち御免を蒙り候へ共是は私しの心付には御座なく全く伊豆守心付なり然共先達て將軍の御落胤に相違なしと上聞に達し其後の心付なりとて一旦重役共申出し儀を相違仕つり候ては御役儀も輕く相成候故私しの内意仕つり候に付私再吟味御免を蒙り其後病氣と披露仕つり引籠り中家來を以て紀州表相調べ候に天一坊儀は贋者に相違是なく委細は此書面に御座候と差上らるゝに綱條卿是を御手に取せ玉ひ御覽有るに全くの若君には寶永三酉年三月十五日御誕生にて直御早世澤の井も其明方に同じく相果平澤村光照寺へ葬り右法名共に寫し有て且天一坊は原田嘉傳次が子にして幼名を玉之助といひ七歳にて兩親に捨られ山伏感應院の弟子となり十二歳の時お三婆を縊殺し十三歳の冬師匠感應院を毒殺し十四歳の年諸國修行と僞り加田の浦にて盜賊に殺されたる體にし夫より諸國を經廻り同類を語らひ今般將軍の御落胤なりと名乘出候に相違御座なく候と認めたれば扨々憎き惡僧なり如何に越前此調は伊豆守の内意を受て紀州表を吟味致したりと申せ共全くは左樣には非ざるべし其方が心付しに相違有まいな其方重役の身を思ひ功を他に讓る心なるべし予が眼力によも相違は有るまじと再三仰らるゝに越前守恐れながら言葉を返へし奉つるに似候へ共私存じ仕候樣に申上しは僞言にて實は伊豆守よりの内意を受候に相違御座なく候と申上げるに綱條卿の御意に越前予に對して詞を返へし候段は忘れて遣すとの御意なりしか 第卅五回  此時中納言綱條卿の御意には伊豆守を是へ呼出すべしとの事なれば伊豆守殿には案内に連て恐々出來り平伏ある中納言綱條卿には芝八山に旅宿致居る天一坊の身分調方伊豆其方が心付にて内意致し奉行越前が心附し體に計ひ再吟味を願ひ紀州表を相調べ穿鑿方行屆候由只今越前より左樣に申せしが伊豆が内意致せしに相違なきやとの御意なれば伊豆守殿には恐入越前より言上仕り候通り相違御座なく候と申上げれば綱條卿には伊豆守は能配下を持て仕合者なりとの仰せに伊豆守殿は胸中を見透され針の莚に坐する如く冷汗流して控へらる此時綱條卿には越前天一坊の仕置の儀は其方が勝手に致べし予が免ぞ越前は小身者なれば天一坊召捕方の手當等はむづかしからん伊豆其方より萬端助力致遣はし早々其用意を致べしとて御暇を下し置かる是に依て伊豆守殿には發と息を吐漸く蘇生したる心地して退出なし役宅へこそ歸られける扨越前守は跡へ殘り御懇意の御言葉を蒙り御暇を給はり面目を施して勇進んで御役宅へ歸り早速公用人二人を呼出し次右衞門に言付けるは其方是より芝八山へ參り明る巳の刻越前役宅へ天一坊參候樣申聞べし必ず悟られるなと心付られ又三五郎を呼て其方は天一坊召捕方手配を致べしと仰付られ池田大助には天一坊召取方を申付らる是に依て三五郎は以前の如く江戸出口十三ヶ所へ人數を配り先品川新宿板橋千住の大出口四ヶ所へは人數千人宛固させ其外九ヶ所の出口へは人數五百人宛を守らせ沖の方は船手へ申付深川新地より品川沖迄御船手にて取切御備の御船は沖中へ押出し其外鯨船數艘を用意し嚴重に社備ける然ば次右衞門は桐棒の駕籠に打乘若徒兩人長柄草履取を召連數寄屋橋御門内御役宅を出芝八山を指て急ぎ行しが道々思案するには先達て赤川大膳を名指にせしが此度も又大膳に對面なさんか否々若し山内伊賀亮が側より聞て悟らば一大事なり然ば此度は伊賀亮を名指にて渠に對面して欺き課せん者をと工夫を凝し頓て八山の旅館に到り案内を乞ふに中村市之丞取次として出來れば次右衞門申やう町奉行大岡越前守使者平石次右衞門天一坊樣御重役山内伊賀亮樣に御目通り致し申上度儀御座候此段御取次下さるべしと有に市之丞此旨伊賀亮へ申通じけるに伊賀亮熟々思案するに奉行越前病氣と披露し自分に紀州表へ調べに參りしに相違なし然ば往三日半歸り三日半調べに三日懸るべし越前病氣引籠りより今日は丁度八日目なり十日過ての使者なれば彌々役宅へ呼寄て召捕工風なるべけれど四五日早く使者の來る處を見れば謀事成就せしと相見えたり迚次右衞門を使者の間へ通し頓て伊賀亮對面に及びたる此時次右衞門申けるは越前先日以來病氣に候處少しく快き方にて御座候故今日押て出勤致し候一體越前守參り以て申上べきの處なれど未だ聢と全快も仕つらず候故私しを以て此段申上奉り候明日は吉日に付御親子御對顏の御規式を御取計ひ仕り候尤も重役伊豆守越前役宅迄參られ天一坊樣へ御元服を奉り夫より御登城の御案内には伊豆守は勿論西の御丸へ直らせられ候節は酒井左衞門尉より御鎗一筋獻上仕り候事吉例に候へ共左衞門尉は在國出羽鶴が岡に罷り在候に付名代として伊豆守より猿毛の御鎗一筋獻上仕り候上樣よりは御祝儀として御先箱一ツ御打物一ト振右は雨天に候節は御紋唐草の蒔繪の柄晴天に候へば青貝柄の打物に候大手迄は御譜代在江戸の大名方出迎へ御中尺迄は尾州紀州水戸の御三方の御出迎にて御玄關より御通り遊ばし御白書院に於て公方樣御對顏夫より御黒書院に於て御臺樣御對顏再び西湖の間に於て御三方樣御盃事あり夫より西の丸へ入せられ候御事にて御高の儀は吉例四國なれば上野國にて廿萬石下總國にて十萬石甲斐三河で廿萬石都合五十萬石上野國佐位郡厩橋の城主格に御座候と辯舌爽に申述猶申殘しの儀は明日成せられ候節越前直々に言上仕つり候と申演終れば伊賀亮是を聞て扨は事成就せりと心中に悦びける是餘人成ば城中の事委くは知ざれば疑しく思べけれ共伊賀亮は城中の事を能心得居る故今次右衞門のいふ處一々理に當れば偵の伊賀亮も心を弛し此計略には乘られたるなり扨伊賀亮は奧へ來り皆々に此趣を申聞せ伊賀亮所持の金作の刀を持出て次右衞門に向ひ越前守より申越れし段上樣へ申上候處御滿足に思召し明日巳の刻に越前役宅へ參るべしとの上意なり是は余が所持の品如何敷候へども其方へ遣はすとて一刀を差出せば次右衞門は此刀を申請厚く禮を述暇を告て門前迄出先々仕濟したりと發と一息吐て飛が如くに役宅へ歸り此趣きを越前守へ申上彌々召捕手筈をなしにける斯て八山には皆々打寄實に明日こそ御親子御對顏に相成に付最早事成就せりと次右衞門が計略に乘りしとは知らず大いに悦び斯樣なる悦しき事は一夜を待明すなりとて伊賀亮が計ひとして金春太夫觀世太夫を呼で能舞臺に於て御悦びの御能を催しける然るに其夜亥の刻とも覺敷頃風もなくして燭臺の燈火ふツと消えければ伊賀亮不審に思ひ天文臺へ登りて四邊を見渡すに總て海邊は數百艘の船にて取圍み篝を焚品川灣を初め江戸の出口十三ヶ所へ人數を配固めたる有樣なれば伊賀亮驚き最早事露顯せしと見たり今は是非に及ばず名も無者に召捕るゝは末代迄の恥辱なり名奉行と呼るゝ越前守が手に掛らば本望なり大坂御城代京都諸司代御老中迄も欺きし上は思殘す事更になしと自分の部屋へ來りて鏡を取出し見れば最早顏に劔難の相顯れたれば然ば明日は病氣と僞り供を除き捕手の向はぬ内に切腹すべしと覺悟を極め大膳の許へ使を立伊賀亮事俄に癪氣差起り明日の所全快覺束なく候間萬端宜敷御頼み申也と云送り部屋へ引籠り居たりける扨其夜も明辰の上刻と成ば天一坊には八山を立出で行列以前よりも華美に粧ひて藤井左京赤川大膳供頭となりて來る程に途中の横町々々は大戸を〆切町内々々の自身番屋には鳶の者共火事裝束にて詰家主抔も替り〴〵相詰たり數寄屋橋御見附へ這入ば常よりも人數夥多しく天一坊の供殘ず繰込を待て御門を礑と〆切たり越前守御役宅へ到れば大門を開き敷臺迄駕籠を横着になし平石次右衞門池田大助下座敷に平伏す時に越前守には繼上下にて敷臺迄出迎へ上段の間へ案内し是にて暫く御休息遊すべし其内には伊豆守參上仕つるべし迚退かる簾の前には常樂院赤川大膳藤井左京諏訪右門各々威儀を正して居竝たり越前守は見知人の甚左衞門善助を御近習に仕立寶澤に相違なくは余が袂を引べし夫を相圖に召捕べしと申渡し彼紀州より持來りし笈摺には紀州名草郡平野村感應院の弟子寶澤十四歳と記し所々血汐に染し品々を壁に懸置最早手筈は宜と越前守簾の間へ來りて控居る然る所へ伊豆守殿の使者來り申述けるは今日伊豆守當御役宅へ參りて元服奉るべきの所今日佐竹左京太夫殿江戸着にて伊豆守上使に參り今日は御規式の御間に合兼候由何共恐れ入奉り候へ共明日巳の刻に越前役宅へ入せられ候樣願上奉ると有ければ越前守には大膳に向ひ只今御聞の通り伊豆守方より斯樣に申參り候へば迚も今日の儀には參り申さず恐れながら明日又々入せられ候樣願ひ奉ると申に大膳も此趣きを天一坊へ申傳へるに伊豆守役儀と有ば是非に及ばず又明日參るべしとの事にて頓て歸館々々と觸出しければ天一坊は上段の間より靜々と下り立ちけるに引續いて常樂院大膳左京右門の輩ら玄關指て歩行けり 第卅六回  天一坊初め一味の輩町奉行御役宅の玄關指て出けるに豫て越前守が見知人として近習に仕立召連し彼甚左衞門善助は此時ぞと天一坊を能々見れば紛れもなき寶澤なれば越前守に目配せなし密かに袂を引たりける此時は天一坊は既に玄關迄來りしが向の壁に懸し笈摺を見て偵大膽不敵の天一坊なれど慄然と身の毛よだち思はず二足三足跡へ退くを見て取越前守大音に寶澤待と聲を懸けければ此方は彌々愕然し急に顏色蒼醒後の方を振返るに夫召捕と云間も有ず數十人の捕手襖の影より走り出難無高手小手に繩をば懸たりける斯と視るより大膳は事顯はれしと思ければ刀引拔勢ひ猛く縱横十文字に切て廻り切死せんと働くを大勢にて取籠めつゝ階子を以て取押へ漸く繩をぞ懸たりける此間に常樂院藤井左京諏訪右門等各々召捕れ其餘一人も殘ず召捕たり越前守は豫て手配せし事なれば急ぎ八山へ捕方を遣はせしに山内伊賀亮は早くも覺悟し自分の部屋へ火を懸て燒立其中にて切腹し果たれば死骸は更に分ずとなん惡徒とは云へ天晴の器量人と稱すべし斯て越前守には御目附野山市十郎松田勘解由等立合にて一同呼出し先天一坊を吟味に及ばれけるが只々伊賀亮萬事を取計ひしゆゑ委細は存じ申さずと云に然らばとて常樂院其餘の者を吟味するに是も同斷の答へゆゑ入牢の上嚴重に拷問を懸られたれば終に殘らず白状に及びける是に依て伺ひ相濟享保十一丙午年の十一月廿一日町奉行所に於て大岡越前守御勘定奉行駒木根肥後守筧播磨守野山市十郎松田勘解由立合にて大岡越前守左の通り申渡されける 元長州浪人原田嘉傳次悴 玉之助 當山派修驗感應院弟子 となり其後改寶澤當時 獄門           天一坊 其方儀感應院の師恩を辨へず西國修行に罷り出度由申立欺きて諸國を遍歴し徒黨を集め百姓町人より金銀を掠取り衣食住に侈奢をなしたる段上を恐ざる致方重々不屆至極に付獄門申付る 天一坊家來 死罪           赤川大膳 右大膳儀先年神奈川旅籠屋徳右衞門方に於て旅人を殺害し金子を奪取其後天一坊に一味致謀計虚言を以て百姓町人を欺き金銀を掠取り衣食住に侈奢身の程をも辨へず上を蔑しろに致たる段重々不屆に付死罪申付る 天一坊家來 死罪           藤井左京 其方儀天一坊へ一味致し謀計虚言を以て百姓町人を欺き金銀を掠取り衣食住に侈奢身の程をも辨へず上を蔑しろに致たる段重々不屆に付死罪申付る 美濃國各務郡谷汲郷 長洞村日蓮宗 遠島           常樂院天忠 其方儀天一坊身分聢と相糺さず百姓町人を欺き金銀を掠取り候段上を蔑しろに致し重々不屆に付遠島申付る(八丈島) 芝田町 重追放          山伏南藏院 其方儀天一坊身分聢と存ぜずとは申ながら常樂院に頼まれ假住居の世話申候段不埓に付重追放申付る 品川宿地面賣主 過料五貫文        儀右衞門 其方儀天一坊身分聢と相糺ず地面賣遣はし候段不埓に付過料五貫文申付る 品川宿名主 身分取上         茂太夫 其方儀天一坊身分聢と相糺さず萬事華麗の體たらく有しを如何相心得居申候や訴へもせず役儀をも勤ながら心付ざる段不屆に付退役申付る 天一坊家來 本多源右衞門 南部權兵衞 遠藤森右衞門 中追放          藤代要人 諏訪右門 浮木立平 高間左膳 右七人の者共天一坊身分聢と相糺さず主從の盟約を致し候段不屆の致し方に付中追放申付る 天一坊家來 高間權内 石黒善太夫 輕追放          福島彌右衞門 矢島主計 右四人の者同斷に付輕追放申付る 天一坊家來 木下新助 澤邊十藏 松倉長右衞門 高岡玄純 門前拂          上國三九郎 近松源八 相良傳九郎 森川玄蕃 右八人の者共同斷に付門前拂申付る 天一坊家來 作右衞門 權助 石平 傳藏 專藏 無構           八助 半五郎 六左衞門 源七 八内 右十人の者共は請人へ引渡し可申事 時に享保十一丙午年十一月廿一日右の通り裁許相濟其外金子差出候者共は呼出しの上夫々相當の過料申付らる斯て天一坊一件善惡邪正明白に決斷相濟み落着となりければ此段上聽に達しける將軍家の上意に若越前無ば彼惡僧に誑られん者と深く御稱美有て三州額田郡西大平に於て一萬石加増仰付られ越前守是迄の心勞一方ならざりしも其甲斐ありて愁眉を開かれける扨又平石次右衞門吉田三五郎の兩人より越前守へ言上彼若君澤の井の死骸を葬りし光照寺へ永代佛供料として十八石の御朱印を下し置れける是偏に住持祐然が發明頓才の一言に依て末代寺號を輝かせり且又見知人として出府せし甚左衞門善助の兩人へは越前守より目録其外の品々を賜り目出度歸國致ける然ば曲れる者は折易く直なる者は伸易しとか山内伊賀亮程の器量ある者も惡事に組し末代の今に到る迄其汚名を殘しけるが越前守には明智を以て斯る惡事を見顯し忠功を立後世迄も美名を海内に輝かし子孫の繁榮を遺すは最有難き事共なり 天一坊一件終 白子屋阿熊一件 白子屋阿熊一件 第一回  賢にして財多ければ則ち其志を損じ愚にして財多ければ則ち其過ちを益且夫富貴は衆の怨なりと此言や宜なるかな享保の頃麹町二丁目に加賀屋四郎右衞門とて間口十八間餘番頭手代丁稚五十餘人其外下女下男二十人夫婦に子供都合七十人餘の暮しにして地面四五ヶ所を持呉服物を商ひ日々繁昌なすに近頃其向へ見世開きをなして小切太物を鬻ぐ駿河屋三郎兵衞と云者ありしが此方は新規の小見世と云向ふは所に久しき大店なれば客足も自然向ふへのみ行勝なれども加賀屋よりも折にふれては代呂物の融通等もなし出入邸の商ひをして取續き居たれども或年三月節句前金二十兩不足にて勘定立ざれば是非なく向ふの加賀屋へ到り亭主に逢て此節句前二十兩不足ゆゑ問屋の拂ひ行屆ざるに付何卒節句過まで金子借用致し度旨只管頼みければ此四郎右衞門は情有者にて夫は嘸御難儀ならん向前と云類商賣の事なれば此度に限らず御都合次第何時にても御遠慮なく仰越れよと快よく貸ければ三郎兵衞大いに悦び書付を入れんと云に四郎右衞門書付には及び申さず御同商賣の事故互ひに融通は致す筈なりと眞實面に顯れければ三郎兵衞は誠に忝けなしと厚く禮を述て歸らんとするを四郎右衞門先々と引止下女に云付酒肴を出し懇切に饗應て三郎兵衞を歸しけり其後三月十日に三郎兵衞二十兩加賀屋へ持參し先達ての禮を述て返濟なし其節も馳走に成しが其後五月節句前又三十兩不足に付借用致し度と云ければ四郎右衞門は以前の如く快よく貸しを夫も五月十日に返濟なし七月盆前に五十兩借是又同廿日に返し九月節句前にも八十兩借同月晦日に返濟せしが扨今度は十二月となり年の暮なれば誰も金を貸ぬ時分なるに此四郎右衞門は如何にも眞實者なれば困ると聞て利も取らず極月金百兩貸たり斯の如く鰻登りに借る事三郎兵衞素より心に一物あれば此百兩の金を十二月大晦日に持行けるが四郎右衞門其日は殊の外勘定に取込居三郎兵衞の來りても碌々挨拶もせず帳合を爲居たりし所へ三郎兵衞右の金百兩を返濟しければ其儘硯筥の上に置て下女に申付酒肴を出させ三郎兵衞を饗應ながら猶帳合をなし居ける中邸方より六ヶ敷拂ひ殘りの掛合などありて四郎右衞門も忙敷居たり立たりせし紛れに三郎兵衞は掛硯筥の上に置たる彼の百兩を竊と取て懷中へ入たるを誰も知る者なかりしが其後三郎兵衞は姑く話をなして歸りける跡にて四郎右衞門彼の百兩を仕廻んとするに見えざれば萬一忙敷紛れ外の金子の中へ這入りはせぬかと種々尋ぬると雖も一向知れず大晦日の事ゆゑ邸方より二百兩三百兩づつ度々來るに付入帳には付けたれども百兩不足に受取しや合點行ずと種々考ふれども帳合合ず然るを下女の中にて三郎兵衞を少し疑ふ者ありしが夫は證據なき事とて是非なく今年の厄落しと斷念め帳面を〆切しが是を不幸の始として只一人の娘に聟を撰み跡をも繼せんと思居たりしに其年五月大病にて死亡しにぞ其力落しより間もなく妻も病死なし僅か一年の中に妻子に別れ夫より手代なども引負して掛先の損多く斯程の身代も一瞬の間に不手廻になり四郎右衞門も大病を煩ひ漸く全快はなしたれども足腰弱り歩行事叶はず日々身代に苦勞なすと雖種々物入嵩み五年程に地面も賣拂ひ是非なく身上を仕舞て今は麹町加賀屋茂兵衞と云る者の方に掛人にぞなりたりける此茂兵衞と云は四郎右衞門に數年勤めし者なりしが資本金を與へ暖簾を分加賀屋茂兵衞とて同六丁目にて小切類を商ひ居ると雖も元來細き身代なれば漸々其日を送るのみ四郎右衞門は此中へ掛り人となる程なれば其零落思ひ遣られしなり然るに駿河屋三郎兵衞は彼の百兩を取てより其金を資本として是より見世の者へ云付代物に色を付景物に手拭等を添て商ひ或は金一分以上の買人には袖口か半襟などを負て賣ければ是より人の思ひ付よく追々繁昌なすに隨ひ見世をも廣げ手代丁稚も大勢抱へ今は一廉の身代となり向ふの加賀屋衰へるに引變彌々繁昌なしけるが加賀屋四郎右衞門は茂兵衞方へ引取れし後其身病勝の上老衰して漸々近所を歩行位なれば四郎右衞門倩々考ふるに斯爲事もなく茂兵衞方に居れども渠も貧窮の身ゆゑ何卒少しにても茂兵衞の資本を助け遣り度と或時駿河屋三郎兵衞方へ到り御亭主へ御目に懸り度と云を番頭は四郎右衞門が見苦敷姿を見て古へを思へば氣の毒に心得奧へ通しけるに三郎兵衞は若い者を大いに叱り四郎右衞門來たらば留守と云て歸せと申に若い者お宿に居らるゝ旨申せしかば今更然樣には申されずと云故三郎兵衞不承々々に面會なし何用有て來られしやと申ければ四郎右衞門段々との不仕合を物語り昔其許に金子を用立し事も有により昔を忘れ給はずは斯の如く難儀せし間少しの合力に預り度と詞を卑ふして頼けるに三郎兵衞は碌々耳にも入ず合力は一向なり申さず勿論昔は借用致したれども夫は殘らず返濟したり然すれば何も申分有べからずとの返答に四郎右衞門成程其金は受取たれども仕舞の百兩は大晦日の事にて帳へは付ながら金は見え申さず不思議の事と思へども最早夫は昔の事我等が厄落しと存じ思切て濟したり夫を申立るには非ず當時茂兵衞が身代惡く我等へ扶助も難儀の樣子なり其上斯病身に相成手助もなし難きにより切て聊かなりとも資本を助け度存ずるに付昔し貸たる利分と思ひ少々の金を貸給へと云けれども三郎兵衞更に承知せず外の話に紛して取合ざれば四郎右衞門も大いに腹を立此ほど事を譯て頼むに恩を知ぬ人非人なりと罵りけるに三郎兵衞大いに怒り人非人とは不禮千萬と云樣銀煙管を以て四郎右衞門の頭を打ければ額より血流れけるに四郎右衞門今は堪忍成難しと思へども其身病勞て居るゆゑ何共詮方なく無念を堪へ寥々とこそ歸りけれ 第二回  其後又湯屋にて出會し時三郎兵衞は四郎右衞門を捕へ此乞食めと人中にて散々罵り恥しめければ今は四郎右衞門も腹に居兼大いに憤ほりけれどもとても腕づくにては叶ひ難しと思ひ其日も堪て歸りしが不圖心付我が日來信心なす金毘羅へ祈誓を寵呪ひ呉んと三郎兵衞の人形を拵へ是へ釘を打て或夜三郎兵衞が裏口より忍び入り居間の縁の下に埋め置是で遺恨を晴さんと思ひしは貧苦に迫りし老人の愚なり折節臺所の男共小用に起しが裏口の明てありしを不審建んとなす時迯出す人あるにより夫盜人よ出逢々々と大聲に呼はりけるに大勢馳來りて見れば加賀屋四郎右衞門なり皆々是は人違ひ成んと云に三郎兵衞之を見て否々人違ひに非ず盜賊は此者に相違なく此程我に無心を云掛けしを聞ざる故盜に入しならん直樣訴へ申べしと云を町内の人々來り我等に預け給へとて無理に四郎右衞門を連歸り元は此所の分限者なりしを盜賊に落さんも氣の毒に思ひ家主の宅へ寄合ひ四郎右衞門に譯を尋ぬるに前々の始末を殘らず話し又此頃湯屋にて惡口されし事如何にも殘念に存て斯々は爲ど盜みに入りしには非ずと申ければ是を聞て皆々三郎兵衞は人に非ずと憎み四郎右衞門を憫然に思ひて町内申合無盡を取立金子十兩拵らへて與へければ大いに悦び茂兵衞も倶々禮を云て悦びけり然るに三郎兵衞は四郎右衞門を盜賊に陷し殺さんとせしに皆々に止められしが猶所々を改め見るに我が居間の縁の下より怪き箱を探し出し蓋を明けるに己を呪ふ人形なれば大いに怒り夫より呪咀の始末を書記し町奉行大岡越前守殿へ訴へ出しかば則ち駿河屋三郎兵衞加賀屋四郎右衞門并に茂兵衞町内の者共一同呼出され吟味有しに皆々四郎右衞門が申せし通りを申立ければ大岡殿三郎兵衞を呼れ其方前々四郎右衞門より金子借用せしに相違なきやと尋問られしに三郎兵衞御意の如く十ヶ年以前三月節句前に金廿兩五月三十兩七月五十兩九月八十兩十二月百兩借候へども其節々殘らず皆濟仕つり其後四郎右衞門不勝手に相成私し方へ無心に參り候處ろ取合申さず右を遺恨に存じ呪咀致せしに相違なく何卒御吟味願ひ奉つると申立ければ大岡殿吟味有しに四郎右衞門呪咀致せしに相違なし然れども末に百兩返濟の時其金見えず既に其節三郎兵衞を疑ひし者も御座りしかど證據なき事故厄落しと心得相濟し候夫を今更申には御座なく候へども貧窮の餘り無心申せしより斯の仕合せと申に付大岡殿コリヤ三郎兵衞彼百兩は彌々返濟なせし哉暮の事に取紛れ萬一忘却致したるにはあらずや篤と考へ見よ僞り包むに於ては屹度糺問致すぞ其方鰻登りに金を借る程の者なれば油斷ならざる男なりと言れし時三郎兵衞はギヨツとせし樣子を見られしが又四郎右衞門は身代の果程有て困つた事をなし不便の至りなり勿論呪咀の科は屹度申付るぞ然ど三郎兵衞は其百兩の金彌々返濟したるや否や明白に返答致すべしと有ば三郎兵衞ハツと云のみ何とも返答なし大岡殿又三郎兵衞に向はれ其方は左右物忘れ致すと見えたり忘れし事を思ひ出すには閑靜なる所がよきものなり因て見張を附るにより明長屋へ到り篤と考へ見よとて同心に遠見を致させ裏手の明長屋へ入られ凡そ二時餘り過て又白洲へ呼出されいまだ考へ出ずば又明日出よ尤も其方の宅は終日客も入來り騷々しからんにより日々奉行所へ出明長屋にて思ひ出す迄考ふべしと申渡され一同下られしかば三郎兵衞は我が家に歸り熟々考けるに若返濟せぬならば明日又々明長屋へ入れらるべし如何致したれば宜しからんと困り居るを家内の者ども皆々三郎兵衞に向ひ是は全く忘れ居たりとて差出す方宜しからん只今の身上にて百兩の金は然のみ難儀にも成るまじと申けるにぞ三郎兵衞も詮方なく翌日百兩持參して出しに大岡殿如何に三郎兵衞いまだ思ひ出さずや然らば又々長屋に行て考へ見よと申されければ三郎兵衞否其金の儀は全く失念致し居りしに相違是なく候と云により然ば未だ返さぬのかと念を押れしに三郎兵衞然樣なりと申しける故彌々其方四郎右衞門より借用致したるに相違なくは右百兩の金に十年の利分を算ふれば廿五兩一分の利にして百二十兩となる依て元利合せて二百二十兩四郎右衞門へ返すべし早速宿元より取寄べしと申渡さる誠に理の當然なれば三郎兵衞は是非なく畏るとは申ものゝ只今二百二十兩の金子匇々以て出來兼候により何分御勘辨下さるべしと申を大岡殿大いに叱られ其方二百二十兩出す事難儀なりと申せども其方が借し金を忘却せし爲め四郎右衞門如何程か難儀致したらん然れども出來るに於ては只今百五十兩出すべし是を出さずんば牢舍申付んと申されける故是非なく三郎兵衞家より五十兩取寄合せて百五十兩出しければ大岡殿元利百五十兩四郎右衞門に請取せ殘金七十兩は三十五ヶ年賦に致し遣せ如何に三郎兵衞殘金は毎年金二兩宛四郎右衞門方へ屹度渡すべし右七十兩相濟次第四郎右衞門は相當の御仕置仰付らるべし町役人共四郎右衞門は殘金相濟まで其方共へ預置なり然樣心得よと申渡されしは天晴頓智の裁許にして正直を助け惡を懲さるゝ事萬事斯の如しとかや 此四郎右衞門は當年六十五歳の老人なり夫を是より三十五年の間殘金の勘定に懸らば是何歳に至るぞや大岡殿の仁心思ふべし 第三回  茲に上州より太物を商ふて毎年江戸へ出る商人に井筒屋茂兵衞金屋利兵衞と云者あり平生兄弟の如く親類よりも中睦しかりしが兩人の妻とも此頃懷姙なし居たり或時江戸より歸る道々の咄に利兵衞は茂兵衞に向ひ私は今年四十になり始めて子と云者を持ちたり貴殿は二十歳ばかりの子息あれば今度生れたりとも私し程には思ふまじと云に井筒屋は首を振我成人の悴は有れども貴殿も知ての通り五年以前出家して諸國へ行脚に出たれば我が子でも我子に非ず末の役には立難し夫に付一ツの相談あり今兩人の妻同月の産なれば生れし子が男女ならば夫婦にすべし又男子ばかりか女子ばかりならば兄弟として成人の後まで一家となすは如何にと云ふに金屋も至極望む所なりと兩人未前の約束をなし夫より國許へ歸れば間もなく兩人の妻安産なし金屋の方は女子にて名をお菊と呼び井筒屋の方は男子にて吉三郎と名付互ひの悦び大方ならず豫て約束の如く夫婦にせんと末を約して各々妻にも其趣きを云聞せ是より兩家別して睦しく交際けり然るに兩人の子供も丈夫に成長なす中疾吉三郎十三歳と成し時父の茂兵衞大病を煩ひ種々療養を加へけれども驗しなきゆゑ茂兵衞の枕元へ金屋利兵衞を始め家内殘らず呼集め我此度の病氣全快覺束なし因て江戸の得意を利兵衞殿へ預け申なり悴吉三郎成人迄何卒我が得意先を宜敷御廻り下さるべし是のみ心懸り故縁者同樣の貴殿なれば此事頼み置なり又妻子のことも宜くお世話下されよと遺言なし夫より悴吉三郎に向ひ利兵衞殿娘お菊は其方と胎内より云號せしに付利兵衞殿を父と思ひ大切にせよ必ず何事も同人の意に背く事勿れと能々教訓して五十三歳を一期となし終に空しくなりしかば是より利兵衞は毎年江戸の得意井筒屋の分迄も一人にて廻りける故俄に商ひ多く忽ち多分の金子を儲け二人前稼けるにぞ五六年の中に餘程の金を貯へしが後には江戸へも見世を出さんと通り油町へ間口十間奧行は新道迄二十間餘の地を買土藏もあり立派なる大身代となり番頭若い者都合廿餘人に及びける事偏に井筒屋茂兵衞が多分の善得意を己が得意と一ツにし一手にて商ひせし故なり然るに又上州の吉三郎并に母のお稻兩人は利兵衞が江戸へ店を出さば早速迎ひに來る約束なるに三四年立ども一向に沙汰もなければ餘儀なく吉三郎は人の周旋にて小商ひなどして親子漸く其日を送り江戸より迎ひの來るを今か〳〵と樂み居たれど案に相違して其後一向手紙も來らず此方よりは度々文通すれども一度の返事もなきにより今は吉三郎の母のお稻も大に立腹し夫茂兵衞が臨終に那程迄に頼みしを忘れはせまじ餘り情なき仕方なりと利兵衞を恨みけるが吉三郎は素より孝心深ければ母を慰め利兵衞殿斯の如く約束を變じ音信をせざればとて此方に於て如何共爲術なく樣子も分らざれば若や病死にても致されしや假令夫にしてもお蔦殿お菊共約束あり此方の得意まで任せ置し者なれば是非とも迎ひは參るべし深く案事られ病氣にても出ぬやうなし給へと云紛らせども母は我が子の窶然き形容を見て憫然に思ひ少も早くお菊と娶せ昔の井筒屋を取立させ度神佛を祈居る中又半年も待けれども音沙汰なければ或時母は吉三郎に申樣二人して江戸へ出先達てより噂の如く江戸通り油町なれば尋ね行き利兵衞殿に會て談判我々親子を引取や否や其心底を探り若し引取ずんば其時は何を爲てなりとも繁華の江戸ゆゑ親子二人渡世のならぬ事は有まじ若運よく立身いたしなは今の難儀せし面を見返さん何は兎もあれ一先江戸へ出べしとて夫より世帶を仕舞家財を賣て路銀となし母子二人江戸へ立出馬喰町の定宿武藏屋清兵衞方へ宿を取り翌日吉三郎一人油町へ行て見るに人の噂に違はず金屋の店は立派なれば勝手より入て私しは上州より參りしが利兵衞樣に御目に懸り度と云入けるに利兵衞是を聞上州より誰も來る筈なし偖は吉三郎尋ね來りしならん此方へ通せとて吉三郎に對面し其方は何用有りて來りしやと云に吉三郎は叮寧に挨拶をなし餘り久々御疎遠なれば御機嫌も伺ひ度又此方の御樣子如何と存じ母を同道して出馬喰町武藏屋清兵衞方に罷在候と申けるに利兵衞の心は疾より變り持參金のある聟を取所存なれば今吉三郎が來りしを忌々敷思ひ何卒して田舍へ追歸さんと心に巧み夫は態々尋ね來りしかど此方に變る事なければ今母公に對面するには及ばず早々國へ歸りて母を大切に致せよと云捨て奧へ行んと爲るを吉三郎最早堪兼利兵衞が裾を捕へ何故然樣の事を申され候や此身になりても御無心に參りしには非ず貴殿には我が父より御頼み申せしことを忘れ給ひしやと詞を放ちて申けるに利兵衞は何共返答なく其儘振切て奧へ入ければ吉三郎は惘れ果て頼切たる利兵衞が斯の如くの所存なれば所詮又逢たりとも取上べき樣なし我が身一人ならば此處にて自殺をも爲べけれども母を連て遙々來りしなればと燃立胸を摩り何事も勘辨して寥々金屋の家を立出で二三町來りけるに跡より申し〳〵と呼掛る者有故振返るに田舍にて見覺えあるお竹と云し女なり此女は金屋井筒屋へ出入なす織物屋の娘にて利兵衞が江戸へ店を開きし時分お竹は母に別れ父と倶に利兵衞方へ尋ね來りしを父は番頭となし娘のお竹はお菊と相應の年恰好なれば腰元にして召仕ひけるが此者子供の時より吉三郎とも心安くお菊と云號のことも知り居けるにぞ吉三郎が臺所より來りけるを不圖見付てお菊に斯と告ければ母お蔦も聞付て呼度思へども利兵衞が得心せざる故據ころなく打捨置けるを娘お菊は吉三郎に逢度思ひながら父利兵衞に叱られんことを恐れ密に腰元お竹に頼みしかば吉三郎が後を追駈來りしなり扨お竹は吉三郎に對ひお菊樣が貴郎に是非お逢成れ度との事成ば先々此方へ來り給へと手を取引戻すゆゑ吉三郎偖は娘の心は變らず我を云號と思ひ居る事の嬉敷は思へども利兵衞殿の心底變りなければお菊に逢まじと云をお竹は無理に吉三郎を連來り今度は新道へ廻り庭口の切戸を明てお菊の部屋へ誘引しに吉三郎はお菊に向ひ利兵衞殿昔の約束を變じ外に聟を取んとの心と見え我を追返さんと成されしを何故に呼返し給ふやと云れけばお菊は太息を吐夫に付て種々談話度事あるにより御迎へ申したり今は間合も惡ければ何卒翌の夜此處まで忍び來り給へ緩々とお話申さんと呉々も吉三郎に約束なして歸しける偖翌日の夜吉三郎は彼の板塀の處へ來りしに内よりお竹出迎へて吉三郎が手を把お菊の部屋へ誘引たり然るに此お菊は幼年より吉三郎と云號と聞居たりしが今年十七歳に成始めて吉三郎を見るに衣裳は見苦しけれども色白くして人品能く鄙に稀なる美男なれば心嬉敷閨に伴ひつゝ終に新枕を交せし故是より吉三郎もお菊を惡からず思ひ毎夜此處へ通ひお竹が手引にて逢せしが此隣に兩替屋の伊勢屋三郎兵衞と云者有り或夜子刻頃に表の戸を叩きて旅僧なるが一夜の宿を貸給へと云ふを番頭目を覺し旅人を泊る處は是より少々行ば馬喰町と云處に旅籠屋多くあれば夫へ到りて泊り給へと挨拶なすに彼の僧は如何にも苦し氣なる聲にて我は腹痛み歩行事叶はず願はくは板縁にても一夜を明させ給へ且藥も飮たく何卒湯一ツ賜れと云ども番頭は盜賊ならんと疑ひて戸を締切一向に答もせざれば僧は詮方なく此表に大八車のありしを幸ひ其蔭に風呂敷を敷て其上に坐し頭陀袋より藥を取出して飮暫時其處に休み居ける中段々夜も更行四邊も寂としける此時手拭に深く面てを包みし男二人伊勢屋の門に彳み内の樣子を聞居たりしが頓て一人の男は相手の肩に登りて難なく塀の中へ忍び入り又肩へ乘たる男は塀の外に待居けるに程なく忍び入たる男出來りて何か密々と囁きしが其の男は西の方をさして立去たり跡に殘りし男は猶内の樣子を窺ひ居る故旅僧は見付られなば殺されもやせんと息を堪へて車の蔭に屈み居る中此方の板塀の戸を開きて金屋の庭先より吉三郎は今宵もお菊の部屋に忍び來り積る談話の中旅籠屋に永逗留して大分入用が嵩み其の上母は病氣にて藥の代に貯へも遣ひ果したる由委細に物語りけるをお菊は甚く氣の毒に思ひ我故に斯成行給ふなれば何卒見繼度思へども親に養はるゝ此身なる故何事も心に任せず是は僅なれども私しが手道具なれば大事なし賣てなりとも旅籠の入用母御の藥の代に爲給へと鼈甲の櫛と琴柱に花菱の紋付たる後差二本是は價に構はず調へし品なりとて吉三郎に渡しければ大いに悦び其芳志を聞上は假令夫婦になられずとも本望なり然ば此品暫時借用申すと受納め立歸らんとするにお菊は涙を浮め此程より申せし通り父御は御身を入ず外より金を持參の聟を取らんと云るゝこと最心苦しけれど必ず母樣と倶に父御を宥め申べきにより時節を待ちたまへ我が身に於ては外に男を持心なしと堅く誓ひて別れければ腰元お竹は毎度の通り吉三郎を送り開戸を明て出し遣り跡を鎖ける吉三郎は母の病氣を案事けれどもお菊が情に惹されて毎夜々々通ひはなすものゝ何時も泊る事なく夜更て歸りけるが今夜も最早丑刻過頃馬喰町へぞ歸りける然るに先刻より樣子を窺ひ居たりし彼の曲者今吉三郎が歸り行く體を見て扨は渠等色事ならん究竟の事なりと彼の開戸の處へ行外よりほと〳〵叩きけるに中にはお竹庭に下立何かお忘れ物に候やと小聲に言ひながら何心なく戸を開くに吉三郎にはあらで一人の男拔打に切掛しかばお竹はあなやと驚き奧の方へ迯入ながら泥棒と聲を立てるを半分言せず後より只一刀に切殺し此方へ入來るにぞお菊はお竹が聲に驚き迯出さんとするに間合なければ屏風の蔭へ隱れ戰慄居たりし中曲者は手近に在しお菊が道具を見付手當り次第に掻浚ひ元來し道より出行けりお菊は盜賊の立去るを見て頓て家内を起せしかば利兵衞始め走來りて庭にお竹が殺され居るを見て大いに驚き盜人は何所へ行しやらんと家の隅々まで探しけれども最早遁れ行しと見えて庭の切戸の明て有しかば若い者共表へ走り出其所よ此處よと尋けるに又隣の伊勢屋三郎兵衞方にても盜賊入たりとて大いに騷立ち男共大勢立出見るに板塀の上を越て迯行しと見え足跡の付てあれば追駈よと犇き合ふに以前の旅僧未だ車の蔭に居たりしが此騷ぎを聞我此所に居るならば盜賊の疑ひ掛りて捕へられんも量り難し早く此處を立去べしと立上りしを伊勢屋の男共は見付扨こそ盜人は此坊主ならんと大勢にて難なく旅僧を捕へたり三郎兵衞は家内を改め見るに金五百兩有ねば金は何所へ隱せしぞと彼の旅僧を種々詮議しけれども素より覺えなき事なれば云ふべき樣なく然れども宵に表を叩き宿を貸呉よと云ひしは此僧に違ひなし爰にて詮議爲んよりは奉行所へ訴へ可と願書を認め大岡殿へ訴へ出たり又隣りの金屋利兵衞方よりも盜賊入下女を殺害に及びし段訴へければ役人來りてお竹が死骸を檢査是は宅へ迯込所を後より切たる者ならん又盜まれし品々は書付を以て訴ゆべしとて役人は歸へけり此家の番頭はお竹が父親なりしかば大いに悲みお竹の亡骸を取納めける扨利兵衞は娘お菊を呼て其方盜賊の面體恰好を見たるやと問ふに娘は勿々怕敷見る事叶はざれば如何樣の者なるや一向覺え申さずと答ふるにぞ利兵衞而又お竹は何故夜更に庭へ出たるやと云けるにお菊は只差俯向て詞なし利兵衞は暫時考へ此盜人我少し心當りの者あり然れども是と云證據なきゆゑ訴へ出難しとて夫より盜れし娘が手道具の中紛失の品々を書付になし大岡殿へ訴へ出でにけり 第四回  扨も吉三郎は彼の菊より貰ひし櫛と簪しとを持歸り亭主に見せ申しけるは是にて藥を調へ度存候是は我母の若き時に差たる品なりとて頼ければ亭主は氣の毒に思ながら出入の小間物屋與兵衞と云者へ彼二品を見せ亭主保證人になりて是を二兩二分に賣渡しければ吉三郎大いに悦び是にて藥など調へ醫師をも替て其身も側を放れず看病怠りなかりける扨又此與兵衞は平生金屋へも心易く出入なすにより彼の吉三郎より調へたる二品を持行見せければ利兵衞の妻は見覺えのあるお菊が簪しなる故大に驚き夫利兵衞に斯と告げしに利兵衞も是を見て此品は一昨夜我等方へ盜賊忍入て盜まれし娘が簪しなり如何して手に入しやと問ければ與兵衞大に肝を潰し彼旅籠屋の客人より買たりと答ふるに利兵衞礑と横手を打我が推察に違ず此盜賊は吉三郎なり其譯は先達て我が方へ尋ね來りし時我樣子を見るに如何にも見苦敷體にて店の者へ對し我も恥入處なり斯働きのなき者は聟に爲難しと思ひ未だ約束の驗を取交さぬを幸ひ強面して彼が心を勵したるに夫を憤ほり我が家へ忍び入て種々盜み迯んと爲折お竹に見付られし故殺したる成ん疾より然は思ひけれども是ぞと云ふ見定めたる事無れば今迄控たり最早證據あれば渠が天命遁れぬ處なるにより早速願書を認め吉三郎盜賊人殺しに相違なき旨訴へんとて番頭へも其趣き申聞ければ妻のお蔦は夫を諫め吉三郎は勿々然樣の事を致すべき者に非ず是には何か譯の有べき事なり若吉三郎盜みしにもせよ娘菊が云號なれば此方の聟なり是を訴へんは此方の恥ならずや枉て容し給へと述けるを利兵衞少しも聞き入ず何を汝が知るべきやと叱り付直樣奉行所へ訴へけり是は利兵衞が内心には幸ひ吉三郎を科に落し外より持參金澤山ある聟を取る存意なりしとぞ大岡殿金屋利兵衞が願書を一覽有て則ち吉三郎を召捕べしと役人へ申付られけり却て説彼の吉三郎は母の病ひ二三日別して樣子惡ければ側を放れず附添種々心配なして勞はり居しが母は暫時睡眠し中醫師の方へ藥を取に行んと立出る所を役人兩三人上意と聲掛縛められしかば何故斯る憂目に逢事やら合點行ず素より惡事の覺えなきゆゑ我が身に於て辯解は立つべけれども我居ざれば母の看病を誰も爲る者有るまじと思ひ頻に悲しく心は後へ引れながら既に奉行所へ來り白洲へ引居られたり此日伊勢屋三郎兵衞方にては彼旅僧を連て訴へしが番頭は進み出私しは油町伊勢屋三郎兵衞名代喜兵衞と申者に御座候主人店先へ一昨夜九ツ時過此法師來り戸を叩きて一夜の宿を貸呉候樣申に付旅籠屋に非ずと斷りし處其後は音も仕つらず候故何方へか參りしやと存じ休み候に夜丑刻過頃忍び入金子五百兩盜み迯出る時家内の者目を覺し追駈候へども此僧足早に迯去り候を漸々捕押へ申候依て御吟味を願ひ奉つり候と願書を差出したり此時大岡殿先吉三郎に向はれ如何に其方上州より遙々來りて利兵衞方へ忍び入り盜賊をなし其上腰元竹を殺したる事大膽不敵の擧動なり伊勢屋方より訴へたる旅僧も同夜の事なれば是は汝が同類成べし殊更其方は金屋にて盜みし櫛を小間物屋與兵衞に賣たる由渠金屋へ持行しより此事顯れ則ち利兵衞與兵衞兩人訴たり斯る確なる證據有上は少しも包む事なく白状致せと申れければ吉三郎思ひも寄ぬ事の糺問に惘れ果けるが屹度思案するに是必ずものゝ間違ひならんと謹んで首を上私し事は上州より毎年江戸へ太物商賣に參る井筒屋茂兵衞の悴吉三郎と申者にて候是なる利兵衞は私し親茂兵衞と兄弟同樣に交り其上利兵衞の娘菊事私し胎内よりの云號なり然るに私し十二歳の際父茂兵衞病氣に付枕元へ利兵衞を呼江戸の得意を殘らず預け私し成人の後娘に娶せんとの遺言を利兵衞も承知に付父茂兵衞は安心いたし頓て相果申候夫より利兵衞は江戸へ出店をも開し由四五年を過し候へ共一向音信なく因て母と相談の上世帶を仕舞江戸へ出でて利兵衞を相尋ね先々の話致しける處に何時か心變り致し居以前の約束を違て私し母子を寄付申さず母は其不實を怒ると雖詮方なく頼み切たる利兵衞斯の如き心底なれば當惑致したれども斯繁昌の御當地に付如何樣にも口過は相成申べくと存じ其後は一度も相尋ね申さず扨て彼の櫛簪の儀は利兵衞娘菊より内々貰ひ母の病氣にて貯へ盡候故與兵衞に賣て母の病氣救ひ候なり決して盜しには候はず何卒此段御賢察下され御免を蒙り母の看病仕つり度と涙ながらに申けるを大岡殿聞れ汝が申條道理には聞ゆれ共又胡亂なる處あり其の譯は其方遙々利兵衞を頼みに思ひて來りしに渠約束を變じ寄つけねば其後一度も行ずと申一度も行ぬ者が如何して娘菊に逢ひ彼の品を貰ひしやと尋問られしかば吉三郎はつと當惑の體にて密通致し貰ひしとは大勢の中故云兼只差俯向て詞なし大岡殿重ねて此二品の出處知れざれば盜賊の名遁れ難し其方竊に通じて娘に貰ひしやと正鵠をさゝれしにぞ吉三郎は彌々顏を赤うして差俯向居たり大岡殿大概是を悟られ夫より彼の旅僧に對はれ其方出家の身として盜みせし段大膽なり早々白状せよと申されければ旅僧は吉三郎が吟味中頻りと首を傾け居たりしが今問るゝに隨ひ私し事上州の産にて名を雲源と申十五歳の時出家仕つり候へども幼少より盜み心あり成人なすに付尚々相募り既に一昨夜伊勢屋へ忍び入て金五百兩盜み取其隣の金屋とやらんへも忍入て盜み致し出る處を女に見付られ據ころなく切捨申候然れば天命遁れず斯繩目に及ぶ事素より覺悟なり然るに那なる若者を盜賊なりと疑ひ掛り候由何共見兼申候私し委細白状仕つりし上は科なき若者を御助け下され母の看病致させ度候と臆したる形容もなく申立れば是を聞れ其方が申處不分明なり伊勢屋方にて五百兩盜み又金屋へも入りて種々盜み女を殺したりと白状致せども盜みたる金も見えず又女を殺したる刄物もなしと有るに旅僧頭を上げ其節盜みし金子も刄物も迯候節取落し身一つになり候處を捕へられ候と申せば大岡殿伊勢屋の番頭に對はれ此者を捕ゆる時何ぞ所持の品はなきかと尋ねられ番頭喜兵衞外には何も候はず只網代笠一蓋と頭陀袋一つ之ありしと申に大岡殿其頭陀袋是へと申されるにより差出しければ中を檢査て書付など讀れ何か心に合點仔細有ば追々吟味に及ぶとて一同下られ小間物屋は町内預け吉三郎旅僧は入牢申付られけり偖翌日大岡殿吉三郎を呼出し其の方彌々菊と密通致して櫛簪を貰ひしや恥しとて隱すべからずと懇切に尋ねられければ吉三郎赤面しながら仰の如く相違之なく候猶又菊を御呼出しの上御尋ね下さるべしと申に大岡殿頓て同心を馬喰町旅籠屋清兵衞方へ遣はされ吉三郎が母を隨分勞り申すべし一兩日中には吉三郎を無事に返し遣さん夫迄は能々看病を大切に取扱かふべしと申付られ其後差紙にて金屋利兵衞娘菊伊勢屋三郎兵衞小間物屋與兵衞旅籠屋清兵衞雲源等殘らず呼出されしにお菊は贈りし二品故に無實の罪にて吉三郎牢舍と聞あるにも在れず歎き悲しむと雖も此事云にも云れず然とて云ねば吉三郎が身の上を思ひ竊に母へ委敷事を語りければ母も驚き今度の御呼出しは吉三郎と對決させんとの事成べければ種々御尋有ならんが其時委細を申さば父の越度となり又云ずば吉三郎は殺さるべし兩方全きやうには何事も行ざれども能々考へて心靜かに双方無事に成やうの御答を申べしと云ばお菊も得心して出たりけり扨大岡殿利兵衞に對ひ如何に利兵衞其方櫛簪を證據として與兵衞供々吉三郎を盜賊人殺しなりと訴へけれども吉三郎事は豫て其方娘菊と密通致し居娘より貰ひて與兵衞に賣たりと云故其段明白に吟味せん爲娘を呼出したり其方此事を知らざるやと申されければ利兵衞答て夫は跡形もなき僞りにて是全く罪を遁れん爲吉三郎が拵へ事にて候如何に菊吉三郎と密通致候覺えなきならば其通り早く申上よと急立けるにお菊は生れしより始めて奉行所へ呼出され大勢の中にて吉三郎が縛められ窶たるを見て涙を浮めしが大岡殿是を御覽じ大概察しられ如何に菊此越前守媒酌となり頓て吉三郎に添せ遣はすべし隨分安堵して居よと和らかに言れければ吉三郎も傍よりお菊殿何故に明白に云給ぬ御身まで匿されては我等何時か御免を請んや其中は母の看病藥何呉と定めて不自由成んと此事のみ心に懸り牢舍したる我心を少しは汲譯早く現在に申上て此苦みを助けられよと申を聞お菊は尚々悲しく白地に云んと思へども母の教の通り父の科を訴へるも同前云ねば吉三郎は殺されんと心を千々に傷め居る體を大岡殿敏くも察しられ其方は吉三郎を牢舍さするや父利兵衞を牢舍さするやと尋ねられければお菊は何卒父利兵衞吉三郎ともに御免し下され其代りに私しを牢へ御入下さるゝ樣にと涙ながらに申立るを聞れ大岡殿大に感じられ是にて何もかも相分りたり決して吉三郎は盜賊に非ず追付免して其方と夫婦に致し遣すべしと申され扨又利兵衞を呼ばれ其方以前の約束を變じ茂兵衞悴吉三郎を追返し不實の上科なき者を盜賊人殺と麁忽の訴へをなす事甚だ以て不屆なり屹度曲事に申付べき所なれども娘菊が孝貞に免じ汝が越度を差免すなり落着の後は娘菊を吉三郎に娶せ其身は隱居致すべし然れども二人の盜賊未だ知れず因て盜賊の知る迄は控居よと申渡され偖又小間物屋は町内預け伊勢屋も呼出す迄控申べし吉三郎は當時旅籠屋へ預け町内の者氣を付母の看病致させよ又諸入用は金屋利兵衞必ず是を送るべし且旅籠屋清兵衞は入用何程懸りても金屋利兵衞方より請取れ又利兵衞儀は吉三郎の母は病中の事ゆゑ夜具布團其外に心付け食事等宜敷見繼べし此段屹度申付たるぞ若麁末成事も有ば曲事たるべしと申渡され皆々下られけり偖旅僧一人を殘し置一同下りし後其方何故僞りを申すやと有しかば雲源全く僞りは申上ず私し盜賊に紛れ之なく候御仕置仰付らるべしと云に大岡殿否彼の吉三郎は其方と兄弟に非ずや人相恰好音聲までもよく似たり汝弟を救はん爲に故意と罪に陷りしならん何ぞ是を知らずして殺さんや其方は井筒屋茂兵衞が惣領ならんと申されければ雲源驚き感じ今は何をか包申べき御賢察の通り茂兵衞が悴なれども十五歳の時仔細有て出家仕つり諸國修行の身に御座候其後弟出生の事仄に承まはりし儘此程國許へ參り尋ね候所弟吉三郎金屋利兵衞方に譯有りて國許を立出江戸へ參り候由に付後追來り何卒今一度母や弟に對面致し度江戸中を探し歩行し中斯の仕合故弟が無實の罪に陷る事の悼しく殊更母は旅籠屋にて病氣の由承はりしにより何卒弟を助け母に孝行を盡させ度私しは出家遁世の身故母や弟を助け候事なれば身命を捨候ても救はんと存じ其盜賊なりと申僞り候其夜全くの盜賊は迯去たり其譯は私事母や弟を尋んと所々方々を歩行し中先夜伊勢屋の前へ參り懸し時腹痛にて難儀仕つり夜更なれども詮方なく伊勢屋の戸を叩き湯を貰はんと存じ候處一向に戸を明申さず是非に其の所に車の御座候蔭に姑く相休み居候處夜も丑刻頃兩人の曲者來り一人は伊勢屋の家に忍び入り暫時過て出けるが外に待居たる者と何か囁き其の者は西の方へ馳行殘りし一人は其後金屋の切戸より人の出行し跡へ這入しに女の叫ぶ聲してほどなく彼の男何やら風呂敷に包みたるを背負て立出是も西の方へ行しが頓て伊勢屋の家内騷ぎ立し故私し此處に居らば盜賊の連累に成んと是を怕れて迯出せし機斯は捕はれて候なりと申せしかば大岡殿是を聞れ然らば必定外に盜賊あるべきにより早々詮鑿すべし窮屈ながら今少し辛抱せよと勞られ又々牢屋へ下げられけり 第五回  茲に新材木町なる白子屋庄三郎一家の騷動を委曲尋ぬるに享保の始めの事なりしが此白子屋の地面間口十二間奧行は新道の方へ廿五間即ち券面千三百兩の地を一軒にて住居なし此近邊の大身代なり主は入聟にて庄三郎と云今年六十歳妻は此家の娘にて名をお常と呼び四十歳なれども生得派手なる事を好み甚だ婬婦なりしが娘お熊は容顏衆人に勝れて美麗く見る者心を動さぬものなく二八の春秋も過て年頃に及びければ引手數多の身なれども我下紐は許さじと清少納言の教へも今は伊達なる母を見慣ひて平生はすはに育しは其の父母の教訓の至らざる所なり取譯母は心邪まにて欲深く亭主庄三郎は商賣の道は知りても世事に疎く世帶は妻に任せ置ゆゑ妻は好事にして夫を尻に敷き身上向を己が儘に掻𢌞し我儘氣儘に振舞居たりしが何時しか町内廻りの髮結清三郎と密通をなし内外の目を忍びて物見遊山に浪費を厭はず出歩行のみか娘お熊にも衣類の流行物櫛笄贅澤づくめに着餝らせ上野淺草隅田の花兩國川の夕涼み或は芝居の替り目と上なき奢をなしければ心有人は皆爪彈きして笑ふ者多く此妻の渾名一ツ印籠のお常と云て世間に誰知らぬ者も無りしとかや然れば女の子は父親より母の教方にて志操も美しかるべきに斯る母故幼少より育ちも卑しく風俗は芝居の俳優を見る如く淨瑠璃三絃の外は正敷事を一ツも教へず殊に女の爲べき裁縫の道は少しも知らず自然とうは〳〵しき事にのみ心を傾けしこと淺猿けれ茲に白子屋の商賣に係りて庄三郎が名代をも勤め此家の番頭と呼れたる忠八と云者何時の程にかお熊と人知らぬ中となりけるが母のお常は是を知ると雖も其身も密夫有故に渠を制する事出來ず却て取持しは人外と謂つべし是より家内の男女色欲に耽りお常は何時も本夫庄三郎には少しの小遣ひを與がひて遊びに追遣り跡には娘お熊番頭忠八髮結清三郎ともに入込下女のお久お菊もお常に仕込れ日毎に酒宴の相手をなし居たりしが或日お常は金二分出して下男に云付酒肴を取寄芝居者淨瑠璃語り三絃彈など入込せ皆々得意の藝を顯し戯れ興じけり茲に又杉森の新道孫右衞門店に横山玄柳と云按摩あり是は別て白子屋へ入浸り何樣白子屋一軒を定得意となし居る身の上なればお常は勿論忠八が云事にても背く事なく主人の如くに仕へ毎日お常の肩など揉て機嫌をとり居たり斯日々奢りに長じければさしもの身代漸々に衰へ享保八年十月夷子講前には金二百兩不足に付妻のお常は番頭忠八と申合せ亭主庄三郎に斯と申ける故庄三郎甚だ困り入と雖も親類一家は素より妻が奢りを見るに付誰あつて用立物なきにより庄三郎日頃懇意なる加賀屋長兵衞方へ行右の概略を話しければ長兵衞は氣の毒に思ひ材木屋仲間の中山形屋箱根屋加賀屋其外十人の者を頼みて無盡を取立一人前掛金二十兩づつとなし尤も長兵衞世話人故庄三郎の分まで都合四十兩出し二百兩集めて庄三郎に渡し集りし人々をも厚く饗應し歸されける因て庄三郎は大いに悦び右の二百兩を夷子棚に上置其夜は長兵衞方へ禮に行たりしが此加賀屋長兵衞と云は元同町の加賀屋彌兵衞方へ十歳の時奉公に來りて十年の年季を勤め尚禮奉公十五年を勤め上都合廿五年の間見世の事に心を盡しければ則ち加賀屋の暖簾を貰ひ同所へ材木店を出せしが漸次に繁昌して此春より將軍家桶御用の株を讓られ猶々榮え消光けるも必竟長兵衞の心懸よき故なり斯て白子屋庄三郎は長兵衞方へ厚く禮を述我が家へ立歸りしに其夜の中に夷子棚へ上置し二百兩の金見えざればお常忠八も狼狽たる體にて主人へ斯と申けるにぞ庄三郎は大いに驚き周章其分には捨置難しと直樣加賀屋長兵衞方へ行右の譯を話し是は是非々々訴へねば成ぬと急込を長兵衞先々とて樣子を篤と聞何樣是は外より入たる盜人にては有まじ然れども今是を訴へる時には我々は兎も角も仲間の衆へ二十兩出させた上又々番所へ引出しては何分氣の毒にて我等濟難きにより先内々詮鑿致されよとは云ものゝ明日の拂ひに困らるべければ我等二百兩用立んにより夫にて此節季は濟さるべし尤も此金は利分に及ばず御都合宜敷折返濟成るべしと金子二百兩を出して渡しければ庄三郎押戴きて段々と御深切の上又斯る災難まで貴公の御苦勞に預り御禮は申盡し難しとて涙を流し打歡びてぞ歸りけり又お常忠八はまんまと夷子棚の二百兩を欺き取仕合よしと微笑合是を斯してあゝしてと奢る事而已談合けり偖其年も暮明れば享保九年春も三月と成しに江戸中大火に付此白子屋も諸侯方を始め多分の用を達屋敷方の普請計りにても二千兩餘の儲けありしとなり然れども彼の加賀屋長兵衞より借請し二百兩の事は忠八が算盤を奇變庄三郎に僞りて今に辨濟せざれども長兵衞は催促もなさず彼是する中又其の年も過翌年と成身代左り前にて難儀なる由忠八より申せしかば庄三郎も不審に思ひ何とて其樣に成しぞと云に忠八御屋敷の普請存じの外積り違ひにて一箱餘も損金になり其外彼是にて二千兩餘の損に爲たりと口から出任せに僞るをお常も側から種々口車の楫を取しかば又々加賀屋へ到り段々の仔細を話けるに長兵衞は左右氣の毒に思ひ付或時庄三郎に對ひ時節とは云乍ら古き御家の斯迄不如意になり給ふ事是非なき次第なり夫に付少々御相談あり其譯はお娘子お熊殿へ持參金のある聟を入給ひては如何や尤も外に男の子も御在ぬ事故お熊殿年の長ぬうちに聟養子をなし持參の金子を以て山方問屋の借を償却暮し方も氣を付て身上を立直す樣に相談して見給へと深切の言葉に庄三郎大に喜び何から何迄段々の御世話忝けなく是に過たる事はなし然れ共我々方へ參る養子の有可や能々御聞糺下さるゝ樣偏に御頼申なりと云けるにぞ然ば先方へ申聞べき間御家内へも此段能々御相談成るべし我等方は明日聢と致たる返事を承まはりし上又々御話申べくとて庄三郎を歸しけり夫より長兵衞は大傳馬町家主平右衞門方へ行先達て御話の聟殿白子屋庄三郎方にて貰ひ度由故御世話下さるべし白子屋事は材木町にて千三百兩の地面も持居御屋敷方の出入澤山有て株敷は三千兩程なり然れば五百兩位は持參ありても宜しかるべし殊更娘お熊は當年廿二歳にて容貌もよく承はれば聟殿は四十に近しとか隨分相應の縁組なれば能々御世話頼入と申を平右衞門聞て夫は相應の相談なり當人といふは我等が同町の地主彌太郎方に勤居らるゝ又七と申者なり隨分辛抱人にて主人彌太郎事は最早六十にもなれど一人も子なく金ばかり澤山ありて地面は十三ヶ所も持居此人親分となる積りなれば何事も氣遣ひなし先方へ能々話せし上明日御返事致すべしとて長兵衞を歸し其後平右衞門の口入にて相方相談調ひ吉日を撰みて五百兩持參金をなし又七を彼の白子屋の聟養子とぞなしたりけり此事は素よりお熊の不承知なるを種々説勸め跡は右も左も先當分其五百兩を取りて又樂むべし其の上此方の仕向により聟の方より出て行時は金を返さずに濟仕方は如何程も有べしとお常忠八の惡巧にて種々に言なし終に又七を入けれどもお熊は祝言の夜より癪氣發難儀なりとて母の側へ寢かしお熊は忠八母は清三郎と毎夜枕を双て一ツ寢をなす事人外の仕方なり然ども又七は是を一向知らず最早一年餘に及べどもお熊と一度も添寢をせず加之聟に來りてより家内中の突掛者となり優き詞を懸る者一人もなけれど下男長助と云者のみ又七を大切になし彼の四人の者共を憎みけるが或時給金三兩を田舍へ遣はさんとて手紙に封じ瀬戸物町の島屋へ持行し途中橋向ふにて晝抅盜に奪はれ忙然として立歸りしが那の金を取れては又一年餘の奉公を爲ねばならぬと力を落し顏色蒼然て居ける處へ又七は立出何故其樣に鬱ぎ居るや心地にても惡きかと問ひけるに長助は有りの儘に譯を話し涙を流しけるを又七は憫然に思ひ我等其金を與んとて懷中より三兩出し長助へ渡しけるに長助は大地に鰭伏此御恩は忘れまじとて悦びけり是よりは別して此長助而已毎度お常始めの惡巧みを内通して又七を救しなり或時彼の四人打寄て耳語やう又七事是迄種々非道になすと雖も此家を出行景色なし此上は如何せんと相談しけるにお常は膝を進め是は毒藥を飮せるに如なけれども急に殺しては顯るゝ故一ヶ月ばかりも過て死ぬ樣に藥を調合して用るが宜しからん此事は先新道の玄柳方へ行て相談致すべしと四人打連立て出行たり偖彼の長助は毒藥と云聲の不圖聞えければ又々四人の者共が惡事ならん何れ又七樣の事なるべしとお常の部屋の傍に寄立聞をなしけるが新道の玄柳方にて調合なし貰はんと出行體故素知らぬ面に臺所へ立戻りたり又彼の玄柳は毒藥のことを請合けれども針醫の事なれば毒藥を求めんこと難しと思へば風藥二服を四十文にて買炮烙にて是を煎金紙に包み鄭重らしくしてお常に密と渡しければお常は喜び金子を玄柳に遣しお熊倶々厚く禮を述たりけり此時玄柳は僅か四十文の風藥にてお常より三兩忠八より五兩お熊より一兩都合九兩の金にあり付しは藥九層倍所か是藥百倍と云べしと喜びけり夫より此藥を下女に云付又七が飯汁茶などへ入れて毎日々々用ひしとぞ彼の長助も此事を聞しかば又七へも密かに告置己も隨分心を付ると雖も大勢にて爲る事なれば何時の間に入けるや知らざれども或時鮃の切身を煮て皿に盛彼の藥をお熊が手より入れて又七の前へ持來り是は母樣よりお前に上んとて新場より取寄し魚成ばお喰り成さるべしと一年餘の間に始めてお熊の口より又七へ物云ければ又七は喜び直樣飯を取寄是を喰んと爲るを長助は目配せをなし止る體故扨はと思ひ何か紛らして是を喰ず夫より又七は新道の湯に行けるに長助も後より同く湯へ來り彼の毒藥をお熊が入たる事を竊に話し私しにも昨日一服遣して貴君樣の食事に入れて呉よと頼み候と彼藥を見せければ又七委細を聞て驚き我は加賀屋長兵衞方へ參る間其方後より參るべしとて其足にて又七は長兵衞方へ到り是迄の事を物語り勘辨なり難しと立腹致ければ長兵衞も以の外に驚きける處へ長助も來り三人額を集めて相談しける中長兵衞心付き彼の藥を猫に喰せて試しけるに何の事もなければ是には何か樣子有べし我又致方有ば隨分油斷有べからずとて又七を宥め一先歸しけり其後二三日過て長兵衞は白子屋庄三郎并に妻お常を呼び段々と内證の都合迄も聞何共氣の毒なる事なり然らば聟又七殿お熊殿との中宜しくば家を渡し世帶を若夫婦に任せ番頭忠八には暇を遣し小手前にして家内取廻善きが肝要なり而御兩人は氣樂に御隱居有ば又宜敷事も有べしと事を分て段々遠廻にお常へ異見をなしけるに庄三郎は大に悦び何かと厚き思召の程忝けなく承知致したりと申しけるにお常は甚だ不承知の面にて長兵衞に向ひ又七に世帶を渡せと仰らるれども追々渠が擧動を見るに一として商賣の道に適ず其上未だ出入場等の勝手も覺えず今忠八に暇を出しては猶々都合惡く手代多くの中にも忠八は發明にて萬事心得居者なり又七は素よりお熊と中睦しからす持參金を鼻に懸て我々を見下し不孝の事のみ多く其上下女などに不義を仕懸何一ツ是ぞと云取處なく斯樣の者に家を渡す事は勿論忠八に暇を遣せなどとは憚りながら餘りなる御差圖なり我々隱居致すよりは又七を離縁致方が却て家の都合なりと申ければ長兵衞是を聞夫は何分聞こえぬ論なり下女に手を付るなどとは必竟お熊殿の取扱ひ惡き故起る事なり何は兎もあれ兎角家の丸く治まるが宜れば何事も堪忍有て隱居有べしと勸めけるにお常は大いに立腹して一々云爭ひ氣に入ぬ聟なれば地面を賣てなりとも持參金を戻し不縁致すべしと罵りけるを長兵衞種々と諫めれども一向に承知せず疊を蹴立此樣な話は聞ずと直樣御歸りあれと夫庄三郎を引立てぞ歸りける夫よりお常は庄三郎に少しの金を與へ講釋の寄席へ追遣り跡は忠八お熊清三郎を招き例の如く酒宴を始め長兵衞が云し事どもを委細話して此上は金子五百兩拵へ又七に添て離縁するに如なし然すれば長兵衞彼れ是云れぬ筋なり又七を出す事ゆゑ忠八此金算段せられよと申ければ忠八は打悦び其金子必ず調達致すべし私し一ツの工夫有とて清三郎に耳語頼み其夜油町新道伊勢屋三郎兵衞方へ忍び入て金五百兩を盜み取清三郎は其隣の金屋利兵衞方へ入りて彼の腰元竹を切殺し娘の手道具を奪ひ取り來りしが忠八にも是を話し我も只歸るは殘念ゆゑ是程の働きをせしと取たる品々を改め見るに蝦夷錦の楊枝指一角の箸其外笄簪の類何れも金目の物多く有ければ兩人是は儲ものなりと悦びけり然れども此品賣拂はゞ顯るべしとて暫時の間彼の玄柳方へ預け置けるが此品々より終に二人が天罰報い來とは知ざりけり扨も白子屋にては又七が事は地面を賣てなりとも持參金を返し離縁致べしとお常長兵衞に云し詞有ば終に離縁の事を申込たり 第六回  扨もお常は忠八を頼み金五百兩才覺致させけれ共又候夫庄三郎を僞り又七を離縁なす金にさし支へる間地面を書入にて金五百兩借出すべしと勸めけるに庄三郎是非なく又々長兵衞方へ行き金子にさし支る趣きを話せしかば長兵衞も是はお常の仕業ならんにより捨置べしとは思ひけれども庄三郎が達ての頼みを聞ざるも氣の毒と思ひ長兵衞申は何卒身代を持直し給へ殊に先祖代々の地面を人手に渡さるゝ事嘸かし殘念なるべし然らば我等其五百兩は用達申べし然れども今度は金子出來次第百兩にても五十兩にても御返濟成れよ利分は取り申さず金子相濟次第に證文は返却致すべけれども先證文は預り置申べし其地面人手に渡さるゝが氣の毒に存ずる故なりお常殿にも此話をなされ請人共御三人御印形御持參有べしと申ければ庄三郎大いに悦び立歸りてお常忠八に長兵衞が申せし通り咄しけるにお常は是を聞夫は長兵衞事此地面を自分が欲しければ體よく然樣申成べし何は兎もあれ五百兩借候はんとてお常が合口なる親類を連て三人印形を持ち長兵衞方へ行五百兩借て歸りけるがお常は此金手に入しより又々放すが惜くなりし事誠に白子屋滅亡の基とこそは知られけれ偖何をがな又七が落度を見付云立なば金は返すに及ぶまじと思ひ居けるに或日庄三郎は又七を呼松平相摸守殿の屋敷へ金子六十兩請取に參るべしと申付けしかば忠八是を聞てお常に斯と知らせ彼の清三郎を招き三人何か竊に耳語きけるが程なく清三郎は出行たり是は途中にて惡者に喧嘩を仕掛させ屋敷より請取來る六十兩を奪ひ又七は此金を受取て遊女通ひに遣ひ込しと云立夫を科に離縁せんとの巧みなり斯とも知らず又七は下男長助を倶に連て出行屋敷より金子を請取夫より呉服橋へ掛り四日市へと來懸るに當時は今と違ひ晝も四日市邊は淋しく人通り稀なれば清三郎は惡僕二人と共に此處に待伏なし居たり又七は金を持ちたる故隨分用心はすれども白晝の事なれば何心なく歩行來りし所手拭にて顏を包みたる大の男三人現はれ出突然又七に組付故又七は驚きながら振放さんと爲る所を一人の男手を指込み懷中の金子を奪んとなすにぞ又七は長助に聲を掛け盜人々々と呼はりければ長助は先刻より外一人の男と組合居たるが此聲を聞て金を取れては大變と振放し又七の懷中へ手を入たる男の横面を充分に打叩きければ彼の男横に摚と倒されしにぞ其間に又七と共に殘り二人の惡者を散々に打叩きける故皆叶はじと散々に迯行けり然ば金は取られず先無事に其場を立去たり此長助は力量勝れし男故幸ひに打勝しとは雖も何共合點の行かぬ者なり正しく是も四人の者の巧み成べしと話合ながら長助は道々お常は清三郎と譯有る事お熊は忠八と不義の事など落もなく語りければ又七は始めてお熊は忠八と譯有し事を聞き扨は日頃の仕方思ひ當りたりと夫より二人我が家に歸り庄三郎に金子を渡しけるにお常忠八等は是を見て清三郎に頼みし事手筈違ひたりと思ひ又々玄柳方へ行きて相談すべしと其翌日三人玄柳方へぞ到りける斯て又清三郎は四日市にて長助に十分打れ面に疵を受ければ我が家に引込み居たりしに玄柳方より呼びに來りしかば早速走り行き四人打寄又々惡事の相談をなすにお常は聲を潜め我一ツ思ひ付たる手段あり其譯は下女の菊は生得愚成者なれば是に云付又七が閨へ忍ばせ剃刀にて又七へ少しにても疵を付け情死せんとて又七に誑され口惜ければ是非とも又七を殺して我も死ぬ覺悟なりと呼はらせ其處へ我々駈込種々詮議して菊が口より云々と云せんは如何にやと申ければ三人是を聞き其謀計奇妙々々誠に當時の智者なりと譽稱へ夫より白子屋へ歸り年増の下女お久を竊に呼びお熊の小袖三ツと金一兩を出し菊に斯々言含め呉よと頼みければお久承知して我部屋へお菊を呼び始終の事共委曲話し又七樣へ疵を付け其身も咽喉を少し疵付情死と云ひて泣べしと教頼み居たるを長助は物影より是を聞て大いに驚きながら猶息を詰て聞居たり斯くとも知らず元來お菊は愚なれば小袖金子を見て忽ち心迷ひ何の思慮もなく承知をぞなしたりける又長助は篤と樣子を聞濟し早々又七に右の事故を話し御油斷有べからずと云ふにより又七點頭今宵若菊が來たらば我直に取て押へ繩を掛くべし其時其方は早々加賀屋長兵衞を呼來るべしと竊かに示合せて別れけり菊は只金と小袖の欲さに其夜丑の刻も過る頃又七が寢間へ忍び入り剃刀を逆手に持又七が夜着の上より刺貫しけるに又七は居ず夜具ばかりなれば南無三と傍邊を見る間に又七はお菊を蹴倒し難なく繩を掛又七は大音揚長助々々と呼聲に家内の者共目を覺し何事にやと庄三郎お常お熊忠八も此所へ來り彼是なす間に長助は加賀屋へ駈行又七樣只今急に御逢成れ度との事出來しにより私し御供仕つるべき間御入下されよと申ければ長兵衞驚き直樣同道にて入り來るにお常は長兵衞に向ひ又七事お熊を指置下女の菊と不義をなし終に情死とまでの騷ぎなり夫故平常お熊と中惡く家内治らずと云ひければ又七是を聞き是は思ひもよらぬ事を仰せらるゝもの哉今宵菊が何故か刄物を持て我が寢所へ來りし故怪敷思ひ片蔭に隱れて窺ひしに夜着の上より我を刺候樣子に付き取押へて繩を掛しなり此儀公邊へ訴へ此者を吟味致さんと云ひけるを長兵衞は先々事穩便に世間へ聞えぬ中濟す方が宜しからんお常殿もお熊殿も能御思案有べし縱令又七殿がお菊に通じたるにもせよお常殿より又七殿に篤と御異見有てお菊に暇を出せば濟む事也是を又七殿訴へなば大亂となり白子屋の家名立難しお常殿は女の事故其處へ氣も付れざるは道理の事なれども能々勘辨ありて隨分又七殿を宥め家内和合致さるゝ樣成るべし不如意の事は及ばずながら此長兵衞見繼申さんと利解を述けれどもお常は一向得心せず又七事菊と忍合情死爲んとせしを見付けしに相違なければ公邊へ訴へ何處迄も黒白を分け申べしと片意地張て持參金を返濟せぬ工夫をなすに忠八も側より日頃又七樣下女に手を付られし事私共存居り候と云ひければ又清三郎も傍邊より進み出御兩人の仰せ御道理也又七樣御持參金を鼻に掛け我々迄も見下げ給ふ事甚だしと云ふを長兵衞は見遣汝は廻りの髮結ならずや何故此所へ來り入らざる差出口過言なり長助那の者を擲出せと云ひければ長助は立掛り清三郎が首筋を掴みて表へ突出し門口の材木を投付しにぞ清三郎は怒り汝れ此間も四日市にて我を擲き今又斯投付る事此返報覺え居よと罵りけるに扨は四日市の盜人は汝かと云はれてハツと思ひしかば後をも見ずして逃歸りけり扨又長兵衞はお常に對ひ此事訴へなば怪我人も多く出來る故何分穩便に取扱ひ白子屋の家名に瑾の付かぬ樣我々が異見に隨ひ給へと云へどもお常は少しも承知せざれば長兵衞も今は是非なく又七を連れて我が家へ立歸りたり其間に夜も明ければ長兵衞は傳馬町なる平右衞門方へ到り右の次第を物語りければ平右衞門は大に立腹し白子屋の者共如何にも不屆なる仕方なれば早々地主へ申聞せんと夫より彌太郎方へ行き右の仔細話し居る處へ番頭忠八髮結清三郎の兩人入來り彌々訴へ出るにより又七を預りし手形を出せと店先にて談事ければ彌太郎も今は堪忍成難く其方よりの訴訟を待ず此方より訴へんと云時又々下男長助又七を尋ね來り夜前清三郎が云ひし四日市のことを話しけるにぞ尚々遺恨を重ね右の趣きまで願書に認め居たるに加賀屋長兵衞入り來り我等何分にも取扱ひ候間今少し御待ち下さるべし白子屋方へ能々異見を加へ内濟致すべしと云置夫より又白子屋へ行き此事訴へられては此方の家名を失ふ基成べきにより内濟にし給へと種々に説勸めると雖もお常は一向承知せず却つて長兵衞迄も散々に罵りける故長兵衞も今は是非なく打捨ければ終に彌太郎の方より訴訟にこそ及びけれ然ば大岡殿是を聞かれ此訴訟の趣きにては大いなる罪人八逆の者多し是を糺すは誠に歎は敷事なりと種々利解有て下られけれども双方得心なければ是非なく吟味とぞなりにける頃は享保十二年十月双方惣呼出しの人々には白子屋庄三郎並に妻常娘熊番頭忠八下男長助下女久同菊聟又七大傳馬町居付地主彌太郎加賀屋長兵衞等なり此砌髮結清三郎は出奔して行方知れず大岡殿彌太郎に向はれ其方願書の趣き相違なきやと尋問らるゝに彌太郎御意の通少しも相違之なく候と答へしかば頓て庄三郎と呼ばれ其方妻常娘熊番頭忠八斯の如き惡事をなす事存て差置しや又知らざるやと申されしに庄三郎其等の儀は實以て存じ申さずと云ひければ又大岡殿お常に對はれ其方聟又七に毒殺の覺え之有やと尋問らるゝにお常は首を上如何にも驚きたる體をなし其は決して覺え之なく又七事妻を差置下女に不義を仕掛不屆に付離縁致さんと存じ候處斯の訴へに及びし迄にて候何卒御慈悲を以て又七儀離縁仕つる樣願ひ上奉つると申立るを聞て又七恐れながらと進み出其の毒藥の儀相違之なく則ち稻荷新道横山玄柳と申す醫師に藥を貰ひし節の證文等もあり候御呼出の上御吟味下さるべしと申ける故早速右玄柳を呼出されて尋ねられし所玄柳申立るはお常の頼みに候へ共毒藥は容易成ざるに付調合せず斯々致し風邪藥にて間を合せ候と答るにぞ大岡殿次に下女お菊を呼れ其方主人の閨へ刄物を持忍び入る事大膽不敵なり但し汝が一存か又は人に頼まれしか正直に申さずんば一命に及ぶべしと云れけるにお菊は生たる心地なく恐れ入りてお常始め四人の者に頼まれし段白地に白状しければ大岡殿ソレ縛れと下知を傳へお菊に繩をうたせ又娘お熊手代忠八兩人に向はれ其方共日來密通いたし居聟の又七を殺さんとせし段不屆なり有體に申立よと有て直に繩を掛させられしかばお常是を見てハツと仰天し今更後悔の體に差俯向しを大岡殿發打と白眼れ其方養子又七に疵付候樣下女菊に申付たる段不屆なり有體に申せと云れしかば隱すこと能はずお常お熊共に白状にぞ及びける又庄三郎は家内の者の斯如き不屆を存ぜざる段不埓なり猶外に何ぞ心當りの事は之無やと申されければ庄三郎何も是と申す程の儀御座なく候へども髮結清三郎と申す者常々入浸り居しは心得難く候と申立るに大岡殿同心を呼れ白子屋家内を檢査清三郎を捕へ來れと下知せられしかば同心馳行て檢査しに清三郎は逐電せし樣子なれど道具中斯樣の品有しと其品々を持來りし中に蝦夷錦の箸入花菱の紋付たる一角の箸鼈甲の簪などありしかば大岡殿是を見給ひ即時に金屋利兵衞を呼出され此品其方覺え有るやと尋ねられければ正しく覺え之あり私娘の手道具なるよし申立てしにぞ猶又お常お熊兩人へ嚴敷尋ねられしかば忠八清三郎兩人より貰ひしまゝ何事も存ぜずと申により忠八を糺問有ければ終に白状致しけり因て金屋の盜賊も相知れ夫より清三郎へ追手を掛られたり扨牢内より彼の旅僧雲源を呼出され又伊勢屋三郎兵衞をも呼れて五百兩の盜賊相知れしにより人違ひにて是迄雲源を苦め候間其代り雲源を宜敷扶持致すべしと申渡され雲源は出牢となり利兵衞は得意を吉三郎に返さゞる段不屆なれば身代を半分にして吉三郎に菊を娶せ養子となし利兵衞夫婦は隱居致す可し且つ彌太郎方へは又七を取戻せと申渡されけり 第七回  享保十二年十二月大岡殿白洲に於て申渡し左之通り 新材木町 白子屋庄三郎養子 又七 妻 くま 二十二歳 其方儀手代忠八と密通致し不屆至極に付町中引廻しの上淺草に於て獄門申付くる 白子屋庄三郎手代 忠八 二十八歳 其方儀主人庄三郎養子又七妻熊と密通致し其上通り油町伊勢屋三郎兵衞方にて夜盜相働き金五百兩盜み取り候段重々不屆に付町中引廻しの上淺草に於て獄門申付くる 白子屋庄三郎下女 きく 十八歳 其方儀主人妻何程申付候共又七も主人の儀に付致方も有之べき處主人又七に疵を付剩さへ不義の申掛を致さんとせし段不屆至極に付死罪申付る 白子屋庄三郎妻 つね 四十歳 其方儀養子又七に疵付剩さへ不義の申掛致候樣下女きくに申付る段人に母たるの行ひに非ず不埓至極に付遠島申付る 杉森新道孫右衞門店 針醫 横山玄柳 其方儀白子屋庄三郎妻常始めの惡事に荷擔致し候段不屆に付追放申付る 新材木町家持 白子屋庄三郎 六十歳 其方儀養子又七に疵付候節篤と樣子も見屆ず其上妻常娘熊手代忠八不屆の儀を存ぜぬ段不埓に付江戸構申付る 同人手代 清兵衞 彦八 長助 伊助 其方共儀不埓の筋も之なくに付構ひなし 但當時下女久は病死に依て名前之なし 彼の時髮結清三郎は上總へ迯行し所天網遁れ難く終に召捕れ拷問の上殘らず惡事を白状に及びければ是亦引廻しの上獄門申付られけり偖亦お熊は引廻しの節上には黄八丈下には白無垢二ツを着し本繩に掛り襟には水晶の珠數を掛け馬に騎りて口に法華經普門品を唱へながら引かれしとぞ此時お熊の着たるより世の婦女子黄八丈は不義の縞なりとて嫌ひしは戯れ事の樣なれども其は貞操の意とも云べし然るを近來其事を知る者も稀なりと雖も又不開化などといふ者もあらんか嗟愼しむべしと云口も又愼しむべし 當時の狂歌に 實に誠名は畜生の熊なれや不義に曇りし胸の月の輪 白子屋を下から讀ばおやころし聟を殺さん心怖ろし 身も婦人心も不仁欲は常實に理不盡の巧みなりけり 白子屋阿熊一件終 煙草屋喜八一件 煙草屋喜八一件 第一回  茲に享保年間下總國古河の城下に穀物屋吉右衞門と云者あり所に双びなき豪家にて江戸表にも出店十三軒ありて何れも地面土藏共十三ヶ所を所持なし出店親類又は番頭若い者に至る迄大勢召仕ひ豐に世を送りけるが一人の悴吉之助とて今年十九歳人品能生れにて父母の寵愛限りなく然れども田舍の事なれば遊藝を習はせんと思へども然るべき師匠なきにより江戸兩國横山町三丁目角にて折廻し間口奧行拾三間づつ穀物乾物類を商ひ則ち古河の吉右衞門が出店なるを番頭傳兵衞と云る者預り支配なし居たるが此處に吉之助を遣して諸藝の師を撰み金銀に拘らず習はするに日々生花茶の湯其外遊藝彼是と是を己が役にして居る所に兩國米澤町の花の師匠にて相弟子の六之助と云ふは同所廣小路の虎屋の息子なるが何事も如才なく平生吉之助とは交り厚かりしが或時吉之助を引誘納涼に出し歸り懸船中より直に吉原の燈籠を見物せんと勸めけるに吉之助は御當地始めての事なれば吉原は別して不案内ゆゑ堅く辭退此日は漸々宿へ歸り番頭傳兵衞に此事を話ければ傳兵衞首を傾け六之助殿は江戸産の事にて何事も如才なきにより此事御斷り切にもなるまじ若明日にも又誘引給はゞ彼の地に行六之助殿に負られてはお顏の汚れることなれば金銀は隨分奇麗に御遣ひ成れ斯樣々々になし給へと委細を教けるにぞ吉之助承知して其後又々涼船花火見物の時六之助同道にて吉原へ行き蓬莱屋と云ふ六之助が馴染の茶屋へ上りけるに吉之助は傳兵衞が教へは爰なりと女房娘を始め若い者女子迄七八人近付に成んと惣纒頭を打江戸町一丁目玉屋内初瀬留と云ふ娼妓を揚程なく妓樓へ伴はれ陽氣に酒宴も濟み床へ入りしが六之助は夫より前初瀬留を密に招き吉之助は古河一番の大盡の息子にて江戸の店へ遊藝稽古の爲に參られ此處へは始めての事なれば隨分宜敷計らひ呉よ此後も度々連參らんと内證を吹込ける故初瀬留も男振は好し大盡の息子と聞き眞實を盡して待遇けるにぞ吉之助は斯る遊びの初めて成ば魂魄は天外に飛只現の如くに浮れ是よりして雨の夜雪の日の厭ひなく通ひしかば初瀬留も憎からず思ひ吉之助ならではと今は互に深く云交し一日逢ねば千秋の思ひをなすにぞ番頭傳兵衞は最初己が教へし事の却て毒と成しかば大いに困り度々異見を加へ少しの事は苦しからざれども最早二箱近く御遣ひ成されし故御國許の旦那へ聞えては此傳兵衞申譯なしとて猶種々に異見致しけれども一向に用ゆる氣色もなく終に翌享保九年七月迄に金二千七八百兩餘遣ひ捨たれば今は傳兵衞も惘れ果是非なく國許へ此由知らせしにより父吉右衞門是を聞て以の外に驚き憎き悴が行状言語同斷なりとて直樣出府なし吉之助を呼びて着類を脱せ古袷一枚錢三百文與へて何國へなりと出行べしと勘當なしければ番頭若い者等種々詫言すると雖も吉右衞門承知せず其儘古河へ歸りけり依て吉之助は今更途方に昏此體にては所詮初瀬留にも逢れず死ぬより外に詮術なしと覺悟を究め其夜兩國橋へ行き既に身を投んと爲たりし際小提灯を持ちたる男馳寄てヤレ待れよと吉之助を抱き止めるに否々是非死なねばならぬ事あり此所放してと云ふを其はお若い衆不了簡死ぬは何時でも易い事先々此方へ來られよと云ふ面見れば吉原の幇間五八なれば吉之助は尚々面目なく又もや身を投んとせしを五八も驚き確かと抱き止め是は若旦那にて有しか私し事は多く御恩に預り何かと御贔屓下されし者なれば先々譯は後の事手前の宿へ御供を致し左に右宜敷計らひ候はん初瀬留樣にも此程は日毎に御噂ばかりなりと無理に手を取り其邊りなる茶屋へ伴ひ酒肴など出させて種々馳走をなし而又宵の事がらは如何なる譯と問懸るに吉之助は面目無氣に答ふる樣此程父吉右衞門國元より來り我等二千七八百兩の穴を明しを大いに怒り終に勘當を請たれば最早初瀬留には逢事もならず所詮生て恥をかゝんよりはと覺悟極めし事なりと一伍一什を物語れば五八は是を聞き終り夫は父公樣の御腹立も御道理なれど若い中には有習ひ又其中には御詫の成れ方も御座らう程に先此度は初瀬留樣と諸供御勘氣の免さるまで此五八が御匿ひ申上んと力を付夫より五八が宅へ連歸り女房にも仔細を話し初瀬留が方へも此事を知せけるにそ初瀬留は打驚き早速來りて吉之助に逢ひ私し故に御勘當の御身となられし由嘸かし憎き者と思召れんが此上は私し何事も御見繼申さんにより何處へも行き給はず五八の方に居給へとて夫より呉服屋へ言ひ付吉之助が衣類其外何不自由なく送りければ是ぞ誠に鷄卵に四角の眞實と仕送らるゝ身は思ふなるべし或日五八は吉之助を連れ淺草の觀音へ參詣しけるに地内にて吉之助を呼掛る者あり誰ぞと振返り見れば古河に在し際召使ひし喜八と云ふ者にて吉之助が側に來り貴君樣には何時御當地へ御出有しや途中ながら御容子伺ひ度と申けるに此所は人立繁ければとて傍邊の茶屋に伴ひ吉之助は諸藝稽古の爲め横山町の出店へ來りしより多くの金を遣ひ込父の勘當を請け身を投んとせし時に是なる五八に助けられ今は五八方に居て初瀬留に見繼を受け不自由なくは消光居れど何卒勘當の詫をせん爲に觀音へ參詣の處思はず其方に逢しなりと委細の事を話せしに喜八は大に驚きしが先以て五八殿とやらん御深切の段忝けなし然ながら親旦那も只一人の若旦那を僅か二千や三千の金位に御勘當とは餘りなり當分の見懲なるべきまゝ今にも私し參り御詫仕つらんなれども吉原に御在られて女郎の世話になり給ふと有りては御詫の妨げ今より直に私し方へ御供申さんと云ふにぞ五八も其理に伏し如何樣私し方に御出有ては却て御詫の妨げ此由初瀬留樣へも申べし自然御用もあらば御文は私し方へ遣はされよ御取次申べしと茲に於て五八は吉之助を喜八に渡し別れてこそは歸りけれ偖此喜八は古河吉右衞門が方に十年の年季を首尾能く勤め上吉右衞門より金五十兩貰ひて穀物店を江戸へ出しけるが二年の間に三度類燒なし資本を失ひしかば是非なく今は麻布原町に刻煙草の小店を出し其身は日々糶賣をして女房に店は任せ漸々其日を送りけるが此喜八素より實體なる者故に困ればとて人に無心合力などは決して云し事なく幽な渡世にても己れが果福なりと斷念其日を送りける然ば喜八は吉之助を連歸りしかど我が家は貧窮にして九尺間口の煙草店故別に此方へと言所もなく夫婦諸共吉之助を勞ると雖も夜の物さへ三布蒲團一を漸くに二人着て寢し事なれば吉之助に着せる物なく其夜は右の三布蒲團を吉之助に着せ夫婦は夜中辻番を抱て夜を明しけれども是にては主人を暖に寢かす事ならず豫て金二分に質入せし抱卷蒲團有ども其日を送る事さへ心に任せねば質を出す金は猶更なく其上吉之助一人口が殖難儀の事故夫婦は膝を突合せ相談なすに妻のお梅は漸く二十三歳にて縹緻もよく志操優しき者なるが夫の難儀を見兼何事も御主人樣のお爲なれば此身を一年の間何方へ成とも水仕奉公に遣られ其給金にて夜具蒲團を質請して御主人を暖かに休ませられよ外に思案は有まじと貞節を盡して申を聞き喜八も涙を流して其志操を感じ僅二分か三分の金故妻を奉公に出さん事も口惜けれども外に工面の致し方なく此上は一人の口を減すより外なしと近所の口入を頼みけるに早速能き口ありて麻布我善坊谷火附盜賊改め組與力笠原粂之進と云ふ方へ中働きに住込ける是にてお梅の給金三兩の中取替金二兩借り内金一兩二分はお梅素より何一ツなければ夜具其外支度に掛殘りの二分は質物に入れたる夜具蒲團を請出し吉之助樣に着進らせられよとお梅は頓て奉公にこそ出でたりけれ 第二回  然程に喜八は妻のお梅を奉公に出し取替として金二兩借り内一兩二分は支度に遣ひ殘り二分を持て同町の質屋源右衞門方へ行き當夏入置し夜具蒲團を請出しけるに此質屋此邊にての善身代故多く下質を取りけるが今外より下質の金八十兩請取亭主は財布に入れけるを喜八熟と見て居たりしが心の中に偖々有處には澤山に有るもの哉我は只二分の金にさし支へ妻を奉公に出せしに八十兩と云ふ金を石か瓦の如く取扱ふ事偖々世の渡世の貧福は是非もなし我に八十兩の金あれば主人に不自由もさせず一ツには勘當の詫の種にもなり二ツには妻に辛き奉公はさせまじと倩々思ひ運す程世の無端を詫ち爰の身代にて八十兩位は我が百文の錢程にも思ふまじ何事も御主人の爲と思ひ那金八十兩を盜取んと喜八が不圖胸に浮みしは是災難の基なり夫より喜八は質物を我家へ持歸りて吉之助を寢かし置其夜丑の刻とも思しき頃豫て研澄したる出刄庖丁を懷中なし頬冠りして忍び出頓て質屋の前へ行き四邊を見るに折節土藏の普請にて足代の掛り居たれば是僥倖と其足代より登りしが流石我ながらに怖ろしく戰々慄々を漸くに踏しめ勝手の屋根へ到らんとする機思ひも寄らぬ近傍の窓より大の男ぬつくと出ければ喜八はハツと驚き既に足を踏外さんとするに彼の男は是を見て汝は何者なるや我今宵此質屋へ忍び入り思ひの儘に盜まんと今引窓より這入たるに屋根にて足音する故不思議に思ひ出來りたり汝聲を立てなば一討と氷の如き刄を突付る故喜八は増々驚き齒の根も合ざりしが漸くに息を呑こみ私しことは此家へ盜賊に這入らん爲に只今屋根へ登りしなり見遁したまへと申ければ彼男は微笑ナニ盜賊に這入らんとする者が其樣に震へては所詮盜む事出來ず偖は貧に迫りし出來心の新まい盜人かと云ふに喜八仰せの通り何をか隱し申すべき私しは此谷町に住喜八とて幽に暮す者なるが昨日主人の若旦那を私し方へ預り候處夫婦の着たる三布蒲團一ツの外はなく金の才覺は尚出來ず是非なく妻を奉公に出し取換の二分にて質に入置し夜具を請に先刻此家へ參りし處八十兩の金を掛硯の引出しへ入置處を見たるに付何卒是を盜み御主人の不自由を救ひ勘當の詫の種にも爲又妻をも取戻して消光度無ては叶はぬ金子故主の爲には親をも捨る習ひ後日に我が首を切るゝ如きは容易と思ひ道ならぬ事乍ら盜みに參りしと有の儘に語りければ彼の男是を聞き汝が見たる八十兩は是なるやと懷中より取出して見せければ如何にも是にて候と云に彼の男喜八の體を見て其方其如く慄へては此金を取らん事思ひも寄らず今云事の僞りにも有まじ主の爲の出來心にて盜みに來りしと正直に云ふ事の憫然なれば此金を汝に與へん間主人の難儀を救ひ妻をも取戻せと財布の儘喜八に渡しけるにぞ喜八は押戴き偖々世の中に其許の如き盜賊は稀なるべし命を的に掛て取りたる金を我に與へ給ふは誠に有難し然らば申受んと涙を流し此御恩は死すとも忘れ申さず何卒其許の御名を聞せ給はるべしと云ひければ彼の男點頭我は田子の伊兵衞と云ひて一通の盜賊に非ず百兩や二百兩の金は然のみ大金とも思はず今迄火附人殺し夜盜等の數自分ながらも何程か知れず明日にも召捕られ其罪科に行はれなば汝今の情を思ひ我が亡跡を弔ひ呉よ此外に頼み置事なし汝に逢ひしも因縁ならん疾々見付られぬ中歸るべし〳〵我は未だ仕殘したる事ありと云ひつゝ又引窓よりずる〳〵と這入り質物二十餘品を盜み出し其上臺所へ火を付何處共なく迯失けり折節風烈く忽ち燃上しかば驚破火事よと近邊大に騷ぎければ喜八はまご〳〵して居たりしが狼狽漸々屋根よりは下たれ共足縮て歩行れず殊に金子と庖丁を懷中に入れし事なれば若し見咎られては大變と早々迯出す向ふより火附盜賊改め役奧田主膳殿組の與力同心を二三十人連て此處へ來らるゝ故喜八は夫と見るより一趁に駈拔んとしけるを奧田が組下山田軍平と云者喜八が形を見て怪み曲者待と聲を掛ながら既に捕へんと喜八の袖を押へしにぞ喜八は一生懸命と彼の出刄庖丁にて軍平が捕へたる片袖を切て早くも人込の中へ迯込だり軍平も後より追駈けれども終に見失ひ切たる片袖は軍平が手に殘りければ奧田が前へ持出て只今火附を捕へんとせし處斯の如く袖を切りて迯行候と申けるに奧田殿扨々夫は惜き事なり然らば切たる袖は後の證據とならん是へとて右の袖を見らるゝに辨慶縞の單物古きを茶に染返したる布子なり是は取置と申付られ頓て火も鎭りしかば皆々火事場を引れけり扨又喜八は危くも袖を切て其の場を遁れ漸々我家へ歸りて胸撫下し誠に神佛の御蔭にて助りたりと心の内に伏拜み吉之助には火事にて驚きたりと僞り彼の八十兩の金は戸棚の隅に重箱有りける故其中へ入置既に休まんとする時表の戸を叩く者有偖は役人後を追來りしかど更に心も落付ず返事さへ碌にせざれば表には又々叩早く此處をお開下されと云ふを聞けば女の聲なる故不思議に思ひ少し戸を明其許は何用有て此の夜更に來られしや云ふに彼女私しは吉原より參りし者なり吉之助樣にお目に懸たしと云ふ聲初瀬留成ば吉之助は奧より走出大いに驚き如何して夜中遙々の處を來りしや先此方へ這入られよと云ふに初瀬留は御免成れと戸口を入り漸々に胸撫下し餘りの御懷しさに今宵廓を逃亡して此處へ來りしと物語りなど彼是なす中程なく夜も明るにぞ喜八は起出引窓を明け釜元を焚付け扨々昨夜は危き事かなと一人云つゝ吉之助初瀬留をも起さんとしける折昨夜喜八を捕へたる山田軍平は朝湯の歸り掛け煙草を買んと喜八の店に立寄しが未だ表は締り居る故煙草を呉と聲を掛しかば喜八ハイと答へて揚戸を上る時袂の斜に引裂てあるゆゑ軍平は眼を留て見るに縞柄も昨夜の布子に相違なければ直に召捕んとせしが取迯しては一大事と然有ぬ體にて煙草を買ひて歸りがけ直に笠原粂之進の方へ行き夜前の火付は原町の煙草屋喜八と云ふ者なり今朝私し煙草を買候時渠が布子の縞能く似たれば心を付て見るに袂の切れてあり然すれば昨夜の火付は渠の業に相違なく早々召捕給へと申するに粂之進然らば取迯さぬ樣支度せよとて手配にぞかゝりける喜八は如何に周章しや昨夜の布子を着替もせず居たりしは拙き運と知られけり茲に原町の家主に平兵衞と云ふ者あり近邊にて評判の如才なき男にて至つて慈悲深く人を憐みけるが平生喜八の正直なる心を感じ何時も憫然を掛ける處に町内の自身番屋へ火附盜賊改役奧田主膳殿組下與力笠原粂之進は同心を引連來りて平兵衞を呼び其方店子煙草屋喜八事御用の筋有に依案内致せとて平兵衞を先に立て同心二人喜八が宅へ來り御用の聲と諸共に高手小手に喜八を縛め引立行にぞ吉之助初瀬留は大いに驚き是は如何にと呆れ果たるばかりなり斯くて粂之進は彼の切れたる袖と喜八が着たる布子を合せ見るにしつくりと合ければ扨は此者に相違なしとて家内を檢査しに戸棚の隅の重箱に財布に入りたる金八十兩有りければ彌々盜賊火附に極りしと此趣きを添状にて町奉行大岡殿へ引渡し吉之助初瀬留の兩人は家主へ預けられたり偖喜八儀は火附盜賊に相違なしとて送りに成しかば直樣入牢申付られしに付き家主平兵衞は喜八を片蔭へ招き段々の樣子を聞に喜八は主の爲妻を奉公に出し其給金にて質を請出し八十兩の金を見て不圖出來心より其夜忍び入りて伊兵衞と云へる盜賊に右の八十兩を貰ひし迄現のまゝ具に語りけるにぞ家主は始めて是を聞憫然に思ひ如何にもして御慈悲を願ひて見るべしと夫より平兵衞は宅へ歸り吉之助初瀬留に對ひ偖々喜八は憫然にも是々の事により最早近々御所刑に成べし偖々是非もなき事なりと語りしかば吉之助大いに驚き扨は喜八事我が爲の出來心にて盜に入り既に御所刑にならんとか然すれば我が手で殺すも同じ事なり同人を殺し汚面々々と我而已生て勘當免さるゝとも何の悦びか有ん我も冥土の途連せんとて既に首を縊べき體なれば初瀬留も是を聞き其元の起りは皆私し故なれば倶々死んと同じく細帶を梁へ掛るにぞ家主は慌て狼狽漸々と兩人を止め今二人とも此處にて死なれては我一人の難儀なり何分此儀は我等に任せ給へよしや無事に行ず共切ては喜八が御慈悲願ひを致して見ん夫に就て急々古河へ相談なし度ものなれども外の人を遣しては事の分るまじければ詮方なし我古河へ行きて吉右衞門殿に面談を遂げ其上喜八が命乞首尾能く濟し申べし其間必ず〳〵御兩人とも短見給ふなと異見をなし妻にも能々云付置長屋の者を頼みて平兵衞は早々調度をなし下總の古河へぞ赴きける 第三回  偖も家主平兵衞は古河をさして道を急ぎ程なく穀物屋吉右衞門方へ尋ね到り某しは江戸麻布原町家主平兵衞と申者なるが此方の御子息吉之助殿の事に付て少々御相談申度儀之あり故意々々參りたり吉右衞門殿御在宿かと申入けるに番頭其事を主人に告しかば奧より吉右衞門立ち出來り互ひに一禮終りて平兵衞を奧へ伴ひけるに平兵衞状を改め拙者店子の喜八と申者元は其許樣の方に勤めしとの事なるが此度不慮の災難にて火附盜賊に陷り召捕れたり其原の起りは御子息吉之助殿故なり其譯は斯樣々々の事なりと淺草にて吉之助に逢しより喜八方へ引取り勘當の詫をせんと妻を奉公に出し夫より不圖出來心にて質屋へ夜盜に入りし事顯れ既に御仕置にも極まる由夫故御慈悲願ひをせんと存ずる處に又吉原より女郎初瀬留吉之助殿を慕ひ逃亡して來りし處喜八が右の一件に付兩人共生ては居られぬ其原の起りは吉之助殿初瀬留が故なりとて既に縊んとするを漸々宥め賺し置何卒喜八が罪を助けたく態々是迄參りたりと具に話しければ吉右衞門夫婦は大いに驚き偖々夫は御深切忝けなし悴を勘當致せしも當分の見懲と存ぜしなり五八とやらは幇間などに似合ぬ深切なる者又初瀬留事も誠に惜き心底其樣な女ならば傾城にても苦しからず身請致し夫婦に致さんと存ずるが何卒御世話下されまじきやと母の頼みなれば吉右衞門も平兵衞に對ひ何卒此上は貴殿へ御任せ申間宜敷御取計ひ下され候樣にと申にぞ家主平兵衞夫は何より易き事吉之助殿并に初瀬留の事は我等預り置し儘案事給ふに及ばず兎角目前に喜八が難儀を救ひ度存ずるなり因ては我等と倶に江戸へ出府有べしと申にぞ吉右衞門も委細承知なし金子は何程入りても苦しからず何分宜しく頼み申と夫より吉右衞門平兵衞の兩人は駕籠にて晝夜を急がせ江戸へ出しが是迄老中松平右近將監殿へ度々用金を指出せし縁も有ばとて吉右衞門は屋敷へ到り喜八の一件を歎願せしに最早罪科極り御所刑付へ老中方の判も据りたり今少し早くば致方も有べきに今更是非なしとの事なれば吉右衞門平兵衞共に途方に暮れ寥々と歸りしが吉右衞門は如何程金子入用にても何卒喜八を助けんとて種々と平兵衞に相談する機から思ひも寄らず喜八が妻のお梅主家を遁れ歸りけるが此主人は先達て喜八を捕へ出したる盜賊改め奧田主膳殿組與力笠原粂之進にて則ち此家へお梅奉公致しけるが此粂之進獨身ゆゑ此お梅の縹緻宜に戀慕し種々と口説と雖も此お梅貞節の女なれば決して從はざるにより彌々粂之進思ひを増種々に手を變云寄ゆゑ夫喜八と申者在中は御心に從ひては女の道立申さずと一寸遁れに云拔けるを或時粂之進茶を汲せ持來る其手を捕らへ是程までに其方を執心し種々口説ども夫ある故從ひ難しと申が夫なくんば我が心に從ふやと云ふにお梅は差俯向しまゝ答へをなさざれば其方夫有ると思ふかや夫は疾亡身なり因て我に隨ふべしと云ひければお梅は不審何故夫なしと云ひ給ふと問に粂之進は微笑其方が夫喜八は火附盜賊をなし町奉行所へ送られたれば近々御所刑に成べし其妻の其方なれば同罪なれども我其方を深く隱し是まで恙なく置しは全く我が恩なり因て我に從ひ申すべし所詮喜八が命は助からぬなりと云ひければお梅は大いに驚きしが是は粂之進我を手に入れんが爲の僞りならんと思ひ夫は何故火附盜賊をば致せしやと云ふに粂之進は喜八が火附盜賊に陷りし始末も殘らず話しければお梅はハツとばかりに胸閉がり暫し詞もなかりしが偖々情なしと思ひ粂之進に對ひ何卒私しに御暇下さるべし夫と共に御所刑に成申べし科人の女房を御免成れて御役目の障に成べしと申けるを粂之進首を振我其方に心を懸ればこそ沙汰なしに致し置たり其恩を思はゞ我方に居よ暇は出すまじと無體に引寄るをお梅は突退耳にも入れず若御暇下されずは逃亡しても宿へ參らんと云へば粂之進大いに憤ほり斯程迄に心を盡したる甲斐もなく辛かりし事思ひ知らせん隨へばよし隨はすは斯の通りと刀を拔て胸先に押當れどもお梅は夫の事のみ心に懸り勿々怖るゝ容子もなく殺さば殺し給へ決して隨ふまじと罵る故粂之進は刀を拔は拔たれども素より殺す心なければ納め方に困り居るを中間七助と云ふ者先刻より此樣子を見て心可笑く走り出で主人を止め先々御待下さるべし只今彼方にて承まはりしが御立腹は御道理なり然しながら女を手に入れんと思召ば欺すに如なし是は私しに御任せ有るべしお梅に篤と申聞せ御心に隨ふ樣得心致させ申べし先々御刀は御納め下されよと云ふを幸ひに粂之進は刀を納め彌々其方取持呉んとならば任する程に能々仕課せ手に入れよ是は當座の褒美なりと金三兩投出せしかば七助有難しと押戴くを又不承知なれば其金を取返すぞ然樣心得よと云ふ處へ御廻り御出と觸來るにぞ則ち粂之進も支度をして廻り場へ出行けり跡には七助お梅に對ひ所詮其方も旦那は嫌なるべし我取持せん事も骨折損出來ぬ時は却つて首尾惡し然らば其方には少しも早く此處を逃亡致されよ我も辯解なければ是より宿へ歸る可三十六計走るに如じ我が宿は牛込改代町芋屋六兵衞と云者なり用事有らば云越給へと兩人云合せ早々に支度して七助は牛込お梅は平兵衞方へ迯歸りしなり然ば委細の譯を物語るにぞ平兵衞は聞終り是は喜八を助くる手段も出來たりと云へば吉右衞門夫は何故ぞと云ふ平兵衞は膝を進め喜八が科なき次第を女房に呑込せ斯樣訴状に認め喜八を助け申さん何事も我に任せ給へと頓てお梅に駈込訴訟の仕樣を教へ願書を認め是を以て奉行所の門を入り右の方の訴へ所へ行き斯々致すべし然れど主人を相手取公事なれば白地には訴へ難し唯何となく樣子あり氣に暇を呉候樣に御願ひ申すとばかり認め是をお梅に持せ平兵衞同道にて奉行所の屋敷近邊まで附添行那の門より這入と教へて立歸りしかばお梅は素足に成りて奉行所の門より訴訟所へ行き御願ひ申上ますと云ふに役人是を聞町役人を以て願へと雖も聞入ず叫びける故頓て門外へ送り出すにぞお梅は腰掛にて暫時休息し又々訴訟所へどつさり坐り以前の如く申故又々送り出され最早夜に入り門も鎖りければ是非無腰掛に夜を明し居るに其夜平兵衞竊に辨當を持來りて與へ明日御奉行樣御登城掛を待ち受け御駕籠に付て願ふべし御駕籠の中より何事ぞと尋ねらるゝ時夫の難儀御救ひの御慈悲を願ひ上ますと云ふべし御奉行樣今は登城前なり後迄腰掛に控へよと有らば其時又茲へ來りて休息せよ晝時分呼込ある時駕籠の訴への女罷出よと有らば御門へ入り左の方より白洲の溜りへ行て控へ居御呼出にて御白洲へ出此訴状を出すべし御奉行樣の傍に居る目安方の御役人是を讀上げ此書付は何者が認めたるやと御尋ねの時我書たりと云ひては惡し因て昨日御門へ這入兼て御門前を胡亂々々致候處へ御武家樣御通り掛り成れ候て其方は駈込訴訟かと御聞成れ候間然樣なれども如何して宜敷やと承まはり候へば斯樣々々致せと御教へ成れ其上訴状は持來りしかと御尋故之なくと申ければ然らば認め遣すべしとて記て下され候と申べし夫さへ云へば後は此方の物向ふが大岡樣なれば何事も察し有べしと教へ平兵衞は我が家に歸りけるにお梅は悦びつゝ夜の明るをも待詫居たるに姑くして夜も明放れ辰刻過頃大岡殿登城の樣子にて供廻嚴重に立出られしかば平兵衞の教への如くお梅は駕籠訴に及びしに腰掛に控へよと申付られ頓て呼び込に相成白洲に於て訴状の趣き御尋ね有りしかば是又教へられし通申立目安方之を讀上る時大岡殿お梅に向はれ其方主人へ暇を願へども出さず其上度々不義申掛しを夫有身なれば隨はざるにより刄を以て威すゆゑ願ふと有共今此處へ粂之進を呼出し此事を問んに然樣の事覺えなし又不義仕掛たる事も候はずと云時は互ひに水掛論にて證據なければ主人を相手に公事をなすのみ成ず奉公人の方より主人へ無理暇を乞ふ事不屆なり此儀は其方は何んぞ證據ありやと問るればお梅は謹んで答る樣其儀は牛込改代町十郎兵衞店六兵衞方の同居七助と申者證據人に御座候と申立るにより然からば其七助を呼出すべしと差紙に付町役人七助を召連罷出ければ大岡殿何歟思さるゝ事ありて此日は吟味もなく追て呼出すまで七助梅は家主へ預けると申付られけり 第四回  茲に又田子の伊兵衞は質屋の火付盜賊召捕れ近々引廻にでる由噂を聞偖は我八十兩を遣したる喜八とやらん捕れたるや又外に有事成かと不審に思ひ能聞けば其人は全く彼の喜八に相違なく火付盜賊に陷いり近々に火罪との事なりしかば田子の伊兵衞思ふは科なき者を無實に殺させん事不便なりとて我と名乘て奉行所へ出火付十三ヶ所人殺七人夜盜數知れず其中麻布原町質屋へ這入り金子八十兩代物二十五品盜候由白状に及びしかば大岡殿喜八を牢より呼出し兩人對決の時大岡殿喜八に對はれ其方質屋の火附盜賊なりと申せども其科人外より出たり此者が則ち其盜賊伊兵衞なりとて自訴に及びしと申されければ喜八は彼の伊兵衞を見て驚きたる體なりしが其盜賊は全く私しなり那の者は御助け下さるべしと申けるを聞伊兵衞は喜八に對ひ汝は我が先達の寸志を報んとて命を捨て我を助んと云心底は嬉しけれども其は無益の事なり我は其外にも科多ければとても遁れぬ身なるにより尋常に科を蒙らんと申にぞ喜八は差俯向て詞なし大岡殿暫時兩人の詞を聞て甚だ感じられ伊兵衞事八十兩喜八に遣した儀相違なきや然らば追て詮議すべし今日は先下れとて兩人倶に牢へ下られしが其後程過て兩人并に彼の笠原粂之進も呼出され其外家主平兵衞お梅白洲へ罷出るに大岡殿粂之進に對はれ此梅と云女其方に奉公致せし哉と尋ねらるゝに粂之進然樣にて候と答るを大岡殿夫の難儀とあつて暇を願ふに何故暇を出されずやと有ば粂之進則ち暇を遣して候と云をお梅否々暇は一向出し申さず候と申に家主平兵衞も進み出先達て梅事私しへ御預けの間委細承まはり候處粂之進殿暇を遣はされず候に付據ころなく御願ひ申上し旨梅申聞候といふにぞ大岡殿粂之進に對はれ斯樣に難儀致す者を止置候事心得ずと申されしかば粂之進冷笑ひ都て奉公人主人に暇を願ふには人代りを以て願ふべき筈なり夫に然樣の事もなく夫故暇は出し申さずと云放しければ大岡殿某は何を云るゝや只今暇は遣したりと申せし口の下より人代りなき中は出さずとは前後揃はぬ申條殊更夫の難儀と有に人代りを出す隙の有べきや其方は情なき爲方なり是には何か樣子あらんと云れしかば粂之進心中憤ほり小身なりとも某しも上の御扶持を頂戴し殊に人の理非を糺す役目なり奉行には依怙贔屓ありて某しばかり片落しに爲給ふならんと言せも果ず大岡殿發打と白眼れ依怙贔屓とは慮外千萬なり此梅を抱る時請人は何者が致たるやと有に粂之進夫は則ち夫喜八に候と云大岡殿重ねて其喜八は火付盜賊に相違なしとて某し方へ添状を以て此程送られたる其許が何故科人の妻を役をも勤むる身分として其儘に召仕ひ置たるぞや假令當人より申出ずとも其方より暇を出すべき筈なり此故に何か樣子有んと申せしなり定て不義を申掛たる成んと申されしかば粂之進グツとさし閊へしがナニ不義など申掛たる覺え曾て之なしと云に大岡殿牛込改代町の者呼出せと申されしかば發と答へて彼の中間七助を白洲へ連來るを粂之進は見てハツと思へども態と何氣なく那の者は拙者方にて取迯致候者と云乍ら七助に向ひ偖は其方梅と密通致し我が金子を奪ひ迯亡させつるか憎き奴今茲に於て何事をか云詞を出さば手は見せぬぞと眼を瞋しけるを大岡殿粂之進に對はれ渠は拙者が尋る仔細有て呼出せしなり決して構ふまじ如何に七助有樣に申せと云れければ七助は夫見ろと云面色にて粂之進を見ながら如何に私し事下部は致し候へども取迯など仕つりし覺え御座なく是迄多く粂之進方へ女中の奉公人來り候へども一ヶ月とは勤めず何れも早々に暇を取り下り候故不審に存じ候處此度も又梅事暇を願ひ候間容子を窺ひしに不義を申掛られ承知せぬとて刄物三昧致しゝに付其節私し中へ入て取鎭め候へば金三兩呉られ候て取持候樣申付られ候へども梅事は貞節の女ゆゑとても叶はぬ事と存じ私しは申譯なきにより宿へ迯歸り候と具に申立る廉々粂之進は面目青くなり赤くなりしが差俯向て控へ居るを大岡殿粂之進を白眼れ其方只今公邊の祿を頂戴し御役を勤め人の理非をも糺す身の上と云ながら誠の火付盜賊は是なる伊兵衞を差置科なき喜八を捕へ熟と吟味もなく送り状を添て此方へ送られ拙者迄に落度をさせ重々の不調法斯樣の不埓にて御役が勤まるべきや不屆き至極なり揚屋入申付ると有りしかば同心飛かゝり粂之進の肩衣を刎たちまち繩をぞ掛たりける斯て七助とお梅は家主へ預け粂之進揚屋入喜八伊兵衞は牢へ戻されけり偖翌日大岡殿登城有て月番の御老中松平右近將監殿へ御逢を願はれ何卒私し儀御役御免下さるべしと云れしかば何故退役を願はるゝやと申さるゝに大岡殿此度煙草屋喜八裁許違ひ科なき者を科人に陷し既に上へ言上に及び各々樣御判も据り候處外より盜賊出しかば全く越前守越度に付御役御免願ひ奉つる此段宜敷御披露下さるべしと申述られしかば右近將監殿大いに驚かれ先々輕擧給ふな篤と同列とも談じ合言上に及んとて御老中方評議の上言上に及ばれしかば將軍吉宗公以ての外驚かせ給ひ直に大岡殿を御前へ召れ汝必ず輕擧る事勿れ未だ其者刑罰に行はざれば再應取調べ此後迚も出精相勤むべしと上意有しかば大岡殿御仁惠の御沙汰畏まり奉つると感涙を流され御前を退出せられけり時に享保十年八月廿四日双方呼出しの面々は笠原粂之進煙草屋喜八家主平兵衞田子の伊兵衞中間七助等なり大岡殿大音にて粂之進儀刑法役をも勤め候身分にて盜賊の人違ひ罪無喜八を科に陷いれる而已ならず其妻に不義を申し掛し段不屆の至なり依て二百五十俵召上られ重き刑罪にも處せらるべき處格別の御慈悲を以打首次に七助事主人を欺き私しに宿へ下り候は不埓なり然りと雖も御公儀を僞らざる故過料金三兩次に盜賊伊兵衞儀重罪なれども神妙に名乘出其上喜八を助け候段奇特に付御慈悲を以て多くの罪を宥し伊豆大島へ遠島次に煙草屋喜八は構ひなし妻梅構ひなし家主平兵衞此度の働き町人には奇特の儀に付譽置右の通申渡され双方一件落着せり偖穀物屋吉右衞門は女郎初瀬留を八百兩にて請出し嫁となし吉之助が勘當をも免し目出度夫婦として喜八夫婦には横山町角屋敷穀物店に三百兩附て與へ家主平兵衞へは右横山町地面間口十間奧行十八間の怙劵に種々音物を添悴夫婦并に喜八が是まで厚く世話に成し禮として遣はし又吉原の男藝者五八は心實なる者故吉右衞門悦びの餘り悴が命の親なりと號し禮金三百兩を贈り又初瀬留よりも衣類其外目録にして委細の文を添種々禮物を贈りけるゆゑ五八は俄分限となり何れも其家々繁昌なせし事實に心實程大切なるものはなしと皆々感じけるとなん 煙草屋喜八一件 終 村井長庵一件 村井長庵一件 第一回  積善の家には餘慶あり積惡の家には餘殃ありと宜なる哉此篇に載る所の村井長庵の如き表は醫術を業とし内は佞邪奸惡を恣まゝにして己が榮利を盡さんと欲す然れども天網爭で此惡漢を通さん其咎めを蒙るに及んでは僞りて遁るゝ道なく飾つて覆べきの理なく然ば大岡越前守殿の裁許に預りし者其善惡邪正別たざるなし實に賢奉行とや謂つべし仰々村井長庵といふは麹町三丁目に町醫と成つて世を送り舍弟十兵衞を芝札の辻にて殺害し同人の娘を賣りし身の代金五十兩を奪ひ取其妻を三次と云る同氣相求むる惡漢に委ね淺草の中田圃にて殺害させ其上伊勢屋五兵衞の養子千太郎に小夜衣を他に身請する人ありと僞りて五十兩の金を騙り取種々の惡計を働し其根元を尋るに國は三州藤川の近在岩井村の百姓に作十と云者あり夫婦の中に子供兩人有て兄を作藏舍弟を十兵衞と云しが兄作藏は性質善らぬ者にて村方にても種々樣々の惡事を働し故親の作十も持餘し終に勘當に及びしが弟十兵衞は兄と違ひ正路の者にて隣村迄も評判の善きにつき是を家督とし近村よりお安といふ嫁を貰ひ親子夫婦の間もよく最睦じく稼ぎけり斯て兄作藏は勘當の身と成しを後悔をもせず江戸へ出で少しの知己を便りて奉公の口を尋ねる内幸はひ小川町にて其頃評判の御殿醫武田長生院方に人の入用ありと聞口入の者に頼みて此處に住込ける此長生院と申は老年と云殊に名醫の聞えあれば大流行にて毎日々々公私の使ひ引も切らず藥取の者其外門前に市をなし節句前毎に藥禮の目録其他の進物など雨の降如く成れば作藏は是を見て世の中に能物は醫者なり何程の療治は出來ずとも流行出せば斯の如し我も故郷は勘當され此江戸へ來りて所々方々と彷徨ばかりにて未だ何の仕出したる事もなく此ぞと云身過の思ひ付もなき機なれば此上は何卒して我も醫師となり長棒の駕籠にて往來なし一身の出世を計らんものと思ひ込けるは殊勝成ども一心に醫學を學び其術を以て立身出世を望むに有ねば元より切磋琢磨の功を積修行せんなどとは更に思はず大切の人命を預る醫業なるに只金銀を貪ぼることのみを思ひ假令藥違ひにて人を殺したりとて匙さへ持ば解死人には取れず斯る家業は又となし只醫者らしく見せ懸るのと詞遣ひさへ腹に這入ば別に修行が入ものぞと藥種の名など些づつ覺え醫者にならんと思ひ込奸才邪知の曲者にて後年己が罪惡の顯はれし時申陳じて人に塗付天下未曾有の名奉行をも欺き課せんとする程の大膽不敵なれば間もなく見樣見眞似にて風藥の葛根湯位は易々と調合する樣に成ける程に武田長生院も下男にも珍しき奴なれど扨心の寛せぬ勤め振と流石に老醫常々親戚の者へ語られしとぞ作藏の僅か三年越の奉公中に醫の道を少しく覺え殊に遊ぶ隙なければ給金其他病家へ代脈の供などに行し時貰ひたる金を少しく溜りたるより武田に暇を貰ひ直に天窓を剃て坊主となり麹町三丁目の裏店を借て世帶をもち醫師渡世を初めしに運の一度向ひし所にや元來藪醫者と云ふ程も醫術は知ぬ作藏が名字を村井と唱へ自ら名を長庵と改めて朝から晩まで當は無れど忙し振に歩行廻りければ相應に病家も出來たるにぞ長庵今は己れ名醫にでも成し心にて辯舌奸計を以て富家より金を引出し終に表店へ出て可なりに暮し一度は流行爲しけれども元より己に覺えなき業なれば終には此處の内儀が藥違ひにて殺されたの彼所の息子が見立違ひにて苦しみ死をしたの又渠は無學文盲の何も知らぬ山師醫者の元締なりなど湯屋の二階髮結床などにて長庵の惡評を聞も夏蠅ばかりなれば果は命の入ぬのか又は死たく思ふ人は長庵の藥を飮め命が大事と思はば村井が門も通るなと雜言にも言ひ觸しける程に追々に全治病人迄も皆轉藥をなし誰一人脉を取する者も無なりしにぞ長庵今は朝暮の煙も立兼るより所々方々手の屆く丈借盡して返すことをせざれば酒屋米屋薪屋を始め何商賣をするものも長庵の宅の前は忍んで通る樣になりければ引かけ上手の長庵も百方術盡き爲事なく困り果てぞ居たりける爰に又長庵が故郷岩井村にては親の作十も病死し弟十兵衞の代と成けるが或時近邊より出火して家屋をはじめ家財雜具迄殘り少なに燒失ひ其のみならず引續きて水旱の難に罹り難儀の重なりて年々殖る年貢の未進に當年こそは是非ともに未進の皆納なすべしと村役人より促され素より篤實一遍の者なれば十兵衞夫婦は膝摺寄如何なる前世の宿業にや追々續く災難にて斯迄困窮の身となりしぞ斯る事の無らん爲鋤鍬の勞を厭はず朝はしらむを待て起き霧に簑着て山稼ぎ人は戻れど黄昏過月の無夜は星影を見ねば戻らぬ樣に稼ぎ畑一枚荒さずに骨體碎いて働きても火災の難に水旱の難儀が終始付て廻り追々嵩む年貢の未進今年は何でも納むべしと村役人衆より度々の催促其處で色々工面も仕たが外に仕方の有ざれば所詮我内には居られぬなり此上は我四五年の間何國へなりとも身を潜め奉公なりともして稼がなば又兎も角も成べしと思ひ定めし事なれば和女は跡に殘り居て二人の娘を頼むぞよ斯云ば邪見と思はんが我さへ居ねば年貢の未進も何とか村役人衆が仕法を付宜樣にして呉られんと男泣に泣ながら氣の毒さうに言けるにぞ女房のお安は恨めしげに夫十兵衞の顏を見つゝ餘りの事に涙も飜さず唯俯向て居たりける茲に十兵衞夫婦が間に二人の娘あり姉をお文といひ妹をお富と云るが姉妹共に心操優しく何處となく品よき生質なれば如何なる貴人の娘といふとも恥しからず斯る在所には珍しき者にて殊に兩人とも親思ひの孝行者なれば今父十兵衞が年貢の金に差詰り身を隱さんと云るを聞共に涙に暮居たりしが軈てお文は父母の前に來たり兩手を突只今お兩方樣のお咄しを承まはり候に父樣は何方へかお身を隱され給ふ由然樣にては跡々の仕樣も御座なく母樣御一人にてお困り成るゝは申迄もなく元は妾姉妹二人を斯樣に御育下され候よりお物入多く夫ゆゑ御難儀にも相成し事なれば數ならねども私しを浮川竹とやらへお沈め下され聊かにてもお金に換らるゝ物ならば此身は何樣の艱難を致し候も更々厭ひ申さねば何卒此身を遊女に御賣成れ其お金にて御年貢の納め方を成るべしと最忠實に申けるにぞ父母は其切なる心に感じ眼を屡叩き然程迄我が身を捨ても親を救はんとは我が子ながらも見上たり忝けなしとお文の脊中を摩りながら其志ざしは嬉しけれど如何に年貢の金に差閊へたりとて其方達を浮川竹に沈めんとは思ひも寄ずと十兵衞は妻お安の泣居るを勵まし餘り苦心をすると能工夫の付ぬ物なりと自在鍵より鑵子を外し素湯を呑良あつて十兵衞は膝立直し兎も角も我さへ居ずば妻や子に然まで難儀は掛るまじ思ひ定めし事成ば何樣あつても己は居られぬ留守を其方達守つて呉といふ袖袂へ取縋り此身を賣てとかき口説親子の恩愛孝と慈と暫時は果も無りけり漸々にして妻お安は落る泪を押拭ひ夫程迄に親を思ひ傾城遊女と成とても今の難儀を救はんとの其孝心が天に通じ神や佛の冥助にて賣代なしたる曉には如何なる貴人有福の人に愛され請出され却つて結構の身ともなり結句我手に育ちしより末の幸福見る樣に成まじき者にも非ず能覺悟をしたりしと空頼みに心を慰さめ終に娘お文が孝心を立る事に兩親とも得心なせばお文は悦び一先安堵はしたものゝ元より堅氣一遍の十兵衞なれば子を賣術など知らざる上に都は知らず在方では身の賣買は法度にて誰に頼まん樣もなく當惑なして居たりしが十兵衞鐺と膝を打兄作藏は當時江戸麹町三丁目にて村井長庵と言て立派なる醫者に成て居るとの由故出府して兄の長庵に委細を噺し頼まんものと委敷手紙に認めて長庵方へ送りける其文面に曰く 以手紙申上候貴兄樣彌々御安全御醫業被成目出度存じ奉つり候然れば此方八年前近邊よりの出火にて家財道具を燒失ひ其上旱損昨年は水難にて段々年貢未進に相成候處當年は是非皆納致し候樣村役人衆より嚴敷沙汰に候得共種々打續ての災難故當惑致し居候處娘文事孝心により身を賣其金子にて年貢の不足を皆納いたし候樣申呉候間甚はだ以て不便の至りには候へ共外に致し方も無之據ころなく文事賣申度存じ候之に依て近日召連出府致し候間何れへ成共御世話被下度此段御相談申上奉つり候猶委細は拜顏之上申上可候早々以上 八月二日 三州藤川在岩井村  十兵衞 江戸麹町三丁目村井長庵樣 是は長庵近來再び無頼の行ひになりし事を知ざればなり扨又長庵は追々己が心がらにて困窮に及び何哉能仕事の有かしと思ひ居ける所故是を見るより先々金の蔓に取付たりと竊かに悦び直に返事を認め遣はしける其文に曰く 去二日出之書状到來いたし委細拜見致し候偖々其方にても段々不如意との趣き蔭乍ら案事申候右に付御申越の娘儀出府致されべく候吉原町にも病家も有レ之候間宜しき先を見立奉公に差遣はし可申何れ出府の上御相談に及ぶべく候委細は筆紙に盡し難く早々以上 八月九日 村井長庵 三州藤川在岩井村  十兵衞殿 と有ける返事屆きければ十兵衞夫婦は歎きの中にも先々兄の世話にてお江戸の吉原町とやらへ行上は娘が難儀にも相成まじと心に悦び直に娘文に其由を語りて支度をさせ同道して江戸表へ出んと其身も支度に及びける母は豫て覺悟とは言ながら頻りに泪にかき昏て娘の文を近く招き今更云迄もなけれど惡き病を請ぬ樣に心を付て奉公せよ一日も早く能お客に請出され斯々云所へ片付しと云越して悦ばせよ呉々も機嫌よく奉公し傍輩達と仲能して苛酷られぬ樣にせよはしたなき事をして田舍者と笑はれなと心の有たけかき口説また夫十兵衞に打向ひ隨分道中を用心して濕氣に當り給はぬ樣娘の事は呉々も能やうに計らひ給へと懇切に言慰さめ互ひに名殘を惜めども斯てあるべきにあらざれば既に袂を別ちしが跡には女房と妹との二人夫と姉の後ろ影を我が門口へ立出て伸上り〳〵見送るを此方も同じ思ひにて十兵衞お文の兩人も妻と妹を見返り〳〵稍影さへも見ざれば後ろ髮をや引れけん一足行ば二足も戻る心地の氣を勵まし三河の岩井を後になし江戸をさしてぞ急ぎ行實に人間の一生は敢果なき事草葉に置る露よりも猶脆しとかや如何に貧苦に責られても親子諸共苦しまば又能事も有べきに別れ〳〵に楢の葉や子の手柏を引連て誘引ばさそふ秋風に末は散行我が身ぞと知ぬ旅路ぞ哀れなる 第二回  然程に村井長庵は兎に角に金儲けの蔓に有付たりと心に悦び十兵衞の出府を一日千秋の思ひにて待程に此方は十兵衞娘文を連て岩井村を出立し道中にても心を付足を痛めな草臥なと種々言慰めつゝ日を經て漸々江戸に着麹町三丁目なる長庵が宅に到りければ長庵は大に悦び偖々能出府には及ばれたり久敷便りもせざりし故田舍の樣子も如何有し事と思ひ出さぬ日とてはなく豫々容子を尋ねたく思ひしかども何を言にも人の命を預る渡世寸暇の無れば中々田舍へ尋ね行事などは思ひも寄ず心に掛る計りにて今迄疎遠に打過したり夫に付ても此間の手紙に細々と言越たるには追々不時の災難や水難旱損の打續きて思はぬ入費の有しゆゑ親の讓りの身上も都合惡敷成し由實に當時の世の中は田舍も江戸も詰り勝併し呉々返事に言遣はしたる通り親は泣寄とさへ申せと惡敷樣には計らはぬこと最懇切に申ければ十兵衞親子は大いに歡び何分宜しくお頼み申すと言ば長庵は打點き今夜は我が内も同じ事なれば安心して休息せよ併し草臥て居るならん洗足の湯を沸して遣はす筈なれど夫よりは近所ゆゑ湯に入て來るがよいお文も父と共に行べしと辯舌利口を以て口車に乘せ金の蔓と思ふ姪のお文は如何なる容貌かとお文が仰向顏を見て其嬋妍さにほく〳〵悦び在郷育ちの娘なれば漸々宿場の飯盛か吉原ならば小格子の僅か二十か三十の金を得るのが關の山と陰踏をして置たるが少しばかり手を入れば日向臭い匂ひは拔やう此奴は運が向て來たと草鞋を解せて門へ立出あれに見ゆるが洗湯なれば親子で緩々と這入て來なと心切めかして長庵が深くも計る待遇振に欺さるゝとは夢にも知ず斯迄に長庵が心の優しく成しのは嬉しき事と十兵衞は娘お文にも安心させいそ〳〵として出行しが暫くして湯より戻り珍しくは候はねど遠路を持て來し國土産と心も厚き紙袋蕎麥粉饂飩粉取揃へ長庵の前へ差出せば然も嬉しげに禮を演湯の中に誂へ置し酒肴を居間へ並べサア寛々と久し振にて何は無とも一献汲んと弟十兵衞を饗應けり十兵衞は長庵に向ひ御馳走中申上るも如何なれど豫て手紙にて申上たる次第につき娘文を同道せり何卒御忙敷も御都合なされ娘を能所へ早々御世話下されと泪を拭つゝ咄しかくれば長庵は態と目を拭ひ涙に聲を曇らせて貧の病は是非もなし世の成行と斷念めよ我とては貯へ金は有ざれども融通さへ成事なら用立て遣度と手紙を見たる其時より懇意の者へ頼んで置たが何分にも急場の事故貸て呉人も一寸なく殊に此程は何や斯や不時の物入續き勝にて夫に豫ての心願にて人の嫌がる貧家の病人療治は勿論施藥をなし中には稼ぎ人が煩ひて喰や喰ずの極貧者には持合せの金を何程か與へ慈善の道を好むのも掛替の無き兩親に不幸を成し罪滅しと自分の身には榮耀は止め人に施す事而已爲す故受取金も多けれども夫故困る我が身上現在弟が外成ぬ年貢の金に差支へ手風も厭うて育てし娘を苦界へ沈める急場の難儀を助ける事も出來ぬとは兄と言るゝ甲斐も無悔し涙が飜るゝと手を拱ぬけば弟の十兵衞は眞實ぞと思へばいとゞ氣の毒さに兄樣然までに御心配下されますな御心切を忘れはせぬ然乍ら娘も覺悟の上なれば兎も角も何れへ成とて好方へ奉公させて下されと只管頼めば長庵は然ば是非なし明日にも吉原の病家へ見舞がてら行程に能口を尋ね見ん先今晩は休まれよと兩人を枕に付せけるが翌日長庵は早々支度を爲し麹町を立出吉原さして急けり爰に吉原江戸町二丁目の丁字屋半藏と云る遊女屋は其頃での繁昌の家にて貴賤の客人引も切ず然ば此丁字屋方へ賣込んと傳手をもとめて懸合に及びけるに幸ひ此丁字屋にても追々子供も年明の近寄ければ何卒して能子供を抱んと思ふ折柄故其娘を今日にも見たきとの事なれば長庵は急ぎ宅へ歸り弟十兵衞にもお文にも此由を云聞せ直己が隣家の女房を頼み賣物には花を飾れとやら何分宜敷御頼み申すと髮形から化粧迄其頃の風俗に作り立損料着物を借請衣裳附まで長庵が拔目なく差圖をなしお文を連て丁字屋へ出かけしが先兩三日は目見えに差置く樣にとの事なれば其まゝに差置て長庵は歸りける丁字屋にてはお文が容子誰有て田舍娘と見る者なく傍輩娼妓も恥るばかりなれば流石に長庵が骨折の顯はれし所にて在所に在し其時とは親の十兵衞さへも見違へる程なれば主人半藏方にても十分氣に入お文へ何故に身を賣やと容子を尋ねけるに親十兵衞が云々にて年貢のお金に差支へ據ころなく身を賣時宜なれば何卒お抱へ下されたく如何樣の憂ひ悲しひ事成とも御主人大事御客樣を大切に勤めますと云其言葉に田舍訛り有けれど容貌のよさに主人もはずみ少し高くは思へども終に年一杯廿七年の夏四月までの證文にて五十兩に買んとの挨拶に十兵衞は大いに悦び五十兩の金の有ならば年貢の未進は殘らず納め所々の買懸り其外の借錢まで殘らず一時に片を付其上にて稼ぎなば娘を請出す時節も有なん然はなくとも其内娘が能客ありて身請をさるる事もや有んとお文にも言聞せ直に證文を取極め判人へ禮金三兩當人の身附金五兩を引去四十二兩の金を請取て長庵諸共麹町へこそ歸りけれ偖十兵衞兄長庵に打向ひ段々の御世話にてお文こと思ひの外能所へ住込有難く存じます就ては多分の御禮も致す筈なれども何を申すも此始末なれば是は誠に心ばかりの御挨拶御受納下されと金子三兩を紙に包みて差出しければ長庵は押戻し否々夫は思ひも寄ぬ事なり豫て我が言たる通り工面さへ出來る事なれば何であの孝行な娘の身を浮川竹に沈むる周旋を我しやう他人がましき事をせな聊か有ても調法なは金なり心が濟ずば其金にて妹お富へ何なりと江戸土産など買て行れよ然すれば我が請たも同樣必ず〳〵心配しやるなと手にだも取ず押戻し肉身分たる舍弟十兵衞を飽まで欺く長庵が佞辯奸智極惡は譬るに物なしと後にぞ思ひ知られけり十兵衞は兄長庵が巧みのありとは少しも知らず然樣ならば頂戴ますと己れが出たる三兩を再び胴卷の金と一緒に仕舞込を長庵は横目でジロリと眺め空嘯けば十兵衞は何れ歸村を致せし上御禮の仕樣もありぬべしと親しき中にも禮義を知る弟が心ぞしほらしき 第三回  偖も弟十兵衞は長庵に向ひ嘸かし在所にても妻や娘の私しが歸るを待兼て居る成らん因て明朝は是非とも出立致し度と言けるに長庵否々此通り雨も降て居ることゆえ明日は一日見合せて明後日出立爲べしと留めけれ共十兵衞は是を聞ず否々兄樣降ばとて一日二日の旅ではなし天氣の好日を見て立ても道にて大雨に逢まじき者にも非ずと在所を案じる一筋に十兵衞が一日も早く妻や子に安心させんと思ひ詰頻りに翌朝は出立せんとて何と云ても止まらねば然らば翌は出立して在所の者に少しも早く安心させるも能かるべし然樣決心をした上は嘸かし氣勞れも有う程に今宵は早く休むがよい己も今夜は早寢にせんと云ば十兵衞は然樣ならお先へ臥ります御免成れと挨拶し臥戸へこそは入にけれ跡に長庵工夫を凝し彼の五十兩の金を取んには刺殺して物にせんか縊殺して呉んかと立たり居たりして見ても流石に自分の居宅にて荒仕事を働かば後の始末が面倒ならん寧そ翌日は暗きに立せん然じや〳〵と打點頭獨り笑つゝ取出す傘は日外同町に住居する藤崎道十郎が忘れて行しを幸ひなりと隱し置夜の更るを待内に愈々雨は小止なく早耳先へ響くのは市ヶ谷八幡の丑時の鐘時刻はよしと長庵はむつくと起て弟の十兵衞を搖起し是十兵衞最早今のは寅刻の鐘殊に此鐘は何時も少し遲き故夜の明るに間も有まい眼を覺して支度せよ鐵瓶の湯も温んで有と聞て十兵衞は起上り顏を洗はず支度をなし幸ひ雨も小降になりぬ翌日は天氣になりなんと心急るゝ十兵衞は死出の旅路と知ぬ身の兄長庵に禮を述用意の雨具甲掛脚絆旅拵へもそこ〳〵に暇乞して門へ立出菅笠さへも阿彌陀に冠るは後より追るゝ無常の吹降桐油の裾へ提灯の灯を消まじと馴もせぬ江戸の夜道は野山より結句淋しく思はれて進まぬ足を蹈しめ〳〵黒白も分ぬ眞の闇辿りながらも思ふ樣貧しき中にも手風も當ず是迄育てし娘お文を浮川竹に身を沈め憂ひ勤めをさせるのは親の本意と思はねど身に替難き年貢の金子ゆゑ子に救はるゝのも因果なり娘の勤めは如何ならん嘸や故郷の事を思ひ出憂が積りて若や又煩ひもせば何とせん思へば貧しく生れ來て何にも知ぬ我が子に迄倦ぬ別れをさするかやと男涙に足元も踉々蹌々に定め兼子故に迷ふ闇の夜に麹町をば後になし歸ると聞し虎の門も歸らぬ旅に行空の西の久保より赤羽の川は三途としら壁の有馬長家も打過て六堂ならねど札の辻脇目も振ず急ぎしか此程高輪よりの出火にて愛宕下通り新し橋邊まで一圓に燒原となり四邊曠々として物凄く雨は次第に降募り目先も知ぬ眞の闇漸々にして歩行ける折しも響く鐘の音は明六ツならんと心嬉しく算へて見れば然はなくして芝切通しの七ツなれば偖は兄の長庵殿が我が出立を急ぎしゆゑ少しも早くと思ふ念より八ツを七ツと聞違へて我を起し呉しならんまだ勿か〳〵に夜は明まじ偖蝋燭の無ならば困つたものと立止り灯影に中を差覗きしと〳〵とまた歩行出折柄ばた〳〵駈來る足音に夫と見る間も有ばこそ聲をば懸ず拔打に振向笠の眞向より頬の外れを切下られあつと玉ぎる一聲と共に落せし提灯の發と燃立其明りに見れば兄なる長庵が坊主天窓へ頬冠り浴衣の尻を引からげ顏を背けて其場に彳み持たる脇差取直し再度斯よと飛蒐るをヱヽと驚く十兵衞がヤアお前は兄の長庵殿何故あつて此の私を切殺すとはサヽ扨ては娘を賣つた此の金が初手から欲さに深切を表に飾つて我を欺むき八ツを七ツの鐘なりと進めて出立させて置殺して取とはなにごとぞ恨めしや長庵どのとひよろ〳〵立を蹴轉ばし愚圖々々云はずと默つて亡ばれこの世の暇を取せて遣んと又切付れば七轉八倒空を掴んで十兵衞が其の儘息は絶にけり長庵刀の血を拭ひて鞘に納め懷中の胴卷を取だし四十二兩は福の神弟の身には死神と己れが胴にしつかり括り雨も止ぬに傘をと一思案して其場へ捨置是が後日の狂言だ斯して置ば大丈夫と彼藤崎道十郎が忘れて行し傘を死骸の脇へ投捨て跡白浪と我が家なる麹町へぞ急ぎける爰に武州なる品川宿といふは山を後ろにし海を前にして遠く房總の山々を望み南は羽田の岬海上に突出し北は芝浦より淺草の堂塔迄遙かに見渡し凡そ妓樓の在地にして此絶景を占しは江戸四宿の内只此品川のみ然れば遊客も隨つて多く彼の吉原にもをさ〳〵劣らず殊更此地は海に臨みて曉きの他所よりも早けれど客人は後朝をかこち昨夜も四日市邊なる三人の若い者此處の妓樓某に遊興て夜を深し宿るに間もなく夜は白みたりと若い者に起され今朝しもぶつ〳〵と呟きながら妓樓を立出道すがら昨夜の相方は斯々なりなどと雜談を云つゝ一本の傘に三人が小雨を凌ぎながら品川を後にして高輪より札の辻の方へ差掛りける處に夜の引明なれば未だ往來は人影もなく向ふを見るに三ツ股の辻の此方に人の寢て居る樣子ゆゑ何心なく通りけるに這は其も如何に一人の旅客の朱に染切倒されて居たりしかば三人共に大いに驚きながらも一人は死人の向ふを通り拔後をも見ずに迯行しが殘りし二人は顏見合せ怖い者見たしの譬の如く何樣な人やら能見んと思へば何分恐しく小一町手前に彳みしが連の男は聲を懸寧その事田町通りを歸らんと言ば一人の男申樣何にもせよ此趣を自身番へ知らせて遣ば早々人や出來らん其時一緒に見ながら通らん是は如何にと言ければ如何にも夫は面白しと二人は直に番屋に至り大聲揚て告けるは御町内に人殺あり早く往て見らるべしとの知らせに自身番の宿直の人は大いに驚き定番の者を四方へ走らせて斯と告るに町内の行事其外家主中名主書役に至る迄忽ちに寄集ひしかば知らせし兩人も一緒に行て死骸を怕々ながら後より覗き見て各々方は御苦勞成と云つゝ兩人は通り過んとする處を町役人等押止めて御二人とも御知らせ下されたる上からは御掛り合は遁れぬなり先々御檢使の御出まで御待候へと有ければ兩人は大きに打驚き何も私し共が爲たる事には候はず全く通り掛りて見付しゆゑ御知せ申せし迄なり其者が掛り合とは甚だ迷惑と云をも更に聞き入ず否々和主達が殺したりと云には非ず御知らせ有しは少しの災難手續きなれば止を得ず夫とも達て止まるを否とならば繩を打ても差止置ねば町法が立ざるなりと烈しき言葉に彌々恐れ昨夜は昨夜女郎にふられ今朝は今朝とて此災難斯まで運の惡くなる者か夫に付ても吉の野郎は昨夜も一人持囃され今朝も先へ拔て歸り仕合者よと呟き〳〵自身番屋へ上り込檢使の出張を待うちも若や如何なるお調べに成もやせんかと兩人共安き心は無りけり 第四回  去程に札の辻の自身番より月番の町奉行中山出雲守殿へ右の次第を訴へに及びければ檢使の役人兩人非番の町奉行より一人出張に相成立合の上死骸を篤と改められし處歳の頃四十三四百姓體の男にて身の内に疵三ヶ處頭上より頬へ掛て切付し疵一ヶ所脊より腹へ突通せし疵二ヶ所其脇に傘さ一本捨これ有其傘に澤瀉に岩と云字の印し付是あり懷中には鼻紙入に藥包み一ツ外に手紙一通あり其上書は「三州藤川在岩井村十兵衞殿返事江戸麹町三丁目村井長庵」右の通りの上書にて中の文言は「去二日出の書状到着委細拜見致し候扨々其方にても屡々不如意との趣き蔭乍ら案事申候右に付御申越の娘出府致されべく候吉原町にも病家も有レ之候間宜しき處を見立奉公に差遣はし可申候何れ出府の上相談可申候委細は筆紙に盡し難し早々以上  八月九日 村井長庵 藤川在岩井村十兵衞殿」右の文體也ければ直ちに麹町三丁目町醫師村井長庵呼出しの差紙を札の辻の町役人へ渡されければ非番の家主即時に麹町の名主の玄關へ持參なし順序を經て長庵の家主の手に渡すに何事やらんと驚きつゝ家主は長庵方へ到りける斯あらんと豫て覺悟の長庵は鉢卷して藥土瓶なぞ取散し大夜具を冠りて打臥たり家主は枕元に居りて長庵殿芝札の辻の自身番より急の御差紙を以て村井長庵を召連只今直に罷り出よとの事なり見請れば鉢卷などして如何成れしや直に出行るゝやと尋ねけるに長庵は重た氣に枕を持上偖々昨夜より大熱にて頭痛甚しく夜通し苦しみたり誠に〳〵病氣の時の悲しさは獨身者は藥一服煎じて呉る人もなく實以て困り候而て其札の辻よりの御差紙とは何等の御用筋にやと空嘯いて申けるにぞ家主は氣の毒さうに扨々病中と云とんだ難儀の事なり又聞の咄しなれば確とは分らねども何か札の辻にて昨夜人殺しが有りしとか云ふこと其の切られたる者の懷中に貴殿の手紙が有りしよし檢使の場へも呼出しに成るとの事といへば長庵は然も驚きし樣子にて床の上に起き上り其殺されし人は如何なる出立の人に候やと聞に家主は然ばなり四十三四の年頃にて百姓體の男の由と咄せば長庵は顏色變へ扨は弟十兵衞が金子を持て早立せし故萬一もの事でも有りしかと立たり居たりする體は實心とこそ見にけれ稍有て申けるは病中にて難儀には候へども捨置れねば直に押ても罷り出んと支度を早々にして立出れば家主も夫は〳〵氣の毒千萬と心配しながら諸共に芝札の辻を指て急ぎ行に頓て檢使の前へ呼出され長庵に一通り尋ね有て彼の十兵衞の死骸を見せられけるに長庵は一目見より死骸に取付扨は十兵衞にて有けるか斯る事の有るべきと虫が知らせし物にや頻りに夜明て出立致させ度我が止めしをも聞入ず出立成たる夫故に斯る憂目を見る事ぞ病氣でさへなき物ならば此邊迄も見送り遣んに無念の事を仕てけりと前後不覺に泣沈み正體更に有ざれば其有樣を見る人は如何にも其身が仕なしたる事とは更に知らざりけり此時檢使の役人は彌々其方が弟に相違無や如何なる譯有て大雨の折から深更に發足致せしやと尋ね有りければ長庵袖に涙を拭ひ私し弟十兵衞事は三州藤川在岩井村の百姓にて豫々正直者に候へ共不事の物入打續き年貢の未進多分に出來上納方に差支へ如何共詮術なき儘文と申姉娘を吉原江戸町二丁目なる丁字屋半藏方へ身賣致し其身代金を所持致し今朝未明に私し方を出立致し候を存知居候者の仕業かと恐れながら存じられ候と身を震はして申立てけるに其時檢使は彼場所に傘捨有りし傘を出され其方此傘に覺え有りやと見せらるれば長庵涙を拂ひて倩々と打詠め暫く有て小膝を叩き是こそ私し同町に住居致居候浪人藤崎道十郎と申者の所持の傘に有之此傘にて思ひ當りし事あり同人義昨日も私し方へ參り居候是は當今同人事病氣にて拙者より藥を遣はし置候事故昨日も例の藥取に參りしなり其節弟十兵衞朝未明より出立致し候とて右の金子を取出し改めて懷中へ入候事ども羨まし氣に見て歸り候間若や彼の道十郎が困窮に迫りて如何の了簡をも出しは致す間敷候やと然も誠しやかに申立ければ役人中も長庵が申立を實にもと思はれ其道十郎を取迯さぬ樣手當せよとて手先并に町役人へ内達にぞ及ばれける 第五回  扨も檢使には掛り合の者一同召連て北の番所へ(幕府の頃は町奉行兩人有て南北と二ヶ所に役宅あり)歸りしかば中山出雲守殿へ檢使の次第を言上且夫々の口書を差出しけるに出雲守殿も長庵が佞辯を是として彌々道十郎の仕業なりと疑がひ掛り直に麹町へ召捕方を差向られ十兵衞事死骸は兄長庵へ御引渡しに相成ければ長庵は仕濟したりと内心に悦び直に十兵衞の死骸を引取ける爰に彼の浪人藤崎道十郎といへるは故有て主家を退身爲し流浪の身と成りしが二君に仕へるは武士の廉恥所成れ共座して喰へば山も空し何れへか仕官に就んと思ひしに不幸にも永の煩ひに夫も成らず困苦に困苦を重ねしも女房お光が忠實敷賃裁縫やら洗濯等なし細くも朝夕の烟を立啻夫の病氣全快成さしめ給へと神佛へ祈念を掛貧しき中にも幼少なる道之助の養育を樂み居たりしに或日表裏の門口より上意々々との聲聞ゆるにぞ何事やらんと道十郎は枕を揚る折こそあれ召捕の役人どや〳〵と押込御用なり尋常に繩に掛れと勢猛て罵るにぞ道十郎は驚きて居り直し拙者に於ては御召捕に相成べき謂れ無し其は人違ひにては候はずやと言せも果ず役人共言譯有ば白洲にて申べしと病痿けたる道十郎を高手小手に警めて妻子の泣をも構はゞこそ四方を嚴く取圍み北の番所へ引出しが頓て中山出雲守殿の御白洲へ情なくも引出しけり然ば出雲守殿一通り調べに掛られしに道十郎は思ひも寄ぬ事成れば大いに驚怖何者が訴人せしや知ざれども右樣の儀決して覺え是無候と申に出雲守然らば此傘は其方覺え無きやとの尋ねなれば道十郎是は私しの所持の傘に御座候と云ふに出雲守殿然ば如何してか此傘が右人殺しの場所に捨有しなり其方惡事を働き其場所に取落し置たるに相違有まじ尋常に白状せよ特に長庵が申立に其方事前日長庵方へ藥取に參り合せ十兵衞が娘を吉原町へ賣其金を持て歸りし時の容子を認め其方惡意を發せしもの成らんと云へり然もあるべし如何樣に申陳ずる共既に證據と成るべき傘あれば申譯立難しと申さるゝに道十郎は如何にも迷惑し這は驚き入たる仰せかな長庵事何と申上候か存申さず候得ども私し事は先月中より永々の病氣にて臥居中々長庵方などへ參り候事是無く勿論先月中一兩度も近所の事故藥取に參り候が其時の事にて有りしが雨晴候故不思傘を長庵の玄關先に失念致して歸り候により其後兩三度も取りに遣はし候得ども之無き趣きにて返して呉ざる故其儘に致し置候ひしが其節の傘に相違無御座候然るに長庵右樣の儀を申立る事何分にも其意を得ざるまゝ何卒長庵と對決の御調べ偏へに願ひ奉つり候と申上ければ然らば此傘は其方長庵方に忘れ置しと申か長庵は其方が十兵衞の金子を持て歸る事を存じ居旁々怪しき段申立る何れ長庵と突合せ猶吟味を遂べし併しながら其方所持の傘其場所に捨在し上は其方こそ疑ひ無に非ず依て吟味中入牢申付るなりと終に道十郎は入牢の身とこそは成にけれ翌日村井長庵呼出しにて段々取調べ有りしに長庵は前に申上し通り傘を私しの宅へ忘れ置き候などとは道十郎が僞言決して右樣の事是なく候右は長庵に罪を塗付べしとの巧みにて申上候事やと存じ奉つり候と態と驚怖たる容子に申立双方の眞僞判然ざるより道十郎と突合せ吟味に相成し處佞奸邪智の長庵が辯舌に云昏められ道十郎も種々言開くと雖も申口相分らず長庵は只町役人へ預けにて下り道十郎は病中の處猶又歸牢に相成心氣疲れ心程言葉の廻らざるより自然と對決も屆かず吟味詰にも相成ずして居たりし中寶永七年九月廿七日憐むべし道十郎牢内にて死去に及びけるは不運と云ふも餘りあり妻お光は此由を聞て狂氣の如く悲みしかども又詮方も非ざれば無念ながらも甲斐なき日をぞ送りける其長庵は心の内の悦び大方ならず猶種々と辯舌を以て申立て終に死人に口無の喩への通り彼札の辻の人殺しは道十郎に事極まり殘骸は取捨に相成家財は妻子に下し置れ店請人なる赤坂の六右衞門方へ妻子の者は泣々引取れ長庵は何の御咎めもなく落着せしかば爰に於て三州藤川在岩井村へは此由を長庵より知らせやりしに十兵衞の妻お安妹娘お富は地摺足摺して歎けども詮方なく終に兩人ながら出府して長庵方へ引取れけり其内に長庵は又一ツの惡計を考へ出し妹娘のお富も幸ひ十二相揃ひし容貌なれば欺して是をも金にせんと己れが惡事仲間の早乘の三次と云ふ者を語合又近所の後家にて惡婆のお定と云ふ女をも手なづけ置き頓て母の御安にはお富を能屋敷方へ御奉公に差上るなりと云勸め彼惡婆のお定を三次が出入の御屋敷の老女と爲し御取替金などと僞りて僅かの金子をお安に與へ妹娘のお富を連出しけるがお富には姉と共に奉公せよと種々に云慰め欺し賺して終に吉原江戸町二丁目なる丁字屋半藏方へ身の代金三十兩にて賣代なし右の金子の内を三次へ五兩お定へ一兩遣し殘りの金廿四兩を悉皆く己れが榮耀に遣ひけりお安は旨々と長庵に欺かされ妹のお富迄も浮川竹の流れの身と成りし事を毫知ざれども其後更に二人の娘より一度の便りも無ければ案事煩ひ或日長庵に向ひて申樣何卒姉娘のお文にも一度逢して下されと頼みければ流石の長庵も當惑爲し挨拶に困じ果口から出放題の事を言て慰めける内又々妹お富が參りたる御邸は何と申ところにやお富にも何卒逢して下されと朝夕となく頻りにお安に責らるれば長庵は愈々困じ果妹お富が行きし所は堅い御邸成ば然輕々敷は逢難し其内都合を見て逢せんと一日遁れの挨拶も煎じ詰つて長庵が匙加減にさへ廻り兼姉のお文に逢せなば必ずお富が居る事故出て來るは必定外の内へ賣れば能りしに近來になき失策を致したりと後悔すれども詮方なく今はお安も側を放れず二人の娘に逢して呉と髮もおどろに振亂し狂氣の如き形容に長庵殆どあぐみ果捨置時は此女から古疵が發らんも知れぬなり毒喰ば皿とやら可愛さうだがお安めも殺して仕舞ふ外は無いが如何なる手段で殺して呉ん内で殺さば始末が惡し何でも娘兩人に逢して遣と誘引出し人里遠き所にて拂放すより思案は無し夫にしても自分でするは些小面倒の仕事なり彼奴を頼んで片付んと獨思案の其折から入來る兩人は別人ならず日頃入魂の後家のお定に彼の早乘の三次成れば長庵忽地笑を含み何にも無が一ツ飮ふと戸棚より取出す世帶の貧乏徳利干上る財布のしま干物獻つ押へつ三人が遠慮もなしに呑掛たりお安は娘に逢度さを引しぼる程苦勞が彌増今迄兄の長庵へ娘二人に逢してと逼りて居たる折柄成ば此酒盛に立交りて居るも物憂思ふ物から其場を外して二階に上れば折こそ宜と長庵は二人が耳に口を寄せ何か祕々囁きければ二人はハツと驚きしが三次は暫し小首を傾け茶碗の酒をぐつと呑干先生皆迄宣ふな我々が身に係る事委細承知と早乘が答へに長庵力を得て惡婆のお定と鼎に成其巧みにぞ及びけり 第六回  三人寄ど文珠さへ授けぬ奸智の智慧袋はたいた底の破れかぶれ爲術盡し荒仕事娘に逢すと悦ばせて誘引出すは斯々と忽ち極る惡計に獻つ酬れつ飮みながらとは云ふものゝ此の幕は餘り感心せぬ事成れば姉御と己と鬮にせんと紙縷捻つて差出せばお定は引て莞爾笑ひ矢張兄貴が當り鬮と云はれて三次は天窓を掻然ば三次が引請んと其夜は戻りて二三日過眞面目に成て尋ね來れば長庵はお安を打招きお富を奉公に世話を下されしは此お人なればお頼み申てお富に逢て來るが能と聞てお安は今が今迄兎や角と案じ暮して居た事ゆゑ忽ち笑を含みつゝ三次の側へさし寄て今より何卒御一所にお連成れて下されと云へば三次は默禮し然程迄にも逢度ば今夜直にも同道せんと聞てお安は飛立思ひそれは〳〵有難し先樣でさへ夜分にても能事成ば私しは一刻も疾く逢度と悦ぶ風情に長庵は仕濟したりと心の目算頓て三次に打向ひ御苦勞ながら世話序に今晩逢せて下されと云へば三次は苦笑ひ如何にも承知と挨拶するうち殺さるゝとは夢にも知らずお安は急ぎ帶引締サアと促す詞と共に三次は態と親切らしくお安を連て立ち出しは既に時刻を計りし事故黄昏近き折なれば僅かの内に日は暮切宵闇なれば辻番にて三次は用意の提灯へ灯りを點て先へ立コレお安殿何も案じる事は無お富さんも御屋敷へ行てから度々母樣へお案事成らぬ樣宜しく云て下されとお言傳も有りました特には先の御屋敷でも御意に適つて益々全盛と云はんとせしが口を押へ少し辛抱して居らるゝと屹度出世も出來まする其御邸と申のは至つて風儀も能との事傍輩衆も大勢有て御奇麗好の方々ゆゑ毎日朝から化粧が御奉公安心なる物なりと口から出次第喋舌立るを誠と思ふ田舍堅氣お安は唯莞爾々々と打悦びお前樣には色々と御世話に相成娘も嘸や悦んでがな居ませう又今晩は夜道をもお厭ひ無くて態々と娘の勤め先までも御連れ下さる御心切御禮の申上樣も御座らぬ迄に有難う存じますると云ふを聞三次はかぶりを振りながら何の御禮に及びませうぞ夫其處は水溜り此處には石が轉げ有りと飽迄お安に安心させ何處へ連行殺さんかと心の内に目算しつゝ麹町をも疾過て初夜の鐘をも算へつゝ巧みも深き御堀端此處ぞと猶豫一番町たやすく人は殺せぬ物と田安御門も何時か過ぎ心も暗き牛ヶ淵を右に望みて星明り九段坂をも下り來て飯田町なる堀留より過るも早き小川町水道橋を渡り越水戸樣前を左りになし壹岐殿坂を打上り本郷通りを横に見て行ども先の目的なき目盲長屋をたどり過人の心に尖ぞ有る殼枳寺や切道し切るゝ身とは知らずとも頓て命は仲町と三次は四邊見廻すに忍ばずと云ふ名は有りと池の端こそ窟竟の所と思へどまだ夜も淺ければ人の往來も絶ざる故山下通り打過て漸々思ひ金杉と心の坂本通り越大恩寺前へ曲り込ば此處は名に負中田圃右も左りも畔道にて人跡さへも途絶たる向ふは曲輪の裏二階眼隱し板の透間より仄かに見ゆる家毎の燈しお安は不審三次に向ひ爰は何と申所にやまた那賑かのは何所なりと訪れて三次は振返り那か那がお江戸の吉原さお文さんは那内に居られるのだ而お富さんの居るお屋敷もたんとは離れて居らぬ故二人に今夜は逢せて進んと言れてお安は草臥も頓に忘れて莞爾々々と今殺さるゝ其人を力と頼みて夜道をも子故の闇にたどりつゝ三次が後に引添歸らぬ旅路へ赴むくと虫が知らすか畔傳ひつたはる因果の耳元近く淺草寺の鐘の音も無常を告る後夜の聲かねて覺悟の早乘三次長脇差を小脇に隱しぶら提燈をお安に渡し是から道も廣ければ先へ立てと入替り最お屋敷も終其處だと二足三足遣り過す折柄聞ゆる曲輪の絲竹彼の芳兵衞の長吉殺し野中の井戸にあらねども此處は名に負ふ反圃中三次は裾を引からげ堪忍しろと後から浴せ掛たる氷の刄肩先深く切込れアツとたまきる聲の下ヤア情けなや三次どの何で妾を殺すぞや妾は何の咎有て娘に逢すと連出し此樣な淋しい所へ來て欺し殺しは何故ぞアヽ恨めしや三次殿四邊に人はなき事か何卒助けて下されと切れし肩を兩手で押へ迯んとするを引捕へ三次は其邊見廻しつゝ己は元より怨みもなけりや殺す心はなけれ共頼まれたのが互ひの不運斯なる上は觀念爲ろと又も一太刀切倒され立んとしても最う立れずばツたり其處へ打倒れ流るゝ血汐を押へしまゝ七轉八倒のた打廻るに流石の三次も心弱りヱヽ氣の毒な不便だが殺さにや成らぬ事が有る是と云ふのもお前の因果長庵と云ふ惡者を兄に持たが不仕合せ必ず私を恨まれな無慈悲なことと思へども頼まれてする荒手業呉々私が爲るではなし長庵殿の計ひなりと云にお安は聲震はし扨は兄さん長庵殿がお前を頼んで殺すのか聞えぬぞへ長庵殿私を殺す譯あらば娘に逢した上なれば十兵衞殿への土産も有るにお前もお前頼まるゝ事にも差別の有ものを罪も恨みも無私を殺す心の其方さんも情け無ぞや恨めしやと勃然と立てば三次は驚きヤア〳〵姉御此私を決して恨んでたもるまい此場に臨んで左右と言譯するも大人氣なし永き苦しみさせるのも猶々不便が彌増ばと再度大刀振上ていざ〳〵覺悟と切付る刄の下に鰭伏て兩手を合せ幾度か助てたべと歎くにぞ三次も心後れてか鬼の眼にさへ涙とやら不便の者やと思ひしゆゑ彼の長庵が惡事の段々苦痛なしゐるお安に聞せ夫故お前を殺す時機因果づくだが斷念めて成佛しやれお安殿と又切付れば手を合せ何でも私を殺すのか二人の娘に逢までは死とも無ぞや〳〵と刄に縋るを引機會に兩手の指は破羅々々と落て流るゝ血雫に畔の千草の韓紅折から見ゆる人影に刄を逆手に取直し胸の邊りへ押當て柄も徹れと刺貫き止めの一刀引拔ば爰に命は消果ぬ實に世に不運の者も有者哉夫十兵衞は兄長庵の爲に命を落し娘兩人は苦界へ沈み夫のみ成らで其身まで此世の縁し淺草なる此中田圃の露と共に消て行身の哀れさは譬ふるものぞなかりける 第七回  斯て早乘三次はお安の死骸を田圃の溝へ投込み其儘にして道を急ぎ麹町へ歸り來て長庵の門をほと〳〵叩けば待まうけたる長庵は忽ち立て戸を引明上首尾成と聞て悦び酒の用意もして有りと廣蓋代りの夜食膳へ何やら肴を并べたて大きに骨が折れたで有らう最早是にてお互ひに心に掛る雲も無と飮戲るゝ有樣は大膽不敵の振舞なり人盛成時は天に勝の道理にて暫時の内は長庵も安樂に世を送りけるが彼の十兵衞の娘お富お文は揃ひも揃ひし容貌にて殊に姉のお文は小町西施も恥らうばかりの嬋妍もの加之田舍育ちには似氣もなく絲竹の道は更なり讀書も拙からず最愛しき性質成れば傍輩女郎も勞はりて何から何まで深切を盡くして呉ける故僅の間に曲輪の風も何時か見習ひ樓主の悦び大方成らず依て丁字屋の板頭名前丁山とこそ名付たれ抑突出しの初めより通ひ廓の遊客は云ふも更なり仲の町の茶屋々々迄も譽ものとせし位なれば日成らずして其の頃屈指の全盛と成りし事全く孝行の徳にして神佛も其赤心を守護給ふ物成らんと又妹お富も長庵に欺かれて此丁字屋へ賣れ來しかば姉妹手と手を取換し如何成れば姉妹二人斯る苦界に沈みしぞ父樣には私の身の代金の爲に人手に掛り果て給ひ母樣には麹町にお在るとの事成れどなどか逢には來給はぬぞ手紙を上ても片便り若しや生別れにも成らんかと夫のみ心に懸れりと袖に涙の玉霰案事暮すぞ道理なり偖妹のお富は名を小夜衣と改めしか是も突出し其日より評判最とも宜りければ日夜の客絶間なく全盛一方ならざりけり茲に神田三河町に質兩替渡世をする伊勢屋五兵衞とて有徳なる者の養子に千太郎と云ふ若者あり實家は富澤町の古着渡世甲州屋吉兵衞と云ふ者なりしか此千太郎或時仲間の參會崩れより大一座にて晝遊びに此丁字屋へ登樓お富の小夜衣を偶娼にせしが惚合にて二度が三度と深くなり互ひに思ひ思はれて割なき中とは成りにけり偖此伊勢屋五兵衞と云ふは例なき吝嗇者にて不斷の口癖にて我程仕合者は有るまじ世の中に子を持程の損はなし夫故我は妻をも持ず世繼には人が骨を折て養育した子を貰へば持參金も何程か附なり縱令放蕩を仕たればとて無した金は持參金より引去離縁さへすれば跡腹を病ずに濟ぞかし我も追々取年にて近頃大きに弱りし故養子を一人貰ひ度望みと云ふは他ならず何事も拔目なく實家の立派なる持參金の澤山有養子なりなどと云ひ又奉公人が風邪でも引て寢ると人と入物は有次第なり米が入なくて能などと戲談にも云ふ程の吝嗇成れば養子の周旋をする者も無れど誰しも欲の世の中なれば身上の太きに愛て言込者も又多かり然共持參金の不足より毎も相談整のはず爰に出入の者の内に古着渡世の者有りしが彼が周旋にて富澤町に甲州屋吉兵衞と云ふ古着渡世の者の次男に千太郎と呼て當年二十歳に成器量と云ひ算筆と云ひ殊に古着渡世なれば質屋にも因み有て申分無若者成れば御當家の御養子にせられては如何にやと相談有りけるに五兵衞は彼の持參金の無より縁談を斷りければ當家に幼年の頃より奉公して番頭と迄出世をなし忠義無類世間にて伊勢屋の白鼠と云ひ囃し誰知らぬ者も無き評判の久八は日頃より主人の吝嗇なるを心に悲しみ居けるが御儉約成るゝは結構の事なれ共御相續の御養子は御家を御繼せ成さる大事の御方なり其大切なる御養子持參金を御望み有るは大きな御了簡違ひと申ものなりと思ひ切て忠義一途の心より主人五兵衞を種々樣々と申諫め當家御相續の御養子に候へば持參金の儀は御止りありて只其人をこそ御撰みあるが然るべしと道理を盡して諫言に及びければ流石強慾の五兵衞も初めて道理と思ひ終に持參金の念を斷たる樣子なれば久八は此圖を外さず話しなば必ず縁談整のはんと彼の富澤町なる甲州屋吉兵衞の次男千太郎の身持を篤と探りしに何所で訪ても能若者なりと賛成ざる者の無かりしかば其趣きを取敢ず五兵衞に話しけるに忽ち縁談整のひたれば久八の悦喜一方成ず然共物入を厭ひの聟入の祝言も表向にせず客分に貰ひ請たるが素より吝嗇の五兵衞なれば養父子の情愛至て薄く髮も丁稚小僧同樣に一ヶ月六十四文にて留置湯も洗湯へは容易に出さず内へ一日置て立る程なれば一事が萬事にても辛抱が出來兼る故千太郎は如何はせんと思案の體を久八は疾に察し何事も心切を盡し内々にて小遣錢迄も與へ陰になり日向になり心配して呉けるゆゑ久八が忠々敷心に愛て千太郎は奉公に來し心にて辛抱をして居たりけり然るに正徳三年癸巳の三月四日例年の事とて兩替并びに質古着渡世の仲間の參會有皆々兩國の萬八樓へ集まりけるが伊勢屋五兵衞も仲間内とて月行事より其の趣きの回状のありし折節五兵衞は店に手の拔られぬ帳合有りとて悴千太郎を呼我等が名代に萬八へ行き仲間の者にも知己に成るべしと云ふに千太郎は畏まり候と頓て支度に掛りしに持參の衣類は商人には立派過ると養父の差圖に毎もの松坂縞の布子に御納戸木綿の羽織何所から見ても大家の養子とは受取兼る樣子なり其時養父五兵衞は千太郎に云ひける樣今日の馳走は總て割合勘定なれば遠慮には及ばぬなり殘して歸るは損故是へ包んで持歸れと古びたる油紙と重箱を風呂敷に包んで渡し今日は別段の事なれば金の入事の有るも知れねば用意に持參せよと澁々金一分を千太郎に渡し參會が濟次第人には構はず先へ歸つて來れよと宛然丁稚小僧を宿入に出すが如き仕成にて名代に遣はしけるに彼の仲間の若者は萬八の崩れより向島の花見と云ひなしその實花街の櫻の景氣を見んと言ひ立ち伊勢五の養子をも連れ行かんと誘引ければ千太郎は恭しく兩手をつき據ころなき用事も有ば勝手が間敷は候得共今日は御免有れと云ひければ大勢は酒機嫌にて聞入ず殊に五兵衞の吝嗇を平生憎みける故態と千太郎を歸さず是非お附合なされよと無理に引留まだ日も高ければ夕刻迄には寛々としても歸らるゝなり決して御迷惑は掛ませぬと厭がる千太郎の手引袖引萬八の棧橋に繋合たる家根船へ漸々にして乘込せり是ぞ千太郎と久八が大難の基ゐとこそは成りにけれ 第八回  然ば彼伊勢屋千太郎は養子の身なれば仲間一同へ程能申譯を爲し逃歸らんとなせども養父五兵衞が平生仲間交際を更になさず類ひ無き吝嗇者なれば養子千太郎を連行て伊勢五の親爺に氣を揉せ呉んと一同にて仕組しことゆゑ千太郎の云ふ事を少しも聞入ず御養父が若分らぬ叱言を言れなば仲間一同にて引受貴樣に御迷惑は懸まじ一年に唯一度の參會故夫を外し給ふとは卑怯なりと手引袖引萬八樓の棧橋より家根船に乘込せしが折節揚汐といひ南風なれば忽ち吾妻橋をも打越え眞乳沈んで梢乘込と彼端唄に謠れたる山谷堀より一同船を上り十間の白扇子に麗らかなる春の日を翳し片身替りの夕時雨に濡にし昔の相傘を思ひ出せし者も有るべし土手八町もうち越して五十間より大門口に來て見れば折しも仲の町の櫻今を盛りと咲亂れ晝と雖も花明りまばゆきまでの別世界兩側の引手茶屋も水道尻まで花染の暖簾提灯軒を揃へて掛列ね萬客の出入袖を摺合茶屋々々の二階には糸竹の調べ皷太皷の音絶る事なく幇間の對羽織に色増君の全盛を顯はし其繁榮目を驚せし浮生は夢の如く白駒の隙あるを忘る實に蓬莱の仙境も斯る賑ひはよも非じと云ふべき景況なれば萬八樓より翦たる一同は大門内山口巴と云引手茶屋へ躍り込ば是は皆々樣御揃ひで能うこそお出在れしぞ先々二階へ入つしやいと家内の者共喋々しき世事の中にも親切らしく其所よ其所よと妓樓を算へ丁字屋ならば娼妓も澤山有故宜らんと山口巴の案内にて江戸町二丁目丁字屋方へ一同どや〳〵登樓り千太郎には頃日出たばかりなる小夜衣が丁度似合の相方と見立てられしが互ひの縁し如何につき合なればとてまだ日も暮ぬきぬ〳〵に心殘せど一座の手前其の日はどつと陽氣に騷ぎ手輕く遊で立出つゝ別れ〳〵に歸りけり偖も小夜衣は今日圖らずも千太郎の相方に出しより何となく其人の慕はるゝまゝ如何にもして彼の客人を今一度なりとも呼度思ひ其夜は外の客へも染々勤めざる程なれば其心の此方にも通じけん千太郎も小夜衣の事を憎からず思ひ其の移り香の忘れ難しと雖も養父の手前一日二日は耐へしが何分物事手に付ず實家へ參ると僞りて我が家を立出小夜衣が許へ到りしに夫と見るより小夜衣は飛で出直樣我が部屋へ伴ひ何くれとなく勤めを離れし待遇に互ひの心を打明つゝ變るまいぞや變らじと末の約束までなせしかば千太郎は養家を大事と思ふ心も何時しか忘れて小夜衣の顏を見ぬ夜は千秋の懷ひにて種々樣々と事にかこつけ晝夜の別ちも無通ひける實に若き者の溺れ安きは此道にして如何なる才子も忽ち身を亡ぼし家産を破る殊に世間見ずの千太郎と又相手は遊女とは云へまだ生娘も同樣なる小夜衣のことなれば後先の考へも無く千太郎を招き田舍に在ては見る事も成らぬ斯る御人と連理の契りを結ぶ嬉しさは身を捨てこそ有なれと思ふも果敢なき小女氣なり彼の一生の苦勞は他人に寄一雙の玉手千人枕し一點の唇萬客に嘗らるゝと云ふ愁い勤めの其中の心の底を打明て語るお方は唯一人と小夜衣が誠を盡せば千太郎は彌々夢中になり契情遊女に咎はなく通ふ客人に咎有りとは我が事なり願は明鏡となつて君が俤げを分し願は輕羅と成て君が細腰にまつはりたしなどと凝塊り養父五兵衞が病氣にて見世へ出ぬを幸ひに若い者等を欺しては日毎夜毎に通ひ詰邂逅宅に寢夜には外を商ふ物賣の聲も花街の夜商人丁稚の寢言も禿と聞え犬の遠吼按摩針の聲迄も都て廓中の事を思ひ出す程にして何も斯して居られぬと又飛出しては夜泊り日泊り家には尻の据らねば終に病中ながら養父五兵衞の耳に入り直に離縁と憤ほるを番頭久八は大いに驚き主人五兵衞へ段々に詫言に及び千太郎には厚く異見を加へ彼方此方と執成しければ五兵衞も漸々怒りを治め此後を急度愼むならばと一ト先勘辨にぞ及びける仍て久八より猶又千太郎に堅く異見をなし呉々も愼み給へとて蔭に成日向になり忠義を盡しければ千太郎も太だ後悔に及び暫く吉原通ひを止りしと雖も小夜衣の事を思ひ切しに非ず只々便りをせざるのみにて我此家の相續をなさば是非とも渠を早々身請なし手活の花と詠めんものをと心に誓ひて表面は辛抱したりし故久八は悦び勇み猶々心を用ひ大切にぞ勤務ける 第九回  時に彼町醫師村井長庵は既に十兵衞を殺害し奪ひ取たる五十兩又妹お富をも賣代爲して掠め取たる金までも悉皆く遣ひ捨今は早一文なしの素の形相と成りければ又候奸智を巡らし段々聞ば丁山小夜衣の兩人共に追々全盛に成て朝夕に通ひ來る客も絶間なく吉原にても今は一二と呼るゝとの噂さを聞此兩人の許に立越て小遣ひ取つて呉んものと或日丁山小夜衣の許に到り殺して仕舞た母のお安が病氣にて寢て居るゆゑと白々敷も入用の次第を咄し如何にも差迫りたる體に見せければ兩人とも流石は伯父のことゆゑ兩親とも此叔父に殺害されしとは夢にも知らず特に母が病氣ときゝ姉妹二人にて心一杯出來る程合力に及びければ強慾非道の長庵は能き事に思ひ毎日々々の樣に無心に行ける程に果は丁山小夜衣も持餘して斷りを云ひければ折に觸ては無理なる難題をも云掛などして殆ど困り入りしとかや又有時長庵來りて毎時の通り種々無心を申しけれども丁山も餘り度々のことなれば然々は工面も出來ず併し母樣が御病氣ならば主人へ願ひ兩人で引取何の樣にも看病致さん何うぞ然して給はれと言れて長庵驚愕せしがお安も追々快方なれば近き内に連て來て兩人に逢して遣りませう金が出來ずば夫でよしとはいひしかど又小夜衣に向ひ少しにてもと言ければ小夜衣も同じ返事をなしけるにいやさ其方は仕合せ者能客が有ると云噂は疾より知て居る尾張屋の客は何した此の頃は御出がないか而半四郎近江から御出の人はと口から出任せに引手茶屋の名前を並べ立てる内にアノ山口巴から來る若旦那かへと小夜衣は空然長庵の口に乘られ然ばなりその三河町の若旦那は頓と鼬の道を切たとやら云ふ樣に少共御出の有らぬのは何した事かと思ふ故御茶屋へ度び〳〵文を出し待ども一度の返事もなし何處に何うして居なさるやらとても逢れぬ者ならば寧そ死んだが勝ならめと打しほれしが顏ふり上伯父樣何ぞ三河町とやらへ往て樣子を尋ねて下されと頼めば長庵小首を傾け直にも樣子を探つて見樣が必ず短氣な事などしまひ先の返事は翌日する程に少し成りとも小遣ひをと云れて小夜衣は千太郎が樣子を聞度思ひしより金子少し渡しければ長庵は夫より直に三河町をさして立歸り頓て近所の湯屋の二階へ上りて夫となく樣子を聞糺し夫より近邊の割烹店へ上り竊かに千太郎を呼び出し初めて面會に及び段々の挨拶も終りければ彼小夜衣よりの言傳を落もなく物語りを爲すにぞ千太郎は小夜衣の伯父と云ふに心寛み私し儀不圖した事より貴殿の姪小夜衣に馴染を重ね夫婦の語らひ迄約せし上は貴殿とても一方ならぬ御中なりと詞の端に長庵が曲輪の樣子具さに噺し又此程は絶て遠ざかられし故小夜衣は明暮思ひ煩ひて歎息恨みし事などを口から出任せ永々と物語り何卒御宅の御首尾を御繕ひ有て能程に御尋ね遣はされなば私し迄も忝けなしと云ひつゝ小夜衣より預りたる文を差出しけるにぞ千太郎は取手も遲しと押披き一下り讀では笑を含み二下り讀では莞爾々々と彷彿嬉し氣なる面持の樣子を篤と見留て長庵は心に點頭つゝ頓て返書を請取千太郎よりも小遣ひとて金百疋を貰ひ請其儘我が家へ戻り翌日返書は小夜衣へ屆けしが此機に就て何か一仕事有さうな物と心の内に又もや奸智を運らして急度一ツの謀略を思ひ付き一兩日過て又々彼三河町に到り千太郎に面會し扨若旦那折入て御相談が御座りますゆゑ態々用を差繰て參りしは外の事にても御座りませぬ彼花街の小夜衣が事木場の客人よりだら〳〵急に身受の相談然る處小夜衣は如何にもして若旦那の御側へ參り度夫のみを樂しみに苦界を勤め居たるに思はぬ人に思はれて藪から棒の身受の相談其所で彼めも途方に暮此相談を止にして若旦那の方へ遣て呉と泣付れ愚老も不便と存ずれば何がなして遣り度は思へども何を云ふにも金銀づく外へ根引をさるゝ時はとても生ては居られぬと小夜衣が一圖の心夫や是やを心配の餘りまた御部屋住の若旦那へ御咄し申すも如何とは存じたなれども急場の事にて十方に暮參りまして何うにか御工風は御座りますまいかと誠しやかに述るにぞ世間知らずの千太郎聞くより大いに仰天し心の内は狂氣のごとく溜息つきつゝ居たりしが如何なしたら能らんと言ふ尾に付て長庵は然ばにて候外々よりの身受と有れば二百兩や三百兩の金にては勿々六かしく候へ共親の病氣と申遣はし詐りて身請に及ぶ時は僅か元の賣金五十兩にて相談になり申すなり何卒若旦那の御工風にて其五十兩の金さへ御座れば拙者が萬端取計らひ身受をなして某しが宅へ密そりさし置きなば何時貴君が御出でも名代床の不都合なく御泊り成るも御勝手次第幾日居續し給ひても誰に遠慮も内證も入らず然なる時は小夜衣が命の親とも存じます何卒五十兩の御工風をと聞て千太郎は夢中になり小夜衣を何時かは女房に持んと思ひ居たる處なれば外の客に身受されんこといかにも口惜しく思ひける故長庵に打向ひ成程云はるゝ通り五十兩の金子は私が工風爲ましやうとは言ふものゝ五十兩の大金如何して拵へん何うして調達せん者と兎角當惑しながらもまた小夜衣を受け出し長庵方に差置て折々通ひ樂しまば此上もなき安心成りと思ふも若氣の無分別迷ふ心の置所露の命と氣も付かず不圖惡心や發しけん竊かに店の有金の内を幾干か掴み出し身受の金にせんものと急度思案を定めつゝ再度長庵に打向ひ云はるゝ通り相違なくは如何にもして五十兩調達せん宜しく御頼み申しますと聞て長庵大いに悦び聊か相違は仕つらず然らば何頃受取に參るべきやと申にぞ千太郎は明後日來り給ひねと約束固めて別れを告其日は我が家へ立戻り覺悟の如く用意なし頓て約束の日になりしかば長庵の來るのを待て彼五十兩を渡しけるに長庵は是を懷中して彌々明後日迄には小夜衣を身受なし愚老が宅へ連歸れば四五日内に御出有れとて金子を預りしと云ふ一札迄渡し置き其儘別れて歸りける心の内に長庵は仕濟したりと大いに悦び彼五十兩の其金は己れが榮耀酒肴遊女狂ひに遣ひける然るに伊勢屋千太郎は斯る事とは夢にも知らず心の中に今日は小夜衣が麹町へ來たか翌は來るかと指屈算へ日の暮るのを樂しみに漸々と四五日を送りしが密に支度を調へて見世を拔出し麹町三丁目へ到り其所か此所かと尋ぬるうちに門札に村井と表名の有りければ心嬉しく爰が長庵の宅にて小夜衣は嘸待詫つらんと玄關形ちの履脱へ立入て案内を乞ふに内にては大聲あげどうれと云て立出る長庵を見るよりはやく千太郎是は〳〵伯父樣此間は御出下され段々の御世話忝けなし偖御約束の通り今日參上致せしと云ふに長庵最不審しげに小首を傾け是は〳〵何方より御越にや何處の御方樣にて候ひしか御病人なるや又御見舞に上りますのでござるかと思ひも寄らぬ挨拶に千太郎は長庵が戲むれにやと思ひけれども猶も叮嚀によもやお見忘れは成るまじ私しは伊勢屋五兵衞の養子千太郎にて候なり段々と小夜衣がとこに付いてはお骨折何とも有難く存じ奉つる夫れ付き今日は參上致し候小夜衣も參り居候や御逢せ下されたしと云ひければ長庵彌々驚怖たる面色にて不思議の仰せを承まはり候者哉小夜衣とは何のことにて候や夫は全たく門違ひにて有るべし然樣のことは夢にも覺え候はず何か御心得違ひ成るべし拙者は町醫村井長庵と申す者にて候と聞より然れば戲むれにてもなきかと千太郎は大いに驚怖先日私し近邊の料理茶屋の二階にて御目に懸り眼前に貴殿へお渡し申したる五十兩の金子を以て貴殿の姪小夜衣を身請して御當家へ置とのお約束ゆゑ金子をばお渡し申せしに何故然樣のことを仰せられ候やと申に長庵大いに怒り這は怪からぬことを云ふ人かな失禮ながら貴殿は未だ御若年で有りながら御見請申せば餘程の逆上今の間に御療治なければ行末御案事申なりと取ても付ぬ挨拶に千太郎は身を震はしアノ白々しいと言時長庵は顏色かへて五十兩には何事ぞや拙者は更に覺えなき大金を拙者に渡したなどとは途方も無事を云はるゝ人哉恐ろしや又五十兩と有れば容易成ざる大金なり夫には何ぞ證據にても有りさうな物と言ば其時千太郎如何にも御自分が認められし受取證文是見られよと云ひつゝ一札を懷中より取出し長庵が前へ摺寄開きて見れば這は如何に文字は消て跡形無くたゞ情なき白紙なり是は長庵が惡計にて跡の證據に成らざる樣最初より工んで置きたる大惡無道恐しかりける事共なり 評に曰く證文の文字の消失しは長庵が計略により烏賊の墨にて認めし故成んか古今に其例し有りとかや 第十回  古語に曰く君子は欺くべし罔べからずとは宜なる哉都て奸佞の者に欺かるゝは己が心の正直より欺かさるゝものなり實に其人にして爲而已其の欺く者は論ず可らず其才不才に依るにあらざるか爰に伊勢屋五兵衞の養子千太郎は父の病中を幸ひに店の有金の内五十兩養父の目を掠め彼小夜衣を根引爲し圍ひ置て自儘に我が家内にもせん者と思ひ居たる心より村井長庵の惡計に罹り夫而已ならず金と引替に長庵より受取置たる證文を開いて見れば不思議にも文字は消えて唯の白紙ゆゑ這は如何せし事成かと千太郎は暫時惘れ果茫然として居たりしが我と我が心を勵まし餘りと云ば長庵殿眼前此程料理屋の二階にて貴殿の頼みに任せ手渡し爲したる五十兩を覺え無とは何故ぞ受取證書が白紙に成て居るのも不審の一ツと云ば長庵は大いに笑ひ戲氣と云も程こそあれ覺え違ひも事による證據の書附有などと其の白紙が何に成然して見ればお若いが正氣では御座るまい診察して藥を進ぜん外々の儀と事變り金子の事故驚怖たりあたら膽を潰す所と空嘯ひて莨をくゆらし白々敷も千太郎を世間知らずの息子と見掠め先寛々と氣を落付思ひ定めて歸らるべしヤヨ氣の毒なる病氣ぞと長庵更に取合ねば千太郎は其儘に戻るにも戻られず進退爰ぞと覺悟を極め猶長庵に打向ひ是は怪からぬ御言葉哉假令證文は白紙に變りし共最初小夜衣が使ひに參られ我を喚出し三四度御自分樣と引合たる家も有り殊に御自分の云はるゝには小夜衣は我が姪なれば行末共に懇ろに私に頼むと小夜衣が文を持參成れし成ずや夫等の事柄よもお忘れも仕給ふまじ夫より後も參られて姪の小夜衣が木場の客へ俄かに受出さるゝことに成夫に付親許身受にすれば元金五十兩にて苦界を出らるゝ故其五十兩の金子を何とかして才覺なし呉よ其金さへ有ば木場の客を出し拔て小夜衣を身受なし貴宅へ置とのお話し故貴殿の言るゝ其意に任せ五十兩の金とても勿々に出來兼たれど延引して居る時は外へ身受に成との事故道ならぬ事とは知りながら養父の金を引出し命がけにて其金を約束通り貴殿に渡し今日は寛々小夜衣に逢て行んと來りしに仁術家業の身を以て現在姪の小夜衣をも知ぬ抔とは何故なりや然すれば我を店者と最初よりして見侮り那の小夜衣を餌ばとなし我を欺き五十兩の金をば騙り取巧みと云を打聞長庵は兩眼を濶とむき出し目眦逆立形相を改め這は聞憎き今の一言此長庵を騙りなどとは何事ぞや我等は仁術を基とする醫業なり最初よりして欺いて五十兩の金を騙り取たとは不埓の一言今一言聞て見よ其分には置まじと煙管追取身構へなし威猛高に罵るにぞ彌々驚怖千太郎悔し涙にかき暮て最是迄と大聲あげ長庵殿そりや聞えぬぞへ今更に然樣にばかり言るゝからは矢張騙りに相違なしと半分云せず長庵は汝若年者故に何事も勘辨して言はして置ば付上り跡形も無き惡口雜言最此上は聞捨成ぬ眼に物見せて呉んずと千太郎が襟髮をぐさと掴んで疊へ引据ゑ打やら擲くやら煙管を取て續け樣に腕に任せて打ける程に髮は散々おとろに亂れ面體にも聊か疵を受けぬれば千太郎は最早百年目と思ひきり口惜や汝ぢ其金を騙り取しに相違無し言譯なさに此打擲騙りめ〳〵奸賊めと大音聲に罵れば長庵増々怒りを發し其金の五十兩とは何所から出したる金成ぞ夫程迄に兎や角と云事ならば其方が養父の宅へ引摺行て金の出所糺して呉ん已に屹度穿鑿に及びし上にて黒白の分ちを付んと一刀を腰に佩み此青壯年いざ行やれと罵りつゝ泣臥し居たる千太郎を引立々々行んとすれば此方は胸に釘打思ひ眼前養父の預り金をば偸み出したる五十兩宅へ行れて彼是と其の事露顯に及びなば第一養父は豫ての氣性如何成騷ぎに成やら知れずと思へば是も我が身の難儀と屹度思案を胸に定め先待たまへ長庵殿最早委細は分つたり然ば外には言分なし勘辨なして下されと千太郎は悔しくも兩手を突て詫ければ長庵呵々と冷笑ひ夫みられよ最初より某しが言通り其方が騙りをば却つて我等に塗付んと當途もなき事言散し若年ながらも不屆至極重ねて口を愼み給へ若き時より氣を付て惡き了簡出さるゝな親々達に氣を揉せ不幸の上に大不幸と異見らしくも言散しサア何處へなり勝手に行と表の方へ突出し泣倒れたる千太郎を尻目に掛打笑ひまだ行ぬかと大音に叱り付られ口惜乍ら詮方なく凄然々々我が家へ立戻りぬ跡に長庵箒を採玄關の敷臺掃出しながら如何に相手が青年でも餘日がない故とぼけるにも餘程骨が折たはへ併し五十兩の仕業だからアノ位なる狂言はせにや成舞と長庵は獨微笑みつゝ居たりけり 第十一回  偖千太郎は何所を何うか我が家へ歸り悔し涙にかき暮ながら二階の小座敷へ竊と這入り心中に思ふ樣如何にしても口惜きは長庵なり眼前渡して其金を知らぬと言さへ恐しきに己が惡事を覆はん爲此我をよく那の樣に踏だり蹴たり思へば〳〵殘念至極是と言のも我が身を誤り不幸の天罰報い來て我と苦しむ自業自得然は然ながら此儘に知らぬ面には過されず今にも店の勘定せば眼前知れる五十兩償ひ方は實家へ赴き何とか兄に咄しなば何うにか成んと思へども彼の小夜衣の事につき欺して取れた金などとは何の顏さげて人に言れん然れば其時死ぬるより外に方便も無き身なれば遲かれ早かれ死ぬ此身とても死ぬなら今日只今長庵方へ押掛行命を渠に取るゝ共時宜に寄ば長庵めを恨みの一刀浴せ掛我も其場で潔よく自殺を爲て怨みを晴んオヽ然じや〳〵と覺悟を極め豫て其の身が嗜みの脇差密取出して四邊を見廻し拔放し元末倩々打詠め是ぞ此身の消えて行く露の白刄と成けるが義理有養父や忠々敷那の久八を始めとして富澤町の實父にも兄にも先立不幸の罪お許し成れて下されよ是皆前世の定業と斷念られて逆樣ながら只一遍の御回向を願ふと云ふも忍び泣殊に他人に有ながら當家へ養子に來た日より厚く深切盡くして呉し支配人なる久八へ鳥渡成とも書置せんと有あふ硯引寄せて涙ながらに摺流す墨さへ薄き縁にしぞと筆の命毛短かくも漸々認め終りつゝ封じる粘より法の道心ながら締直す帶の博多の一本獨鈷眞言成ねど祕密の爲細腕成ども我一心長庵如き何の其岩をも徹す桑の弓張裂胸を押鎭め打果さでや置べきかと裾短かに支度を爲し既に一刀佩さんて出行んとする其の折柄後ろの襖を押開き立出たるは別人成ず彼の番頭の久八なれば千太郎は大いに怖き書置手早く後ろへ隱し素知らぬ振して居る側へ久八は膝摺寄せ是申し若旦那暫時お待下さるべし如何にも御無念は御道理然共爰は急時ならず曩より私し失禮ながら主人の御容子唯事ならずと心配なして襖の彼方に殘らず始終を承まはり何にも知ぬ私しさへ悔しく存ずる程なれば嘸御無念にも思し召んが他所から出來た事ではなし矢張お身から求めた事故人をお恨み成るゝな此久八めが申すこと今一通り御聞下され此間より度々に御異見申上たる通り願ふ事では御座りませんが今にも萬一大旦那がお目出度成れたなら其時こそは此大まいの御身上悉皆若旦那の物となる假令然樣に成すとも僅かの事には眼を掛ず惡い夢だと斷念て御辛抱を成されなば大旦那にも安心致され家督を御讓り有れんと思ひ運らすことも有ば何は扨置御家督を御讓り受の有樣に御辛抱こそ肝要なれ然樣さへ成ば何事も御心任せに成事と心身に掛たる久八が親兄弟も及ばぬ異見に千太郎は只茫然として居たりしかば久八は猶も詞を改ためて若旦那只今は何をお認め成れしやと四邊を見れば一通の書置有是書置は何事ぞと封押切て讀下し這は抑御狂氣成れしか養家實家の親御達其お歎きは如何成ん夫を不孝とは覺さずやと撓まぬ異見に千太郎も今は思ひを止まりて嗚呼誤てり〳〵更に心を入替て義理有親の御安心遊ばす樣に是からは屹度辛抱する程に其方も安心して呉と天窓を下げて詫るにぞ久八は其手を取勿體無い何事ぞや失禮なるも顧みず御意見なせしお叱りも無のみ成ず速かに御志ざしを御改め下さらんとは有難く夫にて安心仕つりぬと悦び云ば千太郎は猶手を拱きて居たりしがとは云物の五十兩容易の金に有ぬ故如何して穴を償はん實家へ何とか方便云て時借なりとせんものか外に手段は更に無しと胸に思へども久八にも夫のみは云出し兼て居たりしを久八敏くも悟り得て又改めて申すやう其長庵とかに騙られし五十兩の金子の穴其外是迄遣はれし金の仕埋は私しが御引受申ます必ず〳〵御心配遊されなと何事も忠義面に顯れたる久八が意見に千太郎は伏拜み返す〴〵も辱けなし此恩必ず忘却はせじと主從兩人寄擧り暫し涙に沈みけり 第十二回  武家に在ては國家の柱石商家で申さば白鼠なる番頭久八は頃日千太郎の容子不審しと心意を付て居たりし折から顏色も常成ず息せきと立戻り突然二階の小座敷へ這入りし容子啻事成らずと久八が裏階子より忍び上り襖の陰に彳みて窺ひ居るとは夢にも知らず千太郎は腕拱ぬき長庵に欺かれて五十兩騙り取れし殘念さよと覺悟を極めし獨言を委細に聞て其場へ立出樣々諫め賺かせし末畢竟花街の小夜衣とか云娼妓も長庵とは伯父姪とかの中成なれば一ツ穴の貉ならん然すれば勿々油斷は成ず旁々以て小夜衣が事は判然思ひ切再度廓へ行れぬ樣此久八が願ひなりと猶眞實に委曲との意見を聞て千太郎は漸々心落居つゝ久八の言通り金子の工夫は又有べし何にもせよ今度の事にて小夜衣に愛想もこそも盡果たり他人に心恕すなとは能も言たる者哉と後悔表に顯れければ久八は打喜び禍ひが却つて僥倖なり斷念給へとて長庵の方へは其後何の懸合もせざりし程に長庵は五十兩の金を騙り徳と彌々喜悦居たりける然るに養父五兵衞は例の吝嗇者なれば病中にも店の事而已心配爲して居たりしが此程追々快氣に隨ひ店の惣勘定をなさんとの事に久八千太郎は人知らぬ胸を痛めけるが早くも年月推移りて正徳四年と成ければ當春は是非店卸しを爲んとて頓て諸帳面類を悉皆く調べ段々惣勘定と立けるに店の有金五十兩不足しければ猶又勘定立直し種々取調べしかども同く帳合立難く如何に穿鑿なすと雖も番頭久八が引負とは流石吝嗇なる五兵衞も心付ず只々不審に思ひ外々の番頭若者に至る迄疑ひを懸平日百か二百の端足錢さへ勘定合ざれば狂氣の如くに騷ぎ立る五兵衞なれば五十兩の事故鬼神の如く憤ほり居たる所へ番頭久八進み出て私し儀幼少の時よりの御恩澤を只今となり仇にて報じ候は何とも申譯なき事ながら此程計らずも遊び過し五十兩の不足金は全く私し儀引負仕つりし故何卒御慈悲の御沙汰偏へに願ひ上ますと彼の千太郎が欺かれし五十兩を既に我が身に引請んとするを暫時と引留千太郎進み寄否々久八にては御座らぬと言んとするを押留め尻目に懸て夫と無知らする忠義の赤心を水の泡にさせるも本意なし如何はせんと千太郎が胡亂々々爲すを久八は我が身の後ろへ引廻し私しが引負に相違なく餘の者の仕業では御座りませぬと聞より五兵衞大いに怒り汝れ久八め今迄伊勢五の白鼠忠義者よと世間でも評判請し身ならずや此五兵衞迄然樣に思ひしは大いなる見違ひなり扨も〳〵五十兩と言ふ大金を遣ひ捨しとは何ごとぞや十兩からは大金成ぞ夫を何ぞや遣ひ込知らぬ顏して主人の眼を拔く大膽者めと有合十露盤おつ取て久八を散々に打擲爲すを側に見て居る千太郎は我が骨節を打るゝ思ひ寧そ有體打明てと思ふ樣子を久八は頻りに後へ引止め五兵衞に向ひ何とも御詫の致し樣も御座なく御打擲は扨置御討殺し成れる共少しも御恨みは申ません御十分に成れよと兩手をつかへ頭をさげ詫入る處を猶も又めつた打ちに打ち敲き頓て蹴飛し蹴返して直に請人石町甚藏店の六右衞門を呼に遣けるに六右衞門は何事やらんと打驚怖直に其使ひと倶に來て見れば豈圖らん久八が主人に折檻請る有樣に暫時惘れて言葉もなし五兵衞は皺枯聲をふり立て如何に請人六右衞門此久八の盜賊めが五十兩と言大金を汝が奢りに遣ひ捨て引負成たる上からは直に當人久八を引取行五十兩の金子を償ひたる上本金をも殘らず納めよと言渡されて仰天なし本金とは何事ぞ如何に不埓が有ればとて廿餘年の勤功にて既に支配も任されたる此久八を丁稚小僧か何ぞの樣に打擲さるゝのみならずと思へど久八を一先内へ連歸り篤と容子を正した上又詫言の仕樣も有んと言度事をじつと堪へ六右衞門は主人五兵衞に打向ひ扨段々の御立腹御詫の致し方も之無く候就ては五十兩の引負金何分直には償ひ難く暫時御猶豫下され度且又御給金の儀は半は頂戴仕つり半分は御預け置候故日割御勘定の程御願ひ申上候當人身分の儀は直樣引取一札をも差上申すべく又當人久八に御用の節は何時にても同道申べくと事を分て申せども聊か聞入景況も無く五兵衞は却つて憤ほり然樣な勝手は相成ず直に勘定して行れよと怒りけるを猶種々詫言なし漸々にして追々に償ふ事を免されしかば直樣引取の一札を指出し久八を連歸りけるは無慈悲なりける有樣なり久八は子供の時より主人を大切と我が身の苦患を厭はず勤め一人として譽ざる者も無者成るに伊勢五の店を引負して請人方へ引渡されしは何か譯の有事成んと云も有ば久八は白鼠所か溷鼠で有たなどと後指をさす者も有しとかや六右衞門は久八を連歸りて百日の説法屁一ツとは汝が事なり此六右衞門は人の世話も多く仕たが斯る事を言れし事なし五十兩と云大金を何に遣つたこんな馬鹿とは知らずして汝が事を人樣に辛抱人と譽たのが今となりては面目ない二階へなりと往きくされ面を見のも忌々しいと口では言ど心では何か容子の有事やと手を拱いて居たりけり翌日伊勢屋の養子千太郎は我が爲に久八が昨日の始末と夜の目も合ず少しも早く六右衞門に逢て實を明さんと何う首尾せしか宅を出でて本石町なる六右衞門の宅へ到り久八に逢度由を云ひ入ければ夫と見るより六右衞門は飛で出偖々若旦那能くこそ御出なされしぞ千太郎を奧へ通し久八に引合せければ千太郎は男泣に泣ながら段々の禮を述何と云べき詞もなく我身に代りて惡事を引受アノ一徹なる親父殿に罪なき足下が打擲れ廿餘年の奉公を贅事にして暇を引され夫を堪へし昨日の始末嘸や嘸六右衞門殿には不審しく思はれけん久八は私の爲には命の親共言べき樣なる恩人なり是非足下の身の立樣にする程に暫しの内勘辨して何ぞ耐へて下されと久八が前に鰭伏ば久八は涙を流し何事も是皆前世の因縁づくと斷念居ば必ず御心配は下さるまじ併しながら時節來りて若旦那の御家督と成れなば其時には此久八を御呼戻し下されたし夫のみ願ひ上まする夫に就ても呉々も御辛抱こそ肝要なれと猶も撓まぬ忠義の久八六右衞門も一伍一什を聞居たりしか久八に向ひ其方が五十兩の大金を遊び過して遣ひ捨しとは合點行ねど其方が打叩かれても一言の言譯さへもせざりしゆゑ如何成天魔が魅りしかと今が今迄思ひ居たるに全く若旦那の引負を其身に引受ての事成か能も斯は計らひしぞ其方ならでは出來ぬ事と六右衞門は感心なし千太郎に打向ひ初めて承まはりし今度の始末如來樣家來と成主人と成し上からは忠義の爲には些いの奉公決して御心配に及びませぬ假令何の樣なる難儀苦勞を致せばとて御主人樣の御爲なら少しも厭ひは致しませぬと久八と云六右衞門と云揃ひも揃ひし忠義な男義千太郎は猶々穴へも入たき思ひ六右衞門に打向ひ兩手を合せて伏し拜み氣の毒共何共申分の仕樣も無しと言を六右衞門是はしたりと其手を取只此上は御心得違ひのなき樣に久八が申通り呉々御辛抱成れましと申時千太郎は豫て用意をしたりけん懷中より書付一通取出し扨此書付は久八殿が拙者の引負引受て呉られし後日の證據に渡し置と言ひながら兩人の前にさし置きける其文は 入置申一札之事 一金五十兩也 右は我等養父の金子引負致し候所其許自分に引負金と申立引受呉夫が爲養父五兵衞より其許暇に相成候段生々世々の高恩以來とも忘却仕つる間敷候依之我代に相成り候節は急度呼戻し此度の大恩を報ずべく候爲後日一札仍而如件 正徳四年四月 千太郎 判 久八 殿 斯の如く認めたる一通なれば六右衞門は押戴き若旦那の御心遣ひ有り難く存じ上ます然らば此一通は私し方慥かに御預り申さんとて久八へ渡しける時に千太郎又々懷中より金子一と包み取出し追々見繼も致す心なれども是は當座の凌ぎの爲實父の方より借受し金子なり之を遣ひ居て下されよと出すを久八はおし返し達て辭退をなしけれども千太郎は猶ほ種々に言ひなし漸々金子を差置つゝ我が家へこそは歸りけれ 第十三回  扨また六右衞門は久八に向ひ如何にも貴殿が心底には勿々引負など致す樣成者では無と思ひしに豈圖らんや昨日の始末と思ひの外打て變りし今日の時宜異見をせしも面目なし決して心配致すに及ばず伊勢屋の引負金も一工夫して濟しもせん其方は此若旦那樣よりの御心添の金子にて何成とも商賣を初める樣にと六右衞門が始終を思ひし深切に久八も大に喜悦何商ひを初めたら宜しからうと工夫を爲ども元より大家の支配人の果なれば小商ひの道を知ず右左損毛多く夫而已ならず久八は生れ付ての慈悲心深く貧しき者を見る時は不便心が彌増し施こすことの好なる故儲けの無も道理なり依て六右衞門も心配なし寧そ我弟が渡世の先買となり恥を忍びて紙屑買には成ぬかと聞て久八暫く考へ却つて夫こそ面白からんと紙屑買にぞなりにけり嗚呼榮枯盛衰單へに天なり命なり昨日迄は兎も角も大店の番頭支配人とも言はれし身が千種木綿の股引は葱の枯葉のごとくにて木綿布子に紋皮の頭巾見る影も無き形相は商賣向の身拵へ天秤棒に紙屑籠鐵砲笊を横にのせ日がな一日買ひ歩行戻れば夜を掛撰わけて千住品川問屋先賣代なして聊かの利益を得ては幽々に其日々々を送りけり然ども是を苦にもせず稼ぎ溜れば少しでも伊勢五の穴を埋めて行心の正直律儀者昔しも今も町家には例し少なき忠義なり是皆村井長庵が惡業の爲所にして西も東も知らぬ若者の千太郎を欺き多くの人に難儀を掛ること人面獸心の曲者なり長庵が惡事を算るに第一札の辻にて弟十兵衞を殺害し罪を浪人藤崎道十郎に負せ二ツにはお富を賣り三ツにはお安を三次に頼み中反圃にて殺させ今又伊勢屋千太郎を欺きて五十兩の金子を騙り取久八をも斯苦しめる事是皆露顯の小口となり彼道十郎の後家お光が圖らず訴へ出る樣に成けるは天命の然らしめたる所なり 第十四回  天の作せる禍ひは猶去可し自から作せる禍ひは避可からずとは雖も爰に寶永七年九月廿一日北の町奉行中山出雲守殿の掛りにて奸賊村井長庵が惡計に陷入り遂には寃横難に罹り入牢し果は牢死に及びぬる彼道十郎は舊吉良家の藩士なる岩瀬舍人とて御近習へ出仕し天晴武文も心懸有し者なりしが不圖した事の譯柄にて今は浪人と成名を藤崎道十郎と更めて居たりしが妻お光は當年三歳に成し悴の道之助を懷ろにして店請人赤坂傳馬町治郎兵衞店に小切商ひを爲清右衞門方へ御引渡しと成けるにぞ返す〴〵も夫道十郎が芝札の辻に於て十兵衞を殺害に及びしなどとは夢にも知らぬ無實の難にて入牢なし其事故の分明に別らぬ内に情無くも牢死に及びける故遂に死人に口なしとて悉皆く長庵の佞辯により種々言廻され夫道十郎の罪科とは定まりし事無念骨髓に徹り女ながらも再度願ひを上夫の惡名を雪ぎ度とは思へども清右衞門は段々意見をなし兎に角に假令再度御調べを願ふとも是と云證據も有ねば公儀に於ても詮方なし先々夫迄の天命なりと諦め道十郎殿の紀念に殘せし道之助を一日も早く成長させて藤崎の家を再興せらるゝが佛へ對し何よりの追善なりと言諭されて悔し涙に暮ながら唯此上は悴道之助が一日も早く成長なし札の辻にて十兵衞とやらを殺害なしたる本人を尋ね出して夫道十郎殿の惡名を雪がせん者をと夫より心を定め赤坂傳馬町へと引取られ同町にて表ながらも最狹き孫店を借受爰に雨露を凌ぎつゝ親子が涙の乾く間もなく僅かの本資に水菓子や一本菓子など并べ置小商ひの其の隙にはそゝぎ洗濯賃仕事氷る油の燈りを掻立つゝ漸々にして取續き女心の一ト筋に神佛をぞ頼みける然るに光陰は懸河の流るゝ如く早八ヶ年を送りしに夫の忌日もいつしか八年跡の空とぞ過行ける道之助今年十歳に成けるに親は無とも子は育つとやら母の手一ツに育て揚たる子ながらも生れ付ての發明者殊に幼稚き心にも母が心盡しの程をや察しけん孝心怠り無夏秋は枝豆を賣歩行き或ひは母が手業の助けと成又は使ひに雇はれて其賃錢を貰ひ請朝な夕なの孝行は見る人聞人感じける然るに有日道之助は例日の通り枝豆を肩に掛門口へ出る所へ獨りの男木綿の羽織に千種の股引風呂しき包みを脊負し人立止りて思はずも店に並べし水菓子の價を聞ながら其所に居たりし道之助を熟々見て最不審氣にお前は若や藤崎道十郎殿の御子息の道之助殿では御座らぬかと云聲聞て後家のお光は心嬉しく夫の名を言ふ其人は床し懷し何人ぞやと出合頭に顏打詠め見れば此方の彼男はお前こそは道十郎殿の御内儀お光殿にて有しよな珍らしき所にて絶て久しき面會なり拙者事は瀬戸物屋忠兵衞と言れてお光は面打まもり扨は忠兵衞殿にて在せしかと往昔馴染の何とやら懷しきまゝ詞を改め斯樣に穢苦しき住居なれども此方へ御通り下されと最丁寧なる挨拶に瀬戸物屋の忠兵衞は莞爾として立入けり此瀬戸物屋忠兵衞と云ふは至つて女好にて殊にお光は後家なりと思ふ者から見れば貧苦の容子故一肌脱で世話をなし恩を着せ置思ひを遂んと心の中に目算なし忽ち發る煩惱の犬よりも猶眼尻を下げお光殿にも可愛さうに若い身そらで後家になられ年増盛りを惜い物と戯氣乍ら御子息道之助殿を能も女の手一ツにて斯樣に御育養有れしぞ併し其後は御亭主も定めてお出來成れたで有うに今日は何れへかお出かけにやと言へばお光は形を改ためそは怪からぬ忠兵衞殿の仰せかな御冗談でも御座りませうが夫道十郎が牢死の後にせめて紀念の此子をば成長させ一日も早く夫の惡名を雪ぎ度夫而已樂しみに暮し居と云ふを打消し忠兵衞は否然では有ますまい隱す程顯はるゝと申如く尚々怪しき事にこそ然ながら今迄全く後家暮しにて居られしならば少しは何かの御相談相手に昔馴染の甲斐丈は失禮乍らお世話も致し御不自由の事も有なれば御遠慮なしに言れよと情仕掛の忠兵衞が持た病に据り込彼方と話せしが暫く有て懷中より金子一分取出し道之助に頼み近邊にて酒肴を買求め酒宴をこそは初めけれ 第十五回  扨又お光は忠兵衞が酒の相手をなすを五月蠅思ひ種々に斷りても忠兵衞は耳にも入れず追々醉の廻るに隨ひお光に向ひ婬りがましき戯れ事を云出しければお光は大いに驚怖て是は〳〵忠兵衞樣夫道十郎不慮のことにて死去致してより八ヶ年の其間悴の脊丈の伸るのを唯樂みに此世を送り人に後指を指れぬ私し勿々以て然樣成事思ひ寄ずお許し成されて下されと云紛すを忠兵衞は尚種々に言ひ寄つゝ頓て言葉を和らげて言ひ出しけるは然云御前の心底を破らするのも氣の毒千萬私しも今迄決して他言は致す間敷とは思ひしがお前が私の言葉を一寸なりとも聞るゝなら私もお前に云事ありお前の連合道十郎殿那な事柄に成れしは全く誰も知る者なし實はあの折十兵衞を殺した奴は外に有夫を知て居らるゝかと聞よりお光は飛立思ひ其十兵衞を殺した人は別に有とは誰人にや其許樣が御存知ならば何卒教へて下されと言ば忠兵衞莞爾と笑ひ然樣いはるゝならば教へもせんが然れども其處が肝要め魚心有ば水心と味な詞にお光はほゝ笑み強面なさば隱さんときつと思案を仕直して夫さへ聞して下さらば如何なる事でも貴方次第と聞て忠兵衞夢中になりお前の夫道十郎殿に寃の難を着たる奴はお前も知ての那の藪醫者長庵坊主に相違無し斯うばかりでは譯らぬが算へて見れば八年跡八月廿八日に寅刻起して三日ゆゑ例の通り平川の天神樣へ參詣に出掛た處か早過て往來の人はなし雨は頻りに強く降困つたなれど信心參り少しも厭はず參詣なし裏門を出て戻る頃漸々東が白み出し雨も小降に成たる故浮羅々々戻る向より尻つぺた迄引端打古手拭で頬冠り傘をも指ずに濡しよぼ垂小脇差をば後ろへ廻し薄氣味惡き坊主奴が來るのを見れば長庵故傘をもさゝず先生には何れへお出と迂濶り言葉を掛たら彼方はおどろき急病人の診察の戻りと答へし形容の不審く殊に衣類へ生血のしたゝり懸つて有故其の血汐は如何の譯やと再度問へば長庵愈々驚怖周章嗚呼殺生はせぬ者なり益なきことを致したり霞ヶ關の坂下にて惡い犬めが吼付故據所なく拔討に犬を斬しが其血が刎衣類を如斯に汚せしなりと云つゝ吐息を吐體が何も怪しく思はれたり夫のみならず第一に病家へ行に傘をもさゝず濡萎たれて跣とは其の意を得ずと思ひしに跡にて聞ば弟なる十兵衞とやら云者が札の辻にて人手にかゝり其曉きに長庵は病氣なりとて十兵衞が出立するを見送りも爲ざりし由檢使場でも御奉行樣のお前でも申立たる赴きゆゑはてなと思うて居るものゝ人の事にて兎や角と言爭そはんも益なき事殊に私しの女房の云には滅多にそんな事を口出しなさば懸り合然樣なる時は大變なれば決して口外なさるゝなと言ける故に今迄は人にも決して言ざりしがお前にばかり話すなり夫ゆゑお前の御亭主の敵と言ふは長庵に相違なしさなサア〳〵〳〵咄した上はお光さん私が事も聞て呉れとお光に突然抱き附を其手を取て突除けつゝ見相變て忠兵衞さん扨は其朝長庵が傘をもさゝず天神樣の裏門前にて逢れし時口利れたは確乎な證據夫程證據の有事をなどて今日迄包まれしや情なき忠兵衞殿無念々々と齒噛をなし忽まち眼も血走りつゝ髮も逆立形容にて斯る證人有上は此趣きを直樣に御奉行樣へ駈込で彼の長庵を御調べ願ひ夫の惡名雪ぐべし忠兵衞殿には何處迄も證據と成て下されと直にも駈出すお光が氣色此有樣に忠兵衞は如何なことをば言ひ出してひよな騷ぎに成たりと酒も何處へか醒て行色も戀路も消果てこはそも如何にと惘れ果十方に暮て居たりしが忠兵衞は迯もされねば是待給へお光殿御番所へ駈込でも外事成ぬ大事の一條人の命に關る事先々篤と勘考てと言紛らすをお光は聞ず兎にも角にも御奉行所へ訴へ出て御調べを願うた時は必ず證據人と成て給はれ忠兵衞殿と念を押ども忠兵衞は茫然として答もなく我が家へこそは立歸りぬお光は悴道之助にも其次第を言聞せ其儘直に支度して店請人の清右衞門に相談せんと出行ける 第十六回  口を守る事瓢の如くと又口は禍ひの門舌は禍ひの根と言る事金言成かな瀬戸物屋忠兵衞計らず八ヶ年過去たる事をお光が色情にほだされ迂濶と口走り掛り合に成て當惑に及びしも口の禍ひなり然ながら天に口なし人を以て言しめ給ふ事長庵が多年の積惡露顯の時節にや有ぬべし然ばお光は忠兵衞が歸りしより早々支度を爲し直樣店請人の清右衞門方へ到り云々の譯柄なれば速かに此趣きを訴へて夫の汚名を雪ぎ度由一心込て相談に及びければ清右衞門倩々聞心の内に一旦中山出雲守樣の御白洲にて落着に成し一件なれば假令聊か證人の有ばとて容易に御取上には成まじ毛を吹て疵を求めなば却つてお光の爲ならずと思案を極めてお光に向ひ夫は道理なる次第なれども一朝一夕の事ならず假令證據人の有ればとて周章て願ふ事柄ならず殊に北の御番所にて先年裁許濟に成し事故今更兎や角申立るとも入費倒れにて贅事に成も知れず云ば證文の出し後れなり夫より最早夫道十郎殿の事は前世よりの因縁と斷念られ紀念の道之助殿の成長を樂しみに暮し給へと種々に宥めつ透しつ諫ると雖もお光は更に思ひ止るべき所存無れば猶押返して頼みけるに清右衞門一圓取用ひ呉ざれば詮術なさに凄々と我が屋へ社は立戻れど熟々思へば懷ふ程無念悔しさ止難ければ店請人清右衞門をさし置てお光は家主長助方へ赴き貴君樣に折入て密々御願ひ申度一大事の出來候まゝ態々參りしなり併し乍ら人樣の前にては申し上難きことなれば何卒内々にて御相談願ひ上度と言により長助は如何にも承知なりとて早速自身の家内に向ひ其方は何方なりとも少しの間だ行てをれと云れて女房は頬膨らし女房が何で邪魔に成お光殿もお光殿此晝日中馬鹿々々しいと口には言ねどつん〳〵するを長助夫と見て取つて其方が氣を揉事に非ず早々何處へか行きて居れと叱り付いざお光殿是へ御座れと奧の一間へ喚込ば女房は彌々角も生べき景色にて密男は七兩二分密女に相場は無と呟きながら格子戸をがたびし明て出行けり跡には長助お光兩人差向ひなればお光は四方を見廻して徐かに云けるに内々にて御願ひと申すは外のことには候はず私し夫道十郎事八ヶ年以前寃の難にて斯樣々々と有し次第を具さに物語り彼忠兵衞を證據人と爲し私し駈込願ひ致し度と涙を浮めて頼みける容子に貞心顯れければ長助は感心なし今度忠兵衞が計らずお前方に過去たる一件を口走りしはお光殿の貞心を天道樣が感應在まして忠兵衞に云はせし者ならん如何にも此長助が一肌脱でお世話致さん然ながら一旦中山樣にて落着の付し事を訴へるわけゆゑ言は裁許破毀の願ひなれば一ト通りの運びにては貫徹事六ヶ敷からんされば長庵とやらが大雨の降に傘をもさゝず曉方に平川天神の裏門通りにて行逢たりと云忠兵衞とかの方へ赴き證據人に必ず立と云處を突留其上玄關へ委細を申し立若取上て呉ぬ時は駈込願ひを爲すべし又幾度駈込願ひを爲しても御取上に成ぬ時は月番の御老中へ駕訴をすると覺悟を仕て掛るべしと身に引受し長助が最懇切に言聞せければお光は飛立ばかりに喜び早々長助同道にて忠兵衞方へ赴きける僥倖なる哉例令お光が女の身にて何樣に思ふとも外の家主ならんには勿々引請て呉る事柄には有らね共此長助と云家主は當時此廣き大江戸にても三人と言るゝ指折の公事好と名を取し男にて其頃の噂にも朝起出て神棚に向ひ先我が身安泰家内安全町内大變と祈りしと云ふ程の心底故か御番所の腰掛にて喰辨當は何が無ても別段甘しと言しとかや何故に町内大變々々と言かと思ふに支配内に變が無れば家主は何にも面白く無と言位の人物にて麻布に三次郎芝に勘左衞門赤坂に此長助と三人の公事好家主なり此長助には望む所の出入なりと直樣お光が力となりしはお光か貞心の貫ぬく運と言も畢竟天より定りて人を制するの時節到來したりし者か此時彼瀬戸物屋忠兵衞は益も無事を引出したりと色蒼ざめて我家へ歸來り女房のお富に向ひ突然と證據人に立て呉と道十郎の後家のお光に言れ何と云紛らしても漸と聞入れず漸々と迯歸りては來れ共お光が駈込願ひにても及ぶ時は必ず我が名を申立べし如何して能らんやと大息吐て言けるにぞ女房は聞て大いに驚怖長庵に逢た話しは容易成ざる事故決して口外はなさるなと豫々おまへに言置しに何故然樣なる一大事を云れし事哉と聞て忠兵衞は女房の手前ながらも面目なく後悔顏にあらはるれば女房は益々聲荒らげ畢竟お光さんは後家なる故何か思ふ仔細が有て上り込み者成んさも無くば久し振で逢たお光さんに是迄噺さぬ一大事を噺さう譯がない屹度お光さんの色香に迷ひ私があれ程に言て置た事をも打忘れて自分から迷惑を釀へ私に相談も無い者だ夫と云も日頃から身の嗜みの惡い故と早やきかけし女房は可笑くも又道理なり 第十七回  人の憂ひをうれひ人の樂みをたのしむと是は又一己の豪傑なり偖も家主長助は道十郎後家のお光を同道にて忠兵衞の宅に到り私しは赤坂表町家主長助と申す者なりと初對面の挨拶も濟扨段々と此お光より承まはりしに御自分事八ヶ年以前八月廿八日未明に平川天神御參詣の折節麹町三丁目町醫師村井長庵にお逢なされしとの事道十郎殿寃の罪に墮りしも長庵は其朝不快にて臥り居り弟の見送にさへ出る事能はざりしなどと申立し由なれ共右樣確固なる證據人の有上からはお光殿年來の本意をも達し家主の身に取ても然樣なることの知し上は打捨ては役儀も濟ざること故夫々に手配なし御番所へ願ひ出るにより此時の證據人に相違無く御立下されよとお光倶々退引させぬ理詰の談じに忠兵衞は暫時物をも言はざりしが漸々にして答るやう如何にも御噺申せし通り平川天神の裏門前にて其日の曉長庵に逢しに相違これ無ことに付其所は何處迄も證據人に相立申べし去ながら札の辻の人殺しが長庵と言ふことの證據人には相立難しと言へば長助點頭夫は如何にも承知致しぬ只平川にて其朝まだき長庵に逢たると言ふことを發輝と申立て給はらば夫にて宜しと家主長助は忠兵衞を聢と談じ其の趣むきの一札を取置去ばお光殿立歸りて訴訟の支度に及ばんなれども忠兵衞殿には御迷惑なる事に候はんと厚く禮を演長助お光の兩人は是で此方に拔目はないと小躍をして立戻り長助は直ちに訴訟書をぞ認めける總て公事は訴状面に依て善惡邪正を分つは勿論の事なれども其中にも成ると成ざるとは大いに違ひあることなり譬へば町内に捨物の有りし時拔身の白刄なりとも鞘無き脇差何處其處に捨これ有候と認めて訴へれば穩かに聞ゆるなり依て此訟訴書の無事に御取上に成る樣にとて長助は種々に心を配り願書をぞ認めける其文に乍恐書附を以て奉願上候一赤坂傳馬町長助店道十郎後家光奉申上候去る寶永七年八月廿八日拂曉芝札の辻に於て麹町三丁目町醫村井長庵弟十兵衞國元へ出立仕候節人手に罹り相果候其場に私し夫道十郎所持印付の傘捨有之候より道十郎へ御疑念相掛り候哉其節の御月番中山出雲守樣御奉行所へ夫道十郎儀病中御召捕に相成入牢仰せ付けられ候處御吟味中牢死仕つり死骸の儀は御取捨に相成家財は私し母子へ下し置れ候間其後私し儀は店請人清右衞門方へ悴倶々引取り同人の世話にて當時の所へ借宅仕つり幼少の悴道之助兩人にて八ヶ年來住居罷り在年來夫道十郎事非業の死をなし候儀無念止時なく右人殺しの本人搜索出し夫の惡名相雪ぎ申度心懸居候處私し元住居麹町に於て懇意に仕つり候忠兵衞と申者頃日不圖私し方へ罷り越種々話しの手續きより忠兵衞申聞せ呉候には先年札の辻の人殺しは村井長庵こそ怪しけれと口走り候まゝ猶其の實情を承まはり候に右同日の未明には長庵儀前日より病氣にて弟十兵衞の出立をも見送らざる旨御檢使場に於て申立候趣きに候得ども忠兵衞儀同日同刻麹町平川天神へ參詣し歸り同所裏門前に於て行逢言葉を替し候由尤も其節長庵が體裁甚だ以て如何敷趣きに有之候旨に御座候之に依て右忠兵衞證據人に相立此段御訴訟申上奉つり候何卒格別の御慈悲を以つて右忠兵衞儀御呼出し御糺しの上長庵召出され御吟味成し下し置れ夫道十郎の惡名相雪ぎ候樣偏へに願上度之れに依て此段奉歎願候以上赤坂傳馬町二丁目後家願人みつ 差添清右衞門 家主長助 享保二年三月 南御奉行樣 右の通り訴状認め長助猶も倩々勘考へけるに此事件は一旦中山樣御白洲にて御裁許濟に成りし事なれば次第に寄と訴状を却下さるゝやも計り難く先年は北の御月番なりしかば此度は南の御番所へ出訴せん然すれば御役所も違ひ殊には此頃勢州山田奉行から江戸町奉行へ御見出しに相成たる大岡越前守樣へ持出しなば御新役だけ御力の入られ樣も違はん又聞所に寄ば大岡樣は往昔の青砥左衞門にも優れる御奉行也との評判なれば屹度御吟味も下さらんと家主長助諸ともお光は南の役所へ駈込訴に及びしかば越前守殿落手致され一通り糺問の上追て沙汰に及ぶ旨申わたされ其日は一同下りけり 第十八回  好こそ物の上手なれと譬への通り飽迄も公事向に手馴し長助が思ひ通りの訴状御取上に成りしかばお光の喜び一方ならず然るに三四日過て御呼出しに相成越前守殿願ひ人お光清右衞門長助の三人へ申渡されけるは此訴訟の趣きにては先年同役たる中山出雲守の係りにて裁許相濟たる事件を再び申立る樣に聞ゆるなり然ば裁許を戻すと云ふ者にて輕からざる儀なり併しながら其始末に依ては再び吟味爲まじき者にも非ず達て願ひ立ると有れば取上て一通り調べもいたし遣はさんが何れとも其覺悟にて願ひ立べしと申されけるに願ひ人のお光は恐る〳〵頭を上げ此事に付假令如何樣の儀仰せ付らるゝ共聊か相違の儀申上ざるにより御取調べの程偏へに願ひ上奉つる尤も證據人忠兵衞を召出され御尋ね下されなば委細に相分り候趣き申立るに越前守殿然らば其忠兵衞に相尋ぬる時は長庵が始末柄相分る趣なれども先其方より一應申立べしとの事によりお光再度首を上八ヶ年以前夫道十郎儀芝札の辻に於て十兵衞と申者人手に罹り相果候處其場に道十郎の印し付に傘捨之有しに付御疑ひ罹りしと雖も其傘は長庵方へ忘れ置たる品に相違なく候然るに夫道十郎浪人の貧に逼り十兵衞が四十兩餘の金子を持たる事を知る故後を付來りて十兵衞を殺害なし其金を奪ひ取りしに相違なしと御檢使へ長庵より申立たるに依て夫道十郎召捕れ御吟味中牢死仕つりし也長庵儀は其朝は前夜より不快にて弟十兵衞の出立を見送りも致さゞる趣むき是又御檢使の場にて申上再應御調べの節も同じ樣に申立長庵へは御咎めもなく相濟たる所此間忠兵衞不圖私し方へ參り申聞せ候には寶永七年八月廿八日未明に麹町平川天神の裏門前にて忠兵衞參詣の歸りがけ村井長庵を見請たるに其節は大雨降り居候へ共長庵は傘をもさゝず濡ながら來りしに付何方へ參られ候哉と忠兵衞相尋ね候處霞ヶ關邊の病家へ參り候趣き勿論其節衣類に血汐の夥多敷付有候に付き是又忠兵衞より如何致され候やと相尋ね候處大いに驚怖候樣子にて申けるにはアヽ殺生は致さぬもの今犬めが餘り吼付し故遂拔討に斬殺しけるが其血汐の付たる者ならんと云ひて周章しく其儘に別れ候ひし由尤も病氣にて弟の見送りもいたさぬ長庵が然樣の始末甚だ以て怪しく存じ候まゝ何卒忠兵衞へ御尋ねの上長庵を御調べの程偏へに御願ひ申上ますと申立ければ越前守殿否とよ願ひ人光其は容易成ざる事件なれば胡亂なる儀は取上には成らぬぞ篤と了簡して申立よ差添店請人清右衞門其方儀は八ヶ年以前右の事柄心得居るや又如何なる縁にて母子共世話致し居りしやと尋問有しかば清右衞門愼んで恐れ乍ら道十郎は私し店受人致し候以前より別段の入懇に付店受人に相成候所右不慮の儀出來仕つり餘儀無く其儘受人の好みにて引取世話仕り罷り在候八箇年以前御檢使の場は存じ申さず候へ共其後右道十郎お召捕に相成御調べの度毎に私し儀も召出され委細心得罷り在候御調べ筋は右十兵衞事横死致し候場所に道十郎所持の印し付の傘有之候に付申譯相立難く兩度程長庵と突合せ御調べに相成候へ共道十郎は其前より久々不快故申開きも心に任せず遂に牢死に及び候に付彌々長庵が辯舌にて道十郎の罪科に相定まり死骸は御取捨家財は妻子へ下し置れ候旨其節仰せ渡され候と申立ければ越前守殿御聞有て成程其調べの儀は此越前守が取調べても其通りなり然るに忠兵衞と申者八箇年打過ぎ只今と成て右樣の儀申出ると言ふは何ぞ忠兵衞が右長庵に遺恨にても是ある事には非ざるか何とも怪しき證據人なり八箇年以前同役が調べの節上に然樣の不吟味は是なき筈なり然ながら證據人と有る上は右忠兵衞を召出したる上にて追々吟味に及ぶなりと概まし御尋問有りし儘家主長助へも其旨申渡され今日は先引取べしと有りける故に皆々我が家へ歸りけり翌日直に麹町三丁目瀬戸物屋忠兵衞を御呼出しに相成白洲に於て越前守殿其人物を御覽あるに人の惡を揚意趣遺恨などを含み又有りもせぬ事柄を申懸る樣成者に非ざる事を早くも見て取られ如何に忠兵衞其方八箇年以前寶永七年八月廿八日の明曉長庵を麹町平川天神裏門前にて見受たる由其砌りの始末包まず逐一申立べしと云はれければ忠兵衞はハツと答へしまゝ齒の根も合ぬばかりにて漸々に申立けるは願ひ人光より申上たる通り相違御座なくとばかりなれば越前守殿汝れ忠兵衞右樣の儀を承知して居ながら其節確と申上べきの處只今迄打捨置し段不埓の至りなり追々呼出し長庵と對決申付るなりと一先歸宅させられたり偖て越前守殿此一件は容易ならずと内々にて探索有りし所隱るゝより顯はるゝはなしとの古語の如く彼の札の辻の人殺しは全く長庵の仕業に相違なきこと世上の取沙汰もあるにより大岡殿は新役の手際を顯はさんと思はれ一度の吟味もなく直に麹町名主矢部與兵衞へ内通有つて村井長庵が在宿を篤と見屆させ置召捕方の與力同心を遣されしかば捕方の者共長庵が宅の表裏より一度に込入たる然るに長庵は諺ざに曰臭い者の見知ずとやら斯かる事とは夢にも知らず是は何事ぞと驚く機會に上意々々と呼はるを長庵は身を退り人違ひにも候べし此長庵に於て御召捕に相成覺え更になしと大膽にも言拔んとするを捕方の人々聲をかけ覺えの有無は云ふに及ばず尋常に繩に掛れと大勢折重なりて取押へ遂に繩をぞ掛たりける頓て引立られし長庵が心の内には驚怖ども奸惡長し曲者なれば何の調べか知ねども我がした惡事は皆無證據何樣に吟味筋が有るにもせよ此長庵が舌頭にて左りを糺せば右へ拔右を問はゞ左りへ綾なし越前とやら名奉行でも何の恐るゝ事やあらんと高手小手は縛めの繩の縷さへ戻す氣で引れ行くこそ不敵なれ。 第十九回  偖又大岡越前守殿役宅の白洲には召捕來りし村井長庵高手小手に縛められ砂利に居づくまる時に越前守殿出座ありて村井長庵と呼るゝ時長庵ハツと答へければ越前守殿尋問らるゝ樣其方儀去る寶永七年八月廿八日の未明に芝札の辻にて其方弟十兵衞横死の節北の役所へ差出したる口書の儀何と認めたるや覺え有ば申立べしとの事により長庵は驚きしが少しも其色を見せず空涙を流して只今御尋ねに付思ひ出し候ても歎かは敷は私し事其前夜より病氣にて立起も自由成ずして當朝弟十兵衞出立の見送りも致さず獨り立せしゆゑ闇々と人手に掛り相果候事殘念今に忘れ申さず候と泣々く申立ければ越前守殿是を聞れ其節其方が病氣と有ば見送りの出來ぬは道理なり併しながら大金を所持せし者を夜更に出立致させたるは不審き事なり何故夜明て後出立致させぬそと有りけるに長庵然ばにて候私儀呉々弟に夜が明て後出立致し候樣に申聞せ候へ共在所に殘し置たる妻や娘に一刻も早く安堵させ度旅は朝こそ敢果取れば最早寅刻も過たるゆゑ少し歩行ば夜も明なんと止むるを聞で出懸しまゝ私しも病氣ながら起上り止る桐油の袖振切首途を爲つゝ賊難に罹りたるは如何なる前世の宿業にやと諦め候より外に致し方無之と申立ければ越前守殿假令弟十兵衞が何と申共一日や二日で歸村の成る可所にも非らざれば強ても止むべきが兄たる者の情ならずや其方が仕成方甚だ以つて其意を得ずと申されければ長庵は病中故心に任せず今更後悔仕つり候併し先年中山出雲守樣の御裁許濟に相成候事と申す時越前守殿礑たと白眼れ如何に長庵其方病中にて見送りさへ致し得ぬと申しながら何として其廿八日の未明に平川天神の裏門通りを傘をもさゝず歩行致したるやと大聲に尋問られしかば流石の長庵内心に驚怖と雖も然有ぬ體にて這は思ひも寄らぬ御尋問を蒙る者哉然樣の儀は更に覺え無御座候と何の氣色も無く申し立ければ大岡殿覺え無しと云はさぬぞと言はるゝをも待ず長庵其人殺しは浪人道十郎と定まり御吟味濟に相成たる儀を何故今更に疑ひを以て私しへ仰せ聞らるゝやと申立るを越前守殿聞れ默れ長庵其砌りは確然とした證據人の無りし故なり此度は其節の證據人と對決申し付る間其時有無を答ゆべしと申さるれども長庵は空嘯き一旦御吟味濟に相成たる事件を再應の御調べ直しは何とやらん御奉行所の御裁許は兩つ有樣に存じ奉つると公儀の裁判所をも恐れず傍若無人の言立なれば越州殿にも不敵の奸賊なりと目を着られしかども一旦中山殿奉行所にて裁許の有りし事件なれば何と無く斟酌有て暫時考へ居られしが又猶申さるゝは其折道十郎なる者吟味詰に相成りし譯には之なく牢死爲したる故其儘に成り居しなり存生ならば外に吟味の致し方も有りしならん然るに只今の一言奉行所の不行屆の樣に上の御政度を批判に及びし條彌々以て不屆き至極也右樣の儀を口走り後悔するなと云はるゝに長庵は猶も減らず面に御吟味の行屆ざると申たる譯には御座無く全く御裁許相濟たればこそ道十郎が死骸は取捨仰せ付けられ又た家財は妻子へ下し置れしと申立る時越前守殿一層聲を張揚默れ長庵夫等の儀を汝に問に非ず道十郎は此儀ばかりに關はらず別に仔細有て死骸は取捨申付られたるなり餘事の答へには及ばず其方其夜は病中にて他行致したる覺え無と言へ共其證據有りや如何にと尋問らるゝ長庵冷笑ひ別に證據と申ては御座無候へ共町役人一同其曉き私し打臥居り候所へ參り候間皆能々存じ居候と云へば越前守殿夫は證據に成難し仍て此度再應調べに及ぶなり奉行所には證據人有るぞよ夫にては其方に明白の申開き有やと申さるれば長庵私し病氣故弟十兵衞が夜中の出立を見送る事も出來ぬ身を以て如何ぞ他行などの出來申べきや其邊篤と御賢察下され度と誠しやかに陳ずる形容越前守殿見られて態と面を和らげられ其方は強情者なり追て證據人を呼び出し對決申付る其節閉口致すな依て吟味中入牢申付ると後の一聲高く申渡さるゝに兩人の同心立懸り長庵を引立て傳馬町へと送られしは心地能こそ見えたりけり嗚呼天なる哉命なる哉村井長庵弟十兵衞を殺害せし寶永七年八月廿八日の事成るに八ヶ年の星霜を經し今日露顯に及ばんとする事衆怨の歸する所にして就中道十郎が無念の魂魄とお光が貞心を神佛の助け給ふ所ならん恐るべし愼むべし。 第二十回  偖翌日大岡殿には願ひ人長助光并びに證據人麹町三丁目瀬戸物屋忠兵衞相手方村井長庵とを呼出しになり越前守殿出座有て一同呼上る時大岡殿忠兵衞へ向はれ其方事今日は長庵と對決申付る間天神の裏門前にて同人に逢たる趣き發輝と申立よと申渡され次に長庵其方の弟十兵衞出立の朝は病中にて有りしと申が平川天神裏門通りを其朝まだきに傘をも持ず歩行せし時其方に行逢ひし者あるよし然る上は其節病中との申立は僞りならんと有りければ長庵不審さうなる面色して決して他行は勿論門へも出申さず候と誠しやかに申立てけるにぞ然る上は證據人をと申さるゝ時麹町三丁目瀬戸物屋忠兵衞直ちに白洲へ呼込と相成長庵の側らに蹲踞る是を見て流石の長庵少しく顏色變りしかば越前守殿最徐かにいざ長庵夫に居る忠兵衞こそ彼の日の曉きに其方に逢し趣きなりと云はれしに長庵は忠兵衞を尻目に掛恐れ乍ら申上候何者が斯る事を言上に及び御疑ひを蒙り情け無くも仁術を旨と仕つり平生慈善を心懸候某を御召捕に相成し哉と存じ居候所扨は此忠兵衞が仕業成か夫にて漸々相分り申候此忠兵衞事私しへ對し遺恨の儀御座候に付斯は計らひ私しを亡者にせんとの巧みに相違御座なく候と申立るに大岡殿而其方忠兵衞より請たる遺恨と云ふは如何の譯成ぞと云はれければ長庵此儀は些私しの口よりは申上難く候とて恥入たる容體に見えける故越前守殿兎も角も其方忠兵衞に遺恨を請し次第を審らかに申立よと有りしかば長庵然らば言上仕つり候實は私し事忠兵衞の妻富と久しく密通致し居候處煩腦の犬追ども去らず終に先月の半頃忠兵衞に見顯はされ面目も無き次第故私しも覺悟を致し斯成上は重置かれ眞二ツにせらるゝとも致し方無く思ひ切て云ひけれど忠兵衞儀は妻に未練の有る處より私しばかり殺す譯にも相成ず其場をも見遁し呉候間此大恩は忘れまじと其以後は急度愼しみ罷り在候然るに私しを生置ては妻の事心元無く思ひてや謂る犬の糞にて敵きと申如く有もせぬ事を申上長庵を罪科に陷し入己が女房をば其儘に致し置べき忠兵衞が巧みと心得候見顯はされし其砌り助け呉しは却つて仇にて情け無了簡に候と涙を流して申立しかば越前守殿倩々聞れ扨々珍らしき事を聞者哉其趣きならば汝は立派な好男子也併しながら忠兵衞妻は餘程好者なりと戯ふれられしかば長庵眞顏にて否さ世には相縁奇縁と申事も御座候と申けるは如何にも不敵々々しき曲者なり越前守殿如何に忠兵衞長庵の申立而已にては胡亂なり先月中旬の頃其方が妻富儀長庵と密通の場を其方露顯はせし事のありやと尋問られしに忠兵衞は然樣の儀は一切御座なく候恐れながら私し家内に限り右樣密通など仕つる者にては御座無く候と申立ける時大岡殿然ば其方が妻富を明日召連べく旨忠兵衞并に差添の町役人へ申渡され白洲は引けければ忠兵衞は心も空に立戻り云々なりと長庵が言掛し事を咄すにぞ女房お富は惘れ果暫時言葉もなかりしが夫と云ふも皆お前が埓も無き事を云ひ出してこんな騷ぎに成りしなり初めから私し呉々口止をして置たるを後家のお光に迷ひし故口走りたる事成んと立たり居たり狂氣の如く悋氣交りに騷ぐにぞ忠兵衞は更に生たる心地もなく何う成事やと夜の目も合さず早翌日にも成りければ止事を得ず夫婦連立町役人に誘引れ奉行所さして出行けり頓て白洲へ呼込れけるに長庵は那の忠兵衞めが入ざる事を喋りて斯る時宜に及ばせたれば今日こそは目に物見せんと覺悟を極めて引居ゑられたる其折柄越前守殿一通り忠兵衞が妻のお富へ尋ねの有りし上相方の申立方相違に依て對決申渡す長庵も毛頭他出は致さぬとの趣きなり忠兵衞に於ては胡亂なる儀申立ては相濟んぞ心を鎭めて對決に及ぶべしと申渡されける依て三人は顏を見合せ居たりしが忠兵衞頓て長庵に向ひ長庵殿如何に貴殿に恨み有などと云ふ事は思ひも寄ず然ども八ヶ年以前八月廿八日の曉き方平川天神へ私し朝參りの戻り掛同所裏門前にて貴殿に逢し時衣類の血を見て貴殿に尋ねしかば犬を切しと云れたる事のお覺え有らんと云ふ顏を長庵はつたとねめ付汝れ忠兵衞貴樣も餘程愚痴なる奴かな如何に女房に未練が有ればとて餘りに憎き仕方なり此長庵が生て居て心配なるとか又近所で安心成ぬと思ふなら何所へ成共引越なば仔細は有るまじ勿論燒ぼつくいには火の付安き譬へも有れば不安心に思ふも道理なり然し一旦勘辨した事を又別段に手を替て此長庵を暗き所へ迄入たるは餘りの口惜き次第なり最初斯の如きの了簡ならなぜ男らしくせざるぞや貴樣に日外申せし通り重ねて置て二ツに成と四ツに成と勝手にすべき者をと云ひければ忠兵衞は頭をあげ長庵殿には取逆上しか貴殿の云ふ事少しも分からず申せば長庵聞て譯らぬとは麁言なり貴樣こそ取逆上せしと見たり密夫仕たりと我口より云て居る此長庵を殺さば殺せ覺悟なりと己れが舊惡の顯はれ口を横道へ引摺込で防がんと猶も奸智を運らしけるに忠兵衞の妻お富は長庵が云事を始終默して聞居たりしが眞赤に成たる顏を上げ若し長庵殿言事にも程が有る近所には居らるれどもお前とは染々物言換した事も無いに私しと密通を仕て居るなどと根も葉も無事を何程言ても此方が知らぬ事なれば構いは無けれど御上の御前夫の手前私しは面目ないぞへと云へば長庵大聲揚此女め今と成て御上の前夫の手前の憚るも能出來た連て迯て呉ろの一緒に殺して呉ろのと言た事を忘れたかと誠しやかに罵しればお富は惘れて涙も出ず暫時默して居る容子に大岡殿は長庵が言掛なりと思はるれど態と詞を弛められ双方無證據の爭ひなれば猶吟味を遂んと申されるを聞忠兵衞は堪り兼長庵事私し妻と密通を年來致し居候由何の頃よりの事なるや又其都度々々の事合宿は何處成や長庵へ御尋問の程願ひ上ますと申立ければ越前守殿微笑ながら如何にも道理なる尋なり如何に長庵何頃より通じ合幾日何方にて出合しや有體に申立よと有にぞ長庵然ばにて候一兩年以前より度々密通に及び候間日月の儀は失念致し候場所はいつも私宅にて出會候處忠兵衞に先月の中旬頃見付られ候と申ければお富は大いに怒りまだそんな有もせぬ事を云ふ人哉第一先月の頃は子宮病にて醫者に懸り勿々そんな事はとお富の答へを大岡殿打聞れ斯ては長庵其方の僞りに相違なし子宮病と有ばよも奸通は致されまじ然る上は其方先月密會の折忠兵衞に見顯はされしと言ひしは跡形も無事ならんと言はれるを長庵ぬからず成程先月頃は病氣にて密通致さねども唯寢て居し處を見顯はされしと云ひ直さんとするを越前守殿大音揚汝れ長庵初めは密通に及びし處を見付られたりと云ひ只今富が申立に泥みてたゞ寢て居た處などと云ひ紛らせし段重々不屆至極なり假令此上如何樣に陳ずる共決して申譯は相立ずと天眼通の一言に流石の長庵否夫はと云たばかりで答へもなく差俯向て居たりしかば大岡殿長庵を見られ依て一事が萬事なり十兵衞を殺害せしも其方が業に相違有まじ然るを道十郎に寃の罪を負せ公儀を僞はる段重々不埓の奴なり斯成上は有體に申立よと諭さるれども一言の答へもせざれば其日はみつ并に忠兵衞夫婦を下られ其後段々長庵を吟味の上願ひ人光并に店請人清右衞門をも呼出され傘の一條其外種々取調べと相成り長庵の惡事顯然なりと雖も當人は曾て知らざる旨申張何分白状に及ばざれば是非無く拷問にかけ石を七枚迄抱せると雖も一言も云はざる故暫く拷問を止めし中追々長庵が惡事數ヶ條綻びけるは天の容さざる所と云ふべきのみ 第二十一回  爰に彼長庵が惡事の手先を働らき十兵衞の女房お安を吉原の中反圃にて殺害に及びし小手塚の三次舊名は早乘小僧の三次其頃火附盜賊改め石原清右衞門殿へ召捕に成りしに舊惡追々露顯しとても助からずと覺悟を極め彼長庵に頼まれて先年淺草中反圃にて十兵衞の女房お安を殺害なしたる一條逐一白状に及びしかば町奉行所へ引渡に相成其年の舊記を御調べ有りけるに「正徳三年十二月十八日 百姓體の女の死骸年三十七八歳位衣類木綿手織縞布子木綿じゆばん半纒を着し身の疵所脊より腹へかけ切疵一ヶ所脊より突貫したる疵一ヶ所咽へ突込し疵一ヶ所兩手の指不殘切落しあり右之通り心當の者是有候はゞ月番松野壹岐守役所へ申出べく候事十二月」右は其節見知りの人も之れなく御取片付と相なりしに三次の申立により十兵衞の妻お安なる事相分り彌々長庵の重罪相顯れしかば越前守猶長庵を取調べられ三次が白状の趣きを申聞らるゝに長庵心中に是はと仰天なせしかども急度腹を居ゑ是とても更に知らずとの申立によりて又もや三次を呼出し突合せの上吟味有りけるに長庵三次に向ひ拙者は村井長庵と申町醫なり貴樣には何と云人成や見し事も無き御方なりと素知ぬ顏して云ひけるを三次聞て大いに笑ひ何と云はるゝや長庵老牢屋の苦しみにて眼も暗みしや確乎し給へ小手塚の三次なりと云ひければ何ぞ牢内の苦しみが強ければとて知己の人を忘れんや更に貴樣は知らぬ人なりと再度云へば三次は呆れ果嗚呼讀たり長庵老お安の一件を己が白状せし故其惡事を隱さんが爲にとぼけらるゝか其所らは貴殿より此方が苦勞人最早何も斯も御上へ知れて居る己が白状しねへとてお互ひに助からぬ命也意地不潔く愚圖々々せずと奇麗に白状して惡徒は又惡徒だけ男らしく云て仕舞と云へば長庵は彌々空嘯き三次とやらん何を云己には少しも譯らぬ繰言然乍ら弟十兵衞の女房お安も拙者の方へ來て居たが思出せば七年あと不圖家出して歸らぬ故如何なしたる事ならんと思ひ出た日を命日に佛事を營み居たりしが偖は貴樣が殺したるかと然も驚きたる樣子をなせば三次は最早やつきとなりとぼけなさんな長庵老屋敷へ出すとお安を欺むき妹娘を苦界に沈め浮む瀬も無罪科を虫が知たかお安めが二人の娘に逢して呉れと晝夜を分たず口説立逢して遣ればお富をも賣た惡事が露顯なし内から火事を出す都合可愛想だがお安をば何處かへ連出し人知ず殺して呉ろと頼んだことをよもや今更忘れもしめへと云ふと長庵落付はらひ夫は其方が殺した話し此長庵は知らぬ事御奉行樣宜敷御推察願ひますと申立れば越前守殿兼て目を着られし如く是又長庵が惡事なりと思はるれ共本人の口より白状させんと猶も詞を和らげ三次が斯迄申ても覺え無やと言はるれば長庵然ばにて候此上骨身をひしがるゝとも覺え無事は申上難く候と言ひ募るにぞ然ば猶後日の調べと再度一同下られ長庵三次の兩人は又も獄屋へ引れける 第二十二回  爰に又伊勢屋五兵衞の養子千太郎は舊の番頭久八が情にて己の引負の金迄も久八が自分に引請終に是が爲に久八は年來勤め白鼠と云れし功も水の泡となし永の暇と成し事其身を捨て養子千太郎の離縁を繋ぎ留しは最初其身が主人五兵衞を説勸めて養子となせし千太郎なれば殊更忠義を盡せしゆゑ千太郎の代とも成るならば舊の支配人に召使はんと堅く約束なし千太郎より書面迄も久八へ渡し置千太郎も久八が忠義の異見骨身に染渡り一旦迷ひし小夜衣も長庵の姪なれば五十兩の騙りも同腹にて爲たる事ならんと思ふ故愛想もこそもつき果しかば其後は絶て廓へ足向もせず辛抱して居たりし程に見聞人毎に久八の忠義により伊勢五の養子も人に成たりと譽ければ久八も蔭ながら悦びつゝ己れが今の姿も打忘れてぞ居たりける然るに丁字屋の小夜衣は伯父長庵が惡計に罹りて戀しき人の憂目に逢し事よりして愛想を盡されしとは露程も知らざれば外に増花の出來もやせしか若御煩ひでも成れはせぬかと山口巴の若い者や女中に樣子を尋ねてもお店へ直には參れねどお文は都度々々中宿迄御屆け申て置ましたが其處へも絶て御出の無よし尤も其後お變りなく御辛抱との事ゆゑにいづれお出で有ませうと取り留もなき挨拶に詮方盡て小夜衣は只明暮に神頼み神鬮辻占疊算夫さへ驗の有ざれば二階廻しの吉六を一寸と云て小蔭へ招き今日は何樣とも都合なし是非若旦那へ此文を手渡しにして今夜にも必ず御出の有やうに其言傳は斯々と幾干か小遣ひ握らせれば事に馴たる吉六ゆゑ委細承知と請込つゝ三河町へと急ぎ行湯屋の二階で容子を索搜密々呼出し千太郎に小夜衣よりの言傳を委しく語りおいらんは明ても暮ても若旦那の事のみ云れて此頃は泣てばつかり居らるゝを何程御店がお大事でも絶てお足の向ぬとは餘まり氣強き罪造り何樣かお都合なされし上一寸なりともお顏をみせてと云を打消千太郎は是さ吉六殿お前迄が馬鹿にして此千太郎を欺す氣か那の小夜衣の狐阿魔面に似合ぬ薄情者お前は知らぬか知らねども彼奴は伯父の長庵と腹を合せて先々月己から金を五十兩騙り取たは是々の始末で己の命をも既に捨んとせし程の騷ぎを爲て置ながら又今となり逢たいとは如何に欺すが商賣でも餘りに壓が強過ると取ても付ぬ挨拶に吉六暫時呆れしが夫は長庵が一存の惡功みせし事ならん小夜衣さんに限つては其樣な御人じや御座りません早速歸つておいらんへ其御話しを致しませうと吉六息切立戻り一伍一什を小夜衣へ話せば小夜衣仰天し那の伯父さんの惡巧み大事の〳〵若旦那を愛想盡しをさせるとは思へば〳〵恨めしと齒噛をなせしが其儘にウンとばかりに反返れば姉丁山も駈來り漸々にして氣は付共前後正體なく伏居を丁山吉六力を付最一度文を認めさせ又吉六を三河町へ急がし立て遣ければ猶千太郎を呼出し小夜衣よりの言傳と有し樣子を物語り文も爰にとさし出せど手にだに取ず千太郎は袖振拂ひ立歸るを暫時と止め種々に請勸めし故澁々に文取上て封押切讀に隨ひ小夜衣は少しも知らぬ眞心見え伯父長庵が惡事を歎き我身を悔ち悲しむ體如何にも不便と思ふより忽に狂ふ心の駒良引止ん樣もなく然樣なら今宵一走りと彼の久八の異見も忘れ何れ返事は逢ての上と言ば吉六〆たりと雀躍なして立歸りぬ夫より千太郎は店の都合を言拵へ我が家を出ると小夜衣が許へ其儘到りしかば絶て久しき逢瀬かと外の客をば皆斷り其宵ば部屋に差向ひ伯父長庵が惡巧み何と御詫の仕樣もなく私しまで嘸や憎しと思すらん然は然ながら夢にだも知らぬ此身の事なれば只堪忍をと歎かれて終に心も打解つゝ再び迷ふ千太郎忠義一圖の久八が異見の釘を寛し事嗚呼是非もなき次第なり。 第二十三回  天命は是耶非耶と言るは伯夷傳の要文なるべし爰に忠義に凝たる彼の久八は辛き光陰は送れども只千太郎の代に成て呼戻さるゝを樂しみに古主の容子を聞居しが此頃人の噂さには伊勢五の養子千太郎は再度小夜衣の許へ通ひ初めしと聞えしかば以ての外に驚けども是は全く人の惡口成ん千太郎樣にはよもや我が異見を忘れはしまじと打過けるに或日朝まだきに吉原土手を千住へ赴かんと鐵砲笊を肩にかけて行過る折柄向ふより御納戸縮緬の頭巾を冠り唐棧揃ひの拵へにて疊つきの駒下駄を穿身奇麗なる若い者此方をさして來掛るを近寄見れば紛ふ方なき千太郎成ければ是はと思ひし久八よりも千太郎は殊更に驚怖きしが頭巾を取何喰ぬ顏にて是は久八殿何所へ行るゝや私しは千住の天王樣へ朝參りの歸りなりと云ふ久八熟々打詠め涙をはら〳〵と流し這は情けなき御心哉假令何と云紛らさるゝとも朝歸りは知れてある未だ御身持を直し給はぬか今の我が身が辛いとて御異見申では御座りませぬ皆御身の爲なれば少しは以前の御難儀を思し召されて御辛抱を成さる事は出來ぬかや此後は屹度愼むと堅き誓ひの御言葉をよもや忘れは成るまじとかき口説れて千太郎は何と答へも面目なく消も入たき風情なり稍有て久八に向ひ段々の異見我が骨身に徹へ今更詫んも樣なし以後は心を入替て急度辛抱する程にと泣ぬばかりに詫ければ久八も漸々面を和らげ猶種々と異見に及び御歸りの遲く相成てはと別れて猶も後見送りしが千太郎は圖らずも久八に行逢面目なきまゝ兩三日は辛抱なせしが程過るに隨ひ又もや夜毎に通ひ居たりしに其後朝歸りの道すがら向ふより來るは又々久八なれば夫と見るより千太郎は土手下へ駈下り畔傳ひに後をも見ずに迯さりけり斯ることの早兩三度に及びし故流石の久八も憤ほり我が忠義の仇と成事如何にも〳〵口惜しや今一度逢て異見せん者をと其後吉原土手の邊りへ毎朝早くより久八は出行蘆簀茶屋の蔭に潜みて待つとも知らず三四日過て飮馴ぬ酒の二日醉に重き額を押ながら二本堤を急ぎ足に歸る姿を遣り過し久八は千太郎が後ろより若旦那お早うと云ふ聲聞て千太郎は迯んとするを久八が隙さず袂に取縋り此程もあれほど御諫申せしにお通ひ成るは何事ぞ其後も度々御見かけ申せど此久八に隱れ廻り少しも御身の落付ぬは如何なる天魔が魅入りしやと涙を流し足摺しつゝ千太郎が胸づくしを聢と捕へて異見やら又呟くやら我が正直なる心より狂氣の如く身を震はしこなたへ御座つて篤くりと此久八が言事を御聞成つて下されとまだ朝まだきで人通りの無を幸ひ中反圃の地藏の影へ引摺行猶段々と異見をなすに千太郎も我が身ながら餘りとや思ひけん一言も言ず只々許したまへとばかりにて兎角するうち久八が忠義一圖に手先迄凝固りて千太郎が咽喉の呼吸を思はずも締たるものか千太郎はアツと仰向に倒るゝにぞ久八大いに驚怖周章是は如何して能からんと田溝の水を手拭に浸して口に含ますれど全く息の絶たる樣子に久八今は途方に暮天を仰ぎ地に伏て悲しみ歎き我が身程世に因果なる者はなし主人の養子が引負を身に引受てかく恥も若旦那樣を眞人間にして上たさに厭はゞこそ猶御異見を申氣の如何に凝とて此手先と我と我が手に喰付しが覺悟を極め此趣きを御番所へ自ら訴へ公けの御法通りに御仕置を受るが切ての罪滅ぼし然樣じや〳〵と獨り言頓て千太郎の亡骸に打向ひ餘りあなた樣の御身の上の御爲を思ひ込斯の始末に及びし事御詫は程なく黄泉にて申上てと伏拜み夫より一散に南の町奉行所へ駈込私しは主殺しの大罪人御定法の御仕置願奉つると申たてければ役人共は一時發狂人と思ひしが容易ならざる訴へなれば直に一通り調べ有て繩を懸られ越前守殿の白洲へ呼込と成しかば久八有し次第を逐一に申立し時既に其場所よりも横死人の屆け出けるにより先久八は入牢申付られ檢死を其場所へ遣はし取調べに相成けるに年頃廿二三歳身のうちに疵所是なく咽を縊りし體にて伊勢屋五兵衞の養子千太郎に相違無趣きは久八より申立にて知られし事なれば直に三河町の伊勢屋五兵衞を呼出しに相成五兵衞より親里の富澤町甲州屋吉兵衞方へ知らす夫より同道にて彼土手下檢使の場へ罷り出吉兵衞二男にて五兵衞方へ養子に遣はせし千太郎なる旨口書になり右に付死骸は五兵衞吉兵衞の兩人へ引渡しに成たりける元より久八が縊り殺したる趣き自訴せしかば翌日甲州屋吉兵衞伊勢屋五兵衞久八の伯父六右衞門一同等御呼出しにて調べとこそは成りにけれ。 第二十四回  然程に大岡殿には翌日直樣吉原土手下の人殺し一條調べとなり其人々には駈込訴人石町二丁目甚兵衞店六右衞門方同居久八右久八伯父六右衞門久八元主人神田三河町伊勢屋五兵衞代金七富澤町甲州屋吉兵衞等なり越前守殿久八を見られ昨日相尋ねし通り其方舊主人養子千太郎を締殺せし段最も重罪なり然ながら後悔致し自訴に及びし段神妙に似たり其始末は何故何樣の所業に及びしや仔細有る事ならん眞直に申立よと有ければ久八首を垂私し事計らずも千太郎を締殺し候別段に仔細と申は是無全く誤つて殺せしに相違御座なく候と申立るに大岡殿否々只誤つて殺せしと云ふこと有まじ何成とも事柄を包まず申立よ又六右衞門其方事何等の縁合を以て此久八をば世話致し居や且此度の義に付心當りも是有ば申立よと申されし時六右衞門愼んで頭を上げ私事は生國三州藤川宿に御座候藤川近在に罷り在候兄の久右衞門儀先年捨子を貰ひ請慈しみ養育なし廿箇年以前私し方へ連參り何方へ成共奉公致させ呉候樣にとの事に付私し世話致し則ち三河町伊勢屋五兵衞方へ奉公住致させ候處一事の誤りも無奉公を大切に勤めし故主人の氣に適ひ店の支配をも任せられ私し儀も安堵致し居候に昨年不慮の儀にて永の暇に相成廿餘年の勤功を水の泡となし其上此度の大罪私しに於ても何故に右樣所業致し候哉更々分明申さず候と申立る依て一同へも段々の手續尋問に相成翌日又々久八六右衞門兩人を呼出して猶又調べの處六右衞門申立る樣昨日も申上候通り久八儀誤りにもせよ主人を害し候など申儀は私しに於ても一圓合點參り申さす候此度の一條何分にも其意を得難きことに候當時賤き渡世を致し居候ても正直一三昧に出精致し居候と申上ければ越前守殿久八に申さるゝは其方事昨日も尋問る通り千太郎を害したるには別に仔細の有事成ん其仔細も有ば包まず有體に申立よと有りければ六右衞門久八に向ひ御奉行樣の仰せなり其次第を包まず委細に申立よ千太郎殿の事に付ては取分影に成日向に成て心を盡し又大旦那五兵衞殿へ廿年來律義に勤て主思ひの聞えも取たる其方成らずや何とて千太郎殿を締殺したるや我にも更に仔細が譯らず一伍一什を御奉行樣へ申上よと六右衞門の言葉に久八涙を流し只今伯父六右衞門申上たる通り二十箇年以前五兵衞方へ奉公住仕つり居り候處據ころなき譯合にて私し五十兩の遣ひ込に相成終に永の暇を受候儀に御座候又千太郎儀を誤つて殺害せしも畢竟は其と云懸しが口籠り何事も皆前世の約束と斷念め居候得ば一日も早く御仕置を願ひ上候又伯父樣にも是迄の事と思し召下されよ兎角不屆者と御憎しみも候はん殊に長々の世話に預りたる御恩をも報じ申さず未來永々の不孝此上なく是ばかりが殘念に候なり何卒此段御勘辨下されよと首を砂利に摺付暫らく泣伏居たりける越前守殿否是には何か深き仔細ありと見て取られ押返して如何に久八其方事御所刑の儀は願はずとも遁るゝ事に非ず然ながら公儀に於ては事實の分明ならざる上は假にも御所刑には爲給はず其方唯今申たるには千太郎を締殺したるも必竟はと言しが五十兩の金子の事ならん其五十兩の引負金と云は如何の譯にて何に遣ひ捨しや有體に申立よとの事に至り久八は元より千太郎の引負金を我身に引請たる事情を今さら云出せば主人千太郎を締殺したる而已ならず同人の惡名迄も顯はすこと本意なしと思ひける故今迄は聊かも云ひ出さず包み隱して居たりしが段々嚴重の尋問に公儀を僞はらんも恐れありと思ひ定めて漸々顏を上げ追々事を譯ての御尋問に付此上は包まず申上るなり舊主人伊勢屋五兵衞事世嗣の男子これなく相應の養子も有ばと探索るうち千太郎事を申込候者これ有しに五兵衞持參金が無ては不承知なる由を承まはり私しより段々と五兵衞へ申進め終に千太郎を養子に致し候儀に御座候然るに千太郎若氣の誤りにて新吉原江戸町二丁目丁字屋半藏抱へ遊女小夜衣に馴染し處同人伯父麹町三丁目町醫師村井長庵に小夜衣が身受金也と欺むかれ五十兩騙り取れ候由其節千太郎の容子怪敷見受候まゝ私し異見を爲し樣子を承まはり候へば云々なりと申に付千太郎の一時店より持出せし五十兩を私し引負金と爲て永の暇になりし節千太郎へ呉々異見を申以後急度愼み候筈に付私し儀も嬉しく存じ五十兩の金子は今以て私しより少しづつ返濟致し居候然るに先日私し事千住の紙屑問屋へ參りし途中吉原堤にて千太郎が朝歸りの體を見受候まゝ其の節も厚く異見仕つり必ず遊女通ひ相止候積りの處兩三日過又々土手にて見受候得ども私しの姿を見るや否直樣横町に隱れ候事三度に及び候故餘り殘念に存じ其翌日より千太郎の戻り道に待受居漸々面會致し候間土手下より中反圃まで胸ぐらを取て連行悔しいやら悲しいやらにて夢中に成萬一手を弛めなば迯出さんとなす故我知らず強く押へしに過りて咽の呼吸を止めしにや息の絶えたるに驚きつゝ種々介抱成けれ共蘇生る容子も無暫時に冷たくなり候まゝ當御奉行所へ御訴へ申上候儀に御座候と申立ければ慈仁無類の大岡殿ゆゑ忽ち久八の廉直なるを悟られ然も有べし〳〵とて其日は白洲を閉られけり。 第二十五回  偖も享保二年四月十八日越前守殿には今日村井長庵が罪科悉皆く調べ上んとや思はれけん此度の一件に掛り合の者どもを悉皆呼出され村井長庵は兩度の拷問にても白状せざる事故身體勞れ果かゝる惡人なりと雖も天定りて人を制するの時節到來なし目も當られぬ有樣にて繩つきの儘白洲の中央へ引据られたり次に久八並びに小手塚三次又神田三河町二丁目家持質兩替渡世伊勢屋五兵衞富澤町の古着渡世甲州屋吉兵衞新吉原江戸町二丁目丁字屋半藏代文七右半藏抱へ遊女文事丁山同人妹富こと小夜衣石町二丁目甚藏店六右衞門麹町三丁目瀬戸物渡世忠兵衞ならびに同人妻富右町役人共一同御呼出しと相成り右一件願ひ人赤坂傳馬町二丁目長助店道十郎後家みつ悴道之助右光店請人同所清右衞門右家主長助都て掛り合の者殘らずにて廿有餘人呼出しに相成偖大岡越前守殿千太郎父吉兵衞養父五兵衞兩人の名を呼れ其方共千太郎の死骸引取候節差出したる口書の通り相違はこれ無やと尋問らるゝに兩人如何にも仰せの通り相違御座なく候と申立ければ大岡殿又六右衞門其方儀久八の申立に付何ぞ證據ありやと云るゝ時六右衞門は千太郎より久八へ渡し置たる一札を目安方へ差出しけるに越前守殿熟覽有て長庵に向はれ其方事豫々惡事の段々露顯に及びたり未だ三次に頼んでお安を殺させたる一條並びに札の辻に於て弟十兵衞を殺したる儀とも明白なるに何とて白状に及ばざるやと申されるを聞て長庵は猶も恐れず勿々以て左樣の事ども更に覺え御座無候程に白状などとは思ひも寄ぬ事なりと大膽不敵にも白状せざれば越前守殿は丁字屋半藏代人文七と呼れ其方尋問る次第巨細に答へ成るやと有に文七徐かに頭を上げ私し事半藏の家事を取扱ひ居候得ば遊女に付候事は委細に辨へ居候と申にぞ大岡殿然らば抱へ遊女文事丁山富事小夜衣の兩人は何人の周旋にて何れより抱へたるや請人等巨細に申立よと尋問らるゝに文七丁山事は三河國藤川在岩井村百姓十兵衞と申實親の判にて麹町三丁目醫師長庵儀は右十兵衞の兄なる由にて受人に相立召抱へ候又妹小夜衣事は十兵衞死後成故に右長庵賣主にて小手塚三次と言者受人に御座候と申立ける時越前守殿如何に長庵姉は十兵衞に相頼まれ賣しならん妹の小夜衣は誰に頼まれて賣渡せしや長庵答へて弟十兵衞横死の後金子は紛失致し彌々身體立行難く十兵衞の妻安に頼まれ賣渡しの節三次を受人に相頼み申候と聊か憚る色なく申立ければ越前守殿莞爾と笑はれ其りやこそ長庵汝の口より追々尻を割ではないか有體に申せよと如何なる惡人とても成丈吟味の上にも吟味致さるゝこそ有り難けれ 第二十六回  越前守殿には又丁山小夜衣に向はれ此長庵は其方共の爲に伯父とは云乍ら兩親の敵なり遠慮に及ばす心得有事は有體に申立よ猶も妹小夜衣には別に尋ぬる仔細有其方が身の代金は母存生の内母の手にわたしたるやよも母安へは渡すまじ萬一包み隱す時は汝等が身の爲に相成ぬぞと有ける時小夜衣は女ながらも心男々しき生質なれば大岡殿の詞に隨がひ私し苦界へ沈し事は父が人手に掛り其上姉の身の代金も奪はれしとの事を國元にて聞しより母には氣の違はぬばかりにて國元の家を仕廻私を連て麹町の伯父の所へ來て居し中姉に逢してやると此三次と云人と伯父が申のに欺され丁字屋へ連られ行し儘終に身を賣られ是非なく勤め居しに其後母は不圖家出せしまゝ行衞が知れぬと伯父が話せし程ゆゑ私の身の代金は母の手へは請取申まじと申立れば越前守殿然も有らんコリヤ長庵小夜衣が申立は斯の通り成ぞ然すれば小夜衣が身賣の事を後家安より其方へ頼むべき所謂なきにより金子は勿論安に渡す譯なし全く小夜衣が申立る通り其方と三次と申合せ姉に逢して遣ると僞りて連出し身を沈めしうへ身の代金の三十兩は兩人にて遣ひ捨たるに相違有まじ夫故にこそ三次に頼み後の憂ひを除かん爲又お安をも連出して中田圃に於て殺害に及ばせし成らん右は既に三次が申立にて聢と相分り居る處なり如何に三次其方事追々申立たる通り相違なきやとの糺問に三次首を上げ此程申上ました通り十兵衞の後家お安へは妹娘は或屋敷へ奉公に上たと僞り私しと長庵兩人で丁字屋へ三十兩に賣代なし其内私しは長庵より僅かに五兩貰ひ候處お安も其後妹娘の行先が變だと思ふたやら兩人の娘に逢して呉れ〳〵と長庵に晝夜を分たず迫るより逢せて遣れば化の皮が顯はるゝにより娘に逢すとお安を欺むき人なき所へ連出し殺して呉ろと長庵に頼まれたるが因果づく中反圃にて殺した始末思ひ出しても凄とする是等の話しを爲事も兩人の娘へ懺悔也と今眼の前に見る如く云々是々斯樣ぞとお安が苦痛の死をなしたる其有樣を申立長庵に向ひ此通りだ未練らしくとぼけずと立派に白状しねへかと三次が話を聞よりも思はず知らず聲を揚わつとばかりに泣沈む母の横死の有樣が眼に見る樣に思はれて姉妹二人が心の内哀れと言も餘りあり又長庵は是を聞是三次何を云夫は幾度云ても汝が殺した話し夫を又此長庵に白状せよと言て仕舞へのとは何事ぞ某しに於ては何も言ことはない如何樣人間の命を取ほど有て不屆きの奴なり此長庵は人を助くる仁術に此世を送る家業故機に觸ては定業にて病ひの爲に死す人を見てゐるさへも不便なるにまして非業の死を遂る有樣は嘸々恐ろしき事ならん拙者のやうに氣の弱き者などは見たばかりでも氣を失なふぞ如何にも貴樣は肝の太き男なり是兩人の娘問ず語りの此三次は二人が母の敵なるぞ能々御奉行樣へ御願ひ申敵を討て貰ふが能と懇切さうに申聞又居直りて御奉行樣私よりも願ひ上ます妹の安は此三次めが殺せしと承まはる上からは直にも打果すべき奴なるに現在妹の敵と名乘に側に居ながら手も出されぬ我が身は如何に口惜しと齒がみをなすを熟々見られ越前守殿心中に何程佞奸無類の曲者にても斯迄強惡なる奴は他に有まじと歎息されしが其方は惡人に似合ぬ未練千萬成奴なり安女は小手塚三次が殺したるにもせよその三次をば誰が頼んで殺させたるや汝れ三次に頼んで殺させたれば己れが手を下して殺せしより猶以て不屆なり又最前三次と突合せの節三次をば知らぬ者なりと申せしが其後に至り三次は知己の趣きに申立る等前後不都合なり且此程より追々取調べる通り八ヶ年以前に弟十兵衞を芝札の辻に於て殺害に及び姪の文を賣たる金子を奪ひ取夫而已ならず浪人道十郎へ右の罪科を悉皆く塗付終に公儀を欺き寃に陷れたる段證據人忠兵衞が申立の通り聊か相違なく聞ゆ然るに忠兵衞は恨み有者故右樣の事を申立候などと無體の儀を申掛再度忠兵衞夫婦に罪科を負せんと致したれ共既に其方の申口相違致したるに付流石に申論ずる事能はず恐れ入たるには非ずや然る上からは一事が萬事を知るべし此上にも申爭ふに於ては猶追々嚴重取調べに及ばねば相成ず重ね〴〵の憎しみを蒙り自身も種々の辛き目に逢んより事十分に顯れたる上は惡徒は惡徒だけの肝魂の有者なれば未練と人に笑はれんよりも流石に潔よき長庵と云るゝやうに白状致して仕舞へと段々理非を譯たる名言を飽まで欺く長庵は眞面に成り是は新しき仰せ哉成程忠兵衞が妻富と密通を仕つりしと申上しは私し此度寃の難題を申し掛られ餘りと申さば無念さに私とても申掛致し候なり其外の儀は恐れ入べき箇條更々之なく何事も仰せの趣きは存じ候はずと事もなげに陳じける時越前守殿コリヤ長庵然らば其方に猶新しき事を尋問箇條有汝ぢ三河町二丁目の伊勢屋五兵衞養子千太郎を欺き五十兩の金を騙り取たる段相違なきや此儀は證據人の久八眼の前に有如何々々と糺問有しに長庵は然も仰天せし顏色して是は〳〵又しても御奉行樣の御難題ばかり私し曾て伊勢屋千太郎などと云名前も知らずましてや五十兩の金子を騙り取たなどとは存じも寄ぬ事にて候又久八とやらん何故に右樣の儀を申立たるや其意更々合點參らす候嗚呼長庵が重なる不運の時節成か斯迄人々に憎しみを受る事醫は人を助ける仁術の渡世にて陰徳有ば陽報ありとの古語も當に成ず口惜く候と獨り言を云を越前守殿汝れ此上は眼に物見せんと少しく怒りの色を顯されしかば一同の者は顏を見合せ如何なる拷問に掛らるゝやと長庵を憎しみてぞ居たりけり 第二十七回  又越前守殿は久八の方を見られ如何に久八五十兩の金子を千太郎が是なる長庵に騙り取れたる始末此所にて逐一に申立べしと有ければ久八は愼んで頭を上げ私舊主人千太郎事先般も申上たる通り若氣の誤りより新吉原江戸町丁字屋半藏の抱へ遊女小夜衣の方へ通ひ詰候處右の長庵事は小夜衣と伯父姪の中に候由にて千太郎と知己に相成其後千太郎方へ長庵參り申聞候には小夜衣事木場邊の客人に身受致さるゝにやう相成候得共小夜衣は千太郎の方へ何卒參り度由長庵へ呉々相談なせしと雖も金づくの事ゆゑ何共致し方御座無候間金子五十兩何卒才覺致しなば親元身受けに成して木場の客の方は相斷わり長庵宅へ小夜衣を受出し置其上夫婦になすべしと僞言を千太郎は現在の伯父の申事故實情と心得店の有金の内五十兩取出し長庵へ相渡し兩三日過て千太郎は長庵宅へ參り小夜衣の事を申せしに長庵儀右樣の金子預りし覺え無之殊に逢しことも無人なりとて更に取合申さず餘りのことに千太郎段々と掛合に及び候處却つて長庵大いに立腹なし跡形も無事を言掛候段不屆き者なりとて散々に打擲に及び候由右の始末據ころなく千太郎は立歸りしかど如何にも殘念に存じ居候より再度長庵方へ罷り越長庵を刺殺し其身も自害仕つらんと覺悟の機から私し樣子を見受け候まゝ取敢す引止其事柄を段々承まはり種々異見仕つり候處全くは小夜衣に心を取れしより斯る巧みに罹りし事故已來は急度小夜衣の事は思ひ切と千太郎申候に付長庵に騙り取れし五十兩は其儘取れ切に致し其五十兩の金子は則ち私しの引負金に引受候儀に御座候事と委細に申立ければ越前守殿小夜衣の方を見られ小夜衣其方事も久八が申立たる事ども覺え有やと尋問らるゝに小夜衣は長庵が五十兩の金子千太郎より騙り取し事は千太郎存生の節私し方へ參られし折柄委細に聞及びし故甚だ悔しく思ひ居候と有體に申立ける程に越前守殿點頭かれ引合の者共悉皆く申立により長庵が惡事箇條明白に了解たり因つては猶長庵に問ふ事あり既に久八の申立る通りにて相違有まじきに猶又小夜衣が申立の趣き彌々以て相違有まじ此上にも陳じ僞はるやと膝を進めて申されけり 第二十八回  古語に謂有其以てする所を觀其由ふ所を觀其安んずる所を察す人焉んぞ庾ん哉人焉んぞ庾ん哉爰に僞り飾る者有り然れ共其者の眸瞳の動靜を察る時は必ず其眞僞現るゝと宜なる哉然れ共萬一庸人の奉行となりて強情奸曲の者を調べるに於てをや或るひは面體惡氣に心は善良成るも有或ひに面體柔和にして胸中大膽不敵なる者有所謂外面如菩薩内心如夜刄と佛も説給ひし如し然れば其面體柔和にして形容も柔和やかなる者の言事は自然と直なる樣に聞ゆれども其事は邪心を含み工める奸賊も有り面體見惡き者の申立る事は言葉續き荒らかにして詐り飾り有る樣に聞え品に因ては裁許の過りなしとも云難し然れば鎌倉七世の執權北條時宗を輔佐して問注所の總裁職を勤め美名を後世に傳へし青砥左衞門尉藤綱は公事訴訟等を聞るゝときは必ず眼を閉塞て調べられしとこそ聞えたれ抑々越前守殿此長庵を一目見るより此奴は容易ならざる不敵の者なれば尋常の糺問にては事實を吐まじと思はれしにより斯は氣長に諭しながら糺問されしなり然りと雖も長庵は何事も曾て存ぜずと而已申立口を閉て居ければ此上は詞を以て諭さん樣もなく拷問に及ぶより外はなしと思はれしなり然れども猶徐かに長庵を見られ如何に長庵札の辻人殺しの罪を道十郎に負せし事は既に忠兵衞と言證人あり又千太郎を欺きて五十兩の金子を騙り取其上千太郎を罵り打擲に及びし事は久八並びに其方姪小夜衣が申立と符合して明かなり又弟十兵衞の女房安を殺させし事は眼前に汝が頼みし無宿三次より疾白状に及びしことなれば如何に其方鷺を烏と爭ふとも遁るゝことは叶はず速やかに白状せよと諭されければ大膽無類の長庵も最早叶はじとや思ひけん見る中に髮髯逆立兩眼に血を注ぎ惡鬼羅刹の如き面を振上げ一同の者を礑と白眼し其形容に居並び居たる面々何れも身の毛も彌立ばかりに思ひ斯る惡人なれば如何成事をや言出すらんと皆々手に汗を握りて控へたる其中にも彼丁山小夜衣の兩人はアツといひて砂利に鰭伏戰慄き居たりけり長庵は齒をぎり〳〵と噛締汝等一同確乎に聞け汝等は揃ひも揃ひし鈍愚なるに其の智慧の足ざるを思はず能も我が事を訴人せし者成かな然ながら今日只今迄は假令骨々を斷割れ鉛の熱湯は愚か水責火責海老責に成とも白状なすまじと覺悟せしが御奉行樣の御明諭により今ぞ我が作せし惡事の段々不殘白状せんと長庵が其決心は殊勝にも又憎體なり 第二十九回  偖も越前守殿に於ては夫々確固なる證據人の有事を言ざる奸惡無類の大賊に似氣無卑怯者成と思されしに長庵が今ぞ殘らず白状なさんとの一言に流石惡徒は惡徒丈に了簡を改ためし者かと言葉を和らげられ白状するとは神妙の至りなりと申さるゝに長庵眼を見開き御奉行越前守殿に益も無く御骨を折すも恐れ入ば今こそ殘らず白状爲すなり仍つて此長庵が身は刑罰に成べけれども魂魄は此土に止り己れ等一同に思ひ知らするぞ其中にも忠兵衞は第一の大恩人なり能も〳〵八ヶ年以前のことを事新らしく今更に道十郎が後家に告口なし此長庵が命を縮めさせたるは忝け無共嬉しいとも禮が言盡されぬ故今は括られた身の自由成ねば孰れ黄泉から汝も直に取殺し共に冥土へ連て行禮を云から待てゐよ必ず忘るゝ事勿れと憤怒の目眥逆立つて礑たと白眼兩の手をひし〳〵と握りつめ齒を喰しばりし恐怖しさに忠兵衞夫婦は白洲をも打忘れアツと云樣立上り迯んとするを忽ちに警固の者に引据られ悶絶なさぬ計りなり稍有つて泣聲出し是申長庵殿御死なされし其後にて私し宅へ禮などに御出成るには及びませぬ私しとても御前には何の恨みも無れども八ヶ年の其昔し天神樣の裏門前で逢たる事を圖らずもお光殿より尋ねられ迂濶り口が辷りしを是非證人に立べしとお光殿をば同道なし其處に居らるゝ長助殿に談じ付られ仕方もなく斯樣のことに成たる譯何樣ぞ勘辨して下されと兩手を合せて泪を流し詫入體こそ笑止けれ長庵は忠兵衞を尻目にかけ默れ忠兵衞入ざる汝が噪々より我が舊疵を再發させ科人の身と成し事思ひ知れやと言ひながら奉行の方に打向ひ割るばかりの大音揚是迄爲したる我が惡事を逐一並べて御聞せ申さん然は然ながら自分でも忘るゝ程の數々なればお忘れなき樣お聞下され此長庵は在所なる岩井村に在し頃博奕崩れの喧嘩より同村に住勘次郎を殺す氣もなく打殺し夫より村方を逐轉して此大江戸へ出てより所々方々の小稼ぎは言はずと知れし小盜人盜みし金や神農も嘗殘したる質種を資本に初めし醫者家業傷寒論は讀ねども醫は位なりとて衣服で驚かし馬鹿にて付る藥迄舌三寸の匙加減でやつて退たる御醫者樣も斯う成ては長棒の駕より命をしまい肩ばつた〳〵と何にもかも夕べの夢の過たる惡事先第一は現在の弟を殺して此所に居る姪のお文の身の代金を奪ひ取たる後腹は道十郎の傘で廣がる惡事を骨さへ折ず中山殿を欺むいて道十郎へ疊み付又小夜衣を賣代爲し身の代金は博奕と酒と女郎買ひに遣ひ失し其上に又小夜衣の手紙を種に伊勢屋の養子千太郎を旨くも欺き五十兩と云大金を騙り取其外二十や三十の小さな仕事は數知れず兎角惡錢身に付ず忽ち元の木阿彌と貧乏陶りも干上る時弟の女房のお安めが娘に逢せろ〳〵と毎日々々迫るのも惡事を働く邪魔なるゆゑ子分の三次に申付殺させたるに相違なし餘り惡事の身代が能過るゆゑに年月の過たる事は白状するも面倒なりと申立ければ越前守殿呵々と打笑はれ汝れ長庵永々強情に申陳じ居たりしが只今と成て能も自分の惡事に相違なしなどと白状せし者哉併しながら先は神妙のことなりと言れ次に久八に向はれ不便なるは其方なり如何程千太郎の惡敷とも主人と名の付し者を假令過りにもせよ締殺したる上からは五逆の罪は遁るゝ道無し然れ共其方の身元は元來捨子なる由最初よりの事ども篤と相尋ね度事なり依て伯父六右衞門に尋問ん其方日外一寸申上しが猶委細に久八が人と成の始末申立よと有ければ六右衞門愼んで首を上仰せの如く此久八は元三州藤川宿の町外れに捨置れし身に御座候(是より久八の履歴は六右衞門が申立の讀續きなれども人情の貫徹ざる所も有により讀本の口調に換れば諸君怪給勿れ) 第三十回  抑々久八は去元祿の頃京都丸山通りに安養寺と云大寺有り其門前町に住て寺社巨商等へ出入を爲す割烹人吉兵衞と云者いまだ獨身ゆゑ妻を勸むる者の多かりしが軈て良縁有てお久と呼る女を娶りけるが容貌人に優れ殊に裁縫を能し讀書も拙なからず料理人の女房に成置は勿體無きなどと見る人毎に言合る程成ば吉兵衞は一方成ず思ひ偕老同穴の契り淺からず暫時連添内姙娠なし元祿二年四月廿八日玉の如く成男子を儲け夫婦の喜悦假令るに物無く蝶よ花よと慈しみ育る中に間も無妻のお久時の流行風邪を引たるが初めにて一兩日過る中に發熱甚だしく次第に病ひ重りて更に醫藥の効しも無く重症に赴きしかば吉兵衞は易き心も無殊に病ひの爲に乳は少しも出ず成りければ妻の看病をしつゝ情け有家へ乳貰ひに赴き漸々にして育つれ共乳の足ざれば泣沈む子よりも猶悲しく思ひ最う此上は神佛の加護に預かるより他事無しと吉兵衞は祇園清水其外靈場へ祈誓を掛精神を摧きて我が妻の疾平癒成さしめ給へと祈りしかば定まり有命數にや日増に勞れ衰へて今は頼み少なき有樣に吉兵衞は妻の枕邊に膝さし寄彼是と力をつけ言慰めつゝ何か食べよ藥を飮ねといと信實に看病なせども今ははや臨終の近く見えければ夫婦親子の別れの悲しさ同じ涙にふし芝の起る日もなき燒野の雉子孤子になる稚兒より捨て行身の親心重き枕を揚兼る妻のお久は熟々と夫の顏を打詠め物ごしさへも絶々に此子を頼む此子をと云一言が此世の餘波涙に濕る枕邊は雨に亂れし糸萩の流れに沈むばかりなり然ば男乍らも吉兵衞は狂氣の如く歎きつゝ斯まで妻の顏痩て昔に變る哀れさよと落る涙を堰敢ず空しき死骸に抱き付のう我が妻よ今一度此世に戻りて給はれや言事有と臥轉び如何成ばこそ此如く果敢無縁にしに有りしやと呼び叫べど答へさへ泣ゐる我子を抱上げ今日より後は如何にせん果報拙なき乳呑子やと聲を放つて悲しむを近所の人々聞知りて追々集まり入來り悔み言つゝ吉兵衞に力を付て一同に通夜迄もなし翌朝は泣々野邊の送りさへ最懇に取行なひ妻の紀念と孤子を漸々男の手一ツに育てゝ月日を送りけり 第三十一回  偖も吉兵衞は素より富る身ならねば乳母を抱ゆべき金力も無情け有家へ便り腰を屈めて晝夜を分たず少し宛の貰ひ乳を成又は乳の粉や甘酒と一日々々を送る體側眼で見てさへ不便成に子の可愛さの一筋に小半年程過せしが妻のお久が病中より更に家業も成ぬ上死後の物入何や斯やに家財雜具を賣喰なし迂濶々々活計して居たりしが吉兵衞倩々思ふ樣獨身成ば又元の出入の家々へ頼みても庖丁さへ手に持ならば少しも困らぬ我が身なれど此兒の有故家業も出來ず此上居喰にする時は山をも空しく失なす道理子供を何處へか遣り度も些は金子を付ざれば貰うて呉る人もなし又貰ひ乳に行度にも初めの程は機嫌能呑せて呉し家にても今日は用事で他行せり今朝から風邪の心地にて乳の出樣も少なく成宅の子にさへ飮足らねば御氣の毒だと斷りを言れて戻る其つらさ斯ては終に親子共餓死より外に目的なし如何成ばこそ斯迄に哀れの身とは成けるぞや思ひ廻せば運す程妻のお久に別れしが此身の不運不幸ぞと思案に暮て居たりしが所詮斯樣の姿にて故郷に恥を晒さんより寧そ江戸の淺草にて水茶屋渡世の甚兵衞は從弟の縁もある事故彼を便りて行ならば又能手段も有べきやと心の内に思ひを定め賣殘したる家財を集め金に換つゝ當歳の子を懷に住馴し京都の我が家を立出て心細くも東路へ志ざしてぞ下りけり元より馴ぬ旅と云殊に男の懷ろに當歳の子を抱きての驛路なれば其辛さは云も更なり漸々にして大津の宿を辿り過打出の濱を打越て堅石部や草津宿草枯時も今日と暮明日の空も定め無き老の身ならねど坂の下五十三次半ば迄懷ろの兒に添乳を貰ひ當なき人の乳を當に行先々の氣配りに難儀艱難辛苦とも云ん方なき事どもなり漸々にして三州岡崎迄は來ども素より手薄の其上に旅の日數も重なれば手當の金子をも遣込殘り少なに成ける程に心は彌猛に思へども猶如何に共爲術なく必竟斯る難澁に及ぶと云も兒の有故身の振方も成ぬなり此上親子餓死に成行事の悲しさよ寧そ此子も妻諸共に死んで呉なば此樣に今の困苦はせざりし者と泣々頼む貰ひ乳の足ぬ勝なる養育に繋ぐ我が子の玉の緒の細くも五體痩ながら蟲氣も有ぬ健かさ縁有ればこそ親子と成何知らぬ兒に此憂苦を見するも過世の因縁成か不便の者をと嘆ちしが我から心を鬼になし道途に迷ふ親の身を助かる手便は此乳子を捨るより外に思案なしと我が子の寢顏を打詠め涙ながらに心を定め其處よ彼處と思へ共竟に其日は捨兼て同じ宿なる棒端の境屋と云旅籠屋に一宿なして明の朝此所の旅店を立出て人の往來の無中に疾く捨なんと右つ左つ其場所がらを見歩行折から早藤川にさし掛り夜も良白む頃なれば宿外れなる或家の軒端の下に寢たる子をそつとさし置たち出しが又立もどり熟眠せし其顏熟々打ながめ偶々此世で親と子に成し縁しも斯ばかり薄き契りぞ情なし然ど汝を抱へては親子が畢に餓ゑ死に外に爲術なきまゝに可愛我が子を捨るぞや強面親と怨なせぞ只此上は善人に拾ひ上られ成長せば其人樣を父母と思ひて孝行盡すべしと暫時涙に昏たりしが斯る姿を他の人に見咎められなば一大事と二足三足去掛しが又振返りさし覗き嗚呼我ながら未練なりと心で心を勵ましつゝ思ひ極めて立去けり 第三十二回  夫生とし生る物子を愛せざるはなし燒野の雉子夜の鶴皆子を思ふが故に其身の危きをも顧みず況んや萬物の靈たる人間界に於てをや然るに情け無くも吉兵衞は妻の死去せしより身代をば仕舞住馴し京都を後になし孤子を抱へて遙々東の空へ赴く途中三州迄は來たれども殆ど困窮に迫り餘儀なく我が子を藤川宿の町外れに捨たるは是非もなき次第なり嗚呼勿體なくも一天萬乘の皇帝も世の中下樣の人情を知ろしめされ賜うて後水尾帝の御製に「あはれさよ夜半に捨子の泣やむは母にそへ乳の夢や見つらん」とは夜更て外面の方に赤子の泣聲の聞えしは捨子にやあらんと最と哀れに聞えたりしが兎角するうちに彼泣聲の止たりしかば如何せしやらんと思ひぬるうち又もや泣出しける程に扨は今暫し泣止しは捨られし子の夢心に我が母に添乳せられし所をや見し成んと一入哀れのいやませしと言つる心の御製なり又芭蕉翁の句にも「猿さへ捨子は如何に秋の暮」是や人情の赴く處なるらん扨又藤川宿にては夜明て後所の人々此捨子を見付村役人に屆けなどする中一人の旅僧鼠の衣に麻の袈裟を身に纒ひ水晶の珠數を片手に持藜の杖を突て通りかゝりけるが此捨子を見て杖を止め頓て立寄りつゝ彼小兒の袖を廣げ腰なる矢立を取出して筆清らかに認められしは「汝父に疎まれしに非らず母に疎まれしに非ず父母捨るに非ず自分の薄命なり元祿二年九月貧暦」と書付て其儘に行過ける兎角する内に村方の役人其外大勢の人集りて地頭代官所へ訴へ出ければ役人方見分の上捨子の儀は村方へ養育申付られ小兒は村方預りと成たるに同村の百姓久左衞門と云者有しが妻出産の後間も無く其子病死なし最本意無く思ひける所乳のあるより村役人に頼まれて此の捨子を預り養育せしに追々馴染につれ愛も優りしかば寧そ此子を貰ひ受んと夫婦相談の上村役人に申入しにぞ早速其筋へ屆け濟の上米三俵を添て彼捨子を久左衞門へ遣しける依て名をも久八と附て夫婦の寵愛淺らず養育しけるに一日々々と智慧付に隨ひ他所の兒に優りて利發なるにより末頼母敷小兒なりと慈しみける中月立年暮て早くも七歳の春を迎へ手習に通はせけるに讀書とも一を聞て十を知り兩親の言葉を背く事無孝行を盡す故夫婦の歡び一方ならず久八も手習より歸れば何時も近所の子供と遊びけるが折に觸ては少しの爭ひより友達子供等が久八の捨子々々と云ければ何とて我が事を捨子々々と云やらんと泣顏にて我が家へ歸へり久左衞門夫婦に向ひて友達衆が喧嘩がてらに私しの事を捨子々々と毎度言罵しるは何故にやと不審氣に尋ねられ久左衞門夫婦は顏見合せ暫時默して居たりしが涙を流し何故にも道理なる尋ねなり今日まで云ざりしが實は其方事七年前藤川宿の町外れに棄て有しなり其時其方の袂に書付て有しは是なりと彼の僧の落書まで殘り無物語に及びければ久八は子供心に我が身の上を初めて知り棄子と云るゝを深く恥たりけん其後は手習を我が家にてなし遊びにも外へ出行ことなく柔和やかに母の手傳ひをして我が家の内に遊び居るを養父母も其の樣子を見て取頻りに其心根を不便に思ひ夫婦相談の上江戸表へ連行て奉公にてもさするならば立派な人に成もやせん幸ひ弟六右衞門が江戸本石町二丁目に渡世して有ければ是へ往て頼み何れへ成とも奉公に出さんものをと忽ち心一決爲し久左衞門は軈て江戸へと久八を連て下り弟六右衞門に逢て事の仔細を委敷話し頼み置つゝ歸りけり因て六右衞門所々を聞合せけるに神田三河町二丁目にて彼質兩替渡世伊勢屋五兵衞方にて子供を抱へたきよしを聞込早々頼み入れ吉日を撰んで奉公にぞ遣はしける 第三十三回  然るに此伊勢屋五兵衞と云は古今稀なる吝嗇人にて其吝き事譬ふるに物なく所謂爪に火を燈すとの例への如くなれば召使ふ下女下男に至る迄一人として永く勤むる事なく一季半季にて出代る者多き中に久八而已幼年成と雖も發明者にて殊には親に棄られたる其身の不幸を心に忘れず何事も主人五兵衞の心に恊ふ樣に萬事に心を配り曾て外々の者とは事變り其辛抱は餘所目にも見ゆる程なれば近所近邊の者に至る迄伊勢五の忠義者々々と評判高く一年々々と年重なりて終に二十年を送りける故吝嗇無類の五兵衞さへ萬端久八に任せ主人に代りて取扱ふ樣に成りけるに彌々人々賞美して伊勢五の白鼠と云れて店向の取締りをも爲すこととなりたりけり因て右捨子の次第を具さに六右衞門より申立ければ大岡殿熟々と聞れ再び尋問られんとせし時白洲の端に控へし彼富澤町の古着渡世甲州屋吉兵衞は先刻より久八六右衞門兩人の申立を聞度毎に膝を進めて驚怖ながら久八の顏をじろ〳〵と打詠め居たりしが今六右衞門が詞の切たるを見て恐れながら申上ますと正面へ進み出頓て越前守殿に向ひ久八事私し二男千太郎を締殺せしと自訴仕つりしと雖も全く殺したるに非ず千太郎事一體幼少の頃より持病に癲癇有之候故其場にて右の病ひ差發り候儀と存じられ候且つ又千太郎儀は久八の恩義を格別に受居しこと成れば勿々以て意趣意恨など有べき樣御座なく候により私しに於て更々恨みとは存じ申さず候就ては格別の御慈悲を以て久八助命仰せ付られ下し置れ候樣偏へに願ひ上奉つり候と頻りに繰返し〳〵願ひ立ける程に有合一同の者共昨日迄何とも言ざりし吉兵衞が俄かに遮つて助命を願ふ事最不審くぞ思ひける扨も此甲州屋吉兵衞と云は其已前京都丸山安養寺門前に住居せし彼の料理人吉兵衞にして東都へ下る砌り藤川宿の外れへ小兒を棄其後江戸表へ出て從弟の甚兵衞を頼み所々方々の料理の手間取をして居たる中上野の山内へ出入となり四軒寺町本覺院の住寺の贔屓に預りたり此寺の和尚と云は彼の藤川宿にて先年棄子の袖へ落書なしたる僧成しが或日吉兵衞へ行脚せし頃の物語りより彼の藤川宿に於て棄子の袖へ落書なしたる事を話けるに吉兵衞心に驚き夫は何時頃の事なるやと尋問ければ和尚は指折算へ元祿二年九月の事なりと聞より吉兵衞は涙を浮べ其子を棄たるは則ち私しなり其事情は云々斯樣々々の貧苦に迫り現在我が子を棄たりと我が身の罪をも打忘れて懺悔なすにより和尚も奇異の事に思ひ夫より別して吉兵衞を贔屓になし富澤町古着渡世甲州屋とて身代も可成なる家へ入夫の世話致されたり其後吉兵衞夫婦の中に男子二人を儲け兄を吉之助と名付弟を千太郎と呼昨日に變る身代となり我が身の安心なせしに付ても其昔し京都にて妻のお久の不仕合せ又藤川の宿外れへ棄し我が子は其後如何になりしや情ある人に拾はれ育ちしかと種々手を盡し探索しかど更に樣子のしれざりしに今六右衞門の物語りにて久八社は彼の時に棄たる我が子に相違なしと心の中に分明し故頻りに不便彌増して只管命を助け度思ふ心の迫來ば訴へ事も後や先揃はぬ詞も道理なり 第三十四回  却説甲州屋吉兵衞は廿有餘年の其昔し東海道の藤川宿へ貧苦に迫つて棄たる我が子に場所も有うに白洲にて再會せんとは思ひきや夢かとばかりに思はれて後先も無く突然と助命は願へど流石にも久八事は私しの悴なりとも云出し兼然とても又棄置時は五逆の大罪遁るゝ道なし此身を棄ても歎願せねば第一死だ母親の位牌の前へも言譯なし久左衞門とか云人の情によりて斯迄に成人りたる者なるか親は無とも子は育つとの諺言も今知られけるとは云物の是迄は苦勞辛苦を爲し續け現在弟の千太郎の事を思ひて紙屑を買身と迄に零落ても眞の人に成んと思ひ赤心の誤よりも息の根の止たを直樣に自ら訴へ主殺しの御所刑願ふ氣なげさよ我が子で有ぞ可愛やと抱きも仕度親心立派な男も三歳兒の樣に思はるゝのが子を思ふ人の習ひぞ無理ならじ吉兵衞は嬉しいと悲しとにて前後揃はぬ助命願ひには越前守殿は何か此助命願には深き譯の有事やと英才深智の奉行にも事の仔細の分り難く暫時頭を傾ぶけ居らるゝ折柄猶も吉兵衞は聲震はし只今も申上奉つりし通り二男千太郎儀は全く持病の癲癇を發したることゝ心得候へば久八の仕業には決して御座なく候殊には現在千太郎の親たる私しより斯願ひ上る上からは聊か以て久八を恨み申べき存念之なく候よしや然なく候共千太郎が身持を直さん爲に異見をなし誤つて斯樣の時宜に立至りたる事なれば久八に害心なきは素よりの儀に御座候依て私しより助命只管願ひ上奉つり候と申立ければ越前守殿悉皆く打聞かれ如何に其方久八が助命の儀を願ふと雖も其は思ひも寄ず假令平生何樣に忠義を盡せしことの有しにもせよ主人の悴を過つて締殺したるには相違なし然る上は容易成ざる罪人なり嚴重に申付るは天下の大法公邊の掟なり餘の儀に付て慈悲の取計らひを願ふこと成ば兎も角も計らひ方有べけれ共主殺しの大罪を差免すとは相成ず然るを強て申立ること其方は町人の身故に公儀の御定法を相辨へぬ所なり得手勝手而已申立るなり如何樣汝が願ひに及べばとて天下の御定法には替難しと申さるゝを吉兵衞再々應押返し否々久八ことは主人を殺し候と申譯にては決して御座無候と何時までも同じ事を繰返し〳〵何の憚る色も無く申立ければ居並びたる人々甚だ氣の毒に思ひ這は物に狂ひしか吉兵衞御奉行樣の御前にて主人の養子千太郎を締殺したりと自訴に及びし久八を主殺しには之無と云は何事ぞや此上如何なる御叱りを蒙りやせんと皆々安き心も無き所に越前守殿には大いに不審られ是吉兵衞久八ことは千太郎を締殺したる趣きを當人の口より申立之有處に却つて其方一人遮つて主殺しには之無と申立ること其謂れ有やと言葉和らかに尋ねられければ吉兵衞は先年の始末今更申立るも恥の上の恥とは思へども久八が命には代難し然とて外に申立べきことも無途方に暮て居たりけり 第三十五回  扨も吉兵衞は今ぞ大事と思ひ切愼んで又々申立る樣素より久八と千太郎とは兄弟に御座候と顏を赤らめて云ければ越前守殿是を聞れ吉兵衞其方は狂氣にても致したるや取留もなきこと而已申奴かな然ながら千太郎は久八と兄弟なりとは如何の譯にて右樣の儀を申立るや一圓合點の行ぬ事なり其仔細有ば申すべしと云れしかば吉兵衞答ふる樣右の次第は事長々込入候儀にて全體私しは京都下四條の生れにして其後丸山安養寺門前に住居致し候砌り一人の男子を儲け候處間もなく妻久こと病死致し候に付病中の物入葬送の雜費等にて貧苦に迫り何分小兒の養育も致し難く御當地に一人の從弟之有候間彼を便りて國元を出立致し東海道を罷り下り候へども道中の事故小兒の乳に困り果旅費の貯へとても殘り少なに成漸々三州藤川宿迄で參りし折柄不便には候得共餓死せんよりはと存じ同宿の町外れへ棄兒に仕つり候然るに只今六右衞門久八兩人よりの申立を承まはり久八は豫て探索我が子なることを知り驚き入申候尤も其時の證據と申は其後御當地上野の御山内四軒寺町本學院の和尚先年私し藤川宿へ棄兒せし跡へ通り掛り棄兒を見て其袖へ落書いたし候由其儀は只今兩人の者より申上候通りなり然るを私し不思議にも本學院の住職より右樣の次第を承まはり及び候に付其以來種々手を替品を替相尋ね候へども更に行方相分り申さず猶又其後私し事は當時の家へ入夫仕つり兩人の子供も持即ち兄を吉之助弟を千太郎と名付候儀に御座候右の久八は藤川宿へ私し棄たる子に候其上本學院殿の落書且又年月日迄も符合仕つる上は紛ふ方無き私し惣領の悴に相違御座無く候夫故久八は千太郎の爲には兄に候間兄弟と申上候右久八の儀は今日只今始めて承知仕つり候實々私しも驚き入候なりと申立ければ大岡殿威猛高になられ汝れ吉兵衞其方は不埓成ことを申立る奴かな汝ごときの者何事も辨へざると覺えたり抑棄子を致したりと有ては容易成ざる罪人なり然るを何ぞや汝が罪をも思はず右樣申立るは畢竟久八へ千太郎より恩義を報じさせんとの存意にて右樣の儀を申立久八の助命を願ひしことゝ覺えり詐りを構へ公儀を欺むかんとする段不屆き至極なり久八は全く主殺しに相違無しと大いに叱れしは越前守殿の心の中如何思されてのことやらんと吉兵衞も恐れ入てぞ控へける 第三十六回  仁智明斷の大岡殿も久八が助命の儀を甲州屋吉兵衞俄かに願ひ出たるは如何成事情有ての儀やと勘考せられし處今吉兵衞が長々しき申立を奇異のことに思はれしが再度熟考あるに久八が千太郎を縊殺したるは全く實意よりなせし過りにして自ら訴へ出御仕置を願ふ所にて恨みも晴たれば一ト通りの歎願にてはとても助命覺束なく思ひ六右衞門の申立たる棄子に事寄吉兵衞が差當りての作意にて斯ることをや云ひ出たるものならんかと一時は思はれけれども又篤と容子を見らるゝに全く詐りにもあらぬことを悟られ殊に慈善を第一に天下の爲下民の安全を心掛らるゝことなれば久八が過つて縊殺せしと云ひ無證據のことなるを自訴せしにて赤心の顯はれたれば如何にもして助け遣はし度と心を勞せられし折からなれば是幸ひと越前守殿工夫有つて重ねて吉兵衞を見られ然らば汝が言ふ通り久八は全く主殺しとは治定致すまじ又其方の棄子にして實の悴と云ことは生前の儀なれば更に取上る處なし又千太郎儀五兵衞方へ參り居候とは申ながらいまだ養子に遣はしたると云には有まじ畢竟當人の樣子柄をも五兵衞方にて見屆け其上にて養子に取極めんと奉公人同樣に遣はし置たることならん然すれば久八が爲に千太郎ことは傍輩にして未だ主人とは申難し其傍輩の千太郎の身持を直さんとて誤まつて呼吸を止たると有からは罪科も大いに相違なり如何に五兵衞其方と千太郎が樣子柄を見屆ける迄は奉公人同樣召使ひ置しに非ずやとの仰せに五兵衞はハツとばかりに平伏なし如何にも仰せの通りに御座候と答へ申けるに依て久八が主殺しの廉は越前守殿の明斷に依て遁れる緒にこそ成にける 第三十七回  猶又大岡殿五兵衞へ尋問らるゝ樣千太郎儀は吉兵衞方より奉公に遣はし置たるを先達てより悴又は養子などと申立しは往々養子にも致す了簡故に右樣申立たる者ならんと有ければ五兵衞は直さまぬからぬ顏にて仰せの通り千太郎ことは矢張奉公人に召仕ひ居候得共往々は養子に致し申べく所存に御座候事故折々養子又は悴などと申上候段誠に恐れ入奉つり候と越前守殿の云れし通りを申立けるこそ笑しけれ扨さしも種々樣々に縛れし公事成りしが今日の一度にて取調べ濟に相成口書の一段までに及びけり嗚呼善惡應報の著るしきは索へる繩の如しと先哲の言葉宜なる哉村井長庵は三州藤川在岩井村に生立て幼年の頃より心底惡く成長するに隨ひ惡行増長して友達の勘次郎と云者を謂れ無く撲殺し村方を逐轉して江戸へ出小川町竹田長生院方へ奉公に住込み奉公中竊鼠々々物を盜み溜其後麹町へ醫業を開き一時僥倖を得ると雖も忽ち病家も無なりしより惡漢者を集めて博奕宿をなし在所より遙々と便り來りし弟十兵衞を芝札の辻に於て殺害し年貢の未進に血の涙にて娘文を苦界へ沈めし身の代金を奪ひ取て其罪を浪人藤崎道十郎に巧言を以て負せ又妹お富を欺して同じ丁字屋へ賣渡し身の代金を掠めとり其上に母のお安を三次に頼みて殺させ加之千太郎を欺きて五十兩の大金を騙り取猶又同人を打擲なし其數々の惡事一時に露顯して言破ること能はず終に口書爪印をなすに至る又伊勢屋五兵衞元召使ひ久八の如き忠義は町人にめづらしき者なれど過まつて主殺しの大罪を犯すに至れること恐るべき次第なり然ども天誠を照し給ふにより大岡越前守殿の如き賢奉行の明斷に依て遁れ難き死刑一等を宥められ豆州八丈島へ流罪存命せしも長庵の大罪に處せられけるも善惡應報の然らしむる所にして敢て珍しからず 享保二年六月廿八日一同申口調べ上と相成同日長庵始め引合の者共白洲へ呼込になり越前守殿高らかに刑罰申渡されける其次第は「三州藤川在岩井村無宿當時江戸麹町三丁目重兵衞店作藏事町醫師村井長庵五十三歳 其方儀三州藤川在岩井村に罷り在候砌り同村に於て百姓勘次郎を殺害に及び國元を脱走爲し當地へ罷り出小川町邊武家奉公に身分を詐りて住込奉公中所々にて金銀衣類等を盜み取右の金を資本として當時の住所へ借宅なし醫業を表に種々の惡事を働き第一弟十兵衞國元に於て年貢の未進に差迫り娘文を其方が世話を以て遊女に賣し身の代金四十二兩を持て歸國の節丑刻の鐘を寅刻と詐り出立させ置後より見え隱れに忍び行芝札の辻にて同人を欺し討になし其金を奪ひ取夫而已成ず文妹富を欺きて遊女に賣渡し同人の身の代金三十兩をを掠め取其後十兵衞後家安を己れが惡事露顯を覆はん爲三次へ頼みて淺草中田圃にて殺害に及ばせ又神田三河町二丁目家持五兵衞召使ひ千太郎より五十兩の金子を騙り取候而已成ず同人を打擲に及び剩さへ惡事の證人忠兵衞夫婦へ無實の難題を申懸邪舌を以て罪科を負せんと工み右の金子は殘らず酒喰遊興に遣捨候段重々不屆至極に付町中引廻しの上獄門」「武州小手塚村無宿一名早乘事三次三十七歳 其方儀所々に於て小盜み致し其上麹町三丁目町醫村井長庵に同意爲し淺草中田圃に於て三州藤川在岩井村百姓十兵衞後家安を殺害致し其外種々右長庵に加擔致し惡事相働き候段不屆至極に付獄門」「神田三河町二丁目家持五兵衞元召使三州藤川在岩井村百姓久左衞門悴當時本石町二丁目甚兵衞店六右衞門方同居久八二十九歳 其方儀元主人五兵衞召使ひ千太郎身持放埓に付其方兄分の好身を以て千太郎が朝歸りの折柄新吉原土手にて其方行逢見るに忍びず異見を爲すこと數度に及び千太郎面目無さに逃んと爲すを其方取押へるはずみに咽喉の呼吸を停め相果たる赴き畢竟傍輩の心實より爲したる事實と相聞え加ふるに千太郎實父吉兵衞外一同よりも助命を願ひ出又其方こと速かに自訴に及びし段神妙に付死一等を許され豆州八丈島へ遠島申付る」「新吉原江戸町二丁目丁字屋半藏代文七 其方儀先年召抱へ候文こと丁山儀は人主請人夫々相違之無候に付年季勤め上し上は勝手次第たるべし妹富こと小夜衣儀は同人伯父村井長庵と無宿三次と申合せ母安を欺き賣代成せし處聢と身元請人等相調べず抱へ置候段行屆かざるに付過料三貫文申付る尤も小夜衣事は直に證文差許し岩井村百姓十兵衞身寄太郎作へ引渡し遣すべし」「新吉原江戸町二丁目丁字屋半藏抱遊女ふみ事丁山 富事小夜衣 其方共主人へ右之通り申渡し置候間心得として聞置」「三州藤川在岩井村百姓十兵衞亡身寄太郎作 其方身寄十兵衞二女富こと小夜衣儀は新吉原江戸町二丁目丁字屋半藏より此度其方へ引渡し遣し候間世話致し遣はすべし」「赤坂傳馬町二丁目長助店元麹町三丁目浪人藤崎道十郎後家願人みつ 其方儀願ひ出候目安を取調べる處事實相違無之且永年夫無實の罪科に逢しを歎かは敷心得貞節を相守り悴道之助養育に及び罷り在候段神妙の至りに候之に依て夫道十郎儀罪科悉皆く差許され候追善供養勝手次第爲可且又御褒美として銀二枚取せ遣はす」「同人悴道之助 其方儀實父道十郎事牢死いたし候後母光の養育を請候より追々成長に及び候處幼弱の身に之あり乍ら日頃より母に孝養を盡し罷り在其身は母の助けに相成べくと毎日晴雨を厭はず未明より起出て枝豆其外時の物を自身賣歩行難澁をも厭はず孝行盡し候段幼年には似合ざる孝心奇特之事に候依て御褒美として鳥目十貫文取せ遣はす」「麹町三丁目庄兵衞地借瀬戸物渡世忠兵衞同人妻とみ 其方共儀八ヶ年以前平川天神裏門前にて町醫師村井長庵こと雨中傘も持ず立戻り候を見請候はゞ其節道十郎身分にも關はり候事故早速にも申立べくの處其儀無く打過候段不埓に付屹度申付べきの處此度證人に相立其方が申立に依て事實明白に行屆き候儀も有之に付格別の御憐愍を以て無構」「麹町三丁目家主共 其方共 店内に差置候醫師村井長庵儀は身分慥かならざる者に之あり候處存ぜずとは申ながら永年差置候段不屆に付叱り置」「神田三河町二丁目家持伊勢屋五兵衞 富澤町家持甲州屋吉兵衞 本石町二丁目甚兵衞店六右衞門 赤坂傳馬町二丁目長助店浪人藤崎道十郎後家光店受人清右衞門 右みつ家主長助 其方共一同取調べ候處別段不都合の筋もこれなく候に付何れも構無」右之通り一同相心得申べく旨申渡され八ヶ年以前中山出雲守殿調にて無實の横死を遂し浪人藤崎道十郎が修羅の亡執も此處に浮み出て嬉く思ふなるべし果せる哉惡事の報い速かに巡り來りてさしも申詐りたる村井長庵が奸謀も悉皆く調べ上に相成初て貞婦お光孝子道之助が善報の程は神佛の應護にも預りし物成んと其頃風聞なせしとぞ偖其翌年に至りて公儀に有難き大赦の行はれけるに御上にも久八が忠義の程を御賞感有せられし事成れば直に此大赦の中へ加へられ終に御免にて遠き八丈島より歸國にこそは及びけれ依て六右衞門へ引渡しに相成其後三河町伊勢屋五兵衞にも追々取年にて養子千太郎死去に及びたるより家を讓るべき子もなく居たる所なる故甲州屋吉兵衞へ相談の上六右衞門方より吉兵衞方へ久八を引取り元主人五兵衞方へ改めて養子にぞ遣はしける然ば昨日迄に遠き八丈の島守となりし身が今日は此大家の養子と成し事實に忠義の餘慶天より福ひを授け賜ふ所ならん然るに久八は養父五兵衞に事ふること昔に優りて孝行を盡し店の者勝手元の下男に至る迄憐れみを懸正直實義を以て遣ひける故に一同擧つて出精なし益々伊勢屋の暖簾富榮えければ其久八が赤心に感じて養父五兵衞も生れ變りし如く慈善の心を發し昔しの行ひを恥己れは隱居して久八に家督を讓りしとぞ爰に又丁山と小夜衣の兩人は程なく曲輪を出てたり姉の丁山二世と言替せし遠山勘十郎と云し人も病死なせしかば其跡を弔ひ小夜衣は千太郎が横死せしは我身より起りし事と忘るゝ隙のなくばかりなれば在所の身寄太郎作へ引渡されしゆゑ所々より嫁に貰はんと言込者の數有ども兩親の菩提の爲尼に成らんと姉妹兩人心を決し在所の永正寺と云尼寺へ入翠の黒髮を剃て念佛三昧に生涯を送りし事こそ殊勝なれ然ば長庵を指て大膽無敵の惡賊にして大岡殿勤役中四五の裁許なりと世に云傳ふると雖も長庵が白状の際に至り證據人忠兵衞を怨むこと卑怯未練の小賊なり古語に人の知ること勿を欲すれば爲こと勿に若なし人の聞こと勿を欲すれば言こと勿に若なしと宜なる哉嗚呼謹愼ずんば有べからず。 村井長庵一件終 直助權兵衞一件 直助權兵衞一件 第一回  茲に播州赤穗の城主淺野内匠頭殿家臣大石内藏助始め忠義の面々元祿十五年十二月十四日吉良上野介殿邸へ討入と極同月十日に大石内藏助は小山田庄左衞門を招き同志の人々家内を片付支度致すに付て金銀の入用有べし太儀ながら諸所へ行れ金子を與へ給へとて二百五十兩相渡せしかば心得候と出行を引留其金にて不足も有ば濱町の堀部彌兵衞片岡源吾右衞門にて廿卅の金は借候べしと申渡し又貴樣の刀は寸延と見えたり室内の働きには不便なれば是を進らせんと則光の二尺五寸有しを與へければ忝けなしと押戴き是にて討入の節思ふまゝに働き申さんと喜びて立出しが如何なる惡魔に魅入れしにや俄然に欲心萌して此十四日の夜討に入りなば討死爲か又は切腹なすか二ツの外は出べからず幸ひ此二百五十兩を路金として立退ばやと思ひしが毒を喰はゞ皿迄とは爰のことなりと片岡堀部前原なんどを廻り大石殿より家々片付の金使ひに命ぜられたれども不足の時は各々より二十三十づつ借請る樣にと申されたりと云て各々より請取其外衣類夜具迄も所々にて借入何處共なく迯亡けり是福貴なり共人百年の壽命は保ち難し瓦となりて保たんより玉となりて碎けよとは宜なる哉大石と倶に死しなば美名は萬世に殘るべきを呼呵淺猿きは人欲なり 第二回  偖も同志の人々は小山田庄左衞門が逐電せしを聞て大いに怒り追掛て討止んと云しを大石制して其身に惡事有れば夜討の事を泄す氣遣なしと止めしが豫て申合せし四十七人十四日の夜全く本望を遂翌朝泉岳寺へ引取けるに大勢の見物は雲霞の如く忽ち四方に評判聞えけり爰に庄左衞門が妹は美麗にして三味線などよく彈故品川の駿河屋何某の許へ縁付けるに庄左衞門が父十兵衞は古稀に近く腰は二重に曲居るを此駿河屋方へ預け置しが十四日の夜討のことを聞き如何に本望遂たるや子息庄左衞門は高名なしたるかと案事居けるに浪士泉岳寺へ引取しと聞き二本の杖に縋り大勢の見物を押分るに見物山の如くにて近寄事叶はず其中に討入の者の名前書を賣歩行故買取て見るに寺坂吉右衞門迄名前有共小山田と云は無し這は記者の間違ならんと又賣來るを買取見るに同じく漏居ければ十兵衞不審ながら立歸りしが其夜に至り子息庄左衞門逐電せし事を始て聞知り切齒を爲て怒り歎きしが夜中に書置を認め腹掻切て亡たりけり是庄左衞門が非道の行ひに因て老體の父斯成行しは庄左衞門が不義の手に掛りしも同じ事なり斯て後庄左衞門は姑く田舍に潜居て外科を習ひ覺え兩三年立て妻子を引連深川萬年町に賣家を買中島立石と改名して醫業を營みとせしに殊の外繁昌致し下男下女を置き妻と娘一人を相手に暫時無事に消光けり 第三回  茲に立石が下男に直助と云ふ者有り元は信州の生れにして老實しく働きけるが下女に心を懸種々に口説と雖も直助は片田舍の生れにて此下女は江戸の出生故直助が云ふ事を聞ず兎角強面當りしを立石夫婦も知り折に觸ては笑ひなどしけるを直助は面目なく且は遺恨に思ひ居たるに或夜立石夫婦は酒に醉て前後も知らず寢入しを見濟し其の夜丑滿の物凄き折こそ能けれと直助は寢息を窺ひ竊と起出押入の中に有る箪笥の抽斗を開け金を奪ひ取らんとなせしかど錠前堅固なれば急に開る事叶はず其中に十二歳なる娘不圖目を覺し母樣那れ直助がと云ふ聲聞き立石が枕邊にある刀を引拔無殘にも娘を刺殺せども猶立石は前後も知らず醉臥居たるを直助は直樣上に跨り咽喉を突貫し一ゑぐりに殺して又箪笥の方へ行んとせしに女房は密と續いて來るを振返り樣三刀四刀に切殺せり其中に下女は表へ迯出人殺々々と呼はりながら金盥を叩き立てしかば近隣の人々馳付る樣子を見て金を奪ふ隙もなく裏口より驀直に迯出し行衞も知れずなりにけり(時に正徳四年冬十二月義士十三回忌の時に當り庄左衞門は下僕の爲に切殺されしは然も大石より與へられし則光の刀なりと小山田が不義天奚ぞ恕し給はんや又直助は御尋ね者となり近き頃まで諸所の關所に直助が人相書有りしを知る人に便りて見たることあり實にや因果は廻る車の如く直助が身の上も思ひ知られたり)其後直助は人相書を以て御尋ね者と成し所一向行衞知れざりしに享保も四年となりし頃は最早五六年も立し故氣遣ひなしとは思へども肩へ藍にて黶の如く入墨をなし額にも腮の形を畫き前齒二枚打缺て名を權兵衞と改め麹町六丁目米屋三左衞門方に米搗に住込居たるを町方の役人怪しみ早速召捕て嚴敷拷問に及びしかど一向白状せざれば偖は直助にては非ざりしかと此段大岡殿へ申立しにぞ越前守殿然も有るべしとて呼び出され如何に權兵衞其方は科もなき者なるを役人捕違へて是迄吟味に及びし事氣の毒の至りなり定めし身體も弱り手足も利まじ然れば此儘に歸しては當分嘸難儀なるべし依て金五兩取せ遣はす間是にて能々療治をなし渡世を致せ主人三左衞門も權兵衞を介抱して遣はせ誠に不便のことなりしいざ立てと申さるゝを聞き權兵衞は嬉しさ何に譬へん方なく其金を持て白洲を立ち五六間行處を大岡殿コリヤ直助と呼び掛けられしに天命遁れ難くハイと振向しを夫縛れと云るゝを聞き南無三と潛戸を迯出さんとなすを同心ばら〳〵と立懸り忽ち繩をぞ掛けたりける(是其身の科を白状せざる者へ甘き詞を掛け金迄與へられし故偖は我が惡事知ずして命助かり金まで貰ひたりと嬉し悦び何心なく立ち去んとせし時思はずも直助と呼び掛けられ渠に答へをさせられし秀才頓智實に等閑の及ぶ處に非ず)之に依て又々吟味に及ばれし處一旦荒膽を挫がれたれば如何に強膽の者なりとも勿々隱す事能はず立石が家内三人切殺せし事ども殘らず白状成ければ小塚原に於て終に磔にこそ行はれけれ 直助權兵衞一件終 越後傳吉一件 越後傳吉一件 第一回  古人曰く近きを計れば足ざるが如く遠きに渡れば乃ち餘り有りと爲す我國聽訟を云ふ者大概青砥藤綱大岡忠相の兩氏が明斷を稱す茲に説出すは其大岡殿勤役中屈指の裁許にして頃は享保年間に越後の國高田の城下を距事七八里寶田村に工藤傳吉と云ふ百姓あり祖父の代より田畑數多持ち傳吉が父傳藏の代迄名主役を勤め父傳藏に至り水損打續き其上災害并び至りて田畑殘りなく失ひ悴傳吉十六歳の時親傳藏は病死なし母一人殘り孝行を盡しけるに母も父が七回忌に當る年病死なしければ傳吉の愁傷大方ならず且親類は只當村の長上臺憑司而已なれ共是は傳吉の不如意を忌ひ出入をなさず又母は樽見村の百姓源兵衞の娘にて妹一人あり此妹に家を繼せ自分は傳吉の家へ嫁入せしに父源兵衞病死の後は妹お早身持宜らず聟を三人迄取りけれ共皆離縁になり其後惡き者と欠落し母方の跡は斷絶せり此外には親類もあらざれば母は臨終の時傳吉に向ひ我が妹お早は其方の爲に實の叔母なれども先年村を欠落なし今は其の在家を知らざれ共我が亡後に巡り逢ば其方力になりて呉よと遺言して終りてより實に親はなきよりとは斯如ならん夫後傳吉は人に頼まれ江戸表へ飛脚に來たり途中鴻巣宿を通り掛るに道の傍はらに親子と見ゆるが休み居たり傳吉は何心なく彼女親を見るといと窶たる形なれども先年家出せし叔母お早に似たりと思ひしゆゑに立戻り段々樣子を聞きたるに叔母お早に相違なく且つ先年家出せし後此娘お梅と云るを設け當時は此宿に足を止め人に雇はれ憂年月を送る旨物語るに傳吉も母の遺言なにくれと話しなどし此上は及ばずながらお力にも成んと云ふに親子は地獄で佛に逢うたる如くに歡びけるが傳吉は飛脚の事故一先袂を別ち江戸へ來り用事を濟せ立ち歸る時に又叔母のお早を尋ねしに猶段々と難儀の咄しをなす故見捨難く近所へ厚く禮を述べ直に越後へ連歸りぬ扨傳吉は貧き暮しの中にて叔母と從弟を養育事容易に非ず殊に實家さへ絶せし叔母に斯く孝行を盡す事人々譽合り扨お梅も當年十八歳傳吉は廿六歳幸ひの縁と心中を聞合せしに兩人共得心の樣子故夫婦と成したり斯て傳吉は村の評判宜しき故親類といひ捨置れずと名主上臺憑司も出入を始め悴昌次郎も時々に出這入なし居たり 第二回  扨て又傳吉は倩々思ふに我が家世々村長成しが父の代より家衰へ田畑も失ひ剩さへ從弟上臺憑司に村長役を奪はれ今では人々にまで見落さるゝ口惜さ是も世の有樣と思ひ十六七の時より何卒再び家を起さんと志ざし牛馬に等しき荒稼ぎして勵めども元より母は多病にて始終名醫にも掛しかど終に養生叶はず亡しく成しが其入費多分有る所へ又叔母を養ひ妻を持貧き上に貧しくならん今の中に江戸に出て五六年も稼なば能き事も有べしと思ひ或日叔母女房に向ひ此事を直談に及びければ大いに驚き是は思ひ掛なき事を云るゝものかと我が身親子が飢もせず今日迄暮しけるは皆此方の陰なり今更老たる叔母此梅諸共置去にせんとならば勿々止はせじ夫ならば其樣に白地さまに申給はれと云けるにぞ傳吉大いに迷惑し是は〳〵叔母や女房を置去にせん心なら最初より諸方を尋ね歩行鴻の巣より態々連ては歸らず私しの江戸へ出るは我が身の利を計るに非ず五六年も苦しみなば元の田畑取戻すことも出來左すれば村長にも成る家柄故先祖への孝養と思ひ兼て心懸置たる錢十貫文之を殘し置ば當時の暮し方は澤山あらん來年は給金の半を分贈り申べし待は久しき樣なれども只一筋に勤め上早々立歸りて元の田地取戻し候はゞ先祖への面目親への孝行是に増事なし能々聞分て給はれと申ければ叔母女房も得心して俄に旅の用意をなし父母の墓へ參詣し夫より村長上臺憑司方へ行き妻子のことを頼み置き其日住馴たる寶田村を立ち出て東の空へぞ旅立けり時に享保三年九月十日の事なり足に任せて行けるに十日の月さし出つゝ暮て宿なき一人旅頻りに急ぎ歩行し所にぴかりと光る物あり足にて踏返せしに女の櫛なりければ何方の人が落せしやらんと手に翳し見れば鼈甲の最古びたるにて齒も三ツ四ツ缺たり是を拾ひ取り行くほどに一里塚の邊りより申々御旅人樣是より先に人里なし此宿へ御泊り成れと走り來るを見返れば年の頃十三四なる少女なり今日は勞れたり何所へ泊るも同じ事案内頼むと家路を指て急ぎけり 第三回  斯て傳吉は小娘に誘引れ許ある家に入て見れば柱は曲りて倒れ軒は傾き屋根落ていかにも貧家の有樣なれば傳吉は跡先見回し今更立ち出んも如何と見合ける中に小娘は盥へ温湯を汲で持ち出で傳吉の足を洗ひ行燈提先に立ち座敷へ伴ひ木枕を出し些寢轉び給へとて娘は勝手へ立ち行き半時ばかり出で來らず傳吉は頭を回し家内の樣子を窺ひ見る程に元は相應の旅籠屋と見えて家の作りやう由緒ありげに見えけれども彼の小娘の外一人もなきは山樵か盜賊の棲巣ならんと頻りに怪しくなり逃道を見て置ばやと密に見回す折柄壁の落たる那方にて最苦し氣なる咳を成苦聲の聞ゆるにぞ壁の穴よりさし覗くに年の頃五十ばかりの男病耄けて顏色青ざめ餘程長き煩ひに勞れたる樣子なり傳吉は此體を見て密に元の座へ立ち歸り彼は正しく此所の主さては娘の父ならん然れば山賊の隱れ家にも非ずと安堵して在る所へ彼娘の勝手より膳を持ち出で傳吉が前に差し置き嘸やお空腹候はん私し一人にて煮炊致し候ゆゑ急ぐとすれども時移りお待ち兼て在りしならん緩々上りてお休みなされませと言ふものごしに愛敬を含み至つて賢く見えければ傳吉今更哀れに思ひ箸を下に置き小娘に向ひ斯廣き家に唯一人立ち働き給ふは昔しの餘波痛しく思ふなり殊に病人の有る樣子に見受しが其方の父なるか母は在さずや其方名は何んと申す今宵限りの宿ながら聞まほしと云ひければ娘は忽ち涙を流し有難き今の御言葉身の悲しさをお話し申さん彼所に臥たるは父にて候ふ所其以前は可成なる旅籠屋なりしが私し五歳の時母は相果たり夫よりは家の活業衰へ下女下男に暇を取せ其中にお早と申すを父が後妻とし私が爲に繼母なりしも家は段々衰へて父は四年以前より苟且の病ひにて打臥たるが家の事打任せたる彼のお早どのは夫の病氣を看護もせず其上家財着類金子迄掻集め家出なし三年の今日迄行衞知ず母には實の娘一人ありけるが夫を同伴て此家を出しは我が家の次第に傾く身代に見切を付て他へ移り恩を仇なる畜生めと病の中に父の腹立此怒りを寛めんにも泣より外の事もなく心細さに跡や先昔は恩を請たる者も今は見放し寄付ず身近き親類なければ何語らんも病の親と私しと二人なれば今迄御定宿の方々も遂に脇へ皆取られ只一人も客はなし其上去々年の山津浪荒たる上に荒果て宿借人も猶猶なく親子の者の命の綱絶果る身の是非もなく宿の外れに旅人を一人二人づつ無理にお宿を申ても此有樣に皆樣が門口よりして逃ゆかれ今日は貴方をお止め申し聊か父が藥の代になさんと存じて御無理にもお宿を願ひあげたる事赦し給へとて泣伏したる娘が體見るも不便を覺えけり 第四回  然ば傳吉お專が物語りを聞て歎息し扨々世の中に不幸の者我一人にあらずまだ肩揚の娘が孝行四年こしなる父の大病を今日迄看病疎そかならねば爭で天道憐まさらん今こそ斯あれ後々は必ず榮華の身とならんと我が叔母女房の噂とは夢にも知らずいたりける此ぞ傳吉が叔母お早が事にして此はお早親子も深く隱しける故傳吉は知らざりし偖何かなと考へしが先に拾ひし鼈甲の櫛こそ好けれと取り出し是は我等が山間にて圖らず拾ひし品なる故之を賣代なすならば少しばかりの錢にはならん父御の口に叶ひし物を調へてなり進らせよと件の櫛を與へしかば娘は之を押戴き行燈の灯に指翳し一目見るより打ち驚き之は先つ頃私しが道に遺せし品にして母の紀念の櫛なれば家財道具は聊かの物も殘さず賣盡し身に纏ふべき衣類さへ今は綴もあらざれども此品計りは我が母の恩を忘れぬ心にて生涯頭に頂かんと思ふが故に賣殘しぬ然るを先日落して後を種々と探し求めて居しなり偖々嬉しき事哉と幾度となく押戴き喜悦體を熟々見て感心なし今の話しには母御の紀念の此櫛と云はるゝからは片時も忘れ給はぬ孝心を天道樣も憐まれ必ず御惠みなるならん能々父子を大事になされよ我れ又江戸より歸りの時は再び尋ね進らせん名を聞ばやと云ければ父は森田屋銀五郎我が身は專と呼れつゝ所に久しき家柄なれども斯成果しと嘆息の外なかりけり 第五回  傳吉は是より江戸表へ着し馬喰町三丁目信濃屋源右衞門へ旅宿なし或日案内者を頼み彼方此方と見物なし江戸第一の靈場淺草の觀音へ參詣し能き主取りをなさん事を願ひ夫より口入に頼み奉公口を探しけるに吉原の廓第一の妓樓にて京町の三浦屋に米搗の口有り一ヶ年給金三兩にて住込日毎に米を搗を以て身の勤めとはなしにける然るに物堅き傳吉は鄭聲音曲洞房花燭の樂しみを羨まず旦より暮るまで只管米を搗一粒にても空にせず其勤め方信切なりければ主人益々悦び多くの米も一向に搗減なく取扱ひ夫より其年の給金を請取るに半分は遣し叔母女房の衣食の足になし殘る所は主人へ預け儉約を第一として勤め居たり 第六回  然程に光陰矢の如く傳吉は四五年勤めしが四季の給金臨時の貰ひもの等塵積り山となりて百廿兩程になりし故宿願既に成就したりと頻りに古郷が懷敷主人の機嫌を伺ひ越後へ歸り度旨を願ひけるに今三浦屋の白鼠と云はれし者を暇をやるは主人も惜く思ひけれ共是非に及ばず首尾能く暇を遣しければ傳吉大いに悦び豫て年頃主人へ預けし金百廿兩餘を請取頓て古郷へ急ぎける斯て山路に掛り小松原を急ぐ程に身には荒布の如き半纏を纏ひし雲助二人一里塚の邊より諸共に出て前後より傳吉を引挾み親方骨柳が重さうに見えるか今日は朝から鐚一文にもならず少々揚取らせて給はれと骨柳に手を掛るを傳吉其手を拂ひ中仙道を足に懸け年中往來する我等小揚取らせることはない串戯を爲なと力身で見てもびく共せず二人の雲助嘲笑ひイヤ強い旅人じや雲助は旅人に肩を貸ねば世渡りがならず酒手欲さに手を出して親にも打れぬ胸板を折るばかりに突かれては今日から駄賃を取る事出來ずと云ふを旁より一人が往手の道に立ち塞り否なら否で宜事なり突れる咎は少しもなし何でも荷物を擔せて貰はにや成らぬとゆすり半分喧嘩仕懸に傳吉は何とか此場を遁れなんとせども惡者承知せず彼是言ふうち其骨柳渡せと手を掛るに傳吉今は一生懸命右を拂へば左より又た一人が腕首を確かと取て動かせず困じ果たる折柄此處に來たる旅人あり此有樣を見るよりも衝と馳掛り一人の雲助を取て引擔ぎ斗筋打せ投付るに今一人も張倒し蹴返し乍に發打白眼汝等二人は晝日中追落しする不屆者直樣捕へ宿場へ連れ立ち御法通りにして呉ん首は入らぬか蠢蟲めと罵りければ惡徒共此勢に恐れけん尻込して只眞平御免と詫るにぞ夫なら今日は赦して呉んと言捨て是は我等が連れなり率々御一所にと目配せすれば傳吉も夫と悟りて骨柳を取り打ち連れ立ちて行き乍ら彼の旅人に打ち對ひ小腰を屈め偖々惡者に付られ難儀千萬の處貴君の御救ひにて何事なく誠に御禮は言葉に盡し難しと慇懃に禮を述べつゝこの旅人を見るに一癖あるべき顏形なれば如何にもして此者と立ち別れんと漸々野尻宿迄來り近江屋與惣次と言ふ旅籠屋へ泊りける 第七回  扨旅籠屋にて年頃十七八ばかり田舍に稀なる女ありと心を留てみれば何か見覺え有る樣にて彼の女も傳吉を見て不審の顏色なりけるが連の男は湯に入らんと湯殿の方へ到りし折節彼の女を傳吉は引留てお前は何處かで見た樣なれど思ひ出されずと言ば女は傳吉を倩々見て私も見たお方の樣に思ひしが若しや五年前柏原の森田屋へ泊り給ひし傳吉樣にては御座なきやといふに此方は礑と手を打ち森田屋の娘子お專どのにて在しよなお前が此所に御座るとは夢聊かも知らざりし我等も江戸へ赴きて今度古郷へ歸るゆゑ柏原へ立ち寄りお宅を尋ねしが道にて惡き奴に付られ少しも油斷ならざるまゝ早忽々々に通り拔しがいつごろ此所へ來られしやと問懸られお專は忽ち涙含み父は貴方のお泊りありし其年の暮に死亡り遂に我家を賣代なし此旅籠屋は少しの縁由も有りけるまゝ下女に雇はれ候ふなり先頃貴方の御惠みに預るのみか取り分て下し給ひし一品は富たる人の千金に増て忘れぬ御恩なり今夜に迫る貴方の御難儀大概御察し申たり今夜は私が何也とお救ひ申し參らせん御安堵あれと請合ながらも過さりし親の病苦や身の憂事を思ひ出してや最としく涙に昏て居たりけり傳吉も實なる言葉に聊か安堵なしたれば猶も物語らんとする所へ彼連の者の足音せしゆえ空寢入して居る程にお專も立て出で行けり偖傳吉は金を藁苞より徐と出し腰に確かと結つけ之まで風を引たりと僞り一ト夜も湯には入らざるのみか夜もろく〳〵に目眠まず心を配り在りけるが今夜は彼のお專に委細相談せんと思ふ故少し風も快く候へば湯に入りて來らんと湯殿の方へ立ち出でければお專は疾に縁側へ立ち出で傍への座敷へ連れ行て貴方が湯に入り給はんと申さるゝ故荷物番に御膳を出し且又咄しの内に立せ間敷其爲に朋輩を頼み置きたりお咄しあらば心靜かに咄し給へと最發明なる働に傳吉は其頓智を感心なし事急ぐなれば摘んで咄さんが某し江戸表に奉公なし年頃給金其外とも溜置し金百五十兩程に成たり依て此度古郷へ立ち歸り家を興し亡親達へ聊か孝養に備へんと出立なす折柄輕井澤の邊より彼の曲者と連れに成り道中ら彼の振舞に心をつけるに唯者ならず江戸より付き來りし樣子なり今日も彼者度々手を出さんとすれ共我も油斷なく往來の人に交る故其難は免れたれども今宵一夜が絶體絶命明日は古郷へ五里許りの處なり今夜を過せば明日は安堵いたすべし何卒今宵の大難を救ひ給へと申しければお專は暫時思案の體にてよしや今宵は凌ぐ共明日道にて如何成る目に遭給はんも知れがたし兎角に其金子御身が所持なし給ひては災ならん私に預け給へと言ふに傳吉も豫てより親孝行は知りしうへ且又發明女故懷中より金子を出して渡せば確と懷中して則ち頭に指し櫛を出し是はお前樣も知る通り我が爲に千金にも替がたき母の紀念にして片時も離さず祕藏の品此櫛を證據にお渡し申さん鼈甲の古びたる上に齒の三枚缺て能證據なれば此度御歸國なし給ひて假令お前がお出なく共此櫛さへ持せて遣はされなば他人にてもお金をお渡し申すべし確なる證據故能々此櫛を大切に失ひ給ふなと櫛を傳吉に渡しお身金子なく共彼の惡者と明日一所に道連にならんこと危し今夜の八ツの鐘を相圖に立ち給へとて間道を教へて一人立せける彼金子をお專が預かり金のこと故主人にも深く包て置きけるとぞ 第八回  偖て傳吉は脇道より其の日の八ツ時分に寶田村へ立ち歸り無事に歸國のよしを名主方へ屆け置き我が家へこそは歸りける叔母女房は門口へ出迎ひ偖々五年ぶりにて無事に歸り給ひしことの嬉しさよ當年は歸るとの手紙成れ共今時分とは思ひよらず定めて暮にも成んと存じ居りしに早く歸られて安心なしぬと言ふうちに村中連立ち大勢來りける故叔母も女房も夫々へ挨拶して居るに名主の憑司も來り悦びを述る程に傳吉も是迄の艱難を物語り偖五時頃皆々暇を告て立ち歸る後に叔母は不思議さうに傳吉に向ひ先刻より尋ねやうと存じけるが五六年も奉公なし歸られるに風呂敷包み一つも持ぬとは何の云譯だと尋ねければ傳吉は道中にありし始末を物語り彼のお專より預りし櫛を出し此だに出しなば誰にても金子は渡し呉れる筈なれば明日は早々參て受取り來らんと思ふ故此櫛は百五十兩の代の品大切なりと申しければ叔母は大いに悦び偖々夫は危ひこと殊に百五十の大金は能々心掛ざれば貯ることは成り難し如何にも斯る大金を溜る辛苦の程察し入る呉々も歡こばしきことにこそ而其の櫛は百五十兩の形成ば佛前へ供へて御先祖其外父御にも悦ばせ給へと叔母女房とも口を揃へて申すにぞ傳吉も佛前へ供へ夫より夜食も濟て傳吉は今こそ我家へ立ち歸りし故心落付き草臥出しにやこくり〳〵と居眠りけるを叔母は見るより傳吉どのも嘸や勞れしならんお梅や床を敷て進らせよと云ひければお梅は夫の床を打敷臥戸に伴ひけるに傳吉も安堵せしにや枕に着くと其の儘に眠りけるが翌日の巳刻時分漸々起出顏を清め佛前へ向ひ回向し前夜の櫛を仕舞はんと探せど更に見えざるに叔母に向ひ前夜の櫛は如何成れしやと問ふに叔母もお梅も口を揃へ一向知らずと申すにぞ傳吉は仰天して所々方々と尋ねけるに何分見當らず之れによりて家内大いに騷ぎたち猶も殘る隈なく尋ねしに如何にも知れざるゆゑ傳吉も今は詮方なく能々思案を巡らすにお專はいたつて正直にして殊に發明の女成ればは櫛無きも預り物を預らぬとは申すまじ是より野尻宿へ到り右の譯を咄し金子を受取んと野尻宿へ赴きお專に逢て扨々申分なきことを致したり前夜歸りて櫛をば百五十兩の形なりと佛前へ備へ置きけるが今朝見れば更になきゆゑ家内中穿鑿を致すと雖も何分見當らず夫に付き只今參りたり櫛の代に何程にても取て金子を渡し給はれと申しければお專は傳吉の顏を熟々打ち詠め扨御前樣は盜賊に能々見込れ給ひしものと見えたり今朝程お前樣よりお頼みのよしにてお隣家なる彌太八とか云る御人が櫛を御持參有しに間違も有まじと思ひ右品引換に金子御渡し申したりと櫛を取り出して見せければ傳吉は再び仰天なしたりしが心を靜め夫は年の頃はいくつ位に候や我が村中に彌太八といふ者なければ我頼みし覺なし察する所前日の惡者の仲間を頼んで遣したるならん五年の間千辛萬苦して貯たる金子もよく〳〵我に授らぬ金なり斷念るより外無しと力を落して茫然として居たりけるお專は如何にも氣の毒に思ひ種々考へしに之は全く過日の惡物の業に非ず同村中の人成らん斯申さば何となく人を誹る樣なれども私しも係り合ひの事なれば心に思ふ所を申して見んかならずお心に掛給ふな實に七人の子はなすとも女に心許すなとの譬へもありておまへ樣のお留主に女房さんの心變りし事もあらんか能々家内に心を用ひ見られよ然ども先何事もなき體に歸り斯樣々々にし給へと謀計を教へ傳吉をば歸しける 第九回  扨て傳吉は其夜亥刻過に我が家へ歸りければ女房叔母ともに出で立ち今御歸りなされしや金子は如何にと尋ぬるに傳吉然ばお專殿は留守にて分らず歸りを待んと存ぜしが又々金子不用心ゆゑ明後日參りて受取り來らん先は五ヶ年留守の中村中の世話に成り殊に百五十兩と云ふ大金を貯て來りし事なれば村中を明日呼で馳走をなさんと思ふなり其用意致すべしと事もなげに申しける女房叔母も其支度を致し村中へ人を廻し呼びけるにぞ巳刻時分より五六十人一座にて馳走をなし一通り盃盞も廻りければ傳吉はそつと其場をたち表の方へ出れば垣根の際に野尻宿のお專頭巾を眉深に冠り立ち居たり傳吉は密かに宅へ伴ひ忍ばせて座中を窺はせたるに此中には其人なしと云ふ故傳吉は又々女房叔母を呼び五ヶ年の中村中に強い御世話に相成しは實に有難き仕合なり別て上臺憑司親子に厚き御世話に相成しよし然るに昌次郎いまだみえず御迎ひにと申す處へ入り來たり直に傳吉の傍らに着座し馳走にぞ預かりける傳吉一同へ向ひ私しも江戸表にて宜き家へ奉公に有り付き金子少々貯はへたれば古郷の空もなつかしく罷り歸り候皆々樣へ右の御禮旁々麁酒を進らするなり何も御座らぬ掴み料理澤山お食りくだされよと亭主の愛想に人々は大いに悦び盃盞屡々巡るうち時分を計り傳吉は小用に行く體して叔母女房を立せざる樣になし密と立ち出でお專に向ひ如何に盜賊は此中に居たりしやと聞きければお專打ち笑ひ實に盜人猛々しとは虚言ならず今しも後より入り來られ上より八番目に居りたる年若にて色白く太織の紋付の羽織にて棧留の着物を着たる人こそ間違ひなく彌太八と名乘て參りし人なりと云ふを聞て傳吉は吃驚なし彼は名主殿の子息昌次郎といふ者なり間違ひ有ては大變と云ふにお專は決して〳〵間違ふ氣遣ひなし若し又あの人兎に角と爭そはゞ私が出て白状させん外に又慥かなる證據の品もあり然して江戸表にて金百五十兩貯し事道中難儀して私に預けし事迄知りし者は外にあるべき樣なし御前樣は彼所へ行て是迄の事を話し金子を彌太八と申す人に奪はれし事を殘らず物語られ其上にて斯樣々々なしたまへと牒し合せ元の座敷へいで行きけり 第十回  却説傳吉は酒宴の席へ出で扨々折角御招ぎ申しても何も進ずる物もなし併し今日の座興に歸國なす道中の物語を皆々さま御退屈乍ら御聞下されと申しければ何れも夫は一段の事然るべしと聞き居たり傳吉は席を進みて私し江戸に在りし時は全盛の土地柄故主人の光りにて百五十兩の金子に有り附き古郷へ歸り舊の田畑を受戻し家を起しなば過行し兩親へ聊さか孝行の端にもならんかと悦び勇んでくる道すがら惡者に付かれ是非なく野尻宿の旅籠やの下女に彼大金は預けて歸り其盜賊の難は遁れたれ共又々一ツの憂ひを増て件の金子を昨日騙取られたり其仔細をおはなし申せば斯樣々々云々なりと證據の櫛の事迄一伍一什を委しく語りければ皆々仰天なし夫は又何物が櫛を以て行しやと興を失ひければ憑司を始め叔母女房も大いに驚きたる體にて眉を寄せ夫は何共合點の行ぬ事と言ひけるを憑司席を進み其は旅籠屋の下女が巧ならん貴樣の方に櫛はなしと計りたるに先には鼈甲の櫛の幾個もあらんにより指替の似寄の品を出して貴樣を欺き歸せしなるべし其女を引捕へ嚴重吟味する成れば早速に相分らん憎き奴の仕業かな若しも僞はる時は領主へ訴へ吟味を願ふならば忽ちに相分らんと申しけるに傳吉偖其の盜人は此座中に在りと申しければ皆々夫はと云つて互ひに顏を見合せ居たりしがマア誰ならんと申すに傳吉然ば私し隣に住彌太八と云ふ者の由申し僞り金子を騙り取りたるはと云ひながら昌次郎の面を見ればぎよつとせしが素知らぬ體に面を背ける故傳吉は最早耐難く之れにある昌次郎殿に相違なし慥かなる證據もある上は爭はず金子を返し候へ萬一爭ひ給はゞ公邊へ訴へ黒白を分ねば相成ずと言ければ忽ち昌次郎は眞赤に成て座を直し此は存じもよらぬことを承まはるものかな我等に對ひ盜賊呼はり其分には相濟ず不屆なる申し分也と威猛高になつて申しけるにぞ側より親憑司も張肱なしコリヤ悴よ傳吉に泥棒呼はりを致され萬一申開き相立ざる時は人手は借ぬ我自らに手討に爲すぞ惡名を付られては最早男は立ず急度相糺して汚名を雪げよと親も聲を掛る故夫より双方爭ひ立ち既に喧嘩にも成んと人々は手に汗を握りもて餘しける處へ奧の方よりお專は直と立ち出で座に就て皆々へ挨拶するに一座の人々不審晴ず是は何方の女中ぞやとお專が顏を打守るに叔母女房も之を見て打驚ろきて居たる時にお專は穩當に昌次郎に向ひ昨日一寸御目に掛り金子百五十兩御渡し申せし彌太八樣最私しか參りし上は爭ひ給ふも益なきこと早々金子を出し給へ此上猶も爭ひ給はゞ外に致し方これ有りと申しけるに昌次郎は猶も空嘯ふき我等は然樣の覺えもなく殊にお前は何處の人か終に逢たることもなしコリヤ傳吉と申し合せ我等へ遺趣ても有かして罪を塗付んとするならんイヤ不屆なる女めと眼付るにお專は少しも騷がず彌々爭ひ給はゞ外に見せる物ありと懷中より一通の文を取り出し是は一昨日お前樣の歸りし跡に落てありし品故何心なく拾ひしが不斗此場の役に立つ傳吉殿讀給へと差出すを傳吉取上讀下すに 一筆示し〓(まいらせそうろう)偖傳吉事江戸より今宵立ち歸り申候まゝ此上は夜々の契りも相成ずと存じ候へば勿々つかの間も忍び難く思ひは彌増〓(まいらせそうろう)夫に付き傳吉こと江戸に於て溜たる金百五十兩此度持歸り候途中盜賊に付かれ候ゆゑ野尻宿の近江屋與惣次と申す宿屋の下女お專へ右の金を預け置き受取候節は此櫛さへ持參致し候へば誰にても引替に金子相渡す由承まはり候まゝ右の櫛を御手元へ差上候明朝早々に野尻宿へ御出で下され金子御受取被成候へば私し事は何れ近々の中に當所を立ち退候て何國の果にても永く夫婦と相成申したくと夫のみ此世の願ひと祈り居り〓(まいらせそうろう)どうぞ〳〵御目もじのうへ山々御もの語り申し上ぐべく候 あら〳〵めて度〓(かしく) うめゟ 昌次郎殿へ と有りけるに座中の人々彌々驚き偖は其方が野尻宿の近江屋のお專殿なるか而又持參の此文はと惘れ果てたるばかりなりお專は猶も座を進み何と此文は覺えが有りませう彌太八とやらの歸りし跡に此文が落てありしは天命ならん然し左右に爭ひ給はゞ此文を以て御上へ訴へ御吟味を願ひませう夫とも只今百五十兩出し給ふか如何にぞやと理を詰て申しければ昌次郎も一言の答へもなく赤面閉口したりしは心地能こそ見えにけれ父上臺憑司堪へ兼て立ち上り昌次郎の襟髮掴み疊へ摺付け打据るにお早は娘お梅が髻を掴んで引倒し怒の聲を震はしつゝ茲な恩知ず者め傳吉どのが留守中何時の間にやら不義いたづら傳吉殿に此伯母が何面目のあるべきや思へば憎き女めと人目繕らう僞打擲も是れ又見捨て置れねば又人々は取押へ彼是れ騷動大方ならず時に憑司は其座の人々四五人に何か談して打ち連れ立ち自分の宅へ戻りしが間もなく入り來りて傳吉殿此人々と立ち合ひにて悴の部屋を改むると此の通り百五十兩胴卷の儘仕舞うて有り是にて候やと差出すに傳吉は篤と見て成程私しの胴卷なりと云ひつゝ中を改め一錢の紛失なしと云ふにぞ然らば受取給へ何分にも親類のことなれば此儀は内分に濟し呉れよと憑司は一向誤り入り悴は只今勘當すべしと詫ける故其座の年寄組合など種々扱ひ金子の歸りし上は先々穩便に濟し給へと申しければ傳吉は暫し言葉はなかりしが皆々樣の御扱かひにて金子は無事に戻りしゆゑ私しも内分にて濟し申すべくと直に硯を引寄て三行半を書て之は女房梅が離縁状なり姦夫の實否を糺さずして離縁なすは百五十兩の金皆々樣の御骨折にて我が手に戻りし歡こびなれば申し分もこれなきことなりお早どの儀は現在叔母に候あひだ私しが養育申べし夫共お梅の方へ參りたくは夫程の手當を差上申べしと云ば伯母お早も默然として居たりしが此上にも傳吉殿に養はれ申も氣の毒なり梅方へ參り度と申ければ其儀なら私しが貯たる金子百五十兩の中を半分分て伯母御が一生の養育料にと分ち與へければ其座の人々大いに感心なし傳吉どのは五ヶ年の間天下の御膝元の江戸で揉れた故違うた者なり是にて相濟上からは名主殿も御子息の勘當を御免しなされ又お梅殿傳吉殿那程捌けて申さるゝ故嫁御に致されしかるべしと皆々取なせば憑司は一同へ打向ひ此度の一條は何と申樣もなき悴の不埓我は何樣御扱かひ有迚も勘辨なすべき譯ならねど村中の口添に餘り愛相なき事故に曲て差赦せしにより人々は大に悦び傳吉に昌次郎お梅をば詫させ其夜の中に事を濟せ叔母も名主方へぞ參りける是は傳吉が留守中おはや憑司は不義なしお梅は昌次郎と密通に及びて居たるを村中にても薄々知て居る者あれば幸ひと引取り親子共に夫婦となりける又おせんも我身の明りもたち傳吉へ金も戻りし上は人々に暇まを告げ野尻へ立ち歸りぬ 第十一回  扨世話好者の多きは常なるに傳吉か宅へ其夜來し人々は翌朝五六人おせんを野尻宿の與惣次方へ送り行き前夜の始末を話し又傳吉が心の廣きこと恨みある伯母に艱難辛苦して溜し金の半分を遣はし其場を濟せし事迄を落なく語りければ與惣次は大いに感心なし如何にも今の世には得難き人なり殊に女房叔母ともに奇麗に向ふへ遣し温順き心底なりと傳吉が徳を譽稱へて止まざりける此の時村人與惣次に申しけるは人家の女房は眞棒なり傳吉殿も今江戸より戻り大略元の身代に成らんとなす折柄女房が無ては萬事不都合ならん夫に付此方のお專殿を傳吉殿の妻に御遣はしあらば實に幸ひならん此度の事はお專殿の働にて不思議に金子手に戻り殊に發明なる性なれば何と與惣次殿我々斯申も言ば傳吉殿に牛を馬に乘替させ先の者どもへ見せつけて遣んとおもふ心なり其所は其許の胸一ツ何卒兩人夫婦にさせては呉まいかと無造作に頼めば與惣次承知なしお專を養女に貰ひ受け傳吉に添せることに取極め翌日は吉日なればとて上臺憑司其他の人を打招き與惣次を舅入一所にして首尾能く婚姻なしける 第十二回  偖祝儀も濟みて與惣次と傳吉お專而已なればお專傳吉に打向ひお早どのは私しが養母にてお梅どのは私しの姉なり豫てお咄し申せし如く私十二歳の時に病氣の父を捨て家財殘らず掻さらひお梅どのを連欠落なせしかば私に逢ては恥かしく夫ゆゑ參らぬと見えたり然乍ら是必ず他人に語り給ふなと言はれて傳吉吃驚なし其方が咄せしは我が叔母にて有けるや餘所のことぞと聞てさへ憎しと思ふに其の人は我が叔母女房にて有けるかと驚入るぞ道理なりお專又申樣然らば此度の儀も叔母御は必ず村長の憑司殿と譯あらん依てお前を倒し我が子を夫婦となせし上自分も共に樂まんと櫛を盜ませ金を騙り取らせしならんと云ふに與惣次打點頭成程お專が言ふ如く毒ある花は人を悦ばせ針ある魚は汀に寄る骨肉なりとて油斷は成じ何とぞ一旦兩人の身を我が野尻へ退きて暫時身の安泰を心掛られよと諫めければ傳吉は是を道理と歡こびて或日傳吉は憑司方へ到り此度都合により他所へ引移り商賣を致し度と申しければ憑司は傳吉が此村に居る時は何かに面伏なるゆゑ是幸ひと早速承知なしたるに傳吉は立歸り少しの田地は人に預け夫婦諸共に野尻へ引移りしかば與惣次も老人故家内の世話は傳吉夫婦に任せけるに傳吉は正直實義の男なれば何づれも深切に取扱ひ殊にお專は發明ゆゑ與惣次も安堵なし茲に二三年を送りける時に寶田村の上臺憑司親子四人の者は傳吉が村中に居ざるを喜悦奢り増長して傳吉が人に預けし田地を書入にして金を拵へ其上村の持山を村人に相談もせず金三十兩餘に賣横領のありければ百姓共は堪忍成難しと高田の役所へ訴へければ役人吟味のうへ憑司事重々不屆の儀に付村役召放され其上小前の百姓へ早々勘定致すべき旨嚴敷仰付られけるに依て寶田村にては名主の跡役を見付相願はんとて惣寄合商議せしに傳吉の親迄代々彼は當村の名主の家なり然らば此度は傳吉へ名主役仰せ付られ下さるやうに願はんと評議一決なし其段願ひ出しに付榊原家の役人中早速傳吉を召返し寶田村名主役仰付られければ爰に於て傳吉は寶田村の名主になり昔に歸る古卿の錦家を求て造作なし夫婦の中も睦しく樂き光陰を送けり偖又夫に引替上臺憑司は己が惡きに心付ず之れ皆傳吉夫婦が有故に斯る禍ひに逢たりと理も非も分ず傳吉に村役を取られしとて深く恨み高田の役人へ手を廻し此怨を晴さんと種々工夫を巡らしけるしかるに高田役所にても先の奉行并びに下役の者ども替り新役になりければ此時ぞと思ひ役人に賄賂を遣ひ傳吉のことを惡樣に言なしける傳吉は元正直律義の生れ故諂ふことをせず用向の外は立入ことなければ當時の役人供傳吉は行屆ぬ者と思ひしより遂に憑司の方を贔屓になしけるが然とて傳吉に落度もなく別に咎むべき筋もなければ其儘になし置を憑司は何にしても先役に立歸らんと色々賄賂を遣ひけれども是ばかりは急のことにも埓明ず親子商議しけれども金は容易に調ひ難く之に依て悴夫婦を江戸表へ稼ぎに出し金子を拵んと旅の用意を致し日暮れに寶田村を立出猿島河原まで來りしが手元の暗ければ松明を燈さんとて火打道具を見るに火打石を忘れたり是れより昌次郎はお梅を河原に待せ其身は取て返しける時に昌次郎夫婦は出立の後に火打が殘つて有る故急ぎ忘れしと見えたり屆け呉んと親の上臺は後より携て馳たりしが昌次郎とは往違ひに成たり偖又譚替つて此猿島河原は膝丈の水成しが一人の雲助若き女を脊負て渡り來りて河原に動さりおろし女に向ひ今も道々いふ通り今夜の中女郎に賣こかす程に此己を兄樣とぬかしをれ只た三年の苦みだ斯己に見付つたが百年目否でも應でも賣ずにや置ぬと威す言葉も荒ぐれに女は涙の顏を上何卒免してたべ妾は源次郎と言夫のある身金子が入なら夫より必ずお前に進せん何卒我家へ回してと泣々詫るを一向聞ず彼の雲助は眼を剥だし是程に言ても聞分ぬ強情阿魔め然らば此所で打殺し川へ投込覺悟をしろと手頃の木の枝追取て散々に打けるをお梅は片邊に見居たりしが迯出さんとする所を雲助眼早く見咎めて爰にも人が居をつたか今の話しを聞きたる奴は逃しはせぬと飛掛つて捕る袂を振拂ひお梅は聲立人殺し人殺しぞと呼所へ昌次郎の後追うて此所へ來かゝる親上臺は女のさけびごゑを聞其所に居るのはお梅かと言へばお梅はオヽ父さん何卒助けて下されと聞くより上臺は馳寄るに雲助は是を見て邪魔だてなすなと棒振上打て掛るを引外し脇差拔て切懸るに彼の雲助は逃乍ら女を楯に受ると見えしが無慘や女は一聲きやつと叫びしまゝに切下げれば虚空を掴んでのた打間に雲助又も棒追取上臺が膝を横さまに拂へば俯伏に倒るゝ所を雲助は乘掛りつゝ打のめしたる折からに昌次郎は歸り來り拔手も見せず雲助が肩先深く切付ればウンと倒れるを上臺は漸々起上り一息ほつとつき親子三人は顏を見合せ互ひに無事を悦びつゝ頓て四傍を見廻せば片邊に女の倒れ居て朱に染息も絶たる樣子なりとて憑司は礑と手を打是と云も元は傳吉から起たこと然らば此死骸へ昌次郎お梅が着類を着せ此所へ殘し置き我また別に能工夫ありとてかの曲者並びに女の首を切つて川へ流し二人の着類を着せ替て昌次郎夫婦は甲州路より江戸へ赴かせたり 第十三回  偖又憑司は其夜昌次郎を立せやり草履に血の付たるを持て傳吉宅へ忍び込庭の飛石へ血を付置き夫より高田の役所へ夜通しに往て訴へ捕方を願ひける偖又傳吉方にては斯ることの有りとは夢にも知らざれども所謂物の前兆ならんとお專が見たる夢の惡しければ夫傳吉に此事を語り其吉凶を猿島川の向ひなる卜ひ者へ出向はれ身の上を占ひ貰へ給はれとお專が勸むるにぞ傳吉も彼方に立出或山路へかゝる所に一人の侍士に逢ひ能々見れば先年新吉原の三浦やに勤し頃同家の空蝉の許へ毎度通ひし細川の家來井戸源次郎にてあり傳吉是はとばかり立止るを先方にも貴樣は傳吉ならずやと云ふに久々にて御目に懸りたり何の御用にてと尋ねければ源次郎は大いに急込たる樣子にて然ば貴樣が三浦やの暇を取し後空蝉を受出し名も千代と改めて我妻となしけるが實親は越後に在るとのこと故彼れが實家を尋ねんと此地へ來り今朝馬丁の惡漢が我が妻ちよを勾引何れへか引込みしが跡より追懸尋ぬれ共一方行方知ず所々方々尋ね居れりと物語りけるに傳吉聞て偖て憎き奴の仕業かな偖々御困りならん何れにか御商議申上げん程に私し方へお出あれ然共只今は急ぎの用事して猿島川まで罷越せば今晩にも私し方へ入らせられよ寶田村傳吉とお尋ねあれと互ひに苦勞の折柄右と左りへ別れける斯て傳吉は畑村の占ひ者の宅へ急ぎ行き夢物語りして吉凶を委細尋ねければ占ひ者暫時勘考せしが是は大凶なり其故は斯く〳〵と傳吉か身に後大難のあることを判斷なして此上信心が肝要なりと申しけるにお專も大いに心配なし然らば明日より鹽斷なり斷食なりして信心を致しお前の身に凶事なき樣に致さんと夫婦は來方行末を思ひ續けて夜は遲く打臥ける翌朝傳吉は神前に向ひて拜するをお專は見てお前裾に血が付て居るは如何なされしやと問はれて傳吉は驚ながら打返して見れば裾裏所々に血の付て居る故是は不思議なる事哉昨夜河原にて物に躓きけるを偖は人にても切れて居たるやと見れば庭の飛石にも草履にて血を踏付たる跡ありけるに依て草履を返し見れば血の付て居ざるにそ偖不思議成ことなりとて血を洗ひ落さんと夫婦水を汲きて庭石を洗はんと爲所へ上臺憑司が案内にて關田の捕方内へつか〳〵と入くるに傳吉夫婦は何事やらんと驚くを後眼に掛憑司は役人に向ひ御覽の通り飛石は血だらけに候と申す言葉に終ひに役人上意の聲と諸共に縛めける傳吉大いに驚き私し身に取犯せる罪は決してなしと言ひけれども捕方は耳にも掛ず申し分あらば奉行所に於て申すべしと傳吉を引立行くにぞお專は狂氣の如く是は何故の御捕方と後背掛て往きけるが役人傍へも寄せ付ねば詮方泣々我が家に歸り聲を惜まず嘆きしが偖ては前夜の夢は此前兆にて有りけるか然し憑司殿か案内こそ心得ぬ豫て役人を拵へての惡巧みか如何せんと獨り氣を揉折柄に近邊の人々も驚きて何故傳吉殿は召捕れしと種々評議に及頓て女房おせんを連組頭百姓代共打揃ひ高田の役所へ罷り出御慈悲を願ひけれ共一向取上にならず傳吉は入牢申付られ女房おせんは村役人へ預け遣す旨申渡されける 第十四回  時に享保十年九月七日越後高田の城主榊原家の郡奉行伊藤伴右衞門公事方吟味役小野寺源兵衞川崎金右衞門其外役所へ揃ひければ繩付のまゝ傳吉を引据訴訟人上臺憑司をも呼出し伊藤は嚴めしく白洲を見廻し如何に傳吉汝猿島河原にて昌次郎夫婦を殺せしは如何なる仔細なるや有體に申せと云ひければ傳吉漸々頭をあげ恐れながら私し愚成と雖も村役を相勤め御法度は辨へ居れば爭でか人を殺すべきや殊に憑司父子の者は私し親類に御座候へば何故意恨等を含み申さんやと云ふを默れ汝人を殺さぬ者か衣類の裾に血を付け其の上我が入口の飛石へ血の跡を殘すべき此段は憑司が訴への通りなり何故に汝が衣類に血のつきたるやと詰れば傳吉は私し昨夜畑村より日暮て歸る時河原にて物に跌き不審に存じ候が定めて酒に醉し人の寢て居ることゝ存じ咎められては面倒と脇へ寄て通り拔しが眞の闇ゆゑ死人とは一向存じ申さず今朝衣類并びに庭の敷石等へ血の着居りしを見出し驚き申候然れば昨夜跌づきしは全たく殺害されし者と初めて心づき候因て殺し人は外に御座候はん恐ながら此儀御賢慮願ひ奉つるといふをも待ず小野寺源兵衞席を進み聲荒くいかに傳吉汝邪辯を以て役人を欺く段不屆千萬なり其の申分甚だ暗く且又裾の血而已に有らず庭のとび石に足痕あるは既に捕手の役人より申立し如く其血を夫婦にて洗ひ落さんと成しゝ機捕手の者罷り越召捕しと申ぞ是天命逃れざる所なり之にても未だ陳ずるやと威猛高になつて申けるに傳吉は恐れながら裾并びに敷石に血の着たるを以て證據と遊され候事一應御道理には候へども私し家内の脇差出刀庖丁の類刄物御取寄御吟味下され候へば御疑も解申べし其上憑司は私しの叔父なり昌次郎は從弟なり又妻梅は私の先妻にこれあり叔母は憑司が方に居り斯の如く繋る親類ゆゑ假令一旦の恨みあり共親身の者爭か殺さるべきやと義理分明に辯解くを川崎金右衞門聲をあげ默れ傳吉威しく言葉を飾り刄物の吟味を申立るが夫を汝に習んや其意趣ある事を言聞さん憑司事先年村持の山を伐たる咎に依て村役を退けたり其跡役は上の思召にて汝を村長に致したる處御意を振ふ故村中の者先代憑司が時の取計らひを慕ひ汝が村役を上させ先代憑司に仰付られる樣に願ひたるを第一の意趣に存じ其上先妻梅事貞實成しをお專とか云ふ宿屋の下女に馴染の出來しまゝ無體に離縁を致し今は梅事昌次郎の妻と成り夫と中睦まじきを妬み昌次郎が柏原へ行て暮て歸るを待伏河原にて切殺し猶知れざるやうにと首を切つて隱すなど言語に絶えし惡業なりコリヤ首は何處へ隱したるぞ有體に申すべしと云ふを側から憑司は額づきて恐れながら申上げん私し親類とは申せども近頃は一向出入も仕つらず候處傳吉は其の朝に限り用事もこれなきに私し方へ參り悴夫婦が柏原へ行事を承知いたし歸りたり只今思ひ合すれば樣子を窺ひに參りしと相見え候と云ふを聞傳吉は憑司に向ひ思掛なきことを申さるゝものかな我あの朝は斯樣々々の用事にてと云はんとすれば伊藤は打消默れ傳吉汝何程僞りでも淨玻璃の鏡に掛て見るが如く己が罪は知れてあり然らば拷問に掛て云はして見せんと笘を以て百許り續け打に打せければ憐れむべし傳吉は身の皮破れ肉裂て血は流れて身心惱亂し終に悶絶したるゆゑ今日の責は是迄にて入牢となり之より日々に責られけるが數度の拷問に肉落て最早腰も立ず纔かに息の通ふのみにて今は命の終らんとなす有樣なり爰に於て傳吉思ふやう斯る無體の拷問は偏に上臺憑司が役人と腹を合せてなすと見えたり假令幾度辯解する共證據なければとても遁れ難し長く苦痛せんよりは身に覺えなき罪に落て死を早くなし苦痛を逃れんものと覺悟をぞ極めける或日又々郡奉行伊藤半右衞門は傳吉を呼出し汝が何程僞はりても惡事は最早知れてあり其夜暗闇にて昌次郎と爭ひしを聞居たる者あつて御領主へ疾に申上たれば此上陳ずるとも無益なりと申しければ傳吉は熟々と心の中に思ふ樣罪なくして無實の罪に陷る我が身にまつはる災厄とは言ひながら我朝は神國なるに神も非禮を請給ふか正實の頭に神舍ると世の諺も僞りかや嗟情なきことどもなりと神を恨み佛を詫ち頻りに涙に暮居たり伊藤半右衞門は大いに急立一言の答へなきは愈々僞りなるべし白状せぬからは骨を割つても言はせて見せんと大音に罵しり又もや拷問に懸んとす然るに傳吉は最早覺悟の事なれば疲れたる聲をして暫らく拷問は御用捨に預かりたし實は私し昌次郎に恨みあるにより彼等が歸り道に待伏し猿島河原にて二人の者を切殺し首を落して川へ投入れたるに相違これなく候御定法通り御所刑仰せ付られ下され度と申立てければ伊藤は聞て然らば傳吉の口書を以て爪印をさせよ又追て呼出さんと牢へ送りけり又同年九月廿一日同白洲へ呼出しに相成上臺憑司并にお早も罷出牢よりは傳吉を繩付にて引出たり時に伊藤半右衞門申けるは憑司其方共訴への趣きにより傳吉を段々吟味致せし所彌々兩人を殺したる趣き白状に及びたり依て罪の儀は追て仰付らる則ち傳吉が口書の趣き承まはれと讀聞せければ憑司は誠に御役所の御仁惠を以て悴と嫁の敵を取候事嘆きの中の喜びにして是偏に御上の御威光有難き仕合せに存じ奉ると申し述ける體誠しやかに見えしかば傳吉は覺悟のことゆゑ只頭を下て嘆息の外なかりけり今日は皆々白洲を下りける爰に傳吉が妻お專は夫の入牢なしたる日より種々に心を痛め如何はせんと野尻の與惣次方へも知らせて兎も角も相談せんと思ひ直に野尻の與惣次方へ往んと支度をなしたる處へ養父與惣次息繼敢ず馳來ればお專は打悦び挨拶の先にたつのは涙にて左右詞出ざれば與惣次はお專に向ひ其嘆きは道理なり昨日聞きたる傳吉の災難直參らうと氣は急といふとも何も寄る年に心の如く身は動かず漸々馳出し參りたり仔細は何じやと尋ぬるにおせんは涙の顏を上げ譯と申すは云々ならん彼の夢の事より衣類并に庭の石に血の跡があつた夫が證據に入牢せし事迄落もなく咄し女心の十方に暮如何致して宜らんか今日貴公のお宅へ出向き御相談を願はんと支度をなして居しと語る間も聲を揚歎き悲しむ有樣に與惣次は眉を顰めて夫は傳吉が人を殺ししたるに非ず殺した奴は外に有るべし然し憑司が村長を傳吉に奪れたりと思ひ違ひ憤りを含み居りしに斯る事出來せしかは其罪を幸ひに傳吉に負せしなるべし我又高田の家中に知る人多し金子の手當して高田に到り夫々役向へ金を遣ひ傳吉が科ならざるを執なし貰ひ又お專か村方の組合も出て與惣次共々種々命乞と嘆願におよびけれども何分其事叶はず其中に七日八日隙取ければ早傳吉は罪に陷て昌次郎夫婦を殺せし由既に白状に及び最早罪の次第も定りし上は力及ばずと聞しお專は狂氣の如く又與惣次も力を落し互ひに嘆き悲しめ共今は詮方なく種々に心を痛めたり 第十五回  人の憂ひを憂ひ人の樂みを樂むは豪傑好義の情なり然ば與惣次は如何にもして此無實の罪を解き命を助せんと種々心を痛むる折柄將軍家の御名代として禁裏の御用にて當時御老中酒井讃岐守殿中仙道筋を上り道中諸願を取上領主役人などの非義非道なることは取調ぶるとのことにて明後日は追分邊お泊りとの噂を聞與惣次は大いに喜び然ば御途中に待受て直に願はゞ萬一傳吉が助かることもあらんか且はお專が氣をも取直させんと其のことをお專に話し早々御駕籠へ直に願はんといふにお專は甚く打喜悦び天へも登る心にてそんなら是より些少もはやくと直に與惣次と同道なし中仙道の追分へ出て聞けば明日は當驛晝御膳なりと言ふゆゑ與惣次お專は漸々胸落付願ひ書を認め翌日を遲しと待請ける時に享保十年十月十六日酒井讃岐守殿先供通り掛らんとする處へ六十ばかりの男と廿三四歳の女の如何にも窶れたる状髮を亂し打しほれし有樣にて竹に差たる訴訟を以て待居たり酒井樣の先供之を見て汝等何者にて願ひの筋は何成やと云ふ兩人は大地に手をつき恐る〳〵私し共は越後國高田領の百姓にて是なる女の夫無實の罪に落入遠からず死罪に決し候へ共未だ存命にて入牢仕つり居り候何卒御殿樣の御慈悲を以つて誠の御吟味を仰せ付られ御助け下さる樣願ひ上げ奉りますと述れば武士一人殘りて夫は不便の事なり今に此所御通行相成時怖れずと委細に申上よと云ひければ兩人は歡びて今や遲しと待居る處へ宿役人大勢領主々々の役人先を拂ひ讃岐守殿通られける時に殿の乘輿來掛る時先刻殘りし武士手を着榊原遠江守百姓愁訴願ひ奉つると高聲に披露なすにぞおせんは足許も定らぬまでに悦び漸々訴状を以て願ひますと差出するに駕籠脇の士請取駕籠の中に差出せば酒井侯中より彼の女の樣子を倩々見らるゝに如何にも痩衰へ愁ひに沈みし有樣なれば駕籠を暫立よと止められ其の女是へと呼るゝ故おせんは乘輿の側へ參り土に手をつき頭を下るに讃岐守殿委細尋問有りしかばお專一々申上る時又後に控居るは何者ぢやと有るにおせん彼は私父與惣次と申者の由申上げしに讃岐守殿近習太田幸藏を呼ばれ其方は後に止り此者どもを今晩の泊に連參れと申されければ幸藏はおせん與惣次に向ひ願の趣きお取上に相成たれば今宵お泊の御本陣迄罷り出よと云ひ置乘輿を追つて走り行くにぞアラ有難や嬉しやと飛立ばかりに打喜悦泊りの宿へと急ぎ行きしにお專與惣次を一番に呼入られ酒井侯には公用人澤田源之進井上喜右衞門兩人に委細相尋問べき旨仰付られしかばお專與惣次を糺ける時お專面を上傳吉が家の貧窮を嘆き江戸表へ奉公に出でたることより憑司が悴昌次郎に金子騙取られしこと其他ありし始末委細申ければ公用人は篤と聞き終り如何にも訴への趣き道理の樣には聞ゆれ共片口にては定め難し何れ主人へも申上べき間旅宿へ下り明朝罷り出よとお專與惣次は宿へ下られける右の條々酒井侯公用人より一々申述ける酒井侯暫く工夫有りて當節領主の役人共非義の取捌き是有由豫て聞及びあればと申されて願ひの趣き取上と成り翌日馬廻の武士岸角之丞御下知書を持て榊原殿へ達せよと早打の直使を立られ榊原家の老臣伊奈兵右衞門へ御用状をぞ渡しける御用状の趣き 此度上京に付信州小田井宿旅宿の處其領分高田村名主傳吉と申者此度無實の罪にて死罪に相決し既に日限り定り候由右傳吉妻專と申者愁訴有之近年御領奉行代官に依怙の取計ひ有て非義成儀多き由上聞に達し此度道中愁訴あらば取上申べき樣嚴命を蒙りしに依て右の訴へ御取上に相成再應の吟味仰せ付られ傳吉儀御用有之に付私しの仕置相成ず則ち當月晦日迄に罪人傳吉并に相手方上臺憑司夫婦其外專養父野尻宿百姓與惣次江戸表差出大岡越前守役所迄追々召連可申候且此度掛の役人郡奉行伊藤伴右衞門吟味方川崎金右衞門小野寺源兵衞等江戸へ同道可有之右之段主人讃岐守より相達し候之に依て此旨貴殿迄急度御意得候以上 十月十七日 酒井讃岐守内  勅使河原角兵衞 榊原遠江守殿内  伊奈兵衞門殿 然るに傳吉は昨夜より牢内に切繩を入れて彌々明日死罪と申事故一念唱名して豫て覺悟致しける所ろ折節牢役人來り傳吉に向ひ偖々其方は仕合者なり既に死罪に決し明日首を切るゝ所其方が妻は酒井樣のお駕籠に付願ひたるゆゑ再御吟味となり明日江戸表へお差出しに相成と申ことなりと言ければ傳吉は夢に夢みし心地にて誠に神佛未だ我れを見捨給はざるやと樣子を窺ひいたりける時に酒井樣より其の朝宿次刻限の急使にて江戸御老中大久保佐渡守樣へ御用状到達なし則ち上聞に達せられける尤も遠國は皆寺社奉行勘定奉行の掛りの所此度は讃岐守より言上の趣きは餘程入組し事柄なりと申上られければ將軍家にも再吟味と有れば越前守が宜しからんと大岡殿へ人撰にて仰付られける爰に於て榊原殿より傳吉を軍鷄駕籠に入れて役人大勢守護なし并傳吉妻舅與惣次及び榊原殿郡奉行伊藤半右衞門公用方下吟味川崎金右衞門小野寺源兵衞訴訟人憑司夫婦皆々江戸表へ出立致させ榊原より役人百人ばかり附添享保十午年十月廿二日江戸着に相成其段屆出しかば傳吉は直取大岡請取られ入牢申付られ郡奉行其外は江戸表屋敷又は町方等へ下宿致しけり偖又享保十年十月廿九日願人憑司夫婦を南町奉行所へ召出されし時越前守殿出席有て訴訟人越後高田領百姓憑司お早とは其方なるか并に差添の者喜兵衞甚右衞門何れも罷出しやと仰に一同罷出る趣き願あぐれば右願書を讀上る 乍レ恐以二願書一奉二申上一候 越後國頸城郡寶田村百姓憑司并に妻早奉申上候私し同村傳吉と申者親類にも有之候に付先年傳吉江戸表へ奉公稼にて罷り出叔母と妻とも國元へ差置候ゆゑ手前配下の儀と申殊に親類にも有之候間留守中母子の者取續き候樣世話いたし置し所傳吉國元へ立歸り候ては右の恩を忘れ彼是難澁を申懸いたし且又道中にて野尻宿與惣次召仕の下女專と申者と密通致し叔母女房留守中貞節を相守候者を彼是惡名を付離縁に及び候段重々不屆の至りに御座候其節彼に異見差加へ候得共却て私し并昌次郎と傳吉妻と不義なと有之候樣に申掛離縁に及び候に今母子の身寄處なく既に道路に餓死仕つり候仕合に御座候間見るに忍びず無據手前方へ引取百姓共取扱ひにて是非なく嫁に仕つり候處之を遺恨に思ひ音信不通に仕つり其上に昌次郎夫婦を豫て狙ひ候と相見え柏原と申す所へ夫婦罷越候跡より付行日暮をはかり兩人を共に殺害し立退候へども天命逃れ難し庭の飛石に血の跡これあり且傳吉衣類の裾にも血の付居候に付此儀相顯れ召捕れ右の段領主の役人方へ吟味願ひ候處傳吉隱すこと能はず切害致し候始末白状に及び候然るに今般召出され御吟味を蒙り候上は何卒御明察を以御吟味被下置子供二人の解死人に被仰付被下置候へば有難仕合に存じ奉つり候偏に御威光を以此段御吟味願上候以上 享保十年十月 榊原遠江守領分百姓寶田村 願人 はや 南御番所奉行所樣 讀上るに越前守殿憑司を見られ此願書の趣きにては嘸々無念に思ふなるべし不便の次第なり妻早其方の一人の娘を殺され嘸愁傷ならん併し屹度傳吉が殺せし共言難からん而猿島河原より寶田村へ道程は何程あるやと申さるゝにお早は憑司が答へを待たず四十町許是ありと申立れば越前守殿又其日子供は何時頃宅を出何方へ罷り越しぞと尋らるゝに憑司頭を上げ柏原と申す所へ用有つて早朝より罷り出しなりと申立れば越前守殿疵所は如何なりしやと申さるゝに憑司娘は肩先より切付られ疵は數ヶ所ござりまして首は隱せしや更に見えずと云ふに越前守殿首がなくて我が子と云ふこと如何にして知れしぞと仰せければ憑司ヘイ着物で分りますでござりますと云ふに成程我子ならば着物に見覺えあるは道理なり偖々不便の事哉近々呼出す間罷り立てと仰せられけり 第十六回 時に享保十年十一月五日牢内より傳吉公事宿よりは妻專與惣次等奉行所へ呼出され大岡殿出座有て傳吉を御覽ある處に惣身痩衰へ如何にも嚴重拷問に掛しと見えて甚だ勞れたる樣體なり其歳は三十五六歳物柔和なる體なり妻專は之も痩衰へたる有樣にて其體哀に見えにけり明智の大岡殿故其と見らるゝ處や有けん詞靜かに傳吉汝は如何なる意趣にて親屬なる昌次郎を殺害せしや憑司夫婦の者より願ひ書のおもむき只今讀聞せる間承まはれとありければ目安方與力其願書を讀上るに越前守殿又傳吉に向はれ憑司が願ひ書の趣き覺えあるやと云るれば傳吉は漸々に面を上げ恐れながら申上ます其儀は私し一向に覺え御座りません然るに高田の役所に於て數度の拷問に逢ひ骨々も碎け苦痛に堪兼是非なく無實の罪に陷入りし所又々再應の御吟味誠に有難仕合せに存じ奉ります訴訟人憑司は現在私しの伯父ゆゑ如何成前世の業因かと存じ斷念無實の罪に服せしと申立ければ越前守殿是を聞れ汝は然樣に申せ共全く覺えなきものが罪に服するの理有べきや又憑司とても跡形もなきことは申まじ然ば其方が申事は眞とは受取難し能々明白に申立よと仰らるゝに傳吉は迷惑なる面色にて再應の御尋問なれども私しは決して昌次郎夫婦を殺したる覺えなく且何の意趣を含む事も御座なく殊に五六年の間江戸へ出奉公仕つり金子百五十兩を貯へ國元へ歸りし處私し江戸へ出し跡にて妻梅と憑司悴昌次郎と密通を致し居私しが持歸りし金子百五十兩を其翌日預け置し所より欺き取しにより其節之なる二度目の妻專が計らひにて憑司方より金子は私しへ差戻し呉し故直樣先妻梅は離縁の上昌次郎へ遣し其後同村の者共取扱ひにて昌次郎と表向夫婦に致ました梅の母早事は私し實の叔母なれば永く養ひ置べき心得の所叔母早儀は憑司方へ強て參り度旨申により其意に任せ其節百五十兩の半分を分て遣せし程のことゆゑ私し心底御賢察下されたく萬一右等の儀を遺恨に思ふ程ならば五ヶ年の間た千辛萬苦して貯へたる金子をいかに叔母成ばとて分ては遣はしませぬ是意旨を含まぬ證據なりと申せば越前守其金子は何程にて又江戸表は何れへ奉公なし金子を貯たるやと尋問らるゝに傳吉ハイ江戸は新吉原三浦屋四郎左衞門方に五ヶ年相勤め居其内百五十兩貯はへし由云ければ大岡殿五ヶ年奉公の内國元の伯母と妻とは如何せしぞと云るゝに傳吉給金の内半分は國元へ遣し半分は主人に預け置し處首尾能相勤しとて褒美に主人より十兩貰ひ又遊女共より餞別として十兩餘り貰ひ都合百五十兩餘に相成持ち歸り其内七十五兩伯母に遣したりと云立ければ大岡殿其伯母と云は當時憑司が妻早の事なるやと云れ暫時考へられしが成ほど其方が申立の如くならば如何にも人を害する程の遺恨は有まじ然なから裾に血を引而已か飛石に迄血の付居たるはいかなることぞと問るゝに傳吉答へて其夜畑村へ參り河原にて物に跌きしが眞暗にて何か分りませぬゆゑ早々立歸り翌朝裾に血がつき居たるを見出し其上何者か飛石へ草履にて血の跡迄付置しか不思議に存じ私しの履し草履を改ため見たれども血の氣は更に之なく如何して飛石に血が付しかと女房せんと諸共に洗居りし處へ憑司が案内にて直樣召捕れし上種々拷問に懸り申分致せ共御聞入相成ず夫故據なく死る覺悟致し罪に伏したる旨申すにぞ大岡殿コリヤ其方は其專と申す女と密通致し居るにより先妻を追出せしと聞然樣なるか傳吉否全く然樣の事はござりません先達て道中にて私し難儀ありし節此專が金子を預り呉櫛を形によこしましてと野尻宿にての事柄より彌太八と僞りし者に金子を欺り取れしこと專が勸めにより又村中の者を呼び酒宴を催し梅が不義昌次郎が騙りの始末相顯はれ是に因て梅を離縁致し夫より同村の懇意の者が中だちにて專を後妻に迎へたること迄委細に申立此儀は寶田村より差副に來たる者共へ御尋ね下さるれば相分りますと申ければ大岡殿如何樣に其方が申處聞處あり猶追々吟味に及ぶとて其日は一同下られたり其後外々の者一通り吟味有し所領主家來の者奸曲の取計ひも聞ゆるにより評定所へ差出しに相成たり 第十七回  同年十一月十日評定所へ御呼出しに付訴訟人相手共腰掛迄相詰居し處老中若年寄り及び三奉行を始め立合の役人中今日は天下の御評定日にて諸國より訴訟人夥多しく出張なし居けるに程なく榊原遠江守領分越後國頸城郡寶田村百姓傳吉一件這入ませいと呼び込む聲と諸ともに訴訟人憑司おはや相手方傳吉其の外引合共白洲へ出るに傳吉は繩目の儘にて跑踞る同人妻せん與惣次も謹で平伏なし何れも遠國片田舍の者始めて天下の決斷所へ召出され青めの大砂利敷詰て雨覆を高々とかけ嚴重なる白洲の體左右には夫々の役人居ならび威を示しつゝ靜まり返て見えけるに各々戰慄の止らぬまでに恐れ入てぞいたりける今日榊原家の郡奉行伊藤半右衞門同人手代川崎金右衞門小野寺源兵衞及び附副留守居等召出されければ此人々は板縁に控へたり暫くありて老中方を始め若年寄三奉行並に立合の役人席に着るゝや大岡殿中央に進まれ大目附兩脇に附て立合るゝ時大岡殿には榊原家家來伊藤半右衞門と呼れ其方の吟味にて傳吉は罪に伏したる由然樣なるかとありければ伊藤半右衞門愼んで彼段々と吟味仕つり候處其罪明白に伏し候段相違御座なく然るを同人妻せん何樣成儀申上奉りしや再たび御手數相掛候段不屆き者なりと申けるに越前守殿成程其方の申所道理の樣には聞えしが其方も榊原の家來にて某が役儀にも准する事故決斷に如才はあるまじきも人命の重きは豫て承知で有らう罪の疑はしきは之を問ず功の疑はしきは之を擧よと衣裳に血を引飛石に血の付たるにて殺したるは傳吉ならんと疑はれ拷問の嚴敷に堪兼て罪に伏せしと傳吉並に專より申立しが此儀如何なるやと云るれば伊藤は面を上げ恐れながら段々吟味仕つりし所意旨之あり候て殺したりと當人白状仕つり既に爪印迄相濟たる上からは彼が罪は明白なりと申せしかば越前守殿イヤ夫は拷問の苦しみに堪へ兼ね是非なくも罪に伏せしと云又昌次郎梅の兩人を殺し血が走りて注らは裾而已ならず或は襟又は袖などへも注るべきに何ぞ裾ばかりに引べきや此儀合點行ずシテ其猿島川より寶田村迄道程何程有やと聞るゝに伊藤卅町程の道程なりと答ふれば大岡殿斯道程の有所にて人を害し草履の裏に血が付きしとて三十町程歩行歸らば必ず地を踏付て仕舞ふべきなり空中を飛行なさばいざしらず我が庭の飛石に草履の形が血にて明々殘るの所謂なし是眞に疑ふべき一ツなり然すれば傳吉に意旨を含し者猿島川邊にて男女の害されたるを見留之幸と傳吉の罪に落さんと計りたるも知るべからず殊に其夜は傳吉も同じ河原を歸りしを知其者草履に血を付て飛石に押たるものならんか右二ヶ條の趣き而已にても心付べき筈なり是調べし人の過りにして勿々罪は斷し難し且又其夜傳吉が參りし占ひ者を呼で傳吉の歸りし刻限を尋ねしや又傳吉が脇差其他刄物等をも改めしや何ぢやと云るゝに伊藤は今更一言の申上樣もなく恐れ入候と申すにぞ越前守殿之は麁忽千萬なり然らば一方が訴へばかりを聞て拷問に掛るは裁判の法にあらず假令憑司如何樣に申とも心得有べき筈なり榊原家にても公事決斷を預る者は器量なくて有べきや斯樣なる事辨へぬ其方にても有可ざるに事の此所に及べるは眞に疑はしきことどもなり是其方に疑ひの掛り糺問せざるを得ざるなりと仰られければ半右衞門忽ち色蒼然恐れ入て答へなし時に越前守殿コリヤ憑司只今聞通りにて裾に血の引飛石の血ばかりでは其血とも決し難し其方覺あらう明白に云立ろと云はれしかば憑司は心中ぎよつとして徐かに頭を持上たり 第十八回  大岡殿に向ひ否昌次郎夫婦を害せし者傳吉の外には御座なく其故は昌次郎女房は元傳吉が妻にて傳吉は只今の妻專と密通仕つり母諸共梅は離別せられ道路に餓死仕るべき有樣なるを私し親戚のことゆゑ二人を引取世話いたし其後昌次郎が妻に仕つりしが傳吉これを却つて妬み其上村長役を傳吉へ申付られ候故名主の權威を以て段々押領我意等の振舞候故村中私しへ村長を相勤め呉れる樣内談仕つりしを何方にてか承まはり猶々妬み彌増猿島川に待伏居り兩人を殺し私しに氣を落させ向後村中より相頼み候共村長役勤め兼る樣仕つりしに相違これなく此段何卒御賢察を願ひ奉つると申立れば越前守殿傳吉を見られ只今憑司が申所にては其方人殺しに相違なく又無體に叔母と女房を追出したる由なるが如何やと尋問さるゝに傳吉は憑司を怨めし氣に見遣り之は先にも申し上し通り私爭か人を殺しうべき又た先妻梅儀を離縁致せしは昌次郎と不義顯れし故離縁状を遣し又叔母儀も彼より望みて憑司方へ相越たるは村中總寄合の席の事にて相違は御座なく此儀は總代差副の者へお尋ね下さらば相分る儀と存じ奉つりますと云に越前守どの其方昌次郎梅兩人不義致せしと云は何か確なる證據ありや傳吉此儀は委敷妻せんへお尋下さるべしと云に大岡殿はコリヤせん其譯を存て居るやと云へば私し事未だ傳吉妻と相成ざる前野尻宿與惣次方に居し時傳吉こと江戸より國元へ歸り候とて與惣次方へ泊りしに途中より賊に付られ難儀の由私しを見かけ救ひ呉候樣申候此時始めて顏を見候へば五ヶ年以前私し實家柏原宿の森田屋方へ泊りし旅人にてと夫より其節のことども委しく申立後父銀五郎病死致せしより其所を仕舞養父與惣次方へ少しの縁合を以て居りしに傳吉に巡り逢ひ同人より預りし金を昌次郎に欺られしこと右金子を取戻せし節昌次郎お梅の不義相顯れ村中寄合し席にて傳吉よりお梅に離縁状を渡したる事迄夫の大事と思ふ故云々斯樣々々なりとこと落もなく申上ければ大岡殿心中にお專が才智を感じられしが態とおせんに向はれ其方は其前より傳吉と密通せしと憑司より申立てしが此儀如何なるやと問ければおせん少しは顏を赤らめイヱ〳〵五ヶ年前私し在所柏原の宿へ一夜泊りたれども其節父銀五郎病中にて私しは十二歳一夜の旅宿に爭然樣の儀を致しませうぞ夫より五ヶ年過まして與惣次方にて出會ましたは是れ只一夜殊に傳吉の身に深き心配ありて右樣なる猥の事の出來樣譯は御座りませんと申上けるに大岡殿然ば何で夫婦に成しぞと云るればお專ハイ之はお梅どのを去ました跡で村中より勸められ主人の與惣次も得心の上其の意に任せ傳吉方へ參りしなり此儀は與惣次始め村中の者共に尋ね下さらば相別りますとの答へに大岡殿ヤヨ與惣次今專がまうせし通りなるやと御尋ねに與惣次又進み出其儀少しも相違これなく其節寶田村百姓與次右衞門喜兵衞助右衞門八兵衞四人にて專を所望に付遣せし事にて則ち其喜兵衞助右衞門は此度差添に罷り居ります故に尋下さらば相分るべしといふにぞ喜兵衞助右衞門へ尋ねられし處二人とも少しも相違これなきむね申立けるに大岡殿然らば傳吉は密通ならず委細相分りぬ又盜難と申は如何なる譯ぞ百五十兩と申せば大金なり譯なき女に預ける事是又不審なりと尋らるゝに傳吉は猶亦答へて私し五ヶ年以前江戸へ出立の時一宿仕つり候が幼なくして父銀五郎の病氣介抱の體如何にも孝行の者と見屆是ぞ誠ある女と存ぜしにより私し江戸より古郷へ歸り懸道にて惡漢に金子を見込れ甚だ危く心得只今言上せし通り其志ざしも知りしゆゑ櫛と取替に金子を預け其夜の盜難を遁れたる儀に御座りますと云立ければ大岡殿大聲を張揚コリヤ憑司只今傳吉夫婦が言立る所は如何にも明白なり然すれば其方は公儀を僞る罪人茲な不屆者めと白眼るゝに憑司はハツと頭を下げ今更一言の云譯もなければお早は耐へず進み出でイエ〳〵彼等は不義に相違なしと言へば大岡殿だまれ其方には問ぬぞそれより先其方誰が媒妁にて憑司の妻となりしぞと云れしかばお早はグツと差し詰りヘイ誰も媒妁はございませぬが子供等が夫婦に成ました故憑司と私しも夫婦に成ましたとの答へに白洲の一同フツと吹き出せしが大岡殿笑ひを堪へ白痴者め其方が樣子を見るに傳吉が留守に不義猥婬を致し居しなるべし傳吉が叔母と云は父方が身元を委細申せと言ければ傳吉は茲に於て是非なく申立る叔母儀は私の母の妹にて家の相續いたせし所聟を三人まで追出し淺治郎と申男の病死後又善九郎と申者と欠落し行衞知れざりしを先年私し江戸へ飛脚に赴きし時鴻の巣宿より連歸り其後私し儀は梅と夫婦に成叔母を養ひ置しと申立んとせしが是迄の勞に息切強く云兼るに付此後は專其方より申上げ呉よと言ければ其時おせんは首を上お早が身の素性より實家森田屋銀五郎の方にて不實を働きし事まで殘りなく申立るに越前守殿點頭れコレ早然すれば汝が不儀の樣子森田屋銀五郎に大恩を請ながら其主人宅を取逃欠落をしたる段重々不屆至極の奴なり入牢申付る縛れと有ければ同心共立懸り高手小手に縛めたりける夫より憑司が村長を退きしことを尋問られしかば憑司はぐつ〳〵答ふる樣私し少し間違の儀にて村の持山を伐しゆゑ退役いたし其跡にて傳吉儀役人中へ色々諛び竟に村長と相成しが傳吉段々我儘押領等の筋之有るやにて又私しへ村長を相頼みたしと村中の者私しへ内談仕つりましたと申上るに越前守傳吉に向はれ其方役人に賄賂を遣ひ村長に成又押領とは何を押領せしと尋問るゝ傳吉只今憑司が申上しは皆僞りにて彼事は村の杉の木を己が了簡にて賣拂ひたるにぞ村方一同立腹なし村中よりの願ひに依て退役を仰付られました其頃私しは渡世の爲野尻の與惣次方に一兩年も住居いたし居し所村方一同の願ひとて役人衆より古郷へ召返され名主役仰せ付られしが其節も辭退仕つり憑司儀を取なし申せど何分村方にて聞濟呉申さず是とても差添の者へお尋ね下さらば相分り申べくと申立けるに大岡殿又勘右衞門喜兵衞を見られ傳吉は其頃一兩年村内に居ず松山に在りしや又百姓中總體の願ひにて村長に成しと云が然樣なるや尚又傳吉近頃押領あるよしにて元の村長憑司に頼まんと致せしや申立よと言れければ兩人は成程傳吉は其節野尻宿與惣次方に居りしを村中の願ひにて村長に成しなり傳吉が押領せしと云廉は如何成儀を致せしや此喜兵衞は一向承まはり及び申さず若や勘右衞門は承まはりしやと云時勘右衞門は喜兵衞が存ぜぬ事を我等承まはる筈なしと申に大岡殿其方共は村方にて何役を勤むるやと尋ねられ喜兵衞は組頭勘右衞門は百姓總代の趣き申立つる越前守殿汝等知らざれば今憑司の申立は僞りと相見える傳吉は廿年來行衞知れざる叔母を連歸り飢渇を救ひ從弟梅を妻として其上五ヶ年の奉公に金子を溜し實體なる行ひに感じ村中の者地頭に願ひ村長にしたるにまた〳〵憑司へ歸役を願ふことはよもあるまじ然らば憑司は疑ひなきにあらじ依て手錠申付ると有ければ憑司は戰々慄ひ出し何か云んとする所だまれと一聲叱られて蹲踞しぞ笑止なる又大岡殿は榊原家の留守居へ向はれ此度の一條吟味懸り三人の役人は其方へ屹度預け追て呼出すべしと言渡されたり 第十九回  再び傳吉并びにお專與惣次を評定所へ呼出され大岡侯如何に傳吉其方は何故暗き夜に提灯をも燈ずして猿島河原を通りしやと尋問せらるゝに傳吉先日申上げ奉つりし如く前夜專事惡き夢を見し由にて心に掛る旨申に付吉凶を問んと存じ夕七つ時分に宿を出しに途中にて先年懇意になりし細川家の藩士井戸源次郎に出會し故如何なる用向にて此地へ來られしやと問しに妻を連信州の湯治に參りしが右妻儀は五歳の時人に勾引され江戸へ參りしに肌の守り袋に生國は越後高田領の由書付有しゆゑ親に對面致させんとて來りし所途中にて妻を馬丁に奪れ一向に知れざる由承まはり氣の毒に存じ彼是と談話仕つりし中に暇取て遲く參り日暮にならざる内歸る心故提燈の用意も仕らず歸りは夜に入亥刻頃にも相成りしと言ければ大岡殿其方は細川の家來と何れにて心易くなりしや傳吉私し先年新吉原三浦屋にて心易く相成りました右源次郎殿の妻は三浦やの遊女空蝉同人が根引いたし妻となりし故に存じ居ますと言にぞ其の者妻を失ひしと申せし後其源次郎に逢しやと云るれば傳吉其中私し高田御役所へ召捕れし故源次郎には逢申さずと云時傍らより與惣次進み出其源次郎と言人其後猿島川より三里ばかり川下にて女の首を見付則ち自分の妻の首成とて殊の外歎き近所の寺院へ葬りし趣き私し國元に在し中に專ら噂を致しました然共七八里程脇にて確とぞんじ申さずとのことに大岡殿其葬りし寺と村の名は知り居るやと問はるゝに與惣次其は存じ申さずと云爰に大岡殿其手續を大概に洞察し樣子にて扨ては怪き事なりその女を殺し又昌次郎梅等が着物を着せ置傳吉に難儀を掛罪に陷さんと計りしやも知難し首を隱す程なれば着類をも剥取るべきに夫を殘し置しは不審なり追々吟味に及ぶと言るゝ時下役の者傍より立ませいと聲を掛るに各々其日は下りけり重ねて大岡殿細川越中守の留守居を經て井戸源次郎を呼出し其來歴或は遭難の始末等逐一尋られたるに傳吉與惣次の口と符合なしければ尚尋ねられたるに源次郎夫は其處より上の方三里程隔てし所に男女の死體ありとの風聞其邊の夫婦の者の由其頃噂さ仕つりしなり大岡殿其方は其の邊にて傳吉と云へる者に逢しと申が傳吉方へ尋ねたるや源次郎成程傳吉は江戸にて知己の者故其邊にて逢たれども愚妻を失ひし折柄ゆゑそこ〳〵に打過其後寶田村を相尋ね候所何成罪にや傳吉領主へ召捕れし由其後逢申さず候と云に大岡殿シテ傳吉は何云縁にて存じ居るや源次郎然れば新吉原三浦屋にて其節若い者を致して居りしなりと言立ければ大岡殿又新吉原三浦屋四郎左衞門を呼れ其方が内に先年越後國高田領寶田村傳吉と云者を若い者に抱へたる事ありやと尋問らるゝに成程四ヶ年程以前迄傳吉と言者を抱へ置しことありと云ふに大岡殿其傳吉は其方召抱へ中平常の行状委敷云上よとあるに此者儀初の程は米搗に召抱へし所至つて正路忠實の者故二階の客の取扱ひを申付此役を廓にて若い者と云私し宅に五ヶ年の間相勤めます中少しも後暗きこともなく實に正直正路の者なりと言ければ大岡殿は其傳吉事奉公中給金其外にて百五十兩程貯其元へ預け歸國の節持返りしと申が然樣成や四郎左衞門如何にも五ヶ年の内に私しへ百廿兩預け置歸國の節其金を渡し又出精致せし故私し手元より褒美十兩遣し其外遊女共より餞別を貰等にて成程百五十兩に成ましたで御座りませうと云に又大岡殿尋問るゝ樣先年其の宅の遊女空蝉年明後井戸源次郎と云者妻に致たる由其事ありしや又同人を抱へし時の手續を申べしと有しかば四郎左衞門成程夫は手前抱へ遊女空せみと申者年明後井戸源次郎樣と申御宅へ縁付しに相違御座無又抱へたる節は其者の二親は相果ましたるとの事にて揚屋町善右衞門養女の由善右衞門より年一杯廿五歳までを六歳の時に廿五兩に買取しに相違これなき旨申立しかば源次郎四郎左衞門の兩人へ追て呼出す事有んと云渡され其日は白洲を閉られけり是に於て大岡殿豫て目を着られし通り傳吉は何れにも正路の者右の河原にて殺されたる女は空せみ又一人の男は彼を勾引たる奴ならんが二ツの首を川へ流したるに女の首のみ柳の枝に止たるは則ち縁も引ものか左右怪き所なり必定此公事は願人共の不筋ならんと流石明智の眼力に洞察れしこそ畏こけれ 第二十回  同月二十三日亦々評定所に呼び出さる大岡殿端近く席を進まれ大目附御目附立合にて留役衆吟味書を改めて差出さるゝに大岡殿頓て白洲を見られ願人憑司同人妻早相手傳吉同人妻專舅與惣次村役の者喜兵衞勘右衞門榊原家來半右衞門同じく吟味役小野寺源兵衞川崎金右衞門留守居清水十郎左衞門と一々姓名を呼はれ憑司に向はれ其方が段々願ひの趣き確固なる證據もなし然らば急度傳吉が所行とも相分らず麁忽の訴へに及びしは不屆に思はる人命重しとする所只々着類ばかり似たりとて兩人の子供なりと申すと言ども世には染色模樣など同樣成着類着せし者往々あることなり但し死體に實固なる目當ありしやと云るゝに憑司は御道理のお尋に候悴儀は幼年の内に少々體へ彫物致し候のみならず喧嘩を致し子供同士鎌で肩先へ疵を附られ候悴が今に殘り居候が何よりの證據に御座りますと云に越前守樣成程確固なる證據ありして其彫物は何なる物ぞ憑司ヘイ腕に力と申す字を大く彫て居ました又大岡殿梅が死體の證據は何じや憑司之は實とした證據は存じませぬと云ふにぞ越前守殿早我は娘の事目的ありやと仰さるれはお早ハイ現在の一人娘何見違へませう姿着類と云ひ聊か相違御座りませんと云へば大岡殿コリヤ早其方が娘の體に疵はないかお早一向に御座りませぬと答るに實固さうかと期を押れ大岡殿喜兵衞勘右衞門と呼ばれ其方ども其時の事を申立よと尋ねらるれば兩人畏まり領主の役人ども檢視相濟取片付仰付られしまでの儀を申立けるに大岡殿其方とも死骸檢視の節定めて立合たるなるべし其の死骸に今憑司が申た通り彫物疵ありしやと尋ねらるゝ兩人ヘイ力と云ふ字が彫付て有しと云立るに女の方は如何じや此方にも聞き込し事あれば僞はりを言上なせば其方どもゝ入牢申付るぞと仰されければ兩人は少し戰へながら女の死體は何事も御座りませんが片々の二の腕に小さく源次郎命と彫付てありまた片々には影物に灸を据たる跡ありと云立れば大岡殿お早に向はれ其方が娘は元賣女でも致したか源次郎と云名は先夫のでもなしまた昌次郎でもなし何れの人じや存じたるやと云はるゝに側より憑司は然樣の義は存じ申さず候へども豫て嫁梅の腕にも何か彫たる趣き承まはりし事もありナフお早其彫物の事に付ては何とか申せし事ありしがナヽと夫と知らする心の謎を越前守殿聞だまれ憑司汝は何を申すぞ早は此の方で吟味なすに爰な出過者め今早が口より梅が體に疵などは御ざらぬと申立たるに汝夫を無理に申させても取上には相成ぬぞ其源次郎と申はナ細川の家來にて井戸源次郎と云者新吉原の三浦屋四郎左衞門抱への遊女空せみを年明後に妻となし越後に實親ありと探ね行しに同國猿島河原にて人手に掛り其首をば川下にて見附たりと申す然すれば其方どもか奸計にて右の死骸へ娘悴の着物を着せ傳吉を罪に陷さんと計りし事鏡に懸て寫が如し重々不屆の次第明白に申立ろと大音に云るゝを憑司は恐れず傳吉が申するのみを御取上げあるは片手打の御捌きと言も果ぬに默れ憑司汝極惡の罪人として公儀の裁判を片手打とは何事ぞ其方が悴昌次郎は傳吉が留守中不義致し居し段重々不屆なるを傳吉は其れを知り乍ら夫となしに梅を速かに離縁に及び其上叔母へ金子迄を遣はしたるを阿容々々と二人ながら引取親子互ひに妻と致し其上にも厭足らず傳吉を謀り罪に行はんとなしたる條人畜とは其方共がことなり然るに奉行所の裁判を片手打依怙贔屓などと申條不屆者め吟味中憑司は入牢申付る其外双方の者共猶追々吟味に及ぶと云はれし時直樣白洲を閉られたり重ねて同月廿五日新吉原三浦屋并に善右衞門を町奉行所へ呼出され又井戸源次郎も罷り出しに越前守出座有て四郎左衞門其方抱の空せみと申遊女は善右衞門より買取しとなコリヤ善右衞門其方は空せみと申女を四郎左衞門に賣しやと其方が實の娘か何じや僞りを申と入牢の上拷問申付るぞと云れしに善右衞門は青くなりハイ彼は私しが實の娘にてはござりません伯父の娘なれども兩親相果五歳より引取養育仕つりしと申立る故夫より伯父の名前を始め住所まで調べられしに追々口籠り終に答へ出來ざれば越前守殿仰せには其方は胡亂なる事を申者かな伯父夫婦は相果て跡も知れざる由家主も確と覺えず是疑の一つ又空せみが實の親なる者越後と申事なり只今汝に引合する者ありと井戸源次郎を呼出され縁側に控へるを源次郎其方は四郎左衞門抱への遊女空せみを引取しときあの善右衞門方より貰ひ請しやと尋ねらるゝに源次郎成程善右衞門方より貰ひ請たりと云にぞ越前殿三浦屋を呼れ其方抱の遊女空せみを井戸源次郎が貰ひ請しとき此善右衞門が源次郎へ我は空せみの親なりと申したは相違無きやコリヤ源次郎も先達て申立たる通り今一應申立よとあるに付き源次郎は更に其の手續を告ければ越前守殿是を聞善右衞門汝が賣渡したる空せみは五歳の時勾引され江戸へ來りしと有り夫を汝は伯父の娘也と僞りを申立てしも今聞通りなり眞直に申立よ此上包み祕すに於ては急度申付るぞと聞て善右衞門ヘイ明白に申上ます私しは然樣なる者を勾引しはいたしませんが彼は友達の松五郎と云が連來りまして我姪なりと段々頼みまする故據ろなく三浦屋は私し名前にして賣込たる趣きを申にぞ越前殿其松五郎は何方にありしやとのお尋ねに右松五郎は先達て惡漢八五郎と申者召捕られし時より何處へか逃去其後行方分らざるよし申立ければ越前守殿其八五郎とは先達て八丈島へ流罪申付たる泥八が事ならん其節泥八が申口にて相尋ねし松五郎なる者行衞知れず勿論其節ならば其方を急度入牢申付る儀なれども最早年も經し儀故右の松五郎は其方へ尋ね申付る來る十日迄に尋ね出し召連出よ其方は家主町内組合へ預申付ると云渡されけり 第二十一回  斯くて同年極月二日評定所へ又々前々の通り役人衆相揃はれ右一件の者共總殘らず御呼び出し追々白洲に呼込に相成役人衆列座致され時に大岡殿越後國頸城郡寶田村百姓上臺憑司と呼れ其方儀是迄段々吟味に及びし所猿島河原切れ人は其方悴嫁等の趣き申立ると雖も必ず昌次郎梅とは定め難く其譯は同じ衣裳を着たる者一郷の内には往々あるべし殊に女の死骸は井戸源次郎妻空せみが亡骸と思はる然すれば男の方も昌次郎にはあるべからず外に殺したる者有るを不屆の調べに及び傳吉を無實の死に至らしめんとなせし條不埓の至なり自然後にて昌次郎夫婦がこの世に存命居らば其方は如何致すぞと申されければ憑司は彌々我が巧みの顯はれしかとは思へども猶ぬからぬ面にて恐れながら御奉行樣の仰には御座れども着類帶繻袢に至るまで悴に相違御座りませぬと言張を大岡殿聞れまだ其樣に強情を云居るが既に其日は柏崎へ昌次郎夫婦して參り夕刻彼所を立歸りしと云にあらずや然らば我が妻を捨ていまだ一面識ならぬ他の女と道連になり人の爲に殺さるゝ者が有べきやシテ梅は如何せしぞ汝公儀の役人を僞る重惡者めと叱られしにぞ憑司は今更大息を吐頭を低一言も物云ず依て越前守は四郎左衞門善右衞門并に井戸源次郎へ一々聲を懸られコリや憑司夫に居は四郎左衞門善右衞門井戸源次郎成ぞ此源次郎が四郎左衞門抱の遊女空せみと云女を買馴染其空せみは五歳の時人に勾引され揚屋町善右衞門口入にて神田小柳町松五郎が姪成とて三浦屋へ賣込しが年季明にて源次郎の妻に致し其主人へ願湯治の暇を貰ひ信州より越後へ實の親を尋ねに參る途中馬丁に勾引され源次郎諸方を尋ねし處猿島河原にて妻が首を見付たる由コリヤ源次郎其妻の名は何とか申せしや源次郎私し妻の幼名は上臺千代と守り袋に書付之あり千代平常申には慥か越後邊の生れの由明暮實の親を慕ひ居りし故私主人へ暇を貰ひ信州へ參り越後の方を尋ね候處不慮の災難に逢ひ終には猿島河の下にて首を見付たるは先達て申上候と言にぞ越前守殿何源次郎其方妻は右の二の腕に源次郎命と彫物をしてをりしならんと云れしかば然樣なりと言にぞ越前守源次郎其節川上に男女の死體ありし由女の方は其方が妻の千代に相違なし又左りの腕に彫物の痕ある男は察する所勾引せし馬丁ならん又彼等を殺せしは憑司昌次郎兩人の中の仕業なる故に首を切て知れざる樣に昌次郎夫婦の着類を着置傳吉を罪に陷さんと巧みしならん源次郎其方が女房の仇は是なる憑司等と思はる憑司是にても猶云分あるか斯の如く明白に相分る上は眞直に申立よ僞ると拷問に掛骨を挫ぐ共言するが何じや〳〵と仰らるゝに憑司是は御無體の仰なり然樣なる覺えは御座らぬと言張にぞ大岡殿は是より一同調んとて榊原の家來伊東半右衞門に向はれ只今聞通り彌々猿島川原の男女の死骸は推量に違はず源次郎妻と馬丁の者と相見える其方が公事決斷は甚だ粗忽なり言分有りやと云ふ又與惣次其方は高田へ參りて役人を頼み傳吉が助命願ひしが叶はず然ながら種々に取繕ひ牢屋まで飯を送りしと先達て申立しが其節役人へ何を遣はし頼み入たるや此義明白に言上よと云るゝ故與惣次は奉行へ金十兩其下役人へ十兩贈りし段を言立しかば大岡殿作右衞門へ尋ねありしに始めは左に右と陳じしがとても包み難しと存ぜしや寒中見舞として金子を貰請し旨を申に何か肴の類ひならば格別金子を受るは賄賂に當る不屆至極なり下役兩人も受しならんとあれば金二兩づつ貰ひし旨言立るに大岡殿下役は奉行を見習ひ所業不正なり且賄賂によつて罪の有樣を私しなすは此上もなき不屆者伊東半右衞門は揚屋入申付下役二人は留守居へ預け遣す急度戒め置と言渡され傳吉は出牢の上手當して宿預け言付下られけり又極月十日傳吉お專與惣次喜兵衞勘右衞門等を奉行所へ呼出され昌次郎夫婦の者古郷を出でて何所か忍び居んと内々探索のため昌次郎梅二人の年齡より風俗を大岡殿逐一問糺されしに就き一同は昌次郎梅が風俗を委敷申立且昌次郎の鼻の下に黒き黒子ありと云ければ越前守殿二人共多分存命にてあらん其方に手懸りはなきやとのことなれども一同更に手懸りなき旨を申又傳吉より先日御吟味の節思ひあたりしは源次郎妻千代事に付て段々御吟味うかゞひしに上臺憑司が娘に候はん此義は私幼少の頃高田城下の祭禮を見に參り其節憑司の娘千代は人に勾引れ行衞知ずとのこと憑司も探索せしが分らざるゆゑ捨置たるに先頃御吟味の節苗字は上臺名は千代と申よし彼に相違なし尤も五ヶ年の間三浦屋にて一處に相勤め居れ共同人とは夢にも存ぜず彼は江戸出生とばかり存じをりました重ねて此義をも御吟味下さる樣願ひ上奉つると言に大岡殿横手を拍れ扨々積惡の報ふ所は恐しき物かな我が子と知ず憑司が殺し猿島河原へ捨たるは己が實の娘の首なりしとはハテ爭はれぬものなり重ねて吟味致さん追て呼出す罷り立と傳吉を始め一同下られけり其後大岡殿は何れ昌次郎夫婦の者外へは參るまじ江戸表ならんと定廻りの與力同心へ急々索ね申べしと内命有りしとぞ 第二十二回  先頃越後國猿島河原より跡を闇ましたる昌次郎夫婦の者は親憑司と計りて殺せし男女の死體へ己等が着物を着夫より信州の山路にかゝり忍び〳〵に江戸へ來りて奉公口を尋ねけれ共相應の口もなく貯への路用を遣ひ切詮方なく或人の世話にて本郷三丁目に裏店を借己は庄兵衞と改名しお梅は豐と改ため庄兵衞日雇ひとなり細き烟りを立つゝ二三ヶ月暮しけれ共天道惡事を憎み給ふゆゑ何幸ひのあるべきや偖又庄兵衞は傘谷に桂山道宅と云醫師ありて毎日雇れ居たり此醫者隨分小金を持たる樣子を見請奪ひ取んと爰に惡念を發し或日庄兵衞は不圖道宅家へ參りしは夜の亥刻過なれども同人は留守にて近所の長家は皆戸を閉有道宅の内は庄兵衞勝手覺えし事故四邊に人のなきを幸ひと水口の半戸を開て這入金子三十兩着類品々を奪ひ取り知ぬ顏して居たりける扨道宅は家へ歸りて見れば勝手の戸明放しありて三十兩の金子と着類三品紛失なしたるゆゑ大きに驚き諸方を見るに路次の方水口より這入し樣子なり其中に家主も來り大騷となりしが早々翌日此段大岡殿御番所へ訴へ出るに早速呼出され段々尋問となり其日怪き者來らずやと申さるゝに私し留守故委しくは存じ仕らず候へども隣家の者の噂には日頃雇ひ候庄兵衞と云者參りし樣に存じ候趣き併ながら人の咄しと云確と見屆候義にはこれなくと云ければ大岡殿又々道澤へ尋問らるゝは其日雇に參る庄兵衞と云者は何所にをるものなりやといはれしかば本郷三丁目徳兵衞店に住居なし日々雇ひ候者なれども心底を確と存じ申さず越後邊の出生の者と申立しにより大岡殿以後手懸りともならんかと樣子を見せに遣はされしに役人は家主徳兵衞を案内に庄兵衞が家を調べんと至り見しに此節女房は傷寒にて打臥床に着しまゝ立居も出來ぬ體なり斯る所へ家主の案内にて役人入り來り家搜しをなすよし女房は屏風を立廻し床に掛り有しが後の方に骨柳一ツ有しを夫を改めんとなすを妻は此品は不正の物ならずと手を出す役人共拂ひ退て中を改むるに金子二十兩有て着類は見えず是は賣代なせしやと女房を見れば貧家に似合ず下に絹物を着込居るゆゑ脱せて見れば男小袖なり是はと役人共も思ひ直さま手配をなして庄兵衞を召捕奉行所へ引き立に成り入牢仰付られ其後段々と御吟味になりしが女房豐は病後夫が召捕られしよりハツと逆上なし狂ひ廻りしかば長家中皆々番もすれとも動もすれば駈出てあらぬことども罵り廻るにぞ是非なく家主徳兵衞并に組合より願ひ出けるに先達て御召捕に相成候庄兵衞の妻豐亂心仕つり町内にて種々と介抱且養生仕つり候へども晝夜安心相成ず難儀至極に付何卒御奉行樣にて入牢仰付られ候へば町内一同有難仕合也と申ける是れは毎度亂心之者有り家業ならざる中は養生牢とて入牢仰付らるゝ故則ち願書取上となり翌日本郷三丁目徳兵衞組合名主付添へ白洲へ罷り出控居るを大岡殿見らるゝに痩衰へ眼中血ばしりし體實に亂心の樣子なれども傳吉始めより申立し梅の人相に似たる故如何にも言葉を和らげられ物靜に庄兵衞妻其方が名は何と云ぞ又國は何れ成やと問れしかば豐はげら〳〵笑ひ出し御奉行樣は私の名は御存じないか私の夫は越後國寶田村の昌次郎私は梅と申して上臺の若夫婦なり夫を知ぬとは扨々可笑や〳〵と笑ひ狂ふにぞ越前守殿然も有べし當人は如何にも亂心の體ゆゑ入牢申付ると云渡されけり其後又奉行所へ梅を呼出され亂心ながら其方生國は越後高田在寶田村にて父は憑司母は早夫は昌次郎なる由云立しが相違なきかと尚再三尋問られし上豫て入牢申付られたる庄兵衞を呼出されしに女房が亂心なし奉行所へ召連訴たへと成しを少しも知らねば如何なる筋のお尋かと心に不審く引出されしが其時大岡殿庄兵衞を見られ其方は何時改名せしぞ其方の名をば何と申せしと糺されしかば庄兵衞心中に驚け共元來不敵の曲者故色にも見せず私儀は四ヶ年跡に仔細あつて改名いたし其以前は吉之介と申し候と云に大岡殿然らば其方妻名は其以前梅と申せしなるべし夫婦の者改名は四ヶ年跡にては無二三ヶ月前に改名したるならんシテまた其方が生國は榊原遠江守領分越後高田在寶田村成ん其義汝の妻梅が申上しぞと仰るゝを聞て庄兵衞は默然として居たりしが又大岡殿仰らるゝ樣其方何年何月幾日何故古郷を立て江戸へ來りしぞ庄兵衞ヘイ二三年跡身代零落に付き稼ぎの爲めまかり出しと云ふを大岡殿否二三年では有るまじ二三ヶ月跡ならん夫とも強情を云ならば二三年以前に出て何所に住居いたせしぞと尋問られしかば庄兵衞は何處迄も云張了見にてハイ國者の所に居りしと云にその所は何所にて名は何と云やと尋問られしに淺草邊なりしが其の淺草は駒形にて名は兵右衞門と申すとかシテ其の兵右衞門は只だいま以つて其の所ろに住居致すやと問詰られしに庄兵衞ヘイ其者當時は身上を仕舞國元へ歸り候と申立るに大岡殿は少し聲を張上られコリヤ庄兵衞其方は種々の事を云奴なり己れは生國越後國頸城郡寶田村上臺憑司が悴昌次郎三箇月以前猿島河原に於て親憑司と謀り人を殺して汝夫婦の着類を着置其處を立退き今は改名して庄兵衞と名乘其元の名は昌次郎妻とよ事元の名は梅と云者ならん天命にて其方が妻亂心なし我が手にあり加之親憑司早くも先達て牢舍申附たり同村名主傳吉を罪に陷し入んと計り闇き夜に昌次郎と兩人にて男女を殺し悴娘の着類を着兩人の首を切て川へ流せし趣き最早兩人より白状に及びしを己れ此上にも僞らんとならば水火の責に掛て言する何じやと仰せに流石の庄兵衞も驚き色蒼然戰々慄ひ出だし一言の答へもなし大岡殿何じや己れ罪に伏せしやと云るゝ時庄兵衞は猶も遁るゝだけ脱れんと思ひ私し全然樣なる覺えは之なしと申により大岡殿斯兩人は罪に伏したれ共此上にも爭はゞ是非なく拷問申し附るとこれより庄兵衞の昌次郎は拷問に掛り種々責られ終に人殺しの一條より國を立退き江戸へ來り本郷に少しの知己ある故是に落附候所天命にて召捕られし段申立しかば則ち石出帶刀より爪印を取て奉行所へ差出しに及びけりよつて享保十一年正月二十三日右一件につき又々評定所へ前々の通り夫々の役人列座ある願人憑司并に郡奉行伊藤半右衞門等は牢より引出され且又川崎金左衞門及小野寺源兵衞相手方傳吉及與惣次村役差添人尚又引合の細川家の家來井戸源次郎三浦屋四郎左衞門善右衞門皆々白洲へ罷出ければ目安役與力一々名前を呼立る時大岡殿席を進まれ是迄段々吟味を遂し通り最早其方罪に伏したるやと云れしかば憑司は左右恐れぬ體にて私し悴を殺され爭か罪に伏し申さんやと申すに大岡殿其方如何に爭ふとも河原の死骸は馬丁と空せみの兩人にして昌次郎夫婦は存命いたし居るぞ然るに傳吉を罪に陷さんと巧み訴訟しは重々不屆きなる奴かなと云はるゝを憑司猶押返し恐れ乍ら其死骸が馬丁並に空せみと申遊女なりと云確固なる證據も御座らずといふに越前守殿馬丁には慥の證據も非ざれ共女は腕に源次郎命と彫物ありし故是なる源次郎の申口にて委細相譯りしなり又一人は空せみを勾引たる馬丁に相違あるまじ汝何に僞るとも天命爭か惡を助けんや早く白状致すべしと一々證據を示されければ流石の憑司も包むに由なく實は傳吉に村長を奪はれしと存じ彼れを亡者となし我また後役にならんと惡心増長せし所役人へ遣はす賄賂の金子に困り悴夫婦を江戸へ稼に出し給金にて地頭役人を拵へ先役に立歸らんと存じ此ことを村中へ知らせず日暮て立出させし所に猿島河原迄到り火打道具を失念致したるを心付昌次郎は取に立戻る時私しは又宅にて心付子供等が後を追駈昌次郎と途中にて行違ひと成り梅一人河原に待居たる所雲助風俗の者女を勾引し來り打叩くを傍らにて梅は驚き迯出す所を又其者梅をも捕へんとて爭ふ所へ私は駈付夫と見るより切付しに過つて彼の女を切殺し又悴は雲助を打果せしかば如何ならんと相談致し傳吉を罪に落さんと二人か首を切り川へ流し着類を着せ替へ其上傳吉が庭の飛石に血の跡を附置しに我が手に掛しは現在娘千代にてありしか彼が事は行衞知れず然るに彼は親を慕ひ夫へ願ひ態々尋ね來りしを不便の事をしてけりと強情我慢を言張し憑司夫婦も恩愛に心の鬼の角をれて是まで巧みし惡事の段々殘らず白状なりたりけり依て大岡殿は外々の者共へも右の趣きを言渡され別けて善右衞門には惡者松五郎欠落中未だ行衞分らざる由につき猶尋ね申べきむね嚴重に仰付られしかば憑司はたゞ恐れ入てぞ居たりける斯の如く追々調べ相濟しに付一同口書爪印仰付られ享保十二年二月二日一同呼出しに相成例の如く役人衆列席大岡殿夫々科の次第申渡されたり 榊原遠江守領分越後國頸城郡寶田村百姓   憑司 其方儀村長役をも勤ながら傳吉留守中同人叔母早と密通に及び早を我が家へ引取妻と致し其後村長役を召放され傳吉へ後役申付られしを妬く思ひ加之猿島河原に於て現在娘千代事空せみを切害し其罪を傳吉へ負せん事を榊原遠江守郡奉行伊藤半右衞門外下役二人の者共と相謀り傳吉か無實の汚名を申立彼を亡ひし後己れ跡に再勤せんと巧みし條不屆至極に付死罪の上越後國猿島河原に於て獄門申付る 右同斷            同人妻   はや 其方儀平常身持宜からず數度夫を持不貞の行ひありしのみならず森田屋銀五郎方の大恩を忘れ病人を捨置欠落致し其上我か甥傳吉より七十五兩の大金を遣したる信義を忘れ憑司と密通致し傳吉を計り殺さんと致し候條不屆至極に付八丈島へ流罪申付る 憑司悴昌次郎事              庄兵衞 其方儀傳吉先妻梅と奸通に及びしのみならず傳吉預け置候金子を欺り取加之猿島河原に於て名も知れざる馬丁を切害し自分と梅との衣類着替置其罪を傳吉へ負せん事を親倶々相謀り候條重々不屆至極に付死罪の上猿島河原に於て獄門申付る 昌次郎事庄兵衞妻梅事            とよ 其方義夫傳吉の留守中昌次郎と奸通致し剩さへ傳吉歸國の節密夫昌次郎に大金を欺取せ旁々以て不埓に付三宅島へ遠島申付る 榊原遠江守家來              伊藤半右衞門 其方儀重き役儀を勤ながら賄賂を取邪の捌をなし不吟味の上傳吉を無體に拷問に掛無實の罪に陷し役儀を失ふ條不屆に付繩附の儘主人遠江守へ下さる間家法に行ひ候樣留守居へ申渡す 右同斷                  川崎金右衞門 其方儀奉行の申付とは言ながら賄賂を取役儀を失ひ無體に威權を弄し良民を無實の罪に陷し入候條不屆に付繩附の儘主人へ下さる家法に行ひ候樣留守居へ申渡す 右同斷                  小野寺源兵衞 右同文言 新吉原奉公人口宿             善右衞門 其方儀松五郎尋ねの所未だ行衞相知れざる趣き空せみ事千代存命も是れ有らば入牢の上屹度被仰付之處當人空せみ相果候上は一等を減じられ江戸構へ申付る 細川越中守家來              井戸源次郎 其方儀不正の儀もこれなく構ひなし 新吉原町一丁目              三浦屋 四郎左衞門 右同文言 榊原遠江守領分越後國頸城郡寶田村名主   傳吉 其方儀不正の儀無之而已ならず我が家の衰頽を再興せんことを年來心掛貯はへたる金子を惜む事なく叔母早へ分與へたるは仁なり義なり憑司昌次郎と交りを絶身を退ひたるは智なり又梅を離縁して昌次郎へ遣し見返らざるは信なり罪なくして牢屋に繋がれ薄命を覺悟して怨言なきは禮なり薄命を歎じて死を定めしは勇なり五常の道に叶ふ事斯の如く之に依て其徳行を賞して傳吉は領主より相當の恩賞あるべき旨別段遠江守へ仰せ付らるゝ間此旨留守居へ相心得よと申渡す 傳吉妻   せん 其方儀貞實信義の烈女民間には稀なる者なり汝が貞心天も感ずる所にして斯夫が無實の罪明白に成事感賞に勝たりとて厚く御褒詞有之 信濃國水内郡野尻宿            與惣次 其方儀專が親と成り傳吉が無實の罪を助けんと財を惜まず眞實の心より專を助け萬事に心添致し遣はし候段奇特に思し召るゝ旨御賞詞有之 榊原遠江守領分越後國頸城郡寶田村組頭總代 吉兵衞 同               百姓總代 勘右衞門 其方共是迄傳吉の證人に相立御吟味の節申口諛らひなく正直に申上候段譽置 斯の如く賞罰夫々仰せ付られ其日の廳は果にける之より傳吉夫婦は晴天白日の身となりしのみか領主より帶刀を許され代々村長役たるべき旨仰付られしかば歡び物に譬ん方なく三浦屋の主人并びに井戸源次郎を始め其事に立障りし人々に厚く禮を述べ與惣次村役人同道なし目出度越後寶田村故郷へ立歸りしかば同村の人々は死せし者の蘇生せし思ひをなし傳吉夫婦此度無實の罪は速に消え故郷へ歸りし祝也とて村中の者を厚く饗應たり又郡奉行伊藤伴右衞門は討首川崎金右衞門小野寺源兵衞の二人は帶刀取上領内構ひの由夫々領主へ申付られけり斯て翌年一週忌に當る頃は上臺憑司昌次郎空せみ伊藤伴右衞門と彼馬丁等と惡人たりとも刀下の鬼となりしを深く憐れみ此人々の爲に僧を多く招き同村の寺にて大法會を執行なひ村中へは施行をなし夫れより後傳吉は倍々其身を愼み村人を憐れみければ一村擧つて其徳を稱し領主よりも屡々賞詞を蒙ふりける又野尻宿の與惣次の實家は縁類の者を以て養子となし其の身は傳吉方へ引取れ一生安樂に過しお專も其後子供幾多設けければ傳吉が取計ひにて實家森田やの家名を相續なさしめ銀五郎と名乘今に繁昌なしけるぞお早親子は年立て後上の大赦に逢ひ島より歸りしが傳吉之れも憐れみ厚く世話なせしに惡人のお早親子も傳吉が徳に感じ先非を悔悟すること少なからず終に尼となり兩人共同村にて人々の菩提を弔らひ終しとかや爰に不思議なるは先年罪科に所せられたる上臺昌次郎が未だ梅と姦通せざる以前村中に深く契りし娘有りし所遂に姙娠なしたる儘親元へも掛合出生の子は男女に係はらず昌次郎方へ引取約束なりしが娘は程なく男子を産たるも産後敢果なく成けるにぞ其親は娘の遺物と生れし幼兒を昌次郎方へ遣さず養育なしたるが此者商賣の都合に寄江戸へ出其後絶て音信もなさざりしにさすが古郷のなつかしくや有りけん計らず此度越後寶田村へ立戻り住居をなせしに依此を傳吉は聞及び幸ひ上臺の家斷絶を嘆く折柄故其男子に傳吉より憑司が田地の外に若干の地を遣し上臺の家を相續成しめける眞に傳吉が行ひは孝道と信義との徳にて無實の罪に落入たるも死を迯れ一生を榮ゆる事天の惠みとは云乍ら一ツには大岡越前守殿の明智英斷に依るものなりと專ら當時人々噂をなせしとぞ 越後傳吉一件終 傾城瀬川一件 傾城瀬川一件 第一回  茲に江戸新吉原町松葉屋半左衞門抱の遊女瀬川夫の敵を討しより大岡殿の裁許となり父の讐迄討孝貞の名を顯す而已か遊女の鑑と稱られ夫が爲花街も繁昌せし由來を尋るに元大和國南都春日の社家大森隼人の次男にて右膳と云者有しが是を家督にせんと思父の隼人は右膳に行儀作法を習はせんと京都へ登せ堂上方へ宮仕させしに同家の女中お竹と云ふに密通なし末々の約束迄して居たりしを朋友の中にも其女に心を懸色々と云寄しが早晩大森右膳と深き中になり居ると云ふ事を聞甚だ妬ましく思ひ其事柄を主人へ告ければ不義は家の法度なりとて兩人共暇となりしかば右膳は女を親許より貰ひ受古郷の奈良へ連戻りしに父は大いに立腹なし勘當せしかば止を得ず右の女と夫婦になり小細工などして暮せしに生質器用にて學問も出來其上醫道の心懸も有りし故森通仙と改名し外科を專らとして傍ら賣藥を鬻ぎ不自由もなく世を送りし中女子一人を儲け名をお高とよびて夫婦の寵愛限りなく讀書は勿論絲竹の道より茶湯活花等に至るまで師を撰みて習はせしに取分書を好み童女に稀なる能書なりと人々も稱譽しけり此お高一體容貌美麗くして十五六歳に成し頃は類なき艷女なりと見る人毎に心をぞ迷しける中近隣の社人玉井大學の若黨に源八と云者ありしが常々通仙の見世へ來ては話しなどして出入りしに此者至て好色なれば娘お高を見初兩親の見ぬ時などは折々手を捕へ又は目顏にて知らせけるに兩親は只一人の娘なれば惡き蟲でも付てはならずと心を配り母は娘の側を放れぬやうにする故何分云寄に便なく源八は種々心を盡しけるが或時下男の與八と云者に酒を振舞小遣など與へて喜ばせ聲を潜めつゝ其方の主人の娘お高殿に我等豫々心を懸る所お高殿も氣のある容體なれども御母殿が猿眼をして居る故咄も出來難ければ貴樣に此文を渡す間能々人目を忍びお高どのへ渡し色よき返事を貰ひ呉よ此事首尾よく行かば禮は何程も爲んと云に與八は大いに悦びお高殿も最早十六なれば男に氣の有るは知れた事殊に貴樣の男ぶりなれば出來る事は此與八が請合也と文を預り歸りしが或日兩親の居ぬ隙を考へ右の文を渡しければお高は容體を改め其方は主人の娘に戀の執持を爲事不埓千萬なり重ねて斯樣なる事をなさば爲になるまいぞと嚴敷辱しめて文を返しけるに與八は案に相違し大いに困り果しが其儘にも爲難ければ早速に源八の方へ到り日頃は物柔かなる娘故譯もなく出來樣と存ぜしが大きな間違ひにて斯々の次第實に御氣の毒千萬と云ながら文を返しけるに源八は一向腹をも立ず否々未初戀のお高殿一度や二度では勿々成就すまじ氣永に頼むとて又々與八へ酒肴など振舞手拭雪駄等に至るまで心付或時は蕎麥など喰せて頼みしかば與八は又々文をお高へ渡種々源八が戀慕ふ樣子を物語りければお高は大に憤り文を投付一言も云はず直に母へ右の事を話せしにぞ父も此事を聞然樣の者は暇を遣すに如はなしと與八へは永の暇を遣はし其後源八が遊に來りし時皆々折目高に待遇ける故源八は手持無沙汰に悄々と立歸り是は彼の文の事を兩親の知りし故なりと深く遺恨に思ひけり 第二回  夫人の性は善なりと雖ども習慣に因て惡となると云又衆生は皆惡人なれど信心の徳に因て惡趣を放れ成佛得度なすとも云何樣善惡相半すべし偖も源八は彼の與八に暇の出たるは我故なり今は云寄手蔓もなく成りしかば通仙夫婦の者に遺恨を晴さばやと思ひて竊に鹿を一疋殺し通仙が表へ建掛て置きしを夜中の事故一人も知者なかりけり(南都にては春日明神の愛し給ふとて古へより鹿殺は科重しと云ふ)翌朝所の人々見付けて立騷ぐ聲を聞き通仙の家内も起出て見るに鹿の斃て居る故早々町役人へ屆け奈良奉行へ檢視を願ひ出でけるに通仙を呼出され吟味ありしかど素より知らざる趣き明白也然れども外に心當りの者や有と種々尋問らるゝと雖も一向心當りもなしと申に奉行所に於ても其身が殺して己が家の前に置筈は無ければ通仙に非ぬ事は知れながら本人出ざるゆゑ所拂ひとなりしかば通仙は是非なく京都へ引越苗字を山脇と改ため以前の如く外科を業とすれども南都と違新規の場所故何事も思はしからず漸々に細き煙りを立居たるに或日家内の者愛宕へ參りける留宅へ盜人押入賣殘りし少しの道具を奪取られ彌々難澁に迫り又々大坂へ立越しが左右困窮に困窮を重ね終に通仙は病死し跡には母と娘のみ益々貧窮に迫りしが當頃鯛屋大和と云者狂歌に名高く俳名を貞柳と云ひしが此者通仙と入魂なりし故妻子の難儀を見兼ねて世話をなしける處尼ヶ崎の藩中に小野田幸之進と云人有りしが勘定頭を勤め主用にて常々大坂へ出金談等も取扱ひし故貞柳も懇意になり山脇が母子の樣子を話し御家中内に相應の口も有らば御世話下されよ娘の年は十八にして容顏は沈魚落鴈羞月閉花とも謂つべき美人なりと申ければ幸之進も獨身者故大きに好もしく思ひ我等最早四十歳に近けれども先にて構ひなくば母子ともに引取妻に致さんと云ふを夫は重疊何分にも御頼み申とて引合せしに大いに幸之進が心に適ひ母子共引取て大坂に差置不自由なき樣に金銀を送り半年ばかり世話せしに疾主人の供にて江戸へ下るに付き母子にも路金并びに手形を渡し後より下り來るべしと申置きし故頓て支度を調へ東海道を下り豫て約束なれば深川の下屋敷へ到着致しけるに小野田は三年以前に先妻は相果子供もなく住居も下邸の事なれば手廣き暮しに付母娘共大きに安堵して幸之進を大切に待遇けり夫より又半年程經過主用にて又々大坂へ登り尼ヶ崎へも立寄べき事有りて金四百五十兩を預り急の旅なれば駕籠より乘掛が宜しと供人も纔に引連てぞ登りける 第三回  偖も小野田幸之進は主命に因て江戸屋敷を出立なし大坂へと赴く途中箱根も打越て江尻へ泊り急ぎの旅なれば翌曉寅刻頃に出立しけるが江尻宿を放れて十町ばかり野合へ掛る處へ向ふより二人の旅人通り掛り幸之進が馬の脇を行違ふ時拔手も見せず右の片足をばつさり切落しければ幸之進はアツト云ひ樣馬より落る處を起しも立ず突殺す故馬士は仰天なし迯んと爲すを一人の旅人飛蒐て是をも切殺すに供の男は周章狼狽後をも見ずして迯歸りける故頓て盜賊は荷繩を解明荷の中に在りし金四百五十兩并びに幸之進が胴卷の中にありし二十兩餘りの金と大小衣類迄も奪取行衞も知れず迯去ける依て彼の供人は江尻宿へ引返し宿役人へ斷り置死骸を改め飛脚を以て江戸表へ注進なし猶又其身も立歸りて委しく申立てければ大守よりは公儀へ御屆けの上死骸は引取られしが大守は大いに怒れ武士たる者一太刀も合せず殺されて用金を奪ひ取られし事他聞も宜しからず當家の恥辱なりとて改易申付られ尤も憐愍を以て家財は家内へ與へられたれば通仙が後家お竹并びに娘お高は邸を追拂はれ富澤町に若松屋金七と云者幸之進と入魂故此者の方へ引移り世話になりけるが如何なる過去の因縁にや漸々小野田が方へ縁付安堵せしに間もなく又もや思ひの外の災難にて再び流浪の身となり親子涙の乾く隙なき所に廿日ばかり立中近所より出火と云程こそあれ大火となり若松屋金七も類燒しければ是までの如くは勿々世話にも成難く如何はせんと思ひし折柄竹本君太夫と云ふ淨瑠璃語り金七が上方に在りし頃よりの知己にて火事見舞に來りしを幸ひ小野田が後家の身の上を頼ければ君太夫も大坂者ゆゑ一しほ思ひ遣り夫は嘸御難儀なるべし片田舍なれども當分御凌ぎに淺草今戸の町へ御越あれとて荷物を運送せ引移らせけるに日數立に隨ひお高は熟々思ふ樣幸之進殿盜賊の手に掛り果給ひしは嘸御無念に在すらん殊更武士に有るまじき事と諸人に笑れ給ふ事如何にも口惜き次第なり我も女には生れたれども敵を討取幸之進殿に手向進らせ度一ツには行末永き浪人の身の上母公の養育にもさし支へるは眼前なり且敵を探るに女の身なれば多くの人に交際るには遊女に如事なし彼の節幸之進殿所持せられし大小印形に勿論衣類紙入胴卷は妾が縫たれば覺えあり是を證據に神佛へ誓ひを掛け尋ね出し敵を討で置くべきやと一心を込て君太夫に對ひ其許樣には常々吉原へ入込給へば私しの身を遊女に成れ其の身の代金にて母の身の上を御世話下され度何分宜樣に御取計ひ給はれと頼みければ君太夫感心は爲すものゝ又哀れを催し實に驚き入たる御志操なれども夫よりは貴孃の御縹緻なれば御縁の口は何程も有るべし我等豫て頼置たれば先待給へと云ふに否縁付も氣兼が否なれば氣樂に遊女奉公を勤度と強て望むにより素より吉原は心安き所故松葉屋半左衞門方へ相談しけるに縹緻と云ひ藝と云ひ殊に歳頃も彼の望む處なれば年一杯二十八までの積にて目見しけるに大いに心に適ひ身代金百五十兩と取極君太夫が請人にて母の爪印も相濟新吉原松葉屋半左衞門方へぞ到りける 第四回  然程に新吉原松葉屋にては彼のお高を抱へ樣子を見に書は廣澤を學び琴は生田流揷花は遠州流茶事より歌俳諧に至るまで是を知らずと云ふ事なく殊に容貌美麗く眼に千金の色を含み物事柔和にして名にし負ふ大和詞なれば人愛ありて朋輩の中も睦しく怜悧ゆゑ僅かの中に廓言葉外八文字の踏樣迄も覺えしかば松葉屋の喜悦大方ならず近き中に突出にせんとて名を選みしに初代の瀬川は大傳馬町の或大盡に根引せられ其後名を繼程の者なければ暫く絶たれども是迄瀬川に双ぶ全盛なし今度抱へしお高は元の瀬川に勝れるとも劣るまじとて瀬川と名を付け新造禿迄を選び突出しの仕着より茶屋々々の暖簾に至る迄も花々敷吉原中大評判故突出しの日より晝夜の客絶る間なく如何なる老人醜き男にても麁末に扱はざれば人々皆先を爭ひ入り來る故實に松葉屋の大黒柱金箱と持はやされ全盛双ぶ方なく時めきける中早其年も暮て享保七年四月中旬上方の客仲の町の桐屋と云ふ茶屋より松葉屋へ上りけるに三人連にて歴々と見え歌浦八重咲幾世とて何も晝三の名題遊女を上廿日程の中に十四五日續けて來りしに何も二日づつは居續けに遊びしが或時遣手若い者を呼て我等は八丁堀に旅宿して當分上方へは歸らぬ積り上方より御當地は勿々面白く來年にならば古郷は親類に預江戸住居に致さんと思ふなり夫に附て在所へ金五百兩程取に遣したり今茲には少しなれども四百兩有れば五六日御亭主へ預けたし其仔細は我々江の島鎌倉へ參る間道中の邪魔になる故預けて行きたし頼み入と申ければ若い者遣手詞を揃へ御茶屋へ御預けなさるゝは格別此方にては御預かり申まじと云ひけるに其は大いに道理なり茶屋へも話し其の上にて預け申さん御亭主へ相談して給はれと申故松葉屋にても如何樣上方の大盡なるべしと茶屋を呼右の話をなしたるに上方の衆は關東者と違ひ念を入候へば物を堅くする心ならんとて松葉屋桐屋共に立出對面に及びしかば大金を出し五六日預かり給はれと謂しに桐屋の亭主其御金は御宿へ御預けなされては如何に候やと云ふに彼の客然れば宿は懇意の者ゆゑ金銀を遣ふ事を異見致せば預ける事叶ひ難し其譯は金を遣ひなくしたりと僞り又々五百兩程在所へ取りに遣はしたれば此金は見せ難しとの口上ゆゑ松葉屋桐屋は金を遣はせるが商賣に付き然樣に候はゞ御預り申さんと云ふを客は念の爲御兩所より一札を申受我々も念の爲預けたる證文を入れ申さんと硯を取寄一札を記載三人の名の下へ印を据て預りの一札と引換になし素より急がぬ旅なれど日和を見定め出立致さん夫迄は遊び暮すべしとて猶賑は敷ぞ居續ける其日は夕申刻時分にて瀬川が晝の客も歸り何か用の有りとて内證へ行きしに右の一札を女房に讀聞せ居たるを何心なく散りと見るに見知りたる書體と云ひ夫幸之進が印形に似たる故主人より借りて熟々見るに田原源八小笠原佐七後藤平四郎と云ふ名前にて夫の印形は平四郎と云ふ名の下に捺て有り偖は此者こそ本夫を殺したる者なるべけれと思ひ此人は何屋より送られし客人なるやと聞けば女房答へて夫は桐屋からの客人なり金を四百兩預けられしが何れも歴々の人ならんと云ふをそこ〳〵に聞なし我が部屋に到り身拵へして新造禿を引連兵庫屋へ行途中桐屋へ立寄歌浦さんの御客は上方の衆かと問ば女房飛で出御前樣の御言葉に能似て御出なさると云ふを聞き三人ながら上方ばかりか江戸の衆も一座かと問に御三人とも大津とか云ふ所の御方と答ふるを偖は古郷を隱して大津と僞りしならんと思ひ若や知つた御方なるか三人の腰の物を見せてと云ふに女房は何の氣も付ず出して見せれば平四郎と云ふ者の脇差は紛ふ方なき夫幸之進が差料なり印形と云ひ脇差と云ひ敵は平四郎に極つたりと思ひ其平さんとやらの女郎衆はと問ば八重咲樣と云ふを聞き然あらぬ體に其所を立出兵庫屋迄行きしが急病と僞り先松葉屋へ立歸りて心靜に身拵へなし密と歌浦が座敷を覗ふに彼の三人は有頂天に成りて遊び戯ふれ居しが其中の一人は豫て知りたる源八なり是は歌浦が客と聞き素より心立惡き源八にて兩親の憂苦勞し給ふも渠ゆゑとは思へども敵にも有らぬ者を殺しては濟ず印形と脇差が證據なれば平四郎こそ幸之進が敵なりと思ひ定めて座敷の引るを待居たり 第五回  早其夜も既に亥刻過皆々床へ入たる樣子にて座敷々々も寂と成ければ瀬川は用意の短刀を隱し持八重咲の座敷へ行八重咲さん〳〵と呼に八重咲は何の氣も付ずアイと答へて廊下へ出るを何か用を頼み外へ遣置急立心を鎭めて覗見るに平四郎は夜具に凭れて鼻唄を唄ひ居るにぞ能御出なんしたと屏風の中に入主に御聞申事が有と布團の上へ上りけれども何の氣も付ぬ處を夫の敵覺えたかと云さま彼の懷劍を胴腹へ突込しかば平四郎はアツト聲立仰向に倒れ七轉八倒なす故隣の座敷は源八歌浦なれば此聲に驚き馳來るを己れも迯さぬぞと源八へ突掛るに源八は思ひも寄ぬ事なれば驚き周章右の手を出して刄物を挈取んとせし處を切先深く二の腕を突貫されヤアと躊躇を隙さず咽喉へ突貫さんとしけれども手先狂ひて頬より口まで斬付たり源八悶ながら顏を見ればお高なりしにぞ南無三と蹴倒して其所を飛出し連の佐七と倶に後をも見ずして迯行けり然ば松葉屋の二階は天地も覆へるばかりの騷ぎになり主半左衞門を始として皆々二階へ駈來り見るに平四郎は朱に染苦痛の有樣にのた打廻り居る傍らに瀬川は懷劔を逆手に持し儘氣を失ひて倒れ居たりしかば是は何事ならんと氣付を與へて樣子を聞に敵討なりと申故半左衞門大いに驚き早々町役人を招き相談に及ぶ中若松屋金七竹本君太夫并に瀬川の母も駈來り皆々樣子を聞て天晴の手柄なりと喜びしが連の二人を迯したる事口惜と云に半左衞門否々事故もなく殺さば連の二人が一座を遁るゝ筈なし何か身に覺え有ればこそ姿を隱せしと見えたりと云中疾夜も明渡りしかば早速町奉行大岡越前守殿へ訴へ出けるに檢使の者來りて疵を改め手負の者に樣子を聞共一向言舌分り兼宿も知れざれば其儘手當をさせ置瀬川の口書を取て檢使は立歸り右の趣き申立しに大岡殿迯たる手負は深手か淺手かと尋ねらるれば二の腕は深く顏の疵は少ならんと瀬川申候と云を聞れ偖々女には落付たる答なり市中廻の者に下知なし疵を證據に召捕候へと申渡され夫より瀬川并に母お竹請人君太夫松葉屋桐屋以下呼出され瀬川の本夫と云は何者なるやと尋問らるゝに瀬川は愼んで首を上舊尼ヶ崎の藩中小野田幸之進と申者にて主用有之上方へ登り候時江尻宿にて盜賊の爲に切害に逢主人の金四百五十兩并に其身用意の金二十兩衣類大小まで奪ひ取られ家も斷絶仕つりしのみか盜賊の爲に殺害致されしは武士の恥辱とて一家中幸之進の噂以ての外宜からず如何にも口惜く存候まゝ神佛へ誓を掛漸く敵を討て候と申立しかば大岡殿不審に思はれ其方敵の面體豫て見覺え居たるや覺束なしと有しに瀬川其事は上方の客三人半左衞門へ金四百兩預け候とて證文を取替せしに後藤平四郎と申名の下に捺たる印形は幸之進の實印に相違なく然れども夫ばかりにて定め難しと存茶屋へ參り腰の物を改め見候に本夫の脇差を所持致し居に付彌々敵に相違なしと存討果して候と答へるを大岡殿聞かれ何樣道理なる申分なり然ど今一人に斬付たりと有は是も敵なりやと尋ねらるゝに瀬川否其者は源八と申て同郷の者にて私しへ不義を申掛候而已ならず私し親どもへも甚だ迷惑を掛一體志操宜しからぬ者に付同惡と存殊に仇討の節妨げ致し候故是非なく疵を付候と申ければして又其方敵討致さん爲に遊女奉公を勤めしや外に謂れ有歟と問るゝに瀬川其儀は御覽の通りの老母一人有之君太夫とても永々世話に相成居も心苦敷又金七と申者も火難に逢氣の毒に候故相談の上遊女奉公仕つり其金を以て母の養育に當候と少しも滯ほりなく申立る體如何にも誠心に見えければ大岡殿大いに感じられ其方事女には稀なる志操なり追々取調べ遣はさんとて一件相濟迄瀬川は主人へ預け申付られ皆々下られけり夫より大岡殿源八佐七が人相疵等を證據に役人に申付られ江戸近在迄も探索あると雖も一向行方知ざりけり 第六回  大岡殿或時役人を呼れ瀬川一件の盜賊共數日になれども更に行方知れず因て其方共名主へ掛り江戸中の外療醫を吟味して見よ似寄の者あるべきぞと指揮ありしに付八方へ分れて名主へ掛り外療醫者を呼出し取調べ有しに一向右體の怪我人見當らざる由を申により又外々の名主へ掛り尋けるに下谷廣小路に道達とて表へは賣藥見世を出し置外療醫をなす者の申口に當月廿二日の夜丑滿頃侍ひ體の者二人戸をこぢ明て入來り一人は拔身を持一人は私しを捕て此疵を療治致せ然もなくば切殺と申候に付據ろ無療治致し膏藥を遣し候處本復次第に禮すると云て行方も知れず出行候と申ければ役人住所は何處とも云ざりしかと問ふに道達夜中に押込候程の者共に候へば一向名や所は申さずと答ふるにぞ大概其者ならんと思へども手疵は何方なりやと尋ねるに頬より口まで一ヶ所二の腕四寸ばかり突疵之あり兩處ともに縫候と申ければ夫にて分明たりとて其段申立しかば大岡殿暫時考へられ非人小屋又は大寺の縁の下其外常々人の住ぬ明堂などに心を付よと申渡されしに付役人は八方に眼を配り諸所を尋ねしに一向知れざりしが原田平左衞門と云市中廻の同心或夜亥刻過根津の方より歸り懸池の端へ來懸りしに誰やらん堀を越垣を乘越て上野の山内へ入者ありしかば大いに怪み田村權右衞門へ申斷り内密に清水門より入りて見廻けるに夫ぞと思ふ事もなけれど中堂の縁の下何となく怪し氣に思はるゝ故傍邊へ身を潜めて窺ひ居たりしに稍夜の子刻頃とも覺しき頃散々と火の光見えたりしが忽ち消し故彌々心を鎭めて窺ひたれば莨の火にや有けん折々見えては消るにぞ是は曲者に疑ひなしと直に供の者を使に遣し奉行所に通じければ直樣捕方の者駈來りしが未夜は明ざるに付四方へ手配りをなし山同心をも借集て取卷せ夜明方に原田平左衞門始踏込見るに夜具も暖かに着て二人眠り居る故是程の騷ぎを知らざるは餘程の寢惚なるか腰が拔たるかと同心上意と聲懸飛掛つて捕るに驚き漸々目を覺しけるを矢庭に二人とも生捕引立しは心地よくこそ見えたりけり依て二人とも入牢申付られしが吉原に在し手負の平四郎は四日目に相果し故檢視を遣し死骸は小塚原へ捨べき旨申渡されけれ共内々松葉屋より葬りけるとかや 第七回  然程に上野中堂に於て召捕たる曲者二人を引出し調べられしに瀬川が申立し人相并に疵所等迄相違なき故大岡殿曲者に對はれ其方ども上野中堂の縁の下に隱住事何故なるや有體に申立よと有に兩人共一言の返答も出來難き有樣にて俯伏居るを重ねて其方共夜中廣小路醫師道達方へ押込刄物を以て威し療治致させ上野に匿れ住は身に暗き處有故ならずや白状せず共此科に因て首はなきものと心得よ因ては南都以來の舊惡殘らず白状致せ左もなき時は嚴敷拷問申付る苦痛致すは死する身に損なるべしと申さるゝに源八佐七の兩人首を上我々は上方者にて御當地に知人もなく止事を得ず御山内に住居仕つり候と申立るを大岡殿呵々と笑はれ白痴め知人なしとて宿屋もあり汝等が罪は明白に知れて居るぞ江尻に於て小野田幸之進を殺し四百五十兩の金其外金銀衣類大小を奪ひ取たる事松葉屋の二階にて平四郎手負ながら白状に及び殊に源八は本人なりと申たりサア未練らしく隱すなと申されしかば兩人共一言の答へもなく居たりしかば大岡殿詞を和らげられ能々承まはれ只今も申通り其方共の大罪は知れて有共白状せぬ中は御仕置申付ざる事法令なり因て只今より拷問申付る夫より潔よく白状して最後を清くせよ假にも帶刀せし者は夫丈に名を潔く致せと云れけるに源八は覺悟をせし樣子にて仰の如く我々白状致すべし先第一は南都に於て大森通仙娘お高に戀慕致し戀の叶はぬ意趣に鹿を殺し通仙の家の前へ置しにより通仙は奈良を追拂はれ京都に住居の時留守宅へ忍び入衣類を奪ひ取大津へ立越賭博を打佐七平四郎と兄弟分になり上方より東海道を稼折々は江戸へも立出候處尼ヶ崎家中の侍士金用にて出立と馬士の咄を耳に挾み神奈川より付て參り江尻に於て其侍士を切殺し金銀諸品奪ひ取候と申立ければ潔よき白状神妙なり又幸之進を殺せしは誰にて馬士を殺たるは誰なるやと尋られしに幸之進を殺たるは私しにて馬士を殺し候は平四郎なりと申故シテ松葉屋へ金を預けんとせしは如何なる故ぞと有に源八其儀は私し共を確實に見せ置松葉屋の案内大方見定め候間同家の金銀奪取ん爲故と金子を預け候と一々白状に及びしかば是にて落着致し五月九日吉原町引合の者并に尼ヶ崎の城主松平縫頭殿留守居等殘らず呼出され大岡殿右留守居に對はれ先年江尻宿に於て松平縫殿頭家來小野田幸之進と申者盜賊に切害せられ金銀を奪取れたる由今度其盜賊取押へし處右殘金有之と雖も其節屆出之なきに付公儀へ御取上に相成間其段心得られよと申渡され留守居は恐入畏まり奉つると云て立歸る次に瀬川と呼れ其方儀夫にて承まはれとて源八佐七南都以來の事共今一應申立よと云れし時兩人委細白状なせしかば各々大いに驚き感じける時に瀬川は謹んで膝を進め扨は源八こそ親夫の敵にて有しを討止さりし事口惜く候と申立るを大岡殿否々源八を殺せば事故明白に解らず源八存命故に委細分りしなり殊に少々にても疵を付たれば敵を討しも同前知れ難き惡人共我手に入しは公儀への御奉公親の讐のみならず本夫の敵まで討たるは忠孝貞と揃ひし烈婦と云べし吉原町始りしより以降斯る遊女有べからずと賞美ありしかば瀬川は云も更なり抱へ主松葉屋迄も面目を施し其外聞居たる公事訴訟人迄感ぜぬ者ぞ無りける扨又源八は打首の上獄門佐七は遠島申渡されしとぞ 第八回  此時大岡殿松葉屋半左衞門と呼れ其方存ぜぬ事とは申ながら盜人の金を預りしは不屆なり又瀬川事遊女奉公御免仰付らるゝ同瀬川の身の代金は只今より後の所存たるべし尚又存寄有やと尋らるゝに半左衞門謹んで首を上敵討仕つり候程の孝心なる瀬川何とて勤をさせ置候はんや殊更渠等白状の趣きにては私し方へ押入盜み致す所存の由盜難を遁れ候も全く瀬川の働きに候へば然のみ損も之なく且又私し抱への遊女敵討仕つりしと申事外聞も宜しく旁々以て一向に申分御座なく候と申により神妙なりと有て盜賊より預りし金四百兩は取上の上富澤町金七淨瑠璃語君太夫へ渡され其方共瀬川親子の者を世話致し候段奇特なり瀬川事討難き讐を討其手筋にて科人相知れ其身の本望公邊への御奉公神妙に思召幸之進取れ候金子の中四百兩相殘り候に付瀬川へ下さるゝ間母諸共流浪致さぬ樣取計らひ遣せと申渡され皆々有難き旨之を申喜悦勇みて下りけり依て瀬川が評判江戸中鳴渡り諸方より貰はんと云者數多あれ共當人は是を承引かず今迄の難澁とても世に云苦勞性なるべし遁世して父と夫の後を弔ふこそ誠の安樂成んとて幡隨院の弟子となり剃髮染衣に状を變名を自貞と改め淺草今戸に庵を結び再法庵と號し母諸共に行ひ濟し安く浮世を過せしとかや庵の壁に種々の和歌ありけるが其中に いけ水に夜な〳〵影は映れども水もにごらず月もけがさず 其次三代目の瀬川も名高き遊女成しが丁字屋の雛鶴とは常々心安かりしに身請せられし時の文に 承まはり候へば此廓の火宅を今日しも御放れ候て凉しき方へ御根引の花珍敷新枕御羨敷は物かは殊に殿には木そもじ樣は土陰陽を起し陽は養にして一生養ふを云卦の表萬人の養育萬人にかしづかれ給ふと御頼母しくも愛度鳥渡占ひ參らせ候あなかしこ 松瀬 より 丁雛樣 御もとへ 其後寛政の頃三代目の瀬川は或大諸侯の留守居に身請せられしが其人主人の金を遣ひ過し閉門申付けられしに瀬川は隙を見て遁亡しければ彼の留守居は瀬川故に難を受しに瀬川は我を捨て遁しこそ遺恨なれと自殺して死せしとぞ又瀬川は年頃云交せし男と連副しに何時となく神氣狂ひ左右の小鬢に角の如き癌出來し故人々彼の留守居の執念にてや有んと云しが何時しか人の見ぬ間に井戸へ身を投空敷なりたりけり案ずるに鬼女の如き面體になりしを恥て死にけるか但亂心にや一人は末に名を上一人は末に名を穢せりと世に風聞せしとなん 傾城瀬川一件終 畔倉重四郎一件 畔倉重四郎一件 第一回  仁は以て下に厚く儉は以て用るに足和に而弛めず寛に而能斷ずと然ば徳川八代將軍吉宗公の御治世享保年中大岡越前守忠相殿勤役中數多の裁許之ありし中畔倉重四郎が事蹟を尋ぬるに武州埼玉郡幸手宿に豪富の聞え高き穀物問屋にて穀屋平兵衞と言者あり家内三十餘人の暮しなるが此平兵衞は正直律儀の生質にて情深き者なれば人を憐み助ることの多きゆゑ人皆其徳を慕ひ敬ひける然るに夫婦の中に二人の子供ありて長男は平吉とて二十一歳妹をお浪と呼て十八歳なるが此お浪は容貌衆に勝れて美麗き上氣象も優美ければ兩親の愛情も一方ならず所々方々より縁談を申入るゝ者多かりしが今度同宿の杉戸屋富右衞門が媒人にて關宿在坂戸村の名主是も分限の聞えある柏木庄左衞門の悴庄之助に配偶せんとて既に約束整ひ双方の結納をも取交せしかば兩親の悦び大方ならず此上は吉日を撰み一日も早く婚姻をさせんと急ぎしが庄左衞門方に當時少々の差合の儀出來しにより當暮にと相談極り專ら其支度にぞ及びける爰に又有馬玄蕃頭殿の浪人畔倉重左衞門と言者あり其悴を重四郎と呼今年二十五歳にて美男と言殊に手跡も能其上劔術早業の名を得し者なるが父重左衞門より引續き手跡の指南をして在ける故彼の穀屋平兵衞の悴平吉も此重四郎に從ひ專ら筆道を學びしかば平兵衞始め家内の者迄重四郎を先生々々と最叮嚀に待遇敬ひ居たり或時店の若者等打寄彼の先生には劔術の早業に達し給ふと承まはり候が我々も親方の用事ある時は金子を持て野道山路は云も更なり都合に因ては朝は星を戴き暮には月を踏で旅行なす事往々あるにより先生を頼み劔術を學びなば道中爲にも心強く且賊難を防ぐ一端共成事なれば此趣きを旦那へ願ひ見んとて一同より平兵衞へ斯と語りしに平兵衞も道理と思ひ夫は隨分宜事なれば左も右も其方達の隨意に致すべしと許されしにより若者等は大に悦び早速重四郎の方へ到り此趣きを只管頼みしに重四郎も辭み難く承知せしかば此より畔倉を師匠として主用の間には劔道をぞ學びける是に因て重四郎も毎度穀屋へ出入致しける處に主平兵衞は殊の外圍碁を好みて相應に打ける故折々は重四郎を碁の相手となせしを以て重四郎は猶も繁々出入なし居しが偶然娘お浪の容貌の美しきを見初しより戀慕の情止難く獨り胸を焦せしが寧そ我が思ひの情を云送らんと艷書に認め懷中しつゝ好機もあらばお浪に渡さんものと來る度毎に窺ひ居けれ共其間のあらざれば空しく光陰を打過し中或時重四郎又入り來りけるに平兵衞は相手欲やと思ふ折柄なれば重四郎殿能こそ御入來ありしぞ率々一石參らんと碁盤引寄重四郎を相手に碁を圍み茶菓子などを出して饗應けれども心爰に在ざれば見れども見えずの道理にて重四郎はお浪にのみ心を奪はれ居たりし故打石には眼も止らず初めの碁は脆く負けるに平兵衞は大に悦びて手水に立しを重四郎は是幸ひと娘の部屋を覗き見れば折節お浪は只獨り裁縫をなし居たるにぞ頓て件んの文を取出しお浪の袖へ密と入何喰ぬ顏をして元の座に直り早々歸らんとせし所へ平兵衞來り今一石と望みけるにより又々一石打終り挨拶もそこ〳〵に暇を告て立歸り今日こそ我が思ひのたけを通ぜしからは如何なる返事をなすやらんと一時千秋の思ひにて待居たり却つて説娘お浪は重四郎が袖へ入しは何やらんと出し見れば豈圖らんお浪樣參る御存じよりと認めたる艷書なりしかば大いに驚き少間茫然として在けるが良あつて心を定め乳母に相談せんものと密に乳母を呼て彼の艷書を封の儘に見せければ乳母は大いに打驚き是は此儘に捨置難し旦那樣へ御見せ申さんとて立んと爲るをお浪は引止否々那重四郎樣は兄樣のお師匠なれば此事父上の耳に入る時は元來物固き父上ゆゑ若や手荒きことのありもせば兄樣に對し云ひ譯なし又重四郎樣へも氣の毒なり外に思案をしてたもれと言れて乳母は實にもと思ひ暫し工夫に暮居たり折柄媒人の富右衞門來りしにより是幸ひと乳母は彼の艷書を出して富右衞門に見せければ元來篤實の富右衞門なれば以ての外に驚き是は等閑に致し難しと言つゝ此事を主人平兵衞に咄しけるに平兵衞は是を聞烈火の如く憤ほり惡き重四郎が擧動かな娘と不義せしなどと沙汰ある時は家に瑾を附るの道理なり此上は重四郎を寄附ぬ事こそ肝要なれと早速番頭を始め皆々へ重四郎は斯樣々々の譯ある故足を遠くする樣此後は店へ來る共餘り心安く致すべからずと申し付て後來をぞ戒め置たりける扨又重四郎は一兩日過て色よき返事を聞んものと穀屋へ來り例の如く店へ上りて種々咄しなど爲けれ共小僧を始め一向構ひつけず茶も一杯出さずして何か不興氣の樣子なれば重四郎は手持惡く平吉殿は如何成されしやと奧へ通らんとするを番頭押止め今日は主人も平吉も留守なりと常に變りし顏色にて重四郎を眦裂る體を見て重四郎は奧へも行れねば其儘そこ〳〵我が家へ立歸り獨り倩々考ふるに毎度に變りし今日の樣子且番頭が我を眦裂し事合點行ず扨は彼の文を父平兵衞に見せしにや其等の事より我が足を遠避んとの事ならん其儀ならば我もまた仕方ありとて其夜穀平方の門邊に到り内の樣子を窺ひ子僧にても出て來りなば仔細を聞かんと身を忍びて居たる所へ丁稚音吉が使ひに出しを見て重四郎は心に悦び是を呼掛何れへ參るや其方に少し尋ね度段あり先々此方へ來るべしと酒屋へ連行酒肴などを出させて振舞つゝ重四郎申けるは某し先刻其方の店へ到りしに番頭の挨拶振何共合點行ざるのみか我を奧へ通さぬは如何なる譯なるや知つてならば咄すべしと尋ねければ流石は丁稚のことゆゑ酒肴に釣れ其事柄は委き譯を知ね共先生よりお浪さんへ艷書を贈られしとやらにて富右衞門殿より大旦那へ見せしゆゑ大旦那より斯々申付られしに依て據ころなくお構ひ申さず夫に付お浪さんも富右衞門殿の世話にて早々坂戸村へ縁付るゝ筈なりと落もなく咄し此事必ず私が申せしと沙汰し給ふなと云捨て歸りしかば跡に重四郎はホツと溜息を吐扨はお浪め富右衞門に彼の艷書を見せたりしか情なき仕方なり富右衞門も猶以て遺恨なれ店の者共まで今日の始末思へば〳〵忌々し寧そ蹈込んで打放し此恨みを晴さんと立上りしが否々荒立ては事の破れ何にもせよお浪を引さらひ女房にすれば男は立つ只惡きは富右衞門なりよき機もあらば此遺恨を晴さんとて其夜は其儘我が家に歸りしが其後明暮心懸てぞ居たりける然るに同宿に三五郎と云者あり此三五郎は侠氣ある者にて生得博奕を好み平生賭事のみを業としけるが或時博奕場より戻り食事をしながら女房に向ひ今朝土手際なる庚申堂の前へ來たら土橋の所で此煙草入を拾ひしゆゑ中を見たら富右衞門殿へ平兵衞と云手紙が這入てあり然すれば穀平殿より富右衞門殿へ送つた手紙が有からは落し主は富右衞門殿ならん其邊を仕舞たら富右衞門殿の方へ返して來よと云にぞ女房は早々に膳を片付そんなら一寸行て參りましやうと云所へ重四郎は三五郎に何か咄しありとて來りしが此咄しを聞てなんだ富右衞門殿の煙草入を拾つたドレ〳〵見せねへと取上見れば富右衞門の方へ平兵衞より送りし手紙なるゆゑ重四郎忽ち惡心を發し三五郎に向ひなんと此煙草入を我等二分に買ふべしといふに三五郎打笑ひ若々先生新しい時でさへ四五百文位ゐ最う老こんで七ツ過の代物だ二百がものも有まいに夫を二分に買んとは合點の行ぬ事なりと云ふを重四郎成程分らぬ筈よ此品は少し己が入用が有て遺恨を晴す奴に目にもの見せんとの思案なり友達の好誼に賣て呉夫即金だとて二分取り出してさし置ば三五郎は打笑ひ夫程に入用なら持て行れよ金は入らぬといふをば重四郎そんなら斯仕ようと彼の二分を女房に渡し少だが單物でも買れよと無理に懷ろへ入れ此事は決して沙汰なしに頼むなりと言捨て立歸りしが途中には穀平の丁稚音吉に行合けるに重四郎聲を懸コレサ音吉殿大分閙しさうだが何所へ行のだと尋ぬれば音吉は振返り今日は大旦那が關宿の庄右衞門樣の方へ米の代金を取に參られますゆゑ是から供をして行ますと云ば重四郎夫では今夜は大かた泊りであらうと云に音吉否何に明日は仲間の寄合が有から遲くとも是非今夜は御歸りで御座りますと言ながら閙しさうに走り行跡見送りて重四郎は大いに悦び獨り心に點頭甘い〳〵今夜利根川堤に待伏して穀平が歸りをばつさりやらかし此烟草入を死骸の側に捨置き人殺しを富右衞門に塗付日來の恨みを晴さんと笑を含んで居たりけり 第二回  然程に穀屋平兵衞は穀物の代金を受取んとて一人供を連關宿領坂戸村なる庄右衞門の方へ到りけるに庄右衞門は久々の御來臨なりと種々馳走して饗應にぞ平兵衞も思はず時刻を移せし中穀物の代金百兩受取歸らんとなすを主庄右衞門之を止め最早夕暮なれば今宵は御泊り有て明朝早く歸らるべし殊に大金を持ての夜道なれば無用心なり必ず〳〵御泊りあれと勸むるを平兵衞は頭を振其は忝けなけれども明日は餘儀なきことのあるゆゑに是非共今宵返らずば大いに都合惡かりなん左に右御暇申さんと立上れば庄右衞門も止を得ず然らば途中の御用心こそ專要なれど心付るを平兵衞は承知せりと暇を告て立出れば早日は山の端に傾ぶき稍暮なんとするに道を急ぎて辿るうち最早全く暮過て足元さへも分難ければ豫て用意の提灯を取出し火を點いて丁稚音吉に持せ足を早めて歩行ども夏の夜の更易く早五時過とも成し頃名に聞えたる坂東太郎の川波音高く岸邊に戰ぐ蘆茅は人丈よりも高々と生茂り最長き堤を便りに一筋道權現堂の村中へ來懸る折しも颯と吹來る川風に提灯消て眞の闇となりしかば平兵衞は南無さん明りが消ては一足も歩行れぬとて腰をさぐり用意の火打を取出し漸々蝋燭へ點しければさあ〳〵音吉注意て又風に火を取れぬやう急げ〳〵と急立れば音吉は見返りつゝ旦那樣近道に致しませうかと問に平兵衞如何樣小篠堤の近道を行ふと音吉を先に立せ平兵衞は微醉酒も醒果て心ばかりは急げ共夜道の捗行ぬを足に任せて小篠堤に來掛る頃は早北斗の劔先尖く光りゴンと突出す子刻の鐘の響きも身に染て最物凄く聞えけり折柄堤の蔭なる竹藪の中より面を包み身には黒裝束を纏ひし一人の曲者顯れ出物をも云ず拔打に提灯バツサリ切落せば音吉はきやツと一聲立たる儘土手より動と轉び落狼藉者よと呼はりながら雲を霞と駈出すに平兵衞も是はと驚き逃んとなしたる後より大袈裟に切付れば呀と叫びて倒るゝを起しも立ず止めの一刀を刺貫き懷中へ手を差入れ彼穀代金百兩を仕合よしと奪ひ取り何國ともなく逃失けり斯て穀屋にては音吉の知せに悴平吉を始め家内中驚き騷ぎ平吉は親重代の脇差追取音吉を案内として駈出すを後に續て番頭手代共各々提灯得物を引提我先にと駈出すにぞ親類縁者其外日來懇意の人々は此知せを聞て何れも驚き集り來るゆゑ幸手宿の騷動大方ならず我も〳〵と提灯携へ駈着たり是より先平吉は一散に其所へ來て見れば無殘や父平兵衞は肩先より肋へ掛て八寸程切下られ咽元には止めの一刀をさし貫き見るに見られぬ形状なれば平吉は動とばかりに倒れ伏死骸に取付狂氣の如く天に叫び地に轉び悲歎に昏て居たりしが良ありて氣を取直し涙を拭ひ倩々と父の面を打まもり嘸御無念におはすらん汝れ敵め其儘にして置べきやと四邊を見れども人影無ければ懷中何にと改め見るに金も見えず彼是する折柄人々も駈着此有樣を見るよりも皆々愁傷大方ならず然れど如何とも詮方なきにより早々此趣きを村役人へ屆けしかば幸手宿權現堂兩村の役人とも立合評議なす中夜は程なく明放れしにぞ早々此段を郡代衆出張の役所へ訴へ出けるに伊奈半左衞門殿の手代横田五左衞門深見吉五郎檢使立合の上改め相濟一先權現堂村の名主仙右衞門方へ引取ての調べと相成り横田は平吉に對ひ其方は平兵衞の悴成かと問平吉發と平伏しける時横田は又其方の親平兵衞儀日頃何か他に意趣遺恨を受し覺えはなきやと尋ね有に平吉は頭を上親父儀は是迄喧嘩口論など致せしことも之無く日頃人の爲のみ仕つり村方にても譽られ候程の儀故勿々意趣遺恨など受ることは聊かも御座無く候と申立れば横田如何にも然こそあるべし而金子紛失の由なれば定めて盜賊の所業に相違有まじ因て死骸の儀は勝手次第に引取べしと有り又悴平吉支配人五兵衞村役人差添江戸表へ罷り出べき由申渡し置役人は引取けり却説穀屋にては燈火の消たる如く平兵衞の妻并娘お浪の愁傷大方ならずと雖も詮方なければ厚く野邊の送りを營みけり扨平吉支配人五兵衞村役人同道にて江戸小傳馬町旅人宿幸手屋茂八方へ到着し早速此段郡代屋敷へ屆け出けるに直樣差紙に付き幸手屋茂八附添郡代の白洲へ出でければ正面には伊奈半左衞門殿左方には手附手代威儀嚴重に控へたり此時伊奈殿徐かに武州幸手宿穀屋平兵衞の悴平吉同人方支配人五兵衞と呼れ去月廿七日の夜小篠堤權現堂に於て平兵衞儀殺害に逢ひ懷中の金子を奪ひ取れし趣き尤も盜賊の所爲ならば老人の事故金子を奪ひ取とも殺害迄には及ぶまじ何れ平兵衞に面體を知れし者と見ゆ殺害致したる上全く金子は出來心にて盜み取し者ならん然れば豫々意趣有者の所行と思ふなり然樣なる心當りも有ば包まず申立よと有に平吉は恐る〳〵頭を上親共儀は平生慈悲を第一と心懸村方困窮の人の爲には心を盡し先年洪水の節猿ヶ股の堤切し時も夫々に救ひ米并に金銀等も差出せし程の儀故村中の者一同能服し居候間勿々遺恨など受べき覺え無御座候と申立るに半左衞門殿否々然に非ず假令陰徳を施し慈悲善根を第一として人の害に成ぬ氣にても金子の遣取致し商賣も手廣き事なれば如何なる所に遺恨の有間敷者にも非ず又其外にも何ぞ手掛りは無きと云るゝに平吉ヘイ其手掛りと申ては別に御座らねども爰に少々心當り是とても右樣の儀を致す人物には之なく日頃より親類同樣に致し親共も相談相手に仕つり家内も相應に暮し居ります故是を疑ふ樣も御座なく候と申立るに伊奈殿否々少しにても心當り有れば申立よ而て其者は宿内の者か他村かと有ける時恐れながら申上ますと支配人の五兵衞縁先近く這出て只今平吉が申立し通り右心當りの儀は疑はるゝものゝ先も歴々の身代に候ゆゑ何とも申上兼ると云ければ伊奈殿何々惡く致すと歴々でも油斷は成ぬ而て何者なるか包まず申立よとあるに五兵衞其儀は私しより申上んとて平吉に會釋なし扨主人平兵衞儀權現堂小篠堤にて横死の節死骸の近傍に紙煙草入の落て有しを後の手懸りにもと存じ拾ひ取能々改め見る處同宿にて同商賣を仕つる杉戸屋富右衞門と申者所持の品にして又其煙草入の下には主人平兵衞より送りたる手紙が之あり候とて其節の樣子を委しく申立しに伊奈殿は夫は屹度したる證據なり此方にさし出すべしとの事に付即ち差出しけるに奧州福島仕立の紙煙草入にして其中に手紙一通あり其文に 鳥渡申上候昨日は御馳走に預り忝けなく奉存候然者先日御相談致し候穀物の儀江戸表へ相廻し申候明後日は關宿庄右衞門殿方へ穀代金勘定に參り申候粕壁の代金八十兩也大豆の爲替に仕つり候只今御受取可被下候先は右の段申上度如此御座候以上 六月廿五日 穀屋平兵衞 杉戸屋富右衞門樣 半左衞門殿是を見られて此手紙は平兵衞の手跡に相違無や又斯樣に好手掛りが有ながら何故先に檢使の節差出さぬぞ是甚だ不都合の次第なりと尋らるゝに五兵衞は臆せず然ばにて候若主人平吉儀は若年者ゆゑ血氣強く且又家内手代共の中には血氣の若者も大勢之あり候により此手紙を出す時は富右衞門を敵と心得仇討呼はりなどいたさば容易ならざる事に成行申べく一ツには右富右衞門と申者は主人も平常より格別懇意に仕つり居極々手堅き人に候へば勿々今度の儀など爲出すべき人物に御座なくと存じ密に私しが取隱し置たりと云にぞ伊奈殿如何樣夫も道理の譯聞屆けたり追々吟味に及ぶと申され其日は平吉始め五兵衞其外とも一同下られけり是より伊奈殿には手代杉山五郎兵衞馬場與三右衞門の兩人に幸手宿の杉戸屋富右衞門を召捕來るべしと申渡されたり 第三回  天に不思議の風雲有り人に不時の禍ひありとは宜なる哉爰に杉戸屋富右衞門は去六月廿六日晝立にして商用の爲め栃木町より藤田古河邊へ到り暫く逗留なし七月四日晝前に我が家へ歸りければ女房お峰は出迎ひ先御無事にと打喜び而又旦那には村中の大變を御途中にてお聞ありしやと云に富右衞門否々何事も聞ざりしがそりや又何云譯なりやと尋るにお峰は申樣貴方が御立成れた其翌日の事なるが穀平の旦那が關宿の庄右衞門殿の方へ行れた歸り懸權現堂の土手にて殺されしと語るを聞て富右衞門やゝ何々平兵衞殿がと大に驚き夫は大變な事而て殺した奴は知しかと問ばお峰風聞には大方盜賊の所行ならんとの事夫れに付ては若旦那は朔日より江戸の御郡代屋敷へ御出成れ未に御歸り成らぬが相手が早く知れば好と云に富右衞門何さ天命なれば今に直知るで有う先鞋を脱ぬうち穀屋へ行て來やうか扨々腹が減たお峰や一寸一杯喰込で行うと腰を掛け居處へ當宿の村役人段右衞門と岡引吉藏案内にて八州廻の役人どや〳〵と押來り上意々々と聲を掛飛懸つて富右衞門を押伏忽ち高手小手に縛し上れば富右衞門は魂ひ天外に飛茫然として惘れしが是は抑何科有て此繩目私し身に取て聊かも御召捕になるべき覺え無しと云せも果ず役人は富右衞門を白睨み付覺え無しとは白々しき詐りなり去月廿七日小篠堤權現堂の藪蔭に於て穀屋平兵衞を切殺し金百兩を奪ひし段注進の者有て召捕なり申譯有ば役所に於て一々申すべしといふに富右衞門は彌々仰天し其は何共合點の行ざることなり私しは元來殺生さへも嫌ひで虫一つ殺た事も無きに人殺しなどとは思ひもよらず殊に平生兄弟同樣に致す所の平兵衞を何の遺恨で殺しませう是は全く人違ひにて候と云に女房お峰も役人に取縋り夫富右衞門は勿々人殺しなど仕つる者には御座なく是は必定人違ひ何卒御宥し成れて下さりませと涙と共に手を合せ詫るを役人耳にも入ず白睨付てぞ引立ける富右衞門は女房お峰に向ひ此儀素より我が身に覺えなき事なれば御郡代樣の御前にて申譯は致すなり必ず心配すること勿と云ども流石女氣のお峰は又も取縋り涙と共に泣詫るを役人共は突退々々富右衞門を引立つゝ問屋場へと連れ來り宿駕籠に乘て江戸馬喰町四丁目の郡代屋敷へ引れしは無殘なることどもなり 第四回  斯て杉戸屋富右衞門は繩目の儘にて郡代屋敷の白洲へ引居られ伊奈半左衞門殿は吟味に及ばれんと其席へ立出られ先何成奴ならんと見らるゝ所に面體は柔和にして篤實らしく見る成れども人は面體に寄らずと思ひコリヤ幸手宿杉戸屋富右衞門其方年は何歳成るやと尋問られるに富右衞門は當年五十三歳なりと答ふ伊奈殿其方は先月廿七日の夜關宿街道權現堂小篠堤に於て同宿穀屋平兵衞を殺害に及び加之金子を奪ひ取りたるならん有體に申立よと云れけるにぞ富右衞門は首を上私し儀日頃より右平兵衞とは兄弟同樣に仕つる者に候へば然樣の儀は毛頭覺え御座なく殊に其節は私し事他出いたし八九日外に逗留仕つり居歸宅致せし機其事柄を家内の者より初めて承まはり實に驚き入しゆゑ早速悔みに參らんと存じ旅行の儘草鞋も解ず空腹に付食事を致し居り候所へ御捕方の人々參られ御召捕に相なりし次第にて勿々人を殺し金子を盜み取候などと申儀夢にも存じ申さず何卒御慈悲の段偏へに願はしく存じ奉つると申立れば半左衞門殿聲を張あげ默れ富右衞門汝れ其節他出とあるからは猶以て怪しきなりシテ他出とは何れへ罷り越たるぞとあるに富右衞門私し儀は先月二十六日出立致し古河の在藤田村の儀左衞門かたへ參り夫より古河の御城下に商用御座るゆゑ逗留仕つり二十七日には栃木町の油屋徳右衞門方へ晝の八ツ時より泊りに着居りしにより全く以て右體の儀は覺え御座なく候と申立ければ伊奈殿大音に是富右衞門今汝ぢが何樣に申譯をしても此方には聢とした證據があるぞ是其方所持の煙草入が其場に落して有しなり夫を見よと投出されしに富右衞門は是を視て成程此品は私しの煙草入に相違御座なく候へども是は去月末に隣村へ用事有て朝の内參りし途中にて落せしにより其節心付四五町引返して相尋ねしと雖も一向見當り申さず併し餘ほど持古し候品と申別段用向の書付も入置ませぬゆゑ其儘に打捨置候處如何仕つりてか其邊にと言せも果ず半左衞門殿コリヤ其煙草入の中には平兵衞より其方へ遣したる手紙が有之しなり然すれば定めて待伏をして殺したに相違有まじきぞと申さるゝに富右衞門恐れながら煙草入は私しの品にて又手紙も平兵衞より私し方へ參り候手紙に相違御座なく候併しながら私し儀は豫て平兵衞方へ出入仕つり候て金子は勿論内外の世話にも相成候中故平兵衞が娘を關宿へ縁談の媒人迄も仕つり候程のことにて兄弟の如く交り候中に付何とて渠を殺害など仕つるべきや此儀何分御賢察下され御慈悲の程を偏へに願ひ上奉つると申立れども伊奈殿は首を振れ否々其方が申す所一ツとして申譯は相成ず欲情に關りては實の親子兄弟の中成とも心得違ひの者往々有事なれば彌々陳ずるに於ては拷問申付るぞ其方が首に掛し百兩入の財布は則ち平兵衞を殺し盜み取たるに相違は有まじ夫にても猶知らぬと申すかと白眼らるれども富右衞門は實に覺えなきことなるにぞ此百兩の金子は古河の穀屋儀左衞門方より請取候に相違は御座りませんと少しも臆せず申立るを半左衞門は大いに憎く思ひ否々其口上は幾度申すも同じ事なり決して申譯には相成ず猶追々呼出すべしと云るゝ時手代の者立ませいと聲を懸其日は入牢とぞ相なりける其後松坂町郡代の牢屋敷に於て無殘成かな富右衞門は日々手強き拷問に掛り今は五體悉々く弱り果物も咽を下すこと能はず一命既に朝夕に迫るに付富右衞門倩々來方を思ひ行末を案じけるに今迄一點の罪を犯せし事もなきに斯る無實の罪を請て刄に懸り非業の最期を遂げ五體を野外に曝し雨露に打れて鳶烏の餌食と成こと我が恥よりは先祖の恥辱なり返す〴〵も口惜き次第かな女房お峰も嘸や悲み歎くらんと五臟を絞る血の涙に前後正體無りける良有て心を取直し我が身ながらも未練の繰言兎ても角ても助かり難き我が一命此上は又々嚴敷責苦を忍んよりは寧そのこと平兵衞を殺せしと僞り白状して此世の責苦を遁れん者と爰に心を定めしは最も憐れの次第なり然ば翌日の調べに右樣白状致せしにより役人は速かに口書を認め富右衞門に讀聞す 一私し儀穀屋平兵衞と別懇に仕つり候處關宿在坂戸村名主庄右衞門方より穀代金請取歸り候儀前以て手紙にて承知仕つり候故六月廿七日の夜權現堂小篠堤に待受殺害致し金百兩盜み取候に相違無御座候依之此段奉申上候以上 武州幸手宿 七月廿五日 富右衞門 此時役人は富右衞門に向ひ何と慥かに承知したか彌々白状の趣きに相違なくば口書に爪印致せと右の口書を富右衞門の前へ差付るに富右衞門是を見て殘念至極に思ひ心中煮返るが如き涙をはら〳〵と流し齒を喰締ながら爪印も相濟けるに依て伊奈半左衞門殿より口書を添委細を書取にして手代富田善右衞門を持て月番南町奉行大岡越前守殿へ引渡し相濟ける之に依て大岡殿も一通り吟味の上口書并びに書取の通り符合なすに於ては月番老中衆へ伺ひの上附札にて御仕置仰せ付らるゝの手續きなる故今富右衞門が命は風前の燈火の如し再調べに引出さるゝ其有樣數日の拷問に勞れ果總身痩衰へ鬢髭は蓬々とし淺黄木綿の浴衣にて青繩に縛られ小手を緩して砂利の上に引居られし體此世の人とは見えざりけり白洲の正面には大岡越前守殿着座有左の方には御目附土屋六郎兵衞殿縁側には目安方の與力下には同心に至る迄威儀嚴重に控へたり此時大岡殿は武州幸手宿富右衞門と呼れ其方歳は何歳成ぞと尋問しかば富右衞門ハツと平伏し少し顏を上當年五十三歳に相成候と云たる體顏色殊の外痩衰へ肉落骨顯はれ聲皺枯て高く上得ず何樣數日手強き拷問に掛りし樣子なり大岡殿此體を熟々見られしが其方日頃懇意に致し恩義にも相成し同宿成る穀屋平兵衞が坂戸村名主庄左衞門より金子百兩受取し事を存じ居て權現堂村小篠堤にて殺害に及び金子百兩奪ひ取し趣き明白に白状致せしにより口書も極り爪印濟の上伊奈半左衞門より引渡しと相成たり依て一通り糺問ぞ右口書爪印致せしからは相違無や何ぢや明白に申立よと云るゝに富右衞門ははら〳〵と涙を落しながら漸々に申立る樣は私しこと全く以て平兵衞を殺し金子など取候覺えは毛頭御座なく候へども是まで段々嚴敷拷問の苦しさに堪難く御覽の通りの老體故其苦しみを早く免かれ度寧そ未來へ參りなば此苦しみも有まじと存じ斷念て罪を身に引請白状仕つり候なり其實は人を殺し金子を奪ひ取候儀等は毛頭是なく何卒御賢察下し置れ候樣偏へに願ひ上奉つると涙ながら申立ければ大岡殿聞し召れ汝ぢ右樣申立ると雖も半左衞門方よりの明細書の趣きにては其方の煙草入が平兵衞の死骸の側に落て有しのみならず加之平兵衞より其方へ宛たる手紙が中に入有し趣き是等は何ぢやと申されければ富右衞門其煙草入は去月下旬用向ありて隣村へ參りて途中に於て取落せしに相違なく其上私し儀は六月二十六日出立仕つり古河の在藤田村儀左衞門方へ一泊致し二十七日は栃木町油屋徳右衞門の方に罷り在私し在所より十二里餘の場所なる故小篠堤にて平兵衞を殺害仕つりし儀は一向覺えも無是候と申けるに大岡殿然らば半左衞門方にて他村宿々の泊り吟味は致したで有うと有し時富右衞門恐れながら其儀は一向御取上なく只々煙草入を外へ落したとは僞り其砌り殺害の場へ落としたに相違あるまじとばかり御吟味が強さに是非なく身に覺えは御座らねども其罪を引受白状致し候と申立しかば大岡殿篤と富右衞門の相恰を見られし所如何樣にも篤實面に顯はれ勿々人を殺し盜賊をする者にあらず併し今強て吟味する時は裁許を破り殊に郡代の不詮議と相成事なり然とて人一人たり共無實に害ふは大事なれば先々能實否を突止て後右も左も取計らはんと富右衞門は其儘入牢申渡されける是より大岡殿組下の同心へ申付られ在方の樣子を探られけるに幸手宿其外の評判には權現堂の人殺しは富右衞門にては有まじとの風聞故六月廿六日より七月四日迄七日の間富右衞門が泊りし所を詮鑿有に左の通り 覺 一幸手宿富右衞門儀商用に付六月廿七日晝八ツ時頃私し方へ參り一宿仕つり候處商用掛合不相分猶又廿八日も逗留仕つり候廿七日より晝夜共他出不仕私し方に逗留仕居り廿九日巳刻過出立致し候此段相違無御座候依て御受書如斯御座候以上 下野國栃木中町 八月五日 油屋徳右衞門 同所  町役人 中村五兵衞 同所  問人 杉村幸右衞門 池田大八樣 馬込藤十郎樣 泊所覺え書 一杉戸屋富右衞門儀六月廿六日朝卯刻幸手宿我が家出立致し下總葛飾郡藤田村名主儀左衞門方へ泊り廿七日朝卯刻過出立致し下野都賀郡栃木中町油屋徳右衞門方へ泊り廿八日同所に逗留廿九日晝巳刻過栃木中町を立下總國古河町穀屋儀左衞門方に逗留致し七月四日朝五ツ時出立右の通り泊り〳〵探索仕つり候處相違無之別紙廿七日泊りの場所栃木中町徳右衞門を上町名主方へ呼寄猶又逐一吟味仕つり書付を取役人共印形取置申候且又古河穀屋儀左衞門方より穀代金百兩富右衞門へ相渡し候趣き是又呼上吟味仕つり書付請取申候右の泊り所相違も無御座候以上 八月八日 馬込藤十郎 池田大八 右の通り出役の者取調べし上書付二通大岡越前守殿へ差出しけるに依て越州殿には扨こそ推量に違はず外に惡賊有ことと是より專ら其本人を種々詮議されけるとなん 第五回  扨も杉戸屋富右衞門に一人の悴あり幼少の節疱瘡にて兩眼を失ひしかば兩親も大に心を痛め種々治療に手を盡せ共更に其効しも無く依て田舍座頭にせんも不便なりと種々に心配を爲居たる所に其頃江戸長谷川町に城重と言座頭有素幸手出生の者なりしが偶然此事を聞故郷の者なれば幸ひ我が養子に貰はんとて其趣きを相談するに富右衞門も早速承知なしけるゆゑ此子を養子に貰ひ請けて城富とぞ名らせけるが城富の十四歳の時に養父の城重病死致せし故養母を大切に孝養して相應に暮しける是より前此城富十二歳の春より按摩を業として居たりしが或時住吉町を通りたる時不圖竹本政太夫方へ呼込れ療治をなし居ける中五六人義太夫を習ひに來りしに元より城富も好の道故我を忘れて聞ながら長く療治をせしが縁と成て其後毎夜呼込では揉せけるに最上手なれば政太夫も至極に歡び療治をさせける處城富は稽古を聞感に妙て居る樣子を政太夫は見てコレ按摩殿貴樣は淨瑠璃が好か何所ぞで稽古でも仕たるかと尋ねけるに城富はハイ然樣で御座りますが未だ一向稽古は致しません親掛りの身の上ゆゑ漸々針と按摩を稽古致すばかりで淨瑠璃は習ひ度は思ひましても手が屆きませぬと云にぞ政太夫成程然し夫程好ならば何んと稽古をする氣は無かと言へば城富夫は有がたう存じます實に私しは殊の外好で御座りますれど只今申上る通り親掛りで居ますれば稽古の代が思ふ樣には出來ませぬ只々習ひたいと存じまして御弟子樣方の御稽古を少し聞ても聞取り學問とやら外の御宅と違うて此方樣の事成れば一口聞ても多きに稽古に成りますと言ふ故扨々不便の事なり然程に執心成らば私が教へて遣ませう貴樣の事だから金は決して取らぬが其替りに稽古代と思うて按摩を安くして頼みますと言ふに城富ハイ夫は何寄以て有がたう存じます何卒お願ひ申ますと是より口移しに道行の稽古より始めて段々と習ひ込んで生涯の一藝にせんものをとの一心と云其上拍子の間も宜殊に古今の美音なれば太夫も始めは戲談の樣に教へしが今は乘氣が來て此奴は物に成さうだと心を入て教へける故天晴舊來弟子を追拔て上達しければ政太夫も大いに感じ是より三味線をも習はせんとて相三味線の鶴澤友次郎へ咄して此事を頼みけるに友次郎も早速承知なし其後は三味線を一層身に入れて教へけるに勿々一通り成らぬ上手と成しかば稽古は僅か四年の中成れども生質たる藝なりと友次郎も大いに感じけるとなん斯て城富は當年十七歳と成り所々の出入は養父城重の時より殖其上に三味線淨瑠璃にて所々方々へ招かれ今は家内も安樂に暮し養母も實子の如く不便を加へ亦城富も孝行を盡し居たり時に享保八年に至り實父富右衞門の災難のことどもを實母のお峯が來り委細に物語りしければ城富は是を聞き大いに驚き甚だ悲しみつゝ涙を流し只一心に神佛を祈りける所に享保八年十月十一日彌々御所刑の由幸手宿村役人を以て穀屋平吉へ申渡され富右衞門妻へも此段申聞られしかば此事を城富は聞より起つ居つ心配し其儘長谷川町の家を駈け出し杖を便りに數寄屋橋内の大岡越前守殿の表門際へ來たり杖を突立て彳む故門番は立出汝ぢは道に迷ひし成ん何方へ行のぢやと言ふに城富は涙に咽かへりながらハイ〳〵南御番所は何れで御座りますと問ば門番の者南御番所は此所なるが何用有て來りしぞ何か願ひ度事でも有かと聞れ城富はハイ然樣で御座ります御奉行樣へ急に御願ひが御座りまして參つた者で御座ります何卒御取次を願ひますと云にぞ門番の者願ひ度事有ば其町内の役人を同道して來り願ふべしと言ふに城富ハイ是は誠に差掛りまして早急の儀なれば町役人を頼む間も遲なはります何卒御取次を願ひ上ますとて少しも動かざれば門番の者も止を得ず此事を訴訟所へ屆け門内へ入置て町所家主の名前等を聞けれども一向に言ず只何卒御奉行樣へ御目に掛り其上にて委細申上ますとばかりにて盲人の根生勿々動かざれば役人も持て餘して此段を申述けるに大岡殿是を聞れ苦しからず早々白洲へ廻すべしとの事により城富を白洲へ呼入ければ大岡殿見られて汝ぢは如何なる願ひ有るか予は大岡越前守なるぞ其方の名は何と申又住居は何處成ぞ申立よと云れしかば城富は喜びたる體にて私し儀は城富と申者長谷川町地主嘉兵衞が地面に居候と申けるに大岡殿而又其方は如何成ることの願ひ有て奉行所へ盲人の身にて駈込訴に及びしや城富ヘイ御意に御座ります私し儀は武州埼玉郡幸手宿杉戸屋富右衞門と申者の悴なるが十二歳の時より江戸長谷川町城重方へ養子に參りし者なりと答ふるに大岡殿然らば其方は幸手宿富右衞門が忰成るか當時養父城重といふ者達者成るや城富ヘイ養父儀は三四年以前に病死仕つりました大岡殿然らば其方は富右衞門が一件に付願ひ出しか城富御意に御座ります段々樣子を承まはりし所實父富右衞門儀は今日御仕置に相成るとのこと故其悲しさは何に譬ん樣も無又實母儀も嘸や歎き申さんと思へば在に在れぬ悲しさの餘り押して御願ひに出たることにて私し儀は御覽の如く眼の見えぬ者なれば生きて甲斐なきこと故何卒實父富右衞門が名代に私しを如何樣の重き御仕置にても爲下され富右衞門儀は御免しを偏へに願ひ上奉つると涙と共に願ふにぞ大岡殿にも孝心の段憫然の至りなりと思されけれども今さら止を得ざれば汝ぢが申所は道理に似たりと雖も親の罪を子に負すると言ふ事には成ず又罪も罪の次第に寄る況や其方は他人の養子と成りし身成ずや夫を差置實父富右衞門の代りに御仕置に致すことは相成ず公儀には然樣の御規定は無事なるぞと申さるゝに城富は至極御道理の御儀なれども親の罪科に代りし事古來より大分御座る樣に承まはり及びますれば何卒御慈悲を持て父富右衞門儀を御助け下されて私しめを名代に御仕置願ひ上奉つると只管申立て止ざれば大岡殿成程一通りは道理の願ひ聞屆けても遣はさんが併しながら爰を能承まはれ今其方が申儀は實父富右衞門には孝行の樣成れ共養母へ對し實母へ對しても孝行には非ずして却て不孝と云者なり其方が名代に立と言たりとて親富右衞門がオイ夫と承知もすまじ殊に天下の御定法として然樣に自由なることは出來るものに非ず強て是を願へば強訴の罪となり親富右衞門の外に其方が罪は遁れぬぞ爰を能々聞き譯よと理を以て諭されければ城富は段々との御利解有難き仕合せに存じ奉つる然ながら押て願へば不孝なりとの御意は不才の私しには解りません親の爲にするは孝道かと存じますと親富右衞門を助け度一心に理も非もなく只々一生懸命に申立けるにぞ越州殿には何樣愍然とは思はるれども故意と聲を勵まされて成程親の爲に一命を捨るは孝道に相違無けれ共能承まはれ其方は一旦城重方へ養子と成針治導引の指南を受し上手足を延して貰ひし恩義は城重の蔭で有うな然れば師匠なり義理有る養父なり實父よりは猶更大切に致さねば相成まじ然るを其方今實父富右衞門の名代となり御仕置になりて相果たらば何樣富右衞門へ孝行は立にもせよ養母の養育は誰が爲ぞ義理有る養母を捨るは不孝此上無しよも富右衞門夫婦の者共も是を悦びは致すまじ依て不孝と成ぞ爰の所を能々辨へて只此上は富右衞門の亡跡を弔ひ佛事供養怠りなく致すが孝行なりと申さるゝを聞より城富はハツとばかりに白洲へ泣倒れ嗚呼實父へ孝を立んとすれば養母へ不孝となり養母へ孝を盡さんと思へば實父は御仕置となり是りや何したら宜らうぞと大聲揚て號出しければ越前守殿は彌々憫然と思はれしが是や〳〵其方其樣に嘆き實父に代らんと申せども最早富右衞門はお所刑に相成しぞ然ば其富右衞門が蘇生ると云ふ理は無れども其方の孝心天へ通じ其惠にて實父富右衞門がまた蘇生なす間じきものにあらず因て其方は此後能々實母へ孝行を盡すべしと厚く諭されし上早速其所の地主嘉兵衞と其家主を呼寄られ城富を引渡しとなり隨分心付けつかはすべき由申付けられけり 第六回  扨も鍼醫の城富は我が願ひ叶はず地主嘉兵衞に引渡されしかば止を得ず嘉兵衞に伴はれ我が家へ立歸り悲歎に暮て居たりしが良ありて思ふ樣父の死は是非もなきこと共なり切ては父の亡骸を葬りて修羅の妄執を晴し申さんとて千住小塚原の御仕置場へ到り非人の小屋へ立寄些御頼み申度ことありて參りたり昨日御仕置になりたる武州幸手宿富右衞門の首を何卒私しに下さります樣御頼み申上ますと云へば非人共是を聞て其儀は勿々相ならず假令御仕置者なりとも首又は死骸など謂無く渡して遣事は成ぬなり夫共御奉行所よりの御差圖ならば知ぬこと何して〳〵出來ぬことなり早く歸られよと取合氣色もあらざれば城富は力もぬけ杖に縋りて茫然と涙に哽び居たりける是を見て非人共は耳語合何と彼の座頭は幸手の富右衞門とやらの由縁の人と見えるが何だ少しでも酒代を貰つて首を遣うではないかと相談なしモシ〳〵御座頭さん高くは云れねへが首を極内證でお前に進ませうと云ふを城富聞より大いに喜悦夫は〳〵誠に有がたう御座ると云ば非人共而酒手は何程位置て行のだへ全體遣てはならぬことだが己輩の寸志で内證で進るだから其ことを能思ひなせへと云を城富聞てハイ酒代は何程でも上ますから首は何卒私しへ下さりませと申に非人共夫ならば大負にして金二分も置つしやい城富ハイ夫は御安いこと若し〳〵然樣ならば何卒富右衞門の首を御渡し成れて下されましと金子二分を渡しけるに非人共は受取千人溜の方へ行是れ〳〵傳助や彼の富右衞門とやらの首を知て居るかと聞て馬鹿を云ねへ今日は三人昨日五人と何が何だか分る者か何でも宜は金さへ取ば仔細なしだ生首一ツ渡して遣うと云は脇から一人の非人が夫でも親の首だと云から向うにも見知が有う外の首では承知しまいと云ば一人の非人然ばさ何だと云て相手は座頭の坊だから見分が有物か首さへ遣ば宜然樣して直に下屋敷へ葬むるで有らうから宜はさと云に皆々成程々々と云乍ら首一ツ持出してサア〳〵御座頭さんと渡しければ城富是は〳〵有難う御座りますと押戴きわつとばかりに泣出せしが變り果たる此有樣嘸や御無念で御座りませう然ながら前世の因縁と思召し假令私の眼が見えねばとて長い中には人間の一念眞事の人殺しを搜索出して修羅の靈魂を慰さめん南無阿彌陀佛〳〵と首を抱きしめ暫く涙に暮れ居たり夫より回向院の下屋敷を聞しに直に側なる故尋ね行て金子二分取出し葬り呉よと頼みけるに回向院の庵主承知して奇特なることなりと是を葬り香華を手向經文を讀て供養致しければ城富は燒香をして立出漸々其夜の子刻過長谷川町の我が家へ歸り養母并に實母のお峯も此節在所より來り逗留して居ける故右の樣子を咄せしにぞ兩人も涙を流して悲みけるが愁ひの中にも城富の孝心を感じ悦び夜と共に物語りして休みける城富も晝の勞れによく寢入し夢の中に身の丈六尺ばかりの大の男兩眼大きく髮髭蓬々と亂れ最怪し氣なる有樣にて悠々と枕邊へ來る故夢心に城富は吃驚しける處に彼の男城富に向ひて若し〳〵御座頭樣何の由縁もない私しを今日は御葬り下され御回向に預りしことの有難く御蔭にて未來を助かりますにより憚かりながら是より其報恩に御前樣の蔭身に添て何卒御立身出世を成るゝ樣私が永く守り上る程に然樣思召し下さるべし返々も嬉しや忝けなしと云かと思へばコレ城富や〳〵と兩人の母に起されにけるにぞ城富は漸くに眼を覺し然すれば今のは夢にてありしやと大汗を拭ひながら頓て委細の譯を物語り扨も不思議や今日のことを斯夢に見ると云は是正しく父富右衞門殿が夢の中に御座られたので有うと涙と倶に咄し合けるが此後富右衞門の女房は一七日過て幸手宿へ立歸り親類中を呼集めて後々の相談彼是として其年もはや何時しか暮に及びたり 第七回  明れば享保九年正月三日竹本政太夫の方にては例年の通り淨瑠璃の語り初なりとて門弟中打集まり一入賑々しく人出入も多かりける其頃西の丸の老中安藤對馬守殿の家來に味岡勇右衞門と云ふ仁ありしが政太夫を贔屓になし今日も忍びにて語り初を聽んと參られけるが此人より土産として金千疋三味線彈の友次郎へも金五百疋又政太夫の女房へは縞縮緬一疋を贈られ今日の第一番客なり扨夕申刻頃よりして立代り入代り語り初をなす淨瑠璃の數々門弟は今日を晴と見臺に向ひて大汗を流し素人連中にも上手の人々は我も〳〵と聲自慢もあれば又節自慢もあり最も賑はふ其が中に今宵城富は國姓爺合戰鴫と蛤の段を語りけるに生得美音の事なれば座中鳴を鎭めて聽居たりしが今語り終りし時一同に咄と譽る聲家内に響て聞えけり此折しも第一の客なる彼の味岡勇右衞門は如何致しけんウンと云て持病の癪氣に差込れ齒を噛しめしかば上を下へとの大騷ぎとなり幸ひ城富は鍼治に妙を得たる故直樣療治を致させしに胸先より小腹の邊りへ一二鍼打や否や立所に全快致しけり勇右衞門は持病ゆゑ寒暖に付て發る時は急に治まらぬ症なるに城富の鍼治にて早速快氣なりける故大いに喜び紙に包て金二百疋をさし出し城富に遣はして此後折々我が屋敷へも參るべしとて厚く禮を述ければ是よりして味岡の方へも出入をなせしが鍼術に於ては大いに妙を得しとて彼方此方に重寶がられ其後味岡の手引にて所々方々と出入も殖たりしが味岡は大岡殿と内縁あれば或日味岡勇右衞門は大岡殿へ出でし所越前守殿顏色宜しからず持病の癪氣の由申されければ勇右衞門然らば其には誠に奇妙なる鍼醫師是あり私し儀も至つて癪持にて難儀仕つりし處不圖渠が鍼治にて全快いたし其後暫時發り申さず實に上手なる由申述ける故越前守殿此由を聞れ夫は近頃忝けなし早速に呼寄せ療治すべし其者は何所に居やと尋ねらるゝに勇右衞門其者儀は長谷川町に罷り在名は城富と申して至つて鍼に功者に候と申けるにぞ越前守殿早々用人の山本新左衞門を召れ城富を呼寄せ療治致させ度由申されければ新左衞門は畏まりて次へ下り早々手紙を認めて中間に持せ遣しける斯くて使ひの者は長谷川町なる城富の宅へ行て状箱を差出し南町奉行所の大岡越前守方より來りし由を申入けるにぞ城富は大いに驚き養母に見せ何事ならんか家主へも屆けんと思ひつれ共今日は留守の由ゆゑ如何はせんと先養母に状箱を披かせ見れば手紙一通有り養母も不審とは思へ共城富の名宛故披き見ても宜しかるべしと封を押開きて見るに 以手紙申入候未だ不得御意候得共其許之鍼術聞及候に付申入候此度旦那儀癪氣にて甚だ難儀被致候に付療治請られ度候間乍御苦勞今日中に御出被下度尤も拙者宅迄御入來に預り度候餘者其節萬端可申述候以上 大岡越前守内 二月八日 山本新左衞門 城富殿  右の通り認めて有りければ城富も老母も先々安心なりとて委細畏まり奉つり候と返事を養母に認め貰ひて使の者を返しける 第八回  扨も城富は手引の者を連て其日晝過に大岡殿の邸へ參り山本新左衞門の宅へ參上の由申入ければ新左衞門同道して奧へ罷り出しに大岡殿はナニ城富か近う〳〵早く來りしよとのことに城富は平伏して圖らず御召に預り有り難き仕合なり然ながら御前樣には如何遊され候やと申ければ越前殿然ば癪氣にて四花の邊より小腹へかけきり〳〵と差込で食事も進まず兎角に鬱でならぬが其方の噂を味岡勇右衞門の咄しに依て承知致し呼に遣したり太儀ながら療治を頼むと云るゝにぞ城富不調法の私し御召に預りまして有難く候と云つゝ側へ摺寄療治に掛りしに素より鍼術に妙を得しことゆゑ癪氣も速かに治りければ大岡殿には悦ばれ成程妙に好心持に成しと申されるに城富は先々御休息を遊ばされよと申て自分も休み居たりけるに大岡殿は寢返りて此方を見られコレ城富幸手の實母は息才で居かとの尋ねに城富はハツと首を下げ有難き仕合せ何も替りましたる儀も御座りませんと答れば大岡殿其方が親父富右衞門は扨て〳〵不便なることぢやが汝ぢが孝行では富右衞門も頓て蘇生するで有うぞと申されしに城富は不思議のことを云るゝとは思へども一向其意を得ざれば夫は有難う御座りますが今は早相果ました親父が再び生ますと申す道理が御座いませうかと云つゝ涙を泣然と落せしにぞ大岡殿然ば死したる者の蘇生する所以は無れ共是城富其方は彼の生田源内の物語りと云ふ草紙が有が聞たことは無か城富一向に承まはりしことは御座りませぬ大岡殿其生田源内と云ふ者は無實の罪を受て攝州大坂にて御仕置に行はれしが此源内の娘に豐と云ふ大孝行の者が有て父源内が入牢せし中讃州の金毘羅權現へ誓ひを立我が一命を神へ捧げて父の無實の罪に代らんことを一心不亂に祈りしに今日は早源内の罪極り御仕置と聞し故娘の豐は其日父の引れ行し御仕置場へ行て見るに終に仇し野の露と消果しゆゑ泣々も其所を立去り我が家へ歸り神へ祈りしことも贅とも成しとて夫より只管菩提を吊らはんと思ひ樒を供へ香を燒て只々一途に後生を願うて居所に其夜丑刻頃と思ふ折しも表の戸をとん〳〵と叩く故是は何者なるやと門の戸を明て見るに今迄も慕ひ悲しみ居たる父源内立歸りければ娘の豐は夢現つかと思ひながらも大いに悦びことの仔細を尋ぬるに源内は先内に入り我御仕置場にて首を切れしときハツと思ひしばかりにて其後は何も知ず頓て氣が付て其邊を見廻しけるに首は落ず何事も無健全息災なり依て我が家へ立歸りしぞと物語りしかば娘は嬉く是全く金毘羅樣の御利益ならんと早々嗽ひ手水にて身を清めて金毘羅の掛物を取出し伏拜みけるに金毘羅の金の一字は切放れて血汐滴り有ければ親子の者は一同にハツとひれ伏有難し〳〵とて感涙を流しけるが其中に罪人の本人が出て源内は長壽を保ちしと云事あり是等は即ち理外の物語りにて天地の間に不思議の有しことは擧て算へ難し切れて助かる道理は無しと雖も世界の不思議神佛の利益は無にも非ず然れば其方の父富右衞門も蘇生いたす間じき者でも無い隨分神佛を頼み奉つりて信心を致すべしとの物語り有りければ城富は有難う存じ奉つりますと正直者故に萬一大岡殿の申さるゝ通り親が蘇生でもすることかと思うて心の中に樂み神佛を信心して養母を大切に致し暮しける是よりは猶鍼の療治も日々に繁昌して諸家へも呼れ大岡殿へも時々療治に上りけるに其度々々に越前守殿にも力を添て下され有難き詞を掛られけるとぞ此元は皆全く師の竹本政太夫のお蔭なりとて猶更是をも大切にして兩人の母へ孝行を盡しけるこそ殊勝なれ 第九回  却て説畔倉重四郎は小篠堤にて穀屋平兵衞を殺害し百兩の金子を奪ひ取り其上富右衞門に罪を負せ事落着して富右衞門は御仕置に行はれけるにぞ我が奸計の好機と行しを悦び三五郎へも百兩の中三十兩を分て遣はし何喰ぬ顏をして居たりける爰に又慈恩寺村にて大博奕の土場が出來鴻の巣なる鎌倉屋金兵衞と云ふ名稱の博奕打が來りて大いに卻含金兵衞は五百兩ばかり勝し折柄自分の村方に急用出來せしにより急ぎ歸村せよと飛脚の來りける故仲間に斯と告て振舞などをなしつゝ急ぎの用なればとて一同へ暇を告て子分なる水戸浪人八田掃部練馬藤兵衞三加尻茂助の三人に跡を取片付させ自分は急ぎのこと故一足先へ出立して後より追つくべしと申聞け日の暮頃慈恩寺村を立出けるが時しも享保八年七月十六日にて盂蘭盆のことなれば村々にては酒宴を催せしもあり又男女打交りて踊るもあり最賑しけれども金兵衞は急ぎの用なれば却て之を面倒に思ひつゝ足に任せて歩行ける此金兵衞の行裝は辨慶縞の越後縮の帷子に銀拵への大脇差し落し差に差て菅笠深く打冠り鷲の宮迄來りける爰に畔倉重四郎は此頃續く不仕合に勝負の資本薄ければ忽然惡心發し鴻の巣の金兵衞が大いに勝て在所へ立歸るを幸ひ奴を殺し彼者が勝し五百兩の金を奪ひ取んと心懸先へ廻つて鷲の宮の杉林に身を隱し金兵衞の來るを今や遲しと待懸たり金兵衞は斯るべしとは夢にも知ず慈恩寺村にて打勝し五百兩を懷中し小歌を唄ひながら悠々と大宮村へと行ける折から畔倉は少し遣過しつゝ窺ひ寄て後より大袈裟掛に切付れば流石の金兵衞も手練の一刀に堪り得ずアツと一聲叫びし儘二ツに成て果たりけり重四郎は呵々と打笑ひ仕て遣たりと云ながら刀の血を金兵衞の帷子にて押拭ひ胴卷の五百兩を何の手も無く奪ひ取り懷中せんとする折から後より人聲がする故に重四郎は振返り彼は定めし子分の奴等何も恐るゝにはあらねども水戸浪人奴は些手強き奴見付られては面倒也早々此場を立去んとて雲を霞と駈出しける扨又金兵衞の子分八田掃部練馬藤兵衞三加尻茂助の三人は跡を片付大宮にて親分に追付んと鷲の宮なる杉林へ來懸りしが死骸に躓づき是は何者なるやと能々見るに親分金兵衞の死骸なれば藤兵衞は大いに驚き先生々々爰に親分が切れてと聞より掃部も駈寄て能見れば正敷金兵衞の死骸なり南無さん何者の仕業ならんと三人は切齒をなして憤ほれ共如何とも詮方なければ頓て懷中を改め見に是は如何に五百兩の金は無く偖は盜賊の所業ならんと近傍を見れば扇子一本落てあり藤兵衞手に取あげ能々見るに鐵扇にて親骨に杉田三五郎と彫付有りし故掃部大いに怒り然らば是は幸手の三五郎が所業に違無し今西の方へ駈出して行人影を見しが慥に三五郎奴成らんと三人等しく此方の土手へ駈よりて見れば二三町隔て西の村を差て迯行者あり掃部は彌々彼奴に相違無し是々藤兵衞飛脚を立て家へ此ことを知らせて遣れ己は直に茂助と共に三五郎を討取んと云ふに藤兵衞聞て先生私しも一所に行んと申を否々夫では親分の死骸を無宿にされては成らぬ是非々々手前は此場の始末をして呉れろと云棄て追駈行く此掃部と云ふ者は素より武邊の達者殊に早足なれば一目散に追行所に重四郎は一里餘りも退たりしが後より駈來人音有り定めて子分の奴等が來る成らんと深江村の入口に千手院と云ふ小寺有り住持は六十餘歳の老僧にて佛前に於て讀經をして居る故重四郎は是幸ひと聲を掛けモシ〳〵和尚樣私しは只今災難に逢て追人の懸る者何卒御慈悲を以て御隱匿下さるべしと頼みければ老僧は是を聞て扨々夫は嘸難儀成べし出家のことなれば何かして救うて遣はすべし此天井の上に不動明王を觀請して在り彼れ〳〵見るべし彼の天井の隅の所なりと其所へ這入には爰の本堂より位牌壇の後の方から這入がよいそして踏掛る所が有夫から又天井に切拔た穴が有るから其所より這入べしと最と深切に教へけり重四郎は追詰られし事故心中如何はせんと思ふ所に斯の如く住持の情け深く教へて呉ける故大いに悦び拜々有難う御座りますと云つゝ彼の位牌壇より壁に有る足溜りへ足を踏掛け漸々として終に天井へ昇り其跡を板にて元の如く差塞ぎ先是では氣遣ひ無しと大いに安堵なし息を壓して隱れ居たり斯る惡人なれども未だ命數の盡ざる所にや僧の情に依て危き命を助かりし事ぞ不思議なる 第十回  扨も八田掃部は騫直に追懸來りしが三五郎めは慥に此寺に迯込だるに相違無しと御寺へ駈入眼を配りながら住持に向ひ若し〳〵御寺樣只今人を殺して立退し者が此寺へ駈込しを慥に見屆たり何所に居り候やお出し下さる可しと尋ければ住持は聞て其は以ての外のことながら然樣な者は參らず定めて門違ひに候はんと云ひつゝ見向もせず般若心經を讀で居けるに否々是へ追込しを見屆て參つたり然れども御出家の儀なれば人を隱まうは道理の事なるが私し共の爲には親分の仇敵なれば何卒出して御渡し下さるべしと押返して申けれども住持は頭を左右に振否々此方へは參り申さず來らぬ者を匿藏べき筋も無とさらに取合ねば掃部は焦立某慥に見屆たることなれば斯は申なり夫にても參らぬとならば我等が念晴しに此御寺を家搜索致さんが此儀は御承知なりやと云ひければ和尚は微笑夫は御勝手次第に家搜しでも何でも致されよと一向平氣なり掃部然らばとて本堂を始め位牌堂より其下の戸棚迄がらり〳〵と明放して見るに中には古びたる提灯や香奠の臺など有り夫よりして臺所部屋々々座敷の廻り次の間茶の間納戸雪隱は申に及ばず床下迄も殘る隈無く尋ぬる處へ茂助も息を切て駈付來り兩人にて又々彼方此方と尋ね廻り地内の鎭守稻荷堂或ひは薪部屋物置等殘らず搜しけれ共影だに見えざれば掃部は不審最此上は和尚を捕へて詮議すべしと又々本堂へ立歸りコリヤ和尚匿したるに相違あるまじサア早く出せ但し又何れへ落したるや明白に云へば宜し云はぬに於ては此方にも了簡が有るぞと詰寄けれども住持は猶自若として只今申せし通り少しも知らぬことなり然るを未疑ひ有らば勝手に致さるべしと申ければ掃部は大いに怒つてコレ坊主我等は慥なる所を見屆て申すなり彌々言ぬに於ては斯すると首筋掴んで引摺出し力に任せて板縁へ摺付々々サア何だ坊主め白状しろ何處へ隱せしぞ但しは落したかと茂助も諸ともに聲を荒らげて打据ると雖も知らぬとばかりゆゑ掃部は茂助に繩を取て來れと言に茂助は臺所より荒繩を持來りければ和尚を高手小手に縛り梁へ釣上げ薪を以て散々打てば和尚は眼を開きコリヤ〳〵假令隱したりとて出家の境界今更其を明すべきや然而一向知らぬこと此身體は素より假の世なり殺さば殺せ勝手にしろと云を兩人は聞イヤハヤ此奴硬情坊主めと云樣力に任せて一打肋を打けるにウンと言て其儘悶絶なせしかば茂助は驚き先生苛酷ことをされたり夫では爰には居ぬに違ひも有めへ敵は幸手の三五郎と知れて居からは先々親分の死骸を葬り相手に油斷をさせ置て不意に幸手へ押掛三五郎を討取工夫は幾等も有うと言ふに掃部も成程敵は知て居上ならばマア急事もねへが彼が兄弟分の重四郎と云ふ奴は少し手強ひ奴なり然し侠氣も有奴だから親分の敵を討と云聞せ何か助太刀をして呉ろと頼んで見樣若し承知すれば此方の味方否と言ふならば先重四郎を先へ殺して遣うと二人相談をなし頓て此寺を立出けり其時畔倉重四郎は彼等が相談せし樣子を天井に潜伏て逐一聞屆け時分は好と天井を飛降り和尚を見に釣し上られた儘死したる體ゆゑ重四郎も流石氣の毒に思ひハヽア僧主は僧主丈正直な者然し打殺さるゝ迄云ぬと言ふは武士にも優た丈夫な精神天晴々々感心した然し彼の掃部めは三五郎が殺したと心得しは鐵扇を三五郎から借て來て死人の側へ落した故彼等が三五郎と思ひしなり是で好々と獨り言を云つゝ臺所へ到りアヽ腹が減た何ぞないかと其所らを探し何か戸棚より取出して飯櫃を引寄十分に食終り夫より悠然と幸手宿へ立歸り此由を三五郎に咄し密かに喋し合せ彼等の子分が金兵衞の敵と狙ひ來る時は斯樣々々と手配を成して用心堅固に居たりけり 第十一回  時に文月廿八日の入相頃金兵衞の子分八田掃部三加尻茂助練馬藤兵衞等三人打連立て畔倉重四郎が宅へ入來り先生は御宅かと聲を懸れば重四郎はイヤ來たなとは思へども何喰ぬ顏にて是は〳〵珍らしく御揃ひで能こそ御入來忝けなしと挨拶なすに頓て掃部は聲を潜め早速ながら先生へ折入て御頼み申度事あつて參上致したりと云ば重四郎其はまた何事かは知らねども改まりし其御詞日來よりの懇意と申し貴殿も武士我等も武士の端くれ見掛て御頼みと有ば否とは申さぬシテ何事で御座ると問に掃部イヤ外の事でも御座らぬが我々の親分鎌倉屋金兵衞事桶川宿鷲の宮に於て殺され其上に五百兩と云ふ金子を取れしと云も終ぬに重四郎成程金兵衞親方が殺されたと云噂は聞たれ共人の云事故實正とも思はざりしが夫なら彌々人手に罹られしか而敵は知しかと聞に掃部然ば其事に付貴殿へ助太刀を御頼み申度何分御加勢下さるべしと云にぞ重四郎然らば我等を男一疋と見込で御頼みと有ことなれば何の否とは申まじ而々其敵と言は何者なるやと申せば掃部はまだ危ぶみイヤ其事なり先の相手に依ては御差合も御座らうと存ずるゆゑ確乎した御詞を承知致さぬ中は些と敵の名前は申されぬ善惡共御承知下されたる言御挨拶の上御話申べしと言に重四郎成程御道理の儀武士たる者は義を見て爲ざるは勇無きなりと云詞を尊ぶ拙者を見込で御頼みとあれば假令親兄弟たりとも義に依ては急度助太刀致すべしと言へば掃部は聞て偖々頼母しき御心底感じ入たり然樣御座らば何を隱し申べきや其敵と言は貴殿の兄弟同樣に成るゝ三五郎なりと聞重四郎驚きし體にて而其三五郎を敵と申さるゝは何ぞ慥な證據有ての儀で御座るかと問に掃部然ばとよ日外慈恩寺村へ金兵衞が出し所在所より急に歸るべしとの使が來り其時我々は跡へ殘り何や彼や取片付親分は先へ戻りし其晩鷲の宮にて切殺されたる其跡へ我等三人參り合せて見る處に死骸の近傍に落て有しは是なり此鐵扇を取上て見れば牡丹の繪に裏には詩を書て有り又此通り親骨に杉田三五郎と記してあれば全く敵は三五郎に相違無し是に依て先生に助太刀を御頼み申て討取度存ぜし所なり何卒御頼み申と云へば重四郎如何さま然樣のことに御座れば全く三五郎の所爲成ん併しながら是迄別懇に致せし三五郎なれ共一旦頼まれし上からは跡へは引ぬ重四郎如何にも承知致したりと申に掃部は打喜び斯有んと見込で我々が御頼み申せし上からは早急ながら是より直樣三五郎の宅へ御同道下さるべしと立上るを重四郎先暫らくと押止め必ず早まり給ふな親分の敵は三五郎と知たる上其は宜敷時刻を計つて討洩さぬ樣に致すが肝要なり殊に今宵三五郎は宅に居ず然れば仕懸て行共其詮無しと云ふにぞ掃部是を聞て然らば何れへ參りしや其行先を御存じなるか重四郎然ば今晩は元栗橋の燒場隱亡彌十の處に於て長半が出來ると云により夕申刻頃から行べしと拙者をも誘ひしか共少し外に用事も有し故三五郎ばかり先へ遣はし置たり然れば是得難き時節なりと云ふに三人の者是を聞て大に歡び何卒能手段を以て三五郎を討取樣偏へに御頼み申なりと重四郎の意に隨ひければ然ば是より案内致すべし彼隱亡彌十が方へ到りて三五郎を呼出し置て其時拙者も助太刀致し首尾能敵を討せ申べしと重四郎は眞實しやかに言ければ掃部を始め茂助藤兵衞等頻りと打悦び何分宜敷御頼み申なりとて是より皆々食事など致し十分其支度に掛りける扨又三五郎は豫て重四郎よりの談話もあれば金兵衞が子分等扇子を證據となし敵と覘ふは必定なりと思ひ日頃より用心堅固にして身を戒愼居たりしが此日重四郎に用事有て隣家迄來掛りし所重四郎が宅にて囂々と人聲なすゆゑ何事やらんと竊かに身を潜め内の樣子を窺ひけるに金兵衞が子分共三五郎を敵と覘ひて元栗橋へ出掛る相談なりしかば三五郎扨は重四郎が彼三人の奴等を引出し利根川通りにて殺す了簡なりと悟り獨り點頭つゝ好々先へ廻りて助太刀をして遣んと尻引縛げ強刀物を落し差になし頬冠り深く顏を隱し利根川堤を指て急ぎけり 第十二回  然程に畔倉重四郎は鎌倉屋金兵衞の子分八田掃部練馬藤兵衞三加尻茂助の三人を伴ひ我が家を出て元栗橋へと急ぎ行く程なく來掛る利根川堤早瀬の波は水柵に打寄せ蛇籠を洗ふ水音滔々として其の夜は殊に一天俄かに掻曇り宛然墨を流すに似て礫の如き雨はばら〳〵と降來る折柄三更を報る遠寺の鐘ガウ〳〵と響き渡り最凄然く思はるればさしも強氣の者共も小氣味惡々足に任せて歩行中青き火の光り見えければ彼こそ燒場の火影ならんと掃部は先に立て行程に早隱亡小屋に近接折柄道の此方なる小笹の冠りし石塔の蔭より一刀閃りと引拔稻妻の如く掃部が向う脛をずんと切落せば掃部は堪らず尻居に動と倒れつゝヤア殘念や恨めしや欺し討とは卑怯未練是重四郎殿何者か我が足を切りたるぞ疾く捕へ給はれと云ふ間あらせず重四郎は心得たりと一刀閃りと拔より早く練馬藤兵衞を後背よりばつさり袈裟掛に切放しければ是を見るより三加尻茂助は飛退り汝れ重四郎助太刀の案内すると僞りて此所へ我々を引出し欺し討は卑怯至極なり其儀ならばと一刀引拔討て掛るを重四郎心得たりと身を反し二打三打打合しが隙を見合せ一聲叫んで肩先より乳の下まで一刀に切放せば茂助はウンとばかりに其儘死たる處へ以前の曲者石塔の蔭より現れ出るを掃部は倒れながら下より横に拂ふにさしつたりと飛違ひ掃部の利腕切落し二の太刀を脾腹へ突込ぐつと一剌りゑぐりし時重四郎は荼比所の火影に顏見逢せヤア三五郎か重四郎殿好機參つて重疊々々扨此樣子は先刻用事有て貴殿の宅へ參りし所何か人聲がする故樣子有んと窺へば金兵衞が子分共我を敵と覘ひ討んとて先生と同道なし元栗橋へ行んとの相談最中は全く其奴等三人を土手迄引出し殺して仕舞ふ計略ならんと悟りし故助太刀せんと先へ廻り此處にて待伏したればこそ此始末と語るを聞て重四郎成程々々好氣味なり然し此儘斯しても置れまいと兩人呟き居る折から此物音に驚きて隱亡彌十髭蓬々と髮振亂し手には鴈投火箸を以て出で來れば重四郎は見て其所へ來るのは彌十か是は重四郎樣と云ふ時手招ぎして畔倉聲を密めコレ彌十今手に掛けし此奴等は皆宿無しなれど此死骸が有ては兎角後が面倒なり何と此奴等を燒き引導を渡して呉ろと云ふに彌十聞て日來の懇意に任せ承知はしましたが燒代は何してと言を重四郎知れたこと夫三兩と投出せば彌十は其金請取つゝ大いに喜び然ればすつぽり燒ませうと申にぞ兩人は夫なら彌十頼んだぞ彌十御案事なされますなと三人の死骸を集めて火屋へ入火を懸ければ重四郎は三五郎を同道して立歸り此ほど奪ひ取し金子の中百兩を三五郎に分配て遣殘りの四百兩を懷中なし是迄の所に居るは心惡し一先上方へ立越て何處へか身を落付んと思ひ近處近傍へは古郷なる筑後久留米へ赴くと云なしてぞ立出ける 第十三回  扨も重四郎は幸手を立出で一先江戸表へ來りて處々を見物なさんと十五六日も逗留して上野淺草吉原兩國芝増上寺其外處々を見歩行或日又本町通りを彼方此方と見物して來かゝる處に髮結床の前にて往來の人が立噺しをなし居たるを何ごころなく聞に一人の男コレ彌兵衞さん然樣ならば今日は御立で御座るかと云ば彌兵衞ハイ此度は私しが立番で御座い升最早今夜子刻には出立なれど丑刻頃には成ませうと言に彼の男夫は〳〵御苦勞若々彌兵衞さん此節は道中で油斷を成るゝな跡月も遠州屋と山田屋の飛脚が切れたと申すこと御如才は有まじけれど隨分御用心が肝要で御座ると心付れば彌兵衞ハイ有難う御座い升私し共などは誠に御方便と只今迄は何事にも出會ませんと申を彼の男夫は結構なこと隨分御達者で御歸り成れましハイ然樣ならばと別れ行を重四郎は振返り見れば胸當をして股引脚絆腰には三度笠を附大莨袋を提げたるは如何にも金飛脚と見えけるゆゑ後より見え隱れに附け行て見屆たるに瀬戸物町十七屋孫兵衞と云ふ飛脚屋へ這入けるが今日が立日にて店先に手代共居双び帳面など認めし此方には大勢の若い者荷拵へを成し馬は外に繋いで有る樣子なり重四郎是を見て此者が金飛脚にて今夜子刻過丑刻頃には立つと云ふ噺しなれば曉寅刻過には鈴ヶ森へ懸るは必定なり毒を喰はゞ皿迄と云ば今宵彼を殺害して金を奪ひ取り行掛の駄賃にして呉んと獨り笑壺に入相の鐘諸ともに江戸を立出で品川宿の相摸屋へ上り飮や唄へとざんざめきしが一寸と床に入り子刻の鐘を相圖に相摸屋を立ち出で半醉機嫌に鮫洲濱の繩手道を辿り〳〵て鈴ヶ森に來り並木の陰に身を忍ばせ彼の飛脚の來を疾や遲しと待居たり然るに曉寅刻頃とも思ふ頃遙かに聞ゆる驛路の鈴の音馬士唄の聲高々と來掛る挑灯を透し見れば彼の十七屋のの飛脚に相違なし因て重四郎は得たりと尻引からげて待つほどに定飛脚と書たりし小田原挑灯を荷物の小口へ縊付け三度笠を冠りて馬に乘つゝ是々馬士どの今夜は何だか淋い樣だ何日は最う寅刻頃には徐々人の往來も有のに鮫洲から爰迄來中に一人も逢ぬ扨々淋しいことだぜ馬士アイサ此節は人通りが少無なつて否はや一向に不景氣なことさ品川歸りも通らねえ隨分氣を附て道中を成れましと噺しながらに行所を此所の松陰より忽然と出たる畔倉重四郎ものをも云ず馬の上なる飛脚の片足をばつさりと切付たり飛脚はアツと馬より轉げ落るを二の刀にて苦もなく切殺しけるにぞ馬士は大きに驚き仰天して人殺し〳〵と云ながら一目散に迯出すを重四郎汝れ遁しては後日の妨げと飛掛つて後背より眞二ツに切下れば馬士は撞と倒るゝ處を止めの一刀を刺貫し脆い奴だと重四郎は彼の荷物を斷落して荷の中より四五百兩の金子を奪ひ取つゝ其儘此所を悠然と立去り頓て旅支度をして相摸路より甲州へ到り是より所々方々と遊歴なし種々樣々樂しみ居たりける扨も翌日所の者共此體を見出し大いに驚きて飛脚と馬士の殺されたる趣きを早々鈴ヶ森の村役人へ屆けければ村役人は其段訴へ出で早速檢使の役人出張ありて改め等相濟み飛脚の死骸は十七屋孫兵衞方へ引渡しと相成けるとぞ其の昔し延文康安の頃伊勢の國司長野の城主仁木右京大夫義長は己れが擅横に太神宮の御神領迄を押領しければ神主等大いに怒りて此段を訴へ其上尚も義長を恨みて神罰を蒙らせんものをと思ひ居たり然るに義長は我が儘増長し五十鈴川を椻止て魚類を取り又は神路山に分入て鷹を放し遊興は日頃に十倍仕たりける是に依て神主共五百餘人集會榊の枝に四手を切掛て種々と義長の惡逆を申立て彼を蹴殺し給ふべしと呪咀しけるに七日目の明方十歳ばかりの童子に神乘遷り給ひ聲荒らげ我が本覺眞如の都を出で和光同塵の跡を垂しより已來本尊現化の秋の月は照さずと云所も無く眷屬結縁の春の花薫ずと云ふ袖も無し方便の門には罪有る者を罰し難く抑々義長の品行を汝等天に訴へ祈り呪咀すること道理なれども彼が三世の其以前は義長こと法師にて五部の大藏經を書寫し此國を治めたり其の善根今生に報い來て當國を知行することを得る因て暫く其罪を宥し置者なりと御詫宣有けるとかや然ば此畔倉重四郎も則ち是等の道理に有んか前世の因縁も有しことなるか併しながら是も只暫の中斯る大惡不道も天の免しを蒙りて其身安泰なれ共何ぞ其罪の報はざらんや後々を見て恐るべし〳〵 第十四回  扨も畔倉重四郎は十七屋の飛脚を殺して大金を奪ひ取り夫より所々を遊歴なし東海道藤澤宿の松屋文右衞門と云ふ旅籠屋へ來り二三日逗留しけるが退屈の由にて或日藝妓二三人に松屋の若者又は近所の者共などを多く引連て江の島へ參詣し其歸りに島の茶屋にて酒宴を始めけるが又隣座敷に是も江の島へ參詣と見えて藝妓二三人を引連陽氣に酒を呑居たるに重四郎が同道したる者皆々心安き體にて彼是聲など懸合ふ故樣子を聞ば藤澤第一番の旅籠屋にて大津屋の後家お勇と云者なりとのことに重四郎は彼お勇を能々見ば歳は三十歳を二ツ三ツ越中脊中肉にして色白く眼鼻立揃ひし美人ながら髮の毛の少し薄きは商賣上りの者と見つ然れ共本甲の櫛笄を差銀の簪に付たる珊瑚珠等いづれも金目の物なり衣類は藍微塵の結城を二枚重ね唐繻子の丸帶をしどけなく結び白縮緬の長繻袢を着せし姿天晴富豪の後家と見えければ重四郎亦々惡心を生じ幸い後家と有からは何卒手に入れて暫時足休めに致したしと思ひ夫より言葉を掛け頓て一座と成て酒宴の中後家に心有り氣なる面白可笑き盃盞ことに後家のお勇も如才なき人物故重四郎が樣子を熟々見るに年はまだ三十歳を越ぬと見え丈高く面體柔和にて眉毛濃く鼻筋通りて齒並び揃ひ否みなき天晴の美男にして婦人の好風俗なり衣類は黒七子の小袖に橘の紋所を付同じ羽折を着持物等に至る迄風雅でも無意氣でも無く何やら金の有さうな浪人とお勇は大いに重四郎に惚込しが翌日は上の宮へ參詣なし額堂にて重四郎はお勇と只兩人差向ひの折柄お勇は煙草を吸付差出しながらモシ重さん此程は不圖した御縁で御心安く成ましたところ明日は妾しも宿へ戻りますが御前さんは是から何邊へ御越成れますと云ば重四郎笑ひながら然ば何所の誰や我を待らんとか申せば何れへ落付かば我ながらも知ぬ浮世定めなき浪人の風に任せて居る身體で御座ると云を聞きお勇否々夫は眞實とも存じませんが若御詞のやうなら却つて御羨ましく存じます女の身にては見たき處が有ても見られもせず然ながら御前樣には最早三十に近き御年頃に見上ますが御住居をお定め成れたなら憚ながら宜敷御座りませうと云に重四郎然ばで御座る世間を渡り歩行も倦果たれども差當り未だ有縁の地もないと見えて斯歩行ます何卒五十か七十の敷金でも致して何樣な所でも身を固め度思ひますから好入夫の口でも有ましたなら御世話を御頼み申ますと云にぞお勇は否最お前さんの樣な御人柄と云殊に金の五六十兩御持參と有ば世間に欲がる所は降程御座ります併し定めて器量の御望み小野の小町か衣通姫の樣な手入ずの娘をお持成らうと云思召し成んと云ければ重四郎は否々その樣にお嬲り成るゝな我等如き浪人者誰が聟に取ませう何樣な所でも先で入てさへ呉れば夫に厭は御座らぬと云にお勇然樣成ば女は何でも宜と仰しやいますか夫成ば只今一軒御座ります其家は間口十三間奧行二十五間田地は十石三斗の御年貢を納てその跡が八十四五俵程も取入ます大凡家邸五百兩諸道具が三百兩餘り抱への遊女が十四五人是を捨賣にしても六七百兩位都合千五百兩餘の身代で御座りますと聞て重四郎夫は大層なこと勿々然樣な處では先が不承知でと半分云はずお勇は否々縁と云者は然樣致した者では御座りません然し御内儀さんに成んと云ふ人が歳を取ても卅二歳少々婆々過ますけれども其代り姑も厄介も子供も無内は其女獨りにて若御内儀さんに成ならば其こそ〳〵貞女で御亭主を大切に致して至極宜敷御ざいますと申ければ重四郎夫は餘りと申せば能過ます私し風情と云にお勇否々然樣では御座りません御承知なれば御世話致しませう先でも金子の望みは無れ共旅の御方は尻が輕いに依て其故で先方は氣遣に思ひますから金子を掛て振舞でも致すやうに爲たく夫に付金の五六十兩も持參で御出成るなら速かに御相談が出來ますと云ひながら目顏で夫れと知らする體を故意と重四郎は氣の付ぬ體にて夫は願つても無い僥倖然いふ口なら金の百兩位は何ともして才覺致します何と御世話を御頼み申すと云にぞお勇は彌々機にのり然樣ならば先方へ咄してウンと云時は御變替は成ません其所を御承知で御座りますかと念を押ば重四郎何が扨武士に二言は御座りませんと云ふにぞお勇は然を聞てオヽ嬉しや申し重四郎樣と云ながら直と身を寄其縁談は彼の大津屋段右衞門の後家にて縁女はお恥しながらと口籠り顏を赤らめしが思ひ切て妾で御座ります然樣御聞成れたら嘸御否で御座りませうと云つゝ邪視に見やりたる其艷色さにナニ夫が眞實なら何して〳〵此重四郎が身に取ては實に本望なりと云ふ時人來りければ二人は素知らぬ體にて左右へ分れ其後藤澤へ歸りてより猶お勇と相談の上小松屋文右衞門は幸いに縁家なれば親分に頼んでも定めて否とは云ふまじと爰に於て内談極りければ重四郎は小松屋文右衞門を親分にして後家お勇の方へ入夫に這入名を大津屋段右衞門と改めて先暫くは落付けり 第十五回  斯て又幸手宿なる杉田三五郎は重四郎と共に金兵衞の子分八田掃部練馬藤兵衞三加尻茂助の三人を利根川邊にて殺し重四郎が幸手宿を立退金兵衞より奪ひ取りし金の中百兩を分前を貰ひしが惡金身に付ずとの諺の如く其金は皆博奕に取られて仕舞今は寢酒だにも呑事ならず此頃は猶打續く不仕合せにて一錢の資本にも差支へしかば胸に手を置て考へしが忽ちに一計を思ひ付獨り心の中に喜悦つゝ彼の畔倉重四郎は今藤澤宿にて大津屋と云ふ旅籠屋へ入夫に成改名して段右衞門と申す由を聞し事あれば先彼の方へ行て金を無心する時は舊惡を知たる我ゆゑ退引成ず四五十兩位の金を貸に違ひ無しと目的をつけ夫より藤澤宿を指て立ち出でたり然るに重四郎の段右衞門は暫くの足休めと思ひの外見世の繁昌大分ならず何不足も無き身分と成しかば一生涯此家にて我は終らんと其後は惡事も成ず暮しけるが或日表の方より來りて旦那は御家にかと問者あるを聞て段右衞門は是を見に幸手宿の三五郎なりしかば是は珍らしや先此方へとて奧の座敷へ通し女房お勇にも我等が浪人致し居し頃種々世話に成し人なりと僞り酒肴等を前揃へて三五郎を厚く饗應ける然るに三五郎は家の樣子を能々見るに殊の外大掛りなりしかば心中大に悦び段右衞門に向かひて我等此節は不仕合せにて諸事に運惡く資本まで負失ひたり因て此藤澤宿迄故意無心に來しなり又我等が仕合好ば返濟すべき間暫時の中金子五十兩貸給はれと申ければ段右衞門も大事を知たる三五郎のことゆゑ否とも云れず早速五十兩の金子を取出して返濟には及ばずと渡し先々寛りと滯留致されよ我等も此家の入夫に這入しより以來堅氣と成しが其前幸手を立退て江戸に滯留中鈴が森にて十七屋の金飛脚を殺し金子五百兩奪ひ取しが惡事の仕納めなりと咄しければ三五郎聞て眉をひそめ夫は博奕打や盜賊を殺して取金は同じ罪でも罪は輕し唯の者を殺したるは眞の大罪なり因て始終は其身刀の刄くずに懸らん貴殿も堅氣の商人に成れし上は此後必ず惡事を爲給ふことなかれと云ながら金を受取歸りしが是を無心の始めとして其後度々來りては無心を云掛る故段右衞門も今は呆れ果てぞ居たりける 第十六回  扨も幸手宿の三五郎は藤澤宿の大津屋方へ度々金の無心に來りし故に此節は段右衞門も厭倦果て居たりしが又或時三五郎來り我等此節不仕合打續き殊の外困るにより金子三十兩貸呉よと頼みけるに段右衞門も當惑の體にて我此家へ入夫に參りて漸く一年ばかりなれば勿々然樣に金子を自由には取扱ひ難く殊に只今手元には一兩の金も是無しと云と雖も三五郎は遙々是迄來りしゆゑ何卒貸し呉よと申に段右衞門我等今は別に金儲けも無れば是非もなしと斷るを三五郎は否々何にしても此度は是非共貸くれよ翌日にも仕合が好れば返すべしとて何分承知せざれば段右衞門も心中に思ふやう彼奴我が身に惡事のあるを付込度々無心に來れども貸ぬ時は事面倒に成べしと思案を爲して三五郎に向ひ然までに云るゝなれば我今より品川迄用事あつて行間先方にて才覺致し遣すべしと頓て身拵へをなし覺えの一刀差込で三五郎諸共に我が家を出けるが川崎手前にて日の暮るやうに量り道々戯れ言など言て手間どり名にし逢鈴ヶ森に差掛りし頃は稍戌過ぎにもなりければ重四郎は前後を見返りしに人影もなく丁度往來も途絶えしかばその邊にて殺さんと思へども此奴も勿々の曲者なれば容易は亡ひ難し然れども幸ひ今宵は闇にて暗さはくらし何にも遣過してと思ひ故意と腰を屈めて歩行ながら三五郎に向ひ我等近頃𬏣癪にて折々難澁致すなりと申ければ三五郎聞て夫は彼の大津屋へ入夫に參つてより金が溜りし故に腰が冷るの成んなんど戯談つゝ先へ行を十分に遣過し後の方より物をも云ず切掛しに三五郎も豪氣なれば飛退さまに拔合せ汝れ重四郎め汝ぢや惡事を知たる我なれば欺して殺さんとは卑怯未練の仕方なり其儀ならば是より直に公儀に訴へ穀屋平兵衞を殺して金子百兩を奪取り夫而已ならず慈恩寺村にて鎌倉屋金兵衞をも殺害して金を取たること迄逐一訴へ呉ん邪魔せずと其所を開いて通しをれと罵るを段右衞門は怒り汝れ生して置ば我が身の仇なり覺悟をせよと切付るを三五郎は心得たりと受流し暫時が程は戰ひしが如何で重四郎に敵するを得んや追々太刀筋亂れ四度路になる所を終に眞向より梨子割に割付られ其儘動と倒れ二言と云ず死たりけり此時近傍の非人小屋に乞食共莚を被り寢て居たるが兩人の爭ふ聲を聞て恐れをなし莚を首に纒ひ隙より密と戰ひを覗き居たりしが終に一人の切殺さるゝを見て其まゝ莚を被り震ひ〳〵居たりける段右衞門は此體を見しも一向にことゝも爲ず悠然として我が家へ歸りけるが扨此所の非人共斯と村名主方へ達しければ村役人立合にて檢使を願ひ出改め見るに何者の殺したると云ふ事一向に知ず非人共を呼出して委細を尋ねし所三五郎が戰ひながらに申たる事又段右衞門が云たる事迄逐一申立しかば其趣きを一打書にして大岡殿の奉行所へ差出しければ大岡殿は殺されたる者の懷中の紙入を取寄て其中を改められけるに死人の宿所は幸手宿と云ふ事知ければ早速其所へ人を遣はし尋ねられける所三五郎と知しにより三五郎の女房を呼出しに相成しかば村役人ども并に三五郎妻お文諸ともに江戸表大岡殿御役宅へ罷り出し旨屆けしにより頓て越前守殿の白洲へ呼入られ三五郎妻お文を見られて其方夫三五郎は何所へ參ると申して何日頃宅を出しやと尋問らるゝにお文は恐る〳〵首を上げ夫三五郎儀一昨日藤澤の大津屋段右衞門方へ參り候とて宅を立出候と申立るに大岡殿は彼の非人が申立たる口書を讀聞せられければ女房お文は大いに驚き然らば夫三五郎を殺せしは大津屋段右衞門に相違御座なく候と申立る故大岡殿は何を證據に大津屋段右衞門と申立るや不審至極なりとありければお文は恐れながら申上ます右藤澤宿大津屋段右衞門と申者は前名畔倉重四郎と名乘筑前の浪人にて私しの村方へ先年中より參りて幸手宿に住居いたし夫三五郎とは博奕の仲間にて日來心安く妾し方へも日々立入居り候所心立宜しからぬ者にて先頃同宿の穀屋平兵衞と申す者を殺害致して金子百兩を奪取り其後又慈恩寺村にて博奕御座候節鴻の巣宿の鎌倉屋金兵衞と申す者を殺して金子五百兩を奪ひ取り候を妾しの夫三五郎能存じ居候事故其譯を以て大津屋方へ無心に參り候所より段右衞門も又夫三五郎は渠が舊惡を存じ候故後日に露顯ん事を恐れ殺し候儀と思はれ候然ば甚だ憎き仕方なりと重四郎の段右衞門が惡事を委細申立ければ大岡殿篤と聞請られ早速に組下の同心に申付られ藤澤宿大津屋段右衞門方へ罷り越右段右衞門を召捕來るべしと遣はされたり 第十七回  扨又重四郎の大津屋段右衞門は鈴ヶ森にて三五郎を殺害して最早禍ひの根を除きしと大きに悦び藤澤宿なる我が家へ歸り何喰ぬ顏にて居たりける所に役人中は重四郎を召捕んと藤澤宿の村役人を案内させ常宿内の捕吏三次并びに子分十四五人を引連て大津屋方の表裏の口より上意々々と呼はりて込入や否や双方より組付たり段右衞門は惡事露顯と思ふものから心得たりと筋斗打せて投つくれども捕方の者は大勢にて取圍み殊に不意を踏込し故に終には折重なりて段右衞門を高手小手に縛め家内の者は宿役人に預けられ段右衞門は江戸表大岡殿の白洲へぞ引れける斯くて大岡殿は重四郎の段右衞門を引出させ大津屋段右衞門事前名畔倉重四郎と呼れ其方は當月二日の夜鈴ヶ森にて幸手宿の三五郎と申す者を殺害せし趣き包まず白状致せと申されければ段右衞門面を正し私し儀三五郎と申す者を殺害致したる覺え一向に御座なく候と申立ければ大岡殿否々覺えの無とは云せぬぞ公儀に於て證據のなきことを糺さるべきやと申さるゝに段右衞門假令如何樣の證據御座候共其儀は一向に覺え無之候と云張にぞ然らば汝ぢ其三五郎と申者知人にては無やと有に段右衞門其者は私し儀以前幸手宿に住居の砌り知己人には御座れ共別に恨みもなき事ゆゑ殺すべき謂れ更に御座なく候と申立るにより大岡殿重ねて其三五郎妻の文と申者を呼出して相尋ねし所其方儀先達て同宿なる穀屋平兵衞と申者を權現堂村小篠堤に於て殺害に及び金子百兩を奪取り其後にまた慈恩寺村にて博奕之有處に鴻の巣宿の鎌倉屋金兵衞と申者をば鷲の宮にて殺害に及び金子五百兩を奪ひ取し趣きなり尋常に白状致すべしと有ければ段右衞門は少しも恐るゝ景色なく是は重々思ひもよらぬことを御糺問に成るもの哉私し儀穀屋平兵衞を殺せしとの仰せなれども右平兵衞儀は豫々世話にも相なり居しことゆゑ私し儀恩をこそ報い申べきに何の遺恨ありて切害致さんや又鎌倉屋金兵衞とやらを切害致したる儀是以て一向覺え御座なく候何卒私し儀罪無きの次第御賢察願ひ奉つり候と申立るに越前守殿否其儀は猶追々吟味に及ぶ汝ぢ鈴ヶ森にて三五郎を殺せし砌り非人共見屆たるを彼是と陳ずる條不屆きなり吟味中入牢申付ると終に其日は夫成牢内へ下られ其後越前守殿三五郎の妻を呼出され其方先達て申すには段右衞門儀幸手宿の穀屋平兵衞鴻の巣宿の鎌倉屋金兵衞を殺害せし趣き申立しに依て段右衞門を召捕相糺す所一向に存ぜざる由申せり確乎段右衞門が仕業に相違無やと猶又糺問有ければ其儀少も相違御座なく希くは妾し事段右衞門に對面仰せ付けられ下さる樣にと願ひければ大岡殿其趣きなれば段右衞門儀其方と近日對決申付けん先今日は引取べしと申渡されけり 第十八回  去程に大岡殿例の如く出座有て段右衞門を見られ其方儀今日三五郎妻文と對決申付るに依り有體に申立よ又三五郎妻文儀も同樣相心得先達て申立し通り幸手宿穀屋平兵衞鴻の巣宿鎌倉屋金兵衞及び飛脚彌兵衞を殺せしは段右衞門元の名は重四郎が仕業に相違無や愈々相違なきに於ては其段を段右衞門に申聞よと有ければお文は發と平伏なし頓て段右衞門に向ひ貴殿は夫三五郎とは兄弟同樣にして何事に依ず善惡共に相談相手なれば其方の惡事も隱して遣何かにつけ夫は心配して居る程のことなるに如何なる遺恨が有て無情くも夫を殺せしや餘りと言へば恩知らず憎き仕方なりサア尋常に白状されよと云ひければ段右衞門輾々と打笑ひ汝ぢ女の分際として何を知べきや三五郎を殺したなどとは無法な云掛然樣の覺えは更になし實に汝ぢは見下果たる奴なり公儀の前をも憚らず有事無事を饒舌り立己がことを種々と申上げたな全體汝れは何と心得居るや汝等夫婦は貧窮に迫りて困苦するを愍然に思ひ是迄此段右衞門が樣々と見繼で遣た其恩義を忘れし爰な恩知ずの大膽者とは汝れがことなり然るを己が人殺しなどとは能も〳〵云をつたな是迄恩を掛しが却つて仇と成たかと云をお文は打消オヤマア夫は何程口が在と云ても左樣自由なことをいはれたものかソレ貴殿が幸手の町へ來たときは尾羽打枯した素浪人喰や食ずの身を可愛相だと云て穀平では始終世話を成れ親同前に大恩を請た其平兵衞さんさへ殺す程の大惡人兄弟分位の妾しの夫を殺し兼る者かと云ば段右衞門何穀平を殺したと馬鹿を云へ彼の穀平を殺せし者は杉戸屋富右衞門とて既に御仕置に成たり然るに汝れ今さら何を吐す恍けをるか此女めと叱り付るをお文コレ段右衞門マア強情も宜加減にお仕な夫三五郎が庚申堂の畑際で拾つて來た烟草入其中に穀平から杉戸屋の富右衞門さんの所へ遣た手紙が這入て居から杉戸屋の烟草入だと言事が知れ然も其時妾が直に持て行うとする所へ貴殿が來て其烟草入を金二分に賣て呉ろと小聲で相談し貴殿が仕組だ所業だはね最早夫を殺されたからは隱さず云が其仕事は權現堂の土手で穀屋平兵衞を殺し金迄取て其翌日妾しの方へ來てお前は狼狽廻り幸手宿を立退うと云ふを夫三五郎が止めて烟草入を證據に富右衞門に負せる上は立退に及ばぬ急に立去ば却つて疑惑が懸ると云れてお前は氣が付身躰を居たでは無か其時に三十兩と云ふ金を配分して侠客づくで呑込で居て遣たのに金を何で貴殿が貢だなどとは不埓云樣だと泣聲を出して云ひ募るを段右衞門聲高に噪しい女め如何樣にべら〳〵喋舌とも然樣なことは夢にも覺えは無汝れはまア恐しい阿魔だ女に似合ぬ誣言事扨は三五郎の敵と思ひ違へての惡口成ん七人の子を成とも女に心を寛すなとは此ことなりと空嘯いて居たりけるお文は切齒をなしヱヽ忌々しい段右衞門未々其後も慈恩寺村にて能張半が出來たと云つて夫三五郎を誘引に來たれども夫は用向もあれば行れぬと斷りしに其時貴殿は扇子を落して來たから貸て呉ろと云ふ故鐵の扇を貸て遣つた其日鴻の巣の金兵衞が金五百兩勝しを見て汝れは先へ廻り金兵衞が歸りを待伏して切害し死骸の傍へ貸て遣た扇子を落して置其鐵扇に杉田三五郎と名前が彫刻付て有しゆゑ夫に嫌疑の懸るを三五郎も承知して暫時の中金兵衞を殺したに成て居たが是は鐵扇の代だと百兩の金を汝れが配分仕たのを今さら忘れもしまいと一々其節の手續を云立るに段右衞門ヱヽ夏蠅女め種々なことを拵へて己を無實の罪に落さんと仕居る然し是は汝ればかりでは有まい誰か腰押の者が有らう扨々恐敷阿魔めと云せも果ずお文は彌々やつきとなり未々其上に藤澤の大津屋へ入夫に行前のこと鈴ヶ森にて十七屋の三度飛脚を殺して金を盜み取しことを三五郎へ咄した時に三五郎が異見をして博奕打や盜人の金を取又は殺したり共同じ罪でも罪科は輕い素人を殺すことは古今の強惡なり始終は白刄の錆と成べし必定々々此後は屹度止られよと云たることも三五郎から聞たるぞ今では汝れも大造な身代に成たに付昔しの縁で三五郎も一年越の不仕合故度々無心には行しが都合惣計金八十三兩貸たに相違は無しサア〳〵此方からして盜人の上前を取たと迄逐一白状仕たならば汝れも早く申上て仕舞がイヽアノ此な大盜人めと砂利を叩いて舊惡を算へ立れど段右衞門は落付はらい否々博奕は打ても人を殺し金を盜んだ覺えは無ぞと云をお文是サ何ぼ妾が女でも然樣お前等に云ひ込られては是まで人に姉公々々と立られた面に濟ない人を殺し金を取たに相違無から其通り申上よと云ふのだ男らしくもないと猛り立我を忘れて云ひ募りけるを段右衞門は猶冷笑ひイヤ〳〵此阿魔め幾何八面大王鬼に成ても此身に覺えの無事は然樣だなどゝは云れぬ者よフヽンと鼻であしらうを聞いてお文は益々怒りコレサ〳〵段右衞門夫なら愈々爾ぢは穀平を殺さぬと云張かハテ知たことよ身に覺えのなきことは何處迄も此の段右衞門は覺えなしサと云にお文は夫なら是程慥な證據が有ても知ぬと云か段右衞門アヽ騷々しい女如きが口で云ふ事は證據に成者か爾れは取逆上亂心して居るな但は熱の上言か未練な僞りを言掛居るぞと聞よりお文はワツと泣出し掴み掛らん有樣なれば大岡殿大音聲に默止爾等は此所を何處と心得る然も天下の決斷處なるぞコレ〳〵段右衞門其方は文を女と輕侮申し伏んとすれども假令婦人なりとも逐一申立己れが罪迄も明白に白状するを爾ぢは只今知ぬ〳〵と而已強情に言張んと爲は不屆至極なり如何程爾ぢは陳ずるとも大方知たる罪なるぞ眞直に白状致せと申されけるを段右衞門是は聞えぬ仰せなり御奉行樣には女の方を贔屓成るゝかと言しかば越前守殿大いに怒られナニ婦人を贔屓するとは不屆の一言天地自然の淨玻璃の鏡を立邪正を糺し業の秤を以て分厘も違ず善惡を裁斷する天下の役人を暗まさんとなす強情者古今稀なる此な大惡人め穀屋平兵衞を殺せしに相違有まじサア申立よと問詰られしかども段右衞門然あらぬ體にて平兵衞を殺し金を取し盜賊は先達て穀屋方より願ひに依て杉戸屋富右衞門が既に御仕置に成しと承知る然らば又候外に平兵衞を殺した者出る時は御奉行を始め御役人の落度成んか而覺えも無き拙者を強られ無實の罪に落る時は富右衞門は何故に罪の正からざるを御仕置に成れしやと空嘯いて申けるこそ大膽不敵の曲者なり時に大岡殿呵々と笑はれ爾ぢ舌長くも申者哉然らば一應申附すべし穀平を殺したるは富右衞門にて裁斷濟たりと雖も富右衞門は無罪なり爾ぢは大罪人なり若今富右衞門が存命ならば爾ぢは科人と成やと有しかば段右衞門冷笑ひ一旦御仕置に成し富右衞門が只今此處へ出候はゞ其時は急度白状致すべしと言ければ大岡殿然ばとて與力に申付られ豫て養ひ置し富右衞門を只今是へ呼出すべしと有しに與力は畏まり候と其儘立て行ければ此場に居合せし者共は互ひに顏を見合死ける富右衞門が再度爰へ出べき樣もなし扨々御奉行樣は奇妙なことを仰せられると皆々不思議に思ひて居たりける然る所へ與力同心付添杉戸屋富右衞門を白洲へ召連出しかは大岡殿大音聲に如何に段右衞門承はれ先年富右衞門所持の煙草入を以て穀屋平兵衞を殺し其場に落し置しを種として富右衞門に罪を塗付しに相違あるまじ其節富右衞門を段々吟味せしに全く平兵衞を殺さざる由其上に彼の富右衞門其日は宿所に居ず全く人殺しは別に有ことゝ思ひし故其時は外の科人の首を以て曝し既に今年迄三ヶ年の間富右衞門を隱し置たり爾ぢ是を知ずやと仰せ有ければ流石不敵の段右衞門も只茫然として暫時物をも言ず俯向て居たりしが何思ひけんぬつくと顏を上今迄包み隱せし我が惡行成程穀屋平兵衞を殺害し金子百兩を奪ひ取りしは拙者に相違之なく併しながら其鎌倉屋金兵衞を殺せし覺えは決して御座無く候と猶々強情に申居たりける 第十九回  螻蟻の一念は天へも通ずとの俚諺又宜なるかな大岡殿此度幸手宿三五郎妻文の申立を聽れ武州鴻の巣鎌倉屋金兵衞方へ差紙を遣はされし處悴忠助は稍々今年十一歳なる故伯父長兵衞は名代として江戸へ赴かんと調度を成金兵衞方に幼少より召使ひし直八と云者萬事に怜悧なるに付き之れを召連鴻の巣を立出江戸馬喰町熊谷屋利八方へ泊り込しが日永の頃なれば退屈なりとて直八は兩國淺草又は上野山下邊など見物なし廣小路へ出で五條の天神前へ來りし所に天道干の道具屋に二尺五寸程の脇差ありしが何やら見覺えのある品故直八は立止まり此脇差を手に取上能々見ば鞘は黒塗鐺は銀鍔は丸く瓢箪の透しあり頭は角縁は赤銅にて鶴の高彫目貫は龍の純金なりしかば直八は心に合點モシ〳〵道具屋さん此脇差は何程で御座りますハイ其は無名なれども關物と見えます直價の所は一兩三分に致しませうと云ふを聞直八其は高價私は百姓のことだから身には少も構ひは無い見てくれさへ宜れば好眞の御祝儀差だ最些と負て下さい道具屋否々此品は堅い代物なれば夫よりは少しも引やせんと是より暫時直段の押引をなし漸く金一兩一分と極り直八は道具屋に向ひ直は付たが金子の持合せは少々不足だが漸して是を手付として置て行ませうと金一分取出し翌日の朝殘りの金を持て私が取に來る然し事に寄と來れぬ時は御前の内へ直樣取に遣から一寸請取を書て下さいと云ふにぞ道具屋は書付を認め判迄捺て出しければ直八手に取揚て讀けるに 覺 一脇差               壹腰 右代金壹兩壹分也 内金壹分請取 但し拵へ付貳尺四寸餘無名物縁赤銅鶴の彫頭角目貫龍の純金丸鍔瓢箪の透し彫鞘黒塗鐺銀 下谷町貳丁目 六月十七日 道具屋治助 と書認め有ける故夫なら翌日又是を持せて取に上ますが田舍者は兎角迷路易き故下谷と云ても分らぬことが有つて間取から大屋さんの名を書て下されましと言に道具屋ハイ〳〵家主は廣次郎と申ますと肩書にして渡しければ直八是で宜と其儘馬喰町の旅宿へ歸りて長兵衞并に村名主源左衞門に向ひ下谷山下にて見當りし脇差の事を話し是は親方の小刀なり先年行方知ずとなりし三人の中練馬藤兵衞へ確と私が手から貸て遣した代物故行先を能吟味したら三人の死生の程も知れ親方の敵の手筋も分りさうな者だと聞て長兵衞夫は捨て置れぬことなりと源左衞門并に熊谷屋の亭主へも相談なし早速其筋へ訴訟べしとて願書を認め右道具屋の請取を添へ町奉行所へ差出たり之に依て翌日同心原田大右衞門下谷の自身番へ出張し家主廣次郎を呼寄られ其方店に道具屋治助と申者是有る由直樣召連來るべしと申渡せしかば廣次郎畏まり候とて直に治助を同道して來りしに原田治助に向ひ汝ぢは道具渡世をなす治助なるか御意に御座りますと答るにコレ此請取に覺えあるかと尋ねければ治助は是を見て此請取は昨日廣小路の店にて商ひを致し手付を請取し時さし出したるなりと云に聢と夫に相違無やと申せば然樣に御座りますと云時原田シテ其脇差は何所から買た其賣口は知て居樣なと云れ治助は甚だ氣味惡く思ひながら其品は稻荷町の十兵衞と申者の宿に於て去月の市に買取たり然し其節は二十品ばかりの買物にて賣主は誰やら聢とは申立兼れども右十兵衞の帳面に記して御座りますと申せば原田然ば其十兵衞を呼出すべし尤も跡月よりの賣上帳を持參せよと家主へ達しけるにより家主仁兵衞早速十兵衞へ此由を云聞せければ十兵衞は又間違の品が出たかとて家主同道にて下谷の自身番へ來りしかば早速呼出し原田は十兵衞に向ひ去月中爾ぢが宿にて此治助が脇差を買たと申が然樣に相違無やと尋ぬるに十兵衞脇差を見てヘイ然樣では御座れども大勢の事故別段變りし品は覺も御座りますが斯樣な品は其日の買取人が參りまして直に引取ます故聢と見覺は御座りませんと申に然ば賣帳が有うと云れ十兵衞は帳面を出し治助どん去月の幾日頃だの治助中市と思ひました桃林寺門前の佐印か三間町の虎公か何れ此兩人の中だと思はれますと云ば十兵衞成程々々斯つと十日は治助どんは燒物獅子の香爐新渡の皿が五枚松竹梅三幅對の掛物火入が一個八寸菊蒔繪重箱無銘拵へ付脇差二尺五寸瓢箪の透しの鍔目貫龍の丸は頭角縁は鶴の彫と聞より治助大に悦び宜々夫だぞ賣人は誰だ〳〵十兵衞待なせへよ三間町の虎松に相違は無いとて原田の前に出彼の脇差は淺草三間町の虎松と申す者より買入しに相違御座りませぬと云ば原田然らば御用は無引取と申渡すに十兵衞は有難しと家主諸共引取ける斯て原田大右衞門コレ幸藏此治助を連先へ東町の自身番へ行て淺草三間町の虎松を呼で置己は坂本へ鳥渡廻つて行からと申付て立出れば手先の幸藏は脇差を風呂敷に包み治助を同道して東町の自身番へ來り虎松を呼寄けるに家主巳之助差添て罷り出原田の來るを待居たり暫時有て原田大右衞門は自身番へ來りければ家主巳之助這出て私し儀は三間町の家主巳之助と申者なるが何か御用の筋之有る由に付虎松を召連候と申に原田は是を聞其方が虎松なるか此脇差を去月十一日稻荷町の十兵衞方に於て此治助に賣たるかとの尋ねに虎松然樣なりと答ふれば原田而て此品は何所から買出たか其買先を申立よと問れ虎松是は面倒の品と思ひながら此脇差は去年十一月田舍へ買出に參つたる節杉戸宿の林藏と申者の手より買取たるに相違なしと申立れば愈々然樣ならばもはや御用は相濟だ引取べしとのことゆゑ治助はホツト溜息を吐家主廣次郎同道にて我が家にこそは歸りけれ扨夫より原田は虎松に向ひ其方明日杉戸へ案内を致せ因て今日は家主巳之助其方へ虎松を預るぞと殘る處無く差圖有て原田大右衞門歸宅致しける依て公儀の御詮議は行屆きしものなりと人々感心したりけり 第二十回  去程に同心原田大右衞門松野文之助の兩人何れも旅裝束にて淺草三間町の自身番へ來りければ虎松も豫々申付られしこと故支度をして相待居しに付直樣案内として六月廿日に淺草寺の明卯刻の鐘と共に立出炎天をも厭はず急ぎ武州埼玉郡杉戸宿名主太郎左衞門方へ着し早速に道具屋渡世林藏を呼出せし所他行の趣きにて女房を同道せしと云に原田はアヽ女房では分るまいが折角來たものなら先是へ呼寄せとて林藏の妻を呼出し今日林藏は何所へ參りしぞと問れしかば女房何事か出來したかと驚き今日は商賣用にて栗橋まで參りました故申刻過には大方戻りませう併し御役人樣へ申上ます妾しの良人は當年六十に相成りますが近所でも佛林藏と申て何も惡事は是迄少しも致しましたことは御座りませんが些少なことは御免成れて下さりませと申ければ原田否何も林藏に惡事が有と云では無是へ來さへすれば分ることゆゑ格別に案じるに及ばずと云に女房ハイ其は有難う存じます併し日頃から妾しが異見を致すは爰のこと林藏は能歳を仕て殊の外女好夫故大方然樣な一件でも御座りませうが主有者に手を出すの密夫などは致ませんが只々錢を持さへ致すと女郎買にばかり行きます是が誠に玉に瑾と申ので困りきりますと頻りに譯もなきことを申立るにぞ原田始め一同笑ひに堪兼最宜々林藏が戻り次第に早々知せろコリヤ家主嘉右衞門林藏が歸りしならば早速に同道せよと申付られ引取所へ林藏は立戻りし故に家主嘉右衞門は林藏に斯と申聞ければ林藏は何事やらんと怖々ながら其所へ出れば町方役人村役人二人共附添手先の者は立働き一同居並んで居る故只肝を冷して戰ひ居たり此時原田は三間町の虎松に向ひ其脇差は那の林藏より買取しに相違無やと有に虎松ハイ仰せの通り右林藏の手より買取しに相違御座りません原田是や林藏今虎松が申す通り相違無や而其脇差は何方から買取た眞直に申立よ僞ると汝ぢが爲に成ぬぞと威され林藏は恐る〳〵手に取上て能々視畢り成程此脇差は慥かに見覺えました品是は幸手宿の者より否々粕壁の市で買ましたと云に原田始め役人共其は何か取留ぬ申口たり林藏確と申せ胡亂なことを申と直樣縛るぞと有けるにぞ元來臆病者のこと故林藏はがた〳〵戰ひ齒の根も合ず居たりしかば家主嘉右衞門は傍より是々林藏確乎とした御答を申上よ大事な儀ぢやぞと申に林藏何と致まして嘘を申立ませうアノ夫々是は去年の春の事とて栗橋の燒場のアノ隱亡の名は慥彌十とか申者より錢一貫二百五十文に買受ましたに相違は御座りませんと申立るにぞ原田は是を聞コリヤ林藏愈々然樣に相違無か若間違うては濟ぬぞと堅く申渡され林藏ハイ〳〵決して間違ひは申上ませんと云故役人共然れば其方早々栗橋へ案内致せと直樣申刻過頃より出立なし三間町の虎松は是より御用濟なりと申渡し役人は林藏を先に立せて栗橋宿の名主代右衞門方へ到り無常院なる隱亡の彌十を呼び出せしに彌十は庭の莚の上に襦袢一枚にて控へ居たりしを役人共コリヤ彌十爾ぢは是なる林藏へ脇差を賣たることが有か其脇差は爾ぢの品か又は何國から持て來たか明白に申立よと云れ彌十は少し口籠りしがイヱ此脇差は私しの家に持傳へし重代の品なりと云に役人コレ彌十爾ぢが重代の品などは不屆き至極なり夫縛れと下知しければ手先の者立懸り忽然高手小手に縛り上るに彌十は恐れし體にて何を隱しませう其品は葬禮の時の納め物なれども然樣申上なば御疑ひが懸らうかと存じ重代の品と申上しかど實は死人の納め物なりと申ければ役人扨々爾ぢは不屆き者なり此脇差は中仙道鴻の巣の鎌倉屋金兵衞と云者の所持の品にて其子分なる練馬藤兵衞と云者に貸遣したる脇差なり然る所其後右藤兵衞等外二人の行衞は今に於て相知ず然る所今藤兵衞が差て居たる脇差の有からは其方が掃部茂助藤兵衞等三人の在家を存じて居に相違は有舞サア眞直に白状せよと意外に出られ彌十は南無三寶仕舞たりと思へども然有ぬ體にて否々全く脇差は納め物に相違御座りませぬと云ば役人は左右汝ぢは不都合なる事を申ぞ脇差を葬禮の納め物となすならば寺へこそ納める筈なれ何ぞ燒場へ納めると云法の有んやサア尋常に白状致せ不屆者め夫責よと言葉の下より手先の者共笞を揚て左右より彌十の股を肉の破る程に打敲ければ彌十は是に堪兼アツと叫んで泣出しアヽ御免し下されよ何事も皆包まず申上ます〳〵と詫けるに然らば白状すべしと責を止め猶強情に陳ずれば餘計に痛いめをするぞ而て藤兵衞が所持の脇差を如何の譯で汝ぢが手に入たるぞサア〳〵其譯白状すべしと問詰られて彌十は苦痛に堪兼迚も免れぬ處と覺悟をなし然樣ならば申上ます此脇差は一昨々年の七月廿八日の夜の事成しが死人に火を掛内に這入て伏み居し折柄燒場の外面の方に大喧嘩が始りし樣子故何事かと存じ密と出て窺ひしに闇き夜なれば一向に分らず暫時樣子を見合居し處幸手宿の畔倉重四郎と三五郎と申者の聲ゆゑ徐々立寄しに相手の者三人は皆切殺され是は浪人の八田掃部と并に練馬藤兵衞三加尻茂助と申せし者共なり其時重四郎の申には何卒此死人を火葬に爲て呉ろと頻りに頼みしかども私しは後々の事を恐敷と申して斷りしに重四郎は承知せず貴樣に難儀を懸ぬ樣に取計ひ方も有から是非々々頼むと申を兎角に後難が恐しさに否だと申て立去んと致せし時斯大事を見られた上は生して置れぬ言ことを聞ずば命を呉ろと既に切殺さんと致すゆゑ私しも詮方無く後の難儀は辨へながら其場の難には換難く存じ據ころなく申に任せ三人共火葬に致し骨は殘らず川中へ捨て仕舞しと白状に及びければ役人其時汝ぢは必定金子を貰ひし成んと申に彌十ヘイ一人前一兩宛貰ひ是非なく燒て遣しましたと悉敷申立けるにぞ原田は進み出而此脇差は爾ぢが取たのか彌十ヘイ納め物同樣に存じましてと言を原田は白眼付那の爰な横着ものめ定めし汝は脇差ばかりでは有まじ外々の品も盜み取て賣たで有うと問詰ければ外に二本の脇差は騷ぎの中故火中へ入て御座りしを氣が附ず燒て仕舞ましたら何時か眞赤に成まして役には立ず一本の方は洗箒の樣に成て致し方なければ川へ捨ましたと申立けるに原田は點頭然らば愈々相違無かと有ければ彌十少しも僞りは御座りませぬと申すに依道具屋林藏は御用濟たり勝手に引取べし太儀なりと申渡され家主嘉右衞門は林藏同道にて歸りける夫より隱亡彌十は高手小手に縛められしまゝ宿籠に乘江戸表を差て送らせける其後種々樣々吟味有けるに先の申立と相違も無きこと故是より大惡の本人たる重四郎の段右衞門と愈々突合せ吟味とこそは極りけれ 第廿一回  時に享保十一年七月五日重四郎の段右衞門一件の者共を悉皆く白洲へ呼出し軈て大岡殿彌十に向はれ何に彌十汝ぢは元栗橋にて重四郎三五郎の兩人が掃部茂助藤兵衞の三人を殺せし時手傳ひて共々殺したで有うなと故意と疑ひの詞を設けられしかば彌十は面を正し否々私し儀は其節喧嘩の聲を聞付見には出ましたが怖さは怖し遠方に窺つて居しのみにて漸く少し鎭まりし時三五郎重四郎兩人の聲が致すゆゑ傍に立寄夫より右死骸は據ころなく頼まれて火葬に致しましたれど勿々以て手傳などは決して致しません尤も其節の手續は斯々云々なりと委細申立ければ大岡殿段右衞門を見遣コレ段右衞門爾ぢは三五郎と申合せ元栗橋にて掃部茂助藤兵衞を殺せしは我が推量に相違無し然れば鎌倉屋金兵衞を殺したるも汝ならん眞直に白状せよともうされければ段右衞門は漸々に眼を開き此間中より申上し通り穀屋平兵衞を殺し又鈴ヶ森にて三五郎を殺し候は全く私しに相違なけれども金兵衞を殺したる覺えは毛頭之なしと飽迄も言張にぞ大岡殿詞靜かに是段右衞門能く承まはれ爾ぢはよく〳〵迷つた奴と見える假令一人たりとも人殺しの科極る上は獄門に曝さるゝは知てあるに今猶強情に申募るとも一命の助かる譯は無ぞサア〳〵尋常に白状せと言れ夫とも彌十爾ぢが申立たるとは僞りなるかと申さるゝに彌十は段右衞門に向ひ是々重四郎ではない段右衞門殿夫な譯の分らぬ強情は止にしろ今奉行樣の仰しやる通りだ幾等其方が隱して白状爲ねばとて命の繋がる事は金輪ざい有ア爲ねへ夫迚も三五郎と申合したかは知ねヱが今と成ては未練な男だ誠に苦しみ惜みの人間だなア掃部や藤兵衞茂助の二人を殺した時其方が利根川へ死骸を打込ふと言たら三五郎が言には川へ流しては後日が面倒だ幸ひ此彌十に頼んで火葬に爲て貰へば死骸も殘さず三人の影も形も無なるゆゑ金兵衞を殺したことも却つて彼等三人に疑ひが懸る道理だと三五郎の計略にて已に火葬を頼んだ其時に若もと己は不承知を言たら汝れが懷中から金を三兩出て博奕友達の好みだと言て平に頼む故己も詮方無く燒て仕舞て骨は利根川へ流したに相違は無いぜ是サ段右衞門今此彌十に顏を合しては百年めと言者サア何も彼も決然と男らしく言て仕舞と言にぞ段右衞門コレ汝ぢは跡方も無拵へ事を言掛我に罪を負せんと爲る此乞食めと大音に白眼付ると彌十大いに怒りて何だ乞食だと知たことだ隱亡は人間と非人との間だは是も渡世だ然ながら此彌十は酒も呑長半も人並には打殊に喧嘩もするが今迄人に疵とても付たことも無し錢三文でも盜んだ覺えは無そ能聞よ汝れはな幸手の穀屋平兵衞を殺して金百兩を奪ひ取り其上にて關宿の藤五郎の博奕場で四人と言者を切て又堺の町でも鷹助に手疵を負せしこと寶珠屋大坂屋のことからしてオヽそれ〳〵其前のことだ栗橋の土手で眞田商人を殺した事も皆々汝ぢだと疑つて居ぞ此盜人野郎め乞食に近い此彌十よりは遙か劣りし人非人めサア言譯が有なら返答仕ろと大聲に言込けるに流石不敵の段右衞門も更に無言となり此時に至つて大いに赤面爲たる有樣なれども未だ白状は爲ざりけり 第廿二回  此時越前守殿高聲にコレ段右衞門左右に汝れが罪を隱し鷺を烏と言黒めんとするは扨々不屆き者なりと白眼付られ夫より同心に豫て申付置たる品川宿の馬士を只今是へ出すべしと言れけば同心は畏まり候と立て行けるが頓て身には半纒を着て眞向より頬へ掛て切下られし疵痕あり丈は低く髭は蓬々として如何にもみすぼらし氣なる者を連出せしかば大岡殿コレ品川宿の馬士其方は去年十七屋の飛脚を乘鈴ヶ森に於て切られし所汝ぢは運好も命助かりしが其時の盜人は爰に居る段右衞門と言者ならん能々顏を見よ其節の盜人で有うがなと申さるゝに馬士はヘイ御意に御座ります未だ夜明前とは申ながら挑灯も御座りました故隨分慥かに見覺えて居ます成程此者に相違は御座りませんと聞より流石の段右衞門も愕然と仕て大いに驚きヤア然らば其時の馬士めで有たか扨々運の強き奴かな頭から梨割にして其上に後日の爲と思ひ留め迄刺たるに助かると言は汝ぢは餘程高運な者なりと呆れ果てぞ居たりける時に越前守殿如何に段右衞門金飛脚の彌兵衞并に馬士爲八を殺したに相違は有舞なと問詰られしかば段右衞門はハツと首を下げ御意の通り鈴ヶ森に於て三度飛脚の彌兵衞を殺し金子を奪ひ取しに聊か相違なしと申立しにぞ大岡殿は馬士に向はれ其方は最早用事の相濟たり引取れと言れしかば其儘馬士は白洲を立て行跡に越州殿呵々と笑はれコレ段右衞門汝ぢは是迄強情に申張て一向白状に及ばぬ故向う疵の有馬士を尋ね出し彼に申付て汝ぢを謀り白状させしなり其節の馬士は何として命の助かるべきや然るを我が計略に陷りしも是天命なり今さら包み隱さずとも尋常に惡事を殘らず白状すべしと鋭どく問糺されしかば段右衞門は此時初めてハツト言て歎息なし寔に天命は恐ろしきものなり然ば白状仕つらんと居直り扨も權現堂の堤に於て穀屋平兵衞を殺し金子百兩奪ひ取其後鷲の宮に於て鎌倉屋金兵衞を手に掛て金五百兩を盜み取猶又三五郎と申合せ元栗橋に於て三人の者を殺害せしより鈴ヶ森にて十七屋の飛脚を殺し金子五百兩奪取り其後藤澤宿の大津屋と申旅籠屋へ入夫と相成し處三五郎度々無心に來りしが我惡事を皆悉く知りたる三五郎なる故後日の妨害と存じ欺きて鈴ヶ森まで連出し終に三五郎をも殺害せしに少しも相違御座なく候と殘らず申立ければ大岡殿聞れ神妙々々と言れし時段右衞門は大岡殿に向ひ恐れながら斯る明奉行の御糺問を蒙り御吟味明かなる而已ならず御仁慈の程誠に以て恐れ入奉つる何さま世間の噂に相違も之無き賢明の御奉行なり其御裁許に預ること此身の本望と申すべし返す〴〵も私しの惡行今更後悔仕つり候然る上は三五郎女房文元栗橋の隱亡彌十等私しへ係り合の者共の儀は私し故に罪科も蒙り候ことゝ存じ奉つるに付私し身分は何樣の御成敗を仰せ付らるゝとも自業自得の儀に候へば聊かも恨むる所なし係り合の者共は何卒御慈悲の御成敗願はしく存じ奉つり候とて己れが舊惡を悉皆く白状に及びしかば夫より口書を認め重四郎の段右衞門の爪印を押せ追て沙汰に及ぶと申渡され一同下られけり 第廿三回  然程に大岡越前守殿には段右衞門前名畔倉重四郎一件に付享保十一年十二月右係り合の者共一同白洲へ呼出され夫々に其罪科を申渡されける 相摸國高座郡藤澤宿 大津屋段右衞門事 前名  畔倉重四郎 其方儀權現堂小篠堤に於て幸手宿穀屋平兵衞を殺害し金子百兩奪ひ取其後中仙道鷲の宮にて鴻の巣宿鎌倉屋金兵衞を殺し金子五百兩盜み取し上剩さへ三五郎と申合せ右金兵衞の子分掃部茂助藤兵衞等三人の者をも元栗橋燒場前にて切殺し死骸は隱亡彌十に頼み火葬に致し其後鈴ヶ森にて十七屋の三度飛脚を殺し金子五百兩奪ひ取其後猶又同所にて三五郎をも殺害致し候段重々不屆至極に付町中引廻しの上千住小塚原に於て獄門に行なふ 武藏國埼玉郡元栗橋宿 隱亡  彌十 其方儀平生身持宜からず博奕喧嘩を好み其後重四郎并に三五郎より頼まれ候とは雖も掃部茂助藤兵衞三人の死骸を燒棄其上右骨は利根川へ流し候段重々不屆の所格別の御仁惠を以て遠島申付る 同國同郡幸手宿 三五郎妻  ふみ 其方夫三五郎儀平生身持宜からず重四郎と申合せ金兵衞の子分等三人を元栗橋燒場前に於て殺害し右死骸を隱亡彌十に頼み燒棄させ候段不屆に付存命致し居候はゞ重き御仕置にも仰せ付らる可の所鈴ヶ森に於て殺害致されしにより其罪を諮ず右は重四郎の仕業と相分り重四郎儀は町中引廻しの上獄門仰せ付られ候上は有難く存すべし 相摸國高座郡藤澤宿旅人宿渡世 小松屋文右衞門 其方儀重四郎を同宿大津屋ゆう方へ入夫致させ候節身元をも糺さず世話致し候段不行屆きに付過料として錢三貫文申付る 長谷川町家主嘉兵衞店針醫師 盲人  城富 其方儀平生養母に孝行を盡し其上に先年實父富右衞門御所刑に相成候節自分身代りの儀願ひ出候段是又實父母へ孝心の至りに思召され候之に依て御褒美として白銀三枚取せ遣はす有難く存ず可し 武藏國埼玉郡幸手宿穀物渡世 杉戸屋富右衞門 其方儀永々入牢仰せ付られ罷り在處此度右一件本人相分り御死刑仰せ付られ候に付出牢仰せ付らる有難く存ずべし 右の通り重四郎一件落着と成しは誠に天道正直の道を照し給ふ所なり然れども其人其罪無して杉戸屋富右衞門は如何なる其身の業報にや煙草入を落せしより圖らずも無實の罪に陷入一旦入牢仰せ付られけるが上に聖賢の公存ませば下に忠良の臣あつて能國家を補翼す故に今斯明白に善惡邪正をたゞされしかば富右衞門の女房お峰其子城富は申に及ばず親族に至る迄皆大岡殿の仁智を感じ喜悦斜ならず殊さらに實子城富は見えぬ眼に涙を流し先頃大岡殿の申されしに父富右衞門は蘇生せまじきものにもあらずとは此事なりと喜悦こと限り無く只々偏へに名御奉行大岡樣の御仁慈なりと奉行所の方に向ひ伏拜み〳〵感涙止めあへざりしも道理なり扨爰に亦穀屋平兵衞の悴平吉は段々吟味の末杉戸屋富右衞門は全く無實の罪なること明白に顯れ其節の盜賊は畔倉重四郎なる由を聞及びしかば大いに驚き扨々我等が不明故に罪無き杉戸屋富右衞門殿を永々入牢致させ苦めしこと何とも申譯なき誤り成りと思ひ平吉は早速杉戸屋富右衞門方へ到つて種々樣々に是迄の始末を詫言なし是は聊かながら出牢の歡び旁々土産なりとて懷中より紙に包み目録として金子百兩を差出しければ富右衞門是を見て扨々誠に以て御芳志の段有難き仕合なり然れども此度の災難かく成行も宿世の業因なれば誰を恨み彼を恨みんとは存じ申さず煙草入を落せしことが我が誤りなり斯る大金を御惠み下さるべき謂れ無しと達て辭退に及ぶゆゑ平吉は何卒して我々が誤りを詫言なす印に渡し度と思ひ是非々々是は御受納成さるべし又此上何成共相應の儀も候はゞ御相談下されよ私し力に叶ふ儀なれば如何樣にも御助勢申たしと言つゝ無理遣に差置て早々歸宅致しければ富右衞門は此金を持て又々穀平方へ到り御芳志の段忝けなし然ながら斯る大金を申請べき譯は更に無しとて種々に斷りけるを平吉夫にては手前の心に濟ず平に御受納下されよとて受取ざれば是非無く富右衞門も右の百兩を貰ひ受夫より我が旦那寺へ到りて是を納め惡人ながらも不便なりとて畔倉重四郎を始め彼三五郎鴻の巣なる鎌倉屋金兵衞其外野州浪人八田掃部三加尻茂助練馬藤兵衞などの菩提を弔ひ又元栗橋の隱亡彌十などの安穩に歸島致す樣祈祷を頼み其後先祖の菩提の爲とて旦那寺に於て大施餓鬼を取行ひ杉戸屋富右衞門世話人頭と成て修行致しけり扨富右衞門は隱居なし家督は親類より相應なる者を呼入て杉戸屋の家名を繼せ其身は只明暮念佛の門に入て名號を唱ふる外他事無りしとぞ依て追々佛果を得富右衞門は長命にて終に年齡八十一歳に至り眠るが如く大往生を遂げしとぞ 畔倉重四郎一件終 小間物屋彦兵衞一件 小間物屋彦兵衞一件 第一回  いつはりなき世なりせばいかばかり人の言の葉うれしからまじとは朗詠集文詞の部にも出てよく人情に適ひたる歌なれども左右人世の欲情は免かれ難くして僞り飾る事のなきにもあらず然ば元祿の頃大坂天滿橋の邊に與市と云者あり未だ若年にして陽には侠客風俗を好むと雖も其質狡猾く毎々新町を始め惡所場を騷し諸處に於て強請騙りなどせしが或時喧嘩にて人を過め遂に召捕れし上久敷入牢して居たれども相手方命に恙なく御慈悲を願ひける故遠島にも成べきを三ヶの津構にて事落着に及びたり元來船乘の事なれば夫より堺へ行船頭となりしが左右に博奕を好み身持惡きゆゑ人に嫌れつゝ三十歳ばかりに成し頃船中にて不圖人の荷物を奪ひ取しより面白く思ひ追々效を積に隨ひ同類を集め四國西國邊迄も海賊を稼ぎ十餘年を消光けるが其働き飛鳥の如く船より船へ飛移り目にも見えざる程故八艘飛の與市と渾名を取しなり或時腕首に大疵を請其後働く事叶はず彼是する中四十歳餘りにもなりしかば元祿の頃大坂を追拂はれてより十五六年も過たる故最早氣遣ひも有まじと思ひ勘兵衞と名を變東堀に住居をなし表向は船乘内證は博奕を渡世として子分も出來しにより妻を向へしに渠が連子の太七と云ふを實子の如くに不便を加へ月日を送り居たりけり其頃大坂堂島に彦兵衞と云者小間物を渡世となし夫婦さし向ひにて金持と云にはあらねども不自由もなく暮しけるが彼の勘兵衞の甥彌七と云者を人の世話にて先頃若い者に召抱へ荷擔にも連れ使ひにも出せしに至極實體に勤る故或時新町の出入先より誂への金銀物を持せ使ひに遣しに夫切一向歸り來らず依て心配なし使ひ先を聞合すれども此方へは來らずとの事故然すれば取迯に相違なし出入場へ申譯濟ずとて早速宿に掛合しに勘兵衞大きに驚き扨々不屆なる奴四五日御待下さらば尋ね出し御返し申さんと申に我等が品にあらず出入先の誂へ物故一入難儀致すに付早速に御頼み申と云置彦兵衞は新町へも右の段を申入れ八方を尋ぬるに彌七の行方更に知れず神鬮判斷などゝ心配する中新町よりは度々催促に預り殊の外難儀なすに依又々東堀へ行勘兵衞へ懸合處未だ一向手掛りも無き由を申せしかば彦兵衞は彌々困り果當人が出ぬ時は新町へ立替ねばならず依ては氣の毒ながら右代物丈の品才覺有べしと申を勘兵衞聞入ず勿々急には金子の調達出來兼る間先旦那の方にて御才覺下さるべし彌七引負は追々御勘定申さんと云を彦兵衞其は又餘り勝手過る話しなり其爲貴樣請人に非ずや殊に此節我等も金子不手廻りにて問屋の勘定滯ほり不自由なせば一兩日の中に勘定致さるべし然もなき時は向うより出入にされては迷惑致すにより貴樣を相手に御願ひ申さぬ時は誂へ主へ相濟ず爰を能々勘辨し給へと段々事を分て云聞けれども勘兵衞は承知せず三十兩と云金はとても出來難き故縱令公邊沙汰に成さるゝ共御日延を願ふより外に分別なし誂へ主への云譯に公邊沙汰になさるべし如何にも受申さんとの挨拶なれば是非なく勘兵衞を家主へ預け誂へ主の方へも此段を申して日を延し直に西の御番所稻葉淡路守殿へ願書を差出したり 第二回  是に依て享保三年五月十八日双方共呼出され淡路守殿彦兵衞に向はれ其方儀彌七は何時召抱たるやと尋ねらるゝに彦兵衞謹んで去年師走に召抱候と申を能勘辨致せ未だ氣心も知れぬ者に金高の品を取扱ひさせる事は些少無念なるべし此以後は隨分氣を注よと申渡されコリヤ勘兵衞其品は彦兵衞出入場より誂へなれば早速辨償ねばならず奉公人彌七行方知れる迄は右の品々彦兵衞に聞合せ殘らず辨償て遣せと申さるゝに勘兵衞私し儀も所々相尋しか共行方知れず右品々とても高金なれば勿々調達出來難し依ては彌七行方相知るゝ迄彦兵衞不肖仕つる樣仰付られ下さるべしと申立るを稻葉殿能聞證文の通其方甥とある上は當人出しとて其品なき時は辨償ずばなるまじ殊に彦兵衞が所持の代呂物に非ず出入場より預りし品なれば少しも猶豫成難し三日の中に右の品辨償よ若調達出來ぬとあれば申付方が有るぞと嚴敷申渡され右彦兵衞聞通り勘兵衞へ申渡せし上は右の品請取と云はれ兩人并に町役人共下られける斯樣に嚴敷申渡されしは何故と云ふに勘兵衞は大兵にして色黒く眼大きく額より口へ掛て大疵の痕一ヶ所又小鬢の外れより目尻に疵痕二ヶ所有り至つて惡相なれば奉公人の欠落合點行ずと思はれ斯は申されしなり夫より勘兵衞は早速彦兵衞方へ行勿々三日の中に三十兩の品は出來申さず何卒右の品其許にて御求め下され借用の一札を入利足は何程にても出し申さんと云へば彦兵衞も氣の毒に思ひ我等も問屋の方塞り不都合なれども此譯を話しなば得心も致す可きかなれども其品は今十五兩と廿兩見せねば出來難きゆゑ貴殿十五兩才覺し給へ夫にて誂へ主の方は片付べしと云ふに勘兵衞此節は三兩とても出來難しとて請付ねば彦兵衞も餘りの事に思ひ夫にては是非に及ばず御公儀次第と挨拶にぞ及びける茲に勘兵衞の妻お貞は元男勝りの女なりしが先の本夫に別れしより勘兵衞に六年程連添居て此度の一件を聞家内中の衣類を質入し又は諸處ヘ無心もなし其上に博奕の堂敷を取らば十兩は出來申さん夫を彦兵衞へ渡して頼み給へ御番所へ度々出て若も舊惡が知れなば爲に成るまじと云へども運命盡たる勘兵衞故其事は少しも氣遣ひなし何して〳〵身代が大切大金を出してなるものかと云中に早三日立て呼出の日と成り双方罷出しに勘兵衞其方は何故金子調達致さぬぞ今日中に彦兵衞へ渡せと有りし時仰の如く樣々才覺仕つれども急に整ひ候はず何卒日延の儀を願ひ奉つると云ふを稻葉殿以ての外叱られ其方船持と彦兵衞が口上に有り船を賣りても差出すべきに不屆なりと申さるれば勘兵衞私し病氣に付き不自由にて船乘も出來難く其故別して難澁仕つり候間兎角出來兼ね恐入候と申を汝出來ぬと言て彦兵衞は如何して其品を持主へ返すべきや此上入牢と成ても出さぬ所存かと申さるゝに勘兵衞恐れ入り御慈悲を願ひ奉つると平伏して居るゆゑ淡路守殿如何に彦兵衞其方へ申込だる事でも有るかと尋ねられしかば彦兵衞這出勘兵衞儀不如意に付金子出來兼當分の内問屋より右の品借受追て返濟致さんと申し候に付私し儀問屋に借金も是あり切て當金の十五兩も遣さねば出來難き旨申斷り候と申立るを聞かれ夫は奇特なる申分夫さへ得心せぬは合點の行ぬ奴なり手錠申付明日より三日の内に三十兩調達致せと猶々嚴敷申渡されけり是偏に淡路守殿勘兵衞を怪敷思はれし故なりとぞ其頃海賊二人召捕れ詮議有しに是等は八艘飛の與市と云ふ者の子分にて海賊となりし由申ける故其與市は何方に住居致すやと糺されしに海賊共七八年以前泉州堺又は安藝の宮島阿州尼子の浦に相住海中にて西國大名の荷物船へ飛乘賊を働き候が向うに手利の侍士あり疵を請夫より働き不自由に相成候とて海賊を廢し故今は何方に住居仕つるや存申さずと答により其與市の疵は如何樣の大疵にて働き不自由になりたるぞと云るれば海賊共額より口へかけ一ヶ所小鬢先より目尻迄二ヶ所左の腕より臂を切られ右の小指一本之なく候と云を聞かれ與市は何方の生れ又年は何歳位の男なるや彼の者共考へて歳は四十六元大坂生れと承まはり候と申故夫にて宜早速勘兵衞を召捕れと同心を東堀へ向られける勘兵衞は斯る事の有とは知らず明日御番所へ出未だ金は出來ぬと云ば入牢となるに疑ひなしと思ひ彦兵衞方へ掛合十兩渡す對談に致せし所俄に捕方踏込で勘兵衞を本繩に掛奉行所へ連行るゝゆゑ當人は云ふに及ばず家内の者大いに驚き此度の一件に付て召捕るゝ筈なしと怪しみ居たるに勘兵衞は頓て白洲へ引出され彼の海賊共と押竝べての吟味に付双方顏を見合せて驚きし樣子を稻葉殿には見て取れ如何に海賊共與市は手に入たり此者に相違有まじと云はれし時詞を揃へ與市に違ひなき由申ければ淡路守殿如何に勘兵衞其方儀豫て怪敷廉も之有により取調に及びし處海賊の與市に違ひなし眞直に舊惡を申立よとありしに勘兵衞是は南無三と思ひしが隱せるだけ隱さんと私し事與市と云ひたる覺え之なし元來勘兵衞と申候と陳ずるを稻葉殿イヤ汝隱すとも茲に居る海賊共は汝が手下同類なりと申し汝先年船中にて働きし時手疵を負右の小指なきは確なる證據なり與市白状致せと申さるゝに勘兵衞は空嘯き如何樣に御尋ねあるとも私し儀與市と申たる儀御座なく候と白状なさねば猶海賊共に尋らるゝに與市に相違之なくと申にぞ淡路守殿勘兵衞に對れ其方面體の疵は何人に切れたるや有體に申せと睨み付らるゝに勘兵衞も命の際なれば何分白状なさず因て先入牢申付られ劇敷拷問に及びしかば終に舊惡悉皆く白状しける故右海賊共と一處に引廻の上獄門に行はれたり然ば勘兵衞の妻は今更詮方なく漸々に首を貰て念頃に弔ひしとかや 第三回  因て勘兵衞の妻お貞は倩々考ふるに彼の彌七が取迯の事より出入となりて夫勘兵衞殿御仕置となられしなり彌七が事さへなければ舊惡露顯もなすまじきものを如何にも口惜き事哉此上は彌七を見當り次第討取つて夫に手向んと思ひ悴太七を呼勘兵衞殿は其方の爲に實の親には有ねども六ヶ年の間世話になりたれば親に違ひなし彌七を見付次第討取て佛へ手向ずば人と云はぬぞと申渡すに太七は此時十八歳に成ども餘り義心少き生れなれば一向其心なし然れども母の命を背き難く委細承知せしと云て夫より種々に心を付て諸方を尋ね常々新町へも入込居たりしに彌七は勘兵衞が御仕置となりたる事を聞最早恐るゝ者なしと四五日以前に大坂へ立戻り久々にて一晩遊んと其年七月十五日の夜新町の茶屋へ這入所を太七は見付早々立歸つて母に斯と咄すに母は大いに悦び勘兵衞が脇差を太七に指せ其身は出刄庖丁を隱し夜半頃新町橋に到て待受たり彌七は斯る事とは夢にも知ず其夜は大いにざんざめき翌朝夜明方に新町の茶屋を立出橋へ掛る處を母親お貞は斯と見るより夫切よ夫押よと云に太七は慄へ居て役に立ざれば母親は衝と進みより通り違に太七が帶したる脇差を引拔彌七の眉間より眼へ掛て切付たれば彌七はヤレ人殺し〳〵とて迯んとするを疊かけて右の腕を切落すに慟と倒るゝ處を太七は慄へながら取て押へる中町内より人々立出樣子を聞母子諸共先番屋へ引上勘兵衞が後家の家主を呼段々掛合の上屆に及びしかば檢使出張にて勘兵衞後家并に太七が口書を取直に稻葉淡路守殿吟味に及ばれし處後家は謹んで夫勘兵衞舊惡の事は私し共一向存申さず六年以前夫婦と相成し以來更に惡事も之なく人の世話も致し信心を第一と心掛私くし共に目を掛勞り呉候間惡人とは少も心得ず又彌七儀は私しには少し身寄の者故勘兵衞儀奉公の受人と相成候處渠が取迯より事發りて終に御仕置に相成候得ば御公儀樣には御道理の御仕置にも有べきが私しどもの身には彌七は本夫の敵故討取り候に違ひなく如何樣の御仕置に仰付られ候とも御恨とは存じ奉つらずと思ひ込んで申を聞れ淡路守殿大いに感じられ彌七事金高の品を持迯致し主人彦兵衞に難儀を掛夫が爲勘兵衞事番所へ出たる故舊惡露顯して御仕置と相成事畢竟彌七より事起りたれば同人儀は召捕次第仕置にも行ふ者なる故其方共へ咎め申付るに及ばず偖々女には珍敷者なりと大いに賞美致されける是より後お貞は女伊達となり大の男の中へ立交りて口を利に物事能分別し太七を船乘にして船を補理へ名を勘兵衞と改めさせ其頃名高き女にありしとかや 第四回  偖又堂島の小間物屋彦兵衞は彌七の請人勘兵衞事御仕置に成しかば大いに驚きしが是非なく三十兩の品を辨償へ出入先は濟せしかども此一件より勘兵衞の舊惡顯れし事甚だ不便に思ひ居たるに彌七も又殺されしと聞何となく世間も狹き心になり其上借金も多く面白からねば一先江戸へ下り何をして成とも金の蔓に取付かんと工夫をなし女房にも相談の上仕合能ば其方共の迎ひに來るべしと云含め留守の入用にと金二十兩を渡し十二歳と九歳の男子を女房に預け尚又江戸表より一年に五六兩づつは送る約束にて其身は三十兩懷中し享保三年の冬東の空へ下りたり彦兵衞が女房は至つて縫物に妙を得たる故諸處より頼まれ相應に縫錢をも取其上彦兵衞より請取し金もあれば不自由なく消光に付本夫の開運をぞ祈りける偖彦兵衞は江戸の知己を便りて橋本町一丁目の裏店を借元來覺えたる小間物を商ひ未だ東西も知らぬ土地なれども櫛笄簪の荷を脊負歩行に名に負大都會なれば日本一の貧き人もあれば又双びなき金滿家もありて大名も棒手振も押並んで歩行を構はぬ繁昌の地故出入場はなけれども少しづつの錢儲は有により己一人身と云元來大坂生れの事なれば儉約して消光中段々得意場も出來始め廿兩ばかりの代呂物も四年目には五六十兩の代呂物を仕込大坂へ年に十五六兩も送りて手許に十廿の金も有る故彌々面白く稼ぎしが今年は代呂物も百兩程仕込金も百兩位はある樣に成しかば大坂へ歸らんと思ひしに昨日今日と暮す中早五年の月日を送ける或日兩國邊より歸る途中俄に夕立降來り雷夥多敷鳴渡れども雨具なければ馬喰町の馬場の脇に出格子の有る家を幸ひに軒下に立停り我が宅も早二三町なれども歸ること叶ず雨に濡て居るを格子の中より六十餘の人品能老女聲を懸其許庇の下に居るとも濡れ給ふべし此方へ入て雨を凌がれよと念頃に申せしかば彦兵衞大いに悦び然ば仰せに隨ひ暫時雨舍りを願はんと家へ這入ば下婢は茶煙草盆などを持出て挨拶なし斯雷の鳴に女ばかりにて淋き折柄故晴るまで咄給へと取卷しかば彦兵衞は元來辯舌能上方の名所又は女郎屋の體等面白く咄により老女も興に入り其許には何方に住宅致され候やと尋ねけるに私しは御近處橋本町願人坊主の隣に罷在て小間物商賣致し候と云ふを聞て幸ひ銀の松葉の小き耳掻が欲しと有る故直段も安く賣彼是する中に雨も止しかば暇乞して歸りけり 第五回  偖小間物屋彦兵衞は翌日手土産を持馬喰町馬場の脇なる彼の女隱居の許へ行昨日雨舍りの禮を言ひて直に商賣に出しが是より心安くなり宵の内など咄に行近處へ出入場の世話をして貰ひけるが或時貴君の御本宅は何方に候やと聞ば老女私は馬喰町二丁目米屋市郎左衞門と云ふ旅籠屋の隱居なれども甥が居る所は家内も大勢殊に客の有る時は百人も押込故逆上りて血の道も起す程の騷ぎ成ば私ばかり物靜に消光度と別宅致せしなりとの咄を聞御本宅へも御出入を仰付られ下さるべしと申故米屋へも出入となり其上急に出物などにて金子に差支る節其は二三十兩又は五十兩と時借も致し尤も其都度々々速かに返濟なす故隱居も彦兵衞が堅き事を知て何時にても用達て呉るのみならず諸處ヘ引付出入場も多く出來るに付明暮立入隱居の用事とあれば渡世を休みても致し居たり或時雨天にて彦兵衞は商ひを休み隱居の方へ遊びに參りしに難波戰記の本有を彦兵衞元來本好故取上見れば鴫野今福の合戰なり是は古郷のことに付土地の方角も委しければ面白く覺え口の内にて讀居たるを見て隱居少し讀で聞せられよと申しければ心得たりと聲を上て讀に辯舌も能支へると云ふ事なく佐竹家の侍士大將澁江内膳梅津半右衞門外村十太夫等先陣に進み一の柵二の柵を打破り井上五郎左衞門飯田左馬助等を討取猶三の柵片原町なる大學が持場迄此勢ひに崩れんとする處へ本城より加勢として木村長門守重成後藤又兵衞基次秀頼公の仰に隨ひ繰出したりと讀て彦兵衞莞爾と笑ひながら是よりは佐竹樣大負と成て御家老衆討死致され佐竹左中將義宣公も危い處へ佐竹六郎殿駈付て討死致されたればこそ佐竹樣危き命を助り給ひしと咄しければ隱居は今迄面白く聞居たりしが彦兵衞が咄を耳にも入ず勝手へ立て何やらん外の用事をして居るゆゑ彦兵衞も本を止煙草を呑で色々咄を仕掛るに隱居は兎角不機嫌故手持不沙汰に其日は立歸りしが彦兵衞は如才なき男なれば偖佐竹樣の勝た所を悦び負た所を嫌がるは何か謂れ有るべしと思ひ翌日は馬喰町の米屋へ立寄小間物を取廣げ少しの商ひを爲ながら市郎左衞門の女房に對ひ御隱居樣には御年は寄給へど御人柄勝れ常の御方とは見え申さず如何なる御由緒に候やと尋ねしに女房笑ひながら此方に居給へば御不自由はなけれど佐竹樣の御年寄を廿年勤られ只今以て三人扶持づつ參る故徐に消光のが望みなりとて馬喰町馬場に隱居して居給ふと委細咄しけるを聞て彦兵衞大いに後悔なし道理こそ佐竹家の敗軍心に適はず仕方こそ有るべしと夫より本屋を尋ね天安記と云る書物を借出し隱居の方へ行て咄をするに一向機嫌の直らぬ樣子なれば彦兵衞も金庫をなくしてはならずと種々に機嫌を取面白い本を御覽に入申さんと存て持參致したり少し讀申べし御聞なされよと佐竹殿小田山より落し掛天安が籠りたる小田の城を一時に攻落したる佐竹家の武功を辯に任せ讀上ると隱居は大いに機嫌直り豫て小田天安を討亡し給ふと云事は聞たれども本を見たる事なきに能こそ珍敷事を聞せられしと打悦び詞の和らぐを見て大坂鴫野の合戰は上杉樣負軍になる處を佐竹樣御歳六十になり給ひながら薙刀を以て向ふ敵に渡り合八九人薙伏られしかば諸軍此勢ひに乘て追討したる故木村も後藤も遂に叶ず柵の中へ迯込しが共大坂の者には夫にては面白からぬに付木村が十分に勝し樣に書たると思はれ候と辯を震ひて云直しければ年は取ても女の事故殊の外機嫌能緩々彦兵衞に馳走なし前々の通り懇意に出入をさせたりける或時彦兵衞隱居の方へ來り淺草觀音地内の小間物屋に品物有る故仲間内の直踏には十五兩から九十兩まで付上たれども能々見るに百兩に買ても二十兩位は利の有る代物なれば私し百兩と入札致落札になりたる故十兩手附を遣し置し處明日九十兩持參致し代物を請取直に賣ても十四五兩は儲有り徐々賣ば三十兩は屹度利の有る品何卒九十兩御貸下さるべし直に御入用に候はゞ糶拂ひにして指上申べし少々手間取ても苦しからずば代物を御預け申て段々御勘定致さんと申に隱居は是を聞偖々困た事哉先月なれば早速用立申さんに當月は霜月ゆゑ何分貸難く氣の毒なりと申を夫は何故なりやと尋るに然れば豫て御門跡樣へ百兩上たいと思ひ御屋敷より頂戴の御目録又は入ぬ物を賣拂漸々百兩整へし故此御講の内に上る願ひ是を見給へと百兩包を箪笥の抽斗しより取出して見せけるを彦兵衞大いに感じ偖々御信心なる事尋常の者には勿々出來難き御事なるを能こそ心掛給ひしと甚く賞美なし外々にて才覺致候はんと申ければ隱居は暫く考へ脊負葛籠一ツ取出し中より猩々緋虎の皮古渡りの錦金襴八反掛茶入又は秋廣の短刀五本骨の扇の三處拵への香箱に名香品々其外金銀の小道具を見せ是を質に入れたれば小百兩は貸さうなものなりといひければ彦兵衞大いに悦び當分御入用なくば御貸下さるべし用辨次第早速御返し申さんと日暮過に右の品々を借請我家へ立歸り家主八右衞門に頼み右の品を質物に入れ五十兩借請其身も二十兩程は貯へたれば少しの事は如何樣にも成べし明なば小間物を引請一儲けせんと樂み夜の明るを待居たり扨又米屋の見世にては田舍より大勢客が泊り込手が廻らぬ故隱居所の下女を借て働かせしが其の夜は遲く成しかば翌朝歸しけるに早辰刻頃なるに隱居所の裏口締り居て未だ起ざる樣子なれば大いに怪み何時も早く目を覺し給ふに合點行ずと無理にこぢ明て這入見れば這は如何に隱居は無慚にも夜具の中に突殺され朱に染て死したればアツとばかりに打驚き惘れ果てぞ居たりける 第六回  斯りし程に下女は慌狼狽近所の人々に聞ども誰知る者もなく早速米屋へも知らせければ市郎左衞門は云に及ばず我も〳〵と駈付朱に染たる死骸を見て皆々茫然として言葉もなかりしが市郎左衞門涙を拂ひ何ぞ紛失の物はなきやと吟味に及ぶ所豫々大切にせし脊負葛籠の無は盜まれたりと覺えしと云時夫は昨日夕方に彦兵衞殿參られ御隱居樣に願ひお金の代りに四五日拜借して行れしと下女が詞に其は又如何の譯成と問ば昨日彦兵衞殿金子の無心を申せし時百兩包を出して見せられ此お講中に門跡樣へ納る故貸事叶ひ難し其代りに是を貸んとてお葛籠を貸給ひしが其お金は如何やと申故箪笥の引出を明て見るに其金なければ偖は盜賊の業に違なし然れ共其金の在所を知る人はなき筈なり夫とも誰ぞ金子を見たらしき者はなきやと聞に下女は考へ夫も彦兵衞殿より外に見た者は無と申故偖は下女の留守を知て奪ひ取たるに疑ひなし左右此儘には指置難しとて早々其段訴へ出檢使を願ひしかば程なく檢使の役人入來りて疵所を改め家内の口書をとり何ぞ心當りはなきやと尋ねの時右彦兵衞が事を委細に申立しにぞ是又町所を書記し南町奉行所へ立歸り大岡殿へ申立ければ早速召捕べき旨申渡されしにより同心二人直に橋本町へ立越し所彦兵衞は他行致し淺草へ罷越たる由ゆゑ途中に待受しを知らず彦兵衞は金の蔓に有り付たりと悦び勇み望みの荷物を請取是を那して斯してと心に悦び我が家を指て立歸り淺草御門迄來懸る處を上意と聲掛忽ち召捕れしかば彦兵衞ハツと驚きしが偖は買付たる小間物は盜物なりしかと思ひ馬喰町の番屋へ上られ早々橋本町へ申遣しければ家主始め長屋の者共駈付彼是の世話をなし又は下帶鼻紙等迄心付氣を丈夫に持給へ大方物の間違ならんにより頓て清き身體になるべしと力を付などする中彦兵衞は奉行所へこそ引れけれ 第七回  偖も小間物屋彦兵衞は其身罪なくして享保八年霜月十八日入牢となりしが同廿一日馬喰町市郎左衞門并に下女留隱居所の隣家の者町役人等迄呼出有りて大岡殿市郎左衞門と呼上られ其方伯母は何歳に相成やと尋らるゝに市郎左衞門平伏して六十五歳に相成候と申立ければ夫程の老人と云殊に女の身なるに何故一人指置しやとあるに市郎左衞門其儀は同居仕つるやうに申候へ共私し店の儀は大勢の泊り客入込騷が敷を嫌ひ向島か根岸邊へ隱居致度由望み候へども漸々勸め近所へ差置下女一人付置候處其日野州邊より男女の旅人五六十人着し其外泊り客大勢之あり凡百人ばかり故勿々手廻り兼るに付隱居所の下女を借て手傳はせしに夜も更し儘其夜は下女事私し方へ泊り翌朝客の給仕などを仕舞て立歸り候處右の騷動故大いに驚き候由を申立しかば大岡殿下女留に向はれ只今市郎左衞門が申立通りなりや又彦兵衞が隱居を殺し金子を奪ひ取し者とは如何して知りたるやと問れしにぞ留は恐る〳〵顏を上彦兵衞事常々隱居所へ立入り金銀を隱居より借請し事も御座りし處去る十七日右彦兵衞參り小間物の拂ひを買候に百兩程入用故九十兩ばかり一兩日借度由を申せしに隱居は暫時考へ正直なる彦兵衞なれば用立度は思へ共豫て心願にて御門跡樣へ百兩上度と漸々調へ此お講の中に指上るに付今は出來難き由を斷り箪笥の抽斗より右の百兩を出して見せしに彦兵衞も隱居の信心を譽外々にて才覺致さんと申時隱居脊負葛籠を取出し是を質に置れなば五六十兩は貸申べしと云し時夫は忝なしと持て歸り候面體殊の外怪敷存じ候と申ければ大岡殿市郎左衞門は如何存ずるやと尋られしに市郎左衞門其儀は日頃彦兵衞柔和なる男には候へども舊大坂生れゆゑ關東者と違ひ心根怖敷十が九ツ彦兵衞に違ひ之なしと申立るを能々勘考見よ質物を貸て遣す程の懇意成をまさかに忍び込殺害は致すまじと思はるれど夫共彦兵衞に相違なきやと念を押るゝに市郎左衞門は一途に彦兵衞と思ひ込其の邊も段々内吟味仕つりしに右百兩は隱居儀竊に貯へ置しを十七日朝の内封金に拵へ候へば外に見たる人は決して御座なく彦兵衞にばかり見せたる事に付何分怪しく彦兵衞儀を御吟味遊ばされ伯母の敵御取下され候樣にと申ければ大岡殿も道理に思はれ其後彦兵衞を呼出されし上其方常に立入て懇意に致し金銀迄借受る程の隱居を何故殺害に及び剩さへ百兩の金を奪ひ取りしぞ不屆至極なり眞直に申せと問糺されしかば彦兵衞は意外の事に思ひ私し儀日頃恩を請候隱居を何とて手に掛け申べきや其儀は一向覺え之なくと申に大岡殿然共隱居が貯へたる百兩の金を見たる事有や但知らぬかと申されければ其百兩は存じ居候私し儀淺草に於て小間物の拂ひ入札仕つり私し札に落候故十兩手附を遣し外に廿兩持合せ有れども七十兩足申さず候間五六日の處七八十兩借用申度と隱居へ申込候處當金百兩有れども門跡樣へ納る故用立難しと是非なく相斷り候に付外にて手段せんと暇乞致せし時質物を貸呉候間隱居の志操を感じ入背負葛籠を預り家主を相頼み五十兩の質物に入れ外にて金三十兩借請淺草へ參り荷を引取歸り候途中にて召捕れ其節彼の隱居人手に懸りし事も承まはり重ね〴〵大いに驚き申候と言立るを大岡殿怪敷思はれ右百兩は十七日の朝包金に拵へ夕方其方に見せ隱居は血の道にて宵から寢たと有れば外に右の金を知る者なし依ては人殺盜賊の段有體に白状致せと嚴敷申されけれども決して右體の惡事致たる事なしと申切故是非なく拷問に掛日夜牢問嚴しければ苦痛に堪兼寧無實の罪を引受此苦みを免れんと覺悟をなし如何にも隱居を殺し百兩奪ひ取候に相違之なくと白状に及び口書爪印をなせしにより終に死罪の上獄門とぞ成にける(此彦兵衞牢内に居て煩ひ暫時の中に面體腫脹上り忽ち相容變りて元の體は少しもなかりしとぞ) 第八回  却て説淺草福井町に駕籠舁を渡世として一人は權三といひ一人は助十とよび二人同長屋に居て貧しき暮しなれども正直ものといはれ妻子をもよく養育しけるが米屋市郎左衞門が伯母の殺されたる霜月十七日の夜麻布邊へ客を乘行大いに遲くなりて丑刻ごろ福井町の我が家へ歸り來るに誰やらん天水桶にて物を洗ふ樣子なれども暗き夜なれば確とも知れず寒さは寒し足早に路次口へ來て戸を叩くに家主勘兵衞は口小言たら〳〵立出今夜は常よりも遲かりしぞ以後は少早く歸る樣に致されよと睨付て木戸を開ける故兩人は渡世の事なれば那の樣に云ずとも宜さうなものと思ひながらも商賣柄なれば御不肖あれ以來御世話になるも御氣の毒に付鍵を御借申置家内の者に開閉をさせ申さんと云所へ相長屋の勘太郎立歸り路次の開しを幸ひに直と入るを見て家主勘兵衞は莞爾々々と笑ひかけ勘太郎殿何所へ行れしやなどと何の咎もなく機嫌能咄ながら家に入るを見て權三助十の兩人の大いに腹を立此方は貧乏しても明白手堅の駕籠舁勘太郎は商賣なし年中博奕に騙りなどを渡世に暮せど大屋へ鼻藥を遣故何をしても小言を言ず此町内にて評判の根生惡の家主勘兵衞め退役でもせよかしと呟きながら家に入今宵は幸ひ旦那を乘て六百文ヅツに有付たりと一盃酒の樂みに快よく打臥けるが早夜も明し故助十は權三を起し今朝は寒ければ早く起て朝湯へ行暖まらんと呼覺す聲を聞權三も反起打連立て表へ出昨夜此所にて何か洗し樣子なるが夜中と云合點行ずと見れば天水桶の側は血に染中の水も淡紅になりて居る故不思議に思ひ我々が歸ると勘太郎も直に續て這入しが慥に勘太郎なるべし喧嘩の戻りか但追落でもしたか生得惡黨なれば夜稼をなすも知れずと噂しながら錢湯へ行しに朝湯も冬は込合淨瑠璃念佛漫遊唄中に一段へ足を踏掛ながら昨夜馬喰町に人殺の沙汰有しが聞かれしやと尋るに一人の男其事は今朝見舞に參りしが米屋の女隱居が殺され百兩盜まれたり此事追付御檢視の御出なるべしと云傍より又一人の男夫は何時頃の事なるやと問に然れば子刻時分に隱居小用に起たるを隣の女房が見たと云ば其後の事ならんとの噂を聞權三助十は目を見合せ心に合點つゝ程なく我家へ歸り昨夜の咄は勘太郎に極つたり是から錢の遣ひ方に氣を付ろと兩人は人にも語らず心を付居たりしに十日ばかり立と博奕に廿兩勝たりとて家の造作を始しが押入勝手元迄總槻になし總銅壺も光輝かせしかば偖こそ彼奴に違ひなしと思ふ中小間物屋彦兵衞と云者隱居を殺し金百兩奪ひ取りしとて御所刑に成しとの噂を聞權三助十の兩人は怪敷思ひ橋本町八右衞門店にも駕籠屋仲間有る故彦兵衞が樣子を聞に平常正直にて匇々人殺しなどなす者に非ず全く拷問強く苦き儘に白状なし獄門に成たりと云ふ評判にて大屋殿も三貫文の過料を取れし由併し大屋殿は惡くない人故地主を呼れ退役には及ばぬと仰渡され一件相濟たれども彦兵衞は愍然さうな事をなしたりと咄を權三助十は聞彌々勘太郎を怪く思ふ中勘太郎は家主始め長家中へも少しづつの金を貸與へし故皆々勘太郎を尊敬すれども權三助十ばかりは渠に一向物をも言ず居たりけり 第九回  茲に又彦兵衞の妻子は大坂に殘り居ても江戸表より折々三兩五兩づつの金を送り商ひ向も追々都合よき旨便り有に付頓て金銀を貯へ歸り來らんと樂み待居たる折柄店請の方より今度彦兵衞の一件を委細知らせ來りしかば妻子は大いに歎き哀みしが如何にも其知らせを不審人の心は旦夕に變るものとは云ども彦兵衞殿は平常餘り正直過ぎて人と物言など致されし事もなきお人なれば盜みは勿論人を殺す樣なる事のあるべき筈なし何共合點の行ぬ儀なりと云を子息彦三郎は漸く十五歳なれども發明にして孝心深き故母の言葉を倩々聞落る涙を押へ是迄父樣の歸り給ふを待居たる甲斐もなく罪有る人となつて御仕置と聞ふる時は此大坂中に評判を受るも口惜と父樣はとても浮まれまじきにより私し事早々江戸へ參り實否を承まはり自然此書中の如くに候へば骨を拾ひ御跡を弔ひ申さんと云を傍邊より弟彦四郎是も漸く十二歳なるが進出私も參り兄と一所に委細を聞糺し母樣の御心を慰めんと申せば母は兄弟の孝心を喜び父樣が世に在て此事を聞給はゞ嘸な歡び給ふべし暫し涙に昏けるが否々年も行ぬ其方們先々見合呉と云を兄弟は聞ず敵討に出ると云にも非ず父樣の樣子を聞爲參るに何の怖敷事の有らんやと強て申故母も止め兼夫程に思はゞ兄は支度次第江戸へ赴くべし弟彦四郎は此地に止まり我が心を慰めよと有に是非共兄樣と一所に出立せんと申を兄彦三郎は押止め今兩人江戸へ赴く時は母人甚淋しく思され猶も苦勞を増給はんにより其方は母樣の傍に止りて慰め進らせよと漸々宥め賺し正月廿一日いまだ幼弱の身を以て親と思ふの孝心一途に潔よく母に暇乞なし五兩の金を路用にと懷中して其夜は十三里淀川の船に打乘一日も早くと江戸へぞ下りける 第十回  然程に彦三郎は習ぬ旅なれども孝心深きを天も憐み給ふにや風雨の憂も無十日餘りも立川崎宿へ着て御所刑場是より何程あるやと尋しに品川の手前に鈴ヶ森と云所こそ天下の御仕置場なり尤も二ヶ所あり江戸より西南の國にて生れし者は鈴ヶ森又東北の國の生れなれば淺草小塚原に於て御仕置に行はるゝと云由を聞然すれば我父は大坂生なれば鈴ヶ森にて獄門に掛られたる事疑ひなしと夫より六郷の渡場を越故意と途中を手間取大森の邊りに來りし頃は早夜も亥の刻なれば御所刑場の邊りは往來の者も有まじと思ひ徐々來懸りしに夜更と云殊に右の方は安房上總の浦々迄も渺々たる海原にして岸邊を洗ふ波音高く左りは草木生茂りし鈴ヶ森の御仕置場にして物凄き事云ふばかりなし然れども孝行の一心より何卒父の骨を探し求め故郷へ持歸りて母に見せんと御所刑場の中へ分入那方此方を見廻すに闇の夜なれども星明りに透せば白き骨の多くありて何れが父の骨共知れず暫時躊躇居たりしが骨肉の者の骨には血の染ると聞し事あれば我が血を絞り掛て見んと指を噛て血を絞り掛け〳〵て試みしに何れも血は流れて骨に入ず斯る所へ挑灯の光見えしかば人目に掛り疑ひを受ては如何と早々木立の中へ身をぞ潜めける 第十一回  斯て彦三郎は木蔭に隱れ居る處に夜駕籠の戻りと見えて一人は挑灯を持一人は駕籠を舁ぎ小便を爲ながら何と助十去年此所へ獄門に懸つた小間物屋彦兵衞那れは大きな間違ひ隱居を殺したは勘太郎に違ひないと思つては居れど彦兵衞の親類でも有るならば格別滅多な人には咄も出來ず可愛さうに彦兵衞は浮みも遣らず冥途に迷つて居るならんと彦三郎が此所に居るとも知らず噂して行過るを篤と聞彦三郎は大いに悦び是偏に神佛の引合に依て斯る噂を聞者なるべしと思ひ竊と木蔭より立出此人々に尾て行尋る者ならば明白に分るべしと後より咄しを聞ながら行に行共々々果しなく誠に始て江戸へ來る事なれば何と云處なるか町の名も知れざれども其夜丑刻時分に或町内の路次を開き二人ながら内に入るを見濟し直に入ては疑ひも有るならん明朝參つて樣子を尋問ん一人の名を助十と聞ば知れるに違ひなしと其夜は河岸に石材木積置し處へ行寄凭りて少し睡まんとするに知らぬ江戸と云此所は如何なる處やらん若咎められなば何と答んと心を苦しめ夜の明るを待事千秋を過るが如く漸く東の方白み人も通る故やれ嬉しやと立出往來の人に茲は何と申所なるやと尋ねければ淺草御門なりと答る故夫より東の方廣き往來へ出て又町の名を聞に兩國也と云により空腹なれば食事をなし辰刻時分になり彼の駕籠舁の入し路次のある町へ到り所の名を聞に福井町なりと云にぞ豫て見置たる權三助十が長屋へ入り一通長屋を見廻すに四ツ手駕籠を前に置たる家ある故是にて聞ば知れるならんと小腰を屈め助十樣と申は此方に候やと尋ければ女房立出何の御用に候や駕籠の御入用にもあらば助十と申は此方の相棒ゆゑ仰聞られよと申にぞ然樣ならば昨夜駕籠に御出なされしは助十樣御一處に候かと聞に如何にも毎夜一處に駕籠を舁ぎ渡世致すなり何ぞ御用ならば上り給へと申を幸ひに草鞋を脱で上るに未だ寢て居たる權三を起し右の事を話せば早速起出て顏を洗ひ見るに十四五の若衆旅裝束なれば駕籠の相談と心得て挨拶をなすにぞ彦三郎差つけながら内々にて御尋申度事有つて參上仕つりしなり助十樣の御名は承まはり候へども貴君の御名は未だ承まはり申さず何と申され候やと問ば私は助十が棒組權三と申者御用も御座らば仰聞られよと申に若年ながら彦三郎は發明故見れば見苦敷如何にも貧窮の樣子なれば金子一分を取出し始て參上仕つり内々御聞申度事御座るに付是にて酒と肴を御買下さるべし輕少ながら御土産なりと申故權三も一向に樣子了解ねば辭退するを得心せず少しなれども御請納下されねば申難しと達て差出す故然ば仰に隨はんと受納め扨御用の筋はと尋ねしに彦三郎御二階にて内々御聞申度人の耳へ入れては宜からずと申に付子供と云怪み乍ら助十を呼二階へ上り三人膝を突合せしに彦三郎は聲を潜め御家内樣御聞下されても相成申さずと直と壁の際へ寄り私は大坂堂島の彦三郎と申者なるが昨夜御當地へ到着致し未宿も取らず夜の明るを待早速參上仕つる其譯は舊冬御仕置に相成し彦兵衞が事御存に候はゞ委細御話下されよと申に兩人は思ひも寄ぬ尋ねゆゑ私し共一向に其彦兵衞殿と申御人は御知己にもあらねば存じ申さずと答しかば彦三郎涙を流し斯突然に御尋問申せば御不審も御道理なれど私しは彦兵衞が悴にて當年十五歳に相成一人の母御座候處彦兵衞御仕置に成しと聞て打驚き素より正直なる父彦兵衞人を殺し盜などする者に非ず何か謂れの有さうな事と明暮悲み歎き一向食事も致さぬ故我等母を諫江戸へ參り樣子を承まはり申さんと云て大坂を立出昨日六郷の渡しを越宵に鈴ヶ森迄參りしが切て父彦兵衞の骨なりとも拾はんと存じ尋たれども更に知れ申さず然る處へ各々方通り掛り給ひ彦兵衞が噂致されし故不思議に思ひ直に鈴ヶ森を出て御後を尾て是迄は參りしなれども夜中と云御知己にも有らねば河岸にある材木薪などの蔭にて夜を明し兩國へ到りて食事をなし好時分と存じ只今參上仕つりしなり昨夜鈴ヶ森にて助十と御呼成れたる故夫を心當に助十樣と御尋ね申せしと始終りを物語りけるに兩人は思はず涙を流し偖々未だ年も行ぬ身を以て百餘里の道を下り親公の骨を拾はんとは如何にも孝心の段感入たり殊に鈴ヶ森の凄き所へ夜中能も一人にて入給ひし者哉然ながら死骸を貰ふには非人小屋へ手を入れねば勿々知れ難しと申に否夫よりは親彦兵衞が人を殺たるには非ず外に在との御話しゆゑとても死たる彦兵衞が事は是非に及ばず切て外に本人があらば其の科人を出し父彦兵衞が惡名を雪ぎ申度其本人を知らせ給れと渠が志操を具に申ければ權三は一體涙脆き男なるが助十に對ひ何と此御若衆が鈴ヶ森に居たる時に我々通掛るも不思議又鈴ヶ森にて小便を爲時彦兵衞殿の咄をしたも是神佛の御引合にて其孝心を愍み給ふ故ならん爰は一番二人が力を盡して働らかにやならぬ其方何と思ふと問けるに助十も素より正直者にて勘太とは大の不和なれば云にや及ぶ力を盡して進ぜんと申にぞ彦三郎は大に悦びしが江戸不案内の事故如何して宜からんか何分にも頼むとあれば助十は考へ彦兵衞殿の居られた家主八右衞門殿は此邊にての口利ゆゑ是へ行て相談有べしと云を彦三郎御長屋中に怪敷人有との事なれば此御家主へ相談は如何に候はんと尋ぬるに權三打笑ひ爰の家主は店子の中に依怙贔屓多く下の者を叱る事は持前なれども表へ出ては口の利る大屋に非ず殊に寄たら當人へ泄して迯すも知れざれば彦兵衞殿の家主八右衞門殿を尋て能々相談なし給へと勸めるに付彦三郎は御深切の御詞忝けなしと打悦び内外の事共諜合せ橋本町へぞ急ぎける 第十二回  偖彦三郎は橋本町一丁目家主八右衞門と尋しに早速知れければ八右衞門の家に行き對面致せしに八右衞門は彦兵衞の悴彦三郎と聞胸塞り姑言葉も出ざりしが漸々に首を上げ能こそ尋ね參られたり彦兵衞殿は不慮の事にて相果られ嘸々力落し成べしと云に彦三郎は涙を流し父事御仕置になりしは是非に及ず然ながら其人殺盜賊は彦兵衞に之なく外にあるにより此段御公儀へ訴へ父が汚名を雪ぎ申度何卒御執計ひを願度依て推參致せりとの言葉の端々未十五歳の若年者には怪敷思へども又名奉行大岡樣の御吟味に間違のあるべき樣なし由無事を訴へ其許迄御咎を蒙るは笑止千萬但證據有やと尋ぬるに然れば福井町に住權三助十と云ふ駕籠舁二人證人なりと申せば八右衞門首を傾け其許何時江戸へ參られしやと問に彦三郎は今朝福井町へ着し直に承まはり糺し只今爰許へ參りしと申ゆゑ彌々合點行ず段々樣子を聞くに昨夜の事柄より權三助十が話し等委細に物語りしかば八右衞門は彦三郎の孝心を大に感じ早速權三助十を呼に遣り猶譯を聞に去年十一月十七日の夜中に歸る機天水桶にて血刀を洗ひ居る者あるに付能々見るに同長屋の勘太郎と申者なれば怪敷思ひながら空知ぬ振に罷在し所右の勘太郎急に二三十兩掛て造作を致し道具を買妻子の身形も立派になり二十兩勝た三十兩勝たと博奕に勝た咄をする樣子何分合點行ず常には負た事ばかり云ひて勝た事を云ざるに全く金の出處を疑はれぬ樣に勝し事を吹聽するに疑ひなし其上長屋中へ錢金用立家主へも金を貸故勘太郎を二無者の樣におもひ我々如き後生大事と渡世する者は貧乏を嫌ひ一向に構ひ付ず睾丸も釣方とやら私し共でも得心せぬ故長屋の泥工の棟梁は年頃と云人も尊敬する者なれば此者を以て勘太郎は店立を致されよ往々は家主の爲にもなるまじと申入たれば大に憤り却て我々を追立んと爲故泥工の棟梁家主に異見して相濟し程の事もあれば馬喰町の隱居殺したるは勘太郎に違なしと申を八右衞門聞てなる程勘太郎とやらん疑は敷者なれども屹度隱居を殺したりとも定難し併し御吟味を願はゞ何か惡事有る者ならんが各々證人にならるゝとも此事を以て訴訟にはなり難し何か工夫の有さうな事と姑く考へしが我等一ツの手段あり彦兵衞悴彦三郎と申者私し方へ參り正直無類の彦兵衞勿々盜など爲者に非ず何故辯解をして助け呉ざるや夫にて家主が勤るかと惡口致すにより我々御慈悲願を致したれども公儀にて御吟味の上御所刑に行はれたる事ゆゑ我々が力に及ずと申せしかば何分聞入ず私し共を切殺親に手向ん是則ち敵討なりと立騷ぎ候に付皆々打寄異見仕つれども聞入申さず據ころなく召連て御訴へ申上ると彦三郎を連て皆々南御番所へ罷出申べし其時御尋有らば彦三郎殿委細の事故を申上られよ其上各々方御差紙を以て召呼れ御吟味有るならば必定夫にて彼の勘太郎なるや彦兵衞殿なるや明白に分るべしと申故三人も八右衞門が才智を感じ夫より長家の者二三人へ話彦三郎をぐる〳〵卷に縛上名主へも屆置召連訴へにぞ及びける(誠に感ずべきは人智又恐る可も人智なり正雪は治りし天下を押領せんと巧智慧の深き事量べからずと雖も英智の贋物にして悉皆く邪智奸智と云ふべし大石内藏助は其身放蕩と見せて君の讎を討ちしは忠士の智嚢を振ひ功名を萬世に殘せし正智なり夫程には有ねども八右衞門が才智感ぜずんば有べからず其謂は訴へに及ぶには先彦三郎は宿を取家主を頼み名主の玄關へ掛り勿々手間取て埓明まじ殊に十五歳の彦三郎江戸不案内と云公邊には馴ず又證人の權三助十共明白に口の利る者に非ず品に寄と皆々入牢にもなり理有て罪に陷る事も有べしと思慮し因て斯く計ふ時は彦三郎無法にもせよ親孝心にして僅か十五歳の者が大坂より遙々來りて騷ぐ共憎むべき事に非ず又駕籠舁二人勘太郎事を申立たりとも夜中血刀を天水桶に洗ひしは何か謂れあり彦兵衞一件に關係無共兩人申上る言葉も御咎有まじ又勘太郎彌々馬喰町の人殺なれば彦三郎が念願も成就する故前後を考へたる事にして八右衞門が分別等閑の及ぶ處に非ずといふべし) 第十三回  却説八右衞門は彦三郎へ申含置たる通り名主の玄關にて強情申張故是非無召連訴へと相成則ち口上書を差出せり 乍恐以書付奉願上候 一橋本町一丁目家主八右衞門申上奉つり候去冬御所刑に相成候彦兵衞悴彦三郎と申者父彦兵衞無罪にして御所刑に相成候事私し申上方宜からざる故也因ては父の敵に候へば討果彦兵衞に手向度由申候に付公儀の御成敗は我々力に及ばずと申聞候へ共一向得心仕つらず殊に若年と申大坂より一人罷下り候儀亂心の樣に相見え旅宿承まはり候處必至の覺悟に御座候間宿も取申さず直樣私し方へ參り候由にて惡口仕り候に付諸人異見を差加へ候へども物狂敷體にて引渡候處も之なく候間據ころなく當人召連御訴へ申上奉つり候何卒御慈悲を以て彦三郎へ御利解仰聞られ大坂表へ罷歸り候樣御取計ひ偏に願ひ上奉つり候以上 橋本町一丁目家主 八右衞門 と之有に依早速彦三郎を呼出されしに細引にて縛し儘白洲へ引据たり時に越前守殿此體を見られ是は何か仔細有と敏くも察せられしかば徐かに詞を發し如何に彦三郎其方が父彦兵衞事去冬人を殺し金子を盜取し科に因て御所刑と相成し事八右衞門の存たる事に非ず若年の事なれば父の敵と思ふも道理なれども今更是非に及ばず早々大坂へ立歸るべしと申さるゝに彦三郎涙を流し私儀十歳の時父彦兵衞儀江戸へ下りしゆゑ指折算へて歸るを待居りし中に御所刑となりしかば母は明暮歎き悲み病氣も出べきやに存じ候まゝ私し儀江戸へ下り骨を拾ひ持歸らんと母を諫め此度江戸表へ參りし途中鈴が森と承まはりしまゝ何卒父の骨を拾ひ得て持歸らんと存じ夜に入て種々尋探せ共何れが父の骨なるや相知れ申さず然る處其夜亥刻時過にも候はん二人の駕籠舁通掛り去年此所にて彦兵衞御仕置になりしが那の人殺しは彦兵衞に非ず惡人は外に有由話しながら行過候故後を付て參りし所淺草福井町とやら申町迄到り其所の路次へ入候は最早丑刻頃とも覺敷候に付其夜は外にて夜を明し翌朝右の駕籠屋へ參り段々相尋委細の事故を承まはりしに馬喰町人殺は別人なる由全く彦兵衞の所業に非ず然るを家主八右衞門熟々糺も仕つらず御所刑と致候段殘念に存小腕ながらも敵討を仕つる所存なりと申立ければ大岡殿夫は其方若年ゆゑに心得違ひなり然ど其人殺は外に有と申たるは福井町にて何と申者なるぞ名前を申せと云れければ福井町勘兵衞店權三助十と申者委細存罷在候間此者より御聞取下され候樣にと願けるにぞ偖々其方は孝行者なり吟味中八右衞門へ預ると申渡されしかば其日は彦三郎を伴ひ橋本町へぞ歸りける 第十四回  大岡殿より差紙を以て勘兵衞店權三助十の兩人尋ねの儀有之に付召連罷出べき旨達されければ家主勘兵衞は兩人を呼貴樣達は何ぞ惡い客人を乘て物でも取たか但し客人の錢金を騙でも爲せしか御奉行所へ明日召連罷り出る樣にと御差紙を到來し誠に我等迷惑至極なり然れば夜駕籠など舁者を店へは置れぬと申を聞權三は大に腹を立賤き渡世は致せども然樣な惡事は少しも爲ず善か惡かは明日出て聞給へと平氣の挨拶なれば勘兵衞是非なく受書を差出し翌日同道にて南奉行所へぞ出でたりける權三助十の兩人は彦三郎が八右衞門方へ御預と聞豫ての都合と覺悟をなし白洲へ罷出けるに大岡殿出座有て如何に其方共先達て御仕置に仰付られたる彦兵衞悴彦三郎と申者は何方に於て面會致したるやと尋ねられしかば兩人ハツと平伏なし私しども先夜大森まで客を乘亥刻過頃鈴ヶ森迄歸り來り候處不圖彦兵衞の事を思出し去年此所で御所刑に成りし彦兵衞は正直者ゆゑ勿々人殺夜盜等は致すまじ此盜人は外に有んと申事を誰も聞人は有まじと存じ噂仕つりし處御所刑場の蔭に右彦三郎が居て其事を聞きたるにより私しどもの後に付て參り住居を見置翌朝尋ね來りて彦兵衞悴なる由を申聞鈴ヶ森にて私し共の話を承りしにより父彦兵衞の外に人殺有らば教へて呉る樣にと涙を流して頼むに付何故人も怖るゝ鈴ヶ森に夜中居たるやと尋ね候へば父の骨を拾念頃に弔ひ度存尋ね候と申ゆゑ數多の骨の中にて爭か是が親の骨と分かるべきやと申候に彦三郎血を絞り骨へ掛る時は他人の骨へは染込事なく父の骨なれば染込候故指を噛切血を掛て見候とて噛切たる指を見せしに付私しどもゝ其孝心を感じて思はず落涙仕り如何にも彦兵衞には有之まじ外に人殺ありと申たるに相違御座なく候と申ければ大岡殿聞給ひ然ば馬喰町米屋市郎左衞門伯母を殺金を取たる者外に有るやと尋問らるゝに兩人ヘイ其人殺しと申は私ども同長屋に罷在る勘太郎と申者ならんと存候旨申立けるを家主勘兵衞恐れながら進出其勘太郎は實體にして渡世向出精仕つる者に付勿々右體非道の働きを致す者に候はずと云ふゆゑ大岡殿權三助十と呼れ今聞通り家主は實體者なりと云ふが何ぞ證據有るやと糺さるゝに兩人其儀は去年十一月十七日麻布迄客を乘行夜丑刻過に歸り候處町内の天水桶にて刄物を洗ふ者あり其形容勘太郎に髣髴たりとは存じながら私し共見屆けるにも及ばざる事ゆゑ路次を家主に開いて貰ひ内へ入し時勘太郎も續て後より這入しに付偖は刄物を洗ひしは勘太郎に相違なしと存じ其夜は寢翌朝天水桶を見て候へば淡紅色になり桶にも血の付き有る故勘太郎は何方にて人を斬しやと存ずる處昨夜馬喰町米屋の女隱居を殺し金百兩盜みたる者ある由噂仕つるにより扨は勘太郎が仕業なるか但外に喧嘩でも致したるかと思ふに中裁の沙汰もなく博奕打の喧嘩なれば是非沙汰の有筈なるに一向何の咄もないは彌々以て女隱居を殺害したるに違ひなしと思ひし中家の造作家内の身形も立派になり皆々不思議に存じたる所博奕に廿兩勝た三十兩勝たと吹聽致せども是は盜賊の名を隱す心と存ぜしなりと委細申立るに此時大岡殿與力を呼れ何やらん申渡され又家主勘兵衞と呼出さるゝに勘兵衞は二人を睨ながら進み出づればコレ勘兵衞右勘太郎の商賣は何を致すと尋ねられしに勘兵衞ハツと云し切暫時く返答出來ざりしが漸く季節の物を商ひ候由申ければ權三助十否々と云ながら傍邊より進み出で勘太郎渡世と申ては外に之なく年中博奕のみ致居候間怪敷存じ店中に差置ては家主の爲に成まじくと思ひ泥工の棟梁權九郎と申者を以て勘太郎店立申入候へば勘兵衞以の外に憤り却て私し共に店立申付候程の事にて何故か勘太郎を贔屓仕つり候と申せしかば茲に於て大岡殿大聲に其方家主をも勤ながら右體の者は訴へ出べきに僞りを以て申立る條勘太郎同意と思はれる因て手錠申付ると勘兵衞に手錠を掛られ追て呼出すとて皆々白洲を下られけり然ば勘兵衞は兩人を恨けるを權三助十は冷笑ひ其許は商賣出精爲者には店立を申付博奕を打夜盜などする者を大切に致さるゝ上は覺悟の前なりと今迄惡樣に取扱はれたる意趣晴しの心にて存分に云散してぞ立歸りける勘兵衞は早々勘太郎へ右の咄をせんと長屋へ行きて見るに疾勘太郎は召捕れたりと聞きて呆れ果てたるばかりなり 第十五回  偖も福井町勘兵衞店勘太郎召捕れ入牢申付られしが其後大岡殿呼出の上去年霜月十七日の夜中馬喰町馬場の傍らに住居罷在る米屋市郎左衞門隱居の老女を殺し金百兩奪ひ取りたる事明白なれば陳ずるとも遁れ難し眞直に白状せよと有りければ一向然樣の儀覺え之なく候と申を然らば汝は何を渡世致すやと問るゝに勘太郎拔らぬ面にて其季節の物を商ひ仕つり候と申立るを大岡殿季節の商賣と云ふは何を賣て渡世に致候やと申されしかば夏は瓜西瓜桃の實の類秋は梨子柿の類など商賣仕つると申せども自然言語濁故イヤ其方家内を檢査處賣歩行荷物一ツもなくして家内にはめくり札賽は數多ありしなり此返答は何ぢやと問詰られしに勘太郎一言の返答も出來兼ねたり越前守殿コレ勘太郎汝は惡黨と云ふ事疾に知れて有るぞ又々吟味せば舊惡有るべし苦痛せぬ中白状致せと申さるれども人殺夜盜の覺えなしと云故入牢させ置嚴敷拷問に及びしかど白状せぬにより妻子を呼出され勘太郎如何致して去年十一月より家内造作諸道具等を立派に致し内々金子を貯へしや眞直に申せと糺さるゝに女房は慄へ出し私し女の事故一向存じ申さずと云ふ時大岡殿其儀勘太郎申には去年十一月十七日の夜に馬喰町米屋の女隱居を殺し金を盜みしと白状致したり殊に其譯は其方へ咄内々博奕に勝た積に云觸したる由其方隱す共勘太郎白状なれば最早遁れず達て隱せば汝も女ながら怪き奴ゆゑ入牢の上拷問申付けるぞと威されしかば面色蒼然私しは馬喰町にて人を殺したる事は存ぜねども去年霜月十七日博奕より遲く歸りし時如何なる故か面色宜からず衣類に血が付居し故樣子を尋ね候に途中にて喧嘩を致し切付たれば其者迯行しが跡に落せし物あるにより拾上て見れば百兩の金を紙に包水引を掛け上書に奉納と書記し有りし事を承まはり候と申立ければ夫にて宜と女房は其儘歸されたり偖大岡殿智略を以て勘太郎が妻を問糺されしに委細申立たる故勘太郎が爲し業と知れ拷問嚴敷詮議あれども何分白状なさず因て猶又大岡殿白洲へ呼出され其方は一通りならぬ惡黨なれ共斯程の責に合て白状致さぬは又大丈夫なり然ながら汝が妻の詞に百兩の金紙に包奉納と書水引にて結び有しと申立て有る上は白状せずとも差免と云ふ事なし日々苦痛するは却て未練と云ふ者なり妻子も倶に仕置に行ふべきなれども今白状いたさば慈悲を以て妻子は助遣さん夫とも強情を申居らば見る前にて妻子も倶に入牢申付る惡黨は未練を殘さぬ者なり此越前が睨んだ眼に違はないぞと申されければ勘太郎も所詮助かり難しと斷念然らば白状仕つらんとて居直り米屋の隱居とは存ぜざれども夜中忍込み切害の上金百兩奪ひ取たるに相違之なくと白状に及びければ神妙なりと申され其金百兩有りし事如何して知りたるやと糺されしに勘太郎其日小間物屋彦兵衞金子無心を致して居る樣子を格子の外にて承まはりしが黄昏頃故竊と覗きし所百兩包を取出し御門跡へ納める金なりと云ひ又箪笥の引出へ入たる處を見ると欲心萌し年寄たる女一人怖べきに非ずと思ひ其夜忍入て殺害なし金子奪ひ取り候と其手續きを一々白状に及びしかば茲に於て口書爪印相濟又々牢内へ送られける因て彦三郎始め呼出されしに馬喰町米屋市郎左衞門は程經たる事ゆゑ大に怪みながら請書をだし又福井町勘兵衞并に助十權三皆々廿五日南奉行所へ罷出腰掛に相詰呼込を待けるに大岡殿午後未刻過退出ありて直樣橋本町八右衞門一件と呼聲に連れ各々白洲へぞ出にける 第十六回  偖享保九年二月二十五日橋本町八右衞門一件一同呼出に付皆々白洲へ居竝ぶ時馬喰町市郎左衞門と呼上られ昨冬霜月十七日の夜其方伯母儀切害の上金百兩盜まれし段訴へ出右盜賊は小間物屋彦兵衞なりと申故我等利解を下し勘辨致す樣に申渡たれど彦兵衞に相違なし伯母の敵なりとて頻に吟味を相願ふ故彦兵衞を糺明に及びし處白状により御所刑に申付られたる事存じの通りなり然るに彦兵衞悴彦三郎と申者今度大坂より來り彦兵衞事右等の惡事致す者に非ずと願出るに付段々再吟味に及ぶ處彦三郎が孝心の致す處其方伯母を殺したる者手に入たり只今其者白状の趣き夫にて承まはれと申渡され又勘太郎に向はれ其方米屋の女隱居を殺し金百兩奪ひ取たる手續委曲申せと云はれしかば勘太郎其儀は私し事夕方馬喰町馬場の脇を通り候機出格子の中にて金談の聲致すにより何事やらんと承まはりしに彦兵衞事無心の處折惡く百兩は御門跡に奉納の願ひにて御講中に差上る積是見給へとて彼女隱居は紙に包みし金子を出して見せたる故羨敷思ひ我今百兩有らば安樂なるべし役に立ぬ寺への奉納と存じ何方へ仕舞置やと竊に覗しに重箪笥の引出へ入れたるを能々見置其夜丑刻頃忍び込み右の金を取らんとする時女隱居目を覺し何者と聲を立る故是非なく殺し候と申に大岡殿何と市郎左衞門只今聞通り本人は勘太郎と云ふ者にて彦兵衞には非ず疑ひの心より遮つて申立罪なき者の命を取し事不埓千萬云解有るやと申されしかば市郎左衞門は今更惘果何共申譯之なく大いに後悔なし恐れ入り奉つると平伏してぞ居たりける又彦三郎と呼れ其方若年にして孝心深き段天に通じ父の惡名を雪ぐ事感ずるに餘りあり又橋本町家主八右衞門并に駕籠舁權三助十其方共彦三郎が孝心を感じ證人となりて惡黨を訴へに及し事輕き身分には奇特の心底なり只今聞通り人殺夜盜は勘太郎に相違之なし然樣心得よと云はれしかば彦三郎は云ふに及ばず八右衞門權三助十等皆有難き仕合なりと喜びけり時に大岡殿福井町家主勘兵衞と呼上られ其方家主の身を以て然程の惡黨を存ぜず差置き剩さへ格別懇意に致す事如何の心得なるや恐入たるかと叱られしかば勘兵衞一言もなく平蜘の如くになり居たり此時權三助十恐ながらと進み出で此儀市郎左衞門何樣に願上候とも罪もなき者を御仕置に仰付られ候事明白の御沙汰とも存ぜず然ども市郎左衞門申立より彦兵衞御所刑と有ば下より申上候儀は何事も御取上に相成候や伺ひ奉つると申出しに彦三郎涙を流し父彦兵衞罪なき事明白に相分り有難く存じ奉つるにより此上の御慈悲に父彦兵衞が死骸を下し置れ候樣に願ひ奉つると申傍より又八右衞門も進出彦三郎儀罪なき父を殺し候恨みなりとて私しを敵と申候儀道理に存候然すれば天下の御奉行樣にも罪なき者を御仕置に仰付られしは同樣ならんか併し尊き御方故其儘に相濟候事や私しどもが然樣道に缺たる事あらば重き御咎を蒙るべし願くは彦兵衞を御返下され候樣に願ひ奉つると申ければ大岡殿無言にて居られし故權三助十は大岡殿を一番言込閉口させんと思ひ天下に於て御器量第一と云ふ御奉行樣にも弘法も筆の過失定て惡口と思召すならんが罪なく死したる彦兵衞が身は如何遊ばさるゝやと口々に申故大岡殿皆々默止と仰られしを權三助十默止ますまい此一件彦三郎申分相立候樣に御慈悲を願ひ奉つると云ふに八右衞門彦三郎も進出權三助十諸共喧すしくこそ申けれ 第十七回  扨も越前守殿には暫時默して居られしが頓て一同控へ居よと云れコリヤ彦三郎其方共に彼是云込られ此越前一言もなし之に因て彦三郎へ褒美を遣す夫にて皆々不肖致せと白洲の外に控へ居たる一人の男を呼出されしに久しく日の目を見ざりしと見え顏色は惡けれ共能肥太りたりイザ此者を遣すぞ皆々對面せよと申されしかば各々不思議に思ひ其人を見れば是は如何に去冬御仕置になりし彦兵衞なり彦兵衞は彦三郎を見るや否や白洲をも顧みず涙を流し汝は彦三郎なるかと手を取悦び縋りしかば皆一同に惘果たるばかりなり時に大岡殿申さるゝは此彦兵衞儀白状は致せしかど其口振と云ひ人體と申し疑は敷思ひ外に罪有る者牢死せしを身代の獄門になし彦兵衞は助命させ置たり然るに果して勘太郎と云ふ本人出しは我も悦ぶぞ是偏に彦三郎が孝心に因る處一ツは八右衞門が取計ひ權三助十の正直より起る處又某に對して惡口せしは惡口に似て惡口に非ず其方どもが如き者町方に有るは我も悦びの一ツなり彦兵衞は渡し遣はす又々追て呼出すとて下られしかば皆々悦び勇む事限りなく大岡殿の深慮を感伏したりけり此外に出會せし公事訴訟人迄も涙も流し感ぜぬ者は無りしとぞ扨又大岡殿は市郎左衞門に對はれ罪を償ふには首代と云ふ事あり先達て其方伯母より借たる雜物は富松町質屋六兵衞方にて五十兩借請其金を以て小間物荷を買調へたる故其小間物は一旦取上物と成しが今度彦兵衞へ下さるゝなり然上は右五十兩并に利息を六兵衞方へ遣はさねば相成るまじ彦兵衞事病氣と云ひ大坂へ立歸る路金にも差閊るならんにより右五十兩の金は其方より六兵衞方へ勘定致して遣はせ若難澁申に於ては此方に存寄ありと申渡されしかば委細畏まり奉つると返答に及びたり又質屋六兵衞其方儀は彦兵衞が預け置たる質物一旦盜物となり取上し所今明白に相分り不正の品に之なき上は右五十兩元利共彦兵衞より勘定致すべき筈なれども只今承まはる通り故米屋市郎左衞門より受取と申渡されけり斯て又勘太郎儀は獄門同人妻子は追放家財取上となり家主勘兵衞は役柄不相應殊に惡黨の勘太郎より金を借請正直成者を追立候儀勘太郎同類に等く重くも仰付られべく處格別の御慈悲を以て家財取上追放申付られ家主家財勘太郎家財とも權三助十へ下さるゝ間双方申合然るべく住居致せと申渡され又勘太郎有金六十兩は彦三郎并に權三助十へ廿兩宛下し置れ權三は勘兵衞跡役となり町の事なれば當分心添を八右衞門に申付る又名主儀は日頃行屆ざる故家主の善惡も辨へざる段不束なり以來屹度心付候樣致すべき旨申渡され一件落着とぞなりける是先に一旦彦兵衞獄門と成りしは大岡殿申されし通り獄中にて病死の者の首を切彦兵衞重罪なればとて面の皮を剥て獄門に梟られしかば皆々彦兵衞は全く御所刑に成りし事と心得居たるを此度斯明白に善惡を糺されし故世の人彦兵衞は無實の罪に死なざりし事を知り後世に皮剥獄門とて裁許の名譽を殘されたり 小間物屋彦兵衞一件終 後藤半四郎一件 後藤半四郎一件 第一回  仁は以て下に厚く儉は以て用るに足和にして弛めず寛にして能斷ずと眞なる哉徳川八代將軍吉宗公の御代名譽の官吏多しと雖も就中大岡越前守忠相殿は享保二年より元文元年まで二十年の間市尹勤役中裁許の件々其明斷を稱する事世の人の知る所にして天一坊越後傳吉村井長庵又は小間物屋彦兵衞の皮剥獄門煙草屋喜八其他種々樣々の裁斷有しが茲に説出す後藤半四郎と云者は元土民の子なれども生質正直にして能五常を守り爾も天然の大力ありと雖も是を平常に顯さず仁義を專らになし強きを挫き弱きを助け金銀を惜まず人の難儀を救ふ此故に大岡殿の吹擧に預りて將軍家の御旗本となり領地五百石を賜り其子孫徳川氏の末まで連綿と繁昌せり或人の歌に 人多き人の中にも人ぞなき人になせ人人になれ人 と詠じし心に協ひしは實に此半四郎のこと成べし茲に其素性を尋るに元讃州丸龜在高野村の百姓半左衞門と云者二人の悴を持り兄を半作と號弟を半四郎と云此兄の半作は至つて穩當の生質なれば是所謂惣領の甚六とか云が如し然れども惣領の甚六々々と世間にては馬鹿者の樣に云ども勿々然にあらず既に諸侯にては御嫡子と稱し町人ならば家の跡取又在家農家などにては遺跡樣と云惣領は遺跡と云が道理なり是を説明せば惣領に生るゝは格別に果報ある事なれば貴賤に限らず惣領は其家の相續人なり因て自然の徳を備へて生れ得しに相違なく既に右大將頼朝公にも源家の御惣領なりしが一旦清盛公の爲に世を狹められて蛭ヶ小島へ流罪と成せられたれども終には石橋山に義兵を揚られし處其軍利なくして伏木の穴に匿れ給ひしを梶原が二心より危き御身を助り夫より御運を開かれ其後自身に戰場へ向はれし事なく木曽義仲公追討の刻は御舍弟範頼義經兩公達に命ぜられ宇治瀬田の二道より進で一戰に木曽氏を討亡ぼし續いて兩御舍弟を大將となし一ノ谷の戰ひに平家の十萬騎を討平げ猶又進んで屋島壇の浦の戰ひに平家を悉皆く討亡ばして源氏一統の御代となし御自分は鎌倉に居ながら日本草創武家の天下として武將の元祖と仰がれ給ふ事是頼朝公は惣領の甚六なれ共自然と大徳の備られし事斯の如くなり又其御舍弟の兩人は現在其功を顯はされしかば人々大いに是を稱へ兎角利口發明の樣に思はるゝなり則ち義經卿近くは眞田幸村又平家にても知盛卿など皆其類にして漢の高祖の所謂獵師と獵犬の功に違ひ有が如し然りと雖も百姓半左衞門の悴半作より弟半四郎の方は生れ質働きもあり又大力無双なれども温順にして兄弟共至つて親に孝行を盡し兄弟の中睦ましく兄は弟を思ひ弟は兄を尊敬日々農業耕作油斷なく精を出し隙ある時は山に入て薪を樵或ひは日雇走り使ひ等に雇はれ兩人とも晝夜を分たず稼ぎて親半左衞門を大切に養育なし殊に半四郎は至て正直律儀なる者故近所隣村の者ども半四郎々々とて何事に寄ず頼み使ひて贔屓せしが人にはなくて七癖と言如く半四郎事極酒好にて古しへの酒呑童子も三舍を避る程の大酒なり然ども喧嘩口論は勿論何程に酩酊なすとも夢中に成て倒れ或ひは家業を怠惰しと云事なく只酒を飮を樂みとして稼兄を助ける故人々心隔なく半四郎を用ひしとぞ右半四郎の親類に佐次右衞門と云者あり是は相應の百姓にて田地百五十石を所持なし居たりしが或時此佐次右衞門伊豫國松山の親類へ金子五十兩送るべき事ありしに大金の事故飛脚を雇ふより年若なれ共半四郎の方が慥ならんとて右五十兩の金に手紙を添て渡せしかば半四郎は是を請取て懷中し急用なれば直に旅支度して出立せんとするを見て親半右衞門兄半作ともに是を氣遣ひ如何に急用なればとて大金を持ながら夜道を行は不用心なり早今日も申刻下りゆえ翌の朝早く出立して參るべしと種々に止めけれ共半四郎は殊に大力と云氣象も勝れたれば一向承知せず必らず御案事あるな萬一途中にて追剥など出逢事あらば打倒して仕舞ふ分なり少しも構はず出行たり元より足も達者にて一日に四十里づつ歩行珍しき若者なれば程なく松の尾と云宿迄來懸りしに最早疾日は暮て戌刻頃とも思ひしゆゑ夜道をするに空腹なる時は途中にて困るならんと只ある杉酒屋へ入て酒を五合熱燗に誂へ何ぞ肴はなきやと問に最早皆賣切鰹の鹽辛ばかりなりと答へけるを夫は何よりの品なりとて五合の酒を鹽辛にて忽ち飮干し又五合つけて下されと云に亭主は肝を潰し未年も行ぬ若者なれど怖しき酒飮もあるものと思ひお前さん其樣に飮れますかと聞ければ半四郎は微笑ナニ一升や二升は朝飯前に飮ますと云に亭主は惘れ果又五合出せしに是をも直に呑て飯を喰勘定をする機から表の方より雲助ども五六人どや〳〵と這入來り最仕舞れしかモシ面倒ながら一杯飮ませて下せいと云つゝ鉢にありし鹽漬の唐辛子を肴に何れも五郎八茶碗にて冷酒をぐびり〳〵と飮居たりしが今半四郎が胴卷より錢を出し酒飯の代を勘定する處をじろりと見るに胴卷には彼の頼まれたる金子五十兩蛇が蛙を呑し樣に成て有ければ雲助共眼配せをしながら片隅へより何か密々咄し合直と半四郎の側へより是もし息子さん御前は是から何處へ行つしやると云に半四郎は何心なく私しは是から夜通しに松山迄參りますと云つゝ胴卷を仕舞居るに雲助共それなら夜道は物騷ゆゑ駕籠に乘て御呉なせへ夫に今見れば率爾ながら胴卷には大分御金を持て御出なさる樣子是から先は松原で寂寞道だ見れば未御年も行ぬ御若衆御一人にては不用心何か駕籠に乘て御出なせへと云に半四郎は大に困り夫は〳〵御前方御深切にさう云て下さるゝが私しは何も駕籠が嫌ひなり然れども生質仕合に足が達者で日に廿里三十里は樂に歩行ますから先駕籠は止に仕ませうと草鞋の紐を締直し支度をして行んとする故彼方に居る雲助共は大聲揚ヤイ〳〵能そんな事で行る者か何でも乘て貰へ〳〵今時生若い者が大金を持て夜通しに松山迄行と云は怪い奴だ飛脚と云ではなし大方若いのが主人の金を盜出したに違ひはあるめへ若達て乘ずば酒代を貰へ〳〵そんな奴に此街道を只通られて詰るものかオイ若衆酒代を貰ひやしやうと云機しも又表より雲助共三四人どや〳〵と入來りて大勢徒黨して騙り懸しが中にも酒機嫌の者は面倒なり叩き倒せ打偃して胴卷の金を取れと騷ぎ立オヽさうだ違ひねへ何で主人の金をせしめたのだ何處からも尻の來氣遣はねへ〆ろ〳〵と一同に飛懸らんずる樣子ゆゑ半四郎は心の中に扨は此奴等我は年端も行ぬ若者と侮り訝な處へ氣を廻し酒代を騙りに懸りしは不屆千萬とは思へ共故意と言葉を和げもし〳〵御前方はマアとんだ事を言つしやる我はそんな不屆な者ではなく丸龜在高野村の百姓半左衞門が悴半四郎と云者親類から頼まれたる飛脚にて松山の親類へ行に相違なく急用故に夜道をするが怪い者には決してござらぬと云に雲助共は更に聞入ずそんなら酒代を置て行只通してなるものかと半四郎一人を取卷ける故半四郎も今は是非なく覺悟を極め猶内懷にて胴卷を確かと結び帶をも手早く〆直し三十六計逃るに如じと隙を見合せひよいと身を躍せて奴等が股を潜り脱表の方へ駈出すにヤレ逃すなと追駈るを表に待たる仲間の雲助共おつと兄イさう甘く行ものかと捕へしを半四郎は振拂ひ行んとすれば雲助共は追取卷どつこい遁して成ものか此小童めどうするか見ろ命惜くば酒代を置て行と懷へ手を入れければ最勘忍はならずと半四郎は其腕を取て逆に捻上向うの方へ突飛すに大力のはずみなれば蜻蛉返りを打て四五間先へ倒れたり是を見て雲助共は少し後逡をなせしがイヤ恐しい奴平氣な面をして居をる夫惣蒐りにて叩き倒せと手に〳〵息杖を振り上打て蒐るに半四郎も酒屋の軒下にありし縁臺を押取觀念しろと云ながら片端よりばらり〳〵と打拂ひければ瞬間に八九人の雲助共殘らず擲き倒され這々の體にて散々に逃行ける故半四郎は其儘打捨足を早めて此所を立去りつゝやれ〳〵危き目に遭ものかな何さま親父殿や兄貴は夜道は浮雲なき故朝立にせよと言れしは今こそ思ひ當りたれと後悔なして急ぎけり 第二回  偖又雲助共は再び一所に集合己れは脛を拂はれ汝は腰を打れたりと皆々疵所を摩り又は手拭など裂て卷くもあり是では渡世が六ヶ敷と詢言々々八九人の雲助共怪我をせぬ者なかりしかば如何にも殘念なり此意趣晴を仕度けれ共彼奴は勿々一通りの奴にあらず怖しい手利ゆゑ五人や十人では迚も叶ひ難し仲間の者を大勢談合早々追駈三里の松原にて待伏なし彼奴を打殺し胴卷の金を取て頭割にせんとて彼是二十人ばかり呼集め何でも奴は恐い早足だと云ひおつたから最餘程行し時分なれ共未々三里の松原までは懸る氣遣ひなし本海道を追駈るより裏道を駈拔んとて皆々駈出し頓て三里の松原に出で大勢の雲助共今や來ると彼方此方に潜み手ぐすね引て待伏たり半四郎は神ならぬ身の夢にも知ずたどり〳〵て道芝の露踏分つゝ程なくも三里の松原へ差懸るに木の間の月は晃々とさし昇り最早夜の亥刻時分共思ふ頃良原中まで來りしに最前より待設けたる雲助共松の蔭より前後左右に破落々々と現れ出でヤイ〳〵小童子待先刻松の尾の酒屋では能も〳〵我等を打倒し居ツたな其意趣晴しに汝を擲き殺して金も衣類も剥取なり覺悟爲をれと詰寄するに流石の半四郎も仰天し南無三方斯大勢に見込れては我が命はとても無ものなり好々叶はぬ迄も爭で手込になされんや命の限り腕かぎり叩き散して遣らんものと傍らの松の木を楯に取サア來い汝等片端より捻り殺して呉んずと身構たれ共手振にて何の得物のなきを付込惡者共は聲々に人の來ぬ間に打殺せと先に進みし一人が振揚かゝる息杖を飛違へ樣もぎ取て手早く腋腹を突ければウンと計りに倒れたり續て懸るを引外し空を打せて踉蹌所を直と飛込で襟元掴み遙か向へ投退れば其餘の者共追取卷ソレ打殺せと云まゝに十五六人四方より滅多やたらに打懸るに半四郎は只一生懸命奪ひ取たる息杖にて多勢を相手に薙立々々四角八面に打合折柄半四郎が持たる杖は忽ち中より折れたりけり因て是は堪らじと逃出せば雲助共はソレ逃すなと一同に追駈來るを半四郎は遁るゝだけは逃延んと一驂走りに二三町息をも吐ず逃たりしが惡者共は何所迄もと猶も間近逐來る故に半四郎は如何にもして逃行んとする機幸ひ脇道の有しかば身を飜へして逃込を惡者共は七八人裏手へ廻り立挾み前後より追迫るにぞ半四郎は彌々絶體絶命畑の縁なる榛の木をヤツと聲かけ根限になしサア來れと身構へたり之を見るより雲助ども十七八人破落々々と追取卷て打蒐るを事共なさず半四郎は力に任せて打合ども死生知らずの雲助ども十七八人群がり立此方は助る味方もなく只一人の事なれば大力無双の身なれども先刻よりの打合に今は勢根も盡果たれば傍邊の畔を踏外し躚く所を雲助共夫れ〳〵占たぞ今一息叩き殺して剥取と折重なつて打倒すに半四郎も最早叶はずと一生懸命の聲を揚人殺し〳〵助て呉れ〳〵と呼はれ共良夜も更し原中なれば人影とては更になく松吹風の音のみゆゑ雲助共は増々氣を得手取足取引倒し已に斯よと見えたる折柄一人の武士此松原を通り懸り其樣子を窺ふに一人の若者を大勢にて追取卷組づ解れつ戰ふ有樣善か惡かは分らね共若者の働き凡人ならず天晴の手練かなと感じ乍らに見て居たるに今大勢の雲助に叩き伏られ已に一命も危く見ゆる故彼武士は立上り何は兎あれ惜き若者見殺しにするも情なし率助けて呉んと鍛え上たる鐵の禪杖を追取松の蔭より躍り出で茲な欲心衆生の惡漢共命が惜くば逃去べしコレ若衆氣を慥に持れよ我等助けて進らせんと聲を懸けるに雲助共は振返りヤア茲な入らざる入道め汝も倶に成佛させんと打て蒐るを武士は閃りと體を引外し然らば目に物見せんずぞ彼禪杖にて片端よりばらり〳〵と討倒せば雲助共は大に驚き是は恐ろしき入道かな命有ての物種なり逃ろ〳〵と聲を懸後をも見ずに逃出すを猶武士は鐵杖にて中るを幸ひ打据たり因て雲助共は頭を打れ脊も痛め或は向う脛を薙られて皆々半死半生になり散々にこそ逃去けれ武士は是を見て呵々と打笑ひ扨も能氣味哉惡漢共は逃失たりと云つゝ半四郎の側に立寄是々氣を確かに持れよと抱起して懷中の氣付を與へ清水を掬びて口に注ぎなどして厚く介抱なしけるに半四郎は未だ口は利ざれども眼を開き追々に息も入たる樣子を見て先々強き怪我もなかりしや而其許は何國の者ぞ又如何成る用事有て夜中只一人此原中を通り懸りしやと問ふに半四郎は漸々に氣を落付是は〳〵何方樣かは存ぜね共危き命を御助け下されし事實に有難く此御恩生々世々忘れ申まじ私しは讃州丸龜在高野村の百姓半左衞門の次男半四郎と申者に候が親類より頼れし急用にて伊豫の松山迄參る途中先刻松の尾と申宿にて夜食の機から雲助ども理不盡に酒代を搖りかけ候故據ころなく大勢を打散して逃參りし所に早くも惡漢共大勢徒黨して此の如く危き目に出遭し也夫と申も實は親類より金子五十兩を預り居候故此金を目懸惡漢共に付込れし所僥倖に貴公樣の御庇蔭を以て一命を無難に助かり候事呉々有難く候と涙を流して語りければ旅の武士は始終樣子を聞其は不屆なる奴輩なり其許若年にして今の働き勿々凡人の業とは思はれず天晴農民の悴には珍しき者なり某しは豐後府内の浪人にて後藤五左衞門秀盛入道と號無刀流の劔術を心懸け諸國武者修行なす者なれば決して氣遣ひにするに及ばず尤も猶途中不用心ゆゑ是より其許を松山迄送り遣はすべし又其許に折り入て咄し度事も有により徐々と歩行れよと申に元來正直なる半四郎ゆゑ少しも是を疑はず誠に御深切の段有難く存じ奉つる然らば仰に隨ひ申べしと立上り夜の更しをも厭ひなく是より兩人打連れ立ち松山指てたどりけり實に後藤秀盛の仁勇天晴の武士と謂つべし扨又五左衞門は道すがら種々の物語りをなし半四郎の樣子を試し見るに應答の言葉遣ひ温順にて自然其中に勇氣を含み又父兄を大切になす孝悌の備はり殊に力量早業は目前に見し事ゆゑ心の中に思ふ樣都て藝道を習ひて覺ゆるを人と云習はずして其業に妙を得るを神と云然ば今此若者百姓にて耕作を業とし居ながら自然劔法の妙を得たる手練あり先刻大勢を相手に討合有樣勿々凡人ならず加ふるに大力無双にして正直正路に見え父兄に孝悌を盡す樣子是天晴の若者なり此者を貰ひ受て我養子となし無刀流の劔法を傳授せば虎の翼を添るが如く古今無双の名人と成べし我が流儀を後世に殘すは是に増たる事あらじ幸ひ兄は親の家督を繼と申せば此者を是非とも貰ひ受て老の樂みにせんと思案を極め道々半四郎に此趣きを咄しけるに半四郎は大いに悦び誠に有難き思し召なり命の親なる貴公樣の事なれば何として否むべき樣は御座なく候間親元さへ承知仕つらば私しは何れとも思し召次第隨ひ奉つらんと申ける故後藤は甚く悦び我等未だ一人も子と云者なきを天も憐み斯る孝子を授け給ふならんと心の中にて天地を拜し半四郎と倶に頓て伊豫の松山に到り則ち半四郎は頼まれし五十兩の金を親類へ渡し夫より又後藤と同道して讃州へぞ立歸りける 第三回  然るに半四郎は後藤秀盛と同道して讃州高野村へ立歸り我家に到りて父半左衞門へ途中の次第を落もなく物語りければ半左衞門は且驚き且喜び早速秀盛を請じ我子を助けられし恩人なりと厚く禮を述て種々饗應けるに後藤も恙なき歡びを云て暫時酒宴交せしが頓て半四郎を養子に貰ひ度由物語りしに半左衞門も大いに悦び迅速に承知なしければ此に於て萬事の咄し調ひ五左衞門は直に半四郎を貰ひ受我養子となしたりけり是に因て後藤秀盛は丸龜の城下へ無刀流劔術の道場を出せしが此道場日々に繁昌して殊の外弟子も多く何一ツ不自由なく暮しけるに付後藤は我目矩を以て貰ひ請し半四郎ゆゑ己れが實子の如くに愛し半四郎も又能孝養を盡しけるが其中無刀流の劔術を一入心を盡して教授なすに元より神妙を得たる半四郎なれば上達する事一を聞き十を知るの才智にして忽ち其奧儀をも極め古今無双の達人となりし所に早くも八ヶ年の星霜を送りける中今は門弟中も大先生より小先生の教へ方が宜等とて皆小先生々々々と半四郎を尊敬なすの餘り大先生は最老込れ迚も小先生には及ぶまじと云を却つて父の五左衞門は我が奧儀を傳授したる甲斐ありと悦ぶ事限りなく爰に於て丸龜の道場は養子半四郎に任せんと五左衞門は我名の一字を讓つて後藤半四郎秀國と名乘せ門弟中へも右の趣きを吹聽なし五左衞門は是より猶我が流名を國々へ弘めんとて又々諸國武者修行を志ざし旅立せんと云に半四郎は是を止め最早御老年の御事此上の御修行にも及ぶまじければ是までの如く當所に在して以後は月雪花の詠を友となし老を養ひ給ふべし私し儀當時は斯の如く劔道指南仕つり候樣に相成諸人の尊敬を受る事皆御父上の御高恩なれば切て此上の御恩報じには朝夕御側に在て御介抱申上度聊かも御不自由はさせ申間敷何卒御止まり下さるゝ樣にと只管に諫めけれども父秀盛は更に聞入ず成程其方が申す志ざしは忝けなけれども未だ〳〵我等とても全く老朽たるといふ身にもあらず諸國を見物ながら我が流儀をも弘めんと思ふなり然りと雖も某がし萬一病氣の時は何國に居とも早速飛脚を以て知する間其節は迅速に來りて呉よ是のみ我等が頼みなりと申ければ半四郎は是を聞如何さま此儀を強て止むる時はもはや老朽たりと云に似て却つて不孝になるべしと思ひ夫は仰せまでもなく何時にても御用の節は早速に參り候はん其儀は少しも御氣遣ひあるべからずと申ければ五左衞門も安心なし然ば近日出立におよばんと是より旅の用意に及び跡の道場は半四郎に任せ置門弟中へも夫々に別れを告後藤五左衞門秀盛入道は此時五十五歳にて先關八州を志ざし再び武者修行にぞ立出ける扨又後に殘りし後藤半四郎秀國は丸龜の道場を預り猶追々に門弟殖ければ殊の外に繁昌なし居たるに此程半四郎の實父半左衞門は不計風の心地にて煩ひ付しかば種々醫療に手を盡しけれども終に養生叶はず相果けり因て兄半作は勿論半四郎も元より孝心深き者ゆゑ其愁傷大方ならずと雖も斯て有べきにあらざれば泣々野邊の送りをなし七日々々の追善供養も最念頃に弔ひ兄弟喪にぞ籠りける然るに半四郎は豫ての孝心ゆゑ親の亡後は兄の半作を親の如くに尊敬假にも其意に背く事なく五節句其外何事によらず自分が門弟中より申受たる金子有時は兄半作へ遣はして田地田畑を買求めさせ兄半作の身代を助け孝順なる事誠に稀なる深切にして自分は一向に姿態にも構はず着ば着たなり又門弟中より申うけたる金なども何程あるやら勘定もせず少しも欲心のなき人なれば門弟中の中重立たる者が夫是の取始末をなし賄ひの世話を致し居る位の事にて一向世帶には構はぬ人なり又酒は元より大酒故日毎に一二升づつ飮ぬ日とてはなく然れども今は何一ツ不自由なく暮し居けるが兎角に他の世話好にて丸龜の城下は勿論近隣の村々まで困窮の者へは米錢を惜まず施し病人へは醫師を頼んで藥を飮せなどして貧民を救ふ事を常の樂みとなしければ丸龜近在にては後藤半四郎を神佛よりも有難く思ひ皆々が生神々々と云ひて尊敬なしたりけり扨又後藤五左衞門秀盛入道は讃州丸龜を出立なし夫より東國を廻り諸所にて無刀流の名譽を顯し上州大間々迄到りしが此所に道場を開き多くの門弟も出來て繁昌なし居たりしが兩三年を過秀盛入道は不斗煩ひ付し處大傷寒となり殊の外大病ゆゑ門弟中大いに心配なし種々治療に手を盡したれ共更に効しなく今は一命旦夕に迫り頼みの綱も切果たる體なれば五左衞門重き枕を上漸々と言葉短かに手紙を認め丸龜なる養子半四郎方へ急ぎ飛脚を遣はしたり偖又半四郎は養父の安否を案事居たるに不圖上州大間々よりの飛脚到來せしかば何事やらん急ぎ書状を披見するに養父秀盛の直筆にて我等此度の病氣殊の外大切と有ける故大いに驚き先返事を遣はさんと早速參上致すべき旨相認めて飛脚を歸し半四郎は豫て約定の通り駈着んと取物も取敢ず旅の調度を整へ直樣出立に及ばんとしければ門弟中は肝を潰し先生には何を急遽く旅の用意を成れて何方へ御出成れ候やと問けるに半四郎は早草鞋を履ながら然は各々方も御存知の通り養父秀盛は當時上州大間々に罷在候處此程大病にて一命旦夕に迫り候由の飛脚到來せし故今より關東へ罷り下るなりと有しかば門弟中聞て夫は御道理なれども先生餘り御性急かと存じ候而て又後々の儀は如何なされ候やと申すに半四郎然ば其事なり後の道場は其許方に任せ置により能樣に計らひ給はるべし何れにも師父の大病と聞ては片時も安閑として居る場合にあらざれば兎も角も高弟衆が代稽古をして間を合せられよ某し儀格別日數の懸る事もあるまじ何分頼み置と云つゝ直樣出立なしたりけり元より早足の半四郎ゆゑ晝夜となく道を急ぎたれ共名に負四國の丸龜より上州大間々迄の道程百九十餘里の所なれば如何に急ぐとも道中に隙取しかば其中に養父五左衞門は病死なし最早門弟中の世話にて弔ひも出せし跡へ半四郎着しける故師父の死目に合ざるを如何にも殘念に思ひ足摺して歎き悲みけれども今さら詮術なければ養父の所持したる品々を賣拂ひ諸入用の勘定等をなし又門弟の中世話になりたる者へは夫々に紀念分を遣し殘りの金子は葬りし寺へ祠堂金に寄進なし其外跡々の事共殘る方なく取片付暇乞して出立に及ばんとするに門弟中一同に名殘を惜み暫時當所に足を止められ劔道御指南下され候樣にと強て申けるゆゑ半四郎も據ろなく然らば四十九日の立迄は滯留せんとて此所に止まり養父の門弟に稽古を致し遣しけるに門人は大に悦び大先生よりは却て教へ方も宜業前も一段上ならんなどと評し彌々勵みけれども半四郎は喪中の事故餘り多勢の入來るを厭ひ加之田舍は物固くして四十九日立ざる中は大精進にて魚類を食する事能はず然ども半四郎は元來大酒にして又肴は魚類を好む故精進には甚だ困り果自然力も拔る樣に思ひしかば或日門弟中に向ひ扨々是迄は不思議の縁にて御世話に相成千萬忝けなく猶又各々方の引止めに因て滯留致したなれ共某し國元にも道場是ある事なれば何時迄も長く逗留も相成難く且歸國がけ江戸表も見物致し度存ずれば名殘は盡ねども最早御暇申さんと云に門人共も甚だ名殘は惜めども今は止むる言葉もなく然らば御心任せになされよと各自餞別など贈りければ遂に別れを告て出立なし江戸表へぞ到りける 第四回  偖又爰に武州熊谷堤の外れに寶珠花屋八五郎と云居酒屋あり亭主八五郎は此邊の口利にて喧嘩或ひは出入等之ある時は毎も扱ひに這入ては其騷動を鎭めけるに渠が云事は皆是を用ひるゆゑ人々にも立られ至つて侠氣有者なり此八五郎が女房は去年病死して跡には女子一人有けれ共最早三歳にもなりければ乳も入らず少づつ食事を與へて育ひけるゆゑ近所の者後妻を勸めけれども夫は面倒なりとて只一人子の育つを樂みに小女一人若者二人遣ひて居酒屋渡世をなし居たり然るに其年十月中旬頃年の頃二十四五歳色白にして鼻筋通りし男と又元服は致し居れども未だ十八九共云べき最美麗なる器量の女を連たる浪人體の者夫婦連とも言べき樣子にて男の衣類は黒羽二重の紋付に下には縞縮緬の小袖を着し紺博多の帶を締大小なども相應なるを帶して更紗の風呂敷包み二つ眞田の紐にて中を縛り是を肩に引掛若き女は上に浴衣を覆ひたれども下には博多縮緬の小袖を二枚着し小柳に縫模樣ある帶を締兩褄を取揚緋の蹴出を顯はし肉刺にても蹈出せしと見えて竹の杖を突ながら足を引摩々々來るは如何にも旅馴ぬ樣子なりしが夫婦連の者此寶珠花屋八五郎の見世に腰を打懸やれ〳〵草臥たりと云て息を繼休む故亭主八五郎は茶など運せて挨拶なしけるに若き夫婦は御世話ながらお酒を]一合御膳を二人前出し下されと云ければ亭主は承知なし御肴は何んぞ見つくろひましよと云つゝ煮染に飯と酒を添て持來りければ是は御世話と云ながら夫婦は頓て一合の酒を飮飯も食終て身支度をし乍ら御亭主是から江戸迄何里あるやと問ひけるに亭主は是を聞江戸迄は此所より十六里餘也と答るに又夫婦の者最早何時なるやと云ければ頓てもう七ツ下りならんと申を聞夫婦の者然すれば今より江戸までは迚も行れまじ切て鴻の巣とやら迄も行れべきやと云に亭主は兩人の樣子を見て失禮ながら足弱の御女中を御連なされて是から四里八町は餘程夜に入ります殊に此熊谷土手は四里八町と申ても餘程丁數が延五里の餘は必ず御座り升夫に惡ひ土手にて機々旅人が切られたりあるひは追剥に出會強いめに逢事ありて誠に物騷ゆゑ何れにも今晩は此熊谷宿へ御宿りあつて明朝はやく御出立なさるが宜しからん入らざることゝ思し召も有べけれどもまづ〳〵御用心なさるゝが大丈夫と深切に咄し居る機から近來此邊を立廻る駕籠舁の惡漢共門邊を通りかゝりしが兩人の樣子を見て此所へ這入來りしかば八五郎は惡い奴が來りしとは思へども報をさるゝも嫌さに默止居れば駕籠舁共は夫婦に向ひもし旦那戻駕籠ゆゑ御安直參りやす何卒お乘なされといひけるに浪人夫婦は是を聞今より鴻の巣迄行くには刻限も遲しと申事なれば此宿に泊る積り殊に是からの四里八町は餘程延て居るとの事ゆゑ夜にもかゝるし其上又大いに物騷だとかいふ事なれば先々見合せに致さうと云けるを駕籠舁どもは大いに笑ひコレ旦那何した事をいひなさる此道中は初めてと見えるゆゑ夫リヤア大方此宿の者が御客を釣つもりの話しを御聞なされたのだらう四里八町所か此堤は僅か二里半しかありません今から急いで行ば必らず灯りのつく時分には鴻の巣宿へ參りやす我等どもはほんの酒代丈にて何にも構はず二里半三百文で行ませう其代り少しも立ずに急ぐから何卒御乘なすつて下せい三百文なら跡で彼是と酒代などは御誣頼申しは致しやせんと駕籠舁どもは口から出任せに欺き勸め四里八町の道を二里半なりと云に浪人夫婦の者道中は始めてといひ江戸表へ急ぐ身なれば終に甘々欺かれ夫なら急いで頼みますと云つゝ此家を立出て連の女を駕籠に乘男は後に附添乍ら堤をさして急ぎけり 第五回  偖又寶珠花屋八五郎は浪人夫婦の後を見送りアヽ今の若夫婦は惡い駕籠舁共に引罹りとんだ目に逢ならん我等があれ程氣を付て遣るに若い人達と云ふものは仕方がない後先の勘辨もなく困りしものなりと申けるに下男の彌助も氣の毒面に然やうさ惡い奴に引罹りましたが夫ならとて知らせる譯には參らず實に氣の毒な事で御座ると申を八五郎は聞て然共々々奴等の邪魔をして見ろ後で何樣な意恨を報されるも知れず此な間の惡ひ日には又何な惡ひ奴が來るか計られねば早く見世を仕廻つて休むが好といふに下男彌助何さま然樣致さんと早々に見世を片つけ今戸を建んとする處へ見上る如き大兵の武士鐵の禪杖を引さげつか〳〵と這入來り是々若いもの酒を一升かんをして呉れ然うして何ぞ肴を出し呉よと云ながら縁臺にどつかと腰を打掛やれ〳〵日の短かひ事だ十月の中の十日に心なしの者を遣ふなとは能云しものだコレ〳〵若い者大急ぎだ早く酒と肴を出し呉よと云に下男彌助は此體を見て大いに驚きハツと思ひながら猶もよく〳〵見るに身の毛も彌立ばかりに恐ろしき長大小を帶し月代は森のごとくに生て色赤黒く眼尖どく晃々と光りし顏色にて殊に衣類は羊羹色なる黒のもん付の小袖に古き小倉の帶をしめ長刀形になりたる草鞋を穿ながら臑にて尻を端折また傍邊の杖を見れば鐵の延べ金にて四尺ばかりも有んかと思はれ然も握り太なる禪杖なり因て下男彌助は戰々慄ながら心のうちには是は何でも盜賊の頭に相違なし慥かに今の駕籠舁どもの仲間ならん飛だ奴が這入こんだと思ひ怖々ながら腰を屈め折角の御入來なれども眞實に御氣のどく千萬生憎只今肴は賣切しゆゑ見世を仕まはんと存じし處なれば最早御肴は少しも御ざらぬと申に彼の武士然らば酒ばかりにて宜しといひければ彌助否其酒も賣切たりと云ばヤレ〳〵夫は是非もなし大方飯は有べきにより出して呉よと云へば彌助は首を振ナニ〳〵飯も皆賣切炊たのは少しも御座らぬといひつゝ武士の方をじろ〳〵眺め居るゆゑ武士は眞實に當惑なし然らばいつその事此家に泊るべし見れば障子に御泊り宿と記しあり夫に最はや申刻過にもなるべし餘り草臥たれば泊りて行んにより飯も寛りと炊てもらうべし酒も取寄てもらはん此所へ泊るとすれば仔細なしと草鞋を徐々脱かけ座敷へ上らんとするに下男の彌助心の内彌々迷惑に思ひ奴に何とか云て何れにも泊らぬやう追出して仕廻んともじ〳〵手を揉ながら今晩は何分御泊申こと出來難く其譯は今夜村の寄合にて後刻は大勢集まり候間御氣のどくながら御宿は御斷り申上ると云けるに武士は其の樣子を篤と見て大いに立腹なし貴さまは亭主か若いものかコレ先ほどより能々見るに那流しの桶に魚もあるに汝はよく虚を申なはてさて解りしなり某しの體裁を見て盜賊か又は食倒しなるべしと思ひて何を聞ても無い〳〵と計り云は奇怪なり大方酒もあるに相違あるまじと云つゝ武士はづか〳〵と立寄て酒樽の呑口へ升を宛がひヤツと一ト捻り捻りければ酒はどく〳〵出しゆゑ汝是ほど澤山酒もあるものを只無々とばかり云ひをつて汝今に誤まるか辛目見せて呉んと云ながら一升桝へ波々と一ぱい酌酒代は幾干でも勘定するぞよく見てをれと冷酒の桝の角より一息にのみ干最一杯といひつゝ又々呑口をねぢり一升桝へ再びなみ〳〵と酌是をも一息に飮終りてコレ若いもの狼藉に飮逃などは致さぬぞ某がしが身形の惡きゆゑ大方其所ら邊りの狡猾ものか盜賊とでも見込だであらう代錢は殘らず拂ひ遣はすぞコレ路用の金は此通り澤山所持して居ると懷中の胴卷を取出し夫見よ酒も肴も幾許でも出せ喰倒しをするやうな卑劣の武士と思ふか茲な盲目めと云ながら百兩餘りもあらんと思はるゝ胴卷を投出したるに彌助は再び驚き彌々奴盜賊に相違なし那れは何でも何所ぞの家尻を切て盜みし金ならん那な身形りをして大金を持て居るは愈々推量の通りならん此な奴に商ひをなさば又關り合に成て難儀をするかも知れぬ何れにも斷るより外はなしと彌助は思案を極め成ほど御客さまの云るゝ通り實は酒も肴も御座れ共是は今申通り今晩村の寄合に使ふ仕込の肴夫ゆゑ御斷り申せしなり此上は何卒御免下さるべしと詫入るを武士は一向聞入ず汝又僞りを申ぞと云ながら榮螺のごとき拳を振上飛かゝつて彌助を打倒さんとするにぞ彌助は大に驚ろき逃出さんとして入口の障子に衝中り摚と倒れしかば此物音に驚き亭主八五郎は奧より馳出來り先々御客さま御勘辨下されよ實は渠が申通り今晩村の寄合御座候につき魚は餘分に仕入置しにより私し儀是に居て伺ひ候はゞ御好通り早速御酒も肴もさし上げ申べけれども何を云にも下男彌助めは近來奉公に參りし者ゆゑ其邊の差略は勿論御客樣の見分も一向に出來申さず夫が爲御氣に障る事を申上しならんが其段は偏へに私しに御免じ下され御勘辨を願ひ奉つる因ては何なりとも有合の御肴をさし上候はんと只管に詫入ければ武士は忽ち顏色を和らげ是は〳〵御亭主の挨拶却つて痛み入惣じて其方の如く理を分て云るれば某し元より事を好まざるにより強てと申譯もなしと云ふに亭主は大いに悦びて早々彌助をよび我等より御客さまへ御詫も申上たるに早速御勘辨下されたり然れども是に懲て以來よく〳〵氣を付よ其方は餘り正直過るゆゑなり早々御酒のかんを付鯰の燒乾しを煮付にして上よと申付るに彌助は諾々と云ながら酒のかんを付肴を拵へて出しければ武士は大いに機嫌を直し最愉快氣に酒を飮ながら偖々御亭主店先を騷がせ氣の毒千萬某がしは業より生れ付て容體に一向構はぬゆゑ是までも兎角人に見下られ殊に見らるゝ如く大いなる木太刀を二本さして歩行けれども夫を武者修行と思ふ者一人もなく却て長脇ざしの親方か但し追いはぎ盜賊などの惡漢が扮し姿と見違へ甚だ迷惑致す事ありと云ひければ亭主は聞て否々失禮ながら人は見かけに寄ぬものにて韓信とか申人も元は洗濯婆々の所に食客に成り居りしとか又人の股を潜りしとか申程に賤しく見えし由然すれば貴公樣などは御體は見惡ふ入せられても泥中の蓮華とやらで御人品は自然から瓦と玉程に違ふを見分ざれば目鼻のある人とは申さずと云ふに武士は大いに笑ひ夫は餘り譽過るなりと云つゝ最早酒も頓て三升ばかり飮たる故ほろ〳〵機嫌になりコレ亭主貴樣は田舍に似合ず漢土の事など引事にして云は感心々々談せる男だイヤ面白し〳〵と暫時興にぞ入りたりける 第六回  説又亭主八五郎は彼武士に向ひ失禮ながら御客樣の御國は讃州邊と存じ候が何れの御方に御座候やと云ければ半四郎は不審に思ひ貴樣は如何して某しの生國を知りたるやと問に八五郎は微笑先刻より伺ふに御言葉遣ひは讃州のおん言葉に候間若やと存じお尋ね申上しなりと申せしかば武士は甚だ感じつゝ御亭主貴樣は記憶といひ心懸といひ天晴の男なり察しの通り某しは讃州丸龜に住居して無刀流劔術の指南を致し後藤半四郎秀國と申ものなりと云に八五郎は是を聞て大いに驚き扨は御客樣が後藤先生にて在せしか御縁と云ものは眞實に不思議なものなり知ぬ事とは申ながら先刻より大いに失禮仕つりし段眞平御免下さるべし只今上州大間々に御道場を御出し成れたる後藤秀盛先生が毎度貴方樣の御噂を成れ拙者は未熟なれども悴の半四郎は古今の達人なりと御噺有しが其半四郎先生に今日御目に懸らんとは夢さら存ぜざりしなり又其御身形は如何なされし事やと問ひければ半四郎聞て今も云通り某しは生質容體には一向頓着せず人は容體より只心なり何國へ行にも此通り少しも構はず只々蕩樂は酒を飮ばかり外には樂しみと云者なし而て又々亭主には某しが師父を如何して存じ居らるゝやと申に亭主は猶膝を進め然ば秀盛先生はこの近邊にも御弟子これ有よしにて時々御指南に御出なされて滯留の節は毎度私方にて御宿を申上夫ゆゑ大先生の御咄しに貴方樣の御噂を伺ひしなり併しながら當冬に相成ては未だ一度も御出なく此秋中迄は毎月缺さず御出ありしが如何なされしにやと申ければ半四郎は始終を聞夫は不思議の縁なり某し此度此所を通行なすは大間々なる我が師父大病の趣き國元へ飛脚到來せしゆゑ丸龜より急いで上州大間々まで參りし處に何と云ても二百里近くの道程ゆゑ死目の間に合ず遙々遠路を來りし甲斐もなく甚だ殘念に存するのみ既に師父の葬送は門弟中厚く世話致し呉し由ゆゑ道場の跡片付など濟して漸々今日此所まで戻りしなりと此程の事故を涙ながらに物語りしかば八五郎は大いに驚き夫は嘸々御愁傷の御事と御察し申上る道理こそ當冬は御出之なきと存ぜしなり然らば未だ當所の御門弟中は知らざる事ならんにより私しより早速申繼御墓參りも致させんと云けるに半四郎は亭主の厚き志ざしを感じ何分宜しく頼むなりと申せし時又八五郎は半四郎に向ひ先生先程は一旦申上たれども其實今晩村の寄合と申せしは僞りに候間今宵は寛々お泊り下さるゝ樣にと申ければ半四郎は莞爾と笑ひ夫は幸ひもはや時刻も遲くなりし上某しも大いに飮過たるにより御亭主の言葉に隨ひ今夜は世話に成べし然らば今一升燗を頼むと言に八五郎は誠に珍らしき大酒なりと思ひ先々御寛りと上られよと言つゝコレ〳〵と彌助を呼び先生樣に最一升お燗をつけて上よシテ又徐々御膳のお支度をと云ければ彌助は畏まり候と又一升をさし出し夫より四邊を立働く隙に傍らに立掛ありし鐵の延棒を故意と足にて蹴倒し見るに少しも動かず因て彌助は目方を引見んと思ひ是は不調法仕つりましたと云ながら持て座敷へ上んとするに少しも持上らずウン〳〵と云て力瘤を出し居るにぞ八五郎は此所へ出來り我等が上んと云ながら引立んとすれ共同人にも動かねば八五郎は大いに肝を潰し是は滅法界に重き御品なり先生此御杖は何程の貫目候やら私し共には勿々持上らずと云ければ後藤は打笑ひ否多寡の知たる鐵の延棒某しが杖の代りに突て歩行品目方は十二三貫目も有べし途中にて惡漢などに出會し時には切よりも此棒にて打偃すが宜しと云つゝ片手にて是を取ひう〳〵と風を切て振廻す有樣宛然麻殼を扱かふが如くなるにぞ八五郎は是を見て彌々肝を潰し先生の大力實に天下無双ならんと見て居たるに後藤はコレ彌助先刻の代りに鳥渡一本試みようかと振上ければ彌助は大いに仰天なし御免なされと云より早く奧を目懸て迯行けり 第七回  然ば寶珠花屋八五郎は半四郎に向ひ偖も〳〵先生は凄然き御力量哉加之劔術は殊さら御熟練と伺ひ及び候が今少し貴方が御早く御出あらば好かりしに惜き事なりと申ければ半四郎は聞て某し今少し早く參らば好にと云るゝは如何なる譯なるやと問に八五郎然ば御咄し申べし先刻越後者の由若き夫婦連の侍士私し見世に御休み成れしが逃亡者とも見えず身形も可なり立派なれども一向に旅馴ぬ樣子にてイヤモウ意氣地もなく殊に女は足を痛しとて杖に縋りて參りし處惡い駕籠舁どもに付込れ當底欺かれ乘て參りたるが今頃は此熊谷土手の中程にて路金も女も定めし奪れ給ひしならんアヽ思ひ出しても可愛さうな事を致せしなり既に其御侍士が鴻の巣までも行んと云るゝにより私しが右の駕籠屋の來らざる中此熊谷土手は名代の物騷なる所にて殊に四里八丁もある場所ゆゑ必らず夜に入に付今夜は當宿に泊りて翌の朝早立になされよと御止め申居たる處へ駕籠舁めが這入來り終に勸め込て引懸行しなり其時貴方樣が御出成れたなら惡漢の五人や十人は忽ちに打散し助けて遣はされしならんに呉々惜きことをしてけりと咄せしかば後藤は樣子を聞夫は又何故に惡漢と知りながら教へては遣ざりしぞ聞が如きにては實に痛はしき事なりと云に八五郎否道中の雲介駕籠舁などと申ものは今日は此所に居ると思へば翌は大坂へ參り又は東海道へ稼に歩行少しも居所の極らぬ奴輩ゆゑ若奴等が仕事の邪魔をする時は後日に如何なる報をさるゝも計り難く夫故に道中筋は何れの茶屋小屋にても看々惡漢に引懸りて難儀する旅人があらうとも滅多な事は申されずと云ければ半四郎成ほど夫は道理なり何にしても可愛さうなことゆゑ何か救ひて遣度ものと兩手を組しが可々某しは元來天地の間に差構のなき身分主人持ではなし母親は兄半作が世話ををするし全く獨立の天下浪人又義を見てせざるは勇なしと云る事あり某し今より駈着其者どもを助けて遣ん是より道程は何程あるやと問ひければ八五郎然樣さ四里八町と申せども多分中頃で爲す仕事ならん一筋道ゆゑ御出なされば間違ひなけれ共餘程時刻も後れたれば贅足ならんといふに半四郎は最早立上り假令贅足になればとて元々なり某し一ト走りに追着助けてやらん大方渠等怪我もあらんにより本道外科兩人の醫師を頼み置かれよ又燒酎鷄卵白木綿等の用意を頼むなり其入用は某しが出すべしとて後藤は路金を胴卷の儘亭主に預けおき悉皆く用意を申し付て強刀を帶し鐵の延棒を引提熊谷堤を指て逸驂にこそ馳行けり 第八回  偖又彼の駕籠舁の惡漢どもは浪人夫婦を甘々と僞り乘て寶珠花屋を立出しが程なく熊谷堤の中程なる地藏堂の前に來り駕籠を撞乎と下しオイ棒組々々マア寛然と一ぷくやらかさうやれ〳〵世話しないことをしたと云ひながら煙草入より摺火燧を取出してかち〳〵と火を打ち付煙草を呑ながら最爰まで連て來れば此方のものだ先女が捨賣にしても年一ぱい五六十兩が物はある路用も十兩や十五兩はあるに相違なし其外衣類大小迄奪ひとらば何でも小百兩の仕事だ久し振で甘い酒が呑る悦べ〳〵と云聲を浪人夫婦は聞て大いに驚き然すれば渠等は豫て聞たる護摩の灰とか云へる惡漢ならん是は如何せんと當惑の折から一人の駕籠舁は彼浪人に向ひオイ御侍士先刻熊谷の茶屋から四里八丁の丁場を二里半だと云て乘て來たが實は僞りよ此駕籠の中の代物と路用大小等が見込で此所まで汗水に成て乘せて來たのだ何と肝が潰たかヤイ此女は勿論金と大小衣類まで尋常に渡せば命は助けてやる萬一否と云へば命も倶に貰ふ分の事サア素直に路用を出せといふに又一人も同じく侍士に向ひ應然樣だ殘らず渡したとて損はあるまいコウ侍士大方此女は餘所の箱入娘を唆かし云合せて親の金を盜み出して連て逃たに相違なし元は只取て來たものだ不殘渡しても損にはならねへサア〳〵渡せ〳〵と立かゝる故此方は侍士一人なれども女房を駕籠より出し手早く後へ隱して楯になり嗚呼殘念なるかな斯る惡人とも知らず己れ等如きに欺かれ此所まで來しこと口惜けれとは云ふものゝ刀の手前假令命は捨るとも汝がまゝに爲すべきや覺悟をせよと言ひながら腰の一刀引拔つゝ身構へなせば惡ものどもは打笑ひ何の小癪な青二才と息杖取のべ打て蒐を此方は騷がず切拂ひ又打込を飛違へ未だ生若き腕ながら一生懸命切捲れば流石に武士の働きには敵し難くや駕籠舁ども是は叶はじと逃出すを何國迄もと追行中豫て相圖やなしたりけん地藏堂の扉を開き七八人の惡漢ども破落々々其所へ馳出し女を逃すな擔引げと追取卷に女房も今は何とも絶體絶命如何に此身が女なりとて非道の手込になるべきやと用意の懷劔拔放ち彼方此方を掻潜り死もの狂ひに突廻れば惡者どもは是を見てヤア小賢しき女の働き叩き倒せと犇めくを頭立たる大男は慌たゞし氣に押止めコレ〳〵其女を叩き倒して成者か大事の玉に疵がつくとそツと生捕と氣をつけられて惡漢どもよし〳〵合點承知の濱と遂ひに懷劔を捻取りつゝ手どり足どり旋々まき強情婀魔めと引摺來て捻つけ駕籠へ入れんとするを女は爰ぞ一生懸命ヤレ人殺し〳〵助け給へと泣叫べは侍士是に心付ヤレ南無三法何時の間に同類めらが後ろへ廻り我が女房を捕へしやと飛ぶ如くに馳戻り群がる中へ切入ど彼方は名に負荒くれども手に〳〵息杖棒ちぎり打合ふ折から又四五人堤の蔭より顯れ出疊んで仕舞へと罵しり前後左右を追取卷打込棒は雨より繁く多勢を相手に侍士は死忿を顯はし切り結ぶ心は彌猛に逸れども終に刀を打落され逡巡處を惡漢ども寄てたかつて侍士を忽ち其所へ打倒し滅た擲りに打据たり斯る所へ半四郎は彼早足も一層遽しく堤の彼方へ來懸りて遙か向うを見渡すに夜中の事ゆゑ夫なりと目當は知ねど女の聲ヤヨ人殺し〳〵助け給へと叫ぶにぞ偖こそ惡漢御參んなれと猶一驂に馳着て用意の延棒を追取直して躍こみて女房を押たる惡漢どもを後ろよりヤツと云ひさま打たふせば瞬間に二三人ウンとも云はず息絶たり是を此場の始めとして當るを幸ひ片端より破落離々々々と薙倒す勢ひに惡漢どもは大いに驚き是は抑如何に仁王の化身か摩利支天かあら恐ろしの強力や逃ろ〳〵と云ひながら命からがら逃失けり又打倒されし五七人は頭を割れ脛を折れ或は腰骨腋腹骨皆打折れて即死せしもあり適々未だ死ざるも然も哀れ氣に呻く體心地能こそ見えたりけれ後藤は是を顧みてヤレ〳〵たはいもなき弱虫めら只一打にて逃散たりシテ未死切ぬ奴輩を斯して置は殺生なり然とて生返らせなば又々旅人へ惡さをなす者共なれば止めを刺て呉んと鐵の棒の先を咽の邊りへ押當て一寸々々と葭で物を突く如く手輕に止めを刺し去より後藤は夫婦の者に向ひヤレ〳〵危き事でありしが最早我等が馳着たる上は心安く思はるべし然ど御浪人には強き怪我もなかりしやと云に夫婦の者は大いに悦び何れの御方かは存ぜねども圖らず我々が危難を御助け下され有難く御禮言葉に盡し難し少々は打疵を受たれども然までの怪我にも是なしと云ながら女房は後藤を熟々見るに月代は蓬々と生眼鋭どき六尺有餘の大男なれば又々仰天なし一旦命を助けられしは嬉しく思ひしが是また同じく勾引か盜人にてあるべし如何して能らんやと薄氣味惡く胡亂々々するを見て半四郎は是を察し是々御浪人我等は此樣に見苦しき身形故定めて不審き者と思されんが必ず御心配なさるに及ばず某は讃州丸龜に住居なす後藤半四郎秀國とて劔道指南を致す者なるが此度用事あつて上州大間々邊へ參り先刻歸り道にて熊谷の寶珠花屋といふ酒屋へ立寄し處亭主の物語に貴殿御夫婦惡漢どもの爲に欺かれ定めし御難儀なされんと申事を聞及び武士は相見互ひ我等も浪人の危難を餘所に聞流すは本意ならず思ひ餘程刻限は延たりと申せしかど假令無陀になるとも屆くだけは御助力致さんと馳着しに幸ひ間に合てお救ひ申たるは我等の本望先々安堵致されよと申ければ夫婦は漸々安心してホツと溜息を吐我々夫婦は越後高田の浪人新藤市之丞と申者なり誠に有難き御厚情を以て斯樣に我々兩人をお救ひ下されし事千萬忝けなく存じ奉つると初めて喜びの色面に顯れ兩人土に手を突て厚く禮を申述ければ後藤は否々其樣に禮を云ふには及ばず夫よりは先貴殿の疵所の手當致されよと申に後藤は某の疵は僅かばかりなりと云ふを否々少しにても疵は大切なり自然等閑て波傷風にもならば容易ならず先兎も角も先刻の茶屋迄御同道申ての事なりサア遠慮に及ばず此駕籠に乘れよと今惡漢どもの置去りにせし駕籠を引寄浪人を乘せたれども舁ぎ人のなきゆえ後藤は膝を打是はしたり氣の付ざりしがこんな事なら惡漢の二三人を殘して置ば能つたに皆殺せしは是非もなしドレ參らうと半四郎一人にて引擔ぎサア〳〵御女中先へ立れよと云つゝ行んとせしが半四郎は大小と鐵の禪杖の邪魔に成たれば若御女中憚りながら此大小と杖を持て下されと女に渡すに赤銅造の強刀と鐵の延棒なれば大體の男にても容易に持事叶はぬ程ゆゑ女房は持所か大小ばかりにも困り果て然りとて否とも云はれず持には持れず如何して宜らんと身を悶えて居るゆゑ後藤は可笑く思ひ是はしたり成程御前さんには持れぬはずどれ此方へと引取て駕籠の棒へ下緒にて縛りつけコレ御女中お前も一所に乘り給へ然すれば却て道も捗どらんと云ふに女は否々どう致して勿々勿體なしと辭退なしければナニ遠慮なさるな夜中の事ゆゑ外に誰も見る者なしサア〳〵乘り給へと手を取て夫婦二人を無理に一つ駕籠に乘是でよしとて半四郎は向う鉢卷片肌脱ぎ何の苦もなく引擔ぎすた〳〵道を駈ながら酒屋を指て急ぎけり 第九回  扨寶珠花屋八五郎は後藤の出行し後早々下男の彌助にいひ付先燒酎鷄卵白木綿等を買調へ夫より外科へ怪我人ある趣き申遣し招きけるに醫師は幸ひ在宿なればとて彌助に藥籠を持せて先へ差越し程なく寳珠花屋へ入來りしかば亭主は早速出迎へて座敷へ請じしに醫師は四邊を見廻し御病人は何れに居らるゝやと云ければ亭主八五郎然ればなり其病人と申は多分今晩旅人に怪我の有筈ゆゑ急度今に參るならんといふに醫師は大いに不審然樣か夫は餘り手廻し過たりシテ其怪我人のあらんと云事は如何の譯なりやと申ければ八五郎は浪人夫婦の事より後藤半四郎が助に馳着し始末等委細に物語りなどして居たりしが亭主は何にしても餘り手間取るにより其邊まで樣子を見せにやらんと宿駕籠を頼みて其用意に及びし所へ後藤半四郎は向う鉢卷片肌脱になり駕籠一挺へ夫婦二人を乘せ一人にて引擔ぎ寶珠花屋の門へ駈着是々亭主今歸りたりと表の戸を叩きければ八五郎は飛でいで先生樣子は如何やと云ながら門の戸引明ければ後藤は汗を押拭ひ如何處か誠に危き事なり亭主貴樣の云し通り今一ト足遲いと間に合ぬ處なりしが丁度間をよく駈着て惡者共を叩き殺し二人とも救ひて來たと夫婦の者を駕籠より下しければ亭主は是を見てヤレ〳〵夫は御手柄々々先生の事ゆゑ定めし斯あらんと存じ仰付られ通り醫師も招き置燒酎白木綿玉子とも調ひ置候なりと云つゝ半四郎倶々新藤夫婦を奧へ伴ひ醫師に診市之丞の疵口を縫せ療治を頼み置半四郎は又亭主へもよく手當を申付一ト間に入て休息しやれ〳〵草臥たり拙者は酒を飮べしと又々酒肴を取寄酒食をなして其夜は臥床へ入にけり偖新藤夫婦は思ひ寄ざる危難を救はれ萬事の事まで厚く世話に成ければ悦ぶ事限りなく是も其夜は打臥けるが偖翌日より後藤半四郎は自分の金を出し藥其外手厚く世話を致させて先新藤夫婦の身元を尋ねしに此夫婦の者浪人せしは其頃越後高田の城主松平越後守殿藩中にして高二百石を領し側役を勤し者なるが女房は同藩の娘にてお梅と云て是も奧を勤居たりしに若氣の過まちとて不義密通に及びし事薄々上へも聞え御家法に依て兩人の一命をも召さるべきの處同藩にて五百石を領し物頭役を勤むる大橋文右衞門と云者平日懇意に致し仁心も深き人ゆゑ其事を不便に思ひ太守より御沙汰のなきうちにと密かに新藤を招き金子二十兩を與へ早々御家を立退江戸表へ出て奉公をなりとも致し始終夫婦になつて暮されよと懇切なる大橋の情に預り兩人が命を助かり江戸表へ參らんと故郷を立出しなりと始終の事とも物語り然るに主親のお罰にや途中に於て惡漢どもに欺かれ既に一命も失はんとせし程の危難に逢たるを又圖らずも貴方の御助けに預かりし事實に有難く存じ奉つる此御恩は生々世々忘却仕まつらず候と夫婦諸共に涙を流して申しけり 第十回  扨も後藤半四郎は夫婦が長物語りを聞て成程若き者は有うちの事何も是を生涯の恥となす程の事でもなし古き俚諺に後難は山にあらず川にあらず人間反覆の中に在と云いつ何時如何なる難儀憂目に出會も計られず然れど又々運の開く事もあるものなり何でも心も正直にして大橋殿の恩を忘れぬ樣に致されよ江戸表へ出たなら御夫婦とも辛抱して稼ぎ大橋殿に恩を復し給ふべし拙者も是より江戸見物致さんと思ふなれば江戸迄は御同道申べし先々心置なく寛々養生なすが專一なりとて眞實に申を聞夫婦は増々悦び心靜かに逗留いたしける中早くも十日程立疵口も稍平癒して身體も大丈夫に成ければ最早江戸表へ出立せんと申に亭主八五郎は是を聞き先寛々と御逗留遊ばさるべし併貴方には江戸表不案内と申事なれば爰に好幸ひあり私し兄江戸馬喰町二丁目に武藏屋長兵衞と申て當時旅宿を致して居るにより是へ先御落着ありて寛々江戸見物を遊ばされ候はゞ然るべく私し兄の儀を申もいかゞに候へども何ごとによらず是は斯だといふ時は是までも隨分他人さまの御世話を申氣象に候あひだ失禮ながら御相談相手にもなる侠氣のものに御座候是へ私より手紙を添て差上申べしと云ければ後藤始め大いに悦び夫は何よりの幸ひ何分頼むと有りけるに八五郎は後藤并に夫婦の者の素性を委しく書状に認め是を渡しければ兩人は悦び旅宿代は勿論醫師藥禮等に至る迄殘らず半四郎より勘定致し翌朝は朝早く起出て支度を調へ夫々厚く暇乞に及び後藤半四郎は新藤夫婦を同道なし熊谷を出立して此程は此堤にて危ふかりしなどと道すがら語り合つゝ江戸表馬喰町へ來り武藏屋長兵衞方に落着寶珠花屋よりの添書を出しければ亭主長兵衞も弟八五郎よりの手紙も是ある事ゆゑ早速に出來りて夫々に挨拶に及び御緩と御逗留遊ばさるべしとて奧座敷を一間貸切厚く待遇ける故後藤は心置なく思ひ夫より日毎に案内者を連ては向島兩國淺草吉原或は芝神明愛宕又は目黒不動と神社佛閣名所舊跡等を見物して歩行氣隨氣儘に日々酒而已多く飮凡そ十四五日も逗留せしが後藤は萬事心を付新藤夫婦をも折々誘引せしかど市之丞夫婦は素より僅の貯へにて國を出途中にても圖らず長逗留なし醫藥其他共後藤の世話になりしとは云ものゝ追々に金も遣ひ減しければ此上江戸見物などに遣ひ捨る貯へなきゆゑ只禮のみ云て一度も同道せし事なく日々宿屋にばかり居て誠に退屈勝なれば夫婦は額を合せ何時まで斯して居るとも段々路用は盡る而已にて江戸の樣子は知れざるゆゑ奉公するにも何所へ頼んで宜しきや勝手も分らず寧の事に何ぞ小商ひにても始めて見樣かと明暮身の有付を考へとつ追つ相談なし居たるに或日此家の手代來り決して御催促を申譯には是なく候へども最早暫時の御逗留ゆゑ御旅籠も餘程溜りしにより少々にても御拂ひ下さるべきや又は後藤樣の御歸りを御待申さんかと後藤始め三人の旅籠代二十日分十九貫五百文金となして三兩と二百五十文に相成候と云つゝ書付を差出しけるに夫婦は面を見合せ暫時答もなかりしかば手代は樣子を見て取何れ又後藤樣の御歸りの上願ひに出んと云て立去しに夫婦はホツと溜息を吐今も今とて相談の折から此家の旅籠の書付を見るに就ても斯空々他人の厄介になりて居るは如何にも心苦しく然りとて是を拂ふ心なしとは云ものゝ切ては此家の旅籠だけも後藤に聞せず拂ひたしと猶種々に相談なせしに妻のお梅は是までにも櫛簪などは追々に賣盡し今は着替一つ有而已なれども此上は其着替にても賣代なし旅籠の代に當んと申故市之丞も詮方なく然らば我等の着替羽織とも未だ之有により夫をも共に賣代なし此家の借を返さんとお梅に右の三品を取出させ頓て先の手代を招き彼三品を前に置誠に恥かしき次第なれども道中以來種々の物入にて今は路用も遣ひ切當惑の折からなれば此衣類を賣代なし此方の勘定を致し呉られよと云ひけるに手代は甚だ氣の毒顏に否然樣の御事なれば後藤樣の御歸りの上御相談成れて然るべし此御勘定とても只今戴かねばならぬと申譯にも御座なく今日は見世の帳合日故先刻一應伺ひ候までなりと申を夫婦は否々是までも後藤氏には一方ならず世話になりたれば切ては此方の旅籠だけも我々相拂ひ申度平に取計らひを頼むと云にぞ手代も當惑なし如何はせんと考がへ居たるに後ろの襖を押開き御免なされと此家の亭主長兵衞は入來り只今彼方にて御樣子を伺ひ實に御志操を感じ候なり然ながらお三人のお旅籠を御一人御留守中に戴き候も心よからず殊には當時御差支の御樣子旁々決して今日頂戴致すに及ばず候間此御品は左に右御納め下さるべしと申に市之丞夫婦は亭主の情ある言葉を聞に付猶さら氣の毒に思ひ此上御世話に相成は兎も角も此衣類は當時不用の品ゆゑ何卒御賣拂ひ御勘定下されよと互に爭ひ居る折から半四郎は立歸りしが今兩人の言葉を聞ながら此所へ入來りコレ〳〵新藤氏其儀は拙者に御任せあれと云て亭主長兵衞に向ひ偖此所に御座る新藤氏夫婦の事は概略貴樣の弟より手紙にて承知も有べきが是若き者の有うち實は越後高田の浪人にて同藩の娘をつれ逃來りし譯ゆゑ敢て憎む程のこともなし夫に旅馴ぬゆゑ熊谷土手にて惡漢に欺され既に妻をも奪はれんとする所に八五郎の咄しにより某駈着て惡漢を追散したれば夫が縁となり御當地までも同道致したるなり何にしても便り少なき夫婦の者何か貴樣の世話を以て取續きの出來樣頼み申度尤も丸々貴樣の厄介に懸ると云譯には非ず是は聊かなれども何ぞ商賣でも初めさせて下されよと後藤は用意の金子を二十兩取出し資本と云ふ程にはなけれども宜しく頼と長兵衞に渡しければ長兵衞は素より侠氣の者ゆゑ否先生貴方がお連なされたお方なり殊に八五郎よりも頼の書状參りし事ゆゑ金子などは入申さず私しが能樣に御世話仕つるべきにより決して御心遣ひ成れまじ假令宿には一錢なくとも私しが何れとも工夫致すべし先々此金子は御始末下されよとて其事由を心快請合けるにぞ半四郎は大いに悦び夫は千萬忝けなし夫にて先安心致したり併ながら此金は兎も角も貴樣が預り置て下されよと金子二十兩を押し返して渡し厚く夫婦の身の上をぞ頼みける是陰徳あれば陽報ありとの譬の如く此事後年に至つて大岡殿の見出しに預かる一端とはなりぬ然ば新藤夫婦は是を見聞して大いに悦びしとは雖も是までも萬事後藤の世話になりしことゆゑ切て旅籠代だけは衣類を賣て拂はんと云に夫をも止られ猶亦二十兩の資本金まで長兵衞に預けし後藤の深切何と禮を云べき詞もなく名利の程も恐しと兩人涙に昏て居たりしに武藏屋長兵衞は委細引受て世話をなさんと云に彌々打喜び我々夫婦の命を御助け下されるのみならず往々身の落付まで御世話下さるとは誠に冥加至極有難き仕合なりと繰返々々夫婦の者は伏拜み嬉し涙に咽たりけり是より半四郎は國元へ出立の用意に及び日々土産など調へしが彌々明日は出立せんと別れを告るに長兵衞夫婦の者名殘を惜み幸ひ大師河原へ參詣ながら川崎宿迄送り申さんと己も支度をなし翌朝後藤は此家を立出るに新藤夫婦も別れを惜み影見えぬまで見送々々後藤の方を伏拜むこそ道理なれ又長兵衞夫婦は川崎宿まで送らんと同道なしけるに後藤も其志操の厚きを感じ何時迄も名殘は盡ねども又跡々を御頼み申せし新藤夫婦の事もあれば此度は大師迄にて別れ申べけれ重ねて金比羅へ參詣の事もあらば丸龜城下なる拙者の宅へ必らず立寄れよ又某事も此後江戸表へ出るならば貴樣の家を定宿となし年中互ひに往來爲度者なりと道々話しながら川崎宿なる萬屋へ到り同所にて酒飯も濟せ頓て別れを告夫より長兵衞夫婦は大師へ參詣してぞもどりける 第十一回  偖又後藤半四郎は是より東海道を往に今宵は先藤澤泊りと心懸鶴見畷など打眺ながら神奈川臺も打越し處に町人體の男半四郎の後になり先になり來りしが程ヶ谷の先なる燒持坂の邊りより彼町人體の男は聲を懸若旦那樣は失敬ながら何方迄御上り遊ばさるゝやと云を半四郎は聞て某は四國の丸龜まで戻る者なりと答るに彼男私しは江州にて候が江戸表へ商ひに參り只今歸り道也是から又尾州名古屋へ到り夫より京大坂へ仕入に登り候積りに付幸ひ御供同樣に御召連下さるべし一人の道中と云者は道に倦るものゆゑ御咄相手に御同道仕つり度と然も馴々しく申すにぞ後藤は否々某は又道連の有は大いに嫌ひなり殊に貴樣は江州者だと云ふが近江盜人伊勢乞食と云事があり勿々江州の者は油斷はならずと斷るに彼男それは旦那樣貴方の御聞違ひなり近江殿御に伊勢子正直と申ので御座りますナニ近江者が泥坊と限りますものかと云ければ半四郎は否々夫は左も右もなんだか氣味が惡し某は一人の方が氣儘なりとてすた〳〵早足に急ぎ行くを彼男も同じく早足になり追駈ながら若旦那樣何ぞ御一所に御願ひ申ます貴方樣は見上た所武者修行を遊ばさるゝ御方と存じます御大小なんどは餘程長きもので御立派なり私し儀實は仕入の金を所持致し居り候へば何時の道中にても登り下りが心遣ひでなりません道中は金子の十兩から持つて居ると惡ものが目を付て油斷がならず何卒御迷惑ながら御同道下さらば丁度旦那樣の御供の樣にて惡漢が付氣遣ひなく心丈夫に存じますと云に後藤は見向もせず夫は貴樣の勝手次第にといひ放し一向構はず行中にはや戸塚の棒鼻へ入りたるに或料理屋の勝手に鰹佳蘇魚鮃の數々の魚見えければ後藤は一杯やらんと此家に入て酒肴を誂らへなどする中彼男も續て入來り是も酒を言付しに程なく双方へ酒肴を持來りしかば後藤は手酌にて飮居たるに彼町人も大酒飮と見え大なる茶碗にて引懸々々飮居る體に後藤は聲をかけコレ〳〵町人其方は大分酒が飮る樣子なりといふに彼男は此方に向ひイヤモウ酒は大好物で御座りますと云ひければ半四郎夫は話せる〳〵其の酒飮は某大好なり酒は一人で飮では味くなし一杯間をせぬかと申に彼町人は得たり賢しと夫は有難し直樣御間仕つらんと是より後藤の側へ寄献つ酬つ飮合いが其好む所に辟すとの如く後藤半四郎は自分が酒好故終に此男と合口となりて忽ち互ひに打解つゝ四方八方の物語りをなす中良酒の醉も回りしかば後藤は近江盜賊の一件も礑と忘て仕舞至極酒の相手には面白く思ひ終に是より道連となし飮合たる勘定も拙者が拂ふ否私しが拂ひますと爭ふ位の中になり其後の勘定は面倒なしに一日代りと極めければ半四郎は大いに歡び道々の咄し相手となし先今夜は藤澤へ泊らんとて程なく宿屋へ着たりけり然るに彼道連に成し男は元上總無宿にて近頃東海道を往返し旅人の懷中を狙ふ護摩の灰の頭なり因て半四郎が所持の金に目を懸樣々にして終に道連となりしかば此夜何卒して半四郎の胴卷を奪はんと付狙へども後藤に油斷なきゆゑ終に其閑なく翌日となりしかば又同道して次の夜は箱根を越三島宿の長崎屋嘉右衞門と云旅籠屋へ着けるに宿の女ども立出是は〳〵御客樣只今おすましの御湯を上ます御草鞋は其處へと彼是爲る中に彼男は姉樣又御世話に成ますと然も心安き體に云を聞主の嘉右衞門出來りて兩人に挨拶なし如何さま折々見た事のある男なりと思ひしかば是々女中共御連樣がある御草鞋を始末なし御荷物を持て御座敷へ御案内せよと指圖に連て兩人を座敷へ通し御湯も沸て居ますと云ゆゑ直さま後藤は彼男と倶に風呂に入ながら酒肴を誂らへ置頓て風呂も仕舞て出來りしに女子どもは酒肴を持出ければ兩人は打寛ぎて酒宴に時刻を移しけり 第十二回  偖又半四郎は時移るに隨ひて醉は十分に發し自から高聲になり彼町人體の男に向ひ貴樣の樣なる者は道連になると茶屋なとへ引づり込此樣に打解て酒を呑合百年も交際し如くなして相手の油斷を見澄し荷物又は懷中の金子等を奪ひ取護摩灰とかいふ盜人が道中筋には有と申すが貴樣も其樣な類ひならんと正鵠をさゝれて彼町人心の内に南無三寶彼奴め我等を護摩灰と悟しかと思ひ故意と言葉を和らげ旦那は訝な事を御尋ね成る其の護摩灰と申は私しにて候御油斷成るな何樣に貴方が御用心を成れても御所持の荷物なり金子なり共奪ひ取んと思へば直に取て御目に懸ますと然も戯談らしく己が商賣を明白に云て笑ながら平氣に酒を呑で居るゆゑ後藤も心の中に此奴勿々の惡漢なりと思ひければ彌々酒興の體にもてなし懷中より百兩餘りも有ける胴卷を取出し是見られよ此通り金子もあるが某兎角して其の護摩灰とやら云ふ奴に出會て見度思ひしが貴樣輩の樣なものに此金を取れまいと云つゝ故意と見せびらかし併し盜人の隙はあれども守人に隙はなしとか云なりと大口開て打笑ひ其胴卷を其所へ投出し置増々醉に乘ずる體なれば彼町人の曲者は假令武者修行にもせよ此の機を外さず充分に酒を強付醉潰れたる時に奪はゞ造作もなしと心に巧み頻りに後藤の機嫌を取強付々々酒を勸むるに稍三四升ほども飮しかば半四郎は機嫌斜めならず謠を謠ひ手拍子を拍て騷ぎ立るに隣り座敷の泊り客は兎角に騷がしくして眠る事もならず甚だ迷惑なし能加減に靜まれよと襖一重を隔て聞えよがしに詢言ければ半四郎は聞つけて大いに立腹の體にてもてなし靜かにしろとは不屆千萬某が錢にて某酒を呑にいらざる口を利奴等なり無刀流の達人後藤半四郎秀國が相手なるぞ率出來れ片端より捻り殺して呉れんと大音聲に呼はるにぞ連の町人は己が仕事の邪魔になりてはならずと思ひしかば若々旦那樣誰も何とも申は致しません貴方に對して過言申者の有べきやと種々に宥め賺しサア〳〵をつもりに致しませう最早押つけ子刻なり率御休み成れましと女子共に四邊を片付させければ後藤は何の蛆蟲同前の奴輩某を知らざるやと罵りながら胴卷を取て故意と腹に周環卷たるまゝ臥床に入枕に付や否や前後も知らぬ高鼾に町人も半四郎の側へ臥みしかば家内の女子どもは酒肴の道具を下行燈へ油を注足御緩と御休みなされましと捨言葉を跡に殘して出行けり是より家内も夫々に休み座敷々々も一同に深々と更渡り聞ゆるものは鼾の聲ばかりなり然るに彼町人體の男は家内の寢息を考へ居たりしが大概丑刻時分とも思ふ頃密と起上り寢床にて甲懸脚絆迄も穿率と云へば逃出すばかりの支度をなし夫より後藤が寢たる側に指より宵の酒宴の時見て置きたる胴卷の金を盜み取んと彼曲者は半四郎が寢たる夜着の脇より徐々と腹の邊へ手を差入ければ後藤は目を覺しはて奴つめが來りしぞと狸寢入をして密かに傍の夜具を見れば連の男見えぬ故扨こそ奴つに相違なし今に取押呉れんと空鼾きをかき熟寢入し體に持成ば曲者は仕濟したりと彼胴卷を解てそろり〳〵と引出すゆゑ半四郎は少し體を上て引せけるに曲者は爰ぞと思ひ滑々と引出す處を半四郎は寢返りをする體にて曲者の首を股間へ挾み足を緘みて締付けるに大力無雙の後藤に締付られて曲者は言を云事も叶はず只眼を白く黒くなし鼻にて息をするのみなり時に半四郎は大音上盜人が這入しぞや家内の者共起給へ〳〵と呼るにぞ夫れと云つゝ亭主は勿論飯焚下男迄一同に騷ぎ立盜人は何處へ這入しと六尺棒或ひは麺棒又は箒摺子木など得物を提來り此處よ彼處と立騷ぐ此の騷動に宿合せし旅人の座敷々々部屋々々迄一同に飛起刎起手に〳〵荷物を改ため廻り家内の騷動大方ならず半四郎は寢ながら大聲にて何れも客人方何ぞ取られし物はなきやと云に一同未々改め中ゆゑ確と分らずなどと云所へ亭主男共は半四郎が座敷へ走來り若々御客樣盜人が這入しよしゆゑ爰彼處と改め見れども一向に這入し樣子はなし其盜人は何所に居候やと云ければ半四郎は寢たるまゝにて微笑ながら此處だ〳〵拙者の股間に居と申ければ大勢一同に御客樣御虚談ばかりと笑ひ出せしかば否虚談ではなし全く拙者が股間に引挾んで居る然れ共拙者が連は見えぬ故先此奴を改め呉よと云れて亭主若い者一同立懸り半四郎の夜着を捲り見れば甲懸脚絆まで穿旅支度をなし居けるゆゑ能々是を見て大いに驚き此盜人は御客樣貴方の御連なりといふに半四郎も能々顏を見て成程某の連なり奴護摩灰ならんにより糺し呉れんと思ひし處とう〳〵今宵引捕へたり一體此奴某が連にはあらねども一昨日戸塚境ひの燒持坂より連に成りたいとて尾來りし者なるが生國は近江の由なれど江戸へ商ひに出し歸りにて是より名古屋へ回り其後京大坂へ仕入に上るにより供をさせて呉れよと云ども某は承知せず近江泥坊伊勢乞食といふ事あれば江州の者に油斷はならず連は嫌ひなりと申せしかど達て供を致し度し申に付據處ろなく同道致せし譯拙者も些少油斷をせぬ故に果して化の皮を顯はし今捕押へたるは能氣味なりと咄すを聞て家内の者共然樣の御連にてありしか何にしても不屆な奴引ずり出して叩きのめせと立騷ぐを後藤は止め否々打擲なして若打處が惡く殺しもなさば死人に口無却つて面倒なり先々拙者の連こそ幸ひ某しに任すべし面白き計らひあり命をば助けて遣がよし誰樣も客人方に盜まれし品はなきやといふに隣り座敷の客は寢惚眼にてキヨロ〳〵しながら拙者は大事の者が見えぬなり早々詮議成れて下されよと云ゆゑ大事な者とは何なりやと問ひけるに客人些申兼たるが御寶が紛失致し然も昨日買たてなりと云ば皆々成程犢鼻褌でござるか夫は濟ぬ事熟々御改めなされよと申にいくらさがしても一向御座らぬと云時宿の亭主は若々貴公の裾の下から何か紐が見えます夫ではなきやと言れて夫はと云ながら客人は内懷中へ手を入もじ〳〵致せしが頓て越中犢鼻褌を取出し見て是なり〳〵と申ければ一同どつと笑ひつゝ今夜は隣座敷にて大聲を揚馬鹿な騷ぎをするゆゑ宵には少しも眠られず又夜中にも此騷ぎヤレ〳〵飛だ目に逢しと云ながら皆々客人は我が寢所へぞ入にける因て家内の者は大勢にて盜人を庭へ引出し嬲りものにして遣んと騷ぎ立を後藤は先々待れよ某存じ寄あれば決して手荒き事はならずと申付未だ夜明までには間も有べし今一寢入するにより太儀ながら貴樣達は此奴の番を頼むなりとて半四郎は盜人を高手小手に縛りあげ傍らなる柱へ縛り着置ヤレ〳〵大騷ぎをしたりと云ながら其身は臥寢に入たりけり 第十三回  偖其夜も白々と明渡りけるに大勢の客人共は皆々一同に起出嗽ひ手水を遣ゆゑ後藤半四郎も同じく起出て嗽ひ手水をなせしに客人たち昨晩は飛だ事で貴方も嘸かし御眠かりしならん道中にて知ぬ連は油斷は成ませぬと云に半四郎否皆樣も嘸かし迷惑偖々不屆の奴もある者でござると咄しの折から下女は膳を持來り後藤の方へは一人前を据るゆゑ後藤は是を見てモシ〳〵女中飯は二人前出して下され夫に酒を一升添て呉られよと云に下女は承知なして勝手へ行しが程なく酒を持來り膳を二人前半四郎の方へ据ければ後藤は柱へ縛り付置たる盜人の繩を解コレ汝爰へ來て酌をせよと茶碗を出しければ彼曲者はヘイ〳〵と云ながら怖々酒を酌に後藤は大安坐をかいて酒を飮ながら何だびく〳〵するな何故其樣に震へるぞコレ酒が漏るぞ落着て酌がよい汝も酒が好だ一杯間をせよサア〳〵其茶碗がいゝ夫で二三盃飮べしと酒を酌でやり後で飯も食がよい今に拙者が手前を料理して遣ぞコレ〳〵遠慮なく澤山食せよと云て笑ひ居るに彼曲者は如何なる目に逢事かと生たる心地は更に無何卒旦那樣命ばかりは御助け下されと齒の根も合ぬ許りに詫ければ半四郎彌々可笑くよし〳〵先食事をせよと云に曲者は半四郎の心中量られざれば有難しと口には云て食事をすれ共一向咽へは通らず戰へ居る中に半四郎も食事を仕舞手を拍きて女を呼昨夕からの旅籠酒肴の代共勘定をといふに女子は御酒代御旅籠とも二貫七百文なりと書付を出すを半四郎は受取て彼曲者に向ひ貴樣は懷中の財布に金があるべし爰へ二分出せ其替りは命は助けて遣と云を聞き曲者は最良横着氣を出し金子などはすこしも御座なくと云ければナニなき事の有べきや若包み隱さば命を助けぬぞ汝が懷中に持て居るを某し見屆たりサア出せ〳〵と詰寄に曲者は是非なく財布より金子二分取出し然樣ならばと差出せしかばソレ見よ持て居ながら少しもなきなぞと未僞るは不屆至極なりと云ながら握り拳にて横樣に擲倒さんとする故盜人は大いに恐れアヽ眞平御免下さるべしと平蜘の如くになつて詫入にぞ半四郎は二分の金を受とり是で勘定を取て呉よ夫二分渡すぞと云に女は受取行て直に釣を持來りしかば半四郎イヤ釣はいらぬ夜中に騷がした茶代に取置べしといひ捨夫より盜人に向ひ汝よく聞け此程より彼是と二兩ばかりは遣ひしならんが何商賣にても儲け而已あるものでなし時々見込違ひにて損もすることあり然れば今度から能々人の目利をして見損じのなき樣に商賣に身を入よ馬鹿な奴だと笑ひけるに曲者は只平謝まりに謝り居るゆゑ又半四郎は渠を見て汝は命をとる可奴なれども今日の處は慈悲を以て助けて遣はすにより有難く思へと云聞せ居たるに此家の者ども出來り先生然は仰せらるれども後日の誡めなれば少し私どもにも御任せあれ斯して呉んと手に〳〵毛を一本づつ引拔半分禿頭頂にしてぢく〳〵と血の出る處へ太筆に墨くろ〴〵と含ませぐる〳〵と塗廻し夫より鹽水を灌ぎ懸て強く摩り込ければ盜人はヒツ〳〵と聲を揚て困む事大方ならず後藤は夫で好々最寛して遣と聲をかけサア汝斯印を付て遣はすにより以來心を改め眞實の人間になるべし萬一又々惡心萌たなれば其時其小鬢の入墨を水鏡に寫し今日の事を思ひ出して心を改ためよと云て此家の下男に追放すべしと渡すに下男どもは面白半分手取足取引摺行宿外れにて突放しければ盜人は命辛々這々の體にて逃去たり偖又半四郎は夫より宿屋を立出長の旅中も滯溜なく讃州丸龜へ歸りて舊の如く無刀流劔道の指南をぞ爲して居たりけり 第十四回  扨又江戸馬喰町二丁目なる武藏屋長兵衞夫婦は後藤半四郎を送り大師河原へ參詣して歸りしが豫て後藤より頼まれし越後浪人新藤市之丞の世話をして何になりとも有付せんと思へども新藤夫婦とも此程病氣付永々煩ひしが六十日程立て漸々快氣なりしかば新藤に向ひ偖御前樣方は何迄も只々安閑としては居られまじ殊に此程の御病氣にて預りの金も多分御遣ひ成れしかば先何道なりと世帶を持何か家業を始め給ふが肝要なり江戸表に誰ぞ知己か又御國者はなきやと申に夫婦の者は是を聞段々厚き御世話に相成る事千萬忝けなし私し共に江戸は始めてなれば一向不案内にて知人とても更に是なしと云ければ長兵衞は首を傾け夫では先私しが此事御世話を申なれば御武家出の事ゆゑ浪人職で劔術の道場を出すと云者か但し手習師匠でもなされては如何と云に市之丞は赤面の體にて實に御恥かしき事なるが劔術は甚だ未熟竹刀を持ば震が出槍も同樣手跡に於ては惡筆の上なしゆゑとんと其方は不得手なりと申に長兵衞は若々其樣に御卑下なされては御相談が出來ぬと云を否さ決して卑下致す譯に之なく實に長兵衞樣其方はとても及ばぬ事故何か寧の事町人に成度と申ければ長兵衞は腑甲斐なき事に思へども夫なら先私しが申通りに成れて御覽じませ夫には資本金の入ぬやうに紙屑買が宜しからんと云ば何れにも好に頼むとの事に付終に紙屑買と相談を極めて名も新藤市之丞にては不似合なれば長兵衞は自身の名の頭字を遣て長八と改めさせ己は親分になり同町の家主治兵衞の店を借て引越させ其外萬事長屋の振合迄巨細に教へつゝ先世帶を持せ萬端長兵衞が世話にて紙屑買仲間に入り又橘町の立場へも長八を同道して行敷金を入御膳籠鐵砲笊籠量等を借受いくら目あつて何程といふ事をも覺させ又金者は相針はいくらに銅は潰にして何程といふ相場を聞一々手覺えに書留させて歸りしが夫より長八夫婦は店住ひとなり翌日より籠を擔て紙屑を買に出けれ共元來越後浪人二百石取の新藤市之丞なれば屑はござい〳〵と呼事能はず何所までも無言にて緩々と籠を背負て歩行事ゆゑ屑は少しも買得ず只侍士を見ては我身の上を思ひ出花は櫻木人は武士とは實に道理なり武士程立派なる者はなし夫に引替心からとは云ながら二百石の侍士が紙屑買となり果たること餘りと云ば情なし是と云ふ思案の外より出來たる事主親を後に爲たる罰ならんと獨り心にくよ〳〵思ひながら行に又向ふより侍士の來るを見ては涙を流し人に面を見らるゝも恥かしく思ひて歩行ゆゑ肝心の渡世の紙屑を少しも買ず慢々と下谷邊まで回りし處長者町へ來りし時は終に日も暮しにより道に迷つて馬喰町へ歸る方角を失ひ種々聞ても一向に道は知ず途方に昏しゆゑ長八は番屋を頼み日雇を二百文出して馬喰町まで案内を連てぞ歸りけるまた親分長兵衞は長八が今日は商賣の出初なれども少しは屑を買得たかと案事らるれば樣子を聞んと長八の家へ行最早長八殿は歸られしやと云に女房お梅は何か流し元をして居たりしが振返りオヤ何誰かと存じたら長兵衞さん先々此方へ御上り下されよとて此程中の禮を厚く申陳澁茶ながら汲て出しければ長兵衞はコレ〳〵御構ひなさるな時に今日は出初めなるが長八樣はお歸りかと云に女房未だ宿では歸りませんと云へば長兵衞夫は大そう遲い事だ如何して居らるゝやと噂の折から長八は歸り來りしが親分長兵衞の來て居るとは夢にも知らずオイお梅や今歸りたりヤレ〳〵今日は初めてとは云ながら恐ろしい目に逢た下谷の長者町とか云ふ所へ行て道に迷ひ終に二百文出て案内を頼んで來た夫故此樣に遲くなり其上空腹もありモウ〳〵脇の下から冷汗が出るはやく飯を食て呉よと云ながら内へ這入長兵衞を見て間の惡るさうにコレハと云しのみにて辭宜をなせば長兵衞は苦笑ひを爲ながら長八に向ひ紙屑買の道に迷ひて二百文出し案内を頼みて來ると云者が江戸廣しと雖もあるべきや餘り馬鹿々々敷事なり御前も無筆にては豈夫有まじ町内々々には町名札があれば其の町名を見ながら歸りても能夫は兎もあれ今日は初商ひゆゑ紙屑は何程買れたるやと申に長八は暫時無言なりしが否も面目なし實に初めてのせゐか少しも屑は買へず一日慢々歩行て草臥設なりといひければ流石の長兵衞も惘れ果物をも云ず面を見詰て居たりしが今日は仕方なし明日からは精を出して買樣に致されよ左右其樣な事にては江戸の住居は出來難し先々御休みなされと云捨て我家へこそは歸りけれ 第十五回  偖又紙屑や長八は親分長兵衞が歸りし跡にて食事をしたゝめ大いに勞れしとて湯などに這入て休みしが程なく夜も明翌日になりければ今日こそは紙屑を買習はんと思ひて先淺草御門を出藏前通りを行に往來も繁く何分間の惡ければ先觀音へ參詣なし矢大臣門より淺草田圃へ出し所前後に人も見えざれば屑はござい〳〵と小さな聲で呼習ひしがまだ人に見らるゝ樣なれども長八は思ひ切て田圃の中程へ行き全く人の居ざるを見濟し大音揚て屑はございませんか屑はございませんか〳〵と無闇に呼習つて居たりし處に近所の子供等是を見付てヤア〳〵皆々早く來見なアレ紙くづ買が狐に誑れて田圃の中で屑はござい〳〵と呼で一ツ所を往たり來たりして居るが石を投付て遣うと云に子供等は追々馳集まり是は可笑い〳〵と手に〳〵石を取て投付々々アレ〳〵くづやが狐に誑された間拔ヤイ腐脱ヤイと惡口しながら猶も石を破落々々と投付ける故くずや長八大に驚き江戸と云所は恐ろしく子供等までも人氣の惡い所なりと思ひ早々に田町の方へ逃出し此日もくづをば買ひ得ずして歸けるが長八は親分の長兵衞へ行右の咄をなし實に江戸といふ處は人氣が惡いと云ければ長兵衞は是を聞て大いに笑ひ夫は人氣の惡いのではなし御前が田圃中を呼び歩行しゆゑ子供のことなれば狐に誑されたと思ひ石を投付しは先に少しも無理はなく至極最もなり又御前も以前は二百石取の侍士なれば今如何くづ買に成果たればとて顏恥かしく大道を呼歩行ことの出來ざるは敢て無理とも思はれず依て是からは裏々を回り先知己を拵らへるが肝心なり夫に付彼川柳點に「日々の時計になるや小商人」と云句のありと申に長八は一向分ず夫は何と云心に候やと云ば是は川柳點と云て物事の穴搜しとも申すべき句なり其心は何商賣にても買つけの得意場を拵らへるには毎日々々時を違へず其所を回れば今何やが來たから最何時成んと家々にて其商人を當にするやうになり然すれば商ひも必らず殖るものゆゑ御前も町内は申に及ばず裏々を順に廻り今日は好天氣とか又は惡い風とか御寒いとか御暑とか云て未くづは溜りませんかと一軒づつ聞て歩行が宜しからん其の中には心安くなり人にも顏を知られる樣になる斯の如くして馴染が出來るとくづを買求らるゝなり然さへすると先々で何時のくづ屋さんが來から最早申刻ならん夕膳の支度を仕やうと云ふ樣に成ば得意も多くなるにより毎日々々時を違えず回るが肝要なり今も云通り爰の處の川柳點にて「日々の時計になるや小商人」と吟じられしと云ば長八は感心して成程よく會得しとて長兵衞の咄の通り翌日の朝も刻限を極て籠を背負て直に隣裏より呼初め一軒づつに今日は結構な御天氣にて御家内樣御揃ひ遊され御壯健の段珍重に存候偖私しは馬喰町二丁目家主治兵衞店紙屑買長八と申者なり以來御見知置れまして御心安く願ひ上ます未紙屑は溜りませんかと永口上にて叮嚀に云て歩行故裏々の内儀達は大いに笑ひけれども長八は少しも臆せぬ者にて又其隣へ行と例の如く永口上を叮嚀に云ひ歩行しなり是長八は以前越後高田の藩中二百石取の新藤市之丞なれば斯の如き永口上も渠が爲には却つて云ひ安き言葉なり夫より淺草下谷本郷小石川小日向牛込市ヶ谷四ツ谷番町麹町其外日々廻りしかば後々は馴染も多く出來誰あつて少しも笑ふ者なく屑屋樣今日は紙屑が澤山あるゆゑ持て行てお呉といふやうになり叮嚀屑屋と方々にて贔屓にされ終には仲間にても名を呼ものなく叮嚀屋と云へば長八の事となり段々心安き得意も殖相應に屑も買出せしかば早晩昔しの身の上も忘れて追々錢の儲かるに隨ひ自から商賣に勵みが付て長八は毎日々々相變らず裏々の長屋々々を廻りけるに或時神田紺屋町の裏長屋を回りしが職人體の者五六人にて酒を飮居る處へ例の通りていねいに口上を云ふ屑やで御座り升と云に職人は酒機嫌にて屑屋さん下帶を買ねへか紙屑の替りに鐵釘を買ねへと云ければ長八はハイとは云ど何の事やら一向解らざれば私しは屑ばかりでござりますと云に御前未とう四郎江戸馴ねへと見えると笑ひしかば然樣で御座ります此間國から出て參りましたと云ふに成程然であらう今度又屑が有たら遣べし大きに御苦勞と云れ長八は何卒御贔屓を御願ひ申ますと其所を立去り夫より所々を回りて我家へ歸るや否や親分の方へ行親分に御聞申ことがあると云ゆゑ長兵衞は何事ならんと心配して其譯を聞くに今日商賣の出先神田紺屋町の裏にて職人衆が酒を飮て居ながら斯樣々々申されしが私には少も解らず何の事なるやと問に長兵衞は少し笑ひを含みて夫は職人衆の符號にて其なげしと云は下帶の事なりくぢらとは鐵釘の事股引をば蛸と云ふ是れ皆職人衆の平常に云ふ符號詞なりと能々譯を云ひ聞せければ長八は大いに悦こび成程夫にて解りしなりと是より紙屑は勿論帶腹掛古鐵の類何にても買込賣買を精出しけるゆゑ長八は段々と繁昌して大いに工面を直し少しづつ小金も出來て先不自由なき身分になりしかば親分長兵衞も世話をしたる甲斐ありとて大に悦び猶何くれと心添をぞなしたりける偖又長八世帶を持し其翌年女子一人出生しければ夫婦の喜び云ばかりなく其名をお幸と號兩人の中の鎹と此娘お幸が成人するを明暮樂しみ暮しけるとぞ 第十六回 「年の尾や水の流れと人の身は」とは彼の大高源吾が門飾りの竹を賣歩行し時晋子其角が贈りし述懷の名吟なる事は世の人の知る所にして實に定めなきは人の身の上ぞかし偖も越後浪人新藤市之丞が心がらとは云ひながら今は紙屑屋長八と名乘裏店住居となりしかど追々商賣に身を入る中月日の關守なくはや十八年の星霜を送りけるが娘お幸は今年十七歳となり尋常の者さへ山茶も出端の年頃なるに況や生質色白にして眼鼻だち好愛敬ある女子なれば兩親は手の中の玉の如くに愛しみ手跡縫針は勿論淨瑠璃三味線も心安き方へ頼み習せ樂み暮して居ける處に一日長八は淺草觀音へ參詣なし夫より上野の大師へ參らんと車坂を通り懸りけるに山下の溷際に深網笠の浪人者ぼろ〳〵したる身形にて上には丸に三ツ引の定紋付たる黒絽の螢も洩ばかりの古き羽織を着し謠ひを唄ひながら御憐愍をと云て往來の者に手の内を乞居けるを長八は何心なく見るに羽織の定紋と云ひ状恰好大恩受たる大橋文右衞門樣に髣髴たるは扨も不思議なりと思ながら腰の早道より錢七八文出して手の内に遣ければ浪人者是は〳〵有難う存じますと云し其物語まで彌々文右衞門に似たるゆゑ長八は忽ち十八年の昔時を思ひ出し萬一や其の人ならんかと能々笠の中を見んとするに浪人者は最早日暮方なれば徐々仕舞て歸る樣子ゆゑ長八は後に尾て行けるに下谷山崎町なる油屋といふ暖簾の懸し裏へ這入しかば長八も同じく續いて這入見るに九尺二間如何にも麁末なる浪宅なるにぞ長八は内の體を覗きし處全く大橋文右衞門に相違なきゆゑ御免なされと云ひながら内に入しが互ひに顏を見合て驚愕なしヤア貴殿は新藤市之丞殿貴方は大橋文右衞門樣と云ふに女房も市之丞を見て是は〳〵市之丞樣何してマア我々が浪宅を御存じなるや先々些是へ御通り下されと云た所が御通りなさるゝ所もなき山崎町乞食長屋の汚穢くるしく御氣もじ樣やと言ひながらも簀子の上に莚をしき是へ御上りあれと云ゆゑ長八は御構下さるなと其所へ上り四邊を見るに壁の方は破れたる二枚屏風を立回し此方には崩れ懸りし一ツ竈に炭か鑄懸か眞黒に薫ぶりたる鍋一ツをかけ飯も汁も兼帶の樣子なり其外行燈は反古張の文字も分らぬ迄に黒み赤貝へ油を注燈心は僅に一本を入れ又口の缺たる土瓶は今戸燒の缺火鉢の上へ斜めに乘て居る其體たらく目も當られぬ困窮零落向う三軒兩隣は丹波國の荒熊三井寺へ行かう〳〵といふ張子の釣鐘を背負て一文貰ひの辨慶或は一人角力の關取烏の聲色何れも乞食渡世の仲間にて是等の類皆々長屋づきあひなれ共流石大橋文右衞門は零落しても以前は越後家にて五百石取の物頭役なれば只今市之丞の長八に對面なすに屹と状を改め新藤氏には能こそ御尋ね下されたり誠に一別以來先以て御健勝の樣子大悦に存ずると述ければ市之丞の長八も久々の對面故に夫々へ挨拶に及び扨大橋氏思ひ出せば早十八年の其昔彼貴殿の御厚情に依て我々夫婦が一命を助かり剩さへ廿兩といふ金子を御惠下されし御庇蔭を以て今日まで存命仕つる事千萬有難く存じ奉つり候然るに彼の折國元を立退江戸表へ罷り出候途中熊谷の土手にて惡漢の爲めに我々兩人既に一命も危ふき難儀に出逢候處丸龜の人後藤半四郎と云ふ人に救れ夫より身の落着方まで世話に相成當時は馬喰町にて紙屑買を渡世に致し何か斯か寒暑のなき樣に暮して居り殊に其後一人の娘を儲け當年十七歳に成候是と申も皆貴殿の御厚恩なれば一度は御禮の書状も差上度心得候へども世間へ憚りあるゆゑ夫も叶はず只々明暮思ひ暮し居るにのみに御座候處先づは御揃ひ遊ばし御機嫌克御樣子大悦に存じ奉つるとは申ものゝ大橋氏には如何して斯御體たらくに候や存ぜぬこととは申ながら是まで御尋ねも申上ざる段嘸かし不實の奴と思し召も候はんが先仔細を承はり度と申ければ文右衞門其仔細と申は最早八ヶ年以前の事にて御家の騷動出來致し忠臣は退き佞奸邪智の輩ら蔓延に付身不肖ながらも是を正し些少忠義を盡さんと心懸しに却て小栗美作が爲に讒せられ終に永の暇を給はり其後未だ斯々して居るなり然ども忠臣は二君に仕へずとの金言を守り一錢二錢の袖乞をしても他家へ仕官の所存更に是なく早晩天道某しが誠を照し給ふ事あらば歸參仕つる時節もがなと夫のみ心懸罷り在候なり斯樣に困窮零落の身の上御目に掛るも誠に面目なき次第に候と互ひに憂艱難の物語りをなし暫く時をぞ移しける 第十七回  却説紙屑屋長八は段々の仔細を聞て甚く歎息なしたりしが何れ又々近日御尋ね申さんと暇乞して立歸り道々大橋の物語りを考へ嗚呼人間の盛衰は計り難きものなりさしも越後家にて五百石取の物頭役をも勤められし大橋文右衞門殿が今日は一文二文の袖乞を致し居らるゝとは餘りなる零落樣偖も〳〵笑止千萬なることなり何かなして昔年の恩報じに當時の難儀を救ひ助け度者と種々に思案しながら我が家へ歸り來りしに女房お梅は立出てヤレ〳〵御歸りなされしか何時になく遲いにより大いに御案事申して居たなれど今度の狂言は刎幕がよいと云事故芝居の切でも覗いて御出かと思ひましたと云に何サお梅芝居處か今日珍らしい御方に御目に掛り夫故大いに遲くなりしと申ければお梅夫は又何誰に御逢成れましたと問に長八は溜息を吐マア聞て呉今日は思ひの外都合よく午前に商賣も捗取たから淺草の觀音樣へ參り夫より上野の大師さまへ回らうと車坂まで行し所不思議にも國元の大橋文右衞門樣に御目に懸り斯々いふ事より後を尾て行つて見た處が山崎町の裏住居夫は〳〵目も當られぬ始末御新造樣なども誠に見る影もなきしがなひ體裁御目に懸るさへも否もう誠に御氣の毒千萬實に〳〵御痛はしき事也大恩受たる大橋文右衞門樣が彼樣に御難儀なさるを餘處目には見て居られぬ何ぞして那節下されたる二十兩の金子を才覺して今上たなら何樣に御喜びならん何卒御恩報じに進度者なれども親分の長兵衞さんにはこんな咄しも致されまじ何したら金の才覺が出來るであらうと女房お梅に一部始終を咄しければお梅は是を聞夫はマア御愛惜い事然樣思し召は成程御道理恩を受て恩を知ぬは人でなしとは云ものゝ力業にも屆かぬは金の才覺何うか仕樣が有さうな者と夫婦は膝を突合せて種々相談なせども何分思案に及ばぬゆゑ寧のこと天にも地にも掛代なき手の中の玉となしたる娘のお幸を不便なれ共遊女に賣て金の調達するより外の工夫はなしと恩義に迫りし夫婦が相談茲に漸く調ひしかば娘お幸を一間に招き妻のお梅は涙ながら此度斯樣々々の譯にて是非ともなければならぬ金ゆゑ親の爲長い間でも有まじければ何卒勤の奉公をして呉よと事を分て云ひ聞せければ元より利發のお幸と云ひ最早年も十七歳花なら今四五分開き初しばかりの色娘殊には親孝心の者ゆゑ兩親の爲とならば此身は如何なる苦界の勤めなりとも厭はじと早速承知なせしにぞ然ば何分頼むぞさて彌々娘の身を賣ことに決着はなしたれども長八は一向手懸ざる事故何所へ頼んで娘を賣がよからんやと思ひしところ爰に淺草田町に利兵衞といふ紙屑問屋ありけるが此利兵衞は元長八の國者にて以前は出入の町人なりしかば至つて懇意なる者ゆゑ長八は利兵衞の方へ行つて右の始末を段々と咄て娘を賣て十八年以前なる傍輩の恩金を返さんと思ふよし悉しく咄しければ利兵衞も其の志ざしを深く感じ早そく承知なし即ち判人となりて新藤の娘を新吉原江戸町一丁目玉屋山三郎の方へ申こみ目見えを致させけるに容貌も十人並に優れしかば大いに氣に入だん〳〵懸合の末年一ぱい金五十兩と相談を取極て利兵衞は立戻り其段長八へ物語りしに夫婦は利兵衞の骨をりを勞らひ厚く禮をぞ陳たりけり偖翌日にもなりければ長八は娘お幸を伴なひ判人利兵衞の方へ到り夫より同道して新吉原玉屋山三郎の方へ行約定の通り金五十兩と引替に娘おかうを渡し長八は立歸らんとするに豫て覺悟とは云ひながら今更別れの悲しさは何に譬んものもなく親子は胸も張裂ばかり齒を喰しばりて居たりしが斯ては果じと長八は心を鬼に取なほし奉公大事に身を愼めと言ながら立上るにお幸も是を見送りて御兩親とも御無事にと互ひに後は言葉なく別るゝ親子が心の中推量られて哀れなり因て世話人利兵衞も深切者ゆゑ世話料判代等一錢も取ず實意に周旋に及びけるとなり 第十八回  斯て長八娘お幸を賣渡し吉原より戻りて女房お梅に相談の上元金二十兩に利を添て直樣下谷山崎町の大橋文右衞門の方へ持參致さんとは思へども利足を相當に添ては何を云ふにも十八年の間の事なれば此金を皆返すとも利足ず殊に文右衞門は豫々手堅き氣象故利足と云ては請取間敷により全く禮の心で肴代とでも名を付廿五兩も遣はさば然るべし然すれば殘りの廿五兩を以て資本となし是より表へ出て小切類にても賣夫婦して精を出し金を貯へたる上一年も早く娘の身受をなす工夫こそ專要なれ又親分の長兵衞殿へ此事は決して話されず娘は屋敷へ當分奉公に出せし積りにして置べし若年季に入たなどと云事が知れては夫こそあゝ云ふ氣象の親分ゆゑ然ういふ事なら何故己に一應相談仕ないなどと必ず喧しいこと云に相違なし因て先夫は何所までも其積りと長八夫婦は種々に心配なし是より直樣廿五兩の金子を持て下谷山崎町なる大橋文右衞門の方へ到りけるに同じく跡より續て質屋の小僧も此家に入來り私しは表の油屋五兵衞方より參りましたが番頭の久兵衞が申聞ますには衣類大小の質が一口最早月切に相成流れに出しゆゑ先日一寸御斷り申上げましたが止て置との事ゆゑ今日迄見合せ置たれども今に何の御沙汰もなきにより最早流れ切に致します夫共利あげを成るなら止め置ますが餘り段々日延に成ばかりに付利上でもなければ然々止置譯には參りません今丁度流れ買が來て居りますから賣拂はうと思ひますが何成れますか一寸聞て來いと申しました文右衞門樣何成れますと小僧は足元から鳥の立樣に火急の催促に來りければ大橋は甚だ當惑の體にて然樣かなと暫時考へしが否左に右あれは大切の大小なれば流しては成ぬ品なり是非共受出すにより今一兩日待て下されといふに小僧はそれでも御前樣來る度に日延ばかりの御口上今日も又一兩日と仰せでは使に來た私しが困ります其度に譯らない使をするとて呵られ又御前の方ぢや能やうなことを云なさるし同じ事を度々の使は否でござりますが今度こそ間違はなければ最一度番頭さんに然樣云てみませうと質屋の小僧は歸り行しかば是を側に聞居たる紙屑屋長八は文右衞門が身の困窮を察遣り成程一文二文の袖乞をする身の上なれば在とあらゆる品物は大小までも質に入たるは道理なり其日々々にさへ差支る有樣ゆゑ如何に大切の品なり共今は勿々受出す事も成まじ質屋よりは流れの催促嘸かし難澁の事ならんと己れが身分にも競べて考へしが長八は爰ぞと思ひて廿五兩の金子を出し扨大橋氏甚失敬なる申し分には御座れ共此金子は十八ヶ年以前に御恩借致したる金子延引ながら返上仕つるにより何卒御受納下され候樣に願ひ奉つる誠に彼節貴殿の御厚情ゆゑに我々夫婦只今はどうか斯か致して居るも皆貴殿の御庇蔭にて候然るに貴殿斯御零落成れたる有樣を見るに忍びず切てもの事に斯樣なる時節にこそ御恩を報ぜんと存じて持參致したれ因て此金子何卒御受取下さるべしと二十兩の金子を並べ外に金五兩は御利子と申には是なく御禮の心ばかり御菓子料にさし上度と出しければ文右衞門は是を見て忽まち氣色を變是は〳〵新藤氏思ひもよらぬことを仰せらるゝ者かな往古は昔し今は今なり一旦貴殿に惠みし金子を如何に某し斯零落して一錢二錢の袖乞をなせばとて今更受取り申べき謂なし貴殿が昔の恩を思ひ出し給はば夫にて志ざしの程は知て居るなり夫に只今質屋より流の催促に來りしを聞れ斯樣の事をなさるゝ段一應御深切の御志ざし忝けなく存ずるなれども貴殿も未だ有福の身になられしと云うでもなければ此金子に於ては決して受取申されず今でこそ斯困難に及ぶものゝ以前は越後家において祿五百石を領し物頭役を相勤めたる大橋文右衞門清長率鎌倉と云ふ時のため武士の省愼差替の大小具足一領位は所持致し居り候是御覽候へと仕舞置たる具足櫃并びに差替の大小を古き葛籠より取出して此通りと長八の前へ並べて見せければ長八は殆んど感心なし流石は大橋氏御省愼の程感心仕つり候然程迄の御心懸有とは夢さら知ず失敬の儀を申上しは甚面目なきことに御座候然れども以前の御恩を報ぜんと我々夫婦相談の上調達致して參りたる此金子ゆゑ何卒御請取下され候樣是非々々願ひ奉つるモシ御新造樣然樣なされて下さらば有難く存じますと云ふに妻は何とか言ひたき體なるを文右衞門は白眼つけコリヤ新藤氏一旦貴殿へ惠みし此金子假令何樣に申され候とも今さら手前に於ては受取所存決して之なし早々御持歸り下されよ某し當時困窮に及ぶも是天命なれば何をか憂へん又誰をか恨むる所もなし拙者は少々認め物あれば御免あれ貴殿は緩々御咄し成るべしと云ひつゝ其身は机に懸りけり 第十九回  偖又文右衞門の女房は勝手にて番茶を入れ朶菓子などを取揃へて持出たるに長八は大橋が義氣の強きを彌々感じ心中に成程斯まで零落なしても武士の道を立通し指替の大小并びに具足迄省愼置るゝ程の氣質にては勿々此金子を受取ざるも道理なり併しながら某しも一人の娘を賣て昔しの恩を返さんと致したるも水の泡となり斯々云譯なりと打明て咄しも出來ず而て見れば深切甲斐もなし然ど又斯いひ出しては今更持て返るは如何にも本意なく置て行んとすれば受取ずはて何して宜らんやと茶を飮ながら思案の折柄又々表の質屋より先の小僧が入來りて若文右衞門樣先刻仰せられしことを番頭久兵衞に申聞し處久兵衞の申には最早月切には成し利上もなき事なれば何時までも御預り申事は出來兼候幸ひ今流れ買の道具屋が來合せたれば賣拂ひますにより然樣御承知下さるゝ樣に申上ろとの事に付一寸御斷り申ますと云置て小僧は直に立歸らんとするゆゑ文右衞門は小僧を呼止イヤ然云ことなら某し直樣後より參り番頭に面會の上相談もせんにより少々の中待て呉られよと云ながら文右衞門は長八に向ひ某し程なく歸り申さん間暫時の中御咄し成れよと云捨て文右衞門は表の質屋へと出で行けり跡に猶屑屋長八は種々と考へしが所詮此金子を以て歸らんことは思ひも寄ず如何はせんと座中を見廻すに是幸ひ傍らに文右衞門の煙草盆ありしかば其の中へ右の金子二十五兩を入置其の身は素知ぬ顏して女房に暇乞なし歸らんとするに女房は押止め市之丞樣最早夫文右衞門も程なく歸宅致事なれば先々御待下されよと申けれども長八は以前世話に預りし者の方に疱瘡人是あるゆゑ夫へ是非々々尋ね行ざればならず何卒文右衞門樣御歸りあらば宜敷仰せ上られ下されよ又々近日御尋ね申上んと言置長八はそこ〳〵に暇乞して我家に立歸りしに女房お梅は出迎へ御持參の金子滯ほりなく文右衞門殿請取れしや如何にと云ふに長八首を振り否々物堅い文右衞門殿何あつても金子をば受取らぬと言張れ實に仕樣もなき折から幸ひ斯々云事にて外へ出られし留守中密と煙草盆の中へ入れ置て歸りたり然れば日々に困る文右衞門殿ゆゑ質屋からは矢の催促彼是にて右の金子を遣はるゝに相違なし然すれば某しが志操も屆き娘も無陀奉公にならぬと云ふ者也と咄しければ女房お梅も打喜び夫はよくこそ取計らはれたり然すれば如何に物堅き人にても手元にあるを遣はずには置れまじ先々夫にて少しは胸が晴たりと長八夫婦は悦びつゝ咄に時刻を移しけり 第二十回  偖又大橋文右衞門は表の質屋へ行て番頭久兵衞に逢種々相談の上漸く一兩日止置事に取極て歸り來りしに新藤市之丞の見えざれば女房お政に向ひ市之丞は如何致せしやと云ひければお政然れば新藤氏は良人の御歸り迄と御止め申たなれ共以前世話になられし家に疱瘡人が是ある由にて是非見舞に行ねば成ぬにより何れ又々近日御尋ね申さん宜敷申上呉よと云はれて御歸り成れしと云ふに文右衞門然でありしか市之丞と云ふ男は義心盛んにして誠に奇特なる者なり昔し助けし恩を忘れず今我等斯困窮零落せしを察し廿五兩の金子を工面して持來りしは天晴頼母敷志ざしとは云へ共曩に某し一旦惠みし金子を今さら請取ては我等が一分立ず是に依て堅く斷わりを申せしゆゑ早々歸りしと見えたりさぞかし本意なく思ひしなるべしと云ひながら文右衞門煙草を呑んと煙草盆を引寄見れば是は如何に市之丞が持來りし廿五兩の金子包の儘火入の脇に有ければ文右衞門は女房お政を呼び此金子は何如致したるやあれ程に斷わりたるを知りながら市之丞より受取置しか大方女のいらざる猿智慧にて我が留守を幸ひに兎も角も御預り申さんなどと云て受取たるに相違有まじエヽ汝れは腑甲斐なき女かな武士の女房には似合ぬ心底斯零落しても大橋文右衞門なるぞ心まで困窮はせぬ汝は然までさもしき根生になりたるやと女房お政を叱りつけしにお政は驚き是は〳〵餘りに御推量過たり良人の御氣象を存じながら何しに請取置申すべき疑ひ給ふも品にこそよれ實に私しは存ぜぬことなり察するところ市之丞殿も折角に持參致されたる金子ゆゑ良人が御受取なきを本意なく思ひ私しにも知らさぬやうに煙草盆の中に入置て歸られたるに相違あるまじとて言葉に淀みなければ文右衞門も何樣と思ひ然ば市之丞が此の中へ入て置たるに相違なからん何にしても此金子を受取ては某しが一分立ず又和女は市之丞が住所を知て居かと問けるにお政は然樣さ只馬喰町とのみ承まはりましたと申ければ文右衞門は宜々何れにも此金子は返さねばならぬ馬喰町へ行て紙屑買の市之丞と聞ば知れぬ事はあるまじ明なば直樣一走りと文右衞門は夜の明るを待起出て早々に支度をなし二十五兩の金子を財布に入て市之丞が家を尋ねつゝ馬喰町へと急ぎ行き此邊に新藤市之丞と云ふ紙屑買はなきやと一丁目より二丁目三丁目四丁目まで悉皆く尋ねけれ共少しも知れず是は知れぬ筈の事なり以前は新藤市之丞にもせよ今は浪人して屑屋長八と改名したる者なれば裏々は申に及ばず自身番へ懸りて尋ねけれ共一向知らざる由を申自身番にて新藤市之丞などと云六ヶ敷名の人は紙屑買にはあるべからず夫は大方浪人者の間違ひなる可と云ゆゑ文右衞門は當惑なせしかど是非共尋ねて金子を返さんと思ひければ猶裏々へも這入込此御近所に紙屑買を渡世にする新藤市之丞と申者の宅は御存じなきやと問に此町内には御用の屑買は御座らぬなどと云て大いに笑はれければ大橋も今は是非無尋厭倦て下谷山崎町の我家へ歸り偖も〳〵困し事也馬喰町へ行て表店は言に及ばず裏々まで四丁の間細やかに尋ね探したれ共新藤と云ふ紙屑買一向に知れず何しても大切の預り物萬一此金子に於て間違ひにても有なば猶々市之丞へ對して言譯なし何れにも此上尋ね探して返へさねばならず然れど夫迄も斯して置は心遣ひ殊に隣り近所は皆々不肖の渡世をする族而已丹波の荒熊三井寺へ行う〳〵と云張子の釣鐘或は鉢叩き願人坊主などと云者許りなれば勿々油斷は少しも成ず若此金子の有事を知りて付込れなば如何なる變事の出來んも知れず何れにも又々明日馬喰町へ行きて尋ね當り次第市之丞へ渡す迄は甚だ以て心遣ひなりと云に女房も夫は御道理なり今日は終日尋ね倦まれ嘸かし御勞れならんにより貴郎は宵の中御臥みありて夜陰よりは御心だけも眠り給はぬ樣いたし度と申に否々今宵とても臥むに及ばず兩人して寢ず番をせんと云故然らば兩人の間に置互ひに心付合んと夫婦して二十五兩の金子を中へ置風の音にも飛起るやうにして夜もすがら寢もやらず守り居けるが深々と更行に從ひ文右衞門は過去來我身の上を思ひ出し偖も〳〵如何成事にて斯迄武運に盡果たるこの身かな以前は越後家にて五百石の祿を頂戴し物頭役をも勤め大橋文右衞門とも云はれたる武士が人の金ゆゑ寢ず番を勤める事餘りと云へば口惜き次第ぞや是といふも小栗美作が讒言ゆゑなり今更悔む共詮方なけれど天道誠を照し給はゞ何の世にか歸參する事もあらんとは云ものゝ今一錢二錢の袖乞をして其日々々を暮し兼るも二君に仕へぬ我魂魄武士の本意と思へども實にあぢきなき浮世かなと一人涙を流したる問ず語りの心の中思ひ遣れて憐れなり 第二十一回  然るに女房お政は夫文右衞門が問ず語りを側にて熟々聞居たりしが堪へ〳〵し溜涙夜半の時雨と諸共にワツとばかりに泣出せしかば文右衞門は是を見返りコリヤお政何が其樣に悲しくて泣をるやと云ひければ女房お政は漸々に顏を上何ゆゑに泣とは餘りに心なき仰かな只今良人がお一人言聞に付ても今の身の上情ない共しかないとも思へば〳〵口惜く嘸御無念に思召さん如何に物堅き御氣象とて日々の困窮の其中に二十五兩と云ふ此金の眼前に有りながら御歸しなさるとの御志ざしは武士道の義理一應は御道理なれ共市之丞殿が昔の恩義を報はんと故意々々遣はされたる此金なれば假令其儘御受取なされたとて何の不義理が有べきぞ殊に今日も今日とて表の質屋よりは度々の催促若や流れに出る時は僅十二三兩の金子にて大切の大小を失はるゝも口惜く夫も金子なければ仕方もなし眼前此所に有金を武士の意氣地と云ひながら遣ふ事さへならぬとははて何したら宜んやと女房お政はくよ〳〵と女心の一筋に昔しを忍び今の身の敢果なき體を喞ちつゝ如何なる因果と泣沈むにぞ文右衞門は状を正しコレお政其方は何とて其樣に未練なることを申ぞ浪人しても此清長が妻ならずや夫に何とて以ての外聞苦しき世迷言急度省愼居申すべし是此金子は受納めたりとて何も仔細なき事は汝が申さずとも承知なれ共然ある時は先にも申如く一旦他人に惠みたる金子を如何に零落なせばとて取戻せしと云れんことも無念なり又是迄年來磨上たる武士の魂魄何ぞ再び變ずる事あらんや渇しても盜泉の水を飮ず熱しても惡木の蔭に舍らず君子は清貧を尊ぶとこそ云へり今一錢二錢の袖乞しても心清きが潔よし人間萬事塞翁が馬ぢや又好春に花を詠める時節もあらん斷念よと夫婦互に力を添へ合憂物語りに時移りしに頓て塒を放るゝ鳥の聲に夜は白々と明渡りければ女房お政は徐々と勝手に立出麤朶折くべて飯の支度に懸り文右衞門は嗽などして其所らを片付偖飯も仕舞ければ是より文右衞門は又々馬喰町へ行市之丞を尋ね探さんとする處へ表の質屋より例の小僧が來り一昨日御出遊ばし御對談の上今一兩日待呉よとの御頼み承知したれども其後今日迄も一向に御沙汰是なく候間今日中猶豫いたし明日は是非々々相流し候により然樣御承知下されよと門口より言放し小僧は急ぎて歸りけり 第二十二回  偖質屋よりは今日中猶豫致し明日は是非とも質物相流し候旨斷りに來りければ文右衞門は途方にくれ如何はせんと女房お政に相談なしけるにお政も太息を吐那の一口は大小ばかり賣拂ひても金五十兩程になるべし其外小袖合羽の類まで彼是六十兩餘の金目の品々を僅かに十二三兩位に預けし切流しては餘り口惜き事に候はずや因て考ふるに一先此金子にて請出し其上外方へ賣拂ひ候はゞ相應の代金手に入べし其時市之丞殿持參致されたる金子だけ返濟致す共遲からぬ事ゆゑ其中の融通に遣はれたならば市之丞が折角の志ざしも通り又貴郎の御義心も貫くと申もの双方の御趣意も立て宜く候まゝ是非々々然樣に成れよと申ければ文右衞門は暫時く考へしが成程是は其方の申通り一時の融通に此金を借用したりとて返しさへなせば我が一分も立又市之丞の志ざしも貫りて遣はすと云もの實に那の大小を此儘流して仕舞は餘り殘念なり然ば先此金子にて請出し我が年來の懇意なる稻葉丹後守樣の藩中へ持參して能直段に賣拂はんと文右衞門は漸々承知なし市之丞が遺したる金子廿五兩の内を以て表の油屋五兵衞の方へ行番頭久兵衞に逢て流れの一件段々と延引に相成甚だ氣の毒千萬なり夫に付今日は右の品物を賣拂はんとのお使御道理にて候然るに幸ひ昨晩外より融通致したる金子是あるにより右の品々受出し候間御面倒ながら御取出し元利共何程に相成候や勘定して下されと云ひければ番頭久兵衞は大いに驚き心の中に思ふ樣此品々を今更受出されては心當が違うたり是と云も此質物は外の代呂物と違ひ五ヶ月限りの約束にて凡六十兩程は固く直段のある品を僅か金十二兩貸てあるゆゑ流れになりて賣拂へば金四十五兩は儲かるなり其四十五兩の金子は皆己が懷中へ入帳面面は筆の先にて能樣にごまかし置んとの胸算用夫と云も平生文右衞門は一文二文の袖乞をして居けるゆゑ大丈夫請出す氣遣ひなしと踏たればこそ嚴重催促をしたりしに今請出されては甚だ心當が相違したりと番頭久兵衞は小首を傾けしが又心中に考ふるやう此品物を殘らず受出すと云ば仕方なけれども勿々今十兩からの金子の出來る筈はなし大方大小計り請ると云ならん其處で拔差は出來ずと斷わり流させ呉んと思ひければ久兵衞は文右衞門に向ひ質物を受出さんとの御事承知仕つり候へ共一品にても拔差は手前にて迷惑に候間殘らず御受なさるゝなら格別其方の勝手に大小ばかり請樣などと仰られても其儀は出來申さずと云ければ文右衞門聞て夫は御道理の事なり今殘らず請出す間元利何程か勘定して下されと云故番頭久兵衞は飽迄見込違ひになりしかば心の中にては甚だ忌々しく思へ共詮方なく勘定致し見るに元利十三兩二分外に時貸が六百文右の通りと文右衞門が前に差出しければ文右衞門は是を見て是は〳〵御世話と云ひながら財布の中よりぞろ〳〵と一分金にて十三兩二分取出し殘らず勘定して質物を受取我が家をさしてぞ歸りける 第二十三回  偖文右衞門は我が家に歸りて衣類大小を能々改め見るに品數も相違なく幸ひ今日は雨天にて貰ひにも出られず直樣是より稻葉侯の御家中へ大小を賣に參らんと今質より受出して來たる衣服并に省愼の大小を帶し立派なる出立に支度なして居たる處へ同じ長家に居る彼張子の釣鐘を背負て歩行辨慶がのそ〳〵と出きたりモシ〳〵文さん今日は雨降で御互に骨休み久し振なれば一口呑べし夫に今さんまの生々としたるを買あつたから是で一ぱい遣やせう先何は兎もあれ私しの宅へ御出なせへと門口から聲を懸ければ文右衞門は是を聞て夫は忝けないが生憎今日は少々差掛りたる用事のあるゆゑ何れ又此後のことに致すべしと申しけるに辨慶は打笑ひコウ〳〵文さん其樣に稼ぐには及ぶまじ今より貰ひに出るには遲し是非々々來なせへと忙しなく云ひければ文右衞門否私しは今から稻葉丹後守樣の御屋敷まで參らねばならぬ用事が有と云に辨慶は猶門口を這入ながらオイ〳〵貴樣は勇しき根性だな日々一文づつ貰ひ居ながら稻葉丹後守樣の御屋敷へ罷り出るなどと餘り口巾ツたきことを云ものかなと大いに笑ひつゝ文右衞門の容體を見るに上には黒羽二重の紋付下には縞縮緬の小袖博多の帶に唐棧の袴黒羅紗の長合羽を着し大小を凜々しく帶して如何にも立派なる武士に出立居たりしかば是はと驚き然云事なら是非に及ばずと云直し早々此家を立出しが偖々不思議なる事もあるものかな此山崎町へ來りて我等が仲間に入袖乞に出る者が今日は斯の如く立派なる身形にて然も稻葉樣へ行と云は何分合點行ず文右衞門は舊越後家の浪人と聞及びしが苦し紛れに切取り強盜をせしに相違なしと思ひければ夫より三井寺の辨慶は長屋中を觸歩行しに仲間なる丹波の荒熊又は皿廻し烏の聲色遣ひなど皆々此浪宅へ來り樣子を覗き見て成ほど〳〵辨慶の云通り文めが今日の身形は何でも只事ではなしと噂區々なるに辨慶は少し鬱氣し樣子にて己ア日來仲間の事ゆゑ文右衞門とは心安くして度々酒も飮合しが那んな身形をして出るに直に探索方の御手に會は必定なり萬一縛られもする時は己も直に引合を食ふも知ず困りしことと咄しければ荒熊は聞て然共々々文右衞門めが召捕れなば手前は第一番の引合にて同類同樣なりと云ければ辨慶は勃然として其樣に馬鹿にするな己に於ちやア憚りながら少しも後ろ暗い事など仕た事アネヘと彼是咄し會て乞食仲間は些少妬ましき心より種々に氣を揉居たりけり偖又彼油屋の番頭久兵衞は文右衞門が質物を受出して歸りし跡に茫然と手を拱ぎて居たりしが彼浪人め一文貰の身分にて僅二三日の中に十三兩と云金子の出來樣筈なし融通せし金なりと云とも奚ぞ袖乞に十兩からの金子を貸人の有べきやはて不思議なる事もあるものだ何した譯の金なるやと良暫く考へしが而て見れば一文貰ひの苦紛れに奴切取強盜をなすか又は家尻にても切しならん渠は元浪人者だと云から表向は一文貰ひ内職には押込夜盜をするに相違なし兎角然樣なければ金の出來る筈はなし假令然樣なくとも我が胸算の相違なれば奴を盜賊に陷し未だ遣ひ殘りの金もあらばせしめて呉んと忽ちに惡意を發し丁度此日質の流れを賣たる百兩と云金が見世にあるゆゑ是を取隱し置早々文右衞門の方へ行て金の出所を聞糺し若出所明らかなれば夫までの事萬一胡亂の申口ならば見世に在し百兩の金を文右衞門が盜み取しと云懸て同人が所持の金子を體能騙り取んと工夫にこそは及びけれ此油屋五兵衞方の番頭久兵衞と云ふは元上總無宿の破落者なりしが其後東海道筋にて護摩灰を働らき前書に顯はし置たる通り後藤半四郎の道連となり三島宿の長崎屋と云ふ旅籠屋に於て半四郎が胴卷の金子を盜取んとして引捕へられ片々の小鬢の毛を拔取れ眞黒に入墨をされて命辛々逃し奴なり然れども少しは是に懲しと見え其後は惡き事もなさず中年にて奉公に住込隨分身を愼しみ居ければ主人五兵衞は此久兵衞が年頃といひ萬端如才のなき者ゆゑ大いに心に適ひ好者を置當しとて終に番頭となし見世の事は久兵衞一人に任せしなり尤も五兵衞の悴に五郎藏と云ふ者有けれ共是は人並外れし愚鈍にして見世の事等一向に解ざれば此番頭久兵衞などには宜樣に扱はれ主人か奉公人かの差別もなき位の事なり又親父の五兵衞と云者は是迄商賣向には勿々如才なけれ共酒も好女も好にていゝ年をしながら此處彼處へ圍ひ者をなし其上屡々女郎買にも行家の下女には手を付て懷妊させて金を取られいやはや女を好むことは鷄にも似たりと云程のことなれば近來家内の不取締りは勿論なり故に何事に寄ず番頭久兵衞が一人にて宜樣に掻廻して居ければ終に又昔しの惡心再發なし此度文右衞門が質の一件とても己が氣儘に取計らはんとし又主人の金子百兩を盜み取て文右衞門へ塗付んと巧み家内は誠に亂脈にて主人はあれ共なきが如く此久兵衞一旦は改心の形に見ゆれども茲に至つて又々本性を顯はし大橋文右衞門に百兩の云懸りをするといふ大惡不道の曲者なり然ば根が惡心のある者は如何にしても善心には成難きものと見え往々召捕るゝ盜人ども入牢の上御裁許に逢追放又は入墨或は遠島と夫々に御咎を仰付らるゝにより迅速に正路の人になるべき筈なれども又人間に出る時は以前に一層惡事の効を積遂には其身を亡なひ惡名を萬世に流すを見れば惡は惡に亡ぶる事誠に是非もなき次第なり又主人五兵衞は其人を知らず只己の慾を恣まゝになせしゆゑ遂には家の滅亡を招くと云是亦淺猿しき事にこそ 第二十四回  偖又大橋文右衞門は支度調ひしかば稻葉家の藩中へと出行し跡へ彼の油屋五兵衞の番頭久兵衞は入來り文右衞門さんは御家にかと云ながら直と上り込ゆゑ女房お政は是を見てヤア油屋の番頭さん折惡く宿では留守なれども先一ぷくあがりませ又今朝程は何かと御世話に成殊に約束の月も切て度々御催促をも受誠にお氣の毒と云を久兵衞ナニ夫は商賣の事ゆゑ厭ひませんが若内儀さん承まはるも餘り率爾ながら能急に金子が出來ました尤も外より御融通なされたとか仰せなれども金子と云ふものは勿々容易には調ひ難きもの最早濟し事ながら既に流れ買に賣拂はんとする處なりしが彼金は何處から御融通なされしにや些申し惡き事なるが御立腹なさるな内儀樣一文貰の袖乞をする身分にて昨日までも出來ざりし金が一夜の中に十三兩餘りと云大金の調ひしとは誠に不測なり是に依て失禮ながら御問ひ申す事なりと云ければ女房お政は聞て夫は久兵衞さん訝な事を御尋ねなさる成程今此樣に零落して一文貰をする身なれば不審に思ひなさるも御道理なれど此金子の出來しと云譯を委細御物語り申せば永き事なるが一寸摘んでお咄し致さん此金子と云は最早十八年以前の事にて元私しの國許越後の高田に居たる頃同じ家中新藤市之丞と云者ありしが同役の娘と密通に及びし事薄々役人どもの耳に入御家の御法を破りし者なれば捨置れずとて既に兩人共一命にも關はる處を夫文右衞門が情に依て兩人が命を助んと二十兩の金を與へて江戸表へ立退せたるに其後夫婦になりて取續き今にては先相應に暮して居ると申事其助けたる市之丞に此ほど廻り逢し處我々夫婦此樣に浪人して困窮に及ぶを見兼ての深切先年の恩報しなりとて一昨日夕方に廿五兩と云金子を調達して持參致されし譯ゆゑ何も別に不審に思はるゝ事は是なしと金の出所を白地に咄すを聞て番頭久兵衞成程世の中には義理の堅い深切なる者もあれば有者併ながら夫が眞實の人間なるべし其市之丞殿とか申方は當時何方に住居致され候やと申にお政は打案じ左樣さ私しも未だ江戸の樣子は不案内なれ共たしか馬喰町邊とかにて紙屑買を渡世になし居ると申されしなりと云ければ久兵衞は茲ぞ付込處なりと思ひ然すれば其市之丞殿の家主の名前又當時本人の名は何と申され候や紙屑買をするに苗字つき新藤市之丞にても有まじと云にお政否家主の名は承まはらず又當人の名も當時は替り居るならんが此程中逢し時には以前の名前新藤市之丞と許り申居しなりと云に久兵衞は彌々しめたりと思ひ夫では内儀樣少し胡亂なお咄しなり家主の名も知ず當人の名前も分らぬとは如何にも受取れぬ事而て見れば兎にも角にも其金の出所が怪しいと云つゝ充分心の中に笑を含み道理こそ一夜の内に金の工面が出來たるなれ夫に付て御談じ申す事があり昨日の朝流れる品を賣た代金百兩包みの儘帳箱の上に差置つひ事に紛れて仕舞のを忘れしが此方の旦那が歸られたる跡にて心付見るに其の金子何れへ紛失せしにや一向分らず因て嚴重に家内を詮議なしたれども何分知れず是は知ぬ筈の事なり其は文右衞門さんが不圖した出來心夫も無理とは思はず斯貧窮致さるゝゆゑ如何に手堅き人にても心の駒の狂ふのは是有うちなり然とて其儘捨ても置れず迷惑なすは我等のみ因て其百兩の金子は早々御返し下されよ然すれば人の耳にも入ず内々事を濟さん程にサア〳〵素直に御返しあれと思も寄ぬ言懸に女房お政は大に驚き夫りやマア久兵衞さん途方もない百兩の金子をば文右衞門が取しなどとは跡形もなき云懸り假令戲談にもせよ然樣の事を申されては聞捨にならず夫には何か證據が有て申さるゝにやと見相を變て申に久兵衞は冷笑ひ否々人は見かけに寄ぬもの其時其所に居合せたは文右衞門殿ばかりゆゑ盜まれたるに相違なし盜人猛々しとは此事なりと云ひければお政は彌々やつ氣となり私しを女と侮りて當事もなき言懸り成程一夜の中に金の出來たるを不思議と云るれど夫は只今も申せし通り新藤市之丞が持て來たる金なるに御前は何と思ひしにや無體を云ふも程があるとお政は無念の切齒をなすに久兵衞は落つきはらひオイ〳〵御内儀其樣に逆み上りになるからは猶々怪しく思はれるマア能々氣を鎭めて御聞あれその市之丞とやらが家主の名も知れず殊に當人の名前住居も知ずとは是怪しき證據の第一なり廿五兩といふ大金を受取ながら其人の名前住所をも聞て置ぬと申さるゝは元が不正の金子故に確と出所は云れぬ筈何でも百兩は此方の旦那が盜み取たるに相違なし四の五の言れずと只今返されよサア〳〵如何にと詰よるにぞお政は無念さ口惜さ叫と計りに泣出し成程當人の名前住所をも聞ずに置たるは手前の越度なれども夫に於て其の樣なる不埓を致す者でなし浪人しても大橋文右衞門素は越後家にて五百石の祿を領し物頭役をも勤たる武士なり夫を何として不義不道の盜み心を發すべきと怒りつ泣つ爭さうに番頭久兵衞は左右に冷笑ひナニサ其樣に子供欺しの泣聲を出しても其手は勿々食ぬ夫よりは御前方も一文貰ひの苦し紛れ貧の盜みに戀の歌とやら文右衞門さんが不圖出來心にて盜まれしと言つた方が罪が輕い其所は私しが心一つで取計らひ質を受たる十三兩の金子は負てあげ樣程に跡の金を殘らず御返しなされ然すれば此事は是切にして上るなり夫が一番上分別憖ひに押を強く云拔樣とても然樣甘くは欺されず是が表向になる時は文右衞門さんは甚御氣の毒だが御吟味中入牢トヾの迫は首がなし命あつての物種なればサア〳〵殘りの金子を渡されよ何だ〳〵と責付るを此方は増々聲ふるはせ最此上は爭ふより今に夫が歸りなば直樣分る事柄なり金の出所は市之丞より受取たるに相違なしと終には互に大音揚云爭ひて居たりけり 評に曰く如何に久兵衞奸惡なりとも此方には拔目なければ惡謀も行ふ事能はず然るを二度まで來りし市之丞が當時の住所名前等も聞置ざりしは全く文右衞門の無念なり然ば久兵衞其落度に付込み斯難題を申懸るのみか己が見世の百圓[は#「百圓は」はママ]密かに我が圍ひ女の方へこかせし奸曲に逢ひ文右衞門は終に身の難儀となるは其人にして此過失あるは時の不幸と云べき而已 第二十五回  扨又大橋文右衞門は久々にて稻葉丹後守殿藩中へ行一別以來の挨拶に及び扨拙者儀浪人の後斯樣々々の次第に因て困窮なし餘儀なく家重代の品も質入なせし處此度月切に相成既に流れんとの趣き度々催促を受殆ど當惑なすと雖も詮方なく年來祕藏せし差替の大小僅かの金にて他人手に渡んこと如何にも殘念に存じ貴殿は豫々御懇望もありし品ゆゑ御買取を願はんと持參なしたりと申に彼方も大橋の困窮を察し迅速に購ひ呉しかば文右衞門は喜びて代金を受取我が家を指して歸り來りしに何やら路次の中騷しければ早々來り見るに油屋番頭久兵衞と我が女房が何か爭ひ居たるゆゑ文右衞門は兩人に向ひて何事の爭か譯は知ね共互に大音揚近所へ對し外聞惡し靜に譯を咄すべしと云に女房お政は夫の歸りしを見て是は好所へ御歸りなり今久兵衞さんが來られて餘り無法な事を言懸らるゝにより思はず大きな聲を出せしなり其譯は一昨日良人が質物の日延をして歸りし後にて心付し處油屋の見世にありし百兩の金が紛失したるに付良人が盜み取たるに違なし然なければ一文貰ひの貧窮浪人が十三兩三分と云質をすら〳〵請出す筈がないと云るゝにより其質を請し金は新藤市之丞と申人が昔し貸たる金を返すとて持て來た金なりと譯を申ても聞入ず質を受た丈の金はまけて遣るから殘りの金を返せ〳〵と無理無體のことを申さるゝなりと泣ながら仔細を語りしかば文右衞門は是を篤と聞しが夫は不埓千萬の申懸なりと大いに立腹し是より又久兵衞と文右衞門の言爭ひになりければ長屋中の者追々此騷動を聞付けそれ事こそ出來たり我々が云ぬ事か一文貰の素浪人俄かに大造立派な身形をして稻葉丹後守樣の屋敷へ行などと云しが果して表の質屋にて百兩の金が紛失りし由恐ろしき盜人もあるものかな而て見れば是までも諸所へ盜賊に這入しに違ひなし此間もお内儀さんが浴衣の古いのを二枚賣たいと云ひしが那れも盜み物ならんなどと種々に噂をなし兎も角も一ツ長屋に居れば我々まで引合になるも知れず日來一口づつ呑合し者は今さら仕方なし皆々恐れ用心してぞ居たりける偖文右衞門久兵衞の兩人は増々云募り假令今浪人しても大橋文右衞門ぞや他人の金などに目を懸んや某しが質物を受出せし金は愚妻よりも申せし通り新藤市之丞と云者より受取たる金に相違なく其譯は斯樣々々と馬喰町中尋ね歩行たる事まで委しく申聞ると雖も久兵衞は少しも聞入れず否其新藤市之丞と云は町所家主も知れず當人が今の名前さへ知れぬ位の事なる由是第一怪しき證據なり又不審なるは一夜の中に大金の出來る筈もなし何でも御前が質物流れの云譯に來た時帳箱の上に置し百兩の金子が紛失したれば御前が盜みしに違ひなし質を受たる十三兩三分は勘辨するにより殘りの金を只今返されよと云ふに文右衞門扨々聞譯のなき男かな然れば是非に及ばず是を見て疑ひを晴されよと云つゝ豫て省愼み置たる具足櫃并びに差替の大小までも取出し此通り國難の時の用意も致し居る拙者なり他人の物を盜むなどと云卑劣の武士にあらず是にても疑ひは晴ぬかと云ふに久兵衞は大口開て打笑ひイヤサ盜人たけ〴〵しいとは貴殿の事なり此品々を省愼み置たるとは是又僞りなるべし大方皆盜み取たる物ならん茲な大盜人めと樣々に惡口なしければ元より武道を琢く大橋文右衞門賊名を負せられては最早了簡ならず今一度言て見よ己れ其座は立せじと刀追取膝立直し怒の目眥り釣上て發打と白眼付けれ共久兵衞は少しも驚く氣色なく否盜人に相違なし百兩盜みし大盜賊と大聲揚て鳴わめけば爰に至りて文右衞門は耐忍兼一刀すらりと拔放し只一打と振上るに久兵衞は大に驚きヤア人殺し〳〵と罵りながら表ての方へ一目驂に逃出せば汝れ何條逃さんやと路次を放れて追行折柄火附盜賊改めの組與力笠原粂之進と云者手先兩人を引連て今此所を通り掛りけるが文右衞門拔身を振て久兵衞を追駈行を見留夫捕縛と云ふより早く手先兩人づか〳〵と走り寄り上意と聲かけ文右衞門并びに久兵衞とも忽ち高手小手に縛め兩人ながら自身番へ引行けるに是を見るより近所の者ども馳集り自身番の前は見物の人山の如く夫が爲往來も止るばかりの騷ぎにて皆々文右衞門に指さし彼が乞丐頭長屋に居たる浪人者此油屋と云質屋にて金を百兩盜みし大盜人元は越後浪人にて劔術の達人たりとか云が今御召捕になる時捕方の者を七八人投付たれども漸々折重なりて捕押へ自身番へ上られたり何んでも大盜人にて手下が百人ばかりもありと云咄しなり然れども表向は一文貰ひの袖乞をして居たと云などと虚にも理を付て噂さしけるゆゑ彌々人々集り來り自身番の前は錐を立る地もなき程なれば番人は鐵棒を引出し皆々人を拂ひ退るに笠原粂之進は大橋文右衞門并びに油屋の番頭久兵衞の兩人を其所へ引据させ一通り吟味に及びし處文右衞門は元より潔白の武士ゆゑ些かも包み隱さず新藤市之丞より返濟したる金子の譯又久兵衞が百兩の云懸りをなし盜賊の惡名を負せんとしたるを殘念に存じ怒りの餘り打捨んと思ひ詰たる事由迄委細に申立たり又久兵衞は己れが惡巧みを押隱し是非々々百兩の云懸りを通して文右衞門を盜賊に落し呉んとの了簡ゆゑ一文貰ひの身分にして俄然に金策の出來たる譯又店にて百兩の金が紛失したるは斯樣々々と辯に任せて申立ければ其通り双方の口書を取久兵衞は吟味中主人五兵衞へ預けられ文右衞門は直樣頭の小出兵庫殿へ差出しと相なり吟味中入牢申付られける又文右衞門が女房お政は家主へ預けとなり長屋の者共にて嚴しく宅番を申付置頓て與力笠原は引取けり 第二十六回  扨文右衞門女房お政は家主預けとなりて宅番まで付し事なれば少しも身動きならず只々夫文右衞門が此度の災難を歎き悲しむ事大方ならず明暮涙に沈み何なれば天道誠を照し給はぬにや國にては惡人小栗美作が爲に讒せられ終に浪人して斯零落困窮に及び其上にも此度斯る無實の難にあふ事はよく〳〵武運に盡果たりしか夫に付ても恨めしきは新藤市之丞殿が當時の名前并びに町所等を委しく聞置ざりし事然れども彼方にても今は何と改名せし位の事は話しも有べき筈なるに夫等に氣の付ぬとは餘り迂濶なりし那れ程までに馬喰町を尋ね探されても知れぬには仕方なしあはれ今にも市之丞殿が來たりなば夫は災難を遁れなんと女心のやるせなく天に歎き地に喞ち或ひは己を悔み市之丞を怨み種々樣々に悲しみつゝ何卒して夫文右衞門殿が身の證りの立工夫を授け給へ何か無實の難を逃るゝ樣なさしめ給へと神佛を一心不亂に念じ居たりしが不圖隣の話しの耳の入女房お政は心付是は當時天下に名譽高き御奉行と評判ある大岡越前守樣へ駈込訴訟をして夫文右衞門が身の證りの立樣に御慈悲を願ふより外はなし直樣駈出さんかと一圖に思ひ詰たれども如何にも宅番嚴敷して一寸の間も門を出る事能はず然ども此お政は貞節と云流石に元は五百石取の大橋文右衞門が妻なれば氣象に於ても男勝りゆゑ何卒隙を見て逃出し御奉行所へ駈込んと心懸てぞ居たりける又宅番に當りし長屋の者共代々に來りては閑に任せて噂をなすに當座利合を推て全く文右衞門が盜人なりと思ひ居けるゆゑお政に向ひお前の亭主と云者は恐ろしき大盜人大方まだ〳〵油屋の百兩許りにてはあるまじ所々方々にて稼ぎたる事もあらん今迄此方の仲間には他人の物を掠取などと云者一人もなし家業は此上もなき賤しき一文貰ひなれども心まで其樣に卑賤はならず餘りと云ば馬鹿々々しい是内儀さん私し共まで文右衞門樣の連累を喰た樣な者此通り宅番をして居ては家業に出る事もならず此方の頥が乾て仕舞ぞや此罪は皆お前の亭主へ懸て行よく〳〵の業つくばりなりと己等が迷惑紛れに種々恥かしめければ是を聞居るお政の辛さ殘念さ辯解なすとも實にせず口惜涙に咽返る心の中ぞ哀れなり然るに天の助けにや或夜戌刻とも思ふ頃下谷車坂より出火して火事よ〳〵と立騷ぎければ宅番の者ども大いに驚き皆々我家へ歸り見るに早火の紛は破落々々と來たり殊に風も烈しければ今にも燒て來るかと皆々周章狼狽手に〳〵荷物を運び片付るゆゑ文右衞門が宅番する者一人もなし因てお政は是ぞ天の助けと大いに悦び此暇に逃出して御奉行大岡越前守樣の番所へ駈込訴訟をなさんと手早く支度にこそは及びけれ 第二十七回  扨又お政は手早く重代の具足櫃を脊負差替の大小を引抱へ用意の金子を懷中なし然も甲斐々々しき出立にて逃出さんとするところへ火事騷ぎの中なれ共家主吉兵衞は大切の囚人の女房ゆゑ萬一取逃しもせば役儀に關ると駈着來り今逃出んとするお政を引捕へ大事の御預り者何れへ行るゝやと咎むるにお政は南無三と思ひ無言にて袖振拂ひ駈出すをコレ〳〵未だ燒ては來ぬぞ此騷ぎを幸ひに逃やうとて逃しはせじと又引止るをお政も今は一生懸命邪魔し給ふなと云ながら用意の九寸五分を晁りと引拔家主目懸て突きかゝるに吉兵衞は大いに驚きヤア人殺し〳〵と後をも見ずに逃出せばお政は爰ぞと混雜紛れに込合人を押分々々車坂下の四ツ辻まで逃來りしが今此處は火先にて四方より落合人々押合々々勿々通りぬける事能はず殊に上野近邊の出火ゆゑ其頃上野の御消防は松平陸奧守殿(伊達家)にて太守も出馬有しかば持口々々を嚴重に固られたり又仁王門の方御加勢には松平安藝守殿(淺野家)の同勢にて詰切る其外町方に於ては近年大岡越前守の下知にて江戸中の鳶の者をいろは四十八組となし町方火消をば申付られたり是に依て此町火消共一同に押出して火掛りをなし又武家方にては十人火消を始め諸侯方方角火消等夫々に持場々々へ詰かけるゆゑ其混雜云ばかりなし其上御使番火事場見廻り并に火元見等東西へ乘違へ乘違ひ駈通るゆゑ車坂下四ツ辻の邊は老人及び女子供等には勿々通り難く只々人の波を打のみなり斯る處へ引續いて南町奉行大岡越前守殿出馬あり今此車坂下の四ツ辻を通り懸られし處流石に町奉行の威權あれば町方の者先へ立往來を開よ〳〵と制しけるゆゑ人々動搖めき合て片寄んとする時彼の文右衞門が女房お政は具足櫃を脊負差替の大小等を引抱へし事なれば女の力にては人を押分難く其處此處と揉れ踉蹌中思はず其處へばたりと倒れ伏既に人にも踏れんとするを大岡殿馬上より是を見られ那の女助けよと聲を懸らるゝに先に進みし同心畏まり候と馳寄てお政を引起し怪我はなきやと問を見て大勢の人々成程天下の名奉行と譽るも道理此混雜の中にても仁慈の御差圖然ば其下に使へる役人も斯の如しと感じ合り此の時お政は大岡殿と聞て悦ぶこと限りなく是は全く神佛の御引合せ成べし既に駈込訴訟をせんと思ふ折から幸ひ此所にて行逢のみか今も今とて御助け下されたる御慈悲深き御奉行樣御取上あるは必定也是ぞ夫の運の開き時直樣爰にて願はんと心を決しつか〳〵と進みよりつゝ大岡殿の馬の轡に取り付て夫の身にとり一大事の御願ありと申にぞ前後を固めし家來を始め與力同心打驚き是は慮外なり御出馬先殊に轡へ取り付とは抑氣違か亂心か女め其處を放しをれ不禮に及ばは切り捨るぞ大膽不敵も程こそあれ退れ〳〵と大音に叱りながらに縋る手を引放さんとなしけれ共お政は一圖に我が夫の無實の罪を辯解んと凝固まつたる念力ゆゑいつかな轡を少しも放さず夫の命に關はる大事何卒御慈悲に御取上を願ひ奉ると聲震はせ引ども押ども動かねば同心大勢立掛り強情女め下らぬかと無體に引立行んとするを大岡殿は此體を見られコレ〳〵手荒き事をして怪我を致させまじ渠が夫の一大事と申は何か仔細のある事ならんと左に右願ひの筋取上て遣はすべし然れども今は此混雜ゆゑ後に趣意は聞んにより一先其者を上野町なる名主の方へ送り遣はせ而又斯込合中なれば其具足櫃大小等は其方ども持參せよと指揮あるに同心は畏まり候とて直樣手早く具足櫃を脊負差替の大小九寸五分其外都合五本の刀を引抱へてお政を引連上野町の名主佐久間某方まで送り行此者并びに具足櫃其外後刻まで預るべしと申渡し又々火事場へ引返しけり是則ち享保四年極月十三日の夜の事にて漸々火事も鎭まりしかば上野の御固めは勿論武家方人數町火消等も夫々に引取けるにより大岡越前守殿には火事場より引揚がけ直に上野町の名主佐久間某の方へ立寄れ文右衞門の女房お政を呼出し願ひの趣き一通り糺しにぞ及ばれける 第二十八回  扨大岡越前守殿には佐久間某しの玄關へお政を呼出されければお政は我が願ひ御取上に相成事冥加至極有難しと思ひ平伏して居たるに其方儀夫が一大事の願ひと申せど先其方は何處の者にて當時何れに住居致すや有體に申立よと云れければお政は愼んで首を上私し事は越後高田の浪人大橋文右衞門と申者の妻政と申者にて八ヶ年以前夫婦御當地へ罷出下谷山崎町吉兵衞店に罷在し處浪人の身の上なれば追々困窮零落仕つり只今にては往來に立一錢二錢の合力を請漸々其日々々を暮し居候と申陳るに越前守殿又其方が願ひと申は如何なる事なるやと尋ねられければお政其儀は夫文右衞門事此程無實の罪にて火附盜賊改め小出兵庫樣御手へ召捕れ入牢相成し事故に御座候と申に大岡殿而て其方が申處にては殊の外困窮の身の上に聞ゆれども此具足櫃又差替の大小等を見れば餘程立派の品なるが斯程の品を所持するは甚だ以て不審なり其道具は如何致して所持するやと申されしかばお政は平伏して恐れながら此道具と申は夫文右衞門國元より持參致したる品々にて萬一舊主へ歸參仕つる事もありし時の爲省愼置し道具に御座候と申を越前守殿聞れ成程然らば先中を改め見んとて具足櫃を近く運ばせ蓋を開かんとせられしに錠前が卸し有ければ鍵はあるやと問るゝにお政はハツと心付其鍵は夫文右衞門が所持致し候又入牢仕つり候と申ければ大岡殿町役人へ向はれ此町内に錠前屋あるべし早々是へ呼出せと申されしかば家主佐兵衞は畏まり奉つると直樣馳出し町内の錠前屋吉五郎と云者の門を遽たゞしく叩き起し急用あれば爰開給へといふに吉五郎は戸を明けながら急用とは如何なることにやと申しければ佐兵衞は息をきりながら今名主樣の玄關にて御奉行樣の御調べがあるゆゑ貴樣を直に連て來たるべしとの仰せなりと云ふに吉五郎は是を聞て大いに肝を潰し夫は又何事なるやと惘れ居たり一體此吉五郎と云者は極正直にて人のよき事竟に一度も人と物爭ひなどしたる試しなく町方住居の者には稀なる故皆々近所にても佛吉々々と渾名なす程の者なれば今御奉行樣が直の御調べと聞て暫時無言なりしが稍々震へ聲を出し夫は又何御用なるやと云に家主は大方貴樣の見覺えあるべし今夜などは火事場にて何か働きし事あらんと云ば吉五郎は猶々驚き否々私しに於て然樣なる不埓を致せし覺え更に是なしと云に家主はコレサ此處にて何を云とも役には立ず覺えなければ早く來たり御奉行樣の前にて辯解致されよと家主は吉五郎を促がして名主の玄關へ同道なせしに正面には大岡殿を始め與力同心列を正して嚴重に居並びければ吉五郎は彌々色蒼然齒の根も合ぬ迄に慄へながら家主の後に蹲踞るにぞ越前守殿是を見られ是へ〳〵と申さるゝに吉五郎は今にも首を切られるかと思ひ何分慄へて足も踏止らぬを漸々大岡殿の前へ罷出て平伏し何卒御慈悲の御沙汰を願ひ奉つる私しは是まで人の物とては塵一本にても盜みし覺え御座なく日來正直に致せしゆゑ私しの事を皆々佛吉と渾名を付る位なれば少しも惡事は仕つらず何卒命ばかりは御助け下されよと泣聲を出して申しければ大岡殿は微笑れコレ〳〵其方は正直者と云事豫て某しも聞及んだり何も汝に惡事有て調べる譯にてはなし安心せよ今此調べ者に付て其具足櫃を明んと思へども合鑰なし是に依て其方を呼に遣したり必らず〳〵心配するに及ばず早々此所へ合べき鑰を持參して此錠前を開よと申されしかば漸々吉五郎はホツと太息を吐ヤレ〳〵有難き仰せ畏まり奉つると蘇生りたる心地にて直樣馳歸り多くの鑰を持參なし種々合せ見て具足櫃の錠前を開けるとなり此事錠前を破りて開なば隨分容易に開べきなれど假令奉行職の者なりとも他人の所持品の錠前を手込に破る事はならず因て故意々々鐵物屋を呼出して開させられたるなり是奉行職をも勤むる者の心得は萬事斯の如し此事我々の上にある時は自然面倒なりとて他人の物にても錠前を叩き開よなど云事なしとも云難し假にも錠前を破るは關所を破りしも同樣にて其罪至つて重し注意ずんばあるべからず 第二十九回  閑話休題吉五郎は錠前を開きて差出せしかば大岡殿自身に具足櫃の中を改めらるゝに中には紺糸縅鐵小脾の具足一領南蠻鐵桃形の兜其外籠手脛當佩楯沓等六具とも揃へて是あり又底の方に何か疊紙の樣なる包あり是を引出して見らるゝに至て重き者にして堅く封印あり其上書に慶長五年關ヶ原合戰軍用金大橋文右衞門源清澄と書付あり是に依て越前守殿一應お政へ斷られし上封を開てみらるゝに小判にて金百兩あり大岡殿心中に甚だ感じられ是は全く由緒ある武士なり兎角零落に及んでも萬一の時の爲にと先祖の意を受て省愼置事天晴の心懸なりと思はれ又其儘元の通りに仕舞て夫より大小二腰九寸五分まで能々改めらるゝに何れも天晴れの作物にして尋常の武士の所持し難き程の道具なり因て越前守殿彌々感じられお政へ向ひ其方夫文右衞門が無實の罪にて入牢致せしとは如何なる事なるや一々申立よとありしにお政は答へて私夫婦八ヶ年浪人の身の上ゆゑ油屋五兵衞方へ衣類大小等質物に預け置し處約束の月切に相成質屋よりは度々の催促なれども其品々を請出す事も叶はず一日々々と申延置候中彼方にては流れ買に賣拂ふと申事に御座候然るに十八ヶ年以前國許に在し時同家中の新藤市之丞と申者若氣の過失にて同藩の娘と不義に及びし事役人共の耳に入主家の法に依て兩人とも一命を召れんとするを夫文右衞門不便に存じ密かに金子二十兩を與へて助け遣はしゝ處其市之丞夫婦の者當時馬喰町に住居の由不圖此間中久々にて尋ね來り對面致し候に我々夫婦零落の體を見て氣の毒と存ぜしにや此程二十五兩の金子を持參し先年の恩報しなりとて差出し候得ども元來夫文右衞門は田舍育の頑固ゆゑ一旦惠み遣はしたる金子を今更受取ては武士の一分が立ずと申て押返候處其節又々右の質屋より月切の品々彌々流れ買へ賣拂ふ由申來りしに付き文右衞門事其掛合に質屋へ參りし留守中に市之丞は歸宅仕つり候其後夫文右衞門質屋より歸り煙草盆の中を見候に先刻差戻せし廿五兩の金子是あり候ゆゑ扨は市之丞達て渡さんと云しを我受取らざれば本意なく思ひ密かに此中へ入置て歸りしならん何にしても此金を請取ては我が以前の志ざしを無にするなりとて翌早朝市之丞の方へ尋ね行き馬喰町を終日彼是と探しけれども今は其者の名前が改り居るにや一向に在家知れず據ころなく持歸りて翌日猶又尋ね行き是非々々市之丞に返さんと申居し折柄又々質屋より嚴敷催促ゆゑ然らば先其金子を以て質物を請出し賣拂ひて後に市之丞へ返しても仔細なしと私し共兩人相談の上二十五兩の内十三兩三分にて質物を請出し申候然るに油屋五兵衞方番頭久兵衞と申者私し方へ參り昨日まで一文なしの袖乞が急に大金の出來る筈なし文右衞門が彼の店へ參りし時帳箱の上に置たる百兩の金子が紛失したるにより必らず文右衞門が盜み取りしに相違なし其金にて質物を受出せしならんなどと跡形もなき言懸りを申すゆゑ質を請出したるは市之丞より遣はしたる金子なりと其譯を申せしかども一向に聞入ず終に夫に向ひ盜賊呼はりを致すゆゑ夫も腹に居兼既に久兵衞を切捨んと同人の逃出し候後を追懸し處に折惡敷御加役方笠原粂之進殿に出會直ちに召捕れ候に付夫は右の段々一々辯解仕つり候へ共御聞入なく入牢と相成誠に歎かはしく存じ奉つり候因て右申上候紙屑屋新藤市之丞の在家さへ相知候へば金子の出所も分り文右衞門が百兩の盜賊に之なき事も明白に相分り候間何卒御慈悲を以て此段明白に御糺問下し置れ候樣偏に願ひ上奉つると委細申述ければ越前守殿一々聞置たりとの事にて一先お政を下られしが此事一應加役方へ掛合の上ならでは吟味に取掛り難き儀なれども渠が申し立て如何にも不便なりと思はれしかば大岡殿の英斷を以て直樣下谷山崎町の質屋渡世油屋五兵衞并びに番頭久兵衞とも呼出し置べき旨申付られしゆゑ頓て町役人へ山崎町質屋五兵衞并びに同人召遣久兵衞等一同揃ひしなら是へ呼出すべしと有ければ町役人畏こまり同道して罷出るに油屋五兵衞は豫て聞居たる文右衞門が百兩の一件ならんと思ひければ一向平氣にて其所へ出るを越前守殿見られ家持五兵衞其方は質屋渡世とあるが質物は何ヶ月限りに貸遣はすやと申されければ五兵衞は平伏なし御定法通り八ヶ月限に預り置候と申に越前守殿然らば浪人大橋文右衞門が質物ばかり五ヶ月限り流れに出せし由是には何か仔細の有ことなるや有體に申立よと云れしかば五兵衞は大いに心組違ひしゆゑグツト云て暫時答もなかりしが其儀は私しは辨まへ申さずと云を大岡殿聞れ此儀其方辨へずとは不都合なり己れが渡世を知らぬ筈はなし愚なる事を申さずとも五ヶ月限りの譯有體に申立よとあるに五兵衞は彌々當惑なし此儀は何卒番頭久兵衞へ御尋ね願ひ奉つり度私しは老年に及び候まゝ見世質物取引の儀は同人へ萬事任せ置候間一向辨へ申さず候と云ければ大岡殿久兵衞に向はれ其方は五兵衞の見世を萬事引受居る由如何なる譯にて文右衞門の質物而已五ヶ月限りに貸遣したるや此儀申立てよと申さるゝに久兵衞は先刻より五兵衞へ尋問中腹の中にて種々考へ置し故文右衞門方より五ヶ月限りに受出すべき對談ゆゑ其意に任せ約定仕つり候事に御座候然も是なく候へば御定法通り八ヶ月の期限に御座候と云ければ越前守殿微笑まれ然らば文右衞門は餘程物好と見える質を置程の者が己れより月數を縮めて約定なすとはハテ不審なり夫れは暫く置其方儀文右衞門は百兩の金子を盜み取りたる盜賊なりと申せし由此儀は慥かなる證據ありや如何にと有ければ久兵衞爰ぞと思ひ其儀は文右衞門事質物流れの云譯に五兵衞の見世へ參りし節流れ品を賣拂ひ候代金を帳箱の上に置候處文右衞門歸りし跡にて右百兩の金子を仕舞んと存ぜしに紛失致し種々詮議中其翌朝文右衞門十三兩三分程の質物を受出し申候因て其樣子を考へ候に一文貰ひの身分と云殊に右質物流れの議前日まで度々催促仕つり候ても出來申さず候金子が一夜の中に調達出來候筈是なく彼是不審に存じ候間百兩の金子は文右衞門盜み取し事と推量仕まつり私しより内々詮議に及び十三兩三分は文右衞門に遣はし殘りの金子を返さば勘辨致すべき旨申せし處文右衞門は新藤市之丞と申者より遣したる金子にて質物受出し候なりとの云譯に候へども右市之丞と申者は當時紙屑買にて馬喰町邊に住居と計り申し居り其の町所家主名前すら確と相知れざる由を申候是全く不正の金子ゆゑ出所を定かに云聞ざる事にて手證は見屆ず候へ共是等の儀共思ひ合すれば全く文右衞門百兩の盜賊に相違なしと存じ奉つり候依て右十三兩餘質物を受出し候分は勘辨致し遣はし殘金だけを返し候樣にと申せしに却て渠は盜人の惡名を付しなどと殊の外立腹して私しを切殺さんと刀を拔放し追懸候節加役方の御手へ召捕れ申候何卒此段御糺明下し置れ文右衞門百兩の金子を返し呉る樣偏へに願ひ上奉つり候と申立たり是に因て大岡殿は篤と聞居られしが久兵衞儀辯舌巧みに申立る處は一應道理の樣に聞ゆれども是と云ふ慥かなる證據もなし殊に此久兵衞は片小鬢に入墨ありて如何にも惡黨らしき者ゆゑ奴めが百兩盜んで文右衞門になすり付んずる巧みなりと流石御名譽高き奉行衆ゆゑ敏くも茲に眼を着られしなり 第三十回  扨又越前守殿は久兵衞に向はれ只今汝が云處一應道理の樣に聞ゆれども云ば無證據にして文右衞門が誠の盜賊とも定め難し渠全く盜まぬ時は其方の云懸りと云ふ者にして無體の惡口に及びし上は文右衞門に切殺されぬが先は仕合せ其節殺されなば死損なり併し又盜みたる金と極めたる印にてもあるにや質物を請に來た時十三兩三分の金は能改めしなるべし何ぞ極印にても有しや何ぢやと申さるゝに久兵衞イヤ何も極印は御座なく候へ共渠の身分にて一夜の中に金の出來る筈は是なしと同じ事を申立るゆゑ越前守殿コリヤ久兵衞其金子は市之丞より持參なりと申ではないか今にも市之丞の在家さへ知れなば金子の出所は慥に知れるぞ汝が云所は無證據なり證據なき事は公儀に於ては御取上にはならず殊に又汝が内々詮議をして文右衞門へ十三兩三分は負て遣殘金を返さば勘辨せんなどと自分了簡にて取計らふは甚だ以て不審の至にして主人持にはあるまじき不屆なり汝は探索方の手先でも致すかと申されしに久兵衞は甚だ恐れ如何致しまして然樣な事は仕つらず私しは油屋五兵衞が見世の番頭を勤め居ますと云ば越前守殿夫れは知れたこと又汝は文右衞門が宅へ何時行たるやと尋ねらるゝに久兵衞私しは文右衞門が拔身を以て追駈ましたる時に參りしが其節加役方の笠原粂之進樣の御供へ突當り直に御召捕に相成候と申ければ越前守殿否さ幾日頃に文右衞門方へ言懸りに參りしぞと有に久兵衞は拔らぬ面にて恐れながら云懸りには參りませんと云しかば大岡殿默止久兵衞汝確とせし證據も無事を申は則ち云懸りならずや然らば幾日に文右衞門方へ參りしや其日限を申せと云るゝに久兵衞夫れは今月八日に御座候と申に越前守殿然らば其夜前紛失したる百兩と申す大金をなぜ早々訴へには出ぬ等閑置く事は甚だ怪しいぞ汝も嚴敷吟味をせねばならぬ奴なり先づ主人五兵衞へ屹度預け置け愼しみ罷りあれコリヤ町役久兵衞は主人五兵衞へ屹度預け置く能々其方共心付けよとありしかば家主吉兵衞畏まり奉つるとて直樣五兵衞久兵衞の兩人を引連て下りけり又文右衞門女房お政は家主吉兵衞へ預けとなり越前守殿は文右衞門が所持の具足櫃并に大小等奉行所へ止置と云渡され一同夫々に引取と相成たり因てお政は願ひの筋取上となりしを悦ぶ事限なく猶又夫文右衞門が災難を遁るゝ樣にと神佛を念じ居たりけり扨又大岡越前守殿には直樣翌十四日火附盜賊改め役小出兵庫殿へ掛合の上大橋文右衞門を町奉行の手へ引取られ翌々日享保四年極月十六日初めて文右衞門の一件白洲に於て取調べとなり越前守殿出座有て文右衞門をみらるゝに久しく浪々なし殊に此程は牢舍せし事故甚だ窶れ居ると雖も自然と人品よく天晴の武士なりしかば大岡殿徐かに言葉を發しられ越後高田浪人大橋文右衞門其方儀當時山崎町家主吉兵衞店に罷在袖乞致し居る由然程零落の身分にて油屋五兵衞方へ入置たる質物受出しの節十三兩三分と申す金子俄に調達せし由右の金子は元より所持なるや又は外々より融通致したるや一夜の内に金子調達せしは其方業體に似合ず不審なり悉しく申立よと云るゝに文右衞門は愼んで首を上右金子の譯は十八年以前國許に罷り在候節同家中に新藤市之丞と申者私し同役の娘と密通に及びしを重役共薄々聞込捨置れずと既に兩人ながら一命にも關はるべき場合に立到り候に付き某し不便に存じ二十兩の金を惠み助けて遣はせし所江戸表へ罷り出でたるよし然るに其後私し儀八ヶ年以前越後家を浪人仕つり御當地へ罷り出下谷山崎町吉兵衞店に住居罷り在候に不圖此程中右市之丞尋ね參り久々にて面會仕つり互ひに身の上の物語りに及び候處私し夫婦零落困窮仕り候を市之丞義見兼候や一兩日過候と金子二十五兩持參致し先年の恩報じなりとて差出し候へども私し儀一旦市之丞に惠みたる金子を今如何に困窮なせばとて請取候ては昔しの志ざしをも無に致すにより固く相斷り候て受取申さゞるを市之丞は本意なく存じたるにや私し儀質物流れの掛合に參り候留守に煙草盆の中へ人知れず入れ置て歸りしを私し歸宅後見出し候間直樣翌朝市之丞の宅を尋ね右の金子を返さんと馬喰町へ到りて段々承まはり候へども何分市之丞の住所相知れ申さず據ころなく宿元へ歸り候然るに質屋よりは又々流れの催促ゆゑ兎も角も此金子を融通いたし質物を請出し候後賣拂ひ市之丞の金子を揃へて返さんと存じ右の中十二兩三分をもつて質物を受出し候に相違御座なく然るに油屋五兵衞番頭久兵衞と申者袖乞の身分にて一夜の中に大金の出來る筈はなしその節見世の帳箱の上に置たる流れ品を賣候百兩の金子紛失致せしに付右は私し盜み取候に相違なしと理不盡なる云懸仕つり候ゆゑ私し儀市之丞より差越たる金子の譯を申聞ると雖も一向双合ず却て盜賊の汚名を付け種々に惡口申募候何分勘辨なりがたく久兵衞を切捨んと存じ候機御加役方笠原久米之進殿に召捕れ斯繩目の恥辱を蒙り候事口惜き次第に存じ奉つり候右新藤市之丞なる者住所相知れ候へば私し虚言に之なき旨御分り相成べき儀に付何卒御威光を以て同人住所御糺しの上御吟味成し下され候樣願ひ奉つり度尤も私し儀市之丞が住所名前等確と承まはり置ざるは不念の至り恐れ入り奉つり候呉々も御慈悲を以て是等の儀を御糺明下し置れなば久兵衞申懸の段は明白に相分り候儀ゆゑ此段恐れながら御賢慮下し置れ候樣偏に願ひ上げ奉つり候と文右衞門は如何にも無念の體面に顯はれ拳を握り齒を切齒りて一伍一什を悉く申立しかば越前守殿は此趣きを篤と聞れしが今文右衞門が申す口と又女房お政の申す口と少しも違はず符合せし而已ならず斯困窮の中に具足一領差替の大小并に具足櫃の中には關ヶ原の軍用金百兩其儘貯へ置し程の心懸なれば文右衞門盜賊に是なき事は明白なり然れども百兩を盜みし當人の出ざる中は文右衞門の片口のみにて免す譯には成り難く尤も百兩の紛失は言掛りなしたる久兵衞こそ怪しき者なれと敏に眼を着られけれども是とても未だ聢としたる證據なければ詮方なしよつて文右衞門に向はれ其方申立の儀はこの越前聢と聞置たり猶追々吟味に及ぶコリヤ文右衞門嘸々無念なるべけれども大法に因て吟味中入牢申付ると云渡され扨大岡殿には直樣急の差紙にて翌十七日には横山町馬喰町兩國邊の紙屑買を殘らず呼出されければ紙屑買共は不測に思ひ中には少しづつ内證物など買し心覺えのある者は思ひ過しより俄に逃亡をするもあり彌々當日に相成ければ名主町役人差添にて屑買一同南町奉行所の腰掛へ相揃ひ頓て呼込に隨ひ白洲へ這入て傍らを見るに浪人大橋文右衞門繩付の儘控へ居る其外繩取役同心等嚴重に詰合けり又正面には大岡越前守殿出座有て砂利の間に屑屋一同平伏なし居るを見られコリヤ浪人文右衞門其方が申立し新藤市之丞と云者此中に居るやと申さるゝに文右衞門頭を上夫れ是と見分しが又大岡殿へ向ひ此中には市之丞見當り申さずと云ければ越前守殿然らば一同下るべしと有に屑屋の面々は何事やらんと思ひの外迅速に下られければ一同ホツと溜息を吐て引取けり因て文右衞門は歎息なし御威光を以て屑屋一同御呼出し下置れ一々見分候へ共新藤市之丞の相知申さゞるは誠に是非なき次第にして能々武運の盡果たる身の仕合せなりと無念の涙に伏沈み居たりしかば越前守殿も氣の毒に思はれ猶亦追々吟味の致し方もあらん然樣存ぜよとて又々傳馬町へぞ下られける扨も斯迄に市之丞を尋ねられしかども更に其人の知れざるは左右文右衞門が運の拙き處なるべし 第三十一回  扨又彼の新藤市之丞當時紙屑屋長八は或日女房お梅に向ひ此程文右衞門の留守中廿五兩の金を煙草盆の中へ置ては來りしが今日あたりは遣れしならんか武士の意氣地を立るとは云ものゝ餘り物堅き人かなと文右衞門が噂をなし夫に付ても娘お幸は嘸かし辛き勤めならんなどと密々咄しの折から親分の武藏屋長兵衞は長八殿家にかと聲を懸ながら入來りしに長八夫婦が巨燵の中に差向ひ何か睦じき咄しの樣子ゆゑ長兵衞は見て是はしたり相惚の夫婦は又格別樂みな物私は此年になつても隨分浦山しいと放氣交りに贅口を云つゝ同く炬たつに這入しに女房お梅は振返りオヤ長兵衞樣能こそ御入下されしと少し赤くなりしが早々流し元ヘ行甲斐々々しく酒肴の支度をして居るに長兵衞は長八に向ひ此頃は此方の娘がさつぱり見えぬが風にても引しかと問ければ長八は今の噂を聞れしかと思へども何喰ぬ顏にて何も變ることは御座らねどお幸は能世話人ありて此間備前樣の御屋敷へ見習奉公に出ましたと云に長兵衞は僥倖なり併ながら押詰ての數へ日に嘸々物が懸りしならん我等も夫と知るならば何ぞ祝うて遣ものを知ざるを仕方もなし時に長八さん今度據ころなき事にて是非々々貴郎を頼み度事あつて來が頼まれて呉ねへかと云で長八夫は何の用かは知ね共萬端御世話になる貴方ゆゑ私しで間に合事なら決して否とは云ません御遠慮なく御咄なされと云ば長兵衞は喜び然請合て呉れば拙者も實に頼みいゝ實は私しが兄に清兵衞と云者ありしが若き中は蕩樂者にて箸にも棒にもかゝらぬ人間なりしに先年上方へ行と云て宅を出た限一向便もないゆゑ私しも兄弟の情にて今頃は何國に何をして居けるやら行當り爲撥死はせぬかなどと案じて見たが其後三年ばかり立と不圖讃岐の丸龜より書状が屆いたゆゑ夫を見ると日頃案じ暮せし兄清兵衞よりの手紙に付懷しくはあれども蕩樂者ゆゑ何せ善事な譯では有まじと封を開き見るに今では極の辛抱人になりし由當時丸龜にて江戸屋清兵衞と云ては立派な旅籠屋になりて暮し居ると云趣きの手紙也依て漸々私しは安心なし夫より此來互に書状の音信して居たりしと話す所へお梅はお燗が出來ましたから一ツ御上りなされましと湯豆腐の鍋と陶を持來るに長兵衞是は先刻の口止が併しお氣の毒と笑ひながら豬口を取酒と湯の辭儀は仕ない者なりお燗が能中と波々受是より長兵衞長八の兩人は酒を呑ながら今も云通り兄も近來にては丸龜中先一番の旅籠屋だとの評判さ其所で人間の運と云者は知れぬ者元はと云へば些細な居酒屋にて亭主が死んだ後は後家一人ゆゑ漸々浣洗濯人仕事を片手間にして其日々々を暮し居たりしが如何なる縁か其後家の處へ兄清兵衞が這り込夫より辛抱して段々と稼ぎ出し夫に又女房が勿々針仕事が能爰彼處にて頼まれ夫婦にて稼しかば忽ち三四年の間に金が出來て普請をなし旅籠屋となり夫に又兄は元より小料理が好にて隨分庖丁に妙を得たれば江戸風に氣が利て居るとか云れて評判よく少光陰の中に仕出して段々と普請も建直し今にては勿々立派なる身上になりしといふ金毘羅へ行たる者が歸りての咄しなり丸龜にて江戸屋清兵衞と云ば一番の旅宿だと云事なれば歡び旁々尋ね度は思ひしか共五日や十日にては行事も出來ず只々蔭ながら悦ぶばかりなりし處此度兄清兵衞大病にて九死一生と云事を申越たれば是非々々存生の中に面會致し度今にては私しも親はなし親のなき後は兄は親同前なりと云ば是非逢に行積りなり併し是も早押迫つて數へ日にはなるし彼是又暮の始末にて旅立所ではなけれ共兄弟一生の別れなれば何有ても逢ねばならず夫に付長旅の事ゆゑ心の知れぬ者を供に連ては道中が心遣ひなれば貴樣何卒一所に行呉よと餘儀なく頼みけるに長八も否とも云れぬ親分長兵衞の事なれば始終を聞て長八は成程御道理の事なり兄樣へ一生の別れと申せば假令元日であらうが大晦日で有うが是は行ねばならず直に今より御供を致さんと心能承知なしければ長兵衞は大いに悦喜夫では私しも大いに安堵したり夫なら斯仕樣御前が行て呉ると跡は女一人なれば世帶が費るからとてもの事に世帶を仕舞お梅樣は我等の方へ來て居るがいゝ然樣すれば跡の苦勞もなし安心なりと萬事に拔目なき長兵衞何樣公事宿商賣程有て行屆く事勿々感心成ものなり扨是より翌日早々長兵衞は家主へ斷り世帶を片付女房お梅を親分の長兵衞方へ預け長兵衞長八の兩人は旅の用意を調へ讃州丸龜を指て急ぎ發足なしたりけり是に因て大橋文右衞門の一件に付兩國邊の紙屑屋殘らず呼出されて文右衞門へ引合せありけれども證人になるべき肝心の新藤市之丞が居ざりしなり市之丞の長八が讃州丸龜へ發足せしは十二月十四日の事にして紙屑屋一同呼出されしは同月十七日なれば僅に二三日の相違にて證人の出ざるゆゑ文右衞門一件落着に餘儀なく年を越て翌年享保五年の春と相成けり 第三十二回  扨又馬喰町二丁目なる武藏屋長兵衞は兄清兵衞が大病との手紙故子分の長八を供に連道中を急ぎて大坂まで上り此所より船に乘し處機よく海上も穩かにて滯留りなく讃州丸龜へ到着し江戸屋清兵衞と尋ねしに直樣知れければ行て見るに咄しよりも大層なる構ひにて間口八間に奧行廿間餘の旅籠屋にて働き女十二三人見世番料理番の下男七八人又勝手には菰かぶりの酒樽七八本を並べ其前には大盤臺に生魚山の如く仕入板前煮方其外とも都て江戸風を專らとなし料理屋旅籠屋兼帶なり因て間毎々々には泊り客あり又一時の遊興に來る客も多く殊の外繁昌なる見世なれば長兵衞も心の中に是は聞しに増る家のかゝりかなと思ひながら内へ入コリヤ長八荷物は此處へ卸すべしヤレ〳〵草臥しと云つゝ上り端に腰をかければ大勢の者立出御早う御着なされました御草鞋を解ませう御洗足をと盥へ湯を汲て持出し奧の御座敷が明て居ります彼處へ入せられまし御酒で御座りますか御膳をあげますかと云ながら茶を汲で出すに長兵衞は姉樣酒も御膳も緩と後にてよし早速ながら聞度事がある此方の兄の病氣は如何なり九死一生の大病と云手紙が來りしが何な樣子なるか未だ存生なりやと藪から棒に聞ゆゑ女共は膽を潰し御客樣は變な事を仰せられます此方の家には兄だの大病人だのと云は御座りません男衆も大勢ありますが旦那樣に若衆ばかり皆達者で居ります夫は大方門違ひで御座りませうと申に長兵衞否々門違ひにてはなし此方の家は江戸屋清兵衞と云ならんと云を女ども聞て此丸龜にて江戸屋清兵衞と申は此方ばかり夫では違ひ御座りませんと云に長兵衞礑と膝を拍オヽ然樣だ餘り思ひ過しをして跡先に聞し故分らぬはず夫なら此方の旦那清兵衞と云は私しの兄なるが此節大病を煩ひ居ると云事未死にはせぬか達者で居ますかへ九死一生の病人と聞かれ知らぬ筈なりと云時長八傍邊よりモシ〳〵旦那に江戸の馬喰町から人が參りしと云てお呉と申せば女供は何事なるや樣子しれぬゆゑ奧の方へ走り行モシ旦那樣江戸の馬喰町から御客樣で御座りますと云ば亭主清兵衞は不審に思つて馬喰町からの客人とは合點行ずと考へ居るに又々後からも女共が來り旦那樣變な客人で御座ります奧座敷が明て居ますから御通りなされ御酒にしますか御膳を上ますかと申たらナニ酒も御膳も後にてよし兄は大病にて九死一生だと云手紙が來しが未だ生て居るかと御尋ねなされたが何だかさつぱり譯が分りませんと云を聞清兵衞漸々考へ付手を拍てオヽ然樣か分たりと云ながら店へ駈出ければ女共は彌々譯が分らず只呆れ果てぞ居たりける是出し拔の事ゆゑ豈や弟長兵衞が年の暮に押迫つて來やうとは思はず尤も是まで平常逢度思ふ一心より九死一生の大病なりと手紙に嘘を書て遣はしたる事ゆゑ早速には思ひ出さず暫時考へしが漸々の事にて江戸より弟が來りしかと心付俄かに周章しく出來り見るに年こそ寄たり弟の長兵衞に相違なき故清兵衞は大いに悦び是は〳〵長兵衞能こそ來て呉しなり豈夫今年の中に來ては呉まじと思ひ居たりしに能も〳〵遠路の所を尋ねて呉しぞ先々草鞋を解て上るべし二人連か御前樣大きに御苦勞なり先々御上りなされ是々お初お粂我等は何を胡亂々々して居やる早く洗足の湯を以て來ぬか氣のきかぬ奴等だナニ其所にある夫なら早く草鞋を解何ぜ洗足をせぬのだと清兵衞は嬉し紛れに女共を叱り散して彼の是のと世話をやき大勢居ながら餘り目はしの利ぬ奴等だ兄と云ば某しが弟に違ひなし何故早く然樣云ないなどと無理ばかり云中に長兵衞長八の兩人は足を洗ひ仕廻故清兵衞は先へ立サア〳〵遠慮なしに奧へ〳〵と兩人を伴ひ行先久々にての對面互ひに堅固にて目出たしと挨拶に及ぶ中早や商賣柄とは云ながら女房も如才はなく酒と肴を取揃へ自身に持來たれば清兵衞は長兵衞に向ひ嘸々草臥しならん然樣何時までも畏まり居ては究屈なりモシ〳〵御連の衆御遠慮なさるなコレサ平に〳〵と是より皆々寛ぎ兄弟久し振にての酒宴となり女房も傍にて酌をしながら初對面の挨拶をなしければ清兵衞は弟に向ひ長兵衞是は我等が女房なり以後心安く頼む又遇々來りしに兄嫁などと思ひ遠慮しては面白からず平に心安くなし呉よ若供の衆遠慮があつては惡い心安く御頼み申と兄弟中の水入らず献つ酬へつ良暫し酒宴にこそは及びけれ 第三十三回  扨又長兵衞は兄の清兵衞に向ひ先達ての手紙の樣子にては大病にて九死一生との事なれば大いに心配致せしなれ共節季師走の事ゆゑ勿々旅立などは出來難き所なるが萬一の事にてもある時は死に目にも逢れずと思ひて取物も取敢ず俄の旅立隨分道を急いで來た處に今樣子を見れば大丈夫にて煩ひし樣子は一向見えぬか那の手紙は如何なる譯でありしやと云ければ清兵衞は天窓を掻成程不審は道理の事實は我等が大病なりと手紙に記て遣しは虚言なり譯を聞て呉尋常の手紙にては手前も一軒の主人容易に出て來る氣遣はないと思ひしゆゑ我等が謀計にて九死一生なりと云て遣ば如何に遠國にても殊に寄たら來るべしと思ひての事なりしが斯面を合て見れば我等が謀計の當りしなり今にては見らるゝ通り相應に身上も仕上たれば貴樣が今度遣ひし二人の路用金位は損をば懸ぬ能江戸土産を遣はすにより緩々と滯留して金毘羅樣へも參りたり江戸にもなき珍らしき船遊山でもして春になつてから緩りと歸るがよし然すれば我等も都合して貴樣達を送りながら江戸見物に行うと思ふゆゑ久し振にて又貴樣の處の世話にならうかと兄弟誠を明し合久々にての對面に餘念もなき物語にぞ及びける斯りし程に長兵衞は先兄の無事なるを悦び心の中には此位なら節季師走の中を來らず共能にと思ひけるゆゑ兄さん御前は夫でよからうが私は道々も明暮お前の事のみ案じられて斯して態々來からは切ては死目に逢度と思ひて何なにか苦勞をしたか知ぬほんに一時に十年ばかり壽命を縮たと怨みを云ば清兵衞否モウ其話は何か己に負てくれ往昔の樣に蕩樂をして貴樣の厄介に成には勝だらう實は此樣に仕上た身上を見せ度と思うての事なりと云に長兵衞は夫も然樣かと咄しの折柄時に兄さん此丸龜に後藤半四郎と云劔術の先生在しが今にても居らるゝやと問ければ清兵衞聞て夫は當時此四國中には肩を双ぶるものなき劔術の大先生なり其上見懸に依ず慈悲深い御人にて金銀に少しも目を懸ず若貧窮者や病人のある時は醫者に懸て下されたり金銀を施されたり珍らしき氣象の先生なれば近郷近在にては生神先生々々と人々が敬ふ位なり夫に又我等の處は格別に御贔屓にて女房は針仕事を能する故後家で居た時分には後藤先生の浣ぎ洗濯から衣類を殘らず仕立たれば何なにか御心安くなし今でも縮緬類は時々此方へ仕立に遣はさるゝが昔と違ひて商賣が忙しけれ共お馴染ゆゑまさかに今では出來ませんとも云れず其度に仕立て進るなり夫に又先生は極酒好にて毎日店へ酒を飮に御出なさるが誠に氣さくな御人にて我等の所の酒を飮では外の店のは飮ないとて御宅で飮る時には御弟子衆に五升三升づつ取に御遣しなさる實に古今の酒好先生なりと兄弟噂を爲居たり 第三十四回  扨又清兵衞は弟長兵衞に盃盞をさしながら貴樣は如何して後藤先生を知つて居るやと問に長兵衞然ば縁と云ふ者は奇代な者にて今度共に連て來りし此人は舊越後高田の浪人にて若き時同家中の娘を連て江戸へ逃來る時に在所の熊谷宿の弟八五郎が見世に休み夫より駕籠屋の惡漢に引罹り既に路用も女房も取れ命さへ危き處後藤先生が上州大間々なる師父の大病にて行れたる歸り道に是も八五郎が見世へ休まれて不圖したる事から八五郎は此衆夫婦が惡漢に引罹りたる事を物語りしに後藤先生は其若者不便なれば助けて遣はさんと云れて熊谷土手へ追駈行駕籠屋の惡漢共を叩き散し此衆夫婦を御助けなされ八五郎が家へ連て來り疵所を養生なし夫より八五郎も那通りの氣象者故不便と思ひ手紙を添て私が所へ此衆夫婦と後藤先生三人を送り越せし故後藤先生と相談して此長八をば私しが世話をして世帶を持せ今では親分子分の間柄今度頼んで供に連て來りしも此譯也又其節先生が廿兩と云う金を出して此衆夫婦を世話をして呉よと御頼みゆゑ私も左に右と相談の上紙屑商賣を初めさせし處僥倖に繁昌して今では先不足もなく暮し居りて十七歳になる娘一人儲けたり概略後藤先生の眞實に御世話下されたる譯は右申通りゆゑ今度幸ひ私が供をしながら昔しを忘れず後藤先生へ御尋ね申て厚く御禮をも申上させんと思連て來し譯なり此樣又機の好幸ひなる事もなし併し月日の立のは早き者にて今年にて十八年以前の事と委細咄しければ清兵衞扨は然樣なることにて御知り人になりしか成程縁と云者は不思議なる者なり咄して見れば貴樣たちは親分子分私しは又後藤先生とは大の御懇意なりと云つゝ不圖四邊を見廻し遂話しに身が入大分夜が更たり嘸々草臥しならん今夜は寛々と休むがよしと漸々盃盞を納め女どもに云付て寢床を敷せ各々臥所に入たりける扨翌日にも成ければ武藏屋長兵衞并に長八は後藤先生へ尋ね行んと思ひ主人の長兵衞へ何ぞ土産をと相談しけるに長兵衞は遠方を來た事ゆゑ土産も持ぬとて矢張酒がよし外の物は何を上ても其樣にお悦びなされず酒さへ上ると夫は〳〵何よりのお悦びなり我も同道せんにより夫は我等が宜樣にするとて五升入の角樽へ酒を入熨斗を付一尺餘りの鯛を二枚肴籠に入てサア〳〵是では隨分恥かしからずと支度をなし是より三人連にて丸龜城下なる後藤半四郎の方へと到りけり又後藤方にては此日は丁度稽古日にて多の門弟聚り竹刀の音懸聲等喧びしく今稽古眞最中なる所へ三人は玄關に懸り案内を乞ひければ奧より竹具足を着今面小手を取たるばかりにてせい〳〵と息を切ながら一人の門弟取次に出を見て長兵衞會釋なし私しは江戸表馬喰町の新藤市之丞と申者に候が久々にて後藤先生の御機嫌伺ひに參上仕りたり此段宜く御取次下さるべしと云に門弟の者右の由を後藤へ申けれども今稽古の眞最中にて取次の云事は少しも耳に入ず稽古の邪魔なりと叱り付られ門弟は膽潰して又々玄關へ立出若名前が違はせぬかと聞に長八否相違御座なく先年熊谷土手にて御世話に預りたる者にて候と云ば門弟は然樣かと云ながら稽古場へ行て見るに今後藤は稽古を休み息を入て居けるゆゑ怖々前へ行先生只今の者に能々承まはりし處熊谷にて御世話になりたる者のよしに候と云ば後藤は是を聞何と云る熊谷にて世話に成し者だと夫れはへんな事なり其者大方藤の局であらうが某しは是まで女に心安き者はなき筈なりと淨瑠璃狂言の洒落を云ゆゑ門弟には少しも譯らず當惑して居るを後藤は是々其者の名前は何と申やと云に新藤市之丞と申せしと聞や否や後藤扨とは云ながら稽古の形體にて玄關へ出來り是は〳〵珍らしや市之丞殿能こそ參られたり而また長兵衞殿清兵衞殿も同道か何れも珍らしき人々先々此方へ〳〵と云ながら一間へ通しやれ〳〵久々なりと互ひに一別以來の情を述夫々挨拶に及びしが此度兄の病氣の間違とも云はざれば金毘羅樣へ參詣旁々昨夜此清兵衞方へ到着仕つり取敢ず御機嫌伺がひながら先年の御禮に市之丞同道にて參上仕つりしと申ければ後藤は喜びて清兵衞に向ひ貴樣の所の此客人達は少し仔細有て昔し馴染の者なり其仔細は後にて寛々咄すべし時に長兵衞殿此清兵衞殿と云男は勿々如才なき者なり夫の又女房が縫針の業は大の上手にて某しも仕立物を度々頼むなりと語るに清兵衞は傍邊より進み此長兵衞儀は私しが實の弟に候と申せしかばナニ長兵衞殿は貴樣の弟成とや然樣か縁と云者は不思議なる者なり然すれば三人ながら親分子分兄弟の中別して遠慮はいらぬ先打寛ぎて咄すべしと是より後藤は稽古を休み弟子中へ斷りて歸し遣り再び座敷へ來りしに清兵衞は五升入の角樽に鮮鯛一折を添て出し先生是は餘り御麤末なれども長兵衞長八兩人の御土産なり御受納下さる樣御願ひ申上ると云ば後藤は此品々を見て是は〳〵手厚き土産何よりの好物然も澤山に惠まれ千萬忝けなし清兵衞貴樣の店の酒を飮では外の酒は一向飮ぬ何も結構々々と大いに悦び直樣肴を調理酒を開き酒宴にこそは及びけれ 第三十五回  扨長八は先年熊谷土手にて助られたる事より廿兩の金子を惠まれたる事まで厚く禮を述其後夫婦とも暫時病氣なりしが漸々全快なし夫より長八と改名して紙屑買となりしに僥倖よく追々繁昌して先不自由もなく暮す中お幸と云娘迄儲けたる事など物語り是と云も皆先生の御庇蔭なりと厚く禮を云に後藤も喜び夫は長兵衞の深切と貴樣の運の能ゆゑなりなどと種々樣々の話しに移りしが其日は暇を告て江戸屋へ歸り頓て其年も暮正月にもなり家々の年禮も濟しかば半四郎は幸ひ好道連なれば當春は江戸表へ出て無刀流劔術の道場を開かんと思ひ立當地の道場をば高弟に讓り長兵衞長八兩人十四五日逗留の中に半四郎は支度を調へ長兵衞長八を連れて江戸屋清兵衞に分れを告るに清兵衞も萬端世話をなし土産物は先達て便船に頼み置路用金等迄長兵衞に遣し互ひに暇乞に及びて讃州を出立なし三人は道中滯ほりなく江戸馬喰町なる武藏屋の見世へ到着しければ家内は一同に出迎へ道中恙なく歸りしを悦ぶ事限りなし其中にも日々に待居たりしは長八が女房お梅にて歸るや否や長八を一ト間に呼び去年極月中旬町御奉行所より此邊の紙屑問屋并に屑買を一同に御呼出にて御尋ありしが段々其樣子を聞しに山崎町に居る浪人者が百兩の金を盜み其金にて質物を受出したる事露顯して召捕れ其盜賊の引合なりと申事にて如何にも樣子が氣に懸り萬一文右衞門樣の御身の上に關る事ではある間じきやと思へども御前さんも長兵衞樣も留守の事なり外に咄し逢人もなし實に女の身の悲さは只々蔭ながら文右衞門樣を御案じ申ばかり兎角私は氣懸りなりと女房の咄しを聞て長八は眉に皺を寄成程夫は氣に懸るは道理なり己も屑買はすれどもナニ不正の品を買ものか併し何にしても變な事と小首を傾けしが否是は質物を受出したるに付露顯したると云ば分りしなり夫は彼の廿五兩の金よりの事ならん其節質屋より質物が流れるとて度々嚴敷催促なりしが右の金にて其品を受出せしゆゑ疑ひの懸りしも知れず是と云も袖乞の身分にて云ば不相應なる大金の事ゆゑ疑ひの懸るまじとも云難し何にしても文右衞門樣が盜賊などなさる氣遣ひなけれど己も聞ては捨て置れず何分氣に掛により明日は早々山崎町へ行て文右衞門樣を御尋申さんと夫婦相談に及びたり扨翌日にもなりければ長八夫婦は早朝より兩人して山崎町乞丐頭長屋なる大橋文右衞門方へと志ざしてぞ出行ける 第三十六回 「我が影の我を追けり冬の月」と人之を疑ふ時は柳の掛り紙鳶も幽靈かと思石地藏も追剥かと驚くが如し然ば大橋文右衞門の女房お政は夫の身の上を種々に案じ居たるに豈計らんや紙屑屋長八夫婦御免なされと云ひながら入來るを見ると等しく挨拶もせざる中に長八に獅齒付胸元取て捻居々々爰な市之丞殿の恩知らず御前の置て行たる金ゆゑ夫文右衞門は盜賊の疑ひ掛りて召捕れ入牢となりし無實の災難夫に奚ぞや去暮中御奉行所へ紙屑買を一同御呼出になり御尋ねありし時は一向に其場へ面出もせず夫ゆゑ今に夫の證りも立ず不實と云ふも餘りあり御前の在家さへ知れなば文右衞門の身分は直樣證りが立御免のあるに相違なし恨しきは市之丞殿と女心の一圖に迫り口惜紛れに市之丞へ喰付呉んとするゆゑにお梅は惘れて茫然たりしがマア〳〵御新造樣其所を御放し下されよ恨みは御道理なれども夫には種々譯があり先々御氣を鎭めて一通り御聞下され度と長八諸共宥むると雖どもお政は更に聞入ず否々私し共に何か恨みのあつてしたる業ならん私しの夫は召捕れ入牢となり此寒氣に若や牢死したなら私しは如何せん恩を仇で報すとは御前方夫婦の事サア〳〵只今直に夫文右衞門が身の證りを立出牢させて下されと泣つ恨つ掻口説を市之丞夫婦は一々御道理には御座れども何卒御新造樣私し共の申事を一通り御聞なされて下さりませ貴方の樣に仰しやつた計りでは譯が分りませず私共の申事を御聞成れた其上にて不實の廉も御座るなら如何樣共思召次第に成されましと種々樣々に宥め賺しければお政は漸々に手を放すにぞ長八は襟かき合せ其譯と云は舊冬此方へ參りし後親分の長兵衞に頼まれ十四日の日に出立して讃州丸龜へ參り昨晩江戸表へ歸りし處女房お梅が去暮中紙屑屋仲間一同御番所へ御呼び出になりし始末を咄せしゆゑ何にしても文右衞門樣の御身の上が案じらるゝにより急ぎ只今御尋ね申せし譯又大恩請たる文右衞門樣に何意恨あつて御難儀になる事を仕出しませう全く舊冬御呼出しの節は丸龜へ參りし留守の事又貴方へ置て參りたる廿五兩の金は私し共夫婦相談の上一人の娘を吉原へ身賣せし金子にて慥なり夫と申も十八ヶ年以前の御恩報しと存じて致したる其金故に却て文右衞門樣の仇となりしは誠に御氣毒とも何とも申樣も御座なく殊に又肝腎の町所名前をも申置ず夫是にて無實の御難儀を掛しこと誠に面目次第も御座なく候との物語りを聞て女房お政は大いに驚き扨は然樣な事にてありしかと今さら恨みを云しが面目なく而て又其一人娘を吉原へ勤め奉公に遣れたとは扨も〳〵悼はしき事如何に昔しの恩あればとて夫程までに御夫婦が御心盡しを成れしものを勝手の事而已云並べ無恥な者と思されんは返す〴〵も恥かしやと面赤らめて詫入にぞ長八夫婦はナニ〳〵其樣に仰られては却て私し共も面目なし何は兎もあれ然樣云事なら直樣是より家主を同道なし御奉行所へ訴へ出でて文右衞門樣の證人となり早々御差免しに相成樣御願申候はん必ず〳〵御心強く思し召下されよと長八夫婦は暇乞して急ぎ馬喰町へと歸りけり茲に又後藤半四郎は旅籠屋長兵衞方に滯留して居けるが今日長八夫婦の者見えぬゆゑ長兵衞を呼長八は何れへ行たるやと問に長八は何か急用ありとて下谷の山崎町へ參りしと答へければ半四郎然樣か親類にても有て行たるやと云に否何か外の用達に參りし樣子なるが山崎町と云處は乞丐頭長屋ばかりあつて浪人者や物貰ひの住居する所なりと云ば半四郎夫では長八は二人して一文貰ひにでも出掛しか歸り〳〵能稼ぐ男なりと大いに笑ひ居たる所へ長八夫婦は歸り來りしかば後藤は是を見て長八貴樣は何れへ行しや何だ貰ひはありしかと云ば否先生御戯談所では御座りません實に大變が出來ましたといふを聞長兵衞夫は何が大變だと云に長八誠に大變なり親分に御相談申さねばならず夫に付ても是まで親分には隱て御咄し申さざりしが私し共夫婦は豫て御存じの通り國元を逃亡なし江戸へ出て來りしも元はと云ば同家中なる大橋文右衞門と云人の情にて兩人が命を助かり殊に廿兩と云金迄も惠まれ路用として江戸へ來りし譯なるが道中にても先生の御恩になり又親分の厚き御世話にて今日までも無難に暮し居るも是皆樣の大恩なり然るに去年の極月初旬淺草の觀音樣より上野の大師樣へ參詣せんと下谷の車坂を通り懸りしに深編笠を被りて黒絽の羽織のぼろ〳〵したるを着如何にも見寥しき容體をして謠ひを唄ひながら御憐愍々々と云つゝ往來に立て袖乞をする者あり其者の羽織の紋が丸に三つ引ゆゑはてな羽織の紋と言葉遣ひと云大橋文右衞門に能似て居るが若や浪人でもして零落されたることかと思ひて有合の錢を七八文遣しに有難うと云ふ其聲音迄文右衞門に寸分違はず餘り不思議に思ひしかば立止まつて笠の内を見樣と思ふ中其浪人は日暮なれば仕舞て歸る樣子なれども蟲の知らせしか文右衞門に違ひなしとこゝろへ夫より後を尾て見屆けしに山崎町の乞丐頭長屋へ這入しかば其所を尋ねて見るに果して大橋氏なるゆゑ私しもハツと思ひて何の言葉も出ざりしが漸々の事にて段々樣子を聞に八ヶ年以前主家の騷動にて浪人なし斯樣々々との咄しに付私しは膽が潰れるのみか如何にも氣の毒に存じヤレ〳〵國元では五百石取の物頭役大橋文右衞門と云れた人が今一文貰ひの袖乞とは情なしとも哀れとも餘りの事の困窮零落と思へば〳〵思ふ程何分其儘見ては居られぬにより直樣宿へ歸り女房お梅に相談の上昔しの恩報じに娘お幸を吉原の玉屋山三郎方へ五十兩に身賣して其内廿五兩を文右衞門の宅へ持參なし昔しの恩報じなりと差出せし處物堅き文右衞門なれば何と云ても請取れず私しも仕方なき故考へ居たる中文右衞門は留守になりたるを幸ひ何も云ずに右廿五兩を煙草盆の中へ入れ置て歸りたり然るに其金にて文右衞門が質物を請出せし處一文貰ひの浪人者が一夜の中に金の出來る筈はなし殊に文右衞門が流れの云譯に來たる時に帳箱の上に置たる百兩の金子紛失したる故何でも文右衞門が盜みとりたるに違ひなしと質屋の番頭久兵衞と云者が云懸りて彼是と爭ひとなりしに文右衞門は盜人の惡名を付られたるを殘念に思ひ切て捨んと逃出す久兵衞を追懸し折火附盜賊改め役小出兵庫樣の御組下笠原粂之進とか云ふ人に召捕れ入牢となりしを文右衞門の女房が大岡樣へ御直訴訟をなし夫が爲舊冬此の邊の紙屑屋を御奉行所へ御呼出しになり文右衞門へ引會されし所其節折惡く私しが御當地に居合せざれば文右衞門が金子の出所明かならず因つて今に入牢なし居る由實に親分大變が出來たるなりと云ば私しの親切が却て仇となり恩ある人に難儀を掛し樣なるもの然れば私しも斯しては居られぬゆゑ是より直に御奉行所へ駈込訴を致し其金の證人に成うと思ふにより何卒親分願書を認めて下されと一伍一什の物語りを長兵衞は聞て成程夫は大變な事貴樣の遣はしたる金より疑ひを請て無實の難に陷しと聞ては如何にも見て居られぬは道理なり願書は元より商賣柄認るのに手間隙は入らず然ば長八ナゼ貴樣は娘を賣しや可愛さうに只一人娘のお幸を身賣せず共廿五兩の金子は何れ共出來やうに此長兵衞と云親分が付て居るぞ然程の事なら我等に相談するがよし私しも馬喰町での武藏屋長兵衞旅籠屋仲間にて人にも知られし男也長兵衞の子分が一人娘を賣たなどと云れては此長兵衞が面目なし如何にも捨ては置れぬことなら最初より斯樣々々の譯也と咄しもあれば假令手元に金は無ても廿五兩位の金は何れとも融通は出來る者を我等に咄しもなく大事の娘を賣などとは長八貴樣にも似合ぬ心底なり先達て云し時は屋敷へ奉公に遣はしたりとよくも人を欺むきしなど申に長八は額を撫否然樣云るゝと實に面目次第もなし併し年中御世話にばかりなり其上節季師走押迫ての金の才覺餘り心なしに御話しも出來ぬゆゑ據ころなく淺草田町の利兵衞と云國者を頼んで江戸町の玉屋山三郎方へ賣し譯誠に申譯御座らぬと申せば長兵衞よし〳〵お幸は不便なれ共今更詮方なし其中には受出す樣に仕やう先夫は後の事差當つて文右衞門樣の一件片時も捨ては置れず早々願書を認ためんと用意にこそは懸りけり 第三十七回  扨又長兵衞は願書を認ためんとするに先より傍らに酒を呑居たりし後藤半四郎は長八が話しを聞夫は何にしても氣の毒なる事なり併し其金を返せし處は實に頼母敷心底なるが今の咄しの樣子にては其大橋氏へ百兩の金が紛失したと言懸りし油屋の番頭こそ不屆なる奴なれ浪人しても帶刀する身が盜賊の惡名を付られては其分に差置れずと云は道理なり番頭久兵衞とか云奴こそ怪しき曲者其者を嚴敷吟味せば文右衞門殿の證りは立に相違なし是長八貴樣案内をしやれ某し是より直樣油屋へ踏込で久兵衞とか云ふ奴を引捕へて聞糺し呉んと帶〆直して立上りたり後藤は元來仁心深く正直正路の人なれば斯の如き事を聞時は頻りに憎く思はれ他人の事にても何分捨置れぬ性質なり是犬は陽にして正直なる獸ゆゑ猫狸其外魔性の陰獸を見る時は忽地噛殺すが如し己が性に反して陰惡を巧むものは陽正の者是を見分するに忍びざる所なり故に此半四郎も己正直なる心より番頭久兵衞が邪しまなるを聞て立腹し殊に又今酒を飮だる一ぱい機嫌ゆゑ猶々憤ほり烈しく直に油屋の見世へ踏込で番頭久兵衞を引捕へ目に物見せて呉んずと罵しる聲を聞一ト間の襖を颯と押開き御免成れと長兵衞の弟なる中仙道熊谷宿の寶珠花屋八五郎此所へ入來たり是は〳〵後藤先生新藤市之丞樣誠に久々の御目通り先々御機嫌克恐悦に存じ奉つる道理こそ先程より一ト間の内にて御咄しの聲を承まはるに扨も能似たるお聲なりと存ぜし處果たして後藤先生なりと云ば一同も是はと驚き長兵衞は八五郎に向ひ貴樣は何時頃出府したるや己は昨日歸つたばかりゆゑ未だ家の御客も知らざりしと云に八五郎いや私は此間中より來て居るが兄貴は四國へ行て未だ歸らずと云し誠に思案に餘りし事が出來て心配なりと云を傍より後藤はコリヤ八五郎殿誠に久し振なり貴樣の世話に成しも稍十七八年にもなるべし思へば一と昔し半の餘なるが貴樣の娘は無事に成人せしなるべし最早年頃ゆゑ聟にても貰ひしか變る事もなきやと尋ねられ八五郎は否御尋ね下され有難く其娘の事にて今度出府致せしなり長兵衞殿先一通り聞て下され兄貴も知らるゝ通り去年秋中山崎町に居る國者の山田屋佐兵衞が仲人にて先は質屋渡世土藏もあり地面も持て相應の身上との事ゆゑ相談なし油屋五兵衞の息子五郎藏と云者へお秀を百兩の持參金にて支度も夫相應にして嫁に遣た所が其聟殿が餘程拔作にて仕方なしと雖ども折角縁有て行たる者なれば先々今少し辛抱せよと云聞居たる處其舅と云者は大の女好にて嫁の寢所へ來ては口説たてる由誠に惘れ果たる事なり夫にまだ大變なる事あり其店の番頭久兵衞と云者は恐しい惡黨にて是も主人の嫁の處へ毎夜々々這掛る由右の譯なれば人にはなしも出來ず兎角娘も居耐れぬ故此間中駈出し來りし也因て離縁にする積りにて媒酌へ段々掛合し處親亭主を見捨て出行たる女なれば持參金道具は勿論離縁状まで出す事はならぬと云張誠に困り果たる故其儘捨ても置れず故意々々出府して自身掛合處に聟は大馬鹿なり舅の五兵衞は何日行ても一寸とも會ず唯店の久兵衞と云者ばかり一人彼是云て何れにも埓が明ず尤も向うが何樣に惡敷とも親亭主を見捨たと云廉があるゆゑ道具衣類は云までもなく百兩の持參金はとても返す氣遣ひなしと思ふゆゑ夫は損をしても構ぬが何分離縁状を出さぬには甚だ困り果たり何にしても番頭久兵衞と云奴の面の憎さ言葉にも陳られず兄さん何か仕方はあるまいかと云ふを傍邊に聞居たりし後藤は彌々立腹し夫は如何にも油屋の奴輩不屆なり何にしても其久兵衞と云奴が惡者に相違なし主從して嫁へ不義を仕懸るとは大膽不敵なり其上離縁状を出さぬなどとは彌々捨置れず此一件は貴樣達承知しても此の後藤半四郎が承知ならぬ是より直に某し自身に行て百兩の持參も衣類諸道具離縁状までも殘らず取て遣はすべし又向うにて種々云て其品々を出さぬに於ては主從倶に引摺出し奉行所へ召連訴訟して一言も言せぬ樣にせねばならぬコリヤ長兵衞久五郎貴樣達案内を頼むサア〳〵山崎町へ行油屋へ押込で遣らんと云故長兵衞と久五郎の兩人は甚だ心配なし先生貴公の御氣象では御立腹なさるゝも御道理なれど先々能咄合て大ぎやうにならぬ樣に懸合が宜しく何れにも明日の事に致す積りなれば兎も角も御鎭まり下されよと漸々に宥めけり 第三十八回  然ば後藤半四郎は明日こそ是非々々某し同道すべし待構へたり扨又長八は何にしても大橋文右衞門樣の御事を跡廻しにはならぬと云を長兵衞久五郎の兩人今其事を訴へなば第一貴樣始め我々まで其一件に身體を縛られて仕廻により先離縁状を取此一件を片付て後に大橋樣の一件に懸らんと相談を極め左に右明日仲人佐兵衞を連て山崎町へ行懸合事にせんと申すに後藤も是非々々同道すべしと云ふゆゑ長兵衞八五郎は甚だ心配なし若先生を同行して行時は餘り強氣なる事をして大騷動を仕出さねばよいがと思ふゆゑ今一應私し共限りにて掛合夫にても埓明ざる節は先生に願はんと申に後藤は何貴樣達其樣に心配する事はなし某しとてもまんざら如才の事はせず先斯樣にすべし拙者が八五郎殿の弟分になり親類なりと云つて行ば仔細無貴樣達は先へ行て一通り懸合れよ某しは其中表に待居て彌々貴樣達の掛合埓が明ずば其時に油屋へ踏込で掛合遣さん其積りにしては如何と云ば皆々承知なしたりけり扨翌日に相成ければ後藤半四郎は長兵衞八五郎同道にて山崎町へ行先仲人の山田屋佐兵衞方へ立より今日は是非々々娘が離縁状を貰ねばならず夫に付我等兄弟共へ咄せし所が持參金衣類道具等までも損をして離縁状計り取とは餘り馬鹿氣た事とて不承知を申餘り無法の挨拶なりと云に付今日其弟を同道して參りしなり御苦勞ながら御出下されよと云に仲人佐兵衞は是を聞モシ八五郎さん御前に弟はなき筈なるが其弟と申さるゝは今迄何地に御在なされしやと問ければ八五郎は拔らず御前さんの御存じなきも道理なり幼少の時里に遣して其儘縁切になし置しが今にては段々出世して四國の丸龜に於て劔術の師匠をなし居けるが此節江戸見物に出來りし故兄弟久々の對面にて何やかや咄したる譯なり夫に付今日同道して來たりしと云ふに佐兵衞は然樣なるか道理こそ私しは知らぬ筈なりと是より半四郎長兵衞長八仲人佐兵衞を同道して油屋へ掛合に到り半四郎をば門口に待せ置長兵衞八五郎佐兵衞の三人は油屋の見世へ上り込に此日油屋五兵衞親子は大橋文右衞門の一件にて奉行所へ呼出しになりて見世には番頭久兵衞只一人帳場に控へ居たりしかば三人の者は先一通りの挨拶に及び扨久兵衞殿此間中より度々御懸合申せし通り娘事先は御縁のなき譯成ば何か今日こそは離縁状を遣はされて下され早斯樣になりて當人の氣の進まぬものを無理に押付て元の鞘に納めると云譯には參らず私しどもの方にても彼是と申日に御懸合の筋もあると云ものゝ其所を申て見れば實も蓋もなき譯勘辨して云ずに居るが花なり何か離縁状を出して下されと云に番頭久兵衞は空眠りをして居たりしが否其事は前々より申通り親亭主を見捨て逃出したる嫁に離縁状は遣れぬと主人も申聞られ殊に今日は兩旦那とも留守ではあるし假令又内に御出なされて御咄し申た所が親夫に暇を呉た女へ直素直に離縁状を御出しなさいとは傍からも云れぬなり若旦那にも存じ寄りありと云れし故右にも左にも離縁状は出されぬから何れとも御前方の存分になさるが能と聲荒らかに云放したり 第三十九回  扨又長兵衞は八五郎が掛合を聞き番頭さんには一應御道理の樣なれ共決して親亭主を見捨たと云譯にてはなく嫁の方にもよく〳〵居耐納れぬ譯ある故也八五郎の娘ばかり惡きとも云難く夫を彼是と洗ひ立をすれば舅五兵衞殿は勿論御前までへも恥辱を與ふる譯なれば私し共の方にて云ぬ中が花なり御前とても此見世の支配人同樣に御出なされば御前の取計らひ一つにて何れとも成ことと思はれる私しどもゝ同じ御咄許りを何時迄も致すは迷惑なり殊に又私しの末の弟が六ツケ敷云ふゆゑ何か最初より申通り持參金の百兩衣類道具代等は兎も角も離縁状ばかりを遣はされて下され然すれば御前の方は十分ならんと申に久兵衞コレ馬鹿な事を云なさるな御前親類書にも八五郎殿の外に弟はなき筈なりよし分つたり是は定めて出入師とか公事師とか云ふ者を連て來りしならん面白し〳〵何でも連て來るがよし此久兵衞が相手なり親夫に暇を呉た女に離縁状は勿論持參金などは少しも返す事成ず率公事師にても何でも連て來るべし此方よりこそ願ひ出べきと思ふ處なり此久兵衞が相手になれば奉行所へ出樣が公方樣の御前であらうが立派に言開きて見せるサア〳〵何れとも勝手にせられよと大聲に罵りければ佐兵衞八五郎の兩人は心中に此處へ後藤先生を呼込では必らず騷動にならんと思ひ腹の立のを堪へ〳〵て久兵衞を宥め離縁状を取んとすれ共彼勿々聞入ず猶々募りて不法を云ゆゑ據ころなく後藤半四郎を呼に此方の後藤は先刻より表に立て懸合の樣子を聞居たりしが元より氣象濶達の人故ぢり〳〵氣を焦ち今に見よと腕を摩つて待處に八五郎が呼込や否や油屋の見世へ躍り上りたり其體赤銅造りの強刀を帶し段織小倉の大縞なる馬乘袴を穿ち鐵骨の扇を持て腕捲りなしたる勢ひ仁王の如き有樣ゆゑ番頭久八アツと云て奧へ逃入んとするを半四郎は腕さし伸して久兵衞の首筋引掴み忽ち其所へ捻伏玄翁の如き拳しを振上久兵衞が面體を二ツ三ツ打叩く故久兵衞は大いに恐れ何卒御免下され御侍士樣何ぞ命ばかりは御助け下さりましと只管詫入を後藤は猫の仕置をするやうに鼻づらを疊へ摺付々々己れが此店の久兵衞とか云奴か汝番頭の身を以て大膽不敵にも亭主が馬鹿なりとて主人の嫁へ不義を仕掛る人外者めと又々鼻づらをこするゆゑ御免々々と泣叫くを是能聞け汝は主人五兵衞とやらと兩人して嫁のお秀へ不義を仕掛るは主從共揃ひも揃ひし畜生ども因て嫁のお秀も居耐れず終に逃出せしなり夫に奚ぞや親亭主を見捨て駈出したる女故離縁状を出されぬの持參金道具迄も渡されぬなどとは極惡不道の申分只今持參金の百兩衣類諸道具へ離縁状を添て出せ若出さぬに於ては汝れ斯して呉んと又々拳を振上ければ久兵衞は兩手を上げアヽ何卒御勘辨下されよ仰の通り持參金も離縁状も殘らず差上申べし何卒御助け下さる樣偏へに願ひ奉つると涙を流して謝まるにぞ後藤は漸々勘辨して遣はさんと云ながら引起しよく〳〵顏を見たりしがはて汝れは何處でか見た樣な奴オヽ夫々片小鬢の入墨にて思ひ出したり汝は〳〵不屆なる奴と白眼付られ久兵衞は再び驚き何とぞ御武家樣御慈悲を願ひ奉つると何か樣子有氣に疊へ天窻を摺付々々詫入つゝ持參金の儀は此節店の都合も御座れば二三日御待下さるべし荷物并びに離縁状の處は兩主人歸り次第申聞今晩にも直に御宿所まで持參仕り候はんにより呉々も是までの不都合御勘辨下さる樣偏へに〳〵願ひ上奉つると震ながら平蜘の如くになりて申ゆゑ後藤は稍言葉を和らげ然らば屹度間違なく馬喰町二丁目武藏屋長兵衞方へ持參せよ若又違約に及ばは直樣汝を引連訴訟するぞ急度間違へなと申先是にて概略極りしなり率皆々歸るべしと後藤は立上るに三人も倶に出立しが仲人佐兵衞へ別れを告げ馬喰町を指て歸りける 第四十回  扨道々長兵衞八五郎は後藤に向ひ彼の久兵衞と云ふ奴は先生を見ると大いに肝を潰せし樣子にて無闇に手を合せて御慈悲々々と謝まりたる可笑さよ尤も先生の勢が凄じいゆゑ誰も先生の顏を見ると恐るれども別して彼奴は色蒼然て慄へ出せしが何でも先生を知つて居る樣子何れ譯のあることならんと云ふ半四郎は聞て夫は其筈なり某し先年國へ歸る時東海道戸塚の燒餠坂より彼奴が道連になりし處其夜三島の宿へ泊りしに拙者の寢息を考へ胴卷の金を取んとしたる騙子なり其時彼奴を引捕へしに宿屋の者ども寄集り片小鬢の毛を引拔て入墨をなしたるなり因て某し彼奴を戒しめ以後惡心出しなら其の入墨を水鏡に映し見て心を改めよと云て逃し遣はしたる奴なれば拙者が顏を見るや否や肝を潰したるはず廻り〳〵て今日又拙者に再會するとは因果な奴なりと久兵衞が舊惡を咄しかば長兵衞八五郎は始終を聞て扨々然樣なるか如何さま渠が小鬢に半分眞黒に入墨をしてありしが飛だ不屆なる奴先生が御出下されしゆゑ早速埓が明しなり彼奴先年の舊惡を云れては堪らぬ故夕方までには屹度離縁状を持て來るに相違なし先には大きに案じ先生が正直の心より又如何なる騷動が出來樣かと思ひしに斯して見ると先生を御連申ただけもつけの幸ひ案じるより産が安いとは此事なるべしと道々話し乍馬喰町へぞ歸りける是より長兵衞長八は相談して大橋文右衞門の一件を證人になりて訴へ出んと願書を認め掛るに後藤半四郎も是を聞き長兵衞殿拙者の名前も書入られよ然すれば引合ゆゑ御呼出しになるに違ひなし其節奉行所にて久兵衞が舊惡を申立吟味詰を願はゞ百兩の盜人も大方番頭久兵衞の仕業に相違有まじ又貴樣は公事宿の商賣柄拙者が事は兄弟とか親類とか云て名前を書加へられよと申に長兵衞畏まり候と其處は馬喰町にて八十二間組の公事宿だけあれば筆を揮つて願書を認ため直に翌朝南町奉行大岡越前守殿へ訴訟出しかば越前守殿には願書を取上になり追て沙汰に及ぶとの事にて其日は下られけり扨又山崎町なる油屋五兵衞の番頭久兵衞は今日圖らずも寶珠花屋八五郎の娘お秀が離縁状の一件に付後藤半四郎に再會して大いに驚きしと雖も先々離縁状を馬喰町へ持行後藤先生に慈悲を願ひて以前の惡事を云はれぬ樣に頼まんと思ひ若旦那五郎藏が奉行所より歸るを今や〳〵と待居たり此番頭久兵衞は大膽不敵なる奴なれども今後藤に舊惡を云るゝ時は己油屋の店に居る事ならず因て早々離縁状を出して此一件は掛り合を免かれ而して文右衞門へ言懸りし百兩は何所までも申張て渠に被せ己れは其儘ぬく〳〵と油屋に居る了簡なり然れば半四郎長兵衞長八の三人が大橋文右衞門の爲に證人となりて奉行所へ訴へ出し事は神ならぬ身の夢にも知らず是天罰の然らしむる所にして久兵衞が極惡露顯の小口とこそはなりにけれ扨も享保五年三月五日油屋五兵衞并びに同人家内は奉公人に到るまで一人も殘らず呼出しと相成しかば家主五人組一同差添奉行所へ罷出るに程無白洲へ呼込になり願人相手方とも居並びし時に大岡殿出座有て吟味にこそは及ばれたり此大岡殿は吟味の節何時も目を眠りて居られたりと昔し足利家の御世名奉行と世に稱へたる青砥左衞門尉藤綱も訴訟を聽時は必らず目を眠りて居られしとぞ夫は又何故と云に假令いかなる名奉行にても元來凡人の身なれば其人の顏色を見て愛惡の心生ずるは是人情なり然すれば知らず〳〵依顧贔屓の沙汰にも成ゆくにより心に親疎のなきやうにと眼を眠りて訴訟を聽れたりとぞ何さま容貌ち優にやさしく見えると雖も心に惡を巧む者あり又顏色蓬ろにして恐ろし氣なる者も心は實に竹を割たる如き善人あり或ひは言葉を巧みに人を罪に落とすもあり又己十分の理を持ながら訥辯の爲に言伏られて無實の罪に陷るもあり其善惡を糺されるは表眼を眠り心眼を以て是を見る時は其邪正自然に感ずると云ふ 第四十一回  偖大橋文右衞門一件關り合山崎町質渡世家持五兵衞并びに同人家内の者奉公人に至るまで一同呼出しになりし處此の番頭久兵衞のみ名前之なきに付彼一人は留守をして家に殘りし也是は大岡殿深き思慮あるが故に久兵衞一人は故意と差紙に名前を載ず外の奉公人を呼出して久兵衞が平日身持の樣子を聞糺さんとの事なる由時に越前守殿白洲を見られ下谷山崎町家持五兵衞悴五郎藏其方年は何歳になるや又妻はあるかと尋ねらるゝに五郎藏はひよくりと天窓を上じろ〳〵四邊を見廻しながら私しの年は慥か廿二歳ばかりにて妻は御座りましたが私しを嫌ひ此間御出やりましたと自他も分らぬ事を一向恥る景色もなく云ければ越前守殿は微笑まれ是は餘程拔作なりと思はれし故其儘にして若い者重助へ向はれ其方年は何歳になるや何頃より五兵衞方に奉公致し居るか有體に申立よと云れしに重助はハツと答えて私し儀當年廿二歳にて幼少の時より五兵衞方へ參り最早十年程相勤め罷り在候と申を大岡殿聞れ大分其方は神妙者と見える昨年より當年へかけ傍輩の中に暇を取て下りしと云ふ者か又は不首尾にて暇を遣しとか何か五兵衞方をいでし者はなきやどうぢやと有に重助ヘイ當六月中迄七年ばかり勤めし傍輩に藤助と申す者御座りしが眼病にて下りしもの其外には出ました者は一向御座りませんと申しければ越前守殿なるほど其の藤助は今以て歸參は致さぬか未だ眼病を煩ひ居るやどうぢやとあるに重助御意の通り今以て眼病にて惱み居りますと申せば大岡殿其藤助が家内の樣子は何ぢや兩親はあるか又渡世は何をして居るや存じ居らば一々申立てよと云はるゝに重助ハイ兩親はなきとのこと藤助の妹が一人御座り年は十九歳ばかりにて未だ亭主も是なき由なりと申しければ大岡殿其者は人の世話にでもなりて居る樣子かと申さるゝに重助は困りし面色にて其樣は一向存じませぬと云ば大岡殿汝は傍輩の事故病氣見舞に行しならん夫れとも見舞には行ぬか何ぢや少しにても僞るに於ては其方の爲にならぬぞコリヤ主人五兵衞並に悴の五郎藏などは見舞に行たで有うどうぢやと云るゝに重助否私し共も主人も參りし事は一度も御座無併し番頭久兵衞は折々見舞に參り候と申せしかば大岡殿左樣かと申され此事を手帳へ留置れたり又若い者の喜七に向はれ其方生國は何國にて年は何歳なるやと尋ねらるゝに喜七私し生國は下總國行徳にて年は十九歳也と答へ夫れより越前守殿は松三郎金藏下男彌助に至る迄何れも生國歳等を聞れ好々下れ〳〵と申されければ皆々白洲を出て腰掛へ下りたり此時漸々十歳ばかりに成小僧の三吉と云ふ者有りけるが主人五兵衞始め此所へ出し人々吟味の濟次第一人づつ段々と下りて今は主人の悴五郎藏と己のみ只二人白洲に殘されければ心細くやありけんめそ〳〵と涙を流して泣居るに大岡殿三吉を見らるゝに如何にも物賢こく利口さうなる小僧ゆゑ此者を欺て能々聞糺さば百兩の盜賊も知れるに相違なしと最初より目を着られしかば斯の如く後へ廻されしなり然れば先再び馬鹿子息五郎藏を糺さんと思はれ越前守殿コリヤ五郎藏其方の妻は何故汝が家を出しや又當人は親類中より參りし者かと申さるゝに五郎藏否親類から參つたのでは御ざりませんが一所に寢るのが嫌ひで御出やりました貰つたから親類で有りましたが出て行けば他人でござりますどうぞ御奉行樣私しの内儀を御歸し下さる樣偏へに御願ひ申ますと眞面目で云ふゆゑ居並びし役人共一同笑ひに耐兼眞赤に成て居るにぞ越前守殿も笑はれながら好々御威光を以て近々に取戻して遣はさん而又其方は家内にて怕ものは誰なるやと尋ねられければ五郎藏ハイ私しの怕者は番頭の久兵衞でござります毎度私しを恐ろしく叱り付たり怕眼で白眼ますから久兵衞ほど怕者は御座りません夫れに引替若い者重助は誠に好者にて若旦那々々々と云て大事にして呉ますと申すに越前守殿夫れにて分つたり下れ〳〵と申されしかば私しの御内儀さんは呉々も御歸し下さいましと言つゝ白洲を立て下りけり跡には彼の十歳ばかりなる三吉小僧のみ彌々一人殘され其上早日は暮て白洲へは灯りがつき四邊森々として何とやら物凄く成しかば三吉は聲を揚て泣出すゆゑ越前守殿は言葉靜にコリヤ〳〵三吉最少と前へ出よ何も怕事はなし泣な〳〵サア〳〵好物を遣はさうと饅頭を紙に載て與へられ是を喰よ〳〵手前は一番利口者オヽ賢い奴だサア遠慮せずに喰よ〳〵と申さるゝに其處は子供ゆゑ菓子を見ると直樣莞爾々々しながら押頂きて懷中へ仕舞ふ故大岡殿コレ〳〵小僧其處で喰よと言はれしかば三吉ヘイ有難う御座いますが家へ持て行番頭樣に見せてから喰ないと叱られますと申すに大岡殿オヽ然樣か手前は利口者だサア夫れなら今一ツ遣はさうと此度は自身に縁側まで持出られ手渡しにして直に喰よ〳〵と申されしに三吉は彌々莞爾々々として饅頭を喰居るに越前守殿何だ三吉其方の年は幾歳になると聞れけるに三吉は早少し馴染の付し體にてハイ私は當年十歳になりますと答へければオヽ十歳になるか能答へが分る至極温和い奴ぢや今尋ねる事を一々申立よ素直に云ば家へ歸して遣る又虚を云ば家へも歸さず宿入にも遣ぬぞよ三吉其方は番頭久兵衞の供をして車坂の藤助の家へ行たであらう公儀では能御存じなるぞと申さるゝに三吉は成程時々久兵衞樣の供をして參りましたアヽ御奉行樣には能知て御出でなさいます私しは家に居るより供をして行方が餘程能御座いますアノ久兵衞さんが何時もと違つて藤助さんの所へ行時には莞爾々々して饅頭だの羊羹だの又錢だのと種々な物を呉ますし其上供の時計りは久兵衞さんが少しも叱りません家に居ると毎日々々叱られて計り居りますと云ひければ越前守殿も莞爾々々されながら然樣か能其方は咄しが分る夫から番頭の供をして藤助の處へ行と番頭は何をして居ると尋ねらるゝに小僧アノ藤助さんの方へ行と久兵衞さんは直に二階へ上りお民さんと云ふ美麗姉さんと何だか咄しをしてお出なされます其時は何時でも久兵衞さんが私しに山下へ行て源水でも輕業でも見て來いと言て錢を五十文か百文づつ呉ますから私しは山下へ行遊んで來ては又供をして家へ歸りますと云ひしかば大岡殿成程然して又其眼病で下つて居る藤助は何をして居ると問るゝに小僧ヘイ藤助さんは下の火鉢の傍に居て色々な面白い咄しをしたり甘い物などを呉ますと云ば越前守殿然樣か其藤助の家は車坂の通りにて右より左へ行好所だらうなと申されしに小僧然樣さアノ大井戸より左の方へ行くと水菓子屋の裏でございますと云ふを大岡殿然樣よ〳〵其大井戸の先で有るだらう抔申さるゝに小僧オヤ御奉行樣には能く御存じで御出なされますと驚くを大岡殿ムヽ三吉其方は利口者なれば家へ歸つても今云し事を決して誰にも咄すまいぞ若咄すと又々呼び出して今度は歸さぬぞよと有るに小僧は平伏なし決して申しは致しませんと答へければ大岡殿夫で好サア歸れ〳〵と申さるゝを聞き小僧三吉は發と息をつきて白洲より出で來り夫れより腰掛へ行きけるに皆々打より三吉手前一人跡に殘つて嘸怕つたらう何を御奉行樣が御聞き成れたと問ひければ三吉は内心に爰だと思ひ只何歳になるの家は何所だの父や母は有るかのと御聞なされたる計りなりと云ふゆゑ皆々然樣であつたかと隱すとは心も付ずサア〳〵餘ほど夜も更たれば急ぐべしと一同揃ひて山崎町の油屋へぞ歸りける 第四十二回  扨又番頭久兵衞は今日文右衞門の一件にて五兵衞始め一同呼出されしゆゑ流石の惡黨も如何成行やと竊かに心配なし居たる折柄圖らず後藤半四郎入り來り退引させずお秀の離縁状は取れる事になりしかば若旦那五郎藏歸り來らば早々離縁状を認めさせ馬喰町なる半四郎の方へ持行んと思ひ居たるに漸々夜に入りて一同歸り來りしゆゑ久兵衞は脛に疵持身なれば斯間の惡き機には御奉行所にても何か面倒なることありしならんと思ひ離縁状の一件は後になし直樣家主吉兵衞方へ行き今日御番所にて御尋ねの一件は如何なる儀にやと聞くに吉兵衞は家の者に聞けば直樣分る事を故意々々此所まで聞に來る事もないと思へば私しは差添なれば皆々の後に居たるゆゑ何の御尋ねやら一向に聞取れずと云ければ久兵衞は是非なく立歸り店の重助喜助松五郎金次等に聞けるに皆々只油屋へ何時頃奉公に來て歳は幾つだと云ふ御尋ねばかりにて外には何も仔細なしと云ふを彼の馬鹿息子五郎藏は莞爾と笑ひながら己は嬉い事がある女房お秀を取返して下さると仰せられ誠に優しき御奉行樣なりと一人悦び居たりけり又小僧の三吉は白洲へ一人取殘され泣しと云て皆々に笑はれたる故家へ歸るや否や店の隅に小さく成て居るゆゑ番頭久兵衞は三吉を呼び手前一人跡に殘されたと云ふが御奉行樣が何を御聞なされたか咄して聞せよと云共大岡殿より豫て口止めありしかばさらに物を云ず默止居るにぞ久兵衞は急込ヤイ三吉何を申し上たるや己れ云はざるに於ては斯するぞと頬を爪捻尻を爪捻種々にして責問ども一向に云はざるゆゑ久兵衞扨は此小僧めが車坂のお民の一件を申し上たるに相違なしと察しければ此上押ても聞ず夫よりは先五郎藏に咄して離縁状を認めさせ早々持て行ねば後藤が又々踏込で來たると云しかば是は差當つての難儀と思ひ若旦那々々と二階へ連れ行き扨外の事にてもなく今日御前さんのお留守にお秀さんの伯父なりとて後藤半四郎と云ふ浪人者が來り斯樣々々の掛合になり是非離縁状を出せとの事なるが若遣ずに置けば大變な騷動に成行ゆゑ早々去状を御書なされと申すに五郎藏は甚だ不承知なる面にて返詞もせざれば久兵衞は種々に説勸むると雖も五郎藏は却て腹を立て今日御奉行樣がお秀を取戻して遣はすと仰せられた故離縁状は何樣しても書ずと云ふに番頭久兵衞は甚だ困り果否然樣なる事を云はれたとて離縁状を遣ずに置けば今にも後藤半四郎が來るに違ひなし然すれば家内中鏖ろしにすると云て歸られたり劔術遣ひの浪人なれば勿々切り兼は致すまじ又お秀ばかり女にてはなし私しが外に美しい女を嫁に貰ひて上ます程に是非とも去状を御出し成れと威しつ賺しつ漸々の事にて離縁状を認めさせ是を以て早々馬喰町なる武藏屋長兵衞の方へ到り後藤半四郎に對面して去状を渡し持參金の百兩並びに道具類は何卒兩三日の間御待ち下さるべし然すれば相違なく御渡し申さんと半四郎へ呉々約束して立ち歸りしが久兵衞は道々心に考ふる樣今日三吉めが車坂の一件を御奉行所へ申し上たる樣子ゆゑ兎も角も惡事の顯れ口になりたり然れば所詮斯しては居られず何でも足元の明るい中に高飛をするより外に思案はなしと忽然元の惡心を起し其夜家内は寢鎭まり良丑刻半共思ふ頃不圖起出で豫て勝手は知りしゆゑ拔足さし足して奧へ忍び行き佛壇の下より三百五十兩の大金を盜み出し是をば胴卷に入れて確と懷中にて縛り夫れより又土藏へ忍び入り質物の中にて何れも金目なる小袖類を盜みとり風呂敷に包みて背負傍邊に在りし鮫鞘の脇差を腰にぶつこみ猶又拔足差足をして裏口より忍び出で草鞋を履て逃去んとする時馬鹿息子の五郎藏が小便に起戸惑ひなしつゝ暗紛れに久兵衞へ突當りしかば久兵衞は驚きながら透し見てモシ若旦那御靜かに成れましと云ば五郎藏も大いに驚きヤア貴樣は久兵衞か草鞋を履て今より何所へ行のだと聞れて久兵衞は南無三寶見咎められしか最早斯なる上は是非に及ばず毒を喰はゞ皿までと腰なる一刀拔くより早く聲立させじと五郎藏が口の中へ突貫し二ツ三ツ刺りしかば五郎藏は七轉八倒なすのみにて其儘息は絶果たり頓て久兵衞は一刀を鞘に納め周章狼狽五郎藏の死骸を庇間合へ捨置て早足に逃出し手拭ひにて深く頬冠りをなし膽太くも坂本通りを逃行く機から向うより町方の定廻り同心手先三人を連吉原より返りと見えて此方へ來るゆゑ久兵衞は仕舞たりと思ひながら早足に軒下へ廻り天水桶の蔭へ隱れんとする處をソレ怪しき曲者召捕と聲の下より手先の者三人破落々々と立懸り上意々々と云ながら取て押へ忽ち繩をぞ懸たりける因て久兵衞は逃損じたりと思ひながらも遁るゝだけは云拔んと何卒御免し下されよ私しは決して怪しき者に候はず偏に御勘辨を願ひますと云ば手先の者何だぐず〳〵云ふ事たアネヘ貴樣は怪しい奴に相違ない夜中無提灯にて其樣な大包みを背負形容にも似合ぬ鮫鞘の脇差をさし是は大方其處らで盜み來りしならん殊に草鞋を履是れ何しても泥棒と云ふ看板を掛て居る樣なものだサア此方へ來いと直樣坂本の自身番へ引上しに出役岡村七兵衞馬籠藏十郎の兩人控へ居る前へ久兵衞を引き据て先雜物を改るに質物と見え皆質札の付たる儘にて大風呂敷に一包みあるゆゑヤイ汝は何れの者ぞ尋常に申立よと有りしかば久兵衞は俯向居たりしが首を上私しは山崎町油屋五兵衞方の番頭を勤め久兵衞と申す者にて何も決して怪しき者には御座なく候と申すに馬籠岡村の兩人此包みは如何致したる品なるやと尋ねければ久兵衞は拔らぬ面にてヘイ是は下質へ下に參る品で御座りますと云ふに兩人ナニ下質へ下に行かとコレ宜加減な虚を云夜中草鞋懸にて下質へ下に行奴がある者か爰な不屆者め有體に白状せよ眞直に申立なば公儀にも御慈悲が有ぞと云つゝ久兵衞の脇差を改めるに鮫鞘にて縁頭其外立派なる腰のものなれば中身を見と拔放ければ鍔元より切先まで生々しき血汐の付居にぞコレヤ汝は大膽不敵なる奴かな是が何より證據なり何處で人を殺し夜盜をして來りしぞ尋常に云て仕舞へ何で汝が命は無者だ幾ら隱しても遁れる譯には行ないぞコリヤ町役人油屋五兵衞を呼出すべしと云ければ畏まり候と町役人走り行き油屋の表を叩けれども今日は奉行所へ一同罷出勞にも熟寢こみ居て何分起出ぬゆゑ裏口に廻り見るに如何さま久兵衞が逃出したる所らしく戸など明放しありしかば家へ入て家内の者を起し此方の番頭久兵衞が今自身番へ上られたるに付五兵衞殿を起して呉よと云ふに夫はと云て家内皆々騷ぎ立て五兵衞を起しければ五兵衞も驚き何にしても大變なりと考へ居る中町役人共は若い衆若衆内々に怪我人はなきか改め見よと云ふに一人の若い者若旦那の五郎藏樣が御見えなされぬが何所へ御出なされしやと申すに一同何樣是は不思議と云ふを聞き主人の五兵衞は出來りナニ悴がみえぬと夫れは何所へ行たかと家内中を探せ共一向に影も見えず猶隈なく探し求むる中裏口の庇間合に五郎藏が倒れて居たりと大聲揚て呼はるゆゑ夫れと云て手燭を照し行て見るに口中を刺られ朱に染みて居りしかば是は大變々々と云聲に親父の五兵衞も駈付て五郎藏が殺されたりとは夫れは如何せし事ぞと死骸を見てヤヽ是はと尻餠を搗起る事もならず悲むにぞ家内中上を下へと騷動しける所へ坂本の自身番よりは矢の使ひにて御役人が御待兼なり五兵衞殿を早く連て來られよとの事成ども五兵衞は悴を殺され心顛倒して只其處よ此所と胡亂つき居けるゆゑ町役人は叱り付自身番へと急ぎけり 第四十三回  却説油屋五兵衞は町役人に伴はれ坂本の自身番へ到りしに豫々心を緩して召仕し番頭久兵衞は高手小手に縛められ居たるゆゑ五兵衞は久兵衞を見るや否や汝は〳〵人面獸心なる奴かな五年以來目を懸て遣はしたる恩を忘れよくも悴五郎藏を突殺し金銀質物を盜み出せしよな悴の敵思ひ知れやと云ながらも飛懸りて押伏んとするゆゑ役人は聲をかけコリヤ〳〵五兵衞控へ居れ此方にて召捕たる罪人を手込にせんとは不屆なり愼んで此方の調べを受よと叱り付るに五兵衞はハツと心付是は實に恐れ入り奉つる彼奴に悴を殺されたる無念の餘り御役人樣の御前をも忘れ不禮仕つり候段眞平御免下さるべしと云ば役人聞て夫は不便の儀なり而又其手續きは如何なる事ぞと尋ぬるに五兵衞渠は私し方へ五ヶ年以前より奉公に參り至極實體に勤め居ますゆゑ年頃も相應に付き番頭に取立店の事ども任せ置候處今宵悴五郎藏を殺害仕つり金子三百五十兩を盜み取猶又奧藏へ忍び入り質物品々並びに脇差一腰を持出し候やに存じられ候へどもいま確と取調べ行屆き申さず候と云ひければ其段久兵衞を糺すに同人も今更陳ずる事能はず今宵の事共白状なしけるにぞ一々口書を取り翌朝町奉行大岡越前守殿役宅へ送りに相成たり是に因て油屋五兵衞よりは右の始末を巨細に認め五郎藏の死骸檢使を願ひ出でけるに早々役人來りて死骸を改ため五兵衞始めの口書を取り大岡殿へ差出せしかば大岡殿此久兵衞は浪人文右衞門が豫て關り係の者なればとて直樣白洲へ呼出され調べにこそは懸られけれ然れば久兵衞は繩付の儘砂利の上に蹲踞まるに大岡殿是を見られ下谷山崎町家持五兵衞召仕ひ久兵衞其方生國は何國にて年は何歳なるや又何頃より五兵衞方へ奉公住致したるや有體に申立よと云はるゝに久兵衞私し生國は上總國東金にて五ヶ年以前より五兵衞方へ奉公住致し居歳は當年四十二歳に相成候と申しければ越前守殿而て又其方如何成所存にて五兵衞の悴を殺害致したるや且又金子三百五十兩並びに質物品々脇差等迄盜み取りたるに相違なきやと有るに久兵衞は今更遁れぬ處と覺悟を極めしかば仰せの通り不圖出來心にて金子質物等を盜み逃出さんとせし機五兵衞悴五郎藏に見咎められ候間據ころなく殺害致し立退申候此儀は全く出來心に付何卒御慈悲に命ばかりは御助け願ひ奉つり候と然も初心らしく申を越前守殿此奴勿々横道なりと思はれコリヤ久兵衞其方は去年極月中旬浪人文右衞門事五兵衞の店にて百兩の金を盜みたりとの言懸りは是れも其方が仕業なるべし有體に白状せよと申さるゝに久兵衞心の中に今度の事は其節五兵衞と突合になり一旦白状したれば今さら爲術なけれども百兩の金は何所までも文右衞門に負せ渠をも倶に殺さんと思ひしかば恐れながら此度の儀は御尋ねの通りに相違御座なく候へ共百兩の金は文右衞門が盜み取りしに違ひ御座なく候と申しければ越前守否汝は然樣申せども文右衞門の人體盜賊などすべき者に非ず其は全く馬喰町なる紙屑屋長八より遣はしたる金子にて質物を受出したりと申す此儀相違なく聞ゆるぞ眞直に白状致せと有るに久兵衞ナニ其者は長八にては是なく新藤市之丞と申す紙屑買の由に御座候併し同人の住所を尋ね候處知れざる由を申し金子の出所不定に御座候間百兩の金は文右衞門が盜み取しに相違御座なく候と云張しかば越前守殿聲高によく承まはれ汝は何程辯を巧みに陳じ僞はる共此方には慥かなる證人あるぞ證據なきことは強て問糺さず如何程に強情を申すとも汝が一命は助かる事でなし彌々陳じ僞はるに於ては證人を此處へ呼び出すぞ何ぢや夫れにても云はぬかと申さるゝを久兵衞は猶恐れず假令誰が出ましても存ぜぬ事は何時までも存じませんと云ふに大岡殿コリヤ未だ其方は強情を申か扨々大膽なる奴かな然らば證人を呼出し引合せんとて下役へ差圖あれば武藏屋長兵衞紙屑屋長八の兩人白洲へ呼び込みになり其所へ罷り出るを越前守殿見られ馬喰町二丁目武藏屋長兵衞並に前名新藤市之丞當時紙屑屋長八其方共儀此程訴への趣き今一應其所にて申し立よ且又去ぬる十二月中越後高田浪人大橋文右衞門へ尋ねの儀に付紙屑問屋並びに屑買等一同呼出したる節其方江戸内に住居致し居しや又旅行留守中にてもありたりや其仔細包まず申し立よと申さるゝに長八愼しんで答る樣私し儀は元越後高田の藩中に候處今より十八ヶ年以前若氣の過まちにて同役の娘と不義に及び主家の法に依て一命をも召さるべきの處物頭役大橋文右衛門の情けにて助けられ廿兩の金子を惠み呉候を路用にいたし江戸表へ罷り出候節中仙道熊谷堤に於て惡漢に出逢ひ私し共夫婦一命も危き機から讃州丸龜の浪人後藤半四郎と申す者に救はれ猶又右半四郎より金子廿兩を惠み呉候て江戸表馬喰町まで同道いたし其後是に控へ居り候長兵衛の世話に相成紙屑渡世を致し罷り在候處去ぬる十二月中私し儀上野の大師へ參詣の途中上野車坂下にて大橋文右衛門に廻り逢ひ夫れより同人宅へ參り樣子を尋ね候處文右衛門は八ヶ年以前國表越後家浪人いたし當時は山崎町に住居悉皆く困窮零落に及び往來に立て袖乞を致し漸々其日々々を送り候と申す事故私し儀甚だ氣の毒に存じ十八ヶ年以前の恩義を報ぜんと思ひ一人の娘を新吉原江戸町一丁目玉屋山三郎方へ身の代金五十兩にて年季勤めに遣はし右五十兩の中二十五兩を大橋の方へ持參仕り候處文右衛門儀武士の意氣地を立て一旦惠み遣はしたる金子を今受取ては一分立ずと申して何分請取申さず是に依て私し儀も折角娘まで賣たる金を請取られざる事實に本意なく存じ文右衛門が油屋五兵衛と申す質屋へ質物流れの懸合に出行候留守中密かに煙草盆の中へ入れ置て罷り歸り候處是に控へ居る長兵衛が兄の大病にて讃州丸龜へ參るに付同道致し呉よと申すにより幸ひ先年大恩受し後藤半四郎へも謝禮旁々尋ねたくと存じ十二月十四日長兵衞私し兩人御當地を出立致し讃州丸龜へ罷越候事に候へば舊冬屑屋一同御呼出しの節は御當地に罷り在り申さず漸々一昨日江戸表へ立歸り私し妻より舊冬屑屋一同御呼出しの樣子を承まはり候に付文右衛門の安否を尋ね候處御召捕に相成候由ゆゑ大いに驚き取敢ず今般御訴へ申上奉つり候儀に御座候右故文右衞門質物を受出せしは全く私しより相贈り候金子に相違之なく勿々文右衛門儀盜賊など仕つり候者に候はず何卒御慈悲を以て同人儀出牢仰せ付られ下し置れ候樣偏へに願ひ上奉つり候と一伍一什を殘らず申し立しかば越前守殿長八が眞實を甚だ感じられ且は文右衛門夫婦の申す口と少も相違せざるゆゑ然もあるべしと思ひ夫よりまた久兵衛に向はれ其方も今申す通り前名新藤市之丞當時屑屋長八が申立たる通り文右衛門が質物を受出せし金子は長八より贈り遣はしたるに相違なしと申す然すれば其方百兩の金子を盜み取り罪を文右衛門に負せんとせしに相違あるまじコリヤ久兵衛よく承まはれ文右衛門が家内を吟味せしに殘金十一兩餘在りたり是を思へば文右衛門盜賊でなき事は明白なり斯程に證據ある上は汝何程陳ずる共詮なき事ぞ痛き思ひをせぬ中に白状せよサア何ぢや云ぬか汝如何に強情なり共云せずには置ぬ不屆なる奴哉と白眼るれ共久兵衞は少しも恐るゝ面色無假令文右衛門儀百兩の盜賊に御座なく候共私しは其金一向に存じ申さずと云ひ居たるにぞ流石の大岡殿も扨々強面奴なりと惘れられしが好々然あらば白状するに及ばず汝に逢せる者有り驚くなとて直樣車坂下六兵衛店藤助並びに妹お民を呼出しとなる是は久兵衛が圍ひ置し女なれば此二人の者出なば如何に強惡なる久兵衞にても最早陳ずる事能うまじと思はれたり然れ共久兵衛は兎角己が命はなき者と思ひしゆゑ百兩の一件は是非々々文右衛門に負被せ倶に抱込で殺す了簡なり然る程に藤助並びに妹お民の二人は家主六兵衛差添にて罷り出白洲へ平伏なすにぞ久兵衛是はと思ひしが此者兄弟出し上は露顯するに相違なしと心の中に思案を極め猶も工夫をなし居たり 第四十四回  扨も番頭久兵衛は種々事を左右に寄百兩の盜賊は大橋文右衛門に相違なき旨申し立ると雖も大岡殿は心眼を以て善惡を見拔れ追々證人等も引合せらるゝことになりしかば流石強惡の久兵衞も巧みし事ども彌々露顯と觀念なし居たり然ば越前守殿の裁許は實に天眼通を得たりと云ふべし是も其頃の事とかや江戸神田鎌倉河岸に豐島屋十右衛門と云名譽の酒店あり渠は中興の出來分限にて元は關口水道町の豐島屋と云ふ酒屋の丁稚なりしが永々の年季を實體に勤め上しかば豐島屋の暖簾を貰ひ此鎌倉河岸へ居酒屋の店を出せし處當時常盤橋外通り御堀浚ひ御普請最中に付渠が考へにて豆腐の大田樂を拵へ是を居酒とともに安價賣けるゆゑ日々大勢の人夫此豐島屋へ居酒を呑田樂を喰ひに來りしに渠如才なき者なれば我身代に取付は此時なりと思ひ愛想能酒も負て酌ければ其の繁昌大方ならず日毎に三十貫文餘りの利潤を得て忽ちに大身代となりて酒店をも開しかど昔しを忘れぬ爲とて居酒の店は其儘に商賣なし今以て繁昌致しけり此の者素より日蓮宗を信仰なし己の菩提所は牛込の宗伯寺なりしが終に一大檀那となり寄進の品も多く又雜司ヶ谷の鬼子母神金杉の毘沙門天池上の祖師堂などの寶前へ龍越と云ふ大形の香爐を供へ何れも豐島屋十右衛門と云ふ奉納の銘あり是れ亦今以て存すと云ふ或日此豐島屋の店へ往來者大勢入り込み例の如く居酒を飮居たりしが其中に年の頃六十餘と見ゆる老人獨酌にて一二合飮て其後代錢は拂ひたれども酒の醉廻りしにや頻りに睡眠居たるが不圖目を覺し蹌踉しながら一二丁程行し頃彼の老人血眼になりて豐島屋の店へ立歸り最前我腰掛居たる邊を胡亂々々と何やら尋ねる樣子なりしが側なる者に對ひ私しは最前此所にて酒を飮代錢は拂ひたれども心氣の勞れにて思はず暫時居眠り眼覺て後此所を立ち出で途中にて心付懷中を見し處に大事の財布を取落せり其の財布の中には命にも替難き金廿兩入置たれば若何方ぞ御拾ひ成れし御方あらば何卒御渡し下されよとほろ〳〵涙を飜しながら申しける故在合人々興を醒し我々は財布の樣なる物は一向見掛けずと云けれ共尚ほも五月蠅其處斯處と尋ね廻りける故店の者共是を聞て此者は盜人か騙りならんと思ひけるにコレ爺殿貴殿が二十兩と云ふ金を取落したるとや夫は夢にても見しならん萬一實に落したり共此所の店にては有まじ夫れは外を搜されよ斯見た處が二十兩は扨置二兩の金も持るゝ樣な人物ならずと散々に罵りければ老人は首を振然言るゝは道理なれど其金子には仔細ありと云ふをも聞ず大勢の若い者此爺めは我等が店へ難題を言掛る騙なりとて一同立掛り打擲して表へ突出しければ大聲揚て泣出し如何にも皆々疑はるゝは是非なけれど私しは搖り騙りをする樣な者にては決して之なしと種々申し譯をなせ共皆々聞入れず早々立去べしと追遣るにぞ老人は是非もなく〳〵涙を拂ひすご〳〵立歸らんとなしける處に此豐島屋の向うを立場として日毎に出て居たる駕籠舁あり今日も此處にて往來の客を進め居たりしが今老人の突出されしを見て餘りの勞はしさの儘彼の老人を小蔭へ指招き其許は先刻豐島屋にて酒を飮歸りし跡に何かは知ず木綿の財布らしき物落て有しを店の若い者拾ひ取り何處へか隱せしを我等彼所にて能く見屆けたり其品は正しく其許の財布ならん然れ共今の如く其許を打擲致す程の次第なれば今と成ては勿々直素直には出すまじけれ共餘り其許の勞はしさに此事を内々知せ申すなりと云ければ老人は是を聞て力を得扨々御親切忝じけなし私しは本所松坂町に住む七右衞門と申す者なるが其金の譯と云ふは我等女房三年越の大病にて打臥居り惣領の悴は風眼にて種々療治致せ共當春よりとう〳〵兩眼共潰れ何共詮方なく我等は老年に及びし上重病人に掛りて商賣等も致さず益々困窮に迫り今日を凌ぎ兼るより種々工夫致せ共外に手段もなきまゝ家内相談づくにて不憫ながら一人の娘を吉原角町の海老屋へ勤め奉公に賣渡し身の代金二十兩血の涙にて受取持歸る途中餘りの悲しさに胸の塞りしまゝ切てもの憂晴しと豐島屋へ立寄て一合飮しに心氣の勞れより我を忘れて暫時睡眠不圖目を覺し立歸りしに財布の見えねば南無三と取て返して探せし處只今の次第ゆゑ此上は親子三人飢死より外なしと覺悟致せしと涙を拭々語りければ駕籠舁は始終を聞彌々氣の毒に思ひ此事に於ては我等證人と也申すべきにより急ぎ御奉行所へ願ひ出で申さる可しと云にぞ七右衞門は最嬉く直樣彼の駕籠舁久七を同道して南町奉行所へ訴へ出でたりけり然ば訴訟所にて一通り尋ねの上白洲へ呼び入れられ大岡殿出座あつて七右衞門并に駕籠舁久七の申す旨を篤と聞れ其儘兩人とも留置れ急ぎ豐島屋十右衞門へ差紙にて早々罷出づべき旨達しられければ豐島屋にては大いに驚き何事ならんと主人十右衞門は心も心ならず急ぎ御番所へ出る處に早速白洲へ呼び入れられ大岡殿は十右衞門を見られ今日其方店先に金子の落し物はなかりしやと尋ねらるゝに十右衞門は首を上私し儀今日他出仕つり只今歸宅の處へ御差紙に付留守中の儀は未だ承まはり申さず候間御尋ねの趣き罷り歸り店の者共を篤と吟味仕りし上御請申し上べしと申しければ大岡殿願ひ人七右衞門并に駕籠舁久七を呼ばれ七右衞門の落せしと云ふ金子は如何樣の財布へ入れ置しやと問るゝに七右衞門は斯樣々々の縞柄なりと其模樣を委細申し立てける時越前守殿大聲にソレ其者共を縛れよと下知に隨ひ同心立ち掛りて七右衞門久七の兩人を高手小手に縛めたり斯りし程に兩人の者共大いに驚き是は何故と嘆きければ越前守殿呵々と笑はれ盜人猛々しとは汝等が事なり其金子は此間盜まれし者有て疾に此方へ訴へたり然るを知らずして訴へ出たる事是天罰なり依ては汝等其金を盜しに相違なしソレ引立よと申さるゝにぞ同心直樣引立假牢へぞ入れたりける其時越前守殿十右衞門に向はれ今其方承まはる如く右の金は盜み物なり日々其方店へは大勢入り込む事故萬一落て有るまじき物にも非ず能々吟味致し今日中に申し出づべし捨置て若後日申し出るに於ては其罪重く盜賊の同類たるべし家内の者共屹度穿鑿を遂早々否やを訴へよと嚴敷申渡されしかば豐島屋大いに怖れ早々立歸り手代始め一同呼出し今日大岡樣斯々仰せ渡されたれば萬一右の金子を拾ひしものあらば隱さず申し出よと言渡しけるに若者のうちに一人發規と返詞をせざる者ありしが稍あつて此者申すは先刻掃除を致し候處隅に財布樣の物是有し故拾ひ置き候とて差し出せしかば改め見しに金二十兩入て有しに付十右衞門は早速奉行所へ持參なし右の段申し立て財布を差出しけるに越前守殿最初假牢へ入置れし兩人の願ひ人を繩付のまゝ再び白洲へ呼出され其方共訴へ出し財布は是成べしと渡され先に汝等へ繩を掛盜人盜み物と云し故夫なる豐島屋大に驚き騷ぎ早速吟味行屆て其金を出したり然も無ては押包み容易に出すまじと思ひし故斯は計ひしなり偖々汝等窮屈に有しならん早繩を解免し此金子を請取すべしと申渡されければ七右衞門久七の兩人は始めて其譯を悟り實に有難き仕合せなりと涙を流して喜びけり猶又大岡殿七右衞門を呼れ汝が證人駕籠舁久七は奇特なる者ゆゑ渠が親切にて其金汝が手へ戻りしなり因ては二十兩の内十兩久七へ遣すべし其代りに汝が娘の勤め奉公の苦難をば助け遣さんコリヤ十兵衞と呼れし時十兵衞は始終の樣子を聞て大岡殿の頓智に舌を卷實に恐れ入て冷汗を流し居たりしゆゑ急に答へも出ず平伏するを大岡殿見られ其方知らざる事とは申ながら其金子を押隱し置しは下人共の不屆にして其方平生の申付方行屆かざる故なり因て下人共儀屹度御仕置にも仰せ付けらるべき筈なれ共用捨致し遣す其代り七右衞門が娘を早々其方請出すべし其上にて同人を其方へ屹度預くる間吉原勤め年季だけは汝が方へ差置べし若此娘の儀に付異變之有ば早速此方へ訴へ出よと申渡されければ七右衞門は此事を聞より彌々有難く思ひ聲を揚て悦び涙に昏たりけり又豐島屋十兵衞は有難き仕合せ委細畏まり奉つるとて立歸りしが此事番頭始めへ相談に及びし處右の女を預る儀は迷惑千萬の事なり生物の事故如何なる異變あらんも量り難し然る時は又御咎めの程も知ざれば請出せし上何分にも願ひ上て娘を親元へ引渡すより外に了簡なしと評決して其段奉行所へ願ひ出でければ大岡殿聞屆られ親元へ相對に致すべき旨申渡されしにより其段豐島屋より親元へ掛合猶又双方より伺ひ濟の上豐島屋より衣類其外殘る所なく支度して金子も幾干か相添七右衞門方へ娘を送りたり誠に孝心の餘慶報い來て苦界を遁れ駕籠舁の實意を以て此事早速裁許に相成り其上大岡殿の當意即妙七右衞門娘の悦び譬るにものなしと此頃此儀專ら評しけるとかや彼番頭久兵衞は己が盜みし金を大橋文右衞門へ言掛り此七右衞門は己が落せし金を言掛りなりとて打擲を請其事柄相反すと雖も各自其邪正を洞察れし裁許天晴明斷と言つべし 第四十五回  扨又大岡越前守殿には文右衞門一件段々吟味の末下谷車坂町六兵衞店藤助の兄弟を呼出されしかば久兵衞は彌々絶體絶命と覺悟は爲ものゝ又何とか言拔んと心に工夫をなし居たり時に大岡殿藤助に向はれ其方は油屋五兵衞方へ何頃より奉公住致し又何頃眼病にて暇を取しやと申さるゝに藤助私し儀は十六歳の時より五兵衞方へ參り七ヶ年相勤め候處昨年春中より眼病を煩ひ勤め兼候故七月中暇を取て宿へ下り居候と云ければ越前守殿其方歳は何歳にして兩親又は妻なども有りやと尋ねらるゝに藤助私し年は廿二歳兩親は先年死去仕つり妻も御座なく只今は妹の世話に成漸々今日を暮し罷り在候と申すを越前守殿聞れ夫れは不審の事なり妹の手一ツにて今日を暮すと申せども渡世は何をして居るや但し又妹が人の世話にでもなりて居るかどうぢや其方主人方の番頭久兵衞は汝が處へ常々出入と申すが全く然樣か公儀にては能御存知なるぞ僞るに於ては其方の爲に相成ず明白に申立よと有りしに藤助は大いに恐れ私し儀久々眼病にて甚だ難澁仕つり今日を暮し兼候ゆゑ妹の民こと番頭久兵衞の世話に相成り右にて今日を過し居り候と云ければ越前守殿成程然もなくば女の手一ツにて暮しの立筈はなし而又去年十二月中旬に久兵衞より何ぞ預りたる物はなきやと問るゝに藤助は少し考へ其儀私しは聢と辨まへ申さず妹民へ御尋ね願ひ上奉つると申せしかば越前守殿お民に向はれ其方は久兵衞より何か預かりたる物はなきやどうぢやと尋ねらるゝにお民は先刻より慄へ居たりしが漸々面を上去年の暮十三日に久兵衞さんより百兩の金子を私しへ渡されて是れは手前に遣はすにより何にても買求めよとて貰ましたと申立ければ久兵衞傍らにて是を聞コリヤお民己れは跡形もなき事を云ふ女なり何時己が手前に百兩などと云ふ大金を預しやコレ宜加減に虚を吐と恐ろしき眼色にて白眼付けるを大岡殿見られコレ〳〵久兵衞當所を何と心得居る虚實は此の方にて聞分けるぞ爰な横道者めと大聲に叱られしかば大膽不敵の久兵衞も威光に恐れ一縮みと成て控へ居るに大岡殿コリヤ民其方久兵衞より貰ひし百兩は如何致せしやと有りければお民は久兵衞の方を見ながら右の金子にて櫛簪又正月着の小袖帶など種々拵へ兄藤助にも着物を調へて遣はしましたが未だ餘程殘りをりますと申すに越前守殿コリヤ久兵衞今其方も聞通り己が世話をして置女が暮の十三日に百兩の金を貰ひて種々品物を求めたりと申すではないか其の百兩の金子は如何して所持せしや主人の金を盜み取り無證據なりとて文右衞門に塗付んと巧みしに相違あるまじ不屆至極の奴なり汝は一年何程給金を取て居るや其金盜まざれば何方より出したる金子なるや明らかに白状せよ斯程に證據のある事を何時まで陳じ居るぞ未練な奴ぢやと申されしかば久兵衞はお民を發打と睨つけヤイ爰な恩知らずの畜生女め百兩の金を此久兵衞より預けし覺えはなし何時預けしや能了簡して見ろ己は夢にも知らぬ事をべら〳〵喋りをると然も恐ろしき顏色にて睨付ければお民も今更一生懸命に泣聲を出し久兵衞さん御前こそ虚を御吐なさる私しは御奉行樣より有體に申せとの仰せ故包まず申上るのさ決して私しを恨んで下さるな御前は主殺しの上夜盜をしたとか言ふ事迚も命は助からぬから男らしく正直に白状して御仕舞なオイ久兵衞さん私しとても御前の恩は忘れはせぬが公儀を僞るは恐しいゆゑ正直に申上ます必らず恨んで下さるなと云ふに久兵衞最早仕方なしとは思へ共猶強情を張て居るを大岡殿コリヤ久兵衞是れにても己は白状せぬかと云るゝに久兵衞は左右に伏せず一向覺え御座りませぬと申ければ大岡殿聲高に扨々汝は強情なる奴かな然らば猶又引合する者あり彼の者是れへと申さるゝに同心ハツと答へて馬喰町二丁目八十二軒組武藏屋長兵衞方旅人後藤半四郎這入ませいと呼込に久兵衞は是を聞て大いに驚き色蒼然て控へ居たり時に後藤半四郎は今日呼出しに付先刻より呼込あるを今や〳〵と待兼たるゆゑ直樣浪人臺へ罷り出一向容體にも構はず控へたり然れば久兵衞は半四郎を見て彌々驚き眼を閉頭を下げて居けるに大岡殿如何に半四郎渠の證據を申立よと云れしかば後藤は久兵衞を見るや否や忽ち怒り心頭に發しヤイ久兵衞汝は大膽不敵の惡黨なり先年三島の一件を打忘れ益倍惡心増長して今度大橋文右衞門へ百兩の云懸をせし事言語同斷の曲者なり汝是を盜み取て文右衞門に負んとの惡巧又主人五兵衞が悴五郎藏の嫁に不義を仕懸しゆゑお秀は耐兼て逃出したるを却て親夫を見捨て出し女には持參金道具類とも返す事はならずなどと汝一人の取計ひにて引止置渡さざるは皆横領せんの巧ならん爰な大惡人めと白眼み詰しが大岡殿へ向ひ某し儀當年より十八ヶ年以前劔術の師なり養父なりの後藤五左衞門と申す者諸國修行に出し所上州大間々にて病死仕り候砌早速同地へ罷り越師父の追善を營み其後罷り歸り候節中仙道熊谷土手にて越後浪人新藤市之丞と申す夫婦の者惡漢に取卷れ難儀致し候を見るに忍びず某がし惡黨を追散し夫婦を救ひ夫より熊谷宿寶珠花屋八五郎と申す旅籠屋へ止宿致し市之丞疵養生致させ候處江戸表へ罷り出度由申候に付右八五郎兄なる江戸馬喰町二丁目武藏屋長兵衞方へ彼夫婦の者を送り屆け猶少しの手當を遣はし夫婦の身分を長兵衞に頼み置某しは國表丸龜へ立歸り候節東海道戸塚宿より江州商人と申す者道連に相成其夜三島宿の長崎屋と申す宿屋へ止宿仕つり候所夜中に至りて右連の男某がしが寢息を考へ所持の金子を盜み取んとするにより引捕へて金子は取り返し以來心を改めよとてよく〳〵異見を差加へ候節宿屋の者共馳來りて渠が片小鬢の毛を拔取入墨を致せしに付猶又渠惡心出しなら水鏡みなり共移して改心せよと申し含め逃し遣はせし奴は即ち是なる久兵衞に御座候然るに某し儀此度江戸表見物として長兵衞方へ止宿仕まつり候處折節長兵衞弟熊谷宿寶珠花屋八五郎も出府致し居面會仕つり候に同人娘儀江戸下谷山崎町油屋五兵衞悴五郎藏と申すものゝ方へ縁付候へども家内不熟且は此久兵衞事嫁の秀へ不義を仕懸候趣きにて右秀儀里方へ逃歸り候に付據ころなく離縁仕つらんと掛合に及び候處是なる久兵衞一人不當のみを申募り持參金道具代は勿論親亭主に暇を呉候女に離縁状は出し申さゞる由を申して一向取合申さず依て秀親八五郎歎き候間不便に存じ某し油屋五兵衞方へ掛合に參り候に豈はからんや番頭久兵衞と申すは先年三島宿にて一旦取押へたる騙子なれば渠も驚きし樣子にて大いに恐れ早速離縁状は差出し候へども右の通り素よりの惡漢ゆゑ是まで如何樣の惡事を爲しやも計り難し此度浪人文右衞門の一件も久兵衞が仕業に相違是なきやに存じられ候間何卒御糺明の上文右衞門出牢仰せ付られ候樣願ひ奉つると事明細に申立ければ越前守殿聞置たりとのことにて如何に久兵衞白状せぬかと申さるゝに久兵衞は差俯向し儘一向無言なれば半四郎は堪へ兼ヤイ久兵衞某し罷り出る上は如何程陳じても役には立ぬ有體に白状して仕舞言ざるに於ては此半四郎が目に物見するぞと白眼付るに久兵衞はハツと平伏しが最早此の上は是非なしと思案を極め漸々に首を上て文右衞門に申しかけし百兩の金實は己れが盜み取て藤助妹へ遣はしたる始末等殘らず白状に及びしかば是に於て久兵衞は口書爪印申付られけり是即ち幕府の規則にして假令如何樣に證據物等之有り其者の惡事判然たりとも當人の口より白状に及ばぬ中は爪印申付られぬ事なり然ば斯樣に念を入て吟味を詰らるゝとかや 第四十六回  然程に久兵衞は口書爪印と成けるゆゑ大橋文右衞門は出牢申付られしかば去年十二月より今年三月まで概略四ヶ月の間無實の難に苦しみしも天日明かにして終に其濡衣を干ければ當人は申に及ばず女房お政の歡喜言ん方なく迅速に腰懸まで迎ひに來り是偏へに御奉行の明斷に因所なりと白洲の方に向ひて頻りに伏拜み嬉し涙に昏たりけり時に後藤半四郎は再び大岡殿に向ひ恐れながら某し御奉行樣へ願ひ上奉つり度儀御座候右は先刻申上し寶珠花屋八五郎娘秀離縁の儀に付油屋久兵衞方より持參金并びに道具類等未だ返し呉申さず候間何卒御威光を以て右の金子道具共殘らず相渡し呉候樣の御沙汰成下され度此段偏に願ひ奉つると申ければ大岡殿點頭れて直樣八五郎を呼出され其方娘を五兵衞方へ縁付し處今度離縁に及びたれども未だ持參金道具類を請取ざる由持參金の高は何程なるや申し立べしと有に八五郎は何事なるやと思ひしに斯る尋ねなれば意外に喜び娘が持參金は百兩に御座候と申立ければ大岡殿五兵衞を見られ其方は嫁秀を離縁に及びし處未だ持參金道具類とも返さざるよし不埓なり今日中に殘らず返すべし持參金を切金などには相成ぬぞ此段屹度申渡すぞと嚴敷申付られたり因て五兵衞は爲術なく畏まり奉つるとて夫れより一同腰懸へ下り五兵衞は八五郎に向ひ今仰せ渡されの儀は何卒持參金ばかりにて勘辨致し呉られよと申ければ側に聞居たりし後藤半四郎は進みより否々道具類とても決して勘辨相成ず彼是云て埓明ずは貴樣が嫁のお秀へ毎夜々々不義を仕懸し始末を申立て御吟味を願ふべしと云ふに五兵衞は甚だ赤面なし夫れは如何にも迷惑仕つるにより其處はどうかと申すを半四郎は否々底も葢も入ぬ彼是云るゝなら御吟味を願ふ而已なりと云ければ五兵衞は殆んど爲方なく然あらば取揃へて御返し申すべしと云ふに半四郎夫れは云ふまでもなし急度返さば其儘若今日中に返さざるに於ては又候訴へんと嚴敷云ふゆゑ五兵衞は終に金百兩并びに諸道具とも戻しけるとなり右相談の濟し頃大岡殿又々一同呼込れコリヤ五兵衞其方が久兵衞に盜まれたる三百五十兩は其儘汝へ下遣はす併し召仕ひ久兵衞を盜賊と知ず差置浪人文右衞門へ無實の賊名を負せんと云懸りたる其罪甚だ輕からず是に依て文右衞門へ詫金百兩遣はすべし尤も改めて猶申渡すで有う然樣心得よと有るに是又五兵衞は是非なく發と平伏して仰せ畏まり奉つると申すに大岡殿は後藤へ向はれ半四郎右の詫金は其方へ取立方申付る間五兵衞へ懸合に及び受取次第文右衞門へ相渡し申すべしと云れ夫れより又文右衞門を呼れ右詫金百兩を其方請取ば長八が娘の身請をなし親元へ歸すべし殘り金の儀は其方存じ寄次第に致せと申されければ文右衞門は有難く畏まり奉つる旨申すに又大岡殿は下谷車坂町六兵衞店藤助と呼れ其方儀久兵衞より預り置たる百兩の金子は殘り何程是あるやと尋ねらるゝに藤助恐ながら私し儀困窮の身分に付借錢等相拂ひ當時三十五兩殘り有り候と申を大岡殿聞れ然らば其金三十五兩は公儀へ御取上になるぞ然れども藤助能承はれ右の金子は元不正の金ゆゑ不足の分まで殘らず御取上に相成る筈なれ共其方永々の眼病にて盲人同樣に付格別の御慈悲を以て殘金三十五兩だけ御取上に相成る間有難く存ずべしと申渡され此日は一同下られけり扨翌日七日の差紙にて一件關係の者一同呼出され落着とぞ相成ける是享保五年三月七日なり時に大岡越前守殿白洲に出座有て申渡し左の通り 下谷山崎町 家持 五兵衞 其方儀盜賊とは知ざるとも召使ひ久兵衞へ家業向打任せ候により浪人文右衞門へ難儀を掛候段重々不埓に付屹度咎め申付べきの處格別の御憐愍を以て御沙汰之なき間文右衞門へ詫金百兩遣はすべし 下谷車坂町 六兵衞店 藤助 其方儀久兵衞を盜賊と知らずと雖も不正の金子を預り置事不屆に付屹度咎め申付べきの處格別の御憐愍を以て過料錢七貫文申付る 右 藤助妹 たみ 其方儀兄藤助眼病中孝養を盡し候段奇特に思し召れ御褒美として青差五貫文下し置る有難く存ずべし 馬喰町二丁目 武藏屋長兵衞 同人方旅宿 浪人 後藤半四郎 其方共儀新藤市之丞外萬事世話致し候段神妙に思し召れ御褒美として白銀十枚ヅツ下し置る有難く存ずべし 馬喰町二丁目 前名新藤市之丞 當時屑屋 長八 其方儀先年の恩義を忘れず文右衞門へ金子返報致し候志操神妙に思し召れ御褒美として青差五貫文下し置る有難く存ずべし 新吉原江戸町一丁目 玉屋山三郎代 彦助 淺草田町 喜六店判人 利兵衞 其方共儀長八娘身受相談の儀は公儀に於ても孝心を御賞し有るに付利欲に關らず深切に懸合を遂遣はすべし 屑屋 長八娘 かう 其方儀親孝行の段奇特に思し召れ御褒美として白銀五枚下し置る有難く存ずべし 元油屋五兵衞 召仕 久兵衞 其方儀主人の金子を盜み取剩さへ主人悴五郎藏を殺害致し候段重々不屆に付江戸中引廻しの上淺草に於て磔に申付る 右相濟屑屋長八は娘お幸の戻りしを喜び頓て聟を娶て小切店に商賣替をなし家内益々繁昌しけるとぞ又大橋文右衞門は心懸天晴なる者に付目を懸遣はすべきの由奉行所より町役人へ内意も之有し旨古主松平越後守殿へ聞え早々歸參となり元知五百石に復し物頭役申付られ忠義を盡しけるとなり其後此一件落着の趣き越前守殿より將軍家へ言上の砌り後藤半四郎の噂を申上られしかば其者の武藝を試みんとの上意にて半四郎を吹上へ召出され御旗本十八人まで劔術試合を仰せ付けられ八代將軍吉宗公上覽有し處後藤に敵する者一人もなく皆々打負ければ將軍家殊の外御賞美有て新知二百石下し置れ御旗本に御取立相成ければ半四郎の喜び譬るにものなく是より後藤喜三郎秀國と改名して忠勤を勵み家富榮えけるとなん 後藤半四郎一件終 松田お花一件 松田お花一件 第一回  爰に備前國岡山御城主高三十一萬五千二百石松平伊豫守殿の藩中松田喜内と云ふ者有代々岡山に住居せしが當時の喜内は壯年なるに兩親を亡ひ未だ妻をも娶らず獨の妹お花と云るを家に養ひ置纔に兄弟二人の家内にして祿高五百石をを領し外に若黨二人下婢一人中間小者共主從九人の暮しなり扨此喜内は學問を好み軍學武藝にも達し物堅き生質なれば諸方より妻を勸むる者あれども妹を他へ縁付ざる中は迎へ難し殊に我等未だ三十にも足ざれば急ぐにも及ばずとて請引ざるにぞ當時の若者には珍敷人也と一家中譽ざる者は無りける又妹お花と云は當年十六歳にて容顏の美麗なるは我朝の小町唐土の楊貴妃をも欺くべく然らば同家中は素より岡山中に双ぶ女は有まじと評判高かりければ是又諸方より嫁に貰はんと云者最多けれども兎角喜内が心に適はず宜に挨拶して打過ける茲に喜内の若黨に吾助と云者有しが此お花を深く思ひ初主人の妹とは知ながら折々可笑き想振などして袖袂を曳けれども此吾助元來醜き男にて勿々お花が相手になるべき器量ならず殊に若黨なれば尚更請引樣もなければ只一人胸をぞ焦ける然るは其頃同家中に高五百石を領す澤井佐太夫の次男に友次郎といふ者あり當年十九歳にて古今無双の美男なりしが早晩の程にかお花と割なき中となり喜内が當番の留守の夜などには竊にお花が閨に忍び來り語らう事も稀に有しかば彼の若黨の吾助は此樣子を覺り口惜き事限りなく彌々胸を苦しめて居たりけり斯て或夜の事喜内は當番にて留守成しかば例の如く友次郎はお花の部屋に忍び來りしを吾助は聢と見濟し此由を御殿へ行て旦那へ申上二人の不義を顯し日來の無念を晴し呉れんと直樣御殿へ走り行き只今急用有て參りたり早々喜内樣に御目に懸りたしと云入けるに頓て喜内は何事成哉と立出るを吾助は待兼て聲を密め御令妹お花樣御事豫て澤井友次郎殿と不義成れし事私し存じ居候へども確なる事を見ねば旦那樣の御耳にも入難しと存し處今宵も御當番の御留守を窺ひ友次郎殿事お花樣の御部屋へ忍び來られたり此事確に見屆け候故御注進申上候と云ければ喜内は騷ぎたる體もなく吾助其方供を致せと云ながら直樣自宅に立歸りお花が部屋に直と這入ばお花はハツト仰天して友次郎を夜着の中に手早く隱し側に有し友次郎が脇差を引拔て兄上御免し下されと云より早く咽喉にグサと突立んと爲るを喜内は手早く押止め其方は豫て出家の望み有て相州鎌倉なる尼寺へ參り度心願の由夫故豫て我に暇を呉よと申せしを今迄は許さゞりしが夫程迄に思ひ詰し事なれば止たりとも止るまじ因て只今身の暇を遣すべし其方出家致すからは此以後對面は叶はぬぞ然ながら女の身にて遠路の處身を衞る者なくては叶はずと云ながら彼の友次郎が脇指をお花に渡し此脇指を肌身離さず何事も相談して怪我なき樣に暮すべしと懷中より二包の金子と藥の入し印籠を取出し是は纔ながら兄よりの餞別なり二品を持て早々出立せよと云つゝ其儘お花が部屋を立出ればお花は元より友次郎も夜着の中より喜内が後影を伏拜み頓て兩人は支度をなし二包の金と藥を押戴きて懷中に納め何方を當と定め無れど見咎められては一大事と鼠竊々々に岡山を立退けり偖喜内は翌日になり私しの妹花と申者豫て出家遁世の望み有之に因止事を得ず昨夜身の暇を遣はし候と太守へ屆け出ければ夫にて事故なく濟けるが濟ぬは彼の若黨吾助胸にて二人の不義の樣子を現在に見屆ければ必定物堅き喜内の事故二人共に手討に爲べし然れば是迄の無念も晴るなりと思ひて告たりしに案に相違の喜内が計ひ金迄持せ落して遣其上喜内よりの申聞にはお花事は豫て出家の望み有により暇を遣せしなり夫を不義者などと申觸せし段不埓千萬なりと大いに叱られしゆゑ吾助は喜内の心を知らねば片贔屓なる仕方と深く喜内を恨みつゝ此返報は今に思ひ知すべしと爰に於て喜内を殺し恨みを晴さんとの惡念芽しけるこそ恐ろしけれ斯て吾助は好機あれかしと隙を窺ひけるに喜内は何事も愼み深く其上武術に達しければ憖ひに手出を成て仕損じては一大事と空敷半年餘りを過しけるが或時喜内は不圖風邪に冒されて臥たるに追々熱氣強く十日餘りも床に着ければ其間若黨二人一夜代り〳〵に次の間へ打臥夜中の藥を煎じなどしけるが今宵は吾助の番に當りて例の如く次の間に寢て居たりしに喜内は熱氣少し薄らぎたるにや其夜は心快げにすや〳〵と眠れる樣子なれば吾助は心に思ふ樣今喜内殿病に疲れ眠りたるなれば假令寢首を掻共正體は有まじ豫ての怨みを晴すは此時なりと常に案内知たる事なれば先納戸へ到り喜内が衣類と金子二百兩を取出し一包にして夫より密と雨戸一枚を外し置件の包を飛石の上に置徐々下て庭口と門の扉を開き迯る道を補理置て元の座敷へ歸り喜内が寢息を考ふるに喜内の運の盡にや有けん正體もなく能寢入り居るにぞ吾助は心に歡び用意の刀を拔放し喜内が寢たる上に打跨り言をも云ず柄も徹れと咽喉を刺貫せば喜内はアツと聲を立しが元來物に動ぜぬ人なれば心を鎭めて考ふるに咽に貫きし刀の刄右の方を向て有し故左りの方へ跳起て枕元に有し短刀を拔き汝曲者御參なれと切て掛れど病に疲れし上痛手をさへ負たれば忽ち眼昏みて手元の狂ひし故吾助が小鬢を少し切しのみ尻居に撞と倒れたり吾助は切付られてハツと駭き迯る機會に行燈を蹴返して暗がりと成ければ此所ぞと滅多切に斬散しける程に喜内は左の手を切れたり茲に於て喜内は是非なく聲を立て皆々出會々々と云程こそあれ吾助は見咎られては一大事と豫て拵へ置たる迯道より彼の一包を携へて何處ともなく迯失けり其後へ若黨下部等は喜内が聲を聞付て走り集りしが行燈は消て闇がりなれば狼狽廻り漸々に灯を燈し見るに是は如何に主人喜内は朱に染て俯臥に倒れ居るにぞ皆々仰天して抱き起し呼生るに暫くして喜内は息を吹き返し有し樣子を委敷物語り重て若黨の忠八と云ふ者を側近く招き寄汝は我が方に幼少より勤め魂ひをも見拔し故申殘すなり我吾助を一打に爲んと思ひしに眼昏みたれば纔に小鬢少しを斬剥しのみ取り迯したる段殘念千萬也我死なば右の由明白に太守へ訴へて家財殘らず相改め請取の役人中へ引渡すべし其節見苦敷振舞無き樣皆々へ申付よ又具足櫃の内にある貞宗の短刀と用金五百兩の内二百兩は汝預かりて何卒國々を廻りて妹お花に遣し呉よ又百兩は右の路用として汝に遣すなり殘りの二百兩は汝を始め下人共一統に遣さん間配當すべし此旨我遺言なりと役人中へ申達し麁忽なき樣に致すべしと云を忠八は涙と倶に聞終り御意の旨委細畏まり奉つり候お花樣には屹度御目に懸り此二品を御渡し申御遺言の旨趣も御傳へ申すべし然れど敵吾助未だ遠くは參るまじ追止て恨みを報ぜんと刀追取立上るを喜内は待てと呼止今汝追行共最早時刻も移りたれば其甲斐有るまじ汝其志操あらばお花に廻り逢し上我無念を晴し呉よと云うを此世の名殘にて廿八歳を一期とし終に果敢なくなりければ最早歎きても詮なしと忠八は主人の遺言の趣きを下人共に委細に告倶々に喜内が死骸を夜着の内に納め其由目附役迄訴へ出ければ早速檢使入り來りて死骸を檢め忠八より遺言の趣きを委細聞て立歸りし後種々評議ありしに當時喜内に親類もなく子は猶更有ねば是非なく家斷絶に及びけり因て忠八は遺言の通り家財殘らず太守へ差上貞宗の短刀と金五百兩のみを殘し置其中金二百兩は下女下男五人へ旦那の紀念なれば何迄も御恩を忘れず御回向申せと云ひ聞せて配分しければ皆々涙ながらに押戴き散々にこそ出行けれ夫より先に忠八は喜内の死骸を寺院に葬り石碑を建て回向料など厚く寄附し萬事手落なく濟せければ下人共を下たる跡にて明朝屋敷を引拂ひ候旨屆け出其翌朝件の二品を腰に付泣々岡山の城下を立て或松原に差掛りしが此方の松蔭より黒き頭巾にて面を隱せし一人の侍士四邊を見廻し立出て忠八暫しと云聲に驚き見返れば彼の侍士が黒き頭巾を脱を能々見るに澤井友次郎の父佐太夫なりしにぞ忠八は再び驚きて一禮成ば佐太夫も會釋して此方へと云て以前の松蔭へ連行扨も此度喜内殿の横死嘸々愁傷ならん其方も知て居らんが友次郎の事に付ては大恩の有る喜内殿故某しも早速參り御世話も致す可筈なれども世の義理有ば思ひながら打過にせしが扨今朝其方が出立と聞及びて最前より此所に待居たりしなり友次郎事は勘當致せし者故某しより何も助言は致さねども喜内殿の大恩を思はゞお花殿に力を添敵吾助を討取べしと其許心付れしならば其由悴に告て給るべし又此金子は纔ながらお花殿へ進じ申度とて金二百兩の包を出し外に金五十兩是は其方が路用の足に致すべしと二包の金子を渡せば忠八は其志操を感心し主人末期に及びお花殿へ紀念金として二百兩預かり居候へば是にて事足ぬには有まじけれど折角の御志操故私し御預り申屹度御屆け申すべし又友次郎樣へも只今の御言葉は私しの存じ寄も同樣に御座候へば憚りながら御助言申上候はん然ども私し事は主人より路用として數多の金子を貰ひ請て候へば御思召の程は重々有難く存ずれども此金子は返納仕つりたしと云を佐太夫は押返し夫しきなる僅の金子を彼是と云れては却て痛み入なり平に受納めらるべしと種々に云ければ忠八今は辭し難く二包の金子を押戴き然ば是にてお別れ申さんと云を佐太夫も止め兼て呉々も首尾能本望を遂目出度歸國有べし猶もお花殿の事頼み入と茲に佐太夫忠八の兩人は涙ながらに別れけり 第二回  然程に忠八は岡山の城下外なる松原にて澤井佐太夫に別れ何を當と指て行べき方も無れど先京大坂は繁華の地なれば若やお花樣御夫婦の彼處に止まり給はんも圖り難し彼是と思はんよりは先大坂へ登り夫より京都と段々尋ねんと吉備津浦より便船せしに日々追手風打續き十日目にて大坂川口へ着船しければ夫より大坂に足を止め日毎に新町道頓堀或は順慶町の夜見世など人立多き所に行てはお花夫婦并に吾助が所在を尋ね探せども是ぞと思ふ手掛りも無斯て在事二百日餘りに成しかば最早大坂にては有まじ京都に行て尋ね見んと其夜伏見登りの船に乘て翌朝伏見に着せしが此處も繁華の土地なればとて三日程逗留して尋ぬれ共夫ぞと思ふ人もなく然らば京都へ登らんと此處を立出三條の龜屋と云る旅籠屋に宿りしに當所は大坂と違ひ名所古跡も多く名にし負ふ平安城の地なれば賑しきこと大方成ず祇園清水を始として加茂北野金閣寺其外遊所はもとより人立繁き方へ行ては尋ぬれども此處にも更に手掛りなく彼是と半年ばかりも暮しける中或日雨強く降て流石の忠八も此日は外へも出ず宿屋に一人徒然に居たりしに此家の亭主出來り偖も折惡敷雨天にてお客樣には嘸かし御退屈成んと下婢を呼飪を入菓子など出して待遇にぞ忠八も折柄宜咄相手と種々の物語をなしけるうち亭主申けるは一昨年の夏祇園祭の時にて候ひしが私し方へ年頃廿歳ばかりの男と十六七の女中の御武家方と見ゆる人と祭見物に登られ二夜泊りて歸られしが其日の晝頃立戻られて大切の印籠を忘れたれば何とぞ吟味致し呉よと云れし故座敷々々を殘らず尋ぬれども一向に知申さず尤も祭の時分なれば客人多く私し方ばかりにて五十人餘の相客なれど若や先へ立れし人が間違られ荷の中へ入て行れしも圖り難し氣の毒ながら私し方には之なしと申せしに夫婦の衆は大に力を落されあの印籠は大恩ある人より紀念同樣に貰ひし品なれば失ひては濟難し然りながら忘れて立しが此方の過ちなれば是非もなしと悄然として立れたり扨其後二日程過て右の印籠を下女が座敷の袋戸棚より見付出し候が然ればとて何處の何某と云御人なるか聞ても置ねば御屆け申べき便りもなし併し言葉遣ひは中國筋の御人と見請たれば其後は中國言葉の御客と見る時は若や斯樣の人は御存じ無や御逢成る事も有らば其の節取落されし印籠は私し方に確にお預り申置候へば此由を御通じ下さる可とお頼み申せしが今に知ず餘り雲を掴む樣成御頼み事也とて呵々と笑ふを忠八は倩々聞て何やら其樣子は友次郎御夫婦に似て其上印籠を紀念同樣と云しも謂れ有筋なりと思ひしかば忠八は膝を進め御亭主只今の物語り拙者少し心當り有苦しからずば其印籠を鳥渡拜見は成間敷哉と云に亭主は其は何より易き事也とて下女を呼て其印籠を取寄忠八に渡し此品にて候と云にぞ忠八手に取て一目見に黒地に金にて丸に三ツ引の紋散し紛ふ方なき主人喜内が常に腰に提られし印籠なれば思ず涙を落とせしが故と笑に紛し再び亭主に對ひ此印籠は拙者が心當りの人の所持品に相違なし然りながら斯申せし計りにては不審は晴まじ彼の夫婦の面體は斯樣々々には有ざりしやと云うに亭主は手を拍て仰の通り少しも違はず何でも物ごとは話して見なば譯らぬものなり貴君樣に此お話しをせずば大切の品を何時までも預り居るか知れざりしに今日元の主へ返へすべき便りを得しは實に不思議の幸ひなり然らば此印籠貴方樣へ御渡し申べし何卒先樣へ御屆け成れて下さる可と悦びて言けるにぞ忠八も又大に悦び然らば此品は拙者慥に預り參る可し併別に證據もなく受取て參らんも心能らねば以前失ひたる持主を同道致して御挨拶に參るまでの間だ金子三兩御預け申置べしと云を亭主は押止め夫程迄に堅く仰せらるゝものを何故疑ひて金子などお預り申可や其儀は御無用なりと云にぞ忠八は亭主が侠氣に感じて懷中より金百疋取出し是は餘りに輕少なれども此印籠を探し出せしと云女中に遣し給へと渡しけれども亭主は手にだも取ず某し旅籠屋商賣を致居れば御客樣の物品の紛失爲は某しが不調法なり然るに探し出したればとて女中共へ斯樣なる御心遣ひを蒙る謂れなしと一向に受納めねば忠八は止事を得ず其意に隨ひ彼の印籠を請取て状を改め是に就て尋ね申度事有右夫婦の者は此家を立て何國へ參り候や存て有ば教へられよと云に亭主暫く考へて何國と申す先は存ねども出立の時大津へ出る道を問れし樣子確に覺え居候へば若や江戸の方へでも御出にては有間敷哉是も聢と定めては申されずと云を聞て忠八は大いに悦び然る上は今より直に出立す可と云を亭主は押止め此大雨に勿々御出立は相成るまじ其上最早申刻も過たれば大津迄出給はぬ内に日は暮申すべし夫よりも今宵は此所に泊られて翌未明より立給ふが御便利成べしと申ければ忠八も實にもと思ひ其夜の内に是迄の宿賃を拂ひ外に茶代として二百疋を遣はしければ此度は亭主も辭み難く受納め酒肴など出して饗應けれども忠八はお花等が行方を聞より少しも心落付ず酒も宜程に濟し夜着引冠りて寢たれ共餘りの嬉しさに其夜はまんじり共せず翌朝未だ暗き中に起出食事抔もそこ〳〵仕舞て大津の方へ立出けり 第三回  是より先に友次郎お花の兩人は喜内が情にて金子二百兩と藥の入し印籠を貰ひ請備前岡山の城下を泣々立出しが何處へ行て身を寄んと云方もなく然ばとて岡山近所にも住居も成難く兎角此邊に居んよりは遠路ながら江戸へ赴かば諸侯も多き處と聞及べば能主取りも成べしとお花にも此由を云聞せ旅裝ひは道々調へんと先二百兩の金を百兩はお花の胴に附させ殘りの百兩を自分に所持して慣ばぬ旅を陸路より漸々大坂迄着ければ先此所にて暫く休足すべしとて或旅籠屋に逗留して住吉天王寺を始め所々を見物しければハヤ五月も過六月の初旬となり炎暑強き頃なれば凉風の立迄當所に逗留して秋にもならば江戸へ下り主取せんと云をお花は聞て成程暑さの時分道中は堪難き物ならんが然とて此所に浮々と長逗留して路用を遣ひ减さば主取も爲給ふに萬事不都合成ん少しの暑さへ耐へ江戸に落付て安心なすが増ならずやと云も其理有ば友次郎も然らば出立の用意すべしと宿へも其由を物語り享保二年六月五日の夕船に乘て翌六日の朝伏見へ着船したりける折柄祇園祭りなれば參詣として大坂より船にて京へ登る者引も切ず其時友次郎はお花に對ひ其方も見聞通り祇園祭の由にて此通りの見物なり此處よりは僅に三里と云ば好機なれば祭りをも見たる序に名所古跡をも見物爲べし江戸へ下りては重て見物に上るも難かるべしと云ばお花も悦び見物いたし度といふにぞ友次郎はお花を連て人の後に付行程に頓て京都九條通りへ出此處にて宿屋を尋けるに三條通りにありと教ゆるゆゑ即ち三條通りへ行き龜屋と云家に泊りしに祇園祭りとて見物人の相宿多く漸々八疊の間を二ツに仕切て其處へ落付未だ日も高ければ其日は東山邊を見物なし翌日は又祇園會の山鉾などを見て歸りには御所より北山の方を見物する處友次郎は元よりお花も始めて都の地を踏事なれば見る物聞く物毎に耳目を驚かさゞる事なけれ共少しも早く江戸へ行んと云心頻りなれば僅に二夜泊りて龜屋方を出立せしが斯る混雜の中成ば友次郎は喜内に貰ひ受けたる印籠を取落し一里餘行て思出し那は大切の品なれば紛失させては濟難し此處迄來りて取て返へすは太儀なれども印籠には代難しとて取て返し龜屋に至り右の由を云て尋ねけれども一向に知れず是非なく其處を立出て其夜大津に泊り翌日は未明より立て名にし負近江八景を眺めつゝ行程に其以前大津を立し時より後に成り先に成て行しは町人體の一人の旅人なり友次郎夫婦は何の氣も付ず瀬田の橋の手前なる茶店に腰打掛けて休みし時彼の旅人も其店へ這入煙草など吸ながら友次郎等に對ひ貴君方には何へ御越有哉と云掛られ友次郎は豫て道中には騙子と云もの有と聞及び居ければ弱みを見せては成まじと思ひ我等は中國の者なるが主人の用事により夫婦連にて江戸表へ參るなりと云へば彼旅人は夫こそ誠に幸ひなり私し事は大坂天滿邊の町人にて候が此度江戸の店へ用事有りて罷越候に付幸ひの御道連苦しからずば今晩の御泊りより御同宿致し度と云れて友次郎は迷惑せしが然有ぬ體にて夫は幸ひの事なり相宿の儀は兎も角も先道連に成申さんとて是より彼の男と同道して行程に彼旅人は旅馴たる者と見えて此邊の名所々々知らざる處もなく此處に見ゆるが比良の高嶺彼處が三井寺堅田石山などと案内者の如く教ふるにぞ友次郎夫婦は我知らず面白き事に思ひ猶樣々に此處は何彼處は何と尋るに元より辯舌優れし者故夫々に答へ追々京大坂の話遊女町芝居などの事迄尾に尾を付て物語りけるにぞ夫婦は旅の憂をも忘れ歩行もさして太儀に非ざれば流石は若き人心能道連を得たりと打悦び互ひに笑ひつ笑はれつ何時か草津石部も夢の間に打過て水口の驛に着し頃は夏の日なれども早申刻過共思はれける八九里の道を咄に浮たて歩行し事故お花は餘程草臥たる樣子なり友次郎とても久敷京大坂に逗留し今日踏出しに大道を歩行たる事なれば今宵は早く共此宿に泊らんと云けるを彼の男は否々夏の旅は是から先が肝要なりお花樣とやらには駕籠を傭ひて進らせん何分僅の道故先の宿迄行給へ晝中と違ひて夕方はまた格別歩行能ものなりと勸められ餘儀なく夫婦も水口を立出けり 第四回  斯くて澤井友次郎は彼の町人の勸めにより水口の宿外れよりお花を駕籠に乘其身は町人と共に咄等爲乍ら駕籠の後に付て行程に一里餘りにして大野と云る建場に來りしが友次郎は過つて草鞋の緒を切ければ履替んとしける中彼の町人は傍に寄最早日も暮るに近ければ此建場は休まずに行べし草鞋を手早く履て追付れよと云捨駕籠を急がせ遣けるにぞ友次郎今直に履替れば暫く待給へと云を耳にも掛ず彼の町人は聞えぬ體して急ぎ行ゆえ友次郎は心ならねば草鞋を履や否直に駈し追付んと急迫ども駕籠は何に行しや見えず猶も追付んと足に任せて急ぎけれども一向に影だに見えざれば餘りの不審さに向ふより來る二三人の旅人に各々方は斯樣々々の駕籠に行逢給はずやと問けるに知ずと云も有しが其中の一人が其駕籠は今方確此後の松原から南の横道へ一人の男が付て急ぎ行しと云にぞ偖は彼の町人と見えしは惡者にて有けるか欺かれしこそ殘念なれ未だ遠は行まじ退止てお花を取返さずして置可やと宛然狂氣の如く以前の旅人が教たる横道を指て急ぐ程に何時の間にか日は全くに暮果たり然ども宵月の時分なれば少しも撓まず何處迄もと追行ども更に駕籠の見えざるのみか問んと思ふ人にも絶て逢ざれば若此儘尋ね得ずばお花は如何に成やらんと案事る程猶胸安からず暫しも猶豫ならざれば足に任せて追程に何時しか廣き野中へ出道幾筋となく有ければ何に行て能事かと定め兼四方を眺めて立止まりしが遙向うにちら〳〵と燈の光り見るにぞ友次郎は大に歡び何は兎もあれ彼處は人里有處と思はるれば湯にても水にても一ツ貰ひて息を休め其上にて又尋ねんと燈火の見ゆる方を當に歩行事大凡一里許と思ふ頃燈火の光は見えず成けるにぞ彌々途方にくれ斯ては詮方なし然ばとて斯しては居られず何にしても此道を行ば人里へ出ぬと云事は有まじと心を勵して歩行まんとしけるに是まで何里共なき道を走りたる事故大いに足を痛め歩行難きを引摺々々又もや十四五町も歩行しと思ふ時漸々一軒の家有所へ出たりける友次郎は心嬉しく偖は最前燈火の光見えしは此家成りけるかと心に點頭立寄て見るに門の戸を堅く閉て早寢たる樣子也然れども此所を起して尋ねずば何にも尋ぬる方あるまじと思ひ門の戸を敲きて呼起すに未だ内には寢ざるにや年寄たる嫗の聲にて應と言て門の戸を開友次郎の顏を見て何所より來給ふやと問れて友次郎は小腰を屈め夜更て御老人を駭かし申事何共氣の毒千萬なり某は旅の者にて先刻一人の惡漢に出合連の女を見失ひ夫を尋ねんが爲に所々方々と駈廻しが不案内と言殊に夜中の事故道に踏迷ひ難儀致す者也何とも申兼たる事ながら湯にても水にても一椀戴き度と言ば主の老女は打合點夫は何とも御氣の毒千萬なり先此所へ上りて緩々と休み給へとて圍爐裏に掛たる古藥鑵より湯茶を汲で差出す其待遇體の念頃なるに友次郎も心落付暫らく息を休めて扨老女に打對ひ率爾ながら此處は何と言所にて東海道の宿迄は道法何程是有やと尋ぬるに老女は答へて此處は大野の在にて街道迄は二里餘りも有ぬべし只今承まはれば御連を見失ひ此所迄後を追駈て走り詰にて來給ひしと成ば定めてお草臥の事ならん今より何を尋ね給ふ共夜中にては知申まじ見苦しさを厭ひ給はずば今宵は此所にて夜を明し明なば早く此村の者を傭ひ大勢にて尋ね給へと云れて友次郎はお花の事の心に係れば暫しも落付氣は無れども先刻よりの足の勞れに今は一歩も歩行べき樣なければ老女が言葉を幸ひに容を改め夜中參り御世話に成ばかりも氣の毒なるに一夜の宿は何共御頼み申兼れ共見らるゝ通り足を痛め居れば實は今より一足も歩行難し依て仰に任せ何の端に成とも一夜を明し申度必ず御世話は御無用と云にぞ老女は然ばとて盥に水を汲て友次郎に足を濯がせ圍爐裏に柴を折焚ながらお旅人には定めて物欲く思はれんなれ共此處等は街道へ遠ければ魚類は乾魚も買難し今朝炊たる麥飯に鹽漬の茄子あり是にて厭ひたまはずは飢を凌ぎ給ふ迄に進らせんと膳を出すにぞ友次郎は大いに悦び是は〳〵辱けなし然らば遠慮なく戴き申さんとて飢たる腹へ五六椀を食し今は腹合も直り漸く人心地付しが荷物は殘らずお花の乘たる駕籠に付しかば着物は汗に成たれども着替る事さへ成ず然共夫等を厭ふべき時ならねば飯を喰仕舞て老女に一禮を述圍爐裏に寄て煙草をぞ呑居けるに老女は膳を片寄ながら礑と手を拍私しは隣村迄今宵の中に是非行ねば成ぬ用有しを事に取紛れて打忘れたり折角の御客に留守を預けるはお氣の毒ながら手間の入る事にあらねば暫時留守して給はるべし定めて勞れ給へし成らんに着せ進らせん夜の物もなし當所は殊に蚊の多ければ爐に蚊遣りを仕掛て其の邊りに寢轉び草臥を休め給へ何卒暫時頼み進らすと云つゝ立ち上りて門の戸引き閉め出て行きけり 第五回  跡には友次郎只一人思ひ廻せば廻す程お花の事が心に係り眠らんと爲れども心冴其上夜の更るに隨ひて漸次に蚊は多くなり右左より群付にぞ斯ては勿々眠られずと起上りて圍爐裏に柴を折くべ居る時しも此方の納戸共覺しき所にて何者やらん夥多しく身悶えして苦しむ音の聞ゆるにぞ友次郎は膽を潰し何事成んと耳を濟し窺ふに聲は聞えねども足摺して苦しむ樣子の一しほ始めに彌増ければ何共合點行ず心成ずも密と立上り襖の透間より差覗くに納戸の中には灯りもなく小さき火鉢に蚊遣の仕掛有しが燃落て薄暗き側に聢とは見えねども細引にて縛られたる一人の女居たり友次郎は發と思ひ能々見るに此は如何に己が尋ね探すお花なりければ驚きながらも嬉しさ限りなく直樣走り入て其體を見るに身は細引にて縛られ口には猿轡を箝てあり友次郎は見も悼ましく先縛りし繩を解捨猿轡をも取り除るに解手遲しとお花は友次郎に抱付流石に餘處を兼しか聲をも立ず泣けるを友次郎は諫め勵まし泣てのみ居ては事分らず樣子如何にと問掛ればお花も屹度心付涙を拂ひ妾が此處まで連られ來りしには種々樣子有ども夫は道々御話し申さん夫れよりは先急ぎ此所を遁れねば二人とも如何なる憂目に逢んも知れ難し少も早く落付給へと云ば友次郎は何か仔細は分らねども然らばとて手早く草鞋履しむればお花も有合の草鞋を足に引掛二人手を取り裏口より忍び出しは出たれども何に行ば街道ならんと思ひながらも一生懸命の場所なれば足に任せて走る程に何程來りしかは知らざる中夏の夜の明安く東雲近く成しと覺えて行先に驛路の鈴の音人足の聲など遙に聞えければ友次郎もお花も始めて蘇生たる心地して扨は街道に近く成しぞと猶も道を急ぐ程に頓て宿場共思はるゝ所へ出し頃は夜は白々と明放れ往來の旅人も多く有ければ兩人は漸々心落付初めて勞れを覺え先づ此邊にて一息繼んと茶見世に立寄て腰を掛ければ茶店の親父は茶を汲て出しながら二人の樣子を見て不審さうに貴君方には夜前は水口へ御泊にて有しかと尋ねられ友次郎は包み難く我々は昨日惡漢に出逢夜通しに此所迄遁れ來し者なり此宿は何と申すやといへば親父は氣の毒さうに夫は嘸かし御難儀の事成ん此處は土山宿にて街道筋なれば最早惡者の追來る憂ひなし緩りと御休み成るべしと深切の言葉に友次郎も頼母敷思ひ此所にて草鞋買調へてお花に履せ自分も履替などして厚く一禮述立出しがお花は是迄に息をも繼ず歩行續けし事なれば友次郎は夜前の始末を話すべき隙なかりしが最早惡者の追ひ來るべき心遣ひなしとてお花は友次郎に打向ひ昨日大野とやら云建場を出しより駕籠舁共頻りに急ぐ故妾も不審に思ひ貴君の事を尋ぬれば駕籠舁共の云にはお連樣は跡より續いて來給ふなり早く行ねば日が暮ると尚も急ぎける故妾も實に然事と思ひ居し内日は暮て人一人も通らぬ野原へ舁込だり貴方には續いて來給ふかと度々問ども其後は駕籠舁共は聞ぬ體して一向に返事もせず斯て餘程の道を走りしと思ふ時怪き一ツ家に駕籠を舁込しが主の老女一人居り其時彼の町人と思ひし男私しに對ひ最早此所迄來る上は如何に叫ぶとも詮なし翌日は京の遊女町へ連行て金にする積なれば其心得にて此姥樣の處に今宵悠々と泊り居よと云れて偖は惡漢に欺かられしか殘念や口惜やと遁れんとすれ共先づは四人の荒男勿々遁すべき樣無れども然ばとて阿容々々として遊女などに賣るべきや心を勵まし隙を見合せ迯出せしが女の甲斐なさ終に又捕へられたり因て彼等は云樣斯して置ば又々迯んも知れずとて有合細引にて縛めらるゝ時に胴卷に入し百兩の金をさへ見附られ暗々と奪ひ取れ納戸の柱に縛り付られ彼の百兩の金は四人にて取分になし三人の男は其の儘歸りたり然るに其跡へお前樣のお出有し故彼の老女は私しの連なるを知り心能宿を貸し置密かに以前の三人に知らせお前樣を殺さんとて隣村まで行くと云て出行し其樣子は納戸の中にて殘らず聞ては居ながら猿轡を嵌られたれば聲を立る事さへ成ず夫故に那樣に物音をさせてお知らせ申せしに夫と察してお前樣納戸に入りて私しを助け下されし故危き所を遁れ候ひし然ながら面目なきは百兩の金を取られしことと云ば友次郎は始終を聞終りて彼百兩の金子を失ひたるは止事を得ず怪我のなかりしが幸ひなり實に浮雲き事成しと語りつ聞つ兩人は道を急ぎて辿りけり 第六回  夫よりして友次郎夫婦は路次の油斷なく少しも早く江戸に到り如何にもして身の落付を定めんものと炎暑の強きをも厭はず夜を日に繼で行程に早晩大井川をも打渡り箱根の峠も難なく越え藤澤の宿に泊りたる其夜友次郎は俄に熱氣強く起り悶え苦みけるにぞお花の驚き一方ならず土地の醫者を頼みて見せけるに是は大暑の時分に道中を爲給ひし故邪氣を冒込其が俄に發したるのにて先づ申さば霍亂なりとて藥を置て戻りしにぞお花は早速煎じて飮するに其夜の明方頃になり友次郎は夥多敷吐けるが夫より大いに熱も醒すや〳〵と眠る樣子なるにぞお花は少しは安堵せしに其翌日より友次郎の右の足に大きさ茶碗を伏たる程の腫物出來て病むこと甚だしく自由には起居も成ざればお花は又もや駭きて以前の醫者を呼て見するに此度は醫師も首を傾け是は何共名付難き腫物なり何にもせよ口を明て毒を取らねば大事に成んも知れず大切なる腫物なれば隨分お大事に成るべしとて煎藥と膏藥とを調合して置て行ければお花は彌々胸安からず醫者の教へたる通り腫物に膏藥を貼煎藥を勸めて看病に暫時も油斷有ね共如何成事にや友次郎が腫物は元の如くにて一向口も明ず痛みは少づつ緩む樣なれども兎角に氣分宜しからず惱み居けるぞ傷しや友次郎も最早日付にしても江戸へ着るゝ處迄來て居ながら情なき此病氣と心のみ速れども其甲斐なく妻のお花も夫の心を汲分ては悲しくも又口惜きを一人心を取直し夫の氣を落さぬやう可笑もあらぬことにまで笑ひ慰め居たりしが兎角藥の効驗もなく夏も去秋も過てはや其年も暮になりけれども一向に驗も見えず斯て居ること既に一年餘りに成ければ路用の貯へとてもお花が所持せし百兩は惡漢に奪ひ取れ友次郎が持し百兩も岡山を立しより是迄に過半遣ひ捨し上此處にて斯一年餘りの病氣に藥代は元より旅籠其の外の物入りに大概遣ひ失し今は貯はへも殘り少なになりければ斯ては當所に長く逗留も成難し然ばとて夫の病氣今少し快方ならねば出立も成まじとお花は一人心を痛めつゝ又四五ヶ月も滯留せし中終に路金は殘りなく遣ひ捨夫よりは櫛を賣簪しを賣て其日の旅籠となせしが此さへ彼の惡漢に出會し時夫婦の衣類を包みし荷物を奪ひ取れし事ゆゑ最早賣物もなく詮方なければ胸を苦しむるばかりなり然るに此旅籠屋の主人と云は元江戸にて相應に暮せし町人ながら當所へ移り宿屋を始めし者にて侠氣ある生れ付なれば友次郎が長の病氣にお花が苦勞する樣子を見て氣の毒に思ひ種々心を付慰めしが此程は貯へも乏しく成りしと見え猶々心勞する體の如何にも不便なりと思ひしにぞ或時友次郎が座敷へ例の如く見舞に來り御客には今日の御樣子は如何に哉と尋ぬれば折節友次郎は眠りにつきお花は枕元に藥を煎じて在しが夫と見るより言葉を改め是は〳〵御深切に毎々御尋ね今日は何よりも心能樣子にてすや〳〵眠り居候と云を亭主は聞て夫は〳〵先何より重疊なり而て御食事などは如何やと云ふにお花は食事も氣分も快き折には隨分給候が氣分の塞ぐときは無理にも給られぬと申て溜息ばかり吐居兎角に果敢々々敷驗も見えず實に困り入候とほろりと翻す一雫を見せじと瞼をしばたゝき夫に就ては長々逗留の間種々と別段の御厄介になり何とも御氣の毒千萬と云ば亭主は能咄しの機と思ひ何時まで御逗留ありしとて手前は夫が商賣なれば少しも世話とは思ひませぬが御良人は御大病なり其樣なことには決して御心遣ひなく何時迄も緩々と御逗留成れまし然ながら斯樣申せば何とも失禮千萬なれども永々の御逗留と云殊には御良人の御病氣にて御物入も莫大ならん縱令餘計の御貯はへ有とも斯して在れなば追々殘り少なになり旅先は別て心細くも思ふものなり金銀は湧物なれば今なくとも出來る時節も有事故若其樣な事にて御心配なさるは御無用なり縱令御貯への路金盡たりとも御病氣御全快迄は御心靜に御逗留成るべし其間は何に寄ず御入用有ば仰られよ又少々の金子なれば隨分御用立申べし必ず然樣な事に御遠慮あるべからずと深切なる亭主の言葉にお花は涙を流して打歡び是迄種々と厚く御世話に預りし上只今の其御言葉此御恩は命に代ても報じ難し實は御察の通り僅の路銀を遣ひ盡し此程は櫛簪しを拂ひしも最早夫さへ殘りなく誠に當惑の折柄なるに御深切の御言葉に甘え何とも鐵面皮しき御願ひなれども今少し夫の病氣の快る迄御慈悲に滯留を御頼み申たく夫に付て又一ツの御願ひ有何の御役にも立まじけれど切てもの御恩報じに私しを御女中衆の中へ御加へ下され御客樣の御給仕にても御させ成れて下さりませと云ば亭主は打案じ夫は入ぬ御心配なり御武家に御育ち成れし御身が宿屋の女の手傳ひも成まじ然ながら手前に然樣な心は塵程も有ねども貯へなくて滯留するは氣の毒と御心遣ひが有ては却て惡ければ御言葉に隨ひ御客が多く手の足ぬ時は御頼み申べしと言れてお花も少しは安堵し臥たる友次郎を搖起し此事を内々話しければ友次郎も悦びて何分共に願ひ候と言れて亭主も夫婦の者の其心根を察し遣り本意ならぬ事には有ど終に其意にまかせけり 第七回  夫よりしてお花は日夜下婢の中に立交り勝手元の事など働くにぞ亭主はいとゞ不便に思ひ家内の者に言付てお花を恤はらせければ下婢仲間にてもお花を麁略にせず力の入事などはさせざりけり然ともお花は身を粉にしてなり恩を報ぜんものと思へば如何なる賤き業をも少しも厭ず客が來れば夜具の上下風呂に浴れば脊中を洗ひ或時は酒の給仕などにも出るにお花は容顏麗しければ是を慕ひ多くの旅人の中には種々なる戯れ事を云掛る人など有て五月蠅も腹立敷折も有ども何事も夫の爲且は情ある亭主への恩報じと思へば氣を取直して宜程にあしらひつゝ月日を送りけるに或時旅人多く泊り合せし中に一人の若黨體の武士あり風呂に入たる樣子なるにぞお花は例の如く老實しく湯殿へ到りお湯の加減は如何や御脊中を流申さんと云へば彼の旅人は否湯も宜加減なり決て構ふべからずと云ながら此方を見返り不圖お花の顏を見て彼の旅人は驚きたる樣子にて小聲になり貴娘はお花樣にては無きや如何の譯で此家にと云れてお花は薄暮ければ面貌は知れざれど我が名を呼は不審なりと彼の旅人の顏を能々見るに岡山に在し時數年我が家に使ひたる若黨の忠八にて有ければ餘りの事に言葉も出ず女の細き心にて斯る賤き姿に成しを絶て久敷逢ざりし若黨に見らるゝ事の恥しくも口惜く又嬉しさも取交て先立涙を押拭ひ其方は忠八にて有けるか恥しき此身の姿是には種々話もあり聞度事も多けれ共此處では話しも成難し友次郎樣も此家に在るれば後に緩りと語るべしと云に忠八は點頭て然らば友次郎樣に御目に懸りたる上何かの御話も仕つらん私しも仔細有て御二人樣の御行方を那地此地と尋ね居しが此所で御目に懸らうとは夢にも存ぜずと云時勝手にて御花さん〳〵と呼聲の聞ゆるにぞ然らば後にと云捨て御花は頓て立去けり斯て忠八は三年越尋ね詫たるお花に圖らずも今宵廻り逢たることなれば一時に豫ての望み足ぬと湯もそこ〳〵にして上り夕飯も仕舞お花の知せを今や〳〵と待中に程なくお花は出來り此方へと云案内につれ忠八は後に付て行ける程に友次郎が病に臥たる一間に到りしかば忠八は座敷に入り先友次郎が病氣の樣子を見て大に驚き其故を如何にと問に友次郎は漸々に枕を上誠に我々二人が不義今更悔みて詮なく又其方に對面するも面目なき仕合せなり我れ此病氣を煩はぬ先に不義不孝の天罰ならんか此所まで來る道すがら種々の艱難に逢路用の金をさへ失ひし其概略を語らんに兩人が岡山を立退しより陸路を大坂へ登り廿日餘り休足せしが少しも早く江戸へ到り身の落付を定めんと同所を出立せし其折柄祇園祭ありと聞京都に立寄り見物して行んと彼地に到り過ちて大切たる印籠を失ひ夫より江戸に下らんとして大津の宿外れより惡漢に付れ終にお花を奪ひ取れ斯樣々々の譯にて取返せしが其の節荷物と路金百兩を奪はれたり然ながら我懷ろに遣ひ殘りの金六十兩餘も有ければ是にて江戸へ下り取付んと思ひ夫より道を急ぎて當所迄來りし所此病氣に取付れ假初の樣なれどもハヤ二年越しの長煩ひに貯はへ殘らず遣ひ捨其上お花の櫛笄ひ迄も賣盡し外に詮方も無りしに此家の主人がお花の苦勞する樣子を見て悼しく思ひ或日我が眠り居る時此座敷へ來りお花に對ひ縱令貯への路金は盡たり共然樣な事に少しも心遣ひなく病氣全快ある迄看病して緩りと滯留致すべしと情ある言葉を頼みに貯へはなけれども不自由なく暮し居れば切ては少の手助けでもして亭主の恩に報はんとお花が心付にて下婢の中に立交り賤き身と成下りし事是偏に天の惡しみ給ふ處と今更思ひ當りしと有し樣子を物語れば忠八は驚き歎じ此處に夫程御滯留有とも知らず所々方々尋ね廻りしこそ愚なれ併し今宵此家に泊らずば御目にも掛らず江戸迄行んものを是誠に天道の引合せ給ふ處成べしと云つゝ潜然と目に涙を浮めけるにぞお花は怪みて側に摺寄り此方の事のみ云て御國許の樣子は如何にや其方が私共の行衞を尋ぬると云も不審夫は置て兄君喜内樣にも澤井の父樣にも御機嫌能か物堅いお生れながらお兄樣は早三十にも成給へば御内方でも迎へ給ひしか樣子は如何にと問懸れば友次郎も諸ともに絶て久敷古郷の樣子少しも早く聞度と云れて忠八兎や云ん角や云んと胸の中一人苦しめ居たりけり 第八回  扨も忠八はお花夫婦に問掛られ何とか云て宜からんと一人胸を苦めしが何時迄か包み隱さんと心を定め四邊を見廻し聲を潜めてお兩人樣御尋なくとも申上ねば成ぬ大切の事あり其仔細と言は一昨年の事にて候ひしが私し同樣に御家に御奉公致し居候吾助事何故かは存じ候はねども喜内樣の御病氣の節御看病を致しながら人々の寢入りたる樣子を考へ喜内樣の御病氣勞れにて眠り給ひしを見澄し一刀に御咽元を指貫き候ひぬ然ども勇氣の喜内樣故刺れながらも跳返し給ひ短刀にて唯一討にと切掛給ひしが御病中と云深手を負れし上なれば御眼眩みて吾助が小鬢を少し斬れしのみ折柄燈火消ければ吾助は是を幸ひと滅多切に切散し闇に紛れて何國ともなく遁失たり其時始めて喜内樣には御聲を上られしにぞ私し始め皆々ソレと言つて馳付候ひしにお悼しや深手何ヶ所も負給ひ御養生叶ふべくも候はず其時喜内樣には私しを近く召れ敵は吾助と見屆ながら打洩しぬる事殘念なり汝は幼少より家に仕へて性根をも見拔たれば申し殘す一儀あり我死なば具足櫃の内に貞宗の短刀と用金の貯へ五百兩有其内金二百兩と短刀はお花が行衞を尋ね出し紀念なりとて渡し呉よ又百兩は汝が路用に遣はし殘り二百兩は下人共へ配當すべし其外の品は一切手を付ず取調て御見分の御役人へ御渡し申すべしと細々御遺言有て終に亡く成給ひし然ば泣々仰せの如く取計ひ御石碑をも建立して御後の取賄ひ萬事濟せ後下人共へは御紀念金を分與へて暇を取せ私し事は翌朝岡山の城下を出立致せしに城下外れの松原にて友次郎樣の親公佐太夫樣に端なく御目に掛り斯樣々々の仰せ有しと友次郎へ教訓の言葉とお花へ贈る二百兩の金を預りし事又其身も路金にとて五十兩の金を貰ひしを辭退すれども聞入なければ據ころなく受納めたることまで始終の樣子を委敷物語ればお花は元より友次郎も夢かとばかり打驚き涙は落て瀧の如く中にもお花は心も亂るゝばかりに泣悲しみ暫時は正體も非ざりしが何思ひけん友次郎が脇差を拔より早く既に自害すべき有樣なるにぞ忠八は遽て押止め御花樣には如何なれば御生害を成れんとは仕給ふや兄君の御成行を御聞成れ御心にても亂れ給ひしかと言ばお花は涙を止め是程の大變を聞しなれば少しは心の亂れもせん此度吾助が兄君を害せしは皆我身より起りしことと思はるゝなり其の譯は日外よりして吾助事我が身に度々不義を云掛しかども心に染まねば強面くも返事も爲ざりしに不圖した事より恥かしながら友次郎樣と互に思ひ思はれて終に割なき中と成しを吾助は疾に知しと覺しく是を口惜き事に思ひけん妾一日友次郎樣を部屋に忍ばせたることを兄君に申上二人ともに戀の意恨憂目を見せて夫を腹慰に爲と思ひし處兄上には我身と友次郎樣とを夫となく其夜の中に落し給ひしかば夫より吾助は愚にも兄君を怨み斯る大變を生ぜしなれば然は我が身の不義より大切な兄君を亡ひたるなり日外部屋にて自害せば此大變は起るまじきに死後れたるこそ口惜けれ今更死ぬとも詮なけれども切ては命を捨て成と兄君への申譯をせんものと又もや刄を取直すを友次郎は痛みも忘れ叶はぬ足にて躄り出先刄を拏取て其方が申處も道理なり我とても其折潔よく切腹せば斯る事にも成まじきを命を惜み落延しは今更後悔至極なり然しながら今其方にせよ我にせよ假令生害したりとも何面目あつて喜内殿に地下にて言譯が成べきや夫よりも我思ふには敵吾助を尋ね出て首取て亡魂を祀らば少しは罪を贖ふに足るべきか心を鎭めて熟と思案を致すべしと言れてお花も成程と思ひしが友次郎の言葉に隨ひければ忠八も安堵して先喜内が紀念に遣はしたる貞宗の短刀と金二百兩并びに佐太夫がお花へとて贈りたる金二百兩を胴卷の中より取出し二人の前に並べ又彼の印籠を取出して日外失なひ給ひしと有りし印籠は是にては候はずやと言ば二人は大いに驚き如何にして此品の其方の手に入しやと言に忠八は是には長き御物語りあり一通り御聞下さるべしとて岡山の城下外れにて佐太夫に別れしより吉備津の便船に乘り大坂へ着同所に半年餘も逗留し夫より京都に到り三條通りなる龜屋と言るに宿を取此所にも半年餘りも居て友次郎樣夫婦の所在を尋ねしかども一向に知ず然るに或日雨降て外へも出られねば空しく宿屋に在し所宿の亭主の物語にて此印籠を得しのみならずお二人樣の御行方も大方知ければ其翌朝京都を立出江戸へと心指夜を日に繼で急ぎしに不測にも當宿にて御面會申せしなりと始終の樣子を物語れば友次郎夫婦は歎きの中にも印籠の再び手に入しことを喜び且龜屋の亭主の侠氣なるを感じ其の夜は積る物語に夜を更し翌日に成て此家の亭主を招き國許より是なる家來參り合せて金子も手に入たれば御案事下さるまじ是よりは主從三人に成て御世話も増ならんが今少し御厄介に成たしと言けるに亭主もいとゞ歡び夫は何より重疊なり日外より申通り御逗留の事は何時迄にても仔細なしとて此日は酒肴など出して忠八を饗應ける斯てお花は喜内に貰ひたる印籠の中に何ぞ友次郎が藥に成べき品は無かと一ツ〳〵に開て見るに其中に腫物一切の妙藥と記したる一包の藥有りければお花は大に悦び友次郎にも忠八にも是を見せ試みに用ひては如何やと言ば友次郎は何にもせよ腫物一切の藥と有ば用ひるとも障りには成まじとて包みを披きて見るに中に用ひ方まで委敷記し有にぞ大いに便りを得て其藥を紙へ伸て腫物の上に貼置けるに其夜亥刻頃より痛む事甚だ敷曉方に成て自然と潰え膿の出る事夥多敷暫時有て痛は忘れたる如く去ければ少しづつ動かし見るに是迄寢返りも自由に成ざりし足が膝を立ても痛む事なき故友次郎は云に及ばずお花忠八も甚く悦び斯ては日ならず江戸へ下らるべしと猶怠りなく看病せしかば五日目には起居の成樣になり十日目頃は座敷の中を歩行程に成ければ最早大丈夫なり此處より通し駕籠にせば日着に江戸へ着すべしと友次郎は其日亭主を呼び明朝出立の事を話し是迄長々厚き世話に成し事をお花と倶に禮を述旅籠賃の外に肴代など遣はし下婢共にも少しづつの心付して友次郎お花をば駕籠に乘忠八は後に付て藤澤宿を立出けり 第九回  話頭異りて爰に松田の若黨吾助は主人喜内を討果して豫ての鬱憤を散じ衣類一包みと金子二百兩を盜み取闇に紛れて備前國岡山を立去しが豐前國小倉の城下に少しの知音有ければ此に便りて暫く身を隱し其後何れに成とも落付を定めんものと先づ小倉を心指て漸々辿り着其人を尋ねけるに是は四年跡に江戸表へ引越たりと言にぞ吾助は頼む木蔭に雨漏心地して尚も種々と聞合するに當時は江戸本郷邊に呉服物の見世を出し當所より織物類を取登せる程の身代になりしと聞少しく落付然らば是より江戸へ下り本郷へ尋ね行て身の落付を頼まんと思ひけれども元來吾助は船に弱き生れ付なれ共暗き身故便船を求め播州室の津に到りけり當所は繁華の湊にて名に聞えたる室の早咲町など遊女町軒を連ねて在ければ吾助は例の好色者と言ひ懷中には二百兩の金もあり先此處にて勞れを慰め鬱を晴さんと五六日早咲に逗留して居たりしが不圖心に思ふやう此處にて金銀を遣ひ捨んよりは江戸へ行て身を落付後心の儘に樂まんと夫より室を立て其夜は姫路に泊り三日にて大坂へ着せしかども江戸へ下る心頻りなれば暫しも止らず東海道は人目繁ければ若や岡山の人に逢もせば面倒なり木曾路より中仙道を行に如く事なしと路次を急ぐ程に日ならずして板橋の宿に着にけり然るに吾助江戸は始てなれば何れが本郷にや西も東も分らぬ故小倉にて聞たる通り本郷二丁目にて呉服商賣をする桝屋久藏と云者と尋ねしに其頃新店なれども評判よきにや直に知ければ吾助は大いに悦び先見世に行て樣子を見るに間口は六七間奧行も十間餘土藏は二戸前あり聞しに増て大層なる暮し成りければ獨心中に歡び是程の暮しならば我等一人位何やうにも世話して呉れるならんと小腰を屈めて見世へ這入我等は元備前岡山にて御懇意に致したる者なり何卒御亭主に御目に懸り度と云ければ店の者は奧へ到り主人久藏に斯と告いざ勝手口より御通り有べしと案内するにぞ吾助は勝手口に到り此處にて草鞋などを脱で奧へ通るに主人久藏も立出て先互の恙なきを祝し合扨久藏言出けるに偖も貴殿には備前岡山なる城下に能奉公口有て主取なし給ふ由承まはりたるのみにて其後は絶えて音信も聞ず其中に我等は御當地へ引越たれば猶以て御無沙汰に打過しに而て此の度如何なる故有て岡山より江戸には下り給ひしといふを吾助は聞て我等事御存じの通り岡山にて主取は致したれども高が若黨奉公なり何時迄勤めたりとも詮なしと奉公の中種々なる内職致し辛じて漸々五十兩の金子を溜たれば何卒大坂か江戸へ出此金を資本にして一稼ぎ仕つり度と思ひ一先小倉に行て貴殿にも御相談致し其上何れとも決し申さんと遙々小倉へ赴きしに貴殿は江戸へ御引移りの由承まはり然らば直樣江戸へ下り御目に懸り萬事の御相談相手に御頼申さんものと遠路の處をも厭はず態々御尋ね申たりと辯舌に任せて言葉を巧みに言たりける 第十回  抑々本郷二丁目なる桝屋久藏と言る者は元備前岡山在の百姓の子にして吾助とは元來懇意成しが此久藏十八九歳の頃豐前國小倉なる織殿へ奉公に行段々精勤して金を蓄はへ後江戸へ轉居りて今斯る大層の暮しはすれども生得律義の男にて少も惡氣なく人の言事を何に寄ず眞實なりと思ふにぞ此度も吾助が言葉を眞實と思ひ聊か疑ふ心なく奉公の中に五十兩金を蓄へたりとは若いには珍しき人なりと感ぜしかば吾助に向ひ遠路のところ態々御尋ね有て御身の落着を御頼み成れ度との趣き承知致したり然ながら我等も近頃御當地へ引移り未だ昨今の事故何れに御周旋致すべしと言懇意の方もなきが幸ひ此節我等店の者無人にて手廻り兼れば當時御身の落付の定まる迄我等方に逗留有て店をも手傳ひ給はらば此方も大に仕合せなりと言にぞ吾助は打歡び然らば仰の通り是より當分の内お役には立まじきがお見世のお手傳ひ仕つらんと是より桝屋方に逗留して店の手傳ひなど爲けるに元より奸才に長し奴なれば手代の中に立交り人の爲事迄己引取てする樣に働くゆゑ久藏は吾助の立振舞を見て能人を得たりと歡びける斯て吾助は桝屋方に居ること凡そ半年餘りなるが生れ得ての好色者なれば家内に召使ふ下女に折々不義など仕掛れども既に前章にも言ふ如く至て醜き男ゆゑ誰あつて心に從はんといふ者なかりしに其頃此桝屋へ上總の在方より奉公に來りしお兼といふ女今年十七歳なるが丁百には餘程足ぬ生れ付にて下女仲間にても馬鹿々々とて遊びものにされる者あり吾助は思ふやう此女ならば必定我が言ことを肯べし當座の慰みものには是にても無には増成んと或時お兼を捕へて樣々に口説遂に無理往生に本望を遂げるに此女根が愚者なれば段々吾助に欺かれ折々忍び逢ける内何時しか腹に子を妊し月の重なる儘に人目にも立程に成りければ吾助も是には殆ど當惑して種々と思案し一の巧みを思ひ付たれば或夜おかねと忍び寢の物語りに我等如何なる縁有りてか其の方と斯深き中なりと腹に子まで妊せし上は末長く夫婦に成べき所存なり然ながら今は互に奉公の身故自由には成難し然れども追々月も重りては奉公も成まじ因て一先宿へ下り墮すとも産ともして又々奉公に出られよ尤も宿へ下るに只は下られまじ切て二兩か三兩の金を持せて遣度者なれども知らるゝ如く我等は此家へ奉公はすれども給金を取身分にも有ねば一兩の工面も成難き夫故に種々工夫せしに一ツの計略を思ひ付たり其譯と言は其方も定めて知て居らん飯焚の宅兵衞は數年奉公して給金も餘程旦那方に預け有る由然るに彼の宅兵衞は日頃より其方に心有樣子なれば厭惡で有うが如何にもして彼が心に隨ひ一度にても枕を交し呉よ然さへすれば腹の子も宅兵衞が胤なりと云立るとも仔細なし其の上にて彼より金を取夫にて身輕になる時は其方も我等も安心と云ふものなり若又不承知ならば我等も詮方なし其方とても金子もなく宿へ下りては宿の手前も惡からんなどと種々に欺し賺しければ元來愚なるお兼のことなれば甘々と吾助に欺かれ終に其の言葉に隨ひ宅兵衞に言寄る便りをぞ待にける爰に飯焚の宅兵衞と云は桝屋久藏が豐前小倉に居る時よりの飯焚にて生得愚鈍なる上最も吝く一文の錢も只は遣はず二文にして遣はんと思ふ程の男なれども至極の女好にて年は五十を越えたれども折々は夜鷹などを買ひ行て家を明る事もあり又は下女共には優しき事を言掛恥をかく事も度々なれども其を恥とも思はず近頃は彼お兼に思ひを掛け時々袖褄を引けるに一向に承知もせざりしが或夜宅兵衞一人居る臺所へお兼は何か用有て來りしを宅兵衞好機と思ひ戯れ寄りけるに思ふより易く心に隨ひければ宅兵衞は天へも昇る嬉さにて夫より二三度も忍び合し其の内お兼は懷妊の樣子を物語るに宅兵衞は吃驚し何として能らんと云ふをお兼は聞豫て吾助に入智慧されし事なれば宅兵衞に對ひ今更斯なる上は何共詮方なし何れへ成とも連退て是非共女房にして給はるべしといはれて宅兵衞は五十を越えて十六七の娘を如何に思ひても女房にはされず偖も當惑千萬と思案すれども元來愚鈍なる生れ付故工夫も出ず困り切し體を見てお兼は今更斯なりては奉公も成難し若此儘切る御心なら手當をして給る可し其金にて宿へ下り身輕に成たしと云にぞ宅兵衞は然爲には何程の金が有ば宜やと問ば先少くとも五兩なければ宿へ下り身輕には成れまじと云れて宅兵衞は是には又當惑の樣子なればお兼は顏色を變て扨は私を慰み者にして女房にもせず金も出さずお前は構はぬ了簡成ん其心ならば私も此儘には濟し難し迚も生ては居られねば此通り旦那樣に申上お前の首へも繩を懸ねば此腹立は止難しと云れて宅兵衞は彌々仰天し種々とお兼を宥め賺し然らば金五兩渡す間夫にて身輕になり必ず沙汰なき樣にすべしとて澁々五兩の金を遣けるこそ愚なりける事どもなれ 第十一回  偖もお兼は宅兵衞を欺きて金五兩を取しかば竊に悦び吾助に逢て其由を知するに吾助も大に悦びしが又一ツの計略を思ひ付お兼に對ひ扨々其方の智慧の程感心せり其働にては女房にしても末頼母敷思ふなり夫に就て爰に一ツの相談あり夫婦の中に隱し隔をするに異な物なれば何事も包まず打明て言べし豫々其方の宿は他人と聞たれば二兩持行とも世話の仕樣に異りは有まじ然れば五兩の金を皆持行て宿へ遣は溝へ捨るより無益なり夫より五兩の中二兩を宿へ持行身輕に成る入用に遣はし殘りの三兩は我等預り居て頓て夫婦になる時帶にても又何にても其の方の好みの品を拵へる足にせば便利成べしと云れ生得愚なるお兼故是を眞實と思ひ終に吾助の言葉の如く二兩の金を持宿へ下りたり然るに惡事千里の諺の如く早晩吾助がお兼と言合せ飯炊の宅兵衞より金五兩を欺き取しと言事家内の者の耳に入見世にても取々の噂ありけるを吾助は聞て心に思ふやう此事若も宅兵衞が聞ば事六かしかるべし夫のみ成ず見世の者にも顏を見らるゝ樣にて何となく居惡く成たり最早江戸の勝手も分りたれば此處に居ず共又外に宜處は幾許も有るべしと或時主人久藏に對ひ我等豫々日光の御宮を拜見仕りたき心願なりしに幸ひ此度能道連の出來候へば參詣致し度候なり因て暫時の間お暇を願ひ度と言ければ久藏は僞りとは心付ねば夫は何より好事なり我等も豫て心願なれば同道致し度ものなれども商賣に暇なければ此度は殘念ながら同道も成難し其許は我等方の奉公人と言にも非ねば勝手次第に參詣有べしと餞別として金子三兩遣はしけるに吾助は思ひしより首尾能を悦び禮もそこ〳〵支度を整へ其日出立せしが日光と云は元來虚なれば夫より芝邊へ行て四五日身を隱し居たりける然るに其頃芝明神前に藤重と云る淨瑠璃語りの女有しが容貌衆人に勝れ心優しき者なる故弟子も多く日々稽古の絶る隙なく繁昌しける此所へ吾助は不圖稽古せんものと這入込たるが好色者の癖なれば藤重が嬋娟なる姿に迷ひ夫よりは稽古に事寄せ日夜入浸りに行きけるが流石に云寄便りもなく空敷月日を過したり然共吾助は喜内を害し奪ひ取し金も二百兩の中多くも遣はず隱し持しかば其の金の有に任せて藤重が好むと云物を調へて遣其外劇場見物花見遊山などにも同道して只管氣に入るゝやうにぞ仕掛ける夫は偖置爰に澤井友次郎夫婦并びに若黨忠八は藤澤宿を立て其の日の中に江戸に着先馬喰町の宿屋に足を止め此處にても尚種々に療治せしかば友次郎の病は全く快よくなりければ夫よりは忠八と諸倶所々方々を廻り敵の行方を尋ねしかど未だ天運の定まらざるにや一向に手懸りさへもなく空く其年も暮て明れば享保五年となり春も中旬過て彌生の始となり日和も長閑に打續き上野飛鳥山或ひは隅田川などの櫻見物に人々の群集しければ今ぞ敵を尋ぬるに幸の時節なりとて日毎群集の中に紛れ入て尋けるに似たりと思ふ人にも逢ざれば最早江戸には居るまじ是よりは何國を尋ねんと主從三人額を集めて相談すれども是ぞと云能思案も出ざれば先今暫時江戸を尋ね夫にても手係りなくは其時何國にも行べしと是より又心を配りて所々尋ね廻りしが頃は三月十五日梅若祭とて貴賤老若の別なく向島の賑ひ大方ならず然るに此日は友次郎腹痛故忠八一人向島へ行て隅田川の堤を彼方此方と往來の人に心を止めて歩行けれども更に似た人もなく早日も西山に傾きしかばいざ旅宿へ歸らんとて三圍の下より渡し船に乘川中迄漕出したる時向うより數人乘合し渡し船來り行違ひさま其の船の中を見るに廿二三の女を同道したる男は疑ひもなき敵と狙ふ吾助にて有れば忠八は汝れ吾助と言ひながらすツくと立ち上る間に早瀬なれば船は疾三反ばかり隔りし故其の船返せ戻せと呼はれ共大勢の乘合なれば船頭は耳にも入ず其中に船は此方の岸に着けれとも忠八立たりし儘船より上らず又もや元の向島の方へと乘渡り群集の中を八方へ目を配りて吾助を尋ね廻りしかど何方へ行しやら混雜の中と云殊に時刻も延引したれば終に行方は知れざりけり忠八は殘り多き事限りなけれども早黄昏に及び詮方なければ一先旅宿へ歸り友次郎樣お花樣にも此事を物語り方便を以て尋ねんものと其日はすご〳〵立歸りぬ 第十二回  扨も忠八は馬喰町なる旅宿に歸りてお花夫婦に打對ひ今日向島の渡舟にて斯々の事ありしと告げれば夫婦は悦ぶ事大方ならず只行方を見定めざりしは殘念なれども江戸の中にさへ居らば尋ぬるにも便りよし然ながら彼奴も惡漢なれば其方と面を合せしからは浮々江戸に落付ては居るまじ翌日は暗きより起出て其の方は品川の方より段々に尋ぬべし我は千住板橋など出口々々を尋ね見んとて翌朝寅刻より起出て友次郎忠八の兩人は品川と千住の方へ尋ねにこそは出行けれ爰に又桝屋方にては吾助が日光へ行とて出しより早五六ヶ月になれども歸り來ざれば偖は宅兵衞を欺き金を取し事の顯れんを恐れて逃亡せし者ならんと店にて取々の噂をなしければ此事早晩宅兵衞が耳に入始て欺かれたる事を知り口惜さ限りなく如何にもして此恨みを報じ度は思へども流石に打明て主人にも言難き譯合なれば一人心を苦め居たりしが馬鹿程怖きものはなしとの諺ざの通り宅兵衞は思ひ詰てや或時主人にも告ずして大岡越前守殿の役宅へ右の仔細を自身に訴へ出ければ越前守殿一應糺問の上桝屋久藏を呼出され吾助を召捕迄宅兵衞事主人預け申付るとて下られける斯て又吾助は隅田川の花見に藤重を同道して到りしに計らず渡船にて忠八と面を合せしかば心の中安からず若やお花夫婦も當地に來りて我を兄の敵と聞尋ね居んこと圖り難し三十六計迯るに如ずとか云ば一先何れになり身を隱し時過て又江戸へ來るが上策ならんと俄に旅立の用意せしが然とて是迄に心を盡せし那の藤重を一夜なりとも手に入ずして別れんこと口惜し今宵竊に忍行て咄をなし我が心に隨はゞ直に同道して立退べし若不承知ならば止事を得ず手足を縛りてなりとも思ひを晴すべしと其夜近所合壁の寢靜りたる頃藤重が家に忍び行て見るに是は如何に何程開かんとしても戸は釘にて外より打ち付て有ば少しも開ず内の樣子を窺ふに灯の氣も見えず能々見るに表の戸に貸店と云紙札の貼付ある故是は門違ひせしかと四邊を見廻すに間違ひにも非ず吾助は何分不審晴ねば直樣家主方を起して藤重は何方へ引移りしやと尋ぬるに家主は答へて然ばなり藤重は久敷我等店に住居致せしが俄に田舍の伯母の方より迎へ來りしとて宵の程に家を片付我等に渡し出立致したりと云れて吾助は力を落し扨其の行先は何れ成と問ば家主は打案じて慥には知らねども今宵は千住泊りとか申したりと云を聞て直に家に歸り旅支度を成し千住を指て急ぎけり諺に云己人を欺かんとすれば人又己を欺くと藤重は吾助に思はれ物をも多く貰ひ花見遊山などに連らるゝを甚だ心能は思はねども商賣柄なれば愛敬を失ひては成ずと表面には嬉しき體をなして同道せしが其折々無理なる戀を云掛られ夫さへ心に障らぬ樣云拔て居しに今日隅田川の渡船にて誰かは知ず行違ひに面を見合せしより俄に吾助が顏色變り狼狽たる體を利發の藤重なれば早くも怪しと推し其上今宵夜更て遊びに來るべしと約束されしも氣味惡ければ家主に頼み其身は室町なる心安き者の方へ暫く行て居る程に留守は當分明家の積りにして若吾助が尋ね來らば斯樣々々に云拵へて給るべしと頼み置けるにぞ右の如く家主より返答せしなり此藤重と云は前に姑へ孝を盡し大岡殿より御褒美を戴きし津國屋の嫁お菊にて其後人の世話により舊習ひ覺し藝の善れば斯る業ひに世を送りしなり然ば狂言とは夢にも知ず吾助は足に任せて急ぐ程に芝神明前をば寅刻に立て千住大橋迄は未だ暗き中に來れども春の夜の明易く掃部宿に掛る時は早白々と明け渡り稍人面も見ゆる頃思ひも依ぬ後ろより吾助待と聲を掛られ驚きながら見返る處を上意々々と呼はり捕方の者十人餘りばら〳〵と掛り折重りて終に繩をぞ掛けるに吾助も喜内より劔術柔術を學び得て覺えある惡漢なれ共不意と云多勢にて押伏られし事故汚面々々と召捕れけり斯て又友次郎は其朝馬喰町の旅宿を曉寅刻に立出て板橋の方へ到り吾助を尋ぬれども何の手係りもなきにぞ然らば千住の方を尋ねんとて飛鳥山下通りより段々千住の方へと赴く途中にて五六人の男が歩行ながらの噂に今朝千住にて召捕れたる者有しが小鬢に餘程の古き太刀疵の有程の者故何でも只者には有まじと云を聞て友次郎は小首を傾け小鬢の疵とは少く心當りありと後に尾て追々噂を聞ながら行に年の恰好面體の樣子尋ね探す吾助に紛れ非ざれば直に掃部宿の自身番に懸りて委細尋ぬるに斯樣々々の人にて名は吾助と云者と咄しけるにぞ友次郎は足摺して我板橋を後にして千住を先に尋ねなば吾助に出逢本望を達すべきに公儀の御手に召捕れては詮方なし一先旅宿に歸りて分別を定むべしと悽々馬喰町へ戻りけり 第十三回  扨も捕方の同心より吾助事千住にて召捕し段屆けに及びければ大岡越前守殿には先吾助に入牢申付られ一兩日過て引出され其外桝屋久藏飯焚宅兵衞元桝屋の下女お兼など呼出され扨て吾助お兼の兩人に對はれ汝等主家にありながら密通せしのみならず懷妊せしを人に塗付んと謀り吾助兼相談の上飯焚宅兵衞を欺き不義不貞の振舞をなし金子五兩騙り取たる段不屆至極なり眞直に白状せば御憐愍の御沙汰も有べし包み隱さば屹度拷問申付んと申されければお兼は更に生たる心地せずわな〳〵震へて居けれども吾助は少も恐れたる體なく仰には候へども私し事是なる兼と密通致せし事毛頭御座なく然ば宅兵衞より金子を騙り取しなどと申事夢にも覺えこれなく候察する所是は定めて宅兵衞が兼と密通致し懷妊させ是非なく金子を兼に遣はし候所今更金子惜く相成其故根もなきことを申立私し共より金子をねだり取らんと云彼が巧に候はんと申立れば越前守殿はお兼に對れ汝吾助と申合せ宅兵衞を欺きしは相違無や少しにても僞り飾らば苦敷思ひを爲べしと言和らかに申されけるにお兼は漸々面を上震ひ聲して仰せの通り相違御座なく如何にも吾助殿と申合せ宅兵衞殿を欺き金子五兩貰ひ受候と申立るに越前守殿點頭かれ如何に吾助兼は既に白状に及びたり斯ても未だ陳ずるやと種々に事を分て詮議有ければ終に右の段々白状致しける依て猶沙汰に及ぶべしとて吾助兼の兩人は入牢申付られ宅兵衞は元の如く主人久藏に預けられ其の日は白洲を閉られけり然ば吾助白状はなすと雖も落着に致されざるは越前守殿吾助が面體の太刀疵と云何樣一癖有べき惡漢と見られし故内心には今一應吟味致し舊惡有ば糺明有んと思はれしなりとぞ然るに其日馬喰町の宿屋同道にて大岡殿御役宅へ愁訴致せし者あり越前守殿取上られて早速吟味あるに此別人ならず備前岡山の藩中松田喜内が家來忠八なり越前守殿一通申立よと有しかば忠八首を上私し主人喜内儀病氣にて平臥罷在候節私し同樣若黨を勤め居候吾助と申者夜中竊に主人喜内を刺殺し出奔致し候に付夫より右喜内妹花と申者と同人連合澤井友次郎并びに私し三人にて吾助が行方を尋ね恨を報い申度とて三ヶ年の間苦辛を厭はず所々尋ね廻り候處漸々此程隅田川の渡船にて面を合せしが不運にも取り迯せしによりその後猶又手配りして相尋ね候折柄此間千住に於て召捕られ候段承まはり及び候然る上は若も吾助事死罪にても仰付られ候へば是迄の辛苦も水の泡となり本望を遂得ず殘念此上なく候に付恐れ多き儀に候へ共吾助事死罪御免仰付られ候樣御慈悲の御沙汰願上奉まつり度と申立る時越前守殿倩々聞居られしが不圖眼を開き呵々と打笑はれ我今朝よりの吟味に勞れしにや居眠り居て只今汝が申せしこと委敷は聞取り得ざりし然りながら此程召捕へたる吾助と云る者は今日白状に及びたるが死罪に成べき程の罪にもあらず依て明後日未刻に追放申付る筈なり汝等が尋ぬる吾助とやらは必定人違ひならん疑は敷ば明後日追放の場所へ到り對面すべしかならず御府内にて麁相なる儀いたすこと勿れとて下られけるに忠八は思はず眼中に涙を浮め大岡殿の仁心を悦び感じ飛が如くに馬喰町の旅宿へ戻れば友次郎お花は今日の首尾如何なりしと右左より問掛るに忠八は越前守殿の仁智の概略を物語り然れば明後日は豫の本望成就仕つらんと云けるにお花は元來友次郎も雀踊して喜び是偏へに大岡殿の仁心より出る處なりと南の方を向て夫婦諸共伏拜み夫れより貯への金銀にて敵討の支度晴やかに拵へ其日の來るを待詫けり然程に大岡越前守殿には一日隔て次の日此程の通り吾助お兼宅兵衞其外關係の者共を呼出し先吾助お兼の兩人に向はれ吾助事は兼に種々なる惡事を申含め宅兵衞と通じさせ金子五兩を欺き取せ其中三兩を私欲に遣ひ候段不仁不義の仕方なり因て三ヶの津構の上中追放申付る又兼事は同罪とは申ながら元來愚なる生得と相見え淺果なる致し方故輕追放の上江戸構ひ申付る次に宅兵衞事は吾助等が巧みは人外なれども其の巧みに陷り兼と密通したるは汝が愚なる故なり然ば金子を取れたるは自業自得と言べし此以後心を改め女色に迷ふ事勿れと有て其餘は構なしと申渡され此事落着なしたりけり斯て其日未刻頃吾助お兼の兩人は追放に成しかば何を當に行べき方もなく品川宿を打過ける時吾助はお兼に對ひ斯なる上は最早詮なし是よりは約束の通り其方と夫婦になり何へ成共行て暮すべし其の中には又能了簡も出んかと云ばお兼は成程夫婦倶々に稼がば暮されぬ事は有まじ夫に付ても宿へ預置たる那兒には乳を飮せる者もなく嘸や泣て居る成ん吾助殿能思案は候はずやと涙ながらに物語るを吾助は聞敢ず今更小兒の事など言たればとて詮方なし捨た氣に成て斷念よと何にも薄情なる吾助の言葉にお兼は忘れんとすれども忘れられず心ならずも歩み行に此時後の方より日來の恨み思ひ知やと聲掛誰やらん拔討にお兼が肩より乳の下掛て切下ければお兼は堪らずアツと云て倒れたり吾助は驚き何者の所爲なるかと見返へれば是則ち別人ならず彼の飯焚の宅兵衞なれば吾助は大いに怒り汝如何なれば掛る振舞を爲ぞやと云せも敢ず宅兵衞は怒れる聲を張上て汝等が此程の致し方如何にも心根に徹し殘念なる故訴へ出たる所大岡樣の御仁心にて汝等が命恙がなきことを得たれば我が恨みは猶晴難し先我が刄を請て見よと眞向に振翳して切て懸る此時吾助は身に寸鐵も帶ざれども惡漢なれば少も恐れず傍に落たる松の枯枝を追取て右に請左りに流し暫し戰ひ居たりしが吾助は元來劔術を心得たる男なれば宅兵衞が隙を窺ひ持たる太刀を打落し痿む處を續け打に面を目掛て討ければ宅兵衞は眼昧みて蹌踉を吾助は得たりと落たる刀を拾ひ取眞向より唐竹割に切下たれば何かは以て堪るべき宅兵衞は聲をも立ず死したりけり吾助は一息吐て傍を見廻し宅兵衞が懷中を掻探り持合せたる金子五兩二分を奪ひ取り仕合せ宜と獨笑してお兼が死骸を見遣もせず鈴ヶ森の方へと走り行こそ不敵なれ 第十四回  惡裏に有者は天是を罰し惡表に顯るゝ者は人是を誅すとかや偖も吾助は宅兵衞を易々と殺し懷中の金五兩二分と脇指を奪ひ取其上足手搦みなるお兼さへ其處に命を落せしかば誠に勿化の幸ひなりと悦びながら足を早めて馳る程に頓て鈴ヶ森へぞ指懸りける斯る所に並木の蔭より中形縮緬の小袖の裾高く端折黒繻子の帶を脊にて堅く結び緋縮緬の襷を懸貞宗の短刀を右の手に持顯れ出たる一人の女行先に立塞り汝大惡無道の吾助大恩有る主人と知りながら兄君を害し岡山を立退し事定めて覺え有べし今爰に逢しは天の賜もの疾々勝負を致す可しと云時又此方の並木の蔭より一人は小紋紬の小袖一人は小紋木綿の布子に股引脚絆甲斐々々敷出立にて二腰を横たへたるが兩人等く顯れ出如何に吾助今は遁れんと爲共道なし早々恨みの刄を受よと双方より詰寄るは是なんお花友次郎忠八等の三人なり其時吾助は發と驚きしが元來強氣の曲者なれば呵々と打笑ひヤア小癪なり我を敵と云汝等こそ兄親の目を忍びたる不忠不義の曲者なり又汝等が兄喜内は善惡邪正の別ちなく親しきを愛し疎きを惡む誠に國を亂すの奸臣なる故我討取て立退しを汝等は愚昧なれば是を覺らず我を敵と付狙ふ事偏に麁忽の至りなり然ながら強て勝負を望むと成ば片ツ端より我手に掛今の迷ひを覺して呉んと彼の宅兵衞を殺して奪ひ取たる脇指を引拔て一討とお花を目掛討て掛るをお花は心得たりと貞宗の短刀を以て切結ぶに女なれども喜内の妹ゆゑ豫て手に覺えも有其上兄の敵と思ひ一心籠て切立れば吾助も侮り難くや思ひけん爰を專途と戰ふ程に友次郎も忠八も手に汗を握り目ばたきも爲ず控へたりお花吾助の二人は右に拂へば左に支へ一上一下と祕術を盡して踏込々々戰ふ程に吾助は名を得し曲者なりお花は心猛く勇めども流石女の悲しさは尖き吾助の刄を對戰兼思はず後退りなし小石に礑と躓き倒るゝを吾助は得たりと太刀振上只一刀に討たんとするやお花は眞二ツと見えし時友次郎が曳と打たる小柄の手裏劍覘ひ違ず吾助が右の肱に打込みければ忽ち白刄を取り落すにぞお花は直くと立上り樣吾助が肩先五六寸胸板懸て斫込だり然れども吾助は死もの狂ひ手捕にせんと大手を廣げ追つ捲りつ飛掛るをお花は小太刀を打振々々右に潜り左に拂ふを吾助は猶も追廻り進んでは退き退ては進み暫時勝負は見ざりしに忠八は先刻より拳を握りて控へ居りしが今吾助が眼の前へ來りし時足を伸て渠が向ふ脚を浚しかば流石の吾助も不意を打れて眞逆さまに倒るゝをお花は透さず駈寄て左の腕を打落せば吾助は起んと齒切を爲す友次郎お花忠八諸共押重り十分止めを刺貫し終に首をぞ刎たりけり斯りし程に所の村役人等は二ヶ所にての騷動を聞傳て追々に馳集り先友次郎等を取圍み事の樣子を聞けるに友次郎は容を改め我々は元岡山の藩中松田喜内と申者の親類にて右喜内の敵吾助と云者を狙ひ討んと三年の間所々を尋ね廻り千辛萬苦し今日此處にて出會年來の本望を達したり然る上は如何樣にも所の作法通りに行はれよと少も惡びれず答ければ村役人共然らば暫く控へ給へとて當所の名主又品川宿の役人共も立合一同評議の上當所の御代官へ訴へければ早速役人中出張有て敵討の體見分あり先友次郎等三人は御沙汰有迄名主方に控居べしとて番人を嚴重に付置扨此由を備前岡山の城主松平伊豫守殿江戸屋敷へ問合せに及びけるに此方の元家來に相違なきに依引取申度との事なれば此趣き友次郎等へ申聞近々伊豫守殿御邸へ引渡すべき間其用意有べしとの事故三人の悦び大方ならず其日の來るを今や〳〵と待程に其後岡山侯より迎への人數來り大名小路の上屋敷へ三人を引取れたり折柄太守には岡山在城中なれば家老中對面有て此度の手柄拔群なりと賞美有りて遠からず岡山表へ差下すべき旨申渡され夫より五日程過て又家老中より奉書到來致し明朝江戸表發足有べし尤も道中警固の爲足輕十人を差添らるとの事なれば友次郎等は有難き旨請をなし翌朝未明に發足せしが三人の中お花友次郎は通駕籠忠八は願ひに因てお花の駕籠の側に付添事を許され其外十人の足輕は前後に立並び若や道中にて非常の事も有ばとて專ら用心をぞ爲たりけり斯て始の夜は藤澤宿にて泊り以前世話に成たる旅籠屋何某が家に行て厚く禮を述けるに亭主も此程鈴ヶ森にての敵討の事此邊迄隱れなく遖れ御本望を達せられし段先々大悦なりと祝し倶に悦び其夜は酒肴など出して種々に待遇けるにぞ友次郎等は以前に異らぬ主の侠氣を感じ厚く禮物を贈りて夫より路次を急ぐ程に日成ずして岡山に着せしかば即日太守へ目見申付られ花事は一旦出家の望み有由にて出國致せし處兄喜内が凶變を聞心を俗に改め千辛萬苦して首尾能兄の敵を討し段誠に女丈夫共云べし又友次郎事も花を助け敵を討せし段信義厚く賞するに餘り有依て父佐太夫に申諭し勘當を免させ今より花と夫婦になり松田の家を相續致すべしと有て又忠八も庭口より召れ太守へ目見を免され其方賤き若黨の身にて主人を助け大功有し段神妙なり依て今より十人扶持下され足輕小頭申付るなりと家老中より三人へ執達に及びければお花友次郎は云に及ばず忠八まで君恩の忝けなきに感涙止め敢ず何れも重々有難き段御請申上て引退き夫より友次郎は改めて松田の養子となり養家の名跡を繼で松田喜内と改名しお花を妻となし舊領五百石を賜り又忠八は足輕小頭となりて兩家共代々岡山に繁昌せしとぞ寔に君君たる時は臣臣たりと云古語の如く岡山侯賢君に在ます故に喜内不幸にして僕の爲に討るゝと雖も其妹に又勇婦有て仇を討家を起せり友次郎も始はお花が色香に迷ひ出國したる過ちは有ども後にお花が助太刀して美名を世上に上たる事是偏に岡山侯の賢良なるより下にも又斯る人々ありしと其頃世上に噂せり 松田お花一件終 嘉川主税一件 嘉川主税一件 第一回  人は只實心を旨とし苟且にも僞り欺く事勿れと然るを言行相反し私欲を逞しうなす者必ず其の身を亡すこと古今珍しからずと雖も人世の欲情を脱するは難き事ならんか茲に當時嘉川平助高吉と云る御旗本あり先祖は輕き御家人なれども柳澤出羽守殿大老職の頃同家へ謟諛段々と立身なし有難くも五代將軍綱吉公の御治世の時遂に御旗本の列に入り高二千五百石まで加増ありて相應の役柄を勤めし家なり然るに平助は四十の歳を越と雖も未だ一子なく家名の斷絶せん事を歎き親類どもと相談の上小十人組頭金松善四郎とて高七百石を領せし御旗本の二男主税之助と云へる者人品歳頃とも相應なるにより是を乞ひて嘉川の養子に貰ひし處に其後平助は藤五郎藤三郎と云へる二人の男子を儲けしかば主税之助を貰ひしことを悔れども一旦養子とせし上は是非なしとて其後家督を主税之助に讓しが其砌り平助は主税之助に對ひ我今度汝を養子とせしにより今度家督を讓ると雖も其方の跡式は我が實子たる藤五郎藤三郎の内器量を見立て讓り呉よ此事承知なれば兩人とも汝の悴に致すべしと言けるに主税之助畏まり奉つる仰の如く兩人とも某し悴に仕つり嘉川の名跡は必ず兄弟の内に繼せ候はん此樣決して御案事有べからずと立派に請合ければ平助は甚だ悦び我等死後には何分宜敷頼み申と堅く申付置たり然るに幾程も無く平助は六十歳を一期として病死しけるにより主税之助は養父の頼の通り兄弟の内に家督繼せんと我が子の如く愛しみ育しが其中に主税之助も實子を儲け名を佐五郎と呼び寵愛淺からず何時しか先代平助の遺言を忘れ己が實子佐五郎に家督を讓らんと思ひ立ち夫に就ては藤五郎藤三郎兄弟を亡者にせずんば此事行ひ難しと茲に惡心萌せしこそ嘉川家滅亡すべき基と後に知られける然ば近頃藤五郎兄弟の事は何に依ず惡樣に罵り機に觸ては三度の食を斷て與へざる事なども有しかば藤五郎は倩々思ふやう實子佐五郎出生以來養父母には我が兄弟を疎とんずること甚しければ兄弟の中へはとても家督は讓るまじ家名相續の出來ぬものなれば身を我儘に暮んと心を決し晝夜酒色に耽りしが頃は享保二年六月下旬大岡越前守殿役所へ神田豐島町居酒屋の亭主源右衞門と云ふ者御訴へ申上るとて駈込ければ役人早々奉行へ申立けるに何等の趣意なるや篤と糺すべしとのことに付き役人は源右衞門に尋問るに私し儀居酒商賣仕つり候に今朝一人の侍士入來り亂心と相見え家内の者と彼是口論致し諸道具を投散し其上刀を拔立騷ぎ候に付據ころなく捕押へ置候間何卒御慈悲を以つて同人宿元へ御引渡し成下され候樣願ひ奉つり候と申により其段役人より奉行へ申立しかば越前守殿聞屆けられ早速召捕方申付られしにより同心兩人源右衞門に案内させ右酒屋に到りて彼のものに對ひ其方亂心と相見え居酒屋を荒し家内を騷す段不屆なり因て奉行所へ召連行により然樣心得よと申し渡しければ彼の者大いに怒り我は嘉川主税之助が悴藤五郎なり町奉行所などへ相越べきものに非ずと云て種々に惡口なしけれども役人は頓着なく其儘引立連歸りて白洲に引据置き大岡殿の前へ出樣子を相糺し候處嘉川主税之助惣領藤五郎と申者に候と御旗本の事故内々申立てければ越前守殿是を聞れ扨々不行跡千萬なり是を表向きの沙汰となす時は渠が父の家名にも關るべしとて思案の上白洲へ出座有て藤五郎を見られ其方儀帶刀をも致す身分を以て不行跡に及ぶ事言語に絶えたる不屆なり汝は浪人か併し住所は何方なるや豈夫住所は有まじ無宿であろうなと尋ねらるゝに藤五郎は越前守殿の心を悟らず否々拙者儀は斯砂利の上に於て御吟味を受べき身分に御座なく候と云へば大岡殿ナニ汝は砂利の上處か名もなきものならんと有に否拙者は嘉川主税之助悴藤五郎と申す者なりと云へば越前守殿オヽ然らず藤五郎の家來と申すか然ば亂心と見えるに依吟味は追て致す先入牢申付ると有て假牢に入置れ早速此段嘉川主税之助方へ申入らるゝ樣其許御子息藤五郎殿家來と申神田豐島町酒屋にて酒興の上亂暴に及候者有之に付此方へ召捕置候間用役の者一人早々御差越成るべしとの事なれば嘉川の屋敷にては大いに驚き是は概略藤五郎の事成んが大岡殿の仁心にて藤五郎家來と申越れしと見えたりとて早速用人の伴佐十郎と言者越前守殿役所へ罷出ければ越前守殿佐十郎を呼れ其方主人藤五郎召使の者亂心と相見え豐島町居酒屋源右衞門と申者の方へ參り家内を騷したるに依て此方へ召捕置たり但し吟味致すべきなれども亂心に紛れなき故今日引渡し遣す尤も由緒も是有家來ならば隨分念を入て療治を差加へ病氣中は座敷牢へなりとも入置が宜からんと申されければ佐十郎ハツと平伏なし段々御懇情の御言葉有難く畏まり奉つる主人も定めて忝けなく存候はん早速罷り歸り御示の如く屹度相守らせ申べく候と涙を流して打喜び夫より藤五郎を請取駕籠に乘せ急ぎ屋敷へ連歸りて委細を主税之助へ申述ければ主税之助は大いに憤ほり偖々不屆千萬の次第奉行所の差圖なれば少しも猶豫ならずと早速座敷牢を補理是へ閉籠置たりけり然らば大岡殿の心にては藤五郎は先代平助の實子なるにより一旦の不身持さへ改めなば往々家督を讓る者ならんと思はれ何所迄も家來の體に取扱はれしは實に特別の慈悲と云べきを却て主税之助は是を好機會なりと藤五郎を廢して實子佐五郎に家督を繼せんと思ひ公儀へは長男藤五郎は多病と申立己が實子佐五郎を惣領に相立度旨願ひし處願の通り仰付られしゆゑ主税之助は豫ての望みの如くなりしとて大いに悦びしと雖も先代よりの家來は左右藤五郎兄弟を贔屓なすにより渠等在ては實子佐五郎の爲にならず此上は藤五郎兄弟をなきものとせんと惡心彌増て先藤五郎より方を付んとて一日に漸く食事一度づつを與へ干殺さんとこそ巧みけれ然ば無慚なるかな藤五郎は其身不行跡とは云ながら僅か三疊の座敷牢に押籠られ炎暑の甚はだしきをも凌ぎかね些々たる庇間の風を待身となりし哀れさは譬ん物もなかりけり茲に腰元お島と言は其以前より藤五郎が密に情をかけし女なれば此程の體裁を慕ほしく思ひ人目を忍びて朝夕の食事其外何くれとなく心を配り居たりしに當家の用人伴佐十郎建部郷右衞門山口惣右衞門の三人は先殿平助の代より勤め殊に山口惣右衞門は藤五郎の傅役にて幼少より育て上己は當年七十五歳になり樂勤を申付られし身なれば此程の有樣を見て深く心を痛め主人主税之助へ種々藤五郎の詫言をなし出牢有べきやう申しければ主税之助大いに立腹し又しても〳〵藤五郎の事を意見立なす條不屆なり重ねて藤五郎の事を申さば暇を出さんと慘々に叱りければ惣右衞門は是非なく我家へ歸り佐十郎郷右衞門の兩人を招き先年先殿平助樣の御遺言もありしを當殿には左右無理非道の取計ひなるにより此後御兄弟の御身の上如何樣の儀出來んも知れず御兩人を何分御頼み申と涙を流して内々相談致しければ此事を主税之助に告る者ありて種々惣右衞門を讒言なせしにぞ主税之助も始終は邪魔と思ひ居たるゆえ是幸ひとて惣右衞門に永の暇を申渡しければ惣右衞門は豫て覺悟の事とは云ひ先代よりの勤功もあるを情なしとは思へども是非なく妻と悴を引連嘉川の邸を立退けり然れども其の節同役の伴建部の兩人へ返す〴〵も藤五郎兄弟の事を頼み置て其身は神田三河町二丁目千右衞門店なる裏長屋へ引越浪々の身となり惣右衞門七十五歳女房お時五十五歳悴重五郎二十五歳親子三人幽かに其日を送り居たり然るに嘉川主税之助は惣右衞門に永の暇を遣してより今は意見する者なく益々惡事増長なし藤五郎を彌々干殺さんと嚴しく食止をし其上弟藤三郎當年僅か五歳に成を惡みて種々折檻なし剩さへ藤三郎の乳母お安と言女をも永の暇を遣したり其譯は此乳母先代平助の時より奉公に來り譜代同樣の極にて藤三郎の乳母となせしかば藤三郎を愛しむ事生の親にも勝りて彼是と執成けるを主税之助夫婦は甚く憎み我子の爲に邪魔成んと終に咎なきお安を牛込神樂坂水茶屋兄吉兵衞の方へ歸しけり斯先代よりの家來に暇を出し新規に抱へる者共には用人立花左仲安間平左衞門又中小姓には安井伊兵衞孕石源兵衞其外徒士六人の者を近付主税之助は彌々惡心増長して藤五郎の命は此節に至りて實に風前の燈火よりも猶危ふけれども只腰元のお島一人密かに是を勞り漸々と命を保ち居るのみなり然れば新規抱への用人安間平左衞門と言は當年四十歳餘りなれども心飽まで邪しまにして大膽不敵の曲者なり此者金銀を多く所持なし嘉川家身代の仕送をするにより主人も手を下げ萬事一人の計ひなれば邸内の者此平左衞門を恐れ誰一人詞を返す者もなきゆゑ平左衞門は我儘増長し其上ならず年に似げなく大の好色者にてお島の容貌美くしきに心を掛間がな隙がなお島を口説けれ共勿々承引せず却て平左衞門を辱しめ惡口しける故平左衞門は其身の惡き事も思はず渠が惡口を大いに憤ほり心中に偖は此女は藤五郎と言男のある故に我を強面爲成んと思ひ夫より種々と藤五郎兄弟の事を憎みて主人主税之助の前へ出藤五郎殿を生置時は建部伴の兩人の者は御先代よりの御家來故彼の御兄弟の事を思ひて渠等兩人御支配向へ如何の事を申出べきやも量難し假令然なきにもせよ藤五郎殿を盜み出さんと此程より渠等が樣子を窺ひ見るに其萌しなきにしも非ずと申ければ元より無智短才の主税之助故是を實と思ひ然らば此上は如何はせんと相談なすに平左衞門は得たりと聲を潜め竊に毒殺せん事一の手なるべし先藤五郎殿さへ亡者にする時は跡に障りなしと言へば主税之助大きに悦び好機のあれかしと見合せ居けるとなり 第二回  然ば嘉川主税之助は何卒して藤五郎を害せんと思ひ新規抱へ入れ用役安間平左衞門と種々談合致しけるを腰元お島此事を竊に知りける故大いに打驚き早々此由を内々にて伴建部の兩人へ告知らせければ伴建部の兩人も甚だ駭き此儀一日も打捨置難し御兄弟諸倶に主税之助樣の計略に係り御命を失はるゝ時は嘉川の御家名斷絶せん事必定なり如何はせんと兩人竊に額を合せて談ずると雖も好分別も出ざれば先々此儀山口惣右衞門に相談せんと夫より伴佐十郎は急ぎ神田三河町二丁目山口惣右衞門の方へ到りて對面の上右の一條を種々と談合しければ山口も毒殺のことを聞大いに駭き其許の云るゝ如く此事少しも延し難し若打捨置時は一大事ならんにより片時も早くお島と申合せ御兄弟諸共一先盜み出し其後支配へ屆け何卒して先御主人の御血脉を絶さぬ樣に致しなば我々が臣たる道も立により此上は急ぎ御二方を救ひ進らせん事專要なり此儀御兩所の力を偏に御頼み申なりと言ければ佐十郎は合點何樣御尤も至極なれば早々郷右衞門お島ともに申合せ取計ふべけれども御兄弟を救ひ出せし上御二方を隱匿進らするは何方が宜しからんと申せば其儀は少しも心を勞されな年こそ寄たれ此惣右衞門御兄弟を隱し置頓て愛度御家督に居奉つらん必ず〳〵氣遣ひ仕給ふまじと請合ければ佐十郎然らば豫て申通り勿々手延になり難ければ今明日の中是非とも御救ひ申べし何道にも一と先爰許へ御連申さんと堅く約束なし佐十郎は急ぎ立歸りて此段建部郷右衞門にも話しければ建部も深く悦びつゝ夫より竊に右の由を腰元のお島にも話し置其節は必ず頼むと示合せて互に能機を窺ひ居たりし處頃は享保三年十二月廿一日朝より大雪降りて其寒き事誠に堪難く何國も銀世界となり庭の木立は時ならぬ花を生ぜしかば主税之助は新參の用役安間平左衞門立花左仲其外氣に適たる佞臣どもを集め雪の寒を凌がんと晝より酒宴を催せしが呑や謠へと調子づき追々亂酒になり夜に入ると雖も猶更に各自謠ひ淨瑠璃にだみ聲を張上遂にはすてゝこ踊やかつぽれと醉に乘ぜし有樣は何時果べきとも見えざりけり然るに伴建部の兩人は先代よりの用役ゆゑ兎角煙たく思に付此酒宴の席へ呼ざるを兩人は是ぞ屈竟の幸ひ此機にこそ我々が望みを達せんと竊に悦び猶彼是と心を配りしが今宵は是非共過さじと女房にも此事を話し其方は御裏門に待受て藤三郎樣の御供をなし神田三河町惣右衞門の方迄立退べし藤五郎樣には我々御供を致し後より行んほどに必ず共に仕損ずまじと申含め置豫々相圖の支度してお島が手引を相待けり然るに奧にては夜の更行に隨ひ酒宴の騷ぎも漸次に薄らぎ最早座敷も引て皆々席を退き臥床に入ければ夜は深々と降積る雪に四邊の䔥然にて鼾の聲のみ聞えるにぞ伴建部の兩人は今や〳〵と窺ふ機お島は藤三郎を抱上小用に連行體に持成座敷々々を忍び出て漸々に錠口へ來りければ待儲たる兩人は密と請取りお島は佐十郎の耳に口を寄せ先藤三郎樣の御事を計ひ夫より御兩人倶に御庭の垣を越てお小座敷より忍入藤五郎樣の入せらるゝ處へ御出候へと申ければ佐十郎打點頭呉々も頼むと言置兩人共に先藤三郎樣を連行んと其處を立去出るに雪は彌々降頻其寒き事絶え難く漸々と裏門口へ出れば豫て宵より伴建部兩人の妻女お松お花は夫と云い合わせて有る事なれば寒きを厭はず待居たりしが斯と見よりお松は立寄藤三郎を肌に脊負お花と供に三河町を指て急ぎけり又伴建部の兩人は腰元お島が働きにて難なく藤五郎の押込ある組牢の處に到り見るに哀なる哉藤五郎は主税之助が惡心により日外より日々食物を斷れてあれば惣身痩衰へ眼は窪み小鼻も落て此世の人とも見えざるゆゑ兩人の用人は涙を流し是が嘉川家の若殿樣の有樣なるか扨々淺ましき御事なり少しも早く御連退申さんと兩人して組牢の柱を一本音のせぬ樣に漸々引拔郷右衞門は藤五郎を脊負て夫より座敷々々を忍び出れど若此期に臨みて出合者有ば最早一生懸命に討果さんと伴佐十郎は前後左右に眼を配りながら刀を拔持て郷右衞門の後に添藤五郎を守護なし漸々と忍び出以前の裏門の潜りを開て外へ出立ホツと一息吐夫より兩人は惣右衞門の方へと走りたり扨又三河町なる山口惣右衞門は此事を晝の中に伴建部の兩人より申越たれども惣右衞門は此節病氣にて起居も自由ならざれば今宵邸内へ行働く事能はず又悴重五郎は九月中より御代官の供をして他國へ行し故是も今度の用に立ず斯打臥居て御兄弟樣の遁れ來らるゝを待事本意なさよと宵より頻に聞耳を立てゝ枕をもたげ我身の病苦は打忘れて幾度となく家内のものを門へいだしては氣を焦ち只々藤五郎兄弟を待詫てぞ居たりけり 第三回  斯て其夜も追々に更渡り早子刻も過丑刻の鐘も遙に聞え軒端を誘引雪風の身に染々と冷るに何此眞夜中の大雪に伴建部の計りし事ゆゑ首尾能御屋敷は遁れ出給ふ共自然と途中にて凍えは爲給はぬか嘸や夜道は御難儀ならんと老の心のやるせなく女房に對ひコレお時やアヽ何も己は御二人樣の事が案事られてならぬ今夜も彼是最今に寅刻なれば今迄沙汰のないは萬一渠等が仕損じはせまいかと此胸が落付ぬ我年こそ寄れ此病氣でさへ無成ば第一番に御邸より御二人樣を御連申さんに佐十郎郷右衞門の兩人にのみ骨を折せ斯のめ〳〵と我が宅に居ん事眞に云甲斐なしとは言何分病には勝難し偖々何か仕樣は有まいか萬一此事を仕損じなば御二人の御命にも關はるならんと起つ臥つ氣を揉機しもゴウゴウと耳元近く聞ゆるは東叡山の寅刻の鐘コリヤ斯うして居られぬと物に縋りて立上り蹌踉足を踏しめつゝ二足三足端近く出行機會裏口に人の足音爲ければ惣右衞門は耳引立て那お時何やら裏で聲がするコレさお時早く行や行て見て來やれ是さ〳〵と急立られ女房は早々に立出誰殿かと云に彼の者小聲にて然言聲はお時樣やれ〳〵嬉しやと言を聞門の戸を明ればお松お花の兩人は藤三郎と倶に雪まぶれに成しを打拂ひて内に入お松は藤三郎を脊より下しければお時は是を見てやれ〳〵若樣か此のお寒いのに能先御出遊ばしたお松樣もお花樣も嘸かし御寒いことで御座んせう先々早ふ此方へと案内しけるに兩人は藤三郎を伴ひ奧へ這入ば惣右衞門は待構し事ゆゑ我を忘れて打喜びやれ〳〵嬉しや南無金毘羅大權現心願成就有難やと泪を流して伏拜みテモマア此寒さに御機嫌よくと藤三郎を撫摩りなどする中に伴佐十郎建部郷右衞門の兩人はお島が働きにてなんなく藤五郎を救ひ出し是も同じく脊に負ながら此處へ急ぎしに男の足故程なく來りければ皆々大に悦び合先是にて一安堵と一同に太き息をホツと吐夫より皆々火鉢に寄て雪に濡たる衣など乾ながら郷右衞門云樣斯二方樣共首尾能盜み出せしゆゑ明日は必定御邸にて尋ね探さん然すれば豫て御邊が此處に住居せらるゝを知事なれば是非共爰へ尋ね來るべきにより御兄弟樣此儘爰には差置參らせ難し此儀如何せんと相談せしかば惣右衞門は點頭其儀は先殿樣の御恩に成し御出入りの陸尺七右衞門は男氣の者にて須田町一丁目に住居致せば此者を頼みて渠か方へ御二方共に竊に忍ばせ申さんと某し豫てより思ひしか共此病氣にて渠の方へ行事能はず夫故未だ渠には申談ぜざれども貴殿より御頼みあらば承知致さんと云に郷右衞門其儀は至極然るべきにより片時も早く某し是より須田町一丁目へ馳參り陸尺七右衞門に折入て頼み申べしと立上るを皆々夫は何共此大雪にと云けれども郷右衞門是迄の處をさへ爲課せし事なれば此上の駈歩行に雪位はおろかなり殊に是より須田町までは僅の道ゆゑイデ片時も早く到らんと此處を立出七右衞門の方へぞ急ぎける程もなく須田町一丁目へ來り七右衞門の門を叩きて案内申入ければ七右衞門の家内は夜中の事ゆゑ不審何れの邸よりの使にや未だ夜の明ざるに來る事能々火急の用向ならんと思ひ尋ねければ郷右衞門は據ころなき要用にて罷越たり七右衞門在宿なれば面談申度と言入けるに七右衞門在宿に候と答へながら出迎ひ是は〳〵郷右衞門樣何御用にて斯早く御出なされしやと申ければ郷右衞門然ば未だ夜の中より來りしは貴樣が男氣を見掛て竊に頼み度一條ありと云を聞七右衞門然ば先此方へと一間へ通しけるに郷右衞門聲を潜め藤五郎兄弟の事を委細に語りければ七右衞門夫は〳〵とばかりにて惘れ居たりしかば建部は膝を進め右の次第ゆゑ何卒御二人樣を暫の内隱匿呉らるゝ樣偏に頼み申と言ければ七右衞門は元來男氣の者なるに付段々郷右衞門の物語りを聞主税之助が惡意を憎み殊更先代の厚恩を受し者故委細を汲取て郷右衞門に向ひ扨々恐れ入たる御物語り御二方樣の事は私しが身に代ても御引受申し上御世話仕つるべければ必ず〳〵御氣遣ひ成れまじと世に頼母しく引請ければ郷右衞門は大いに悦び然らば明方迄には御連申さんにより呉々も頼むなりと云ひ置て立歸りしに七右衞門も斯請合し上はとて己も郷右衞門の後より大雪をも厭はず三河町なる山口惣右衞門の方へ到り猶も惣右衞門に對面して委細己が心底を語りければ惣右衞門始め一同七右衞門の氣質を感じ惣右衞門は病氣故萬事心に任せず迚偏に郷右衞門を頼ける故七右衞門は委細呑込然る上は佐十郎樣郷右衞門樣とても此方に在れては宜しからず御兄弟樣の御供して手前の方へ御越成るべしとて伴建部夫婦の者も倶に主從都合六人を早速我方へ連歸り何是となく心切に世話をなしける事實に頼母しき男氣なり 第四回  斯て翌廿二日の朝嘉川家の人々藤三郎の見ざるを不審に思ひし所藤五郎を入れ置きし囹も破れ其上伴建部等も居らざれば大いに驚き騷ぎ邸内の者共を殘らず呼出し吟味に及びけれ共皆々一向に知らざる旨申ければ主税之助は憤怒是れ必らず腰元お島の手引にて藤五郎兄弟を佐十郎郷右衞門の兩人に盜み出させしに相違有まじ然すれば先づ三河町二丁目の惣右衞門が方を尋ね見るべしと有て早速孕石源兵衞安井伊兵衞の兩人を呼び三河町なる右惣右衞門の方へ探に遣はし置き猶又安間平左衞門立花左仲の兩人を相手に種々と相談に及びけるに兩人も是は正しく殿の御考への通り伴建部と申し合せお島の手引に疑ひなしとの事ゆゑ夫れよりお島を呼付藤五郎兄弟は其方が手引して佐十郎郷右衞門の兩人に盜ませしに相違有るまじ眞直に申せと責掛若し此事を言ざるに於ては仕樣が有るぞと威し付けれどもお島は努々手引など致せし覺え之なしと答ふるを聞き安間立花の兩人目をむき出し汝何故に知れたる事を陳ずるやあり樣に申すべしと頻りに責付ると雖もお島は恐るゝ面色もなく假令如何樣に仰せらるゝ共私しは更らに存じ申さず殊に伴建部の御兩所は此御邸の案内は私しより能く存じ居らるれば何として私し風情の手引を頼みに斯る大膽なることを致され申さんや此所能々御推察下さるべしと申しければ主税之助は疊を蹴立扨々口賢く云ひぬかす女め汝より外に此手引をする者なし然に因て汝を詮議するぞ有樣に吐せばよし若し此上にも取隱さば憂目を見せんと云へども知ぬとばかりゆゑ立花左仲は立掛りお島を引立て庭に連行衣類を剥て雪に氷りし松の木に縛り付割竹を以てサア有體に云々と嚴く打擲き種々手を替責ると雖もお島は更に屈せず後には眼を閉て一向に物を言はざれば主税之助は彌々怒り此奴勿々澁太女なり此上は槍玉に上て呉んずと云ひつゝ三間柄の大身の槍を追取鞘を外して小脇に抱込お島に對ひサア汝言はぬか何ぢや言ぬと此槍が其の美しき體に御見舞申すぞ是でも言はぬか〳〵と既に突べき勢ひゆゑ安間平左衞門は是を押止め暫時御待ち下されよと言ふ處へ安井孕石の兩人は立ち歸りければ主税之助は兩人を見や否や樣子は何うぢや行衞は知れたるかとの尋ねに兩人言葉を揃へ仰せに隨ひ三河町二丁目を種々と穿鑿仕つり候處居酒商賣の裏長屋にて漸々と尋ね當り彼の惣右衞門に仰せの趣きを申し聞かせ樣子を探り候へども藤五郎樣御兄弟の行衞は一向に存じ申さずと申し其上惣右衞門は病氣にて臥居り又彼が悴重五郎も他國へ行しよしにて家内には只惣右衞門夫婦のみ居候まゝ種々尋ね候へ共何分知らざる由ゆゑ夫れより近所合壁にて承たまはり候と雖どもこれと申す取留たる儀は御座なく候とぞ申しける 第五回  然ば主税之助は大いに氣を焦ち左に右今度の儀を惣右衞門の知らざる事の有るべきやと足摺して急遽ゆゑ立花左仲は進み出只今兩人の申す如くにては勿々穿鑿行屆くまじ此儀今一應私し三河町へ罷り越一手段仕つり度と云ければ主税之助は大いに悦び然らば其方猶此上の穿鑿致すべしと云けるに夫れより左仲は直樣三河町にと馳行たり偖主税之助は又々お島の傍へ行汝先程より種々と尋ぬれども一向に白状せず扨々憎き女めと言樣又も槍を追取て種々と威しけれどもお島は觀念せし體にて眼を閉し切一言も發せず居るゆゑ平左衞門は豫てお島に心あるにより又々押止め先々御待ち成さるべし手引は渠が致せしにもせよ盜み出せしは伴建部の兩人なれば此者どもの有家さへ知るれば藤五郎殿御兄弟の行衞も知れ候はん其の上にて如何樣とも御存分に遊ばされて遲からずと取りなす處へ立花左仲息急と歸り來れば如何に左仲手係りなりとも知れたるかと尋ぬるに左仲答へて左ん候ふ私し三河町へ參り見候處彼等兩人申す如く惣右衞門は全くの病氣にて又悴の重五郎も御代官の供をして他國へ行しに相違なし因て渠が隣家の者を種々に賺し其夜の樣子を相探り候處一人の者の申し候には夜前深更に及びて惣右衞門方へ人出入の有し樣子に相聞え候と申す故猶々穿鑿致し候處其後陸尺の七右衞門が惣右衞門方へ來りて種々の話しの體なりと申し候然すれば彼の惣右衞門も自分の方に置時は忽ちに知れんことを思ひ御先代よりの御出入の縁を以て陸尺の七右衞門を頼み匿ひ置候と相見え候然すれば藤五郎樣御兄弟は須田町一丁目なる陸尺の七右衞門の方に匿ひ置くに紛れ御座なく候としたり顏にて言ひければ主税之助大いに喜び成ほど其方が穿鑿能も行屆きたり扨々憎き奴輩かな此儘捨置時は事の破れなれば假令病氣なりとも直樣惣右衞門めを引摺來れ我れ自身吟味せんと敦圉荒く申しけるを安間平左衞門は是れを制し惣右衞門事舊は御家來に候とも當時は御暇の出でたる者ゆゑ是非は兎も角も彼の方へ連退匿ふと申す程のことなれば渠等も根深く巧みたると相見え候へば勿々以て容易の儀には參るまじ然れば何事も此方にて後手に成ざる樣に表向き御吟味御請成るべしと申しければ主税之助は是を聞て大いに駭き若此事表立吟味を請る時は是非共今迄の惡事を彼等より逐一申し立て露顯に及ばん我れ夫れを言解ん道なし是れ自ら石を抱き深き淵に臨むの道理にして何れの道にも負公事なり何か外に能思案こそ有らまほしけれ此儀兩人にて我れを救ひ呉よと申しけるに平左衞門も左仲も此體を見て苦々しく思ひ左樣に御心弱くては叶ふまじ是れ迄の事共も豫て其御覺悟なくしては成るまじくと存ぜしに只今の御樣子にては聊かも其御覺悟なく成れし事と相見えたり然ながら今更夫れを彼是と申すも詮なき事に候へば先々御心を鎭め給へ篤と御相談の手段も御座候ふべし古語にも遠き慮かりなきときは近き憂ひありと申すは正しく是なるべし然ども三人寄時は文珠の智慧此平左衞門左仲御附申し居中は御安心成れ能々御思案候べしと種々相談しける中良半日餘りお島が雪の中に縛められ身神ともに冷凍え人心地もなき體を見て平左衞門は差圖をなし藤五郎を押籠置たる牢の中へ入れさせ番をつけて差おきたり 第六回  然れば嘉川主税之助は我子の愛に眼昧み終に其家名を失ふに至る事是汝に出て汝に歸るの古言宜なるかな此度伴佐十郎建部郷右衞門の兩人藤五郎兄弟を救ひ出し山口惣右衞門并びに陸尺の七右衞門と申し合せ兄弟の者を深く匿んとする故主税之助は詮方なく安間平左衞門立花左仲を相手に種々と相談せしが寧此方より支配へ委細屆書を差出し表向吟味を請べしと頓々に決定して立花左仲は頓て支配へ書面を持參せんと爲時安間平左衞門は左仲を呼止御邊此書面の趣意を能々腹へ入れ置き若宮崎内記儀直々御尋ねあらば其時こそ日頃の智辯を振ひ宜しく申し爲し給ふべしと何か耳語ければ左仲は微笑此書面は貴殿の認められしことなれば我れ能々腹に納めて持參致し某し日頃の能辯を以て天晴上首尾に仕課せ申すべしとて獨り誇り顏に支度を調へ飯田町なる支配宮崎内記殿の邸へと急ぎしかば程なく宮崎殿の邸へ到り同家の用人溝口三右衞門に面會して右の段委細申し入れ御屆け書面は主税之助持參致すべきの處病氣に付き拙者より差出し候旨申し述ければ三右衞門是を請取左仲を控へさせ置て内記殿の前に出で嘉川主税之助用人立花左仲の口上を申し述屆書差し出しけるに内記殿は是れを披見せられし所其書面に曰く 書付を以申上候 一先達て御屆申上置候嫡子藤五郎儀昨夜中座敷牢を破り弟藤三郎並びに家來伴佐十郎建部郷右衞門の者共とも行方相知れ申さず其上私し居間に之有候金子百兩紛失仕つり候是等の儀は右家來共兩人の仕業と存じられ候勿論同人共舊來思ひ掛の事も御座候處其事を果さず候に付亂心の藤五郎を誘引出し惡巧み致すべく存念と推察仕つり候之に因て渠等御召捕之上其筋御吟味下し置れ候樣仕つり度此段書付を以て御屆申上候 享保三年十二月廿三日 嘉川主税之助 印 宮崎内記殿 右の如くの屆書なれば宮崎殿眉に皺を寄られ一通り自身承まはらんにより其立花左仲とやらを是へ呼出すべしと申されけるに用役の溝口三右衞門は早速左仲を呼出しけるに内記殿見られ只今差出しの屆書の趣き篤と披見致し候處此儀容易ならざることなり尤も先達て差出せし屆け書に藤五郎儀病氣と申す事は是あれ共嫡子并に弟藤三郎まで一夜の中に家出致し行方相知れず加之家來兩人も逃亡せしなどゝは何か其意を得ざる事共にて甚だ家事不取締なることなり殊に其家來は家の重役と云ひ先代より召使ひし者の趣きなれば旁々以て怪敷ことに思はるゝ併し家來の儀は兎も角も子息の行方知れざることは一寸の間も打捨置れざる儀ゆゑ主税之助自分參向有られるやうに早々罷り歸りて急度申聞べしと申渡され内記殿には主税之助不參の儀甚だ等閑なりと申さぬばかりの樣子にて少し憤ほりを含まれければ左仲は其心を汲取て大いに恐れ入り仰せの趣き畏まり奉つり候へども先刻私しより申上候通り誠に折惡く主人主税之助事病氣に候間據ころなく家來を以て右の段申上奉つり候何卒格別の御慈悲を以て右書面の趣き御聞取成下され候はゞ此上もなき有難き仕合せに存じ奉つり候と云へば内記殿然らば其方名代に罷り出る程の者なれば萬一答へが出來るかと申さるゝに左仲不肖乍ら主人の家事向は支配をも仕つり候私しに御座候へば大概の所は御答への儀申上候はんと云に依て内記殿内心に此者の樣子を見らるゝ處一癖あるべき奴と思はれしかば暫く思案の體に見えたりけり 第七回  扨も内記殿は左仲が樣子佞辯奸智の曲者と見て取り大いに怪まれけれ共先一ト通り事を糺して見んと思はれ猶又左仲に對ひ其方儀家の支配を致し候故概略答へんとの事なるが然らば其方に尋ぬべし書面に是有所の建部郷右衞門伴佐十郎の兩人舊來の思ひ立ちとは如何なる譯なるぞ此儀心得居るかと申さるゝに左仲は爰ぞと思ひ其の事故は嫡子藤五郎亂心仕つり候に付先達て御屆申上候弟佐五郎を以て家督に仕つり候儀を右兩人の者共不得心にて藤五郎弟藤三郎を嫡子に立てべき旨主人へ度々相勸め候得共藤三郎儀は未だ幼少と申し其上多病の生れ付に御座候ゆゑ主人主税之助承知仕つらず候を渠等兩人野心を差挾み候事と相見え候と邪辯を震つて申しければ内記殿は是を聞かれ其方の申す通りなれば其建部郷右衞門伴佐十郎の兩人は先代平助以來よりの家來と相見えたり當主主税之助は先代平助の實子藤五郎兄弟の中を家督を致すべき遺言を受たる趣きなれば藤五郎を廢する以上は藤三郎を家督になすべきは順當なるを世評の樣子にては何うやら主税之助が甚だ欲情に關り自身實子の佐五郎を家督に致せしとの事餘人は兎もあれ此内記が心には是れ甚だ如何のことに思はるゝなり然れば渠等兩人は先平助の代より舊來の家來共の事故藤五郎が病身の時は弟の藤三郎に家督を繼せんと思ふは理の當然ゆゑ藤三郎を順養子に爲ねば成ず否サ是は只某しが話なり尤も夫には又種々の込入たる仔細も有べし併しながら建部郷右衞門伴佐十郎兩人の家來は先平助へ對しての義理合も思ひ彼是にて弟藤三郎を家督にせん事を主人主税之助へ勸めしならん然るを主税之助不得心とあらば右等の事に付主從の中不和に罷り成しと相見たりと有しかば左仲も理の當然ゆゑ是非なく御意の通りと申けるに又居間の金子百兩紛失せし趣き是は郷右衞門佐十郎兩人の其夜逐電の事故彼の金子は渠等兩人が盜み取し事と主税之助始め皆々疑ふと見えたりと申さるゝに御意の如く此金子ばかりは全く渠等兩人の者が盜み取しに聊か相違御座なく候と申しければ内記殿コリヤ其方左樣申す上は其金子渠等が盜みしと云ふ屹度した證據有りや全く折惡敷紛失の事故渠等を疑ふものならん汝が今申す通りにて慥なる證據有て申すが如し然らば其證據より承まはらんと申されければ流石奸智の左仲なれども一句も出ず居るを何ぢや證據有りやと言るゝに左仲恐れ入りましたと閉口なせしかば内記殿益々不審に思はれ其は折惡き事故疑ふも道理なれど今汝が如く申す時は證據にても有るかと思はる兎角紛失物などは人を疑ひし後にて手前に有る事もあれば此儀は右兩人を召捕篤と吟味の上ならでは決定仕難し其儀如何とあれば今汝が申す方此内記甚だ信用せずとの詞の中に拵へ事と正鵠を指れしにぞ左仲はグツと再度閉口の樣子ゆゑ良あつて内記殿何は兎もあれ藤五郎兄弟の者の行方又家來兩人の在所とも早々尋ぬべし此義考ふるに渠等兩人の者主人の子息を誘引出せし事餘の儀にあらず藤五郎病氣の上は藤三郎を家督に爲と其の事上向へ願ふ存念ならん然樣の儀ならば奚ぞや斯せず共致し方如何程も有べきに忠義の志は却つて主家の害とならん併ながら屆けの趣き聞置なり呉々も右の者ども行方は早々吟味致し若し市中に居を見當らば屹度其處に張番を付け置き此方と并に町奉行へ屆け出よ必ず權威を施す事なく成丈穩便にすべし萬一手荒がましき事相聞えなば屹度沙汰に及ぶぞ又此度の儀は輕き事にあらねば早速御用番の若年寄衆に進達に及ふべし此旨主人へ篤と申聞けよとて席を立れしかば左仲は思ひの外なる事ども故早々屋敷へ歸りけり 第八回  然るに立花左仲は宮崎内記殿にて種々尋ねられし事ども委細主人へ申聞んと急ぎ立歸りて主税之助の前へ出ければ主税之助は待草臥し機ゆゑ直樣聲を懸如何に左仲内記殿の方にて何と云れしや何ぢや〳〵と急立て尋ぬるに左仲は未だ座にも着ぬ樣故甚だ答へに困りける主税之助は其次第を聞んと頻に急ぎしかば左仲は太息を吐今日私し宮崎樣の御屋敷へ罷り越御屆書を差上げし處内記樣早速御逢成れて御屆け書の趣き逐一御尋問有りける故其次第を申立候處先御聞濟の樣には候へども何か此方の御樣子を内記樣御聞込ありて豫じめ御悟成れたる體に御座候其上伴建部の兩人が事は御前の成れ方宜しからざる故と仰せられ況て此事は輕からざる儀故早速御用番へ進達成るゝ間然樣心得よとの仰せに候と申しければ主税之助は是れを聞き面色青然偖々夫れは困り入しことなりと頭を低て弱りし體に安間平左衞門は傍に居たりしが冷笑ひ否早御前の樣に御心弱くては表向吟味の時は甚だ覺束なし都て物事は根深く謀り決して面色に出さぬ樣なさねばならぬ事なり然るを斯の如き御樣子にては對決なしに忽ち負公事と成り申すべし此上の處御心を大丈夫になし給ふべし後には斯申す安間平左衞門控へて居れば假令大山が崩れ來る共少しも御心勞に及ばずと力を付れども主税之助は兎角安心せず否々然う手輕く申せども内記殿の心中が何も心配なれば公事の始末を話して見よ佐十郎郷右衞門の兩人へ惣右衞門と云ふ古狸が後見をすれば是は容易の公事でなし那の惣右衞門めは年こそ老込たれど並々の者に非ず彼是評定所へ出るならば此方が是迄の惡事を申立るは必定なり然すれば我等に吟味係らんにより其時は如何に返答して宜るべきや是平左衞門能分別を教へよサア平左衞門何ぢや〳〵と急立ければ平左衞門は微笑ながら夫等のことは物の數に足ずと申を主税之助シテ其時は何申了簡なるや早く云て聞せと云へば平左衞門はせゝら笑ひ然とては御氣の小い事なり何是式の事御心勞に及ぶべきや先其時の事は臨機應變と申事あり今爰にて申事は更に役に立申さず其相手の樣子先の出次第にて何變ずるも量り難し此所にて申事は勿々其節の間に逢ものに非ず假令考へて今申た所が本の足袋屋の看板なり然ながら然程御案事有らるゝことならば先御安堵の爲少し御心の休むやうに申上げん先以て外までもなく渠等兩人を金子の盜賊と申立置たれば御吟味の節彼是申すとも右盜賊の罪を遁ん爲に惣右衞門を語ひ忠義ごかし藤五郎殿御兄弟を誘引出し候儀と存ずる旨を仰立られなば其事のみにて渠等に罪は歸し候なり其上主と家來の事なれば此公事に於ては御前に九分の強みが之あるゆゑ事の次第を仰せらるゝ時は是渠等が一ツの申開きに困り候事目前にて候若又對決になり候とも藤五郎殿の不行跡は一度町奉行の手にも係りたる程の仕合せなれば疑ひは先へ掛る道理に候藤五郎殿も何で命はなき男又藤三郎殿は有りても幼少なり兎角邪魔になるは惣右衞門郷右衞門佐十郎の三人にて其の中にも先郷右衞門佐十郎の兩人をば討取ば此度の公事は必定勝利ならん右兩人を討取手段を一刻も早成さるが捷徑なりと申ければ主税之助は首を傾け兩人を討取は公儀の方が濟まじと云へば平左衞門呵々と打笑ひ扨々夫では何の謀計も行ひ難し能思召ても御覽有べし先渠等は盜賊の事故召捕んと致せし所手向ひ仕つり候故據ころなく討取候と申に何の譯の候べき萬一此事手違ひに成し處が半知と思召さば公事は勝なりと言を聞て主税之助は漸々打合點然らば切首の多兵衞其外新參の者共に此事内分で頼み置んと金銀を遣し郷右衞門佐十郎を討取ば又々禮の仕方ありと申付ければ元より惡者共の事ゆゑ金銀に眼が晦喜び勇みて請合日夜三河町より須田町邊を忍びて付覗ひけり扨又支配の宮崎内記殿は先日嘉川家の一件に付家來の立花左仲持參の屆書の趣を月番の若年寄衆へ進達致されし處此儀容易ならずと有て早速年寄衆の評議となりたり其頃天下の御政事に關かる人々には老中間部越前守殿同井上河内守殿同久世大和守殿同大久保長門守殿若年寄石川近江守殿同黒田豐前守殿同土岐丹後守殿なり右の人々立會嘉川家一件種々評議是ある所土岐丹後守殿進み出られ今度の一條主税之助儀先一應は宜からぬやうに聞ゆれども又逐電せし用人共も合點行ざる儀なり金子盜取候罪を遁れんが爲に主税之助が申通り計ひし事かも知れず是は町奉行に申付て彼の兩人の家來を糺明に及ばせ其後評定所にての吟味然るべしと云れければ一同此儀宜しからんと早速大岡越前守殿へ達し有ければ越前守殿思案の上定廻り同心へ申付られ藤五郎藤三郎並びに佐十郎郷右衞門の行衞を吟味致すべき旨に付同心は委細畏まり候とて夫より先山口惣右衞門浪宅を探索せんと三河町二丁目の家主方へ罷越其方店子山口惣右衞門と云へるは嘉川主税之助の浪人にて裏屋に住居と聞御用是ある間只今自身番屋まで召連れ來るべしと申し渡しければ家主は畏まり候と惣右衞門へ其段申達しけるに惣右衞門は豫て覺悟の事もあれば年は寄共流石武士ゆゑ何の恐氣もなく家主同道にて自身番へ出ければ定廻り同心は立出其許儀嘉川主税之助方に勤仕致し居し事ありやと申ければ仰の通當夏中迄勤仕罷在り候と云ふに同心點頭今度嘉川家より公儀へ御屆に及ばれしは嫡子藤五郎次男藤三郎並に家來伴佐十郎建部郷右衞門も去廿二日の夜逐電の趣きなり因て御老中方より町奉行へ吟味の儀仰せ付られし故今日其行方を尋ね出さん爲御邊を是迄招き申たり以前の好みを以て若彼の者共を竄ひ置も致しなば早速相渡し申すべし此儀取隱し候はゞ其許の爲になるまじと云を聞惣右衞門は豫て斯あらんと心得し事ならば少も動ぜず心の中に未だ佐十郎郷右衞門より訴へ出ざる中公儀より尋ね出されし時は渠等定めて手都合惡かりなんと思ひ何も隱すべきにはあらね共先爰に知らざる體に申方宜しと思案なし御問尋には候へ共其の儀決して覺え御座なく候尤も以前の好も候へば某しを便りて參り候はゞ竄ひもいたすべけれども未だ手前へは參り申さず主税之助方よりは昨日尋ね參り候間右の旨を答へて歸し候と申ければ同心然らば聢と左樣か萬一後日に顯れなば決して爲に成まじ併しながら參らざる儀なれば是非に及ばず先吟味中家主へ屹度預申付る惣右衞門も左樣相心得よ時に陸尺七右衞門の宅は何方ぢや惣右衞門御邊は知らざるやと思ひ掛なき尋ねに日頃大丈夫の惣右衞門なれ共ハツと仰天なし七右衞門の宅は須田町一丁目に候と答へしかば定廻り同心は事に馴しゆゑ樣子を見て取偖は此上七右衞門を吟味すれば相分るべしと心に合點して夫より須田町一丁目なる七右衞門方へと急ぎ赴きたり 第九回  古昔宋の文帝の頃魏の中書學生に盧度世と云者あり崔浩の事に坐し亡命て高陽の鄲羆の家に竄る官吏羆の子を囚て之を掠治羆其子を戒めて曰君子は身を殺て仁を成故に汝死す共云べからず其子固く父の命を守官吏火を以て其體を燒種々責問と雖も終に言ずして死すと云夫と是とは變れども陸尺七右衞門は卑賤者に似氣なく豪侠にして義を好むが故に山口惣右衞門始め三人の頼みに因て藤五郎兄弟並びに伴建部の夫婦ども上下六人を我が家に連歸り何くれとなく厚く周旋をして匿ひ置しに嘉川家にては藤五郎兄弟并に家來伴建部の兩人共逐電なし加之主税之助居間の金子百兩紛失せし旨を其筋へ屆出ければ町奉行大岡越前守殿より藤五郎の兄弟始め家來の者共を穿鑿として同心出張なし山口惣右衞門は町方預けに相成し由其上三河町より直樣此方へ役人中參らるゝ趣きも惣右衞門より内々知らせ越しけれども七右衞門は覺悟の事故聊か驚く氣色もなく早速に伴建部の兩人へ此事を話し猶三人打寄相談をなすに何せ隱し立は成まじき間御呼出し次第罷出吟味を請んと思ひて相待所に程なく定廻り同心自身番に來りて七右衞門を呼び出すに付七右衞門は即ち自身番へ罷出し所役人申ける其の方儀此度山口惣右衞門の頼みに依つて嘉川藤五郎兄弟并に建部郷右衞門伴佐十郎の人々を匿ひ置條三河町に浪宅致す山口惣右衞門の白状なりとあびせ掛因ては如何の筋合之有渠等を匿ひ置ぞ眞直に申立よと言ければ七右衞門少も屈する面色なく御意の如く私し儀四人共匿ひ置候に相違御座なく候尤も此儀は私し事先嘉川平助樣御代格別の御厚恩に相成候間今度御世話申候儀を恐れながら一通り申上べし當代主税之助樣は誠に驚き入たる御方にて己が實子に迷ひ平助樣御實子の御二方樣を非道になされ殊に藤五郎樣へは食物を止めて干殺さんと成され又藤三郎樣の未御幼少者を朝夕に打擲き夫は〳〵苦々敷事に御座候斯申上るを御胡亂と思召さば是まで嘉川樣の奧向に勤めし者に御尋ね下さるゝが論より證據相分り候夫れゆゑに平助樣御代の御用役は山口樣も私し方に居らるゝ二人の衆も藤五郎樣御兄弟の御命が危く存ずる故斯の次第に成行申せしなり私し儀は賤敷身分に候へ共聊かたりとも僞りなど申者では御座なく又人樣の難儀を見ては居られぬが私しの持前故是非なく彼の人々を竄ひしに相違御座なく候何れ双方御糺しの上は明白に相分り申べく殊に只今の御用人中は非道の者共にて殿へ惡智慧を加候由私しは數年の出入屋敷の事故先一旦の難儀を救ふ心に候へども斯御尋ねの上は包まず申上るにより御役人樣方の御慈悲を以て宜敷御取計ひ下されよと憚る所なく申ければ役人も只合點居たりしが兎に角藤五郎始めを渡すべしと申により七右衞門は則ち藤五郎藤三郎并に佐十郎郷右衞門を引連役人へ渡しければ同心人々を請取直樣立歸りて此段委細に大岡殿へ申立けるに則ち越前守殿夫は苦々しき事なりとて急ぎ御月番の老中方へ申上られしにより老中方の仰せには吟味中藤五郎藤三郎の兩人は先先平助の親類共へ預け置佐十郎郷右衞門の兩人を篤と取糺せし上は兎も角も相分るべしと有しかば越前守殿承知仕つるとて退出後早速佐十郎郷右衞門の兩人を呼出されたり 第十回  偖も大岡殿は退出後早速佐十郎郷右衞門の兩人を呼出し今度の趣意を尋ねられければ兩人謹んで平伏なし私し主人の先代平助儀當主主税之助養子に參られ候後兩人の男子を儲け候は則ち藤五郎藤三郎にて是を主税之助の子となし御家督を讓呉候樣平助末期に遺言仕つりしを其節は主税之助も屹度請合私ども兩人並に惣右衞門等證人同樣其席に罷在候所主税之助實子佐五郎出生の後は先平助遺言に戻り我が子に家督を繼せんと種々惡謀を構へ藤五郎を強面致さるゝこと誠に朝夕目も當られぬ次第故私し共三人の者種々と諫め候へ共聊かも取用ひ之なく非道の所置日々に増長致すに付藤五郎も若氣にて是を情なき事に思ひ或時は放蕩の擧動等御座候故是又其儘に打捨難く諫めつ宥めつ致し候中不圖藤五郎不行跡のこと御座りしを主税之助は幸ひに亂心と申立座敷牢に押込我が實子佐五郎を嫡子に相立其上二男の藤三郎まで亡者にせんと種々難題を申ては毎日打擲致し若是を意見立致し候者是あれば早速暇を出さるゝゆゑ其後は誰一人諫め申者御座なく剩さへ新參の家來を愛し古參の私し共は除者の如くに致し家政を亂し候に付山口惣右衞門は餘りに見兼て諫め候を殊の外憤ほり直樣永の暇を申付其後新參の家來を相手に藤五郎藤三郎共を害せんとの密談致候を腰元の島と申者竊に聞知私し共へ告知せ候間據ころなく兩人申合せ藤五郎兄弟を救ひ出し候事に御座候之に依て何卒主税之助を召出され右等の儀御吟味の上嘉川の家名相立樣御慈悲を以て御説諭成し下され候樣願ひ奉つり度候と申立ければ大岡殿篤と是を聞れ其方の申立相違も有間敷なれど右口上の趣き書面に致し差出すべしと有しかば佐十郎郷右衞門の兩人口書を認め差出す其文に曰く 一私し共兩人儀は先主嘉川平助以來より勤仕罷在候處當主主税之助養子に參られ候後平助儀藤五郎藤三郎の二子を儲けられ候に付主税之助養ひ子に仕つり成長の後兩人の内へ家督相讓り呉候樣平助病死以前主税之助へ遺言仕つり其節私し共并に當時永の暇に相成し山口惣右衞門等其席に罷在承知仕つり候儀に御座候處其後主税之助實子佐五郎出生以來藤五郎兄弟を憎み非道の所置御座候より藤五郎儀若氣の至にて不行跡御座候を幸ひに同人を廢し候は是非なき次第に付弟藤三郎を嫡子に致すべき旨私し共諫め候を主税之助儀不承知にて同人實子佐五郎を嫡子に立られ候然耳ならず藤五郎并に藤三郎儀は先平助實子に付始終佐五郎爲に相成申さずと存じられ候哉藤五郎は座敷牢に押入食物を相止め藤三郎儀は幼少に之有候を種々難題申付朝暮折檻仕つり責殺さん覺悟と相見え候間私し共心配仕つり候處彌々藤五郎兄弟を亡ひ候べき内談を腰元島と申者聞知り是を私し共に知らせ候により嘉川家一大事と相心得右島を案内に致し當十二月廿二日の夜奧へ忍び入り藤五郎并に藤三郎の兩人を一先盜み出し候に紛れ御座なく候然る處當主主税之助より其夜居間の金子百兩紛失の由申立候は其身の惡事を押隱し申べき爲私し共へ御疑ひ相掛り候樣にと心得斯る儀を申掛仕つり候かと存じられ候之に依て何卒明白之御吟味願ひ奉つり度此段書取を以て申上げ奉つり候以上 元嘉川主税之助家來 享保三年十二月廿七日 建部 郷右衞門 印 同 伴 佐十郎 印 右の如く書取差出候に付大岡殿篤と一覽致れ追々吟味に及ぶ兩人共吟味中揚屋入申付ると申渡され夫より右書面を老中方へ差出されしに付老中方始め若年寄大目付御目付三奉行の評議となり嘉川主税之助は吟味當日迄閉門を仰付られたり尤も當年十二月も早月末殊に歳暮かた〴〵來春の御用始めまで嘉川家の一件は御差置との事にて何方も歳暮又は新年の壽き賑々敷御用も多ければ其中に正月も立て早二月となりしにぞ近日嘉川家の一條も吟味に取り掛らんとの事どもなり 第十一回  時に嘉川主税之助は我が實子の愛欲に眼闇みて家の亂れは一向構はず彼安間平左衞門始め新參の家來を相手に只管惡事を相談して居る中大岡殿は伴佐十郎建部郷右衞門の兩人より委細の事故聞糺され吟味の當日まで主税之助閉門仰せ付られしに付主税之助を始め嘉川の家來どもは今度の一件の縺れはお島の手引に相違なしと其後も晝夜責さいなみ終に打殺し死骸は何方へか捨置知らざる體になし居たるにお島の親里住吉町吉兵衞方より此儀に付大岡越前守殿奉行所へ訴へ出ければ越前守殿早速白洲へ呼出され目安訴状を披き見るに 乍レ恐以二書付一奉二願上一候 一住吉町忠八店吉兵衞申上奉つり候私し娘島と申者三年以前より御旗本嘉川主税之助樣御屋敷へ腰元奉公に差出し置候處當人へ用事之あり昨年冬中より度々御屋敷へ罷出候へ共何か御取込の儀御座候由にて一向に御逢せ下さらず何共合點行ざる事と存じ居候中世間の風説惡き儀を承はり候間猶又御屋敷へ罷出當人へ達て對面致し度旨願ひ候處御用人安間平左衞門殿を以て仰聞られ候には島儀去る十二月廿二日の夜盜賊を手引に及び候に付御手討に相成たりとて島持參の道具而已御下下され候得共死骸は御渡し下されず因て甚だ打驚き愁傷仕つり候處右道具の中に娘島儀豫て覺悟致し候事と相見え遺書一通之あり候に付之を披見仕つり候に主人とは申ながら餘り御情なき致され方と存じ候間切ては御慈悲を以て死骸だけも御下げ下され候樣仕つり度之に依て此段歎願奉り候以上 住吉町忠八店 享保四年二月 願人  吉兵衞 印 家主  忠八 印 右の如く讀上ければ越前守殿大いに驚かれ扨は嘉川家の一件彌々主税之助の惡事に相違なしと思はれ吉兵衞に向ひ其島と申は其方の娘なれば死骸を下て貰ひ度思は道理なり嘸其方が心には殘念なる事にあらん是も所謂過去の約束事ならんか然共餘り苛酷仕方ゆゑ其方が胸中察し入る尤も嘉川家の事に就て大分入組たる筋あれば近々に評定も是有るべしシテ又其方が願ひし時娘の死骸何として渡さばやと尋ねられしかば吉兵衞涙に咽びながら其儀は嘉川家の御用人平左衞門殿の申さるゝには御手討になりたる者ゆゑ此方にて取置たり然樣存ずべしとのことで御座りましたが其平左衞門と申人は恐しい人で大層な見識にて私しを睨み付猶何とか申たならば又私しをも手討に致しさうな勢ひなりしと云ば大岡殿夫は何時頃手討に成し樣子なるやと有に吉兵衞ハイ何時頃で御座りますか日も申聞られず大概海川へでも死骸を打捨られしならん何時が命日やら一向分らず定めて娘は迷うて居る事にやと思へば涙の乾く間も御座りませんと人目も恥ず泣居たるに越前守殿も甚だ氣の毒に思はれ扨々非道の致し方なり宜々程なく吟味を遂て遣はすシテ其遺書を持參致居るかと問るゝに御意の如く持參仕つりしと吉兵衞は懷中より取出して指出しければ越前守殿是を見らるゝに手跡も見事にして其文章も勿々能譯りしかば則ち目安方へ渡され目安方高々と讀上る其文に 申殘し參らせ候事  (裏書)正月廿五日夜封す 久々御めもじも致し申さず御懷しさのまゝ聊かの人目を忍び書殘し參らせ候扨當御屋敷の殿樣御親子の御中兎角惡しく去年夏中より藤五郎樣御事座敷牢御住居にて召上りものもろくろく進ぜられざる程の仕合せ御最惜き事申ばかりも御座なく又御弟子藤三郎樣も殿樣奧樣の御惡しみ深く未だ御幼少の御身を旦暮御折檻遊ばし日夜おん涙の乾く間もなく誠に〳〵御愍然存じ上參らせ候夫に付御先代よりの御用人衆と御相談申上去る十二月廿二日の夜御二方樣を御救ひ出し申上候處其事私しへ疑ひ掛り夫は〳〵誠に恐しき責苦を受候御事詞にも筆にも盡がたく斯樣の儀を御知せ申上候も不孝とは存じ候へども始終の所私しの命はとても御座なき事と存じ候へば最早此世にての御目もじは出來難く先立不孝は御免し下され度候尤も大殿樣は大惡人ながら御氣象甚だ甲斐なき御方に御座候處御用人安間平左衞門殿と申人は實に情なき者にて其の心の恐ろしき事鬼とも蛇とも譬へ難き大惡人に御座候往昔より惡逆非道の者の咄しも承まはり候へども此平左衞門殿程の大惡非道の人を未だ承まはり申さず候此人近來御屋敷へ御召抱へに相成て皆此者より殿樣へ惡敷事を御勸め申上候まゝ元來惡心の有せらるゝ殿樣ゆゑ一方ならず御意に入日々惡事のみ相談あるにより私し事も遠からず平左衞門殿の手に係り候はんと思ひ定め〓(まゐらせさうらふ)私し亡後は何の樣子も御存なく御歎も有らんかと存じ此事故あら〳〵書殘し參らせ候猶委しく申上度候へども少時間の隙を見合認め候まゝ別して筆も廻り兼候宜しく御推もじ願上參らせ候かしく しまより 御兩親樣 斯の如くの遺書を越前守殿聞れ如何にも憐れの事に思はれしかば心中に扨は其島が殺されし死骸は思當りし事も有とて考へ居られけり ○越前守殿寺社奉行より掛合の張面取寄らるゝ事 并二ヶ寺より訴への事 然ば大岡殿はお島が遺書を熟と聞かれて嘉川家の一件豫じめ推量られ右島と申す女の殺されし事は正月廿五日過の事と思はるゝにより當二月二日寺社奉行黒田豐前守より兩奉行所へ掛合ありし節の帳面を持參せよとて取寄られ御覽あるに寺社奉行所へ千住燒場光明院より訴への寫し左の通り 一昨夜亥刻前淺草阿部川町了源寺切手を持參致し所化僧一人檀家三人差添棺桶送り越候處掛合中右棺桶を置捨に致し候間相改ため候に女の死骸にて變死に紛れ御座なく候依て御檢使願ひ奉つり候以上 千住 二月二日 光明院 寺社御奉行所樣 右檢使の書取寫し左の通り 年頃廿一二の女惣身に打疵多して殺候樣子に相見申候尤も衣類は紬縞小袖二枚を着し黒純子の龍の模樣織出の丸帶を締面部眉左の方に古き疵の痕相見候 淺草了源寺より訴への寫し 一昨夜當寺の切手を持參致し所化僧一人檀家三人差添千住燒場光明院へ火葬の者送込候處其後所化僧檀家共棺桶捨置逃去候由光明院より掛合越候へども當寺に於て右樣の覺え御座なく候に付此段御屆申上置候以上 淺草阿部川町 二月二日 了源寺 寺社御奉行所樣 右の通り書留之有るに付き越前守殿吉兵衞に向はれ其方娘島は當年何歳に成やと問るゝに吉兵衞ヘイ同人は當年廿一歳に相成ますと申ければ越前守殿然らば同人左の眉の方に古疵の痕はなかりしやと申さるゝを聞吉兵衞不審に思ひ御意の如く幼少の時不圖怪我を致せしが其痕が今に殘り在しを娘が人相に係ると人々が申せしとて平常に苦勞致し居しが此度斯樣の死を遂ると云は云當たることと思はれ一しほ歎かは敷存じ候と申立ければ大岡殿然すれば其方が娘の死骸は千住燒場光明院に之有間彼の處へ行早々引取り葬り得させよと有て右兩所より訴へ出し書付の趣きを委敷申聞られしにより吉兵衞は其始末を聞より大いに驚き扨は娘島事は嘉川主税之助殿の手に係り非道の最期を遂しに相違なし定めて彼の惡人の安間平左衞門めが仕業より出し事ならん思へば〳〵怨めしきは主税之助殿主從なりと或は怒り或は歎き大聲上て泣居たるは如何にも氣の毒なる有樣なり夫より下役人は差圖して吉兵衞を勞はり爰を下らせしが大岡殿は早々右の趣きを老中方へ申立られ不日評定所に於て吟味有べきとの事なり 第十二回  善惡邪正も判然るゝ期至れるかな頃は享保四年の二月に時の町奉行大岡越前守忠相殿住吉町吉兵衞の願ひ出し一件逐一聞糺され老中方へ申立られ掛り役人評議の上右關係の者共評定所へ呼び出され吟味あるべしと定まり尤も此度は最初より見込の儀も是あるに付當日の吟味は越前守へ仰せ付られしにより早速小普請支配宮崎内記殿へ明九日支配下嘉川主税之助并に同人家來安間平左衞門の兩人吟味筋之有に付差出さるべき旨剪紙を以て達せられければ宮崎内記殿委細承知致したりと有て即刻此段嘉川主税之助并に親類へ達せられし處翌九日親類山内三右衞門是は百俵五人扶持の輕き御家人にて先平助の伯父なり同人并に小普請組頭等附添警固なし駕籠へ乘せて罷出評定所腰掛に相控へ御下知を待れけるに今日は月並の評定日なれば士農工商儒者醫師或は順禮古手買追々に罷り出控へ居ける中役人方家々の定紋付たる筥挑灯を照し行列正しく出仕有に程なく夜も明渡り役人方揃はれしかば稍有て嘉川主税之助一件の者共呼込になり武家の分は玄關にて大小を受取屏風圍ひの内へ控へさせ置平民の分は白洲の溜りへ控へたり時に案内に隨ひ各自吟味の席に罷り出れば白洲には雨障子を高く掛渡し御座敷向的歴なる事誠に目を驚かすばかりなり扨主税之助は入側右の方に着座なし引續きて附添の小普請組頭末座に親類石原文右衞門山内三右衞門縁側には家來安間平左衞門罷出其有樣最憎々しき面魂ひにて一癖有べき者と言ねど面に顯れつゝ吟味を今やと相待居たり扨役人方の上席は老中井上河内守殿若年寄大久保長門守殿石川近江守殿寺社奉行黒田豐前守殿左の方には大目付有馬出羽守殿御目付松浦與四郎殿其外評定所留役御徒士目付小人目付に至るまで威儀を正して列座あり此時大岡越前守殿掛り故直と席を進まれければ目安方聲高々と小普請組宮崎内記支配嘉川主税之助同人家來安間平左衞門と呼上る時各々一同に平伏す頓て越前守殿目安方に建部郷右衞門伴佐十郎兩人の口書をと申されければ目安方是を讀上たり因て大岡殿主税之助に向はれ只今承まはる通り伴佐十郎建部郷右衞門の兩人より申立たり此儀如何やと尋ねられければ主税之助首を上其の義は渠等兩人盜賊に相違御座無く候處己等の罪を遁ん爲然樣の儀を申立候事と存じられ甚だ不屆なる者共に御座候先渠等兩人拙等方に勤中も種々不埓の筋有之候者共にて兎角某しを輕んじ奇怪至極に存じ居候と申を聞れ越前守殿コレ主税之助其許の樣に取所もなき事を申されては聊かも返答と云に非ず先渠等が罪有事は有樣に申され又渠等より申立たる條々は其許神速に申開かるべしと申けるにぞ主税之助は元來愚成上其身の行ひ甚だ非道の事のみ故越前守殿の詞に怕恐れハツとさし支たる體を見て安間平左衞門は生得大膽不敵の曲者成ば主人の答を齒痒きことに思何とか口を利たき體に控居たり 第十三回  再び越前守殿主税之助に向はれ其許は先代平助の養子に相成し後平助は藤五郎藤三郎の兩人を儲けしに付平助末期に藤五郎兄弟は家の血筋故其許の養子となし家督を讓り呉候樣呉々遺言ありし時急度承知致し居ながら何故に藤五郎兄弟を廢し實子佐五郎を嫡子に致されしやと尋ねられければ主税之助夫等の儀は仰に候へども藤五郎は其躬不行跡にして勿々異見も聞入ず其上亂酒により一度は公儀の御苦勞にも係りし者に付押籠相廢候と答ければ越前守殿其は一應聞えたれども何故に藤五郎の食物を止められしや又藤三郎は幼少なるを非道に折檻致さるゝこと我子佐五郎の爲に行末惡しかりなんと思ひ渠等兄弟を殺さすとの心底なるや然樣の惡心を起し我が子の爲と存ずる淺猿き心偖々苦々しき所爲なり斯淺果なる惡事何として其身の望みを遂ることなるべきや因て其許も能々我身を顧みられよ古語にも父父たれば子子たり父父たらざれば子子たらずと云に非ずや然る故に此度の如き家の騷動を引出すなり加之御邊の居間の金子紛失は伴佐十郎建部郷右衞門の兩人が盜取しと云事確固なる證據有や是とても其身の惡事を隱さんが爲に跡方もなき空言を申立渠等兩人に惡名を付る其許の巧み甚だ以て言語に絶たり此儀辯解ありやサア如何に返答致されよと高聲に申されたる有樣威權鋭ければ主税之助はハツと言て生膽を取れし如く色蒼然つゝ震ひ出し一言の答へも成ず其儘平伏なしけるを大岡殿見られ心に此奴は大惡成共取に足ざる愚人なり然すれば是迄なしたる惡事は悉皆く安間平左衞門の勸し業と察せられしかば平右衞門に對はれ主税之助家來安間平左衞門とは其方の事かと申されたる其聲自然と骨身に答へしにや流石に不敵の平左衞門もハツと平伏なしたる體甚だ恐れし樣子なり其時越前守殿最徐かに尋ねらるゝ樣其方は嘉川の屋敷へ何時頃より奉公住致せしやと申さるゝに平左衞門三ヶ年以前奉公住仕つり候と申ければ大岡殿然らば先主は何方なるやと有に平左衞門先主人は京都に御座候と云へば大岡殿ナニ京都と申か其方の言葉は京訛り少しもなく關東言葉の樣に聞ゆるぞ而て先主の名前は何と申すぞと云はるゝに平左衞門は堂上方に奉公致し候と申しければ大岡殿堂上方に勤仕せしと云ふか生國は何方にて武家か町人か百姓か有體に申せと云はるゝに平左衞門ヘイ決して僞りは申し上ず私し生國は相州なれ共京都へ參り久々奉公仕つり居しと申立ればナニ生國は相州とな然すれば大久保家の家中の者なるかと問るゝに平左衞門否然樣には之無私し親は農人に候が私し儀幼少より武道を好み候故當時武家の奉公致し候と言ければ越前守殿能こそ有體に申たり尤も其方が言はずとも汝が素性は大概知れたり此上は何事も包まず明白に申せ若僞らば爲にならぬぞシテ農人の悴なれども武邊を好むと申が其方親類に武家は有かと申さるゝに平左衞門否私し親類に武家は一人もなく候と申立れば越前守殿又主税之助に對はれ其許平左衞門を召抱へる節親類書は何と有しや親類は町人百姓のみなりしか夫は町人百姓のみにても苦しからざれども其請人は何と申すが致したるやと尋られしに主税之助答へて其節の奉公請は手前出入の多兵衞と申者に御座候と云ければ越前守殿其多兵衞と申者商賣は何を渡世に致居るやと有に主税之助多兵衞は渡り徒士を業と仕つり候と言へば所は何處にて苗字は何と申やと問るゝに住所は小柳町一丁目にて切首多兵衞と稱候と申を聞れ大岡殿ナニ苗字は切首と申かと言れて主税之助ハツト赤面して是は甚だ惡敷事を言たりと思ひ心中大いに當惑の景色にて否苗字は存じ申さずと云に大岡殿ナニ苗字は知らぬとや夫は又麁忽千萬シテ平左衞門は始何役に召抱へられしやと申さるれば主税之助渠には用役を申付候と云ふを越前守殿否々然樣にては有まじ大身小身とも其家の用役と申は重い儀にて其上聞ば山口惣右衞門伴佐十郎建部郷右衞門などと申家付の家來もありし趣きなるに何用有て多分の家來を召抱へしや先代平助は御役を勤むる頃より右三人の用役にて事足たるを其許の代に成て家來を殖せしは何か存じ寄にても有ての事なるや又山口惣右衞門は何故有て永の暇申付られしや當時渠は三河町に浪宅を構へ居ども町役人などの申には至て手堅き者の由其上舊來の家來と言老功の者なれば萬事の取締りには至極宜しからんに此儀は其許の心得違ひを妨げる故ならんと有しに主税之助其儀は平助以來の家來共種々不調法も之あり又私し儀を輕蔑に仕つる事法外にて誠に輕き者は致方之なく候間據ころなく永の暇申付候存寄故新規に家來を召抱へ候と云ば越前守殿否々渠が輕蔑になすには有間じ是は正しき舊來家付の家來に付其許の我意を異見に及び兎角邪魔に成故ならん然樣の空言を止て有體に申されよ假令如何樣に包み隱すとも大概此方へ知れてあれば今更陳ずるは詮なきことなり又平左衞門其方の奉公請に立て貰ひたる切首の多兵衞と申は如何樣成由緒あつて請人に成しやと申さるゝに平左衞門は面倒な事を尋ねらるゝと思ひながら右多兵衞が弟の願山と申京都智恩院に所化を勤め居り候頃私し儀は堂上方に勤仕の事故右願山と度々出會仕つり至つて別懇に致せし其好身にて私し儀浪人後江戸表へ出多兵衞方の世話に相成候と申ければ越前守殿其願山と申者は今以て智恩院に居るや但し雲水の身分なるやと問るゝに平左衞門渠も當時は雲水の身分と相成兄多兵衞の方に來りて同居仕つり居り候と言しかば越前守殿礑と手を拍れ夫にて概略分つたり先月初旬了源寺の所化と僞りたる坊主は正しく其の願山で有うと何樣其方の別懇にする曲者ならん此儀は何ぢやと思ひ掛なき事を尋ねられければ平左衞門は夫はと吃驚仰天なせし樣子なりしが元來大膽不敵の曲者なれば莞爾と笑是は〳〵思ひ掛なき御尋ね私し儀其儀は一向に存じ申さず候と然も知らぬ體に申けるにぞ越前守殿此體を見られ扨々此奴めは餘程念の入たる曲者なりと思はれ否々汝如何樣に陳ずるとも此方には屹度したる證據あり其上未だ〳〵其方に聞事あり腰元島の事は何ぢや是も其方が一向知らぬと申さば主税之助に言するぞ然すれば其方は卑怯未練と言れんにより惡黨は惡黨だけに潔よく白状せよ假令此上如何程隱すとも主税之助始めの惡事を天奚ぞ免すべきや然るに事を左右に寄せ彼是陳ずるは天命を知らぬと云者なり主人主税之助は惡人ながら又愚直の處もあり其方は此期に及でも未だ運の盡たるとは思ずや此越前守が見る處汝は勿々立派なる惡黨成れど一度帶刀もせし身なればサア武士らしく白状なし名を潔くせよと申されければ平左衞門は心中に偖々音に聞えし名奉行だけありて何事も天眼通を得られし如き糺問アラ恐しき器量哉と暫時默止て居たりけり 第十四回  斯て天眼通を得たる大岡殿が義理明白の吟味にさしも強惡の平左衞門一言の答へもならず心中歎息して居たりしかば越前守殿然もあるべしと思はれ乃至其方此上富婁那の辯を振つて何程申掠るとも島が一條に付ては確なる證據あり本月朔日千住燒場へ島の死骸を置捨に致したる事相違是有まじ又た千住光明院淺草了源寺より訴へ出し書面もあり右等を只今爰に於て讀聞すべし主税之助諸共能々聞れよと申さるゝ言葉の下より目安方役人書面を讀上げる 光明院檢使願書面本件第十一回目に記載有に付茲に除く依て其回と見合せ讀給へ 右檢使書取の寫し 前同斷 淺草了源寺よりの訴へ書面 前同斷 越前守殿コリヤ平左衞門何と斯樣の屆書是有る上は其方儀主税之助と申合島を害して其死骸を隱さん爲淺草了源寺よりの送りなりと僞りを構へ其手段をせし所光明院にて差拒みし故彼處へ棺桶を置捨に致たるに相違有まじ其上島の親住吉町吉兵衞よりの歎願書も是あり夫も序に讀聞せよと云るゝに又々目安方の者右の書付を讀上る 住吉町吉兵衞願書は本件第十一回目に記載之あるに付爰に除く因て其回と見合せ讀給へ 因て平左衞門は増々心中に驚くと雖も猶も其の色を見せず默止て居たりしかば大岡殿少し聲を張上られコリヤ平左衞門是まで主税之助が爲せし惡事は皆汝が勸めし處ならん併し汝程の惡才有者が何故又島が死骸の始末は斯淺果なる工夫をなして置捨に致したるやと申されければ平左衞門此ことを聞然る上は切て我が身の罪だけも遁れんと忽ち奸智を廻らし恐れながらと首を上御意の如く誠に天命遁難きものにして島が死骸取隱し方淺果なりとの仰せ此平左衞門身に取何程か恥しきことに御座候是に付ては種々申上度儀御座候へども其事詳らかに申上る時は主人の惡事に御座候尤も斯成行し上は是非に及ばず罪は殘らず私しへ仰付られ下され候へば有難く存じ奉つり候と言葉巧みに申立ければ此時大岡殿彼奴此場の變を見て又惡計を設けしよなと思はれけれども態と心付れざる體にて成程罪は殘らず其身に引受度と申事奇特の申條なれども主税之助が科は最早遁るべき道なし依て主人の儀なりとも今更包み隱すは却て未練の至りなり有體に白状して罪に伏すべしと有に平左衞門心中にしめたりと思ひ仰の如く主人の惡事を申上なば臣たるの道を失ふのみならず我が身の罪を遁れん爲の樣に思召の程恐入り候間差控へ候へども右樣御尋ねに付止を得ず有體に申上候はん私し儀三年以前當主人に抱へられ候節實は中小姓を相勤候處夫より段々取立られ用人に相成候後先代よりの古老たる山口惣右衞門に永の暇を申付られ候然れどもいまだ先代よりの用人佐十郎郷右衞門と申者御座候を兩人共に差置私しめに而已用事申付られ餘り首尾の宜き故合點行ずと存じ居候處或夜主人儀私しを竊に招かれ人々を拂つて申されけるは藤五郎藤三郎の兩人を如何樣にも致し無者にして我が子佐五郎に家督を讓り度思ふにより力を添呉る樣にとの頼みに付我が子の愛に迷ふは凡夫の常とは申ながら扨は斯る巧みの有故に私し儀を斯迄に取立し事やと存じ仰天は仕つり候へども萬一荒立に成らんかと心を鎭め其後機を見合せ意見致し候へども勿々以て用いひまじき樣子に付兎に角事を永く延す中には又致し方も有べしと内外承知の體に待なし先主人の氣に適ふ樣に致し置其中には佐十郎郷右衞門の兩人と内談の上猶又主人を諫め申さんと存じ種々心を碎き居しに渠等兩人の者は却て私しを疑ひ夫よりして傍輩中も自然と宜からず成行候へども兎角渠等兩人へ私しの本心を顯し實を見せて篤と相談せんと思ふ中佐十郎郷右衞門兩人は藤五郎藤三郎を盜み出し候故扨は渠等兩人も主人の惡意を察しけれるにや兄弟を盜み出しうへ訴へ出る存念と心付南無三寶是は逸りたることをなし公邊へ御苦勞を掛なば兄弟の命は助る共嘉川の家は滅亡ならんにより此上は最早是非もなし心に染ぬ事なれ共佐十郎郷右衞門ら兩人を罪に落し主家の滅亡を救はんと據ころなく愚案を以て主人の居間の金百兩紛失せしこと申立て候是は跡方なき僞りに候へ共右樣申立るに於ては御上にても佐十郎郷右衞門の兩人に疑がひ掛らんにより藤五郎兄弟を盜み出せしは己等が罪を遁ん爲忠臣ごかしに爲せし儀と申立一旦の主恩を報い候心得に御座候ひし又島の事も然の通り主人の申付に任せ殺して仕舞は安けれども渠は女に似氣なき忠節者ゆゑ切て命ばかりも救ひ得させんと種々に主人を諫め候て一先渠を當分押込置て猶助候半んと存ぜし中相役の立花左仲と申者竊に主人と申合せ絞殺し其儀に付右等の儀は全く後にて承はりたる事ゆゑ萬事の儀ども相違仕つりて候と申立けるを先刻より主税之助は聞居たりしが耐へ兼默れ平左衞門今となりて然樣なる儀を口賢くも申が此度の事は皆其方の勸めしに非ずや然すれば此惡事の元は其方なり夫を都合よきやうに申さば我又言事澤山有と申に平左衞門呵々と笑ひ是は未練の事を仰せらるゝ物かなと言をナニ未練とは其方の事なりと爭ふ時大岡殿コリヤ兩人共默止と聲を掛られ平左衞門は此方吟味中なり主税之助控へませいシテ平左衞門我は思ひの外なる忠臣者ぢや然すれば其方に罪は有ども又其方を憎むべきに非ず猶其後は何ぢやと云るゝに平左衞門其御沙汰は恐入候何事も皆私し儀全く行屆かざる故成ば何處迄も私し儀罪に陷り候と然も忠臣らしく申ければ大岡殿是平左衞門其方が惡事は最早夫迄なるか未々申儀が澤山有んサア何ぢや今少申立ぬか其方が申し立てねば此方より尋ることありと申されければ平左衞門は底氣味惡く答へも發規と爲ざりけり 第十五回  斯て大岡殿は安間平左衞門を種々に糺されける所さしも世に轟く明奉行の吟味故其言葉肺肝を見透す如くにて流石の平左衞門も申掠る事能はずと雖も奸智に長たる曲者ゆゑ忽まち答への趣意を變じて其身の罪を遁れんと胸中に巧み佞辯を震ひけるを大岡殿は猶も心長く聞居られければ平左衞門は十分に奸智を逞ましうし主税之助の惡事を其の身に引請主人を救ふ體に見せ掛兎角私しの不調法故此上は私しを如何樣にも仰付られ主人儀は何卒御仁惠の御沙汰願ひ奉つると申立けるに大岡殿呵々と笑はれコレ平左衞門其方の申處至つて忠臣の樣に聞ゆるなり併しながら爰に少し解せぬことが有ぞ其は住吉町吉兵衞の娘島が殺されぬ以前豫て覺悟せしと見えて渠が遺書あり其文言を見るに彼の島は其方を大分怖がりし樣子なり此儀は何ぢやと申さるゝに平左衞門否ナニ別て怖がりしと申事は之なき筈に候と云へば大岡殿夫を讀聞せよと有る時目安方彼の遺書を讀上る 遺書文言本件第十一回目に記載あり其回と合せ讀給べし 越前守殿何ぢや平左衞門那にても島を救ふ心なりしやと申されけるを平左衞門は少も臆せず仰には候へども私し儀主人の前を憚り表向は島を強面致したるゆゑ島は女心に私しを實に恐ろしき者と存ぜしと思はれ候と申を大岡殿否汝は種々に言掠むると雖も詞の前後皆符合せず其島は女にこそあれ汝も申通り天晴の忠節者殊に其利發なる事は男も及ぶまじ然すれば其方が主人の手前を憚りて島を強面せし事を渠爭悟らざるものあるべきや然るを渠が恐るゝは是全く其方が惡心ある事疑ひなし何樣に奸智の辯を振ふ共此越前守が眼力にて見拔たるに相違なし無益の舌の根動さずともサア眞直に白状せよと申さるゝに平左衞門コハ情なき事を伺ひ候もの哉私し儀聊かも言葉を飾らず主人の惡事を身に引請けん事を願ひし處却て右樣の御疑ひを蒙る事餘り殘念なりと云はせも果ず大岡殿大音に默止れ平左衞門汝未だも奸智の辯を以て公儀を欺かんとするか其儀越前守は疾より承知なり加之ならず問に任せて主人の惡事を申立る段實の忠臣奚ぞ斯る擧動あるべきや茲な重々不屆者め夫引下せと下知の下より忽ち平左衞門を縁より下へ引下し高手小手に縛めたり然ば大膽不敵の平左衞門も大岡殿の烈敷言葉に一句も出ず繩目に及ぶぞ心地よし扨又大岡殿は老中方に向はれ主税之助并に家來平左衞門儀只今吟味仕つり候通り是迄の惡事相違御座なくにより先主税之助儀は他家へ御預け仰せ付られ追ては吟味然るべきやと申し述られければ老中方にも至極道理との事にて大岡殿吟味の致され方を感心あり夫より役人へ評議中主税之助は御小人目付警固に及び席を下りて屏風のうちへ入置平左衞門は入牢申渡されしが主税之助儀は交代寄合生駒大内藏へ御預けと定まりたり此生駒家の先祖は讃州丸龜の城主にして高十八萬石を領し豐臣家の御代には老中の一人にして生駒雅樂頭と號し天晴武功の家柄なり其後徳川家に隨ひ四代目にして家中に騷動起り既に家名斷絶すべきの處親類藤堂和泉守殿歎願により羽州由利郡矢島に於て高八千石を賜り交代寄合に成され屋敷は下谷竹町にて拜領致れたり斯樣の家柄故此度主税之助を御預けなさるゝ旨老中井上河内守殿より奉書を以て達せられしかば生駒家に於て早速用意に及びお預かり者請取として差出す家來左の如し 騎馬       一人            士分       五人 足輕       十人            乘物       一挺 是に因て生駒家々來より奉書の請書一通評定所へ差出す 御奉書拜見仕つり候御預りの者有之候由別紙御書付の通家來共評定所迄爲請取差出し申候恐惶謹言 二月十九日 生駒大内藏 太田備中守殿 井上河内守殿 松平右京太夫殿 本多伊豫守殿 斯て生駒家の家來は評定所の門前に控居て御下知を待ける時に御徒目付青山三右衞門玄關に立出て生駒家より差出しの人數揃ひたるやとの尋にハツと答へて同家の用人金子忠右衞門同留守居役加川新右衞門の兩人罷り出御達し通り人數相揃ひ控へ罷り在候と答へければ青山三右衞門玄關番に差圖なし然らば先各々方是へ控有べしと案内に連評定所の座敷に暫時控へ居たりけり 第十六回  偖も生駒家の用人留守居等は玄關脇の座敷に控へ居けるに暫時有て御徒目付青山三右衞門再び出立迎の乘物に締りの儀御心得有べきやと云へば金子忠右衞門加川新右衞門の兩人御念の入たる御尋ね締りの儀は錠前に及ばざる旨御書付に任せ錠は付申さず候へども警固の儀は人數別段覺悟仕つり候と答へ彼是する中夜に入り御徒目付御小人目付案内にて嘉川主税之助を玄關に送り出せしかば生駒家の用人金子忠右衞門玄關に手を突今日嚴命に因て主人生駒大内藏へ貴君樣を御預け相成しに付御迎へとして用人金子忠右衞門留守居加川新右衞門參向仕つり候と云へば主税之助は會釋して是は〳〵御大儀某しこそ嘉川主税之助なり以後何かと御世話に相成ん宜しく御頼み申すと言ひながら則ち乘物に乘移るに生駒家の人數前後を固めて引取りけり夫より役人方一同退散に付大岡殿も評定所より歸宅され即刻定廻り同心を呼れて小柳町一丁目に住居致す切首多兵衞并に同居の弟願山と申す僧を召捕べしと有りければ畏まり候とて同心は早速其夜小柳町近邊に到り能々聞糺すに幸ひ此夜多兵衞願山共居宅に在て惡黨共を集め大博奕を始め居たり多兵衞は廣袖の小袖を着し三ツ布團の上に大安坐をかきて貸元をなし願山坊主は向鉢卷にて壺を振宵より大勢車座に居並び互に勝負を爭ひしが一座の中に目玉の八と云ふ惡者は今宵大いに仕合せ惡く一文なしに負て詮方盡しかば貸元の多兵衞に向ひコレ親分資本を貸て呉れ餘り敗軍せしと云へば多兵衞は何が二貫や三貫の端錢を負たとて大敗軍も無もんだ其樣な少量な事を聞耳は無へ此馬鹿八めと罵るにぞ目玉の八は負腹にて心地宜らぬ折柄故大いに怒ナニ馬鹿八だと此拔作め口の横に裂た儘に餘り大造を吐露な飛だ才六めだ錢を貸す貸ぬは兎も角も汝の口から馬鹿八とは何のことだ今一言云したら腮骨を蹴放すぞ誰だと思ふ途方もねへと云へば切首は眼を剥出し大音に汝云せて置ば方圖がないびんしやんとすると張倒すぞと敦圉切つて罵るをナンダ張倒すイヤ置て呉れ汝等に張倒されてお溜り飜しか有るものか爰な強曝しめと互に口から出放題に惡口を吐散せしが多兵衞は終に堪へ兼直立さま茲な馬鹿八めと既に飛掛らんと爲るを目玉も同く立上り小癪な汝れが否汝がと打て掛れば此方も負ず仲間喧嘩のどツたばた燭臺を踏倒すやら煙草盆を蹴飛すやら打つ擲れつ掴み合果は四邊も眞の闇上を下へと返しけり斯る騷を見濟して捕手の役人聲々に上意々々と踏込にぞ惡者共は是を聞コリヤ堪らぬと一目驂闇を幸ひ這々に後をも見ずして逃去けり役人は外の者に構ひなく終に多兵衞願山の兩人を捕押へ高手小手に縛めつゝ夫より家内を改めて町内へ預け兩人を引立歸り其夜は假牢に入置其段越前守殿へ申立しかば越前守殿には右翌日に至り先達て揚屋へ入置れたる郷右衞門佐十郎の兩人を出され御吟味中嘉川平助親類山内三右衞門へ御預を申付られたり此三右衞門は小身の上至て貧窮の處へ己夫婦とも都合四人の口故日々の賄ひに甚だ難儀致しけるを須田町の七右衞門は聞及び例の侠氣なれば早速三右衞門の方へ來りて何くれと見繼深切に世話をなしけるゆゑ三右衞門は甚だ七右衞門の氣性を感じ喜びける 第十七回  天明かにして善惡の賞罰有りと然れば切首の多兵衞僧願山諸共多年の積惡遁れ難く享保四年二月十二日大岡殿の白洲に引出さるゝに多兵衞は今年三十六歳弟願山は三十二歳なり大岡殿先切首の多兵衞を呼れコリヤ多兵衞其方の異名を切首と申す由夫は何故に然樣の名を付て置にやと尋ねらるゝに多兵衞は首を上恐れながら私し儀御覽の如く此首筋から脊へ掛けて切込れし疵が御座るゆゑ人呼で渾名を切首と申候と云ければ大岡殿見られて成程汝が首筋には大きなる疵が見える其疵は又何して付られしぞ隱さずに申せと云れければ多兵衞はナニ隱しませう此疵は一昨年の夏中供先にて喧嘩御座候節陸尺の七右衞門と申者に切れ此通りの疵に相成しと申ければナニ供先の喧嘩で切れ夫故其疵に成たるとな夫は何時の事なるやと有に多兵衞それは享保二年の夏五月端午の式日私し出入屋敷嘉川主税之助樣親類中へ禮に廻勤致され候故私し徒士を仕つり神田明神下にて小川町の五千石取の太田彦十郎樣に出會しまゝ互ひに徒士の者双方の名前を呼上行違ひ候節嘉川家の供頭が御駕籠の戸を引外し狼狽廻るを見て太田樣の陸尺共が聲々に此土百姓の大馬鹿者め戸の明建も知らぬか知らすば教て遣ふ稽古に來いと散々に惡口致候ゆゑ嘉川樣の事に付此多兵衞めも堪へ兼て進寄つひ一言二言々爭ひし中双方錆刀を引き拔切合處に太田樣の方には中小姓徒士などにも手利の者之あり其上陸尺の七右衞門は力もありて能働き候然るに嘉川樣の方には中小姓孕石源兵衞安井伊兵衞を始め私し并びに陸尺中間迄必死になりて戰ひし故一時は太田樣の方引色に相成候然るに太田樣の陸尺共豫々此多兵衞に遺恨あり其故は彼七右衞門と申者元嘉川家の陸尺頭を勤め居たりしに今の主税之助樣の代になりし頃陸尺の出入を取替られし時私し口入仕つり外より入込ませ彼の七右衞門は出入を止られ申候此怨み有るに因つて此日の喧嘩を幸ひに陸尺の七右衞門惡口雜言を申し其上太田樣の者共此多兵衞の働きにて引色になりたるを七右衞門大いに憤ほり雷の如く喚いて忽ち嘉川樣の者共を追返し中にも私しを目掛けて追來り後ろより大袈裟に切り付申候是に因て嘉川家の者ども散々に逃退き漸く喧嘩も鎭り屋敷へ歸りし後此事内濟にて相濟たり然れ共私し儀首筋より脊へ掛けて大疵あるに付其時より異名を切首と人々申候と少しく自慢がてらに長々と申ければ大岡殿成程其遺恨もある故陸尺の七右衞門は今度の一件に世話を致して居ると見ゆる先づ夫は兎も角も多兵衞汝が世話で嘉川家へ奉公住致せし安間平左衞門と申者は其方何の縁に因て請人になりしやと尋ねらるゝに多兵衞其の安間平左衞門儀は私しの弟願山の懇意にせし縁を以て渠が請人は仕り候と云へば大岡殿然らば其方弟の願山儀は以前京都智恩院の弟子なりしかと申さるゝに多兵衞否然樣でも御座りませぬ然らば何ぢやヘイ弟願山儀は江戸表の寺にて出家致せしと申すを大岡殿ナニ江戸表の寺ぢや江戸表とばかりでは一向解らず何と申寺なるや眞直に申せと云れけり 第十八回  偖も大岡殿は多兵衞の異名切首と云譯を尋ねられし處多兵衞は少しく誇り面に喧嘩の次第まで委細申立しにより其物語りの中廉々此節の一件に思ひ當りしことなど有ける故夫となしに長々と多兵衞の申を聞居られしが其後渠が弟願山の事に及び江戸表の寺は何方の徒弟なるやと糺さるゝに至りて多兵衞はハツと心付大いに狼狽し樣子を越前守殿は敏くも見て取られ何ぢや多兵衞云へぬか云へまい其寺は淺草阿部川町了源寺であらうコリヤ多兵衞先達て了源寺の所化と爲り燒場切手を持參なし島の死骸を千住の燒場光明院へ持込棺桶を其處へ置捨にして逃失し由又其時檀家と僞り參りたる者も三人是有る趣き兩寺より訴へ出しなり其節のことは其方も其一人ならん此事有體に白状せよ萬一隱し立なさば嚴しく申付方有ぞと大音に言れしかば多兵衞は大岡殿の威權に呑れわな〳〵爲ながら心中に想ひけるは此事斯まで悟られし上はとても言紛すこと叶はず寧有の儘に申て仕舞はんと覺悟を極め其の儀全くは嘉川の殿樣に頼まれ私儀は施主に立ちて參りしに相違御座なく候と申を大岡殿聞れ成程汝は至極諦めの宜奴能こそ眞直に白状致せしぞシテ殘りの二人は何者なるやヘイ是も矢張嘉川樣の御家來安井伊兵衞孕石源兵衞の兩人に候と言に大岡殿宜々然うで有らうダガ又其の禮として主税之助より金子を何程取たイヤサ何程取て頼まれたと申事よと有ければ多兵衞は否々金子は少しも貰ひませぬと云へば大岡殿馬鹿な事を云へ金でも貰はずに其樣事を爲る白痴が有者か取たなら取たと申せ何も其方が頼れる程で金子を取たとて別に恥にも成ぬ又其方の身分で其金を取ぬと申たとて別に褒る處もない今申通金子を取て頼まれしとて罪の處は同じ事だぞと申さるゝに多兵衞は彌々閉口なし實に恐れ入ました金子を別に取て頼まれたと申ではなく少々計りの酒代を貰ひしと云に夫は何程だと問るればハイ一兩貰ひ候と申を大岡殿大いに笑はれコウ多兵衞夫は餘り安いものぢやたつた一兩位で頼まれたか併し其の趣ぎに相違なきやとあるに多兵衞其儀は少しも相違御座なく候と答れば大岡殿オヽ能是迄白状致した此上の處決して陳ずるな先是迄の處では其方の身分に構ひないぞ爰を能々得心して以後尋る節は有樣に申立よ先引立いとの下知に隨ひ同心引立て入替り願山を白洲へ引据るに大岡殿渠を見られコリヤ了源寺の所化を勤たる願山とは汝かことかハテサア驚くな其方が白状せぬ前に汝の兄切首の多兵衞が殘らず白状して仕舞たは何も今更隱すには及ばぬイヤ汝れは勿々並々の奴ではないコレ願山能承まはれ汝が兄の多兵衞は潔りとして小氣味の能奴ぢや其方も兄の通りすツぱりと白状せよ主税之助に頼まれ島の死骸を燒場へ送りし時金子は何程取しぞ隱さず申せと云はるゝに願山は大いに驚き扨々兄は腑甲斐なき奴とは思へども今更陳ずる事も出來ざれば其儀は嘉川樣に頼まれし節金二兩貰ひしと申ければ大岡殿笑はせられ汝も安い人間ぢや併し兄より利發者兄の多兵衞は主税之助に頼まれて島の施主に立ながらたツた一兩貰つたと申其方は二兩貰つたと云ふが兄の施主役より汝は坊主丈佛に付ては骨が折る了源寺の似せ切手を拵へ又其外の氣配りも坊主でなければ萬事行屆かず其の上掛合も致す旁々以て汝は大役で有たナ先々其儀は夫で宜し〳〵シテ願山汝が世話を致せし安間平左衞門と云ふ者は何う云ふ縁で心安く成しや此儀有體に申せと問るゝに願山は此事なりと思ひしかば其平左衞門儀は私し京都智恩院に居りし頃度々渠れと出會し故夫より懇意になり其後私し儀御當地へ參るに付渠も又御當地へ下り私しを頼みまするに因世話を致し候と申ければ大岡殿其平左衞門は京都に居し節何れに奉公致したヘイ日野大納言樣に勤居りましたナニ日野家に居つたと其方は智恩院に居た故夫で渠が世話を致したか御意に御座ります大岡殿イヤハヤ夫は甚だ申口が暗いぞ其方智恩院に居つて度々出會たる者を世話致すと申は第一心得ぬ事なり此後も京都に於て度々出會し者が此地へ下らば皆世話を致すか何ぢや京都に居る時平左衞門のみ出會て外の者には出會ざりしか此儀は何ぢやと有に願山恐れながら然樣の儀には御座なく平左衞門事は彼の地にて別段懇意に致せしゆゑ渠の世話は仕つりしと云へば大岡殿是さ願山汝如何程申ても申口が闇し平左衞門其方何にか由縁にてもあるか又は餘儀なき事にても有しか一向左樣なる儀もなく只々汝は京都にて渠と度々出會別段懇意に致したと申が然ほど別懇ならば渠が生國なども定めて聞たで有らう渠が生國は何國ぢやヘイ生國は存じませぬハテサテ更に取處もない併しながら渠には何ぞ恩義にても受しことあるや然も是なき時は一向に申口は立まい何ぢや答へが出來ずば夫は追ての事平左衞門が日野家に勤しは何時頃の事なるやと有に願山ヘイ四年以前に御座候と申ければ大岡殿オヽ四年以前は享保元年何月迄勤めて居つたぞ願山答へて四年以前の十二月の中旬頃迄勤めて居りましたと存じます大岡殿然らば其の時の平左衞門が名は何と申たと尋ねらるれば願山は暫らく考へ種々の名もと云掛しが否矢張安間平左衞門と申まして御座りますと云へば大岡殿コレ〳〵願山然うでは有るまい外に名が有つた筈ぢやとてものことにすツぱりと云て仕舞最う隱しても皆知れて居るサア眞直に申せと云るゝに願山は何かぐず〳〵云ひ兼る體を見られ大岡殿イヤハヤ意氣地のなき坊主め疾より知れてある事を汝隱しだてをする大馬鹿めコリヤ其大帳を是へと申さるゝ時目安方ハツと差出すを取て見らるれば享保元年の帳に 日野家の家來逐電の者 安田平馬 三十九歳 佐々木靱負 三十六歳 右兩人の者去る廿一日の夜逐電仕つり候に付御斷り申上候 日野大納言内 享保元年十二月廿八日 雜掌 斯の如く帳面に書留之有り右日野家家來逐電の始末は毎年八月十五日城州男山石清水八幡宮放生會に付參向の公家衆あり抑々此正八幡宮は其昔時 應神天皇を勸請し奉つり本朝武家の祖神なり就中源家に於ては殊の外御尊敬あること御先祖八幡太郎義家公此御神の御寶前に於て御元服あつて八幡太郎と稱し奧羽の夷賊安倍貞任同宗任を征伐あられしも悉々く此八幡宮の神力に因所なれば實に有難き御神なり然ば末代に至る迄此御神を武門の氏神と尊め奉つる事世の人の皆知る處なれば爰に贅言せず因て當時將軍家より社領一萬石御寄進あり斯る目出度御神なれば例年八月十五日御祭禮の節放生會の御儀式あり近國近在より其日參詣なす者數萬人及び八幡山崎淀一口其近邊は群集一方ならず淀の城主稻葉丹後守殿より毎年道普請等丈夫に申付られ當日は警固の役人罷出て往來の非常を戒めらる然れば今年も參向の公家衆は御三方にして例年の如く御先は花山院中納言有信卿菊亭大納言定種卿勅使は日野大納言定立卿なり 第十九回  斯て參向の公家衆例年の通り八幡宮御寶前に於て御神拜終御式路淀の城下に差掛られしが茲に木津川淀川桂川と云ふ三所の大川あり是に大橋小橋孫橋といへる三橋を架渡し領主稻葉家の普請にて今日公卿方此橋を御通行あるにより同家より警固の人數嚴重に御道筋を固めしが稻葉家の運や惡かりけん花山院殿と菊亭殿の御二方は難なく通り給ひしが勅使大納言殿の御駕籠此孫橋へ差掛られし時桁中途より折れて橋板五枚ばかりと共に日野家の御先供水中に落入や否や續いて大納言殿の陸尺も踏外し忽ち御駕籠も水中へ落入既に沈まんとする有樣に周章狼狽陸尺共は足を踏直して上らんと爲を見て稻葉家警固の者共大に驚き驚破一大事の出來たりと大勢馳來りて飛込々々難なく御駕籠も救ひ上たり尤も御駕籠半分程は水中に落入しと雖も稻葉家の役人共爰を專途と身を惜まず働きしゆゑ大納言殿御怪我もなく御旅館へ御供して入奉つり御裝束を召替られ御歸洛有しは誠に危き御ことなり然らば御同勢中水中に落入し者凡廿人ばかりにして此日彼の所化願山も日野家へ傭れ醫師の代を勤め大納言殿の御供に列せしが運能水難を遁れたれ共外に水死の者五人あり御道具荷物の類も落入て以の外の大騷動なれば稻葉家より水練に勝れし者を數十人撰み水中を彼方此方と尋廻漸々に兩人の水骸を始め御道具類を引揚けれども御大切の御太刀は一向に知れず是は正しく水勢早き大河なれば川下へ流れしならんとて川下の方をも猶又人數を増して探しけれ共更に御太刀の知れざりける此の御太刀は全く安田佐々木兩人の侍士が此騷ぎを幸ひに取隱し是を種として稻葉家より金子を欺罔取んと巧みしことなり此時の落首に ちはやふる神代も聞かず淀川に      烏帽子着ながら水くゞるとは 然ば今日の變事に付稻葉家に於ては大いに心配致され取敢ず日野殿の御機嫌伺ひとして家老の中を遣はされんと城代稻葉勘解由を以て京都日野方へ參入致させ種々の音物山の如く贈られて今日の變事を詫入太守も深く心配致さるるに付大納言樣御機嫌伺ひとして參上仕つり候と申述るに日野家の青侍士安田平馬佐々木靱負の兩人兼て申し合せ今度の儀を幸ひ稻葉家へ捻込大金を掠め取るべしと思ひし機から故大いに悦び兩人は立出是は〳〵勘解由殿には能こそ御入來只今の御口上の趣き痛み入候主人儀は別段變る事も是なく併し此度の儀は 勅使として石清水へ御參向の御道筋なれば豫々道橋修繕等是有るべきの處右の始末勿々言語に絶たる事急ぎ此趣き關東へ申達し江戸表の御差圖に任せ申べき間然樣心得られ此段丹後守殿へ申達さるべしと然も仰々しく云ければ勘解由は甚だ當惑の體にて此儀江戸表へ伺ひ候存じ寄に候はゞ某し斯推參仕つらず只々何分にも御兩人の御熟懇を以て波風なく御執計ひ下され候樣頼み奉つり候と申ければ此樣子を見て安田佐々木兩人は仕濟したりと心中に悦び彌々圖に乘て大柄面をし此儀大納言殿には元より穩便を好まるゝと雖も御同行成れし御兩卿方の手前もある故餘儀なく斯は御談じ申せしなり然ながら爰に一つお頼み申度儀御座候其事御承知に候はゞ拙者共何とか工夫致し取り扱ひ申すべく其の譯は近來當家も勝手向至て不手廻りに付殊の外御難儀成れ見らるゝ如く御殿の普請も打捨置候次第ゆゑ此度の御謝物の御心得にて少々金子を御家より御用立られては如何や然有る時は双方共無事にして宜からんと云を聞勘解由は打喜び金子にて相濟事なれば何とか取計ひ申すべしシテ其の金高は何程なるやと申に安田佐々木の兩人は右金高は先水死二人の代り金二千兩御道具の中御太刀一口銘は來國行是は別て御大切の御品成ば此代金千兩外御道具代金三百兩都合三千三百兩右の如く借用致され度と書付を出しければ勘解由は眉に皺を寄扨々是は餘り大金若此事世間へ相知れ候時は双方共宜からず此儀は御用捨に預かり度と申けるを兩人は聞て大に憤ほり然らば勝手次第如何樣とも仕つる三千三百兩を大金と申さるゝが御主人丹後守殿御身上に較べて見る時は實に易きこと十萬石餘の大名少々の金子を出し兼て此方より申達なば家も領地も棒に振るべし大切の 勅使御參向の砌り橋の手薄にて水中へ落されしと有ては 天子へ刄向ふも同然逆罪の咎遁るべからず爰を存じて無事に扱はんと申を彼是御邊申さるゝからは詮方なく此趣き江戸表へ早々達し申さんと言放しければ勘解由大いに驚き先々御待ち下さるべし全く金子を惜むに非ず此上は兎も角も仰せに任すべしと早速金子を取寄せ日野家へ用金と號して右の高三千三百兩進上致し何分宜敷頼み上ると申し置て勘解由は立歸り諸司代松平丹波守殿へは此事を輕く屆に及びたり然れ共松平殿は内々承知致され日野家の致し方を甚だ憎まれ又稻葉守も卑怯未練の事なりと申されけるとなり 第二十回  扨も城代稻葉勘解由は主家を大切に思ふが故是非なく三千三百兩の金子を差出し此度の一件事故なく濟せしかば先は稻葉守上下の者安堵はなしたれども未だ淀川へ沈みし太刀の出ざれば毎日人夫を出して淀川の上下を吟味に及けれど一向知れざれば因て暫く其儘に打過誰一人此事を安田佐々木兩人の惡巧みと知る者なく斯惱しは是非もなし然るに安田佐々木の兩人は充分事調のひしと大いに喜び三千三百兩の金を密かに分取にして毎日物見遊山に出かけしは是則ち三日極樂とも謂つべし尤も安田は強慾の曲者ゆゑ此金子を一向に遣ず佐々木の奢を見て苦々しき事に思ひ御邊斯大金を遣ふ時は忽ち足が付諸司代より直に吟味と成んにより此金を資本として何ぞ吉事に有付工夫をなし給へと異見しけれども佐々木は一向聞入ず湯水の如くに遣ひける故果たして松平丹波守殿此事を聞込れ扨こそと早速吟味をせんとて日野家へ承まはる可儀有之候間安田平馬佐々木靱負の兩人當役所へ差出さるべしと達しられしかば日野家に於ては何ごとならんと怪しまれしが安田佐々木の兩人は豫て覺えのあることなれば素知らぬ面は爲すものゝ心中に南無三寶と思ひ其夜竊に兩人并びに願山とも申合せ跡を暗まし逐電して江戸表へぞ下りける是に因て日野家より右の旨所司代へ屆られければ松平殿甚だ殘念に思はれ此段江戸表へ達し是より兩人の行方御尋ねとなりたりけり扨又安田は江戸にて安間平左衞門と改名して願山の兄多兵衞を頼み彼の金子を以て何方へか住込仕送り用人に成んと心掛けしに幸ひ嘉川家にて仕送り用人を召抱へたしとのことに付多兵衞を請人として主税之助方へ住込しなり寔に此平左衞門は斯の如くの曲者ゆゑ大岡殿再度願山を吟味なさんと工夫有て日野家よりの屆を調べられし上又白洲を見られコリヤ願山其平左衞門には外に名が有筈なり其頃は汝も同じ京都に居たる故知つて居ならん何ぢや答が出來ずば此方より云つて聞せん彼は日野家の雜掌安田平馬と云し者ならん四年以前逐電の節書上に三十九歳とあり歳頃も丁度似合なり汝隱し立をすると其方にも罪が掛るぞ有體に白状致せと有ければ願山は仰天して思ふ樣は斯まで委しく知らるゝ上はとても叶はぬ處と覺悟をなし京都にありし頃佐々木安田の兩人は惡巧により稻葉家の家老稻葉勘解由を欺き金三千三百兩を掠め取しことを始め其外の惡事等迄殘らず申立ければ大岡殿能白状致した猶追て吟味に及ぶと申さるゝに下役の者立ませいと聲懸頓て願山を退ぞかせけり 第二十一回  諺ざに其事爾に出て爾に復ると宜なる哉此言や所化願山の白状に因て再度日野家の一件委細吟味有るべしと大岡殿差圖あつて平左衞門を呼び出されしに平左衞門は又何をか尋ねらるゝやと白洲に蹲踞る時に大岡殿平左衞門を見られ汝先年日野家に於て雜掌役の節は安田平馬と名乘しかと尋ねられければ平左衞門吃驚なせしかども飽まで大膽者ゆゑ此事何所までも押隱さんとおもひ私し儀は然樣の名にては御座なく候と云へば大岡殿打笑はれイヤ平左衞門又しても隱し立を致すか汝は存じの外未練な奴ぢや汝が懇意にせしと云願山が其方并に靱負の事まで殘らず白状に及びたるぞ其方と靱負兩人にて勘解由を欺き三千三百兩掠め取し事眞直に申立よと云はれしかば扨は願山が白状せしか此上は是非もなしとて心を定め京都日野家に仕へし節の惡事殘らず白状に及ければ大岡殿神妙なりシテ又其方は何故京都を逃亡致せしぞ及靱負は其後如何なせしやと尋ねらるゝに平左衞門其儀は只今申上し通り稻葉殿より贈られし金子を分取に致し靱負は日々遊興に遣ひ候により所司代は不審におもはれしにや日野家へ御訊尋の儀有之に付我々兩人差出べき旨掛合御座候間右の大金を掠め取し事萬一露顯に及ぶ時は主人の家の難儀ならんと存じ兩人申合はせ逐電仕つり候と申立しにぞ然らば又々吟味に及ばんと先今日は下れと有て此段早速老中方へ申達されければ井上河内守殿より稻葉侯城代稻葉勘解由へ聞糺すべき儀有之間勘解由を江戸表へ早々差下し大岡越前守役所へ差出さるべしとの達しに稻葉家に於ては大いに驚き急使を以て國元へ申遣はせしかば國元にても種々評議に及び是は先達て大金を差出せし御咎ならん此度江戸表へ罷り出る時は必ず切腹にても致さずんば申譯立難しとの事にて誰一人勘解由に附添下向せんと云者なく其座白けて見えにける豫て覺悟の勘解由は進み出て各々は此度の儀を恐れらるゝにや主人の仰せ殊に御奉書の上は一刻も延引すべからず最初より某しは此儀に係り此度の御召も皆々勘解由の所業なれば只今より我一人下向致さん各々は御國許を守られよと云ひ捨て我が方へ歸り妻子にも此ことを物語り此度の一件申譯なくは我主家の爲自害致さんにより其時は汝等必ず歎くべからずと能々後のこと共申置勘解由は發足なし道中取急ぎて日ならず江戸小川町の上屋敷へ着し其旨太守へ申ければ丹後守殿早速御召有つて日野家の一件御訊尋申に勘解由は委細を申述此事少も御苦勞遊ばられな私し宜敷申譯仕らんとて御前を退き到着の旨老中方へ御屆けに及びけるに大岡越前守殿役宅へ罷出べき段御達に付勘解由は翌日未明に南町奉行所へ出にける大岡殿出座有て其方事先達て 勅使石清水八幡宮へ御參向の砌日野家歸路の災難に付種々取扱ひ其節金三千三百兩同家へ贈りしと云ふ事相違無やと訊尋ねられしかば勘解由は平伏なし御尋ねの如く其節損じ候御道具代金と致し差出せし事相違御座なく候と申けるに大岡殿附添の留守居へ向はれ然らば今日は先退出致すべし追て呼出す間吟味中屹度愼ませ置べしと申渡され夫より又此段京都所司代松平丹波守殿へ急使にて申送られければ松平殿是を聞れて偖こそと思され急ぎ日野家へ使者を以て申入らるゝは此度江戸表より問合せの儀有之る間大納言殿御内雜掌一人早々江戸表へ下向有るべし尤も道中の儀滯りなく此方より申付差添人一人同道致させ申べしとの口上なり日野家に於ては大きに驚き是は先達て逃亡せし安田佐々木の事ならん然し何樣なる間違ひ有るも知れずと殊の外大納言殿御苦勞に御召れ家老山住河内へ其段仰られければ山住聞て君少しも尊慮を苦しめ給ふまじ私し關東へ下り申開き仕つらん此儀全く稻葉家の不覺と申ものなれば頓て歸京仕つり吉左右申上奉つらんと申て山住は江戸表へ下向致しけるに所司代よりは豫て此旨急使を以て老中方へ通達に及ばれしかば大岡殿へ達せられ到着の翌日山住河内を奉行所へ呼出され越前守殿對面有に山住は謹んで平伏なし某儀は日野家の御内山住河内と申者に候此度御用有るに付召呼れしは如何なる儀に候やと申ければ大岡殿然れば此度の事餘の儀に非ず先年石清水八幡宮放生會の節大納言殿參向致され其頃歸路に淀の孫橋落て大納言殿始め大勢の人夫其外御道具類水中に流れ候と承まはる其砌日野家より稻葉丹後守方へ此事を種々に申入られ稻葉の使者より金子三千三百兩取れ候段其頃御内の安田平馬佐々木靱負兩人の計らひにて其實右兩人の者是を取候由なれども日野家に於て是を心得居られ候や其眞僞を糺さん爲御邊を召寄たりと申されければ山住は御尋ねの趣き成程然樣の儀も御座候故兩人の者逐電仕つり候儀と相見え候併し其節私し儀は病氣にて引籠り居り一向存じ申さず渠等兩人の私欲により稻葉家の使者を欺き大金を取し事は相違御座なく併し主人儀は一向存じ申さず候事ゆゑ全く欺むかれ候は使者の不覺ならんか卑くも日野大納言は清華の一人何ぞ金銀を奪ひ取事の候べき此儀は渠等を御吟味下されよと申ければ大岡殿聢と然樣かと有に仰の通に候と申て山住は退出爲たりけり 第二十二回  斯て大岡殿山住河内が申に因て早速稻葉勘解由を呼出され其方先達て差出せし金子日野家にては一向知らざる由全く其方の不覺にして安田佐々木の兩人に欺かれ掠取るゝ條家老も勤むる身に似合しからず立歸り猶屹度愼み罷り在べしと以の外に叱られしかば勘解由は駭き答べき言葉なく寥々と屋敷へ歸り此段主人へ申しければ丹後守殿大きに驚かれ扨々金子は惜むに足らずと雖も我思慮なく青侍士共に欺かれしなどと人口に懸らんこと殘念なり併し今更悔るも益なし兎に角愼み罷在公儀の御沙汰を待べしと申付られしかば勘解由は我が家に歸り一間に籠りて居たりしが獨り倩々考ふるに我大金を掠め取られ剩さへ主人の名迄穢せし事何として人に面の向られべきや此上は切て自害して申譯せんと覺悟を極め終に切腹せしこそ哀れなれ然ば此由丹後守殿聞れて甚く周章ありしかど詮なければ早速老中方へ屆られしに付其の段大岡殿へ達せられしかば大岡殿此上はとて平左衞門を嚴敷拷問に掛られし所終に包み藏す事能はず是迄の惡事追々白状にぞ及びける又平左衞門が宅を穿鑿なせしに遣ひ殘りの金子六百兩出たり(是は勘解由より欺き取し金子八百兩有しを立花左仲は此騷動を聞と等く安間の宅へ忍び入二百兩奪ひ取りて逐電せしかば嘉川家宅番の者より此段大岡殿へ屆け出しなり)然ば平左衞門の惡事彌々明白なりと雖も彼の佐々木靱負が行方を猶吟味有べしと是を尋ねらるゝに平左衞門渠は先年日野家を逐電の節大津迄同道せしが夫より分れて渠は三井寺の方へ行私し儀は願山諸共に江戸へ下向致せしにより其後靱負の行方更に心得申さずと云ゆゑ然らば是非に及ばず併し其方生國は相州と申たれども是又僞りならん眞直に申せと有ければ平左衞門彌々驚き斯見透さるゝ上はとても叶はじと思ひ私し生國實は江州井伊家の藩にて山田藤馬と申者の悴に候處幼少の頃兩親に別れ我儘に身を持崩し十七歳の時浪人仕つり其後京都に出て日野家に奉公致し候と茲に至つて實の素性を白状に及びけり 第二十三回  茲に又佐々木靱負は日野大納言殿に仕へ同勤安田平馬と申合せ稻葉家の老臣稻葉勘解由を十分に欺き大金を掠め取安田と兩人分取になし其金をもつて遊興なしける中平馬靱負の兩人相尋ねべき儀是あるに付所司代御役宅へ差出すべく旨日野殿へ掛合ありしかば南無三寶と思ひ兩人申合其の夜の中に日野家を逐電して願山を誘引大津迄來しが不圖心中に思ひけるは我々斯三人打連立ては豫て諸司代も目を着しやうゆゑ江戸表へも注進ありしは必定なり然樣の所へ空然々々と行見付られなば一大事我は泉州堺に少々知音有により彼方へ尋ね行身の落付を定めんと覺悟なし我は三井寺を見物なし後より追付んとて平馬願山と袂を分ち頓て泉州堺を心指して行けるに日の中は世間を憚るにより夜に入りて伏見より夜船に打乘翌朝大坂八軒屋へ着茲にて緩々と休み日の暮るを待て夜食の支度して爰を立出泉州堺に着し知音の方を尋ねけるに其知音と云は至つて貧敷日々人に雇はれ幽かなる煙りも立兼ねるものなりしが先爰に匿れて逗留し能き傳手を以て片田舍へ引籠り遣ひ殘りし金にて何とか能思案なすべしと思ひて彼是半月餘りも過しけるに知音の者は日々の暮しに指閊え難儀の樣子なるにぞ靱負は氣の毒に思ひ或日懷中より金五兩取り出し紙へ捻りて主に對ひ御邊今日の營み是ぞと申程の事もなく日々雇の稼を致さるゆゑ我れ永々逗留なす事甚だ氣の毒に思ふなり是は少しなれども先暮し方の足にも致されよと渡すに主は大いに驚き是は思ひも寄ぬ事を仰せらるゝものかな我等御覽の如く是ぞと申業もなき故其日の手當も甚だ乏しきを見兼ね給ふは御道理なれども我等事生れ付無能ゆゑ是非なく斯暮し候まゝ日々進らする物も心に任せず右さへ御厭ひなくば假令此上何時迄居らるゝとも決して御氣遣ひに及ばずとて押返しければ靱負は首を振否々然に非ず此は此程手土産にても持參すべきなれども其代りに進ぜるなりと種々申て漸々受納めさせ猶靱負は申樣我等未だ少々の資本もあれば何ぞ一目論見致し度思ふなり何と金貸渡世は如何有らんと相談なせば主は駭き御身何程の金を持給ふか知ねども當地の金貸渡世は大坂掛て極大身代の者なりと云に靱負は否彼の大身代の金貸渡世とは違ひ小體に致し手早く高利を貸んと思ふなりと申せば主は聞て夫は何共申難し當時の人氣にては甚だ危し熟と考へ給へと云ふゆゑ靱負は先々急ぐ事にも非ずと其日は夫なりにて主も雇の約束あれば出行ける扨靱負は後に倩々と思案して今渠と話見たれども當時にて右樣の渡世をする時は京都へ程近ければ勿々危し何れにも片田舍へ引込で外は工夫せんと思ひしが兎角心落付ず彼是と考へ居たる中主も歸り來りければ靱負は主に對當地は斯土地柄も能事ゆゑ上手なる易者あらずやと云ひければ主は點頭當所には名高き易者にて白水翁と申あり寔に名人なりと云ひければ靱負は大きに悦び然らば今日は最早夕陽に及びしゆゑ明日參るべしとて目録など用意に及びけり抑々此白水翁と云は能人の禍福吉凶を判斷し成敗を指に其人の年齡月日時を聞て卦を立考へを施こし云ふ事實に神の如く世の人の知る處なり扨翌日にも成りければ靱負は其身の吉凶を見ることゆゑ沐浴して身體を清め彼の白水翁の方へ到りて頼みければ白水翁靱負に對ひ年齡生れし月日等を聞卦を立て良久敷考へ居たりしが靱負に向ひ此卦は甚だ占ひ難し早く歸り給へと云ふに靱負如何にも心得ぬ面色にて某しの卦は何故に占ひ難きや察する所卦の表吉からざれば白地に示し難きならんか然ども故意參りしこと故何事なりとも忌憚りなく占ひ下されよと云ひければ白水翁頭を左右に振我元より言葉を飾らざるが故に其許の易は申されずと云ふ靱負問て今も申如く假令如何なることなりとも苦しからず夫を聞ん爲斯來りしなり是非とも語り給へと云ひければ白水翁左程に申さるゝことならば是非なきにより語り申さん先づ此卦に因時は其許正に死し給ふべしと申に靱負は呵々と笑ひ何人か世に生れて死せざるの道理あらんや我幾年の後死するや白水翁曰く今年死し給はん今年何月に死すべきや今年今月死し給ふべし今月幾日に死するや今年今月今日死し給ふべしと云にぞ靱負は心中大いに憤りて再度問ひけるは時刻は何時なるや白水答へて今夜三更子の刻に死し給はん靱負は思はず詞を荒らげ今夜實に死しなば萬事夫限り若死せずんば明日貴殿を只は差置難しと云に白水翁夫は道理なり其許明日まで恙なくんば來つて我首を取給へと申せば靱負は渠が言葉の強きを聞て彌々憤ほり白水を床より引下し拳を上て既に打んとなす此時近邊の者先刻よりの聲高を聞付何ことやらんと來りしが此體を見て周章て捕押へ種々靱負を宥ける故靱負は心付我は今日蔭の身なり殊に京都へ程近き所にて斯騷がしきことを仕出し萬一京都の人の目にも掛る時は此身の一大事に及ばんと人の中裁を幸ひに早々立歸りしが靱負は主に對ひ白水翁の方へ參り斯樣々々云々也と有し事共物語しかば主は驚き白水翁が斯申時はと思ひながら靱負の樣子を見るに今夜子の刻に死する者が斯健かに有べき樣もなし如何なれば翁が斯樣の事を云しかと不審するも道理ぞかし然れば靱負は甚だ氣色を損じ居ける故主は昨日貰ひし金子にて酒肴を調へ來り左右物事は祝ひ直さば凶も吉に變ずべしと申勸め兩人して酒宴を催せしが靱負は元より好な酒ゆゑ主が氣轉の熱がんに氣を取直して快よく獻つ酬れつ飮居たりしが何時しか日さへ暮果て兩人共睡眠の氣ざし肱を枕にとろ〳〵と睡むともなしに寢入しが早三更の頃靱負は不圖起上り其のまゝ爰を飛出しける故主は何事なるやと狼狽ながら後より追馳行しに其疾き事飛が如く勿々追着事能はず待ね〳〵と呼止れど靱負は一向耳にも入ず足に任せて馳行しが頓て海邊に到り波の上を馳行事陸地を歩行がごとくなれば主は膽を消しアレヨ〳〵と呼はりける其間に靱負は遙か沖の方へ行し樣子なれども星明りゆゑ今は定かに見え分ず主は漸々に波打際へ馳來りて透し見れば早靱負が姿は影もなく末白波となり行しは不思議と云ふも餘りありと暫時呆然と海原に立たりしが何時迄斯て居るとも更に其甲斐なければ詮方盡て立歸りしが如何にも不思議は晴ざりしとぞ 第二十四回  偖又嘉川主税之助の用人安間平左衞門と共に惡事に加りし立花左仲は主人主税之助并に同役平左衞門共に評定所へ呼出されしかば我身の事を倩々考ふるに我今此屋敷を出て何方へ仕官を望む共召抱へらるべき樣なし然とて空然々々當屋敷に居る時は頓て平左衞門同樣に呼出さるべし尤も我差せる罪を作りし事はなしと雖も主人并に平左衞門の惡事に掛りし事も有れば其罪申し開くべき道なし猶又お島の事も我主人と共に責惱せし事もあり全く殺せしは平左衞門なれども彼是と惡に與せし事なれば何れの途にも申譯立難し如何はせんと種々工夫を運らしけるに平左衞門が金子を所持なす事を豫て知りければ或夜安間が宅へ忍入箪笥の錠をこぢあけ二百兩の金を盜み取其儘屋敷を忍び出夜に紛れて千住の方へと行たりけり此左仲は元下總銚子在の百姓の悴なりしが江戸へ出て御旗本を所々渡り侍士を勤め夫より用人奉公をなし流れ〳〵て嘉川家へ入込しに當時嘉川の評判惡き故自から知音の人も遠ざかりしにより常陸筑波山の近邊に少しの知音を便り行んと千住へ出筑波を指て急ぎしが先江戸近邊を夜の中に通り拔け流石晝中は人目を憚り密かに彼の盜み取し二百兩の金にて宿場の飯盛女を揚げて日を暮し夜に入るを待て其處を立出で夫より松戸の渡しも漸々通り越小金が原に差掛りけるに扨物淋しき原中ゆゑ先腰なる摺燧を取出し松の根に尻打掛煙草燻らす折柄後より尾來りしと見えて一人の大の男腰に長刀をぶつ込み左仲の側へ衝と來りて旅人は何れへ行るゝや日の中は能き慰みをなし夜を掛ての一人旅樣子あり氣な御人なり我等は夜道が大いに勝手なれば御同道申べし其火を爰へ貸給へと竹火繩を左仲が煙管の元へ差出すにぞ左仲は愕然となし思はず震へ出せし體を見るより彼の者は莞爾と笑ひ左仲が側へ同じく腰打掛旅人は何等の用にて斯夜道を致さるゝやと云ひけるに左仲は最初より一言も云はず居たりしが彼の者の容體を見て大いに恐れ渠紛れもなき盜賊なるべし我渠を見しより思はず恐怖し事故我弱みを見て斯馴々敷傍へ寄種々と申なるべしと思ひ内心には甚だ怖恐しなれども爰ぞ我身の一大事一生懸命に肱を張落付たる體にて我等は行先未だ決せず其譯は我召使ひたる仲間に貯への金子を一昨夜奪はれ逐電致せし故夫を捕へんと斯夜道も厭はず通るなり御邊は又何故此處を今時分通らるゝやと申ければ彼者は左仲が樣子は晝の中より篤と見濟し又左仲が懷中に金子のある事も知りたれば斯後より尾來りし故今左仲が申を聞て大いに笑ひ御身は賊に逢ひ夫を捕へん爲追行と云給へど千住にて今朝より暮方迄女を相手に快樂日の暮てより夜道をさるゝ事今の話に符合せず誠の事を云ひ給へと詰るに左仲は御邊は何人なれば先程より我等を種々と嘲哢せらるゝぞと思はずも少し言葉を荒く云ひければ彼の者申しけるは我等が名を聞度と云ふ事なら何より易し我は此街道で強盜を働き道玄次郎と云ふ賊の頭なり御身如何に我を欺き遁れんと思ふ共斯折込んだら最早佛の仲間入尋常に其懷中の金を渡して行ば命と衣類は見遁すのみならず三朱や一分の路用は呉て遣又惡く情張と是非に及ばず此世の暇を取するばかり手短の話が先斯した處だ何れなりとも御望み次第何だネ旅の衆其懷ろは御前が彼の飯盛の揚代を拂ふ時篤と見て置夫故跡を尾たのサ又此方さんも其金は何やら盜した樣だが盜した物なら盜するは私が商賣ぢやサアきり〳〵と渡さぬか命までを貰ふとは申さぬと云れて左仲は力身も拔け齒の根も合ずくづ〳〵と是非なく懷中より金百兩の包を取出し盜賊に渡せば是々夫では濟まぬ惡ひ根性だ斯直段の極つて居る者をサア淡泊と男らしく渡して仕舞へと云れて又も殘りの金を殘らず取出し盜賊の前に差出せば次郎は莞爾と打笑ひ夫れで能い心持ちだらうドリヤ路用ははずんで呉ようと額銀一ツ投出しサア是で何處へなりと行をれへ言捨道玄次郎は悠々と金を懷中して何國ともなく立去けり左仲は跡に大汗拭き偖々危ふきめに逢しと呟きながら道玄次郎が投出したる一分の金を拾ひ上げ是が路用か情なやと塵打拂ひ常陸の方へと急ぎしが未だ夜も深ければ左仲は原中を辿り〳〵て行程に心細くぞ思ひけり(此道玄次郎と云は當時盜賊の張本にて手下の者百五六十人もあり諸所にて押込み夜盜を働きし曲者なれども終に運盡て是も大岡越前守殿に召捕られ刑罰に行はれしとなり) 第二十五回  斯て立花左仲は危くも此所を逃れ漸々命は助りしと云ふものゝ盜み得し金は賊の爲に奪はれ路用にせよとて投出せし僅か一分の金を拾ひ取心細くも夜の道を行所に遙か向ふに火の光りの見えければ不思議に思ひ此原は未だ人里までは程あるを彼處に火の光り見ゆるは如何にも心得ずと思ひ段々近づきて樣子を見れば野火を焚て居る者あり皆怪氣なる荒男ゆゑ左仲は又もや賊ならんと仰天は爲たれども今更立戻るべきやうもなく心ならずも彼の火の許へ行しに彼者ども左仲を見付扨々暫く客を待設けたりと云ひつゝ兩人直と立上り左仲を中に取圍みサア懷中の金を置て行若彼是いふ時は是非に及ばず荒療治だぞと兩人左仲が手を取に左仲は最早一生懸命腰の一刀拔き放し切て懸ればソリヤ拔たぞと兩方より手に〳〵晃く山刀請つ流しつ切結ぶ左仲は茲ぞ死物狂ひと働け共二人の賊は事ともせず斬立々々切捲れば終に左仲は斬立られ這は叶はじと逃行を一人の賊は後より小手を伸して袈裟掛に左の肩先四五寸ばかりエイト云樣切下れば左仲はアツと反返るを今一人が眞向よりざツくり切たる一太刀に二言と云はず死してけり二人は血刀押拭ひ先久し振りの山吹色と懷中へ手を入れてヤアないはコリヤどうぢやと二人は不審晴やらず猶も懷中を掻探り財布を引出し振つて見て二人は吃驚ヤアたツた一分の本尊樣淺草の觀音樣は一寸八分だたツた一分とは情ないと何分不審晴やらず今朝見て置た此仕事どうした表裡の瓢箪ぢやと呆れ果たるばかりなり(此二人の賊は道玄次郎が手下なり左仲が樣子を千住にて見て取能代呂物と付つ廻しつ居たりしが左仲は夜道に此原を通る樣子故大いに悦び先へ廻りて網を張しを頭の道玄次郎は渠等より其知せもなき故一向知らず千住宿にて左仲が樣子を見付しかば此原の入口にて左仲に追付十分に仕事をせしなり又手下の兩人は更に此事知らざれば今斯の如く左仲を殺して金のなきに呆れたり然ば左仲は一度助かりし命も終に手下の者の手に掛りて果しは是天の惡みならんか)斯る處へ道玄次郎はのさ〳〵と來掛り此體を見て大いに笑ひ二人の手下に打對ひ役にも立ぬ無駄骨折扨も働き薄い奴等と云はれて二人は大いに怖れ無益の殺生致せしと天窓掻き〳〵閉口したる其有樣ぞ見苦しき次郎は重ねて申樣此樣な仕事を爲ぬ樣に以後は必ず注意ろと叱り散して兩人の手下を連て立去ぬ 第二十六回  然ば嘉川主税之助家來安間平左衞門の兩人は多年の積惡一時に顯れ又々此度再應の吟味に及ばれける處に安間平左衞門はとても遁れぬ處と覺悟をなしたりし事なれば尋ねの廉々明白に白状に及びし故其次に願山を呼出されて其方京都に有りし時日野家に於ては何役を勤め罷在しぞと申さるゝに願山も最早覺悟の事なれば私し儀京都に居候節日野家の醫師に雇はれ折々供も勤めし所圖らずも安田平馬佐々木靱負の惡事に與し京都を逐電して平左衞門諸倶に嘉川家へ入込み此度の惡事に携はり島が死骸を千住の光明院へ捨置候又了源寺に居しは十三ヶ年以前の事にて其頃同寺旦那中川佐太郎と申者を葬り候節兄多兵衞と申合せ是を夜中に掘出し其の死骸の衣類等を殘らず剥取申候處此儀顯れしに付早々逐電致し候と一々白状に及びければ即ち其趣きを淺草阿部川町了源寺へ申遣されしかば了源寺にては大いに驚き早速所化僧一人罷出右の段相違之なき旨委細申立又願山儀は常々身持宜からず第一淫酒の二ツに耽り其上博奕を仕つり剩さへ和尚の居間へ忍び入衣類金銀を盜み取逐電致し候者なりと申立ければ越前守殿此趣きを聞れよし〳〵猶追て呼出すこと有べしと申渡され了源寺の所化は下られけり其後評定所へ嘉川一件の者ども殘らず呼出さる其の人々左の通り  嘉川主税之助同人家來安間平左衞門切首多兵衞僧願山嘉川家々來孕石源兵衞安井伊兵衞嘉川藤五郎建部郷右衞門伴佐十郎山口惣右衞門陸尺七右衞門右の者一同白洲へ罷り出ければ老中井上河内守殿若年寄大久保長門守殿石川近江守殿寺社奉行黒田豐前守殿大目付有馬出羽守殿御目付松浦與四郎殿を始め評定所留役御勘定吟味役御徒士目付御小人目付其外の役人列座あり其時町奉行大岡越前守殿例の如く席を進まれコリヤ主税之助其方儀嘉川平助養子の身として先平助以來の家來を我意に任せ永の暇を差遣し藤五郎藤三郎の中を嫡子に相立べきの處に左はなくして己れが實子たる佐五郎を以て嫡子に立養父平助の遺言を破りしのみならず惡意を起し藤五郎藤三郎を亡はんと爲たる段彌々相違なきやと申されければ主税之助は恐入て惡事相違御座なく候と申けるに大岡殿又平左衞門に對はれ其方詞に似合ぬ大膽不敵の曲者なり先年京都日野家に於て稻葉丹後守の老臣稻葉勘解由を欺きて三千三百兩の金子を掠め取り其後切首多兵衞が世話を以て嘉川主税之助方へ隨身なし追々申立たる如くの惡意を差挾みし段相違無かと申さるゝに平左衞門其事儀相違無御座候と申立れば又大岡殿には切首多兵衞并に僧願山主税之助家來孕石源兵衞安井伊兵衞建部郷右衞門伴佐十郎陸尺七右衞門皆々出て居るかと有時一同に罷出候と申に越前守殿其方共一同是まで申立たる趣相違なきやと申さるゝに一同相違御座なく候と答に及びたり時に越前守殿然らば一同口書爪印申付るとあつて口書爪印相濟今日は一同下る可追て呼出すと申渡されければ其日は一同に下りけり然ば此度の一件大岡殿格別に力を盡されしは京都堂上方の御内に關係の事故なればなり然ど四海に轟く明智の忠相殿ゆゑ始終の所まで洞察されて嚴敷問られければ大惡無道の安間平左衞門も終に白状に及び口書も相濟御咎の次第を一々に取調て進達に及ばれしかば右書面を老中方一覽有れし處明白なる捌き故將軍家へ伺の上伺ひの通りたるべき旨の下札にて相下られけり是に因て嘉川一件の者ども落着とこそ成にけれ 大岡殿吟味により安間平左衞門が惡事當人より追々白状に及びしと雖も渠は並々ならぬ曲者なれば未だ殘らずの白状には有べからずと思はれ猶種々と糺されけれども其外の事は一向に申立ず因て何卒京都にて彼れと同勤したる佐々木靱負を召捕吟味せんとて諸方へ手を廻され詮議ありしかども更に其行衞知れざるに付切ては立花左仲にても召捕んと是又探索ありし處彼左仲は小金ヶ原にて切殺されしと云ふことの知れしかば左仲は詮なし呉々も靱負を尋ね出さんと又々諸國へ手を廻されけれ共靱負の在家少しも知ず其中西國へ差出されたる探索の者より靱負は泉州堺にて入水せしと云事を申立しかば然ある時は先是迄にて平左衞門が罪の次第落着に致すべしとて嘉川一件の者共口書申付られ落着の調べを老中方へ差出されしとなり 評に曰く此嘉川家一條は大岡殿大いに御心勞なされしは第一貳千五百石の御旗本を失はん事を格別に惜まれけれども主税之助は至て愚智短才に在ながら其心は大惡の生付故更に取處もなく切て半知も殘し賜はる樣にと大岡殿肺肝を碎かれけれども主税之助がなせる所爲悉皆宜しからざるに付甚だ口惜き事に思はれ又家來山口惣右衞門伴佐十郎建部郷右衞門の三人の忠臣の志操深しと雖も主人主税之助が所爲に押潰され渠等三人の忠志は然程に見えず又陸尺七右衞門の深切も右の如し又賤しき女なれ共腰元お島が忠節天晴なる事男にも勝りしなり是等の忠節も皆主税之助一人の愚惡の爲め空敷嘉川家斷絶に及びし事是非なき次第なり 第二十七回 然ば嘉川家一件大岡殿追々吟味詰の上一同口書相濟しかば彌々享保四年三月廿二日一同呼出され大岡殿申渡し左之通り 小普請組 宮崎内記支配 嘉川主税之助 其方儀先平助養子に相成候節約束を背き藤五郎藤三郎の兩人を廢し我子佐五郎に家督を繼せん爲種々惡事等企て候段不屆に思召改易の上八丈ヶ島へ遠島仰付らる 同人家來 安間平左衞門 其方儀先年京都日野家に勤中種々惡事に及び其上嘉川主税之助方に於て主人の惡事を助け先代平助嫡子藤五郎藤三郎に無禮法外の儀を働き侍女島を絞殺し候段重々不屆に付獄門申付る 淺草阿部川町 了源寺舊所化 願山 其方儀出家の身として淺草阿部川町了源寺にて盜賊に及び其上京都日野家に於て惡人共に荷擔なし又此度嘉川主税之助に頼れ島が死骸を了源寺所化と僞り千住燒場光明院へ置捨に致候段重々不屆に付死罪申付る 嘉川主税之助假抱 徒士 多兵衞 其方儀常々身持不行跡而已成ず今度主税之助申付により島の死骸を弟願山と馴合光明院へ捨置に致其上主税之助に頼れ建部郷右衞門伴佐十郎の兩人を討殺んと存所々尾睨ひ候段重々不屆に付三宅島へ遠島申付る 嘉川主税之助家來 孕石源兵衞 同 安井伊兵衞 其方共儀主人申付とは云ひながら惡事に荷擔致候に依て江戸構申付る 嘉川主税之助養子總領 嘉川藤五郎 其方儀嘉川家嫡子の身分を以て常々不行跡の由沙汰有之の處當時病氣にて存命も量り難き由是に因て全快まで親類へ御預仰付らる 嘉川主税之助舊家來 建部郷右衞門 同 伴佐十郎 同 山口惣右衞門 其方共儀忠節の計ひとは申乍ら用役の身分を以て家事不取締に致し候段屹度叱り申付る 須田町一丁目治兵衞店 七右衞門 其方儀先代嘉川平助に恩も有之り候由にて藤五郎藤三郎建部郷右衞門伴佐十郎右四人匿ひ候段深切の致方に候得共身分不相應なる儀に付以後法外之なき樣心掛べし 故平助二男 嘉川藤五郎 其方儀格別の思召を以て先知八十俵下し置れ新規召出さる 是新規御取立に相成僅に家名存せしは大岡殿の仁智に因る所なり 嘉川主税一件終 小西屋一件 小西屋一件 第一回  都會の土地は殊更に繁昌競ふ大江戸の中にも目貫は本町通り土一升に金一升といふに違はぬ商家の櫛比土庫高く建連ね何れも魯は有らざる中に同町三丁目に數代續く小西長左衞門といふ藥種屋あり間口凡そ二十間餘りにして小賣店問屋店の二個に分ち袖藏あり奧藏あり男女夥多の召仕ありて何萬兩といふ身代なれば何暗らず送りゆく主個長左衞門は今茲(享保二年)五十の坂を二つ三つ越え妻のお賤は是も又四十を五つ六つ越たるが子といふ者は長三郎とて今茲十九になる男子一個然に此長三郎は生れ附ての美男にて女の如き者なれば誰言ともなく本町業平又小西屋の俳優息子と評判殊に高かるより夫婦は何卒能嫁取て樂隱居をば爲ん物と朝暮思ひ消光けるが長三郎は若きに似氣なく浮たる意は毫もあらで物見遊山は更にも言はず戸外へ出る事を嫌ひたゞ奧まりたる一室に籠り書籍を繙き讀事を此上もなき快樂と爲しつゝ月日を送りけるに惡きは惡き能はまた能とて之を苦にするは是また親の常なれば長左衞門夫婦の者は長三郎の温順を反つて苦に病み年頃に成し身にしてあの如く外へも出ねば癆症も發りやすらん一個の外掛替のなき者なるを病起らば如何せんと長年勤る管伴の忠兵衞を聘び事の由を話して折も有しならば息子を戸外へ伴ひ出し保養をさせて下されと言ば忠兵衞心得て主個の前を退出けり其年もはや彌生の初旬木々の梢に花咲出徐々と吹く春風も自然なる温暖さ然ども息子長三郎は例の如く籠りゐる障子を開て忠兵衞が若旦那樣相變らず今日も御本で御座りますかと進み這入に此方は見返へりオヽ誰かと思へば管伴忠兵衞昨今水揚の荷物ありて店は大層いそがしいと聞しに今頃何用にて「ヘイ水揚物も御座りましたが夫も大略結了て少の閑を得ましたより參りし解も外ならず時も彌生の好時節上野隅田の花も咲出何處も彼所も賑ふゆゑ貧富を問ず己が隨意割籠を造り酒器を持ち花見に出で積鬱を散じる中に和君のみは斯垂籠て御本をのみお讀で有ては身體の毒またお目の毒に成ますれば少は戸外へお出なされ青い物でも御覽じたらお氣も晴やうお目にも能らうと夫で花見をお勸申しに參りましたと言ければ長三郎は片頬に笑み今に初ぬ和郎の親切主人思ひは有難けれど憖じ戸外へ出る時は反つて身の毒目の毒なれば只居馴染し居間に居て好な書物を讀ながら庭の青葉を眺てゐるが此身の藥で有ぞかしと言を忠兵衞押返し這は若旦那のお言葉とも覺ずお庭と雖も廣くもあらず況てや書物に意を入れば第一お目の毒なれば戸外へ出て爛漫たる櫻の盛り山水の望は素より四方の人が花に遊行酒に醉ひ打戲るゝ景状を御覽にならばお目の藥と再度言はれて氣色ばみ忠兵衞夫等を目の藥と爲か知ねど然にあらず目には忌可き物十ありと或醫者どのに聞たりしに中にも風に中るを忌み又白き物を見るを忌む今や開花の時節とて打續たる日和なれば上野隅田も人もや出ん然れば彼所は打ち水爲可き者もあらざれば塵芥は立て風吹ば眼に入て目の毒なり又櫻は赤き樣に見ゆれど素之れ白き物なれば散行く樣を見やりつゝ空に知れぬ雪ともいひ雪に見まがう云々と古歌にも多く讀出たれば其の白き物を好んで見んこと則ち眼の毒なる可し又花の下は醉人騷客所狹まで雜沓すれば喧嘩口論間々ありて側杖打るゝ人もあり然るを浮加々々其所へ至り設し災難に會ときは父母への不孝此上なし我は君子に非れども危き事には近寄る可からず部屋に耳居て花のなき庭を眺て消光なば書物を讀ため身に徳付き戸外へ出ねば父母も案じ給ふの愁なし我は見ぬ世の人を友とし樂みゐるこそ樂みなれと最物堅き長三郎が回答に膠なく言放すに忠兵衞今は詮方なく是ほど迄に勸めるに承引景状あらざるは世に偏屈なる若旦那と霎時呆れて居たりしが屹度意に思ひ附く事や有けん膝を進めモシ若旦那樣和君は今人立多き花見の場所へ立寄設も災難に會ば無上親不幸と仰あれど夫は夫れ其一を知て其二を知ざる最淺慮な思し召和君が戸外へもお出なさらず内に耳居て書物計り讀で御座るが上もなき親不孝にて御座りませうと言はれて此方は面色更コレ忠兵衞和郎は氣でも違しか學問もせず遊び歩行ば親不孝共も言可けれど吾儕は性來好でもあり勸られても遊には「サヽ其所に一つのお話しあれば意を鎭てお聞なされ和君は此家の一粒種何萬兩といふ身代を相續爲る御身ゆゑ學問に凝夜歩行一ツ爲らざるも然なくては叶ねどとは言へ善惡二つながらお案じ爲るは親御の常況てや外にお子とてなき和君が餘り温順すぎ設し病氣でも出はせぬかとお案じなされて玉くしげたに親樣が此忠兵衞をお呼なされて息子をば責て花見か芝居へ抔遣て欝をば晴させてと仰が有て候へば先花見をばお勸申せば兎にも角にも偏りし事のみ被仰お出なくば御兩親樣が折角のお心盡しも無に成て返つて掛る御心配學問なさるが親不孝と申すは茲の次第なりと一什を明すに打聞息子腕叉いて默然たりしが漸々にして首を上世に有難き御慈愛を傳承りて勸たる和郎が言葉を用ひずして博識振たる我答へ今更思へば面目なし花はともあれ父母の意を休むる其の爲に明日は花見に行可ければ必ず惡くな思ひ給ひそと和郎よりして言て呉て流石孝子の解安く答へにければ忠兵衞も夫拜承り何より安心斯と申さば御兩親も嘸お喜び爲る可し夫では明日お辨當の支度も致せばお供には店の和吉をお連なされ上野成共隅田成ともお心任せの方へ至り終日お遊び爲されませ和吉も今年は十四なれば貴君のお供には恰好と嬉しき餘り忠義の忠兵衞己れ一個饒舌廻し其座を退き奧へ至り偖斯々と夫婦に話せば二人は息子の孝心譽め又忠兵衞を勞ひて明日の支度に左や右と心を勞すは世の中の渾の親の情成可し斯て其翌日に成しかば朝より辨當など製造て之を重箱に入風呂敷に包みて和吉に脊負せて待間程なく長三郎は身姿を繕ひ部屋の中より立出來り兩親始め忠兵衞にも挨拶成て和吉を引連出はしたれど騷しき所は素より好まねば王子邊へ立越て楓の若葉若緑を眺んにも又上野より日暮里などへ掛る時は渠醉人の多くして風雅を妨げ面白からねば音羽通を眞直に護國寺首め波切不動へ參詣爲て田圃道を緩々王子へ行可しとて小川町へと掛けるに和吉は大きに望を失ひ花見と言ば上野か隅田又は日暮里飛鳥山人の出盛る面白き所へ行が本統なるに如何常より偏屈成若旦那とは言ながら遠き王子へ態々行夫も賑ふ日暮里をば嫌ひて見榮なき土地の音羽を通て行と云は世に珍しい人も有と口には言ねど幼稚心の腹の中にて思ひ續進ぬ足を引ずりながら後に從ひ音羽町の七丁目迄來りしが長三郎は此時は頻に腹痛なし初め堪へ難なく成しかば厠に入んと思へども場末の土地とて借んと思ふ茶屋さへ非ぬに困じたり 第二回  此所等あたりは場末の土地とて厠を借んと思へども茶屋さへ無に困じたる長三郎の容子を見て和吉は側の裏へ入り其所此所見れば汚げなる惣雪隱ありたれば斯と告るに喜びて其所へ這入て用を足し出つゝ手をば洗んと見れば雪隱の角の柱に五合樽の片手を斷り引掛あれど中には水なし困じて側に待ゐたる和吉に吩咐井戸の水を汲せんとなし其節に此眞向ひの棟割長家建續けたる其中にも一層汚く荒果し最小狹なる家の中に五十四五なる老人一個障子一枚押開き端近ふ出物の本を繰廣げ見てゐたりしが今長三郎が手を洗ふ水のなきをば困じゐる容子を計らず庭越に見やりて此方に打向ひ茲等邊に見も懸ぬ立派な姿は定めし通行の方である可きに水がなければお困りならん此方へ這入て遠慮なく手をばお濯なさるがよいと言れて喜び會釋して破し垣根の切戸を明け廣くも非ぬ庭へ進むに老人背後を見返りておみつ水を掛て上なと言れてハイと答へなし勝手口より立出るは娘なる可し年齡まだ十七か十八公松の常磐の色深き緑の髮は油氣も拔れど脱ぬ天然の美貌は彌生の花にも増り又中秋の新月にも劣ぬ程なる一個の佳人身には栲なる針目衣を纒ひて其容賤げなれども昔し由緒ある者なるか立擧動は艷麗にて縁側へ出擂盆の手水鉢より水をすくひ手に注しは縁の端男は手をば洗ひながら見れば娘は比ひ稀なる美女にて有れば是までは女を如夜叉と思ひ込し最物堅き長三郎も流石木竹に非れば此時初て戀風の襟元よりして慄と染み娘も見たる其人は本町業平俳優息子と綽名の有は知らざれど比ひ稀なる美男なれば是さへ茲に戀染めて斯いふ男が又有らうか斯いふ女が又有らうかと互に恍惚茫然と霎時言葉もあらざりしが稍々にして兩個が心附ては羞はしさに發と面に紅葉して長三郎は手を拭ひ主個親子に禮を演和吉を引連立出ながら跡へ心の殘りけるが見返り〳〵路次口へ出でゆく姿を娘もまた殘り惜氣に見送りける斯くて長三郎は戸外へ出ながら思ひ續る娘がこと彼いふ女を妻と爲たらば男に生れし甲斐あらんに我も妻をば持身なれば返つて親に話せし上否々夫も自身の口から斯々なりとは言惡し如何はせんと取つ置つ思ひ廻せば廻すほど我身ながらにもどかしく最早花見に行可く氣もあらねば此方へ歸り掛るに和吉は狼狽て袖を引モシ若旦那然行ては「イヤ吾儕は花見にはモウ行ぬ是から家へ歸るなり」と言捨足を早めるに和吉は本意なき面地にて夫では花見は止になつたか然して見ば辨當を此音羽まで脊負て來て又脊負返す遠方御苦勞何の事はない辨當の供をして來た樣な物だと吻き〳〵本町へ歸る途中も長三郎思ひ惱し娘がこと言はぬも辛し言も又恥しゝとは懷中育ちの大家の息子の世間見ず胸に餘て立歸るも餘に早しと思ふより如何したことと兩親が問ば先刻音羽まで參りましたが腹痛にて何分心地惡ければ王子へ行ずに立歸りしと答へて欝々部屋に入り夜具引擔て打臥しが目先に殘るは娘の姿眠らんとするに眠られず忘れんとするに忘られず夢と現の境を行く戀病なりとは露知ぬ兩親大きに氣を揉て相藥など與ふるうち其日の申刻下る頃淺草邊まで掛取に行たる忠兵衞歸り來て聞ば斯々言わけと主個が話すに打驚きお否と仰せ有たるを無理にお勸申したは此忠兵衞ゆゑ夫がため御病氣起らば大變なりと先取敢ず長三郎の部屋へ至りて障子の外まで來りし時に中にては魔るゝやら寢言やらサアお出なさい有難うと判然言しが其跡は何を言しか譯も解らず忠兵衞不審に思ひながら障子を開いて内に入る音に此方は目を覺せば忠兵衞膝を摺寄て今日の事は旦那樣より伺ひまして折角のお花見にさへお出がなしと聞て驚き御容子を伺はんとて障子の外へ參りし節に寢言なるか夫かあらぬか如此と和君は仰せ有ましたが熱もあらぬに今の御言葉どうも合點が參りませぬ然すれば病氣と仰被は嘘にて途中で何事か有しを胸に思うてゞ御座りませうが如何なることか此忠兵衞にお話しを如何なされて下されませと星を刺れて長三郎發と計に顏赤め面目なげに見えけるが漸々にして首を下げ和郎を初め兩親に語もいとゞ面伏と思ふ計りに言も出さず心地惡しと打伏しが然問れては包に由なし實は今日音羽まで行たる時に箇樣々々厠へ入んと七丁目の鹽煎餠屋と炭團屋の裏へ這入て用を足し出たる後に淨水に困る節から斯々の娘を見染ぬ世に二個となき美人なれば漫に戀しく思ひつゝ此美婦人に比ぶれば櫻も爭で物かはと花見を爲氣も失果て立歸りしが氣も結れ床へ這入て忘れんと目睡夢の其中に水を呉しを見たりしが偖は寢言を言たるか面目なしと計りにて一伍一什を語りけるを聞忠兵衞は呆れ果吐息を吐てゐたりしが一個點頭此方に向ひ能く游ぐ者は溺るゝとやら平常よりして女嫌ひで學問にのみお凝なさるゝ和君が計ず見染れば思ひの程も又強し然は然ながら夫程まで御執心なる女兒なら假令旦那樣御夫婦が何と仰が有らうとも此管伴が引受て急度和君の思ひをば叶る樣に致しますれば必ずお案じ成されますなと言ば長三郎は莞爾笑忠兵衞何分能き樣にと言より外に言葉なきを聞流しつゝ奧へ至り主個夫婦に今日の始末箇樣々々と話しけるに夫婦の者も膝を打ち如何懷中育といへ何故云々とは言ずして思ひ惱し愚さよ今まで夜歩行一つせず親孝行な長三郎設し氣に入し者あつて素生正しく心立の能者あらば賤き勤の藝者にもあれ娼妓にもあれ又は如何なる身分よき人の娘は言も更なり賤き者の娘なりとも金に飽して貰ひ取り嫁に爲んと思ひしに今日計ずも氣に入た女を見染て來たといふは此上もなき大幸なれば御苦勞ながら管伴どの明日にも先の家へ行き身元正しき者ならば婚儀を言込下されよとは言聞が如き體では支度の程も覺束なければ夫等は一式此方で致して遣て苦くなき故此儀も心得給ひねと一個子だけに子に甘き親は言葉も行屆き落なく言れて忠兵衞が是も一つの安心と委細承知し店の方へ行しに頃は春の日もやゝ暮初て石町の入相の鐘響きけり斯て管伴忠兵衞は此婚姻を言込は何より安き事ながら只云々と言許りで向うの名さへも知ざる所へ突然行ても話し難し要こそあれと考へしが漸々思ひ附事ありて明日疾起出音羽の方へ至るに附ては案内者に和吉を連て參りますと主個に言て俄の支度辨當包み吹筒携げ和吉を呼で今日は吾儕が花見に行なれば辨當を脊負供をしてと言ば和吉は首を振何の用かと思ひましたら今日も亦花見のお供吾儕は昨日若旦那に連られて行き懲々したれば何卒之は長松どんか留吉どんに代らせてと言をも聞ずに打笑ひ然でもあらうが若旦那とは違つて吾儕のは物も喰せ錢もやる故是非共に「夫では和郎はあの所と違つて上野か向島「イヤ矢張行先は王子にて然も音羽へ出て行く積り「ヲヤ〳〵夫では昨日と同じだと鬱ぐ丁稚に錢を取せ急がし立れば幼稚の習ひ錢を貰ひし嬉しさに初の不平も何處へやら後に引添出行きつ音羽の村へ差掛り七丁目まで來りければ確に茲等と忠兵衞が歩行ながら四邊を見たりぬ 第三回  其時管伴の忠兵衞は四邊を見れば聞しに違ず鹽煎餠屋と炭團屋の路次の有しに茲ぞと點頭和吉雪隱へ這入ゆゑ一所に來よと言ながら裏へ這入れば和吉はまた今日も此裏の雪隱へ這入樣では花見の程も覺束なしとぞ思ひける忠兵衞雪隱にて用を足し立出見れば水はなく向ふの家に話しの老人障子を開きて書を讀ゐたるに是なる可しと庭口より進み入つゝ小腰を屈め眞に申し兼たれどもお水を少々下されませと言ば老人承引てお光や掛て上るやうと言葉の下に立出る娘は水を注ぎ掛け忠兵衞なれば恍惚もせず其儘奧へ入たれば能は見ねども一寸見るさへ比ひ稀なる美婦人と思へば家の若旦那が見染て思ひ惱も道理要こそあれと主個に向ひチト率爾なるお願ひにて申し出すも出しにくきが吾儕は本町三丁目小西屋長左衞門方の管伴にて忠兵衞と申す者なるが今日出番かた〴〵にて御覽の通り丁稚を連王子へ花見に行積りで辨當なぞも容易致し參りましたれど早草臥殊には腹も空しより茲等で開いて一杯と思へど通に掛茶屋も有ねば實は困じてをりしが只今水を頂いたを御縁に致して願ひまするは此お縁側を霎時の中お貸なされて下さらば酒器を開きて腹を繕ひぶら〳〵行ます積なるが如何なもので御座りませうと言ば主個は片顏に笑み何の事かと思ひしが素より安き其御無心浪人者の疲世帶むさくろしきをお厭ひなくば其所は冷れば此方にてと座敷の中へ花莚を敷せて二個を招ずるに此方は喜び有難き旨を演つゝ上へ登り風呂敷包を解開き辨當を出し吹筒の酒を飮んと爲けるを主個の老人押禁め彌生と言ど未だ寒きに冷酒は身體の毒なればツイ温めて差上んと娘に吩咐温めさせ料理は御持參なされたれば此方で馳走の爲樣もなし責て新漬の香物なりともと言へば娘は心得て出して與ふる饗應振此方は主個に酒盞を薦る物から親子ともに下戸なればとて手にだも觸ず詮方なければ一個にて傾けながら四方八方の話の中に容子を見れば昔し由縁ある人なる可し親子の立擧動尋常ならず親は篤實面に顯れ娘は孝行自然と知れまた容貌も勝れたれば忠兵衞ほと〳〵感心なし主個の方のうち向ひお見申せばお宅樣はお二個限にてお孃樣は失禮ながら美麗きお生れ質にて御座りますが定めしお婿樣をお取にてと問れて老人一滴ホロリと泪を翻しながら初て逢た此方衆に話すも最ど面伏ながら不圖した事から此樣に吾儕の家にて酒食するも何かの縁と思ふ故我身の恥を包もせで話すを聞て下されかし素吾儕は有馬家にて祿五百石を頂戴なし小姓頭を勤たる大藤武左衞門と云者なるが夫婦の中に子と言は是なるお光たゞ一人然るに妻は七年前世を早くせし以來は何にも彼にも只二人偖我口より此樣な事を申すは自負に似たれど吾儕は性來潔白にて只正直を旨となし苟にも曲し事は嫌ひ善は善惡は惡と一筋にいふ者なれば如何せん水清ければ魚住ずの譬に洩ず朋輩の讒言に依り浪人なし此裏借家へ移り住み近頃多病になりたれど心持のよき其日は此護國寺の門前へ賣卜に出僅の錢を取つて親子が活計となすも今茲で丁度三年越し他に樂みもあらざれど娘も最も孝行にして呉る故夫のみが此上もなき身の喜び是も今茲はモウ十七婿を取ねば成ざれど貧乏消光の浪人者の家へは來る者あらじと思へば何處へなりとも嫁に遣んと思ふにも似ず相應の縁邊なければ其儘に背丈の延たを抱てをると偖心配な者でもありと語る一什を打聞く忠兵衞渡りに船とて大いに喜び拜承りたるお身の上一人娘を餘所他へ御縁付といふ事ならば最似附はしき縁談が御座りまするが如何であるかと申すは外の事ならず吾儕家の若主人は十九に成て箇樣々々お孃樣とは年齡から容貌の程も一對なれば此方へ嫁にお貰ひ申す譯には參りますまいかと問ば主個は首を振り本町通りの小西屋というては名高き藥種問屋江戸指折の豪商にて誰とて知ぬ者もなき大身代の嫁に成とは娘が出世此上なき喜びなれども此方はまた見る影もなき浪人者釣合ざるは不縁の基決して是を相應せし縁邊なりとは言難ければ御深切の程有難けれど此義はお斷り申すべしと言れて望を失ひたる忠兵衞今は詮術なければ昨日息子長三郎が花見に出たる其折に計ず茲の雪隱に入り水を頂き手を洗ふ節に見染て箇樣々々と息子が寢言兩親がことより自己が來りたれど只一向にも言入かね實は斯々計ひて御懇意になり此話しを言出したりといと事實を明して演たるに主個は礑と横手を打ち偖は然いふ解ありしか夫にて思ひ合すれば供をなされし丁稚どの如何やら吾儕は見たやうな最前よりして考へ居りしが昨日來りし人で有しか然なら水を上し方が足下の家の息子なりしかとは知ねども容姿もよく若きに似氣なく物柔で折屈能き人なれば娘持身は早くも目が附き何處の息子か知ざれど美男の上に温順やと同事なら斯いふ人に娘を遣たき物なりと然大家とは知ざれば一個意に思ひゐたるが息子殿には不束なる娘お光を夫程に思し召て給はるからは此方も今は推辭に術なし吾儕は承諾致したが女兒は如何と振返り問れてお光は先程より父と客との物語り昨日見染めた其人は然る大商人の息子にてしがない消光に追るゝゆゑ繕ひもせず花香もなき此身の姿がお目に止り夫程迄に戀慕うて下さるといふ有難さ勿體なやと計にて嬉しさ交る恥かしさに塵のみ捻りてゐたるゆゑ今改めて父親に問れたりとて回答も出來ず押默止てゐる横顏を見やりて父は打笑ひ勝た樣でも未幼稚兎角縁談の事等は恥しいのが先に立ゆゑ判然返事も出來ぬ物だが一生連添本夫の事否な者をば無理やりに行とは決して言はせねど昨日向ふは其方をば見染た程の事といひ吾儕も息子を能く見たれば和女も定めし見たで有う然すれば見合も濟だと言物殊に息子殿は戀病で早く安否が聞たいと管伴どのも急がるれば其所で和女に問なれば遠慮をせずに回答を爲ねと言るゝ程猶彌増未通女心の初戀に慕ふお方と縁の糸結んで解て末長く添るゝ事も父親が承知とあれば竟斯々と言んとすれど言ひ兼しが斯ては果じと思ふよりハイ吾儕は彼方なれば實に嬉しう御座りますと有か無かは聲出して思ひ切てぞ言たる儘發と面に紅葉して座にも得堪ず勝手の方へ逃るが如く行たるは娘意ぞ然も有可し父は見やりて打笑ひお聞の如く娘お光も承知した事なれば吉日を撰び結納のお取交も致さんと言れて忠兵衞胸撫下し夫拜承り安堵しました實は云々若旦那に誓つて置し事なれば設し御承知のない時は如何爲んと腹の中で一方成ず心配を致して居しが先は重疊左樣御座らば立歸り喜ばせし上又改めて出まする事に仕つれば何分宜敷お頼申すと喜びを演別れを告取散し辨當など始末をなして舊の如く風呂敷に押包せ丁稚に脊負せ勇進んで歸りけるが和吉は霎時側に在て二個が話しを熟々聞主個の息子が昨日茲より歸りし譯も今日は又態々爰まで忠兵衞が來りて汚き家をも厭はず酒を飮たる事までも今はさつぱり分りしが餘り咄しの出來すぎて花見は又も廢止になり再度遠き音羽より辨當箱を脊負戻せしに幼稚意に管伴を恨む罪もなかりけり 第四回  偖も管伴忠兵衞は歸ると其儘今日の始末を落なく話したりけるに主個夫婦はほゝ笑み容貌許りか心操も又其素生も勝たる女で有らば言分なし追て𫥇人を立表向遣はすなれど善は急げ且は一子にも安心を爲るが能ゆゑ箇樣々々の結納造り明日遞與て變改なき樣致してと云れて忠兵衞心を得つ主個が前を退ると其まゝ長三郎が部屋へ行き先方がこと兩親がこと萬事上首尾なるよしを告れば是さへ喜びて忽地心地は能く成けり忠兵衞直に結納を揃へる中に其日は暮行き明日朝の間に品々を釣臺三荷に積登せ我家の記章染拔たる大紋付の半纒を着せたる漢六個に擔がせ音羽へ至り路次口に待せ置つゝ進入り昨日の禮を演たる上𫥇人を立て良辰を撰び結納持參なす可き所ろ思ひ立日が吉日と主人も申し候へば差附がましく候へど今日品々持參したれば何卒お受取下されと水引掛し目録書を出せば大藤受取て世に婚禮には用ひる日と又忌可き日と有といへども何も附會の説の多くて取可き所ろも更になし然は云へ世俗に從はずば和郎の方の如何にやと思ふ計りに良辰を撰みてと言はしたれど此方にては素より日には構ひなければ今日結納幾久しく受納致すと目録書を押頂けば忠兵衞は路次の外なる者を呼込み三荷の釣臺運ばせて油團を掲げ其中より取出したる柳樽も家内喜多留と記しゝは妻を娶の祝言にや麻を白髮とかい附しは麻の如くに最直に共白髮まで消光なる可し其の外鯣を壽留女とするなど皆古實なる書振の二樽五種とは言ながら何れも立派に製たれば只さへ狹き此家は所せまきまで並べ立られ坐る間さへ有らざりけり主個は何やら娘お光に私語示せばお光は心得何程づつかの祝儀を包み與ふるほどに六個の者は管伴を經て禮を演べ早用なしと忠兵衞が言るに何れも空釣臺を擔で本町へと歸りける跡に忠兵衞懷中より金子二百兩取出し此方の望みに縁談を無理に願ひし事なればお支度其他に和君の方へ御物入を掛ましてはと思ふよりして此金は其所に記しゝ帶代に差上ますれば失敬ながら御受納の上是を以てお支度の程希がふと言ば大藤景色ばみ甲斐なく消光浪人ゆゑ貯への程も覺束なしと思うて斯は言るゝかは知ざるなれど武左衞門支度金を取り娘をば嫁に遣たと言れなば實の嫁には非して金に其身を任しける妾々も同樣にて末代までも家名の汚れ娘持身は殊更に婿迎へるか嫁に遣か爲ねば成ぬは生れし日より知てをりたる事なれば其入用にと豫てより貯へ置たり金子ありて貧苦の中にも失はざれば今度の支度に事缺ず此事はしもお光はまだ知ねば共に是を見て疑ひ晴せと言ながら衝と立上り床の間に飾置たる破果し具足櫃の葢かい遣り除け底を探つて一包の金取出し二個に示し爰に百兩あるからは必ず心配無用なりと浪人しても流石は武士用意の金を貯へは實に色も香も最深き山吹色とぞ知れたり娘は初て見たる金今日まで明しも爲給はで貯へ置て下さるも此身の上を思し召親の慈悲こそ有難けれど又今更に有難涙忠兵衞意に面目なく御浪人なるお身の上を輕視斯と申すにあらねど主人が寸志を其儘に申し述しが支度金とお見做ありては面目なく殊にお嗜みの大金を拜見致し汗顏の外は之なく候へば此二包は持歸り主人に篤と申し聞候なればお立腹をと云ば武左衞門面を和柔否とよ此儕が心志の徹らば爭で怒る可き然ども折角持參せし金を其まゝ持返らば和郎は幼稚の使に等しく主人に言譯あらざる可し就ては一度受納したれど此方は見らるゝ如くにて親子の外に人もなければ結納持せて遣難し依て此まゝ此金は其婿殿に上下料に送りたりとて返し給ひぬ然すれば和郎の役目も立んと信あり義あり何から何まで拔目のあらざる言葉に感じ忠兵衞は只拜々と言受なして金を納め我家へ歸り夫婦の者に一伍一什を告ければ二人は流石武士は武士いと見上たる親子の者と思へばいよ〳〵頼もしく婚姻する日を急ぐ物から大家の事ゆゑ出入の者まで萬事行屆かする其爲に支度に掛て日を送りまだ當日さへ定めざりけり偖も此方は裏店に開闢以來見し事なき釣臺三荷の結納物を擔ぎ入ける爲體に長家の者は目を驚かし何處へ行やと思ひしに思ひ掛なき大藤の家へと擔入たりければ偖は娘のお光さんが何處ぞへ嫁に行事かアノ結納の容子では先は大家の思はるゝが成程彼兒は容貌が能く音羽小町と綽名にさるゝ程にてあれば氏なくて玉の輿に乘る果報愛度其日消光の賣卜者の娘が大家の嫁に成なら親父殿まで浮び上り左團扇に成で有らうと然ぬだに口やかましきは棟割長屋の習慣とて老婆も嚊も小娘もみな路次口に立集ひ姦と讀むじだらくの口唇翻す餞舌塒求むる小雀の群立騷ぐ如くなり斯くとはいざや白髮交の髮を結びて手拭冠り拭の布子の裾端折片手に古びし岡持下げ足元輕く立歸る老婆は長屋の糊賣お金營業仕舞て這入來る姿を見るより夥多が和女は隣の事といひ常から親しくなさるゝゆゑ彼所の事は御存じだらうが今日是々と結納を賣卜者の家へ持込だか先は何處だか御存かへと問れて此方は寢耳に水皆さん方も知ての通り吾儕は子もなく本夫に遲れ一箇者ゆゑ營業に出るとき家に錠を卸し隣へ頼歸ればまたヤレ火を呉れの湯を呉のと貰ひに行て一つ家も同じ樣にはしてゐる故夫程立派な結納が來る程ならば吾儕にも何とか話が有りさうな物で有るのに無のは不思議吾儕が聞て上やうと先に進ば夥多は後に從ひ雜路々々と皆門口まで來りしが別れて己が家々に思ひ〳〵に入にけるお金は門より聲を掛這入ば長屋の噂に違はず最美事なる品々が所狹まで並びゐたるに如何した者と裡問ば武左衞門は昨日より今日までの事委敷演べ箇樣々々の事ありて急に今日結納の取交せをばしたれば婚姻の日は先方より言越參らば直にしても致せるやうに爲て置たく就ては娘が天窓の物帶も衣類も箪笥長持其外一式新撰く整へんとは思へども是等に男は役に立ず然とて親類縁者とても有らねば萬事を頼みたく今日は和女の歸りをば實は二個で待てゐたりと言ばお金は斑なる齒を顯して打笑ひ然いふ目出度お話と聞ては吾儕も實に嬉しく斯いふ事を申すのもチト失禮では有りますが常にお柔しいお光さん吾儕は自分の子の樣に思つてゐませば營業を休んでなりと駈歩行御用を達て上ますよ是といふのも親孝行を神や佛がお守りなすつて此上もない幸福が參つた事で御座りませうとお金も共に打喜び是より後は營業を終了とお光の方に至り萬事の相談買物なんどに深切盡せば親子は喜び親類代りに當日はお金も其所の席に臨みよろしく頼と此者の衣類も帶も拵へやりしにお金はいよ〳〵嬉しさ増し自慢たらだら此事を長家は素より四邊へも吹聽なせば其邊へ發と噂の立行て或は之れを羨むあり或は之を妬むもありて衆口喋々當分はお光の事のみ云あへるを耳に入たる家主の庄兵衞俄に安からず思うて一人心を定め此婚姻を妨げんと謀し奸計圖に當り竟にお光が汚名を蒙り赤繩絶たる所より白刄を揮つて奸を鋤き白洲に砂石を掴むてふ最爽快なる物語は亦回を次ぎ章を改め漸次々々に説分くべし 第五回  月明瞭ならんとすれば浮雲之を覆ひ花美麗からんとすれば風雨之を破る寸善尺魔の俚言むべなる哉大藤武左衞門の女兒お光は孝行の徳は孤ならず隣家の老婆が婚姻の事如斯と徇歩行より思はぬ事の起りて喜ぶ幸ひも今ふり變る災禍の素を如何と尋るに此裏長家の家主を庄兵衞というて今茲廿年餘り二つに成り未だ定まる妻もなく母のお勝と二個消光を爲ども茲等は場末にて果敢々々しき店子もなければ僅か許の家主にては生計の立ぬ所より庄兵衞は片手業に貸本をもて營業と爲ぬ又同町に山田元益といふ醫師あり是は這れ庄兵衞が兄にて幼名を庄太郎といひしが性來善からぬ品行ありて賭博を好み酒を飮み親に苦勞を掛ることも度々あれば父は怒り久離を切て勘當せしに渠方々を彷徨うち少く醫師の道を覺え町内へ來て山田元益と表札を掲げ門戸を張れども素より拙き庸醫なれば病家は最も稀々にて生計の立つほど有らざれば内實賭博を旨とすれば父の怒はいよ〳〵強く勘當免ん樣もあらねば其儘にして過行しが去年父親は死去しに母は女氣の心弱き所へ持込詫言せしかば故なく濟で今ははや往通をなす中に成しに元益は兄といふを笠に打着て庄兵衞に無理を言うこと度々なれど庄兵衞意に心能らず思うて言葉爭ひせし後は久しく往通もなさで居しが庄兵衞は疾より大藤の女兒お光に戀慕なしつゝ忍び〳〵袖褄を引者ながら彼方は路傍の柳に等く浮氣の風の吹くまに〳〵靡く女に非れば打腹立て言懲さんとは思へども家主なればと堪へて程よく紛はし其まゝにして過すに庄兵衞情慾いよ〳〵募りお光は我を嫌ふにあらねど未だ未邊女氣のうら羞しく發揮と問答を爲さざるなる可し就ては氣永く口説時は竟に意に從ふならんと思ふにも似ず其娘は今度本町の小西屋へ縁談究り箇樣々々と糊賣お金が話したるを聞より此方の庄兵衞は今迄手活の花とのみ思ひゐたりし女をば他へ取るゝ無益しさ如何はせんと取置つ胸を碎つ寢食も忘るゝ計に考へしが不圖思ひ附きお光をば手に入んこと外になし此婚姻の妨げせば渠自然此方へ靡かん噫然なりと思案せしが此方策に困じ果就ては惡き事に掛ては敏き者は兄の元益是に相談なして見ばやと先元益が方へ至るに博奕に負の込たるか寢卷一枚奧の間に煤ぶりゐたるが夫と見て誰かと思へば弟の庄兵衞何と思つて出て來たか知ねど兄に無禮を云ひ謝罪にも來ねば此方もまた今日まで出入も爲なかつたが一體何で來たのだと問れて此方は天窓を掻きツイ先頃はお互に蟲の居所の惡い所から言葉戰ひ爲たれども考へ見れば吾儕が惡いと斯謝罪た上からは主は素より舍兄のこと心持をば取直し何卒力に成て下せへと云ば元益點頭て然事柄さへ解つた事なら素より同胞何を云ふ然し改まつて力に成てと言のは如何いふ次第だかと問れて庄兵衞はお光が事一伍一什を打明し斯いふ解ゆゑ邪魔を入れ其婚禮を茶々風茶に爲たらば女は吾儕の物と究てはゐるが手段に困り其所で兄貴に相談に來たが趣向は無物かと問はれて元益笑ひ出し世に自惚と瘡氣のない者はないとぞ言に違はずお光は未だ手に入ねば此婚禮が破談に成てもお主の方へ來るか來ねへか其所の所は解らぬが是を破つて自分の方へ引入やうとは流石に弟感心したゆゑ力に成て其婚禮を破談にしやう。夫ぢやア爲て下さるか如何も吾儕がことを構へ爲て見せようが此姿では如何も斯も詮方がねへ付ては身姿を拵るだけ金をば五兩貸てくれ。ムヽ五兩と云ては吾儕の身では大金ながら後刻までに急度調達持て來が然して金の入用と邪魔の手段は如何いふ解か安心するため聞せてと云ば元益庄兵衞の耳の邊へ口さし寄せ何事やらん稍霎時私語示すを聞中に此方は莞爾笑ひ出し聞了つては横手を拍ち成程々々奇々妙計必ず當るに相違なし夫なら直に金の算段。急度相違のない樣に直に調達致して來ようとつかと戸外へ出たるは其日も已に暮合すぎなり开も此家には妻子もなく一個住にて玄關番を兼た飯焚の男一人在れど是さへも使に出たる後なれば同胞如何なる密談せしや知者絶て無りけり斯て後庄兵衞は翌朝五兩の金を調達兄元益に遞與しに此方は心得其金もて質に入たる黒紋附の小袖羽織を受出し近所の竹輿屋へ吩咐て醫師陸尺。三人仕立切棒の竹輿路次口へ据させ自己は夫に乘り方々と聲掛させながら本町へこそ到りけれ竹輿舁豫て心得ゐれば同町三丁目の藥種店小西屋長左衞門の前に下し戸を引開て直しける雪踏の鼻緒の最太き心を隱す元益が出てしづ〳〵進み入に店の者等は之を見れば年未だ三十路に足ざれど人品骨柄賤しからず黒羽二重に丸の中に桔梗の紋附たる羽織を着なし竹輿の體裁陸尺の容子を見ても何某と稱るゝ御殿醫先生ならんと思へば一同敬ひまづ此方へと上座へ招すに元益更に辭する色なく最鷹揚に挨拶して打ち通りつゝ座に附ば今日は管伴忠兵衞が不在なるに依り帳場にゐる主人長左衞門は立出て敬々しく挨拶なしお茶を上よと云ければ和吉は番茶を茶碗に汲みイザと計りに進めけり發時主個は此方に向ひ御用の筋は如何なる品と問へば元益茶碗をば先下に置き懷中より一枚の紙取出し如何も少々の買物にて氣の毒ながら此方の店は藥種が能きゆゑ態々と遠方よりして參りたれば此の十一味を何れもみな一兩目づつ調合なし極細末にして貰ひたいと出すは身姿も能き事ゆゑ定めし高金の品のみならんと思うて開き讀下せば然に非ずして極安き物のみなれば呆れながら委細承知を仕つりぬ只今藥研に掛ます間霎時お待ち下されと云つゝ夫を和吉に遞與製造方へ廻させしは多少を論ぜぬ商個の是ぞ實に招牌なる可し偖細末の出來る間と元益に四方八方の話しを爲ながらも餘りに不審と思ふ故此方に向ひて膝を進めちと失禮な事では御座れど營業ゆゑに貴君樣に伺ひまするは外でもなき只今仰せ附られし彼お藥の調合にて弊家共も代を累ね此營業を致しをれども箇樣な藥の合せ方初めて拜見致しますが一體是は何病に驗ますものか苦からずばお教へなされて下されませと云ば元益打笑ひ成程是は貴主方が見ても一向解らぬも道理にこそあれ此藥は素漢方家の配劑ならず愚老先年長崎にて醫道修業を爲しをり不圖阿蘭陀の名醫より傳習したりし稀代の妙藥テレメンテーナと稱物にて則ち癲癇の良劑なり然れども今の品耳ならず阿蘭陀人より傳へられたる奇藥を二種加ゆるゆゑ如何程重き癲癇なりともたゞ一二服を服用すれば忽地全快なさんこと霜に沸湯を注ぐに等き世にも怪有なる奇劑なるは是迄夥多の人に用ゐ屡々功驗を示せしより今度音羽町の浪人大藤武左衞門の娘お光が矢張癲癇の患ひありとて愚老の方へ療治をば頼に來しゆゑ診察するに數年の病のかうぜしなれば我妙藥の力にても到底全快覺束なければ一時は之を斷りしが父なる者の云るには今度娘は江戸向の大家の嫁に望まれしが病有ては相談も出來ねば深く押隱し疾や結納を取交し近日婚姻致す事に成しに依ては行早々病起らば如何にせん故に根切にあらずともと頼まれたるより今日わざ〳〵此方へ參りし事なりとまづ大略しを語りけり 第六回  其道を以て計る時は君子と雖も計り得るに易しとかや扨も山田元益はお光の婚姻を妨げるため此小西屋の店へ來り癲癇なるよし餘所ながら咄出せば主個を初め並ゐる店の者共等も顏見合せてゐたりけるに爲て遣たりと意に笑み猶も主個に打向ひ今の女兒の行先は大身代の由なれば此婚姻の首尾よく成らば女兒計りが僥倖ないで親まで浮び上る事ゆゑ是非とも是を爲遂たし然ども隱して遣たる病氣が一日二日の中に起らば折角なしゝ婚姻も破談になりて寶の山へ入ながらにして手を空く戻るが如き事ある可し因て到底治らずとも藥の功驗で二月三月起らずにゐれば其後に假令發する事ありとも早夫までには夫婦の中に人情と云が起り來れば癲癇ありとて離縁には成る氣遣も有まいからと云れて見れば其やうな物とも思ひ上治して致してやらねば其親子が折角得たる出世の道の妨げ爲やう思はるれば先の家へは氣の毒ながら偖斯までには爲たりしと何氣なき體咄す節藥の細末出來しとて持來るより受取つ錢を拂ひて長居は惡しと會釋をなして元益は店を立出竹輿に乘り首尾よく行しと舌を吐き我家を差て歸りけり跡見送つて長左衞門思ひ掛けざる醫師の咄しに只管呆れて言葉も出ず茫然として望みをりしが影さへ見ず成し頃やう〳〵我に歸りつゝ慌忙奧に走り入り今の次第を斯々と話すに妻も且呆れ且は驚く計りにて夫婦交に面を合せたゞ吐息のみ吐ゐたりぬ斯る所ろへ管伴の忠兵衞外より歸り來り居間へ至るに長左衞門は待兼たりし風情にてオヽ忠兵衞か遲かりし和郎は此家に長の年月勤て居て今にては管伴とまで用ゐらるゝ身で有る故に大事の〳〵一個息子へ取る嫁も吾儕等三個は皆目見ず和郎に任した今度の一件それを何ぞや探りもせず何故あつて彼樣な病持をば引摺り込み結納までも取交せしぞ息子の意に叶たる者にてあらばとは云たれど惡ひ病があつても能いと我々夫婦は決して云ぬに和郎は左樣な女兒とも知ずに縁を組せし無念か又は知ども當座のみ能ければ能との不實心で知て居ながら横着を極し譯か聞ま欲と腹の立まゝ藪から棒にまくり立つゝ云ければ忠兵衞呆氣に取るゝ耳少も合點行ざれどもお光の事とは大方に推せばいよ〳〵分り兼猶押返して問けるに主個は今方店へ來し醫師が述たるテレメンテーナの藥の事より大藤の女兒は斯と話したるが和郎は大事な主人の嫁が途中なんどで轉倒り天窓へ汚き草履草鞋を載られ恥を世の中へ晒してゐても大事ないかと怒りの言葉も無理ならず此方も是を婚姻の邪魔なす者の所爲と知ねば彼奸計を信實となし貴妃小町にも勝るとも劣はせじと思ふ程なる美人であれば其樣な病も素より有るまじと思ふが故に近所隣家の人にも更に平常の行跡さへも聞事なく縁を組しは身の過失この娘にして其病ありとは嗚呼人は見掛に依ざる物かと嘆息なしてゐたりしが漸々にして此方に向ひ然惡病のあると知らば假令若旦那がどの樣に戀慕ひて居給ふとも決してお世話は致すまじきに全く知ずに爲し事故不行屆の其廉は平に御勘辨下さる可し然して此上の御思案は何の思案に及ぶ可き直婚姻を變改してと言はれて忠兵衞度胸を突き仰御道理では御座りますれど先から好みし縁談ならず此方よりして若旦那が見染て無理に貰ひに行き此管伴の目の黒い中に如何なる事ありとも離縁はされぬと受合しを今更斯と申しては參り兼れば此事のみはと言を主個は押返し假令ば無理に貰ひしとて婚姻なしゝ譯にもなく本の結納だけ取交した事にてあれば仔細有まじ夫をば強て否と云は和郎は病氣を知ての事か。全く以て是から先に行て呉るか。サア。サア夫はの詰臺詞忠兵衞今は詮方無れば左樣御座らば此由を若旦那へ一應話してと云ども主個は更に肯ず何の息子に話すに及ばう如何戀慕ふ美人でも覆轉つて泡を吹く者と知なば戀路は覺ん息子は吾儕が能樣に言ゆゑ和郎は音羽町へ早く行ねとせり立られ忠兵衞今は理の當然に迫られたれば一句も出ず力投首腕組して進まぬ足を進めつゝ音羽を差て行にける神ならぬ身の此方には然る災禍の配り來て無き名を負しと露知ぬお光が嫁入の支度の好惡父親とも又お金とも相談して調へければ衣類諸道具今は殘らず揃ひたるに大家の事故先方にては夥多の支度ある事にて未だ調はぬか婚姻の日をば何日とて云うて來ぬかモウ今日あたりは來然な物と親父が言ば女兒もまた戀しい人と二世の縁結ぶに附て嬉しさの一日を千秋と思へども言はるゝ度に恥かしさの先立なれば果敢々々しき回答もなくて面はゆげ斯る所ろへ門の戸開け這入來るは小西屋の一番管伴忠兵衞なれば夫と見るより父親は最笑し氣に迎へ上げ忠兵衞どのか能く來ませし今日等は定めし婚姻の日限究にお出が有らうと今も今とて娘と二個噂を致して居りし所ろマア〳〵此所へコレ娘何を迂濶致してをるお茶を上ぬか如何ぞやと待遇振の厚き程此方はいよ〳〵意に恥ぢ言出惡く背後には汗する計りに在りたるが斯ては果じと口を開き決してお構ひ下さるな今日はチト申上兼し次第が有て參りたり夫と申すは餘の事ならずお娘御樣とお約束を致しましたる吾儕方の主人の息子長三郎こと實は先日より病氣に附き種々醫藥を撰ぶ物から功驗は毫しもあらずして次第漸次に重り行き昨今にては到底此世の人には非じと醫師も云ひ吾儕共も思ひますれば節角お娘御を迎申しても祝盃さへも致さぬうち後家と爲のが最惜ければ此度の縁はなきものと思し絶念下さるやと申して參れと長左衞門が吩咐に依て態々參りましたるが實にお氣の毒の次第にてと言たる儘に戸外へ飛出し跡をも見ずして逃行きけり此方の父女は思ひも因ぬ管伴忠兵衞が斷りに夢かと計り驚きつ又は呆れて顏見合せ少時言葉もあらざりしがお光は呀と聲立て其所へかつぱと打伏つ前後正體なき叫びぬ父も泪に目を潤せしが此方に向ひてコリヤ娘必ず泣な我も泣じ和女を育て此年月能婿取んと思ふ所へ幸ひなるかなと今度の婚姻無上親娘が悦びを思ひ附ても亡き母が生て居なば嘸や嘸悦ぶならんと今日迄も樂しみ居たる甲斐もなく忽地斷るとの變改如何なる事に原因候や知らねど一度約束して結納までも取交せしに斯言來る所を見れば幾許大家の由緒ある家のと云ても町人は町人だけで詮方なし必ず喃々思ふなよと勵しながら父親も同じ袂を潤はしぬ娘はやう〳〵顏を揚げ女と生れし甲斐なさは百年の苦樂他人に在りと常から教を受まつれば本夫を持ば生涯を任して朝暮仕へんと思ひし事も空頼み仇し縁に成ることゝ知ば年頃貧苦の中にも失ひ給はで吾儕の爲に祕置れたる用意金を盡して爲し支度さへ今浪費に成りたるは悔き限りに候へど夫も是非なきことながらモウ結納を取交せし後にてあれば同衾は爲ねど已に夫婦で有ると今故なく離縁されては吾女は世間へ此顏が向られませねば如何なる越度如何なる粗想で離縁されしか其趣きを小西屋へ一度掛合吾儕の身體の明りの立やうに何卒なされて下されませと理り迫たるお光の述懷無實に陷り樂みし赤繩茲に絶しと知ぬは憐れといふも魯なりけり 第七回  父は泪を拂ひつゝ娘に向ひて又云やう其述懷は然事ながら設此先が武士なりせば今更になり箇樣な事を面目なくて云ても來るまじよし又云て來たればとて此方も承引其明の立ざる中は使の者を爭阿容々々返す可き然るを先が町人にて素町人と云る者は利に耳走りて恥を思はず義理には暗き者なるゆゑ斯る事さへ云出すならん然るを此方は人がましき者と思うて理窟を云は所謂乞食に棒打にて毫も役に立ざれば腹の立のは無理ならねど此は是までの事と斷念必ず案じる事なかれと説ど諭せど娘氣の亂れ染ては麻糸の解よしもなき其節から隣の家の糊賣お金例の如く營業を終了て今がた歸り來り我家へ入て荷を卸し重能代りの石決明貝を携へ隣の家へ至り火を貰はんと行き見れば年が年中物爭ひ一つなしたる事もなき家には似氣なく親と子がさも不快氣なる面地して然も泪を翻しゐればお金は不審と眉に皺平常からして親子中の能と云のは音羽中へ響て親に孝行な其お光さんが何した譯でと問ど親子は嘆息の外に回答もあらざれば一所に置ては面倒というてお金は無理やりにお光を我家へ連行つ何で喧嘩をなされたと問ばお光は面はゆ氣に物爭そひせし解ならず二個泪を翻してゐたるは斯樣々々の次第なりと婚姻破談に成し事を包ず告ればお金は驚きあれ程までに手を下て貰ひに來りし小西屋で今更俄に斷りに來のは何とも合點行ぬと云たる耳にて詮方なければお光を慰め家へ歸し吾儕も大藤武左衞門に會つて悔みを云にける物語二枝に分る不題忠兵衞は主命なれば詮方なく最云難き事の由を親子の者に云傳へ其所をば遁も出せしが設し追掛らる事もやと意の恐れに眞暗散方跡をも見ずして我家へ歸り向ふの始末斯々と咄して汗を拭ひけり夫婦は聞て先は安堵此事一子に云ん物と思へど未だ暇に乏しく咄しもせねば和郎まづ一子に篤と此由をと云れて最ど迷惑ながら否とも云ねば部屋へ行き今朝店へ一個の醫師の來たりしことよりして親公のいかりに詮方なく向ふを斷り歸へりしまで一伍一什をはなしけるにきく長三郎は宛然に髮揷の花をば散したる心地せられて茫然たりしが面色を變へ膝をすゝめコレ管伴どの忠兵衞どのそも〳〵大藤の女兒おみつは父母の女房にするというて婚姻いひ込しことならずこの長三郎が彼を見染和郎を以て結納まで取交したるなかなれば假令癲癇の病ありとも吾儕が能というならばそれまでにして父母も敢て左や右いふ筋有るまじ夫をして病有るものはと云解ならば一應は我に話して縁組を變更す可きに然なくてその當人なる我耳へは毫も入ず和郎をもて變更さするは如何なることぞ父母も父母なり和郎も和郎あまりと云ば餘りなる壓制業とや云可けれ又一方より云時はお光に斯る病ありとも开は大道にて轉覆り泡を吹たる所をば見たるに非で店へ來し何れの者やら名も知ぬ醫師が云たることなれば是また證據と爲に足ず然るに夫を眞實となし斷りたりしは麁忽千萬此方は現に見たるといふ證據あらねば其醫師の云しが嘘そにて大藤の娘に病の氣も有らぬを疾て斷り後に至り斯と心の就く事あらば只面目なき耳ならず本町の小西屋こそ大身代で有りながら事理の解りし者なきや出所不定の醫師の言葉に迷ひて病もなき娘を病有とぞ思ひ詰め結納までも取交せし其縁談を斷りしは最笑ふ可き事なりと世間の人の口の端に掛りし時は我身と父母の恥のみならず小西屋の暖簾に疵の附ことならずや故に縁談破談の事は吾子は決して承引難し然れども其實病あつて父母がお光を嫌ひ給ふと云事なれば長三郎は假令焦れて死する迄も是非縁組とは云ざるなれば只今直に癲癇と云る證據を上て來て見せなば此のまゝ許しもせん設し然もなくは醫師の云ひし言葉は嘘と思ふゆゑ父母に迫りて病に係らずお光を如何でも女房に爲ねば成らぬと居丈高辯舌尖く演立たる理の當然に忠兵衞は一句も出ず首を垂れ考へ見れば長三郎が云に違はず渠お光の病氣といふは何處の者やら譯らぬ醫師が云し耳にて實際見たる譯ならねば今に成ては其病の有無とても計れずと少迷ひの晴來れば晴る程なほ面目なきは初よりしてお光が上を能も探らぬ過失なりしと思ひ附ては中々に辯譯なけれど首を揚げお年若には似給はで事理明瞭なる今のお言葉御尤にて返す可き言の葉とても候はず然ども今將た貴君樣が旦那樣御夫婦に仰せられてはお家の騷ぎ只何事も忠兵衞が不行屆に起りし事ゆゑ一度は斷り候えども如何樣とも爲し彼娘の病氣の有無を問合せ再回御縁の結ばる樣致しますれば暫時く吾輩にお預け下されませと思ひ入りてぞ詫けるに長三郎は面を和げ夫ほどまでに云なりせば此回は許し遣はす可ければ今日よりして五日の中に設病氣有る物ならば有とぞ云る確な證據を取て其旨吾輩に云ね又無時には縁談再回結びて高砂を謠る樣に取計ふ可し夫も五日の中に限りぬ設し日限を過す時は我も堪忍爲難ければ双親に向ひ此事を詳細云て意中を聞ん和郎も是を心得てと嚴重云れて忠兵衞は詮方なけれど言受し部屋を退き投首なし五日の中に善惡二つを身一つにして分る事の最難ければ思案に暮るに最前よりも部屋の外にて二個が問答立聞せし和吉は密と忠兵衞の側へ差寄り袂を控へ人なき座敷へ引入て委細は彼所で聞ましたが思ひ設けぬ今度の一件吾儕も最初に若旦那のお供をなして彼所へゆき夫から和君のお出の時もお供を致して最初からの事柄は皆知てゐるにあの娘御に限ては然いふ病の有る事とは思はれざれど有といひ又若旦那の被仰處も道理と思へど五日の中にどうして夫を探り給ふか吾儕も共に案じられてと云ば忠兵衞點頭て年より怜悧和郎の心配吾儕も切迫に詰つた故先云るゝ通り五日をば承知をなして受合たれど何を當にも雲を闇。然いふ譯なら此事は秒時吾儕にお任せなさい彼近所へ行夫とはなく病が有か非るかを聞定て來て參ますから成程是は大人より幼稚の方が遠慮がなくて聞には至極能らうから何分頼と管伴に云はれて心得打點頭優たる和吉は其儘に立出音羽へ至しが何處で問んと思案に暮先大藤が住居なる路次へ思はず入にけり 第八回  怜悧な樣でも幼稚なる和吉は家を立出て音羽の町へ至りつゝ路地へは入しが何處で聞んと其所等迂路々々爲しゝ末但見れば大藤が隣の家にて老婆一個膳に向ひ夜食と云へど未だ暮ぬ長日の頃の飯急ぎ和吉は見やりて打點頭會釋をなして内へ這入ば小僧さん糊ならばモウ無よイエ〳〵糊では有りませんがチト物が承はりたくてと云はしたれど究が惡く暫時文字々々手を揉ながら四邊を見返り聲を密め變な事をお聞申す樣ですが隣のお家の大藤武左衞門樣の娘のお光さんは癲癇病だといふ事です全く然で御座りますかと問ば此方は其娘が婚姻破談の事に就き胸の有也無也晴ざるをり今癲癇と言れては口惜もあれ忌々しければ赫と怒つて箸を捨衝と立上り飛掛り和吉が首筋取より早く其所へ引附目を怒らしコレ小僧和主は何處の者かは知ねど大藤の娘お光さんに癲癇が有るるとは何の謔言彼お光さんは容貌能く親孝心で優くて癲癇所ろか病氣は微塵聊かない人を癲癇病とは何の事一體何處から聞て來た而て和主は何處の者だサア云聞んと老婆の憤激和吉は苦き息を吐き然被仰れては一言も御座りませねば申し升が何卒此手を放して下さい息がはずんで溜りませぬと云ばお金は手を緩め然して如何だと再度問れ今は包もならざれば自己は本町小西屋の召仕なることより婚姻とまで極しが今朝箇樣々々の醫師來りて大藤の娘お光は云々と云たりしに主個長左衞門は大きに驚き直管伴の忠兵衞をもて此方へ斷りに遣せしが子息長三郎は聞て怒り忠兵衞を説破して五日の間に癲癇の有無を調て來る樣にと云れて困り切たる景状見るに忍びず吾儕が負擔爰迄聞に來りしと一什を演て泪組み咄を聞てお金の驚き息子が見染めて取ぬまでも二百兩といふ大金を支度金にまで遣した小西屋今日に成り婚姻を變更するとは物の不思議と思つてゐたが此咄でやう〳〵素は譯つたり然ども醫師といふ奴が態々彼所へ行し上あらぬことさへ並しは何考へても合點行ずモシ小僧どん其醫師の年齡恰好その他に是ぞと云ふ目印はハイ登時吾儕は家にゐたゆゑお茶も出たり話にも聞惚れよく〳〵見ましたが年の頃は二十七八丸顏にして色黒く鼻は低くて眉毛濃く眼尖く其上に左の目尻に豆粒程の大きな黒子が一つあり黒羽二重の衣物にて紋は丸の中に確に桔梗と言れてお金は横手を拍ち其の人體で考へれば醫師と云るは町内の元益坊主に極つたりと云は面體のみならず黒羽二重に桔梗の紋は掛替のなき一丁羅渠奴小西屋の店へ行き隣の女に惡名を付しは大方弟なる此家主の庄兵衞めに頼れての業なる可し渠庄兵衞は日頃よりお光さんには深く戀慕し度々口説ど云う事を肯ぬ所より遺恨を含み元益坊主を頼込み此婚姻を邪魔をしようと無き事云せし物なる可し夫にて思ひ合すれば先刻營業の歸り路元益坊主の裏手を通ると庭の障子を開放し庄兵衞と二人して並んで酒を飮でをり先は首尾よく行て來たゆゑ必定破談に成るだらうと咄してゐたは氣が付ねど常には中の惡き兄弟今日のみ一つ座敷に在て酒汲交すは稀代なことと思つてゐたが咄しの樣子と彼是考へ合すればいよ〳〵渠奴に相違ない惡さも惡き二個の者如何してくりようと拳を握り向ふを佶と見詰たる手先に障る箸箱をば掴みながらに忌々しいと怒りの餘り打氣もなく側に茫然坐りゐて獨言をば聞ゐたる和吉の天窓を箸箱にて發矢と打ば打れて驚きお金は氣にても違ひしかと思へばキヤつと云さまに其所を飛出し遁行ける此聲により糊賣お金はやう〳〵夫と心付き其の人にてもあらざるに怒りの餘り打たるは面目なけれど聞捨には成ぬは今の元益の一條直此事をお光さんにと云よりお光は翌日の仕掛か米淅桶を手に携て井戸端へとて行ん物とお金の前を通り掛ればお金は夫と見るよりもお光を呼入今の次第和吉が來りし事よりして斷りたるは癲癇と云觸したる元益が所爲に因こと是はまた家主庄兵衞が戀慕に出で云々なりし一伍一什を委敷語るを聞お光破談の事の原因はやう〳〵解りし物ながら怒に堪ぬは家主が其奸計は口惜き如何はせんと計りにて涙に暮る女氣の袖を濕らせゐたりしが稍有つて顏を揚げ俄の破談は如何した事と親子二個が一方ならず心配致して居し所ろ今拜諾りしお話しにて吾儕が無き名を負たりし次第はきつぱり譯りましたが今此事を親父さんに話しを致せば武士堅氣無實の惡名附られてはと怒つてどんな間違に成うも知ねば明日にても氣の落附た其時に吾儕が徐々に云ますから何卒和君からはお話なくハイ夫は承知しましたが餘り憎い爲方ゆゑ明日に成たら親父に話して急度掛合にと飽まで籠る親切を謝しつゝお光は泣顏隱し井戸端へ行き釣上る竿を直なる身の上も白精の米と事變り腹いと黒き其人が堀拔井戸の底深き謀計に掛り無實の汚名を蒙りたるも最前まで澄か濁か分らざりしが今は譯れど濡衣を干よしもなき身の因果と思ひ廻せば廻すほど又も泪の種なるを思ひ返へしてゐる節から後の方より背中を叩きモシお光さんお光さんと云者のある誰ならんと振返つゝ打見やれば元益方にて祝酒を汲交しゐて歸り來る庄兵衞なれば此方は發と怒りの餘に飛附てと逸る意を押鎭め誰かと思へば大家さん大層御機嫌で御座りますねヘイヤ澤山もやらねど今其所で一寸一杯やつたばかりさ夫は然とお光さん今日新版の本が出來て未だ封切もしないのが澤山あるが日が暮たら迫て畫だけも見にお出而て今夜は母親は大師河原の親類へ泊り掛にと行て留守内には吾儕一人限ゆゑ必ずお出の色目遣ひお光は恨を晴したく思ふ折から云々と言はれて大きに意に喜び其上ならず母親も留守と云るは序よしと早くも思案し莞爾笑み夫は嘸かし面白ふ御座りませうが甲夜のうちは親父も起きてをり世間も何だか騷々しく本も讀でも身に成ませねば二更でも打て親父が寢てから密と忍んでゆき御本を拜見致しますから何卒夫までお寢なさらずにお待なすつて下さいと言つゝ一寸男の顏横目で見たはお光の方に深き意の有とも知ず音羽小町と言るゝ程の美人にてらされ庄兵衞五體宛然蕩る如く何もピンシヤン爲る娘が今日に限つて自分の方から夜が更たらば忍んで行うと言のは夢か現かや是も矢張小西屋が破談に成た故で有うあゝ悦ばし嬉しとて手の舞足の踏所も知ざるまでに打喜び夫では晩に待てゐるから急度で有るよと念を押莞爾顏して我家へ這入しあとにお光はまた米淅了り我家の中に入し頃は護國寺の鐘入相を告ければ其所等片付行燈に火を照し附け明るけれど暗からぬ身を暗くされし無念に父の武左衞門心濟ねば鬱々と今日も消光てお光に向ひ面白からぬ事のみにて身體も惡く覺ゆるに床をば延て少の間足を叩て呉ぬかと言れてハイと答へながら押入開て取出す蒲團は薄き物ながら恩いと厚き父親に我身の上より苦勞を掛け未だ此上にもお嘆を掛る不孝の勿體なさと口には言ねど心の中思ひ續けて蒲團を敷イザと勸る箱枕のみならぬ身の親父が横に成たる背後へ廻り腰より足を摩り行手弱腕も今宵此仇を斃さんお光の精神是ぞ親子が一世の別れと究る心は如何ならん想像だに悼しけれ 第九回  女兒が優しき介抱に心緩みし武左衞門枕に着てすや〳〵と眠りし容子にお光は長息夜具打掛て密と退側に在し硯箱を出して墨を摺流す音も憚り卷紙へ思ふ事さへ云々と書つゞる身生命毛の筆より先へ切てゆく冥途の旅と死出の空我身は今ぞ亡き者と覺悟をしても親と子がたゞ二人なる此住居然るを吾儕が先立てば誰とて後で父樣の御介抱をば申し上ん夫を思へば捨兼る生命を捨ねば惡名を雪に難き薄命お目覺されし其後に此遺書を見給はゞ嘸驚きもなさる可く又お歎もなさる可しと思ひ廻せば廻すほど死で行身は悲歎もあらねど後へお殘りなさる其悲歎は如何ならん不孝はお許し下されと口には云ねど意の中おもひ續て打詫る涙は胸にせぐり來て呀と計に泣出さんと爲しが父や目を覺さんと袖を噛〆堪ゆるは泣より辛き手の震へ筆の運びも自在ならねど漸々にして始終の事を記し終りて確く封じ枕元なる行燈の臺に乘置稍しばし又も泪に暮たりしが斯ては果じ我ながら未練の泪と氣を取直し袖もて拭ひ立上り母の紀念の懷劍を取出し拔て行燈の火影に佶と鍔元より切先掛て打返し見れども見れども曇なき流石は業物切味と見惚て莞爾と打笑ひ鞘に納めて懷中へ忍ばせ父の寢顏を見て餘所ながらなる辭別愁然として居たる折早くも二更の鐘の音は耳元近く聞ゆるにぞ時刻來りと立上り音せぬ樣に上草履を足に穿つて我家を密と拔出で家主の庄兵衞方へ至り見れば此方は待に待たることゆゑ未だ寢もやらず茶を沸し菓子を整のへ坐り居て夫と見るよりお光さんか定めし甲夜からお出で有らうと待草臥て居りたるにと云へばお光も莞爾に吾儕も早く來たいのは山々なれど父親がお寢なさらぬので家が出られず只氣を揉でゐた所ろ今方お休みなされたのでやう〳〵出て參りましたと云つゝ上りて火鉢の側身をひつたりと摺寄て坐れば庄兵衞魂魄も飛して現を拔しながら見れば見るほど美くしきお光はいとゞ面はゆげの形に此方も心中時めき言んとしては口籠る究りの惡きを隱さんと思へば立て箱の中より新しき本種々取り出し之を御覽と其所へ置ばお光は會釋し行燈を引寄頻りに見る側で茶を汲み菓子を薦めながら其の横顏をつく〴〵と眺めて意に思ふやう自分の方から更るを待ち親を寢かして來る樣なは今宵泊らん積ならん何まで斯してゐたらばとて果しなければ此方より誘ひ立ねば未通女の事ゆゑ面伏にも思可しと一人承知し押入より夜具取出し其所へ床敷延てお光に向ひ吾儕は御免を蒙るゆゑ和女は緩慢御覽なさいと言つゝ床の中に入しが何でう眠りに着る可き只此方のみ窺ひ居うち又告渡る鐘の音は子の刻なれどもお光は寢ずいよ〳〵本に見入體に庄兵衞今は堪りかね夜具の中より手を出しお光の手を取りぐつと引ば此方は發と顏赤らめしが振拂ひもせず讀さしたる本をば顏へ押當ながら引るゝ儘に床の上へ倒れ掛りし姫柳風に揉るゝ景状なり庄兵衞是は首尾よしと思ふ間もなく娘のお光夜具の襟をば庄兵衞の顏へすつぽり掛けながら口の所を左手にて押へ附れば庄兵衞は息の詰りて苦さに何をするぞと云せもせず右手に懷劍拔間もなく柄をも徹れと脇腹へ愚刺と計りに差貫けば何ぞ溜らん庄兵衞は呀と叫も口の中押へ附られ聲出ず苦き儘に悶けるをお光は上へ跨りて思ひの儘にゑぐりければ七轉八倒四肢を振し虚空を掴んで息絶たりお光はほつと長息吐き夜具かい退てよく〳〵見れば全く息は絶果て四邊は血汐のから紅ゐ見るもいぶせき景状なり不題大藤武左衞門は娘が出しを毫も知ず臥てをりしが甲夜よりして枕に着たるゆゑなるか夜半の鐘に不斗目を覺し見れば側にお光のをらぬに扨は雪隱へでも行きたるかと思うてやほら寢返りなし煙草を呑んと枕元を見る行燈の臺の上に書置の事と記したる一封ありて然も之れ娘お光の手跡なれば一目見るより大きに驚き直に飛起封じ目を開く間遲しと讀下す其の文體は此度の小西屋の婚姻破談の儀は家主庄兵衞の爲る業にて這は日頃より如此の擧動ありしが开を聞入ぬ所ろより兄元益と云へる者と語ひ今朝同人を小西屋へやりテレメンテーナの事を言せ俄に破談に成たる事是等は絶て知ざりしが最前和吉と云る小僧が隣のお金の許へ來り聞に參し其節に箇樣々々の事を話しお金は營業よりの歸り道二人が話しの容子を聞き殘らず吾儕に話したるより其無念やる方なく渠を殺して身の汚名を雪ん物と思ふより庄兵衞に會ひ云々と申すに因て僥倖なれば只今よりして彼方へ赴き仇を殺して身の明を立んと思へど我私しの恨を以て他人を殺さば罪科脱るところもなければ生て憂恥晒さんより其の場を去ず自害して相果て申せば先立まする不孝はお許し下されかしと今死る身を氣丈の女兒筆の前後少も亂れず一伍一什を記しあるにぞ見る武左衞門一句毎に或は驚き或は嘆じ又悲しみ又は感じ暫時言葉もいでざりしは女兒の生命に係る大事猶豫なすべき所に非ずと思へば寢衣の儘にして我家を立出で家主の門口へ行き戸を引開見ればお光は已にはや庄兵衞をば刺留つゝ今や自害をなさんとする景樣なるに大きに慌忙ヤレ待暫しと大聲を揚んと爲しが夜隱のこと設も長家へ漏聞え目を覺まされなば一大事と思へば側へ立寄て刄持手を確り禁め聲を密めて云るやう娘逸る事なかれ委細の事は書置にて逐一諒知なしたりし流石は大藤武左衞門の娘だけあり無き名を負し遺恨を晴す其爲に刄を振つて仇を斃す實に見上げたる和女が心底年まだ二十歳に足らざる少女の爲可き業にはあらざりける男勝の擧動こそ親恥しき天晴女然れども人を殺し置き自儘に生害なすと云は天下の大法知ぬに似て武士たる者の爲こと成ず依て暫時死を止り夜明るを待ち奉行所へ名乘て出て相應なる處分を受るが至當なれば先其刄を納ずやと斯る節にも老功なれば物に動ぜず理非明白演て諭せし父が言葉にお光はやう〳〵承知して刄の血を押拭ひ鞘に納て腰に帶れば父は再度此方に向ひ此家に長居する時は眞夜中なりとも如何なる人に知れて繩目の恥を受んと言も計られねば早く立去り支度をしてと云にお光も心得て父諸共に家を出門の戸立て我屋へ歸り武左衞門は此一件を最も委敷認めたる訴状一通を造りし上親子支度をなす中に疾明近く東の方の白み來るに時刻よしと音羽を立出奉行所へと頻りに足を急せしが知者絶てあらざりけり夜明し後に長家の者は一同起出夫々の業に就ども家主の庄兵衞方は戸も明ず夫のみならず長家中では早起なりと評判する武左衞門の家も戸が開ねば不思議に思ひて起して見んとお金を首四五人が先家主の方へ至り雨戸を叩て呼物から答はなきゆゑ戸へ手を掛れば瓦羅利と開くにいよ〳〵不審と進み這入ば這は如何に主個庄兵衞は何者にか殺害されたる物と見え血汐に染りて床の上に倒れゐるをば見て驚き顏見合する計りなり就ては大藤武左衞門の家も未だに戸が開ねば是さへ設やと一同が疑ふ餘り彼方へ至り戸を引開れば是はまた家は裳脱のから衣被つゝ馴にし夜具蒲團も其まゝあれど主はゐず怪有なる事の景況に是さへ合點行ざりけり 第十回  長屋の者の一同は捨置難き二つの珍事中にも家主庄兵衞が殺されたるは大變なりと其の兄山田元益の許へも斯と報知るに元益驚き駈來り家内を改め見たる所ろ何一つだに紛失をなしたる物も非れば這は盜賊の業ならず遺趣切ならんと思ふ所へ大師河原へ泊りに行し母のお勝は歸り來り夫と見るより死骸に取附前後不覺に叫びしが偖有る可きにあらざれば此趣きを訴へ出檢視を乞うて其上に山田と計て死骸をば泣々寺へ葬りけり不題其頃の北町奉行は大岡越前守忠相というて英敏活斷他人に勝り善惡邪正を照すこと宛然照魔鏡の如くなる實に稀代の人なりしが此頃音羽七丁目の浪人大藤武左衞門父子奉行所へ駈込で娘お光こと云々個樣の譯ありて家主庄兵衞を手に掛けたれば相當の御處分下されかしと委細訴状に認めつゝ自首して出しに忠相ぬし這は捨置れぬ事共なりと先親子をば止め置き音羽の方をば探らするに書面に違はず庄兵衞は何者にか殺されしとて檢視を願ひ出たる耳かは其の朝よりして大藤親子は欠落なして行衞知ねば設や父子の業ならずやと噂なすよし聞えければ又小西屋方を窺はするに茲は召仕の丁稚和吉糊賣お金の許へ至り委細を聞より大きに驚き直立歸りて管伴に如此の由話たりしに忠兵衞もまた驚嘆し此事主個夫婦を首め息子長三郎にも話したるに息子は然もこそあらんと思ひ夫婦は頻に麁忽を悔い再度婚姻を結んとて翌日忠兵衞を音羽町へ遣たりしが此時已に家主は殺され父子は行衞の知ぬとて長家は鼎の沸が如く混雜なせば詮方なく立返へりつゝ云々と三個に告て諸共にお光の安否を案じゐるよし確に知たる忠相ぬし獨りつく〴〵思ふ樣お光は奇才容貌とも人に勝れし耳ならず武士の眞意を能く辨へ白刄を揮つて仇を斃すに其父もまた清廉にて是を隱さず名乘て出る親子微妙者なれば何卒お光を扶てやらんとは思へども天下の大法人を殺さば殺さるゝ其條目は脱れ難し如何はせんと計りにて霎時思案に暮たるがやう〳〵思ひ附ことありてや一個點頭有司に命じ庄兵衞の母お勝。山田元益。糊賣お金。小西屋長左衞門。を呼出し初て白洲を開きける此命彼方此方へ通ずるに元益親子は庄兵衞の仇の御詮議なる可しと思へどもお金の呼出さるゝを不審みつゝ伴ひ出また小西屋は何ごとやらんと愕くよりして長左衞門病氣と稱して出もせず其代人は管伴忠兵衞丁稚和吉を供に連れ奉行所へ出腰掛へ和吉を待せ進みける斯て大岡忠相ぬしは一同白洲へ呼込たる後お光親子を繩附の儘にて其所へ引出せば此方は見やりて思ひ掛ずと驚くの外言葉なし登時忠相ぬし一同に向ひ山田元益母勝の訴へに依て家主庄兵衞を殺したる曲者を吟味せし所ろ同長屋の浪人大藤武左衞門が娘お光の所爲なるよし渠等自ら名乘出たるに依て明なれば今日審判を開かんとす此旨一同心得よと宣告さるゝに此方の者は思ひ依ざる人殺しも豫て疑がひ居たりしに元益親子は進み出庄兵衞を殺害なしたるはお光なりとは夢にも知ねど渠等親子は其の朝より行衞知ずに成しかば設やと思ひ居たるに疾も名乘て出る段愕き候外はなし就ては上のお慈悲を以て亡庄兵衞が草葉の蔭の追善にさへなりますやう御計ひこそ願はしけれと申し上るに忠相ぬし承知しながら此方に向かひ小西屋長左衞門代忠兵衞其方々にては此お光を嫁に貰はんと言入已に結納までも取交せしを如何なれば俄に變更せしぞ此事逐一申し上よと言れて忠兵衞おそる〳〵一端斯とは約したれど箇樣々々の醫師來りて彼お光こそ癲癇病なりとテレメンテーナと言ふ藥のことを述たる上に又言やう依て主人は大きに驚き其後の始末は云々なりと申上れば忠相ぬし然もあらん然もある可しお光が訴へも夫に符合し無き名を負て婚姻の破談に成しは庄兵衞が日頃よりして我戀の協ぬことを無念に思ひ兄元益を彼方へ遣し癲癇病と言せしより事の茲には及べるなりと深くも遺恨に思ひつゝ偖こそ庄兵衞を殺害なしたるならめ如何元益其方弟の頼を受け小西屋へ行きし事あるかと問れて此方は形を改め這はお奉行のお言葉とも覺えず身不肖ながら山田元益仁術とする醫道をもて身の營業となすものが爭で左樣な惡き事に荷擔致して濟可きかは此儀御賢察を希ふと口には立派に言物から意の中には密計の早くも顯れ夫ゆゑに弟は最期を遂たるかと愕くの外あらざりけり忠相ぬしは點頭て醫師の面目然も有可しコレ金庄兵衞の爲に元益が小西屋へ至りしとは其方が言出しお光に語りし所ろより此騷動には及びしが夫には確な證據があるか。ハイ外に證據とても御座りませねど吾儕が營業よりの歸り途元益方の裏手を通ると箇樣々々の話しをば。イヤ夫計では證據に成らぬ外に確なことはないか今日呼出しゝ忠兵衞も其日は家に居らずして來りし醫師をば見ずと言り依て確な事にあらねば證據なりとは申されぬ篤と考へ申上げよと言れてお金は小首を傾け霎時考へゐたりしが漸々にして首を上げ外に證據と申しまするは小西屋の小僧和吉と申すが吾儕方へ參りしをり店へ來りてお光さんに癲癇があると言たる醫師は年齡云々にて又面體は箇樣々々然も羽織には丸の中に桔梗の紋が附てゐたと申に因て日頃より見知る山田元益に面體恰好計でなく羽織の紋も相違なければ確に夫とお光さんに話しを致して候ひしが其醫師こそは小西屋の小僧和吉が見知をれば御呼出に相成ば即座に解り申す可しと云うに忠相ぬし此方に向かひ長左衞門代忠兵衞其の和吉といふ召仕は只今にても宅にをるか。ヘイ未だ召仕をりまして今日も同道致し只今お腰掛に控へをりまする。ムヽ夫は實によい手都合ソレ呼込の聲の下忽地和吉は呼び入れらるゝに巍々堂々たる政府の白洲一同居並び吟味の體に和吉は見るより幼稚意に大きに恐れハツと計りに平伏せしが側を見れば先つ頃店へ來りてお光のことを云々言たる醫師の居るにぞ又驚きてヤア和主はと一言いひしが御場所柄あとは言葉も出さざりけり此方の元益最前は確の證據のあらざれば仁術をもて業となす醫師ゆゑ惡き荷擔はせずと奉行に向ひ立派に云ひ眩めんとこそ計りしが今我面を見知たる和吉が出しに發と計り驚き怖れて面色土の如くに震ひ出せば忠相ぬしを首として並居る一同母親のお勝も偖は其の醫師は元益なりしかと計りに呆れて顏を見合せゐたりぬ忠相ぬしは呼び出せし和吉に言葉はあらずして元益の方へ打向ひ其方最前も申す通り醫は仁術を以て業となせば小西屋方へ行たることは決してあるまじと思ふゆゑ和吉は茲へ呼び出したれど最早吟味を爲にも及ばじ依て小西屋へ參りし醫師は何れの者やら解らずとせん就て其方も醫師の事ゆゑ今越前が問たきことありそも〳〵醫師は螢雪の學の窓に年を重人の生命を預る者ゆゑ天下の條目成敗の道も少は心得つらんが中にも重き罰といふは婚姻妨げの罪科なり之をば重く爲時は死罪の刑に處する可し又輕くなす其時は遠島と爲が制規なるが其方之等を知たるかと時に取ては氣轉の問條此方は聞も及ばざれど名高き奉行は言の葉に僞はりあらじとおもひしかば如何にも仰せの通りにて心得ゐるよし答へけり 第十一回  登時大岡忠相ぬし再度元益に向ひて云やう其方親子は庄兵衞の殺されたるより其の敵を討て呉よと願ひ出たるをり武左衞門親子の者は正しく庄兵衞を殺したりと訴へ出たらば敵と言は武左衞門の娘光なる事云ずして明瞭なり因て光をば處刑せんとは思へども處刑爲難き次第あり开は如何と尋るに只今も申す通り婚姻妨げの罪科は重くて死罪輕くて遠島なり然るに庄兵衞事自己みつに戀慕して小西屋との婚姻を妨げんと何國の者やら相分らざる醫師を遣し世に有りしとも覺えざるテレメンテーナといふ藥の事を吹聽し結納までも取交せし婚姻を妨げ致す段その罪最も重ければ光の手に掛りて相果ずとも上に於て死罪に處し處刑場の土と爲可きところ高運にも光が手に掛りたれば捨札に惡名を殘し非人に左右せらるゝ事なく席薦の上にて相果先祖累代の香華院に葬られ始終廟食の快樂を受るは之れ則ち光が賜物にして仇乍も仇ならず反つて恩とこそ思ふ可けれ依て元益親子は光を恨む事を止て厚く庄兵衞が跡を吊ふ可し元益は又其母勝こと年寄て相續人の庄兵衞に死別れ然こそ便なく思ふ可ければ元益は醫業を廢して更に音羽町の町役人となり庄兵衞の跡を相續して母勝に孝養を盡し大事に掛て遣す可し大藤武左衞門娘みつ事は婚姻妨げを爲たる庄兵衞上に於て死罪にも行ふ可きの所ろ上へはお手數を掛ずして十八年の少女には似氣なく武士の娘とは言ながら白刄を揮つて庄兵衞を討即座に自害し果んと爲しは上のお手數を省くの御奉公天晴なる擧動なり父武左衞門は自儘に死なんとする娘を止め夫を引連事柄を委細に述て自首する段法度を重じ上を敬ふ武士の面目さもあるべし因て兩人は人殺しの罪さし免せば此旨有難く心得よ夫と指揮に小役人は二人が繩目を免しけり忠相ぬし忠兵衞に打向ひ小西屋長左衞門代人忠兵衞其方事主人の申し附とは言乍出所不定の醫師の言葉を信じ結納取交し迄濟たる婚姻を破談に致すこと不埓千萬なる事なれど斯事柄の相分り光に病のあらざる事判然致す上は長左衞門夫婦長三郎に於ても光を嫁に致さん事仔細あるまじければ只今より親子の者を引取行き親類方へ預置き其所にて萬事支度を整へ吉日を撰んで婚姻を取結ぶ可し光は天晴の者なれば此度は斯云越前守冰人と成て取すれば早々婚姻を行ふ方よからん此事只に忠兵衞のみならず光親子の者も心得て能からうと仰ありしはお光親子は家主庄兵衞を手に懸たる者なれば解放せしとて直音羽へ返さば如何なる災禍起らんも計られず又渠親子も家主を害せし土地へは歸り難しと推して斯は言しなるべし忠相ぬし又も忠兵衞に打向ひ此度は珍事忽地にして斯善惡を分ちし事一は糊賣お金が親切と丁稚和吉の忠義に依ば和吉は此まゝ引連歸りて目を掛け使ふは勿論なる可く金はまた光親子と共に親類方へ預け置き爾來光が召使いとして一生を易く消光す可し是にて一件落着したりと述給ふ程に小役人は落着一同立ませいと諸聲合して言にける實に曇りなき裁判は人を損せず理を迫て自然と知せる天下の大法早亡き身とまで覺悟せしおみつ親子は不測に助り然のみならず戀しと言郎の許へ縁づくやう再度結ぶ赤繩に有難泪は白洲なる砂を濕らす其喜びお勝は初て庄兵衞の惡きを知て小西屋へ行しは兄の元益なれば是も如何なる祟や有んと元益と共に胸安からず思ひゐたるに慈悲深く山田が事は問給はで是を庄兵衞が代りとなし養親が義を托し給ふに二個は生たる心地して砂に頭を埋る許り又忠兵衞は忠相ぬしが活機明斷凡ならで今更めて婚姻結び𫥇人とまで成給はんと述給はるの有難さは是のみならず和吉お金も思ひ掛なきお奉行のお聲掛りは一世の榮巨萬の金を貰ひしにも勝る嬉しさ喜ばしさ何れも怪我なき一同は打連御門を出にけり斯て元益は音羽町へ立歸り我家を終了て母の方へ同居なし醫業を廢止て家主となり名も庄兵衞と改めて先非後悔一方ならず能く母親に仕へつゝ長屋の者をも憐みしに其の家次第に豐になり他人の信用も得たりければ或者の世話に依て妻を迎へ之が腹に男女夥多の子を産せいよいよ榮え行けるに母のお勝も大いに安堵し常に念佛三昧の道場に遊び亡き庄兵衞が菩提を弔ひ慈悲善根を事としたれば九十餘歳の長壽を保ち大往生の素懷を遂たりと不題忠兵衞はおみつ親子お金和吉を伴て奉行所を下り主人方の親類呉服町の何某屋へ至り今番所の歸りにて箇樣々々の始末なれば是なる三個を暫しが間預り呉よと言けるに爰の主個も此話しは朧氣ながら聞ゐたれば斯即座に落着せしを喜び少も異議はあらずして三個を奧の座敷へ通しぬ扨忠兵衞は和吉を引連主人の方に立歸り主個夫婦長三郎の前にて今日奉行所の容子をば逐一演説したる上三個を呉服町の親類方へ預置て歸りたるまで委細のことを述たるに親子はおみつが庄兵衞を殺しことを首て知容儀優れし耳ならず又志操も人に優れ流石は武士の胤ほどありて斯る擧動を爲しこと小西屋の嫁と爲といふとも羞しからぬ女なりと長三郎は殊更に戀慕心の増りゆき夫婦は夫とも意附で醫師の言たる言葉を信とし縁談斷り此騷動に及びたるをば後悔の外には更にあらざりけり然ども大藤親子の者糊賣老婆お金まで彼方に在ては捨置難しと三個が衣類其の他をも此方より持せやり忠兵衞をして音羽町の二軒の家を終了せて少の家財を爰に運び小西屋には裏手の明地へ更に武左衞門が隱居所を營み普請出來の其の上は爰より嫁入をさせんと計りぬ然るに大岡忠相ぬしは町奉行の身を持て之が𫥇人に立んと言しは元益等が恨を含んをば恐れての事ならんか町人の身として奉行を𫥇人に立んこと世に勿體なき譯なればと親類一同連署して此件は辭退し終りぬ兎角するうち新築全く出來せしかば親子お金を其所に移し黄道吉日を撰びて立派に婚姻を取結ぶに二個は思ひ思はれし中なれば其親みは一方ならす男女夥の子を擧けしに中なる一個は成長の後有馬家へ召出され家臣と成て大藤の家名を再興し武左衞門は一生を安樂に送りお金は終身不足なく此家に仕へ管伴忠兵衞は此度の一件に附き盡力一方ならざれば褒美として宅持の通ひ管伴となり和吉も種々の褒美ありしが三年の後長左衞門夫婦は隱居し長三郎は主個となり和吉は元服して二番管伴となり其家ます〳〵榮えたり 大岡忠相ぬしが勤役中の捌にて人の耳目を驚かせし事枚擧するに暇あらざるほど多き物から中にも殊に勝れたるは天一坊が裁判なり之は物の本にも作り又芝居にても脚色講談落語は更にも言ず其他種々の物にも見え其の筋に大同小異ありと雖も其主意とする所は微賤の一僧侶吉宗ぬしの落胤と稱し政府に迫る事急にして其證跡も明かなれば天下の有司彼に魅入られ既にお世繼と仰がんと爲たりしを一人大岡越前守のみ夫が邪曲を窺ひ知身命を投打て既往今來を尋ね遂に奸計を看破つて處刑せしといふ有名の談話にて斯る奸物を發顯こと忠相ぬしの外能く凡庸の奉行の爲し得可きことにあらねば傳へて美談となす物から又聞く所ろに依ば彼天一坊なる者は實に吉宗ぬしの落胤に相違なく將軍未だ紀州に在るとき侍女と轉び寢の夢を結びて懷姙なしゝ一子なるが民間に成長して後未見の父君將軍と成しかば證據物を携へて訴へ出たるなればよしお世繼とせざるまでも登用てもて生涯を安く送らん事最々容易の業ながら忠相ぬしつら〳〵渠を見るに貴介公子の落胤に似氣なく奸佞面に顯れ居れば意許せぬ曲者なりと夫が成立よりの事柄を探り看るに實に忠相ぬしが思ふに違はず腹黒にして品行能らず天下の主個と爲は更なり落胤として所領の少も宛行ふて扶助する時は後に到りて徳川の爲に害をば爲可き者と早も見て取り知たれば我思ふよし云々と吉宗ぬしに言上せしに君又英敏明才にていよ〳〵政治を改良して公方の職を萬世不朽に傳へんといふ素志なれば今大岡の言るを聞如何我胤なればとて然る曲者を採用し後に害をば殘さんこと武將の所爲に有ざれば天下の爲に彼をして強て僞者と言詰て宜敷刑に行ふ可し是を爲す者其方の外には決して有可からず能せよかしと内命ありしに忠相ぬしも推辭に術なく遂に天一をして僞者とし二葉の中に摘たるなりとの事實に然るか否を編者未だ識別すること能ざれど設果して信ならしめば吉宗ぬしが賢明なるは言計りもなく僞を僞として其の惡を訐き奸を鋤賊を滅するは之奉行職の本分なれば僞者の天一坊を見顯すは然のみ大功とは稱するに足ねど眞の天一坊を僞として能天下の爲に是を滅せしは智術萬人に越え才學四海に並ぶ者なき忠相ぬしに有らざれば誰人か能く此機變を行なひ君をしていよ〳〵賢明ならしめ民をしてます〳〵欣慕の念を起さしむるに至らん空前絶後の名奉行なるがゆゑ後に年功に依て三千石より一萬石に加増し大名の中に加へられたり然ども町奉行にして大名に任ぜられたるも先例なく大名にして町奉行を勤たるも先例なければ此時忠相ぬしは町奉行を止られて更に寺社奉行に任ぜられしなど未だ例なき美目を施し士庶人をして其徳を慕せ今に至るまでも名奉行と言る時は只に忠相ぬし一個に止るが如く思ひ大岡越前守の名は三歳の小兒といへども之を知頻に明斷を稱るこそ人傑の才稀世の人といふ可し是等を今茲に喋々する事殊に無益の辯に似たれど前にも已に述たるが如く此小西屋の裁判は忠相ぬし最初の捌にして是より漸次に其名を轟かし末世奉行の鑑と成たる明斷に因て忠相ぬしが履歴とその勳功の大略とを豫て傳へ聞異説天一坊さへ書記して看客の覽に供ふるなれば看客此一回を熟讀して忠相ぬしが人と成り腹にをさめ而して後に前段の落着の場を見たまはゞ宛然越前守を目前にみるが如きの思ひある可し然れども編者が筆鈍き上緒數毎回限りあれば其情充分に寫す事難し恐らくは角を斷て牛を斃すの嘆なき能はず夫等は偏へに御海容を乞ふのみ 小西屋一件終 雲切仁左衞門一件 雲切仁左衞門一件 第一回  當に秋霜となるとも檻羊となる勿れと此言や男子たる者の本意と思ふは却て其方向を誤るの基にして性は善なる孩兒も生立に隨ひ其質を變じて大惡無道の賊となるあり然ば雲切仁左衞門抔も其一にして今の世までも惡名を殘したる其物譚を茲に説出すに頃は享保年中甲州原澤村に佐野文右衞門と言て有徳に暮す百姓あり或時文右衞門は甲府表に出て所々見物なし日も西山に傾むきける故に佐倉屋五郎右衞門といふ穀物問屋へ一泊を頼たり此佐倉屋と云は文右衞門より毎度米穀を送りける故平常心安き得意に付早速奧へ請じ種々饗應なしけるが此の家の娘におもせといふは今年十六歳にして器量も十人並に勝れし故文右衞門は年若にて未だ妻もなき身なれば不圖此娘に執心なし竊に文を送しにおもせも文右衞門が男振優に艷く甲府の中にも多く有まじき樣子に迷ひ終に人知ず返書を取り交し二世の誓を立たりけり然るにおもせの親五郎右衞門は此事を聞より一度は怒りけれ共佐野文右衞門は有福の暮しと言殊には人柄も宜若者なれば人を以て掛合の上おもせを文右衞門の方へ遣せしにより思ひ思はれし中なれば兩人の喜び大方ならず最睦敷暮しけるに程なく懷妊して一人の男子を儲け其名を文藏と呼て夫婦の寵愛言ばかりなく蝶よ花よと育てけるに早文藏も三歳になりし頃父の文右衞門不圖風の心地にて打臥けるが次第に病氣差重り種々養生手を盡しけれ共其驗なく終に享保元年八月十八日歸らぬ旅に赴きけり因て女房おもせは深く歎きしが今更詮なきことと村中の者共打寄て成田村なる九品寺へ葬送なし一偏の烟として跡懇切に弔ひたり此おもせは至て貞節者にて男勝りなりければ未だ年若なれども後家を立てゝ三歳なる文藏を守立て奉公人の取締も行屆きしかば漸次々々に勝手宜なりし故所々へ貸金等もいたし番頭に忠兵衞と言者を召抱へて益々内福にぞ暮しける然るに享保十一年には最早文藏二十四歳となりければ能嫁をとらんと近所の心易き者を頼みて種々穿鑿せしが兎角長し短しにて相談も調はざるうち文藏は忠兵衞を召連れ駿州へ米の拂ひ代金を受取に到りて駿府町の問屋なる常陸屋佐兵衞と云者の方へ泊りし所佐兵衞が悴に佐五郎といふものありて歳も同じ頃なれば心安く致しけるに佐五郎思ふには斯懇意には致せども文藏事は餘りに手堅く何時も金錢を大切に致し一向に遣ふといふことなし我度々勸むれ共大の堅固にて一向聞入ず然ども此の度は是非とも誘引出さんと文藏に向ひ此處の二丁町は天下御免の場所ゆゑ一度は見物あれと無理に勸むる故毎度の勸め然々斷るも氣の毒と思ひ或日夕暮より兩人同道にて二丁町へ到り其處此處と見物して行歩中常盤屋と書し暖簾の下りし格子の中におときといふ女の居りしが文藏不圖恍惚し體に彳みける佐五郎ははやくも見付何か文藏に私語其家へ上りしが病にて文藏は現になり日夜おときの方へ通ひ詰ける故番頭の忠兵衞は以ての外の事なりと思ひ段々異見を加ゆると雖も勿々用ひる面色もなく言ば言程猶々募りて多分の金子を遣ひ捨るにより忠兵衞も持餘せし故國元へ歸りて母親へ右の段を咄しけるに母のおもせは眞赤になり夫は以ての外の事夫なき後は我等が育あげし文藏なれば母親の甘く育しと言れては世間の手前濟難殊には又畜生同然の遊女などに迷ひては先祖へ對しても申譯なしと大に怒りしを忠兵衞は先々と宥め置夫より親類中へも内談をなし一先文藏を駿府より連れ歸り打寄て種々異見に及びしかど文藏は何時かな思ひ切樣子もなく假令不孝と云れ勘當受る共是非に及ばずと思ひ切て申ける故然ば忠兵衞も致し方なく然程に思ひ詰給ふ上は暫時私しへ御任せ有べし必ず思し召違ひ有て短氣の事など爲給ふなと種々に諭置きて忠兵衞は御家のおもせが機嫌を見合せ文藏樣は只一人の御子と云那程までに御執心の事なれば彼女を請出し御嫁になされて然べし欠替のなき御子の事萬一御不了簡抔あらば何と成れ候や爰の所を貴方樣も篤と御考へ遊ばし曲て御聞入あるべしと詞を盡して申勸めしかば母おもせは女郎は畜生同前と思へ共只一人の子と云支配人の忠兵衞が申勸る事故詮方なく然る上は是非に及ばず其女を受出申べし我等は隱居を致さんと泣々申けるを忠兵衞は是を聞御道理の樣なれ共先々受出して御覽あるべし強ち女郎と申ても畜生同樣の者ばかりも是なしと段々母親を説諭して文藏に右の段咄しければ文藏は天へも上る心地して最嬉しく忠兵衞を神か佛の樣に伏拜み夫より文藏は忠兵衞を同道して駿府へ赴き彼常盤屋へ行て身請の事を亭主へ懸合金百十五兩にて彌々お時を身請と相談調ひしかば忠兵衞は常盤屋の亭主に向ひ斯の如く身請をなす上は彼の女の身元は何れ成や承まはり度と尋ねけるに亭主は是を聞何樣御道理の御尋ねなり彼女の身元は當國木綿島村の生れにて甚太夫と云者の娘なれば里へ渡りを付て御引取成るべしと申ゆゑ夫より忠兵衞は早速甚太夫の方へ掛合しに父甚太夫も大いに喜び萬事すら〳〵と根引も濟しかば文藏お時の兩人を駕籠に乘忠兵衞は附添原澤村へと急ぎ立歸りしに母のおもせは如何なる者を連來やと日々案じ居ける所へ皆々歸り來りければ早速忠兵衞を招きて樣子を尋ねしに右のお時は木綿島村の甚太夫といふ百姓にても家柄の者の娘なりしが年貢の未進に付據ころなく常磐屋へ勤め奉公に出して未だ間もなきに渠運強くして此方の旦那樣に受出され勤めの月日もなき故外の遊女とは大に違人品もよしと申に付少しは安心なし居たるに何樣文藏は申に及ばず姑にも能仕へ奉公人迄行渡りの能ければ母のおもせは思ひの外歡びて近所の者へも私しの嫁は夫婦中も睦敷殊に私しを大切になし呉候事若き者には珍らしくお前樣方も嫁を取るゝならば女郎が宜しきなどと今は却て自慢を爲程なれば家内睦しく暮し居たりけり 第二回  然るに或日五十歳ばかりの男來りて忠兵衞に逢私し事は木綿島村の甚太夫殿より頼まれて來りし者なるがお時樣の父公甚太夫殿此節俄に大病とて打臥居られ候間此由お時樣へ御咄し下さるべしと申故忠兵衞は早速に此段をお時へ咄しければお時は是を聞て驚愕なし如何成急病にやと甚だ案じ歎き夫文藏へ此事を語りしに文藏も驚き外ならぬ事故手代忠兵衞へ如何せんと相談なせば忠兵衞は打案じ此度お時樣爰へ來り給ひ今直に親公の病氣なりとて行給はゞ世間の聞えも惡し是は御夫婦連にて身延へ參詣とて御出の方宜しからんと申にぞ其段母へも咄しければ母は大の堅法華の事なる故尤もの事なりとて許せしに付お時は大に喜び早々其用意をなし名主林右衞門へも頼み置て近所へは身延參詣と披露し忠兵衞へ跡の事共言含め文藏お時は下男吉平が實體なる者故是を供に召連て主從三人頃は享保十二年十月十日原澤村を出立なし夫より鰍澤の御關所へ掛るが路順なり都て甲州は二重の御關所あり土地は御代官の支配ゆゑ御關所手形を願ふべきなれども日數も掛るにより御關所をば拔道を廻りて通らず切石下山と急ぎ來りしが猶身延へも往ず萬澤の御關所へ掛りしが是又手形なくては通行ならず依て此處をも廻り道をして行んと思へども土地不案内の事ゆゑ茶屋へ寄り問合せて通らんと思ひ立寄しに此茶屋に先より三人連の男休み居たりしが今文藏の一群來りて御關所の拔道を通る樣子を聞何か三人私語合ひ此處を出立窺ひ居たり此三人の中頭立たる一人は甲州にて名高き惡漢韮崎出生の雲切仁左衞門といふ者なり若年の頃より心剛にして眞影流の劔術を好み天晴遣人なりしが或時雷落て四方眞暗となりしに仁左衞門は事ともせず拔打に覆ひ下りし雲の中を切けるに不思議や鼬の如き獸二ツになつて落けるゆゑ人々大いに驚き是より雲切仁左衞門と渾名せり今一人は手下にて肥前の小猿といふ者又一人は同く肥前長崎在方村と云ふ所の出生向ふ見ずの三吉と云者なり扨て文藏夫婦は此茶屋にて拔道の樣子を聞駕籠を雇ひて打乘萬澤の廻り道へ來掛るを見て小猿は仁左衞門に向ひ是は必ず能鳥なれば五兩や十兩には有付べしと云を聞傍より三吉は面白し〳〵彼奴を威して取んと駈出すを仁左衞門は押止め汝が器は小細々々今懷中の物を取のみにては面白からず後の種にする工風あり先其方兩人は斯樣々々に致せと言付萬澤の御關所を通りて先へ行拔今や來ると待居たり文藏夫婦の者は斯る事のありとは夢にも知ず甚太夫が病氣の事を案じ急ぎて來懸りしに向ふ見ずの三吉肥前の小猿兩人は目明し風俗に拵へ其所へ直と出立汝等女を連て天下の御關所を廻り道せし事不屆なりと咎れば文藏夫婦は是を聞て仰天なし兩手を地に突何卒御見遁し下されよと詫けれ共惡漢共は勿々聞入ず大切なる御關所何と存じ拔道を致せしやと申故兩人は途方に暮て答へも出來ざれば三吉小猿は汝等役所へ來れとお時文藏並に供の吉平三人へ繩を掛ければ三人は只夢に夢見し心地にて引立られつゝ行所に身の丈六尺有餘の大男黒羽二重の小袖に黒八丈の羽織朱鞘の大小十手取繩を腰に提のさ〳〵と出來りしに小猿三吉は腰を屈是は〳〵御役人樣斯樣々々の者を召捕候と申しければ彼役人打笑て夫は我等請取て一應取調んと云ながら文藏に向ひ其方は何國の者にて何用有て何方へ行にや眞直に白状致せと申けるに文藏はがた〳〵震へながら私しは原澤村百姓文藏と申者に候が是なる妻の里木綿島村の父が急病ゆゑ見舞に罷り越候間何卒御慈悲にて御通し下され候樣願ひ奉つると言ければ彼の侍士は點頭其は不便の事なり此儘引立行時は御法通り磔けなれば何卒助けて遣し度と暫し工風の體に見えしが汝等親孝行の志ざしにめで我一了簡を以て見遁し遣はさん併ながら手先の者共へ酒代にても遣はさねば相成らずと申を聞文藏は蘇生たる心地にて大に喜びこれこそ地獄の沙汰も金次第と目明し方の兩人へ所持せし有金三十七兩を殘らず差し出だしければ彼の役人どもは其の金子を請取り此の事決して口外致すまじと申渡し何國ともなく立去けり然ば文藏夫婦は役人の後影を伏拜み實に有難き御慈悲なり然ながら我々身延山を僞りし佛罰にて空恐しき目に逢しならん早々御詫をすべしと下男吉平へ申付て原澤村へ立歸させ番頭忠兵衞へ内談の上金子を取寄せ身延山へも金十兩を納めて御詫をなし漸々日數を經て駿州木綿島村へ十月十五日に着たりける然るに甚太夫は平常痰持にて急にせり迫けるが三四日の内に思ひの外全快し先常體なれば夫婦は早速對面なせしに甚太夫は兩人が遠方の所を深切に尋ね來りし事を深く喜び彼是と饗應にぞ夫婦も安心し此度途中にて少々入費も是ありしにより甚だ少しながらと金子二十兩を土産に贈りければ甚太夫は彌々其の志ざしを感じ緩々逗留ありて旅勞れを休められよと言に夫婦の者は一兩日逗留なし頓て暇乞して木綿島村を出立し三人打連故郷へこそは歸りけれ然ば文藏夫婦は此度廻り道をなして金子を遣ひし事必らず口外爲べからずと吉平へも堅く口止して濟し居たりしが誰知る者もなく其年も早十二月となりて追々年貢の上納金を下作より集けるを文藏の代になりては別して毎年も都合能年々實入も殖るに往々は舅甚太夫も此方へ引取べしと姑も申により喜び居たりけり扨又雲切仁左衞門は彼三十七兩の金を小猿向見ずの兩人へ十兩宛分與へ己は十七兩の金を懷中になし日々遊び暮しけるが仁左衞門は兩人に向ひ此上某し大金を儲ける手段を考へ置たり此事首尾能行時は此後盜賊を止其金を以て末を安樂に暮しなん若又惡事露顯する時は互ひに命を落す而已なり今一働きなすべしと申ければ兩人は異議に及ばず然ば大金儲に掛らんと其相談をなし居たり然るに其年の十二月五日原澤村の名主用右衞門の方へ木綿合羽を着したる旅の侍士一人入來り其方へ少々尋ね度仔細ありと申にぞ名主用右衞門は何事なるやと思ひ早速座敷へ通して茶烟草盆を出し挨拶に及びける處彼侍士用右衞門に向ひ當村に文藏と申者はなきやと尋ぬるに用右衞門何樣文藏と申者當村に罷在候と答へければ侍士は點頭其文藏が身の上に近頃何ぞ後暗き事はなきや其方より内糺し致すべしと申けるに用右衞門は大に驚き文藏儀平常實體にて慈悲深き者ゆゑ然樣の事有べき筈なしと思へども先彼侍士を欵待置て早々文藏方へいたり只今我等方へ御侍士一人御入にて斯樣々々の御尋ねあり貴樣に後暗き事の有べき樣なけれど一應申聞ると申せしに文藏は内心ぎよつとなせしかども素知ぬ體にて其は一向心當りもなしと申を用右衞門は押返し篤と考へられよと尋ねけれども文藏立腹の體に見えしかば用右衞門も何樣と思ひ立歸りて此旨を侍士へ申述けるに然らば此段申上べしと云て侍士は立歸たり因て名主用右衞門は不思議の事に思ひ竊に心痛してぞ居たりける 第三回  さて又同く十月二十七日の暮方名主用右衞門方へ五六人の侍士來りし故用右衞門肝を冷して出迎ひける所先に立し者此御侍士を案内せし我々は江戸南町奉行大岡越前守樣御組中田甚太夫殿の手先の岡引なりと云ければ用右衞門は増々驚きけり(今此處へ來りし役人體の者は雲切仁左衞門の手下なる三吉小猿の兩人にて甲府邊の者三四人を錢五百文づつにて雇ひ供に召連たるなり)時に小猿の甚太夫は用右衞門を呼び當村の百姓文藏方へ案内致すべしと申故用右衞門は狼狽廻りて組頭百姓代組合の者等大勢呼集め是は先日のことならんと恐る〳〵案内致しけるに此文藏の宅は長屋門にて土藏七戸前其外納屋等數多ありて番頭忠兵衞初め下男十人下女五人馬三疋の大福家なりし處夜五ツ時頃御用提灯を先に立名主組頭一同に案内して入來りしゆゑ文藏は何事ならんと大いに驚きし中上意と聲掛主人夫婦を高手小手に縛めければ母は仰天しながら如何の譯にて候や悴儀は御召取に相成べき惡さを致す者にあらずと泣々詫言なしけるを小猿の甚太夫は母に向ひ文藏夫婦は去る十月中萬澤の御關所を廻り道を致し候江戸町奉行大岡越前守殿へ相聞え今日召捕に向ひたり其節供に召連し下男なる趣き是亦差出すべしとて吉平をも召捕ければ母のおもせは種々と歎きけれ共小猿の甚太夫は首を振其方何樣に歎くとも江戸表よりの御差圖なれば差免し難併し子の罪は親に懸らざれど母をば村役人へ急度預け置奉公人は番頭忠兵衞始め殘らず是又村役人へ預申付るなり居宅の儀は村の百姓共申合せ晝夜番を致すべしと申渡し家内諸式米倉迄殘らず改めの上中田甚太夫の封印を付其外帳面へ書留るに米千八百五俵麥五百三十俵並に箪笥長持數十棹村役人立合にて改め相濟其夜寅半刻事濟に相成山駕籠三挺を申付て是へ文藏夫婦に下男吉平を乘明日巳刻迄に當所の御代官簑笠之助殿御役宅へ召連て罷り出べしと急度申渡し村役人共より預り書面を請取小猿の中田甚太夫は我手の者共を召連立歸りけり因て彼是する内に夜も明離れければ名主用右衞門は文藏に向ひ今更申は詮なき事ながら此間御役人御出にて御内糺しの節に取扱ひなば又々如何樣にも内談の致し方も是あるべき所其節心付かざるこそ殘念の事共なれ今と成ては是非に及ばずと申けるに母のおもせを始め皆々何といふべき詞もなく唯涙に咽び歎き悲むより外はなかりけり 第四回  扨も文藏夫婦並に下男吉平は翌朝大勢村の者を差添御代官簑笠之助殿御役宅へ召連罷り出昨夜御預の囚人を同道仕つり候と申立ければ御代官所にては不審に思ひ其儀一向此方に於て覺なき事なりと申されける故名主用右衞門は進出昨夜大岡越前守樣御組の由中田甚太夫と申され候御仁が御召取なされ明朝當御役所へ差出し候樣にと仰せ付られ候に付則ち召連候と申せしかば御代官の方にては是を聞れて扨々不審の事共なりと大岡の下役人共當地へ來り一應の斷りもなく支配所へ踏込候段何共合點行ざる儀なり其上前以て内談もなく當役所へ三人の囚人を引渡し候儀旁々其の意を得ず然れども囚人と有ば打捨置がたしとて此段甲府御城代八木丹波守殿酒井大和守殿へ申達されける故評議の上先御勘定奉行へ差出し然るべしとの事に付夫より江戸表御勘定奉行酒井壹岐守殿へ差出されければ酒井殿の方にても關所破りとあるからは輕からぬ科人なり然れ共大岡殿の手先にて召捕し者なるを此方にて裁許は成り難し兎に角大岡へ引渡候方ならんとの事にて越前守殿御役所へ引渡と相成たり仍て大岡殿村役人を召出され一應糺されけるに十二月廿七日夜御組の中田甚太夫殿と申す御仁御出張にて文藏夫婦御召捕相成御代官へ引渡し候樣仰せ渡され米穀金銀諸道具藏等迄殘らず封印の上御引取相成候間其通り御代官所へ召連訴へ出候處一向御存じ是なきとの事にて夫より御勘定奉行へ御引渡し相なり猶又當御役所へ相廻候と申立るを聞れ越前守殿直樣中田甚太夫を呼出され其方名前を僞りしは何か遺恨にても有者の仕業か又は盜賊の巧みならん何れにも篤と吟味致すべしと有て文藏夫婦を呼出し越前守殿文藏を見られ其方儀去十二月二十七日の夜當方の下役と名乘し者に召捕れ候趣き其節の手續明白に申立よと尋ねられければ文藏は涙を流しながら其節は名主用右衞門案内にて私宅へ御役人樣御出成れ一言の御糺しもなく私し夫婦を御召捕相成しは斯樣々々なり私し母并に下人共は村役人へ御預け家内の番は村方百姓等へ仰付られ諸色土藏とも殘らず御役人樣御封印にて其後御引取の所其節明日巳刻簑笠之助樣御役所へ相送り候樣仰せ渡され候て御役人樣御立歸り相成候然るに簑笠之助樣御役にては一向御存じ是なき段仰せ聞られ候と委細に申上しかば大岡殿名主用右衞門へ對はれ此儀は何ぞ文藏へ意趣遺恨にても是ある者の心當りはなきやと申さるゝに用右衞門暫時考へ文藏儀は至て實體なる者ゆゑ意趣遺恨等請べき者に候はず然れども去年十二月五日何れより御出成れ候や御侍士樣御一人私し方へ御越にて文藏に何ぞ不審なる儀はなきやと御尋ねゆゑ早速文藏へ承まはり合せ候處一向何も覺え是なく候と申候に付其段申上候に其御士儀何か御考への體にて御歸り成され候然るに其の後二十七日の日斯樣々々の次第に候と申立ければ大岡殿又用右衞門へ尋ねらるゝ樣其方の支配なれば文藏が家内の樣子も能知つらん何ぢやと申されしに用右衞門仰の如く私し支配に候へば文藏の樣子は能存じ居候先にも申上候通り渠は一體實體なる者にて平常慈悲深く又女房と申候は駿府二丁町の遊女なりしを請出し候が是又心懸よき女にて奉公人より小前百姓共迄も平常譽候て家内和合いたし居候と申立ければ大岡殿然れども文藏夫婦の者近頃何方へ歟行し事は是なきやと尋ねられしに用右衞門去年十月中に夫婦身延山へ參詣仕つり候儀御座ると申立れば大岡殿其儀二十七日に召捕候節吟味は致さずや又萬澤の御關所近邊には萬澤狐と申居るが故殊によりて化される事も有なり其節途中に於て何ぞ怪敷事はなかりしやと尋ねらるゝを聞文藏は大いに驚き恐れながらと進み出御奉行樣の御眼力誠に恐れ入奉つり候其節萬澤の脇にて目明し二人に出會私し共三人に繩を掛候處へ御役人樣御出ゆゑ愈々六かしからんと思ひし機地獄の沙汰も金次第とやらにて有金三十七兩を差出し御内分に成下され相濟申候然るに十二月二十七日の夜御役人樣御出御座候處右は萬澤にて出會候目明の面體に能似寄候と申を大岡殿篤と聞れしが早速同心山本彌太夫を呼出され文藏宅の樣子を改め來るべしと申付られしにより彌太夫は直樣原澤村名主用右衞門同道にて甲州原澤村なる文藏の宅に到り番頭忠兵衞を呼出して家内土藏の封印を切解箪笥長持等一々改むる時忠兵衞は文庫藏の長持を明此中に金千百八十兩入置候と申に右の金見えざれば大いに仰天し幾度となく探し求むれども少しの金と違ひ大金の事故紛れべきやうもなく如何にも不思議のことなりと惘れ果たる趣を彌太夫は見て扨は奉行衆の鑑定通り盜賊の仕業にて似役人をなせしならんと思ひ早速立歸りて右の趣き巨細に申し立てければ大岡殿然らば文藏夫婦の者外に惡事もあらざるゆゑ助け遣さんと思はれけれども關所破りと言ては磔に成べき大法ゆゑ種々に工夫ありて又々文藏夫婦を呼出され其方夫婦とも顏色殊の外惡し如何致せしやと申されければ文藏は恐る〳〵首を上私し共儀此間中より病氣に御座候と申立るに何樣不便のことなり此上病氣重りては成ずと有て宿預けに申付られたり斯る囚人を宿預けといふは誠に深き御慈悲なりと見聞人毎に泪を流し大岡殿の仁心を感じけり又大岡殿には其中に似役人をせし盜賊を吟味せんと所々探索を申付られけり扨又彼の雲切仁左衞門肥前の小猿向ふ見ずの三吉の三人は似役人となりて原澤村の名主始めを首尾よく欺むき文藏方にて金千百八十兩盜み取しかば仁左衞門は三吉小猿に向ひ斯樣に仕合よく行し智嚢古の諸葛孔明我朝の楠正成も及ぶまじとは云ふものゝ是まで夜盜追剥人殺し等の數擧て算へ難し此上盜賊をなさば終には首をも失はん然ば汝等に此金を三百兩宛遣はし殘り五百兩は我が物となし此後盜賊を止め此金子を以各々金堅氣の業を始め町人になり百姓になり了簡次第に有附べし併此以後は三人共に音信不通になし假令途中などにて出會とも挨拶も致すまじと約束を定め分殘りの八十兩は當座の祝ひに遣ふべしとて三人一同に江戸表へ出立なし先吉原を始め品川或ひは深川と所々にて遊びけるが頓て彼八十兩を遣ひ仕舞しかば三人は約束の如く思ひ〳〵に別れけり夫より雲切仁左衞門は本郷六丁目へ住居して家名を甲州屋と呼米商賣を始めけるが元より拔めなき者ゆゑ次第に繁昌なし此所彼處の屋敷又は大町人などの舂入を請合ければ俄に手繰能金銀も殖るに付地面を求めて普請をなし今は男女五六人の暮しに成し處近所の者の世話にて女房を持家内睦まじく繁昌致しけり扨又肥前の小猿は本町二丁目にて賣家を求め名を肥前屋小兵衞と改め糶呉服を初めければ是又所々の屋敷に出入も殖段々と勝手も能成凡夫盛なるときは神も祟らずといふこと宜なるかな各自仕合能光陰を送りたり然るに小兵衞は尾張町の呉服店龜屋の番頭仁兵衞といふ者に取入呉服物を二三百兩づつ預りて商賣しける所に此仁兵衞頓死して一向勘定合の分らざるを僥倖に肥前屋小兵衞は二百八十兩程の代物を只取になし是より増々仕合せ能相成けるに付間口三間半の店を開き番頭手代小僧共五六人召仕ひ何れも江戸者を抱へるゆゑ何事も商賣向に明るく繁昌なすに付て小兵衞は女房を持んと思ひ是も工風して御殿女中の下りを尋ね宿の妻として都合よく日増に内福と成たりけり夫に引替向ふ見ずの三吉は三百兩の金を配分されしかば其金を懷中して所々を徘徊なし專ら賭博に身を入又大酒を呑己が有に任せて女郎藝者を買金銀を土砂の如く遣ひ捨る故に程なく三百兩の金も遣ひなくし今は漸々丸の内の本多家の大部屋へ轉げ込飯を貰ひて喰居たりしが追々寒さに向ふ時節なれど着物は古浴衣一ツゆゑ如何共爲方なく不圖大部屋を立出し頃は享保十六年十一月なりしが三吉は種々工夫して本所柳原町に舂屋の權兵衞といふ者あり此者は豫て知人なる故是を頼みて欺かばやと思ひ常盤橋御門を出てふら〳〵本町二丁目へ來懸りし所に左側に肥前屋と書たる暖簾懸り居たりしかば是も肥前の者ならん彼の小猿めも同じ國なりしが今は如何成しや我は元同國片村の名主の腹より出たる者なるが此體に成果たり併し此間迄は三百兩の金を持居たれども今は一文もなしなどと獨り呟きながら通る所に肥前屋より小僧を一人供に連て出行者の體小猿に髣似たりしかば三吉は後を尾て能々是を窺ひみるに小猿に相違なきゆゑ心中に悦びしに小兵衞もちらりと振り返り見て奴は三吉めなりと思ひ恐れしにぞ知ぬ顏にて早足に行過る所を三吉は猶後より尾來るゆゑ小兵衞は彌々恐れ種々に逃廻ると雖も三吉は尾慕ひければ小兵衞は足に任せて逃歩き夜に入て漸々歸り我が家の表口より入時後に尾て三吉は直と入來り御免なさいと言ながら店先に腰を掛私しは元御知己の者なれば此家の旦那に御目に懸り度と申に番頭手代はじろ〳〵顏を見ながら其の段主人へ申通じけるに小兵衞は殊の外困り入只今留守にて何方へ參り候や相知ずと申べしと言付ければ手代は立出其旨申聞るを聞き三吉然らば御歸迄相待申可と言て上り込一向動かぬ故小兵衞も是非なく密と勝手の方より出て表へ廻り只今歸りし體にて三吉を見付是は珍らしやと表へ呼出し向ふ横町の鰻屋へ上りて物語りけるに三吉は膝を進め扨々面目なき仕合なれども誠に此體なれば何卒少々の合力を御頼み申と言懸られ小兵衞は是非なく懷中に在合し金六兩三分を殘らず出し遣しければ三吉は大に歡び昔し馴染とて御無心申せしに早速多分の金子御貸下され忝けなし是を元手に一商賣に有附今の御恩を報ぜんと口から出次第申しけるを小兵衞は打聞此後は豫て申合せし通り必ず我等方へ參られ候事無用なりと申せしかば三吉は天窓を掻仰せの如く此後は決して立寄まじと堅く約束なし猶又綿入羽織一ツを貰ひ夫より本所柳原町なる舂屋權兵衞を尋けるに權兵衞は故郷へ引込たる由土地の者申故三吉は力なく又々安宅の方へ到りしに當時は所々に切店有て引込ける故ぶらりと是へ上り大に酒を飮一分ばかりも遣ひ其夜は遊びて翌朝立出朝飯を表にて喰居たりし時防ぎ傳吉といふ者に出合互に昔し語りをなし夫より此傳吉方に食客となり居けるが此傳吉は先年甲州へ行ける折雲切仁左衞門方に少しの中居たる事ありて三吉と兄弟同樣にせし者なり夫故今傳吉方に遊び居たるに傳吉は三吉が金を持て居る事を見し故是を謀りて博奕を勸めしかば固より好む事ゆゑ直樣引懸り專ら博奕をなして居たりけり 第五回  斯て彼三吉は又々博奕に引懸り肥前屋小兵衞方にて貰ひし彼六兩は殘らず負て仕舞元の通りの手振となりけれ共綿入羽織ばかりは殘り有事故種々思案なし此上は如何共詮方なければ元へ立歸るより外なしと本町二丁目なる肥前屋小兵衞の方へ行御免下されと店へ上るゆゑ番頭大に困り折角の御出に候へども主人小兵衞儀は留守にて御目に懸り候事相叶はずと斷りけるを三吉然らば御歸り迄御待申べしとて以前の如く居込樣子故今日は遠方へ參りしにより歸りの程も計り難しと申ければ三吉は我等是非々々御目に懸らねば相成難き用事あり二日にても十日にても御歸宅を相待申べしと歸氣色はなかりしにぞ店の者は殆ど當惑なし殊に小兵衞の女房は御殿下り故此體を覗き見て甚だ驚き小兵衞へ早々歸し給へと迫りしかば小兵衞も難儀千萬に思ひ番頭を以て主人小兵衞儀は仕入方に參り候間何日頃罷り歸り申べくや程合も計り難く候に付先々御歸りありて四五日も立候はゞ又々御入下さるべしと云せければ三吉は是を聞て腹を立今こそ肥前屋の旦那などと横柄面をして居れども元はといへば己と同樣に人をゆすり取又は追落しをしたる事もあり今己が斯の如く落ぶれたればとて其好みを以て少々の見繼位はなしても能筈なり若今己が御手に逢時は同罪なりと大聲を出すにぞ小兵衞は甚だ迷惑なし此樣子にてはとても素直には歸るまじと夫より旅の支度をし又裏口より密に立出門の外より今歸りしと聲を懸ながら内へ入けるに人々旦那の御歸りと言を聞三吉は最前より待居し事なれば小兵衞に向ひ少々御咄し申度事ありといふに小兵衞は三吉を奧の間へ連行女房へも引合せ此人は舊國元にての久々馴染なれば今宵は奧座敷にて咄しを致すべしと兩人は一間に入て内談するに小兵衞は三吉に向ひ貴樣は能積りても見られよ一人二三百兩分取なし此の上は各自家業に有附べし因ては以後音信不通と云事を仁左衞門始三人堅く言葉を交して別かれしにあらずや然るに此間も六兩三分と言金子を譯なく合力し間もなく其形にて又々參らるゝ事餘りなる仕方なり昔しとは違ひ今は眞面目に日々の利潤を以て其日を送る我等なれば最早此上は何共仕方なしと云けるを三吉額を押へ夫は道理の事ながら我等何程稼ぎても不運にして斯の體と相成ども今一度商賣に取付度何卒昔しの好みを以て救ひ給はれと申ければ小猿は暫く考へ然らば雲切仁左衞門方へも行て頼み見られよと言けるに三吉其事も思はぬにはなけれ共當時仁左衞門は何所に居るや一向行方を知ず若御存じあらば教へ給はれと申せしかば當時仁左衞門は本郷六丁目にて甲州屋仁左衞門と言大富家なり是へ便て相談あらば又好話しも有べし尤も我等は仁左衞門と申合せし以來出會は致さゞれども餘所ながら樣子を承たまはり居るなりと咄しけるに三吉は大に悦び然らば翌日にも直樣本郷へ行んといふを小猿は聞てとてものことに百兩ばかりも誣頼夫にて取付商賣をいたさるべし是までの如くにてはならぬゆゑ篤と認めし事を致されよと言ければ三吉納得なし先以御教忝けなし併し如何いたして誣頼申べきやと聞に小猿夫は豫々出入は申すまじと堅く申合せし事なれ共斯樣々々の譯にて詮方なく參りたりと申されよと言含めしかば三吉は委細承知して立歸り翌日本郷六丁目へ尋ね行て表より甲州屋仁左衞門殿とは此方にて候やと申入ければ番頭は然樣に御座候と答ふるに然らば御主人仁左衞門殿へ御目に懸りたし仰せ入られ下さるべしと言入しかば仁左衞門何心なく立出見るに以前の三吉なれば惡い奴が來りしと思へども詮方なく先一間へ連行其方は何故尋ね來りしやと申に三吉は面目無氣に私し事爲事なす事手違ひになりて誠に難澁仕つり今は早行べき所もなく豫て兄弟分の小猿にも借金百兩ばかりも出來此上如何とも致し方なき折から此度大岡樣の御手に召捕れし所小猿が工夫にて岡引衆を頼み旦那衆へ内々百兩贈りて見遁しにして貰ふ筈なれども右の金子に差支へ候間何卒百兩御貸下さるべし其百兩の金子なくては岡引衆も勿々承知いたされず御手に逢候はゞ萬一拷問に懸り苦し紛れに古への原澤村の一件などを申し出す間じきとも云難く然すれば御互の身に關はる事故何分にも見遁して貰ふより外なし其手段は金子なりと眞顏に成て語りければ仁左衞門も其事に至らば誠に身の大事なりと心に納め是非なく百兩工夫して相渡しける故三吉は大に悦び是誠に命の親なりと押戴き其の金を懷中し立出けるが百兩といふ金を只取になせし故直に吉原町へ行て拾兩ばかり遣ひ奢り散し殘り九十兩を持てぶら〳〵淺草へ出ける處遠乘馬十四五疋烈敷乘來りしかば三吉後へ逃んとする機其の馬一疋斜めに駈出し往來の者を踏倒す故三吉は狼狽て漸々馳拔諏訪町へ來り酒屋へ這入て懷中を見るにいつ落せしや九十兩の金見えざりければ三吉は駭驚仰天して立歸り猿眼に成て能々尋ねけれ共人通り多き所ゆゑ一向に跡形もなし依て又々元の手ふりとなりければ再び本郷の甲州屋へ行仁左衞門に右の事を物語りて無心を言けるに仁左衞門は大いに難澁に思ふと雖も詮方なく又々金子を遣しけるが是をも又遣ひ切て本町の小猿の方へ無心をいひ又本郷の仁左衞門と兩家へ打て違ひに無心を言懸否と言ば以前の事を大聲にて並る故仁左衞門も殆ど困り入けるが急度工夫をなし本町の肥前屋へ來り内々相談に及びけるは彼三吉事とても生置ては我々が身の詰りなれば謀計を以て渠を切て捨んと談合なし夫より三吉を欺し久々なれば三人同道して御殿山の花見に行べしと申しければ三吉大いに悦び直樣行んと三人打連立頃は享保十七年三月十八日御殿山にて花見をなし酒の機嫌に古への物語りなどして品川より藝者を呼大酒盛となりて騷ぎ散す中早日も暮相と成ければ仁左衞門は頓て身を起し我等は今宵據ころなく用事あれば泊る事はならざれども淺さり遊んで歸らんと夫より新宿の相摸屋へ上りしが其夜九ツ時分品川を三人連にて立出高輪へ來りし時仁左衞門大音揚コレ三吉汝は先年甲州にて金子配分せし砌方々申合せしを一向に用ひず我等兩人へ無體に難儀を懸る事度々に及ぶ如何に惡逆無道の者なり共恥を知ざるは人間にあらずといふ儘に引捕ければ三吉は大に驚き逃出さんとする所を肥前の小猿飛懸りて拔打に右の腕を打落すに雲切仁左衞門は大脇差を引拔て三吉が眞向より殼竹割に切割りければ三吉は吁とも云ず二ツに成て死したりけり仁左衞門は小猿に向ひ先々是にて安心せりとて彼死骸を海へ投込歸りしゆゑ此事知る者なかりしが固より同氣相求る者ども故是より折々は出會けるに兩人とも三吉に金子を多く取れしかば勝手向不如意になりしより今一度大稼ぎをなし是限にせんと兩人申合せて又々惡心を起しけること是非なけれ 第六回  偖又其頃兩換町に島屋治兵衞とて兩替屋ありけるが肥前屋小兵衞は此家へ度々兩換の事にて行店の者にも心安く成て篤と樣子を窺ふに概略勝手も分りしかば是ぞ好らんと思ひ仁左衞門へ島屋の事を語りければ夫こそ屈竟の事なりとて兩人相談の上同く十七年十月二十八日の夜雨は車軸を流し四邊は眞闇なれば是ぞ幸ひなりと兩人は黒裝束に目ばかり頭巾にて島屋の店へ忍び入金箱に手を掛出さんとする機番頭太藏は眼を覺まし大音に盜人々々と聲を立るゆゑ仁左衞門小猿は逃出んとする所に大勢追來りしかば止を得ず三人程切拂ひて其場を逃去金はまんまと奪ひ取仕合よしと兩人五百兩宛配分して悦び別れけり然ば彼兩替屋にては翌朝早速町奉行所へ訴へ出ければ大岡殿島屋の手代を呼出され一通り尋ねらるゝに若い者左吉重次郎千次郎の三人手負の趣き又盜まれし千兩は一昨日蓮池御藏より受取候金子にて殘らず私し方の極印を打置候と見本の金を差出せし故大岡殿夫より江戸中兩換屋は申に及ばず諸商人共迄一同に此段觸示されけり扨又肥前屋小兵衞は盜みし金の五百兩を配分して大に歡びしが是ぞ天罰の歸する處にして右の町觸の出し日は留守にて心得ず越後屋に反物の借百三十兩あるを跡の爲なれば先是を拂はんと思ひ越後屋へ右の小判を持參し拂ひけるに越後屋にては甚だ心中不審に思ひけれ共是迄間違もなき肥前屋小兵衞事故渠へ申も如何なりと此段を奉行所へ訴へければ早速右の百三十兩を取上られて改めの上兩替町の島屋治兵衞を呼出され此金を見よと渡さるゝに治兵衞は改め見て此金に相違御座なく候と申立しかば直樣本町二丁目の肥前屋小兵衞へ捕方を差向らるゝに捕方の面々肥前屋へ行向ひ上意と聲を懸ける故家内の者共大に驚きけるを小兵衞今は是迄なりと思ひ一尺八寸の刀を引拔捕手の者へと打懸るに左右より立寄し二人飛違ひ十手を以て請流しける中一人の同心後へ廻りて白刄を打落し右の手を捻上終に召捕て奉行所へ引立ければ大岡殿小兵衞を見られ其方事去る十月二十八日夜兩替町島屋治兵衞方へ忍び入三人に手を負せ金子千兩を盜み取しならんと尋ねられけるに小兵衞は最早遁れぬ所なり何日迄陳じ居て拷門に懸らんよりは速かに白状し罪に歸せんと覺悟をなして其夜の事共一々白状に及びたり扨又本郷の甲州屋仁左衞門は本町の肥前屋小兵衞が召捕れし事を聞ける故南無三と思ひしが熟々工夫をなすに所詮我此所を遁れたり共天罰爭か免かるべきと屹度覺悟を極め我思ふ仔細ありとて妻へ離縁状を渡し又番頭其外店の者一同へ金を與へて暇を出し夫より南町奉行大岡殿の役宅へ訴へ出私し儀は元雲切仁左衞門と申是々の惡事ありと白状に及びたり依て大岡殿渠が勇氣を深く感ぜられ汝惡人ながらも英雄なり能こそ自身に名乘出しと申されて其日は入牢と相成けり其後仁左衞門小猿の兩人を呼出され其方共江戸へ出でざるうちは何方に罷り在しぞと尋られし處仁左衞門私し儀は甲州に住居仕り候と申立ければ大岡殿然らば汝等享保十一年十二月廿七日似役人と相成て原澤村の百姓文藏夫婦を召捕て金を盜み取候に相違は有まじと申されければ小猿は顏色變て俯向居たるに仁左衞門は莞爾と笑ひ何樣世の人賢奉行と稱へ進する程有て御明察の通り私共儀享保十一年十月萬澤の御關所手前に休居候處に原澤村の大盡夫婦にて廻道せしを付込似役人と相成三吉小猿を目明となし私儀は御役人の體にて夫婦を召捕金子三十七兩を出させ其場を見遁申候其後十二月初旬手下の者を原澤村の名主方迄遣樣子を探置同月廿七日又候似役人と相成名主方へ罷越案内致され彼大盡夫婦を召捕家内は申すに及ばず土藏へ封印を附置有金千百八十兩盜取申候此時盜取し金を資本に致し銘々家業に有付以後は盜賊を相止申可と三人申合せ小猿三吉の兩人へ三百兩宛私は五百兩分取候て夫より御當地へ出小猿は呉服店私しは穀物見世を出し候處彼三吉儀は三百兩の金子を遣ひ捨候ては私し共兩人を尋ね來り無心を申事度々に及び甚だ難澁仕つるにより小猿と申合せ餘儀なく御殿山の花見と申し三吉を欺して連行高輪にて切殺し死骸は海へ打捨申候然れども天罰にて三吉に兩人とも身代を荒され借金多く相成候に付今一度盜賊を致し身代を直し商賣を致し候はんと存じ小猿と申合せ十月二十八日の夜兩替町島屋治兵衞方へ忍び入金千兩盜み取り五百兩宛配分仕つり是を盜みをさめと存じ候處其金は目印の極印ありしとは夢にも存じ申さず小兵衞が遣ひ候より事顯れ斯の仕合に相成候段是ぞ天罰にて恐れ入奉り候と少しも未練なく一々白状に及びける故大岡殿神妙なりと申され又小兵衞に向はれ只今仁左衞門が申に相違なきやと尋ねらるゝに小兵衞も是非なしと覺悟をなし聊かも相違之なき旨申立しかば口書爪印申付られ仁左衞門小猿の兩人は鈴が森にて獄門の刑に行はれたり扨又原澤村の百姓文藏夫婦を呼出され其の方共身延山へ參詣の途中關所を通るのは如何と存じ廻り道を致し候と申せども此儀甚だ不審千萬なり此萬澤村には昔より惡狐ありて是を萬澤狐といふよしを我聞居たり然れば其方共萬澤の關所破りにては是なく全く萬澤狐に誑かされ萬澤の裏道を彷徨しならん依て其虚に乘じ汝等盜賊に金子三十七兩奪はれしに相違なからん然すれば何ぞ關所破りといふにあらんや然れば汝等に罪なきにより御構ひなしと申し渡されしかば文藏夫婦は言ふも更なり名主組頭を始め附添の村役人共一統夢かとばかり打喜び大岡殿の仁心を感じけるとなり 雲切仁左衞門一件終 津の國屋お菊一件 津の國屋お菊一件 第一回  鐘一ツ賣ぬ日はなし江戸の春とは幕府の盛世なる大都會の樣を纔十七文字に綴りたる古人の秀逸にして其町々の繁昌は詞を盡し難く別て神田は土地柄とて人の心も廣小路横筋違いの僻みなき直なる橋の名の如く實に昌平の御代なれや甍双べし軒續き客足絶ぬ店先は津國屋松右衞門とて小間物を商ひ相應の活計をなし妻お八重との中に二人の子を儲け長男を松吉と呼び既に嫁をも娶り妹をお粂と名付是も淺草田原町なる花房屋彌吉方へ縁付樣子も好とて夫婦倶々安心なし最早悴松吉に世を讓り氣樂隱居をせんものと思ひ居たりし折から不圖目違の品を買込みす〳〵損毛をなせしが始にて二三度打續き商ひの手違ひより松右衞門は心を痛め遂に病氣となりてたうとう床に着きければ家内の心配大方ならず醫者よ藥と種々に手を盡し看護に怠り無りしかども松右衞門は定業にや四十二歳を一期となし果敢なく此世を去にける不仕合せも續けば續くものにて惣領の松吉も風邪の心地とて打臥しが是も程なく冥土の客となりしかば跡に殘りし母と嫁の悲歎云うばかりなく涙に暮果暗夜に燈火を失ひたる如く只茫然として居たりけり然ば段々と打ち續きたる冗費に今は家藏も云に及ばず假令家財雜具迄も賣拂へばとて勿々借金の方に引足ず母子倶々種々に心を碎けども女の身と云殊に大金の事なれば如何とも詮方なく何分是は淺草なる娘の方へ相談なすに如ことなしとて早々娘を呼寄て相談しけるに此お粂は元來生質善らぬ者なれば唯手前勝手の事のみ言て一向世話もなさゞれば母は大いに立腹なし親の難儀を見返らぬとは鳥獸に劣りし奴親でもなし子でもなし見下果たる人非人と切齒をなせども又外に爲べき樣も有ざれば家財雜具を人手に渡し其身は嫁と諸共に淺草諏訪町にて裏店を借請注洗濯賃仕事をなし細き煙を立けるが嫁のお菊は老實しく立働き孝養怠り無りしかば母のお八重も大に喜こび睦しくこそ暮しけれ此お菊は未だ二十を一ツ二ツ越し歳なれば後家を立さするも愍然ゆゑ聟養子を取か然なくば外に縁付なば一生の身の治りにも成べしと姑は勿論懇意の者共迄も色々勸むると雖もお菊は一向承引ず母樣始め皆樣の仰を背くには有ねども今更聟を迎へなば亡夫に言譯なく夫とても母樣の御心休めに成事ならば更々厭ひは致さね共今聟を取時は其人に氣兼ありて母樣への孝行も自然怠る道理なれば少しも望みに候はず又外々へ縁付などとは思ひも寄ぬ事何卒此事ばかりは御免しをと一向承引氣色もなければ姑女始め人々も其孝貞を深く感じ再度勸むる言葉もなく其意に任せて打過けり斯て光陰の經程に姑女お八重は是まで種々辛苦せし疲れにや持病の癪に打臥漸次に病氣差重りしにぞお菊は大いに心を痛め種々療養に手を盡し神佛へも祈りしかど其驗も甞てなく後には半身叶はず腰も立ねば三度の食さへ人手を借るほどなれどもお菊は少しも怠らず晝は終日賃仕事或ひは注ぎ洗濯をなし夜は終夜糸繰などして藥の代より口に適ふ物等を調へ二年餘りの其間を只一日の如く看病に手を盡せども全快の樣子は見えず彼是する中に享保四年も早十二月の中旬と成しに長々の病人にて入費等も多く勿々女の手一ツにては三度の食事さへ成難く諸方の借方は段々と言延したれ共最早此暮には切て半金づつ成共拂はねば濟ず然ばとて外に詮術もなく相談相手になる筈の人は田原町へ縁付し娘お粂なれ共母が長々の病氣の中も漸々一度見舞に來りしばかりにて其節も心配の樣子もなく劇場の咄などしてそは〳〵と戻りし限其後は見舞の使だに差越ず如何に不人情成ばとて實母の病氣を案じぬとは人非人とも無義道とも譬へがたき者なりと心の内には思へ共色にも出さず只一心に稼ぎけれど燒石へ水の譬の如くなれば左やせん右やと獨り心を苦しめしが若此事母樣の御耳に入ては猶々病氣の障りと包む程猶心苦しく思案に昏て居る中に早十二月も廿五日と迫りしかば今四五日の間に金子調達なさゞれば一夜明るより母樣に藥も進らせられず然とて何程考へても降て來る金も有まじ寧田原町へ到り是程迄に難儀の譯を打明て頼みなば假令日常は左も右も切に切れぬ親子の中豈夫餘事とは見過ごすまじ是も母への孝行なれば出來ぬ迄も一應相談致すべしと心を決し母の機嫌を窺ふに折節母は氣分宜げにすや〳〵と寢入たる樣子なれば是幸ひと悦びつゝ諏訪町より田原町迄遠き道にも有ねば日は暮たれども宵の間に一走りと行燈を點し煎じ上たる藥をば歸りて飮せる樣に爲し置立出んとなせし時如何しけん風も無に今燈したる行燈の灯の不圖消ければ心宜らぬ事とは思ひながらも又元の如く灯を燈し門の戸を堅く閉て立出たり折柄師走の末なれば寒風肌を貫く如きを追々の難儀に衣類は殘ず賣拂ひ今は垢染たる袷に前垂帶をしめたるばかり勿々夜風は凌ぎ難きを耐忍びて田原町に到りけるに見世には客有りて混雜の樣子なれば裏へ廻りて勝手口より密に差覗くに今日は餅搗と見えて備を取もあれば熨斗を延もあり或は鱠を打者も在て大勢の手傳ひ臺所に居並び大取込の樣子を見てお菊は太息を吐嗚呼昔神田に居る時は我が家が斯賑しかりしが世が世なればとて僅の間に此樣に零落るも前世よりの約束事成べし夫に付ても此の家に縁付しお粂殿是程の身代に在乍一人の母さまの貧苦を餘所に見るとは何云心の人なるぞ殊には自分の身勝手のみ云散すは鬼か蛇か思へば〳〵情なやと愚痴の出るも道理なり偖裏口より入んと思ふに灯は萬燈の如く大勢なる他人の居る中へ斯窶然き姿にて這入ん事此家の手前も有ば如何せんと少間彳み居たりしに傍に寢て居し一疋の犬怪しく思ひてや齒を剥出し吠付にぞお菊は驚き思はずも裏口の障子を引明駈込んと爲に臺所に居たる男共見咎め誰だ〳〵と言ながら立出窶然き姿を見て乞食とや思ひけんコリヤ今頃に來たとて餘り物もなし貰ひ度ば翌日早く來よと云れてお菊は忽然胸塞り口惜涙に哽びながらも好序と思へば涙を隱し成程斯樣な見苦敷姿をして參りし故乞食との御見違へサラ〳〵御無理ならねども私し事は津國屋の嫁菊と申者にて此御家の御新造樣に少し御噺申度事有て參りたれば此由御通じ下さるべしと云に彼の男はじろ〳〵と顏を見ながら奧へ入しが頓て立出折角の御出なれども今日は折惡く餅搗にて客も大勢あり一方成ぬ取込故御目に掛りて御噺も成難く御氣の毒ながら御用もあらば明日にも御出あるべしと云にぞお菊は餘りの仕方と腹は立共色にも見せず重ねて男に向ひ今宵は御取込にて御話も成ずと有て推て申も如何なれども御母樣の御身の上に就急に御話申さねば成ぬ事故鳥渡なりとも御目に掛り度存じますれば御邪魔ながら最一應御取次下されよと頼みけるに彼男は點頭て奧へ入しのみ待ども〳〵何の返事もなく彼是する中早淺草寺の初夜を報る鐘耳元に響き渡り寒風肌膚を刺が如く一入待遠く思ふに就我家の事を氣遣ひ若母樣が御目を覺され此身の居らぬを尋ねはし給はぬか然共折角是迄來りしを話も爲ずに歸らん事餘りに殘惜と猶も返事を待程に漸々にして十六七の下女立出此方へ御通りなされと言にぞお菊は悦び後に就て通るに勝手の脇なる一間へ誘ひ今に御新造樣お逢なるべしと云置立去しが茶一ツ出さず小半時ばかり立て漸々此家の女房お粂立出て偖々珍しや適の御出に折惡く取込にて大に御待せ申せしと言ばお菊は莞爾と笑ひ否々私しこそ御忙しき中へ參り御暇をお缺せ申し御氣の毒なりと互に挨拶終りてお菊は膝を進め早速ながら今宵態々參りしこと餘の儀にあらず御前樣にも豫て御存じの通り母樣の永の御病氣假初ながらも三年越なれば入費多きゆゑ私しの手一ツにては勿々引足ず御醫者樣の御禮も此春より未だ少しも致さねば此春には切て金子の一兩も上ねば來春からは母樣へ御藥も上られぬ譯殊に米薪其外とも追々拂ひが滯ほり其催促をされる度一時延しに致し居れども最早此暮には是非半金も遣ねばならず夫故種々心配致せど何分私しの稼では其日々々を暮す迄にも引足ず其中にも私しは三度の物を一度喫る樣に致て少にても母樣の御口に適物を調へて進んと思へども夫さへ心の儘ならず然ども鰻を進たらお力も付ふかと存夜業に糸を繰し代にて鰻を買に行かんとせしが能々思へばお夜食のお米も無れば詮方なく進度鰻も買うこと成ず是程切なき譯なれば御相談は爰の處お前樣もお良人のお手前もあらんが唯今申通りの譯なれば御氣の毒なれ共何卒金子三兩夫共御都合惡くば二兩にても宜く母樣の御病氣の御全快迄御貸下さる樣御願ひ申上ますと拜みつ泣つ頼み入此金子の出來し事を母樣へ早く御知せ申せば何程か御喜悦ならん何分にも此場を御救助下されと詞を盡して頼みけるをお粂は碌々耳にも入ず適々の御無心と云殊には母のことなれば何樣にも都合して上度は山々なれども當暮は未だ掛先より少も拂ひが集まらず其外不都合だらけにて頓と金子は手廻り兼ればお氣の毒ながら御斷り申ます勿々私し風情の身にて人の合力など致す程の器量はなし外々にて御都合成れよと取付端もなき返答にお菊は餘りの事と呆れ果少間言葉も無りしが然とて外々へ相談爲べき當も無ければ口惜さを堪へ成程當暮は御不都合との事なれば是非もなき次第なり斯樣申さば御聞取りによりて御腹も立れんが憚りながら此御身代にて僅二兩か三兩の金子なれば御都合の成ぬ事も有まじ又御前樣の爲にも掛替なき一人の母樣が御命にも係る大事の時故今一應御思案成れ何卒此場を御救助下さるべし然すれば何程か御孝行にも相成べし此場さへ凌げば後の處は私しの命に代ても母樣に御不自由はさせ申まじ何分にも茲の處を御願ひ申と涙を流して頼みけれども女房お粂は鼻で會釋那も孝行是も孝行と其度毎に金を貸ては私どもの腮が干上る元々神田に居られし時は不自由もなき身代成しを母樣始めお前方の仕樣の惡さに今の困窮然ば御自分の不始末から不自由成る事なれば私共の知事ではなし今私が構立をして倶に貧乏する時は夫に對して何と云譯が成べきぞ然はなく共お粂の里は貧窮なりと云るゝ度の肩身の狹さ恥しさ御氣に障るかは知ね共私し共は寢衣にも着られぬ樣な衣物を着然も窶然き姿にてお前に致せ母にせよ私しの家へ來られては内外の手前も面目なし此以後共に格別の御用もなきに御出は御無用と厭まで惡口を吐散し恥しむるを先刻よりお菊は無念堪へしが思はずワツと泣出しお前はな〳〵強欲非道の大惡人今眼前母樣の御命に迄係る難儀其を見返らぬのみならず罪科もなき母樣を然惡樣に云なすとは何云貴妹のお心やらシテ又今のお答では假令此後母樣が死給ふ共構はぬとか私の爲には義理ある姑女貴妹の爲には實の母樣假令何でも人間の皮を被りし者ならば其な非道は云れぬ筈貴妹の樣な恩知ずの人には此上頼みもすまじ此末共に親類とは思はぬなりと腹立紛れ思ふが儘に云散し挨拶もなく立歸るをお粂は顏を膨らしてアヽ其樣な貧乏神は門へ寄せるも不吉なり早く退出せ追出せと呟きながらそこ〳〵に奧の方へぞ入にける 第二回  斯て津國屋の老母お八重は偶然目を覺し四邊を見るに嫁お菊の見えざれば如何せしやと延上りて見廻せども勝手にも居ざる樣子ゆゑ獨倩々思ふ樣我長々の病氣にて腰も立ず身體自由ならぬ大病を斯る貧窮の其中にお菊が手一ツにて今日と凌ぎ翌日と暮せど追々重なる借金に切なき事も多からんに孝行深き嫁なれば苦敷顏も見せねども最早節季に押し移れば嘸かし苦勞を爲る成ん此事病氣の中にも案事られ少しなりとも手助けと思へど叶はぬ病の身我さへなくば何方へなりとも縁付て此苦勞はさせまじきものを可哀や我故身形も構はず此寒空に袷一ツ寒き樣子は見せねども此頃は苦勞の故か面痩も見えて一入不便に思ふなり今宵は何方へ行しにや最早初更近きに戻り來ねば晝は身形の窶然く金の才覺にも出歩行れぬ故夜に入て才覺に出行しか女の夜道は不用心若惡者に出會はぬか提灯は持ち行しか是と云も皆我が身の在故なり生甲斐もなき身を存命孝行の嫁に苦勞をさせんよりは寧死ぬるぞ増ならん今宵の留守を幸ひに首を縊て死なんものと四邊を探り廻りけるに不圖細帶の手に障れば是幸ひと手繰寄枕元なる柱の根へ夜着布團を積重ね其上へ稍と這上り件の紐の兩端を柱の上へ縛付首に卷つゝ南無阿彌陀佛の聲諸倶夜着の上より轉び落れば其途端に首縊れ終にぞ息は絶えたりける却て説お菊は田原町にて金の相談せしに金を貸ぬのみか種々の惡口雜言を云れ腹立紛れに罵り散し愛想盡して立出しが外に便るべき先無れば如何はせんと思案しながら歸る道にて俄に胸騷ぎ爲ゆゑ不圖心付是迄遂に夜に入て家を明ける事なきに今日は鳥渡宵の間にと思ひしが存じの外に手間取しゆゑ母樣は目を覺されしならん然すれば我が歸りの遲きを案じ持病にても起しは爲給はぬかと思へば暫時も猶豫ならずと足を早めて我が家に歸り來て見るに是は如何に老母は首を縊りて死居るにぞお菊は驚き周章て縋り付涙とともに呼叫べど最早疾に事切て手足も氷のごとく蘇生べきの樣もなければお菊の愁傷一方ならずワツとばかりに泣沈む聲を聞付隣家の人々何事やらんと追々駈着此體を見て大いに駭き憂ひに沈みしお菊を助け起し且恤り且慰め相談なし此由早速公儀へ訴へ出べきや又内分に濟すべきか何にも致せ娘のことなれば田原町へ此由申遣し其上にて何れとも計ふべしとて直樣一人の男田原町へ駈行老母が變死の樣子を知らせければ早速娘夫婦は來りて死骸を檢めし後お粂はお菊に向ひ母樣が變死の樣子仔細ぞ有ん如何なりと問ばお菊は涙を押拭ひ私し留守の中に此如く成行給ひしと答へしをお粂は冷笑ひ否然樣にては有まじ病氣に疲れし母樣ゆゑ勿々自身にて首を縊り給ふ程の氣力は無筈なり察する處長々の病氣に看病も夏蠅と思ひお前が縊り殺したる成べしと思ひ掛なき難題を言懸られお菊は口惜きこと限りなく屹度膝を立直し是は思ひも依ぬ事を仰せらるゝもの哉云掛されるも程がある勿體ない母樣を何故に殺すべき長々の御病氣なれば我が命に代てでも御全快あるやうにと神に祈り佛を念じ永の年月及ぶだけ看病に心を盡せし事は私が口から申さずとも御長家中の人々も能御存じなり夫程辛苦なしながら何しに手に懸殺しませう然るに他の事と違ひ斯難題を云懸られては私しの一分立難し何を證據に私しの所業なりと云るゝとや血眼になりて言けるにぞお粂の良人は押止め今此處にて爭ひしとて詮方なき事なり我等も了簡あれば出る處へ出て屹度糺すべしと言置家主相長屋の者へも我等所存あれば今晩の始末委細に御奉行へ訴へ出る間上より御沙汰ある迄はお菊を屹度お預け申すなりと言ひ捨て夫婦連立田原町へ歸り即刻老母變死の始末より此儀は嫁菊と申者の仕業と推察仕つり候間御吟味願ひ上奉つるとの趣きを訴訟に認め月番の町奉行大岡越前守御役所へ訴へ出たりけり是により諏訪町の家主長屋の者どもも内分に濟せることもならねば一同相談を爲すにお菊が常々の孝心勿々母を殺すやうなる事は有間敷けれ共皮想から見えぬが人心なれば若や田原町なる夫婦の者の言如く成んも計難し先お菊に屹度したる番人を付置て此始末を早々訴へ申すべしとて月番の大岡越前守殿御役宅へ書付を以て訴へにこそ及びけれ 第三回  斯て其翌朝淺草諏訪町へ檢使の役人出張相成老母の死骸を篤と吟味ありてお菊を始め同長屋の者の口書を取お菊を腰繩にて引連られ即日の吟味となり願人淺草田原町小間物商賣花房屋彌吉同人妻粂并に淺草諏訪町家主組合長屋の者殘らず召出され一同白洲へ呼込になりしかば一番にお菊は腰繩にて引出され砂利に蹲まる時越前守殿出座あつて願人花房屋彌吉同人妻粂と呼れ其方共願ひ出たる通り菊事姑女を締殺したるに相違なきやと申さるれば彌吉は愼んで首を上仰の通り老母儀長々の病氣なる故此者看病致さん事を五月蠅存じ人知れず締殺し候に相違之なく然るを自殺の樣に申立候共長病に疲れ候者自身に首は縊る程の氣力あるべき樣も御座なく是第一の不審にて候私し妻事は昨夜書付にも認め上候通り右老母が實の娘に御座候へば何分にも御吟味願ひ奉つり候と申立けるを越前守殿聞れてお菊に向はれ如何に菊其方は何故に姑を締殺したるや眞直に申立よとありけるにお菊はしとやかに申樣恐ながら申上奉つり候私事姑女を締殺し候覺え毛頭御座なく元私し事は賤き者の娘にて津國屋が未神田に住居致せし節同人店に居候中兩親も死に果候ひしを不便に思ひ私しを引取嫁に致呉候大恩は勿々私し一生の中に報じられ間敷と存じ心の及ぶだけは孝行を盡し度心得に候處運惡しく舅を暫時の中に失ひ其上借財多く出來止ことを得ず家財殘らず分散いたし姑と兩人にて淺草諏訪町に裏店を借受賃仕事或は洗濯など致し纔に露命を繋ぎ居候中又もや姑の三年越の長煩ひに入費も莫大にて困窮に困窮を重候へ共茲ぞ恩の報じ際と存じ夜の目も眠ず賃苧をうみて看病怠たりなく致せし事は家主始同長屋の者をお尋ありても相知申すべく候斯難儀の暮を致し居候に付當暮には藥代其外諸方の買掛り都合六七兩にも相成申候事ゆゑ此節半金も遣はさず候はねば來春よりは姑に藥を飮せること成難く然りとて私しの働きにては夫だけの金子勿々調ひ申さず途方に暮居り候然る處是に居る彌吉妻粂事は私し姑女の實の娘に御座候へども私し方不仕合せに相成姑女が三年越煩ひ居候ところ其中漸々一度見舞に參りしのみにて其後使一度さし越候事御座なく候因て此度の難儀の次第申候とも相談は致しくれ間敷とは存ぜしなれども現在母の命にも係り候事故何とか又話も出來申すべきやと存じ昨夜宵の内姑女事快よく眠り居しに付此間に參りて相談致すべしと田原町へ到り右の譯を委細に話し金子三兩若成ずば二兩にても宜しく貸呉れる樣然うなき時は母に藥も飮されずと頼みし所取付端もなき返答の上大いに私しを恥しめ候然れども外に頼むべき方も御座なく候故口惜さを堪へ猶種々頼み入候へども一向取合も致さず候まゝ是非なく立歸りし所如何なる仔細か姑事首を縊り居候ゆゑ打驚き種々介抱いたし呼生しかども其甲斐なく候故途方に暮居し處此物音を聞付て相長屋の人々集り來り實親子の事なればとて早速田原町へ右の樣子を申遣せし處彌吉粂同道にて參り死骸を檢め見私しの仕業成と申かけ其由訴へ出し事にて何を證據に然樣の儀を申立候哉假令私し命を召れ候とも姑を締殺せし覺え毫程も御座なく候何卒私しの心底御察し下され度願上候と仔細包ず思ひ込で申立ければ越前守殿點頭れ諏訪町の家主其外長屋の者に向はれ只今菊が申立し通りなるかと尋ねらるゝに家主始め皆々恐る〳〵進み出只今菊が申上候通り常々渠が孝行なることは長屋一統感心致し居候然るを姑を締殺候者渠なりと彌吉夫婦の者より願出候段私ども一統心得難く存じ候と申立れば越前守殿は彌吉夫婦を見られ昨夜菊事其方が家へ金子無心に參りし哉と尋らるゝにお粂は夫の答へを待ず仰の通り昨夜私し方へ金子用立呉候樣申參り候へども當暮は種々物入も多く其上懸先より未少しも拂ひを請取らず夫彌吉も心配致居候中ゆゑ假令私し身内の者なりとも金子を貸くれと申すも餘り心なきことと存じ斷り申候と云ひける時越前守殿其方は母の病中に一度見舞に參りしと菊が申立しが夫に相違なきやと訊尋られければお粂は少し詞の淀みしが私し方甚だ無人にて私し店に居申さず候ては用向差支へ候ゆゑ漸々一度見舞に參り候と申立るに越前守殿夫は何時頃の事なりと云るればお粂は指を折暫時考へ居しが去年の四月頃と覺え候と申立る此時越前守殿は彌吉に向はれ彌吉其方は一度も見舞に參らざりしやと尋ねらるれば彌吉は大に赤面なし私し事は日々出入場の用向繁多にて存じながら不沙汰致し粂を名代に遣せしのみと申立けるに越前殿然ば菊が姑女を締殺せしと申事は何ぞ證據にてもある哉と糺問られしに彌吉夫婦は言葉を揃外に證據とては御座なく候へども三年越煩ひ居候者が自身に首を縊る程の氣力は御座なく候はん其上菊事私し方にて金子調達致さず候を遺恨に存じて母を締殺し候事と存じられ候へば能々菊を御吟味下され度願上奉つると申立るを越前守殿打聞れ扨々汝等は理も非も知らざる誠に無法者なる哉汝只今何と申せしぞ去年の四月只一度見舞しのみと申したるにはあらずや然れば母の容體今頃は氣力衰へたるか増たるかは知らざる成べし然るを長病故氣力衰へ自身に首を縊ることは成ずなどと當推量を申立夫のみ成ず金子を貸ぬと夫を遺恨に存じ姑を殺せしなどと申せども然樣の儀が證據に相成べきか萬一夫が爲菊が殺したるにもせよ母の命に係ると申たるに金を貸ぬは汝等が心得違ひより母を殺す譯に相當り汝が手にて殺せしも同然なり我人を遣はして死骸を能々檢査させしに其の死せし體自身に首を締たるに相違なし其上家主惣長家の者一同の申處皆菊を譽ざるはなし今菊が申す處は皆理の當然にして汝等が申條は甚だ不都合なり現在母の三年越に煩ふを假令何程商賣が閙敷とて一度見舞し外使にても容體を問ざるとは餘りと申せば不孝の至りと云べし彌吉は聟なるが粂は實の娘なり然れば母親の困窮と言ひ病氣と聞ば菊より借用致し度由申入ずとも汝等が身代を半分分にしてなりと救助べきが至當なり其を僅二三兩の金をも貸ず只今に至り證據もなき事を公儀へ申立候段不屆者めと白眼れしかば彌吉夫婦は戰慄出し恐れ入て居たりける 第四回  其時越前守殿重ねて彌吉夫婦に向はれ汝等未菊を疑ふ樣子ある故具に申聞すべし我菊が姑の死骸を檢査さする序に家探しを致させしに夜具衣類迄姑女の着たるは格別垢染も爲ず綿なども澤山に入てあり又菊が分は唯今夫に着て居る外は何一ツなきが然ども破れたる骨柳一ツあり其中に反古を裏返して綴たる帳面一册あり披き見るに姑が日々の容體大小便の度數迄委敷記載てありしとて即ち是へ差出せり仍て披き見るに其の深切に認め有事此一條を以ても菊が姑を殺さゞる事分明なり斯ても菊が仕業なりと疑ふ哉と申されしかば彌吉も粂も恐れ入て今更面目なく聊かも疑念是なき段申立たり依て越前守殿お菊が腰繩を宥し解せられ諏訪町の家主長屋の者に向はれ汝等も聞通り老母を殺せし事菊が仕業に非ず自害に相違なし去ながら何故に斯る成行に成しやらん汝等思ひ當ることはなきかと尋問らるゝに家主其外は言葉を揃へ何故と申儀確と存じ候はねども常々老母が我々に申候には嫁が孝行に致して呉るは嬉しけれども生甲斐なき我が身が居るゆゑ孝行なる嫁に苦勞を掛老先の有者を此儘に朽さするは憫然なり是を思へば早く死ぬるが増ならん抔申により皆々寄ては諫め候ひしが若や是までの言葉の通り嫁に苦勞を爲ん事を厭ひ自ら縊れ死したるにもや候はんと申立ければ越前守殿は我も然樣思ふなり然る上は老母の死骸は其儘菊に下さるべし又今迄身貧なる處姑女に事へ孝行を盡せし段上にも定めて御滿足に思召ならん依て御褒美として銀五枚取せ遣すと申渡され諏訪町家主組合長屋の者一同に下られ又彌吉粂事は現在母姑女の續き合に在ながら其身の吝より困窮難儀の場所も見返らず剩さへ老母自害致し候證據をも見出さずお菊が仕業なりと申立公儀へ御苦勞を懸し段麁忽不義の致し方に付重き御咎めにも申付べきの處格別の御憐愍を以て重過料申付ると有て此事は先双方落着に及びけるが誠に越前守殿ならずば斯手早く黒白も判るまじと人々申合りしとぞ昔時唐土漢の代に是と能似たることあり趙氏の妻若き時夫を亡ひ未子も無りしが其後夫を持ず姑に事へて孝行を盡くしけるに元より其家貧ければ麻をうみ機を織て朝夕姑女を養ふ事夫の世に在し時よりも厚かりしかば姑女の思ひけるは嫁は未年若くして鰥となり一人の子供もなきに久敷我に事へて孝行成は嬉けれども斯て年寄ば頼む方もなくならんこそ最惜けれ孝行なる嫁の志操を我故に何時迄か苦しめて世に存命んよりはとて密に首を縊て死したりしに此姑に一人の娘ありて我が母を嫁の締殺したるならんと思ひ時の鎭臺へ訴へ出けるに鎭臺不詮議にて孝行なる嫁を罪に行ひけるに天其不政を憎み給ひしが其處三年の間雨降事なく飢饉成しにより其後鎭臺を代られたり後の鎭臺此事を怪みて或博士に占はするに日外罪無して殺されたる嫁の祟り成んと云ければ鎭臺には大に駭かれ塚を建て是を祀り訴へたる娘を罪に行ひ前の鎭臺の官を剥れしかば天も漸々受納有てや是より雨降出して三日三晩小止なく因て草木も緑の色を生ぜしとかや趙氏が妻とお菊が孝心は和漢一對の美談と謂つべし 津の國屋お菊一件終 水呑村九助一件 水呑村九助一件 第一回  夫聖代には麟鳳來儀し仁君の代には賢臣聚ると理なるかな我が朝徳川八代將軍有徳院殿の御代に八賢士あり土屋相摸守松平右近將監加納遠江守小笠原若狹守水野山城守堀田相摸守大岡越前守神尾若狹守是なり然るに其有徳院殿の御代享保二年大岡越前守町奉行と成始めて工夫の捌きあり其原因を尋るに本多長門守領分遠州榛原郡水呑村千五百石の村名主九郎右衞門が實の弟に九郎兵衞と云者有平生より心正しからず其が菩提所に眞言宗大石山不動院と云寺有此住寺も又大の道樂者にて同氣相求るの諺に泄ず九郎兵衞と平生に親しくなしけるが九郎兵衞は豫て袋井宿三笠屋甚右衞門が抱へ遊女お芳を買馴染互ひに惡からず思ひ居たりしうち或時不動院と馴合彼のお芳を盜み出し寺へ匿ひ置しが其後彌生の節句となりて庭にてお芳に田樂を燒せ法印始九郎兵衞其外土地の破落戸五六人集り酒を呑皿小鉢を叩き或は唄ひ或は踊りなどして樂みけり却説袋井の甚右衞門は此程お芳の逃亡なせしは的きり九郎兵衞の所業ならん然すれば不動院などに匿れ居るも知れずと流石は商賣柄だけ敏くも勘を付村の探訪薩摩傳助赤貝六藏の二人を連咽の乾きし體にて此寺へ這入り水を乞て飮んとし乍ら樣子を窺ひ居たるにお芳は味噌が足ぬとて臺所へ來り老僕に味噌を出させるを甚右衞門は見付け己はお芳にあらずやと言ひざま引捕へ直に召し連訴へんと言ふを不動院が聞付て中へ立入りしかば然ば御坊に御任せ申すとて夫より懸合の上金三十五兩今宵中に才覺して渡すべしと約束を極め甚右衞門外兩人の者も其の夜は寺に泊りける此日は三月節句の事なれば村方所々にて宵の中は田舍唄又は三味線など彈て賑ひ名主九郎右衞門方へも組頭佐治右衞門周藏忠内七左衞門等入來り座頭に儀太夫を語せ樂みながら酒宴をなし夜九ツ時過る頃佐治右衞門忠内の兩人は暇乞して歸り家内も寢靜まりて夜も八ツ時と思しき頃勝手の方より一人の盜賊忍び入り年貢の取集め金五六十兩用箱に有けるを盜み出さんとする處に主人九郎右衞門は目を覺しヤレ泥坊と聲を立しかば盜賊は吃驚なし用箪笥を抱へて逃出んとするを九郎右衞門飛懸り遁さじものをと押へるを盜人振り拂ひ突退つゝ互に組付英々と揉合聲に驚き家内の者ども馳來り棒よ繩よと呼はり〳〵漸々高手小手に縛めたり然ども面體は眞黒に墨を塗たるゆゑ何者とも見分らず此騷ぎを聞し周藏七左衞門の兩人も馳來り勝手より手燭を取寄る此時村の小使三五郎は臺所に寢て居たりしが物音に驚き金盥を叩立しかば一村二百軒の百姓夫やこそ名主殿へ盜賊が這入たぞ駈付て打殺せと銘々得物々々を携へて其處へ來りヤア盜人は面を墨にて塗たるぞ洗ひて見よと聲々に罵り盜人の面を水にて洗ひ落せば這は如何に弟九郎兵衞なりしかば座中の人々惘れ果て皆脱々に歸りける組頭の兩人は據ころなく跡に殘りて兄九郎右衞門は相良へ突出すと云うを種々と取扱ひ漸々涙金として金五兩遣し勘當とこそなりにけれ是に因て袋井の者三人はお芳を引立連歸る然ば九郎兵衞は仕損ぜしを忌々しく思ひ仁田村の八と云ふ獵人の宅へ引越居る處へ手先の幸八と云ふ者此事を嗅付け郡代役所へ引行入牢させけるを兄九郎右衞門聞込流石憫然に思ひ内々取繕ひをなしけるに因つて領分構ひとなり九郎兵衞は夫より駿河國府中に知る人在により遙々と尋ね行き此處に三ヶ月程居たれども兎角人請惡く彌々落付難きに付煮染たる樣な單衣を着縫止のはせ返りし菅笠と錢は僅百廿四文ばかりの身上にて不圖立出江戸へ行んとせしが又甲斐國へ赴かんと籠坂峠まで到りしが頃は六月の大暑故榎の蔭に立寄清水を掬びて顏の汗を流し足を洗ひ嗽などして暑を凌ぎ休らひ居たり此處は景色もよく後ろは須走り前は山中の湖水と打眺め居る彼方の坂より行衣に襷を懸て金剛杖を突ながら鈴の音と倶に來る富士同者あり渠も此處に休み水を呑足を投出し居るに九郎兵衞是を見て嗚呼御前は羨ましい私は今此湖水に身を投やうか此帶で首を縊らうかと思ひ居たりと云ふを富士同者イヤ若衆夫は大きな了簡違ひ誰しも若い時は一日に迫詰て然樣云氣にもなる者一體此方の國は何處で名は何とゝ聞かれ九郎兵衞は口から出任せ我が家には金の茶釜も有樣に大層を云一萬兩程遣ひ込親父から勘當を請たりと話すを同者實と思ひ私は相摸領御殿場の者にて小前の百姓條七と云者だが上田が六石三斗中田が七枚半山が七ツ有ば親子三人暮故十日や廿日は麥飯さへ承知なれば貴殿一人位は苦にはせぬ其中に何商ひでもするか但しは又奉公にでも出るかよも死ぬには増で有うから己が在所へ御座れと深切に云ければ九郎兵衞夫は千萬忝けなしと追從たら〳〵連立つゝ御殿場へ來りて條七方の同居となり半年ばかりも厄介に成し中條七は馬を一匹飼て追せける故九郎兵衞も今は行處なければ條七の弟分になつて三年程稼ぐ中茲に條七女房お鐵と云ふは三歳になる娘お里もありながら何時しか九郎兵衞と怪敷中と成しにぞ或日九郎兵衞と云合せ土地の鎭守白旗明神の森にて白鳥を一羽取是を料理して鴈と僞り食せけるに不思議や條七は五十日經か經ぬに髮も脱癩病の如く顏色も變り人交際も出來ぬやうに成ければお鐵は仕濟したりと打悦び條七に打向ひお前は入聟の身斯る業病になりては先祖へ濟ず早く實家へ歸り呉よと最つれなくも言ければ條七も詮方なく前世の業と斷念るより外なしと女房娘を九郎兵衞に頼み跡の事まで念頃に話しける九郎兵衞故意と斷り云しか共女房の親類共打寄否癩病にては村へ置れぬ定法なれば是非共跡を引受られよと折入て頼しにより九郎兵衞は漸々承知して入夫となり六石三斗の田地を質入なし金十兩借請條七に渡ければ條七は是非なく金毘羅參と云箱を首に懸數年住馴し故郷を後に立出けり然ば九郎兵衞は是より百姓になり消光處に良らぬ事のみ多ければ村方にても持餘し何も呆れ果ては居けれども九郎兵衞は狡猾き者故勿々越度を見せず惡事の腰押或ひは賭博の宿などして食客の五六人は絶す追々田畑も賣拂ひ水呑同樣の困窮となり凡十四五年居る中女房も死亡今では娘と只兩人差向ひてに漸々其の日を送りけり茲に又遠州水呑村名主九郎右衞門は五ヶ年以前病死なし名主跡役は當村の惣左衞門と云者に申付られしかば悴九助は當年廿歳に成共今は昔に引替て困窮なし借金も多かりしゆゑ母は氣病が終に大病となり今は此世の頼も少く或日枕邊近く九助を呼寄父樣死なれし以來種々不幸が打續斯貧窮となりしこと如何にも殘念なれば其方何卒辛抱して田畑も元の如くに取戻し河口九郎右衞門が名跡を建呉よ又弟九郎兵衞は當時駿河國御殿場に居る由今は心も直りしならんと思へば其方の爲には現在の伯父なる故一度は公父の戒名を屆け呉よと涙と供に九助が手を取り顏を倩々と打眺め息も絶々に遺言なすにぞ九助は迫來涙を呑込々々何とて然樣に心弱き事を云るゝや何卒氣を勵まし少しも早く全快爲給へとて種々に勞りけれども終に介抱の驗もなく母は正徳元年七月二十一日病死し菩提所不動院に葬り月堂貞飾信女と云戒名に哀を止めけり村方にては九助の孝心を感じ親類始め皆々打寄厚く世話をなし後懇切にぞ弔ひける夫より後九助は獨身となり艱難に暮しける中にも亡父母の遺言片時も忘れず朝夕の回向怠りなく勤め一人工風を爲居たり然るに此時江戸へ出訴の事組頭出府致すべき處種々取込のことあるにより飛脚を村方より立ると云を九助は聞込何卒私しを飛脚に遣て下されと云ければ皆々承知して申付しゆゑ幸ひ御殿場へ立寄伯父九郎兵衞にも逢度思ひ支度をなし家内の事を能々頼み股引脚半草鞋にて御用と云繪府を首に掛沼津宿より足高山の裾通りを行ける後から旦那々々馬を取つせへ安價く乘せへ戻だから酒代だと云を聞付け九助は若馬士殿是から御殿場へは何位あらふ日一ぱいに行れ樣かアヽ御殿場迄は四里半だから少し暮ますべい御殿場より外に泊る樣な村も無から御殿場迄行つせい私は御殿場へ戻る馬だ三百文に負るから四里半乘つせへと云ふ九助も獨り旅では有是非御殿場へと思へば幸ひと相談を極め馬に乘て馬士と話し行處に向ふより横に乘たる田舍馬六七疋鼻を揃へて來るを件の馬士見付て是御用だ繪符だ〳〵若い衆オイ〳〵と云ふに面々ばた〳〵と飛下る故九助は是サ馬士殿下ず共宜に憫然な何さ惣體に根方の奴等はずるいから時々目に合せて置ねへと成やせん時に旦那急なら箱根を御越成れさうなものだに矢倉澤通は何か御用でも御座りますか今宵は御殿場一番の富士屋へ御泊申ませう何程田舍でも御泊り成れて御覽じませ海道にも餘り御座やせんと云に九助はノウ馬士殿私は尋る人が有が此方に聞たら知れやうか誰で御座ります然れば元は御殿場の者ではない最早十五六年以前に來て今では村の人に成たとの咄しイヤ御殿場も上下掛て二百軒餘有から名を聞ぬ中は知れやせん成程然樣で有う元は遠州の者在所に居る時は九郎兵衞と云たが今は何と云かと云顏を件の馬士は熟々見て手綱を止め然いふ此方は遠州相良水呑村から來なされたか如何にも我は水呑村の百姓なりハヽア胡瓜の種は盜とも人種は盜まれぬとハテ見れば見る程違ない十六年以前別た兄九郎右衞門が悴の九助ぢやなお前は伯父の九郎兵衞樣かと互に吃驚馬より轉び落手に手を取交し悦び涙に咽けり姑くして馬士云樣話は宅で出來るから日の暮ぬ中馬に騎つせへ否伯父樣と知ては勿體ない馬鹿を云へ御殿場迄の旦那殿と讓合う中何時か我家の表へ來りしが日は西山へ入て薄暗ければ外より是お里遠州の兄が來たと云にお里は應と云出る此家の構へ昔は然るべき百姓とも云るれど今は壁落骨顯れ茅の軒端の傾きて柱に緘む蔦葛糸瓜の花の亂れ咲き住荒したる賤が家に娘のお里は十七歳縹致は人に勝れしかど容體もなく缺茶碗に澁茶を酌で差出す盆も手薄な貧家の容體其の内に九助は草鞋の紐を解足を洗ひて上に上り先お里へも夫々の挨拶して久々の積る話しをなす中に頓てお里が給仕にて麥飯を食終りし後九助は金二兩土産に出し九郎右衞門が遺言并びに伯父樣の分米の田地十二石手を付ずに今以て村預けに成て居ますと話すを九郎兵衞は聞て大いに悦び我等儀段々の不仕合せ故今は古郷忘れ難く何か此上は娘お里を手前の女房になし親の名跡を立て呉と潸々と涙を落せしかば九助は母の遺言もあり殊に亡後は伯父は親なりお前樣は村方の處を何なりと片付て置れよ私しは江戸の用事濟次第引返し古郷へ御同道致しませうと一宿して申合せ翌朝江戸へ赴きける九郎兵衞は跡にて村役人始め親類へも委細話せば皆々は厄病神を拂ふ樣に心得居屋敷并に少の畑は親類へ引取九郎兵衞親子は九助が戻りを待居たり 第二回  偖も九助は江戸の用向滯ほりなく相辨じ歸り掛に又々御殿場へ立寄伯父九郎兵衞の親子を同道なし古郷水呑村へ立歸り夫より直に當時の名主惣左衞門方へ九郎兵衞同道にて參りければ惣左衞門は昔より九郎兵衞と相口故早速領主の役場へ申立歸村の儀を取計ひ豫て預りの田地十二石餘り九郎兵衞へ相渡し娘お里を九助が妻と致させて是より互に稼ぎける然れども只今は親九郎右衞門が讓りの田地は質に入てあるゆゑ伯父の田地のみにて萬事足ぬ勝なる上九郎兵衞も徐々地金を出し九助を意地め入聟同樣に囂ましく朝夕云ける故九助も何卒亡母が遺言の如く田地を請け戻し度と豫て心懸居たることなれば江戸へ出て一稼ぎなさんと思ひ九郎兵衞とも種々相談なせし上女房お里にも得心させ夫より九助は支度をなし江戸表にて奉公すべしと暇乞して出立なし既に藤枝より岡部を過て宇都谷峠に到れば絶頂の庵室地藏尊の境内に西行の袈裟掛松あり其所の脇へ年の頃五十位と見ゆる旅僧のやつれたるが十歳許りの女の子を引立來り彼の僧目を剥出し是サ此子は怖い事はない此伯父と一所に歩行々々と引摺行を娘はアレ〳〵勘忍して下されませ母樣が待て居ますと泣詫るを旅僧は扨々囂ましい強情者めと無理無體に引摺々々行處へ九助は何氣なく行掛りければ彼の娘は九助を見るより大いに悦び小杉の伯父樣此坊主が勾引ますアレ〳〵伯父樣々々と云れて九助は何ぢやと立止を旅僧は是を見と等く是は堪ぬと其儘後をも見ずに逃行けり斯て彼の娘は九助に向ひ御前樣の御蔭にて助かりたり今の坊主は私しを無理無體に引立て柴屋寺の畑屋から茲迄連て來ましたゆゑ勾引と存じ小杉の伯父樣と申ましたので御座いますと云ひけるにぞ九助は扨々子供に似合ぬ利發者家は何處ぞと尋ぬるに阿部川宿の兆といふ者の娘節と申者なりと申せば九助は憐然に思ひサア〳〵宅迄送つて遣らんと手を引つゝ阿部川宿の宅へ到見るに母は中氣にて手足協ず一人の娘を相手に難儀の樣子なり娘お節は母に向ひ右の次第を委細話せば母は大いに驚き且悦び九助に逢て厚く禮を述今宵は此家に泊り給へと達て止めけるゆゑ其夜は其處へ泊りしに娘お節は米をとぎ味噌を摺り最忠實しく働く體如何にも孝子と見えけるゆゑ九助も不便に思ひ勝手元迄手傳ひて少し乍ら母公に何ぞ進らせられよと錢一貫文を遣ければ母子は有難涙だを流し幾度となく伏拜みたり扨も翌朝九助は懇切に暇乞して此屋を立出道中を急ぎ日ならず江戸に着ければ知己の周旋にて日本橋室町三丁目の番人に抱へられ勤けるが元來正直の九助故町内の氣請能月に三貫文の外に草履草鞋其他荒物飴など賣ける中駿河町越後屋三家の掃除を引請しにより彼是月に二兩位に成りしとぞ或夜廻の節霜月末の事にて寒氣烈敷雪は霏々と降出しゝ中を石町の鐘と倶に子刻の拍子木を打乍ら小路々々を廻らんと桐山三甫が見世の角迄來りし時足の爪先へ引掛る物ありしゆゑ何心なく取上見れば縮緬の財布なりしかば町内を廻り仕舞取出し改め見れば小判八十兩ありて外には書付もなきゆゑ驚きながら早々町役人へ屆けしに行事打寄相談の上訴へ出猶町内へも札を出し公儀にても御詮議ありし處更に請取る人の出ることもなく一年程經て後番人九助儀町役人共差添町奉行所へ罷出べき旨差紙に付家主五人組名主同道にて罷出けるは舊冬九助が拾ひし金八十兩殘らず下し置れしにより九助始め町役人一同有難く頂戴して歸り殊に九助は夢かとばかり打悦び居たりし處其夜子刻頃廿四五の男番屋をホト〳〵敲きて入來り御目に懸るは初てなれど私し事去年の冬金子を落したるは斯々なりと段々譯を咄し其節請取に罷出ませうとは存じたれども大金を粗末に致したる儀に聞えも惡く其の上世間へパツと露顯致しては奉公も出來ぬ故彼是と心を痛めながら今日まで待合せて居ましたが今日承はればお前樣へ公儀より下され候由に付右の御談を申上度と云ふ其譯は私し一人の母を持ますが當年七十三歳其上病氣にて久々難儀致し居り只今にも死にますれば見送り方も出來兼ます故御前樣へ折角下されしを御無心申も如何なれど何卒其金をと涙を流して申にぞ九助は元來正直者故我が身の上に引當て氣の毒に思ひ直樣八十兩の金を取出し扨々夫は御難儀至極殊に御老母の病氣養生の爲に落したる金を欲いと云るゝ趣き御道理千萬併此金は去冬夜廻りの節我等拾ひ町内より御訴へ申上置し所落主無きゆゑ今日我等へ下されしなれば親公の爲と有ば進ぜ申べし町所家主名前は何と云るゝと聞ば彼の者然ればなり町所名前などを申位なら去年紛失の節訴へて戴きますが私しは奉公の身の上なれば金は入らねど只老母の病を治し度一心にて出ましたに名前を申さねば御渡し下されぬとなら是非もなしと涙にむせぶ有樣如何にも實情に見えければ九助は感じ扨々御前は孝心厚き御人故殘らず渡して進ぜませうと財布の儘渡せしにぞ彼の者大いに悦び全く御蔭にて老母の療治も出來ますと押戴き〳〵猶遠からず御禮に上りますが少しも早く母へ見せ悦ばせ度存じますと叮嚀に禮を述てぞ歸りける依て九助は本意なく思へ共親孝行の爲とあれば更に惜共せず頓て門の締をなさんと爲に上り口の草鞋草履などの中に何やら帛に包しものありて其匂ひ芬々たり不審ながら披きて見れば金の五六寸四方の箱の中に名香あり是は那の人が落して行しならん今に心付ば取に來るべしと思しが待てども參らざれば其の夜は寢翌朝九助茶を飮で居る處へ二丁目の番人作兵衞といふ者來り四方山の咄の中此匂を嗅ぎ不審に思ひながら歸ると程なく定廻りの同心來りて行事を呼寄名香紛失につき内々の御調べゆゑ藥屋共へ吟味致す樣申付るを聞番人作兵衞は勝手より這出旦那樣不思議の事が御座ります三丁目の番の所にて云々と話せば同心は夫と九助を呼寄て吟味なすに其の品は昨夜草鞋を買に來りし者が落して參りし故取置ましたと言にぞ早速取寄て見改めたるに内々御詮議の品に相違なく因て送り状を認め九助を町奉行所へ送りたり時に享保二年九月廿一日大岡越前守殿町奉行始めての白洲なれば別て與力同心の役々威儀嚴重に控へし所へ九助は怖々罷出るに越前守殿之を見られ其方手元に之有し伽羅一兩目餘入たる金の香箱は細川越中守方より訴へに及びし紛失の品なり其方如何して所持致せしや有體に申せと云はれしかば九助は首を上私し小屋へ十九日の夜子刻過頃草鞋を買に參りし者が歸りし後に右の品が御座りしゆゑ其者が落せしことと思ひ取に戻らば遣さんと存じて差置ましたと申立るに越前守殿否其方は町内の番人も致す身ゆゑ落し物と知らば町役人共へ話聞せ其の上にて町内へ札でも出すか又は公儀へ訴ふべき筈なるを何故其儘に差置たるぞと有ば九助ヘイ恐ながら大方直に取りに參りませうかと存まして其儘姑く差置ましたと云に越前守殿否々其方は町役人の下を致ながら申分が暗いぞ大方金でも取て人から預りたるならんと申さるれば九助は眞面に成イヱ〳〵全く以て然樣な儀には御座りませぬと云にぞ大岡殿は町役人共へ九助が日頃町内の勤方は如何やと尋問られしに九助儀は極の正直者にて去年の十一月下旬夜廻りの時金八十兩拾ひ其の節私し共へ申聞し上御訴へに及び置し處落主之無きに付一昨十九日右金子を九助へ下し置れましたと申立るに越前守殿ジツと九助が顏を見られしか暫時控へよと申さるゝ時常盤橋御門番松平近江守殿番頭夏目五郎右衞門より差出したる者兩人足輕小頭一人足輕六七人附添罷出しに其者共の風俗何れも棧留綿入の上へ青梅の袷羽織を着年は廿四五歳にて差出しの書面は左の通り 覺 一此者共儀今曉寅刻頃主人近江守持場御橋の中程に於て口論箇間敷儀申募り居候故番所より聲掛追拂はんと致せし處一圓退去仕つらず互いに掴み合金八十兩を双方自分の物の由申爭ひ候段御場所柄をも顧みず不屆きの次第故早速取押へ町名家主等相尋ね候へ共何か取留らぬ申口にて至極怪敷存じ候間其儘差出候に付御吟味下さるべく候以上 松平近江守家來番頭 九月廿二日 夏目五郎右衞門 同人家來給人兼目付 荒川源助 大岡越前守樣 御役所 右讀終る時役人立出て兩人請取松平近江守殿家來は早々退けり時に越前守殿二人の者を見られ其方共身分は何なりやと尋らるゝ一人進み出私しは下谷山崎町源次郎と申者私しの金を此者が自分の金なりと申て無理に取んと致せし故竟に大きな聲を出し御見付にて叱られ候と申立るに今一人も進み出恐れながら申します私しは神田佐久間町一丁目番組宿屋上州屋軍助方手代利三郎と申者私の金を此源次郎我が金だと申候と又々爭はんと爲すゆゑ越前守殿兩人共默れと聲を懸られ其方共此金子八十兩は如何樣の筋で爭ふぞ富でも取たか又は拾つたのかと申さるゝに兩人はハイとばかりにて答へも爲ざればコリヤ何致したサア有體に申立よと有ければ漸々利三は頭を上夫は私しの親共より讓金なりと云に越前守殿然すれば汝等は兄弟か兩人否と云ば越前守殿ソレ縛れとの聲に連兩人を高手小手に縛め左右へ引据たり此時九助は其者の顏を見て吃驚なしコレ〳〵貴殿ゆゑに私は此通御番所へ送られ迷惑致せり貴殿が落して置た帛紗包大方取に來るで有うと思ひ今日迄待て居しにヤレ〳〵嬉しやと涙を流しながら正面に向ひ右の帛紗包を落したるは此者なりと申立るに大岡殿其者に向はれ汝は此帛紗包を室町三丁目番小屋の前に忘れ置たる由汝が盜だか但しは同類の手から請取たかと糺さるゝに盜賊は空嘯いて一向存じ申さず殊に那者は見た事もなき人なりと云九助は大いに急立全く那者が草鞋を買に參りしと申せしは僞り今は何を隱しませう去年夜廻りの節金八十兩拾ひたるを此程御番所より戴きし其夜此者が參り斯々申て其金を持歸りし後に其帛紗包が落て有しと申に夫は此金かと財布の儘投出さるゝを九助は見て是で御座りますと申にぞ越前守殿點頭れ九助汝は餘り正直過る此上我が金だと云者有ば公儀へ訴にて渡せ決て相對で渡すなハテサテ正直な奴も有ばあるもの御用相濟だぞ連歸れと有ければ町役人共九助を連て歸りけり 第三回  斯て九助は五ヶ年の間辛抱をなし殊に今度奉行所より賜りし金を合すれば百六七十兩の金子にも成しゆゑ古郷へ歸豫ての望みの如く先祖の跡を立んと出立の支度して伯父始めへの土産物を種々整へ江戸錦繪淺草海苔館林團扇其外田舍相應の品々を買求め荷造りをして町内の飛脚屋十七屋より先へ廻し夫より名主家主町代は申に及ばず懇意の先々へ暇乞に參りしに何れも餞別をぞ呉れしかば稍二百兩近くの金を胴卷へ入古郷を指て旅立ちしが先阿部川へ立寄先年のお兆を尋ねけるに二三年以前相果娘お節は親類へ引取れし由故偖々變り果たる浮世かなと呟きながら鞠子の宿も越宇都谷峠に懸りしに蔦の細道時雨來て心細くも現にも夢にも人に逢ぬ日と辿り〳〵て岡部より早藤枝に來りし頃跡になり先になり怪し氣なる者二三人付添來れば故譯と相良街道へは這入ず既に瀬戸川迄來りし時日は西山に沈しかば惡漢共兩人前後より引挾み御旅人酒代を貰ひ度と云に九助は種々と云譯をすれ共兩人の惡漢更に聞入ず直と立寄て左右より手を引張し故今は是非なく盜賊々々人殺々々と呼叫ぶに向ふより正面に島田講中と書水の丸の合印の小田原提灯を提半合羽の穴より鮫鞘の大脇差を顯はし水晶の長總の珠數を首に懸し一個の男來懸りしが此容子を見るより物をも云ず忽ち一人の盜賊の腕首掴んで瀬戸川へ眞逆まに投込ば生死は知れず成にけり後に殘りし惡漢共我等が仕事の邪魔爲るなと兩人等しく飛掛るを彼男は引捕へ汝等は往來に網を張旅人の懷中胴亂に目を掛けて追剥強盜を爲んとする命知らずめ己を誰とか思ふ東海道五十三次音に聞えて隱れのない題目講の講頭水田屋藤八を見忘れたか汝等能く聞け身延山の會式戻り罪作りとは思へども見るに忍びぬ此場の時宜命は暫時助け船七十五里の遠江灘天窓の水先押曲て尻を十分卷り帆に早く湊へ逃込て命ばかりの掛り船ドリヤ梶を採ふかヱイと二人を左右へ一度に投付れば惡漢共は天窓を抱へ雲を霞と逃失けり藤八は後見送りおつなせりふの機會からヤア逃るは〳〵時に御旅人怪我は無かと九助を勞り介抱なし先々今宵は私が宅へ御泊り成いと夫より九助を同道して藤八は我が家へ來り門口よりサア御客だ御湯を取れと亭主の聲に家内の者は立出てソリヤ旦那樣が御歸と云つゝ一同出迎を藤八は是々途中から御客を連て來たと云中に十六七の娘甲斐々々敷盥に湯を取て持來り御洗ひ成れましと顏を見るより彼の娘はヤアお前は水呑村の九助樣と吃驚すれば九助も驚き然樣云此方は阿部川のお節殿と早々足を洗ふ中娘は藤八に向ひ旦那樣此お方は先年御恩を請た御人で御座りますと聞て藤八も驚き然れば豫て話の九助殿人を助けたれば又助けらるゝアヽ陰徳あれば陽報ありとはテモ不思議と是より座敷に到り互に一伍一什の物語りをなし九助殿明日は私が送つて進度が據ころない用事が有る故參る事は出來ず去りながら又途中にて何樣な事が有まいものでもなし然る時は百日の説法屁一ツとやらなれば金子などは先私に預けて明後日頃村方の親類衆でも遣はさるゝか又確乎な使をお立成れよ其時の證據には幸ひ御延の貫主樣に曼陀羅の裏書を願つて書て頂いた是は私が骸にも替られぬ大切の品なれどお前に渡すサア金と引替に致さんと藤八が深切に九助も安堵し百八十兩の金を預置何角と懇切に禮を延べ又家内へも聊か心付などして藤八方を翌日辰刻頃出立古郷水呑村へぞ歸りける土産物は飛脚にて先へ送りし事故伯父九郎兵衞女房お里も待居たる處なれば皆々出迎ひ悦び合に九助は其足にて名主惣左衞門是は先年病死して悴惣内當時名主役勤め居るゆゑ同人方へ參り其外組頭左治衞門周藏始め村中一同へ廻り歸村の旨申聞ける故先方よりも皆々大勢悦びに來り中にも九郎兵衞は江戸の首尾を聞ゆゑ九助も段々始終の話より歸り掛けの道中にて斯樣々々島田宿の水田屋が情曼陀羅の話等を爲し明日は金を請取に參るとて十界の曼陀羅を佛壇へ上置其夜は九助も旅勞れゆゑ前後も知らず休みしが翌朝佛壇を見れば日蓮上人直筆十界の曼陀羅見えざるにより家内は大騷ぎとなりて直樣菩提所不動院を招き卜筮を頼みけるに此は色情より事起りて盜人は家内にあり女成べし後には公事出入にも成ん隨分身を愼まれよと云て歸りしが此時土地の醫師高田玄伯通り掛しをも呼込み又々占考を頼みけるに錢六文を並べて占ひ此盜賊は男で御座ると云ながら歸去けるにぞ九助は種々と工夫し其儘四里廿一丁を一息に飛が如く水田屋へ到り息を繼々紛失の話をなしければ藤八は先此方へと云まゝ九助は座敷へ通りけるに正面に十界の曼陀羅を飾り左右に燈明香花を備へ有しかば是はと驚き問に藤八は然ればなり今朝御親類の周藏と云る人此曼陀羅と引替に金は持參致されしと聞てそれは老人で御座るかと云ふに藤八否皆未若い御人其外に喜平治にも來られしと語るに九助夫は皆年齡が違ひますと聞藤八ハヽア成程違ふ筈だ跡で此方にも少し胡亂の儀思ひ當る事も御座れば私が明日參つて吟味致さんにより村中の者を御招あれと申故左樣なら御苦勞ながら斯樣々々に致して招き置ん程に何分御頼み申と約束して立歸り九助は伯父に向ひ折惡敷先方が留守にて分らざれども久々家内の者村中の世話になりし事ゆゑ名主組頭親類を始め招いて濁酒でも飮せ度と相談の上人を廻し支度をして待うち翌日に成しかば名主鵜川惣内後家お深組頭周藏佐治右衞門傳兵衞木祖兵衞親類には千右衞門喜平治金助大八丈右衞門兩隣の善右衞門孫四郎辰六角右衞門其外多人數入來り九郎兵衞八右衞門久七八内忠七六之助などは分家故皆々勝手働き先代が取立し百姓三五郎辰八等は水を汲米を炊ぎ村方大半呼寄ての大饗應故村の鎭守諏訪大明神の神主高原備前并びに醫師玄伯等を上座に居て料理の種々は興津鯛の吸物鰯に相良布の奴茹の大鮃濱燒鰌の鼈煑などにて酒宴を始め一順盃盞も廻りしかば九助は密と座を立裏口へ出て待處に水田屋藤八密に來りければ此方の小座敷へ案内なし三五郎を相手に差置伯父九郎兵衞の前は道連の人が尋ねて參りしと申置しに藤八は軈て酒宴の席を覗き見れば二ツ髷の後家の側に居る巴の紋付たる黒の羽織を着せし者と其傍に居る花色の布子を着酌をして居る兩人なりと云に那れは當時の名主惣内今一人は名主の手代源藏と云者なり扨々憎き奴かな今に目に物見せて呉んと云つゝ何喰ぬ顏色にて九助は座敷へ出今日皆々樣を御呼立申せども是と云興もなく候へば只々御氣根に御上り下されよと云に周藏は取敢ず此周藏佐治右衞門を始め神主樣御醫師樣親方の後家樣其外皆々十分に下されたサア〳〵勝手の手傳衆大勢ぢや御亭主も一ツ御上り成れと猪口を指ば傳兵衞も又進み出九助殿此傳兵衞も今は隱居しましたが先親方九郎右衞門殿の頃より懇意とは申ながら當年八十一歳で御座る否サ化も致さぬが何と九助殿江戸も私が若い時とは違ひ日に増月に増繁昌で御座らう何と珍らしい事はないかなと云ふ機に九助は膝を進め別段何も珍らしき事も御座らぬが差當り不思議と申は私が江戸表にて千辛萬苦して貯へた金子が一昨夜紛失致ました其譯は定めし皆々樣も御聞成れたで御座らうが其金子は島田宿の水田屋へ預け置右の代りに持て參りし證據の日蓮樣の直筆の曼陀羅一昨夜中に私が所で紛失し誠に五年の辛苦は水の泡と成ましたと語るに一座の者共夫は何か詮議の爲樣は無事哉と云ば九助はイヱ夫に就て御話が御座ります天道と云者は爭はれぬもので正直の頭を照らし給ふ故其盜人が知ましたと云を聞惣内親子はハツと面を赤らめしを組頭の佐治右衞門は氣も付ず進み出夫は他國の盜人か村内の者か憎き奴なり早々吟味さつしやれと張肱を爲に九助はイエサ外々でも御座りません那のと惣内の面を見れば惣内顏を背けるを思ひ切て茲に御座る名主樣ハイ惣内殿シテ同類は手代物書の源藏と語るを聞より名主の後家お深は急立ナニ九助殿貴樣は親類と云念頃の中年若でも惣内は村役も致す者滿座の中での泥坊呼はり酒興と云ては濟ませぬと詰寄るを九助は微笑私は氣違ひでもなく酒亂でもなければ證據の無事は申しません曼陀羅を盜み取り島田宿の中町水田屋藤八方へ參られて九助が親類周藏と僞られしは惣内殿喜平次と騙りしは源藏右兩人曼陀羅を證據に百八十兩を騙り取と云を源藏は嗚呼是此源藏を盜人とは大それた何を證據にと目に角立れば惣内膝立直し名主役の惣内を盜人などとは言語同斷なり九助品に依り筋に因ては了簡成難しと聞皆々四方より九助を取卷たり 第四回  是を機に九郎兵衞は此方より飛で出九助の髻りを掴み取て捻伏齒を喰切拳を固めて散々に叩き居汝れは太い奴江戸へ出て金を貯親父が質田を取返すの又は百八十兩貯へたの貰つたのと虚言八百を吹散し其實一文なしで家へのたり込其上名主殿を始め源藏までを盜賊呼はり組頭衆や年寄衆へ此伯父が何の面向が成ものか盜人猛々敷とは汝が事なり兄九郎右衞門殿の位牌へ對して此九郎兵衞が云譯立ぬ汝が親九郎右衞門に成代り此伯父が勘當する出て失ろと猶も打擲なす處へ暫く〳〵と聲懸一間より直と出るや否や九郎兵衞を取て突退け名主手代を左右へ押分て動乎と居りし男を見れば下に結城紬の小袖二ツ上は紺紬に二ツ井桁の紋所付し小袖を着五本手縞の半合羽を羽折鮫鞘の大脇差を手に持たり是別人ならず島田宿の旅籠屋水田屋藤八成ば別て惣内源藏の兩人は愕然としたる樣子にて俯向居るに藤八は一同へ向ひ茲な名主惣内殿并に手代の源藏兩人盜賊と見たは違ひなしコレ名主手代の衆昨日の朝此九助殿の親類周藏嘉平次と云て確な證據日蓮樣の曼陀羅を持參なし引替にして百八十兩の金を能も騙り取れたなイヤサ東海道五十三次品川から大津まで名を賣て居る此水田屋藤八を能も誑し騙つたなサア此上は相良の役所へ拘引出し面の皮を剥て遣らなければ此藤八の蟲が落付ぬ未だ此上にも爭はゞ片端から覺悟をしろと大音に罵られし惣内源藏の兩人は今更何とも言葉なく穴へも入たき樣子なり然どもお深九郎兵衞は双方より進出コレ此方は藤八殿とやら千五百石の束もする庄屋役を如何に年若なればとて盜賊呼はりは何事ぞ是には確な證據でも有ての事か是サ組頭默言て御座つては濟ますまいと怒り立れば組頭の周藏傳兵衞も呆れ居しが漸々進み出コレ藤八殿餘り大きな聲をさつしやるな小聲でも解ります先當時の役頭を盜賊呼り確な證據なくては云れぬ事段々聞に九助が親類と私等が名をも騙られては猶以て迷惑至極と云傍より嘉平次も然樣々々我等は百姓代も致す者殊に組頭と申て名を騙り眞間と欺て御在つたりと云を藤八如何にも是を御覽じろと一通の書付を出し其節證據の曼陀羅を取替行るゝ事故請取も糸瓜も入ぬ譯なれど深切づくの預り物生若い衆の御出に付念の爲取ずとも宜い請取までサア御覽じろと差出すを各々取上げ披き見るに 覺 一金百八十兩也 右九助よりの預け金確に請取申候處實正なり後日の爲請取證仍て如件 水呑村九助親類 十一月二日 周藏 印 喜平次 印 水田屋藤八樣 周藏喜平次始め一同此請取を見て此手跡は源藏なり周藏が印形は名主惣内殿の印形喜平次のは源藏が判是は如何にと周藏はお深に對ひコレお深殿此通りだが未若い年をして周藏や喜平次が名を騙るとはハテ大盜賊と惣内を睨めば後家お深は堪へず悴惣内を押伏せ打擲なせば源藏は堪り兼逃出す所を九助が親より召使ひの三五郎飛で出突然襟髮掴んで捻倒しコリヤヽイ源藏汝は能も〳〵己が旦那を馬鹿にしたな汝は水呑村の水呑百姓なりしを先旦那の御蔭にて一人前の百姓に取立られたる其恩儀を忘れ盜人に同意爲す爰な畜生めと云聲聞て勝手に働き居りし若い者又は九助が家附の親類小前の輩ら十二三人襷懸にて面々飛出し彌々大騷ぎとなりし故藤八は兩手を上げ是々皆なの衆先々靜にせられよ此れ處か未々お負がある是を惣内殿貴方覺えが有うなと投出す姫路革の三徳を見て惣内はヤア是はと云を藤八はオヽ吃驚する筈貴方が歸つた其跡に落して置た此三徳中は六韜三略の卷ドリヤ〳〵讀で聞せやう皆の衆膽を潰さずにマア落付て聞給へダガ九郎兵衞殿此方の娘も偖々枇杷葉湯誰にも渠にも大振舞情の深い人さんぢや而又庄屋の後家樣よ此方の息子も物喰宜何を喰ても中るめへサア聞なせへ〳〵 一筆申上參せ候扨々思ひ掛なく九印出拔に歸國致し途方に暮參せ候豫々夫婦になり度祈居候へども此の後は寛々御げんもじも心元なく存參せ候 藤八サア聞なせへ是が序開き是からが追々魂丹だと一調子張上て 此上は當處を立退き鳥棲ぬ山の奧虎臥す野邊も厭ひなく御連添下され度夫のみ念じ上參らせ候右に付九助事江戸にて百八十兩貯へたる金子島田宿中町の旅籠屋にて水田屋藤八と申方へ預け置割符の曼陀羅持歸り申候 藤八何だ村の衆膽が芋にも化さうなもので御座らうサア〳〵茲が肝腎だ 其曼陀羅を持參致せば誰にても右の金子を引替に渡し候由承まはり候まゝ竊に其曼陀羅を其方樣へ御渡し申候間金子首尾能御請取下され度金子さへ有ば何國の浦にても心の儘と存候へば一時も早く立退度夫のみ祈り居參せ候猶委細の事は源藏殿より御聞下さるべく候何も心急れ候へば先は荒々申上參せ候めで度かしく さ 印 より 惣樣へ と讀了り藤八サア是でも汝等は爭ふかと云れて九郎兵衞は今更面目なさに娘お里を引据此猥婬者めと人前繕ふ打擲に後家のお深も猶惣内を打据る故一同見ても居られず組頭周藏佐治右衞門傳兵衞木祖兵衞長百姓喜平次善右衞門神主備前醫師玄伯等各自中に立入先双方共に預りて此日は皆々引取しがお里は組頭周藏へ預け其夜猶又周藏方へ惣内始め寄合て心得違ひの趣きに扱ひを入れ百八十兩の金子を殘らず戻しければ九助はお里を是迄の縁と斷念殊に伯父の娘なれば嚴しき事も成難しと千辛萬苦して貯たる金の中を五十兩分與へ離縁なせしかば村中の者共も又中に立入双方和談の上お里を惣内の女房とし續て伯父の九郎兵衞も惣内方へ介抱人に這入お深と夫婦になりて消光居たり其後九助は親九郎右衞門が質に入置たる田地を請戻し譜代の召使三五郎を鍬頭として元の如くに家を起しければ家付きの親類周藏喜平次を始感心なし獨身にては不自由ならんと島田宿の水田屋へ到りて種々相談の上姪のお節を貰ひ度由を云入ければ藤八も一同の深切を感じ喜びお節を己が養女として支度も立派に調へ水呑村九助方へぞ送りける茲に又惣内は九郎兵衞に惡智慧を加れ村中の山林を賣或ひは質入などにせし事顯れければ村方小前一統百五十軒集合して惣内が不埓の筋を算へ立那樣成名主は役に立ずと連判を以て組頭へ差出せしに依組頭共種々宥め扱ひけれども勿々一同承知せざれば止を得ず領主役場へ申立て惣内は名主役取上られたり扨又惣百姓連印を以て九助は親の跡故是非跡役仰付らるゝ樣にと本多長門守殿郡奉行へ願書を差出しければ願ひの通り川口九助へ名主申付られ村方の者喜び睦しく暮しけり 第五回  茲に又駿府の加番衆松平玄蕃頭殿の家來に石川安五郎と云ふ若侍士ありしが駿府二丁目の小松屋の抱へ遊女白妙が許へ通ひ互ひに深くなるに付廓の金には迫るの習ひ後には揚代金も滯ほり娼妓が櫛笄衣類までも無しての立引に毎晩通ひ居たりしが早晩二階を謝斷しが煩惱の犬に追れ猶懲ずまに忍び通ひける中或夜若い者共の目に懸り引捕へられ桶伏にぞせられける是は据風呂桶を伏其上へ大いなる石を上鐵砲を引拔其穴より僅に食物を入るのみ其樣彼の軍鷄籠を伏たる如くなり古昔廓と唱へ大門御免の場所には之ありしとなり然ば白妙は大いに歎きしが或日饅頭二ツを紙に包み禿躑躅を密と招き是を桶の穴より入れさするに安五郎忝けなしと何心なく饅頭を二ツに割に中に少さく疊し紙ありければ不審に思ひ披き見るに 今宵子刻頃廓を立退候積り委細は大門番重五郎が情にてお前樣は柴屋町へ先へ御出なされお待合はせ下さるべし何事も御げんもじの節と申殘し參らせ候かしく と認めて有故安五郎は此兩三日桶伏の恥辱に逢無念至極に思ひ晝夜寢もやらず居る處成ば文を見て扨は重五郎日頃我に辛く當りしは却て情有し事かと龍門の鯉天へ昇り無間地獄の苦痛の中へ彌陀如來の御來迎ありて助を得たる心地して大いに悦び今や時刻と待居たりしが心の緩よりとろ〳〵と睡眠中雷の落たる如き物音に夢は破れて四邊を見れば晴渡りたる北斗の光晃々として襟元へ落る木滴に心付見れば桶は側に打返して有しにぞ彌々不審に思ひ彼方此方と見廻す中彼の重五郎は柳の小蔭より衝と立出小聲にてアヽ若安五郎樣私は白妙樣には遁れぬ縁の有者此の處にての長談は無益なり少しも早く鞠子の奧の柴屋寺へ御出成れて御待あれ委細は白妙樣から御話有ん私しも後より花魁の供をして追着ます早う〳〵と云ければ安五郎はオヽ何も云ぬ重五郎殿忝けないと空を霞に遁れ出頓て阿部川を打越て柴屋寺へと急ける(柴屋寺と言は柴屋宗長が庵室にして今猶在と)既に其夜も子刻の拍子木諸倶家々の軒行燈も早引て廓の中も寂寞と往來の人も稀なれば時刻も丁度吉野屋の裏口脱て傾城白妙名に裏表の墨染の衣を假の隱れ簑頭巾の上に網代笠深くも忍ぶ大門口相圖の咳に重五郎其所へ御座るは花魁かと言れて白妙回顧オヽ重さんか安さんはへ其安さんは最疾に鞠子へ行て待てゞ在ば暫時も早くと打連立彌勒町を後とになし渡り求むる阿部川の此方の岸へ着船へ飛乘る機會に後からヤレ待居らう重五郎と追駈來るは別人ならず江尻の宿の落破戸儀右衞門と云男なり最も白妙が馴染客にて是迄多くの金銀を遣ひ手にも入ず白妙を今失ひては口惜しと追駈來り逃亡者を渡せばよし萬一渡さずば汝れ迄刀の錆にして遣ると氷の如き一刀引拔終に重五郎を切殺し心急たる其餘り煙草入を落せしを氣も付ず跡晦まして逃去りけり其隙に船は向うへ着しかば白妙は急ぎ船より上りて柴屋寺へ馳來り安五郎に逢今何者か追來たり斯々なりと物語り何分此所は危ふしと云にぞ安五郎も打驚き然らば早々落延んと白妙の手を取此所を立出て島田宿なる水田屋藤八方へ到り豫て侠氣の事を聞及べば是迄の始末を語り當分我等兩人を匿ひ呉る樣にと只管頼みけるに男を磨く藤八ゆゑ早速承知はなしけれども當所は街道端にて人の目にも付易し幸ひ相良領の水呑村にて九助と云ふは我等が親類なれば同所へ行て居られよ其中には二丁町の方は片を付て進ぜますと受合九助への手紙を書て渡せば二人は悦び厚く禮を述て直樣水呑村へと立出けり爰に水呑村の鵜川惣内は名主退役の後彌々村中の氣請惡く加之九助の金の一件より盜賊の惡名は消ず身代は日に増に傾きけるが是に引かへ九助方は益々繁昌なすを見るに付聞に付口惜さ限りなく何事か有かしと窺ひ居たりし中金谷村に大法會ありて續合の事故九助惣助九郎兵衞お里等も其席へ到りしに此時九助は混雜の紛れに紙入を忘れて小便に立しを惣内九郎兵衞は面を見合せ點頭ながら竊其紙入を取隱し法事も濟し後何喰ぬ顏にて其場を立去途中へ出て彼の紙入を改め見るに金五兩二分と島田宿の水田屋藤八より九助へ送りし手紙あり是は何かの種に成んと九郎兵衞は懷中なし五兩二分の金を得たれば久々にて一杯飮ふと或料理屋に立入九郎兵衞惣内夫婦三人車座になり獻つ酬つ數刻酌交せしが良夜も戌刻過漸く此家を立出九郎兵衞は殊の外の酒機嫌にて踉々蹌々とし乍ら下伊呂村の外れへ來掛りし頃は早亥刻に近くて宵闇なれば足元も暗くお里は大いに草臥しと河原の石に腰を掛るに九郎兵衞惣内も同く石に腰を掛火打道具を取出し煙草くゆらせ居たりしが九郎兵衞は彌々醉が廻り頻にほく〳〵居眠に終に其所へ正體もなく打臥たり依て惣内お里は夫に當惑なし何か醉の醒る藥はなきやと考へしに惣内は不圖心付此宿外れに藥種屋有ば夜中ながらも呼起して早々藥を求め來らんお里は其中九郎兵衞殿を介抱せよと言置て尻引からげ馳行けり然なきだに白晝さへ人通りなき相良の裏道殊に夜中なれば人里遠く麥搗歌鳥の宵鳴遙かに聞え前は名に負大井川海道一の早瀬にて蛇籠を洗ふ波の音は狼みの遠吼と倶に物凄くお里は頻りに氣を揉ども九郎兵衞は前後も知らず高鼾折から川の向よりザブ〳〵と水を分此方へ來る者ある故お里は是を透し見るに生憎曇りて黒白も分ず怖々ながら蹲踞居れば件の者は河原へ上り背より一人の女を下しコレ聞よ逃亡者と昨日から付纒ひつゝやう〳〵と此所へ引摺り込までは大に骨を折せたぞサア是からは汝が身を彌勒町なる吉野屋へ拘引て行て渡さうかそれより直に濱松へ賣て呉るが早道だイヤ〳〵歩行と引立るに女は涙聲震はせ私は其樣な者ではない二世迄掛し夫の有身金が欲くば此邊に知る人あれば其家まで行たる上は幾干でも望みの通り上ます程に何卒免して〳〵と詫るを何だ喧しい贅言云ずと此己を叔父だと云せば濟事だと罵る聲の耳に入九郎兵衞は不圖目を覺し猶も樣子を打聞に詫る一人の女の聲扨は我今眠りし中惡物共がお里を捕へ勾引さんとなす事ぞと寢ぼけ眼に立上り汝曲者遁さじと聲を知るべに打掛れば彼の曲者は驚きながら見付られては後日の妨げムヽと點頭傍邊に落し松の小枝を取より早くオヽ合點と受止つゝ強氣無慚に打合に年は寄ても我慢の九郎兵衞茲に專途と戰へども血氣盛んの曲者に薙立られて堪得ず流石の九郎兵衞蹣々と蹌く處を滅多打無念々々と跡退り既に斯よと見えける處へ惣内は息切と引返し來り爭ふ聲を聞や否ヤア叔父樣か惣内か此奴はお里を追駈し盜賊なるぞと呼はるに惣内心得脇差を拔より早く切付れば流石不敵の曲者も二人が太刀先に恊ひ難く河原の方へ逃行しが以前の女の彷徨居たるを其儘に引抱へ又駈出せば九郎兵衞は遣らじと後より飛掛れば忌々敷やと惡漢は女を撞と投出す機會に切込九郎兵衞が刄に叫と一聲叫び女の體は二ツになり無慚の最期に惣内はお里と心得心も空汝女房の敵めと追詰々々切結び九郎兵衞諸共曲者を終に其場へ切伏たり斯て兩人はホツと一息吐處へお里も遁て駈來り其所に御在は父樣かといふ聲聞てオヽお里か能マア無事でと親子三人怪我のないのを悦び合中遠山影に差昇る月の明りに透し見て然すれば此等の者共はと男女の死骸に當惑する色を見てとり九郎兵衞は其方兩人は豫てより望の如く江戸へ行充分金を貯るがよい己も其中後より行んと彼の兩人の着類を剥取惣内お里へ着替させ跡の始末は斯々と耳に口寄囁きつゝ暫時も疾く立去れと指揮に點頭夫婦の者は先刻盜し九助の金の遣ひ殘りを受取て親父樣無事でと打分れ江戸の方へぞ急ぎける斯て九郎兵衞は二人の首を切落し傍邊に小高き岳の有しかば小松の根を掘て埋め又死骸の傍邊へは彼盜し紙入を落し置是で好迚翌朝領主の役場へ出惣内夫婦昨夜大井河原下伊呂村にて切殺され罷在由人の知せにより早速馳付見屆候處全く同人夫婦に相違無之其傍邊に九助の紙入落之有により同人所業と存じ候旨訴へに及びけり茲に又九助の女房お節は今年は實母の七回忌にも當るに付上新田村無量庵の住職大源和尚と申は善知識にて人の尊敬も大方ならずと承まはれば是へ布施を上て回向を願ひ度と夫九助へ頼みければ九助も其孝心を感じて今金谷村より歸りし草臥足をも厭はず再び白米五升と鳥目二貫文を自身に背負行大源和尚へ回向を頼みしかば和尚も其志操を感じ懇切に供養をなして後九助の額を熟々と見貴殿は大なる厄難あり是は遁れ難きにより隨分愼みを第一に致されよと申を聞て九助は大に驚き立歸りしが途中下伊呂村の堤にて一人の武士に出逢たり武士は小腰を屈め若斯樣々々の女に逢給はずやと問掛られ九助は一向見掛ぬ旨答へれば彼者又水呑村に九助殿と申人が御座るかと聞故ハイ其九助は私しで御座ると云に夫は幸い某しは松平玄蕃守家來石川安五郎と申者樣子有て今御尋申處なりと懷中より書簡を出して渡し何れ妻を尋ね出して後其方へ參らんにより其節はよきに頼むと約しつゝ安五郎は又々後の方へ引返しける九助は彼の手紙を見れば島田宿の藤八よりの名宛なれば披き見るに安五郎白妙の兩人を匿まひ呉よとの頼み故其儘懷中なし夜に入しかば急ぎ歸る河原にや何やら跌きしが死骸とも氣が付ず行過たり彼の安五郎は九助に分れ妻の行方を尋る中彌生の空も十九日子待の月の稍出て朧ながらに差かゝる堤の柳戰々と吹亂れしも物寂寞水音高き大井川の此方の岡へ來掛るに何やらん二疋の犬が爭ひ居しが安五郎を見ると齊しく咥へし物を取落し何所ともなく逃行けり安五郎は彼の品を何やらんと立寄見れば女の生首に犬の齒形の殘りて居れば驚きながら猶よく〳〵見るに見違方なき白妙が首故ヤヽ是はと吃驚なし首を抱上げ胡鷺々々聲コリヤ白妙何いふ事で此有樣何者の所業ぞや何國に影を隱すとも此讐を討ずに置べきやと血眼になりて怒れども歎くに甲斐なき此場の時宜實に哀れを止めける 第六回  時に後ろの方に當り生者必滅會者定離嗚呼皆是前世の因縁果報南無阿彌陀佛と唱ふる聲に安五郎は振返り見れば墨染の衣に木綿の頭巾を肩まで掛け杖に縋りし一人の道人なりしにぞ安五郎は側に立寄貴僧は何所の御出家なるか知らねども是なるは某しの妻にて候が如何なる前世の因縁にや今日圖らずも何者にか首を切られ胴さへ見えぬ此形容何卒御情に御弔ひ下され度と涙ながらに頼みければ出家は點頭其は心易き事かな早々生死の迷ひを離れて涅槃の道に引導すべければ是より我が庵に參られよとて夫より上新田村の無量庵へ同伴なし懇切に弔ひければ安五郎は厚く禮を述其身は故郷へ赴く由申暇乞して立出たり扨又郡奉行松本理左衞門方にては九郎兵衞の訴により九助を早々召捕べしと下役手代黒崎又左衞門市田武助の兩人に申付て手先の者を召連九郎兵衞の案内にて九助方へ踏込來り上意と聲掛忽ち九助を高手小手に縛めければ九助は膽を潰し是は何事なりやと云けるを役人は發打と睨み何事とは白々し其方昨夜大井河原下伊呂村の辨天堂の前にて先名主惣内夫婦を切殺したる段九郎兵衞が注進に因て明白なれば則ち召捕なりと云ければ九助は彌々驚て此九助人などを殺しましたる覺えは決して御座なく是は定めし人違ひならんと種々言解ける側より女房お節も取縋り九助は勿々人殺しなど致す者では御座りませぬ何卒御堪忍成れて下されと倶々に泣詫る斯る處へ譜代の三五郎も馳來り其所へ平伏御役人樣九助儀は勿々人など殺す樣な者では御座りませぬと右左より取付詫るを役人は其方共の存じたる事に非ずと取て突退け九助を引立る故九助は是非なき事と諦めお節三五郎の兩人に對ひ必ずともに騷ぐに及ばず我が身に覺えなき事なれば御役人樣の前で申解をなし今に戻ると宥めるを下役共は贅言云せず引立よと遠慮會釋もあら〳〵しく足輕に繩を取せ相良の城下へ引立行き郡奉行役所の白洲へ引出したり此時上座には松本理左衞門下役手代左右に並び理左衞門發打と睨みコリヤ九助汝が伯父九郎兵衞の訴へに依ば其方儀昨夜下伊呂村に於て惣内夫婦を斬殺し後日に知ざる樣首を切落し取隱し置たる由有體に白状せよと云ければ九助は首を上全く以て然樣の覺え御座なく元來惣内夫婦に意趣もなければ殺す道理がと半分云せず理左衞門は大聲に默止愚人め今朝檢使吟味の節死骸の傍邊に汝が鼻紙入の落てありしのみならず其紙入の中には島田屋の藤八方より汝へ送りたる手紙も有殊に汝の衣服の裾に血の付たるを女房に洗はせ庭へ干て置たと有是等が確かな證據なり然れども未だ爭ふか不屆者めと言れて九助は彌々呆れ果私しの紙入は昨日金谷村法事の場所にて紛失なし又衣類のすそへ血の付は金谷村の法事より歸りて後再び上新田村の無量庵へ相越し妻が實母の回向を頼み夫より戻りの途中大井村の河原にて宵闇の暗紛れに躓きしにて生醉の寢て居し事と存じ其儘罷歸り今朝見ればすそは血だらけ故始て驚きまして御座ると云に理左衞門其は胡論なる申條言解暗いぞ茲を何處と心得て然樣な前後揃ぬ儀を申す全く汝が殺したに相違有まいサア明白に申せ云ぬに於は膝を挫ぎ石を抱せても云するぞと威猛高に叱り付けれども九助は決して僞りは申上ませぬと云を理左衞門は少しも聞入ず追々吟味致さんが先今日は入牢申付るとて此日は調もなかりける扨も九郎兵衞は早く九助を殺して己が科を遁れんと思ひ田地を質入れなし漸々金を拵へて郡奉行松本理左衞門を始め手代四人へ賄賂を遣しけるに下役の黒崎又左衞門は異儀なく承知なし又々願上の手續を内々差圖しければ九郎兵衞は渡りに舟と再び願書を差出せしゆゑ翌日差紙にて九郎兵衞夫婦並に村役人付添出る處に九助も牢より繩付にて引出され又前日の如く嚴しく責問けるに九助は夢さら覺えなき事故是は餘の者の仕業に相違之なしと申立れ共理左衞門ナニ惣内夫婦に遺恨はないと申せども遺恨ありしに違ひないソレ九郎兵衞が願書を讀聞せいとて是を讀むに 一水呑村先名主惣内後見九郎兵衞并に妻深申上奉つり候當名主九助と申者は私共の甥に御座候處數年困窮に付家内相談の上江戸表に奉公稼ぎに罷出候右留守中は私共并に九助妻里のみ取續も相成兼候故右惣内方より時々合力受漸くに取續罷在候處五ヶ年目に九助歸村仕つり留守中妻里惣内と不義致候と申立惡名相付私し共親子を追出し候故私し儀惣内方後見も致し居候間介抱人に相成娘儀は惣内妻に致させ候然る處九助儀は江戸表より同道仕つり候哉又は途中より連參り候哉節と申女を引入直樣後妻に仕つり候全く此節を妻に致べく了簡にて私し共親子に惡名を付追出し候儀と存じ奉つり候其後右九助多分の金子にて質地取戻し其上新たに田地買請當時名主役仕つり候へ共私欲押領宜しからざる儀共多く有之に付惣内歸役願ひも致させ度小前の百姓共時々寄合も有之由之に依て其等の儀を無念に存じ當九助夜惣内夫婦金谷村よりの歸を待受切害致し首は切捨取隱し候へ共兩人とも衣類に覺え之ある而已ならず悴共の事故手足骸等にも覺え之あり相違なき儀に御座候加之右死骸の傍邊に九助紙入落有之又紙入の中には島田宿藤八より九助へ送り候手紙も有之候事其節御檢使樣方御改め通りに御座候全く九助儀惣内夫婦を切害致候に相違無之儀と存じ奉つり候に付何卒御慈悲を以て兩人の解死人御吟味下し置れ候樣仕つり度依之此段願ひ上奉つり候以上 水呑村先名主惣内後見 享保二年二月廿三日 願人    九郎兵衞 同人妻 ふか 親類肩書  善兵衞 仁右衞門 組頭肩書  傳兵衞 木祖兵衞 サア何ぢや汝五ヶ年の間江戸へ奉公に出し留守中家内の者惣内が扶持を受し恩をも思はず惣内に不義の汚名を負せ己れが外にて語合し女を妻に致さんが爲罪なき伯父の娘恩ある惣内へ惡名を付先妻を離縁に及びし段不屆き至極と窘付るを九助は無念の事に思ひ恐ながら全く以て遺恨などとは存も付ませぬ儀にて既に惣内と不義ある女房憎い奴とは存候へ共現在伯父九郎兵衞が娘故義理を考へ不義せし者へ金迄付け渠が存念通り惣内方へ遣す程の儀に御座れば何しに恨を殘しませうぞ何分御慈悲の御吟味願ひ奉つると申を理左衞門は默言と叱り其方伯父九郎兵衞へ金子を遣し一旦奇麗に里を離縁致したなれ共惣内方へ再縁なせしを見て未練を遺せしならん又金子等遣したも定めし扱人の差略で有う彼是を遺恨に存じ惣内夫婦の者を殺し疑ひの心を晴ぬ爲に兩人の首を取隱し奸計に相違はない恨はないなどと申がコリヤ云譯は闇い首は何處へ隱したサア眞直に申せと睨め付るに九助はイヘ決して覺えは御座りません此間も申上ます通り十九日に金谷村へ參り又夕申刻過より上新田村に到りて夜に入迄彼方に居し故人を殺したる覺えは御座りません因て猶更兩人が首の有處存じ居る筈がと云んとするを理左衞門默止と止めコレ九助其方他行先が怪しい殊に願書の趣きにては其方名主役に相成り私慾を構へ村方難儀に付村役人小前の者共相談の上退役を願ひ惣内に歸役致さんと申内談を聞無念に存じ惣内夫婦を殺したに相違ないぞと押付るに九助は伏せずイヘ〳〵然樣な儀は毛頭覺え無之先惣内山林の竹木を隱し伐仕つり其外小前へ勘定に押領の筋が御座りまして退役仕つりし事は既に御役所にても御調御座りました儀又私し儀は村役人總百姓の勸めにより餘儀なく親共勤めましたる跡故名主役を相勤めます殊に惣内歸役の相談の儀などは一向承まはりし事も御座なく假令右體の儀御座ればとてそれを遺恨に思べき筈もなく右體の儀は跡形もなき僞り事と存ずると云語を繼組頭周藏進み出只今名主九助申上まする通り惣内歸役の相談などと申儀は勿々思ひも付ぬ事其は九郎兵衞が僞はりにして九助は素より正直者に御座れば何卒御慈悲を願ひ上ますと言を又默言と叱り付汝は何者だと問にハイ組頭で御座ります名は何と云うヘイ周藏と申しますと答ふるに理左衞門コリヤ汝には尋ねぬ控て居れ不埓な奴と白眼付をイエ九助の正直なる事は村中の譽者にて誰知らぬ人も御座りませぬと云を理左衞門又汝れ口を利か糺明を云付るぞと威せば周藏は吃驚し老人の事故慄へ居るを後より三五郎這出て只今組頭周藏申上しに相違なく九助儀は一文一錢の勘定も粗末は御座なく小前の者共へ憐を掛けと云を理左衞門默止汝又何ぢやと有れば三五郎はハイ私しは百姓代三五郎と申者で御座りますと云に理左衞門ナニ百姓代と申か控て居れと云ふをイヤ控ますまい九助が事は村役人へ御聞なされませ隣村の名主共へ御尋ねなされても日來の行状は知れますと申を理左衞門大音に默止三五郎と云をイヘ默止ますまいと云ば何役人へ對ひ不屆の一言牢へ打込ぞと叱り付れば三五郎はハイ〳〵牢へでも檻でも勝手の處へ入度ば入さつしやい何ぼ御奉行でも理より外には御座るまい依怙贔屓などを云つしやるなと肱を張ば理左衞門大いに怒りヤイ汝れ役人に對ひ再應の口答へ不屆きな奴ソレ縛れと差圖をなすに三五郎は理左衞門を睨み隨分縛つしやい私は痩ても枯ても三石八斗八升の御田地持水呑村の三五郎と云殿樣の御百姓で御座ります憚りながら然樣云後ぐらい片贔屓な御捌は見た事が御座らぬと云うにぞ理左衞門堪へ兼イヤ渠を縛れと云聲の下々役人はつと立掛るを周藏木祖兵衞種々と詫入漸々三五郎を外の腰掛へ出しゝかば跡は寂寞となり理左衞門大音揚コリヤ九助假令右を左りに云拔んと爲る共二十日の朝其方が衣類の裾へ血汐を引其上汝れが紙入藤八よりの手紙が入てありしを落して置たからには云譯は有まいぞと言ふに九助は其儀は此間より申上ます通り私し妻の母の法事と辯解せんとするを理左衞門はコレ又同じ事を幾度申たとて辯解にはならぬ全く惣内夫婦を殺したに相違なけれど勿々大體のことでは白状すまじ牢問申付るぞとて此方を向コリヤ九郎兵衞夫婦氣遣爲るな子供等が解死人は取つて遣すぞ立て〳〵追て呼出すと申渡したり 第七回  斯りし程に九郎兵衞は理左衞門を始め下役人又々賄賂を遣ひ奉行へ金十五兩下役人へ三兩づつ牢屋掛りへ金二分づつを贈りしゆゑ九助は石を抱く事十三度其外種々樣々に品を替て責られし故今は一命も危きとの事を妻のお節は聞及び有るにもあられぬ思ひなれば村役人倶々お慈悲願ひに出けれども其度々役場にて叱りを請る而已少しも取上らるゝ事などなく又差添の村役人共も其度毎に九助の仕業に之なき趣きを申立れども證據なき故取上られず皆々歎息の外なかりしに獨三五郎は譜代の主筋故何分九助が無實の災難を遁れさせ度思ひ此上は家老方へ御嘆き申より外なしと豫々心掛居ける中或日本多家の長臣都築外記中村主計用人笠原常右衞門の三人が相良の用達町人織田七兵衞が下淀川村の下屋敷へ參られ終日饗應になる由を聞出し今日ぞ旦那さまをお助申時なりと大に悦び一通の願書を認め天へも登る心地にて梅ヶ橋といふ處に待請しに聞しに違はず夜に入と右三人の供人定紋付の箱挑灯を先に立道を照して來りける故三五郎は土橋の口に平伏し恐れながら願書御取上願ひ奉ると差出すを都築外記は願の筋有ば其支配の役人より向々の役人へ願ひ出よと差戻せど三五郎は猶さし出し其御役人方御取上げ御座らぬにより據ころなく貴所さまへ御願ひ申上ますとて動かねば籤九度山目付中村主計はイヤ外記殿夫は取上るに及びますまい打捨て歸られよと云を外記は否々一通り聞たる上相計らはんと屋敷へ連歸り委細を聞糺し三五郎が忠義を感心なし家來を付て理左衞門方へ遣はし此者儀は忠義者故能々吟味を遂られよと申送りしかば松本理左衞門も餘儀なく畏まる趣ぎ返答に及び置夫より三五郎を呼出し汝支配の奉行を差越御家老外記殿へ直訴に及び候段不屆至極の奴なりと眼玉を剥出し叱り付ればヘイ如何樣に申上ましても御取上御座らず九助儀は無實の災難に陷ります事見るに堪兼候と云を理左衞門大音上げ默止此方は善惡を糺す奉行職なるぞ私しが事で濟ものか九助事は確乎なる證據有により數日吟味なす所なり如何に土民なればとて理非を辨へぬ申條牢舍申付べき奴なれども彼老中より忠義の者と申越されし故村役人へ屹度預け置此上直訴にも及ぶ時は村役人共屹度申付ると叱り散らし歸しければ三五郎は殘念には思へども今更仕樣もなく寥々と村役人に伴はれ我が家へこそは歸りけれ扨又九助は晝夜嚴敷拷問牢問に掛り骨節も挫げるばかりに弱り果今は息も絶々と成て頼みなき世の有樣に熟々思ひ巡らす樣如何なれば掛る無實の罪に罹りし事ぞ是も前世の業因ならんと斷念ながらも餘りと云へば情なし是全く伯父九郎兵衞が賄賂を以て役人の手を借無理無體に我を殺さんとなす成ん然すれば何程苦痛に堪るとも終には命を失はずには置れまじ此上は一日も早く苦痛を遁るゝこそ優ならめ然ながら如何なる因果の報いにや我幼少にて父に後れ艱難辛苦の其中に又母をも亡ひしかど兩親の遺言を大事に守り江戸にて五ヶ年の千辛萬苦も水の泡蟻の塔を組鶴の粟を喰が如く五體の膏血を絞り蓄へたる金が今思へば我が身の讐敵とは云ものゝ親の勤し村長役を勤なば親々が未來の悦びと思込しが却て怨みを受る基となり無實の大難を蒙りたるか情なきは九郎兵衞殿如何なる前世の敵同士か現在血を分し伯父甥の中で有乍ら娘や婿が敵なりと後家のお深に昏められ解死人願ひは何事ぞと姑くは人をも怨み身をも悔みて泣沈みしが嗚呼我ながら未練なり此上拷問強ければとても存命思ひも寄ず此苦みを請んよりは惣内夫婦を殺したりと身に引受て白状なし娑婆の苦患を遁んものと心を爰に決せしが然るにても罪に陷り尸を野原に晒さん事我が恥よりも先祖に對し面目なし嘸や跡にてお節を始め三五郎等が歎くで有んと越方行末を思ひ遣り又も泪に昏し機丑刻の鐘鐵棒の音と諸共に松本理左衞門は下役二人下男五六人召連自分獄屋に來り鍵番に戸口を明けさせ九助を引立て拷問所へ引出し理左衞門は上座に直り是迄屡々拷問に及べども酢の蒟蒻のと云掠め今に白状致さぬ故今日は此理左衞門が自身に拷問を見聞せん強情奴めと一調子引上げコリヤ者共九助を拷問せよ一體汝等が手弱い故なり今日は我が見る前なれば責殺しても苦ふないヤイ九助覺悟を致せ湯責火責水責鐵砲責海老熊手背割木馬しほから火の玉四十八具の責に掛るぞヤイ〳〵責よ〳〵との聲諸とも獄卒共ハツと云樣無慘なる哉九助を眞裸にして階子の上に仰向に寢かし槌の枕をさせ荒繩にて縊り付大釜に汲込みし大川の水を理左衞門屹度見て夫々嚴敷水を喰はせろ用捨する奴は同罪なるぞときよろつく眼と共に下知し既に水責に及んとする處に九助は豫て覺悟の事なれば是御役人樣先々拷問を暫く御待下されよと云に理左衞門はイヤ成ぬ此間より數日の責に白状せぬ強情者是非今日は骨を挫き肉を叩きても言さにや置ぬ譫言拔すな夫責よと下知なすを九助は猶も苦し氣に其責には及びませぬ只今白状致しますと云に理左衞門はナニ白状致すとか然ば眞直に白状致せハイ今日迄種々と陳じましたが我程御役人樣の御察の通り惣内夫婦を殺しましたに相違御座りませぬ此上は如何樣に御仕置も恨みとは存ませぬと煮立涙と諸共に白状に及びしかば理左衞門は打笑ひ彌々夫に相違は有まいな夫見よ疾から然樣申さば責られて痛いめはせぬのに何程僞りても天の御罰人を殺して知れずに居るものかソレ役所へ引廻せとて役所へ引行早速下役人に口書を認めさせ白洲に於て是を讀み上る 一私し儀豫々遺恨有之候に付三月十九日の夜下伊呂村大井川端にて惣内并に同人妻を切害仕り候に聊か相違無之恐入奉つり候之に依て如何樣の御仕置に仰付られ候とも御領主樣へ對し御恨は少も御座なく候以上 水呑村名主 享保二年四月廿四日 九助 理左衞門コリヤ九助サア爪印致せと書付を差出せば九助は是を見てワツとばかりに血の涙を流しながら爪印を爲たりけり因てり理左衞門は早速九郎兵衞夫婦を呼出し兩人に向ひ其方共願ひに因て九助を段々吟味致す處其方悴惣内夫婦を大井河原に於て殺害致したる段相違なき趣き白状に及ぶ同日口書爪印相濟たる上は近々所刑仰付らるゝ惣内夫婦の解死人は取て遣はすぞ然樣に相心得よと然も爲たり面に申ける九郎兵衞夫婦は有難き旨を申上九助を八打と睨みサア九助汝は〳〵憎き奴なり御役人樣の御蔭曇らぬ鏡に移るがゆゑ神國の御罰にて今白状に及びたるが能氣味なりと罵るを女房お深も倶々にコレ九助能も嫁のお里に惡名を付け其上に悴惣内夫婦の者を殺したる爰な大惡人めと泣聲に成て窘付れども九助は只眼を閉て物言ず居たりしは誠に覺悟を極しと見え最哀ぞ増りける 第八回  偖も郡奉行松本理左衞門は夫々申渡し相濟早退座せんとなしける處に百姓三五郎申上ますと云ながら白洲へ飛込ゆゑ下役どもソレと取押るを猶も聞入ず大音揚今は何をか隱申さん惣内夫婦を殺せしは全く私しなり何卒御所刑に仰付られ下さるべしと云ば理左衞門は面色を變三五郎を白眼其方は先達て前後揃はぬ儀を家老中へ直訴に及び甚だ不屆き至極に付入牢申付べき奴なれ共古主九助が事の願ひ忠義らしく聞ゆる故村役人に預け遣はしたり然るに又右體の儀を申出る段不埓なり村役人共其奴を引立歸れ御取上は無ぞと叱り付るを三五郎は否々彼の人殺しは私しに相違なく夫を人違ひ成れては御役儀が立ますまいと窘付れば理左衞門は爰な強情者め其惣内夫婦を殺しましたは私しに相違ないと既に九助が白状に及び口書爪印迄相濟たり夫を今更人殺は汝なりと名乘出る事狂氣でも致したか然なくば最初九助入牢中の節何故名乘て出ぬ此奴察する處人殺は汝なりと忠義めかして名乘出るならば九助めは助る事も有うかなどとの奸計ならん早々村役人共引立よと言に三五郎は又否決して立ますまい私しも解死人に成事を好んで出しからに筋の無事は申立ず素より九助は慈悲深き生れ付故勿々人など殺すべき者に之なく全く拷問の嚴しきと私しを助け樣との兩條にて白状致せし事に相違なく既に九助が今日口書と聞えし故科なき者を殺すは如何にも不便に付止を得ず名乘出しなり因て下死人は此三五郎めに聊も違ひ御座らぬと白洲に鰭伏少しも動かねば役人は勿論村役人共持餘し叱りつ宥めつ漸々に白洲を引立公事人の溜りへ引出したり時に九助が女房お節は今日九助が白状に依て口書爪印相濟近々所刑になるとの事を聞狂氣の如く悲しみ歎きしが切ては夫の命乞をせんものと相談の爲島田宿の水田屋藤八が許へ行んと駈出せし途中にて折よく藤八に出會ければお節は大いに悦び九助は斯々なりと咄すに藤八も然ばなり私も其事にて出來りしと云つゝ兩人同道して直に役所へ來りしに白洲は引たれども外の溜りの中に九助は繩付の儘居けるを見て藤八お節は走り寄問んとすれど迫り來る涙に言葉もなかりけり 牢内より出入の節科人の側へ親戚を寄る事は法度なれど江戸と違ひ村方の人足のみにて知り合の百姓ども故知らぬ顏にて煙草くゆらし居たりしとぞ 扨も九助は數日拷問の苦痛に堪兼身に覺えなき人殺しの罪を白状に及ぶ程のことなれば總身肉落頬骨高く眼は窪み色蒼然髯髭蓬々としたる體彼の俊寛僧都が鬼界ヶ島の俤げも斯やとばかり思はれて藤八お節も目も眩み心も消え入る體なりしが漸々に涙を拂ひて藤八に摺寄コレ九助殿變り果たる此姿見るに付ても日々の拷問苦痛は嘸かしと思ひ遣るゝなり併ながら何云譯で人殺しと白状致されしやら如何に責らるゝが苦しいとて殺しもせぬ者を殺したとは辛抱甲斐のなき事ぞ假令骨が舍利になればとて知らぬ事は何處迄も知らぬとは何故云はれぬぞと云を九助は聞終瀧の如く涙を流し是は〳〵藤八樣御心切なる其お詞素より人は殺さねど日々夜々の拷問嚴しく假令白状なさねばとて迚も助かる命にあらずと斷念し故一時も早く此世の苦痛を遁んと覺悟を極めし此九助皆是迄の約束事コリヤお節是が一生の別れぞと聞てお節は殊さらに絶入ばかりに泣伏を藤八はコレ〳〵お節何した者だ切て九助が死なぬ中逢せて遣度漸々と是迄折角駈付しに何にも言ず泣居ては切角逢し甲斐もなし云度事の有ならば早く云てと急立るにお節は漸々顏を上夫の姿を打まもり又も玉なす涙の雨聲さへ出ず縋り寄私も一所に死にたしと身を慄はして歎く體道理せめて哀れなり九助も瞼を屡瞬き是お節其方は此九助と夫婦に成たるは前世よりの惡縁ならん我は天地の神祇も照覽あれ人など殺せし覺えは露聊かもなきなれど是皆伯父九郎兵衞が惡巧みより無實の罪に陷る事と推量はなしながら證據なき故辯解立ず是と云も先立れし親々への孝行と思ばこそ不義淫奔せし先妻お里憎ひ奴とは思へども眼前伯父の手前もあり向ふよりこそ取る金を此方からして金まで付離縁なしたる其情けは結句此身の仇となり役人衆の詞にも所詮存命協はぬと云れしなれば此覺悟然ど其方は此事の御咎はよも有まい程に御所刑濟ば田畑居屋敷家作家財は其方へ下さるゝで有うゆゑ殘らず其を賣代なし其金を持藤八樣へ相談申て何方なりと再び縁を求めよや其後自然我事を思ひ出せし日もあらば只一遍の回向をと云ばお節は恨めしげに九助の面を打まもり夫は又聞えぬ仰ぞや御前に別れて外々へ縁付やうな私ぢやない氣の弱い事を云ず共コレ父樣何卒九助が命乞をと云後より下役立出コリヤ〳〵科人へ逢せて遣るは役人の慈悲くど〳〵と何時迄居るのだサア立々と聲を懸るに藤八は懷中より金二分を出し密と袂へ入れ何分にも九助が事お慈悲の御取扱ひを願ひ上ますと慇懃に申ければ下役人點頭否夫は案じるな囚人は大切に致さねば成ぬことは上からも再應御觸の有儀なり併し今遇せた事は他へ云まいぞと徐々九助を引立れば藤八お節は何分にもと挨拶なし兩人は九助を見送るに九助も此方を振返り互ひに見交す顏と顏是今生の暇乞と三人が涙は玉霰見送り見返り別れけり藤八は我と心を勵まして宜々お節是からは御家老邸へ駈込で藤八が命を的に今一度御願申て此公事を引繰返さで置べきや然樣ぢや〳〵と立上るを私も倶に命を的とお節も續て立上り是非ともお願ひ申た上お聞入のない時は御家老樣の御玄關で其儘舌を喰切つゝ死して夫の身代りにと云ば藤八打點頭オヽ能云た其位度胸を据ねば裁許は破れぬサア〳〵來いと出立る機會に此所へ息せきと島田宿なる問屋場の五助と言者駈來り大汗たら〳〵コリヤ藤八殿々々々名主樣より至急用の御手紙早々御歸りなされましと聞て藤八何事と状箱取上げ開き見れば 急使を以啓達令め候豫々道中御奉行樣御觸有之候將軍家御代替り御巡見使松平縫殿頭樣梶川庄右衞門樣御先觸參り來月中旬頃御止宿の由に御座候尤も此度は先々の御巡見とは違ひ格別に御念も入公事訴訟其外奸曲私欲の節も御糺明有之に付所々より願ひ出候者も多く御手間取成れ候由故道端譜請御宿割等申付候之に依て貴樣早々歸宅致さるべく候以上 四月廿四日 名主  儀右衞門 問屋  六郎右衞門 水田屋藤八殿 と讀上しが此藤八は旅籠屋肝煎と言宿人足の世話をもしける故是は又惡い處へ御巡見ハテ急に歸らねば成ずコレ五助や御巡見樣は未だ山向かハイ藝州の御飛脚の噺には櫓澤通りが一昨日頃で有うと申ましたと聞て藤八ハテ御巡見街道は櫓澤竹の下スリヤ今頃は沼津吉原富士の根方邊と手を組で思案の容子成しが礑と横手を拍是お節願うてもなき幸ひが出來たぞ嗚呼是が矢張天道樣の御助けぢやヤレ嬉しや忝けなやサア己と一所に來やれと云どお節は合點行ずデモマア九助が切れる故御家老樣へと半ばも云せずナニ願ひも糸瓜も入ものかと云節お節は未だ解せずデモ爪印が濟だ上は捨て置たら夫の命夫故御駕籠へ駈付てと藤八一人呑込でお節を急立連行にぞお節は一向樣子が解らず父樣何處へ行のだと不審の顏に藤八はハテ知れた事今度の御巡見使は上樣の御代替りの御名代云ば昔の最明寺諸國の善惡聞糺す爲にと御座る御役人九助が事を御駕籠訴に行か行ぬか天下の吟味叶はぬ迄も願つて見ん夫で行ねば是非もない夫が大事と思ふなら己と一所に願ひ出よと聞てお節は飛立思ひ夫なら父樣寸時も早ふ御駕籠訴とやら云事をイヤサ何も彼も己に任せて一所に來い細工は流々仕上を見やれサア〳〵早く支度してと云にお節も一生懸命村役人へ預の身なれど跡は野となれ山坂を足に任せて走り行相良の城下を放れつゝ夫九助が命乞と思ふ計りの力草島田宿迄一息に來りし頃は夜も戌刻水田屋へこそ着にけり 第九回  斯て藤八はお節を同道して島田宿の我が家へ歸り宿場の用向萬事の儀は弟岡崎屋藤五郎へ頼み置寄場へ人を走らせ雲助頭信濃の幸八を呼寄駕籠二挺人足三人づつ尤も通し駕籠なれば大丈夫な者をと云に幸八は委細承知なしシテ又親方何處迄御出と聞に藤八は然ばサ先は確と知れぬが大概箱根前後位と思へば能と云を聞て幸八は心得其夜の中に部屋から撰で呉服屋の六團扇の源入墨七箱根傳助小僧の吉品川の松抔何も當宿の腕こき六人體へは赤合羽を羽折各自向ふ鉢卷をなし腰に挾しは叺莨入手には竹の息杖を携へ曉寅刻に皆門口へ來て親方御支度は宜かと大聲に云ば水田屋の家内は立出是は御苦勞々々々今旦那は御出なさると云中藤八出來りしが先其打扮は紺縞の上田の袷に紺紬の盲縞の羽織濃御納戸の半合羽を着鮫鞘の大脇差を帶し晒の手拭を首に捲付門口へ出て何も太儀今度は此の藤八が一世一代命を的の願ひ筋娘を連て行ねばならぬ近くて沼津か三島遠くて小田原大磯なり夫迄は行まいが太儀ながら手前達精出して呉骨は盜ぬと云に雲助共聞て口々に何親方の事だから斯云時にでも骨を折ずば何時恩を返すときが有うナアと云時下女が熱がんの酒と茶碗を持出せば雲助どもは是は有難う御座りますと手ん〴〵に五六杯ヅツ引かける所へ藤八ソレ肴と銘々に金二分宛遣に雲助はイエ親方是は入やせんと辭退なすを馬鹿を云な肴が無て呑れるものか又骨折は別だぞと云中お節も出來たるに女房娘を始めとして皆々門へ送り出風呂敷包は駕籠に付サア〳〵急いで遣て呉と云に何れも合點と二挺の駕籠を舁上れば御機嫌能うと一同に見送る中に女房は呉々お節が頼み事首尾能成就なす樣にと云に藤八莞爾と笑ひ其處に拔りが有者かと夜明烏と諸ともに寢ぐらを放れ行空は花の島田を後になし急ぐに瀬戸の染領や清き小川を打渡り心は正直一遍の實意ぞ深き洲崎村五里の八幡も駕籠の中祈誓を籠し櫻山巡る麓に風薫る時は卯月の末の空花の藤枝はや過て岡部に續く宇都の山蔦の細道十團子夢か現にも人にも遇ぬ宇都の谷と彼の能因が昔を今に振も變らぬ梅若葉鞠子の宿を通り拔阿部川にこそ來りけれ藤八お節の兩人は傍邊の茶屋へ駕籠を下させ暫時憩ひながら藤八は茶屋の亭主に向ひ此度公方樣御代替の御巡見樣御通りの由最何處らまで御出成れたで有うと問に茶屋の亭主はハイ此間からの騷ぎで御座りますが未だ此邊へ御出は御座りませぬ併昨日雲州の御飛脚が咄には箱根を一昨日とやら御越成れまして富士の根方廻はりが二三日掛ると仰られましたから今日邊りは三島で御座りませうと云を聞と等く藤八は又々夫急げと聲を懸るに雲助ども合點と駕籠舁上れば木枯の杜を那方に此方なる賤機山を心指て行手は名に負駿河の府中午刻も過て巴河音にぞ知るゝ濱續き清水久能は右の方は左にとりて富士見山茂る夏野の草薙の宮を力に伏拜み江尻の宿や興津川薩陲峠は七ツ過手許も暗き倉澤の間の建場を提灯燈由井の宿なる夷子屋に其夜は駕籠を舁込だり斯て藤八宿屋の主に委細の樣子を聞くに今宵は原の御泊なりと云に漸々心も落付夫より願書を認め是お節明日中には御巡見樣方へ御願ひ申上るにより必ず氣を大丈夫に持申上る事を能考へ置と云ばお節は彌々打喜び實に何から何まで厚い御世話有難う御座りますと言けるが終夜寢も遣らず心急儘一番鳥の鳴や否や起出つゝ支度調へ藤八諸共曉寅刻比より宿屋を乘出し蒲原の驛外にて夜も明渡り辨慶清水六代御前松並木も打越て岩淵の渡りに來り暫時休息なし頓て富士川の逆卷水も押渡り岩をも徹す念力の岩手の村や四日市見上る方は富士の峯夫の命取止て鶴芝龜芝青々と齡ぞ永く打續き麓の裾野末廣く天神山や馬場川口柴橋大宮木綿島吉原驛も打過て日脚も永き畷道未刻下りに來懸たり斯る折から遙か彼方より露拂ひ右左に立下に〳〵笠をとれ馬の牽綱を詰よと制し來れるは將軍家御朱印入の長持なり藤八は未だ御巡見使の來らるゝとは思はぬ故傍邊の馬士に對ひ何方樣の御通行ぢやと問に馬士は打笑ひ是を知られぬか御順見樣ぢや疾く下さツしやれと云を聞藤八は何御順見樣ぢやヤレ嬉しやと駕籠から轉げ落ぬ許りに下立コリアお節サア〳〵己と一所に此方に居やれと道の傍邊に兩人跪居る中麻上下を着せし驛役人ども先に立下に〳〵と往來の者を制しながら來るに程なく正使御目付代御使番高二千石松平縫殿頭殿先箱赤熊二本道具徒士小姓馬廻り持槍は片鎌の黒羅紗長柄簑箱對箱草履取引馬鞍覆は黒羅紗丸に蔦の紋所引續いて公用人給人其外上下七八十人萬石以上の格式なり副使は御勘定梶川庄右衞門殿槍挾箱長柄其外引揃へ行列正しく通行あるに藤八は夫と見るより豫て用意の訴状を青竹に挾み往來の傍らに平伏なし大音上で願ひ上ますと青竹を差出せば松平縫殿頭殿駕籠を止めよと聲を懸らるれば駕籠脇の侍士石井彌兵衞右の訴状を受取り駕籠の中へ差出すを縫殿頭殿一通披見致され彌兵衞兩人を是へ呼と申さるゝに彌兵衞は畏まりコリヤ兩人共近ふ出よとの指揮に隨ひ藤八お節ハツと進みて平伏す時に縫殿頭殿コレ彌兵衞其所にて樣子を聞と願書を渡されしかば彌兵衞は左の手に願書を持ちながら跪踞其方儀は願書の面に有通り當國島田の藤八と申者か又夫なる女はと問に藤八ハツと答へ是は私が養女節と申者にて遠州榛原郡相良領水呑村九助妻なりと申立れば縫殿頭殿是を聞れ其方共顏を上よと有しに兩人は恐る〳〵少し面を上る時駕籠の中より熟々と見らるゝに(此時は所謂誠心の虚實眞僞面に表るゝを見分る緊要の場なりとぞ)兩人は氣を詰て控へながら願書御取上の有無は如何や又咎にても蒙る事歟と心配し居しに頓て縫殿頭殿彌兵衞を呼れ兩人が體を見るに僞らざる樣子自然面に顯るゝにより願書の趣き一通り糺明遣はせと言れ駕籠をと有に徐々乘籠を舁出すにぞ彌兵衞は跡に殘り其方どもの訴状御取上げ是ある間今夜の御本陣は吉原驛なるにより汝等同所に到り下宿して御沙汰を相待べしと申渡すを兩人ハツと鰭伏時彌兵衞は吉原驛の役人を呼那なる兩人の者共今宵御吟味の筋有之に付其方共に屹度預る間願人共を粗略に致すなと申渡し其儘駕籠に追尾けり然ば藤八はヤヽ御取上下さると歟ハヽア有難や嬉しやと涙を流し頭を大地へ摺付々々伏拜めばお節も餘りの嬉しさにウンと後へ仰向反し儘暫し正氣を失たり 俚諺に富を取て目を廻し身代に苦みし者漸々金の蔓に有付ヤレ〳〵嬉しやと思ひ病氣付事あり是心の弛より出るとかや茲に畏くも 人皇百九代 後水尾天皇には至て和歌を好ませられ後々三十六歌仙を御撰み遊ばされし事あり此事世の人の知る所なり時に元和九年徳川二代將軍家御上洛あられしかば京都の繁華前代未聞なり然るに其年の十月頃時の關白二條左大臣殿の諸大夫にて取高七石二人扶持なる河島伯耆守と云る人或日只一人祇園の社へ參詣なし祇園豆腐と云を賣る家に立寄しに一人の女早々膳を持出いざ御上り成れましと出す時その女 雪ならば梢にとめてあすや見んよるのあらしの音ばかりして と詠じける故流石公家の侍士感心し腰の墨斗を取出し今一度吟じ聞せよと云に女は恥らひし體にて口籠るを河島其方の名は何と云ぞと聞に女はヘイかぢと申ますと答しかば夫より河島立歸り二條殿へ右の歌を差上しに二條家御感の餘り其儘奏聞なし給へば賤敷女にも斯る風流有けるよと即座に御歌所へ遣はされ歌仙へ加へさせられ又北面北小路從五位下東大寺の長吏若狹守藤原保忠 勅使として祇園へ至り 勅使なりと聲を掛ければ茶屋にては吃驚なし狼狽廻るを 勅使は此家に梶と申女居る由此所へ出しませいと云るゝに彌々仰天しながら何事やらんと漸々連出しかば 勅使は其方は冥加に叶ひし者哉汝が詠歌殿下へ相聞え其上 當吟の 叡覽に備へられし所名歌なりとて仙歌へ御加へ遊ばされ猶又 叡感の餘り 御宸筆を下し置る有難く頂戴せよと函を出せばおかぢは押戴拜見して涙を流し斯る卑き賤の女が腰折も和歌の徳とて恐多くも關白殿下へ聽えしも有難さ云ん方なきに況てや十善萬乘の君より御宸筆とはと云つゝ前へがツくり平伏致すと思ひしに早晩死果居たりしとぞ依て遺骸は洛外壬生の法輪寺に葬り今におかち女の墳同寺にありて此和歌殘けるとかや 然ばお節が目を暈せしとて大騷動となり人々立騷ぐにぞ縫殿頭殿是を聞れ女が心底を感心有て印籠の中なる氣付を出し駕籠脇の者に渡され立歸りて是を與へよとありしにぞ駕籠脇の侍士立戻りて彼の藥を與へしかば藤八は押戴き重々有難き仕合なりとて宿役人倶々介抱なせしに漸々氣の付ければ驛役人同道にて直に吉原驛伊豆屋甚助方へ到り本陣の御沙汰を今や遲しと待居たり既に其日も暮近き頭一人足輕八ツ字蔦と云字の目引に紺の看板着たる小者を連て伊豆屋へ來り藤八お節同道致すべしと云渡せば兩人は驚破やと悦び宿役人同道して本陣の勝手口へ廻り右の段を申込けるに良あつて是へ通せと有ければ本陣の次の縁側先へ兩人を呼出す此時正面には松平縫殿頭殿少し下りて右の座へ梶川庄右衞門殿次には公用人櫻井文右衞門田村治兵衞此方には川上貞八石川彌兵衞浦野紋兵衞縁側際には足輕五六人非常を警しめ廣庭には吉原宿名主問屋本陣組頭宿役人並居たり公用人櫻井文右衞門兩人が願書を以て入側に進み出島田宿藤八同人養女節と呼時用人ハツと平伏なすを見て其方共儀遠州水呑村名主九助と申者の身分に因て今日御駕籠訴に及びし段御取上に相なりしは今度上樣御代替に付御仁政の始め諸國へ御巡見使を相立てらるゝは御領私領とも忠信孝義の者を見いだし且つは其所の役人自然私欲の筋等之れあり下々の者難澁致す向もあらば夫々御糺明仰付らるゝ御趣意なり依て上樣御目代との仰を蒙り駿遠三尾の四ヶ國の巡見使として松平縫殿頭罷越せし處なり然ば其方共願ひの筋江戸表へ御差出に相成天下の御評定にも相成に付願書の趣き一通り御吟味有之により有難く存ずべしとの仰にけり扨是より一通り糺問の上藤八お節の兩人江戸表へ差立となりたり 第十回  夫任ずるに其人を擇めば黜陟明らかにして刑罰中らざるなく實に百姓をして鼓腹歡呼せしむ諺ざに曰其人を知らんと欲すれば其の使ふ者を觀よと故に八代將軍吉宗公は徳川氏中興の君と稱へ奉つる程の賢明に在ませば其下皆其任に適はざるなく今般の巡見使松平縫殿頭殿も藤八お節が訴訟を一目して其事僞りならざるを知り即夜旅館に呼寄一通り糾問に取掛られたり然れば藤八お節の兩人は願ひの趣き御取上に相成し事實に有難き仕合なりと涙を流し平伏してぞ居たりける時に縫殿頭殿公用人櫻井文左衞門藤八に向ひ夫なる節と申女は如何なる身分の者にて其方養女に致せしぞと申すに藤八謹んで面を上げ渠は當阿部川驛の勘五郎と申百姓の娘にして右勘五郎妻兆と申者は私し妹に候へ共實は姪の續きに罷りなり候然る處同人儀幼年の頃より不仕合の者にて五歳の時父勘五郎に別れ母兆が手一ツで育てし處九歳の春又母兆中症に相成候て幼少の身にて日々往來の人に僅の物を商ひ其餘力を以て母を養ひ居候に付私し如何にも不便に存じ親子共引取べき旨種々申聞候へ共今更厄介に相成候は不本意なりとて聞入申さず五ヶ年の長病を只一日の如く甲斐々々しく看護仕つりし其孝行を土地の人も聞傳へて賞者にせられしが遂に其甲斐なく十四歳の砌り右母病死仕つり他に頼るべき處もなきにより夫より節を私し方へ引取し事なりと申せば文左衞門ムヽ扨は姪の事故娘に致して九助方へ縁付遣したかと申に藤八は仰の通りなれ共夫には因縁の御咄あり右節事母兆を介抱の中十歳の際勾引され既に何國へか連られべき處九助儀江戸表出府の節其場所を通り合せ此難儀を救ひ遣し其夜節方へ一宿仕つり艱難の體と孝心の程を感じ九助より錢一貫文遣はして翌朝九助は江戸表へ出立いたせし由其後節儀私し方へ引取し處段々其節の事共を物語り今一度其人に逢禮を申度由日來申居しに夫より五ヶ年を相立私しは日蓮宗故十月會式に甲州身延山へ參詣の戻り瀬戸川迄歸り來りし時盜賊に出會し旅人難儀の體故見兼まして其盜賊を追散し私し儀幸ひ旅籠屋の事に付右の旅人を連戻り泊候機是なる節は其旅人を見るより吃驚致し此が以前の恩人水呑村の九助なりと申により私しも外ならず思ひ段々承まはるに九助儀大金を持參致し居る由故翌日送り屆け度と存候處私し儀據ころなき宿の用にて同道致し兼るに付無用心ゆゑ金子は私し預り渠へは日蓮上人の曼陀羅を渡し置右を證據に持參致さば金子は引替に渡すべき約束仕つり九助は歸宅仕つりしなり其譯は私しの宿より九助村方迄は六里程の行程にて大井河原續ゆゑ甚だ街道物騷に存じ昨日の如く途中盜賊にも付られなば如何故村方へ立歸り親類共にても兩三人同道にて來らば大丈夫と心得斯の通り取計ひしと申ければ文左衞門シテ其金は何程にて其滯ほりなく九助に渡せしやと問に藤八は然ばにて候其金高は百八十兩にて其翌日九助が親類なりとて周藏喜平次と申者兩人彼の曼陀羅を持參仕つりし故引替に渡し遣せし處其日の未刻頃に九助私し方へ參り昨日預り歸りし大切の曼陀羅紛失致し申譯なき仕合せなりとて如何にも當惑の體に申故其曼陀羅は先刻親類の者持參致し預り金と引替手前へ聢と請取まで取置し趣き申聞候と云を聞文左衞門は夫は親類と申て請取に參つたは僞者だなと云に藤八は御意に御座ります因て私し九助と計略を示合せ九助歸國の祝ひと申振舞を致させ村中の者を呼寄私し竊に參りて見まするに周藏と名乘りしは村の名主源藏又喜平次と申せしは右名主の手代源藏と申者にて偖又茲に不思議な事は渠等二人が戻りし後に三徳が落てありしが其中に九助の妻里と申者九助が留守中名主惣内と密通致し曼陀羅を盜みて同人へ送り彼の金を騙取其後村方を出奔致す申合せの文在しにより私し是を以て九助の證人となり右の金子を取返し候處九助妻と申者は九助の厄介になり居る伯父九郎兵衞の娘にて九助とは從弟續きに候と云ば文左衞門はハテサテ込入し儀ぢやなと言を藤八は又語を繼ぎ其上九助伯父九郎兵衞と申者も名主惣内母後家と密通致し居り尋常ならぬ中ゆゑ親類内相談の上にて里へ金五十兩付て離縁いたし其後惣内と夫婦に相なり伯父九郎兵衞も介抱人と名を付惣内母へ後家入夫に這入しなり又九助の親類共は私し姪節を九助の妻に致し度段相談仕つるにより一方ならぬ深き縁と存じ私し養女に致し同人方へ遣はせしなりと事細密に申ければ文左衞門は委細相別りたりとて夫よりお節に向ひ其方只今藤八が申通に相違無かと云にお節はハイ相違は御座りませぬと申時文左衞門シテ此度九助が難儀と云譯は人殺の科人とて無實の罪に陷たる趣き願書に見ゆるが猶又口上を以て委敷申立よと有る藤八は膝を進め右惣内名主役勤中押領彼是宜らざる儀之ある旨小前百姓一同より申立により名主退役と相なり猶村中相談の上九助儀を惣内跡役に御領主樣へ願ひ出九助儀名主役仰付られ相勤居候處當三月十九日夜下伊呂村大井河續きの河原に於て右惣内夫婦何者の爲に切害せられしか二人共に首は切て取隱し胴ばかり殘り居りしを伯父九郎兵衞惣内の母諸共九助が仕業なりと訴訟出しに依て召捕れ晝夜拷問強きにより九助は是に堪難く己が科ならぬ事を身に引受無理白状に及びしかば終に口書極り爪印も相濟明日頃御所刑に相成由ゆゑ斯火急に願ひ奉つると申立るを縫殿頭殿先刻より熟々聞居られしが頓て膝を進められ夫は何か仔細の有さうな事シテ然樣に拷問に掛るには何か證據がなくてはならず何ぞ遁れ難き證據にても有しやと尋らるゝに藤八謹んで答ふる樣先月二十日は節が實母の七年忌祥當なるにより大井川の東上新田村と申處に尊き御僧が在る故何卒母の供養を頼み度と夫九助に申せしに九助も姑の事に付金谷村より歸りし草臥足をも厭はず自身に夕申刻過より右の寺へ參る其夜亥刻近き頃宅へ戻り來る途中下伊呂村の河原にて死人に跪きたれども宵闇なれば物の文色も分らず殊に夜陰の事故氣の急まゝ早々宿へ戻りて其夜は打臥翌朝門の戸を明候節衣類の裾に血の付居しを妻節が心付如何なる事ぞと申せしに九助も驚き昨夜河原にて跪きしが酒に醉し人の倒れ伏居る事と思ひしに怪我人にてもありしかと語り居し時九郎兵衞が案内にて領主の捕方入來り有無を言せず召捕入牢申付られしに依り私ども大に驚き段々樣子を承まはり候へば九郎兵衞夫婦田地を質に入金子を役人衆へ遣したと申事是は人の噂なれば聢とは申上兼れ共九郎兵衞夫婦の者甚だ怪しく存じ候と事細密に長々と申立ければ縫殿頭殿にはシテ其法事を頼に參りし寺の名は何と申又其事故を申立なば定めし其和尚をも呼出し九助が寺へ參りし刻限歸宅の時刻等も取糺ありしならんと申さるゝに藤八然ば其儀を九助より度々申立ると雖役人衆一向取上も御座なく只白状致せ〳〵とのみ日々拷問嚴敷何分苦痛に堪かね候に付餘儀なく身に覺もなき人殺の趣きを白状致せしと此所に居る節と私へ九助より申しましたと云時お節も首をあげ只今藤八が申上し通りゆゑ夫の命を何卒御助け下る樣にと申に縫殿頭殿コリヤ其方ども九助入牢中何して會其話を聞きしぞよもや白洲で話したでも有まいと尋ねられしかば節はハツと語が閉がり只もぢ〳〵して居る故藤八は又進み出右の一件は一昨日御慈悲願ひに節を召連れ領主役場の腰掛へ參りし際九助は爪印濟に成とて腰掛の圍の中に居し故實は下役人へ少の贈物を致し其人の心入にて腰掛の小蔭で此世の暇乞を致せとて遇せられ其節委細に承まはりし儀にて既に御所刑も獄門とか申事なれば只今頃九助は何なりましたか何卒して助け遣し度此段偏に願ひ奉つると如何にも火急の歎願に聞ゆれども未だ盡さゞる所あるにより縫殿頭殿は猶念を押れ其方最初九助江戸奉公中に百八十兩と云大金を貯へたと有が右は如何樣の儀で貯しぞと申さるゝに藤八其儀承まはりし處江戸駿河町の町内抱へ番人を相勤め店先にて小商ひ仕つり千辛萬苦致して貯へし由申聞し也と云ふに松平殿なる程町内の番人などと云は隨分金の出來る者と聞込んだが僅か五年許りの中に百八十兩とは餘り大金の事ならずやと有にお節は其儀は九助が毎度話しますには金八十兩町内に落し物が御座りしとか其落主が知れませぬ故御奉行樣へ訴へました處其後も落し人が出ませぬにより大岡樣とやら申御奉行樣より拾ひ主九助は正直者との御譽の上右の金子八十兩を其儘戴きしが其節も何か種々と取込だ事が御座りしとか申事其後歸國の節越後屋とやらから金二十兩程貰ひ町内地主樣家主樣から十兩ヅツ貰ひ自分が貯へし金も四五十兩餘にて其外町内の方々より餞別を贈られ都合百五十兩程に成しとの事成と云に縫殿頭殿如何樣藤八其通に相違無かと申されしかば藤八其儀は節が只今申上し通り毛頭相違は御座無何卒御慈悲の吟味願ひ奉つると申時縫殿頭殿副使の梶川庄右衞門殿に向はれ御聞なされた通渠等が願ひの赴き相違なく聞こゆるによりとに右領主の所置を差止置此段江戸表御老中方へ早々御用状にて申遣し公邊の御裁許に任せ候方よからんと存ずるが如何やと有るに梶川氏も同意の趣き申さるにより縫殿頭殿又藤八お節に向れコレヤ藤八節兩人の者此度江戸表へ差送り天下の御吟味に成る間然樣相心得一先下宿へ下り控へ居れと申し渡されければ兩人はハツと平伏し喜び涙に昏たりける夫より松平殿は給人竹中直八郎を呼出されて其方は江戸表へ兩人を同道なし邸へ連參り御用状を御月番の老中方へ差出し御下知次第掛の奉行へ兩人を引渡し候上再び旅行先へ來るべしと申付られ又給人牧野小左衞門を呼出され其方は早追にて遠州相良へ參り長門守用人共へ此書状を相渡すべし是は水呑村百姓一件江戸表へ差立再び吟味に相成事故此方より遣す書状否は申さぬ筈なれども本人の爪印相濟候などと難澁申間敷にも非ず其節は此儀を拒めば主人長門守爲にも相成まじき段屹度申渡し且右掛の諸役人迄殘らず迅速に出府致す樣に申渡すべし早々急げと云れしかば畏まり候とて牧野小左衞門は吉原宿役人に早駕籠一挺申渡し其夜の子刻過に吉原宿を乘出し相良の城下へと急ぎけり 第十一回  茲に又水呑村の百姓三五郎は主人九助が無實の災難を逃れさせんと種々工夫をなしけれども領主の役人共勿々取上げなく却て當時村預の身となりしかばいとゞ殘念至極に思ひ此上は神佛の應護に非ずんば遁れ難かるべしとて一七日の間荒行を始め晝夜共に六ツ時に水垢離を取て鎭守へ百度參りを致しける其七日の滿ずる日の暮方山の上よりして颯と吹下す風に飄然と眼の前に吹落す一枚の牌あり手に取て見るに立春大吉護摩祈祷守護可睡齋と記したれば三五郎は心に思ふやう彼の可睡齋と云ば東照宮より御由緒ある寺にして當國の諸侯も御歸依寺也因ては可睡齋へ參り委曲事を話し實意を打明て御願ひ申なば命乞の事協ぬ儀は有まじ然なり〳〵と其儘駈出して見付驛なる可睡齋の臺所へ駈込三五郎は手を突何卒御住持樣に御目通りを願ひ度と云けるに役僧は其方は何者なるやと問に三五郎ハイ私しは相良領水呑村の百姓三五郎と申者御住持樣へ直に御目通の上御願ひ申上度儀御座るにより參りしなり何卒御執次下さるべしと申ければ役僧は己に申ても解るものを百姓の分際として御直に申上たしなどとは無禮なりと少し怒りを含みて汝は當山を何と心得居る駿遠參三ヶ國の總祿所八百ヶ寺の觸頭寺社奉行直支配の寺なるぞ其住職の大和尚へ直談致などとは不屆至極なりと云に三五郎は否夫は御前樣の仰なくとも承知で御座る寺社奉行樣の御直支配は扨置假令宮樣御門跡樣でも御願申上からは御逢下されぬと云儀は憚りながら御座るまじ御釋迦樣は淨飯王と云天子樣の御子なるが世を御救ひの爲なれば惡病人は勿論五十二類の者迄にも御教化遊ばされしと承りしと云に役僧は益々怒り其方は高慢の儀を云奴かな釋迦の時は釋迦の時今の時代は又今の時代なりと申を三五郎は何分承知せず然樣なら御釋迦樣の時は極樂へ遣今の時代は地獄へ御引導成れますか憚りながら出家の御身分は何と御心得成れますぞと顏色變て言ひければ役僧は己不屆至極な奴なり汝は大方搖り騙に相違は有まいコリヤ男共此奴を追出せ夫擲き出せといふ聲を聞より下男共は手に〳〵棒縢を携へて追立んとすれども三五郎は少しも騷がず擲なら勝手に擲かつせい何を以て出家の口から私を搖りだの騙だのとは云つしやる昆虫迄も殺さぬを殺生戒とは申さずや罪なき一人の百姓を打擲んとは出家に似氣なき成れ方お釋迦樣は親を殺し主を殺す五逆の罪人でも濟度なさるゝに此御寺を見込て御願ひに參りし土民の申事を御聞入なき時は是非に及ねども兎に角和尚樣に御目に掛り一通り願ひ上げ協ぬ時は歸る分の事私より決して手出は致さぬと云つゝ其所に居し凝にぞ弟子番僧は立騷ぐを方丈聞かれ何事なるやと尋らるゝに水呑村百姓三五郎と申者御逢を願ひ度と申出しが百姓の分際にて御直に御目通りは叶ひ難しと申せしかば斯の仕合なりと言に方丈は其者是へ通せと申さるゝゆゑ侍者の坊主立出コレ各々方鎭まられよコリヤ百姓和尚樣御逢成るゝに因て此方へ通るべしと言を聞て三五郎是は有難しと後に尾て大方丈を通拔鼓樓の下を潜りて和尚の座敷の縁側へ罷り出平伏なすに此時可睡齋は靜かに緋の衣の袖をかき合せながら三五郎を見遣られ相良領の百姓三五郎とやら愚僧へ如何なる用事あつて參りしぞと尋ねらるゝにぞ三五郎はハツと答へ最前より無禮の儀ども申上しを御咎めもなく却て御目見仰付れし事冥加至極有難き仕合せなり方丈樣へ御願ひと申すは別儀にあらず私し主人儀無實の罪に陷り近々御所置に相成に付何卒御衣の袖を御掛なされて御たすけ下さる樣に願に罷り出しと云ければ可睡齋は眉を顰め夫は如何樣の儀なるやと言るゝに三五郎は九助が是までの事柄を一伍一什物語り右に付私し儀主人の身代り御仕置に相成樣願しかど夫さへ御取上なければ此上は何卒貴僧樣の御慈悲御情で九助が一命御助け成れて下さらば誠に有難う御座りますと申せば可睡齋聞てイヤ佛道は人を助くるが趣意なりとて王法有りての佛法なれば國の政事に口出しはならず又役人と雖も筋道なくして人を害すべきや其九助と云者假令此度人を殺さず共是迄に何か惡事が有か但し前世で人でも殺したる因果の報いなるべし然すれば何も悔むには及ばず皆是因果の歴然なり雜法轉輪と諦めよと言るゝに三五郎は押返し然樣でも御座らんが其處が御出家の役首の座へ坐る者を何卒御救ひ成れて下されよと只管に頼みけれども可睡齋は首を振汝よく聞よ佛法と言共今は末法なり釋迦の時代とは事異り愚僧が如き不徳にては勿々有罪の者を現世にて救う事は成難し因て國法を立て是を仕置す然れば及ずながら未來は救ひも遣さうが現世の罪人を救う事は協はずと申さるれば三五郎は猶も首を縁に摺付其處が御衣役御圓頂役なれば諸役人も一了簡異り殊には御寺格と申彼是助る儀も御座らんにより何卒命乞成下さるゝ樣偏に願ひ奉つる此事御聞入下さらば假令私しの骸は如何樣に相なるとも聊かも苦しからず何卒主人の一命をと涙を流し手を合せ鰭伏々々歎く體忠義の心底顯れしかば可睡齋も感心なし善哉々々汝が志操感心致したり力の及ぶ丈は救ひ遣はさんと云しかば三五郎はハツとばかりに平伏なし有難涙に咽び頓て暇を告て臺所へ下り所化へも厚く禮を述居たる處へ奧の方より侍僧出來り明日は未明の御供揃ひにて相良まで御出あるにより陸尺仲間を支度すべしと申渡しけるを三五郎は聞て彌々身に染々と有難く思ひて立歸れり時に享保二年四月廿七日今日は九助の一件落着なし死罪獄門と相定り家老中諸役人町役所立會の上申渡す事故本多長門守家老本多外記既に支度に及びて玄關先に駕籠を寄巳刻の太鼓を相待處へ對の先箱天鵞絨袋入の立傘等を持ち緋網代の乘物にて可睡齋城門へ乘込來るゆゑ門番人下座をなしながら可睡齋樣と呼上れば執次の者は立出て書院へ案内す可睡齋は外記に對面して時候の挨拶終り後に九助が命乞の趣きを申入らるゝに外記は仰の趣き委細承知仕つり候へ共既に口書爪印濟たる上は今更致方なく候間然樣に思召るべしと云を可睡齋押返し愚僧態々推參致し右の趣き御聞濟是なきに於ては退院致すべき存寄に候と思ひ入て申されけるにぞ外記は殊の外迷惑に思ひ然樣の思召ならば曲て一等罪を輕く致すは格別二人迄の人殺しあればとても助命の儀は相成難し何れ共に是より出席致し今一應吟味の上罪を一段輕く申付る樣取り計はんと申に可睡齋も止を得ず何分にも九助が助命に相成樣御取計ひをば頼入候なりと厚く申置れ旅宿なる相良の功徳寺へ引取けり斯て程なく巳刻の太鼓も鳴たる故外記は役所に出けるに早同役の中村主計用人小笠原常右衞門柳生源藏大目附武林軍右衞門物頭には里見圖右衞門橋本九兵衞目付朝比奈七之助徒目付岩本大藏勘定奉行兼郡奉行松本理左衞門代官黒崎又左衞門市田武助町奉行緒方求馬等出席ありて足輕共は白洲を固めたり 第十二回  偖又白洲の縁側には町奉行下役郡方手代々官迄殘らず綺羅びやかに居並び今日は九助に切繩を掛て引据九郎兵衞夫婦村役人周藏喜平次木祖兵衞三五郎下伊呂村名主藤兵衞組頭惣體引合人殘らず罷り出村役人より去る廿四日節儀逐電いたせし旨屆け出一同外記が出席を待けるに可睡齋との掛合に依て時刻延引なし漸々只今出席にて傍邊の人々へ會釋して上席に直りしかば松本理左衞門は進み寄九助が爪印を差出すを外記は取上げ口書を熟々見て九助儀斯まで白状致し口書へ爪印までなすからは聊かも相違は有まじ然れ共爪印は逆手なり手を逆に致し押たるは怪しむべし此儀吟味を遂られしかとあるに理左衞門は眉に皺を寄仰せの通り逆手なれども夫は渠が得手勝手にて押たるも知れず左角白状が證據にて爪印は實の掟までなれば其邊の尋は致し申さずと答ふるにぞ外記は首を振否々左樣の取計は有之まじ假令白状致すとも口書爪印なければ所刑には致さぬ筈なり然るを白状さへなせば爪印は何でも宜と申ては爪印を押せるに及ず是は其身の中骨の端にて證印爲す事なれば爪印は輕からぬ儀ゆゑ猶一通り糾され然るべく存ずる也とあるにぞ理左衞門は是非なく九助に向ひコリヤ九助其方儀此程爪印の節掌を上へ返して押たる者と相見え爪印が逆に成て居るはコリヤ如何の譯なりやと云ければ九助はハツトばかりにて一言の返答もなく只落涙に沈み俯向て居たるにぞ理左衞門は迫込でコリヤ何ぢや御重役方よりの御不審なるぞ汝れ何心なく押たのか但指に痛所にても有て逆に押たるやコリヤ何ぢや〳〵と迫立れど九助は一向無言にて只無念の顏色をなし切齒を爲しながら涙を流し居たりける外記は仔細ぞ有んと上座より聲を掛け如何に九助不分明なる爪印の致方眞實に申すべしと有しかば九助はハツと頭を上げて家老中の席を然も恨し氣に見上げしが外記の方に向ひ流石は御當家の御重役程有て能こそ御尋ね下されたり實の處は人を殺したる覺えは御座らねども責苦の嚴敷故に所詮實事を申上たりとも必ず御取上はなき事と心得寧一思ひに斬れし方が増ならんと覺悟を極め無實の罪を引受て兩人の者を殺せしと白状は致せしなれども此身にとりて覺えなきこと故至極殘念に存じ爪印の節恐れながら上を怨む心より我を忘れて逆手に捺まして御座ると申ければ理左衞門大いに憤ほり大の眼を剥出して九助を發打と睨付コリヤ〳〵其方は只今御重役の一言にのさばり若や命も助るかと未練にも今となりて諄言を申條不屆至極なりと大聲にて叱り付外記に向ひ只今御聞の通りなれば何も仔細は御座候はずと云ふを外記は否々何やら少し吟味が殘つたかと考ると言ふ時同役の中村主計進み出否外記殿此上御尋ねなさるゝに及ばず假令如何樣に拷問が強いと申たとて身に覺えのなき者ならば白状は致すまじ然るを今此方にて不審致す詞の緒に付て彼是申は可謂引れ者の小唄とやら取に足ずと申せしかば外記も暫時默止居たりしを理左衞門は得たりと九助に向ひ其方は言語道斷の惡人なり先日獄屋に於て白状致せしを今又然樣の空言を申上ば汝又骨を碎き肉を醢にしても云さすぞ少しく甘き詞を懸れば直樣事を兩端に申立る條不屆至極なりと勃然となりて怒るにぞ九助は二言と返答もせず居たりしかば理左衞門は家老中へ對ひ此期に及んで斯の如きの始末言語同斷の曲者ゆゑ彌々今日御所刑に行ひ然るべしと申時主計は點頭如何樣御法の如く申渡て宜からんと云を聞理左衞門は開き直りて高らかに 其方儀先名主惣内妻さとは先妻に有之候へども一旦離縁致し候上は違論之なき筈の處右體の儀を根に持惣内へ遺恨を含み去る二月十九日下伊呂村辨天堂前大井河原に於て右惣内さと兩人を殺害致し候段不屆至極に付水呑村下伊呂村引廻の上獄門申付る と申渡し又水呑村先名主惣内介抱人九郎兵衞并に同人妻村方役人及び下伊呂村役人共と呼時一同ハツと答ふるにぞ理左衞門は何れもへ向ひ九助儀先名主惣内夫婦に遺恨是れあり殺害に及び候段一々白状に及びしに不屆至極に付引廻しの上獄門仰付らるゝなり左樣存ぜよ其外の者共は不埓の筋も之なきにより構ひなしと申渡せば皆々ハツと平伏なし一件引合の者共は退きけり此時家老外記は不審少なからず思へども證據も之なき事故強ても論じ難く其席を退き可睡齋の旅宿に到り對面の上天下の大法は破り難き趣きを申述後念頃に法養の事を頼みける然ば無殘なる哉水呑村の九助は豫て覺悟とは言ながら我が罪ならぬ無實の災難今更怨んで甲斐なしと雨なす涙に面を浸し首うな垂て面目なげに目を閉口には稱名唱へ未來を頼み彌陀如來救はせ給へと口の内今ぞ一期と看念なし水淺黄色の袷の上に切繩を懸馬の上に縛り付られ眞先には捨札紙幟を立與力同心警固をなし非人乞食取込で相良の町へ引出されしは屠所の歩行の未の上刻是を見んとて群集ふ老若男女おしなべて哀の者よ不便やと云ぬ者こそなかりけれ斯る所に向ふよりして早駕籠一挺ワヤ〳〵と舁來り人足どもは夫御早なり片寄々々御用々々と聲を懸つゝ制しければ引廻し者は道の傍らへ寄居るを早の侍士所刑者と聞より駕籠の簾を撥退見るに先に立たる捨札に水呑村九助と書付けありしかば領主の檢使役人是へ〳〵と聲を掛しかば仕置掛りの者ども吃驚なし當日の檢使與力村上權左衞門田中大七の兩人馬より下り立駕籠の前に來りて拙者共は本多長門守家來村上權左衞門田中大七と申者今日人殺し科人水呑村名主九助儀獄門の仕置に付檢使申付られ只今刑場へ臨む所に候然るに貴所樣には如何の御方にて又何等の御用之あり拙者共を御呼留成れ候やと申に早打ちの侍士莞爾と笑ひ御道理の御訊問拙者儀は御代替りにつき將軍家の御目代巡見使松平縫殿頭殿家來牧野小左衞門と申者此度御領内水呑村名主九助一件江戸表へ御差出の御用状持參致したり當地重役衆に御意得る間所刑者は是より引返されよと申せば兩人の檢使答る樣御巡見樣よりの御差圖とあれば仔細も有之間じく候え共拙者共役儀に候へば此處に控へ罷在り重役共の下知次第引取るべし依て直樣引返し候儀は御差圖に隨ひ難しと申ければ小左衞門は是は御道理なる儀某し早々重役衆に御達し申べし沙汰の有迄御控へあれと云捨駕籠を急がせんとなす時兩人は暫しと聲掛今日は當所評定落着日に付役人共町役所に相詰居るにより直に役所へ御出有て然るべしと申にぞ小左衞門承知なし町役所へと急ぎ行頓て遠州榛原郡相良の城下根來町役所へ横着に乘込たり然ば詰合の役人共大いに驚き何事やらんと早速尋ぬるに諸國巡見使松平縫殿頭使者牧野小左衞門なりと云ながら駕籠より立出刀引提役所の上座へ通りければ諸役人下座へ引下り一同平伏す時に小左衞門重役衆と聲を掛るに家老本田外記中村主計進み出一通り挨拶畢る時兩人は何等の御用に候や伺ひ奉つらんと申ければ小左衞門は状を改め今度主人縫殿頭より使者の趣きは長門守殿御領分水呑村百姓名主九助一件に付用人共より各自方への御用状先御披見成れよと首に掛たる御用状を相渡せば外記は之を請取封押切て讀上るに 以剪紙得御意候然ば今般主人縫殿頭儀台命を蒙り駿遠三尾濃四ヶ國巡見として罷越し駿州吉原宿泊の節長門守殿御領分水呑村名主九助妻節并に駿州島田宿藤八と申者愁訴の趣き吟味に及び候所再應糺明の筋有之に付右の段江戸表御老中方へ縫殿頭より御屆けに及び右節藤八とも差立相成候間本人九助并に九郎兵衞夫婦下伊呂村々役人其外掛合の者一同勘定奉行兼郡奉行松本理左衞門始め掛り役人殘らず江戸表へ早々差出し三番町松平縫殿頭屋敷迄相送らるべく旨申入候樣縫殿頭申付候之に依て此段御達に及び候以上 松平縫殿頭家來 四月廿六日 櫻井文左衞門 田村治太夫 本多長門守樣 御用人中 斯の如き文面に詰合の役人共は一同茫然たるばかりなりしが俄に役所は大騷動となり科人九助は早々引き返させよと早馬にて乘着させ又領主には在國故家老共より申達し巡見使へは畏まり奉つるとの御請書を差出し郡奉行其外掛役々へは出立の儀申渡す等其混雜鼎の沸が如くなり茲に又九助は引廻しの馬の上に縛られ既に相良の城下外まで引れ來り今刑場へ臨まんとする時江戸の方より來りし早打の侍士に引止られ檢使の役人を始め暫時其所に待居ければ此は如何なる事やと思ひける中程もあらせず城下の方より汗馬に鞭を當御巡見使よりの御差圖なり九助を早々引戻せと大音に呼はるを聞檢使の役人を始め警固の人々驚破とて其儘城下へ引返せば九助は今死ぬる身と思ひ定めしに俄に引返せし事如何なる譯やと夢に夢見し心地して只茫然たる計りなり斯て四月廿八日囚人九助を還羅鷄籠に乘せ徒目附足輕目附等警固なし其の外松本理左衞門黒崎又左衞門市田武助栗坂藤兵衞抔吟味掛の役人何も駕籠に打乘又九郎兵衞夫婦村役人共大勢付添本多家用人笠原常右衞門惣取締として江戸表へ出立なしたりけり 第十三回  偖又松平縫殿頭殿の給人竹中直八郎は藤八お節が願書并びに御用状等江戸表へ持參し御用番の老中松平右近將監殿へ差出し御下知に依てお節藤八の兩人は町奉行大岡越前守殿へ引渡せり然ば越前守殿には藤八お節を一通り吟味の上小傳馬町三丁目竹屋權八方へ預けられ其後五月十二日に九助九郎兵衞を始め關係の者一同本多家より差送りに成しかば九助は入牢九郎兵衞夫婦并に村役人共は馬喰町三丁目伊勢屋惣右衞門方へ下宿申付られ下伊呂村役人は納め宿淺草平右衞門町坂本屋傳右衞門方へ下宿松本理左衞門始め掛役人は主人方へ預けに相成たり却て説駿河國府中彌勒町二丁目なる小松屋にては抱へ遊女白妙が家出せしとて大に驚き手を廻して諸所方々を尋ね探せしに行方知れざれば此は必定桶伏にしたる石川安五郎が爲業に相違有まじと人々言居ける所に大門番の重五郎が阿部川の河原にて何者にか切殺され死骸は河原に有之との事なれば此は渠は番人の事ゆゑ白妙を追駈行殺されしものならんとて早速河原に行て見るに重五郎が死骸の傍らに萌黄羅紗の煙草入落て居たる故中を改むるに巴屋儀左衞門樣と云書状二三通外に買物樣に手控小帳あり依て小松屋より駿府町奉行桑山下野守殿へ訴へければ支配内なるにより先江尻宿の巴屋儀左衞門を差紙にて呼出し吟味ありし處儀左衞門心中に驚けども遁るだけ遁ば遁れんものと私し儀は十六日に彌勒町へ參り其節吉野屋と申大門前の酒屋の表にて大神樂の舞居しを暫時見物致し候中煙草入を奪れしと見えて御座らぬ故諸所尋ね中に候と申を桑山殿然樣では有まじ段々其方が樣子を糺せしに小松屋の抱遊女白妙に執心して只今迄も度々安五郎とか申者と口論にも及びし趣き聞えたり然すれば汝大門番重五郎を殺す心は有まじけれど渠安五郎白妙が逃亡を追駈し節何か間違にて殺したに相違は有まじ包まず申立よと問詰らるれども儀左衞門は白状せず否々全以て殺せし覺えは御座なく尤も白妙と申遊女は兩三度も呼て遊し事御座候へども私しは妻子も有身に候へば人を殺す迄には迷ひ申さず煙草入は全く盜まれし品に相違御座なくと云ければ桑山殿には打笑みコリヤ能思うても見よ其煙草入は實盜み取られしものならば僅か其場所より二十町内外の處に有べき筈なし其方が申處にては煙草入は安五郎重五郎兩人の中にて盜み取し樣に聞ゆるが確と然樣かコリヤ汝が行状能知たり日頃不正ざる趣きなれば疑はしき廉々少からず吟味中入牢申付ると言渡されけり此儀左衞門の女房をお粂と云しが夫が此の災難は必竟安五郎が仕業なれば渠等が在處知れる上は夫が無實の難は遁なんにより何卒して安五郎を尋ね出し夫の災難を助けんには神佛の加護に非ざれば爲難し幸ひ遠州秋葉三尺坊の應護を祈らん者と一圖に思ひ込しかば夫よりして秋葉山へ遙々と登しが本社は女人禁制なるゆゑ上る事ならず因て玉垣の外にて祈り居しに早晩夜に入ければいざや私が家へ戻らんと崖の道へ來掛るに茶店の仕舞たるが在しにぞ是れ屈竟なりと笹の葉を身に纒ひ手拭にて頭らを包み此處に這入通夜をなし一心に夫が災難を遁れる樣になさしめ給へと立願をぞ籠たりける此所は名に負周智郡大日山の續き秋葉山の絶頂なれば大樹高木生茂り晝さへ暗き木下闇夜は猶さらに月暗く森々として更行樣に如何にも天魔邪神の棲巣とも云べき峯には猿猴の木傳ふ聲谷には流水滔々と而木魂に響遠寺の鐘も最物凄く遙に聞ば野路の狼吼て青嵐颯々と梢を鳴し稍丑滿頃とも思ふ頃怪しや遙か麓の方よりがさ〳〵わさ〳〵と小笹茅原押分て來る氣態なればお粂は屹度氣を鎭めて汝今頃登山なすからは強盜か但し又我が如き心願にて夜參りする者なるか何にもせよ訝かしと星明りに透し見れば旅人と思しく菅笠眞白に光りたり茲に又彼の石川安五郎は上新田村の無量庵を出立先豐浦雲里の方へ行んものと道を急ぎしに圖らずも踏迷ひ喘ぎ〳〵漸々秋葉の寶前に來りしが此時は早眞夜中にてゴーン〳〵と鳴しは丑刻の鐘なれば最早何へも行難し麓へ下れば狼多く又夜深に本坊を起す共起はせまじ幸ひ此茶店にて夜を明さんと呟きつゝ茶店に入てお粂が通夜して居共知らず上り込だり扨もお粂は大膽不敵の女なれば先方の心は知らざれ共闇さは闇し息を堪て居る中既に寅刻の鐘も聞え月は梢の間に顯れ木の間〳〵も現々と茶店の中まで見え透ゆゑ安五郎は不圖此方を見返れば笹簑着たる者の居るにぞ是はと吃驚し然るにても斯る山中に人の居るこそ訝しけれ但し妖怪の所爲なるかと疑ひつゝ聲を掛け夫なる者は何者ぞ旅人か又は山賊の類なるか狐狸なるか應へをせよと傍らへ摺寄ればお粂は疾より心得居し事ゆゑ一向驚かずアイサ私しは盜賊山賊の類でなく又狐狸にても候はず大願有て當山へ籠りし者なり本社拜殿は女人禁制故此茶屋にて通夜を致し候因て貴所には何れの御方にて候哉と問返され安五郎は又驚き扨々女子には珍らしき者かな如何なる心願かは知らねども斯る深山へ籠らるゝ事感じ入たり某しは信州へ秋葉越して參らんと思へども一人旅ゆゑ泊てはなく斯る深山に踏迷ひ漸々是まで參りし者なれば必ず心を隔給ふな最早夜明にも間はあるまじ夫までは先暫時此所に休息致さん又其許には定めて此近邊の御人成んと聞にお粂も此人盜賊などにあらずと安心し打解し體にて傍へ寄私しは駿州江尻の者なりと云ながら面を透し見て吃驚なしヤア此方樣は石川安五郎樣と云に安五郎も顏を透し見て然樣云其方も何やら見た樣な御内儀其許はと云をお粂は聞私しは江尻宿の絹商人にて巴屋儀左衞門が女房粂と申者此方樣故に夫儀左衞門は無實の災難大門番の重五郎を殺したとて今は入牢の苦み夫も誰故此方樣が小松屋の抱遊女白妙を盜み逐電し夫のみならず大門番の重五郎を殺し罪を夫へ塗られし殘念さに何卒此方樣に出會夫が罪を免されんと此秋葉樣へ誓願込たる一心屆きて今此處にて出會しも嗚呼忝けなしと宮居の方を伏拜むを見て安五郎はアヽ若コレ御内儀粗忽な事を申されな小松屋の遊女白妙を連て立退しは此安五郎に違ひなけれど然ながら其節我は鞠子の柴屋寺へ先に參りて白妙の來るを待て居し故其場の樣子は知らず跡にて白妙に聞くに彼の大門番の重五郎といふは元白妙が親元遠州濱松天神町松下專庵と云醫師に召遣れし古主筋故其夜の都合をなして白妙を逃したが又儀左衞門殿も一體白妙が馴染の客にて是も其夜白妙を阿部河原まで追駈來られ重五郎と問答中白妙は船に飛乘柴屋寺まで參りしなり其後樣子を聞ば重五郎は船場にて横死の由是全く儀左衞門殿が手に掛られしに相違なし然れば御内儀必ず我を恨み給ふな是皆自業自得と諦められよと申をお粂は聞も終らず濶と急込是は卑怯なり安五郎殿白妙と逃亡せしのみか何が證據で重五郎を家來筋と言るゝや死人に口なし所詮爰にて兎や角云とも理非は解らず夜明なば是非にも駿州まで同道なし善惡を分てお貰ひ申さにやならぬと血眼になりて申にぞ安五郎は當惑なし我等とても段々の不仕合折角連退たる白妙には死別れ今は浮世に望みもなければ信州の由縁の者を頼み出家遁世を遂べしと存ずるなり何とて僞りを申べきと問答の中に疾曉に近くなりければ安五郎は急ぎ立去んとしけるをお粂は先待れよと引止る故安五郎は面倒なりと突飛すを又も飛付女の一念止らぬ遣らじと爭ひける中茶屋の簀の子を撞乎踏拔罵り合て挑みける此物音本坊へ聞えしにや何事ならんと朝看經の僧侶達下男諸共十六七人手に〳〵棒を携へて駈付見れば是は如何に餘りし黒髮を振亂せし廿四五歳の女と三十近き色白き男と組つほぐれつ爭ひ居たしかば扨は此奴等色事の喧嘩にてもなすかや併し見て居られぬとて漸々に双方を引分委細の樣子を聞て所の代官首藤源兵衞より公儀御代官二股の陣屋大草太郎左衞門殿へ差出し一通り吟味の上駿府へ差送りに相なり石川安五郎は揚り屋入申付られ其後同所町奉行桑山下野守殿種々吟味ありしかど重五郎を殺せし覺えなく又白妙が身寄の者の申立るにより白妙が親濱松の松下專庵後家を呼出し吟味有けれども事柄確と分らず小松屋よりは安五郎多分脇へ賣たで有んとの訴へなり又儀左衞門の女房も訴へ出しに付無量庵柴屋寺を呼出さねば分らずとて江戸表へ差出しに相成たり時に石川安五郎廿七歳江尻宿商人巴屋儀左衞門三十一歳同人妻粂二十五小松屋小兵衞并彌勒町々役人江尻宿々役人差添江戸町奉行大岡越前守殿へ差送られしかば駿府町奉行桑山殿よりの調書を以て一通吟味これあり安五郎は揚屋入儀左衞門は入牢同人女房粂は長屋預け申付られ駿府御代官太田三郎四郎殿へ柴屋寺住持を差出す樣又遠州相良本多長門守殿家來へ同領内上新田村無量庵を差出すべき旨差紙を出されたり 第十四回  享保二丁酉年五月十八日南町奉行大岡越前守殿白洲へ一件の者一同呼出され一々呼込になりしが縁側には本多長門守殿留守居始め郡奉行代官等今度吟味掛りの者ども白洲右の方に九郎兵衞夫婦左の方には藤八お節少し引放れて本繩足枷に掛り九助平伏す時に大岡越前守殿本多長門守家來と呼れ九郎兵衞が願書を是れへ差出せと申さるゝに本多家の留守居ハツと答へて懷中より取出し目安方へ差出すを大岡殿の御覽に入目安方之を讀上る 一本多長門守領分遠州榛原郡水呑村百姓九郎兵衞同人妻深右兩人願ひ上奉つり候當村名主九助儀は私しども甥に御座候に付私し娘里儀を九助と娶合置候處右九助儀先年江戸表奉公へ罷出候に付里并びに私しども跡へ殘り居り九助留守中取續き方難澁仕つり候を親類惣内儀毎度世話致呉候然る處九助歸國仕つり候てより種々難題申掛自分旅行中島田宿藤八召使節と申者と密通仕つり貞節に留守相守居候里に種々惡名を付離縁致すべく段申重々不埓に御座候間其節異見差加へ候へども却て私しを恨み遺恨に思ふか悴惣内と里と不義致居る旨申掛離別致候故私しども親子道路に餓死も仕つるべく候處惣内儀見兼候儘私し共を引取世話致呉其後百姓共取持にて惣内へ里を娶合候然るに九助は是を遺恨に存じ私し方へは不通に仕つり其上惣内夫婦を付狙ひ候事と相見え金谷村へ惣内夫婦罷越候歸りを跡より尾來り夜に紛れて兩人を切害仕つり立退候へども天命遁れ難く其場に九助懷中物落有之同人衣類の裾へも血を引居候に付此儀御訴へ申上候により召捕られ御領主御役人樣御吟味の處九助儀包み課せず終に白状に及び申候然る所今に又々召出され御吟味を蒙り候何卒御慈悲を以て惣内夫婦解死人に仰付られ下し置れ候はゞ有難き仕合せに存じ奉つり候以上 遠江國榛原郡水呑村百姓 享保二年五月 九郎兵衞(印) 同人妻  ふか(爪印) 大岡越前守殿是を聞れコリヤ九郎兵衞云願書の趣きにては嘸かし無念に有ん如何にも不便のことなり女房深も一人の子息を殺され老行夫婦の路頭に迷ふは後世の杖を奪れ嬰兒の乳房を隱されたるやうなるべし併此事屹度九助が殺したると聞受難と申さるゝに兩人は憤然となり否々相違御座りませんと云ふ大岡殿コリヤ九郎兵衞夫婦其方共が悴や娘の殺されし所は何と云地所なるやと有に九郎兵衞はヘイ大井川の端下伊呂村辨天堂の前なりと云ければ而て其の下伊呂村辨天堂の前より水呑村迄は何程なるや又惣内夫婦は其日何用有て何時に宅を出しぞと尋問らるゝに金谷村に法用有て晝前巳時頃より參りしと申しければ大岡殿には其節九郎兵衞夫婦は宅に居しやと尋ねらるに私しども兩人も法用の席へ同道仕つりたしと申せしかば然らば歸りの節も同道ならんに悴夫婦の切害に遭し時只見ても居る間じ如何せしぞと問詰られ九郎兵衞はグツと差迫りしが然あらぬ面にてヘイ其節は私し共兩人は少々先へ戻りしゆゑ悴夫婦の殺されし事は存じ申さず翌朝村の者が知らせに驚き其場所へ到り見屆け候處兩人は數ヶ所の疵にて首は御座なくと申せば大岡殿ナニ首が紛失致し居りしや夫は又如何なる事ぞと問るゝを九郎兵衞是は後日詮議の時首さへ無れば知れまじとて九助取隱せしなりと云ば大岡殿シテ又首のなき者を悴夫婦と何して知りしぞと有に九郎兵衞夫は衣類恰好にて相分りしと申せば大岡殿ナニ衣類恰好で分つたと申か成ほど我が子なれば衣類恰好の見覺えあるは道理なり扨々不便な事を致した九助へ吟味を遂解死人を取て遣すぞと云るゝゆゑ九郎兵衞夫婦は〆たりと思ひ莞爾々々面に居たりけり大岡殿は九助に向はれ面を上いと云れ同人の面體を篤と見らるゝに年の頃三十歳ばかり顏色痩衰へ肉落骨顯はれ何樣數日拷問に苦しみし體なり扨又女房お節を見らるゝに渠とても顏色更に人間の潤ひなく色蒼然て兩眼を泣脹し櫛卷に髮を取りあげ如何にも痩衰へたる其體千辛萬苦の容子自然と面に顯はれたり正直の頭に舍り給ふ天神地祇云ず語ず神明の加護にや大岡殿夫婦の體最憐然に思されコリヤ九助其の方は如何なる意趣有て親類縁者たる惣内夫婦を大井河原に於て殺したるぞ願人九郎兵衞夫婦よりの願書前に讀聞せたれば承知ならん一々覺え有るか何ぢやと尋問らるゝに九助ははら〳〵と涙を流し圖らず公儀の御調べに相成し事冥加至極有難く存じ奉つる然らば現在の儘申上候はんが私し儀何等の意趣も之なき惣内夫婦を殺し申べき此儀何卒御推察願ひ奉つると申しければ大岡殿倩々聞れ汝は然樣に覺え無事を何故に人殺しと白状に及び剩さへ爪印まで致したるぞと是に九助は怨めし氣に本多家の役人を見遣り御意の通り私し一向覺え御座なき趣き委細に申上げ候へども御領主の役人衆御聞入是なく毎日々々の拷問嚴敷石を抱せ海老に掛らるゝ事既に十三度に及び皮肉も切破れ骨も碎るばかりの苦痛に堪兼是非なく無實の罪に陷し所此度是なる妻節恐れ多くも松平縫殿頭樣へ御駕籠訴仕つりしより江戸表へ召出され再應の御吟味に預ること有難仕合に私し風情の女房が願を御取上げ相成し事一夫一婦の願ひをも捨給はぬ聖代賢き御代とは申ながら土民の事に付天下の御役人樣へ御苦勞掛奉つる事冥加の程も恐しく此末の申譯立ず此儘死罪に相成とも少も御怨とは存奉つらずと申立ければ大岡殿コリヤ九助其方は然樣に申ても一向に跡方もなき儀を九郎兵衞とても訴へは爲まじ虚は實を以て爲すと云ことありと云るゝに九助は愼しみ恐れながら私し儀は以前五ヶ年程江戸へ罷り出奉公仕つり金百八十兩貯へ國許へ戻りし處江戸稼ぎの留守中先妻里儀先名主惣右衞門悴惣内と不義仕つり剩さへ私しの金子を其翌日惣内に騙取せしを那に控居る藤八が計らひにて金子は殘らず取戻し候間先妻里の不埓はあれども親類中故右金子の中を分手當も仕つり離別致せし所同村百姓共の世話にて不義の相手惣内方へ取持仕つり又伯父九郎兵衞儀も幸ひ惣内親惣左衞門は相果母親深ばかりゆゑ渠が方へ參り度と申に任せ里に付て伯父をも遣はせしなり恐れながら私しが心底斯の如く何卒御賢慮を願ひ奉つり候遺恨に存ずる心底ならば不埓の先妻は申に及ばず伯父九郎兵衞へ千辛萬苦致して貯へたる金を遣はす理の御座るべき是れ私しが遺恨を含まぬ證據に候と申せば大岡殿には五年に二百兩に近き大金を貯へたる稼は武家町人は何れへ奉公致したるぞと有るに九助然れば御恥しきことながら日本橋室町三丁目のといふ時大岡殿如何さま番人の九助なりしと云るれば九助は然樣に候と答るに大岡殿成程今はみいらの如くに骸は碎かれ昔の形容なきゆゑ心付ざりしが其砌は正直過て上の御厄介になりたる汝今更昔しの事を彼是と勘考するに今度の儀も篤實過汝が身の難儀に成しかも量り難し水清ければ魚棲ず人明らかならば交はり少なしとは汝が事ならん扨々憫然至極と姑らく默止て居られしかば白洲は寂と靜まりたり良有りて大岡殿再び九助に向はれ番人を勤め中天より授かる金とは云ながら千辛萬苦せし金の中八十兩と申大金を不義の女房并に伯父九郎兵衞へ能く分て遣はせしぞ伯父は母方か父方かと問はるゝに九助こたへて亡夫九郎右衞門まで七代の間水呑村名主を仕つり九郎兵衞は九郎右衞門の弟なれ共一體若年よりといはんとせしが伯父の讒訴は如何とぞ心ろ付亡夫の勘當を受け十七年の間相摸國御殿場村に居りしを私し親共死去の節戒名を屆け呉よとの遺言も有之に付其後村方の飛脚序に九郎兵衞の在所を尋逢同人御殿場にて養ひし娘里諸共古郷へ引取候と申ければ大岡殿には父なき後は伯父を父に代るの心得奇特なことぞ而て又深は其の右に如何なる縁續きなるやと言るゝに九助はヘイ元母方の伯父嫁なれども惣左衞門死去せし後當時又九郎兵衞に連添居れば伯母とは云候と申せば大岡殿成程汝が申口にては惣内を害する程の意趣も有まじなれ共汝の衣類の裾に血を引又所持の鼻紙入が殺害人の傍邊に落て在しと申が此儀は如何なるぞと糺さるゝに九助は其儀は同日私し儀も金谷村の法會の席へ參り居り混雜の砌鼻紙入を置忘れ小用に立し中紛失仕まつりしにより諸所相搜し候へども一向に見當り申さず餘儀なく歸宅仕つりしところ其節私し妻の實母年回に付上新田村なる無量庵の大源和尚へ供養を頼み度と妻申候により私しの爲にも姑の儀故草臥足をも厭はず夕申刻過より右の寺へ參り暫時物語等致し居存外遲なはり夜亥刻近き頃上伊呂村迄歸り來りし時河原にて何やらに跪きたれども宵闇なれば物の文色は分らず只人の樣子ゆゑ酒に醉し者の臥り居し事と心得氣の急まゝ能も糺さず早々歸宅仕り其夜は直樣打臥翌朝起出門の戸を明候折衣類の裾に血の付居しを妻節が見付如何いたせしやと申され私しも驚き考へ然すれば昨夜河原にて跪きしは生醉に之なく怪我人にても有しや且昨日金谷村法會の席にて鼻紙入を失ひ種々相尋候へども見當らずなど物語り居し機から九郎兵衞が案内にて御領主の役人入來り有無を云せず召捕れ申候然れば右鼻紙入の紛失と云ひ其夜切害人の傍邊に落し之有し事ども如何にも不思議と存候間其邊を御吟味下さるゝ樣御領主の役人衆へ度々申立候へども更に御取上御座なく只々人殺しの儀を白状せよとのみ嚴しく仰聞られ其後種々の拷問に掛る事二十五度の中石を抱き海老責になる事十三度何程申解致し候とも少しも御聞入なく候まゝ寧此世の苦痛を遁れんと存じ身に覺えなき罪に陷候と申ければ大岡殿には而て其方鼻紙入紛失の詮議は之なきやと云はるゝに九助夫等の儀は一向御糺しは御座なくと申せば越前守殿暫時考られコリヤ九助其方は當時の妻節とは豫々密通致し居しゆゑ渠を入んが爲先妻へ無實の汚名を負せ追出したる旨九郎兵衞よりの訴状面に見ゆるが此儀申解ありやと有に九助は全く以て右樣の事は御座なくと委細の事故を申立んとする機後に控へし藤八恐れながら其儀は私しより申上んと進み出全く申樣の筋には御座なく先以て是なる節と申女は私し姉の娘にて駿河國阿部川出生の者に候所姉聟相果幼少の身を以て母の長病を介抱致せし孝行大人も及び難く然るに或時不圖勾引されしを九助江戸へ出府の砌途中にて渠が厄難を救ひ遣し其後五年過て九助儀は百八十兩餘の大金を所持仕つり江戸より歸國の旅中瀬戸川にて難儀の機私し儀身延山へ參詣の歸り掛け幸ひに行逢見兼しまゝ盜賊共を追散し私し方へ伴ひ立歸りしなり其頃は私し姉儀病死仕つりしにより節は私し方へ引取置候處九助と顏を見合せ互に不思議の再會を喜び候と言を聞れ大岡殿は扨々人を助れば助けらるゝ天の惠爭はれぬものと申さるゝに藤八は仰の如く九助儀大金を持て歸村の程覺束なしと私し儀存じ右の金を預り歸村後兩三人連にて請取に參り申べしと約束いたし私しより日蓮上人直筆の曼陀羅を九助に渡し右を證據に金子と取替遣し候筈の所翌日九助の親類周藏喜平次と申者の由にて曼陀羅を持參仕つりし故預りし金子を渡し遣せしに其日の夕暮九助蒼くなりて馳來りしに付何事にやと相尋ね候所曼陀羅紛失の次第斯樣々々と片息になつて申聞候により私し工夫仕つりし所此儀他村の者の知べき程の間合之なく何れ村中の者ならんと心付候まゝ同人歸村の祝ひと名付水呑村惣中を呼集め大振舞致すべく其節私し密かに參り見候はゞ右曼陀羅を盜み取私し方へ騙に參り候者相知申べしと相談仕つり九助儀は直樣水呑村へ立歸り歸國の振舞と申翌日村中を呼集め酒宴最中私し儀密に同人方へ參り勝手より窺ひ見候處昨日九助親類周藏と名乘しは名主惣内喜平次と申せしは同人手代源藏と申者に付九助へ其段申聞取押へて吟味仕りしに九助留守中同人妻里事惣内と密通に及び居九助持歸り候曼陀羅を盜み取惣内へ送り遣はし惣内儀源藏と申合せ私し方へ參り金子騙り取しに相違是なき旨相顯れ候併しながら村中の者共名主の事ゆゑ氣の毒に存じ中へ立入種々取扱ひ里儀は何となく離縁と云事に相成九助より申上し通り金子は惣内より取戻し候まゝ右の中ちを五十兩九郎兵衞里兩人の養育料として遣し候儀に御座候其後九助同村の周藏喜平次木祖兵衞等が取持にて私し姪節儀を九助と配偶たき由申により私し養女に仕つり同人方へ遣せし儀に御座れば何も不義の徒ら者のと私養女に難曲を付るに及ぬ事委細は村役に御聞下されなば委細御分りに相成候と云にぞ大岡殿コリヤ周藏木祖兵衞百姓代喜平次今藤八が申通りに相違なきやと有に三人の者共一同に毛頭相違之なくと申せしかば大岡殿然ば九助が申處一々理のある樣に相聞ゆ猶追て吟味に及ぶと申さるゝ時下役の者一同立ませいと聲を掛其日は白洲を閉られけり 第十五回  斯て又享保二年五月廿六日双方共明廿七日辰の刻評定所へ罷出べき旨差紙あり依て願人相手方殘らず評定所腰掛へ未明より相詰る抑も評定所に於て吟味のありしは寛永八年二月二日町奉行島田彈正忠殿宅へ老中方其外役々寄合公事沙汰ありしが始めにて其後酒井雅樂頭酒井讃岐守殿并に老中方の屋敷へ寄合れしに寛永十二年十一月十日御城内に評定所を定められ十二月二日より評定所に於て役々寄合あり夫より毎月二日十二日廿二日を定日とせられ元祿二巳年八月廿五日より必ず御目付は立合事に相成しなり然ば此日も老若方を始として兩御目付三奉行諸有司小役人に到るまで皆其家々の定紋付きたる箱提灯を燈し立行列正しく評定所へ出席せられ威儀嚴重に列座さるゝ有樣實にや日本の政所曇らぬ鏡の天下の善惡邪正を明らかに吐出す流れる龍の口偖又諸國よりの訴訟人共士農工商出家沙門醫者山伏の諸民に至るまで皆々相詰罷在ば程なく本多長門守領分遠州榛原郡水呑村九助一件這入ませいと呼込になり一同ハツと答へ願人相手方其外村役人共付添白洲へ繰込九助は領主より引渡しの儘いまだ足枷を打れ繩目嚴敷栗石の上に蹲踞り其次に女房節舅藤八とも謹んで平伏す又右の方には訴訟人九郎兵衞夫婦其外引合の者村役人等居並びしが何れも遠國邊鄙の者始めて天下の決斷所へ出ければ白洲の巍々堂々なるに恐怖なし自然と戰慄居たりける又た本多家の役人松本理左衞門始め吟味掛りの者一同留守居付添縁側へ罷出左の方には目安方與力其上に留役衆白洲の左右には十手捕繩を持同心跪踞居る時に警蹕の聲と諸ともに月番の老中志州鳥羽の城主高六萬石從四位侍從松平右近將監源乘包殿上座に着座あり右の方三疊程下り若年寄上州館林の城主高五萬石從五位に朝散太夫太田備中守源資晴殿引き續いて寺社奉行丹羽國永井郡園部の領主高二萬六千七百石從五位朝散太夫小出信濃守藤原英貞殿大目付には上田周防守義隣殿町奉行中山出雲守殿大岡越前守殿公事方勘定奉行駒木根肥後守殿筧播磨守殿御目付杉浦貞右衞門殿浦井權九郎殿出座あり大岡殿正面端近く進み出られ右の方に中山殿其の右に大目付御目付立合たり其外勘定吟味役衆祐筆衆勘定衆兩支配勘定に至る迄公事立合の役々出席あり此時大岡越前守殿本多長門守家來松本理左衞門と呼れ其方儀は長門守郡方役人として此度九助一件吟味いたし候趣きの處其方詮議強く因て九助事白状致し罪に伏せしと有然樣に相違無やと尋問らるゝに理左衞門首を上仰の如く九助儀吟味仕つりし處明白に白状致し罪に相伏し口書爪印迄仕つり科の次第申し渡し相濟候處九助妻節并に舅藤八何樣の儀を存付候にや一旦罪に伏したる九助儀を今更公儀へ御苦勞を掛奉つり候儀恐れ入り奉つり候全く九助妻舅藤八とも不埓至極成者共なりと申ければ大岡殿成程其方が申如く一旦裁許濟たるを破らんと爲事恐を頼みざる段不埓の至りなるが併し理左衞門天下の政事も大小名の家の政事も理に二ツは是なく其方は長門守家にては此越前守同樣の役儀をも勤れば決斷には如才有まじ夫人の命の重き事は申さずとも承知ならん然ばよく〳〵吟味に念を入囚人九助が罪を訊糺し罪に伏せざる中は是を罪せず況んや罪の疑しきは輕く賞の疑しきは重くすと是賞を重んじ罪を輕くする事の理なり其方共が吟味は定めて九助の衣類の裾に血の染たると鼻紙入の落てありしとを以て證據となし人殺しは九助と牢問に及びしならん依て九助は呵責の苦痛に堪兼て其罪に陷入しを其方は一途に人殺しは九助なりと心得しに相違有まじと申さるゝを理左衞門は己が落度にならんを恐れ強て云張んと思ひければ否々落なく吟味仕つりし所全く意趣有て惣内夫婦を切害せし趣き白状仕つり其上爪印まで相濟候なりと云に大岡殿イヤサ其所が所謂虎を畫てならざれば却て狗に類すと云が如く似て非なる者の間違ひ安き所なり因て篤と糺明せざれば無實に人を殺す事往々あり是等は此上もなき天の憎む處なり餘り嚴敷拷問に掛らるれば所詮斯る苦痛を爲よりはなどと罪なき者も覺悟に及ぶ事あり是を屈死と云其方是等の儀は申さずとも心得あるべきなれどもいまだ吟味に足ざる所ありと申されしかば理左衞門は否私し取調候處にては血汐の一儀而已にても九助が人殺し明白なるに況んや其日他行仕つりしと翌朝九郎兵衞夫婦訴へ出其場所に鼻紙入の落てありしかば何より確な證據なりと申張るを大岡殿押返されコリヤ理左衞門夫が其方役儀に疎きと申者九助が殺たる惣内夫婦が死骸は數ヶ所の疵とあり然すれば右の血汐九助が裾而已ならず外々へも掛るべきに左はなく裾ばかりへ着しも不審なり又九助が申立には其夜上新田村より歸り掛下伊呂村へ來懸りし途中にて躓き其の節何者か倒れ居りしに血汐を引たりとあり然ば九助出先無量庵をも呼出し九助が歸宅の刻限をも取調申べき筈なるに其儀是なきよし又死人の傍邊に同人の鼻紙入が落てありし趣きなれども右の品は同日晝の中九助儀金谷村の法會の席にて失ひし品なりと申然すれば同人に恨ある者是を盜み取人殺しの罪を九助に負せんと其場所へ落し置しも計り難し依ては鼻紙入紛失の事柄をも篤と取糺すべきの處是以て一向其沙汰なく只々裾に血を引たると落てありし鼻紙入とを以て人殺しは九助なりと見留嚴しく拷問に掛し事甚だ其意を得ざる取計ひなりとありしかば理左衞門其儀は九助何樣申立候とも渠が裾に血を引居候而已か所持の品も落て在しからは全く九助が所業に相違之なく假令拷問に掛かり候とて身に覺えなき事は白状仕つらざる筈なり前より申上候通り口書書爪印まで相濟候は全く渠が白状に因ての儀に候と何時にても同じ事を申立るにより越前守殿心の中には扨々強情なる者とは思はれしかど猶詞を和らげられ然らば吟味の節刄物は何なる品にて切害致せしや又九助が家内の刄物等詮議いたし血の跡にても殘り居怪敷思ふ品にても是ありしや其邊の糺明屆きしやと有しに理左衞門はグツと言し切暫時返答なければ大岡殿サテ此儀は何ぢやと再應尋問らるれども理左衞門は面色青くなり赤くなり額に玉の汗を流しうぢ〳〵として返答なさゞるより大岡殿少し聲を張上られコリヤ理左衞門其方は先刻より某しが相尋問る事ども一向に應へなきは糺明行屆かざる儀と存ずる彌々其邊の取調もなきは役柄に不似合の致方不埓至極なり只九郎兵衞が申立のみを取上九助を召捕拷問に及びし事夫は本田家の作法なるや政事は大小有とも法は天下の法なり人の道は天下の道なり道と法とは私しに暗ますべからず然るに其の方の如きが裁許不穿鑿は云までもなく法外の裁斷と申すべし其の方も領主の公事決斷を預かる者ならずや斯る無智短才の輩がらに此重き役儀を申し付るこそ重役も左程目の無きものどもにもあるまじ殊に其の方が面體斯まで愚鈍者とも見えず是程の辨まへなきこともあるべからず是には何か仔細あらんとじり〳〵眞綿で首を締るが如き糺問に理左衞門ハツとばかりに溜息を吐き自然惣身戰慄出しは見苦しかりし體裁なり大岡殿には又黒崎又左衞門市田武助の兩人に對はれ其の方どもは理左衞門が下役として九助の所刑方萬事申談じたる趣き倶々不吟味なるぞと言るゝに又左衞門其の儀は私くし事毎度同役武助と申合せ種々異見も仕まつり役儀と申ながら餘り手強くばかり致しては實意の吟味に之なき段申聞ると雖も左右立腹仕まつり私し九助へ荷擔致し贔屓の樣にも申され迷惑に付上役の儀ゆゑ餘儀なく其儘申通りに仕つり候と申ければ大岡殿夫は矢張其方共が不詮議なり左程に思はば何故重役に訴へぬぞ假令頭たり共趣意に違ふことありと知つゝ重役へも訴へぬは左右心得違なりと云れしかば兩人一言もなく恐入て平伏す因て大岡殿また九郎兵衞夫婦を見遣られ只今承まはる通り九助が裾に血の付て居るの鼻紙入が落てありしのとばかりでは甚はだ分明ならず然ば篤と思慮いたし事故明白に申立よと有りしにぞ九郎兵衞は神妙らしく徐々首を上げ恐れながら悴惣内夫婦を殺せし者九助より外には御座なく其譯と申は先悴惣内が女房里は九助よりも申上し通り同人の先妻に御座候處九助儀只今の妻節と密通致居し故私し共親子を邪魔に致し罪なき者に罪を着せ離縁仕つりしにより私し共路頭に迷ひ候を村内の者共達て勸めに任せ里儀を惣内妻に致候夫を九助儀今更未練にも遺恨に存親類中も不通に相成加之同人名主役申付られしより村長の權威を振ひ私欲押領多く小前の者ども難儀仕つるに付村中寄り合ひ又々惣内を歸役致させんと内談いたせし儀を何時か九助承知はり其事を憤ほり妬み居り候ゆゑ下伊呂村辨天堂前に待伏致し惣内夫婦を殺したるに毛頭相違御座なく何卒明白の御吟味偏に願ひ奉つると矢張同じ事を申立れば大岡殿是を聞れ心に思はれけるは老中方始め諸役人の前にて今一應明白の吟味を聞せんと故意と徐かに詞を發せられオヽ九郎兵衞能こそ委細に申立たりコリヤ九助其方は只今九郎兵衞が申立に因ば左右伯父女房とも無體に追出したる樣なり此儀如何なるぞと問るゝに九助は愼んで答るやう其等の儀は先日御詮議の節も申上し通り先妻里儀は惣内と不義仕つりし而已か藤八へ預け候金子を騙り取べき爲曼陀羅を盜み惣内へ贈り又翌日酒宴の席にて藤八に見顯はされ候處惣百姓共取扱ひにて惡名を付ず離縁いたし又當時の妻節義と私し密通など致し候事毛頭是なく妻に貰ひ受候は斯々なり加之私し名主役申付られ候以來私欲押領等の儀仕つりし覺え聊かも御座なく候と巨細の手續明かに申立猶御不審の廉も候はゞ村役人へ御尋問下さらば事故委細御分りに相なるべしと申立しかば越前守殿其事故は先日も申立たる趣意なれども先妻里惣内と不義致せしと申は聢としたる證據にてもありしかとあるに九助其儀は藤八へ御尋ね願ひ奉つると申に大岡殿如何に藤八其方委細の事を心得居かと申されければ藤八進み出右の儀は先日申上し通り九助宅にて村中惣振舞の節惣内事強情を申募り居に付き其前日私方へ騙りに參りし時落して行し里よりの文を取出し何れもの前にて讀聞せ其文言は九助事江戸表より持歸り候金百八十兩島田宿藤八へ預け是あり曼陀羅と引替に渡す約束故曼陀羅を盜取送り遣し候間右の金子を請取其後兩人にて逃亡致さんとあるゆゑ一座の者共大いに驚き惣内も終に一言もなく閉口いたし候と申ければ大岡殿シテ其文は其方今に所持致て居るかと云はるゝに藤八否其後村中役人立會相談の上里の離縁状に添て惣内方へ遣したりと云に大岡殿然らば九郎兵衞が申立とは大いに相違いたし居なり此義節は如何心得居るや猶委細申立よと有しかばお節は恐る〳〵首を上私し先年駿河國阿部川村に母と一所に居十一歳の節一人の出家に勾引され宇都の谷地藏堂まで引行れし處幸ひ向ふより參る旅人のあるにより時に取ての作意にて小杉の叔父樣と聲を掛しにより彼の僧は驚き私しを放して逃出せしかば其旅人に災難を救はれ阿部川の宿まで送り呉し時始めて九助と申事を承まはり彼是日暮方に相成りしまゝ一禮の心にて一夜を泊候ひし處却て私し親子の難儀の體を見兼餘計の錢を惠まれ其後五ヶ年の後九助江戸より歸國の節藤八方へ一泊致せし時私しも藤八方に居不思議に再會仕つりしかど其節は途中にて胡麻灰に出合九助難儀致す趣意に付金子のことに心遣ひ仕つり居り先年の禮さへ熟々申候間合御座なく候まゝ不義など致し候事は努々御座なく候と巨細に申立けるにぞ大岡殿なる程齒に布着せぬ明白なる答なりコリヤ藤八節を九助方へ遣せしは水呑村々役人共其方へ掛合て貰ひ請しと有が如何やと尋問らるゝに藤八ヘイ御意の通り九助親類中周藏左次右衞門木祖兵衞喜平次與右衞門大八善右衞門孫四郎八人の代として周藏喜平次の兩人媒妁となり私し姪を達て所望に付遣せしに相違御座なく然も此度周藏喜平次木祖兵衞等罷出居により何卒御尋願ひ奉つり候と申故大岡殿コリヤ水呑村々役人周藏木祖兵衞喜平次と呼るゝに何れも平伏なせば大岡殿は只今藤八が申立る通り相違なきやと有に何れも仰せの通りなりと申ければ大岡殿然らば節と九助夫婦の儀は夫是の義理にて繋れし天地和合の縁にて双方の申口により事分明なり九助其方島田宿泊の節盜賊の難とは如何なる譯ぞ又百八十兩と申ては大金なるに其方馴染も薄き藤八へ預けしは如何の手續なりしや猶明白に申せと尋問らるに九助は先日も申上し通り百八十兩餘りの大金を江戸表より所持仕つり歸國の節箱根山向ふより怪き者兩三人後になり先になり付參り既に瀬戸川まで來かゝりし時は三人の者難題を申掛甚だ難澁仕つり一命にも及ばんとなす機是なる藤八身延山參詣の歸り掛け幸ひ其處へ差掛り私し難儀の體を見兼右の三人を片端より擲き倒して私しを救ひ呉同道致し同人宅まで立歸りし處只今節より申上し通り阿部川村の兆と申者の娘節が居合せ藤八は同人叔父なる由承まはり候處其翌日藤八申には水呑村まで送り度は存ずれども據ころなき用事あるにより用心の爲所持の金を藤八方へ預け置き歸村の上親類共にても兩三人同道にて請取に參るべし夫迄の證據に此曼陀羅を渡し置ん此品は身延山代代貫主の極ある日蓮上人直筆の曼陀羅なり一時も放されぬ大切の品なれ共金の引替の爲預んと申渠が思操の信實に感じ命にも替難き大金を預けし事なりと申せしかば大岡殿人々の申立を篤と聞れ如何樣一々道理至極に聞ゆるなり扨九郎兵衞深の兩人只今承まはる通り其方共の申立とは皆相違致し居るぞ汝等公儀を僞り訴訟出る條不屆至極なりと睨まれけるに兩人ハツと云て慄出せしがお深は猶強情に假令渠等何と申上候共九助と節の不義致せし事は相違御座無と何かまだ云んとするを大岡殿默止汝には問ぬぞ其方は先名主惣左衞門が後家にあり乍ら誰か媒妁にて九郎兵衞の妻にや成しやと申さるゝにお深はシヤア〳〵として否誰も媒酌人は御座なくと云に大岡殿大音にて大白痴め天有ば地あり乾坤和合陰陽合體して夫婦となる一夫一婦と雖も私しに結婚なすべからず然るを汝等が子供達夫婦になりたれば其親々も夫婦になつて苦しうないと思ふか汝等が容子を見るに九助の留守中悴惣内儀里と不義を致せしは汝等兩人が豫て不義致し居を見習ひしなるべし不埓至極の奴ぢや九郎兵衞申開きありやと云れしかばグツと差支一言もなく尻込なすにより追々吟味に及ぶ下れと云るゝ時下役の者立ませいと聲掛一同白洲を下られけり然れば老中方初め諸役人も今日の吟味大岡殿の明察通りならんと感じられたり 第十六回  其後又々評定所の白洲を開かれ以前の如く老中方始め諸役人出座ありし時縁側に控へたる遠州榛原郡上新田村禪宗無量庵の大源和尚進み出彼方に罷仕る九郎兵衞と申者と何卒愚僧が掛合を御免下されなば御吟味筋も早く御分りに相成申べしと申立けるに大岡殿其儀は何成共苦からず差免すとありしかば無量庵は少し白洲の方に向ひコレ九郎兵衞定めて愚僧を見覺えあらんと云れて九郎兵衞は無量庵を下より見上げ何か吃驚せし樣子なりしかば無量庵は微笑是九郎兵衞愚僧に逢ては一言の申譯は有まいと言に九郎兵衞は然あらぬ體にて合點の行ぬ貴僧が一言最前より容子を聞ば上新田村無量庵の庵主とか申事尤も水呑村より三里に近き隣村なれども此九郎兵衞素より歸依なければ御坊の顏を見るは此御白洲が始めてなり一言も有のないのと言るゝは如何なる事やと空嘯いて居たりしかば無量庵は然樣で有う人間と生れて恩を知らぬを畜生に等しと云己等如き恩も情も知らぬ犬に劣りし者は忘れしやも知れず某しは元相摸の國御殿場村の百姓條七がなれの果なり抑其方は勘當請し身にて一宿の泊る家さへなきを我富士詣での下向の砌駕籠坂峠にて始めて出會汝が死んと云を不便に思ひ連戻り我が宿に差置六七年養ひ置し中其恩義を忘れ我が女房と密通なし此條七を追出し田地家屋敷家財迄奪取んと謀計て白鳥を鷺なりと僞り喰せ我を癩病になし妻子親族に疎ませたり故に餘儀なく我古郷を立去て原の白隱禪師の御弟子となり日毎に禪道の教化を得て忽ち開く悟道の明門無位眞人至極に治したる白鳥の毒氣殊更師の坊より大源と法名を賜はり無量庵の主に直りたり然るに汝は計略首尾能行ひしと心得我が女房を妻となし我が娘里を子と呼て終に我が家を押領なせしが其後博奕に身代を失ひ御殿場を立退しと聞えたり然すれば惣内の妻の里は汝が娘に非ずして此坊主が娘なり夫に付て我感ずる處あり彼大井河原辨天堂の前にて相果し二人の死骸は惣内里には有べからず定めし是には仔細のあらんサア返答せよ何とするやと板縁を叩て詰ければ九郎兵衞發と赤面しながらも汝こそ不屆者なれコリヤ條七汝は癩病となり妻子の捨處に困りしを此九郎兵衞が引取世話をして遣せしを忝けないとも言ず恩を仇なる其惡口然樣なる邪心者故惡病をも引請しなり我が身の因果も感ぜぬ無得心者と云ふ無量庵呵々と笑ひ汝今愚僧をば見た事もなしと云しが扨々俗家に云盜人猛々しとは汝が事なり今更斯る惡人に交す詞はなけれども釋迦は又三界の森羅萬象捨給はず汝の如き大惡人善道に導き度思ふがゆゑ及ばずながら出家に列なる大源が申處を能々承まはれ此上は汝積惡を懺悔なし本心に立歸れと睨付られ九郎兵衞は一言もなく閉口せし樣子を大岡殿篤と見られコリヤ九郎兵衞今大源が申を聞ば汝は重々の強惡言語に絶たる者なり依て吟味中入牢申付るとの聲の下より同心ばら〳〵と立掛り高手小手に縛めたり又ふか儀も九郎兵衞と密通に及び萬事宜からざる致方不屆至極なり依て手錠宿預け申付ると有て是又手鍔腰繩に掛られけり夫より大岡殿九助に向はれ其方段々吟味を遂る處一々明白に申立ると雖も其方儀先頃無量庵へ闇夜の節提灯の用意もなく參りしとあり其刻限篤と申立よと云れければ九助夫は去る三月十九日は私し妻節が實母七回忌の逮夜に當り候間上新田村無量庵の住寺は生佛の樣に近郷近村にて申唱ふるにより何卒回向を頼み度旨申聞候故私しは金谷村より歸りし草臥足なれ共其孝心に愛無量庵大源和尚の庵へ參りし頃は夕申刻過にして暫時物語いたせし間歸宅は其夜亥刻頃と申に大岡殿又無量庵に向はれ九助が參りし刻限歸宅の刻限とも尋問らるに九助同樣の答へなり時に九助は無量庵に向ひ其節那方の仰せには厄難の相あるにより能愼めとの事故何致たなら遁るゝ事やと御聞申たれば前世の因縁に因此世に於て災難に逢なれば遁るゝ事はなり難し然ども命には恙ないとの仰なりしが今日までは先露命を繋で居りしなりと云を聞れ大岡殿然らば汝無量庵より直に戻りしかとあるに九助仰の如く其夜戌刻過同所を立出一里ばかり參りし大井川の河原を打越下伊呂村の堤へ掛りし時は空も曇り眞闇にて四邊は見えねども急ぎて歸る途中思はず武士に突當り段々樣子を承はりしに連の女の行衞を尋る由其人は駿府御城番樣の御家來なる石川安五郎と申御方の趣きにて私し妻節の里水田屋藤八の手紙を持て私し方へ尋參る處なりしとて右の手紙を見せられし故同道致さんと存ぜしに連の女の在處未だ知れぬにより尋ね出し同伴の上參と申され右等の話にて甚だ手間取亥の刻近き頃たどり參りし處辨天堂の前にて躓きたれども刻限は延引致し氣は急により死人共心付ず其儘歸宅いたし翌朝相良へ御召捕に相成し事は此程申上し通りに候と申せば大岡殿シテ其武士の連の女の在所は知れたるかと問るゝに九助ヘイ其儀は只今申上し通り私し事は相良へ召捕れしにより其後の儀は一向存じ申さず然ども藤八は存居やも計り難しと申ければ大岡殿又藤八と呼れ其方安五郎とは如何樣の縁有て九助方へ手紙を添て遣したるやと有に藤八は其安五郎殿が連立參られし白妙と云女は私し遠縁の者濱松天神町なる醫師の娘に候間此縁を以て九助が方へ手紙を添て送りし處其翌日安五郎が私し方へ參られ申聞らるゝには大井河原にて我が女房の首を拾たる節機好く無量庵の大源和尚通り掛られしより回向を頼みたるに憫然に思はれ首を葬り呉られしと物語りを聞居し處へ又水呑村の聟九助が大難を受たりとの知せに付吃驚致せし儘安五郎殿へは早々に挨拶を成直樣水呑村へ飛が如くに參りし故跡の事は一向に心得申さずと云ふ然るに當時石川安五郎の一件駿府町奉行にて取調られ彌々大門番の重五郎は巴屋儀左衞門が殺せしとの事なれども白妙其外種々引合も多く是に因て江戸町奉行大岡殿へ引渡し相成しかば九助方引合として今日石川安五郎も呼出され白洲の縁側に控へ居たり然ば大岡殿石川安五郎と呼れ其方儀妻を同道致し遠州濱松へ罷越たる趣きに相違なきやと有に石川安五郎はハツト平伏なし仰の如く私し妻の實家は遠州濱松天神町松島專庵と申町醫師に候間同人方へ參る心得にて同道仕り候尤主人へは湯治仕つる旨屆け候て罷越たるに相違御座なくと申立たり 因に云此石川安五郎は駿府御城番松平玄蕃頭殿家來と云且水田屋藤八よりの内談も有しにより抱へ主小松屋の方にても亡逃屆を願ひ下になし安五郎の方へ身請せし事に取計ひし故今度安五郎は白妙を妻と申立しことなり看客怪み給ふ事なかれ 扨又大岡殿尋問らるゝは其筋本道を往ずして大井川の川下へ掛り九助方へ立寄んと致せし者なるやと云るゝに然れば私し妻儀は水田屋藤八親族の者に候へば同人方へ立寄り夫より同人聟の水呑村名主九助の方へも立寄候心得にて大井川を相良の方へ參らんと存じ島田より馬を傭ひ未刻過同所を出立致し河袋と申處迄は私し儀馬に附添參りたるが山王の宮脇にて小便を致し居る中見失ひ候に付後を追掛しに上新田村の土手に右の馬は草を喰ひ居候が妻も馬士も行衞更に知れ申さず候間東西を尋ね廻り往來の人々に承はるに今此先へ馬士が女を引立て行たりと申により猶ほ後を追駈候中とくに日は暮方角も分らず彷徨居りしうち圖らずも九助に出會段々の物語りに手間取追々夜も更行に隨ひ月も出しかば夫を便りに探し廻る中大井川の彼方なる岡の方に何やら犬の噬て爭ひ居し體ゆゑ立寄しに犬は其品を置て一驂に逃行しまゝ右の品を取上見るに女の生首なり仍て月影に透して猶熟々改し處紛ふ方なき妻白妙が首に候間何者の所業なるやと一時は胸も一杯に相成我を忘れて周章仕つり居候機から上新田村無量庵の住僧通り合はせ皆是前世の約束なりと御教化ありて右の首を無量庵に葬り呉られ候と云に大岡殿シテ其邊に男の首は無りしやと申されければ安五郎否男の首は見當り申さず候へ共其後大井川邊に男女首なき死骸是ある趣き承まはりし故同所へ罷越見候處女の方は妻の恰好に似寄候へども衣類相違仕つり居により不思議に存じ候中右の死骸は水呑村元名主惣内夫婦のよしにて既に人殺し九助捕押に相成候趣きに付外に妻の死骸は見當り申さず其儘に打過申候と答へしかば大岡殿始終を篤と聞れ何樣仔細ぞあるべし偖々不便の至り也而て其方が妻の敵は一向知れぬかと有に安五郎然ば其後一向に手掛りも御座なく候と答ふるゆゑ猶追々吟味に及ぶとて一同白洲を下られ老中方始め役々退出せられけり 第十七回  茲に又遠州水呑村の先名主惣内夫婦は九郎兵衞が計ひに任せて江戸表へ出府なし靈岸島邊に國者の居るを便りて參り此者の世話にて八町堀長澤町の裏店を借受惣内は甚兵衞と改名し又里はお豐と改め少々の小商ひを始めしが素より爲馴ざる事にて肩を痛め足を勞し爲る事成す事損毛のみ多く早此頃は必至と差迫り今日にも難澁致ける是ぞ誠に天の憎しみを受し者なればお里のお豐は洗濯をし又惣内の甚兵衞は日傭に駈歩行手紙使や土こね草履取又は荷物を擔ぎ何事に依ず追取稼を爲し漸々其日を送りしが或日番町邊の屋敷の中間部屋に小博奕ありて不圖立入しに思ひの外利運を得たり素より好む道なれば其後は彼方此方と博奕場を廻り歩行けるに斯る惡黨も運の向事ありしにや三度に二度は必らず勝て少しく懷中の暖まりしかば彌々能事に思ひ追々大賭場へも立入博奕の仲間に入たりけり然るに六月末より七月へかけて四五度續けて打負しより又々大いに困窮なし一時勝たる節拵へし夫婦の衣類は申に及ばず家財道具を皆賣盡し今は必至の場合に至りければ何がなして猶資本を拵へ大賭場を張んと思ひ日夜工夫なし居たりしが茲に甚兵衞は先頃より日雇などに雇はれし南茅場町の木村道庵と云醫師あり獨身なれども大の吝嗇者ゆゑ小金を持て居るよしを甚兵衞聞出しければ彼が留守へ忍び入て物せんと茲に惡心を生じ旦暮道庵が宅の樣子を窺ひ或夜戌刻頃來りて見れば表は錠前を卸しありしかば甚兵衞勝手は豫て覺え居れば今日こそ好機なれと裏口へ廻り水口を押て見れば案の如く掛錠掛けざる樣子故シテ遣たりと直と入り居間の箪笥を引明て金三四十兩懷中に入れ立上る處に横面へ冷りと觸る物あり何かと疑ひ見れば縮緬の單物浴衣二三枚と倶に衣紋竹に掛てありしにぞ毒喰ば皿迄と是をも引外して懷中へ捻込四邊を窺ひ人足の絶間を考へ又元の水口より立出何喰ぬ顏にて我が家を指て立歸りたり道庵は此日病家にて手間取漸々夜亥刻近き頃歸り來り灯を點して四邊を見るに座敷を取散しあれば不審に思ひ其邊を改めしに金子四十三兩と縮緬の單物又木綿千筋の單物眞岡中形の浴衣三枚紛失せり因て家主孫八へ委細を咄して訴へに及しに翌日定廻りの同心孫八方へ出張にて道庵へ心當りの有無を尋ね有しかば道庵別に心當りは御座なくと申に然らば日頃出入致す貧乏人又は心易く致し朝夕小遣錢などを貸遣せし者はなきやと有に道庵は暫時考へ別に是ぞと申者も御座無候へども貧困人は三四人迄出入致し申候其者の名前一人は先妻の甥源次郎と申只今本郷金助町に罷り在當年四十五六歳に相成家内困窮には候へども正直者にて金子貸遣し候ても約束の時日には屹度返濟致し殊に當時御小人目付を勤居其外には傳八と申して私し方に二三年も奉公致し是も篤實者にて金の番人に致すとて心遣ひのなき者にて深川一色町に八百屋を仕つり當時は妻をも持居り候又小網町三丁目河内屋と申古着屋の裏に九郎兵衞と申藥種屋の若い者にて以前より出入を仕つり今に毎日の樣に參る者あれども是も至て正直者なりと云ば同心は最外に朝夕出入る者は無かと申ければ道庵猶打案じ八丁堀長澤町に居る甚兵衞と申者元遠州邊の生れの由其日稼の貧窮にて折々日雇ひにも致し召遣ひし事御座れ共此者も在所に居し頃は名主役も勤めし由に承まはりしが成程日傭取には人柄も宜しく折に觸ては留守居をも頼みし事御座候へど聊かも曲りし心はなき樣に存られ是まで安心致し居其外別段内外心安く致す者も御座らぬと申立るに同心はシテ其甚兵衞とやらんは一人者か又女房持かとの尋問に女房持なりと答しかば道庵の申口を一々書留て道庵を歸し猶種々工風の上先八丁堀長澤町の自身番屋へ行家主源兵衞を呼出し店子甚兵衛の身元を糺しけるに渠は當四月同人店へ引移り夫婦共三州者の由にて隨分實體らしく相見え候へ共女房は此節煩ひ居るとの事に付早速甚兵衞を自身番屋へ呼出し段々と吟味に及ぶ中外一人の同心は甚兵衞の家内を取調ぶるに道庵方にて紛失せし單物一枚出たる故女房は家主へ預甚兵衞は直に召捕猶懷中其外所々改めし所胴卷に金十二兩餘あり又同人宅の床下に金二十八兩是あり都合四十兩の金出しにより其金を所持せし事故を糺されしに申口不分明故町奉行所へ送りになり入牢申付られたり因て女房は大いに驚き己病中なれども夫の罪の輕く濟やうにとて茅場町の藥師に朝參りを始めし所或日俄雨に逢堂前にて晴間を待し中無量庵も雨舍に駈込不圖種々の物語より親子の名乘をなしお里は今さら夢の覺たる如く後悔して惣内と姦通せし事の始より九助を罪に陷し夫より影を隱して江戸表へ出今難澁をする迄の事どもを詳に語りければ大源和尚は大いに驚き此日はお里に分れ其後和尚は白洲にてお里より聞たる委細の事を申立しにより段々吟味の上終に甚兵衞は包み課せず因て元惣内と申せし事より其外人殺し等の事まで明細白状に及びしとぞ 第十八回  享保二丁酉年十月廿二日双方一統又々評定所へ呼出しに相成前規の通役人方出座にて公事人名前一々呼立濟て大岡越前守殿九郎兵衞を見られ其方願書の趣き段々取調べし所確なる證據もなし然らば屹度人殺は九助とも定め難きを麁忽の訴へに及び候段不屆き至極なり夫人の命の重きことは云迄もなきを只衣類の血と鼻紙入の落て有しを以て證據となし申立ると雖も首もなき兩人の死骸故確なる證據とは申難し別に何ぞ確なる證據にてもありやと申さるゝにお深は九郎兵衞が答へをも待ず進み出御道理の御尋問悴惣内は幼少の頃私しが毎度灸を据ゑしによりて灸痕これ有又子供同士の口論に鎌で疵を付られし痕も御座候へば縱令首はなくとも悴と申者は確と見留しと申ければ大岡殿シテ其疵痕は何れに有やと尋問らるゝに左りの肩より脊へかけ四寸程もありと云へば大岡殿又里が死骸の證據は何ぢやとあるにお深是は嫁とは申ながら私しには聢と知れませぬと答へしかば大岡殿は九郎兵衞に向はれコレ其方は永く養ひし娘の死骸なれば見覺えが有ん何ぞ目的はなきやと申さるゝに九郎兵衞答へて渠は現在一人の娘なれば何見違ふことの候べき姿と申又衣類と云と申を大岡殿コレ九郎兵衞娘が體に疵處其外證據はなきやと云るゝに九郎兵衞は然樣で御座ると云ば大岡殿聢と左樣かと念を押るゝに九郎兵衞仰の通りなりと答へしかば大岡殿コリヤ村役人周藏木祖兵衞惣内夫婦横死の節檢使と立會の上にて其方共も改めたで有ん兩人の死骸如何なりやと有に周藏木祖兵衞は首を上仰の通り御領主の役人檢使の節改めし處肩より脊へかけ疵が有之候へ共惣内は何時の間に斯る大疵を拵へしやと一同不審に存じたりと申せば大岡殿は而て女の方は何ぢや僞りを申な此方にも聞込し儀も有ぞ有體に申立よと申さるゝに周藏木祖兵衞の兩人は其女の骸も改めし處身肉に疵等は御座らねども只二の腕に安五郎二世と彫物が御座候と申を大岡殿聞れてナニ安五郎二世と有たかコリヤ九郎兵衞其方が娘は以前賣女でも致したか安五郎二世と有は九助か惣内の幼名にても有しかと申さるゝに九郎兵衞は以外の事なれば答へに當惑なせしが否然樣なものでは御座らぬと申をお深は傍邊よりモシ九郎兵衞殿其彫物は此間ソレ小さく有たと云れたではないかと九郎兵衞へ眼で知らせる樣子なるを大岡殿は見て取れ大音に默止此出過者め汝に尋問はせぬぞ只今九郎兵衞が申には里の骸に疵は無いとあり又汝も嫁ではあれど知らぬと答へしには非ずや然るを今村役人共が申立るを聞て九郎兵衞に取拵へごとを云はせんとする心底不屆きなり安五郎と云は是に居る松平玄蕃頭家來石川安五郎なるぞ渠駿府二丁目小松屋の抱遊女白妙と申を身請して妻と致し右妻の古郷へ夫婦連にて罷越途中大井川の端にて何者の所業共知れず殺され其首は下伊呂村の岡にて犬がくはへ爭居たりしを見付しと安五郎申たり又今一人男の首は同所を少し放れし岡の小松の根がたを犬の掘し跡より顯れ出たるが其者は藤枝宿の馬丁松五郎と申者の由是亦同村の者ども申立たり然すれば九郎兵衞親子の奸計にて右の死骸へ惣内夫婦の衣類を着せ置兩人の首を取隱し九助を罪に陷さんと謀計し事鏡に影の移るが如し依ては惣内夫婦の者存命いたし居ならん重々不埓至極の奴輩なり汝等が巧み此越前が白眼し處決して相違あるまじ如何に〳〵と申さるれ共九郎兵衞は猶も恐れず是は御奉行樣の仰共存せず現在我子供等の存命致し居る者を人手に掛し抔と忌はしき儀を訴出る者の有可や殊には九助が申上る事而已御取上に相成只々私しを御叱は恐ながら御奉行樣の依怙贔屓と申ものと云を大岡殿聞ナニ九郎兵衞依怙贔屓と申か能承はれ天下の裁斷を爲者聊かたりとも私しの意を以て依怙の沙汰をなすべきや都て汝が申立は僞り飾ゆゑ本末不都合の事而已多く聟の惣内は九助が留守中に里と不義致し汝は惣内母と密通に及び居しは畢竟子供等が不義を汝等が執持致せしも同前なり然るに九助は其等の儀を怒ずして速かに離別に及び父が遺言を重んじ不埓の伯父女房等に大切の金子を配分致遣たるを好事として義理も人情もなき惣内方へ入込夫にても尚倦足ず無罪の九助を咎に陷し罪科に行はせんと巧し段人面獸心とは汝がことなり今見よ確成證據を出し二言とは吐せぬぞ又同じ衣類を着たるは一郷に往々ある事加之女が死骸も他人にて白妙に相違なし然らば惣内里では有まじサア有體に白状致せ左右強情を申居只今にも惣内夫婦が出たなら汝は何と申譯致んぞと申さるゝにお深は又進み出恐れながら女は別人かは存ぜねども悴儀は衣類のみ似たるのみに是なく帶脚絆迄相違御座らぬと左右強情に言張に大岡殿大聲に又しても入ざる差出口默止其日は九郎兵衞同道にて惣内夫婦金谷村の法會の席へ參り歸りも同道なりしに九郎兵衞は途中より聊か先へ戻りしと申ではないか然るに惣内は己の女房の影を隱し態々他の女を連て殺される程の間合もあるまじ夫を強て申なら里は宅へ戻りしかと有にお深否歸りは致さぬと云にぞ大岡殿此頑愚め己が連出したる女房里を脇へ遣し又他の女を連て殺されたなどと然樣に自由に成と思ふか公儀を僞り掠んとする横道者めコリヤ安五郎今一應白妙が事故を九郎兵衞始めへ申聞せよと有に安五郎ハツト答て其儀は先日よりも申上し通り故郷へ參る途中妻白妙を馬士に奪れ其後首ばかりを下伊呂村の岡にて拾ひ上新田村の無量庵へ頼み葬りしとの手續きを委細に申述ければ大岡殿コリヤ九郎兵衞ふか那を聞たか而て又安五郎其方が妻には二の腕に安五郎二世と黥みあると云が然樣かとあるに安五郎はハツと云て赤面しければ大岡殿コレ安五郎其河原の男女の死骸は察する處馬士が其方の妻を勾引さんとする折人違ひ等にて九郎兵衞か惣内の中にて兩人を殺し其始末に困りし處より首を切て知れぬ樣になさん爲衣類を着せ替九助を罪に陷さんと致せしものと思はる然すれば其方の女房の敵は是に居る九郎兵衞なるぞと云るゝに九郎兵衞は思はずハツと云て顏色變りたり大岡殿是に構れずコリヤ藤枝宿問屋儀左衞門并に馬士權兵衞馬持八藏と呼れコレ八藏其方召使松五郎と申馬士の首は下伊呂村の岡にありて死骸は見えざる趣きを注進せしが其後も見當らぬかと問るゝに八藏仰の通り首のみ見當りしにより其後體をも所々相探し候へ共一向に知れ申さず尤も下伊呂村の河原に男女の死骸これある趣きに付樣子相尋ね候處夫は最寄の百姓夫婦なりとか申ことゆゑ其外には心あたりも御座なくと申にぞ大岡殿然樣して其松五郎の出生は何國にて平常の行状は如何なる者なるぞと有に八藏然ば其松五郎儀は信州伊奈郡の者とのみ申居しが道中馬士などは素より本國も聢と相知申さず平常は然まで惡人とも心得ざりし處追々跡にて承まはるに一體勾引など致せし者との由なりと申ければ大岡殿コレ九郎兵衞八藏の申立を聞しや那の通り女は安五郎が女房男は藤枝宿の馬士松五郎に相違も有まじ斯の如く明白に相分りたる上は眞直に申上よ僞りを云ば嚴敷拷問を申付るぞ骨を碎きても云せずに置べきや如何に〳〵と有に九郎兵衞は猶も強情く是は誠に以て御無體なる仰哉私し申上る儀に聊かも僞りは御座なくと云張にぞ大岡殿否僞りなしとは云さぬぞコレ〳〵本多長門守家來共只今承まはる通り大井河原の男女の死骸は推察する所石川安五郎妻と今一人は其を勾引せし馬士松五郎に相違有まじ依ては其方共の決斷甚だ暗く依怙贔屓の沙汰に聞ゆるぞ此申譯があらば申聞よとあるに本多家の役人共追々吟味詰の樣子を聞今さら何とも陳ずべき樣なく赤面閉口なし甚だ恐れ入候旨答へければ大岡殿には彌々以て申譯なきやと申さるゝに三人口を揃へ何とも申譯御座なくと申にぞ越前守殿只今に相成申譯なしと申せども其奉行頭人たる者過ち有ば則ち領主の罪領主の罪は則ち將軍家の罪なり民は國の源無罪の民を罰する時は士以て徒たるべし一夫憤りを含めば三年雨降ずと云先哲の語あり百姓は國の寶人の命は千萬金にも換難し然るを正直篤實なる九助を無實の罪に陷し入しは奉行の不明なり其不明なる者に重き役儀を申付たるは其領主の落度也夫此度の一件は其方共必ず九郎兵衞より賄賂を請しに相違有まじと正鵠をさゝれて理左衞門はグツト言て暫く無言なりしが否然樣の儀は御座なくとぐづ〳〵答ければ大岡殿假令其方陳ずるとも不吟味の罪は遁れぬぞ此上にも申掠んとなさば餘儀なく拷問にも掛ねばならず然すれば武士の恥辱は申に及ばず主人へ猶恥を與る道理なりサア尋常に申立よと言るゝに理左衞門最早遁れぬ所と覺悟をなし實は九郎兵衞より時候見舞として聊か到來せしと申ければ大岡殿其は何程貰ひしと云に理左衞門金十五兩貰ひたりと申せば大岡殿ナニ金十五兩とやコレ理左衞門時候見舞とあらば魚鳥の類か他國の産物ならば格別役柄をも顧みず金子を受納なせしは即ち賄賂也下役黒崎又左衞門市田武助其方共も受納致せしならんと有に兩人は今上役の理左衞門が白状なせし上は密すも益無と思ひ上役の申付に違背も如何と存じ金三兩づつ受納せしと言ければ大岡殿假令上役の申付なりとて不正の金を受しは重々の不屆なり三人共揚り屋入申付ると言れ又九郎兵衞の方を見られてコリヤ九郎兵衞只今其方へ見するものが有夫を見て驚くなソレ〳〵彼の兩人を引出せとの指揮に隨ひ同心は惣内を本繩に掛引出せば後より女房お里も手鎖にて家主付添立出る九郎兵衞夫婦は是を見るよりもハツト驚き呆たる體なるにぞ大岡殿は何と九郎兵衞夫婦の者此兩人は知らぬ者か當春大井川の端下伊呂村に於て九助の爲に切害されしと汝等が訟訴出たる惣内夫婦は今江戸本八丁堀長澤町と云所に罷在又々不埓の儀有て召捕吟味なせしに委細白状に及たり然ながら相果たる惣内夫婦此世に居べき筈なければ是は必定幽靈か又は狐狸の類か惣内に化たるか予が目には見分らず汝等は親子の事故目利も屹度知れるで有う幽靈か又化生か何ぢや汝等が目には何と見えるコレ九郎兵衞ふか頭を上て能見留よコリヤ惣内此程申立し如く大井川の端にて人殺しをせし趣き今一應申聞よと聞るゝに今さら面目なき體にて私し儀里と夫婦に相成しより段々村中の氣請の惡敷なり役儀は九助へ申付られ家も淋しく成行中にて母は日増しに奢増長し追々困窮に迫りし折から九助が江戸表にて金子を蓄殖たる趣きを聞て羨敷存じ私し夫婦も江戸へ出稼ぎ度は存じたれども外聞も惡く彼是延引致し居中金谷村に法會ありて九郎兵衞諸共里を連て罷越歸宅の節夜分大井川の端迄參りし處九郎兵衞は酒の醉にて河原の石に凭て熟睡いたし眼の覺ぬゆゑ私し儀藥を買に參り漸々に戻り來りしに九郎兵衞は何者かを相手に戰ひ居により左に右助けんと存じ宵闇の暗紛れに切付たるは女の聲ゆゑ偖は女房を切たるかと狼狽たる處に傍邊より男一人打て掛りしを兩人して追廻し漸々に討留熟々見れば男も女も知らぬ者に付大いに驚きしを九郎兵衞は了簡ありとて私し共の衣類と渠等の衣類着替させ一時も早く立退く樣にと申故跡も氣遣敷は存ずれども九郎兵衞が申詞に任せ其所より直樣江戸表へ罷出改名とう致し居候なりと申立ければ大岡殿コレ九郎兵衞渠が申は僞りか惣内が白状に相違有まじ左右未練に爭はずとも最早有體に白状致せと申さるゝに流石奸惡の九郎兵衞も茲に至て初めて觀念なし今は何をか包み申さん只今惣内が申上しに相違御座なく渠が藥を調へに參りし跡にて女の泣聲致すにより里が勾引され候事哉と存じ惡者と戰ひ居候中惣内立戻り來兩人にて其者を追掛河原の方へ到り暗紛れの出會頭に切込たれば女の叫ぶ聲に里を切しことやと驚きながら漸々件の男をも切害仕つり其中月も出候に付熟々見候へば男女兩人とも存ぜぬ者ゆゑ一時當惑は致せしが今更致し方も無之ゆゑ茲に惡計を考へ出し豫て妬ましき九助に此人殺しの科を負せ渠を亡者にせんと存じ惣内夫婦の者の衣類を死人へ着替惣内お里兩人が影を隱させ其日法會の席にて盜み置たる九助の鼻紙入を後の證據に死骸の傍邊に落し置又悴夫婦と申立る爲死人の首を切小半道程傍なる丘の小松の根へ隱し埋め置扨惣内夫婦切害に逢たる旨領主の郡奉行へ訴へ出二十兩餘の賄賂を遣ひ九助を殺さんと致せしは如何なる天魔の魑入しやと今更後悔仕つるも詮なき事なれば切ては罪障消滅の爲懺悔仕つるなり因ては御殿場村の條七娘里儀の不義も何も斯も引纏て惡事は此九郎兵衞なれば御法通りの御所刑を願ひ奉つると委細白状に及びしかば大岡殿神妙なりと有て又お深に向はれ只今九郎兵衞が申通り相違なきやと尋問らるゝに最早一言の強情も言難く恐れ入たりと申にぞ大岡殿夫れ見よ天に眼なしと雖も是を見天に耳なしと雖も是を聞正邪判然たるは天道の照し給ふ處なり其罪成ぬ九助が無實は今日顯然たる上からは出牢を申付村役人共へ預け遣す其外松本理左衞門始め吟味方役人并に九郎兵衞ふか惣内里等は爪印申付ると有て何れも口書爪印とぞなりにける 第十九回  時に享保二年十二月廿五日一同白洲に於て申渡され左の通り 本多長門守家來 松本理左衞門 其方儀重き役儀をも勤ながら百姓九郎兵衞より賄賂の金銀を受夫が爲不都合の吟味に及び罪なき九助を一旦獄門に申付候條重々不屆至極に付大小取上主家門前拂申付る 本多長門守家來 黒崎又左衞門 市田武助 其方共支配とは申ながら松本理左衞門申趣きに相任せ賄賂の金銀受納致せし而已ならず不都合の吟味に及び候條不屆至極に付主家門前拂申付る 本多長門守領分 遠州榛原郡水呑村百姓 九郎兵衞 酉五十七歳 其方儀若年より不身持に付兄九郎右衞門勘當を受け相摸國御殿場村百姓條七世話に相成居候中惡法を以て條七を難病に罹らせ同人妻鐵と密通の上條七を追出し家屋敷田畑家財等迄押領致し條七娘里を押て自分養女に致し甥九助が信實にて古郷へ連歸り候節九助へ里を娶合家内不如意に付九助江戸表へ奉公に出候留守中娘さと村役人惣内と不義致し其身も惣内母ふかと密通に及び九助より配分の金子を取り里を惣内妻に致し其後下伊呂村にて石川安五郎妻并に馬士松五郎を切殺し惣内夫婦を密かに立退せ同人夫婦切害に逢し趣きに訴へ出九助を罪に陷さんと謀計上を僞りし始末公儀を恐れざる種々惡事重々不屆至極に付死罪の上獄門申付る 本多長門守領分 遠州榛原郡水呑村先名主 當時八町堀長澤町 源兵衞店惣内事 甚兵衞 酉二十七歳 其方儀村役中不正の儀多く殊に九助妻里と密通に及び九助親類と僞り水田屋藤八方より金子百八十兩餘騙り取り其後下伊呂村にて石川安五郎妻并びに馬士松五郎の兩人を切害なし九郎兵衞と申合せ其所より出奔致し甚兵衞と改名の上長澤町源兵衞店に罷在裏茅場町醫師木村道庵方へ忍び入金子四十三兩其外衣類品々盜み取候始末重々不屆至極に付引廻しの上獄門申付る 本多長門守領分 遠州榛原郡水呑村先名主 惣左衞門後家 ふか 酉四十六歳 其方儀悴惣内不屆の儀を押隱し九郎兵衞を後見人と名付我が家へ入れ密通に及びし而已ならず同人と申合九助へ無實の申掛をなし亡なはんとせし段不屆至極に付村拂申付る 惣内妻 さと 酉二十一歳 其方儀養父九郎兵衞申付とは云ながら夫九助が所持の曼陀羅を盜惣内へ相渡し藤八より金子を騙り取せ候段不屆至極に付遠島をも仰付らるべきの所實父條七當時出家大源が願ひに依罪一等を宥させられ輕構申付る 駿州江尻宿百姓 儀左衞門 酉三十二歳 其方儀石川安五郎小松屋遊女白妙同道にて立退候節私しの趣意を以て追掛彌勒町番人重五郎と申者支へ候を切害に及び候段不埓至極に付死罪申付る 同人妻 くめ 酉二十四歳 其方儀重五郎切害人は石川安五郎とのみ心得強て訴へに及び候條心得違ひなり之に依て嚴敷叱り置く 松平玄蕃頭家來 石川安五郎 酉二十六歳 其方儀吟味致し候處別段の惡事無之とは申ながら不行屆の儀も有之候故主人方にて遠慮申付る 駿州相良領水呑村名主 九助 酉二十七歳 其方儀吟味相遂候所聊かも惡事是なく且亡父の遺言を守り不埓の伯父を呼戻し養ひ候而已ならず其後大金をも分與へし所數月無實の罪にて入牢致し居し段不便に思召れ且つ至孝の者に付苗字帶刀差許す樣領主へ仰付らる之に依て村役の儀は前々之通り心得べし 九助妻 せつ 酉十九歳 駿州島田宿 水田屋藤八 其方共儀聟夫等の災難を歎き艱難辛苦の上公儀巡見使へ訴出申立明了なるにより善惡判然と相顯れ九助の寃罪を雪ぎし信義貞操の段厚く譽置く 遠州上新田村 無量庵住持 大源 駿州鞠子宿 柴屋寺住持 宗久 其方共儀不埓の筋も之なし構ひなし 其外双方付添の役人共右の通り申渡せしにより其旨心得よと申渡されける實にや大岡殿の裁斷明鏡に物を移すが如く後世其才量を稱へるも宜なる哉 水呑村九助一件終 底本:「大岡政談」帝國文庫、博文館    1929(昭和4)年4月15日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※活字の回転、印刷のかすれは注記なしとしました。 ※大見出し「解題」において、「衛」と「衞」、「本多源右衞門」と「本多源左衞門」、「煙草屋喜八」と「烟草屋喜八」の混在は、底本通りです。 ※大見出し「解題」の誤植を疑った箇所を、「明治秘史疑獄難獄」一元社、1929(昭和4)年6月30日発行の表記にそって、あらためました。底本と同じ表記のため確認できなかったところはママ注記としました。 ※大見出し「大岡政談首卷」において、「公事訟訴」と「公事訴訟」、「諫鼓」と「諫皷」の混在は、底本通りです。 ※大見出し「天一坊一件」において、「懷妊」と「懷姙」、「遠州屋彌次六」と「遠藤彌次六」と「遠藤屋彌次六」、「駒木根肥後守」と「駒木根肥前守」、「野山市十郎」と「野々山市十郎」、「高間左膳」と「高間大膳」、「錢屋四郎左衞門」と「錢屋四郎右衞門」、「堀田相模守」と「堀田相摸守」、「所司代」と「諸司代」、「密か」と「密」、「成るべし」と「成べし」、「尋ね」と「尋」、「願ひ」と「願」、「昔」と「昔し」、「掘出す」と「掘出たり」と「掘出されし」と「掘出し」、「大坂」と「大阪」、「欠」と「缺」、「弔らひ」と「弔ひ」、「某」と「某し」、「初」と「初め」、「四十七兩二分」と「四十七兩二歩」、「互ひに」と「互に」、「思召し」と「思召」、「引籠」と「引籠り」、「欲」と「欲し」、「包み」と「包み」、「手懸」と「手懸り」、「立去り」と「立去」、「窺へ」と「窺がへ」、「仕まつ」と「仕つ」の混在は、底本通りです。 ※大見出し「天一坊一件」において、「御短刀」に対するルビの「おたんたう」と「おんたんたう」、「種々」に対するルビの「しゆ〴〵」と「いろ〳〵」と「さま〴〵」、「老中」に対するルビの「らうちう」と「らうぢう」、「笈摺」に対するルビの「おひずる」と「おひずり」、「親父」に対するルビの「おや」と「ちち」と「おやぢ」の混在は、底本通りです。 ※大見出し「天一坊一件」において、ご落胤誕生、澤の井死亡年の元号、干支の表記に「寛永二申年」と「寛永三年」と「寶永二年戌」と「寶永二年」と「寶永三戌年」と「寶永二年の」と「寛永二申年」と「寶永二酉年」と「寶永二酉年」と「寶永三酉年」と揺れが生じているのは、底本通りです。 ※大見出し「天一坊一件」において、お三婆殺人事件発生の日付が「享保三丙申年霜月十六日」と「享保元申年十一月廿八日」揺れが生じているのは、底本通りです。 ※大見出し「天一坊一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡政談 天一坊実記全」鶴聲社、1886(明治19)年3月出版の表記にそって、あらためました。底本と同じ表記のため確認できなかったところはママ注記としました。ただし、底本と同じ表記の人名、地名は「大岡政談1〔全2巻〕」東洋文庫、平凡社、1984(昭和59)年7月10日初版第1刷発行の表記で確認して、あらためました。 ※大見出し「白子屋阿熊一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡仁政録 白子屋阿熊之記」錦耕堂、1886(明治19)年3月出版の表記にそって、あらためました。底本と同じ表記のため確認できなかったところはママ注記としました。 ※大見出し「煙草屋喜八一件」において、「致」と「致し」、「不屆き」と「不屆」の混在は、底本通りです。 ※大見出し「煙草屋喜八一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡仁政録 煙草屋喜八之伝」錦耕堂、1886(明治19)年3月出版の表記にそって、あらためました。底本と同じ表記のため確認できなかったところはママ注記としました。 ※大見出し「村井長庵一件」において、「八ヶ年」と「八箇年」、「本覺院」と「本學院」、「武田長生院」と「竹田長生院」、「預かる」と「預る」、「成るべし」と「成べし」、「献」と「獻」、「悲み」と「悲しみ」、「手續き」と「手續」、「虫」と「蟲」、「戯」と「戲」、「絲竹」と「糸竹」、「審く」と「審しく」、「願ひ」と「願」、「訟訴書」と「訴訟書」、「不屆き」と「不屆」、「昔」と「昔し」、「お安」と「御安」の混在は、底本通りです。 ※大見出し「村井長庵一件」において、「種々」に対するルビの「いろ〳〵」と「しゆ〴〵」と「さま〴〵」、「何卒」に対するルビの「どうぞ」と「なにとぞ」、「然樣」に対するルビの「さやう」「さう」、「私」に対するルビの「わたくし」と「わし」、「大聲」に対するルビの「おほごゑ」と「たいせい」、「貴殿」に対するルビの「きでん」と「おまへ」と「あなた」と「きさま」、「仕業」に対するルビの「しわざ」と「しごと」、「都度々々」に対するルビの「つと〴〵」と「つど〳〵」の混在は、底本通りです。 ※大見出し「村井長庵一件」において、道十郎牢死の「寶永七年九月廿一日」と「寶永七年九月廿七日」の混在は、底本通りです。 ※大見出し「村井長庵一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡仁政録 村井長庵之記」鶴聲社、1884(明治17)年6月出版の表記にそって、あらためました。底本と同じ表記のため確認できなかったところはママ注記としました。 ※大見出し「直助權兵衞一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴聲社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。 ※大見出し「越後傳吉一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡政談」銀花堂、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。底本と同じ表記のため確認できなかったところはママ注記としました。 ※大見出し「越後傳吉一件」において、「伊藤伴右衞門」と「伊藤半右衞門」と「伊東半右衞門」、「道澤」と「道宅」、「鴻の巣宿」と「鴻巣宿」、「森田や」と「森田屋」、「猿島河」と「猿島川」の混在は、底本通りです。 ※大見出し「傾城瀬川一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴聲社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。 ※大見出し「畔倉重四郎一件」において、「松屋文右衞門」と「小松屋文右衞門」、「十七屋」と「十七家」、「鈴ヶ森」と「鈴が森」の混在は、底本通りです。 ※大見出し「畔倉重四郎一件」において、「十七屋」に対するルビの「となや」と「となつや」と「とをつや」の混在は、底本通りです。 ※大見出し「畔倉重四郎一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴聲社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。 ※大見出し「小間物屋彦兵衞一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡仁政録小間物屋彦兵衛之伝」荒川藤兵衛、1886(明治19)年2月出版の表記にそって、あらためました。 ※大見出し「後藤半四郎一件」において、「分らず」と「解らず」、「天窻」と「天窓」、「某」と「某し」の混在は、底本通りです。 ※大見出し「後藤半四郎一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴聲社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。 ※大見出し「松田お花一件」において、「お兼」と「おかね」のの混在は、底本通りです。 ※大見出し「松田お花一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴聲社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。 ※大見出し「嘉川主税一件」において、「小金ヶ原」と「小金が原」の混在は、底本通りです。 ※大見出し「嘉川主税一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴聲社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。底本と同じ表記のため確認できなかったところはママ注記としましたが、本文での表記が一意の場合はそれにあわせました。 ※大見出し「小西屋一件」において、「許り」と「許」、「お光」と「おみつ」、「冰人」と「𫥇人」の混在は、底本通りです。 ※大見出し「小西屋一件」において、「老婆」に対するルビの「ばうも」と「らうば」の混在は、底本通りです。 ※大見出し「小西屋一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴聲社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。底本と同じ表記のため確認できなかったところはママ注記としましたが、本文での表記が一意の場合はそれにあわせました。 ※大見出し「雲霧仁左衛門一件」において、「おとき」と「お時」、「兩換町」と「兩替町」、「常盤屋」と「常磐屋」の混在は、底本通りです。また、仁左衛門らが文蔵夫婦から金を騙し取った日付が「享保十二年」と「享保十一年」と混在するのは底本どおりです。 ※大見出し「雲霧仁左衛門一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴聲社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。底本と同じ表記のため確認できなかったところはママ注記としましたが、本文での表記が一意の場合はそれにあわせました。 ※大見出し「津の國屋お菊一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴聲社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。 ※大見出し「水呑村九助一件」において、「利三」と「利三郎」、「喜平治」と「喜平次」と「嘉平次」、「川口」と「河口」、「お梶」と「おかぢ」、「お里」と「おさと」、「お深」と「おふか」、「ハツと」と「ハツト」、「櫻井文右衞門」と「櫻井文左衞門」、「田村治兵衞」と「田村治太夫」、「巴屋儀左衞門」と「巴屋儀右衞門」、の混在は、底本通りです。 ※大見出し「水呑村九助一件」において、「白妙」に対するルビの「しろたへ」と「しらたへ」の混在は、底本通りです。 ※大見出し「水呑村九助一件」において、九助江戸滞在中の白洲が「享保二年九月廿一日」、その帰村後になる久助の惣内夫婦殺害容疑に関する願書日付「享保二年二月廿三日」、久助口書における「享保二年四月廿四日」、続く大岡越前守の白洲「享保二丁酉年五月十八日」の混在は、底本通りです。 ※大見出し「水呑村九助一件」において、惣内夫婦殺害日時について「二月二十九日」と「三月二十九日」の混在は、底本通りです。 ※大見出し「水呑村九助一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴声社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。 入力:石塚一郎 校正:みきた 2019年4月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。