鬼桃太郎 尾崎紅葉 Guide 扉 本文 目 次 鬼桃太郎 むかしむかし翁は山へ柴刈に、 媼は洗濯の河にて、 拾いし桃実の裏より 生れ出でたる桃太郎、 猿雉子犬を引率して この鬼ヶ島に攻来り、 累世の珍宝を分捕なし、 勝矜らせて 還せし事、 この島末代までの 恥辱なり、 あわれ願わくは 武勇勝れたる鬼のあれかし、 其力を藉てなりとも この遺恨霽さばやと、 時の王鬼島中に触を下し、 誰にてもあれ日本を征伐し、 桃太郎奴が若衆首と、 分捕られたる珍宝を携え還らんものは、 此島の王となすべしとありければ、 血気に逸る若鬼輩、 ひこひこと額の角を蠢かし、 我功名せんと 想わざるはなけれども、 いずれも桃太郎が技掚に懲り、 我はと名乗出づるものも あらざりけり、 茲に阿修羅河の畔に世を忍びて、 佗しく住みなせる 夫婦の鬼ありけり、 もとは 鬼ヶ島の 城門の 衛司にて ありけるが、 桃太郎攻入 の砌敢なくも鉄の門扉を 打摧かれ、敵軍乱入に 及びし条、其身の懈怠に因るものなりとて、 斜ならず王鬼の勘気を蒙り、官を剥がれ世に疎れ、 今は漁人となって余命を送るといえども、何日は身の罪を償うて再び 世に出でんことを念懸け、子鬼の角の 束の間も忘るる間ぞなかりける、 さるほどに此触を聞く嬉しさ、茨木童子が 断落されし我片腕をも見たらん心地して、 此時なりと心ばかりは逸れども、 嚮に城門の敗戦に桃太郎と亘合わせ、 五十貫目の鉄棒もて、 右の角を根元より 摧折れたる創の今に疼むこと頻りにして、 不治の疾を得たりければ、 合戦なんど思いも寄らず、 かかる時子だにあらばと 頻りに妻なる鬼を罵りぬ、 されば妻の言いけるは、 伝聞く日本の桃太郎は、河に流れし桃より 生れて武勇抜群の小児なり、 尋常なる鬼胎より出でなん鬼児にては、 彼奴が敵手とならんこと覚束なし、妾夜叉神に一命を 奉げて、桃太郎二倍なる武勇の子を祷るべしと、 阿修羅河の岸なる夜叉神社に参籠し、三七日の 夜にして始めて霊夢を蒙り、その払暁水際に立出でて 見れば、いと大きなる 苦桃一顆浮波々々と浮来りぬ、 扨はと嬉しく抱還れば、 待構えたる夫の喜悦たとうる方なし、 割きて見れば果せるかな、核おのずから飛で 坐上に躍ると見えしが、忽焉其長一丈五尺の 青鬼と変じ、紅皿のごとき口を開き、 爛々たる火焔を吐て矗と立たる 其風情、鬼の眼にさえ恐ろしくも、 また物凄くぞ見えたりける、 苦桃の裏より生まれたればとて 苦桃太郎と名乗らせぬ、 扨夫婦所志よしを語りければ 苦桃大いに喜び、 易き事かな、我一跨に日本へ推渡り、 三指にて桃太がそっ首引抜き、 其国の珍宝の有らん限り引攫うて還るべし、 これより出陣出陣と勇み立てば、夫婦のいうよう、 此条王鬼に届出でずして我儘に出立せば、 或いは功も功とならずして、却て咎のあらんも 測り難し、夫婦は罪を負う身の 拝謁愜わざればとて、苦桃太郎単身して 王城に到らしめ、桃太郎征伐の義を 言上しければ、 王鬼火焔を吐きて悦ぶこと限りなく、 八角に削成して二百八十八箇の銀星打たる 鉄棒を賜い、爾之を以て桃奴が腰骨微塵に砕けよと ありければ、苦桃太郎冷笑い、 桃太郎風情の小童十人二十人、虱を拈るよりなお易きに、 安ぞ武器などの入り候べき、 仮初にもかかる物を賜う事 頗る某が武勇を 気遣いたまうに似たり、 無礼を御免し候え、 これ御覧ぜよ方々と、 側なる鉄の円柱を小指もてゆらゆらと 盪揺かせば、満座斉しく色を失い、 やれ苦桃技掚は見えたり、 止めよ止めよと震慄きけり、 王鬼近く苦桃を 招きて、かかる爾が 武勇を以てせば、 桃太郎を 滅ぼさん事 疑いなし、 別に取らす べきものありと、 自家穿ぎたりし 白虎の生皮もて 造れる褌を解きて投出し たまえば取て戴き、 双の角に引懸け、 手振足拍子可笑く 外道舞というを舞い、 喜び勇んで退出けり、 明日ともなりぬれば 王城より使者向いて、 鉄線の嚢に 人間の髑髏の 附焼十箇を 盛りて、 かの桃太郎が 黍団子に擬え、 之を兵粮にとて 賜わりぬ、 徂々て 鬼ヶ島の 堺に 来りたる頃、 魔風遽に颯々と吹荒み、瀑のごとくに 暴雨沃ぎて天地鳴動し、坤軸も折るるかと 想うばかりなり、 あら心地好き光景やと、少時立留って 四方を屹と見てあれば、魔王岳の絶頂に 当りて、電光の閃く裏に金色の 毒竜現われ、此方を目懸けて 箭を射るごとく飛来る、 やあ小賢しき長虫の通力立、 寄らば目に物見せんと 力足蹈鳴らして身構うる間に、 かの毒竜舞下りて 太郎が前に蜷屈くこと十三巻、 舌を吐き首を俛れていうようは、 某は魔王岳の絶頂なる湖水に 歳久しく棲める竜王なるが、 日本の地に罷在る眷族の蛇類、 かの桃太郎が家臣なる雉子の 一類の為に、食まるること 年々その数を知らず、 いかにもして此遺恨報えさばやと 思う事久しけれど、孤独の力及び難く、 無念を呑で瞋恚の炎燄を吐く折から、 将軍此度桃太郎征伐のよしを聞及び、 願わくは御手に随従して微力を竭し、 御威勢を以て一族の積る恨みを 散ぜんとて、これまで御出迎い 仕つりぬ、あわれ御従軍御許あらば、 身の面目之に過じとありければ、 苦桃太郎喜悦浅からず、腰なる髑髏 一個取らせて主従の契約を結びぬ、 爾時毒竜のいいけるは、徃時桃太郎は 雉子猿犬の三郎党を従がえて、 大勝利を得し例に傚い、 将軍も亦好郎党を召たまわずや、 某が無二の交を結べる 二頭の勇者あり、もし 御意あらば立所に召寄すべし との推挙に、千羊の皮は 一狐腋に如かずの本文、 なまじいなる 輩は却て足手纏なれど、 御身が信じて一方の大将とも なすべき器量ありとせば、早々 その者を 召寄せた まえという、 恐多き申分には候えども、 類は友を以て聚まるの喩、 某不肖といえども 魔王岳の竜王なり、 凡俗なる狐狸の輩を友と せんや、まず召寄せて 見参に入れんと、 二振三振尾を掉れば 響宛然金鈴のごとし、 之を合図に北方より忽然として 白毛朱面の大狒飛来り、 西方よりは牛かと見紛うばかりの 狼躍出でて、一斉に太郎が前に額けば、 苦桃岩角に腰打懸け、 鴆の羽扇にて麾ねき、実に頼もしき 器量骨格、狒は猿の首領にして 狼は犬の強敵たり、 之に加うるに毒竜あれば、 桃太郎を一戦に撃破らん事、鉄槌を以て 土器を摧くがごとし、いざ引出物取らせんと、 また二箇の髑髏を与え、いでや出陣と立上れば、 毒竜再び策を献じていわく、某に飛行自在の術の候、 瞬時にして日本国に到るべしと、虚空に向って呼吸を吐けば、 不思議や黄雲遽然蒸して眼前に聚りぬ、主従之に打乗り、 宙を飛ぶこと西遊記の絵のごとく、一昼夜にして眼界果しなき 大洋の上にぞ来りける、 苦桃太郎不審を起し、我等神通力を以てかく飛行しながら、 未だ日本の地に着かざる理なし、毒竜爰は鬼ヶ島を去ること若干里ぞ、 さん候、大約十二万三千四百 五十六億七千八百九十里、 おっと其は行過ぎたり、 戻せ戻せと逆飛雲の法を 行なわせて、無二無三に退るほどに 還るほどに、また戻過ぐること 九十八万七千六百五十四億 三万二千と一百里、これではならぬと また出直して、行けば行過ぎ、 戻れば戻過ぎ、行つ戻りつ、 戻りつ行きつ、左へ翔り右へ走り、 四面八角縦横無尽に飛廻るほどに、 流石の毒竜の魔力も限あれば次第に疲れ、 雲は弱りて薄れ行き、 今は古綿のごとく此処も寸断れ彼所も寸断れて、 放下たる空隙より践外して、狒狼は敢なくも 泡立海に落入りて、鰐魚の餌食となりけらし。 苦桃太郎之を見るより奮然として怒を為し、 おのれ毒竜、爾が魯鈍の故を以て、 股肱の臣を喪いたるぞ、 軍陣の門出に 前徴悪し、 憎くき奴と 拳を固めて、 毒竜の真額 砕けよと 乱打に撃ければ、 もとより暴気の 毒竜は発憤の眼に 朱を濺ぎ、金の鱗を 逆てたるは木葉に風の吹ごとし、 やあ小憎きおのれが大将面、 いで竜王が本事を見よと、 十間余りの尾を風車のごとくに 舞わして、苦桃太郎を七巻に巻裹め、 骨も微塵と固緊くれば、物々しやと苦桃太郎、 惣身にうんと力を籠むれば、さしもの毒竜弗つと断れ、 四段となって仆るれば、 魔力忽ち解けて 雲は吹消すごとくなくなれば、 何かは以て堪るべき、 苦桃太郎迢々の虚空より 足場を失い、 小石のごとく真一文字に舞下りて、 漫々たる大海へぼかん! 「おにが嶋の文字にて」書かれた『鬼桃太郎』の序文(紅葉筆) 底本:「妖怪文藝〈巻之弐〉 響き交わす鬼」小学館文庫、小学館    2005(平成17)年10月1日初版第1刷発行 底本の親本:「名著複刻 日本児童文学館1」ほるぷ出版    1974(昭和49)年9月 初出:「鬼桃太郎」幼年文學叢書、博文館    1891(明治24)年10月11日印刷出版 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「火焔」に対するルビの「かえん」と「ほのお」の混在は、底本通りです。 ※挿絵は、底本の親本から富岡永洗(1864(元治元)年~1905(明治38)年)のものをとりました。 ※誤植を疑った箇所を、親本の表記にそって、あらためました。 ※改行は、底本通りです。 入力:田中哲郎 校正:みきた 2018年9月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。