筬の音 ──わが幼時の記憶── 折口信夫 Guide 扉 本文 目 次 筬の音 ──わが幼時の記憶── わが車は、とある村に入りぬ。 軒ごとに吊りほせるかけ菜の、あるかなきかの風にゆらめきて、鶏のこゑ、長閑にきこゆ。 轍におこる塵かろく舞ひ、藪ぎはの緋桃の花、ほろり〳〵散る。高安の春、いま闌なり。 いつしか、村をはなれつ。から〳〵と軋り行く輞の右左、みだれ咲く菜の花遠くつゞきて、蒸すばかり立ちのぼる花の香の中を、黄なる、白き、酔心地に蝶の飛びては憩ひ、いこひてはとぶ。いづこともなく、筬のおときこゆ。 見れば、わが行く手にあたりて、常緑樹の森あり。音は、其方より聞え来るなり。 此音を耳にして、われは、ゆくりなくも、旧き記憶をよびおこして、回想の忘れ路をたどりぬ。 恋の淵・峯の薬師・百済の千塚など、通ひなれては、そなたへ足むくるもうとましきに、折しも秋なかば、汗にじむまで晴れわたりたる日を、たゞ一人、小さき麦稈帽子うち傾けて、家を出でつ。 山鳩の、梢に羽ぶく音だに聞ゆる淋しき山路を、「あゝ正成よ」など、高らかにうたひつゝ登る。 この道は、平群の櫟本へ出づるなりとか。 もみぢにはまだしけれど、聞きおよぶ竜田へは二里をこえずと、よべ乳母の語れるに、いでさらばと志しゝなりき。 行けど〳〵山かさなりて、峠なほ遥かなるに、日はゝや大阪の海に傾きかゝり、大空は、いよゝ青ずみて、行きかふ雲だになし。 夕べの山路には、人かどふ神の出るものよと聞けりしかば、暮れはてぬ程にともと来し道をひたくだりに走せくだる。 山の尾をいくめぐり、谷にそひ、谷をわたり、森のかげ路のをぐらきには、落葉ふむ跫音にもおびえつゝ、やゝ里近くなりたる処に、山畠の陸稲の、方一反、波うちかへすが中に交りて、大きなる柿の木の枝もとをゝに実りたるが、折からの入日をうけて立ちたる。と見れば、その木の本に小家ありて、其内より機おり唄のきこえ来るならずや。 ひそ〳〵と忍びよりて障子の穴よりうかゞふに、さだすぎたる女の、頬にみだれかゝる髪かきもあげで、泣きてはうたひ、唄ひては泣き、何になくらむ、かなしげにうたへるなりき。 様は遠州浜名の橋よ、いまはとだえて音もせぬ。 さては此女、柿主なりなと思ひつゝ、手ごろの石拾ひあつめ、柿の木にむかひてうちつくるに、二つ三つ四つ、がさ〳〵と音して、叢にまろび落ちたるを、袂におしいれて、立ち上らむとする時、「たそ」と咎むる声して、障子さとうち開き、見いだしたるは、かの女なりき。 一目見るより、われは背戸のふし垣ふみこえて、走り出でぬ。 後につゞく音するに、顧れば、さをなる顔にほつれ毛うちみだし、細き目に涙たゝへたる柿主の女の追ひ来しなりき。 われは立ちすくみぬ。 女は近よりて、やにはにわが手をぐと把りぬ。われは恐れと羞恥とに、泣かむとせしも、辛うじて涙かくしぬ。 握られたる手には、女のはげしき呼吸にうち震ふ肩のをのゝきの、伝ふならずや。 若子、今うち落しゝ物、かへし給へ。 こはき顔して見入るに、われは噤みぬ。 かへし給はずや。 いな〳〵、われは柿はとらじを。 と云ふに、女の肩いよゝをのゝき、把られたるわが手、亦、いたくふるひぬ。 よし〳〵、かへし給はずば、明日にも若子が家人に告げん。 と云ふに、捕へられたる手うちはらひて遁れんとする袂より、紅の珠二つ三つ、ころ〳〵と転び出でぬ。 それ見給へ。 と女は冷かに笑みて、わが顔を覗きこみぬ。われはえ堪へず、声あげて泣きぬ。 頬を伝ふ涙はらふ〳〵、逃げ下りつ。 裾曲を流るゝ里の小川の板橋に立ちて、ふりかへりぬ。 見上ぐれば、靄こめたる山畠の小家には、早や灯きらめきぬ。 かすかにきこゆるは筬うつ音。 家にかへれば、乳母は、わがかへりおそきを案じわびて、門にたゝずみ居たりき。 ありし事は、小さき胸一つに秘めて、其夜は早く寝床にまろび入りぬ。 其夜の夢は、千塚の極尾の神のあらはれて、われに貸しおきつる斎瓮をかへせ、とせめしなりき。 夢さめて、われは、かの女は塚の神ならざりしかなど思ひて、暗き寝床の内に、ひたと乳母の身により添ひぬ。 明くる日、柿うりの女、入り来ぬ。 われも欲しければとて、門へ出でんとせしも、其女の声を聞きて、たちすくみぬ。 乳母は、幾度かわが名をよびつ。されど、われは、はなれ家にかくれて、いらへもせざりき。 やゝして柿売りのかへりし頃、母屋に来て、堆く、くづるゝばかりうみたる、赤く大いなるが盆に盛られたるを見し時、其は斎瓮の埴の赤珠にあらずや、とたづねて、 若子は、ねおびれたりや。 と嗤はれぬ。たとひ其時には、昨日の恐しかりしをも忘れて、貪り喰ひつれど。 されど、われは今もなほ、其斎瓮にあらざりしかを疑ふなり。 ふと心づけば、車は若江の邑の畷にかゝれり。 道のかたへなる石ぶみにぬかづきて、重成の霊に、十年ぶりの今日のあひをよろこぶ。 また車に上る。恩智川の堤は、見え初めぬ。かのかげろひ立てる堤をこゆれば、わがめざしたれつつ、十年の月日を過しゝ、里親の家も見ゆるなるべし。山畠の機おり女は、今も、まさきくありや。 前路遠くして、わが行く道、なほ遥々たり。 底本:「日本の名随筆25 音」作品社    1984(昭和59)年11月25日第1刷発行    1999(平成11)年4月30日第17刷発行 底本の親本:「折口信夫全集 第三十巻」中央公論社    1968(昭和43)年4月初版発行 入力:門田裕志 校正:多羅尾伴内 2003年12月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。