にゆう 三遊亭円朝 Guide 扉 本文 目 次 にゆう  昔浅草の駒形に半田屋長兵衛といふ茶器の鑑定家がございました。其頃諸侯方へ召され、長兵衛が此位の値打が有るといふ時は、直に其の代物を見ずに長兵衛が申しただけにお買上になつたと云ふし、此人は大人でございますから、大概な処から呼びに来ても頓と参りません。家には変な奉公人を置きまして、馬鹿な者を愛して楽しんでゐるといふ極無慾な人でございました。長「何を、往かねえよ、何だと。女房「でもお手紙が参りましたよ。長「何処から。女房「萬屋五左衛門さんから。長「ムウン又迎ひか、どうも度々招待状をつけられて困るなア、先方は此頃茶を始めたてえが、金持ゆゑ極我儘な茶で、種々道具を飾り散かして有るのを、皆なが胡麻アするてえ事を聞いたが、己ア然ういふ事をするのが厭だから断つてくんなせえ。女房「だつて貴方、度々の事ですから一度往らつしやいな、余り勿体を附けるやうに思はれるといけませんよ。長「茶も何もやつた事のねえ奴が、変に捻つたことを云つたり、不茶人が偽物を飾つて置くのを見て、これは贋でございますとも謂へんから、あゝ結構なお道具だと誉めなければならん、それが厭だから己の代りに彼の弥吉の馬鹿野郎を遣つて、一度でこり〳〵するやうにしてやらう。女房「お止し遊ばせよ、あなたは彼を怜悧と思召して目を掛けていらツしやいますが、今朝も合羽屋の乳母さんが店でお坊さんを遊ばして居る傍で、弥吉が自分の踵の皮を剥いて喰べさせたりして、お気の毒な、子供衆だもんですから、何も知らずむしや〳〵喰べて居ましたが、本当に汚い事をするぢやア有りませんか、それに此頃では生意気になつて、大人に腹を立たせますよ。長「いや、馬鹿と鋏は使ひやうだ、お前は嫌ひだが、己は嗜だ……弥吉や何処へ往つた、弥吉イ。弥「えゝー。長「フヽヽ返事が面白いな……さ此方へ来い。弥「えゝー。長「何だ大きな体躯をして立つてる奴が有るか、坐んなよ。弥「用が有るなら直に往つて来るにやア立つてる方が早えや。長「馬鹿だな、苟且にも主人が呼んだら、何か御用でも有りますかと手を突いて云ふもんだ、チヨツ(舌打ち)大きな体躯で、汚え手の垢を手の掌でぐる〳〵揉んで出せば何の位の手柄になる、物を積つて考へて見ろ、それに此頃は生意気になつて大分大人にからかふてえが、宜くないぞ、源蔵見たやうな堅い人を怒らせるぢやアねえぞ。弥「なに彼の人はね疝気が起つていけないツてえから、私がアノそれは薬を飲んだつて無益でございます、仰向けに寐て、脇差の小柄を腹の上に乗けてお置きなさいと云つたんで。長「ムヽウ禁厭かい。弥「疝気の小柄ツ腹(千住の小塚原)と云つたら怒りやアがつた、跡から芳蔵の娘が労症だてえから、南瓜の胡麻汁を喰へつてえました。長「何だい、それは。弥「おや〳〵労症南瓜の胡麻汁つて。長「馬鹿な事を云ふな、手前は江戸ツ子ぢやアねえぞ、十一の時三州西尾の在から親父が手を引いて家へ連れて来て、何卒置いてくれと頼まれる時、己が鼠半切へ狂歌を書いて遣つたツけ、ムヽウ何とか云つたよ、えゝ「西尾から東を差して来た小僧皆身の為に年季奉公と、東西南北で書いて遣ると、お前の親父がそれを国へ持つて往つて表装を加へ、掛物にして古びが附き時代が附きますによつて、忰も成人致しませう、そればかりが楽しみでございます、何分どうかお世話を願ひますと、親はそれ程に思つてゐるのに、親の心子知らずと云ふはお前のことだ。大きな体躯をして居ながら、道具は些とも覚えやアしねえ、親の恩を忘れちやア済まんぞ。弥「アハヽヽ親玉ア。長「何だ、人が意見を云つてるのに誉る奴が有るか、困るなア、もう十八だぜ貴様も。弥「然う〳〵来年は十九だ。長「其様なことは云はなくつても宜い、就ては今萬屋から手紙が来たんだ、先方で己の顔を知らんから、お前己の積で代に往け。弥「へえゝ……代てえのは……。長「己の代りに往くんだ。弥「ハヽヽそれぢやア私が此の身上を貰ふのだ。女房「御覧なさい、馬鹿でも慾張つて居ますよ。長「黙つてゐな、己ア馬鹿が好だ……其儘却つて綿服で往け、先方へ往くと寄附きへ通すか、それとも広間へ通すか知らんが、鍋島か唐物か何か敷いて有るだらう、囲ひへ通る、草履が出て居やう、露地は打水か何かして有らう、先方も茶人だから客は他になければお前一人だから広間へ通すかも知れねえが、お前は辞儀が下手で誠に困る、両手をちごはごに突いてはいけねえよ、手の先と天窓の先を揃へ、胴を詰めて閑雅に辞儀をして、かね〴〵お招きに預かりました半田屋の長兵衛と申す者で、至つて未熟もの、此後ともお見知り置かれて御懇意に願ひますと云ふと、先此方へと、鑑定をして貰ふ積りで、自慢の掛物は松花堂の醋吸三聖を見せるだらう、宜い掛物だ、箱書は小堀権十郎で、仕立が慥か宜かつたよ、天地が唐物緞子、中が白茶地の古金襴で。弥「へえー……何を。長「松花堂の三教醋吸の図で、風袋一文字が紫印金だ、よく見て覚えて置け。弥「へえー紫色のいんきんだえ、あれは癢くつていけねえもんだ。長「何だ其様な尾籠なことを云つちやアなりませんよ、結構な御軸でございますと云ふんだ、出して見せるか掛けて見せるか知らんけれども掛けて有つたら先づ辞儀をして、一応拝見して、誠にどうもお仕立と申し、お落着のある流石は松花堂はまた別でございます、あゝ結構な御品で、斯様なお道具を拝見致すのは私共の眼の修業に相成りますと云つて、身を卑下するんだ。弥「ひげするんなら、角の髪結床へ往きやア直だ。長「髯を剃んではない、吾身を卑しめるんだ、然うすると先方では惚込んだと思ふから、お引取値段をと来る、其時買冠りをしないやうに、其の掛物へ瑾を附けるんだ。弥「へえ、それは造作もねえ、破くか。長「破く奴が有るか、知れねえやうに瑾を附けるのが道具商の秘事だよ。弥「フヽヽ「ヒヂ」は道具商より畳職の方がつよいで。長「黙つて人の云ふことを聞け、醋吸の三聖は結構でございます、なれども些と御祝儀の席には向きませんかと存じます、孔子に老子、釈迦は仏だからお祝ひの席には掛けられませんと、買つてくれと云はれないやうに瑾を見出して、惜い事には何うも些と軸ににゆうが有りますと云つてにゆうなぞを見出さなくツちやアいかねえ。弥「へえー……「にゆう」てえのは坊さまかい。長「何故え。弥「づくにゆうでございますツて。長「然うぢやアねえ、軸に「にゆう」が有りますと云ふのだ。弥「へえー。長「にゆうを知らんか、道具商の御飯を喰つてゝ「にゆう」を知らん奴もねえもんだ。弥「アハヽヽ何の事た。長「瑾が出来たと云つては余り素人染るから、瑾を「にゆう」と云ふが道具商の通言だ。弥「へえ、始めて聞いた。長「何うかすると、お客さまに腰の物を出されるかも知れねえ、然うしたら私は小道具の方とは違ひますゆゑ刀剣の類は流違ひでございますから心得ませんが、拝見だけ仰せ付けられて下さいましと云つて、先頭から先へ眼を附け、それから縁を見て、目貫から何うも誠にお差ごろに、定めし御中身は結構な事でございませう、当季斯やうな物は誠に少なくなりましたがと云つて、服紗を刀柄へ巻いて抜くんだよ、先方へ刃を向けないやうに、此方へ刃を向けて鋩子先まで出た処でチヨンと鞘に収め、誠に結構なお品でございますと、誉めながら瑾を附けるんだ、惜しい事には揚物でございますつて。弥「へえ天麩羅かい。長「解らんのう、長い刀を揚げて短くしたのを揚身といふ。弥「矢張あなごなぞは長いのを二つに切りますよ。長「喰ひ意地が張つてるな、鑑定が済むと是からお茶を立てるんで御広間へ釜が掛つて居る、お前にも二三度教へた事も有つたが、何時も飲むやうにして茶碗なぞは解りません、何でございますか誠に結構な御茶碗でと一々聞いて先方に云はせなければなりませんよ、それからぽツぽと烟の出るやうなお口取が出るよ、粟饅頭か蕎麦饅頭が出るだらう。弥「へえ、何人前出るえ。長「何人前なんて葬式ぢやア有るまいし、菓子器へ乗せて一つよ。弥「たつた一つかア。長「がつ〳〵喰ふと腹を見られるは。弥「ぢやア腹掛をかけて往きませう。長「フヽヽ其の桟留縞の布子に、それで宜い、袴は白桟の御本手縞か、変な姿だ、ハヽヽ、のう足袋だけ新しいのを持たしてやれ。弥「ぢやア往つて参ります。と火の附きさうな頭髪で、年寄だか若いか分りません。長「随分茶の有る男だな……草履下駄を片ちんばに履いて往く奴があるか、狗がくはへて往つた、外に無いか、それではそれで往け、醋吸の三聖、孔子に老子に釈迦だよ、天地が唐物緞子、中が白茶地古錦襴、風袋一文字が紫印金だよ、瑾の事がにゆうだよ、忘れちやアいけないよ。弥「へい畏まりました。とぴよこ〳〵出掛けましたが、愚かしい故萬屋五左衛門の表口から這入ればよいのに、裏口から飛込んで、二重の建仁寺垣を這入り、外庭を通りまして、漸々庭伝ひに参りますと、萱門が有つて締めてあるのを無理に押したから、閂が抜け、扉が開く機みに中へ転がり込み、泥だらけになつて、青苔や下草を踏み暴し、辷つて転んで石燈籠を押倒し、松ヶ枝を折るといふ騒ぎで、先程から萬屋の主人は、四畳の囲へ這入り、伽羅を焼いて香を聞いて居りました。弥吉は方々覗いたが誰も居ません。ふと囲へ眼を附け、弥「此ん中に人が居るだらう。と怪しからん奴で、指の先へ唾を附け、ぷつりと障子へ穴を開け覗き見て、弥「いやア何か喰つて居やアがる。主人「これ、誰か来たよ……誰だ、其処へ穴を開けたのは、怪からん人だな、張立の障子へぽつ〳〵穴を開けて乱暴な真似をする、誰だな、覗いちやアいかん、誰だ。弥「ハヽヽ何うか怒つてやアがる、えヘヽヽ御免なさい。主人「これは驚いた……誰か来いよ、変な人が来たから……其処は這入る処ぢやア有りません、づか〳〵這入つて来ちやアいけません。弥「門を破つて這入つた。主人「おゝ〳〵乱暴狼藉で、飛石なぞは狗の糞だらけにして、青苔を散々に踏暴し、折角宜い塩梅に苔むした石燈籠を倒し、松ヶ枝を折つちまひ、乱暴だね……何方からお入来なすつた。弥「アハヽヽ驚いちまつたな……コヽ予々お招きになりました半田屋の長兵衛で。主人「へえー是は驚き入つた、左様とは心得ず甚だ御無礼の段々何ともどうも、是は恐縮千萬……何卒是れへ〳〵速かにお通りを願ひます、何卒是れへ是れへ。弥「ハヽヽ狭つこい処に這入つてるな……己ア手前に禁厭を教へてやらうか。主人「ヘヽヽ御冗談ばかり……へえ成程……えゝ予々天下有名のお方で、大人で在つしやると云ふ事は存じて居りましたが、今日は萬屋の家へ始めて往くのだから、故意と裏口からお這入りになり、萱門を押破つて散々に下草をお暴しになりました所の御胆力、どうも誠に恐入りました事で、今日の御入来は何とも何うも実に有難い事で、大きに身の誉れに相成ります、何卒速かに此方へ〳〵。弥「私アお前にりん病が起つても直に療る禁厭を教へて遣らう、縄を持つて来な、直に療らア。主人「はてな…へえゝ。弥「痳病(尋常)に縄にかゝれと云ふのだ。主人「えへゝゝ御冗談ばかり、おからかひは恐入ります、えゝ始めまして……(丁寧に辞儀をして)手前は当家の主人五左衛門と申す至つて武骨もので、何卒一度拝顔を得たく心得居りましたが、中々大人は知らん処へ御来臨のない事は存じて居りましたが、一度にても先生の御入来がないと朋友の前も実に外聞悪く思ひます所から、御無礼を顧みず再度書面を差上げましたが、お断りのみにて今日も御入来は有るまいと存じましたが、図らざる所の御尊来、朋友の者に外聞旁誠に有難い事で恐入ります……何うもお身装の工合、お袴の穿やうから更にお飾りなさらん所と云ひ、お履物がどうも不思議で、我々が紗綾縮緬羽二重を着ますのは心恥かしい事で、既に新五百題にも有ります通り「木綿着る男子のやうに奥ゆかしく見え」と実に恐入ります、何卒此方へ〳〵。弥「お前さんの処から頼みが有つたので見に来た。主人「それは誠に恐入ります。弥「手を揃へてお辞儀をするんだが何うだい……此位で丁度揃つて居るか居ねえか見てくれ。主人「へゝゝゝ御冗談ばかり。弥「揚物が解るか、揚物てえと素人は天麩羅だと思ふだらうが、長えのを漸々詰めたのを揚物てえのだ、それから早く掛物を出して見せなよ、破きアしねえからお見せなせえ、いんきんだむしの附着いてる箱は川原崎権十郎の書いたてえ……えゝ辷つて転んだので忘れちまつた、醋吸の三聖格子に障子に……簾アハヽヽヽ、おい何うした、確かりしねえ。主人五左衛門は驚きまして太鼓張のふすまを開けて、五「アツ。と口を開けたまゝ水屋の方へ飛出しました。弥「おい……ハヽヽ彼方へ逃げて往きやアがつた、馬鹿な奴だなア……先刻むぐ〳〵喰つてゐた粟饅頭……ムンこゝに烟の出る饅頭がある、喰かけて残して往きやアがつたな。と香炉を手に取揚げ、銀の匙で火の附いた香を口へ入れ、弥「おゝ熱つゝゝゝ。五「乱暴な人だ、火を喰つてらア、口の中に疵が出来ましたらう。弥「いえ、にゆうが出来ました。 (拠酒井昇造筆記) 底本:「明治の文学 第3巻 三遊亭円朝」筑摩書房    2001(平成13)年8月25日初版第1刷発行 底本の親本:「定本 円朝全集 巻の13」世界文庫    1964(昭和39)年6月発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:noriko saito 2009年8月14日作成 2011年9月3日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。