素人製陶本窯を築くべからず ──製陶上についてかつて前山久吉さんを激怒せしめた私のあやまち── 北大路魯山人 Guide 扉 本文 目 次 素人製陶本窯を築くべからず ──製陶上についてかつて前山久吉さんを激怒せしめた私のあやまち──       (一)  私は日頃の心がけとして、後悔になるようなことは決してせんつもりでいるが、事実は、どうしてどうして大いに後悔することが次から次へ湧いて出て当惑することが少なくない。  例えば先年前山久吉さんを激怒せしめたなどはその例のゆゆしき一つである。それが場所もあろうに三越の四階、私の作陶展覧会場でである。従って多勢の人ごみの中でだ。相手は耳順、私は知天命に近からんとする者、この二人が勢いづいてついに馬鹿野郎を相互連発したのだから私として後悔せざらんとしてもしないわけにはゆかない。  事の起こりは製陶上の問題であって、見解の相違からなのだった。  当時前山さんが鎌倉の自邸に製陶窯を築かんとされたとき、私が余計なおせっかいをいってやったものだ。実をいうと大した懇意でもないくせに、窯を築くのはおよしなさい、自作するなら別のこと、指図で職工に作らすようでは所詮なにも出来るものではない。仮に自作するにしても……ずぶの素人が片手間に轆轤を廻したくらいでは三年経ったって猫の飯食う茶碗も出来るものじゃない……云々てな、嫌な文句で手紙を送ったものだ。  これにはさすがの前山さんもちょっと思慮を欠かれて真っ赤になって怒ったらしく、魯自身はとうに陶窯を築き、楽しみもし研究も続けながら、俺が窯を築きかけるといけないという。なんという失敬なことだ。実にけしからん。手前勝手な奴だ。……  考えてみると私も、いい方だってあったろうに猫の飯食う茶碗だって出来るものかなどと、大袈裟に過言したものだから、たまらなかった。なにを……という拳骨が振り上がったのは、あえて今から考えなくても無理のない話である。それも私が純真にいったのならまだしもだが、多少含むところもあって意識的に彼を刺激したのだから、なんといったって私は人が悪い。魯山人はあくが強いなどとよくいわれるのはこのところだなとつくづく考えたのであった。  しかし、私に余計なからかい気分の邪魔があったに違いないとしても、私が忠告の真意は誠実であって、私は心から、鑑賞家として聞こえある前山さんに築窯と製陶を止めさしたかったのである。これには今もって毛頭の偽りもなければ寸毫のからかい気分もない。  なぜかといえば、いうまでもなく前山さんに轆轤を廻すつもりがないことも、廻せる可能の有無も私には分りきっていたからである。  自分が造らなければ誰が造る。いわずと知れた職人が造るまでではないか。それでは前山久吉翁作ではなくて、久吉翁指図、職人某々作とならざるを得ない。これをお庭焼といってもよいが、職工がたった一人のさびしいお庭焼は取るにも足らんではないか、さらでだにお庭焼と称する物にさしたる名品が生まれていないことは前山さんとてとくと御存じである。これが私の忠言となって彼にとっては不服な刺激をもって迫ることになったゆえんだ。  翁にいわすれば……否、現に前山さんが私に三越楼上で放言した一節を紹介すると……君遠州だっていちいち自分で茶杓を削りゃしないよ。皆職人に作らしたものだ。指導だ……指導だ……指図次第で出来るよ。この一言で私の陶製観をやっつけ得られるつもりらしく平気で怒号されたのだが、なにがなんとしても前山さんの芸術無理解の実体が人前にさらけ出されるまでで、一向に私をやっつける痛棒にはならなかった。しかも笑止に終わってしまわざるを得なかった。ここで私の卑見を披瀝すると、 一、前山さんの第一の錯覚は一代の小堀遠州宗甫と御自分を同等に扱われたこと。 一、職人は職人でも遠州時代の職人と今日この頃、しかもそこばくのことでいいなりになってくれる職人とはその質が違う、腕が違う、心が違うという点に不注意であったこと。  そしてその前山さんが陶製上の予備知識を絶無とはいわないが殆どというも過言ではないほど斯道知識をもたれなかったこと。  これらが私をして前山さんに製陶計画抑止の勧告を余儀なくせしめたゆえんなのであった。  これだけでは、不遜魯山人、未だに人を馬鹿にしよると翁をしてまたしても激怒さすことになるやも知れないが、私は行き届かないながらも、これより順々徐々……「素人製陶本窯を築くべからず」の理由を具体的に出来得るかぎり読者、否、翁が心の底から得心されるべく述べたてて翁の廃窯に未練なからしめんと考えているのである。それには御迷惑でも住友寛一氏の製陶失敗例も出ようし、頼母木桂吉氏の九谷窯? の話も自然出さないわけにはいかないであろう。が止むを得ざるかかわり合いとしてお許しを願いたい。蓋し故意に悪口を弄するわけでないことはもちろんである。この点、なにかの御参考にならないものでもないとして、しばらく御判読を希望して止まない。       (二)  なぜ素人は窯を築いてはいけないのか、……これが答えはいうまでもなく、それは所詮出来ない相談であるからだと、私はいつもの憎まれ口をききたいのである。とはいってもその人の、望みの大きさ次第では一概にいって退けたものでもないが、少なくとも前山翁のような好者であってはその望むところの最後のものが大きいとしなければならないから、要は出来ない相談だといわざるを得ないのである。伊賀に手をつけた某氏にしても住友、岩崎なんという富者にしても、頼母木氏のような好みの人々にしても所詮は出来ない相談である。これらはいずれもが、漫然出来得ると軽率にも誤認し、それを空しく求めているだけだと、私の常識と経験はいつでも断言を吝まないのである。  これについて私は余計なことをと、他の誹りあることをよく知りながら、ぜひともこの問題を解剖し解決しようためにその仔細を開陳したいのである。それについて引例を便宜上前山さんにとることは、先の失敗もあることゆえ私はよほど考えたのであるが、かつて素人窯を築いた如上の人々の中で現在なおかつ、窯事の研究に没頭していられるのは前山久吉翁一人であるからいわば人身御供に上らされたわけである。あえて翁を相手に戦うのでないことだけは翁においても諒承されたい。  住友さんについてはどんな望みをもって製陶に臨まれたか、私はよく知悉しない……が、氏は篆刻を鉄城に学んでみ、あるいは富岡鉄斎翁の画を臨写してみずから発表するなど一方ならぬ趣味人であり、かつまた清湘老人の画に巨金を投じて複製を世に配した位の好者でありする点から見て、その望まれる陶磁器もそのネライが奈辺いかなるところにあるかは察するに難くないが、いずれにしても氏は財閥住友の御曹子であって浮世のせち辛さを知らないいわゆるお坊ちゃんと見るべき人である。それがためか否かは別としても、ともかく、京都からIという陶家を鎌倉に招き御大層な窯を築き、宿志なれりと考えられたのである。しかし、その束の間は実に数旬を出なかった。ついに持ち前の癇癪玉を破裂さし、失意の人となられたのは私から見て当然すぎるほど当然ではあるが、誠にお気の毒な瞬間を作られたものである。  住友氏からして岩崎、前山、伊賀、頼母木の諸氏などからして、自邸に陶製し楽しまんと決意せられたまでの趣味性は私も覚えがあるが、まったく大した奮発の挙句なのである。  しかるにかかわらずいずれもたちまち一場の夢と化しおわって無念にも悄然たらざるを得ないのはなんとしたことであろう。それはなにもかもがいかにも軽率な判断に過ぎなかったからとするの他はないのである。これはいずれもの人々が陶器師なる者さえ手許に連れ寄すること、よって思うまま欲するままに陶磁が窯出し得るものと、こともなげにも予断する軽々しいくせのある一事である。伊賀を作らんと欲して窯を築く人が伊賀信楽にはあまりにも縁の遠い、横浜のMという陶家に依嘱して古伊賀の再現を期待するなど、私の口を率直に割るならば浅慮きわまるというの他はない。  前山翁が最初仁清ふうを作らんとされた時も、京都のKという陶家をひっぱってきて、これに望みの夢をかけられたらしいのである。美校の画学生を聘して仁清ふうの絵付けをさせてみたりされるあたりは聡明そのもののような、前山翁の所作としては合点のいかな過ぎる常識なのだ。しかも、その期待に破れた後は瀬戸系陶器に心を移して志野、黄瀬戸、織部といった、しぶ好みなるものの成就を欲し、一挙気構えをそれに傾倒されたようである。が、惜しいことにこれとて深い用意および周到綿密な調査の行き届くものがあっての企図ではなかった。最初仁清に理解なき陶家を連れ来って、仁清を作らんとした誤った行為から一歩も前進のない進みをもって瀬戸系試作に臨まれたのであった。このこと、私の見聞に誤りなしとするならば、こととしだいもあろうに一種の札付で有名なAという名古屋出の道具屋に瀬戸陶工の身軽者を世話せよと迫られたことである。そこで最初に選び出されたBなる陶人は小さな奉公は出来ないと諾するところがなかったが、次のKなる陶人は身も心も軽く前山邸に轆轤を運んだ。それからというもの、この陶人と前山翁の角力は勝負ありともまたなしともつかず、両人相対していろいろ複雑な辛抱の日が相互今につづいているあり様だ。  うるさいことをスッパ抜く奴と思われることを必定として、ここにもう一ぺん念のため語らざるを得ないのはなんとしても翁の驚くべき勘違いである。なるほど、前山さんは茶道に縁あって以来というもの中国陶磁に朝鮮陶器に日本ものに、ありとあらゆる名器を幾度となく、繰り返して玩味せられたであろう。しかしてわれわれいわゆる素人が製陶に手を出した場面を目前に見られてはヨシ俺もという気になって事業家として成功せし自信を……聡明を……製陶の上にも盛り切れるものとして、扼腕し、たちまちのうちに志野も黄瀬戸もたちどころに再生させてみんと心をいら立てられたに違いない。  聡明そのもののような趣味人たる諸氏がなぜかくも揃って軽挙されるのであろう。そうして不甲斐なくも悉く失敗の跡を遺して苦笑されるのはなんであろう。いやしくも男子一度志を立てた仕事である以上そうやすやすと瞬時の中に、事、志と違うようでは遺憾ではないか。諸氏はなにが故にかくも揃って苦い経験を作陶の上に舐められるのであろう。  私にいわしむるならば、それは別段とくに不思議な因縁があったわけではない。思いもよらざる事柄が飛び出して挫折したわけでもないのだ。つまりは諸氏の望みと諸氏の用意との間に齟齬があったのである。諸氏はいよいよ作陶に取りかかるというその日までにどれだけの用意があったであろう。作陶上に必要な教養をなにほど修めておいたか、またどれくらいの作陶経験を有していたか、私は率直にいってみるが「諸氏はおそらくなんの用意もまったくなかったのではないか」と、この点については諸氏の固有する才能そのものが自己を打つところの、持った棒となりおわったのではないか。  焼物師には出来ないが俺が俺の家で指導したら、工夫したら、聡明な考え方をもってしたら、染付、赤絵、九谷、瀬戸、唐津、朝鮮、中国、なにほどのことやあらん。俺だ……俺だ……俺の頭だ、俺の知識だ、俺は鬼だ、金棒さえ振りゃなんだって出来得ないことがあるか、金棒というのは焼物師のことだ、焼物師、俺につけ……こんなふうに諸氏は方法で物が生まれると早計に考えられたのである。なるほど、現在の五条坂や帝展物はある程度の方法によって出来得ることは私とて保証の一人に立つ者であるが、もともと諸氏が希望するような芸術的作品は……名陶は……さようゆるがせない方法のみでは出来ないのであることを断言したい。試みに考えてみらるるがよい。陶器なるが故に聡明な諸氏もうかうかしていられるが、これを画に移して、ある方法のもとに名画が生まれ出づるかを考えられたい。愚にもつかぬ画家を雇聘し来って、その者から名画を生ましめることが方法によって出来得るか出来得ないかを考えられたい。  察するに諸氏はその昔宗和が仁清を造ったなどという俗説をうかうか信じ、宗和再生を夢見られたかも知れない……が、宗和は生まれていなくとも仁清は立派に仁清であったと私は断言する。宗和によってボンクラな仁清が一大天才に変わったと解する者があったとしたら、それは度すべからざる痴漢だと私はいう。況や宗和でなき者の力が、況や仁清に比すべき天才を見出さざる者が、千の辛も万の苦も経験せず、問疑答離の経験もなく万巻の書もとより繙閲せず、しかもただちに彼岸に達せんとするがごときは慨歎に値するとされても仕方あるまい。       (三)  素人が窯を造る場合、その目的が大量製産の利潤にあるか、少量優品製作にあるかはあえてわざわざ問うまでもあるまい。しからば少量の優品を作り出して優雅逸楽に耽らんとするには、その作品は誰が作るのであるかに問題の重点をおき、これが注意の的とならざるを得ないではないか。そこにはとくに優れたる作者の存在がなきかぎり優れたるものが生まれ出でようはずがない、かくて作者は誰かと考えざるを得ないのである。  これを住友氏の場合に照合するとき京都のI氏監督、それに属する無名の工人二、三となる。また前山氏の実例をもってすると最初が京都系、次が瀬戸系工人、それがいつも一人か二人である。次の頼母木氏の場合は少しく事情複雑であって、坊間伝うるところによると、これは必ずしも頼母木氏一建立の御道楽になったものにあらず、加賀山代温泉場のいわゆる、九谷窯の某氏(職商いをなす人)との妥協になるいわば一挙両得を考慮した築窯である。しかしてこれとてなんら特別な工人をもって当たるところではない。  かような事情になる諸家の素人窯から優秀なる名陶が生まれ出でようはずのないことは別段ここに氷炭冷熱をいわずともみずから明らかではないか。それはいうまでもなく当たるに足るしかるべき作家を各自が有さないからである。名作はいかような場合にも天から雨のように降るものではない。誰かが製作するところのものである。ここにおいて作家なくして名品の製出を夢見る各家はいかなる常識をもって起案し、いかなる算用をもって結果を望んでいられるか私は実にこればかりはただただ不思議に堪えないで困っている。  私は先にもいったことであるが、おそらく各家は自己の指導力によって往古に見るがごとき名作を成し得られると大雑把に考えられたことと察せざるを得ないが、もし果たしてしかりとするならば、これを画の製作に考えを移して、各自の指導力が雲舟、牧谿でなくても三楽を生むか元信を生むか桃山芸術を生むかを反省されたい。私は優れたる芸術、優れたる美術は小さな一人の指導力で生まれるものではないことを断言する。況や個性ある芸術をや。  前山翁はまったく罪のないことをいう人で、窯の仕事などというものは自己の経験からいうとき、一代二代の研究で出来るものではないと、まるで科学の発明でもあるかのように譬えて、自窯の不成功を闇に仄めかされたが、これはテレ隠しというものであろうではないか。  翁は志野の釉が意のごとくゆかない、志野の火色が出ない、黄瀬戸が思うように発色しない。これが成功を見るまでに進めることは一代や二代の研究でゆくものではないと考えられたに違いないと察せられるが、翁が一人や二人の工人を相手に、僅々二年三年の片手間にも足らざる研究でこれを率直に発言させるのは、あまりにも罪がなさすぎるのではないか。  況や、名人に二代なしは昔から伝うるところである。光悦の後に光悦なくのんこうの後にのんこうはない。のんこうの先にものんこうはない。仁清の先にも仁清なく、仁清の後にも仁清はない。翁が苦心? の志野もまた志野以前に志野はないのである。初期志野時代以後にも志野はないのである。前山氏が僅々二、三年の経験をもって、その不如意を弁ずるに当たって一代二代の研究のよくするところでないなどと公言されるのは、私はあまりにも罪がなさ過ぎるとするものである。実業家としての前山翁は一部に俊敏の聞こえ高い名士であるがごと、窯業芸術となってははなはだ解し難い腕前を有する人といわざるを得ない。  しかも、ものは分ったから出来るとはかぎらない。否分ったからとて出来るものではないのである。分るということと出来るということは別問題であるといってもよいくらいのものである。  如上の各家が勘違いをされたのは、とりもなおさずこの一点に存すると考えられないことはないのである。譬えるまでもなく、仮に墨跡が分る具眼者であるとしても自己に能書ありとはかぎらない。牧谿が分る、梁楷に合点がゆくとしても自己に描けるものではない。  前山翁の場合のように自己が仁清に理解あるつもりだからとて、ただ単に工人を自家に呼んだだけで仁清が再現するものではない。自己そのものの天分が仁清と同じであって、しかして自己がみずから製作せざるかぎり仁清は再び生まれ出づるものではないのである。況や製陶上の概念知識さえも有しないズブの素人に雇傭さるる工人、一美校生などの日給から仁清は生まれ出づるわけのものではないのである。さるにもかかわらず、自己の一挙手一投足に成功を簡単に夢見るごときは、実に傍若無人の暴案といわざるを得ないではないか。私は何遍でも繰り返すが、優れたる芸術は他人の工夫や立案で成就し成功するものではないのである。  価値ある芸術とは優れた天分ある人格者の識見からと、その練熟の腕前とから生ずるものであるのである。すなわち優れたる作者あっての優れた作品である。決してあかの他人のおせっかいや小さな権力から生まれ出づるものではないことを得心して欲しい。  ここにおいてあかの他人に当たる各家は製作上の真理に頷いて貰いたいのである。すでに廃窯された諸家はその苦い経験からして今日では私同様の感を懐かれていることと存ぜざるを得ないが、現在なおかつ現窯を持続せられている前山久吉翁にはなんとしても目的成就の不可能なる理由を悟っていただきたい。それは翁をして単一的鑑賞家、あるいは優れたる好者として完全に生かしておきたいからである。彼が好者としての金箔をなまなかな製陶の不成功によって醜く剥がしたくないからである。翁はその骨董の買入について商人中もっとも物議の多い評判の人ではあるが、とにもかくにも好者は好者であり、かつもっとも優れた好者の一人である。翁がいかにその買方に道具屋の言のごとく紳士的であるとしてもないとしても、かなりに目のよく利く好者であることは、私の睹る目をもってしても間違いは無いつもりである。  この一事をもって考えるとしても、翁たる者進んで廃窯の道を採るの挙がいかに賢明であり、いかに人物を大きくすることか分らない。人間は我もある程度に必要である……が、土俵割るも未だ負けを承服しないという田舎角力であってはならない。勝ちは勝ち、負けは負けと水の流れるごとく素直でなくてはよくあるまい。勝ち必ずしも名誉とはかぎらない。負け必ずしも不面目とはかぎらない。や、これはこれは失礼、うかうか、釈迦に説法……脱線の儀は平に平に謝し奉る。       (四)  またしても前山久吉翁の製陶遊戯を引例して恐縮に堪えないと思っている。これはことによると、誤解の生ずる惟れなしと保険はつけられない程度に危険があって、自分も懸念しないわけではないが、現在、窯をもって理想的に名陶を作り出さんとし、もっぱらその成功を望んでいられる関係上、自然と風向きがその方に趣くのはまことに止むを得ないことである。これが前山翁であるがための引例でないことはもとよりいうまでもない。この点は翁みずからも充分了解していただけるものと信じ、しばらく素人本窯築くべからずの参考資料に上っていただく。  さて、前山翁最初の製陶目的は彼の偉材仁清であったらしい。まず仁清ふうを工人に轆轤させてと考えられ、次に絵付けとなる、と考えるにも考えられたもので美校生を招かれたという。このことはよく美校の校長に擬せられ、とかくの話題に上る某日本画教授の口から私が聞いた話である。  私はこれを知って翁のために同情もすれば、苦笑もした。翁は仁清という大天才をなんと解していられるのかは知らないのだが、仁清ほどの特異な実在を再び造り出さんと自負する大望の翁が、一美校生を招きそれに仁清ふうの絵付けを託し、もって目的を達せんとせられたのはなんとしても認識を具えた所業と受け取ることは出来なかった。みずから翁らにしてみれば今の陶画工では清水坂以上の仁清は描き得べくもない。  それには美校の生徒をもってすれば、職工と違い指導次第では理解も出来、卑しからざる絵が出来よう、本歌を見せて語れば成功疑いなし、と……こう考えられ自分ながら妙案明知が創見されたごとくホクソ笑まれたらしい。果たしてそうであるならば私らの見るところとして、この場合の翁の処置妙案? は申しようもない、恐ろしい矛盾と錯覚からなる、非常識な創見を発揮したものとみなさざるを得ない。  いやしくも日本陶芸史上ゆゆしき陶芸作家として日本の誇りとし日本の国宝とする仁清は、憚り多いことをいうようだが、翁のように今の今まで陶磁製作上無関心者であって、その気まぐれ、ちょっとしたはずみの出来心から名工仁清が浮かび出ようはずのないことは火を見るより明らかであるとせねばならぬ。況やたかが美校学生の画力で彼の仁清を再現しようなどとは思いもよらぬ妄想である。  仁清というものそんなにたやすいものであるならば、さほどあり難いものではないという結論が当然と生まれはしないだろうか。それならば、わざわざそれが再現を期すべく努力を払う行為はこれまた矛盾の誹りを免がれないであろう。  僭越ながら私の経験から語れば、今日現存の轆轤工に仁清を解するものないこと、工作する者のなきことは誰に憚るところもなく断言し得られる。絵付けにおいてもまたそれと同じ意味を繰り返し決して不可ないと考えられるのである。一美校の学生はもとより、これが教授であろうが、他の大家達であろうが、それらの人たちの筆からは、仁清が生まれようはずのないことはあまりにも保証される。それはすべての現代新画が、如実に内容貧弱を物語っていることで分る。このうち、強いて適者? として抜擢するならば靭彦、古径両氏の筆技と人品であろう。またしてもしばしば余談にわたることを謝すが、遠慮なくいうならば今の画人の絵というものはいわば体裁よき表面があるのみであって、芸術上必須の条件となるべきよき内容を有するものは見当たらない現状である。例えば、それは生花、挿花の美しさである。一見「根」あるものと区別を分たざる美しさを示してはいるが、もとより「根」あるものはないから、いかに美しくも実を結ぶべくもないと同様である。仁清は日本に純日本ふう彩色の製作陶未だ生まれざる今から約三百年前において初めて製作成功を収め、他方いずれもが朝鮮、中国の著しい影響を蒙らざるものなき当時にあって、にわかに彼一人がぜんぜん朝鮮、中国の存在を夢にも知らざるもののごとく、純日本単味の製作陶を創作し得たという偉材であった。その絵、その轆轤、その図案、ただただ仁清という一大芸術的特色、一大創作的の識見を表現するのみにして、今日これを国宝に選びつつあるは決して偶然ではない。そこで、この偉大な仁清の作品に着眼し、これが再現を期すべく発奮した翁の愛美心と勇猛心と時流を厭きたらずとする努力には、さすが前山翁であると、私もその企図的精神に感歎し、賞賛措く能わざる一人ではあるが、ただし惜しむらくは、これが実現上、識者に図るところなく、熟考を軽率にして、不用意にも独断をもって、ひそかに京師の陶工一、二を拉致し、必然的に成就を夢のごとく見、かつ画学生の力をもって仁清の深遠なる絢爛をやすやすと生み出し、多くの好事家、鑑賞家、愛陶家をしてアッと讃歎せしめんものと、潜行的野望を懐かれた窯であったことは千慮の一失ともいうべきで、このところ永い過去の生活に世の辛苦を嘗め尽くし、思いのままに今日の成功を見られたと見るべき前山久吉翁の所業としては、はなはだ合点がゆかな過ぎる結果を生み残念であった。  しかし、さすがのがんばり翁もその自家窯何回かの失敗に教えらるところあり、最初の空想は事実上不首尾におわったことを自覚し、これが幻滅を感じられたらしく、仁清再現の企図だけは計画いくばくもなくして放擲せられた……を人から聞き知った。  この時……この際、翁にして製陶事容易にあらずとし、些細な感情と世間に対する意地ずくなどにこだわるところなく、すなおにすべての製陶を断念して決然廃窯され、大きな世界の指導者になっていられるならば、翁の聡明と男性は災いを転じ、よき意味に印象づけられたのであろうが、惜しいことに再び舞台装置を変え、芸題を代え、看板を塗りかえ、再興行に移られたことである。これがまた失敗であった。これまたよき引っ込みのチャンスを逸して遺憾であった。実をいうとこの再興行に際しても、吾人は翁のために同情を繰り返し同時に苦笑を噛み殺したのである。  さるにしても、今後はまた、さらに登る一層の楼なる見識をもって……製作年代を遡り当今流行の黄瀬戸、志野の再製作を計画し、しかして一瀬戸の工人を聘されるに至った。  前山さんは元来物語を単純に考える人と見え、この際も瀬戸陶工わずかに一人の力でもって、古来著名なる志野、黄瀬戸、織部時代とされている芸術的古陶を、無分別にも一挙生み出さんと夢見られたらしい。私は約二年ほど前益田鈍翁に面したときの直話であるが、鈍翁の言葉に、 「君、前山が来て近い中にきっと志野を焼いて持って来るって大気焔だったよ……」  私はとっぴな話を聞かされていささか驚いた。そして思わず不用意にも、これに即答した。 「それは出来ませんなあ……。いかに前山さんだってまた誰だって、それは出来ません。今は、そんなものを作れる人がありませんから……ときにあるいは様子だけが志野みたいな……黄瀬戸みたいなものが出来ないともかぎりませんでしょうが、ともかく、生命力は皆無なものに違いありませんから、一見似ているにしても実際の価値上、なんの美術価値もないものにきまっております。従って問題になるものではありますまい。私は前山さんを評するわけではありませんが、もし直評を許されるならば、前山さんの今の製陶認識では失礼ながら古を偲ぶに足る、それは決して出来るものではありませんでしょう」  鈍翁は呵々大笑して……。 「そりゃそうだろうね、そうたやすくは出来るもんじゃなかろうね。時代が許さないだろうし、君の言のごとく作者がないだろう。しかし前山は大変な天狗で何、そのうち志野を焼いて持ってくるというんだからおもしろいじゃないか」  と、大笑いされた。まったく前山という人、ことを一途に単純に考えられる人らしい。  しかし、この時の前山さんの自負する胸中を知るものは、もしかすると私一人かも知れなかった。当時翁は志野の本場大萱から、その昔、志野に用いたかもしれぬと思われる陶土を手にしていられたことである。この陶土の入手に翁がいかに苦心を払われたかにはなかなかおもしろいニュースがとんだ。それは私が志野の古窯跡を星岡窯の荒川研究生によって発見し、ついでにその山間から陶土はもちろん、その他顔料土の材料を探査し、ようやくにしてその陶土を発見して鎌倉の星岡窯に持ち帰った直後のこと、時々星岡窯に来話する翁が雇傭の瀬戸工人某なる者、私の窯場にて瀬戸系研究に耽るAなるものと談話中、志野原土の大萱に発見されたること、星岡窯に持ち帰ったること等が話題となって明瞭し、某工人はこれを翁に忠告したものと解される節があって……。これからがまずいことに、端的な翁の性癖として、この佳報を特種扱いし、まっしぐらに土、土、土と志野陶土の入手に苦心され、ついに入手されるまでになった。村人の言によれば社員ふう特派使節がわざわざ美濃久々利村に足を運ばれること三度、某工人はもとより、瀬戸のT氏を煩わすなどずいぶん大がかりの努力であった。これは今でも村の話柄としておもしろく誇張されて遺っている。  翁は最初志野陶土発見を某工人の口から知ったとき、矢も楯もたまらなくただ陶土さえ入手せば即刻にも志野は焼成するものと早合点し、急遽使者を山間に走らせられたのである。ところが純朴な村人の節義は存外堅いものがあって、星岡窯のAの発見と出資によって掘り下げていった洞窟の陶土、……それは容易に翁の使者の命ずるまま乞うままには諾するところがなかったらしい。翁は焦慮して幾度か山中に使者を派し、村の役場員を動かし村益をもって交渉に当たらせ、ついに○○○出資を収めて希望の陶土を入手したという汗だく事件があった。  しかも、これが星岡窯のAにも私らにも積極的にことが運ばれたのであった。それはなんのためかはいうまでもなく、最初の行きがかり上、極秘中に策を練って志野、黄瀬戸を作り上げ、某々に目に物見せてくれんとする翁の稚気に外ならなかったのである。  しかしながら芸術の成功は是が非でも主観の信念からなる実際行為であらねばならぬに反し、翁はそもそもの最初から、その製陶態度がぜんぜん客観的であった。「指導で他人に拵えさす」これが第一客観である。「志野陶土があれば志野が再現するかに考える」これが客観である。これらは実に翁の目的をいかにしても成就せしめないゆえんであって、私らから打ち眺めるとき、ただただはがゆさを感ぜざるを得ないのである。ただし前山翁一人がその例でないことを追言する。       (五)  素人たるもの、ふとした趣味の軽はずみから、妙に矢も楯もたまらなくなり、資材に任せて無我夢中に築窯し、作陶の成果を空しくいたずらに楽しみ、自己に成就の用意があるなしを省みるいとまもなく窯に火を入れるなどは、有知のなすべきでないことわりを前四回にわたって僭越とは知りながらいささか説くところであったつもりである。  しかし、その引例が主として前山久吉翁の現業窯におよんだことは、現在、窯に火を入れている唯一の人として止むを得ざる次第であったが、それにしてもはなはだ御迷惑をかけた点は重々お断りする。  そうはいってもずいぶんクドかったじゃないかとの誹りはあるだろう。だがそれは小生が毎度のこと魯山人はアクが強いといわれる点で、これまた今分のところ止むを得ない次第である。  さだめし読者も前山翁も分った分った、もう分った分った、もう分ったよう……を繰り返されていたことだろう。  魯山人のいうところ、要するに好きで窯を造る以上、自分ですべてを作ること、自作することによって意義があるというのだろう。分った。  自家窯といえども雇傭の工人に作らしたのではお庭焼を出でないというのだね。つまり芸術にならないインチキ芸術だというのだ。分った。  それから自作にかかるまでには鑑賞が達していなければならぬ。書が出来、画が非凡にまで進んでいなくちゃいかんというんだろ。分った。それだから伊達じゃいけない、真から底からのまこと心からの仕事でなくちゃ駄目だというんだろ、分った。  しかも天才的な神技が入用だというんだね。分った。……  土で出来るんじゃない、釉で出来るんじゃない、学校程度の窯業知識で出来るんじゃない、絵描き程度の画では絵付けがものをいわない。  現在の図案家程度では図案にならない、帝展の工芸じゃしようがないというんだろ。分った分った……。  しかしそうなると作陶資格ある者は満天下魯山人一人ということになるじゃないか、おい……冗談じゃないぜ。てな程度にまででも製陶認識を進めて貰いたいというのが私の希いである。  必ずしも素人、窯を築くなと一概的にいうのではない。 底本:「魯山人の美食手帖」グルメ文庫、角川春樹事務所    2008(平成20)年4月18日第1刷発行 底本の親本:「魯山人著作集」五月書房    1993(平成5)年発行 初出:「星岡」    1934(昭和9)年 入力:門田裕志 校正:noriko saito 2009年12月4日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。