現代茶人批判 北大路魯山人 Guide 扉 本文 目 次 現代茶人批判 『陶』の紙上で、現代の茶道人として名のある松永耳庵さんは、作陶家に諭さんその心として、汝らはすべからく茶を知れ、そして茶家の指導を受けよ、しからざれば茶器は生まれないぞ……と垂教された。  日頃、茶に親しまれている人として、かつ茶器の蒐集に耽りつつある人として、さまざまと茶の議論をも立ててきた人だけに、作陶家よ茶を知れと叫ばれることは至極もっともな親切な言葉として、作家でなくも誰しも一通りはうなずきも出来、敬服も出来るところである。が、しかし欲をいうと、私は知人の松永さんのことだけに、今一歩を進めて一思案しなおしてもらうわけにはゆかないものであろうかと考えるのである。この今一歩こそ初めて命を生むのではないかと思うからである。松永さんが狙いをつけているところの名茶碗、それは確かに芸術的生命をもつところの名作のことであろう。それあればこそ、今日まで名器として長々鑑賞家の懐に抱かれ、敬愛されてきているのである。だから眼利きの欲望として、再びかようなものを作る人が出て欲しいとの心情切々たるもののおのずから湧き起こることは、私にも充分認識出来得るのである。  さて、作家よ茶道を知れ、茶家の指導を受けよ……と焦れったそうに警鐘を乱打しておられる一幕芝居、果たして警鐘価値ありて、その希望通り現実的に効果が見られるものであろうか、あるいはそうやすやすと容れられるものではないという結果に終わるものであろうか、それを私は一応検討してみる要でありとするものである。しかし、松永氏の言葉は、松永氏の創意的に思いつかれた新しい言葉ではないのであって、由来いわゆるお茶人のよく口にしてきたものなのである。従って誰しもが前々よりややもするといいたかった言葉であって、すでにすでに平凡化し、黴が生え、今さらのごとくそれをいうと野暮に聞こえるほどのものである。それをご多分に漏れず氏が繰り返したという一幕である。  それでも……作家よと呼ばれた作家に感じ入る者あって、ポンと膝打って奮い立つ者ありとすれば、これは大したことにならんともかぎらないのであるが、しかし、その注意はあまり耳慣れている陳腐な言葉であっただけに刺激が怪しまれるのみならず、前例としてかつて効き目のあったためしのないものであるだけに、刺激不十分に終わる理由が認められてくるのである。  殊に相手はもともと茶というものを一向解するところがなさそうなのでなおさらである。名器にも日頃親しむことなどない人々が多いと見て間違いなしという保証つきである。茶を浅はかな考えで見ている人々、茶を志してみたい考えは持っていても元来素質を持たぬ人、天分なきゆえに縁の結べぬ人々、そのいずれかに当たっているはずの現今陶工に向かい、茶を知れ、さすれば名茶碗も生まれるぞ、世の名器を広く見よ、名器の要訣が悟れるぞ、すべからく茶家に教われ、茶道精神が解せるぞ……と吹き込んで、それがどうなるものと松永さんは思っておられるのであろう。それによって事新しく縁が結べてくるとは思えないではないか。世間は存外低いものである。「すこし茶を始めたかと思うとすぐきいたふうな月並みをならべてら」ぐらいが聞く者たちの落ちである。なかなか相手は素直に動いてはくれない。動きそうもないからとて捨ておく手はないではないかというだけの親切がありとすれば、論者はさらにさらに考うるところを深くして突き進むべきではなかろうか。それについては、まず第一に、自分という者をよくよく考察せねばなるまい。果たして自分にその資格が備わっているか、人間的用意があるであろうか。それを知る反省が問題となろう。茶道の悟りに充分の自信ありやなしや、これは重大な問題であり、責任である。指導者として人に口きくほどの者の責任としては、自己の日常生活がお茶の心に違うところなしとする自信ありや、よく世間にある口先ばかりのお茶ではなく、いうところの茶道がぴったりと身についているであろうかが問題である。たとえ茶碗作る技能は陶工に譲るとしても、ちょっと物認めるその字がかつての名茶人の物したごとく無理をせぬ、品の良い雅致と風懐を具えた見識あるものであるかどうか。少なくとも俗書の域を脱しているかどうか。卑見ながら私の目に映じただけのものを想起しても、元禄頃以降を見て感心出来るお茶人の書というものを見たことがない。相当有名で伝わるお茶人の書というものその手紙に見るも、器物の箱書に見るも、竹花入れ茶杓に書かれた字に見るも、俗書の多いのには驚くばかりである。日本茶道の伝統を誇る茶人にして、だんだんと降っていくこの有様は、遺憾というより他にない。これはどうしたことかと、私は幾度も考えてみたが分らない。俗書はなにから生まれるか、なにが俗書を生むかである。殊に家元の人々といえば、茶の宗家として由来崇め続けられている人々である。それがどうしたことか、かつての名茶人が必ず持ったところの茶人にかぎる持ち味というものは、後代の茶人には合点がいっていないようである。  素人茶人の名家にしても明治以後となっては、あれほどやかましくいわれた御殿山さんにしても、その生涯を俗書で終わらしてしまった。ビール翁にしても、本牧、青山、赤坂にしても、みな屈指の大茶人のように万人に知られた人々である。それだけにその遺された筆跡を見ては意外の感を深くするのみである。いずれ劣らぬしっかりした書ではあるが、いずれも俗書であるのが残念だ。  こうなってくると、茶道の教養というのもあまり当てにならないこととなり、吾人を迷路に引き入れてしまうのである。茶があればこそあそこまで行ったのだ。茶がなければ彼らの俗さ加減は知れたものではないというような低級なことになっては話もおしまいであるが、ともあれ松永さんのいう茶人の指導によりて優れた器が生まれ、初期茶人のような能書も生まれ、芸術工芸の理解も正しくなる……との説が、過去の実例によってだんだんと現実的に怪しくなってきている。作家よ茶を知れなんていわれてみても、聞く者今ではきっと眉に唾つけ笑っているような気がするではないか。かというて茶道教育なんて価値はない、無駄だ無用の長物だと私はいうのではない。むしろその反対に茶の教養のない人をみるたびに、不快ささえ感ずる者である。  私のいうところは、従来の茶道教育そのままを受けさえすれば陶人には陶器が分り、陶器の要訣が悟れるというふうに相手を早合点さすような軽薄な説明は考えねばならぬというのである。十職の家元に生まれたからとて、昔のような茶の心を心とした工芸が生まれるわけのものでもなし、これらは事実に徴して人の知るところであろう。指導だけでは必ずしも名器が生まれ出てくるものでないという証拠があまりにも多い。さすがに名人だ、彼にはなになにという茶人の指導があるからなあ……というような証拠は一つも見当たらない。ここはなかなかむずかしいところだ。だから軽率におしゃべりは出来ないのである。  利休によって長次郎の茶碗が生まれたというような見解、古田織部によって織部陶が生まれたのだと伝えられるような物の見方に向かい、いたずらに次々と付和雷同していくことは自重すべきで、みだりに俗説に従うことは不見識の誹りを免がれ得まいと私には考えられるのである。そこで私の考えとしては、利休により長次郎の茶碗が生まれたと伝えている俗説は、今後もっともっと検討して是正さるべきであると主張して止まない。古田織部によって織部陶が生まれたという俗耳に入りやすいいい伝えにも、私は簡単に従いかねるといいたいのである。  かつてのいい伝えから一歩も出ないで、今もなお指導者の力次第で生命ある物体が生まれ出ると妄信することの危険を感ずるのままに、一言否多言を費やした次第である。  本来、いやしくも茶趣味をもって立つほどの人であってみれば、いわゆる茶道の上からして一挙一動はすこぶる責任重大で、よくいうところの笑いごとですまされるわけのものではないのである。  それが平気で茶道精神より脱線し、逸脱し、怪しき見解、妄りにして低調なる行動を常として、なすところの所作は一から十までが嘘のかたまりであり、虚礼ならざるものはないとまでいってみても、あえて過言ではない今日のお茶、まことに笑うに堪えたる虚礼そのもののお茶、これが今日存在するいわゆるお茶である。今日のお茶人という者に内省はないというのは野暮である。ピンからキリまで楽天家揃いであって、まことにめでたいともいう次第の集まりである。茶の三年も続けた者たちや、名器名幅の四、五点も入手した輩というのは、ただもう嬉しくて無我夢中滑稽きわまりないナンセンスに終わるのが常である。真剣に芸道から眺めている者からは、我慢の出来かねる存在であって、人間離れした猿じゃないかとさえ思われるばかりである。よくいう思い上がるということ、それはこんなことを指すのではないかと思えてならないくらいである。善い金の使い方をしていながら悪い金の使い方に終わっているようである。この種の人たちは時に猿になって芝居をしているかであり、天狗の化身になってさまざまと鼻の先にありたけをぶらさげているかであり、これが現代茶人の不可解きわまる典型だという人もある程である。これをみてなにがなにやらさっぱり腑に落ち兼ねているのが現代社会知識層の大多数である。そしてこの両者は勝負なしの角力を大分永々と続けている。いつ勝負の日が来ることか、この間、右に縫い左に抜け、とも倒れらしく見られる。そこで一番うまくやっているであろうことが考えられるのは、茶道具の売り買いを念頭におき、四六時中憂き身をやつしている者たちである。道具の売り買いする者はあえて道具屋とは一概にかぎってはいない。買い手と見てとれる者、時には売り手に身をかわしている場合も少なしとしない。どこまでが道具屋で、どこまでが買い手かは朦朧たる有様で、真茶人という人格者は、どこにひそみおるかが未だ明白でない。  従って巧言令色は道具屋の専売とはかぎらない。道具屋輩をして呆然たらしめるようなより以上な巧言令色はお茶人気質の旦那筋にこそあって、本当の商売人という凄腕は果たしていずれであろうかが分明しない現実もある。真茶人という人格者はどこにどう居坐って黙っているのだか、はなはだ求め難い。これがわれわれの目に映じるところの茶界の姿である。  いずれにしても、ありあまる俗欲は巧みに袖の中に隠されてはいるが、いかんせんそれらの人々の物見る目はいつか不純と化し、真実の美というものは、それらの人々の俗欲の目には絶対に飛び込んでつき合ってはくれないことになっている。名画墨跡を膝下に展くも、名器を目前に陳ぶるも、道具屋一流の囚われた見方以外には一歩も前進してはくれない。俗欲を身につけることほど美の探求、真理の探求を邪魔するものはない。そういう大切な一事を露知るところのない者たちは、道具屋は道具屋の昔からいい習わしというものの紋切り型を口上とし、茶人は茶人でのいい習わしを紋切り型で次代へ次代へとわけもなく伝え遺し、見識とすべき一事を遺していく者は皆無に近い。近時、独創の見解は誰からも一向発表されてはいない。天才の生まれ出でざる証拠であろう。従って美というものに理解なき彼ら、芸術の魂を知らざる彼ら、物の恐ろしさというものをぜんぜん知らないようだ。起居動作、用語の弁、いずれも彼らだけのいとも小さな世界にだけ喜ばれる常套語をもって、十人が十人紋切り型の交語が飛ぶ。それは声色の声色であり、声帯模写のそのまた声帯模写である。個性のひらめきを持ち合わさない人々、こんな習わしを不思議としない虚脱趣味の世界、これがお茶の道と心得られているのが現代茶人である。かかるが故に、お茶人の身上はこれこれとばかりなんら怪しむところなく、ただもうわけもなく喜悦し、この珍風景に縁なき徒輩たちを指しては妄りに俗物として、無風流の誹謗を真向から浴びせかけるというわけで、まことに苦笑禁じ得ないものばかりである。茶界というもの紋切り型一通り覚え込むさえ三年や五年はかかるものである。しかもまだその上幇間的駄洒落に富まざるべからざる要が加わるのである。この道、青山翁などは純に下手くそなものであった。そこへ行くと御殿山などはすこぶる堂に入り得意としたものである。茶会というもの笑話劇? 茶番狂言? 猿芝居? 漫才? なにがなにやらたわいもないことのようである。  以上のように心にもない悪口をもって現代茶人を事もなげに片づけてしまうことは、実のところ吾人のまったく忍び能わざるところであり、われながら無作法もまたはなはだしいと感じつつあるのである。かように下卑た用語によらなければ表現の方法がないというのかと、私の心は今糾弾している……が、しかしいわゆる歯に衣を着せず、体裁を飾るための嘘をつかず見たままの有様を率直に、明白に表現せんとするに当たっては、私のような不調法者はなんとしても、こんな乱暴な表現に陥ってしまわざるを得ないのである。今さらに一句一章を改竄してみたところでどうしようもないようである。  松永氏こそ身から出た錆とはいえ、図らざる災難である。筆者においても最初からこんなふうに松永氏を利用するなんという了見あってのことではなかったのであるが、物のはずみのなす業というものは仕方のないものである。まったく松永氏でなくも、これが誰であろうとたいがいは同癖を有し、人の所作業に向かっては、ちょっと自己の物識りが鼻にかかるのは常である。この場合当人は僭越などという考えは毛頭ないのである。きいたふうな口を辷らしたなどともとより考えているのではない。それどころではなく親切の心のつもりでいっぱいなのである。  この親切者からしては、昔出来た茶碗は今も了見の持ち方一つでまた出来得るものであるかのように簡単に考えられるのである。今と昔は作人の素質が根本に違っているのだ。作人を取り巻いている社会がまったく変わっているのである。作人の生活観念が昔気質とはぜんぜん跡形もなく異なっているのである。今さらちょっとした思いつきぐらいで急に改変出来るものではないのである。付焼刃の効果は望み難いのである。これが少しも親切者に分っていないところから、図らず松永氏の失言も生まれれば、勘違いも起こってくるのである。蓋し人生未熟の致すところから生まれる親切かも知れない。その未熟者が、いたずらに古来伝えられるところの利休の十職というものをもって、今の十職と比し、とやかく差し出口することは、身のほど知らずの識見といえばいえるのである。あえて十職にかぎらず、何職人であろうとも二百年も三百年も経過した昔に遡り、腕が違うの、心得が不純だの、情熱が足りないの、魂が入っていないのといわれてみたとて、いわれる方の今の作人では一体全体なんのことやら皆目掴みようも判じようもなく、ただ相手の顔を打ち眺めている以外挨拶のしようにも困るわけであろう。  それを少しも知らない親切者は、ただもう今の作人と作品を息はずませて、もどかしがっているなどは、これまた第三者から見てはナンセンスであって、もともと中途半端な職人をいよいよ中途半端に拵え上げてしまうのが落ちである。いらぬお世話といえばこれくらいいらぬお世話はないかも知れない。この節の語でいえば、干渉する資格なき者の不当干渉である。干渉の効果に深く考えおよばない不当干渉である。見通しの明白でない干渉、相手の器量に無頓着な干渉、まったく閑人にかかっちゃかなわない……と、いいたいところである。今の陶器職人なんて筆者の口からきっぱり決めてかかることは、いささかはばかり多いが、実はまことにたわいもない存在なのである。名茶碗の見どころ、約束など講釈してみたところで、職人の実生活となんのかかわりもないことなのである。釜師、庭師、竹切りと、次々親切者はそれぞれの講釈はしてみたかろうが、所詮かいないことである。それこそ火を見るより明らかといえよう。野暮なおせっかいと心ある者は失笑するばかりである。  茶を弁えたる者からいえば、今の茶碗では茶が飲めないと歎く……が、それは仕方のないことなのである。あえて茶碗にかぎるのではない。なにからなにまでみなその類ではないか、みじめなものばかりの現世である。なまなか昔を知ったからとて、今に望むのはまったく無理な注文である。日本中探し廻ったとて昔三百年前に見たような茶碗の作人は一人もいないのである。豊太閤が大茶会をやったような時代の空気は今の社会には求められないのである。昔の物は昔の空気が生んだのだ。昔の社会がそうさせたのだと観念すべきではないか。醜い茶碗以外になにも生まれぬ今日の社会は、社会そのものが醜いことになっているのだ。その醜い社会でなんで美しい茶碗が生まれ出よう。それを付焼刃してでもと、無理注文いう茶家の指導で茶碗が生まれるなど考えることはこの上もない向こう見ずである。もし茶家の指導で茶碗が生まれるとすれば、茶の中に代々育つ京の楽家は、代々茶碗を生んでいなければならない理屈になる。一人ぐらいから以後は、吾人のもって喜ぶに足るような茶碗は生まれていないではないか。吉左衛門どころではない不吉左衛門ばかり続いているのはどうしたことか。茶の中に代々育っている茶碗の家元にして、だんだんとその作格の社会風潮とともに劣ってゆくことはいかんとも致し方のない現実であって、例外の天才を迎えないかぎりどうしようもないことなのである。徳川末期に良寛和尚が生まれたような奇跡の事象が生ぜぬかぎり、今を昔に返すことはむずかしい。  かつて御殿山氏は、自邸に窯を築き陶人を招き、所蔵の名器を展示し、数年に渉り風雅陶の再現を試みたのであったが、吾人の見るところではぜんぜん失敗に終わってしまったのである。これは鈍翁の考え方に最初から真実が欠けており、従って不純に出発しており、所詮浅薄の誹りを免がれない挙措であったのである。かような次第にして、そこに芸術の生まれようはずのないことは、論議の余地がないのである。況や、陶工を駆使して大業を成しとげんとなすがごときは、滑稽といわざるを得ない。このような失態を目前に見ながら、またぞろ人もあろうに、御殿山氏の陶工を招いて、青山氏が自邸に築窯を試みたということ、物の理解のない仕打ちもここまで来てはなんと評する言葉もない始末である。両者とも数多美術品は蒐めてみても、美の魂とかかわりなくつき合ってきた者というものは、真にみじめなもので、御殿山氏といい、青山翁といい、俺が俺がでうるさいまでの指導をやってみたことであろうが、なにが出来るものではなかったのである。  その次に剽軽者として、両者の失敗をつぶさに見て取っているにもかかわらず、しからば乃公がと、またまた現われ出て来たのは久吉翁である。もともとこの人土俵の外に投げ出されたとて敗けたとはいわぬという日下開山、これが名越の自邸に築窯したのである。仁清を再現さそう、志野を作りたい、井戸茶碗も作ろう、望むところはすこぶる高い。しかし、ために京から招いたのが、今様染付屋さんで茶のありようがない。まず第一回の失敗を経験し、こんどこそとばかり再び招きよせたのは瀬戸の職工、掃除もすれば台所の走り使いもするという調法な工人、これをつかまえて仁清を作れ、志野を作れ、井戸をと……職人は拙くも俺が指導して出来ないことがあるはずはない、昔遠州だってみな人を指導して作ったものだ……大変な大気焔をもっていわゆる指導に当たったのはいうまでもない。が出来たものは猫の飯茶碗のみが山と重ねられたまでであった。世間に合わす顔がなく憤死したわけでもなかろうが、七、八年続いた後、彼は他界してしまった。力のない職人、芸術の天分を有さない作人、美に関心なき工人、個性のない人間、豊かさを持ち合わさない貧しい質の持主、これらをとらえて稀に存在する名品に相似たものを再現さしてみんと、これに野心を持つことほど愚かしいことはまたとあるまい。  過去においてなされた名品というものは、たまたまあったところの天才作家によって作られたものである。今一つは時代の産物である。世界いずれの国にあっても、時代時代のそれぞれ時代にふさわしい物を生んで遺しているであろう。三百年前は三百年前、五百年前は五百年前と、それぞれその時代にあらざれば生まれ得ざるものを遺している。千年前ともなれば、いよいよすばらしい美術を生んでいるのである。  かく観じ来るとき、作品の美、作品の価値は時代と人で出来ている。優れた名人なしに優れたものは生まれ出ないのだとはっきりいい得られるであろう。しかして、優れた時代が優れた人間を生んだのであると断言し得られるであろう。優れた時代なしに、優れた作人なしに、優れた作品は生まれ出ないであろう。芸術は科学ではない。科学盛んにして芸術衰うというのが今日の時代である。 底本:「魯山人の美食手帖」グルメ文庫、角川春樹事務所    2008(平成20)年4月18日第1刷発行 底本の親本:「魯山人著作集」五月書房    1993(平成5)年発行 初出:「陶磁味」    1947(昭和22)年~1948(昭和23)年 入力:門田裕志 校正:noriko saito 2009年12月4日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。