衰えてきた日本料理は救わねばならぬ 北大路魯山人 Guide 扉 本文 目 次 衰えてきた日本料理は救わねばならぬ  講演会なんかといいますと、学校の仕事みたいでなんだかけちくさくおもしろくありませんから、講演会なんかといわないで、膝つき合わせて皆様もわたしも語るという会にいたしましょう。  まず、それについても、料理というものの概念がないと、とにかくあてずっぽうで、でたらめの仕事に陥りますし、しかも、楽しんで食べるということにもなりませんから、根本的概念を作りましょう。それには実習と説明を同時にやると、いちばん効果的でありますが、最初一通り概念を話して、その後に皆様とごいっしょに、心安く雑談をして、基礎を作りましょう。  わたしは、この会について、はじめ二十人か三十人でないといけないと思いましたが、心安いお方が多く、ぜひわたしも入れてくれとのことで、仕方がなく、ともかく一応そうした方にも来ていただくことになりました。  かかる多人数を前にして、いかにして皆様にご満足を与えたらよかろうかと考えました結果、それには、皆様の実習を分類して、きゅうりをいかに切り盛りするとか、なすをいかに煮るとか、貰ったあゆをいかに処理するとか、仕事を区別し場所を別々にして、皆様のご相談相手を致したいと思うのであります。そして若い方には、切り盛りの仕方からお教えしたいと思います。中には上手な方もおありだろうと思いますから、そうした方はわたしの助手としてお手伝いくだすって、ごいっしょに相談し合ってやりたいと存じます。  それでは、おもしろくないから止そうというひとがあるかもしれないし、また、それでもよいと思って留まる方もあるだろうと思います。  わたしどもが料理を致しますのは、うまい料理、体裁のよい料理をして、立派な腕前をひとに見せたいとかいう、そうした理性的な考えでなく、料理が趣味で好きで好きでしないではおられないという非常な楽しみごととしてやっております。  皆様もご承知の明治の元勲井上侯爵は、晩年まで自分で台所に出られ、七輪をあおいで料理をやられました。鈴木馨六というお婿さんなんかは、七輪を、あおがせられるので悲鳴をあげたそうです。井上さんは、料理を料理人に任せてはおられない、自分でしないと気がすまない方でありました。それがために、どうも料理人のしたことでは満足出来ないと見えまして、自分自身で台所をやられたそうです。そのため、井上侯を今日より考えてみると、まったく余人に求められない人間味があるように思えます。そこに人間としてのおもしろさが閃めいているように思えて、なにかいい感じがし、親しみを感じます。  その点で料理を心がけるようなひとは、どうしても料理を好きにならなければならない。第一好きでないと長つづきしない。好きでなければ面倒くさくなり、おもしろくなくなって結局仕事が付焼刃になります。要するにうまい料理は出来ないことになります。  それには料理上の概念を修めないと、先刻申したように、うかうかでたらめばかりすることになって、見るひとが見ると、なにかインチキになり、つまらないものになります。  それについても実習の必要があります。まず、実習は思わぬ興味をそそって概念も出来る。つまり、実習と概念知識の両方が伴わなければならぬということになる。  根本になるというのは、理論が勝つのでありますが、現実的にはいうまでもなく、原料をよく知らないと料理がうまくゆかないものです。  原料の大事とは、原料の持ち味や特質をよく知ることです。天質の持ち味を大切に取り扱うことです。魚にしても、だし昆布とかまたはかつおぶしとかにしても、それらの所有するすべての味は、人造では絶対に出来ませんところの尊いものを持っているのですから、おのおの持ち味を殺さないようにするのが、もっとも肝要な点かと存じます。同じだいこんでも、今しも畑から抜いて来たものは新鮮を失わないように、古くてしなびているものは、それはそれとしてしかるべく処理しなければなりません。この新古材料を、両方同じように処理してはいけないのであります。原料を生かすのも殺すのも、そこにあるのです。  それにつけても、まず、品物の鑑定が必要であります。すべて品物は素直に見てから買わねばなりません。同じものでも実物を見てから選択しますと、同じ値段で幾層倍もいいものを買うことが出来ます。  調味料もまた鑑定の必要があります。ただかつおぶし何匁とか、昆布何枚とかいうのではわかりません。どうしたかつおぶしで、どうした昆布で、どうしたところに用うるかということにならないと、うまくはなれないのであります。  わたしどもの知っているかぎりにおいての家庭では、かつおぶしを削る鉋のよいのを持っているひとはまずありません。刃の切れないのや、はなはだしいのになっては小刀等で削っているのがあります。それで理想的なだしの出ようがありません。しかも、不経済で一円のかつおぶしで五十銭くらいにしか働かないことになります。  なにはともあれ、かつおぶしの削り方も、昆布だしのとり方も知らないようでは、通のような顔をしていても通にはなりません。  それから料理をすることになりますと、料理は皆様が着ていらっしゃる衣服のようによそ行きの料理とふだん着の料理とがあります。またその中でも同じよそ行きがお客様の種類によって違うことになります。よそ行きにもいろいろあるが、ふだん着にもいろいろあります。趣味を持っているふだん着もあれば、味のない実用だけのふだん着もあります。よそ行きもまたそうであります。持ち味で行こうとするのと、ただの形式的のと二通りあるということを、いつも心得ていて、しかも、その上、春夏秋冬と異なるのでありますから、それもまた考えねばならぬことであります。だいこんおろし一つするにも、それはいろいろと違うのであります。  つまり、料理は機宜の処置が大切であります。あくせくして疲れて腹をへらして帰って来たひと、そんな場合、いかなる料理にしても長い時間を待たせておくということは感心出来ません。取りあえずすぐ作って出すことがご馳走になります。そのひとびとによって、腹加減を見ることが必要なのです。百姓や労働するひとびとには大量を、贅沢なひとには少量をというように、その相手によって、しかも、時と場合を考えて作る必要があります。  料理は相手次第、相手によって、どうにでも出来るという機知がなくてはいけません。  すべて材料はなんでも新鮮がいい、ということになっておりますが、しかし、魚類等の種類によっては、いろいろと違うので、だいたい大魚はある程度まで時間を経過させると、獲りたてよりもよりよい人間の考慮したうまさになります。また、小魚は出来るだけ新鮮がよいので一日も二日もおいたのでは決してうまくありません。鳥類でも、雁、鴨というふうに大きいのは時間をおいた方がよく、小鳥等はやはり獲りたてに近い新鮮な方がよいのです。しかし、ことに野菜は、大概は採りたてがよいので、時間を経過したものは、決してうまくはありません。そらまめでも畑からとってすぐゆでますと、町で買う普通のそらまめのようではないように思われます。東京の市場もののように、まる一日も経過しますと非常に変質してうまくなくなります。だいこんおろし等も、畑からすぐ採ってしますと、たまらなくおいしく、かつおぶしなどはいりません。かえって邪魔になります。それが半日もおくと、なんとか味の添え物をつけないと、とてもまずくて食べられません。実に野菜ばかりは、どうしても早く処置してもらいたいものです。そして新鮮なものは、新鮮なもののように、さっと煮て、他に少し濃く塩気をつけて、中はだしを浸まさないでそのものの持ち味と香気とが充分に出されるようでなければいけません。野菜から香気を失うということは、料理ではまったく価値がないので、新鮮なものは、火が中まで通っていればいいので煮過ぎは禁物であります。  古いものになりますと、中まで味をつけて、単にそれそのものの触覚だけで我慢する。例えば芝居の弁当に見るたけのこのようなものです。結局、適当に頭をはたらかせることが必要です。  わたしなどから見ますと、料理屋の料理は、形式的にはまずととのっておりますが、どうしても商売として繁盛せねばならない条件があるのでお客の意見を聞き、それに迎合するという意味のみになって、料理から個性というものが失くなり、ただ上っすべりした万人向きの無意義な薄っぺらなことにして、お茶を濁しているように思われます。上っすべりした迎合の料理というものは、決していいものではありません。しかし、なにも知らんひとから見ますと、その料理屋のやっているつまらないことを立派なことのように思い、家庭でもやってみようというひともあり、それで料理屋も立っていくのでしょうが、料理屋のすべてを真似ることは見識ではありません。  そこでどんな料理が、日本料理としていちばんよいのかといいますと、それは、お茶の料理がいちばんよいのです。昔の人が真心を入れて作った献立、その気持が大切であって、今のひとはなんでもいい加減にやっておりますが、昔のひとのは、ひとの迷惑しない、しかも主人が自慢をしない程度の料理であって、調和ということも充分合理的に考え、嘘がなく、ほんとうに自分の真心で、しかも誇らないで、ひとに迷惑のかからないものでありますから実にいいのであります。つまり、余計なことや、識者から見て滑稽でない、合法的なものが昔の茶人の献立であります。  料理も大切でありますが、また食器の選び方も大切であります。食器を見るには、そのひとの審美眼で選ぶのであります。すべて当を得た食器を用いないと、引き立ちません。楽しみになりません。どういう食器がよいのか、該当するか、感じがよいか、それらは実習によってご説明いたしましょう。  食器の次には盛り方が大切です。盛り方というものは、ひとの目に非常に影響するもので、せっかくのおいしいものも、盛り方の悪いために、その割でなくなりますから、盛り方と量のことも、充分考えねばなりません。  料理とは、理を料るという意味で、割烹とは違います。割烹というのは食事の方のみに用うる言葉でありますけれども、料理の方は政治にも人間にも用いられる語で、それは食べ物が、合法的でなくてはいけないというために食べ物の方に用いられ、料理という文字が、割烹の代名詞となったのでしょう。  料理をする根本は親切でなくてはいけません。魂の入った真剣なものでなければいけません。そうでないと、自分がまるで機械になってしまって、自分自身楽しいことにもなりません。自分がやっていて、楽しく趣味に生きるには、正直に得心のいくように、良心に従うことが肝要であります。  結局料理も、悟りが大切なのであります。なるほどというのがつまり悟りであります。悟りがなくてはいけません。これが料理の概念なのであります。今日は概念についてだけにしておいて、この次から実習について語ります。 底本:「魯山人の美食手帖」グルメ文庫、角川春樹事務所    2008(平成20)年4月18日第1刷発行 底本の親本:「魯山人著作集」五月書房    1993(平成5)年発行 初出:「星岡」    1933(昭和8)年 入力:門田裕志 校正:noriko saito 2009年12月4日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。