屋久島紀行 林芙美子 Guide 扉 本文 目 次 屋久島紀行  鹿兒島で、私たちは、四日も船便を待つた。海上が荒れて、船が出ないとなれば、海を前にしてゐながら、どうすることも出來ない。毎日、ほとんど雨が降つた。鹿兒島は母の郷里ではあつたが、室生さんの詩ではないけれども、よしや異土の乞食とならうとも、古里は遠くにありて、想ふものである。  雨の鹿兒島の町を歩いてみた。スケッチブックを探して歩いた。町の屋根の間から、思ひがけなく、大きくせまつて見える櫻島を美しいと見るだけで、私にとつては、鹿兒島の町はすでに他郷であつた。空襲を受けた鹿兒島の町には、昔を想ひ出すよすがの何ものもない氣がした。宿は九州の縣知事が集まるといふので、一日で追はれて、天文館通りに近い、小さい旅館に變つた。鹿兒島は、私にとつて、心の避難所にはならなかつた。何となく追はれる氣がして、この思ひは、奇異な現象である。  私は早く屋久島へ渡つて行きたかつた。  實際、長く旅をつゞけてゐると、何かに滿たされたい想ひで、その徴候がいちじるしく郷愁をかりたてるものだ。泰然として町を歩いてはゐるが、心の隅々では、すでにこの旅に絶望してしまつてゐることを知つてゐるのだ。一種の旅愁病にとりつかれたのかもしれない。  四日目の朝九時、私達は、照國丸に乘船した。第一棧橋も、果物の市がたつたやうに、船へ乘る人相手の店で賑つてゐる。果物はどの店も、不思議に林檎を賣つてゐるのだ。白く塗つた照國丸は千トンあまりの船で、屋久島通ひとしては最優秀船である。  曇天ではあつたが、航海はおだやかさうであつた。この船では、一等機關士の方の好意で、誰よりも早く乘船する便宜を受けた。デッキに乘り込んだ人達が、どの人も、金魚鉢を手にぶらさげてゐた。種子島や、屋久島には金魚がないのかも知れない。薄陽の射したデッキのベンチに、どの人の手にも、小さい金魚鉢がかゝへられてゐるのは、何となく牧歌的である。  航海はおだやかであつた。  晝の二時頃、種子島へ着くのださうだ。  遠い昔、マルセイユから乘つたはるな丸に、照國丸は似てゐた。このまゝ何處へでもいゝから、遠くの國外へ向つて航海して行きたい氣がした。久しぶりに廣い海洋へ出て、私は、鹿兒島での息苦しさから解放された。鉛色の空と海の水路を、ひたすら進むことに沒頭してゐるのは、この船だけである。島影一つ見えない。私はこのまゝ數日を海上で送つてみたいと思つた。ポール・ゴオガンのやうに、船がタヒチへでも向つて行つてゐるやうな、一種の堪へ難い待ち遠しさも、私は屋久島に感じ始めてゐるのだ。  屋久島とはどんなところだらう……  現在の日本では、屋久島は、一番南のはづれの島であり、國境でもある。種子島を𢌞り、屋久島が見える頃には、このあたりの環礁も、なまあたゝかい海風に染められてゐるであらう。すばらしい港はないとしても、私は何も文明的なものを望んでゐるわけではないが、南端の島に向つて、神祕なものだけは空想してゐるのはたしかだつた。戰爭の頃、私は、ボルネオや、馬來や、スマトラや、ジャワへ旅したことがあつた、その同じ黒潮の流れに浮いた屋久島に向つて、私はひたすらその島影に心が走り、待ち遠しくもあるのだつた。  二時頃、船は種子島の西之表港へ着いた。平べつたい長い島である。木造船が港のなかにごちやごちやともやつてゐた。平凡な島である。こゝで澤山の乘船者が降りて行つた。棧橋にはごちやごちやと澤山の出迎へ人がひしめきあつてゐた。私は暫くデッキに出て、船の上から島の景色を眺めてゐた。  種子島は大隅諸島に屬し、北北東から、南南西にかけて細長く、約七十二キロ、いわゆる九州山系の外帶を構成する第三紀の砂岩、粘板岩、礫岩等からなる小丘がつらなり、臥牛の背に似てゐる。有名な鐵砲傳來の島で、天文年間に漂着して來たポルトガル商船から、種子島時堯がその製法を受けた。私は織田信長や、豐太閤の小説を書いたばかりだつたので、紀州の根來寺の僧侶や、堺の商人の橘屋又三郎が、この種子島へ來て、鐵砲の製法の傳授を請うた話を思ひ出してゐた。  照國丸は夜の九時まで、この西之表港に停泊してゐるといふので、棧橋が靜かになつたら、種子島に下船してもいゝと思つてゐた。薄陽が射して、海岸沿ひの白い砂地の道が、挨つぽく見えた。西之表も空襲を受けたとかで、瓦屋根を白いシックイでかためた港の家々が新しい感じだつた。  下船の支度をしてゐると、私は、こゝで、突然に、町長の最上さんと、種子島時望さんの出迎へを受けた。たしか、種子島時望さんは、以前は男爵か何かの爵位を持つた人だと記憶してゐる。紺の上着に灰色の洋袴で、おとなしい、品位をそなへた中年の紳士であつた。私は種子島さんの案内で西之表の町を歩いてみた。種子島さんの後姿には、ひどく孤獨な、そして、一種の淘汰を受けた性格が、この平凡な島を背景に感じられて、私は作家的な眼で、種子島さんを觀察してゐた。私は種子島には興味はなかつたが、人間の種子島さんには非常な興味を持つた。丘へ登り、港を見降し、丘の小徑を歩き、珍しい五輪の墓地や、がじまる(榕樹)の樹の下を歩いて、坂の下の小さいカヂ屋の前に來て、店先の硝子箱にはいつた鋏に眼をとめた。暗い店の中には、仕事前だれをかけて、鳥打帽子をかぶつた老人が鋏をつくつてゐた。軒のひくい入口や仕事臺の上に、目白籠がいくつもぶらさげてあつた。私はこゝで鋏の出來るまでの工程を見せて貰つた。このカヂ屋さんは、日高さんと言つて、十六歳の頃から鋏ばかりつくつてゐると聞いた。手づくりなので、一日十挺くらゐつくるのが關の山だといふことである。私はこの素朴な鋏つくりの老人がすつかり氣に入つた。目白の籠のなかは、氣忙しい鳥影が動きどほしである。木炭を盛りあげたフイゴを押すと暗い土間に火花が彈けた。  私は暫く、この島に住んでみたい氣がしてゐた。東京の刺戟はこゝには一向に見られない。電氣も三日目くらゐにはつくと聞いた。魚屋が町の到るところにある。  八時頃船に戻つたが、珍しく霧を噴いたやうな月が出てゐた。醉つぱらひが大聲でわめきながら、女を連れて船室を開けて歩いてゐる。女も醉つぱらつてゐるのか、下駄の音をさせて、船室の前を蓮つぱに笑ひながら走つて行く。九時過ぎに、船は出航した。にぶいエンジンの音を枕に聞きながら、種子島で多くの人々に逢つたものだと思つた。種子島では、私は島の藥屋で、ソボリンとノーシンを買つた。醫者をしてゐる町長の最上さんも、親切に風邪藥を調合してとゞけてくれた。私はノーシンを一服のんで寢室へ横になつた。  目的の屋久島はもうぢき眼の前に現れるだらう。屋久島は昔はゆく島とも言つたさうだ。ゆくは鹿の意味ださうである。鹿の多い島で、昔は鹿の皮が貢物の全部であつた時代もあるのださうだ。地圖の上で見る種子島は長い島だが、屋久島は圓い島だ。  朝、五時頃、屋久島が見え始めた。  宮の浦と言ふところの沖合ひへ六時頃着いたが、こゝは棧橋がないので、小さいはしけが客を迎へに來た。デッキへ出ると寒いくらゐだつた。島は思つたより屹立して、山々が黒いビロードを被たやうに連なつてゐる。遠く白い砂地のなぎさが見え、レースのやうに波が打ち寄せて、人家はあまり見えない。船着場の岩壁の上に、大きな材木が積んである。  九時頃、やつと、船は安房へ着いた。こゝでも港がないので、照國丸は沖合ひへ停泊するのだ。  凄い山の姿である。うつたうしいほどの曇天に變り、山々の頂には霧がまいてゐた。全く、無數の山岳が重疊と盛り上つてゐる。鬱蒼とした樹林に蔽はれた山々を見てゐると、人間が住んでゐる島なのかと思へるほどだつた。  島には米がないといふので、鹿兒島では米を五升ほど買ひ求めた。二食分の辨當も宿でつくつて貰つたが、私達はあまり食欲はなかつた。船のなかではコヽアを註文したきりである。  下船の支度をしてデッキに出ると、案外早く小さいはしけが迎へに出てゐた。照國丸は一週間さきでなければこゝへはやつて來ないのだ。あとは、三百トンくらゐの便船しかないと聞いた。はしけに乘りうつると、はしけは二十人くらゐの下船のものたちでいつぱいになつた。荷物も人もはしけの渡し賃を取られた。三人の船頭が櫓をこいでくれた。安房の港は大きな川の入江にあつて、正面の川の上に素晴しく巨きい吊橋が見えた。なぎさに近づくにつれ、岩礁が點々と波間に見えた。海水は底を透かして澄みわたり、みどり色の海がある。はしけはなかなか速くは進まなかつた。川の入江に、景山丸と言ふ三四百トンばかりの白い材木船がもやつてゐるきりだつた。寒い雨氣をふくんだ風が吹きつけてゐた。  やがて、はしけは白い砂地へ横づけされた。砂地へ飛び降りて、吊橋へ向つて歩く。吊橋の下を深い淵をなして、上流へ川がくねくねとつゞいてゐた。淵のきはは、こんもりと樹林が深く被さつてゐる。右側の岩壁へ上つて、白い道へ出ると、トラックの停つた家や、バラックの飮屋のやうな家が一軒あつた。道には、黄ろい鷄が六七羽餌をついばんでゐる。吊橋を渡つて、船で教つた安望館と言ふのへ向ふ。吊橋のすぐそばの小高いところに、バラック建ての旅館が眼にとまつた。  急に四圍が暗くなり、雨がぱらつき出した。一ヶ月三十日は雨だと聞いたが、陰氣な雨であつた。宿は𢌞送問屋のやうなかまへで、藁包みの積み上げてある荷物の横から、女中の案内で二階へ上つた。板をたゝきつけた床の間にはランプがさがつてゐた。床の間いつぱいに、俳句を書きつけた紙が張りつけてあつた。吊橋と川を見晴せる廊下があり、陰氣な部屋の割合には、見晴しがよかつた。青い景色のなかを、雨がしのつくやうに降り始めた。  朝晝を兼ねた食事を註文した。若く太つた女中は洋服を着てゐた。二階は三部屋つゞきだつたが、表の間には、一緒のはしけで來た種子島の税務官吏が來てゐた。二三人で聲高に喋りあつてゐる。同行の中山君と河内君の三人で火鉢を圍み食事をする。オムレツに薄い味噌汁。黒塗りの飯びつにぎつしりと御飯が詰めこまれてゐる。表の間の税務官吏の話をきれぎれに耳にはさみながら、かうした離れ小島にも、税のとりたてはきびしいものだとうかゞへた。いづこも人の世ではある。  食事のあと、雨のなかを、營林署へ行く。  軒の低いバラックが狹い道をはさんで並び、女や子供は裸足で歩いてゐた。砂地の白い道だつた。鷄は濡れ鼠になつて、家々の前で餌をついばんでゐる。家のすぐ後には、峨々とした南畫風な高い山々が連なり、この山岳を八重嶽の總稱で呼ぶのもうべなるかなと思へた。山が多いせゐか、大小の河川が百二十もあるのださうだ。全島山地で、傾斜が甚だしく、降雨の時は、水嵩が増加して、激流急奔すると聞いた。道のところどころに、長いひげをたらしたがじまるの大樹が繁つてゐる。  木造の營林署では、丁度晝食時だつたせゐか、事務室のなかには誰もゐなかつた。十分ほど待つて、庶務課長の境田氏が、近くの官舍から食事をして戻つて來た。がらんとした應接間に通ると、農林技官の徳川弘氏もはいつて來て、境田さんに紹介された。小林秀雄(評論家)そつくりの風貌である。なつかしい氣がした。根つからの山好きと見えて、二時頃、この雨中を押して、トロッコで小杉谷へ登るといふことなので、私達も同行させて貰ふことにする。小杉谷までは、トロッコで二時間あまりださうで、山の中はよほど寒いと聞いた。  屋久島は、營林署の仕事をさしおいては何も語れないほど、道も電氣も、營林署でつくつたものだと聞いた。徳川さんは佐賀の人であり、境田さんは宮崎の人で、根つからの屋久島の人ではないので、屋久島のくはしい話を聞くよすがもなかつた。籐椅子に腰をかけてゐても、風邪で、熱が三十七八度はある樣子で、私は非常に疲れてゐた。たまらなく眠くもあつた。昏々として、躯が沈みこみさうである。雨はねばつくほどの昏さで降りこめてゐる。  營林署の管轄になる土地は二萬ヘクタールに上るのださうで、すべて官有林で、こゝでは屋久杉が有名である。私は、何も印刷したものがないといふので、こゝでは、メモを出して、樹木の名前を寫させて貰つた。  すぎ、もみ、つが、ひのきがや、いぬがや、あかまつ、くろまつ、やくたねごよう、こなら、かしは、かしはなら、くぬぎきり、つるまんりよう。  ようらくつゝじ、いはがらみ、みやましぐれ、なゝかまど、羊齒類。  雨にあたつたせゐか、腕がちぎれるやうに痛い。額に手をふれると、かあつと熱い。雨はぴしやぴしやと硝子戸の外に音をたてて降つてゐる。徳川さんがトロッコの支度をしてくれるといふので、私達は一應宿へ戻り、山へ登る支度をする。ノーシンを二服のんでみる。古い藥とみえて、散藥は落雁のやうに舌に固まる。急に日沒が來たやうに、眼がくらみさうになつた。  身支度をして、階下の板の間へ降りてみた。行商の女が、鯖のなまりを賣りに來てゐた。片身二十圓だと言ふ。もの好きに、私も三本ばかり買つてみる。狹い石の段々のところで、十五六の男の子が、かけひの水のところで、鷄を料理してゐるのをも珍しく眺める。雨に濡れながら、男の子は器用な手つきで鷄を料理してゐた。  トロッコの支度はなかなか出來ないとみえて、私は待ちくたびれてしまつた。鹿兒島を隔たること九十七哩、東西六里、南北三里二十七町のこの山深い島に、私はいまぼんやり渡つて來たのだ。寒いせゐか、店先の火鉢に蠅がゴマを撒いたやうにぴつちりとまつてゐる。スケッチをするつもりだつたが、熱つぽくて何事にも興味がない。  やがて二時間ばかりして、やつと私達は、丘の上のトロッコの乘り場から、機關車のついたトロッコに乘つた。小杉谷まで行くには、どうしても山の中で一泊しなければならないといふので、途中の大忠岳まで行くことにした。私は機關車の運轉臺に乘せて貰つた。機關車は、トロッコを四輛ばかりつけてゐた。山への荷物が載つてゐる。斷崖の狹い道に敷いたレールの上を、ごうごうと機關車は音をたてて登つた。鬱蒼とした山肌は時々、眞紅な煉瓦色をしてゐた。ヘゴと言ふ、大きな羊齒の一種が繁つてゐた。つはぶき、鬼あざみ、山うどが眼につく。右手の川底の安房の町がだんだん小さく消えてゆく。吊橋も小指ほどに見える。トロッコは荷物と澤山の山行きの人達をのせて、斷崖の上を走つてゐる。雨が降つたりやんだりした。 一切の強欲の軋轢の苦役から 放免せられてゐる山々 一寸きざみに山へ登りつめる廣い天と地 鋭利な知能を必要とはしない自然 老境にはいつた都會を見捨てゝ 柔い山ふところに登りつめる私 私はその樂しみの飽くことを知らない。 額に山の雨が降りかゝり冷してくれる 山の精力が細かな種子になつて降る 蔓どめ、ひこばえ、山うど、鬼あざみ 私は何でも觸つたものをつかむ。 トロッコで凱旋してゐる旅愁。  眺望は昏くなり、山の雨は時雨のやうに降りかゝる。睡魔がおそつて來る。機關車のなかはガソリン臭くなまあたゝかい。 灰色の雨 しぶく雨 降る雨 たゞ地に降りそゝぐ雨 ひとに酬いる雨の山道 何處からか都會の風説を傳へて降る雨 かつこうが啼き 羊齒に光る銀色の雨 鋸型の山の彼方に昏く浮ぶ虹 哀しく心ゆすぶる雨。  一時間くらゐして、トロッコはやつと、大忠岳の峠へ着いた。軒のかたむいた山小舍の前でトロッコを降りる。山小舍には誰も住んでゐないのかと思つたら、安房の町で、後のトロッコに乘つた、子供づれの細君が、その山小舍の戸を開けてはいつた。私も雨やどりさせて貰ふ。女の人はまだ若い。すぐ、子供を降して爐に火を焚いてくれた。がらんとした板壁の暗い部屋である。まだ十日ばかり前に宮崎からこゝへ來たばかりで、御主人は石切りを仕事にしてゐる人ださうだ。子供は素朴な木裂に車をつけた玩具で遊んでゐる。  こゝで、一臺のトロッコを殘して貰つた。徳川さんは、紺のレインハットに、ゲートルに地下足袋のいでたちで、私の乘つてゐた座席へ轉り、雨の中を私達の乘つて來た機關車は小板谷へ登つて行つた。小板谷へ行つてみたかつたが、寒さがきびしいと聞き、肺炎にでもなつては災難だと、そのまゝトロッコに乘つて山を降りることにした。疊一枚もない、狹いトロッコに、四人が肩を寄せて乘りあつた。若い山の人がトロッコを上手にあやつつてくれた。斷崖絶壁の山徑を、玉轉しのやうに、トロッコは轟々とすさまじい音をたてて降つて行つた。しのつくやうな雨のなかを、濡れながらトロッコは降つて行く。雨傘を一本持つて來てゐたので、それを差してふはふはと傘の柄につかまつてゐるかたちだつた。  昏くなつてから宿へ着く。  ランプの灯の下で火鉢を圍む。風呂をすゝめられるが、熱のためにとりやめ、べとべとした疊に横になる。表の間の税務官吏の部屋は酒宴でも始つたのか賑かである。夕食には、名物の薯燒酎をつけて貰つたが、臭いので誰も飮まなかつた。夜更けになつて、細引を流したやうな雨であつた。雨の中に家ごと沈みこみさうな氣がした。税務官吏は雨の中を、女の迎へで何處かへどやどやと出て行つたが、朝まで戻つて來なかつた。雨の音でなかなか寢つかれない。夜中になつて電氣がついた。しみじみと文明の燈火をみつめる。  朝、雨は降つてゐなかつたが、夕方のやうに昏い空あひであつた。  船着場のトラックの運送店で、バスを交渉して貰つた。まだ買つて十日ばかりになる、一度も使つたことのないバスがあると言ふのだ。安房から、尾の間まで四里の道を、バスで行つてみる計畫をたてた。途中の橋が大分くさつてゐたし、道は田をこねかへしたやうだと聞いたが、勇氣を出して、バスで行くことにした。若い運轉手と、運送店の主人が乘り込んでくれた。幸なことに、空もかつと晴れて來た。乘客は私達三人。道が惡いせゐか、私達は彈き豆のやうに、始終シートから放り出されてゐる。途中で、麥生へ行く、女づれの客を二人ひろつた。紺がすりを着た飮屋の女らしい。金齒をきらきら光らせて喋つてゐた。素足に下駄をはいてゐた。  左手に見える海は、相當の荒れ模樣で、海原に白波が忙しく走つてゐた。ところどころの麥畑も貧弱である。仁田鑛山の社宅を越して、割合平坦なところをバスは走つたが、すぐまたくさつた橋にかゝり、橋の下は、深い谷間になつてゐた。橋を渡るたびに膽を冷した。始めて、村道をバスが走るので、原の學校の子供達が、鷄群のやうに走つて、バスを追ひかけて來た。バスはのろいので、子供が何時までも走つてついて來た。運轉手に聞くと、トラックが通る度、子供は二里でも三里でも自動車にくつついて走つて來るのださうだ。子供はみな裸足だつた。  何處まで行つても、右手は峨々とした南畫風の山が連なり、高い山は千九百五六十米もあるのださうだ。標高も七百米の小杉谷斫伐所附近では、年平均氣温が十六度に下り、十二月降雪を見、翌年の三月まで、積雪してゐるといふことである。高山が連つてゐるせゐか、一日中に、晴曇雨が交〻來るところである。バスでのろのろ走つてゐても、時々雨がばらつき、風が吹いた。颱風の通路にあるこの屋久島は、一年中豪雨に見舞はれるのだが、村の財政が窮乏のため、治水對策ははかばかしく運んではゐない。五月の飛魚と、甘藷と、甘蔗、それに林業くらゐが、この島の財政である。  麥生の部落で、二人の乘客は降りて行つた。  四里あまりのところを、二時間くらゐもかゝつて、やつと、お晝頃、尾の間の部落へバスは着いた。下屋久の村役場へ行き、こゝで、案内して貰つて、私は黒砂糖を製造するところへ行つてみた。珍しく陽がきらきらと射してゐるので、かなり暖い。或る路地の奧ではバナナの實つたところもあつた。ところどころに噴井戸のやうな石疊をきづいた井戸があり、五六人の手で圍むやうなあこの樹の大樹が青々と繁つてゐた。葉をむしると、柔く柿の葉のやうなかたちをしてゐた。このあたりまで來るとひげを垂れたがじまるの大樹もかなり多い。蜜蜂の箱を並べたやうな墓地を珍しく眺めた。  萱葺きの小舍がけのなかで、甘蔗を砂糖に煮てゐるところへ出た。竹の莖のやうな甘蔗をモオタアのかゝつた絞り機械で、汁を絞り、それを煮て、白いにがりで固めると、丁度かるめらのやうな色をした砂糖が流し箱へうつされる。原始的な、素朴そのものの砂糖製法であつた。村の人達が集り、相寄つて黒砂糖をつくつてゐるのだが、この素朴な砂糖も、一斤について、十八圓の消費税がかゝり、その上にまた所得の税金がかゝるのだと、村の人はこぼしてゐた。  芭蕉の葉に、一塊の黒砂糖を包んで貰つた。終戰直後は、この砂糖の買ひ出しに、屋久島あたりも賑つたやうである。甘いものに興味のない私は、芭蕉の葉に包んだ砂糖をもてあましてゐた。砂糖はこげ臭い匂ひがした。鹿兒島の町の市場でも、百匁九十圓でこの黒砂糖を山のやうに賣り出してゐたが、菓子のかはりにするのだといふことであつた。鹿兒島の江戸屋といふ喫茶店で、この黒砂糖を入れたコーヒーを飮んだが、苦甘い砂糖水を飮んでゐるやうであつた。  四圍は珍しく陽が輝き、靜寂である。四圍が森閑としてゐるせゐか、私はひどく疲れてゐるのを感じた。麥束を背に負つた、裸足の娘に行きあつた。女のよく働くところである。山々は硯を突き立てたやうに、部落の上にそゝり立つてゐる。陽の工合で、赤く見えたり、紫色に見えたりした。私達は、その山にみとれてゐた。案内の人は、もつちよむ山だと教へてくれた。花崗岩の巨峰は、日本のマッタホルンとも言はれると聞いた。  暫くして、私は海の方へ降りて行つてみた。かなり激しい斜面をなした狹い石道を、海ぎはへ下つて行つた。波が荒く、白い馬が海原を走つてゐるやうに見えた。私は、ふつと、人間に觸れない景色にはたへられないやうな淋しさを感じた。種子島に住んでゐる、朝日新聞の通信員の若い日高さんが、暫くかうした島に住んでゐると、狂ほしくなりますと言つた言葉を想ひ出してゐた。急に人戀しい氣持ちになつて來るのだ。こゝからいくらも離れてゐないところに、馬毛島や硫黄島があるのだけれど、俊寛的な孤獨な氣持ちが心を掠める。ごろごろした石ころのなかに、白く風化した珊瑚礁が混つてゐた。花模樣の透し彫りのやうな白い石である。──屋久島のどこかの學校では、PTAが、砂糖の密貿易をして、學校を建てた話も聞いたが、宮の浦あたりには、時々琉球や大島あたりから、船がはいつて來る樣子である。  嶮岨な山壁を見てゐると、何事もない、人跡絶えた島にも見える。千年近い屋久杉があの山中に亭々とそびえてゐるのだ。海沿ひは年中温暖な土地と見えて、どの樹木も夫婦木のやうに、根元から二本に分れて大きくなつたものが多い。松は本土のやうにひねくれた枝ぶりを持たない。みな空へむかつて、箒のやうに繁つてゐる。村の娘達は、すれちがふたびに、旅人の私達に、丁寧にあいさつをして通り過ぎて行つた。  尾の間には温泉もあると聞いた。  屋久島では、砂糖が主産物だが、そのほかにも、ポンカン、飛魚、牛馬、海藻類、木炭、松脂、木材、樟腦、皮革といつたものが移出される。私は、甘蔗の刈入れられた荒凉とした畑地を見ただけで、ポンカンの並んでゐる店先を一軒も見なかつた。時々、人家の軒先に、犬の皮の干してあるのを見た。  島をめぐる道は只一本しかない。それも非常に惡路である。この村では政治に對する氣持ちは無關心とも言へる程度なので、判然りとした黨派はない樣子だつた。淳朴な氣風は、私の見た種子島とは、多少違ふのではないかと思へた。新聞購讀者の表を見たが、南日本が三百六部、朝日が八十七部、毎日が六十八部、讀賣が十三部、アカハタが二部となつてゐた。新聞の普及率は總戸數の二三パーセントに過ぎないさうだ。  バスで、夕方の五時頃、安房へ戻つて來た。途中幾度か雨にあつた。海はかなりしけて來た樣子だ。三百五十トンの橘丸が明日は來るだらうといふのだが、このしけでは船は來さうにも思へない。宮の浦までならば、來る可能性があるといふので、私達は思ひきつて、さつきのバスに頼んで、宮の浦まで出てみたいと思つた。四圍は昏くなりかけてゐる。二階から海を見ると、かなり大きい波が高くひくく水平線を動かしてゐるやうに見える。  夜道をかけて、バスが宮の浦まで出られるかどうかを、交渉に行つて貰つた。宮の浦まで五里。これから夕食をして出發するにしても、十二時近くでなければ宮の浦へは着けさうにもない。尾の間へ行くよりもまだ惡路で、それに道中がひどく狹いのださうである。  バスは行きませうといふことだつた。私達は食事もそこそこに、またバスに乘つた。バスの乘り場で、私は、朝方見覺えのあるおばあさんに逢つた。麥生から安房までの二里あまりの道を裸足で味噌を買ひに來たおばあさんであつた。私は吊橋のところの荒物屋で鉛筆を一本買つて、そこで茶をよばれた。親切な荒物屋の主人であつた。おばあさんはこの店へ味噌を買ひに來たのである。二里の道を裸足で買物に來たおばあさんに、麥生までバスに乘りませんかと言ふと、おばあさんは、乘物に乘ると氣持ちが惡いから折角ですがと斷つた。荒物屋の主人の話では、裏側の永田部落や、一湊あたりの人は、自轉車も自動車も知らない人があるのだと言つてゐた。安房の村さへも見ないで死ぬ人もあるのだと話してゐた。おばあさんは買物をかゝへて、これからの夕暮れの道を、麥生まで歩いて歸るのである。二里の山坂は、このおばあさんにとつては少しも淋しい道ではないのだらう。  六時頃、バスは動き出したが、いくらも行かないうちに、バスは度々泥地にめりこんで、四圍の山林から木裂をひろつて來ては、タイヤを持ちあげるのに苦心した。若い助手も入れて、運轉は三人の男がかはるがはるハンドルを取つた。七時頃、とつぷり暮れた。時々通り過ぎる部落は、ランプの燈がとろとろ燃えて、子供達が叫びながら、家から走り出てバスを追つて來た。夜道のせゐか、ジャワの山の中の部落を通るやうな氣がした。  どの部落も、屋根には石が乘り、硝子戸のない、雨戸だけの軒のひくい家が、ジャワの土民の小舍のやうに、道の兩側に並んでゐた。その家々の狹い入口から、ランプの燈がとぼつてゐるのが見える。バスのヘッドライトに照される子供達は、輝くやうな眼をして、バスのぐるりに寄つて來た。子供達は喚聲を擧げた。みなバスのヘッドライトを浴びて、銅色の顏をしてゐた。バスは道いつぱいすれすれに、部落の軒を掠め、がじまるの下枝をこすつて遲い歩みで走つた。私はしつかりと窓ぶちに手をかけて、暗い道に手を振つてゐる子供達を見てゐた。かあつと心が燒けつくやうな氣がした。家々に歸り、子供達は、二つの眼玉を光らせたバスのヘッドライトを夢に見ることだらう。私は時々窓からのぞいて、暗い道へ手を振つた。  夜道は長くつゞいたが、雨は降らなかつた。沁々と靜かな夜である。バスが停るたび、地蟲が鳴きたててゐた。むれたやうな、亞熱帶の草いきれがした。月が淡く樹間に透けて見えた。どうすればいゝのか判らないやうな、荒漠とした思ひが、胸の中に吹き込む。もう、二度と來る土地ではないだけに、この夜は馬鹿に印象強く私の心に殘つた。珊瑚礁に圍まれた屋久島の夜は、遠い都會の騒々しさは何も知らない平和さだ。私は旅へ出て新聞も讀まない。持つて來た本も讀む氣がしなかつた。  汽車や自轉車もまだ見たこともない人もゐるといふ、島の人達に、都會の文明は不要のもののやうに思へた。私はスケッチをするひまもない短い間だつたが、何時でも描けるやうな氣がした。鉛筆なんかより油繪具をつかひたい色彩だつた。子供は繪になる生々した顏をしてゐた。娘は裸足でよく勤勞に耐へてゐる。私は素直に感動して、この娘達の裸足の姿を見送つてゐた。櫻島で幼時を送つた私も、石ころ道を裸足でそだつたのだ。 屋久島は山と娘をかゝへて重たい島 素足の娘と子供は足の裏が白い 柔い砂地はカンバスのやうだ 遠慮がちに娘は笑ふ 飛魚の頃の五月 屋久島のぐるりは銀色の魚の額ぶち 青い海に光る飛魚のオリンポスだ。  十一時頃、バスは宮の浦の部落へ着いた。村の入口で、若い巡査が珍しさうにバスのヘッドライトに照されて立つた。巡査に田代館といふ古い宿屋を聞いて、私達はバスを降りた。宮の浦の部落はみんなランプであつた。磯の匂ひがした。宿屋は案外がつちりした大きい旅館であつた。女中がゐないのも氣に入つた。無口なおとなしい女主人が、ランプをさげて、二階の廣い部屋へ案内してくれた。橘丸ははいる樣子でせうかと聞くと、多分大丈夫でせうといふ返事だつた。バスの運轉手達は、この旅地で、最も私達に親切を示してくれた。明日七時には安房へ發つて歸るつもりだと言つてゐた。 底本:「現代紀行文學全集 第五卷 南日本篇」修道社    1958(昭和33)年9月15日発行 初出:「主婦之友」    1950(昭和25)年7月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:林 幸雄 校正:鈴木厚司 2006年9月17日作成 2016年2月3日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。