古寺巡礼 和辻哲郎 Guide 扉 本文 目 次 古寺巡礼 改版序 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 十一 十二 十三 十四 十五 十六 十七 十八 十九 二十 二十一 二十二 二十三 二十四 改版序  この書は大正七年の五月、二三の友人とともに奈良付近の古寺を見物したときの印象記である。大正八年に初版を出してから今年で二十八年目になる。その間、関東大震災のとき紙型をやき、翌十三年に新版を出した。当時すでに書きなおしたい希望もあったが、旅行当時の印象をあとから訂正するわけにも行かず、学問の書ではないということを標榜して手を加えなかった。その後著者は京都に移り住み、曾遊の地をたびたび訪れるにつれて、この書をはずかしく感ずる気持ちの昂じてくるのを経験した。そのうち閑を得てすっかり書きなおそうといく度か考えたことがある。しかしそういう閑を見いださないうちに著者はまた東京へ帰った。そうしてその数年後、たしか昭和十三四年のころに、この書が、再び組みなおすべき時機に達したとの通告をうけた。著者はその機会に改訂を決意し、筆を加うべき原稿を作製してもらった。旅行当時の印象はあとからなおせないにしても、現在の著者の考えを注の形で付け加えることができるであろうと考えたのである。しかし仕事はそう簡単ではなかった。幼稚であるにもせよ最初の印象記は有機的なつながりを持っている。部分的の補修はいかにも困難である。従って改訂のための原稿は何年たってもそのままになっていた。そのうちに社会の情勢はこの書の刊行を不穏当とするようなふうに変わって来た。ついには間接ながらその筋から、『古寺巡礼』の重版はしない方がよいという示唆を受けるに至った。その時には絶版にしてからすでに五六年の年月がたっていたのである。そういうわけでこの書は今までにもう七八年ぐらいも絶版となっていた。  この間に著者は実に思いがけないほど方々からこの書に対する要求に接した。写したいからしばらく借してくれという交渉も一二にとどまらなかった。近く出征する身で生還は保し難い、ついては一期の思い出に奈良を訪れるからぜひあの書を手に入れたい、という申し入れもかなりの数に達した。この書をはずかしく感じている著者はまったく途方に暮れざるを得なかった。かほどまでにこの書が愛されるということは著者として全くありがたいが、しかし一体それは何ゆえであろうか。著者がこの書を書いて以来、日本美術史の研究はずっと進んでいるはずであるし、またその方面の著書も数多く現われている。この書がかつてつとめたような手引きの役目は、もう必要がなくなっていると思われる。著者自身も、もしそういう古美術の案内記をかくとすれば、すっかり内容の違ったものを作るであろう。つまりこの書は時勢おくれになっているはずなのである。にもかかわらずなおこの書が要求されるのは何ゆえであろうか。それを考えめぐらしているうちにふと思い当たったのは、この書のうちに今の著者がもはや持っていないもの、すなわち若さや情熱があるということであった。十年間の京都在住のうちに著者はいく度も新しい『古寺巡礼』の起稿を思わぬではなかったが、しかしそれを実現させる力はなかった。ということは、最初の場合のような若い情熱がもはや著者にはなくなっていたということなのである。  このことに気づくとともに著者は現在の自分の見方や意見をもってこの書を改修することの不可をさとった。この書の取り柄が若い情熱にあるとすれば、それは幼稚であることと不可分である。幼稚であったからこそあのころはあのような空想にふけることができたのである。今はどれほど努力してみたところで、あのころのような自由な想像力の飛翔にめぐまれることはない。そう考えると、三十年前に古美術から受けた深い感銘や、それに刺戟されたさまざまの関心は、そのまま大切に保存しなくてはならないということになる。  こういう方針のもとに著者は自由に旧版に手を加えてこの改訂版を作った。文章は添えた部分よりも削った部分の方が多いと思うが、それは当時の気持ちを一層はっきりさせるためである。 昭和二十一年七月 著者 一 アジャンター壁画の模写──ギリシアとの関係──宗教画としての意味──ペルシア使臣の画  昨夜出発の前のわずかな時間に、Z君の所でアジャンター壁画の模写*を見せてもらった。予想外に大きな画面で、色彩も写真で想像していたよりははるかにきれいだった。急いで見たのだから詳しい印象は残っていないが、それでも汽車に乗ってから絶えずこの画に心を捕われていることを感じた。今朝京都の停車場で、T君やF氏と別れて、ひとりポツネンと食堂車にすわっていると、あの画のことがまた強く意識の表面に浮かび上がって来た。 * 荒井寛方氏の労作、この後五六年を経て、大正十二年の関東大震災の際、東京帝国大学文学部の美術史研究室において烏有に帰した。  アジャンター壁画の模写から受けた印象のうちで、最も忘られないものの一つは、あの一種独特な色調である。色の明るさや濃淡の工合が我々の見なれているものとはひどく違う。恐らくそこに熱国の風物の反映があるのであろう。気温が高くて、しかも極度に乾燥した透明な空気、湿いのない鮮明な色、──それがあの色調を造り出したに相違ない。あれは濡れた感じのまるでない色調である。中でも不思議に感じたのは、山の中にキンナラの夫婦がいて雲の中で天人が楽を奏しているという構図の、五六世紀ごろの画であった。人物も植物も非常に濃い色で描かれているにかかわらず、妙に冷たい、沈んだ感じを持っている。たとえば木の葉などは、黒ずむばかりの濃い緑に塗られていながら、どんな深い森の幽暗な樹陰でもこんなではあるまいと思われるほどに、光や空気の感じを欠いている。熱国の強烈な色彩というものを、華やかに輝く光と結びつけて考えている我々には、これらの画の色調はかなり予想外であった。しかし考えてみると、雪山を理想郷とするインド人が冷たい色に対する特殊な好尚を持っているということには、少しも不自然なところはない。インドの土地を知らない者には、あのニュアンスの少ない、空気の感じのまるでない色が、どれほど写実になっているのか判断することはできないが、少なくともあの色調によって、五六世紀ごろのインド人に普通であった情調を推測することはできると思う。当時のインド人はギリシア人のごとく快活ではなかったのであろう。肉体の美しさを心の底から讃美する人たちの気分にも、光を避けて陰を好む傾向が──真昼を恐れて夜を喜ぶ傾向があったのであろう。このことは色調からばかりでなく、壁画に描かれた多くの顔の表情からも、推測することができる。男も女も、大抵は憂欝な表情をその顔に浮かべているのである。ことに女の顔の病的な美しさは、その有力な証拠になる。キレの長い、瞳を上へつるしあげた大きい眼には、何となく物すごい、ヒステリカルな暗さが現われている。脂肪が少ないために異常に鋭くなっている顔の輪郭の線や、眼、鼻、唇などを刻み出す細かい微妙な線などには、豊かという感じがまるで欠けていると共に、妖艶な、すご味のある、奇妙な美しさがあふれている。これを健やかな、豊かな、調和そのものであるようなギリシア女の画に比べて見ると両者の相違はきわめて明瞭にわかると思う。  次に目に残っているのはインド独特の写実である。どの壁の画であったか、一丈ぐらいの、乳の大きい女の裸体像があった。顔、肩、腕、胸、腰、──どこに目をつけても、立派に写実的に描かれていない所はない。確かにそこには、肉体を鋭く凝視し、その中から強い魅力の秘密をつかみ出そうとする眼が働いている。ところでこの写実は、一つの人体において試みられているほどには、画面全体に行きわたっていないのである。構図は恐ろしく非現実的で、突飛な物の形が雑然と並んでいる。もちろん部分的には、まとまりのいい、無理のない構図もあるが、(また仏伝図や本生図には統一のある立派な構図を持ったものもあるらしいが、)大体としては、きわめて象徴的な、気ままな、お伽噺めいたやり方で満足しているように見える。これをポムペイなどで発見されたローマのギリシア風の画と比べて見るのは、非常に興味の深いことであるが、今は十分の準備がない。ただ気づかないでいられないのは、写実ということについて、両者の気分が非常に違っていることである。目で見たものをそのまま写生したくなるのは、画家の本能にあることと思われるが、その本能がここでは働き方を異にしている。ギリシア風の画家はどんなに想像の材料を描く場合でも、自然らしく見せることを忘れず、写実の地盤を離れることがない。しかしインドの画家は、一々の人体を非常に精妙に描きながら、その人体の位置についてはほとんど自然を無視したやり方をする。たとえば空中を飛んでいる天人の体が、いかにも巧妙に、浮動しているごとく描いてあるかと思うと、それが地の上を歩いている人のすぐ頭の上に、まるで両者の関係を顧慮することなしに置いてある。これは画家が画面全体の幻影を自然のごとく心中に思い浮かべていなかった証拠であろう。構図は芸術家の幻影から来ないで、描こうとする物語の約束から出ている。この種のことは大乗神話を描いた仏教の経典にも認められると思う。  ギリシア風の画とアジャンター壁画との関係は、美術史の問題として研究の価値があるばかりでなく、当時の世界文化の交錯を知るためにも、明らかにしなくてはならない。手法や絵の具や、その他の細部については専門家の研究があるであろうが、ただ漠然たる推測から言うと、時代の関係から見ても、ローマ文化の侵入の具合から見ても、インド化したギリシア──特にインド人との混血児であり、幼時からインドの空想の間に育ったギリシア人──の手がここに加わっているということは、あり得ないことでもない。またたといこの画の作者が純インド人であったとしても、こういう画の流派がインドを父としギリシアを母として生まれたものであることは、ある点まで認めなくてはなるまい。ギリシアの芸術的精神を摂取しなくては、この種のインド芸術は生まれなかったであろう。ただその咀嚼の程度がガンダーラ芸術よりもはるかに強かったために著しく独自な芸術となり得たのであろう。  アジャンター壁画の模写はもう一つ興味のある問題を提出した。あのような画がどうして宗教画として必要であったのであろうか。文芸復興期の宗教画はキリスト教の内部に古代の芸術が復活したものとして説くこともできるし、中世に反抗する人間性の解放として説くこともできるが、アジャンター壁画はどう説明していいであろうか。ことに問題となるのは天人や菩薩として現わされた女の顔や体の描き方、あるいは恋愛の場面などに描かれた蠱惑的な女の描き方である。文芸復興期のマドンナは豊かな肉体と優美な顔とをもって描かれているが、しかしそこには、美の権化としてのアフロディテの表現の上に、さらに永遠の処女としての侵し難い清らかさ、救世主の母としての無限の慈愛を現わそうとする努力があり、またあるものはそれを現わし得ている。しかしアジャンター壁画の菩薩には、この清らかさや慈愛を現わそうとする努力がない。また女体に現われた若々しい生の緊張や豊かな生の充溢に注目して、それを──アフロディテの彫刻におけるごとく──理想の姿に描き上げようとする心持ちも認められない。むしろ男性に対して存在する女性を、誘惑の原理としての女性を、──ただそれだけを女体に認める人が、自分の美しいと感ずる部分を強調して描き出したように思われる。このことは特に天人や、恋愛する女や、物語の図に現われる女などに著しい。あの高くもり上がった乳房や、太い腰部の描き方を見た人は、恐らく何人もこの見解に反対しまいと思う。そこに現わされたのは、調和の極致であるような、美しい線と面との交響でもなく、また生の歓びを神的にまで高めたような、神秘な恍惚でもない。直ちに触覚に迫って来る肌の柔らかさや肉のふくらみの感じである。──このような画がどうして仏徒の礼拝堂や住居などの壁に画かれなくてはならなかったのか。官能の享楽を捨離して、山中の僧院に真理と解脱とを追究する出家者が、何ゆえに日夜この種の画に親しまなくてはならなかったのか。  人間生活を宗教的とか、知的とか、道徳的とかいうふうに截然と区別してしまうことは正しくない。それは具体的な一つの生活をバラバラにし、生きた全体としてつかむことを不可能にする。しかし一つの側面をその著しい特徴によって他と区別して観察するということは、それが全体の一側面であることを忘れない限り、依然として必要なことである。この意味では、宗教的生活と享楽の生活とは、時折り不可分に結合しているにかかわらず、なお注意深い区別を受けなくてはならぬ。仏徒の生活も、この区別から脱れることはできない。仏教の礼拝儀式や殿堂や装飾芸術は、決して宗教的生活の本質に属するものではない。宗教的生活はこれらのすべてを欠いてもかまわない。荒野のなかにあって、色彩と音楽とのあらゆる人工的な試みを離れ、ただ絶対者に対する帰依と信頼、そうしてこの絶対者に指導せられる克己、忍辱、慈愛の実行、──それだけでも十分なのである。また他方では、官能を悦ばせる芸術はいうまでもなく、精神を高め心を浄化する芸術であっても、それをただ享楽するだけであるならば、かかる人を宗教的生活にひきいれることはできない。だから仏徒の教団においても、キリスト者の教会においても、原始的な素朴な活力を持っていた間は、決して芸術と結びつかなかった。むしろ芸術をば、その感性的な特質のゆえに、排斥する立場にあった。これは烈しい情熱をもって宗教的生活の内に突入しようとするものにとって、きわめて自然なことである。  しかし芸術が人の精神を高め心を浄化する力を持つことは、無視さるべきでない。たといこの美的感情移入が、享受者の実生活ではなくて、ただ空想の世界の出来事に過ぎぬとしても、それはまだ実現せられないより高き自己を自分の前に展開して見せることによって、実生活にいい刺戟を与え、実行の動機を産み出すことがある。たとえば宗教の儀式に音楽を用いれば、それはショペンハウエルのいわゆる一時的解脱に人を導き、法悦と解脱とへの人々の要求を強く刺戟することになるであろう。阿弥陀経に描かれた浄土が、あらゆる芸術によって飾られていることは、この間の消息を語るものである。かく芸術は、衆生にそのより高き自己を指示する力のゆえに、衆生救済の方便として用いられる可能性を持っていた。仏教が芸術と結びついたのは、この可能性を実現したのである。しかし芸術は、たとい方便として利用せられたとしても、それ自身で歩む力を持っている。だから芸術が僧院内でそれ自身の活動を始めるということは、何も不思議なことではない。芸術に恍惚とするものの心には、その神秘的な美の力が、いかにも浄福のように感ぜられたであろう。宗教による解脱よりも、芸術による恍惚の方がいかに容易であるかを思えば、かかる事態は容易に起こり得たのである。  アジャンターの壁画はそれを実証している。この壁画を描いた画家は、恐らく仏の説いた戒律に束縛せられていなかったであろう。この僧堂に住みこの礼拝堂で仏を礼讃した人々も、恐らく官能断離の要求を強く感じてはいなかったであろう。そうしてほのかな燈火の光に照らし出される男女さまざまの姿態や、装飾的に並んだ無数の仏像などの奇異な、強烈な刺戟によって、陶然とした酔い心地を経験していたのであろう。それが何らか宗教的な心持ちとして受け取られたとすれば、それはこの陶酔が芸術の享楽によって与えられたのであって、在家の生活におけるがごとく、たちまち厭倦と苦痛とに変ずる直接の享楽によって起こされたのでなかったことに基づくのであろう。  これは彼らが仏を信じていなかったことを意味するのではない。しかし彼らの信ずるのはすべてを許し何人をも成仏せしめる寛容な仏であって、戒律と精進とを命令する厳しい教主ではなかったであろう。従ってあのような画と彫刻に飾られた石窟の内部が、極楽浄土の縮図として、人々に究極の浄福を予感せしめる機縁ともなり得たのであろう。  もう一つ問題となるのは、ペルシアの使臣を描いたらしい三尺ぐらいの比較的小さい画である。この画だけは色の調子がまるで違っている。画面全体が快く調和のとれた、温かい、ニュアンスの多い色で塗られている。一人のペルシア人とそれを取り巻く四五人の女とを描いた構図もまた非常に巧みである。人物の輪郭の線も他の画とはよほど違っている。没線画と線画との間をさまよっている他の画に比べると、この画だけはよほど線の画になっているといってよい。Z君はこの画だけが特に優れているのを不思議がって、アジャンターの中でも特殊の伝統を引いたものではなかろうか、ガンダーラや西域の絵画と関係のあるものではないであろうか、などといっていた。確かに、この画だけは特殊な気分と美しさを持っている。この画にペルシアの影響が認められるというのも、こういう点に注目してのことであろう。スタインの『古于闐』の中の写真に、裸の女が蓮池の中に立っている画の傍に二人の仏の描かれたのがあるが、あれなどは非常に清らかな感じのもので、インドの画とは随分気分を異にしていながら、しかもこの画とはどこか描き方に似たところがあるように思う*。 * 壁画保存の方法として画面にニスを塗ったとき、天井にあるこの画は塗り残されて新鮮な色を保っているのだそうである。従ってこの画の色調はアジャンター壁画の本来の色調を示しているといってよい。  ペルシア使臣の画で特に目についたのは、ペルシア人の右肩にいる女の顔の誘惑的な表情であった。これはギリシア風の美術に認められないインド独特の女の美しさで、インド人が女をいかに恐れ、いかに愛していたかを、最も代表的に示していると思う。これは中世のウェヌスベルグの伝説に現われて来るのと同じ心持ちで、ギリシア人は全然それを知らなかった。この心持ちを最初アレキサンドリアあたりへ輸入したのは、あるいはインドからであったかも知れない。肉に酔うか、魂を救うか、この選択の前に立って身を慄わせている男の目にうつる女の美しさは、まさにあれである。この画はそういう美しさを写実的に、しかし最も典型的に描き出している。  けれどもこれは宗教画ではない。もし禁欲僧が日夜この画に親しまなくてはならなかったとしたら、この画は苦行の座の針にもひとしいものであったろう。それは美しいが、しかし恐ろしい、それほど蠱惑的である。 (五月十六日) 二 哀愁のこころ──南禅寺の夜  久しぶりに帰省して親兄弟の中で一夜を過ごしたが、今朝別れて汽車の中にいるとなんとなく哀愁に胸を閉ざされ、窓外のしめやかな五月雨がしみじみと心にしみ込んで来た。大慈大悲という言葉の妙味が思わず胸に浮かんでくる。  昨夜父は言った。お前の今やっていることは道のためにどれだけ役にたつのか、頽廃した世道人心を救うのにどれだけ貢献することができるのか。この問いには返事ができなかった。五六年前ならイキナリ反撥したかも知れない。しかし今は、父がこの問いを発する心持ちに対して、頭を下げないではいられなかった。父は道を守ることに強い情熱を持った人である。医は仁術なりという標語を片時も忘れず、その実行のために自己の福利と安逸とを捨てて顧みない人である。その不肖の子は絶えず生活をフラフラさせて、わき道ばかりにそれている。このごろは自分ながらその動揺に愛想がつきかかっている時であるだけに、父の言葉はひどくこたえた。  実をいうと古美術の研究は自分にはわき道だと思われる。今度の旅行も、古美術の力を享受することによって、自分の心を洗い、そうして富まそう、というに過ぎない。もとより鑑賞のためにはいくらかの研究も必要である。また古美術の優れた美しさを同胞に伝えるために印象記を書くということも意味のないことではない。しかしそれは自分の中心の要求を満足させる仕事ではないのである。自分の興味は確かに燃えているが、しかしそれを自分の唯一の仕事とするほどに、──もしくは第一の仕事とするほどに、腹がすわっているわけではない。  雨は終日しとしとと降っていた。煙ったように雲に半ば隠された比叡山の姿は、京都へ近づいてくる自分に、古い京のしっとりとした雰囲気をいきなり感じさせた。 (五月十七日)  今夕はT君から芝居にさそわれたのをことわって、庭の樹立の向こうに雲の去来する比叡山を眺めながら、南禅寺畔の叔父の家で夕飯を食った。しんみりとしたよい晩であった。がここにも、享楽の生活をさしおいてまずなすべきことが横たわっているように思う。しかし自分の心は、放蕩者のように、美術の享楽に向かって急いでいる。僕はあたふたとこの家を去ろうとする自分を省みて、心に底冷えを感じないではいられなかった。  夜床にはいってから、『甲子夜話』をあけて見た。「楊貴妃はじんぜうなるやせ容の人の如く想はるれど、天宝遺事に貴妃素有二肉体一、至レ夏苦熱、常有二肺渇一、毎日含三一玉魚児於二口中一、蓋藉二其凉津一沃レ肺也と。されば楊貴妃はふとりたる女なりけり」とある。また能は宋代の芝居から、雅楽は唐代の伎楽から来たものだという林氏の説ものっている。いかにも随筆らしくておもしろい。  水の音がしきりに聞こえている。南禅寺の境内からここの庭へはいって、つつじの間を流れて池になり、それから水車を回して邸外へ出るのである。蘭学者新宮凉庭が、長崎から帰って、ここに順正書院という塾を開いたとき、自分が先に立って弟子たちといっしょに加茂河原から石を運んで、流れや池を造ったのだという。家もその時のままである。頼山陽が死ぬ前一二年の間はしょっちゅうここへ遊びに来ていた。この部屋に山陽が寝たこともあるかも知れない。水車はそのころから自分の家で食う米をついていたらしい。──建築は普通の書院づくりではあるが、屋根の勾配や縁側の工合などは、近頃の建築に見られない大様ないい味を見せている。天保時代ですらこの方面では今よりも偉かったと思わずにはいられない。 (五月十七日夜) 三 若王子の家──博物館、西域の壁画──西域の仏頭──ガンダーラ仏頭と広隆寺の弥勒  朝南禅寺の境内を抜けて、若王子のF氏の所に行った。空が美しく晴れて楓の若葉が鮮やかに輝いているなかに、まるで緑に浸ったようになって、F氏の茶がかった家が隠れていた。二階からわずかに都ホテルのあたりが見えるだけで、あとはすっかり若葉の山に取り囲まれている。樹の種類の異なるに従って、少しずつ色の違うさまざまの若葉が、地からむくむくと湧きあがって来たように見え、まるで烈しい交響楽のように我々の感覚を圧倒してしまう。だから五分間もそれを眺めていると、人間の世界から遠く遠く離れて来たという心持ちになる。電車の通りから十町と離れていない所に、こういう閑静な隠れ場所があるという事は、昔からの京都の特長で、文芸などにもその影響が著しく認められると思う。  ここの建築は、もと五条坂の裏通りにあって、清水焼の職工の下宿屋となっていたのを、F氏が偶然散歩の途上に見つけて、ついにここに移したのだという。ひどく荒れていた柱や板を洗ったり磨いたりして見ると、実にしゃれた茶室や座敷が出て来た。屋根の鬼瓦に初代道八の作があったと言われているから、たぶん文化ごろの建築であろう。非常に繊巧なもので、すみずみまで気が配ってある。茶室のほかに座敷が二間、二階一室で、坪数はわずかであるが、廊下や一畳二畳の小間を巧みにあしらって、心理的には非常に広く感じさせるようにできている。簡素な味がないから、永くなれば飽きるかも知れぬが、しかし江戸時代の文化が最も繊細になったころの建築として、非常に興味深いものである。  ひる少し前から、F氏とT君と三人で博物館に行った。大谷光瑞氏将来の庫車・和闐等の発掘品が今日は非常におもしろかった。  あの西域の壁画の破片で見ると、西域の画はアジャンターのよりもはるかに技巧が幼稚なように見える。無造作に直線を二本引いた鼻や、乱暴に線を長く引いた眉などは、ふざけて描いたものとしか思えない。しかし仏画をふざけて描くということはあり得ないであろう。とすると、画家としては素人の僧侶が描いたのであろう。鼻や眉の描き方はいかにも幼稚らしいが、画全体はかなり精神に富んだ、清らかな美しさを持ったものである。  線は乱暴にひいてあるが、しかしいかにも生き生きとした力を持っている。たどたどしいくま取りも、写実的な、新鮮な印象を与える。色はたくまずしてさわやかな諧調を保っている。肉づけは後期印象派の画に見受けられるような、無技巧のおもしろさを現わしているともいえる。こういう特徴は、アジャンターの壁画を画いたような専門家の技巧からはかえって出にくいであろう。とすると、技巧の修練は十分でなくとも自己の幻影を描き出すには十分な熱心を持っている素人の手がそこに感ぜられるのである。  インドから中央アジアへの伝道を企てたような、信仰に熱していた僧侶たちにとってはアジャンターあたりの極度に耽美的な儀礼は、頽廃の徴候としか感ぜられなかったであろう。そうしてガンダーラ地方の簡素な芸術の方が、むしろ心からの同感を呼び起こしたであろう。ガンダーラの画がどういうものであったかはわからないが、彫刻と同じように、写実的な、清らかな、かなり精練されない所もある芸術だったとすると、画才のある素人にはわりにまねやすかったであろうと思われる。専門の画家ならば、あのペルシア人かギリシア人らしい髯のはえた男の手を、ああは画かないであろう。あの手は指のつけねのところに、さも面倒臭くなったというふうに、横に直線が引いてある。専門の画家が画くとすればあの直線を引く手間で普通に写実的な手を描いてしまうであろう。前に言った鼻の画き方でもそうである。人の顔を描き慣れているものが、すなわちどう線を引けば鼻の形が出るかという事を知りぬいているものが、ふざけてででもなければ、ああいう窮した描き方をするわけがない。といって落書きでもなさそうである。やはり、ガンダーラの美術に好愛を持っていた僧侶のうちの画才のあるものが、この西域の画の作者だろうと考えるほかはない。  確かにあの画は、インドの画よりも深い精神的内容を感じさせる。それは官能の美以上の深い美しさである。たとえばあの菩薩(?)の顔は、技巧から言えばアジャンターの画などと比べものにならないほど拙いかも知れない。しかしこの菩薩の顔の方がはるかに強く人を感動させる。じっと見まもっていると、奇妙な、幻想的な恍惚に引き入れられて行くほど神秘めいた深さを持っている。無造作にくま取ったあのまぶたの感じや、微笑みかけているあの唇の感じなどは、実に何とも言えない。  同じ発掘品で、唐の影響を著しく受けていると思われる仏頭が四つある。それを見ながら考えたことであるが、仏教美術の東漸を研究するには、眉や眼や鼻や耳などの描き方の変遷を注意深く調べて見なくてはなるまい。なぜなら、インドアアルヤ族、ギリシア人と東方人との混血児、特にアジア人の血の混じったもの、トルコ族、蒙古族など、異なった種族の中を伝わって来る間に、モデルの変遷によって画き方もまた変わって来たろうと思われるからである。たとえば眉と眼との間に引く細い線がだんだんその位置を移しているのは、まぶたの厚ぼったい蒙古人やシナ人がモデルとなり始めたことを語るのではないか。長い細い弓なりの眉もまた同じことを語っていはしないか。ガンダーラの彫刻には明らかに蒙古人をモデルにしたらしいのがあるが、そのやり方が中央アジアでうまく利用されたことは疑いがない。それがシナにはいってさらに強く変化させられていることは、右に言ったようなモデルの推移によって、説明がつくのではないであろうか。  種族が異なるに従って、理想の顔や体格がどういうふうに変わって来るかという問題は、文化の伝播と連関して、興味のある問題である。たとえば仏画は、東へ来れば来るほど清らかに気高くなって行くが、このことは仏教の教義の変遷とどう関係するか。あるいはまた当時の諸民族の内心の要求や問題とどう関係するか。これらは考究に価する問題であろう。  シナへ来て西域の美術が一層端厳な、「仏」にふさわしいものになったということは、同じ発掘品のなかのガンダーラの仏頭と、推古天平室の中央にすわっている広隆寺の弥勒*(釈迦?)塑像とを比べて見ればわかる。あの仏頭はその写実の確かさにおいて強く我々の心を捕えるものであるが、しかしあの弥勒の超自然的な偉大さにはかなわない。一体あの弥勒は我が国の仏像のうちで最も著しくガンダーラの様式を現わしているものである。その肉づけの写実的なことと言い、その重々しい、大きい衣のひだの、小気味のいい大胆さ自由さと言い、シナ風の装飾化の動機にわずらわされずに、端的に人体を作り出している。特に塑像としての可能性は、極度に生かし切ってあると思う。我が国の仏像で西洋彫刻に最も近いものは恐らくこれである。しかもそのギリシア的な様式にもかかわらず、この仏の与える印象は完全に仏教的である。その威厳のある力強い顔は、理想化された人ではなくして、人の形をかりた超自然者という印象を与える。ガンダーラの仏頭が企ててなし得なかったところを、この弥勒がなしとげているのである。ギリシア・仏教式美術がシナに来て初めて完成したということは、この弥勒の前では確かに言えると思う。 (五月十八日) * この広隆寺の塑像は、広隆寺に宝物殿ができてからはそこへ帰っている。 四 東西風呂のこと──京都より奈良へ──ホテルの食堂  湯から上がってこれから寝ようとするところだが、どうもこの西洋風呂なるものが、日本の風呂のようなゆったりした心持ちにさせてくれない。書翰紙ののせてある卓子の側の柔らかい椅子に体をもたせかけると、いかにも自然にペンを取り上げたくなって来るという具合が、日本の風呂にはいったあととはひどく違う。  西洋の風呂は事務的で、日本の風呂は享楽的だ。西洋風呂はただ体のあかを洗い落とす設備に過ぎないので、言わば便所と同様の意味のものであるが、日本の風呂は湯の肌ざわりや熱さの具合や湯のあとのさわやかな心持ちや、あるいは陶然とした気分などを味わう場所である。だから西洋の風呂場と便所とはいっしょであるが、日本人はそれがどんなに清潔にしてあっても、やはり清潔だけではおさまらない美感の要求から、それを妥当と感じない。この区別が興味をそそって、とりとめもなく文化史的な考察に入り込ませる。  湯を享楽するのは東洋の風だと言われている。東洋でも熱い国では水に浴するがこれは同じ意味のものと認めてさしつかえない。西洋にももちろんこの風がないわけではないが、それはトルコ風呂の類で、東洋の風を輸入したものであろう。温泉なども、西洋のはおもに温泉を呑むのであって、日本のように浴して楽しむのではないらしい。シナの古い文芸では、浴泉の享楽が酒や女の享楽と結びつき、すこぶる感覚的に歌われているが、西洋にこんな文芸はあるかどうか。もっともローマでは入浴が盛んだった。私宅の浴室も公衆の浴場も、純粋に享楽のために造られたもので、特に公衆浴場はぜいたくの限りがつくしてあったらしい。大きい円天井の建物の中に、大理石を盛んに使って、冷水の池もあれば温湯の浴槽もある。脱衣室もあれば化粧室もある。すべてが美しい柱や彫刻や壁画で飾られている。そのなかで人々は泳いだり、温浴したり、蒸し風呂を取ったり、雑談にふけったり、その他いろいろの娯楽をやる。──しかしローマ人は出藍のほまれがあったというだけで、もともとこの風俗をギリシア人から学んだのである。ところがそのギリシア人も、家の中で風呂にはいるなどということは、東洋人から教わったのであった。しかも初めは戦争や運動のあとで、体の疲れを回復するために使ったに過ぎなかった。それを享楽のためにやっているのは、『オデュッセイア』のなかに奢侈の国として描かれているあの神話的なプァイエーケスの国である。小アジアや南イタリアあたりの植民地が盛んにぜいたくをやるようになると、この風は一般にひろまってしまった。やはりぜいたくや淫蕩の先駆をやるシバリスの市民が蒸し風呂などというものをはやらせた。共同浴の風習も東洋から来たもので、温浴と共にだんだん盛んになった。こんな惰弱な風はよろしくないといって、ヘシオドスやアリストファネスがだいぶやかましく言ったが、だめだった。──アレキサンドロス大王のすぐ後には、アテーナイに国立浴場ができている。男女混浴の風もはやった。──というようなわけで、やはり東洋がもとなのである。アレキサンドロス大王がダリオス王の風呂場を見て驚いているのなども、この方面から考えるとおもしろい。  しかしこの温浴を楽しむ伝統は、中世以後のヨーロッパにはあまり栄えていない。もちろん体を洗うのは人間として必要なことであるから、家には浴室があり、浴室の持てないものには公衆浴場があったに相違ないが、それは「必要なもの」として以上に「楽しむもの」にはならなかったらしい。デュウラアの描いた公衆浴場の画を見ると、女どもがいかにもせわしそうな、早く用をすませてしまいたいという風をしている。スザンナ入浴の画はずいぶんいろいろな人が描いているが、どれにもわれわれの知っている入浴の心持ちは現わされていない。で、たとい享楽を目的とするトルコ風呂の類があるとしても、それは特別の場合で、西洋人の日常生活にあみこまれているわけでない。西洋風呂があの構造である以上は、西洋人風呂の味を解せずと言っていいわけである。  東洋の風呂の伝統が、シナやインドでどうなっているかは知らないが、とにかく日本では栄えている。もちろん日本の風呂の趣味も最初はシナから教わったもので、それまでは川へ行って水浴をやっていたに相違あるまい。しかしたまたま唐の詩人の感興が日本人の性質のうちにうまく生きて、もう何世紀かの間、乞食をのぞいたあらゆる日本人の内に深くしみ込んでいる。風呂桶がいかにきたなかろうと、日本人は風呂で用事をたすのではない、楽しむのである。それもあくどいデカダン趣味としてではなく、日常必須の、米の飯と同じ意味の、天真な享楽としてである。  温泉の滑らかな湯に肌をひたしている女の美しさなどは、日本人でなければ好くわからないかも知れない。湯のしみ込んだ檜の肌の美しさなどもそうであろう。  西洋の風呂は、流し場を造って、あの湯槽に湯が一杯張れるようになおしさえすればいいのである。この改良にはさほどの手間はかからない。それをやらないのだから西洋人は湯の趣味を持たないとしか思えない。  京都から奈良へ来る汽車は、随分きたなくガタガタゆれて不愉快なものだが、沿線の景色はそれを償うて余りがある。桃山から宇治あたりの、竹藪や茶畑や柿の木の多い、あのゆるやかな斜面は、いかにも平和ないい気分を持っている。茶畑にはすっかり覆いがしてあって、あのムクムクとした色を楽しむことはできなかったが、しかし茶所らしいおもしろみがあった。柿の木はもう若葉につつまれて、ギクギクしたあの骨組みを見せてはいなかったが、麦畑のなかに大きく枝をひろげて並び立っている具合はなかなか他では見られない。文人画の趣味がこういう景色に培われて育ったことはいかにももっともなことである。  この沿線でもう一つおもしろく感ずるのは、時々天平の彫刻を思わせるような女の顔に出逢うことである。これは気のせいかも知れぬが、彫刻とモデルとの関係はきわめて密接なはずだから、この地方の女の骨相と関連させて研究してみたならば、天平の彫刻がどの程度にこの土地から生い出ているかを明らかにし得るかも知れぬ。  奈良へついた時はもう薄暗かった。この室に落ちついて、浅茅が原の向こうに見える若草山一帯の新緑(と言ってももう少し遅いが)を窓から眺めていると、いかにも京都とは違った気分が迫って来る。奈良の方がパアッとして、大っぴらである。T君はあの若王子の奥のひそひそとした隠れ家に二夜を過ごして来たためか、何となく奈良の景色は落ちつかないと言っていた。確かに『万葉集』と『古今集』との相違は、景色からも感ぜられるように思う。  食堂では、南の端のストオヴの前に、一人の美人がつれなしですわっていた。黒みがかった髪がゆったりと巻き上がりながら、白い額を左右から眉の上まで隠していた。目はスペイン人らしく大きく、頬は赤かった。襟の低い薄い白衣をつけて、丸い腕はほとんどムキ出しだった。またすぐ近くの卓子には、顔色の蒼い、黒い髪を長く垂れた、フランス人らしい大男の家族が座をとった。その男のビッコのひき方が、どうやら戦争で負傷したものらしく思えた。四つに七つぐらいの子供にはシナ人の乳母がはだしでついていた。妻君はまだ若くてきれいだったが、もう一人のきゃしゃな体をしたおとなしそうな娘の、いかにも清らかなきれいさにはかなわなかった。この娘の頸は目につくほど長かった。この格好は画でよく見たが、実物を見るのは初めてである。──奈良の古都へ古寺巡礼に来てこういう国際的な風景をおもしろがるのは、少しおかしく感じられるかも知れぬが、自分の気持ちには少しも矛盾はなかった。われわれが巡礼しようとするのは「美術」に対してであって、衆生救済の御仏に対してではないのである。たといわれわれがある仏像の前で、心底から頭を下げたい心持ちになったり、慈悲の光に打たれてしみじみと涙ぐんだりしたとしても、それは恐らく仏教の精神を生かした美術の力にまいったのであって、宗教的に仏に帰依したというものではなかろう。宗教的になり切れるほどわれわれは感覚をのり超えてはいない。だから食堂では、目を楽しませると共に舌をも楽しませていいこころもちになったのである。  食後T君と共にヴェランダへ出て、外をながめた。池の向こうの旅館の二階では、乱酔した大勢の男が芸妓を交えてさわいでいる。興福寺の塔の黒い影と絃歌にゆらめく燈の影とが、同じ池の面に映って若葉の間から見えるのも、おもしろくなくはなかった。われわれはそれを見おろすような気持ちになって、静かに雑談にふけった。 (五月十八日夜) 五 廃都の道──新薬師寺──鹿野苑の幻想  今朝Z君夫妻がついた。顔を見るなりすぐに言い出したのは、昨夜東京で催されたシコラの演奏会のことであった。Z君はそれをきくために出発をおくらせていたのである。  Z君は少し落ちつくと、早速気早な調子で巡礼の予定をきめにかかった。十日ほどの間に目ぼしい所を大体回ってしまうような、欲張った計画ができあがった。  ひるから新薬師寺へ行った。道がだんだん郊外の淋しい所へはいって行くと、石の多いでこぼこ道の左右に、破れかかった築泥が続いている。その上から盛んな若葉がのぞいているのなどを見ると、一層廃都らしいこころもちがする。幼いころこういう築泥を見なれていた自分には、さらにその上に追懐から来る淡い哀愁が加わっているように思われる。壁を多く使った切妻風の建て方も、同じ情趣を呼び起こす。この辺の切妻は、平の勾配が微妙で、よほど古風ないい味を持っているように思われる。三月堂の屋根の感じが、おぼろげながら、なおこの辺の民家の屋根に残っているのである。古代のいい建築は、そのまわりに、何かしら雰囲気といったようなものを持ちつづけて行くとみえる。  廃都らしい気分のますます濃くなって来る狭い道を、近くに麦畑の見えるあたりまで行ってわれわれはとある門の前に留まった。しかしその門の前に立っただけでは、まだ、今までながめて来たもの以上に非常に変わった光景がわれわれを待っているだろうという気はしない。門をはいってすぐ鼻の先に修繕のあとのツギハギに見える堂の側面が突き立っているのを見ると、初めておやというような軽い驚きを感ずる。この感情は堂の正面へ回って少し離れた所から堂全体をながめるに及んで、このようなすぐれた建築が、どうしてこんな所に隠れているのだろうというような驚きの情に高まって行く。そうしてそれは、美しさから受ける恍惚の心持ちに、何とも言えぬ新鮮さを添えてくれる。  この堂は光明皇后の建立にかかるもので、幾度かの補修を受けたではあろうが、今なお朗らかな優美な調和を保っている。天平建築の根強い健やかさも持っていないわけではない。この堂の前に立ってまず否応なしに感ずるのは、やはり天平建築らしい確かさだと思う。あの簡素な構造をもってして、これほど偉大さを印象する建築は他の時代には見られない。しかしこの堂の特徴はいかにも軽快な感じである。そこからくる優しさがこの堂に全面的に現われている。それは恐らく天井を省いて化粧屋根裏とし、全体の立ち居を低くしたためであろうと思われる。がこの新薬師寺では、堂の美しさよりも本尊の薬師像や別の堂にある香薬師像の方がもっと注目すべきものなのである。  本堂のなかには円い仏壇があって、本尊薬師を中央に十二神将が並んでいる。薬師のきつい顔は香で黒くくすぶって、そのなかから仏像には珍しく大きい目がギロリと光って見える。この薬師像の面相は、正面から見ると香のくすぶり方のせいでちょっと変に見えるが、よく見ると輪郭のしっかりした実に好い顔である。それは横へ回って横顔を見るとよくわかる。肩から腕へかけての肉づけなども恐ろしく力強いどっしりした感じを与える。木彫でこれほど堂々とした作は、ちょっと外にはないと思う。全体が一本の木で刻まれているというばかりでなく、作全体に非常に緊密な統一が感ぜられる。この像の人を圧するような力はそういう大手腕に基づくのであろう。  かつて講義の時関野博士はこの像を天平仏と見ていられたように記憶するが、われわれは弘仁仏ではなかろうかと話し合った。衣文の刻み方の強靱な、溌剌とした気持ちが、どうもそのように思わせる。  香薬師は今日は見ることができなかった*。 * 香薬師は白鳳期の傑作である。かつて盗難に逢い、足首を切断せられたが、全体の印象を損うほどではない。最初訪れた時はそういう騒ぎのあとで、倉の中に大事に蔵ってあるとのことであった。その後この薬師像を本尊とする御堂もでき、御廚子を開扉してもらって静かに拝むことができるようになった。御燈明の光に斜め下から照らされた香薬師像は実際何とも言えぬほど結構なものである。ほのかに微笑の浮かんでいるお顔、胴体に密着している衣文の柔らかなうねり。どこにもわざとらしい技巧がなく、素朴なおのずからにして生まれたような感じがある。がそれでいてどこにも隙間がない。実に恐ろしい単純化である。顔の肉づけなどでも、幼稚と見えるほど簡単であるが、そのくせ非常に細かな、深い感じを現わしている。試みに顔に当たる光を動かしてさまざまの方向から照らして見るがよい。あの簡単な肉づけから、思いもかけぬ複雑な濃淡が現われてくるであろう。こういう仕事のできるのは、よほどの巨腕である。そのことはまた銅の使いこなし方にも現われている。いかにもたどたどしい鋳造の仕方のように見えていながら、どこにも硬さや不自由さの痕がない。実に驚くべき技術である。この香薬師像は近年二度目の盗難に逢った。  帰りは春日公園の中の寂しい道を通った。この古い森林はいつ見てもすばらしい。今はちょうど若葉が美しく出そろって、その間に太古以来の太い杉や檜の直立しているのが目立つ。藤の花が真盛りで、高い木の梢にまで紫の色が見られた。鹿野苑の幻想をここに実現しようとした人のこころもちが、今でもまだこの森の中にただよっているという気がする。しかし一歩大通りへ出ると、まるで違った、いかにも「名所」らしい、平民的な遊楽の光景に出逢う。そこにまた奈良でなければ見られない気分がある。それもわるくはないが、この気分と、三月堂などの古典的な印象とが、まるで関係なしに別々になっているのは、いかにも不思議である。  興福寺の金堂や南円堂にはいって見たが、疲れて来たのであまり印象は残らなかった。しかし南円堂では壁の画が注意をひいた。  晩の食卓では昨夜のような光景をながめながら、Z君にアメリカのホテルの話をきいた。 (五月十九日夜) 六 浄瑠璃寺への道──浄瑠璃寺──戒壇院──戒壇院四天王──三月堂本尊──三月堂諸像  今日は浄瑠璃寺*へ行った。ひるすぎに帰れるつもりで、昼飯の用意を言いつけて出かけたのであったが、案外に手間取って、また案外におもしろかった。 * 京都府相楽郡当尾村にある。奈良から東北一里半ほどである。  奈良の北の郊外はすぐ山城の国になる。それは名義だけの区別ではなく、実際に大和とは気分が違っているように思われた。奈良坂を越えるともう光景が一変する。道は小山の中腹を通るのだが、その山が薄赤い砂土のきわめて痩せた感じのもので、幹の色の美しいヒョロヒョロした赤松のほかにはほとんど木らしいものはない。それも道より下の麓の方にところどころ群がっているきりで、あとは三尺に足りない雑木や小松が、山の肌を覆い切れない程度で、ところ斑に山にしがみついているのである。そうしてその斑の間には今一面につつじの花が咲き乱れている。この景色は、三笠山やその南の大和の山々とはよほど感じが違う。しかしその乾いた、砂山めいた、はげ山の気分は、わたくしには親しいものであった。こういう所では子供でも峰伝いに自由に遊び回れる。ちょうど今ごろは柏餅に使う柏の若葉を、それが足りない時には焼餅薔薇のすべすべした円い葉を、集めて歩く季節である。つつじの花の桃色や薄紫も、にぎやかなお祭りらしい心持ちに子供の心を浮き立たせるであろう。谷川へ下りて水いたずらをしてももう寒くはない。ジイジイ蝉の声が何となき心細さをさそうまで、子供たちは山に融け入ったようになって遊ぶ。二十年前には自分もそうであった。それを思い出しながらわたくしは、故郷に帰ったような心持ちで、飽きずにこの景色をながめた。この途中の感じが浄瑠璃寺へついてからもわたくしの心に妙にはたらいていた。  しかし浄瑠璃寺へすぐついたわけではない。道はまだ大変だった。山を出て里へ出たり、それらしいと思う山をいつか通り過ぎてまた山の間にはいったり、やがてまた旧家らしい家のあるきれいな村へ出たり、しかも雨あがりの道はひどいでこぼこで、俥に乗っているのもらくではなかった。畑と山との美しい色の取り合わせを俥の上で賞めていたわたくしたちも、とうとう我慢がしきれなくなって、Z夫人のほかは皆その狭い田舎道に下り立った。そうして若葉の美しい櫟林のなかや穂を出しかけた麦畑の間を、汗をふきふき歩いて行った。寺の麓の村まで来ると、Z夫人も例外ではいられなくなって、小石のゴロゴロしたあぶなっかしい急な坂を、──それもどうかすると百姓家の勝手口へ迷い込んで行きそうな怪しい小道だったが、──歩かねばならなかった。本道の方は崖が崩れてとても通れまいということだったのである。しかし意気込んでかかったわりには急な坂は短く、すぐに峰づたいの坦々たる道へ出た。それで安心して歩いていると、この道がまたなかなか尽きそうもなくなった。赤松の矮林の間には相変わらずつつじが咲いている。道傍に石地蔵の並んだ所もあった。大きい竹藪の間に人家の見える所へも来た。水の音がしきりに聞こえて、いかにも幽邃な趣がある。あれこそ寺だろうと思っていると、それは水車屋だった。山の下からながめた時はるか絶頂の近くに見えた家がどうもこれらしい。もうそんなに高くのぼったかと思う。と同時に、一体どこまで昇ればいいのだろうと思う。やがてべら棒に大きな岩が道傍の崖からハミ出ている所をダラダラとのぼって行くと、急に前が開けて、水田にもなるらしい麦畑のある平地へ出た。村がある、森がある、小山がある。こんな山の上にあるだろうとは思いがけない、いかにも長閑な農村の光景である。浄瑠璃寺はこの村の一隅に、この村の寺らしく納まっていた。これも予想外だった。しかし何とも言えぬ平和ないい心持ちだった。こんなふうで、もう奈良坂まで帰っていていい時刻に、やっと浄瑠璃寺へついたのである。  さてこの山村の麦畑の間に立って、寺の小さい門や白い壁やその上からのぞいている松の木などの野趣に充ちた風情をながめた時に、わたくしはそれを前にも見たというような気持ちに襲われた。門をはいって最初に目についたのは、本堂と塔との間にある寂しい池の、水の色と葦の若芽の色とであったが、その奇妙に澄んだ、濃い、冷たい色の調子も、(それが今初めて気づいた珍しいものであったにもかかわらず)初めてだという気はしなかった。背後に山を負うていかにもしっくりとこの庭にハマっている優美な形の本堂も、──また庭の隅の小高いところに朽ちかかったような色をして立っている小さい三重の塔も、わたくしには初めてではなかった。わたくしは堂の前の白い砂の上を歩きながら、この漠然たる心持ちから脱することができなかったのである。  この心持ちは一体何であろうか。浅い山ではあるが、とにかく山の上に、下界と切り離されたようになって、一つの長閑な村がある。そこに自然と抱き合って、優しい小さな塔とお堂とがある。心を潤すような愛らしさが、すべての物の上に一面に漂っている。それは近代人の心にはあまりに淡きに過ぎ平凡に過ぎる光景ではあるが、しかしわれわれの心が和らぎと休息とを求めている時には、秘めやかな魅力をもってわれわれの心の底のある者を動かすのである。古人の抱いた桃源の夢想──それが浄土の幻想と結びついて、この山上の地を択ばせ、この池のほとりのお堂を建てさせたのかも知れないと思われるが、──それをわれわれは自分たちと全然縁のない昔の逸民の空想だと思っていた。しかるにその夢想を表現した山村の寺に面接して見ると、われわれはなおその夢想に共鳴するある者を持っていたのである。それはわたくしには驚きであった。しかし考えてみると、われわれはみなかつては桃源に住んでいたのである。すなわちわれわれはかつて子供であった! これがあの心持ちの秘密なのではなかろうか。  こんな心持ちに気をとられて、本堂のなかに横に一列に並んでいる九体の仏には十分注意が集まらなかった。Z君に言われて、横に長い須弥壇の前の金具をなるほどおもしろいと思った。仏前に一つずつ置いてある手燭のような格好の木塊に画かれた画もおもしろかった。色の白い地蔵様もいい作だと思った。しかし何よりも周囲と調和した堂の外観がすばらしかった。開いた扉の間から金色の仏の見えるのもよかった。あの優しい新緑の景色の内に大きい九体の仏があるというシチュエーションは、いかにも藤原末期の幻想に似つかわしい。  ──もうよほど昼を過ぎていたので、庫裏にいた妻君の好意で、わたくしたちは、欠け茶碗に色の黒い飯を盛った昼飯を食った。それが、Z夫人には気の毒だったが、今日の旅にはふさわしかった。  こんなわけで、帰りは近道をしたけれども、奈良へ帰ったのはもう四時過ぎであった。そうしてすぐその足で、浄瑠璃寺とはまるきり気分の違った東大寺のなかへ、しかも戒壇院へ馳けつけた時には、あの大きい松の立ち並んでいる幹に斜めの日が射し、厳重な塀に囲まれた堂脇の空地には黄昏を予告する寂しい陰影が漂うていた。  わたくしたちは、小さい花をつけた雑草の上に立って、大きい鍵の響きを聞いた。それがもう気分を緊張させる。戒壇院はそういうところである。堂のなかに歩み入ると、まずそのガランとした陰欝な空間の感じについで、ひどいほこりだという嘆声をつい洩らしたくなる。そこには今までながめて来た自然とは異なり、ただ荒廃した人工が、塵に埋もれた人の心があるのみであった。この壇上で幾百千の僧侶が生涯忘れることのないような厳粛な戒を受けたであろうに。そう思うとこの積もった埃は実に寂しい。しかしその寂しさはあの潤いのある九体寺のさびしさではない。  このガランとした壇上の四隅に埃にまみれて四天王が立っているのである。しかも空前絶後と称せられる貴い四天王が。それを見ると全く妙なアイロニイを感ずる。わたくしはこの種の彫刻をそのあるべき所に置いて見るのが好きであるが、しかしそのあるべき所がこのようにあるまじき状態になっているとすると、どうしたらいいであろう。戒壇の権威はもう地に堕ちている。だからこそわれわれは、布をかぶせてはあるが土足のままで、この壇上を踏みあらすこともできるのである。しかし戒壇の権威は地におちても、この四天王の偉大性は地におちはしない。今となればそれは戒壇よりも重い。このように埃のなかに放置すべきものではない。  四天王はその写実と類型化との手腕において実に優れた傑作である。たとえばあの西北隅に立っている広目天の眉をひそめた顔のごとき、きわめて微細な点まで注意の届いた写実で、しかも白熱した意力の緊張を最も純粋化した形に現わしたものである。その力強い雄大な感じは、力をありたけ表出しようとする力んだ努力からではなく、自然を見つめる静かな目の鋭さと、燻しをかけることを知っている控え目な腕の冴えとから、生まれたものであろう。だからそこには後代の護王神彫刻に見られるような誇張のあとがまるでない。しかし筋肉を怒張させ表情のありたけを外面に現わしたそれらの相好よりも、かすかなニュアンスによって抑揚をつけた静かなこの顔の方が、はるかに力強く意力を現わし、またはるかに明白に類型を造り出している。  この天王の骨相は、明らかに蒙古人のものである。特に日本人として限定することもできるかも知れぬ。わたくしはこの顔を見てすぐに知人の顔を思い出した。目、鼻、頬、特に顴骨の上と耳の下などには、われわれの日常見なれている特殊の肉づきがある。皮膚の感じもそうである。しかしこれがシナ人でないとは断言はできぬ。ただインド人でないことは明らかである。発掘品から推測し得る限りでは、西域人でもないであろう。とすると、この種の写実と類型とは、少なくとも玉関以東で発達したものといわなくてはならない。  四天王の着ている鎧も興味を引いた。皮らしい性質がいかにも巧妙に現わされている。両腕の肩の下のところには豹だか獅子だかの頭がついていて、その開いた口から腕を吐き出した格好になっている。その口には牙や歯が刻んである。それがまたいかにも堅そうな印象を与える。肩から胸当てを釣っている鉸具は、現今使っているものと少しも違わない。胸から腹へかけては、体とピッタリ密着して、体が動くと共にギュウギュウと鳴りそうな感じである。わたくしはこの像が塑像であることをつい忘れてしまいそうであった。  一体この武具はどこの国のものであろうか。下着が筒袖股引の類であるところを見るとインドのものでないことは確かである。またギリシアやローマの鎧も、似寄ったところはあるが、よほど違っている。ペルシアのはかなり近いかも知れぬが、少なくともギリシアと交渉のあった古い時代には、こんな鎧はなかった。とすると、中央アジアかシナかの風に相違ないということになる。中央アジアは革細工の発達しそうなところであるが、しかしそこで用いられた鎧の格好はもっと単純なものであったらしい。そうすればこの武具の様式は結局シナで発達したということにならざるを得ない。  そこで問題が起こる。仏菩薩はインド風あるいはギリシア・ローマ風の装いをしているのに、何ゆえ護王神の類はシナの装いをするか。それに対してわたくしはこう答えたい。ガンダーラの浮き彫り彫刻などで見ると、一つの構図の端の方にはギリシアの神様がいたり、哲学者らしい髯の多い老人がいたりする。于闐の発掘品などにも、于闐の衣服らしいのを着た人物を描き込んだのがある。大乗経典の描いている劇的な説教の場面などを視覚的に表象しようとする場合には、仏菩薩などの姿はハッキリきまっているが、あとの大衆はどうにでも勝手に思い浮かべるほかはなかったために、国々でそれぞれ特有な幻影が生み出された、というわけであろう。従ってシナ風の装いをした四天王や十二神将の類は、特にシナ美術の独創を現わしているかもしれない。  四天王を堂の四隅に安置するやり方も、シナの寺院建築と密接な関係があるであろう。仏教美術がシナで屈折した度はよほど強いものらしい。そうしてその土台となった西域の美術が、すでにインドよりもガンダーラの方をより強く生かしていたと考えられる。日本へ来た仏教美術はもう幾度かの屈折を経たものである。  戒壇院から、三月堂へまわった。  三月堂の外観は以前から奈良で最も好きなものの一つであったが、しかし本尊の不空羂索観音をさほどいいものとは思っていなかった。しかるに今日は、あの美しい堂内に歩み入って静かに本尊を見上げた時、思わずはっとした。全くそこには後光がさしているようであった。以前にうるさいと感じたあの線条的な背光も、今日は薄明のうちに揺曳する神秘の光のように感ぜられ、言い現わし難い微妙な調和をもって本尊を生かしていた。この本尊の全体にまだらに残っているあの金の光と色とは、ありふれた金色と違って特別に美しい豊潤なもののように思われる。それにはあの堂の内部の、特にあの精巧な天井の、比類なき美しい古びかたが、非常に引き立てるようにはたらいているであろう。が同時に、この堂の内部の美しさは、中央にほのかに輝いている金色なくしては、ととのって来ないのである。つまり両者は、全体として一つの芸術を形造っている。それは色と光と空気と、そうしてその内に馳せめぐるおおらかな線との大きな静かな交響楽なのである。  本尊の姿の釣り合いは、それだけを取って見れば、恐らく美しいとは言えないであろう。腕肩胴などはしっかりできていると思うが、腰から下の具合がおもしろくない。しかしあの数の多い腕と、火焔をはさんだ背光の放射的な線と、静かに迂曲する天衣と、そうして宝石の塊りのような宝冠と、──それらのすべては堂全体の調和のうちに、奇妙によく生きている。前にこの美しさがわからなかったのは豊かなものの全体を見ないで、ただ局部にのみ目をとめたためかと思われる。推古の美術は多くを切り捨てる簡素化の極致に達したものであるが、天平の美術はすべてを生かせることをねらって部分的な玉石混淆を恐れないのである。  わたくしは心から不空羂索観音と三月堂とに頭を下げた。そうして不空羂索観音の渇仰者であるZ君に冑をぬいだ。しかし美しいのはただ本尊のみではない。周囲の諸像も皆それぞれに美しい。脇立ちの梵天・帝釈の小さい塑像(日光、月光ともいわれる)が傑作であることには、恐らく誰も反対しまい。その他の諸像には相当に異見があり、特に四天王に至ってはZ君はほとんど一顧の価値をも認めまいとしたが、しかしわたくしはこの比較的に簡素な四天王にも推服する。特に向かって左後ろのがよい。もちろん戒壇院の四天王ほどにすぐれた作でなく、やや硬い感じを与えるが、しかしいかにも明快率直で、この堂内に置かれてもはずかしくないと思う。  これらのことについてはホテルへ帰ってからだいぶ論じ合った。今日はいろいろ予想外のことがあったためか皆元気が好かった。食堂で隣りの卓子に商人らしい四人づれの西洋人がいて、三分間に一度ぐらいのわりで無慮数十回の乾杯をやっていたが、われわれもそのこころもちに同感のできるほど興奮していた。Z君は、三月堂の他の諸像をほとんど眼中に置かず*、ただ不空羂索観音と梵天(月光)とを、特に不空羂索観音を、天平随一の名作だと主張した。それにはわたくしもなかなか同意はできなかった。天平随一の名作を選ぶということであれば、わたくしはむしろ聖林寺の十一面観音を取るのである。 * 三月堂の壇上に置かれた諸像のうちでは、塑像の日光・月光菩薩像、吉祥天像などが彫刻として特にすぐれている。しかしこれらは本来この堂に属したものではあるまい。壇の背後の廚子中に秘蔵された執金剛神も同じく塑像で、なかなかすぐれた作である。本文では彫刻と建築との釣り合いを主として問題としたため、これらの彫刻にあまり注意を向けていないが、単に彫刻として堂から引きはなして考えるならば、これらの彫刻が最も重んぜらるべきであろう。  室へ帰ってから興奮のあとのわびしさが来た。何かの話のついでに、生涯の仕事についてT君と話したが、自分の仕事をいよいよ大っぴらに始めるまで、根を深くおろして行くことにのみ気をくばっているT君の落ちついた心持ちがうらやましかった。根なし草のようにフラフラしている自分は、何とか考えなおさなくてはならない。ゲエテのように天分の豊かな人でさえ、イタリアの旅へ出た時に、自分がある一つの仕事に必要なだけ十分の時間をかけなかったことを、またその仕事に必要な手業を十分稽古しなかったことを、悔い嘆いている。落ちついて地道にコツコツとヤリ直しをするほかはない。 (五月二十日) 七 疲労──奈良博物館──聖林寺十一面観音  一日の間に数知れぬ芸術品を見て回って、夕方には口をきくのが億劫なような心持ちで帰ってくる。しばらくは柔らかい椅子に身を埋めてぼんやりしている。やがて少し体が休まると、手を洗って、カラアをつけ変えて、柔らかい絨氈の上を伝って、食堂に出て行く。Z夫人はいつのまにかきれいに身仕度をして、活き活きと輝いた顔を見せる。できるだけ腹を空かせている上に、かなりうまい料理なので、いいこころもちになってたらふく食う。元気よくおしゃべりを始める。今日見た芸術品について論じ合い、受けて来たばかりの印象を消化して行くのは、この時である。が、食堂を出る時分には、腹が張った上に、工合よく疲れも出て、ひどくだるい気持ちになる。喫煙室などへ行っても、西洋の女のはしゃいでいるのをぼんやりながめているくらいなものである。  さてそれから室へ帰って風呂にはいると、その日の印象を書きとめておくというような仕事が、全く億劫になってしまう。印象は新鮮なうちに捕えておくに限るのであるが、それがなかなか実行し難い。手帖の覚え書きはだんだん簡単になって行く。  博物館を午前中に見てしまおうなどというのは無理な話である。一度にはせいぜい二体か三体ぐらい、それも静かに落ちついた心持ちで、胸の奥に沁み込むまでながめたい。  N君はそれをやっているらしい。入り口でパッタリ逢った時に、N君はもう見おえて帰るところだった。「このごろは大抵毎朝ここへ来ますよ、気分さえよければ」と彼は言った。朝の早いN君のことだから、まだ露の乾かない公園のなかを歩きまわった揚句、戸が開くと同時に博物館のなかへはいって、少し汗ばんだ体にあの天井の高い室の冷やりとした空気を感じながら、幾時間でもじいっと仏像の前にたたずんでいるのであろう。そういう気ままな生活をもう一月もつづけているN君に対して、あわただしい旅にあるわたくしは何となき一種の面憎さを感ぜずにはいられなかった。  N君に別れて玄関の石段をのぼり切ると、正面の陳列壇のガラス戸があけてあって、壇上の聖林寺十一面観音の側に洋服を着た若い男が立っていた。下にいる館員に向かって「肉体美」を説明しているのである。ガラス戸のあいているのはありがたかったが、この若者はどうも邪魔になってならなかった。やがてその男は得意そうに体をゆすぶりながら、ヒラリと床へ飛び下りてくれたが、すぐ側でまた館員に「乳のあたりの肉体美」を説き始めた。N君が渋面をつくって出て行ったわけがこれでわかった。  しかしわたくしたちはガラス戸のあいている機会を逃さないために、やはりこのそばを立ち去ることができなかった。それほどガラスの凹凸や面の反射が邪魔になるのである。  それにつけても博物館の陳列の方法は何とか改善してほしい。経費などの都合もあることで当事者ばかりの罪でもあるまいが、今のままでは看者に与える印象などはほとんど顧慮せられていない。N君のような落ちついた見方をしていれば、ある程度までその困難に打ち克つこともできるであろうが、しかし誰もがそういう余裕を持つわけには行かない。せめて一つ一つの仏像が、お互いに邪魔をし合わないで独立した印象を我々に与えるように、もう少し陳列の順序と方法とを考えれば、短時間に見て行こうとする者にも、もう少しまとまった、強い印象を与え得るかと思う。理想的に言えば、美術館のような公共の享楽を目ざすものは、うんと贅沢にしていいのである。私人の贅沢とはわけが違う。あの入り口正面の陳列壇などには、そのために特に一室を設けてもいいような傑作が、いくつも雑然と列べられている*。そのためにどれほど見物が損をしているかわからない。当事者にわかりいい言葉でいうと、「こういうことは日本の恥である。こういうことがあるから西洋人が日本人を尊敬しないのである。」  国宝という言葉をもっと生かしてもらいたい。日本の古美術に対しては、われわれは日本民族の一員として、当然鑑賞の権利を持つ。この鑑賞のために相当の設備をしないのは、国宝の意義を没すると言っていい。 * これは大正八年ごろのことで、そのころには入り口正面に向かって聖林寺の十一面観音、それと背中合わせに法隆寺の百済観音などが立っていた。聖林寺の観音はその後数年を経て寺へ帰った。桜井から多武の峯への路を十数町行ってちょっと右へはいったところである。百済観音もまた近年は法隆寺へ帰って、宝物殿の王様になっている。  だが、聖林寺の十一面観音は偉大な作だと思う。肩のあたりは少し気になるが、全体の印象を傷つけるほどではない。これを三月堂のような建築のなかに安置して周囲の美しさに釣り合わせたならば、あのいきいきとした豊麗さは一層輝いて見えるであろう。  仏教の経典が仏菩薩の形像を丹念に描写していることは、人の知る通りである。何人も阿弥陀経を指して教義の書とは呼び得ないであろう。これはまず第一に浄土における諸仏の幻像の描写である。また何人も法華経を指してそれが幻像の書でないとは言い得まい。それはまず第一に仏を主人公とする大きい戯曲的な詩である。観無量寿経のごときは、特に詳細にこれらの幻像を描いている。仏徒はそれに基づいてみずからの眼をもってそれらの幻像を見るべく努力した。観仏はかれらの内生の重大な要素であった。「仏像」がいかに刺戟の多い、生きた役目をつとめたかは、そこから容易に理解せられるであろう。そういう心的背景のなかからわれわれの観音は生まれ出たのである。何人が作者であるかはわからないが、しかし何人にもあれ、とにかく彼は、明らかな幻像をみずからの眼によって見た人であろう。  観世音菩薩は衆生をその困難から救う絶大の力と慈悲とを持っている。彼に救われるためには、ただ彼を念ずればいい。彼は境に応じて、時には仏身を現じ、時には梵天の身を現ずる。また時には人身をも現じ、時には獣身をさえも現ずる。そうして衆生を度脱し、衆生に無畏を施す。──かくのごとき菩薩はいかなる形貌を供えていなくてはならないか。まず第一にそれは人間離れのした、超人的な威厳を持っていなくてはならぬ。と同時に、最も人間らしい優しさや美しさを持っていなくてはならぬ。それは根本においては人でない。しかし人体をかりて現われることによって、人体を神的な清浄と美とに高めるのである。儀規は左手に澡瓶を把ることや頭上の諸面が菩薩面・瞋面・大笑面等であることなどを定めているが、しかしそれは幻像の重大な部分ではない。頭上の面はただ宝冠のごとく見えさえすればいい。左手の瓶もただ姿勢の変化のために役立てば結構である。重大なのはやはり超人らしさと人間らしさとの結合であって、そこに作者の幻想の飛翔し得る余地があるのである。  かくてわが十一面観音は、幾多の経典や幾多の仏像によって培われて来た、永い、深い、そうしてまた自由な、構想力の活動の結晶なのである。そこにはインドの限りなくほしいままな神話の痕跡も認められる。半裸の人体に清浄や美を看取することは、もと極東の民族の気質にはなかったであろう。またそこには抽象的な空想のなかへ写実の美を注ぎ込んだガンダーラ人の心も認められる。あのような肉づけの微妙さと確かさ、あのような衣のひだの真に迫った美しさ、それは極東の美術の伝統にはなかった。また沙海のほとりに住んで雪山の彼方に地上の楽園を望んだ中央アジアの民の、烈しい憧憬の心も認められる。写実であって、しかも人間以上のものを現わす強い理想芸術の香気は、怪物のごとき沙漠の脅迫と離して考えることができぬ。さらにまた、極東における文化の絶頂、諸文化融合の鎔炉、あらゆるものを豊満のうちに生かし切ろうとした大唐の気分は、全身を濃い雰囲気のごとくに包んでいる。それは異国情調を単に異国情調に終わらしめない。憧憬を単に憧憬に終わらしめない。人の心を奥底から掘り返し、人の体を中核にまで突き入り、そこにつかまれた人間の存在の神秘を、一挙にして一つの形像に結晶せしめようとしたのである。  このような偉大な芸術の作家が日本人であったかどうかは記録されてはいない。しかし唐の融合文化のうちに生まれた人も、養われた人も、黄海を越えてわが風光明媚な内海にはいって来た時に、何らか心情の変移するのを感じないであろうか。漠々たる黄土の大陸と十六の少女のように可憐な大和の山水と、その相違は何らか気分の転換を惹起しないであろうか。そこに変化を認めるならば、作家の心眼に映ずる幻像にもそこばくの変化を認めずばなるまい。たとえば顔面の表情が、大陸らしいボーッとしたところを失って、こまやかに、幾分鋭くなっているごときは、その証拠と見るわけに行かないだろうか。われわれは聖林寺十一面観音の前に立つとき、この像がわれわれの国土にあって幻視せられたものであることを直接に感ずる。その幻視は作者の気禀と離し難いが、われわれはその気禀にもある秘めやかな親しみを感じないではいられない。その感じを細部にわたって説明することは容易でないが、とにかく唐の遺物に対して感ずる少しばかりの他人らしさは、この像の前では全然感じないのである。  きれの長い、半ば閉じた眼、厚ぼったい瞼、ふくよかな唇、鋭くない鼻、──すべてわれわれが見慣れた形相の理想化であって、異国人らしいあともなければ、また超人を現わす特殊な相好があるわけでもない。しかもそこには神々しい威厳と、人間のものならぬ美しさとが現わされている。薄く開かれた瞼の間からのぞくのは、人の心と運命とを見とおす観自在の眼である。豊かに結ばれた唇には、刀刃の堅きを段々に壊り、風濤洪水の暴力を和やかに鎮むる無限の力強さがある。円く肉づいた頬は、肉感性の幸福を暗示するどころか、人間の淫欲を抑滅し尽くそうとするほどに気高い。これらの相好が黒漆の地に浮かんだほのかな金色に輝いているところを見ると、われわれは否応なしに感じさせられる、確かにこれは観音の顔であって、人の顔ではない。  この顔をうけて立つ豊かな肉体も、観音らしい気高さを欠かない。それはあらわな肌が黒と金に輝いているためばかりではない。肉づけは豊満でありながら、肥満の感じを与えない。四肢のしなやかさは柔らかい衣の皺にも腕や手の円さにも十分現わされていながら、しかもその底に強剛な意力のひらめきを持っている。ことにこの重々しかるべき五体は、重力の法則を超越するかのようにいかにも軽やかな、浮現せるごとき趣を見せている。これらのことがすべて気高さの印象の素因なのである。  かすかな大気の流れが観音の前面にやや下方から突き当たって、ゆるやかに後ろの方へと流れて行く、──その心持ちは体にまといついた衣の皺の流れ工合で明らかに現わされている。それは観音の出現が虚空での出来事であり、また運動と離し難いものであるために、定石として試みられる手法であろうが、しかしそれがこの像ほどに成功していれば、体全体に地上のものならぬ貴さを加えるように思われる。  肩より胸、あるいは腰のあたりをめぐって、腕から足に垂れる天衣の工合も、体を取り巻く曲線装飾として、あるいは肩や腕の触覚を暗示する微妙な補助手段として、きわめて成功したものである。左右の腕の位置の変化は、天衣の左右整斉とからみあって、体全体に、流るるごとく自由な、そうして均勢を失わない、快いリズムをあたえている。  横からながめるとさらに新しい驚きがわれわれに迫ってくる。肩から胴へ、腰から脚へと流れ下る肉づけの確かさ、力強さ。またその釣り合いの微妙な美しさ。これこそ真に写実の何であるかを知っている巨腕の製作である。われわれは観音像に接するときその写実的成功のいかんを最初に問題としはしない。にもかかわらずそこに浅薄な写実やあらわな不自然が認められると、その像の神々しさも美しさもことごとく崩れ去るように感ずる。だからこの種の像にとっては写実的透徹は必須の条件なのである。そのことをこの像ははっきりと示している。  しかしこの偉大な作品も五十年ほど前には路傍にころがしてあったという。これは人から伝え聞いた話で、どれほど確実であるかはわからないが、もとこの像は三輪山の神宮寺の本尊であって、明治維新の神仏分離の際に、古神道の権威におされて、路傍に放棄せられるという悲運に逢った。この放逐せられた偶像を自分の手に引き取ろうとする篤志家は、その界隈にはなかった。そこで幾日も幾日も、この気高い観音は、埃にまみれて雑草のなかに横たわっていた。ある日偶然に、聖林寺という小さい真宗寺の住職がそこを通りかかって、これはもったいない、誰も拾い手がないのなら拙僧がお守をいたそう、と言って自分の寺へ運んで行った、というのである。 八 数多き観音像、観音崇拝──写実──百済観音  推古天平室に佇立したわたくしは、今さら、観音像の多いのに驚いた。  聖林寺観音の左右には大安寺の不空羂索観音や楊柳観音が立っている。それと背中合わせにわが百済観音が、縹渺たる雰囲気を漂わしてたたずむ。これは虚空蔵と呼ぶのが正しいのかも知れぬが、伝に従ってわれわれは観音として感ずる。その右に立っている法輪寺虚空蔵は、百済観音と同じく左手に澡瓶を把り、右の肱を曲げ、掌を上に向けて開いている。これも観音の範疇に入りそうである。さらに百済観音の左には、薬師寺(?)の、破損はひどいが稀有に美しい木彫の観音があって、ヴィナスの艶美にも似た印象をわれわれに与える。その後方には法隆寺の小さい観音が立っている。  目を転じて室の西南隅に向かうと、そこには大安寺の、錫杖を持った女らしい観音や一輪の蓮花を携えた男らしい観音などが、ズラリと並んでいる。さらに目を転じて室の北壁に向かうと、そこにも唐招提寺などの木彫の観音が、あたかも整列せしめられたごとくに、並び立っている。室の中央には法隆寺の小さい金銅観音が、奇妙な微笑を口元に浮かべつつ、台上のところどころにたたずんでいる。岡寺の観音は半跏の膝に肱をついて、夢みるごとき、和やかな瞑想にふける。それが弥勒であるとしても、われわれの受ける印象は依然として観音である。  十大弟子、天竜八部衆、二組の四天王、帝釈・梵天、維摩、などを除いて、目ぼしいものはみな観音である。これは観音像がわりに動かしやすいために、自然に集まってきたというわけかも知れない。しかし考えてみると、三月堂の不空羂索観音、聖林寺の十一面観音、薬師寺東院堂の聖観音、中宮寺観音、夢殿観音など、推古天平の最も偉大な作品は、同じくみな観音である。他に薬師如来の傑作もあるが、観音の隆盛にはかなわない。だから推古天平室に観音の多いことは、直ちに推古天平時代の観音崇拝の勢力を暗示するとみてよいであろう。  観音崇拝の流行は上代人心の動向を知るに最も都合のいいものである。聖母崇拝と似たところがないでもない。また阿弥陀崇拝や浄土の信仰に転向してゆく契機がすでにこの内に含まれているとも見られる。能動的な自己表現の道が和歌や漢詩のほかになかった時代のことだから、偶像礼拝に現われた自己表現は──すなわち受用の形において示された制作活動は──十分重視して観察しなくてはならない。推古、白鳳、天平と観音の様式や気分が著しく変化して行ったことも、ただ外来の影響とのみ見ず、新しいものの魅力に引きずられて行く礼拝者の新しい満足という方面からも解釈してみなくてはならない。  観音の様式の変化でまず著しいのは、聖林寺観音と百済観音との間に示されているものである。  わたくしは聖林寺観音の写実的根拠のことを言った。写実はあらゆる造形美術の地盤として動かし難いと思う。しかしこの写実は、写真によって代表せられるような平板なものではない。それは作者の性格を透過し来たることによってあらゆる種類の変化を示現し得るような、自由な、「芸術家の眼の作用」を指すのである。  芸術家は本能的に物を写したがる。がまた本能的にその好むところを強調する自由を持っている。この抑揚のつけ方によって、個性的な作品も生まれれば、また類型的な作品も生まれる。時代の趨勢によっていずれか一方の作家が栄えるということはあるが、いずれの道によるも要するに芸術は個によって全を現わそうとする努力である。  われわれの観音の時代は、製作家がただ類型を造り出すのに骨を折る時代であった。しかしその仕事においても、抑揚のつけ方は自由であった。このことを拡大して見せているのが聖林寺観音と百済観音との対照である。  百済観音は写実的根拠を有する点において聖林寺観音に劣らない。あの肩から腕へ、胸から胴への清らかな肉づけや、下肢に添うて柔らかに垂れている絹布のひだなどには、現実を鋭く見つめる眼のまがいなき証拠が現われている。しかしこの作家の強調するところは聖林寺観音の作家の強調するところと、ほとんど全く違っているのである。この相違のうしろには、民族と文化とのさまざまな転変や、それに伴う作家の変動などが見られるかもしれない。  百済観音は朝鮮を経て日本に渡来した様式の著しい一例である。源は六朝時代のシナであって、さらにさかのぼれば西域よりガンダーラに達する。上体がほとんど裸体のように見えるところから推すと、あるいは中インドまで達するかも知れない。しかるにこのガンダーラもしくはインド直系であるはずの百済観音は、ガンダーラ仏あるいはインド仏に似るよりも、むしろはるかに多く漢代の石刻画を思わせる。全体の気分も西域的ではない。すなわちガンダーラやインドの美術はシナにはいってまず漢化せられたのである。もっとも漢化せられずに西域そのままの様式を持続していたもののあることは大同の石仏などの示している通りであるが、しかし百済観音が代表しているのは漢化せられた様式だけである。そうしてこの様式こそシナにおける創作と言い得るものであろう。シナの美術が全面的にギリシア美術の精神を生かしてきたのは、ガンダーラが廃滅に帰した後、恐らく二世紀以上もたってから、玄弉が中インドのグプタ朝の文化を大仕掛けに輸入した後のことらしい。かく漢化の時代が先に立ち、諸文化融合の時代があとに来たために、様式の変化は歴史の進程と逆になっているが、そこにはまた六朝から唐へかけてのシナ文化の推移が語られているように思う。  百済観音をこの推移の標本とするのは、少し無理である。竜門の浮き彫りなどに現われた直線的な衣の手法は、夢殿観音には似ているが百済観音には似ていない。しかしここで問題としたいのは、あの直線的な手法の担っている様式的な意義なのである。百済観音は確かにこの鋼の線条のような直線と、鋼の薄板を彎曲させたような、硬く鋭い曲線とによって貫かれている。そこには簡素と明晰とがある。同時に縹渺とした含蓄がある。大ざっぱでありながら、微細な感覚を欠いているわけでもない。形の整合をひどく気にしながらも、形そのものの美を目ざすというよりは、形によって暗示せられる何か抽象的なものを目ざしている。従って「観音」という主題も、肉体の美しさを通して表現せられるのではなく肉体の姿によって暗示せられる何か神秘的なものをとおして表現せられるのである。垂れ下がる衣のひだの、永遠を思わせる静けさのために、下肢の肉づけを度外しているごときは、その一例と見ることができよう。従ってこの作家は、肉体の感覚的な性質の内へ食い入って、そこから神秘的な美しさを取り出すというよりも、表面に漂う意味ありげな形を捕えて、その形をあくまでも追究して行こうとするのである。そこに漢の様式の特質も現われている。  しかしこの像の美しさは、それだけでは明らかにならない。右のような漢の様式の特質を中から動かして仏教美術の創作に趣かせたものは、漢人固有の情熱でも思想でもなかった。外蛮の盛んな侵入によって、血も情意も烈しい混乱に陥っていた当時の漢人は、和らぎと優しみとに対する心からの憧憬の上に、さらにかつて知らなかった新しい心情のひらめきを感じはじめていた。それは地の下からおもむろに萌え出て来る春の予感に似かよったものであった。かくしてインドや西域の文化は、ようやく漢人に咀嚼せられ始めたのである。異国情調を慕う心もそれに伴って起こった。無限の慈悲をもって衆生を抱擁する異国の神は、ついにひそやかに彼らの胸の奥に忍び込んだのであった。  抽象的な「天」が、具象的な「仏」に変化する。その驚異をわれわれは百済観音から感受するのである。人体の美しさ、慈悲の心の貴さ、──それを嬰児のごとく新鮮な感動によって迎えた過渡期の人々は、人の姿における超人的存在の表現をようやく理解し得るに至った。神秘的なものをかくおのれに近いものとして感ずることは、──しかもそれを目でもって見得るということは、──彼らにとって、世界の光景が一変するほどの出来事であった。彼らは新しい目で人体をながめ、新しい心で人情を感じた。そこに測り難い深さが見いだされた。そこに浄土の象徴があった。そうしてその感動の結晶として、漢の様式をもってする仏像が作り出されたのである。  わたくしは百済観音がシナ人の作だというのではない。百済観音を形成している様式の意義を考えているのである。シナではそれはいくつかの様式のうちの一つであった。しかし日本へくるとこの様式がほとんど決定的な力を持っている。それほど日本人はこの様式の背後にある体験に共鳴したのである。  百済観音の奇妙に神秘的な清浄な感じは、右のごとき素朴な感激を物語っている。あの円い清らかな腕や、楚々として濁りのない滑らかな胸の美しさは、人体の美に慣れた心の所産ではなく、初めて人体に底知れぬ美しさを見いだした驚きの心の所産である。あのかすかに微笑を帯びた、なつかしく優しい、けれども憧憬の結晶のようにほのかな、どことなく気味悪さをさえ伴った顔の表情は、慈悲ということのほかに何事も考えられなくなったういういしい心の、病理的と言っていいほどに烈しい偏執を度外しては考えられない。このことは特に横からながめた時に強く感ぜられる。面長な柔らかい横顔にも、薄い体の奇妙なうねり方にも。  ──六朝時代の技巧を考慮せず、ただ製作家の心理を忖度してこの観音の印象を裏づけようとするごときは、無謀な試みに相違ない。しかし百済観音の持っている感じはこうでもしなくてはいい現わせない。あの深淵のように凝止している生の美しさが、ただ技巧の拙なるによって生じたとは、わたくしには考えられぬ。 九 天平の彫刻家──良弁──問答師──大安寺の作家──唐招提寺の作家、法隆寺の作家──日本霊異記──法隆寺天蓋の鳳凰と天人──維摩像、銅板押出仏  天平彫刻の作家は大抵不明であるが、しかし大きい寺には必ず優れた彫刻家、あるいは彫刻家の群れがいたらしい。それは僧侶であったかも知れぬ。三月堂の良弁が彫刻家としても優れていたという伝説などは、一概に斥けてしまうわけには行かないであろう。良弁堂の良弁像が良弁の自作であるという伝えは、この像が貞観時代の作と見られる限り、信をおきがたいものであるが、しかしそれは良弁が彫刻家でもあったことを否定すべき理由とはならない。三月堂の建築と言い、堂内の彫刻と言い、良弁に関係のあるものがすべて第一流の傑作であることは、少なくとも良弁が非常によく芸術を解する人であり、また非常に優れた芸術家を配下に持っていた、ということの証拠である。もしあの良弁像が自作であるならば、良弁は第一流の彫刻家であるが、もし彼の配下の彫刻家もしくはその弟子があれを刻んだとすれば、彼は天下随一の彫刻家を養成したわけである。実際良弁像に現われたような優れた写実の腕前は、天平時代にも貞観時代にも珍しい。あれの造れる人なら確かに三月堂や聖林寺の観音も造れたろうという気がする。東大寺の一派が天平芸術の中核をなしているのは、確かに天才が良弁の近くにいたために相違ない。大仏鋳造のごときもこれと離して見ることはできない。聖武帝をこの決意に導いたのが良弁だという『元亨釈書』等の説も、恐らく真実であろう。ただあの巨大な堂塔と巨大な金銅仏とを最初に幻想したのが良弁であったかあるいは他の天才であったかは知ることができぬ。  薬師寺の銅像や法隆寺の壁画ができてから三月堂の建造に至るまでには、少なくとも二十年余りの歳月がたっている。それから大仏の鋳造が計画せられるまでには、また十年の間がある。開眼供養はなおその十年後である。もしある天才芸術家の在世を考えるならば、この歳月によって年齢の関係をも顧みなくてはならぬ。一人の天才の存否は時代の趨勢よりも重い。天平後期の芸術に著しい変化が認められるのは、外来の影響のみならず、この種の芸術家が死んだということにもよるであろう。  作家の名や生活がわからないにしても、作品に個性が認められることは事実である。三月堂の諸作や聖林寺観音などを一群として、これを興福寺の十大弟子や天竜八部衆に比べて見る。あるいは大安寺の木彫諸作を、唐招提寺の木彫に比べて見る。あるいはもっと詳しく、たとえば大安寺の楊柳観音・四天王の類を同じ寺の十一面観音などと比べて見る。そこにあるのは単に技巧上の区別ではない。明らかに作家の個性の相違である。  興福寺の諸作は健陀羅国人問答師の作と伝えられている。その真偽はとにかくとして、あの十大弟子や八部衆が同一人の手になったことは疑うべくもない。その作家は恐らく非常な才人であった。そうして技巧の達人であった。けれどもその巧妙な写実の手腕は、不幸にも深さを伴っていなかった。従ってその作品はうまいけれども小さい。  この作家の長所は、幽玄な幻像を結晶させることにではなく、むしろ写実の警抜さに、あるいは写実をつきぬけて鮮やかな類型を造り出しているところに、認められなくてはならぬ。釈迦の弟子とか竜王とかということを離れて、ただ単に僧侶あるいは武人の風俗描写として見るならば、これらの諸作は得難い逸品である。ことに面相の自由自在な造り方、──ある表情もしくは特徴を鋭く捕えて、しかも誇張に流れない、巧妙な技巧と微妙な手練、──それは確かに人を驚嘆せしめる。竜王の顔において特にこの感が深い。  ここに看取せられるのは現実主義的な作者の気禀である。それによって判ずれば、この作者がシナにおいて技を練ったガンダーラ人であるということは必ずしもあり得ぬことではない。しかしわれわれの見聞した限りでは、この作に酷似する作品はシナにも西域にも見いだされない。またあの器用さ、鋭さ、愛らしさ、──それは茫漠たる大陸の気分を思わせるよりも、むしろ芸術的にまとまった島国の自然を思わせる。従ってこの作者が我が国の生み出した特異な芸術家であったということも、許されぬ想像ではない。興味をこの想像に向ければ、「問答師」なる一つの名は愛すべく珍重すべき謎となるであろう。  大安寺の諸作は右の諸作ほど特異な才能を印象しはしない。もっとふっくりした所もあり、また正面から大問題にぶつかって行く大きい態度も認められる。しかし写実がやや表面に流れているという非難は避けることができない。あの楊柳観音の横の姿などは、いかにもよく安定した美しい調和、どっしりとした力強さを印象するが、しかし何となく余韻に乏しい。その円い腕なども、微妙な感覚を欠いている。四天王にしても、これという欠点はなく、面相などは非常にいいが、しかし全体の感じにどこか物足りない、平凡なところがある。  道慈が大安寺を建てたのは三月堂よりも前であった。しかしこれらの木彫がそのときにできたかどうかはわからない。感じから言えばもっと新しい。材料を木に取って、乾漆では出すことのできないキッパリした感じを出そうとしているのが、その新しい証拠である。写実の技巧が一歩進んでいることも認めなくてはなるまい。それらの点から考えると、三月堂派の傑作に対抗してそれ以上に出ようとする心持ちが、これらの作家になかったとは言い切れない。しかし不幸にもその熱心は外面にとどまった。彼らの見た幻像は三月堂派の作家のそれよりははるかに朧ろであった。従って、形がますます整って行くと反対に、彫像の印象はますます新鮮さを失った。  大安寺の女らしい十一面観音は、恐らくこれらの作家に学んで、さらにその道を押し進めた作家の作であろう。頭部は後代の拙い補いだから論外として、その肢体はかなり写実的な女の体にできている。胸部と腰部とにおいてことに著しい。そこには肉体に対する注意がようやく独立して現われて来たことを思わせるものがある。観音らしい威厳はないが、ヴィナス風の美しさは認められる。この像から頭部と手とをきり離して、ただ一つの女体の像として見るならば、大安寺の他の諸像よりははるかに強い魅力を感ぜしめるであろう。  唐招提寺の破損した木彫は、右の十一面観音と非常によく似た手法のものであるが、しかし感じはもっと大まかなように思う。唐から来た鑑真が唐招提寺に一つの中心を造ったのは、大仏の開眼供養よりは六七年も後のことで、ここに天平時代の後期が始まるのであるが、同じく玄宗時代の流風を伝えたにしても、三四十年前の道慈の時とは、かなり違って現われるのが当然である。不幸にして新来の彫刻家は、気宇の大なるわりに技巧が拙かった。大自在王といい釈迦といい、豊かではあっても力が足りない。ことに釈迦は、大腿が著しく太く衣が肌に密着している新しい様式のものであるが、どうも弛緩した感じを伴っているように思われる。しかしそういう点にまた作家の個性が現われているのかも知れない。  このほかに法隆寺なども、有力な一派をなしていたに相違ない。この室には塑像の四天王や梵天帝釈や、五重塔内の塑像などが出ているが、少なくともこの塑像と四天王とには共通の気分が認められる。おっとりとした、山気のない、自ら楽しんで作るといったふうの、非常に気持ちのいい芸風である。女と童女との塑像で見ても明らかなように、写実としては確かな腕が現われていながら、強い幻想の空気に全体を包まれている。多聞天や広目天もこの意味でかなり優れた作だと思う。わたくし一己の好悪によっていうと、興福寺の竜王よりはこの天王の方がすぐれている。  奇妙なことかも知れぬが、腕のとれた彫刻などでも、あまりに近くへよると、不思議な生気を感じて、思わずたじたじとすることがある。ただ記憶に残っている像でも、生きている人と同様に妙な親しみやなつかしみを感じさせる。それから考えると、昔の人が仏像を幻視したということは少しも不思議ではない。また観音像に恋した比丘や比丘尼の心持ちも理解できるように思う。『日本霊異記』は書き方の幼稚な書であるが、天平の人のそういう心持ちを表現している点でおもしろい。  法隆寺のものでは、金堂の天蓋から取りおろしてこの室に列べられた鳳凰や天人が特に興味の深いものである。鳳凰は大きい三枚の尾羽をうしろに高くあげて、今飛びおりたばかりの姿勢を保っているが、その尾羽のはがねのように堅そうな、それでいて鳥の羽らしく柔らかそうな感じは、全く独特である。荒っぽくけずられた、体のわりに大きい足は、頭部の半ばを占めている偉大なくちばしと共に、奇妙にのんきな、それでいて力強い、かなり緊張した印象を与える。簡素で、雄勁で、警抜である。百済観音について言ったような直線と直線に近い曲線とが全体を形造っているのではあるが、同時にまた簡単な水墨画に見るような自由なリズムの感じもある。  天人は琵琶を持って静かに蓮台の上にすわっている。素朴な点は鳳凰にゆずらない。また鳳凰と同じく顔と手が特に大きい。その著しく目につく下ぶくれの顔には、無造作に鼻から続けた長い眉、ばかばかしく広い上瞼、それに釣り合うような異常に長い眼、そうして顔全体の印象をそこに集めても行きそうな大きい口、──すべてが部分的に拡大せられている。しかも誇張の感じはほとんどない。いかにも単純で素直で、何のこだわりもなく一種の情緒を──愛らしいしめやかななつかしみを、あふれ出させている。そればかりでない、あの眼と口とは、その大きさのゆえに、一種奇妙な、蠱惑と威厳との相混じたような印象を与える。わたくしはかつてこの像こそ日本人固有の情緒を現わしたものであろうと感じたことがあった。しかし竜門浮き彫りの拓本などを見ると、これに似た感じがそこにもある。従ってこの像は、漢人にも共通であるこの種の情緒を、特に好く生かせたものと見るべきであろう。その意味でこの像はわれわれの祖先のものである。  これらのものを見ると、法隆寺の天蓋の作られた時代や、その時代の法隆寺の作者たちは、実に恐るべきものである。  法隆寺の作品はこのほかになお注意すべきものが少なくない。維摩の塑像のごときは我々を瞠目せしむるに足る小気味のいい傑作で、三月堂の梵天・帝釈(寺伝日光・月光)や広隆寺の釈迦(弥勒?)などと共に、ガンダーラ式手法の発展したものではないかと思う。もっともその発展はシナ人の手によって成し遂げられたのかもしれないが、しかしわれわれはシナの遺品でこれと同じ感じのものを知らない。従ってわれわれはこれらの像の与える感じをシナ風であるとは思わない。むしろ日本人の方が、この写実的精神を受けついだのではないかと考えざるを得ない。思えばこの種の大芸術は民族と文化との混融から来た一時的な花火であった。もしこれを順当に成長させて行く力が、われわれの祖先に宿ってさえいたならば、われわれは自信をもって日本文化の権利を主張し得ただろうにと思う。  法隆寺の銅板押出仏は小さいものではあるが、非常に美しい。特に本尊阿弥陀のほのかに浮き出た柔らかな姿は、法隆寺壁画の阿弥陀を思わせる。これは唐からの輸入品で、壁画となにか関係を持っているかもしれない。 十 伎楽面──仮面の効果──伎楽の演奏──大仏開眼供養の伎楽──舞台──大仏殿前の観衆──舞台上の所作──伎楽の扮装──林邑楽の所作──伎楽の新作、日本化──林邑楽の変遷──秘伝相承の弊──伎楽面とバラモン神話──呉楽、西域楽、仮面の伝統──猿楽、田楽──能狂言と伎楽──伎楽とギリシア劇、ペルシア、インドのギリシア劇──バラモン文化とギリシア風文化──インド劇とギリシア劇──シナ、日本との交渉  天平時代の伎楽面として陳列せられている大きい怪奇な仮面の内には、われわれの不注意を突然驚異の情に転換せしめるような、非常に美しいものがある。  もともとこの仮面は、高揚した芸術創作の欲望から生まれたものではなく、幾分戯画的気分に支配せられた、第二義的な製作欲の所産であろう。しかし人間の感情をある表情の型によって表現する手際には、実に驚くべきものがある。それは第一に、厳密な写実的根拠を持っている。第二に、ある表情の急所を鋭く捕えて、一挙にそれを類型化している。従ってそのねらい所が、深い内部的な、感情にある場合には、恐るべく立派な芸術品になるが、それに反して外面的な滑稽味や、醜い僻や、物欲に即した激情などにある場合には、あまり高い芸術的価値を感ぜしめない。たとえば人の表情の内には猿との類似を思わせるものがある。それを鋭く捕えて一つの型にしたところで、われわれはその巧妙な捕え方に驚くばかりで、芸術的印象をうけはしない。しかし内心から湧き出る悲哀や歓喜の表情がある濃淡をもって一つの明白な型に仕上げてあるのを見ると、われわれは汲めどもつきぬ生の泉に出逢ったような強い喜びを感ずるのである。  仮面の表情は、単に型化せられているばかりでなく、また著しく誇張せられている。しかしそれは、伎楽面製作の本来の動機が、表情を誇大した仮面によって、広い演伎場の多衆の看客に、遠い距離において明白な印象を与えたいという所にあるからであって、必ずしも創造力の薄弱に基づいているのではない。従ってこれらの仮面には誇張に伴うはずの空虚な感じなどはなく、空間的関係の特殊な事情による一種異様な生気さえも現われて来るように思われる。このことは天平の伎楽面を鎌倉時代の地久面、納曾利面の類と比較して見れば明らかである。鎌倉時代の面は創造力の弱さを暴露した作品であって、そこにはただ生命の実感と縁の少ない誇張のみがある。それは重心が末梢神経へ移ったような病的な生活の反映であるといってよい。そこに作者の現わそうとするのは、現実の深い生に触れて得られた Vision ではなく、疲れた心を襲う荒唐な悪夢の影である。そこには人間的なものは現われていない。女の顔を刻んだ面すらも、天平の天狗の面よりはもっと非人間的である。従って芸術としての力ははるかに弱い。  かつてわたくしはH氏のところで、天平伎楽面の傑作の一つを親しく手にとって賞玩したことがある。その頬の肉付けの、おおらかにゆったりとした、しかもこまかい濃淡を逸していない、落ちつきのある快さ。目や鼻や口などの思い切って大胆な、しかし自然の美しさを傷つけない巧妙な刻みかた。皺として彫られた線のゆるやかなうねりと、顔面凹凸の滑らかな曲面の感じとの、快く調和的なリズム。そうしてその弾力のありそうな、生気に充ちた膚肉の感じ。それをながめていると、顔面に漂うている表情から、陶酔にやや心を緩うしているらしい曇りのない快活な情緒が、しみじみ胸にしみ込んで来る。生きた人に間近く接した時感ぜられる、あの、生命の放出して来るような感じが、ここにも確かに存しているように思える。しかも相手が人間ではなくて彫刻であるために、そこに一味の気味わるさが付きまとっている。  そのときH氏が、その仮面をとって自分の顔の上につけた。この所作によって仮面は突然に異様な生気を帯びはじめた。ことに仮面をかぶったH氏が少しくその首を動かしてみたとき、顔面の表情が自由に動き出したかと思われるような、強い効果があった。わたくしは予期しなかったこの印象に圧せられて、思わず驚異の眼をみはった。  仮面を畳の上に横たえ、または手にとって自分の膝の上に置いた時には、それはその本来あるべき所にあるのではない。われわれはこれまで仮面をその作られた目的から放して、それだけで独立したものとして観察するに慣れていたのである。普通人の顔の四倍もありそうなその仮面を、人体と結びつけて想像することは、この驚異の瞬間まではわたくしには不可能であった。しかしさてこの仮面が、仮面としてそのあるべき所に置かれて見ると、そのばかばかしい大きさは少しも大き過ぎはしない。むしろその大きさのゆえに人が仮面をつけたのでなくして、芸術的に造られた一つの顔が人体を獲得した、と言っていいような、近代人の想像をはずれた、おもしろい印象が作り出されるのである。ここではじめてわたくしは、仮面を何ゆえに大きくしたかを了解した。そうして、ギリシアの劇の仮面も同じくらいな大きさであったことを思い出し、この種の仮面の効用と大きさとの間に必然の関係のあることに思い到ったのである。  後代の仮面が天平の伎楽面に比して著しく小さくなっているのは、その用いらるる舞踏や劇に著しい変化のあったことを語るものであろう。  わたくしはこの時の強い印象によって、天平時代に伎楽面を用いた伎楽が、音楽と舞踏とから成る所作事であったに相違ないという考えを抱きはじめた。いま数の多い伎楽面を一々ながめ味わってみると、このさまざまな表情のうしろにそれぞれ所作事における役割を感じ出せるように思う。  伎楽演奏の記事は『続紀』にもところどころに現われている。それによると、諸大寺供養の際のみならず、また宮中の儀式や饗宴の際にも演奏され、時にはその演奏自身を目的とする催しもあったらしい。孝謙女帝が幸二山階寺一奏二林邑及呉楽一などはこの類であろう。しかし『続紀』は単に名を挙げるのみで、内容の記述に及んでいない。伎楽がいかなるものでありいかにして演奏されたかは、他の書によって知るほかはない。そこで問題となるのは、あの仮面を保存していた東大寺の『要録』である。ここではそれに基づいて、できる限りの想像を試みてみよう。  まず舞台である。大仏開眼供養の記事には舞台の記述がまるでないが、貞観三年の「開眼供養記」はかなり具体的にその構造をしるしている。この開眼供養は大仏の頭が地に堕ちたのを修繕した時のことで、最初の開眼供養からすでに百年以上の年月を経たのちである。その間に文化一般の非常な変遷があり、それに伴って音楽の大改革もあった。従ってこの際の記述をもって直ちに天平時代の光景を推測することはできない。しかし幾分の参考にはなるであろう。第一に舞台は戸外に設けられた。すなわち大仏殿前の広場である。これは天平時代にも同様であったらしい。楽人たちが左右に分かれて堂前に立ったという記述からそう推測しても間違いはあるまい。次に舞台は木造の高壇であった。方八丈、周囲に高欄をめぐらし、四面に額をかける。舞台上東西には宝樹八株ずつを植え、その側に礼盤一基ずつを据える。他に玉幡をかける高座二基、高さ三丈三尺の標一基などが、恐らく舞台の近くに設けられたらしい。また別に広さ二丈長さ四丈の小舞台が、大殿中層南面に造られた。これらの構造が天平時代にもあったかどうかは疑わしい。少なくとも開眼供養の時には、踏歌の類はじかに庭の上で演ぜられたのである。東西発声、分レ庭而奏(続紀)とある。伎楽などのために別に舞台が設けられていたかとも思われるが、どうも明らかでない。  舞台の他にはなお幄(天幕)が設けられた。貞観の時は東西三宇ずつで、それが楽人・勅使・諸大夫等の席になっている。天平の時には開眼師・菩提僧正以下、講師・読師が輿に乗り白蓋をさして入り来たり、「堂幄」に着すとある。また衆僧・沙弥南門より参入して「東西北幄」に着すとある。貞観の時は東西南の歩廊及び軒廊に千僧の床を設けたが、天平の時にはまだ歩廊ができていなかったので、それだけ多くの幄舎を設ける必要があったのかも知れない。  これらの設備を含む大仏殿前の広場は、濃い単色の衣を着飾った天平の群集によって取り巻かれた。僧尼の数は一万数百人としるされているが、他に数千の官人も参集したであろうし、また一般の民衆も、たとい式場にはいることはできなかったにしても、この大供養の見物に集まって来なかったはずはない。そこで華やかな衣の色が一面に地を埋め、東大寺の伽藍はこの色の海の上に浮いていたことになる。もとより大仏殿は今のように左右に寸のつまった不格好なものではなかった。現在は正面の柱が八本であるが、最初は十二本あって、正面の大きさがほとんど倍に近かった。またこの堂に対して、中門の外側の左右には三百二十尺の高塔ができかかっていた。これらの堂塔の大きさは、ただ想像するだけにも骨が折れる。この雄大な建築と、数知れぬ人の波との上に、うららかな初夏の太陽が、その恵み深い光と熱とを注いでいたのである。  開眼の式がすむ。講読がおわる。種々の楽が南門柱東を過ぎて参入し、堂前を二度回って左右に分かれて立つ。そこでいよいよ舞台が衆人注意の焦点に来る。まず現われたのは日本固有の舞踏である。最初のは『続紀』に五節儛とあり、『要録』に大歌女、大御儛三十人とある。天の岩戸の物語と結びつけられているあの「踏みとどろかす」ところの踊りであろう。次は久米舞、大伴二十人佐伯二十人、──武人が武具をたずさえての古風な踊りである。次は楯伏舞四十人、これも武人の踊りで、手に楯をもって節度を刻んだものらしい。次が踏歌(あるいは女漢躍歌)百二十人、これは女が二組に分かれて歌いながら踊るのであろうが、『釈日本紀』の引用した説によると歌曲の終わりに「万年阿良礼」という「繰り返し」がつくので、たぶん藤原時代以前から俗にこの踊りを阿良礼走りと言った。走るというのだからほぼ踊りかたの想像はつく。これらの歌舞が一わたりすむと、その次が唐及び高麗の舞楽である。演奏の順序は唐古楽一舞、唐散楽一舞、林邑楽三舞、高麗楽一舞、唐中楽一舞、唐女舞一舞施袴二十人、高麗楽三舞、高麗女楽、──かくしてついに日が暮れる。  さてこれらの楽と舞とがいかなるものであったか、それを想像するのがここでの関心の焦点である。われわれの前にある伎楽の面がこれらの舞楽のあるものに、(少なくとも三つの林邑楽に)用いられたことは疑いがないであろう。正倉院にはこの時の面が保存せられているそうであるが、もとより同じ感じのものであろう。衣裳もこの時のものが残っているといわれるが、詳しくはわからない。天保四年の目録によると、長持のなかに「御衣類色々、古織物数多」や「御衣類、塵芥」などがあった。今でも塵芥のようになった古い布地はおびただしい数量であると言われる。その中からこの時の衣裳を取り出すのは困難であろう。貞観供養の記録には舞女装束、唐衣、唐裳、菩薩装束などの言葉が見え、またその材料らしく調布三百二十反、絹八疋、唐錦九尺、紗一疋、青摺衣二領、鞋十足などもあげられているが、弘法滅後の風俗変遷を経た後の貞観時代にどれほど天平の面影を残していたかはわからない。唐衣という言葉はその衣の起源を示すのみで、必ずしも唐風の忠実な保存を意味してはいないのである。いわんや藤原後期の舞楽装束が、天平のそれを推測する根拠となり得ないのは言うまでもあるまい。従って最もたしかなのは、天平の画によって想像することである。そこに描かれている衣裳は、肉体の輪郭やふくらみをはっきりと浮かび出させ、筋肉の表情を自由に外に現われしめるような、柔らかく垂れ下がったものであるが、伎楽の衣裳もそういう類ではなかったかと思われる。特にインドの風を現わしたものはそうでなくてはならなかったであろう。貞観の供養にさえも菩薩などは仏像彫刻と同じような扮装をしたらしい。まして、唐風流行の天平時代に、西域風、インド風やペルシア風などの衣裳を大胆に用いたとしても、少しも不思議はない。  舞台上の所作については、貞観の「供養記」がその幾分を伝えている。午二剋に、人鳥の扮装をした東大寺林邑楽が、供物をささげ、東西二列に分かれて舞台から堂上へと静かに歩いて行く。舞台には一疋の大きい白象が立っている。その背に造られた玉台の上には、白い肌のあらわな普賢菩薩が、彫刻や画にある通りの姿をして、瞑想に沈んでいる。やがて伽陵頻伽の人鳥が供物を仏前にささげて帰って来ると、誦讃の声につれて菩薩が舞い出す。伽陵頻伽も二行に対立して、楽を奏しつつ舞う。──その次は胡楽(あるいは古楽)である。多門天王が従鬼十四人をひきいて(あるいは王卒と十二薬叉とをひきいて)現われる。二人は大桃を、二人は大柘榴を、二人は藕実を、二人は大𨛥子を、二人は大扆をささげている。弓を持つもの鉾を持つもの、斧を持つもの、棒を持つものが一人ずつある。また同時に吉祥天女が天女二十人をひきいて現われる。内十六人は各造花一茎をささげ、他に如意、白払、厲扇等を持つものがある。天王薬叉も天女も皆彫刻や画にある通りの扮装をしていたと考えていい。彼らも東西二列となって舞台から仏前に至り供物をささげて再び舞台に帰ってくる。そこで王卒・薬叉の類は舞台辰巳角に立つ。天女十六人は左右に分かれて舞を舞う。──次は天人楽である。大自在天王が天人六十人をひきいて現われる。二十人は天衣綵花を盛り、四十人は音楽を調べる。東西に別れて舞台に列び、仏を讃歌していうには、 仏身安座一国土    一切世界悉現身 身相端厳無量億    法界広大悉充満 讃歌がおわると天人らは綵花を散らし始める。繽紛として花が浮動する。次いで天人が舞う。退場。  舞はまだ午四剋から酉四剋まで続くのであるがあとは略して右の三例を考えてみよう。前の二つは記録にも明らかに新作だとことわってあり、後の一つも華厳経の句を讃歌に使ったところから推して大仏供養のための特殊なものであったことが察せられる。作者は唐舞師、笛師などとあるから、雅楽寮の役人であったかも知れない。舞の振りや楽の旋律を無視して論ずるのは無謀であるが、ただこの舞曲の構造から考えると、恐らく活人画を去ること遠くないものであったろう。それは経典と仏像とから得た幻想のきわめて素朴な表現であって、特に芸術家の創造力を示したものではない。貞観の初めは恵心院源信の晩年であって、来迎図に現われたような特殊な幻想がすでに力強く育っていた。右の諸作にもこの傾向は著しく認められる。もしこれを日本化というならば、これらの舞楽はすでに日本化せられたものである。従ってそれらはあの大きい伎楽面に似合うよりは、むしろ後代の平凡な小さい仮面に似合うものと言ってよい。とすれば、われわれは貞観の『供養記』からしては天平の伎楽面にふさわしい伎楽を見いだし得ないのである。  天平の伎楽と貞観の舞楽との間に右のごとき区別が生じたのは、貞観供養より先だつ二三十年、弘法滅後の仁明帝前後の時代に行なわれた音楽の大改革のゆえであろう。この時代には高麗楽のみが栄え、伎楽も林邑楽もその独立を失った。そうして新しく唐新楽(羯鼓楽)が起こり、高麗楽と共に左右楽部として雅楽なるものを形成した。そこで新作改作が盛んに行なわれ、新しい日本的外国楽が成立するに至ったのである。この機運が神楽や催馬楽などにも著しく外国楽を注ぎ入れたところから見ると、当時の日本化は、外来の音楽・舞踏のうちから特に日本人(すなわち帰化人が帰化人として目立たなくなったほど混血の完了した平安中期の日本人)の趣味に合う点のみを抜き出して育てることであった。だから偉大なものも、彼らの趣味に合わない限り、捨て去られる。伎楽のごときはこの意味で骨抜きにされたのである。  林邑楽はインドの舞曲で、特にバラモン教の畑に育ったものらしい。しかし仁明時代の変革でそのバラモン的香気を失ったことは、貞観供養の林邑楽を見てもわかる。だから貞観以後百年二百年を経た時代に盛んに行なわれた舞楽は、たとい林邑の名を存していても、全く別物であったと考えなくてはならない。『舞楽要録』によると、舞楽の最盛期であった藤原時代後半の数多い舞楽演奏は、二三の例外を除いてほとんど皆林邑楽の陵王(左)納蘇利(右)をプログラムの最後に置いている。また胡飲酒、抜頭などの林邑楽をその中間に加えることもまれでない。しかしこれらの林邑楽は、どの記録から推しても、あまりに繊細な規矩に束縛されている。貞観時代には素朴ながらも自由な幻想のはたらきが許されていた。今やその自由さえも地を払っているのである。鎌倉時代はあの別種な仮面を製作した時代であるから、古の舞曲に対する正しい理解があったとは思えないが、少なくとも藤原末の伝統は保たれていたであろう。この時代に音楽生藤原孝道によって書かれた『雑秘別録』なるものを読むと、当時の音楽界の雰囲気がうかがわれる。孝道をしてこの書を書かしめたのは、音楽を覆いかくす「秘伝相承」への反抗である。「秘蔵すなど申すは、家のならひなれば申すに及ばねども、理かなひても覚えず」というのが彼の主張であった。しかし彼自身の関心も要するにこの種の秘伝の範囲をいでなかった。胡飲酒について彼はいっている、「まことに舞にとりて異なる秘蔵大事の物とかや。これを舞ひつれば勧賞をかぶる。見たるにたゞ同じ体にていづくに秘事あるべしとも見えねども、折々振舞ひて出入りにつけて秘蔵の事どもありとかや。」そうして彼が熱心に物語るのは、藤原末における相伝の歴史である。雅実の日記に「忠時こいんず舞ふ。相伝なき事どもあり。自由らうぜきのおのこなり」とあることなども引用せられている。相伝が結局芸術の生命を萎微させたのであるにかかわらず人々の注意はこの相伝を得ることに集まって、舞曲そのものの自由な考察には向かわなかった。だから「すぢなきことは、ものの説はうせず、すがたは皆うすめり」といわれる。菩薩舞のごときは、「白河院の頃までは、天王寺の舞人まひけれども、させることはなくて、大法会にかりいだされけるを、むつかしがりて、のち伝はらずなりて、今はなしとかや。」これは技巧の末に拘泥する芸術の末路である。舞楽として残存していたものは、もはや天平の活き活きとした大きい芸術ではない。  天平の伎楽面と鎌倉の伎楽面との間に、芸術的気禀の根本的相違を認め、また生の根をつかむ能力の比較にならぬほどな径庭を許すならば、以上のことは何らの考証なくしても是認せられるだろう。  では何によってあの天平伎楽面の用いられた舞曲を想像し得るのであるか。それはあの伎楽面自身によってである。天平時代にはあの伎楽面を用いて伎楽が演ぜられた。伝説によると菩薩あるいは仏哲がインドの舞曲、菩薩舞・菩薩・部侶・抜頭楽の類を伝え、開眼大会の時に演ぜられて来集貴賤を感嘆せしめた(東大寺要録二)。岡部氏の研究によると、抜頭舞はベーダの神話にあるペドュ(Pedu)王蛇退治の物語を材料としたもので、抜頭はペドュの音訳であるか、あるいは王がアスヴィンの神からもらった名高い殺蛇の白馬(馬はパイドュ Paidu)の音訳であろうとのことである。足利末にできた『舞曲口伝』には、「この曲は天竺の楽なり。婆羅門伝来なり。一説。沙門仏哲これを伝ふ。唐招提寺にありと云ふ。また后嫉妬の貌といふ」とある。また按摩舞の按摩は Amma すなわち母の義で、シヴァ神の配ドゥルガを意味し、按摩舞はシヴァとドゥルガとが宴飲して酔歓をつくすさまを現わすのだそうであるが、『舞曲口伝』には「古楽。面あり。深重の口伝あり。この曲は承和御門御時(孝謙女帝崩より六七十年後)、勅を奉じて大戸清上これを作る。但し新製にあらず。その詞を改直せしなり。陰陽地鎮曲といふ」とある。詞をなおしたという以上はもとから詞があったに相違ないが、舞曲に詞があったとすると、そこに何らか所作事の要素があったことを認めなくてはならない。そこであの伎楽面の印象が有力な緒になる。あの伎楽面のどれかがペドュ王である、どれかが竜王である。またどれかが偉大なる陽神シヴァであり、偉大なる母ドゥルガである。そうしてこれらの仮面をかぶった役者が、あるいは竜馬格闘の状を、あるいは男女酔歓の状を演出したのである。  林邑楽には右のほかに迦陵頻、陪臚破陣楽、羅陵王入陣楽、胡飲酒(酔胡楽)などがある。これらもバラモンの神話から説明のできるものであるかも知れない。  しかしあの数多い伎楽面は、林邑楽だけでは解決がつかない。そこで前に引用した奏二林邑及呉楽一の呉楽を問題にしてみよう。呉楽は、すでに推古時代に、百済人味麻之が輸入したと伝えられているが、天平の呉楽と同一であるか否かはわからない。しかしとにかくここに林邑楽とならべられている呉楽は西域楽だろうといわれている。『大唐西域記』屈支(亀茲)国の条に「管絃伎楽特善二諸国一」とある、この伎楽が我が国に渡来した呉楽だというのである。腰鼓仮面の類は六朝以前のシナには全く伝統がなかった。そうしてそれは西域楽の特徴である。シナから伎楽が伝わったとすればこの西域楽のほかにないであろう。林邑楽は南から海を伝って来たインド楽であるから、それとならべられている呉楽は西から陸を伝って来た西域楽でなくてはならない。西域の伎楽は、西域の芸術がすべてそうであるように、インドやギリシアの影響からできたもので、仮面のごときもインドを通じてギリシアの伝統をうけたものと見られぬことはなかろう。仮面とさえいえばギリシアへ持って行くのを笑う人もあるが、ギリシア劇が北インドや中央アジアにはいったことは、後説に説くように、きわめてありそうなことなのである。伎楽の楽器として立琴や笛や銅鈸子のあることもこの点から見て軽視はできない。  呉楽がいかなるものであったかということは、猿楽・田楽より能にまで至った仮面の伝統と結びついて興味ある問題である。なぜなら最初呉楽を家業とした大和城下郡杜戸村の楽戸から後に新猿楽が起こったからである。楽戸はその家業を左右の楽部に譲った後にも、なお鼓笛を用いて散楽をやった。この散楽は一説によると、日本古来の道化戯である散更と唐の道化戯である散楽との混和したもので、それが音便の上からも連想の上からも猿楽となったらしい。しかし杜戸村の楽人たちがそこに彼らの家業であった伎楽を加えなかったとは言えまい。少なくとも仮面は散更や散楽から出たものではない。散楽の図なるものには仮面を用いた姿は見えていない。だから能の面は伎楽が猿楽のうちに保存せられていたことの証拠になるのである。  猿楽の芸は滑稽を主とし、踊りや軽業の他に筋のある喜劇をもやった。狂言はその系統を引いたものであろう。『源氏物語』のできた時代に生きていた藤原明衡の『新猿楽記』によると、当時の曲目の一部は、「京童の虚左礼」、「東人の初京上り」、「福広聖の袈裟求」、「妙高尼の襁褓乞」、などのごとく、明らかに「伎」であり、また「喜劇」であった。明衡はこれらの喜劇の役者を一々品評して、誰は舞台に上るともうその姿だけで見物を笑わせるとか、誰は初めに沈んでいるが劇の進行とともに熱を帯びてくるとかと言っている。この喜劇が散更・散楽等の道化戯・軽業などよりもむしろ伎楽の伝統を引いているだろうということも考えられぬではない。猿楽の本座が杜戸村で、近江・丹波の猿楽も畢竟ここから出たものに過ぎぬ以上、この想像は避け難い。  また雅楽が宮廷の保護のもとに立っていたに反して、猿楽が仏寺や神社にたよって生きつづけたということも見のがしてはならない。前者は貴族の趣味に従って変遷する。後者は中流以下の一般人の要求に応じて変遷する。平安藤原の民衆にとって仏寺や神社の祭典がいかに意味の深いものであったかを思えば、その祭典に重大な役目をつとめた猿楽は、文化の徴証として、雅楽に劣らず価値のあるものである。  猿楽のほかになお田楽があった。その起源については学者の間にも異説があるが、往古の田儛と直接の関係を持つにしても持たないにしても、とにかく農人の間から起こった快活な舞踏であることは確からしい。その楽芸としての発達が猿楽よりもはるかに後のことであるところを見ると、それが猿楽から分かれたものだという見解は必ずしも斥けるべきでない。先に引いた『新猿楽記』には、猿楽の伎のうちに「田楽」を数えている。ただ猿楽が専門家の伎として行なわれた間に、田楽が農人の楽しみとして、すなわちみずから踊るべきものとして、別の方向に進んだという差異はある。『栄華物語(御裳着の巻)』には『新猿楽記』と同じ時代の田楽を描いているが、それは田植えの日の行列や田植えの労働などに対して楽隊の役目をつとめたものである。まず五六十人の若い女が白い「裳ころも」、白い笠、顔には薄紅の白粉を厚く塗り歯はおはぐろで黒く染めて、田植えの場所へと並んで行く。続いて田あるじの翁が怪しげな着物に紐も結ばず、破れた大笠をさし足駄をはいて悠然として練って行く。そのあとにはまた変な体つきをした女どもが、古びて黒ずんだ総紅の練絹の着物をきて、白粉を真白にぬり、かずらをつけ、足駄をはき笠をさして続いている。その次が田楽である。十人ばかりの「あやしの男」が、「田楽」という妙な鼓を腰につけ、それを笛や佐々良に合わせて鳴らしながら、さまざまに踊り歌い、「心地よげにほこつて」いる。最後には食物がはいっているらしい桶・折櫃や、いろいろ珍しいものを持った男が並ぶ。──やがて田について田植えが始まると、途中は幾分つつましげにしていた田楽の連中が、思うままに楽器を鳴らして、踊ったり歌ったり、大騒ぎになる。これが農人の労働を愉快なものにしようとする企てであったことは明らかで、田を植えつつ歌う農人の歌も、恐らくこの田楽の音頭に従ったものであろう。この種の文字通りな民衆芸術は、漸次その勢力をひろめないではいなかった。右の出来事の後七十年余で起こった田楽の大流行は、『洛陽田楽記』によると、不レ知二其所一レ起、初自二閭里一及二公卿一。京都の諸坊、諸司、諸衛が、おのおの一団となって、田楽を踊りながら、寺へ詣り、街衢をうろつくのである。高足一足、腰鼓、振鼓、銅鈸子、編木、殖女養女の類、日夜絶ゆることなしとある。高足一足は散更だと言われているが、しかしギリシア劇の cothurnus の伝統を引いたものでないとも言えまい。腰鼓は前に言ったごとく西域の楽器である。振鼓は tambourine 銅鈸子は cymbal であろう。さてこの田楽に繰り出す連中は、富者は産を傾けて錦繍を衣とし金銀を飾りとし、朝臣武人らはあるいは礼服をつけあるいは甲冑を被り、隊をくんで鼓舞跳梁した。検非違使さえも、法令の禁ずる摺衣を着けて、白昼の大道を踊り歩いた。蓬壺の客もまた一団となって繰り出した。僧侶、仏師、経師なども、群をなして、帽子繍裲襠という装束で、陵王・抜頭などの林邑楽を舞った。当時の高官にも、九尺高扇、平藺笠、藁尻切などで押し出す人があった。その家来に至っては、裸で紅い腰巻とか、髻を解いて田笠をかぶるとか、ほとんど正気の沙汰と思えなかった。一城の人皆狂せるがごとし。蓋シ霊狐之所為也。と記されている。──このような狂熱は一時のことであろうが、しかしこれによっても田楽の勢力は察せられる。もっともこれはまだ一種の仮装舞踏以上にいでていない。猿楽に比べればなおはるかに単純である。しかし僧侶が林邑楽を田楽に持ち込んだとあるごとく、すでに田楽法師の出現は準備されている。次の時代に至って猿楽の能と共に田楽の能が始まったのは、田楽の専門化、すなわち猿楽への接近を示すのである。ただ専門家が法師であったということが、題材や想念の上に特殊な伝統をつくって、比較的に仏教と縁の遠い猿楽に対立したのではないかと思う。  わたくしはかつて謡曲や狂言を読んでインド劇との関係を空想したことがある。確かにそれは空想である。しかし能に伝わった仮面の伝統を右の経路によってさかのぼって行くと、少なくともそれが天平の伎楽まで到達することは疑えない。たとい能狂言の発達を純日本的のものとして考えるにしても、すでにその想念や題材がシナ・インドの文化の上に立っている以上、その劇的構造もまた同様だと見られぬわけはない。だからまた逆に、能狂言を参考として、天平の伎楽を空想することもできるであろう。  能の面は伎楽面に比べれば全然別種の原理に基づいたものである。それと同じく能楽もまた伎楽とは全然別種のものであろう。だから伎楽の優れた点が能楽の時代に消滅し去ったということは考えられる。総じて天平の偉大な芸術は、順当な開展を伴った伝統とはなっていないのである。能狂言が長い進歩の結果として現われたとしても、それが必ずしも天平の伎楽より優れたものだとは言えない。彫刻や絵画や詩歌などにおいてしかるがごとく、伎楽もまた劇として能狂言以上のものであったかも知れない。  伎楽をギリシア劇と結びつける空想は伎楽面自身から得たものであるが、右に述べたごとく伎楽がインド楽であり西域楽であるとなれば、単に根のない空想ではなくなってくる。  伎楽として受け容れられたインド楽西域楽は、音楽と舞踏とであって、劇的構造を持ったものではなかった、という観察もできるであろう。しかし音楽に伴ってシヴァとドゥルガが踊る、しかもそこに「詞」がある。それが一種の劇であり得ないはずはない。  ではこのインド西域の劇がギリシア劇の伝統を引いたものだということはどうして言えるか。ここでは彫刻の場合のように目に見える証拠を挙げることはできないが、しかしその関係はほぼ同じだと思う。ギリシア劇はアレキサンドロスの東征のころから紀元後へかけて北インドや大夏やペルシアで盛んに行なわれた。大夏はギリシア人の建てたバクトリア国で、中央アジアから西へ山脈を超えたところにある。ペルシアはローマ帝国との交渉が多かっただけに、劇の影響も著しい。ペルシア王がギリシア風の悲劇を作ったとか、ローマの将と共にディオニュソスを祭ってギリシア悲劇を演ぜしめたとかいうのは、二二六年にササン朝が起こった後のことである。北インドではギリシア人が王国を建てたのが紀元前一世紀で、仏教なども非常な影響をうけた。紀元前後の時代以後に作られた仏教経典、特に大乗経典はギリシア芸術の感化によっていちじるしく形式を変えて来た。仏礼拝の儀式も同じくこの感化によって新しく芸術的に組成されたと見てよいであろう。バラモンの文化も著しい影響をうけた。この文化はもともとギリシア文化と同じ根から出たものであるからその影響もうけやすかったと言ってよい。紀元前五六世紀ごろ、ウパニシャド製作の時代に極度の形而上学的思弁に化しおわったバラモン教は、生の実感に充ちた仏教によって一時押されたが、しかしギリシアの神々に似た人間的な神を崇拝する古昔の伝統は、なお一般に勢力を持ちつづけ、ヴィシュヌ、シヴァ等の崇拝となって紀元後に及んだ。仏教興隆で有名なカニシカ王の前に初めて北インドを征服した月氏の王はインドに入ると共に狂熱的なシヴァ崇拝者となった。カニシカ及びその後嗣の代を過ぎて、次の王は再びシヴァ崇拝に帰った。このようにシヴァ神が勢力を持っている北インドで新しく造られた宗教であるがゆえに、大乗仏教は著しく古昔のバラモン神話を取り入れたのであるとも言える。と共に当時のシヴァ崇拝もギリシア風宗教の影響を受けたものとなっていたであろう。その証拠に月氏についで北インドを統治したグプタ朝のバラモン的インド教は、古昔のバラモン教と全然面目を異にして、むしろディオニュソス礼拝やアフロディテ礼拝に近い。西方の密儀を思わせる点もある。もっともこれらは、かつてインドから西方に輸出したものが、西方でやや変形せられて、再びもとへ帰って来たのだとも見られる。いずれにしてもギリシア人月氏族などの混融している北インドで、五百年ぶりに主権を取り返したインド人が、いかにバラモン文化の復興を企てたところでもう純粋にバラモン的であり得るわけはない。グプタ朝の芸術がインド芸術の絶頂であるのは、永い間の文化混融がそこに結晶したからである。この雰囲気を眼中に置いて考えれば、悲劇とディオニュソス崇拝とを直ちにインド劇とシヴァ崇拝とに結びつけて考えても、さほど唐突ではない。インド劇の舞台構造にはギリシア劇の痕跡が残っている。そうしてこのインド劇のあるものはシヴァ神への祈祷をもって始まるのである。もとよりディオニュソスとシヴァは、共に生の力の表現者として破壊と生殖とに関係あるものではあるが、時と所を異にするだけの相違は持っている。それと同じくインド劇もギリシア悲劇と同一ではない。インドに影響したのはギリシアの悲劇的精神ではなかった。むしろあの鮮やかな幻想の具体性や、官能の美に対する鋭い感覚や、その他自然的、人間的なギリシアの特徴全部をもってしたのであった。特に劇については、インドに入ったギリシア劇が、主としてヘレニズム時代の新劇であったことを考えねばならぬ。インド文化の特質が超自然的・超人間的な点にあるとすれば、それは劇の産出に最も不向きなものであるが、たといそうでないとしても、あの空想の過冗なインド人の性質は、依然として劇に向かない。たまたまギリシアの新劇が、近代劇にも劣らないほど写実的であったために、その力強い影響によってインドの題材をも戯曲化し得るに至ったのであろう。紀元後五世紀ごろグプタ朝の最盛期に出たカリダアサの戯曲は、ヘレニズムよりルネッサンスに至るまでの欧州に全然その匹儔を見ないほどの傑作だと言われているが、自然と人間とを超越しようと企てるインド風の生活を題材としているにかかわらず、描写の仕方は決して超自然的超人間的ではない。人間の自然性を如実に写す点においてはシェクスピイアにさえも比肩し得るといわれる。この狭い意味のインド的でない戯曲がギリシア劇の伝統をうけていることは明白である。ヨーロッパにおいて千年後になされたことを、インドではすでにこの時になし遂げているのである。  この種のインド劇の隆盛が、陸からは西域に、海からはインドシナに、勢いよく響きわたったのは当然である。しかしカリダアサなどの傑作が海外へ伝えられたというのではない。他に多くの凡作もあったであろうし、また専門の俳優を必要としない程度のものが伝えられたとも考えられる。ことにこれらの劇は仏教の伝道に伴ったものであるから、伝道に都合のいいようなものだけが選ばれたということも考えなくてはならない。  シナとの交渉は恐らく唐太宗以前にもあったであろう。グプタ朝の最盛期は北魏の時代に当たっているが、その時代には西域人の来朝が少なくない。しかし東西交通の繁栄は、太宗の領土拡張後に特に著しい。この時代になると、仏教のみならず、西方の文化全体が勢いよく流れ込んで来た。インド劇も恐らくこの例に洩れないであろう。  中唐玄宗の時代に至っては、外国文化の流入はさらに盛んであった。貴人の食膳にはインド料理、ペルシア料理、ローマ料理の類までも珍重せられる。士女はみな競うて西方の(恐らく準ギリシア風の)衣服をつけた。天宝の初め、すなわち天平十二三年以後には、一般民衆までが西方の風を好み、女の服装などは、当時の俑(土人形)に見ても明らかであるごとく、ほとんどギリシア風に近かった。そうしてこの時代に西方伝来の新音楽が尚ばれたことは、明らかに記録に残っているのである。  それがわが天平時代の唐の情勢であった。そうしてその唐が当時の日本人の憧憬の的であった。有為な青年が群をなして留学する。唐人も頻々としてやってくる。インド人ペルシア人までもくる。インド劇が伝わるぐらいは何でもない。  しかしインド劇が劇として伝えられたかどうかは疑問である。人々の関心の対象は仏教であった。仏教はインドではもう下り坂でより熱心な仏教国へ流れて行こうとしていた。それをちょうどシナが迎え取った。有為な僧や美術家はそれに伴って東漸したのである。しかしバラモン文化は伝道の傾向を持たないのみならず、また国外に出る必要もなかった。だから本格的なインド劇が国外に押し出してきたとは考えられないのである。恐らくそれは仏教の儀式に摂取せられた限りのインド劇の要素に過ぎなかったであろう。伎楽はだから十分な意味で劇とは言えないであろう。しかしたといページェント式のものであったとしても、その背後には十分に発達したインド劇が控えていたことを忘れてはならない。 十一 カラ風呂──光明后施浴の伝説──蒸し風呂の伝統  法華寺の境内に光明皇后施浴の伝説を負うた浴室がある。いわゆるカラ風呂である。わたくしはこれまでこの「カラ風呂」なるものの存在をさえ知らなかったが、先日奈良坂の途中で車夫から初めて教わったのである。谷を距てて大仏殿が大きく見えている坂の中腹に歩廊のような細長い建物のあるのがそれだった。大仏鋳造や大仏殿建立の大工事の時に、病を得た工匠・人夫の類がそこで湯治をしたと言われている。その「カラ風呂」に今日突然法華寺で出逢ったのである。  浴室は本堂の東方に当たる庭園のなかにあって、三間四方(?)ぐらいの小さなものであるが、内部の構造は全然わたくしの予期しないものであった。床は瓦を敷きつめ、中央にはさらに三尺ほどの高さの板の床を作り、その上に屋根もあり板壁もある小さい家形が構えられている。言わば入れこにした箱のように、浴室のなかにさらに浴室があるわけである。その側面は西洋建築の窓扉と同じやり方のもので、全体の格好が測候所などの寒暖計を入れる箱に似ている。だから中は暗い。それへはいるには、三四段の梯子をのぼり、身をかがめて、狭い入り口から這い込んで行くのである。中には五六人ぐらいなら、さほど窮屈でもなくしゃがんでいられるらしい。これがつまり浴槽であって、そのなかへ、床板の下から湧出する蒸気が、充満する仕掛けになっている。純然たる蒸し風呂である。  この構造が天平時代のものをそのまま伝えているのかどうかはわからない。東側のたき口は西洋竈風に煉瓦を積んで造ってあったし、北側の隅には現在の尼僧が常用するコンクリート造りの長州風呂が設けてあった。この種の改良が千年にわたって少しずつ試みられたとすれば、これによって原形を想像するのは危険な話である。しかしこの「蒸し風呂としての構造」だけは昔の面影を伝えていはしまいか。少なくともこれに似寄った蒸し風呂が光明皇后の時代に存在したということは確かではなかろうか。  この浴室の楣間に光明皇后施浴の図が額にして掲げてある。現在の銭湯と同じ構造の浴室に偏体疥癩の病人がうずくまり、十二ひとえに身を装うた皇后がその側に佇立している図である。光明皇后の十二ひとえも時代錯誤でおかしいが、この蒸し風呂の設備と相面して銭湯風の浴室が画いてあるのは、愛嬌を通り越してむしろ皮肉に感ぜられた。しかし実のところわれわれは光明皇后施浴の伝説を、漠然とこの図のように想像していたのである。施浴が蒸し風呂であるとすると、われわれも考えなおさなくてはならない。  蒸し風呂が医療に役立つことは古くから知られていた。今でも一種の物理的療法として存在の意義を持っている。天平時代に著しいヒステリイ風の病気や、その他全身の衰弱を起こすさまざまの病気が、蒸し風呂によって幾分治療せられたろうことは想像するに難くない。とすると、蒸し風呂を民衆に施すことは、慈善病院を経営するのと同じ意味の仕事になる。慈悲を理想とした皇后がこのような蒸し風呂の「施浴」を行なわれたということは、きわめてありそうなことである。その際皇后が周囲の人々に諫止せられる程度の熱意を示して、自らこの浴場に臨んで何事かをされたということもあり得ぬことではない。しかし伝説は単にそういう「施浴」を語るだけにとどまってはいないのである。『元亨釈書』などの伝える所によると、──東大寺が完成してようやく慢心の生じかけていた光明后は、ある夜閤裏空中に「施浴」をすすむる声を聞いて、恠喜して温室を建てられた。しかしそればかりでなく同時に「我親ら千人の垢を去らん」という誓いを立てられた。もちろん周囲からはそれを諫止したが、后の志をはばむことはできなかった。かくて九百九十九人の垢を流して、ついに最後の一人となった。それが体のくずれかかった疥癩で、臭気充レ室というありさまであった。さすがの后も躊躇せられたが、千人目ということにひかされてついに辛抱して玉手をのべて背をこすりにかかられた。すると病人が言うに、わたくしは悪病を患って永い間この瘡に苦しんでおります。ある良い医者の話では、誰か人に膿を吸わせさえすればきっと癒るのだそうでございます。が、世間にはそんな慈悲深い人もございませんので、だんだんひどくなってこのようになりました。お后様は慈悲の心で人間を平等にお救いなされます。このわたくしもお救い下されませぬか。──后は天平の美的精神を代表する。その官能は馥郁たる熱国の香料と滑らかな玉の肌ざわりと釣り合いよき物の形とに慣れている。いかに慈悲のためとはいっても癩病人の肌に唇をつけることは堪えられない。しかしそれができなければ、今までの行はごまかしに過ぎなくなる。きたないから救ってやれないというほどなら、最初からこんな企てはしないがいい。信仰を捨てるか、美的趣味をふみにじるか。この二者択一に押しつけられた后は、不レ得レ已、癩病の体の頂の瘡に、天平随一の朱唇を押しつけた。そうして膿を吸って、それを美しい歯の間から吐き出した。かくて瘡のあるところは、肩から胸、胸から腰、ついに踵にまでも及んだ。偏体の賤人の土足が女のなかの女である人の唇をうけた。さあ、これでみな吸ってあげた。このことは誰にもおいいでないよ。──病人の体は、突然、端厳な形に変わって、明るく輝き出した。あなたは阿閦仏の垢を流してくれたのだ。誰にもいわないでおいでなさい。  これは誠にありがたい話で、嘘にもこういう伝説を負うた皇后のあることはわれわれの誇りである。『元亨釈書』の著者虎関和尚はこの話を批評して、温室を造るのはいいが、垢を流したり膿を吸ったりするのはよけいなことだ、そんな些細なことをしなくても、堅誠あるものは造次顛沛みな阿閦を見るといっているが、これはどうも承服し難い。去レ垢吸レ膿の類は後世の仏家の仮構であろうというのならばわかるが、この話を真実としておいて、その上で、そんなことはよけいなことだ、女のくせに千人の垢を流すなどは女の道にはずれている、というのは、この話に現われた宗教的興奮を無視するものといわなくてはなるまい。生温い心持ちで癩病人の膿などが吸えるものではない。  が、もとよりこれは伝説である。しかも宗教的伝説として型にはまったといっていいほどのものである。しかしそういう伝説が蒸し風呂の知識の上に立って語られたとすると、逆に伝説の方から蒸し風呂のやり方を推測することもできるであろう。あの狭い暗い浴槽へはいって蒸気に蒸されながら民衆の垢を流してやるなどということは、とてもできるはずのものでない。従って垢を流すのは、浴槽の外の流し場においてであろう。十分に蒸気にむされて、体じゅうの垢がことごとく外に流れ出たような気持ちになって、浴者が浴槽から出てくる。しかし浴者はむされたためにぐったりとなっている。その体をたとえばギリシアの Strigil のような、木か銅かで造った道具でもって、ぬぐってやるというようなやり方であったかもしれない。そういうやり方でならば、皇后が浴室に入って民衆の垢を取ってやるという場面を想像したとしても、さほど驚くに当たらない。  しかし重大なのはこの時の浴者の心持ちである。自ら蒸気浴を試みてみたら、その見当がつくかも知れないが、もしそこに奇妙な陶酔が含まれているとすると、事情ははなはだ複雑になる。人の話によると、現在大阪に残っている蒸し風呂はアヘン吸入と同じような官能的享楽を与えるもので、その常用者はそれを欠くことができなくなるそうである。もし蒸気浴がこのような生理的現象を造り出すならば、浴槽から出たときの浴者は、特別の感覚的状態に陥っているといわなくてはならない。ちょうどそこへ慈悲の行に熱心な皇后が女官たちをつれて入場し、浴者たちを型通りに処置されたとすると、そこに蒸気浴から来る一種の陶酔と慈悲の行が与える喜びとの結合、従って宗教的な法悦と官能的な陶酔との融合が成り立つということも、きわめてありそうなことである。天平時代はこの種の現象と親しみの多い時代であるから、必ずしもこれは荒唐な想像ではない。こういう想像を許せば「施浴」の伝説は民衆の側からも起こり得たことになるであろう。  施浴が行なわれるためには、もっと規模の大きい、室の広い、堂々たる温室が天平時代にあったのでなくてはならない。当時の技術からいえばそういう物を造るのはわけのないことである。この大温室の想像の根拠となるものはさしずめ東大寺の湯屋であろう。わたくしは後に筒井英俊君の好意によって大仏殿の北東にある湯屋を見ることができた。これはさほど古いものではないが、しかしかなり大きい、堂々たる建物である。前室と後方の浴槽とに別れていて、その前室は数十人の人を容れることができる。そこは脱衣場にでも、あるいは蒸浴者の処理場にでも、使われ得るであろう。浴槽はやはり蒸し風呂で、これも建物に相応して大きかった。これは恐らく古い湯屋の伝統を伝えたものであろう。これから推測すると、天平時代にはかなりの大温室があり得たのである。  法華寺の蒸し風呂が現代までも蒸し風呂として存続したということは、この寺の本尊が現代までそこなわれずに残存したということほど重大ではないが、しかし些細なことながらも何となく興味が深い。風呂の方が肉体に近く、肉体の方が昔と今とを結びつけるに生々しい効果をもっているというせいでもあろうか。自分でこの蒸し風呂を試みて、その温まり工合や、肌の心持ちや、体のグッタリとする様子や、またありたけの汗を絞り出したあとのいい心持ちなどを経験してみたら、一層その感じがあるだろうと思う。こういう官能的な現象で昔を想像するのはあまり気のきいたことではないが、しかし最も容易な道である。  ──あとでZ君に西洋の蒸し風呂の話をきいた。快く暖まっている大理石の腰掛けのすべすべとした肌ざわり、蒸気にむされてグッタリとしたからだ、流るる汗、汗を拭き落とす道具、そうして爽快なシャワア、いかにも気持ちが好さそうで、法華寺の浴室とは大変な違いである。しかしこのトルコ風呂も、もとはアジアから出たもので、あるいは天平の温室と同一の源泉を持っているのかも知れない。ただそれが一つの民族の生活の内に不断に生かされて来たか否かで、これほど著しい相違を造り出したのかも知れない。 十二 法華寺より古京を望む──法華寺十一面観音──光明后と彫刻家問答師──彫刻家の地位──光明后の面影  湯殿の前の庭に立って東の方をながめると、若葉の茂った果樹の間から、三笠山一帯の山々や高台の上に点々と散在している寺塔の屋根が、いかにものどかに、半ば色づいた麦畑の海に浮かんで見える。その麦のなかを小さい汽車がノロノロと馳けてゆくのも、わたくしには淡い哀愁を起こさせる。またしても幼い時の心持ちがよみがえって来たのである。庭の砂の、かすかに代赭をまじえた灰白の色も、それを踏む足の心持ちも、すべてなつかしい。滑らかな言葉で愛想よく語る尼僧の優しい姿にも、今日初めて逢ったとは思えぬ親しさがある。  何とはなくしめった心持ちになって、麦の間から大仏殿をながめていると、相変わらずまた天平の面影が、想像の額縁のなかにもりあがってきた。  法華寺、詳しくは法華滅罪之寺は大倭の国分尼寺で、光明皇后の熱信から生まれたものらしい。天平十三年に詔が出ているから当時すぐ造営がはじまったとしても皇后はもう四十を超えていられた。それから二十年の間、皇后の特別な愛着がこの寺に集まった。従って尼寺と後宮との交渉が多く、後には孝謙上皇が住まれて仙洞御所のようになったこともあった。そのころは上皇ももう御年が四十六七であった。再び帝位に即かれた後にもなおしばらくこの寺は御所となって、盛んに造営が行なわれた。造法華寺司は光仁帝の時代にもまだ残っていたそうである。  われわれの立っている所に立っていれば、天平時代後半の大事件は大抵手に取るように見ることができたであろう。遷都騒ぎがあって大宮人がぞろぞろと北の方へ行ってしまう。近江では大銅像の鋳造などがはじめられている。古き都は「道の芝草長く生い」世の中の無常を思わせるほどに荒れて行く。そうかと思うとまた大宮人がぞろぞろ奈良へ帰ってくる。そうして大仏の原型などを造るので大騒ぎがはじまる。何千という大工や金工や人足がいそがしそうに働きはじめる。毎日毎日奈良坂の方に材木や銅塊などを運ぶ人の影が見える。足場には土がもられ、その上には鋳銅のすさまじい焔がひらめいている。それが幾年か続く。やがて供養の日になると一万五千の灯で東大寺一円の森の上が赤くなる。歌唄讃頌する数千の沙門の声が遠雷のように大きくうねって聞こえてくる。──東の方が少し静かになって来たかと思うと、今度はまた西の方で唐招提寺や西大寺や西隆寺などの造営がはじまる。奈良遷都の際すでに四十八箇寺あったという奈良の寺々は、このころはもう倍にはなっていたであろう。いかにも仏教の都らしい寺の多さである。  都を取り巻く諸寺の梵鐘が一時にとどろき出た情景を想像してみる。我々は正午に工場の汽笛が斉鳴する感じを知っているが、あれを音波の長い鐘の音に置き換えるとどんな心持ちのものになるだろう。長閑な響きではあっても、やはり生き生きとした華やかな心持ちではなかろうか。奈良の昔の鐘は諸行無常の響きを持っていたとは考えにくい。  伎楽の類は非常な勢いで流行した。皇宮の近いこの土地ではその物音を耳にする機会も多かったであろう。踏歌の類も朝堂の饗宴に盛んに行なわれた。すべてこれらの歓楽の響きを尼寺にあって聞いていた人々の心には、実際はどんな情緒があったのか。歓楽の過冗な時代には、歓楽から目をそむけて真に清浄な生を要求する女が出てくるものである。わが滅罪の寺にもこれらの心からな尼たちが住んでいたのか。あるいは伎楽や読経や観仏やなどによる美的法悦と真に解脱によって得られる宗教的法悦とを合一して考えている当時の「新しい女」が住んでいたのか。それはわれわれには興味の多い問題である。が、しかしそれを知る手がかりがない。  法華寺の本尊十一面観音は二尺何寸かのあまり大きくない木彫である。幽かな燈明に照らされた暗い廚子のなかをおずおずとのぞき込むと、香の煙で黒くすすけた像の中から、まずその光った眼と朱の唇とがわれわれに飛びついて来る。豊艶な顔ではあるが、何となく物すごい。この最初の印象のためか、この観音は何となく「秘密」めいた雰囲気に包まれているように感ぜられた。胸にもり上がった女らしい乳房。胴体の豊満な肉づけ。その柔らかさ、しなやかさ。さらにまた奇妙に長い右腕の円さ。腕の先の腕環をはめたあたりから天衣をつまんだふくよかな指に移って行く間の特殊なふくらみ。それらは実に鮮やかに、また鋭く刻み出されているのであるが、しかしその美しさは、天平の観音のいずれにも見られないような一種隠微な蠱惑力を印象するのである。  観心寺の如意輪観音に密教風の神秘性が遺憾なく現われているとすれば、あの観音に似た感じのあるこの像も密教芸術の優秀なものに数えていいであろう。密教芸術には特に著しく肉感性があらわれてくるように思われるが、あらゆるものに唯一真理の表現を見ようとする密教の立場から言えば、女の体の官能的な美しさにも仏性を認めてしかるべきである。しかしこの種の美しさの底に無限の深さを認めることは、女体の彫刻に神秘的な「暗さ」を添えるという結果を導き出した。この観音像がそのすぐれた証拠である。そこには肉感性を敵とする意識と共に、肉感性に底知れぬ威力を認める意識がある。天平芸術の豊満な調和のなかには、かかる分裂は見られなかった。  わたくしは右のような印象のためにこの像を貞観時代の作とする近来の説に同ずるものであるが、Z君はこの像に天平の気分の著しいのを指摘して、天平末より後のものではないという主張をまげなかった。なるほどそう見れば見られぬでもないのである。この像の豊満味が密教芸術のそれよりも朗らかであるということは、いってよいであろう。確かにこの像は正倉院の樹下美人図や薬師寺の吉祥天女画像などの方に近い。右腕の異様に長いのがいかにも密教臭いが、しかし大安寺の女らしい十一面観音なども同じ程度に長い。天平の観音のように直立の姿勢を取らないで、こころもち前かがみになり、右足をまげ、右手で軽く天衣をつまんでいる柔らかい態度も、天平のものでないという証拠にはなり兼ねる。天平末にできた吉祥天女の画像も同じような柔らかい姿勢で立っている。衣紋の刻み方などには確かに関野氏の説のごとく天平風の円さがある。瓔冠や腕環や髪飾などがどうであるにしても、また貞観の刀法がところどころに現われているにしても、それだけで決定的に時代をきめるわけには行くまい。樗牛のごとくこの像の円満特殊な相好が天平時代の特性を現わしていると言い切るのは考えものであるが、この像を天平から全然切り離してしまうのも同様に考えものである。  この像が貞観時代の作であることには疑いの余地はないと思うが、しかし多くの専門家がかつてこの像を天平時代のものとしたことには、相当に同情すべき根拠があるのではなかろうか。  それについてはこの像に関する伝説がわれわれの興味をひく。『興福寺濫觴記』という本は信用のできるものではあるまいが、その中に次のようなことを伝えている。──北天竺乾陀羅国の見生王は生身の観世音を拝みたくて発願入定三七日に及んだ。その時に、生身の観音を拝みたくば「大日本国聖武王の正后光明女の形」を拝めという告げがあった。大王夢さめて思うに、万里蒼波を渡って遠国に行くということは到底実現しがたい。そこで再び一七日入定して祈った。今度は、巧匠をやって彼女の形像を模写させて拝むがいいとあった。王は歓喜して、工巧師を派遣した。それが天竺国毗首羯磨二十五世末孫文答師であった。文答師は難波津に着いてこの由を官を経て奏上した。皇后が仰せられるに、妾は大臣の少女、皇帝の后宮である。どうして異国大王の賢使などに逢えよう。しかしわたくしの願いをかなえてくれるならば逢ってもいい。文答師は答えて何でもいたしましょうといった。ちょうどそのころ皇后は亡き母橘夫人のために興福寺西金堂を建てておられたので、文答師にその本尊阿弥陀如来の製作を依頼せられた。文答師は、母公御報恩のためならば釈迦像がよろしゅうございましょう、昔忉利天で摩耶夫人に恩を報ぜられた例がございます、と奏上した。そこで釈迦像にきまった。本朝小仏師三十人が助手になった。脇士も彼によって造られた。皇后は彼の製作場へ行かれたこともある。文答師が見ると、后のからだは女体の肉身ではなくして十一面観音の像に現われている。でそれをモデルにして三躯の観音をつくり、一つは本国へ持ち帰った。あとの一つは内裡に安置したが今は法華滅罪寺にある。もう一つは施眼寺に安置せられている。  この伝説が事実を伝えるものでないことはいうまでもなかろうが、われわれにとって問題となるのは、なぜ光明后をモデルとしたというごとき伝説が生じたか、またその作家がなぜ文答師とされたか、というごとき点である。  問答師は興福寺の現存八部衆十大弟子の作者として伝えられている人である。「問答師」という名であったか否かはとにかくとして、あの諸作がある特異な才能を持った人の作であることは疑いがない。特にその作家が肖像彫刻を得意としたろうことも、あの諸作を一見した人は許すであろう。ところでこの作家が、西金堂の諸像の製作にあずかったということは、確かであろうか。現存の諸像が問答師の作と称せられ、西金堂の諸像も同じく問答師が作ったと伝えられるにしても、後者は残存していないのであるから、果たして同一人の手になったかどうかはわからない。西金堂に十大弟子や神王の像が安置せられたことは『扶桑略記』『元亨釈書』等のひとしく伝えるところであるが、しかし後代に存していた十大弟子八部衆が額安寺の古像を移したものであって、建立当時よりこの金堂に安置せられていたものでないことも、『濫觴記』等に伝えられている。『七大寺巡礼記』には、この八部衆はもと額田部寺の像であって西金堂に移した後毎年寺中に闕乱のことがあるため長承(崇徳)年中に本寺へ帰したはずだが、今ここにあるのは不思議だとある。いずれにしても現存の諸像と同一の手になったものが当初西金堂の内部を飾っていたかどうかは知る由がない。しかし伝説は興福寺の最も重大な仏像が問答師の作であることを要求するのである。それは興福寺の残存仏像中の最もすぐれたものが問答師の作でなくてはならないのと同様である。つまり問答師というのは、天平時代の興福寺の最もすぐれた彫刻家のことなのである。とすればこの彫刻家は当然西金堂の本尊を造った人である。光明后は亡き母に対する情熱のために西金堂の建立について特に熱心な注意を払われたに相違ない。だから伝説にあるように、みずから製作場に臨まれたというようなこともないとは限らない。そこでまたこの芸術家が光明后を見て創作欲を刺戟せられたという仮定も可能になる。当時三十二三歳ぐらいであった光明后は、観音像のモデルとしてもふさわしい。──かく考えれば、興福寺の伝説は一縷の生命を得て来るであろう。それらのことは少なくとも、「あり得た」ことである。「あった」か「なかった」かの問題よりも、「あり得た」か「あり得なかった」かの問題に興味を抱く人に対しては、これらのことも何ほどかの意味を持つに違いない。  しかし光明后を彫像のモデルに使うようなことが果して当時の社会において許されたであろうか。仏工は造仏司に使役せられる一種の労働者で、われわれの考える芸術家とは全然異なった地位にあるものではなかったろうか。わたくしはそうは思わない。なるほど古記録には仏工の功程も他の労働者の功程と同じように数えられている。しかし止利仏師におけるごとく、有名な芸術家が特に帝王の眷顧をうけた例もないではない。ちょうど天平の初めは大唐文化に対する憧憬が絶頂に達したころで、この文化を深く体現した者ほど時代の英雄であることができた。阿倍仲麿が玄宗の眷顧を得、王維・李白等と親しかったのに見ても唐の文化を咀嚼する能力は、少なくとも優秀な少数者においては、さほど幼稚であったとは思えない。仲麿と同道した吉備真備や僧玄昉が、十九年の留学の後、多量の芸術品や学問芸術宗教の書籍を携えて帰って来たときには、彼らに対する宮廷の歓迎はすさまじかった。宮廷の人々の心的生活はたちまち彼らの影響に服した。帝の生母宮子大夫人の幽欝症さえも彼らの手によって癒された。未来に帝位をつぐべき阿閉皇女の教育は真備の手に委ねられた。かくのごとき現象はただ外形的な唐風模倣欲のみから説明することはできない。恐らく宮廷の人々はこれらの新人物と接することによって心情の要求を満足させたのであろう。それほど人々の心は広い活き活きとした世界に対する憧憬に充たされていたのである。そういう敏感な心が、彼らの帰朝の一二年前に、あの巧妙な彫刻を造ったガンダーラ人(もしくは伝説的にガンダーラ人とされてしまった無名の日本人)に対して少しも動かなかったとは考えられない。恐らく宮廷の人々はこの彫刻家をいく度か引見したであろう。それは「あり得る」ことである。とすると、この彫刻家は幾度か女の中の女なる人を見た。彼の製作欲がそこに動いた。そうして手ごろの大きさの十一面観音が、製作それ自身を目的とする歓喜の内に造られた。これも「あり得る」ことである。それを誰に献じたかは知らない。しかしこうして造った三躯の観音像のうちの一つを、彼が故国へ持ち帰ったという伝説は、彼の製作動機について一つの暗示を投げている。その製作動機もまた「あり得る」ことである。  が、以上にのべたのは光明后をモデルにしたということに対する興味であって、法華寺の観音に光明后の面影を認めるというのではない。われわれは光明后の顔に精練せられた感情のひらめきを期待する。その目には怜悧な光を、その口には敏感な心の微かな慄動を、その頬には消ゆることなき情熱のこまやかな陰影を。しかしこの十一面観音の面相はそういう期待に応ずるものではない。それは豊かではあるが、洗練せられた感じがない。情熱的ではあるが、柔らかみがなく、あらっぽい。問答師作の竜王像がわれわれに期待させる光明后の面影は、もっと醇美なものでなくてはならない。だからこの十一面観音が貞観時代の作であって光明后をモデルとしたものではないという説の方がわたくしには望ましいのである。  ではこの像が天平時代とある関係を持っているということはどこから言えるか。光明后をモデルとした観音はあり得た、しかしこの像はそれではない、──とすれば、両者の関係は絶えているではないか。  その間をつなごうとするのは、単に空想にすぎない。すでに光明后をモデルとした観音があり得た以上は、それが内裡に安置せられたということもまたあり得たであろう。内裡に安置せられたことが可能であるならば、宮廷と特殊の関係を持っていた法華寺が、この観音と関係するに至ったこともまた可能であろう。『続紀』の記する所によれば、光明后崩御の時には全国の諸寺が供養を営んで阿弥陀浄土の画像などを造ったが、特に一周忌の営みのためには、全国の国分尼寺に阿弥陀丈六像一躯・脇侍菩薩二躯を造ると共に、法華寺に阿弥陀浄土院を新築して忌斎の場所にあてた。この際光明后の面影を伝える観音が何らか重大な役目をつとめたことはあり得ぬことではない。そうなるとこの観音は当然法華寺に移らなくてはならないのである。  すでにこの観音が法華寺にあり得た以上は、光明后に対する特殊の尊敬のゆえに、特に顕著に衆尼の尊崇をうけたこともまたあり得たであろう。そうして何かの理由で同じような観音像が造られなくてはならなかった時に、衆尼がこの像に似ることを望んだとしても不思議はない。貞観時代は模作などの行なわれた時代ではないのであるから、作家自身は原作以上に優れた観音を作る覚悟で仕事をしたであろうが、周囲のものにとってはこれもまた光明后の面影を伝えた観音として通用したであろう。  そこで現在の十一面観音は光明后をモデルとした原作を頭に置いて後代の人が新しく造ったものだという想像説が成り立つ。あの伝説は火のないところに起こった煙ではなく、この十一面観音に天平の痕跡を認めるのも根拠のないことではないということになる。 十三 天平の女──天平の僧尼──尼君  天平の時代の代表的婦人の肖像を持たないことはわれわれの不幸である。そのためにわれわれは天平の女に対して極端に同情のない観察と著しく理想化の加わった観察との間を彷徨しなければならぬ。  しかし婦人の地位や質の問題は男の状態から推察せられる。良弁のようにキビキビした表情を持った男が生存した時代には、われわれの想像するような敏感な女がいなかったはずはない。『続紀』に記されている婦人の活動は、単に外面的で、われわれの推測を裏づける役には立たないが、『万葉集』を詳しく観察すれば、よほど有力な証拠が出て来るかも知れぬ。しかしこの時代の特殊な文化状態を考えると、当時の文芸は必ずしも人心の十分な表現とはいえないであろう。新しい文化によって人々の心は急激に成長した。しかしそれを現わすべき固有の言語はまだ貧弱であった。といって自己表現に役立てるほど外国語に習熟することも容易ではない。両者を混融して新しい様式をつくることは、われわれの時代において困難であるごとく天平時代においても困難であった。そこで複雑な情緒の持ち主の間からも単純な文芸しか生まれ得ないということは可能であった。のみならず万葉の恋歌には恋人の間の贈答が多い。それは直接に相手を動かすことを目ざすのであって、客観的な描写を意図するのではない。だから万葉の歌が当時の女の心を残る所なく現わしていると見るわけにはゆかぬ。もし万葉の歌のみをもって当時の人心を説明するとすれば、仏教や仏教芸術はその意義の大半を失うであろう。  しかし万葉の恋歌は、一々の歌の内容は単純であっても、それの詠まれた境位が必ずしも単純でなかったことを思わせるものがある。婦人たちはただその情熱を訴えることに急であって、その情緒の複雑さを分析し描写する余裕を持たなかったが、しかしそれは複雑な心の葛藤を経験しなかったということではない。新来の文化の圧倒的な影響のもとにあっても、彼らの生活の中心は恋愛であった。身と心とを同時に燃焼せしめるような純粋な恋愛であった。しかし恋愛がすなわち結婚であり、情人がすなわち妻であって、両者を区別する意識の稀薄であった当時には、愛の衰うるところに別離があり、愛あるところにのみ運命の安定があったと考えられる。従って当時の婦人には、親和力の向かうままに夫を変える自由があると共に、また身を委ねた男からいつ捨てられるかわからない危険もあった。制度の束縛のために親和力を無視せしめられる悲劇は起こらなかったが、引力と拒力との交錯によるさまざまの悲劇は起こらなくてはならなかった。従って女はその恋愛の幸福を持ち続けるために、ただその官能の魅力のみに頼っていることはできなかった。万葉の女の歌が男の歌に劣らず優れているのは、そのためでないとは言えない。  天平時代は(他の時代もそうであるが)多妻を怪しまなかった。光明后を配とする聖武帝にすら他に夫人があった。女はそれに慣らされていたかも知れぬ。東国の女が都にある夫を恋うる歌に、大和女の膝を枕にする時にも私を忘れてくれるななどというのもある。しかし恋愛が独占を要求するのは昔も今も変わるまい。男がそれを要求したごとく女もまたそれを望んだであろう。ことに夫妻が別居して時々逢うに過ぎなかった当時の事情では、この感情は特に強まりやすかったに相違ない。夫恋しさに死を思うほど熱して行く妻の情緒は、それでなくては解し難い。わたしばかりがあなたを恋している、あなたがわたしを恋するというのは口先の気休めに過ぎぬという大伴坂上郎女の恨みも、そこから解せられなくてはなるまい。男の恋が女よりも自由であったとすれば、この苦しみが女の方にはるかに強かったということも想像せられる。  また親和力の向かうがままに行動することのできた時代であったとは言っても、そこに何らの拘束もないわけでなかった。「ひとごと」に対する恐れのごときがそれである。人言の繁きをいとうて逢うのを避けてはいたが、それを深い意味にとってくれるなとか、あなたがこの恋を遂げようという強い意志を持つなら、人言がいかに繁くとも逢いに出ようとか(高田女王)、あるいは、あの夜でなくても逢えたものを、なぜまたあの晩に逢って人に評判せられることだろうとか(大伴坂上大嬢)、明らかに恋は拘束せられている。しかしこの「人言」の内容は何であったか。兄妹の恋や人妻の恋が非難せられるのはわかっているが恋を卑しいとしない時代に単なる恋が世間の非難をうけるというのは解し難い。恐らくそこには娘の運命を見まもる親の愛が意外に強い権威を持っていたのであろう。母にさえ秘めている心をあなたに委せるという歌がある。この場合「人言」が恐れられるとすれば、その奥底には母の権威が控えているに相違ない。また、事があらば小泊瀬山の墓へも共に埋められよう、それほどにしても離れまい、心配するなという歌がある。もしこれが伝にいう通り、親に隠して恋をする女から、女が親に呵責せられるのを恐れてためらっている男へ贈ったものであるとすれば、親の権威はかなり強かったと見なくてはならぬ。(もとよりこの歌にそういう背景をつける必要はないのであるが。)──しかしそれだけではまだ足りない。恋を重んずる時代には、他人の恋に対する嫉妬が強かったろうということも考える必要がある。美しい女を独占する者の上には、その女に対してある感情を持ったあらゆる男の敵意が集まってくるに相違ない。恋愛の幸福に酔う美しい女の上にも、その幸福に薄いあらゆる女の敵意が集まるであろう。それはやがて悪意に変じ呪詛に変ずる。人々はその恋人たちの不幸を願う。自然人であった天平の人の間にこのことのあるのは不思議でない。かくて恋愛は恋を重んずる心のゆえに迫害をうけるのである。──人言の恐れられる理由はこれだけではまだ尽きないであろう。が、とにかく人言は過度に恐れられた。恋はきわめて秘密でなくてはならなかった。そうしてこの秘密が女の心の最も深き教育者であった。  また天平の女は恋において受身であったばかりではない。笠女郎のごとく男に恋を迫る歌も万葉には多い。確かに天平の女は男にまけてはいなかった。詩歌においても政治においても宗教においても、天平時代ほど女の活躍した時代はほかにない。そのごとく恋においても勇敢であった。そうして男が多妻であるごとく、女も、つぎつぎにではあるが、多夫に見ゆることを辞せなかった。万葉の女詩人鏡女王は、もし額田姫と同人であるならば、白鳳期の代表的人物を三人とも自分の夫とした。大仏鋳造時代の執政者橘諸兄の母である橘夫人は、後に藤原不比等の妻として光明后を生んだ。  このような天平の女がただ単純な抒情詩的な心持ちばかりでその日を送っていたとは思えない。人生と文化との広濶な海面を見わたす能力が当時の男にあったとすれば、女にもまたあったであろう。インドとシナとの爛熟した文化生活が当時の男に感染していたとすれば、女にもまた感染していたであろう。  この方面のことについては『万葉集』は証拠を見せてくれない。光明后宮の維摩講に唱われた仏前唱歌「しぐれの雨間無くな降りそ紅ににほへる山の散らまく惜しも」のごときは、仏に対する感情が全然表現せられていない点でわれわれを驚かすのである。しかし『万葉集』の世界と仏教芸術の世界とは全然食い違っている。それは単に抒情詩と造形美術との差違ではない。趣味や要求や願望や、要するに心情の根本をなすものの差違である。一つの時代にかくのごとき二つの世界があるということは、現在目前に多くの世界の分立を見ることのできるわれわれには、少しも驚くに当たらない。外来文化の咀嚼がほとんど『万葉集』のうちに認められないからと言って、天平時代の人々が外来文化を咀嚼しなかったと断ずるのは早計である。たとい少数の専門家のことに過ぎなかったとしても、仏教哲学の理解はすでにはじまっている。いわんやあの巨大な堂塔・仏像の造立は、一般の人心を刺戟せずにはいない社会的な出来事である。この大きい出来事が人心の奥底にまで沁み込まなかったとは考えられぬ。なるほど仏教芸術の製作や受用はシナの模倣であって日本人固有のやり方ではなかった。それに比べれば『万葉集』には日本人固有の感じ方が出ている。しかし西洋の様式を学んだ日本人の油絵が日本人の芸術であり、しかもある者は固有の日本画よりもよき芸術品たり得たごとく、唐風を模した日本人の仏像・寺塔もまた日本人の芸術であって『万葉集』の歌以上の価値を持っているということは言えないだろうか。固有の日本人の「創意」などにこだわる必要はない。天平の文化が外国人の共働によってできたとしても、その外国人がまたわれわれの祖先となった以上は、祖先の文化である点において変わりはない。『万葉集』の歌は貴い芸術であるが、しかし天平文化の一部を示すものであって、全部を示すものではない。われわれは仏教芸術においてもまた天平時代の人の心を読み得るのである。  そこで考えられるのは天平の尼僧の生活である。彼らの内生もまた相当の深味を持っていたのではなかろうか。  当時の仏教が国民の内生と深いかかわりを持たなかったことを『万葉集』の証拠によって主張するのは、右に説いたごとく一面的な見方にすぎない。また日本人は楽天的であるゆえに厭世観を根柢とする仏教を咀嚼し得るはずはなかったという主張も、奈良の六宗に対しては通用するとは思えない。あの芸術的・哲学的な宗教へ近づく道は、厭世観のみではないからである。また宗教として人間苦の体験が必須の条件であるというならば、饑饉と疫病との頻発する当時の生活には、人生の惨苦は欠けていないと答えることができる。  行基の起こした宗教運動に対しては当時の官権は同情を持たなかった。「小僧行基及びその徒弟等、街衢にて妄りに罪禍を説き、朋党を構えて指臂を焚剥せしめ、諸家を歴訪仮説して強いて余物を乞い、聖道を詐称し百姓を妖惑する。ために道俗擾乱し四民は業を棄てる。進んでは釈教に違い退いては法令を犯す。」これが後に菩薩とまで言われた行基の五十近いころ(養老元年)に受けた非難である。この運動は官権の禁戒にもかかわらず存続した。「近ごろ右京の僧尼が戒律を練らずただ浅薄な知識をもって因果を説き民衆を誘惑する。人の妻子にして、仏教と称して親や夫を捨て家を出るものがある。経を負い鉢を捧げて道途に食を乞うものがある。邪説を偽称して法を村邑の間に広めるものもある。この種の群衆は初めは修道に似るもついには奸乱をなすに至るだろう。」これが五年後(養老六年)の官奏である。さらにその後九年を経て、行基の事業はようやく官権に認められ、彼の追随者は、男は六十一、女は五十五以上ならば、正式に僧尼となることを許された。しかしなお自余の持鉢行路者は捕縛せられなくてはならなかった(天平三年詔)。寺に寂居して教えを受け道を伝うるのが僧尼の常道であるとする当時の官権には、これらの宗教運動は過激に見えたのであろう。しかし官権が認容しなかったからといって、この運動を直ちに低級な迷信と見てしまうのは考えものである。行基の徒が因果を説いた。これは仏徒として正しい。乞食に生きた。それもまた同様に正しい。それだけでは聖道を詐称することにはならない。行基の伝道に興奮して四民が業をすて家を出た。それは行基がその教説を実感によって説いた証拠である。百姓を妖惑したのではない。また出家者が愛欲を断つのは、その出家が内的必然から出た証拠である。しかし官権はこのような宗教的徹底を喜ばなかったのである。  思うに当時の民衆の一部には、上流社会におけるよりもはるかに強い宗教的要求があったのであろう。しかし出家の教えが大衆の間に文字通りに実行されれば、社会の組織は崩壊するほかないであろう。なぜならそこには食物を生産する者はなく、ただ食物を乞うもののみとなるからである。この矛盾のために出家の制限が必要となった。そこで僧尼の資格として浄行三年、法華経諳誦というごときことが課せられるに至った。これはいわば各人の宗教的要求を制限することである。  しかしこの矛盾を解決しようとする試みはやがて企てられなくてはならなかった。行基が当代の英雄として認識せられると共に、仏寺の興隆が社会問題の解決策として現われて来たのである。社会の不安を激成する天変地異は仏法によって打ち克たれねばならぬ。そこで数知れぬ寺々、特に国分寺の造営が始まる。僧尼の需要も多くなる。行基の追随者のごとき持鉢行路者の多数は、この時に手ぎわよく処理せられた。天皇が不予だといっては三千八百人の僧尼がつくられる。太上天皇の陵を祭るといっては僧尼各一千が度せられる。大仏ができたといっては宮中で千人の僧尼の得度式をやる。もとよりそこには上流階級の人もあったに相違ないが、多数は中流及びそれ以下の社会の求道者であった。  浮浪人はかくして尊むべき三宝の一に化し、行基が民衆の間に根強く育てておいたものはついに天平文化の有力な支持者となった。  これらの僧尼数の少なくとも三分の一は尼であった。そのうちにはもはや現世に望みをかけない老婆もあったであろう。しかし人の妻や娘が少なくなかったことも、前掲の官奏の言に明らかである。そこでこれらの尼が真実に現世を捨離して清浄な生活を営んでいたかどうかが問題になる。  確かに彼らのうちには、人生の惨苦に刺戟せられて真に出離の人となったものもあったに相違ない。しかしよりよき生活への絶えざる憧憬のために現在の状態に満足し得ない多くの女がその現世への強い執着に追われてかえって尼となったこともないとはいえまい。彼らは生きがいのある生活を求めたのであって、必ずしも出離を志したのではない。また親の意志によって、あるいは流行の威力に圧せられて、うかうかと尼になったものもあったであろう。そこには真実の宗教的決意があったわけではない。この種の尼は最初の狂熱が醒めた時何を感じなくてはならなかったか。彼らは国家の権力によって物質的生活を保証せられた。仏教芸術によって心の糧を与えられた。しかし彼らの愛欲がそれで充足させられたろうとは考え難い。あるものはついに不犯の誓いを破ったであろう。あるものは数年の後に還俗したであろう。それは自然のなりゆきである。そうならなければ天平の女が愛において勇敢であったとはいえない。  けれどもこのことは、彼らの内の現世捨離の要求が強力でなかったという証拠にはなっても、彼らが仏教文化に対して無感動であったという証拠にはならない。愛欲から解脱し切ることは宗教的に選ばれたものにのみ可能である。しかし絶対者である仏の慈悲を感ずること、美しい偶像と音楽とのもたらす法悦に浸ることは、愛欲に駛る多くのものにも不可能ではない。彼らは尼寺の束縛を破ったにしても、仏の前には涙を流したのである。  しかし天平の尼の品行が尼らしくなかったという確証はない。僧尼に対する訓令の多くは学業の弛廃を警むるにあった。たとえば「転経唱礼は規矩に従うべきであるに近ごろの僧尼は我流の調子を出す。これが習慣となってはよろしくない。以後は唐僧道栄・学問僧勝暁の式に則れ」(養老四年)というごときである。しかし大仏鋳造のころ、僧尼の激増した時期を境として、漸次、新しい気風が生まれ、一種のデカダンが発生するに至ったことも推測せられる。僧尼の淫犯を警むる訓令は延暦ごろから現われ始めた。弘仁九年の戒告のごときはきわめて猛烈なものである(日本逸史)。これは密教の山ごもりの意義とも関係があるであろう。とにかく天平中ごろの僧尼の気風と弘仁期のそれとの間には著しい相違があるのである。  弘仁期の僧尼の気風を知るには『日本霊異記』に越すものはない。その物語るところは多く天平の異聞であるが、文芸としては弘仁の特性を現わしている。そのなかから天平を透見するのはかなり困難である。しかし岡本寺の尼が観音を愛慕する情や、行基に追随した鯛女(富の尼寺上座の尼の娘)が蝦を助けるためにその童貞を犠牲にしようとした慈悲心などには、天平の尼の一面が現われているかも知れない。弘仁期の気分には素朴ながらにも強いデカダンの香気がある。天平のそれはもっと朗らかに、もっと純粋である。  尼君の血色はまれに見るほど美しかった。お付きの尼僧の話では、朝は四時に起きて、本堂へ出て看経する。「若いお子さんたちは身仕度をして本堂へ歩いて来るまでがまるで夢中で」ある。冬などはすっかりお勤めが済んだころにやっと表が明るくなる。その代わり夜は早い。──あの血色はその賜であろう。  尼君は手箱をあけて、小さい犬ころのおもちゃを取り出し、それを紙にのせて皆の方に押しやった。犬ころは紙の上であと足をはね上げたような格好をして立っていた。指先でつまんだあとが土に残ってそれがそのまま胸になり足になりしている愉快なものだった。 「これをなあお子供衆のお腰に下げておおきやすと奇体に虫除けになりますそうでなあ方々からくれくれ言やはりますので皆あげてしまいましてなあもうこれだけより残っとりませんけれど──どうぞお持ちやして」  これは尼君がつれづれの手細工であった。尼君はこのおまもりの来歴やら造り方やらを話し続けた。その右手の床の間にはガラスの箱に入ったお人形が飾ってあった。  尼君の頬のみずみずしさはまるで赤ん坊のようであった。しかし顔の感じにはどこか興福寺十大弟子の目犍蓮に似たところがあった。 十四 西の京──唐招提寺金堂──金堂内部──千手観音──講堂  法華寺で思わず長座をしたので、われわれはまたあわてて車を西に駛せた。法華寺村を離れると道は昔の宮城のなかにはいる。奈良と郡山の間の佐保川の流域(昔の都)を幾分下に見渡せる小高い畑地である。遠く南の方には三輪山、多武の峯、吉野連山から金剛山へと続き、薄い霞のなかに畝傍山・香久山も浮いて見える。東には三笠山の連山と春日の森、西には小高い丘陵が重なった上に生駒山。それがみな優しい姿なりに堂々として聳えている。堂々としてはいても甘い哀愁をさそうようにしおらしい。ここになら住んでみようという気も起こるはずである。  道は宮城の西辺へ折れ、古の右京一坊大路を南に向かって行く。尼辻、横領などという古めかしい名の村を過ぎると、もうそこに唐招提寺の森がある。  道から右へ折れて、川とも呼びにくいくらいな秋篠川の、小さい危うい橋の手前で俥を下りた。樹立ちの間の細道の砂の踏み心地が、何とはなくさわやかな気分を誘い出す。道の右手には破れかかった築泥があった。なかをのぞくと、何かの堂跡でもあるらしく、ただ八重むぐらが繁っている。  もはや夕暮れを思わせる日の光が樹立ちのトンネルの向こうから斜めに射し込んで来る。その明るい所に唐招提寺があった。  唐招提寺へは横の門からはいった。初めてあの金堂を見るT君のためにはぜひ正面の南門へ回るべきであったが、みんなはもう幾分か疲れていたので、わざわざ遠回りをする勇気も出ず、ずるずると金堂の横へ出たのであった。しかし堂のうしろ側の太い柱の列やその上にゆったりとかかっている屋根の線が眼に飛び込んで来ると、やはりハッとせずにはいられないものがあった。大海を思わせるような大きい軒端の線のうねり方、──特にそれを斜め横から見上げた時の力強い感じ、──そこにはこの堂をはじめて見るのでないわたくしにとっても全然新しい美が感ぜられたのである。  この堂の横の姿の美しさをわたくしは知らないではなかった。かつて堂の西側の松林のなかに立って、やはり斜めうしろから、この堂の古典的な、堂々とした落ちつきに見とれた時にも、あの屋根の力強さや軽さ、あの柱の重さや朗らかさは、強い印象をわたくしに与えた。しかしあの渾然とした調和や、底力のある優しみや、朗らかな厳粛などが、屋根や柱の線の微妙な釣り合いにかくばかり深くもとづいているとは気づかなかったのである。軒端の線が両端に至ってかすかに上へ彎曲しているあの曲がり工合一つにも、屋根の重さと柱の力との間の安定した釣り合いを表現する有力な契機がひそんでいる。天平以後のどの時代にも、これだけ微妙な曲線は造れなかった。そこに働いているのは優れた芸術家の直観であって、手軽に模倣を許すような型にはまった工匠の技術ではない。  そういう感じを抱きながら堂の正面へ出て、堂全体をながめると、今さらながらこの堂の優れた美しさに打たれざるを得なかった。この堂全体は右のような鋭い、細かい芸術家の直観から生まれている。寄せ棟になった屋根の四方へ流れ下るあらゆる面と線との微妙な曲がり方、その広さや長さの的確な釣り合い、──それがいかに微妙な力の格闘(といっても、現実的な力の関係ではなく、表現された力の関係である)によって成っているかは、大棟の両端にある鴟尾のはね返った形や、屋根の四隅降り棟の末端にある鬼瓦の巻き反ったようにとがった形が、言い現わし難いほど強い力をもって全体を引きしめているのに見てもわかる。ことに鴟尾の一つが後醍醐時代の模作として幾分拙いために、両端から中央へ力を集めようとする企画がかなりの破綻を見せているなどは、この堂の調和の有機的なことを思わせるに十分である。さらにこの屋根とそれを下から受ける柱や軒回りの組み物との関係には、数えきれないほど多くの繊細な注意が払われている。柱の太さと堂の大きさとの釣り合い、軒の長さと柱の力との調和、それらはもうこれ以上に寸分も動かせない。大きい屋根が、四隅へ降るに従って、面積と重量とを増して行く感じを、下からうけとめ、ささえ上げるためには、立ち並んだ八本の柱を、中央において最も広く、左右に至るに従って漸次相近接して立てている。その間隔の次第に狭まって行く割合が、きわめて的確に屋根の重量の増加の感じと相応じているのである。もとよりここには屋根の面や線のまがり方も重大な関係を持つのであって、降り棟の端へ集まった屋根の重さは、軒端の線の彎曲によって、そこから最も遠い中央の柱へも掛かって行くようになっている。かくして上と下との力が何らの無理もなく相倚り相掛かって、美しい調和を造り出すに至るのである。  これらのことは精密な計算によって明らかにされるのであるかも知れない。たとえば柱の間隔が左右に至るに従って狭まる率や、その結果柱の支力が左右に至るに従って高まる率などは、数学的に計算し得られるであろう。それに対応して軒端の線も屋根の面も左右に至るに従って上へ彎曲している。その彎曲線や彎曲面の曲率と支力の高まる率との間にも何らかの関係があるであろう。もちろんこれは現実的な力の関係ではない。屋根が上へそり反ろうと、あるいは下へ垂れ下がろうと、それによって屋根の重さに変わりがあるわけではない。しかし上へそり反った屋根の下に強力な柱があれば、その屋根の彎曲が柱の支力の表現になるのである。ここで問題にするのはそういう表現の背後に案外に精確な力の関係が隠されているのではないか、という点である。  堂の正面をぶらぶらと歩きながら、わたくしは幸福な少時を過ごした。大きい松の林がこの堂を取り巻いていて、何とも言えず親しい情緒を起こさせる。松林とこの建築との間には確かにピッタリと合うものがあるようである。西洋建築には、たとえどの様式を持って来ても、かほどまで松の情趣に似つかわしいものがあるとは思えない。パルテノンを松林の間に置くことは不可能である。ゴシックの寺院があの優しい松の枝に似合わないことも同様であろう。これらの建築はただその国土の都市と原野と森林とに結びつけて考えるべきである。われわれの仏寺にも、わが国土の風物と離し難いものがある。もしゴシック建築に北国の森林のあとがあるとすれば、われわれの仏寺にも松や檜の森林のあとがあるとは言えないだろうか。あの屋根には松や檜の垂れ下がった枝の感じはないか。堂全体には枝の繁った松や檜の老樹を思わせるものはないか。東洋の木造建築がそういう根源を持っていることは、文化の相違を風土の相違にまで還元する上にも興味の多いことである。  正面から見るとこの堂の端正な美しさが著しく目に立つ。それは堂の前面の柱が、ギリシア建築の前廊の柱のように、柱として独立して立っているからかも知れない。しかし屋根の曲線の大きい静けさもこの点にあずかって力があるであろう。もちろんこの種の曲線はギリシアの古代建築に認められるものではない。ローマ建築の曲線にはこれほど静かな落ちつきは感ぜられない。尖角に化して行こうとするゴシック建築の曲線は全く別種の美を現わしている。従ってこの曲線の端正な美しさは東洋建築に特殊なものと認めてよい。その意味でこの金堂は東洋に現存する建築のうちの最高のものである。  しかしこの堂の美しさから色彩を除いて鑑賞することはできない。土に近づくほどぼんやりと消えて行く古い朱の灰ばんだ色は、柱となり扉となり虹梁となりあるいは軒回りの細部となって、白い壁との柔らかな調和のうちに、優しく温かく屋根の古色によって抱かれている。その鈍いほのかな色の調子には、確かにしめやかな情緒をさそい出さずにはいない秘めやかな力がある。それは永い年月の間に大気と日光との営みによって造り出された「さび」の力であるかも知れない。しかしさびを帯びた殿堂の色彩がすべてこれと同じ印象を与えるとは限らない。恐らく色彩の並列の地盤となっているこの堂の形が、色彩の力を一層高めているのであろう。と同時にまたあの古雅な色調が堂の形に幽遠な生の香気を付与しているのであろう。  金堂の大きい乾漆像を修繕しつつあるS氏に案内されて、わたくしたちは堂内に歩み入った。内部の印象にも外部に劣らずどっしりしたものがある。簡素で、そうして力強い。須弥壇の左右に立っている二本ずつの太い円柱は、中央の高い天井をささえながら、堂内の空気の一切の動揺を押えている。横やうしろの壁の白と赤との単純な調和と、装飾の多い内陣の複雑な印象とを、巧みに統一しているのもまたこの柱である。わたくしたちはその間を通って丈六の本尊の前へ出た。修繕材料の異臭が強く鼻をうつ。所々に傷口のできている本尊は蓮台からおろされて、須弥壇の上に敷いた藁のむしろにすわらされている。わたくしはその膝に近づいて、大きく波うっている衣文をなでてみた。S氏が側で、昔の漆の優良であったことなどを話している。あたりには古い乾漆の破片や漆の入れ物などが秩序もなく散らばっていて、その間に薄ぎたなく汚れた仕事着の人がつくばったまま黙々として仕事をしている。古の仏師の心持ちがふとわたくしの想像を刺戟し始める。とにかく彼らは、仏像をつくるということそれ自身に強い幸福を感じていたのではなかろうか。  この盧舎那仏に対しては、実をいうと、わたくしはこれまで感動したことがなかった。いかにも印象の鈍い、平凡な作で、この雄大な殿堂に安置されるにはふさわしくない、と感じていた。しかし今度は、近々と寄って細部に現われた細かいリズムにふれることができたせいか、全体の印象にかなりの快さを感ずるようになった。なるほど鈍い感じはあるが、しかし特に拙さを感じさせるところもないのではないか。堂の美しさに圧倒されて目立たなくなってはいるが、天平末期の普通作としては優れた方である。少なくともこの殿堂の渾然とした美しさの一つの要素となっているだけでも、この像に底力がある証拠ではなかろうか。  わたくしはこのような新しい印象のもとに、この像をながめなおした。それとともにこの堂内の仏像全体に対しても以前よりは強い愛を感ずるようになった。ことに右の脇士千手観音は、自分ながら案外に思うほどの強い魅力を感じさせた。確かにここには「手」というものの奇妙な美しさが、十分の効果をもって生かされている。実物大よりも少し大きいかと思われるくらいな人の腕が、指を前へのばして無数にならんでいるうちに、金色のほのかな丈六の観音が、その豊満な体を浸しているのである。「手」の交響楽──そのなかからは時々高い笛の音やラッパの声が突然の啓示ででもあるかのように響き出す──それは潮のように押し寄せてくる五千の指の間から特に抽んでて現われている少数の大きい腕である。この交響楽が、人の心を刺戟し得る各個の音とその諧和をもって──すなわち何らかの情緒を暗示せずにはいない一々の手とその集団から起こる奇妙な印象とをもって──観音なるものの美を浮かび出させているのである。この像だけはその印象の鋭さが本尊盧舎那像や左脇士薬師如来の比ではない。  わたくしはこの印象をなぜ予期しないでいたかを自ら怪しんだ。というのは、わたくしはこの「手」の奇妙な感じをすでに一年前に経験したのだからである。その時には観音のまわりに足場が築いてあって、観音自身は白い繃帯に包まれていた。そうしてこれらの千の手は、一々番号の紙ふだをつけて、講堂の西半の仕事場一面にならべてあった。わたくしは近よってその二三の手をつらつらながめて見たが、かなり写実的にできた立派な作であった。しかし写実的であるだけに、肩から切り取ったような腕がいくつもごろごろころがっている光景は、一種不気味な刺戟を与えずにはいなかった。立像にまとめてあるのを見ればさほどの数とも思われないが、百畳ではきかない広い室に一面にならべてあるのを見ると、実際に大変な数であった。天平の古美術を鑑賞するという意識に十分めざめていても、妙に陰惨な感じを受けないではいられなかった。──そのときにわたくしは、この生気のある数多い手を一つの全体にまとめあげた姿が、いかに奇異な力を印象するだろうかに気づくべきであった。しかし今その姿を自分の目で見て、やっと気づくに至ったのである。あの不気味な感じを与えた腕は、芸術的にいかにも有力に生かされている。それを見ると、この種の幻想を持ち、この種の構図を造り出した古人に対して、今さら尊敬の念を起こさずにはいられなかった。  わたくしはかつてラインハルトの試みた「奇蹟」の舞台面を写真で見たことがある。数百の──あるいは千以上の手が、中央の高い壇上に立つ女主人公に向かって、高くささげられている光景である。わたくしはこの手の効果にうたれた。しかし今思えば、純粋の手の効果をねらった芸術として、すでに千手観音というものがあったのである。  S氏はこの手の修繕をおえてそれをもとへ返したときの苦心を話した。いかに番号をうっておいたところで、あの数多い手をことごとくもとの位置に返すということはできるものでない。従ってうまくおさまらない手がいくつも出てくる。それを拙くなくおさめなければならぬその苦心談である。  金堂を出て講堂に移る。この講堂はもと奈良の京の朝集殿であった。すなわち和銅年間奈良京造営の際の建築である。しかし現在の建築には天平の気分はほとんど認められない。鎌倉時代の修繕の際に構造をまで変えたといわれているから、全体の感じは恐らく原物と異なっているのであろう。もっとも内部の柱や天井は天平のままだそうである。堂の外観が与える印象はむしろ藤原時代のデリケートな美しさに近い。  しかし金堂と対照して講堂が全然様式を異にしていることは意味のあることである。礼拝堂と研究所との建築にこれほど著しく気分の相違を現わさないではいられなかった古人の芸術的関心は、十分我々の尊敬をうけるに足りる。  講堂のなかに並べてある諸像のうちでは特に唐軍法力作の仏頭と菩薩頭とが美しかった。もとはかなり大きい像であったらしいが、今は胴体全部が失われて、ただ頭部のみ残っているのである。仏頭の方は鼻も欠けているけれども、その眼や口や頬などのゆったりとした刻み方をながめていると、何とも言えずいい心持ちになる。菩薩の顔は表面に塗ったものが剥落しているきりで、形は完全に残っているから、その夢みるような瞼の重い眼や、端正な鼻や、美しい唇などが、妨げられることなしにわれわれに魅力を投げかける。確かにこれらの頭は金堂の諸像よりも優れている。寺伝の通りこれが法力の作であるならば、講堂の本尊であった法力作丈六釈迦像もさだめて立派なものであったろう。 十五 唐僧鑑真──鑑真将来品目録──奈良時代と平安時代初期  鑑真とその徒が困難な航海の後に九州に着いたのは、大仏開眼供養の翌年の末であったといわれている。彼らが京師に入る時の歓迎はすばらしいもので、当時の高官高僧は皆その接待に力をつくした。聖武上皇からは鑑真に対して、自今戒授伝律の職は一に和尚に委すというような勅が下る。やがて東大寺大仏殿前に戒壇を築いて、上皇以下光明后・孝謙女帝などが真先に戒をうけられる。  こういう歓迎は鑑真の名声とその渡来の困難を思えば無理もないのである。『鑑真東征伝』はどれほど信用のできる書物か知らないが、とにかくそれによると彼は当時のシナにあっても名僧として民衆官人の尊崇をうけていた。天平五年、和尚四十六歳のころには、淮南江左に和尚より秀でた戒師なく、道俗これに帰依して授戒大師と呼んだ。前後大律並びに疏を講ずること四十遍、律抄を講ずること七十遍、軽重義を講ずること十遍、羯磨疏を講ずること十遍、三学三乗に通じて、しかも真理を求めてやまなかった。講授の間にはまた寺舎を建て十方僧を供養し仏菩薩の像を造った。あるいは貴卑平等の大会を催し貧富の差別の逓減を計り貧病に苦しむものを救った。これらのことはその数計り難い。その写した経は一切経三部三万三千巻にのぼり、その授戒した人は四万人以上に及んでいる。その弟子には名の現われたものが三十五人ある。このような有名な人であったために、時人に惜しまれて、日本にくるにはほとんど脱走のごとき手段をとらなくてはならなかった。たまたま準備がととのうて海に出ると、暴風がすべてを破壊した。こうして十余年の間、五度失敗をくり返してさまざまの災厄に苦しめられたが、なお彼は日本渡来の願望を捨てなかった。  天平勝宝五年秋に至って、入唐大使藤原清河、副使大伴胡麿、吉備真備などが、揚子江口なる揚州府の延光寺に和尚を尋ねて使節の船に便乗せむことを乞うた。和尚は喜んで承諾した。しかし和尚日本に去らむとすという噂がひろまると共に、寺では防護を固うして和尚を寺外へ出さなかった。そこで和尚は一禅師の助けをかりてひそかに江頭に舟を浮かべて脱れ出た。そうして弟子たちと共に蘇州黄泗津の日本船に入った。大使は郡の官権の捜索を恐れて一度彼らを下船せしめたが、大伴副使は夜陰に乗じてひそかに彼らを自分の船にかくまった。かくてようやく目的が達せられたのである。 『東征伝』によれば、随行の弟子は、揚州白塔寺僧法進、泉州超功寺僧曇静、台州開元寺僧思託、揚州興雲寺僧義静、衢州霊耀寺僧法載、竇州開元寺僧法成、その他八人の僧と、藤州通善寺尼智首、その他二人の尼と、揚州優婆塞潘仙童、胡国人安如宝、崑崙国人軍法力、瞻波国人善聴、その他を合わせてすべて二十四人であった。泉州は福建省に、台州・衢州は浙江省に、竇州・藤州は広西省にある。胡国は西域の汎称に用いられ、崑崙国はコーチンチャイナ(仏領インドシナ)のある国を意味し、瞻波国はコーチンチャイナの一部であった。大体に南シナ人である。  右のうち胡国人如宝は招提寺金堂の建築家と伝えられている。渡来のころようやく二十歳ぐらいの青年であった彼が、どうしてあの偉大な殿堂の建築家となり得たかは、知る由がない。金堂建立の時代も未詳であるが、『招提千載伝記』を信ずるとすれば如宝二十五六歳のころである。またある学者の説くごとく鑑真遷化後の建立とすれば、如宝はすでに三十歳を超え、日本に十年以上の年月を送っている。その間に東大寺の戒壇で大和尚から具足戒をうけて一人前の僧侶となり、下野の薬師寺に戒壇が設けらるるや戒師として赴任した。もし如宝に建築の天才があったとすれば、それはどの時代に哺育せられたのであろうか。『招提千歳記』には彼は朝鮮人であって幼時より鑑真の門に入っていたとあるが、もし二十歳前の師事の間に建築についてのさまざまの技能を獲得したとすれば、なるほど「天性異気万員に秀で」ていたことになる。しかしそれほどの天才あるものが、二十歳すぎの有力な五年あるいは十年をむだに過ごすはずはないであろう。そうしてその五年あるいは十年は、主として今できあがりつつある、あるいはできあがったばかりの、雄大な東大寺伽藍のうちに過ごされたと見なくてはならない。なぜなら、大仏殿は大仏開眼の前に建てられたらしいが、伽藍全体はそのときまだ完成していなかったからである。かく見れば東大寺造営の騒ぎが天才如宝を哺育したと考えられなくもないのである。  鑑真遷化の時如宝はわずか三十歳ぐらいであったが、先輩法載・義静の二人と共に大和尚から後事を託せられた。天平時代末より弘仁時代にかけての四五十年間、彼は招提寺の座主としてかなり活躍したらしい。弘法大師と親しかったことも伝えられている。  崑崙国人軍法力はあの美しい仏頭の作者である。招提寺の彫刻家のうちにインドと関係の深い崑崙国人がいたということは、招提寺の木彫に、あの大腿の太いそうして衣がその大腿に密着している南インド様式の著しく現われている事実を、おもしろく説明しているように思う。彼がどういう素性の人であったかは記してないが、天平十五年鑑真第二回の出帆計画の条に、僧十七人、玉作人、画師、彫仏、刻鏤、鋳、写繍師、修文、鐫碑等工手、都合八十五人とあるによって判ずれば、鑑真が美術家を連れて来たがったことは明らかであって、法力がこの種の人であったろうことも容易に想像される。招提寺の数多い建築にはおのおの数個の仏菩薩像が安置せられなくてはならなかった。彼は日本人の徒弟を指揮してその製作に努めたに相違ない。招提寺の古い木彫の多くは恐らく彼及び彼の弟子の製作であろう。  金堂本尊の製作者は思託・曇静の両人とせられている。あるいは義静の作ともいう。共に鑑真に従って渡来した唐僧である。ことに思託は仏像を造る妙技を得て、本尊のほかに左脇士薬師の像や開山堂の鑑真像や数多くの仏菩薩などを造った。また現存『東征伝』の源泉たる『東征伝』三巻や『延暦僧録』一巻などを書いた。鑑真弟子中の優秀な人であったに相違ない。しかし美術家として優れた法力をさしおいて、この人が本尊を造ったということには、何か理由がなくてはならぬ。思うに法力は乾漆像に慣れていなかったのであろう。丈六坐像を木で彫むのは困難であり、また乾漆は当時の流行であったために、本尊は乾漆ときまった。そうして乾漆像の工手は我が国にも少なくなかった。そこで思託の指揮のもとに製作が始められる。法力はそれを学んで、後に講堂の丈六釈迦像を造り得るに至った。かく想像することもできる。法力をインドと結びつけて考えるにもこの想像は都合がいい。  千手観音の作者についてはおもしろい伝説がある。『招提千歳記』によればそれは天人である。寺の西北二町、森樹欝々たる小丘に、七昼夜の間深い霧がかかって中が見えなかった。その間に天人がこの像を造り上げた。──『七大寺巡礼記』は化人の説をあげている。竹田佐古女が造ったというが、その佐古女は化人だ、というのである。いずれにしても時人を驚かせる出来事があったらしく思われる。あの数多い手を一つずつ作って行く仕事場の光景を想像すると、いろいろな伝説が発生しても無理はないと思う。  鑑真の連れて来た外国人はわりに少数であったが、その将来した品物はかなり多い。現在の丸善の仕事が昔はどういうふうに行なわれたかを見るために、ここに『東征伝』を抄録する。── 肉舎利三千粒。            功徳繍普集変一鋪。 阿弥陀如来像一鋪。          彫白旃檀千手像一躯。 繍千手像一鋪。            救世観音像一鋪。 薬師弥陀弥勒菩薩瑞像各一躯。     同障子。 大方広仏花厳経八十巻。        大仏名経十六巻。 金字大品経一部。           金字大集経一部。 南本涅槃経一部四十巻。        四分律一部六十巻。 法励師四分疏五本各十巻。       光統律師四分疏百二十紙。 鏡中記二本。             智周師菩薩戒疏五巻。 霊渓釈子菩薩戒疏二巻。        天台止観法門玄義文句各十巻。 四教義十二巻。            次第禅門十一巻。 行法花懺法一巻。           小止観一巻。 六紗門一巻。             明了論一巻。 定賓律師飾宗義記九巻。        補釈飾宗記一巻。 戒疏二本各一巻。           観音寺高律師義記二本十巻。 南山宣律師含注戒本一巻及疏。     行事抄五本。 羯磨疏等二本。            懐素律師戒本疏四巻。 大覚律師批記十四巻。         音訓二本。 比丘尼伝二本四巻。          玄弉法師西域記一本十二巻。 終南山宣律師関中創開戒壇図一巻。   法銑律師尼戒本一巻及疏二巻。 玉環水精手幡三口。          ………菩提子三斗。 青蓮花葉廿茎。            玳瑁畳子八面。 天竺革履二緉。            王右軍真跡行書一帖。 小王真跡三帖。            天竺朱和等雑体書五十帖。  このうち水精手幡以下の品物は内裡に献じたとある。最初の舎利三千粒も、初めて聖武上皇に謁する時に捧呈せられている。美術品は刺繍二つ、画像二つ、障子にかいた画が三つ、彫刻四つである。障子も彫刻も小さいものだったに相違ない。経典には疏の類が多い。これらの経疏が日本にないものを選んで持って来たのかどうかは調べてみないとわからないが、そうでなくとも、これらの経疏の輸入は当時の仏教の思想界に相当の影響を与えたであろう。  奈良時代と平安時代とを截然区別する心持ちがわれわれにある。それは便宜上造った時代の区分にまどわされたのである。もとより天平と弘仁の気分には著しい相違があるが、しかし天平時代末期から弘仁初期へかけての変遷は、漸を追うたものであって、どこにも境界線はない。弘仁期には天平時代末期のデカダンスへの反動がある。同時にその継続もある。この間の変遷よりはむしろ弘法滅後百年間の変遷の方がはるかに著しい。風俗の上ではいつの間にか平安時代風衣冠束帯ができている。女は長い髪をひきずって歩く。今の洋装のように体の輪郭を自由に現わしていた女の衣裳も、立ち居に不自由そうな十二ひとえに変わっている。住宅としては寝殿造りが確定した。文芸では『万葉集』の歌が『古今集』の歌に変わる。仮名がきが行なわれて、散文が造り始められる。日本人が初めて日本語の文章を作るに至ったのである。美術では繊美な様式が生まれ、それが後代の人から純日本式として受け容れられている。宗教には空也念仏のごときが現われる。すべて光景の一変したことを思わせるものである。  普通にはこの時代が外来文化の日本化せられた時代と見られている。もしこの特徴をもって時代を区別するならば、弘仁期は外来文化輸入の時代に入れられなくてはならぬ。しかしここに注意せらるべきことは、問題が単に輸入と咀嚼とのみにかかわっていないということである。衣冠束帯や十二ひとえや長い髪というごとき趣味の変遷は、ただ模倣から独創に移ったというだけのものではない。寝殿造りや仮名文字の類は、咀嚼や独創について最も有力な証拠を与えるものとせられているが、しかし仮名文字は漢字の日本化ではなくして漢字を利用した日本文字の発明であり、寝殿造りも漢式建築の日本化ではなくしてシナから教わった建築術による日本式住宅の形成である。すなわちこれらの変遷は外来文化を土台としての我が国人独特の発達経路と見らるべきである。固有の日本文化が外来文化を包摂したのではなく、外来文化の雰囲気のなかで我が国人の性質がかく生育したのである。この見方は外来文化を生育の素地とする点において、外来文化を単に插話的のものと見る見方と異なっている。この立場では、日本人の独創は外来文化に対立するものではなく、外来文化のなかから生まれたものなのである。  自国の言葉で文章の作れなかった時代と、作れるようになった時代と、──その間には確かに大きい進歩が認められる。しかしこの進歩は自国文化の独立のための努力によって得られたというわけではない。大唐文化が潮のように押し寄せて来た時代の人々は漢語漢文の使用を熱心に企てていたのである。自国の言葉の使用は宣命や和歌に限られていた。ということは、それが新しい思想や制度に対して役立たぬものと認められていた証拠である。すでに国文が精練された様式を獲得した後にも、漢文は何か偉いものとして通用した。女のみが和文をつくる時代は問わないにしても、近松や西鶴の出た後でさえなお漢文は流行し、また漢文を作ることが学者に必須な資格であった。現今でさえ外国文でその労作を発表する人は、外国文を綴り得るということだけですでに一種の尊敬をうけている。このような日本人が、かつて自国の文章を持たなかった時代に、漢文を自国の文章として怪しまなかったとしても、特に不思議がることはない。日本文はむしろ教養の不足のためにやむを得ず生まれてきたのである。すなわち平安朝の和文は漢学の素養の少ない女の世界から生まれ、漢字まじりの文は漢文を作る力のない武士の階級から生まれ、口語体は文章体をさえ解し得ない民衆の間から生まれた。このように、自国文化の独立というごとき意識によってではなく、やむを得ぬ必要から押し出されてきたというところに、日本人の創造としての意味があるのではなかろうか。  しかし漢語漢文で書いたとしても『日本書紀』が日本人の作品であることに変わりはない。われわれは奈良時代の漢文をも徳川時代の漢文のごとくに日本人の製作として評価して見なくてはならぬ。ある専門家の説によると、この時代の漢文は和臭が少なく、立派なものだとのことであった。これはいわゆる日本的なものの現われていないのをかえってよしとする見方である。造形美術も同じ意味のものと見られてよい。いかに外国の様式そのままであってもそれは日本人の美術であり得る。外来の様式を襲用することは、それ自身恥ずべきことではない。その道において偉大なものを作り出せさえすればよいのである。  確かに天平時代はその偉大なものを造った。この地盤がなければ、藤原時代の文化も起こり得なかったであろう。 十六 薬師寺、講堂薬師三尊──金堂薬師如来──金堂脇侍──薬師製作年代、天武帝──天武時代飛鳥の文化──薬師の作者──薬師寺東塔──東院堂聖観音  日暮れ近くについた薬師寺には、東洋美術の最高峰が控えている。  もう時間過ぎで見物ができないはずのところを、Y氏の熱心な斡旋で、われわれの前に大きい鍵をさげた小僧が立ってくれた。小さい裏門をはいると、そこに講堂がある。埃まみれの扉が壊れかかっている。古びた池の向こうには金堂の背面が廃屋のような姿を見せている。まわりの広場は雑草の繁るにまかせてあって、いかにも荒廃した古寺らしい気分を味わわせる。  講堂の横の扉のところで案内の僧が立ち留まると、どうだ見るかとZ君がいう。さよう、ここまで来たものだから。まあ話の種にね。こんな問答のあとで大きい鍵が荒々しく響いて、埃だらけの扉が開く。中には黒白だんだらの幔幕が一面に張りまわしてあった。それをくぐると、丈六の薬師三尊がガランとした堂の幽暗のうちに、寂然としてわれわれを見おろしている。わたくしは無造作にそれを見上げて、おやと思った。そこにある銅像は見ても見なくてもいいような拙いものではなくて、とにかく古典的な重味を持ったかなりの大作であった。この像をほめる人があるが、なるほど本当かな、と思いながら、わたくしは横へまわった。本尊の横顔はなかなかばかにはできないほど美しかった。脇侍の体もそれほど拙くはない。ここにも確かに「芸術家」が認められる。  わたくしはこの像に美しさを見いだしたことが何となくうれしかった。この像の美しさをおおうているのは、あの艶のないゴミゴミした銅の色である。もしこれが金堂の銅像のようにみずみずしい滑らかな色艶を持っていたならば、もっと容易に人の心を捕えることができたであろう。この像を見て起こす安っぽいという感じには、確かにあの色沢の影響があると思う。初めてこの像を見たときには、これを千年前の作品と信ずることができなかったが、しかしあとで聞くと、この像はどこか遠くないところの土中に何百年かの間埋まっていたのを、徳川時代に発掘してこの寺に移したのだそうで、あのゴミゴミした色は「埋もれた芸術」の痕跡なのであった。しかしそうなるとこの三尊はわれわれにとって大きい謎になってくる。これほどの大作がまるで忘れられて土中に埋まっていたのはどういうわけであろうか。これだけの三尊を安置した寺は相当に立派な寺といわなくてはならないが、その寺がまるで堙滅してわからなくなっているというのもどういうわけであろうか。この三尊はこの謎の解決をわれわれに要求しているのである。  金堂へは裏口からはいった。再会のよろこびに幾分心をときめかせながら堂の横へ回ると、まずあの脇立ちのつやつやとして美しい半裸の体がわれわれの目に飛び入ってくる。そうしてその巨大なからだを、上から下へとながめおろしている瞬間に、柔らかくまげた右手と豊かな大腿との間から、向こうにすわっている本尊薬師如来の、「とろけるような美しさ」を持った横顔が、また電光の素早さでわれわれの目を奪ってしまう。われわれは急いで本尊の前へ回る。そうしてしばらくはそこに釘づけになっている。ちょうどそこに床几がある。われわれは腰をおろして、またぼんやりと見とれる。今日は夕方の光線の工合が実によかった。あの滑らかな肌は光線に対して実に鋭敏で、ちょうどよい明るさがなかなかむずかしいのである。  この本尊の雄大で豊麗な、柔らかさと強さとの抱擁し合った、円満そのもののような美しい姿は、自分の目で見て感ずるほかに、何とも言いあらわしようのないものである。胸の前に開いた右手の指の、とろっとした柔らかな光だけでも、われわれの心を動かすに十分であるが、あの豊麗な体躯は、蒼空のごとく清らかに深い胸といい、力強い肩から胸と腕を伝って下腹部へ流れる微妙に柔らかな衣といい、この上体を静寂な調和のうちに安置する大らかな結跏の形といい、すべての面と線とから滾々としてつきない美の泉を湧き出させているように思われる。それはわれわれがギリシア彫刻を見て感ずるあの人体の美しさではない。ギリシア彫刻は人間の願望の最高の反映としての理想的な美しさを現わしているが、ここには彼岸の願望を反映する超絶的なある者が人の姿をかりて現われているのである。現世を仮幻とし真実の生をその奥に認める宗教的な心情から、絶対境の具体的な象徴が生まれなくてはならなかったとすれば、このように超人間的な香気を強くするのは避け難いことであったろう。その心持ちはさらに頭部の美において著しい。その顔は瞼の重い、鼻のひろい、輪郭の比較的に不鮮明な、蒙古種独特の骨相を持ってはいるが、しかしその気品と威厳とにおいてはどんな人種の顔にも劣らない。ギリシア人が東方のある民族の顔を評して肉団のごとしと言ったのは、ある点では確かに当たっているかも知れぬが、その肉団からこのような美しさを輝き出させることが可能であるとは彼らも知らなかったであろう。あの頬の奇妙な円さ、豊満な肉の言い難いしまり方、──肉団であるべきはずの顔には、無限の慈悲と聡明と威厳とが浮かび出ているのである。あのわずかに見開いたきれの長い眼には、大悲の涙がたたえられているように感じられる。あの頬と唇と顎とに光るとろりとした光のうちにも、無量の慧智と意力とが感じられる。確かにこれは人間の顔でない。その美しさも人間以上の美しさである。  しかしこの美を生み出したものは、依然として、写実を乗り越すほどに写実に秀でた芸術家の精神であった。彼らは下から人体を形造ることに練達した後に、初めて上から超絶者の姿を造る過程を会得したのであろう。自然の美を深くつかみ得るものでなければ、──またそのつかんだ美を鋭敏に表現し得るものでなければ、内に渦巻いている想念を結晶させてそれに適当な形を与えることはできまい。もとよりこの作は模範のないところに突如として造られたのではない。その想念の結晶も初発的のものとは言えない。しかし模範さえあれば容易にこの種の傑作が造り出されるわけではないのである。これほどの製作をなし得る芸術家は、たとい目の前に千百の模範を控えているにしても、なお自分の目をもって美をつかみ、自らの情熱によって想念を結晶させたであろう。ローマ時代のギリシア彫刻の模作は、いかに巧妙であってもなお中心の生気を欠き表面の新鮮さを失っている。そのような鈍さはこの薬師如来のどこにも現われていない。これは今生まれたばかりのように新鮮なのである。  わたくしはこの像を凝視し続けた。あの真黒なみずみずした色沢だけでも人を引きつけて離さないのである。しかもその色沢がそれだけとして働いているのではない。その色沢を持つ面の驚くべく巧妙な造り方が、実は色沢を生かせているのである。そうしてその造り方は、銅という金属の性質を十分に心得たやり方である。特殊な伸張力を持った銅の、言わば柔らかい硬さが、芸術家の霊活な駆使に逢って、あの美しい肌や衣の何とも言えず力強いなめらかさに──実質が張り切っていながらとろけそうに柔らかい、永遠に不滅なものの硬さと冷たさとを持ちながらしかも触るれば暖かで握りしめれば弾力のありそうな、あの奇妙な肌のこころもちに──結晶しているのである。が、このような銅の活用も、人体の美に対するこの作者の驚くべき理解がなくては可能でない。あの開いた右手を見よ。あの肩から肱へと左の腕を包んだ衣の流れ工合を見よ。それは単に一端であるが、しかしそれだけでもこの作者の目が何を見ていたかはわかるであろう。が、この作者の見た人体の美の深さは、まだこの作の奥底ではない。重大なのはこの作者の行なった選択と理想化とである。作者はその想念に奉仕するために、ある種類の美を表にし、他の種類の美を陰にした。そうしてその想念の結晶を完全な調和に導くために、あるものを強調しあるものを抑えた。かくして部分の形の美しさは全体の美の力によって生かされ、そこから無限の生気と魅力とを得てくるのである。つまり奥底には芸術家の精神が控えているのである。  その芸術家が何人であったかは知る由がない。日本人であったか唐人であったかさえもわからない。が、とにかくわれわれの祖先であった。そうして稀に見る天才であった。もし天才が一つの民族の代表者であるならば、千二百年前の我々の祖先はこの天才によって代表せられるのである。様式の伝統をたどってこの作を初唐に結びつけるのは正しい。遺品の乏しい初唐の銅像を逆にこの作によって推測するのも悪くはない。が、この作に現われた精神を初唐のそれと比較して、そこにいかなる異同があるかを探究することができれば、われわれの祖先を知る上には、はるかに意味の多い仕事である。この作に現われた偉大性と柔婉性との内には、唐の石仏やインドの銅像に見られないなにか微妙な特質が存しているように思われるが、それをはっきりと捉える方法はないものであろうか。この問題の解決は、日本という国が明確に成立した時代──すなわち美術史上にいわゆる白鳳時代──を理解する鍵となるであろう。  本尊に比べると、脇立ちの日光・月光はやや劣っているように思われる。面相や肢体の作り方は非常によく似ており、三尊仏としての調和もよく取れているが、しかし本尊の作者は恐らくこの両脇士の作者ではあるまい。本尊の下肢にまとう衣をあのように巧妙に造った芸術家が、脇立ちの下肢を覆う衣のあの鈍さに満足したろうとは思えない。同じことはその面相についても手についても肩についてもいえると思う。両脇士のうちでは右の脇士の方が優れている。右と左もあるいは異なった人の作であるかも知れない。あの本尊を造った芸術家に、これくらいの弟子の二人や三人があったとしても少しも不思議はない。  この三尊の製作年代は天武帝の晩年より持統女帝の退位にわたる十七年間である。最初天武帝がその皇后の眼病平癒を祈願するために計画せられたものを、帝の崩後、皇后(持統女帝)が、十年余の歳月を費やして完成せられたのである。本尊の開眼会は持統女帝の晩年、薬師寺伽藍の完成は文武帝の初年である。しかしこの本尊の鋳造の仕事は、『薬師寺縁起』にある通り、天武帝崩御前に畢っていたらしい。東塔露盤の銘文に鋪金未レ遂、竜駕騰仙、とあるのがその証拠である。さすればこの像の主要な製作年代は、天武帝の晩年と限ることができる。そうなるとこの偉大な五六年間の飛鳥の京は非常に注目すべきものとなるであろう。  天武帝は壬申の乱を通じて即位せられたために、古来史家の間にさまざまの論議をひき起こしてはいるが、われわれにとっては他の意味で興味の深い代表的人物である。第一に、帝は万葉の歌人として名高い。額田王に送って千載の後に物議の種を残した有名な恋歌「紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに吾恋めやも、」の一首は、帝の情熱的な性質を語って余蘊がない。その情熱はまた仏教を信ずる上にも現われた。殺生戒を守って肉食を禁じたのは帝である。この以後日本には獣肉を食う伝統が栄えなかった。従って日本人はその体質の上にも文化の上にも、天武帝の影響を著しく受けている。また帝は晩年に諸国に令して家ごとに仏壇を設け仏像と経典とを備えしめた。これも現代まで一般の風習として存続するほどの有力な伝統となったが、特に当初においては仏教を国教として国民に強制するという過激な意味を持っていた。この帝のもとに仏教が急速の繁栄を遂げたろうことは何人にも否み難い。天子が頻々として諸大寺に幸し、あるいは多くの僧尼を宮中に安居せしむる等のことは、この帝の晩年に始まったのである。帝の病のために諸寺僧尼や上下の諸臣が一斉に活動して読経・造像・得度・祈願等につとめたのも、この時以前にはないことであった。天智帝崩御の前にも内裏に百仏を開眼し、法興寺の仏に珍宝を奉供したが、仏にすがる情熱においてはほとんど比べものにならない。天武帝が礼仏の雰囲気のうちで崩じたに反して、天智帝は皇位継承のゴタゴタのうちに崩じたのである。天平文化に直接の基礎を置いたものは、天智帝でなくてむしろ天武帝であった。  このころの文化の動力は、言うまでもなく唐から帰った新人たちであったろう。一方にはシナ語及びシナの古典に通ずる学者がある。それがこのころに創設せられた大学及び国学の博士助教となったらしい。帝崩御後十数年にして制定せられた大宝令によると、大学の学生は定員四百三十人で、博士は七人、助教は二人、その他に大学頭以下五人の役人がある。国学は各国別にあって、博士が一人、学生が二十人ないし五十人。他に医師・医生等もあった。科目はシナの古典の学習を主とし、並びに書道と音学とを教える。音学はシナ語の発音の学で、これを学べばシナ語の会話は自由になる。他に算数学の専修科もあった。すべてこれらの教育は官吏養成を目的とするものであったが、しかし結果は一般教養の促進となり、中流以上の社会を精神的事物に引き寄せる力強い機運ともなったであろう。このことは仏教隆盛の素地としても見のがし難い。たとえば仏教経典の詩的妙味を解するためには、シナ語に通ずるものの方が、漢文を知ってシナ語を知らないものよりははるかに有利である。従って僧尼の読経を聞く時の印象は、当時の大学出の人たちにとっては相当に明瞭でもありまた強烈でもあったと考えられる。そういう理解が仏教の流行の背後にあったのである。  がまた他方には、博士助教よりももっと外形的に著しい仕事を仕遂げた連中があった。すなわち唐にあって法制や経済を学び、これをわが新国家に応用した新人たちである。当時の情勢はあたかも明治維新後憲法発布前の啓蒙時代のごとくあらゆる事物に新しい形式を必要とした。従って有力な為政者には必ず新知識を持った学者が付きそうていた。藤原不比等が唐に留学した田辺史の教育を受けたごとき、その一例である。律令の改定はすでにこのころから準備せられていた。国家組織のこの新光景は人心に若々しい緊張をもたらさずにはいなかった。憲法発布が鹿鳴館の文化と結びついているごとく、この時代にも結髪や衣服の唐風化が急速に行われた。それは外形のことに過ぎない。しかし外形の変革はやがて内部の変革を呼び出さずにはいなかったのである。  さらに新人の尤なるものは、道昭、智通、定慧などの僧侶である。道昭は古い帰化人の裔であり、定慧は鎌足の子であるが、共に唐に入って玄弉三蔵に学び、当時の世界文化の絶頂をきわめて来た。彼らのもたらしたものが単に法相宗の教義のみでなかったことはいうまでもない。  これが天武帝晩年の情勢である。それは文化的に言って巨大な発酵の時代といってよい。しかしその情勢を同時代人の眼で見、それを体験的に記録したものは残っていない。残っているのは『日本書紀』の記事のほかには『万葉』の歌と無言の造形美術のみである。しかもその中には講堂の薬師三尊のように、まるで素性のわからないものさえある。あの偉大な金堂薬師如来の作者がわからないのも無理はないであろう。  ただにこの作者ばかりではない。薬師寺大伽藍の建築家、あるいは大官大寺九重の塔の建築家、──その他あらゆる彫刻家画家は、すべて名をさえ留めていない。鮮少な遺品から判ずると当時の造形美術は驚くべき高さに達していたはずであるが、それらの偉大な芸術家の名は、天武帝の侍医であった百済人の名ほどにも顧みられなかったのである。しかし『書紀』が閑却しているからと言って、当時の社会が同様に冷淡であったと見るのは当たらない。『書紀』は官府の文書の集録に過ぎぬ。民族の意志や感情を表現することは、もともとこの書の企てたところでない。当時の文化はむしろ『書紀』に名を録せられない中流の知識階級によって担われていたと見らるべきである。たとえばわれわれはあらゆる民家に仏壇を造るべき命令の下ったことを知っている。この命令はある程度まで遵奉せられたであろう。そこに盛んな需要がある。供給者もまたなくてはならぬ。もしこの仏壇の最も優秀な例を玉虫の廚子や橘夫人の廚子に認め得るとすれば、仏壇の標準がすでに徳川時代のごとき低劣なものではない。そこで一般の需要に応ずる仏壇製作家もまた相当に有為な芸術家でなくてはならぬ。そうしてその数も、少なくてはすむまい。そうなるとそこに芸術家の社会が成立してくるであろう。その社会においては大寺の本尊を刻むことは非常な名誉であるに相違ない。そういう社会の雰囲気のなかでは、薬師寺金堂の本尊を作ったようなすぐれた作家は天才として通用するのである。この種のことは建築家についても、僧侶についても、あるいはまた学者についても、存在したであろう。そうしてそれらはみな『書紀』と関わるところがない。  右のような実際の文化の担任者のうちに、おびただしい外国人が混じていたことは否定できまい。当時は朝鮮経由でシナ人の大挙移住があってからさほどの年数がたっていない上に、唐人の渡来もようやく多きを加えて来た。唐使とともに二千人の唐人が筑紫に着いた記事もある。大唐人、百済人、高麗人、百四十七人に爵位を賜うた記事もある。古くからの帰化人や混血人は、家業として学問芸術にたずさわっていた。特に飛鳥の地はこれらの文化人の根拠地で、壬申の乱のとき天武帝のために働いたものも少なくなかった。唐に留学して新文化を吸収して来る僧俗の徒も少なからずこの帰化人の社会から出た。これらの知識階級の生み出す新文化が、いかなる意味で「日本的」であったかは、説明するまでもないであろう。が、いずれにしてもこれは我々の祖先である。精神的にもまた肉体的にも。  あの薬師如来からは、右のごとき混血民族の所生らしい合金の感じが強く迫って来る。単なる移植芸術としては、この作はあまりに偉大過ぎる。種は外国のものに相違ないが、しかし土壌と肥料とは新しい。もし強いて「模倣」を問題にするならば、われわれの時代のあらゆる文物もまた模倣であることを顧みなければならぬ。模倣はタルドの学説を引くまでもなく人間社会の当然の現象である。重大なのはかくのごとき傑作が生まれたということであって、模倣であるか否かではない。  が、傑作は金堂本尊のほかにもう一つある。東院堂の聖観音がそれである。われわれは黄昏の深くならないうちにと東院堂へ急いだ。  しかし金堂から東院堂への途中には、白鳳時代大建築の唯一の遺品である東塔が聳えている。これがどんなに急ぐ足をもとどめずにはいないすぐれた建築なのである。三重の屋根の一々に短い裳層をつけて、あたかも大小伸縮した六層の屋根が重なっているように、輪郭の線の変化を異様に複雑にしている。何となく異国的な感じがあるのはそのためであろう。大胆に破調を加えたあの力強い統一は、確かに我が国の塔婆の一般形式に見られない珍奇な美しさを印象する。もしこの裳層が、専門家のいうごとく、養老年間移建の際に付加せられたものであるならば、われわれを驚嘆せしめるこの建築家は、奈良京造営の際の工匠のうちに混在していたわけである。この寺の縁起によると裳層のついていたのは塔のみではなく、金堂の二重の屋根もまたそうであったらしい。大小伸縮した四層の大金堂は、東塔の印象から推しても、かなり特殊な美しさのものであったろう。後に上重閣のみが大風に吹き落とされたと伝えられているのから考えると、その構造も大胆な思い切ったものであったに相違ない。このような建築が薬師寺にのみあったのかどうかは知らないが、とにかく奈良遷都時代の薬師寺に一種風変わりな建築家のいたことは確かである。しかもそのころにこの寺は熱狂的伝道者行基を出している。もしそこに必然の関係があるならば、この寺の持つ特殊な意義は非常に大きい。  わたくしたちは金堂と東院堂との間の草原に立って、双眼鏡でこの塔の相輪を見上げた。塔の高さと実によく釣り合ったこの相輪の頂上には、美しい水煙が、塔全体の調和をここに集めたかのように、かろやかに、しかも千鈞の重味をもって掛かっている。その水煙に透かし彫られている天人がまた言語に絶して美しい。真逆様に身を翻した半裸の女体の、微妙なふくよかな肉づけ、美しい柔らかなうねり方。その円々とした、しかも細やかな腰や大腿にまとう薄い衣の、柔艶をきわめたなびき方。──しかしそれは双眼鏡をもってしても幽かにしかわからない高いところに掛かっている。だから詳しい観察を求めるものはどうしても塔の一階に置かれた石膏の模作に引きつけられざるを得ない。模作でながめても、天人の体が水煙と融け合った微妙な装飾文様は、これほどのことまでわれわれの祖先にはできたのかと思うほど美しい。  しかしそれもゆるゆると味わっている暇はなかった。わたくしたちは東院堂の北側の高い縁側で靴をぬいで、ガランとした薄暗い堂の埃だらけの床の上を、足つま立てて歩きながら、いよいよあの大きい廚子の前に立った。小僧が静かに扉をあけてくれる。──そこには「観音」が、恐らく世界に比類のない偉大な観音が立っている。  こういう作品に接した瞬間の印象は語ることのできないものである。それは肉体的にも一種のショックを与える。しかもわたくしはこの銅像を初めて見るわけではなかった。幾度見てもこの像は新しい。  わたくしたちは無言のあいだあいだに咏嘆の言葉を投げ合った。それは意味深い言葉のようでもあり、また空虚な言葉のようでもあった。最初の緊張がゆるむと、わたくしは寺僧が看経するらしい台の上に坐して、またつくづくと仰ぎ見た。美しい荘厳な顔である。力強い雄大な肢体である。仏教美術の偉大性がここにあらわにされている。底知れぬ深味を感じさせるような何ともいえない古銅の色。その銅のつややかな肌がふっくりと盛りあがっているあの気高い胸。堂々たる左右の手。衣文につつまれた清らかな下肢。それらはまさしく人の姿に人間以上の威厳を表現したものである。しかもそれは、人体の写実としても、一点の非の打ちどころがない。わたくしはきのう聖林寺の観音の写実的な確かさに感服したが、しかしこの像の前にあるときには、聖林寺の観音何するものぞという気がする。もとよりこの写実は、近代的な、個性を重んずる写生と同じではない。一個の人を写さずして人間そのものを写すのである。芸術の一流派としての写実的傾向ではなくして芸術の本質としての写実なのである。この像のどの点をとってみても、そこに人体を見る眼の不足を思わせるものはない。すべてが透徹した眼で見られ、その見られたものが自由な手腕によって表現せられている。がその写実も、あらゆる偉大な古典的芸術におけるごとく、さらに深いある者を表現するための手段にほかならない。もし近代の傑作が一個の人を写して人間そのものを示現しているといえるならば、この種の古典的傑作は人間そのものを写して神を示現しているといえるであろう。だからあの肩から胸への力強いうねりや、腕と手の美しい円さや、すべて最も人らしい形のうちに、無限の力の神秘を現わしているのである。  わたくしは小僧君の許しを得て廚子のなかに入り細部を観察したが、あの偉大な銅像に自分の体をすりつけるほど近よせた時には、奇妙なよろこびが感じられた。美しく古びた銅のからだから一種の生気が放射して来るかのようであった。ことにあの静かに垂れた右手に近よって、象牙のように滑らかな銅の肌をなでながら、横から見上げたときには、この像の新しい生面が開けるかのようであった。単純な光線に照らされた正面の姿のみを見たのでは、まだ真にこの像を見たとはいえないと思う。あの横顔の美しさ、背部の力強さ、──背と胸とを共に見るときのあの胴体の完全さ──あの腕も腰も下肢もすべて横から見られたときにその全幅の美を露出する。特に肩から二の腕へ、肩から胸へのあの露わな肌の肉づけには、実に驚くべきものがある。この傑作の全身が横からでもうしろからでも自由にながめられないということは、まことに遺憾に堪えない。  赤い、弱々しい夕日の光が、堂の正面の格子を洩れて、廚子のなかまで忍び込んだ。その光の反射で聖観音はほのかな赤味を全身にみなぎらした。西方浄土の空想を刺戟する夕の太陽が、いかにも似つかわしい場所でわれわれに働きかけてくれたのである。われわれはこの偶然に驚きながら息をつめて聖観音を見まもった。しかしやがてその光も、薄く、薄く消えてしまう。急に堂内が暗くなる。  廚子の扉はついに閉じられた。入り口で振り返って見ると、堂のなかは物悲しいほどにガランとしていた。 十七 奈良京の現状、聖観音の作者──玄弉三蔵──グプタ朝の芸術、西域人の共働──聖観音の作者──薬師寺について──神を人の姿に──S氏の話  薬師寺の裏門から六条村へ出て、それからまっすぐに東へ、佐保川の流域である泥田の原のなかの道を、俥にゆられながら帰る。暮靄につつまれた大和の山々は、さすがに古京の夕らしい哀愁をそそるが、目を落として一面の泥田をながめやると、これがかつて都のただ中であったのかと驚く。佐保川の河床が高まって、昔の高燥な地を今の湿地に変えたのかも知れない。しかしまた都のうちに水田もあったらしい奈良京の大半は、当初からこの種の湿地であったとも考えられる。もしこの想像に相当の根拠が与えられるならば、このことは奈良京が短命であった理由として看過し難い。史家は政治上の理由や古来の遷都思想のみからこの点を説こうとしているが、この湿地の不健康性はもっと根本的な理由となり得たはずである。天平の中ごろに猖獗をきわめた疫瘡の流行は、特に猛烈にこの湿地を襲ったであろう。次いで起こった光明后の大患も、同じくこの湿地の間接の影響に基づいたのでないとはいえまい。この時に恭仁遷都の議が起こったのは、単に藤原氏の勢力を駆逐しようとする一派の貴族の策略とのみは考えられぬ。  が、泥田の道でわたくしの心を占領していたのはこの問題ではなかった。わたくしはあの偉大な聖観音の作者が誰であるかを空想して楽しんでいたのである。その作者はとにかく僧侶であった。ローマのトガに似た衣のよほどシナ風になったのを、無造作に裸形の上にはおって、半ばできかかった観音の原型の前に立っている。大きな澄んだ眼はアリアン種と蒙古種との混血児らしい美しさを持っているが、観音を見まもっているうちにはそれが隼のように鋭くなる。鼻は高いが、純粋なギリシア風ではない。表情の多い口は引きつったように閉じられている。やがて大きく息をついて、静かに腕組みを解き、腕に垂れた衣をまくり上げる。その腕はたくましいけれども白い。──  この製作は、『古流記』に従えば、孝徳帝の皇后間人の皇女が帝の追善のために企てられたものである。もしそれを信ずるとすれば、薬師三尊よりは三十年近く早いが、しかし最初の遣唐使より二十四五年ものちである。その四五年前には、法隆寺四天王の作者なる山口直大口が、──恐らく推古式の作者が、──詔を奉じて千仏像を刻んでいる。当時は止利が法隆寺の釈迦三尊を刻んだ時とわずかに二十年余を距つるのみで、その様式はなお盛んに行なわれていたと思われる。しかしまた当時は初唐文物のすさまじい襲来によってすでに大化の改新をさえ実現した後であるから、文化の先駆である仏教界には思い切った新傾向が現われたかも知れない。シナで玄弉三蔵が十八年にわたるインド西域の大旅行をおえて目ざましい新文化と共に長安に帰ったのは、ちょうど我が国の大化元年に当たる。この新文化に我が国人が触れたのは、それより八年後の盛大な遣唐使派遣のときであろう。その遣唐使たちは、孝徳帝崩御の年に帰って来た。それらを考え合わせると、孝徳崩後に至って突如としてかくのごとき新様式の傑作が現われたことは、きわめて解しやすくなる。聖観音を作った偉大な天才は、恐らく玄弉三蔵と関係のあるものであろう。あるいは玄弉に従って西域から来た人であるかも知れない。あるいは遣唐使に従って入唐し、玄奘のもたらした新しい文化や新しい様式に魂を奪われた日本人であるかも知れない。いずれであるにしろ彼は孝徳帝崩御の年唐から帰った吉士長丹の船に乗っていたのであろう。  西域の画家尉遅跋質那がすでに隋朝に来ていたとすれば、玄弉をもって初唐様式の代表者とするのは少し危険かとも思うが、しかしたとい玄弉以前にこの新様式が始まっていたとしても、それが高い程度に完成せられ、あるいは社会的に有勢となって、日本留学生の注意をさえ引くに至ったのは、一に玄弉の力であったと見なければなるまい。玄弉の仕事の特徴は、インド、ペルシア、西域等の文化を力強く唐の文化のうちに流し込んだところにある。そうしてこのことは唐太宗が西域諸国を征服して、シナと西域やインドとの交通を容易ならしめたことの、最初の大いなる果実であった。しかしこの機運を待って初めて新様式の美術が栄えたのは、どういうわけであろうか。それ以前にシナにはいったのは、中インドの美術も混じてはいるが、主としてはガンダーラ美術であった。シナ人を新しい造形美術に導いたものは確かにギリシアの芸術的精神の伝統であった。しかし北魏式美術にはギリシア風の感じはない。著しく漢式化したもののほかは、西域式かインド式かで、ガンダーラ美術の痕跡をとどめない。しかるに玄弉がグプタ朝美術の様式を輸入した後には、美術は突如としてガンダーラの気分を生かし始めた。しかもグプタ朝の美術よりは明らかに宗教的な、端正な、またガンダーラ美術よりははるかに古典的で精練された初唐の美術を形造るに至った。それはなぜであろうか。五胡十六国の混血時代を経て、ちょうどこのころに渾融的な気運が熟して来たためであろうか。あるいは西域やインドの美術に対する真実の理解が、このころに初めて起こって来たためであろうか。恐らくこれらも理由の一部をなすものであろう。しかし特に重大なのは、グプタ朝の円熟した芸術が、そのインド化の力を通じてかえってよくギリシアの芸術的精神を伝えたためであると思われる。前に来たガンダーラの美術は、ギリシアの手法と共にその芸術的精神をも伝えたのではあるが、その造形力の弱さのゆえに、偶像礼拝の伝統、すなわち「芸術と宗教とを合一せしむる」伝統を伝える以上には出ることができなかった。シナ人とシナを支配する蒙古族とは、それによって偶像を造り偶像を拝むことを学んだに過ぎなかった。しかるにグプタ朝の芸術は、特にその「美しさ」をもってシナ人を刺戟した。それは宗教の方便であるよりも、むしろ宗教を方便とするものであった。ガンダーラ彫刻を中世のキリスト教美術に比較するならば、グプタ朝美術は文芸復興期のそれに比較せらるべきである。かくて外来美術の美しさに目ざめたシナ人は、振りかえって北魏の美術をも見なおした。北魏の時代に子供らしい無垢な心の驚異をもってなされた人体の美の闡明が、今や成熟した人の複雑な意識をもってなされるに至った。この心機一転がすべてを説明しているのである。  私見によればグプタ朝の芸術はインドに植えられたギリシアの芸術的精神がその最大の花を開いたものである。その意味でインドはヨーロッパよりも千年前に文芸復興期を現出していると言える。しかしその開展は順当であったために、「復興」という契機はここにはない。アレキサンドロス大王の時代に植えられたギリシアの芽はサンチ、バルハトに開いた。北インドに侵入したギリシア人が永い間ギリシア的に保存したあとで、ローマの影響に刺戟せられてガンダーラ美術として育って行ったもう一つの芽は、サンチ、バルハトの芸術と結びついて、ついにグプタ朝に花を開いた。もとよりこの芸術は、文芸復興期の芸術がイタリアの芸術であるごとく、明らかにインドの芸術である。その様式も美しさもインド独特であってギリシア的ではない。しかしその精神には根深くギリシア的なものがひそんでいる。そうしてそのギリシア的なものによってグプタ朝の芸術はシナに激動を与えたのである。だから初唐のシナ人は、グプタ朝芸術の一側面たるインド風のデカダンの香気に対して、わりに冷淡であった。そうしてただギリシア的な偉大性と艶美とのみを取りいれた。そこに漢人特有の簡素化の気分が加わって、清爽と雄勁とを兼ねた古典的な芸術ができあがる。それが初唐の様式であった。  この連関には西域人の共働をも認めなくてはならぬ。ちょうど玄弉の時代は西域の最盛期であった。そこにはインド、ペルシア、ギリシア等の文化が渾融して、一種特別の趣を呈していたらしい。その文化はインドほど発達していないだけに、またインドほどただれてもいなかった。スタイン発掘品などの写真を見ると、同じく女の裸体を画いても、インドほど淫靡な感じを与えない。仏像彫刻もはるかに清純の度を増している。恐らくそれは西域が特に仏教的であって、シヴァやインドラの快楽を憧憬するインド教に侵されていなかったからであろう。玄奘の『西域記』によると、当時のインドは仏教よりも外道の方が盛んであった。しかし西域の諸国にはほとんど外道が伝わっていなかった。またその仏教も後の密教のようにひどくインド教をとり入れたものではなかった。だから仏教を中心としていえばインドよりは西域の方が清新だったのである。そうしてこの西域がインドと唐とを結びつけていたのである。玄弉が連れ帰った外国人のことを考えても、インドから多数の人を連れてくるのは困難であったが、西域からは容易であった。玄弉は十七年の旅をおえてヒマラヤ山北の于闐に帰り、そこに留まって経論を講じたが、その間唐の太宗に対し禁令を犯して外遊した罪の赦免を乞うた。その上奏文が太宗を動かして、赦免の勅使と共に彼を迎える人夫及び軍馬を送るに至らしめた。もとより玄弉の旅行は一人でできる性質のものでない。多量の経論をもたらして沙漠を渡り高山を越えるときに、少なからざる人馬を必要としたことは言うまでもなかろう。しかしそれは行く先々の王侯や仏徒の好意によって続け得た旅行なのである。しかるに今や彼は、当時東洋第一の強大国の帝王に支持せられて西域からシナへと凱旋する。従って于闐から東帰する彼の旅行には、恐らく彼が欲するだけの人と物とを携えることができたであろう。従って多くの于闐の美術家が彼と共に東漸したということも、きわめて考えやすい。  ──わたくしの空想した聖観音の作者は、この種の西域人である。(たまたま「孝徳紀」の終わりに吐火羅男二人、女二人、舎衛女一人の漂着を報じているのが、空想を刺戟する。)彼はガンダーラ美術の間に育った。グプタ朝の芸術に激動をうけた。そうして十年近いシナ滞在が、漢人の美術の素朴と勁直とに愛着を持たしめた。彼の身には今や東洋のあらゆるよきものが宿っている。そのよきものを結晶させる地としては、大和の安らかな山河はまことに都合がよかった。そこにはさらに彷徨を続けしめる刺戟はない。しかし彼を迷わせ頽廃せしめる誘惑もない。彼は落ちついて仕事をした。彼の製作がどれほどあったかはわからないが、とにかく我々の前には聖観音が残っている。  孝徳帝追善のためという伝説が信じがたいとすれば、この空想も立てなおさなくてはならぬ。しかしこの像が薬師三尊よりも前のものであることは異論がなかろう。そうすればいくら時代を下げても三十年以上はさげることができない。時代的背景に大差はないのである。  薬師寺についてはかつて木下杢太郎にあててこう書いたことがある。 「彫刻では、夢殿の秘仏が見られなかったのは止むを得ないとして、薬師寺東院堂の聖観音が、名前さえ挙げてないのはどうしたものでしょう。もちろんあの金堂の薬師如来から大した芸術的印象を受けなかったというその日の気分では、聖観音にもあまり圧倒せられなかったかも知れません。しかしそれは貴兄の側に責があるのです。あの日の君の気分は妙に抒情的に柔らかくなって、ちょうど君の眼に映じた唐招提寺の景致が色調において matt であったように、君の心の調子も matt であったらしく思われます。ただひとりで、雨に濡れながらとぼとぼと、蓴菜や菱の浮かんだ池の傍を通る時には、廃都にしめやかな雨の降るごとく君の心にもしめやかな雨が降ったことでしょう。その寂しい抒情的な気分には、聖観音の古典的な力は、あまりに縁が遠過ぎたかもしれません。だから奈良は、そう駛けて通ってはだめです。わたくしはこの聖観音と薬師如来とのためにも、君の再遊を望まずにはいられません。 「聖観音には、流動体にもなり得る銅の性質を、まだ十分活かし切らない点があります。下半身の衣文の手法などがそれです。その点では、薬師如来は、行けるところまで行っていると思います。しかし聖観音には、昇り切ろうとする力の極度の緊活があります。写実的に十分確かに造られたあの体には、超人間的な力と威厳とがあふれるように盛られてあるのです。あの胸から腹へかけての、海のような力強さを御覧なさい。あの美しい左手の力の神秘を御覧なさい。またあの東洋に特有な美しい顔を御覧なさい。わたくしが見た限りでは、ガンダーラ美術などには、この像の力強さに及ぶものは一つもありません。西域やシナの発掘品を見ても、これより巧妙だとかこれより美しいとかと思えるものはあるけれども、これほど宗教芸術としての威厳と偉大性とを印象するものは、今まで見たところでは、ありませんでした。西洋と比較しても、中世の彫刻はとてもこの足元へはよりつけますまい。文芸復興期の宗教彫刻やギリシアの神像彫刻などは、これほど厳密に宗教的ではないから、比較は少し困りますが、しかしやや境遇の似たギリシアの神像を取って考えてみると、われわれはその芸術的価値を比較するよりも、まず二つの異なった性質の芸術があることに驚かされるのです。すなわち人の姿から神を造り出した芸術と、神を人の姿の内に現われしめた芸術とです。前者においては芸術家が宗教家を兼ねる。後者においては宗教家が芸術家を兼ねる。前者は人体の美しさの端々に神秘を見る。後者は宇宙人生の間に体得した神秘を、人の体に具体化しようとする。一は写実から出発して理想に達し、他は理想から出発して写実を利用するのです。かく二つの異なった立場を認容するとき、わが聖観音は、その下半身の手法の硬さにかかわらず、たちまち世界的に意義の深い、高い地位を要求してくるのです。 「神を人の姿に現われしめるという傾向は、文化的には、『インド』を『ギリシア』の形に現われしめるということにもなると思います。聖観音はこの傾向の、かなり絶頂に近いところにあるのです。あるいは絶頂なのかも知れません。従ってそれはギリシアと対峙するものではなく、父インド母ギリシアの間から生まれた新しい子供なのです。キリスト教芸術はその父親違いの兄弟なのです。この考えはわたくしに異常に強い興味を起こさせます。 「薬師如来について、貴兄が冷淡なのも案外でした。少なくともあの柔らかい、とろっとした、表面の心持ちだけでも貴兄の注意を惹くには十分だと思えるのですが。──あるいは少なくともあの右手の指の滑らかな光だけでも、と思えるのですが。──これはぜひ貴兄の再度の巡礼を待ちます。 「法隆寺の壁画と薬師寺の三尊及び聖観音との間に密接な関係がありはしないか、という説は、非常に傾聴に価すると思います。そこに同一の作者を推測するのも決して大胆すぎる説ではありますまい。わたくしはここに、東洋文化の絶頂に対する秘密の鍵の存在することを認めております。」  永い一日を結ぶ夕食の卓には、唐招提寺で逢ったS氏が加わった。あの古い堂のなかで、古い仏像を文字通りにいじくって、臭い漆の香のうちに毎日を送っているS氏は、いかにも現代ばなれのした人のように感じられていた。が、きいてみると、奈良の町から毎日自転車で通うのだそうである。それをきいて夢のなかの人が急に現実の人になったような気持ちがした。  S氏はこわれかかった仏像を媒として昔の仏工とつき合っているだけに、いろいろ珍しい話を聞かせてくれた。特におもしろかったのは天平の仏工が台座の内側に残した落書きのことである。これは写しも見せてもらった。人物や動物や風景がいかにも落書きらしく粗雑に書いてある。なかでは樹下美人風の太り肉の女の画が優れていた。あの堂のなかで、あの仏像を据えつける時に、工事にあずかっていた一人の男がこういう美人の画を台座に書いている、──その光景がまざまざと心に浮かんで、当時の仏工の生きた姿を見るように感じさせた。 十八 博物館特別展覧──法華寺弥陀三尊──中尊と左右の相違──光明后枕仏説  次の日はまた博物館から始めた。  博物館の玄関脇に狭い応接室がある。緑布をかけた長方形の卓子や数個の古めかしい椅子などで室が一杯になっている。そこの壁に古画をかけて見せてもらうのである。  九時ごろT君と二人で博物館の入り口へ着くと、Y氏が弱り切ったような顔をして立っている。八時半と話しておいたのにこう遅刻されては困るという。それからZ君夫妻がいっしょでないのに気づいて、どうなすったと心配そうにきく。昨日の疲れで今日は来ないかも知れぬと答えると、急にあわてて、それは困る、博物館の方では非常に好意を持ってどれでも好いだけ御覧に入れようと言っているのに、そんなことをされては困る、電話をかけましょうと騒ぎ出す。それまでのんきに構えていたわたくしたちは、Y氏のあわて方を見て、この特別展覧がどんなに繊細な感情に基づいているかをやっと悟った。そうして困ったまま立ちすくんでいるとおりよくZ君たちが俥で馳けつけて来た。一同ほっとして、何食わぬ顔をして玄関をはいって行く。  掛かりの館員は愛想よく迎えて挨拶がすむと、さて何を出しましょう、まず法華寺三尊、さよう、どうしてもあれですな。館丁は命をうけて鞠躬如として出て行く。それから何にしましょう、西大寺の十二天、さよう、一幅でいいとなるとまず水天ですかな、まあそうでしょうな、それから、薬師寺の吉祥天、さよう、あれも代表的のものですからな、それから信貴山縁起、ようがす、それから、それだけですか、なにおよろしければいくらでも出しますよ。  好意はありがたかったが、しかし心苦しかった。前の年、大学の修学旅行に同伴させてもらって、いろいろ特別の取り扱いを受けた時にも、こういう古美術が一般の国民に開放せられていない現状を不満に思ったが、今日はあの時よりももっと特別な好意を持たれただけに人類の宝を私するという感じは一層強く起こらないわけに行かなかった。いい芸術はまず第一にそれを求むる者の自由な享受を目ざして処置せらるべきである。それでこそ初めてその芸術の人類的な性質が妨げられることなく現われて来るのである。そのためにはこの種の画は常に陳列せられていなくてはならぬ。そこで保存上の問題も、もっとまじめに、熱心に研究せられる必要が出て来る。国家はそのために十分の金を使っていい。湿度の加減や酸化の防止についてまったく欠陥のない完全な方法が見いだされなくては、国宝の画を掛けっ放しておくなどということはできないからである。今のところでは巻いて蔵っておくのが一番よい保存法であるが、それは絵が見らるべきものであるということと正面から衝突する。そこで年に一二回陳列するほかに、巻いたりひろげたりするたびごとに痛むのを承知の上で、特に見る必要のある人々にひろげて見せるのである。このやり方は一日も早く是正されなくてはならない。  館丁は長短三幅の掛け物を重そうにかかえて現われた。重心をうまくそろえてつかんでいないので、短い幅などはズリ落ちそうになっている。そのためもあって床に置くときにドサリと乱暴な音を立てる。それから紐をほどいて壁に掛ける段になると、大きくて自由にならないもので、知らず知らず取り扱いが手荒らになる。見ていてハラハラせずにはいられない。幾分腹も立って来る。どうもこれは毀損しやすい名画の取り扱い方ではない、大事にしようとする気が足りなさ過ぎるなどと思う。  こういうふうにしてまずわれわれは法華寺弥陀三尊に対したのである。  中尊阿弥陀は画面一杯の坐像である。微妙な色調を持った暗色の地の上に、おぼろに残った黄色の肌や余韻の多い暗紅の衣が浮き出ている。下には紅蓮の台があって、ゆったりと仏の体をうけ、上からは暗緑の頭髪が軽やかに全体を押える。そうして明らかな仏眼は、黒味を帯びた朱の瞳をもって、あたかも画面全体の中心であるかのように、暗緑の頭髪の下に優しく輝いている。紅の濃淡で柔らかにひだをとられた衣によってゆるやかに包まれている胸の下には、両の掌を半ば開いて前向きにそろえた説法の印が、下ひろがりになった体勢を巧みに緊縮する。その体をめぐってヒラヒラと散り落ちる蓮の花びらは、音なく動揺なく、静かに大気のうちに掛かっている。ここにすべてを抱擁する「静寂」が具体化せられているように見える。  単純な配合でありながら微妙な深味を印象せずにはいないその色彩の感じ、単純な構図でありながら無限の内容を暗示するかのようなその形の感じ、──そこにはなにか永遠なものの相がきらめいている。とにかくそれは清浄な世界である。仏教の精神に特有なあの彼岸生活への(すなわち観念を具象化して永生の信仰を色づけたあの永遠の世界への)憧憬がこの浄土を作り出したのであろう。もしわれわれの心に「阿弥陀浄土」への願望が生きていたら、この画の色と形がわれわれに印象するところは、もっと強く烈しいに相違ない。偉大な芸術はいかなる国のいかなる人の心をも捕うべきはずであるが、しかし小児が名画に対して強い感動を持たなかったからと言ってそれを怪しむ人はない。そのごとく仏徒の心情についていまだ小児であるものが、仏徒の心情と離すことのできないこの画に対して、十分の感動を持ち得ないとしても不思議はない。わたくしはこの画に対する親しみのうちに、漠然とではあるが、なおこれ以上の感動の余地のあることを感ずる。  わたくしが初めてこの画を見た時には幡を持った童子の画と共にガラス戸の中に掛けてあった。その朝奈良停車場に着いてすぐに博物館を訪れ、推古から鎌倉までのさまざまな彫刻をながめ暮らしたのであるが、閉館の時刻の迫った時に急いで画の陳列してある方へ行ってこの画にぶつかったのである。そこは窓のない室で幾分薄暗かった。しかし幡を持った童子の美しさはわたくしの目を引かないではいなかった。胡粉のはげかかった白い顔の愛らしさ、優しい姿をつつむ衣の白緑や緑青の古雅なにおい、暗緑の地に浮き出ている蓮の花びらの大気に漂う静かな心持ち、吹き流されている赤い幡に感ぜられる運動の微妙さ。わたくしはしばらくその前を動かなかった。やがて迫って来る時間に気づいて、中尊の阿弥陀像に一瞥をくれたまま、急いでその室を立ち去った。阿弥陀像の印象として残ったのは体がいやに扁平なことと眼が特に目立っていながら顔がおもしろくないことぐらいなものであった。もちろんこの画が中尊で童子の画がそれに属していることなどはその時は知らなかった。  その晩友人からこれが名高い仏画の傑作だと聞かされて、わたくしは自分の眼の鈍いのを嘆じた。そうしてその翌々日博物館へ行った時に、有名な法華寺弥陀三尊の中尊としてこの画を見なおしにかかった。落ちついて見ると、なるほどいい画だと思った。顔が変に見えたのはちょうど鼻の左右に黒い画面の傷があったからで、よく見れば鼻の線はちゃんと別にある。胸には左右の手がかなり巧妙な線で描かれている。衣の赤い色は何とも言えずいい感じのもので、ひだをくま取った幾分写実的なやり方も美しい効果を見せている。散る花びらの配置もなかなかいい。画面には驚くべき簡素がある。大きい調和もある。わたくしは静かな陶酔のこころもちでこの画の前に立ちつくした。  わたくしはあの時の経験を忘れない。今はこの画の毀損し剥落した個所によって妨げられることなしにこの画を鑑賞している。しかしこの毀損し剥落した個所が眼にうつらないのではない。それを見ながらも、芸術的統一の面に属しないものとして捨象しているのである。またそれと共に芸術的統一の面に属するものを追跡し見いだそうと努力している。輪郭の線は生にあふれた鉄線ではあるが、しかし画面の古色の内に没し去って、われわれの眼にはっきりとはうつらない。われわれは線に注意を集めて古色に抵抗する。体はしっかりと描かれた雄大なものであるが、色彩が十分残っていないために、ともすれば稀薄な、空虚な感じを与える。われわれは衣に包まれた体から推測してそこに厚味のある色を補おうとする。これは芸術的統一の面がそれ自身に復元力を持つことを意味する。しかしそれは画面の毀損が回復されたということではない。この画の本来の統一に注意を集め、その復元力にまで迫って行く努力をしなければ、毀損の個所の方がかえって強く目につくであろう。従ってこの画を見る人が、画面の毀損のために十分この画に没入し得ないということはあり得るのである。  法華寺三尊は藤原初期の作とせられている。しかし第一に、中尊と左右とは著しく時代を異にしていはしまいか。第二に、これが光明皇后の枕仏であったという寺伝には、なにか意味がありはしないか。  中尊と左右とが時代を異にするという感じはわたくしには前からあったが、今度三幅を同じ室に並べて見ると、それがはっきりとわかった。第一、線の感じが非常に違っている。たとえば雲を描いた線がそうである。中尊の乗っている雲は、その柔らかい、ふうわりとした感じを潤いのある鉄線でいきいきと現わしている。しかし童子や観音・勢至などの乗っている雲は、型に堕しかけた線でかなり固く描かれている。二十五菩薩来迎図の雲のようにひどくはないが、しかしその方向に進みかけているという感じがする。衣の線などでも中尊のは含蓄の多い、描こうとするものの性質に忠実な線であるが、両脇のは筆端の遊戯がかなり目に立つ線である。第二に色の感じが違っている。中尊における簡素な調和は左右には認められない。色彩の好みもかなり違うように思う。それは製作者の精神の相違を感ぜしめるほどである。第三は構図の相違である。左右は動いている。中央は静止している。そうしてその静止した弥陀を雲に乗せたまま動かして行こうとする注意はどこにもない。このような統一を欠いた構図が、中尊を描き得た画家の心から生まれようとは思えない。  この三幅に対して右のような感じを抱かない人もあるではあろうが、しかし同感の人も少なくはなかろう。T君は線の感じについて同意見であった。館員のT氏も構図の不統一について同意見であった。ある画家ははっきりとこう言った。左右は浄土教が流行し始めてから付けたものです。一尊仏だった弥陀を来迎の弥陀に変化させたのです。御覧なさい、あの印相は来迎の印相ではない。──なるほど来迎の印相ではない。ところが山越えの弥陀もこの弥陀と同じく、来迎の印を結ばずに説法の印を結んでいる。印相は確証にはできない。しかしこの画家の断定は当たっているのではなかろうか。  そこで中尊の時代が問題になる。左右が藤原初期に付けられたものだということは、童子を見ても明らかであるが、中尊は果して同時代のものであろうか。あるいは少しくさかのぼって貞観時代のものであろうか。光明后枕仏の伝説は全然生かせる余地のないものであろうか。もし天平時代の画であるならば、法隆寺壁画の弥陀三尊とどこか通ずるところがありそうなものであるが、法隆寺壁画とこの画との間にはあまりに大きな距たりがある。あの壁画の阿弥陀を見た目でこの画に対すると、その体の描き方などは、ほとんど比べものにならない。説法の印を結ぶ手だけをとって見ても、壁画の手の力強い確かな描写に対して、水掻きのついているこの画像の手は、弱々しい、曖昧な描写だと言ってよい。あの壁画にあまり遠くない天平時代の、しかも光明后の枕仏が、このようなものであったはずはない。もちろん天平時代にも壁画式でない画はあったであろうが、しかしあの数多い彫刻の傑作を作った時代には、絵画ももっと彫刻的でなくてはならぬ。また時代の推移を考えれば、薬師寺の聖観音が天平時代に至って聖林寺の十一面観音となったように、絵画においても法隆寺の壁画は聖林寺の観音に比肩し得るほどの後継者を持たなくてはならぬ。しかしこの弥陀画像はそれほどのものではない。がまたそれは二十五菩薩来迎図ほど固くなったものでもない。あの画に比べればこの弥陀画像にはずっと大きい気分があり、また新鮮な生気も見える。これらの点から判断してこの弥陀画像は平安朝の柔婉な趣味が頭をもたげ始めた時代の最も古い時期の製作かとも思われる。しからばそれは恐らく百済河成・巨勢金岡などの時代、もしくはそれよりあまり古からぬ時代であろう。  この画像と広隆寺講堂の阿弥陀像との間には相通ずるところがある。両者は姿勢が全然同一であって、光背までも違わない。面相もただその感じを除いては、頬の豊かさから幽かに下方に彎曲した細長い目に至るまで、ほとんど相違するところがない。もとより細部になれば、同じ印相を結ぶ手の無名指の曲がり方や、衣紋の線の流れ方や、特に膝の大きさとその衣のまとい方などが異なっている。が全体としては、画像が彫像の写生であると言ってもいいほどに似ていると思う。でこの画像はあの弥陀像と同じ時代に作られたろうとも考えられる。弥陀像は仁明妃の御願であるから入唐僧がまだ盛んに帰ってくる時代の作と思われるが、密教美術の影響よりはむしろ天平乾漆仏の遺風の方を著しく示しているものである。そうして形相の上では後に盛んに作られた弥陀像の模範となっている。この画像も恐らく同じように、天平の遺風を伝えて、しかも新しい趣味を指導しようとしているものであろう。  そこで法華寺十一面観音についていったようなことが、またこの弥陀画像についてもいえることになる。この画像は何らか天平時代と関係のあるものであろう。法華寺には阿弥陀院があった。天平時代の阿弥陀崇拝の中心は法華寺と光明后とであった。不幸にも天平時代の弥陀坐像は湮滅してしまったが、もしその面影を広隆寺講堂の弥陀像が伝えているとすれば、そうしてそのような弥陀像が法華寺にもあったとすれば、同時にまたこの画像のような弥陀画像があったということも考えられる。当時盛んに造られたのは弥陀浄土画像であるが、しかし弥陀の単像のあったことも、鑑真将来品目録に「阿弥陀如来像一鋪」とあるに見て明らかである。だから光明后の晩年には、この画像に似てもっと彫刻的なもっと優れた弥陀画像があり得た。そうして当時の弥陀浄土への願望を代表していた光明后がその臨終の床に右のような画像を掛けさせたということもあり得た。従ってこの画は藤原時代の弥陀崇拝を反映すると共に、また光明后枕仏の面影を伝えているかもしれない。  が、これらすべてのことは、この画の芸術的価値にかかわるものではない。逆にこの画の芸術的価値にもとづいて古代への愛と空想とを刺戟され、この画を通じてこの画よりもさらに偉大な多くの画のあった時代を髣髴し得るのである。  阿弥陀浄土への強い願望が盛んに来迎の画を描かせていた時代には、西洋でも天上の楽園や天使の来迎の幻想が盛んに行なわれた。この二種の幻想を比較して見ることも興味のある問題である。実をいうとわれわれの内には、西洋の幻想の方がより強いいのちをもって生かされている。ダンテの描いた幻想はわれわれの心をやすやすと彼岸の生活へ引き入れて行くが、われわれの祖先の描いた弥陀の浄土は、まずわれわれに好奇の心を起こさせるばかりである。わたくしの少年の心はロセッチの描いた Blessed Damozel によって悲哀と歓喜との情緒を揺り動かされた。あるいは地上楽園の凱旋行列やベアトリッチェとの邂逅の場面を、夢にまで見ないではいられなかった。しかし弥陀の浄土を描いた阿弥陀経からも、蓮台にのった仏菩薩の姿からも、かつて感激をうけたことはなかった。その少年の心は今もなおわたくしのうちに生き残っている。この差別は二種の幻想の異なった性質から説明し得られるであろう。そうしてそこに東西文化の異同を見ることもできるであろう。 十九 西大寺の十二天──薬師寺吉祥天女──インドの吉祥天女──天平の吉祥天女──信貴山縁起  西大寺十二天のうちの水天は、初めて見たときの印象がよかったので、この日もかなり楽しみにしていたが、いよいよ壁にかけられてみると、剥落や補筆が目について静かに引き入れられて行く気持ちになれなかった。初めてのときには両界曼陀羅や醍醐の五大尊などと比べて見たが、この日は弥陀三尊と比べて見たというようなことも、その原因になっているかも知れない。しかしもとはいい画であったろうと思われる。今見てもその体の彫刻的なことなどは弥陀三尊の比ではない。また部分的にひどく美しいと思わせる個所もある。何となくにこやかに見えるその顔や、丸々として柔らかいその腕や、特に下隅に描かれている小さい人物などがそれである。画風は西域式、あるいは法隆寺壁画式で、陰影も盛んに使われている。この画が平安朝初期のものだということは疑いのないところであるが、もし当時の仏画にこの様式のものが多かったとすれば、それが漸次変化して鳳凰堂壁画のようになったということには、見のがし難い大問題が含まれているように思う。この画の線は形象の客観的描写に専念して筆端の遊戯を斥けたものであり、この画の色彩も面の描写にこまかい注意を払ったものである。この注意がますます鋭くなり、面の微妙な凹凸と色彩の微妙な濃淡とを関係させるようになれば、恐らく日本画は別種の道をたどったであろう。しかし日本人が試みたのは線についての感覚の分化であって、面の研究ではなかった。線の現わす気分が微に入り細に入って現わさざる所なきまでに発達して行く間に、面の描写は閑却され、従って人体の全体としての観照は地を払った。これが藤原時代の絵画の長所でありまた欠点であるとともに、日本画の長所となりまた欠点となって来たものである。平安朝初期の名画家百済河成や巨勢金岡は、写実的傾向をもって有名であるが、その写実は恐らく線をもってしたものであろう。もしこの推測が許されるならば、河成・金岡をもって平安朝前半期における日本画の大成者とする観察の裏面には、また彼らをもって日本画の運命を局限した者とする観察も可能である。  水天は壁に掛けられている。卓上にはガラス張りの額にはいった薬師寺の吉祥天女が置かれた。一尺五分に一尺七寸五分という小さい画ではあるが、独立に画としてかかれた天平画のうちの唯一の遺品として、見のがし難いものである。絹よりもずっと目の荒い麻布の上に、濃い絵の具で、少し斜めに向いた豊頬の美人が画かれている。体を包む絢爛な衣は、細い緻密な線と、陰影を現わす巧みなくま取りとで描かれているが、その衣の薄さや柔らかさに至るまで遺憾なく表現し得たといってよい。特に柔らかい肩のあたりの薄い纏衣などはその紗でもあるらしい布地の感じとともに中につつんだ女の肉体の感じをも現わしている。束髪のようにきれいに上げた髪の下の丸々としたその顔もまた精神の美を現わすよりは肉体の美を現わしているというべきであろう。その頬の円さ、口の小ささ、唇の厚さ、相接近した眉の濃さ、そうして媚のある眼、──誇大して言えば少し感性的にすぎる。細い手や半ば現われたかわいい耳も感性的な魅力を欠かない。要するにこれは地上の女であって神ではない。ヴィナスに現われた美の威厳は人に完全なるものへの崇敬の念を起こさせるが、この像にはその種の威厳も現われていないと思う。しかし単に美人画として見れば、非の打ちどころのないものである。  わたくしは前に天平の女の肖像画がないことを遺憾としたが、この画などは肖像画でないまでも当時の風俗を忍ばせるには足りると思う。あるいは薬師寺の画家が、当時の貴婦人を思い浮かべつつこの画をかいたというようなこともないとは限らない。しかしここに描かれているのは、『霊異記』に現われたような、素朴ながらも病的な、誇張して感ぜられた女の美しさである。従ってこの画が天平の女の全面を現わしているとはいえない。『万葉集』の恋歌に表現された天平の女には、もっとインテリジェントな一面がある。この画によって知りうるのは、天平の貴婦人が髪を束髪のように結い、模様の美しい衣をなだらかに着こなしていたその外面的な姿である。  もし天平末のデカダンスがこの画によって代表せられるとすれば、それは繊細と耽美とにおいて藤原盛期に劣らない。しかもその力強さと自由と清朗の気とにおいてははるかに優っている。藤原時代の絵巻に現われた女の服装と、この吉祥天の服装とを比較して見ても、単に趣味の相違のみならず、心情全体の相違が感ぜられる。そうしてその相違は、同じように、和歌にも、造形美術にも、政治にも、宗教にも、認められるといってよい。その意味でこの画像は、ながめていると興がつきない。  この画の色彩は水彩だと言われているが、ただ水だけでといたとは思われぬところがある。それを館員のT氏にただすと、氏も同意見であった。誰もいわないことですが、わたくしはどうもこれは油絵だと思います。油でなければとてもこうは行かない、といって氏は衣の陰影のところなどを指した。麻布に油でかくというようなことは次の時代へはほとんど伝わらなかったらしい。それだけを考えても天平画の堙滅は惜しまれる。  この画の主題の取り扱い方もまた問題になる。吉祥天はバラモン教の美福の女神シュリイで毘沙門天(多聞天)すなわち富神クヴェラを夫としている。仏教に摂取せられてすでに金光明経などに現われているから日本でも古くより崇拝せられていた。特に天平時代は金光明経が国民全体の福祉のために盛んに用いられた時代で、吉祥天の崇拝もまた盛んであった。天平末に政府が吉祥天女画像を国分寺に頒ったごときはその一端であろう。画像が行なわれたのは同経に「応に我が像を画き種々の瓔珞もて周帀荘厳すべし」とあるによったものと思われる。さてこの吉祥天女が、──仏前に演説して、金光明経の受持者に飲食・衣服・臥具・医薬及び余の一切の物質的要求の充足を約してくれた吉祥天女が、──また主としては五穀豊穣を祈るためにまつられた吉祥天女が、──どうしてあのような女の姿に現わされたか。あの風俗が唐風であるに見ても、インド伝来の規矩に従ったのでないことは明らかである。もし東方の画家が金光明経を読んでそこからあのような天女像を空想し出したとすれば、「無量の衆生をして諸の快楽を受けしむる」幸福の女神は、この画家にとって、神であるよりも、まず豊麗な女であった。この想念を度外してはあの美人像が吉祥天像であるということは理解し難い。インドにおいて「女神」であるものが、ここでは単に美人の姿によって現わされる。これは非常な「ずれ」である。  密教の儀規が勢力を得た後の吉祥天女は、このように純然たる美人像ではない。直立して、定規の印を結び、頭や胸にインド伝来の複雑な飾りをつけている。その密儀の香気のゆえに、何となく人らしくない感じもする。しかし太り肉の女であって唐風の衣裳をつけている点は変わらない。だからインドの女神としての印象を与えるとはいえない。この種の吉祥天女像では浄瑠璃寺のが特に優れていると思うが、その優れているのはやはり美人像としてであって神像としてではない。一体密教はインド教と仏教の混血児であるからこの女神シュリイのごときもインド風に半裸体の像を採用しそうに思えるが、それがかく唐風の衣裳をつけているのは、密教隆盛以前にすでにこの種の伝統が確立していたことを示すのであろう。それに比べると水天などは、密教とともに流行し始めたものであるだけに、インド教の香気を強く保存している。水天はバラモンの水神ヴァルナであって、密教の諸仏諸天大集会に西方の守護神をつとめているが、天平時代の守護神のように純然たる仏の「守護神」となっておらず、なお本来の水の神としてその地位を得ているのである。  ──さて右のような特殊な伝統の源流となっている薬師寺吉祥天女は、天平時代の吉祥天女を代表し得るものなのであろうか。遺品によって証明することはできないが、天平の吉祥天女は恐らくこの画像に似たものであったろう。「身白色にして十五歳の女のごとく、種々の天衣をもって微妙荘厳す」というような儀規が当時伝わっていたとは見えない。左手に赤い珠を持っているのから考えると金光明経のみが典拠でなかったことも明らかである。あのように自由な像が描かれたということは、面倒な儀規の束縛がなかったことを示しているのではなかろうか。もし他に超人間らしい吉祥天女の像式があって、それが主として行なわれていたとすれば、いかに当時の画家が自由な心持ちであったとしても、いきなりそれを当時の美人風俗に画き変えることはできなかったであろう*。 * この後三月堂内の閉ざされた廚子のなかに塑像の非常にすぐれた吉祥天女像があるのを見た。破損はひどいが頭部と胴体と下肢とはまだしっかりしていた。それは同じ堂内の梵天(寺伝日天)にも劣らない堂々たる作で、女人の形姿を女神の姿にまで高めている。が「天女」として「女」の感じを強調した痕は著しい。そこから薬師寺画像のごとき美人像が出たのであろう。 『霊異記』の伝えている聖武時代の逸話なども、幾分この点について暗示を与えるかと思われる。それは和泉国の血渟山寺に安置せられていた吉祥天女の摂像についての出来事である。信濃から来てこの山寺に住んでいた一人の求道者が、天女像に恋して、六時ごとに、あなたのような美しい姿の女をわたくしに妻あわせて下さいと祈っていたが、ある夜ついにこの天女像と婚する夢を見た。翌朝行って見ると、それがただ夢のみではなかったことがわかった。その男は慚愧して、わたくしはただあなたに似た女をお願いしたのです、といってあやまった、というのである。『霊異記』のなかでこの種の逸話が伝えられているのはただ吉祥天女像のみであろう。それだけに当時の天女像がどういう印象を与えやすかったかも想像される。美術品に対してこの種の実感を抱くことは、その美術品が信仰の対象として人格的な力を持っていた時代には、単に美意識の不純というだけにとどまらない。だからそういう危険を誘発するような像画があえて作られたということには、何らか暗い背景がなくてはなるまい。  もっとも右のような逸話はあまり信用すべきものではあるまい。金光明経の印象によって僧侶の間にこのような仮構談が作り出されたということもないとは限らない。吉祥天女が仏の前に演説したところによると、天女はおのれを求むる者の夢に現われることを誓っているのである。「一室を浄治し、あるいは空閑の阿蘭若処にありて瞿摩を壇とし、栴檀香を焼きて供養をなし、一勝座を置きて、旛蓋もて荘厳し、諸の名華を以て壇内に布列せよ。当に前の呪を誦持して、我が至るを希望すべし。我その時に於て即ち是人を護念し、観察し、来りてその室に入り、座につきて坐し、その供養をうけん。是より後当にかの人をして睡夢の中に我を見るを得しめん。」──しかしまたこのような誓言が信者をして実際に天女を夢みさせる機縁となったこともないとは限らない。そこに夢遊病を付加して考えるならば、逸話通りのことが起こってもさほど驚くにはあたらないのである。  なおこの画と正倉院の樹下美人図との異同も考えてみねばならない。あの屏風が輸入品であるかどうかは知らないが、とにかく当時の美人の標準はこれによって察することができよう。吉祥天女は明らかにこの標準による美人である。しかし樹下美人には少なからず精神的陰影が現われているように思われる。万葉の烈しい恋歌などにもふさわしいと思える気宇が、眉の間に漂っているのもある。その点では吉祥天女の顔の方が肉感的である。そこにまた吉祥天女の特殊な意味があったのであろう。  信貴山縁起は平安朝絵巻物のうちの有数な名画である。線画の伝統の一つの頂上である。簡単な線でこれほど確かに人物や運動をかきこなしていることは、やはり一つの驚異といってよい。写実的気分も濃厚であるが、特にその捕え所が巧みである。たとえば大仏殿を描くのに、ただ正面の柱や扉のみで、遺憾なきまでに大きさと美しさを現わしているごときがそれである。もちろんそこには幅のせまい横巻に大仏殿を画き込むという条件が否応なしに導いて行った省略ということも考えてみなくてはならない。しかし大仏を拝みに行く人の心持ちを中心として考えると、かく急所をのみ捕えて、人物の心持ちと殿堂の美を一つにして現わし得た手腕は、容易なものではない。  この種の巧妙な技巧は日本人に著しい特質の一つである。絵画においては、平安朝の絵巻やその後の宋画・文人画・浮世絵、あるいは琳派の装飾画に至るまで、種々の方面にこの巧さを生かせている。文芸においても、和歌と俳句にその代表的な例があるのみならず、小説・戯曲などの描写にも少なからぬ証跡を残している。さらに一歩を進めていうと、落語、道話の類もこの特質の現われである。現代の日本芸術が特に技巧を重んずる傾向を持っているのは、この特質から出た伝統でないとは言えない。しかし技巧の妙味を重んずるのあまり内容の開展をおろそかにしたという欠点をも見のがしてはならない。これは実は真の意味での技巧の発展をさまたげているのである。なぜなら内容の開展に伴って必然に要求せられてくる力強い技巧の開展がここでは不可能であったからである。ここに日本文芸史の一面観がある。 二十 当麻の山──中将姫伝説──当麻曼陀羅──浄土の幻想──久米寺、岡寺──藤原京跡──三輪山、丹波市  Y氏の督促に従って大急ぎで停車場へかけつけたが、汽車はなかなか来なかった。Y氏は予定の時間をはずさないために信貴山縁起をきわめて迅速に巻いたのであるが、その巻き方が少し早すぎたのである。  王子で和歌山行きの小さい汽車に乗り換えるころには、空が一面に薄曇りになって、何となく気持ちも晴れ晴れしなかった。そのせいか汽車から見える当麻の山の濃く茂った嵂崒とした姿が、ひどく陰欝に、少しは恐ろしくさえ見えた。その感じは、高田*で汽車を降りて平坦な田畑の間を当麻寺の方へと進んで行く間も、絶えず続いていた。山に人格を認めるのは、素朴な幼稚な心に限ることであろうが、そういうお伽噺めいた心持ちをさえ刺戟するほどにあの山は表情が多い。あたりの山々の、いかにも大和の山らしく朗らかで優しい姿に比べると、この黒く茂った険しい山ばかりは、何かしら特別の生気を帯びて、なにか秘密を蔵しているように見えた。当麻の寺が役の行者と結びつき、中将姫奇蹟の伝説を育てて行ったのは、恐らくこの種の印象の結果であろう。 * 今では大阪鉄道当麻駅でおりるのが最も便利である。駅からは六七町。本文に当麻の山と書いたのは二上山である。寺は二上山の東南麻呂古山の東麓にある。  麦の黄ばみかけている野中の一本道の突き当たりに当麻寺が見える。その景致はいかにも牧歌的で、人を千年の昔の情趣に引き入れて行かずにはいない。茂った樹の間に立っている天平の塔をながめながら、ぼんやりと心を放しておくと、濃い靄のような伝奇的な気分が、いつのまにかそれを包んでしまう。── 山の裳裾の広い原に 麦は青々とのび 菜の花は香る、 その原なかの一すじ道   塔の見える当麻の寺へ。 れんげたんぽぽ柔らかげに 踏むは白玉の足 なよやかに軽く、 裳をふく風もうるさそうに   塔の見える当麻の寺へ。 汗ばむらしい姫の顔は 艶やかな処女のにおい ふくよかな円み、 散るおくれ毛もうるさそうに   塔の見える当麻の寺へ。 姫は目をあげ塔を望む あわれその目の深さ なやましい暗さ、 眉をひそめて物憂そうに   塔の見える当麻の寺へ。 乳母と侍女とは言葉もなく あとにうなだれて行く 忍びめく歩み、 嘆息の音も悲しそうに   塔の見える当麻の寺へ。  それが中将姫である。奇蹟伝説の主人公である。「その性いさぎよくして、ひとへに人間の栄耀をかろしめて、たゞ山林幽閑をしのび、つひに当寺の蘭若をしめて弥陀の浄刹をのぞむ。天平宝字七年六月十五日蒼美をおとしていよ〳〵往生浄土のつとめ念ごろなり」と『古今著聞集』は伝えている。伝説の起こったのもこの書の著作よりあまり古いことではないかも知れぬ。  寺へついてからもわたくしの気分を支配していたのはこの美しい尼の伝説である。生身の弥陀をこの肉眼で見たい、──それが信仰に燃ゆるこの若い心の赤熱した祈願であった。その前には生身の弥陀もついに現われずにいなかった。一人の見知らぬ比丘尼が彼女の側に立って、百駄の蓮茎を注文し、自ら蓮糸をとった。天女のような一人の美女が、その蓮糸から美しい曼陀羅を織り出した。晩の八時から明け方の四時まで、灯火は油にひたした藁束であった。織り上がると美女は立ち去った。比丘尼は画像の深義を説いてきかせた。一体あなたはどこのどなたでいらせられますかと不思議そうに姫が聞く。その答えに、わたしがこの極楽世界の教主、これを織ったのが弟子観世音、お身の心のふびんさに慰めに来ました。  それは夢みる心の幻想である。大切にしまってある原本曼陀羅を調べて見ると、麻糸と絹糸との綴れ織りであったという。すなわち蓮糸で織ったということは嘘なのである。しかし蓮糸で布が織れるものでないということは、昔の人にも明らかなことであったろう。蓮糸でなくてはならないのは幻想の要求である。蓮糸で織ったことが嘘であってもこの幻想の力は失せない。  金堂の気味悪い薄暗がりのなかで、わたくしは金網越しにつくづくと曼陀羅をながめた。それは東山時代の模写であって、画としては優れていない。しかしその図様は非常に興味深いものであった。他の人たちが須弥壇の金具などに鎌倉時代の巧妙な工芸を味わっていた間も、わたくしは金網に双眼鏡を押しつけていた。天平時代の阿弥陀浄土変というものがこういう構図からできていたとは信ぜられないが、中将姫の伝説を生み出したのがこういう浄土の図であったとすると、中将姫に代表せられる彼岸生活の憧憬は、きわめて素朴な形に現われた、完全な享楽生活への憧憬だということになる。それが人間の栄耀をかろしめた中将姫の心理の全幅を語っているといえるであろうか。  まず近くに見えるところには、蓮花の咲き乱れた池がある。蓮花の上には心地よさそうに小さな仏がすわっている。その間に裸の人(童子?)の棹さしている宝船が、精巧な台と小さな仏をのせて静かに浮かんでいる。水のなかにはまた蓮花に乗ったり下りたりして手をあげて戯れている童子がある。この池中に突き出した美しい台の中央は、遠近法によって描かれた舞台で、その上に演奏中の舞楽が二重に描かれている。大きい方は二行に並んですわった八人の楽女が横笛、立笛、箏、笙、銅鈸、琵琶などをもって、二人の踊り女の舞踊に伴奏する。衣裳はすべて観音などと同じく半裸の上体に首飾りと天衣とをまといつけるインド風である。小さい方は二行に別れて銅鈸や琵琶らしいものを持った楽人(童子?)が立ったままで二人の踊り手に伴奏している。その風俗は一筋の天衣を肩に引っ掛けているほか全裸体である。踊り方も大きい方はいわゆる舞楽らしいが、小さい方はよほど「舞踏」めいている。仮面はいずれも用いていない。この舞台を正面に見る池の中央には欄干のついた華やかな壇があって、大きい弥陀を中央に三十七尊が控えている。この弥陀が画面全体の中心で、この中心に関係する限り、すべての床の線は半ば遠近法的に中央に縮まって行く。しかし個々の形象が遠近法的に描かれているわけではない。だからこの画の筆者に遠近法の自覚があったとは言えまいと思う。本尊のうしろの左右にはシナ風の楼閣がある。そのなかを侍女めいた天女が往き来している。食卓に美味の並んでいるところもあれば、天女が美味をささげて回廊を伝って行くところもある。二階の露台には弥陀がすわっている。なお本尊の上の空中にも楼閣が浮かんでいて、いかにもふうわりと気持ちがよさそうに見える。多くの楼閣のうちには円頂の塔もあるが、これはビザンチンの影響の現われたものといわれている。これらの楼閣の屋根のあたりを、さも軽そうに飛んでいる天人は、この画のうちでも最も愉快なものの一つである。天衣のなびき方と体の自由な形とで、いかにもその飛行が自然に見え、また虚空の感じをも強く印象する。  この極楽の風致は、徹頭徹尾人工的である。シナの暴王がその享楽のために造った楼閣や庭園は、まずこんなものだったろうという気もする。そこに釈尊の解脱を思わせる特殊なものは一つもない。すべての装飾がデカダンスを思わせるほどあくどく、すべての悦楽が感性の範囲をいでない。この画のうちのあらゆる弥陀像を暴王の像に画き換え、あらゆる菩薩を美女の像に画き換えても、何ら矛盾は起こらないであろう。このような幻想を彼岸生活として持つものの永生の願望は、必竟現世を完全にして無限に延長しようとするに異ならない。しかもその現世の完成が、暴王の企てたところと方向を同じくする。物質的であって精神的でない。  この種の幻想がインドに始まったことは、それが観無量寿経に拠っているに見ても明らかであろう。しかしインド人が心に画いたのはこういう形においてではあるまい。インドで浄土変が画かれたかどうかは知らないが、少なくとも観経に現われた幻想は、宇宙の大をその内に包容するごときものであって、到底画に現わすことはできない。ただ音楽のみがその印象を語り得るであろう。極楽国土にある八つの池の一々には、六十億の七宝の蓮華があり、一々の蓮華は真円で四百八十里の大きさを持っている。衆宝国土の一々の界の上には五百億の宝楼閣があって、その一々の楼閣の中には無数の天人が伎楽をやっている。無量寿仏の坐をのせる蓮華の台は、八万四千の花片からなり、その花片の小なるものも縦横一万里である。これらの形象はすべて人の表象能力を超える。だからこの種の幻想がシナに渡って浄土変となる時には、恐らくシナ固有の仙宮の幻想に変化せざるを得なかったであろう。少なくとも宝楼閣がシナ風に描かれる程度に遊仙窟の気分もまた付加せられずにはいなかったであろう。この画のごときも仙宮に弥陀仏を移したもののように見える。  が、それが日本に渡ってくると、そこに異国情調という雰囲気がつけ加わってくる。この画における詩の欠乏はそれによって補われたであろう。従ってこの画は清浄な気分を印象し得たかもしれぬ。しかし浄土の幸福が現世の享楽の理想化に過ぎないという点は動かせない。  不完全な人間存在が完全な生への願望を含むところに深い宗教的な要求の根がある。それは官能的悦楽のより完全な充足を求める心としても現われ得るであろう。しかし人間の栄耀をかろしめるほどに深く思い入ったものが、──大臣の娘としての便宜と、美しい女としての特権とを捨離して顧みなかったものが、──それほど単純な心持ちでいたというのはおかしい。彼女の法悦を刺戟する手段としては、委曲をつくした浄土変よりは、一つの弥陀像、一つの観音像の方が有力であったろう。芸術として優れていることは法悦の誘導者としてもまた有力であったことを意味する。天平の彫刻が浄土変の類よりも重んぜられたのは理由のないことでない。  中将姫は確かに弥陀と観音とを幻視したかも知れぬ。しかしそれは伝説の示すとおり、曼陀羅の織り出される前であった。この曼陀羅のおかげではない。  天平時代後期に盛んに画かれた弥陀浄土変は恐らくこのようにごたごたしたものではなかったであろう。法隆寺壁画の阿弥陀浄土が、図様においてもほとんど比べものにならないほど簡素であることを考えると、当時の人がこの点に盲目であったとは思えない。壁画の浄土図は、経典に描写する浄土とはほとんど関係なく、ただ弥陀三尊を主として描いたもので、画としてはこの方が経典以上に浄土の気分を表現すると考えられる。それに比べて池を画き楼閣を画くごとき浄土図は、絵画が何をなし得るかについての理解を持たない僧侶の類の考案に過ぎまい。大仏殿の壁を飾る繍帳は、さすがにそんなものではなかった。五丈四尺に三丈九尺という大きい図面に、ただ一つの大きい観音立像が、すらりと立っていたのである。わたくしは法華寺の弥陀画像に似た簡素な弥陀像が光明后の枕仏であったに相違ないと考えたが、確かに当時はそういう画の方が尊ばれたであろう。  当麻寺にも彫刻は多かった。大抵は見た。建築も見洩らしたわけではなかった。しかしここにはすべて省く*。 * 本文には省いたが、ここでの第一のみものは天平時代の塔である。東塔の方が古く、西塔は弘仁期にかかるかもしれぬといわれている。いずれも美しい。彫刻では、補修のあとが著しいが、金堂の本尊弥勒や四天王が天平時代のものである。ほかに貞観時代・藤原時代のものも多い。また中の坊の書院と茶室が有名である。  絵葉書を買って見ると「練り供養来迎の実況」というのがあった。恵心僧都の始めた来迎劇はまだ生き残っているのである。  ──高田の停車場へ帰ったころには、細い雨がハラハラと落ち始めた。といってひどく降る様子でもなかった。予定どおり久米寺や岡寺、飛鳥の古京のあたりの古い寺を訪れるのも、さほど困難ではなかったのだが、汽車にのって落ちつくと、連日の疲れも出て、もう畝傍で下りる勇気はなくなった。せめて畝傍神社だけでもといってY氏はしきりにすすめたが、誰も立ちあがろうとはしなかった。  右に畝傍山・香久山、左に耳無山、その愛らしい小丘の間を汽車は駛せて行く。古の藤原の京、飛鳥の京の旧跡は指呼の間に横たわっていた。奈良とはまた異なった穏やかな景色で、そこにこの土地を熱愛した祖先の心も読まれると思う。香久山の向こうのあの丘の間に多くの堂塔の聳えていた時代もあった。そこで推古・白鳳の新鮮な文化は醸し出された。さらにさかのぼれば、伝説の時代のわれわれの祖先の、さまざまな愛と憎みとが、この山と川とに刻み込まれている。この地が特にやまとであったということと、日本民族の著しい特質とは、密接な関係を持つらしい。  多武の峯の陰欝な姿を右にながめながら、やがて汽車は方向を変えて、三輪山の麓へ近づいて行く。古代神話に重大な役目をつとめているこの三輪山はまた特に大和の山らしい。なだらかで、長く尾をひいて、古代の墳墓に見られると同様なあの柔らかな円味を遺憾なく現わしている。山を神として拝むのは原始時代に通有のことであるが、しかしこういうなだらかな線や円味を持ったやさしい山を崇拝するのは、比較的にまれなことではないであろうか。あの山の姿から超自然的な威力を感ずるという気持ちは、どうも理解し難い。むしろそれは完全なるもの調和あるものへの漠然たる憧憬を投射しているのではなかろうか。もしそうであるとすれば、この山もまた神話の書である。  三輪から北への沿線には小さい古墳が数知れず横たわっていた。小さいとは言っても形式は大型古式の墳壟である。この種の古墳がかくも多数に群をなしていることはほかに例がない。それを説明しているうちにY氏の話はおいおい古墳発掘や古美術探索の方に落ちて行った。この多数の古墳の大部分はすでに発掘されているらしいのであるが、特におもしろかったのはある有名な古墳の盗掘の話であった。そこは神聖な場所として平生は何人も足を踏み入れなかったので、盗掘者たちは毎日昼間そこに入り込んで発掘に従事した。ある日大きい石棺を掘り当てて、豊富な宝物を予想しながら蓋をあけると、中には色の白い美しい女が、まるで生きたままの姿で横たわっていた。その男は仰天して尻餅をついた。しかしその仰天してから尻餅をつくまでの間に女の姿は変色してハラハラと灰のように砕けてしまった。だから他には見たものはなかった。見た男は熱病にとりつかれて間もなく死んだ。  がまた発掘はいつも成功するとは限らなかった。今横浜の三渓園に移されている賀茂の塔なども、礎の下に非常な宝物が埋めてあると伝えられていた。で、移すときに大勢の人夫を雇ってその発掘を始めた。人々はみなその宝物の期待で緊張していた。特に監督の役をひきうけていた人は、人夫が不正なことをしはしまいかという心配で、熱し切っていた。一日目は石塊ばかり出た。二日目も石塊ばかり出た。三日目も同様であった。何間掘り下げても何も出なかった。  こんな話をきいているうちに汽車は丹波市を通った。天理教の本場で、大きい会堂らしい建物が、変に陰欝な感じを与えるほど、立ちならんでいる。天理教徒の布設した鉄道もここから王子へ通じているのである。汽車で駈け通ってさえ濃い天理教の雰囲気が感ぜられる、あの町のなかへ入り込んだらどんなだろう、と思わずにはいられなかった。あの狂熱的なおみき婆さんが三輪山に近いこの地から出たことは、古代の伝説に著しい女の狂信者の伝統を思わせて少なからず興味を刺戟する。確かにおみき婆さんの宗教は、日本人の宗教的素質を考える上に、見のがしてはならないものである。しかし局部的にはこれほど勢力のある天理教が、現在の日本文化の主潮とほとんど没交渉なのはどういうものであろう。わたくしの天理教に関する知識はわずかに二三の小冊子から得たに過ぎないが、それによると教祖の信仰は恐らく本物であったろうと思われる。それが現在の文化の内に力強く生育して行かないのは、一つには堕落しやすい日本人の性情にもよるであろうが、もう一つにはそれが世界的宗教に根をおろしていないからではなかろうか。親鸞の宗教はキリスト教的心情と結びつくときに、新しい光輝を発輝する。そのごとく天理教も、日本文化の変形に従って変形して行かなくてはなるまい。わたくしの漠然たる推測から言うと、もしおみき婆さんがキリスト教の地盤から生い出たのであったならば、あの狂熱はもっと大きい潮流を作り得たであろう。日本もまた一人の聖者を持ち、日本のキリスト教を確立し得たであろう。 二十一 月夜の東大寺南大門──当初の東大寺伽藍──月明の三月堂──N君の話  夕方から空が晴れ上がって、夜は月が明るかった。N君を訪ねるつもりでひとりブラブラと公園のなかを歩いて行ったが、あの広い芝生の上には、人も見えず鹿も見えず、ただ白々と月の光のみが輝いていた。  南大門の大きい姿に驚異の目を見張ったのもこの宵であった。ほの黒い二層の屋根が明るい空に食い入ったように聳えている下には、高い門柱の間から、月明に輝く朧ろな空間が、仕切られているだけにまた特殊な大いさをもって見えている。それがいかにも門という感じにふさわしかった。わたくしはあの高い屋根を見上げながら、今さらのように「偉大な門」だと思った。そこに自分がただひとりで小さい影を地上に印していることも強く意識に上ってきた。石段をのぼって門柱に近づいて行く時には、たとえば舞台へでも出ているような、一種あらたまった、緊張した気分になった。  門の壇上に立って大仏殿を望んだときには、また新しい驚きに襲われた。大仏殿の屋根は空と同じ蒼い色で、ただこころもち錆がある。それが朧ろに、空に融け入るように、ふうわりと浮かんでいる。幸いにもあの醜い正面の明かり取りは中門の陰になって見えなかった。見えるのはただ異常に高く感ぜられる屋根の上部のみであった。ひどく寸のつまっている大棟も、この夜は気にならず、むしろその両端の鴟尾の、ほのかに、実にほのかに、淡い金色を放っているのが、拝みたいほどありがたく感じられた。その蒼と金との、互いに融け去っても行きそうな淡い諧調は、月の光が作り出したものである。しかし月光の力をかりるにもせよ、とにかくこれほどの印象を与え得る大仏殿は、やはり偉大なところがあるのだと思わずにいられなかった。その偉大性の根本は、空間的な大きさであるかも知れない。が、空間的な大きさもまた芸術品にとって有力な契機となり得るであろう。少なくともそこに現われた多量の人力は、一種の強さを印象せずにはいないであろう。  わたくしはそこにたたずんで当初の東大寺伽藍を空想した。まず南大門は、広漠とした空地を周囲に持たなくてはならぬ。今のように狭隘なところに立っていては、その大きさはほとんど殺されていると同様である。南大門の右方にある運動場からこの門を望んだ人は、ある距離をおいて見たときに初めて現われてくる異様な生気に気づいているだろう。  この門と中門との間は、一望坦々たる広場であって、左と右とにおよそ三百二十尺の七重高塔が聳えている。その大きさはちょっと想像しにくいが、高さはまず興福寺五重塔の二倍、法隆寺五重塔の三倍。面積もそれに従って広く、少なくとも法隆寺塔の十倍はなくてはならない。塔の周囲には四門のついた歩廊がめぐらされており、その歩廊内の面積は今の大仏殿よりも広かったらしい。これらの高塔やそれを生かせるに十分な広場などを眼中におくと、今はただ一の建物として孤立して聳えている大仏殿が、もとは伽藍全体の一小部分に過ぎなかったことも解ってくる。しかしこの大仏殿も、今のは高さと奥行きとが元のままであって、間口が約三分の二に減じているのである。従ってその美しさが当初のものと比較にならないばかりでなく、大きさもまたほとんど比較にならない。試みに当初の大仏殿の略図を画いて今のと比べて見ると、今の大仏殿の感じは半分よりも小さい。当初のものは屋根が横に長いので、全体の感じが実に堂々としているのである。その屋根の縦横の釣り合いは唐招提寺金堂の屋根のようだと思えばよい。周囲の歩廊がまた今日のように単廊ではなくて複廊である。なお大仏殿のうしろには、大講堂を初め、三面僧房、経蔵、鐘楼、食堂の類が立ち並んでいる。講堂、食堂などは、十一間六面の大建築である。  そこには恐らく幾千かの僧侶が住んでいたであろう。そのなかには講師があり、学生があり、導師があり求道者があった。彫刻、絵画、音楽、舞踏、劇、詩歌──そうして宗教、すべて欠くるところがなかった。  わたくしは中門前の池の傍を通って、二月堂への細い樹間の道を伝いながら、古昔の精神的事業を思った。そうしてそれがどう開展したかを考えた。後世に現われた東大寺の勢力は「僧兵」によって表現せられている。この偉大な伽藍が焼き払われたのも、そういう地上的な勢力が自ら招いた結果である。何ゆえこの大学が大学として開展を続けなかったのであろうか。何ゆえこの精神的事業の伝統が力強く生きつづけなかったのであろうか。「僧兵」を研究した知人の結論が、そぞろに心に浮かんで来る、──「日本人は堕落しやすい。」  三月堂前の石段を上りきると、樹間の幽暗に慣れていた目が、また月光に驚かされた。三月堂は今あかるく月明に輝いている。何という鮮やかさだろう。清朗で軽妙なあの屋根はほのかな銀色に光っていた。その銀色の面を区ぎる軒の線の美しさ。左半分が天平時代の線で、右半分が鎌倉時代の線であるが、その相違も今は調和のある変化に感じられる。その線をうける軒端には古色のなつかしい灰ばんだ朱が、ほの白くかすれて、夢のように淡かった。その間に壁の白色が、澄み切った明らかさで、寂然と、沈黙の響きを響かせていた。これこそ芸術である。魂を清める芸術である。  N君の泊まっている家はこの芸術に浸り込んだような形勝の地にあった。門を一歩出れば三月堂は自分のものである。三日月の光で、あるいは闇夜の星の光で、あるいは暁の空の輝きで、朝霧のうちに、夕靄のうちに、黒闇のうちに、自由にこの堂を鑑賞することができる。雨にうたれ風に吹かれるこの堂の姿さえも、見洩らさずにいられるであろう。  家の人が活動写真を見に行った留守を頼まれて、N君は茶の間らしいところにいた。ペンと手帳と案内記とが座右にあった。当麻寺へ行って来たことを話すと、君はあの塔の風鐸をどう思います、ときく。わたくしは風鐸にまで注意していなかったので、逆にそのわけを尋ねた。──いや、あの形がお好きかどうか、ききたかったのです。僕はどうしても法隆寺の方がすきですね。中にぶら下がっているかねも格好が違っていますよ。下から見ると十文字になっています。──わたくしは頓首して、出かかっていた気焔を引っ込めるほかなかった。  N君は大和の古い寺々をほとんど見つくしていた。残っているのはただ室生寺だけであった。だからわたくしが名前さえ知らない寺々のことも詳しく知っていた。──その代わり大和からは一歩も踏み出さないことにきめているんです。範囲を広めてゆくときりがありませんからね。──そんなに詳しく見ていて、印象記でも書く気はないかときくと、手帳には書きとめているが、とても惜しくって印象記などにはできないという。その話の模様では、古美術の印象から得た幻想が作品として結晶しかかっているらしかった。──法隆寺にいらっしゃるのなら、夢殿のなかをよく見て来てくれませんか。僕はあんまりわがままをやったもので、お坊さんの感情を害したらしいんです。それでどうも具合がわるくて、もう一度見たいのを辛抱しているんです。ええ、夢殿の天井だの柱だのの具合を。──  帰るときにN君は南大門まで送ってくれた。みちみち現在の僧侶の内生活の話をきいた。叡山にながくいたことのあるN君は、そういう方面にも明るかった。のみならず君自身にも出家めいた単純生活に落ちついてすましていられる一種の悟りが開けていた。だから出家の心持ちにはかなり同情があるらしく、妻子をすてて寺にはいった人の話などをするにも、どこか力がこもっていた。叡山で発狂した修道者の話などはすご味さえあった。  ここの寺にも一人いますよ。時々草むらのなかからヌッと出てくることがある。──こう言ってN君はわたくしの顔を見た。──だが夜は大丈夫です。鹿のように時刻が来れば家へ帰って行くそうです。  やがて二人は南大門の石段の上で別れた。石段をおりてから振り返って見上げながら、暇があったらまたお訪ねしましょうというと、N君はこの「門」のただ中に立って、月の光を浴びながら、──ええ、御縁があったら、また。 二十二 法隆寺──中門内の印象──エンタシス──ギリシアの影響──五重塔の運動  次の日はF氏も加わって朝から法隆寺へ出かけた。いい天気なので気持ちも晴れ晴れとしていた。法隆寺の停車場から村の方へ行く半里ばかりの野道などは、はるかに見えているあの五重塔がだんだん近くなるにつれて、何となく胸の踊り出すような、刻々と幸福の高まって行くような、愉快な心持ちであった。  南大門の前に立つともう古寺の気分が全心を浸してしまう。門を入って白い砂をふみながら古い中門を望んだ時には、また法隆寺独特の気分が力強く心を捕える。そろそろ陶酔がはじまって、体が浮動しているような気持ちになる。  法隆寺の印象についてはかつて木下杢太郎へあててこう書いたことがある。  わたくし一己の経験としては、あの中門の内側へ歩み入って、金堂と塔と歩廊とを一目にながめた瞬間に、サアァッというような、非常に透明な一種の音響のようなものを感じます。二度目からは、最初ほど強くは感じませんでしたが、しかしやはり同じ感触があって、同じようなショックが全身を走りました。痺れに似た感じです。次の瞬間にわたくしの心は「魂の森のなかにいる」といったような、妙な静けさを感じます。最初の時にはわたくしは何かの錯覚かと思いました。そうしてあの古い建物の、半ばははげてしまった古い朱の色が、そういう響きのようなものに感じられるのかとも考えてみました。しかしあとで熟考してみると、そのサアァッという透明な響きのようなものの記憶表象には、必ずあの建物の古びた朱の色と無数の櫺子との記憶表象が、非常に鮮明な姿で固く結びついているのです。金堂のまわりにも塔のまわりにもまた歩廊全体にも、古び黒ずんだ菱角の櫺子は、整然とした平行直線の姿で、無数に並列しています。歩廊の櫺子窓からは、外の光や樹木の緑が、透かして見えています。この櫺子の並列した線と、全体の古びた朱の色とが、特に、そのサアァッという響きのようなものに関係しているのです。二度目に行った時には、この神々しい直線の並列をながめまわして、自分にショックを与えた美の真相を、十分味わおうとすることができました。  しかしその美しさは、櫺子だけが独立して持っているわけではありません。実をいうと櫺子はただ付属物に過ぎぬのです。あの金堂の屋根の美しい勾配、上層と下層との巧妙な釣り合い、軒まわりの大胆な力の調和。五重塔の各層を勾配と釣り合いとでただ一本の線にまとめ上げた微妙な諧調。そこに主としてわれわれに迫る力があるに相違ないでしょう。ところがその粛然とした全体の感じが奇妙にあの櫺子窓によって強調せられることになるのです。そうして緑青と朱との古びた調和が、櫺子窓のはげた灰色によって特に活かされて来るように見えるのです。  わたくしはあの堂塔が、あれほど古びていなかったら、あれほど美しいかどうか疑問だと思います。しかしこの詮議は無意味ですね。われわれの前にはただ一つの場合しかないのだから。  わたくしは貴兄からこの建築の印象を聞くことのできなかったのを残念に思います。この建築が朝鮮から伝わった様式で、六朝時代のシナ建築をわれわれに示すものであるとすれば、この建築の上に実にさまざまの空想が建てられなくてはならないのです。さらに鳩摩羅什時代の于闐の建築、カニシカ王時代の北西インドの木造建築、……それを心裡に描き出すについて、われわれはほかにあまり材料を持っていないのです。ギリシアの住宅建築の屋根とシナ建築の屋根との比較。それも考えてみました。スタインの発掘した于闐のお堂とシナの木造建築との類似。それも考えてみました。日本風の壁は、もと中央アジアで発明せられたのではないでしょうか。それとも漢人の発明でしょうか。──この種の数限りない疑問について、わたくしは貴兄の大陸見聞に多くを期待しています。  この手紙は法隆寺の建築の全体印象を何とかはっきりいい現わそうとして苦心したものであるが、あの印象を成り立たせている契機はもっと複雑だと思われる。それが見る度の重なるにつれて少しずつほぐれてくるのである。卍くずしの勾欄はこの建築の特異な印象の原因であるが、なぜそのように特異に感ぜられるかというと、並みはずれて高いからである。また屋根の勾配が天平建築に比べて特に異国的ともいうべき感じを伴っているのは、その曲線の曲度が大きくまた鋭いからであろう。講堂は藤原時代の作であるから、曲がり方がはるかに柔らかくなっているが、それを金堂に比べると、尺度の上の相違はわずかでありながら感じは全然違っている。推古仏と藤原仏の間にあるような距たりが、ここにも確かに感ぜられる。この金堂を唐招提寺の金堂に比べても同じように建築の上に現われた天平仏と推古仏の相違は感ぜられるだろう。招提寺の金堂が「渾然としている」と言えるならば、この金堂は偏執の美しさを、──情熱的で鋭い美しさを、持っているとも言える。そうしてその原因はあの曲度の鋭さにあるらしい。  法隆寺の建築に入母屋造りの多いこともここに関係がある。寄棟造りの単純明快なのに比べて、この金堂の屋根に複雑異様な感じがあるのは、入母屋造りのせいであるともいえよう。この建築が特にシナ建築らしい印象を与えるのもそのせいであろう。しかし入母屋造りがみな同じ印象を与えるというのではない。あの度の強い曲線に結びついてあの感じが出るのである。  この建築の柱が著しいエンタシスを持っていることは、ギリシア建築との関係を思わせてわれわれの興味を刺戟する。シナ人がこういう柱のふくらみを案出し得なかったかどうかは断言のできることでないが、しかしこれが漢式の感じを現わしているのでないことは確かなように思う。仏教と共にギリシア建築の様式が伝来したとすれば、それが最も容易な柱にのみ応用せられたというのも理解しやすいことで、これをギリシア美術東漸の一証と見なす人の考えには十分同感ができる。もしシナに漢代から唐代へかけてのさまざまの建築が残っていたならば、仏教渡来によって西方の様式がいかなる影響を与えたかを明白にたどることができたであろう。しかるにその証拠となる建築は、ただ日本に残存するのみなのである。そうなると法隆寺の建築は、極東建築史の得難い縮図だということになる。その縮図のなかにあの柱のふくらみが、著しく目立つ現象として、宝石のように光っているのである。しかし一歩を進めていうと、この建築は、単に柱のエンタシスのみならず、その全体の構造や気分において、西方の影響を語っている。シナには六朝以前にこれほど著しい宗教的建築物がなかった。高楼は造られても人間の歓楽のためのものであった。天をまつるために礼拝堂が建てられたということをわれわれはきかない。従って大建築は宮殿や官衙のほかになかったであろう。その建築の様式を利用して純粋の礼拝堂を造り、また礼拝の対象たる塔婆を造るに至ったことは、たといその様式に大変化がなかったとしても、なお建築史上の大変革といわなくてはならぬ。このときにインドの stupa がシナ式の重層塔婆となったのであるが、それは逆にいえばシナ式の層楼がインドの風たる浮図としての意義を獲得したのである。しかし礼拝の気分を刺戟するような建築物を持たなかったシナ人が、果して自発的な創作欲によってこの種の荘厳な塔婆を造り得たであろうか。そこには閉じられていた眼が新しい精神によって開かれるという契機はなかったであろうか。もしそれがあったとすれば、古い様式を用いつつ新しい統一を作り出したものは、西方の芸術的精神である。従ってわれわれの有する仏教の殿堂は、六朝時代及びその後における東西文化融合の産物だということになる。それは彫刻が西方の芸術的精神の所産であるのと変わりはない。六朝から唐へかけてこの精神は漸次著しく現われてきた。建築においても唐招提寺金堂は、エンタシスこそ消えているが、精神において実にギリシア的である。もし当麻曼陀羅の楼閣をシナ的というならば、この金堂はほとんどシナ的でない。そうしてこの非シナ的傾向のかなり早い現われが、恐らく法隆寺の建築に示されているのである。  もう一つこの日の新発見は、五重塔の動的な美しさであった。天平大塔がことごとく堙滅し去った今日、高塔の美しいものを求めればこの塔の右にいづるものはない。塔の好きなわたくしはこの五重塔の美しさをあらゆる方角から味わおうと試みた。中門の壇上、金堂の壇上、講堂前の石燈籠の傍、講堂の壇上、それからまた石燈籠の傍へ帰り、右へ回って、回廊との間を中門の方へ出る。さらにまた塔の軒下を、頸が痛くなるほど仰向いたまま、ぐるぐる回って歩く。この漫歩の間にこの塔がいかに美しく動くかを知ったのである。  塔は高い。従ってわたくしの目と五層の軒との距離は、五通りに違っている。各層の勾欄や斗拱もおのおの五通りに違う。その軒や勾欄や斗拱がまた相互間に距離を異にしている。その他塔の形をつくりあげている無数の細かい形象は、ことごとく同じようにわたくしの眼からの距離を異にしているのである。しかしわたくしが静止している時には、これは必ずしも重大なことではない。静止の姿においてはむしろ塔の各層の釣り合いが──たとえば軒の出の多い割合に軸部が低く屋根の勾配が緩慢で、塔身の高さがその広さに対し最低限の権衡を示していること、あるいは上に行くほど縮まって行く軒のうちで第二と第四がこころもち多く引っ込み、従って上部にとがって行く塔勢が、かすかな変化のために一層美しく見えることなどが、重大な問題である。しかるにわたくしが一歩動きはじめると、この権衡や塔勢を形づくっている無数の形象が一斉に位置を換え、わたくしの眼との距離を更新しはじめるのである。しかもその更新の度が一つとして同一でない。眼との距離の近いものは動きが多く、距離の遠い上層のものはきわめてかすかにしか動かない。だからわたくしが連続して歩くときには、非常に早く動く軒と緩慢に動く軒とがある。軒ばかりでなく勾欄も斗拱もことごとく速度が違う。塔全体としては非常に複雑な動き方で、しかもその複雑さが不動の権衡と塔勢とに統一せられている。またこの複雑な塔の運動も、わたくしが塔身と同じき距離を保って塔の周囲を歩く場合と、塔に近づいてゆく場合と、また斜めに少しずつ遠ざかりあるいは近づく場合とで、ことごとく趣を異にする。斜めに歩く角度は伸縮自在であるから、塔の運動の趣も変幻自在である。わたくしの歩き方はもちろん不規則であった。塔の運動も従って変幻きわまりなかった。しかもその変幻を貫いている諧調は、──というよりも絶えず変転し流動する諧調は、崩れて行く危険の微塵もないものであった。  この運動にはもとより色彩がからみついている。五層の屋根の瓦は蒼然として緑青に近く、その屋根の上下両端には点々として濃い緑青がある、──すなわち一列に軒端に並ぶ棰の先と、勾欄のところどころについている古い金具とである。屋根と屋根との間には、勾欄の灰色や壁の白色や柱・斗拱の類の丹色や雲形肘木の黄色などがはさまっている。そのなかでも特に丹色は、突き出た軒の陰になるほど濃く、軒から離れるほど薄くなる。すなわち斗拱の組み方が複雑になっているところは丹色が濃く残り、柱の下部に至るほど薄く鈍くはげて行くのである。そうしてこれらの色彩の最下層には、裳階の板屋根の灰色と、その下に微妙な濃淡を示す櫺子の薄褐灰色と、それを極度に明快に仕切っている白壁の色とがある。──これらすべての色彩が、おのおの速度を異にして、入り乱れ、走せちがい、流動するがごとくに動くのである。  ことにわたくしが驚いたのは屋根を仰ぎながら軒下を歩いた時であった。各層の速度が実に著しく違う。あたかも塔が舞踏しつつ回転するように見える。その時にわたくしは思わずつぶやいた、このような動的な美しさは軒の出の少ない西洋建築には見られないであろう。 二十三 金堂壁画──金堂壁画とアジャンター壁画──インド風の減退──日本人の痕跡──大壁小壁──金堂壇上──橘夫人の廚子──綱封蔵  金堂へは東の入り口からはいることになっている。わたくしたちはそこへ歩みいるとまず本尊の前へ出ようとして左へ折れた。  薬師三尊の横へ来たときわたくしは何気なしに西の方を見やった。そうして愕然として佇立した。一列に並んでいる古い銅像と黒い柱との間に、西壁の阿弥陀が明るく浮き出して、手までもハッキリと見えている。堂の東端からあの遠い距離にある阿弥陀が、このようにハッキリ見えようとは、かつて予期していなかった。またこれだけの距離を置いて見たときにあの画の彫刻的な美しさが鮮やかに浮きあがって来ようとは、一層予期しないところであった。  本尊の釈迦やその左右の彫刻には目もくれずにわたくしたちは阿弥陀浄土へ急いだ。この画こそは東洋絵画の絶頂である。剥落はずいぶんひどいが、その白い剥落面さえもこの画の新鮮な生き生きとした味を助けている。この画の前にあってはもうなにも考えるには及ばない。なんにも補う必要はない。ただながめて酔うのみである。  中央には美しい円蓋の下に、珍しい形をした屏障の華やかな装飾をうしろにして阿弥陀如来が膝を組んでいる。暗紅の衣は大らかに波うちつつ両肩から腕に流れ、また柔らかに膝を包んで蓮弁の座に漂う。光線と色彩との戯れを現わすらしいそのひだのくま取りは同様に肢体のふくらみを描いて遺憾がない。大きい肩を覆うときにはやや堅く、二の腕にまとうときには細やかに、膝においては特に柔らかい緊張を見せて、その包む肉体の感触を生かしている。がまたその布地の、柔らかではありながらなお弾力と重味とを欠かない性質も、袖口のなびき方や肩のひだなどに、十分明らかに現わされている。説法の印を結ぶ両手の美しさに至っては、さらに驚くべきものがある。現在の状態では、ここにもくま取りがあったかどうかはわからないが、とにかく輪郭の線は完全に残っていて、それが心憎いばかり巧妙に「手」を現わしている。もとよりそれは近代人の眼から見れば大まか過ぎる写実であるかも知れない。しかしこの放胆な大まかさのうちには古典的な力強さがあふれている。かすかに彎曲する素直な線のうしろにも人の手の不思議な美しさに対する無限の驚異と愛着とがひそんでいるように思われる。かつてはこの線を無表情として、「線は殆んど無意味にして形状をつくり彩色の罫界たらしむるに過ぎず」と批評した人もあった。この種の見解のゆえに線画は遊戯に堕したのではないであろうか。今はこの古典的な力強い芸術がわれわれの芸術の正当な祖先とならなくてはならない。この「手」の精神によって線画のうちにも新しい道が切り開かれなくてはならない。あの手に、ことにあの左手に、深い愛着を感ずる心は、同時に現代の日本画を非難する心である。もっともこの手の美しさは単に線の画としての美しさではないかも知れない。あの半ば剥げた色彩と、その間に点々として存する白い剥落面とは、あたかもそこに重厚な絵の具をぬりつけたような、すばらしい効果を持っている。この厚みの感じは、一つはあの線の力強い引き方にもよるであろうが、またこの剥落の効果に負うところも少なくはあるまい。そうなるとこれは天与の色彩である。日本画家に対する天啓である。  顔は手ほどは剥げていない。またその色も変色したらしく黒ずんでいる。剥落の効果はここにもあるらしく見えるが、しかし最初からこのようなくま取りがあったのかも知れない。鼻筋が通って鼻の高さが美しく現われているところなどは、自然の剥落としてはあまりに都合よく行き過ぎている。がいずれにしても、この顔がまた偉大である。薄く見開いた眼は無限を凝視するように深く、固く結んだ唇は絶大の意力を現わすように力強い。瞑想によって達せられる解脱境は恐らくここに具体的な姿を現わしているのである。人の美しい顔を描いてこれほど非人情的な、超脱した清浄さを現わしたものは、まず比類がないといってよいであろう。西洋の画に現われた気高さはもっと人情的なものである。仏教を産んだインドの壁画には、これほど清浄を印象するものはない。  この弥陀の光背も実にすばらしい。体から放射して体の周囲に浮動している光の感じが実によく出ていると思う。しかもそれが霊光であって、感覚を刺戟する光でないことが描き出されている。だからこの光はきわめて透明に、静かに、背後の物象を覆うことなく、仏の体を取り巻いている。これこそ光背の最初の意味を生かせているのである。光背に対する心からな感動はこの画によって初めて得られた。  本尊の左右には観音と勢至とが立っている。本尊に引かれつつしかも自分の独立を保つというふうに、腰部を本尊の方にまげ、肩を強く後方に引き、そうしてまた顔を、こころもち本尊の方にかしげて、斜め下に本尊直前の空間を見つめるごとく、半ば本尊の方へ向けているのである。もしこの画面の前方二尺ほどの所に対角線を引けば、両脇侍の視線はその交叉点に集まり、本尊の上体はこの視線の交叉の上にささえられることになるであろう。また両脇侍の上体は、対角線にほとんど平行する内側の腕と、その腕の斜向に相応ずる体勢とによって、あたかも左右から本尊を捧持するごとき感じを造り出している。こういう両脇侍の姿勢は、また「脇侍」としての意味を完全に現わすとも見られる。これほど緊密な三尊仏の構図は恐らくほかにはあるまい。  脇侍を個々に観察すると、その魅力はまた本尊以上に強い。本尊が男性的な印象を与えるに反してこれは女性的であるが、しかしその女らしさを通じて現われている清浄さは本尊に劣らない。「これほど人間らしくて同時に人間離れのしている姿を見たことがない」という言葉は、この画の印象をよくいい当てている。その顔は端正な美女の顔ではあっても、その威厳と気高さと──そうして三昧に没入した凝然たる表情とは、地上の女のそれではない。そのあらわな腕の円い美しさも、首飾りの垂れたなだらかな胸の清らかさも、あるいはまた華やかな布に包まれた腰や薄衣の下からすいて見える大腿のあたりの濃艶さも、すべて同じき三昧に浸っているかのように見える。確かにこれは不思議な美しさである。軽くまげた勢至の右腕や、蓮茎をささえて腰にあてている観音の右手などは、ただそれだけを見まもっていても一種の法悦を感じさせられる。恐らくこの画家は人体の美しさのうちに永遠なるいのちの微妙な踊躍を感じていたのであろう。そうしてその感じが肉体の霊光としてここに表現せられているのであろう。  まことにこの画こそは真実の浄土図である。そこには宝池もなく宝楼もなく宝樹もない。また軽やかに空を飛翔する天人もない。ただ大きい弥陀の三尊と、上下の端に装飾的に並べられた小さい人物とがあるのみである。しかもそこに、美しい人間の姿をかりて現わされたものは、「弥陀の浄土」と呼ばれるにふさわしいものである。芸術が人を一時的解脱に導くことはかつて力強く説かれたが、この画のごときは芸術のこの特性を生かしてそれを永遠の解脱に結びつけようとするものである。そうしてこのもくろみを成就させるものがただ霊光の美の完全な表現にあることを、──画面において浄土の光景を物語ることではなくしてただ永遠なるいのちを暗示する意味深い形を創作するにあることを、この画の作者は心得ていたらしい。宗教画としてこの画の偉大なゆえんも恐らくそこにあるであろう。  この画とアジャンター壁画との相似はすでにしばしば説かれた。その例証としてアジャンターの菩薩像とこの観音像とが比較せられたこともある。なるほどあの腰を捩った姿勢や腰にまとう衣や、下肢が薄衣の下から透いて見えるところや、すべて「酷似」するといわれても仕方がない。ガンダーラの直立した、衣の厚い菩薩像よりは、確かにアジャンターの画の方がこの観音に近い。だからこの壁画がグプタ朝絵画の流れをくんだものであることは確かであろう。このことはなお首かざりや衣の模様などからも証明せられる。しかしグプタ式であるということは、直ちにギリシア芸術の流れをくんだものでないということにはならない。グプタ朝芸術は恐らくガンダーラ美術の醇化であろう。あるいはまた、ギリシア精神のインドにおける復興とも見られるであろう。もともとインドの偶像礼讃の風はギリシアの伝統をうけついだものである。グプタ式の芸術はそれをインド風に育てたものといえるであろう。だからこの壁画がはるかにギリシア芸術の流れをくんでいると見ても間違いはないのである。  その見解はさらにこの画とアジャンター壁画との相違点によって強められる。たとえばあの腰の捩り方は、詳しく見ればインドのものと同一でない。インドのはもっとひどく、ほとんど病的に感ぜられるほどに捩れている。この画のはギリシア彫刻の体のまげ方に一歩近づいて、よほど安定の感じが多い。もしこの変化が西域において起こったとすれば、そこにインド風の減退、従ってギリシア風のより純粋なる現われも想像し得られるのである。  が、重大な相違はまだほかにある。第一は構図の上に現われた著しい統一である。インドの画には恐らくこのように鮮やかな統一は見られないであろう。この変化はギリシア的精神の影響に帰することもできるが、またシナ人の功績と考えることも不可能でない。シナ人は単純化の秘訣を知っていた。あるいはギリシア的な調和の気分がシナ人のこの特質を刺戟してこのような統一を画面に実現させたのかも知れない。次には画面にあふれる気分の清浄化透明化である。インドの画には息づまるような病的な興奮が感ぜられる。そこではいかに端厳に描かれた仏菩薩の像もこれほど人間ばなれのした感じを与えない。脇侍の菩薩においてはこの差別は明白であるが、比較的感じの似よった小さい菩薩(?)像においても同じ差別はあると思う。弥陀の両肩の上に描かれた小さい半裸像などは、その姿勢もアジャンターの画によくあるものであるが、はるかに無邪気で清朗な気分を持っている。乳房と腰部とに対する病的な趣味は、もはやこの画には存しない。この変化がどこで起こったかということも興味のある問題である。ギリシア人はいかに女体の彫刻を愛しても、いのちの美しさ以外には出なかった。それに比べてインド人の趣味は明らかに淫靡であった。この二つの気分の相混じた芸術が東方に遷移したときに、後者をふり落として前者を生かしたということは、それが偶像礼讃の伝統に付随するものである限り、ギリシア精神の復興だとも見られる。それを西域人がやったか、シナ人がやったか、あるいは日本人がやったか、──恐らく三者共にであろう。そうして東方に来るほどそれが力強く行なわれたのであろう。その意味でこの画は日本人の趣味を、──特に推古仏の清浄を愛していた日本人の趣味を、現わしているのであろう。  法隆寺壁画に日本人の痕跡を認める! 人はその無謀にあきれるかも知れない。しかし現在においてはそのあきれる人の意見を支持するような遺物の方が、一層見つからないのである。唐にいた西域人尉遅乙僧がこの壁画のような画を描いていたとしても、それは記録によって知られるにすぎない。西域の発掘品のうちには一としてこの画と同じ気分を印象するものはない。スタイン、ルコックなどの発掘品はみなそうである。この画の気韻には西域画と全然異なるものがある。そうなれば、この画はやはりその画かれた土地と結びつけて考えるほかないのではなかろうか。日本においてこれをかいた人は外国人であったかも知れない。しかし外国人であるならば、それは唐において容れられず、日本にその適応する地を見いだした人であろう。日本人はこの天才によって目を開かれ、そうして自己の心を表現してもらったように感じたのであろう。この画の作者もまた推古仏を愛する人々の素朴な心を尚び、その心に投ずることを心がけたのであろう。中宮寺観音とシナ六朝の石仏との間に著しい相違を認める人は、この画が初唐様式の画でありながらしかも気韻においてそれと相違することをも認めなくてはなるまい。  インドの壁画が日本に来てこのように気韻を変化させたということは、ギリシアから東の方にあって、ペルシアもインドも西域もシナも、日本ほどギリシアに似ていないという事実と関係するであろう。気候や風土や人情において、あの広漠たる大陸と地中海の半島はまるで異なっているが、日本とギリシアとはかなり近接している。大陸を移遷する間にどこでも理解せられなかった心持ちが、日本に来たって初めて心からな同感を見いだしたというようなことも、ないとは限らない。シナやインドの独創力に比べて、日本のそれは貧弱であった。しかし己れを空しゅうして模倣につとめている間にも、その独自な性格は現われぬわけに行かなかった。もし日本の土地が、甘美な、哀愁に充ちた抒情詩的気分を特徴とするならば、同時にまたそれを日本人の気禀の特質と見ることもできよう。『古事記』の伝える神話の優しさも、中宮寺観音に現われた慈愛や悲哀も、恐らくこの特質の表現であろう。そこには常にしめやかさがあり涙がある。その涙があらゆる歓楽にたましいの陰影を与えずにはいない。だからインドの肉感的な画も、この涙に濾過せられる時には、透明な美しさに変化する。そうしてそこにギリシア人の美意識がはるかなる兄弟を見いだすのである。  この画が薬師寺聖観音と相応ずるものであることは何人も否まないであろう。製作の年代も恐らく相去ること遠くあるまい。現存の遺品こそ少ないが、これらの白鳳時代の芸術は、まことに世界の驚異である。もしこれがある人の言うごとく弥陀三尊押出仏(奈良博物館)や観修寺繍曼陀羅(京都博物館)のごとき舶来藍本に基づいて我が国人の製作したものであるとすれば、当時の日本人の芸術的活力もまた驚くべきものである。  わたくしは西壁の浄土図にのみ執着したが、壁画はなお他に三つの大壁と八つの小壁とに描かれている。しかもそれが相互にかなり著しく気分を異にしたものである。これらの壁画の作者は少なくとも四人だと断定した人があるが、確かに四人以上の画家の手が感ぜられる。時代を異にするものもあるようである。  小壁のうちで特に美しいのは、入り口から左へ突き当たった隅の、東壁及び南壁である。よほど人間らしい、またよほどギリシア的な感じのもので、その点では前にあげた観音・勢至よりも生々しい味があるともいえる。南壁の花を持って立っている姿などは、アマゾンの像といってもいいほどに強靱でそうして艶めかしい。次は西大壁の側の小壁で特に左方の坐像は、その陰欝な、輪郭の正しい、いかにもアリアン種らしい顔によって興味を刺戟する。一目見たときには何ゆえともなくミケランジェロのヴィットリア・コロンナを連想した。大して似ているというでもないのにどうしてこう結びついたのか自分でもわからない。  大壁のうちでは北大壁(北側左)がほとんど磨滅し、南大壁(東側右)が著しく拙劣で、ただ東大壁(北側右)のみ浄土図に次ぐことができる。この画は構図がなかなかよく、画面の保存も最もいいのであるが、変色が著しいために全体の印象をさまたげられている。部分的に見ると左端の菩薩や天蓋の右の天人などは非常に美しい。いろいろな像の布置もなかなか巧みである。  金堂の壇上には多数の仏像がならび、天井からは有名な天蓋がさがっている。しかしその天蓋と本尊その他の仏像との関係が切れているのはおかしい。四隅に立っている四天王は簡素な刻み方で、清楚な趣があって、非常にいいものである。これらの四天王を四隅に配し、この壇上の諸仏を統一ある一つの群像に仕上げていた当初の金堂内の光景は、さぞよかったろうと思われる。  壇上にならべてあるもののうち最も注意すべきものは橘夫人の廚子である。わたくしはながい間その前に立っていたが、ついにY氏の後援のもとに壇上にのぼり、台座に描かれている壁画式の画をつまびらかにながめた。この廚子の大体の構造は推古式であって、その屋根である天蓋のごときは、金堂の大天蓋と酷似し、漢式直線模様を盛んに用いている。しかるに台座の画は、壁画に比べれば段違いのものではあるが、しかしその西域風の気分において一歩を進めたものである。この二つの様式の混用はわれわれには非常に奇妙に感ぜられる。なぜならそこに現わされた二種の心情は実に著しい対照をなしているからである。しかしこの廚子のなかの阿弥陀三尊の像やその背後の光屏などにおいては推古式の感じと西域式の感じとがきわめて巧妙に融合させられている。このできばえには実際驚異を覚えずにはいられない。中尊の顔は正面から来る光線のために妙にはにかんだような、泣き出しそうな表情に見えるが、光線を少し柔らげて陰影をほどよくすると、その奇妙な微笑もはれぼったい瞼も、きわめて美しい優しみ、ういういしい愛らしさを印象する。その顔のつくり方が、扉に描かれたインド風の足細く乳房の大きい菩薩と同じく、新しい様式によっているにもかかわらず、その感じはむしろ中宮寺の観音の方に近い。衣のひだの柔らかさも推古仏と壁画とのちょうど中間である。脇侍の菩薩はかなり推古仏に似ているが、乳の柔らかいふくらみや少しく腰をまげたところは幾分扉絵の気分にも似通っている。その顔の感じは本尊と同じくわが国独特のものである。後方の屏障に刻まれた菩薩も、その肉づけの柔らかさといい衣の自由ななびき方といい、実に息のつけないほど美しいものであるが、そこにも新来の様式の日本化が見える。西域式美術を吸収することによってこの種の甘美な、哀愁と慈愛に充ちた美術が造られたことは、日本人の特性を考える上に重大な暗示を投げるだろう。  この廚子が橘夫人の遺愛の品であるかどうかは、確証のないことであるが、製作の時代から言って必ずしもあり得ぬことではないらしい。橘夫人は天智時代に生まれ、天武時代にその若き恋の日を送り、持統時代の文武帝の養育者となり、文武時代に光明后を産んだ人である。この廚子が天武・持統のころの作であるならば、それは夫人が後宮にはいった前後の時代で、あるいは当時の後宮の趣味を現わしているかも知れない。あの装飾のしみじみした柔らかさ、細やかさ、あの三尊の涙ぐましい愛らしさなどは、恐らく当時の貴婦人を恍惚とさせたものであろう。天平時代の一面を光明后に代表させるごとく白鳳時代の一面をもまたその母夫人に代表させていいならば、この廚子に残された夫人の愛情は、藤原京生活の半面を暗示するのである。  金堂を出て綱封蔵に移ると、そこにはまたお蔵らしくさまざまの像画工芸品の類が並べてある*。有名なのは木彫九面観音や銅像夢違観音などである。夢違観音は新薬師寺の香薬師などと比べてよいほどの美しい作である。がそのほかにもなおそれに近いと思われるほどに美しい仏像が少なくない。また絹や錦や毛布や、その他さまざまの器具類など、往昔の文化をしのばせる品々も多い。落ちついて観察すればそこに尽きざる興味が湧き出てくるであろう。われわれにとって空白のごとくに見えている古い祖先の生活の一面も、これらの品々の観察によって、幾分充たされるに相違ない。  しかしその落ちつきのなかったわたくしは、眼にうつるものの多さに圧倒せられて、感受力が鈍りきるほど疲れた。昼飯のために夢殿の南の宿屋に引き上げたときには、縁側に腰をおろすと靴をぬぐ努力もものういほどであった。 * 法隆寺の宝物は今は新築の宝物殿に秩序立って陳列されている。 二十四 夢殿──夢殿秘仏──フェノロサの見方──伝法堂──中宮寺──中宮寺観音──日本的特質──中宮寺以後  ひるから夢殿に行った。天平時代に建てられたこの美しい八角の殿堂は、西の入り口から見ると、惜しいことに周囲が狭すぎて、十分の美しさを発揮しないように思われる。聖徳太子の斑鳩宮は今の堂の配置とは異なっていたらしい。しかし講堂たる伝法堂は橘夫人の邸宅より移した住宅建築である。廊下の奥にその伝法堂の見えている絵殿のぬれ縁に立って夢殿をながめると、かろうじて堂の全貌を見ることができる。それほど建築が近接しているのである。それは伽藍の感じではなくて、住み心地のよい静かな住宅の感じだともいえる。  夢殿の印象は粛然としたものであった。北側の扉をあけてもらって堂内に歩み入り、さらに二重の壇をのぼって中央の廚子に近づいて行くと、その感じはますます高まって行った。  わたくしたちは廚子の左側に立った。高い扉は静かに左右に開かれた。長い垂れ幕もまた静かに引き分けられた。香木の強い匂いがわれわれの感覚を襲うと同時に、秘仏のあの奇妙な、神秘的な、何ともいえぬ横顔がわれわれの眼に飛びついて来た。  わたくしたちは引きよせられるように近々と廚子の垂れ幕に近づいてその顔を見上げた。われわれ自身の体に光線がさえぎられて、薄暗くなっている廚子のなかに、悠然として異様な生気を帯びた顔が浮かんでいる。その眉にも眼にも、また特に頬にも唇にも、幽かな、しかし刺すように印象の鋭い、変な美しさを持った微笑が漂うている。それは謎めいてはいるが、しかし暗さがない。愛に充ちてはいるが、しかしインド的な蠱惑はない。  その肌の感じがまた奇妙である。幽かながら一面に残った塗金が、暗褐の地から柔らかく光り、いかにも弾力ある生きた肌のような、そのくせ人体の温かさや匂いを捨て去った清浄な肌のような、特殊な生気を持っている。それは顔面ばかりでなく、その美しい手や胸などにも感ぜられる。  腹部の突き出た姿勢は少し気にならぬでもない。元来この像は横からながめるようにはできていないのであろう。しかし肩から下へゆるく流れる直線的な衣文は非常に美しい。  この奇妙に美しい仏像を突然見いだしたフェノロサの驚異は、日本の古美術にとって忘れ難い記念である。彼は一八八四年の夏、政府の嘱託を受けて古美術を研究するためにここに来た。そうして法隆寺の僧にこの廚子を開くことを交渉した。が寺僧は、そういう冒漬をあえてすれば仏罰立ちどころに至って大地震い寺塔崩壊するだろうと言って、なかなかきかなかった。この時に寺僧の知っていたところは、秘仏が百済伝来の推古仏であることと、廚子が二百年以上開かれなかったこととのみであった。従ってこの仏像はその芸術的価値が無視せられていたというどころではなく、数世紀間ただ一人の日本人の眼にさえ触れたことがないのであった。フェノロサは同行の九鬼氏とともに、稀有の宝を見いだすかも知れぬという期待に胸をおどらせながら、執念深く寺僧を説き伏せにかかった。そうして長い論判の末にとうとう寺僧は鍵を持って中央の壇に昇ることになった。数世紀間使用せられなかった鍵が、さびた錠前に触れる物音は、二人の全身に身震いを起こさせた。廚子のなかには木綿の布を一面に巻きつけた丈の高いものが立っていた。布の上には数世紀の塵が積もっていた。塵にむせびながらその布をほどくのがなかなかの大仕事であった。布は百五十丈ぐらいも使ってあった。 「しかしついに最後の覆いがとれた」とフェノロサは書いている。「そうしてこの驚嘆すべき、世界に唯一なる彫像は、数世紀の間にはじめて人の眼に触れた。それは等身より少し高いが、しかし背はうつろで、なにか堅い木に注意深く刻まれ、全身塗金であったのが今は銅のごとき黄褐色になっている。頭には朝鮮風の金銅彫りの妙異な冠が飾られ、それから宝石をちりばめた透かし彫り金物の長い飾り紐が垂れている。 「しかしわれわれを最もひきつけたのは、この製作の美的不可思議であった。正面から見るとこの像はそう気高くないが、横から見るとこれはギリシアの初期の美術と同じ高さだという気がする。肩から足へ両側面に流れ落ちる長い衣の線は、直線に近い、静かな一本の曲線となって、この像に偉大な高さと威厳とを与えている。胸は押しつけられ、腹は幽かにつき出し、宝石あるいは薬筥をささえた両の手は力強く肉付けられている。しかし最も美しい形は頭部を横から見た所である。漢式の鋭い鼻、まっすぐな曇りなき顔、幾分大きい──ほとんど黒人めいた──唇、その上に静かな神秘的な微笑が漂うている。ダ・ヴィンチのモナリザの微笑に似なくもない。原始的な固さを持ったエジプト美術の最も美しいものと比べても、この像の方が刻み出し方の鋭さと独創性とにおいて一層美しいと思われる。スラリとしたところは、アミアンのゴシック像に似ているが、しかし線の単純な組織において、このほうがはるかに静平で統一せられている。衣文の布置は呉の銅像式(六朝式)に基づいているように見えるが、しかしこのようにスラリとした釣り合いを加えたために、突然予期せられなかった美しさに展開して行った。われわれは一見して、この像が朝鮮作の最上の傑作であり、推古時代の芸術家特に聖徳太子にとって力強いモデルであったに相違ないことを了解した。」  このフェノロサの発見はわれわれ日本人の感謝すべきものである。しかしその見解には必ずしもことごとく同意することができない。たとえばこの微笑をモナリザの微笑に比するのは正当でない。なるほど二者はともに内部から肉の上に造られた美しさである。そうして深い微笑である。しかしモナリザの微笑には、人類のあらゆる光明とともに人類のあらゆる暗黒が宿っている。この観音の微笑は瞑想の奥で得られた自由の境地の純一な表現である。モナリザの内にひそむヴィナスは、聖者の情熱によって修道院に追い込まれ、騎士の情熱によって霊的憧憬の対象となり、奔放な人間性の自覚によって反抗的に罪悪の国の女王となった。この観音の内にひそむヴィナスは、単に従順な慈悲の婢に過ぎぬ。この観音の像が感覚的な肉の美しさを閑却して、ただ瞑想の美しさにのみ人を引き入れるのはそのためである。  モナリザの生まれたのは、恐怖に慄える霊的動揺の雰囲気からであった。人は土中から掘り出された白い女悪魔の裸体を見て、地獄の火に焚かるべき罪の怖れに戦慄しながらも、その輝ける美しさから眼を離すことができないという時代であった。しかし夢殿観音の生まれたのは、素朴な霊的要求が深く自然児の胸に萌しはじめたという雰囲気からであった。そのなかでは人はまだ霊と肉との苦しい争いを知らなかった。彼らを導く仏教も、その生まれ出て来た深い内生の分裂からは遠ざかって、むしろ霊肉の調和のうちに、──芸術的な法悦や理想化せられた慈愛のうちに、──その最高の契機を認めるものであった。だからそこに結晶したこの観音にも暗い背景は感ぜられない。まして人間の心情を底から掘り返したような深い鋭い精神の陰影もない。ただ素朴で、しかも言い難く神秘的なのである。そういう相違がモナリザの微笑と夢殿観音の微笑との間に認められると思う。  エジプトの古彫刻との比較もきわめて興味あるものであるが、しかしその刻み出し方の鋭さと独創性とにおいて異なるのみならず、またその神秘的な気分においても異なっている。エジプト彫刻の神秘的な気分は、たましいの不滅と肉体の復活とを信ずる人間的な情緒と深く結びついている。しかしこの観音の神秘的な気分は、もっと瞑想的で、また非人間的である。  アミアンあるいはランスのゴシック像との比較は非常に興味深い。実際両者はその気分のういういしい清らかさにおいて実に奇妙なほど類似しているのである。この類似が何によるかの研究は、かなり重要な意義を持つかと思われる。それは結局、世界宗教をとり入れた若い民族の宗教的心情の問題となるであろう。  この作を朝鮮作と断ずるのも早計をまぬがれない。もとより当時の芸術家のなかには朝鮮人もいたであろう。しかし朝鮮にのみ著しい独創を認めて日本に認めないのは何によるのであろうか。遺品から言えば朝鮮には日本ほど残っていないのである。従って詳しい比較はなし得られない。その朝鮮へ日本で不明なものを押しつけるのは、問題を回避するに過ぎないのではなかろうか。シナとの関係から言えば朝鮮も日本と変わりはない。朝鮮に来て著しい変化があり得たなら日本に来てもまたあり得たであろう。この作を百済観音と鳥式仏像との中間に置いて考え、あるいは竜門の浮き彫りと比較して考えるのは、その様式上の考察としては見当をあやまっていないかもしれぬ。面長な顔のつくり方や高い鼻の格好も、シナにその模範があったかもしれない。しかしそれはこの観音が日本作でないという証拠にはならない。朝鮮人が日本に来てそこばくの変化を経験しなかったはずはなかろうし、朝鮮人に学んだ日本人がさらに変化を加えるということもないとは言えない。六朝仏の朝鮮化と考えられて来たことも、実は日本化であるかも知れない。朝鮮の古仏をいくら見ても、夢殿の秘仏を朝鮮作と断ぜしめるような明白な特徴は見つからないのである。  屋根のひくい絵殿の廊下を通りぬけて、その後方の伝法堂に行った。そこにも多くの仏像が並んでいるが、しかし秘仏を見たあとではほとんど目にはいって来ない。挨の多い床板の上を歩きながら、フェノロサの本の插絵にある壊れた仏像の堆積を思い出して、本尊の裏手の廊下のようなところをのぞいて見た。壊れた仏像はまだ随分多く残っていた。ことに頭部や手などが埃のうちにゴロゴロ転がっているのは、一種異様な感じであった。  そこを出て中宮寺へ行く。寺というよりは庵室と言った方が似つかわしいような小ぢんまりとした建物で、また尼寺らしい優しい心持ちもどことなく感ぜられる。ちょうど本堂(と言っても離れ座敷のような感じのものであるが)の修繕中で、観音さまは廚子から出して庫裏の奥座敷に移坐させてあった。わたくしたちは次の室に、お客さまらしく座ぶとんの上にすわって、へだての襖をあけてもらった。いかにも「お目にかかる」という心地であった。  なつかしいわが聖女は、六畳間の中央に腰掛けを置いて静かにそこに腰かけている。うしろには床の間があり、前には小さい経机、花台、綿のふくれた座ぶとんなどが並べてある。右手の障子で柔らげられた光線を軽く半面にうけながら、彼女は神々しいほどに優しい「たましいのほほえみ」を浮かべていた。それはもう「彫刻」でも「推古仏」でもなかった。ただわれわれの心からな跪拝に価する──そうしてまたその跪拝に生き生きと答えてくれる──一つの生きた、貴い、力強い、慈愛そのものの姿であった。われわれはしみじみとした個人的な親しみを感じながら、透明な愛着のこころでその顔を見まもった。  どうぞおそば近くへ、と婉曲に尼君は、「古美術研究者」の「研究」を許した。われわれはそれを機会に奥の六畳へはいって、「おそば近く」いざり寄ったが、しかしその心持ちは、尼君が親切に推測してくれたような研究のこころもちではなくて、全く文字通りに「おそば」に近づくよろこびであった。  あの肌の黒いつやは実に不思議である。この像が木でありながら銅と同じような強い感じを持っているのはあのつやのせいだと思われる。またこのつやが、微妙な肉づけ、微細な面の凹凸を実に鋭敏に生かしている。そのために顔の表情なども細やかに柔らかに現われてくる。あのうっとりと閉じた眼に、しみじみと優しい愛の涙が、実際に光っているように見え、あのかすかにほほえんだ唇のあたりに、この瞬間にひらめいて出た愛の表情が実際に動いて感ぜられるのは、確かにあのつやのおかげであろう。あの頬の優しい美しさも、その頬に指先をつけた手のふるいつきたいような形のよさも、腕から肩の清らかな柔らかみも、あのつやを除いては考えられない。だから光線を固定させ、あるいは殺し、あるいは誇大する写真には、この像の面影は伝えられないのである。  しかしつやがそれほど霊活な作用をなし得るのは、この像の肉づけが実際微妙になされているからである。その点でこの像は百済観音とはまるで違っている。むしろ白鳳時代のもののように、精妙な写実を行なっているのである。顔や腕や膝などの肉づけにもその感じは深いが、特に体と台座との連関において著しい。体の重味をうけた台座の感じ、それを被うている衣文の感じなど、実に精妙をきわめている。  わたくしたちはただうっとりとしてながめた。心の奥でしめやかに静かにとめどもなく涙が流れるというような気持ちであった。ここには慈愛と悲哀との杯がなみなみと充たされている。まことに至純な美しさで、また美しいとのみでは言いつくせない神聖な美しさである。  この像は本来観音像であるのか弥勒像であるのか知らないが、その与える印象はいかにも聖女と呼ぶのがふさわしい。しかしこれは聖母ではない。母であるとともに処女であるマリアの像の美しさには、母の慈愛と処女の清らかさとの結晶によって「女」を浄化し透明にした趣があるが、しかしゴシック彫刻におけるように特に母の姿となっている場合もあれば、また文芸復興期の絵画におけるごとく女としての美しさを強調した場合もある。それに従って聖母像は救い主の母たる威厳を現わすこともあれば、また浄化されたヴィナスの美を現わすこともある。しかしこの聖女は、およそ人間の、あるいは神の、「母」ではない。そのういういしさはあくまでも「処女」のものである。がまたその複雑な表情は、人間を知らない「処女」のものとも思えない。と言って「女」ではなおさらない。ヴィナスはいかに浄化されてもこの聖女にはなれない。しかもなおそこに女らしさがある。女らしい形でなければ現わせない優しさがある。では何であるか。──慈悲の権化である。人間心奥の慈悲の願望が、その求むるところを人体の形に結晶せしめたものである。  わたくしの乏しい見聞によると、およそ愛の表現としてこの像は世界の芸術の内に比類のない独特なものではないかと思われる。これより力強いもの、威厳のあるもの、深いもの、あるいはこれより烈しい陶酔を現わすもの、情熱を現わすもの、──それは世界にまれではあるまい。しかしこの純粋な愛と悲しみとの象徴は、その曇りのない純一性のゆえに、その徹底した柔らかさのゆえに、恐らく唯一のものといってよいのではなかろうか。その甘美な、牧歌的な、哀愁の沁みとおった心持ちが、もし当時の日本人の心情を反映するならば、この像はまた日本的特質の表現である。古くは『古事記』の歌から新しくは情死の浄瑠璃に至るまで、物の哀れとしめやかな愛情とを核心とする日本人の芸術は、すでにここにその最もすぐれた最も明らかな代表者を持っているといえよう。浮世絵の人を陶酔させる柔らかさ、日本音曲の心をとろかす悲哀、そこに一味のデカダンの気分があるにしても、その根強い中心の動向は、あの観音に現わされた願望にほかならぬであろう。法然・親鸞の宗教も、淫靡と言われる平安朝の小説も、あの願望と、それから流れ出るやさしい心情とを基調としないものはない。しかしここにわれわれが反省すべきことは、この特質がどれほど大きくのびて行ったかという点である。時々ひらめいて出た偉大なものがあったにしても、それが一つの大きい潮流となることはなかったのではないか。従ってわれわれの文化には開展の代わりに変化が、いわば開展のない Variation が、あったに過ぎないのではないか。深化の努力の欠乏は目前の日本人にも著しい。それはまた歴史的な事実であるともいえよう。そこにあの特質が必然に伴っている弱点も認められるのである。  この像を日本的特質の証左と見るためには、朝鮮人の気質も明らかにされなくてはならない。この考察のためにはちょうど都合のよい二つの傑作が京城の博物館にある。一つは京都太秦の広隆寺の、胴体の細い弥勒像に似たものであり、もう一つはこの如意輪観音に似たものである。いずれも朝鮮現存の遺品のうちの最も優れたものである。われわれはここに様式上の近似を認めざるを得ない。しかし芸術品としての感じには、はっきりとした区別があると思う。そうしてこの感じは天平時代にも生かされているのである。唐の芸術の影響はすでにこの像にも認められると思うが、さらにわたくしはあの特質の深化、偉大化の最大の例を天平芸術に認めたいのである。法隆寺壁画にもすでに日本化を認めた。あれは西域式の画を中宮寺観音の気分によって変化したものといえよう。この種の変化の証跡が天平盛期の芸術にはもっと著しいとはいえないであろうか。建築では三月堂や唐招提寺に確かにあの気分のヴェエルがかかっていると思うが、これは比較すべき唐の遺物がないのであるから断言はできない。彫刻では聖林寺の十一面も三月堂の梵天も、天平特有の雄大な感じのうちに、唐の遺物に見られないこまやかさと柔らかさとを持っている。あの特質が形を変えて内から働き出し、唐の様式の上に別種の趣を加えたのではないであろうか。  あの悲しく貴い半跏の観音像は、かく見れば、われわれの文化の出発点である。『古事記』の歌もこの像よりさほど古くはない。現在の形に書きつけられたのは百年近く後である。上宮太子の文化が凝ってこの像となったとすれば、上宮太子はまた我が国最初の偉人でなくてはならない。その太子の情生活が、ほとんど情死にも近い美しい死によって、──夫人は王と共に死んだのである、王の死は自然に夫人の死を伴ったのであった、──その死によって推察せられるならば、そこにはたましいの融合を信じまた実現したしめやかな愛の生活がある。そうしてそれは、やがて結論として中宮寺観音をつくり出すような生活なのであった。上宮太子の作と称せられる憲法が極度に人道的であるのもまた偶然ではない。  がこれらの最初の文化現象を生み出すに至った母胎は、我が国のやさしい自然であろう。愛らしい、親しみやすい、優雅な、そのくせいずこの自然とも同じく底知れぬ神秘を持ったわが島国の自然は、人体の姿に現わせばあの観音となるほかはない。自然に酔う甘美なこころもちは日本文化を貫通して流れる著しい特徴であるが、その根はあの観音と共通に、この国土の自然自身から出ているのである。葉末の露の美しさをも鋭く感受する繊細な自然の愛や、一笠一杖に身を託して自然に融け入って行くしめやかな自然との抱擁や、その分化した官能の陶酔、飄逸なこころの法悦は、一見この観音とはなはだしく異なるように思える。しかしその異なるのはただ注意の向かう方向の相違である。捕えられる対象こそ差別があれ、捕えにかかる心情にはきわめて近く相似るものがある。母であるこの大地の特殊な美しさは、その胎より出た子孫に同じき美しさを賦与した。わが国の文化の考察は結局わが国の自然の考察に帰って行かなくてはならぬ。  わたくしはかつてこの寺で、いかにもこの観音の侍者にふさわしい感じの尼僧を見たことがあった。それは十八九の色の白い、感じのこまやかな、物腰の柔らかい人であった。わたくしのつれていた子供が物珍しそうに熱心に廚子のなかをのぞき込んでいたので、それをさもかわいいらしくほほえみながらながめていたが、やがてきれいな声で、お嬢ちゃま観音さまはほんとうにまっ黒々でいらっしゃいますねえ、と言った。わたくしたちもほほえみ交わした。こんなに感じのいい尼さんは見たことがないと思った。──この日もあの尼僧に逢えるかと思っていたが、とうとう帰るまでその姿を見なかったので何となく物足りない気がした。  中宮寺を出てから法輪寺へまわった。途中ののどかな農村の様子や、蓴菜の花の咲いた池や、小山の多いやさしい景色など、非常によかった。法輪寺の古塔、眼の大きい仏像なども美しかった。荒廃した境内の風情もおもしろかった。鐘楼には納屋がわりに藁が積んであり、本堂のうしろの木陰にはむしろを敷いて機が出してあった。 底本:「古寺巡礼」岩波文庫、岩波書店    1979(昭和54)年3月16日第1刷発行    2006(平成18)年10月5日第52刷発行 底本の親本:「和辻哲郎全集 第二巻」岩波書店    1961(昭和36)年12月発行 入力:門田裕志 校正:仙酔ゑびす 2010年12月4日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。