西洋の唐茄子 長谷川時雨 Guide 扉 本文 目 次 西洋の唐茄子  青葉の影を「柳の虫」の呼び声が、細く長く、いきな節に流れてゆく。   ──孫太郎むしや、赤蛙……  ゆっくりとした足どりで、影を踏むように、汚れのない黒の脚絆と草鞋が動く──小いさな引出しつきの木箱を肩から小腋にかけて、薄藍色の手拭を吉原かむりにしている。新道にはまだ片かげがあって打水に地面がしっとりとしている。   ──しもたやのくせに店をもっている家──そうではなかったのかも知れない──閑散な店なのだったのかも知れないが、あんぽんたんはその家の、二間の障子がすぐはまっている店口に腰をかけて、まばらに通る往来の人を眺めていた。その家は一間巾位の中庭があったので、天窓からのような光線が上から投げかけられ、そこに植った植木だけが青々と光っていて、かえって店の中の方が薄っ暗かった。天井から番傘がつるしてあるだけを覚えている。眉毛をとった中年増の女房さんと、その妹だという女と、妹の方の子らしい、青い痩せた小さな男の子とがいた。  学校の行きかえりにその家の前を通ると、白い障子を細目にあけて外を覗いているものがあったが、声をかけられたのはその近くだった。はじめは何処のお子さんと訊いたりして、姉妹で私の肩上げをつまんだり袂の振りを揃えて見たりしていたが、段々に馴染んで先方でも大っぴらに表の障子を明け開げて、店口に座って私の帰りを待っていてくれるようになった。山吹きの枝のシンを巧く長くだしてくれて、根がけにしてくれたのもその人たちだった。  鼠とり薬を売る「石見銀山」は日中か夕方に通った。蝙蝠が飛び出して、あっちこっちで長い竹棹を持ちだして騒ぐ黄昏どきに、とぼとぼと、汚れた白木綿に鼠の描いてある長い旗を担ついで、白い脚絆、菅笠をかぶってゆく老人の姿は妙に陰気くさくいやだった。日中でも、  ──いたずらものはいないかな…… という声をきくと、鼠でなくても、子供でも首をひっこめた。  この家の女姉妹は、なんとなく女子供がいじって見たかったと見えて、私の髪を結ばせてくれといった。宅ではあんまりよろこばなかったが、彼女たちは私の短かい毛をひっぱって、練油と色元結でくくりつけるのを悦んだ──あたしは店さきに腰をかけて、足をブランブランさせたり、片っぽ飛ばした下駄を足さぐりしたりして、首だけ凝と据えている。  青葉がもめて、風がすっと通ってゆき、うすい埃りがたつと、しんとした正午近くは、「稗蒔き」が来る。苗売りが来る、金魚やがくる、風鈴やが来る。ほおずき売りが来る。汗ばんで来たなと思うころには、カタカタと音をさせて、定斎屋がくる、甘酒売りがくる。虫売りがくる──定斎屋と甘酒やだけが真夏になればなるほど日中炎天をお練りでゆくが、その他は小かげをえらんで荷をおろす。丁度その家の隣りが堀越角次郎という、唐物問屋の荷蔵の裏になって、ずっと高い蔵つづきの日かげなので、稗蒔屋はのどかになたまめ煙管をくわえ、風鈴屋はチロリン、チロリンと微風に客をよばせている。そんな時あたしのおたばこぼんが出来上ると、中に赤や青や金色の小さな瓢箪か、役者の写真の浮いている水玉のかんざしを、そこの姉妹が買ってさしてくれたり、腰にギヤマンの瓢箪をさげさせたりした。私のために大きな稗蒔きの鉢をかって、柴橋をかけさせたり、白鷺をおかせたり釣師の人形を水ぎわにおくために金魚も入れたり、白帆船をうかせたりしてくれた。  けれどあんぽんたんには親しめない家だった。店口より上へ、あがった事がなかったので、いつの間にか私の妹の、人なつこいお丸ちゃんが、代りに抱いたり、かかえられたりするようになった。  その家の右隣りの古板塀が、村上という漢方医者だった。その隣りが滝床──滝床といっても理髪店ではない。小さな酒屋だ。店の向って右手に、石で袖をした中に大きな水桶があって、貧乏徳久利が洗ってあり、正面に盛切りの台が拭きこんであって、真白な塩がパイスケに山盛りになって、二ツ三ツの酒樽と横に角樽が飾ってある店だ。赤ら顔の頭の禿げた滝床は、大通りの大店をもっている廻り髪結さんだったのだ。だから酒屋さんの店にいるときはすけない。たまに店にいる時は、ずっと店の前の方へ腰かけをもちだして、お客に白いきれをかけて斬髪をしているその道具が、菊五郎のおはこの『梅雨小袖昔八丈』の髪結新三が持ってくるのとそっくりそのままのをつかっている。滝床親方は、ずんぐりした体にめくらじまのやや裾みじかな着附けでニコニコ洋鋏をつかっていたが、お得意なのは土鉢に植えた青い、赤い実のなっているトマトだった。  尤もトマトなんて、知っているものもすけなければ、食べることなどはなおさらだったであろうが、細竹でささえて、二尺五寸ばかりに伸びたそれは、葉が茂って赤い実が美しく、斬髪の客の傍におかれてあった。 「この実のなってるのなんだね?」 「西洋の唐茄子だということで──」 「へえ? 珍らしいものだが、西洋の唐茄子って、ばかに細っかいもんだな。」  その一軒おいてとなりに紙屑屋のおもんちゃんの家があった。おもんちゃんの家は表はせまくって、紙屑で一ぱいだったが──紙屑やといっても問屋だったのだ──裏には空地があって、糸瓜の棚が田舎めかしかった。その後に空瓶の小屋があった。空地では子供角力が夏になると催うされた。  おもんちゃんは疳の高い子だったので、みんなから狂気あつかいにされて、ある日大門通りの四ツ角で、いたずら子供たちにとりまかれ、肌ぬぎになって折れた鉄物を振って悪童を追いかけていた。花井お梅の刃傷の評判が高かったので「花井お梅、花井お梅」と、はやしたてられていた。  その隣家が小川湯、そうして三、四軒おいておあぐさんの家であった。その向い側で面白い家をあげれば、角が土蔵から煙筒の出ている㊉芋屋の横腹、金物問屋金星の庭口、仕立屋井阪さん、その隣りも大丸の仕立屋さん、猫ばあさんのいた露路口、井阪さんが丁字髷で、ここの親方はへッついという髪の見本を見せておいてくれた鍛冶屋さん──表に大きな船板の水槽があって、丸子や琉金の美事なのが沢山飼養されていた。鍛冶屋の店さきには、よくこうした水箱があったがあれはなんのためだろうか、刀鍛冶などの流れの末とでもいうしるしなのかどうか。その隣りが芝居や、講談などにある、芝日影町の古着屋で、嫁入着物に糊附けものを売ったため、嫁御寮の変死から、その母親が怨みの呪い「め」と書いては焼火箸をつきさしていたという、怪談ばなしの本家江島屋の、後家になった娘のすんでいた格子戸づくり、それからどこかの荷蔵があって、丁度滝床の向うが、吾平さんという馬具屋であった。  吾平さんは顔の大きな、鼻も大きな、眼のちいさい人で、たっぷりした白髪をなでつけ、大きな鼈甲ぶちの眼鏡を鼻の上にのせて、紫に葵を白くぬいた和鞍や、朱房の馬連や染革の手甲などをいじっていた。鞭とか、馬びしゃくとかいったものは一かたまりずつになって沢山上から釣してあった。漸く一間半位の間口だったが、賑やかな見あきない店で職人もせわしく働いていた。前を通るとニカワを煮る匂いがした。  村上という医者の家が一番変っていた。どんな時、誰がどんな病気でも、あんぽんたんが薬をもらってくる時、変だなあとおもうのは、練薬と膏薬の二種だけだった。練薬は曲物に入れ、膏薬は貝殻に入れて渡した。  敷石を二、三段上って古板塀の板戸を明け一足はいると、真四角な、かなりの広さの地所へ隅の方に焼け蔵が一戸前あるだけで、観音開きの蔵前を二、三段上ると、網戸に白紙が張ってある。くぐりをあけてはいると、ハイカラにいえば二階はあるが一間の家で、入口の横に薬の名を書いた白紙を張りつけた、引出しの沢山ある薬だんすがおいてあった。薄暗い中に、紋附きの羽織を着た、斬髪の伸びた村上先生がいた。御新さんは庭で──空地で、粗末な土べっついで御飯を焚いている。その近所に、ショボショボと竹が生えているばかり、大きい方の娘さんは盥で洗濯をしていた。入口の塀の近くに、さすが井戸だけはある。下の娘も黄色い顔で、外にもあんまり出なかった。  このお医者さんは、外科はまるでだめだったと見えて、女中の足の指も腐らせてしまったが、あんぽんたんの父の手の外傷も例の膏薬で破傷風にしてしまった。がまん強い父が悪熱にふるえて、腕まで紫色に腫れ上ってしまっても、彼は貝殻の膏薬を貼りちらした。木魚のおじいさんが吃驚して、医の方で自分の先生のような木下さんという、旗本上りの顎髯の長いお爺さんを連れて来て手術をした。妙なところへ東洋風の豪傑と江戸っ子の負け惜しみをもつ父は、かなりな大手術であったであろうに、わざわざ病室から離れまで出張して──枕も上らなかったように思えたのに、八端のねんねこを引っかけて、曲彔によりかかり、高脚のお酒を飲みながら腕を裂かれていた。  木魚のおじいさんが助手で、膿盤は幾個もとりかえられた。強い消毒薬のかざは流れてきたが父の苦痛はすこしも洩れず、よく堪えている様子だった。私はハラハラした。障子の硝子の隅から細く覗いたが、父の姿は見えず、向うの欄間にかけてある、誰が描いた古画か、関羽が碁盤を見つめている唐画が眼に来た。父のこの大怪我もばからしい強がりから、爪でひっかかれたのだった。それも猫でも子供でもなく、父の部下のような若い代言人たちだった。鴎洲館とかいう、蔵前代地の、お船蔵近くの大きな貸席で、代言人の大会があった時、意見があわないとて、父の立つ演壇へ大勢が飛上って来て、真鍮の燭台で打ちかかるものや飛附いてくるものを、父は黒骨の扇──丁度他家からおくられた、熊谷直実の軍扇を摸したのだという、銀地に七ツ星だか月だかがついていたものだ──をもっていて身をふせいだのを、撃剣の方の手がきいているので鉄扇をもっているのかと思い、死もの狂いで噛みついたりひっかいたのであった。  騒ぎのあった翌日、その狼藉者一党が揃って詑びにきたが、その時、父はすこし寒気がするといっていたが、左の手の甲が紫色に腫れてるだけだった。対手の幾人かは頭に鉢巻したり、腕を結わえていたりした。そしていった。 「ばかな真似をしてしまって、あれが刀だったら僕の頭は真二ツに割られているところだ。とても歩けはしないが、ぜひ詑びにゆけと皆に抱えてこられた。眼が廻るほどピンピンする。」 「一度診察させるのだ、何しろ鉄扇だから、どこか裂けるか、折れるかしてると思う。」 「ばか言え、鉄扇なんて、そんなおだやかでないものを持ってゆくものか、弁論の自由を尊重しながら、そんな野蛮な──でも、じゃないよ、見ろ、この扇だ。」  みんな変な顔をしていた。元気な父は村上さんに膏薬を貼らせながら一人の手を見ていった。 「や、その爪か! 汚ねえのだなあ。」  対手の人も、鷹の爪のようにのびて、しかも真黒な爪垢がたまっている自分の五つの爪を眺めた。他の者たちも呆れた。だが、当然驚かなければならない医者が平然としていた。  父はお玉ヶ池の千葉について剣を学び、初期の自由党に参加した血の気が、まだおさまらなかったのであろう。友達たちも自然荒武者だった。その中に、親友であって法律の先生である村田電造という人があった。神田猿楽町に住んでいた。黄八丈の着物に白ちりめんの帯をしめて、女の穿く吾妻下駄に似た畳附きの下駄へ、白なめしの太い鼻緒のすがったのを穿いていた。四角い顔の才槌頭だった。静かにお茶を飲んだり、御酒をのんだりしてはなしていた。  ある時、あんぽんたんが六才か七才だったろう、初夏に、このおじさんと父との真ン中に手をひかれて、鎧橋のたもとの吾妻亭という洋食やへいった。おさな心に残っているのは皎々たるらんぷと、杉の葉と、白い卓クロースだった。杉の葉は日本風の家を何か装飾したものであったろう、ブランデーをかけて火を燃すオムレツも珍らしかったが、私の眼に今も鮮かにくるのは赤いツブツブのある奇麗な小さな丸るいものだった。たしか一つぶしかついていなかったが、あたしが凝と眺めていると、父が気がついて、自分のお皿の中からとって、あたしの白いお皿の、青いものの上にのせてくれた。すると、村田さんもおなじように、近眼鏡を近よせて、転がさないようにナイフの上に乗せてよこした。  それがあたしの、苺のみはじめだったのだ。食べはしなかったが、その赤さは充分に私を悦こばせ、最後までそのお皿をとりかえさせなかった。 「おかしな奴だ、気にいったら見ているばかりで、他のものも食わなくなっちゃった。」  父は帰ってからそういった。その癖がついて、洋食は大きくなるまで食べないで、手をつけないで、きらいではない習慣をもった。  赤大根を知ったのもそれに似よっている。十ばかりの時、クリスチャンの伯母夫婦──台湾のおじさん──が、神田南校の原の向う邸の中にいた時分、官員だったので洋室の食堂をもっていて、泊りにゆくと洋食が出た。従弟と私の妹おまっちゃんと三人で、赤大根を見た時、お皿の上で、葉をつまんで独楽のように廻した。黒い立派な大きな門をもったこの邸の構内には、藤島さんという、伯父には長官にあたる造幣局のお役人のお宅があった。竹柏園佐佐木信綱先生の夫人がそこのお嬢さんだった方だ。伯母の家の前、門のきわの竹の垣根に朝顔が咲いている家からはいい音がきこえていた、琴のこともあればヴィオリンの時もあった。幸田さんという、女でも偉い方で、一生懸命に勉強してお出なさるのだと、伯母はそのお家の前で鬼ごっこなんぞしていると叱っていった。あの有名な音楽家である幸田延子女史と、安藤幸子女史御姉妹のお若いころのことであった。  南校の原とは、大学南校のあった跡だと後に知った。草ぼうぼうとして、ある宵、小川町の五十稲荷というのへ連れてってもらった帰りに、原で人魂というのを見た。  外国人の大きな曲馬団が来て、天幕を張り、夜になると太い薪を積みあげて炎をたてるのが、下町そだちの子供に、どんなにエキゾチックな興趣を教えこんだであろう。私は曲馬を見るよりは、その天幕ばり全部を見るのを楽しんだ。父が来て、伯母の一家みんなと見物にゆこうとしても、私は外景を眺めているといってみんなを困らせた。でも、原っぱのそこかしこに、馬が繋いであったり、ある場所には象がいたり、かしこい犬がいたり、人間にしても、美くしい白人少女もいれば、黒んぼもいる。その人たちが惜げもなく腕や肩を出して、焚火のかがりの廻りにいたり、朝、原っぱを歩いていたりする景色は、とても楽しい生きた画であった。それにこの伯母の家にいると、牛が淵へおたまじゃくしを掬いにゆけたり、駿河台のニコライ会堂の建築場へもゆけるので、あきなかった。御飯のときにみんなが十字をきるのも私の眼を丸くさせた。 底本:「旧聞日本橋」岩波文庫、岩波書店    1983(昭和58)年8月16日第1刷発行    2000(平成12)年8月17日第6刷発行 底本の親本:「旧聞日本橋」岡倉書房    1935(昭和10)年刊行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:松永正敏 2003年7月4日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。