飛騨の怪談 岡本綺堂 Guide 扉 本文 目 次 飛騨の怪談 (一) (二) (三) (四) (五) (六) (七) (八) (九) (十) (十一) (十二) (十三) (十四) (十五) (十六) (十七) (十八) (十九) (二十) (二十一) (二十二) (二十三) (二十四) (二十五) (二十六) (二十七) (二十八) (二十九) (三十) (三十一) (三十二) (三十三) (三十四) (三十五) (三十六) (三十七) (三十八) (三十九) (四十) (四十一) (四十二) (四十三) (四十四) (四十五) (四十六) (四十七) (四十八) (四十九) (五十) (五十一) (五十二) (五十三) (五十四) (五十五) (五十六) (五十七) (五十八) (五十九) (六十) (六十一) (六十二) (六十三) (六十四) (一)  綺堂君、足下。  聡明なる読者諸君の中にも、この物語に対して「余り嘘らしい」という批評を下す人があるかも知れぬ。否、足下自身も或は其一人であるかも知れぬ。が、果して嘘らしいか真実らしいかは、終末まで読んで見れば自然に判る。  嘘らしいような不思議の話でも、漸々に理屈を詮じ詰めて行くと、それ相当の根拠のあることを発見するものだ。  勿論、僕は足下に対して、単にこの材料の調書を提供するに過ぎない。之を小説風に潤色して、更に読者の前に提供するのは、即ち足下の役目である。宜しく頼む。 大正元年十一月 XY生       *      *      *           *      *      *  こんな手紙と原稿とを突然に投げ付けられては、私も少しく面食わざるを得ない。宜しく頼むと云われても、これは余ほどの難物である。例えば、蟹だか蛸だか鮟鱇だか正体の判らぬ魚を眼前へ突き付けて、「さあ、之を旨く食わして呉れ」と云われては、大抵の料理番も聊か逡巡ぐであろう。況んや素人の小生に於てをや。この包丁塩梅甚だ心許ない。  随って実際は真実らしい話も、私の廻らぬ筆に因って、却って嘘らしく聞えるかも知れぬが、それは最初から御詫を申して置いて、扨いよいよ本文に取かかる。これは今から十七八年以前の昔話と御承知あれ。  北国をめぐる旅人が、小百合火の夜燃ゆる神通川を後に、二人輓きの人車に揺られつつ富山の町を出て、竹藪の多い村里に白粉臭い女のさまよう上大久保を過ぎると、下大久保、笹津の寂しい村々の柴焚く烟が車の上に流れて来る。所謂越中平の平野はここに尽きて、岩を噛む神通川の激流を右に視ながら、爪先上りに嶮しい山路を辿って行くと、眉を圧する飛騨の山々は、宛がら行手を遮るように峭り立って、気の弱い旅人を脅かすように見えるであろう。  けれども、地図によれば此処らは未だ越中の領分で、足腰の疼痛に泣く旅人も無し、山霧に酔う女もあるまいが、更に進んで雲を凌ぐ庵峠を越え、川を抱いたる片掛村を過ぎて、越中飛騨の国境という加賀澤に着くと、天地の形が愈よ変って来て、「これが飛騨へ入る第一の関門だな。」と、何人にも一種の恐怖と警戒とを与えるであろう。乱山重畳、草鞋の穿けぬ人の通るべき道ではない。  この加賀澤から更に二十里ほどの奥であると云えば、其の地勢などは委しく説明する必要もあるまい。そこに戸数八十戸ばかりの小さい駅がある。山間の平地に開かれた町で、学校もあれば寺院もあり、且は近年其附近に銀山が拓かれるとか云うので、土地は漸次に繁昌に向い、小料理屋のようなものも二三軒出来て、口臙脂の厚い女が斯んな唄を謡う様になった。 行くにゃ辛いがお山は飛騨よ    黄金白金花が咲く 「小旦那……小旦那……。昨夜も亦、彌作の内で鶏を盗られたと云いますよ。」 「鶏を……。誰に盗られたろう。又、銀山の鉱夫の悪戯かな。」と、若い主人は少しく眉を顰めて、雇人の七兵衛老爺を顧った。 「何、何、鉱夫じゃアねえ。」と、七兵衛は頭を掉って、「それ、例の……。」 「例の……。」 「𤢖ですよ。」 「むむ、山𤢖か。ははははは。ここらでは未そんなことを云ってるのか。」  若い主人は一笑に附し去ろうとしたが、七兵衛は固く信じて動かぬらしい。 「小旦那は幾ら東京で学問したって、そりゃア駄目でがすよ。現在、𤢖が出て来るんだから仕方がねえ。論より証拠だ。」 (二)  若主人の名は市郎、この駅では第一の旧家と呼ばるる角川家の一人息子である。斯ういう山村に生れても、家が富裕であるお庇に、十年以前から東京に遊学して、医術を専門に研究し、開業試験にも首尾好く合格して、今年の春から郷里に帰った。年は二十七歳で、色の浅黒い活発の青年である。  ここは山村で昔から良い医師が無い。市郎の父は之を憂いて、倅には充分に医術を修業させ、将来は郷里で医師を開業させる心組であった。市郎も固より其覚悟であったので、帰郷の後、半年ばかりは富山の某病院の助手に雇われ、此頃再び帰郷して愈よ開業の準備に取懸っている中に、飛騨の山里は早くも冬を催して、霜に悩める木葉は雨のように飛んだ。  十月の末ではあるが、朝の霜は白い。其の白きを履んで散歩する市郎の許へ、彼の七兵衛老爺が駈けて来て、大きな眼と口とを頻に働かせながら、山𤢖の一件を注進したのである。  対手が余り熱心であるので、市郎も無下に跳ね付ける訳にも行かぬ。 「然うかねえ。」と、軽く笑って、「僕等も小児の時には其んな話を聞いたことがあるが、真実に𤢖が出るのか。」 「確に出ますよ。幾らも見た者があるんだから争われねえ。」 「そこで、昨夜も彌作の許で鶏を盗られたんだね。」 「何でも夜半のことだと聞きましたが、裏の鶏舎で羽搏の音が烈しく聞えたので、彌作が窃と出て見ると、暗い中に例の𤢖が立っている。彌作も魂消て息を殺していると、𤢖は鶏舎の中から一羽を握み出して、ぎゅうと頸を捻って、引抱えて何処へか行って了ったと云いますよ。」 「ふむ。」と、市郎は首を拈って、「で、其の𤢖という奴は何んなものだね。」  七兵衛は慌てて遮って、更に前後を見廻して、若い主人を叱るように、 「奴なんぞと云うじゃアねえ。何処に立聞をしていて、何んな祟をするか知れねえ。幾らお前様が理屈を云ったって、𤢖に逢ったが最後、何んな人間だって敵うものじゃねえから……。」 「じゃア、奴というのは先ず取消にして、兎にかく其の𤢖とかいう者に一度逢って見たいもんだね。」 「馬鹿云わっしゃい。」  若い主人は又叱られた。  ここで鳥渡其の𤢖なるものを説明して置く必要が有る。此の土地に限らず、奥州にも九州にも昔から山男又は山𤢖の名が伝えられている。勿論、繁華の地には無いことであるが、山間の僻地では稀に其姿を見ることがある。要するに猿とも人とも区別の付かぬ一種奇怪の動物で、中には人間の詞を少しは解する者もあるとかいう。山𤢖のわろは恐く和郎という意味であろう。で、大いのを山男といい、小さいのを山𤢖と云うらしいが、能くは判らぬ。まだ其他に山姥といい、山女郎と云う者もある。これは恐く彼等の女性であろう。  兎に角に彼等は一種の魔物として、附近の里人から恐れられている。山深く迷い入った猟夫が、暗い岩蔭に嘯いて立つ奇怪の𤢖を視れば、銃を肩にして早々に逃げ帰る。万一之に一発の弾を与えたならば、熱病其他の怖るべき祟を蒙って、一家は根絶しになると信じられている。彼等は勿論深山の奥に棲んで、滅多に姿を見せることは無いが、時としては里に現われて食物を猟る。其場合には矢張り一般の盗賊の如くに、成べく白昼を避けて夜陰に忍び込み、鶏や米や魚や手当り次第に攫って行く。其の素捷いことは所謂猿の如くで、容易に其影を捕捉することは能ぬ。  又たとい其姿を認めた者があっても、臆病な里人は決して之を追おうとは試みない。若し迂濶に妨害を加えたらば、彼等は何時如何なる復讐をするかも知れぬので、何事も殆ど𤢖が為すままに任して置く。  𤢖に対する奇怪の伝説や歴史は、まだ此他にも沢山あるが、概括して云えば先ずこんなものである。 (三)  市郎も此の土地に生れたので、小児の時から山𤢖の話を聞いていた。「そんなに悪戯をすると、山𤢖に与って了いますよ。」と、亡母から嚇されたことも有った。が、多年東京の空気に混っている中に、そんなお伽話のような奇怪な伝説は、彼の頭脳から悉皆忘れられていたのを、今や再び七兵衛老爺から叱るが如くに諭されて、彼は夢のような少年当時の記憶を呼び起すと同時に、彼の山𤢖なるものに就て尠からぬ好奇心を生じた。 「𤢖とは何だろう。矢はり猿か狒々の一種か知ら。」と、市郎は頻に考えた。  七兵衛が去った後の裏庭は閑静であった。旭日の紅い樹の枝に折々小禽の啼く声が聞えた。差したる風も無いに、落葉は相変らずがさがさと舞って飛んだ。 「市郎、大分寒くなったな。」と、父の安行が背後から声をかけた。安行は今年六十歳の筈であるが、年齢よりも遥に若く見られた。  父がここへ来たのは丁度幸いである。市郎は彼の𤢖に就て父の意見を訊すべく待ち構えていた。が、父の話は其んな問題で無かった。 「時に忠一さんから何か消息があったか。」 「何でも来月初旬には帰郷するということでしたが……。」 「そうか。それは好都合だ。」と、父は満足の笑を洩らした。 「ですが、私の為に態々帰郷させるのも気の毒ですから、此方は別に急ぐ訳でもないから、冬季休業まで延期しろと云って与りました。」 「そう云って与ったか。」と、安行は少しく不平らしい口吻で、「当人が帰ると云うなら、帰って来いと云って与れば可いのに……。成ほど、今の所でお前の婚礼を急ぐにも及ばないが、決った事は早く行って了うに限る。吉岡の阿母さんも急いで居るんだからな。」 「でも、一月や二月を争うこともありますまい。」 「むむ。阿母さんはまア何うでも可いとしても、冬子さんが嘸ぞ待っているだろう。」  市郎は少しく顔を染めた。 「まあ、可い。」と、父は首肯いて、「そんなら其様に吉岡の阿母さんの方へも云って置こうよ。倅は何うも冬子さんを嫌っているようですから、婚礼は当分延しますと……。はははははは。」  安行は我子に対っても、何時も平気で冗談を云うのだ。市郎も笑って聞いていたが、やがて例の一件を思い出した。 「阿父さん。あなたに伺ったら判るでしょうが、昨夜彌作の家で鶏を奪られたそうですね。」 「むむ。七兵衛がそんなことを云ったよ。」 「私も七兵衛から聞いたんですが、山𤢖が奪ったとか云うことです。一体、𤢖なんて云うものが実際居るんですかね。」 「さあ、居るとも云い、居ないとも云うが、俺にも確然とは判らないね。」 「けれども、彌作は確に視たと云いますが……。どうも不思議ですよ。」 「不思議だね。」とばかりで、父は此話を余り好まぬらしい。 「ねえ、阿父さん。外国でも遠い田舎へ行くと、種々不思議な話があるそうで……。約り一種の迷信ですね。ここの山𤢖なんて云うものも矢はり其の一つでしょう。わたくしは之を十分に研究したいと思うんですが……。忠一君も曾てそんな話を為たことが有りましたよ。」 「𤢖を研究したい。」と、安行は稍や真面目になって、我子の顔を凝と視た。 「そうです。恐く猿か何かでしょうな。」 「猿でも猩々でも、そんなものには構わずに置くが可い。先年駐在所の巡査が𤢖を追って山の奥へ入ったら、其留守に駐在所から火事が始って、到頭全焼になって了ったことが有る。加之も駐在所が一軒焼で、近所には何の事も無かった。其の巡査も後に病気になったそうだよ。」  物の道理を相当に心得ている筈の父安行すらも、矢はり𤢖を恐るる一人であるらしい。市郎は肚の中で可笑く思った。 (四)  𤢖に対する市郎の好奇心は愈よ募って来たので、彼は何とかして父を釣り出そうと試みた。 「あなたも𤢖が怖いんですか。」 「怖いとも思わないが、好んで其んなものに関係う必要も無いじゃアないか。」  と、安行は情なく答えた。 「祖父さんは𤢖を見たそうですね。」 「誰から聞いた。」 「死んだ阿母さんから聞いたことがあります。」 「祖父さんは𤢖に殺されたのだ。」と、父は思わず歎息を吐いた。  市郎は驚いて飛び上った。 「え、祖父さんは𤢖に……。何うして殺されたんです。」 「そんな話は止そうよ。」  一旦は斯う云ったが、到底黙って承知しそうもない我子の熱心な顔を見て、安行は又思い直したらしい。 「では、話して聞かせるから、まあ此方へ来い。」と、父は先に立って、日当りの好い小屋の前に進んだ。  午前十時、初冬の日は愈よ暖かく麗かになって、白い霜の消えて行く地面からは、遠近に軽い煙を噴いていた。南向の小屋の前には、二三枚の莚が拡げて乾してあった。父子はここに腰を卸して、見るとも無しに瞰上げると、青い大空を遮る飛騨の山々も、昨日今日は落葉に痩せて尖って、宛ら巨大なる動物が肋骨を露わした様にも見えた。其骨の尖角の間から洩るる大空が、気味の悪いほどに澄切っているのは、軈て真黒な雪雲を運び出す先触と知られた。人馬の交通を遮るべき厳寒の時節も漸く迫り来るのである。 「今から丁度五十年前の事だから、俺も真実の話は能くも知らない。後に他から聞いたのだが……。」と、安行は我子を顧って、「矢はり今時分のことだ。お前の祖父さんが隣村まで用達に出かけて、日が暮れてから帰って来た。其晩は好い月夜で二三町先まで能く見える。祖父さんは少し酔っていたので、何か小唄を謳いながらぶらぶら来ると、路傍の樹の蔭から可怪な者がちょこちょこ出て来た。猿のような、小児のような者で、矢はり真直に立って歩いて行く。はて、不思議だと思いながら、抜足をして窃と尾けて行くと、不意に赤児の泣声が聞えた。熟視ると、其奴が赤児を抱えていたのだ。」  市郎は息を詰めて聴いていた。 「そこで、祖父さんも考えた。これは例の山𤢖が他の赤児を攫って行くに相違ない。対手が対手だから大抵の事は見逃して置くが、人間を攫って行くのを唯打捨って置く訳には行かぬ。其当時の事だから、祖父さんも腰に刀を佩していたので、突然にひらりと引抜いて、背後から「待てッ」と声をかけた。対手は振返って屹と此方を視たが、生憎に月を背後にしているので其顔は能く判らなかった。」 「顔は判りませんでしたか。」と、市郎は失望の息を吐いた。 「顔は判らなかったが、暫時は此方を睨んで居たらしかった。が、何分にも此方は長い刃物を振翳していたので、対手も流石に気怯れがしたと見えて、抱えていた赤児を其処へ投り出して、直驀地に逃げて了った。」 「何地の方へ……。」 「あの山の方へ……。」と、安行は北を指さして、「勿論、飛ぶように足が疾いのだから、到底追い付く訳には行かない。そこで、祖父さんは其の赤児を拾って帰って、燈火の下で熟視ると、生れてから十月位にもなろうかと思われる男の児で、色の白い可愛い児であった。いずれ近所の人の児であろうと、明る朝方々へ問い合わして見たが、この駅では小児を奪られた者は一人も無い。隣村にも無い。約り何処から持って来たのだか判らずに了った。」 「其の小児は何うしました。」 「まあ、漸々に話す。其の小児の事よりも、先ず祖父さんの方を話さなければならない。祖父さんは強い人であったから、別に何とも意にも介めずにいた処が、対手の方では執念深く怨んでいて、三日の後に残酷な復讐を為たよ。」  安行の声は少しく顫えて聞えた。 (五) 「復讐……。山𤢖が……。一体どんなことを為ました。」と、市郎も思わず摺寄ると、安行は今更のように嘆息した。 「それから三日目の晩に、祖父さんは用があって又隣村まで行ったが、夜が更けても帰って来ないので、家中の者も心配して、松明を点けて迎いに出た。其晩は真闇で、寒い山風が吹き下していた。で、先夜山𤢖から小児を奪返したという場所へ来ると、祖父さんは血だらけになって死んでいた。さあ大騒ぎになって、よくよく死骸を検めると、人か獣か知らないが何でも鋭い牙のある奴が、背後から飛び付いて喉笛を食い破ったらしい。祖父さんも幾らかは防いだと見えて、手や足にも引っ掻かれた爪の痕が沢山あった。勿論、死人に口無しで、誰に何うされたのか判らないが、祖父さんは他から恨を受けるような記憶も無し、又普通の追剥ならば斯んな残酷な殺し方をする筈がない。突然に人の喉笛に噛み付くなどと云うことは、普通の人間には容易に能る芸で無い。それ等の事情から考えると、同じ場所といい、残酷な殺し方と云い、どうしても例の山𤢖が先夜の復讐に来たとしか思われないのだ。いや、確にそれに相違ないということに決着して、死骸は寺に葬った。すると、まだまだ驚くことが有る。」  斯う云って父は一息吐いた。市郎も余りに奇怪なる物語に気を呑まれて、何とも詞を挿む勇気が無かった。 「それから初七日の日に、親類一同が式の如く寺参りに行くと、祖父さんの墓は散々に掘り返されて、まだ生々しい死骸が椿の樹の高い枝に懸けてあった。勿論、誰の仕業か知れないが、これも大抵は判っている。其以来、土地の者は愈よ山𤢖を恐れるようになって、今日まで誰も指をさす者が無いのだ。まあ、そんな訳だから何も好んで山𤢖なんぞに関係うことは無い、打捨って置く方が可いよ。」 「成ほど不思議ですな。」と、市郎も何だか夢のように感じた。天狗や山男や、そんなものは未開時代の昔語と一図に信じていた彼の耳には、此話が余りに新し過ぎて、殆ど虚実の判断に迷った。が、彼は一概に之を馬鹿馬鹿しいと蔑して了うほどの生物識でもなかった。市郎は飽までも科学的に此の怪物の秘密を訐こうと決心したのである。 「それで、明治以後にも相変らず其んな怪談が屡々ありましたか。」 「さあ。」と、父も考えて、「今も云うような訳で、此方では誰も手出しを為ないから、対手の方でも別に悪い事は為ないらしい。時々に里へ出て来て鶏や野菜などを掻っ攫って行くけれども、まあ其位のことは打捨って置くのさ。」 「警察でも構わないんですか。」 「昔は女や小児を攫ったと云うことだが、今は滅多にそんな噂を聞かない。で、人でも殺せば格別だが、小泥坊をする位のことでは、警察でもまあ大目に見逃して置くらしい。先刻も云った通り、巡査が一度追掛けたことも有ったが、到頭捉らなかった。何しろ、猿と同じように樹にも登る、山坂を平気で駈る、到底人間の足では追い付かないよ。併し近所に銀山も拓けて、漸々ここらも賑かになるから、𤢖も山奥へ隠れて了って、余り出なくなるかも知れない。」 「そうですねえ。ここらも昔に比べると余ほど開けて来ましたから……。」 「土地の繁昌は結構だが、銀山の鉱夫などが大勢入込んで来たので、怪しげな料理屋などが追々殖えて来るのは些と困る。」と、安行は苦笑いした。 「今に山𤢖も料理屋へ上って、甚九でも踊るようになるかも知れません。ははははは。」  父子は笑いながら内へ入った。  今日は些とも風のない温かい日であった。午餐の済んだ後、市郎は縁側に立って、庭の南天の紅い実を眺めていると、父の安行が又入って来た。 「好い天気だな。何うだ。運動ながら吉岡の家へ一所に行かないか。吉岡の阿母さんに逢って、お前の婚礼を延すことを一応断って置こうと思うから……。」 「はあ、お伴しましょう。」  市郎は散歩が好であった。加之も未来の妻たるべき冬子の家を訪問するのであるから、悪い心地は為なかった。早速に帽子を被って家を出た。  近来賑かになったと云っても、矢はり山間の古い駅である。町の家々は昼も眠っているように見えた。  富山の友人から貰ったトムと云う大きな西洋犬が、主人父子の後を遅々と躡いて行った。 (六)  長くもない町を行き尽して、やがて駅尽頭の角に来ると、冬を怨む枯柳が殆ど枝ばかりで垂れている傍に、千客万来と記した角行燈を懸けて、暖簾に柳屋と染め抜いた小料理屋があった。雪国の習で、板葺の軒は低く、奥の方は昼も薄暗い。  安行父子が今やここの門を通ると、丁度出合頭に内から笑いながら出て来た女があった。年は二十二三でもあろう、髪は銀杏返しの小粋な風であった。  市郎の顔を見るや、彼女は俄に衣紋を繕って、「あら、若旦那……。」と、叮嚀に挨拶した。市郎も黙って目礼した。 「よいお天気になりました。」と、女は笑を含んで再び詞をかけた。 「好い天気になりましたなあ。」と、市郎も鸚鵡返しに挨拶して、早々にここを行き過ぎた。女は枯柳の下に立って、暫時は其の後姿を見送っていた。 「お前はあの女を知っているのか。」  五六間行き過ぎてから、安行は低声で訊いた。 「いえ、知ってると云う程でも無いんですが、この夏、吉岡の忠一君が帰省した時に、一所にあの家へ飲みに行ったことが有るんです。何、唯った一度ですよ。」 「そうか。併し狭い土地だから、お前が角川の息子だと云うことは、先方でも知ってるだろう。あんな許へ余り出入するなよ。世間の口が煩さい。」 「そうですとも……。あんな家へは決して二度と足踏は為ませんよ。」と、市郎は潔よく答えた。が、何を思い出したか、嫣然笑いながら、「それでも忠一君は彼の女に思惑でも有ったと見えて、頻に戯って騒いでいましたよ。」 「若い者には困るな。」と、安行も共に笑いながら、「あれは酌婦だろう。何という名だ。」 「たしかお葉と云いました。」 「お葉か。忠一が今度帰ったら冷評て与ろうよ。」 「詰らない。お止しなさいよ。あれでも表面は真面目なんですから……。」 「それだから戯って与るんだ。」  斯ういう暢気な親父が、何故山𤢖なんぞを恐れるのだろうと、市郎は不思議に思いながら、不図顧ると、自分達の後を追って来たトムの姿が見えない。  はて、何処へ行ったかと見廻すと、犬は彼の柳屋の前に止って、お葉から何か食物を貰っているらしい。 「トム、トム……。」と、二三度呼んだが、犬は食物に気を奪られて、主人の声を聞付けぬらしい。市郎は舌打しながら引返して来た。 「トム、トム……。」と、少しく声を暴くして呼ぶと、犬は初めて心付いたらしく、食物を捨てて駈け出そうとしたが、早くも背後からお葉に抱かれて了った。 「この犬は良い犬ですね。」 「無闇に吠えて困るんです。」 「でも、温良いわ。妾、此犬が大好よ。」 「トム、トム……。」と、市郎は又呼んだ。犬は尾を掉って行こうとしたが、お葉は相変らず緊乎抱いていた。 「トム、トム……。」  市郎は重ねて呼びながら、犬の頸に手をかけると、お葉は傍へ寄って来て、低声で少しく怨恨を含んだように、 「あなた、あの時限り被入って下さらないのね。」  市郎は黙っていた。 「後生ですから、あなた最う一度来て下さいな。え、お厭ですか。え、どうしても厭……。来て下さらないの。」 「厭という事も無いんだが……。」と、市郎は返事に困って、思わず父の方を顧ると、安行は小半町ばかり先の木蔭に立って、此方を凝と見詰めているので、市郎は何とも無しに赤面した。 「兎にかく又来ますよ。」  詞短かに云い捨てて、無理に犬を牽き出すと、お葉は漸く手を放したが、今度は市郎の腕に手をかけて、 「あなた、必然ですか。可ござんすか。欺すと山𤢖を頼んで、意趣返しを為せますよ。」  お前ならば山女郎の方が可かろうと云おうとしたが、戯っていると長くなる。市郎は黙って首肯いて、早々に立去った。 (七) 「おや、角川のおじさん被入しゃい。市郎さんも……。さあ、どうぞ……。」  吉岡の母お政は、喜んで安行父子を迎えた。吉岡も隣村では由緒ある旧家で、主人は一昨年世を去ったが、お政との間に二人の子供があった。総領は忠一と云って、帝国大学の文科に学んでいる。妹の冬子も兄と共に上京して、某女学校に通っていたが、昨年無事に卒業して今は郷里の実家に帰っている。地方には能くある習、角川の市郎と冬子とは所謂許嫁の間柄で、市郎が医師を開業すると同時に、めでたく祝言という内相談になっている。勿論、二人の間に異存は無かった。  斯ういう関係であるから、昔から両家は殆ど親類同様に親しく交際していた。殊に主人が死んだ後は、吉岡の家では何かに付けて角川一家を力と頼んでいた。  安行父子が座敷へ通ると、今年二十歳の冬子も笑顔を作って出て来た。 「東京の倅の方から一昨日手紙が参りまして、冬子の婚礼に就て来月初旬には必然帰って来ると云うことでした。」と、お政が先ず口を切った。 「いや、其事ですが……。」と、安行は市郎を顧って、「倅の云うには、それが為に忠一さんを態々呼び戻すにも及ぶまい。どうで歳暮には帰郷するのだから、其時まで延しても差支はあるまいと……。」 「それも然うですが……。」と、お政は娘の顔を視た。市郎は何の気も注かずに、「実は私から忠一君の方へ、然う云って与ったんですが……。」 「まあ。」と、お政は更に市郎の顔を視た。 「私も今朝初めて聞いたのだが、延期しては何か御都合が悪いかな。」  安行の問に対して、母子は即坐に何とも答えなかった。お政は霎時考えて、 「いいえ、別に都合の悪いと云うこともありませんが……。善は急げとか云いますから、一日も早く御婚礼を済まして、妾も安心したいと思うのですが……。是非来月で無ければ成らないと云う訳もありませんから、約り貴下や市郎さんの思召次第で……妾の方は何方でも宜しいのです。唯、妾の方では……こんなことを申しては何ですけれども、市郎さんも未だお若いのですから、何かの間違いのない中に些とも早く……と斯う思って居りますので……。ほほほほほ。」  お政は冗談のように笑って云ったが、其詞の底には何かの意味があるらしくも聞えた。冬子も恨めしそうな眼をして、市郎の顔を視ていた。斯うなると、何だか聞捨にもならぬような意もするので、安行も稍や真面目になった。 「御承知の通り、倅もまだ書生上りで小児も同然だから、私も平生から厳しく監督していますが、冬子さんとの婚礼は昨日今日に初った話でも無し、たとい一月や二月延びたからと云って、決して間違いの起るなどと云うことは……。」 「それは然うですとも……。」と、お政は遮って、「ですから、妾の方でも決して心配は為ませんが……。それでもお若い方と云うものはね。」と、又笑った。  市郎も何だか黙ってはいられぬ羽目になった。 「じゃア、おばさん、私が何か不都合な事でも為ていると被仰るんですか。」 「別に不都合ということは無いのですけれど、他の噂を聞くと、市郎さんは此頃柳屋とか云う家にお馴染が出来たそうで……。皆なが然う云っていますよ。」 「へえー。」と、市郎は眼を丸くした。柳屋と聞いて、安行の眼も少しく晃った。 「嘘です、そりゃア実際嘘ですよ。」と、市郎は口早に、「そんなことは決してありませんよ。今も親父に話したのですけれども、此の夏、忠一君が帰省した時に、唯った一度行ったことが有るだけで、其後は柳屋の閾も跨いだ事は無いんです。」 「そうですかねえ。」と、お政はまだ笑っていた。其の疑惑は融けぬらしい。 (八) 「市郎、お前は真実に柳屋へ出入するのか。」と、今度は安行が問うた。 「いいえ、嘘です、嘘ですよ。何かの間違いでしょう。」と、市郎は慌てて弁解した。 「でも、忠一も其時に云っていましたよ。市郎君は色男だ、柳屋の女が大層チヤホヤしていたと……。ねえ、然うでしょう。」  如才ないお政は絶えず笑顔を見せているが、対手は甚だ迷惑に感じた。と云って、ここで何時まで争っても究竟は水掛論である。市郎も終末には黙って了った。  安行も考えた。何方の云うことが真実か知らぬが、先刻市郎の話では、忠一が女と巫山戯たと云う。今又ここの話では、市郎が女と情交があるらしいと云う。何方にしても、対手は客商売の女である。要するに二人の客に対して、等分に世辞愛嬌を振蒔いたと云うに過ぎまい。随って其時だけの遊興ならば兎こうの論は無いが、若し市郎が其後も柳屋へ通っている様ならば、少しく警戒を加えねばならぬ。彼のお葉という女は、どんな素性来歴の者か知らぬが、豪家の息子を丸め込んで、揚句の果に手切れとか足切れとか居直るのは、彼等社会に珍しからぬ例である。殊に此方は婚礼を眼の前に控えているから、それを附目に何かの面倒を持ち込まれては、吉岡家に対しても気の毒、自分達も世間に対して余計な恥を晒すようにもなる。何うか其んなことの無い様にしたいものだと、心窃かに無事を祈った。  が、誰の考慮も同じことで、ここで何時まで争った所で水掛論に過ぎない。これだけに釘を刺して置けば既う可いと思ったのであろう、お政は相変らず嫣然笑いながら、更に話を他に反した。 「好塩梅にお天気が続きますね。併し来月になったら、急にお寒くなりましょう。来年のお正月も又雪でしょうかねえ。」  旧暦に依る此土地では、正月は恰も大雪の最中である。年々の事とは云いながら、三尺、四尺、五尺、六尺と漸次に振積んで、町や村にあるほどの人々を、暗い家の中に一切封じ込めて了う雪の威力を想像すると、何と無く一種の恐怖を懐かぬ訳には行かぬ。四人は今更のように庭を眺め、空を仰いで、日毎に襲い来る冬の寒気を染々と感じた。  この時、表では犬の啼く声が頻に聞えた。トムは何物を視たか知らぬが、狂うが如くに吠え哮るのであった。 「何をあんなに吠えるのだろう。」と、手持無沙汰の市郎は、之を機に起上って門へ出た。  この家は小さい陣屋のような構造で、門の前には細い流を引き繞らし、一間ばかりの細い板橋が架してある。家の周囲は竹藪に包まれて、其の藪垣の間から栗の大木が七八本聳えていた。トムは橋の中央に走り出でて、凄じい唸声を揚げているのである。 「トム、トム……。」と、市郎は先ず声をかけながら不図視ると、トムの五六歩前には一人の怪しい女が立っていた。  女は六十前後でもあろう。灰色の髪を芒のように乱して、肩の下まで長く垂れていた。彼女が若かりし春の面影は、恐く花のようにも美しかったであろうと想像されるが、冬の老樹の枯れ朽ちたる今の姿は、唯凄愴いものに見られた。身には縞目も判らぬような襤褸の上に、獣の生皮を纏っていた。其の風体が既に奇怪であるのに、更に人を脅かすのは其窪んだ眼の光で、凡そ此世界にありと有らゆる物は、総て我敵であると云わぬばかりに睨み詰めているらしい。  狂人か、乞食か、但しは彼の山𤢖の眷族か、殆ど正体の判らぬ此の老女を一目見るや、市郎も流石に悸然とした。トムが怪んで吠えるのも無理は無い。  併し彼女は別に何をするでもなく、門前の往来に飄然と立っているだけの事であるから、市郎も改まって咎める訳には行かぬ。唯暫時は黙って睨んでいると、老女は何と感じたか、黄い歯を露出して嫣然笑いながら、村境の丘の方へ……。姿は煙の消ゆるが如くに失せて了った。  市郎は夢のように其の行方を見送っていると、トムの声を聞き付けて、この家の下男も内から出て来た。其話によると、彼の怪しの老女は北の山奥に棲むお杉という親子連の乞食であると云う。乞食とあれば是非もないが、何だか唯者では無いように市郎は感じた。 「あれは山𤢖の女房だとも云いますよ。」と、下男は更に低声で囁やいた。 (九) 「トムは何を吠えていたのだ。」  市郎が旧の座敷へ戻って来ると、安行は煙草を喫みながら徐に訊いた。 「いや、表に変な女が立っていましてね。後で聞けばお杉とか云う乞食だそうで……。」 「ああ、お杉ですか。」と、お政母子は眉を顰めて首肯いた。 「何です、彼女は……。頗る変な奴ですね。狂人でしょうか。」 「さあ、幾らか気も変になっているか知れないが、所謂狂人と云うのでも無いようだ。」と、安行は考えて、「彼女も俺の家に満更縁が無いでも無いのだ。お前も知っているだろう。」 「いえ、些とも知りませんね。一体、彼女は何です。」と、市郎は父の顔を覗いた。 「今朝お前に話した通り、祖父さんが五十年ほど昔に、山𤢖に攫われた小児を助けたことが有る。」 「けれども、それは男の児でしょう。」 「まあ、黙って聞くが可い。それには又種々の可怪な話が絡んでいるのだ。」  山𤢖と怪しの老女、この関連は愈よ市郎の好奇心を湧かした。お政も冬子も珍しそうに耳を欹てた。  茶を一杯、それから安行はこんなことを語り出した。  市郎の祖父、即ち安行の父は山𤢖の復讐の為に無残の死を遂げた。併し其手に救われた赤児は、角川家の情に因って無事に生長した。固より何者の子とも判らぬので、仮に重蔵と名を付けて、児飼の雇人のようにして養って置いた。角川の家は代々の郷士で、傍らに材木伐出しの業を営んでいたので、家の雇人等も木挽の職人と一所に山奥へ入ることが屡々ある。重蔵も十二三歳の時から山へ入った。  何でも彼が十五六歳の秋であった。小児の癖に気の暴い重蔵は、木挽の職人と何か喧嘩をした結果、同じく気の早い職人は「どうでも勝手にしろ。」と、山小屋に重蔵一人を置去りにして帰って了った。而も其処には伐倒された杉や山毛欅の材木が五六本残っていたので、飽までも強情な重蔵は、自分一人で之を麓まで担ぎ出そうとしたが、長く大きい材木は少年の肩に余って、到底嶮しい山坂を降る訳には行かぬ。兎こうする中に日は暮れかかる。彼も流石に途方に暮れている処へ、恐く例の山𤢖であろう。人か猿か判らぬ一個の怪しい者がふらりと出て来た。  並大抵の者ならば、驚いて慌てて逃げ出すべきであるが、重蔵は頗る大胆であった。咄嗟の間に思案を定めて、腰に提げたる割籠から食残りの握飯を把出して、「これを与るから手伝って担いで呉れ。」と手真似で示すと、𤢖も合点したと見えて悠々と材木を担ぎ出した。斯くして彼は先棒となり、𤢖は後棒となって、幾本の重い材木を無事に麓まで担ぎ下したのである。  これが一種の縁となったとでも云うのであろう、其後も𤢖は折々に山小屋へ姿を見せた。但し他人のいる時は決して近寄らず、重蔵一人の時を窺って忍んで来る。其都度に重蔵は自分の握飯を分って、𤢖に仕事を手伝わせていた。が、或時これを見付けた者が有って、重蔵は山𤢖を友としているという噂が忽ち拡がった。角川家でも大に心配して、其以来彼を山小屋へ遣らぬ事とした。  それから又二三年過ぎた。其間別に変った事も無かったが、一旦山𤢖と親しんだという風説が、甚だ此の青年に禍して、彼は附近の人々から爪弾きされた。若い者の寄合にも重蔵一人は殆ど除外となって了った。随って彼の性質も愈よ僻んで来て、仕事を怠ける、喧嘩をする、酒を飲む、甲から乙へと堕落して、果は第二の親とも云うべき角川一家の人々からも見放される様になった。  が、其間に於て独り重蔵に同情した女があった。即ち彼のお杉である。お杉は此の駅尽頭の蕎麦屋の娘で、飛騨小町と謳われる程の美人であったが、何ういう訳か不思議に縁遠いので、三十に近いまで独身で過した。 (十)  お杉が評判の美人であるにも拘らず、盛を過ぎるまで縁遠いに就ても、山里には有勝の種々の想像説が伝えられた。其中でも、彼女は蛇の申子で、背中に三つの鱗が有るということが、一般の人々に最も多く信ぜられていた。  お杉は重蔵に比べると、殆ど十歳ばかりの姉であったが、何時か此二人が狎馴染んで、一旦は山の奥へ身を隠した。お杉の家でも驚いて、そこの森や彼処の谷合を猟り尽した末に、一里ばかりの山奥にある虎ヶ窟という岩穴に、二人の隠れ潜んでいるのを発見して、男は主人方に引渡され、女は実家へ連れて戻られたが、其の翌る夜に二人は又もや飛び出した。今度は他国へ遠く奔ったらしい。遂に其行方を探り得なかった。  それから十年ほど経つ中に、お杉の家は死絶えて了った。二人の名も大方忘れられて了った。然るに某日のこと、樵夫が山稼ぎに出かけると、彼の虎ヶ窟の中から白い煙の細く颺るのを見た。不思議に思って近寄って窺うと、岩穴の奥には怪しい女が棲んでいた。十年前に比べると、顔容は著るしく窶れ果てたが、紛う方なき彼のお杉で、加之も一人の赤児を抱いていた。驚いて其仔細を訊したが、彼女は何にも答えなかった。赤児は恐らく重蔵の胤であろうと思われるが、男の生死は一切不明であった。  それから二十余年の間、彼女は此の窟を宿として、余念もなく赤児を育てていた。赤児も今は立派な大人になって、其名を重太郎と呼ぶそうである。で、此の母子は何に因って衣食しているか判らぬが、折々に麓の駅に現われて物を乞うのを見れば、先ず一種の乞食であろう。勿論、これまでにも警官から度々立退を命ぜられたが、今日逐われても明日は又戻って来るという風で、殆ど手の着け様がない。駐在所でも終末には持余して、彼等が悪事を働かない限は、其ままに捨てて置くらしい。  虎ヶ窟は其昔、若き恋に酔えるお杉と重蔵との隠れ家であった。彼女は今や白髪の嫗となっても、思い出多き此窟を離れ得ぬのであろう。  で、単に是だけの事ならば仔細も無いが、このお杉婆に就て又もや一種の怪しい風説が起った。と云うのは、この母子が折々に里へ出て物を乞う時、快く之に与うれば可矣、若し情なく拒んで追い払うと、彼等は黙って笑って温順く立去るが、其家は其夜必ず山𤢖に襲われて、鶏か稗かを奪われる。或は偶然かも知れぬが、其間に何かの関係が有るらしくも思われるので、人々は自ずと此のお杉を忌み且恐るるようになった。で、お杉は山𤢖を手先に遣うとも伝えられた。お杉は山𤢖の女房であるとも伝えられた。固より確な証拠がある訳でもないが、こんなような意味からして、老たるお杉は一種の魔女の如くにも見られていた。  或時には又こんな事もあった。お杉が門に立って米を乞うた時に、或人が一合ばかりの米を与えて、冗談半分に斯う云った。「お前も知っている通り、飛騨の国は米が少いのだから、之を十倍にして返して呉れるか。」お杉は黙って首肯いて去った。すると、其晩の中に一升ほどの白米が、其家の前に蒔き散らされてあった。  又、或家に夜も昼も泣く赤児があって、お杉が門に立った時にも、其児は火の付くように泣いていた。彼女は黙って其額を撫でると、赤児は其以来些とも泣かなくなった。  善か、悪か、狂か、兎にも角にも彼女は普通の人間でない、一種不思議の魔力を有っている女の様にも見えた。  お杉に就て安行の知っているのは、先ず此位の程度であったが、迷信の多い人々の説を聞いたら、まだ此上にも種々不可思議の実例があるらしい。  こんな話に時の移るのを忘れている中に、庭に囀ずる小禽の声も止んで、冬の日影は余ほど薄くなった。 「もうお暇為ようか。」  安行と市郎は暇乞いして、吉岡の家を出た。 (十一)  飛騨といふ詞は襞を意味して、一国の中に山多く、さながら衣に襞多きが如くに見ゆる所から、昔の人が此国の名を斯く呼んだのである。随って飛騨と云えば直に山を聯想するまでに、一国到る処に山を見ざるは無い。この物語の中心となっている町も村も、殆ど三方は剣の如き山々に囲れていた。  お杉が棲んでいる虎ヶ窟というのは、角川家のある町と吉岡家の居村とを境する低い丘から、約一里の山奥にあった。一里といえば人里から左のみ遠からぬ処であるにも拘らず、ここは殆ど通路の無いほどに岩石嶮しく峭り立っているのと、昔から此辺は魔所と唱えられているのとで、猟夫も樵夫も滅多に通わなかった。苔蒸す窟は無論天然のものであったが、幾分か人工を加えて其入口を切拓いたらしくも見える。奥は真暗で其深さは判らぬ。背後は屏風のような絶壁で、右の方には大なる谷が繞っていた。  窟の入口には薄黒い獣の生皮を敷いて、Xという字のように組まれた枯木と生木とが、紅い炎焔や白い烟を噴いていた。其火に対って孑然と胡坐を掻いているのは、二十歳ばかりの極めて小作りの男であった。  何処やらで滝の音が聞えて、石燕が窟の前を掠めて飛んだ。男は燃未了の薪を把って、鳥を目がけて礑と打つと、実に眼にも止らぬ早業で、一羽の石燕は打つに随って其手下に落ちた。男は拾うより早くも其羽を毟り取って、燃え颺る火に肉を炙った。  やがて落葉を踏む音して、お杉婆は諷然と帰って来た。男は黙って鳥を咬っていた。二人共に暫時は何の詞をも交さなかったが、お杉の方から徐に口を切った。 「重太郎。何か他に喫べる物は無いか。」  男は彼女の倅の重太郎であった。其風采は母と同じく異体に見えたが、極めて無邪気らしい、小児のような可愛い顔であった。髪を蓬に被った頭を掉って、 「何にも無いよ。」  一日や二日の断食は此母子に珍しくもないらしい。お杉は唯首肯いて其処に坐ったが、俄に思い出したように少しく詞を改めた。 「重太郎。お前に少し話して置きたい事があるのだ。」 「阿母さん、何だ。」 「妾は既う十日の中に死ぬかも知れない。死んだら必然仇を取ってお呉れよ。」 「可いとも……。どんな奴でも、俺ア必然仇を取って与る。唯は置くものか。」  重太郎は腕を叩いて潔よく答えたので、お杉も快げに微笑んだ。 「そこで、お前に見せて置く物が有る。今まではお前にも秘して置いたが、此の窟の奥には大切な宝が蔵ってある。何か大事が出来して、お前が何うしても此処に居られない様な場合になったら、其れを持出して逃るが可い。相当な買人を探して売払えば、お前は乞食を為ないでも済むのだ。」  母は起って奥へ入ると、重太郎も黙って其後につづいた。窟の奥は昼も真暗であったが、お杉の点す一挺の蝋燭に因っておぼろおぼろに明るくなった。  行くこと七八間にして、第一の石門が有った。これから先は路が狭く、岩が低くなって、到底真直に立っては歩けなかった。母子ともに頭を屈めて進むと、更に第二の石門が行手を塞いでいた。蝙蝠のような怪しい鳥が飛んで来て、蝋燭の火を危く消そうとしたのを、重太郎は矢庭に引握んで足下の岩に叩き付けた。  第三の石門には、扉のような大きな扁平い岩が立て掛けてあって、其下の裂目から蝦蟆のように身を縮めて潜り込むのである。二人は兎も角も此の石門を這い抜けて、更に暗い冷い石室に入った。 「さあ、覗いて御覧。」と、お杉は蝋燭を高く擎げた。  石室の隅には広い深い岩穴があって、穴の遠い底には、風か水か知らず、ごうごうと微に鳴っていた。若し一歩を誤れば、この暗い地獄の底に葬られねばならぬ。重太郎も足下を覗いて流石に悚然した。 (十二)  お杉は無言で蝋燭を翳すと、深い岩穴の中腹かとも思われる所に、さながら大蛇の眼の如き金色爛々の光を放つものが見えた。 「判ったか。」と、お杉が蝋燭を退けると、穴は旧の闇に復って、金色の光は夢のように消えた。重太郎は呆れて立っていた。 「阿母さん、あれは何だい。」 「何でも可い。いざと云う時に持ち出して他に売れば、お前は金持になれるのだ。」  穴の中では猿のような声で、キキと叫ぶ者があった。 「騒々しい。静にお為よ。」と、お杉は鋭い声で叱り付けると、怪しい声は忽ち止んだ。お杉は再び無言で歩み出すと、重太郎も黙って続いて出た。  二人が旧の入口に出た頃には、山峡の日は早く暮れて、暗い山霧が海のように拡がって来た。重太郎は再び枯木を焚くと、霧は音もせずに手下まで襲って来て、燃え颺る火の光は宛ら紗に包まれたる様に朧になった。  窟の奥から人か猿か判らぬ者が、ちょこちょこと駈け出して来た。四辺が薄暗いので正体は知れぬが、人ならば先ず十五六歳の少年かとも思われる。髪を颯と振乱して、伸上りつつ長い手をお杉の肩にかけた。小児が親に甘えるように……。 「どこへ行くんだえ。」と、お杉は顧って、「お前、里へ行くなら頼みたい事が有るんだよ。」と、彼の耳に口を寄せた。  怪しの者は首肯いて、忽ちひらりと飛び出したかと見る中に、樹根岩角を飛越え、跳越えて、小さい姿は霧の奥に隠れて了った。お杉は白い息を吐いて呵々と笑った。 「阿母さん、阿母さん。」と、重太郎は思い出したように声をかけた。 「何だえ。」 「お前は十日の中に死ぬと云ったね。俺ア先刻も約束した通り、必然其仇を取る。其代りお前にも頼んで置くことが有るんだ。お前が居なくっても、俺が困らない様に……。」 「だから、宝の在所を教えて置いたじゃアないか。あれさえ有れば些とも困ることは無いよ。」 「そればかりじゃア無い。」と、重太郎は少しく云い淀んで、「あの、俺に嫁を貰って呉れないか。」 「嫁……。」と、お杉は寂しく笑った。 「むむ。実は俺ア嫁に貰いたい女があるんだ。阿母さん、知ってるかい。」  母は黙っていた。重太郎も流石に面目が悪いか、燃未了の薪を撥りながら、 「あの、何を……。柳屋にいるお葉という女……。好い女だね。俺ア大好だよ。」  人か獣か判らぬような生活をしている此の青年にも恋は有った。彼は何日か柳屋のお葉を見染めたものと思われる。お杉は憫れむように我子の顔を見た。  一口に酌婦とは云うものの、お葉は柳屋の一枚看板で、東京生れの気前は好し、容貌も好し、山の中には珍しい粋な姐さんとして、ここらの相場を狂わしている流行児である。恋に間隔は無いとは云え、此方は宿無の乞食も同様で、山𤢖の兄弟分とも云うべき身の上では、余りに間隔が有り過ぎて、到底お話にも相談にもなる訳のもので無い。  けれども、それは普通の人の考える単純の理屈である。小児の時から人も通わぬ此の窟を天地として、人間らしい(?)のは阿母一人で、昔物語に聞く山姥と金太郎とを其のままに、山𤢖や猿や鹿や蝙蝠を友としつつ、此に二十余年を送り来った重太郎自身に取っては、人間の身分や階級などは、何の値も無いものであった。彼は唯自己の情の動くがままに働くのである。彼がお葉を嫁に貰いたいと云い出したのも、決して不思議でも無理でもない。 「お前がそんなに彼の女が欲ければ、妾がお嫁に貰って上げるよ。」  お杉は極めて無雑作に受合った。 (十三)  角川安行の父子が吉岡家を辞して、帰途に就いたのは午後四時を過る頃であった。ここらの冬の日は驚くばかりに早く暮れて、村境を出る頃には足下が漸く暗くなった。 「吉岡のおばさんは、何だか私が柳屋の女に関係でもあるように思っているらしいので、実に困りましたよ。」と、市郎は歩きながら語り出した。 「それだから気を注けなければ不可い。世間では針ほどの事を棒のように吹聴するのだから……。併し真実にお前は彼のお葉とか云う女に関係はあるまいな。」 「大丈夫です。決して無いです。」  風は無いが、夜の気は漸々に寒くなって来た。あなたの丘で狐の啼く声が聞えた。 「明後日は市の立つ日だな。」と、安行は独語のように、「何うか天気に為たいものだ。」 「そうです。月に一度の市ですから……。」  この時まで主人の後に温和く尾いて来た彼のトムは、猝に何を認めたか知らず、一声高く唸って飛鳥の如くに駈け出した。 「トム、トム……。」と、市郎は呼び返したが聞えぬらしい、犬は直驀地にあなたの森へ向った。市郎も心許なさに其後を追って行くと、唯ある樅の大樹の蔭でトムが凄じく吠えていた。加之も堆かき枯葉を蹴って、何者かと挑み闘うように聞えた。  何か知らぬが、猶予はならぬ。市郎は洋杖を把直して、物音のする方へ飛び込んで見ると、もう遅かった。僅に一足違いで、トムは既に樹根に倒れていた。敵は髪を長く垂れた十五六の少年で、手には晃めく洋刃のようなものを振翳していた。薄闇で其形は能くも見えぬが、人に似て人らしく無い。 「若や山𤢖か。」と、市郎は咄嗟に思い付いた。で、先ず其正体を見定める為に、袂から燐寸を把出して、慌てて二三本擦った。この時、敵は血に染みたる洋刃を揮って、更に市郎を目がけて飛び蒐って来たが、其の眼前に恰も燐寸の火が溌と燃ゆるや、彼は電気に打たれたように、猝に刃物をからりと落して、両手で顔を掩ったまま、霎時そこに立縮んで了った。  この刹那に、市郎の眼に映った敵の姿は、頗る異形のものであった。勿論、顔は判らぬが、膚は赭土色で手足は稍長く、爪も長く尖っていた。身丈は低いが、小児かと見れば大人のようでもあり、猿かと思えば人のようでもある。この寒空に全身殆ど裸で、僅に腰の辺に獣の皮を纏うているのみであった。  が、斯う見えたのも一瞬時で、燐寸の火は忽ち消えた。火が消えると同時に、彼は再び強くなった。地に落ちたる洋刃を手早く拾い取って、更に市郎に対って突いて来た。彼は闇中でも多少は物が見えるらしい。  市郎は透さず第二の燐寸を擦ると、彼は再び眼を掩った。彼は野獣に均しく、非常に火を恐るるらしい。市郎は勝つに乗って、続けさまに燐寸を擦ると、敵は既う此方を向く勇気が失せたらしく、頭を回らして一散に逃げ出した。市郎は何処までもと其後を追ったが、敵は非常に逃足が疾い。森を出抜ける頃には、既に十五六間も懸隔たって了った。 「畜生……到底駄目だ。」と、市郎は呟きながら引返して来ると、安行も丁度駈付けた。トムは咽喉を深く抉られて、既に息が絶えていた。 「可哀想な事を為ましたな。今の奴は何うも山𤢖らしかったですよ。」 「そうか。」と、安行は低声で云った。  兎に角、愛犬を路傍に捨てては置かれぬので、市郎は血に染みたるトムの死骸を抱えて起った。 「市郎、衣類が汚れるぞ。」 「けれども、ここへ残して置くのは何だか不安心ですから……。」  自分達が去った後へ、再び山𤢖が現われて、トムの屍骸を盗み去らぬとも限らぬ。愛犬の骨を敵に渡すのは、何だか口惜い様にも思われるので、市郎は到頭トムを抱えて帰った。 (十四)  其翌る日も申分のない天気であった。霜は日増に深くなって来るが、朝の日影は麗かであった。  鉱山のお客だとか云う三人連が、昨夜から柳屋の奥に飲み明していて、今朝も早天から近所構わずに騒いでいたが、もう大抵騒ぎ草臥れたと見えて、午頃には生酔も漸々に倒れて了った。酌婦の笑い声も聞えなくなった。内も外も蕭寂となった。 心さびしや飛騨行く路は      川の鳴瀬と鹿の声  低声でこんな唄を謳いながら、お葉は微酔機嫌で門に出た。お葉は東京深川生れの、色の稍蒼白い、細面の、眉の長い女であった。彼女は自ら謳うが如く「心さびしい」のであろう、少しく眉を顰めつつ晴れたる空を仰いでいた。 「お葉さん、お葉さん。」  奥から続いて出て来たのは、お清という酌婦、色白の丸顔で、お葉よりも二三歳若く見えた。これも幾らか酔っているらしい、苦しそうに顔を皺めて、 「お前さん、何を見ているの。」 「何、昨夜から飲み続けて、余り頭が重いから、表へ些と出て見たのさ。」と、お葉は懶げに答えた。 「ほんとうに鉱山の人は忌ね。お酒を飲むと、無闇に悪巫山戯をして……。それでも鉱山が出来たお庇で、ここらも漸々に賑かになったんだと云うから、仕方がないけれど……。」 「芋掘も忌だが、鉱掘も忌だねえ。どうせ楽は能きないのさ。こんな商売になっちゃア仕様がないよ。好なお酒でも飲んで紛らしているのさ。」 「お前さん此頃は何だか欝いでばかり居るね。平生から陽気な人でも、矢張り苦労があると見えるんだね。」 「呼んでお呉れよ。」と、お葉は突然にお清の腕を掴んだ。 「誰を……。」と、対手は笑った。 「察してお呉れな。角川の若旦那を……。お前も知ってるじゃアないか。」 「何故、あれ限り来ないんだろう。」 「究竟妾達が意に適らないからさ。けれども、妾ア必然呼んで見せる。昨日も丁度ここで逢ったから、腕を掴んで引摺上げて与ろうと思ったんだけれど、生憎阿父さんが一所だったから、まあ堪忍して置いて与ったのさ。嫌うなら嫌うが可い、妾ア必然祟って与るから……。」 「だッて、そりゃア無理だ。」と、お清は益々笑い出した。 「無理なもんかね。昔から云う安珍清姫さ。嫌えば嫌うほど執念深く祟って与るのが当然だアね。先方が何とも思わなくっても、此方が惚れていりゃア仕方がないじゃアないか。お前さんは馬鹿だよ、素人だよ。」  お清は対手にならずに、相変らず笑っていた。お葉は口惜そうに、 「今に見ておいて。必然あの人を呼んで、お前さん達に見せ付けて与るから……。嫌われたからと云って、すごすご指を啣えて引込むようなお葉さんじゃアないんだから……。確乎頼むよ。」  お清の腕を掴んで又小突いた。 「痛いよ。だッて、お前さん。角川の若旦那には判然とお嫁さんが決ってると云うじゃアないか。」 「決っていても可いよ。そんな悪魔は妾が追ッ攘って了うから……。」 「お前さんの方が余ッ程悪魔だ。𤢖の御親類かも知れないよ。」と、お清は笑いながら不図思い出したように、「𤢖と云えば、角川の若旦那は昨夜𤢖に逢ったってね。」 「若旦那が𤢖に……。まあ、而して何うしたの。」と、お葉は俄に真面目になった。 「でも、若旦那の方が強かったので、𤢖は逃げて了ったとさ。」 「ほんとうかい。担ぐと肯かないよ。」 「何でも犬は殺されたとさ。」 「あ、あの犬が……。可哀想にねえ。お前、ほんとうかい。」 「この人は疑り深いね。ここらじゃア今朝から大評判だわ。それを知らない様じゃア、お前さんは馬鹿だよ、素人だよ。」 「他真似をお為でないよ。馬鹿……。」 「馬鹿……。」  お清は笑いながら奥へ入って了った。人通りの尠い往来には、小禽が餌を猟っていた。 (十五)  お葉は其のままふらふらと歩き出した。𤢖の噂が何となく意に関ったのであろう、彼女は他ながら恋人の様子を探ろうとして、行くとも無しに角川家の門前まで来て了った。門の前には彼の七兵衛老爺が、銀杏の黄なる落葉を掃いていた。横手の材木置場には、焚火の煙が白く渦巻いて、鋸の音に雑る職人の笑い声も聞えた。  お葉は酔っていた。七兵衛の傍へ進み寄って、馴々しく声をかけた。 「あの、若旦那は昨夜𤢖にお逢いなすったッて、真実ですか。」 「はあ、酷い目に逢いましたよ。」 「怪我でも為すって……。」 「何、若旦那は何うも為ねえが、大事の洋犬を殺られたので、力を落していなさる様だよ。」  お葉は首肯いて奥を覗いた。七兵衛は無頓着に落葉を掃いていた。  この時恰も市郎の姿が見えた。市郎は庭の空地にトムの亡骸を葬り了って、鍬を片手に奥の方へ行くらしい。お葉は其姿を見ると共に、有合う小石を拾って投げ付けると、礫は飛んで市郎の袂に触れた。振返ると門前にはお葉が立っている、加之も笑を含んで小手招ぎをしている。市郎も其の図迂図迂しいのに少しく惘れた。  前にも云う如く、市郎が冬子の兄忠一と連立って、彼の柳屋に遊んだのは、今から三四ヶ月前のことで、それも唯一度、別に深い馴染というでもないのに、其後はお葉が兎かく附纏って、往来で逢えば馴々しく詞をかける。あわ好くば自分の家へ誘い込もうとする。随って根も葉もない噂も立ち、吉岡の母にも有らぬ疑惑を受ける様になった。実に馬鹿馬鹿しい。身の潔白を立てる為には、今後何処で行逢おうとも決して彼女とは口を利くまいと、窃に決心している矢先へ、恰も彼のお葉が現われた。加之も先方から真白昼押掛けて来て、平気でお出でお出でを極めるとは、図迂図迂しい奴、忌々しい奴と、市郎は惘れを通り越して、稍勃然とした。  見ればお葉は嫣然して、相変らず小手招ぎをしている。市郎は黙って霎時睨んでいた。 「何故そんな怖い顔をして被在るの。妾、𤢖じゃなくってよ。妾の罰で、貴下は𤢖に酷い目に逢ったと云うじゃアありませんか。」  お葉は首を掉るようにして、はははははと高く笑った。彼女は酒の強い方であったが、昨夜以来飲み明かした地酒の酔は漸次に発したと見えて、今は微酔どころでない。 「老爺や。其女を追っ攘って了え。」と、市郎は声を暴くして云った。 「お前は酔っている様だ。早く帰らッせえよ。」と、七兵衛は箒を輟めて顧った。 「大きにお世話よ。後生だから若旦那をここまで呼んで来て頂戴。」 「そんなこと云わねえで、帰らッせえと云うのに……。」 「どうしても呼んで呉れないの。」 「不可ねえと云ったら……。」  この押問答の中に、市郎は奥へつかつかと入って了った。 「若旦那……市郎さん……。」  お葉も続いて内へ入ろうとするので、七兵衛は驚いた。 「どこへ行くのだ。」 「若旦那に逢わして下さいよ。」 「馬鹿云うものでねえ。」  一酷老爺の七兵衛は、箒で手暴く突き退けると、酔っているお葉は一堪りもなく転んだ。だらしなく結んだ帯は解けかかって、掃き寄せた落葉の上に黒く長く引いた。 「随分酷いのね。」と、お葉は落葉を掴んで起上ったが、やがて畜生と叫んで、其葉を七兵衛の横面に叩き付けた。眼潰しを食って老爺も慌てた。 「阿魔、何をするだ。」  腹立紛れに箒を取直して、お葉の弱腰を礑と薙ぐと、女は堪らず又倒れた。 「あら、老爺さん。どうしたの。」  優しい声に驚いて顧った七兵衛、俄に色を和げて、 「や、吉岡の嬢様……。被入せえまし。」 (十六)  市郎が途中で𤢖に襲れたという噂は、早くも隣村まで伝えられたので、吉岡の家でも甚だ心配して、冬子が取敢ず見舞に来たのであった。来て見ると此の始末で、仔細は知らぬが七兵衛老爺の箒の下に、一人の女が殴り倒されているので、制めずには居られぬ。 「老爺さん、まあ其んな乱暴なことを為ないで……。一体、どうしたの。」 「何、この淫売婦が家の若旦那を呼び出しに来たから、追っ攘って了う所で……。」 「若旦那を呼び出しに……。若や柳屋の……。」と、冬子は眼を輝かしてお葉を凝と視た。お葉は落葉の上に倒れていた。 「そうでがすよ。」と、七兵衛は首肯いて、「お前様よく知っていなさるね。這奴、若旦那を釣出そうと思ったって、然うは行かねえ。」  七兵衛は憎さげに顧った。冬子も嫉げに顧った。この四つの眼に睨まれたお葉は、相変らず落葉を枕にして、死んだ者のように横わっていた。 「酔っている様ね。」と、冬子は少しく眉を顰めた。 「這奴等ア毎日毎晩、酒ばかり食っているのが商売だからね。お前様も用心しなせえ。こんな阿魔が蛇のように若旦那を狙っているんだから……。」 「何しろ、何うか為なくっちゃア不可まい。兎も角も起して与って……。」 「さあ、さあ、寝た振なんぞ為ねえで、起きろ、起きろ、横着な阿魔だ。」  口小言を云いながら、七兵衛は進んでお葉を抱え起そうとすると、彼女は其手を跳ね退けて衝と起った。例えば疾風落葉を巻くが如き勢いで、さッと飛んで来て冬子に獅噛付いた。あれと云う間に、孱弱い冬子は落葉の上に捻倒されると、お葉は乗し掛って其の庇髪を掴んだ。七兵衛は胆を潰して、直に背後から抱き縮めたが、お葉は一旦掴んだ髪を放さなかった。 「阿魔、放せ。嬢様を何うするだよ。」  七兵衛は息を切って制したが、お葉は唯冷笑うのみで何とも答えなかった。余りの意外に驚いたのであろう、冬子は声をも立てなかった。 「これ、馬鹿為るでねえ。放さねえか。」と、七兵衛は無理に其手を引放そうとしたが、お葉の握った拳は些とも弛まなかった。彼女は冬子の前髪を掴んだままで、凝と対手の顔を睨んでいた。  寂しいと云っても往来である。この騒ぎを見て忽ち五六人駈け付けた。材木置場からも職人が駈出して来た。大勢寄って兎も角も二人を引き起したが、何うもならぬのはお葉の手であった。彼女の石の如き拳は、如何までも冬子の黒髪を握り詰めて放さなかった。  大勢は声を揃えて「放せ」と叫んだが、お葉の口は決して答えなかった。大勢が力を協せて、無理に引放そうとしたが、お葉の拳は決して開かなかった。彼女は黙って冬子の髪を掴んでいるのである。  打っても叩いても仕方がない。此上は、お葉の白い手を切るか、冬子の黒い髪を切るか、二つに一つを択ぶの他は無かった。 「強情な阿魔だなあ。」  何れも惘れて顔を見合せている処へ、この騒ぎを聞いて市郎も奥から出て来た。人々から委細の話を聴いて、彼も驚かずには居られなかった。お葉の傍へ進み寄って、 「お前、何故そんなことをするんだ。」  お葉は初めて口を開いた。 「此女はあなたのお嫁さんでしょう。」  市郎は返事に困った。 「妾、死んでも放しませんよ。」  実際、死んでも放すまいと思われた。掴まれた冬子はと見れば、不意の驚愕と恐怖とに失神したのであろう、真蒼な顔に眼を瞑じて、殆ど息も為ない。酔も漸次に醒めたと見えて、お葉の顔も蒼くなって来た。  見物人は追々に殖えて来た。柳屋のお清も駈けて来たが、唯わやわや云うばかりで手の着様がない。其雑踏を掻き分けて、ぬっと顔を出したのは彼のお杉婆であった。彼女は例の如く黄い歯を露出して笑っていた。 (十七)  前にも云う如く、お葉が角川家の前に来たのは、別に深い意味があるのでは無かった。𤢖の一件が意にかかるのと、二つには何と無しに此地の方へ足が向いたと云うに過ぎないのである。けれども、彼女は酔っていた。酔に乗じて種々の捫着を惹起している中に、折悪くも其処へ冬子が来合わせたので、更にこんな面倒な事件を演出す事となって了った。  恋の仇と睨まれた冬子の災難は云うまでもないが、市郎もこれには頗る弱った。この場合に理屈を云っても仕方がない、嚇しても仕方がない、こんな狂気染みた女は宥めて還すより他はあるまいと思った。 「お葉さん。何しろ、この通り人立がしては、お前も外聞が悪かろうし、私の家でも迷惑するから、まあ堪忍して呉れ。此方に不都合があるなら、何んなにも謝るから……。」  お葉は冷笑って答えなかった。 「ね、後生だから堪忍して与って呉れ。必然お前の意の済むようにするから……。」  迂濶口を滑らせると、黙っていたお葉は屹と顧った。 「妾の意の済むようにするんですね。」  否とも云われぬ、市郎は首肯いた。 「じゃア、二度と此の女をここの家へ入れないようにして下さい。若し此の女がここの門を潜った所を見ると、妾は何日でも押掛けて来て、頭の毛を一本一本引ッこ抜いて与るから、然う思ってお在なさい。」  無理は最初から知れているが、一時逃れに市郎は承知した。 「可、可。それだから最う堪忍して与って呉れ。頼むから……。」 「必然ですね。」 「むむ、必然だ。間違はない。」  市郎は心にもない誓を立てた。これで漸く意が済んだのであろう、お葉は勝利の笑を洩して、掴んだ手を初めて弛めようとする時、お杉婆が衝と寄って来て、例の凄愴い顔をぬッと突き出した。 「いや、不可い、不可い。それは嘘だ。」 「え。嘘だ……。」  市郎も驚いて顧ると、怪しの婆は傍若無人に呵々と笑った。 「此娘を二度とここの家へ入れないと云うのは嘘だ。お前の顔に判然と書いてある。ははははは。」 「喧しい、引込んでいろ。」と、市郎は疳癪を起して呶鳴付けた。 「ははははは。怒っても駄目だ。お前の嘘は妾が知っている。お前も此の娘も相互に惚れ合っている。どうして二度と逢わずに居られるものか。ははははは。」  忌々しいとは思うけれど、婆の云うことは確に真実である。市郎も少しく怯んだが、ここで弱味を見せては落着が付かない。 「ええ、貴様の知ったことじゃアない。余計な口を出すな。彼方へ行け。」 「はは、妾はお前に云っているのじゃアない。このお葉さんに教えて与っているのだ。お前さん、意をお注けよ。幾ら何うしたって、この男と娘とは離れるんじゃアないからね。」  お葉の火の手が折角鎮まりかかった処へ、又もや斯んな狂気婆が飛込んで来て、横合から余計な藁を炙べる。重ね重ねの面倒に小悶の来た市郎は、再び大きい声で呶鳴付けた。 「喧しい、煩さい。もう彼方へ行け。」 「ははははは。」  お杉は嘲るように高く笑った。如何にも他を馬鹿にした態度である。もう斯うなっては我慢も堪忍も能ぬ。市郎の疳癪は一時に爆発した。 「彼方へ行けと云うのに……判らないか。おい、這奴を彼方へ引摺って行け。」  左右を顧って又呶鳴ったが、直には声に応ずる者もなかった。これが余人ならば知らず、一種の魔力を有っているかの様に思われているお杉婆に対って、迂濶に手を下すのは何だか不気味でもあるので、何れも眼と眼を見合わして、真先に進んで出る勇者を待っていた。  この臆病者等が怯んで動揺めく醜態をじろじろ見廻して、 「ははははは。」  お杉は又もや凱歌の笑声を揚げた。 (十八)  この時、群集を押分けて、捫着の中へ割って入ったのは、駐在所の塚田巡査。年の壮い、色の黒い、口鬚の薄い、小作りの男であった。  彼は職掌柄、平生からお杉婆に就ては注意の眼を配っている処へ、恰もこの騒動を見付けたのであるから、容赦は無い。 「こら、お前はここへ来て何をして居る。ここの家の迷惑になるから、早く立去れ。」  お杉は依然笑って答えず、腰にぶら下げた皮袋から山毛欅の実を把出して、生のままで悠々と咬り初めた。 「実に困るんです。どうか追攘って頂きたいもので……。」と、市郎も口を出した。 「よろしい。」と、巡査は首肯いて、「さあ、早く行け。他の迷惑になるのが判らんか。斯ういう所に何時までもぐずぐずしていると、道路妨害で引致するぞ。」  対手は相変らず平気で笑っているので、巡査も少し悶れ出した。 「こら、行けと云うのに……。何故ぐずぐずして居るのか。判らん奴だ。」  お杉の痩腕を掴んで一つ小突いたが、彼女は些とも動かなかった。見掛は枯木のようでも容易に倒れない、さながら大地に根が生えたように突ッ立っていた。巡査はいよいよ悶れて、力一ぱいに強く曳くと、彼女も流石に二足ばかり踉蹌いた。 「さあ、行け、行け。」  突遣っても又ふらふらと戻って来る。市郎も見兼ねて突き戻した。巡査も亦突き戻した。血気の男二人に、突き戻され、押遣られて、強情なお杉も漸次に後へ退ったが、やがて口一杯に啣んだ山毛欅の実を咬みながら、市郎の顔に向ってふッと噴き付けた。  市郎はあッと顔を押えながら、腹立紛れの殆ど無意識に、お杉の胸の辺を強く突くと、彼女は屏風倒しに撲地と倒れた。袋の山毛欅は四方に散乱した。  この騒ぎを聞き付けて、安行も奥から出て来た。 「こりゃア一体どうしたのだ。」  人々はわやわや云いながらお杉の周囲に群れ集ると、婆は歯を食縛って正体もない。巡査は小膝を突いて抱え上げた。 「偽死でもないらしい。急所でも打ったかな。」  市郎も立寄って検めた。彼は医師である。左右の人々に吩附けて、兎も角もお杉を我家へ舁き入れさせた。  けれども、お葉の方はまだ埓が明かぬ。彼女は依然として生贄の冬子を掴んでいるのであった。市郎は気が気でない。忙しい中にも駈け寄って、 「この通りの始末だから、委しいことは後で話す。兎も角も今日の処は何うか堪忍して呉れ。」  拝むようにして只管頼むと、お葉は誇りがに首肯いた。 「可ござんす。じゃア、先刻の約束は忘れませんね。」 「忘れない、必然忘れない。」  お葉は初めて手を弛めた。荒鷲の爪から逃れ出た温め鳥のように、冬子は初めてほッと息を吐いたが、髪を振乱した彼女の顔には殆ど血色を見なかった。  それも関心ではあるが、猶一方には気を失っているお杉が有る。市郎は倉皇として内へ駈込んだ。塚田巡査も続いて入った。  お杉は南向の縁側に横えられた。市郎の人工呼吸其他の応急手当が効を奏して、彼女は間もなく息を吹き返した。 「どうだ、既う気が注いたか。」と、巡査が問うた。 「何、死ぬものか。」  独語のように云って、お杉は矗然と起ち上ったかと見る中に、左右の人々を一々睨め廻しながら、彼女はふらふらと歩き出した。加之も今の騒動は忘れたように、諷然と表へ出て行った。居合わす四五人は其後を尾けて行くと、お杉は顧りもせずに、町の真中を悠々と歩いていた。  町の尽頭まで来た時に、お杉は初めて立止った。尾行して来た人々も既う散って了った。お杉は柳屋の門に寄って、皴枯れた声で、 「お葉さん、居るかい。」 (十九)  思うがままに恋の仇の冬子を呵責んだお葉は、お清に扶けられて柳屋へ帰った。 「お前さん、随分酷いことを為たねえ。」 「ああ、これて清々した。」と、お葉は酔醒の水を飲んだ。お清は惘れて其顔を眺めている処へ、彼のお杉婆の声が聞えたのである。 「お葉さん……お葉さん。」  わが名を呼ばれて、お葉はふらふらと起った。お清は慌てて其袂を曳いた。 「お止しよ、お前さん、もう外へ出るのは……。あんな奴にお構いでないよ。」 「お葉さん。」と、外では又呼んだ。 「あいよ。」  お葉はお清を突き退けて、門へ出た。門にはお杉が笑いながら立っていた。 「お前さん、少し話があるから一所に来てお呉れでないか。」 「あい、行きますよ。」  お葉は弛んだ帯を結び直して、店口に有合う下駄を突ッ掛けると、お清はいよいよ危んで又抑留めた。 「お前さん、どこへ行くんだよ。」 「可いよ、うるさい人だねえ。」 「早くお出でよ。」と、外では又呼んだ。 「あい、あい。」  お杉は痩せた手をあげて差招くと、お葉は宛ら死神の迎を受けた人のように、唯ふらふらと門口へ迷い出た。お清もつづいて追って出ると、婆は徐に顧って、 「お前に用は無いよ。」  鋭い眼でじろりと睨まれて、気の弱いお清は思わず立縮んだ。其間にお杉は出て行く。お葉も後から躡いて行った。正午に近い冬の日は明るく晴れて、蒼い空には黒い鳥の一群が飛んで渡った。  お葉は酒の酔が未だ醒めぬのかも知れぬ、或は何かの夢か幻を視ているのかも知れぬ。兎にかくお杉婆の魔力に引かれたように、殆ど無意識でふらふらと歩いていた。彼女は一種の催眠術に罹った人の様であった。  町を行き尽して村境に出た。昨夜トムと𤢖とが闘った樅の林を過ぎると、路は爪先上りに嶮しくなって来た。落葉松や山毛欅や扁柏の大樹が日を遮って、山路は漸次に薄暗くなって来た。何処やらで猿の声が聞えた。  天正十三年、所謂「飛騨の三方崩れ」という怖るべき大地震が、ここら一帯の地形を一変して、麓近い路にまで剣なす岩石が突出した。其中には怒れる人の顔のような真蒼な岩もあった。百千人の生血を灑ぎ掛けたような真赤な岩もあった。岩と岩との間は飛んで渡るより他はない、二人は蛇のような山蔦の太い蔓に縋って、宛ら架空線を修繕する工夫のように、宙にぶら下りながら通り越した。  お杉は通い馴れた路であるから不思議はないが、お葉が何うして此の難所を跳越え、渡り越えたかは疑問である。恐く夢のようで自分にも判るまい。  虎ヶ窟の入口には彼の重太郎が佇立んでいた。其の傍には猿のような、小児のような、一種の怪しい者が蹲踞んでいた。 「帰って来たよ。」  お杉が声をかけると、重太郎は無言で顧った。母の後には、帯も裳もしどけなく、脛も露出に立ったるお葉の艶なる姿が見えたので、重太郎は山猿のような笑い声を出して、猶予なく其前にひらりと飛んで行った。怪しい者も同じく叫んで、後から続いて行こうとすると、忽ちお杉に叱られた。 「お前は彼方へ行ってお出よ。」  怪しい者は小さくなって、窟の奥へ逃げ込んで了った。お葉は茫然と立っていた。重太郎も黙って其顔や容に見惚れていた。  山風がどっと吹き下して、岩と岩との間を掻き廻すと、そこらに積っていた真赤な落葉は、さながら火粉を散らすが如くに、はらはらと乱れて飛んだ。 (二十)  お杉が去り、お葉が去った後の角川家は、所謂大風の吹いた後であった。塚田巡査も近所の人々も漸次に帰って了った。  冬子も一時は失神の態であったが、これも市郎の手当に因て回復して、南向の座敷に俯向いて坐っていた。傍には安行と市郎の二人が同く黙って坐っていた。 「冬子さん、何うだね。気分は既う悉皆快いのかね。」と、安行は霎時して口を切った。 「はあ、有難うございます。お庇さまで、もう悉皆快くなりました。」  とは云ったが、冬子の顔は未だ蒼ざめていた。市郎は心許なげに、 「ほんとうに既う快いんですか。まだ血色が不良いようだが……。何しろ、飛んだ災難でお気の毒でしたねえ。」  冬子は黙って俯向いていた。 「災難……実に飛んだ災難だったよ。」と、安行も首肯いて、「あんな狂気染みた奴が飛び込んで来るというのは、何う云う訳だろう。私が早く知ったら、何とか無事に納めたのだが、あの七兵衛めが一酷なことを云うもんだから、到頭あんな騒ぎを演出来して了って……。そこへ出ッ食した冬子さんは、実に運が悪かったのだ。それでも怪我を為ないのが勿怪の幸で、大事の顔へ疵でも付けられようものなら、取返しが付きゃアしない。何しろ、お葉とか云う奴は呆れた女だ。」 「実際、呆れた奴ですなあ。あれも少し気が触れているんじゃアありませんか知ら。尠くもヒステリー患者ですな。」と、市郎も眉を顰めた。 「何うして又、ヒステリーに罹ったんでしょう。」と、冬子は不意に顔を擡げた。お葉に掴み毀された前髪の庇は頽れたままで、掻上げもせぬ乱れ髪は黒幕のように彼女の蒼い顔を鎖していた。其中から輝くのは葉末の露の如き眼の光であった。 「さあ、何うしてと云って……。」と、市郎も考えて、「ああ云う女には能くあるんですよ。其上に酒にも酔っている様でしたから……。」 「酔っているばかりでも有りますまい。妾が二度と御当家へ来ればあの人が又暴れて来るそうですね。あの人は何故そんなに妾を恨んでいるんでしょう。妾には些とも訳が判りません。」  口では「判りません」と云うけれども、冬子は大抵推量している。自分達母子が予て疑っている如く、お葉という女は市郎と情交があるに相違ない。左もなければ自分に対して、あんな乱暴を働く筈がない。市郎が婚礼延期などを主張するのも、畢竟は彼の女を恐れている為であろう。自分の夫たるべき男を他に奪られて、加之に自分が斯んな酷い目に逢うとは、債権者が債務者から執達吏を差向けられたようなもので、余りに馬鹿馬鹿しい理屈である。自分には何の科が有ってこんな理非顛倒の侮辱を受けるのであろう。考えれば考えるほど、冬子は口惜しくって堪らなかった。  けれども、彼女も若い娘である。流石に胸一杯の嫉妬と怨恨とを明白地には打出し兼ねて、先ず遠廻しに市郎を責めているのである。自分が折角見舞に来た𤢖の問題などは、もう何うでも可いことになって了った。 「いや、誰にも判りませんよ。彼の女は云う通りのヒステリー……究竟狂人も同様なんですから……。」と、市郎は嘆息するように答えた。 「でも、狂人になるには何か仔細があるでしょう。」と、冬子は目眦を昴げて追窮した。 「余り酒でも飲み過ぎたんでしょう。」 「そうでしょうか。」と、冬子は少しく冷笑って、「あなたは其原因を御存知ないんですか。」 「知りません、一向知りません。」 「知らない筈は無いでしょう。」  冬子の声が稍鋭く聞えたので、市郎も聊か面食って思わず其顔を屹と視ると、露の如き彼女の眼は今や火のように燃えていた。 「ああ、判った。あなたは僕を疑っているんですね。それは冤罪です、全く冤罪です。昨日も云う通り、僕は唯った一度彼家へ行った限りで、あの女と何等の関係も無いんです。先方では何う思っているか知らんが、此方は清浄潔白です。」 「それならば何故あんな乱暴を為たのだろう。可怪いな。」  父も我子の味方ではなかった。 (二十一)  お葉の問題に就て市郎を責めるのは、実際気の毒であった。本人が自白する通り、過ぎし夏に冬子の兄忠一が帰郷した砌、若い同士が連れ立って唯一度彼の柳屋へ遊びに行ったことが有る。忠一は元気の好い男で、酔って随分騒いだ。市郎も温順くしては居なかった。けれども、二人ながら唯酔って騒いで帰った丈のことで、別に後日の面倒を惹起すような種は播かなかったのである。  右の通りで、此方では何の種も播かなかったが、結局は此方が自ら刈らねば成らぬような羽目に陥ったのは、市郎の不幸であった。此方には何の考慮もなかったが、恋の種はお葉の胸に播かれた。東京の深川に生れて、十六の年から神奈川、豊橋、岐阜と東海道を股にかけたウエンチ生活の女が、二十三という此年の夏に初めて真の恋を知った。  市郎は其後再び柳屋の門を潜らなかったが、元来が狭い町で、恋しい人の家屋敷は眼と鼻の間にあるのだから、女は男を呼び出す術が無いでもなかった。況てお葉は男を恐れるような弱い女では無かったが、恋に柔げられた此女は日頃の気性に似も遣らず、自分の男を捉えて来ることは躊躇して、唯往来で折々逢う毎に、馴々しく詞をかける位を切てもの心遣りに、二月三月を過す中に、飛騨の涼しい秋は早くも別れを告げて、寒い冬の山風が吹いて来た。柳屋の門の柳が霜に痩せると共に、恋に悩める女にも漸次に痩が見えた。持病のヒステリーも嵩じて来た。果は酔うて狂うて、前の如き椿事を演出したのである。  けれども、其対手の市郎は云うに及ばず、父の安行も周囲の人々も、お葉の恋を斯ばかりに熱烈なるものとは想像し得なかった。昔から世間に能くある習で、田舎のお大尽を罠に掛ける酌婦の紋切形であろう位に、極めて単純に解釈していた。況て市郎は、最初から彼のお葉という女を意中は愚、眼中にも置いて居なかったのであるが、今日の一件に出逢って聊か意外の感を作した。固より半狂気の酒乱のような女が、何を云うか判ったものでは無いが、彼女は自分の未来の妻たるべき冬子に対して、一種の根強い嫉妬心を懐いているのは事実らしく、加之も自分に対しても、二度と此の女をここの家へ入れるなと誓わしめたのを見ると、其底意は善か悪か知らず、兎にかく自分に対して何等かの執着心を有っているらしく思われる。随って、冬子にも疑われ父にも怪まれるのも無理はない。 「この疑惑を何うして解くか。」  市郎も考えた。が、彼の柳屋に就て事実の有無を証拠立てるより他に仕様もない。 「じゃア、阿父さんと冬子さんと三人で柳屋へ行って、私が其後遊びに行ったことが有るか無いか訊いて見ましょう。」 「馬鹿な。」と、安行は叱るが如くに苦笑いした。「親と一所に訊きに行ったって、先方で真実のことを云うと思うか。」  これは至極道理である。市郎も叱られて閉口して了った。冬子も声を顫わして、「妾は死んでもあんな家へは行きません。」と云った。これも道理である。 「だが、お前は真実にお葉という女と関係は無いんだな。」と、霎時して父は問うた。 「実際です、実際関係は無いんです。」  市郎は之より他に、自分の潔白を表明すべき詞を知らなかった。わが子を信ずる安行は僅に首肯いたが、疑惑と嫉妬とが蟠まれる冬子の胸は、まだ容易に解けそうにも見えなかった。 「冬子さん。」と、安行は声を和げて、「倅も此の通り云うんだから、よもや嘘じゃアありますまい。で、今日のことは阿母さんが心配しないように、能く云って置いて下さい。何れ私からも委しいお話を為ますから……。」  差当り斯んなことを云って、冬子を宥めるより他は無かった。冬子も何時まで憤っても居られないので、解けぬ疑惑を懐いたままで、やがて我家へ帰る事となった。が、途中が何となく不安である。 「可、私と七兵衛とで送って上げよう。」  安行と七兵衛は冬子を送って出た。 (二十二)  虎ヶ窟の前に立ったお葉は、霎時夢のようであった。襟に沁む山風に吹き醒まされて、少しく正気に復って見ると、自分の白い手は人か山𤢖か判らぬような重太郎に掴まれていた。お葉は驚いて慌てて振放した。 「重太郎、お前のお嫁さんを連れて来たよ。」と、お杉は笑いながら云った。重太郎も笑を含んで首肯いた。  飛でもない話である。誰がこんな奴の嫁になるものかと、お葉は寧ろ可笑くなった。が、之に伴う不安が無いでもなかった。さりとて逃げる訳にも行かぬ。彼女は相変らず黙って立っていた。 「お葉さん。お前は倅の嫁になって呉れるだろうね。」と、お杉は徐に問うた。  お葉は矢はり黙っていた。重太郎は堪り兼ねて又飛び付こうとするのを、母は制して、 「まあ、お待ちよ。ねえ、お葉さん。妾達も時々に町へ出るから、お前さんとも予てお馴染だが、妾達は二十年以来この窟に棲んで、山𤢖と一所に暮している。けれども、妾の倅の重太郎は𤢖じゃアない。是でも立派な人間だ。其の人間の重太郎がお前さんに惚れたのも無理ではあるまい。そこで、是非お前さんを嫁に貰って呉れと云うから、今日お前さんを呼んで来たのだ。何うぞまあ仲好くしてお呉れよ。」  云う人は極めて真面目であるが、云われる方は余り馬鹿馬鹿しくて御挨拶が能ぬ。お葉は唯ある岩角に腰を卸して、紅い木葉を弄っていた。  重太郎は漸々に熱して来たらしい、又飛蒐ってお葉の手を捉ろうとするのを、母は再び遮った。 「そんなことをすると、お葉さんに嫌われるよ。ねえ、お前さん。ここまで一所に来る位だから、肯いて呉れるのだろうね。」 「妾はそんな意で来たんじゃありません。」 「それじゃア何しに来た。」 「お前さんが呼んだから……。」 「呼ばれて来るからには、承知だろう。」 「いいえ。」と、お葉は頭を掉った。  併し斯うなると、お葉も我ながら判らなくなって来た。自分は何の為にここまでお杉に附いて来たのであろう。呼ばれたから来た……とばかりでは、余りに他愛が無さ過ぎる。何か他に相当な理屈が無ければならぬ。が、何う考えても夢の様で、何の為に悪所絶所を越えて斯んな処へ入込んだのか、其理屈は一切判らぬ。まだ酒に酔っていた故か知らと、無理に理屈を附けても見たが、それも何だか覚束ない様にも思われた。  酒の酔も醒め、ヒステリー的の発作も漸く鎮った今の彼女は、所謂「狐の落ちた人」のように、従来の自分と現在の自分とは、何だか別人の様にも感じられた。  お杉は又もや徐に問うた。 「お前さん、重太郎が忌なのかえ。」  問わずとも判った話だ。お葉は矢はり黙っていた。 「何故、忌なのだえ。」  お葉は相変らず俯向いていた。 「はは、判った。お前は彼の市郎に惚れているのだろう。無効だからお止しよ。先方じゃアお前を嫌い抜いているのだから……。」 「嫌われていても可ござんすよ。」と、お葉は屹と顔を上げた。 「嫌われても思いを通すというのかえ。それは道理だ。が、お前が市郎に嫌われても、自分の思いを通そうと云うのと同じ訳で、重太郎も幾らお前に嫌われていても、必然自分の思いを通すよ。然う思ってお在。」  お杉は嫣然笑っていた。  逃げようと思っても逃げられる筈は無い。傍には重太郎が獣のような眼を晃らして見張っている。窟の奥には山𤢖らしい怪物も居る。路は人間も通わぬ難所である。こんな処へ導かれて来て、こんな怪物共に取囲れたからは、自分の智恵や力で自分の運命を左右する訳には行かぬ。運を天に任すと云うのは、洵に今のお葉の身の上であった。 (二十三)  窟の中から怪しい者の影が又現れた。加之も二つ、うす暗い奥から此方を覗いていたが、やがて入口の方へちょこちょこ駈出して来た。 「𤢖が又来たよ、煩さいねえ。」と、お杉は重太郎を顧って「少し焚火をお為よ。」  重太郎は燐寸を有っていた。有合う枯枝や落葉を積んで、手早く燐寸の火を摺付けると、溌々云う音と共に、薄暗い煙が渦巻いて颺った。つづいて紅い火焔がひらひら動いた。  火の光を見ると、怪しい者共は俄に恐れたらしい。キキと叫んで、早々に窟の奥へ逃げ込んで了った。 「お葉さん、寒いだろう。此方へ来てお当りな。」と、お杉は徐に焚火の傍へ寄った。お葉は岩に腰をかけたままで、返事も為なかった。 「幾らお前が強情を張った所で、一旦ここへ連れて来た以上は、もう帰す気配いはないから、其意で悠々してお在。夜も寒くない様に、毛皮も沢山用意してあるから……。大事の花嫁さんに風邪でも引かせると大変だからね。ははははは。」  焚火はいよいよ燃え上って、其の紅い光は、お杉の尖った顔と、重太郎の丸い顔と、お葉の蒼い顔とを鮮明に照した。  昼も暗い山峡では、今が何時頃だか判らぬ。あなたの峰を吹き過ぐる山風が、さながら遠雷のように響いた。  三人は霎時黙っていた。やがてお杉は矗然と起った。 「お葉さん、何を考えているんだえ。もッと此方へお出でよ。」  対手は矢はり黙っているので、お杉は笑いながら其傍へ歩み寄った。 「判らない人だねえ。何でも可いから妾の云うことを肯いて、素直にここの人にお成りよ。お前が惚れている市郎も、今にここへ連れて来て上げるから……。可いだろう。」 「若旦那がここへ……。」 「ああ、妾が必然連れて来て見せるから、温順くして待ってお在。え、それでも忌かえ。ねえ、お葉さん、確乎返事をお為よ。」  お杉は窪んだ眼を異様に輝かして、対手の顔を穴の明くほど凝と見詰めると、お葉は少しく茫となって来た。 「え、判ったかえ。」  低声に力を籠めて云うと、お葉は小児のように首肯いた。彼女は漸次に酔って来たように感じた。 「可いかえ。はいと返事をお為。」 「はい。」 「重太郎のお嫁になるかい。」 「はい。」  お葉は夢心地で答えた。 「可、可。さあ、妾と一所にお出で。」  進んで其手を把ると、お葉は拒みもせずにふらふらと起ち上った。お杉は此の捕虜を窟の暗い奥へ連れ込んで了った。焚火に映る重太郎の顔は、火よりも熱して赤く見えた。  やがて窟の奥からお杉の声で、 「重太郎、火を消してお了いよ。」  重太郎は云わるるままに焚火を踏み消すと、四辺は俄に暗くなった。奥から母が再び出て来た。後につづいて例の怪しい者が二つ飛んで来た。  お杉は宙を歩むように、傍の小高い岩角へするすると登った。天を凌ぐ山毛欅の梢の間から、僅に洩るる空の色を仰いで、 「もう日が暮れるのに間もあるまい。今夜はお前達に大事の仕事があるんだよ。」 「阿母さん、何だ。」 「角川の市郎はお前の仇だ。彼奴が無事に生きて居ては、お葉は何日までも未練が残って、長くお前に附いて居まいよ。」  重太郎は眼を瞋らして首肯いた。 「それから彼奴は妾にも仇だ。先刻妾を突き倒して、半殺しの目に逢わした奴だ。お前達は其の復讐をしてお呉れ。頼んだよ。」 「可、大丈夫だ。」  勢い込んで駈け出そうとするのを、母は呼び止めて何事をか囁き示す中に、日も漸く暮れかかったらしい。例に依て濛々たる山霧が潮の如くに湧いて来た。 「早く行ってお出でよ。」  お杉の声を後に聞きながら、重太郎も𤢖も霧の中を衝いて出た。お杉は笑いながら再び焚火を撥り初めた。 (二十四)  冬子を送って隣村まで出向いた安行と七兵衛とは、日が暮れるまで戻らなかった。が、それは左のみ珍しいことでも無い。安行が吉岡家を訪問して、半日ぐらい話し込んでいることは、従来にも屡々あった。  此頃は日晷が滅切詰って、午後四時には燈火が要る。麗かな日も、今日は午後から俄に陰って、夕から雨を催した。五時を過ぎても、六時を過ぎても、二人は帰らないので、市郎も少しく不安を感じ初めた。殊に昨夜の𤢖の一件もあるので、途中が何だか剣呑にも思われた。家にいて心配するよりも、迎いながら町尽頭まで出て見ようと決心して、市郎は洋杖を振りながら門を出ると、恰も七兵衛の駈けて戻るのに逢った。 「小旦那……。」  彼は呼吸を喘ませていた。暗くて能くは判らぬが、恐く顔の色も蒼くなっているだろうと思われた。 「どうしたんだ。」と、市郎も慌しく駈寄って訊ねた。 「大旦那様は戻ったかね。」 「まだ帰らない。お前は親父と一所じゃアないのか。」 「一所だったが……途中で失れて……一体どうしただろう。」  七兵衛が口早に語るのを聞くと、二人は冬子を吉岡家へ送り届けて、母のお政に昨夜の𤢖の一件や、今日のお葉の一条などを話している中に、思いの外に時が移って、冬の日は早くも傾きかかった。二人は暇を告げて立出ると、お政は途中の用心に松明を貸して呉れた。  七兵衛が先に立って松明を振照しながら、村と町との境まで来蒐ると、路は全く暗くなった。昨夜山𤢖に襲われたのは此辺だなどと話していると、行手の木蔭から一人の小作りの男がひらりと飛んで出た。何者かと松明を突き付ける間もなく、彼は蝗の如くに飛んで来て、七兵衛の持ったる松明を叩き落した。加之も落ちたる松明を取って、傍の小川に投げ込んで了った。  火の消えるのを相図のように、同じ木蔭から又もや怪しい者がばらばらと飛び出して、安行を手取り足取り引担いで行こうとする。安行も無論抵抗した。七兵衛も進んで主人の急を救おうとすると、最初の小さい男が這って来て七兵衛の足を掬った。彼は倒れながらに敵の腕を取って、一旦は膝下に捻伏せたが、体に似合わぬ強い奴で忽ち又跳返した。二人は起きつ転びつ毟り合っている中に、安行は自分の敵を突き退けて十間ばかりは逃げたらしい。敵もつづいて追って行った。  主人の身の上が関心ではあるが、自分も一人の敵を控えているので何うすることも能ない。七兵衛は声をあげて救いを呼んだ。この声を遠く聞き付けて、後の村から二三の人が駈けて来た。其跫音を聞くと、敵も流石に狼狽えたらしく、力の限りに七兵衛を突退け刎退けて、あなたの森へ逃げ込んで了った。  が、主人の行方も安否も判らぬ。救いに来った人々に仔細を話して、七兵衛も共々に其処らを尋ね廻ったが、何分にも暗黒と云い、四辺には森が多いので、更に何の手懸りも無かった。或は首尾好く町の方へ逃げ延びたかも知れぬと、彼は念の為に兎に角も駈戻ったのである。  以上の報告を聞いて、市郎も色を変えた。対手は𤢖か、或は其れに似寄の曲者か知らぬが、何れにしても彼等に襲われた父の運命は、甚だ心許ないものと云わねばならぬ。 「七兵衛、早く駐在所へ行って来い。」  七兵衛が駐在所へ駈付ける間に、市郎は家中の者を呼集めて、右の始末を慌しく云い聞かせると、一同は眼を瞠って駭いた。何しろ一刻も早く捜査に出ろと身支度する処へ、塚田巡査も出張した。提灯や松明が点された。 「角川の大旦那が𤢖に攫われた!」  誰云うとなく此声が駅中に拡がると、まだ宵ながら眠れるような町の人々は、不意に山海嘯が出たよりも驚かされた。日頃出入の者は云うに及ばず、屈竟の若者共は思い思いの武器を把って駈集まった。  塚田巡査は町の者共を従え、市郎は我家の職人や下男を率いて、七兵衛老翁に案内させ、前後二手に分れて現場へ駈向った。夜の平和は破られて、幾十の人と火とが、町尽頭の方へ乱れて走った。 (二十五)  午後から陰った冬の空は遂に雨を齎して、闇を走る人々の上に冷い糸の雫を落した。が、そんなことに頓着している場合でない。松明の火を消すほどの強雨でも無いのを幸いに、何れも町を駈け抜けて、隣村の境まで来て見ると、暗い森、暗い川、暗い野路、見渡す限り唯真黒な闇に鎖されて、天地寂寞、半時間前に怖るべき椿事がここに起ったとは、殆ど想像の付かぬ位であった。 「老翁、この辺かい。」と、市郎は立止まって顧ると、七兵衛は水涕を啜りながら進み出た。 「はあ、丁度ここらでがすよ。あれ、あの樅の木の蔭から𤢖が出て来たので……。それから何でも大旦那は彼地の方へ逃げたように思うのでがすが……。」  人々は松明を振照して、七兵衛の指さす方を仔細に検査したが、別に手懸りとなるべき足跡もなく、遺留品も見出し得なかった。 「どうも判らんな。」と、塚田巡査も失望の嘆息を洩した。  が、兎に角に其儘では済まされぬ。巡査の率いる一隊は、森に沿うて山路を北に登る事となった。市郎の一隊は現場を中心として、附近の森や野原や村落を猟る事となった。斯くて夜半まで草を分けて詮議したが、安行の行方は依然不明であった。加之も夜の更けると共に、寒い雨が意地悪く降頻るので、人々も寒気と飢とに疲れて来た。 「到底今夜のことには行くまい。」と、弱い音を吹く者も出て来た。が、市郎は容易に諦めることは能なかった。疲れた一隊を慰め励まして、其附近約三里の間を東西に南北に駈け廻ったが、遂に何の手懸りも無かった。懐中時計を見ると、既う午前一時である。松明の火も漸く尽きて来た。  此上は矢はり山へ向うより他は無い。で、曩に巡査等が登った路とは方角を変えて、西の方から山路へ分入ろうとする途中に、小さい丘が見えた。ここらに多い山毛欅が茂って、丘の麓には名も無い小川が繞っていた。 「や。人が死んでいる!」  先に立ったる一人が松明を翳して驚き叫ぶと、余の人々も慌てて駈け寄った。見ると、山毛欅の大樹の根を枕にして、一人の男が赤裸で雨の中に倒れていた。  市郎は殆ど夢中で駈寄った。消えかかる幾多の松明の火が一時にここへ集められた。其の光に照し出されたる屍体の有様は、身の毛も悚立つばかりに残酷なるものであった。男は前にも云う如く、身には一糸を附けざる赤裸で、致命傷は咽喉であろう、其疵口から滾々たる鮮血を噴いていた。更に驚くべきは、鋭利なる刃物を以て其の顔の皮を剥ぎ取ったことである。随って其の顔は判然せぬが、僅に灰色の髪の毛に因って、其の六十近い老人であることを確め得た。 「阿父さんだ。」と、市郎は屍体を抱いて叫んだ。七兵衛も声を揚げて泣いた。  この意外なる光景に胆を挫がれて、余の人々は唯動揺めくばかり、差当り何うするという分別も出なかった。が、流石は職業であるから、市郎は先ず其疵口を検査すると、疵は刃物でなく、鋭い牙と爪とて咬破り掻裂いたものらしい。彼は再び驚くと共に、敵は正しく𤢖であることを悟った。  この時、あなたの山の方から幾箇の松明が狐火のように乱れて見えた。巡査の一隊は尋ね飽んで、今や山を降って来たのであろう。斯くと見るより此方の人々は口々に叫んだ。 「大旦那はここに居たぞ。おうい、おうい。早く来いよ。」  先方でも声に応じて駈けて来た。が、惨憺たる此場の光景を見て、何れも霎時は呆気に取られた。巡査は剣鞘を握って進み出た。 「残酷なことを行りましたなあ。𤢖でしょうか。」 「無論、𤢖です。𤢖の仕業です。」と、市郎は歯噛をした。 「顔の皮を剥いだのは、犯跡を晦ます為でしょうか。」 「そんなことかも知れませんな。」  巡査は首肯いて、これも一応屍体を検めたが、やがて少しく眉を顰めた。 (二十六) 「角川さん。」と、塚田巡査は市郎を顧って、「もう一度この老人の口を……歯を能く見て下さい。」  市郎は死人の口を開けて見た。 「どうです。違や為ませんか」と、巡査は首を拈った。  成程、違っていた。今まで気が顛倒していたので、流石にそこまでは意が注かなかったが、安行の前歯は左が少しく缺けていた。この男の前歯は左右とも美事に揃っている。髪の色こそ似ているが、確に人違いだ、我父では無い。市郎は吻とした。 「違います。違います。成程、これは親父じゃアありません。」 「そうでしょう。」 「違った、違った。」と、人々は喜悦の声を揚げた。七兵衛は嬉しさに又泣き出した。人々は消えかかった松明が再び明るくなった様に感じた。  が、これが安行でないとすると、何処の何者であろう。たとい角川家の主人其人にあらずとも、一個の人間が惨殺されて此処に横わっているのは事実である。塚田巡査は職務上これを捨置く訳には行かぬ。取敢ず其屍体を町へ運ばせて、己は其報告書を作る準備に取かかった。  夜はいよいよ更けて、雨は益々烈しくなって来た。此のまま雨中に立ち尽しては、或は凍えて死ぬかも知れぬので、遺憾ながら安行の捜索は一旦中止して、一同も空しく町へ引揚げて来た。市郎は其夜一睡も為なかった。 「阿父さんは何うしたろう。」  彼の冴えたる眼には、彼の惨殺されたる老人の屍体がありありと映った。自分の父も矢はり彼のような浅ましい姿になって、人の知らぬ山奥か谷間に倒れているのではあるまいか。それにしても、あの老人は何者であろうか。父の行方不明と彼の惨殺事件との間に、何等かの関聯があるのではあるまいか。こんな事を際涯もなく思い続けている中に、夜は白んだ。幸いに暁方から雨は晴れた。  遠近では鶏が勇ましく啼いた。市郎は衾を蹴って跳ね起きた。家内の者共は作夜の激しい疲労に打たれて、一人もまだ起きていない。が、何だか沈着いても居られないので、市郎は洋服身軽に扮装って、兎も角も庭前へ降立った。 「今日は先ず何地の方面から捜して見ようか。」  頬を吹く雨後の寒い朝風は、無数の針を含んでいる様にも感じられたので、市郎は思わず襟を縮めながら、充血した眼に大空を仰ぐと、東は漸く明るくなったが、北の山々は夜の衣をまだ脱がぬと見えて、頽れかかった砲塁のような黒雲が堆く拡がっていた。  一昨夜はトムを殺された、昨夜は父を奪われた。彼の山𤢖なるものは、何が故に執念深く自分等に祟るのか、市郎は殆ど判断に苦んだ。が、彼は不図こんな事を思い泛べた。  トムは一昨日吉岡家の門前で、彼のお杉婆に吠え付いた。而して其晩に殺された。自分は昨日我家の門前で、同じくお杉婆を突倒して気絶させた。而して其晩に父が行方不明になった。果して世間で伝うる如く、お杉婆と山𤢖との間に、何か不思議の因縁が結び付られてあるとすれば、昨夜の禍も或はお杉婆に関係が有るのではあるまいか。 「そうだ、必然そうだろう。」  斯う考えると、彼は矢も盾も堪らなくなった。家内の者共を呼び起すまでもなく、自分一人で彼の虎ヶ窟を探ろうと決心した。で、一旦内へ引返して、応急の薬剤と繃帯とを用意して、足早に表へ出ようとする時、七兵衛父爺が寝惚眼を擦りながら裏口を遅々出て来た。出逢頭に喫驚して、 「や、小旦那……。朝飯も食わねえで何処へ……。駐在所かね。」 「いや、虎ヶ窟へ……。私は一足先へ行くから、皆なが起きたら直に後から来るように然う云って呉れ。」 「虎ヶ窟へ……。」  七兵衛が危む顔を後にして、市郎は早々に飛び出して了った。 (二十七)  市郎が駅を抜けて村境に着いた頃には、旭日が已に紅々と昇った。遠近の森では鳥が啼いて、眼も醒めるような明るい朝の景色は、彼に前途の光明を示すようにも見えたので、市郎は自ずと心が勇まれた。  例の樅林の落葉を踏んで行くと、漸次に山路へ差蒐る。岩は俄に嶮しくなって来た。 「多寡が一里だ。知れたものだ。」  市郎は勇を鼓して登った。が、彼は所謂虎ヶ窟なるものの在所を委しくは知らなかった。小児の時に友達と一所に、一度ばかり登ったことが有るように記憶するが、今となっては其方角も頗る覚束ないものであった。何でも本道から西へ入ると聞き伝えているので、心の急く彼は遮二無二西へと進んだ。昨日彼のお葉が踏んだ路である。彼も大小の岩を飛び越えねばならなかった、山蔦に縋って危い綱渡りをせねばならなかった。洋服扮装の彼は、草鞋を穿いて来なかったのを悔いた。  彼は又、曾て読んだ八犬伝の中で、犬飼現八が庚申山に分け入るの一段を思い出した。現八は柔術に達していたので、岩の多い難所を安々と飛び渡ったと書いてある。市郎には生憎そんな素養が無かった。 「多寡が一里だ。」と、彼は難所に逢う毎に自ら励ました。が、或は路を踏み違えたのかも知れぬ。已に二時間余を費したかと思うのに、目指す窟を未だ探り得なかった。この寒いのに彼は全身に汗を覚えた。岩の蔭から瞰上れば、日は已に高く昇ったらしい。  幾ら気が張っていても、疲労には勝たれぬ。市郎は昨夜雨中を駈廻った上に、終夜殆ど安眠しなかった。加之も今朝は朝飯も食わなかった。疲労と不眠と空腹とが重った上に、又もや此の難所を二時間余も彷徨ったのであるから、身体の疲れと気疲れとて、彼は少しく眼が眩んで来た。脳に貧血を来したらしい。ここで倒れては大変だ。 「これでは到底歩かれない。」  市郎は唯ある岩角に腰をかけて、用意の気注薬を啣んだ。足の下には清水が長く流れているが、屏風のような峭立の岩であるから、下へは容易に手が達かぬ。少しく体を前へ屈めると、飜筋斗打って転げ墜ちるであろう。斯う思うと、飲料を用意していない彼は愈よ渇を覚えた。 「自分は医師でありながら、何故斯う不注意だろう。」と、彼は自己を叱っても追付かない。市郎は余りに慌てて我家を出たのであった。 「それにしても、七兵衛や他の者は何うしたろう。」と、彼は心細さに斯んな事も考えた。が、今更引返すべきではない。進め、進め、倒れるまでも進めと、市郎は勇気を振い起して又歩き出した。あなたの梢では大きな山猿が、他を嘲るように笑っていた。  市郎は何処を何う歩いたか、半は夢中で無闇に進んで行った。それから約一時間ばかりも経ったと思う頃、彼はあなたの大きい岩の狭間から、一縷の細い煙の迷い出づるを見た。 「占めた!」  彼は喜んで躍った。で、思わず声を揚げて呼ぼうとしたが、遠方から敵を驚かしては妙でない。窃に近寄って其不意を襲うに如ずと、市郎は故意に跫音を偸んで、煙のなびく方へ岩伝いに辿った。  この辺には大樹が多かった。大樹の聳ゆる下に落葉焚く煙が白く颺って、彼のお杉婆は窟を背後に、余念もなく稗の粥を煮ていたが、彼女の耳は非常に敏かった。忽ち人の跫音に心附いたと見えて、灰色のおどろ髪を振乱しつつ此方を屹と顧った。市郎はつかつかと其の眼前に現れた。  お杉は騒ぐ気色もなく、徐に起ち上って軽く会釈した。 「昨日は何うも飛んだ御邪魔を致しました。」 「いや、僕の方でも大変失礼した。」と、市郎も尋常の挨拶をして、「時に今日来たのは他でもないが、家の親父が昨夕から行方知れずになったので……。」 「まあ。」と、お杉は驚いた顔をした。 (二十八)  市郎は少しく躊躇したが、更に詞を次いだ。 「そこで、心当りを方々探しているんだが、何うも判らないので困っている。」 「それは困りましたねえ。」と、お杉も心配そうに眉を寄せた。 「村の者の話に拠ると、親父は山の方へ登ったとも云うんだ。若し然うならば、万一此地の方へでも迷い込んで来やアしないかと思って……。」 「いいえ、お見掛申しませんね。」  お杉は昨日に引替えて、極めて叮嚀な口吻であった。が、市郎は中々油断しなかった。 「親父は来なかったかね」と、考えて、「そこで、些と云い難いことだが、折角ここまで来たもんだから、念の為に窟の中を一応調べさして貰いたいんだが、何うだろうね。」 「判りました。あなたは妾を疑っているんでしょう。妾はこんな姿をして、乞食同様の生活をしていますが、人を攫ったり、殺したりした記憶はありません。山𤢖とは違いますからね。」 「それは僕も知っているが、まあ念晴しだ。検めても可いだろう。」  お杉は黙って市郎の顔を視ていた。 「可いだろう、鳥渡検めても……。」 「何うとも勝手にお為なさい。だが、倅の帰らない中に早く願いますよ。」 「倅は何処へ行った。」 「そこらへ木実を拾いに行きました。」 「そうか。」  市郎は窟へ五六歩踏込んだが、奥は暗いので何にも見えなかった。お杉は黙って窟の入口に立っていた。 「中は真暗だね。」と、市郎は外を顧って呼ぶと、お杉もつづいて入って来た。 「何か松明か蝋燭のようなものは無いかね。暗くって仕様がない。」 「松明もあります、蝋燭もあります。」 「何方でも可いから貸して呉れないか。」  お杉は黙って蝋燭に火を点けた。 「あなた、どうぞお早く願いますよ。ここへ倅が帰って来ると不可ませんから……。彼児は正直者ですから、他から嫌疑を受けて家捜しをされたなどと聞くと、必然憤るに相違ありませんから……。」 「可、可。判った。」  お杉が照す蝋燭の淡い光を便宜に、市郎は暗い窟の奥へ七八間ほど進み入ると、第一の石門が眼の前に立っていた。市郎はお杉の手から燈火を受取って、左右の隅々を照し視たが、上も下も右も左も唯一面の嶮しい岩石で、片隅の低い岩の上には母子の寝道具かと思われる獣の生皮二三枚と、茶碗と箸と薬鑵のたぐいが少しばかり転がっているのみで、他には別に眼に入る物もなかった。市郎は念の為に獣の皮を一枚づつ引き剥って見た。 「何か見付りましたか。」と、お杉は冷笑うような口吻で問うたが、市郎は何とも答えなかった。これより更に奥深く進むと、第二の黒い石門が扉のように行手を塞いでいて、四辺の空気は凍るばかりに寒かった。 「この先にも路があるかね。」 「ありますから、まあ入って御覧なさい。石の下から潜って行くんですよ。」  市郎は一旦立止ったが、此のまま半途で引返しては何にもならぬ。彼は障碍物競走をするような形で、兎も角も冷い石門の下を這って通ると、其後からお杉の痩せた身体が蛇のようにするすると抜け出して来た。 「ここが行止りだね。」  お杉は首肯いた。市郎は一度消えた蝋燭に再び燐寸の火を点けて、暗い石室の中を仔細に照して視たが、所々の岩の窪みに氷のような水を宿している他には、矢はり何物も眼に入らなかった。 「何か見付りましたか。」と、お杉は重ねて問うた。其声が四方の低い石壁に響いて、何となく凄愴いように聞えた。市郎は黙って立っていた。 (二十九)  市郎が唯一の希望の光も消えた。あれほどの難所を越えてようよう此処を尋ね当てた効も無く、暗い窟の奥には何の秘密も無かった。彼はお杉に有らぬ疑惑を掛けたのを、今更大に後悔した。 「どうも僕が悪かったよ。」 「じゃア、もう可いんですか。」 「むむ。ここまで詮議すれば心残りは無い。もう帰ろうよ。」  とは云ったが、まだ幾分の未練が有るらしい、市郎は壁に沿うて室内を一巡りした。 「や、あの隅に大きな穴がある……。」  お杉の眼は晃然と光った。市郎は進んで蝋燭の火を翳すと、岩穴は深さ幾丈、遠い地の底でごうごうという音が微に聞えるばかりで、蝋燭の細い光ぐらいでは到底達きそうも無い。穴の奥は深い闇に埋まれていた。  市郎は更に跪ずいて底を覗いたが、底は唯暗いのみで何にも見えなかった。お杉は黙って其背後に突っ立っていた。  低い狭い石室の中は、墓場のように鎮り返っていた。が、其の寂寞は忽地に破られた。市郎は我が背後で微に物の動く気息を聞いたので、何心なく顧ると、驚くべし彼のお杉婆は手に磨ぎ澄したる小刀を振翳して、あわや彼を突かんとしているのであった。 「何をするッ。」  市郎が驚いて叫ぶ間もありや無しや、お杉の兇器は其の頸筋へ閃いて来た。が、咄嗟の間に少しく体を躱したので、鋭い切尖は僅に其の肩先を掠ったのみであった。空を撃ったお杉は力余って、思わず一足前へ蹌踉く機会に、恐く岩角に蹉いたのであろう、身を翻えして穴の底へ真逆さまに転げ墜ちた。蝋燭は消えて真の闇となった。  意外の出来事に市郎も一時は呆気に取られたが、お杉が自分を殺そうとしたのは、恐く昨日の復讐ばかりではあるまい。彼女は此の岩穴の中に何等かの暗い秘密を蔵しているので、其の発覚を恐れて斯る兇行を企てたに相違ない。矢はり自分が最初に疑っていた通り、生死不明の父は此穴の底深き処に葬られているのかも知れぬ。それにしても、お杉は何うしたろう。岩石に骨を砕かれて即座に命を隕したか、或は案外の軽傷で無事に生きているか、先ず其安否を確めねばならぬ。いかに悪人にもせよ、此のまま見殺しにするという法はあるまい。 「兎も角も穴へ入って見よう。」  父の行方とお杉の安否とを探る為に、市郎は直ちに此の冒険を試みようと決心した。彼は燐寸を擦って再び蝋燭に火を点けた。其光に因て又もや穴の中を窺うと、底の底は依然として真暗であったが、彼は幸いに或物を見出した。それは一条の細い綱である。  今までは些とも眼に注かなかったが、綱は人間の髪毛に因て固く編まれたもので、所謂「毛綱」の類であった。其の一端は穴の降口とも思しき処の岩角に結び付けられて、他の端は暗い底の方に長く垂れていた。試みに之を手繰って見ると、綱は古代の大蛇のように際限もなく長いもので、繰れども繰れども容易に其端には達かなかったが、根よく手繰っている中に、漸く残りなく引揚げた。長さは幾丈あるか鳥渡は想像が付かぬ位で、黒い固い綱は狭い室内に蟠蜒を巻いて、其端は蛇の鎌首のように突っ立った。これが総て人間の髪毛であるかと思うと、市郎は何となく薄気味悪く感じた。  が、今は猶予している場合でない。市郎は其綱の片端を自分の胴に緊と結び付けて、海燕の巣を猟る支那人のように、岩を伝って真直に降り初めた。岩は殆ど峭立ったように嶮しいが、所々には足がかりとなるべき突出の瘤があるので、それを力に探りながら徐々と進んだ。  降るに従って、深い穴の底はいよいよ暗かった。彼が僅に頼みとするのは、鬼火のように燃ゆる一挺の蝋燭の他は無かった。 (三十)  市郎は半夢中であるから、約何のくらい降りて進んだか判らぬ。兎にかく手がかり足がかりの岩を辿って、下へ下へと危くも降りてゆくと、暗い中から蝙蝠のようなものがひらりと飛んで来て、市郎の横面を礑と打った。あッと顔を背ける機に、冷い空気の煽りを受けて、頼みの蝋燭はふッと消えた。 「あ、失敗った!」と、市郎は思わず舌打した。が、現在の位置にあって再び蝋燭を点けると云うことは、殆ど不可能であった。彼は左の手に蝋燭を持ち、右の手に岩を抱いて、辛くも其身を支えているのであるから、到底燐寸を擦るべき余裕は無い。迂濶に手を放せば、彼は底知れぬ暗黒に転げ墜ちて、お杉と同じ運命を追わねばならぬ。さりとて此のままの暗黒では仕方が無い。  彼は霎時途方に暮れたが、此の場合兎も角も進んで行くより他は無いので、市郎は探りながらに徐に降りた。それから二三間ほど進んだかとも思う時に、彼の左の足は硬い物に触れた。靴で幾度か探って見ると、これは突出した岩の角で、岩は可成に広いらしい。ここならば両手を放しても立って居られそうに思われたので、「可、ここで燐寸を点けようか。」と、市郎は更に右の足を踏み締めると、足の下は意外に柔かであった。左は硬く、右は柔かい。少しく可怪いとは思ったが、柔かいのは恐く粘土であろうと想像して、彼は先ずここに両足を踏み固めた。  で、何よりも早く蝋燭を点けねばならぬ。市郎は手早く燐寸を擦ると、余りに慌てた結果、火は点いたが又忽ち消えた。が、この瞬時の光に因て、彼は我が足下に人の横わっているのを見た。男か女か確とは判らぬ、唯蒼白い顔が朦朧と浮き出したかと思う間もなく、四辺は再び旧の闇に隠れて了った。 「阿父さんか、お杉か、但しは別人か。」  市郎は急いて又燐寸を擦ったが、胸の動悸に手は顫えて、幾たびか擦損じた。彼は愈よ悶れて、一度に五六本の燐寸を掴んで力任せに引擦ると、火は漸く点いた。  わが足下に横わっているのは、尋ぬる父の安行であった。わが右の足で踏んでいた柔かい物は粘土で無い、老たる父の左の股であった。市郎は驚いて声も出なかった。慌てて飛退いて更に熟視ると、人違いでない、確に父の安行である。が、其顔は生ける日と些とも変らず、極めて平和な温順な人相を現わして、斯る変死者に往々見る所の苦痛や煩悶の死相は少しも見えなかった。父は恐く不意に殺されたのであろう。父は怖るべき危害の迫り来るを予知せずに突然死んだのであろう。  市郎は蝋燭を岩の罅間に立てて、一先ず父の亡骸を抱き起したが、脈は疾うに切れて、身体は全く冷えていた。併し一通り見た所では、何処にも致命傷らしい疵の痕は無かった。多分この岩の上へ突き落されて、脳震盪を起して死んだのではあるまいか。勿論、これとても想像に過ぎない。 「阿父さん……。」  切てもの心床しに、市郎は父の名を呼んだが、魂魄の空しい人は何とも答えなかった。 「阿父さん……。」  彼は再び呼んだ。呼んで返らぬとは知りながら、再び呼んだのである。  市郎は一人児であった。小児の時に生の母には死別れて、今日まで父一人子一人の生涯を送って来たのである。父は年齢よりも若い、元気の好い人であった。わが子に対っても平気で冗談を云うような人であった。加之も我子を又無く愛する親であった。遠からず我子に嫁を迎えて、自分は隠居する意の親であった。  この父と子と突然に別離を告げたのである。それも尋常一様の別離でない。父は夢のように姿を隠して、夢のように死んだのである。加之も人間の通わぬ窟の奥、暗い蝋燭の下で其悲しき死顔を見たのである。  市郎は父の亡骸を抱いて泣いた。 (三十一)  この時、背後の方から不意に物の気息が聞えて、何者か忍び寄るようにも思われたので、市郎は手早く蝋燭を把って起上ると、余りに慌てたので、彼は父の死骸に蹉いた。広いと云っても一坪にも足らぬ岩の上である。彼はあッと云う間に足を踏み外して、深さも知れぬ暗い底へ転げ墜ちた。  が、幸いに彼の身体には例の毛綱が結び付けてあるので、市郎は岩から墜ちる途端に、早くも綱に取付いてずるずると滑り墜ちると、二三間にして又もや扁平い岩の上に止った。横さまに跪ずいて倒れたので、左の膝を少しく痛めたが、差したることでも無いらしい。彼は疼痛を忍んで直に起き上った。其片手には消えた蝋燭を後生大事に握っていた。  斯くして彼は父の死骸から遠ざかって了ったのである。引返そうにも足がかりが見出されぬ。降りる方は比較的容易であったが、登るのは余ほど困難であるらしい。斯うなるからは寧そのこと、どん底まで真直に降りて行って、彼のお杉の安否を確めた方が優かも知れぬ。ええ、何うなるものか、行ける所まで行って見ろと、一種の自棄と好奇心とが混って、市郎は更に底深く降りることに決心した。それに付けても唯一の味方は蝋燭である。彼は又もや燐寸を擦付けようとする時、人か獣か何か知らぬが、嶮しい岩を跳越えてひらりと飛んで来た者がある。  身を躱す間もあらばこそ、彼の怪物は早くも市郎の前に飛込んで来て、左の外股の辺を礑と打った。敵は兇器を持っているらしい、打たれた所は唯ならぬ疼痛を感じて、市郎は思わず小膝を突いた。「𤢖か。」と、此の刹那に市郎は忽に悟ったが、敵が余りに近く薄っているので、火を点ける余裕が無い。彼は右の足を働かして強く蹴ると、敵は足下に倒れたらしい。暗黒で固より見当は付かぬが、市郎は勝つに乗って滅多矢鱈に蹴飛ばす中に、靴の尖には応えがあった。敵は猿のような声を揚げてきゃッと叫んだぎりで霎時は動かなかった。  この隙を見て、市郎は忙わしく燐寸を擦った。蝋燭の火の揺めく影を便宜にして、先ず此の怪物の正体を見定めようとする時に、一人の男がぬッと其の眼前へ現われた。市郎は悸然として熟視ると、これは𤢖では無いらしい。而も𤢖とは大差ない程に見ゆる下級労働者らしい扮装で、年の頃は五十前後でもあろう、髪を長く伸して、尖った顔に鋭い眼を晃らせ、身には詰襟の古洋服の破れたのを着て、足には脚袢草鞋を穿いていた。其扮装を見て察するに、近来この土地へ続々流れ込んで来る坑夫か土方の仲間らしい。 「私は𤢖じゃアありませんよ。御安心なせえまし。ははははは。」  男は笑いながら馴々しく近寄って来たが、市郎は容易に油断しない、蝋燭を突き付けたままで其顔を屹と睨んでいた。 「𤢖はここに居まさあ。御覧なせえまし、此の醜態だ。」  男が笑いながら指さす我が足下には、何さま異形の者が倒れていた。先夜トムを殺した奴と確に同種類に相違ない。赭土色の膚で、髪の長い、手足の長い、爪の長い、人か猿か判らぬような怪物である。彼は市郎の靴で額の真向を蹴破られたと見えて、濃黒いような鮮血が其凄愴い半面を浸していた。  併し彼は死んだのでは無かった。其の眼前に蝋燭の火を差付けられると共に、又もやきゃッと叫んで跳ね起きて、血だらけの顔を抱えながら岩から岩へ、何処へか飛んで行って了った。  斯くして真実の𤢖は逃げ去ったが、𤢖類似の怪しい男は未だ眼の前に残っている。此男は果して善か悪か、敵か味方か、市郎も其判断に苦んで佇立んでいると、男は愈よ馴々しい。 「旦那、御心配なせえますな。𤢖なんて云うものは、意気地のねえ奴ですから、もう蒐って来る気配いありませんよ。はははは。」  彼は勇士である。人の恐るる山𤢖を物の屑とも思っていないらしい。 (三十二)  何しろ、得体の判らぬ男であるが、何時まで睨み合っていても際限がないと、市郎の口も解れ初めた。 「お前さんは此穴に棲んでいるのか。」 「そうじゃアありませんが、大抵勝手は心得ていますよ。」 「底までは未だ余ほど遠いかね。」 「何、もう直です。御覧なせえまし、唯た三四間の所でさあ。」  蝋燭を照して視ると、底は近い。獣の牙のような大小の岩が聳えていた。 「今、人が墜ちたんだが……。」と、市郎は伸上って底を覗くと、男は首肯いた。 「もう少し前に、上から墜ちて来た者がありましたよ。𤢖かと思っていたが、然うじゃア無かったか知ら。」  男は先に立って岩を降りた。市郎も続いて降りた。やがてどん底まで辿り着くと、果して其処にお杉の死骸が倒れている。彼女は牙のような岩と岩との間に挟まれて、さながら巨大なる野獣に咬まれたような形で死んでいた。  男は少しく眉を顰めて、お杉の死顔を凝と眺めていた。市郎は念の為に脈を取って見たが、これも手当を施すべき依頼は切れていた。 「一体、この女は何うして墜ちたんだろう。旦那は此女を御存知ですか。」  善悪判らぬ此男に対して、市郎は真を語らなかった。 「さあ、僕も知らない。僕は唯この窟を探険に来たのだ。」 「じゃア、書生さんだね。」 「まあ、然うさ。」  こんなことを云っている中に、市郎は漸次に足の疼痛を感じた。今までは気が張っていたので、何も彼も殆ど夢中であったが、曩に岩の上へ転げ墜ちた時に彼は左の膝を痛めた。続いて𤢖の為に左の股を傷けられた。加之も二度目の傷は刃物で突かれたと見えて、洋袴に滲み出る鮮血の温味を覚えた。究竟彼は左の片足に二ヶ所の傷を負っているのであった。  父の行方も探し当て、お杉の生死も確め得たので、彼も今は気が弛むと共に、市郎は正しく立つに堪えられなくなって来た。跛足を曳きながら傍の岩角に跟蹌けかかって、倒れるように腰を卸した。男も其側へ腰をかけた。 「旦那は何うか為すったんですか。」 「些と怪我をした。」と、市郎は顔を皺めて、「そこでお前さんに頼みたいことが有るんだが……。僕は此の通り、足を痛めているんで到底歩けそうもない。お前さんは此処の勝手を知っていると云うなら、後生だから僕の家まで行って来て呉れないか。而して、僕がここに居るから迎いに来て呉れと……。」 「旦那の家は遠いんですか。」  男は余り気の進まぬような返事であった。市郎は衣兜の紙入から紙幣を探り出して、黙って男の手に渡すと、彼は鳥渡頂いて直に我が洋袴の衣兜へ捻込んで了った。 「じゃア、行って来ましょう。旦那のお宅は何方です。」 「この山を降りて樅の林を抜けると、町は直に見える。僕の家は角川と云うんだから、町で訊けば直に判る。」  角川と聞いて、男の顔色は少しく動いた。市郎の顔を再び覗いて、 「あなたは角川の若旦那ですかい。」 「むむ。僕は角川の倅だ。」 「へえ、そうですか。」と、考えて、「大旦那はまだ御健康ですかい。」 「え、お前さんは僕の親父を知っているのか。」と、市郎は不審の眼を晃らせると、男は忽ち頭を掉った。 「いいえ、お目にかかったことは有りませんが……。何しろ、それじゃア直に行って来ましょうよ。」 「何分頼むよ。」 「よろしい。待ってお在なせえまし。」  男は口早に、身軽に起上って、衣兜から新しい手拭を把って頬包りした。 「旦那、この綱は大丈夫ですかい。」 「むむ、上の岩に緊乎結び付けてある。」  市郎は自分の胴に巻いた毛綱を解いて、傍の岩角に結び付けると、男は之に縋って登り初めた。かれは鉱山生活に慣れているらしい、手は綱に縋り、足は岩に踏みかけて、案外無造作にするすると登って行った。穴の入口に達した時に、彼は下に向って声をかけた。 「旦那、行って来ますよ。」 (三十三)  虎ヶ窟に於て是ほどの事件が出来している間に、彼のお葉と重太郎とは、何処に何をしていたであろう。二人に関する昨夜以来の成行を、ここで簡短に説明せねばならぬ。  前にも記す如く、お葉は自分にも判らぬ心理状態の中に此の山中へ誘われ、此の窟の奥に囚われて了った。重太郎と山𤢖とは夜の更けるまで帰って来なかった。 「妾は何うして斯んな処へ来たんだろう。」と、時の経つに従って、お葉は夢から醒めたように考えた。今日一日のお葉は、自分ながら何が何うしたのか殆ど判断が付かなかった。或は酔い、或は醒め、或は夢み、自分の頭脳は種々の混乱を来した末に、お杉婆の威嚇的命令の下に重太郎の嫁たるべく約束した。が、考えて見ると斯んな馬鹿馬鹿しいことは無い。妾は気でも狂ったのか知らと、お葉はつくづく自分の馬鹿馬鹿しさに愛想を竭した。  で、何は扨措いても、斯んな処に長居すべきでない。自分は東京深川生れのお葉さんである。自分の身状が悪い為に、旅から旅を流れに渡って、「行くにゃ辛い」と唄にまで謳わるる飛騨の山家に落ちて来たが、それでも自分には自分の生命が有る、自分には自分の恋が有る。こんな山奥へ引摺込まれて、人だか𤢖だか判らぬような怪物共の玩弄にされて堪るものか。他面白くもない、好加減に馬鹿にしろと、彼女は持前の侠肌を発揮して、奮然袂を払って起った。  が、お葉も流石に彼のお杉婆に対しては、何となく不気味の感が無いでもなかった。窟の奥から窃と抜け出して、先ず表の有様を偸み視ると、夜は既う更けたらしい、山霧は雨となって細かに降っている。お杉は消えかかる焚火を前にして、傍の岩に痩せた身体を凭せかけたまま、さながら無言の行とでも云いそうな形で晏然と坐っていた。生きているのか、死んでいるのか、眠っているのか、起きているのか、一向に見当が付かない。  捉まったら其れまでと度胸を据えて、お葉は抜足をして外へ出た。お杉婆は身動きも為なかった。お葉は折柄の雨を凌ぐ為に、有合う獣の皮を頭から引被って、口には日頃信ずる御祖師様の題目を唱えながら、跫音を偸んで忍び出た。  それから一時間も過ぎた後に、重太郎が帰って来た、山𤢖も帰って来た。彼等は山蔦で引縛った角川安行を抱えていた。 「阿母さん、阿母さん。」  重太郎が呼んでもお杉は答えなかった。重太郎は先ず窟の奥へ駈け込んだが、霎時して狂気の如く飛んで来た。 「阿母さん、お葉は……。お葉は何処へ行った。」と、彼はお杉の腕を掴んで、力任せに引摺廻した。 「何、お葉が居ない。」と、お杉も初めて眼を睜いた。 「阿母さん、寝ていたのか。」 「例の通り、眼を瞑って神様に祈っていたのさ。」 「そんなら判りそうなものだ。お葉は居ない、お葉は逃げた。」  重太郎は足摺して泣き出した。 「お葉が逃げた……。」と、母も眼を晃らしたが、「心配お為でない。何処へ行くものか。家へ帰ったら又連れて来るから……。」と、さびしく笑っていた。 「何日連れて来て呉れる。」 「明日でも、明後日でも……。」  十日の中には死ぬと予言したお杉婆にも、流石に明日の自分の運命は判らなかったと見える。彼女は沈着払って我子を慰めた。が、若い血の燃ゆる重太郎には、明後日は愚、明日をも待たれなかった。彼は宛がら狂える馬のように跳り上った。 「否だ、否だ。今夜中に連れて来て呉れ。」 「でも、今夜は不可い。妾は他に用が有る。明日までお待ちよ。」  重太郎は既う耳にも入れなかった。これから直にお葉の行方を追う意であろう、彼は旧来し方へ直驀地に駈けて行った。 (三十四)  お葉は虎ヶ窟から虎口を逃れた。  逃れたのは嬉しいが、扨其先に種々の困難が横わっていた。路は屡々記す通りの難所である、加之も細雨ふる暗夜である。不知案内の女が暗夜に此の難所を越えて、恙なく里へ出られるであろうか。  けれども、今はそんなことに頓着する場合で無かった。お葉は唯無闇に行手を急いだ。昼ならば一度越えた路に就て、多少の心覚えや目標も有ったか知らぬが、真暗黒では何が何やら些とも判ろう筈が無い。同じような岩や、同じような谷や、同じような坂が、そこにも此処にも路を遮って、彼女を遣らじと抑留めるようにも思われた。 「死んでも構うものか」  お葉は覚悟を極めた。𤢖見たような奴等の玩弄になる位ならば、寧そ死んだ方が優である。彼女は足の向く方へと遮二無二と進んだ。其勇気は健気とも云うべきであったが、此種の冒険は気の強いばかりでは押通せるものでない。猟夫や樵夫の荒くれ男ですら之を魔所と唱えて、昼も行悩む三方崩れの悪所絶所を、女の弱い足で夜中に越そうと云うのは、余りに無謀で大胆であった。  彼女は裳を高く褰げて、足袋跣足で歩いた。何を云うにも暗黒で足下も判らぬ。剣なす岩に踏み懸けては滑り墜ち、攀上っては転び落ちて、手を傷け、脛を痛めた。況て飛騨山中の冬の夜は、凍えるばかりに寒かった。霧に似たる細雨は隙間もなく瀟々と降頻って、濡れたる手足は麻痺れるように感じた。  併し彼女は飽までも強情であった。倒るるまでは進むという覚悟で、方角も知らずに起きつ転んづ、盲探りに辿って行くと、兎も角も普通の山路らしい処まで漕ぎ着けた。東に迷い、南に迷い、彼女は実に幾時間を費したか知らぬが、人の一心は怖しいもので、何うやら斯うやら彼の難所を乗切ったらしい。  ここまで来ると、流石のお葉も寒気と疲労とに堪え兼ねて、唯ある大きな岩の蔭に這い寄ったが、再び起ち上る元気は無かった。彼女は殆ど夢のように倒れて了った。  雨は何時か降歇んで、其夜も明け放れた。暁の霧は晴れて、朝日は昇った。父を尋ぬる市郎も、同じ時刻に此の山路へ迷い入って、或は此のあたりを過ぎたかも知れぬが、お葉は遂に見出されずに了った。  ここで市郎に見出されたら、お葉は何んなに幸福であったろう。ここで重太郎に見出されたら、お葉は何んなに不幸であったろう。飽までも運の悪いお葉は、第二の籤を取らねばならぬ不幸に陥った。彼女はここで重太郎に見出されたのである。  重太郎はお葉の跡を追って、これも東西の嫌い無しに山中を駈け廻ったが、容易に女を捉え得なかった。嶮岨に馴れたる彼は、飛ぶが如くに駈歩いて、一旦は麓まで降ったが又思い直して引返した。お葉は矢はり山中に迷っていると信じたからであろう。  斯くて此処よ其処よと捜し廻る中に、夜が明けた。彼は目眩き朝日の光を避けて、岩の蔭を縫って歩いていると、不図我眼の前に白い物の横わっているのを見付けた。 「お葉だ、お葉だ。」と、重太郎は跳って近いた。  彼は半死半生のお葉を抱え起して、霎時は飽かずに其顔を眺めていたが、やがて傍の谷間の清水を掏い取って、女の口に注ぎ入れた。死んだ方が寧そ優のお葉は、不幸にも又蘇生ったのである。  気が注いて見ると、自分の手は獣のような重太郎に握られていた。驚いて振放して起上ると、重太郎は再び其手を掴んだ。 「お葉さん。何故逃げるんだ。お前は俺の女房になるという約束じゃアないか。」 「馬鹿にしてるよ。」と、お葉は蒼い顔を瞋らして、眼を吊上げた。 「だって、昨夕約束したじゃアないか。」 「知らないよ。昨夕は昨夕、今日は今日さ。昨夕は雨が降っても、今日はお天気になるじゃアないか。」 「じゃア、俺の女房にはならないのか。」 「知れたことさ。」  お葉は罵るように答えた。 (三十五)  獣のような重太郎と相対しているお葉は、頗る危険の位置にあると云わねばならぬ。彼の情が激して一旦其の野性を発揮したら、孱弱い女に対して何んな乱暴を敢せぬとも限らぬ。  お葉もそれを知らぬでは無かったろうが、彼女も或時には其の野性を遠慮なく発揮する女であった。或時には坑夫や土方を客にして、負けず劣らずに乱暴比べをする程の勇気を有っていた。彼女は大抵の男を恐るるような女では無かった。昨日彼のお杉に対して殆ど絶対的の服従を敢したのは、自分にも判断の付かぬ一種不可思議の心理作用に因った為で、醒めたる後の彼女は依然として強い女であった。  況てお杉はここに居ない。わが目前の敵は重太郎一人である。たとい這奴が山𤢖の同類にした所で、一人と一人との勝負ならば多寡の知れたものである。罷り間違ったらば、其の喉笛にでも啖い付いて与るまでのこと。勝負は時の運次第と、彼女は咄嗟の間に度胸を据えて了った。  対手が斯ういう覚悟で居ようとは、重太郎は夢にも知らぬ。彼は母に甘える小児のような態度で、飽までもお葉に附纏った。 「お葉さん。お前、何うしても俺の嫁になるのは忌か。え、お葉さん。後生だから承知して呉れないか。俺ア斯んな山の中に棲んでるけれども、善い宝物を沢山有っているんだ。」  お葉は唯冷笑うのみで、見向きも為なかった。 「お葉さん、真実だよ、決して嘘じゃアない。俺ア昨日……いや、一昨日……阿母さんから大事の宝物の在所を教わったんだ。それを持出して他に売れば、一足飛びに大変な金持になれるんだ。俺も能く知らないが、其の宝物というのは実に立派なものだ。真闇な処でもぴかぴか光って……。何だか斯う……。」  山育ちの彼は、之を形容すべき適当の詞を知らなかった。重太郎は徒爾に眼を瞠り、手を拡げて、其の尊き宝であるべきことを頻に説明為ようと試みた。 「そんな立派な宝物がありゃア其れで可いじゃアないか。お前さんが金持になりゃア、何んな良いお嫁さんでも貰えるんだから、妾なんぞに構ってお呉れでないよ。」  お葉は相変らず鼻で扱っているので、重太郎は愈よ急いた。 「だから、お前に頼むんだ。俺が金持になるから、お前を嫁に貰いたいんだ。何日だったか忘れたが、雨のふる日の夕方に、俺が町へ食物を猟りに出て、柳屋の門口に立って彷徨していると、酒に酔った奴等が四五人出て来て、此の乞食め、彼地へ行けと俺を突き飛ばした。口惜いから撲って与ろうと思ったけれども、対手が大勢だから我慢していると、そこへお葉さん、お前が出て来たんだ。」  彼は其の当時の光景を思い泛べたらしい、今更のようにお葉の顔をしげしげと眺めた。 「而してお前が大きい声で、お止しよ、そんな可哀想なことをするもんじゃアない。其人は妾の可愛い人なんだから……。ねえ、お葉さん。お前は然う云ったろう。俺は其時に確に聞いた。其晩、俺は窟へ帰ると、お前と夫婦になった夢を見たんだ。それから……それから俺は、何うしてもお前と夫婦になる気になったんだ。ねえ、お葉さん。判ったろう。俺は毎晩お前を夢に見ていたんだ。」  然う云われると、此方に記憶が無いでもない。成ほど過日そんなことも有った様である。が、それは固より酒の上の冗談に過ぎないのを、世間知らずの山育ちの青年は唯一図に真実と信じて、此に飛でもない恋の種を播いたのであろう。対手に因ては迂濶冗談も云えぬものだと、お葉は今更のように思い当った。  山𤢖同様の分際で、深川生れのお葉さんに惚れるとは、途方もない贅沢な奴だと、今の今までは馬鹿馬鹿しくもあり、腹立しくもあったが、斯うなって見ると自分にも罪が無いでもない。嘘にもしろ、冗談にもしろ、自分は重太郎を可愛い人だと云った。で、対手の方でも自分を可愛い人だと思い染めた。究竟は無心の小児に対って菓子を与ると戯った為に、小児は本気になって是非呉れろと強請って来たような理屈である。対手が世間を知らぬ小児同様の人間だけに、斯うなると誠に始末が悪い。 (三十六)  お葉が黙って考えているので、重太郎は又もや迫り寄った。 「ねえ、お葉さん。お前は俺が髪をこんなに生しているので、忌なのか。それから……こんな獣類の皮を被ているので、忌なのか。髪は今でも直に切るよ。衣服は……金持になれば直に良い衣類を買って被るよ。お前にも最ッと良い衣類を被せて与る。それから……山に棲んでいるのが忌なら、お前と一所に町へ行く。何処へでも行く。ね、可いだろう。ね、それから……。」  云わんとすることは未だ種々畳っているらしいが、山育ちの悲しさには彼の口が自由に廻らぬ。重太郎は唖か吶のように、半は身振や手真似で説明しながら、其の切なき胸を訴えているのである。普通の人から見れば、彼は野蛮である、兇暴である、殆ど𤢖の眷属である。が、彼は決して所謂悪人では無かった。彼が獰猛野獣の如きは其人境遇の罪で、其人自身の罪では無かった。  そんな理屈までは思い及ばぬにしても、お葉は気の強いと共に涙脆い女であった。種々考えると、最初は唯憎いと思っていた重太郎其人も、今は漸々に可哀そうにもなって来た。先刻からの様子を見ると、彼は飽までも無邪気である。彼は極めて明白に、正直に、自己の詐りなき恋を語っているのである。  形は人か猿か判らぬような青年ではあるが、彼の恋は深山の清水の如く、一点人間の塵を交えぬ清いものであった。お葉も其の誠には動かされた。が、此の返事は何となろう。 「お前さん、堪忍してお呉れよ。」  お葉は重太郎の手を把って泣いた。 「じゃア、嫁になって呉れるかい。」 「それが不可いから謝るんだよ。妾は何うしてもお前さんのお嫁にゃアなれないんだから……。」  重太郎は黙って眼を晃らせた。 「だから、堪忍してお呉れと云うんだよ。」と、お葉は賺すように重ねて云った。 「何、何故だ。」と、重太郎は息を喘ませて詰寄った。  何故と聞かれると返事に困るが、お葉も重太郎と同じように片思いの恋が有る。重太郎の片思いが哀れであると共に、お葉の片思いも哀れであった。彼女は何うしても彼の市郎を思い切れぬのである。 「お前さんは可哀想な人だねえ。」と、お葉は我身につまされて嘆息した。 「可哀想なら、嫁になって呉れないか。」  重太郎は飽までも無邪気であった。可愛いと可哀想とは其間に少しく距離のあることを、彼は未だ理解し得なかった。お葉は重太郎を可哀想だとは思ったが、其同情が変じて恋とはならなかった。 「どうしても忌か。俺が斯んなに云っても肯いて呉れないのか。」と、重太郎は泣かぬばかりに口説いた。 「堪忍してお呉んなさいよ。」と、お葉は泣いて答えた。 「だから、何故だと云うのに……。」  以前のお葉ならば、「お前が忌だからさ」と、木て鼻を括ったように情なく断ったかも知れぬ。が、今は然うでない。彼女は優しく重太郎の手を把った。 「ねえ、お前さん。妾は決してお前を嫌う訳じゃアない。それほどに妾を思って呉れるのは、真実に嬉しいと思っている。だが、困ることには、妾にも思っている人があるんだから……。どうしてもお前のお嫁になることは能ないんだから、何うぞ諦めてお呉んなさい。ね、判ったかい。決してお前さんを嫌うんじゃないよ。世間に女は妾一人じゃアない。お前が真実に金持になれば、どんな良いお嫁さんだって貰えるんだから……。妾よりも若い、最っと綺麗な人がお内儀さんに能るんだから……。」  重太郎は頭を掉った。其眼には熱い涙を湛えていた。 「判らないの。」と、少しく持余したようなお葉の声も湿んで聞えた。  可哀想ではあるが、何時までも際限が無い。お葉は捉られたる袂を払って、 「じゃア、左様なら。」  重太郎は追掛けて、又其の袂を捉えた。 (三十七)  お葉を追い捉えた重太郎は、定めて破れかぶれの乱暴を始めるかと思いの外、彼は矢はり温順い態度であった。が、其の湿んだ眼は一種異様に輝いていた。 「お葉さん。どうしても帰るのか。」 「今も云ったような訳だから……。」 「どうしても帰るのか。」と、重ねて念を押した重太郎の声には、低いながらも力が籠っていた。  彼も恐く最後の決心を固めたかも知れぬ。涙の眼は漸次に乾いて、険しい眉の間に殺気を含んで来た。物を奪い、人を殺す位のことは、彼等の仲間では別に不思議の事でもない。  お葉も其の眼色を早くも悟った。 「お前さん、妾を殺す気かい。」  重太郎は黙っていた。 「殺すなら殺しても可いよ。だが、力づくで乱暴を為ようと云うなら、妾にも料見があるから……。」  重太郎は黙っていた。 「だから、素直にお帰りよ。」  重太郎は矢はり黙っていた。が、やがて傍の岩蔭に聳えたる山椿の大樹に眼を注けると、彼は忽ち猿のように其の梢にするすると攀登った。南向の高い枝は既に紅い蕾を着けているので、彼は其の二叉の枝を択んで折った。  何うするのかと見ていると、重太郎は其の枝を口に喞えてひらりと飛び降りたが、物をも云わずお葉の前に歩み寄って、二叉の枝を股から二つに引裂くと、何方の枝にも四五輪の蕾を宿していた。彼は其の一枝をお葉に渡した。お葉も黙って受取った。  二人は黙って各自の枝を眺めていた。 「取替えて貰おう。」と、霎時して重太郎は自分の枝を出した。お葉も自分の枝を出した。春待顔に紅い蕾を着けた椿の二枝は、二人の手に因て交換されたのである。  重太郎はお葉の枝を我が胸に犇と押当てた。お葉は重太郎の枝を我が袖に抱いた。重太郎の眼には涙が見えた。お葉も何とは無しに悲しくなった。 「じゃア、もう帰りますよ。」  重太郎は無言で首肯いた。市郎が窟にあると知ったら、お葉は無論引返したであろうが、そんなことは夢にも知らなかった。重太郎も知らなかった。飛騨山中の寒い朝、哀れは同じ片思いの男と女は、温かい涙を形見の花に灑いで別れた。  重太郎は潔よくお葉を思い切ったのであろうか。彼はお葉から受取った椿の枝を大事に抱えて、虎ヶ窟の方へ悄々と引返した。  昨夜彼が𤢖と共に山を降って、七兵衛と闘い、安行を奪ったのは、市郎に対する恋の恨と母の恨とであった。が、そんなことは既う忘れて了ったらしい。重太郎は唯この形見の枝を保護することにのみ屈託して、夢のように岩石の間を辿った。  窟の前に来ると、母の姿が見えぬ。少しく怪んで内を覗いたが、奥にもお杉の姿は見えなかった。 「阿母さん、阿母さん。」  彼は続けて呼んだ。この途端に窟の奥から一人の見馴れぬ男が飛んで出た。これは前に記した通り、市郎の使を頼まれて、穴の底から登って来た坑夫体の男である。  二人は恰も入口で礑と出逢った。 「誰だい、お前は……。」  重太郎は眼に角立てて詰ったが、男は急いているのであろう、返事もせずに駈け出した。窟には母の姿が見えず、加之も怪しい男が出て来たのであるから、重太郎の不審は愈よ晴れぬ。先ず飛び蒐って男の腰に組付いた。 「お前は誰だ。」 「誰でも可いよ。煩せえ。」  男は突放して又駈出そうとした。 「お前は俺の阿母さんを殺したのか。」と、重太郎は呶鳴った。 「そんなことは知らねえ。」  男は手暴く重太郎を突き退けると、彼は椿の枝を持ったままで地に倒れた。これで黙っている重太郎ではない、椿の枝を口に喞えて又跳ね起きた。此に忽ち掴み合が始まった、上になり下になり、互に転げて挑み争う中に、何方が先に足を滑らしたか知らず、二人は固く引組んだままで、傍の深い谷へ転げ墜ちた。 (三十八)  山椿の下では、お葉と重太郎との詩的な別離があった。窟の外では、重太郎と素性の知れぬ男との蛮的な格闘があった。こんな事件が続いてある間、市郎は暗い岩穴の底に取残されて、救いの人々の来るのを待っていた。  一本の蝋燭は漸次に燃え尽して、風なきに揺めく火の光は軈て其の消えんとするを示している。左したる重傷ではないと知りながらも、股と膝との疼痛は漸々に激しくなって来た。疲労と空腹とは愈よ我を悩して来た。 「七兵衛は何うしたろう。彼奴等も途に迷っているのか知ら。それにしても使の男が早く行着いて呉れば可いが……。一体、あの男は何者だろう。土地不案内の為に、これも途中で迷っていられた日には、何時まで経っても際限があるまい。何うか一刻も早く町へ出て貰いたいものだ。若し彼奴が不親切な奴で、金を貰いながら其儘どこへか行って了ったら何うだろう。いや、真逆にそんな事もあるまい。」  甲から乙へと考えながら、市郎は硬い岩を枕に暫く寝転んでいた。 「もう何時だろう。」  懐中時計を取出して視ると、先刻からの騒ぎで何時何うしたか知らぬが、硝子の蓋は毀れて針は折れていた。日光の視えぬ穴の底では、今が昼か夜か、それすらも殆ど見当が付かぬ。  待つ身の辛さは今に始めぬことであるが、取分けて今此の場合、市郎は待つ身の辛さと侘しさとを染々感じた。彼は何とは無しに起き上って、蝋燭を照しつつ四辺を見廻すと、四方の壁は峭立の岩石であるが、所々に瘤のような突出の大岩があって、其岩の奥には更に暗い穴があるらしい。 「𤢖は此穴に棲んでいるんだろう。」と、市郎は首肯いた。先刻自分を傷けた𤢖も、恐くあの穴へ逃げ込んだのであろう。一体、彼の𤢖なるものが何匹居るのか知らぬが、若し大勢が其処や彼処の穴から現われて出て、自分一人を一度に襲って来たら到底敵わぬ。  彼は何等の武器を有って居なかった。而も先夜の経験に因て、彼等に対する唯一の武器は燐寸の火であることを知っているので、市郎は慌てて燐寸の箱を検めると、剰す所は僅に五六本に過ぎぬ。彼は先刻から燐寸を濫用したのを悔いた。  で、更に念の為に蝋燭を揚げて、高い岩の上を其処ここと照して視ると、遠い岩蔭に何か知らず、星のように閃く金色の光を視た。蝋燭の淡い光で熟くは判らぬが、兎にかく其処に一種の光る物があるらしい。こんな処だから何が棲んでいるか判らぬ。或は怪獣の眼かと市郎は屹と瞰上げる途端に、頭の上から小さな石が一つ飛んで来たが、幸いに身には中らなかった。市郎は俄に蝋燭を吹き消した。敵の的にならぬ用心である。 「これも𤢖の仕業だろう。」  斯う思うと中々油断はならぬ。市郎は小さくなって岩の蔭に身を寄せた。つづいて第二の石が落ちて来た。今度のは余ほど大きいと見えて、投げると云うよりも、寧ろ転がし落したらしい。これに頭を打たれたら人間の最期である。  市郎も流石に肝を冷して、愈よ小さくなっていると、又もや石をがらがらと投げ落す奴がある。敵は一人ではないらしい、大小の岩石が一時に上から落ちて来た。何人も此の石攻めに逢っては堪らぬ、市郎も実に途方に暮れた。頭の上では何とも形容の能ぬ一種奇怪な笑い声が聞えた。石はつづいて落ちて来た。 「どうしたら可かろう。」  此のまま小さくなっているのも愚である。何とかして彼等を撃退する工夫はあるまいかと、市郎も苦し紛れに種々考えていると、わが傍らにひらりと飛んで来た者があるらしい。𤢖め、近寄って来たなと、市郎は直ちに用意の燐寸を摺った。果して一人の敵は刃物を振翳して我が眼前に立っていた。  不意に燐寸の火に出逢って、敵は例の如く立縮んで了った。其隙を見て、市郎は我が足下に落ちたる大石を両手に抱えるより早く、敵の真向を目がけて力任せに叩き付けると、頭が割れたか顔が砕けたか、敵は悲鳴をあげて倒れた。 (三十九)  目前の敵を一人殪したので、市郎は少しく勇気を回復した。敵もこれに幾分の恐怖を作したか、其後は石を降らさなくなった。が、彼等は何処に隠れているか判らぬ、又何時不意に近寄って来るか判らぬ。斯う思うと些とも油断が能ぬので、市郎は絶えず八方に気を配っていた。  併しこんな不安の状態で何時までも続いていたら、結局自分は根負がして了うに決っている。先刻から余ほど時間も経っているだろうのに、救いの人々はまだ見えぬ。一旦は勝誇った市郎も漸次に心細くなって来た。この上は依頼にもならぬ救援の手を待ってはいられぬ、自分一人の力で此の危険の地を脱出するより他はない。 「早く然う決心すれば可かった。」  市郎は痛む足を踏み締めて、例の毛綱を再び我が胴に緊と結び付け、綱を力に精一杯伸び上って、傍の高い岩に飛び付こうとしたが、何うも足が自由に働かぬ。彼は飛び損じて又墜ちた。さらでも痛い足を更に痛めた。 「到底不可い。」と、市郎は失望の声を揚げて倒れた。  この時、遠い頭の上で例の金色の光が淡く閃いた。市郎は眼を定めて熟視ると、穴の入口と覚しき所で何者か火を照しているらしく、其光に映じて例の金色が見えつ隠れつ漂うのであった。 「扨は救いの人が来たか。」  市郎は我を忘れて蹶ね起きた。精一ぱいの声を振絞って、「助けて呉れ。角川市郎はここにいるぞ。」  声はあなたまで響いたらしい、上でも之に応じて、「おうい。」と、答えた。  市郎は重ねて呼んだ、上でも再び答えた。やれ可矣と安心する途端に、何処から飛んで来たか知らず、例の大石が磊々と落ちて来て、市郎の左の肱を強く撃ったので、彼は堪らず横さまに倒れた。生きているのか死んで了ったのか判らぬ、彼は既う再び起き上らなかった。  上では其んなこととも知らないのであろう。大勢が声を揃えて市郎の名を呼んでいた。其中には塚田巡査の錆びた声も、七兵衛老翁の破鐘声も混って聞えた。  この人々は今や漸くここへ辿り着いたのであった。市郎が単身登山の途に就いた後、七兵衛は慌てて家内の人々を呼び起したが、疲れ切っている連中は容易に床を離れ得なかったので、彼等が朝飯を済まして、家を出たのは午前七時を過ぎていた。塚田巡査も町の若者も之に加わって、一隊十四五名の人数が草鞋穿きの扮装甲斐甲斐しく、まだ乾きもあえぬ朝霜を履んで虎ヶ窟を探りに出た。人々は用心の為に、思い思いの武器を携えていた。  巡査は窟の案内を心得ている筈であったが、何うしたものか路を踏み違えて、あらぬ方へと迷い入った。それが為に意外の時間を費して、今や初めて窟の入口へ辿り着いた時には、一隊の多くは既に疲れ果てて、そこらに有合う岩角に腰を卸して先ずほッと息を吐く者もあった。寒気を凌ぐ為に落葉を焚く者もあった。  けれども、巡査は流石に屈しなかった。七兵衛も頑丈であった。二人が先ず窟の奥へ潜り入って、第二の石門まで仔細に検査したが、内には暗い冷い空気が漲っているのみで、安行の姿も見えなかった。市郎の影も見えなかった。 「どうしたのだろう。」  二人は愈よ不安を感じて、そこらを頻に見廻す中に、彼等も例の岩穴を見付けた。念の為に用意の松明をあげて、真暗な底を窺っていると、下から救いを呼ぶ声が遠く聞えた。安行は知らず、兎にかく市郎だけは穴の底にいることが確められた。  七兵衛は引返して斯くと報告すると、他の人々もどやどや入込んで来た。 「兎も角も降りて見よう。」  巡査は斯う決心して、再び四辺に鋭い眼を配ると、岩角に結び付けられたる彼の長い毛綱を見出した。これを手繰ったら、市郎の身体は無事に引揚げられたかも知れぬが、其綱の端が彼の胴に縛られてあると云うことを誰も知らなかった。が、何人の考えも同じことで、巡査も先ず此の毛綱に縋って、行かれる所まで行って試ようと思い付いた。  片手は綱に縋り、片手は松明を把って、塚田巡査は左右の足を働かせながら、足がかりとなるべき大小の岩を探りつつ、漸次に暗い底へ降りて行った。他の人々は息を嚥んで其行動に注目していた。 (四十)  塚田巡査が穴を降るに就ては、市郎ほどの危険と困難とを感じなかった。上に立つ大勢の人々は綱を操って彼の行動を助け、且つ幾多の松明を振翳して、能う限りの光明を彼の行手に与えて居た。  巡査も亦大胆であった。一条の綱を力として猶予なくするすると降りて行くと、彼は中腹の稍扁平い岩石の上に立って、先ず彼の安行の死骸を発見した。驚いて其の手足を検めると、既に数時間の前に縡切れたらしい、老人の肉も血も全く冷えていた。  父が此の如き有様であるとすれば、其子の安否も甚だ心許ないものである。巡査は念の為に市郎の名を呼んだ。が、声は四方の岩に反響するばかりで、底には何の返答もなかった。十分前までは頻に救助を呼んでいた市郎が、俄に黙って了ったのは不可思議である。これも若や何等かの禍害を蒙ったのではあるまいかと、巡査は胸を騒がした。  此上は一刻も早く底の底まで探らねばならぬ。巡査は安行の死骸を見捨てて、更に底深く降りて行くと、途中には所々に突出した大小の岩が聳えて、天然か人工か知らず、其の岩の上には横に低い穴が開かれている。けれども、先を急ぐ巡査は其穴の奥を一々検査する暇は無かった。彼は唯真直に降りて行った。  やがて底近く来たと思う頃に、滔々たる水の音が凄まじく聞えた。松明を振照して視たが水らしいものは見えぬ、恐く地の底を流れるのであろう、岩に激するような音が宛がら雷のように響いた。更に二間ばかり降りると、自分の縋っている綱の端には何物か縛られているのを発見した。巡査は息も吐かずに急いで降りると、それは人であった、彼の市郎であった。  巡査は今や幾十尺の底に達したのである。先其の綱を解いて市郎を抱え起すと、彼も所々に負傷して、脈は既に止っていた。が、これは確に血温が有る。巡査は少しく安堵の眉を開いて、取敢ず彼の綱を強く曳くと、上では直におうと答えた。  この時、巡査の足下を距る一間ばかりの所で、怪しい唸声が聞えた。傷いた野獣が喘ぐようである。松明をそなたへ向けて窺うと、岩を枕に唸っているのは、半面血塗れの怪しい者であった。人か猿か判らぬ。「これが所謂山𤢖だな。」と、巡査も悟った。で、猶能く其正体を見届ける為に、其傍らへ一歩進み寄ろうとする時、頭の上から大きな石が突然転げ墜ちて来た。巡査は慌てて飛退くと、石は傍の岩角に中って、更に跳ね返って彼の𤢖の上に落ちた。𤢖の傷ける顔は更に微塵に砕けて、怪しい唸声は止んだ。  併し彼の大石は自然に落ちて来たのか、或は故意に投げ落したのか、巡査には早速の判断が附かなかった。若し故意であるとすれば、四辺には𤢖の同類が猶潜んでいるに相違ない。巡査は再度の襲撃を避ける為に、慌てて我が松明を踏み消した。  穴の底は再び旧の闇に復った。遠い地の下を行く水の音が聞えるばかりで、霎時は太古の如くに静であった。  下の松明が俄に消えたので、上の人々は又もや不安に襲われた。七兵衛を始め、一同が声を揃えて、おういと呼んだ。が、巡査は容易に答えなかった。迂濶に叫ぶと、其声を便宜に何処からか岩石を投落される危険を懼れたからである。  そうとは知らぬ人々は愈よ不安の念に駆られて、手に手に松明を振翳しつつ穴の底を窺ったが、底の底までは到底達かぬ。この上は更に第二の探検隊を降すより他は無かった。 「可、俺が降りて見る。」  六十に近い七兵衛老爺が手に唾して奮然と起つを見ては、若い者共も黙っては居られぬ。皆口々に、「老爺さんは危ねえ、私等が行く。」と、遮り止めた。が、此の毛綱を伝って降りると云うことは余り安全の方法でない。 「何か可い物はあるまいか。」  飛騨の山人は打寄って、この国特有の畚を作ることを案じ出した。 (四十一)  飛騨の畚渡しは、昔から絵にも描かれ、舞台にも上されて甚だ有名である。河中に岩石突兀として橋を架ける便宜が無いのと、水勢が極めて急激で橋台を突き崩して了うのとで、少しく広い山河には一種の籠を懸けて、旅人は其の両岸に通ずる大綱を手繰りながら、畚に吊られて宙を渡って行く。勿論、今日では其仕掛に多少の改良は加えられたが、天然の地形は未だ畚渡しの全廃を許さぬ。飛騨の奥ふかく迷い入る人は、大切な生命を一個の畚に託して、眼も眩むばかりの急流の上を覚束なくも越えねばならぬのである。  されば今この人々は早くも畚を思い付いた。七兵衛が指揮の下に、大勢は窟の外へ一旦引返して、四辺に立ったる杉や樅の大枝を折った。或者は山蔦の蔓を折った。斯くて約二十分の後には、大きい枝を組み合わせ、長い蔓を巻き付けて、人を容るるに足るほどの畚を作り上げた。 「これがあれば大丈夫だ。」  彼等は再び窟に入って、畚を卸す準備に取懸った。畚を吊るには彼の毛綱が必要である。大勢が手を揃えて其綱を繰上げると、綱の端には尠からず重量を感じたので、不審ながら兎も角も中途まで引揚げると、松明の火は漸く達いた。洋服姿の市郎は胴を縛られたままで、さながら縁日で売る亀の子のように、宙に吊られつつ揚って来たのである。人々も驚いて声を揚げた。 「や、小旦那だ……。角川の小旦那だ……。早く引揚げろ。」  市郎は恙なく引揚げられた。が、彼は正体も無く其処に倒れて横わったので、騒ぎは愈よ大きくなった。一隊の中でも足の達者な一人は、麓まで医師を迎えに走った。斯うなると、巡査の身の上も益々不安である。権次という若者を乗せた畚は直ちに卸された。  畚が中途まで下って来た時、暗い岩穴の奥から一個の怪しい者が現われた。彼は刃物を振翳して、綱を切って落そうと試みたが、綱は案外に強いので、容易に刃が立なかった。而も権次が無闇に振廻す松明の火に恐れて、彼は忽ち逃げ去った。畚は滞りなく底に着いた。  塚田巡査は先刻から待侘びていたらしい、暗い中から慌しく進み寄って、先ず其の無事を祝した。権次は畚から降り立って、合図の綱を強く曳くと、上ではおうと答えて、畚をするすると繰上げた。 「用心しないと不可い。何処からか石を投げる奴があるぞ。」と、巡査は注意した。権次は首を縮めて岩のかげに隠れた。  つづいて第二第三の畚が卸されて、穴の底にも大勢の味方が殖えた。もう斯うなっては、隠れたる敵も恐怖を作したのであろう、何等危害を加えようとも為なかった。人々は持ったる松明を揚げて四辺を窺うと、そこには鬼の如きお杉婆の死顔と、猿の如き山𤢖の亡骸とを発見した。  此上の手続は委しく記すまでもあるまい。権次が一旦上まで引返して、一同に其始末を報告した上で、三個の亡骸は畚に乗せて順々に引揚げられた。第一は安行、第二は𤢖であった。最後に乗せられたお杉の亡骸は、既に頂上まで達いたと思う頃、何うした機会か其畚は斜めに傾いて、亡骸は再び遠い底へ真逆様に転げ落ちた。更に畚に乗せて再び吊上げると、今度も亦中途から転げ落ちた。お杉の霊魂は此窟を去るのを嫌うのであろう。が、何うしても其儘には捨置かれぬので、最後には畚に緊と縛り付けて、遂に彼女を上まで運び出した。  これで先ず屍体の収容は済んだ。三個の亡骸を窟の外へ舁き出して明るい所で検視を行うと、安行の屍体には何等負傷の痕も無く、其顔は依然として安らかに眠っていた。が、お杉の瞋れる顔は宛然の鬼女であった。加之も高い所から再三転げ落ちて、剣の如き岩石に撃れ劈かれたので、古い鳥籠を毀したように、身体中の骨は滅裂になっていた。  更に人を駭かしたのは、彼の山𤢖の最期であった。幾百年の昔から、口でこそ山𤢖と云うけれども、誰も明白に其形を認め得た者は無かった。然るに今や白昼に其の怪しき形骸を晒したのである。白昼に幽霊が出たように、人々は驚異の眼を瞠って、何れも其の周囲に集り来った。 (四十二)  此に怜悧な観世物師があったら、直に前代未聞と吹聴すべき山𤢖なるものの正体は抑何んなであったか。勿論、彼等にも牝牡はあろうが、今ここに屍体となって現われたのは、確に女性であった。脊丈は先ず四尺ぐらいで、腰に兎の皮を纏っている他は、全身赤裸々である。鮫のように硬い皮膚の色は一体に赭土色で、薄い毛に覆われていた。頭は小さく、眼も小さく、額の著るしく窪んでいるのが人の注意を惹いた。彼等の或者は非常に長い髪を垂れていると伝えられるが、これは殆ど禿頭と云っても可い位で、脳天に僅少ばかりの灰色の毛がちょぼちょぼと生えているのみであった。  鼻は猿のように低かった。耳は狐のように立っていた。口も比較的に小さい方で、黄い口唇から不規則に露出している幾本の長い牙は、山犬よりも鋭く見えた。足の割には手が長く、指は矢はり五本であるが、爪は鉄よりも硬く且尖っていた。手掌の皮が非常に厚く硬いのを見ると、或場合には足の働きもして、四つ這いに歩くらしい。  これが満足で居ても既に此の如き異体の怪物である。況て市郎の為に、最初は靴で額を蹴破られ、次に石を以て真向を打割られ、最後には味方の石に因て顔一面を砕かれたのであるから、肉は砕け、骨は露われて、其の醜、其の怪、実に形容も能ぬ光景であった。人々も之に対しては何とも云うべき詞を知らなかった。 「一体、これは何だろう。猿か知ら、人間か知ら……。」  猿か人間か到底判らぬ、究竟は一種の山𤢖と云うものであると答えるより他は無かった。塚田巡査も此の解釈には苦んだ。 「若し之が生きていたらなあ。」と、呟く者もあった。実際、之が生きていたら、人か猿かの区別が付くかも知れぬ。万一、彼が人間の詞を幾許か解するとすれば、訊問の結果、どんな有益な発見が無いとも限らぬ。 「そうだ。此の機会に乗じて奴等を生捕って与ろう。」  塚田巡査は野心に富んでいた。又、仮い野心が無いにしても、人間に対して屡々危害を加える山𤢖の如きものを、唯見逃して置くという法は無い。殊に昨夜の身元知れざる惨殺屍体と云い、今日の安行殺害事件と云い、何れも𤢖に関係があるらしく思われるのであるから、警官の職分として、唯見逃しては置かれぬ。巡査は再び窟に入って、穴居の𤢖を捕獲すべく決心したのも無理ではなかった。  巡査の決心と勇気とに励まされ、これに又幾分の好奇心も交って、数名の若者は其後に続いた。七兵衛等は後に残って、生死不分明の市郎と三個の屍体とを厳重に守っていた。  松明を把ったる巡査と他数名の勇者は、頼光の四天王が大江山へ入ったような態度で、再び窟へ引返した。巡査が先ず畚に乗って降りた。他の者も順々に降りた。  穴の中は依然として暗かった。松明の光を便宜にして、ここぞと思うあたりの岩穴を一々検査すると、岩壁を穿ったる横穴は数ヶ所に拓かれていた。が、穴の天井は極めて低いので、到底真直に立っては歩かれぬ。人々は𤢖のように四つ這いになって進んだ。  第一の穴は行止りになっていて、別に何者をも発見しなかった。第二の穴も空虚であった。 「𤢖め、もう逃げたかな。」  更に降って第三の穴を窺った。ここは比較的に大きい岩が突出していて、苔に包まれたる岩の面は卓子のように扁平であった。巡査は松明を片手に這い寄ると、穴の奥から不意に一個の石が飛んで来た。石は松明に中って、火の粉は乱れ飛んだ。素破やと一同色めいて、何れも持ったる武器を把直した。  若者の一人は猟銃を携えていた。或者は棒を持っていた。或者は竹槍を掻込んでいた。巡査は剣の柄を握って立った。  敵より投げたる一個の石は宣戦の布告である。人間と𤢖とは此に戦闘を開かねばならぬ。 (四十三)  𤢖はこの奥に棲んでいると見当は付いた。が、敵の方にも何んな準備があるか測り知られぬので、巡査等も容易には進み兼ねた。敵の方でも最初の石を投げた後は、鎮り返って音も為ない。  併し此のままに何時までも睨み合っていては、際限が付かぬ。塚田巡査は此に一策を案じ出した。 「松明を消せ。燈火を消せ。」  敵は最も火を嫌うのである。此方が火を消したならば、恐く勢いを得て突出して来るであろう。そこを待受けて囲み撃つという計略であった。守ること固きものは誘うて之を撃つ、我が塚田巡査は孫子の兵法を心得ていた。  𤢖は果して人間よりも愚であった。松明の火が消されると共に、俄に石を投げ初めた。巡査等は身を屈めて其的に立つのを避けた。敵は愈よ増長して、穴の奥から二匹三匹這い出して来た。彼等は我が術中に陥ったのである。 「占めたッ。」  巡査は心に喜んで、闇を探りながら衝と寄って、其の一匹の襟首を掴んだ。が、敵も中々素捷かった。忽ち其手を払い退けて、口に啣えたる刃物を把直した。其切先は危くも巡査の喉を掠めて、背後の岩に戞然と中ると、溌と立つ火花に敵は眼が眩んだらしい。其隙を見て巡査は再び組んだ。背の低い敵は巡査の足を取った。而も此方は柔道を心得ているので、倒れながらに、敵の腕を引担いで投げた。が、生憎に穴の入口へ向って投げたので、彼は奇怪な叫声を揚げながら、再び奥へ逃げ込んで了った。  𤢖は一匹でなかったが、他は入口に立って格闘の模様を窺っていたらしい。で、今や真先の一匹が斯る始末となったので、少しく怯れが出たのかも知れぬ。何れも奥へ引退って、再び石を投げ初めた。何分にも暗いので始末が悪い。巡査は危険を冒して、穴の奥へ潜り込んだ。他の者共も勇を鼓して後に続いた。  敵は屈せずに石を投げたが、幸いに石が小さいのと、距離が余りに接近しているのとで、我には差したる損害を与えなかった。それでも二三人は顔や手に微傷を負った。もう斯うなれば騎虎の勢いで、今更後へは引返されぬ。巡査も頬に打撲傷を受けながら、猶も二三間進んで行くと、天井は少しく高くなって、初めて真直に立つことが能きた。  敵は幾人居るか判らぬが、兎にかく石を投げ尽したらしい。今度は木のような物や、骨のような物を投げ初めた。骨は尖っているので、巡査は又もや左手を傷けた。  もう仕方がないので、巡査は剣を抜き閃かした。或者は猟銃を撃った。散弾が轟然として四辺に迸ると、頑強の敵も流石に胆を挫がれたらしい、踵を旋してばらばらと逃げ出した。巡査等は勝に乗って追い詰めると、穴は漸く広くなった。ここが恐く行止りで、彼等は今や袋の鼠になったろうと思いの外、何処を何う潜ったか知らず、漸次に跫音も消えて了って、後は寂寞たる闇となった。 「奴等は何処へ隠れたろう。」  松明は再び点されたが、広い穴の中に何者の影も見えなかった。幾ら𤢖でも隠形の術を心得ている筈はない。恐く何処にか隠れ家があろうと、四辺を隈なく照し視ると、穴の奥には更に小さい間道が有った。彼等は此処から這い込んだに相違あるまい。巡査等は続いて其穴を潜った。  穴は極めて低く狭いので、普通の人間には通行甚だ困難であったが、人々は宛ら蝦蟇のようになって僅に這い抜けた。行くに随って水の音が漸々に近く聞えた。水の音ばかりで無い、日の光も薄く洩れて来た。  路は漸次に明るくなった。暗い湿っぽい岩穴は全く尽きて、人々は大いなる谷川の畔に出た。岩を噛む乱流は大小の滝布を作して、滔々と漲り落ちている。川に沿うて熊笹の藪が生い茂っていた。左右は嶮しい岩山である。𤢖は此の間道から山深く逃げ入ったのであろう。 (四十四) 「到頭逃して了った。」  塚田巡査は歯噛をした。微傷ではあるが、其の手首からは血が流れていた。他の二三人も顔や手の傷を眺めながら、失望と疲労との為に霎時は茫然と立っていた。  この時、頭の上で人声がわやわや聞えた。仰げば高き絶壁の上に、大勢の人の行き違う姿が見えた。初めて知る、ここは恰も虎ヶ窟の前に横われる谷底で、頭の上に立騒いでいる人々は、彼の七兵衛や権次の群であった。  斯くと知るや、下からはおういおういと呼んだ。上からも答えた。中にも権次は岩の出鼻に縋りつつ、谷に向って大きな声で叫んだ。 「𤢖は何うした、捕ったか。」 「駄目だ、駄目だ。間道から逃げて了った。」と、下でも叫んだ。 「惜いことを為たな。今お医師が来て、角川の小旦那は蘇生ったぞ。」 「蘇生ったか。」 「大丈夫だとお医師が受合った。何しろ、早く上って来い。」 「おお。」  上と下とて遥かに呼び合っていたが、何を云うにも屏風のような峭立の懸崖幾丈、下では徒爾に瞰上げるばかりで、攀登るべき足代も無いには困った。其中に、上では気が注いたらしい。 「待て、待て。畚を持って来るぞ。」  斯う云って権次は立去った。下の人々は唯ある大岩に腰を卸して、先ずほッと一息吐いた。其間も巡査は油断が無い、川に沿うて往きつ戻りつ、ここらの地形を案じていた。  この川は人跡絶えたる山奥から湧いて来るのであろう、凄じい勢いで滔々と流れ落ちている。其の支流は虎ヶ窟の下を潜っているらしい。窟の底で絶えず轟々たる響を聞くのは之が為であろう。近く聞けば水の響は、実に耳を聾するばかりであった。  其の水音に消されて、今までは誰も聞付けなかったが、何処やらで微な唸声が聞えるようである。巡査は忽ちに耳を欹てた。そこか此処かと声する方を辿って行くと、彌が上にも生い茂れる熊笹や歯朶の奥に於て、確に人の呻くを聞いた。そこらの枝や葉は散々に踏躪られて、紅い山椿の蕾が二三輪落ちていた。  巡査は進んで熊笹を掻分けると、年の頃は五十ばかりの坑夫体の男が、喉を突かれて倒れていた。巡査も驚いた。他の人々も駈集った。昨日から今日にかけて、種々の出来事が何うして斯う続発するのであろう。一同も聊か呆れた形であった。 「一体、これは何者だろう。」 「これも𤢖に殺されたのか知ら。」  兎に角も引起して介抱すると、男には未だ息が通っていた。巡査は谷川の水を掬って飲ませると、彼は僅に眼を睜いたが、警官の姿を視るや俄に恐怖と狼狽の色を現わして、頻に手足を悶いていたが、何分身動きも自由ならぬ重傷である、彼は呻りながら又倒れた。  崖の上ではおういおういと呼んだ。畚は今や卸されたのである。人々は順々に乗って、瀕死の男も同じく乗せられた。塚田巡査は最後に上った。  市郎は医師の手当に因て、幸いに蘇生したので、既に麓へ舁き去られていたが、安行とお杉と𤢖との三個の屍体は、まだ其儘に枕を駢べていた。そこへ又、此の怪しい男が朱に染みたる身を横えたのである。昔から魔所と伝えられた虎ヶ窟の前に、斯る浅ましい姿の者が四個までも列んだのを見た人々は、抑如何に感じたであろう。白昼ではあるが山風は寒かった。人々は顔を見合わして物を云わなかった。  この驚くべき報告が麓へ拡まると、町からも村からも大勢の加勢が駈着けた。安行の屍体は自宅へ、お杉と𤢖の亡骸は役場へ、其れ其れに引渡しの手続を了えた。まだ息の通っている怪しの男は一先ず駐在所へ運び入れて、医師の手当を受けさせた。  塚田巡査は疲労をも厭わず、直ちに事件の取調べに着手した。お杉と山𤢖との死は市郎の申立てに因って事情判明したが、安行は如何にして殺されたか能く判らぬ。次に此の瀕死の男は何者の手に掛ったのか、それも判らぬ。彼はお杉や𤢖に関係があるか、或は別種の出来事か、それも判らぬ。猶其他にも昨夜の惨殺屍体と云うものが有る。それと之と因縁の糸が連絡しているか何うか、それも亦疑問である。巡査も此の解釈に就ては大いに頭を悩した。 (四十五) 「どうも判らぬ。」と、塚田巡査も頻に考えた。市郎に就ては此上に取調べようも無い。𤢖は逃げて了った、重太郎は行方不明であった。唯ここに残っているのは、重傷に苦める彼の坑夫体の男一人である。これに就て厳重に詮議するより他はないが、何分にも生命危篤という重体であるから、手の着様が無い。  昨夜村境で発見した惨殺死体は、面の皮を剥がれているので何者か判らぬ。この男も言語不通であるから何者か未だ判らぬ。仮い被害者は誰にもあれ、其の加害者は何れも𤢖であると断定して了えば、無造作に解釈は着くのであるが、𤢖以外にも何等かの因縁があるらしく感じられた。而して又、彼の惨殺死体と此の負傷者との間には、何か眼に見えぬ糸が繋がっている様にも感じられた。が、それは単に「感じられる」と云うに過ぎないので、巡査にも其理屈は到底説明し得られなかった。  負傷者は容易に死なず、医師の説に依れば幾分か持直した気味だと云う。巡査は拠ろなく手を束ねて、其の快癒に向うのを待つ中に、四五日は徒爾に過ぎた。  虎ヶ窟を中心として起れる此の奇怪なる殺傷事件は、忽ち飛騨一国に噂が拡まって、更に隣国をも驚かした。明治の世の中に𤢖が出現したと云うすらも既に新聞種であるに、況て其れが人を殺したと云い、巡査と格闘したと云う。𤢖の牝が大石で頭を砕かれたと云う。これと同時に幾多の殺人事件が降って湧いたと云う。鬼婆が殺されたと云う。聞く事毎に人を騒がす事ばかりなので、或者は嘘だろうと云い消した。けれども、事実は争われぬ。地方の各新聞は筆を揃えて、其の顛末を記載した。𤢖の屍体の写真まで掲げられた。市郎の遭難実話が載せられた。塚田巡査の探偵談が記された。噂は更に尾鰭を生じて、殆ど前代未聞の大椿事とまで伝えられた。  無論、斯うなっては塚田巡査一人の手に負える問題ではない。高山からも警官が大勢出張した、岐阜の警察からも昼夜兼行で応援に来た。狭い駅中は沸返るような混雑である。 「どうも大変な事が起ったね。」  大学の制帽を被って、旅行用の大革包を提げた若い男が、四辺の光景を幾度か見返りながら、急ぎ足で角川家の門を潜った。門口には七兵衛老爺が突ッ立っていた。 「やあ、吉岡の小旦那……。どうも苛え騒動が出来ましてね。」 「そうだッてね。驚いたよ。」と、若い大学生は首肯いて、「併し市朗君は大した事もないのか。」 「はあ、お庇様で大分快い方で……。何、大丈夫だとお医者も云って居ますが……。何しろ、一時は胆を潰しましたよ。」 「そうだろう。まあ、早く行って逢おうよ。𤢖に殺され損なうなんて、馬鹿な話だ。言語同断だよ。」  大学生は七兵衛に誘われつつ、威勢よく奥へ駈込んだ。彼は吉岡家の長男忠一である。妹の冬子が市郎と結婚するに就て、十一月初旬には帰郷する心構えをしていた所が、更に市郎から年末休暇まで延期しろと云って来た。と思うと、やがて又冬子から電報が来て、大変が出来たから直に帰れと云う。何が何だか少しく煙に巻かれたが、兎も角も大変とあっては聞捨てにならぬ。忠一は早々に旅装を整えて帰郷の途に就いた。  富山へ来ると、例の噂が既う一面に拡っていて、各新聞にも精細の記事が掲げられていた。読んで見ると成ほど大変である。が、彼は其の大変に驚くと同時に、此事件に就て一種の興味を湧した。彼は此の機会に乗じて、所謂山𤢖なるものを十分に研究したいと思った。冬の夜の明けぬ中に富山を発って、午後四時過る頃にここへ着いたのである。  安行の葬儀は市郎全快の上で営む事に決したので、一旦は火葬に附し、其遺骨は広い座敷の正面に祭られてあった。親戚や近所の人々も大勢控えていた。忠一の母お政も来ていた。それ等に対する挨拶は後にして、忠一は先ず市郎の病室に入った。  市郎は書斎の八畳に寝ていた。其傍には冬子が看護していた。 「あら、兄さん。」 「どうしたい。飛だ騒動が持上がったもんだね。」と、忠一は其枕元に坐り込んだ。室内には既う洋燈が点っていた。 (四十六) 「冬子さんから電報を打ったと云う談は聞いたが、よく早く帰って来られたね。」  市郎は痛む手を抱えながら起きようとするのを、忠一は慌しく制した。 「まあ、無理をしずに寝て居たまえ。阿父さんは何うも飛んだ事だったね。そこで、君の痛所は何うだ。もう快いのか。」 「いや、まだ悉皆快いという訳には行かないよ。何でも三週間ぐらいは懸るだろうと思うが……。併しまあ、生命に別条の無いのが幸福さ。」  市郎は苦笑いした。顔の色はまだ蒼ざめていたが、元気は左のみ衰えたようにも見えないので、忠一も先ず安心した。 「生命に別条があって堪るものか。対手は多寡が𤢖じゃアないか。はははは。」 「でも、一時は真実に喫驚しましたわ。」と、冬子は眼を丸くして云った。 「そりゃア誰でも喫驚するさ。僕だって、一旦は驚いたよ。吉岡忠一の友人が、そんな馬鹿馬鹿しい目に逢ったかと思うと、実に唖然とせざるを得なかったよ。全体、𤢖なんて云う者に苦められると云うのが、文明人の恥辱だからね。と云うと、君ばかりでなく、死んだ阿父さんまで侮辱するようだが、実際詰らない災難に逢ったものだよ。」 「恥辱でも仕方が無いわ。先方から不意に襲って来るんですもの。」と、冬子は少しく不平そうに兄を顧った。 「いや、不意に襲われると云うことが已に不覚だよ。」と、忠一は笑って、「𤢖の如き者は一挙して全滅して了うか、左もなくば之を教化して真人間にするか、二つに一つの方法を択ぶより他はないよ。唯漫然と打捨って置くから、往々にして種々の禍害を醸すのだ。勿論、打捨って置いても、自然に亡びつつあるには相違ないが、それには未だ尠からぬ年月を要するだろう。」 「真人間にするッて……。𤢖は矢張人間でしょうか。」と、冬子は眉を顰めた。 「人間だよ、確に人間だよ。ねえ、市郎君、この夏も君と𤢖に就て種々と研究した事があったじゃないか。」 「むむ。僕も委しく研究したいと思って、参考の為に親父にも種々訊いている中に、今度の騒動さ。親父はあんな気象にも似合わず、因襲的に𤢖を恐れていたらしかったが、到頭こんな事になって了った。そこで、君はいよいよ𤢖を人間と見極めたのか。」 「𤢖や山男のたぐいは皆人間だよ。僕も従来は之に就て多くの注意を払っていなかったが、此夏君と話し合ってから、俄に𤢖研究を思い立って、東京へ帰ると直に人類学の書物を種々猟って見た。諸先輩の説も聴いた。何分研究の日が猶浅いのだから、僕も余り詳細の説明は能ないが、兎にかく我々と同一の人類であると云うことだけは明白に云えるよ。尠くも僕は然う信じているよ。」 「我々と同じ人間が何うして𤢖なんぞになったのでしょう。」と、冬子の疑惑は解けそうも無かった。 「委しく云えば長いことだが、まあ簡短に説明すると、こんな理屈になるんだ。」  冬子が注いで出す茶を一杯飲んで、忠一は鉄縁の眼鏡を掛け直しながら、今や本論に入ろうとする時、彼の七兵衛が襖から顔を出した。 「あの、駐在所から塚田さんが見えましたが……。」 「むむ、此方へ通して呉れ。」と、市郎が首肯いて見せると、七兵衛は心得て去った。 「塚田巡査、相変らず勤勉だね。」と、忠一は微笑した。 「実際、勤勉だよ。殊に今度の事件に関しては、殆ど寝食を忘れて奔走しているんだ。今日来たのも、何か犯人捜索上に就て僕に聞合せにでも来たんだろう。」 「あの巡査は𤢖と格闘したと云うじゃアないか。職務とは云え、流石に偉いよ。」  こんなことを云っている中に、噂の主は帯剣を戞めかしながら入って来た。近所の人であるから、忠一とも予て相識っているのである。双方の挨拶は式の如くに終った。 「何かお急ぎの御用ですか。」と、市郎が問うた。 「いや、急ぎと云うでも無いですが、今日は虎ヶ窟を検査に行くと、不思議なものを発見したのです。」 「ははあ、何んなものを……。」 「岩穴の壁に沢山の字が書いてあるのです。恐く字だろうと思うのですが、我々には到底読めないので……。」 「字が書いてありましたか。」と、忠一は思わず乗出した。 (四十七)  虎ヶ窟の壁に文字の跡が有るというのは、頗る興味を惹く問題であった。一座悉く耳を傾けると、塚田巡査は首を拈りながら、 「今も申す通り、我々には字だか絵だか符号だか実際判然しないのですけれども、何うも文字らしく思われるのです。勿論、刃物の尖で彫付けたもので、何十行という長いものです。あれが悉皆判れば余ほど面白かろうと思うのですが、何うでしょう、あなたには……。読んで下さることは能ますまいか。」 「さあ、読めるか何うか判らんですが、兎にかく何んなものだか、是非一度見たいもんですな。」と、忠一も非常の乗気であった。 「今日は既う遅いですから。明日御案内を為ましょう。」 「どうか願います。若し果して其れが文字であるとすれば、𤢖に対する僕の意見が愈よ確実になる訳ですから……。」 「何か𤢖に就て御意見があるですか。」 「忠一君には大いに意見があるんだそうで、今これから大演説を始めようと云う処へ、あなたが見えたんです。」と、市郎は笑いながら喙を挟んだ。 「それは好い所へ来ました。わたくしも参考の為に是非伺いたいものです。」と、巡査も熱心に膝を進めた。 「兄さん、お話しなさいよ。」と、冬子も強請むように迫り問うた。  聴者が熱心であるだけに、弁者にも大いに挑発が付いて、忠一も更に形を改めた。 「いや、大いに意見があると云う程でも無いんですが、近頃僕が取調べた所では、概略先ずこんな訳なんです。日本ばかりでなく、支那にも昔から山鬼又は野婆などと云う怪物の名が伝えられています。山鬼は日本で云う山男或は山𤢖のたぐいで、野婆は即ち山姥でしょう。尤も地方に因て其名を異にするようで、日本でも奥羽地方では山人と云い、関東地方では山男と云い、九州地方では山𤢖と云い、ここらでも主に𤢖と呼ぶ様です。そこで其𤢖なるものは元来何であるかと云うと、大和民族の我々よりも早く既に此の本土に棲んでいた人種で、其中にはアイヌもありましょう、所謂土蜘蛛という穴居人種もありましょう、又は九州の熊襲の徒もありましょう。斯ういう野蛮人種が我々大和民族と闘って、或者は亡された、或者は山奥へ逃げ込んだ。其の逃げ込んだ奴等が深山幽谷の間に隠れて、世間普通の人間とは一切の交通を断って、何千年か何百年かの長い間、親から子、子から孫と其血統を伝えて来たもので、兎に角人間には相違ないんです。現に誰も知っている一例を挙げれば、肥後の山奥にある五個の庄です。壇の浦で亡びた平家の残党は彼の山奥に身を隠して、其後何百年の間、世間には知られずに別天地を作っていました。」 「成程……。」と、巡査は酷く感心して聴いていたが、市郎は少しく頭を傾けた。 「君の説も一応は道理の様に聞えるが、五個の庄の住民は矢はり普通の人間で、決して𤢖や山男の類では無いと云うじゃアないか。」 「無論さ。」と、忠一は首肯いて、「五個の庄の住民は何れも平家に由縁の者で、彼等は久しく都の空気を呼吸していた。平家の公達や殿原は其当時に於る最高等の文明人種であったのだ。随って彼等が如何なる山村僻地に流落しても、或程度までは自己の有する文明を維持して行く力を有っていたから、子孫相伝えて兎も角も今日に至ったのだ。之に反して、彼のアイヌや土蜘蛛の種族は元来の野蛮人種で、最初から自己の文明というものを所有していないから、彼等が山に隠れ、谷に潜んで何十代を送る間には、野蛮の程度が愈よ加わるのみで、寧ろ漸々に退化して、人間か獣か区別が付かぬ様になって了ったのだ。昔から山𤢖や山男と云うのは即ち是だ。彼の頼光が足柄山から山姥の児を連れて来たと云うのが実説ならば、其の金太郎と云うのは即ち山𤢖の一人で、文明の教育を受けた結果、後に坂田金時という立派な勇士になったのだろう。」 「成程……。」と、巡査は又首肯いたが、市郎と冬子は未だ腑に落ちぬらしく、霎時は黙って考えていた。広間の方には坊さんでも来たのか、鉦を叩く音が低く聞えた。 (四十八) 「先ず然う云う理屈であるから、我々の先祖は勝利者で、𤢖の先祖は敗北者で、我々が𤢖を恐るる筈は無いのだ。けれども、先祖の歴史を委しく知らぬ我々が、何百年の後、不意に山奥で異形の者に出逢うと、何か一種の魔者であるかの様に考えられて、跡をも見ずして逃帰るという事になる。又、彼等は先祖代々深山幽谷に棲んでいるから、山坂を駆歩くことは普通の人間よりも素捷いであろうし、腕力も亦強いかも知れない。随って種々の臆説が甲から乙へと附会されて、何だか神秘的の色彩を帯びた怪談が伝えられる様になって了ったのだ、要するに𤢖は、人間が漸次に退化して所謂猿人に近くなったものだと思えば可い。」  忠一が息も吐かずに弁じるのを、市郎は徐に遮った。 「まあ、待ち給え。君の議論も一通りは解ったよ。けれども、長い年月の中には、何うか云う機会で𤢖を生捕る事もありそうなものだ。若し生捕って調べたらば、総ての疑問は疾うに解決されている筈だ。日本にも昔から種々の冒険者もあれば、勇士もある。誰か其の𤢖を生捕るとか退治するとか云う人もありそうなものだったが……。」 「そんなことも無いでは無かったが、惜むらくは之を研究するほどの熱心家も無し、学者も無かったらしい。現に今から百余年前、天明年間に日向国の山中で、猟人が獣を捕る為に張って置いた菟道弓というものに、人か獣か判らぬような怪物が懸った。全身が女の形で色が白く、赤裸で黒い髪を長く垂れていた。猟人等は驚いて、之は恐く山の神であろうと、後の祟を恐れて捨てて置いたら、自然に腐って骨に化って了ったと、橘南谿の西遊記に書いてある。これなども山𤢖の女性であったに相違ないが、徒爾に腐らして了ったのは惜い事であった。同じく西遊記に山𤢖の事も記してあったと記憶している。昔から諸国に其んな例も沢山あったのだろうが、唯其の一地方の夜話に残るだけで、識者が研究の材料には上らなかったのだ。いや、然ういう例に就て、もっと面白い話が有る。これは日本の出来事じゃアないが、現に英国で其の𤢖を取押えた人の実話だ。まあ、聞き給え。」  忠一の研究談は尽る所を知らなかった。人々も耳を澄していた。 「何でも西暦千七百二十年頃の事だ。プットバリーの講師にレヴェレンド・シメオン・ピジョンと云う人があった。この人の邸で屡々家禽を何者にか盗まれる。土地の者は之をピキシーと云う怪物の仕業だと昔から唱えていたが、講師は之を信じなかった。で、暗い晩に鶏小舎の蔭に隠れて待っていると、例の如く午前一時頃に何者か忍んで来た。何でも小児のような奴であった。講師は不意に飛び出して取押えようとすると、賊は刃物を振廻して激しく抵抗した。何しろ、其奴の正体を見届けようと思って、講師は先ず燐寸を擦付けると、対手は俄に刃物を投り出して、両手で顔を隠して了った。」 「むむ。」と、市郎も思わず蒲団から乗出した。彼も𤢖に対して、ピジョン氏と同じような経験を有っているからであった。 「そこで難なく取押えて、貴様は何者だと問うたが、賊は何とも返事を為ない。兎も角も家の中まで引擦って行こうとしたが、燐寸の火が消えると共に、対手は再び強くなって、講師を突き退けて何処へか逃げて行って了った。が、其の一刹那に講師が認めた彼の姿は、極めて背の低い、殆ど赤裸で、皮膚の色は赭土色で……。」  云う事毎に符合しているので、市郎も巡査も同時に叫んだ。 「むむ、それから……。」 「それから講師が現場を調べて見ると、そこには賊の刃物が落ちていた。能く能く研究すると、これは古代の羅馬人が持っていた短い剣の類であった。而巳ならず、其附近にはローマンケーヴと昔から呼ばれている岩穴が有る。それや是やを綜合して考えると、賊はピキシーと云う怪物でも何でも無い、恐く古代の羅馬人であろうと鑑定した。が、土地の者は容易に之を信じないで、矢はりピキシーの仕業だと云っていたので、講師は更に斯う云う説明を加えた。」 (四十九)  𤢖の正体も漸々に判りかかって来た。忠一は咳して又語り続けた。 「ピジョン講師の説明に拠ると、其昔羅馬人が英国へ侵入して来た時に、其一部が戦闘に敗けて此の地方へ逃げ込んで来た。が、固より敵地であるから、到る処で追詰め追巻られた結果、山の奥深く逃げ籠って了った。其子孫が相伝えて今日に至ったのである。と云ったら、男ばかり集っていて、何うして子孫が絶えぬかと云う疑問が起るに相違ないが、彼等は夜に乗じて麓の里へ降って、見当り次第に小児を攫って行く。で、女の児は生長するのを待って結婚する、男の児は自分達の眷族にして了う。勿論、同族結婚などを頓着しているのでは無い。然ういう風であるから、肉体も精神も漸次に退化して、殆ど猿のような野蛮人になって了ったが、兎にかくに今日まで其血統を維いでいられたのである。併し彼等が漸々に亡びて行くことは争われぬ道理で、昔に比べると其人数も非常に減って来たに相違ない。軈ては自然と亡び尽すであろう。で、彼等は平生日光を見ない穴の中に隠れ棲んでいて、暗い夜になると窃かに出て歩く。その習慣が幾代も続いて来たので、眼の働きが甚だ弱いものになって了って、火のような強い光線に出逢うと、眼を明いては居られない様になったのである。又、彼等の皮膚が赭土色に化って了ったのは、生れてから死ぬまで岩石や赭土の中に棲んでいる為である。其の体躯が小児のように小さいのは、同族結婚や野蛮生活に因て身体の発育が衰えた為である。と、先ず斯う云うのだ。」 「いや、解りました。よく解りました。」と、塚田巡査が先第一に降伏した。 「成程、然うかも知れませんねえ。」と、冬子も再び兄に反抗する勇気は無かった。 「実際、そうだろう。君も些との間に大分研究したね。」と、市郎も笑った。  三人を目前に説破した忠一は、自から得意の肩を聳かす様になった。 「であるから、この虎ヶ窟に棲む山𤢖なる者の正体は、大抵想像するに難からずで、矢はり前に云ったような種類に相違ないんです。それにしても、文字が彫ってあると云うのは頗る面白い問題で、若し其の文字の解釈が能たら、𤢖の正体は愈よ確実に判りましょう。」 「然うです、然うです。明日は是非御案内を為ましょう。今日は丁度好い処へ来合せまして、種々有益なお話を伺いました。岐阜や高山から出張している同僚の者にも、参考の為に能く云い聞かせましょう。」  塚田巡査が喜んで帰った後は又寂寞になった。 「馬鹿馬鹿しいの、詰らないのと云うものの、君の阿父さんが斯んなことになろうとは、実に夢にも思わなかったよ。」と、忠一は今更のように嘆息して、「一体其の𤢖なる奴が、何故然う執念深く君の一家に祟るのだろう。新聞に拠ると、お杉婆が種々の原因を作している様だが実際然うなのか。」 「さあ、それは僕にも判然とは解らないが、何うも然う解釈するより他は無いのさ、僕の祖父も𤢖に殺されたそうだが、親父も亦今度のような事になった。究竟一種の因縁とでも云うのだろうよ。」と、市郎も嘆息した。 「むむ、それから……。」と、忠一は思い出したように、「あの柳屋の女ね、確かお葉と云った女だ。新聞の記事に拠ると、彼奴も何か今度の一件に就て、関係があるらしいじゃないか。妙な事があるもんだね。」 「いや、関係があると云う訳でも無いらしいが……。」と、市郎は冬子を顧って、「兎にかく親父が攫われた日に、お杉婆に誘われて山へ行ったことは真実さ。何故行ったか判らないが、少し狂気染みた女だから、何だか夢のようにふらふら出掛けたらしいよ。で、明る日茫然帰って来たんだ。警察の方でも無論之に目を注けて、再三取調べたけれども更に要領を得ない。実際、親父の死に就ては何にも知らないらしいんだ。」 「それで何うした。」 「何うも仕方が無いさ。相変らず柳屋へ帰って、唄なんぞ謳っているそうだ。」 「暢気な奴だな。併し彼の女の事だから、然うだろうよ。」と、忠一も笑い出した。 (五十)  忠一は其夜、安行の霊前に通夜した。明る日は陰って寒かった。が、そんなことに余り頓着する男では無いので、草鞋穿きの扮装甲斐甲斐しく、早朝から登山の準備に取かかっていると、約束を違えずに塚田巡査が来た。活発なる若い学生と勤勉なる若い巡査とは、相携えて角川家を出発した。 「兄さん、気を注けてお出でなさいよ。」と、冬子は門まで送って出た。 「心配するなよ。𤢖を五六匹お土産に持って来るから、𤢖汁でも拵える支度をして置くが可いさ。」と、冗談を云いながら兄は去った。  巡査は彼の事件以来、日々通い馴れているので、険阻の山路も踏み迷わずに、森を過ぎ、岩を越えて、難なく虎ヶ窟の前に辿り着いた。足の達者な忠一は巡査に些とも後れなかった。  窟の入口には落葉を焚いて、一人の警部と二人の巡査が張番していた。重太郎や𤢖が何時旧巣へ帰って来るかも知れぬので、過日来昼夜交代で網を張っているのである。塚田巡査は挨拶した。 「どうです、奴等は姿を見せませんか。」 「影も形も見せないよ。多分山奥へ逃籠って了ったのかも知れないが、これだけの所を山狩するのも大変だからなあ。」と、警部も少しく倦んだ形であった。  塚田巡査の紹介に因て、忠一は直ちに穴へ入ることを許された。巡査の案内に従って、松明を片手に奥深く進み入ると、此頃は昇降の便利を計る為に、横木を架した縄梯子が卸してあるので、幾十尺の穴を降るに格別の困難を感じなかった。二人は中途に突出したる岩に立って、霎時四辺を照し視た。 「この岩の上です。角川の阿父さんの屍体が横わっていたのは……。」と、巡査が指さして教えた。忠一は粛然として首肯いた。 「まあ、順々に御案内しますが、𤢖の棲んでいたのは此下の穴です。」  巡査が松明を振翳す途端に、遠い足下の岩蔭に何かは知らず、金色の光を放つ物が晃乎と見えた。が、松明の火の揺くに随って、又忽ちに消えた。 「おやッ。」と、忠一も共に火を翳したが、岩に遮られて何にも見えなかった。 「何でしょう、今光ったのは……。」 「さあ。」と、巡査は考えて、「何だか知らんが時々に光るのです。けれども、光線の工合で見える時もあり、見えない時もあるのです。私も過日から不思議に思っているのですが……。」  斯う云いながら、巡査は無闇に松明を振廻すと、火の光は偶中りに岩蔭へ落ちて、燦たる金色の星の如きものが暗に浮んだ。が、あれと云う間に又朦朧と消えて了った。 「何だろう。」 「兎も角も行って見ましょうか。」  好奇心に駆られた二人は、松明を振廻しながら更に降った。 「ここらでしたね。」と、巡査は的も無しに又もや松明を振廻すと、忠一も四方を照して視た。が、ここぞと思う辺には何物をも見出さなかったので、二人は失望の顔を見合せて立った。 「不思議ですね。」 「何うも不思議ですね。」  鸚鵡返しの声が終らぬ中に、忠一の持った松明の火先が左へ揺れると、一間許り下の大岩の間に又もや金色が閃いた。 「あ、彼処だ。」と、二人は跳って飛び降りた。岩は宛ら獅子が口を明いたような形で、其の喉とも云うべき奥の処から、怪しき金色の光を発するのであった。二人は松明を差付けて窺うと、これは意外、幾百年を経たりとも見ゆる金の兜であった。  山𤢖の棲家に金の兜を発見するとは、豚小屋から真珠を掘出したようなもので、何人も想像の及ばぬ所であろう。歴史の智識に富んでいる大学生は、早くも之を鎌倉時代の物と見た。五枚錣の大兜、これが火の光に映じて輝いたのであった。それにしても、こんな貴重な物が何うして此処に隠してあったのか。𤢖が何処からか盗み出して来たのか、但しは𤢖以前にも此処に棲んだ者があるのか。忠一も即座に判断は付かなかった。  兜は岩の上に据えられた。げにも由緒ありげな宝物である。忠一も霎時は飽かず眺めていたが、やがて手に取って打返して見ると、兜の吹返しの裏には、「飛騨判官藤原朝高」と彫ってあった。 (五十一) 「飛騨判官というのは何者でしょうな。」と塚田巡査は首を傾げた。 「飛騨判官朝高という人は、曾て此の飛騨国の地頭職を勤めたことが有る様に記憶しています。左様、何でも鎌倉時代の中葉、北條時宗頃の人でしたろう。蒙古退治の注進状の中に、確か此人の連名もあったかと思いますが……。いや、それは調べれば直に判ります。何しろ、面白いものを掘出しましたよ。」  忠一は此の歴史的遺物発見に就て、尠からぬ興味を覚えたらしく、大事そうに金の兜を捧げて起った。 「それから例の不思議な文字というのは、何処にあるんですか。」 「あの岩穴の中です。」  巡査は先に立って少しく登った。ここは曩の日に、巡査等が𤢖と戦闘を開いた古蹟である。低い穴を横に潜って奥深く進んで行くと、天井は漸くに高くなった。ここを行き過ぎると、更に広い場所へ出た。行止りのように見えて、実は狭い間道のある所であった。 「𤢖は彼の穴から逃げたのです。」と、巡査は残念そうに云った。 「ああ、そうですか。」と云いながら、忠一は何心なく四辺を見廻したが、忽ちあッと叫んだ。  ここにも彼を驚かすものが有った。それは累々たる人間の骸骨で、規則正しく順々に積み上げてあった。年を経て全く枯れたる骨は、松明の火に映じて白く光っていた。更に仔細に検査すると、下の方に敷かれた骨は普通の人よりも稍大きい位であるが、上の方へ行くに随って骨格が漸々に縮まって、終局には殆ど小児のように小さくなった。之を見ても彼等が漸次に退化したことが證明される。忠一は自己の想像の謬らざりしことを心窃かに誇った。 「これです。御覧下さい。」  巡査の翳す松明は傍の石壁を鮮明に照した。壁は元来が比較的に平い所を、更に人間の手に因って滑かに磨かれたらしい。其の面には何さま数十行の文字らしいものが彫付けてあった。忠一は眼鏡を拭って熱心に見詰めていた。 「どうも文字のようですな。」と、巡査が顧ると、忠一は黙って首肯いたが、軈て衣兜から手帳を把出して、一々これを写し始めた。石の面には所々缺けた所があるので、全く写し了るまでには尠からぬ困難と時間とを要した。巡査も根好く待っていた。 「これは確に蒙古の字です。僕には全部は判りませんが、所々は朧げに其意味が推察されます。」と、忠一は手帳を収いながら、「これに因て考えると、彼の𤢖なるものは元の蒙古の子孫らしい。彼等が隠していた飛騨判官の兜と対照して研究したら、頗る面白い歴史上の事実を発見するかも知れません。唯、蒙古の人間が何うして斯んな山中に隠れ棲んでいたかと云うことが甚だ疑問ですが、東京へ帰って蒙古語専攻の学者に此の文章を読んで貰い、又一方に飛騨判官の伝記を調べて見たら、秘密は自然に解決されるでしょう。何しろ、お庇様で種々の興味ある発見を為ました。」  二人は再び縄梯子を伝って、穴の入口へ登った。窟の前に屯していた警部等も、金の兜には驚いた。 「何処に有ったのです、そんなものが……。」と、皆口々に問い寄るので、忠一は先ず其概略を説明した上で、これは何人も私すべきもので無い、事件が落着するまでは何分宜しく保管を頼むと云えば、警部等も快く承諾した。で、兜は警官の手に渡して、二人は早々下山の途に就いた。  やがて麓に近いた頃、忠一は唯ある樹根に腰をかけて草鞋の緒を結び直した。巡査は之を待つ間に不図何を見出したか、忽ち疾風の如くに駈け出して、あなたの岩蔭へ飛び込んだ。忠一は呆気に取られて見送っていると、霎時して巡査は悄々引返して来た。 「何うしたんですか。」 「今あの岩の蔭に重太郎の隠れているのを見付けましたから、直に追掛けて行ったのですが、彼奴中々足が捷いので、忽ち見えなくなって了いました。残念なことを為たです。」  巡査は酷く口惜そうであった。 (五十二)  それから又二三日過ぎた。忠一は実家と角川家との間を往来しながら、熱心に飛騨の古い歴史を研究して、飛騨判官の伝記及び彼と蒙古との関係を明白にすべく努めていた。  一時は口も利かれぬ程の重態であった坑夫体の負傷者も、医師の手当に因て昨今少しく快方に向ったので、警官は直ちに取調を始めた。彼は中々の横着者で、最初は兎角に自分の素性来歴を包もうと企てたが、要するに其れは彼の不利益に終った。彼が不得要領の申立をすれば為るほど、疑惑の眼はいよいよ彼の上に注がれて、係官は厳重に取調を続行した。  で、或時係官がお杉と重太郎との身上に就て彼に語り聞かせて、お前を傷けた当の相手は恐く行方不明の重太郎であろうと告げるや、彼は俄に色を変えて、「然う云えば過日、虎ヶ窟で見付けた婆の死骸は何うもお杉に肖ていると思いましたよ。悪いことは能ねえもんだ。私は実の倅に斬られたんです。」と、此に初めて自分の暗い秘密を打明けた。  彼は重太郎の父の重蔵であった。今から殆ど三十年以前に、彼は角川家を出奔して、お杉と共に諸国を流浪して歩いた。が、頼むべき親戚もなく、手に覚えた職もないので、彼は到る処で種々の労働に従事した。其間にも酒や博奕や女狂いや、悪い道楽は何でも為尽した。斯うなると、二人が仲にも温かい春の続こう筈はない。年上で嫉妬深いお杉は、明暮に夫の不実を責めて、或時はお前を殺して自分も死ぬとまで狂い哮った。重蔵は愈よお杉に飽いた。が、蛇の申子と噂された程のお杉の執念は、飽までも夫に附纏うて離れなかった。彼は幾度かお杉を置去りにして逃げようと企てたが、何日も不思議に其の隠れ家を見付出された。 「妾を捨てて逃げるような料見だから、お前さんは一生涯碌なことは無い。終局には必然酷い死様をするよ。」と、お杉は鬼のような顔をして、常に夫を呪った。重蔵は愈よお杉に飽いた。飽いたと云うよりも寧ろ恐れたのであった。そんな状態で幾年かを無意味に送る間に、お杉は懐胎して重太郎を生んだが、産後の肥立が不良いので久しく床に就いた。其隙を窺って重蔵は逃げて了った。  今度は既う諦めたのか、但しは病中の為か、流石のお杉も執念深く追っては来なかったので、これを幸いに重蔵は又もや漂泊の旅路に上った。或時は土方となり、或時は坑夫となって、甲から乙へと際限もなく迷い歩く中に、二十年の月日は夢と過ぎた。彼の頭には白髪が殖えた。先頃までは加賀のあたりに徘徊していたが、近来飛騨に銀山が拓かれて、坑夫を募集しているという噂を聞込んだので、彼は同じ仲間の熊吉と云う老坑夫を誘って、殆ど三十年振で故郷の土を踏んだのである。  変遷の著るしからざる山間の古い駅ではあるが、昔に比ぶれば家も変った、人も変った、自分も老いた。誰に逢っても昔の身上を知られる気配もあるまいと多寡を括って、彼は平気で町中を歩いた。旧主人の角川家の前も通った。駅を抜けて村境まで出ると、日が暮れかかって来て、加之に寒い雨が降って来た。目ざす銀山まではまだ三里もあるので、二人は其処らで野宿をすることに決めた。  ここらの案内は重蔵が善く心得ているので、彼は熊吉を導いて樅林の奥へ入った。木立の深い処には、人を容るるに足るほどの天然の土穴が所々に明いているので、二人はここへ潜り込んで、雨を避けながら落葉を焚いた。此のままに眠って了えば、彼等は平和に夢を結ばれたのであろうが、斯る徒の癖として重蔵は懐中から小さな賽を取出した。二人は焚火の傍で賽の目の勝負を争った。  斯る賭博に喧嘩の伴うのは珍しくない。二人は勝負の争いから忽ちに喧嘩を始めて、熊吉は燃未了の枝を把るより早く、重蔵の横面を一つ撲った。熱いのと痛いのとで眼が眩んだ重蔵は、衣兜から把出した洋刃を閃かして、矢庭に敵の咽喉を一抉りにした。が、腹立紛れに人を殺したものの、わが眼前に横われる熊吉の屍体を見ては、彼も俄に怖しくなった。 「どうしたら可かろう。」と、彼は犯跡湮滅に就て考えた。 (五十三)  重蔵は不図彼の𤢖を思い出した。この殺人事件をして𤢖の所為であるかのように粧って、他の目を晦まそうと考えた。彼は熊吉の屍体を抱き上げて、咬殺した如くに其の疵口を咬んだ。が、猶不安に思われるので、更に洋刃を以て其の顔の皮を剥ぎ取った。衣服も剥いで赤裸にして了った。斯うして置けば手懸も付くまいと、今度は其死骸を引抱えて行って、一町ばかり先の小川の畔へ捨てて来た。  この時、村の方から松明の火が近いて、大勢の人声や跫音が乱れて聞えたので、脛に疵持つ彼は狼狽えて逃げた。而も人里の方へ逃げるのは危険だと悟ったので、彼は案内知ったる山の方へ逃げ込んだ。雨はますます降って来たので、彼は唯ある大きな岩蔭に隠れて、眠るとも無しに一夜を明かした。夜が明けると、雨は止んだ。けれども、麓では昨夜の殺人事件の詮議が厳しかろうと推察されるので、彼は直ちに山を降るほどの勇気は無かった。今日一日は山中に潜伏して、日の暮るるを待って里へ出る方が安全であろうと、飢い腹を抱えて当途も無しに彷徨う中に、彼は大なる谷川の畔に出た。  瞰上れば我が頭の上には、高さ幾丈の絶壁が峭立っていて、そこは彼の虎ヶ窟なることを思い当った。若い男と女とが社会の煩さい圧迫を脱れて、自由なる恋を楽んだ故蹟である。 「俺もあの時は若かったな。」  重蔵も漫ろに三十年前の夢を辿って、谷川の流に映る自己の白髪頭を撫でた。それに付けてもお杉は何うしたろう。生きては俺を恨んでいるだろう、死んでは俺を呪っているだろう。 「俺も悪いことを為た。」と、彼は今更の様に悔恨の情に打たれた。が、其のお杉は二十年前から此の旧巣へ戻って、加之も今や其の老たる屍を窟の底に横えていようとは夢にも思い及ばなかった。何はあれ、ここは屈竟の隠れ家である。万一、𤢖が昔のままに棲んでいるならば、之に乞うて何等かの食物を得て、一時の空腹を凌ごうとも思った。其昔、𤢖を友としていた重蔵は、他の人のように𤢖を恐しい者とも思わなかった。寧ろ旧い友達を尋ねて、当分の隠れ場所を借りようか位に思っていたのである。  彼は窟に暫く棲んでいたので、岩穴から此の川辺へ抜け出る間通を心得ていた。彼は直ちに其穴を見出して、蛇のように潜り込むと、暗い中で恰も彼の市郎に出逢ったのであった。市郎は彼が家出の後に生れた児であるから、相互に顔を見識ろう筈はなかったが、其詞の端に因て、重蔵は早くも彼が角川家の倅であることを悟った。で、一旦は其奇遇に驚いたが、今は其んなことを詮議する場合でない。彼は頼まるるままに角川家へ使する意で、兎も角も窟の外へ走り出た。  外へ出ると、又もや重太郎に逢った。が、これも相互に顔を見識らなかったので、二十年振で初めて邂逅った現在の父と子が、此に忽ち敵となった。二人は引組んだままで崖から転げ落ちると、下には幸いに熊笹が茂っていたので、身体には別に怪我もなかった。けれども、格闘は此のままに止まなかった。二人は此で又もや組討を始めたが、若い重太郎は遂に老たる父を捻伏せた。彼は母の仇と叫びつつ、持ったる洋刃を重蔵の喉へ差付けたのである。  急所を刺された父は殆ど気を失って倒れた。重太郎は恐く何処へか立去ったのであろう。それから塚田巡査に発見されるまでは、重蔵も夢心地で何にも知らなかった。  老たる浮浪者の懺悔は之で了った。 「私も女房や子を捨てて逃げました。友達を殺して逃げました。それだけの罪でも碌なことの無いのは当然です。二十年振で現在の子に邂逅いながら、其手に掛って殺されると云うのも自然の因縁でしょう。斯う何も彼も白状して了えば、私は人殺しの犯人ですから何うせ無事には済みますまい。寧そ此のまま死んで了って、地獄にいるお杉に謝った方が可うございます。」  彼の眼には悔恨の涙が見えた。警官も医師も其の自殺を懼れて昼夜警戒していたが、彼は一旦快方に赴いたにも拘らず、爾来再び模様が悪くなって、囈言のように斯んなことを叫び続けた。 「お杉……堪忍して呉れ。俺が悪かった。お杉……お杉……重太郎……。熊吉、赦して呉れ。熱い、熱い、地獄の火が……。」  斯くして、三日の後に重蔵は死んだ。人間の運命は不思議なもので、彼は故郷の土と化るべく、偶然にここへ帰って来たのであった。 (五十四)  十一月も中旬になった。  飛騨の冬は愈よ迫って来て、霜は軈て雪となるらしい、鯨の群のような黒い雲が山から里へ掩って来た。この三日ばかりは日も見えなかった、風も吹かなかった。唯天地暗澹の中に、寒い日が静に暮れて、寒い夜が静に明けた。この沈黙は恐るべき大雪を齎す前兆である。里の人家では何れも冬籠の準備に掛った。  午後三時、一人の青年が村境の小高い丘に立って、薄暗い町の方を遠く瞰下していた。彼は重太郎である。大方の冬木立は赤裸になった今日此頃でも、樅の林のみは常磐の緑を誇って、一丈に余る高い梢は灰色の空を凌いで矗々と聳えていた。この深林を背景に、重太郎は無言の俳優として舞台に立っていた。  彼は恋しいお葉と泣いて別れた。更に父と知らずして父を傷けた。お葉が形見の山椿の枝を抱えて、一旦は其場から姿を隠したが、流石に遠くは立去らなかった。彼は木間や岩蔭に潜んで、絶えず其後の模様を窺っていると、安行も死んだ、お杉も死んだ、𤢖の一人も死んだ。其屍体は何れも里へ運び去られたのである。  安行や𤢖の死に就ては、彼は何にも考えなかったが、お杉の死は彼の胸を深く抉った。二十年来この窟に隠れ棲んで、殆ど人間との交際を断っていた此の母子二人は、さながら車の両輪の如き関係であった。今や其母を亡って、彼は殆ど片輪になって了った。曩の夜、母から十日の内には死ぬと云い聞かされた時には、彼は心窃かにお葉というものを頼みにしていた。が、それも希望の綱が切れた。彼は枝を離れた木葉のように、風のまにまに飛んで行くより他は無かった。  ここばかりが自分の天地でないことは、重太郎も流石に知らぬでは無かった。母に別れ、お葉に離れて、必ずしも此の山奥に棲んでいる必要は無いと思った。けれども、窟の底には母に教えられた大切の宝が有る。之を持出して他に売れば、自分は大金満家になれるのである。乞食を為ないでも済むのである。ここを立去る前に、先ず彼の宝を持出さねばならぬと、彼は昼夜この辺を徘徊して、窃かに好い機会を窺っていたが、彼の事件以来、窟には多数の警官が絶えず見張っているので、彼も迂濶に踏込む隙を見出し得なかった。  と云って、此のままに立去るほどの断念は付かぬ。断念の付かぬのも無理はない。重太郎は宝に心を惹されて、徒爾に幾日かを煩悶の中に送った。勿論、普通の人とは違って、山に馴れたる彼は寝床や食物には困らなかった。岩を枕にして眠った、木実を拾って食った。斯くして日を暮す間に、塚田巡査に一度見付けられたが、幸いに逃れた。 「あの宝は俺の物だ。俺が持って行くのに不思議があるものか。」  重太郎は斯うも考えた。けれども、自分の姿を見れば直ちに追跡する警官等が、其理屈を肯いて呉れるや否やを危んだ。警官等は自分の敵であると彼は一図に信じていた。寧そ腕力付で奪い取ろうかとも考えたが、剣を佩びたる多数の警官と闘うことは、彼も流石に憚った。この場合、味方と頼むのは多年同棲したる𤢖であるが、彼等も其以来何処へ隠れたか姿を見せぬ。母と友とに離れたる孤独の重太郎は、ここらあたりを出没して空しく夜と昼とを送っているのであった。  其間も彼は山椿の枝を放さなかった。紅い蕾は疾くに砕けて了ったが、恋しき女の魂魄が宿れるもののように、彼は其の枯枝を大事に抱えていた。  今日も漸く暮れかかって来た。灰色の低い雲は町の空一杯に拡がっていた。 「雪が来るな。」と、重太郎も思った。  更に山の方を振返って見ると、三方崩れの彼方から不思議な形の黒雲が勃々と湧き出して来た。例えば大入道のような怪物が黒い衣服の裳を長く拖いて、太い片腕を長く突き出したような形で、徐に北の空から歩んで来た。重太郎は眼も放さずに怪物の近くのを仰ぎ視た。  普通の人は之を不思議の雲と見るであろうが、重太郎は更に之を不思議の物と見た。彼は之を一種の悪魔であると思った。あの雲が出る時には必ず人間に禍があると、小児の時から母に教えられたのであった。  現在の重太郎に取っては、里の人間は総て我が敵であると云っても可い。其の里に向って、悪魔は天を翔り行くのである。彼は云い知れぬ一種の愉快を感じて、猶も雲の行方を睨んでいると、黒い悪魔の手は漸次に拡がって、今や重太郎の頭の上を過ぎた。  彼は思わず跪ずいて、天を拝した。 (五十五)  日は全く暮れた。悪魔のような黒雲は町から村へと大きな手を拡げて了った。ここに有るほどの家も人も、総て悪魔の黒い袖の下に包まれたのであった。  今までは凍り着いたように静寂であった町も村も、俄に何となく閙しくなった。鴉や雀は何物にか驚いたように啼き出した。犬も頻に吠え出した。山の方では猿が悲しそうに叫び出した。重太郎も一種の不安を感じて、何の意も無しに丘を駈け降りた。  鳥の声は又止んだ、犬や猿も啼き止んだ。天地は再び旧の寂寞に復ったかと思うと、灰のような細い雪が音もせずに降って来た。斯ういう前触の気配を以て降って来た雪は、一丈に達せざれば止まぬのである。重太郎も骨に沁むような寒気を覚えた。 「山へ帰って焚火でも為ようか。」  懐中を探ると、燐寸の箱は既う空虚であった。彼は舌打して明箱を投り出した。此上は何とかして燐寸を求め得ねばならぬ。重太郎は思案して町の方へ歩み去った。燐寸の尽きたる時、これを人家より盗み去るのは彼が年来の習であった。  今も此目的で彼は町の方へ忍び出た。細い雪は益々烈しく降って来た。  駅へ入ると、大方の家は既に戸を閉じていた。雨風を恐れぬ重太郎も、此雪には流石に面を向けられぬので、成べく人家の軒下を伝って歩くと、暗い町の中で唯一軒、燈火の外へ洩れる家を見た。門には枯柳が骸骨のように立っていた。 「ああ、柳屋か。」  重太郎の血は俄に沸いた。眼に見えぬ糸に曳かるる様に、彼はふらふらと其の門口に窺い寄ると、奥には春めいた空気が漲って、男や女の笑い声が聞えた。やがて三味線の音が冴えて聞えた。 美濃の柳と、近江の柳。 風のまにまに縺れて解けて、 国は違えど、恋はする。  唄の声は正しくお葉であった。重太郎は枯柳に犇と取付いて、酔えるように耳を澄していた。雪はいよいよ降頻って、重太郎も柳も真白になった。  糸の音が止むと、又もや話声や笑い声が聞えた。其中にお葉の声も聞えるかと、重太郎は猶も耳を傾けていた。  客は矢はり鉱山に関係の人らしい、酔を帯びた調子は高かった。 「何うだい、到頭降って来たらしいぜ。過日から催していたんだから、滅多に止むまいよ。困ったもんだ。」 「可いじゃありませんか。何うせ寒い中は休みでしょうから、当分はここの家に冬籠りを為さいよ。」と、若い女の声。これはお葉ではなかった。 「だが、雪が降って食物が無くなると、𤢖が山から里へ出て来ると云うじゃアないか。迂濶酔倒れている処を、攫って行かれちゃア大変だからね。ははははは。」 「大丈夫、𤢖は既う何処へ行って了ってよ。」と、今度はお葉の声であった。 「ほんとうに過日の騒動は大変だったわねえ。」と、若い女が相槌を打った。 「妾あの騒動じゃア酷い目に逢って了った。」と、お葉が口惜そうに云った。 「お前も𤢖に攫われたんだと云うじゃアないか。」と、客は笑った。 「嘘よ。妾はお杉婆の魔法遣いに電気を掛けられて、夢中でふらふら行ったんですわ。だから、何にも知りゃア為ないのに、警察では種々な詮議をして……。ほんとうに忌になって了った。角川の大旦那が殺されたと云うことも、家へ帰ってから初めて聞いた位ですもの……。」 「でも、若旦那は運が好かったのね。」と、若い女の声が聞えた。 「そうさ。危くお杉婆に殺される所を、若旦那が早く気が注いたんで、お杉の方が反対に穴の底へ墜落ちて死んだんですとさ。何でも人の話で聞くと、お杉婆の身体は粉微塵になって居ましたとさ。」  この説明はお葉の口から出た。これと聞くや重太郎は俄に顔色を変えた。彼は懐中から秘蔵の洋刃を把出して、例の「千客万来」の行燈の火で屹と視た。  雪には少しく風が交って来た。 (五十六)  燐寸を盗む為に里に出た重太郎は、今や柳屋の門に立って、思いも寄らぬ秘密を聴き出したのであった。彼は理由を能くも糺さずに、彼の怪しき坑夫体の男を母の仇と一図に思い定めて、其場を去らずに彼を刺止めた。これで復讐の役目は果したものと信じていた処が、今この人々の話を聞くと、それは自分の思い違いで、当の仇は角川市郎であった。自分に取っては恋の仇とも云うべき角川市郎であった。重太郎は驚き且怒って、思わず拳を握った。  母の仇は必ず討つと、彼は曩の日お杉に誓ったのである。其仇の名は今やお葉の口から洩れた。気の短い重太郎は既う一刻も猶予はならぬ、仇の血を衂るべき洋刃を把出して、彼は俄に身繕いした。奥では又もやお葉の笑い声が聞えた。が、恋しい人の媚かしい声も、熱したる彼の耳には既う入らなかった。復讐の一念に前後を顧みぬ重太郎は雪を蹴立てて手負猪のように駈け出した。  角川の家では未だ眠らなかった。市郎の傷も漸く癒えて、此頃は床の上に起き直られる様になったので、看病の冬子は一旦わが家へ帰った。今日は忠一が昼から遊びに来ていたが、此雪の為に今夜は泊る事となって、市郎の枕辺で相変らず𤢖の研究談に耽っていた。 「雪が降ると世間が静だね。」 「殊にここらは山奥だもの。」と、市郎は笑って、「まあ、これから来年の春までは、蛇や熊のように穴籠りをして居るんだよ。」 「穴籠りと云えば、𤢖の奴等は此雪に何うしているだろう。」と、忠一は自ら問い、自ら答えて、「あんな奴等だから、雪の融けるまで何処かの穴にでも潜っているだろうね。」 「そうだろう。併しあの以来、𤢖の噂も消えた様だよ。まあ、好塩梅だ。何しろ、金の兜は掘出物だったよ。」 「あれが真実の掘出物と云うのだろう。僕も県史や飛騨誌などを調査した結果、飛騨判官朝高という人物の伝記も大抵判った。𤢖は愈よ元の蒙古に疑い無しだ。」 「そうかねえ。」  この時、庭の竹藪でがさりと云う音が聞えた。忠一は話を止めて耳を立てた。 「何、竹が折れたんだろう。」 「いや。」と、忠一は考えて、「竹の折れる程は未だ積るまい。𤢖じゃアないか。」と、笑いながら猶も耳を澄していた。  音もせぬ雪は一時間の中に余ほど積ったらしい。庭には雪を踏む跫音ががさがさと聞えて、雨戸の外へ何者か窺い寄るような気息を感じた。二人は顔を見合わした。 「いよいよ𤢖かな。」 「真逆……。」と、市郎は笑った。  何者か雨戸に触れた。南天に積っている雪がばらばらと落ちた。忠一は衝と起って縁側の障子を明けると、外の物音は止んだ。忠一は続いて雨戸を明けた。一面に降頻る粉雪は、戸を明けるのを待って居た様に、庭の方から忽ち颯と吹き込んで来た。 「や、酷く降るな。」と、忠一は袖で顔を払った。それから更に庭を見渡したが、白い木立、白い竹藪、その他には何にも見えなかった。 「じゃア、風か知ら。」  云う中に、彼は雪に印せる人の足跡を見付けた。確に人の足である。加之も入口の方から庭伝いに縁先へ来て消えている。何者か忍び込んだに相違ない。忠一は愈よ眼を輝かして四辺を見渡したが、雪明では何うも判然と解らぬ。 「鳥渡、燈火を貸し給え。」  彼は洋燈を持出して庭を照すと、足跡は確に残っているが、人の形は見えぬ。猶も燈火を彼地此地へ向けている中に、雪は渦巻いて降込んで来た。袖で掩う間も無しに、洋燈の火は雪風に吹き消されて、室の内は俄に闇となった。  忠一は引返して燐寸を擦ろうとする時、一個の小さい人間が闇に紛れてひらりと飛び込んで来た。重太郎は縁の下に潜んで内の様子を窺っていたのである。暗い中でも眼の鋭い彼は、洋刃を逆手に振翳して直驀地に市郎の寝床へ跳り蒐った。 (五十七)  何者か知らぬが、不意に庭から飛び込んで来たので、忠一は早くも其の背後から組付いた。重太郎は焦って振放そうと試みたが、此方も多少は柔道の心得があった。 「こん畜生、温順く降参しろ。一体、貴様は何だ、何者だ。」  重太郎は物をも云わなかった。羽翅締めの身を悶きながら、洋刃を逆にして背後を払うと、切先は忠一が右の臂を擦った。これで思わず手を弛める隙を見て、彼は一足踏込んで当の仇の市郎に突いて蒐ると、対手は早くも跳ね起きて、有合う衾を投げ掛けたので、小さい重太郎は頭から大きい衾を被って倒れた。 「占めたッ。」  忠一は衾の上から乗かかって押えた。が、何しろ暗いので始末が悪い。 「早く燈火を持って来い。燈火を……燈火を……。」と、市郎が呼んだ。  雪は降っても未だ宵である。入口の爐を囲んでいた人々は、この声を聞いてばらばらと起って来た。或者は手に洋燈を持った。 「何です、何うしたんです。」と、皆口々に問うた。 「賊だ、賊だ。賊を取押えたんだ。」と、忠一は叫んだ。 「何、賊だ。」と、人々は眼を皿にして衾の周囲にどやどやと集った。重太郎は土龍のように衾の下で蠢くのであった。が、彼も流石に考えた。斯る始末となって多勢に取巻れては、到底本意を遂げることは覚束ない。一旦はここを逃げ去って、二度の復讐を計る方が無事である。と、斯う考えたので、彼は故意に小さくなって、宛がら死せるように鎮っていた。対手が温順いので、忠一も少しく油断した。 「燈火を此方へ出し給え。兎にかく何んな奴だか面を見て与るから……。」  云いつつ徐に衾を剥ると、待構えたる重太郎は全身の力を籠めて曳やと跳ね返したので、不意を食った忠一は衾を掴んだまま仰向けに倒れた。重太郎は洋刃を閃かして矗然と起った。と思うと、忽ちに人の袖を潜って、縁先から庭へひらりと飛び降りた。 「あ、逃げた。」  人々は続いて追った。忠一も歯噛をして追った。重太郎は狐のように雪を飛んで、早くも門外まで逃げ去った。  けれども、飽まで不運なる彼は此で又もや強敵に逢った。巡回中の塚田巡査が恰もここへ来合せて、角燈の火を其の鼻の先へ突付けたのである。重太郎も之には少しく怯んだ。  背後からは忠一を先に、角川家の人々が追って来た。前には巡査が立っている。敵に前後を挟まれた重太郎は、先ず当面の邪魔を攘うに如ずと思ったのであろう、刃物を揮って巡査に突いて蒐った。巡査は体を替して其利腕を掴んだが、降積む雪に靴を滑らせて、二人は折重って倒れた。  忠一は駈け寄って其襟髪を取ろうとしたが、此の場合、身体の小さいと云うことが重太郎に取っては非常の利益であった。彼は早くも忠一の足の下を潜って這い抜けた。加之も二間ばかりは四つ這いになって走って、又ひらりと起ち上った。犬だか人だか判らぬ。 「賊だ、賊だ。」と、人々は口々に叫びながら追った。  この騒ぎを聞付けて、町の家々でも雨戸を明けた。「賊だ、賊だ。」と叫ぶ声が甲から乙へと伝えられた。重太郎は哀れや逃場を失った。それでも彼は猶一方の血路を求めて、唯ある人家の屋根へ攀登った。茅葺、板葺、瓦葺の嫌いなく、隣から隣へと屋根を伝って、彼は駅尽頭の方へ逃げて行った。  追手は漸次に人数を増して、前から後から雪を丸めて投げた。此の雪礫を防ぐ手段として、重太郎も屋根から石を投げた。雪国の習として、板屋根には沢山の石が載せてあるので、彼は手当次第に取って投げた。石の礫と雪の礫とが上下から乱れて飛んだ。  而も敵は益々殖えるばかりである。何処も同じ彌次馬が四方から集って来て、警官や忠一等に声援を与えた。其中に長い梯子を持出して来る者もあった。塚田巡査は靴を脱いで屋根に登った。二三人の消防夫も続いて登った。斯う肉薄して来られては堪らぬ。重太郎も流石に根負がして、遂に屋根から飛び降りた。但し往来の方へ出るのを避けて、彼は裏手の方へ飛んだ。 (五十八)  重太郎の飛び降りたのは、美濃屋という雑穀屋の裏口であった。追手の一組は早くも駅尽頭の出口を扼して、他の一組は直ちに美濃屋に向った。ここらの町家は裏手に庭や空地を有っているのが習であるから、巡査等は同家に踏込んで先ず裏庭を穿索した。が、縁の下にも庭の隅にも重太郎の姿は見えなかった。  見えないのも道理で、重太郎はここへ飛び降りると、直に垣根を乗越えて、隣から隣へと四五軒も逃げた。折から烈しく降る雪は、彼の小さい足跡を直ちに埋め消して、人には鳥渡判らぬのであった。 「この雪の降るのに何を騒いでいるんだろうねえ。」  お葉は独語を云いながら裏庭の雨戸を明けた。柳屋の客も女も、この騒ぎを聞附けて、何れも表へ見物に出たが、お葉は「何の、詰らない。」と云う風で、先刻から一人残っていたのである。彼女は大分酔っていた。  雪風に熱い頬を吹かせながら、お葉は快心地に庭前を眺めていると、松の樹の下に何だか白い物の蹲踞んでいるのを不図見付けた。どうやら人のようである。 「誰だい。そこにいるのは……。」と、お葉は試みに声をかけた。  声の主を早くも其れと知ったのであろう、白い物は勃々と起き上って、縁の前へ忍んで来た。障子を洩るる燈火の光に透して視ると、それは雪だらけの重太郎であった。先刻からの格闘で疲れたと見えて、流石の彼も切なそうに肩で息をしていた。 「まあ、重さん。」  お葉も少しく意外に驚いて、霎時其顔を眺めていた。雪は小歇なく降っていた。 「燐寸を呉れないか。」と、重太郎は低い声で云った。 「燐寸が欲いの。そんなものは幾許でも上げるけれども、一体どうして今頃こんな所へ来たのさ。」 「仇を討ちに行ったんだ。」 「何処へ……。」 「角川の家へ……。」  お葉は愈よ驚いて、縁から半身乗出した。 「それで何うしたの。仇を討ったの。」  重太郎は口惜そうに頭を掉った。 「角川の息子を殺して与ろうと思って行ったんだけれども、見付かったんで無効だった。それから大勢に追掛けられて、やッと此処まで逃げて来たんだ。」 「じゃア、今の騒はお前さんだね。だが、角川の若旦那を何故殺そうとしたの。」 「阿母さんの仇だ。」 「どうして……。」 「先刻、お前が然う云ったのを聞いていた。俺が表に立っていると、お前が人に話していたんだ。」  お葉は又驚いた。自分の口から斯んな騒ぎが出来したとは、今の今まで些とも知らなかったのである。 「そりゃア間違いだよ。お前さんの鑑違いだよ。成ほど、妾は然う云ったけれども、若旦那が手を下してお前の阿母さんを殺したんじゃアない。お前の阿母さんが背後から不意に突こうとするのを、若旦那が気が注いて急に避けたもんだから、阿母さんは自分で踉蹌けて墜落ちたんだよ。究竟、お前の阿母さんの方が悪いんだよ。ね、考えて御覧。」  考えて見ろと云われて、重太郎は素直に考えていた。 「一体を云えば、お前さん達の方が仇なんだよ。角川の大旦那を殺したのは誰だえ。お前の阿母さんや𤢖だろう。それだから、若旦那の方こそお前さん達を怨んでも可いのに、お前さんの方で反対に若旦那を怨むなんて、早く云えば外道の逆恨で、理屈が全然間違っているんだよ。ね、然うだろう。能く考えて御覧。」  再び考えろと云われて、重太郎は又考えた。いかに野育ちの彼でも多少の理屈は呑込めるのである。加之も是はお葉の説教である。復讐に凝固った彼の頭脳の氷も、愛の温味で少しく融け初めて来たらしい。 「そうかなあ。」と、彼は嘆息を吐いた。 「そうさ。解ったろう。」  重太郎は黙って又考えていた。表でも裏でも大勢のわやわや云う声が聞えた。 (五十九)  曩の日、椿の枝を折って別れてから、お葉は重太郎を憎んで居なかった。怨むまじき人を怨んだのは、彼の料見違いには相違ないが、人並ならぬ彼に対って深く之を責むるのは無理である。兎にかく市郎の身に恙なかったのは何よりの幸福であったと、お葉は安堵の胸を撫下すと同時に、我が眼前に雪を浴びて、狗児のように跼まっている重太郎を哀れに思った。 「何しろ、此方へお出でよ。」  お葉は重太郎の手を取って、縁に腰を掛けさせた。 「可いよ。追手の人が来たら隠して上げるから、安心してお在。お前さん、寒かアないかい。」  お葉は座敷へ復って、徳利と洋盃とを持って来た。 「お燗が熱過ぎているかも知れないが、一杯お飲みよ。温暖になるから……。」 「こりゃア何だ。」 「お酒だよ。飲んで御覧。妾のお酌ですよ。」  重太郎はお葉の酌で、満々と注がれたる洋盃を取った。が、生れてから今日まで酒と云うものの味を知らぬ彼は、熱い酒を飲むに堪えなかった。彼は一口飲んで忽ち噎せ返った。 「熱いの。」と、お葉は微笑んだ。重太郎は顔を皺めて首肯いた。  お葉は更に起って縁先に出た。左の手には懐紙を拡げて、右の腕も露出に松の下枝を払うと、枝も撓に積った雪の塊は、綿を丸めたようにほろほろと落ちて砕けた。其の白い一片を紙に受けて、「さあ、これで温めて上げるよ。」  冷い雪はお葉の白い手から洋盃に移された。重太郎は無言で雪と酒とを一所に飲んだ。が、口に馴れぬ酒は矢はり苦いと見えて、彼は二口ばかり飲んで洋盃を置いた。 「旨くないの。これを飲むと温暖になるんだけれども……。」と、お葉は笑った、「じゃア、妾が助けて上げますよ。」  お葉は其の洋盃を取って、一息に喁と飲み干した。重太郎は眼を丸くして眺めていたが、やがて懐中から椿の折枝を把出して見せた。いかに大切にしていても、過日から水も与らずに我肌に着けていたのであるから、蕾は已に落ち尽した、葉も已に枯れ尽して、枝も已に折れていた。恋しい人の形見と思えばこそ、花も葉もない斯んな枯枝を、彼は幾多の不便を忍んで今まで身に添えていたのであろう。 「お前さんも可愛い人ねえ。」  お葉の眼には涙が見えたが、衝と起って再び座敷へ復った。床の花瓶には彼の椿が生けてあって、手入の好い所為でもあろう、紅い花は已に二輪ほど大きく綻びていた。彼女は其枝を持って出た。 「これ、御覧。お前さんに貰った花は、妾の方でも大事にして、此の通りに花を咲かしてあるよ。」  重太郎は手に取って、紅い花をつくづく眺めた。彼は自分の魂魄が此花に宿って、お葉の温かき情を受けているようにも思った。 「どうだい、よく咲いたろう。」 「むむ。」と、重太郎も笑ましげに答えて、猶も飽かずに其花を眺めていたが、「ねえ、此花を一つ呉れないか。」 「ああ、欲ければ上げますよ。丁度二輪咲いてるから、お前さんと妾とで一個ずつ分けようじゃアないか。」  二輪の花を折って縁側に列べると、重太郎は其の一個を取った。 「紙に包んで上げよう。」  お葉は白い紙に紅い花を軽く包んで渡すと、重太郎は菓子を貰った小児のように、莞爾しながら懐中に収めた。 「お前さん、これから何うするの。」 「宝物を持出して何処かへ行くんだ。」 「宝物ッて、金の兜じゃア無いの。」 「むむ、何でも其んなものだ。」 「そりゃア既う駄目。警察の方で引揚げて了ったと云うことよ。」 「そうかい。」  重太郎も驚いて声を揚げた。其声が度外れに高いので、お葉は慌てて四辺を顧った。 (六十)  母に別れ、棲家を失った今の重太郎に取って、唯一の依頼というのは彼の尊き宝であった。それを手に入れたいばかりで、彼は厳重なる警官の眼を潜りつつ、今日まで此の辺を漂泊っていたのである。而も其の希望の光は今や消えた。 「俺ア矢ッ張り乞食をするより他は無いんだなあ。」と、彼は泣かぬばかりに嘆息した。実際、彼は泣くにも泣かれぬ絶望の淵に沈んだのである。 「ほんとうに可哀そうだねえ。」と、お葉も共に嘆息した。親戚も無し、職業も無し、金も無い此の人が、これから他国を彷徨いて、末は何うなることであろう。何時までも乞食をしているより他はあるまい。いや、其の乞食すらも満足に能るか何うだか解ったものでは無い。斯うなると、人間よりも犬の方が寧そ優である。お葉は犬にも劣った重太郎の不幸に泣いた。  が、二人は何時までも泣いている場合でなかった。追手は美濃屋の庭を探し尽して、更に両隣を猟り始めた。人の声が漸次に近いた。警官の角燈が雪に映じて閃いた。 「あ、此方へ来たよ。」  お葉が眼を拭いて起ち上ると、重太郎も無言で起った。雪を踏む大勢の跫音が隣に近いて来た。  危険が漸く迫ると知って、重太郎の眼は俄に嶮しくなった。彼は例の野性を再び発揮したのであろう、洋刃を逆手に持って庭の真中に進み出た。 「其方へ行っちゃア危ない。此方から窃と出る方が可い。」  お葉は素足で雪を踏んで、庭口の裏木戸を音せぬように明けると、重太郎は何にも云わずに走って出た。何を思い出したか、お葉は急に「あ、鳥渡……。」と呼び止めたが、重太郎は見返りもせずに駈けて行った。  たとい乞食をするにしても、土方をするにしても、之から他土地へ行こうと云うには、多少の路銀が無くてはならぬ。咄嗟の間にお葉は之を思い出したのであった。  彼女は慌てて又もや座敷へ引返して、先ず有合う燐寸を我袂に入れた。更に見廻すと、床の間の傍には客の紙入が遺してあって、人はまだ誰も帰って来なかった。お葉は其紙入から札と銀貨を好加減に掴み出して、数えもせずに紙に包んだ。之を懐中に押込んで、彼女も裏木戸から駈け出した。  この時、塚田巡査を先に四五人の追手が裏口へ廻って来た。素足で雪の中を駈けて行くお葉の姿を不思議と見たのであろう、巡査は角燈を翳して呼び止めたが、お葉は聞かぬ振をして駈抜けて了った。 「変な奴ですな。」と、忠一が云った。 「あれは此の家のお葉という女ですが……。」と、云いながら巡査も考えた。不徳要領の為に一旦は釈放したものの、お葉は𤢖一件に就て何等かの関係ありげにも見ゆる女である。それが今この場合に雪中を跣足で駈歩くのは、何か仔細があるらしくも思われるので、巡査も職掌柄、直に其跡を追って行った。  夜の雪はますます烈しくなって来た。風も亦吹き募って来た。天から降る雪と地に敷く雪とが一つになって、真白な大浪小波が到る処に渦を巻いて狂った。其の凄じい吹雪の中を、お葉は傘も挿さずに夢中で駈けた。 「重さん……。重太郎さん……。」  声は吹雪に隔てられて聞えないので、重太郎の小さい姿は十間ばかりの先に見えつ隠れつしながらも、お葉は容易に追い止めることが能なかった。加之も風の吹き廻しで、声は却って後の方へ響くので、巡査は彼女が重太郎を呼ぶ声を聞いた。忠一の耳にもお葉の声が聞えた。重太郎の名を聞いては愈よ捨置かれぬ、巡査も人々も続いて其跡を追った。が、何分にも眼口を撲つ雪が烈しいので、人々は火事場の烟に噎せたように、殆ど東西の方角が付かなくなって来た。  この中でも、お葉は例の本性を発揮して、飽までも強情に吹雪を衝いて進んだ。駅を出ると風も雪も愈よ強くなって来た。山国の冬に馴れたる彼女は、泳ぐように雪を掻いて歩んだ。が、心は矢竹に遄っても彼女は矢はり女である。村境まで来る中に、遂に重太郎の姿を見失ったのみか、我も大浪のような雪風に吹き遣られて、唯ある茅葺屋根の軒下に蹉き倒れた。雪は彼女の上に容赦なく降積んで、さながら越路の昔話に聞く雪女郎のような体になった。  この茅葺は隣に遠い一軒家であった。加之も空屋と見えて、内は真の闇、鎮り返って物の音も聞えなかった。 (六十一)  お葉は雪を払いつつ又起き上った。酒の酔も全く醒めて了った。  彼女も流石に狂人ではない。此の吹雪の中を的途も無しに駈け歩いたとて、重太郎の行方は知れそうも無いのに、何時まで彷徨いているのも馬鹿馬鹿しいと思った。 「もう諦めて帰ろうか。」  それにしても生憎に雪が酷い。兎も角も一時を凌ぐ為に、彼女は此の空屋の戸を明けようとすると、半朽ちたる雨戸は折柄の風に煽られて礑と倒れた。お葉は転げるように内へ入った。 「おお、寒い。」と、彼女は肩を縮めつつ四辺を見廻すと、暗い家の中には何物も無かった。更に雪明りで透して視ると、土間の隅には二三枚の荒莚が積み重ねてあったので、お葉は之を持出して先ず框の上に敷いた。腰を卸して扨ほッと息を吐くと、彼女は今更のように骨に沁む寒気を感じた。  何か焚火でもする材料は無いかと、お葉は急に我が袂を探ると、重太郎に与ろうと思って折角持って来た燐寸は、何時の間にか振落して了った。仕方がないと舌打しながら、倒れた戸の間から表を覗いて見ると、風も雪もますます暴れて来た。こんな所に何時までも躊躇していたら、凍えて死んで了うかも知れぬ。夜の更けぬ間に些とも早く帰った方が怜悧だと、お葉は鬢の雪を払いつつ、弛んだ帯を締直して起った。  この時、がさがさと雪を踏む跫音が聞えて、何者か此の門口へ走り寄ったらしい。若や重太郎か、但しは追手の者かと、お葉は眼を据えて透し視る間に、人か猿か判らぬような者が雪を蹴ってちょこちょこと飛び込んで来た。加之も其れは二人であった。と思うと、後から又一人入って来た。後の一人は色の白い女を抱えているらしい。 「おや、何だろう。」  お葉も不思議に思った。暗い隅の方へ身を退いて、霎時其の様子を窺っていると、新しく入って来た三人は一種奇怪な声を出してキキと笑った。其声は確に記憶がある。曩の日彼の虎ヶ窟で聞いた山𤢖の叫び声であった。𤢖は此の雪の夜に、何処からか若い女を攫って来たのであろう。お葉は愈よ驚き怪んで、猶も窃かに其の成行を窺っていた。  家の中は何分にも暗いので、お葉は女の顔を能く見ることが能なかったが、若し其顔を知ったらば彼女は更に驚いたに相違ない。今や𤢖に攫われて来た若い女は、彼の吉岡の冬子であった。𤢖は何故に冬子を奪い出して来たのであろう。彼等の料見は到底普通の人間の想像し得べき限でないが、兎にかく或罪悪を犯すべき犠牲として、若い処女を担ぎ出して来たものと察せられた。冬子は口に桃色の手巾を捻込まれているので、泣くにも叫ぶにも声を立てられなかった。  我が恋の仇とも云うべき冬子が斯る危難に陥っていると知ったら、お葉は此際何んな処置を取ったであろう。が、表より洩るる朧の雪明では、お葉に其れと判然解らなかった。彼女は単に𤢖の餌食となるべき若い女の不幸を憫れんで、何とかして之を拯って与りたいと思ったのである。而も対手は𤢖三人で、此方は女一人、迂濶加勢に飛び出したら自分も何んな酷い目に遭うかも知れぬ。お葉は息を殺して猶も窺っていると、彼等は頻にキキと笑いながら冬子を彼の荒莚の上に投げ出した。  冬子も一生懸命である。裳を乱して一旦は倒れたが又忽ち跳ね起きて、脱兎の如くに表へ逃げ出そうとするのを、𤢖は飛び蒐って又引据えた。お葉も既う見ては居られぬ。さりとて何等の武器をも持たぬ彼女は、咄嗟の間に思案を定めて、頭に挿している銀の簪を抜き取った。  目前の獲物に気を奪われていた𤢖共は、暗い中から突然跳り出たお葉の姿に驚く間もなく、彼女が逆手に持ったる簪の尖端は、冬子に最も近き一人の左の眼に突き立った。不意と云い、急所と云い、彼は猿のような悲鳴を揚げて倒れた。 「𤢖の畜生め。何を為やアがるんだ。早く何処へ行って了え。」と、お葉は勝誇って叫んだ。思いも寄らぬ救援の手を得た冬子は、鞠のように転がってお葉の背後に隠れた。  けれども、敵はまだ二人を剰している。加之も一人の味方を傷けられた彼等は、瞋って哮ってお葉に突進して来た。洋刃と小刀は彼女の眼前に閃いた。冬子も恩人の危険を見ては居られぬ、這いながら一人の足に絡み付くと、𤢖は鉄のような爪先で強く蹴放したので、彼女は脾腹を傷めたのであろう、一旦は気を失って倒れた。𤢖は左右からお葉に迫った。 「畜生……畜生……。」と、お葉は罵りながら逃げ廻った。 (六十二)  追手の人々も同く村境まで走って来たが、折柄の烈しい吹雪に隔てられて、互に離れ離れになって了った。其中でも忠一は勇気を鼓して直驀地に駈けた。が、咫尺も弁ぜざる冥濛の雪には彼も少しく辟易して、逃るとも無しに彼の空屋の軒前へ転げ込んだ。  雪明と一口に云うものの、白い雪も斯う一面に烈しく降って来ては雨と変らぬまでに天地は暗いのである。況て鎖されたる家の内は殆ど真の闇であったが、彼は危くも吹き倒されんとする雪風を凌ぐ為に、兎も角も一歩踏み込もうとする途端に、内には怪しい唸声が断続に聞えた。  彼は俄に立止って声する方を透し視たが、生憎に暗いので正体は判らぬ。更に耳を澄して窺うと、声は一人でない、尠くも二人以上の人が倒れて苦んでいるらしい。扨はここにも何か椿事が起っているに相違ないと、忠一も驚いて身構えしたが、燐寸を持たぬ彼は暗を照すべき便宜もないので、抜足しながら徐々と探り寄ると、彼は忽ち或物に蹉いた。跪いて探って見ると、之は女らしい、長い髪を乱して土に曳いて、其頬から喉の辺には生温かい血が流れていた。  忠一も一旦は悸然としたが、猶其の様子を見届ける為に、倒れたる女を抱え起して、比較的薄明るい門口へ連れ出して見ると、正しく女には相違ないが、もう息は絶えていた。 「これは一体何者だろう。」  彼は猶能く其顔を見届けようと、朧の雪明を便宜に凝と見詰めている時、忽ち我が背後に方って物の気息を聴いたので、忠一は驚いて屹と顧ると、物の音は又止んだ。雪風はいよいよ吹き募って、此の一軒家は大地震のようにめりめりと揺いだ。  内には此女の他にも未だ何者か倒れて居る筈であるから、忠一は再び探りながら入った。が、不意に何んな敵が襲って来ぬとも限らぬので、彼は大いに用心して、土間に身を伏して這いながら進んだ。微な唸声が左の隅に聞えたので、彼は其方へ探って行くと、一枚の荒莚が手に触れた。莚を跳退けて進もうとすると、何者か其莚の端を固く掴んでいるらしい。更に探って見ると、果して此処にも人らしい者が拳を握って倒れていた。  と思う途端に、又もや背後に物音が聞えた。暗い中から猿のような者が刃物を閃かして来て、忠一の頸を刺そうとするのであった。はッと驚くと同時に、彼は幸いに這っていたので、矢庭に敵の片足を取って引いて、倒れる所を乗掛って先ず其の胸の上に片膝突いた。 「貴様は何者だッ。」  敵は何とも答えずに、力の限り跳返そうと悶いたが、柔道を心得たる忠一は急所を押えて放さぬので、敵は倒れながらに刃物を打振って、下から忠一の喉を突こうと企てた。が、右の腕も緊と掴まれたので自由が利かぬ。敵は獣のような奇怪な声を絞って、頻に唸った。 「さあ、どうだ、降参しろ。」  忠一は左に敵の腕を押えて、右の手で敵の喉輪を責めた。敵は苦しそうに唸って悶いていたが、もう叶わぬと覚悟したのであろう、一生懸命に跳返すと同時に、右の手に握ったる刃物を左に持換えて、我と我が胸を力任せに抉ると、鮮血は颯と迸って、上なる忠一の半面を朱に染めた。腥さい血汐に眼鼻を撲たれて、思わず押えた手を弛めると、敵の亡骸はがっくりと倒れた。  目前の敵を殪し得た忠一は、先ずほッと一息吐くと共に、俄に渇を覚えたので、顔に浴びたる血の飛沫を拭いもあえず、軒の外へひらりと駈け出して、吹溜りの雪を手一杯に掬って飲んだ。風は相変らず轟々と吼えて、灰とも烟とも譬えようの無い粉雪が、あなたの山の方から縦横上下に乱れて吹き寄せた。  その雪烟の中に迷うが如き火の光が一点、見えつ隠れつ近寄って来たので、忠一は思わず声をあげて呼んだ。 「おうい、おうい。」  火の光は漸次に近いた。それは全身に雪を浴びたる塚田巡査の角燈であった。 「やあ。」 「やあ。」  双方が顔を見合せて叫んだ。 「あなたはお早い。既うここへ来ていたのですか。」と、巡査は雪を払いながら軒下に立った。 「まあ、早く燈火を見せて下さい。ここに大勢の人間が倒れているらしいんです。」  巡査は角燈を翳して内へ入った。 (六十三)  今や角燈の火に照し出されたる、此の暗い空屋の内の光景は惨憺、実に眼も当てられぬものであった。先ず入口に黒髪を振乱して横わっているのは彼のお葉で、彼女は胸や肩や喉に数ヶ所の重傷を負っていた。続いて眼に触れたのは醜怪なる𤢖三人の屍体で、一人は眼を貫かれた上に更に胸を貫かれ、一人は脳天を深く刺れて、荒莚の片端を握んだまま仰反っていた。最後の一人は左の手に小刀を持って、我と我が胸に突き立てていた。  以上四人の浅ましさ屍体の他に、朱に染みたる重太郎も亦倒れていたのは意外であった。其傍らには、彼の運命を象徴するような紅い椿の花が、地に落ちて砕けていた。 「もう是だけかな。」  巡査は更に四辺を見廻すと、鮮血の臭の漲る家の隅に、猶一人の若い女が倒れていた。これが最も忠一を驚かしたのであったが、冬子は単に気を失った丈のことで、身には別に負傷の痕も無かったので、手当の後に息を吹返した。  飛騨の山国の風雪の夕、この一軒家に於て稀有の悲劇を演じたる俳優の中で、僅に生残っているのは幸運の冬子一人に過ぎぬ。随って委しい事情は何人も知るに由ない。単に冬子の口供を基礎として、其余は好加減の想像を附加えるだけの事である。  で、諸人の説は先ず斯ういうことに一致した。虎ヶ窟に棲める𤢖の眷族は、其数果して幾人であるか判らぬが、曩の日彼の市郎の為に其の女性の一人を亡ったのは事実である。其後彼等は警官に逐われて山深く逃げ籠ったが、食物は兎もあれ、女性の缺乏ということが彼等の間に一種の不足を感じたらしい。そこで彼等三人は此の大雪に乗じて里に降り、何処からか女を攫って行こうと試みた。之に魅まれたのが彼の冬子で、彼等は吉岡家へ忍び寄って窺う中に、便所へ通った冬子は手を洗うべく雨戸を明けたので、彼等は矢庭に飛び蒐って彼女を捉えた。猶其袂から手巾を取出して、声立てさせじと口に喰ませた。斯くして冬子は、彼の空屋まで手取り足取りに担ぎ去られたのであった。  空屋には偶然にも彼のお葉が居合せて、彼女は冬子を拯わんとして𤢖と闘った。そこまでの事は冬子も知っているが、気を失って倒れた後の出来事は些とも判らぬ。又何うして此処へ重太郎が引返して来たか判らぬ。恐くは烈しい吹雪に途を失って、再びここまで迷って来ると、恰もお葉が𤢖に殺されんとする所に会ったので、彼は又お葉を拯わんとして闘った。其結果、お葉も討たれ、重太郎も討たれた。𤢖二人も枕を駢べて死んだ。究竟双方が相撃となった処へ、忠一が後から又来合せて、残る一人の𤢖も自殺を遂げるような事になったのであろう。  但し是は一種の想像に過ぎぬ。この以外にも彼等の間に何んな秘密の糸が繋がれているかも知れぬ。普通の世間の出来事にも、人間の浅い智慧では想像や判断の付かぬことは幾許も有る。況て𤢖やお杉や重太郎等の関係に至っては、尋常一様の理屈を以て推断することは能まい。  これで何百年来この山国を閙した𤢖の眷族も、果して全滅したであろうか。或は猶其余類が山奥に潜んでいるであろうか。それは何人も返答に苦む所であるが、兎にかく此の物語はお葉と重太郎の最期を一段落として、読者と別離を告げねばならぬ。  大雪は其後幾日も降続いて、町も村も皆埋められた。悲劇の舞台たりし彼の一軒家は、三日目の夕暮に遂に潰されて了った。       *      *      *           *      *      *  市郎と冬子の結婚は、安行死去の為に来年まで延期されたので、忠一は一先ず東京へ帰った。それから半月ほど経って後、彼は市郎の許へ長い手紙を遣した。𤢖に対する調査の報告書である。地方の各新聞は市郎に懇願して、何れも其記事を紙上に連載した。  原文は頗る長いものであるが、大略先ず斯ういう事であった。           *      *      *       *      *      *  今から六百余年前の弘安年中に、元の蒙古の大軍が我が九州に襲って来た。北條時宗邀え撃って大いに之を敗ったことは、凡そ歴史を知るほどの人は所謂「元寇の役」として、誰も諳じている所である。  この大戦に参加したのは九州の諸大名ばかりでない。鎌倉からも出征した、東海東山中国からも出征した。其当時、飛騨国の地頭職は藤原姓を冒す飛騨判官朝高という武将で、彼も蒙古退治の注進状に署名したる一人であった。 (六十四)  朝高は異国の敵を撃破って帰った。彼は凱陣の家土産として百人の捕虜を牽いて来た。飛騨の国人は驚異の眼を以て、風俗言語の全く異れる蒙古の兵者を迎えた。  彼が捕虜を牽いて来たのは、単に其功名を誇るが為では無かった。九州の戦闘に於て、最後の大勝利は幸いに我に帰したけれども、初度の戦闘は屡々我に不利益であった。敵の礮と我の弓矢とは、其威力に於て著るしい相違があった。朝高は早くも之を看取して、我も彼と等しき巨砲を作ろうと思い立ったのである。が、其製法を知る者は日本に無いので、彼は居城高山を距る一里の処へ新に捕虜収容所を設けて、ここに百人の蒙古兵を養い、彼等に命じて異国の礮を作らせようと企てた。  斯時代に於て斯着眼は頗る聡明であると云わねばならぬ。が、彼の企画は不幸にも失敗に終った。主将の意思は必ずしも然うでは無かったのであろうが、敵を愛することを知らぬ部下の者共は、此の異国の捕虜に対して甚だしき侮辱と虐待を加えたので、彼等は甘じて仕事に着かなかった。監督の武士と捕虜との間に日々衝突が絶えなかった。朝高も終局には疳癪を起して、彼等を悉く斬れと命じた。  これが捕虜の間にも洩れたと見えて、百人の蒙古兵は風雨の夜に乗じて逃走を企てた。番兵が追掛けて其幾人を捕え、其幾人を殺したが、余の七八十人は山を越えて何処へか姿を隠して了った。飛騨は名に負う山国であるから、山又山の奥深く逃げ籠った以上は、容易に狩出すことも能ないので、余儀なく其儘に捨置いた。  斯くて一年ばかりも過ぎると、或夜何者か城内へ忍び入って、朝高が家重代の宝物たる金の兜を盗み去ったのである。無論、其詮議は極めて厳重なものであったが、其犯人は遂に見当らなかった。或は曩に逃走したる蒙古兵が、一種の復讐手段として斯る悪事を働いたのではあるまいかと云う噂もあったが、確な証拠も無くて終った。兜の行方は遂に不明であった。  朝高の家は三代で亡びた。其後幾多の変遷を経て、豊臣氏時代から徳川氏初年までは金森氏ここを領していたが、金森氏が罪を獲てから更に徳川幕府の直轄となって、所謂代官支配地として明治まで引続いて来たのである。で、此土地の人が𤢖の名を唱え初めたのは、何時の頃からか判然せぬが、古い昔には其んな噂も聞かず、そんな記録も残っていないのを見ると、恐く前に記した蒙古一件以後の事ではあるまいか。他に新しい発見がない限りは、先ず彼の𤢖を以て蒙古人の子孫と見るのが正当の解釈であろう。  彼等は収容所を逃れ出でて深山の奥に隠れた。で、彼のピジョン講師の説明した如く、人の目を避けて穴の中に世を送っていたのであろう。最初は遠い山奥に棲んでいたので、他の人間社会と接触する機会も尠かったが、生活上の都合で漸次に山奥から降って来て、比較的に里へ近い虎ヶ窟に移り棲むようになったのではあるまいか。里人が此の窟に対して、日本に無い虎という獣の名を冠せたのも、何やら蒙古に関係があるらしくも思われる。里へ近くに随って、彼等は折々に人間に出逢うことが有る。又必要に迫られて、人家の食物を奪い、婦女小児を奪うことが有る。人が𤢖の名を口にするに至ったのは多分此以後の事であろう。元来野蛮の蒙古人が山奥に棲むこと多年、其のますます蛮化したのは怪むに足らぬ。  彼等の種族が漸次に減って行くのも亦当然の結果である。而も猶連綿として六百余年の𤢖生活を継続し来ったのは、彼等が折々に里を荒して、婦女を奪い小児を攫って行くが為に、辛くも子孫断絶を免れ得たものと察せられる。唯、いかに彼等が蛮化したとは云え、僅に五六百年の深山生活に因て、猿か人か判らぬまでに甚しく退化するや否やと云うことは、少しく疑問に属するのであるが、先ず右の如くに解釈するより他はあるまい。  窟の内に彫ってあった文字は正しく蒙古の字で、自分等は元の民であるが捕われて此国に来った。日本の大将が残酷に取扱うので、同盟して此の山中に隠れたと云う意味を記し、最後に数十人の姓名が連署してあった。金の兜も果して彼等が盗み出したのであった。  之に因れば、蒙古人が此の窟に棲んでいたと云うことは已に疑いもなき事実である。が、蒙古人即ち𤢖であるか。蒙古人は疾くに死絶えて、更に他の𤢖なる者が代って棲むようになったのか。そこには未だ幾分の疑いが無いでもない。併し岩穴の中で発見された多数の骨が、最初は普通人以上の骨格を有し、其れが漸次に退化して小児のようになっているのを見ると、蒙古人が五六百年の間に著るしく退化して、遂に𤢖となったとも云い得べき相当の根拠が有る。  是等の理由に因て、吉岡忠一は𤢖を以て蒙古人の子孫と認めた。此以上の考證は、他の識者を待つのである。 底本:「飛騨の怪談 新編 綺堂怪奇名作選」メディアファクトリー    2008(平成20)年3月5日初版第1刷発行    2008(平成20)年3月5日初版第1刷発行 初出:「やまと新聞」    1912(大正元)年11月13日~1913(大正2)年1月21日 ※「市郎君」と「市朗君」の混在は、底本通りです。 入力:川山隆 校正:江村秀之 2013年8月11日作成 2013年9月18日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。