桑中喜語 永井荷風 Guide 扉 本文 目 次 桑中喜語 一 二 三 四 五 六 七 八 一  なにがしと呼ぶ婦人雑誌の編輯人しばしばわが廬に訪ひ来りて通俗なる小説を書きてたまはれと請ふこと頻なり。そもそも通俗の語たるやその意解しやすきが如くにしてまた解しがたし。僕一人の観て以て通俗となすもの世人果して然りとなすや否やいまだ知るべからざるなり。通俗の意はけだし世と共に変ずべきものなるべし。川柳都々逸は江戸時代にあつては通俗の文学なりき。しかして今日は然らず。今日もしつぶさに『末摘花』のいふ処を解釈し得ば容易に文学博士の学位を得べし。むかし女郎の無心手紙には候かしくの末に都々一なぞ書き添るもの多かりしが、今日大正の手紙には童謡とやら短歌とやら書きつけて性の悶を告ぐとか聞けり。されば今日の男女に喜ばるべき通俗小説をものせんとせば、筆を秉るに先んじてまづ今日の下情に通暁せざるべからざるなり。下情に通暁せんにはその眼光水戸黄門の如くなるにあらざれば、その経歴遠山左衛門尉に比すべきものなくんばあるべからず。ここにおいてや通俗小説の述作豈それ容易の業ならんや。人おのおの好むところあり。下戸あり。上戸あり。上戸の中更に泣くものあり笑ふものあり怒るものあり。然れども下戸上戸おしなべて好むところのものまたなきにあらず。淫事即これなり。当今の人これを呼んで性の要求となす。なほ車夫の四辻を十字街といひ芸妓の手踊を舞踊とよぶが如し。当世人の言語一として新聞記者の口吻に似ざるはなし。厭ふべきなり。  通俗の本旨既に色欲淫事にあり。然りとすれば一たび筆を通俗の小説に秉らんとするもの、淫事を他にしてまた何をか描かんや。『源氏物語』は我国淫本の権輿なり。泰西にボッカーズの『浮世双紙』、ナワール女王の『懺悔録』等あり。漢土に『飛燕外伝』、『雑事秘』の類あり。近世に至つて『紅楼夢』『金瓶梅』の如き、皆読む者をしてアヂな気を起さしむ。  淫書の見解また時によりて変ず。古人の眉を顰めて淫書となせしもの、今人見て必しも然りとなさざるものあり。今人の世に害ありとなすもの、将来において果して然るや否や知るべきにあらず。宮古路の浄瑠璃は享保元文の世にあつては君子これを聴いて桑間濮上の音となしたりといへども、大正の通人は頤を撫でて古雅掬すべしとなす。けだし時世変遷の然らしむるところなり。大正癸亥の年の夏、女記者お何といふものあり。夫の目を忍びて小説家某と密通し、事の露れんとするや姦婦姦夫倶に為すところを知らず、人跡断えたる山中の一ツ家に隠れ、荒淫幾日、遂に相抱いて縊死す。日を経て悪臭数里に漂ひ人の初てこれを知るや、死屍既に腐爛して性の陰陽を弁ぜず、眼球頭髪倶に脱落して蛹雲集せしといふ。当世の才子佳人これを伝唱して以て絶代の佳話となす。そのいふ所を聞くに、道徳を超越して能く本能を満足せしめたるが故なりと。狂言作者古河黙阿弥のかつてその戯曲『鵜飼の篝火』をつくるや狼の羣をして山中の辻堂に潜める淫婦の肉を喰つて死に致さしむ。その意は勧善懲悪にありしなり。これに由つてこれを観れば、道徳審美の観念時と共に浮動することあたかも年々時様の相異るに似たりといふべし。  ああ、大正の世人既に姦淫双斃の事を説いて以て盛世の佳話となす。この時に当つて僕独耳を掩うて鄙語聴くに堪へずとなすが如きは甚通俗の本旨に戻るものなり。いやしくも筆を通俗小説に秉らんとするものの為すべき所にあらざるや論を俟たず。僕今芸者の長襦袢を購はんがために、わが生涯の醜事を叙し出して通俗小説に代へ以て売文の貲を貪らんとす。老羸なほかくの如くにして聊時運に追随することを得たりとせんか、幸何ぞよくこれに若くものあらんや。  僕年甫めて十八、家婢に戯る。『柳樽』に曰く「若旦那夜は拝んで昼叱り。」とけだし実景なり。翌年独芳原の小格子に遊び、三年を出でざるに、東廓南品、甲駅、板橋、凡そ府内の岡場所にして知らざる処なきに至る。二十四歳海外に渡航するや五大洲各国の娘子軍と㦸を交へ皆抜羣の功あり。然どもなほ安ぜず、窃に歎じて曰く宮本武蔵は猅々を退治せり。洋人の色に飢るや綿羊を犯すものあり。僕未能くここに到るを得ずと。年三十にして家に帰るや、爾来ここに十有余年、追歓索笑虚日あるなし。妓を家に納るる事数次。自ら旗亭を営むこと両度。細君を追出してまた迎る事前後三人。今年、馬歯蚤くも桑年に垂んとして初めておくびの出るを覚えたり。『操草紙』といへる書に曰く「まことに色の世の中なればとかく戯れ遊ぶべし。人間わづか五十年といへど四十からはぱつとも遊びにくし。その内も十七、八までは何の心もなく世をくらせば差引残り二十二年ほどなり。それさへ半分は寝て過せばわづか十一年なり。それも悉く通ひ詰にする人あらんやうもなければ、よく遊んでからが、高が五十年の中にまる十年とは遊ばれぬ人間世と知るべし。」と。ああ、僕夜半夢覚めてつらつら四十余年の生涯を顧るに、身蒲柳の質にしてしかも能く人一倍遊びたりと思へば、平生おのづから天命をまつ心ありしが故にや、ことしの秋の大地震にも無辜の韓人を殺して見んなぞとの悪念を起さず。火事場の稼ぎにもゴムの鎧に身を固むることを忘れざれば天狗の鼻柱遂に落るの憂なく、老眼今なほ燈下に毛蝨を捫つて当世の事を談ずるの気概あり。家にはたびたび狐狸妖怪棲み家をなせしといへども、幸にして産を破るに至ざりしは何たる果報ぞと、今になりては妖婦の魔力よりも僕が身の安泰かへつて不思議とやいふべき。 二  卯の年に生れて九星四緑に当るものは浮気にて飽きやすき性なりといへり。凝性の飽性ともいへり。僕はそもそもこの年この星の男なり。さるが故にや半年と長つづきした女はなし。大抵は三月目位にて、庭の花にはあらねど時候の変目が色のかはり目とはなるなりけり。然れどもこれは後より言ふはなしにて始より一季半季ときまりをつけて掛るわけではさらさらなし。初手は随分この女ならば末の末までもと、のぼせ上るが常なるを、さうと見て取るや否や、この男殺すも活すも勝手次第と我儘の仕放題しはじめるは女なり。男の目に女子が天性の欠点ありありと見えすいて来るは正にこの時ぞかし。初は嚔一ツも男の見る前には遠慮せしを、髪かたち身じまひは勿論なり。一ツ寝の床に寐相をかまはず寐言歯ぎしりに愛想をつかさるるとは知らで、たまたま小言の一も言はるれば、一図に薄情とわるく気を廻して、これよりいよいよ何かにつけて悋気の角を現す。悋気は女の慎しむべきところ。女にして悋気を慎しまば、その他の欠点は男大抵はこれを許しこれを忍ぶべし。悋気をつつしむ愚婦の徳は廻気はげしき才女にまさること万々なり。つらつら女子が悋気のありさまを思ひ見るに、その境遇性質体格によりて一様ならず、女子の悋気はなほ男子の欝憤に同じきものなれば、その行に発する所おのづからその為人を現すものなり。顳顬に即功紙張りて茶碗酒引かける流儀は小唄の一ツも知らねば出来ぬことなるべく、藁人形に釘打つ丑の時参は白無垢の衣裳に三枚歯の足駄なんぞ物費を惜しまぬ心掛すでに大時代なり。格子先に男の胸倉取つて泣きわめくは古今通例の下世話にして罪はなし。羽織の紐より帯ネキタイなんぞの結目に気をつけ、甚しきはすぐと男の懐中へ手を入れ移香をためすが如きに至つては浅間しくもまたいやらしき限りなり。事あるごとにおのれが衣類髪のものを箪笥にしまひ鍵をかけて切口上に離縁申出す女房あり。また何かといふとすぐに駈け出して親類友達の家なぞへ行つて泊る女房あり。いづれも三日打捨てて置けば必ず向より詫を入れて還ること、あたかももう来ねへぞといふお客必その晩に来るが如し。夜中に鴨居へ細帯を引掛け、あるいは井戸端をうろついて見せる女、いづれも人の来つて留めるを待つこと、これまた袂を振つて帰る帰るとわめく甚助親爺と同様なり。人知れず硫酸モルヒネ猫不入なんぞ飲むものなきにしもあらねど、こは啻に痴情のなす所のみにあらず、男に入揚げ貢ぎし後ぽんと捨てられなぞしたる揚句の果にして、色情のほかに金銭のいざこざ大にあるものと知るべし。女の財宝に心ひかるること哀れにもまたおそろし。然るが故に、新聞雑誌の議論にかぶれたる新しき女の、ともすれば貞操蹂躪の訴訟に金銭を獲んとしてかへつて弁護士の喰物となるも、色よりは慾のあやまちなり。尤この手合の女、大抵悪摺したる田舎出のものにあらざれば市中小商人の娘にして江戸ツ児にはなき事なり。僕先年三田慶応義塾に勤めし頃娶りしもの、湯嶋聖堂の裏手に相応の店を張りし商家の娘なりしが、離縁のはなしに親元より五百円ほしき由申出でたれば持たせつかはしたる事あり。東京の女にもかかる例あれば参考のため記し置くなり。その後売女の手切金につきてはまた別に記すべし。世には売女とさへいへば貪欲甚しきやうに思ふものありといへども、いざ手切金のだんになりて話さへわかれば案外さつぱりとしたものにて、わづかばかりの目腐れ金に人の足を運ばせるはかへつて素人に多し。一口物に頬を焼くといふ古人の金言思ふべきなり。 三  女子の悋気はなほ恕すべし。男子が嫉妬こそ哀れにも浅間しき限りなれ。そもそも嫉妬は私欲の迷にして羨怨の心憤怒と化して復讐の悪意を醸す。野暮の骨頂なり。血気の少年はさて置き分別盛の男が刃物三昧無理心中なぞに至つては思案の外にして沙汰のかぎりなり。およそ森羅万象一つとして常住なるはなし。時に昼夜あり節に寒暖あるは自然の変化なり。変化に先立ちてこれが備をなさざれば遣繰身上いかでか質の流を止めんや。夜ごと枕並ぶるおのれが女の心に気もつかで、飽かれて後に怨み、怨みて後に怒るは愚にあらずや。怨み憤るに先立ちて先見の明なかりしおのれが檮昧を愧づべきに、未練に未練を重ねて離行く女の後を追ひ、是が非にも己が実意の底を見せて改心させんと片意地になるが如きは以ての外の不量見なり。そもそも男女の恋仲、仁義道徳を説いて然る後に出来合ふものにあらず、初手の馴れ染めは唯ふとした気のまよひより起るものなれば、相手の心変りを責めて引戻すに義理を論じ人情を説くも詮方なし。むかし思へば見ず知らずとは小唄の文句にもあることなれば、それもこれも皆一ツ時の縁なり。片時たりとも嬉しき夢を見ただけが徳と思はば誰をか怨み何をか悲しまんや。  僕天性浮気の身なれば従つて嫉妬の執念薄く、嫉妬の執念薄きほどなれば、いやがるものを無理無体にくどきなびかせんとの執着は更になし。さりとて気ざな咳払ひして据膳ならでは喰ひやせぬといふほどの自惚もなければ、まづ小当りに当つて出来やすきを取る。出来やすきを取るが故に捨てるも捨てられるも皆その時の運とあきらめるは年来僕の取り来りし道にぞありける。岡目八目これを見て頻に襤褸買といひしも一理なきにあらざるべし。襤褸買は安物買の銭失ひをいふ。その意一文惜しみの百損に同じといへども、これ畢竟その結果を見ての推論なるべし。人誰か完全を望まざるものあらん。然りといへども小人にして珠を抱けば必過あり。鏡に面をうつして分を守るは身を全うするの道たるを思はば襤褸買必しも百損といふを得んや。一張羅の晴着に空模様ばかり気にしては花見の興も薄かるべし。日の暮るるも知らで遊び歩くは不断着の尻端折にしくぞなき。さればや僕少壮の頃吉原洲崎に遊びても廓内第一と噂に高き女を相方にして床の番する愚を学ばず、二、三枚下つたところを買つて気楽にあそぶを得手となしけり。肌合面白く床の上手なるものかへつて二、三枚下つた処にありしぞかし。然るを世の嫖客といふものは大抵土地の評判を目当にして女を選び、新聞の美人投票に当りしものなぞ買ふを名誉とす。これ医者ならば博士は皆名医なりと思ひ、宮内省御用と銘打ちし菓子は皆上等と心得て安心する輩なり。名義に拘泥する風習勿論昔よりこれありしといへども近来に至つてますます甚しきは何ぞや。新橋芸者の品定にもすぐと一流二流の差別をつけるはまだしも忍ぶべし。文学絵画の品評にまでとかく作家の等級をつけたがるは何たる謬見ぞや。尤かくの如き謬見に捉はるるは田舎出の文士に多し。田舎出の文士に限つて世評を気にかけ売名に汲々として新春年賀の端書にもおのれが著書の目録なんぞを書きつらぬるが癖なり。僕西洋より帰り来りし頃には文壇売名の悪風いまだ今日の如く甚しからざりしが大正四、五年の頃より文壇のみならず世間の風潮全く一変したり。芸者も文士画工と同じく売名に憂身をやつすもの追々に増加し踊三味線のさらひの如きも劇場博覧会その他公開の場所へ持出し新聞紙に芸評を掲げらるるを無上の名誉となすに至れり。この悪風の生ずる処一つには遊芸師匠の教唆によるものにして、師匠は芸者の名を借りて門戸を張らんとし新聞におさらひの評判出るを以て流派の面目と思ひなしたり。烟花狭斜の風俗かくの如く新聞紙を利用して売名をのみ専となすに至つては粋も意気もあつたものにあらず。粋といひ意気といふ江戸伝来の風儀なくなれば三味線弾は広告屋の楽隊と異る所なく芸者は簡単なる醜業婦にして、まづは生きたる共同便所ともいふべきものとはなるなり。病毒少くして揚代廉ければ醜業婦の能事は畢るなり。ここにおいてや明治四十一、二年の頃より大正三、四年の頃まで浅草十二階下、日本橋浜町蠣殻町辺に白首夥しく巣を喰ひ芸者娼妓これがために顔色なかりき。その頃芸者買の勘定どの位かと考ふるに、待合席料一円、芸者祝儀枕金共二円、玉代一本二十五銭、女中祝儀三拾銭を以て最低とす。新橋にてもこの程度にて遊べるところ路地の小待合には随分ありたり。神楽坂富士見町四谷辺ならば芸者壱円にて帯を解くものもありしかど名ばかりの芸者にて長襦袢は胴抜のメレンスなり。然るに浜町の白首、俗に高等とよびしもの衣裳容貌山の手の芸者に劣らざるものにして待合席料一円、女並五、六十銭より上玉一円どまりにて別に女中の祝儀は取らず。これ女の揚代より四分を待合が取るゆゑとか聞きぬ。御泊りとなれば芸者は十一時より翌朝まで玉だけでも十二本の規則なるに、浜町は女二円にて事済みなり。かくの如く浜町のあそびは芸者買の半分にも足らざるほどにしてしかも振られるといふ事なければ流行ること夥しく、遂に芸者組合より苦情出で内々その筋へ歎願密告せしかば大正五年四月の頃より時の警視総監西久保某といへる人命令を部下の角袖に伝へてどしどし市中の白首を召捕りけり。以後浜町蠣殻町辺には白首の優物跡を絶ち、芝神明境内、柳原郡代屋敷なぞ維新前後よりありし魔窟も忽一掃せられしは、そぞろ天保寅年のむかしも思ひ出されたり。その代り山の手の芸者が売淫この時よりいよいよ公然黙許の形となり芸者連名帳にれいれいと枕金の高を書出す勢とはなりけり。まづ僕が多年の実歴を回想して市中色町の盛衰を語るべし。 四  明治三十年の頃僕麹町一番町の家に親の脛をかじりゐたり。門を出でて坂を下れば富士見町の妓家軒先に御神燈をぶら下げたり。御神燈とは妓の名を書きたる提灯をいふなり。毎日学校への往かへりに提灯の名を早くも諳じ女同士が格子戸の立ばなしより耳ざとく女の名を聞きおぼえて、これを御神燈の名に照し合すほどに、いつとなく何家の何ちやんはどんな芸者といふ事、一度も遊ばざるに蚤くこれを知る身ぞ賢かりける。  或日、行き馴れし近処の床屋に行きしに僕より五ツ六ツ年上の若い衆。この店の忰なり。今日は親爺が親戚の法事に行きて留守といふを幸頻に新宿ののろけ最中、がらりと店の硝子戸引きあけざま、兄さんといふ嬌声。前なる鏡に映りし姿、年の頃十七、八、つぶしに大きな平打の銀簪、八丈の半纏に紺足袋をはき、霜やけにて少し頬の赤くなりし円顔鼻高からず、襟白粉に唐縮緬の半襟の汚れた塩梅、知らざるものは矢場女とも思ふべけれど、僕は例の御神燈にて駿河家の抱小しまといふ名まで既に知つたるこの土地の芸者なり。小しまは大阪格子を後にしたる上框へ腰をかけ、散らばつた『都新聞』の間より真鍮の長羅宇取り上げながら、兄さん、パイレートの絵はたまつたかへ。貰ひに来たんだよ。と泥だらけの駒下駄はきし両足をぶらぶらさせ大きな叭する顔を鏡に映して見てゐる様子かへつてあどけなし。後にて店の若衆にきけば腹ちがひの妹とやら言はれて何ともつかず此方が気まりわるくなり、更に近処の烟草屋で内々にきいて見れば、宇都宮とやら高崎とやらにて半玉に出てゐたりしがその後のわけは知らず去年帰つて来てこの土地から出たとの事。二七不動の縁日、三番町や九段下の寄席にても折々顔を見合す中或日突然向よりにつこりと、笑顔を向けられて、僕その時は真赤になりしが、翌日はもう我慢がならず、横町の稲荷の鄰に何庵とかいふ蕎麦屋の二階より口をかけて小しまを呼べば、すぐに来て、あら、お酒がいらないのなら、待合さんから呼べばいいのに。つうえいぢやないか。と忝き忠告。富士見町の妓風二十年前既にかくの如く開けたものなり。そも富士見町の妓家待合いつの頃より開け始めしにや。維新以前九段の坂上は馬場なりしといふ。富士見町は武家屋敷のみにして怪し気なる女師匠は麹町三丁目辺町家の間にありしのみなりとぞ。明治十六年酔多道士の著せし『東京妓情』には麹町の名を掲るのみにして明に所在の地を示さず。明治十八年『東京流行細見記』には府下一般芸者之部といふ条に、富士見町の部、小春、小ぎく、小とく、小すず、長吉の五名を出せるのみ。  僕の初めてこの地に遊びし頃妓家既に二、三十軒を富士見町に算し、十五、六軒を三番町に数へ得たり。待合の富士見町にあるもの菊の家、梅月、寿鶴(後に相模家)、常磐木、寿々村の如き今なほ僕の記憶するところなり。三番町には求友亭の名を記憶するのみにて余は悉く忘却す。料理屋に万源あり。紅葉小波の門人ら折々宴会を催したるところなり。鰻屋の大和田また箱を入れたりしが陸軍の計吏と芸者の無理心中ありしより店を閉したり。今日電車通に繁昌せる魚久は当時魚屋にて仕出しをなせしのみ。三番町表通に大周楼といふ牛肉屋に接して小料理や魚清あり。麹坊派の文士画家一時競つて魚清の娘お清を挑む。その遂に何人の手に落ちしや知らず。お清後に半元服して三番町に待合を営みゐたるを見たり。その頃また五番町英国公使館裏手の坂道に快々亭とかいふ西洋料理屋ありて、その娘お富が嬌名はこのあたりに広々としたる坂本牧場に鳴く牛の声と共に近隣に聞え渡りしも、今よりして顧れば都の中とは思はれぬのどけさなり。招魂社の馬場の彼方に琉球屋敷あり。筒袖の着物に帯を前で結び、男も長き簪に髪を結ひたる琉球人の日傘手にして逍遥せしさま日もおのづから長き心地せり。韓国もいまだ滅びずしてありしかばその公使館もまた下二番町にありて、この二箇処へ出入りして道ならぬ栄耀をなす女らを人々皆後指さして、琉球や朝鮮の毒を受けたら最後骨がらみになると言ひはやしき。二七不動に近き路地裏に西京汁粉の行燈かけて、萩の袖垣に石燈籠置きたる店口ちよつと風雅に見せたる家ありけり。ここに年の頃は二十一、二、色は白けれど引臼の如き尻付、背の低く肥りたる姿の見るからにいやらしき娘こそ、琉球人の囲者との噂高くして、束髪に紫縮緬の被布なぞ着て時々月琴の稽古に行くとは真赤な虚言、その実は琉球屋敷の手すきに錦町辺の高等下宿へもかせぎに行くといふ事なりしが、僕も跡をつけて見たわけではなし。年月たちて明治四十一年の頃、僕友達に案内せられて、浜町二丁目五徳庵といふ鳥料理の近くなる小待合に上りし時、上り花持出る女中をふと見れば、まがふ方なくかの琉球屋敷へ出入の女なりしぞ奇遇なる。浜町の景況この女のはなしにて聞知るところ尠からず。次の如し。 五  明治四十一、二年の頃、浜町二丁目十三番地俚俗不動新道といふあたりに置屋と称へて私娼を蓄る家十四、五軒にも及びたり。界隈の小待合より溝板づたひに女中の呼びに来るを待ち、女ども束髪に黒縮緬の羽織、また丸髷に大嶋の小袖といふやうな風俗にて座敷へ行く。その中には身なり人柄、昼中見てもまんざらでもなき者ありし故誰いふとなく高等とは言ひなしたり。あくまで素人らしく見せるが高等の得手なれば、女中の仕度して下へ行くまでは座敷の隅に小さくなつて顔も得上げず、話しかけても返事さへ気まりわるくて口の中といふ風なり。始め処女の如きはやがて脱兎の終を示す謎とやいふべき。席料その他一切の勘定三円を出ざる事既に述べたり。浜町を抜けて明治座前の竈河岸を渡れば、芳町組合の芸者家の間に打交りて私娼の置家また夥しくありたり。浜町の女と区別してこれを蠣殻町といへり。蠣殻町は浜町に比ぶれば気風ぐつと下りたりとて、浜町の方にては川向の地を卑しむことあたかも新橋芸者の烏森を見下すにぞ似たりける。当時東京市中の私窩子を訪ね歩むに、本所立川の入口相生町の埋立地に二階建の家五、六軒ありて夜は公然と御神燈をかかげてチヨイトチヨイトと客を呼びゐたり。中洲真砂座といふ芝居の横手の路地にも銘酒屋楊弓場軒を並べ、家名小さく書きたる腰高障子の間より通がかりの人を呼び込む光景、柳原の郡代、芝神明、浅草公園奥山等の盛況に劣らず。山の手にては四谷津の守なる芸者家町の凹地に銘酒屋七、八軒ありしが暫時にして取払ひとなる。下谷池の端、湯嶋天神境内、また京橋築地あたりの小待合の中には、いづこより連れて来るか知らねど素人を専とする家各四、五軒づつはありけり。京橋区役所裏の玉の家といふはこの道にて名高き由。銀座二丁目上方屋といふ花骨牌売る店の前の路地に菊泉とかいふ待合は近処の鳥屋牛肉屋の女中洗湯のかへりにお客を引込むところとか聞きぬ。青山三聯隊の裏手にて墓地に接したる凹地にも明治四十二、三年の頃より達磨茶屋でき、また赤坂新町辺芸者家に接したる裏町にも白首いつとはなく集り住みて人の袖を引きしが、この二箇処いづれも大正五年以後妖婦の跡を絶ちぬ。下谷佐竹ヶ原、根津、入谷、芝愛宕下、小石川柳町、早稲田鶴巻町辺、いづれも話には聞きたれど、これらは親しく尋ね究むる暇なかりしものなればここには記さず。およそ明治の末年東京市内にありし私窩子の風俗、名家の文章にその跡を留めたるもの、本郷丸山の風俗の一葉女史が名作『にごりえ』に描かれたるを以て第一となすべし。『にごりえ』は明治二十八年の作なり。その一節に曰く、「店先へ腰をかけて駒下駄のうしろでとんとんと土間を蹴るは二十の上を七つか十か引眉毛に作り生際、白粉べつたりとつけて唇は人喰ふ犬の如く、かくては紅も厭らしきものなり。お力と呼ばれたるは中肉の背恰好すらりつとして洗ひ髪の大嶋田に新わらのさわやかさ、頸元ばかりの白粉も栄なく見ゆる天然の色白をこれみよがしに乳のあたりまで胸くつろげて、煙草すぱすぱ長煙管に立膝の無作法さも咎める人のなきこそよけれ。思ひ切つたる大形の浴衣に引かけ帯は黒繻子と何やらのまがひ物、緋の平ぐけが背の処に見えて言はずと知れしこのあたりの姉さま風なり。(略)店は二間間口の二階造り、軒には御神燈さげて盛り塩景気よく、空壜か何か知らず銘酒あまた棚の上にならべて帳場めきたる処も見ゆ。勝手元には七輪を煽ぐ音折々に騒がしく、女主が手づから寄せ鍋茶碗むし位はなるも道理、表にかかげし看板を見れば仔細らしく御料理とぞしたためける。云云。」これによつて看るに、襟元ばかりの白粉に顔は天然の色白きを誇りたるお力が化粧、今日大正十三年の女子が厚化粧に比すれば瀟洒の趣売女とは思はれぬなり。さて明治三十二、三年頃後藤宙外『松葉かんざし』とかいへる小説に浅草公園楊弓場のことを描きたり。四十三、四年頃にいたりて正宗白鳥浜町の私窩子を描き、小栗風葉は鶴巻町辺の酌婦の事を小説に書きしことあるやうに覚えしが今その名を憶ひ得ず。暫く後考を俟つ。およそ明治中葉以降芸者のことを書きたる小説汗牛充棟もただならぬに、地獄白首のことを書きたるものに至つては晨星寥々たるの感あるは何ぞや。芸者の内幕を穿つて書けば通人といはるるに引かへて、白首の事より外には知らぬ人といはれては、文士もいささか気まりがわるくなるものと見えたり。 六  星移れば物換りて人情もまた従つて同じからず。吉原のおいらんを歌舞の菩薩と見て崇めしは江戸時代のむかしなり。芸者を粋なり意気なりと見てよろこびしも早や昨日の夢とやいふべき。明治五年新富町の劇場舞台開きをなせし時、新柳二橋の歌妓両花道に並んで褒詞を述べたる盛況は久しく都人の伝称せし所なりけり。宴席に園遊会に凡そ人の集るところに芸者といふもの来らざれば興を催す事能はざりしは明治年間四十余年を通じての人情なりけり。年改れば新年の宴あり年尽きんとすれば忘年の催あり。知人の旅行するごとに送別の宴あり。還り来るごとに歓迎の会あり。会開かれて酒出れば必芸者現る。芸者現れてお座付を弾けば、客酔うて必かくし芸をなす。たまたま為さざるものあれば一座挙つてこれを強ゆ。ここにおいて世に出で人に交らんとするものは日頃窃に寄席に赴き葉唄都々一声色なぞを聞覚えて他日この難関に身を処するの用意をなす。あたかも大正の今日西洋料理の宴会に臨むもの、何処でおぼえて来るものやら知らねど、大抵テーブルスピーチとかいふものを心得ゐるが如し。往時宴会の隠芸は愚劣なれども滑稽にして罪はなし。旦那はほんとにいいお声だよ。すみには置けませんよと芸者にほめらるるを生涯の面目とはなせしなり。今日青年諸君の好んで為さるるテーブルスピーチに至つては弁巧と才気とをこれ見よがしの振舞さてもさても片腹痛し。大勢食事の折柄腹こなしに一席弁じたくば亜米利加人が食卓の祈祷の如きまだしも我慢がなりやすし。風俗時勢の新旧を問はず宴会といふものほど迷惑千万なるはなし。同じく飲む酒も親しき友二、三人と騒がしからぬ旗亭に対酌すれば夜廻の打つ拍子木にもう火をおとしますと女中が知らせを恨むほどなるに、百畳にも近き大広間に酔客と芸者の立ちつ坐りつする塵煙、燈下に濛々として人の顔さへ見えわかぬが中に、諸君我輩の叫声に耳を掩ひつつ干物の如き塩焼の肴打眺めて坐する浮世の義理また辛しといふべし。幸田露伴先生宴会の愚劣なるを痛罵し宴席の酒を以て鴆毒なりと言はれしが世の人の心はまたさまざまなり。小人数で料理屋に上つて芸者を呼ぶよりは、宴会が結句割徳の安上りと胸算用して出席する下賤もあり。頻に名刺の交換を迫つて他日人の名を利用して事をなさんとする曲者もあり。火事場泥棒の如きかかる輩は芸者を口説くにも容貌や芸なぞは二の次にして金まはりのよささうな女にねらひをつけ、年上であらうと何であらうと構はず、此方からちやほやと機嫌を取つて入込むが常なり。新聞社の営業係、小会社の外交員なぞにはこの類の曲者多しといへり。されば新橋辺にて家持の芸者は色仕掛のお客と見れば用心なしあまりしげしげ呼ばるる時は芸者の方より体よく返礼をなして後の難儀を避くる由。そもそも三十年前にあつては応来芸者と称して通人の眉を顰めたる新橋の妓、今はかへつて御客の狡猾なるに恐れをなすといふに至つては人心の下落呆るるの外はなし。 七  言ふべき事とかく岐路へそれたがるには我ながら閉口なり。さても僕の初めて芸者の帯解く姿を見たりしは既に記せし如く富士見町の寿鶴といふ待合にして、勘定何もかも一切にて金参円を出でざりし。その頃は半助といふ言葉も通用しまた壱円のことを大そうらしく武内に面会せんなぞといふもあり。当時売女の相場、新吉原仲の町角海老の筋向あたりにありし絵草紙屋にて売る活版の細見記を見ても、大見世の女の揚代金壱円弐拾銭にて、これより以上のものはなかりし。以て一般を推すべし。さて僕も富士見町ばかりでは所詮山の手の土臭く井戸の蛙の譏もうしろめたしと思へる折から、神田連雀町金清楼の宴会にて、講武所駒の家の抱小みつといへるが水を向けるをこれ幸ひと、一人先に金清楼を出で小みつが教ゆる外神田佐久間町河岸の船宿小松家といふに行き土蔵づくりの小座敷に女の来るを待ちたりけり。これは明治三十二、三年のことなり。そのころには自由廃業といふ言葉もまだ耳新しく『二六新報』の記者が吉原の小格子をあらし廻る事をさしていふものとのみ思へる人もありしほどなれば、芸者屋仲間にはまだ全国芸妓組合なぞといふものなく、営業の区域を限る許可地とか称するきまりもなかりしやうなり。芸者その頃冬の夜道を向嶋あたりへ遠出に行く時、お高祖頭巾をかぶるもありき。四角なる縮緬の角に糸を輪にして付け、それを耳朶にかけてかぶるなり。小袖には糸織縞に意気な柄多くありたり。芸者襟付の不断着に帯は必引掛にして前掛をしめ、黒縮緬五ツ紋の羽織を着て素足にて寄席なぞへ行きたり。毛織のショール既にすたれて吾妻コート流行。絹はんけちを三角に二折となして頸に巻きて口をかくし、金縁薄色の黒眼鏡をかける。男も同じく絹はんけちに黒眼鏡、天鵞絨の鳥打帽、大嶋か何かの筒袖の羽織、着物は市楽か風通織にて、帯は幅広し。小指に金の見留印の指環、黒八丈の前掛をしめ、雪駄ちやらちやらと鳴して歩く。これ色男がりたる気障な風なり。芸者が座敷より帰つて来る刻限を計り御神燈の火影に格子戸の外より声をかけ、長火鉢の向へ坐つて一杯やるを無上の楽しみとす。すべて妓家の模様を書きしるせしもの既に言ひしが如く汗牛充棟なればここには除けり。好奇の人左に掲ぐる図書について見玉はば、明治年間花柳風俗の変遷おのづから歴然たるものあらん歟。 柳橋新誌 二巻 明治七年出板成嶋柳北著 柳巷絃妓全盛揃 一巻 松本重清画酔月亭撰 新橋雑記 二巻 明治十一年十一月三十日出板松本万年著 東京新繁昌記 六巻 明治七年四月出板服部誠一著 東京妓情 三巻 明治十六年十月出板酔多道士著 花柳事情 三巻 明治十三年十二月板酔多道士著 新橋芸妓評判記 初編 明治十四年九月出板中村呉園著 東京粋書 初編 明治十四年五月出板野崎城雄著 銀街小誌 初編 明治十五年二月出板槎盆子著成嶋柳北序 芸娼妓評判記 一巻 明治十八年八月出板粋多道人著 通人必携 一巻 明治十七年四月出板二代目花笠文京著伊東橋塘序 仙洞美人禅 一巻 明治十七年十一月出板三木愛花著 東都仙洞綺話 一巻 明治十五年十二月出板三木愛花著 東都仙洞余譚 一巻 明治十六年八月出板三木愛花著 東京遊覧記 一巻 明治廿一年十月出板竹外居士原田真一著 東京流行細見記 明治十八年七月出版 当時全盛絃妓細軒記 明治三庚午版流行道人著 柳橋芸者名寄 出板年月不詳 全盛北里花魁列伝 第一編第二編 明治十四年十二月出板桜洲散史大久保常吉著三木愛花序 龍山北誌 二巻 明治十二年十二月四日出版一名花街春史服部誠一閲桑野鋭戯著 娼妓節用 一巻 明治十七年出板三木愛花原作戯蝶子補綴 新橋八景芸者節用 一巻 明治十七年出板三木愛花原作戯蝶子補綴 日本橋浮名歌妓 一巻 明治十七年出板山田春塘著伊東橋塘閲 東京芸妓評判録 初編 明治三十七年出板著者不詳 よし原 一巻 明治廿四年二月出板大文字楼静江序角海老楼金龍句 稲本楼八雲詩松の家露八句其他の題詞あり年英挿画 太平楽娼妓演説 明治二十四年二月廿四日出版八幡楼高尾序 川上鼠文序烏有山人筆記娼妓てこ鶴の演説 東都の名妓 大正六年出版川尻清潭岡村柿紅共編 これ僅に僕の経目せしものを挙げしに過ぎざるなり。山田春塘の著『日本橋浮名歌妓』は明治十六年六月檜物町の芸妓叶家歌吉といへるもの中橋の唐物商吉田屋の養子安兵衛なるものと短刀にて情死せし顛末を小説体に書きつづりしものにしてこの情死は明治十三年九月新吉原品川楼の娼妓盛糸と内務省の小吏谷豊栄が情死と相前後して久しく世の語り草とはなれるなり。品川楼盛糸がことは当時『有喜世新聞』に『心中比翼塚』とか題して浄瑠璃風に文飾して書きつづりしものあり。また春亭史彦といふ人のつづりし『北廓花盛紫』と題せし草双紙もあり。これらを採りて明治三十二、三年の頃伊原青々園『都新聞』に続物小説を執筆せしを伊井一座の壮士役者これを芝居に仕組み赤坂溜池演伎座にて興行したり。明治年間にありし情死にして小説戯曲に仕組まれしもの先この二ツ位なるべし。広津柳浪が小説『今戸心中』は京町二丁目中米楼にありしものとか聞きしがその文体力めて実録となる事を避くるが如くなれば例外とすべし。世の噂は七十五日といはるるに心中沙汰のみ世に永く語り伝へらるるはこれ畢竟小説戯曲の力による事近松門左衛門が浄瑠璃の例を引くにも及ぶまじ。明治四十五年の春新橋信楽新道の政中村家政代とよびし芸者、俳優中村又五郎を怨みて硫酸を飲んで死したり。されど小説にかきつづりて世に伝へんとする好事家もなかりしかば化けて出る噂もほどなく消えてしまひけり。大正の世となりて女優松井おすまの縊死、新華族芳川の娘おかまが出奔、医者浜田の娘おえいの自殺なんぞ、皆痴情のためにその身を亡し親兄弟に歎をかけ友達の名を辱めたる事時人の知るところなり。浜田の娘おえいは猫入らずといふ殺鼠剤を服して最後を遂げたりしより無分別の若き男女思案に余ることあれば今にこの薬を購ふもの絶えやらずといふ。猫入らずは即むかしの石見銀山なり。明治三年猿若町のおきぬといふ女金貸の旦那をこの毒薬にて殺せし事ありてより、石見銀山の名久しく人の口にいひ伝へられしが世は変りてその名もまたいつか異りたり。往時編笠かぶりて心中の沙汰なぞ唄ひ歩みし読売り今は縁日の夜の唱歌となるもまた物同じくしてその名のみ同じからざる一例となすべし。書生風したる男のヴァイオリンひきて卑し気なる調子にて物うたふは、これを名づけて何節といふにや知らざれど、その謡ふところを聞くに賤しき語にて簡単に事の次第を伝へたるものあり。後世の史家必見て以て風俗史の資料となすべし。 ああ悲しやな悲しやな、 恋しき君に先立たれ、 今は語らむ人もなし。 思へば衣裳も手につかず、 幕の下りるを待兼ねて、 忍泣きする舞台裏。 いとも哀れな須磨子嬢。 恋しき嶋村抱月の、 お跡をしたふ死出の旅。 こはたまたま僕の記憶に存せる語句を摘記したるに過ぎず。街頭の俗謡といへども固より作者の存するあり。当時教科書編纂者のなすが如くだまつて他人の文を盗用するは礼にあらず。故に一言して妄にその断片を採つてここに録する所以を述ぶ。 八  追懐は老者無上の慰楽となす所なり。明治四十一年秋、僕西洋より帰来りし時木曜会の文人僕のために祝宴を開かんとて、ああでもないかうでもないと相談の末おもひおもひに姿をやつして上野停車場に集り、それより浅草辺を遊び歩きて一泊することとなしぬ。九月半の事なり。花見時にもあらぬ白昼なれば、もし身分職業がら仮装を厭ふ者は会費の外に罰金五円を出してあやまる事になしたり。然るに当日午後の四時を期して上野停車場の待合室に集るものを見れば会長巌谷小波先生を始めとして十四、五人の会員一人として罰金を出すものなくいづれも車夫、牛乳配達夫、職人、行商人等に身をやつしたり。その中にて小波先生は双子縞の単衣に怪し気なる夏羽織、白足袋雪駄にて黒眼鏡をかけし体、貸座敷の書記さんに見まがひたる。また大田南岳の山高帽に木綿の五ツ紋、小倉の袴をはきて、胸に赤十字社の徽章をさげたる。この二人は最上の出来栄なりけり。同勢十四、五人徒歩して浅草公園を一巡し千束町一丁目松葉屋といふ諸国商人宿に入りて夕飯を食し、さておもひおもひに公園の矢場銘酒屋をひやかすあり、玉乗り源氏節の踊を見に行くあり吉原小塚原の女郎屋をぞめき歩くもあり、やがて松葉屋に帰りて一泊す。蒲団の不潔なるを恐れて外泊するものはまた罰金を取る約束なれば一同帰り来つてここに一夜を明し翌朝朝飯すませし頃折好く表に紅勘が三味線弾いて来りしを呼上げ祝儀を奮発していろいろの芸をやらせ、宿屋を引き上げて一同竹屋の渡しを渡り、桜のわくら葉散りかかる墨堤を歩みて百花園に休み木母寺の植半に至りて酒を酌みつつ句会を催したり。木母寺の植半は旅宿をかねたる酒楼にてその頃は芸者を連れし泊込みの客多かりしが二、三年を出でずして或会社のこれを買ひ取りて倶楽部とやらになせしより木母寺の境内再び紅裙のひらめくを見ず、梅若冢の柳を見ても黄昏一片麋蕪雨と柏如亭が名吟を思ふべき人もなくなりたり。日の暮れんとする午後五時となれば鐘淵紡績会社工場の汽笛人の耳を劈き草木の葉をもふるひ落さんとす。川霧立まよふ頃の夕まぐれ、ここの渡しをいそぎ橋場の岸近くなる時真崎稲荷の森かげをぬひて廓の灯を望み見たりし情景も明治四十一年の頃には既に過ぎし世の語り草なりけり。言問のほとりにも中の植半とて名高き酒楼ありしが大正のはじめには待合風の料理屋となり女夫風呂とか名付けし鏡張りの浴室評判なりしが入浴中に情死を遂げしものありて忽客足絶えほどなく家も取壊しになりしと聞けり。秋葉神社のほとりには有馬温泉とよぶ連込みの茶屋大正五、六年頃までありしやに覚ゆ。向嶋にてこのたぐひの茶屋といへば入金の繁昌久しきものにして蜆汁の味またいつまでも変らぬこそ目出度けれ。僕大正八年の春築地より雪見に誘はれて立寄りし事ありしが蜆汁の味十年のむかしに変らず玉子焼も至極暖なりし故床の間に掛けたりし柴田是真が蜆の茶懸も目に残りて今に忘れやらず。秋葉に秋葉芸者とて三囲土手下の芸者とは別の組合出来たりしは大正改元の頃にやあらん。帯さへ解かざる手練の早業流行せしかば、一時禁止となりしがほどもなく再興して三囲の古き仲間に合体せし由。これは大正七、八年の頃なるべきか。およそ大正の世となりて都下に新しく芸者屋町の興りしもの一、二箇処に止まらず。麻布網代町、小石川白山、渋谷荒木山、亀戸天神なんぞいつか古顔となり、根岸御行の松、駒込神明町、巣鴨庚申塚、大崎五反田、中野村新井の薬師なぞ、僕今日四十を過ぎての老脚にては殆遊歴に遑あらざる次第なり。新開の町村に芸者屋町を許可するは土地繁昌を促すがためといへり。あたかも辺陲不毛の地に移民を送りて開墾を企る政策の如し。都下近郊の水田を埋め樹木を乱伐し貸家を建てて町となすに売女を公認して繁華を謀るにも及ばざるべきに、当世人がいはゆる発展策と称してよろこぶところのもの大抵この類にあらざるはなし。かへすがへす文学雑誌と売女との増加は慷慨の士にあらざるも誰かこれを見て寒心せざらんや。ナゾト肩をいからしながら、こつそりと遊びに行く山の手の小待合、賤妓を待つ間の退屈しのぎに筆をチャブ台の上に執る。時これ大地震のあくる年春もまだ寒きバラックの御二階において金阜山人しるす。 底本:「荷風随筆集(下)」岩波文庫、岩波書店    1986(昭和61)年11月17日第1刷発行    2007(平成19)年7月13日第23刷発行 底本の親本:「荷風随筆 一~五」岩波書店    1981(昭和56)年11月~1982(昭和57)年3月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。 入力:門田裕志 校正:米田 2010年9月5日作成 2011年4月2日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。