第二邪宗門 北原白秋 Guide 扉 本文 目 次 第二邪宗門 円燈 飢渇 わかき喇叭 青き葉の銀杏のはやし 森の奥 円燈 尋めゆくあゆみ 我子の声 声なき国 幽潭 急瀬 二つの世界 暮れなやむ心のあそび 鑲工 天幕の中 髑髏は熟視む 樟の合奏 樟の合奏 晩夏 蜩 夏の夜の舟 大曲『悶絶』 大太皷の印象 眼ふたげば かうほね 青き酒 十呂盤 はばたき 青き酒 空罎 炎上 紅火 暮愁 乱れ織 無花果の園 燕 珊瑚切 乱れ織 高機 顛末 ためいき 時鐘 若し たはれ女 驢馬の列 落雷 落雷 長月の一夜(初稿) 蹠 そぞろありき 暗愁 地獄極楽 熊野の烏 我 吐血 柑子咲く国 南国 恋びと 霊場詣 花ちる日 郊外 鉦 円燈 飢渇 あな熱し、あな苦し、あなたづたづし。 わが熱き炎の都、 都なる煉瓦の沙漠、 沙漠なる硫黄の海の広小路、そのただなかに、 饑ゑにたるトリイトン神の立像、 水涸れ果てし噴水の大水盤の繞には、 白琺瑯の石の級ただ照り渇き痺れたる。 そのかげに、紅き襯衣ぬぎ 悲しめる道化芝居の触木うち、 自棄に弾くギタルラ弾者と、癪持と、 淫の舞の眩暈、 さては火酒かぶりつつ強ひて転がる酔漢と、 笑ひひしめく盲らは西瓜をぞ切る。 あな熱し、あな苦し、あなたづたづし。 既に見よ、瞬間のさき、 仄かなる愁の文にしみじみと 竜馬の羽うらにほひ透き、揺れて縺つれし 水盤の水ひとたまり。 あるはまた、螺を吹く神の息づかひ 焔に頻吹きひえびえと沁みにし歌も 今ははや空びぬ、聴くは饑ゑ疲れ 鉛になやむ地の管の苦しき叫喚。 あな熱し、あな苦し、あなたづたづし。 虚空には銅色の日の髑髏転びかがやき、 雲はまた血のごと沈黙に鎔けゆき影だに留めず。 ただ病める東南風のみぞ重たげに、また、たゆたげに、 腐れたる翼の毒を羽ばたたく。 七月末の長旱、今しも真昼、 煉獄の苦熱の呵責そのままに 火輪車駛り、石油泣き、瓦斯の香喊き、 真黒げに煙突震ふ狂ほしさ、その騒かしさ。 誰ぞ、また、けたたましくも、 朱の息引き切るるごと、 狂気なす自動車駆るは。 あな熱し、あな苦し、あなたづたづし。 狂気者よ、人轢き殺せ。 癪持よ、血を吐き尽せ。 掻き鳴らせ、絃切るるまで。 打ち鳴らせ、木の折るるまで。 飛びめぐれ、息の根絶えよ。 酔へよ、また娑婆にな覚めそ。 盲らよ、その赤き腸を吸へ。 あはれ、あはれ、 この旱つづかむかぎり、 汝が飢渇癒えむすべなし。 あな熱し、あな苦し、あなたづたづし。 わかき喇叭 苦しげに喇叭吹く息、 苦しげに喇叭吹く息、 汝はゆきていづくにかへる。 心臓のあかきくるめき そを洩れて吹きいづるなる。 なやましき霊のひとすぢ いと冷やき水の音色に。 毒ふかき邪欲の谷に 淫楽の蝮まとふ、 はたや身は痺れとろけて 断ちがたきほだしに悩む。 狂念のめくらむ野辺ゆ 挑み搏つ硫黄の炎、 また苦き檻のおびえに くれなゐの破滅をさそふ。 さまだるる恋慕のあへぎ 蒸しよどみ、かくてなやめど われは吹く、息もほつほつ うらわかき霊の喇叭を。 かげ暗き恐怖の垂葉 そのなかに赤き実熟るる。 わが夢はあなその空に 濡れつつも燃ゆる悲愁。 濡れつつも燃ゆるかなしみ そが犠牲に吹きいづるなる。 かぎりなき生命の苦痛 かぎりある胸の力に。 あはれ、なほ、喇叭吹く息、 あはれ、なほ、喇叭吹く息、 汝はゆきていづくにかへる。 青き葉の銀杏のはやし 青き葉の銀杏の林、 細らなる若樹の林。 はた、青き白日の日かげに、 葉も顫ふ銀杏の林。 そのもとを北へかすめる、 ひややけき路のひとすぢ、 かすかにも胡弓まさぐり、 ゆめのごと、われはたどりぬ。 青き葉の銀杏の林 行き行けど路は尽きなく。 細らなる若樹のはやし、 頬白の鳴く音もきかず。 すすりなく愁の胡弓、 葉の顫ひ、青き日かげ。 さはひとり、われとさすらひ、 われと弾き、聴きもほれつつ、 日もすがら涙さしぐむ、 青き葉のかげをゆく身は。 それとなきもののかぜにも、 弱ごころ耳しかたむけ。 たちとまり、ながめ、みかへり、 あはれさの絃をちからに。 ひそやかに、また、しづやかに、 にほやかに尋めもなやめば。 薄らなる青の絹衣も、 いつしかに露にしなえぬ。 さあれ、なほ弾きゆく胡弓、 はてもなき路のゆく手に。 いつまでかかくて泣きつつ、 いつまでかかくもあるべき。 あはれ、あはれ、銀杏の林、 青き青き若樹の林。 森の奥 森の奥ほのかにくらし。 夏のすゑ、長月はじめ、 あはれ、日も薄らうすらに、 薄黄なる歎沁みゆく 浮羅爛勤の広葉の青み、 あるはまた大木の胡桃、 憂愁のかげのふかみに、 燃えのこる熱き日ざしは 黄に透かし暮れて薫れる。 そのなかに妙にしづかに 物おもふ白馬のあかり。 それやはた、夏の日の神 夕ぐれに騎りやわすれし。 紅の手綱の色も、 白がねの鐙も、鞍も、 いとほのに夢の照妙 ただ白し、ほのかに白し。 そをめぐり秋の笙の音 蕭やかにひそかに愁ふ。 響かふは角の音色か、 病める果か、饐えゆく歌か。 かくてまた暗き葉越に 鳩の笛沁みはわたれど。 薄黄なる光の透かし、 ひとすぢの昨のほめきに、 ほの白う暮れてたたずむ 物おもふ色のしづけさ。 森はいまほのかにくらし。 円燈 薄暮の谿間の恐怖。 今宵またかなたに点る 紅の円き燈。 そを知るや、知らずや、なほも なやましきにほひの奥に うづくまり黙むひとむれ。 真白なるゆめの水牛、 しかはあれど、なべて盲ひし 獣らの重き起伏。 盲ひしは瞳のみかは、 ものにぶく、闇にくぐもる もろもろのこころごころも。 かくてあな幾夜か経にし。 言いはず、かうべもあげず、 さあれども物待つごとし。 深みゆく恐怖の沈黙。 そのなかに今宵も消ゆる 紅の円き燈。 四十一年六月 尋めゆくあゆみ いと高くいと深くいと静にいと蕭やげる 夜の森のかげ、暗く冷なる列のもとを、            われはあゆむ。 いと高くいと暗くいと密にいとほのかなる 細らなる赤楊の列、そのもとの底の底を            われはあゆむ。 いと高くいと深く沈みたる憂愁のもとを、 真素肌のましろなる、衣つけぬ常若の矜もて            われはあゆむ。 赤楊のとある梢ありとしも見へぬ空のけはひ、 あはれその枝に色紅き小鳥の如も星の見ゆる。            あはれひとつ いと高くいと深くいと静にいと蕭やげる 夜の森のかげ、暗く冷なる列のもとを、            われはあゆむ。 さあれ今言いはぬ獣忍びやかに蹤きぞ来ぬる。 昨日より去年より生れしより、否、前世より            蹤きか来ぬる。 かかる夜のとある梢哀れその空に星の見えつ。 紅き星紅き星ほのかにもわれは知れり、            かかるゆめも。 いと高くいと深くいと冷にいと蕭やげる 夜の森のかげ、ふとし、あな、路は落つる。            あらぬ谷間。 哀れ哀れあらぬ谷にいと暗く霊や落つる。 真素肌の悲哀よ血の香する荊棘のなかを            いかにわけむ。 足音のす、言いはぬ獣忍びかにひき帰すらし。 哀れまたひとつ星、見もあへぬ闇のかなたに            はたや消ゆる。 忽にものの呻吟、やはらなる足に触れつつ そこここの血の荊棘あなやその暗き底より            赤子啼きいづ。 四十一年六月 我子の声 われはきく、生れざる、はかりしれざる 子の声を、泣き訴ふ赤きさけびを。 いづこにかわれはきく、見えわかぬかかる恐怖に。 かの野辺よ、信号柱は断頭の台とかがやき、 わか葉洩る入日を浴びてあかあかと遙に笑ひき。 汽車にしてさてはきく、轢かれゆく子らの啼声。 はた旅の夕まぐれ、栄えのこる雲の湿に、 前世の亡き妻が墓の辺の赤埴おもひ、 かくてまた我はきく追懐の色とにほひに、 埋もれたる、はかりしれざる子の夢を、胎の叫を。 帰りきてわれはきく、ひたぶるに君抱くとき、 手力のほこりも尽きて弱心なやむひととき、 たちまちに心つらぬく 赤き子の高き叫を。 四十一年六月 声なき国 声もなき薄暮の国、 追憶のこなたなるほの暗き闇、 哀れ、さは冷けき世の沈黙、恐怖の木かげ、 何処より見ゆるともなく出て来し思の女 清らなる真素肌の身の独ほのかに暮るる。 声もなき国の白楊、 列長う両側に顫へわななき、 色青き蝋の火のほの暗みおびゆるごとく、 広きより狭み暮れゆく其果の遠き切目に、 仄かなる噴水の香ぞひとり密かに泣ける。 声もなき国のさかひに すすり泣くそのゆめよ、水のひとすぢ かすかにも色映り消えも入る吐息する時、 哀れ、さは光匂はぬ色もなく声もなき野に、 ただ寒う涙垂れ熟視めぬる女の思。 声もなき国のかなたは あかあかと色わかき追憶の空。 歓楽の楽の音よ、悩み添ふ甘き悲哀よ、 猛り狂ふ恋慕の夢の此方には聞えこそ来ね、 雲はただ昨のごと紅の色にただるる。 声もなき女の思、 熟視めつつ、ややにまた暮れもいためど、 ただ密に頼みてし噴水のにほひとだえて、 存命し悩の夢の曲節も見るによしなみ、 真素肌の身は悲し冷けき石になりゆく。 声もなき薄暮の国。 かくていま、追憶の空はあかあか、 血のごとも雲は顫へ楽の音の慄くなかに、 閃めくは聖体盒の香の曇、骨も斑らに 白白と浮びちり、あはれ早や沈み暈めく。 幽潭 あはれ、こはもの静かなる幽潭の 深みの心──おもむろに瀞みて濁る 波もなき胎のにほひの水の面。 をりをり鈍き蛇のむれ首もたぐれど いささかの音だに立てず、なべてみな 重たき脳の、幽鬱の色して曇る。 さるほどに日も暮がたとなりぬれば、 あたりの樟の薄ら闇しのびにつのる 灰色の妖女の冷やきうすわらひ。 さあれど、ゆるにしづしづと髪曳きうかぶ 底の主面はかたく縛られて、 ただほの白き身をなかば、水よりいづる。 ややありて、息吹のゆめもやはらかに、 盲ひし空をうちあふぎ、管かたぶけて 吹きいづる石鹸の玉の泡のいろ ひとつびとつに円らかに紅みてのぼる、 これやかの若くいみじき血のにほひ。 かくしてものの静やかにひとときあまり。 ふと、ひらく汀の瞳くろぐろと、 冷やにならびうかがへる妖女のつらね 肋骨の相摩るごとき笑して 灰色の髪音もなくさばくと見れば、 そこここに首もたげゆく蛇のむれ、 ああまたもとの幽鬱に主消えしづむ。 かくてまた、鈍く曇れる水の面、 濁れる胎のもの孕む音ともなしに、 静寂の深みに呻く夜の色。 ほど経て声も消えゆけば、ああ見よ、いまし 幽潭の鈍める空にあかあかと のぼれる玉か、数しれぬ幾千万の新星の華。 四十一年六月 急瀬 『暗い。』『暗い。』 聴け、夜に叫ぶ髑髏、急瀬の小石、 熟視むるは死よりも暗き鴆毒の 発作に頻吹く水の面、 聴け、わなわなとかたかたと千万歎く。 時は冬、熊野の川の川上の如法の真闇、 峡の底。 『暗い。』『暗い。』 聴け、はや叫ぶ髑髏、急瀬の小石。 さてはまた、聴け、歯を洗ふ血の流 真黒に滴る音ささと はた、きしきしと泡たぎち噎びぬ、まさに 丑満の黒金雲の棺衣は七岳めぐり、 風顫ふ。 『暗い。』『暗い。』 聴け、また叫ぶ髑髏、急瀬の小石、 熟視むれど喚けど、水は蝮の 腹なし、縞もひた黒に 磨りては走る夜の恐怖、この夜もさらに 琅玕の断崖づたひ投網うつ漁の翁の 火も見えず。 『暗い。』『暗い。』 聴け、ひた叫ぶ髑髏、急瀬の小石、 今はかの末期の苦患ひたひたと わななきほそる一刹那、 鯱より疾く、棹あげて闇より闇へ、 火もつけず、声せず、一人丈長の髪吹き乱し 舟きたる。 『暗い。』『暗い。』 聴け、今叫ぶ髑髏、急瀬の小石、 一斉に驚破と慄くひたおもて かとこそ噛めば竜骨は 血の香滴る鋸を鑢の刃もて 磨る如く、白歯をきしと一文字に、傷きながら 逃れさる。 『暗い。』『暗い。』 聴け、なほ叫ぶ髑髏、急瀬の小石、 瞬間の膏油と熱き肉の香に 狂へる慾は護謨の火の 断るるがごとひたわめく、呪詛と飢と 悔と死と真黒に噎ぶ血の底に歯を噛みながら 熟視めたる。 『暗い。』『暗い。』 聴け、なほ叫ぶ髑髏、急瀬の小石、 熟視むれど天蝎宮の光だに 影せぬ冥府、わなわなと 喚けどさらに蝮は腹磨り奔り、 絶えずまた泡だち落つる血はささとその戦慄に 噎ぶのみ。 『暗い。』『暗い。』 聴け、夜に叫ぶ髑髏、急瀬の小石、 熟視むるは死よりも暗き鴆毒の 発作に頻吹く水の面、 なほ、きしきしとかたかたと嘆けど、哀れ、 億劫の窮あらぬ闇に堕ち闇に饑ゑゆく 人の群。 二つの世界 色あかき世界のなかに うららにも小鳥さへづり、 色白き世界のなかに ものにぶき駱駝は坐る。 ものにぶき駱駝の見るは 白き砂、白き思の星、 えもわかぬ髑髏のなげき、 ピラミドのたそがれの色 うららなる小鳥のうたは また遠く、ひと世へだてて 脳の内、もだえの熱に、 謔言のかずかずうたふ。 かなたには隊商の鈴、 こなたにはあかきさへづり。 今日もまた境し立てる スフインクスひとりしづかに。 スフインクス、恐怖の沈黙、 そが胸の象形文字の 謎も、あな、半しろく、 はた赤く、聴耳澄ます。 あはれ、いま、白き世界の ゆふまぐれ。しかはあれども 色あかき世界の真昼。 スフインクス、こころは惑ふ。 四十一年八月 暮れなやむ心のあそび 晩夏の暮れなやむ日のわがこころ 球突をばもてあそぶ、脳のくもりに うしろより煙草のくゆり病ましげに、 なにともわかぬ思きて覗く心地す。 玉ふたつわれの好める色したる、 また玉ふたつうち曇る白の円みす。 棒とりていづれか突かむ。うち見れば 萌黄の羅紗の台の面ほのに顫へる。 その嘆き、おぼろげながらわれぞ知る。 いつのゆふべとわかねども負傷ひし胸の そのにほひ、棒とりながらわれぞ知る。 かくてもやまぬわがあそび、色入りまじる。 そを見つつ後にけぶすかの思 なにしか笑ふ。さあれども暮るるこころは 色あかき玉もてあそびうちなやむ。 重き煙草にまどはしく眩暈みながら。 いづこにかものなやましきはなしごゑ あるはきこゑて、ものあかくあかる心地す。 わが脳のなかにか、室のうつつにか、 火点るごときそのけはひ、遊戯夜に入る。 四十一年八月 鑲工 静やかに泣きつつあれば、 わがこころ鑲工なしぬものとなく、── 正方形の鑲工のその壁をしも見まもれば そはものにぶき顔の面、 面のなかばを、やはらかき茎のうねりや、 あかあかと蔽ひ燃ゆめる罌粟のゆめ そのかげに、 そのかげに、 盲ひたる白き眼ふたつ。 あはれその 白き眼ふたつ、 なにか見る、 夕ぐれのもののしじまに。 天幕の中 色にぶき毛織の天幕、 そがなかにわがおもひひとりしあなる、 あはれ、盲ひたる白き目に花とりあてて、 そが紅き色見むものと燥りつつ、さは燥りつつ、 色にぶき毛織の天幕 いつまでかわれの思のひとりしあなる。 四十一年八月 髑髏は熟視む 髑髏は熟視む、きゆらそおの血の酒甕の間より、 髑髏は熟視む、命なくただうち凹む眼して、 髑髏は熟視む、忘れたる思ひいでんとするが如、 髑髏は熟視む、寝そべりて石鹸玉吹く女が面を。 四十一年六月 樟の合奏 樟の合奏 初夏の空。 灰白色の雲のもと。 水沼のほとり。 ひと叢の樟のわか葉の黄金いろ 梢も高く、 濡れ濡るる雨後の夕のひとあかり、 入日に燃えて 潤やかに、華やかに、 調べあはする かなしみの、 よろこびの、 くるしみの 香も狂ほしき生の曲……夢の合奏…… そのかげに、 赤き煉瓦の 変圧所、心盲ひし 高圧の電気の叫喚音もなく、 斜に走る銅線の かきむしりゆく火の苦悩。 はたやオゾンの香のしめり、渦巻き縺れ、 昼も、夜も、 間なく、時なく、 ひたぶるに暈めき、醸す死の恐怖、 列ね立てたる柱には、 『触るる者かく死すべし。』と 髑髏あり、ひたと黙める。 また、見よ暗くとろとろと、 曇り濁れる鈍色の水沼の面を。 病める壁、 樟の調楽 映せども映すともなきものの色。 ただに声なく、 命なく、 鈍く、重たく、 波たたず、 淀みもせなく、 なべてこれこの世ならざる日の沈黙。 鈍く、ぼやけし 忘却の護謨の面を圧すごとく、 掌に圧すごとく、 たまにのみ、太き最低音ぞ呻くめる。 しかあれ、初夏の夕あかり、 灰白色の雲の裏ゆ金覆輪に噴きいづる 光の楽のさと赤く、 照りかへし、湿潤に燃ゆるひとときよ、 あはれ斉しく、はた高く、 しめやかに、華やかに、 調べいでぬる管絃楽の生の曲── かなしみに、 よろこびに、 くるしみに 狂ひかなづる、 狂ひかなづる、 狂ひかなづる 狂ひかなづる 樟の合奏……死のオゾン……… さてしもあはれ、夜とならば 夜とならば如何にかすらむ。 いま、夕焼の変圧所 嘲けるごとく、 はたや、かの虐殺の血を浴びしごと、 あかあかと笑ひくるめく…… 四十四年五月 晩夏 くわと照らす夕陽の光、 噴水の霧のしぶきよ。 湿らひぬ、蒸しぬ、ひかりぬ、 さは、苑の若木のたわみ、 花の叢、草葉のかをり、── さまざまの薫るおもひに。 こぼれちる水のにほひよ。 日のひかり、雲のうつろひ、 栄えしぶく麝香の真珠、── 絶えず、わが夢かしたたる。 ふくらかに霧にうもれて 燃えたわむ色のうれひよ、 うつろひぬ、蒸しぬ、しめりぬ、── ゆふぐれの胸のなごみを。 くわと照らす晩夏の光、 尽きせざる夢のしぶきよ。 蜩 胸に、はた、 夕日の幹に、 つと来り、蜩なげく。 かなかなかなかな……かなかなかなかな…… 黄金なす細き旋律 せはしげに、また、かなしげに。 かなかなかなかな……かなかなかなかな……。 かくて、また鳴きつつ熟視む、 栄えあかる思より、 梢より、 実のひとつ落ちむとするを。 かなかなかなかな……かなかなかなかな…… 四十一年六月 夏の夜の舟 虫啼ける。 りんりんすりりん……りんりんすりりん…… あはれわが小舟ぞくだる。 痍つけるわかうどの舟。 りんりんすりりん……りんりんすりりん…… はてもなう向ひてかすむ 白壁のほのかなる列。 そのかげを小舟はくだる、 蒸し挑む靄のふるへに。 りんりんすりりん……りんりんすりりん…… いまし、また水路のはてに、 落ちかかる 弦月あかく、 そこここのくらみの奥に 寝おびれて倦めるものごゑ。 りんりん……すりりん…… 某の夏、 かかる夜の港にききし 二上りの音じめはすれど、 あはれそをいづことわかむ。 あたりやや暗みふけつつ、 血のごとく 顫ふ月しろ 沈みゆくその香のなごり。 あなしばし、虫啼きしきる。 りんりんすりりん……りんりんすりりん…… りんりんすりりん……りんりんすりりん…… りんりんすりりん……りんりんすりりん…… いつしかと真闇のにほひ、 深みゆく恐怖につれて はたと虫息をひそめぬ。 蒸しあつし、また息ぐるし。     ……………………………………………… 舟はなほ重たくくだる。 ふと窻に蝋の火あかり、 病人の顔ぞいでたる。 内部には時計の響。 ぎいすちよつ…………………… 重き咳ふたたびみたび、 真黒なる帷は落ちぬ。 あはれ闇夜。 ぎいすちよつ……………………ぎいすちよつ…………………… かくてなほ小舟はくだる。 いづくにかはてなむ旅ぞ、 そも知らね、水のひとすぢ、 白壁のはてしなき夜を。 ぎいすちよつ……がちやがちや……ぎいすちよつ…… たちまちに閉の扉、 かげ暗き大黒金の壁のもと、小舟はなづむ。 あなあはれ、 ものなべて見わかぬ闇よ、 内にはた悩みか伏せる 幾百の沈黙の大牛。 最終か、恐怖の淀か、 舟は、あな、音なく留まる。 りんりん……………………すりりん…… 否、また、おのづからなる 抵抗のすべなき力 その水に舟押しながる。 ぎいすちよつ………ぎいすちよつ……… がちやがちやがちや……ぎいすちよつ…… がちやがちやがちや……がちやがちやがちや…… がちやがちやがちやがちや……がちやがちやがちやがちや…… はてもなう小舟はくだる。 大曲『悶絶』 色赤きものごゑあまた 脳をいで、とどろと奔る。── 逃れゆくわれの足音か、 もの鈍き毛織の黝 蹈みにじり、蹈みにじり………… ら、りら、ら、りら、 ほのかに雲雀。 あはれいま砥石のひびき、 鈍刀のすべるひらめき。 そのなかを赤きものごゑ 血を滴し、とどろと奔る。 もの鈍き毛織の夢を 蹈みにじり、踏みにじり………… ら、りら、ら、りら、 かすかに雲雀。 はたと、あな、足音絶え入り、 ただひびく緩るく鈍刀。 しづかなる皐月の真昼、 白雲はゆるかにのぼり、 軟ら風ゆらにゆらるる。 ら、りら、ら、りら、 さへづる雲雀。 いづこにかいづこにか揺曳ける絃の苦悩の……… 『……ああはれ、よしなや、われらがゆめぢ、        かなしきその日の接吻にも………』 緩るやかにねぶたき砥石。 『……かなしきその日の接吻にも、        さまたげ難かる「我」のほこり、   ひたぶる抱きて涙すれど恐怖と苦悩の………』 さあれなほものうき砥石。 『……ああはれ、よしなや、肉のおびえの──     汝が火のまなざし、     わが血のいどみ、     殺さむ死なむと朱に顫ふ………』 ら、りら、ら、りら、 ほのかに雲雀。 『………殺さむ死なむと朱に顫ふ………、』 聴くとなき黒ヸオロンの火のきざし 見る見る野辺に渦巻きて悶絶すれば、 くわとあがる血しほの烟、 そのなかをわれのものごゑ また見えてとどろと奔る。 忍びかにひややかに清らなる水のさらめき── さらめきに角筩あかり、 かなしみの音の吐息ほのかにおこる。 はたと、また、足音絶え入り、 野はなべて黄昏の色。 ほのかなるにほひのそらに、 やや赤く地平は光り、 そこここの水面より 水牛いづる。 水牛のしづけさや、 しづかなる角の音に物をしおもふ。 しかあれ、鈍刀の すべる音、──砥石のひびき── ら、りら、ら、りら、 ほのかに雲雀。 しづかにも坐る水牛、 戦慄の、かなしみの唸あげつつ、 おもむろにおもむろにあかる不思議の いと赤き西天ながめ、 恐ろしき、あるものの迫にふるふ。 いづこにか洩れきたるヸオロンのゆめ……… 『……そぞろ、あはれ、そぞろ、あはれ    恋の帆船の──    空色の帆もちぎれ、波にぬれて──    今日また二人、    今日また二人、    かなしき島根をさしてかへる………』 また鈍き砥石のひびき    かなしき光に艫のためいき、    かなしき海ゆくわかき夢の    みそらにほのめく星の光、    ああいますべなく、われら帰る。……』 ふと起る、この面彼面に嘲笑ふ人の諸こゑ。 『……苦しき挑みにせきもあへぬ    恋慕の吐息に顫ふこころ、    嗚呼このなやみをいかにかせむ。    さあれど、すべなく帰る二人。……』 高みゆく砥石の響──鈍刀の増えゆくすべり── 『……朱なる接吻、痛き怨言、    ああまた再度抱き泣けど………』 また近く暗き嘲笑。 『……ああかなし、    かなしき光、    われらの光、    内心のかなしき瞳………』 たと跳り逃ぐる水牛 あな、赤き血浴びしごとも啼き狂ひ絶望の唸に奔る。 大空は見る見る月の面となり、 たちまち赤き半円の盲ひし如も広ごれば、 一時に響く野の砥石、数かぎりなき刃のにほひ── はた、赤き此面彼面の嘲笑……あまる空なく おほらかに広み尽くせる、大月の恐怖の面、 爛れたる眩暈三度、くわつとして悶絶すれば 見るが間に血烟あがり、 逃れゆく我のものごゑ また見えてとどろと奔る。 水牛の声………千万の砥石の響……… 苦き嘲罵………はたや、なほ奔る足音……… ら、りら、ら、りら、 ほのかに雲雀。 はたといま聾しぬる。 色…………音…………光………… 四十一年八月 大太皷の印象 跳りいづ、赤き獣、     どんどん……… とみかう見、円らに笑ひ、はた跳る。     どんどん……… あなやいま街の角より人曲る。     どんどん……… また来る。     どんどん……… 赤き獣はふと消えて幼子となり、     どんどん……… 電車線路を匍ひめぐる。人また見ゆる。     どんどん……… あな、うち転ぶ人のむれ、音もころころ。     どんどん……… 幼子のうへに重なる。また転ぶ。     どんどん……… 逃げんと呻く間もなく、ひびきものうく、     どんどん……… 鈍き電車は唸り来る。はた、轢き過ぐる。     どんどん……… 時に真白の雲の団街よりのぼり、     どんどん……… かき消ゆる人のあとより     どんどん……… また跳る赤き獣     どんどん……… とみかう見、盲ひて笑ひ、はた、傲る。     どんどん……… 四十一年八月 眼ふたげば 眼ふたげば鳥は囀る。 盲ひたる色赤き世界のなかに、 疲れたる鳥は囀る。 盲ひたる色赤き世界のなかに、 また見るは肋のにほひ 光なく、力なく、さあれほのめく。 肋骨泣きかつ訴ふ。 『わが骨はわが骨は色あかき心の楯よ。 かくてはや終の墓碑。』 鳥は囀る。 『婆羅門の婆羅門の塩を嘗めつる 咎ゆゑに昼も夜もかくは啼くめる。』 いづこにか、さはきりぎりす。 盲ひたる色赤き世界のなかに、 力なきうめきのやから 騒ぎ立ち、鳥はさへづる。 はた消えてふと見ゆる顔。 その顔はあてに痩せたるかの少女。 少女のなげく。 『あはれ、君、われはもや倦みも死なまし。』 鳥は囀る。 少女の顔はややありて白き手となり、 疲れたる、葡萄酒を注ぐ顫して 『紅き酒、そはわが血潮、 ほどほどに吸ひて去ねかし。』 鳥は囀る。 はと眼ひらけば、わがまへに赤くちりかふ 光線の光の団のめくるめき。 鳥は囀る。 また眼とづれば、泣きいづる骨の揺曳、 人の顔。はた、きりぎりす。 鳥は囀る。 かうほね きけ、あけぼのの香炉に、 連弾く夜半のそらだき 薄らひ、ほのにあかれば、 清掻、やがてもはらに ひとつの香のいろのみ 薫ゆりぬ、──あはれ、水の面の 後朝、──誰をかかへすと、 さは水無月のつくゑに 香の火炷くや、かうほね。 青き酒 十呂盤 大いなる── 聞け、大いなる黒金の巨人の指は 絶えずわが紅玉の数の珠を 弄ぶ。 何時よりか、知らず、 左の掌の脈搏つ上に 水晶の星彫む白壇の桁 横たへつ。 見るは、ただ、 蛇腹に似たる掌の暗き彫刻 弾く指、また昼と夜とも分かたぬ 天の色。 わが珠の 上れば、ひとつ、劫の世に惑星うまれ、 下る時、億年の栄華は滅ぶ 加減則。 斯くて、わが 運正しき紅玉の妙音楽は 極みある命数の大歓楽に 鳴りひびく。 光明の 大千世界ひとときに叫喚つくる 恐怖の日、はた、知らず、われと音に酔ふ 星の桁。 聞くは、ただ、 宏大無辺天空の寂寞遠く 筆走り、たまたまに『差引』記す 夢の音。 さては、また、 わかき巨人が黒金の高胸へだて われは聞く、おほどかに鼓うつなる 心の臓。 はばたき 聞けとある大海原のただなかは 終日重きあかがねの霧たちこめて ゆたゆたに濤こそうねれ、日輪は 凄まじ、黒き血の塊と焦げて暈めく。 みるかぎり赤道下の炎熱に 鉛のごとき鹹水は炎と燃えて、 海蛇の鎌首高く、たまたまに 煌めき、さてはづぶづぶと青く沈みぬ。 物なべて気懶し重し、わだのはら 溶けたゆたふ鬱憂のうねりに疲れ 夜のごとも深まる吐息。しかすがに、 大寂静の空高く濃霧をわけて 東より霊智の光しらしらと 見え、かつ、消えぬ、大鳥の強きはばたき。 青き酒 青き酒、── など、汝は否む。これやわが深みの炎、 また永久の秘密の徴、われと聴く 激しき恋の凱歌に沈みにし色。 ただ刹那、 千年に一度現るるかの星こそは、 われとわが醸みにし酒の火の飛沫、── 濃き幻のしたたりに天さへ燬けむ。 こを飲まば 刹那の刹那、歎く血の歓楽にこそ、── 痛ましき封蝋色の汝が胸も、 焦げつつ聴かめ、 この夜半に音なく響く管絃楽、 虚無より曳ける青き火の丈長髪を。 空罎 葡萄酒罎の上包、霊なるころも、 何の魔か、飽くなき慾の痙攣もて かく引き裂り、むざむざと歩み棄てけむ。── 火の片ぞ素足にわれと泣かしむる。 いづくに行かば得らるべき命の糧ぞ。 踏むはただ鉛の路の火の飛沫、 死の色つづく高壁のつらねのそこを 蟻のごと匍ひもとほらむ末のすゑ。── たちまち薫る酒の歌、蒸すかと見れば 赭ら頬の想の族らとりどりに、 はや、酔ひしれて狂れきぬ、あな、わが血にぞ。 かくて、見よ、わが幻に転ぶもの 吸い尽くされし空の罎、──空なる命、 最終の辻の恐怖に、ふと青む。 炎上 焦げに焦がるる我心、そことしもなく聞ゆるは 執着の日の喚叫、黒ずむ悪の火の羽ぶき、 油日照の四辻は凄惨として音もなく、 雲なき空に電流の渦まき消ゆる断末魔。 もそろもそろに滞る鉛の電車、一片の 命の紙と蝋づけの薄葉鉄の人を吊るしつつ、 黒き煉瓦の息づみにひたぶる咽ぶ輪のほめき。 事こそ起れ、いづこにか、早鐘すらむ物の色。 驚破、炎上の火の光、見れどもわかぬ日ざかりに みるみる長く十字劃きゐすくむ帯の縧色、 あなと、昏めば、後より、戞戞戞と跑ふませ、 隙こそあれや、たとばかり、鞭ひらめかし、驀然、 黒き甲と朱の色の蒸汽喞筒の馬ぐるま、 跳りぞ過ぐれ、湯は釜に飛沫くわつくわと沸りたる 紅火 夜なり。二人、臨終の寝椅子に青み、むかひゐて 毒酒を杯に。紅の燭こそ点せ。まのあたり、 無言に凝視め赫耀の波動を聴けば、夢心地、 浄華のわかさ、身も霊も紅く縺るる赤熱よ。 火は葡萄染の深帳、花毛氈や、銀の籠、 また、羅のころも、緑髪、わかき瞳に炎上の 匂香熱く、『時』の呼吸、瞬き燻る『追懐よ。 『恋』は華厳の寂寞に蒸し照る空気うち煽る。 時経ぬ唇は『楽欲』の渇に焦れ、心の臓 喘げば、紅火『煩悩』の血彩薫ずる眩暈よ。 朱の蝋涙は毒杯の紫擾し照り雫く。 今こそ蝋は琺瑯に炎のころもひき纏ひ、 音なく溶くる白熱に爛れ艶だつ弱ごころ、 無言に泣けば『新生』の黄金光ぞ燃えあがる。 暮愁 暮れぬらし。何時しか壁も灰色に一室はけぶり、 盤上の牡丹花ひとつ血のいろに浮び爛れて、 散るとなく、心の熱も静寂の薫に沈み、 卓の上両手を垂れて瞑目れば闇はにほひぬ。 窻の外は物古りし街、風湿める香のぬくみに、 寺寺の梵音うるむ夕間暮、卯月つごもり、 行人の古めく傘に、薄灯照り、大路赤らみ、 柑子だつ雲の濡いろ、そのひまに星や瞬く。 わが室は夢の方丈、匂やかに名香なびき、 遠世なる暮色の寂に哀婉の微韻を湛へ、 髣髴と女人の姿光さし続く幾むれ、 白鳥の歌ふが如く過ぎゆきぬ、すべる羅の裾。 そのなかに君は在せり。緑髪肩に波うち、 容顔の清しさ、胸に薔薇色の薄ぎぬはふり、 情界の熱き波瀾に黒瞳にほひかがやき、 領巾ふるや、夢の足なみ軽らかに現なきさま。 ああ、それも束の間なりき。花祭ありし夕か、 群衆のなだれ長閑かに時花歌街を流れて 辻辻に山車練る日なり、行きずりに相見しばかり、 高華なる君が風雅も恋ふとなく思ひわすれき。 今行くは追憶の影──黄金なす幻追ひて、 衰残の心の大路暮れゆけば顧みもせぬ 人生の若き旅びと、──くづをれて匂ゆかしみ 我愁ふ、追慕の涙綿綿と青む夜までも。 乱れ織 無花果の園 なにか泣く、野より、をとめよ、 無花果の汝が園遠く われは来ぬ。いざ眼をあげよ。 今日もまた葉かげ、実がくれ、 甘き香の風に日あびて 語らまし。いざ手を交せ。 さは泣くや、夜にか、をとめよ。 汝が園は焼けぬと。草も、 無花果の樹も実も無しと。 おお、なべて園はいたまし。 葉も幹も、ああ、実も香もか、 草の床──恋の巣までも。 さあれ、よし。白帕やはに うるはしき汝が頬の涙 まづぬぐへ。すみれのにほひ。 曾て汝は春のほこりに、 なに誓ひ、いづれ惜みし この恋と、その古園と。 ああ、園は野火に焼かれて 今は無し。──美し追憶 ただ胸の香にこそにほへ。 さば尋めむ、恋の歓楽。 今日よりは、野山に、谷に、 百合、さうび、花の日の栄。 ああ、かくて、終の愛欲。 火と燃えて身を焼く夜にも、 汝は泣くや、いかにをとめよ。 燕 燕は翔る、水無月の 雲の旗手の濡髪に。── 暗き港はあかあかと 霽れぬ、滴る帆の雫。 燕は翔る、居留地の 柑子色なす窻玻璃 ななめに高く。──ほつほつと 霧に湿らふ火のにほひ。 燕は翔る、葉煙草と ヸオロン薫ゆる和蘭の 酒楼のまへを。──笛あまた 暮れつつ呻ぶ海の色。 燕は翔る、花柘榴── 濡るる埠止場の火あかりに。 かくてこそ聴け、艶女等が 猥らにわかきさざめごと。 珊瑚切 午さがり、 渚に緩き波の音。 少女はやがてあてやかに 『何ぞ。』と答へぬ、伏眼して、 紅き珊瑚の枝あまた 撰みつ、切りつ、かろらかに 鋸の歯のきしろへば、 ほそき腕と頬のうへに 薔薇いろの靄さとけぶる。 ややありて、 渚に緩き波の音。 男は燃ゆる頬を寄せて 『君をおもふ。』と忍びかに、 さては手速にうしろより 珊瑚細工の車の柄 かろく廻せば、ためらへる 白の上衣と髪の毛に 薔薇いろの靄さとけぶる。 のびやかに 渚に緩き波の音。 少女は、さいへ、あからみて 『吾も。』とばかり、海の日を 玻璃に透かしつ、やうやうに 形ととのふ恋の珠 磨きつ、吹きつ、をりをりに 車まはせば、美しく 薔薇いろの靄さとけぶる。 乱れ織  ──天草雅歌── わが織るは、 火の無花果を綴りたる 花哆囉呢の猩猩緋。      とん、とん、はたり。 さればこそ 絶えず梭燃え、乱れうつ 火の無花果の百済琴。      とん、とん、はたり。 聞き恍れて、 何時か、我が入る、猩猩緋 花哆囉呢のまぼろしに。      とん、とん、はたり。 乱れ織、 落つる木の実のすががきに ふとこそうかべ、銀の楯。      とん、とん、はたり。 飜へす 貝多羅葉の馬じるし 花哆囉呢のまぼろしに。      とん、とん、はたり。 また光る 白き兜の八幡座、 火の無花果の百済琴。      とん、とん、はたり。 乱れ織、 つと空ゆくは槍の列。 花哆囉呢のまぼろしに。      とん、とん、はたり。 さては見つ、 火の無花果のすががきに 君が鎧の猩猩緋。      とん、とん、はたり。 われは、また 花哆囉呢のまぼろしに 白き領巾ふる。百済琴。      とん、とん、はたり。 そのときに、 馬は嘶く、しらしらと、 火の哆囉呢の無花果に。      とん、とん、はたり。 あはれ、いま 花哆囉呢のすががきに 再び擁く、君と我。      とん、とん、はたり。 天も見ず、 被ぐは滴る蜜の音、 君が鎧の猩猩緋。      とん、とん、はたり。 こは夢か、 刹那か、尽きぬ幻か、 花哆囉呢の梭の音。      とん、とん、はたり。 高機  ──天草雅歌── 高機に 梭なげぬ。  きり、はたり。 その胸に 梭なげぬ。  きり、はたり。 その高機に、 その胸に  きり、はたり。 顛末  ──天草雅歌── 『花ありき、われらが薔薇、 摘まれにき、われらが薔薇。 かくて、また、何時としもなく 凋みにき、われらが薔薇。』 あはれ、炉に凭ればかならず、 顛末はかかりきといふ わが媼、その日の薔薇、 『何ゆゑ。』と問へば、かくこそ、 火にいぶる紅き韈 つと退きて噎せ入りながら、 『子らよ、そは、ああ、その薔薇 あまりにも紅かりしゆゑ。』 ためいき 今しがた、夜会ははてぬ。 花瓦斯のほそきなげきに 絹帷紅き天鵝絨、 散り藉ける花束のくづ、 おぼろげに室は青みて、 うらわかき騎士が拍車の 音の乱れ、舞の足ぶみ、 頬のほてり、かろきさざめき、 髪あぶら、あはれ、楽声、 あたたかに交りみだれて ゆめのごと燻りただよふ。 そのなかに、水のつめたさ ちらぼひぬ、これや、一夜を 伴もなく青みしなへし 女子がわかきためいき。 時鐘 身にか沁む。──『わが世がたりも はや尽きぬ。興もなき事。 わかうどよ、紅き炉の火に 美しき足袋をな焼きそ。 かの宵の恋にもまして うそ寒き夜にもあるかな。』 老媼かくつぶやきながら 力なう柴折りくべぬ。 そともには雪やふるらむ。 燃ゆる眼にわかきは見あげ、 言葉なく、またうつぶきぬ。 ひとしきり、沈黙やぶれて、 煤けたる江戸絵の壁に 禁軍の紅帽あかり、 はちはちと火の粉飛びちり、しづまりぬ。 九時にかあらむ。 ああ今、目白僧園の鐘鳴りやみぬ。 若し 炉の椅子に我ありとせよ、 また火あり熾れりと見よ。 棚の上の小さき自鳴鐘 鳩いでて三つと鳴かぬ間、 わが唇は汝がくちに、 頸まき、ただ火のもだえ、 また韈の焦ぐるも知らね、 さいへ、夏、我やはた、 火の気なき炉に椅子もなし、 人妻よ、安かれ、汝も。 たはれ女 『やよ、しばし、 そのうつくしきわかうどよ、 君はいづこへ。』『君は、など。』 『美男、あはれ、いつの日か 君に見えけむ。』『しかはあれ、 われはえ知らず。』『さな去にそ、 その御瞳のうつくしさ、 いかで忘れむ。』『さあれ、など、』 『まづ、おきたまへ、原のぬし?』 『いな、』『さは知りぬ、蜂須賀の 君か。』『いな、いな。』『ほ、ほ、さても、 御歳は。』『十九。』『はしけやし、 法科のかたか。』『いな。』『いなと、 さらばいとよし。さて、君は いづこへ。』『麻布、君は、また。』 ほほ、わすられぬ情人を 招ぎに。』とばかり、かたへなる 自働電話の火のとびら たわやに開けて、つと入りぬ。 驢馬の列  ──かかる詩の評家に── 驢馬の列ぞ街をゆく。 見よ、のろのろの練足に、 鼻も眼もなきひとやから 載せて、うなだれ、呻びたる。 驢馬の列ぞ街を行く。 鳴くは通草の変化らか、 また、耳もなきひとやから 口のみあかくただれたる。 驢馬の列ぞ街をゆく。 あはれ、終日、手さぐりに 生灰色の怪のやから、 のへらのへらと鞭ふれる。 驢馬の列ぞ街をゆく。 もとより、人の身ならねば、 色もにほひも歌ごゑも 嗅ぐすべはなし、罵れる。 驢馬の列ぞ街をゆく。 ただ戸に咲ける罌粟ひとつ 知らえぬ汝等、いかで、さは 深き館の内心を。 驢馬の列ぞ街をゆく。 すでに罵る汝が敵は 白馬に抱く火の被衣 千里かなたのくちつけに。 落雷 落雷 静まりてなほもしばらく 霧のぼる高原つづき 爛れたる「時」ははるかに、 恐ろしき苦悩をはこぶ。 驟雨またひといくさ、 走りゆく雲のひまより かろやかに青ぞら笑ひ、 日の光強く眩しく 野はさらに酷熱のいろ。 腥くさきオゾンのにほひ 雫する穂麦のしらみ、 今裂けし欅の大木 燥るがごと疼くいたでに 脂黒くしたたるみぎり、 油蝉ぢぢと鳴き立つ。 根がたには蝮さながら 髪あかき乞食ひとり 仰向けに面桶つかみ、 見よ、死せり。雷火にゆがむ 土いろの冷き片頬に 血の雫──濡れて仄めく 一輪の紅きなでしこ。 長月の一夜(初稿) 長月の鎮守の祭 夜もふけて天は険しく 雨もよひ、月さしながら 稲妻す、濃雲をりをり 鉛いろ赤く爛れて 野に高き軌道を照らす。 このあたり、だらだらの坂 赤楊高き小学校の 柵尽きて、下は黍畑 こほろぎぞ闇に鳴くなる。 いづこぞや、女声して 重たげに雨戸繰る音。 大師道、辻の濃霧は、 馬やどのくらめきあかりに 幻燈のぼかしの青み 蒸しあつく、ここに破馬車 七つ八つ泥にまみれて、 ひつそりと黒う影しぬ。 泥濘は物の汗ばみ 生ぬるく、重き空気に 新らしき木犀まじり 馬槽の臭気ふけつつ、 懶うげのさやぎはたはた 夏の夜の悩を刻む。 足音す、生血のにじみ しとしとと、まへを人かげ おちうどか、はたや乞食か、 背に重き佩嚢になひ、 青き火の消えゆくごとく 呻きつつ闇にまぎれぬ。 嗚呼今か畏怖の極み、 轡虫は調子はづれに 噪めきつつ、はたと息絶え、 落ちかかる黄金の弦 心臓の喘さながら また黒き柩にしづむ。 終列車とどろくけはひ。 凄まじき大雨のまへを 赤煉瓦高きかなたは 一面に血潮ながれて 野は紅く人死ぬけしき、 稲妻す、──嗚呼夜は一時。 蹠 海ちかき真闇の狭間、 夜の火の粉まひふるなかに 酒の罎とりて透かしぬ、 はしりゆく褐色の顔、 汽車ぞいま擦れちがひぬる。 かたむけぬ、うましよろこび、 いな、胸にしらべただるる 煉獄の火のひとしづく。 時に、誰ぞ、こん、こん、か、かん、 槌つらね、蹠うつは。 糸崎と子らがよぶこゑ。 そぞろありき 風寒き師走月、それの港を われひとり、夕暮のそぞろありきす。 薄闇のほのかなる光のなかに 老舗立つひと町は寡婦のごとく われゆゑに面変り、かくや病みけむ。 人あまた、はかなげにそともながめて 石のごと店店に青みすわりき。 たまたまに、灯さす格子はあれど 柩うつ槌の音ただにせはしく、 煉瓦つむ空地には、あはれ誰が子ぞ、 心中の数へぶし拙なげながら 音もうるむ連弾のかなしきしらべ、 いつになく旅人の足をとどめて、 灯は青く柳立つ闇にともりき。 港には浪の音も鈍にひびらぎ、 灰だめる氷雨雲空にみだれて すそあかる黄いろの遠に、海鳥 煙濃き檣の闇に一列 朱の色の大き旗鳴きもめぐりぬ。 船はまた鐘鳴らし、かくて失せにき。 そのゆふべ君のかげ消えしかなたに、 さてしもや、みえそめぬ海のかなたに けふも見よ、木星の青ききらめき。 暗愁 なにごとぞ、夕まぐれ、人はさわさわ、 新開のはづれなる坂のあき地に うづくまる。そこ、ここに煉瓦、石灰、 高草の黄にまじり、風ぞ冷えたる。 灰色のまろき石子らはまろがし 据ゑ、やをら爪立ちぬ、爺が肩より のぞき見す。──様様のくらき呼声 世のほかの町の闇ひさぐ気遠さ。 古井あり、桁はみなくづれゆがみて 桔槹ギロチンの骨とそびやぎ、 血はながる。赤ばみし蛇のぬけがら さかしまに下はこれ暗き死の洞。 人はみなめづらかに首つきいだし おづおづと環ぞ退る。あはれ男子ら 三人まで影薄う青み入りぬれ、 そよとだに腰綱の端もひびかず。 時や疾し、ひよろひよろの青洋服は わと前へ面がはり、のめり泳ぎつ。 と見ぬ、いま、むくむくと臭き瓦斯の香 町や蔽ふ、みるがまに黄ばむ天色。 驚破と、見よ、街道へまろびなだれて 西日する町の屋根、高き耶蘇寺、 ふりあふぎ人はみな面冷えぬれ。 風さらにひややかに草をわたりぬ。 灯ぞともる、支那床の玻璃に人見え、 あかあかと末広に光凍れば、 古煉瓦うづだかき原のくまぐま、 ほそぼそとこほろぎの鳴く音洩れぬる。 地獄極楽 『御覧ぢやい、まづ。』と濁ごゑ 屋根低き山家の土間は 魚燈油のくすぶり赤く、 人いきれ、重き夜霧に 朦朦と地獄の光景 現じいづ。─あはれ鞭指し、 案内者は茶いろの頭巾 殊勝げに念仏ぞすなる。 木戸にまた高く札うち、 蓮葉なる金切ごゑと 老いたるが絶えず客よぶ、── と見る、ただ赤丹剥げたる 閻魔王、青き牛頭馬頭、 講釈のなかばいちどに がくがくと下顎鳴らす。── 『評判の地獄極楽。』 胸わるき油煙のにほひ 女子らが汗に蒸されて、 焦熱のこころあかあか 火の車、または釜うで、 餓鬼道の叫喚さながら 人人が苦悩を醸す。 さはれ、なほ爺は真面目に 諳誦す、業の輪廻を。 盂蘭盆の寺町通、 猿芝居幕のあひまか 喇叭節みだらに囃す。── うち湿る沈の青みを 稚子あそぶ賽の河原は、 長長と因果こそ説け、 『なまいだぶ。』こゑもあはれに、 かたのごと、涙を流す。 ひと巡り、はやも極楽、 絵灯籠紅き出口は 華やげ楼閣そびえ、 頻伽鳥鳴けり。この時、 酒の香す、懐がくり 徳利嘗め、けろり鐸ふる、 太鼻の油汗見よ。 『先様はこれでお代り。』 熊野の烏 夜は深し、熊野の烏 旅籠の戸かたと過ぐ、 一瞬時、──燈火青に 閨を蔽ふかぐろの翼 煽り搏つ羽うらを透かし 消えぬ。今、森として 冷えまさる恐怖の闇に 身は急に潰ゆる心地。 「変らじ。」と女の声す。 ひと呻く、熊野の烏。 丑満の誓請文 今か成る。宮のかなたは 忍びかに雨ふりいでぬ。 『誓ひぬ。』と男の声す。 刹那、また、しくしくと 痙攣む手脚のうづき、 生贄の苦痛か、あなや、 護符ちぎる呪咀のひびき。 はたと落つる、熊野の烏。 と思へば、こは如何に、 身は烏、嘴黒く 黒金の重錘の下に 羽平み、打つ伏す凄さ。 はた、固く、痺れたる 血まみれの頭脳の上ゆ、 暗憺と竦まりながら 魂はわが骸をながむ、 我 時は冬、霜月下旬、 夜の一時、真闇の海路。 玄海か、朝鮮沖か、 知らず。ただ波涛の響 鞺鞳と窻うつ暗さ。 門司いでて既に幾時。 いとど蒸す夜来の空は、 雨交り雹さへ乱れ、 灘遠く雷するけはひ。 不安いま、黒き旗して 死の海を船ゆく恐怖、 深沈の極み真黒に 点鍾の悲音たまたま、 天候の険悪いよよ、 闇憺とわが夜はくだつ。 一室に見知る顔なし。 何ごとぞ、宵のほどより、 紅毛の羅面絃弾者は 白眼むき絶えず笑へり。 陰翳は彼が肋に 明暗す一張一弛、 カンテラの青み吸ひつつ、 縞蛇の喘ぐが如し。 深夜なり。疫病顔に、 衆人は疲れ黄ばみて 銭ひとつ投ぐる者なし。 乱撃よ、早鐘急に、 甲板は靴音高く、 『驚破。』『風ぞ』『誰そ巻け』『倒せ。』 『綱投げよ。』一時に水夫ら 狼狽の銅羅声擾し、 『飛沫』『それ辷るな』『立て。』と 口口に、巻き、投げ、昇り、 立ち騒ぐ刹那か、颯と 暴風の襲来迅く、 帆の半、帆ばしら、帆桁、 折れ、唸り、はためき、倒れ、 動揺す、奈落へ、天へ、 激瀾の鳴号凄く 轟轟と頭上に下に、 刻刻の不穏等しく 一室は歯の根もあはず、 惨たりな、垂死の境。 紅毛は笑ひつつあり。 ふと見れば何らの贄ぞ、 わが膝は眩ゆきばかり 乱髪の女人に温み、 華奢ながら清き容顔 夢みるか、青うゑまひぬ。 恋びとか、あはれ、抱けば 軽軟の吐息すずろに 頬触れぬ、薔薇のにほひ。 嗚呼暫時流離の胸も 脈絡の炎に爛れ、 痛楚なる人が呻吟も、 念仏も悲鳴も知らず、 情界の熱き愉楽に、 わが霊は喘ぎ焦がれぬ。 何ごとぞ、一時に音し、 毱のごと五体は飛べり。 瞬く間、危急の汽笛 一斉の叫喚──うつつ、 秒ならず、後甲板は 懸命の格闘黒く、 『咄、放せ』短艇に魔あり、 櫂あげて逃路を塞ぐ。 目前の障碍──知らず 紅毛か、水夫か、女か、 他人なり──死ねやとばかり、 発止、余は短銃高く 一発す、続いて二発、 三発す。あはや横波 驀地頭上を天へ、 舳なかば傾く刹那、 しやしやしやしやと水晶簾ぞ 落下すれ、苦鳴もろとも 闇中の渦巻分時、 微塵なり。──水天裂けて 髣髴と白光走る。 眼ひらけば、小春のごとも 麗らかに空晴れわたり、 身辺は雑木踈らに、 名も知らぬ紅花叢咲き 涼風の朝吹く汀、 砂雲雀優にあがれり。 ああ、神よ、他人は知らじ、 我はわが生命の真珠 全きを今もながめて、 満腔の歓喜高く 大音に感謝しまつる。 吐血 罌粟畑日は紅紅と、 水無月の夕雲爛れ、 鳥鳴かず。顔火のごとく 花いづるわかうど一人、 黒漆のわかき瞳に 楽欲の苦痛を湛へ、 大跨に一歩ふりむく。 極熱の恋慕の郊野 蒼然と光衰へ、 草も木も瀕死の黄ばみ、 夜のさまに凄惨たりや。 う、とばかり、刹那膝つき、 絶望に肺はやぶれて 吐息しぬ──くれなゐの花。 柑子咲く国 南国 ああ、君帰れ、故郷の野は花咲きて わかき日に五月柑子の黄金燃え、 天の青みを風ゆるう、雲ものどかに 薄べにのもとほりゆかし。──帰れ君、 森の古家の蔦かづら花も真紅に、 飜へれ、君はいづこに、──北のかた 柩まうけの媼さび、白髪まじりの 寒念仏、賢し比丘らが国や追ふ。 ああ鬱憂の山毛欅の天、日さへ黒ずみ、 朽尼が涙眼かなしむ日の鉦に、 畠の林檎紅饐えて蛆こそたかれ。 帰れ、君、──筑紫平の豊麗に 白がね鐙、わか駒の騎士も南へ、 旅役者、歌の巡礼、麗姫、奴、 絵だくみ、うつら練り続け。なかに一人、 街道や藤の茶店の紅き灯に 暮れて花揺る馬ぐるま、鈴の静けさ、 四とせぶり、君も帰らふ夕ならば 靄の赤みに、夢ごころ、提灯ふらまし。 朝ならば君は人妻、野に岡に、 白き眼つどへ、ものわびし、われは汀の 花菖蒲、風も紫の身がくれに 御名や呼ばまし、逢見初め忍びしわかさ 薄月に水の夢してほそぼそと、 ああさは通へ、翌の日も、山吹がくれ 雨ならば金糸の小蓑、日には跑、 一の鳥居を野へ三歩、駒は木槿に、 露凍の忍び戸、それもほとほとと 牡丹花ちらぬほど前へ、そよろ小躍れ 薔薇みち、蹈めば濡羽のつばくらめ、 飛ぶよ外の面の花麦に。 あれ、駒鳥のさへづりよ。 籬根近し、忍び足、細ら口笛 琴やみぬ、衣のそよめき、さて庭へ、 (それと隠れぬ。)そら音かと、(空は澄みたれ、 また鳴らす。)ほほゑみ頬に、浮あゆみ 楝、柏の薄ら花ほのにちる日の 君ならばそぞろ袂もかざすらむ。 はや午さがり、片岡の畑に子ら来て、 早熟の和蘭覆盆子紅や摘む 歌もうらうら。──風車めぐる草家は 鯉のぼり吹きこそあがれ、ここかしこ、 里の女は山梔の黄にもまみれて 糯や蒸す、あやめ祭のいとなみに 粽まく夜のをかしさか、頬にも浮べて わかうどは水に夕の真菰刈、 いづれ鄙びの恋もこそ。 君よ。われらは花ぞのへ、 夕栄熱き紅罌粟の香にか隠れて 筒井づつ振分髪の恋慕びと 君吾燃ゆる眼もひたと、頬ずりふるへ そのかみの幼な追憶──君知るや フランチエスカの恋語──胸もわななけ、 人妻か、罪か、血は火の美しさ、 激しさ、熱さ、身肉の爛れひたぶる かき抱き犇と接吻け死ぬまでも 忘れむ、家も、世も、人も、 ああ、南国の日の夕。 恋びと ああ七月、 山の火ふけぬ。──花柑子咲く野も近み、 月白ろむ葡萄畑の夜の靄に、 土蜂の羽音、香の甘さ、青葉の吐息、 情慾の誘惑深く燃え爛れ、 仰げば空の七つ星紅く煌めき、 南国の風さへ光る蒸し暑さ。 はや温泉の沈黙──烏樟の繁み仄透き灯も薄れ、 歓語絶えぬ。──湯気白う、 丁字湯薫る女の香、湿りただよひ わが髪へ、吹けば艶だつ草生なか。 露みな火なり。白百合は喘ぎうなだれ、 花びらの熱こそ高め。頬に胸に ああ息づまる驕楽の飛沫ふつふつ 抱擁に人死ぬにほひ、血も肉も わななきふるふ。 ああ七月、 ふと、われ、ききぬ──忍び足熱きさやぎを 水枝照る汀の繁木そのなかに。 さは近づくは黄金髪、青きひとみか、 また知らぬ、亜麻いろ髪か、赤ら頬か、 ああ、そのかみの恋人か、謎の少女か。 遠つ世の匂香あまき幻想に 耳はほてりぬ。うつうつと眼さへ血ばみて、 極熱の恋慕胸うつくるほしさ。 風いま燃えぬ。ゆめ、うつつ、足音つづきぬ。 身肉のわづらひ、苦き乳の熱に 汗ばみ眠れば心の臟、牡丹花の騒ぎ 瞬く間、あな頬は爛れ、百合のなか、 七尺走る髪の音、ひたと接吻け、 紅の息、火の海の、ああ擾乱や、 水脈曳き狂ふ爛光に、五体とろけて 身は浮きぬ。牡丹花ひとつ、血の波を焦がれつ、沈む。 霊場詣 行けかし、さらば南国の番の御寺へ。 春なれば街の少女が華やぎに、 君も交りて美しう、恋の祈誓の 初旅や笈摺すがた鈴ふりて、 大野のみなみ、菜の花の黄金海透く 筑紫みち列もあえかのいろどりに 御詠歌流し麗うらと練りも続く日、 軟かぜに絵日傘あぐる若菜摘、 法師、馬上の騎士たちも照りつ乱れつ 菅笠に蝶も縺るる暖かさ。 はじめ御山の清水寺。 風雅古る代の絵すがたか、杉の深みの 薄ざくら花も散りかふ古みちを、 六部、道心、わか尼のうれひしづしづ 鉦うつや、袖も湿ふゆきずりに 霊場詣、杖かろく、番の歌ごゑ 華やかに、巡礼衆が浮あゆみ、 峡は葉洩れの日のわかさ、風も霞みて、 春の雲白ういざよふ静けさに 鶯鳴けば、ちらちらと対の袂へ 笈摺へ、薄ら花ちるうららかさ。 かくて霊地の荘厳に古き杉立つ 大木の霧の石階ほの青み、 白日の灯ともる奥深さ、遠みかしこみ 絵馬堂へ、──桜またちる菅笠や、 音羽の滝に紅の唇も嗽がむ 街少女、思もわかき瞳して 御堂のまへの静寂に鈴ふりならび ぬかづくや、金の香炉の薄けぶり、 羅蓋蓮華の闇縫うてほのかにそらへ 星の如仏龕に光る燈明の 不断の燻り、内陣の尊さ深さ、 先達に連れて献ぐる歌ごゑも 後世安楽の願かけて巡る比丘らが 罪ならず、恋の風流の遍歴に、 心も空も美しうあこがれいでし 君なればそぞろ涙も薫るらむ。── あるは月夜の黄金みち、菜の花ぞらの 星あかり朧ろ煌めく野の靄に、 鬢の香吹かれ仄白う急ぐ楽しさ、 灯は街に、──しだれ柳の樾路は 紅提灯の軒つづき、桃も鄙めく 雛祭、店のあかみに伏眼して 奉謝を乞はむ巡礼の清しさ、わかさ、 夕霧に若人忍ぶそぞろきも 艶めかぬほど、頬にゑみて鈴もほそぼそ 「普陀落や」練れば戸ごとの老御達 春のひと夜の結縁に招ぜむ杖と 白髪ふり、転び、袖とる殊勝さや。── 行けかし、さらば南国の番の御寺へ 春なれば街の習慣美しむ 恋の祈誓の初旅や、母にわかれて 少女らと、朝な夕なの花巡り、 やがて遍路の悲愁に雲も騒立ち 花ちらふ卯月とならば故さとへ、 ああ妻なよび髪ねびて、我恋ひ待てる 新室に帰りこよかし、いざさらば、 弥生はじめの燕、袖すり光る 麗ら日を、君も行くかよ、杖あげて、 南無や大悲の観世音、守らせたまへ、 朝風に、ああ巡礼の鹿島立ち。 花ちる日 日も卯月、ひとりし行かば──水沼べの緑のしとね、 身はゆるに寝なまし。風の散花に、水生の草に、 さざら波、ゆめの皺みの口吻に香にほふ夕。 つねのごと花輪編みつつ君おもひ水にむかへば、 遠霞む山の、古城市の壁、森の戸までも、 白寂の静けさ深さ、いと青に天も真澄みぬ。 ああ、君よ、ゆめみる人の夕ながめ──汀白みて、 木原みち、薄ら花踏む里乙女、六部、商人 文づかひ──それも恋路の浮あゆみ、誰へか──目守れば 雲照らふ落日の紅に水の絵の彩も乱れて 眼も病まむ、ややに古代のうれひして影ちり昏み はや暮れぬ。市は点燈夫せはしげに走すらし。さあれ 葦かびの闇には鳰のほのなよび。小野の鈴の音、 夕づつのほのめき、ゆめの頬白のみやびやすらに、 風ぬるみ、髪にはさくら、くさに地の歔欷ふけつつ、 仄に灯は君が館に、妻琴の調べ澄む夜ぞ、 花やかに朧ろに耳はそのかみの日をしも薫ゆれ。 ああ平和、我はも恋のさみし児か、神に斎きの 環も成りぬ。靄の青みに静ごころ君思ふ暫時 涙もろ、あたりの花に頬をうづめ泣かましものか。 ああ、二人。──君よ暮春の市の栄、花に幕うち、 紅の花氈敷く間の遊楽や、大路かがよひ 潮する人数、風雅の衣彩に乱れどよむ日。 縦しや、また花の館に恋ごもれ、君が驕楽 琅玕のおばしま、銀の両扉、𤨴𤤦の室屋、 早や飽きぬ、火炎の正眼、肉の笑、蜜の接吻、 絵も香も髪も律呂も宝玉も晴衣も酒も あくどしや、今こそ憎め。(楽欲は君がまにまに) ああ君よ、賤の児なれば我はもや自然の巣へと 花ちる日、市をはなれて、鄙ごころ、またと帰らじ。 郊外 悄悄と我はあゆみき。 畑には馬鈴薯白う花咲きて、 雲雀の歌も夕暮の空にいざよひ、 南ふく風静やかに、神輿の列遠く青みき。 かかる日のかかる野末を。 嗚呼暮色微茫のあはひ、 笙すずろ、かなたは町の夜祭に 水天宮の舟囃子。──夕ごゑながら 乾からびし黄ぐさの薫、そのかみも仄めき蒸しぬ、 温かき日なかの喘息。 父上は怒りたまひき、 『歌舞伎見は千年のち。』と。子はまたも 暗涙せぐるかなしさに大ぞらながめ、 欷歔しつつ九年母むきぬ。酸ゆかりき。あはれそれより われ世をば厭ひそめにき。── 鉦 人みな往にぬ、うすらひぬ。 森の御寺の夕づく日、 ほの照り黄ばむさみしらに やがて鉦うつ一人の その夜ぞこひし、野も暮れよ、 あはれ初秋、日もゆふべ、 落穂ふみつつ身はまよふ。 底本:「白秋全集 1」岩波書店    1984(昭和59)年12月5日 入力:飛鷹美緒 校正:林 幸雄 2010年7月5日作成 青空文庫作成ファイル: 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