邪宗門 北原白秋 Guide 扉 本文 目 次 邪宗門 邪宗門扉銘 詩の生命は暗示にして単なる事象の説明には非ず。かの筆にも言語にも言ひ尽し難き情趣の限なき振動のうちに幽かなる心霊の欷歔をたづね、... 昔よりいまに渡り来る黒船縁がつくれば鱶の餌となる。サンタマリヤ。 例言 魔睡 邪宗門秘曲 朱の伴奏 謀坂 外光と印象 冷めがたの印象 このさんたくるすは三百年まへより大江村の切支丹のうちに忍びかくして守りつたへたるたつときみくるすなり。これは野中に見いでたり。 天艸雅歌 青き花 青き花 古酒 恋慕ながし 装幀………………………………………………………………石井柏亭  父上に献ぐ 父上、父上ははじめ望み給はざりしかども、児は遂にその生れたるところにあこがれて、わかき日をかくは歌ひつづけ候ひぬ。もはやもはや咎め給はざるべし。   邪宗門扉銘 ここ過ぎて曲節の悩みのむれに、 ここ過ぎて官能の愉楽のそのに、 ここ過ぎて神経のにがき魔睡に。 詩の生命は暗示にして単なる事象の説明には非ず。かの筆にも言語にも言ひ尽し難き情趣の限なき振動のうちに幽かなる心霊の欷歔をたづね、縹渺たる音楽の愉楽に憧がれて自己観想の悲哀に誇る、これわが象徴の本旨に非ずや。されば我らは神秘を尚び、夢幻を歓び、そが腐爛したる頽唐の紅を慕ふ。哀れ、我ら近代邪宗門の徒が夢寝にも忘れ難きは青白き月光のもとに欷歔く大理石の嗟嘆也。暗紅にうち濁りたる埃及の濃霧に苦しめるスフィンクスの瞳也。あるはまた落日のなかに笑へるロマンチツシユの音楽と幼児磔殺の前後に起る心状の悲しき叫也。かの黄臘の腐れたる絶間なき痙攣と、ヸオロンの三の絃を擦る嗅覚と、曇硝子にうち噎ぶウヰスキイの鋭き神経と、人間の脳髄の色したる毒艸の匂深きためいきと、官能の魔睡の中に疲れ歌ふ鶯の哀愁もさることながら、仄かなる角笛の音に逃れ入る緋の天鵞絨の手触の棄て難さよ。 昔よりいまに渡り来る黒船縁がつくれば鱶の餌となる。サンタマリヤ。 『長崎ぶり』      例言 一、本集に収めたる六章約百二十篇の詩は明治三十九年の四月より同四十一年の臘月に至る、即最近三年間の所作にして、集中の大半は殆昨一年の努力に成る。就中『古酒』中の「よひやみ」「柑子」「晩秋」の類最も旧くして『魔睡』中に載せたる「室内庭園」「曇日」の二篇はその最も新しきものなり。 一、予が真に詩を知り初めたるは僅に此の二三年の事に属す。されば此の間の前後に作られたる種々の傾向の詩は皆予が初期の試作たるを免れず。従て本集の編纂に際しては特に自信ある代表作物のみを精査し、少年時の長篇五六及その後の新旧作七十篇の余は遺憾なく割愛したり。この外百篇に近き『断章』と『思出』五十篇の著作あれども、紙数の制限上、これらは他の新しき機会を待ちて出版するの已むなきに到れり。 一、予が象徴詩は情緒の諧楽と感覚の印象とを主とす。故に、凡て予が拠る所は僅かなれども生れて享け得たる自己の感覚と刺戟苦き神経の悦楽とにして、かの初めより情感の妙なる震慄を無みし只冷かなる思想の概念を求めて強ひて詩を作為するが如きを嫌忌す。されば予が詩を読まむとする人にして、之に理知の闡明を尋ね幻想なき思想の骨格を求めむとするは謬れり。要するに予が最近の傾向はかの内部生活の幽かなる振動のリズムを感じその儘の調律に奏でいでんとする音楽的象徴を専とするが故に、そが表白の方法に於ても概ねかの新しき自由詩の形式を用ゐたり。 一、或人の如きは此の如き詩を嗤ひて甚しき跨張と云ひ、架空なる空想を歌ふものと做せども、予が幻覚には自ら真に感じたる官能の根抵あり。且、人の天分にはそれそれ自らなる相違あり、強ひて自己の感覚を尺度として他を律するは謬なるべし。 一、本来、詩は論ふべききはのものにはあらず。嘗て幾多の譏笑と非議と謂れなき誤解とを蒙りたるにも拘らず、予の単に創作にのみ執して、一語もこれに答ふる所なかりしは、些か自己の所信に安じたればなり。 一、終に、現時の予は文芸上の如何なる結社にも与らず、又、如何なる党派の力をも恃む所なき事を明にす。要は只これらの羈絆と掣肘とを放れて、予は予が独自なる個性の印象に奔放なる可く、自由ならんことを欲するものなり。 一、尚、本集を世に公にする事を得たる所以のものは、これ一に蒲原有明、鈴木皷村両氏の深厚なる同情に依る、ここに謹謝す。   明治四十二年一月 著者識   魔睡 余は内部の世界を熟視めて居る。陰鬱な死の節奏は絶えず快く響き渡る……と神経は一斉に不思議の舞踏をはじめる。すすりなく黒き薔薇、歌うたふ硝子のインキ壺、誘惑の色あざやかな猫眼石の腕環、笑ひつづける空眼の老女等はこまかくしなやかな舞踏をいつまでもつづける。余は一心に熟視めて居る……いつか余は朱の房のついた長い剣となつて渠等の内に舞踏つてゐる……… 長田秀雄   邪宗門秘曲 われは思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。 黒船の加比丹を、紅毛の不可思議国を、 色赤きびいどろを、匂鋭きあんじやべいいる、 南蛮の桟留縞を、はた、阿刺吉、珍酡の酒を。 目見青きドミニカびとは陀羅尼誦し夢にも語る、 禁制の宗門神を、あるはまた、血に染む聖磔、 芥子粒を林檎のごとく見すといふ欺罔の器、 波羅葦僧の空をも覗く伸び縮む奇なる眼鏡を。 屋はまた石もて造り、大理石の白き血潮は、 ぎやまんの壺に盛られて夜となれば火点るといふ。 かの美しき越歴機の夢は天鵝絨の薫にまじり、 珍らなる月の世界の鳥獣映像すと聞けり。 あるは聞く、化粧の料は毒草の花よりしぼり、 腐れたる石の油に画くてふ麻利耶の像よ、 はた羅甸、波爾杜瓦爾らの横つづり青なる仮名は 美くしき、さいへ悲しき歓楽の音にかも満つる。 いざさらばわれらに賜へ、幻惑の伴天連尊者、 百年を刹那に縮め、血の磔脊にし死すとも 惜しからじ、願ふは極秘、かの奇しき紅の夢、 善主麿、今日を祈に身も霊も薫りこがるる。 四十一年八月   室内庭園 晩春の室の内、 暮れなやみ、暮れなやみ、噴水の水はしたたる…… そのもとにあまりりす赤くほのめき、 やはらかにちらぼへるヘリオトロオブ。 わかき日のなまめきのそのほめき静こころなし。 尽きせざる噴水よ……… 黄なる実の熟るる草、奇異の香木、 その空にはるかなる硝子の青み、 外光のそのなごり、鳴ける鶯、 わかき日の薄暮のそのしらべ静こころなし。 いま、黒き天鵝絨の にほひ、ゆめ、その感触………噴水に縺れたゆたひ、 うち湿る革の函、饐ゆる褐色 その空に暮れもかかる空気の吐息…… わかき日のその夢の香の腐蝕静こころなし。 三層の隅か、さは 腐れたる黄金の縁の中、自鳴鐘の刻み…… ものなべて悩ましさ、盲ひし少女の あたたかに匂ふかき感覚のゆめ、 わかき日のその靄に音は響く、静こころなし。 晩春の室の内、 暮れなやみ、暮れなやみ、噴水の水はしたたる…… そのもとにあまりりす赤くほのめき、 甘く、またちらぼひぬ、ヘリオトロオブ。 わかき日は暮るれども夢はなほ静こころなし。 四十一年十二月   陰影の瞳 夕となればかの思曇硝子をぬけいでて、 廃れし園のなほ甘きときめきの香に顫へつつ、 はや饐え萎ゆる芙蓉花の腐れの紅きものかげと、 縺れてやまぬ秦皮の陰影にこそひそみしか。 如何に呼べども静まらぬ瞳に絶えず涙して、 帰るともせず、密やかに、はた、果しなく見入りぬる。 そこともわかぬ森かげの鬱憂の薄闇に、 ほのかにのこる噴水の青きひとすぢ…… 四十一年十月   赤き僧正 邪宗の僧ぞ彷徨へる……瞳据ゑつつ、 黄昏の薬草園の外光に浮きいでながら、 赤々と毒のほめきの恐怖して、顫ひ戦く 陰影のそこはかとなきおぼろめき まへに、うしろに……さはあれど、月の光の 水の面なる葦のわか芽に顫ふ時。 あるは、靄ふる遠方の窓の硝子に ほの青きソロのピアノの咽ぶ時。 瞳据ゑつつ身動かず、長き僧服 爛壊する暗紅色のにほひしてただ暮れなやむ。 さて在るは、曩に吸ひたる Hachisch の毒のめぐりを待てるにか、 あるは劇しき歓楽の後の魔睡や忍ぶらむ。 手に持つは黒き梟 爛々と眼は光る…… ……そのすそに蟋蟀の啼く…… 四十一年十二月   WHISKY. 夕暮のものあかき空、 その空に百舌啼きしきる。 Whisky の罎の列 冷やかに拭く少女、 見よ、あかき夕暮の空、 その空に百舌啼きしきる。 四十一年十一月   天鵝絨のにほひ やはらかに腐れつつゆく暗の室。 その片隅の薄あかり、背にうけて 天鵝絨の赤きふくらみうちかつぎ、 にほふともなく在るとなく、蹲み居れば。 暮れてゆく夏の思と、日向葵の 凋れの甘き香もぞする。……ああ見まもれど おもむろに悩みまじろふ色の陰影 それともわかね……熱病の闇のをののき…… Hachisch か、酢か、茴香酒か、くるほしく 溺れしあとの日の疲労……縺れちらぼふ Wagner の恋慕の楽の音のゆらぎ 耳かたぶけてうち透かし、在りは在れども。 それらみな素足のもとのくらがりに 爛壊の光放つとき、そのかなしみの 腐れたる曲の緑を如何にせむ。 君を思ふとのたまひしゆめの言葉も。 わかき日の赤きなやみに織りいでし にほひ、いろ、ゆめ、おぼろかに嗅ぐとなけれど、 ものやはに暮れもかぬれば、わがこころ 天鵝絨深くひきかつぎ、今日も涙す。 四十一年十二月   濃霧 濃霧はそそぐ……腐れたる大理の石の 生くさく吐息するかと蒸し暑く、 はた、冷やかに官能の疲れし光── 月はなほ夜の氛囲気の朧なる恐怖に懸る。 濃霧はそそぐ……そこここに虫の神経 鋭く、甘く、圧しつぶさるる嗟嘆して 飛びもあへなく耽溺のくるひにぞ入る。 薄ら闇、盲唖の院の角硝子暗くかがやく。 濃霧はそそぐ……さながらに戦く窓は 亜刺比亜の魔法の館の薄笑。 麻痺薬の酸ゆき香に日ねもす噎せて 聾したる、はた、盲ひたる円頂閣か、壁の中風。 濃霧はそそぐ……甘く、また、重く、くるしく、 いづくにか凋れし花の息づまり、 苑のあたりの泥濘に落ちし燕や、 月の色半死の生に悩むごとただかき曇る。 濃霧はそそぐ……いつしかに虫も盲ひつつ 聾したる光のそこにうち痺れ、 唖とぞなる。そのときにひとつの硝子 幽魂の如くに青くおぼろめき、ピアノ鳴りいづ。 濃霧はそそぐ……数の、見よ、人かげうごき、 闌くる夜の恐怖か、痛きわななきに ただかいさぐる手のさばき──霊の弾奏、 盲目弾き、唖と聾者円ら眼に重なり覗く。 濃霧はそそぐ……声もなき声の密語や。 官能の疲れにまじるすすりなき 霊の震慄の音も甘く聾しゆきつつ、 ちかき野に喉絞めらるる淫れ女のゆるき痙攣。 濃霧はそそぐ……香の腐蝕、肉の衰頽、── 呼吸深く𠹭囉仿謨や吸ひ入るる 朧たる暑き夜の魔睡……重く、いみじく、 音もなき盲唖の院の氛囲気に月はしたたる。 四十一年十月   赤き花の魔睡 日は真昼、ものあたたかに光素の 波動は甘く、また、緩るく、戸に照りかへす、 その濁る硝子のなかに音もなく、 𠹭囉仿謨の香ぞ滴る……毒の譃言…… 遠くきく、電車のきしり…… ………棄てられし水薬のゆめ…… やはらかき猫の柔毛と、蹠の ふくらのしろみ悩ましく過ぎゆく時よ。 窓の下、生の痛苦に只赤く戦ぎえたてぬ草の花 亜鉛の管の 湿りたる筧のすそに……いまし魔睡す…… 四十一年十二月   麦の香 嬰児泣く……麦の香の湿るあなたに、 続け泣く……やはらかに、なやましげにも、 香に噎び、香に噎び、あはれまた、嬰児泣きたつ…… 夏の雨さと降り過ぎて 新にもかをり蒸す野の畑いくつ湿るあなたに、 赤き衣一きは若く、にほやかにけぶる揺籃や、 磨硝子、あるは窓枠、濡れ濡れて夕日さしそふ。 四十一年十二月   曇日 曇日の空気のなかに、 狂ひいづる樟の芽の鬱憂よ…… そのもとに桐は咲く。 Whisky の香のごときしぶき、かなしみ…… そこここにいぎたなき駱駝の寝息、 見よ、鈍き綿羊の色のよごれに 饐えて病む藁のくさみ、 その湿る泥濘に花はこぼれて 紫の薄き色鋭になげく…… はた、空のわか葉の威圧。 いづこにか、またもきけかし。 餌に饑ゑしベリガンのけうとき叫、 山猫のものさやぎ、なげく鶯、 腐れゆく沼の水蒸すがごとくに。 そのなかに桐は散る…… Whisky の強きかなしみ…… もの甘き風のまた生あたたかさ、 猥らなる獣らの囲内のあゆみ、 のろのろと枝に下るなまけもの、あるは、貧しく 眼を据ゑて毛虫啄む嗟歎のほろほろ鳥よ。 そのもとに花はちる……桐のむらさき…… かくしてや日は暮れむ、ああひと日。 病院を逃れ来し患者の恐怖、 赤子らの眼のなやみ、笑ふ黒奴 酔ひ痴れし遊蕩児の縦覧のとりとめもなく。 その空に桐はちる……新しきしぶき、かなしみ…… はたや、また、園の外ゆく 軍楽の黒き不安の壊れ落ち、夜に入る時よ、 やるせなく騒ぎいでぬる鳥獣。 また、その中に、 狂ひいづる北極熊の氷なす戦慄の声。 その闇に花はちる…… Whisky の香の頻吹……桐の紫…… 四十一年十二月   秋の瞳 晩秋の濡れにたる鉄柵のうへに、 黄なる葉の河やなぎほつれてなげく やはらかに葬送のうれひかなでて、 過ぎゆきし Trombone いづちいにけむ。 はやも見よ、暮れはてし吊橋のすそ、 瓦斯点る……いぎたなき馬の吐息や、 騒ぎやみし曲馬師の楽屋なる幕の青みを ほのかにも掲げつつ、水の面見る女の瞳。 四十一年十二月   空に真赤な 空に真赤な雲のいろ。 玻璃に真赤な酒の色。 なんでこの身が悲しかろ。 空に真赤な雲のいろ。 四十一年五月   秋のをはり 腐れたる林檎のいろに なほ青きにほひちらぼひ、 水薬の汚みし卓に 瓦斯焜炉ほのかに燃ゆる。 病人は肌ををさめて 愁はしくさしぐむごとし。 何ぞ湿る、医局のゆふべ、 見よ、ほめく劇薬もあり。 色冴えぬ室にはあれど、 声たててほのかに燃ゆる 瓦斯焜炉………空と、こころと、 硝子戸に鈍ばむさびしさ。 しかはあれど、寒きほのほに 黄の入日さしそふみぎり、 朽ちはてし秋のヸオロン ほそぼそとうめきたてぬる。 四十一年十二月   十月の顔 顔なほ赤し……うち曇り黄ばめる夕、 『十月』は熱を病みしか、疲れしか、 濁れる河岸の磨硝子脊に凭りかかり、 霧の中、入日のあとの河の面をただうち眺む。 そことなき櫂のうれひの音の刻み…… 涙のしづく……頬にもまたゆるきなげきや…… ややありて麪包の破片を手にも取り、 さは冷やかに噛みしめて、来るべき日の 味もなき悲しきゆめをおもふとき…… なほもまた廉き石油の香に噎び、 腐れちらぼふ骸炭に足も汚ごれて、 小蒸汽の灰ばみ過ぎし船腹に 一きは赤く輝やきしかの窻枠を忍ぶとき…… 月光ははやもさめざめ……涙さめざめ…… 十月の暮れし片頬を ほのかにもうつしいだしぬ。 四十一年十二月   接吻の時 薄暮か、 日のあさあけか、 昼か、はた、 ゆめの夜半にか。 そはえもわかね、燃えわたる若き命の眩暈、 赤き震慄の接吻にひたと身顫ふ一刹那。 あな、見よ、青き大月は西よりのぼり、 あなや、また瘧病む終の顫して 東へ落つる日の光、 大ぞらに星はなげかひ、 青く盲ひし水面にほ薬香にほふ。 あはれ、また、わが立つ野辺の草は皆色も干乾び、 折り伏せる人の骸の夜のうめき、 人霊色の 木の列は、あなや、わが挽歌うたふ。 かくて、はや落穂ひろひの農人が寒き瞳よ。 歓楽の穂のひとつだに残さじと、 はた、刈り入るる鎌の刃の痛き光よ。 野のすゑに獣らわらひ、 血に饐えて汽車鳴き過ぐる。 あなあはれ、あなあはれ、 二人がほかの霊のありとあらゆるその呪咀。 朝明か、 死の薄暮か、 昼か、なほ生れもせぬ日か、 はた、いづれともあらばあれ。 われら知る赤き唇。 四十一年六月   濁江の空 腐れたる林檎の如き日のにほひ 円らに、さあれ、光なく甘げに沈む 晩春の濁重たき靄の内、 ふと、カキ色の軽気球くだるけはひす。 遠方の曇れる都市の屋根の色 たゆげに仰ぐ人はいま鈍くもきかむ、 濁江のねぶたき、あるは、やや赤き にほひの空のいづこにか洩るる鉄の音。 なやましき、さは江の泥の沈澱より あかるともなき灰紅の帆のふくらみに 伝へくる潜水夫が作業にか、 饐えたる吐息そこはかと水面に黄ばむ。 河岸になほ物見る子らはうづくまり、 はや倦ましげに人形をそが手に泣かす。 日暮どき、入日に濁る靄の内、 また、ふくらかに軽気球くだるけはひす。 四十一年八月   魔国のたそがれ うち曇る暗紅色の大き日の 魔法の国に病ましげの笑して入れば、 もの甘き驢馬の鳴く音にもよほされ、 このもかのもに悩ましき吐息ぞおこる。 そのかみの激しき夢や忍ぶらむ。 鬱黄の百合は血ににじむ眸をつぶり、 人間の声して挑み、飛びかはし 鸚鵡の鳥はかなしげに翅ふるはす。 草も木もかの誘惑に化されつる 旅のわかうど、暮れ行けば心ひまなく えもわかぬ毒の怨言になやまされ、 われと悲しき歓楽に怕れて顫ふ。 日は沈み、たそがれどきの空の色 青き魔薬の薫して古りつつゆけば、 ほのかにも誘はれ来る隊商の 鈴鳴る……あはれ、今日もまた恐怖の予報。 はとばかり黙み戦くものの息。 色天鵝絨を擦るごとき裳裾のほかは 声もなく甘く重たき靄の闇、 はやも王女の領らすべき夜とこそなりぬ。 四十一年八月   蜜の室 薄暮の潤みにごれる室の内、 甘くも腐る百合の蜜、はた、靄ぼかし 色赤きいんくの罎のかたちして ひそかに点る豆らんぷ息づみ曇る。 『豊国』のぼやけし似顔生ぬるく、 曇硝子の窻のそと外光なやむ。 ものの本、あるはちらぼふ日のなげき、 暮れもなやめる霊の金字のにほひ。 接吻の長き甘さに倦きぬらむ。 そと手をほどき靄の内さぐる心地に、 色盲の瞳の女うらまどひ、 病めるペリガンいま遠き湿地になげく。 かかるとき、おぼめき摩る Violon の なやみの絃の手触のにほひの重さ。 鈍き毛の絨氈に甘き蜜の闇 澱み饐えつつ……血のごともらんぷは消ゆる。 四十一年八月   酒と煙草に 酒と煙草にうつとりと、 倦めるこころを見まもれば、 それとしもなき霊のいろ 曇りながらに泣きいづる。 なにか嘆かむ、うきうきと、 三味に燥やぐわがこころ。 なにか嘆かむ、さいへ、また 霊はしくしく泣きいづる。 四十一年五月   鈴の音 日は赤し、窓の上に恐怖の烏 ひた黙み暮れかかる砂漠を熟視む。 今日もまたもの鈍き駱駝をつらね、 一群のわがやから消えさりゆきぬ。 もの甘き鈴の音、ああそを聴けよ。 からら、からら、ら、ら、ら…… 暮れのこるピラミドの暗紅色よ。 そが空のうち濁る重き空気よ。 いづこにか月の色ほのめくごとし。 からら、からら、ら、ら、ら…… かの群よ、靄ふかく、いまかひろぐる 色鈍き、幽鬱の毛織の天幕。 駱駝らのためいきもそこはかとなく。 からら、からら、ら、ら、ら…… もの青く暮れてみな蒸しも見わかね。 饐え温るむ空のをち、薄らあかりに、 ほのかにも此方見るスフィンクスの瞳。 からら、からら、ら、ら、ら…… あはれ、その静かなるスフィンクスの瞳。 ああ暗示……えもわかぬ夢の象徴。 またくいま埃及の夜とやなるらむ。 からら、からら、ら、ら、ら…… 烏いまはたはたと遠く飛び去り、 窓にただ色あかき燈火点る。 四十一年八月   夢の奥 ほのかにもやはらかきにほひの園生。 あはれ、そのゆめの奥。日と夜のあはひ。 薄あかる空の色ひそかに顫ひ 暮れもゆくそのしばし、声なく立てる 真白なる大理石の男の像、 微妙じくもまた貴に瞑目りながら 清らなる面の色かすかにゆめむ。 ものなべてさは妙に女の眼ざし あはれそが夢ふかき空色しつつ、 にほやかになやましの思はうるむ。 そがなかに埋もれたる素馨のなげき、 蒸し甘き沈丁のあるは刺せども なにほどの香の痛み身にしおぼえむ。 わかうどは声もなし、清く、かなしく。 薄暮にせきもあへぬ女の吐息 あはれその愁如し、しぶく噴水 そことなう節ゆるうゆらゆるなべに、 いつしかとほのめきぬ月の光も。 その空に、その苑に、ほのの青みに 静かなる欷歔泣きもいでつつ、 いづくにか、さまだるる愛慕のなげき。 やはらかきほの熱る女の足音 あはれそのほめき如し、燃えも生れゆく ゆめにほふ心音のうつつなきかな。 大理石の身の白み、面もほのかに、 ひらきゆくその眼ざし、なかば閉ぢつつ、 ゆめのごと空仰ぎ、いまぞ見惚るる。 色わかき夜の星、うるむ紅。 四十一年七月   窓 かかる窓ありとも知らず、昨日まで過ぎし河岸。 今日は見よ、 色赤き花に日の照り、かなしくも依依児匂ふ。 あはれまた病める Piano も…… 四十一年九月   昨日と今日と わかうどのせはしさよ。 さは昨日世をも厭ひて重格魯密母求めも泣きしか、 今朝ははや林檎吸ひつつ霧深き河岸路を辿る。 歌楽し、鳴らす木履に…… 四十一年十一月   わかき日 『かくまでも、かくまでも、 わかうどは悲しかるにや。』 『さなり、女、 わかき日には、 ましてまた才ある身には。』 四十一年十一月   朱の伴奏 凡て情緒也。静かなる精舎の庭にほのめきいでて紅の戦慄に盲ひたるヸオロンの響はわが内心の旋律にして、赤き絶叫のなかにほのかに啼けるこほろぎの音はこれ亦わが情緒の一絃によりて密かに奏でらるる愁也。なげかひ也。その他おほむね之に倣ふ。   謀坂 ひと日、わが精舎の庭に、 晩秋の静かなる落日のなかに、 あはれ、また、薄黄なる噴水の吐息のなかに、 いとほのにヸオロンの、その絃の、 その夢の、哀愁の、いとほのにうれひ泣く。 蝋の火と懺悔のくゆり ほのぼのと、廊いづる白き衣は 夕暮に言もなき修道女の長き一列。 さあれ、いま、ヸオロンの、くるしみの、 刺すがごと火の酒の、その絃のいたみ泣く。 またあれば落日の色に、 夢燃ゆる、噴水の吐息のなかに、 さらになほ歌もなき白鳥の愁のもとに、 いと強き硝薬の、黒き火の、 地の底の導火燬き、ヸオロンぞ狂ひ泣く。 跳り来る車輌の響、 毒の弾丸、血の烟、閃めく刃、 あはれ、驚破、火とならむ、噴水も、精舎も、空も。 紅の、戦慄の、その極の 瞬間の叫喚燬き、ヸオロンぞ盲ひたる。 四十年十二月   こほろぎ 微にいまこほろぎ啼ける。 日か落つる──眼をみひらけば 朱の畏怖くわと照りひびく。 内心の苦きおびえか、 めくるめく痛き日の色 眼つぶれど、はた、照りひびく。 そのなかにこほろぎ啼ける。 とどろめく銃音しばし、 痍つける悪のうごめき そこここに、あるは疲れて 轢きなやむ砲車のあへぎ、 逃げまどふ赤きもろごゑ。 そのなかにこほろぎ啼ける。 盲ひ、ゆく恋のまぼろし── その底に疼きくるしむ 肉の鋭き絶叫、 はた、暗き曲の死の楽 霊ぞ弾きも連れぬる。 そのなかにこほろぎ啼ける。 あなや、また呻吟は洩るる。 鉛めく首のあたりゆ 幽界の呪咀か洩るる。 寝がへれば血に染み顫ふ わが敵面ぞ死にたる。 そのなかにこほろぎ啼ける。 はた、裂くる赤き火の弾丸 たと笑ふ、と見る、我燬き 我ならぬ獣のつらね 真黒なる楽して奔る。 執念の闇曳き奔る。 そのなかにこほろぎ啼ける。 日や暮るる。我はや死ぬる。 野をあげて末期のあらび── 暗き血の海に溺るる 赤き悲苦、赤きくるめき、 ああ、今し、くわとこそ狂へ。 微になほこほろぎ啼ける。 四十年十二月   序楽 ひと日、わが想の室の日もゆふべ、 光、もののね、色、にほひ──声なき沈黙 徐にとりあつめたる室の内、いとおもむろに、 薄暮のタンホイゼルの譜のしるし ながめて人はゆめのごとほのかにならぶ。 壁はみな鈍き愁ゆなりいでし 象の香の色まろらかに想鎖しぬれ、 その隅に瞳の色の窓ひとつ、玻璃の遠見に 冷えはてしこの世のほかの夢の空 かはたれどきの薄明ほのかにうつる。 あはれ、見よ、そのかみの苦悩むなしく 壁はいたみ、円柱熔けくづれて 朽ちはてし熔岩に埋るるポンペイを、わが幻を。 ひとびとはいましゆるかに絃の弓、 はた、もろもろの調楽の器をぞ執る。 暗みゆく室内よ、暗みゆきつつ 想の沈黙重たげに音なく沈み、 そことなき月かげのほの淡くさし入るなべに、 はじめまづヸオロンのひとすすりなき、 鈍色長き衣みな瞳をつぶる。 燃えそむるヴヱスヸアス、空のあなたに 色新しき紅の火ぞ噴きのぼる。 廃れたる夢の古墟、さとあかる我室の内、 ひとときに渦巻きかへす序のしらべ 管絃楽部のうめきより夜には入りぬる。 四十一年二月   納曾利 入日のしばし、空はいま雲の震慄のあかあかと 鋭にわかく、はた、苦く狂ひただるる楽の色。 また、高窻の鬱金香。かげに斃るる白牛の 眉間のいたみ、憤怒。血に笑む人がさけびごゑ。 さあれ、いま納曾利のなげき…… 鈍き思の灰色の壁の家内に、 吹き鳴らす古き舞楽の笙の節、 納曾利のなげき…… 納曾利のなげき、ひとしなみ おほらににほふ雅楽寮の古きいみじき日の愁、 納曾利の舞の 人のゆめ、鈍くものうき足どりの裾ゆるらかに、 おもむろの振のみやびの舞あそび、 納曾利のなげき…… くりかへし、さはくりかへし、 ゆめのごと後に連るる笙の節、 笛のねとりもすずろかに、広き家内に、 おなじことおなじ嫋にくりかへし、 舞へる思の 倦める思のにほやかさ、 ゆるき鞨皷の 音もにぶく、 古き納曾利の舞をさめ…… 今しも街の空高く消ゆる光のわななきに、 ほのかに青く、なほ苦く顫ひくづるる雲の色。 また、浮きのこる鬱金香。暮れて果てたる白牛の 声なき骸。人だかり、血を見て黙す冷笑。 四十一年七月   ほのかにひとつ 罌粟ひらく、ほのかにひとつ、 また、ひとつ…… やはらかき麦生のなかに、 軟風のゆらゆるそのに。 薄き日の暮るとしもなく、 月しろの顫ふゆめぢを、 縺れ入るピアノの吐息 ゆふぐれになぞも泣かるる。 さあれ、またほのに生れゆく 色あかきなやみのほめき。 やはらかき麦生の靄に、 軟風のゆらゆる胸に、 罌粟ひらく、ほのかにひとつ、 また、ひとつ…… 四十一年二月   耽溺 あな悲し、紅き帆きたる。 聴けよ、今、紅き帆きたる。 白日の光の水脈に、 わが恋の器楽の海に。 あはれ、聴け、光は噎び、 海顫ひ、清掻焦がれ 眩暈めく悲愁の極、 苦悶そふ歓楽のせて キユラソオの紅き帆ひびく。 弾けよ、弾け、毒のヸオロン 吹けよ、また媚薬の嵐。 あはれ歌、あはれ幻、 その海に紅き帆光る。 海の歌きこゆ、このとき、 『噫、かなし、炎よ、慾よ、 接吻よ。』 聴けよ、また苦き愛着、 肉のおびえと恐怖、 『死ねよ、死ね』、紅き帆響く、 『恋よ、汝よ。』 弾けよ、弾け、毒のヸオロン 吹けよ、また媚薬の嵐。 一瞬よ、──光よ、水脈よ、 楽の音よ──酒のキユラソオ、 接吻の非命の快楽、 毒水の火のわななきよ。 狂へ、狂へ、破滅の渚、 聴くははや楽の大極、 狂乱の日の光吸ふ 紅き帆の終のはためき。 死なむ、死なむ、二人は死なむ。 紅き帆きゆる。 紅き帆きゆる。 四十年十二月   といき 大空に落日ただよひ、 旅しつつ燃えゆく黄雲。 そのしたの伽藍の甍 半黄になかばほのかに、 薄闇に蝋の火にほひ、 円柱またく暮れたる。 ほのめくは鳩の白羽か、 敷石の闇にはひとり 盲の子ひたと膝つけ、 ほのかにも尺八吹ける、 あはれ、その追分のふし。 四十年十二月   黒船 黒煙ほのにひとすぢ。── あはれ、日は血を吐く悶あかあかと 濡れつつ淀む悪の雲そのとどろきに 燃え狂ふ恋慕の楽の断末魔。 遠目に濁る蒼海の色こそあかれ、 黒潮の水脈のはたての水けぶり、 はた、とどろ撃つ毒の砲弾、清しき喇叭、 薄暮の朱のおびえの戦に 疲れくるめく衰ぞああ音を搾る。 黒煙またもふたすぢ。── 序のしらべ絶えつ続きつ、いつしかに 黒き悩の旋律ぞ渦巻き起る。 逃げ来るは密猟船の旗じるし、 痍き噎ぶ血と汚穢、はた憤怒 おしなべて黄ばみ騒立つ楽の色。 空には苦き嘲笑に雲かき乱れ、 重りゆく煩悶のあらびはやもまた 黒き恐怖のはたためき海より煙る。 黒煙三すぢ、五すぢ。── 幻法のこれや苦しき脅迫 いと淫らかに蒸し挑む疾風のもとに、 現れて真黒に歎く楽の船、 生あをじろき鱶の腹ただほのぼのと、 暮れがての赤きくるしみ、うめきごゑ、 血の甲板のうへにまた爛れて叫ぶ 楽慾の破片の砲弾ぞ慄ける。 ああその空にはたためく黒き帆のかげ。 黒煙終に七すぢ。── 吹きかはす銀の喇叭もたえだえに、 渦巻き猛る楽の極、蒼海けぶり、 悪の雲とどろとどろの乱擾に 急忙しくも呪はしき夜のたたずまひ。 濡れ焙ぶる水無月ぞらの日の名残 はた掻き濁し、暗澹と、あはれ黒船、 真黒なる管絃楽の帆の響 死と悔恨の闇擾し壊れくづるる。 四十一年二月   地平 あな哀れ、今日もまた銅の雲をぞ生める。 あな哀れ、明日も亦鈍き血の毒をや吐かむ。 見るからにただ熱し、心は重し。 察るだにいや苦し、愁はおもし。 かの青き国のあこがれ、 つねに見る地平のはてに、 大空の真昼の色と、 連れて弾く緑ひとつら。 その緑琴柱にはして、 弾きなづむ鳩の羽の夢、 幌の星、剣のなげき、 清掻はほのかに薫ゆる。 さては、日の白き恐怖に 静かなる太鼓のとろぎ、 昼領らす神か拊たせる、 ころころとまたゆるやかに。 また絶えず、吐息のつらね かなたより笛してうかび、 こなたより絃して消ゆる、── ほのかなる夢のおきふし。 しかはあれ、ものなべて圧す 南国の熱病雲ぞ 猥らなる毒の譃言 とどろかに歌かき濁す。 おもふ、いま水に華さき、 野に赤き駒は斃れむ。 うらうへに病ましき現象 今日もまたどよみわづらふ。 あな哀れ、昨の日も銅のなやみかかりき。 あな哀れ、明日もまた鈍き血の濁かからむ。 聴くからにただ熱し、心は重し。 思ふだにいやくるし、愁は重し。 四十年十二月   ふえのね ほのかに見ゆる青き頬、 あな、あな、玻璃のおびゆる。 かなたにひびく笛のね、…… 青き頬ほのに消えゆく。 室にもつのるふえのね、…… ふたつのにほひ盲ひゆく。 きこえずなりぬふえのね、…… 内と外とのなげかひ。 またしも見ゆる青き頬。 あな、また玻璃のおびゆる。 四十一年二月   下枝のゆらぎ 日はさしぬ、白楊の梢に赤く、 さはあれど、暮れ惑ふ下枝のゆらぎ…… 水の面のやはらかきにほひの嘆 波もなき病ましさに、瀞みうつれる 晩春の窻閉す片側街よ、 暮れなやむ靄の内皷をうてる。 いづこにか、もの甘き蜂の巣のこゑ。 幼子のむれはまた吹笛鳴らし、 白楊の岸にそひ曇り黄ばめる 教会の硝子窻ながめてくだる。 日はのこる両側の梢にあかく、 さはあれど、暮れ惑ふ下枝のゆらぎ…… またあれば、公園の長椅子にもたれ、 かなたには恋慕びと苦悩に抱く。 そのかげをのどやかに嬰児匍ひいで 鵞の鳥を捕らむとて岸ゆ落ちぬる。 水面なるひと騒擾、さあれ、このとき、 驀然に急ぎくる一列の郵便馬車よ、 薄闇ににほひゆく赤き曇の 快さ、人はただ街をばながむ。 灯点る、さあれなほ梢はにほひ、 全くいま暮れはてし下枝のゆらぎ…… 四十一年八月   雨の日ぐらし ち、ち、ち、ち、と、もののせはしく 刻む音…… 河岸のそば、 黴の香のしめりも暗し、 かくてあな暮れてもゆくか、 駅逓の局の長壁 灰色に、暗きうれひに、 おとつひも、昨日も、今日も。 さあれ、なほ薫りのこれる 一列の紅き花罌粟 かたかげの草に濡れつつ、 うちしめり浮きもいでぬる。 雨はまたくらく、あかるく、 やはらかきゆめの曲節…… ち、ち、ち、ち、と絶えずせはしく 刻む音…… 角窻の玻璃のくらみを 死の報知ひまなく打電てる。 さてあればそこはかとなく 出でもゆく 薄ぐらき思のやから その歩行夜にか入るらむ。 しばらくは 事もなし。 かかる日の雨の日ぐらし。 ち、ち、ち、ち、ともののせはしく 刻む音…… さもあれや、 雨はまたゆるにしとしと 暮れもゆくゆめの曲節…… いづこにか鈴の音しつつ、 近く、 はた、速のく軋、 待ちあぐむ郵便馬車の 旗の色見えも来なくに、 うち曇る馬の遠嘶。 さあれ、ふと 夕日さしそふ。 瞬間の夕日さしそふ。 あなあはれ、 あなあはれ、 泣き入りぬ罌粟のひとつら、 最終に燃えてもちりぬ。 日の光かすかに消ゆる。 ち、ち、ち、ち、ともののせはしく 刻む音…… 雨の曲節…… ものなべて、 ものなべて、 さは入らむ、暗き愁に。 あはれ、また、出でゆきし思のやから 帰り来なくに。 ち、ち、ち、ち、ともののせはしく 刻む音…… 雨の曲節…… 灰色の局は夜に入る。 四十一年五月   狂人の音楽 空気は甘し……また赤し……黄に……はた、緑…… 晩夏の午後五時半の日光は晷を見せて、 蒸し暑く噴水に濡れて照りかへす。 瘋癲院の陰鬱に硝子は光り、 草場には青き飛沫の茴香酒冷えたちわたる。 いま狂人のひと群は空うち仰ふぎ── 饗宴の楽器とりどりかき抱き、自棄に、しみらに、 傷つける獣のごとき雲の面 ひたに怖れて色盲の幻覚を見る。 空気は重し……また赤し……共に……はた緑……   *   *   *   *     *   *   *   * オボイ鳴る……また、トロムボオン…… 狂ほしきヸオラの唸…… 一人の酸ゆき音は飛びて怜羊となり、 ひとつは赤き顔ゑがき、笑ひわななく 音の恐怖……はた、ほのしろき髑髏舞…… 弾け弾け……鳴らせ……また舞踏れ…… セロの、喇叭の蛇の香よ、 はた、爛れ泣くヸオロンの空には赤子飛びみだれ、 妄想狂のめぐりにはバツソの盲目 小さなる骸色の呪咀して逃れふためく。 弾け弾け……鳴らせ……また舞踏れ…… クラリネッ卜の槍尖よ、 曲節のひらめき緩く、また急く、 アルト歌者のなげかひを暈ましながら、 一列、血しほしたたる神経の 壁の煉瓦のもとを行く…… 弾け弾け……鳴らせ……また舞踏れ……、 かなしみの蛇、緑の眼 槍に貫かれてまた歎く…… 弾け弾け……鳴らせ……また舞踏れ…… はた、吹笛の香のしぶき、 青じろき花どくだみの鋭さに、 濁りて光る山椒魚、沼の調に音は瀞む。 弾け弾け……鳴らせ……また舞踏れ…… 傷きめぐる観覧車、 はたや、太皷の悶絶に列なり走る槍尖よ、 窻の硝子に火は叫び、 月琴の雨ふりそそぐ…… 弾け弾け……鳴らせ……また舞踏れ…… 赤き神経……盲ひし血…… 聾せる脳の鑢の音…… 弾け弾け……鳴らせ……また舞踏れ……   *   *   *   *     *   *   *   * 空気は酸し……いま青し……黄に……なほ赤く…… はやも見よ、日の入りがたの雲の色 狂気の楽の音につれて波だちわたり、 悪獣の蹠のごと血を滴す。 そがもとに噴水のむせび 濡れ濡れて薄闇に入る…… 空気は重し……なほ赤し……黄に……また緑…… いつしかに蒸汽の鈍き船腹の ごとくに光りかぎろひし瘋癲院も暮れゆけば、 ただ冷えしぶく茴香酒、鋭き玻璃のすすりなき。 草場の赤き一群よ、眼ををののかし、 躍り泣き弾きただらかす歓楽の はてしもあらぬ色盲のまぼろしのゆめ…… 午後の七時の印象はかくて夜に入る。 空気は苦し……はや暗し……黄に……なほ青く…… 四十一年九月   風のあと 夕日はなやかに、 こほろぎ啼く。 あはれ、ひと日、木の葉ちらし吹き荒みたる風も落ちて、 夕日はなやかに、 こほろぎ啼く。 四十一年八月   月の出 ほのかにほのかに音色ぞ揺る。 かすかにひそかににほひぞ鳴る。 しみらに列立つわかき白楊、 その葉のくらみにこころ顫ふ。 ほのかにほのかに吐息ぞ揺る。 かすかにひそかに雫ぞ鳴る。 あふげばほのめくゆめの白楊、 愁の水の面を櫂はすべる。 吐息のをののき、君が眼ざし やはらに縺れてたゆたふとき、 光のひとすぢ──顫ふ白楊 文月の香炉に濡れてけぶる。 さてしもゆるけくにほふ夢路、 したたりしたたる櫂のしづく、 薄らに沁みゆく月のでしほ ほのかにわれらが小舟ぞゆく。 ほのめく接吻、からむ頸、 いづれか恋慕の吐息ならぬ。 夢見てよりそふわれら、白楊、 水上透かしてこころ顫ふ。 四十一年二月   外光と印象 近世仏国絵画の鑑賞者をわかき旅人にたとへばや。もとより Watteau の羅曼底、Corot の叙情詩は唯微かにそのおぼろげなる記憶に残れるのみ。やや暗き Fontainebleau の森より曇れる道を巴里の市街に出づれば Seine の河、そが上の船、河に臨める Café の、皆「刹那」の如くしるく明かなる Manet の陽光に輝きわたれるに驚くならむ。そは Velazquez の灰色より俄に現れいでたる午后の日なりき。あはれ日はやうやう暮れてぞゆく。金緑に紅薔薇を覆輪にしたりけむ Monet の波の面も青みゆき、青みゆき、ほのかになつかしくはた悲しき Cafin の夕は来る。燈の薄黄は Whistler の好みの色とぞ。月出づ。Pissarro のあをき衢を Verlaine の白月の賦など口荒みつつ過ぎゆくは誰が家の子ぞや。 太田正雄   冷めがたの印象 あわただし、旗ひるがへし、 朱の色の駅逓馬車跳りゆく。 曇日の色なき街は 清水さす石油の噎、 轢かれ泣く停車場の鈴、溝の毒、 昼の三味、鑢磨る歌、 茴香酒の青み泡だつ火の叫、 絶えず眩めく白楊、遂に疲れて マンドリン奏でわづらふ風の群、 あなあはれ、そのかげに乞食ゆきかふ。 くわと来り、燃えゆく旗は 死に堕つる、夏の光のうしろかげ。 灰色の亜鉛の屋根に、 青銅の擬宝珠の錆に、 また寒き万象の愁のうへに、 爛れ弾く猩紅熱の火の調、 狂気の色と冷めがたの疲労に、今は ひた嘆く、悔と、悩と、戦慄と。 あかあかとひらめく旗は 猥らなるその最終の夏の曲。 あなあはれ、あなあはれ、 あなあはれ、光消えさる。 四十年十一月   赤子 赤子啼く、 急き瀬の中。 壁重き女囚の牢獄、 鉄の門、 淫慾の蛇の紋章 くわとおびえ、 水に、落日に 照りかへし、 黄ばむひととき。 赤子啼く、 急き瀬の中。 四十一年六月   暮春 ひりあ、ひすりあ。 しゆツ、しゆツ…… なやまし、河岸の日のゆふべ、 日の光。 ひりあ、ひすりあ。 しゆツ、しゆツ…… 眼科の窓の磨硝子、しどろもどろの 白楊の温き吐息にくわとばかり、 ものあたたかに、くるほしく、やはく、まぶしく、 蒸し淀む夕日の光。 黄のほめき。 ひりあ、ひすりあ。 しゆツ、しゆツ…… なやまし、またも いづこにか、 なやまし、あはれ、 音も妙に 紅き嘴ある小鳥らのゆるきさへづり。 ひりあ、ひすりあ。 しゆツ、しゆツ…… はた、大河の饐え濁る、河岸のまぢかを ぎちぎちと病ましげにとろろぎめぐる 灰色黄ばむ小蒸汽の温るく、まぶしく、 またゆるくとろぎ噴く湯気 いま懈ゆく、 また絶えず。 ひりあ、ひすりあ。 しゆツ、しゆツ…… いま病院の裏庭に、煉瓦のもとに、 白楊のしどろもどろの香のかげに、 窓の硝子に、 まじまじと日向求むる病人は目も悩ましく 見ぞ夢む、暮春の空と、もののねと、 水と、にほひと。 ひりあ、ひすりあ。 しゆツ、しゆツ…… なやまし、ただにやはらかに、くらく、まぶしく、 また懈ゆく。 ひりあ、ひすりあ。 しゆツ、しゆツ…… 四十一年三月   噴水の印象 噴水のゆるきしたたり。── 霧しぶく苑の奥、夕日の光、 水盤の黄なるさざめき、 なべて、いま ものあまき嗟嘆の色。 噴水の病めるしたたり。── いづこにか病児啼き、ゆめはしたたる。 そこここに接吻の音。 空は、はた、 暮れかかる夏のわななき。 噴水の甘きしたたり。── そがもとに痍つける女神の瞳。 はた、赤き眩暈の中、 冷み入る 銀の節、雲のとどろき。 噴水の暮るるしたたり。── くわとぞ蒸す日のおびえ、晩夏のさけび、 濡れ黄ばむ憂鬱症のゆめ 青む、あな しとしとと夢はしたたる。 四十一年七月   顔の印象 六篇    A 精舎 うち沈む広額、夜のごとも凹める眼── いや深く、いや重く、泣きしづむ霊の精舎。 それか、実に声もなき秦皮の森のひまより 熟視むるは暗き池、谷そこの水のをののき。 いづこにか薄日さし、きしりこきり斑鳩なげく 寂寥や、空の色なほ紅ににほひのこれど、 静かなる、はた孤独、山間の霧にうもれて 悔と夜のなげかひを懇に通夜し見まもる。 かかる間も、底ふかく青の魚盲ひあぎとひ、 口そそぐ夢の豹水の面に血音たてつつ、 みな冷やき石の世と化りぞゆく、あな恐怖より。 かくてなほ声もなき秦皮よ、秘に火ともり、 精舎また水晶と凝る時愁やぶれて 響きいづ、響きいづ、最終の霊の梵鐘。 以下五篇──四十一年三月    B 狂へる街 赭らめる暗き鼻、なめらかに禿げたる額、 痙攣れる唇の端、光なくなやめる眼 なにか見る、夕栄のひとみぎり噎ぶ落日に、 熱病の響する煉瓦家か、狂へる街か。 見るがまに焼酎の泡しぶきひたぶる歎く そが街よ、立てつづく尖屋根血ばみ疲れて 雲赤くもだゆる日、悩ましく馬車駆るやから 霊のありかをぞうち惑ひ窓ふりあふぐ。 その窓に盲ひたる爺ひとり鈍き刃研げる。 はた、唖朱に笑ひ痺れつつ女を説ける。 次なるは聾しぬる清き尼三味線弾ける。 しかはあれ、照り狂ふ街はまた酒と歌とに しどろなる舞の列あかあかと淫れくるめき、 馬車のあと見もやらず、意味もなく歌ひ倒るる。    C 醋の甕 蒼ざめし汝が面饐えよどむ瞳のにごり、 薄暮に熟視めつつ撓みちる髪の香きけば── 醋の甕のふたならび人もなき室に沈みて、 ほの暗き玻璃の窓ひややかに愁ひわななく。 外面なる嗟嘆よ、波もなきいんくの河に 旗青き独木舟そこはかと巡り漕ぎたみ、 見えわかぬ悩より錨曳き鎖巻かれて、 伽羅まじり消え失する黒蒸汽笛ぞ呻ける。 吊橋の灰白よ、疲れたる煉瓦の壁よ、 たまたまに整はぬ夜のピアノ淫れさやげど、 ひとびとは声もなし、河の面をただに熟視むる。 はた、甕のふたならび、さこそあれ夢はたゆたひ、 内と外かぎりなき懸隔に帷堕つれば、 あな悲し、あな暗し、醋の沈黙長くひびかふ。    D 沈丁花 なまめけるわが女、汝は弾きぬ夏の日の曲、 悩ましき眼の色に、髪際の紛おしろひに、 緘みたる色あかき唇に、あるはいやしく 肉の香に倦める猥らなる頬のほほゑみに。 響かふは呪はしき執と欲、ゆめもふくらに 頸巻く毛のぬくみ、真白なるほだしの環 そがうへに我ぞ聴く、沈丁花たぎる畑を、 堪へがたき夏の日を、狂はしき甘きひびきを。 しかはあれ、またも聴く、そが畑に隣る河岸側、 色ざめし浅葱幕しどけなく張りもつらねて、 調ぶるは下司のうた、はしやげる曲馬の囃子。 その幕の羅馬字よ、くるしげに馬は嘶き、 大喇叭鄙びたる笑してまたも挑めば 生あつき色と香とひとさやぎ歎きもつるる。    E 不調子 われは見る汝が不調、──萎びたる瞳の光沢に、 衰の頬ににほふおしろひの厚き化粧に、 あはれまた褪せはてし髪の髷強きくゆりに、 肉の戦慄を、いや甘き欲の疲労を。 はた思ふ、晩夏の生あつきにほひのなかに、 倦みしごと縺れ入るいと冷やき風の吐息を。 新開の街は鏽びて、色赤く猥るる屋根を、 濁りたる看板を、入り残る窓の落日を。 なべてみな整はぬ色の曲……ただに鋭き 最高音の入り雑り、埃たつ家なみのうへに、 色にぶき土蔵家の江戸芝居ひとり古りたる。 露はなる日の光、そがもとに三味はなまめき、 拍子木の歎またいと痛し古き痍に、 かくてあな衰のもののいろ空は暮れ初む。    F 赤き恐怖 わかうどよ、汝はくるし、尋めあぐむ苦悶の瞳、 秀でたる眉のゆめ、ひたかわく赤き唇 みな恋の響なり、熟視むれば──調かなでて 火のごとき馬ぐるま燃え過ぐる窓のかなたを。 はた、辻の真昼どき、白楊にほひわななき、 雲浮かぶ空の色生あつく蒸しも汗ばむ 街よ、あな音もなし、鐘はなほ鳴りもわたらね、 炎上の光また眼にうつり、壁ぞ狂へる。 人もなき路のべよ、しとしとと血を滴らし 胆抜きて走る鬼、そがあとにただに餞ゑつつ 色赤き郵便函のみくるしげにひとり立ちたる。 かくてなほ窓の内すずしげに室は濡るれど、 戸外にぞ火は熾る、………哀れ、哀れ、棚の上に見よ、 水もなき消火器のうつろなる赤き戦慄。   盲ひし沼 午後六時、血紅色の日の光 盲ひし沼にふりそそぎ、濁の水の 声もなく傷き眩む生おびえ。 鉄の匂のひと冷み沁みは入れども、 影うつす煙草工場の煉瓦壁。 眼も痛ましき香のけぶり、機械とどろく。 鳴ききたる鵝島のうから しらしらと水に飛び入る。 午後六時、また噴きなやむ管の湯気、 壁に凭りたる素裸の若者ひとり 腕拭き鉄の匂にうち噎ぶ。 はた、あかあかと蒸気鑵音なく叫び、 そこここに咲きこぼれたる芹の花、 あなや、しとどにおしなべて日ぞ照りそそぐ。 声もなき鵞鳥のうから 色みだし水に消え入る 午後六時、鵞鳥の見たる水底は 血潮したたる沼の面の負傷の光 かき濁る泥の臭みに疲れつつ、 水死の人の骨のごとちらぼふなかに もの鈍き鉛の魚のめくるめき、 はた浮びくる妄念の赤きわななき。 逃げいづる鵞鳥のうから 鳴きさやぎ汀を走る。 午後六時、あな水底より浮びくる 赤きわななき──妄念の猛ると見れば、 強き煙草に、鉄の香に、わかき男に、 顔いだす硝子の窓の少女らに血潮したたり、 歓楽の極の恐怖の日のおびえ、 顫ひ高まる苦痛ぞ朱にくづるる。 刹那、ふと太く湯気吐き 吼えいづる休息の笛。 四十一年七月   青き光 哀れ、みな悩み入る、夏の夜のいと青き光のなかに、 ほの白き鉄の橋、洞円き穹窿の煉瓦、 かげに来て米炊ぐ泥舟の鉢の撫子、 そを見ると見下せる人々が倦みし面も。 はた絶えず、悩ましの角光り電車すぎゆく 河岸なみの白き壁あはあはと瓦斯も点れど、 うち向ふ暗き葉柳震慄きつ、さは震慄きつ、 後よりはた泣くは青白き屋の幽霊。 いと青きソプラノの沈みゆく光のなかに、 饐えて病むわかき日の薄暮のゆめ。── 幽霊の屋よりか洩れきたる呪はしの音の 交響体のくるしみのややありて交りおびゆる。 いづこにかうち囃す幻燈の伴奏の進行曲、 かげのごと往来する白の衣うかびつれつつ、 映りゆく絵のなかのいそがしさ、さは繰りかへす。── そのかげに苦痛の暗きこゑまじりもだゆる。 なべてみな悩み入る、夏の夜のいと青き光のなかに。── 蒸し暑き軟ら風もの甘き汗に揺れつつ、 ほつほつと点もれゆく水の面のなやみの燈、 鹹からき執の譜よ………み空には星ぞうまるる。 かくてなほ悩み顫ふわかき日の薄暮のゆめ。── 見よ、苦き闇の滓街衢には淀みとろげど、 新にもしぶきいづる星の華──泡のなげきに 色青き酒のごと空は、はた、なべて澄みゆく。 四十一年七月   樅のふたもと うちけぶる樅のふたもと。 薄暮の山の半腹のすすき原、 若草色の夕あかり濡れにぞ濡るる 雨の日のもののしらべの微妙さに、 なやみ幽けき Chopin の楽のしたたり やはらかに絶えず霧するにほやかさ。 ああ、さはあかれ、嗟嘆の樅のふたもと。 はやにほふ樅のふたもと。 いつしかに色にほひゆく靄のすそ、 しみらに燃ゆる日の薄黄、映らふみどり、 ひそやかに暗き夢弾く列並の 遠の山々おしなべてものやはらかに、 近ほとりほのめきそむる歌の曲。 ああ、はやにほへ、嗟嘆の樅のふたもと。 燃えいづる樅のふたもと。 濡れ滴る柑子の色のひとつらね、 深き青みの重りにまじらひけぶる 山の端の縺れのなやみ、あるはまた かすかに覗く空のゆめ、雲のあからみ、 晩夏の入日に噎ぶ夕ながめ。 ああ、また燃ゆれ、嗟嘆の樅のふたもと。 色うつる樅のふたもと。 しめやげる葬の曲のかなしみの 幽かにもののなまめきに揺曳くなべに、 沈みゆく雲の青みの階調、 はた、さまざまのあこがれの吐息の薫、 薄れつつうつらふきはの日のおびえ。 ああ、はた、響け、嵯嘆の樅のふたもと。 饐え暗む樅のふたもと。 燃えのこる想のうるみひえびえと、 はや夜の沈黙しのびねに弾きも絶え入る 列並の山のくるしみ、ひと叢の 柑子の靄のおぼめきも音にこそ呻け、 おしなべて御龕の空ぞ饐えよどむ。 ああ、見よ、悩む、嗟嘆の樅のふたもと。 暮れて立つ樅のふたもと。 声もなき悲願の通夜のすすりなき 薄らの闇に深みゆく、あはれ、法悦、 いつしかに篳篥あかる谷のそら、 ほのめき顫ふ月魄のうれひ沁みつつ 夢青む忘我の原の靄の色。 ああ、さは顫へ嗟嘆の樅のふたもと。 四十一年二月   夕日のにほひ 晩春の夕日の中に、 順礼の子はひとり頬をふくらませ、 濁りたる眼をあげて管うち吹ける。 腐れゆく襤褸のにほひ、 酢と石油……にじむ素足に 落ちちれる果実の皮、赤くうすく、あるは汚なく…… 片手には噛りのこせし 林檎をばかたく握りぬ。 かくてなほ頬をふくらませ 怖おづと吹きいづる………珠の石鹸よ。 さはあれど、珠のいくつは なやましき夕暮のにほひのなかに ゆらゆらと円みつつ、ほつと消えたる。 ゆめ、にほひ、その吐息…… 彼はまた、 怖々と、怖々と、……眩しげに頬をふくらませ 蒸し淀む空気にぞ吹きもいでたる。 あはれ、見よ、 いろいろのかがやきに濡れもしめりて 円らにものぼりゆく大きなるひとつの珠よ。 そをいまし見あげたる無心の瞳。 背後には、血しほしたたる 拳あげ、 霞める街の大時計睨みつめたる 山門の仁王の赤き幻想…… その裏を ちやるめらのゆく…… 四十一年十二月   浴室 水落つ、たたと………浴室の真白き湯壺 大理石の苦悩に湯気ぞたちのぼる。 硝子の外の濁川、日にあかあかと 小蒸汽の船腹光るひとみぎり、太鼓ぞ鳴れる。 水落つ、たたと………‥灰色の亜鉛の屋根の 繋留所、わが窓近き陰鬱に 行徳ゆきの人はいま見つつ声なし、 川むかひ、黄褐色の雲のもと、太皷ぞ鳴れる。 水落つ、たたと…………両国の大吊橋は うち煤け、上手斜に日を浴びて、 色薄黄ばみ、はた重く、ちやるめらまじり 忙しげに夜に入る子らが身の運び、太皷ぞ鳴れる。 水落つ、たたと…………もの甘く、あるひは赤く、 うらわかきわれの素肌に沁みきたる 鉄のにほひと、腐れゆく石鹸のしぶき。 水面には荷足の暮れて呼ぶ声す、太皷ぞ鳴れる。 水落つ、たたと…………たたとあな音色柔らに、 大理石の苦悩に湯気は濃く、温るく、 鈍きどよみと外光のなまめく靄に 疲れゆく赤き都会のらうたげさ、太皷ぞ鳴れる。 四十一年八月   入日の壁 黄に潤る港の入日、 切支丹邪宗の寺の入口の 暗めるほとり、色古りし煉瓦の壁に射かへせば、 静かに起る日の祈祷、 『ハレルヤ』と、奥にはにほふ讃頌の幽けき夢路。 あかあかと精舎の入日。── ややあれば大風琴の音の吐息 たゆらに嘆き、白蝋の盲ひゆく涙。── 壁のなかには埋もれて 眩暈き、素肌に立てるわかうどが赤き幻。 ただ赤き精舎の壁に、 妄念は熔くるばかりおびえつつ 全身落つる日を浴びて真夏の海をうち睨む。 『聖マリヤ、イエスの御母。』 一斉に礼拝終る老若の消え入るさけび。 はた、白む入日の色に しづしづと白衣の人らうちつれて 湿潤も暗き戸口より浮びいでつつ、 眩しげに数珠ふりかざし急げども、 など知らむ、素肌に汗し熔けゆく苦悩の思。 暮れのこる邪宗の御寺 いつしかに薄らに青くひらめけば ほのかに薫る沈の香、波羅葦増のゆめ。 さしもまた埋れて顫ふ妄念の 血に染みし踵のあたり、蟋蟀啼きもすずろぐ。 四十一年八月   狂へる椿 ああ、暮春。 なべて悩まし。 溶けゆく雲のまろがり、 大ぞらのにほひも、ゆめも。 ああ、暮春。 大理石のまぶしきにほひ── 幾基の墓の日向に 照りかへし、 くわと入る光。 ものやはき眩暈の甘き恐怖よ。 あかあかと狂ひいでぬる薮椿、 自棄に熱病む霊か、見よ、枝もたわわに 狂ひ咲き、 狂ひいでぬる赤き花、 赤き譃言。 そがかたへなる崖の上、 うち湿り、熱り、まぶしく、また、ねぶく 大路に淀むもののおと。 人力車夫は ひとつらね青白の幌をならべぬ。 客を待つこころごころに。 ああ、暮春。 さあれ、また、うちも向へる いと高く暗き崖には、 窓もなき牢獄の壁の 長き列、はては閉せる 灰黒の重き裏門。 はたやいま落つる日ひびき、 照りあかる窪地のそらの いづこにか、 さはひとり、 湿り吹きゆく 幼ごころの日のうれひ、 そのちやるめらの 笛の曲。 笛の曲………… かくて、はた、病みぬる椿、 赤く、赤く、狂へる椿。 四十一年六月   吊橋のにほひ 夏の日の激しき光 噴きいづる銀の濃雲に照りうかび、 雲は熔けてひたおもて大河筋に射かへせば、 見よ、眩暈く水の面、波も真白に 声もなき潮のさしひき。 そがうへに懸る吊橋。 煤けたる黝の鉄の桁構、 半月形の幾円み絶えつつ続くかげに、見よ、 薄らに青む水の色、あるは煉瓦の 円柱映ろひ、あかみ、たゆたひぬ。 銀色の光のなかに、 そろひゆく櫂のなげきしらしらと、 或は仄の水鳥のそことしもなき音のうれひ、 河岸の氷室の壁も、はた、ただに真昼の 白蝋の冷みの沈黙。 かくてただ悩む吊橋、 なべてみな真白き水の面、はた、光、 ただにたゆたふ眩暈の、恐怖の、仄の哀愁の 銀の真昼に、色重き鉄のにほひぞ 鬱憂に吊られ圧さるる。 鋼鉄のにほひに噎び、 絶えずまた直裸なる男の子 真白に光り、ひとならび、力あふるる面して 柵の上より躍り入る、水の飛沫や、 白金に濡れてかがやく。 真白なる真夏の真昼。 汗滴るしとどの熱に薄曇り、 暈みて歎く吊橋のにほひ目当にたぎち来る 小蒸汽船の灰ばめる鈍き唸や、 日は光り、煙うづまく。 四十一年八月   硝子切るひと 君は切る、 色あかき硝子の板を。 落日さす暮春の窓に、 いそがしく撰びいでつつ。 君は切る、 金剛の石のわかさに。 茴香酒のごときひとすぢ つと引きつ、切りつ、忘れつ。 君は切る、 色あかき硝子の板を。 君は切る、君は切る。 四十年十二月    悪の窓 断篇七種    一 狂念 あはれ、あはれ、 青白き日の光西よりのぼり、 薄暮の灯のにほひ昼もまた点りかなしむ。 わが街よ、わが窓よ、なにしかも焼酎叫び、 鶴嘴のひとつらね日に光り悶えひらめく。 汽車ぞ来る、汽車ぞ来る、真黒げに夢とどろかし、 窓もなき灰色の貨物輌豹ぞ積みたる。 あはれ、はや、焼酎は醋とかはり、人は轢かれて、 盲ひつつ血に叫ぶ豹の声遠に泡立つ。    二 疲れ あはれ、いま暴びゆく接吻よ、肉の曲。…… かくてはや青白く疲れたる獣の面 今日もまた我見据ゑ、果敢なげに、いと果敢なげに、 色濁る窓硝子外面より呪ひためらふ。 いづこにかうち狂ふヸオロンよ、わが唇よ、 身をも燬くべき砒素の壁夕日さしそふ。    三 薄暮の負傷 血潮したたる。 薄暮の負傷なやまし、かげ暗き溝のにほひに、 はた、胸に、床の鉛に…… さあれ、夢には列なめて駱駝ぞ過ぐる。 埃及のカイロの街の古煉瓦 壁のひまには砂漠なるオアシスうかぶ。 その空にしたたる紅きわが星よ。…… 血潮したたる。    四 象のにほひ 日をひと日。 日をひと日。 日をひと日、光なし、色も盲ひて ふくだめる、はた、病めるなやましきもの 窻ふたぎ窻ふたぎ気倦るげに唸りもぞする。 あはれ、わが幽鬱の象 亜弗利加の鈍きにほひに。 日をひと日。 日をひと日。    五 悪のそびら おどろなす髪の亜麻色 背向け、今日もうごかず、 さあれ、また、絶えずほつほつ 息しぼり『死』にぞ吹くめる、 血のごとき石鹸の珠を。    六 薄暮の印象 うまし接吻……歓語…… さあれ、空には眼に見えぬ血潮したたり、 なにものか負傷ひくるしむ叫ごゑ、 など痛む、あな薄暮の曲の色、──光の沈黙。 うまし接吻……歓語……    七 うめき 暮れゆく日、血に濁る床の上にひとりやすらふ。 街しづみ、窻しづみ、わが心もの音もなし。 載せきたる板硝子過ぐるとき車燬きつつ 落つる日の照りかへし、そが面噎びあかれば 室内の汚穢、はた、古壁に朽ちし鉞 一斉に屠らるる牛の夢くわとばかり呻き悶ゆる。 街の子は戯れに空虚なる乳の鑵たたき、 よぼよぼの飴売は、あなしばし、ちやるめらを吹く。 くわとばかり、くわとばかり、 黄に光る向ひの煉瓦 くわとばかり、あなしばし。── 悪の窻 畢──四十一年二月   蟻 おほらかに、 いとおほらかに、 大きなる鬱金の色の花の面。 日は真昼、 時は極熱、 ひたおもて日射にくわつと照りかへる。 時に、われ 世の蜜もとめ 雄蕋の林の底をさまよひぬ。 光の斑 燬けつ、断れつ、 豹のごと燃えつつ湿める径の隈。 風吹かず。 仰ふげば空は 烈々と鬱金を篩ふ蕋の花。 さらに、聞く、 爛れ、饐えばみ、 ふつふつと苦痛をかもす蜜の息。 楽欲の 極みか、甘き 寂寞の大光明、に喘ぐ時。 人界の 七谷隔て、 丁々と白檀を伐つ斧の音。 四十年三月   華のかげ 時は夏、血のごと濁る毒水の 鰐住む沼の真昼時、夢ともわかず、 日に嘆く無量の広葉かきわけて ほのかに青き青蓮の白華咲けり。 ここ過ぎり街にゆく者、── 婆羅門の苦行の沙門、あるはまた 生皮漁る旃陀羅が鈍き刃の色、 たまたまに火の布巻ける奴隷ども 石油の鑵を地に投げて鋭に泣けど、 この旱何時かは止まむ。これやこれ、 饑に堕ちたる天竺の末期の苦患。 見るからに気候風吹く空の果 銅色のうろこ雲湿潤に燃えて 恒河の鰐の脊のごとはらばへど、 日は爛れ、大地はあはれ柚色の 熱黄疸の苦痛に吐息も得せず。 この恐怖何に類へむ。ひとみぎり 地平のはてを大象の群御しながら 槍揮ふ土人が昼の水かひも 終へしか、消ゆる後姿に代れる列は こは如何に殖民兵の黒奴らが 喘ぎ曳き来る真黒なる火薬の車輌 掲ぐるは危嶮の旗の朱の光 絶えず饑ゑたる心臓の呻くに似たり。 さはあれど、ここなる華と、円き葉の あはひにうつる色、匂、青みの光、 ほのほのと沼の水面の毒の香も 薄らに交り、昼はなほかすかに顫ふ。 四十年十二月   幽閉 色濁るぐらすの戸もて 封じたる、白日の日のさすひと間、 そのなかに蝋のあかりのすすりなき。 いましがた、蓋閉したる風琴の忍びのうめき。 そがうへに瞳盲ひたる嬰児ぞ戯れあそぶ。 あはれ、さは赤裸なる、盲ひなる、ひとり笑みつつ、 声たてて小さく愛しき生の臍をまさぐりぬ。 物病ましさのかぎりなる室のといきに、 をりをりは忍び入るらむ戯けたる街衢の囃子、 あはれ、また、嬰児笑ふ。 ことことと、ひそかなる母のおとなひ 幾度となく戸を押せど、はては敲けど、 色濁る扉はあかず。 室の内暑く悒鬱く、またさらに嬰児笑ふ。 かくて、はた、硝子のなかのすすりなき 蝋のあかりの夜を待たず尽きなむ時よ。 あはれ、また母の愁の恐怖とならむそのみぎり。 あはれ、子はひたに聴き入る、 珍らなるいとも可笑しきちやるめらの外の一節。 四十一年六月   鉛の室 いんきは赤し。──さいへ、見よ、室の腐蝕に うちにじみ倦じつつゆくわがおもひ、 暮春の午後をそこはかと朱をば引けども。 油じむ末黒の文字のいくつらね 悲しともなく誦しゆけど、響らぐ声は 鏽びてゆく鉛の悔、しかすがに、 強き薫のなやましさ、鉛の室は くわとばかり火酒のごとき噎びして 壁の湿潤を玻璃に蒸す光の痛さ。 力なき活字ひろひの淫れ歌、 病める機械の羽たたきにあるは沁み来し 新らしき紙の刷られの香も消ゆる。 いんきや尽きむ。──はやもわがこころのそこに 聴くはただ饐えに饐えゆく匂のみ、── はた、滓よどむ壺を見よ。つとこそ一人、 手を棚へ延すより早く、とくとくと、 赤き硝子のいんき罎傾むけそそぐ 一刹那、壺にあふるる火のゆらぎ。 さと燃えあがる間こそあれ、飜ると見れば 手に平む吸取紙の骸色 爛れぬ──あなや、血はしと、と卓に滴る。 四十年九月   真昼 日は真昼──野づかさの、寂寥の心の臓にか、 ただひとつ声もなく照りかへす硝子の破片。 そのほとり WHISKY の匂蒸す銀色の内、 声するは、密かにも露吸ひあぐる、 色赤き、色赤き花の吐息…… 四十一年十二月 このさんたくるすは三百年まへより大江村の切支丹のうちに忍びかくして守りつたへたるたつときみくるすなり。これは野中に見いでたり。 天草島大江村天主堂秘蔵    天草雅歌 四十年八月、新詩社の諸友とともに遠く天草島に遊ぶ。こはその紀念作なり。 「四十年十月作」    天艸雅歌   角を吹け わが佳耦よ、いざともに野にいでて 歌はまし、水牛の角を吹け。 視よ、すでに美果実あからみて 田にはまた足穂垂れ、風のまに 山鳩のこゑきこゆ、角を吹け。 いざさらば馬鈴薯の畑を越え 瓜哇びとが園に入り、かの岡に 鐘やみて蝋の火の消ゆるまで 無花果の乳をすすり、ほのぼのと 歌はまし、汝が頸の角を吹け。 わが佳耦よ、鐘きこゆ、野に下りて 葡萄樹の汁滴る邑を過ぎ、 いざさらば、パアテルの黒き袈裟 はや朝の看経はて、しづしづと 見えがくれ棕櫚の葉に消ゆるまで、 無花果の乳をすすり、ほのぼのと 歌はまし、いざともに角を吹け、 わが佳耦よ、起き来れ、野にいでて 歌はまし、水牛の角を吹け。   ほのかなる蝋の火に いでや子ら、日は高し、風たちて 棕櫚の葉のうち戦ぎ冷ゆるまで、 ほのかなる蝋の火に羽をそろへ 鴿のごと歌はまし、汝が母も。 好き日なり、媼たち、さらばまづ 祷らまし賛美歌の十五番、 いざさらば風琴を子らは弾け、 あはれ、またわが爺よ、なにすとか、 老眼鏡ここにこそ、座はあきぬ、 いざともに祷らまし、ひとびとよ、 さんた・まりや。さんた・まりや。さんた・まりや。 拝めば香炉の火身に燃えて 百合のごとわが霊のうちふるふ。 あなかしこ、鴿の子ら羽をあげて 御龕なる蝋の火をあらためよ。 黒船の笛きこゆいざさらば ほどもなくパアテルは見えまさむ、 さらにまた他の燭をたてまつれ。 あなゆかし、ロレンゾか、鐘鳴らし、 まめやかに安息の日を祝ぐは、 あな楽し、真白なる羽をそろへ 鴿のごと歌はまし、わが子らよ。 あはれなほ日は高し、風たちて 棕櫚の葉のうち戦ぎ冷ゆるまで、 ほのかなる蝋の火に羽をそろへ 鴿のごと歌はまし、はらからよ。   艣を抜けよ はやも聴け、鐘鳴りぬ、わが子らよ、 御堂にははや夕の歌きこえ、 蝋の火もともるらし、艣を抜けよ。 もろもろの美果実籠に盛りて、 汝が鴿ら畑に下り、しらしらと 帰るらし夕づつのかげを見よ。 われらいま、空色の帆のやみに 新なる大海の香炉採り 籠に炷きぬ、ひるがへる魚を見よ。 さるほどに、跪き、ひとびとは 目見青き上人と夜に祷り、 捧げます御くるすの香にや酔ふ、 うらうらと咽ぶらし、歌をきけ。 われらまた祖先らが血によりて 洗礼がれし仮名文の御経にぞ 主よ永久に恵みあれ、われらも、と 鴿率つつ祷らまし、帆をしぼれ。 はやも聴け、鐘鳴りぬ、わが子らよ、 御堂にははや夕の歌きこえ、 蝋の火もくゆるらし、艣を抜けよ、   汝にささぐ 女子よ、 汝に捧ぐ、 ただひとつ。 然はあれ、汝も知らむ。 このさんた・くるすは、かなた 檳榔樹の実の落つる国、 夕日さす白琺瑯の石の階 そのそこの心の心、── えめらるど、あるは紅玉、 褐の埴八千層敷ける真底より、 汝が愛を讃へむがため、 また、清き接吻のため、 水晶の柄をすげし白銀の鍬をもて、 七つほど先の世ゆ世を継ぎて ひたぶるに、われとわが 採りいでし型、 その型を 汝に捧ぐ、 女子よ。   ただ秘めよ 曰ひけるは、 あな、わが少女、 天艸の蜜の少女よ。 汝が髪は烏のごとく、 汝が唇は木の実の紅に没薬の汁滴らす。 わが鴿よ、わが友よ、いざともに擁かまし。 薫濃き葡萄の酒は 玻璃の壺に盛るべく、 もたらしし麝香の臍は 汝が肌の百合に染めてむ。 よし、さあれ、汝が父に、 よし、さあれ、汝が母に、 ただ秘めよ、ただ守れ、斎き死ぬまで、 虐の罪の鞭はさもあらばあれ、 ああただ秘めよ、御くるすの愛の徴を。   さならずば わが家の わが家の可愛ゆき鴿を その雛を 汝せちに恋ふとしならば、 いでや子よ、 逃れよ、早も邪宗門外道の教 かくてまた遠き祖より伝ヘこし秘密の聖磔 とく柱より取りいでよ。もし、さならずば もろもろの麝香のふくろ、 桂枝、はた、没薬、蘆薈 および乳、島の無花果、 如何に世のにほひを積むも、── さならずば、 もしさならずば── 汝いかに陳じ泣くとも、あるは、また 護摩炷き修し、伴天連の救よぶとも、 ああ遂に詮業なけむ。いざさらば 接吻の妙なる蜜に、 女子の葡萄の息に、 いで『ころべ』いざ歌へ、わかうどよ。   嗅煙艸 『あはれ、あはれ、深江の媼よ。 髪も頬も煙艸色なる、 棕櫚の根に蹲む媼よ。 汝が持てる象牙の壺は また薫る褐なる粉は 何ぞ。また、せちに鼻つけ 涙垂れ、あかき眼擦るは。』 このときに渡の媼 呻ぶらく。『わが葡萄牙、 こを嗅ぎてわかきは思ふ。』 『さらば、汝は。』『責めそ、さな、さな、 養生を骸はただ欲れ。 さればこそ、この嗅煙艸。』   鵠 わかうどなゆめ近よりそ、 かのゆくは邪宗の鵠、 日のうちに七度八度 潮あび化粧すといふ 伴天連の秘の少女ぞ。 地になびく髪には蘆薈、 嘴にまたあかき実を塗る 淫らなる鳥にしあれば、 絶えず、その真白羽ひろげ 乳香の水したたらす。 されば、子なゆめ近よりそ。 視よ、持つは炎か、華か、 さならずば実の無花果か、 兎にもあれ、かれこそ邪法。 わかうどなゆめ近よりそ。   日ごとに 日ごとにわかき姿して 日ごとに歌ふわが族よ、 日ごとに紅き実の乳房 日ごとにすてて漁りゆく。   黄金向日葵 あはれ、あはれ、黄金向日葵 汝また太陽にも倦きしか、 南国の空の真昼を かなしげに疲れて見ゆる。   一炷 香炉いま 一炷のかをり。  あはれ、火はこころのそこに。 さあれ、その 一炷のけむり、  かの空の青き龕に。    青き花 南紀旅行の紀念として且はわが羅曼底時代のあえかなる思出のために、この幼き一章を過ぎし日の友にささぐ。 「四十年二、三両月中作」   青き花 そは暗きみどりの空に むかし見し幻なりき。 青き花 かくてたづねて、 日も知らず、また、夜も知らず、 国あまた巡りありきし そのかみの われや、わかうど。 そののちも人とうまれて、 微妙くも奇しき幻 ゆめ、うつつ、 香こそ忘れね、 かの青き花をたづねて、 ああ、またもわれはあえかに 人の世の 旅路に迷ふ。   君 かかる野に 何時かありけむ。 仏手柑の青む南国 薫る日の光なよらに 身をめぐりほめく物の香、 鳥うたひ、 天もゆめみぬ。 何時の世か 君と識りけむ。 黄金なす髪もたわたわ、 みかへるか、あはれ、つかのま ちらと見ぬ、わかき瞳に にほひぬる かの青き花。   桑名 夜となりぬ、神世に通ふやすらひに 早や門鎖す古伊勢の桑名の街は 路も狭に高き屋づくり音もなく、 陰森として物の隈ひろごるにほひ。 おほらかに零落の戸を瞰下して 愁ふるがごと月光は青に照せり。 参宮の衆にかあらむ、旅びとの 二人三人はさきのほどひそかに過ぎぬ。 貸旅籠札のみ白き壁つづき ほとほと遠く、物ごゑの夜風に消えて、 今ははた数添はりゆく星くづの 天なる調やはらかに、地は闌けまさる。 時になほ街はづれなる老舗の戸 少し明りて火は路へひとすぢ射しぬ。 行燈のかげには清き女の童物縫ふけはひ、 そがなかにたわやの一人髪あげて 戸外すかしぬ。──事もなき夜のしづけさに。   朝 ──汽車のなかにて── わが友よ、はや眼をさませ。 玻璃の戸にのこる灯ゆらぎ、 夜はわかきうれひに明けぬ。 順礼はつとにめざめて あえかなる友をかおもふ。 清しげの髪のそよぎに 笈のいろもほのぼの。 わが友よ、はや眼をさませ。 かなた、いま白む野のそら、 薔薇にはほのかに薄く 菫よりやや濃きあはひ、 かのわかき瞳さながら あけぼのの夢より醒めて わだつみはかすかに顫ふ。   紅玉 かかるとき、 海ゆく船に まどはしの人魚か蹤ける。 美くしき術の夕に、 まどろみの香油したたり、 こころまた けぶるともなく、 幻の黒髪きたり、 夜のごとも わが眼蔽へり。 そことなく おほくのひとの あえかなるかたらひおぼえ、 われはただひしと凝視めぬ。 夢ふかき黒髪の奥 朱に喘ぐ 紅玉ひとつ、 これや、わが胸より落つる わかき血の 燃る滴。   海辺の墓 われは見き、 いつとは知らね、 薄あかるにほひのなかに 夢ならずわかれし一人、 ものみなは涙のいろに 消えぬとも。 ああ、えや忘る。 かのわかき黒髪のなか、 星のごと濡れてにほひし 天色の勾玉七つ。 われは見ぬ、 漂浪ひながら、 見もなれぬ海辺の墓に うつつにも眠れる一人 そことなき髪のにほひの ほのめきも、 ああ、えや忘る。 いま寒き夕闇のそこ、 星のごと濡れてにほへる 天色の露草七つ。   渚の薔薇 紀の南、白良の渚、 荒き灘高く砕けて 天暗う轟くほとり、 ひとならび夕陽をうけて 面ほてり、むらがり咲ける 色紅き薔薇の族よ。 瞬く間、間近に寄せて 崩れうつ浪の穂を見よ。 今しさと滴るばかり 激瀾の飛沫に濡れて、 弥さらに匂ひ閃めく 火のごとき少女のむれよ。 寄せ返し、遠く消えゆく 塩漚暗き音を聴け。 ああ薔薇、汝にむかへば わかき日のほこりぞ躍る。 薔薇、薔微、あてなる薔薇。   紐 海の霧にほやかなるに 灯も見ゆる夕暮のほど、 ほのかなる旅籠の窓に 在るとなく暮れもなやめば、 やはらかき私語まじり 咽びきぬ、そこはかとなく、 火に焼くる薔薇のにほひ。 ああ、薔薇、暮れゆく今日を そぞろなり、わかき喘に 図らずも思ひぞいづる。 そは熱き夏の渚辺、 濡髪のなまめかしさに、 女つと寝がへりながら、 みだらなる手して結びし 色紅き韈の紐。   昼 蜜柑船凪にうかびて 壁白き浜のかなたは あたたかに物売る声す。 波もなき港の真昼、 白銀の挿櫛撓み いま遠く二つら三つら 水の上をすべると見つれ。 波もなき港の真昼、 また近く、二つら三つら 飛の魚すべりて安し。   夕 あたたかに海は笑ひぬ。 花あかき夕日の窓に、 手をのべて聴くとしもなく 薔薇摘み、ほのかに愁ふ。 いま聴くは市の遠音か、 波の音か、過ぎし昨日か、 はた、淡き今日のうれひか。 あたたかに海は笑ひぬ。 ふと思ふ、かかる夕日に 白銀の絹衣ゆるがせ、 いまあてに花摘みながら かく愁ひ、かくや聴くらむ、 紅の南極星下 われを思ふ人のひとりも。   羅曼底の瞳 この少女はわが稚きロマンチツクの幻象也、仮にソフィヤと呼びまゐらす。 美くしきソフィヤの君。 悲しくも恋しくも見え給ふわがわかきソフィヤの君。 なになれば日もすがら今日はかく瞑目り給ふ。 美くしきソフィヤの君、 われ泣けば、朝な夕なに、 悲しくも静かにも見ひらき給ふ青き華──少女の瞳。 ソフィヤの君。    古酒 こは邪宗門の古酒なり。近代白耳義の所謂フアンドシエクルの神経には柑桂酒の酸味に竪笛の音色を思ひ浮かべ梅酒に喇叭を嗅ぎ、甘くして辛き茴香酒にフルウトの鋭さをたづね、あるはまたウヰスキイをトロムボオンに、キユムメル、ブランデイを嚠喨として鼻音を交へたるオボイの響に配して、それそれ匂強き味覚の合奏に耽溺すと云へど、こはさる驕りたる類にもあらず。黴くさき穴倉の隅、曇りたる色硝子の窻より洩れきたる外光の不可思議におぼめきながら煤びたるフラスコのひとつに湛ゆるは火酒か、阿刺吉か、又はかの紅毛の〓(「酉+珍のつくり」)酡の酒か、えもわかねど、われはただ和蘭わたりのびいどろの深き古色をゆかしみて、かのわかき日のはじめに秘め置きにたる様々の夢と匂とに執するのみ。   恋慕ながし 春ゆく市のゆふぐれ、 角なる地下室の玻璃透き うつらふ色とにほひと 見惚れぬ。──潤るむ笛の音。 しばしは雲の縹と、 灯うつる路の濡色、 また行く素足しらしら、── あかりぬ、笛の音色も。 古き醋甕と街衢の 物焼く薫いつしか 薄らひ饐ゆれ。──澄みゆく 紅き音色の揺曳 このとき、玻璃も真黒に 四輪車軋るはためき、 獣の温き肌の香 過ぎりぬ。──濁る夜の色。 ああ眼にまどふ音色の はやも見わかぬかなしさ。 れんほ、れれつれ、消えぬる 恋慕ながしの一曲。 四十年二月   煙草 黄のほてり、夢のすががき、 さはあまきうれひの華よ。 ほのに汝を嗅ぎゆくここち、 QURACIO の酒もおよばじ。 いつはあれ、ものうき胸に 痛知るささやきながら、 わかき火のにほひにむせて はばたきぬ、快楽のうたは。 そのうたを誰かは解かむ。 あえかなる罪のまぼろし、── 濃き華の褐に沁みゆく 愛欲の千々のうれひを。 向日葵の日に蒸すにほひ、 かはたれのかなしき怨言 ゆるやかにくゆりぬ、いまも 絶間なき火のささやきに。 かくてわがこころひねもす 傷むともなくてくゆりぬ、 あな、あはれ、汝が香の小鳥 そらいろのもやのつばさに。 四十年九月   舗石 夏の夜あけのすずしさ、 氷載せゆく車の いづちともなき軋に、 潤みて消ゆる瓦斯の火。 海へか、路次ゆみだれて 大族なす鵞の鳥 鳴きつれ、霧のまがひに わたりぬ──しらむ舗石。 人みえそめぬ。煙草の ただよひ湿るたまゆら、 辻なる窻の絵硝子 あがりぬ──ひびく舗石。 見よ、女が髪のたわめき 濡れこそかかれ、このとき つと寄り、男、みだらの 接吻──にほふ舗石。 ほど経て窻を閑す音。 枝垂柳のしげみを、 赤き港の自働車 けたたましくも過ぎぬる。 ややあり、ほのに緋の帯、 水色うつり過ぐれば、 縺れぬ、はやも、からころ、 かろき木履のすががき。 四十年九月   驟雨前 長月の鎮守の祭 からうじてどよもしながら、 雨もよひ、夜もふけゆけば、 蒸しなやむ濃き雲のあし をりをりに赤くただれて、 月あかり、稲妻すなる。 このあたり、だらだらの坂、 赤楊高き小学校の 柵尽きて、下は黍畑 こほろぎぞ闇に鳴くなる。 いづこぞや女声して 重たげに雨戸繰る音。 わかれ路、辻の濃霧は 馬やどののこるあかりに 幻燈のぼかしのごとも 蒸し青み、破れし土馬車 ふたつみつ泥にまみれて ひそやかに影を落しぬ。 泥濘の物の汗ばみ 生ぬるく、重き空気に 新しき木犀まじり、 馬槽の臭気ふけつつ、 懶うげのさやぎはたはた 暑き夜のなやみを刻む。 足音す、生血の滴り しとしととまへを人かげ、 おちうどか、ほたや、六部か、 背に高き龕をになひ、 青き火の消えゆくごとく 呻きつつ闇にまぎれぬ。 生騒ぎ野をひとわたり。 とある枝に蝉は寝おびれ、 ぢと嘆き、鳴きも落つれば 洞円き橋台のをち、 はつかにも断れし雲間に 月黄ばみ、病める笑ひす。 夜の汽車の重きとどろき。 凄まじき驟雨のまへを、 黒烟深き峡は 一面に血潮ながれて、 いま赤く人轢くけしき。 稲妻す。──嗚呼夜は一時。 三十九年九月   解纜 解纜す、大船あまた。── ここ肥前長崎港のただなかは 長雨ぞらの幽闇に海づら鈍み、 悶々と檣けぶるたたずまひ、 鎖のむせび、帆のうなり、伝馬のさけび、 あるはまた阿蘭船なる黒奴が 気も狂ほしき諸ごゑに、硝子切る音、 うち湿り──嗚呼午後七時──ひとしきり、落居ぬ騒擾。 解纜す、大船あまた。 あかあかと日暮の街に吐血して 落日喘ぐ寂寥に鐘鳴りわたり、 陰々と、灰色重き曇日を 死を告げ知らすせはしさに、響は絶えず 天主より。──闇澹として二列、 海波の鳴咽、赤の浮標、なかに黄ばめる 帆は瘧に──嗚呼午後七時──わなわなとはためく恐怖。 解纜す、大船あまた。── 黄髪の伴天連信徒蹌踉と 闇穴道を磔負ひ駆られゆくごと 生ぬるき悔の唸順々に、 流るる血しほ黒煙り動揺しつつ、 印度、はた、南蛮、羅馬、目的はあれ、 ただ生涯の船がかり、いづれは黄泉へ 消えゆくや、──嗚呼午後七時──鬱憂の心の海に。 三十九年七月   日ざかり 嗚呼、今し午砲のひびき おほどかにとどろきわたり、 遠近の汽笛しばらく 饑うるごと呻きをはれば、 柳原熱き街衢は また、もとの沈黙にかへる。 河岸なみは赤き煉瓦家。 牢獄めく工場の奥ゆ 印刷の響たまたま 薄鉄葉切る鋏の音と、 柩うつ槌と、鑢と、 懶うげにまじりきこえぬ。 片側の古衣屋つづき、 衣紋掛重き恐怖に 肺やみの咳洩れて、 饐えてゆく物のいきれに、 陰湿のにほひつめたく 照り白み、人は黙坐す。 ゆきかへり、やをら、電気車 鉛だつ体をとどめて ぐどぐどとかたみに語り、 鬱憂の唸重げに また軋る、熱く垂れたる ひた赤き満員の札。 恐ろしき沈黙ふたたび 酷熱の日ざしにただれ、 ぺんき塗褪めし看板 毒滴らし、河岸のあちこち ちぢれ毛の痩犬見えて 苦しげに肉を求食りぬ。 油うく線路の正面、 鉄重き橋の構に 雲ひとつまろがりいでて くらくらとかがやく真昼、 汗ながし、車曳きつつ 匍匐ふがごと撒水夫きたる。 三十九年九月   軟風 ゆるびぬ、潤む罌粟の火は わかき瞳の濡色に。 熟視めよ、ゆるる麦の穂の たゆらの色のつぶやきを。 たわやになびく黒髪の 君の水脈こそ身に翻れ。── うかびぬ、消えぬ、火の雫 匂の海のたゆたひに。 ふとしも歎く蝶のむれ ころりんころと……頬のほめき、 触るる吐息に縺るれば、 色も、にほひも、つぶやきも、 同じ音色の揺曳に 倦じぬ、かくて君が目も。── あはれ、皐月の軟風に ゆられてゆめむわがおもひ。 四十年六月   大寺 大寺の庫裏のうしろは、 枇杷あまた黄金たわわに、 六月の天いろ洩るる 路次の隅、竿かけわたし 皮交り、襁褓を乾せり。 そのかげに穢き姿して 面子うち、子らはたはぶれ、 裏店の洗流の日かげ、 顔青き野師の女房ら 首いだし、煙草吸ひつつ、 鈍き目に甍あふぎて、 はてもなう罵りかはす。 凋れたるもののにほひは 溝板の臭気まじりに 蒸し暑く、いづこともなく。 赤黒き肉屋の旗は 屋根越に垂れて動かず。 はや十時、街の沈黙を しめやかに沈の香しづみ、 しらじらと日は高まりぬ。 三十九年八月   ひらめき 十月のとある夜の空。 北国の郊野の林檎 実は赤く梢にのこれ、 はや、里の果物採は 影絶えぬ、遠く灯つけて ただ軋る耕作ぐるま。 鬱憂に海は鈍みて 闇澹と氷雨やすらし。 灰濁める暮雲のかなた 血紅の火花ひらめき 燦として音なく消えぬ。 沈痛の呻吟この時、 闇重き夜色のなかに 蓬髪の男蹌踉き 落涙す、蒼白き頬に。 三十九年八月   立秋 憂愁のこれや野の国、 柑子だつ灰色のすゑ 夕汽車の遠音もしづみ、 信号柱のちさき燈 淡々とみどりにうるむ。 ひとしきり、小野に細雲。 南瓜畑北へ練りゆく 旗赤き異形の列は 戯けたる広告の囃子 賑やかに遠くまぎれぬ。 うらがなし、落日の黄金 片岡の槐にあかり、 鳴きしきる蜩、あはれ 誰葬るゆふべなるらむ。 三十九年八月   玻璃罎 うすぐらき窖のなか、 瓢状、なにか湛へて、 十あまり円うならべる 夢いろの薄ら玻璃罎。 静けさや、靄の古びを 黄蝋は燻りまどかに 照りあかる。吐息そこ、ここ、 哀楽のつめたきにほひ。 今しこそ、ゆめの歓楽 降りそそげ。生命の脈は ゆらぎ、かつ、壁にちらほら 玻璃透きぬ、赤き火の色。 三十九年八月   微笑 朧月か、眩ゆきばかり 髪むすび紅き帯して あらはれぬ、春夜の納屋に いそいそと、あはれ、女子。 あかあかと据ゑし蝋燭 薔薇潮す片頬にほてり、 すずろけば夜霧火のごと、 いづこにか林檎のあへぎ。 嗚呼愉楽、朱塗の樽の 差口抜き、酒つぐわかさ、 玻璃器に古酒の薫香 なみなみと……遠く人ごゑ。 やや暫時、瞳かがやき、 髪かしげ、微笑みながら なに紅む、わかき女子。 母屋にまた、おこる歓語…… 三十九年八月   砂道 日の真昼、ひとり、懶く 真白なる砂道を歩む。 市遠く赤き旗見ゆ、 風もなし。荒蕪地つづき、 廃れ立つ礎燃えて 烈々と煉瓦の火気に 爛れたる果実のにほひ そことなく漂湿る。 数百歩、娑婆に音なし。 ふと、空に苦熱のうなり、 見あぐれば、名しらぬ大樹 千万の羽音に糜け、 鈴状に熟るる火の粒 潤やかに甘き乳しぶく。 楽欲の渇たちまち かのわかき接吻思ひ、 目ぞ暈む。 真夏の原に 真白なる砂道とぎれて また続く恐怖の日なか、 寂として過ぎる人なし。 三十九年八月   凋落 寂光土、はたや、墳塋、 夕暮の古き牧場は なごやかに光黄ばみて うつらちる楡の落葉、 そこ、かしこ。──暮秋の大日 あかあかと海に沈めば、 凋落の市に鐘鳴り、 絡繹と寺門をいづる 老若の力なき顔、 あるはみな青き旗垂れ 灰濁める水路の靄に 寂寞と繋る猪木舟、 店々の装飾まばらに、 甃石ちらほら軋る 空ぐるま、寒き石橋。── 鈍き眼に頭もたげて 黄牛よ、汝はなにおもふ。 三十九年八月   晩秋 神無月、下浣の七日、 病ましげに落日黄ばみて 晩秋の乾風光り、 百舌啼かず、木の葉沈まず、 空高き柿の上枝を 実はひとつ赤く落ちたり。 刹那、野を北へ人霊、 鉦うちぬ、遠く死の歌。 君死にき、かかる夕に。 三十九年五月   あかき木の実 暗きこころのあさあけに、 あかき木の実ぞほの見ゆる。 しかはあれども、昼はまた 君といふ日にわすれしか。 暗きこころのゆふぐれに、 あかき木の実ぞほの見ゆる。 四十年十月   かへりみ みかへりぬ、ふたたび、みたび、 暮れてゆく幼の歩 なに惜みさしもたゆたふ。 あはれ、また、野辺の番紅花 はやあかきにほひに満つを。 四十年十二月   なわすれぐさ 面帕のにほひに洩れて、 その眸すすり泣くとも、── 空いろに透きて、葉かげに 今日も咲く、なわすれの花。 四十一年五月   わかき日の夢 水透ける玻璃のうつはに、 果のひとつみづけるごとく、 わが夢は燃えてひそみぬ。 ひややかに、きよく、かなしく。 四十一年五月   よひやみ うらわかきうたびとのきみ、 よひやみのうれひきみにも ほの沁むや、青みやつれて 木のもとに、みればをみなも。 な怨みそ。われはもくせい、 ほのかなる花のさだめに、 目見しらみ、うすらなやめば あまき香もつゆにしめりぬ。 さあれ、きみ、こひのうれひは よひのくち、それもひととき、 かなしみてあらばありなむ、 われもまた。──月はのぼれり。 三十九年四月   一瞥 大月は赤くのぼれり。 あら、青む最愛びとよ。 へだてなき恋の怨言は 見るが間に朽ちてくだけぬ。 こは人か、 何らの色ぞ、 凋落の鵠か、鷭か。 後より、 冷笑す、あはれ、一瞥。 我、こころ君を殺しき。 三十九年七月   旅情 ──さすらへるミラノひとのうた。 零落の宿泊はやすし。 海ちかき下層の小部屋は、 ものとなき鹹の汚ごれに、 煤けつつ匂ふ壁紙。 広重の名をも思出づ。 ほどちかき庖厨のほてり、 絵草子の匂にまじり 物あぶる騒ぎこもごも、 焼酎のするどき吐息 針のごと肌刺す夕。 ながむれば葉柳つづき、 色硝子濡るる巷を、 横浜の子が智慧のはやさよ、 支那料理、よひの灯影に みだらうたあはれに歌ふ。 ややありて月はのぼりぬ。 清らなる出窓のしたを からころと軋む櫓の音。 鉄格子ひしとすがりて 黄金髪わかきをおもふ。 数おほき罪に古りぬる 初恋のうらはかなさは かかる夜の黒き波間を 舟かせぎ、わたりさすらふ わかうどが歌にこそきけ。 色ふかき、ミラノのそらは 日本のそれと似たれど、 ここにして摘むによしなき 素馨、海のあなたに 接吻のかなしきもあり。 国を去り、昨にわかれて 逃れ来し身にはあれども、 なほ遠く君をしぬべば、 ほうほう……と笛はうるみて、 いづらへか、黒船きゆる。 廊下ゆく重き足音。 みかへれば暗きひと間に 残る火は血のごと赤く、 腐れたる林檎のにほひ、 そことなく涙をさそふ。 三十九年九月   柑子 蕭やかにこの日も暮れぬ、北国の古き旅籠屋。 物焙ぶる炉のほとり頸垂れ愁ひしづめば 漂浪の暗き山川そこはかと。──さあれ、密かに 物ゆかし、わかき匂のいづこにか濡れてすずろぐ。 女あるじは柴折り燻べ、自在鍵低くすべらし、 鍋かけぬ。赤ら顔して旅語る商人ふたり。 傍より、笑みて静かに籠なる木の実撰りつつ、 家の子は卓にならべぬ。そのなかに柑子の匂。 ああ、柑子、黄金の熱味嗅ぎつつも思ひぞいづる。 晩秋の空ゆく黄雲、畑のいろ、見る眼のどかに 夕凪の沖に帆あぐる蜜柑ぶね、暮れて入る汽笛。 温かき南の島の幼子が夢のかずかず。 また思ふ、柑子の店の愛想よき肥満たる主婦、 あるはまた顔もかなしき亭主の流す新内、 暮れゆけば紅き夜の灯に蒸し薫ゆる物の香のなか、 夕餉時、街に入り来る旅人がわかき歩みを。 さては、われ、岡の木かげに夢心地、在りし静けさ 忍ばれぬ。目籠擁へ、黄金摘み、袖もちらほら 鳥のごと歌ひさまよふ君ききて泣きにし日をも。── ああ、耳に鈴の清しき、鳴りひびく沈黙の声音。 柴はまた音して爆ぜぬ、燃えあがる炎のわかさ。 ふと見れば、鍋の湯けぶり照り白らむ薫のなかに、 箸とりて笑らぐ赤ら頬、夕餉盛る主婦、家の子、 皆、古き喜劇のなかの姿なり。涙ながるる。 三十九年五月   内陣 ほのかなる香炉のくゆり、 日のにほひ、燈明のかげ、── 文月のゆふべ、蒸し薫る三十三間堂の奥 空色しづむ内陣の闇ほのぐらき静寂に、 千一体の観世音かさなり立たす香の古び いと蕭やかに後背のにぶき列ぞ白みたる。 いづちとも、いつとも知らに、 かすかなる素足のしめり。 そと軋むゆめのゆかいた なよらかに、はた、うすらかに。 ほのめくは髪のなよびか、 衣の香か、えこそわかたね。 女子の片頬のしらみ 忍びかの息の香ぞする。 舞ごろも近づくなべに、 うつらかにあかる薄闇。 初恋の燃ゆるためいき、 帯の色、身内のほてり。 だらりの姿おぼろかになまめき薫ゆる舞姫の ほのかに今したたずめば、本尊仏のうすあかり 静かなること水のごと沈みて匂ふ香のそらに、 仰ぐともなき目見のゆめ、やはらに涙さそふ時。 甍より鴿か立ちけむ、 はたはたとゆくりなき音に。 ふとゆれぬ、長の振袖 かろき緋のひるがへりにぞ、 ほのかなる香炉のくゆり、 日のにほひ、燈明のかげ、── もろもろの光はもつれ、 あな、しばし、闇にちらぼふ。 四十年七月   懶き島 明けぬれどものうし。温き土の香を 軟風ゆたにただ懈く揺り吹くなべに、 あかがねの淫の夢ゆのろのろと 寝恍れて醒むるさざめ言、起つもものうし。 眺むれどものうし、のぼる日のかげも、 大海原の空燃えて、今日も緩ゆる 縦にのみ湧くなる雲の火のはしら 重げに色もかはらねば見るもものうし。 行きぬれどものうし、波ののたくりも、 懈たき砂もわが悩ものうければぞ、 信天翁もそろもそろの吐息して 終日うたふ挽歌きくもものうし。 寝そべれどものうし、円に屯して 正覚坊の痴ごこち、日を嗅ぎながら 女らとなすこともなきたはれごと、 かくて抱けど、飽きぬれば吸ふもものうし。 貪れどものうし、椰子の実の酒も、 あか裸なる身の倦るさ、酌めども、あほれ、 懶怠の心の欲のものうげさ。 遠雷のとどろきも昼はものうし。 暮れぬれどものうし、甘き髪の香も、 益なし、あるは木を擦りて火ともすわざも。 空腹の心は暗きあなぐらに 蝮のうねりのにほひなし、入れどものうし。 ああ、なべてものうし、夜はくらやみの 濁れる空に、熟みつはり落つる実のごと 流星血を引き消ゆるなやましさ。 一人ならねど、とろにとろ、寝れどものうし。 四十年十二月   灰色の壁 灰色の暗き壁、見るはただ 恐ろしき一面の壁の色。 臘月の十九日、 丑満の夜の館。 龕めく唐銅の櫃の上、 燭青うまじろがずひとつ照る。 時にわれ、朦朧と黒衣して 天鵝絨のもの鈍き床に立ち、 ひたと身は鉄の屑 磁石にか吸はれよる。 足はいま釘つけに痺れ、かの 黄泉の扉はまのあたり額を圧す。 灰色の暗き壁、見るはただ 恐ろしき一面の壁の色。 暗澹と燐の火し 奈落へか虚する。 表面ただ古地図に似て煤け、 縦横にかず知れず走る罅 青やかに火光吸ひ、じめじめと 陰湿の汗うるみ冷ゆる時、 鉄の気はうしろより さかしまに髪を梳く。 はと竦む節々の凍る音。 生きたるは黒漆の瞳のみ。 灰色の暗き壁、見るはただ 恐ろしき一面の壁の色。 熟視む、いま、あるかなき 一点の血の雫。 朱の鈍み星のごと潤味帯び 光る。聞く、この暗き壁ぶかに くれなゐの皷うつ心の臓 刻々にあきらかに熱り来れ。 血けぶり。刹那ほと かすかなる人の息。 みるがまに罅はみなつやつやと 金髪の千筋なし、さと乱る。 灰色の暗き壁、見るはただ 恐ろしき一面の壁の色。 なほ熟視む。……髣髴と 浮びいづ、女の頬 大理石のごと腐れ、仰向くや 鼻冷えてほの笑ふちひさき歯 しらしらと薄玻璃の音を立つる。 眼をひらく。絶望のくるしみに 手はかたく十字拱み、 みだらなる媚の色 きとばかり。燭の火の青み射し、 銀色の夜の絹衣ひるがへる。 灰色の暗き壁、見るはただ 恐ろしき一面の壁の色。 『彼。』とわが憎悪心 むらむらとうちふるふ。 一斉に冷血のわななきは 釘つけの身を逆にゑぐり刺す。 ぎくと手は音刻み、節ごとに 機械のごと動く。いま怪し、 おぼえあるくらがりに 落ちちれる埴と鏝。 つと取るや、ひとつ当て、左より 額をまづひしひしと塗りつぶす。 灰色の暗き壁、見るはただ 恐ろしき一面の壁の色。 朱のごとき怨念は 燃え、われを凍らしむ。 刹那、かの驕りたる眼鼻ども 胸かけて、生ぬるき埴の色 ひと息に鏝の手に葬られ 生きながら苦しむか、ひくひくと うち皺む壁の罅、 今、暗き他界より 凄きまで面変り、人と世を 呪ふにか、すすりなき、うめきごゑ。 灰色の暗き壁、見るはただ 恐ろしき一面の壁の色。 悪業の終りたる 時に、ふとわれの手は 物握るかたちして見出さる。 ながむれば埴あらず、鏝もなし。 ただ暗き壁の面冷々と、 うは湿り、一点の血ぞ光る。 前の世の恋か、なほ 骨髄に沁みわたる この怨恨、この呪咀、まざまざと 人ひとり幻影に殺したる。 灰色の暗き壁、見るはただ 恐ろしき一面の壁の色。 臘月の十九日、 丑満の夜の館。 龕めく唐銅の櫃の上 燭青うまじろがずひとつ照る。 時になほ、朦朧と黒衣して 天鵝絨のものにぶき床に立ち、 わなわなと壁熟視め、 ひとり、また戦慄す。 掌ひらけば汗はあな生なまと さながらに人間の血のにほひ。 三十九年十二月   失くしつる 失くしつる。 さはあるべくもおもはれね。 またある日には、 探しなば、なほあるごともおもはるる。 色青き真珠のたまよ。 四十一年七月 装幀………………………………………………………………石井柏亭  「エツキスリプリス」及「幼児磔殺」………………………石井柏亭 挿画『澆季』……………………………………………………石井柏亭 挿画『真昼』……………………………………………………山本 鼎 私信『四十一年七月廿一日便』………………………………太田正雄 挿画『硝子吹く家』………………………………………………石井柏亭  扉絵及欄画十葉………………………………………………石井柏亭 彫版………………………………………………………………山本 鼎 底本:「白秋全集 1」岩波書店    1984(昭和59)年12月5日発行 底本の親本:「邪宗門」易風社    1909(明治42)年3月15日発行 入力:kompass 校正:今井忠夫 2003年11月24日作成 2005年10月24日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。