焔 原民喜 Guide 扉 本文 目 次 焔  雪が溶けて、しぶきが虹になった。麦畑の麦が舌を出した。泥濘にぺちゃぺちゃ靴が鳴る。をかしい。また春がやって来る。一年目だ。今度こそしくじったら台なしだ。だけど三百六十五日て、やっぱし、ぐるりと廻るのだな。イエス・クリストよ。ヨルダンの河てどんな河なのかしら。  たった二三時間、二三枚の紙に書いた、書き方が下手くそだったので、一年間遅れるんだよ、僕は。それが負け惜しみと云ふものだ、と矢口が云ふ。矢口はもうすぐ中学へ通ふのだから僕より偉がるのだ。話を変へなきゃいかん。君の今度はいった中学のポプラは素敵だね、大きいね。いいや、一寸も大きかないさ。もっと大きいのが何処にだってあるさ。ちょ、楯突いて来るのだな、僕が落こちたから、馬鹿にされるのだな。仕方がない、もうすぐお別れなのに、名残惜しがらないのだな。オヤ、あんなところに目高がゐるよ、君。  やい、やい、試験に落ちた大目球、一年下の三浦が皆の前で冷かした。三浦の柔かさうな頬ぺたを視つめながら、康雄はポケットのなかの拳骨を握りしめた。しかし、ぶっ放さなかった。  外でも家でも康雄は面白くなかった。家では母に癇癪玉ぶっ放した。切出小刀を掴んで切腹しかけると、母が火のやうに怒って飛びかかる。小刀が落ちて炬燵の角で頬を打った。それが痛さに康雄は泣く。死んだらもっと痛いのかなと思ひながら炬燵で足を温める。すると何故さっき自棄起したのか、忘れてしまふ。中学が一年遅れたこと位どうだっていいぢゃないか、趾の裏が今温い方が気持がいい。  康ちゃんのいけないのは何だと思ふ。さあ、沢山あると思ふ。そのうちでもよ。さあ。忍耐強くないことよ。さう云って姉は大切なことを説き出した。それが何時の間にか、アダムとイブの伝説に移り、クリストの話になってゐた。汝の敵を愛せよとクリストは仰ったのです。大きな愛の心でこの世を愛すると、何も彼も変って来ますよ。  その話を聴き終ってから康雄の頭は急にすっきりした。姉の病室を出て、病院の庭を散歩してみたら、中央の池のなかの芝生の島に、女の児がハンケチを持って、風にゆらぐハンケチに犬が戯れてゐた。絵のやうだ。なるほどこいつは世の中がさっきとは変った。再び姉の病室へ戻ると、ペットに横になった姉は大きな眼で康雄を視つめた。姉は青空のやうに澄んだ眼をした。さうだ、これからは何でも怺へて、姉さんの云ふ通りにならう、と決心すると康雄は胸が小躍りして来た。  その夕方家へ帰る途中も、胸の鼓動は病院からひきつづいてゐた。細く遠くまで続いた街の果てに、春の夕方の雲が紅く染まってゐた。その筒のやうな街を急いでそはそはと康雄は歩いた。神様てものはあったのだ。長い間の疑問が解けて来た。康雄はそはそはする空気のなかで、始めて密かに祈った。と、小路から三浦が追駈けて来て康雄に声を掛けた。三浦はニコニコ懐しげに彼を見た。たったこの間撲らうかと思った奴だが、康雄も笑顔になった。  台所で康雄は姉にだけ打明けた。僕はこれから優しくなるよ、誰とも喧嘩しないし、君だっていぢめない。小さな姉は不審さうに黙って彼を眺めてゐた。が、二三日して妹はふと云った。ほんとね、兄さんは大分変った。さう云はれると康雄は急に偉くなったやうに嬉しかった。家の手伝ひでも、掃除でも素直にした。三度の食事の前に祈り、朝夕も祈った。  春休みが過ぎて学校が始まった。高等一年の組は二階だ。新しく編入された康雄は識った顔が少ない。高が康雄の顔見て肯いた。君もゐたのか、二人は運動場の隅っこで話合った。芭蕉が芽を出してゐた。君、聖書ってもの知ってるかい。知ってるとも、聖書なら僕のうちにあるんだよ。ほんとかい。ほんとだとも、何なら明日君に持って来てあげるよ。呉れるのだね。うん。高は孤児だと云ふ噂だが、聖書持ってるとは思へなかった。それで君は信者かい。ううん、ちがふよ。高は青白い顔にぼんやり淋しさうな笑みを浮べた。  翌日高はほんとに聖書を持って来た。クロース張りの、小型の、赤縁のバイブルは康雄のポケットに納められ、表紙を爪で小擦ると、ビュー・ビューと唸った。  昼飯の時間に級長が授業料を集めて廻った。次の時間の始めにそれを舟木先生に渡さうとすると、さあ五拾銭足りない。集めた時には勘定が合ってたのに、休みの時間に足りなくなったのだ。四十人の机の隅から教壇の端まで探して、今度は身体検査だ。皆が廊下に一列に並んで、先生がポケットを裏返しにする。康雄のポケットからはバイブルが出て来た。先生は表紙をぽんと指で弾いて、君これ読むのかいと訊ねた。ベルが嗚った。次の時間は体育だ。皆運動場へ立たされた。またベルが鳴った。先生は怒ってゐた。出て来るまでは皆帰さないぞ、たった一人いけない奴がゐるのだ、誰だかそいつはわかってる筈だ。しかし誰も返事しない。皆済まなさうな顔だ。舟木先生の後にはアカシアの樹があり、その梢に白いちぎれ雲がある。神様! と、じりじりし出して康雄も祈る。僕が皆の犠牲にならうかしら、でも盗んでゐないのに盗んだとも云へないし、ええ、一そのこと僕が盗んでやればよかった。  今、君とこの前でこの拾銭拾ったよ。日曜日に高が康雄の家を訪ねて来た。警察へ持って行かうか。めんどくさいから菓子買って食はうよ。二人はぶらぶら盛り場の方へ歩いて行った。博覧会で人出が多い。バナナ・キャラメルを買って分けた。頬をもごもごさせながら矢口の家へ行って物干棚に登った。隣りの活動小屋からチャンバラの囃子が聞えた。矢口は英語のリーダーを出して二人に見せた。つるつる白い紙に真赤な苺の絵があざやかだ、その端にべったりインクの指紋がついてゐる。物干棚の上を大きな鳥が飛んだので影が本に映った。と、紋白蝶がヒラヒラ飛んで来た。  君はこの虫眼鏡知らないか。知りません。理科教室に一人で勝手に入ったことはなかったか。ありません。山野と今日昼休みに遊んでたのだらう。さうです。康雄は不思議さうにその虫眼鏡を見た。あれで習字の字が焼けるのだがなあ、しかし如何した間違ひだらう。よろしい、山野はこれが君のポケットから落ちたと云ふのだがね、よろしい、君は帰ってよろしい。舟木先生に許されると、康雄はどうして一人残されたのかまだ不審だった。山野と今日廊下で縺れ合って巫山戯たのはほんとだが、すると虫眼鏡が落ちたのかしら。すると僕は賊なのかしら。すると僕は知らぬ間に賊になったのかしら。いや、うかうかするとなるかも知れぬ。もし来年の入学試験に失敗したら、それこそ駄目になるぞ。しかしほんとに勉強しさへすれば中学へ入れるのかしら、それはほんとかしら……。康雄が考へつめながら帰ってゐると橋の袂で女学生と出逢った。もと同級だった女の子が急に大人びて、風呂敷包みなんか抱へてるではないか。女の子は胸をまっ直ぐにして歩いて来て彼を見ても素知らぬ顔だ。康雄は尻にブランブランするカバンを情なく思ひながら、橋の欄干をトントンと掌で叩いて、河のまん中に唾吐いた。もう何度この橋渡らなきゃならぬか、渡る度に思ふことを思った。  然れど我なんぢらに告げん、婦女を見て色情を起すは心すでに姦淫したる也。姦淫てどう云ふことなのか、康雄は変な気がした。  母が姉の病院へつききりで昨日から帰って来なかった。その夜も帰って来ない。夜更けて康雄は睡れなかった。トントンと表の戸を叩く音がする。康雄は急に蒲団のなかに頭を潜らせた。女中が彼を揺ると、彼はううんと態と呆けた返事をした。  姉は骨になって桐の小箱に収められた。骨のなかに混ってゐる金歯を掌にすると、義兄もほろりと涙を零した。葬式にまっ白な百合の花環に黒いリボンが結ばれてゐた。白い花弁は五月雨に濡れた。雨に煙る銀杏樹や、寺の大きな甍を仰ぎながら、康雄は姉が天国へ行くのを懐った。しかしそこは真宗の寺だった。  蓮華町の角からこの間の晩人魂がふわりふわり出てね、と教室で誰かが喋ってゐた。雨の休み時間で皆は教室にゐた。蓮華町には姉の墓がある。康雄は姉がその人魂ではないのかしらと思った。姉は西洋の小さな風景画を持ってゐたが、青い夜空に茫とした白い塊りが浮いてゐる、それを姉は幽霊だと云って怖がってゐた。夏の夜など康雄に怖しい話を語って聞かせながら、ふと月の光が籐椅子の縞を彼女の白い肘に染めてゐるのに気づくと、蛇ではないかとほんとに怖れるのだった。腹に水の貯る病気で死んだ姉、よくものを怖れた姉、まさかその姉が幽霊になりはすまいが、康雄は不思議な気がした。彼の父は姉より二年前に死んでゐた。つぎつぎに死ぬる、死んでどうなるのか。天国を信じようとしても、もう以前のやうに気持がすっきりしなかった。  夏が来て、東京から兄と嫂が帰って来ると、妹と母と五人で遠くの温泉へ行った。濃い色の海がすぐ宿屋の二階の縁側から斜に見えた。正面には山が見え、一きは恰好のいい山が一つ、その青い肌には霞が何時も動いてゐた。下の通りを瞰下すと、店頭の九官鳥を人が立留っては興がってゐた。絶えず人が通った。ある夕方皆がおばしまに凭れて下を眺めてゐると、めかした小肥りの女が女の児に風船玉を持たせて通った。淫売だよ、と兄が嫂に呟いた。淫売、その言葉の響が康雄には変に思へた。  夜の海岸は艶歌師や香具師で賑やかだ。康雄の妹ぐらゐの幼い女の児が、三味線に合はせて、身をくねらせて踊る。その顔が白粉でまっ白だ。意味は康雄にははっきりしないが、何だか恥しさうなことを、この娘は平気で踊るので、それが厭らしいやうにも、可愛想にもなる。大人達は平気で相好を崩す。時には彼も大人の真似をしてニヤニヤ心で笑ってみたりするのだ。  まだその温泉に浸ってゐるやうな気がした。と、夏の日の出来事が急行列車のやうに康雄の頭を通過した。ピイと汽笛が鳴る。これはほんとに汽車かな、と思ひながら暫く頭が茫とする。今度は三味線がぽつんぽつん鳴って、女達が奇てれつな踊りをする。小娘の癖におっぱいがぶらぶらしてゐる。乳豆から矢鱈に数字が飛出して、その数字の加算は暗算では出来ない。パカ、パカ、パカ、と外を裸馬が走る音が、バカと罵る。  しばらくすると康雄の熱は下った。すると今度は寝てゐる枕頭の夕ぐれの襖が眼に佗しい。彼は母を呼んで電燈を点けてもらふ。耳が冴えて小さな物音が一つ一つはっきり聴取れる。たった今風邪薬をもらひに出掛けて行った女中の下駄の歯が敷石に触れてくくくと云ってゐる。外は寒いのに出掛けるのはつらいだらう。ねえやんも寒いのに外にお使ひに出るのは退儀ぢゃないかしら、と康雄は大きな眼で母を視つめる。それは退儀でもさうしなきゃ仕方がないもの……と母が答へる。  つまり世の中は金だよ、金さ、金さ、何も彼も金さ、と吉田が云ふ。金と女さ、と山野が云ふ。康雄は解ったやうに笑ふ。高も笑ふ。日あたりのいい、風のあたらない校舎の隅で四人が議論してゐるうちに、山野はボタンを一つ捩ぎ除った。あは、うまくとれちゃった、裁縫室へ持って行って女の児につけてもらはう。山野がおどけた顔で走って行く。吉田もついて行く。しかしクリストはあんなこと云はなかったよ、と康雄は高に呟く。高は曖昧に笑ふ。孤児の高はひよわい身体してゐるし、時々どこか皆と異った不思議な表情をするのだった。  正月が過ぎて齡が一つ増えると、もううかうか出来なかった。しかし試験にはどうせ六年生に出来る問題が出る筈だから、それが甘げったらしい。甘げったらしいのに失敗ったら猶更、阿呆だ。しかし、イエス・クリストよ、何故中学校なんかあるのかしら、天国にもやはり学校なんかあるのかしら。康雄は高が少し羨ましい。高は中学へ行かないですぐ世間で働くさうだ。その方が気楽かも知れないが、何だか怖いやうな気もする。豆を噛りながら新聞を読んでゐると、強姦て活字がある。よくは解らないが、世の中は罪悪だらけらしい。  吉田が芸者にやるのだと云って、変なことを紙に書いてゐる。皆がそのまはりを取巻いてワイワイ笑ふ。吉田はいよいよ図に乗って鉛筆を舐める。そこへ舟木先生が音もなくやって来た。その手紙を捩ぎ取ると、先生は教壇へ上った。先生の顔がさっと変った。さあ説教だ、と皆は待ち構へて席につく。しかし先生は暫く口をきかないで一同を睥んでゐる。大変な剣幕の上に、大変なことを云はうとするらしい。  変だ、変だと思ってたら、矢張り大変なことだった。皆この頃どうかしてるのだな。実に恐しいことだ。何故君達は小学生の癖に女なんてことを考へるのだ。ええ、君達はまだ面白半分に誰か馬鹿野郎の真似してるのだらうが、これだけはよく知って置き給へ。君達も近いうちに世の中へ出るのだから、よくよく憶えて置き給へ。凡そ世の中から落伍したり失敗したりする人間は、すべてみんな女が原因なのだ。人間が腐敗したり、堕落する第一歩はみんな、みんな女からなのだ。とにかく女は敵と思ってゐれば間違ひはない。実際恐しいことだ。君達の年頃でもう女の何のて以ての外だ。それから吉田、君は今日残ってゐ給へ。  康雄は四畳半の勉強部屋に坐ってゐた。生暖かい雨がぼたぼたと軒を打つ夜だ。風が吹くと雨の音がさあっと乱れる。その風も暖かい。湯上りの所為ばかりではなく、二月と云ふのにまるで春のやうな、雨の音を聞いてゐると何だか恍惚とする。庭の草もこれで芽を出すのだらう。雨がぺちゃぺちゃ枯木を舐めてゐる。いや雨はぺちゃくちゃ喋ってゐるのだ。そのお喋りを聴いてゐると、試験準備のことを忘れる。眼の前の青い壁は電燈の明りで雲母の破片がキラキラ光って、まるで大空の星のやうだ。神様、僕に贔屓して試験を合格させ給へ。ええ、くそ、ふんわり、ふんわり歌でも唱ひたくなる。この間街角で犬が交尾してゐた。犬は鼻を笛のやうに鳴らしてた。しかし僕は羽根が生えてふんわりふんわり飛んで行きさうだ。羽根が生えたら天使ぢゃないか。天使の顔はみんな女で、眼なんかまるで夢のやうだ。雨の音がひどくなった。縋ってゐる机が何だか船のやうに想へる。船は温泉場を後に夜の海を進んだ。まっ黒な波が舷に噛みついて、その船が揺れた。大きな波と波の谷間に人魂が出た。その青い光が姉の顔になった。姉さん、御免よ、──しかし何を詑びてるのかはっきりしない。アーオ、アーオ、おや、この雨に猫が屋根で啼いてやらあ。  吉田が真先に走って山野と康雄と高が続いた。早く行かないと燃えるところが見えないてので、皆一生懸命だ。火葬場の繩張りのところへ来ると、康雄はハアハアと呼吸をきらせた。呼吸がきれて咽喉がヒリヒリした。しかし火事はまだ終ってゐなかった。柱がみんな黒焦げになって、壁が落ちて向ふが透いて見えた。焔がめらめらとあちこちから舌を出す。昼の火事で陽炎が出来、空が不思議に美しく見える。四人とも感心して声を放たぬ。やがて焔が全部消え、消防が去ると、四人は始めて帰らうと気づいた。夜の方が奇麗だね、と高が云ふと、×××××××××××、と吉田が云った。火事場の陽炎がまだちらちらと眼の前にあるやうな気持で、康雄は何も云はなかった。 底本:「普及版 原民喜全集第一巻」芳賀書店    1966(昭和41)年2月15日初版発行 入力:蒋龍 校正:伊藤時也 2013年1月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。