二世の契 泉鏡花 Guide 扉 本文 目 次 二世の契         一  真中に一棟、小さき屋根の、恰も朝凪の海に難破船の俤のやう、且つ破れ且つ傾いて見ゆるのは、此の広野を、久しい以前汽車が横切つた、其の時分の停車場の名残である。  路も纔に通ずるばかり、枯れても未だ葎の結ぼれた上へ、煙の如く降りかゝる小雨を透かして、遠く其の寂しい状を視めながら、 「もし、お媼さん、彼処までは何のくらゐあります。」  と尋ねたのは効々しい猟装束。顔容勝れて清らかな少年で、土間へ草鞋穿の脚を投げて、英国政府が王冠章の刻印打つたる、ポネヒル二連発銃の、銃身は月の如く、銃孔は星の如きを、斜に古畳の上に差置いたが、恁う聞く中に、其の鳥打帽を掻取ると、雫するほど額髪の黒く軟かに濡れたのを、幾度も払ひつゝ、太く野路の雨に悩んだ風情。  縁側もない破屋の、横に長いのを二室にした、古び曲んだ柱の根に、齢七十路に余る一人の媼、糸を繰つて車をぶう〳〵、静にぶう〳〵。 「然うぢやの、もの十七八町もござらうぞ、さし渡しにしては沢山もござるまいが、人の歩行く路は廻り廻り蜒つて居るで、半里の余もござりましよ。」と首を引込め、又揺出すやうにして、旧停車場の方を見ながら言つた、媼がしよぼ〳〵した目は、恁うやつて遠方のものに摺りつけるまでにしなければ、見えぬのであらう。  それから顔を上げ下しをする度に、恒は何処にか蔵して置くらしい、がツくり窪んだ胸を、伸し且つ竦めるのであつた。  素直に伸びたのを其のまゝ撫でつけた白髪の其よりも、尚多いのは膚の皺で、就中最も深く刻まれたのが、脊を低く、丁ど糸車を前に、枯野の末に、埴生の小屋など引くるめた置物同然に媼を畳み込んで置くのらしい。一度胸を伸して後へ反るやうにした今の様子で見れば、瘠せさらぼうた脊丈、此の齢にしては些と高過ぎる位なもの、すツくと立つたら、五六本細いのがある背戸の榛の樹立の他に、珍しい枯木に見えよう。肉は干び、皮萎びて見るかげもないが、手、胸などの巌乗さ、渋色に亀裂が入つて下塗の漆で固めたやう、未だ〳〵目立つのは鼻筋の判然と通つて居る顔備と。  黒ずんだが鬱金の裏の附いた、はぎ〳〵の、之はまた美しい、褪せては居るが色々、浅葱の麻の葉、鹿子の緋、国の習で百軒から切一ツづゝ集めて継ぎ合す処がある、其のちやん〳〵を着て、前帯で坐つた形で。  彼の古戦場を過つて、矢叫の音を風に聞き、浅茅が原の月影に、古の都を忍ぶたぐひの、心ある人は、此の媼が六十年の昔を推して、世にも希なる、容色よき上﨟としても差支はないと思ふ、何となく犯し難き品位があつた。其の尖つた顋のあたりを、すら〳〵と靡いて通る、綿の筋の幽に白きさへ、やがて霜になりさうな冷い雨。  少年は炉の上へ両手を真直に翳し、斜に媼の胸のあたりを窺うて、 「はあ其では、何か、他に通るものがあるんですか。」  媼は見返りもしないで、真向正面に渺々たる荒野を控へ、 「他に通るかとは、何がでござるの。」 「否、今謂つたぢやないか、人の通る路は廻り〳〵蜒つて居るつて。だから聞くんですが、他に何か歩行きますか。」 「やれもう、こんな原ぢやもの、お客様、狐も犬も通りませいで。霧がかゝりや、歩かうず、雲が下りや、走らうず、蜈蚣も潜れば蝗も飛ぶわいの、」と孫にものいふやう、顧みて打微笑む。         二  此の口からなら、譬ひ鬼が通る、魔が、と言つても、疑ふ処もなし、又然う信ずればとて驚くことはないのであつた。少年は姓桂木氏、東京なる某学校の秀才で、今年夏のはじめから一種憂鬱な病にかゝり、日を経るに従うて、色も、心も死灰の如く、やがて石碑の下に形なき祭を享けるばかりになつたが、其の病の原因はと、渠を能く知る友だちが密に言ふ、仔細あつて世を早うした恋なりし人の、其の姉君なる貴夫人より、一挺最新式の猟銃を賜はつた。が、爰に差置いた即是。  武器を参らす、郊外に猟などして、自ら励まし給へ、聞くが如き其の容体は、薬も看護も効あらずと医師のいへば。但御身に恙なきやう、わらはが手はいつも銃の口に、と心を籠めた手紙を添へて、両三日以前に御使者到来。  凭りかゝつた胸の離れなかつた、机の傍にこれを受取ると、額に手を加ふること頃刻にして、桂木は猛然として立つたのである。  扨今朝、此の辺からは煙も見えず、音も聞えぬ、新停車場で唯一人下り立つて、朝霧の濃やかな野中を歩して、雨になつた午の時過ぎ、媼の住居に駈け込んだまで、未だ嘗て一度も煙を銃身に絡めなかつた。  桂木は其の病まざる前の性質に復したれば、貴夫人が情ある贈物に酬いるため──函嶺を越ゆる時汽車の中で逢つた同窓の学友に、何処へ、と問はれて、修善寺の方へ蜜月の旅と答へた──最愛なる新婚の婦、ポネヒル姫の第一発は、仇に田鴫山鳩如きを打たず、願はくは目覚しき獲物を提げて、土産にしようと思つたので。  時ならぬ洪水、不思議の風雨に、隙なく線路を損はれて、官線ならぬ鉄道は其の停車場を更へた位、殊に桂木の一家族に取つては、祖先、此の国を領した時分から、屡々易からぬ奇怪の歴史を有する、三里の荒野を跋渉して、目に見ゆるもの、手に立つもの、対手が人類の形でさへなかつたら、覚えの狙撃で射て取らうと言ふのであるから。  霧も雲も歩行くと語つた、仔細ありげな媼の言を物ともせず、暖めた手で、びツしよりの草鞋の紐を解きかける。  油断はしないが俯向いたまゝ、 「私は又不思議な物でも通るかと思つて悚然とした、お媼さん、此様な処に一人で居て、昼間だつて怖しくはないのですか。」  桂木は疾く媼の口の、炎でも吐けよかしと、然り気なく誘ひかける。  媼は額の上に綿を引いて、 「何が恐しからうぞ、今時の若いお人にも似ぬことを言はつしやる、狼より雨漏が恐しいと言ふわいの。」  と又背を屈め、胸を張り、手でこするが如くにし、外の方を覗いたが、 「むかうへむく〳〵と霧が出て、そつとして居る時は天気ぢやがの、此方の方から雲が出て、そろ〳〵両方から歩行びよつて、一所になる時が此の雨ぢや。びしよ〳〵降ると寒うござるで、老寄には何より恐しうござるわいの。」 「あゝ、私も雨には弱りました、じと〳〵其処等中へ染込んで、この気味の悪さと云つたらない、お媼さん。」 「はい、御難儀でござつたろ。」 「お邪魔ですが此処を借ります。」  桂木は足袋を脱ぎ、足の爪尖を取つて見たが、泥にも塗れず、綺麗だから、其のまゝ筵の上へ、ずいと腰を。  たとひ洗足を求めた処で、媼は水を汲んで呉れたか何うだか、根の生えた居ずまひで、例の仕事に余念のなさ、小笹を風が渡るかと……音につれて積る白糸。         三  桂木は濡れた上衣を脱ぎ棄てた、カラアも外したが、炉のふちに尚油断なく、 「あゝ、腹が空いた。最う〳〵降るのと溜つたので濡れ徹つて、帽子から雫が垂れた時は、色も慾も無くなつて、筵が一枚ありや極楽、其処で寝たいと思つたけれど、恁うしてお世話になつて雨露が凌げると、今度は虫が合点しない、何ぞ食べるものはありませんか。」 「然ればなう、恐し気な音をさせて、汽車とやらが向うの草の中を走つた時分には、客も少々はござつたで、瓜なと剥いて進ぜたけれど、見さつしやる通りぢやでなう。私が食る分ばかり、其も黍を焚いたのぢやほどに、迚もお口には合ふまいぞ。」 「否、飯は持つてます、何うせ、人里のないを承知だつたから、竹包にして兵糧は持参ですが、お菜にするものがないんです、何か些と分けて貰ひたいと思ふんだがね。」  媼は胸を折つてゆるやかに打頷き、 「それならば待たしやませ、塩ツぱいが味噌漬の香の物がござるわいなう。」 「待ちたまへ、味噌漬なら敢てお手数に及ぶまいと思ひます。」  と手早く笹の葉を解くと、硬いのがしやつちこばる、包の端を圧へて、草臥れた両手をつき、畏つて熟と見て、 「それ、言はないこツちやない、果して此の菜も味噌漬だ。お媼さん、大きな野だの、奥山へ入るには、梅干を持たぬものだつて、宿の者が言つたつけ、然うなのかね、」と顔を上げて又瞻つたが、恁る相好の媼を見たのは、場末の寄席の寂として客が唯二三の時、片隅に猫を抱いてしよんぼり坐つて居たのと、山の中で、薪を背負つて歩行いて居たのと、これで三人目だと桂木は思ひ出した。  媼は皺だらけの面の皺も動かさず、 「何うござらうぞ、食べて悪いことはなからうがや、野山の人はの、一層のこと霧の毒を消すものぢやといふげにござる。」 「然う、」とばかり見詰めて居た。  此時気だるさうにはじめて振向き、 「あのまた霧の毒といふものは恐しいものでなう、お前様、今日は彼が雨になつたればこそ可うござつた、ものの半日も冥土のやうな煙の中に包まれて居て見やしやれ、生命を取られいでから三月四月煩うげな、此処の霧は又格別ぢやと言ふわいなう。」 「あの、霧が、」 「お客様、お前さま、はじめて此処を歩行かつしやるや?」  桂木は大胆に、一口食べかけたのをぐツと呑込み、 「はじめてだとも。聞いちや居たんだけれど。」 「然うぢやろ、然うぢやろ。」と媼はまた頷いたが、単然うであらうではなく、正に然うなくてはかなはぬと言つたやうな語気であつた。 「而して何かの、お前様其の鉄砲を打つて歩行かしやるでござるかの。」と糸を繰る手を両方に開いてじつと、此の媼の目は、怪しく光つた如くに思はれたから、桂木は箸を置き、心で身構をして、 「これかね。」と言ふをきツかけに、ずらして取つて引寄せた、空の模様、小雨の色、孤家の裡も、媼の姿も、さては炉の中の火さへ淡く、凡て枯野に描かれた、幻の如き間に、ポネヒル連発銃の銃身のみ、青く閃くまで磨ける鏡かと壁を射て、弾込したのがづツしり手応。  我ながら頼母しく、 「何、まあね、何うぞこれを打つことのないやうにと、内々祈つて居るんだよ。」 「其はまた何といふわけでござらうの。」と澄して、例の糸を繰る、五体は悉皆、車の仕かけで、人形の動くやう、媼は少頃も手を休めず。  驚破といふ時、綿の条を射切つたら、胸に不及、咽喉に不及、玉の緒は絶えて媼は唯一個、朽木の像にならうも知れぬ。  と桂木は心の裡。         四  構はず兵糧を使ひつゝ、 「だつてお媼さん、此の野原は滅多に人の通らない処だつて聞いたからさ。」 「そりや最う眺望というても池一つあるぢやござらぬ、纔ばかりの違でなう、三島はお富士山の名所ぢやに、此処は恁う一目千里の原なれど、何が邪魔をするか見えませぬ、其れぢやもの、ものずきに来る人は無いのぢやわいなう。」 「否さ、景色がよくないから遊山に来ぬの、便利が悪いから旅の者が通行せぬのと、そんなつい通りのことぢやなくさ、私たちが聞いたのでは、此の野中へ入ることを、俗に身を投げると言ひ伝へて、無事にや帰られないんださうではないか。」 「それはお客様、此処といふ限はござるまいがなう、躓けば転びもせず、転びやうが悪ければ怪我もせうず、打処が悪ければ死にもせうず、野でも山でも海でも川でも同じことでござるわなう、其につけても、然う又人のいふ処へ、お前様は何をしに来さつしやつた。」  じろりと流盻に見ていつた。  桂木はぎよつとしたが、 「理窟を聞くんぢやありません、私はね、実はお前さんのやうな人に逢つて、何か変つた話をして貰はう、見られるものなら見ようと思つて、遙々出向いて来たんだもの。人間の他に歩行くものがあるといふから、扨こそと乗つかゝりや、霧や雲の動くことになつて了ふし、活かしちや返さぬやうな者が住んででも居るやうに聞いたから、其を尋ねりや、怪我過失は所を定めないといふし、それぢや些とも張合がありやしない、何か珍しいことを話してくれませんか、私はね。」  膝を進めて、瞳を据ゑ、 「私はね、お媼さん、風説を知りつゝ恁うやつて一人で来た位だから、打明けて云ひます、見受けた処、君は何だ、様子が宛然野の主とでもいふべきぢやないか、何の馬鹿々々しいと思ふだらうが、好事です、何うぞ一番構はず云つて聞かしてくれ給へな。  恁ういふと何かお妖の催促をするやうでをかしいけれど、焦れツたくツて堪らない。  素より其のつもりぢや来たけれど、私だつて、これ当世の若い者、はじめから何、人の命を取るたつて、野に居る毒虫か、函嶺を追はれた狼だらう、今時詰らない妖者が居てなりますか、それとも野伏り山賊の類ででもあらうかと思つて来たんです。霧が毒だつたり、怪我過失だつたり、心の迷ぐらゐなことは実は此方から言ひたかつた。其をあつちこつちに、お前さんの口から聞かうとは思はなかつた。其の癖、此方はお媼さん、お前さんの姿を見てから、却つて些と自分の意見が違つて来て、成程これぢや怪しいことのないとも限らぬか、と考へてる位なんだ。  お聞きなさい、私が縁続きの人はね、商人で此の節は立派に暮して居るけれど、若いうち一時困つたことがあつて、瀬戸のしけものを背負つて、方々国々を売つて歩行いて、此の野に行暮れて、其の時草茫々とした中に、五六本樹立のあるのを目当に、一軒家へ辿り着いて、台所口から、用を聞きながら、旅に難渋の次第を話して、一晩泊めて貰ふとね、快く宿をしてくれて、何うして何うして行暮れた旅商人如きを、待遇すやうなものではない、銚子杯が出る始末、少い女中が二人まで給仕について、寝るにも紅裏の絹布の夜具、枕頭で佳い薫の香を焚く。容易ならぬ訳さ、せめて一生に一晩は、恁ういふ身の上にと、其の時分は思つた、其の通つたもんだから、夢なら覚めるなと一夜明かした迄は可かつたさうだが。  翌日になると帰さない、其晩女中が云ふには、お奥で館が召しますつさ。  其の人は今でも話すがね、館といつたのは、其は何うも何とも気高い美しい婦人ださうだ。しかし何分生胆を取られるか、薬の中へ錬込まれさうで、恐さが先に立つて、片時も目を瞑るわけには行かなかつた。  私が縁続きの其の人はね、親類うちでも評判の美男だつたのです。」         五  桂木は伸びて手首を蔽はんとする、襯衣の袖を捲き上げたが、手も白く、戦を挑むやうではない優しやかなものであつた、けれども、世に力あるは、却つて恁る少年の意を決した時であらう。 「さあ、館の心に従ふまでは、村へも里へも帰さぬといつたが、別に座敷牢へ入れるでもなし、木戸の扉も葎を分けて、ぎいと開け、障子も雨戸も開放して、真昼間、此の野を抜けて帰らるゝものなら、勝手に帰つて御覧なさいと、然も軽蔑をしたやうに、あは、あは笑ふと両方の縁へふたつに別れて、二人の其の侍女が、廊下づたひに引込むと、あとはがらんとして畳数十五畳も敷けようといふ、広い座敷に唯一人。」  折から炉の底にしよんぼりとする、掬ふやうにして手づから燻した落葉の中に二枚ばかり荊の葉の太く湿つたのがいぶり出した、胸のあたりへ煙が弱く、いつも勢よくは焚かぬさうで冷い灰を、舐めるやうにして、一ツ蜒つて這ひ上るのを、肩で乱して払ひながら、 「煙い。其までは宛然恁う、身体へ絡つて、肩を包むやうにして、侍女の手だの、袖だの、裾だの、屏風だの、襖だの、蒲団だの、膳だの、枕だのが、あの、所狭きまでといふ風であつたのが、不残ずツと引込んで、座敷の隅々へ片着いて、右も左も見通しに、開放しの野原も急に広くなつたやうに思はれたと言ひます。  然うすると、急に秋風が身に染みて、其の男はぶる〳〵と震へ出したさうだがね、寂閑として人ツ児一人居さうにもない。  夢か現かと思う位。」  桂木は語りながら、自ら其の境遇に在る如く、 「目を瞑つて耳を澄して居ると、二重、三重、四重ぐらゐ、壁越に、琴の糸に風が渡つて揺れるやうな音で、細く、ひゆう〳〵と、お媼さん、今お前さんが言つてる其の糸車だ。  此の炉を一ツ、恁うして爰で聞いて居てさへ遠い処に聞えるが、其音が、幽にしたとね。  其時茫乎と思ひ出したのは、昨夜の其の、奥方だか、姫様だか、それとも御新姐だか、魔だか、鬼だか、お閨へ召しました一件のお館だが、当座は唯赫と取逆上て、四辺のものは唯曇つた硝子を透かして、目に映つたまでの事だつたさうだけれど。  緋の袴を穿いても居なけりや、掻取を着ても届ない、たゞ、輝々した蒔絵ものが揃つて、あたりは神々しかつた。狭い一室に、束髪の引かけ帯で、ふつくりした美い女が、糸車を廻して居たが、燭台につけた蝋燭の灯影に、横顔で、旅商人、私の其の縁続きの美男を見向いて、 (主のあるものですが、一所に死んで下さいませんか。)──と唯一言いつたのださうだ。  いや、最う六十になるが忘れないとさ、此の人は又然ういふよ、其れから此方、都にも鄙にも、其れだけの美女を見ないツて。  さあ、其の糸車のまはる音を聞くと、白い柔かな手を動かすまで目に見えるやうで、其のまゝ気の遠くなる、其が、やがて死ぬ心持に違ひがなければ、鬼でも構はないと思つたけれども、何うも未だ浮世に未練があつたから、這ふやうにして、跫音を盗んで出て、脚絆を附けて草鞋を穿くまで、誰も遮る者はなかつたさうだけれど、それが又、敵の囲を蹴散らして遁げるより、工合が悪い。  帰らるゝなら帰つて見ろと、女どもが云つた呪詛のやうな言も凄し、一足棟を離れるが最後、岸破と野が落ちて地の底へ沈まうも知れずと、爪立足で、びく〳〵しながら、それから一生懸命に、野路にかゝつて遁げ出した、伊豆の伊東へ出る間道で、此処を放れたまで何の障りもなかつたさうで。  たゞ、些と時節が早かつたと見えて、三島の山々から一なだれの茅萱が丈より高い中から、ごそごそと彼処此処、野馬が顔を出して人珍しげに瞶めては、何処へか隠れて了ふのと、蒼空だつたが、ちぎれ〳〵に雲の脚の疾いのが、何んな変事でも起らうかと思はれて、活きた心地はなかつたと言ふ話ぢやないか。  それだもの、お媼さん。」         六 「もし、そんなことが、真個にある処なら、生命がけだつてねえ、一度来て見ずには居られないとは思ひませんか。  何しに来たつて、お前さんが咎めるやうに聞くから言ふんだが、何も其の何うしよう、恁うしようといふ悪気はない。  好事さ、好事で、変つた話でもあつたら聞かう、不思議なことでもあるなら見ようと思ふばかり、しかしね、其を見聞くにつけては、どんな又対手に不心得があつて、危険でないとも限らぬから、其処で恁う、用心の銃をかついで、食べる物も用意した。  台場の停車場から半道ばかり、今朝此原へかゝつた時は、脚絆の紐も緊乎と、草鞋もさツ〳〵と新しい踏心地、一面に霧のかゝつたのも、味方の狼煙のやうに勇しく踏込むと、さあ、一ツ一ツ、萱にも尾花にも心を置いて、葉末に目をつけ、根を窺ひ、まるで、美しい蕈でも捜す形。  葉ずれの音がざわ〳〵と、風が吹く度に、遠くの方で、 (主あるものですが、)とでも囁いて居るやうで、頼母しいにつけても、髑髏の形をした石塊でもないか、今にも馬の顔が出はしないかと、宝の蔓でも手繰る気で、茅萱の中の細路を、胸騒がしながら歩行いたけれども、不思議なものは樹の根にも出会さない、唯、彼のこはれ〴〵の停車場のあとへ来た時、雨露に曝された十字の里程標が、枯草の中に、横になつて居るのを見て、何となく荒野の中の磔柱ででもあるやうに思つた。  おゝ、然ういへば沢山古い昔ではない、此の国の歴々が、此処に鷹狩をして帰りがけ、秋草の中に立つて居た媚かしい婦人の、あまりの美しさに、予ての色好み、うつかり見惚れるはずみに鞍を外して落馬した、打処が病のもとで、あの婦人ともを為せろ、と言ひ死に亡くなられた。  あとでは魔法づかひだ、主殺しと、可哀相に、此の原で磔にしたとかいふ。  日本一の無法な奴等、かた〴〵殿様のお伽なればと言つて、綾錦の粧をさせ、白足袋まで穿かせた上、犠牲に上げたとやら。  南無三宝、此の柱へ血が垂れるのが序開きかと、其十字の里程標の白骨のやうなのを見て居る中に、凭かゝつて居た停車場の朽ちた柱が、風もないに、身体の圧で動くから、鉄砲を取直しながら後退りに其処を出た。  雨は其の時から降り出して、それからの難儀さ。小糠雨の細いのが、衣服の上から毛穴を徹して、骨に染むやうで、天窓は重くなる、草鞋は切れる、疲労は出る、雫は垂る、あゝ、新しい筵があつたら、棺の中へでも寝たいと思つた、其で此の家を見つけたんだもの、何の考へもなしに駈け込んだが、一呼吸して見ると、何うだらう。」  炉の火はパツと炎尖を立てて、赤く媼の額を射た、瞻らるゝは白髪である、其皺である、目鼻立である、手の動くのである、糸車の廻るのである。  恁くても依然として胸を折つて、唯糸に操らるゝ如き、媼の状を見るにつけても、桂木は膝を立てて屹となつた。 「失礼だが、お媼さん、場所は場所だし、末枯だし、雨は降る、普通ものとは思へないぢやないか。霧が雲がと押問答、謎のかけツこ見たやうなことをして居るのは、最う焦れつたくつて我慢が出来ぬ。そんなまだるつこい、気の滅入る、糸車なんざ横倒しにして、面白いことを聞かしておくれ。  それとも人が来たのが煩くツて、癪に障つたら、さあ、手取り早く何うにかするんだ、牙にかけるなり、炎を吐くなり、然うすりや叶はないまでも抵抗しよう、善にも悪にも恁うして居ちや、じり〳〵して胸が苦しい、じみ〳〵雨で弱らせるのは、第一何にしろ卑怯の到りだ、さあ、さあ、人間でさいなくなりや、其を合図で勝負にしよう、」と微笑を泛べて串戯らしく、身悶をして迫りながら、桂木の瞳は据つた。  血気に逸る少年の、其の無邪気さを愛する如く、離れては居るが顔と顔、媼は嘗めるやうにして、しよぼ〳〵と目を睜き、 「お客様もう降つて居はせぬがなう。」  桂木一驚を喫して、 「や何時の間に、」         七 「炉の中の荊の葉が、かち〳〵と鳴つて燃えると、雨は上るわいなう。」  いかにも拭つたやうに野面一面。媼の頭は白さを増したが、桂木の膝のあたりに薄日が射した、但件の停車場に磁石を向けると、一直線の北に当る、日金山、鶴巻山、十国峠を頂いた、三島の連山の裾が直に枯草に交るあたり、一帯の霧が細流のやうに靉靆いて、空も野も幻の中に、一際濃やかに残るのである。  あはれ座右のポネヒル一度声を発するを、彼処に人ありて遙に見よ、此処に恰も其の霧の如く、怪しき煙が立たうもの、  と、桂木は心も勇んで、 「むゝ、雨は歇んだ、けれどもお媼さんの姿は未だ矢張人間だよ。」と物狂はしく固唾を飲んだ。  此の時媼、呵々と達者に笑ひ、 「はゝはゝ、お客様も余程のお方ぢやなう、しつかりさつしやれ、気分が悪いのでござろ。なるほど石ころ一つ、草の葉にまで、心を置いたと謂はつしやるにつけ、何うかしてござらうに、まづまづ、横にでもなつて気を落着けるが可いわいなう、それぢやが、私を早や矢張怪しいものぢやと思うてござつては、何とも安堵出来悪かろ、可いわいの。  もつともぢや、お主さへ命がけで入つてござつたといふ処、私がやうな起居も不自由な老寄が一人居ては、怪しうないことはなからうわいの、それぢやけど、聞かつしやれ、姨捨山というて、年寄を棄てた名所さへある世の中ぢや、私が世を棄て一人住んで居つたというて、何で怪しう思はしやる。少い世捨人な、これ、坊さまも沢山あるではないかいの、まだ〳〵、死んだ者に信女や、大姉居士なぞいうて、名をつける習でござらうが、何で又、其の旅商人に婦人が懸想したことを、不思議ぢやと謂はつしやる、やあ!」と胸を伸して、皺だらけの大な手を、薄いよれ〳〵の膝の上。はじめて片手を休めたが、それさへ輪を廻す一方のみ、左手は尚細長い綿から糸を吐かせたまゝ、乳のあたりに捧げて居た。 「第一まあ、先刻から恁うやつて鉄砲を持つた者が入つて来たのに、糸を繰る手を下にも置かない、茶を一つ汲んで呉れず、焚火だつて私の方でして居るもの、変にも思はうぢやないか、えゝ、お媼さん。」 「これは〳〵、お前様は、何と、働きもの、愛想のないものを、変化ぢやと思はつしやるか。」 「むゝ。」 「それも愛想がないのぢやないわいなう、お前様は可愛らしいお方ぢやでの、私も内端のもてなしぢや、茶も汲んで飲らうぞ、火も焚いて当らつしやらうぞ。何とそれでも怪しいかいなう」 「…………」桂木は返す言は出なかつたが、恁う謂はるれば謂はれるほど、却つて怪しさが増すのであつたが。  爰にいたりて自然の勢、最早与みし易からぬやうに覚ゆると同時に、肩も竦み、膝もしまるばかり、烈しく恐怖の念が起つて、単に頼むポネヒルの銃口に宿つた星の影も、消えたかと怯れが生じて、迚も敵し難しと、断念をするとともに、張詰めた気も弛み、心も挫けて、一斉にがつくりと疲労が出た。初陣の此の若武者、霧に打たれ、雨に悩み、妖婆のために取つて伏せられ、忍の緒をプツツリ切つて、 「最う何うでも可うございます、私はふら〳〵して堪らない、殺されても可いから少時爰で横になりたい、構はないかね、御免なさいよ。」 「おう〳〵可いともなう、安心して一休み休まつしやれ、ちツとも憂慮をさつしやることはないに、私が山猫の化けたのでも。」 「え。」 「はて魔の者にした処が、鬼神に横道はないといふ、さあ〳〵かたげて寝まつしやれいの〳〵。」  桂木はいふがまゝに、兎も角も横になつた、引寄せもせず、ポネヒル銃のある処へ転げざまに、倒れて寝ようとすると、 「や、しばらく待たつしやれ。」         八 「お前様一枚脱いでなり、濡れたあとで寒うござろ。」 「震へるやうです、全く。」 「掛けるものを貸して進ぜましよ、矢張内端ぢや、お前様立つて取らつしやれ、何なう、私がなう、ありやうは此の糸の手を放すと事ぢや、一寸でも此の糸を切るが最後、お前様の身が危いで、いゝや、いゝや、案じさつしやるないの。又た不思議がらつしやるが、目に見えぬで、どないな事があらうも知れぬが世間の習ぢや。よりもかゝらず、蜘蛛の糸より弱うても、私が居るから可いわいの、さあ〳〵立つて取らつしやれ、被けるものはの、他にない、あつても気味が悪からうず、少い人には丁度持つて来い、枯野に似合ぬ美しい色のあるものを貸しませうず。  あゝ、いや、其の蓑ではないぞの、屏風を退けて、其の蓑を取つて見やしやれいなう。」と糸車の前をずりもせず、顔ばかり振向く方。  桂木は、古びた雨漏だらけの壁に向つて、衝と立つた、唯見れば一領、古蓑が描ける墨絵の滝の如く、梁に掛つて居たが、見てはじめ、人の身体に着るのではなく、雨露を凌ぐため、破家に絡うて置くのかと思つた。  蜂の巣のやう穴だらけで、炉の煙は幾条にもなつて此処からも潜つて壁の外へ染み出す、破屏風を取のけて、さら〳〵と手に触れると、蓑はすつぽりと梁を放れる。  下に、絶壁の磽确たる如く、壁に雨漏の線が入つた処に、すらりとかゝつた、目覚るばかり色好き衣、恁る住居に似合ない余りの思ひがけなさに、媼の通力、枯野忽ち深山に変じて、こゝに蓑の滝、壁の巌、もみぢの錦かと思つたので。  桂木は目を睜つて、 「お媼さん。」 「おゝ、其ぢや、何と丁どよからうがの、取つて掻巻にさつしやれいなう。」  裳は畳につくばかり、細く褄を引合せた、両袖をだらりと、固より空蝉の殻なれば、咽喉もなく肩もない、襟を掛けて裏返しに下げてある、衣紋は梁の上に日の通さぬ、薄暗い中に振仰いで見るばかりの、丈長き女の衣、低い天井から桂木の背を覗いて、薄煙の立迷ふ中に、一本の女郎花、枯野に彳んで淋しさう、然も何となく活々して、扱帯一筋纏うたら、裾も捌かず、手足もなく、俤のみがすら〳〵と、炉の縁を伝ふであらう、と桂木は思はず退つた。 「大事ない〳〵、袷ぢやけれどの、濡れた上衣よりは増でござろわいの、主も分つてある、麗な娘のぢやで、お前様に殆ど可いわ、其主もまたの、お前様のやうな、少い綺麗な人と寝たら本望ぢやろ、はゝはゝはゝ。」  腹蔵なく大笑をするので、桂木は気を取直して、密と先づ其の袂の端に手を触れた。  途端に指の尖を氷のやうな針で鋭く刺さうと、天窓から冷りとしたが、小袖はしつとりと手にこたへた、取り外し、小脇に抱く、裏が上になり、膝のあたり和かに、褄しとやかに袷の裾なよ〳〵と畳に敷いて、襟は仰向けに、譬ば胸を反らすやうにして、桂木の腕にかゝつたのである。  さて見れば、鼠縮緬の裾廻、二枚袷の下着と覚しく、薄兼房よろけ縞のお召縮緬、胴抜は絞つたやうな緋の竜巻、霜に夕日の色染めたる、胴裏の紅冷く飜つて、引けば切れさうに振が開いて、媼が若き時の名残とは見えず、当世の色あざやかに、今脱いだかと媚かしい。  熟と見るうちに我にもあらず、懐しく、床しく、いとしらしく、殊にあはれさが身に染みて、まゝよ、ころりと寝て襟のあたりまで、銃を枕に引かぶる気になつた、ものの情を知るものの、恁くて妖魔の術中に陥らうとは、いつとはなしに思ひ思はず。         九 「はゝはゝ、見れば見るほど良い孫ぢやわいなう、何うぢや、少しは落着かしやつたか、安堵して休まつしやれ。したがの、長いことはならぬぞや、疲労が治つたら、早く帰らつしやれ。  お前さま先刻のほど、血相をかへて謂はしつた、何か珍しいことでもあらうかと、生命がけでござつたとの。良いにつけ、悪いにつけ、此処等人の来ぬ土地へ、珍しいお客様ぢや。  私がの、然うやつてござるあひだ、お伽に土産話を聞かせましよ。」  と下にも置かず両の手で、静に糸を繰りながら、 「他の事ではないがの、今かけてござる其の下着ぢや。」  桂木は何時かうつら〳〵して居たが、ぱつちりと涼い目を開けた。 「其は恁うぢやよ、一月の余も前ぢやわいの、何ともつひぞ見たことのない、都風俗の、少い美しい嬢様が、唯た一人景色を見い〳〵、此の野へござつて私が処へ休ましやつたが、此の奥にの、何とも名の知れぬ古い社がござるわいの、其処へお参詣に行くといはつしやる。  はて此の野は其のお宮の主の持物で、何をさつしやるも其の御心ぢや、聞かつしやれ。  どんな願事でもかなふけれど、其かはり生命を犠にせねばならぬ掟ぢやわいなう、何と又世の中に、生命が要らぬといふ願があろか、措かつしやれ、お嬢様、御存じないか、というたれば。  いえ〳〵大事ござんせぬ、其を承知で参りました、といはつしやるわいの。  いや最う、何も彼も御存じで、婆なぞが兎や角ういふも恐多いやうな御人品ぢや、さやうならば行つてござらつせえまし。お出かけなさる時に、歩行いたせゐか暑うてならぬ、これを脱いで行きますと、其処で帯を解かつしやつて、お脱ぎなされた。支度を直して、長襦袢の上へ袷一ツ、身軽になつて、すら〳〵草の中を行かつしやる、艶々としたおつむりが、薄の中へ隠れたまで送つてなう。  それからは茅萱の音にも、最うお帰かと、待てど暮らせど、大方例のにへにならつしやつたのでござらうわいなう。私がやうな年寄にかけかまひはなけれどもの、何につけても思ひ詰めた、若い人たちの入つて来る処ではないほどに、お前様も二度と来ようとは思はつしやるな。可いかの、可いかの。」と間を措いて、緩く引張つてくゝめるが如くにいふ、媼の言が断々に幽に聞えて、其の声の遠くなるまで、桂木は留南木の薫に又恍惚。  優しい暖かさが、身に染みて、心から、草臥れた肌を包むやうな、掻巻の情に半ば眼を閉ぢた。  驚破といへば、射て落さんず心も失せ、はじめの一念も疾く忘れて、野にありといふ古社、其の怪を聞かうともせず、目のあたりに車を廻すあからさまな媼の形も、其のまゝ舁き移すやうに席を彼方へ、小さく遠くなつたやうな思ひがして、其の娘も犠の仔細も、媼の素性も、野の状も、我が身のことさへ、夢を見たら夢に一切知れようと、ねむさに投げ出した心の裡。  却つて爰に人あるが如く、横に寝た肩に袖がかゝつて、胸にひつたりとついた胴抜の、媚かしい下着の襟を、口を結んで熟と見て、噫、我が恋人は他に嫁して、今は世に亡き人となりぬ。  我も生命も惜まねばこそ、恁る野にも来りしなれ、何うなりとも成るやうになつて止め! 之も犠になつたといふ、あはれな記念の衣哉、としきりに果敢さに胸がせまつて、思はず涙ぐむ襟許へ、颯と冷い風。  枯野の冷が一幅に細く肩の隙へ入つたので、しつかと引寄せた下着の背、綿もないのに暖く二の腕へ触れたと思ふと、足を包んだ裳が揺れて、絵の婦人の、片膝立てたやうな皺が、袷の縞なりに出来て、しなやかに美しくなつた。  啊呀と見ると、女の俤。         十  眉長く、瞳黒く、色雪の如きに、黒髪の鬢乱れ、前髪の根も分るゝばかり鼻筋の通つたのが、寝ながら桂木の顔を仰ぐ、白歯も見えた涙の顔に、得も謂はれぬ笑を含んで、ハツとする胸に、媼が糸を繰る音とともに幽に響いて、 「主のあるものですが、一所に死んで下さいませんか。」と声あるにあらず、無きにあらず、嘗て我が心に覚えある言を引出すやうに確に聞えた。  耳がぐわツと。  小屋が土台から一揺揺れたかと覚えて、物凄い音がした。 「姦婦」と一喝、雷の如く鬱し怒れる声して、外の方に呼ばはるものあり。此の声柱を動かして、黒燻の壁、其の蓑の下、袷をかけてあつた処、件の巌形の破目より、岸破と摚倒しに裡へ倒れて、炉の上へ屏風ぐるみ崩れ込むと、黄に赤に煙が交つて𤏋と砂煙が上つた。  ために、媼の姿が一時消えるやうに見えなくなつた時である。  桂木は弾き飛ばされたやうに一間ばかり、筵を彼方へ飛び起きたが、片手に緊乎と美人を抱いたから、寝るうちも放さなかつた銃を取るに遑あらず。  兎角の分別も未だ出ぬ前、恐い地震だと思つて、真蒼になつて、棟を離れて遁れようとする。  門口を塞いだやうに、眼を遮つたのは毒霧で。  彼の野末に一流白旗のやうに靡いて居たのが、横に長く、縦に広く、ちらと動いたかと思ふと、三里の曠野、真白な綿で包まれたのは、いま遁げようとすると殆ど咄嗟の間の事。  然も此の霧の中に、野面を蹴かへす蹄の音、九ツならず十ならず、沈んで、どうと、恰も激流地の下より寄せ来る気勢。 「遁すな。」 「女!」 「男!」  と声々、ハヤ耳のあたりに聞えたので、又引返して唯壁の崩を見ると、一団の大なる炎の形に破れた中は、おなじ枯野の目も遙に彼方に幾百里といふことを知らず、犇々と羽目を圧して、一体こゝにも五六十、神か、鬼か、怪しき人物。  朽葉色、灰、鼠、焦茶、たゞこれ黄昏の野の如き、霧の衣を纏うたる、いづれも抜群の巨人である。中に一人真先かけて、壁の穴を塞いで居たのが、此の時、掻潜るやうにして、恐い顔を出した、面の大さ、梁の半を蔽うて、血の筋走る金の眼にハタと桂木を睨めつけた。  思はず後居に腰を突く、膝の上に真俯伏せ、真白な両手を重ねて、わなゝく髷の根、頸さへ、あざやかに見ゆる美人の襟を、誰が手ともなく無手と取つて一拉ぎ。 「あれ。」  と叫んだ声ばかり、引断れたやうに残つて、袷はのけざまにずる〳〵と畳の上を引摺らるゝ、腋あけのあたり、ちら〳〵と、残ンの雪も消え、目も消えて、裾の端が飜へつたと思ふと、倒に裏庭へ引落された。 「男は、」 「男は、」  と七ツ八ツ入乱れてけたゝましい跫音が駈けめぐる。 「叱!」とばかり、此の時覚悟して立たうとした桂木の傍に引添うたのは、再び目に見えた破家の媼であつた、果せるかな、糸は其の手に無かつたのである。恁る時桂木の身は危ふしとこそ予言したれ、幸に怪しき敵の見出し得ぬは、由ありげな媼が、身を以て桂木を庇ふ所為であらう。桂木はほツと一息。 「何処へ遁げた。」 「今此処に、」 「其処で見た。」  と魂消ゆる哉、詈り交すわ。         十一  恁くてしばらくの間といふものは、轡を鳴らす音、蹄の音、ものを呼ぶ声、叫ぶ声、雑々として物騒がしく、此の破家の庭の如き、唯其処ばかりを劃つて四五本の樹立あり、恁る広野に停車場の屋根と此の梢の他には、草より高く空を遮るもののない、其の辺の混雑さ、多人数の踏しだくと見えて、敷満ちたる枯草、伏し、且つ立ち、窪み、又倒れ、しばらくも休まぬ間々、目まぐるしきばかり、靴、草鞋の、樺の踵、灰汁の裏、爪尖を上に動かすさへ見えて、異類異形の蝗ども、葉末を飛ぶかとあやまたるゝが、一個も姿は見えなかつたが、やがて、叱!叱!と相伝ふる。  しばらくして、 「静まれ。」といふのが聞えると、ひツそりした。  枯草も真直になつて、風死し、そよとも靡かぬ上に、あはれにかゝつたのは彼の胴抜の下着である。 「其奴縛せ。」 「縛れ、縛れ。」と二三度ばかり言をかはしたと思ふと、早や引上げられ、袖を背へ、肩が尖つて、振の半ばを前へ折つて伏せたと思ふと、膝のあたりから下へ曲げて掻い込んだ、後に立つた一本の榛の樹に、荊の実の赤き上に、犇々と縛められたのである。 「さあ、言へ、言へ。」 「殿様の御意だ、男を何処へ秘した。」 「さあ、言つちまへ。」  縛されながら戦くばかり。 「そこ退け、踏んでくれう。」と苛てる音調、草が飛々大跨に寝つ起きつしたと見ると、縞の下着は横ざまに寝た。  艶なる褄がばらりと乱れて、たふれて肩を動かしたが、 「あゝれ。」 「業畜、心に従はぬは許して置く、鉄の室に入れられながら、毛筋ほどの隙間から、言語道断の不埒を働く、憎い女、さあ、男をいつて一所に死ね……えゝ、言はぬか何うだ。」踏躙る気勢がすると、袖の縺、衣紋の乱れ、波に揺るゝかと震ふにつれて、霰の如く火花に肖て、から〳〵と飛ぶは、可傷、引敷かれ居る棘を落ちて、血汐のしぶく荊の実。  桂木は拳を握つて石になつた、媼の袖は柔かに渠を蔽うて引添ひ居る。 「殿、殿。」  と呼んで、 「其では謂はうとても謂はれませぬ、些と寛げて遣はさりまし。」 「可し、さあ、何うだ、言へ。何、知らぬ、知らぬ⁈ 黙れ。  男を慕ふ女の心はいつも男の居所ぢや哩、疾く、口をあけて、さあ、吐かぬか、えゝ、業畜。」 「あツ、」とまた烈しい婦人の悲鳴、此の際には、其の掻くにつれて、榛の木の梢の絶えず動いたのさへ留んだので。  桂木は塞がうと思ふ目も、鈴で撃つたやうになつて瞬も出来ぬのであつた。  稍あつて、大跨の足あとは、衝と逆に退つたが、すツくと立向つた様子があつて、切つて放したやうに、 「打て!」 「殺して、殺して下さいよ、殺して下さいよ。」 「いづれ殺す、活けては置かぬが、男の居所を謂ふまでは、活さぬ、殺さぬ。やあ、手ぬるい、打て。笞の音が長く続いて在所を語る声になるまで。」 「はツ。」  四五人で答へたらしい、荊の実は又頻に飛ぶ、記念の衣は左右より、衣紋がはら〳〵と寄つては解け、解れては結ぼれ、恰も糸の乱るゝやう、翼裂けて天女の衣、紛々として大空より降り来るばかり、其の胸の反る時や、紅裏颯と飜り、地に襟のうつむき伏す時、縞はよれ〳〵に背を絞つて、上に下に七転八倒。  俤は近く桂木の目の前に、瞳を据ゑた目も塞がず、薄紫に変じながら、言はじと誓ふ口を結んで、然も惚々と、男の顔を見詰るのがちらついたが、今は恁うと、一度踏みこたへてずり外した、裳は長く草に煽つて、あはれ、口許の笑も消えんとするに、桂木は最うあるにもあられず、片膝屹と立てて、銃を掻取る、袖を圧へて、 「密と、密と、密と。」  低声に畳みかけて媼が制した。  譬ひ此の弾丸山を砕いて粉にするまでも、四辺の光景単身で敵し難きを知らぬでないから、桂木は呼吸を引いて、力なく媼の胸に潜んだが。  其時最後の痛苦の絶叫、と見ると、苛まるゝ婦人の下着、樹の枝に届くまで、すツくりと立つたので、我を忘れて突立ち上ると、彼方はハタと又僵れた、今は皮や破れけん、枯草の白き上へ、垂々と血が流れた。 「此処に居る。」と半狂乱、桂木はつゝと出た。 「や、」「や、」と声をかけ合せると、早や、我が身体は宙に釣られて、庭の土に沈むまで、摚とばかり。  桂木は投落されて横になつたが、死を極めて起返るより先に、これを見たか婦人の念力、袖の折目の正しきまで、下着は起きて、何となく、我を見詰むる風情である。 「静まれ、無体なことを為申す勿。」  姿は見えぬが巨人の声にて、 「客人何も謂はぬ。  唯御身達のやうなものは、活けて置かぬが夥間の掟だ。」  桂木は舌しゞまりて、 「…………」ものも言はれず。 「斬つ了へ! 眷属等。」  きらり〳〵と四振の太刀、二刀づゝを斜に組んで、彼方の顋と、此方の胸、カチリと鳴つて、ぴたりと合せた。  桂木は切尖を咽喉に、剣の峰からあはれなる顔を出して、うろ〳〵媼を求めたが、其の言に従はず、故らに死地に就いたを憎んだか、最う影も形も見えず、推量と多く違はず、家も床も疾に消えて、唯枯野の霧の黄昏に、露の命の男女也。目を瞑ると、声を掛け、 「しかし客人、死を惜む者は殺さぬが又掟だ、予め聞かう、主ある者と恋を為遂げるため、死を覚悟か。」  稍激しく。 「婦人は?」 「はい。」と呼吸の下で答へたが、頷くやうにして頭を垂れた。 「可し。」  改めて、 「御身は。」  諾と答へようとした、謂ふまでもない、此美人は譬ひ今は世に亡き人にもせよ、正に自分の恋人に似て居るから。  けれども、譬ひ今は世に亡き人にもせよ、正に自分の恋人であればだけれども、可怪、枯野の妖魔が振舞、我とともに死なんといふもの、恐らく案山子を剥いだ古蓑の、徒に風に煽るに過ぎぬも知れないと思つたから、おもはゆげに頭を掉つた。 「殿、不実な男であります、婦人は覚悟をしましたに、生命を助かりたいとは、あきれ果てた未練者、目の前でずた〳〵に婦人を殺して見せつけてくれませう。」 「待て。」 「は。」 「客人が、世を果敢んで居るうちは、我々の自由であるが、一度心を入交へて、恁る処へ来るなどといふ、無分別さへ出さぬに於ては、神仏おはします、父君、母君おはします洛陽の貴公子、むざとしては却つて冥罰が恐しい。婦人は斬れ! 然し客人は丁寧にお帰し申せ。」 「は。」と再び答へると、何か知らず、桂木の両手を取つて、優しく扶け起したものがある、其が身に接した時、湿つた木の葉の薫がした。  腰のあたり、膝のあたり、跪いて塵を払ひくれる者もあつた。  銃をも、引上げて身に立てかけてよこしたのを、弱々と取つて提げて、胸を抱いて見返ると、縞の膝を此方にずらして、紅の衣の裏、ほのかに男を見送つて、分を惜むやうであつた。  桂木は倒れようとしたが、踵をめぐらし、衝と背後向になつた、霧の中から大きな顔を出したのは、逞しい馬で。  これを片手で、かい退けて、それから足を早めたが、霧が包んで、蹄の音、とゞろ〳〵と、送るか、追ふか、彼の停車場のあたりまで、四間ばかり間を置いてついて来た。  来た時のやうに立停つて又、噫、妖魔にもせよ、と身を棄てて一所に殺されようかと思つた。途端に騎馬が引返した。其の間遠ざかるほど、人数を増して、次第に百騎、三百騎、果は空吹く風にも聞え、沖を大浪の渡るにも紛うて、ど、ど、ど、ど、どツと野末へ引いて、やがて山々へ、木精に響いたと思ふと止んだ。  最早、天地、処を隔つたやうだから、其のまゝ、銃孔を高くキラリと揺り上げた、星一ツ寒く輝く下に、路も迷はず、夜になり行く狭霧の中を、台場に抜けると点燈頃。  山家の茶屋の店さきへ倒れたが、火の赫と起つた、囲炉裡に鉄網をかけて、亭主、女房、小児まじりに、餅を焼いて居る、此の匂をかぐと、何ういふものか桂木は人間界へ蘇生つたやうな心持がしたのである。  汽車がついたと見えて、此処まで聞ゆるは、のんきな声、お弁当は宜し、お鮨はいかゞ。…… 底本:「日本幻想文学集成1 泉鏡花」国書刊行会    1991(平成3)年3月25日初版第1刷発行    1995(平成7)年10月9日初版第5刷発行 底本の親本:「泉鏡花全集」岩波書店    1940(昭和15)年発行 初出:「新小説」    1903(明治36)年1月 ※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。 入力:門田裕志 校正:川山隆 2009年5月10日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。