式部小路 泉鏡花 Guide 扉 本文 目 次 式部小路 序 一 二 三 四 五 六 七 八 九 十 十一 十二 十三 十四 十五 十六 十七 十八 十九 二十 二十一 二十二 二十三 二十四 二十五 二十六 二十七 二十八 二十九 三十 三十一 三十二 三十三 三十四 三十五 三十六 三十七 三十八 三十九 四十 四十一 四十二 四十三 四十四 四十五 序 日本橋のそれにや習える、 源氏の著者にや擬えたる、 近き頃音羽青柳の横町を、 式部小路となむいえりける。 名をなつかしみ、尋ねし人、 妾宅と覚しきに、世にも 婀娜なる娘の、糸竹の 浮きたるふしなく、情も恋も 江戸紫や、色香いろはの 手習して、小机に打凭れ、 紅筆を含める状を、垣間 見てこそ頷きけれ。  明治三十九年丙午十二月 鏡花小史 一  鳥差が通る。馬士が通る。ちとばかり前に、近頃は余り江戸向では見掛けない、よかよか飴屋が、衝と足早に行き過ぎた。そのあとへ、学校がえりの女学生が一人、これは雑司ヶ谷の方から来て、巣鴨。  こう、途絶え途絶え、ちらほらこの処を往来う姿は、あたかも様々の形した、切れ切れの雲が、動いて、その面を渡るに斉しい。秋も半ば過ぎの、日もやつ下りの俤橋は、小石川の落葉の中に、月が懸かった風情である。  空の蒼々したのが、四辺の樹立のまばらなのに透いて、瑠璃色の朝顔の、梢に搦らんで朝から咲き残った趣に見ゆるさえ、どうやら澄み切った夜のよう。  しかし、恰好をいったら、烏が宿ったのと、鵲の渡したのと、まるで似ていないのはいうまでもない。また真の月と、年紀のころを較べたら、そう、千年も二千年も三千年も少かろう。  ただ我々に取っては、これを渡初めした最年長者より、もっと老朽ちた橋であるから、ついこの居まわりの、砂利場の砂利を積んで、荷車など重いのが通る時は、埃やら、砂やら、溌と立って、がたがたと揺れて曇る。が、それは大空を視むる目に、雲はじっとしていて、月が動くように見えると一般、橋の俤はうつろわず、あとはすぐに拭ったような空気の中に、洗った姿となるのである。  ちょうど今人の形のいろいろの雲が、はらはらとこの月の前を通り去った折からである。  橋の中央に、漆の色の新しい、黒塗の艶やかな、吾妻下駄を軽く留めて、今は散った、青柳の糸をそのまま、すらりと撫肩に、葉に綿入れた一枚小袖、帯に背負揚の紅は繻珍を彩る花ならん、しゃんと心なしのお太鼓結び。雪の襟脚、黒髪と水際立って、銀の平打の簪に透彫の紋所、撫子の露も垂れそう。後毛もない結立ての島田髷、背高く見ゆる衣紋つき、備わった品の可さ。留南奇の薫馥郁として、振を溢るる縮緬も、緋桃の燃ゆる春ならず、夕焼ながら芙蓉の花片、水に冷く映るかと、寂しらしく、独り悄れて彳んだ、一人の麗人あり。わざとか、櫛の飾もなく、白き元結一結。  かくても頭重そうに、頸を前へ差伸ばすと、駒下駄がそと浮いて、肩を落して片手をのせた、左の袖がなよやかに、はらりと欄干の外へかかった。  ここにその清きこと、水底の石一ツ一ツ、影をかさねて、両方の岸の枝ながら、蒼空に透くばかり、薄く流るる小川が一条。  流が響いて、風が触って、幽に戦いだその袂、流は琴の糸が走るよう、風は落葉を誘うよう。  雲が、雲が、また一片、……ここへ絣の羽織、縞の着物、膨らんだ襯衣、式のごとく、中折を阿弥陀に被って、靴を穿いた、肩に画板をかけたのは、いうまでもない、到る処、足の留まる処、目に触るる有らゆる自然の上に、西洋絵具の濃いのを施す、絵を学ぶ向の学生であった。  広くはあらぬ橋の歩み、麗人の背後を通って、やがて渡り越すと影が放れた。そこで少時立留って、浮雲のただよう形、熟と此方を視めたが、思切った状して去った。  その傍に小店一軒、軒には草鞋をぶら下げたり、土間には大根を土のまま、煤けた天井には唐辛。明らさまに前の通へ突出して、それが売物の梨、柿、冷えたふかし藷に、古い精進庖丁も添えてあったが、美術家の目にはそれも入らず。  店には誰も居なかった。昨日の今時分は、ここで柿の皮を剥いて食べた、正午まわりを帰り路の、真赤な荷をおろした豆腐屋があったに。 二  学生の姿が見えなくなると、小店の向うの竹垣の上で、目白がチイチイと鳴いた。  身近を通った跫音には、心も留めなかった麗人は、鳥の唄も聞えぬか、身動ぎもしないで、そのまま、じっと。  秋の水は澄み切って、鮎の鰭ほどの曇りもないから、差覗くと、浅い底に、その銀の平打の簪が映って、流が糸のようにかかるごとに、小石と相撃って、戛然として響くかと、伸びつ、縮みつする。が、娘はあえて、過って、これを遺失したものとして、手に取ろうとするのではない。  目白がまたチイと鳴いて、ひッそりと、小さな羽を休めた形で、飛ぶ影のさした時であった。  下行く水の、はじめは単に水上の、白菊か、黄菊か、あらず、この美しき姿を、人目の繁き町の方へ町の方へと……その半襟の藤色と、帯の錦を引動かし、友禅を淡く流して、ちらちら靡して止まなかったのが、フト瞬く間淀んで、静って、揺れず、なだらかになったと思うと、前髪も、眉も、なかだかな鼻も、口も、咽喉の幽かに見えるのも、色はもとより衣紋つきさえ、明くなって、その半身をありありと水底に映したのである。  俤はその名である。月のような日中の橋も、斉しく麗人の姿を宿した。  それまで彳んだ娘の思は、これで通ったものであろう。可愛い唇の紅を解いて、莞爾して顔を上げた。身は、欄干に横づけに。と見ると芳紀二十三? 四。目色に凛と位はあるが、眉のかかり婀娜めいて、くっきり垢抜けのした顔備。白足袋の褄はずれも、きりりと小股の締った風采、この辺にはついぞ見掛けぬ、路地に柳の緑を投げて、水を打ったる下町風。  恍惚と顔を上げ、前途を仰ぐように活々した瞳をぱっちりと睜いたが、流を見入って、疲れたか、心にかかる由ありしか、何となく弱々と、伏目になってうつむいて、袖口を胸で引き合わすと、おのずからのように、歩が運んで、するする此方へ。  渡り越して、その姿、低い欄干を放れると、俤橋は一点の影も留めず、後になって、道は一条、美しくその白足袋の下に続いた。  さて小店の前を通った時、前後に人はなし、床几にも誰も居らず、目白もかくれて、風も吹かず、気は凝って寂としたから、その柿と、梨と、こつこつと積んだのが、今通る娘のために、供物した趣があったのである。  通りかかりに見て過ぎた。娘の姿は、次第に橋を距って、大きく三日月形に、音羽の方から庚申塚へ通う三ツ角へ出たが、曲って孰方へも行かんとせず。少し斜めに向をかえて、通を向うへ放れたと思うと、たちまち颯と茜を浴びて、衣の綾が見る見る鮮麗に濃くなった。天晴夕雲の紅に彩られつと見えたのは、塀に溢るるむらもみじ、垣根を繞る小流にも金襴颯と漲ったので。  その石橋を渡った時、派手な裾捌きにちらちらと、かつ散る紅、かくるる黒髪、娘は門を入ったのである。 「真平御免を。」  一ツ曲って突当りに、檜造りの玄関が整然と真四角に控えたが、娘はそれへは向わないで、あゆみの花崗石を左へ放れた、おもてから折まわしの土塀の半に、アーチ形の木戸がある。  そこを潜って、あたりを見ながら、芝生を歩って、梢の揃った若木の楓の下路を、枯れたが白銀の縁を残した、美しい小笹を分けつつ、やがて、地も笹も梢も、向うへ、たらたらと高くなる、堆い錦の褥の、ふっくりとしてしかも冷やかな、もみじの丘へ出た時であった。  向ううらに海のような、一面鏡の池がある。その傾斜面に据えた瀬戸物の床几に腰をかけて、葉色の明りはありながら、茂りの中に、薄暗く居た一人の小男。 三  紅葉の中に著るく、まず目に着いたは天窓のつるりで、頂ャ兀げておもしろや。耳際から後へかけて、もじゃもじゃの毛はまだ黒いが、その年紀ごろから察するに、台湾云々というのでない。結髪時代の月代の世とともに次第に推移ったものであろう。  無地の紬の羽織、万筋の袷を着て、胸を真四角に膨らましたのが、下へ短く横に長い、真田の打紐。裾短に靴を穿て、何を見得にしたか帽子を被らず、だぶだぶになった茶色の中折、至極大ものを膝の上。両手を鍔の下へ、重々しゅう、南蛮鉄、五枚錣の鉢兜を脱いで、陣中に憩った形でござったが、さてその耳の敏い事。  薄い駒下駄運びは軽し、一面の芝の上。しかるに疾より聞きつけたと覚しく、娘の立姿、こぼるるもみじの葉の中へ、はらりと出でて見ゆるや否や、床几を立って、恭しく帽子を踵の辺まで、手とともにずッと垂れて、真平御免! と啓したのである。 「ええ、御免下さいまし、甚だ推参なわけで、飛んだ失礼でございまするが、手前通りがかりのもので、」といい出る。  娘は上から伏目で見た、眦が切れて、まぶちがふッくりと高いよう。  その気おのずから、脳天を圧して、いよいよ頭を下げ、 「は、当御館におかせられましては、このお庭の紅葉を、諸人に拝見の儀お許しとな、かねがね承ったでありまするで、戸外から拝見いたしましてさえ余りのお見事。つい御通用門を潜りまして、うかうかとこれへ。  実は前もってちょっとお台所口まで、お断りを申上げまして、御承諾を頂戴いたそうかにも心得ましたが、早や拝見御免とありますれば、かえってお取次、お手数、と手前勘に御遠慮を申上げ、お庭へ参って見ますると、かくの通。手前の外には、こう、誰一人拝見をいたしておりますものがございません。ほい、こりゃ違ったそうな、すれば、大方、だろうぐらいに考えて風説をいたしますのを、一概にそうと心得て粗忽千万な。  若いものではございませず、分別盛を通り越していながら、と恐縮をいたしましてな、それも、御門内なら、まだしも。  無躾にも、ずかずか奥深く参りましたで、黙って出て参るわけにも相成りませず、ほとんど立場をなくしております儀で。  ええ、どうぞ貴女様、大目に御覧下さりますよう、また少々拝見の処も、あいなりますることでございましたら、御赦しのほどを、あらためてお願い申しまする。」  と句は伸びたが淀まぬ口上、すらすらと陳べ立てた。  疾くから何かいいたそうだった娘は、その隙のないのに言を含んで黙って待ったが、この(お願い申しまする)に至って、ちょいと言が切れたので。ト支えたらしい、早急には、いい出せないし、黙っていると、低頭したままでいる。はッと急いたか、瞼を染めた、気の毒なが色に出て、ただ、涼しい声で、 「はい、」といった。 「お差支はないでしょうか。」と、少しずつ顔を擡げる。 「御免なさいな、私は、あの、この家のものじゃないんですよ。」 「へ、何、お邸のお嬢様ではいらっしゃいません?」 「貴下、不可いんですかねえ、私もやっぱり見に来たものなの。」  小男は胸を反らして笑い、 「成程、御夥間ですかい。はははは、可うございましょうとも。まあ、お掛けなさいまし。何ね、愚図々々いや今の口上で追払いまさ。貴女がお嬢様でも、どうです、あれじゃ厭とはいえますまい。」 「そう、ほんとうにお上手ね、」と莞爾した。  ちとこの返事は意外だったか、熟と瞻ってて、 「や、」帽子の下で膝をはたり。 「人形町においでなすった、──柳屋のお夏さん。」 四 「今日は、今日ア、」  かみさんが、 「ああい、」といって、上框の障子を閉め、直ぐその足で台所へ、 「誰? おや、床屋さん、」 「へへへへへ、どうも晩くなりまして済みません、親方がそう申しました、ええ、何だもんですから、つい、客がございましたもんですから、」  袷の上に白の筒袖、仕事着の若いもの。かねて誂の剃刀を、あわせて届けに来たと見える。かんぬしが脂下ったという体裁、笏の形の能代塗の箱を一個、掌に据えて、ト上目づかいに差出した。それは読めたが、今声を懸けたばかりの、勝手口の腰障子は閉まったり、下流の板敷に、どッしり臀を据えて膝の上に頤を載せた、括猿の見得はこれ什麽。 「まあ。」  奴は、目をきょろきょろして、 「へへへへへ。」 「御世話様でした。」といってただ受取ったのが、女房の解せない様子は、奴もとより承知之助。  台所に踞んだまま、女房の、藍微塵の太織紬、ちと古びたが黒繻子の襟のかかったこざっぱりした半纏の下から、秋日和で紙の明るい上框の障子、今閉めたのを、及腰で差のぞき、 「可塩梅に帰りましたね。」 「誰さ。」 「今来やがった野郎でさ。」  これで分った。女房は頷いて、 「ああ、今の。何だろう? お前さん知ってますか。」 「知ってますッて、とんだ奴です。」ともう一度首を伸ばして見る。  女房も振返ったが、受け取った剃刀をそのまま、前垂を挟んで、粋に踞み、 「何、町内の若い衆かい。」 「じゃ、おかみさん、こっちじゃ御存じないんですか。」 「見た事もない人さ、でもお嬢さんはどうだか。」 「へい、何てって来やがったんで。」 「ええ、御免下さいまし、こちら様のお嬢様はお内ですかッていったがね。」  若い衆、板の間に手をかけて、分別ありそうに、傾いた。白いのを着た姿は、前門の虎に対して、荒神様の御前立かと頼母しく見えたので。 「いったんだがね、もっともお留守だからお留守だといったら、じゃまた後ほどッて帰ったがね。」  いいいい、くるりと身をかえして立つと、踞んでいた腰を伸ばし切らず、直ぐそこに、てらてらの長火鉢。 「誰方でございますえッて聞いたら、何にもいわないで、への字形の口で、へへへへはちと気障だったよ、あああ。」  と傍の茶棚の上へ、出来て来たのを仰向いてのせた、立膝で、煙草盆を引寄せると、引立てるように鉄瓶をおろして、ちょいと触ってみて、埋けてあった火を一挟み。  番煙草と見ゆるのに、長煙管を添えて小取廻しに板の間へ押出した。 「まあ、一服おあがんなさい。」  さほど思案に暮れるほどの事でもないが、この間待って黙って控えた。奴、鼠のように亀甲羅宇を引いて取り、 「おかみさん、頂きます。」 「まずいよ、私ンだから。」 「どういたしまして、へい、後にまた来ますッて。」 「いったがね、何かい、筋が悪いのかい。」と斜に重忠という身で尋ねる。 「悪いの何の! から、手のつけられた代物じゃないんですよ。」 「ゆするの?」 「いいえ、ゆするも、ゆすらないも、飲んだくれ、酒ッ癖の悪い、持て余しものなんでさ。私どもの社会ですがね。」 「おや、やっぱり、床屋さん。」 「床屋にも何にも、下町じゃ何てますか、山手じゃ、皆が火の玉の愛吉ッていいましてね、険難な野郎でさ。」 五 「三厘でもありさえすりゃ、中汲だろうが、焼酎だろうが、徳利の口へ杉箸を突込んで、ぐらぐら沸え立たせた、ピンと来て、脳天へ沁みます、そのね、私等で御覧なさい、香を嗅いだばかりで、ぐらぐらと眩暈がして、背後へ倒れそうなやつを、湯呑水呑で煽りやがるんで、身体中の血が燃えてまさ。  ですから、おかみさん、ちょっとでもあン畜生に触るが最後、直に誰でも火傷をします。火の玉のような奴で、東京中の床屋という床屋、一軒残らず手を焼いてしまったんで、どこへ行っても店口から水をぶッかけて追い出すッて工合ですから、しばらくね、消えました。  多日、誰の処へも彼奴の影が見えねえで、洗桶から火の粉を吹き出さないもんですから、おやおや、どこへ潜ったろう、と初手の中は不気味でね。 (上げ板を剥って見ろ、押入の中の夜具じゃねえか、焦臭いが、愛吉の奴がふて寝をしていやあがるだろう。)  なんてって親方徒が、串戯にもいったんですが、それでもざっと一年ばかり、彼奴の火沙汰がなかったんです。  すると、おかみさん、どうでしょう、念にゃ念の入った、この夏、八月の炎天に、虚空を飛んで、ごろごろと舞い戻りやがって、またぞろ、そこら転がって歩行くでさ。へい。」  といって煙を吹いた。顔が赤く、目が円い。この若いもの、余程おびえているのである。  余りの事に、はじめは笑って聞いていた女房は、なぜか陰気な顔をして、 「厭だよ、どこから舞い戻って来たんだねえ。」 「それがどうです。そら、そういった工合で、東京中は喰い詰める──し、勿論何でさ、この近在、大宮、宇都宮、栃木、埼玉、草加から熊ヶ谷、成田、銚子。東じゃ、品川から川崎続き、横浜、程ヶ谷までも知っていて対手にし手がないもんですから、飛んで、逗子、鎌倉、大磯ね。国府津辺まで、それまでに荒しゃあがったんでね、二度目に東京を追出てもどこへ行っても何でしょう、おかみさん。 (は、愛吉か、きなッくさい。)  と鼻ッつまみで、一昨日来い! と門口から水でしょう。  火の玉が焼を起して、伊豆の大島へころがり込んで行ったんですって。芝居ですると、鎮西八郎為朝が凧を上げて、身代りの鬼夜叉が館へ火をかけて、炎の中で立腹を切った処でさ。」 「ああああ、」と束ね髪が少し動いて頷く。 「月に一度、霊岸島から五十石積が出るッてますが、三十八里、荒海で恐ろしく揺れるんですってね。甲板へ潮を被ったら、海の中で、大概消えてしまいそうなもんですけれど、因果と火気の強い畜生で、消火半を打たせません。  しかも何です、珍しく幾干か残して来たんですぜ。  何しろ、大島なんですからね、婦女が不断着も紋付で、ずるずる引摺りそうな髪を一束ねの、天窓へ四斗俵をのせて、懐手で腰をきろうという処だッていいますぜ。  内地から醤油、味噌、麦、大豆なんか積んで、船の入る日にゃ、男も女も浪打際へ人垣の黒だかり。遥の空で雲が動くように、大浪の間に帆が一ツ横になって見える時分から、爪立つものやら、乗り出すものやら、やあ、人が見える、と手を拍いて嬉しがるッていう処でさ。  さすがに火の手を上げなかったもんですから、そら、ちっとばかし残ったでしょう。  処で、炎天を舞い戻ると、もう東京じゃ、誰も対手にしないことを知ってますから、一番自前で遣ろうというんで方々捜したそうですがね。  当節は不景気ですから、いくらも床店の売もの、貸家はあるにゃありますが、値が張ったり、床屋に貸しておくほどの差配人、奴の身上を知っていて断ったりで、とうとう山の手へお鉢をまわすと、近所迷惑。あいにくとまたこの音羽続きの桜木町に一軒明いたばかりのがあったんでさ。  そこへ談を極めましてね、夏のこッたし、わけはありません。仕事着一枚の素裸。七輪もなしに所帯を持って、上げた看板がどうでしょう、人を馬鹿にしやがって!──狐床。」 六 「その狐が配ったんでさ。あとで蚯蚓にならなかったまでも、隣近所、奴が引越蕎麦を喰った徒は、皆腹形を悪くしたろうではありませんか。  開業の日から横町大騒ぎになりました。というは、何です、まあ、口あけのお客と、あとを二人ばかり仕事をしたッていいますが、すぐに祝酒だ、とぬかしゃあがって。店をあけたまま、見通しの六畳一間で、裏長屋の総井戸をその鍋釜一ツかけない乾いた台所から見晴しながら、箒を畳へ横ッ倒しにしたまんま掃除もしないで、火の玉小僧め、表角の上州屋から三升と提込んでね、おかみさん、突当りの濁酒屋から、酢章魚のこみを、大皿で引いて来てね、  友達三人で煽ったんでさ。  友達といったって、まとものものは、附合いませんや。自分じゃ仏だ、仏だといいますが、寝釈迦だか、化地蔵だか、異体の知れない、若い癖に、鬼見たような痘痕面で、渾名を鍍金の銀次ッて喰い詰めものが、新床だと嗅ぎ出して、御免下さいまし、か何かで、せしめに行った奴を、おともだち、お前さんも不景気で食えねえのか、飯はないが酒はあるてって、引摺り入れた役雑とね。  もう一人は車夫でさ。生れてから七転びで一起もなし、そこで通名をこけ勘という夜なし。前の晩に店立てをくったんで、寝処がない。褌の掛がえを一条煮染めたような手拭、こいつで顱巻をさしたまま畳み込んだ看板、兀げちょろの重箱が一箇、薄汚え財布、ざッとこれで、身上のありッたけを台箱へ詰め込んだ空車をひいて、どうせ、絵に描いた相馬の化城古御所から、ばけ牛が曳いて出ようというぼろ車、日中は躄だって乗りやしません。  ごろりごろりとやって、桜木町を通りかかって、此奴も同く路地床の開業を横目で見たからぬかりませんのさ。  右のね、何ですっさ。にごり屋の軒下へ車を預けて、苜蓿のしとったような破毛布を、後生大事に抱えながらのそのそと入り込んで、鬼門から顔を出して、若親方、ちとお手伝い申しましょうかね……とね。  此奴等、そこで三人、虫拳で寄り合をつけたんでさ。」 「驚いたねえ、火の玉に鍍金に、こけだえ。まるで三題噺のようじゃないか。さぞ差配様がお考えなすったろう、ああ、むずかしい考えものだね。」  思わず警句一番した、女房も余りの話、つい釣り込まれてふき出したが、飜って案ずるに笑事ではないのである。 「串戯じゃないよ。」  と向き直って、忘れていた鉄瓶を五徳の上。またちょいと触ってみたのは、これからお茶でも入れる気だろう。首尾が好いと女世帯、お嬢さん、というのは留守なり、かみさんも隙そうだ。最中を一火で、醤油をつけて、と奴十七日だけれども、小遣がないのである。而已ならず、乙姫様が囲われたか、玄人でなし、堅気でなし、粋で自堕落の風のない、品がいいのに、媚かしく、澄ましたようで優容やか、お侠に見えて懐かしい。ことに生垣を覗かるる、日南の臥竜の南枝にかけて、良き墨薫る手習草紙は、九度山の真田が庵に、緋縅を見るより由緒ありげで、奥床しく、しおらしい。憎い事、恋の手習するとは知れど、式部の藤より紫濃く、納言の花より紅淡き、青柳町の薄紅梅。  この弥生から風説して、六阿弥陀詣がぞろぞろと式部小路を抜ける位。  月夜烏もそれかと聞く、時鳥の名に立って、音羽九町の納涼台は、星を論ずるに遑あらず。関口からそれて飛ぶ蛍を追ざまに垣根に忍んで、おれを吸った藪ッ蚊が、あなたの蚊帳へとまった、と二の腕へ赤い毛糸を今でも結えているこの若い衆、願くはそのおかえりを、半日ここで待つ気である。 七  ここにおいてか、いよいよ熱心。 「でもその、拳ぐらいで騒ぎが静まりゃ可いんですが、酔が廻ると火の玉め、どうだ一番相撲を取るか、と瘠ッぽちじゃありますがね、狂水が総身へ廻ると、小力が出ますんで、いきなりその箒の柄を蹴飛ばして、血眼で仕切ったでしょう。  可かろう、で、鍍金の奴が腕まくりをして、ト睨み合うと、こけ勘が渋団扇を屹とさして、見合って、見合ってなんて遣ったんですって。  表も裏も黒山のような人だかりだろうじゃありませんか。  晴の勝負でさ。じりじりと寄合って呼吸が揃ったから颯と引くと、ハッケもノコッタもあったもんですか。  火の玉め、鍍金の方が年紀上で、私あ仏の銀次だなんて、はじめッから挨拶が癪に障ったもんだから、かねてそのつもりだったと見えまさ。  喧嘩には馴れてますから素敏い。立つか立たないに、ぴしゃぴしゃと、平掌で銀の横ッ面を引叩いた、その手が火柱のようだから堪りません。  鍍金の奴、目がくらんで、どたり突倒る。見物喝采。愛吉も、どんなもんだと胸を叩いたは可いが、こっちあ蒼くなって、 (何の意趣だ。)  と突立ち上ると、 (はり手というんだ。お行司に聞いてみねえ。)  と、空嘯いて高笑いをしたでしょう。  こけ勘はこけてるから、あッ気に取られて、黙ってきょろきょろしているばかり。 (可し、相撲にゃ己が負けた、刃物で来い。)  とこちらも銀でさ。すぐに店へ駆け出して剃刀を逆手に取って構えたでしょう、もう目が据って、唇が土気色。」 「どうしたい。」 「火の玉は真赤になって、 (何を、何を。)  ッていいながら、左の肩で寸法を取って、尺取虫のように、じりり、じりり。 (愛吉さん。)  五合ふるまわれたお庇にゃ、名も覚えりゃ、人情ですよ。こけ勘はお里が知れまさ、ト楫棒へ掴った形、腰をふらふらさせながら前のめりに背後から、 (愛吉さん、危え、危え。)  ッて渋団扇で煽いだのは、どういうものか、余程トッチたようだったと、見ていたものがいうんでして、見物わッとなる騒動。  どッちを取おさえようにも真剣で、一人は剃刀だから危うござんす。  その内に火の玉が、鍍金の前を電のような斜ッかけに土間を切って、ひょいと、硝子戸を出たでしょう。集っていたのは、バラバラと散る。 (遁げるかッ。)  で、鍍金の奴が飛びつくと、 (べらぼうめ、いくら山手だってこう、赤城に芝居小屋のあった時分じゃねえ、見物の居る前で生命の取遣りが出来るかい、向う崖の原ッ場までついて来い、殺してやる、来い!)  というと前へ立って駆け出したんで、皆がぞろぞろとついて行くと、鍍金の奴は一足おくれで、そのあとへ、こけ勘。  ところがね、おかみさん、いざ原場の頂上へ薄りと火柱が立って、愛吉の姿があらわれたとなる。と、こけ勘はいきせい切って追いあがりましたが、遠巻にした見物も、二人の徒も、いくら待っても鍍金が来なかったというじゃありませんか。  その筈でさ、来ないも道理。どさくさ紛れに、火の玉の身上をふるった、新しいばりかんを二挺、櫛が三枚、得物に持った剃刀をそのまま、おまけに、あわせ砥まで引攫って遁亡なんですって。……  類は友だっていいますがね、此奴の方が華表かずが多いだけに、火の玉の奴ア脊負なげを食って、消壺へジュウー……へへへ、いい様じゃありませんか、お互です。」  女房怪しからず、と剃った痕に皺のまじった眉を顰め、 「お互ッて、じゃ今来た愛吉ッてのもちょいちょい盗るの。」 「いずれ、そりゃね。」 「気味が悪いね、じろりと様子を見ていずれ後程、は気障じゃないか。」 「ですからね、何ですよ、気をおつけなさらなくッちゃ不可ません、この頃は恐ろしく、さがり切っていやあがるんでさ。」 八 「もっともその何ですよ、開業式の日に、ばりかんなんぞ盗まれたのが、けちのついた印なんでさ。焼を起してあくる朝、おまんまを抜きにしてすぐに昼寝で、日が暮れると向うの飯屋へ食いに行って、また煽りつけた。帰りがけに、(おう、翌日ッから、時分時にゃ、ちょいと御飯ですよッて声をかけてくんねえよ。三度々々食いに来ら。茶碗と箸は借りて行くぜ、こいつを持って駆出して来るから、)  ッて、両手に片々ずつ持って帰った。妙なことをすると思うと、内へ帰って、どたり大胡坐を掻込んでね、燈は店だけの、薄暗い汚い六畳で、その茶碗のふちを叩きながら、トテトンツツトン、 不孝ものだが相談ずくで、     酒になりなよ江戸の水。  なんて出鱈目に怒鳴るんですって、──コリャコリャと囃してね、やがて高鼾、勿論唯一人。 「呆れた奴だねえ。」 「から箸にも棒にもかかるんじゃありません。私なんぞが参りますと、にごり屋のかみさんが沁々愚痴をいいますがね、勘定はいうまでもなく悪いんです、──連を引張って来りゃきっと喧嘩。  そうかと思うと、そこいらの乞食小僧を、三人四人、むくんだ茄子のどぶ漬のような餓鬼を、どろどろと連込んで、食いねえ食いねえッて、煮ッころばしの湯気の立つお芋を餌に買って、ニヤニヤ笑いながら、ぐびりぐびり。  何でもそいつらを手馴けて、掏摸や放火を教えようッていうんです。かかったもんじゃありませんや。  ところがね、おかみさん、女ッてものは不思議とこう、妙に意固地なもんで。四丁目の角におふくろと二人で蜆、蠣を剥いています、お福ッて、ちょいとぼッとりした蛤がね、顔なんぞ剃りに行ったのが、どうした拍子か、剃毛の溜った土間へころりと落ちたでさ──兇状持には心から惚れて、」  と密と言って厭な顔色、ちと遺恨があるらしい。 「(愛吉さん、詰らないもんですが、)  なんてやがって、手拭や巻煙草を運びまさ。  いつか中も、前垂の下から、目笊を出して、 (お菜になさいな、)  と硝子戸を開けて、湯あがりの顔を出す、とおかみさん。  珍らしく夜延でもする気がして、火の玉め洋燈の心を吹きながら、呼吸で点れそうに火をつけていた処。 (入ッて遊びねえ、遊びねえよ。)  ッたが、初心ですからね、うじうじ嬌態をやっていた、とお思いなさい。  いきなり、手をのばすと、その新造の胸倉を打掴えて、ぐいと引摺り込みながら硝子戸を片手でぴッしゃり。持っていた洋燈の火屋が、パチン微塵、真暗になったから、様子を見ていた裏長屋のかみさんが、何ですぜ、殺すのか、取って食うのか、生血を吸うのかと思ったっていうんですぜ。  やがて何ですとさ、火の玉の野郎が台所口から廻って、のそのそ戸外へ出て行くから、密とそのあとを覗くと、新造がね、薄暗い中にぼんやり幽霊のように坐っていましたッて。  愛の奴はどこへ行ったろうと思うと、お定りのにごり屋。 (おう、媽々が出来たから、今日は内で飯を喰うんだ、道具を貸してくんねえ、)  とまず七輪を一ツ運んだでさ。あとで鍋に醤油を入れてもらって、茶碗を二ツ、箸二人前。もう一ツ借込んだ皿にね、帰りがけにそれでも一軒隣の餅菓子屋で、鹿の子と大福を五銭が処買ったんですって、鬼の涙で、こりゃ新造へ御馳走をしたんですとさ。  そら、食いねえは可いが、燈は点けたそうですけれど、火屋なしの裸火。むんむと瓦斯のあがるやつを、店から引摺って来た、毛だらけの椅子の上へ。達引かれたむき身をじわじわ、とやって、 (阿魔、やい、注いでくりゃ。)  と前はだけの平胡坐、ぬいと腕まくりで突出したのが飯喰茶碗。  五合を三杯半に平げると、 (こう、向うへ行って、取って来い、)  は乱暴じゃありませんか。  打たれそうだから、おどおどして、白鳥を持って立ちにゃ立ったが、極りの悪そうに、うつむいた、腰のあたりを、ドンと蹴上げたから堪りませんや。」 九 「(あれ)といってどたり横倒れになって、わッと袂を噛んで泣くと、 (三日辛抱が出来るかい、べらぼうめ、帰れ、)  とばかりで、蹴つけた脚を投出したまんま、仰向けにふんぞり返って、ええ、鼾。  その筈で、愛の奴だって、まさか焼跡の芥溜から湧いて出た蚰蜒じゃありません。十月腹を貸した母親がありましてね。こりゃ何ですって、佃島の弁天様の鳥居前に一人で葦簀張を出しているんですって。  冬枯れの寒さ中毒で、茶釜の下に島の朝煙の立たない時があっても、まるで寄ッつかず、不幸な奴ッちゃねえけれど、それでも、 (大島の磯へ出て、日本の船を見い見いした時にゃ、おっかあ、お前を思い出した、)  と今度店を持った折に、一所になろうッていったそうですが、どうして肯入れるもんですか、子を見ること何とかというわけで、三日酒のまず、喧嘩をしないでいたら、世話になろうといいましたとさ。  どんなもんです。  考えて御覧なさい、第一その新造なんざ、名からして相性があわねえんです、お福なんて。  彼奴が相当に、抱ッこで夜さり寝ようというのは、こけ勘が相応なんで、その夜なしの貧乏神は縁があったと見えまして、狐床の序開き、喧嘩以来、寝泊りをしていたんです。  お福ッ子は倒れたなり、突伏していましたッて。先刻餅菓子を買われた時、嬉しそうに莞爾して、酌をする前に、それでも自分で立って、台所の戸障子を閉めて、四辺を見たから、その時は戸袋へ附着いて、色ッぽい新造の目を遣過しておいて、閉めて入ったことを、破れた透間から、ト覗いていた、その裏長屋のかみさんが、堪らなくなったでしょう。」 「そうだろうともさ。」 「そこで何です。見るに見かねて、密と入って、お福ッ子の背中を叩いて、しくしく泣いているのを手を引いてね、台所口から連れ出したは可いが、店から入ったんで跣足でしょう。  それまで世話をして、女房がね、下駄をつまんで、枕頭を通り抜けたのも、何にも知らず、愛の奴は他愛なし。  それから路々宥めたり、賺したり、利害を説くやら、意見をするやら、どうやら、こうやら。  でもまあ、目白下の寄席の辻看板のあかりで、ようよう顔へあてた袖をはずして、恥かしそうに莞爾したのを見て、安心をして帰ったそうですが、──不安心なのは火の玉の茅屋で。  奴裸火の下に大の字だから、何、本人はどうでもいいとして、近所ずから、火の元が危いんでね、乗りかかった船だ、また台所から入って見ると、平気なもんで、ぐうす、ぐうすう。  鼠が攫ったか、それとも長屋うちの腕白がしょこなめたか、五銭が餅菓子一つもなし。  から、だらしがねえにも何にも。  そこで、火の用心に、洋燈はフッと消したんですが、七輪の鍋下の始末をしなかったのが大ぬかり。  もっとも火のある事は気がついたそうですが、夜中にゃ、こけ勘が帰って来る。それまでは隣家の内が、内職をして起きている、と一つにゃ流元に水のない男世帯、面倒さも面倒なりで、そのままにして置きました。さあ、これが大変。」 「失火たかい。」と膝の進むを覚えず、火鉢を後に、先刻から摺って出て、聞きながら一服しようとする。心を得て、若い衆が拭って返した、長煙管を、ほとんど無意識に受け取って、煙草盆を引寄せる。  若いものも台所へ下流の板から、橋を架けた形で乗り出し、 「お前さん、とうとう小火です。」 「ね、行ったろう、」  果せるかなと煙管をト──ン、 「ふう、」と頷きながら煙を吹く。 「夜中の事で。江戸川縁に植えたのと違って、町の青柳と桜木は、間が離れておりますから、この辺じゃ別に騒ぎはしませんでしたが、ついこの月はじめの事ですよ。」 「私ゃもうぼけてしまって物わすれをするからね、確には覚えていないが、お待ちよ、そういや、お湯屋でちらりと聞いたようにも思うね。」 「は、何しろ居まわり大騒動。」 十 「いずれそれ、焦ッ臭い焦ッ臭いがはじまりでさ。隣から起て出ると、向うでも戸を開ける。表通じゃ牛込辺の帰りらしい紋付などが立留まる。鍋焼が来て荷をおろす。瞬く間に十四五人、ぶらぶらとあっちへこっちへ。暗の晩でね、空を見るのもありゃ、羽目板を撫でるのもあり。  その内に、例のかみさんが起きて出て、きっとだよ、それじゃ、とすぐに狐床の前へ行った時分にゃ、もう蒸気を吐くように壁を絞って煙が出るんで、けたたましい金切声で床屋さん、親方! とこんな時だけの親方、喚いても寂として返事がないんで、構わず打壊せッて、気疾なのががらりと開けると、中は真赤、紅色に颯と透通るように光って、一畳ばかり丸くこう、畳の目が一ツ一ツ見えるようだッたてこッてす。  台所へ行く柱なんざ、半分がた火になって障子の桟をちょろちょろと、火の鼠が伝うように嘗めてました。と哄と、皆が躍り込むと、店へ下り口を塞いで、尻をくるりと引捲って、真俯伏せに、土間へ腹を押ッつけて長くなってのたくッていたのが野郎で、蹴なぐって横へ刎ねた袷の裾なんざ、じりじり焦げていましたとさ。  此奴もう黒焼けかと思うと、そうじゃないんで、そら通れますまい、構わず踏んで、飛び上った人があったそうです。  すると、しゃッきりと起きました。 (や、なぐり込みに来やがったな、さ、殺せ、)というと、椅子を取って引立てて、脚を掴んでぐンと揮った。一番乗りの火がかりは、水はなし、続く者なし、火の玉は突立ったり、この時、戸が開いたのと、人あおりで、それまで、火で描いた遠見の山のようだった。蒸焼のあたり一面、めらめらとこう掌をあけたように炎になったから、わッというと、うしろ飛びに退っちまったそうですよ。 (来やがれ、此奴等、一足でも寄って見ろ。)  と炎を脊負って、突立って椅子をぐるぐるとまわすんですっさ。  何でも小石川の床店の組合が、殺みに来たと思ったんだそうで、奴は寝耳で夢中でさ、その癖、燃えてる火のあかりで、ぼんやり詰めかけてる人形が認えたんでしょう。煙が目口へ入るのも、何の事はありません、咽喉を締められるんだぐらいに思ったそうでね。  あとで聞いたら、大勢につかまって焼殺される夢を見ていた処ですって、そうでしょう。寝返に七輪を蹴倒して、それから燃え出して、裾へうつる時分に、熱いから土間へころがって、腹を冷していたんだそうで。巡査の姿が、ずッと出た時、はじめて我に返ったか、どさくさ紛れに影が消えたそうですが、どこまで乱脈だか分りません。火の玉め、悠々落着いて井戸端へまわって出て、近所隣から我れさきに持ち出した、ばけつを一箇、一杯汲み込んで提げたは可いが、汝が家の燃えるのに、そいつを消そうとするんじゃないんで。店先に込合っている大勢の弥次馬の背後へ廻って、トねらいをつけて、天窓ともいわず、肩ともいわず、羽織ともいわず、ざぶり、滝の水。」 「大変だ、」と女房。 「そら、ポンプだ、というと呵々と高笑いで、水だらけの人間が総崩れになる中を澄まして通って、井戸端へ引返して、ウイなんて酔醒の胸のすく噯でね、すぐにまた汲み込むと、提げて行くんです。後からあとから人集りでしょう。直にざぶり! 差配の天窓へ見当をつけたが狛犬へ驟雨がかかるようで、一番面白うございました、と向うのにごり屋へ来て高話をしますとね。火事場にゃ見物が多いから気が咎めるかして、誰も更って喧嘩を買って出るものはなし、交番へ聞えたって、水で消さずに何で消す、おまけに自分の内だといや、それで済むから持ったもんです。  ところが済まないのは差配の方です。悪たれ店子の上に店賃は取れず、瘠せた蟒でも地内に飼って置くようなもんですから、もう疾くにも追出しそうなものを、変った爺で、新造が惚るようじゃ見処があるなんてね、薬鑵をさましていたそうですが、御覧なさい。愛吉が弥次馬に水を浴びせている内に、長屋中では火を消して、天井へもつかないで納まったにゃ納まりましたが、その晩の為体には怖毛を震って、さて立退いて貰いましょ、御近所の前もある、と店立ての談判にかかりますとね、引越賃でもゆする気か、酢のこんにゃくので動きませんや。」 十一 「じゃ仕方がない。こういうこともあろうためだ、路は遠し、大儀ながら店請の方へ掛け合おうと、差配さん、ぱっちの裾をからげにかかると、愛の奴のうろたえさ加減ッたらなかったそうで。  その店請というのは、何ですよ。兜町の裏にまだ犬の屎があろうという横町の貧乏床で、稲荷の紋三郎てッて、これがね、仕事をなまけるのと、飲むことを教えた愛吉の親方でさ。  だから狐床ッてくらいなんで。鯨に鯱、末社に稲荷。これに逢っちゃ叶いません。その癖奴が、どんな乱暴を働いたって、仲間うちから、いくら尻を持って行っても、うけはしないんですがね。  対手が差配さんなり、稲荷は店請の義理があるから、てッきり剣呑みと思ったそうで、家主の蕎麦屋から配って来た、引越の蒸籠のようだ、唯今あけます、とほうほうの体で引退ったんで。これで、鳧がつけば、今時ここらをうろつくこともないんですが、名は体を顕しますよ。  止せば可いに、この貧乏くじをまた自分で買って出たのが、こけ勘なんでさ。 (先晩の麁忽は、不残手前でございます。愛吉さんは宵から寝ていて何にも知りやしねえもんですから、申訳のために手前が身体を退きます。)ッて、言ったでしょう。  差配の癖に、近所じゃ、掛売を厭がるほど、評判の工面の悪い親仁だからねえ、これをまたのみこむ奴でさ。 (貴様は何だ、おらがの内の、汽車ぎらいな婆さんを積込んで、小火のあった日から泊りがけに成田へ行っていた男だけれど、申訳を脊負って立って、床屋を退散に及ぶというなら、可々心得た。御近所へ義理は済む。)  と、くだらねえじゃありませんか。  何だって意固地な奴等、放火盗賊、ちょッくらもち、掏摸の兄哥、三枚目のゆすりの肩を持つんでしょう。  どうです、おかみさん、そういった奴ですからね、どうせ碌なこッちゃ来やしません。いづれ幾干か飲代でございましょう。それとも、お嬢と、おかみさん、二人へ御婦人ばかりだから、また仕事でもしようというんで様子でも見に来せやあがったか。  から段々落ちに、酒も人間も悪くなって、この節じゃ、まるで狂犬のようですから、何をどう食ッてかかろうも知れませんや。何しろ火の玉なんでね。彼奴の身体のこすりついた処は、そこから焦げねえじゃ治まらんとしてあるんで。へい鼬が鳴いてもお呪禁に、柄杓で三杯流すんですから、おかみさん、さっさと塩花をお撒きなさいまし。おかみさん、」  といったが、黙っている。 「え、おかみさん。」  頸を垂れて屈託そう、眉毛のあとが著るしく顰んで、熟と小首を傾けたり。はてこの様子では茶も菓子もと悟ったが、そのまま身退くことを不得。もう一呼吸ずるりと乗出し、 「何、また何でさ、私どもが、しばらく見張っていてお上げ申しても宜いんでさ。いよいよとなりますりゃ、内にゃ、親方も、今日はどこへも出ないでいるんで、」 「いいえね。」  と女房は、煙管の鴈首を、畳に長くうつむけたるまま、心ここにあらずでもなかったらしい。 「いくらか、飲代どころなら構いはしないけれど、お前さんの話しぶりでもその今の愛吉とかいう若い衆が、火の玉だの、火柱だの、炎だの、小火だの、と厭にこだわッているから心配なんだよ。はてな、」と沈んで目を閉じる。 「へい、気になりますかね、何ぞ……」 「どうもね。心配なのさ、こうやってお前、私がおもりをしている方はね、妙に火に祟られていなさるのさ、いえね、丙午の年でも何でもおあんなさりやしないけれど、私が心でそう思うの、二度までも焼け出されておいでなさるんだからね、」 「どこで、へい?」 「一度は、深川さ、私たちも風説に聞いて知っているが、木場一番といわれた御身代がそれで分散をなすったような、丸焼。  二度目が日本橋の人形町で、柳屋といってね、……」 十二 「もうその時分は、大旦那がお亡くなんなすったあとで、御新姐さんと今のお嬢さんとお二人、小体に絵草紙屋をしておいでなすった。そこでもお前火災にお逢いなすったんだろうじゃないか。  もっともその時の火事は、お宅からじゃなくって、貰い火でおあんなすったそうだけれど、ついお向うの気の違った婆さんの許から、夜の十二時というのに燃え出すと、直ぐにお店へあおりつけたもんだから、それという間もなし、それにお前さん、御新姐は煩っていらしったそうだし、お生命に別条がなかっただけで、お嬢さんも身体ばかり、跣足でお遁げなすったそうなんだよ。」 「へい、それで何ですか、こっちの方へお引越しなすったんですかね。」 「いいえ、三年前の秋の事さ、その後御新姐さんもお亡なんなすったそうだもの、やっぱり御病気の処へ、そんなこんなが障ってさ。  旦那様もまたそうなんだよ。火事で、それだけの身代が煙になった御心配から起った御病気だろうじゃないか。だからほんとに火は祟っているんだよ。」  と何となく声も打沈んでいったのであった。  この扇屋の焼けた時、新聞に黒くなって描かれた焼あとの地図も、もうどこかの壁の破れに貼られたろう。家も残らず建揃った上、市区改正に就て、道は南北に拡がった、小路、新道、横町の状も異ったから、何のなごりも留めぬが、ただ当時絵草紙屋の、下町のこの辺にも類なく美しいのが、雪で炎を撫ずるよう、見る目にも危いまで、ともすれば門の柳の淡き影さす店頭に彳んで、とさかに頬摺する事のあった、およそ小さな鹿ほどはあった一羽の軍鶏。  名を蔵人蔵人といって、酒屋の御用の胸板を仰反らせ、豆腐屋の遁腰を怯したのが、焼ける前から宵啼という忌わしいことをした。火沙汰の前兆である、といったのが、七日目の夜中に不幸にして的中した事と。  当夜の火元は柳屋ではなく、かえってその不祥の兆に神経を悩まして、もの狂わしく、井戸端で火難消滅の水垢離を取って、裸体のまま表通まで駆け出すこともあった、天理教信心の婆々の内の麁匆火であった事と。  それから、数万の人ごみ、軍のような火事場の中を、どこを飛んだか、潜ったか、柳屋の柳にかけた、賽が一箇、夜のしらしらあけの頃、両国橋をころころと、邪慳な通行人の足に蹴られて、五が出て、三が出て、六が出て、ポンと欄干から大川へ流れたのを、橋向うへ引揚げる時五番組の消防夫が見た事と。  及び軍鶏も、その柳屋の母娘も、その後行方の知れない事とは、同時に焼けた、大屋の隠居、酒屋の亭主などは、まだ一ツ話にするが、その人々の家も、新築を知らぬ孫が出来て、二度目の扁額が早や古びを持って来たから、さてもしばらくになった。 「じゃ、お内のお嬢さんは柳屋さんというんですね、屋号ですね、お門札の山下お賤さんというのが、では御本名で。」 「いいえさ、そりゃ私の名だあね。」 「おかみさんの? そうですかね。」とちとおもわくのはずれた顔色。こんなのはその手に結んだ紅毛糸の下に、賤という字を書いてはってあろうも知れぬ。 「だって、私だって名ぐらいはあろうじゃないか。」と鉄漿つけた歯を洩らしたが、笑うのも浮きたたぬは、渾名を火の玉と聞いたのが余程気になったものであろう。  奴そんな事は無頓着で、 「へへへ、そりゃ何、そりゃそうですが、じゃお嬢さんは何とおっしゃるんでございますね。」 「お夏さんさ。」 「お夏さん?」 「婀娜な佳いお名だろう。」 「すると姓は何とおっしゃるんで、柳屋は、何でしょう絵草紙屋をなすった時の屋号でしょう。で、何ですか、焼け出されなすってから、そこで、まあ御娼売、」 「御商売?」と聞き直した目の上に、嶮も、ああ今は皺になった。 「深川の方で、ええ、その洲崎の方で、」  女房聞くや否や、ちと高調子に、 「お前、何をいうんだね。」 「だって、おかみさんは何でしょう、弁天町に居たんでしょう。山手だってそのくらいな事は心得てるものがありますぜ、ちゃんと探索が届いてまさ。」  いささか軽んずる色があって、ニヤニヤと頤を撫でる。女房お賤はこれにはびくともせず、自若として、 「ああ、そうさ、私は、そうさ。ちっとね、お客さまをお送り申していたんだがね。落ちたといっちゃ勿体ない、悪所から根を抜いて、お庇さまでこうやって、おもりをしているんだがね。お嬢さんが、洲崎になんぞ、お前、そんなことを噯に出したって済まないよ。素の堅気でいらっしゃらあね。」 「ですからさ、皆が不思議だッていってるんで。いずれこうちょいちょいこのお二階へいらっしゃる方があるッてのは、そりゃ分っていますけれど、どうもそのお嬢さんの御身分が分りませんが、ええ、おかみさん。」 十三 「ねえおかみさん、可いじゃありませんか、町内のこッてさ、話してお聞かせなさいよ、ええ、おかみさん。」  早やいつの間にか自堕落に、板の間に腹這いになった。対手がソレ者と心安だてに頤杖ついて見上げる顔を、あたかもそれ、少い遊女の初会惚を洞察するという目色、痩せた頬をふッくりと、凄いが優しらしい笑を含んで熟と視め、 「こりゃお前さん、お銭にするね。」 「え、」 「旨く手繰って聞き出したら、天丼でも御馳走になるんだろう。厭だよ、どこの誰に憚って秘すッということはないけれども、そりゃ不可いや。」 「嘘々々、」  口を尖らせ、慌てた早口、 「串、串戯をいっちゃ不可ません。誰がそんな、だってお前さん、火の玉の一件じゃありませんか。ええ、おかみさん。  私等が口を利くにゃこっちの姉さんの氏素性来歴を、ちゃんと呑込んでいなかった日にゃ、いざッて場合に、二の句が続かないだろうじゃありませんか。」 「それだよ、その事だよ、何も、押借や強談なら、」  しかり、押借や強談なら、引手茶屋の女房の、ものの数ともしないのであった。 「別に心配な条じゃないがね、風説を聞いたばかりでも火沙汰がありそうなのが気になるのさ。余り老込んだ取越苦労じゃあるけれどね、火事にゃ上が危いから、それとなく二階にはお寝かし申さないようにしているんだからね。」  気懸なのはこればかり。若干か、お銭にするだろう、と眼光炬のごとく、賭物の天丼を照らした意気の壮なるに似ず、いいかけて早や物思う。  思う壺と、煙草盆のふちを、ぱちぱちと指で弾いて、敗軍一時に盛り返し、 「火沙汰、火沙汰! どうせ、ゆすりのかたりのと、気の利いた役者じゃありませんや、きっと放火だ、放火だ、放火だ。」  ばたばた足の責太鼓、鼕々と打鳴らいて、かッかと笑い、 「何、それも、どさくさ紛れに葛籠箪笥を脊負い出そうッて働きのあるんじゃありませんがね、下がった袷のじんじん端折で、喞筒の手につかまって、空腹で喘ぎながら、油揚のお煮染で、お余を一合戴きたいが精充満だ。それでも火事にゃ火事ですぜ。ね、おかみさん、だからどうにかしますから、お話しなさいよ。でなけりゃ、明日ともいわないで火の玉がころげ込みますぜ。放火だ、放火だ、放火だ、」  と尻上りに畳みかけて、足を上下へばたばたと遣ったが、 「あ、」というとたちまち寂滅。  むっくり飛上ったかと半身を起して捻向く気勢。女房も、思案に落した煙管を杖。斉しく見遣った、台所の腰障子、いつの間にか細目に開いて、ぬうと赤黒い脛が一本。赤大名の城が落ちて、木曾殿打たれたまいぬ、と溝の中で鳴きそうな、どくどくの袷の褄、膝を払って蹴返した、太刀疵、鍵裂、弾疵、焼穴、霰のようにばらばらある、態も、振も、今の先刻。殊に小火を出した物語。その時の焼っ焦、まだ脱ぎ更えず、と見て取る胸に、背後に炎を負いながら、土間に突伏して腹を冷した酔んだくれの俤さえ歴々と影が透いて、女房は慄然とする。奴は絵に在る支那兵の、腰を抜いたと同一形で、肩のあたりで両手を開いて、一縮みになった仕事着の裾に曰くあり。戸外から愛吉が、足の𧿹指の股へ挟んで、ぐッとそっちへ引くのであった。  腰をずるずるずるずると、台所の板に摺らして、女房の居る敷居の方へ後込しながら震え声で、 「串、串戯をするな、誰、誰だよ、御串戯もんですぜ。藪から棒に土足を突込みやがって、人、人の裾を引張るなんて、土、土足でよ、足、足ですよ、失礼じゃねえか、何、何だな、誰、誰だな。」  障子の外で中音に、 「放火よ。」 「や!」 十四  蒼くなって、咽喉で、ムウと呼吸を詰め、 「愛吉さんか、まあ、お入んなさい、煙草があります。」  うろうろ眗す目が坐らず、 「おかみさんもお在でなさらあ、お入んなさい。」 「うンや、こう、お友達、お有難うよ。汝にすっかり棚おろしをされちまっちゃ、江戸中は構わねえが、こちら様ばかしゃ、面が出せねえ、やい。  出ろ、こん畜生。  出ろ!」  というと、ぐいと引くのと同時であった。足の指に力はないが、気に打たれたか、ひょいと腰、ひょろり板の間の縁が放れて、腰障子へふッと附着く。  途端に、猿臂がぬッくと出て、腕でむずと鷲掴み、すらりと開けたが片手業、疾いこと! ぴっしゃりと閉ると、路地で泣声。 「御免なさい、御免なさい。」  というのが聞える。膝を立てて煙管をついて伸上った女房は、八ツ下りの日が明るく、あかり窓から、てらてらと自分の前垂にも射して、ほこりのない、静な勝手を見るばかり。  戸の外で二ツ三ツ、ばたばたと音がする。 「堪えて下さい、堪えたまえ、愛吉さん、愛吉さん、」 「堪えた、堪えたとも。こう私アな、生れてから今日ッて今日ほどものを堪えたことはねえんだ。ははははは、」  と高笑を鼻に取って、 「へ、へ、堪えて大概聞いていたんだ。お友達、おい、お友達、汝が口で饒舌った事を、もしか、一言でも忘れたらな、私に聞きねえ、けちりんも残らずおさらいをして見せてやらい。こん、畜生、」 「苦ッ」 「あれ、お前さん方、そこで喧嘩をしちゃ困りますよ。」  女房は思わず立った。 「おかみさん、」  と奴、弱い事、救を呼ぶ。 「来やがれ、さあ、戸外へ歩べ。生命を取るんじゃねえからな、人通のある処が可いや、握拳で坊主にして、お立合いにお目に掛けよう。来やがれ、」  ざらざらと落葉を蹈む音。此方の一間と壁を隔てた、隣の平家との廂合へ入って、しばらく跫音が聞えなくなった。が、やがて胸倉を取って格子戸の傍の横町へ揉んで出たのを、女房は次の座敷へ行って、往来に向いた出窓の障子から伸上って透かして見た。  その間に、座敷中を行ったり、来たり、勝手口から出ようとしたり、上框を開けようとしたり、止めたり、引返して坐ったり、煙草を呑もうとしたり、見合わせたり、とやかく係合いに気を揉んだのは事実で。……うっかり長煙管を提げたッきり。  ト向うが勲三等ぐらいな立派な冠木門。左がその黒塀で、右がその生垣。ずッと続いて護国寺の通りへ、折廻した大構の地続で。  こっち側は、その生垣と向い合った、しもた家で、その隣がまたしもたや、中に池の坊活花の教授、とある看板のかかった内が、五六段石段を上って高い。そこの竹垣を隔てて、角家がト○の中に(の)を大く(あり)と細筆で書いたのを通へ向けて、掛けてある荒物店。斜かけに、湯屋の白木の格子戸が見える。  椿、柳、梅、桜、花の師匠が背戸と、冠木門の庭とは、草も樹も、花ものを、枝も茎にたわわに咲かせて、これを派手に、わざと低い生垣にし、──まばらな竹垣にしたほどあって、春夏秋の眺めが深く、落葉も、笹の葉の乱れもない、綺麗に掃いたような小路である。  時に、露、時雨、霜と乾いて、日は晴れながら廂の影、自然なる冬構。朝虹の色寒かりしより以来、狂いと、乱れと咲きかさなり、黄白の輪揺曳して、小路の空は菊の薄雲。  ただそれよりもしおらしいのは、お夏が宿の庭に咲いた、初元結の小菊の紫。蝶の翼の狩衣して、欞子に据えた机の前、縁の彼方に彳む風情。月出でたらば影動きて、衣紋竹なる不断着の、翁格子の籬をたよりに、羽織の袖に映るであろう。  内の小庭を東に隣って、次第に家の数が増して、商家はないが向い向い、小児の泣くのも聞ゆれば、牛乳屋で牛がモウモウ。──いや、そこどころでない、喧嘩だ。喧嘩だ! 十五  赤大名のずたずた袷が、廂合を先へ出ると、あとから前のめりに泳ぎ出した、白の仕事着の胸倉を掴んだまま、小路の中で、 「ええ、」  と小突いて、入交って、向の生垣に押つけたが、蒼ざめた奴の顔が、赫と燃えて見えたのは、咽喉を絞められたものである。  女房はハッと思った。 「蚯蚓野郎、ありッたけ、腹の泥を吐いッちまえ。」 「う、」  と唸って、足をばたばたと掙く状を、苦笑いで、睨めつけながら、手繰って手元へドン、と引くと、凧かと見えて面くらう、自分よりは上背も幅もあるのを、糸目を取って絞った形。今度は更に小路の中途に突立たせた。 「わ、わ、」  と大な口を開いて、ふうふうと呼吸をはずませ、拝みたそうな手附をする。  此方は屹と二の腕から条を入れた握拳を、一文字に衝と伸した。  女房は思わず伸上って顔を出して、またハッと思った、腹の裡で、 「ああ、悪い処へ……」  がらがらと車が来て、花の師匠の前で留まった。内まで引きつけでもする事か! 「さ、お立合、この泣ッ面を御覧じろ。」  と、あわや打据えんとしつつ前後を見た無法ものは、フトその母衣の中に目を注いだ。  これより前、湯屋の坂上の蒼空から靉靆く菊の影の中、路地へ乗り入れたその車。髷の島田の気高いまで、胸を屹と据えていたが、母衣に真白な両手が掛ると、前へ屈んだ月の俤、とばかりあって、はずみのついた、車は石段で留まったのであった。  車夫の姿が真直に横手に立った。母衣がはらりとうしろへ畳まる。  一目見ると、無法ものの手はぐッたりと下に垂れて、忘れたように、掴んだ奴の咽喉を離した。  身を飜すと矢を射るよう、白い姿が、車の横を突切って、一呼吸に飛んで逃げた。この小路の出口で半身、湯屋の格子を、間のある脊後に脊負って、立留って、此方を覗き込むようにしたが、赤大名の襤褸姿、一足二足、そっちへ近づくと見るや否や、フイと消えた、垣越のその後姿。ちらちらと見えでもするか。刻苦精励、およそ数千言を費して、愛吉を女房の前に描き出した奴は、ここに現実した火の玉小僧の姿を立たせて、ただひめのりの看板に、あッけなく消えてしまったのである。  女房は三たびハッと思った。  無法者が、足を其方に向けて、じりじりと寄るのを避けもしないで、かえって、膝掛を取って外すと、小褄も乱さず身を軽く、ひらりと下に下り立ったが。  紺地に白茶で矢筈の細い、お召縮緬の一枚小袖。羽織なし、着流ですらりとした中肉中脊。紫地に白菊の半襟。帯は、黒繻子と、江戸紫に麻の葉の鹿の子を白。地は縮緬の腹合、心なしのお太鼓で。白く千鳥を飛ばした緋の絹縮みの脊負上げ。しやんと緊まった水浅葱、同模様の帯留で。雪のような天鵞絨の緒を、初霜薄き爪先に軽く踏えた南部表、柾の通った船底下駄。からからと鳴らしながら、その足袋、その脛、千鳥、菊、白が紺地にちらちらと、浮いて揺いでなお冴ゆる、緋の紋綾子の長襦袢。はらりとひらめく、八ツ口、裳、こぼれず、落ちず、香を留めて、小路を衝と駈け寄る姿。  かくてこそ音羽なる青柳町のこの枝道を、式部小路とは名づけたれ。  冠木門の内にも、生垣の内にも、師匠が背戸にも、春は紫の簾をかけて、由縁の色は濃かながら、近きあたりの藤坂に対して、これを藤横町ともいわなかったに。 「愛吉、」  と垣の際。上の椿を濡れて出て、雨の晴間を柳に鳴く、鶯のような声をかけると、いきなり背後から飛びついて、両手を肩へ。年も三ツ、三年越。火難以来ここにはじめてめぐり逢った。柳屋のお夏は二十を越した。脊丈さえ、やや伸びて、楽に上から負わるるように、袖で頸を包んだのである。  もっとも愛吉の身はすくんだから。 十六 「愛吉。」  と直ぐ続けて、肩越に﨟長けた、清い目の横顔で差覗くようにしながら、人も世も二人の他にないものか。誰にも心置かぬ状に、耳許にその雪の素顔の口紅。この時この景、天女あり。寂然として花一輪、狼に散る風情である。 「どうしたの、まあ、しばらくだったわねえ。」 「へい、」とただ呼吸をつくようにいう、悪髪結の垢じみた袷の肩は、どっきり震えた。  一たび母衣の中なる車上の姿に、つと引寄せられたかと足を其方に向けたのが、駆け寄るお夏の身じろぎに、乱れて揺ぐ襦袢の紅。ぱッと末枯の路の上に、燃え立つを見るや否や、慌ててくるりと背後向、踵を逆に回らしたのを、袖で留められた形になって、足も地にはつかずと知るべし。  追っかけて冴えた調子、 「よく来たことねえ、愛吉、」 「へい、」 「逢いたかったわ!」 「へ、」とばかりさえ口に消えた。  お夏はいよいよ爽に、 「懐しいよ。」  といって、その前髪を、ひやりと肩。片頬を襟に埋めた時、 「…………」  腕組をした、しかみッ面。げじげじのような眉が動いて、さも重そうな首を此方に捻向けんとして、それも得せず。酒の汚点で痣かと見ゆる、皮の焼けた頬を伝うて、こけた頤へ落涙したのを、先刻から堪りかねて、上框へもう出て来て、身体を橋に釣るばかり、沓脱の上へ乗り出しながら、格子戸越に瞻った、女房が見て呆気に取られた。  時にお夏の背後へ、密と寄ったは、乗せて来た車夫で。  トもじもじ立迷ったが、横合から、 「お傘を、お嬢様。」 「あいよ、」  その時袖が放れたので、愛吉は傍に人のあるのを知って、じろりと車夫の姿を見る。  格子の中から、 「若衆さんこちらへ。」  と声をかけて、女房は土間を下りた。 「ええ、こちら様で、」  車夫は、はじめてここがその住居と心着いた風である。  愛吉が、 「寄越ねえ、」  で差出した手首は、綻びた袖口をわずかに洩れたばかりであるが、肩の怒りよう、眼の配り、引手繰そうに見えたので。返事と、指図と、受取ろう、をほとんど三人に同時に言われて、片手に掴んだ蝙蝠傘を、くるりと一ツ持直したのを、きょとんとして眗したが、罷り違うと殺しそうな、危険な方へまず不取敢。 「じゃ、親方、」 「む、」  と取ったが、繻子張のふくれたの。ぐいと胴中を一つ結えて、白の鞐で留めたのは、古寺で貸す時雨の傘より、当時はこれが化けそうである。  愛吉は、握太な柄を取って、べそを掻いた口許を上へ反らして、 「こりゃ、酷いや、」 「おや、お世話様でございますね。」  と女房は格子を開け、 「貴女、お帰んなさいまし。」 「ああ、ただいま、」といいながら帯をぎゅうと取出した。  小菊の中の紅は、買って帰った鬼灯ならぬ緋塩瀬の紙入で。  可愛き銀貨を定めの賃。 「御苦労様。」 「お持ちなすったものはこれッきりかね。」 「や、まだ台函に、お包が、」とすッ飛んで取りに駆けたは、火の玉小僧の風体に大分怯えているらしい。 「酷いや、お嬢様、見っともねえや。こんなものをさして歩行いて、こりゃ、貴女ンですかい。」 「可いじゃないか。」  と莞爾したが、勝山の世盛には、団扇車で侍女が、その湯上りの霞を払った簪の花の撫子の露を厭う日覆には、よその見る目もあわれであった。 十七 「いえ、そりゃ、あの私ンでございますよ、ほほほほ、」  と女房も寂しい微笑。  愛吉心着いて其方を見向き、 「ええ、さようで。へへへへへ、先刻はどうも、」  とそれもこれも弱った顔色。  お夏は耳敏く聞きつけて、 「おや、さっきも来たの。」  女房のいらえぬ前、慌てて調子高に愛吉はごまかす気、 「だって、お嬢様、見ッともないや、」 「可いよ。」 「日、日傘をさしてお歩行きなさいな、深張でなくってもです。」 「人が笑いますよ。」 「誰が? え、何奴が笑うんで、」  と、すぐにひらめく眉の稲妻。  お夏は真面目に、わざと澄ました顔で、 「威張ったって不可ません、」 「それだって、馬鹿ンつら。」 「でもさ、」 「何故、お嬢様、」 「笑う人はね、お前より強いんだもの。喧嘩をしたって負けますよ。」  といい得て、花やかに浅笑した。お夏さん残らず、御存じ。  女房思わず吹き出して、 「ほほほほほ、」  狐床の火の玉小僧、馬琴の所謂、きはだを甞めたる唖のごとく、喟然として不言。ちょうど車夫が唐縮緬の風呂敷包を持って来たから、黙って引手繰るように取った。 「さあ、お入りな。」  後姿でお夏は格子を、 「おばさん、緩りだったでしょう、」  女房が前へ立って、 「お疾うございましたこと、何は、あの此間から行って見たいッて、おっしゃってでした、俤橋、海晏寺や滝の川より見事だッて評判の、大塚の関戸のお邸とやらのもみじの方は、お廻りなすっていらっしゃいましたか。」 「いいえ、路順が悪かったから、今日は止したの。  深川からじゃ大廻りでね、内の前を二度通るようなもんですもの、出直しましょうと思って。  でも車だから、かえりはぶらぶら歩行にして、行って見ようかと思ったんですがね、お茶の水辺まで来ると、何だか頻に気が急いてね、急いで急いでッていうもんだから、車夫が慌ててさ。壱岐殿坂だッたかしら、ちっとこっちへ来る坂下の処で、荷車に一度。ついこの先で牛車に一度、打附りそうにしたの。虫が知らせたんだわね、愛吉、お前のお庇で、」  と入ったまま長火鉢に軽く膝を支いて、向うへ廻った女房に話しかけたが、この時門口を見返ると、火の玉はまだ入らず、一件の繻子張を引提げながら、横町の土六尺、同一処をのそりのそり。 「お入りなね、何をしてるの、愛吉、お入ンな、さあ、」 「お前さんお入ンなさいましとさ。」  女房のこのとさがちと木戸になった。愛吉入りそびれて、またのそり。 「あら、剣舞をしてるわ、ちょいと、田舎ものが宿を取りはぐしたようで、見っともないよ、私の情人の癖にさ。」  引手茶屋の女房の耳にも、これは破天荒なことをいって、罪のない笑顔を俯向け、徒らに衝と火箸で灰へ、言を消した霞に月。 「私の仲好なの、でも役雑なんです。先刻来た時きっとまた威張ってぞんざいな口でも利いたんでしょう、それで極まりが悪いんだよ。」  と取做すようにいいながら、再び愛吉を顧みて、 「馬鹿だわねえ。」 「さあ、お前さん、どうぞ。」といった、これならば入られる。 「ほんとうになまけもんで仕ようがないの、」 「お、」 「酔ッぱらっちゃ喧嘩するが商売なの。」 「お嬢、」 「その癖弱いのよ。」 「お嬢さん、」  と行詰って、目と口を一所に、むッ。突当ったように句切りながら、次第ににじり込んだ框の上。  割膝で畏まって、耳を掻いて頸を窘め、貧乏ゆすり一つして、 「へへへ、口の悪いッちゃねえ、お嬢ッ公。」 十八 「でも虫が知らせたんだよ。愛吉、お前のお庇で、そうやってさ、もうちっとで車が引くりかえりそうになりました。」 「済みませんでございます。」 「済みませんでございます。」と口真似をしたが、何となく品があった。 「人を馬鹿にしていらっしゃら、」 「先刻一度来たんだって、」 「ええ、つい、その、」  額をぴっしゃりで頸を抱える。 「それではお前、入って待っておいでなら可いのに、戸外へ出るもんだから、また掴合いなんかするんだわ。  おばさん、この人はね、馴染のない町内へ来ると、誰とでも喧嘩をするの、」  とはじめて座につき、火鉢の前に落着いた。お夏もこの時気がついて思わず袖で口を蔽い、 「まあ、」  とばかり、わずかに堪えて、 「ほほほ、愛吉、お前、その膝の上の蝙蝠傘をどうにかおしよ。」 「ややや」というと、慌てて落した、うっかり膝の上に、ト琴を抱いた姿だった、毛繻子の時代物を急いで掻い取り、ちょいと敷居の外へ出して、膝小僧を露出しに障子を閉めて圧えつけたは、余程とッちたものらしい。  女房は年紀の功、先刻から愛吉が、お夏に対する挙動を察して、非ず。この壮佼、強請でも、緡売でも。よしやその渾名のごとき、横に火焔車を押し出す天魔のおとしだねであろうとも、この家に取っては、竈の下を焚きつくべき、火吹竹に過ぎず、と知って、立処に心が融けると、放火も人殺もお茶うけにして退けかねない、言語道断の物語を聞く内にも、おぞ毛を震って、つまはじきをするよりも、むしろいうべからざる一種の憐さを感じて、稲妻のごとく、胸間にひらめき渡る同情の念を禁ずることを得なかった。自分の不思議が疑団氷解。さらりと胸がすくと、わざとではなかったが、何となく無愛想にあしらったのが、ここで大いに気の毒になったので。 「まったくねえ、お前さん、溜池から湧いて出て、新開の埋立地で育ったんですから、私はそんなに大した事だとも思いませんでしたが、成程、考えて見ると、そのお持物は、こりゃちと変でしたね。  もうね結構なものとは思わないけれど、今朝お出かけの空模様じゃ、きっと降ろうとも思われませんし、そうかって、一雨来ないでもないようだったもんですから、傘もお荷物と思って、ついそれをね、お嬢さんもまた、澄してさしていらっしゃるんだもの。」歎息するもののごとし。 「ですから、何でさ、日傘をおさしなさりゃ可いというんじゃありませんか。」 「愛吉、笑うというのにね、」 「いえさ、ですから、誰が、」と直ぐ力む。 「でも何ですよ、この辺じゃ不思議がりますよ。  私もね、ありようは持っていましてね、佃島へおまいりをする時ぐらいしか使わないもんですからね、今でも、通用するだろうと思いましてね、」 「おばさんは通用ッていうの。」 「どうかしたんでございますか。」 「それをさ、おささせ申しましてね、暑い時でござんした。  ここへ引越して、しばらく経って、護国寺が直ぐだといいますから、音羽々々ッて音ばかりだったでしょう。  行って見ましょうッて、お嬢さんをおさそい申して、不断のまんま、ぶらぶら片陰になって出かけたんですよ。  袴を召した姉さん方が、フンといってお通んなさる。何だか背が見られる処を、小児衆が大勢で、やあ、狐の嫁入だって、ばらばら石を投げたろうじゃありませんか。お顔もお頭も、容赦なんざないんですから、お嬢さんは日傘のまま路傍へおしゃがみなさる。私はね、前からお抱き申して立ってましたがね。  そら、傘に化けた、というと、ろくろへポンポン当るから、気がついて、私が取ってね、すぼめて帯へさしたんです。騒ぎは、それで静まりましたけれども、その時黒子一つないお身体へ、疵がついたろうじゃありませんか。」 十九  お夏は袖をくるりと白く、 「こんなよ、愛吉。」  いわれたその二の腕の不審紙。色の褪せたのに歯を噛んで、裾に火の粉も知らずに寝た、愛吉が、さも痛そうに、身ぶるいした。  三人斉しく憮然とせり。  女房しめやかに口を開き、 「ですからさ、時節ですよ。何だってお前さんねえ、私なんざ話しに聞いて、何だか草双紙にでもあるように思っていました。木場の勝山様のお一人子のお嬢さんが、こうやって私等風情と、一所においでなさるんだもの、まったくですよ。」と年紀だけに諭すがごとく、自らは悟りすましたようにいったのであるが、何のおかみさん、日傘が深張になったのは、あえて勝山の流転のごとき、数の奇なるものではない。 「まだまだね、お前さん、このくらいなことじゃないんですよ、もっともっと変っておいでなすったんですよ。」としんみり言う。  ほぼその幼馴染とでもいッつべき様子を知って、他人には、堅く口を封ずるだけ、お夏のために、天に代りて、大いに述懐せんとして、続けてなお説おうとするのを、お夏は軽く手真似で留めた。 「およしなさいな、まあ後でゆっくり。おばさん、お土産があるんだわ。  可いもの。  でも、愛吉、お前は、これね、」  とあられもない。指で口許を挟む真似、そしてその目の仇気なさ。 「え、私あ、私あ、もう、」と逡巡する。 「もうなもんですか。御馳走するわ。  おばさん、良いでしょう。」  と火鉢に手をかけ、斜めに見上げた顔を一目。鬼神なりとて否むべきか。 「可うございますとも、行って取って参りましょう。ついでに何ぞ見繕って参ります。」  愛吉は忙わしく膝を立て、 「私が、私が参りますよ、串戯じゃない。てッて、飛出すのも余り無遠慮過ぎますかい、へ、」と結んだ口と、同じ手つきで天窓を掻く。 「何、お前さん、晩の支度もあるんですよ。」 「おばさん、私が行きましょうか。」 「御串戯ばかり、」 「だって私のお客ですもの、酒屋へなんぞお気の毒です。」 「飛んだことをおっしゃいまし、──先生様も貴女のお客じゃありませんか。」  気の毒がるのをいじらしそうに沁々といったが、軽く立った。酒と聞いて、気もそぞろで、この(先生様)といった言は、この時愛吉の耳には入らなかったのである。 「ああ、そういえばね、」  お夏は火鉢を隔てながら、膝を摺寄せるように、裳を横に。 「晩に来るって、」  女房は立ちかけたのを坐り直した。 「おや、それはまあ、まあ、貴女、お音信がございましたかい。」 「途中でね、電話をかけたの、」 「直接に、」 「いえ、花井さんを呼んで託づけて貰いました。」 「花井さん、例のですか、」 「ああ、」と頷く。 「それでは、その分も、」 「ああ、そうね。」 「いずれ、何も召食るようなものはありませんけれど、」 「私がいいものを買って来たの。」  女房は茶棚の上を、ト風呂敷包がそれである。 「よく、お気が着きましたねえ。御褒美に、それこそ深張を買ってお貰いなさいまし。」  頭をふって、 「要らない。」と活溌にいった。 「でも貴女、貴女が、そんなにお気がつくんですもの。可うございます。貴女がおっしゃいませんでも、私からお強請り申しましょう。」 「おばさん、気がついた御褒美なんて、不可いの。先生が怒るものなの。」 「へい、何でございますえ。」 二十 「何だか、怒るものよ、おばさん当てて御覧なさい。」 「…………」  黙ってつくづく見たばかり、当てものして遊ぼうには、ちと年紀が老けていた。 「当てて御覧。愛吉、」  と唐突にこっちを呼んだ。この時まで、お夏が女房といいかわした言は、何となく所帯染みて、ひそめいて、傍聴きするものの耳には、憚る節があるようであった。  いかばかり酒に咽喉が鳴っても、あいにく耳が澄まされて、お夏の口から、(先生)というのを聞いて、はッと胸に応えたのは、風説に聞いて尋ねて来た、式部小路の麗人はさる人の、愛妾であるというのである。  果してそれが柳屋のならんには、米が砂利になる法もあれ、お囲いなどとは、推参な! 井戸端の悪口穴埋にして、湯屋の雑言焼消そう、と殺気を帯びて来たのであるから、愛吉はこれは、と思った。  ト同時に、この内証話からは、太く自分が遠ざけられ、憚られ、疎まれ、かつ卻けられ、邪魔にされたごとく思ったので、何となく針の筵。眉も目も鼻も口も、歪んで、曲って、独りで拗ねて、ほとんど居堪らないばかりの心地。  もうお夏の、こう隔てのない、打開けた、──、敵討の、駈落の相談をさるるような、一の(当てて御覧)がなかったら、火の玉は転がって、格子の外へ飛んだであろう。  が、忽然として青天、急にその膝へ抱き上げられたように感じた。ただし不意を喰ったから、どぎまぎして、 「酒、酒です。」  と筒抜けのぼやけ声。しかも当人時ならず、春風胎蕩として、今日九重ににおい来る、菊や、菊や──酒の銘。  お夏は驚いて目を瞪った。真面目に唖然たるものこれを久しゅうして、 「駄目。おばさん、この人はね、酒だか私だか分らないの。ちょいと早く呑まさないと、私を噛ろうも知れないよ。」 「お嬢さん、」と例の敗亡。 「唯今、ですがお嬢さんは、ほんとうに何を買っていらっしゃいました。大概そんなことはありますまいが、もしか、つくと不可ません。」 「可いのよ。先生のめしあがるもんなんざ、ねえ、愛吉、」 「まあ、貴女、」 「可いの。ねえ愛吉、お前が来ると知れているのなら、呼ばなくッてもいいんだっけね。」  首尾は大極上々吉、愛吉堪りかねて、 「御、御串戯おっしゃらあ。」 「どれ、急いで行って参りましょう。」  と女房は、半纏の襟を扱いて立ち、台所へ出ようとして、少々気がかり、 「貴女え、」 「ああ、」 「先生がいらっしゃらなくッて、寂しい、寂しい、とおっしゃりながら、お憎らしい。あとで私が言附けますよ。」 「ああ、可いとも、ねえ、愛吉、姫様がついている人なんか、ねえ。」  いささかもその意を解せず、偏に膝を揺って、 「御、御、御串戯おっしゃらあ。」 「ちょいと、愛吉さん、」  と女房優しく呼びかけ、 「よく、おもりをして下さいよ。お泣かせ申さないように、可ござんすかい。お前さん、また酒と間違えて飲んじまっちゃ不可ませんよ。」 「御、御、御、御串戯おっしゃらあ。」  勝手の戸がかたりとしまると、お夏ははらりと袂を畳へ、高髷を衝と低く座を崩して姿を横に、縋るがごとく摺り寄って、 「どうしたの、お前、」  とて、膝につむりを載せないばかり。  愛吉しゃッきりと堅くなって、居丈高。腕を突揃えて、畏まって、 「しばらくでえ、」 「愛吉や。」 「お嬢さん………」 二十一 「まあ、お前どこに居たんだねえ。」 「え、私は何、そこらの芥溜に居たんですがね。お嬢さんは?」 「私かい、」 「何ですか、蔭で聞きますりゃ、御新造さんもお亡なんなさいましたッて、飛んだ事で、」と震えて蒼くなっていう。お夏も心が激したか、目のふちに色を染めて、 「ああ、愛吉、お前のおともだちの蔵人(軍鶏呼名)もね、人形町の火事ッきり、どこへ行ったか分らないんだよ。愛吉てば、お前、おっかさんが亡なっても、家が焼けても、まるで顔を見せないんだもの。  お前、おっかさんが亡なっては、私一人ぼっちじゃないか。人形町の内が焼ければさ、私はどこにも行く処がないじゃないか。  それだのに、ちっとも来てはくれないんだもの、随分だわ。」  愛吉は堪えかね、堪えかねて、火の粉が入ったようにぐッとその目を圧え、 「だって、だって何でさ、加茂川亘さんて──その、あの、根岸の歌の先生ね、青公家の宗匠ン許へ、お嬢さんの意趣返しに、私が暴れ込んだ時、絽の紋附と、目録の入費を現金で出しておくんなすったお嬢さんを大贔屓の──新聞社の旦那でさ。遠山金之助さんですよ。  その方に、意見をされて、私のようないけずな野郎が、お嬢さんと附合っちゃ、お前さんの何でさ、為にならねえからッて、いわれたもんで。  私もね、何ですよ。成程こいつはもっともだ、と思ったから、しかもお宅が焼けた晩でさ、そら、もうしばらく参りませんッて、お暇乞に行ったでしょう。  私も思い込んだんでさ。いえ、何でも参りません。いえ、いえ、もう御無沙汰いたしますッて、そういったら、お嬢さん、……」  としばらくものを言うあたわず、隆いが、ぞんざいな鼻を啜って、 「たった一人の、佃のおふくろにまで、愛想を尽かされて、湯灌場にさえ屋根代を出さねえじゃならねえ奴を、どうお間違えなすったか、来なくッちや厭、寂しい、と勿体至極もねえ。  涙ぐんでおくんなすった。ああ難有えこッた、と思うと、なおなおお前さん、貴女のお身体が大事になって、御出世の邪魔になるんだから、と万倍もお前さん、敷居を跨ねえ気になったんでさ。  もう何ですぜ、お店から出て、あの門の柳の下でしょんぼりして、看板の賽ころがね、ぽかん、」  と嚔の出そうな容体、仰向いてまたすすり、 「と面へ打つかると、目が眩んで、真暗三宝韋駄天でさ。路地も壁も突抜けてそれッきり、どんぶり大川へでも落っこちたら、そこでぼんやり目を開けて一番地獄の浄玻璃で、汝が面を見てくれましょうと思ったくらいでした。  すると、近間で、すりばんでしょう。私あ自分でどこに居たか知りませんがね、火の手はお宅様の見当でしょう。ほい、了った。お暇乞はもう一晩我慢をすりゃ可かったが、こりゃお見舞にも上られねえ。そうかと思やあお嬢さんと御病人きり。蔵人は忠義だって、羽ばたきをするばかり、袖を啣えて引張り出す方角もあるまいと思いますとね。矢も楯も堪りませんや。さも貴女と御新造さんが烟に捲れて赤い舌で嘗められていなさるようで、私あ身体へ火がつくようだ。そうか、といってたった今お暇乞をしたもの、と地蹈韛を踏みましたが、とうとう、我慢が仕切れねえで、駆けつけると、案の定だ。  まだ非常線も張らねえのに、お門にゃ、枝垂れ柳の花火が綺麗に見えましょう。柱は残らず火になったが、取着の壁が残って、戸棚が真紅、まるで緋の毛氈を掛けたような棚を釣った上と下、一杯になって燃えてるのを私あお宅を行き抜けにお出入の合ったお庇にゃ、要害は知ってまさ。お嬢さんが生命から二番目の、大事の大事のお雛様。や! 大変だ。深川の火事の時は、ちょうどお節句で飾ってあった、あの騒ぎに内裏様の女の方の、珠のちらちらのついた冠がたった一つ紛失したのを、いつも気にかけておいでなさるくらいだのに、ああ、情ない。」  お夏はこれを、うっとりとなって聞くのであった。 二十二 「せめてその骨でも拾って、腕まもりでも拵えよう、」  とまっしぐらに立向った、火よりも赤き気競の血相、猛然として躍り込むと、戸外は風で吹き散ったれ、壁の残った内は籠って、颯と黒煙が引包む。 「無茶でさ、目も口も開きやしねえ、横もうしろも山のような炎の車がぐるぐると駆けてまさ、から意気地はありません。  夢のような気です。まして棄鉢に目を眠った処を、裾からずるずると引張るから、はあ、こりゃおいでなすったかい。婆さんが衣ものを脱ぐんだろう、三途川の水でも可い、末期に一杯飲みてえもんだ、と思いましたがね、口へ入ったなあ冷酒の甘露なんで。呼吸を吹返すと、鳶口を引掛けて、扶け出してくれたのは、火掛を手伝ってました、紋床の親方だったんでさ。  焼あとへね、遠山さんもおいでなさりゃ、その新聞社の探訪の、竹永丹平というのも来ました。親方と四人でね、柳の根方でしばらく、皆で、お嬢さんの噂ばかりしましたっけ。夜露やら何やらで湿ッぽくばかしなって、しらしらあけの寒いのに皆悄れて別れたでさ、それッきり。  どこへおいでなすったか、お行方は知れませんや。またもうお目にかかるまいと心じゃ極めていたんですから、口へ出して人に聞くのも何だか気が咎めてならねえんで、尋ねるわけにもなりませんで、程たって、勝山さんの御新造が築地の何とかいう病院で、お亡なんなすったって、風のたよりに聞きましたが、ともかくも病院へお入んなさるくらいじゃ、立派にお暮しなさるんだろう。お嬢さんは、お手車か、それとも馬車かと考えますのが一式の心ゆかしで、こっちあ蚯蚓みたように、芥溜をのたくッていましたんで。  へい、決してその、決して何でさ、忘れたんじゃありません。」  語って涙を拭う時、お夏ははんけちを啣えていた。 「じゃ何、あの晩火事の時、火の中へ飛び込んだの、大変ねえ。」 「へ、何、そりゃ、そんな事はわけなしでさ。熟と大人しくしている時が堪らねえんで。火でも水でも、ドンと来た時はおもしれえんで。へ、何、わけなしでさ。殊にお嬢さん許の灰になりゃ、私あ本望だったんです。」と、思わず拳を握ったのである。  お夏は黙って瞻った。その時はじめておくれ毛がはらはらと眉を掠めた。 「でもお前、目をまわしたとおいいじゃないか。」 「ちょっと、眠ったんで、時々でさ。」 「だってお前、きっと火傷をおしだろう。」  直垂に月がさして、白梅の影が映っても、かかる風情はよもあらじ。お夏の手は、愛吉の焼穴だらけの膝を擦った。愛吉たらたらと全身に汗を流し、 「ええええ、脇腹を少し焦しましたが、」 「可哀相に、お見せな。」 「何、身体中、疵だらけだから、からもう何が何だか分りません。」  とはだかった胸を慌ててかくした。 「愛吉、それでもお前、無事に逢えて可かったねえ、ほんとうによく来たねえ。」 「ですから、ですから、その上がられました義理じゃねえんで、お門口へだって寄りつく法じゃありませんがね、ちとその、」  と口籠った。妾沙汰の一条で、いいかねたものであろう。  お夏はいささかも気に留めず、 「おいいでない。愛吉、お前がそんな事をいって来ないお庇で、私がどんな出世をしたのよ、どんな出世が出来たのよ。」  と詰るがごとく声強く、 「お前たちを袖にして出世をしたってどうするの、よ、愛吉、」 「じゃあ、ど、どうしてお嬢さん、貴女はどうしてどこにおいでなすったんでございますね。」 「芥溜よ。」 「え、」 「私もやっぱり芥溜なの。」 「飛、飛んでもねえ。」 「だって、お前も好なんだから可いではないか。」  と澄ましていう。 二十三  その物腰と風采は、人形町の頃よりも、三ツ四ツ年紀もたけ、﨟たさも、なお増りながら、やや人に馴れ、世に馴れて、その芥溜といえりし間、浮世のなみに浮沈みの、さすらいの消息の、ほぼ伝えらるるものがあったのである。  愛吉は悚然とした。 「寒くはなくッて、」 「御串戯おっしゃらあ、」 「だって素袷でおいでだよ。」 「そこへ行っちゃ職人でさ、寒の中も、これで凌ぐんで、」 「威張ったね。」 「へ、どんなもんで、」と今度は水洟をすすり上げた握拳、元気かくのごとくにしてかつ悄然たり。 「ほんとうに真面目ねえ、ああ、そう、酒気のない処で、ちと算盤でも持せて弱らしてやろうかな。」  と莞爾と笑み、はじめて瞳を座敷に転じて、島田の一にぐいとさした、撫子の花を透彫の、銀の平打が身じろぎに、やや抜け出したのを挿込みながら、四辺を視めて、茶棚に置いた剃刀にフト目が留まった。 「愛吉、それよりかお前、ほんとうにちょいと困っておくれでないかい。」 「困りますえ。私が、何を。お嬢さん、」 「久しぶりだ、あたっておくれ、」 「お顔を、」 「ああ、私は自分じゃ不器用だし、おばさんは上手だけれど、目が悪いからッて危ながって遠慮をするしね。近所じゃ厭だし、どこへ行ってもしゃぼんをぬらぬらなすくって、暖かい、あぶらッ手で掴まえられて恐れるわ。困っているの、ねえ、愛吉、後生だから、」 「遣りますかね、」 「ああ、」 「や、そいつあ素敵だ、占めたもんだ。ちょうど可いや、剃刀が来ていまさ。」  お夏は車で知っている。 「喧嘩をしたもんだから、よく知っておいでだね、おばさんは忘れて行ったに。あいかわらず、対手さえありゃいがみ合うんだよ。」  愛吉は勇みをなし、 「対手、対手は紋床の親方だけだ。稲荷に仕込まれましたお庇にゃ、剃刀を持たせた日にゃ対手というものはねえんですぜ。まあ、叱言はあとにしてお嬢さん、ちょいとお襟をお預けなせえ。  すっ、するするッと来ら。私あ伊豆の大島へ行きましたがね、から、唐人みたようなお百姓でも、刃あたりが違うと見えて、可いなアーッていやあがるんで。  こう、為朝は、おらが先祖だ。民間に下って剃刀の名人、鎮西八郎の末孫で、勢い和朝に名も高き、曾我五郎時致だッて名告ったでさ。」 「太平楽は可いけれど、何、お前大島ッて流しものになる処じゃないの、大変な処へまあ、」  江の島をさえ知らない娘の驚いたのはさもありなん。 「で、お嬢さんはどうしておいでなすったんで?」 「あれ、芥溜をまた聞くよ。そんな事はあとにして、疾く困ってくれないと、暗くなる、寒くなる、さあ、こっちへおいで、さあ、」  足許から美しい鳥の立つよう、すらりと身を起す、その片手に手巾を持っていたのを、無意識に引くと、放れぬこそ道理なれ。片端膝にかかったのを、愛吉は我れ知らずつかんでいたので。  向うへ一所に立とうとすると、足がふらふらとして尻餅の他愛なさ。畳まれたようにぐたりとなる。お夏は知らずに出ようとする。手の手巾を愛吉が一心になって掴んだ、拳が凝って指がほぐれず。はッと腰を擡げると、膝がぶつかって蛸の脚、ひょろひょろと縺れて、ずしん、また腰を抜く。おもみに曳かれて、お夏も蹌踉く。もつるる裳。揺めく手巾。 「おや、」  と思わず熟と見られた、愛吉のその顔は…… 二十四 「お前しびれを切らしたね。ほほほ、」 「むむ、」  気を入れると直ぐに、よたり。 「馬鹿だね。」 「これは!」と片手を畳へ。しっかりと支くと、直ぐにお夏がその手巾で引かれるから、これはとあせるほどなお放れず。 「だらしのない為朝だよ。」 「勢い! 和朝に、」  強そうな顔をして、やッと起きると、ひょろりでトン、足を投げてきょとんとする。  お夏は密と引いて見て、はらりと放した。手巾を畳に残して、隣座敷へ、すいと立った。背姿で忙しそうに、机の前なる紅入友禅の唐縮緬、水に撫子の坐蒲団を、するりと座敷の真中へ持出したは、庭の小菊の紫を、垣から覗く人の目には、頸の雪も紅も、見え透くほどの浅間ゆえ、そこで愛吉の剃刀に、衣紋を抜かん心組。  坐りもやらず蒲団の上。撫子の花を踏んで立つと、長火鉢の前、障子の際に、投出されたという形。目ばかり光らす愛吉を、花やかに顧みて、 「鎮西八郎、為ちゃん。」 「や、」 「曾我五郎、時さん。」 「こいつあ、」 「泥酔の愛ちゃんや。」 「ええ。」  お夏は片襷を、背からしなやかに肩へ取って、八口の下あたり、緋の長襦袢のこぼるる中に、指先白く、高麗結びを……仕方で見せて、 「ちょいと、こういう風でね。」  かくて酒肴の用足しから帰って来た女房は、その手巾を片襷に、愛吉が背後へ廻って、互交に睦じく語らいながら、艶なる頸にきらきらと片割月のきらめく剃刀。物凄きまで美しく、向うに立てた姿見に頬を並べた双の顔に、思わず見惚れて敷居の際。  この跫音にも心着かず、余念もない二人の状を、飽かず視めてうっとりした。女房の何となく悚然としたのは、黄菊の露の置きかわる、霜の白菊を渡り来る、夕暮の小路の風の、冷やかなばかりではなかった。  明り取りに半ば開いた、重なる障子の薄墨に、一刷黒き愛吉の後姿、朦朧として幻めくお夏の背に蔽われかかって、玉を伸べたる襟脚の、手で掻い上げた後毛さえ、一筋一筋見ゆるまで、ものの余りに白やかなるも、剃刀の刃の蒼ずんで冴えたのも、何となく、その黒髪の齢を縮めて、玉の緒を断たんとする恐ろしき夜叉の斧の許に、覚悟を極めて首垂れた、寂しき俤に肖て見えたのであった。        *  *  *  *  *  *  * 「所謂その影が薄いといった形で。つまり俗にいう虫が知らせたんだろうな。」 「ええ、女房もいうのでありまするし、かような事は、先生の前じゃちといかがな儀ではありまするが、それを聞いた手前なども、またさようかに考えるので、どうも争われないものですよ。」 「いや、一々銷魂な事ばかりです。幸病気は良いのですけれども、実に腸九廻するの思いで聞くに堪えん。が、そこで。」と問掛けて、後談を聞くべく、病室の寝床の上で、愁然としてまず早や頭を垂れたのは、都下京橋区尾張町東洋新聞、三の面軟派の主筆、遠山金之助である。 「第一手前が巣鴨の関戸の邸の、紅葉の中で、不意に出会した時もそうですが、沈んだ明い、しかも陰気な、しかし冴えて、冷かな、炎か紅の雲かと思うような四辺の光景にも因りましたろうが、すらりと、このな、」  と円満にして凸凹なき、かつ光沢のある天窓を正面から自分指しながら、相対して、一等室の椅子にかけたのは同社名誉の探訪員、竹永丹平である。  別に必要はないけれども、その着つけ、背恰好、容貌、風采、就いて看らるべし。……  第二回の半ばに出でたり。  この処築地明石町、明石病院の病室である。 二十五  探訪員は天窓をさした、その指を、膝なる例の帽子の下に差入れた。このいかがわしき古物を、兜のごとく扱うこと、ここにありてもまたしかり。  さて、打咳き、 「トこの天窓の上へ、艶麗に立たれた時は、余り美麗で、神々しくッて、そこいらのものの精霊が、影向したかと思いましたて。桜の精、柳の精というようにでございますな。しかし寂寞とした四辺の光景が、空も余りに澄み渡って、月夜か、それとも深山かと思われるようでありましたのは、天地が、その日覚悟を極めて死にに行く、美人に対する、かの同情というものを表わしたのでありましょう。  見ると、──柳屋のだろうじゃがあせんか。面と向ってついぞ言を交わしたということもないのですが、先生、貴下も御同然に、こりゃ社用外のさがしもので、しばらく行方が知れないのを、酷く心配をいたしておりましたで、思わず膝を拍って私。 (お夏さん。)と申しました。……  思いがけない様子でした。こりゃ理だ。実は私の方が思いがけないんで。お顔を覚えておりません。誰方、という挨拶で、ちと照れましたがな。以前、人形町辺に居りました時分ちょいちょいお店へ参って、といってこの天窓に対して、(肖顔画などを孫どもに買ってやりましたで存じております、)などと遣ったですて。  まず、これへ、と人様のものでお愛想。自分も拝借をしておりましたし、まだ二ばかり据えてありました陶器ものの床几を進めると、悪く辞退もしないで静に腰をかけたんですが、もみじの中にその姿で、いかにも品が佳い。これでさげ髪だと何の事はない、もみじ狩の前シテという処ですが、島田の姉さんだから、女大名。  私は太郎冠者というやつ、腰に瓢があれば一さし御舞い候え、といいたい処でがしたが、例の下卑蔵。殊に当日はあすこを心掛けて参ったので、煙草は喫まず、その癖、樹下石上は思いも寄らん大俗で、ただ見物も退屈、とあらかじめ、紙に捻って月の最中というのを心得ていましたから、(ちとお歌でもなさりませんか、)といいますとね。  どど一か端唄なら、文句だけは存じておりますが、といって笑顔になって、それはお花見の船でなくッては肖りません。ここはどんな方のお邸でござんすえ、ッて聞かれたから、(こりゃ関戸とおっしゃる御華族でいらっしゃる。)と答えますと、華族さんなの。それでは町人が来ては叱られましょうッて莞爾しました。」  お夏はその時町人といった。 「痛快でがした。──  服装といい、何となく人形町時分から見ると落着きが出て気高い。私最初はその関戸伯爵の姫様と間違えて、突然低頭に及んだくらいで、天下この人に限ってはとは思うが、そこは女。  実は乗りたや玉の輿で、いずれ、お手車処は確に見える。自然と気ぐらいが高くなっているのであろうと、浅はかにも考えたが─違いました。  この江戸児、意気まだ衰えず、と内心大恐悦。大に健康を祝そうという処だけれども、酒ますまい。そこで、志は松の葉越の月の風情とも御覧ぜよで、かつその、憚んながら揶揄一番しようと欲して、ですな。一ツ召食れ、といって件の餡ものを出して突きつけた。」 「柳屋のに、」  と金之助は眉を顰めた。  丹平泰然として、 「さよう、」 「驚きますな。」  と遠山は止むことを得ざらん体に、 「あの窈窕たるものとさしむかいで、野天で餡ものを突きつけるに至っては、刀の切尖へ饅頭を貫いて、食え!……といった信長以上の暴虐です。貴老も意気が壮すぎるよ。」 「先生、貴下はまた、神経痛ごときに、そう弱っては困りますな。」 「何、私はもう退院をするんだから構わんが。」  とて愁うる色あり。  丹平は打頷き。 「しかし、仏の像の前で、その言行を録した経を読むと同一です。ここでお夏さんの話をするのは。まあ、お聞きなさい。」  と声を低うしていった。  この突当右側の室に、黒塗の板に胡粉で、「勝山夏」──札のそのかかれるを見よ。 二十六  病室の主客が、かく亡き俤に対するごとき、言語、仕打を見ても知れよう。その入院した時、既に釣台で舁がれて来た、患者の、危篤である事はいうまでもない。 「実はその人を歎美して申すのですから、景気よくお話はしますけれども、第一私がもうこういう内にも、(難有う)といって、人の志を無にせん風で、最中を取って、親か、祖父の前ででもあるように食べなすった可愛らしさが、今でも眼前にちらついてならんでがすて。」  鼻を詰らせながら、掌で口を拭って咳一咳。 「私もな、昨年一人、末ッ児を亡くしたですが、それを思い出してもこんなじゃない。」  と椅子をずらして、 「で、何でげすか、どうしても六ヶしいと申すんで?」 「ああ、看護婦がいいます、勿論悉しいことは話さない。  入院した日は、何事もなく静かだったが、一昨日の晩でした。  私は、はじめ串戯かと思った。  うら若い女の声で、 (あつうあつう、)  というのです。 (暑い! 暑い、)  と聞えて、 (暑いよう、暑いよう、)というのが、夢中のようでね。 (快くなりますよ、直によくなりますよ、)とひそひそすかすのが、幽に聞えるから、ああ、それじゃ病人だな、と思ったんです。ひッそりしたっけが、また、 (熱いねえ! 熱いねえ、) (もう直ぐに快くなりますからね、) (ああ、)  と調子高に、しかし上の空のようにいって、少し気がついたか、落着いた声で、 (熱いこと!)  こういってね、それッきり。ひッそり陰気になったが、いや、その間、はッと思って、私も呼吸がつけないのでした。」  丹平もしめやかに頷くことあまたたび、 「成程々々成程。」 「二三日もう手はかかりませんから、そこに、」  金之助は扉に並べて一枚を敷いた、畳の隅、鉄の火鉢の方に目を遣って、 「編物をしていた附添のね、福崎(看護婦)というのに、(どうしたの)ッて聞くと、何も間い返すまでもない。 (苦しいんですよ、)といいます。 (不良いのかね。) (いらしった時から釣台でしたから、)  それさえその時まで私は気がつかないで居たくらいで。もっとも前晩、夜更けてからちと廊下に入組んだ跫音がしましたっけ。こうやって時候が可いから、寂寞して入院患者は少いけれども、人の出入は多いんですから、知らなかったんです。」 「まさか自分の病院で、治療するというわけにも行かなかったものでありましょう。」 「ははあ、秘密のようですかい。」 二十七 「だから私もその、事件の場所へ立会った程な、この度のことに就いては浅からん縁がありますけれども、実は遠慮をして差控えていたのでがす。しかし、経過が、どうか。容体が、どうか。気になって、どうも心配でなりません、ところが、幸い、」  といいかけて、兀天窓を、はッと圧え、 「貴下の御病気を幸いといっては恐縮千万、はははは、」と、四辺を憚った内証笑。 「実は私も自分で幸いと思っている。」 「いや、恐縮ですが、また、さほど大した御容体でもなかったと見えまして、貴下が、こっちへ御入院という事は、まったく、今朝はじめて聞いて一驚を吃しました。勿論社の方へは暫時御無沙汰、そんなこんなで、ちっとも存じませんで、大失礼。そこで、すぐにお見舞と申す内にも柳屋の方が主であるようで相済まんですが、もっとも向うへ顔出しをする気はないので。それでなくッても私商売などは、秘密の秘の字でもある向には、嫌われるで、遠慮をしますから、悪からず。」 「私はまた(何の病気、)と聞くと、 (熱が酷いんでしょう、)といったばかり。 (婦人だね、) (はい、少いお嬢さん、) (幾歳ぐらいの、) (二十か、九でおいでなさいましょう。)  柳屋のはもうちっとになったでしょう、こりゃ少く見えたんです。  そこまで聞いて、まさか、名は? とまで尋ねるでもないから、そのままにしましたが、一体何となく継穂のない、素気ない返事だと思ったんですが、もっともだ。じゃ、山の井先生のために、この病院長が、全院を警戒して秘密にしたんだ。」 「そうでがすとも、ごく内証ですから、憚って、自分の病院があるのに、こっちへ依頼をされたんで。この明石病院の院長は、山の井医学士の親友でがす。  もっとも他の新聞にも出ましたから、事件は、さして秘密じゃありますまいが、自分がお夏さんの世話をしておいでだった光起(山の井医学士の名)さん。  薄々青柳町に囲ってある、妾だ妾だという風説なきにしもあらずだったもんですから、多くは知らんにもせい、」と声をひそめる。 「どうして、私はまた、不意に貴老が見えたのを、神の引合わせかと思う。ちょっと筋向うのが柳屋のだと、声をさえかけて下すったら、素通りにされても怨まない。実際そうでないと、わずか廊下を七八間離れたばかりで、一篇悲劇の女主人公、ことに光栄ある関係者の一人で居ながら、何にも知らないで退院する処でした。あとで聞いては千載の遺憾だったに、少くともその呼吸のある内に、時鳥と知って声を聞いたのは、光栄です。私はこれを一声の時鳥だといいます。あの血を吐く声が実に腸を断つようで。竹永さん、」  と面を上げて、金之助は今もその音や聞ゆる、と背後を憂慮うもののごとく、不安の色を湛えつつ、 「引続きこの快晴、朝の霜が颯と消えても、滴って地を汚さずという時節。夜が明けるとこの芝浜界隈を、朗かな声で鰹──  生鰹と売って通る。鰯こい、鰯こいは、威勢の好い小児が呼ぶ。何でも商いをして帰って、佃島の小さな長屋の台所へ、笊と天秤棒を投り込むと、お飯を掻込んで尋常科へ行こうというのだ。売り勝とう、売り勝とうと、調子を競って、そりゃ高らかな冴えた声で呼び交すのが、空気を漉して井戸の水も澄ますように。それに居まわりが居留地で、寂として静かだから、海まで響いて、音楽の神が棲む奥山から谺でも返しそうです。その音楽の神といえば、見たまえ、この硝子窓の向うに見える、下の外科室の屋根を隔てた煉瓦造りを。外国婦人が住んでいてね、私なんぞにゃ朗々としか聞えんが、およそ目には見えんで、各自はその黒髪の毛筋の数ほど、この天地の間に、天女が操る、不可思議な蜘蛛の巣ぐらいはありましょう、恋の糸に、心の情が触れる時、音に出づるかと思うような、微妙な声で、裏若いのが唱う。ピアノを調べる。時々あの向うの硝子戸を取りまわした、濃い緑の葉の中に、今でも咲いている西洋種のぼっとりした朝顔の花を透かして、藤色や、水紅色の裾を曳いたのがちらちらする。日の赫と当る時は、眩いばかり、金剛石の指環から白光を射出す事さえあるじゃありませんか。  同一色にコスモスは、庭に今盛だし、四季咲の黄薔薇はちょいと覗いてももうそこらの垣根には咲いている、とメトロポリタンホテルは近し、耳馴れぬ洋犬は吠えるし、汽笛は鳴るし、白い前垂した廚女がキャベツ菜の籠を抱えて、背戸を歩行くのは見えるし……」  刻下、口を衝いて数百言、竹永は我が探訪の職に対し、生殺与奪の権を握れる、はたかれ神聖なる記者として、その意見に服し、その説に聴くこと十余年。いまだこの日のごときを知らなかった。三面艶書の記者の言、何ぞ、それしかく詩調を帯びて来れるや。  惘然として耳を傾くれば、金之助はその筋疼む、左の二の腕を撫でつついった。 「これ実に侮るべからざるハイカラですよ。」 二十八 「竹永さん、金之助病のためにこの境に処して、なお巴里、伊太利の歌に魂を奪われず。却って佃島の(鰯こ)に心を澄まし、初冬の朝の鰹にも我が朝の意気の壮なるを知って、窓の入口に河岸へ着いた帆柱の影を見ながら、この蒼空の雲を真帆、片帆、電燈の月も明石ヶ浦、どんなもんだ唐人、と太平楽で煩っていたのも、密に柳屋のお夏を健在、と思っての事であった。」  いいかけて寂しく笑った、要するに記者の凡ての言は、お夏に対する狂熱の勃発したものであったのである。 「それがどうです。 (熱い、熱い、熱いねえ、)  今もいいます通りね、一昨日の晩は、それッきりだったが、昨日の午後二時頃にはまた、 (熱いの、熱いねえ、熱いねえ、)  昼間だから、夜分のようにはないんですが、傍で何かいって切に慰めたようだった。 (熱いわ、何て熱いんでしょう、)  とあきらめたように、しかも哀にきこえた処へ、廻診の時間じゃないのに、院長が助手と看護婦長とを連れて、ばたばたと上って見えて、すっとこの室の前を通ったんだね。  そこへ私の看護婦が来ましたが、体温器を掛けにです。戸口へ立停って、しばらくその方を見ていました。  しばらくすると、皆下りて行く。看護婦が入ったから、 (あすこのはわるいのかね、) (はい、どうも不可ませんそうです、)  ……は心細い。 (気の毒だね、) (ほんとうにお可哀相でございますよ、)と婦人は相身互、また一倍と見える。  私は素人了簡で、何とか、その熱が上らないだけの工夫はありそうなものと思ったから、 (やっぱり冷しているんだろうか、) (氷嚢を七箇でもう昼夜通していますんです。) (七箇!)  と私は驚いた。 (お頭へ一箇、一箇枕におさせ申して、胸へ二箇、鳩尾へ一箇、両足の下へ二箇です。)  こういいいい体温器を入れられた時は、私は思わず、人事ながら悚然とした、お庇で五分その時は熱が上ったですよ。」  丹平も呆気な顔して、 「酷うがすな。」 「酷いんですとも! でもまあ、氷嚢を七ツと聞いて、疾に対してほとんど八陣の備だ。いかに何でも、と思ったが不可ない。  日の暮方に、また、夕河岸の鰹、生鰹、鰯こ、鰯こい──伊太利じゃ晩餐の朗々朗が聞えて、庭のコスモス、垣根の黄薔薇、温室の朝顔も一際色が冴えようという時、廊下が暗くなると、 (あ、熱々々々、)と火がついたように、凡ての音楽を打消して、けたたましく言い出したじゃないか。  どうです、それがお夏さんだ。  余り何だから、私は廊下へ出て、二三間、そっちの方へ行って見ました。薄暗い扉に紙を貼って、昨日の日づけで、診療の都合により面会を謝絶いたし候──医局、とぴたりと貼ってある。いよいよ穏でない。  それまで見たが、名札を見ようという気もなし、扉はその字が読めるようにこっちへ半ば開けてあったんですが、向うには、附添と見えて、薄汚い、そういっちゃ悪いが、それこそ穴だらけの袷を素膚に着た、風体のよくない若い男が、影のように立っていました。  で、することは看護ですな。昇汞水の金盥と並べた、室外の壁の際の大きな器に、氷嚢から氷が溶けたのを、どくどくと開けていました。けれども、私は、その姿の、ぼッとしたのといい、背後だった形といい、折から、その令嬢というのを悩ます、病の魔のような気がして、こっちも病人だ、悚然としましたよ。  すぐにひょろひょろと室へ入って、扉を音もなくひとりでに閉めるとね、トタンに𤏋と点いて来たと思った電燈が、すぐに忘れものを思い出して引返したように消えたでしょう。 (熱いよ! 熱いよ!)と言うでしょう。まさに病魔だと思った奴がじゃ、竹永さん、──可哀相に愛吉ですな。」 二十九 「愛吉、愛吉、」  と二ツいって二ツ頷いた、丹平の打悄れた物腰挙動、いかにもいかにも約束事、と断念めたような様子であった。 「全く病の魔と見えましてがすかな、争われないもんだ。青柳町の女房は──前申したごとくで、これをお夏さんの生命を縮める鬼のように思った。覿面、その剃刀で殺ったですでな。たとい人違いにもしろでがす。」  繰返して重ねて、 「争われないもんだ、争われないもんだ。」  しばらくして金之助が、 「しかし竹永さん、奴あればこそ、お夏さんは、我が柳屋の姉さんで、単に医学士山の井光起君に対するだけでは、尋常、勝山の娘に留まる。  奴なきお夏さんは、撞木なき時の鐘。涙のない恋、戦争のない歴史、達引きのない江戸児、江戸児のない東京だ。ああ、しかし贅六でも可い、私は基督教を信じても可い。  私が愛吉の尻押しをして、権門に媚びて目録を貪らんがために、社会に階級を設くるために、弟子のお夏さんに、ねえ竹永さん。……  合弟子の、山河内という華族の娘の背を、団扇で煽がせた。婦人じゃ不可ない! その鬱憤を、なり替って晴そうという、愛吉の火に油を灌いで、大の字形に寝込ませた。  ちょうど同じ日に一足後れて、お夏さんを娶ろうという、山の井医学士の親類が、どんな品行だか、内聞、というので、お夏さんの歌の師匠の、根岸の鴨川の処へ出向いたのが間違の因です……  今までそこにふンぞり反って、暴れていた床屋の職人が、その人の使者だというお夏さんを、たとい親だって好くいおうか。  まして、繻子の襟も、前垂も、無体平生から気に入らない、およそ粋というものを、男は掏摸、女は不見転と心得てる、鯰坊主の青くげだ、ねえ竹永さん。  よくも、悪くも、背中に大蛇の刺青があって、白木屋で万引という題を出すと、同氏御裏方、御後室、いずれも鴨川家集の読人だから堪らない。ぞ、や、なり、かなかな、侍る、なんど、手爾波を合わされて助りますかい。……あとで竹永さん、貴下が探りましたね、第一、愛吉が知っていたんだね。……  お夏さんは人知れず、あの気象には珍らしい、豪家が退転をするというほどの火事の中でも、両親で子の大事がる雛だけ助けたほど我ままをさした娘に、いい遺した遺言とかで、不思議に手習をする、清書草紙に、人知れず、医学士(山の井光起)の名を書いて、惚れ抜いていたんだそうですな。  何と、その恋人を、しかも自分が、師匠のいいつけで煽がせられて、口惜しがって泣いた、華族の娘に取られようとは、どうです。  一人は医学士の意中を計った親類の周旋。一方はその母親から持込んだ華族の縁談。  山河内定子は、今現に、山の井医学士の令夫人だ。竹永さん。  私は蔭ながら、大なる責任者だ。  私が愛吉ならきっと行る、愛吉ならずとも、こりゃきっと行らねばならん処だ。定子を殺さねばならないわけだ。確だ。  が、幸か、不幸か、二三冊読んでいるから、まさかに剃刀を逆手に取って、可愛い娘のために、その恋の敵を、暗殺しようとは思わなかった。  しかし文字のあるものが、目に一丁字のない床屋の若いものに、智慧をつけて、嵩じたいたずらをしたのが害になったんだから、なお責任は重大です。しばらく行方の知れない内も、寝覚が悪くッてならなかった。お夏さんがそうと知ったら、私が先んじて行れば可かった。私は死んでも可い、そうすれば、まさかに人違いをするようなことはなかったろう。」  平生に似ず言もしどろで、はじめの気焔が、述懐となり、後悔となり、懺悔となり、慚愧となり、果は独言となる。  体温器がばたりと落ちた。  かけ忘れて寝着の懐にずっていたのが、身を揉んだので辷ったのである。我に返って、顔を見合わせ、二人一所に、ははは──歎息した。 三十 「串戯じゃないまったくです、私は基督教になっても可い。今のその根岸の歌人に降伏をして、歌の弟子になっても構わん。どうかして治してやりたいじゃありませんか。」 「いや、先生、貴下は凡て空にものをお考えなすってさえその通りだ。  それから見ると、私は一倍上だろうと思うでがすよ。何故とおっしゃい。あの娘が、これから、わざと殺されに行こうという日、その菓子の一件でしょう。悪気でしたのではなかったのですが、死のうという覚悟をした、それも二日三日と間のある事ではない、四五時間前というのに、もみじの中で、さしむかいに食べられた時を思いますと、我もう、ここが、」  と大きな懐中物で、四角に膨れた胸を撫でつつ、 「何ともいえないので、まるで熱鉄を嚥下す心持でがすよ。はあ、それじゃ昨日、晩方にも苦しみましたな。」 「ああ、そうです、」  金之助は話の糸の、乱れた苧環巻きかえし、 「その、氷嚢をあけていた、厭な人影が中へ入る、ひとりでに扉が閉る。途端に電燈が点くかと思うと、すぐに消えた。薄暗を、矢のように、上衣なしの短衣ずぼん、ちょうど休憩をしていたと見える宿直の医師がね、大方呼びに行ったものでしょう、看護婦が附添って、廊下を駆けつけて来たのに目礼をして、私は室へ戻ったですがね。停電暫時で行燈を点けるという、いや、酷い混雑。  その内に、 (おお、熱い事、)  とその声が、一度不思議に婀娜ッぽくきこえた。何となく正気でいったように思ったが、看護婦に聞くと注射をしたんだそうで、あとは昏睡ですと。  それも二時間とは続かない、すぐにまた、 (熱々々々!)  は情ないじゃありませんか。 (熱いよ、熱い、熱いよう、)  と夢中で泣く。それはまだしもだ、竹永さん。 (熱いなあ、熱いなあ、)  なあというに至って、私は天窓からこの掻巻を引被って、下へ、下へ、とずり下って、寝床に沈んだが、なお聞える。 (暑いなあ、暑いなあ、)  そこで、もぐっても、くぐっても両方の肩から水を浴びるように、ぞくぞくするから堪らなくなって、刎ね起きて、きょろきょろ見ると、その佃の帆柱が見える硝子窓の上の方が、真暗に三寸ばかり透してあったから、看護婦は、と見ると、扉を細目に開けて、白い身体をぴッたり附着けて、突当りのその病室の方を覗いてね、憂慮しそうにしているから、声をかけて閉めて貰って、 (悪いか、) (とても、) (気の毒だ。) (お可哀相でなりません。)  早くしておくれ、早くさ、早くさ、とその病人のじれる声は、附添が賺しても、重い頭を掉るんでしょう。  すたすたと廊下を駆ける音。 (幾人ついているの、) (三人です。) (親たち?) (いえ、こっちの看護婦と、向うから附いておいでなすった、それはそれは美しい、看護婦さんと、もう一人職人のような若い衆が、もうつきッきりで、この間ッから夜一夜一目も寐なさらないで、狂人のようですよ。)  私は愛吉とは思いも寄らない、が、先刻見た一件だ。 (何だね、それは、) (家来衆とも見えませんが、お嬢様、お嬢様といっています。多分乳母さんの児で、乳兄弟とでもいうようなんじゃありませんか。何しろ一方なりませんお主おもい、で、お嬢さんがね、あつい、あついとおっしゃる度に、額からたらたら膏汗を流すんですよ。 ⦅水天宮様の方角はどちらでがすえ、⦆と聞きましては、一室に大勢ですから、お嬢さんの寝台の下へ、はい込んじゃ手を合わせて拝みます。  まるで夢中ですもの、すぐに忘れてはまた、 ⦅モシ、茅場町はどっちでえ、⦆ッちゃ、寝台の下へもぐり込んで拝みます。 いじらしくッて、皆見ては泣くんですよ。)  といって、涙ぐんでいるだろうじゃありませんか。」  丹平はまた溜息をした。 「ああ。」 三十一  金之助も吐いきをついて、 「看護婦も話すうちに鼻をつまらせて、 (まるで気が違ったようですよ。つい昨夜、夜中はちっとばかり、すやすやしておいでだったそうですが、七箇もかけた氷嚢が、しばらくの内に溶けますから、始終、氷を割りますが、また夜がふけると、四辺へ響きまして、カンカンッて、凄いようだもんですから、うるさかったと見えて、お嬢さんが、 ⦅厭な音ねえ、⦆ッて現にそうおいいなさいますと、何と思ったのか、若い衆が、大きな氷の塊を取って、いきなり、自分の天窓へ打ッつけたんですって。一念か、こなごなに、それはもう、霜柱のように砕けましたッてね、額を斜ッかけに打切って、血がたらたら出たそうです。それを痛そうな顔もしないで、 ⦅モシ、水天宮の方角は、⦆ッて……)  私は皆まで聞かないで、引被ってしまったが、成程愛公だ。竹永さん、」 「馬鹿め。」 「いや、」 「野郎、しようのない瓦落多だが可哀相に、可愛い奴だ。先生、憎くはない。」  丹平ここでまた椅子を寄せ、 「先生、いかがです、呼ぼうじゃありませんか、ちょいとな。」 「どうして顔が見られるもんか。いじらしくッて、」 「しかし………」  遠山は頭を掉った。時にその眉秀でて鼻筋通り、口を一文字に結んだ、凜たる記者の風采は、直ちに老探訪をして伏従せしめ得たのであった。 「成程々々、成程。いや、こりゃ私、ちと了簡が若うがした。」 「今日はなお酷い、夜があけるともう、 (熱いなあ、熱いなあ、)  で、鰹──生鰹も、鰯こも、私の耳にゃ入らんのだ。もっとも、昨夜は耳について、私も寐られないから、初中うとうとしていたので、とても気の毒で聞くに堪えんから、早くここを引上げようと思っていた処へ、貴老が見えて、こう柳屋のと知れては、何とも口へ出していう言はない。  昨夜から今日の午へかけて、注射を三度したと聞いたです。  そのせいか、今は寂寞しているでしょうがね、さあ、そうと知れると、残酷なようで申訳はないが、血を吐く声も懐かしい、これッきり、声が聞えなくなってどうします。  竹永さん、貴下を今夜は帰さないよ。隣のホテルからお飯が取れるから、それでも食って、病院だから酒は不可んが、夜とともに二人で他所ながらお伽をする気だ。  そうして貴下が、仏像の前で、その言行録を誦する経文だといった、悉い話を聞きましょう。  病人に代ってその人の意気の壮なのを語るのは、少くとも病魔退散の祈祷にもなろうと思う。」 「至極でがす。いや私望む処、先生という楯がありゃ、二日でも三晩でも、お夏さんの前途を他所ながら見届けるまでは居坐って動きません。」 「私も退院の日延べをする。そこで、そこで竹永さん、関戸の邸の、もみじの下で、その最中を食べてからどうしたんです。」 「私もずッと乗が来て、もう一ツお食んなさい、と自分も撮みながら勧めました。 (沢山)とあるから、(それじゃお土産に、)と洒落にいって、捻ってお夏さんに差着けると、腕もちらりと透きそうに、片袖の振を、黙ってこっちへ向けました、受け入れようというんでね。 (もみじを御見物と見えますが、これから巣鴨へ抜けて、)先生、あの邸はね、私どもが居た池のふちから、通天門と額を打った煉瓦の石の門を潜って、やはり紅葉の中を裏へ出ると、卯之吉という植木屋の庭を、庚申塚の手前へ抜けられますわ。 (そこから、滝の川へでもお廻りか、)と尋ねると、(上野へ、)という。  私方々の紅葉の風説なんど、出鱈目に饒舌るのを、嬉しそうに聞いていなすったっけ、少し傾いて耳を澄まして、 (可いことね、)といった。 (はて、)私には何だか分らん。 (お囃子の笛が聞えますよ。)  ちっとも聞えん。 (はてな、)と少々照れたでがす。その癖心寂しいほど寂──」  花にはあらず七重八重、染めかさねても、もみじ衣の、膚に冷き、韓紅。 「──閑としているじゃがあせんか。」 三十二 「お夏さんが、 (聞えますよ。あら、オヒャラー、オヒャ、ヒューイ、ねえ、貴下、聞えましょう。)  と打傾いて、遠くへな、私を導いて教えるような、その、目は冴えたがうっとりした顔を熟と見ながら聞き澄ますと、この邸じゃありません。  もみじを隔てて、遥にこう、雲の中で吹き澄ますといった音色で、オヒャラー、オヒャ、ヒューイ、ヒヒャ、ユウリ、オヒャラアイ、ヒュウヤ、ヒュールイ、ヒョウルイヒ、と蒼空へ響いて、幽に耳に留りました。 (成程、お囃子ですな。)  と腕組をして、おつき合いに天窓を突出していると、 (どこでしょう、ほんとに好いこと。)  といって葛桶を──じゃない──その陶器の床几をすっと立ちました。 (ええ、御近所だから、慶喜様のお住居かも知れません。) (そう、)  といって、お夏さんが空を仰いで見ましたがね……」  虹を刻んで咲かせた色の、高き梢のもみじの葉の、裏なき錦の帳はあれど、蔽われ果てず夕舂日、光颯と射したれば、お夏は翳した袖几帳。 「ちょうど、ぱらぱらと散って来るのが、その夕日を除けた、袂へ留まったのですがね。余りに綺麗だ。これにゃ相当のワキ師があろう。  もっとも大抵禿げていますで、諸国一見の僧になりゃ、ワキヅレぐらいは勤まろうが、実は私、狂言方だ。  楽屋で囃子の音がすれば、もう引込んで可い時分。フト気が着いたのは、悪くすると、こりゃ出家でない。色ワキをここで待合そうなどという、寸法で来たのかも知れん、それだと邪魔になる。さらば急いで参ろう、と思いますとね。  妙なことをいいました。  その大木のもみじの下を、梢を見たなり、くるくると廻って、 (いいえ、お雛様が遊ぶんでしょう。ちょうどこの上あたりで聞えるんですもの、そうして、こんな細い、小さな音のするのは五人囃子が持っている、かわいい笛でなくッてさ。)  異わったことのおおせ哉。お夏さんは熟ッと見ている。帯も襟も、顔なんざその夕日にほんのりと色がさして、矢筈の紺も、紫のように見えましたがね。  暮れかかって来ました。夜昼を分けるように、下の土は冷たく濡れて、黒くなって、裾が薄暗く見えたんで、いや、串戯はよして余り艶麗過ぎる。これなり天人になって、雲の上へ舞い昇られてはなるまい、と、のこのこと近く寄って、 (もう暮れ方になりましたな。)  とさそいをかけると、はっと気がついたように、 (ああ、暗くなって来た、こんな処に遊んでいるのは焼け出されたお雛様でしょうねえ。  こんなに真赤で、これが炎になったらどうでしょう。そうしたら死んでしまいましょうねえ、気味が悪いようになりました。)  と、いうことが少し変だ。  気つけをと思ったし、聞きたくはあったしで、 (度々御災難でありましたな。唯今は、どちらに、) (ついこの青柳町のね、菊畑のある横町ですよ。ちとお寄んなさいましな。母は亡くなりましたが、おばさんが居ますから、)  成程おばさんが居ますからな筈でがした。……自分は居なくなる積りだから。 (それでは、) (さようなら、)  と挨拶をして、もう一度梢を視めなりに、ずッと向うへ、紅葉の下を、うしろ姿になりましてな。それっきり見返りもしなかったが、オヒャ、ヒュウイ、ヒヒャ、ユウリというのが、いつまでも私、耳の底に残るんで。独で見送っていると、大浪の裾がどこまでも畝った形の、低くなった方へ遠ざかって行くのが、何となく暮方で、影が薄い。  ト緋色の雲の、隧道の入口、突当りに通天門とある。あすこのもみじは、実際、そこからが自慢なんですが、足も停めず、視めもせず、アーチ形に中の透く、燃え立つ炎のような中へ、消え失せた体に入ってしまった。  気になる。  私、すぐあとから駆出して、」 三十三 「件の通天門を入ると、赫と明く、不残真紅。両方から路をせばめて頬がほてるようだが、それは構わん。  お夏さんは、と見るとこの一条路、大分長いのにもう見えず。きょろきょろ四辺を眗したが、まさか消え失せたのじゃあるまい、と直ぐに突切ってぐるりと廻ると、裏木戸に早や山茶花が咲いていて、そこを境に巣鴨の卯之吉が庭になりまさ。  もみじはここも名物だが、ちと遅い。紅は万両、南天の実。鉢物、盆石、水盤などが、霞形に壇に並んだ、広い庭。縁には毛氈を敷いて煙草盆などが出してあり、世界が違ったように、ここは外套やら、洋服やら、束髪やら、腰に瓢箪を提げた、絹のぱっち革足袋の老人も居て、大分の人出。その中にもお夏さんが見えますまい。  はてな、巣鴨の通へ出てしまったか、余り不思議だと思う。生垣の外は、馬士やら、牛士、牛車、からくたと歩行いて、それらしいのもありません。  夢かと思うと、そうじゃない。やっと気が着いた、分らないのも道理こそ。  向うに見える、庭口から巣鴨の通へ出ようとする枝折門に、曳きつけた腕車の傍に、栗梅のお召縮緬の吾妻コオトを着て……いや、着ながらでさ、……立っていたのがお夏さんでね。車は今雇ったのじゃありません、裏道から大廻りに、もみじ邸を卯之吉の木戸まで廻らせて、ここへ待たしてあったんで。コオトなぞも預けてあったものと思われます。で、直ぐに上野へ殺されに行こうとする処だったのです。一体どこで降りましたか、」  これは探訪も知り得なかったのであった。お夏はその日、人知れず、今わのなごりを、浅瀬の石に留めたので。俤橋の俤の、月夜の状に描かれたのは、その俤を写したのである。  見よ。(この第一回を。)されば、お夏の姿が、邸のもみじに入ると斉く、だぶだぶ肥った、赤ら顔の女房が、橋際の件の茶店の端へ納戸から出て来た。砂利を積んだ車がまたぐらぐらと橋を揺ったので、砂塵濛々、水も空も、日が暮れて月が冴えねば、お夏が彳んだ時のように澄みはしない。  ちと疾いが晩餐。かねてあつらえてあったから、この時看護婦が持って来たので、日はまだ鉄砲洲の帆柱の上に高い。  お夏の病室も、危く物静である。         ────────────────────  愛吉の咽喉を鳴らしたその夜の酒は、日が暮れてからであった。  女房は暮合いに帰って来て、間もなく、へい、お待遠、と台所へ持込んだけれども、お夏の心づけで、湯銭を持たせて、手拭を持たせて、錫の箱入の薫の高いしゃぼんも持たせて、紫のゴロの垢すりも持たせる処だった。が、奴は陰でなく面と向って、舌を出したから、それには及ばず。  ああまだそれから羽織るものを、もとより男ものは一ツもない。お夏は衣紋かけにかけてあった、不断着の翁格子のを、と笑いながらいったが、それは串戯。襟をあたって寒くなった、と鏡台をわきへずらしながら自分で着た。けれども…………愛吉は、女房の藍微塵のを肩に掛けて、暗くなった戸外へ出たが、火の玉は、水船で消えもせず。湯の中で唄も謡わず。流で喧嘩もせず。ゆっくり洗って、置手拭、日和下駄をからからと帰り途、式部小路を入ろうとして、夜目にもしるき池の坊の師匠が背戸の山茶花を見て、しばらくしたのは、恐らく生れてはじめてであったろう。  その石壇の処まで来て、詩人が月宮殿かと想うように、お嬢さんの家を見た時、小ぢんまりとした二階の障子に明がさした。  思わず頸をすくめたが、密と格子から沓脱の下駄を覗いて、すぐに遠慮して廂合に潜り込んで、ちょろりと台所へ面を出すと、開けてはあったが、働いても居ず、女房は長火鉢の傍に、新しい能代の膳立をして、ちゃんと待っていた、さしみに、茶碗、煮肴に、酢のもの、──愛吉は、ぐぐぐと咽喉を鳴らしたが、はてな、この辺で。………… ──────────────────── 三十四  食事が済む、と探訪員は、渠自から経典と称する阿夏品を誦しはじめた。これよりさき金之助は、事故あって、訪問の客に面会を謝する意を、附添の看護婦に含ませたことはいうまでもない。 「話の続は、今その吾妻コオトを着た処でしたな。それから、同一く、それもやはり、とって置いたものらしい。藍鼠の派手な縮緬の頭巾を取って、被らないで、襟へ巻くと、すっと車へ乗る。庭に居たものは皆一斉にそっちの方。  母衣をきりきりと巻き下ろして、楫棒を上げる内に、お夏さんは乗りながら、袂から白いものを出した。ヤ、最中を棄てるのかと思うと、そうじゃなかったんで、手巾でげす。  でね、妙なことをしたというのは、もう一ツ小さな壜を取出して、その手巾の中へ、俯向けにしました。車が二三間駆け出す内に、はらはらと、肩から胸へ振りかけたと思うと、その壜を、母衣のすかしから、白い指で、往来へ棄てたんでがす。  後で知れました。白書薇の香水なんで。山の井医学士夫人、子爵山河内定子は、いつでもこの香水の薫がする。  と、お夏さんが愛吉に教えておいたものだッて、いうじゃありませんか。  何と驚いたものでがしょう。その袖の香を心当てに、谷中のくらがり坂の宵暗で、愛吉は定子(山の井夫人)を殺そう。お夏さんは定子になって殺されようという、──まだもっとも、他に暗号も極めてあったんではありますがな、髪を洗って寝首を掻かせた、大時代な活劇でさ。あの棄鉢な気紛れものと、この姉さんでなくッちゃ、当節では出来ない仕事。また出来されちゃ大変でがすのに、とうとう見事仕出来した。何という向不見な寄合でしょうな。  先生。話は前後になりますが、ちょうどこの場合だから申しますがね。私、前にも申す通り、何んだか気になる。お夏さんの跡から上野へ行って、暗がり坂で、きゃッ! 天地顛倒。途轍もない処へ行合わせて。──お夏さんに引込まれて、その時の暗号になった、──山の井医院の梅岡という、これがまた神田ッ児で素敵に気の早い、活溌な、年少な薬剤師と、二人で。愛吉に一剃刀、見事に胸をやられたお夏さんを、まあとかくしてです。私懇意な、あすこ、上野の三宜亭。もっともこりゃ谷中へ行く前に、お夏さんが呼び出しをかけたその梅岡薬剤兄哥と二人で、休んだ縁もあったんでがすから、その奥座敷へ内証で抱え込んだ折でした。  愛吉に、訳を尋ねると、奴人間の色はねえ。据眼になって饒舌った、かねての相談、お夏さんの謀というのをお聞きなさい。 (じゃね、愛吉、お前、何でもかでも私のために、医学士の奥様を殺して、願いを叶えてくれるんなら、水天宮様の縁日に、頭の乾児と喧嘩をするようにして暴れ込んで行ったって殺されるものじゃない。私がね、旨く都合をして、定子さんを可い処へ引出すわ。  それにゃ、本宅の薬剤師に、梅岡さんといって、大層私を可愛がってくれる人があって、いつでも先生を呼出すには、その方に手紙を出したり、電話をかけたりして頼むんだよ。やっぱりお前とおんなじように、大の姫様嫌い。おもて向き私を御新造にしてやりたい。でも定子さんがあっちゃ何だから、ちょいと一服モルヒネでも装りましょうか、手のもんでわけなしだって、洒落にもいっている人だから、すぐに味方して、血判をしてくれます。)  いや、遠山さん。」  と丹平苦り切った顔色で、 「愛吉が、手負の傍で、口を尖がらかして呼吸を切りながらせいせいいって饒舌った時には、居合わせた梅岡薬剤。神田の兄いだが、目を円くして驚いた。  その筈でがす。隣家の隠居の溜飲にクミチンキを飲ますんだって、メートルグラスでためした上で、ぴたり水薬の瓶に封。薬剤師その責に任ず、と遣る人を、人殺の相談に、わけなし血判。自分の医院の奥様に、ちょいとモルヒネをなんて、から、無法極まる。  ねえ、先生。」 三十五 「これをまた真面目にうけさせる気で、口へ出した、柳屋のも柳屋の。聞いてほんとうにした奴も奴だ。で、お聞きなさい。 (その梅岡さんに頼んで、いつの幾日──今日だ。)と愛の野郎がいいました。すなわち一昨々日。  そこで、またお夏さんの言を愛吉がいうんですが、 (奥さんを上野まで連れ出させよう。お前、前へ廻って支度して、待伏せをしておいで。いい処があるかい。)  というから、愛吉が、(占たな! 占たな!) (それだってお前、時の都合と、所はえ?)  トこりゃお夏さんが心あっていったんですな。考えていると、愛吉は何、剃刀で殺すぐらいは、自分が下駄の前鼻緒を切るほどにも思わない。都合をして、定子阿魔の顔さえ見せておくんなさりゃ、日本橋でも、万世橋でも、電車の中でも、劇場でも、どこでもかまわないッていったそうでさ。するとお夏さんの方は覚悟があるから、 (谷中なら、墓原の森の中を根岸で下りる、くらがり坂が可い。踏切の上の。あすこいらで、笹ッ葉の下へでも隠れておいで。)  こりゃ、それ、今もおっしゃった歌の先生、加茂川の馬車新道へ、炎天にも上野まで、鉄道馬車。後を歩行いて通ったから、不幸にして地の理が明い。 (私は梅岡さんに頼んで、こうしよう。奥様は歌が好で、今でもちょいちょい、加茂川ン許へお通いだから、梅岡さんに、──私も歌が習いたい、紅葉の盛り、上野をおひろいのおともをしながら、お師匠さんへ、奥様から、御紹介せ下さいまし。とこういって貰いましょう。  好な道だから、二ツ返事で。その日に限って、おひろいかなんか。梅岡さんが、その上野をおともという間に、いい加減に日を暮らして、夜になって、くらやみ坂へ連れ行かせるから、そうしたら、白薔薇の薫をあてに。)  その相談の出来たのは、お夏さんが三年ぶりで愛吉に逢った夜で。余所ゆきを着ていた上衣だけ脱いで、そのまま寝床へ入った、緋の紋綸子の長襦袢のまま、手を伸ばして、……こりゃ先生だと、雪の腕、という処だ。  手近な床の上の、鏡台の抽斗から、その壜を出して、まだ封も切ってなかったそうで。これはね、ちょうどその日行合わせた山の井さんの土産でしたと。  くちが堅く入っていたのを、ト取ろうとすると、占っていたので、高島田にさした平打を抜いて、蓮葉に、はらんばいになったが、絹蒲団にもつかえたか、動きが悪いから、するりと起き上って、こう膝を立てていましたッてね。  抜けるほど色の白い処へ、その姿だから、媚かしさは媚かし、美しさは美ししで、まるで画に描いたように見えましたって。  こりゃ何んです、小石川青柳町、お夏さんで名がついた、式部小路の内に居る、お賤ッて女房がちょうどその時、行燈を持って二階へ上って、見たんでがすと。  ね、洋燈と取替に行ったんですと。先生、話はいろいろになりますが、お賤というのは洲崎で引手茶屋をしていたんで、行燈組でね、ことにお嬢さんには火が祟る、とかいっていたんだから、あの陽気家を説き伏せて、残燈は行燈と取極めたんでさ……洋燈はかんかん明かった。  すぐに消そうとすると、 (お待ち、見えなくなるわ。)ッてくちを抜いた。芬と薫ったでしょう。 (まあ、佳い匂でございますこと。) (光ちゃんが好なの。)  光起さんの事でさ。── (私にこの匂をさして、抱こうと思ったって、そうはいかない。)  ちとやんちゃん。もっともね、少し飲んでいたんだそうで。 (ねえ、愛吉。)  と声をかけた。奴は、ぎごちなさそうに小さくなって、半分もぐりながら、目ばかり、ぱちぱち。」 「じゃ、愛吉は、」と遠山が口を入れた。 「勿論、枕を並べて。」  遠山金之助、 「え。」  竹永丹平は、さもこそという片頬笑み、泰然自若として、 「ま、ま、お聞きなさい。ここだ、これが眼目、此経難持、若暫時、この経は保ち難し。  もししばらくも保たんものは、ただお夏一人という処でがすから。」 三十六 「そこで女房は、 (なるほど、貴女には似合いません、でございますよ。)  愛吉傍在。で、その際、ちと諷する処あるがごとくにいって、洋燈を持って階下へ下りた。あとはどうしたか知らないそうでさ。  勿論普通の人間じゃ寐られるどころではなかったが、廓出の女房。生れてからざっと五十年。一年三百六十五日、のべつ、そんな処には出会していたんだから、さしたる大事とは思わなかったし、何が何でも人殺の相談をしようなどとは、夢にも、この私にしたって思いませんや。  その後で、愛吉の鼻のさきへ、顔と一緒に、白薔薇の壜を押つけか、何かで、 (可いかい。この匂いだよ。もう一つはね、くらがり坂へ行ったら、奥さん! とその梅岡さんが四辺を見計らって声をかけて下さるように、相談をして置くから、可いかい! この薫と、その奥さん! を暗号にして、……とくれぐれもおっしゃったんで。)  と愛吉が云うんです、先生。  三宜亭で、夢中ながら目を光らせて、鼻をフンフンとやって、 (私あ、固唾を飲んでた処だ。符帳が合ったから飛出した、)と拳固で自分の頬げたを撲りながらいうんでしょう。  いや、傍聞きをした山の井光起、こりゃもう、すぐに電話でお呼び申した。その驚いたより、十層倍、百層倍、仰天をしたのは梅岡薬剤で、 (国手の前じゃ申しかねるが、僕はまた、三宜亭まで是非とお夏さんに呼出されて、実は相済まんが、友達に頼んでちょいと抜け出して来ると、いつも世話になると礼をいって、お小遣が沢山あるから御馳走をするかわり、済みませんが、姫様におっしゃるように、奥さん、といいながら歩行いて下さい。貴下を、旦那さま、とでも、こちの人とでもいうわ。と大呑気だから、愉快い、と引受けたんで。あれから東照宮の中を抜けて、ぶらぶらしながら谷中の途中、ここが御註文と思うから、多勢人の居る処じゃ、奥さん──山の井の奥さん。時々、夫人──などというと、顔を赤くなすったッけ。  岡野へ寄ろうと、くらがり坂へかかった時は、別にそこで、という誂えがあったわけではない。  いっそ、特にあの坂で、とでもいうことなら、いかにお夏さんが神色自若としていたから、といって、こちらが呑気だからといって、墓といい、森といい、暗さといい、たといそこまでは上の空でも、坂の下り口じゃちょいとでも気がさして、他の路を行きましょうぐらいはいえるだろうのに。  何事もなかった。  坂を下りかかると、今から思や、礼の心であんなすったか、並んで歩行いていた僕の手を、ちょいと握って、そのまますたすたと、……さよう、六足ばかり線路の方へ駈け出しておいでなさる、と思うと、よろよろとなすったようだから、危い! と声をかけようと思って、ここでつい我知らず、奥さん! といった。  すると愛吉が飛出しました。  これでお助んなすればよし、さもないと僕が手伝をして殺したも同然だ。)  と薬剤師、その責に任じて、涙ぐんでいったんでがすがね。  先生、命数、」  といった。同時に、 「命数、」  目と目を見合わせ、 「か。」 「も知れません。」 「竹永さん、貴老はまたどうしてそこへ行き合わせました?」 「そりゃこうでがす。  ええ、お待ちなさいよ。」  と丹平前に屈んで、握拳を掌で揉み、 「そうだ、ただいまのその巣鴨の植木屋、卯之吉の庭で、お夏さんの車の、矢のように飛んだを見て、別にあとをつけようという考はなかったんでがすがね。懐しくッてなりますまい。  青柳町だといった待て待て、どんな処に住ってるか行って見ようと、逆戻りにもみじへ入ると、や、ぞろぞろと人が居る、通天門を潜って出ると、ばらばらと見物でさ。妙なことがあるもんで、ここで何も俗にいう死神が取着いたというわけではないから、私のような筵破りは除外例、その死神がお夏さんを誘うためにしばらく人を払ったというのじゃがあせん。私の口でいっちゃ似合いませんが、死を決すれば如神で、名僧のごとく、知識のごとく、哲人のごとし。女とてかわりはない、おのずから浮世の塵を払って、この仙境にしばらくなごりを惜んだのでありましょう。  その時はそうとも思わず、ははあ、こりゃやはり自分たちと同様風説ばかりで、一体、実際縦覧をさせるか、させぬか、そこどころちとあやふやな華族の庭。こりゃ、遠慮をして見合せていた処へ、二人。お夏さんはともかく、私というのまでその中から顕われたのを見て、卯之吉の庭に居た連中、気を揃えて推参に及んだな。  どうだ善知識だろうと、天窓はこれなり、大手を振って通り抜けた──愚にもつかぬ。  あれから、今の真宗大学を右に見て、青柳町へ伸して、はて、どこらだろうと思う、横町の角に、生垣の中が菊の盛。そこに立ってただ一人視めていた婆さんがあった、その顔を見ると、塞ったようになった細い目で、おや! といった。」 三十七 「(まあ、おめずらしい、)と莞爾したろうではありませんか。方なしの皺になりましたが、若い時は、その薄紅に腫ぼッたい瞼が恐ろしく婀娜だった、お富といって、深川に芸者をして、新内がよく出来て、相応に売った婦人でしたが、ごくじみな質で、八幡様寄の米屋に、米搗をしていた、渾名をニタリの鮟鱇、鮟鱇に似たりで分かる。でぶでぶとふとった男。ニタリニタリ笑っているのに、どこへ目をつけたか、その婀娜な、腫ぼったいのをなくなすほど惚れましてな、勤めをよすと、夫婦になって、資本を注ぎ込んで米屋を出すと、鮟鱇にわかに旦那とかわって、せっせと弁天町へ通う。そこで見張り旁々というので、引手茶屋の売据を買って、山下という看板をかけていましたが、ニタリ殿はますます狂う。抱えの芸妓は、甘いと見るから、授けちゃ証文を捲かせましょう。せめてもの便にした養女には遁げられる、年紀は取る、不景気にはなる、看板は暗くなる、酒は酸くなる、座蒲団は冷たくなる、火は消える、声は出なくなる、唄は忘れる、猫は煩らう、鼠は騒ぐ、襖は破れる、寒くはなる、大戸を閉める、どこへどうしたろうと思う……お婆さん。  串戯ではない、何時だと思う。仲ノ町じゃチャンランチャンラン今時は知らないが、店すががきで、あかりがちらちら廻る頃を、余所の垣越に立って、菊を見ているような了簡だから、引手茶屋退転だ。しかし達者で可い、どうした、と聞くと、まあ、お寄んなさいまし、直そこが内だ、という二階家でさ。門札に山下賤、婆さんの本名でしょう。  豪いな、というと、いや、御奉公をいたしております、御主人というのは?  旦那だから申しますが、……ちとこりゃ新聞のたねとりにゃ可笑ないいぐさだが。  ほんとうに世の中ッてものはわかりませんもので、あの、木場の勝山さんね、分散をなすった。そのお嬢さんのお世話を、と半分聞かず、私、火鉢の前に腰を据えた。」  さて、女の主人は知れた。男の御主人は、と聞くと、これはなおの事。  ごくごく内証ですが、日本橋のお医師で、山の井光起さんとおっしゃる方、という。いよいよとなりましたろう。  いや、江戸児の医学士め、すてきなものを囲ったぞ。  フムお妾だ。これがお前だとちょうど名も可い。イヤサお富と、手拭を取る、この天窓で茶番になるだろう。というと、いえ、私にも分りません、不思議なことには、久いあいだ、ついぞまだ一所におよった事もなし。 (夏ちゃん、)  と洒落におっしゃったり、お真面目な時も、 (勝山さん、勝山さん、)と丁寧にお呼びなさる。  その癖、この通り、それはそれは勿体ないほど、ざくざくお宝をお運びで、嬢さんがまたばらばら撒く。土地が辺鄙で食物こそだが、おめしものや何か、縮緬がお不断着で、秋のはじめに新しいコオトが出来ました。  しかしそれも旦那さままかせ。また珍らしい事には、櫛一枚、半襟一かけ、お嬢さんが、自分の口から、欲しいとおっしゃった事がないので。  旦那様は男の事、お気がつくようでもぬかりがあって、ちぐはぐでおかしいくらい。ついこの間も嬢さんが、深川の浄心寺、御菩提所へ、お墓まいりにおいでなさるのに、当世のがないもんですから、私の繻子張のをお持たせ申して、化けそうだといって、床屋の職人にお笑われなすった。──これから先生、婆さんが、その三日前に来て泊ったという、愛吉の野郎のことを話したんでがすよ。  もっとも私もまた、床屋の職人というのが、直ぐに気になったから、床屋の職人? 知己か、といって尋ねたんで。」 「お待ちなさい。」  と金之助は、寝台の上から乗出しながら、 「気に入った! ああ、そこにその人はまさに死なんとしているが、気に入った、といわねばならんですよ。  じゃ何だ、医学士はざくざく注ぎ込む、お夏さんはばらばら遣う、しかも何一つ自分から欲いといったことはないのか。そうして一たびも枕をかわさぬ、豪いな! その清浄な膚をもって、緋の紋綸子の、長襦袢で、高髷という、その艶麗な姿をもって、行燈にかえに来た雇の女に目まじろがない、その任侠な気をもって、すべてを愛吉に与えてその晩……」 「…………」丹平黙然として少時不言。この間のしょうそく、そもさんか、偈無可為証。 三十八  ややあって丹平他をいう。 「その癖、光起さんを恋しがって、懐しがって、一日と顔を見ないと、苦労にする、三日四日となると鬱ぎ出す、七日も逢わなかろうものなら、涙ぐむという始末。  じゃ顔を合わせればどうかというと、すねるような、くねるような、その素ッ気のなさ加減、傍で見る婆さんの目にも気の毒なくらい。  きちんとして、 (先生、) (勝山さん、)  という工合が、何の事はない。大町人の娘が、恋煩いをして、主治医が診察に見えたという有様。  先生がうまい事をいいましたって。 (勝山さん、どうかその医学上の講釈を聞くのと、手習を教えてくれだけはあやまる。私は藪の上に悪筆だ、)というたのだそうです。  またきっと、心臓というものはどこにあるの、なぜ御飯が肺の方へ行かないで済むの、誰の目も綺麗なのは、水晶と同じ事か、なぞとね、番ごと聞く。第一顔を見ると直ぐに清書を持出して、お目にかける。 (いや、まずいこと、私の医者のようだ、)と串戯にいうのを真にうけては、せっせと双紙に手習をするんだそうで。  そうかと思うと、時にゃがらりと巫山戯出して、肩へつかまる、羽織の紐を引断る、膝を打つ、擽る。車夫でも待っていないと、帰りがけに門口からドンと突飛ばす、もっともそんな日は、医学士の姿を見ると、いきなり飛出して框から手を引いて、すぐそのまんまで二階へ上ろうとするから、狭い階子段、で行詰ってどちらへも片附かずに、揉む。  しなだれるんじゃない、媚びるんじゃない、甘えるの。派手なんじゃない、騒々しいので、恋も情もまだ知らない、素の小児かと思うと、帰ったあとを、二階から見送って、そのまま消えそうに立っている。  そこで附添いが引手茶屋の婆さんだから、ちとその、そこン処をな。  何して、いい工合に、と独りで気を揉んだそうですが、さて口へ出そうとすると、何となく、気高い、神々しい処があって、戦場往来の古兵が、却って、武者ぶるいで一言も出んのだそうで。  まあまあ、不思議な縁というのであろう。とても人間業で行くのじゃない。その内に、出雲でも見るに見かねて、ということになるだろう、と断念めながらも、医学士に向って、すねてツンとする時と、烈しく巫山戯て騒ぐ時には番ごと驚かされながら、ツンとしても美人の娼妓のようでなく、騒いでも、売れる芸者のようでなく、品が崩れず、愛が失せないのには舌を巻いていた処、いやまた愛吉が来た晩は、つくづく目覚しいものだったと言います。……」  それはこうである。愛吉は、長火鉢の前でただ旨そうに飲んでいたが、心もって嬉しそうな顔に見えなかつたのを、酌をしながらお賤も不思議に思った。蓋し生れつき面が狼に似たばかりでない。腹に暗き鬼を生ずとしてある疑心の蟠があったのも、お夏を一目見たばかりで、霧の散ったように、我ながらに掴え処もなくて済んだその時、今そこに婆さんの顔ばかりとなったのみならず、二杯三杯と重るにつれて、遠慮も次第になくなる処へ、狂水のまわるのが、血の燃ゆるがごとき壮佼、まして渾名を火の玉のほてりに蒸されて、むらむらと固る雲、額のあたりが暗くなった。 「ウイ、」  と押つけるように猪口を措いて、 「嬉しくねえ、嬉しくねえ、へん、馬鹿にしねえや。何でえ、」  と、下唇を反らすのを、女房はこの芸なしの口不調法、お世辞の気で、どっかで喧嘩した時の仮声をつかうのかと思っていると、 「何てやんでえ、ヘッ笑かしやがら、ヘッ馬鹿にすら、ヘッヘッ馬鹿にしやがら、ヘッ土百姓、ヘッ猿唐人め、」  太夫しゃくりが出るから、湯のかわりに、お賤が、 「あいよ、お酌、」 「ヘッ、ありがとうざい、」と皆一所。吃逆と、返事と御礼と、それから東西と。 三十九 「おかみさん、難有え、お前さんの思召しも嬉しけりゃ、肴も嬉しけりゃ、酒も旨え、旨えけれど可笑くねえや、何てってこうおかみさん、おかみさん、」 「おや、私のことかい。」 「お聞きねえ、伺いやすがね、こう見渡した処、ざっとこりゃ一両がもんだね、愛吉一年の取り高だ。先刻お湯銭が二銭五厘、安い利だが持ちませんぜ。誰が、誰がこの勘定をしやがるんでえ。ヘッ、人をつけ、嬉しくねえ。」  女房は笑って逆わず、 「景気がついて来ましたね、ちっとは可い心持になりましたかい。」 「好いにも、悪いにも何だか気になってならねえんでさ、変てこにこう胸へつッかけて来るんでね、その勘定の一件だ。」 「まあ、何をいうんですね、お嬢さんが御馳走なさるんじゃありませんか、おかしな人だよ。」といった、これはよめなかったに相違はない。  愛の口ますます尖って、 「分ってら、分ってらい、いや分ってます。御馳走は分ってら。御馳走でなくッて、この霜枯に活のいいきはだと、濁りのねえ酒が、私の口へ入りようがねえや、ねえ、おかみさん。」 「ですから、沢山めしあがれよ。」 「なお心配だ。何が心配だって、こんな気になることはねえ。何がじゃねえやね、お前さん、その勘定の理合因縁だ。ええ、知っていら、お嬢さんの御馳走だが、勘定は誰がするんで。勘定は、ヘッ、」  としゃくりをきっかけに声を密め、拇指を出して見せ、 「レコだ、野郎がしやがるんだ。へん、異う旦那ぶりやがって笑かしやがらい。こう聞いとくんねえ、私アね、お嬢さんの下さるんなら、溝泥だって、舌鼓だ、這い廻って甞めるでさ。  土百姓の酒じゃ嬉しくねえ。ヘッ、じゃ飲むなといったってそうはいかねえ。第一私あ飲む気はねえが、腹の虫が承知しねえや。腹の虫は承知をしても、やっぱり私あ飲みてえや。からだらしがねえ、またたびだね、鼠のてんぷら、このしろの揚物だ。まったくでえ、死ぬ気で飲んでら、馬鹿にしねえぜ。何をいっていやがるんでえ。おかみさん、何をいってるんだか、分りますめえ。御道理で、私あ自分にも分らねえんだからね、何ですぜえ、無体、癪に障るから飲みますぜえ、頂かあ、頂くとも。酌いどくんねえ、酌いどくんねえ、」 「可いから、まあおあがんなさい。」 「む、ああ、旨え、馬鹿にしやがら、堪らねえ旨えや。旨えが嬉しくねえ、七目れんげめ、おかみさん、お憚りながらそういっておくんねえ、折角ですが嬉しくねえッて。いや、滅相、途轍もねえ、嬢的にそんなこといわれて堪るもんか、ヘッ、」  と頸を窘めたが、 「内証だ、嬢的にゃ極内だがね。旦の野郎にそういっておくんねえ、私あ厭だ、大嫌だ、そんな奴にゃ口を利くのも厭だから、おひかえ下さいやし、手前ことはなんて頼んだって挨拶なんぞするもんか。  こう小馬鹿にするぜえ、ヘッ、癪だ、こいつをおさえるにゃ呷切だ、」とぐッと飲む奴。 「…………」 「こうおかみ、憚りながらそういっておくんなせえ、済まねえがね、私あ気に食わねえから勘定をして貰ったって、お礼なんざいわねえって、」  お賤は気が練れた苦労人、厭な顔はちっともしないで、愛想よく、 「ああ、可いともね、また礼なんぞいわせるようなお方じゃありません。」 「トおっしゃる! へへへへ、おかみさん、厭に肩を持ちますね、いくらか貰ったね。」 「貰いましたともさ、貰ったどころじゃない、お嬢さんだって、私だって、九死一生な処を助けて下すった方ですもの、」 「九死一生、」  お嬢さんと聞いたばかりでもう眼を据え、 「煩ったかね。もっとも肝の虫が強いからね、あれが病だ。」 「しかもお前さん、大道だったろうじゃありませんか。」 「大道で、何が大道で、ここあお嬢さんの内じゃねえかね。」 「いいえさ、こちらへおいでなさらない前にさ、屑屋をしていらっした時の事ですよ。」 「屑屋? 誰が、こう情ねえ、人間さがりたくねえもんだ。こんななりはしてるがね、私あこれでも床屋ですぜ、屑屋は酷い、」といった。 四十 「誰がお前さんを屑屋だといいましたよ。御覧なさいな、そういわれてさえ腹を立つ、その、お前さん、屑屋をしておいでなすったんじゃないか、それだもの、」  変な面で、 「誰が、」 「お嬢さんのことをいってるんだよ、」 「はあ、問屋か。そう屑問屋か。道理こそ見倒しやがって。日本一のお嬢さんを妾なんぞにしやあがって、冥利を知れやい。べらぼうめ、菱餅や豆煎にゃかかっても、上段のお雛様は、気の利いた鼠なら遠慮をして甞めねえぜ、盗賊ア、盗賊ア、盗賊ア、」  と大音を揚げて、 「叱! どこの野良猫だ、ニャーフウー」  一杯に頬を膨らし、呻って啼真似をすると、ごく低声、膳の上へ頤を出して、 「へい、ですかい屑屋ですかい。お待ちなせえ、待ちねえよ、こう旨えことを考えた。一番、こう、褌ゃ切立だから、恥は掻かねえ、素裸になって、二階へ上って、こいつを脱いで、」  と胸をはだけた、仕方をする気が、だらしはない、ずるッか脱げた両肌脱で、 「旦那、五両にどうだ、とポンと投げ出しはどんなもんで。ヘッヘッ、おかみさん。」 「いくらお嬢さんだってその方にゃ苦労人でいらっしゃるから、お前さん、その袷は五両にゃおつけなさりやしまいよ。」 「へい、じゃ嬢的も旦かぶれで、いくらか贓物の価が分るんで?」  さては、と女房心づいて、 「まあ、お前さん、おかしなことをおいいだと思っていたが、じゃ何にも御存じじゃないんだね、私の留守のうちにお話しじゃなかったのかい、」 「何をね、」 「それだもの、ちぐはぐになる筈だ。屑屋をなすっていらっしゃったのはお嬢さんだよ、お嬢さんなんだよ、お前さん。」 「お夏さん、」 「あい、そうさ。」 「や! 串戯じゃねえ、まったくですかい。」 「ほんとにも何にも、」 「あの、屑屋いって。踊にゃないね、問屋でも芝居でもなけりゃ、それじゃ、外にゃねえ、屑い、屑いッて、籠を担いだ、あれなんで?」 「ああ、そうともお前、私がお目にかかった時なんざ、そりゃおいとしかったよ。霜月だというのに、汚れた中形の浴衣を下へ召して、襦袢にも蹴出しにもそればかり。縞も分らないような袷のね、肩にも腰にもさらさの布でしき当のある裾を、お端折でさ、足袋は穿いておいでなすったが、汚いことッたら、草履さ、今思い出しても何ですよ、おいとしいッたらないんですよ。」 「おかみさん、逢ったのか、」 「そうですよ、」 「串戯じゃねえ、どこでだね。」 「氷川の坂ン処ですよ、」 「いつ?」 「一昨年の霜月だってば。」 「串戯じゃねえ、ちょいと知らしてくれりゃ可いんだ、」  と膳の下へ突込むように摺り寄った。膝をばたばたとやって、歯を噛んで戦いたが、寒いのではない、脱いだ膚には気も着かず。太息を吐いて、 「ああ、それだ。芥溜ッていったなあそれだ、串戯じゃねえ、」 「それにお前、寒い月夜のことだった。道芝の露の中で、ひどくさし込んで来たじゃないか。お頭を草原に摺りつけて、薄の根を両手に縋って、のッつ、そッつ、たってのお苦み。もう見る間にお顔の色が変ってね、鼻筋の通ったのばかり見えたんですよ。」 「ま、ま、待っとくんなせえ、待っとくんなせえ、」  愛吉聞くうちにきょろきょろして、得もいわれぬ面色しながら、やがて二階を瞻めた。 「待ちねえ。おかみさん、活きてるね、大丈夫、二階に居るね。」 「お前さん、おいでなさいよ。先刻からお上りなさいッて、おっしゃってじゃありませんか。旦那が御一緒じゃ厭なんですか。」 「そこどころじゃねえ、フウそうして、」 「あとで聞いたら何だとさ、途中の都合やら、何やかやで、まだその時お午飯さえあがらなかった、お弱い身体に、それだもの、夜露に冷えて堪るものかね。」 「なぜ、そんな時、大きな声で、一口愛吉って呼ばねえんだなあ、大島に居たって聞えらあ。」  怨めしそうなが真である。 四十一 「もっともね、日の暮れない内から、長い間そこに倒れたようになっておいでなすったんだってね、何だとさ。  晩方、あの坂を、しょんぼりして、とぼとぼ下りておいでなさると、背後からお前さん、道の幅一杯になって、二頭立の馬車が来たろうではないか。  ハッと除けようとなさる。お顔の処へ、もう大きな鼻頭がぬッと出て、ぬらぬら小鼻が動いたんだっておっしゃるんだよ。  除けるも退くもありゃしません。  牛頭馬頭にひッぱたかれて、針の山に追い上げられるように、土手へ縋って倒れたなりに上ろうとなさると、下草のちょろちょろ水の、溝へ片足お落しなすった、荷があるから堪らないよ。横倒れに、石へお髪の乱れたのに、泥ばねを、お顔へ刎ねて、三寸と間のない処を、大きな鉄の車の輪。  天へでも上るようにぐるぐるとまわって通りしなに、 (馬鹿め!)  ッて、どこの馬丁も威張るもんだけれど、憎らしいじゃありませんか。危い、とでもおっしゃることか、どこのか華族様でもあろうけれども、乗ってた御夫婦も心なし。  殿様は山高帽、郵便函を押し出したように、見返りもなさらない。らっこの襟巻の中から、長い尖った顔を出して、奥様がニヤリと笑っておいでのが、仰向けながらね、屹とお開きなすったお嬢さんの目に、熟と留ったとおっしゃるんですよ。」 「チョッ、何たらこッてえ、せめて軍鶏でも居りゃ、そんな時ゃあ阿魔の咽喉笛を突つくのに、」  と落胆したようにいったが、これは女房には分らなかった──蔵人のことである。 「余程お口惜しかったって、そうでしょうとも。……新しい秤をね、膝へかけて二ツにポッキリ。もっともお足に怪我をしておいでなすった、そこいらぞッとするような鼻紙さア。  屑の籠を引っくりかえして、 (モ死にたいねえ、)ッて、思わず音を出したよ、とおっしゃるんですがね、そのままお足を投出して、長くなって、土手に肱枕をなすったんだとさ。  鵯がけたたましく啼き立てる。むこうのお薬園の森から、氷川様のお宮へかけて、真黒な雲が出て、仕切ったようにこっちは蒼空、動くと霰になりそうなのが、塗って固めたようになっていたんですって。  その中へね、火の粉のようなものが、ぱらぱらと飛ぶから、火事かと御覧なさると、また白いものが、ちらちら交ったのを、霰かと見ていらっしゃると、またきらきらと光るのを、星かとお思いなさる内に、何ですとさ。見る見るうちに数が殖えて、交って、花車を巻き込むようになると、うっとりなすった時、緑、白妙、紺青の、珠を飾った、女雛が被る冠を守護として、緋の袴で練衣の官女が五人、黒雲の中を往来して、手招をするのが、遠い処に見えましたとさ。  ずッと立って行こうとなさると、直ぐに消えて、隠れていたお月夜になったそうで。  そこへ私がね、」  と仕方をして、 「テンプラクイタイ、テンプラクイタイか何かで、流して行ったんですよ、お前さん。」 「ヘッ、人の気も知らねえで、」 「いえ、ところが、私だって喰うや喰わず、昔のともだちが、伝通院うらの貧乏長屋に、駄菓子を売って、蝙蝠のはりかえ直しと夫婦になって暮している処へ、のたれ込んで、しょう事なし門づけに出たんですがね、その身になってもお前さん、見得じゃないけれど極が悪くッて、昼間はとても出られないもんだからね、その晩も、日が暮れてから出たんでね、直ぐ上へ出りゃ久堅の通りだし、家の数も多いけれど、一寸のばしに下へ下りて、田圃とお薬園の、何にもまだ家のなかった処を通って、氷川の坂へ、むかしの事をおもいながら、夜露と涙で、音がしめったのを。  どうお聞きなすったか、土手に腰をかけておいでなすって、お嬢さんが、(もし、おかみさん)ッて声をかけて下すったんです。犬は遠くで吠えてたけれど、狐の居そうな処ですもの、吃驚したろうではありませんか。」  お夏が、すっと、二階から下りて来た。 「おかみさん、何のお話?」  フト屑屋さんの、と行きつまったから、 「氷川で御覧なすった、お雛様のことなんでございますよ。」 四十二 「そう、この人なら話が分るの。はじめから私とお雛様のことを知っているから。ねえ、愛吉、」  と膳の横。愛吉に肩を並べて腰を浮かしていたのは、ついしばらくの仮の宿、二階に待つ人があるのであろう。  お夏はその時、格子の羽織を着ていたが、年も二ツ三ツ、肩のあたりに威が出来て、若い女主人のように見えた。  二階から降りる跫音を、一ツ聞いて愛の奴、慌てて膚を入れたのはいうまでもない。 「愛吉、」 「へい………」 「沢山おあがりよ。おいしいものがなくッて、気の毒だね、おお、その海鼠がおいしそうじゃないか。」 「ええ。一ツいかがでございます。へへへへへ。」 「そうね、御馳走になろうかね、どれ、」  女房が気を利かせて、箸箱をと思う間もなく、愛吉のを取って、臆面なし、海鼠は、口に入って紫の珠はつるりと皓歯を潜った。 「おお、冷こい!」  すっと立ち──台所へ出ようとする。 「何でございます。」 「二階が寒くなったの。台じゅうが欲いんです。」 「唯今、私が、」  と立って出る。お夏は、真四角に。但しひょろひょろと坐った愛吉の肩をおして、 「大分おとなしいのね。」 「お嬢様、ちとお叱んな……」と台所から。 「なッ!」  とだしぬけに押伏せて、きょとんとして、 「納豆、納豆ウい、納豆、納豆ウ、」 「おばさん、屑屋より、この方にすれば可かったのね。」  女房は火を入れながら、生真面目に、 「どちらがどちらとも申されません。」 「お嬢さん、」と仰ぎさまに、酒くさい口をあけて、熟と顔を視て、 「そんな時に、私を尋ねて下さりゃ可いんだのになあ、」 「それだって、お前、来てくれたって、逢ったって、お酒も飲ませられないし、煙草も与れないし、可哀相だもの。」 「いえ、頂こうというんじゃねえんで、そんな時だ、私あ、お嬢さんにどうにかすらあ。盗賊でも、人殺でも、放火でも何でもすらあ。ええ、お嬢さん、」 「愛吉、難有うよ、」  とかけた手で、軽く二ツばかり揺ぶって、うつむきざまにはらはらと落涙した。  ただ、ここに赫としたのは台十能の中である。 「二階へおいでな。」 「ええ、なに………」 「構いはしないよ。」 「ええ、なに………」 「もう、お嬢様、この方はね、」 「おっと納豆ウ、納豆、納豆い、」 「あの、唯今、屑屋さんのかわりに、私の蘭蝶をお聞きなさろうという処なんでございます。」 「そうですか、ほんとに思出すわねえ、良い月夜で、露霜で、しとしとしてねえ。」 「草の中においでなすったお嬢さんのお姿が、爪先まで明いんですもの。私は慄然としましたよ。そうしてちっとばかり聞かしておくれ、こんな風で済まないけれどもッて、銀貨のお代を頂きました時は、私は掌へ、お星様が降ったのかと思いました。  追分をお好き遊ばした、弁天様のお話は聞きましたが、ここらに高尾の塚もなし、誰方が草刈になっておいで遊ばしたんでしょうと、ただ、もう尊くなりましてね。おんぼろの婆じゃありましてございますが、一生懸命、あんな役雑な三味線でも、思いなしか、あの時くらい、隅田川の水にだって、冴えた調子は出たことがございませんよ。」  当時の光景、いかに凄絶なるものなりしぞ。 「ああ、私も聞いている内に、ひとりで涙が出たんですもの、愛吉、おばさんはそりゃ上手だよ、」といいすてて、階子段に、蔦がからんだ裳の紅、するすると上って行った。 「ヘッ笑かしゃあがら、ヘッ旦的めえ、汝が取りに下りれば可い。寒いが聞いて呆れらい。ヘッ、悪く御託をつきゃあがると、汝がの口へ氷を詰めて、寒の水を浴びせるぞ、やい!」 「愛吉、おいでな、」  皆まで聞かず、上へ聞えたかと、「納豆、納豆。」 四十三  丹平は言を改め、 「さて、先生、何んでも愛の奴は、その中でも、お嬢さんが酷く差込んだというのを気にして、尋ねますから、婆さんが、その時だ。  一心不乱に蘭蝶を、語り済ましている内に、うむといってお夏さんが苦しみ出したんだそうで。いや、驚くまい事か、糸も撥も投り出して、縋りついて介抱をしたんだけれども、歯を切緊ってしまったから、遊女の空癪を扱うようなわけには行かない。  自分も打坐り込んで、意気地はがあせん、お念仏を唱え出した。  ト珍らしく人声がして、俥が来たでさ。しかも路が悪いんで、下町の抱車夫にゃあがきが取れなかったものと見えてね、下りて歩行いて来かかった。夜目にも立派な洋服で、背は高くないが、極り処のきちんとした、上手が鑿で刻んだという灰色の姿。月明に一目見ると、ずッと寄ったのが山の井さんで、もう立向うと病魔辟易。病人を包んだ空気が何となく溌とひらくという国手だから、もう大丈夫。──  やがてお夏さんの望みで、名が良いという今の青柳町へ、世話をする事になったに就いて、その時の縁で、お賤が、女中、乳母、兼帯のおもり役。  とここまで……愛吉にお賤が言って聞かせて、見なさい、そういう御恩人だ、といっても、奴泡を吹いて、ブウブウの舌を引込ませない。  日本一のお嬢さんを妾にするたあ何事だ、妾は癪だ、恩人も糸瓜もねえ、弱り目につけ込んで、すけべいの恩を売る奴は、さし込み以上の疫病神だと、怒鳴るでがしょう。  一体何という藪だ、破竹か、孟宗か、寒竹か、あたまから火をつけて蒸焼にして噛ると、ちと乱だ。楊枝でも噛むことか、割箸を横啣えとやりゃあがって、喰い裂いちゃ吐出しまさ。  大概のことは気にもかけなかったが、婆さん貧病は治して貰った、我が朝の、耆婆扁鵲と思う人を、藪はちと気になったから、山の井さんを何だ、と思うと極めるとね。  先刻承知だろうと思っていたのが、耳を立てて、何山の井だ、どこの藪だ。  光起さんとおっしゃって、日本橋の真中にある大藪、というと、(やや先生か)といって、愛吉が、呆気に取られて、しばらく天井を視めていたそうだッけ。 (親分か、)と吹ッ切った。それで静まるのかと思うとそうでない。 (あン畜生、根生いの江戸ッ児の癖にしやがって、卑劣な謀叛を企てたな。こっちあ、たかだか恩を売って、人情を買う奴だ、贅六店の爺番頭か、三河万歳の株主だと思うから、むてえ癪に障っても、熱湯は可哀相だと我慢をした。芸妓や娼妓でも囲いあがりゃ、いざこざはちっともねえが、汝が病家さきの嬢さんの落目をひろッて、掻きあげにしやあがったは、何のこたあねえ、歌を教えて手を握る、根岸の鴨川同断だ。江戸ッ児の面汚し、さあ、合点が出来ねえぞ、)とぐるぐると廻って突立つから、慌てて留める婆さんを、刎ね飛ばす、銚子が転がる、膳が倒れる、どたばた、がたぴしという騒ぎ、お嬢さん、と呼んで取さえてもらおうとしても、返事もなけりゃ、寂閑はどういうわけ?…… (もう寐やがったか、太え奴だ。)  とドンと襖へ打附かって、眼の稲妻、雷の声、からからからと黒煙を捲いて上る。ト、これじゃおもりが悪いようで、婆さん申訳がありますまい。  あとから夢中で駆け上った、この時でさ、──先生。  二人とも驚いたのは。  二階の二人が、クスクス笑っていたというんですものな。  気の抜けること夥しい。  ちんちんをするような形で、棒を呑んでしゃっきりと立った、愛吉の前へ小さな紫檀の食卓の上から、衝と手を伸ばして、 (親方、申上げよう、)  といって猪口をさして、山の井さんが、呵々と笑ったとお思いなさい。」  光起は藍と紺、味噌漉縞一楽の袷羽織、おなじ一楽の鼠と紺を、微塵織の一ツ小袖、ゆき短にきりりと着て、茶の献上博多の帯、黄金ぶちの眼鏡を、ぽつりと太い眉の下、鼻隆く、髭濃かに、頬へかけて、円い頤一面に胡麻のよう、これで頬がこけていれば、正に卒業試験中、燈下に書を読む風采であった。 四十四  お夏がまた叱言でもいうことか、莞爾して、 (さあ、お酌をして上げようね、)  愛吉は手術台で、片腕切落されたような心持で、硬くなって盃を出した。  お夏の手なる銚子こそおかしけれ。円く肩のはった、色の白い、人形の胴を切った形であったもことわり、天女が賜う乳のごとく、恩愛の糸をひいて、此方の猪口に装られたのは、あわれ白酒であったのである。  さて、お肴には何がある、錦手の鉢と、塗物の食籠に、綺麗に飾って、水天宮前の小饅頭と、蠣殻町の煎豌豆、先生を困らせると昼間いったその日の土産はこれで。丹平がここに金之助に語りつつある、この黒旋風を驚かしたものは、智多星呉軍師の謀計でない、ただ一盞の白酒であった。──  丹平語を継ぎ、 「そこで医学士が、 (どうです、親方、いけますか、)などとおっしゃる。  お嬢さんの下さるもんなら、溝泥も甘露だといった口にも、これはちと辟易だ、盃を睨み詰めて、目の玉を白く、白酒を黒くして、もじつくと、山の井さんが大笑いして、 (いけますまいな。いや、私も弱る。大辟易だが、勝山さんは、白酒でなくッては、一生お酌は断ちものだそうだ。)  また全く徹頭徹尾、白酒でなくッては酌というものをしないのでがすとさ。婆さんがなかなおりに、 (私が助けましょう、)  と取って飲んだのを、 (頂戴な、)とお夏さんが請け取って、ここで一杯、珍らしく三猪口、愛吉の酌で飲んだそうで。  山の井さんは止むことを得ず、例のごとくそこに持出して──いや、突きつけてある草紙を取って、一枚ずつ開けて見ながら、白豌豆をポツリ、ポツリ。  時々、 (旨い、)なんて小児のような洒落をいうんだ。  そうしちゃ、 (私は小児科はいかんよ。)は可うがしょう。  お夏さんがね、ばたりと畳へ手を支いた、羽織の肩が少しずれて、 (ああ、もう眠い、)ッて恐ろしい愛想づかしじゃありませんか。 (さあ、お寐なさい、)  というと、かぶりを振って、 (厭です、寐かして下さらなくッちゃ、) (お婆さん、床を取っておあげ、私も、もうそろそろ帰る。) (いいえ、先生、貴下が、寐かして、)と切々にいったが、いつになく酔っちゃいるし、ついぞないことをいうんだから、婆さん、はッと気がついて大喜び。 (さあ、愛吉さん、下へ行ってもう一杯、今度は私も頂くよ。)  善は急げで立ちかかると、愛吉、前へ立って、膠が放れたようだったが、どどどど、どんというと四五段辷り落ちた。 (危い、)  と婆さんが段の中途でいった時、 (危いよ、)  という医学士の声がしたは、お夏が、愛吉を憂慮って、立とうとして、酔ってるからよろけたんだそうでがす。  愛の奴は台所へ仁王立ちで、杓呑を遣った。  そこいら、皿小鉢が滅茶でしょう。すぐにその手で、雑巾を持って、婆さんが一片附け、片附けようとする時、二階で、 (親方々々、)  と医学士が呼んだそうです。  上って見ると、どうでしょう、お夏さんは高島田を横に学士の膝につけて、腕をかけて、横顔で寐ていたので。 (そこらに掻巻があろう、見てくれ、)とある。  おっとまかせろナは可いが、愛の野郎、三尺の尻ッこけで、ぬッと足を出して夜具戸棚を開けた工合、見習いの喜助殿というのでがす。  勿論、絹の小掻巻。抱えて突出すと、 (かけてお上げ、)  というお声がかり。」 四十五  掻巻がかかると、裳が揺れた。お夏は柔かに曲げていた足を伸ばして、片手を白く、天鵝絨の襟を引き寄せて、軽く寝返りざまに、やや仰向になったが──目が覚めてそうしたものではなかった。  愛吉は掻巻の裾に跪いて、 (先生、酔ったんで、) (ああ、ちと酔ったと見えるが、女も、白酒を小さな猪口で寐るようだと真に結構だ、) (愛吉、) (へい、) (男も君のように飲んじゃ困るな。)  納豆を売るわけにも行かず、思わぬ処でぎょっとする。 (ちっと控目にしないか、第一身体が堪らない。勝山さんも大層気にかけて心配してるぜ。  待て、)  といって、尻ッこけに遁げ出そうとするのを呼び留め、学士は黄金時計をちょいと見た。 (少し待て、)  そのまま黙って、その微塵縞一楽の小袖の膝に、酔はさめたが、唇の紅も掻巻にかくれて、ひとえに輪廓の正しき雪かと見まがう、お夏の顔を熟と見ながら、この際大病人の予後でもいいきけらるるを、待つごとく、愛吉呼吸を殺して、つい居ると、 (こっちへ来い、) (ええ、) (ちっと膝をかせ。) (先生、飛んだ御串戯もんですぜ。) (いや、私は時間の都合がある、婆さんは片づけものがあるだろう、すやすや寐ているから、可いか、密とだ、)静かな膝は、わななく枕と入れ交った、お夏の夢は、月に月宮殿をあくがれ出でて、廃駅の時雨に逢うのであろう。  立って、衣紋を正した時、学士の膝は濡れていた。が、鬢の梅の雫ではない、まつげのそよぎに、つらぬきとめぬ露であった。── (私は一向、そんな方はぞんざいだったが、この勝山さん娶おうとした時、親類が悪い風説を聞いたとか言って、愚図々々面倒だから、今の、山河内のを入れたんだが、身分が反対だとよかった。女世帯の絵草紙屋を棄てて、華族の女を媽にしたというので、酷くこの深川ッ児に軽蔑されるよ。はははは、)  と恐縮をしたように打笑い、 (どうだ親方、ちっと粋なのを世話しないか。)  と上り口で振返って、爽に階下へおりた。すぐ上って来るだろうと思うと、やがて格子戸が開いたのは、懐手で出て帰ったのである。  転寝はかぜを引くと、二階へ床を取りに行った時、女房は、石のように固くなって愛吉が膝を揃えて畏っていたのを見た。月の夜の玉川に、砧を枕にした風情、お夏は愛吉のその膝に、なおすやすやと眠っていた。  密と起して、先生がおっしゃった、愛吉さんもお泊り、という時、お夏はぱっちり目を開けたが、極めて鷹揚に無雑作に、 (…………)  枕の異ったことは何にもいわず、 (お前もお手つだい、)  と愛吉に教えて、自分も枕など持ち出して、急いで寝床が出来ると、(このまま寝ようや、)と云ったのが、その緋の紋綸子の長襦袢。  同一装で。香水の瓶の口を開けていたのを、二度目に行燈を提げて上って女房が見た。が、その後の事は分らぬ。もっとも屏風をたてて下りた。その後はいかにしけんか知らず。  ただ、真夜中の頃、みしみしと二階を一人が降りて来た。お夏の跫音ではない。うとうとした女房、台所の傍なる部屋で目を覚すと、枕許を通るのは愛吉で。憚りかと思うと上框の戸を開けた。 (おや、帰るんですか。) (私も店がございます、済みませんが、あとのしまりを、)と不思議なことをいって、戸を開けて出たと思うと、日和下駄を穿いて来たのに、カラリとも音がせぬ。耳を澄ましていると、ひたひたと地を蹈む音。およそ池の坊の石段のあたりまで、刻んできこえたが、しばらく中絶えがして、菊畑の前、荒物屋の角あたりから、疾風一陣! 護国寺前から音羽の通りを、通り魔の通るよう、手足も、衣も吹靡いて、しのうて行くか、と犬も吠えず鼠もあるかぬ寂とした瞬間のうつつに感じた。  女房は夢かと思った。が、起き出て土間へ下りると、幻ではない。格子戸は開いたまま、大戸はしまっていたが、掛けがねが外ずれていた。  火沙汰を憂慮って、行燈で寝るほど、小心な年寄。ことに女主人なり、忘れてもこんな事は、とそこで何か急に恐くなったか、密とあけて見ると良い月夜、式部小路は一筋蒼い。  塵も埃も寐静ったろうと思う月明りの中に、曲角あたりものの気勢のするのは、二階の美しいのの魂が、菊の花を見に出たのであろう。  女房はフト心着いた。黙って帰して、叱られはしまいか、とそこで階子段の下に立寄って、様子を見たが、寂寞している。覗くようにしたけれども屏風はたったり、行燈の火も洩れず。 (お嬢さん、)と小声で呼んで見たが、答えがない。その夜に限って、上って見ようとは思わず、いつの間にか時が経ったと見えて、もう冷くなった寝床へ入って寐た。  あくる日は、平日より早く目が覚めたが、またお夏が例になく起きて来ぬ。台所もすっかり片づいて、綺麗に掃除が出来、朝飯が済んで、しばらくして茶を入れて、毎日飲む頃になったが、まだ下りぬ。  沸り切っていた湯が冷めるから、炭を継いで、それから静に上って見た。屏風の端から覗くと、お夏は床の上に起上って、暖に日のさす小春の朝。行燈の紙真白に灯がまだ消えず。ああ、時ならぬ、簾越なる紅梅や、みどりに紺段々八丈の小掻巻を肩にかけて、お夏は静としていた。 (おや、もうお目覚。) (ああ、今起きようと思っているの。)  女房が、不思議というのはこの事ではない。ただ愛吉が夜中に帰った時の、戸外が凄かったもののけはいの事である。  それとなく、 (昨夜夜中に帰りましたね。) (喧嘩の夢を見て、寐惚けたんだよ。)とばかりお夏は笑っていたが、喧嘩の夢どころではない、殺人の意気天に冲して、この気疾の豪傑、月夜に砂煙を捲いて宙を飛んだのであった。  この意気なればこそ、三日握り詰めたお夏の襟をそった剃刀に、鎮西五郎時致が大島伝来の寐刃を合わせたとはいえ、我が咽喉ならばしらず、いかで誤ってお夏の胸を傷つけんや。衣ていた絹は、膚よりも堅いのに。  くらがり坂で躍り出して、 (こん、畜生!)  コオトの背中を引抱えて、身体を圧にグサと刺した。それでも気が上ずったか、頭巾の端を切って、咽喉をかすって、剃刀の尖は、紫の半襟の裏に留まったのである。  お夏がよろける。奥さん、と梅岡薬剤。──  啊呀と、駆け寄った丹平は、お夏が刃物を引きつけるように、我を殺すものの頸を、両のかいなでしっかと絞めて抱いたのを見た。その身は坂を上の方、兇漢は下に居た。 (あ、)  と一声、もっと刺せとか、それとも告別の意であったか、 (愛吉、)  とお夏が呼ぶと、丹平が引放そうとする愛吉の手は、力も用いないで外ずれたが、頸を巻いたお夏の腕は放れない。  掙いて解くと、道の上へ、お夏の胸は弓なりに反ったが、梅岡に支えられた。 (国手に、国手に、)とお夏は、その時くりかえしていったのである。  愛吉は下へ、どんと尻餅をついた。そのまま咽喉にあてた剃刀を挘ぎ取ったのは丹平で。  時にはじめて声を出した、江戸ッ児の薬剤師の声は異様なものであった。 (非常だ、) (お騒ぎあるな! 引きうけました。)  兀げ天窓の小男の一言は、いうまでもなく大いなる力があったのである。  竹永丹平が病院でなお語り続ける。 「で、三宜亭で聞きますとな、愛の野郎は当日お昼過から、東照宮の五重の塔に転がっていたんでがすって。暮かかってから、のッそり出かけて、くらがり坂に潜んだんだといいますから、巣鴨じゃ、ちょうどお夏さんが、私と話をしていなすった時でがす。  影も薄し、それ神々しかろうじゃありませんか。  また、青柳町で。婆さんが云うのには、その晩、件の一陣の兇風、砂を捲いて飛んで返ったッきり、門口はもとより台所へも、廂合の路地へも寄ッついた様子はなし、お夏さんも二日たって、その日の午過ぎ湯に行くまで、どッこも出なかったというんですから、白薔薇と、平打の簪とで、生命がけの相談、定子を殺そう、と一人は、一人は定子になって殺されようというのが極って、打合わせもしないで両方とも立派に覚悟をして出かけたばかりか、とうとう真ものにしてしまった。  生命を軽んずること鴻毛のごとく、約を重んずること鼎に似たり。とむずかしくいえばいうものの、何の事はがあせん、人殺しの飯事だ。  が、またこの飯事が、先生、あの二人でなくッちゃ、英雄にも豪傑にも、志士仁人にも、狂人にも、馬鹿にも出来ない、第一あなたにも私にも出来ませんて。  何の出来ずともの事だけれど。……」  と丹平は附加えた。 「私、愛吉が来てからの一件。また当日お夏さんがちょいと関戸の邸のもみじを見て来よう、と……もっともいつか中から行って見よう、といいながら、出ぎらいな方で行かなかったのを、お午過ぎに湯から帰ると、一人でずんずん着ものを着かえた。直近いのに吾妻コオトなり、頭巾なり。ちっと帰りが遅いから、気になって、婆さん、横町の角まで出ていた処を、私に会ったと云うんでがしょう。さあ、気になる。私一向遣り放しで、もの事を苦にはせんから、虫が知らせたというようなわけではない。  が何だか、卯之吉の門から俥が行ってしまったのが、なごり惜くって、今にもその姿が見たくてならぬ。  おかしいね。  何も三年越見なかった人なり、殊にそういう知己の婆さんが在って見れば、これをつてで、また余所ながら尋ねられないこともないが、何となく、急に見たい。  そこででがすよ。  茶を入れかえる、といったのを振切って出て、大塚の通りから、珍らしく俥を驕ると、道の順で、これが団子坂から三崎町、笠森の坂を向うへ上って、石屋の角でさ。谷中の墓地へ出たと思うと、向うから──お夏さん。  ちと柄がかわり過ぎた。私、目についているのは、結綿に鹿の子の切、襟のかかった衣に前垂がけで、絵双紙屋の店に居た姿だ。  先刻の文金で襟なしの小袖でさえ見違えたのに、栗鼠のコオトに藍鼠のその頭巾。しかもこの時は被っていました。  おまけに、並んで歩行いているのが、茶の中折で、絣の羽織、粋づくりだけれど、お商売がら、どこか上品に見える、梅岡薬剤でがしょう。  私もし、青柳町へ寄らないで、この体を見ると、いよいよ戻橋だ。紅葉の下で生血を吸う……ね。  そのなりで。思いがけない二人づれなり、ちょいとはお夏さんと見えないけれど、そこは私、通から一目で見て取った、俥を下りて、くらがり坂まであとをつけたですよ。何とももって残念千万。  や、梅岡さんの方が前へ行ったそうでがす。あの石段の上の床几、入口のね、あすこだ。毛氈を敷いて出してあるのに腰をかけて、待合わしていたんでがすな。  そこへ柳橋とも、芳町とも、新橋とも、たとえようのないのが、急いで来て、一所になった。紅葉の時だが、マビで、そんなにたて込まず、座敷もあいていたけれども、上らないで、男はカラカラと高談話。  一室だとたちぎぎがしたいなぞと、気を揉んだ女中が居たそうで、茶代が五十銭。  それから連れ立って、東照宮の方へ行くのを、大勢女中がずらりとならんで騒いで見送ったのは、今しがただ、といって、三宜亭の主人がな。  奥座敷を閉め込んで、血だらけのコオトを脱がした時、目を眠っているお夏さんの、艶麗なのを見て、こりゃ、薬や繃帯をなさるより、真綿で包んで密として置く方が可いッて、真面目にいった。  もっとも夢のようだといいましたっけ。  先生、私なども、真と思わん、どうしても夢でがすよ、それが一昨々日の晩だ。」  といって歎息した。  金之助は悩める右手をひしと抱いて、 「私は却って、その顔も見ないから、ちっとも夢のように思われんでなお困る。幸ひ貴老が見えてから、あの苦しむのが聞えないから……」 「私のその、御経読誦が、いくらか功徳がありましたもんでがしょう。」と、泣くより笑いというのである。 「ああ、どうぞあけ方までに、繰返して、もう一度その経を誦したまえ、絶えず、念じて下さい。私も覚えて念じよう。明日、また明後日、明々後日も、幾度も、本尊の前途を見届けるまでは、貴方は帰さん、誰にも逢わん。」 「宜しい。」  竹永が天井を仰いだ時、金之助も斉しく見たが、例よりは壁が高いと思うと、電燈がすッと消えた。  あわれな声で、 青葉しげれる桜井の、里のわたりの夕まぐれ、  と廊下で繃帯を巻きながら、唐糸の響くように、四五人で交る交る低唱していた、看護婦たちの声が、フト途切れたトタンに。  硝子窓へばらばらと雨が当った。  廊下を馳せ違う人の跫音。  二人は呼吸を詰めた。  電燈が直ぐに点いた、その時顔を見合わせた。 木の下蔭に駒とめて、  とまた聞える。  吻と、といきをつく間もなく、この扉が細目に開いた、看護婦の福崎が、廊下から姿を半ば。 「貴下、お案じなさいました五番の方が、」  二人は肩から氷を浴びて、 「どう、」 「どうした。」 「容子がかわりました。」 「そうか、」  期したりといわんよう、落着いていって、丹平は椅子を放れる。  と同時である。 「大変だ、」と激くいうと、金之助は寝台からずるりと落ちたが、斉く扉から顔を出して、六ツの目は向、突当りの廊下へ注いだ、と思うと金之助が身を挺して、少しよろけながら廊下をすたすたと其方へ行く。後から竹永が続いたので、看護婦も引添うた。  遠山も丹平も心はおなじ、室の外から、蔭ながら、別を惜もうとしたのであったが。  五番の室の前へ行くと、思いがけず扉が開いていたので、思わず両人、左右の壁へ立ち別れた。  と見ると哀しき寝台を囲うて、左の方に、忍び姿で、粛然として山の井医学士。枕許に看護婦一人、右に宿直の国手が彳んで、その傍に別に一人、……白衣なるが、それは、窈窕たる佳人であった。  その背後に附添ったのが、当院の看護婦長。  入口を背にして、寝台の裾に、ひょろひょろとして痩せた、三尺帯は愛吉である。  ト遠山の附添福崎が、静に室に入って行って、二三語を交えたのは、病人に対する金之助の同情の節を伝えたのであろう。  医学士の傍に居た看護婦が、一脚椅子を持って出て挨拶をした。 「お掛けなさいまし。」  金之助は辞せず、しかし入りはしないで、廊下へ受取った時、福崎は急いで遠山の病室へ行ったが、これも椅子を提げて引返して来て、 「お掛けなさいまし。」  と丹平に。自から直ちに遠山の背後に来て、その受持の患者を守護する。両人は扉を挟んで、腰をかけた、渠等好事なる江戸ツ児は、かくて甘んじて、この惨憺たる、天女廟の門衛となったのである。  雨がドッと降って来た。  しばらくすると、宿直と、看護婦長は、この室を辞して出た。その時、後を閉めようとして、ここに篤志の夜伽のあるのを知って一揖した。  丹平すなわち、外から扉を押そうとすると、 「構いません、」と声をかけて目礼をしたのは医学士山の井光起である。向い合って右の側なる一人の看護婦が、 「宜しゅうございます。」  といった、渠は窈窕たる佳人であった。 「いや、御遠慮を申す、御遠慮を申す。」  と丹平は徐に。かくて自ら自分等を廊下の外に閉め出した。その扉が背を圧するような、間近に居たから、愛吉は身動をしたが、かくても失心の体で、立ちながら、貧乏ゆるぎをぞしたりける。  時に、ここを通り過ぎて、廊下の彼方に欄干のある、螺旋形の段の下り口の処に立ち停って、宿直医と看護婦長と、ひそかに額を交えて彳んだのが、やがて首を垂れて、段を下りるのが見えた。  同時にそれまで、青葉の歌の声を留めて、その二人の密話を傍聞きして取り巻いた、同じ白衣の看護婦三人。宿直の姿が二階を放れて、段に沈むと、すらすらと三方へ、三条の白布を引いて立ち別れた。その集っている間、手に、裾に、胸に、白浪の飜るようだった、この繃帯は、欄干に本を留めて、末の方から次第に巻いて寄るのである。  渠等も、お夏のこの容体を今聞いた、無意識にうたいつるる唱歌の声の、その身その身も我知らず、 身の行末をつくづくと、偲ぶ鎧の袖の上に、 散るは涙か、はた露か、  より低く、より悲しげに、よりあわれに、より多く頭を垂れて、少しずつ、巻き込みながら繰り寄る繃帯。  遠く廊下に操る布の、すらすら乱れて、さまよえるは、ここに絶えんず玉の緒の幻の糸に似たらずや。繋げよ、玉の緒。勿断ちそ細布。  遠山と丹平は、長き廊下の遠き方に、電燈の澄める影に、月夜に霞の漾うなかに、その三人の白衣の乙女。あわれ、魂を迎うべく、天使来る矣、と憂えたのである。  雨は篠突くばかりとなった。棟に覆す滝の音に、青葉の唱歌の途切るる時、ハッと皆、ここにあるもの八九人、一時に呼吸を返したように、お夏の、我に返る気勢を感じた。 「ああ、熱、」  驚破と二人。 「何て暑いんでしょう、私はどうしたの。」  というのが、耳許に冴えた調子で聞えながら、しかも幽に、折から風が颯と添って、次第々々に大空へ遠く消えて行くようになって、また寂とした。  雨はいよいよ降るのである。時もわきまえずなるまでに、夜は次第に更けるのである。 「愛吉、愛吉、」とお夏が呼んだ。  遠山は面を背けた。 「愛吉、苦しいから殺しておくれ。」  しばらくして、 「早くしておくれよ。」  答うるものはないのである。 「国手、どうすりゃ、可いの。私は国手の奥さんになりたいの、」  優しい声で、 「してあげますよ、」というのが聞えた。 「だって奥さんがあるんですもの。」 「いえ、もうありません、貴女に生命を救われて、山河内の家へ帰りますよ。」  遠山も耳を澄す。  お夏の声で、 「でも不可いの、私は、愛吉が可愛くッて可愛くッて、」  廊下の外でもはらはらと落涙する。 「可愛くッてならないの、だから奥さんになって殺されたんだわ、なぜこんなに暑いの、なぜ熱いの、私のした事が悪いから、あの、それで、ひどいの、どうすりゃ可いんですねえ。」  答うもののあらざるを見て、遠山金之助堪えかねたか、矩を踰してずッと入った。  蓬頭垢面、窮鬼のごとき壮佼あり、 「先生!」  と叫んで遠山の胸に縋りついた。 「お嬢さんお嬢さん、貴女が兄さんのようだとおいいなすった、新聞社の先生ですよ。」と、いまだ全くその気は狂い果てなかった。  金之助、声高く、 「貴女のしたことは決して間違った事じゃありません!」  これに頷く趣に見えたが、 「もう死んでも可ごさんす、」といって、起上ろうとするのをかの看護婦が、密と抱いて、 「いえ、私が死なせません。」  渠は窈窕たる佳人であった。この窈窕たる佳人は、山の井医学士の夫人定子であることを──ここで謂おう。  医学士は衝と進んで、打まかせたような、お夏の右手の脈を衝と取った。  除けよ、とあるので、附添と、愛吉は、山を崩すがごとく、氷嚢を取り棄てた。医学士は疾病の他に、情の炎の人の身を焼き亡うことのあるを知ったであろう。  丹平は、そこに掲げられた、体温の表を見て、烈しい地震系を描いた、噴火山のようなものだと思った。  あわれ、その胸にかけたる繃帯は、ほぐれて靉靆いて、一朶の細き霞の布、暁方の雨上りに、疵はいえていたお夏と放れて、眠れるごとき姿を残して、揺曳して、空に消えた。  内裏雛の冠して、官女たちと、五人囃子して遊ぶ状を、後に看護婦までも、幻に見たと聞く。 明治三十九(一九〇六)年一月 底本:「泉鏡花集成9」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年6月24日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第六卷」岩波書店    1941(昭和16)年11月10日第1刷発行 初出:「大阪毎日新聞」    1906(明治39)年1月1日~1月27日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、以下の個所を除いて大振りにつくっています。 「雑司ヶ谷」「熊ヶ谷」「程ヶ谷」「明石ヶ浦」 入力:門田裕志 校正:仙酔ゑびす 2012年5月22日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。