甲乙 泉鏡花 Guide 扉 本文 目 次 甲乙 一 二 三 四 五 六 七 一  先刻は、小さな女中の案内で、雨の晴間を宿の畑へ、家内と葱を抜きに行った。……料理番に頼んで、晩にはこれで味噌汁を拵えて貰うつもりである。生玉子を割って、且つは吸ものにし、且つはおじやと言う、上等のライスカレエを手鍋で拵える。……腹ぐあいの悪い時だし、秋雨もこう毎日降続いて、そぞろ寒い晩にはこれが何より甘味い。  畑の次手に、目の覚めるような真紅な蓼の花と、かやつり草と、豆粒ほどな青い桔梗とを摘んで帰って、硝子杯を借りて卓子台に活けた。  ……いま、また女中が、表二階の演技場で、万歳がはじまるから、と云って誘いに来た。──毎日雨ばかり続くから、宿でも浴客、就中、逗留客にたいくつさせまい心づかいであろう。  私はちょうど寝ころんで、メリメエの、(チュルジス夫人)を読んでいた処だ。真個はこの作家のものなどは、机に向って拝見をすべきであろうが、温泉宿の昼間、掻巻を掛けて、じだらくで失礼をしていても、誰も叱言をいわない処がありがたい。  が、この名作家に対しても、田舎まわりの万歳芝居は少々憚る。……で、家内だけ、いくらかお義理を持参で。──ただし煙草をのませない都会の劇の義理見ぶつに切符を押つけられたような気味の悪いものではない。出来秋の村芝居とおなじ野趣に対して、私も少からず興味を感ずる。──家内はいそいそと出て行った。  どれ、寝てばかりもおられまい。もう二十日過だし少し稼ごう。──そのシャルル九世年代記を、わが文化の版、三馬の浮世風呂にかさねて袋棚にさしおいた。──この度胸でないと仕事は出来ない。──さて新しい知己(その人は昨日この宿を立ったが)秋庭俊之君の話を記そう。……  中へ出る人物は、芸妓が二人、それと湘南の盛場を片わきへ離れた、蘆の浦辺の料理茶屋の娘……と云うと、どうも十七八、二十ぐらいまでの若々しいのに聞えるので、一寸工合が悪い。二十四五の中年増で、内証は知らず、表立った男がないのである。京阪地には、こんな婦人を呼ぶのに可いのがある。(とうはん)とか言う。……これだと料理屋、待合などの娘で、円髷に結った三十そこらのでも、差支えぬ。むかしは江戸にも相応しいのがあった、娘分と云うのである。で、また仮に娘分として、名はお由紀と云うのと、秋庭君とである。  それから、──影のような、幻のような、絵にも、彫刻にも似て、神のような、魔のような、幽霊かとも思われる。……歌の、ははき木のような二人の婦がある。  時は今年の真夏だ。──  これから秋庭君の直話を殆どそのままであると云って可い。 二 「──さあ、あれは明治何年頃でありましょうか。……新橋の芸妓で、人気と言えば、いつもおなじ事のようでございますが、絵端書や三面記事で評判でありました。一対の名妓が、罪障消滅のためだと言います。芸妓の罪障は、女郎の堅気も、女はおなじものと見えまして、一念発起、で、廻国の巡礼に出る。板橋から中仙道、わざと木曾の山路の寂しい中を辿って伊勢大和めぐり、四国まで遍路をする。……笈も笠も、用意をしたと、毎日のように発心から、支度、見送人のそれぞれまで、続けて新聞が報道して、えらい騒ぎがありました。笈摺菅笠と言えば、極った巡礼の扮装で、絵本のも、芝居で見るのも、実際と同じ姿でございます。……もしこれが間違って、たとい不図した記事、また風説のあやまりにもせよ、高尚なり、意気なり、婀娜なり、帯、小袖をそのままで、東京をふッと木曾へ行く。……と言う事であったとしますと、私の身体はその時、どうなっていたか分りません。  尚おその上、四国遍路に出る、その一人が円髷で、一人が銀杏返だったのでありますと、私は立処に杓を振って飛出したかも知れません。ただし途中で、桟道を踏辷るやら、御嶽おろしに吹飛されるやら、それは分らなかったのです。  御存じとは思いますが、川越喜多院には、擂粉木を立掛けて置かないと云う仕来りがあります。縦にして置くと変事がある。むかし、あの寺の大僧正が、信州の戸隠まで空中を飛んだ時に、屋の棟を、宙へ離れて行く。その師の坊の姿を見ると、ちょうど台所で味噌を摺っていた小坊主が、擂粉木を縦に持ったまま、破風から飛出して雲に続いた。これは行力が足りないで、二荒山へ落こちたと言うのです。  私にしても、おなじ運命かも知れません。別嬪が二人、木曾街道を、ふだらくや岸打つ浪と、流れて行く。岨道の森の上から、杓を持った金釦が団栗ころげに落ちてのめったら、余程……妙なものが出来たろうと思います。  些と荒唐無稽に過ぎるようですが、真実で、母可懐く、妹恋しく、唯心も空に憧憬れて、ゆかりある女と言えば、日とも月とも思う年頃では、全く遣りかねなかったのでございます。──幼いうちから、孤だった私は、その頃は、本郷の叔父のうちに世話になって、──大学へ通っていました。……文科です。  幸ですか、如何だか、単に巡礼とばかりで、その芸妓たちの風俗から、円髷と銀杏返と云う事を見出さなかったばかりに、胸を削るような思ばかりで済みました。  もとより、円髷と銀杏返と、一人ずつ、別々に離れた場合は、私に取って何事もないのです。──申すまでもない事で、円髷と銀杏返を見るたびに、杓を持って追掛けるのでは、色情狂を通り越して、人間離れがします、大道中で尻尾を振る犬と隔りはありません。  それに、私が言う不思議な婦は、いつも、円髷に結った方は、品がよく、高尚で、面長で、そして背がすらりと高い。色は澄んで、滑らかに白いのです。銀杏返の方は、そんなでもなく、少し桃色がさして、顔もふっくりと、中肉……が小肥りして、些と肩幅もあり、較べて背が低い。この方が、三つ四つ、さよう、……どうかすると五つぐらい年紀下で。縞のきものを着ている。円髷のは、小紋か、無地かと思う薄色の小袖です。  思いもかけない時、──何処と言って、場所、時を定めず、私の身に取って、彗星のように、スッとこの二人の並んだ姿の、顕れるのを見ます時の、その心持と云ってはありません。凄いとも、美しいとも、床しいとも、寂しいとも、心細いとも、可恐いとも、また貴いとも、何とも形容が出来ないのです。  唯今も申した通り、一人ずつ別に──二人を離して見れば何でもありません。並んで、すっと来るのを、ふと居る処を、或は送るのを見ます時にばかり、その心持がしますのです。」  著者はこれを聞きながら、思わず相対っていて、杯を控えた。  ──こう聞くと、唯その二人立並んだ折のみでない。二人を別々に離しても、円髷の女には円髷の女、銀杏返の女には銀杏返の女が、他に一体ずつ影のように──色あり縞ある──影のように、一人ずつ附いて並んで、……いや、二人、三人、五人、七人、おなじようなのが、ふらふらと並んで見えるように聞き取られて、何となく悚然した。 三 「はじめて、その二人の婦を見ましたのは、私が八つ九つぐらいの時、故郷の生家で。……母親の若くてなくなりました一周忌の頃、山からも、川からも、空からも、町に霙の降りくれる、暗い、寂しい、寒い真夜中、小学校の友だちと二人で見ました。──なまけものの節季ばたらきとか言って、試験の支度に、徹夜で勉強をして、ある地誌略を読んでいました。──白山は北陸道第一の高山にして、郡の東南隅に秀で、越前、美濃、飛騨に跨る。三峰あり、南を別山とし、北を大汝嶽とし、中央を御前峰とす。……後に剣峰あり、その状、五剣を植るが如し、皆四時雪を戴く。山中に千仞瀑あり。御前峰の絶壁に懸る。美女坂より遥に看るべし。しかれども唯飛流の白雲の中より落るを見るのみ、真に奇観なり。この他美登利池、千歳谷──と、びしょびしょと冷く読んでいると、しばらく降止んで、ひっそりしていたのが急にぱらぱらと霰になった。霰……横の古襖の破目で真暗な天井から、ぽっと燈明が映ります。寒さにすくんで鼠も鳴かない、人ッ子の居ない二階の、階子段の上へ、すっとその二人の婦が立ちました。縞の銀杏返の方のが硝子台の煤けた洋燈を持っています。ここで、聊でも作意があれば、青い蝋燭と言いたいのですが、洋燈です。洋燈のその燈です、その燈で、円髷の婦の薄色の衣紋も帯も判然と見えました。あッと思うと、トントン、トントンと静な跫音とともに階子段を下りて来る。キャッと云って飛上った友だちと一所に、すぐ納戸の、父の寝ている所へ二人で転り込みました。これが第一時の出現で、小児で邪気のない時の事ですから、これは時々、人に話した事がありますが。  翌年でしたか、また秋のくれ方に、母のない子は、蛙がなくから帰ろ、で、一度別れた友だちを、尚おさみしさに誘いたくって、町を左隣家の格子戸の前まで行くと、このしもた屋は、前町の大商人の控屋で、凡そ十人ぐらいは一側に並んで通ることの出来る、広い土間が、おも屋まで突抜けていると言うのですが、その土間と、いま申した我家の階子段とは、暗い壁一重になっていました。  稚い時は、だから、よく階子の中段に腰を掛けて、壁越に、その土間を歩行く跫音や、ものいう人声を聞いて、それをあの何年何月の間か、何処までも何処までもほり抜くと、土一皮下に人声がして、遠くで鶏の鳴くのが聞えたと言う、別の世界の話声が髣髴として土間から漏れる。……小児ごころに、内の階子段は、お伽話の怪い山の、そのまま薄暗い坂でした。──そこが、いまの隣家の格子戸から、間を一つ框に置いて、大な穴のように偶と見えました。──その口へ、円髷の婦がふっと立つ。同時に並んでいた銀杏返のが、腰を消して、一寸足もとの土間へ俯向きました。これは、畳を通るのに、駒下駄を脱いで、手に持つのだ、と見る、と……そのしもた家へ、入るのではなくて、人の居ない間を通抜けに、この格子戸へ出ようとするのだ、何故か、そう思うと、急に可恐くなって、一度、むこうへ駈出して、また夢中で、我家へ遁込んで了いました。  二年ばかり経ってからです。父のために、頻に後妻を勧めるものがあって、城下から六七里離れた、合歓の浜──と言う、……いい名ですが、土地では、眠そうな目をしたり、坐睡をひやかす時に(それ、ねむの浜からお迎が。)と言います。ために夢見る里のような気がします。が、村に桃の林があって、浜の白砂へ影がさす、いつも合歓の花が咲いたようだと言うのだそうです。その浜の、一向寺の坊さんの姪が相談の後妻になるので、父に連れられて行きました。生れてから三里以上歩行いたのは、またその時がはじめてです。母さんが出来ると云うので、いくら留められても、大きな草鞋で、松並木を駈けました。庵のような小寺で、方丈の濡縁の下へ、すぐに静な浪が来ました。尤もその間に拾うほどの浜はあります。──途中建場茶屋で夕飯は済みました──寺へ着いたのは、もう夜分、初夏の宵なのです。行燈を中にして、父と坊さんと何か話している。とんびずわりの足を、チクチク蚊がくいます、行儀よくじっとしてはいられないから、そこは小児で、はきものとも言わないで縁からすぐに浜へ出ました。……雪国の癖に、もう暑い。まるッ切風がありません。池か、湖かと思う渚を、小児ばかり歩行いていました。が、月は裏山に照りながら海には一面に茫と靄が掛って、粗い貝も見つからないので、所在なくて、背丈に倍ぐらいな磯馴松に凭懸って、入海の空、遠く遥々と果しも知れない浪を見て、何だか心細さに涙ぐんだ目に、高く浮いて小船が一艘──渚から、さまで遠くない処に、その靄の中に、影のような婦が二人──船はすらすらと寄りました。  舷に手首を少し片肱をもたせて、じっと私を視たのが円髷の婦です、横に並んで銀杏返のが、手で浪を掻いていました。その時船は銀の色して、浜は颯と桃色に見えた。合歓の花の月夜です。──(やあ父さん──彼処に母さんと、よその姉さんが。……)──後々私は、何故、あの時、その船へ飛込まなかったろうと思う事が度々あります。世を儚む時、病に困んだ時、恋に離れた時です。……無論、船に入ろうとすれば、海に溺れたに相違ない。──彼処に母さんと、よその姉さんが、──そう言って濡縁に飛びついたのは、まだ死なない運命だったろう、と思います。  言うまでもありませんが、後妻のことは、其処でやめになりました。  可厭な、邪慳らしい、小母さんが行燈の影に来て坐っていましたもの。……」  俊之君は、話しかけて、少時思にふけったようであった。 「……その後、時を定めず、場所を択ばず、ともするとその二人の姿を見た事があるのです。何となく、これは前世から、私に附纏っている、女体の星のように思われます。──いえ、それも、世俗になずみ、所帯に煩わしく、家内もあるようになってからは、つい、忘れ勝……と言うよりも、思出さない事さえ稀で、偶に夢に視て、ああ、また(あの夢か。)と、思うようになりました。  ──処が、この八月の事です──  寺と海とが離れたように、間を抜いてお話しましょう。が、桃のうつる白妙の合歓の浜のようでなく、途中は渺茫たる沙漠のようで。……」 四 「東京駅で、少し早めに待合わして。……つれはまだかと、待合室からプラットホオムを出口の方へ掛った処で、私はハッと思いました。……まだ朝のうちだが、実に暑い。息苦しいほどで、この日中が思遣られる。──海岸へ行くにしても、途中がどんなだろう。見合せた方がよかった、と逡巡をしたくらいですから、頭脳がどうかしていはしないかと、危みました。  あの、いきれを挙げる……むッとした人混雑の中へ──円髷のと、銀杏返のと、二人の婦が夢のように、しかも羅で、水際立って、寄って来ました。(あら。)と莞爾して、(お早う。)と若い方が言うと、年上の上品なのは、一寸俯目に頷くようにして、挨拶しました。」  ──先刻は、唯、芸妓が二人、と著者は記した。──俊之君は、「年増と若いの。」と云って話したのである。が、ここに記しつつ思うのに、どうも、どっちも──これから後も──それだと、少なくとも、著者がこの話についてうけた印象に相当しない。更めて仮に姉と、妹としようと思う。…… 「私は目が覚めたように、いや、龍宮から東京駅へ浮いて出た気がしました。同時に、どやどや往来する人脚に乱れて二人は、もう並んではいません。私と軽い巴になって、立停りましたので。……何の秘密も、不思議もない。──これが約束をした当日の同伴なので。……実は昨夜、或場所で、余りの暑さだから、何処かいき抜きに、そんなに遠くない処へ一晩どまりで、と姉の方から話が出たので、可かろう、翌日にも、と酒の勢で云ったものの、用もたたまっていますし、さあ、どうしようか、と受けた杯を淀まして、──四五日経ってからの方が都合は可いのだがと、煮切らない。……姉さんは温和だから、ええええ御都合のいい時で結構。で、杯洗へ、それなり流れようとした処へ、(何の話?……)と、おくれて来た妹が、いきなり、(明日が可い、明日になさい、明日になさい、ああこう云ってると、またお流れになる。)そこで約束が極って、出掛ける事になったのです。──昨夜の今朝ですもの、その二人を、不思議に思うのが却って不思議なくらいで。いや自然の好は妙なものだ、すらりとした姉の方が、細長い信玄袋を提げて、肩幅の広い、背の低い方が、ポコンと四角張って、胴の膨れた鞄を持っている、と、ふとおかしく思うほど、幻は現実に、お伽の坊やは、芸妓づれのいやな小父さんになりましたよ。  乗込んでから、またどうか云う工合で、女たちが二人並ぶか、それを此方から見る、と云った風になると、髪の形ばかりでも、菩提樹か、石榴の花に、女の顔した鳥が、腰掛けた如くに見えて、再び夢心に引入れられもしたのでありましょうけれど、なかなか、そんな事を云っていられる混雑方ではなかったのです。  折からの日曜で、海岸へ一日がえりが、群り掛る勢だから、汽車の中は、さながら野天の蒸風呂へ、衣服を着て浸ったようなありさまで。……それでも、当初乗った時は、一つ二つ、席の空いたのがありました。クションは、あの二人ずつ腰を掛ける誂ので、私は肥満した大柄の、洋服着た紳士の傍、内側へ、どうやら腰が掛けられました。ちょうど、椅子を開いて向合に一つ空席がありましたので、推されながら、この真中ほどへ来た女たちが、 (姉さん。) (まあ、お前さん。)  と譲合いながら、その円髷の方が、とに角、其処へ掛けようとすると、 (一人居るんです。)と言った、一人居た、茶と鼠の合の子の、麻らしい……詰襟の洋服を着た、痩せたが、骨組のしっかりした、浅黒い男が、席を片腕で叩くのです。叩きながら上着を脱いで、そのあいた処へ刎ねました。──さいわい斜違のクションへ、姉は掛ける事が出来ましたし、それと背中合せに、妹も落着いたんです。御存じの通り、よっかかりが高いのですから、その銀杏返は、髪も低い……一寸雛箱へ、空色天鵝絨の蓋をした形に、此方から見えなくなる。姉の円髷ばかり、端正として、通を隔てて向合ったので、これは弱った──目顔で串戯も言えない。──たかだか目的地まで三時間に足りないのだけれど、退屈だなと思いましたが、どうして、退屈などと云う贅沢は言っていられない、品川でまた一もみ揉込んだので、苦しいのが先に立ちます。その時も、手で突張ったり、指で弾いたり、拳で席を払いたり、(人が居るです、──一人居るですよ。)その、貴下……白襯衣君の努力と云ってはなかった。誰にも掛けさせまいとする。……大方その同伴は、列車の何処かに知合とでも話しているか、後架にでも行ってるのであろうが、まだ、出て来ません。このこみ合う中で、それとも一人占めにしようとするのか知ら、些と怪しからんと思ううちに、汽車が大森駅へ入った時です。白襯衣君が、肩を聳やかして突立って、窓から半身を乗出したと思うと、真赤な洋傘が一本、矢のように窓からスポリと飛込んだ。白襯衣君がパッとうけて、血の点滴るばかりに腕へ留めて抱きましたが、色の道には、あの、スパルタの勇士の趣がありましたよ。汽車がまだ留らない間の早業でしてなあ。」  俊之君は、吻と一息を吐いて言った。 「敏捷い事……忽ち雪崩れ込む乗客の真前に大手を振って、ふわふわと入って来たのは、巾着ひだの青い帽子を仰向けに被った、膝切の洋服扮装の女で、肱に南京玉のピカピカしたオペラバックと云う奴を釣って、溢出しそうな乳を圧えて、その片手を──振るのではない、洋傘を投げたはずみがついて、惰力が留まらなかったものと考えられます。お定りの、もう何うにもならないと云った大な尻をどしんと置くのだが、扱いつけていると見えて、軽妙に、ポンと、その大な浮袋で、クションへ叩きつけると、赤い洋傘が股へ挟まったように捌ける、そいつを一蹴けって黄色な靴足袋を膝でよじって両脚を重ねるのをキッカケに、ゴム靴の爪さきと、洋傘の柄をつつく手がトントンと刻んで動く、と一所に、片肱を白襯衣の肩へ掛けて、円々しい頤を頬杖で凭せかけて、何と、危く乳首だけ両方へかくれた、一面に寛けた胸をずうずうと揺って、(おお、辛度。)と故とらしい京弁で甘ったれて、それから饒舌る。のべつに饒舌る……黄色い歯の上下に動くのと、猪首を巾着帽子の縁で突くのと同時なんです。  二の腕から、頸は勿論、胸の下までべた塗の白粉で、大切な女の膚を、厚化粧で見せてくれる。……それだけでも感謝しなければなりません。剰え貴い血まで見せた、その貴下、いきれを吹きそうな鳩尾のむき出た処に、ぽちぽちぽちと蚤のくった痕がある。  ──川崎を越す時分には、だらりと、むく毛の生えた頸を垂れて、白襯衣君の肩へ眉毛まで押着けて、坐睡をはじめたのですが、俯向けじゃあ寝勝手が悪いと見えて、ぐらぐら首を揺るうちに、男の肩へ、斜に仰向け状にぐたりとなった。どうも始末に悪いのは、高く崩れる裾ですが、よくしたもので、現に、その蚤の痕をごしごし引掻く次手に、膝を捩じ合わせては、ポカリと他人の目の前へ靴の底を蹴上げるのです。  男の方は、その重量で、窓際へ推曲められて、身体を弓形に堪えて納まっている。はじめは肩を抱込んで、手を女の背中へまわしていました。……膚いきれと、よっかかりの天鵝絨で、長くは暑さに堪りますまい。やがて、魚を仰向けにしたような、ぶくりとした下腹の上で涼ませながら、汽車の動揺に調子を取って口笛です。  娑婆はこのくらいにして送りたい、羨しいの何のと申して。  私は目の遣場に困りました。往来の通も、ぎっしり詰って、まるで隙間がないのです。現に私の頭の上には、緋手絡の大円髷が押被さって、この奥さんもそろそろ中腰になって、坐睡をはじめたのです。こくりこくりと遣るのに耳へも頬へもばらばらとおくれ毛が掛って来る。……鬢のおくれ毛が掛るのを、とや角言っては罰の当った話ですが、どうも小唄や小本にあるように、これがヒヤリと参りません。べとべとと汗ばんで、一条かかると濛とします。ただし、色白で一寸、きれいな奥さんでしたが、えらい子持だ。中を隔てられて、むこうに、海軍帽子の小児を二人抱いて押されている、脊のひょろりとしたのが主人らしい。その旦那の分と、奥さん自身のと、──私は所在なさに、勘定をしましたが、小児の分を合わせて洋傘九本は……どうです。  さあ、事ここに及んで、──現実の密度が濃くなっては、円髷と銀杏返の夢の姿などは、余りに影が薄すぎる。……消えて幽霊になって了ったかも知れません。 (清涼薬……)  と、むこうで、一寸噪いだ、お転婆らしい、その銀杏返の声がすると、ちらりと瞳が動く時、顔が半分無理に覗いて、フフンと口許で笑いながら、こう手が、よっかかりを越して、姉の円髷の横へ伝って、白く下りると、その紙づつみを姉が受けて、子持の奥さんの肩の上から、 (清涼薬ですって。……嘸ぞお暑い事で。……)  と、腹の上で揺れてる手を流眄に見て、身を引きました。  私は苦笑をしながら、ついぞ食べつけない、レモン入りの砂糖を舐めました。──如何、この動作で、その二人の婦がやっと影を顕わし得た気がなさりはしませんか。  時に、おなじくその赤い蝙蝠──の比翼の形を目と鼻の前にしながら、私と隣合った年配の紳士は、世に恐らく達人と云って可い、いや、聖人と言いたいほどで。──何故と云うと、この紳士は大森を出てから、つがいの蝙蝠が鎌倉で、赤い翼を伸して下りた時まで、眠り続けて睡っていました。……  真個に寝ていたのかと思うと、そうでありません。つがいが飛んだのを見ると、明に眼を活かして、棚のパナマ帽を取って、フッと埃を窓の外へ弾きながら、 (御窮屈でございましたろう……御迷惑で。)  澄まして挨拶をされて、吃驚して、 (いや。どう仕りまして。)  と面くらう隙に、杖を脇挟んで悠然と下車しましたから。」  俊之君は、ここで更に居坐を直して続けた。…… 五 「お話のいたしようで、どうお取りになったか知れないのでありますが、私は紳士に敬意を表するとともに、赤い蝙蝠にも、年児の奥さんにも感謝します。決して敵意は持ちません。そのいずれの感化であったかは自分にも分りません。が、とに角、その晩、二人の婦と、一ツ蚊帳に……成りたけ離れて寝ましたから。  ──さあ、何時頃だったでしょう──二度めに、ふと寝苦しい暑さから、汗もねばねばとして目の覚めましたのは。──夜中も、その沈み切った底だったと思います。うつうつしながら糠に咽せるように鬱陶しい、羽虫と蚊の声が陰に籠って、大蚊帳の上から圧附けるようで息苦しい。  蚊帳は広い、大いのです。廻縁の角座敷の十五畳一杯に釣って、四五ヶ所釣を取ってまだずるり──と中だるみがして、三つ敷いた床の上へ蔽いかかって、縁へ裾が溢れている。私には珍しいほどの殆ど諸侯道具で。……余り世間では知りませんが、旅宿が江戸時代からの旧家だと聞いて来たし、名所だし、料理旅籠だししますから、いずれ由緒あるものと思われる、従って古いのです。その上、一面に嬰児の掌ほどの穴だらけで、干潟の蟹の巣のように、ただ一側だけにも五十破れがあるのです。勿論一々継を当てた。……古麻に濃淡が出来て、こう瞬をするばかり無数に取巻く。……この大痘痕の化ものの顔が一つ天井から抜出したとなると、可恐さのために一里滅びようと言ったありさまなんです。──ここで一寸念のために申しますが、この旅籠屋も、昨年の震災を免れなかったのに、しかも一棟焚けて、人死さえ二三人あったのです──蚊帳は火の粉を被ったか、また、山を荒して、畑に及ぶと云う野鼠が群り襲い、当時、壁も襖も防ぎようのなかった屋のうちへ押入って、散々に喰散らしたのかとも思われる。  女中が二人で、宵にこの蚊帳を釣った時、 (まあ。)  と浮りしたように姉が云うと、 (お気の毒だわね。)  と思わず妹も。……この両方だって、おなじく手拭浴衣一枚で、生命を助って、この蚊帳を板にした同然な、節穴と隙間だらけのバラックに住んでいるのに、それでさえそう言った。  ──実は、海岸も大分片よった処ですから、唯聞いたばかり、絵で見たばかりで様子を知らない。──宿が潰れた上、焚けて人死があった事は、途中自動車の運転手に聞いて、はじめて知ったのです。 (──それは少し心配だな。)  二人の婦も、黙って顔を見合せました。  可恐しい崖崩れがそのままになっていて、自動車が大揺れに煽った処で。……またそれがために様子を聞きたくもなったのでした。  運転手は悍馬を乗鎮めるが如くに腰を切って、昂然として、 (来る……九月一日、十一時五十八分までは大丈夫請合います。)  と笑って言った。──(八月十日頃の事ですが)──  畜生、巫山戯ている。私は……一昨々年──家内をなくしたのでございますが、連がそれだったらこういう蔑めた口は利きますまい。いや、これに対しても、いまさら他の家へとも言いたくなし、尤も其家をよしては、今頃間貸をする農家ぐらいなものでしょうから。 (構わない、九月一日まで逗留だ。)  と擬勢を示した。自動車は次第に動揺が烈しくなって乗込みました。入江に渡した村はずれの土橋などは危なかしいものでした。  場所は逗子から葉山を通って秋谷、立石へ行く間の浦なんです。が、思ったとは大変な相違で、第一土橋と云う、その土橋の下にまるで水がありません、……約束では、海の波が静にこの下を通って、志した水戸屋と云うのの庭へ、大な池に流れて、縁前をすぐに漁船が漕ぐ。蘆が青簾の筈なんです。処が、孰方を向いても一面の泥田、沼ともいわず底が浅い。溝をたたきつけた同然に炎天に湧いたのが汐で焼けて、がさがさして、焦げています。……あの遠くの雲が海か知らんと思うばかりです。干潟と云うより亡びた沼です。気の利いた蛙なんか疾くに引越して、のたり、のたりと蚯蚓が雨乞に出そうな汐筋の窪地を、列を造って船虫が這まわる……その上を、羽虫の大群が、随所に固って濛々と、舞っているのが炎天に火薬の煙のように見えました。  半ばひしゃげたままの藤棚の方から、すくすくとこの屋台を起して支えた、突支棒の丸太越に、三人広縁に立って三方に、この干からびた大沼を見た時は、何だか焼原の東京が恋しくなった。  贅沢だとお叱んなさい。私たちは海へ涼みに出掛けたのです。 (海には汐の満干があるよ、いまに汐がさすと一面の水になる。)  折角、楽みにして、嬉しがって来た女連に、気の毒らしくって、私が言訳らしくそう言いますと、 (嘸ぞようござんしょうねお月夜だったら。)  姉の言った事は穏です。  些と跳ねものの妹のをお聞きなさい。 (雪が降るといい景色だわね。)  真実の事で。……これは決して皮肉でも何でもありません。成程ここへ雪が降れば、雪舟が炭団を描いたようになりましょう。  それも、まだ座敷が極ったと言うのではなかったので。……ここの座敷には、蜜柑の皮だの、キャラメルの箱だのが散ばって、小児づれの客が、三崎へ行く途中、昼食でもして行った跡をそのままらしい。障子はもとより開放してありました。古襖がたてつけの悪いままで、その絵の寒山拾得が、私たちを指して囁き合っている体で、おまけに、手から抜出した同然に箒が一本立掛けてあります。  串戯にも、これじゃ居たたまらないわけなんですが、些とも気にならなかったのは、──先刻広い、冠木門を入った時──前庭を見越したむこうの縁で、手をついた優しい婦を見たためです。……すぐその縁には、山林局の見廻りでもあろうかと思う官吏風の洋装したのが、高い沓脱石を踏んで腰を掛けて、盆にビイル罎を乗せていました。またこの形は、水戸屋がむかしの茶屋旅籠のままらしくて面白し……で、玄関とも言わず、迎えられたまま、その傍から、すぐ縁側へ通ったのですが、優しい婦が、客を嬉しそうに見て、 (お暑うございましたでしょう、まあ、ようこそ、──一寸お休み遊ばして。)  と、すぐその障子の影へ入れる、とすぐ靴の紐を縷っていた洋装のが、ガチリと釣銭を衣兜へ掴込んで、がっしりした洋傘を支いて出て行く。……いまの婦は門外まで、それを送ると、入違いに女中が、端近へ茶盆を持って出て、座蒲団をと云った工合で?……うしろに古物の衝立が立って、山鳥の剥製が覗いている。──処へ、三人茶盆を中にして坐った様子は、いまに本堂で、志す精霊の読経が始りそうで何とも以て陰気な処へ、じとじと汗になるから堪りません……そこで、掃除の済まない座敷を、のそのそして、──右の廻縁へ立った始末で。……こう塩辛い、大沼を視めるうちに、山下の向う岸に、泥を食って沈んだ小船の、舷がささらになって、鯉ならまだしも、朝日奈が取組合った鰐の頤かと思うのを見つけたのも悲惨です。  山出しの女中が来て、どうぞお二階へ、──助かった、ここで翌朝まで辛抱するのかと断念めていたのに。──いや、階子段は、いま来た三崎街道よりずッと広い、見事なものです。三人撒いたように、ふらふらと上ると、上り口のまた広々とした板敷を、縁側へ廻る処で、白地の手拭の姉さんかぶりで、高箒を片手に襷がけで、刻足に出て行逢ったのがその優しい婦で、一寸手拭を取って会釈しながら、軽くすり抜けてトントンと、堅い段を下りて行くのが、あわただしい中にも、如何にも淑かで跫音が柔うございました。  何とも容子のいい、何処かさみしいが、目鼻立のきりりとした、帯腰がしまっていて、そして媚かしい、なり恰好は女中らしいが、すてきな年増だ。二十六七か、と思ったのが──この水戸屋の娘分──お由紀さんと言うのだとあとで分りました。  ──また、奇異なものを見ました──  貴下には、矢張り唐突に聞えましょうが、私には度々の事で。……何かと申すと──例の怪しい二人の婦の姿です。──私が湯から上りますと、二人はもう持参の浴衣に着換えていて、お定りの伊達巻で、湯殿へ下ります、一人が市松で一人が独鈷……それも可い、……姉の方の脱いだ明石が、沖合の白波に向いた欄干に、梁から衣紋竹で釣って掛けてさぼしてある。裾にかくして、薄い紫のぼかしになった蹴出しのあるのが、すらすら捌くように、海から吹く風にそよいでいました。──午後二時さがりだったと思います。真日中で、土橋にも浜道にも、人一人通りません。が、さすがに少し風が出ました。汗が引いてスッと涼しい。──とその蹴出しの下に脱いで揃えた白足袋が、蓮……蓮には済まないが、思うまま言わして下さい。……白蓮華の莟のように見えました。同時に、横の襖に、それは欄間に釣って掛けた、妹の方の明石の下に、また一絞りにして朱鷺色の錦紗のあるのが一輪の薄紅い蓮華に見えます。──東京駅を出て、汽車で赤蝙蝠に襲われた、のちこの時まで、(ああ、涼しい。)と思えたのは、自動車で来る途中、山谷戸の、路傍に蓮田があって、白いのが二三輪、旱にも露を含んで、紅蓮が一輪、むこうに交って咲いたのを見た時ばかりであったからです。  また涼しい風が颯と来ました。羅は風よりも軽い……姉の明石が、竹を辷ると、さらりと落ちたが、畳まれもしないで、煽った襟をしめ加減に、細りとなって、脇あけも採れながら、フッと宙を浮いて行く。……あ、あ、と思ううちに、妹のが誘われて、こう並んでひらひらと行く。後のの裾が翻ったと見る時、ガタリと云って羅の抜けたあとへ衣紋竹が落ちました。一つは擽られるように、一つは抱くようにと、見るうちに、床わきへ横に靡いて両方裾を流したのです。  私は悚然とした。  ばかりではありません。ここで覚めるのかと思う夢でない所を見ると、これが空蝉になって、二人は、裏の松山へ、湯どのから消失せたのではなかろうか──些と仰山なようであるが真個……勝手を知った湯殿の外まで密と様子を見に行ったくらいです。婦の事で、勿論戸は閉めてある。妹の方の笑声が湯気に籠って、姉が静に小桶を使う。その白い、かがめた背筋と、桃色になった湯の中の乳のあたりが、卑い事だが、想像されて。……ただし、紅白の蓮華が浴する、と自讃して後架の前から急に跫音を立てて、二階の見霽へ帰りました。  や、二人の羅が、もとの通り、もとの処に掛っている、尤も女中が来て、掛け直したと思えば、それまでなんですが、まだ希有な気がしたのです。  けれども、午飯のお誂が持出されて、湯上りの二人と向合う、鯒のあらいが氷に乗って、小蝦と胡瓜が揉合った処を見れば無事なものです。しかも女連はビイルを飲む。ビイルを飲む仏もなし、鬼もない。おまけに、(冷蔵庫じゃないわね。)そ、そんな幽霊があるもんじゃありません。  況や、三人、そこへ、ころころと昼寝なんぞは、その上、客も、芸妓もない、姉も妹も、叔母さんも、更に人間も、何にもない。  暮方、またひったりと蒸伏せる夕凪になりました。が、折から淡りと、入江の出岬から覗いて来る上汐に勇気づいて、土地で一番景色のいい、名所の丘だと云うのを、女中に教わって、三人で出掛けました。もう土橋の下まで汐が来ました。路々、唐黍畑も、おいらん草も、そよりともしないで、ただねばりつくほどの暑さではありましたが、煙草を買えば(私が。)(あれさ、細いのが私の方に。)と女同士……東京子は小遣を使います。野掛け気分で、ぶらぶら七八町出掛けまして、地震で崩れたままの危かしい石段を、藪だの墓だのの間を抜けて、幾蜿りかして、頂上へ──誰も居ません。葭簀張の茶店が一軒、色の黒い皺びた婆さんが一人、真黒な犬を一匹、膝に引つけていて、じろりと、犬と一所に私たちを視めましたっけ。……  この婆さんに、可厭な事を聞きました。──  ……此処で、姉の方が、隻手を床几について、少し反身に、浴衣腰を長くのんびりと掛けて、ほんのり夕靄を視めている。崖縁の台つきの遠目金の六尺ばかりなのに妹が立掛った処は、誰も言うた事ですが、広重の絵をそのままの風情でしたが──婆の言う事で、変な気になりました。  目の下の水田へは雁が降りるのだそうです。向うの森の山寺には、暮六つの鐘が鳴ると言う。その釣鐘堂も崩れました。右の空には富士が見える。それは唯深い息づきもしない靄です。沖も赤く焼けていて、白帆の影もなし、折から星一つ見えません。 (御覧じゃい、あないにの、どす黒くへりを取った水際から、三反も五反と、沖の方へさ汐の干た処へ、貝、蟹の穴からや、にょきにょきと蘆が生えましたぞい。あの……蘆がつくようでは、この浦は、はや近うちに、干上って陸になるぞいの。そうもござりましょ。……去年の大地震で、海の底が一体に三尺がとこ上りましての、家々の土地面が三尺たたら踏んで落込みましたもの、の。いま、さいて来た汐も、あれ、御覧じゃい。……海鼠が這うようにちょろちょろと、蘆間をあとへ引きますぞいの。村中が心を合せて、泥浚をせぬ事には、ここの浦は、いまの間に干潟になって、やがて、ただ茫々と蘆ばかりになるぞいの。……)  何だか独言のように言って聞かせて、錆茶釜に踞んで、ぶつぶつ遣るたびに、黒犬の背中を擦ると、犬が、うううう、ぐうぐうと遣る。変に、犬の腹から声を揉出すようで、あ、あの婆さんの、時々ニヤリとする歯が犬に似ている。薄暮合に、熟としている犬の不気味さを、私は始めて知りました。…… (──旦那様方が泊らっしゃった、水戸屋がの、一番に海へ沈んだぞいの。)  靄の下に、また電燈の光を漏らさない、料理旅籠は、古家の甍を黒く、亜鉛屋根が三面に薄りと光って、あらぬ月の影を宿したように見えながら、縁も庇も、すぐあの蛇のような土橋に、庭に吸われて、小さな藤棚の遁げようとする方へ、大く傾いているのでした。 (……その時は、この山の下からの、土橋の、あの入江がや、もし……一面の海でござったがの、轟と沖も空も鳴って来ると、大地も波も、一斉に箕で煽るように揺れたと思わっしゃりまし。……あの水戸屋の屋根がの、ぐしゃぐしゃと、骨離れの、柱離れで挫げての──私らは、この時雨の松の……)  と言いました。字の傘のように高く立って、枝が一本折れて、崖へ傾いているを指して、 (松の根に這い縋って見ましたがの、潰れた屋の棟の瓦の上へ、一ちさきに、何処の犬やら、白い犬が乗りましたぞい。乾してあった浴衣が、人間のように、ぱッぱッと欄干から飛出して、潟の中へへばりつく。もうその時は、沖まで汐が干たぞいの。ありゃ海が倒になって裏返ったと思いましたよ。その白犬がの、狂気になったかの、沖の方へ、世界の涯までと駈出すと思う時、水戸屋の乾の隅へ、屋根へ抜けて黄色な雲が立ちますとの、赤旗がめらめらと搦んで、真黒な煙がもんもんと天井まで上りました。男衆も女衆も、その火を消す間に、帳場から、何から、家中切もりをしてござった彼家のお祖母様が死なしゃった。人の生命を、火よりさきへ助ければ可いものと、村方では言うぞいの。お祖母様が雛児のように抱いてござった小児衆も二人、一所に死んだぞの。孀つづきの家で、後家御は一昨年なくならした……娘さんが一人で、や、一気に家を装立てていさっしゃりますよ。姉さんじゃ。弟どのは、東京の学校さ入っていさっしゃるで。……地震の時は留守じゃったで、評判のようないは姉娘でござりますよ。──家とおのれは助かっても、老人小児を殺いてはのうのう黒犬を、のう、黒犬や──)……  勝手にしろ。殺したのではない、死んだのである。その場合に、圧に打たれ、火に包まれたものと進退をともにするのは、助けるのではない、自殺をするのだ、と思いました。……私は可厭な事を聞いた、しかし、祖母と小さい弟妹を死なせて水戸屋を背負って生残ったと言う娘分、──あの優しい婦が確にと、この時直覚的に知りましたが──どんなに心苦しいか……この狭い土地で、嘸ぞ肩身が狭かろう。──胸のせまるまで、いとしく、可憐になったのです。 (可厭な婆さん……) (黒犬が憑いてるようね。犬も婆のようだったよ。)  石段を下りかかって、二人がそう云った時、ふと見返ると、坂の下口に伸掛って覗いていました。こんな時は、──鹿は贅沢だ。寧ろ虎の方が可い。礫を取って投げようとするのを二人に留められて……幾つも新しい墓がある──墓を見ながら下りたんです。  時に──(見たいわね。)妹なぞもそう言ったのですが、お由紀さんは、それ切姿を見せなかったのです。  大分話が前後になりました。  処で、真夜中に寝苦しい目の覚めた時です。が、娘分に対しても決して不足を言うんじゃあない。……蚊帳のこの古いのも、穴だらけなのも、一層お由紀さんの万事最惜さを思わせるのですけれども、それにしても凄まじい、──先刻も申した酷い継です。隣室には八畳間が二つ並んで、上下だだ広い家に、その晩はまた一組も客がないのです。この辺に限らず、何処でも地方は電燈が暗うございますから、顔の前に点いていても、畳の目がやっと見える、それも蚊帳の天井に光っておればまだしも、この燈に羽虫の集る事夥多しい。何しろ、三方取巻いた泥沼に群れたのが蒸込むのだから堪りません。微細い奴は蚊帳の目をこぼれて、むらむら降懸るものですから、当初一旦寝たのが、起上って、妹が働いて、線を手繰って、次の室へ電燈を持って行ったので、それなり一枚開けてあります。その襖越しにぼんやりと明が届く、蚊帳の裡の薄暗さをお察し下さい。──鹿を連れた仙人の襖の南画も、婆と黒犬の形に見える。……ああ、この家がぐわしゃぐわしゃと潰れて乾の隅から火が出た、三人の生命が梁の下で焼けたのだと思うと、色合と言い、皺といい、一面の穴と言い、何だか、ドス黒い沼の底に、私たち倒れているような気がしてなりません。 (ああ、これは尋常事でない。)  一体小児の時から、三十年近くの間──ふと思い寄らず、二人の婦の姿が、私の身の周囲へ顕われて、目に遮る時と云うと、善にしろ、悪いにしろ、それが境遇なり、生活なりの一転機となるのが、これまでに例を違えず、約束なのです。とに角、私の小さい身体一つに取って、一時期を劃する、大切な場合なのです。 (これは、尋常事でない。……)  私は形に出る……この運命の映絵に誘われていま不思議な処へ来た──ここで一生を終るのではないか、死ぬのかも知れない。  枕も髪も影になって、蒸暑さに沓脱ぎながら、行儀よく組違えた、すんなりと伸びた浴衣の裾を洩れて、しっとりと置いた姉の白々とした足ばかりが燈の加減に浮いて見える。白い指をすッすッと刻んで、瞳をふうわりと浮いて軽い。あの白蓮華をまた思いました。  取縋って未来を尋ねようか、前世の事を聞こうか。──  と、この方は、私の隣に寝ている。むこうへ、一嵩一寸低く妹が寝ていました。  ……三分……五分……  紅い蓮華がちらちらと咲いた。幽に見えて、手首ばかり、夢で蝶を追うようなのが、どうやら此方を招くらしい。……  ──抱きしめて、未来を尋ねようか。前世の事を聞こうか。──  招く方へは寄易い。  私は、貴方、巻莨の火を消しました。  その時です。ぱちぱちと音のするばかり、大蚊帳の継穴が、何百か、ありッたけの目になりました。──蚊帳の目が目になった、──否、それが一つ一つ人間の目なんです。──お分りになり憎うございましょうか知ら。……一斉に、その何十人かの目が目ばかり出して熟と覗いたのです。睜る、瞬く、瞳が動く。……馬鹿々々しいが真個です。睜る、瞬く、瞳が動く。……生々として覗いています。暗い、低い、大天井ばかりを余して、蚊帳の四方は残らず目です。  私はすくんで了いました。  いや、すくんでばかりはおられません。仰向けに胸へ緊乎と手を組んで、両眼を押睡って、気を鎮めようとしたのです。  三分……五分──十分──  魔は通って過ぎたろうと、堅く目を開きますと、──鹿と仙人が、婆と黒犬に見える、──その隣室の襖際と寝床の裾──皆が沖の方を枕にしました──裾の、袋戸棚との間が、もう一ヶ所通で、裏階子へ出る、一人立の口で。表二階の縁と、広く続いて、両方に通口のあるのが、何だか宵から、暗くて寂しゅうございました。──いま、その裏階子の口の狭い処にぼッと人影が映して色の白い婦が立ちました。私は驚きません。それは円髷の方で……すぐ銀杏返のが出る、出て二人並ぶと同時に膝をついて、駒下駄を持つだろう。小児の時見たのと同じようだ。で、蚊帳から雨戸を宙に抜けて、海の空へ通るのだろうと思いました。私の身に、二人の婦の必要な時は、床柱の中から洋燈を持って出て来た事さえありますから。」…… 「ははあ。」  著者は思わず肱を堅くして聞いたのであった。 六 「──処がその婦は一人きりで、薄いお納戸色の帯に、幽な裾模様が、すッと蘆の葉のように映りました。すぐ背を伸ばせば届きます。立って、ふわふわと、凭りかかるようにして、ひったりと蚊帳に顔をつけた。ああ、覗く。……ありたけの目が、その一ところへ寄って、爛々として燃えて大蛇の如し……とハッとするまに、目がない、鼻もない、何にもない、艶々として乱れたままの黒髪の黒い中に、ぺろりと白いのっぺらぼう。──」 「…………」  著者は黙って息を呑んで聞いた。 「うう、と殺されそうな声を呑むと、私は、この場合、婦二人、生命を預る……私は、むくと起きて、しにみに覚悟して、蚊帳を刎ねた、その時、横ゆれに靡いて、あとへ下ったその婦が、気に圧されて遁げ状に板敷を、ふらふらとあと退りに退るのを夢中で引捉えようとしました。胸へ届きそうな私の手が、辷るが早いか、何とも申しようのない事は、その婦は三四尺ひらりと空へ飛んで、宙へ上った。白百合が裂けたように釣られた両足の指が反って震えて、素足です。藍、浅葱、朱鷺色と、鹿子と、絞と、紫の匹田と、ありたけの扱帯、腰紐を一つなぎに、夜の虹が化けたように、婦の乳の下から腰に絡わり、裾に搦んで。……下に膝をついた私の肩に流れました。雪なす両の腕は、よれて一条になって、裏欄干の梁に釣した扱帯の結目、ちょうど緋鹿子の端を血に巻いて縋っている。顔を背けよう背けようと横仰向けに振って、よじって伸ばす白い咽喉が、傷々しく伸びて、蒼褪める頬の色が見る見るうちに、その咽喉へ隈を薄く浸ませて、身悶をするたびに、踏処のない、つぼまった蹴出が乱れました。凄いとも、美しいとも、あわれとも、……踏台が置いてある。目鼻のない、のっぺらぼうと見えたのは、白地の手拭で、顔の半ば目かくしをしていたのです。」  俊之君は、やや、声忙しく語った。此処で吻と一息した。 「いま、これを処置するのに、人の妻であろうと、妾であろうと、娘であろうと、私は抱取らなければなりません。  私は綺麗なばけものを、横抱きに膝に抱いて助けました。声を殺して、 (何をなさる。)  扱帯で両膝は結えていました。けれども、首をくくるのに、目隠をするのは可訝しい。気だけも顔を隠そうとしたのかと思う。いや、そうでないのです。それに、実は死のうとしたのではない。私から遁げようとしたので、目を隠したのは、見まい見せまいじゃあない。蚊帳を覗くためだったのだから余程変です。」 七 「前後のいきさつで、大抵お察しでありましょう。それはお由紀さんでございました。  申憎うございますけれども、──今しがた、貴方の御令閨のお介添で──湯殿へ参っております、あの女なのです。  これでは……その時の私と、由紀とのうけこたえに、女のものいいが交りましては、尚お申憎うございますから、わけだけを、手取早く。……  由紀は、人の身の血も汐も引くかと思う、干潟に崩家を守りつつ、日も月も暗くなりました。……村の口の端、里の蔭言、目も心も真暗になりますと、先達て頃から、神棚、仏壇の前に坐って、目を閉じて拝む時、そのたびに、こう俯向く……と、衣ものの縞が、我が膝が、影のように薄りと浮いて見えます。それが毎日のように度重ると段々に判然見える。姿見のない処に、自分の顔が映るようで、向うが影か、自分が影か、何とも言えない心細い、寂しい気がしたのだそうです。絣は那様でない、縞の方が、余計にきっぱりとしたのが、次第に、おなじまで、映る事になったと言います。ただ、神仏の前にぬかずく時、──ほかには何の仔細もなかった。  処が当日、私たちの着きますのが、もう土橋のさきから分ったと言うのです。それは別に気にも留めなかった。黄昏に三人で、時雨の松の見霽へ出掛けるのを、縁の柱で、悄乎と、藤棚越に伸上って見ていると、二人に連れられて、私の行くのが、山ではなしに、干潟を沖へ出て、それ切帰らない心持がしてならなかった。無事に山へ行きました。──が、遠目金を覗くのも、一人が腰を掛けたのも、──台所へ引込んでまでもよく分る。それとともに、犬婆さんが、由紀の身について饒舌るのさえ聞えるようで。……それがために身を恥じて、皆の床の世話もしなかった。極りの悪い、蚊帳の所為ばかりではないと言います。夜の進むに従って、私たちの一挙一動がよく知れた。……  三人が一寝入したでしょう、うとうととして一度目を覚ます、その時でした。妹の方が、電燈を手繰って隣の室へ運んでいたのは。──(大変な虫ですよ)と姉は寝ながら懶そうに団扇を動かす。蚤と蚊で……私も痒い。身体中、くわッといきって、堪らない、と蚊帳を飛出して、電燈の行ったお隣へ両腕を捲って、むずむず掻きながら、うっかり入ると、したたかなものを見ました。頭から足のさきまで、とろりと白い膏のかかったはり切れそうな膚なんです。蚤を振って脱いでいたので。……電燈の下へ立派に立って、アハハと笑いました。(抱くと怪我をしてよ。……夏虫さん──)(いや、どうも、弱った。)と襖の陰へ、晩に押して置いた卓子台の前へ、くったりと小さくなる。(生憎、薬が。)と姉が言うと(香水をつけて上げましょう、かゆいのが直るわよ。……)と一気にその膚で押して出て、(どうせお目に掛けたんだ、暑さ凌ぎ。ほほほほ。)袋戸棚から探って取った小罎を持って、胸の乳、薫ってひったりと、(これ、ここも、ここも、ここも。)虫のあとへ、ひやひやと罎の口で接吻をさせた。  ああ、この時は弱ったそうです。……由紀は仏間に一人、蚊帳に起きて端正と坐って、そして目をつぶって、さきから俯向いて一人居たのだそうですが、二階の暗がりに、その有様が、下の奥から、歴々と透いて見えたのですから。──年は長けても処女なんです。どうしていいか分らない。あっちへ遁げ、此方へ避け、ただ人の居ない処を、壁に、柱に、袖をふせて、顔をかくしたと言うじゃありませんか。  私は冷い汗を流した、汗と一所に掌に血が浸んだ。──帯も髪も乱れながら、両膝を緊乎結えている由紀を、板の間に抱いたまま、手を離そうにも、頭をふり、頭を掉って、目を結えたのをはずしませんから、見くびって、したたかくい込んでいた蚊の奴が、血をふいてぼとりと落ちたのです。  私は冷くなって恥じました。けれども、その妹も、並んだ姉も、ただの女、ただの芸妓に、私が扱い得なかったことは、お察し下さるだろうと存じます。  ──痒さは、香水で立処に去りましたが、息が詰る、余り暑いから、立って雨戸を一枚繰りました。(おお涼しい。)勢に乗じて、妹は縁の真正面へ、蚊帳の黒雲を分けたように、乳を白く立ったのですが、ごろごろごろ、がたん。間遠に荷車の音が、深夜の寂寞を破ったので、ハッとかくれて、籐椅子に涼んだ私の蔭に立ちました。この音は妙に凄うございました。片輪車の変化が通るようで、そのがたんと門にすれた時は、鬼が乗込む気勢がしました。  姉がうっとりした声で、(ああ、私は睡い。……お寝よ、いいからさ。)(沢山おっしゃいよ。)余り夜が深い。何だか、美しい化鳥と化鳥が囁いているように聞えた。(あ、梟が鳴いている。)唯一つ、遥に、先刻の山の、時雨の松のあたりで聞えました。  この、梟が鳴き、荷車の消えて行く音を聞いた時、由紀は、その車について、戸外へ出了おうと思ったと言います。しかし気がついた。いま外へ出れば、枝を探り、水を慕って、屹と自殺をするに違いない。……それが可恐しい。由紀はまだ死にたくない未練があると思ったそうです。──真個です、その時戸を出たらば魔に奪られたに相違ありません。  私たちも凄かった。──岬も、洲も、潟も、山も、峰の松も、名所一つずつ一ヶ所一体の魔が領しているように見えたのですから。(天狗様でしょうか、鬼でしょうか、私たちとはお宗旨違いだわね。引込みましょう可恐いから。)居かわって私の膝にうしろ向きにかけていた銀杏返が言ったのです。  由紀は残らず知っていました。  それからは、私も余程寝苦しかったと見えます──先にお話しした二度めに目を覚ましますまで、ものの一時間とはなかったそうで──由紀の下階から透して見たのでは──余り判明見えるので、由紀は自分で恐ろしくなって、これは発狂するのではないかと思った。それとも、唯、心で見る迷いで、大蚊帳の裡の模様は実際とまるで違っているかも知れない。それならば、まよいだけで、気が違うのではないであろう。どっちか確めるのは、自分で一度二階へ上って様子を見なければ分らない。が深く堅く目を瞑っていると思いつつ……それが病気で、真個は薄目を明けているのかも計られない、と、身だしなみを、恥かしくないまでに、坐ってカタカタと箪笥をあけて、きものを着かえて、それから手拭で目を結えて、二階へ上ったのだそうですが、数ある段を、一歩も誤らず、すらすらと上りながら、気が咎めて、二三度下りたり、上ったり、……また幾度、手で探っても、三重にも折った手拭はちゃんと顔半分蔽うている。……いよいよ蚊帳を覗くとなると、余りの事に、それがこの病気の峠で、どんな風に、ひきつけるか、気を失うか、倒れるかも分らない。その時醜くないようにと、両膝をくくったから、くくったままで、蚊帳まで寄って来るのです、間は近いけれども、それでは忍んでは歩行けますまい。……扱帯を繋いで、それに縋って、道成寺のつくりもののように、ふらふらと幽霊だちに、爪立った釣身になって覗いたのだそうです。私に追われて、あれと遁げる時、──ただたよりだったのですから、その扱帯を引手繰って、飛退こうとしたはずみに、腰が宙に浮きました。  浅間しい、……極が悪い。……由紀は、いまは活きていられない。──こうしていても、貴方(とはじめて顔を振向けて、)私の抱ている顔も手も皆見える。これが私を殺すのです──と云って、置処のなさそうな顔を背ける。猿轡とか云うものより見ても可哀なその面縛した罪のありさまに、 (心配なさる事はない。私が見えないようにして上げる。)  と云って、目隠の上を二処吸って吸いました。  貴下、慰めるにしても、気休めを言うにしても、何と云う、馬鹿な、可忌しい、呪詛った事を云ったものでしょう。  手拭は取れました。 (あれ、お二方が。)  と俯向く処を、今度はまともに睫毛を吸った。──そのお二方ですが、由紀が、唯、憚ったばかりではなかったので。すらすらと表二階の縁の端へ、歴々と、円髷と銀杏返の顔が白く、目をぱっちりと並んで出ました。由紀を抱きかくしながら踞って見た時、銀杏返の方が莞爾すると、円髷のが、頷を含んで眉を伏せた、ト顔も消えて、衣ばかり、昼間見た風の羅になって、スーッと、肩をかさねて、階子段へ沈み、しずみ、トントントンと音がしました。  二人のその婦の姿は、いつも用が済むと、何処かへ行って了うのが例なのです。  しかし、姉も妹も、すやすやと蚊帳に寝ていた事は言うまでもありますまい。  ただ不思議な事は、東京へ帰りましてからも、その後時々逢いますが、勝手々々で、一人だったり、三人だったり、姉と妹と二人揃って立った場合に出会わなかったのでございます。  ──少々金の都合も出来ました。いよいよ決心をして先月……十月……再び水戸屋を訪ねました時、自動車が杜戸、大くずれ、秋谷を越えて、傍道へかかる。……あすこだったと思う、紅蓮が一茎、白蓮華の咲いた枯田のへりに、何の草か、幻の露の秋草の畦を前にして、崖の大巌に抱かれたように、巌窟に籠ったように、悄乎と一人、淡く彳んだ婦を見ました。 (やあ、水戸屋の姉さんが。)  と運転手が言いました。  ひらりと下りますと、 (旦那様──)  知らせもしないのに、今日来るのを知って、出迎に出たと云って、手に縋って、あつい涙で泣きました。今度は、清い目を睜いても、露のみ溢れて、私の顔は見えない。……  由紀は、急な眼病で、目が見えなくなりました。  ──結婚はまだしませんが、所帯万事引受けて、心ばかりは、なぐさめの保養に出ました。──途中から、御厚情を頂きます。  ……ああ、帰って来ました。……御令閨が手をお取り下すって、」  と廊下を見つつ涙ぐんで。 「髪も、化粧も、為て頂いて……あの、きれいな、美しい、あわれな……嬉しそうな。」  と言いかけて、無邪気に、握拳で目を圧えて、渠は落涙したのである。  涙はともに誘われた。が、聞えるスリッパの跫音にも、その(二人の婦)にも、著者に取っては、何の不思議も、奇蹟も殆ど神秘らしい思いでのないのが、ものたりない。…… 底本:「文豪怪談傑作選 泉鏡花集 黒壁」ちくま文庫、筑摩書房    2006(平成18)年10月10日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第二十二卷」岩波書店    1940(昭和15)年11月20日第1刷発行 初出:「女性」    1925(大正14)年1月号 ※「拵える」に対するルビの「こしら」と「あつら」の混在は、底本通りです。 ※表題は底本では、「甲乙」となっています。 入力:門田裕志 校正:坂本真一 2017年8月25日作成 2017年9月8日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。