刑余の叔父 石川啄木 Guide 扉 本文 目 次 刑余の叔父      一  一年三百六十五日、投網打の帰途に岩鼻の崖から川中へ転げ落ちて、したたか腰骨を痛めて三日寝た、その三日だけは、流石に、盃を手にしなかつたさうなと不審がられた程の大酒呑、酒の次には博奕が所好で、血醒い噂に其名の出ぬ事はない。何日誰が言つたともなく、高田源作は村一番の乱暴者と指されてゐた。それが、私の唯一人の叔父。  我々姉弟は、「源作叔父様」と呼んだものである。母の肉身の弟ではあつたが、顔に小皺の寄つた、痩せて背の高い母には毫も肖た所がなく、背がずんぐりの、布袋の様な腹、膨切れる程酒肥りがしてゐたから、どしりどしりと歩く態は、何時見ても強さうであつた。扁い、膩ぎつた、赤黒い顔には、深く刻んだ縦皺が、真黒な眉と眉の間に一本。それが、顔全体を恐ろしくして見せるけれども、笑ふ時は邪気ない小児の様で、小さい眼を愈々小さくして、さも面白相に肩を撼る。至つて軽口の、捌けた、竹を割つた様な気象で、甚麽人の前でも胡坐しかかいた事のない代り、又、甚麽人に対しても牆壁を設ける事をしない。  少年等が好きで、時には、厚紙の軍帽やら、竹の軍刀板端の村田銃、其頃流行つた赤い投弾まで買つて呉れて、一隊の義勇兵の為に一日の暇を潰す事もあつた。気が向くと、年長なのを率れて、山狩、川狩。自分で梳いた小鳥網から叉手網投網、河鰺網でも押板でも、其道の道具は皆揃つてゐたもの。鮎の時節が来れば、日に四十から五十位まで掛ける。三十以上掛ける様になれば名人なさうである。それが、皆、商売にやるのではなくて、酒の肴を獲る為なのだ。  妙なところに鋭い才があつて、勝負事には何にでも得意な人であつた。それに、野良仕事一つ為た事が無いけれど、三日に一度の喧嘩に、鍛えに鍛えた骨節が強くて、相撲、力試し、何でも一人前やる。就中、将棋と腕相撲が公然の自慢で、実際、誰にも負けなかつた。博奕は近郷での大関株、土地よりも隣村に乾分が多かつたさうな。  不得手なのは攀木に駈競。あれだけは若者共に敵はないと言つてゐた。脚が短かい上に、肥つて、腹が出てゐる所為なのである。  五間幅の往還、くわツくわと照る夏の日に、短く刈込んだ頭に帽子も冠らず、腹を前に突出して、懐手で暢然と歩く。前下りに結んだ三尺がだらしなく、衣服の袵が披つて、毛深い素脛が遠慮もなく現はれる。戸口に凭れてゐる娘共には勿論の事、逢ふ人毎に此方から言葉をかける。茫然立つてゐる小児でもあれば、背後から窃と行つて、目隠しをしたり、唐突抱上げて喫驚さしたりして、快ささうに笑つて行く。千日紅の花でも後手に持つた、腰曲りの老媼でも来ると、 『婆さんは今日もお寺詣りか?』 『あいさ。暑い事たなす。』 『暑いとも、暑いとも。恁麽日にお前みたいな垢臭い婆さんが行くと、如来様も昼寝が出来ねえで五月蠅がるだあ。』 『エツヘヘ。源作さあ何日でも気楽で可えでヤなあ。』 『俺讃めるな婆さん一人だ。死んだら極楽さ伴れてつてやるべえ。』と言つた調子。  酔つた時でも別段の変りはない。死んだ祖父に当る人によく似たと、母が時々言つたが、底無しの漏斗、一升二升では呼気が少し臭くなる位なもの。顔色が顔色だから、少し位の酒気は見えないといふ得もあつた。徹夜三人で一斗五升飲んだといふ翌朝でも、物言ひが些と舌蕩く聞える許りで、挙動から歩き振りから、確然としてゐた。一体私は、此叔父の蹣跚した千鳥足と、少しでも慌てた態を見た事がなかつた。も一つ、幾何酔つた時でも、唄を歌ふのを聞いた事がない。叔父は声が悪かつた。  それが、怎して村一番の乱暴者かといふに、根が軽口の滑稽に快く飲む方だつたけれど、誰かしら酔ひに乗じて小生意気な事でも言出すと、座が曝けるのを怒るのか、 『馬鹿野郎! 行けい。』 と、突然林の中で野獣でも吼える様に怒鳴りつける。対手がそれで平伏れば可いが、さもなければ、盃を擲げて、唐突両腕を攫んで戸外へ引摺り出す。踏む、蹴る、下駄で敲く、泥溝へ突仆す。制める人が無ければ、殺しかねまじき勢ひだ。滅多に負ける事がない。  それは、三日に一度必ずある。大抵夜の事だが、時とすると何日も何日も続く。又、自分が飲んでゐない時でも、喧嘩と聞けば直ぐ駆出して行つて、遮二無二中に飛込む。  喧嘩の帰途は屹度私の家へ寄る。顔に血の附いてる事もあれば、衣服が泥だらけになつてる事もあつた。『姉、姉、姉。』と戸外から叫んで来て、『俺ア今喧嘩して来た。うむ、姉、喧嘩が悪いか? 悪いか?』と入つて来る。  母は、再かと顔を顰める。叔父は上框に突立つて、『悪いなら悪いと云へ。沢山怒れ。汝の小言など屁でもねえ!』と言つて、『馬鹿野郎。』とか、『この源作さんに口一つ利いて見ろ。』とか、一人で怒鳴りながら出て行く。其度、姉や私等は密接合つて顫へたものだ。 『源作が酒と博奕を止めて呉れると喃!』 と、父はよく言ふものであつた。『そして、少し家業に身を入れて呉れると可えども。』と、母が何日でも附加へた。  私が、まだ遙と稚なかつた頃、何か強情でも張つて泣く様な時には、 『それ、まだ源作叔父様が酔つて来るぞ。』と、姉や母に嚇されたものである。      二  村に士族が三軒あつた。何れも旧南部藩の武家、廃藩置県の大変遷、六十余州を一度に洗つた浮世の波のどさくさに、相前後して盛岡の城下から、この農村に逼塞したのだ。  其一軒は、東といつて、眇目の老人の頑固が村人の気受に合はなかつた。剰に、働盛りの若主人が、十年近く労症を煩つた末に死んで了つたので、多くもなかつた所有地も大方人手に渡り、仕方なしに、村の小児相手の駄菓子店を開いたといふ仕末で、もう其頃──私の稚かつた頃──は、誰も士族扱ひをしなかつた。私は、其店に買ひに行く事を、堅く母から禁ぜられてゐたものである。其理由は、かの眇目の老人が常に私の家に対して敵意を有つてるとか言ふので。  東の家に美しい年頃の娘があつた。お和歌さんと言つた様である。私が六歳位の時、愛宕神社の祭礼だつたか、盂蘭盆だつたか、何しろ仕事を休む日であつた。何気なしに裏の小屋の二階に上つて行くと、其お和歌さんと源作叔父が、藁の中に寝てゐた。お和歌さんは「呀ツ。」と言つて顔をかくした様に記憶えてゐる。私は目を円くして、梯子口から顔を出してると、叔父は平気で笑ひながら、「誰にも言ふな。」と言つて、お銭を呉れた。其翌日、私が一人裏伝ひの畑の中の路を歩いてると、お和歌さんが息をきらして追駈けて来て、五本だつたか十本だつたか、黒羊〓(「羔/((美-大)/人)」)をどつさり呉れて行つた事がある。其以後といふもの、私はお和歌さんが好で、母には内密で一寸々々、東の店に痰切飴や氷糸糖を買ひに行つた。眇目の老人さへゐなければ、お和歌さんは何時でも負けてくれたものだ。  残余の二軒は、叔父の家と私の家。  高田家と工藤家──私の家──とは、小身ではあつたが、南部初代の殿様が甲斐の国から三戸の城に移つた、其時からの家臣なさうで、随分古くから縁籍の関係があつた。嫁婿の遣取も二度や三度でなかつたと言ふ。盛岡の城下を引掃ふ時も、両家で相談した上で、多少の所有地のあつたのを幸ひ、此村に土着する事に決めたのださうな。私の母は高田家の総領娘であつた。  尤も、高田家の方が私の家よりも、少し格式が高かつたさうである。寝物語に色々な事を聞かされたものだが、時代が違ふので、私にはよく理解めなかつた。高田家の三代許り以前の人が、藩でも有名な目附役で、何とかの際に非常な功績をしたと言ふ事と、私の祖父さんが鉄砲の名人であつたと言ふ事だけは記憶えてゐる。其祖父さんが殿様から貰つたといふ、今で謂つたら感状といつた様な巻物が、立派な桐の箱に入つて、刀箱と一緒に、奥座敷の押入に蔵つてあつた。  四人の同胞、総領の母だけが女で、残余は皆男。長男も次男も、不幸な事には皆二十五六で早世して、末ツ子の源作叔父が家督を継いだ。長男の嫁には私の父の妹が行つたのださうだが、其頃は盛岡の再縁先で五人の子供の母親になつてゐた。次男は体の弱い人だつたさうである。其嫁は隣村の神官の家から来たが、結婚して二年とも経たぬに、唖の女児を遺して、盲腸炎で死んだ。其時、嫁のお喜勢さん(と母が呼んでゐた。)は別段泣きもしなかつたと、私の母は妙に恨みを持つてゐたものである。事情はよく知らないが、源作叔父は其儘、嫂のお喜勢さんと夫婦になつた。お政といふ唖の児も、実は源作の種だらうといふ噂も聞いた事がある。  私の物心ついた頃、既に高田家に老人が無かつた。私の家にもなかつた。微かに記憶えてゐる所によれば、私が四歳の年に祖父さんが死んで、狭くもない家一杯に村の人達が来た。赤や青や金色銀色の紙で、花を拵へた人もあつたし、お菓子やら餅やら沢山貰つた。私は珍らしくて、嬉しくつて、人と人との間を縫つて、室から室と跳歩いたものだ。  道楽者の叔父は、飲んで、飲んで、田舎一般の勘定日なる盆と大晦日の度、片端から田や畑を酒屋に書入れて了つた。残つた田畑は小作に貸して、馬も売つた。家の後の、目印になつてゐた大欅まで切つて了つた。屋敷は荒れるが儘。屋根が漏つても繕はぬ。障子が破れても張換へない。叔父の事にしては、家が怎うならうと、妻子が甚麽服装をしようと、其麽事は従頭念頭にない。自分一人、誰にも頭を下げず、言ひたい事を言ひ、為たい事をして、酒さへ飲めれば可かつたのであらう。  それに引代へて私の家は、両親共四十の坂を越した分別盛り、(叔父は三十位であつた。)父は小心な実直者で、酒は真の交際に用ゆるだけ。四書五経を読んだ頭脳だから、村の人の信頼が厚く、承諾はしなかつたが、村長になつて呉れと頼込まれた事も一度や二度ではなかつた。町村制の施行以後、村会議員には欠けた事がない。共有地の名儀人にも成つてゐた。田植時の水喧嘩、秣刈場の境界争ひ、豊年祭の世話役、面倒臭がりながらも顔を売つてゐた。余り壮健でなく、痩せた、図抜けて背の高い人で、一日として無為に暮せない性質なのか、一時間と唯坐つては居ない。何も用のない時は、押入の中を掃除したり、寵愛の銀煙管を研いたりする。田植刈入に監督を怠らぬのみか、股引に草鞋穿で、躬ら田の水見にも廻れば、肥料つけの馬の手綱も執る。家にも二人まで下男がゐたし、隣近所の助勢も多いのだから、父は普通なら囲炉裏の横座に坐つてゐて可いのだけれど、「俺は稼ぐのが何よりの楽だ。」と言つて、露程も旦那風を吹かせた事がない。  随つて、工藤様といへば、村の顔役、三軒の士族のうちで、村方から真実に士族扱ひされたのは私の家一軒であつた。敢て富有といふではないが、少許は貸付もあつた様だし、田地と信用とは、増すとも減る事がない。穀蔵に広い二階立の物置小屋、──其階下が土間になつてゐて、稲扱の日には、二十人近くの男女が口から出放題の戯談やら唄やらで賑つたものだ。庭には小さいながらも池があつて、赤い黒い、尺許りの鯉が十尾も居た。家の前には、其頃村に唯一つの衡門が立つてゐた。叔父の家のは、既に朽ちて了つたのである。  母と叔父とは、齢も十以上違つて居たし、青い面長と扁い赤良顔、鼻の恰好が稍肖てゐた位のものである。背の婷乎とした、髪は少し赤かつたが、若い時は十人並には見えたらうと思はれる容貌。其頃もう小皺が額に寄つてゐて、持病の胃弱の所為か、膚は全然光沢がなかつた。繁忙続きの揚句は、屹度一日枕についたものである。愚痴ぽくて、内気で、苦労性で、何事も無い日でも心から笑ふといふ事は全たくなかつた。わけても源作叔父の事に就いては、始終心を痛めてゐたもので、酔はぬ顔を見る度、何日でも同じ様な繰事を列べては、フフンと叔父に鼻先であしらはれてゐた。見す見す実家の零落して行くのを、奈何ともする事の出来ない母の心になつて見たら、叔父の道楽が甚麽に辛く悲く思はれたか知れない。  恁麽両親の間に生れた、最初の二人は二人とも育たずに死んで、程経て生れた三番目が姉、十五六で、矢張内気な性質ではあつたが、娘だけに、母程陰気ではなかつた。姉の次に二度許り流産が続いたので、姉と私は十歳違ひ。      三  記憶は至つて朧気である。が、私の両親は余り高田家を訪ふ事がなかつた様である。叔父だけは毎日の様に来た。叔母も余り家を出なかつた。  私は五歳六歳の頃から、三日に一度か四日に一度、必ず母に呍吩かつて、叔父の家に行つたものである。餅を搗いても、団子を拵へても、五目鮨を炊いても、母は必ず叔父の家へ分けて遣る事を忘れない。或時は裏畑から採れた瓜や茄子を持つて行つた。或時は塩鮭の切身を古新聞に包んで持つて行つた。又或時は、姉と二人で、夜になつてから、五升樽に味噌を入れて持つて行つた事もある。下男に遣つては外聞が悪いと、母が思つたのであらう。  私は、叔父の家へ行くのが厭で厭で仕様がなかつた。叔父が居さへすれば何の事もないが、大抵は居ない。叔母といふ人は、今になつて考へて見ても随分好い感じのしない女で、尻の大きい、肥つた、夏時などは側へ寄ると臭気のする程無精で、挙動から言葉から、半分眠つてる様な、小児心にも歯痒い位鈍々してゐた。毛の多い、真黒な髪を無造作に束ねて、垢染みた衣服に細紐の検束なさ。野良稼ぎもしないから手は荒れてなかつたけれど、踵は嘗て洗つた事のない程黒い。私が入つて行くと、 『謙助(私の名)さんすか?』 と言つて、懈さうに炉辺から立つて来て、風呂敷包みを受取つて戸棚の前に行く。海苔巻でも持つて行くと、不取敢それを一つ頬張つて、風呂敷と空のお重を私に返しながら、 『お有難う御座んすてなツす。』 と懶げに言ふのである。愛想一つ言ふでなく、笑顔さへ見せる事がなかつた。  顴骨の高い、疲労の色を湛へた、大きい眼のどんよりとした顔に、唇だけが際立つて紅かつた。其口が例外れに大きくて、欠呻をする度に、鉄漿の剥げた歯が醜い。私はつくづくと其顔を見てゐると、何といふ事もなく無気味になつて来て、怎うした連想なのか、髑髏といふものは恁麽ぢやなからうかと思つたり、紅い口が今にも耳の根まで裂けて行きさうに見えたりして、謂ひ知れぬ悪寒に捉はれる事が間々あつた。  古い、暗い、大きい家、障子も襖も破れ放題、壁の落ちた所には、漆黒に煤けた新聞紙を貼つてあつた。板敷にも畳にも、足触りの悪い程土埃がたまつてゐた。それも其筈で、此家の小児等は、近所の百姓の子供と一緒に跣足で戸外を歩く事を、何とも思つてゐなかつたのだ。納戸の次の、八畳許りの室が寝室になつてゐたが、夜昼蒲団を布いた儘、雨戸の開く事がない。妙な臭気が家中に漂うてゐた。一口に謂へば、叔父の家は夜と黄昏との家であつた。陰気な、不潔な、土埃の臭ひと黴の臭ひの充満たる家であつた。笑声と噪いだ声の絶えて聞こえぬ、湿つた、唖の様な家であつた。  その唖の様な家に、唖の児の時々発する奇声と、けたたましい小児等の泣声と、それを口汚なく罵る叔母の声とが、折々響いた。小児は五人あつた。唖のお政は私より二歳年長、三番目一人を除いては皆女で、末ツ児は猶乳を飲んでゐた。乳飲児を抱へて、大きい乳房を二つとも披けて、叔母が居睡してる態を、私はよく見たものである。  五人の従同胞の中の唯一人の男児は、名を巡吉といつて、私より年少、顳顬に火傷の痕の大きい禿のある児であつたが、村の駐在所にゐた木下といふ巡査の種だとかいふので、叔父は故意と巡吉と命名けたのださうな。其巡吉は勿論、何の児も何の児も汚ない扮装をしてゐて、頸から手足から垢だらけ。私が行くと、毛虫の様な頭を振立てゝ、接踵出て来て、何れも母親に肖た大きい眼で、無作法に私を見ながら、鼻を顰めて笑ふ奴もあれば、「何物持つて来たべ?」と問ふ奴もある。お政だけは笑ひもせず物も言はなかつた。私は小児心にも、何だか自分の威厳を蹂躙られる様な気がして、不快で不快で耐らなかつた。若しかして叔母に、遊んで行けとでも言はれると、不承不承に三分か五分、遊ぶ真似をして直ぐ遁げて帰つたものだ。  私の母は、何時でも「那麽無精な女もないもんだ。」と叔母を悪く言ひながら、それでも猶何に彼につけて世話する事を、怠らなかつた。或時は父に秘してまでも実家の窮状を援けた。  時としては、従同胞共が私の家へ遊びに来る。来るといつても、先づ門口へ来て一寸々々内を覗きながら彷徨してゐるので、母に声を懸けられて初めて入つて来る。其都度、私は左右と故障を拵へて一緒に遊ぶまいとする。母は憐愍の色と悲哀の影を眼一杯に湛へて、当惑気に私共の顔を等分に瞰下すのであつたが、結局矢張私の自由が徹つたものである。  叔父は滅多に家に居なかつた。飲酒家の癖で朝は早起であつたが、朝飯が済んでから一時間と家にゐる事はない。夜は遅くなつてから酔つて帰る。叔母や従同胞等は日が暮れて間もなく寝て了ふのだから、酔つた叔父は暗闇の中を手探り足探りに、己が臥床を見つけて潜り込むのだつたさうな。時としては何処かに泊つて家へは帰らぬ事もあつたと記憶えてゐる。そして、日がな一日、塵程の屈托が無い様に、陽気に物を言ひ、元気に笑つて、誰に憚る事もなく、酒を呑んで、喧嘩をして、勝つて、手当り次第に女を弄んで、平然としてゐた。叔父は、叔母や従同胞共を愛してゐたとは思はれぬ。叔母や従同胞共も亦、叔父を愛してはゐなかつた様である。さればといつて、家にゐる時の叔父は、矢張平然としたもので、別段苦い顔をしてるでもなかつた。      四  時として、叔父は三日も四日も、或は七日も八日も続いて、些とも姿を見せぬ事があつた。其麽事が、収穫後から冬へかけて殊に多かつた様である。  飄然と帰つて来ると、屹度私に五十銭銀貨を一枚宛呉れたものである。叔父は私を愛してゐた。  加之、其麽時は、何処から持つてくるものやら、鶏とか、雉子とか、鴨とか、珍らしい物を持つて来て、手づから料理して父と一緒に飲む。或年の冬、ちらちらと雪の降る日であつたが、叔父は例の如く三四日見えずにゐて、大きい雁を一羽重さうに背負つて来た事がある。父も私も台所の入口に出てみると、叔父は其雁を上框の板の上に下して、 『今朝隣村の鍛冶の忰の奴ア、これ二羽撃つて来たで、重がつけども一羽背負つて来たのせえ。』 と母に言つて、額の汗を拭いてゐた。 『大ぎな雁だ喃。』 と父は驚いて、鳥の首を握つて持上げてみた。私の背の二倍程もある。怖る〳〵触つて見ると、毛が雪に濡れてゐるので、気味悪く冷たかつた。横腹のあたりに、一寸四方許り血が附いてゐたので、私は吃驚して手を引いた。鉄砲弾の痕だと叔父は説明して、 『此方にもある。これ。』と反対の脇の羽の下を見せると、成程其所にも血があつた。 『五匁弾だもの。恁う貫通されでヤ人だつて直ぐ死んで了ふせえ。』  人だつて死ぬと聞いて、私は妙な身顫を感じた。  軈て父は廻状の様なものを書いて、下男に持たしてやると、役場からは禿頭の村長と睡さうな収入役、学校の太田先生も、赧顔の富樫巡査も、皆莞爾して遣つて来て、珍らしい雁の御馳走で、奥座敷の障子を開け放ち、酔興にも雪見の酒宴が始まつた。  其時も叔父は、私にお銭を呉れる事を忘れなかつた。母は例の如く不興な顔をして叔父を見てゐたが、四周に人の居なくなつた時、 『源作や。』と小声で言つた。 『何せえ?』 『お前、まだ善くねえ事して来たな?』と怨めしさうに見る。 『可えでば、黙つてるだあ。』 『そだつてお前、過般も下田の千太爺の宅で、巡査に踏込まれて四人許り捕縛られた風だし、俺ア真に心配で……』 『莫迦な。』 『何ア莫迦だつて? 家の事も構ねえで、毎日飲んで博つて許りゐたら、高田の家ア奈何なるだべサ。そして万一捕縛られでもしたら……』 『何有、姉や心配無えでヤ。何の村さ行つたて、俺の酒呑んでゐねえ巡査一人だつて無えがら。』 『そだつてお前……』 『可えでヤ。』と言つた叔父の声は稍高かつた。『それよりや先づ鍋でも掛けたら可がべ。お静ツ子(私の姉)、徳利出せ、徳利出せ。俺や燗つけるだ。折角の雁汁に正宗、綺麗な白い手でお酌させだら、もつと好がべにナ。』と一人で陽気になつて、三升樽の口栓の抜けないのを、横さまに拳で擲つてゐた。  母は気が弱いので、既う目尻を袖口で拭つて、何か独りで囁嚅呟しながら、それでも弟に呍吩けられたなりに、大鍋をガチヤ〳〵させて棚から下してゐた。それを見ると私は、妙に母を愍む様な気持になつて、若し那麽事を叔父の顔を見る度に言つて、万一叔父が怒る様な事があつたら、母は奈何する積りだらうと、何だか母の思慮の足らないのが歯痒くて、それよりは叔父が恁うして来た時には、口先許りでも礼を言つて喜ばせて置いたら可からう、などと早老た事を考へてゐた。それと共に、母の小言などは屁とも思はぬ態度やら、赤黒い顔、強さうな肥つた体、巡査、鉄砲、雁の血、などが一緒になつて、何といふ事もなく叔父を畏れる様な心地になつた。然しそれは、酒を喰ひ、博奕をうち、喧嘩をするから畏れるといふのではなく、其時の私には、世の中で源作叔父程豪い人がない様に思はれたのだ。土地でこそ左程でもないが、隣村へでも行つたら、屹度衆人が叔父の前へ来て頭を下げるだらう。巡査だつて然うに違ひない。時々持つて来る鶏や鴨は、其巡査が帰りの土産に呉れてよこしたのかも知れぬ。今朝だつて、鍛冶の忰といふ奴が、雁を二羽撃つて来た時、叔父が見て一羽売らないかと言ふと、「お前様ならタダで上げます。」と言つて、怎うしてもお銭を請取らなかつただらう、などと、取留もない事を考へて、畏る畏る叔父を見た。叔父は、内赤に塗つた大きい提子に移した酒を、更に徳利に移しながら、莞爾いた眼眸で眤と徳利の口を瞶めてゐた。      五  巡吉の直ぐ下の妹(名前は忘れた。)が、五歳許りで死んだ。三日許り病んで、夜明方に死んだので何病気だつたか知らぬが、報知の来たのは、私がまだ起きないうちだつた。父は其日一日叔父の家に行つてゐた。夕方になつて、私も母に伴れられて行つた。 (未完) 〔生前未発表・明治四十一年七月稿〕 底本:「石川啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房    1978(昭和53)年10月25日初版第1刷発行    1986(昭和61)年12月15日初版第6刷発行 ※生前未発表、1908(明治41)年5~6月執筆のこの作品の本文を、底本は、市立函館図書館所蔵啄木自筆原稿によっています。 入力:林 幸雄 校正:川山隆 ファイル作成: 2008年10月21日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。