白花の朝顔 泉鏡花 Guide 扉 本文 目 次 白花の朝顔 一 二 三 四 五 六 七 八 一 「あんた、居やはりますか。」  ……唄にもある──おもしろいのは二十を越えて、二十二のころ三のころ──あいにくこの篇の著者に、経験が、いや端的に体験といおう、……体験がないから、そのおもしろいのは、女か、男か。勿論誰に聞かしても、この唄は、女性の心意気に相違ないらしいが、どんなのを対手にした人情のあらわし方だか、男勝手にはちょっときめにくい。ただしどう割引をした処で、二十二三は女盛り……近ごろではいっそ娘盛りといって可い。しかも著者なかま、私の友だち、境辻三によって話された、この年ごろの女というのは、祇園の名妓だそうである。  名妓? いかなるものぞ、と問われると、浅学不通、その上に、しかるべき御祝儀を並べたことのない私には、新橋、柳橋……いずくにも、これといって容式をお目に掛ける知己がない。遠いが花の香と諺にもいう、東京の山の手で、祇園の面影を写すのであるから、名妓は、名妓として、差支えないであろう。  また、何がゆえに、浅学不通まで打ちまけて、こんな前書をするかといえば、実はその京言葉である。すなわち、読みはじめに記した「あんた、いやはりますか。」──は、どう聞いても、祇園の芸妓、二十二、三の、すらりと婀娜な別嬪のようじゃあない。おのぼりさんが出会した旅宿万年屋でござる。女中か、せいぜいで──いまはあるか、どうか知らぬ、二軒茶屋で豆府を切る姉さんぐらいにしか聞えない。嫋音、嬌声、真ならず。境辻三……巡礼が途に惑ったような名の男の口から、直接に聞いた時でさえ、例の鶯の初音などとは沙汰の限りであるから、私が真似ると木菟に化ける。第一「あんた、居やはりますか。」さて、思うに、「あの、居なはるか。」とおとずれたのだか、それさえ的確ではないのだそうであるから、構わず、関東の地声でもって遣つける。  谷の戸ではない、格子戸を開けたときの、前記の声が「こんちは、あの……居らっしゃいますか。」と、ざっとかわるのであることを、諸賢に御領承を願っておいて……  わが、辻三がこの声を聞いたのは、麹町──番町も土手下り、湿けた崖下の窪地の寒々とした処であった。三月のはじめ、永い日も、午から雨もよいの、曇り空で、長屋建の平屋には、しかも夕暮が軒に近い。窓下の襖際で膳の上の銚子もなしに──もう時節で、塩のふいた鮭の切身を、鱧の肌の白さにはかなみつつ、辻三が……  というものは、ついその三四日以前まで、ふとした事から、天狗に攫われた小坊主同然、しかし丈高く、面赤き山伏という処を、色白にして眉の優い、役者のある女形に誘われて、京へ飛んだ。初のぼりだのに、宇治も瀬田も聞いたばかり。三十三間堂、金閣寺、両本願寺の屋根も見ず知らず、五条、三条も分らずに、およそ六日ばかりの間というもの、鴨川の花の廓に、酒の名も、菊、桜。白鶴、富久娘の膏を湛えた、友染の袖の池に、錦の帯の八橋を、転げた上で泳ぐがごとき、大それた溺れよう。肝魂も泥亀が、真鯉緋鯉と雑魚寝とを知って、京女の肌を視て帰って、ぼんやりとして、まだその夢の覚めない折から。……  無理もない、冷飯に添えた塩鮭をはかなむのは。……時に、膳の上に、もう一品、惣菜の豆の煮たやつ。……女難にだけは安心な男にも、不思議に女房は実意があるから、これはそこらの、あやしげな煮豆屋が、あんぺらの煮出しを使った悪甘いのではない。砂糖を奢って、とろりと煮込んで、せっせと煽いで、つやみを見せた深切な処を、酔覚の舌の尖に甘く染まして、壁にうつる影法師も冷たそうに縮んだ処へ。  ころころと格子が開いた。取次の女中へ何かいう、浅間な住居で、手に取るような、その「あんたはん、居やはりますか。」訳して、「こんちは、あの、居らっしゃいますか。」のそれだったのだそうである。 二 「京の祇園と、番町の土手下──いや、もうちっと──半道ばかり近いのです。大勢の中で、その芸妓──お絹というんです──その女が、京都駅まで、九時何十分かの急行を、見送りに来てくれたんだから。……それにしても少々遠過ぎますね。──声を聞いて、すぐそのお絹だ、と思ったのは。  しかし事実なんです。 (やあ、これは珍客。)  とか、大きな声して、いきなり、箸をおくと、件の煮豆を一つ、膳の上へ転がしながら、いきなり立上って中縁のような板敷へ出ましたから。……鵯が南天燭の実、山雀が胡桃ですか、いっそ鶯が梅の蕾をこぼしたのなら知らない事──草稿持込で食っている人間が煮豆を転がす様子では、色恋の沙汰ではありません。──それだのに……」  境辻三は、串戯ではなさそうに、真顔になっていったのである── 「しかし、またあらためて、お絹のその麗しさというものは。──(お危うございます、ここは暗いんでございますから。)おいそれものの女中めが、のっけのその京言葉と、朱鷺色の手絡、艶々した円髷、藤紫に薄鼠のかかった小袖の褄へ、青柳をしっとりと、色の蝶が緑を透いて、抜けて、ひらひらと胸へ肩へ、舞立ったような飛模様を、すらりと着こなした、長襦袢は緋に総染の小桜で、ちらちらと土間へ来た容子を一目、京都から帰ったばかりの主人が旅さきの知己、てっきり溶けるものと合点して、有無を部屋へ聞かないさきから、すぐこうお通りはいいのですが、口上が癪ですよ。(真暗ですから。)が、仕方がない、押付け仕事の安普請で、間取りに無理がありますから、玄関の次が暗いのです。いきなり手を曳いて連れ込んだ、そのひき方がそそっかし屋で荒いので、私と顔を会わせた時は、よろけ加減で、お絹の顔が、ほんのりとなって、その長襦袢のしなやかな裳をこぼれた姿は、脊は高し、天井の黒い雲から糸桜がすらすらと枝垂れたようで、いや、どうも……祇園の空から降って来たかと思われました。  ──時に、重ねていうようですが、三月のはじめです。三月といえば弥生です。桜は季節でありますけれども、まだどこにも咲いてはいません。ところが、どうした事か、これから、宵、夜、夜中に掛けて、話を運びます、春木町の、その頃の本郷座。上野の山内、清水の観音堂。鶯谷という順に、その到る処、花が咲いていたように思います。唯今も、目に見えて、桜に包まれるようですが、実は、こんな事は、今まで、誰にも片端も饒舌ったことはありませんから、いつも一人で、咲満ちた花の中にいた気だったのですけれども、あなたに。」  著者に、いうのである。 「三月、と口にしますと同時に、ふと気がつくと、彼岸ずっと前で、まだ桜は咲きません。が、それからお絹を連れて行きました、本郷座の芝居が、ちょうど祇園の夜桜、舞台一面の処へぶつかりましたし、続いて上野でも、鶯谷でも、特に観世音の御堂では、この妓と、花片が颯と微酔の頬に当るように、淡い薫さえして、近々と、膝を突合わせたような事がありましたから、色の刺激で、欄干近い、枝も梢も、ほの紅かったのだろうと思われます。  ところで──芝居行です。が、どの道、糸錦の帯で押立よく、羽織はなしに居ずまいも端正としたのを、仕事場の机のわきへ据えた処で、……おなじ年ごろの家内が、糠味噌いじりの、襷をはずして、渋茶を振舞ってみた処で、近所の鮨を取った処で、てんぷら蕎麦にした処で、びん長鮪の魚軒ごときで一銚子といった処で、京から降って来た別嬪の摂待らしくはありません。京では、瓢亭だの、西石垣のちもとだのと、この妓が案内をしてくれたのに対しても、山谷、浜町、しかるべき料理屋へ、晩のご飯という懐中はその時分なし、今もなし、は、は、は、笑ったって、ごまかせない。 (おつれは?)  ただ一人で訪ねて来て、目の前に斜に坐っている極彩色に、連を聞いたも変ですが、先方の稼業が稼業ですから。……なぞといって、まじくないながら、とつおいつのうち、お絹が、四五人で客に連れられて来たのだけれど、いまは旅館に一人で残った…… (早う、あんたはんの許へ来とうて、来とうてな。)  いよいよ、天麩羅では納まらない。思いついたのが芝居です。  で、本郷に出ているのは、箕原路之助──この友だちが、つい前日まで、祇園で一所だったので、四条の芝居を打上げた一座が、帰って来て、弥生興行の最中だとお思い下さい。 (……すぐ出掛けましょう、御婦人には芝居と南瓜が何よりの御馳走だ。)  馬鹿も通越した、自棄な言句を切出して、 (ご贔屓の路之助が出ています。)  役者を贔屓とさえいっておけば間違いはないものの──その実、祇園にいたうちに、五人、八人、時には十人にも余って、その六日ばかりの間、時々出入り交代はあっても、ほとんど同じ顔の芸妓舞子が、寝る、起きる、飲む、唄う。十一時ごろに芝居のはねるのを宵の口にして、あけ方の三時四時まで続くんでしょう。雑魚寝の女護の島で、宿酔の海豹が恍惚と薄目を開けると、友染を着た鴎のような舞子が二三羽ひらひらと舞込んで、眉を撫でる、鼻を掴む、花簪で頭髪を掻く、と、ふわりと胸へ乗って、掻巻の天鵞絨の襟へ、笹色の唇を持って行くのがある。……いいえ、その路之助のですよ。女形の。……しかも同じ衾の左右には、まくれたり、はだかったり、白い肌が濡れた羽衣に包まれたようになって、紅の閨の寝息が、すやすやと、春風の小枕に小波を寄せている。私はただ屏風の巌に、一介の栄螺のごとく、孤影煢然として独り蓋を堅くしていた。とにかくです、昼夜とも、その連中に、いまだかつて、顔を見せなかったのが、お絹なんです。  ──晩には、東京へ帰ろうとする朝でした。旅馴れないので、何となく心が急きます。早めに起きた右の栄螺が、そっと蓋をあけて、恐る恐る朝日に映る寝乱れた浮世絵を覗きながら、二階を下りて、廊下を用たしに行く途中、一段高く、下へ水は流れませんが、植込の冷い中に、さらさらと筧の音がして、橋づくりに渡りを架けた処があった。  そこに、女中……いや、中でも容色よしの仲居にも、ついぞ見掛けたことのないのが、むぞうさな束髪で、襟脚がくっきり白い。大島絣に縞縮緬の羽織を着たのが、両袖を胸に合せ、橋際の柱に凭れて、後姿で寂しそうに立っている。横顔をちらりと視て通る時、東山の方から松風が吹込んだように思いました。──これが、お絹だったのです。  あとで聞くと、病気で休んでいて、それまでの座敷へは出なかった。髪を洗ったのもやっと昨日で、珍らしい東の客が、今日帰る、と聞いたので、急いで来たが、まだ皆夜中らしいから、遠慮をしていたのだというのが分りました。けれども、顔を洗って、戻るのに、まだおなじところに、おなじ姿を見ると、ちょっと二間ばかりの橋が、急にすらすらと長く伸びて、宇治か、瀬田か、昔話の長橋の真中にただ一人怪しい婦が、霞に彳んだようですから、気をはっきりと、欄干を伝うところを、 (目々、覚めてどすか。)  と清しい目で、ちょっと見迎えて、莞爾したではありませんか。私は冷りとしました。第一、目々が覚めたという柄じゃない、洗って来い、という面です。  閑静だから、こっちへ──といって、さも待設けてでもいたように、……疏水ですか、あの川が窓下をすぐに通る、離座敷へ案内をすると、蒲団を敷かせる。乗ったんですが、何だか手玉に取られた形で、腰が浮くと、矢の流れで危いくらい。が、きっぱりと目の覚めた処で、お手ずから、朝茶を下さる。 (姉さんは、娘はんですか、此楼の……)  いやな野郎で、聞覚えの京言葉を、茶の子でなしに噛りましたが、娘か、と思ったほど、人がらが勝っている。……  通力自在、膳も盃洗もすぐ出る処へ、路之助が、きちんと着換えて入って来て、鍋のものも、名物の生湯葉沢山に、例の水菜、はんぺんのあっさりした水煮で、人まぜもせず、お絹が──お酌。 (ずッと見物をおしやしたか。)  宇治は、嵯峨は。──いや、いや、南禅寺から将軍塚を山づたいに、児ヶ淵を抜けて、音羽山清水へ、お参りをしたばかりだ、というと、まるで、御詠歌はんどすな、ほ、ほ、ほ、と笑う。  路之助が、 (その癖、お絹さん、お前さんの好きそうな処ばかりだぜ。……境さん──この人は、まだ休んでいて隙ですから、そこいら、御案内をしようというのですが、どうかすると、神社仏閣、同行二人の形になりかねませんよ。) (巡礼結構。同行二人なら野宿でもかまいません。) (ほ、ほ、ほ、よういわんわ。)  御免下さい。……だから言わないことではない。もうこの辺の、語義の活法が覚束ない。  が、串戯ではありません、容色、風采この人に向って、つい(巡礼結構)といった下に、思わず胸のせまることがあったのです。──  ですから、嵯峨へ、宇治へというのを断って、朝出ると、すぐ三十三間堂。社もうで、寺まいり。何にしろ食ったものさえ、水菜と湯葉です。あの、鍋からさらさらと立った湯気も、如月の水を渡る朝風が誘ったので、霜が靡いたように見えた、精進腹、清浄なものでしょう。北野のお宮。壬生の地蔵。尊かったり、寂しかったり。途中は新地の赤い格子、青い暖簾、どこかの盛場の店飾も、活動写真の看板も、よくは見ません。菜畠に近い場末の辻の日溜りに、柳の下で、鮒を売る桶を二人で覗いて、 (みんな、目あいていやはるな。)  といった、お絹の目が鯉の目より濡々としたのが記憶にある……といった見物で。──帰途は、薄暮を、もみじより、花より、ただ落葉を鴨川へ渡したような──団栗橋──というのを渡って、もう一度清水へ上ったのです。まだ電燈にはならない時分、廻廊の燈籠の白い蓮華の聯なったような薄あかりで、舞台に立った、二人の影法師も霞んで高い。……  暗い磴の幽な底に、音羽の滝の音を聞いた時は、 松風に音羽の滝の清水を   むすぶ心やすずしかるらん  地唄の三味線は、耳に消えて、御詠歌の声をさながらに聞きますと──はてな、なぜか今朝、起きぬけに、祇園の茶屋の橋がかりで筧の音のした時と、お絹の姿も同じようで、一日を夢に見たように思いましたが──  ──更に、日もおかず、お絹が土手番町へ訪ねて来た、しかもその夜、上野の清水の御堂の舞台に、おなじように、二人で立つ事になったんです──  音羽のその時は、風情がいいから、もう一度、団栗橋を渡り返した、京洛中と東山にはさまって、何だか、私どもは小さな人形同然、笹舟じゃあない、木の実のくりぬきに乗って、流れついた気がします──  そうですよ、宿は西石垣のなにがし屋に取ってあったのですが、宿では驚いていたでしょう。路之助の馳走になりつづけで、おのぼりの身は藻抜の殻で、座敷に預けたのが、擬更紗の旅袋たった一つ。  しわす、晦の雪の夜に、情の宿を参らせた、貧家の衾の筵の中に、旅僧が小判になっていたのじゃない。魔法妖術をつかうか知らん、お客が蝦蟆に変じた形で、ひょこんと床間に乗っている。  お絹が引添っての、心づけでは、電話で、もう路之助から、ここの勘定は済んでいる。まだ、それよりも、お恥かしいやら、おかしいのは。…… (──お絹さん、その手提袋ですがね、中味が緊張しておりません、張合のないせいか、紐が自から、だらりとして、下駄のさきとすれすれに袋が伸びていたそうで。京都へ着いた時迎いに来てくれました、路之助の番頭と一所だった年増の芸妓が、追って酒宴の時、意見をしてくれましたよ。あれは見っともない、先陣の源太はんやないけど、腹帯が弛んだように見える……といってね。) (ほんに、私も、東の方贔屓どす……しっかりとあんじょうに……)  ──細い指であやつッて、あ、着換を畳もう、という、待遇振。ですが、何にもない。着のみ、着のままで、しゃんと結ばると袋はぺしゃんこ。そいつを袖で抱いて、さ、晩のご飯を近所のちもとへ、と立たれたのには、懐中もぺしゃんこです。  これも路之助の心づけで、ちゃんと席を取って支度が出来ていて、さしむかいで、酒になった処へ、芝居から使の番頭、姓氏あり。津山彦兵衛とちょっとお覚え下さい。 (──すぐ、あとで、本郷座の前茶屋へ顔を出しますから──)  花柳界の総見で、楽屋は混雑の最中、おいでを願ってはかえって失礼。お送りをいたすはずですが、ちょうど舞台になりますから。……縞の羽織、前垂掛だが、折目正しい口上で、土産に京人形の綺麗な島田と、木菟の茶羽の練もの……大贔屓の鳥で望んだのですが、この時は少々擽ったかった。やがて、その京人形に、停車場まで送られて、木菟が。……夜汽車で飛ぶ。」…… 三 「いらっしゃいまし、ようこそ。──路之助も一度お伺い申したいと、いいいい、帰京早々稽古にかかって、すぐに、開けたものでございますから、つい失礼を。……今日はまたどうも難有う存じます。」 「御挨拶で恐縮ですよ。津山さん。私こそ、京都で、あんなにお世話になって。──すぐにもお礼かたがたお訪ね申さなければならなかったのですが、ご存じの、貧乏稼ぎにかまけましてね。」 「なぞとおっしゃる。……は、は、は。」  と笑いを手で蓋して、軽く咳した。小肥りにがっしりした年配が、稼業で人をそらさない。 「まったくですよ。ところでですね。ぶちまけた話ですが、万事、ちっとでも、楽屋の方で御心配を下さらないように──実は売場で切符を買ってと思いましたがね。」 「そんな水臭いことを……ご串戯で。」 「いや、ご馳走は、ご馳走。見物は見物です。実は、この京人形。」  お絹が上品な円髷で、紫仕立の柳褄、茶屋の蒲団に、据えたようにいるのです。 「たしか、今度の二番目の外題も、京人形。」 「序幕が開いた処でございまして、お土産興行、といった心持でござんしてな。」 「そのお土産をね、津山さん、……本箱の上へ飾ってある処へ……でしょう。……不意でしょう。まるで動いて出たようでしょう。並んでいる木菟にも、ふらふらと魂が入ったから、羽ばたいて飛出したと──お大尽づきあいは馴れていなさるだろうから、一つ、切符で見ようじゃありませんか、というと、……嬉しい、といって賛成は、まことに嬉しい。当方立処に懐中が大きくなった。」 「は、は、は。」  と蓋して、軽く笑う。津山の懐中の方が余程大きい。 「木戸へ差しかかると満員、全部売切れ申候だから、とにかく、連中で来て、一二度知ってるので、こちらに世話を掛けたんですが、つれがつれです、快よくあしらってはくれましたけれども、何分にも、ぎっしりで、席は一つもないというんで、止むを得ず……悪く思わないで下さい……まったく止むを得ず、茶屋から、楽屋へ声を掛けてもらったんですから。しかし、大入で、何より結構。」 「お庇様で、ここん処、ずっと売切っております。いえ、お場所は出来ます。いえ、決して無理はいたしません。そのかわり、他様と入込みで、ご不承を願うかも知れません。今日の処は、ほんの場の景気をお慰みだけ、芝居は更めてお見直しを願いとうございますので。……つきましては、いずれ楽屋へもお供をいたしますが、そのおつれ様……その、京人形様。──は、は、は──の処は、何にもおっしゃらず、ご内分に。──いえ、あなた様のおつれでございますから、仔細はないのでございますがな、この役者なかまと申しますものは、何かとそのつきあいがまた……煩いのでして、……京から芸妓はんが路之助を追駈けて逢いに来たわ、それ蕎麦だ……などと申すわけで、そうでもないのに、何かと物騒、は、は、は。」  両三度、津山の笑いは、ここで笑うのにあらかじめ用意をしたらしいほど、式のごとく、例の口許をおさえて、黙然を暗示しながら、目でおどけた。 「……は、は、は、と申すわけで。お含みを。──ああ、八さん、お茶を入れかえて……そう、宜しい。何、ぼくにか、はて、忙しい。は、は、は。いやいずれ今ほど。──お場所が出来ましたそうでございますから。」  膝で辷って、津山が立つのと入交って、男衆が階子段の口でお辞儀をして、 「では、ご見物を。」 「心得た。」  見ますとね、下の店前に、八角の大火鉢を、ぐるりと人間の巌のごとく取巻いて、大髻の相撲連中九人ばかり、峰を聳て、谷を展いて、湯呑で煽り、片口、丼、谷川の流れるように飲んでいる。……何しろ取込んで忙しそうだ、早いに限ると、外套を脱いだ身軽です。いきなり下りると、 「へい、行ってらっしゃいまし。」  帳場で女の声がしたかしないに、 「危い!」  わッと響くのが一斉で、相撲が四五人どッと立った。いずれも大ものですから、屋鳴り震動の中に、幽に、トンと心細い音が、と見ると、お絹のその姿が階子段の上から真横になって、くるくるトトトン、褄がばッと乱れて、白い脛、いや、祇園での踊手だと聞く、舞で鍛えた身は軽い、さそくの躾みで前褄を踏みぐくめた雪なす爪先が、死んだ蝶のように落ちかかって、帯の糸錦が薬玉に飜ると、溢れた襦袢の緋桜の、細な鱗のごとく流れるのが、さながら、凄艶な白蛇の化身の、血に剥がれてのた打つ状して、ほとんど無意識に両手を拡げた、私の袖へ、うつくしい首が仰向けになって胸へ入り、櫛笄がきらりとして、前髪よりは、眉が芬と匂うんです。そのまま私の首筋に、袖口が熱くかかったなり、抱き据えて、腰をたてにしたまで、すべて、息を吐く隙がない。息を吐く隙がありません。  土俵が壊れたような、相撲の総立ちに、茶屋の表も幟を黒くした群衆でしょう。雪は降りかかって来ませんが、お七が櫓から倒に落ちたも同然、恐らく本郷はじまって以来、前代未聞の珍事です。  あまりの事に、寂然とする、その人立の中を、どう替草履を引掛けたか覚えていません。夢中で、はすに木戸口へ突切りました。お絹は、それでも、帯も襟もくずさない。おくれ毛を、掛けたばかりで、櫛もきちんと挿っていましたが、背負上げの結び目が、まだなまなまと血のように片端垂って、踏みしめて裙を庇った上前の片褄が、ずるずると地を曳いている。  抱いて通ったのか、絡れて飛んだのか、まるで現で、ぐたりと肩に凭っかかったまま、そうでしょう……引息を吻と深く、木戸口で、 「ああ、お婿はん。」……  と泣くようにいった。生死の最中、洒落どころではないのですが、これは京都で、連中が、女形の客だというので(お婿はん、お婿はん。)と私を、からかったのが、つい出ました。 「……わて、もう、死ぬるか思うた。」  と、目が澄んで、熟と視て、颯と顔色が蒼ざめたんです。 「あんたはんに恥を掻かせた、済まんなあ、……生命の親え。」 「…………」 「二階を下りしなに、何や暗うなって、ふらふらと目がもうて、……まあ、私、ほんに、あの中へ落ちた事なら手足が断れる。」  という声も、小刻みで東へ廻る。茶屋の男は木戸口に待っていたが、この上極りを悪がらせまい用心で、見舞もいわない、知らん顔で……ぞろぞろついて来た表口の人だかりを、たッつけを穿いた男が二人、手を挙げて留めているのが見えました。  そッと屈んで、 「へい、こちらへ。」──  土間、桟敷、二、三階、ぎっしり一杯。成程、やっと都合がついたのだと見えて、四人詰めに、上下大島ずくめなのと、背広の服のと、しかるべき紳士が二人いましたが、これが、そのまま、腰に瓢箪でもつけていそうな、暖簾も、景気燈も、お花見気分、紅い靄が場内一面。舞台は、切組、描割で引包んだ祇園の景色。で、この間、枝ぶりを見て返ったばかりの名木の車輪桜が、影の映るまで満開です。おかしい事には、芸妓、舞妓、幇間まじり、きらびやかな取巻きで、洋服の紳士が、桜を一枝──あれは、あの枝は折らせまい、形容でしょう。──もう一人、富豪──成金らしい大島揃が、瓢箪をさげている。  一つ桟敷──東のずっと末でした──その妙に、同じような先客が、ふと気がさしたと見えて──挨拶をした時は、ふり向きもしなかったのが──お絹をこの時見返って、愕然とした様子です。……  ところで、何でも、その桜の枝と、瓢箪が、幇間の手に渡るのをきっかけに、おのおの賑やかなすて台辞で、しも手ですか、向って右へ入ると、満場ただ祇園の桜。 花咲かば告げ    むといいし山寺の……  ここの合方は、あらゆる浄瑠璃、勝手次第という処を、囃子に合わせて謡が聞える。 使は来たり馬    に鞍、鞍馬の山のうず桜…… 「牛若の仮装ででも出ますかね、私は大の贔屓です。」  恥ずべし、恥ずべし。……式亭三馬嘲る処の、聾桟敷のとんちきを顕わすと、 「路之助はんが、出やはるやろ。」  お絹の方が知っている。ただしこの様子では、胸も痛めず、怪我はしない。  しゃり、り、揚幕。艶麗にあらわれた、大どよみの掛声に路之助扮した処の京の芸妓が、襟裏のあかいがやや露呈なばかり、髪容着つけ万端。無論友染の緋桜縮緬。思いなしか、顔のこしらえまで、──傍にならんだのとそっくりなのに、聾桟敷一驚を吃する処に、一度姿を消した舞妓が一人、小走りに駆け戻るのと、花道の、七三とかいうあたりで、ひったり出会う。何でもお客が大変待あぐんで機嫌が悪い、急いで迎いに、というのです。  路之助の姉芸妓が、おおしんど、か何かで、肩へ色気を見せたのですが、 「えろう遅うなって、ご苦労え、あのな、ついそこで、いえ、あのな、むこうへ、……境はん。」  おや。 「あんたも知ってやろ。境はんが来やはって、逢いとう逢いとうていた処やろ、それやよって。」  とこっちを視て莞爾。── 「いやや、驕んなはれ。」  と舞妓が入交って、トンと揚幕の方から路之助の脊筋を敲いた。 「おお、晴がまし。」  お絹が、階子段を転げた時から、片手に持っていた、水のように薄色の藤紫の肩掛を、俯向いた頬へ当てたのです。  ──舞台、舞台ですか……  舞台どころじゃありません。その時うしろの戸が、悪く、静かに開いたと思うと、この、私の背中を、トンと、誰か、ぐにゃりとした手で敲いたんですから。  いま、戸が開いたと思うと同時に、可厭な気味合の冷アい風が、すうと廊下から入って、ちり毛もとに、ぞッと沁みたも道理こそ、十九貫と渾名を取る……かねて借金があって、抜けつ潜りつ、すっぽかしている──でぶでぶした、ある、その、安待合の女房が、餡子入の大廂髪で、その頃はやった消炭色紋付の羽織の衣紋を抜いたのが、目のふちに、ちかちかと青黒い筋の畳まるまで、むら兀のした濃い白粉、あぶらぎった面で、ヌイと覗込んで、 「大した勢いでございますのね。」 「ちょっと……出よう。」  ……ですもの、舞台どころですか。── 「結構ですわ、ほんとに境さん、ご全盛で。」 「串戯だろう。」 「役者があなた、この大入に、花道で、名前の広告をするんだもの。大したものでなくってさ。」  と、くくり頤を揺って、しゃくる。 「あれは洒落だよ、洒落も洒落だし、第一、この人数だ、境というのは。」  売店があるから、ずんずん廊下を反れました。 「何も私一人というんじゃあなかろう。」 「うんえ、あの台辞で、あなたの桟敷を見て笑ったのを見て、それで気がついた、あなたの来ているのが。……といったわけなんですもの、やすい祝儀じゃでけんでねえ。」  と、どこかのなまりが時々出る。 「馬鹿を言いたまえ、路之助は友だちだぜ。──おかみさん、知ってるじゃないか。」 「それは存じておりますがね、ご全盛には違いませんね。何しろ、しがない待合を、勘定で泣かせようという勢いではありませんです。」  ないが上にもないものを、ありあまってでもあるように。催促の術をうらがえしに、敵は搦手へ迫って危い。 「一言もない。が、勢いだの全盛なぞは、そっちの誤解さ、お見違えだよ。」 「見違えましたよ、ほんとうに。」  と衣紋をたくして、 「大した腕だよ、見上げたあよう。」 「何が。」 「なにがじゃあないじゃないかね、といいたくなるよ。ふんとうに。……新橋柳橋、それとも赤坂……ご同伴は。」 「…………」 「ちょっと見掛けませんね、あのくらいなのは。商売がらお恥かしいんだけれど……三千歳おいらんを素人づくりに……おっと。」  と両袖を突張って肩でおどけた。これが、さかり場の魔所のような、廂合から暗夜が覗いて、植込の影のさす姿見の前なんですが。 「芸妓にしたという素敵な玉だわ……あんなのが一人、里にいれば、里の誉れ、まあさね、私のうちへ出入りをすれば、私の内の名聞ですのよ。……境さん、貸借も、もとは味方、勘定は勘定、ものは相談、あなたとはお馴染じゃありませんか。似合ったよ、恐れ入ったよ、ものになってる、容子がね。うんねさ、だからさ、一度連込んでおいでなさいよ。早い話が……今夜、これから帰りにさ。水打った格子さきへ、あの紫が裳をぼかして、すり硝子の燈に、頸あしをくっきりと浮かして、ごらんなさい、それだけで、私のうちの估券がグッと上りまさね。  兜町の、ぱりぱりしたのが三四人、今も見物で一所ですがね。すぐ切上げてもいいんですの。ちょっと一座敷、抜け荷を売りゃ……すぐに三十と五十さ、あなた。あなたの遊興は、うわになるわ。  もう一息、目を眠って、──直さん……」 (──直さんの意味詳ならず。談者、境氏に聞かんとして、いまだ果さざる処である──) 「ね、色悪で、あの白々とした甘い膚を貸すとなりゃ、十倍だわ。三百、五百、借金も勘定も浮いて出るじゃあないかねえ。」  酒と、女か、目にも口にも借りのある、聾桟敷のとんちきも、むらむらとして、我ながら姿見に色が動いた。 「何をいってるんだ──同伴はないよ。」 「あら。」 「誰も居やしない。」 「まあ。」 「私一人じゃあないか。」 「おやおやおや。」 「何を見たんだ。」 「ふん、しらじらしい、空ッとぼけもいい加減になさい。あなたがそういう了簡なら、いいから私は居催促をするから、ここへ坐っちまいますから、よござんすか。」  これこの十九貫、廊下へ、どすんと坐りかねない。 「仕方がない、じゃあ、ほんとうの事をいおう。」 「いわないでさ。そして、ちょっと顔を貸しますか、それとも膚を……」 「顔にも、膚にも……それは煙だ。」 「またかね、居催促ですよ、坐りますから。」 「あれは霞だ、霧なんだよ。」 「煙草のかねえ。」 「いや芸妓の……幽霊だ。」 「ええ。」 「この大入に、けちでもつけるようで可厭だから、いいたくはなかったんだが、どうもそうまでいわれりゃしかたがない。三千歳を素人とか、何とかいったね、それだ、そっくりだ。そりゃ路之助に憑絡ってる幽霊だ。いいえ、憑ものは、当人の背中に負さっているとは限らない──  実は祇園の芸妓だがね、私がこの間、彼地へ行っていたもんだから、路之助が帰るのに先廻りをして、私を便って来たらしい。またかと思う。……今いわれた時も慄然としてこの通り毛穴が立ってら。私には何にも見えないんだよ。見えないが、一人で茶屋へ休むと、茶二つ、旅籠屋では膳が二つ、というのが、むかしからの津々浦々の仕来りでね、──席には洋服と、男ばかり三人きりさ。それが、お前さんに見えたのは、幽霊に違いない。」 「ひええ。」  しめた。不断の大臆病。 「行って見たまえ、覗いてごらん、さあ。それが嘘なら、きっとあそこにいやしない。いても、目には見えないから。」 「気味の悪い……いやだねえ。」 「板一枚のなかは、蒸し上るばかりのこの人数だ。幽霊だってどうするものか。行って覗いて見たまえ、というのに。」  あたかもそこへ、魔の手が立樹を動かすように、のさのさと相撲の群が帰って来た。 「それ、力士連が来た、なお気丈夫じゃあないか。」  と、図に乗っていった。が、この巨大なる躯は、威すものにも陰気を浴せた。それら天井を貫く影は、すっくと電燈を黒く蔽って、廊下にむらむらと影が並んで、姿見に、かさなり映った。 「ここへ来た、幽霊が。」 「ひゃあ。」 「あ、力士の中に芸妓が居る。」 「きゃッ、あれえ、お関取。助けてえ。」 「やあ、何じゃい。」  縋りつかれた関取がたじろいで、 「どえらい頭じゃい。桟俵法師い。」 「お絹さん──お絹さん。ちょっと。」  戸を開けて、立ちながら密と呼ぶと、お絹は、金煙管に持添えた、女持ちの嵯峨錦の筒を襟下に挟んで、すっと立った。  前髪に顔を寄せ、 「何だか落着きません、一度、茶屋へ引揚げよう。」 四  その夜も──やがて十一時──清水の石段は、ほの白く、柳を縫って、中空に高く仰がるる。御堂は薄墨の雲の中に、朱の柱を聯ね、丹の扉を合せ、青蓮の釘かくしを装って、棟もろとも、雪の被衣に包まれた一座の宝塔のように浄く厳しく聳えて見ゆる。  東口を上ると、薄く手水鉢に明りのさしたのは、斜に光を放った舞台正面にただ一つ掲げた電燈で、樹にも土にも、霊境を照らす光明はこの一燈ばかりなのが、かえって仏燭の霊を表して、竜燈……といっては少し冥い。しかり、明星の天降って、梁を輝かしつつ、丹碧青藍相彩る、格子に、縁に、床に、高欄に、天井一部の荘厳を映すらしい。  見られよ、されば、全舞台に、虫一つ、塵も置かず、世の創の生物に似た鰐口も、その明星に影を重ねて、一顆の一碧玉を鏤めたようなのが、棟裏に凝って紫の色を籠め、扉に漲って朧なる霞を描き、舞台に靉靆き、縁を廻って、井欄に数うる擬宝珠を、ほんのりと、さながら夜桜の花の影に包んでいる。  その霞より、なお濃かに、靄に一面の胡粉を刷いて、墨と、朱と、藍と、紺青と、はた金色の幻を、露に研いて光を沈めた、幾面の、額の文字と、額の絵と、絵馬の数と、その中から抜き出たのではない、京人形と、木菟は、道芝の中から生れて出たように上ったが。── 「車夫、ここだ、ここでおろして。……待っててもらおう。」  俥を二台、東の石段で下りたのです。 「逆縁ながら、といっては間違いかね、手を曳いてあげようか。芝居茶屋の階子段のお手際では、この石段は覚束ない。」  などと、木菟が生意気にいうと、 「大事おへん、前刻落ちたら、それなり、地獄え。上が清水様どすよって、今度は転んだかて成仏どす。」  などと京人形が口を利いた。  手水鉢で、蔽の下を、柄杓を捜りながら、雫を払うと、さきへ手を浄めて、紅の口に啣えつつ待った、手巾の真中をお絹が貸す……  勝手になさい。  が、こんなのが、初夜過ぎた霊場へ、すらすらと参られようはずはない、東の階の上には、一本ならべの軽い戸だが、柵のように閉ざしてあった。 「前は、こうではなかったはずです……不良でも入るか知らん。」 「こちらも不良どすな、おほ、ほ。」 「怪しからん、──向う側へ。」  と、あとへ退って、南面に、不忍の池を真向いに、高欄の縁下に添って通ると、欄干の高さに、御堂の光明が遠くなり、樹の根、岩角と思うまで、足許が辿々しい。  さ、さ、とお絹の褄捌きが床を抜ける冷たい夜風に聞えるまで、闃然として、袖に褄に散る人膚の花の香に、穴のような真暗闇から、いかめの鬼が出はしまいか──私は胸を緊めたのです。 「まず、可。」  西側の、ここの階段上は、戸はあるが、片とざしで開いていた。  廻廊の上を見れば、雪空ででもあるように、夜目に、額と額とほの暗く続いた中に、一処、雲を開いて、千手観世音の金色の文字が髣髴として、二十六夜の月光のごとく拝される。……  欄干に枝をのべて、名樹の桜があるのです。  その梢、この額と相対して、たとえば雪と花の縁を、右へ取り、舞台の正面、その明星と、大碧玉の照る処、京人形と木菟が、玩弄品の転ったようになって拝んだあとで、床の霞に褄を軽く、衝と出て、裏紫の欄干に、すらりと立った、お絹の姿は──  この時、幹の黒い松の葉も、薄靄に睫毛を描いた風情して、遠目の森、近い樹立、枝も葉も、桜のほかは、皆柳に見えた。 「ああ、綺麗だ。お絹さん──向い合った不忍の御堂から、天女がきっと覗いておいでだ。」 「おお晴がまし、勿体ないえ。」  と、吃驚したように、半ばその美しさを思っていて、羞じたように、舞台を小走りに西口の縁へ遁げた。遁げつつ薄紫の肩掛で、髷も鬢も蔽いながら、曲る突当りの、欄干の交叉する擬宝珠に立つ。  踊の錬で、身のこなしがはずんだらしい、その行く時、一筋の風がひらひらと裾を巻いて、板敷を花片の軽い渦が舞って通った。  袖摺れるほどなれば、桜の枝も、墨絵のなかに蕾を含んで薄紅い。 「そこから見えますか、秋色桜。」 「暗うて、よう見えへんけど……先度昼来ておそわった事があるよって、どうやらな、底の方の水もせんせんと聞えるのえ。」 「音羽の滝が響くんでしょうが、秋色は見えないはずだ。そこに立っているんだから。」 「またなぶらはる……発句も知らん、地唄の秋色はんて、どないしょ。」  と、振返ると、顔をかくしたままの羅の紫を、眉が透き、鼻筋が白く通って、優睨みで凜とした。 花咲かば告げむと    いいし山寺の 使は来たり、馬に    鞍 くらまの山のうず    桜……  ふと、前刻の花道を思い出して、どこで覚えたか、魔除けの呪のように、わざと素よみの口の裡で、一歩、二歩、擬宝珠へ寄った処は、あいてはどうやら鞍馬の山の御曹子。……それよりも楠氏の姫が、田舎武士をなぶるらしい。──大森彦七──傍へ寄ると、──便のういかがや──と莞爾して、直ぐふわりと肩にかかりそうで、不気味な中にも背がほてった。 「やあ、洒落れてるなあ。」  ──そのころは、上野の山で、夜中まだ取締りはなかったらしい。それでも、板屋漏る燈のように、細く灯して、薄く白い煙を靡かした、おでんの屋台に、車夫が二人、丸太を突込んだように、真黒に入っていたので。 「羨しいようですね……串戯じゃない、道理こそ。──来てごらんなさい、こちらの、西側へ俥を廻わしたのが、石段下に、変に遥な谷底で、熊が寝ているようですから。」 「動物園かてあるいうよって、密と出て来やはりしめえんか、おそろしな。」  と、欄干ぞいに、姫ぎみ、お寄りなされたが、さして可恐くはなさそうで。 「ほんに、谷底のようで靄が深うおすな、前刻の階子段思出したら、目がくらくらとするようえ。」  白い片掌を田舎武士の背にあてて、 「あの俥がひとりでに、石段を、くるくるまいもうて上って来たら、どないしょ、……火の車になっておそろしかろな。」 「お絹さん、そんなことをいうもんじゃあない。帰途に怪我でもあると不可い。」 「それでも、あの段、くるくる舞うてころげた時は、あて、ぱッと帯紐とけて、裸身で落ちるようにあって、土間は血の池、おにが沢山いやはって、大火鉢に火が燃えた。」  手を触れていて、肌をいう。大森彦七は胸が唸った。魔を退きょうと太刀の柄……洋杖をカンとついて、 「そんなことをいうから、それ、宙に火が燃えて来た、迎いに来た、それ。」 「ああれ。」  闇を縫って、くるくると巻いて来る、火の一点あり。事実、空間に大きく燃えたが、雨落に近づいたのは、巻莨で、半被股引真黒な車夫が、鼻息を荒く、おでんの盛込を一皿、銚子を二本に硝子盃を添えた、赤塗の兀盆を突上げ加減に欄干越。両手で差上げたから巻莨を口に預けたので、煙が鼻に沁む顰め面で、ニヤリと笑って、 「へい、わざッとお初穂……若奥様。」 「馬鹿な。」 「ちょっと、手をお貸しなすって。」 「馬鹿な、お初穂もないもんだ。いい加減おみってるじゃないか。」 「へへへ、煮加減の宜い処と、お燗をみて、取のけて置きましたんで、へい、たしかに、その清らかな。」 「馬鹿な、おなじ人間だぜ、くいものは、つッくるみだ。そんな事はかまわないが、大丈夫かい、あとで、俥は?」 「自動車の運転手とは違います、えへへ。駕籠舁と、車夫は、建場で飲むのは仕来りでさ。ご心配なさらねえで、ご緩り。若奥様に、多分にお心付を頂きました。ご冥加でして、へい、どうぞ、お初穂を……」  お絹が柔順に、もの軟に取上げた、おでんの盆を、どういうものか、もう一度彦七がわざとやけに引取って、 「飛んだお供物、狒々にしやがる。若奥様は聞いただけでも、禿祠で犠牲を取ったようだ。……黒門洞擂鉢大夜叉とでもいうかなあ。」  縁に差置いた湯気の立つおでんの盆は、地図に表示した温泉の形がある。  椎の葉にもる風流は解しても、鰯のぬたでないばかり、この雲助の懐石には、恐れて遁げそうな姫ぎみが、何と、おでんの湯気に向って、中腰に膝を寄せた。寄せたその片褄が、ずるりと前下りに、前刻のままで、小袖幕の綻びから一重桜が──芝居の花道の路之助のは、ただこれよりも緋が燃えた──誘う風にこぼるる風情。  ──実は帯を解いて、結び直す間がなかった、茶屋が立籠んだからなので。──あれから、直ぐにその茶屋へ引上げて、吸物一つ、膳の上へ、弁当で一銚子並べたが、その座敷も、総見の控処で、持もの、預けもの沢山に、かたがた男女の出入が続いたゆえ、ざっと夕餉を。……銚子だけは手酌でかえた。今夜は一まず引上げよう、乗ものを、と思う処へ、番頭津山が急いで出て、もうお俥は申しつけました……という、客あつかいに馴れたもの。急所を圧えてこっちからは乗出させぬ。ご都合まで、ご存分な処まで、は、は、は、と口を圧えて笑うと、お絹が根岸の藍川館──鶯谷へ、とこの人の口でいうと、町が嬉しがって、ほう、と微笑んで鳴きそうに聞えた。寂しい処でございますな、境さん──これはお送り下さらないではなりますまい。……勿論。  京では北野へ案内のゆかりがある。切通しを通るまえに、湯島……その鳥居をと思ったが、縁日のほかの神詣、初夜すぎてはいかがと聞く。……壬生の地蔵に対するものは、この道順にちょっとない。  そこで、どこよりも清水だったが、待った、待った。広小路の数万の電燈、靄の海の不知火を掻分けるように、前の俥を黒門前で呼留めて「上野を抜けると寂しいんですがね、特に鶯谷へ抜ける坂のあたり、博物館の裏手なぞは。」 「寂しいとこ行きたい、誰も居やはらんとこ大好きどす。」すかし幌の裡から、白木蓮のような横顔なのです。 「大事ないどすやろえ、お縁の……裏の処には、蜜柑の皮やら、南京豆の袋やら、掃き寄せてあったよってにな。」 「成程、舞台傍の常茶店では、昼間はたしか、うで玉子なぞも売るようです。お定りの菎蒻に、雁もどき、焼豆府と、竹輪などは、玉子より精進の部に入ります。……第一これで安心して、煙草が吹かせる。灰もマッチ殻も、盆へ落すと。……よくない奴だ。──これはどうもお酌は恐縮、重ねては、なお恐縮、よくない奴だ。」  巻莨と硝子盃を両手に、二口、三口重ねると、圧えた芝居茶屋の酔を、ぱっと誘った。 「さあ、お酌を──是非一口、こういうことは年代記ものです。」  お絹も、心ばかり、ビイドロの底を、琥珀のように含んで、吻と呼吸したが、 「ああ、おいし……茶屋ではな、ご飯かて、針を呑むようどしたえ。ほんに、今でも、ひざのとこ、ぶるぶると震えるわ、菎蒻はんのようどすな。」  もう一口。 「あの、これから場所へいうて、二階の上り口へ出ましたやろ。下に大きな人大勢やよって、ちょっと立留まって覗くようにするとな、ああ、灯が点れかけの暗さが来て、逢魔が時や思うたらな、路之助はんの幟が沢山、しんなり揃う青い中から、大き大き顔が出てな。」 「相撲のだね。」 「違います、女子はんの。」 「…………」 「口をばこないにして。」  と結んだ唇を、おくれ毛が凄く切った、黒い蝶が不意に飛んだように。 「可恐い顔をして睨みはった。それがな、路之助はんのおかみはんえ。」 「路之助?……路之助の……」  立女形、あの花形に、蝶蜂の群衆った中には交らないで、ひとり、束髪の水際立った、この、かげろうの姿ばかりは、独り寝すると思ったのに──  請う、自惚にも、出過ぎるにも、聴くことを許されよ。田舎武士は、でんぐり返って、自分が、石段を熊の上へ転げて落ちる思がした。 「何もな、何も知らんのえ、私路之助はんのは、あんたはん、ようお馴染の──源太はん、帯が弛む──いわはった妓どすの。それをば何やかて、私にして疑やはってな、疑やはるばかりやおへん、えらいこと怨みやはる。  ……よって、お客はんたちに分れて、一人で寝るとな──藍川館いうたら奥の奥は、鉄道線路に近うおすやろ。がッがッ響がして、よう寝られん、弱って、弱って、とろりすると、ぐウと、緊めて、胸倉とって、ゆすぶらはる、……おかみはんどす。キャアいうて、恥かし……長襦袢で遁げるとな、しらがまじりの髪散らかいて、般若の面して、目皿にして、出刃庖丁や、撞木やないのえ。……ふだん、はいからはんやよって、どぎついナイフで追っかけはる。胸かて、手かて、揉み、悶えて、苦して、苦して、死ぬるか思うと目が覚める……よって、よう気をつけて引結え、引結えしておく伊達巻も何も、ずるずるに解けてしもうて、たらたら冷い汗どすね、……前刻はな夢でのうて、なおおそろして、おそろして。」  それで、あの、階子段──  今度は大森彦七が踏みこたえた。 「神経だ、神経ですよ。」  誰でもこの場は知識になる。 「しかし、どうだか、その路之助一件は、事実なのでしょう。」  誰でもこの場は凡夫になる。 「つらいこと。」  と、斜にそむいて、 「あんたはんまで、そない言わはる、口惜いえ。」 「が、しかし、つらいでしょう。」  莨を捨てて硝子盃を取って、 「そんな時は、これに限る。熱燗をぐっと引っかけて、その勢いで寝るんですな。ナイフの一挺なんざ、太神楽だ。小手しらべの一曲さ。さあ、一つ。」 「やどへ行て。」 「成程。」 「あんたはん、のましてくりゃはりますか。」 「飲ませますとも。」 「嬉しいな、段で、抱いてくれやはった時から、あんたはんは生命の親どす。」  真顔で、こうまでいわれたのには、酒が支えた。胸の澄まない事がいくらある…… 「お言で痛み入る。」  と、もう一息ぐっと呷って、 「──実は串戯だけれどもね、うっかり、人を信じて、生命の親などと思っては不可せん。人間は外面に出さないで、どういう不了簡を持っていないとも限りません。  こういう私ですがね、笑い事じゃあるけれども、夢で般若が追廻すどころか、口で、というと、大層口説でもうまそうだ。そうじゃない、心で、お絹さんを……」 「私をえ?」 「幽霊にしましたよ。ご免なさいよ。殺した事があるんだから。」 「あんたはんがな。」  前髪がふっくり揺れて…差俯向く。 「本望どすな。」  と莞爾して、急に上げた瓜核顔が、差向いに軽く仰向いた、眉の和やかさを見た目には、擬宝珠が花の雲に乗り、霞がほんのりと縁を包んで、欄干が遠く見えてぼうとなった。その霞に浮いて、ただ御堂の白い中に、未開紅なる唇が夜露を含んで咲こうとする。…… 「あれえ。」  声を絞ると、擬宝珠の上に、円髷が空ざまに振られつつ、 「蛇が、蛇が。」 「何、蛇が。」 「赤い蛇が。」  赤い蛇は、褄の乱れた、きみの裾のほかにあるものか。 「膝が震えて、足が縮む……動けば落ちようし、どないしよう。」  と欄干に、わなわな。 「今時蛇が、こんな処へ。……不忍の池には白いのがいるというが。」  と、わざと落着いたが、足もとはうろつきながら、外套の袖で、背後状にお絹を囲った。 「額の、額の。」  ああ、幽に見ゆる観世音の額の金色と、中を劃って、霞の畳まる、横広い一面の額の隙間から、一条たらりと下っていた。 「紐だ、紐ですよ。何かの。」  勇を示して、示しついでに、ぐい、と引くと、 「あれ、……白い顔。」  声とともに、くなりと膝をついたお絹が、背後から腰につかまった。 「上から覗かはる……どうしようねえ。」  お聞きづらかろうが、そういった意味で、身震いをする勢いが手伝って、紐に、ずるずると力が入ると、ざ、ざ、ざ、と摺れて、この場合──ごみも埃もいってはおられぬ。額の裏から、ばさりと肘に乗ったのは、菅笠です。鳩の羽より軽かったが、驚くはずみの足踏に、ずんと響いて、どろどろと縁が鳴ると、取縋った手を、アッと離して、お絹は、板に手をついて、真俯向けになりました。  おでんの膳なぞ一跨ぎに、今度は私の方が欄干へ乗出して、外套を払った。かすりの羽織の左の袖で、その笠の塵を払ったんです。一目見ると分ったのです。女の蒼白く見えたのは、絵の具です。彩色なんです。そうして、笠に描いたのは、……朝顔── 「朝顔?」 五  ここに写し取る今は知らず。境の話を聞くうちは、おでん燗酒にも酔心地に、前中、何となく桜が咲いて、花に包まれたような気がしていたのに、桃とも、柳ともいわず、藤、山吹、杜若でもなしに、いきなり朝顔が、しかも菅笠に、夜露に咲いたので、聞く方で、ヒヤリとした。この篇の著者は、そこで、境に聞反したのであった。 「朝顔?」  と。 六 「──その時から、やがて八九年前になります──山つづきといっても可い──鶯谷にも縁のありますところに、大野木元房という、歌人で、また絵師さんがありまして、大野木夫人、元房の細君は、私の女友だち……友だちというよりおなじ先生についた、いわば同門の弟子兄妹……」  こう話しかけた、境辻三の先師は、わざと大切な名を秘そう。人の知った、大作家、文界の巨匠である。  ……で、この歌人さんとは、一年前、結婚をしたのでしたが、お媒酌人も、私どもの──先生です。前から、その縁はあるのですけれども、他家のお嬢さん、毎々往来をしたという中ではありません。  清瀬洲美さんというんです。  女学校出だが、下町娘。父親は、相場、鉱山などに引かかって、大分不景気だったようですが、もと大蔵省辺に、いい処を勤めた、退職のお役人で、お嬢さん育ちだから、品がよくちょっと権高なくらい。もっとも、十八九はたちごろから、時々見た顔ですから、男弟子に向っては、澄ましていたのかも知れません。薄手で寂しい、眉の凜とした瓜核顔の……佳い標致。  申すのを忘れますまい。……さしあたり、……のちの祇園のお絹を東京にしたような人だったんです──いや、どうも、若気の過失、やがての後悔、正面、あなたと向い合っては、慙愧のいたりなんですが、私ばかりではありません。そのころの血気な徒は、素人も、堅気、令嬢ごときは。……へん、地者、と称えた。何だ、地ものか。  薬でも、とろろはあやまる。……誰もご馳走をしもせぬのに。とうとい処女を自然薯扱い。蓼酢で松魚だ、身が買えなけりゃ塩で揉んで蓼だけ噛れ、と悪い虫めら。川柳にも、(地女を振りも返らぬ一盛。)そいつは金子を使ったでしょうが、こっちは素寒貧で志を女郎に立てて、投げられようが、振られようが、赭熊と取組む山童の勢いですから、少々薄いのが難だけれど──すなおな髪を、文金で、打上った、妹弟子ごときものは、眼中になかったのです。  お洲美さんが、大野木に縁づいたのは二十二の春──弥生ごろだったと思います。その夏、土用あけの残暑の砌、朝顔に人出の盛んな頃、入谷が近いから招待されて、先生も供で、野郎連中六人ばかり、大野木の二階で、蜆汁、冷豆府どころで朝振舞がありました。新夫人……はまだ島田で、実家の父が酒飲みですから、ほどのいい燗がついているのに、暑さに咽喉の乾いた処、息つぎとはいっても、生意気な、冷酒を茶碗で煽って、たちまちふらふらものになって、あてられ気味、頭を抱えて蒼くなった処を、ぶしつけものと、人前の用捨はない、先生に大目玉をくらって、上げる顔もなかった処を、「ほんの一口とおいいなさいましたものを、私がうっかりもり過ぎて」と妹分の優しい取なし。それさえ胸先に沁みましたのに、「あちらでおやすみなさいまし。」……次ぎの室へ座を立たせて──そこが女作家の書斎でしたが。  蚊がいますわ、と団扇で払って、丸窓を開けて風を通して、机の前の錦紗のを、背に敷かせ、黙って枕にさせてくれたのが。……  今更贔屓分でいうのではありません、──ちょッ、目力(助)編輯め、女の徳だ、などと蔭で皆憤懣はしたものの、私たちより、一歩さきに文名を馳せた才媛です、その文金の高髷の時代から……  平打の簪で、筆を取る。……  銀杏返し、襟つきの縞八丈、黒繻子の引かけ帯で、(たけくらべ)を書くような婦人も、一人ぐらい欲しいとは、お思いになりませんか、お互いに……  月夜の水にも花は咲く。……温室のドレスで、エロのにおいを散らさなければ、文章が書けないという法はない。  ──話はちょっとそれました。が、さあ、前後しました。後一年、不断、不沙汰ばかり、といううちにも、──大野木宗匠は、……常袴の紺足袋で、炎天にも日和下駄を穿つ。……なぜというに、男は肝より丈まさり、応対をするのにも、見上げるのと、見下ろすのでは、見識が違う。……その用意で、その癖ひょろりと脊が高い。ねばねばと優しい声を、舌で捏ねて、ねッつりと歯をすかす、言のあとさきは、咽喉の奥の方で、おおんと、空咳をせくのをきっかけに、指を二本鼻の下へ当てるのです。これは可笑しい。が、みつくちというんじゃありませんが、上唇の真中が、ちょっと歯茎を覗かせて反っているのを隠すためです。言語、容体、虫が好かなくって大嫌い。もっともそれでなくっても、上野の山下かけて車坂を過ぐる時ンば、三島神社を右へ曲るのが、赤蜻蛉と斉しく本能の天使の翼である。根岸へ入っては自然に背く、という哲人であったんですから、つい近間へも寄らずにいました。  郷里──秋田から微禄した織物屋の息子ですが、どう間違えたか、弟子になりたい決心で上京して、私を便って、たって大野木宗匠を師に仰ぎたい、素願を貫かしてもらいたい、是非、という頼みです。  頼まれた。……頼まれたものは仕方がない。しかも、なくなった私の父がこの織物屋に世話になった義理がある……先生の内意も伺った上……そこで大野木をたずねたのですが、九月末、もう、朝夕は身にしみますのに、羽織は衣がえの時から……質です。  ゆかた一枚、それも織ったんじゃありません、北国人の鎧ですから、ものほしそうな瓦斯織の染縞で、安もの買の汗がにおう。  こいつを、二階の十畳の広間に引見した大人は、風通小紋の単衣に、白の肌襦袢、少々汚れ目が黄ばんだ……兄妹分の新夫人、お洲美さんの手が届かないようで、悪いけれども、新郎、膏が多いとお心得下さいまし。──綾織の帯で、塩瀬紺無地の袴。総ついた、塗柄の団扇を手まさぐる、と、これが内にいる扮装で、容体が分りましょう。  鼻の下へ、例の、指を立てて、「おおん」と飲み込んでくれました。「不思議な縁ですね、まだ下極りで、世間に発表はしないけれども、今度、仙台の──一学校の名誉教授の内命を受けて、あと二月ぐらいで任に赴く。──ま、その事になりました。ちょうど幸い、内弟子、書生にして連れて行こう、宜しくば。」……も何もない。願ったり叶ったり、話は思う壺へはまったのですが。──となりの、あの、小座敷で、あの、朝顔の、あの朝──  手細工らしい桔梗の肘つきをのせて、絵入雑誌を幾冊か、重ねて、それを枕にさして、黙って顔を見ると、ついた膝をひいて立ちしなに「憎らしい。」……ただ、その雑誌一冊ものなぞ、どれも皆──ろくなものではありませんが、私のかいたのが入っていたのを、後姿と一所に、半ば起きに、密と見た時、なぜか、冷酒が氷になって、目から、しかも、熱いものがほろほろと湧きました。  時に、その人がいま出て来ません。その癖、訪れた玄関では、女中よりさきに、出迎えて、二階へ通してくれたのに、──茶を運んだのも女中です。  庭で蟋蟀の鳴くのが聞える。  蔦の葉の浴衣に、薄藍と鶯茶の、たて縞お召の袷羽織が、しっとりと身たけに添って、紐はつつましく結んでいながら、撫肩を弱く辷った藤色の裏に、上品な気が見えて、緋色無地の背負上が媚かしい。おお、紫手絡の円髷だ。透通るような、その薄化粧。  金銀では買えないな。二十三か、ああ、おいらは五になる。作者夥間の、しかも兄哥が、このしみったれじゃあ、あの亭主にさぞ肩身が狭かろう、と三和土へ入ると、根岸の日蔭は、はや薄寒く、見通しの庭に薄が靡いて、秋の雲の白いのが、ちらちらと、青く澄んだ空と一所に、お洲美さんの頸に映った。  目の前にあるその姿が、二階へは来ないのです。御厚意は何とも。しかし内弟子に住込ませるとまでおっしゃって下さいますと、一度(何といおう……──女史。)女史に御相談の上でありませんといかがでしょうか。「おおん」と咳して、「ところがね、それが妙ですよ、不思議です。──妻がね、今朝です──今日は境さんが見えそうな気がする、というのです。ついぞ、おいでになりもせぬのに、そんなことが、といいますとね、手をお出しさない、手の筋を見てあげましょう。あなたの今日の運命にも顕われるから。──そういうのでね、手を見せました。……妻に、あんなかくし芸があるとは知りませんでしたよ。妻が予知して、これが当って、門生志願が秋田の産、僕の赴任が仙台という、こう揃ったのに、何の故障がありますか。……お庇でね、おおん、お庇もおかしいですが、手の筋で、妻と握合いました。……境さん、変な話ですが、お互いに、芸術家は情熱をもって生命として活きるのですな。妻もご同門ではあり、芸術家です、どんなに、その愛情が灼熱的であろうか、と期待しましたのに、……どうも冷たい。いかにも冷やかですが、稟性のしからしむる処ですかな。あるいは、あなた方、先生の教えは、芸に熱して、男女間は淡泊、その濃密膠着でなく、あっさりという方針ででもおあんなさるか、一度内々で、と思った折でもありますのでして。…」…失礼します。……居堪らなくて、座を立つと、──「散歩をしましょう。上野へでも、秋の夕景色はまた格別ですよ。」こっちはひけすぎの廊下鳶だ。──森の夕鴉などは性に合わない。 「あの、いま、そういおうと思っていた処です。なんにもありませんが、晩のご飯を。」  まだ入れかえない葦戸に立って、夫人がほの白く、寂しそうに薄暮合を、ただ藤紫で染めていた。  その背の、奥八畳は、絵の具皿、筆おき、刷毛、毛氈の類でほとんど一杯。で、茶の間らしい、中の間の真中に、卓子台を据えて、いま、まだ焼海苔の皿ばかり。  三巴に並んだ座蒲団を見ると、私は玄関へ立ち切れなかった。 「すぐお燗がつきますが。境さん、さきへ冷酒ですか。」 「いや、断ものです。」  と真中へよれよれの袖口を、そっとのばして、坐ると、どうも、そっちが上席らしい、奥座敷の方へお洲美さん。負けてはいないな、妹よ、何だか胸が熱くなる。紺の袴は、入口の茶棚傍を勢い然るように及んで、着席です。 「牛が宜しい……書生流に、おおん。」  亭主のすきな赤烏帽子を指揮する処へ、つくだ煮を装分けた小皿に添えて、女中が銚子を運んで来た。 「よく、いすいだかい。」 「綺麗なお銚子。」  色絵の萩の薄彩色、今万里が露に濡れている。 「妻の婚礼道具ですがね、里の父が飲酒家だからですかな。僕は一滴もいけますまい、妻はのまず。……おおん、あの、朝顔以来、内でこれの出たのはそうですなあ、大掃除の時、出入りの車夫に振舞うたばかりですよ。」 「お毒見をいたします。」  お洲美さんが白い手で猪口を取った。 「注いで下さい。」  大人驚いた顔をして、 「飲むのかね。」 「大掃除の時の車夫のお銚子ですから。──この方は、あの、雲助も同然の身持だけれど……先生の可愛い弟子です。」  かねて、切れた眦が屹として、 「間違いがあると、私が、先生に申訳がありません。」 「おおん、何か、私の饒舌った意味を取違えているようだけれど、いいさ、珍らしく飲むのも可かろう……注ぐよ。」 「なみなみと。もう一つ。もっと、もう一度。」  歯ぎしみするように、きッきッと。 「ああ、飲んだ。」  と、もう白澄んだ瞼を染めた。 「境さん、いいでしょう、上げますわ。」 「駕籠屋は建場を急いでいます、早く飲もうと思ってね。」 「おいらんのようにはいきません。お酌は不束ですよ、許して下さい。」 「こっちも駆けつけ三杯と、ごめんを被れ。雲足早き雨空の、おもいがけない、ご馳走ですな。」  と、夫人と見合った目を庭へ外らす。  大人の頤が上って、 「大分壮になりましたな、おおん。」 「あなた、電燈を捻って下さい。」  牛肉もふつふつ煮えて来た。  といううちにも、どういうものか、皿に拡げた、一側ならべの肉が、鍋へ入ると、じわじわと鳴ると斉しく、箸とともに真中でじゅうと消え失せる。注すあと、注すあと、割醤油はもう空で、葱がじりじり焦げつくのに、白滝は水気を去らず、生豆府が堤防を築き、渠なって湯至るの観がある。 「これじゃ、牛鍋の湯豆府ですのね。」  ふうと、お洲美さんの鼻のつまった時は、お銚子がやがて四五本目で、それ湯を、それ焦げる、それ湯を、さあ湯だ、と指揮と働きを亭主が一所で、鉄瓶が零のあとで、水指が空になり、湯沸が俯向けになって、なお足らず。  大人、威丈高に伸び上って、台所に向い、手を敲いて、 「これよ、水じゃ、水じゃ。」 七  が、妹分のために、苦にせまい。肉の薄いのは身代の痩せたのではない。大人は評判の蓄財家で、勤倹の徳は、範を近代に垂るるといっても可いのですから。  その証拠には、水騒ぎの最中へ、某雑誌記者、気忙しそうで口早な痩せた男の訪問があり、玄関で押問答の上、二階へ連れて上ったのは……挿画何枚かの居催促、大人に取っては、地位転換、面目一新という、某省の辞令をうけて、区々たる挿画ごときは顧みなかったために債が迫った。顧みないにした処で、受合った義理は義理で、退引ならず二階で、膝詰の揮毫となる処へ、かさねて、某新聞の記者、こちらは月曜附録とかいう歌の選の督促で一足後れたが、おくれただけ、なお怒ったように、階子段を、洋袴の割股で押上った。この肥ったので、二階へ蓋をしたように見えました。 「流行るんだなあ。」  編輯、受附、出版屋、相ともに持込むばかりで、催促どころか、めったに訪問などされた事のない、兄弟子は、夜風を横外頬へ、げっそりと腹を空かして、 「結構ですな。」  枯野へ霜がおりたような、豆府の土手の冷たいのに、押取って、箸を向けると、 「およしなさい。」  と酔とともに、ふらふらとかぶりを振って、 「牛鍋の湯豆府なんか、私の御馳走ではないのですから。……あなたのお頼みなさいました、そのお弟子さんですがね、内へおいでなさるんなら、この覚悟、ね、より以上かも知れませんから。お葱や、豆府はまだしも、糸菎蒻だと思って下さいましね。お腹が冷たくなるんですから……お酒はあります。あ、私にも飲まして頂載。もう一杯もっとさ。」 「いや驚いた、いけますなあ。」 「一生に一度ですもの。」 「え。」 「いいえ、二度です。婚礼の晩、飲みましたの。酔いましたわ。」 「乱暴だなあ。しかし、痛快だ。お酌をするのも頂くのも、ともに光栄です。」 「お兄上。」 「…………」 「おほ、ほ。ああ酔った。私……お兄上にあたる方にお酌をさして罰が当る。……前に、あなたが、まだ、先生のお玄関にいらっしゃる時分、私が時々うかがう毎に、駒下駄を直さして、ああ、勿体ない、そう思う、思う心は、口へは出ず、手も足も固くなるから、突張って、ツンツンして、さぞ高慢に見えたでしょう。髪の毛一筋抜けたって、女は生命にかかわります。置きどころもない身体を、あなたの目に曝すんですもの、形も態もありはしません。文学少女とかいうものだって、鬼神に横道なしですよ。自分で卑下する心から、気がひがんで、あなたの顔が憎らしかった。あなたも私が憎いのね。──ああ、信や(女中)二階で手が鳴る。──虫が煩い。この燈を消して、隣室のを点けておくれな。」  その間、頸脚が白かった。振仰向くと、吻と息して、肩が揺れた、片手づきに膝をくねって、 「ああ、酔って来た、境さん、……おいらんとは。お睦じい?……」  と、バタリと畳へ手をつくと、浴衣の蔦は野分する。 「何をいってるんです。」 「おいらんは何て方?……十六夜さん、三千歳さん?」 「薄雲、高尾でございます。これでもそこらで、鮨を撮んで、笹巻の笹だけ袂へ入れて振込めば、立ちどころに仙台様。──庭の薄に風が当る。……  ──寂しいな、お洲美さん、急に何だか寂しい気がする、仙台へ行ってしまわれては。」 「ですけどね、あの、ほかの世話はかまいませんけど、媒妁だけは、もう止してね。」  と、眉が迫って見据えるのです。 「媒妁?」 「──名はいいますまい、売ッ子ですよ。私たちのお弟子なかまではありません。別派、学校側の花形で、あなたのお友だちの方に──わかりまして……私を、私をよ、嫁に、妻に世話しようとなすったのは誰方でした。」 「そ、それは、しかし、勿論、何だ。別派、学校側の……可。……その男が、私を通じて、先生まで申出てくれと頼まれたものだから……」 「お料理屋へ私をお呼び下すって……先生が、そのお話を遊ばしたんです。──境が橋わたしの口を、口を利いた、と一言……一言おっしゃるのを聞いた時、私、私……」 「お待ちなさい、待ちたまえ。──だから断ったから差支えないでしょう。」 「ええ、断りましたわ、誰があんな──あんな男に世話しようなんのって、私、あなたが、私あなたが。」 「そりゃ無理だ、そりゃ無理だ、お洲美さん、あなたが、あの男を好きだか、嫌いだか、私がそれを知るもんですか。」 「だって、だって、ちっとでも、私を、私を思って下すったら、怪我にもあんな、あんな奴に。」 「無理だ、そりゃ乱暴だ。」 「ええ、無理です、乱暴です。だから、私、すぐそのあとで、それまで人をかえ、手をかえ、話があるのを断っていた──よござんすか──私も、あなたが大嫌いな、一番嫌いな、何より好かない、此家へ縁付いてしまったんです。ほ、ほ、ほ。」  太白の糸を噛んだように、白く笑って、 「乱暴でしょう。乱暴、乱暴だけど、あの一番嫌いな人を世話しようとした、その口惜さに、世話しようとした人の、あなたですよ、あなたの一番嫌いな男の許へ縁についた。無理です、乱暴です。乱暴ですけど、あなたは、あなただって、そのくらいな著作をなさるじゃありませんか。」 「何にもいわない。──もう、朝顔の、ま、枕の時から、一言もないのです。私は坊主にでもなりたい。」  お洲美さんは、睜っていた目を閉じました。そして、うなずくように俯向いた耳許が石榴の花のように見えた。 「私は巡礼……  もうこの間から、とりあえず仙台まででも、奥州を巡礼してゆきたい気がするんです。まったくですわ。そういったら、内の女中ッたら、ねえ、あの、私のような汚がり屋さんが、はばかりをどうするって笑うんですの。巡礼といえば、いずれ木賃宿でしょう、野宿にしたって、それは困るわね。でも、真面目ですよ、ご覧なさい──昨日も上野の浄明院石占寺の万体地蔵様に、お参りをして、五百体、六百体と、半日、日の暮方まで巡りましたらね、(水木藻蝶。)いい名でしょう、踊のお師匠さんに違いないのです。(行年二十七)として、名を刻んだ地蔵様が一体、菅笠を──ああ、暑い、私何だか目が霞む。──菅笠を。……めしていらっしゃるんなら、雨なり、露なり、取るのは遠慮だったんですけど、背中に掛けておいでなすったもんだから、外して、本堂へ持って行って、お布施をして、坊さんに授けて貰って来たんです。──これだって女です、巡礼しても、ちっとでも、形のいいように、お師匠さんのを──あの、境さん、菅笠を抱きました時に、何となく、今日ね、あなたがいらっしゃる気がしたんですよ──そ、それに二十七だとすると、もう五年生きられますもの。──押入なんかに蔵っておくより、昼間はちょっと秋草に預けて、花野をあるく姿を見ようと思いますとね、萩も薄も寝てしまう、紫苑は弱し。……さっき、あなたのおいでなすった時ですよ、ちょうど鶏頭の上へ乗っけて見ましたの。そうすると、それがいい工合に。」  ああ、そうか、鶏頭か。春日燈籠をつつんで、薄の穂が白く燈に映る。その奥の暗い葉蔭に、何やら笠を被った黒いものが立っていて、ひょろひょろと動くのが、ふと目に着いてから気にかかった。が、決意もなく、断行もない、坊主になりたいを口にするとともに、どうやら、破衣のその袖が、ふらふらと誘いに来そうで不気味だった。 「見せますわ、見せましょうね。巡礼を。」 「大賛成です。」 「水木藻蝶さん、うつくしい人の面影ですよ。」  どこで脱いだか、はッとたちまち、うす鼠地に蔦を染めた、女作家の、庭の朧の立姿は、羽織を捨てて、鶏頭の竹に添っていた。  軽くはずして、今、手提に引返す。帯が、もう弛んでいる。さみしい好みの水浅葱の縮緬に、蘆の葉をあしらって、淡黄の肉色に影を見せ、蛍の首筋を、ちらちらと紅く染めた蹴出しの色が、雨をさそうか、葉裏を冷く、颯と通る処女風に、蘆も蛍も薄に映って、露ながら白い素足。  二階の裏窓から漏れる電燈に、片頬を片袖ぐるみ笠を黒髪に翳して、隠すようにしたが、蓮葉に沓脱をひらりと、縁へ。 「ふらふらする。ちょっと歩行くと、ふらふらしますわ。酔っちまって。」  と、元の座にくずれた。 「ああ私、何だか分らない。」  ふう、と仰向けに胸の息づかい、乳の蔦がくれの膨みを、ひしと菅笠で圧えながら、 「巡礼に御報謝……ね。」  と、切なそうに微笑んだ。  電燈を背後にして、襟のうすぐらい、胸のその菅笠が、ほんのりと、朧に白い。 「や、お洲美さん、失礼ですが、隠して下さい、笠を透して胸が白い、乳が映る。」 「見えますか。」 「申すも憚りだが、袖で隠して。」 「いいえ、いいえ。」  おくれ毛が邪慳に揺れると、頬が痩せるように見えながら、 「嬉しい、胸が見えるんです。さ、遮るものなしに通った、心の記念に、見える胸を、笠を通して捺塗って見て下さい。その幻の消えないうちに。色が白いか何ぞのように、胡粉とはいいませんから、墨ででも、渋ででも。」 「雪が一掴みあればいいと思う。」 「信や……絵の具皿を引攫っておいで。」 「穏かでない、穏かでない、攫うは乱暴だ、私が借りる。」  胡粉に筆洗を注いだのですが。 「画工でないのが口惜いな。」 「……何ですか蘭竹なんぞ。あなたの目は徹りました、女の乳というものだけでも、これから、きっと立派な文章にかけるんです。」  ──以来、乳とかく時は一字だけも胡粉がいい──  と咄嗟に思って、手首に重く、脈にこたえて、筆で染めると、解けた胡粉は、ほんのりと、笠よりも掌に響き、雪を円く、暖かく、肌理滑らかに装上る。色の白さが夜の陽炎。 「ああ、ああ、刺青ッて、こんなでしょうか。」  居ずまいの乱るる膚に、紅の点滴は、血でない、蛍の首でした。が、筆は我ながら刀より鋭く、双の乳房を、驚破切落したように、立てていた片膝なり、思わず、摚と尻もちを支いた。  お洲美さんは、うっとり目を開き、膝を辷って、蹴出しを隠した菅笠に、両の白いものを視て、擽ったそうに、そッと撫でて、 「……熱いわ──この乳も酔っている……」  と、いって寂しく微笑んだ。 「人目があります。これでは巡礼して、肌を曝しては、あるかれませんね。ぽっちり薄紅を引きましょうか、……まあ、それだと、乳首に見えようも知れません。」  浅葱の絵の具を取って、線を入れた。白雪の乳房に青い静脈は畝らないで、うすく輪取って、双の大輪の朝顔が、面影を、ぱっと咲いた。  蔓を引いて、葉を添えた。 「うまいなあ、大野木夫人。」 「知らない。──このくらいな絵は学校で習います。同行二人──あとは、あなた書いて下さいな。」 「御意のままです、畏まった。」 「薄墨だし……字は余りうまくないのね。」 「弘法様じゃあるまいし、巡礼の笠に、名筆が要りますか。」 「頂くわ、頂きますわ。」  と、被ろうとする。 「お、お待ち下さい。──二階が余り静です。気障をいうようだが……その上になお、お髪が乱れる。」 「可厭な、そんな事は、おいらんに。」 「ああ、坊主になります。」  首を縮めた。 「ちょうどいい、坊主が被って見せましょう。」  と、魔がさしたように、いや、仏が導くように、笠を被ると、笠の下で、笠を被った、笠の男が、笠を被って、ひとりでに、ぶらぶらと歩行き出したのです。  中の室から、玄関へ、式台へ、土間へ、格子へ。  ハッと思わず気が着いたが、 「お洲美さん、貰って行きます。」  我知らず声が出ました。 「あれ、奥様。」  女中が飛出す。  お洲美さんは、式台に一段躓きながら、褄を投げて、障子の桟に縋ったのでした。  ぶつぶつと、我とも分かず、口の裡で、何とも知らず、覚えただけの経文を呟き呟き、鶯谷から、上野の山中を徜徉って歩行いた果が、夜ふけに、清水の舞台に上った。そうして、朱の扉の端に片よせて、紅緒をわがね、なし得る布施を包んだ手帖の引きほぐしに、 大慈のお ん心にまかせ三界迷離の笠一蓋 よしなにおん計 いのほど奉願上候                 ……夜   巡礼者   当御堂 お執事中               礼拝  舞台を下りると、いつか緒の解けたのが、血のように絡わって、生首を切って来たように見えます。秋雨がざっと降って来る。……震え、震え、段を戻って、もう一度巻込んで、それから、ひた走りに、駆出しましたが。  お洲美さんは──水木藻蝶の年も待たず、三年めに、産後で儚くなりました。 「その紅緒なんです。その朝顔の笠、その面影なんです。──」 八 「──お絹さん、宿へ行って話しましょう。──この笠に、深いわけがあるんですから。」 「そしたら、泊っておくれやすえ、可恐いよって。」 「大きに。」  お洲美さんの思出のために、目の前の誘惑に対する余裕が出来て、と、軽く受けて、……我ながらちょっと男振を上げながら、夜露も身に沁む、袖で笠を抱きました。 「旦那、帰ってもいいんでござんしょう。」  藍川館の玄関へ引込んだ時、酔った車夫がニヤニヤと声を掛けた。 「ほんに。」 「いや、一台は、そのまま。幌は掛けたまま頼むよ。」  笠を預けて出たんです。が、今おもっても、冷汗が流れます。この俥をかえしていたら、何の面目があって、世にお目に掛かられよう。  見て下さい。──曲りくねった長い廊下を、そうでしょう、すぐ外は線路だという、奥の奥座敷へ通って、ほとんど秘密室とも思われる。中は広いのに、ただ狭い一枚襖を開けると、どうです。歓喜天の廚子かと思う、綾錦を積んだ堆い夜具に、ふっくりと埋まって、暖かさに乗出して、仰向けに寝ていたのが、 「やあ。」  という、  枕が二つ。…… 「これはおいでなさい。」  眉の青い路之助が、八反の広袖に、桃色の伊達巻で、むくりと起きて出たんですから。 「遅いので、何のおもてなしも。……さ、さ、蜜柑でも。」  片寄せた長火鉢の横で、蜜柑の皮。筋を除る、懐紙の薄いのが、しかし、蜘蛛の巣のように見えた。 「──そうですか、いずれ明日。──お供を……」 「いや、待たせてあります。」  路之助は、式台に、色白くその伊達巻で立った。  お絹が廂を出て、俥の輪に摺り寄った処を、 「握手をしますよ。」  半身を幌から覗くと、 「は、は、は、どうぞしっかり。」 「さようなら。」 「お静かに。」 「ああ、お洲美さん。」  万一、前刻に御堂の縁で、唇を寄せたらば、恥辱に活きてはいられまい。── 「お洲美さん、全く、お庇だ。お洲美さん。」 「旦那、どうか、なさいましたか、旦那。」 「うむ。」  踏切の坂を引あげて、寛永寺横手の暗夜に、石燈籠に囲まれつつ、轍が落葉に軋んだ時、車夫が振向いた。 「婦の友だちだよ。」 「旦那。」  車夫は、藍川館まで附絡った、美しいのに遁げられた、色情狂だと思ったろう。…… 「うつくしい、儚い人だよ。私の傍に居るようだ。」 「ぎゃあ。」 「ついでにおろしておくれ、山の中を巡礼がしたくなった。」 「降り出しましたぜ、旦那。」 「野宿をするのに、雨なんぞ。……あなたは濡らさない、お洲美さん。」 「わあ、大きな燈籠の中に青い顔が、ぎゃあ。」  俥を棄てた。  術をもって対すれば、俳優何するものぞ。ただしその頃は、私に台本、戯曲を綴る気があった。ふと、演出にあたって、劇中の立女形に扮するものを、路之助として、技の意見、相背き、相衝いて反する時、「ふん、おれの情婦ともしらないで。……何、人情がわかるものか。」と侮蔑されたら何とする?!…… 「ああ、お洲美さん、ありがとう。」  と朝顔の笠を両袖で──外套は宿へ忘れて来た──袖でひしと抱いて、桜を誘う雨ながら、ざっと一しきり降り来る中に、怪しき巨人に襲わるる、森の恐怖にふるえつつも、さめざめと涙を流した、石燈籠が泣くように。…… 昭和七(一九三二)年四月 底本:「泉鏡花集成8」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年5月23日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第二十三卷」岩波書店    1942(昭和17)年6月22日発行 初出:「週刊朝日 第二十一ノ十六号(春季特別號)」    1932(昭和7)年4月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:仙酔ゑびす 2011年10月21日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。