瓜の涙 泉鏡花 Guide 扉 本文 目 次 瓜の涙        一  年紀は少いのに、よっぽど好きだと見えて、さもおいしそうに煙草を喫みつつ、……しかし烈しい暑さに弱って、身も疲れた様子で、炎天の並木の下に憩んでいる学生がある。  まだ二十歳そこらであろう、久留米絣の、紺の濃く綺麗な処は初々しい。けれども、着がえのなさか、幾度も水を潜ったらしく、肘、背筋、折りかがみのあたりは、さらぬだに、あまり健康そうにはないのが、薄痩せて見えるまで、その処々色が褪せて禿げている。──茶の唐縮緬の帯、それよりも煙草に相応わないのは、東京のなにがし工業学校の金色の徽章のついた制帽で、巻莨ならまだしも、喫んでいるのが刻煙草である。  場所は、言った通り、城下から海岸の港へ通る二里余りの並木の途中、ちょうど真中処に、昔から伝説を持った大な一面の石がある──義経記に、…… 加賀国富樫と言う所も近くなり、富樫の介と申すは当国の大名なり、鎌倉殿より仰は蒙らねども、内々用心して判官殿を待奉るとぞ聞えける。武蔵坊申しけるは、君はこれより宮の越へ渡らせおわしませ── とある……金石の港で、すなわち、旧の名宮の越である。  真偽のほどは知らないが、おなじ城下を東へ寄った隣国へ越る山の尾根の談義所村というのに、富樫があとを追って、つくり山伏の一行に杯を勧めた時、武蔵坊が鳴るは滝の水、日は照れども絶えずと、謡ったと伝うる(鳴は滝)小さな滝の名所があるのに対して、これを義経の人待石と称うるのである。行歩健かに先立って来たのが、あるき悩んだ久我どのの姫君──北の方を、乳母の十郎権の頭が扶け参らせ、後れて来るのを、判官がこの石に憩って待合わせたというのである。目覚しい石である。夏草の茂った中に、高さはただ草を抽いて二三尺ばかりだけれども、広さおよそ畳を数えて十五畳はあろう、深い割目が地の下に徹って、もう一つ八畳ばかりなのと二枚ある。以前はこれが一面の目を驚かすものだったが、何の年かの大地震に、坤軸を覆して、左右へ裂けたのだそうである。  またこの石を、城下のものは一口に呼んで巨石とも言う。  石の左右に、この松並木の中にも、形の丈の最も勝れた松が二株あって、海に寄ったのは亭々として雲を凌ぎ、町へ寄ったは拮蟠して、枝を低く、彼処に湧出づる清水に翳す。……  そこに、青き苔の滑かなる、石囲の掘抜を噴出づる水は、音に聞えて、氷のごとく冷やかに潔い。人の知った名水で、並木の清水と言うのであるが、これは路傍に自から湧いて流るるのでなく、人が囲った持主があって、清水茶屋と言う茶店が一軒、田畝の土手上に廂を構えた、本家は別の、出茶屋だけれども、ちょっと見霽の座敷もある。あの低い松の枝の地紙形に翳蔽える葉の裏に、葦簀を掛けて、掘抜に繞らした中を、美しい清水は、松影に揺れ動いて、日盛にも白銀の月影をこぼして溢るるのを、広い水槽でうけて、その中に、真桑瓜、西瓜、桃、李の実を冷して売る。……  名代である。        二  畠一帯、真桑瓜が名産で、この水あるがためか、巨石の瓜は銀色だと言う……瓜畠がずッと続いて、やがて蓮池になる……それからは皆青田で。  畑のは知らない。実際、水槽に浸したのは、真蒼な西瓜も、黄なる瓜も、颯と銀色の蓑を浴びる。あくどい李の紅いのさえ、淡くくるくると浅葱に舞う。水に迸る勢に、水槽を装上って、そこから百条の簾を乱して、溝を走って、路傍の草を、さらさらと鳴して行く。  音が通い、雫を帯びて、人待石──巨石の割目に茂った、露草の花、蓼の紅も、ここに腰掛けたという判官のその山伏の姿よりは、爽かに鎧うたる、色よき縅毛を思わせて、黄金の太刀も草摺も鳴るよ、とばかり、松の梢は颯々と、清水の音に通って涼しい。  けれども、涼しいのは松の下、分けて清水の、玉を鳴して流るる処ばかりであろう。  三間幅──並木の道は、真白にキラキラと太陽に光って、ごろた石は炎を噴く……両側の松は梢から、枝から、おのが影をおのが幹にのみ這わせつつ、真黒な蛇の形を畝らす。  雲白く、秀でたる白根が岳の頂に、四時の雪はありながら、田は乾き、畠は割れつつ、瓜の畠の葉も赤い。来た処も、行く道も、露草は胡麻のように乾び、蓼の紅は蚯蚓が爛れたかと疑われる。  人の往来はバッタリない。  大空には、あたかもこの海の沖を通って、有磯海から親不知の浜を、五智の如来へ詣ずるという、泳ぐのに半身を波の上に顕して、列を造って行くとか聞く、海豚の群が、毒気を吐掛けたような入道雲の低いのが、むくむくと推並んで、動くともなしに、見ていると、地が揺れるように、ぬッと動く。  見すぼらしい、が、色の白い学生は、高い方の松の根に一人居た。  見ても、薄桃色に、また青く透明る、冷い、甘い露の垂りそうな瓜に対して、もの欲げに思われるのを恥じたのであろう。茶店にやや遠い人待石に──  で、その石には腰も掛けず、草に蹲って、そして妙な事をする。……煙草を喫むのに、燐寸を摺った。が、燃さしの軸を、消えるのを待って、もとの箱に入れて、袂に蔵った。  乏しい様子が、燐寸ばかりも、等閑になし得ない道理は解めるが、焚残りの軸を何にしよう……  蓋し、この年配ごろの人数には漏れない、判官贔屓が、その古跡を、取散らすまい、犯すまいとしたのであった── 「この松の事だろうか……」  ──金石の湊、宮の腰の浜へ上って、北海の鮹と烏賊と蛤が、開帳まいりに、ここへ出て来たという、滑稽な昔話がある──  人待石に憩んだ時、道中の慰みに、おのおの一芸を仕ろうと申合す。と、鮹が真前にちょろちょろと松の木の天辺へ這って、脚をぶらりと、 「藤の花とはどうだの、下り藤、上り藤。」と縮んだり伸びたり。  烏賊が枝へ上って、鰭を張った。 「印半纏見てくんねえ。……鳶職のもの、鳶職のもの。」  そこで、蛤が貝を開いて、 「善光寺様、お開帳。」とこう言うのである。  鉈豆煙管を噛むように啣えながら、枝を透かして仰ぐと、雲の搦んだ暗い梢は、ちらちらと、今も紫の藤が咲くか、と見える。        三 「──あすこに鮹が居ます──」  とこの高松の梢に掛った藤の花を指して、連の職人が、いまのその話をした時は……  ちょうど藤つつじの盛な頃を、父と一所に、大勢で、金石の海へ……船で鰯網を曵かせに行く途中であった……  楽しかった……もうそこの茶店で、大人たちは一度吸筒を開いた。早や七年も前になる……梅雨晴の青い空を、流るる雲に乗るように、松並木の梢を縫って、すうすうと尾長鳥が飛んでいる。  長閑に、静な景色であった。  と炎天に夢を見る様に、恍惚と松の梢に藤の紫を思ったのが、にわかに驚く! その次なる烏賊の芸当。  鳶職というのを思うにつけ、学生のその迫った眉はたちまち暗かった。  松野謹三、渠は去年の秋、故郷の家が焼けたにより、東京の学校を中途にして帰ったまま、学資の出途に窮するため、拳を握り、足を爪立てているのである。  いや、ただ学資ばかりではない。……その日その日の米薪さえ覚束ない生活の悪処に臨んで、──実はこの日も、朝飯を済ましたばかりなのであった。  全焼のあとで、父は煩って世を去った。──残ったのは七十に近い祖母と、十ウばかりの弟ばかり。  父は塗師職であった。  黄金無垢の金具、高蒔絵の、貴重な仏壇の修復をするのに、家に預ってあったのが火になった。その償いの一端にさえ、あらゆる身上を煙にして、なお足りないくらいで、焼あとには灰らしい灰も残らなかった。  貧乏寺の一間を借りて、墓の影法師のように日を送る。──  十日ばかり前である。  渠が寝られぬ短夜に……疲れて、寝忘れて遅く起きると、祖母の影が見えぬ……  枕頭の障子の陰に、朝の膳ごしらえが、ちゃんと出来ていたのを見て、水を浴びたように肝まで寒くした。──大川も堀も近い。……ついぞ愚痴などを言った事のない祖母だけれど、このごろの余りの事に、自分さえなかったら、木登りをしても学問の思いは届こうと、それを繰返していたのであるから。  幸に箸箱の下に紙切が見着かった──それに、仮名でほつほつと(あんじまいぞ。)と書いてあった。  祖母は、その日もおなじほどの炎天を、草鞋穿で、松任という、三里隔った町まで、父が存生の時に工賃の貸がある骨董屋へ、勘定を取りに行ったのであった。  七十の老が、往復六里。……骨董屋は疾に夜遁げをしたとやらで、何の効もなく、日暮方に帰ったが、町端まで戻ると、余りの暑さと疲労とで、目が眩んで、呼吸が切れそうになった時、生玉子を一個買って飲むと、蘇生った心地がした。…… 「根気の薬じゃ。」と、そんな活計の中から、朝ごとに玉子を割って、黄味も二つわけにして兄弟へ……  萎れた草に露である。  ──今朝も、その慈愛の露を吸った勢で、謹三がここへ来たのは、金石の港に何某とて、器具商があって、それにも工賃の貸がある……懸を乞いに出たのであった──  若いものの癖として、出たとこ勝負の元気に任せて、影も見ないで、日盛を、松並木の焦げるがごとき中途に来た。  暑さに憩うだけだったら、清水にも瓜にも気兼のある、茶店の近所でなくっても、求むれば、別なる松の下蔭もあったろう。  渠はひもじい腹も、甘くなるまで、胸に秘めた思があった。  判官の人待石。  それは、その思を籠むる、宮殿の大なる玉の床と言っても可かろう。        四  金石街道の松並木、ちょうどこの人待石から、城下の空を振向くと、陽春三四月の頃は、天の一方をぽっと染めて、銀河の横たうごとき、一条の雲ならぬ紅の霞が懸る。……  遠山の桜に髣髴たる色であるから、花の盛には相違ないが、野山にも、公園にも、数の植わった邸町にも、土地一統が、桜の名所として知った場所に、その方角に当っては、一所として空に映るまで花の多い処はない。……霞の滝、かくれ沼、浮城、もの語を聞くのと違って、現在、誰の目にも視めらるる。  見えつつ、幻影かと思えば、雲のたたずまい、日の加減で、その色の濃い事は、一斉に緋桃が咲いたほどであるから、あるいは桃だろうとも言うのである。  紫の雲の、本願寺の屋の棟にかかるのは引接の果報ある善男善女でないと拝まれない。が紅の霞はその時節にここを通る鰯売鯖売も誰知らないものはない。  深秘な山には、谷を隔てて、見えつつ近づくべからざる巨木名花があると聞く。……いずれ、佐保姫の妙なる袖の影であろう。  花の蜃気楼だ、海市である……雲井桜と、その霞を称えて、人待石に、氈を敷き、割籠を開いて、町から、特に見物が出るくらい。  けれども人々は、ただ雲を掴んで影を視めるばかりなのを……謹三は一人その花吹く天──雲井桜を知っていた。  夢ではない。……得忘るまじく可懐しい。ただ思うにさえ、胸の時めく里である。  この年の春の末であった。──  雀を見ても、燕を見ても、手を束ねて、寺に籠ってはいられない。その日の糧の不安さに、はじめはただ町や辻をうろついて廻ったが、落穂のないのは知れているのに、跫音にも、けたたましく驚かさるるのは、草の鶉よりもなお果敢ない。  詮方なさに信心をはじめた。世に人にたすけのない時、源氏も平家も、取縋るのは神仏である。  世間は、春風に大きく暖く吹かるる中を、一人陰になって霜げながら、貧しい場末の町端から、山裾の浅い谿に、小流の畝々と、次第高に、何ヶ寺も皆日蓮宗の寺が続いて、天満宮、清正公、弁財天、鬼子母神、七面大明神、妙見宮、寺々に祭った神仏を、日課のごとく巡礼した。 「……御飯が食べられますように、……」  父が存生の頃は、毎年、正月の元日には雪の中を草鞋穿でそこに詣ずるのに供をした。参詣が果てると雑煮を祝って、すぐにお正月が来るのであったが、これはいつまでも大晦日で、餅どころか、袂に、煎餅も、榧の実もない。  一寺に北辰妙見宮のまします堂は、森々とした樹立の中を、深く石段を上る高い処にある。 「ぼろきてほうこう。ぼろきてほうこう。」  昼も梟が鳴交わした。  この寺の墓所に、京の友禅とか、江戸の俳優某とか、墓があるよし、人伝に聞いたので、それを捜すともなしに、卵塔の中へ入った。  墓は皆暗かった、土地は高いのに、じめじめと、落葉も払わず、苔は萍のようであった。  ふと、生垣を覗いた明い綺麗な色がある。外の春日が、麗かに垣の破目へ映って、娘が覗くように、千代紙で招くのは、菜の花に交る紫雲英である。……  少年の瞼は颯と血を潮した。  袖さえ軽い羽かと思う、蝶に憑かれたようになって、垣の破目をするりと抜けると、出た処の狭い路は、飛々の草鞋のあと、まばらの馬の沓の形を、そのまま印して、乱れた亀甲形に白く乾いた。それにも、人の往来の疎なのが知れて、隈なき日当りが寂寞して、薄甘く暖い。  怪しき臭気、得ならぬものを蔽うた、藁も蓆も、早や路傍に露骨ながら、そこには菫の濃いのが咲いて、淡いのが草まじりに、はらはらと数に乱れる。  馬の沓形の畠やや中窪なのが一面、青麦に菜を添え、紫雲英を畔に敷いている。……真向うは、この辺一帯に赤土山の兀げた中に、ひとり薄萌黄に包まれた、土佐絵に似た峰である。  と、この一廓の、徽章とも言つべく、峰の簪にも似て、あたかも紅玉を鏤めて陽炎の箔を置いた状に真紅に咲静まったのは、一株の桃であった。  綺麗さも凄かった。すらすらと呼吸をする、その陽炎にものを言って、笑っているようである。  真赤な蛇が居ようも知れぬ。  が、渠の身に取っては、食に尽きて倒るるより、自然に死ぬなら、蛇に巻かれたのが本望であったかも知れぬ。  袂に近い菜の花に、白い蝶が来て誘う。  ああ、いや、白い蛇であろう。  その桃に向って、行きざまに、ふと見ると、墓地の上に、妙見宮の棟の見ゆる山へ続く森の裏は、山際から崕上を彩って──はじめて知った──一面の桜である。……人は知るまい……一面の桜である。  行くに従うて、路は、奥拡がりにぐるりと山の根を伝う。その袂にも桜が充ちた。  しばらく、青麦の畠になって、紫雲英で輪取る。畔づたいに廻りながら、やがて端へ出て、横向に桃を見ると、その樹のあたりから路が坂に低くなる、両方は、飛々差覗く、小屋、藁屋を、屋根から埋むばかり底広がりに奥を蔽うて、見尽されない桜であった。  余りの思いがけなさに、渠は寂然たる春昼をただ一人、花に吸われて消えそうに立った。  その日は、何事もなかった──もとの墓地を抜けて帰った──ものに憑かれたようになって、夜はおなじ景色を夢に視た。夢には、桜は、しかし桃の梢に、妙見宮の棟下りに晃々と明星が輝いたのである。  翌日も、翌日も……行ってその三度の時、寺の垣を、例の人里へ出ると斉しく、桃の枝を黒髪に、花菜を褄にして立った、世にも美しい娘を見た。  十六七の、瓜実顔の色の白いのが、おさげとかいう、うしろへさげ髪にした濃い艶のある房りした、その黒髪の鬢が、わざとならずふっくりして、優しい眉の、目の涼しい、引しめた唇の、やや寂しいのが品がよく、鼻筋が忘れたように隆い。  縞目は、よく分らぬ、矢絣ではあるまい、濃い藤色の腰に、赤い帯を胸高にした、とばかりで袖を覚えぬ、筒袖だったか、振袖だったか、ものに隠れたのであろう。  真昼の緋桃も、その娘の姿に露の濡色を見せて、髪にも、髻にも影さす中に、その瓜実顔を少く傾けて、陽炎を透かして、峰の松を仰いでいた。  謹三は、ハッと後退りに退った。──杉垣の破目へ引込むのに、かさかさと帯の鳴るのが浅間しかったのである。  気咎めに、二日ばかり、手繰り寄せらるる思いをしながら、あえて行くのを憚ったが──また不思議に北国にも日和が続いた──三日めの同じ頃、魂がふッと墓を抜けて出ると、向うの桃に影もない。……  勿体なくも、路々拝んだ仏神の御名を忘れようとした処へ──花の梢が、低く靉靆く……藁屋はずれに黒髪が見え、すらりと肩が浮いて、俯向いて出たその娘が、桃に立ちざまに、目を涼しく、と小戻をしようとして、幹がくれに密と覗いて、此方をば熟と視る時、俯目になった。  思わず、そのとき渠は蹲んだ、そして煙草を喫んだ形は、──ここに人待石の松蔭と同じである──  が、姿も見ないで、横を向きながら、二服とは喫みも得ないで、慌しげにまた立つと、精々落着いて其方に歩んだ。畠を、ややめぐり足に、近づいた時であった。  娘が、柔順に尋常に会釈して、 「誰方?……」  と優しい声を聞いて、はっとした途端に、真上なる山懐から、頭へ浴びせて、大きな声で、 「何か、用か。」と喚いた。 「失礼!」  と言う、頸首を、空から天狗に引掴まるる心地がして、 「通道ではなかったんですか、失礼しました、失礼でした。」  ──それからは……寺までも行き得ない。        五  人は何とも言わば言え……  で渠に取っては、花のその一里が、所謂、雲井桜の仙境であった。たとえば大空なる紅の霞に乗って、あまつさえその美しいぬしを視たのであるから。  町を行くにも、気の怯けるまで、郷里にうらぶれた渠が身に、──誰も知るまい、──ただ一人、秘密の境を探り得たのは、潜に大なる誇りであった。  が、ものの本の中に、同じような場面を読み、絵の面に、そうした色彩に対しても、自から面の赤うなる年紀である。  祖母の傍でも、小さな弟と一所でも、胸に思うのも憚られる。……寝て一人の時さえ、夜着の袖を被らなければ、心に描くのが後暗い。……  ──それを、この機会に、並木の松蔭に取出でて、深秘なるあが仏を、人待石に、密に据えようとしたのである。  成りたけ、人勢に遠ざかって、茶店に離れたのに不思議はあるまい。  その癖、傍で視ると、渠が目に彩り、心に映した──あの﨟たけた娘の姿を、そのまま取出して、巨石の床に据えた処は、松並木へ店を開いて、藤娘の絵を売るか、普賢菩薩の勧進をするような光景であった。  渠は、空に恍惚と瞳を据えた。が、余りに憧るる煩悩は、かえって行澄ましたもののごとく、容も心も涼しそうで、紺絣さえ松葉の散った墨染の法衣に見える。  時に、吸ったのが悪いように、煙を手で払って、叺の煙草入を懐中へ蔵うと、静に身を起して立ったのは──更めて松の幹にも凭懸って、縋って、あせって、煩えて、──ここから見ゆるという、花の雲井をいまはただ、蒼くも白くも、熟と城下の天の一方に眺めようとしたのであった。  さりとも、人は、と更めて、清水の茶屋を、松の葉越に差窺うと、赤ちゃけた、ばさらな銀杏返をぐたりと横に、框から縁台へ落掛るように浴衣の肩を見せて、障子の陰に女が転がる。  納戸へ通口らしい、浅間な柱に、肌襦袢ばかりを着た、胡麻塩頭の亭主が、売溜の銭箱の蓋を圧えざまに、仰向けに凭れて、あんぐりと口を開けた。  瓜畑を見透しの縁──そこが座敷──に足を投出して、腹這いになった男が一人、黄色な団扇で、耳も頭もかくしながら、土地の赤新聞というのを、鼻の下に敷いていたのが、と見る間に、二ツ三ツ団扇ばかり動いたと思えば、くるりと仰向けになった胸が、臍まで寛ける。  清水はひとり、松の翠に、水晶の鎧を揺据える。  蝉時雨が、ただ一つになって聞えて、清水の上に、ジーンと響く。  渠は心ゆくばかり城下を視めた。  遠近の樹立も、森も、日盛に煙のごとく、重る屋根に山も低い。町はずれを、蒼空へ突出た、青い薬研の底かと見るのに、きらきらと眩い水銀を湛えたのは湖の尖端である。  あのあたり、あの空……  と思うのに──雲はなくて、蓮田、水田、畠を掛けて、むくむくと列を造る、あの雲の峰は、海から湧いて地平線上を押廻す。  冷い酢の香が芬と立つと、瓜、李の躍る底から、心太が三ツ四ツ、むくむくと泳ぎ出す。  清水は、人の知らぬ、こんな時、一層高く潔く、且つ湧き、且つ迸るのであろう。  蒼蝿がブーンと来た。  そこへ……        六  いかに、あの体では、蝶よりも蠅が集ろう……さし捨のおいらん草など塵塚へ運ぶ途中に似た、いろいろな湯具蹴出し。年増まじりにあくどく化粧った少い女が六七人、汗まみれになって、ついそこへ、並木を来かかる。……  年増分が先へ立ったが、いずれも日蔭を便るので、捩れた洗濯もののように、その濡れるほどの汗に、裾も振もよれよれになりながら、妙に一列に列を造った体は、率いるものがあって、一からげに、縄尻でも取っていそうで、浅間しいまであわれに見える。  故あるかな、背後に迫って男が二人。一人の少い方は、洋傘を片手に、片手は、はたはたと扇子を使い使い来るが、扇子面に広告の描いてないのが可訝いくらい、何のためか知らず、絞の扱帯の背に漢竹の節を詰めた、杖だか、鞭だか、朱の総のついた奴をすくりと刺している。  年倍なる兀頭は、紐のついた大な蝦蟇口を突込んだ、布袋腹に、褌のあからさまな前はだけで、土地で売る雪を切った氷を、手拭にくるんで南瓜かぶりに、頤を締めて、やっぱり洋傘、この大爺が殿で。 「あらッ、水がある……」  と一人の女が金切声を揚げると、 「水がある!」  と言うなりに、こめかみの処へ頭痛膏を貼った顔を掉って、年増が真先に飛込むと、たちまち、崩れたように列が乱れて、ばらばらと女連が茶店へ駆寄る。  ちょっと立どまって、大爺と口を利いた少いのが、続いて入りざまに、 「じゃあ、何だぜ、お前さん方──ここで一休みするかわりに、湊じゃあ、どこにも寄らねえで、すぐに、汽船だよ、船だよ。」  銀鎖を引張って、パチンと言わせて、 「出帆に、もう、そんなに間もねえからな。」 「おお、暑い、暑い。」 「ああ暑い。」  もう飛ついて、茶碗やら柄杓やら。諸膚を脱いだのもあれば、腋の下まで腕まくりするのがある。  年増のごときは、 「さあ、水行水。」  と言うが早いか、瓜の皮を剥くように、ずるりと縁台へ脱いで赤裸々。  黄色な膚も、茶じみたのも、清水の色に皆白い。  学生は面を背けた。が、年増に限らぬ……言合せたように皆頭痛膏を、こめかみへ。その時、ぽかんと起きた、茶店の女のどろんとした顔にも、斉しく即効紙がはってある。 「食るが可い。よく冷えてら。堪らねえや。だが、あれだよ、皆、渡してある小遣で各々持だよ──西瓜が好かったらこみで行きねえ、中は赤いぜ、うけ合だ。……えヘッヘッ。」  きゃあらきゃあらと若い奴、蜩の化けた声を出す。 「真桑、李を噛るなら、あとで塩湯を飲みなよ。──うんにゃ飲みなよ。大金のかかった身体だ。」  と大爺は大王のごとく、真正面の框に上胡坐になって、ぎろぎろと膚を眗す。  とその中を、すらりと抜けて、褄も包ましいが、ちらちらと小刻に、土手へ出て、巨石の其方の隅に、松の根に立った娘がある。……手にも掬ばず、茶碗にも後れて、浸して吸ったかと思うばかり、白地の手拭の端を、莟むようにちょっと啣えて悄れた。巣立の鶴の翼を傷めて、雲井の空から落ちざまに、さながら、昼顔の花に縋ったようなのは、──島田髭に結って、二つばかり年は長けたが、それだけになお女らしい影を籠め、色香を湛え、情を含んだ、……浴衣は、しかし帯さえその時のをそのままで、見紛う方なき、雲井桜の娘である。        七  ──お前たち。渡した小遣。赤い西瓜。皆の身体。大金──と渦のごとく繰返して、その娘のおなじように、おなじ空に、その時瞳をじっと据えたのを視ると、渠は、思わず身を震わした。  面を背けて、港の方を、暗くなった目に一目仰いだ時である。 「火事だ、」謹三はほとんど無意識に叫んだ。 「火事だ、火事です。」  と見る、偉大なる煙筒のごとき煙の柱が、群湧いた、入道雲の頂へ、海ある空へ真黒にすくと立つと、太陽を横に並木の正面、根を赫と赤く焼いた。 「火事──」と道の中へ衝と出た、人の飛ぶ足より疾く、黒煙は幅を拡げ、屏風を立てて、千仭の断崖を切立てたように聳った。 「火事だぞ。」 「あら、大変。」 「大いよ!」  火事だ火事だと、男も女も口々に── 「やあ、馬鹿々々。何だ、そんな体で、引込まねえか、こら、引込まんか。」  と雲の峰の下に、膚脱、裸体の膨れた胸、大な乳、肥った臀を、若い奴が、鞭を振って追廻す──爪立つ、走る、緋の、白の、股、向脛を、刎上げ、薙伏せ、挫ぐばかりに狩立てる。 「きゃッ。」 「わッ。」  と呼ぶ声、叫ぶ声、女どもの形は、黒い入道雲を泳ぐように立騒ぐ真上を、煙の柱は、じりじりと蔽い重る。……  畜生──修羅──何等の光景。  たちまち天に蔓って、あの湖の薬研の銀も真黒になったかと思うと、村人も、往来も、いつまたたく間か、どッと溜った。  謹三の袖に、ああ、娘が、引添う。……  あわれ、渠の胸には、清水がそのまま、血になって湧いて、涙を絞って流落ちた。  ばらばらばら!  火の粉かと見ると、こはいかに、大粒な雨が、一粒ずつ、粗く、疎に、巨石の面にかかって、ぱッと鼓草の花の散るように濡れたと思うと、松の梢を虚空から、ひらひらと降って、胸を掠めて、ひらりと金色に飜って落ちたのは鮒である。 「火事じゃあねえ、竜巻だ。」 「やあ、竜巻だ。」 「あれ。」  と口の裡、呼吸を引くように、胸の浪立った娘の手が、謹三の袂に縋って、 「可恐い……」 「…………」 「どうしましょうねえ。」  と引いて縋る、柔い細い手を、謹三は思わず、しかと取った。  ──いかになるべき人たちぞ… 大正九(一九二〇)年十月 底本:「泉鏡花集成7」ちくま文庫、筑摩書房    1995(平成7)年12月4日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第二十卷」岩波書店    1941(昭和16)年5月20日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:noriko saito 2009年1月29日作成 2009年4月10日修正 青空文庫作成ファイル: 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