小説「墓場」に現れたる著者木下氏の思想と平民社一派の消息 石川啄木 Guide 扉 本文 目 次 小説「墓場」に現れたる著者木下氏の思想と平民社一派の消息  木下尚江著小説「墓場」。  明治四十一年(一九〇八)十二月十三日東京本郷弓町一丁目二番地昭文堂宮城伊兵衞發行。翌四十二年二月再版。著者の著作の順序からいへば「乞食」の後、「勞働」の前。  著者の小説は概して二つの種類に分けることが出來る。一は或思想を説明若くは主張する爲に其處に或事件を空想的に脚色したもの、さうして他は著者自身の實際の事歴を經として叙述したもの。──この墓場は、それに書かれた色々の事件が、著者の告白書「懺悔」及び平民社一派の歴史的事實と間々吻合してゐる點から見て、假令其處には隨分多量に作爲の跡を見るにしても、後者の系統に屬するものであることは明かである。しかしそれが著者自身に於ての最も重要な時期──嘗て平民社の有力者、第一期日本社會主義の代表者の一人として活動した著者が、遂にその社會主義を棄てて宗教的生活に入るに至つたまでの──思想の動搖を一篇の骨子としてゐる上に於て、日本に於ける社會主義的思潮の消長を研究する立場からも極めて眞面目な興味を注ぎ得べき作である。又單に一箇の小説として見ても、著者の作中では最も優れたものの一つである。同じ傾向に立つ「勞働」のやうに散慢でなく、反對の系統にある「乞食」などのやうに獨斷的な厭味もない。故郷に歸つて追憶をほしいまゝにするといふ結構それ自身が、何人の興味をも集め得る傳習的の手段であるとはいひながら、間々鋭い批評を含んだ叙述の筆にも讀者を最後の頁まで導く魅力は確かにある。尤もその長所がやがてまた此の小説の短所──詮じつめて言へば著者それ自身の短所のある所である。即ち、彼は既に一箇の小説として格好な題材を捉へ、且つそれを表現すべき格好な形式を作り出しながら、それを小説として完成すべく、その創作的態度の上に餘りに露骨に批評家としての野心を見せ過ぎてゐる。若し彼にして眞に忠實なる一小説家であつたならば、必ず其處に一つの小説が有すべき力學的要素と其量に就いて適當な按配を試みたに違ひない。しかく色々の過去の事物及び半過去の領域に屬してゐる故郷の現状に執着する代りに、もつと強く且つ深く現實の壓迫を描いたに違ひない。(書中に於ては、主人公が目前に用事を控へてゐながらふらりと故郷に歸つて來て十日も經つのに、東京の妻からたゞ一通の手紙が來た外に、何等その現實の生活との交渉が語られてゐない。)さうして其處に此の小説の本旨が却つて一番強く且つ深く達せられたに違ひない。  種々の事實によつて推察するに、この小説の時期は明治三十九年(一九○六)六月である。  日本に於ける第一期社會主義運動は不思議にも日露戰爭と密接な關係を以て終始した。戰爭の前年(三十六年、一九〇三)十月、萬朝報社の非戰主義者の内村鑑三、幸徳傳次郎、堺枯川の三氏は社長黒岩周六の開戰不可避論を承認することが出來なくて連袂退社を決行した。さうして三氏の中の社會主義者幸徳、堺二氏は、その年十一月を以て社會主義協會の人々と共に週刊「平民新聞」を起した。著者もその同志の一人であつた。しかも文筆に於て辯論に於て、實に最も有力なる同志の一人であつた。啻に文筆辯論に於けるばかりでなく、同志の獄に引かるる者ある毎に、著者はその職業の故を以て常に法廷に辯護の勞を執ることに盡してゐた。三十八年(一九〇五、この小説の時期の前年)五月には同志から推されて東京市衆議院議員補缺選擧の候補にも立つた。  然しながらこの平民社は、たとひその經濟上の破綻が原因をなさぬまでも、遂に一度は解體さるべきものであつた。其處には著者の如き基督教信者もあれば、徹底した意識を有つた唯物論者もあつた。またその何れにも屬することの出來ない實際的社會主義者──即ち眞の社會主義者──もゐた。三十八年八月を以て戰爭が終結すると共に、社會主義者の氣勢は漸く鈍つた。十月に至つて平民社は遂に解散を餘儀なくされた。十一月十四日を以て幸徳は北米に去つた。著者はこの頃すでに社會主義者としての自己の立場に不安と動搖とを感じてゐたらしく見える。幸徳の去ると同時に、以前の同志は二分され、一派は十一月二十日を以て半月刊「光」を起し、著者は安部磯雄、石川三四郎二氏と共に月刊「新紀元」に基督教的社會主義の旗幟を飜した。かくて第一期社會主義運動は衰頽の氣運と共に明治三十九年を迎へた。  近世社會主義はその平等思想に於て在來の一切の宗教、一切の人道的思想に共通してゐる。無論基督教にも共通してゐる。然しながら近世社會主義は所詮近世産業時代の特産物である。其處に掩ふべからざる特質がある。從つて社會主義と基督教との間には、或調和の保たれる餘地は充分にあるが、然しその調和は兩方の特質を十分包含し得る程の調和ではあり得ない。基督教社會主義とは畢竟その不十分なる調和に名付けられた名に過ぎない。──予はさう思ふ。さうして「墓場」の著者の煩悶も亦其處にあると思ふ。時は戰爭後であつた。平民社解散後であつた。人は誰しも或活動の後には一度必ず自分自身とその自分の爲した事とを靜觀するものである。さうして、その時、大抵の人は、殊に單純な性格の人は、失望に捉へられるものである。  恰度その時、五月六日(「懺悔」による)著者はその母を喪つた。母の死は孝心深き著者(著者の孝心の深かつたことは著者の多くの著作によつて窺はれる)にどれだけの打撃であつたか知れない。著者の精神的動搖は頂點に達した。小説「墓場」は其處に筆を起してゐる。  次のやうな序文がついてゐる。 昔時「パリサイ」の師「ニコデモ」、夜窃かに耶蘇に來りて道を問ふ。耶蘇答へて曰く、「人若し生まれ替はるに非れば、神の國を見ること能はず」。而して「ニコデモ」遂に之を解せざりき。嗚呼人生まれ替はるに非れば、神の國を見る能ず。然り。今や諸氏大懺悔の時なり。 僞善の帷帳、裂けし響か、雁かねの 夜渡る聲か、枕に惑ふ。 千九百八年十一月廿九日霜白き曉                 木下尚江 三河島の菜園に於て 底本:「啄木全集 第十卷」岩波書店    1961(昭和36)年8月10日新装第1刷発行 入力:蒋龍 校正:阿部哲也 2012年3月8日作成 2012年8月5日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。