近況 堀辰雄 Guide 扉 本文 目 次 近況  神西君が僕のことを山のぼりなどしたやうに書いたものだから、みんながもつと身體に氣をつけて、あんまり無茶をしないやうにといつてよこす。この五月の末ごろの或る温かい日、家のものたちと裏の山へ楤の芽をとりにいつて、つい氣もちがいいまま、二三時間山で過ごした。──そんなちよつとした山あそびが、いつか僕の山のぼりとなつて友人たちの間に傳はつたわけだ。それが僕のからだに祟つたのでもなからう。わが茅屋の裏にささやかな流れがある。その向うがもうすぐ林で、そこへ薪をとりにゆくのでも、ふだん「山へいつて……」といふぐらゐな土地柄だから、山などといつてもどうぞ恐ろしがらずにゐてほしい。  もう冬に入りかけてゐる。秋の半ばごろから、僕もやや小康を得てゐる。もうすこしぢつと辛抱してゐたら、おひおひ快くなるだらうと思ふ。この頃、菊の花ばかりつづけて、さう三囘ほど、人に貰つた。このへんの農家の籬などにむざうさに咲いてゐる、黄いろい、こまかな花である。これが今年の最後の花だらう。それを枕もとに活けさせて、その下で、僕はなんだか一日中うつらうつらと睡つてゐることがおほい。さうしてときどき目をさましては、ふとその花の香におどろく。 一身憔悴對花眠  むかし讀んだ唐詩のそんな一句が、いまさらのやうに蘇つてきて、胸にしみこむやうな氣がする。 底本:「堀辰雄作品集第四卷」筑摩書房    1982(昭和57)年8月30日初版第1刷発行 初出:「四季 第四号」    1947(昭和22)年4月20日 ※初出時の表題は「追分より」です。 入力:tatsuki 校正:染川隆俊 2013年8月8日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。