和歌の発生と諸芸術との関係 折口信夫 Guide 扉 本文 目 次 和歌の発生と諸芸術との関係 私はまづ、縁遠さうな舞踊の方面からはじめるつもりである。 遊部  遊部は、終身事ふること勿し。故に遊部と云ふ。(以上、義解の本文)釈に云はく、……遊部は、幽顕の境を隔て、凶癘の魂を鎮むる氏なり。終身事ふること勿し、故に遊部と云ふ。古記に云はく、遊部は、大倭ノ国高市ノ郡に在り。生目天皇の苗裔なり。遊部と負ふ所以は、生目天皇の孽円目ノ王、伊賀比自支和気の女と娶ひて、妻と為す。凡、天皇の崩ずる時、比自支和気等殯所に到りて、其事に供奉す。仍りて、其氏二人を取る。名を禰義・余此と称す。禰義は刀を負ひ、並びに戈を持つ。余此は酒食を持ち、並びに刀を負ふ。並びに、内に入りて供奉す。唯、禰義等の申す辞は、輙く人に知らしめず。後、長谷天皇の崩ずる時に及びて、比自支和気の罄るに依り、七日七夜御食を奉らず。此に依りて、「阿良備多麻比岐」。爾時に諸国に其氏人を求む。或人曰く、円目ノ王、比自岐和気と娶ひて、妻と為す。是王に問ふ可しと云ふ。仍りて召して問ふ。答へて云はく、然せむ。其妻を召して問ふ。答へて云ふ、我氏死絶し、妾一人在るのみ。即指して其事を負はしむ。女申して云はく、女は、兵を負ひて供奉するに便はずと。仍りて、其事を以て、其夫円目ノ王に移す。即、其夫其妻に代りて、其事に供奉す。此に依りて、和平給ふ。爾時に詔らく、今日より以後、「手足ノ毛成八束毛遊ベ」と詔りき。故に遊部君と名く。是なり。但、此条の遊部は、野中・古市の人の歌垣の類を謂ふこと是なり。 (令集解──喪葬令) 遊部、後代多く、あそぶとばかり謂つてゐるやうだ。あそぶべの音脱である。部の音を略することは、普通の事で、部の語尾を持つたものが、凡部曲の民であつたから、多いのに馴れて語尾に当る部分は省くのでもあつた。服部・土師部・私部の類、非常に例が多い。此氏人が「君」姓を名告つてゐたのは、可なり古い時代から存続し、而も其が信仰的な意味を濃厚に持つて居り、其上、其姓の「きみ」が、女戸主であつたことを示してゐる。戸主はその家の正業を相承するのが古の風である。だから遊部の遊部たる為には、女戸主が預つて居たことが思はれる。其は、円目ノ王の妻の言つた所でも知れる。而も其時から、其家筋の男子が此聖職を継承することになつたことを伝へてゐるのだ。但、其を雄略天皇の殯宮に奉仕したことからはじまるとしてゐるのは、意義のあることである。 史実を伝へるものよりも、もつと根柢の深いものは、習慣であつた。習慣の起原を説明するには、必何か深い拠り所からしてゐる。此が古代人の歴史観である。雄略帝を説いた根拠は、此遊部の職が、「釈」にも鎮凶癘魂とあるとほり、鎮魂を、本業として居たのだからである。なぜなら、日本における鎮魂説話が大体此帝に起原するやうに説かれて居る事から見ても訣る。此事は後に説くであらうが、今は言ふ暇がない。記紀の大歌を見ても、雄略天皇に歌の多いのも、又その歌が、この鎮魂の用途に関聯してゐたことからも察せられる。 同様に、垂仁(生目天皇)朝と、此氏人男系の祖(円目王)とを結びつけて居るのも、亦理由があるのだ。此朝には、名高い殉死の風習及び出雲土人の埴輪創製の物語などが伝へられてゐる。即喪葬旧儀を説くに、必まづ語られねばならなかつた宮廷関係の古詞章だつたからである。 円目王以前も、比自支和気の男が代々鎮魂を奉仕して居たやうに見えるが、此はこの説話に誤解があるので、女職から男職に推移する所以を、女力役に堪へずと謂つた解釈をおし拡げて来たまでゞある。鈿女命が行つた天崛戸の鎮魂とほゞ同じであることを思へば、伊賀氏の方術も亦、「比自支別の女」の資格を以て出仕する女巫の相承した伝来のことであつたに違ひない。其が男性の手に移つたことの説明が、かうした形を採らねばならなかつたのである。 遊部の職とする「あそぶ」と言ふ語は、決して令義解その他の言ふ様に、終身「勿事」だから遊ぶのだと言ふやうなことではなかつたのである。だが、義解の文の出来た時代に、既に近代の遊楽・逸楽など言ふ用語例が、「あそび」にあつたことも考へられる。謂はゞ遊んで暮して居るから遊部だなどは、落し咄にもならない。が、さうした「諺」が行はれて居つたのだと見られる痕跡すらある。序に言ふが、此部曲の名を「あそびべ」と訓む説もあるが、此では、遊部の略称あそぶとなる理由が立たないことになる。 あそぶは神遊・東遊などでも知れるやうに、舞踊を意味してゐる。唯、単に舞踊と言ふよりも、舞踊その物の原義なる鎮魂舞踊を内容にしてゐると言ふ方が正しい。だから一方亦、舞踊的表出を採らないあそびもあつた。射鳥遨遊(紀)──記には鳥遊──、遊猟、琴笛の御遊など言ふ例である。鎮魂を行ふ方便として、禽獣を狩猟してその保管する魂を遨へるからの名であり又、楽器を奏することによつて、完全に鎮魂の効果をあげようとするからの名である。中世にも、魂箱を揺る風を有したが、此なども楽器の奏びに近いものと思はれる。又、魂の内在するものと信じられた玉(─石・─貝・─金・─骨など)の相触るゝ音も、やはり此意味からいみじき音色のやうに讃美せられて来たのである。あそびについては尚言ふ機会はある。 唯この遊部の鎮魂法は、中世まで伝つたが為に、古代的な意義をある点失つたものと見ることが出来る。貴人の崩薨に当つて、殯所に仕へるものが、死者の為にする儀を掌るものと考へられた事である。元来、遊部のみならず、鎮魂に関係ある部曲は沢山あつた。唯、日本人の死に対する観念が大いに変化した為に、遊部と言へば死者にばかり関係するものと言ふ風に考へられたのだ。 古代人は、死以外に第一に霊魂の游離状態を考へた。而も游離した霊魂がある期間を経ても還らない時に、はじめて「死」に這入つたものと見たのであつた。だから、われ〳〵の考へる「死」よりも、遥かに遅れて死の来るものと考へた訣なのである。此死に先だつて、仮死の状態とも言ふべきものを考へたが為に、其間は殯所に死者を置いてあつた。さうして之に対して行ふ術が、殯宮における儀礼とせられた。其後、息の絶えた瞬間直に仮死を考へず、死がはじまると見るやうになつた。すると殯宮の儀式は、死者の復活を促す呪術と言ふ事になる。この側の為事に与るのが、令制に見えた遊部であつた訣だ。だから、遊部のあそぶは、非常に分化したものである。だが、一方から見れば、遊部の所作にも、舞踊的要素が、十分にあつたらう。たとひ、其方面からついた名称でないとしても。 舞踊の義に用ゐられるあそぶは、だから広意義に用ゐられて居ると言ふことが出来る。 而も此あそびは、神事に携はる者に聖なる霊を附与する方便に用ゐられたのだから、神事の前提として行はれた事も察してよい。 長谷天皇の殯所を奉仕した事件から、当今の姿は起つたと説くのも、又、右の伝へが、万葉仮字書きした部分を含んでゐるのも、皆此部曲民の間に伝承せられたものであつた事を示すのである。普通の習慣に従へば、神語を伝へる時には、かうした形式を採るのが常である。特に形式的なさうした部分のあるのは、其一条が古伝であると言ふ事になるのである。此故事によつて、遊部ノ君と言ふのは、遊び暮すものだからと言ふ説などゝは、意味の違ひがある訣である。 末段の「但此条の遊部云々」は、不思議な書き方であるが、訣らなくはない。野中・古市と言ふのは、河内国南河内郡である。野中寺があり、野中ノ史等の本貫である。又、古市は、船ノ史・武生ノ連等の居る所である。此隣接した地は、帰化人の根拠地である。さうして其土の民の歌垣と言ふのは、其等の人々が、故国より将来してゐた踏歌の事を言ふらしい。宝亀元年河内由義ノ宮の行幸に「博多川に臨みて、以て宴遊す。……葛井・船・津・文・武生・蔵、六氏の男女二百三十人歌垣に供奉す。……処女らに、壮夫立ち添ひ踏みならす……。淵も瀬も清くさやけし。伯太川……」とあるのも、実に踏歌を旧来の名称によつて、歌垣と称したまでゞある。 遊部の舞踊の事を言ふもので、其等の帰化有識階級の人たちのなした踏歌をひまあひに出した本意が受けとりにくい。が多分は、「遊」なる語の解釈で、あそぶと此条に言つてゐるのは、半島帰化人の将来した所謂歌垣のやうなものだと書いたのだらうと思ふ。何にしても、「遊部」も亦舞踊を持つて居たらしく考へられる訣である。 遊部の民は、終身事無く、課役を免じ、意に任せて遊行す。故に遊部と云ふともある。此も又行きあたりばつたりの語原説だが、同時に、漂浪の旅を自由にして居た生活法を持つてゐた事だけは訣る。 この部曲について、今一つ説き忘れることの出来ないのは、比自支和気の名が含む所の意義である。 私の計画は、必しも遊部を説く事に終始する積りではない。もつと広く、古代の文学及び芸術の相関を語りたいのである。唯、遊部に関した令集解の解説が、かうした目的に近い色々な点を包含してゐるので、説明の便宜の為にとりあげたに過ぎないのである。殊に、此部曲が、凶事関係に偏した職務である為に、多少の誤解を招き易いと思ふから断つて置く。だが、凶事・吉事元来一つ由来を持つものなることが多いのである。 ひじきわけの女と言ふのは、歴代ひじき別なる称号によつて聖職に事へる名族が、伊勢にあつた事を意味する。さうして、宮廷に出て来る巫女が、其当主の娘といふ資格で見参したのである。円目王の妻となつた唯一人の女子に限つての歴史のやうに伝へてゐるが、さうではあるまい。恰度、丹波道主の女と言ふ資格で、丹波八処女が、出でゝ事へた事が、適切にこの事実を解説してゐる。だから女職久しく続いて後、男職に移つたので、ともかく一氏人にとつては、大事件だつたに違ひない。 天武天皇崩御の条には、「青飯」の字をひじきおものと日本紀に訓註を施してゐる。鹿尾菜藻を交へた飯が、凶事に用ゐられたので、必しも此時になくとも、訓註を施した時代にはあつた事が訣る。鹿尾菜と喪葬との関係は、更に深いものがある。 伊勢物語に伝へる「おもひあらば、葎の宿に、寝もしなむ。ひしきものには、袖をしつゝも」ひしきものは、引き敷き物だと言ふが、其はともかくも、簡素な生活を示す語なのには違ひない。わざ〳〵其を設けることなく、常に著てゐる著物の袖を、ひしきものに代用して、その質素な生活に堪へようとすることを言ふ。 此歌、恋人同士の間で、鹿尾菜を贈るに添へたのだと言ふことになつてゐる。が、其は単なる洒落と此歌を見たに過ぎない。つまり歌の方が、古く伝つて居て、時代によつてさうした解釈を加へて又生きて来たと言ふことになるのだ。だから、一見此は「思ひなくば」の方がよい様にも見える。「あらば」の場合は、あひての人の相思を予期することが出来るとすればと言ふことになるので苦しい。おもひは我々が直に感じる思ひの外に、古くから近代に到るまで、物忌み・謹慎生活・服忌を意味する用語例があるのである。諒闇を「みものおもひ」、忌月を「おもひづき」と言ふのは、其一例に過ぎない。 葎の宿は一種の文学語のやうになつて了つて、却て古い意義は辿れなくなつた。或は此部分に多少、古歌謡伝承の間の改竄が加つてゐるのかも知れない。たとへば、貴人に於ける直廬と謂つたもので、喪屋のやうな物を示したのではないか。其が茅屋と謂つた感じに近づけられてゐるのは事実だ。「寝もしなむ」は、さうした生活に甘んじて居ようと言ふのである。 「ひしきもの」は、寝屋具なる引き敷き物すらないから、我が著物をそのまゝ、引き敷き物にして寝るとも悔いまいと言ふ風にとられてゐるが、なる程其である部分までは訣る。さうして其上に少し腑に落ちきらないところを残す。 喪屋における生活を示した古代民謡が、意義を替へて新に鑑賞に上つて来た訣である。ひしきも或はひしきが、伊賀比自支別の名称との間の関聯を見せてゐるものと思ふのが、ほんたうらしい。おもひと言ひ、ひじきと言ひ、此だけ条件を備へて居て、其処に久しい年月の文学に与へる所の霉爛作用を考へれば、さうした変化と、原形に対する推測は許されるものと思ふ。 さて、私の咄は、糸口を作つた遊部から離れる時になつた。さうして再、あそぶと言ふ語に立ち戻つて語り初めるであらう。 あそぶは鎮魂を目的にした呪術的動作であつた。さうして其が一つの偏向を持つて、鎮魂舞踊を行ふことを意味するやうに用ゐられた。後世になるほど、あそぶと言ふ語の内容も、極めて緩やかになつて、をどりをもまひをも同時に、容れることが出来るやうになつた語だが、舞踊の性質から言へば、をどりに属するものであつたやうである。 をどりと言ふ語は、久しく芸能的内容を持たぬ語として、単なる踴躍の意義にしか用ゐられて居なかつた。其が、非芸術的なものが風靡的威力を逞しうする時期に、一躍して位置を高め、其が其後其芸能的地盤を固めるやうになつたものである。さうして此語には群集舞踊なる意義が、久しく離れないで居たやうである。 今我々の考へるをどりは、却て昔のあそびに近づいて了つてゐるのであらう。あそびに対するのが、古くからまひである。まひは旋回運動或は徘回周旋を意味する語である。さうして、通常人間として行ふものは、まひと謂はれるものが多かつたやうである。なぜなら、あそびは神之を行ふものであつた。どのみち真の神示現して、神意を表出することはありえないのだから、人間が之を行ふに違ひはない。でも、神の資格においてするのと、全然さうした意志なしに行ふのとでは、大きな相違がある訣である。 記紀に伝へられ、又記紀自身の成立の一つの要素にもなつた大歌──宮廷詩──は、名目はうたと言ひ、ふりと言ふ区画を示してゐる。けれども其は唯、宮廷に這入ることの新古によるのである。又古く這入つても、内容が明らかに宮廷外のものだと言ふ事を示してゐるやうな場合には、尚新しく這入つたものゝ様にふりと呼ばれてゐる。うたは宮廷固有の謡ひ物の様に見做されるものゝ名称なのであつた。宮廷にも元々相応の分量のうたはあつたのだらうが、其を現在の記紀の類の物から摘出する事は出来ない。明らかに見えることは、ふりがうたに昇格した事実である。さうして此歌に相伴つてゐるのが舞ひである。だが歌の性質から見て、ふりにも舞ひが伴ふ事は当然の事である。而も元来相伴つて居たが、又は後に出て来た為に、歌舞揃はぬものがあるのか、その点も、今日存する書き物には、忠実に上代歌舞の種目を伝へてゐるのでなく、伝へたのはほんの気まぐれと謂つた様な記録に過ぎないから、はつきりした事は言へぬ。が唯、ある時代に相伴うてゐた歌舞が離れ〴〵になつて舞ひばかりになり、歌だけになつたものが多い様である。さう言ふ点では、歌の方が有利である。雑多な変化も之を保存し、継承することは性質上、わりに容易だつたから無理に殖えて行つたが、舞ひの方は、どうしても早く固定する傾きが著しい。だから、舞ひは亡びないまでも、縮小したものが多く、歌は舞ひから離れることによつて益栄えて行つたと言ふべき例が多い様だ。一つは替へ歌が無限に──と言へるほど出来るからでもある。 舞ひが先に来るか、歌が前に起るかは、二つ乍ら別途の目的を持つものだから、恐らくある点まで伸びて後、随伴することになつたと見るのがほんたうだと思ふ。が、範囲を狭めて、相伴つてゐる歌舞においては、どちらが先、どちらが後と言ふことは考へられる筈である。第二次的には、歌が後、又舞ひが後と言ふ風にも自由に起つて来るものであつたらうが、初めの形においては、今のところ舞ひの方が先行し、歌を引き出すことになつたと思はれる。 此事をあそびの例から考へて見る方が、都合よくはないかと思ふ。唯今存する「東遊」は、勿論後世的な要素が多く這入つて居るだらうが、其本来のものすら、平安朝中期前に上るものではない。東遊びを考へるには、東遊びの舞ひ自身と、極めて尠い其歌詞と、此に比べるに非常に豊富な内容を持つ風俗──東風俗と言ふべきものが、慣用でさうなつたことを併せて考へねばならない。風俗は曾て、東遊びの為の歌詞であつたに違ひない。又若干さうでないものがあつても、東遊びの為に用意せられたものと見ることが出来る。だが舞ひとその東遊びが固定すると共に、歌詞は、唯謡ひ物としてのみ行はれるやうになつた。かうした形が、日本芸能普通の姿だつたと見えて、同じ事は、神楽と催馬楽との上にも行はれたのである。神楽は、今も見るやうに、神楽歌と言ふものを、相当に持ち、又舞ひを失うても、歌の譜は存してゐるものもある。だが、神楽は何としても、舞ひが先で、歌は後のものである。其は後世の姿でもあるが、同時に元来さうであるらしい。神楽の中から純然たる謡ひ物として独立したのが、催馬楽である。此は異説も多いが、当然おちつく所は、此処にある筈だ。神楽の中に含まれた風俗的分子が、次第に異常に発達し、包容が豊かになつて遂に分離したのである。採り物・韓神についであつた大嘗歌即、大嘗会に召された短歌形式以外の物の多かつた一類が、大小前張として、神楽自体の中にも、既に大きな区画を作つて居たのである。此が、とり出されて能楽の拍子や声色で謡はれ、次第に別殊な詞章を蓄積する様になつたものである。 神楽で見ると、此亦神遊びとの名義上の問題はあるが、大した障碍とは思へぬことである。神楽の字面は宛て字で、之を「かみあそび」と訓むのが正しいのであらう。所謂神楽を「神遊」と書いた本もある。勿論早くはさうだつたに違ひない。かぐらと言ふのは、ある地方又はある動機から発した方言的称呼に過ぎないらしい。 神遊びといふのは、あそびに神を修飾的に据ゑて神秘神聖味を帯びさせたと言ふ風にもとれるが、さうではない。神自身の呪的行動と言つた意義と思ふ。なぜなら、神遊び・神楽に出て来るものは人間ではなく、神──又は之に相手する所の精霊──である。唯其が、高い意味の神と言ふやうに、貴人の生命・家屋無難を呪する為に、其人よりは下位に在る神が出て祝福を行ふといふ義を持つものと思はれる。 神楽・神遊びに神を讃美する内容のものは、殆ない。少数あるのは、却て誤解と見えるもので、本筋のものとは思はれぬ。ない筈である。神が示現し乍ら、自ら讃へる訣はない。ないばかりか、此は人を呪する為に来たのである。人をこそ讃める傾向はあれ、神を頌へる理由はない訣である。「神遊」の根本義を知つて、溯つて古代の舞踊・歌謡を見ることは、方法として誤りではありえない。あそびは、古代においても、神来つて人を賀する動作であり、舞踊的なものであつた。さうして、其に歌詞が伴ふ事を、多くは条件としてゐた。こゝに、私はまづ神功皇后の誉田別尊を寿せられた歌──古事記に「酒楽の歌」として伝へるものである──から解説をはじめよう。 このみ酒は わがみ酒ならず。 くしのかみ 常世にいます いはたゝす 少御神の とよほき ほきもとほし かむほき ほきくるほし まつりこし み酒ぞ。 あさず 食せ。さゝ 誉田別尊に代つて答へ申した武内宿禰の詞、 このみ酒を 醸みけむ人は そのつゞみ 臼に立てゝ 謡ひつゝ 醸みけめかも このみ酒の あやに うた楽し。さゝ 此二つの歌、酒の造りはじめの行事を述べて現状を言つて居ない。造つた様子を言ふことは、その酒を讃美することになるのである。だが、古代の信仰から言へば、事始めに行つた事は、其事の終末にも又必復演するものであつた。さうせねば効果は完うせぬのである。だから、酒ほかひの時は、酒を造りはじめた時と、同じ動作をくり返して、其によつて呪せられたものと、心寛かになつて其上で勧められた薬液を呑むのである。太子の為に御祖の尊の造られた待酒は、造りはじめに、常世の少彦名神の資格を以てせられたのである。酒の遠い由来を説くのでなく、目前にある酒の出来を説くのである。少彦名神になつて、皷をうち、歌をうたひ、舞ひの動作をくり返し、臼を廻り乍ら、米を噛んでは、醸み臼に吐き入れ〳〵して、人柄の転換して了ふほどに廻ひ祝福して造られたのであつた。其時の動作は、此歌を謡ひ乍ら、再くり返されたものと見るべきである。 かうした事が、又演劇の古い姿をも暗示してゐる訣である。 底本:「折口信夫全集 21」中央公論社    1996(平成8)年11月10日初版発行 底本の親本:「折口信夫全集 第十七卷」中央公論社    1967(昭和42)年3月25日発行 初出:「短歌研究 第六巻第一号」    1937(昭和12)年1月発行 ※「比自岐和気」と「比自支和気」と「比自支別」の混在は、底本通りです。 ※底本の題名の下に書かれている「昭和十二年一月「短歌研究」第六巻第一号」はファイル末の「初出」欄に移しました。 入力:門田裕志 校正:hitsuji 2020年1月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。