「八島」語りの研究 折口信夫 Guide 扉 本文 目 次 「八島」語りの研究 春のはじめに、私は「八島」を語らうと思ひ立つた。ところは屋島であり、祝つて八島・矢島と言ふやうな字面を何時の代からか、用ゐ出した勝ち修羅物である。 一つは、此国の昔に戻つた気風の漲つて居る時である。一つは、白秋さんの生国柳川に近い昵み深い大江の幸若の舞の詞にも、縁の濃いもので、この親友の健康を祝賀する心には、大いに叶ふものがあると思ふのである。又私にも一つ、之を古く筆記して残しておいてくれた伊藤良吉君の上にも、吉きこと来よと祈り添へさせて貰ふ気である。 早々よい事ではないが、聴いて下さい。去る昭和八年来、友人某に貸してあつた久我家文書の中、当道・盲僧一類に関する記録文書が、おしつまつて、私の手もとに戻つて来た。長く出たまゝになつて居たので、今はその整理調査に忙しい。其中、九州一円に居た地神盲僧と称する琵琶弾き──師の房など称する──の演芸種目の中にも、此が重いものとなつて居るのが「八島」であつた。壱岐の島の師の房の生活を詳しく語つてくれた、亡き菊地武徳氏が、あの海に向つた長者原を、すこし節がゝつた言ひ廻しで、思ひ出し〳〵「八島」を語り乍ら歩いて行かれた俤が、今もかうしてゐると、目の前に出て来る。けれども、無念なことには、壱岐の「八島」の台本は、併しとう〳〵見ないでしまつた。 「八島」と言へば、直に謡の「八島」に出て来るやうに、いきなり八島合戦が語られるのだと思つてゐる人が多いかも知れない。併し其謡すら、約束通り、旅僧に対して、塩屋の翁の姿で現れたしてが語るのである。だから、場処は直接屋島ノ浦ではあるが、物語は一つの手順を越してゐる訣である。 昔から何故、度々、色んな風に「八島」が物語られたか。其あり様と理由らしいものを、お話することが出来れば幸である。さう言ふ関心を持ち出しかけたのは、先年、日本青年会館の「郷土舞踊・民謡の会」に、遠州周智郡奥山村西浦から、古い田楽舞ひの来たことがある。その演じた種目の中に一つの「八島」があつて、鬼の面をつけた二人が、あひ舞ひをする。と言ふよりは、「立ち合ひ」と言ふべき種類かも知れぬ。謡ふ文句は謡曲の「八島」の文句の訛つたものに過ぎない。其よりも心ひかれたのは、其ふし廻しであつた。其筋を聴き乍ら思うたことは、此謡自身は固より本格のものからは遥かに遠いものであり、又古い俤をどんな程度に残してゐるかゞ問題であると言ふことだつた。だが、其から見れば、今の謡は、甚進んでゐる。而も変化さへしてゐる。昔の謡はともかくもつと、情ないものだつたに違ひないであらう。その、人を寂しませる謡で而も、鬼の面を着けた二人が行きつ戻りつあひ舞ひをするのが、如何にも景清・三保ノ谷に見え、又、能登守・継信にも見えた。この村に二春出かけて見た私には、殊に深い印象があつた。 こゝでも「八島」は重いものとしてゐた。なぜさうまでして謡はなければならないか。日本の種々の芸能の中には、「八島」が屡色々な角度に織り込まれてゐるのを思ひ合せた。譬へば、吉野山の所作事には、静と忠信との道行き──道行きは恋愛の男女のに限られない。主従の道行きもある。「筑紫𨏍」の如きもさうだ。道行きといふのは、さういふ人々の旅のあはれを謡ひつ舞ひつ、交糾ひまぜて行く芸能である──がある。即、その中の一つなる義経千本桜の三の切、殊に江戸芝居では、常磐津がゝりで、何が何やら訣らぬ美しさに、誇張せられてゐる。花の中で、静と忠信とが八島の話をあひ舞ひでする。道々物語をするどころではなくなつてゐる。此は、忠信が居る為に、継信討ち死にのまなびをして見るのだと言へば其きりだが、何も其ほどにして、こんな場合、せなければならぬ訣もない。あれは、別の理由が底からつきあげて来て、さうさせてゐるのに違ひはない。 此はほんの一例で、「八島」は昔からいろ〳〵な台本の中に、何か機会があると、入り込んでゐる。「八島」は幸若舞に出てゐるのが典型に近いものと思ふが、其他のものにも、同様なものがぼつ〳〵頭を出して来る。初めに述べたとほり、八島と言うても、普通の源平八島の戦ひを直叙するものではない。能楽の「八島」は、戦ひの方で、してが、昔の合戦の様子を物語る。語り終つて、中入りになる。あひ語りが出て話す。それが這入ると、後じての義経が姿を現す。此は義経及び義経が今の世に顕した姿と考へられてゐる。ところが、前じてが却て幽霊で、後じての方が現実のものゝやうな錯覚が起る。この事は固より、謡の修羅物を通じての事実だが、此能には殊にその感が深い。この謡の「八島」では、凡三つばかり大事の場所がある。つまり、前じての戦語りに、景清と三保ノ谷の錏引きの話、其後に、佐藤継信の戦死の話がある。但、謡では、この話は要領だけになつてゐて、継信の死はともかくも訣つても、平家方で能登守の侍童菊王の死の事が、説明もなく突如として、「どうど落つれば、船には菊王も討たれければ、共にあはれと思しけるが……」とある。菊王の討たれは皆が知つてゐるものと見てゐるのである。後じてになつて、義経の弓流しの段。ところが、八島に関聯した話を考へると、ほかに那須与市の扇の的があり、更にそれは、一の谷の合戦にまで延長が出来る。敦盛熊谷組討ちなどが其である。八島合戦は戦物語として興味の豊富なものだつた。だから色々なものに採られた。かう言へば「八島」の色々な物に語られた理由は尽されてゐる訣に見えるが、其に関聯して話したいことがある。 謡の「八島」で、塩屋の翁の詞の中に、 「……源義経と名のり給ひし御骨がら、あつぱれ大将やと見えし。今のやうに思ひ出でられて候」 とある。これは修羅物の中でも特殊な書き方のやうである。 この文句と先に述べた継信・忠信・菊王の件が、極あつさりとかたづけられてゐること、この二つが、大分問題を与へてゐる気がする。つまり、謡の「八島」は、其以前にも古い物があつて、皆が知つてゐるから、省略せられてゐることを示してゐるのだ。 其から先の塩屋の翁の語りに見えるものは、如何にも物語らしいではないか。「今のやうに思ひ出でられて候」とあるのが、殊にさうである。「八島」の語りをして歩く者があつたら、さう言ふ風にするだらう、と思はれる気持ちが出てゐる。言ひ替へれば、世間にそんな物語の為方があつたのだ、と感じるやうに書かれてゐる訣である。 ところが、先に触れておいた、舞の本の「八島」を見ると、主人公は義経でなく、継信・忠信になつて居て、其兄弟の故郷の家に、奥州下りの義経の一行が、偶然にも泊ることになつて、兄弟の母親の請ひに任せ、二人の戦死の有様を語ることになつて居る。此は、謡の方の「摂待」に当るものである。つまり、謡では「八島」と「摂待」と二つ揃つて、八島の話が完全になる訣だ。謡だけの形の上では、さうも見えないが、舞の本を中に立てると、二つに岐れて居る。幸若では、生きて居る義経が、佐藤兄弟の母尼公の前に現れて、継信戦死の模様を話す。義経が物語る人だが、物語を聴くものは、実は尼公でなくて、外にあることを思はせる。幸若の「八島」は追懐談で、昔かう言ふことがあつたといふ物の言ひ方を、物語の中に取り込んで活かしてゐるまでゞある。 謡の「八島」とても、さう考へれば、やはりさうでもある。だが、後じてになると、現実に近い形に表現して動作する。そこに現実と昔とが混合して来る。前じては単に語り人であるのに、後じては謂はゞ語り人に霊がのり移つて狂ひ出す──その様を幽霊として出現させることになつたのだといへる。此は能が演劇だからである。唯耳で聴く幸若では、自ら違つて来る。現実に見て来たと信ずることの出来る旅人が来て、其から経験としての過去を語ることになる。過去を語る為には、現実にまで延長せられて実在する生証拠の人が必要だつたのである。八島語りは、義経・弁慶が出て語る程、確かなことはない。又、聞きてが当事者の母なる佐藤尼公であるといふことは、物語の真実性を増す訣である。尼公に語つた物語を、更に受けついで聞くといふのだから、此が正真正本といふ訣である。 ところが、八島合戦を物語るところでは、主人公が二通りある。即、継信と忠信と。それから、語る人が義経または弁慶といふやうになる。だが、世の中のことは、単純な論理では説けない。かういふ形が、幸若舞の盛んだつた室町時代から江戸時代の初めにかけての人の心に適つてゐたのである。若いか或は美しい人の物語であるからといふばかりでは、聞いてゐる人が心をうちこんで来るとばかりは説けまい。問題は何故、二人が主人公になつてゐるかである。 「八島」は幸若舞では大事なもので、又同時に幸若舞の盛んになつた一つの原因でもある。幸若舞が盛んになると、その台本も沢山出来るが、その僅かな昔の台本に溯ると、最大切なものとして現れて来るのが「八島」である。幸若舞の流祖といはれる桃井直詮は、もと叡山の喝食で、草子類に直ぐ節をつけて語るのが非常に上手であつたと言ふ。その語つたものは八島の草子だつたとも伝へられてゐる。この直詮云々の話には、伝承に重畳した偽認識がある。直詮は空想の人物らしくて、系図に現れて来るといふこと自身が問題である。実は、幸若丸といふ団体がゐたことを思はせる位である。強ひて言へば、その幸若丸の一流の中に、桃井直詮が出現したのだと説く方が理窟に合ふ。幸若丸は丹波に出た梅若丸と同じく一流の芸能人の総名だつたのである。看聞御記には、御存じの継信・忠信の絵らしいものが、八島の絵と書いてある。これは継信・忠信の絵詞らしい。絵詞は形の固定しないもので、文章が元のものと変つて来る。うつぼ物語にしても、文章を絵に節録する。それで、元の文章とは変つて来る。絵詞の固定しないのは、絵詞が読み上げられたからである。幸若舞は多く絵詞を読み上げてゐる。絵解きも絵巻物を読み上げてゐる。絵解きは絵は見せるが、詞書は自分で読み上げる。だから、絵詞は読む人の自由になる。 それで鎌倉時代以来の絵詞にはいろ〳〵異本が出来たのである。さうした本の固定がなか〳〵研究として興味のある所で、又同時に容易でないものなのである。だから、一般には、絵詞は固定性が薄く、従つて、異本が多いのである。ところが、かういふ風に文字で書き表された物語のも一つ前に、次の様な事が考へられる。物語の多くは文章に書き取られる前に、口の上で語られて居た。それが筆録され、其習慣から創作する人が出て来たと言ふ事実を認めなければならない。 八島の物語に最関係深いものに例を取れば、義経記があるが、此書物の成立に就ても、右のやうな事が言へる。だが、義経記に就ては、古く柳田先生が「雪国の春」に書かれて居るから、私など、もう其をくり返す必要はないと思ふ。義経記と同じやうなものに曾我物語がある。此も文章に出入がある。この物語にも若い二人の兄弟が主人公として現れる。 此より前に、此話の中心継信・忠信兄弟二人がある。曾我兄弟は同じ所で死ぬが、佐藤兄弟は、兄は八島、弟は吉野山で主の身替りになつて立ちはたらき、其後死ぬ。けれども、結局は何れにしても、同じ事である。だから、昔かういふ若い二人を並べて物語る習慣があつたのではなからうかと私は考へて居る。 絵詞は大抵、初めは小さいものがだん〳〵と大きくなつて行く。が、今昔物語から宇治拾遺物語が出来たやうな、大きな物語から節録せられ平易化せられた場合もある。此は例外で、目で見たり、耳から聞かされたりする中に、だん〳〵大きくなつて行く。だん〳〵一段づゝつき添うて行く。だから、絵詞の書き出しは、「さてもその後」、「さる程に」、「そも〳〵」などゝ書く。かう言ふ風に段々大きくなる。それが偶然の機会に、──世に残るのは偶然に残るのが多い様だ。それで、曾我物語・義経記なんかも残つて行つたのである。初めは残る原因は何も無いが、段々残るべき理由を自らの内に作り出し、又一方に於いて、平家物語・源平盛衰記などがそれを助勢したのであらう。が、も一つ考へなければならないのは、農村の信仰である。 農村で、昔から例外なく考へて居たのは、稲虫の出るのは死霊の祟りだと謂つた風に考へて居た事である。その死霊を逐ひ出さなければならない。毎年出るやうな事があると、予め之をはぐらかして、呪術の目潰しを喰はせようとする。誰が祟るか、何ういふ事情で祟るか訣らないが、祟らなければならない訣があつて祟るのだらうと信じて居る。大昔から、田植ゑより刈り上げまでの間には、村の為に良くしてくれる神と、良いも悪いも考へないものとの争ひの形式の演劇が行はれて来た。悪い事があると、あれがやつて居るのだなと推測する型がきまつて来て居る。さうして其祟りするものに、名がつけられて来る。日本では初めは、それをあるすさましの威徳を持つた神として居た。ところが、後には段々位置を高めて考へて来て、其すさましの神が、却て悪神を抑へる神となつた。即、祇園・御霊会の起つたのが其である。御霊も、柳田先生の古くからの研究題目である。御霊は沢山あるので、その名がいろ〳〵になつて来る。一番慣れた祟りの者の名を、さういふ神の名につけて来るやうになつた。さういふ人は、思ひがけない死を遂げた人、恨みを呑んで死んで居る人々が多く考へられて来る。つまり、祟りの神にも名のないのは、不安なので、何かと名をつけて、其を祭り却けようと努めた。だから其名をとり出すのに、それを考へるに都合の良いものとして軍記物が利用せられた。それを伝へて歩く専門家──遊行神人・聖など──が居た。其人々の語る物語の中に、不当の死を遂げた不遇の人物が居ると、其人の名が祟り神の名となる。だからさのみ怨みを呑んで死んだらしくない人でも、名高い戦死者の中、変つた死に方をした人などが採用せられる。実盛が其である。さねもりは、元は、田畑を荒すものと考へたらしい。さねもりといふ詞自身、さなへにも、さなぶりにも似て居る所から見ると、何か稲に関係がありさうな所から、昔の人の名に思ひ寄せたのだらうと言ふだけでは説明にならない。実盛が、北国加賀篠原で死んだその死に方が、印象的だつた。と言ふよりも、もつと原因をなしてゐるものは、多く物語に語られたと言ふことである。併し、よく考へると、彼は安心して死んで居る。謂はゞ名のれ〳〵と手塚に呼びかけられても名のらず死んだ事などが印象深かつたのだらう。感じの良い名の上に、農村に関係のありさうな名である。それと一つは実盛に対する人の好意が、反対に、田を荒すさねもりを良くして来る。実盛人形は全国に分布して居るが、此は田の虫を誘うて連れて行くとも、又、稲虫を撒き散らすものとも、ちようど逆なことを、一つの物の上に考へて居る。深田で亡くなつた人を求めるなら、遠くは義仲、降つては忠臣義貞朝臣の方が、ずつと実盛よりも適切な筈なのに、かういふ人々には、昔の史実は、没交渉な知識だつたから、さうした先人に、田に祟る霊を覓めようとはしなかつた。 ところが不思議なことには、実盛は白髪を染め、若者の姿で死んだのが、一つの著しい伝へである。此も原因にはなつてゐるかも知れない。彼に限らず、曾我兄弟も若盛りに死んで居る。我々はさういふ風に死んだ人々を若く美しいと想像する。此が昔人の持つた美徳だつたのかも知れない。けれども、義経記を見ると、義経は色は白いが、猿眼で歯が出てゐると書いて居る。して見ると、綺麗だからと言ふ事は、話の条件になつて居さうもない。だが此も、昔の少人鑑賞の一標準だつたかも知れない。 偶然かも知れないが、実盛と曾我兄弟とは、所謂「虎が雨」の降る時分に死んで居る。とにかく、此時分は田の行事の行はれる頃であるから、時季が印象を与へて居るのであらう。若く、新しくて、強い力を持つて、而も何処へも行く事の出来ない怨念が残つて居る。さういふものが、如何にも農村の人々が持つて居た田を荒すものゝ考へにあてはまる。それと同時に、かういふものを良く慰めれば、──あなたはかういふ方ですと、此方から定めてかゝつてやれば、あゝさうだつたのだと自ら考へて、よくしてくれるだらうと考へる。恐らくそんな考へ方から、曾我兄弟などは、武家以外の農村にまで適用せられて行つたのであらう。 曾我兄弟は、その生きて居る時代に明るい時代は一度とてもなかつた。何の為の一生だつたのかと思はせられるほどである。そこで、この二人の兄弟が農村の田畑について居るものゝ上にかぶさつて来たらうと思はれる。盲御前が来て、田畑について居るものに向つて、あなたは曾我兄弟だつたのですと言へば、その霊気はいゝ気になる。何者か実は訣らないものでも、さう言はれゝばやにさがる心持ちになる。かうして、判官びいきの熱だつて、農村にまで栄えて行つた。義経も報いられない人だ。義経の本伝は、伝説と錯綜するほど、伝説化してゐる。義経記は彼の華々しい時代を取り去つて、前のあはれな時代、それから飛躍して、頼朝と不和になつてから死ぬるまでの事を書いて居る。死ぬる時も、側に附いて居たのは、彼の奥方と子どもきりだつた。非常に淋しい死に方をして居る。此物語以前既に、彼の境涯をはでに伝へて居る物語(平家物語・源平盛衰記)があるのに、何の為にかう暗い所ばかり書くやうになつたのか。其処に義経記成立の原因がある。農村の人々の欲するに従つて段々、みじめな彼として発達したものであらう。と言ふより、農村の人々の欲望でも、語る人の迎合でもなく、時勢でさうなつたと言つた方がよい。若くてあはれな最期を遂げた、浮ぶ瀬のない、同情されて居る魂──かう思うてよい。 又、村を荒すものと田を荒すものと同じで、田を荒すものは同時に疫病をはやらせると考へられて居た。何故此が戦争について居るか、軍記物と言はれる形に這入つて居るか。皆の興味に適へる為にさうなつたと考へるのはいけない。恐らく、恨みを残すものゝ原因が戦争と同じものだつたと言ふ考へが、軍記物と同じ形をとらせたのであらう。田遊びは戦争と同じで、よそから来る神が、田についてゐるものと争ひ、結局、田についてゐる執念いものが負けて、どうしても、田の稔りを遂げさせねばならぬことになる。だから、田遊びは軍記物に近づいて行く。かうして、宗教家に持ち運ばれた軍記物が農村の物語に結び附く一方、農村の行事もだん〳〵に軍記物に延びて行く。 ところが、最考へなければならないのは、人物の変化して行く事で、曾我兄弟は二人、実盛は一人だ。大抵は一人で、稀に、曾我・佐藤兄弟のやうに二人である。さうかと思ふと又、主人公が女である事もある。ところが物語をする主人公は自分の閲歴を語るより、自分の側近く居た人の閲歴を語る方が普通である。日本の物語の古い形は、溯ると「私がかうした」と言ふ表現に行き着くことになりさうである。併し、日本の物語には、純粋に一人称と言へるのは残つて居ない。一番古いものでも、一人称・三人称まじりで、其間に人物の訣らないものが出て居る。あいぬの神の叙事詩は純粋の一人称である。一人称で言へない所まで、持つてまはつて一人称表現をして居る。日本の古い物語には、純粋に一人称のはないが、三人称に変へながら一人称を残して居るのが多く見出される。かういふのは結局誰が言つて居るのか訣らない。かういふ文学を、学者は、一人称を使つて居ないから──、後に他の人が全然三人称態度で作つたのだらうと説く。他の人が作つたには違ひないが、やはり、其神なり、人なりの歌つた歌と考へて、伝へた理由が残つて居る。譬へば、有名な調ノ伊企儺の妻、大葉子が詠んだ歌、 韓国の城の上に立ちて、大葉子は領巾振らすも。日本へ向きて──欽明紀 「領巾振らすも」と敬語になつて居る。にも拘らず、後の人が大葉子を詠んだ歌だと説明するが、此だけの説明では安んぜられない。此歌を大葉子につける理由がもつとなければならない。其例は詳しく挙げなければならないが、さうする事は唯皆さんを憂鬱ならしめるばかりであるから、今はやめて置く。唯一つ例を取ると、日本では、代名詞は二人称と三人称と同じで、それを又、位置・方角を表す代名詞にも適用して居る。かの・そののかとそとは同じもので、区別は絶対に無い。この事実は、一人称と三人称との間に混乱が出来、其間に変な二人称の出来て来た時代の俤を残して居るのだと見てよい。 まづ、よほど古い物語の形式を残して居るものゝ外は、ある人が、主人公の生活を、側から見てゐたと言ふ物語の様式が普通である。 ところが、語り伝へられる主人公にも、いろ〳〵ある。今謂ふやうに、一人の場合、又、二人の場合、主人公と語り伝へた者と二人の場合、主人公と副主人公とある場合、そのうち主人公を除いて、語つて居る者が主人公になる時がある。更に、それが形が替り、二人の主人公が出来る。併し、主として主人公の生活を見て居た人が、物語の中に、自分の感情は勿論生活までを露骨に挿入して来る。すると、純粋の三人称とは言へなくなる。第二の位置に立ちつゝ物語をして居る。さういふ形のものが殖えて来る。日本の物語では、一人称と三人称とあり、その間に二人称とは言へないが、第二の位置の人が、一人称で語ると言ふ形が栄えて居ると考へられるものが多い。 さうすると、物語をする人が、宗教家であると言ふ昔からの条件が、再どうしても、省みられる。又、物語をするものは長生きすると考へて来る。一体、日本では神聖な職業に与るものは、死なゝいと考へて来て居る。昔は「死」と言ふものが明らかでなかつたが、死と言ふものゝ考へが明らかになつても、尚昔の物語をする人だけは、どうしても生きて居なければならない筈の者であつた。先の「八島」の謡の如き、其印象の薄いものでも、例の「あつぱれ大将やと見えし。今に思ひ出でられて候」などゝ、其戦を見て居た者が話して居るやうに表現して居る。宗教味の濃厚なものでは、もつと此が濃厚であつたものと思ふ。世間の人も亦、それを信じて居た。此事に就ては、柳田先生も書かれ、私も早くから考へて居たが、此話をしないと、話の根が出来ないから話した訣である。 語る人が、見て居た人で、同時に物語を生活にして居る人だと考へられて来る。それで、非常に長く生きて居る人があつたと考へられて来る。昔は、神の側近く仕へて居た人が、後には替り、宗教的に物語を伝播する為、諸国を廻つて歩くやうになる。彼等は神からさきはへられた人である。ところが、日本においてすら、逆にわんだりんぐ・じゆうの如き、呪はれた不死者がある。八百比丘尼が其である。先生の力説せられた常陸房海尊も義経主従戦死の場に居合せず生き延びた。其が不死の原因と見られるのである。何の為に生きて物語をして歩かなければならないか。聖なる為事をせんが為に長く生きて居ると見えるのもある。元は、物語をせなければならない筈だつた人たちが、後世物語を外にしても、長生きするやうに考へて来たのである。長生きして語り歩くのは、物語をして人々に知つて貰はなければならない事があつたのだ。つまり、罪障消滅の為の懺悔の生活をして居るんだと言ふ考へに這入つて来るのである。基督を最期に導いた猶太人が其為に、永久生きて居たと言ふ、同時に猶太種族漂泊史の宿命を語るものと同じ話になる。併し、此二つの話の一致は偶然なのか、それとも間に脈絡があるのか、それは容易に訣らない。八百比丘尼の話及び其系統の話を見ても、人の知らぬ間に人魚の肉を食べた──東方朔は西王母の園にある桃の実を度々食べた──と言はれて居る。長生きする事に、薄暗い事がついて居る。盗んで食べた為に生きて居る──此事が話の主題では無いけれども──と言ふ事がつき物なのはどうした訣か。男の方になると、常陸房海尊の如き、数百年後まで生きて居たと信ぜられ、時々姿を現して居る。彼は義経が高館で最期を遂げた時、寺参りをして居た為、死に後れて、為方無く逃げたとも、又単に、逃げたとも伝へて居る。此海尊一味の事については、先生の書き物にすべてをお譲りしてよいほど立派な研究だ。 どうも、何か薄暗い事がつきまとうて居る。だから贖罪の為に語るが、語つても〳〵埋め合せがつかない。海尊もさう説くべき人であつた。 ところが、さう説明をせない部分もある。物語するものを人間と言はずに、狸とか狐とかにする伝へもある。(狸の長生きするのは日本だけではない。)人間以外で、人間の側に居るもの、人間と親しい関係の結べるものが、長く生き、人間の生活を見て居て、語り伝へる。すると、人間が側に見て居て、自分の感情で物語る他に、人間以外のものが人の形となつて物語をすることもあることになる。狐や狸は長生きするから、それでこんな事をするのだと簡単には説明出来ない。蛇や何かでもよい訣だのに、何故狐や狸が物語をするのかは、私も説明出来ない。古い事を知つて居るから、霊的な動物だからとばかりは言へない。もつと原因がありそうだ。一例を取ると、曾我兄弟と関係の深い男に、鬼王・団三郎の兄弟がある。ところが佐渡へ行くと、団三郎狸と言ふのが居る。物語をしたとは伝へて居らない。狸と思はれて居るものに団三郎と言ふ名が附けられたのだ。又、三州にはおとら狐が居る。此も恐らく曾我物語を語つた人間の名から出たに違ひない。おといふ愛称は後についたもので、元は虎御前のとらに違ひない。併し、さういふ精霊を使ふ宗教家が物語をして歩いたのだと説明することは、今は避けたい。とにかく、団三郎狸にしても、おとら狐にしても、物語をした事は忘れられて居る。 鬼王・団三郎の兄弟の歩いた事、虎御前の来た事は方々に伝へられて居るが、それは皆彼等の行跡の印象が残つて居るのである。さうかと言ふと、義経の若い時の愛人の浄瑠璃姫が歩いて居る。浄瑠璃姫は浄瑠璃十二段草子及び其系統の物語の女主人公といふべき人である。此も浄瑠璃を語つた女性の遺跡で、曲中の人物の遺跡となつたのである。併しながら、たゞそれだけでは済まない。同時に、浄瑠璃物語(十二段草子以前のもの)によつて自分の事を語り歩いたものが居た証拠になる。 狸の話は沢山にある。四国には狸の話ばかりで、狐の話は一つもない。本道に狐の居る居ないはともかく、弘法大師が四国へは狐の来ないやうにしたのだと信ぜられて居る。その四国狸の中に、八島狸といふのが居る。此狸は八島の合戦を、まるで活動写真のやうに目の前に見せる。八島狸に関する文献はだん〳〵ある。 かういふ風に、あちこちに、物語の主人公自身が語り、主人公の側に居た人が語り、主人公に特別な関係のない人で、長生きをして居て物語り、実演して見せる者まで出来て来る。かういふ風に日本の叙事詩の歴史を調べると、それを撒布して歩く一種の神奴・寺奴の生活のあつた事が訣る。又、訣らぬ理由で長生きした動物がそれに関与して居るといふ不思議な疑問も生じる。唯、我々の場合には、「八島」を主として申さなければならぬから、話の領分は極狭まる。我が国の戦争の中では、何と言つても、源平わけめの合戦が一番大事である。その源平合戦の中でも、最大事な戦争が八島の戦ひと壇の浦の戦ひである。壇の浦の合戦を見せる狸も居た。 農村に対して災ひを与へ勝ちの魂に、印象深い英雄の名を与へると同じく、英雄たちの働いた場面を八島に取るのは理由がある。八島は戦争の代表的なもので、戦争の語りをしようとすると、必八島をする。それに、八島の合戦は能で見ても薄暗い所がなく、勝ち修羅と言つて、祝言に属し、縁起のよいものになつて来た。此理由で八島を引き出したかどうか、それは今は訣らないが、八島は早くから人気があつたのであらう。狂言でも、源平盛衰記を出すと、必八島をする。此事は、人間に於ける、曾我兄弟・義経・虎御前・浄瑠璃姫・静の物語を作り出して来るやうに、戦争と言へば、八島を出さなければならぬ隠微の約束があつた。今一つそれに微力な助勢をなしたものは、琵琶盲僧が広く世間を歩いた事である。三味線渡来以前の日本の、本格の芸能は、琵琶によるもので、宗教的にも、芸能の上にも重きをなして居たけれども、そればかりで、八島が高い位置を占めて居たとばかりは言へない。此は小さな原因で此を言ふ位なら、寧、幸若舞からした「八島」の勢力の大きさを語りたい。 日本の戦争の物語には、八島の物語がよく割り込んで来る。割り込んで来るには、来る理由があつた。其は実の処、八島合戦のまだけぶらひもなかつた昔に、既に原因が用意せられてゐたのである。 底本:「折口信夫全集 21」中央公論社    1996(平成8)年11月10日初版発行 底本の親本:「折口信夫全集 第十七卷」中央公論社    1967(昭和42)年3月25日発行 初出:「多磨 第八巻第二号」    1939(昭和14)年2月発行 ※底本の題名の下に書かれている「昭和十四年二月「多磨」第八巻第二号。」はファイル末の「初出」欄に移しました。「同十五年一・二月「能楽画報」第三十五巻第一・二号」は再録のため「初出」欄には記載しませんでした。 入力:門田裕志 校正:フクポー 2019年7月30日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。