省察 MEDITATIONES 神の存在、及び人間の靈魂と肉體との區別を論證する、第一哲學についての DE PRIMA PHILOSOPHIA, IN QUIBUS DEI EXISTENTIA, ET ANIMAE HUMANAE A CORPORE DISTINCTIO, DEMONSTRANTUR. デカルト Renati Des-Cartes 三木清訳 Guide 扉 本文 目 次 省察 神の存在、及び人間の靈魂と肉體との區別を論證する、第一哲學についての 書簡 讀者への序言 以下の六省察の概要 省察一 省察二 省察三 省察四 省察五 省察六 幾何學的な仕方で配列された、 定義 要請 公理 定理一 證明 定理二 證明 定理三 證明 系 證明 定理四 證明 神の存在、及び人間の靈魂と肉體との區別を 論證する、第一哲學についての省察 書簡   聖なるパリ神學部の いとも明識にしていとも高名なる    學部長並びに博士諸賢に        レナトゥス デス カルテス  私をしてこの書物を諸賢に呈するに至らしめました理由は極めて正當なものでありますし、諸賢もまた、私の企ての動機を理解せられました場合、この書物を諸賢の保護のもとにおかれまするに極めて正當な理由を有せられるであらうと確信いたしますので、茲にこの書物を諸賢にいはば推薦いたしまするには、私がそのなかで追求しましたことを簡單に申し述べるにしくはないと考へる次第であります。  私はつねに、神についてと靈魂についてと、この二つの問題は、神學によつてよりもむしろ哲學によつて論證せられねばならぬ諸問題のうち主要なるものであると、思慮いたしました。と申しますのは、われわれ信ある者には、人間の靈魂の肉體と共に滅びざること、また神の存在し給ふことは、信仰によつて信ずることで十分でありますとはいへ、たしかに、信なき者には、先づ彼等にこの二つのことが自然的理性によつて證明せられるのでなければ、いかなる宗教も、また殆どいかなる道徳上の徳すらも説得せられうるとは、思はれないからであります。そしてこの世においてはしばしば徳よりも悖徳に一層大きな報酬が供せられるのでありますから、もし神を畏れず、また來世を期待しないならば、利よりも正を好む者は少數であるでありませう。もとより、神の存在の信ずべきことは、聖書に教へられてゐるところでありますから、まつたく眞でありますし、また逆に聖書の信ずべきことは、これを神から授けられたのでありますから、まつたく眞であります。まことに信仰は神の賜物でありまする故に、餘のことがらを信ぜしめんがために聖寵を垂れ給ふその神はまた、神の存在し給ふことをば我々をして信ぜしめんがために聖寵を垂れ得給ふからであります。とはいへ、これはしかし、信仰なき人々に對しましては、彼等はこれを循環論であると判斷いたすでありませうから、持ち出すことができませぬ。そして實に私は、單に諸賢一同並びに他の神學者たちが神の存在は自然的理性によつて證明せられ得ると確信いたされるといふことのみではなく、また聖書からも、神の認識は、被造物について我々が有する多くの認識よりも更に容易であり、まつたくその認識を有しない人々は咎むべきであるほど容易であることが推論せられるといふことに、氣づきました。これはすなはちソロモンの智慧第十三章の言葉から明かでありまして、そこには、またその故をもつて彼等は宥すべからざるなり、蓋し彼等もしこの世のものを賞で得るほど知り得たりとせば、いかにしてその主なる神を更に容易に見出さざりしぞ、とあるのであります。またロマ書第一章には、彼等、辯解する事を得ず、と言はれてをります。そしてまた同じ箇所にある、神に就きて知られたる事柄は彼等において顯はなり、といふ言葉によりまして、神について知られ得る一切のことがらは、他の處においてではなく我々の精神そのものにおいて求めらるべき根據によつて、明白にし得るといふことが告げられてゐると思はれるのであります。しからば、いかにして然るか、いかなる道によつて神はこの世のものよりも更に容易に更に確實に認識せられるかを探究いたしますことは、私に無關係なことではないと考へた次第であります。  また靈魂に關しましては、多くの人々はその本性は容易に究明せられ得ないと判斷いたしてをり、そして或る者は人間的な根據からは靈魂が肉體と同時に滅びると説得せられるのほかなく、ひとり信仰によつてのみその反對が理解せられるとすら敢へて申してをりますとはいへ、しかしレオ十世の下に開かれましたラテラン公會議は、第八會同におきまして、彼等を非とし、そしてキリスト教哲學者たちにかの人々の論據を破り、全力を擧げて眞理を證明するやうに命ずるのでありますから、私もまたこれを企てることを恐れなかつた次第であります。  更に私は、多數の不信者が神の存し給ふこと、人間の精神が身體から區別せられることを信じようと欲しない原因はまさに、この二つのことがらは從來何人によつても論證せられ得なかつたと彼等が申しますところに存することを知つてをります故に、もちろん私は決して彼等に同意するものではなく、反對にこれらの問題に對して偉大なる人々によつて持ち出されました殆どすべての根據は、十分に理解せられます場合には、論證の力を有すると考へてをりますし、從つて私は前に他の何人かによつて發見せられなかつたやうな根據は殆ど何も與へ得ないと信じてをりますとはいへ、しかもひとたびそれらすべての根據のうち最もすぐれたものを克明に考究し、そして嚴密に明瞭に解明し、かくてすべての人々の前に今後これが論證であることを確かにいたしますならば、哲學においてこれにまさる有益なことは爲し得ないと思慮いたすのであります。そして最後に、私がもろもろの學問におけるあらゆる難問を解決するための或る方法を完成いたしましたことを知つてをります或る者は──もちろんこの方法は新しいものではありませぬ。と申しますのは、眞理よりも古いものはないのでありますから。けれども彼等は私がそれをしばしば他のことがらにおいて使用して實のり多かつたことを見てゐるのであります。──この仕事が私によつて爲されることを切に請ひ求めました故にかやうにして私はこれについて若干試みることが私の義務であると考へた次第であります。  さて私が爲し遂げ得ましたほどのことは悉くこの論文の中に含まれてをります。尤も、かのことがらを證明すべきものとして持ち出され得るであらう種々の根據のすべてをこの中に集録することに努力いたしたわけではありませぬ。と申しますのは、かかることは、何等十分に確實な根據を有しない場合にしか、勞力に値しないと思はれるからであります。却つて私はただ第一の、何よりも重要な諸根據をば、今これらを極めて確實な、極めて明證的な諸論證として提出することを敢へて致し得るやうな仕方で、追求したのであります。なほまた私は、これらは、惟ふに、人間の智能にとりましては更にすぐれた根據を發見し得るいかなる道も開かれてゐないやうな性質のものであるといふことを、附け加へるでありませう。すなはち、ことがらの緊要性と、これが悉く關係するところの神の榮光とは、この場合私の習慣の常とするよりもいくらか無遠慮に私の仕事について語るやうに私を強要する次第であります。尤も私は、私の根據を確實で明證的なものと考へますにしても、それだからと申してすべての人の理解力に適合してゐるものとは信じませぬ。まことに幾何學におきましては、アルキメデス、アポロニオス、パッポス、あるひは他の人々によつて多くのことが書かれてをりますが、これはもちろん、それ自身として見られるならば認識するに極めて容易でないやうな何物も、またそれにおいて後續するものが先行するものと嚴密に關聯しないやうな何物もまつたく含まない故に、すべての人によつて極めて明證的でまた確實なものとも看做されてをりますとはいふものの、しかしそれはどちらかといへば長く、そして非常に注意深い讀者を要求いたしますから、まつたく少數の者によつてのほか理解せられないのであります。恰もそのやうに、私がここに使用いたしますものは、確實性と明證性とにおきまして幾何學に關することがらと同等あるひはこれを凌駕しさへすると私は認めてをりますとはいへ、しかし多くの人々によつて十分に洞見せられ得ないであらうと恐れる次第であります。すなはち、一つにはこれもどちらかといへば長く、そして一は他に依繋いたしてゐるからであり、また一つには主として、先入觀からまつたく解放せられた、自己自身を感覺の連累から容易に引き離すところの精神を要求するからであります。そして確かに世の中には形而上學の研究に適する者は幾何學の研究に適する者よりも多く見出されないのであります。更にまた次の點に差異が存してをります。すなはち、幾何學におきましては、すべての人が、確實な論證を有しない如何なることがらも書かれない慣はしであると信じてをります故に、精通しない者は、眞なる事柄を反駁することにおいてよりも、僞なることがらを、これを理解すると見せ掛けようと欲しまして、是認することにおいて一層しばしば過ちを犯すのでありますが、これに反して哲學におきましては、雙方の側において論爭せられ得ない如何なることがらもないと信じられてをります故に、少數の者のみが眞理を探索し、そして大多數の者は敢へて最もすぐれた説を攻撃することによつて、智能ある者との名聲を得ようと努めるのであります。  かるが故に、私の根據がいかなる性質のものでありませうとも、ともかく哲學に屬してゐるのでありますから、諸賢の庇護によつて助けられるのでなければ、それらの根據をもつて勞力に値する大きな效果を擧げ得ようとは、私は期待いたしませぬ。しかるに諸賢の學部につきましてはすべての人が深く尊敬の念を抱いてをり、またソルボンヌの名は甚だ權威を有してをり、かくて單に信仰に關することがらにおいて聖なる公會議に亞いで諸賢の團體ほど信頼せられてゐるおよそいかなる團體も存しないのみでなく、また人文的な哲學におきましても、他のいづこにも更に大きな明察と堅實性とが、また判斷を下すにあたつて更に大きな健全性と叡智とが存しないと看做されてゐるのであります。かるが故に、もし諸賢においてこの書物に對しまして、まづ第一に、それが諸賢によつて訂正せられますやうに、──すなはち、單に私の人間的な弱さのみでなく、何よりもまた私の無知を想起いたしまして、この書物の中に何等の誤謬も存しないと私は確信いたしませぬ。──次に、缺けてゐることがら、あるひは十分に完全でないことがら、あるひは更に詳細な説明を要求することがらが、諸賢みづからによりまして、それとも、諸賢から告げられました後に、少くとも私によりまして、附け加へられ、完全にせられ、闡明せられますやうに、そして最後に、神の存し給ふこと、また精神の身體とは別のものであることを證明するこの書物の中に含まれる根據が、實にこれを極めて嚴密な論證と看做さねばならぬほどまで、明瞭性に達せしめられました後に、──私はそれがかかる明瞭性に達せしめられ得ると確信いたしてをります、──諸賢がまさにこのことを言明し、公に證言して下さいますやうに、かやうに高配を賜りますならば、その場合には、これらの問題についておよそ存しましたすべての誤謬は間もなくもろもろの人間の精神から拭ひ去られますことを、私は疑はないのであります。すなはち、眞理そのものは容易に餘の智能の士並びに博學の士が諸賢の判斷に同意いたすやうにするでありませう。また權威は、智能の士とか博學の士とかであるよりもむしろ多くは一知半解の徒であるのを慣はしといたします無神論者が、反對する心を棄てるやうに、それのみかは、恐らくすべての學識ある人々によつてそれが論證と看做されてゐることを彼等が知つてゐるところの根據を、理解せぬと思はれたくないために、彼等みづから辯護するやうにさへ、するでありませう。そして最後に、その餘のすべての者はかくも多くの證據に容易に信をおくでありませう。そしてもはや世の中には神の存在とか、人間の靈魂と肉體との實在的な區別とかを敢へて疑ふ者は誰もないでありませう。そのことがいかほど有益であるかは、諸賢みづから、諸賢の並々ならぬ叡智において、すべての人のうちで最もよく評價せられることができる次第であります。つねにカトリック教會の最大の柱石であらせられた諸賢に、神と宗教とに關することがらをこれ以上の言葉を費してここに推薦いたしますことは、私にふさはしくないでありませう。 讀者への序言  神及び人間の精神に關する問題は、すでに少し前、フランス語で一六三七年に公にせられた『理性を正しく導き、もろもろの學問において眞理を求めるための方法の敍説』の中で、私は觸れた。尤もそれは、この問題をかしこで嚴密に取扱ふためではなく、ただこれにちよつと觸れて、讀者の判斷から、いかなる仕方で後にこれを取扱ふべきかを、知るためであつた。といふのは、この問題は私には極めて重要なものと思はれたので、一度ならずこれについて論じなければならぬと私は判斷したのである。またこの問題を説明するために私が辿る道は、殆ど先蹤のないもので、一般の慣用から極めてかけ離れたものであるので、智能の脆弱な者がこの道を自分も歩まねばならぬと信じると惡いから、これをフランス語で書かれた、差別なしにすべての人に讀まるべき書物の中で、あれ以上詳細に述べるといふことは、益のないことと考へたのである。  しかし私はかしこで、私の書物において何か非難に値ひすることがらに出會つたすべての人に、これを私に知らせて戴くやうにお願ひしたが、右の問題について私が觸れたことがらに關して、二つしか注目に値ひする駁論は出なかつた。この駁論に對して私はここで、右の問題の更に嚴密な説明を企てるに先立つて、簡單に答へたい。  第一の駁論は、自己に向けられた人間の精神は、自己を思惟するものであるとしか知覺しないといふことから、その本性すなはち本質はただ、思惟するものであることに、このただといふ語が恐らくはまた靈魂の本性に屬すると言はれ得るであらう餘のすべてを排除する意味において、存するといふことは歸結しない、といふのである。この駁論に對して私は答へる、私もまたかしこで餘のすべてを、ものの眞理そのものに關する秩序において(これについてもちろん私はあのとき論じたのではない)排除しようと欲したのではなく、却つて單に私の知覺に關する秩序において排除しようと欲したのである、と。かくてその意味は、私の本質に屬すると私が知るものとしては、私は思惟するもの、すなはち自己のうちに思惟する能力を有するものであるといふことのほか何物も私はまつたく認識しないといふことであつた、と。しかし以下において私は、いかにして、そのほかの何物も私の本性に屬しないと私が認識することから、また實際にそのほかの何物も私の本性に屬しないといふことが歸結するかを明白にするであらう。  もう一つの駁論は、私が私のうちに私よりも完全なものの觀念を有するといふことから、この觀念が私よりも完全であるといふこと、ましてこの觀念によつて表現せられるものが存在するといふことは歸結しない、といふのである。しかし私は答へる、この場合、觀念なる語に兩義性が伏在すると。すなはち、それは一方質料的に、悟性の作用の意味に解せられることができ、この意味においては私よりも完全とは言はれ得ないが、他方それは客觀的に、この作用によつて表現せられたものの意味に解せられることができ、このものは、たとひ悟性の外に存在すると假定せられなくとも、自己の本質にもとづいて私より完全であり得る、と。しかし、いかにして、ただこのこと、すなはち私のうちに私よりも完全なものの觀念があるといふことから、かのものが實際に存在するといふことが歸結するかは、以下において詳細に解明せられるであらう。  ほかに私は二つのかなり長い文章を見た。しかしその中では右の問題についての私の根據ではなくむしろ結論が、無神論者たちのきまり文句から借りてこられた議論でもつて駁撃せられてゐるのである。ところで、この種の議論は、私の根據を理解する人々の前では何等の力も有し得ないからして、また實に、多くの人々の判斷は弱くて正しからず、たとひ僞であり、理を離れたものであつても、最初に受け取つた意見によつてのはうが、眞で堅固な、しかし後に聞いたその反駁によつてよりも、一層多く説得せられるものであるから、ここではその議論に對して、私が最初に述べねばならぬとすると惡いから、答辯することを欲しない。そしてただ一般的に私は言つておかう、神の存在を駁撃するために無神論者たちによつて通例持ち出される一切は、つねに、人間的な情念が間違つて神に屬せしめられることに、或ひは僣越にも、神の爲し得ることまた爲すべきことを決定しまた理解することまでを我々が欲求し得るほど多くの力と智慧とが我々の精神に屬せしめられることに、懸つてをり、かくて實に、我々がただ、我々の精神は有限で、神はしかし理解を超え無限であると考へねばならぬことを忘れない限り、かの論駁は我々に何等の困難も示さないであらう、と。  さて今、ともかく一度人々の判斷を知つた後、ここに再び私は神と人間の精神とに關する問題を論究し、そして同時に全第一哲學の基礎を取扱はうと思ふ。しかしその際私は何等大衆の稱讃を、また何等讀者の多いことを期待しないであらう。私はただ本氣で私と共に思索し、精神をもろもろの感覺から、また同時にすべての先入見から引離すことができまた引き離すことを欲する人々だけに讀まれるやうに、これを書いたのであつて、かやうな人がまつたく僅かしか見出されないことを私は十分に知つてゐる。しかるに私の根據の連結と聯關とを理解することに意を用ゐないで、多くの人々にとつて慣はしであるやうに、ただ箇々の語句に拘泥して、お喋りをすることに熱心な人々についていへば、彼等はこの書物を讀むことから大きな利益を收めないであらう。そしてたとひ彼等が恐らく多くの箇所において嘲笑する機會を發見するにしても、何か緊要な或ひは答辯に値する駁論は容易になし得ないであらう。  しかしまた他の人々に對しても、私がすべての點において初手から彼等を滿足させるであらうと私は約束しないのであるからして、また僣越にも私が何人かに困難と思はれるであらう一切のことがらを豫見し得ると私は確信しないのであるからして、私は先づこれらの省察において、私がそれによつて眞理の確實な明證的な認識に到達したと思はれるところの同一の思惟の作用を開陳し、もつて私が説得せられたのと同じ根據によつて恐らく私は他の人々をも説得し得るかどうかを知りたいと思ふ。そして、かくして後、これらの省察を印刷に附せられる前に檢討して貰ふために送つた幾人かの智能と學識とによつてすぐれた人々の駁論に對して答へるであらう。といふのは、この人々によつてなされた駁論は十分に數多くまた種々樣々であるので、そこにすでに觸れられてゐない、少くとも或る重要な、他の駁論が容易に何人の心にも浮ばないであらう、と私は敢へて期待するのである。そしてかるが故に、私は讀者に、右のすべての駁論及びこれに對する辯明を通讀する勞力をとられない以前に、この省察について判斷を下されないやうに、繰り返しお願ひする。 以下の六省察の概要  第一省察においては、いかなるわけで我々はすべてのもの、とりわけ物質的なものについて、少くとも我々がこれまで有したものよりほかの、もろもろの學問の基礎を有しない間は、疑ふことができるかの理由が示される。かやうな全般的な懷疑の效用は初手には明かでないとはいへ、しかしそれはあらゆる先入見から我々を解放し、精神を感覺から引き離すに最も容易な道を用意し、そして最後に、我々がかくして後に眞であると理解したことについてもはや疑ひ得ないやうにするといふ點において、その效用は極めて大きいのである。  第二省察においては、自己の有する自由を使用する精神は、その存在について極めて少しでも疑ひ得る一切は存在しないと假定するが、自身はしかし存在せざるを得ないことに氣づくのである。そのことはまた、このやうにして、自己に、すなはち思惟する本性に屬するものと、身體に屬するものとを容易に區別するからして、極めて大きな效用を有してゐる。しかし恐らく或る者は、その箇所において靈魂の不死についての根據を期待するであらうから、ここで彼等に告げておかねばならぬと思ふ、私は嚴密に論證しない何物も書かないことに努めたので、幾何學者たちの間で慣用せられてゐる順序、すなはち何かを結論する前に、求められた命題が依繋する一切を前もつて提論するといふ順序よりほかの順序に從ふことができなかつた、と。然るに靈魂の不死をよく認識するために前もつて要求せられる第一の何より重要なことがらは、靈魂についてできるだけ分明な、そして身體のあらゆる概念からまつたく區別せられた概念を作るといふことである。これはそこでなされてゐる。しかしそのほかに、我々が明晰に判明に理解する一切は、我々がそれを理解する通りに、眞であるといふことを知ることがまた要求せられるのである。これは第四省察以前には證明せられることができなかつた。更に、物體的本性の判明な概念を有しなければならないのであつて、かかる概念は一部分この第二省察において、また一部分は第五及び第六省察において作られてゐる。なほまたこれら一切のことから、精神と身體とがまさにそのやうに把握せられる如く、別個の實體として明晰に判明に把握せられるものは、全く實在的に互に區別せられた實體であることが結論せられねばならないのである。そしてこれは第六省察においてその通り結論せられてゐる。これはしかも、同じ第六省察において、我々はいかなる物體も可分的としてでなければ理解せず、反對にいかなる精神も不可分的としてでなければ理解しないといふことによつて、確かめられてゐる。すなはち我々はどのやうに小さい物體でもその半分を考へることはできるが、いかなる精神についてもその半分を考へることはできぬ。かやうにして兩者の本性は單に別であるのみでなく、また或る點で相反することが認められる。しかしながらこのことについてはこの書物の中ではそれ以上立ち入つて論じなかつた。といふのは、一方それだけで、身體の消滅から精神の死が歸結しないことを示し、そしてかやうにして人間に來世の生の希望を與へるには、十分であるからであり、他方またこの精神の不死を結論し得るもろもろの前提はあらゆる自然學からの説明に依繋してゐるからである。すなはち先づ、およそあらゆる實體、詳しく言ふと、存在するためには神によつて創造せられねばならぬものは、自己の本性上不滅であり、その同じ神によつて、そのものに神の協力が拒まれることによつて、無に歸せしめられるのでなければ、決してあることをやめ得ないといふことが知られねばならぬ。そして次に、一般的に見られた物體は實體であり、それがために決してまた滅びないといふこと、しかし人間の身體は、餘の物體と異なる限り、ただ單にもろもろの器官の或る一定の布置、及びこの種の他の偶有性から組立てられたものであり、しかるに人間の精神はかやうに何等かの偶有性から成るのではなく、純粹な實體であるといふこと、に着目せられねばならぬ。といふのは、たとひその一切の偶有性が變化せられ、その結果、別のものを思惟し、別のものを意欲し、別のものを感覺し、など、するにしても、そのために同じ精神が別のものにはならないが、人間の身體はしかし、ただ單にその何等かの部分の形體が變化せられることによつて、別のものになる。そのことから身體はきはめて容易に滅亡し、精神はしかし自己の本性上不死であるといふことが歸結せられるのである。  第三省察においては、神の存在を證明するための私の主要な論證を、私の見るところでは、十分に詳しく展開した。しかしながら、讀者の心をできるだけ感覺から引き離すために、私はかしこでは物體的なものから藉りてこられた比較を用ゐることを欲しなかつたからして、たぶん多くの不明な點が殘つてゐるであらう。しかしそれは、私の希望するところでは、後に駁論に對する答辯の中でまつたく除き去られるであらう。中にも、例へば、いかにして、我々のうちにあるこの上なく完全な實有の觀念は、この上なく完全な原因によらなくては存し得ないほど大きな客觀的實在性を有するかといふことであるが、これは答辯において、その觀念が或る工人の精神のうちにある極めて完全な機械との比較によつて解説せられてゐる。すなはち、この觀念の客觀的製作は或る原因、言ふまでもなくこの工人の知識、あるひは彼にそれを授けた或る他の者の知識、を有しなければならないのと同樣に、我々のうちにある神の觀念は神自身を原因として有せざるを得ないのである。  第四省察においては、我々が明晰に判明に知覺する一切は眞であるといふことが證明せられる。同時にまた虚僞の根據が何に存するかが説明せられる。これは前に述べたことがらを確かにするためにも、後に續くことがらを理解するためにも、必ず知ることを要するのである。(しかしながら注意しておかねばならぬ、かしこで私は決して罪、すなはち善惡の追求において犯される誤謬についてではなく、ただ眞僞の判別において起る誤謬について論じたのである、と。また私は信仰、あるひは處世に屬することがらではなく、ただ思辨的な、そして專ら自然的な光によつて認識せられた眞理を檢討したのである、と。)  第五省察においては、一般的に見られた物體的本性が説明せられるほか、また新しい根據によつて神の存在が論證せられる。しかしこの根據にも恐らく或る困難が生ずるであらうが、これは後に駁論に對する答辯の中で解決せられるであらう。そして最後に、幾何學的論證の確實性さへも神の認識に依繋するといふことの、いかにして眞であるかが示される。  最後に、第六省察においては、悟性が想像力から分たれる。その區別の徴表が記述せられる。精神が實在的に身體から區別せられることが證明せられる。にも拘らず精神が身體に、これと或る統一を成すほど密接に結合せられてゐることが示される。感覺から起るのを慣はしとするすべての誤謬が調査せられる。これを避け得る手段が開陳せられる。そして最後に、物質的なものの存在を結論し得る一切の根據が提示せられる。それは、この根據がまさに證明することがら、すなはち、世界は實際にあるといふこと、また人間は身體を有するといふこと、その他この類のことがらを證明するために、この根據が極めて有益であると考へるからではない、かかることがらについては健全な精神を有する何人も決して本氣に疑はなかつたのである。さうではなくて、この根據を考察することによつて、これがかの我々を我々の精神及び神の認識に達せしめる根據ほど堅固でも分明でもないことが認められる故である。從つてかの根據は人間の智能によつて知られ得る一切のうち最も確實で最も明證的である。ただこの一事を證明することを私はこの省察において目的としたのである。かるが故に私はその中でまたたまたま取扱はれた他の種々の問題をここで枚擧しないことにする。 省察一 疑ひをいれ得るものについて。  すでに數年前、私は氣づいた、いかに多くの僞なるものを私は、若い頃、眞なるものとして認めたか、またそれを基としてその後私がその上に建てたあらゆるものがいかに疑はしいものであるか、またさればいつか私がもろもろの學問において或る確固不易なるものを確立しようと欲するならば、一生一度は斷じてすべてを根柢から覆へし、そして最初の土臺から新たに始めなくてはならない、と。しかしこれはたいへんな仕事であると思はれたので、私は十分に成熟してこの業に着手するにそれ以上適當ないかなる時も後に來ないといふ年齡に達するまで待つた。かやうなわけで長い間延ばしてきたので、いまやもし私が實行するために殘つてゐる時間をなほも思案に空費するならば、私は過ちを犯すことになるであらう。そこで、幸に今日、私の心は一切の憂ひから放たれ、獨り離れて、平穩な閑暇を得たから、いよいよ私は本氣に且つ自由に私のもろもろの意見のこの全般的顛覆に從事しよう。  ところでこれがためには、その意見のすべてが僞なるを示す必要はないであらう、かかることは恐らく私の到底爲し遂げ得ないことである。かへつて、すでに理性は、まつたく確實でもなく疑ひ得ぬものでもないものに對しては、明白に僞なるものに對するに劣らず注意して、同意を差し控ふべきだと私を説得するのであるから、もし私がその意見のいづれのうちになりとも何か疑ひの理由を見出すならば、それでそのすべてを拒斥するに十分であらう。またこれがためにその意見の一つ一つを調べ𢌞ることを要しないであらう、かかることは際限のない仕事である。かへつて、土臺を掘りかへせばその上に建てられたものはいづれもおのづと一緒に崩れるのであるから、私は嘗て私が信じたところの一切が據つてゐた原理そのものに直ちに肉薄しよう。  實にこれまで私が何よりも眞と認めたものはいづれも、感覺からか、または感覺を介してか、受取つたのであつた。しかるにこの感覺は時として欺くといふことがわかつた。そして一度たりとも我々を瞞したものには決してすつかり信頼しないのが賢明なことである。  しかし恐らく、感覺はあまり小さいもの、あまり遠く離れたものに關しては時として我々を欺くとはいへ、同じく感覺から汲まれたものであつても、まつたく疑ひ得ぬ他の多くのものがある。例へば、今私が此處に居ること、煖爐のそばに坐つてゐること、冬の服を着てゐること、この紙片を手にしてゐること、その他これに類することの如き。まことにこの手やこの身體が私のものであるといふことは、いかにして否定され得るであらうか、もし私が恐らく私を誰か狂つた者に、その腦が黒い膽汁からの頑固な蒸氣でかき亂されてゐて、極貧であるのに自分は帝王であるとか、赤裸であるのに緋衣を纒うてゐるとか、粘土製の頭を持つてゐるとか、自分は全體が南瓜であるとか、硝子から出來てゐるとか、と、執拗に言ひ張る者に、比較するのでなければ。しかし彼等は狂人であるのだが、もし私が何か彼等の例を私に移すならば、私自身また彼らに劣らぬ精神錯亂と見られるであらう。  いかにもその通りだ。だが私は、夜には眠るのをつねとし、そして夢において、その同じすべてのことを、いな時として彼等狂人が覺めてゐるときに經驗するよりもつと眞らしくないことをさへ經驗する人間でないとでもいふのか。實際、いかにしばしば私は、夜の夢のなかで、かの慣はしとすること、すなはち、私が此處に居ること、服を着てゐること、煖爐のそばに坐つてゐること、を信じてゐるか、しかも私は着物を脱いで寢床の中に横たはつてゐるのに。とはいへ現在私は確かに覺めたる眼をもつてこの紙片を視てゐる、私が動かすこの頭は眠つてはゐない、私はあらかじめ考へて、意圖をもつてこの手を伸ばし且つ感覺してゐる。眠つてゐる場合に生ずることはこのやうに判明なものではないであらう。それにしても私は他の時には夢のなかでまた同樣の意識によつて騙されたことを思ひ出さないとでもいふのか。かかることを更に注意深く考へるとき、私は覺醒と夢とが決して確實な標識によつて區別され得ないことを明かに認めて、驚愕し、そしてこの驚愕そのものは、私は現に夢みてゐるのだとの意見を私に殆ど説得するのである。  それ故にいま、我々は夢みてゐるものとしよう。そしてこの特殊的なもの、すなはち、我々が眼を開くこと、頭を動かすこと、手を伸ばすこと、が眞でなく、いな、また恐らく我々はかやうな手も、またかやうな身體全體も有するのではないとしよう。それにしても實際我々は、睡眠の間に見られたものが、恰もかの現實にある物に象つてでなければ作られ得ぬところの繪に畫かれた像の如きものであること、從つて少くともこの一般的なもの、すなはち、眼、頭、手、また全部の身體は、或る空想的なものではなくて眞なるものとして存在することを、承認しなければならぬ。といふのは、實に彼等畫家は、セイレネスやサチュロイを極めて怪奇な形で描かうと努力する場合でさへ、それにあらゆる點で新しい本質を付與することはできないのであつて、單に種々の動物のもろもろの部分を混ぜ合はせるに過ぎないから。それとも、もし彼等が恐らく、およそ類似の或る何物も見たことがない、從つてまつたく虚構であり虚妄であるといふほど新しいものを案出するとしても確かに少くとも彼等がそれを構成する色は眞なるものでなければならないのである。そして同じ理由によつて、たとひまたこの一般的なもの、すなはち、眼、頭、手、その他これに類するものが空想的なものであり得るとしても、少くとも或る他のなほ一層單純な、且普遍的なものは、すなはち、それでもつて恰も眞なる色でもつての如く、この、眞にせよ僞にせよ、我々の思惟のうちにある物の一切の像が作られるところのものは、眞なるものであることは、必然的に承認しなければならない。  この類に屬すると思はれるものは、物體的本性一般、及びその延長、更に延長あるものの形體、更にその量、すなはちその大いさと數、更にそれがそのうちに存在する場所、及びそのあひだ存續する時間、その他これに類するものである。  かるが故にこのことから我々は多分正當に、物理學、星學、醫學、その他すべて複合せられたものの考察に關はる學問はたしかに疑はしいといふこと、これに反して算術、幾何學、その他かやうなもの、すなはち極めて單純で至つて一般的なもののみを取扱ひ、そしてそれが世界のうちに存するか否かを殆ど顧みない學問は、或る確實で疑ひを容れぬものを含むといふこと、を結論し得るであらう。なぜなら、私が覺めてゐるにせよ、眠つてゐるにせよ、二と三を加へれば五であり、また四角形は四より多くの邊を有しないのであり、そしてかやうに分明な眞理が虚僞の嫌疑をかけられることは起り得ないと思はれるからである。  さりながら私の心には或る古い意見、すなはちすべてのことを爲し能ふ神が存在し、そして私はこの神によつて現に私が有る如き性質のものとして創造せられたといふ意見が刻みつけられてゐる。さすればしかし、この神が、何等の地も、何等の天も、何等の延長あるものも、何等の形體も、何等の大きさも、何等の場所も、まつたく存在せずに、しかもこのすべてのものが現在とたがはず私には存在する如く思はれるやうに、爲さなかつたといふことを、私はどこから知るのであるか。否、むしろ、私はときどき他の人々が自分では極めて完全に知つてゐると思つてゐることに關して間違ひをしてゐると判斷するのであるが、これと同じやうに、私が二と三とを加へるたび毎に、あるひは四角形の邊を數へるたび毎に、あるひはもし何か他の更に容易なことを想像し得るならそのことについて判斷するたび毎に、私が過つやうに、神は爲した、とさへ言ふことができるであらうか。しかし恐らく神はかやうに私が欺かれることを欲しなかつたであらう、なぜなら神はこの上なく善であると言はれてゐるから。しかるにもしこのこと、すなはち私を常に過つやうなものとして創造したといふことが神の善意に反するとするならば、私がときどき過つことを許すといふことも神の善意と相容れないやうに思はれる、けれどもこの最後のことはさうは言ひ得ないのである。  もちろん、餘のすべてのものが不確實であると信ずるよりか、むしろそのやうに有力な神を否定することを選ぶ者が多分あるであらう。しかし我々はいまは彼等に反對せずにおかう。そして神についてここで言はれた全部が虚構であるとしておかう。さりながら、彼等がどのやうな仕方で、運命によるにせよ、偶然によるにせよ、物の連續的な聯結によるにせよ、あるひは何か他の仕方によるにせよ、私が私の現に有るものに成るに至つたと假定するにしても、過つこと思ひ違ひすることは或る不完全性であると思はれるからして、彼等が私の起原の創造者をより無力であると考へれば考へるほど、私がつねに過つほど不完全であるといふことは、ますます確からしくなるであらう。この議論に對して私はまことに何等答ふべきものを有しない。しかし私は、嘗て私が眞と思つたもののうちに疑ふことを許さぬものは何もないこと、しかもこれは無思慮とか輕率とかによるのではなく、強力な熟慮せられた理由によるのであること、從つてもし私が何か確實なものを見出さうと欲するならば、この議論に對しても、明白に僞のものに對してと劣らず用心して、今後は同意を差し控へねばならないこと、を告白せざるを得ないのである。  しかしながら、これらのことに氣づいただけでは未だ十分ではない、いつも念頭におくやうに心を用ゐなければならぬ。といふのは、習ひとなつた意見は絶えず還つてきて、いはば長い間の慣はしと親しさの權利とによつて己れに愛着してゐる私の信じ易い心を、殆ど私の意に反してさへも、占領するからである。また私がこの意見を、それが實際さうであるやうな性質のもの、すなはち、すでに示された如く、なるほど多少疑はしいが、にも拘らず甚だ確からしいもの、從つてそれを否定するよりも信ずることが遙かに多く道理に適つてゐるもの、であると見做す間は、私は決してそれに同意しそれを信用する習慣を脱しないであらう。かるが故に、私が意志をまつたく反對の方向に轉じて、自分を欺き、そして暫らくの間すべての意見が僞で空想的であると假想し、かくして遂に、いはば偏見の重量を雙方ともに同等のものとし、もはや曲つた習慣が私の判斷をものの正しい知覺から逸らせないやうにしても、私は不都合なことをしてはゐまいと思ふ。實際、かくすることから何等の危險も誤謬もその間に生じてこないであらうといふこと、また現在私は實行に關することがらではなくただ認識に關することがらに專心從事してゐるのであるから、いかに不信を逞うしても、それが過ぎることはあり得ないといふこと、を私は知つてゐるのである。  そこで私は、眞理の源泉たる最善の神ではなく、或る惡意のある、同時にこの上なく有力で老獪な靈が、私を欺くことに自己の全力を傾けたと假定しよう。そして天、空氣、地、色、形體、音、その他一切の外物は、この靈が私の信じ易い心に罠をかけた夢の幻影にほかならないと考へよう。また私自身は手も、眼も、肉も、血も、何等の感官も有しないもので、ただ間違つて私はこのすべてを有すると思つてゐるものと見よう。私は堅くこの省察に執着して踏み留まらう。そしてかやうにして、もし何か眞なるものを認識することが私の力に及ばないにしても、確かに次のことは私の力のうちにある。すなはち私は斷乎として、僞なるものに同意しないやうに、またいかに有力で、いかに老獪であらうとも、この欺瞞者が何も私に押しつけ得ないやうに、用心するであらう。しかしながらこれは骨の折れる企てである、そして或る怠慢が私を平素の生活の仕方に返へらせる。そのさまは、恐らく夢の中で空想的な自由を味はつてゐた囚はれびとが、後になつて自分は眠つてゐるのではないかと疑ひ始める場合、喚び醒まされるのを恐れこの快い幻想と共にゆつくり眠りつづけるのと異ならないのであつて、そのやうに私はおのづと再び古い意見のうちに落ち込み、そしてこの睡眠の平穩に苦勞の多い覺醒がつづき、しかも光の中においてではなく、かへつて既に提出せられたもろもろの困難の解けない闇のあひだで、將來、時を過さねばならぬことのないやうに、覺めることを怖れるのである。 省察二 人間の精神の本性について。精神は身體よりも容易に知られるといふこと。  昨日の省察によつて私は懷疑のうちに投げ込まれた。それは私のもはや忘れ得ないほど大きなものであり、しかも私はそれがいかなる仕方で解決すべきものであるかを知らないのである。かへつて、恰も渦卷く深淵の中へ不意に落ち込んだやうに、私は狼狽して、足を底に着けることもできなければ、泳いで水面へ脱出することもできないといふさまであつた。しかしなほも私は努力し、昨日進んだと同じ道を、もちろん、極めて僅かであれ疑ひを容れるものはすべて、恰もそれがまつたく僞であることを私がはつきり知つてゐるのと同じやうに、拂ひ除けつつ、改めて辿らう。そして何か確實なものに、あるひは、餘のことが何もできねば、少くともまさにこのこと、すなはち、確實なものは何もないといふことを確實なこととして認識するに至るまで、更に先へ歩み續けよう。アルキメデスは、全地球をその場所から移動させるために、一つの確固不動の點のほか何も求めなかつた。もし私が極めて僅かなものであれ何か確實で搖がし得ないものを見出すならば、私はまた大きなものを希望することができるのである。  そこで私は、私が見るすべてのものは僞であると假定する。また、私はひとを欺く記憶が表現するものはいかなるものにせよ嘗て存在しなかつたと信じることにする。私はまつたく何等の感官も有しないとする。物體、形體、延長、運動及び場所は幻想であるとする。しからば眞であるのは何であらうか。多分この一つのこと、すなはち、確實なものは何もないといふことであらう。  しかしながらどこから私は、いましがた數へ上げたすべてのものとは別で、少しの疑ふべき餘地もない或るものが存しないことを、知つてゐるのであるか。何か神といふもの、あるひはそれをどのやうな名前で呼ぶにせよ、何か、まさにこのやうな思想を私に注ぎ込むものが存するのではあるまいか。しかし何故に私はこのやうなことを考へるのであるか、多分私自身がかの思想の作者であり得るのであるのに。それ故に少くとも私は或るものであるのではあるまいか。しかしながら既に私は、私が何等かの感官、または何等かの身體を有することを否定したのであつた。とはいへ私は立ち止まらされる、といふのは、このことから何が歸結するのであるか。いつたい私は身體や感官に、これなしには存し得ないほど、結ひつけられてゐるのであらうか。しかしながら私は、世界のうちにまつたく何物も、何等の天も、何等の地も、何等の精神も、何等の身體も、存しないと私を説得したのであつた。從つてまた私は存しないと説得したのではなからうか。否、實に、私が或ることについて私を説得したのならば、確かに私は存したのである。しかしながら何か知らぬが或る、計畫的に私をつねに欺く、この上なく有力な、この上なく老獪な欺瞞者が存してゐる。しからば、彼が私を欺くのならば、疑ひなく私はまた存するのである。そして、できる限り多く彼は私を欺くがよい、しかし、私は或るものであると私の考へるであらう間は、彼は決して私が何ものでもないやうにすることはできないであらう。かやうにして、一切のことを十分に考量した結果、最後にこの命題、すなはち、私は有る、私は存在する、といふ命題は、私がこれを言表するたび毎に、あるひはこれを精神によつて把握するたび毎に、必然的に眞である、として立てられねばならぬ。  しかし、いま必然的に有る私、その私がいつたい何であるかは、私は未だ十分に理解しないのである。そこで次に、恐らく何か他のものを不用意に私と思ひ違ひしないやうに、かくてまたこのすべてのうち最も確實で最も明證的であると私の主張する認識においてさへ踏み迷ふことがないやうに、注意しなければならない。かるが故にいま、この思索に入つた以前、嘗て私はいつたい何ものであると私が信じたのか、改めて省察しよう。このものから次に何であれ右に示した根據によつて極めて僅かなりとも薄弱にせられ得るものは引き去り、かくて遂にまさしく確實で搖がし得ないもののみが殘るやうにしよう。  そこで以前、私はいつたい何であると考へたのか。言ふまでもなく、人間と考へたのであつた。しかしながら人間とは何か。理性的動物と私は言ふでもあらうか。否。なぜといふに、さすれば後に、動物とはいつたい何か、また理性的とは何か、と問はねばならないであらうし、そしてかやうにして私は一個の問題から多數の、しかも一層困難な問題へ落ち込むであらうから。またいま私はこのやうな煩瑣な問題で空費しようと欲するほど多くの閑暇を有しないのである。むしろ私はここで、私は何であるかと私が考察したたび毎に、何が以前私の思想に、おのづと、私の本性に導かれて、現はれたか、に注意しよう。そこに現はれたのは、もちろん、先づ第一に、私が顏、手、腕、そしてこのもろもろの部分の全體の機械を有するといふことであつて、かやうなものは死骸においても認められ、そしてこれを私は身體と名づけたのである。なほまた、そこに現はれたのは、私が榮養をとり、歩行し、感覺し、思惟するといふことであつて、これらの活動を私は靈魂に關係づけたのである。しかしながらこの靈魂が何であるかに、私は注意を向けなかつたか、それともこれを風とか火とか空氣とかに似た、私の一層粗大な部分に注ぎ込まれた、何か知らぬが或る微細なものと想像した。物體については私は決して疑はず、判明にその本性を知つてゐると思つてゐた。これをもし恐らく、私が精神によつて把握した如くに、記述することを試みたならば、私は次のやうに説明したであらう。曰く、物體とはすべて、何等かの形體によつて限られ、場所によつて圍まれ、他のあらゆる物體を排する如くに空間を充たすところの性質を有するもの、すべて、觸覺、視覺、聽覺、味覺、あるひは嗅覺によつて知覺せられ、そして實に多くの仕方で、決して自己自身によつてではなく、他のものによつて、そのどこかに觸れられて、動かされるところの性質を有するものである、と。すなはち、自己自身を動かす力、同じやうに、感覺する、あるひは思惟する力を有することは、決して物體の本性に屬しないと私は判斷したのであり、のみならずかやうな能力が或る物體のうちに見出されることに私はむしろ驚いたのである。  しかし現在、或る極めて有力な、そして、もしさういふことが許されるならば、惡意のある、欺瞞者が、あらゆる點において、できる限り、私を欺くことに、骨を折つてゐると假定する場合、どうであらうか。私は、物體の本性に屬するとさきほど言つたすべてのもののうち極めて僅かなものであれ私が有することを確認し得るものがあらうか。私は注意し、考へ、復た考へる。私が有すると言ひ得るものには何も出會はない。私は同じことを空しく繰り返すことに疲れる。しからば靈魂に屬するとしたものは、どうであらうか。榮養をとるとか歩行するとかいふことは? 實にいま私は身體を有しないのであるから、これもまた作りごと以外の何物でもない。感覺することは? もちろんこれも身體がなければ存しないものであり、また私は夢において、後になつて實際に感覺したのではないと氣づいた非常に多くのことを感覺すると思つたのである。思惟することは? ここに私は發見する、思惟がそれだ、と。これのみは私から切り離し得ないのである。私は有る、私は存在する、これは確實だ。しかしいかなる間か。もちろん、私が思惟する間である。なぜといふに、もし私が一切の思惟をやめるならば、私は直ちに有ることを全くやめるといふことが恐らくまた生じ得るであらうから。いま私は必然的に眞であるもののほか何も許容しない、そこで私はまさしくただ思惟するもの、言ひ換へれば、精神、すなはち靈魂、すなはち悟性、すなはち理性である、これらは私には以前その意味が知られてゐなかつた言葉である。しかし私は眞のもの、そして眞に存在するものである。だがいかなるものなのか。私は言つた、思惟するもの、と。  そのほかに何か。想像を働かせてみよう。私は人體と稱せられるかのもろもろの部分の集合ではない。私はまたこれらの部分に注ぎ込まれた或る微妙な空氣でもなく、風でも、火でも、蒸氣でも、氣息でも、その他私の構像するやうな何物でもない。といふのは、このやうなものは無であると私は假定したのであるから。けれどそれにも拘らず、私は或るものである、といふ立言は動かないのである。しかし、多分、私に知られてゐないとの故をもつて、無であると假定するこれらのものそのものが、ものの眞理においては私が知つてゐる私、その私と別のものでないといふことが生じないであらうか。これについて私は何も知らない。このことについては私はいま爭はない。ただ私に知られてゐることについてのみ、私は判斷を下し得るのである。私は私が存在することを知つてゐる。そして、私の知つてゐる私、その私は何であるか、と問うてゐる。この、かやうに嚴密な意味における知識が、その存在を私が未だ知つてゐないものに依繋しないといふこと、從つて私が想像力によつて構像する何ものにも依繋しないといふことは、極めて確かである。そしてこの構像するといふ語が私の誤謬を私に告げるのである。なぜなら、もし私が何かであると私が想像したならば、私は實際に構像するであらうから。といふのは、想像するとは物體的なものの形體、あるひは像を觀ることにほかならないのであるから。しかるに既に私は、私は有るといふこと、同時にまた一切のこのやうな像、そして一般に物體の本性に關係づけられるあらゆるものは、夢幻以外の何物でもないことがあり得るといふこと、を確かに知つてゐる。このことに氣づいた場合、私はいつたい何であるかを更に判明に知るために想像力を働かさうと言ふのは、いまたしかに私は目覺めてをり、そして眞なるものをいくらか見るが、しかし未だ十分に明證的に見ないからして、夢がこのものを更に眞に更に明證的に表現するやうに、努力して眠りに入らうと言ふのに劣らず、道理に反すると思はれるのである。かやうにして私は、想像力の助けを藉りて捉へ得るいかなるものも、この、私が私について有する知識に屬しないこと、精神が自己の本性をまつたく判明に知覺するためには、極力注意して精神をそのやうなものから遠ざけねばならぬこと、を認識するのである。  しからば私は何であるか。思惟するもの、である。これは何をいふのか。言ふまでもなく、疑ひ、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲せぬ、なほまた想像し、感覺するものである。  まことにこれは、もし全部が私に屬するならば、僅少ではない、しかしなぜ屬してはならないであらうか。いま殆ど一切のものについて疑ひ、しかしいくらかのものは理解し、この一つのことは眞であると肯定し、餘のことを否定し、一層多くのことを知らうと欲求し、欺かれることを欲せず、多くのことを意に反してであれ想像し、なほまたいはば感覺からきた多くのものを認めるものは、私そのものではないのか。たとひ私がつねに眠るにしても、たとひまた私を創造したものが、できる限り、私を欺くにしても、私は有るといふことと同等に眞でないものは、これらのうち何であるか。私の思惟から區別せられるものは、何であるか。私自身から分離せられてゐると言はれ得るものは、何であるか。といふのは、疑ひ、理解し、欲するものが私であることは、これを更に明證的に説明する何物も現はれないほど、明白である。しかし實にまた私は想像する私と同じ私である。なぜなら、たとひ恐らく、私が假定したやうに、想像せられたものがまつたく何一つ眞でないにしても、想像する力そのものは實際に存在し、そして私の思惟の部分をなしてゐるからである。最後に、私は、感覺する、すなはち物體的なものをいはば感覺を介して認める私と同じ私である。いま私はあきらかに、光を見、噪音を聽き、熱を感じる。これらは僞である、私は眠つてゐるのだから、といはれるでもあらう。しかし私は見、聽き、暖くなると私には思はれるといふことは確實である。これは僞であり得ない。これが本來、私において感覺すると稱せられることなのである。そしてこれは、かやうに嚴密な意味において、思惟すること以外の何物でもないのである。  これらのことによつてともかく私は、私はいつたい何であるかを、いくらかよく知り始める。しかしながらこれまでのところ、その像が思惟によつて形作られ、そして感覺そのものが檢證する物體的なものは、この何か知らぬが、想像力の支配下に入り來らぬ、私に屬するものよりも、遙かに判明に認知せられると私には思はれ、また私はさう考へざるを得ないのである。とはいへ、實際、疑はしくて、知られてゐないで、私に關係がないと私の認めるものが、眞であるもの、認識せられてゐるもの、要するに私自身よりも、一層判明に、私によつて理解せられるといふことは、奇異なことであらう。しかし私はこれがどういふことであるかを看取する、すなはち、私の精神はさ迷ひ歩くことを好み、そして未だ眞理の限界内に引き留められることを甘受しないのである。それならそれで宜しい。我々は更にひとたびこの精神に手綱を極度に弛めてやり、かくして、やがて適當な時に再び引き締める場合、それが一層容易に統御せられ得るやうにしよう。  そこで我々はかの普通にすべてのもののうち最も判明に理解せられると思はれてゐるもの、すなはち、言ふまでもなく、我々が觸れ、我々が見る物體を考察しよう。しかし物體一般ではない。といふのは、この一般的な知覺はむしろ一層不分明であるのがつねであるから。かへつて我々は特殊的な一つのものを考察する。我々は、例へば、この蜜蝋をとらう。それは今しがた蜜蜂の巣から取り出されたばかりで、未だ自己の有する蜜のあらゆる味を失はず、それが集められた花の香りのいくらかを保つてゐる。その色、形體、大きさは明白である。すなはち、それは堅くて冷く、容易に掴まれ、そして指で打てば音を發する。要するに或物體をできるだけ判明に認識し得るために要求せられ得ると思はれる一切が、この蜜蝋に具はつてゐる。しかしながら、見よ、私がかう言つてゐる間に、それを火に近づけると、殘つてゐた味は除き去られ、香りは散り失せ、色は移り變り、形體は毀され、大きさは増し、流動的となり、熱くなり、殆ど掴まれることができず、またいまは、打つても音を發しない。それでもなほ同じ蜜蝋は存續してゐるのか。存續してゐると告白しなければならぬ。誰もこれを否定しない。誰もこれと違つて考へない。しからばこの蜜蝋においてあのやうに判明に理解せられたものは、何であつたのか。それは確かに私が感官によつて捉へたところのいかなるものでもない。なぜなら味覺、あるひは嗅覺、あるひは視覺、あるひは觸覺、あるひは聽覺によつて感知したあらゆるものは、いまは變化してゐるからである。しかもなほ蜜蝋は存續してゐる。  多分それは私が現在思惟するものであつたのであらう、すなはち、疑ひもなく、蜜蝋そのものは、かの蜜の甘さでも、花の香りでも、かの白さでも、形體でも、音でも、あつたのではなく、かへつて少し前にはかの仕方で分明なものとして私に現はれ、現在は別の仕方で現はれるところの物體であつたのである。しかしかやうに私が想像するこのものは、嚴密に言へば、何であるか。我々は注意しよう、そして、蜜蝋に屬しないものを遠ざけることによつて、何が殘るかを見よう。疑ひもなく、延長を有する、屈曲し易い、變化し易い或るもの以外の何も殘らない。しからばこの屈曲し易い、變化し易いとは、どういふことであるか。それは、この蜜蝋が圓い形體から四角な形體に、あるひはこの四角な形體から三角の形體に轉じられ得ると私が想像することであらうか。決してさうではない。なぜなら、私は蜜蝋がこの種の無數の變化を受け得ることを理解するが、しかし私はこの無數のものを、想像することによつては悉く辿り得ず、從つてこの理解は想像する能力によつては仕遂げられないからである。更に延長を有するとは、どういふことであるか。蜜蝋の延長そのものもまた知られてゐないのではあるまいか。なぜならそれは、溶解しつつある蜜蝋において一層大きくなり、煮沸せられるときには更に一層大きくなり、そして熱が増されるなら從つてまた一層大きくなるからである。そして蜜蝋が何であるかは、このものがまた延長において私が嘗て想像することによつて把握するよりも多くの多樣性を容れると考へるのでなければ、正しく判斷せられないであらう。從つて私は、この蜜蝋が何であるかを實に想像するのではなく、ただ單に精神によつて知覺する、といふことを認めるのほかはないのである。私はこの特殊的な蜜蝋を言つてゐる、なぜなら蜜蝋一般については、そのことは更に明瞭であるから。しからば精神によつてのほか知覺せられないこの蜜蝋は、いつたいどういふものであるのか。疑ひもなく、私が見、私が觸れ、私が想像するものと同じもの、要するに私が始めからかういふものであると思つてゐたのと同じものである。しかしながら、注意すべきことは、この蜜蝋の知覺は、視覺の作用でも、觸覺の作用でも、想像の作用でもあるのではなく、また、たとひ以前にはかやうに思はれたにしても、嘗てかやうなものであつたのではなく、かへつてただ單に精神の洞觀である、そしてこれは、これを構成してゐるものに私が向ける注意の多少に應じて、あるひは以前さうであつたやうに不完全で不分明であることも、あるひは現在さうあるやうに明晰で判明であることもできるのである。  しかるに一方私はいかに私の精神が誤謬に陷り易いものであるかに驚く。といふのは、たとひ私がこのことどもを自分において默つて、聲を上げないで考察するにしても、私は言葉そのものに執着し、そして殆ど日常の話し方そのものによつて欺かれるからである。すなはち我々は、蜜蝋がそこにあるならば、我々は蜜蝋そのものを見る、と言ひ、我々は色あるひは形體を基として蜜蝋がそこにあると判斷する、と我々は言はないのである。そこから私は直ちに、蜜蝋はそれ故に眼の視る作用によつて、ただ單に精神の洞觀によつてではなく、認識せられると結論するであらう。ところで、もしいま私がたまたま窓から、街道を通つてゐる人間を眺めたならば、私は彼等についても蜜蝋についてと同じく習慣に從つて、私は人間そのものを見る、と言ふ。けれども私は帽子と着物とのほか何を見るのか、その下には自動機械が隱されてゐることもあり得るではないか。しかしながら私は、それは人間である、と判斷する。そしてかやうに私は、私が眼で見ると思つたものでも、これを專ら私の精神のうちにある判斷の能力によつて把捉するのである。  しかしながら自己の知識を一般人を超えて高めようと欲する者は、一般人が發明した話の形式から懷疑を探し出したことを恥ぢるであらう。我々は絶えず先へ進まう。いつたい私が蜜蝋の何であるかを一層完全に一層明證的に知覺したのは、最初私が蜜蝋を眺め、そしてこれを外的感覺そのものによつて、あるひは少くとも人々のいはゆる共通感覺によつて、言ひ換へると想像的な力によつて、認識すると信じた時であるか、それとも實にむしろ現在、すなはち一方蜜蝋が何であるかを、他方いかなる仕方で認識せられるかを、一層注意深く探究した後であるか、に注目しよう。このことについて疑ふのは確かに愚かなことであらう。最初の知覺において何が判明であつたか。どんな動物でも有し得ると思はれないものは何であつたのか。しかるにいま私が蜜蝋をその外的形式から區別し、そしていはば着物を脱がせてその赤裸のままを考察する場合、たとひ未だ私の判斷のうちに誤謬が存し得るにしても、私は實際、人間の精神なしには、かやうに蜜蝋を知覺することはできないのである。  しかしこの精神そのものについて、すなはち私自身について、私は何と言ふべきであらうか。といふのは、私は精神のほか未だ他の何物も私のうちに存すると認めないのである。しからば、この蜜蝋をかくも判明に知覺すると思はれる私、その私について、私は何と言ふべきであらうか。私は私自身を單に遙かに一層眞に、遙かに一層確實に認識するのみでなく、また遙かに一層判明に一層明證的に認識するのではあるまいか。なぜといふに、もし私が蜜蝋を見るといふことから、蜜蝋が存在すると判斷するならば、確かに遙かに一層明證的に、私がそれを見るといふことそのことから、私自身がまた存在するといふことが、結果するからである。すなはち、この私の見るものが實は蜜蝋でないといふことはあり得る、私が何等かのものを見る眼を決して有しないといふことはあり得る、しかし、私が見るとき、あるひは(いま私はこれを區別しないが)私は見ると私が思惟するとき、思惟する私自身が或るものでないといふことは、まつたくあり得ないのである。同樣の理由で、もし私が蜜蝋に觸れるといふことから、蜜蝋が有ると判斷するならば、同じことがまた、すなはち私は有るといふことが結果する。もし私が想像するといふことから、あるひは他のどんな原因からであつても、蜜蝋が有ると判斷するならば、やはり同じことが、すなはち私は有るといふことが結果するのである。しかも蜜蝋について私が氣づくまさにこのことは、私の外に横たはつてゐる餘のすべてのものに適用することができる。そして更に、もし蜜蝋の知覺が、單に視覺あるひは觸覺によつてのみでなく、一層多くの原因によつて私に明瞭になつた後、一層多く判明なものと思はれたならば、今やいかに多く一層判明に私自身は私によつて認識せられることか、と言はなければならぬ。といふのは、蜜蝋の知覺に、あるひは何か他の物體の知覺に寄與するいかなる理由も、すべて同時に私の精神の本性を一層よく證明する筈であるからである。しかしながらまた精神そのもののうちにはその本性の知識を一層判明になし得るものがこれ以上他に極めて多く存するのであり、かくてこれらの物體から精神の本性に推し及ぶものは、殆ど數へるにあたらぬと思はれる。  かくて、見よ、遂に私はおのづと私の欲したところに歸つて來たのである。すなはち、今や、物體そのものも本來は感覺によつて、あるひは想像する能力によつてではなく、專ら悟性によつて知覺せられるといふこと、觸れられることあるひは見られることによつてではなく、ただ理解せられることによつて知覺せられるといふこと、が私に知られたのであるから、私は何物も私の精神よりも一層容易に、また一層明證的に私によつて知覺せられ得ないといふことを明瞭に認識するのである。しかしながら古い意見の習慣はそんなに速かに除き去られ得ないからして、私の省察の時間の長さによつてこの新しい認識が一層深く私の記憶に刻まれるやうに、ここで立ち停まることが適當であらう。 省察三 神について。神は存在するといふこと。  いま私は眼を閉ぢ、耳をふさぎ、すべての感覺を遠ざけ、物體的なもののすべての像をさへ私の思惟から拭ひ去り、乃至、これは殆どできないことであるから、少くともかかる像を空虚で僞のものとして無視しよう。そしてただ、自分に話し掛けることによつて、また一層深く洞觀することによつて、私自身を漸次私に一層知らされたもの、一層親しいものにすることに努めよう。私は思惟するものである、すなはち疑ひ、肯定し、否定し、僅かなことを理解し、多くのことを知らぬ、欲し、欲せぬ、なほまた想像し、感覺するものである。といふのは、先に私の氣づいた如く、たとひ私が感覺しあるひは想像するものは私の外においては恐らくは無であるにしても、感覺及び想像力と私が稱するかの思惟の仕方は、それらが單に思惟の或る一定の仕方である限りにおいては、私のうちにある、といふことは私に確實であるからである。  さてこの僅かな言葉で私は、私が眞に知つてゐることの、あるひは少くとも、私が知つてゐるとこれまでに私の氣づいたことの一切を要約した。今私は恐らくなほ私のうちに何か他の未だ私の振り返つて見なかつたものがありはしないかどうか、更に注意深く調べてみよう。私が思惟するものであるといふことは、私に確實である。しからばまた私は或ることが私に確實であるためには何が要求せられるかをも知つてゐるのではあるまいか。疑ひもなく、この第一の認識のうちには、私が肯定するところのものの或る一定の明晰で判明な知覺のほか他の何物も存しない。かかる知覺はもちろん、もし私がかやうに明晰に判明に知覺する何等かのものが僞であることが嘗て生じ得るならば、私にものの眞理を確實ならしめるに十分ではないであらう。從つてすでに私は、私が極めて明晰に極めて判明に知覺するものはすべて眞である、といふことを一般的な規則として立てることができると思ふ。  尤も私は、後になつて疑はしいものであるとわかつた多くのことを、以前にはまつたく確實で明白なものとして認めてゐた。しからばこれはどういふものであつたか。言ふまでもなく、地、天、星、その他私が感覺によつて捉へた一切のものである。しかしそれらのものについて何を私は明晰に知覺したのであるか。言ふまでもなく、かかるものの觀念そのもの、すなはち思想が、私の精神に現はれたといふことである。そして現在といへども、もちろん、かかる觀念が私のうちにあることを、私は認めまいとは思はない。しかし或る他のことで、私が肯定し、またこれを信じる習慣によつて明晰に知覺すると考へたことで、しかも實際には私の知覺しなかつたことがあつた。言ふまでもなく、かかる觀念がそれから出て、それにまつたく類似してゐる或るものが私の外にあるといふことである。そしてまさにこの點において私が過つてゐたか、あるひは私の判斷が正しかつたのならば、確かにその判斷は私の知覺の力によつて生じたのではなかつたのである。  しかしそれなら、算術あるひは幾何に關することで、何か極めて單純で容易なこと、例へば二と三とを加へると五であるといふこと、あるひはこれに類することを私が考察した場合、私は少くともこれを、眞であると肯定することができるやう十分に明瞭に直觀したのではあるまいか。實際、私がこれについて疑ふべきであると後になつて判斷したのは、恐らく何等かの神が、最も明白なものと思はれることに關してさへ欺かれるやうな本性を、私に付與したかもしれないといふ考へが私の心に浮んだからといふよりほかの理由によるのではないのである。しかしながら神のこの上ない力についてのこの先入の意見が私に浮んでくるたび毎に、もし神が欲しさへすれば、私が精神の眼で極めて明證的に直觀すると考へることにおいてすら、私が間違ふやうにすることは神にとつて容易である、と告白せざるを得ないのである。とはいへ私は、私が極めて明晰に知覺すると信じるものそのものに私を向けるたび毎に、私はそれによつてまつたく説得せられ、かくておのづと次の言葉を發する、できる者は誰でも私を欺くが宜い、しかし、私が私は或るものであると思惟するであらう間は、彼は私が無であるやうにすることは決してできないであらう、あるひは、私は有るといふことが現在眞であるからには、私が嘗て有らなかつたといふことがいつか眞であるやうにすることは決してできないであらう、あるひは恐らくまた、二と三とを加へると五よりも大きい乃至小さいとか、あるひはこれに類すること、すなはちたしかにそのうちに明白な矛盾を私の認めること、が生ずるやうにすることはできないであらう、と。そして確かに私は何等かの神が欺瞞者であると見做すべきいかなる機會も有しないのであり、また實に何等かの神が存するかどうかを未だ十分に知らないのであるからして、單にこのやうな意見に依繋する疑ひの理由は極めて薄弱であり、そしていはば形而上學的である。しかしかかる理由もまた除き去られるやうに、機會が生ずるや否や直ちに、神は存するかどうか、そして、もし存するならば、欺瞞者であり得るかどうか、を檢討しなければならぬ。といふのは、このことが知られてゐないと、まつたく他のなにごとも決して私に確實であり得ると思はれないからである。  しかるにいま、省察の順序は、先づ私の一切の思惟を一定の類に分ち、そしてこの類のうちいつたい何れに眞理または虚僞は、本來、存するかを探究することを要求すると思はれる。私の思惟のうちの或るものはいはばものの像であつて、これにのみ、本來、觀念といふ名稱は適當するのである。例へば私が人間とか、キマイラとか、天とか、天使とか、神とかを思惟する場合がこれである。しかし他のものは、そのほかに、或る他の形相を有してゐる。例へば私が欲する場合、恐れる場合、肯定する場合、否定する場合がこれであつて、この場合私はつねにもちろん或るものを私の思惟の對象として把捉するが、しかし私の思惟はかかる、もののかたどり以上に更に或るものを含んでゐる。そしてこのやうなもののうち或るものは意志あるひは感情と名づけられ、他のものは判斷と名づけられる。  いま觀念についていへば、それが單にそれ自身において觀られ、それを何か他のものに關係させなければ、それは、本來、僞であり得ない。なぜなら、私が山羊を想像しようとキマイラを想像しようと、私がその一を想像するといふことは他を想像するといふことに劣らず眞であるからである。また意志そのもの、あるひは感情においても、何等虚僞を恐れることを要しない。なぜなら、たとひ私は曲つたこと、あるひはどこにも有しないものをさへ願望するかも知れないとはいへ、それだからといつて私がこれを願望するといふことは眞でなくはないからである。かやうにして殘るのはただ判斷のみであり、これにおいて私は誤らないやうに用心しなければならぬ。しかるに判斷において見出され得る主要な、そして極めて普通の誤謬は、私のうちにある觀念が私の外に横たはる或るものに類似してゐる、あるひは一致してゐる、と私が判斷するといふことに存する。なぜなら、實際、もし私が單に觀念そのものを私の思惟の或る一定の仕方として考察し、何か他のものに關係させなかつたならば、それは殆ど私に何等の誤謬の材料を與へ得なかつたからである。  ところでこれらの觀念のうち或るものは生具のもの、また或るものは外來のもの、更に或るものは私自身によつて作られたもの、と私には思はれる。すなはち、私が、ものとは何であるか、眞理とは何であるか、思惟とは何であるか、を理解するといふことは、この理解を私は他のどこからでもなく私の本性そのものから汲み取ると思はれる。しかるにいま私が噪音を聞く、太陽を見る、熱を感じるといふことは、この感覺を私はこれまで、或る私の外に横たはるものから出てくる、と判斷した。そして最後にセイレネス、ヒポグリプス、その他これに類するものは、私自身によつて構像せられたものである。尤も、恐らくまた私は、すべての觀念は外來のものであるとも、あるひはすべての觀念は生具のものであるとも、あるひはすべての觀念は作られたものであるとも、考へることができる。といふのは、私は未だその眞の起原を明晰に洞見したのではないから。  しかしここでは主として、いはば私の外に存在するものから取つてこられたものと私の見做すところの觀念について、いつたいどのやうな根據が私をしてそれらの觀念をばかかるものに類似してゐると思量するに至らしめるのであるかを、探究しなければならぬ。もちろん私は自然によつてかやうに教へられたと思はれるのである。なほその上に、私はそれらの觀念が私の意志に、從つてまた私自身に依繋しないことを經驗する。といふのは、それらはしばしば私の意志に反してさへ現はれるからである。例へばいま私は、私が欲すると欲しないとに拘らず、熱を感じる、そしてそのために私は、この感覺、すなはち熱の觀念が、私とは別のものから、言ふまでもなく私がそのそばに坐つてゐる火の熱から、私にやつてくると考へる。そしてかかるものが他の何物でもなくむしろ自己のかたどりを私のうちへ送り込むと私が判斷するといふことよりも尤もなことはないのである。  いま、これらの根據が十分に確固たるものであるかどうかを檢べてみよう。私がここで、私は自然によつてかやうに教へられた、と言ふ場合、それはただ或るおのづからなる傾動によつて私がこれを信じるやうにせられたといふことを意味するのであつて、或る自然的な光によつて眞であると私に明示せられたといふことを意味するのではない。この二つのことは甚だ異なつてゐる。すなはち、自然的な光によつて私に明示せられるあらゆることは、例へば、私が疑ふといふことから私は有るといふことが歸結すること、その他これに類することは、決して疑はしいものであることができない。なぜなら、この光と同等に私の信頼し得るやうな、またこの光によつて私に明示せられることを眞でないと私に教へ得るやうな、いかなる他の能力も有り得ないからである。しかるに自然的傾動についていへば、私は以前にすでにしばしば、善を選ぶことが問題であつた場合に、私がこの傾動により一層惡い側に動かされた、と判斷したのであつて、何故に私はかかる傾動に或る他のことにおいて一層多く信頼すべきかを理解しないのである。  次に、たとひそれらの觀念が私の意志に依繋しないにしても、だからといつてそれらが必然的に私の外に横たはるものから出てくるといふことは確かではない。なぜなら、私がたつたいま述べた、かの傾動は、私のうちにあるとはいへ、私の意志とは別のものであると思はれるが、同じやうに恐らくまた、それらの觀念の生産者として、何か他の、未だ私に十分に認識せられてゐない能力が私のうちにあるかも知れないからである。恰もこれまでつねに私には、私の眠つてゐるときに、かかる觀念がいかなる外物の助けも藉りないで私のうちに作られるのが見られた如くに。  そして最後に、たとひ私とは別のものから出てきたにしても、このことからそれらの觀念がかかるものに類似してゐなくてはならぬといふことは歸結しない。反對に、多くの場合において私は兩者の間にしばしば大きな差異を見出したやうに思はれる。すなはち、例へば、私は太陽について二つの相異なる觀念を私のうちに發見する。その一つはいはば感覺から汲み取つたもので、これはとりわけかの外來のものと私の見做すところの觀念のうちに數へらるべきものであるが、これによると私には太陽は極めて小さいものに見える。他の一つはしかるに星學上の根據から取つてこられたもので、言ひ換へると或る私に生具の概念から引き出されたもの、それとも何か他の仕方で私によつて作られたものであるが、これによると太陽は地球より何倍も大きいものとして示される。そして實際、これら二つの觀念の雙方が私の外に存在する同一の太陽に類似してゐるといふことは不可能である。そして理性は、最も直接に太陽そのものから出てきたと思はれるところの觀念が太陽に最も多く類似してゐない、と私を説得するのである。  このすべてのことは、これまで私が、感覺器官を介して、あるひは何等か他の仕方で、觀念すなはち自己の像を私に送り込むところの、私とは別の或るものが存在すると信じたのは、確實な判斷によるのではなく、かへつてただ或る盲目の衝動によるのであるといふことを、十分に證明するのである。  しかしながら、私のうちにその觀念があるもののうちで、そのうちの或るものが私の外に存在するかどうかを探究するために、或る他の道が私に與へられてゐる。疑ひもなく、これらの觀念がただ單に思惟の或る一定の仕方である限りにおいては、私はこれらの觀念の間に何等の不等をも認めず、そのすべては同じ仕方で私から出てくると思はれる。しかるにその一は一つのものを、他は他のものを表現する限りにおいては、これらの觀念が相互に甚だ異なつてゐることは明瞭である。といふのは、疑ひもなく、實體を私に示すところの觀念は、ただ單に樣態すなはち偶有性を表現するところの觀念よりも、一層大きな或るものであり、しかして、いはば、一層多くの客觀的實在性を己れのうちに含んでをり、更にまた私がそれによつて或る至高にして、永遠なる、無限なる、全智なる、全能なる、そして自己のほかなる一切のものの創造者たる、神を理解するところの觀念は、有限なる實體を私に示すところの觀念よりも、たしかに一層多くの客觀的實在性を己れのうちに有してゐるからである。  ところでいま、動力的且つ全體的な原因のうちには少くともこの原因の結果のうちにあると同じだけの實在性が存しなくてはならぬといふことは、自然的な光によつて明瞭である。なぜなら、結果は、原因からでなければ、いつたいどこから、自己の實在性を得ることができるのであらうか。また、いかにして原因は、自分でも實在性を有するのでなければこの實在性を結果に與へることができるのであらうか。そしてここから、いかなるものも無から生じ得ないといふこと、なほまた、より多く完全なものは、言ひ換へると自己のうちにより多くの實在性を含むものは、より少く完全なものから生じ得ないといふこと、が歸結する。しかもこれは、單に、その實在性が現實的すなはち形相的であるところの結果について明白に眞であるのみでなく、また、そのうちにおいてはただ客觀的實在性が考察せられるところの觀念についてもまた眞である。くはしく言ふと、例へば、以前に存しなかつた或る石は、その石のうちに含まれるものの全體を、あるひは形相的に、あるひは優越的に、自己のうちに有するところの或るものによつて生産せられるのでなければ、いま存し始めることができないし、また熱は、熱と少くとも等しい程度の完全性を有するものによつてでなければ、以前に熱せられなかつた對象のうちに生ぜしめられることができないし、その他の場合もかくの如くであるが、單にこれらのみではなく、更にまた、熱の、あるひは石の觀念は、熱あるひは石のうちにあると私が考へるのと少くとも同じだけの實在性を自己のうちに含む或る原因によつて私のうちに置かれたのでなければ、私のうちにあることができないのである。といふのは、たとひこの原因は自己の現實的すなはち形相的實在性の何物も私の觀念のうちに移し入れないとはいへ、だからといつてこの原因はより少く實在的でなくてはならぬと考ふべきではなく、むしろ、觀念そのものは私の思惟の仕方であるからして、その本性は、私の思惟から借りてこられる實在性のほか、何等他の形相的實在性を自分からは要求しない性質のものであると考ふべきであるからである。しかるに或る觀念が、他の客觀的實在性ではなくて或る特定の客觀的實在性を含むといふことは、たしかに、この觀念が客觀的實在性について含むのと少くとも同じだけの形相的實在性を自己のうちに有するところの或る原因によつて、これを得てくるのでなくてはならぬ。なぜなら、もし我々がその原因のうちに存しなかつた或るものが觀念のうちに見出されると看做すならば、この觀念は從つてこれを無から得てくることになり、しかるに、ものがそれによつて觀念を介して悟性のうちに客觀的に有るところのこの存在の仕方は、たとひ不完全であるにしても、たしかにまつたく無ではなく、また從つてこの觀念が無から出てくるといふことはあり得ないからである。  なほまた、私が私の有する觀念のうちにおいて考察するところの實在性は單に客觀的なものであるからして、この實在性がこの觀念の原因のうちに形相的に有ることは必要でなく、かへつてこの原因のうちにおいても客觀的に有れば十分であらう、と忖度してはならない。といふのは、この客觀的な存在の仕方が觀念に、觀念そのものの本性上、合致すると同じやうに、形相的な存在の仕方が觀念の原因に、──少くともその第一にして主要なる原因には──この原因の本性上、合致するからである。そしてたとひ恐らく一の觀念は他の觀念から生まれることができるにしても、これはしかしこのやうにして無限に溯ることができないのであつて、遂にはいはば或る第一の觀念に達しなくてはならず、しかしてこの觀念の原因は、觀念のうちにおいてはただ客觀的に有る一切の實在性を形相的に自己のうちに含むところの、原型ともいふべきものなのである。かやうにして觀念は私のうちにおいて恰も或る影像の如きものであつて、これは、たしかに、これを得てきたもとのものの完全性に及ばぬことは容易にあり得るが、或るより大きなものまたはより完全なものを含み得ないことは、自然的な光によつて私に明瞭である。  そしてこのすべてのことは、これを考量することが長ければ長いだけ、注意深ければ注意深いだけ、いよいよ明晰に、いよいよ判明に、その眞であることを私は認識するのである。しかし私は何を結局これから結論しようとするのであるか。言ふまでもなく、もし私の有する觀念のうちの或るものの客觀的實在性にして、それが形相的にも優越的にも私のうちに存せず、また從つて私自身がこの觀念の原因であり得ぬことが私に確實であるほど、大きいものであるならば、ここから必然的に、私のみが獨り世界にあるのではなく、かかる觀念の原因であるところの或る他のものがまた存在するといふことが歸結するといふことである。他方もし何等かくの如き觀念が私のうちに見出されないならば、私とは別の或るものの存在を私に確實ならしめるところのいかなる論據もまつたく私は有しないであらう。といふのは、私は一切を極めて注意深く調査して、これまで何等の論據も見出し得なかつたからである。  ところで私の有する觀念には、ここに何等困難のあり得ないところの、かの私自身を私に示す觀念のほか、他に、神を表現するもの、また物體的な無生的なものを表現するもの、また天使を表現するもの、また動物を表現するもの、そして最後に私と同類の他の人間を表現するものがある。  そして他の人間を、あるひは動物を、あるひは天使を示すところの觀念についていへば、たとひ私のほか何等の人間も、何等の動物も、何等の天使も世界に存しないにしても、これらの觀念が、私自身について、物體的なものについて、また神について私の有する觀念から構成せられ得るといふことを、私は容易に理解するのである。  そして物體的なものの觀念についていへば、これらのうちには私自身によつて生まれ得たとは思はれないほど實在性の大きいものは何も見られない。もし私がこれらを一層深く觀察するならば、また昨日私が蜜蝋の觀念を吟味したのと同じ仕方で、その一つ一つを吟味するならば、これらにおいて私が明晰に判明に知覺するものはただ極めて僅かであることに氣づくのである。言ふまでもなく、それは、大きさ、すなはち長さ、廣さ及び深さにおける延長、かかる延長の限定によつて生ずる形體、種々の形體を具へたものの相互に占める位置、及び運動、すなはちかかる位置の變化であつて、これになほ實體、持續及び數を加へることができる。しかるにその他のもの、例へば光と色、音、香、味、熱と寒、また他の觸覺的性質は、ただ極めて不分明に不明瞭にのみ私によつて思惟せられるのであり、從つて私は、それらが眞であるのか、それとも僞であるのか、言ひ換へると、それらについて私の有する觀念が或るものの觀念であるのか、それとも何ものでもないものの觀念であるのか、をさへ知らないのである。といふのは、たとひ私は少し前に、本來の意味における虚僞すなはち形相的虚僞は、ただ判斷においてのみ見出され得ると述べたとはいへ、しかし觀念にして何ものでもないものを或るものであるかのやうに表現する場合、たしかに、或る他の質料的虚僞が觀念のうちに存するのである。かくて、例へば、熱と寒について私の有する觀念は極めて僅かしか明晰で判明でないので、これらの觀念によつて、寒が單に熱の缺存であるのか、それとも熱が寒の缺存であるのか、あるひはまた兩者共に實在的な性質であるのか、それとも共にさうでないのか、私はこれを見分けることができない。ところで或るものの觀念であるかのやうに思はれぬいかなる觀念も存し得ないのであるから、もし實際に寒は熱の缺存以外の何物でもないことが眞であるならば、寒を實在的な、積極的な或るもののやうに私に表現するところの觀念が、僞と言はれるのは不當でないであらう。その他の場合も同樣である。  これらの觀念は、たしかに、或る私とは別の作者に歸せられることを要しない。なぜなら、もし實際にそれらが僞であるならば、すなはち、何ものでもないものを表現するならば、それらが無から出てくること、言ひ換へると、それらが私のうちにあるのは、私の本性に或るものが缺けてをり、これがまつたく完全でない故にといふよりほか他の原因によるのでないことは、自然的な光によつて私に知られてゐるからであり、もしまたそれらが眞であるならば、それらはしかし實に何ものでもないものと區別し得られないほど極めて僅かの實在性をしか私に示さないからして、何故にそれらが私自身によつて作られることができないのか、私にはわからないからである。  しかるに物體的なものの觀念のなかで明晰で判明であるもののうち、或るものは、すなはち實體、持續、數、その他これに類するものは、私自身の觀念から引き出され得たやうに思はれる。私が石は實體であると、すなはちそれ自身によつて存在することができるものであると思惟し、他方また私は實體であると思惟する場合、もちろん私は、私が思惟するもので延長を有するものでなく、これに反して石は延長を有するもので思惟するものでないこと、從つて兩つの概念の間には非常に大きな差異があることを理解するにしても、しかし實體といふ點においては兩者は一致すると思はれる。同じやうにまた私が、私はいま有ることを知覺し、更に以前にまた或る時のあひだ有つたことを想起する場合、なほまた私がその數を理解してゐる種々の思想を有する場合、私は持續と數との觀念を得、しかる後これをどのやうな他のものへも移すことができる。物體的なものの觀念を構成するその他のすべてのもの、すなはち延長、形體、位置及び運動は、もちろん、私は思惟するもの以外の何物でもないのであるからして、私のうちに形相的には含まれないが、しかし、それらは單に實體の或る樣態であり、私はしかるに實體であるから、優越的には私のうちに含まれ得ると思はれる。  かやうにして殘るところはただ神の觀念のみである。この觀念のうちには何か私自身から出てくることのできなかつたものがあるかどうかを考察しなければならぬ。神といふ名稱のもとに私が理解するのは、或る無限なる、獨立なる、全智なる、全能なる、そして一方、私自身を、また他方、もし更に何ものかが存在するならば、存在するほどのものの一切を、創造したところの、實體である。まことにこのすべての性質は、私がこれに注意することの深ければ深いだけ、いよいよ、單に私自身から出てきたものであり得ると思はれないのである。それ故に、前述のことから、神は必然的に存在する、と結論しなければならない。  なぜかといふに、私は實體であるといふことそのことから、たしかに實體の觀念が私のうちにあるとはいへ、だからといつてそれは、私は有限であるからして、實際に無限であるところの或る實體から出てきたのでなければ、無限なる實體の觀念ではなかつたであらうから。  また、私は無限なるものを眞なる觀念によつて知覺するのではなく、かへつて、恰も靜止や闇を運動や光の否定によつて知覺する如く、單に有限なるものの否定によつて知覺する、と思つてはならない。なぜなら反對に、無限なる實體のうちには有限なる實體のうちにおけるよりも多くの實在性があること、また從つて無限なるものの知覺は有限なるものの知覺よりも、言ひ換へると、神の知覺は私自身の知覺よりも、いはば一層先なるものとして私のうちにあることを、私は明瞭に理解するからである。といふのは、もし私のうちに、それとの比較によつて私が私の缺陷を認めるところの何等か一層完全なる實有の觀念が存しなかつたならば、いかにして私は、私を疑ふこと、私が欲求すること、言ひ換へると、或るものが私に缺けてゐて、私はまつたく完全ではないこと、を理解したであらうか。  また、恐らくこの神の觀念は、熱や寒の觀念、及びこれに類するものの觀念について少し前に私が氣づいたのと同じく、質料的に僞であり、從つてまた無から出てくることができる、と言ふことはできない。なぜなら、反對に、この觀念は極めて明晰で判明であり、そして他のいかなる觀念よりも多くの客觀的實在性を含んでゐるからして、この觀念よりも多くそれ自身によつて眞なるもの、僞でないかとの疑ひを容れることが一層少いもの、は存しないからである。私は言ふ、この最も完全にして無限なる實有の觀念はこの上なく眞であるのである、と。といふのは、たとひ恐らくかくの如き實有は存在しないと假想することができるにしても、この實有の觀念が、さきに寒の觀念について言つた如く、何等實在的なものを私に示さないと假想することはできないから。この觀念はまたこの上なく明晰で判明であるのである。なぜなら、何であれ私が實在的にして眞なるものとして、また何等かの完全性をもたらすものとして明晰に判明に知覺するものは、全部この觀念のうちに含まれてゐるから。またこの場合、私が無限なるものを把握しないといふこと、あるひは神のうちには私の把握することのできぬ、また恐らく思惟によつては何等か觸れることさへできぬ、他の無數のものが存するといふことは、妨げとはならない。といふのは、有限であるところの私によつて把握せられないといふことは、無限なるものの本質に屬するものであるから。そして私がまさにこのことを理解することで、そして私の明晰に知覺し、何等かの完全性をもたらすものとして知る一切のものが、なほ恐らくまた私の知らない他の無數のものが、形相的にか優越的にか神のうちに存すると判斷することで、私が神について有する觀念が私のうちにあるすべての觀念のうち最も眞で、また最も明晰で判明であるためには、十分なのである。  しかし恐らく私は自分で理解してゐるより以上の或るものであるかもしれない、しかして私が神に歸するところの一切の完全性は、たとひ私においては未だ自己を顯現せず、また現實性にもたらされないにしても、何等か可能的には私のうちにあるかも知れない。といふのは、私は實際に私の知識が漸次に増大せられることを經驗し、そしてそれがかやうにして無限にまでますます増大せられないやうに何が妨げるのか、また何故に、この知識がかやうに増大せられたとき、これによつて私が神の餘のすべての完全性に達することができないのか、また最後に、何故に、かかる完全性に至る力が、もし實際に私のうちにあるならば、かかる完全性の觀念を作り出すに十分でないのか、私は理解しないから。  否、かかることは何等あり得ない。すなはち先づ第一に、私の知識が一歩一歩増大せられるといふこと、また未だ現實的にはないところの多くのものが可能的に私のうちにあるといふことは眞であるにしても、かくの如きことは何等神の觀念に適しない。神の觀念のうちには疑ひもなく單に可能的であるものは何もない。またこの一歩一歩増大せられるといふことはまさに不完全性の極めて確實な證明なのである。次に、たとひ私の知識はつねにますます増大せられるとはいへ、しかも私は、それが、だからといつて、決して現實的に無限なものにならないであらうといふことを理解する、なぜなら私の知識はこれ以上の増大を容れないといふところには決して達しないであらうから。しかるに神は、その完全性には何物も加へられ得ないといふやうに、現實的に無限である、と私は判斷するのである。そして最後に、觀念の客觀的有は、本來から言へば無であるところの單に可能的な有によつてではなく、かへつてただ現實的な有、すなはち形相的な有によつてのみ生ぜしめられ得る、といふことを、私は知覺するのである。  まことにこのすべてのことには、注意深く考察するとき自然的な光によつて明瞭でないものは何もないのである。しかしながら私がそんなに注意しないで、感覺的なものの像が精神の眼を盲にする場合、何故に私よりも一層完全な實有の觀念は必然的に、或る實際に一層完全なる實有から出てこなければならないかを、私は容易に想起しないからして、更に進んで、かかる觀念を有するところの私自身は、もしかかる實有が何等存在しなかつたならば、存することができたかどうか、を探究したいと思ふ。  いつたい私は何者から出てきたのであらうか。もちろん私自身から、それとも兩親から、それとも何か他の、神よりも少く完全なものから。といふのは、神よりも一層完全なものは、神と同じ程度に完全なものでさへ、何も思惟せられることも想像せられることもできないのであるから。  けれども、もし私が私自身から出てきたとすれば、私は疑ふといふことがなかつたであらうし、また願望するといふことがなかつたであらうし、またおよそ何物かが私に缺けてゐるといふことがなかつたであらう。なぜなら、その何等かの觀念が私のうちにある一切の完全性を、私は私自身に與へたであらうし、かやうにして私自身は神であつたであらうから。また私に缺けてゐるものは多分、すでに私のうちにあるものよりも、得られるに一層困難であるかもしれないと考へてはならぬ。なぜなら、反對に、私、言ひ換へると思惟するもの、すなはち思惟する實體を無から生み出すことは、單にこの實體の偶有性であるところの、私の知らないところの多くのものの知識を得ることよりも、遙かに一層困難であつたといふことは明瞭であるから。そして確かに、もし私がかの一層大きなもの、すなはち思惟する實體を生み出すといふ完全性を自分によつて持つたとすれば、私は少くともかの一層容易に持たれ得るもの、すなはちこの實體の偶有性であるところの多くのものの知識を自分に拒まなかつたであらう。のみならず私は神の觀念のうちに含まれると私の知覺するものの他のいかなるものをも自分に拒まなかつたであらう。なぜなら、たしかに、そのいかなるものも作り出されるに一層困難ではないと私には思はれるから。そしてもし何等かのものが作り出されるに一層困難であつたとすれば、實に私が持つあらゆる他のものは自分によつて持つたのであるからして、私はかかるものにおいて私の力が制限せられるのを經驗したであらう故に、確かにかかるものはまた私に一層困難と思はれたであらう。  なほまた、恐らく私はいま存する如くつねに存したと假定するにしても、恰もこの假定から私の存在のいかなる作者も追求せらるべきではないといふことが歸結したかのやうに稱して、これらの論據の力を逃れることは私にはできない。なぜなら、私の生涯の全時間は、そのいづれの箇々の部分も餘の部分にまつたく依繋しないところの無數の部分に分たれ得る故に、私が少し前に存したといふことから私がいま存しなくてはならぬといふことは、この瞬間に或る原因がいはばもう一度私を創造する、言ひ換へると私を保存する、のでない限りは、歸結しないからである。すなはち、時間の本性に注意する者にとつては、何等かのものがその持續する箇々の瞬間において保存せられるためには、そのものが未だ存在しなかつたとした場合、それを新たに創造するために必要であつたのとまつたく同じだけの力と働きとが必要であることは、明白である。してみれば保存はただ考へ方によつてのみ創造と異なるといふことはまた、自然的な光によつて明瞭であることがらの一つであらう。  かくしてここに私は、いま存するところの私が少し後にも存するであらうやうにすることのできる或る力を私が有するかどうか、私自身に對して問はなくてはならない。といふのは、私は思惟するもの以外の何物でもないからして、あるひは少くとも今はまさしくただ私の思惟するものであるところの部分が問題なのであるからして、もし何かかやうな力が私のうちにあつたとすれば、疑ひもなく私はこれを意識した筈であるから。しかるに私は何等かかるものの存することを經驗してゐない。そしてまさにこのことから私は、私が或る私とは別の實有に依繋することを、極めて明證的に認識するのである。  しかし多分この實有は神ではないかもしれない、そして私は兩親によつてか、それとも何か他の、神よりも少く完全な、原因によつて、作り出されたのかも知れない、否、決してかかることはない。すでに前に言つた如く、原因のうちには結果のうちにあるのと少くとも同じだけの實在性がなくてはならぬことは分明である。そしてこの故に、私は思惟するもので、また神の或る觀念を私のうちに有するものであるからして、どのやうな原因が結局私に振り當てられるにしても、それはまた思惟するものであり、そして私が神に歸する一切の完全性の觀念を有する、と言はねばならぬ。しかしてそれについて再び、それ自身から出てくるのか、それとも他のものから出てくるのか、と追求することができる。すなはち、もしそれ自身から出てくるとすれば、前述のことからそれが自身神であることは明かである。なぜならもちろん、それは自分自身によつて存在する力を有するのであるから、それは疑ひもなくまた、その觀念をそれが自分自身のうちに有するところの一切の完全性を、言ひ換へると、神のうちにあると私が考へるところの一切の完全性を、現實的に所有する力をも有する筈であるから。しかるにもし他のものから出てくるとすれば、この他のものについて更めて同じ仕方で、自分自身から出てくるのか、それとも他のものから出てくるのか、と追求せられ、かやうにして遂には神であらうところの究極の原因にまで達せられるであらう。  なぜといふにこの場合、とりわけ、單に私を嘗て作り出した原因のみがここで問題であるのではなく、むしろ主として私を現在保存してゐるところの原因が問題であるのであるからして、無限への進行があり得ないことは十分に明かであるから。  なほまた、私を作り出すためには恐らく多くの部分的原因が協力したのであつて、私はその一つから私の神に歸する完全性のうちの或る一つの觀念を、他のものから他の完全性の觀念を受け取つたのであり、從つてこれら一切の完全性はたしかに宇宙のうち何處かに見出されるであらうが、しかしこれら一切が同時に、神であるところの或る一つのものにおいて、結合せられたものとしては見出されないであらう、と想像することもできない。なぜなら、反對に、統一、單純性、すなはち神のうちにある一切のものの不可分離性は、神のうちにあると私が理解する主要な完全性のうちの一つであるからである。また確かに、神のかかる一切の完全性の統一の觀念は、私をしてまた他の完全性の觀念をも有せしめたのではないやうな、何等かの原因によつて、私のうちに置かれ得なかつた筈である。といふのは、この原因は、私をして同時にこれらの完全性がいつたい何ものであるかを知らしめるやうにしたのでない限りは、私をしてこれらの完全性を一緒に結合せられた、分離し得ぬものと理解せしめるやうにすることはできなかつた筈であるから。  最後に、兩親についていへば、私が嘗て彼等に關して考へたすべてのことは眞であるかもしれないが、しかしたしかに彼等は私を保存するのではなく、また、私が思惟するものである限り、決して私を作り出したのでもない。むしろ彼等は單に、私、言ひ換へると精神──私はいまただ精神のみを私と認めるのである──がそのうちにあると私の判斷したところの質料のうちに或る一定の性情を据ゑつけただけなのである。從つてここでは彼等に關して何等の困難もあり得ない。かへつて是非とも次のやうに結論しなければならぬ、すなはち、私が存在するといふこと、そして最も完全な實有の、言ひ換へると神の、或る一定の觀念が私のうちにあるといふこと、ただこのことから、神もまた存在するといふことが極めて明證的に論證せられる、と。  殘るところはただ、いかなる仕方で私はかかる觀念を神から得たかを考査することである。すなはち、私はそれを感覺から汲んだのではなく、また決して、感覺的なものが感覺の外的器官に現はれる若しくは現はれるやうに思はれる場合、かかるものの觀念のつねとする如く、私が期待しないのに私にやつてきたのでもない。またそれは私によつて構像せられたのでもない。なぜなら、明かに、私は何物をもそれから引き去ることができず、何物をもそれに更に加へることができないから。從つて殘るところは、恰も私自身の觀念がまた私に生具するのと同じやうに、この觀念が私に生具するといふことである。  そしてたしかに、神が私を創造するにあたつて、ちやうど技術家が彼の作品に印刻した自己のしるしであるかのやうに、この觀念を私のうちに植ゑつけたといふことは、不思議ではない。またこのしるしが作品そのものとは別の或るものであることも必要ではない。しかしながら、神が私を創造したといふこと、ただこの一つのことから、私が何等かの仕方で神の姿と像りに從つて作られたといふこと、また神の觀念がそのうちに含まれるこの像りが、私の私自身を知覺するに用ゐるのと同じ能力をもつて私によつて知覺せられるといふことは、極めて信じ得ることである。言ひ換へると、私が私自身のうちに精神の眼を向けるとき、單に私は、私が不完全で、他のものに依繋するものであり、そしてますます一層大きなもの即ち一層善いものをと無限定に喘ぎ求めるものであることを理解するのみでなく、同時にまた私は、私の據つて依繋するところのものが、かかる一層大きなものの一切を、單に無限定に、可能的にではなく、かへつて實際に無限に自己のうちに有し、そしてかやうにして神であることを理解するのである。そして論證の全體の力は次のところに存する、すなはち、私の現にある如き本性を有する私、まさに神の觀念を自己のうちに有する私は、實際に神がまた存在するのでなければ、存在することがあり得ない、と私の認知するところに存するのである。ここに私が神と言ふのは、その觀念が私のうちにあるその神、言ひ換へると、私の把握し得ぬ、しかし何等かの仕方で思惟によつて觸れ得る、一切の完全性を有し、そしていかなる缺陷からもまつたく免れてゐるものである。このことから、神が欺瞞者であり得ないことは、十分に明かである。なぜなら、すべての瞞着と詐欺とが或る缺陷から出てくるといふことは、自然的な光によつて明瞭であるから。  しかしながら、このことを一層注意深く考査し、同時にまたここから引き出され得る他のもろもろの眞理の中へ尋ね入るに先立ち、私はここで暫らく神そのものの觀想のうちに停まり、その屬性を靜かに考量し、そしてその無邊なる光明の美をば、これにいはば眩惑せられた私の智能の眼の堪へ得る限り多く、凝視し、讃歎し、崇敬しすることが適當であると思ふ。なぜなら、ただこの神的莊嚴の觀想にのみ他界の生活のこの上ない淨福の存することを我々は信仰によつて信じてゐるのであるが、そのやうにまた今我々は、かかる觀想によつて、もとよりそれは遙かに少く完全なものであるとはいへ、この世の生活において許された最大の滿足を享受し得ることを經驗するからである。 省察四 眞と僞とについて。  私はこの數日、私の精神を感覺から引き離すことにかくも慣れてきたし、また私は、物體的なものについてほんたうに知覺せられるものがきはめて僅かであり、人間の精神についてはしかし遙かに多くのものが、神についてはさらに遙かに多くのものが認識せられることをかくも注意深く觀察したので、今や私は何等の困難もなしに思惟をば想像せらるべきものから轉じて、ただ悟性によつてのみ捉へらるべきもの、そして一切の物質から分離せられたものに向はせうるであらう。まことに私は人間の精神について、それが思惟するものであり、長さ廣さ及び深さにおける延長を有せず、そして物體に屬するところの何物をも有せざるものである限りにおいて、いかなる物體的なものの觀念よりも遙かに多くの判明な觀念を有してゐる。そして私が疑ふといふこと、すなはち不完全で依存的なものであるといふことに注意するとき、獨立な完全な實有の、言ひ換へると神の、かくも明晰で判明な觀念が私に現はれ、そしてかくの如き觀念が私のうちにあるといふこと、すなはち私、かかる觀念を有する私が存在するといふこと、この一つのことから私は、神がまた存在するといふこと、そしてこの神に私の全存在があらゆる箇々の瞬間において依存するといふことをかくも明瞭に結論するのであつて、かやうにして私は人間の智能によつて何物もこれ以上明證的に、何物もこれ以上確實に認識せられ得ないと確信することができる。そしていま私は、眞の神の、すなはち知識と智慧とのすべての寶を祕藏する神の、かかる觀想から、餘のものの認識にまで達せられるところの、或る道を認めるやうに思はれるのである。  すなはち、まづ第一に私は、神が私を嘗て欺くことはあり得ないといふことを認知する。なぜならすべての瞞着あるひは詐欺のうちには何等かの不完全性が見出されるから。そしてたとひ欺き得るといふことは聰明あるひは力の或る證據と見え得るにしても、欺くことを欲するといふことは疑ひもなく惡意かそれとも薄弱かを證するのであつて、從つてまた神にふさはしくないのである。  次に私は私のうちに或る判斷能力のあることを經驗するが、私はこれを確かに、私のうちにある餘のすべてのものと同じく、神から受け取つたのである。そして神は私を欺くことを欲しないからして、神はもちろんこの能力を、私がこれを正しく使用するときにも過ち得るやうなものとして私に與へなかつた筈である。  このことについては、もしそこから、だからして私は決して過ち得ないことが歸結するやうに思はれたのでなければ、何等の疑ひも殘らなかつたであらう。といふのは、もし私のうちにあるどのやうなものでも私はこれを神から得るとすれば、そしてもし神は私に過つ能力を何等與へなかつたとすれば、私は嘗て過ち得るやうには思はれないから。そしてかやうにして實際、私がただ神についてのみ思惟し、私を全く神に向けてゐる間は、私は誤謬または虚僞の何等の原因をも發見しないのである。しかしながら、すぐ後で、再び自分に還つてくると、私はそれにも拘らず私が無數の誤謬にさらされてゐることを經驗し、その原因を探究すると、私には單に神の、すなはちこの上なく完全な實有の、實在的で積極的な觀念のみではなく、またいはば無の、すなはちあらゆる完全性からこの上なく離れてゐるものの、或る消極的な觀念が現はれること、そして私が恰も神と無との間の、すなはち最高の實有と非有との間の中間者をなしてをり、かやうにして、最高の實有から創造せられた限りにおいては、私のうちにはもちろん私を欺きまたは誤謬に誘ふものは何も存しないが、しかし或る仕方でまた無に、すなはち非有に與る限りにおいては、言ひ換へると、自分が最高の實有でなく、そして極めて多くのものが私に缺けてゐる限りにおいては、私が過つたのは不思議でないことに、私は氣づくのである。そしてかやうにして私は確かに、誤謬は、それが誤謬である限りにおいては、神に依存するところの或る實在的なものではなく、ただ單に缺陷であるといふこと、從つてまた私が過つには、この目的のために神から賦與せられた或る能力が私に必要であるのではなく、かへつて私が神から得てゐるところの眞を判斷する能力の私において無限なものでないことによつて、私の過つことの生じるといふことを、理解するのである。  さりながら、このことは未だまつたく私を滿足させない。といふのは、誤謬は純粹な否定ではなく、かへつて缺存、すなはち何等かの仕方で私のうちに存しなくてはならなかつた或る認識の缺乏であるからである。そして神の本性に注意するとき、その類において完全でない、すなはちそれに本來屬すべき或る完全性の缺けてゐる何等かの能力を神が私のうちに置いたといふことはあり得ないやうに思はれる。なぜならもし、技術者が一層老練であればあるだけ、いよいよ一層完全な作品が彼によつて作り出されるとすれば、かの一切のものの最高の製作者によつて、あらゆる點において完璧でない何ものが作られ得たであらうか。また神が私を決して過たないやうなものとして創造し得た筈であるといふことは疑はしくないし、また神がつねに最も善いものを欲する筈であるといふことも疑はしくない。しからば、私が過つといふことは過たぬといふことよりも一層善いことででもあらうか。  これらのことを一層注意深く考量するならば、先づ、その理由を私の理解しない或るものが神によつて作られるとしても、私にとつて驚くべきことではないといふこと、また恐らくそれが何故に、あるひはどういふ仕方で、神によつて作られたかを私の把握しない更に或る他のもののあるのを私が經驗するといふわけで、神の存在について疑ふべきではないといふこと、が心に浮んでくるのである。なぜなら私は、私の本性が極めて薄弱で制限されたものであり、神の本性はこれに反して廣大で、把握し得ぬ、無限なものであることを既に知つてゐるから、このことからまた私は十分に、その原因の私には知られてゐない無數のことを神はなし能ふといふことを知るからである。そしてこのただ一つの根據から私は、目的から引き出されるのをつねとする原因の類の全體は物理的なものにおいて何等の適用をも有しない、と私は思量するのである。といふのは、私が神の目的を探究し得ると考へるのは向ふ見ずのことであるから。  更に、神の作品が完全なものであるかどうかを我々が尋求するたび毎に、或る一つの被造物を切り離してではなく、一切のものを全體として考察しなければならぬ、といふことが心に浮んでくるのである。なぜなら、もしそれが單獨であつたら、恐らく正當に、極めて不完全なものと思はれるものも、世界において部分の地位を有するものとしては極めて完全なものであるから。そしてたとひ、私が一切のものについて疑はうと欲したことから、これまでのところ私と神とが存在するといふほか何物も確實に認識しなかつたにしても、しかし神の無邊の力に氣づいたことから、他の多くのものが神によつて作られた筈であり、あるひは少くとも作られ得る筈であり、かくして私はものの全體において部分の地位を占める筈であるといふことを私は否定し得ないのである。  そこで、私自身に一層近く寄つて、私の誤謬(これのみが或る不完全性を私のうちにおいて證するのである)がいつたいどういふものであるかを探究すると、私は、これが二つの同時に一緒に働く原因に、言ふまでもなく私のうちにある認識の能力と選擇の能力すなはち自由意志とに、言ひ換へると悟性にと同時に意志に、依繋することを認める。といふのは、單に悟性によつては私はただ觀念を、それについて判斷を下し得るところの觀念を知覺するのみであり、そして嚴密にかやうに觀られた觀念のうちには本來の意味におけるいかなる誤謬も見出されないから、なぜなら、たとひ多分、その觀念が何等私のうちに存しないところの無數のものが存在するにしても、しかし本來は、かかる觀念が私に缺存してゐると言はるべきではなく、かへつてただ否定的に、かかる觀念を私は有してゐないと言はるべきであるからである。疑ひもなく、神は私に與へたよりも一層大きな認識の能力を私に與へるべきであつたといふことを證明する何等の根據も私は提供し得ないのであるから。そしてたとひ私は神を老練な技術者であると理解するとはいへ、だからといつて私は神が、自己の作品のいづれの箇々のうちにも、その或るもののうちに置き得るところのすべての完全性を、置くべきであつたとは考へない。なほまた實に私は、十分に廣くて完全な意志、すなはち意志の自由を私が神から授からなかつたと訴へることはできない。なぜなら、私は實際、意志がいかなる制限によつても局限せられてゐないことを經驗するのであるから。そして極めて注目すべきことと私に思はれるのは、私のうちにはこれほど完全な、これほど大きなものは他に何もないので、私にはこれが更に一層完全な、すなはち一層大きなものであり得るとは理解せられないといふことである。といふのは、例へば、もし私が理解の能力を考察するとすれば、私は直ちにそれが私のうちにおいて甚だ小さくて、非常に有限なものであることを知り、そして同時に私は或る他の遙かに一層大きな、いな最も大きな、無限な能力の觀念を作り、そして私がかかる能力の觀念を作り得ることそのことから、私はかかる能力が神の本性に屬することを知覺するからである。同じやうに、もし私が想起の能力あるひは想像の能力、あるひは何か他の能力を考査するとしても、決して私は、それが私のうちにおいて弱くて局限せられてゐて、神においては廣大であることを私の理解しないものは何も發見しないのである。ただ意志すなはち意志の自由のみは、私はこれを私のうちにおいて何等一層大きなものの觀念を捉へ得ないほど大きなものとして經驗するのであり、かくて私がいはば神の或る姿と像りを擔ふことを理解せしめる根據は、主としてこの意志である。なぜならこの意志は神においては私のうちにおいてよりも、一方この意志に結びつけられてゐて、これを一層強固にし、一層有效にするところの、認識と力との點において、他方この意志が一層多くのものに擴げられるところから、その對象の點において、比較にならぬほど一層大きいとはいへ、しかしそれ自身において形相的に且つ嚴密に觀られるならば、一層大きいとは思はれないから。意志といふものはただ、我々が或る一つのことを爲すもしくは爲さぬ(言ひ換へると肯定するもしくは否定する、追求するもしくは忌避する)ことができるといふところに存するからである、あるひはむしろそれはただ、悟性によつて我々に呈示せられてゐるものを我々が肯定しもしくは否定し、すなはち追求しもしくは忌避するにあたつて、いかなる外的な力によつてもさうするやうに決定せられてはゐないと感じて、さうするやうに動かされるといふところに存するからである。といふのは、私が自由であるためには、私が一方の側にも他方の側にも動かされることができるといふことは必要でなく、かへつて反對に、私が眞と善との根據をその側において明證的に理解する故にせよ、あるひは神が私の思惟の内部をさうするやうに處置する故にせよ、私の一方の側に傾くことが多ければ多いだけ、ますます自由に私はその側を選擇するのであるから。實に神の聖寵も、自然的な認識も、決して自由を減少せしめるのではなく、かへつてむしろこれを増大し、強化するのである。しかるに、何等の根據も私を他方の側によりも一方の側に一層多く驅り立てない場合に私が經驗するところの、かの不決定は、最も低い程度の自由であり、そして意志における完全性ではなくて、ただ認識における缺陷、すなはち或る否定を證示するのである。なぜなら、もし私がつねに何が眞であり善であるかを明晰に見たならば、私は決していかなる判斷をすべきかあるひはいかなる選擇をすべきかについて躊躇しなかつた筈であり、そしてかやうにして、たとひまつたく自由であつたにしても、決して不決定ではあり得なかつたであらうから。  ところでこれらのことから私は次のことを知覺する。すなはち、私が神から授かつてゐる意欲の力は、それ自身として觀られた場合、私の誤謬の原因ではないといふことを。なぜなら、この力は極めて廣くて、その類において完全であるから。また理解の力もさうではないといふことを。なぜなら、私はこの力を神から理解するために授かつてゐる故に、私の理解するあらゆるものは、疑ひもなく私はこれを正しく理解し、そしてこれにおいて私が過つといふことはあり得ないから。しからばどこから私の誤謬は生じるのであらうか。言ふまでもなくただこの一つのことから、すなはち、意志は悟性よりも一層廣い範圍に及ぶ故に、私が意志を悟性と同じ範圍の内に限らないで、私の理解しないものにまでも廣げるといふことからである。かかるものに對して意志は不決定である故に、容易に意志は眞と善とから逸脱し、かやうにして私は過つと共にまた罪を犯すのである。  例へば、私がこの數日、何等かのものが世界のうちに存在するかどうかを考査し、そして私がこのことを考査するといふことそのことから私は存在するといふことが明證的に歸結するのを認めたとき、實に私は私のかくも明晰に理解することは眞であると判斷せざるを得なかつたのである。これは、或る外的な力によつてさうするやうに強要せられたといふのではなく、かへつて悟性のうちにおける大きな光から意志のうちにおける大きな傾向性が從つてきた故であつて、かやうにして私がそのことに對して不決定であることが少なければ少いだけ、ますます多く私は自發的にそして自由にそのことを信じたのである。しかるに今、私は私が或る思惟するものである限りにおいて存在することを知つてゐるのみでなく、更にまた物體的本性の或る觀念が私に現はれてゐる、そこで、私のうちにあるところの或ひはむしろ私自身であるところの思惟する本性が、かかる物體的本性とは別のものであるか、それとも兩者は同一のものであるか、といふ疑ひが生じてくる。そして私は、この一方を他方よりも多く私に説得する何等の根據も未だ私の悟性に現はれてゐないと假定する。まさにこのことから確かに私は、兩者のいづれを肯定すべきか若しくは否定すべきか、それともまたこのことについて何も判斷を下すべきでないか、に對して不決定であるのである。  實にまたこの不決定は、單に悟性によつてまつたく何も認識せられないものに及ぶのみでなく、また一般に、意志がそれについて商量してゐる時に當つて悟性がそれを十分に分明に認識してゐないといふすべてのものにも及ぶのである。なぜなら、たとひ蓋然的な推測が私を一方の側へ引張るにしても、それが單に推測であつて、確實なそして疑ひ得ぬ根據ではないといふただ一つの認識は、私の同意を反對の側へ動かすに十分であるから。このことを私はこの數日、以前に極めて眞なるものと私の信じたすべてのものをば、この一つのこと、すなはちそれについて或る仕方で疑はれ得ることがわかつたといふことによつて、まつたく僞なるものであると假定したときに、十分に經驗したのである。  ところで何が眞であるかを十分に明晰に判明に知覺してゐない場合、もし實際私が判斷を下すことを差し控へるならば、私のかくすることが正しく、私は過つことがないのは明かである。しかるにもし私が肯定するもしくは否定するならば、そのとき私は意志の自由を正しく使用してゐない、そしてもし僞である側に私を向はせるならば、明かに私は過つ、またもし他の側を掴んで、偶然に、なるほど眞理に當りはするにしても、だからといつて私は罪を免れないであらう。なぜなら、悟性の知覺がつねに意志の決定に先行しなくてはならぬことは、自然的な光によつて明瞭であるから。そしてこの自由意志の正しくない使用のうちに誤謬の形相を構成するところのかの缺存が内在するのである。すなはち、缺存は、作用そのもののうちに、これが私から出てくる限りにおいて、内在するのであつて、私が神から受取つた能力のうちに内在するのではなく、また神に依存する限りにおいての作用のうちに内在するのでもない。  そこで私は、神が私に與へたよりも一層大きな理解の力、すなはち一層大きな自然的な光を私に與へなかつたといふことを訴ふべき何等の理由も有しない。なぜなら、多くのものを理解しないといふことは有限な悟性にとつて當然であり、そして有限であるといふことは創造せられた悟性にとつて當然であるから。むしろ私は、決していかなるものをも私に負はないところの神に、彼から授けられたものに對して、感謝すべきであるのであつて、彼が私に與へなかつたものをば、彼によつて私が奪はれたもの、すなはち彼が私から引き上げたものと考ふべきではないのである。  なほまた私は、神が私に悟性よりも一層廣く及ぶところの意志を與へたといふことを訴ふべき理由を有しない。なぜなら、意志はただ一つのもの、そしていはば不可分のものに存する故に、その本性は何等かのものがそれから取り去られ得ることを許さないと思はれるから。そして實に、かかる意志が廣大であれば廣大であるだけ、ますます大きな感謝を私はこれを與へた者に對して負ふのである。  また最後に、私がそれにおいて過つところの判斷、すなはち意志の作用を喚び起すために神が私と協力するといふこともまた、私は歎いてはならない。なぜなら、この作用は、それが神に依存する限りにおいては、まつたく眞であり善であるし、また私がこれを喚び起し得るといふことは、もしかしたら喚び起し得なかつたといふことよりも、私において或る意味で一層大きな完全性であるからである。しかるに、虚僞と罪過との形相的根據がただそれにのみ存するところの缺存は、神の何等の協力をも必要としない、それは何等實在的なものではなく、そしてもしその原因として神に關係させられるならば、それは缺存と言はるべきではなく、かへつてただ否定と言はるべきであるから。なぜなら實に、その明晰かつ判明な知覺を神が私の悟性のうちに置かなかつたところのものに對して、同意しもしくは同意しない自由をば神が私に與へたといふことは、神における何等の不完全性でもなく、かへつて、私がかかる自由を善く使用せず、私の正確に理解しないところのものについて私が判斷を下すといふことは、疑ひもなく私における不完全性であるからである。しかしながら、たとひ私が自由であること、そして有限な認識を有するものであることはもとの如くであるにしても、私が決して過たないやうにするといふことは、神によつて容易になされ得たと思ふ。すなはち、もし神が私の悟性に、私のいつか商量するであらうすべてのものの明晰で判明な知覺をば、賦與したか、それともただ私の記憶に、私の明晰にそして判明に理解しない何物についても決して判斷してはならないといふことをば、私が決してこれを忘れ得ないほど堅く刻みつけたか、すれば宜かつたわけである。そしてもし私がかくの如きものであるやうに神によつて作られてゐたならば、私は、私が或る全體としての意味を有する限りにおいては、現在私があるよりも一層完全であつたらう、といふことをば私は容易に理解する。しかしながら、だからといつて、宇宙の或る部分は誤謬から免れてゐないが他の部分は免れてゐるといふ場合のはうが、すべての部分がまつたく類似してゐるといふ場合よりも、宇宙といふ全體のうちには或る意味で一層大きな完全性が存する筈であるといふことを、私は否定し得ない。そして神は私が世界においてすべてのうち最も主要であり最も完全である役を受持つことを欲しなかつたからとて、私は訴ふべき何等の權利をも有しないのである。  また更に、私は上述の第一の仕方で、すなはち商量せらるべきすべてのものの明證的な知覺に依存するところの仕方で、誤謬を絶つことができないにしても、私はもう一つの仕方で、すなはちただ、ものの眞理が私に明白でないたび毎に、判斷を下すことを差し控へるべきであることを想起するといふことに依存するところの仕方で、誤謬を絶つことができるのである。なぜなら、たとひ私はつねに一つの同じ認識に堅く固執することができないといふ弱さが私のうちにあることを經驗するにしても、しかし私は注意深いそしてしばしば繰り返された省察によつて、その必要があるたび毎に、かのことを想起し、そしてかやうにして過たない或る習慣を得るやうにすることができるのであるから。  まさにこのことに人間の最大のそして主要な完全性は存する故に、私は今日の省察によつて、誤謬と虚僞との原因を探究したのであるからして、少からぬものを獲得したと思量する。そして實にこの原因は私が説明したのとは別のものであることができない。なぜなら、判斷を下すにあたつて意志をば、ただ悟性によつて意志に明晰に判明に示されるところのものにのみ及ぶやうに、制限するたび毎に、私が過つといふことはまつたく生じ得ないからである。すべて明晰で判明な知覺は疑ひもなく或るものであり、從つて無から出てきたものであり得ず、かへつて必然的に神を、私はいふ、かの最も完全な、欺瞞者であることと相容れないところの神を、作者として有してゐる、それ故にかかる知覺は疑ひもなく眞である。また今日私は單に、決して過たないためには私は何を避くべきであるかを學んだのみでなく、同時にまた眞理に達するためには何を爲すべきであるかも學んだ。すなはち、もし私がただ私の完全に理解するすべてのものに十分に注意し、そしてこれを私の一層不分明に一層不明瞭に把捉する餘のものから分離するならば、私はたしかに眞理に達する筈である。かくすることに私はこれからは注意深く努力しよう。 省察五 物質的なものの本質について。そして再び    神について、神は存在するといふこと。  神の屬性について、私自身のすなはち私の精神の本性について、私の探究すべき多くのことがなほ殘つている。しかしこれは恐らく他の機會に再び取り上げられるであらう。今は(眞理に達するためには私は何を避くべきでありまた何を爲すべきであるかに氣づいた後)、過ぐる數日私の陷つてゐた懷疑から拔け出すことに努めるといふこと、そして物質的なものについて何か確實なものを得ることができるかどうかを見るといふこと、よりも緊要なことはないと思はれる。  しかも、何かかかる物質的なものが私の外に存在するかどうかを調べるに先立つて、私はこのものの觀念をば、それが私の思惟のうちにある限りにおいて、考察し、そしていつたいそのうちのどれが判明であり、どれが不分明であるかを見なくてはならない。  言ふまでもなく私は量を判明に想像する、これを哲學者たちは普通に連續的なものと稱してゐる、すなはちこの量の、あるひはむしろ定量を有するものの、長さ、廣さ及び深さにおける延長を判明に想像する。このうちにおいて私は種々の部分を數へる、これらの部分に私は各種の大きさ、形體、位置、及び場所の運動を屬せしめ、またこれらの運動に各種の持續を屬せしめる。  また、單にこれらのものが、かやうに一般的に觀られた場合、私にまつたく知られてゐて分明であるのみではなく、更にまた私は、注意するならば、形體について、數について、運動について、及びこれに類するものについて、無數の特殊的なものを知覺するのであつて、その眞理は極めて明瞭であり、また極めて私の本性に適合してゐるので、それを私が初めて發見するとき、或る新しいことを學ぶといふよりはむしろ既に前に私が知つてゐたことを想起するかの如くに思はれる、言ひ換へると、夙にたしかに私のうちに存したが以前にはそれに精神の眼を向はせなかつたところのものに、私が初めて注意するかの如くに思はれるのである。  そしてここに最も注目すべきことと私の考へるのは、たとひ私の外に多分どこにも存在しないにしても、無であるとは言はれ得ない或るものの無數の觀念をば私が私のところで發見するといふことである。かかるものは、たとひ私によつて或る意味で隨意に思惟せられるとはいへ、私によつて構像せられるのではなく、かへつて自己の眞にして不變なる本性を有してゐるのである。かくて、例へば、私が三角形を想像するとき、多分かやうな形體は私の思惟の外に世界のうちどこにも存在せず、また嘗て存在しなかつたにしても、それにはたしかにそれの或る限定せられた本性、すなはち本質、すなはち形相があるのであつて、これは不變にして永遠であり、私によつて構像せられたものではなく、また私の精神に依存するものでもない。このことは、この三角形について種々の固有性が、すなはち、その三つの角は二直角に等しいといふこと、その最も大きな角に最も大きな邊が對するといふこと、及びこれに類することが、論證せられ得ることから明かである。これらの固有性は、たとひ以前に私が三角形を想像したときには決して思惟しなかつたにしても、今は欲するにせよ欲しないにせよ私の明晰に認知するところであり、從つて私によつて構像せられたものではない。  なほまた、私はもちろん三角形の形體を有する物體をときどき見たのであるからして、この三角形の觀念は恐らく外のものから感覺器官を介して私にやつて來たのであらうと言つても、ことがらには關係がないのである。なぜなら私は、いつか感覺を介して私のうちに忍び込んだのではないかといふ疑ひの何等あり得ないところの他の無數の形體を考へ出すことができ、しかもこれについて、三角形についての場合にも劣らず、種々の固有性を論證することができるから。これらの固有性はすべて、實に私によつて明晰に認識せられるからして、たしかに眞である、從つてまた或るものであり、純粹な無ではない。といふのは、すべて眞であるものは或るものであることは明かであり、また私が明晰に認識するすべてのものは眞であることを私は既に十分に論證したのであるから。そしてまたたとひ私がこれを論證しなかつたにしても、少くとも私がそれを明晰に知覺する限りは、いづれにせよこのものに同意せざるを得ないといふことは、確かに私の精神の本性である。また私は、私がつねに、これより先、感覺の對象に甚だしく執着してゐた時にさへも、この種の眞理、すなはち形體とか、數とか、また算術もしくは幾何、あるひは一般に純粹なそして抽象的な數學に屬する他のものについて、私が明證的に認知したところの眞理をば、あらゆるもののうち最も確實なものと看做したといふことを想起するのである。  ところで今、もし單に、私が或るものの觀念を私の思惟から引き出してくることができるといふことから、このものに屬すると私が明晰かつ判明に知覺する一切は、實際にこのものに屬するといふことが歸結するとすれば、そこからまた神の存在を證明する論證を得ることができないであらうか。確かに私は神の觀念を、すなはちこの上なく完全な實有の觀念をば、何等かの形體または數の觀念に劣らず、私のうちに發見する。また私は、つねに存在するといふことが神の本性に屬することをば、或る形體または數について私の論證するものがこの形體または數の本性にまた屬することに劣らず、明晰かつ判明に理解する。從つて、たとひ過ぐる數日私の省察した一切が眞でなかつたにしても、神の存在は私のうちにこれまで數學上の眞理があつたのと少くとも同じ程度の確實性にあるのでなくてはならなかつたであらう。  尤も、このことはたしかに、一見してはまつたく分明ではなく、かへつて或る詭辯の觀を呈してゐる。なぜなら、私は他のすべてのものにおいて存在を本質から區別することに慣れてゐる故に、神の存在もまた神の本質から切り離されることができ、そしてかやうにして神は存在しないものとして思惟せられることができる、と私は容易に自分を説得するからである。しかしながら一層注意深く考察するとき、神の存在が神の本質から分離せられ得ないことは、三角形の本質からその三つの角の大きさが二直角に等しいといふことが分離せられ得ず、あるひは山の觀念から谷の觀念が分離せられ得ないのと同じであることが明白になるのである。それ故に、存在を缺いてゐる(すなはち或る完全性を缺いてゐる)神(すなはちこの上なく完全な實有)を思惟することは、谷を缺いてゐる山を思惟することと同じく、矛盾である。  けれども、私はもちろん谷なしに山を思惟し得ない如く、存在するものとしてでなければ神を思惟し得ないにしても、しかし確實に、私が山を谷と共に思惟するといふことから、だからといつて何等かの山が世界のうちに有るといふことは歸結しない如く、私が神を存在するものとして思惟するといふことから、だからといつて神が存在するといふことは歸結しないと思はれるのである。といふのは、私の思惟はものに對して何等の必然性をも賦課しないのであるから。また、たとひいかなる馬も翼を有しないにしても、翼のある馬を想像することができるのと同じやうに、たとひいかなる神も存在しないにしても、私は多分神に對して存在を構像することができるであらうから。  否、詭辯はここにこそ潜んでゐる。なぜなら、谷と共にでなければ山を思惟し得ないといふことからは、どこかに山と谷とが存在するといふことは歸結しないで、かへつてただ、山と谷とは、それが存在するにせよ存在しないにせよ、互に切り離され得ないといふことが歸結するのみであるが、しかし、存在するものとしてでなければ神を思惟し得ないといふことからは、存在は神から分離し得ないものであるといふこと、從つて神は實際に存在するといふことが歸結するからである。私の思惟がこれをこのやうにするといふわけではない、すなはち何等かのものに或る必然性を賦課するといふわけではない、かへつて反對に、ものそのものの、即ち神の存在の、必然性が、これをこのやうに思惟するやうに私を決定するからである。といふのは、馬をば翼と共にでも翼なしにでも想像することが私にとつて自由である如く、神をば存在を離れて(すなはちこの上なく完全な實有をば最大の完全性を離れて)思惟することは私にとつて自由であるのではないから。  なほまたここに、ひとは次のやうに言つてはならぬ、すなはち、神は一切の完全性を有すると私が措定した後においては、存在は實に完全性のうちの一つであるからして、たしかに神を存在するものとして私が措定すべきことは必然的であるが、しかし第一の措定は必然的なものではなかつた、恰もすべての四邊形は圓に内接すると考へることは必然的ではなく、かへつて私がこれをこのやうに考へると措定すれば、私は必然的に菱形は圓に内接すると認めねばならないであらうが、これはしかし明かに僞である、やうに、と。なぜといふに、たとひいつか神について私が思惟するに至ることは必然的ではないにしても、しかし第一のかつ最高の實有について思惟し、そして彼の觀念をいはば私の精神の寶庫から引き出すことが起るたび毎に、私が彼にすべての完全性をば、たとひその際私はそのすべてを數へ上げず、またその箇々のものに注意しないにしても、屬せしめるべきことは必然的であつて、この必然性はまつたく、後に、存在は完全性であることに私が氣づくとき、私をして正當に、第一のかつ最高の實有は存在すると結論せしめるに十分であるからである。これは恰も、私が何等かの三角形をいつか想像すべきことは必然的ではないが、しかし私が單に三つの角を有する直線で圍まれた圖形を考察しようと欲するたび毎に、私がこの圖形に、その三つの角は二直角よりも大きくないといふことを、たとひその際私はまさにこのことに注意しないにしても、正當に推論せしめるところのものをば屬せしめるべきことは必然的である、のと同樣である。しかるに、いつたいどのやうな圖形が圓に内接せしめられるかを私が考査するときには、すべての四邊形はこれに數へられると私が考へることは決して必然的ではない。否、私が明晰かつ判明に理解するものでなければ何ものも認容しようと欲しない限りは、私はかかることを構像することさへ決してできないのである。從つて、この種の僞の措定と私に生具する眞の觀念との間には大きな差異がある、そして後者の第一のかつ主要なものは神の觀念である。なぜなら、實に、私は多くの仕方で、この觀念が何か構像せられたもの、私の思惟に依存するもの、ではなく、かへつて眞にして不變なる本性のかたどりであることを理解するからである。すなはち、先づ第一に、ただ神を除いて、その本質に存在が屬するところのいかなる他のものも私によつて考へ出されることができない故に。次に、私は二つまたはそれ以上多數のこの種の神を理解することができない故に。そして、今かかる神が一つ存在すると措定すれば、彼は永遠からこのかた存在したし、また永遠に向つて存續するであらうといふことが必然的であるのを私は明かに見る故に。そして最後に、私は神のうちに、その何ものも私によつて引き去られることも變ぜられることもできないところの多くの他のものを知覺する故に。  しかしともかく、私が結局どのやうな證明の根據を使用するにしても、つねにこのこと、すなはちただ私が明晰かつ判明に知覺するもののみが私をまつたく説得するといふこと、に歸著するのである。そしてたしかに、このやうに私が知覺するもののうち、或るものは何人にも容易にわかるにしても、他のものはしかし一層近く觀察し注意深く研究する者によつてでないと發見せられないが、しかし發見せられた後には、後者も前者に劣らず確實なものと思量せられるのである。例へば、直角三角形において、底邊上の正方形は他の二邊上の正方形の和に等しいといふことは、かかる底邊はこの三角形の最も大きな角に對するといふことほど容易にわからないにしても、ひとたび洞見せられた後には、後者に劣らず信じられるのである。ところで神について言へば、確かに、もし私が先入見によつて蔽はれてゐなかつたならば、そしてもし私の思惟が感覺的なものの像によつてまつたく占められてゐなかつたならば、私は何ものをも、神より先に、または一層容易に、認知しなかつたであらう。なぜなら、最高の實有が有るといふこと、すなはちただそのもののみの本質に存在が屬するところの神が存在するといふことよりも、何が一層、おのづから明かであるであらうか。  そして、まさにこのことを知覺するために注意深い考察が私に必要だつたとはいへ、今や私は單にこのことについて、他の最も確實と思はれるすべてのことについてと同等に、確かであるのみでなく、更にまた私は餘のものの確實性がまさにこのことに、これを離れては何ものも決して完全に知られ得ないといふやうに、懸つてゐることに氣づくのである。  すなはち、たとひ私は、何等かのものを極めて明晰かつ判明に知覺する間は、これを眞であると信ぜざるを得ないが如き本性を有するにしても、しかしまた私は、精神の眼をつねに同じものに、これを明晰に知覺するために、定著し得ない如き本性をも有する故に、しばしば以前に下した判斷の記憶が蘇つてくる、そして、どういふわけでそのものをかやうに私が判斷したかの根據に十分に注意しないときには、他の根據が持ち出されることができ、この根據は私をして、もし私が神を知らなかつたならば、容易に私の意見を捨てさせるであらう、そしてかやうにして私は何ものについても嘗て眞にして確實なる知識を有することなく、ただ漠然とした變り易い意見を有するに過ぎないであらう。かやうにして、例へば、私が三角形の本性を考察するとき、たしかに私には、もちろん私は幾何學の原理にいくらか通じてゐるので、その三つの角が二直角に等しいといふことは極めて明證的に認められ、また私は、私がその論證に注意する間は、このことは眞であると信ぜざるを得ないが、しかし私が精神の眼をこの論證から轉じるや否や直ちに、たとひ私はなほこれを極めて明晰に洞見したことを想起するにしても、もし實際私が神を知らなかつたならば、このことは眞であるかどうかを私が疑ふやうになるといふことは容易に起り得るのである。といふのは私は、私が自然によつて、極めて明證的に知覺すると私の考へるものにおいて時々過つが如きものとして作られてゐるといふことをば、とりわけ後になつて他の根據にとつて僞であると判斷するに至らしめられたところの多くのものをしばしば眞にして確實なるものと看做したといふことを想起するときには、自分に説得することができるから。  しかるに私が神は有ると知覺した後には、──同時にまた私は餘のすべてのものが神に懸つてゐること、また神は欺瞞者ではないことをも理解し、そしてそこから私の明晰にかつ判明に知覺するすべてのものは必然的に眞であると論結した故に、──たとひ私がどのやうなわけでこのことは眞であると判斷したかの根據に十分に注意しないにしても、ただ單に私がこのことを明晰かつ判明に洞見したことを想起するならば、私をして疑ふやうにさせるいかなる反對の根據も持ち出され得ず、かへつて私はこのことについて眞にして確實なる知識を有するのである。否、單にこのことについてのみでなく、また私が嘗て論證したと記憶するところの餘のすべてのものについて、例へば幾何學に關すること及びこれに類するものについても、さうである。といふのは、今やいかなる反對の根據が私に對して持ち出されるであらうか。私がしばしば過つが如きものとして作られてゐるといふことででもあらうか。しかし既に私は、私が分明に理解するものにおいては過ち得ないことを知つてゐる。それとも私が後になつて僞であるとわかつたところの多くのものを他の時には眞にして確實なるものと看做したといふことででもあらうか。しかしながら私はかくの如きものの何ものも明晰かつ判明に知覺したのではなく、かへつて私は恐らく、眞理のこの規則を知らなかつたために、後になつてそんなに堅固なものでないことを發見したところの他の原因によつて信じたのである。しからば、ひとはなほ何を言はうとするか。私は恐らく夢みてゐるのだ(少し前に私が自分に反對して言つたやうに)、すなはち、私がいま思惟するすべてのものは眠つてゐるときに浮んでくるものより以上に眞ではないのだ、とでも言ふであらうか。否このこともまた何等ことがらを變じない。なぜなら確かに、たとひ私は夢みてゐるにしても、もし何等かのものが私の悟性に明證的であるならば、このものはまつたく眞であるから。  そしてかやうにして私は一切の知識の確實性と眞理性とが專ら眞なる神の認識に懸つてゐることを明かに見るのである、從つて、私が神を知らなかつた以前は、私は他のいかなるものについても何ものも完全に知ることができなかつたであらう。しかるに今や私には、一方神そのもの及び他の悟性的なものについて、他方また純粹數學の對象であるところの一切の物體的本性について、無數のものが明かに知られてゐるもの、確實なものであり得るのである。 省察六 物質的なものの存在並びに精神と身體との實在的な區別について。  なほ殘つてゐるのは、物質的なものが存在するかどうかを檢討することである。そしてたしかに私は既に少くとも、それが、純粹數學の對象である限りにおいては、存在し得ることを知つてゐる、たしかに私はそれをかかるものとしては明晰かつ判明に知覺するのであるから。なぜなら、神が私のこのやうに知覺し能ふすべてのものを作り出す力を有することは疑はれないことであり、また私は、どのやうなものでも神によつて、それを私が判明に知覺することは矛盾であるといふ理由によるほかは、決して作られ得ぬことはない、と判斷したからである。更に、私が物質的なものにかかづらふ場合にそれを用ゐるのを私が經驗するところの想像の能力からして、かかる物質的なものは存在するといふことが歸結するやうに思はれる。といふのは、想像力とはいつたい何であるかを一層注意深く考察するとき、それは認識能力にまざまざと現前するところの、從つて存在するところの物體に對する認識能力の或る適用以外の何ものでもないことがわかるから。  このことが明瞭になるやうに、私は先づ想像力と純粹な悟性作用との間に存する差異を檢討する。言ふまでもなく、例へば、私が三角形を想像するとき、私は單にそれが三つの線によつて圍まれた圖形であることを理解するのみでなく、同時にまたこれらの三つの線を恰も精神の眼に現前するものの如くに直觀するのであつて、そしてこれが想像すると私の稱するところのものなのである。しかるにもし私が千角形について思惟しようと欲するならば、もちろん私は、三角形が三邊から成る圖形であることを理解するのと同樣に、それが千邊から成る圖形であることをよく理解するが、しかし私はこの千邊を三邊におけると同樣に想像すること、すなはち、恰も精神の眼に現前するものの如くに直觀することはできないのである。また、たとひそのとき、私が物體的なものについて思惟するたび毎に、つねに何ものかを想像する習慣によつて、恐らく何等かの圖形を不分明に自分のうちに表現するにしても、それがしかし千角形でないことは明かである。なぜならそれは、もし私が萬角形について、あるひは他のどのやうな甚だ多くの邊を有する圖形についてでも、思惟するならば、そのときにまた私が自分のうちに表現する圖形と何等異なるところがないし、またそれは、千角形を他の多角形から異ならせるところの固有性を認知するに何等の助けともならないからである。しかるにもし問題が五角形についてであるならば、私はたしかにこの圖形をば、千角の圖形と同じやうに、想像力の助けなしに理解し得るが、しかしまたこれをば、言ふまでもなく精神の眼をその五つの邊に、同時にまたこの邊によつて圍まれた面積に向けることによつて、想像し得るのである。そしてここに私は、想像するためには心の或る特殊の緊張が、すなはち理解するためには私の使はないやうな緊張が、私に必要であることを明かに認めるのであつて、この心の新しい緊張は、想像力と純粹な悟性作用との間の差異を明晰に示してゐる。  これに加ふるに、私のうちにあるところのこの想像の力は、それが理解の力と異なるに應じて、私自身の本質にとつて、言ひ換へると私の精神の本質にとつて必要とせられぬ、と私は考へる。なぜなら、たとひそれが私に存しなくても、疑ひもなく私はそれにも拘らず私が現在あるのと同一のものにとどまるであらうから。そしてそこから、それが私とは別の或るものに懸つてゐるといふことが歸結するやうに思はれる。しかも、もし何等かの物體が存在してゐて、精神がこれをいはば觀察するために隨意に自己をこれに向け得るといふやうに、これに精神が結合せられてゐるならば、まさにこのことによつて私が物體的なものを想像するといふことは生じ得ること、從つて、この思惟の仕方が純粹な悟性作用と異なるのはただ、精神は、理解するときには、或る仕方で自己を自己自身に向はせ、そして精神そのものに内在する觀念の或るものを顧るが、しかるに想像するときには、自己を物體に向はせ、そしてそのうちに、自己によつて思惟せられた、あるひは感覺によつて知覺せられた觀念に一致する或るものを直觀する、といふことに存すること、を私は容易に理解する。私は言ふ、もしたしかに物體が存在するならば、想像力がこのやうにして成立し得ることを私は容易に理解する、と。そして想像力を説明するにいかなる他の同等に好都合な仕方も心に浮ばない故に、私は蓋然的にそこから、物體は存在する、と推測する。しかしそれは單に蓋然的にである。そして、たとひ私が嚴密にすべてのものを調べても、私の想像力のうちに私が發見するところの物體的本性の判明な觀念からしては、何等かの物體が存在することをば必然的に結論するいかなる論據も取り出され得ないといふことを私は見るのである。  しかるに私は、純粹數學の對象であるところのこの物體的本性のほかに、どれもこれほど判明にではないが、他の多くのものを、例へば、色、音、味、苦痛、及びこれに類するものを、想像するのを慣はしとしてゐる。そして私はこれらのものを一層よく感覺によつて知覺し、これらのものは感覺から記憶の助けを藉りて想像力に達したと思はれる故に、これらのものについて一層適切に論じるためには、同時にまた感覺についても論じなければならず、そして私が感覺と稱するこの思惟の仕方によつて知覺せられるところのものからして、物體的なものの存在を證すべき何等かの確實な論據を得ることができるかどうかを見なければならぬ。  そしてもちろん先づ第一に、私はここで、以前に、感覺によつて知覺せられたものとして、眞であると私の思つたものはいつたい何であるか、またいかなる理由で私はそれをさう思つたのか、を自分に想ひ起してみよう。次にまた、どういふわけで私はその同じものに後になつて疑ひをいれるに至つたかの理由を檢討してみよう。そして最後に、現在そのものについて私は何を信ずべきであるかを考察してみよう。  かやうにして先づ第一に私は、私がいはば私の部分あるひは恐らくいはば私の全體とさへ看做したこの身體を構成するところの、頭、手、足、及びその他の器官を有することを感覺した。また私は、この身體が他の多くの物體の間に介在し、これらの物體から、あるひは都合好く、あるひは都合惡く、種々の仕方で影響せられ得ることを感覺した、そして私はこの都合好いものを或る快樂の感覺によつて、また都合惡いものを苦痛の感覺によつて量つたのである。なほまた、苦痛と快樂とのほか、私はまた私のうちに飢、渇、及び他のこの種の欲望を、同じくまた歡びへの、悲しみへの、怒りへの、或る身體的傾向性及び他のこれに類する情念を感覺した。そして外においては、物體の延長、及び形體、及び運動のほか、私はまた物體において堅さ、熱、及び他の觸覺的性質を感覺した。更にまた私は光、及び色、及び香、及び味、及び音を感覺し、これらのものの樣々の變化によつて私は天、地、海、及びその他の物體を相互に區別したのである。そして實に、私の思惟に現はれたところのこれらすべての性質の觀念──そしてただこれらの觀念のみを私は本來かつ直接に感覺したのであるが──によつて見れば、私が私の思惟とはまつたく別の或るものを、すなはちこれらの觀念のそこから出てきたところの物體を感覺すると考へたのは、理由のないことではなかつた。といふのは、私はこれらの觀念が何等私の同意なしに私にやつてくることを經驗した、從つて、もし對象が感覺器官に現前してゐなかつたならば、私はこれを感覺しようと欲しても感覺し得なかつたし、また現前してゐたときには、感覺すまいと欲しても感覺せざるを得なかつたからである。また、感覺によつて知覺せられた觀念は、自分で豫め知つて意識的に省察することにおいて私が作り出した觀念のどれよりも、あるひは私の記憶に刻印せられたものとして私が認めた觀念のどれよりも、遙かに多く生氣があつて明瞭であり、またそれ自身の仕方で一層判明でさへあつたから、これらの觀念が私自身から出てくるといふことはあり得ないやうに思はれた。かやうにして、これらの觀念は、或る他のものから私にやつてきたと考へるほかなかつたのである。そして私はかかるものについて、まさにこれらの觀念からのほか、他のどこからも知識を得なかつた故に、かかるものがこれらの觀念に類似してゐるといふよりほかの考へは私の心に浮び得なかつたのである。なほまた私は、私が以前に理性よりもむしろ感覺を使用したことを想ひ起したし、また自分で作り出した觀念が感覺によつて知覺した觀念ほど明瞭なものでなく、そして前者の多くが後者の部分から構成せられてゐることを見た故に、私は、私が先づ感覺のうちに有しなかつたところのいかなる觀念も私はまつたく悟性のうちに有しないといふことをば、容易に自分に説得したのである。更にまた、私が或る特殊の權利をもつて私のものと稱したところのこの身體は他のいづれの物體よりも一層多く私に屬すると私が信じたのは理由のないことではなかつた。なぜといふに、私は身體からは、その他の物體からのやうに、決して切り離され得なかつたし、また私はすべての欲望や情念を身體のうちに且つ身體のために感覺したし、そして最後に私は苦痛及び快樂のくすぐりを身體の部分において、身體の外に横たはる他の物體においてではなく、認めたからである。しかし何故に、この何か知らない苦痛の感覺から心の或る悲しみが生じてくるのか、また快いくすぐりの感覺から或る悦びが生じてくるのか、あるひは何故に、私が飢ゑと呼ぶこの何か知らない腹部のいらだちは私に食物を取ることについて忠告し、咽喉の乾きはしかし飮むことについて忠告するのか、その他これに類することが生じるのは何故であるかについては、私は自然によつてこのやうに教へられたからといふ以外、實に私は他の説明を有しなかつた。なぜなら、腹部のいらだちと食物を取らうとする意志との間には、あるひは苦痛をもたらすものの感覺と、この感覺から出てきた悲しみの意識との間には、いかなる類同も(少くとも私の理解し得たやうな類同は)まつたく存しないからである。むしろ、私が感覺の對象について判斷したその他の一切のこともまた、自然によつて教へられたやうに思はれたのである。といふのは、私は、それら一切のことが私の判斷した如くであるといふことをば、まさにこのことを證明する何等かの根據を考量するよりも前に、自分に説得したのであるから。  しかるにその後多くの經驗が、次第次第に、感覺に對して私の有したすべての信頼を毀していつた。なぜなら、時々、遠くからは圓いものと思はれた塔が、近くでは四角なものであることが明かになつたことがあつたし、またこれらの塔の頂に据ゑられた非常に大きな彫像が、地上から眺めるときには大きなものと思はれなかつたことがあつた、そして私はかくの如き他の無數のものにおいて外的感覺の判斷が過つことを見つけたから。單に外的感覺の判斷のみではない、また内的感覺の判斷もさうであつた。なぜなら、何が苦痛よりも一層内部的であり得るであらうか、しかも私は嘗て、脚あるひは腕を切斷した人々から、自分ではまだ時々この失くした身體の部分において苦痛を感じるやうに思はれるといふことを聞いた、從つてまた、私においても、私が身體の或る部分において苦痛を感じるとしても、その部分が私に苦痛を與へるといふことは、まつたく確實ではないやうに思はれたから。これらの上にまた私は最近二つの極めて一般的な疑ひの原因を加へたのである。その第一のものは、私の醒めてゐるときに私が感覺すると信じたもので、眠つてゐる間にまたいつか私が感覺すると考へ得ないものは決してなく、そして私が睡眠中に感覺すると思はれるものは、私の外に横たはるものから私にやつてくると私は信じない故に、どうしてこのことをむしろ私の醒めてゐるときに感覺すると思はれるものについて私が信じるのであるか、私にはわからなかつたといふことであつた。もう一つの疑ひの原因は、私は私の起原の作者をこれまで知らなかつた故に、あるひは少くとも知らないと假定した故に、私に極めて眞なるものと見えたものにおいてさへ過つといふやうに私が本性上作られてゐるといふことをば、いかなるものも妨げるのを私は見なかつたといふことであつた。そして以前に私が感覺的なものの眞理を説得させられたところの理由についていへば、これに對して答へることは困難でなかつた。といふのは、理性が制止した多くのものに私は自然によつて驅り立てられるやうに思はれたので、自然によつて教へられるものに多く信頼すべきではないと私は考へたから。またたとひ感覺の知覺は私の意志に懸つてゐないにしても、だからといつてそれが私とは別のものから出てくると結論すべきではないと私は考へたから。なぜなら恐らく、私にはまだ認識せられてゐないとはいへ、私自身のうちにはかかる知覺を作り出すものとして何等かの能力があるかも知れないからである。  しかしながら今、私は私自身並びに私の起原の作者を一層よく知り始めるに至つて、感覺によつて得ると思はれるすべてのものは、もちろん輕々しく容認せらるべきではないが、しかしまたそのすべてのものに疑ひをいれるべきでもない、と私は考へるのである。  そして先づ第一に、私が明晰かつ判明に理解するすべてのものは、私が理解する通りのものとして神によつて作られ得ることを私は知つてゐるからして、或る一つのものが他のものと異なることが私に確實であるためには、私がその一つのものをば他のものを離れて明晰かつ判明に理解し得るといふことで十分である。なぜならそのものは少くとも神によつて分離して措定せられることができるから。それに、そのものが異なるものと思量せられるためには、いかなる力によつてかく分離して措定せられるといふことが生ずるかは、問題にならない。かやうにして、まさにこのこと、すなはち、私は存在することを私が知つてゐるといふこと、しかも、私は思惟するものであるといふことのみのほか他の何ものもまつたく私の本性すなはち私の本質に屬しないことに私が氣づいてゐるといふことから、私の本質はこの一つのこと、すなはち私は思惟するものであるといふことに存することを、私は正當に結論するのである。そしてたとひ私は多分(あるひはむしろ、直ぐ後に言ふ通り、確かに)私と極めて密接に結合せられてゐるところの身體を有するにしても、しかし一方では、私が延長を有するものではなくてただ思惟するものである限りにおいて、私は私自身の明晰で判明な觀念を有し、そして他方では、物體が思惟するものではなくてただ延長を有するものである限りにおいて、私は物體の判明な觀念を有する故に、私が私の身體から實際に區別せられたものであるといふこと、そして私がこの身體なしに存在し得るといふことは、確かである。  なほまた私は私のうちに思惟の仕方における或る特殊な能力、すなはち想像の能力や感覺の能力を發見するが、私はこれらの能力なしに全體としての私を明晰かつ判明に理解することができるに反し、逆にこれらの能力は私なしには、言ひ換へるとこれらの能力がそのうちに内在する思惟的實體なしには理解せられることができない。なぜなら、これらの能力は自己の形相的概念のうちに或る悟性作用を含み、そこから私は、恰も樣態が物から區別せられてゐる如く、これらの能力が私から區別せられてゐることを知覺するからである。更にまた私は或る他の能力、例へば場所を變じる能力、種々の形體をとる能力、その他これに類するものを認知するが、これらの能力もたしかに、前のものと同じく、これらの能力がそのうちに内在する或る實體を離れては理解せられることができず、從つてまたこの實體を離れては存在することができない。むしろこれらの能力が、もしたしかに存在するならば、物體的實體すなはち延長を有する實體に、しかし思惟的實體にではなく、内在しなくてはならぬといふことは明瞭である。なぜなら、これらの能力の明晰で判明な概念のうちには、もちろん或る延長が含まれるが、しかしいかなる悟性作用もまつたく含まれないからである。しかるに今たしかに私のうちには感覺する或る受動的な能力、すなはち感覺的なものの觀念を受取り認識する能力があるが、しかし私はこれをば、もし私のうちに、あるひは他のもののうちに、或る能動的な、かかる觀念を生産するあるひは實現する能力がまた存在しなかつたならば、何等用ゐ得なかつたであらう。しかもこの能動的な能力は實に私自身のうちに存することができない。なぜなら、それはいかなる悟性作用をもまつたく豫想しないし、またかかる觀念は私が協力することなしに、かへつてしばしば私の意志に反してさへ生産せられるから。故にそれは私とは別の或る實體のうちに存すると考へるほかはない。そしてこの實體のうちには(既に上に注意した如く)この能力によつて生産せられた觀念のうちに客觀的に有る一切の實在性が形相的にか優越的にか内在しなくてはならないからして、この實體は物體、すなはちもちろんかかる觀念が客觀的に含む一切のものを形相的に含むところの物體的本性であるか、それとも神そのものであるか、それともかかる一切のものを優越的に含むところの、物體よりも高貴な或る被造物であるかである。しかるに、神は欺瞞者でない故に、神がかかる觀念を、直接に自己自身によつて私に傳へるのではないこと、またかかる觀念の客觀的實在性をば形相的にではなく單に優越的に含むところの或る被造物の媒介によつて私に傳へるのでもないことは、まつたく明白である。なぜなら、神はこれがそのやうな被造物の媒介によるのであると認知するいかなる能力をもまつたく私に與へなかつたし、かへつて反對にかかる觀念が物體的なものから發すると信じる大きな傾向性を私に與へたのであるから、もしかかる觀念が物體的なものからよりほかの他のところから發したとしたならば、どういふわけで神が欺瞞者ではないことが理解せられ得るのか私にはわからないからである。從つて、物體的なものは存在する。しかし恐らくそのすべてはまつたく私がそれを感覺によつて把捉するが如きものとして存在するのではなからう、この感覺の把捉は多くの場合極めて不明瞭であり不分明であるから。しかしながら少くともそのうちにおいて私が明晰かつ判明に理解する一切のもの、言ひ換へると、一般的に見るならば、純粹數學の對象のうちに包括せられる一切のものは、實際に有るのである。  しかるにその餘のものについていへば、それらのものは、例へば、太陽はかくかくの大きさまたは形體のものである、等々の如く、單に特殊的なものであるか、それとも、例へば、光、音、苦痛、及びこれに類するものの如く、より少く明晰に理解せられたものであるかであるが、たとひそれらのものは極めて疑はしい不確實なものであるにしても、しかもまさにこのこと、すなはち、神は欺瞞者ではないといふこと、從つてまた私の意見のうちにはいかなる虚僞も、これを訂正する或る能力がまた私のうちに神によつて賦與せられてゐる場合のほかは、見出されることがあり得ないといふことは、それらのものにおいてもまた眞理に達し得る確實な希望を私に示すのである。そして實に自然によつて教へられるすべてのものが何等かの眞理を有する筈であるといふことは疑ひ得ないことである。なぜなら、私がいま一般的に見られた自然といふのは、神そのもの、それとも神によつて制定せられたところの被造物の整序以外の何物でもなく、また特殊的に私の自然といふのは、神によつて私に賦與せられたすべてのものの集合體以外のものではないからである。  ところで、私が身體を有すること、すなはち、私が苦痛を感覺するときにはその具合が惡く、そして私が飢ゑまたは渇きに惱むときには食物あるひは飮料を必要とし、等々といつた、身體を有することよりも一層明白にこの自然が私に教へることは何もない。從つてまたこのことのうちに或る眞理が存することを私は疑ふべきではないのである。  また自然はこれら苦痛、飢ゑ、渇き、等々の感覺によつて、恰も水夫が船のなかにゐる如く私が單に私の身體のなかにゐるのみでなく、かへつて私がこの身體と極めて密接に結合せられ、そしていはば混合せられてゐて、かくてこれと或る一體を成してゐることを教へるのである。といふのは、もしさうでないとすれば、身體が傷つけられるとき、私すなはち思惟するもの以外の何物でもない私は、そのために苦痛を感じない筈であり、かへつて恰も水夫が船のなかで何かが毀れるならば視覺によつてこれを知覺する如く、私はこの負傷を純粹な悟性によつて知覺する筈であり、また身體が食物あるひは飮料を必要とするとき、私は單純にこのことを明白に理解し、飢ゑや渇きの不分明な感覺を有しない筈であるからである。なぜなら確かに、これら渇き、飢ゑ、苦痛、等々の感覺は、精神と身體との結合と、いはば混合とから生じた或る不分明な思惟の仕方にほかならないから。  更にまた私は自然によつて、私の身體のまはりに、その或るものは私にとつて追ひ求むべきものであり、或るものは避け逃るべきものであるところの、他の種々異なる物體が存在することを教へられる。そして確かに、私が極めて異なる色、音、香、味、熱、堅さ、及びこれに類するものを感覺するといふことから、私は、これら種々に異なる感覺の知覺がそこからやつてくる物體のうちに、これらの知覺にたとひ恐らく類似してゐないにしても對應してゐる或る異種性が存する、と正當に結論するのである。なほまた、かかる知覺のうち或るものは私にとつて快適であり、或るものは不快であるといふことから、私の身體が、あるひはむしろ、私が身體と精神とから成つてゐる限りにおいて、全體としての私が、そのまはりを取り繞つてゐる物體によつて、あるひは都合好く、あるひは都合惡く、種々異なる仕方で影響せられ得るといふことは、まつたく確かである。  しかしながら、自然が私に教へたもののやうに見えても、實際は自然からではなく、かへつて無思慮に判斷する或る習慣から私が受取つた他の多くのものがある、從つて容易にこれらのものは僞であることが生じ得る。すなはち、その中には私の感覺に影響を與へる何ものもまつたく現はれない一切の空間は眞空であるとすること、また、例へば、熱い物體のうちには私のうちにある熱の觀念にまつたく類似する或るものがあり、白い物體または緑の物體のうちには私の感覺するのと同じ白または緑があり、苦い物體または甘い物體のうちにはこれと同じ味があり、その他の場合にも同樣のことがあるとすること、また、星や塔、その他何でも遠く離れた物體は單に私の感覺に現はれるのと同じ大きさや形體のものであるとすること、その他この種のことが、それである。しかるに、これらのことがらにおいて私が十分に判明に知覺しない何ものもないやうにするためには、私が或ることを自然によつて教へられると言ふとき、何を本來意味するかを一層嚴密に定義しなくてはならぬ。すなはち私はここに自然をば、神によつて私に賦與せられたすべてのものの集合體といふ意味よりも一層狹い意味に解する。といふのは、この集合體のうちには、ただ精神のみに屬する多くのもの、例へば、爲されたことは爲されなかつたことであることができぬと私が知覺すること、及びその他、自然的な光によつて知られてゐるすべてのものが、含まれるが、これらについてはここでは言及しないし、またそのうちには更に、ただ物體のみに關する多くのもの、例へば、物體は下に向ふといふこと、及びこれに類すること、が含まれるが、これらについてもまたここでは問題でなく、かへつてただ、精神と身體とからの合成體としての私に、神によつて賦與せられたもののみが問題なのであるからである。從つてまた、この自然はたしかに、苦痛の感覺をもたらすものを避け逃れ、そして快樂の感覺をもたらすものを追ひ求むること、及びかかる性質のことを教へるが、しかしこの自然がその上になほ、これらの感覺の知覺から、悟性のあらかじめの考査なしに、我々の外に横たはるものについて何かを結論することを我々に教へるといふことは明かではないのである、なぜなら、かかるものについて眞を知るといふことはただ精神のみに屬し、合成體には屬しないやうに思はれるから。かやうにして、たとひ星は私の眼を小さい松明の火よりも一層多くは刺戟しないにしても、かかる合成體としての私のうちにはしかし星がこの火よりも大きくないと信ぜしめる何等の實在的なあるひは積極的な傾向性も存せず、かへつて私は根據なしに若い時分からこのやうに判斷したのである。また、たとひ火に近づくと私は熱を感覺し、そして餘りに近くそれに近づくと私は苦痛を感覺しさへするにしても、實際、火のうちにはこの熱に類似する或るものがあると、またこの苦痛に類似する或るものがあると、私に説得する何等の根據も存せず、かへつてただ、火のうちには我々においてこれらの熱あるひは苦痛の感覺を喚び起す或るもの──それが結局どのやうなものであらうとも──があるといふことを私に説得する根據が存するに過ぎないのである。更に、たとひまた或る空間のうちに感覺に影響を與へる何物も存しないにしても、だからといつてこの空間のうちには何等の物體も存しないといふことは歸結せず、かへつて私は、私がこの場合に、また他の非常に多くの場合に、自然の秩序を歪曲するのを慣はしとすることを見るのである。なぜなら實に、感覺の知覺は本來ただ精神に、精神がその部分であるところの合成體にとつていつたい何が都合好いものあるひは都合惡いものであるかを指示するために、自然によつて與へられてをり、そしてその限りにおいて十分に明晰で判明であるが、私はこの知覺を恰も我々の外に横たはる物體の本質がいつたい何であるかを直接に辨知するための確實な規則であるかのやうに使用するのであつて、かかる本質についてはしかるにこの知覺は極めて不明瞭にそして不分明にでなければ何物も指示しないからである。  ところで既に前に私は、どういふわけで、神の善意にも拘らず、私の判斷の僞であることが生ずるのかといふ理由を十分に洞見した。しかしながらここに、恰も追ひ求むべきものあるひは避け逃るべきもののやうに自然によつて私に示されるものそのものに關して、更にまた私がそのうちにおいて誤謬を發見したと思はれる内部感覺に關して、新しい困難が現はれる。例へば、ひとが或る食物の快い味に欺かれて、中に隱されてゐる毒をも一緒に取る場合の如きがそれである。しかしもちろん、この場合、彼はただそのうちに快い味が存するものを欲求するやうに自然によつて驅り立てられるのであつて、彼がまつたく知らない毒を欲求するやうに驅り立てられるのではない。かくてここから結論せられ得ることは、この自然は全智ではないといふこと以外の何物でもないのである。そしてこれは驚くべきことではない、なぜなら、人間は制限せられたものである故に、彼には制限せられた完全性しかふさはしくないから。  しかし實に我々が自然によつて驅り立てられるものにおいてさへも我々が過つことは稀ではない。例へば、病氣である人々が直ぐ後に自分に害をなすべき飮料あるひは食物を欲求する場合の如きがそれである。この場合多分、彼等は彼等の自然が頽廢してゐるために過つのである、と言はれることができるであらう。しかしながらこれは困難を除くものではない。なぜなら、病氣の人間は健康な人間に劣らず眞實に神の被造物であり、從つてまた前者が神から欺くところの自然を授けられてゐるといふことは後者がさうであるといふことに劣らず矛盾であると思はれるから。そして齒車と錘とから出來てゐる時計が、惡く作られてゐて時刻を正しく示さないときにも、あらゆる點で製作者の願ひを滿足させるときに劣らず正確に、自然のすべての法則を遵守するやうに、そのやうにまた、もし私が人間の身體をば、骨、神經、筋肉、脈官、血液及び皮膚から、たとひそのうちに何等精神が存在しなくともなほ、現在そのうちに、意志の命令によつてではなく、從つて精神によつてではなく、行はれてゐるのと同じすべての運動を有するやうに、調整せられ合成せられてゐるところの或る種の機械として見るならば、この身體にとつて、もし、例へば、水腫病を患つてゐるならば、かの精神に渇きの感覺をもたらすのをつねとするのと同じ咽喉の乾きに惱み、そしてまたこの乾きによつてその神經及びその他の部分が、病氣を重くすることになる飮料をとるやうに、配置せられるといふことは、この身體のうちに何等かかる缺陷が存しないときに、咽喉の同樣の乾きによつて自分に有益な飮料をとるやうに動かされるといふことと等しく、恐らく自然的であるのを、私は容易に認めるのである。そしてたとひ、時計のあらかじめ意圖せられた用途を顧るならば、時刻を正しく示さないときには、それは自己の自然からそれてゐると言ふことができるにしても、また同じやうに、人間の身體の機械を恰もそのうちにおいて生ずるのをつねとする運動のために調整せられたものの如くに見るならば、もし、飮料が身體そのものの保存に役立たないときに、その咽喉が乾いてゐるとすれば、それはまた自己の自然からはづれてゐると考へるにしても、しかし私は自然のこの後の意味が前の意味とは甚だ異なることに十分に氣づくのである。なぜなら、後の意味での自然は、病氣の人間や惡く作られた時計を健康な人間の觀念や正しく作られた時計の觀念と比較する私の思惟に依存するところの規定以外の何物でもなく、そしてそれは、それについて語られるものに對して外面的な規定であり、しかるに前の意味においては、自然といふものは、實際にもののうちに見出される或るもの、從つて或る眞理を有する或るものであるからである。  しかしながら確かに、水腫病を患つてゐる身體について見るならば、飮料を必要としないのに渇いた咽喉を有するといふことから、その自然は頽廢してゐると言はれるとき、それは單に外面的な規定であるにしても、しかし合成體、すなはちかかる身體と合一せる精神について見るならば、飮料が自分に害をするであらうときに渇くといふことは、單なる規定ではなく、かへつて自然の眞の誤謬である。從つてここに追求すべく殘つてゐるのは、いかにして神の善意はかやうに解せられた自然が欺くものであることを妨げないのであるか、といふことである。  ところで私はここに先づ第一に、精神と身體との間には、身體は自己の本性上つねに可分的であり、しかるに精神はまつたく不可分的であるといふ點において、大きな差異が存することを認めるのである。といふのは實に、私が後者、すなはち單に思惟するものである限りにおける私自身を考察するとき、私は私のうちに何等の部分をも區別することができず、かへつて私は私がまつたく一にして全體的なものであることを理解するからである。そしてたとひ全體の精神が全體の身體に結合せられてゐるかのやうに思はれるにせよ、しかし足、あるひは腕、あるひはどのやうな他の身體の部分を切り離しても、私はそのために何物も精神から取り去られてゐないことを認識する。なほまた意欲の能力、感覺の能力、理解の能力、等々は、精神の部分と言はれることができない、なぜなら、意欲し、感覺し、理解するのは一にして同じ精神であるから。しかるにこれに反して、私が思惟によつて容易に部分に分割し、そしてまさにこれによつてそれが可分的であることを私の理解しないやうな物體的な如何なるものも、すなはち延長を有するものも私によつて思惟せられることができないのである。この一事は、精神が身體とはまつたく異なつてゐることをば、もしまだ私がこのことを他のところから十分に知らないならば、私に教へるに足りるであらう。  次に私は、精神が身體のすべての部分からではなく、ただ腦髓から、あるひは恐らくそれのみでなく單にその一つの極めて小さい部分、すなはちそこに共通感覺が存すると言はれる部分から、直接に影響せられるといふことを、認めるのである。この部分は、ここで數へ上げることを要しない無數の經驗の證明する如く、それが同じ仕方で配置せられるときはつねに、たとひその間に身體のその他の部分は種々異なる状態にあることができるにしても、精神に同一のものを示すのである。  更に私は、物體のいかなる部分も他のなにほどか遠く隔つてゐる部分によつて、たとひこの一層遠く隔つてゐる部分が何等動かないにしても、その間に横たはつてゐる部分のうちの何等かのものによつてまた同じ仕方で動かされ得るのでないと、動かされ得ないといふことが、物體の本性であるのを認めるのである。すなはち、例へば、A・B・C・Dなる綱において、その最後の部分Dが引かれる場合、最初の部分Aは、最後の部分Dが動かないままに止まつてゐて中間の部分のうちの一つBあるひはCが引かれた場合にまたそれが動かされ得るのと別の仕方で動かされないであらう。これと同樣の理由によつて、私が足の苦痛を感覺する場合、自然學は私に、この感覺は足を通じて擴がつてゐる神經の助けによつて生ずるのであつて、この神經は、そこから腦髓へ連續的に綱の如くに延びてゐて、足のところで引かれるときには、その延びてゐる先の腦髓の内部の部分をまた引き、このうちにおいて、精神をして苦痛をば恰もそれが足に存在するものであるかの如くに感覺せしめるやうに自然によつて定められてゐるところの或る一定の運動を惹き起すのである、といふことを教へるのである。しかるにこれらの神經は、足から腦髓に達するためには、脛、腿、腰、脊及び頸を經由しなくてはならぬ故に、たとひこれらの神經の足のうちにある部分が觸れられなくて、ただ中間の部分の或るものが觸れられても、腦髓においては足が傷を受けたときに生ずるのとまつたく同じ運動が生じ、そこから必然的に精神は足においてそれが傷を受けたときのと同じ苦痛を感覺するといふことが起り得るのである。そして同じことが他のどのやうな感覺についても考へられねばならない。  最後に私は、直接に精神に影響を與へるところの腦髓の部分において生ずる運動のおのおのは、精神に或る一定の感覺をしかもたらさないのであるからして、この場合、この運動が、それのもたらし得るあらゆる感覺のうち、健康な人間の保存に最も多く且つ最もしばしば役立つところのものをもたらすといふことよりも一層善い如何なることも考へ出され得ないといふことを認めるのである。しかるに經驗は自然によつて我々に賦與せられたすべての感覺がかくの如き性質のものであることを證してゐる。從つてそのうちには神の力並びに善意を證しない何物もまつたく見出されないのである。かやうにして、例へば、足のうちにある神經が激しくそして通例に反して動かされるとき、その運動は、脊髓を經て腦髓の内部の部分に達し、そこにおいて精神に或るものを、すなはち苦痛を、恰も足に存在するものの如くに、感覺せしめるところの合圖を與へ、これによつて精神は苦痛の原因をば足に害をするものとして自分にできるだけ取り除くやうに刺戟せられるのである。尤も、人間の本性は、この腦髓における同じ運動が精神に何か他のものを示すやうに、すなはちあるひはこの運動そのものを、腦髓にある限りにおいて、あるひは足にある限りにおいて、あるひは兩者の中間の場所のうちのどこかにある限りにおいて、示すやうに、あるひは最後に何かもつと他のものを示すやうに、神によつて仕組まれることができたであらう。しかしながらこれらの他のいづれのものも身體の保存に右にいつたものと同等に役立たなかつたであらう。同じやうに、我々が飮料を必要とするとき、これによつて或る種の乾きが咽喉に起り、その神經を動かし、そしてこの神經を介して腦髓の内部を動かし、そしてこの運動は精神に渇きの感覺を生ぜしめる。なぜなら、この全體のことがらにおいて、健康状態の維持のために我々は飮料を必要とすることを知るといふことよりも、我々にとつて一層有用なことは何もないのであるから。そしてその他の場合についても同樣である。  これらのことから、神の廣大無邊なる善意にも拘らず、精神と身體とから合成せられたものとしての人間の本性が、時には欺くものであらざるを得ないことは、まつたく明白である。といふのは、もし或る原因が、足においてではなく、神經が足からそこを經て腦髓へ擴がつてゐる部分のうちのどこかにおいて、あるひは腦髓そのものにおいてさへも、足が傷を受けたときに惹き起されるのを常とするのとまつたく同じ運動を惹き起すならば、苦痛は恰も足にあるものの如くに感覺せられ、かくして感覺は自然的に欺かれるから。なぜなら、この腦髓における同じ運動はつねに同じ感覺をしか精神にもたらすことができず、そしてこの運動は他のところに存在する他の原因によつてよりも足を傷つける原因によつて遙かにしばしば惹き起されるのをつねとする故に、この運動が他の部分の苦痛よりもむしろ足の苦痛を精神につねに示すといふことは、理に適つたことであるからである。またもし時に咽喉の乾きが、通例の如く身體の健康に飮料が役立つといふことからではなく、却つて水腫病において起る如く、或る反對の原因から惹き起されるならば、それがこの場合に欺くといふことは、反對に身體が健全な状態にあるときにつねに欺くといふことよりも、遙かに一層善いことである。そしてその他の場合についても同樣である。  ところでこの考察は、單に私の本性が陷り易いすべての誤謬に氣づくためにのみでなく、またこれらの誤謬を容易に匡しあるひは避け得るために、甚だ多くの貢獻をするのである。なぜなら實に、私はすべての感覺が身體の利益に關することがらについて僞よりも眞を遙かにしばしば指示することを知つてゐるし、また私は或る同じものを檢査するために殆どつねにこれらの感覺の多くを使用することができるし、そしてその上に、現在のものを先行のものと結合するところの記憶や、すでに誤謬のすべての原因を洞見したところの悟性をも使用することができるからして、もはや私は毎日感覺によつて私に示されるものが僞でありはしないかと恐れることを要せず、かへつて過ぐる日の數々の誇張的な懷疑は、笑に値するものとして、追ひ拂はるべきであるからである。これはとりわけ私が覺醒から區別しなかつたところの夢についての極めて一般的な懷疑がさうである。といふのは、私は今、兩者の間には、夢に現はれるものは決して、醒めてゐるときに起るもののやうに、生涯の餘のすべての活動と記憶によつて結び附けられないといふ點において、非常に大きな差別があることを認めるからである。なぜなら實に、もし何者かが、私の醒めてゐるときに、夢において起る如く突然に私に現はれ、そして直ぐ後に消え失せ、かくしてもちろんこの者が何處から來たのかも何處へ去つたのかもわからなかつたならば、私がこの者を眞實の人間であると判斷するよりもむしろ幽靈、または私の腦裡で作られた幻想であると判斷するのは、不當ではないであらうから。しかしながら、それが何處から來たか、何處にあるかといふ場所、またそれがいつ私にやつてきたかといふ時間を私が判明に認めるところの、そしてそれについての知覺を何等の中斷もなしに全生涯の他の時期と私が結び附けるところのものが起るときには、それが夢においてではなく、醒めてゐるときに起つてゐることは、私にまつたく確實である。またかかるものの眞理について私は、もし、それを檢査するためにすべての感覺、記憶及び悟性を召喚した後に、そのうちのいづれによつてもその他のものと矛盾するいかなることも私に知らされないならば、僅かなりとも疑ふことを要しないのである。なぜなら、神は欺くものではないといふことから、かかるものにおいて私は過たないといふことが一般に歸結するからである。しかしながら行動の必要はつねにかやうに嚴密な檢査の餘裕を與へない故に、人間の生活は特殊的なものに關してしばしば誤謬に陷り易いことを告白しなければならず、そして我々の本性の弱さを承認しなければならないのである。 幾何學的な仕方で配列された、   神の存在及び靈魂と肉體との區別を證明する諸根據 定義  一 思惟(cogitatio)といふ語によつて私は、我々がそれを直接に意識してゐるといふふうに我々のうちにあらゆるものを包括する。かくして意志、悟性、想像力、及び感覺のすべての働きは、思惟である。しかし私は、思惟から歸結されてくるものを除外せんがために、直接に(immediate)といふ語を附け加へた。例へば、有意運動はたしかに思惟を原理として有するが、それ自身はしかし思惟ではない。  二 觀念(idea)といふ語によつて私は、その直接の知覺によつて私がその同じ思惟自身を意識してゐる、おのおのの思惟の形相(forma)を理解する。かくてすなはち私は、私が言ふところのものを私が理解してゐるとき、まさにこのことからその言葉によつて表はされたものの觀念が私のうちにあることが確かであるのでなくては、言葉によつて何ものも表現することができないのである。そしてかやうにして私は想像のうちに描かれた單なる像を觀念と呼ぶのではない、否、私はここでかかるものを、それが身體的な想像のうちに、言ひ換へると腦の或る部分のうちに描かれてゐる限りにおいては、決して觀念とは呼ばず、ただそれが腦のその部分に向けられた精神そのものを形作る限りにおいて、觀念と呼ぶのである。  三 觀念の客觀的實在性(realitas objectiva ideae)といふことによつて私は觀念によつて表現されたものの實有性(entitas)を、それが觀念のうちにある限りにおいて、理解する。そして同じ仕方で、客觀的完全性、あるひは客觀的技巧、等々、と言はれることができる。といふのは、觀念の對象のうちにあるもののやうに我々が知覺するあらゆるものは、觀念そのもののうちに客觀的にあるのであるから。  四 同じものは、それが觀念の對象のうちに我々がそれを知覺する通りに現はれてゐる場合、觀念の對象のうちに形相的に(formaliter)あると言はれる。また、その通りにではないが、却つてこれを補ふことができるほど大きなものである場合、優越的に(eminenter)あると言はれる。  五 我々が知覺する或るもの、言ひ換へると、その實在的な觀念が我々のうちにある或る固有性、あるひは性質、あるひは屬性が、それのうちに直接に内在する基體(subjectum)、あるひはそれらを存在せしめるあらゆるもの(res)は、實體(substantia)と呼ばれる。また嚴密な意味における實體そのものについて我々は次の如き觀念しか有しない。すなはち、實體とは、我々が知覺するところの或るものが、つまり我々の觀念の何れかのうちに客觀的にあるものが、そのうちでは形相的に、もしくは優越的に存在するところのものである。無は何ら實在的な屬性を有し得ないことは、自然的な光によつて知られてゐる故に。  六 思惟がそれに直接に内在する實體は精神(mens)と呼ばれる。私はここで靈魂(anima)といふよりもむしろ精神と言ふ。靈魂といふ語は兩義的であつて、しばしば物體的なものに適用されるからである。  七 場所的延長及び延長を前提する偶有性、例へば形體、位置、場所的運動、などの直接の基體である實體は、物體(corpus)と呼ばれる。しかし精神及び物體と呼ばれるものが、一つの同じ實體であるか、それとも二つの相異なる實體であるかは、後に攷究しなければならないであらう。  八 この上なく完全であると我々が理解し、そしてそのうちに何らかの缺損あるひは完全性の制限を含む何ものもまつたく我々が把捉しない實體は、神(Deus)と呼ばれる。  九 或るものが何らかのものの本性あるひは概念のうちに含まれると、我々が言ふとき、そのものがこのものについて眞であると、あるひはこのものについて肯定され得ると、言ふのと同じである。  一〇 その一が他を離れて存在し得るとき、二つの實體は實在的に區別されると言はれる。 要請  第一に、私は、讀者が自分の感覺をこれまで信用した根據がいかに薄弱なものであるか、またその上に築いたすべての判斷がいかに不確實なものであるかに注意せられるやうに、そしてこのことを長い間またしばしば自分の心に思ひめぐらし、かくて遂に自分の感覺にもはやあまり多く信頼しない習慣を得られるやうに、要請する。といふのはこれは形而上學に關する事がらの確實性を知覺するために必要であると私は判斷するから。  第二に、私は、讀者が自分自身の精神並びにその全體の屬性を考察せられるやうに、要請する、これらについては、たとひ自分の感覺によつて嘗て受取つたすべてのものが僞であると假定しても、疑ふことができないことを認められるであらう。そして私は、讀者が精神を明晰に知覺し、そしてそれがすべての物體的なものよりも認識するに一層容易であると信じる習慣を得るまでは、精神を考察することを止められないやうに、要請する。  第三に、それ自身によつて知られ、讀者が自分において發見するところの命題、例へば、同じものは同時に有ると共に有らぬことはできぬ、また、無はいかなるものの動力因であることも不可能である、及びこれに類する命題を、注意深く考量し、そしてかやうにして自然によつて自分に賦與されてゐる、しかし感覺の表象が極めて甚だしく混亂させ不分明にするのをつねとするところの悟性の明瞭さを、純粹に、感覺から解放して、使用するやうに、私は要請する。なぜならかやうな仕方で讀者にとつて後述の諸公理の眞理は容易に明かになるであらうから。  第四に、私は、讀者がそのうちには多くの同時に有する屬性の複合が含まれるところの本性の觀念を檢討するやうに、要請する、すなはち、三角形の本性、正方形のあるひは何か他の圖形の本性、更にまた精神の本性、物體の本性、そして何よりも神あるひはこの上なく完全な實有の本性はかかる性質のものである。そして讀者が、かかる本性のうちに含まれることを我々が知覺するところのすべてのものは、實際にそれらのものについて肯定せられ得ることに注意するやうに、私は要請する。例へば、三角形の本性のうちにはその三つの角は二直角に等しいといふことが含まれ、また物體すなはち延長を有するもののうちには可分性が(といふのはそれを少くとも思惟によつて分割し得ないほど小さな延長を有するものを我々は何等考へ得ないから)含まれる故に、すべての三角形の三つの角は二直角に等しい、またすべての物體は可分であると言ふのは眞である。  第五に、私は、讀者がこの上なく完全な實有の本性の觀想に長くまた多くとどまるやうに、要請する、そして中にも、あらゆる他の本性の觀念のうちにはたしかに可能的存在が含まれるが、神の觀念のうちにはしかし單に可能的存在のみではなく、また實に必然的存在が含まれることを考察するやうに、要請する。なぜなら、ただこのことから、そして何等まはりくどい議論なしに、神が存在することを讀者は認識するであらう、そしてそれは讀者にとつて、二が偶數であり、あるひは三が奇數であること、及びこれに類することに劣らず、それ自身によつて明かであるであらう。といふのは、或る人々にはそれ自身によつて明かであることがらであるのに、他の人々には長々しい議論によつてでないと理解せられないものがあるからである。  第六に、私は、讀者が私の省察のなかで擧げたところの、明晰で判明な知覺のすべての例、更にまた不明瞭で不分明な知覺のすべての例を熟考することによつて、明晰に認識せられるものを不明瞭なものから區別することに慣れるやうに、要請する。なぜなら、これは規則によつてよりも例によつて一層容易に學ばれるから、そして私はかしこでこのことがらのすべての例を説明したか、あるひは少くとも或る程度觸れておいたと思ふ。  第七に、そして最後に、私は、讀者が明晰に知覺したもののうちには決して何等の虚僞も發見せず、反對にただ不明瞭に把捉したもののうちには偶然によるほか何等の眞理も見出さなかつたことに注意することによつて、單に感覺の先入見に基づいて、あるひは何か知られてゐないものを含む假説に基づいて、純粹な悟性によつて明晰にかつ判明に知覺せられるところのものに疑ひをいれることは、まつたく不合理であるといふことを考察するやうに、要請する。なぜなら、かやうにして讀者は容易に後述の諸公理を眞で疑はれないものとして認めるであらうから。尤もたしかに、そのうちの多くは、一層よく説明せられることができたであらうし、またもし私が一層嚴密であることを欲したならば、公理としてよりむしろ定理として提示せられねばならなかつたであらう。 公理  あるひは   共通概念  一 何故に存在するかの原因を尋ねられ得ないやうな何物も存在しない。なぜなら、これは神そのものについて尋ねられ得るから、神は存在するために何等かの原因を必要とするといふのではなく、却つて神の本性の無邊性そのものが存在するために何等の原因をも必要としない原因あるひは根據である故にである。  二 現在の時は最近接的に先行する時に依存しない、從つてものを維持するためには、それを初めて作り出すためによりも一層小さい原因が要求せられるのではない。  三 いかなるものも、またもののいかなる現實的に存在する完全性も、無(nihil)すなはち存在しないものを、自己の存在の原因として有することができぬ。  四 或るもののうちに存するいかなる實在性すなはち完全性も、このものの第一のかつ十全的な原因のうちに形相的に、あるひは優越的に存する。  五 そこからしてまた、我々の觀念の客觀的實在性は、この同じ實在性をば單に客觀的にではなくて形相的に、あるひは優越的に含むところの原因を必要とするといふことが、歸結する。そしてこの公理は、ただこの一つのものに、感覺的な並びに非感覺的なあらゆるものの認識が依存するといふほど、認められることが必要であることに、注目しなければならない。なぜなら、どこから我々は、例へば、天が存在することを知るのであるか。それを我々が見る故にであらうか。しかるにこの視覺は、觀念である限りにおいてのほか、精神に觸れない、ここに觀念と言ふのは、精神そのものに内屬するものをいふのであつて、空想のうちに描かれた像をいふのではない。そしてこの觀念に基づいて我々が天は存在すると判斷することができるのは、ただ、あらゆる觀念は自己の客觀的實在性の實在的に存在する原因を有しなければならぬといふ理由によるのである。そしてこの原因は天そのものであると我々は判斷するのである。その他の場合についても同樣である。  六 實在性の、すなはち實有性の、種々の度がある。なぜなら、實體は偶有性あるひは樣態よりも一層多くの實在性を有し、また無限な實體は有限な實體よりも一層多くの實在性を有するから。從つてまた實體の觀念のうちには偶有性の觀念のうちによりも一層多くの客觀的實在性が存し、また無限な實體の觀念のうちには有限な實體の觀念のうちによりも一層多くの客觀的實在性が存する。  七 思惟するものの意志は、たしかに有意的にかつ自由に(なぜならこれは意志の本質に屬するのであるから)、しかしそれにも拘らず謬ることなく、自分に明晰に認識せられた善に赴く。從つて、もし自分に缺けてゐる何等かの完全性を知るならば、それを直ちに、もしそれが自分の力の及ぶところにあるならば、自分に與へるであらう。  八 一層大きなことあるひは一層困難なことを爲し得るものは、また一層小さいことをも爲し得る。  九 實體を創造しあるひは維持することは、實體の屬性すなはち固有性を創造しあるひは維持することよりも、一層大きなことである。しかしながら、既に言つた如く、同じものを創造することは、それを維持することよりも、一層大きなことではない。  一〇 あらゆるものの觀念あるひは概念のうちには存在が含まれる。なぜなら我々は存在するものの相のもとにおいてでなければ何物も把捉し得ないのであるから。もとより、制限せられたものの概念のうちには可能的あるひは偶然的存在が含まれ、しかしこの上なく完全な實有の概念のうちには必然的にして完全な存在が含まれる。 定理一 神の存在はその本性の單なる考察から認識せられる。 證明  或るものが何等かのものの本性あるひは概念のうちに含まれると言ふことは、そのものがこのものについて眞であると言ふことと、同じである(定義九によつて)。しかるに神の概念のうちには必然的存在が含まれる(公理一〇によつて)。故に神について、神のうちには必然的存在が存する、あるひは神は存在する、と言ふことは眞である。  しかるにこれは、既に上に第六駁論に應へて私が用ゐたところの三段論法である。そしてその結論は、要請五において言はれたやうに、先入見から解放せられてゐる人々に對してはそれ自身によつて明かなものであり得る。しかしかやうな明察に達することは容易でない故に、我々は同じことを他の仕方で追求することを試みよう。 定理二 神の存在は單にその觀念が我々のうちにあるといふことから、ア・ポステリオリに證明せられる。 證明  我々の觀念のいかなるものの客觀的實在性も、この同じ實在性をば單に客觀的にではなく、形相的に、あるひは優越的に、含むところの原因を必要とする(公理五によつて)。しかるに我々は神の觀念を有する(定義二及び八によつて)、そしてこの觀念の客觀的實在性は形相的にも優越的にも我々のうちに含まれない(公理六によつて)、またそれは神そのもののうちにのほか他のいかなるもののうちにも含まれることができない(定義八によつて)。故に我々のうちにあるところのこの神の觀念は、神を原因として必要とする、從つて神は存在する(公理三によつて)。 定理三 神の存在はまたその觀念を有するところの我々自身が存在するといふことからも證明せられる。 證明  もし私が私自身を維持する力を有するならば、なほさら私はまた私に缺けてゐるところの完全性を私に與へる力を有するであらう(公理八及び九によつて)。なぜならこれらの完全性は單に實體の屬性であり、私はしかるに實體であるから。しかしながら私はこれらの完全性を私に與へる力を有しないのである、なぜなら、さもなければ私は既にそれらを有してゐるであらうから(公理七によつて)。故に私は私自身を維持する力を有しない。  次に、私は、私が存在する間は、もし實に私がその力を有するならば、私自身によつて、あるひはその力を有する他のものによつて、維持せられるのでなければ、存在することができぬ(公理一及び二によつて)。ところで私は存在するが、しかもまさにいま證明せられたやうに、私自身を維持する力を有しない。故に私は他のものによつて維持せられる。  なほまた、私を維持するものは自己のうちに、私のうちにある一切を形相的に、あるひは優越的に、有する(公理四によつて)。しかるに私のうちには私に缺けてゐるところの多くの完全性の知覺と同時に神の觀念の知覺が存する(定義二及び八によつて)。故にまた私を維持するもののうちにも同じ完全性の知覺が存する。  最後に、この同じものは、自己に缺けてゐるところの完全性の、すなはち自己のうちに形相的にあるひは優越的に有しないところの完全性の、知覺を有し得ない(公理七によつて)。なぜなら、既に言はれた如く、このものは私を維持する力を有するからして、なほさらかかる完全性を、もし缺けてゐるならば、自分に與へる力を有するであらうから(公理八及び九によつて)。しかるにこのものは、いましがた證明せられたやうに、私に缺けてゐてただ神のうちに存し得ると私が考へるところのすべての完全性の知覺を有する。故にこのものはそれらの完全性を形相的にあるひは優越的に自己のうちに有し、かくして神である。 系 神は天と地と及びそのうちに存する一切を創造した。なほまた神は我々が明晰に知覺するあらゆるものを我々がこれを知覺する通りになし得る。 證明  このすべては前の定理から明晰に歸結する。すなはちこの定理において神の存在することが、我々のうちにその或る觀念の存するすべての完全性が形相的にあるひは優越的にそのうちに存するところの或る者が存在しなくてはならぬといふことから證明せられた。しかるに我々のうちには或るいとも大きな力の、すなはちただこの力がそのうちに存するところのものによつて、天と地、等々が創造せられ、また私が可能なものとして理解する他のすべてのものもこの同じものによつて作られ得るといふほど大きな力の觀念が存する。故に神の存在と同時にこのすべてがまた神について證明せられたのである。 定理四 精神と身體とは實在的に區別せられる。 證明  我々が明晰に知覺するあらゆるものは、神によつて、我々がこれを知覺する通りに、作られ得る(前の系によつて)。しかるに我々は精神を、言ひ換へると、思惟する實體をば、物體を離れて、言ひ換へると、何等かの延長を有する實體を離れて、明晰に知覺する(要請二によつて)。また逆に物體をば精神を離れて知覺する(すべての人々が容易に認容する如く)。故に、少くとも神の力によつて、精神は身體なしに存することができ、また身體は精神なしに存することができる。  ところでいま、その一が他を離れて存し得るところの實體は、實在的に區別せられる(定義一〇によつて)。しかるに精神と物體とは實體であり(定義五、六、七によつて)、そしてその一は他を離れて存することができる(たつたいま證明せられた如く)。故に精神と身體とは實在的に區別せられる。  註。私はここで神の力を媒介として使用したが、それは精神を身體から分離するために何等かの異常な力が必要であるからではなく、却つて私は前の諸定理においてただ神についてのみ取扱つたからして、他に使用し得るものを有しなかつた故である。またいかなる力によつて二つのものが分離せられるかは、兩者が實在的に異なつてゐると我々が認識するためには、無關係である。 底本:「省察」岩波文庫、岩波書店    1949(昭和24)年10月20日第1刷発行    1994(平成6)年3月8日第34刷発行 底本の親本:「デカルト選集第二卷」創元社    1948(昭和23)年 ※「或ひは」と「あるひは」、「且つ」と「且」、「全く」と「まつたく」、「明かに」と「あきらかに」、「今」と「いま」、「確かに」「たしかに」、「極めて」と「きはめて」の混在は、底本通りです。 ※原題の副題の「DE PRIMA PHILOSOPHIA, IN QUIBUS DEI EXISTENTIA, ET ANIMAE HUMANAE À CORPORE DISTINCTIO, DEMONSTRANTUR.」は、ファイル冒頭ではアクセント符号を略し、「DE PRIMA PHILOSOPHIA, IN QUIBUS DEI EXISTENTIA, ET ANIMAE HUMANAE A CORPORE DISTINCTIO, DEMONSTRANTUR.」としました。 入力:山下裕嗣 校正:Juki 2015年12月13日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。