ランボオ詩集 OEVRES D'ARTHUR RIMBAUD ジャン・ニコラ・アルチュール・ランボー Jean Nicolas Arthur Rimbaud 中原中也訳 Guide 扉 本文 目 次 ランボオ詩集 OEVRES D'ARTHUR RIMBAUD 初期詩篇 感動 フォーヌの頭 びつくりした奴等 谷間の睡眠者 食器戸棚 わが放浪 蹲踞 坐つた奴等 夕べの辞 教会に来る貧乏人 七才の詩人 盗まれた心 ジャンヌ・マリイの手 やさしい姉妹 最初の聖体拝受 酔ひどれ船 虱捜す女 母音 四行詩 烏 飾画篇 静寂 涙 カシスの川 朝の思ひ ミシェルとクリスチイヌ 渇の喜劇 恥 若夫婦 忍耐 永遠 最も高い塔の歌 彼女は埃及舞妓か? 幸福 飢餓の祭り 海景 追加篇 孤児等のお年玉 太陽と肉体 オフェリア 首吊人等の踊り タルチュッフの懲罰 海の泡から生れたヴィナス ニイナを抑制するものは 音楽堂にて 喜劇・三度の接唇 物語 冬の思ひ 災難 シーザーの激怒 キャバレ・ヹールにて 『皇帝万歳!』の叫び共に贏ち得られたる いたづら好きな女 附録 失はれた毒薬(未発表詩) 後記      初期詩篇  感動 私はゆかう、夏の青き宵は 麦穂臑刺す小径の上に、小草を蹈みに 夢想家・私は私の足に、爽々しさのつたふを覚え、 吹く風に思ふさま、私の頭をなぶらすだらう! 私は語りも、考へもしまい、だが 果てなき愛は心の裡に、浮びも来よう 私は往かう、遠く遠くボヘミヤンのやう 天地の間を、女と伴れだつやうに幸福に。  フォーヌの頭 緑金に光る葉繁みの中に、 接唇が眠る大きい花咲く けぶるがやうな葉繁みの中に 活々として、佳き刺繍をだいなしにして ふらふらフォーヌが二つの目を出し その皓い歯で真紅な花を咬んでゐる。 古酒と血に染み、朱に浸され、 その唇は笑ひに開く、枝々の下。 と、逃げ隠れた──まるで栗鼠、── 彼の笑ひはまだ葉に揺らぎ 鷽のゐて、沈思の森の金の接唇 掻きさやがすを、われは見る。  びつくりした奴等 雪の中、濃霧の中の黒ン坊か 炎のみゆる気孔の前に、    奴等車座 跪づき、五人の小童──あなあはれ!── ジツと見てゐる、麺麭屋が焼くのを    ふつくらとした金褐の麺麭、 奴等見てゐるその白い頑丈な腕が 粘粉でつちて窯に入れるを    燃ゆる窯の穴の中。 奴等聴くのだいい麺麭の焼ける音。 ニタニタ顔の麺麭屋殿には    古い節なぞ唸つてる。 奴等まるまり、身動きもせぬ、 真ツ赤な気孔の息吹の前に    胸かと熱い息吹の前に。 メディオノーシュ(1)に、 ブリオーシュ(2)にして    麺麭を売り出すその時に、 煤けた大きい梁の下にて、 蟋蟀と、出来たての    麺麭の皮とが唄ふ時、 窯の息吹ぞ命を煽り、 襤褸の下にて奴等の心は うつとりするのだ、此の上もなく、 奴等今更生甲斐感じる、 氷花に充ちた哀れな基督たち、    どいつもこいつも 窯の格子に、鼻面くつつけ、 中に見えてる色んなものに    ぶつくさつぶやく、 なんと阿呆らし奴等は祈る 霽れたる空の光の方へ    ひどく体を捩じ枉げて それで奴等の股引は裂け それで奴等の肌襦絆    冬の風にはふるふのだ。   註(1)断肉日の最終日にとる食事。    (2)パンケーキの一種。  谷間の睡眠者 これは緑の窪、其処に小川は 銀のつづれを小草にひつかけ、 其処に陽は、矜りかな山の上から 顔を出す、泡立つ光の小さな谷間。 若い兵卒、口を開き、頭は露き出し 頸は露けき草に埋まり、 眠つてる、草ン中に倒れてゐるんだ雲の下、 蒼ざめて。陽光はそそぐ緑の寝床に。 両足を、水仙菖に突つ込んで、眠つてる、微笑むで、 病児の如く微笑んで、夢に入つてる。 自然よ、彼をあつためろ、彼は寒い! いかな香気も彼の鼻腔にひびきなく、 陽光の中にて彼眠る、片手を静かな胸に置き、 見れば二つの血の孔が、右脇腹に開いてゐる。  食器戸棚 これは彫物のある大きい食器戸棚 古き代の佳い趣味あつめてほのかな檞材。 食器戸棚は開かれてけはひの中に浸つてゐる、 古酒の波、心惹くかをりのやうに。 満ちてゐるのは、ぼろぼろの古物、 黄ばんでプンとする下着類だの小切布だの、 女物あり子供物、さては萎んだレースだの、 禿鷹の模様の描かれた祖母の肩掛もある。 探せば出ても来るだらう恋の形見や、白いのや 金褐色の髪の束、肖顔や枯れた花々や それのかをりは果物のかをりによくは混じります。 おゝいと古い食器戸棚よ、おまへは知つてる沢山の話! おまへはそれを話したい、おまへはそれをささやくか 徐かにも、その黒い大きい扉が開く時。  わが放浪 私は出掛けた、手をポケットに突つ込んで。 半外套は申し分なし。 私は歩いた、夜天の下を、ミューズよ、私は忠僕でした。 さても私の夢みた愛の、なんと壮観だつたこと! 独特の、わがズボンには穴が開いてた。 小さな夢想家・わたくしは、道中韻をば捻つてた。 わが宿は、大熊星座。大熊星座の星々は、 やさしくささやきささめいてゐた。 そのささやきを路傍に、腰を下ろして聴いてゐた あゝかの九月の宵々よ、酒かとばかり 額には、露の滴を感じてた。 幻想的な物影の、中で韻をば踏んでゐた、 擦り剥けた、私の靴のゴム紐を、足を胸まで突き上げて、 竪琴みたいに弾きながら。  蹲踞 やがてして、兄貴カロチュス、胃に不愉快を覚ゆるに、 軒窗に一眼ありて其れよりぞ 磨かれし大鍋ごとき陽の光 偏頭痛さへ惹起し、眼どろんとさせるにぞ、 そのでぶでぶのお腹をば布団の中にと運びます。 ごそごそと、灰色の布団の中で大騒ぎ、 獲物啖つたる年寄さながら驚いて、 ぼてぼての腹に膝をば当てまする。 なぜかなら、拳を壺の柄と枉げて、 肌着をばたつぷり腰までまくるため! ところで彼氏蹲みます、寒がつて、足の指をば ちぢかめて、麺麭の黄を薄い硝子に被せかける 明るい日向にかぢかむで。 扨お人好し氏の鼻こそは仮漆と光り、 肉出来の珊瑚樹かとも、射し入る陽光を厭ひます。      ★ お人好し氏は漫火にあたる。腕拱み合せ、下唇を だらりと垂らし。彼氏今にも火中に滑り、 ズボンを焦し、パイプは消ゆると感ずなり。 何か小鳥のやうなるものは、少しく動く そのうららかなお腹でもつて、ちよいと臓物みたいなふうに! 四辺では、使ひ古るした家具等の睡り。 垢じみた襤褸の中にて、穢らはし壁の前にて、 腰掛や奇妙な寝椅子等、暗い四隅に 蹲まる。食器戸棚はあくどい慾に 満ちた睡気をのぞかせる歌手達の口を有つ いやな熱気は手狭な部屋を立ち罩める。 お人好し氏の頭の中は、襤褸布で一杯で、 硬毛は湿つた皮膚の中にて、突つ張るやうで、 時あつて、猛烈可笑しい嚏も出れば、 がたがたの彼氏の寝椅子はゆれまする……      ★ その宵、彼氏のお臀のまはりに、月光が 光で出来た鋳物の接合線を作る時、よく見れば 入り組んだ影こそ蹲んだ彼氏にて、薔薇色の 雪の配景のその前に、たち葵かと…… 面白や、空の奥まで、面はヴィーナス追つかける。  坐つた奴等 肉瘤で黒くて痘瘡あり、緑い指環を嵌めたよなその眼、 すくむだ指は腰骨のあたりにしよむぼりちぢかむで、 古壁に、漲る瘡蓋模様のやうに、前頭部には、 ぼんやりとした、気六ヶ敷さを貼り付けて。 恐ろしく夢中な恋のその時に、彼等は可笑しな体躯をば、 彼等の椅子の、黒い大きい骨組に接木したのでありました。 枉がつた木杭さながらの彼等の足は、夜となく 昼となく組み合はされてはをりまする! これら老爺は何時もかも、椅子に腰掛け編物し、 強い日射しがチクチクと皮膚を刺すのを感じます、 そんな時、雪が硝子にしぼむよな、彼等のお眼は 蟇の、いたはし顫動にふるひます。 さてその椅子は、彼等に甚だ親切で、褐に燻され、 詰藁は、彼等のお尻の形なりになつてゐるのでございます。 甞て照らせし日輪は、甞ての日、その尖に穀粒さやぎし詰藁の 中にくるまり今も猶、燃つてゐるのでございます。 さて奴等、膝を立て、元気盛んなピアニスト? 十の指は椅子の下、ぱたりぱたりと弾きますれば、 かなし船唄ひたひたと、聞こえ来るよな思ひにて、 さてこそ奴等の頭は、恋々として横に揺れ。 さればこそ、奴等をば、起たさうなぞとは思ひめさるな…… それこそは、横面はられた猫のやう、唸りを発し、湧き上り、 おもむろに、肩をばいからせ、おそろしや、 彼等の穿けるズボンさへ、むツく〳〵とふくれます。 さて彼等、禿げた頭を壁に向け、 打衝てるのが聞こえます、枉がつた足をふんばつて 彼等の服の釦こそ、鹿ノ子の色の瞳にて それは廊下のどんづまり、みたいな眼付で睨めます。 彼等にはまた人殺す、見えないお手がありまして、 引つ込めがてには彼等の眼、打たれた犬のいたいたし 眼付を想はすどす黒い、悪意を滲み出させます。 諸君はゾツとするでせう、恐ろし漏斗に吸込まれたかと。 再び坐れば、汚ないカフスに半ば隠れた拳固して、 起たさうとした人のこと、とつくり思ひめぐらします。 と、貧しげな顎の下、夕映や、扁桃腺の色をして、 ぐるりぐるりと、ハチきれさうにうごきます。 やがてして、ひどい睡気が、彼等をこつくりさせる時、 腕敷いて、彼等は夢みる、結構な椅子のこと。 ほんに可愛いい愛情もつて、お役所の立派な室に、 ずらり並んだ房の下がつた椅子のこと。 インキの泡がはねツかす、句点の形の花粉等は、 水仙菖の線真似る、蜻蛉の飛行の如くにも 彼等のお臍のまはりにて、彼等をあやし眠らする。 ──さて彼等、腕をもじ〳〵させまする。髭がチクチクするのです。  夕べの辞 私は坐りつきりだつた、理髪師の手をせる天使そのままに、 丸溝のくつきり付いたビールのコップを手に持ちて、 下腹突き出し頸反らし陶土のパイプを口にして、 まるで平とさへみえる、荒模様なる空の下。 古き鳩舎に煮えかへる鳥糞の如く、 数々の夢は私の胸に燃え、徐かに焦げて。 やがて私のやさしい心は、沈欝にして生々し 溶けた金のまみれつく液汁木質さながらだつた。 さて、夢を、細心もつて嚥み下し、 身を転じ、──ビール三四十杯を飲んだので 尿意遂げんとこゝろをあつめる。 しとやかに、排香草や杉にかこまれし天主の如く、 いよ高くいよ遐く、褐色の空には向けて放尿す、 ──大いなる、ヘリオトロープにうべなはれ。  教会に来る貧乏人 臭い息にてむツとする教会の隅ツこの、 樫材の床几にちよこなんと、眼は一斉に てんでに丸い脣してる唱歌隊へと注がれて。さて 二十人なる唱歌隊、大声で、敬虔な讃美歌を怒鳴ります。 蝋の臭気を吸ひ込める麺麭の匂ひの如くにも、 なんとはや、打たれた犬と気の弱い貧乏人等が、 旦那たり我君様たる神様に、 可笑しげな、なんとも頑固な祈祷を捧げるのではございます。 女連、滑らかな床几に坐つてまあよいことだ、 神様が、苦しめ給ふた暗い六日のそのあとで! 彼女等あやしてをりまする、めうな綿入にくるまれて 死なんばかりに泣き叫ぶ、まだいたいけな子供をば。 胸のあたりを汚してる、肉汁食ひの彼女等は、 祈りするよな眼付して、祈りなんざあしませんで、 お転婆娘の一団が、いぢくりまはした帽子をかぶり、 これみよがしに振舞ふを、ジツとみつめてをりまする。 戸外には、寒気と飢餓と、而も男はぐでんぐでん。 それもよい、しかし後刻では名もない病気! ──それなのにそのまはりでは、干柿色の婆々連、 或ひは呟き、鼻声を出し、或ひはこそこそ話します。 其処にはびツくりした奴もゐる、昨日巷で人々が 避けて通つた癲癇病者もゐる、 古いお弥撒の祈祷集に、面つツ込んでる盲者等は 犬に連れられ来たのです。 どれもこれもが間の抜けた物欲しさうな呟きで 無限の嘆きをだらだらとエス様に訴へる エス様は、焼絵玻璃で黄色くなつて、高い所で夢みてござる、 痩せつぽちなる悪者や、便々腹の意地悪者や 肉の臭気や織物の、黴びた臭ひも知らぬげに、 いやな身振で一杯のこの年来の狂言におかまひもなく。 さてお祈りが、美辞や麗句に花咲かせ、 真言秘密の傾向が、まことしやかな調子をとる時、 日影も知らぬ脇間では、ごくありふれた絹の襞、 峻厳さうなる微笑の、お屋敷町の奥さん連、 あの肝臓の病人ばらが、──おゝ神よ!── 黄色い細いその指を、聖水盤にと浸します。  七才の詩人 母親は、宿題帖を閉ぢると、 満足して、誇らしげに立去るのであつた、 その碧い眼に、その秀でた額に、息子が 嫌悪の情を浮べてゐるのも知らないで。 ひねもす彼は、服従でうんざりしてゐた 聡明な彼、だがあのいやな顔面痙搐患つてをり、 その目鼻立ちの何処となく、ひどい偽嬌を見せてゐた。 壁紙が、黴びつた廊下の暗がりを 通る時には、股のつけ根に拳をあてがひ 舌をば出した、眼をつぶつて点々も視た。 夕闇に向つて戸口は開いてゐた、ラムプの明りに 見れば彼、敷居の上に喘いでゐる、 屋根から落ちる天窗の明りのその下で。 夏には彼、へとへとになり、ぼんやりし、 厠の涼気のその中に、御執心にも蟄居した。 彼は其処にて思念した、落付いて、鼻をスースーいはせつゝ。 様々な昼間の匂ひに洗はれて、小園が、 家の背後で、冬の陽光を浴びる時、彼は 壁の根元に打倒れ、泥灰石に塗れつゝ 魚の切身にそつくりな、眼を細くして、 汚れた壁に匍ひ付いた、葡萄葉の、さやさやさやぐを聴いてゐた。 いたはしや! 彼の仲間ときた日には、 帽子もかぶらず色褪せた眼をした哀れな奴ばかり、 市場とばかりぢぢむさい匂ひを放げる着物の下に 泥に汚れて黄や黒の、痩せた指をば押し匿し、 言葉を交すその時は、白痴のやうにやさしい奴等。 この情けない有様を、偶々見付けた母親は 慄へ上つて怒気含む、すると此の子のやさしさは その母親の驚愕に、とまれかくまれ身を投げる。 母親だつて嘘つきな、碧い眼をしてゐるではないか! 七才にして、彼は砂漠の生活の物語を書いた。 大沙漠、其処で自由は伸び上り、 森も陽も大草原も、岸も其処では燿いた! 彼は絵本に助けを借りた、彼は絵本を一心に見た、 其処にはスペイン人、イタリヤ人が、笑つてゐるのが見られるのだつた。 更紗模様の着物著た、お転婆の茶目の娘が来るならば、 ──その娘は八才で、隣りの職人の子なのだが、 此の野放しの娘奴が、その背に編髪を打ゆすり、 片隅で跳ね返り、彼にとびかゝり、 彼を下敷にするといふと、彼は股に噛み付いた、 その娘、ズロース穿いてたことはなく、 扨、拳固でやられ、踵で蹴られた彼は今、 娘の肌の感触を、自分の部屋まで持ち帰る。 どんよりとした十二月の、日曜日を彼は嫌ひであつた、 そんな日は、髪に油を付けまして、桃花心木の円卓に着き、 縁がキャベツの色をした、バイブルを、彼は読むのでありました。 数々の夢が毎晩寝室で、彼の呼吸を締めつけた。 彼は神様を好きでなかつた、鹿ノ子の色の黄昏に場末の町に、 仕事着を着た人々の影、くり出して来るのを彼は見てゐた 扨其処には東西屋がゐて、太鼓を三つ叩いては、 まはりに集る群集を、どつと笑はせ唸らせる。 彼は夢みた、やさしの牧場、其処に耀ふ大浪は、 清らの香は、金毛は、静かにうごくかとみれば フツ飛んでゆくのでありました。 彼はとりわけ、ほのかに暗いものを愛した、 鎧戸閉めて、ガランとした部屋の中、 天井高く、湿気に傷む寒々とした部屋の中にて、 心を凝らし気を凝らし彼が物語を読む時は、 けだるげな石黄色の空や又湿つた森林、 霊妙の林に開く肉の花々、 心に充ちて──眩暈、転落、潰乱、はた遺恨!── かゝる間も下の方では、街の躁音のこやみなく 粗布重ねその上に独りごろんと寝ころべば 粗布は、満々たる帆ともおもはれて!……  盗まれた心 私の悲しい心は船尾に行つて涎を垂らす、 私の心は安い煙草にむかついてゐる。 そしてスープの吐瀉を出す、 私の悲しい心は船尾に行つて涎を垂らす。 一緒になつてげらげら笑ふ 世間の駄洒落に打ちのめされて、 私の悲しい心は船尾に行つて涎を垂らす、 私の心は安い煙草にむかついてゐる! 諷刺詩流儀の雑兵気質の 奴等の駄洒落が私を汚した! 舵の処には壁画が見える 諷刺詩流儀の雑兵気質の。 おゝ、玄妙不可思議の波浪よ、 私の心を浚ひ清めよ、 諷刺詩流儀の雑兵気質の 奴等の駄洒落が私を汚した。 奴等の噛煙草が尽きたとなつたら、 どうすれあいいのだ? 盗まれた心よ。 それこそ妙な具合であらうよ、 奴等の煙草が尽きたとなつたら。 私のお腹が跳び上るだらう、 それで心は奪回せるにしても。 奴等の噛煙草が尽きたとなつたら、 どうすれあいいのだ? 盗まれた心よ。  ジャンヌ・マリイの手 ジャンヌ・マリイは丈夫な手してる、 だが夏負けして仄かに暗く、 蒼白いこと死人の手のやう。 ──ジュアナの手とも云ふべきだ? この双つの手は褐の乳脂を 快楽の池に汲んだのだらうか? この双つの手は月きららめく 澄めらの水に浸つたものか? 太古の空を飲むだのだらうか? 可愛いお膝にちよんと置かれて。 この手で葉巻を巻いただらうか、 それともダイヤを商つたのか? マリアの像の熱き御足に 金の花をば萎ませたらうか? 西洋莨菪の黒い血は 掌の中で覚めたり睡たり。 双翅類をば猟り集め まだ明けやらぬ晨のけはひを 花々の密の槽へと飛ばすのか? それとも毒の注射師か? 如何なる夢が捉へたのだらう? 展伸げられたるこの手をば、 亜細亜のかカンガヷールのか それともシオンの不思議な夢か? ──密柑を売りはしなかつた、 神々の足の上にて、日に焼けたりもしなかつた。 この手はぶざまな赤ン坊たちの 襁褓を洗つたことはない。 この手は背骨の矯正者、 決して悪くはしないのだ、 機械なぞより正確で、 馬よりも猶強いのだ! 猛火とうごめき 戦き慄ひ、この手の肉は マルセイェーズを歌ふけれども エレーゾンなぞ歌はない! あらくれどもの狼藉は 厳冬の如くこの手に応へ、 この手の甲こそ気高い暴徒が 接唇をしたその場所だ! 或時この手が蒼ざめた、 蜂起した巴里市中の 霰弾砲の唐銅の上に 托された愛の太陽の前で! 神々しい手よ、甞てしらじらしたことのない 我等の脣を顫はせる手よ、 時としておまへは拳の形して、その拳に 一連の、指環もがなと叫ぶのだ! 又時としてその指々の血を取つて、 おまへがさつぱりしたい時、 天使のやうな手よ、それこそは 我等の心に、異常な驚き捲き起すのだ。  やさしい姉妹 若者、その眼は輝き、その皮膚は褐色、 裸かにしてもみまほしきその体躯 月の下にて崇めらる、ペルシャの国の、 或る知られざる神の持つ、銅に縁どられたる額して、 慓悍なれども童貞の悲観的なるやさしさをもち おのが秀れた執心に誇りを感じ、 若々し海かはた、ダイアモンドの地層の上に きららめく真夏の夜々の涙かや、 此の若者、現世の醜悪の前に、 心の底よりゾツとして、いたく苛立ち、 癒しがたなき傷手を負ひてそれよりは、 やさしき妹のありもせばやと、思ひはじめぬ。 さあれ、女よ、臓腑の塊り、憐憫の情持てるもの、 汝、女にあればとて、吾の謂ふやさしき妹にはあらじ! 黒き眼眸、茶色めく影睡る腹持たざれば、 軽やかの指、ふくよかの胸持たざれば。 目覚ます術なき大いなる眸子をもてる盲目の女よ、 わが如何なる抱擁もつひに汝には訝かしさのみ、 我等に附纏ふのはいつでも汝、乳房の運び手、 我等おまへを接唇る、穏やかに人魅する情熱よ。 汝が憎しみ、汝が失神、汝が絶望を、 即ち甞ていためられたるかの獣性を、 月々に流されるかの血液の過剰の如く、 汝は我等に返報ゆなり、おゝ汝、悪意なき夜よ。      ★ 一度女がかの恐惶、愛の神、 生の呼び声、行為の歌に駆り立てられるや、 緑の美神と正義の神は顕れて そが厳めしき制縛もて彼を引裂くのであつた! 絶えず〳〵壮観と、静謐に渇する彼は、 かの執念の姉妹には見棄てられ、 やさしさ籠めて愚痴を呟き、巧者にも 花咲く自然に血の出る額を彼は与へるのであつた。 だが冷厳の錬金術、神学的な研鑚は 傷付いた彼、この倨傲なる学徒には不向きであつた。 狂暴な孤独はかくて彼の上をのそりのそりと歩き廻つた。 かゝる時、まこと爽かに、いつかは彼も験めるべき 死の忌はしさの影だになく、真理の夜々の空にみる かの夢とかの壮麗な逍遥は、彼の想ひに現れて、 その魂に病む四肢に、呼び覚まされるは 神秘な死、それよやさしき妹なるよ!  最初の聖体拝受      Ⅰ それあもう愚劣なものだ、村の教会なぞといふものは 其処に可笑しな村童の十四五人、柱に垢をつけながら 神聖なお説教がぽつりぽつりと話されるのを聴いてゐる、 まこと奇妙な墨染の衣、その下では靴音がごそごそとしてゐる。 あゝそれなのに太陽は木々の葉越しに輝いてゐる、 不揃ひな焼絵玻璃の古ぼけた色を透して輝いてゐる。 石は何時でも母なる大地を呼吸してゐる。 さかりがついて荘重に身顫ひをする野原の中には 泥に塗れた小石の堆積なぞ見受けるもので、 重つたるい麦畑の近く、赫土の小径の中には 焼きのまはつた小さな木々が立つてゐて、よくみれば青い実をつけ、 黒々とした桑の樹の瘤や、怒気満々たる薔薇の木の瘤、 百年目毎に、例の美事な納屋々々は 水色か、クリーム色の野呂で以て塗換へられる。 ノートル・ダムや藁まみれの聖人像の近傍に たとへ異様な聖物はごろごろし過ぎてゐようとも、 蠅は旅籠屋や牛小舎に結構な匂ひを漂はし 日の当つた床からは蝋を鱈腹詰め込むのだ。 子供は家に尽さなければならないことで、つまりその 凡々たる世話事や人を愚鈍にする底の仕事に励まにやならぬのだ。 彼等は皮膚がむづむづするのを忘れて戸外に出る、 皮膚にはキリストの司祭様が今し効験顕著な手をば按かれたのだ。 彼等は司祭様には東屋の蔭濃き屋根を提供する すると彼等は日焼けした額をば陽に晒させて貰へるといふわけだ。 最初の黒衣よ、どらやきの美しく見ゆる日よ、 ナポレオンの形をしたのや小判の形をしたの 或ひは飾り立てられてジョゼフとマルトが 恋しさ余つて舌を出した絵のあるものや ──科学の御代にも似合はしからうこれらの意匠── これら僅かのものこそが最初の聖体拝受の思ひ出として彼等の胸に残るもの。 娘達は何時でもはしやいで教会に行く、 若い衆達から猥なこと囁かれるのをよいことに 若い衆達はミサの後、それとも愉快な日暮時、よく密会をするのです。 屯営部隊のハイカラ者なる彼等ときては、カフヱーで 勢力のある家々のこと、あしざまに云ひ散らし、 新しい作業服着て、恐ろしい歌を怒鳴るといふ始末。 扨、主任司祭様には子供達のため絵図を御撰定遊ばした。 主任司祭様の菜園に、かの日暮時、空気が遠くの方から そこはかとなく舞踏曲に充ちてくる時、 主任司祭様には、神様の御禁戒にも拘らず 足の指がはしやぎだすのやふくらはぎがふくらむのをお感じになる…… ──夜が来ると、黒い海賊船が金の御空に現れ出ます。      Ⅱ 司祭様は郊外や豊かな町々の信者達の間から 名も知れぬ一人の少女を撰り出しなされた その少女の眼は悲しげで、額は黄色い色をしてゐた。 その両親は親切な門番か何かのやうです。 ⦅聖体拝受のその日に、伝導師の中でもお偉い神様は この少女の額に聖水を、雪と降らしめ給ふであらう。⦆      Ⅲ 最初の聖体拝受の前日に、少女は病気になりました。 上等の教会の葬式の日の喧噪よりも甚だしく はじめまづ悪寒が来ました、──寝床は味気なくもなかつた、 並ならぬ悪寒は繰返し襲つて来ました、⦅私は死にます……⦆ 恋の有頂天が少女の愚かな姉妹達を襲つた時のやうに、 少女は打萎れ両手を胸に置いたまゝ、熱心に 諸天使や諸所のエス様や聖母様を勘定しはじめました、 そして静かに、なんとも云へぬ喜びにうつとりするのでありました。 神様!……──羅典の末期にありましては、 緑の波形ある空が朱色の、 天の御胸の血に染みた人々の額を潤ほしました、 雪のやうな大きな麻布は、太陽の上に落ちかゝりました!── 現在の貞潔のため、将来の貞潔のために 少女はあなたの『容赦』の爽々しさにむしやぶりついたのでございますが、 水中の百合よりもジャムよりももつと あなたの容赦は冷たいものでございました、おやシオンの女王様よ!      〓(「IIII」) それからといふもの聖母ははや書物の中の聖母でしかなかつた、 神秘な熱も時折衰へるのであつた…… 退屈や、どぎつい極彩色や年老いた森が飾り立てる 御容姿の数々も貧弱に見え出してくるのであつた、 どことなく穢らはしい貴重な品の数々も 貞純にして水色の少女の夢を破るのであつた、 又脱ぎ捨てられた聖衣の数々、 エス様が裸体をお包みなされたといふ下著をみては吃驚するのでありました。 それなのになほも彼女は願ふ、遣瀬なさの限りにゐて、 歔欷に窪んだ枕に伏せて、而も彼女は 至高のお慈悲のみ光の消えざらんやう願ふのであつた 扨涎が出ました……──夕闇は部屋に中庭に充ちてくる。 少女はもうどうしやうもない。身を動かし腰を伸ばして、 手で青いカーテンを開く、 涼しい空気を少しばかり敷布や 自分のお腹や熱い胸に入れようとして。      Ⅴ 夜中目覚めて、窓はいやに白つぽかつた 灯火をうけたカーテンの青い睡気のその前に。 日曜日のあどけなさの幻影が彼女を捉へる 今の今迄真紅な夢を見てゐたつけが、彼女は鼻血を出しました。 身の潔白を心に感じ身のか弱さを心に感じ 神様の温情をこころゆくまで味ははうとて、 心臓が、激昂つたりまた鎮まつたりする、夜を彼女は望んでゐました。 そのやさしい空の色をば心に想ひみながらも、 夜、触知しがたい聖なる母は、すべての若気を 灰色の沈黙に浸してしまひます、 彼女は心が血を流し、声も立て得ぬ憤激が 捌け口見付ける強烈な夜を望んでゐたのです。 扨夜は、彼女を犠牲としまた配偶となし、 その星は、燭火手に持ち、見てました、 白い幽霊とも見える仕事着が干されてあつた中庭に 彼女が下り立ち、黒い妖怪の屋根々々を取払ふのを。      Ⅵ 彼女は彼女の聖い夜をば厠の中で過ごしました。 燭火の所、屋根の穴とも云ひつべき所に向けて 白い気体は流れてゐました、青銅色の果をつけた野葡萄の木は 隣家の中庭のこつちをばこつそり通り抜けるのでした。 天窗は、ほのぼの明る火影の核心 窓々の、硝子に空がひつそりと鍍金してゐる中庭の中 敷石は、アルカリ水の匂ひして 黒い睡気で一杯の壁の影をば甘んじて受けてゐるのでありました……      Ⅶ 誰か恋のやつれや浅ましい恨みを口にするものぞ また、潔い人をも汚すといふかの憎悪が もたらす所為を云ふものぞ、おゝ穢らはしい狂人等、 折も折かの癩が、こんなやさしい肉体を啖はんとするその時に……      Ⅷ さて彼女に、ヒステリックな錯乱がまたも起つて来ますといふと 彼女は目のあたり見るのです、幸福な悲愁の思ひに浸りつつ、 恋人が真つ白い無数のマリアを夢みてゐるのを、 愛の一夜の明け方に、いとも悲痛な面持で。 ⦅御存じ? 妾が貴方を亡くさせたのです。妾は貴方のお口を心を、 人の持つてるすべてのもの、えゝ、貴方のお持ちのすべてのものを 奪つたのでした。その妾は病気です、妾は寝かせて欲しいのです 夜の水で水飼はれるといふ、死者達の間に、私は寝かせて欲しいのです ⦅妾は稚かつたのです、キリスト様は妾の息吹をお汚しなすつた、 その時妾は憎悪が、咽喉までこみあげましたのです! 貴方は妾の羊毛と、深い髪毛に接唇ました、 妾はなさるがまゝになつてゐた……あゝ、行つて下さい、その方がよろしいのです、 男の方々は! 愛情こまやかな女といふものが 汚い恐怖を感える時は、どんなにはぢしめられ、 どんなにいためられるものであるかにお気付きならない 又貴方への熱中のすべてが不品行であることにお気付きならない! ⦅だつて妾の最初の聖体拝受は取行はれました。 妾は貴方の接唇を、お受けすることは出来ません、 妾の心と、貴方がお抱きの妾のからだは エス様の腐つた接唇でうよ〳〵してます!⦆      Ⅸ かくて敗れた魂と悲しみ悶える魂は キリストよ、汝が呪詛の滔々と流れ流れるを感ずるのです、 ──男等は、汝が不可侵の『憎悪』の上に停滞つてゐた、 死の準備のためにとて、真正な情熱を逃れることにより、 キリストよ! 汝永遠の精力の掠奪者、 父なる神は二千年もの間、汝が蒼白さに捧げしめ給うたといふわけか 恥と頭痛で地に縛られて、 動顛したる、女等のいと悲しげな額をば。  酔ひどれ船 私は不感な河を下つて行つたのだが、 何時しか私の曳船人等は、私を離れてゐるのであつた、 みれば罵り喚く赤肌人等が、彼等を的にと引ツ捕へ、 色とりどりの棒杭に裸かのままで釘附けてゐた。 私は一行の者、フラマンの小麦や英綿の荷役には とんと頓着してゐなかつた 曳船人等とその騒ぎとが、私を去つてしまつてからは 河は私の思ふまま下らせてくれるのであつた。 私は浪の狂へる中を、さる冬のこと 子供の脳より聾乎として漂つたことがあつたつけが! 怒濤を繞らす半島と雖も その時程の動乱を蒙けたためしはないのであつた。 嵐は私の海上に於ける警戒ぶりを讃歎した。 浮子よりももつと軽々私は浪間に躍つてゐた 犠牲者達を永遠にまろばすといふ浪の間に 幾夜ともなく船尾の灯に目の疲れるのも気に懸けず。 子供が食べる酸い林檎よりもしむみりと、 緑の水はわが樅の船体に滲むことだらう 又安酒や嘔吐の汚点は、舵も錨も失せた私に 無暗矢鱈に降りかかつた。 その時からだ、私は海の歌に浴した。 星を鏤め乳汁のやうな海の、 生々しくも吃水線は蒼ぐもる、緑の空に見入つてあれば、 折から一人の水死人、思ひ深げに下つてゆく。 其処に忽ち蒼然色は染め出され、おどろしく またゆるゆると陽のかぎろひのその下を、 アルコールよりもなほ強く、竪琴よりも渺茫と、 愛執のにがい茶色も漂つた! 私は知つてゐる稲妻に裂かれる空を竜巻を 打返す浪を潮流を。私は夕べを知つてゐる、 群れ立つ鳩にのぼせたやうな曙光を、 又人々が見たやうな気のするものを現に見た。 不可思議の畏怖に染みた落日が 紫の長い凝結を照らすのは 古代の劇の俳優か、 大浪は遠くにはためき逆巻いてゐる。 私は夢みた、眩いばかり雪降り積つた緑の夜を 接唇は海の上にゆらりゆらりと立昇り、 未聞の生気は循環し 歌ふがやうな燐光は青に黄色にあざやいだ。 私は従つた、幾月も幾月も、ヒステリックな 牛小舎に似た大浪が暗礁を突撃するのに、 もしもかの光り耀ふマリアの御足が お望みとあらば太洋に猿轡かませ給ふも儘なのを気が付かないで。 船は衝突つた、世に不可思議なフロリダ州 人の肌膚の豹の目は叢なす花にいりまじり、 手綱の如く張りつめた虹は遥かの沖の方 海緑色の畜群に、いりまじる。 私は見た、沼かと紛ふ巨大な魚梁が沸き返るのを 其処にレヴィヤタンの一族は草に絡まり腐りゆき、 凪の中心に海水は流れいそそぎ 遠方は淵を目がけて滝となる! 氷河、白銀の太陽、真珠の波、燠の空、 褐色の入江の底にぞつとする破船の残骸、 其処に大きな蛇は虫にくはれて くねくねの木々の枝よりどす黒い臭気をあげては堕ちてゐた! 子供等に見せたかつたよ、碧波に浮いてゐる鯛、 其の他金色の魚、歌ふ魚、 漚の花は私の漂流を祝福し、 えもいへぬ風は折々私を煽てた。 時として地極と地帯に飽き果てた殉教者・海は その歔欷でもつて私をあやし、 黄色い吸口のある仄暗い花をばかざした その時私は膝つく女のやうであつた 半島はわが船近く揺らぎつつ金褐の目の 怪鳥の糞と争ひを振り落とす、 かくてまた漂ひゆけば、わが細綱を横切つて 水死人の幾人か後方にと流れて行つた…… 私としてからが浦々の乱れた髪に踏み迷ひ 鳥も棲まはぬ気圏までも颶風によつて投げられたらば 海防艦もハンザの船も 水に酔つた私の屍骸を救つてくれはしないであらう、 思ひのままに、煙吹き、紫色の霧立てて、 私は、詩人等に美味しいジャミや、 太陽の蘇苔や青空の鼻涕を呉れる 壁のやうに赤らんだ空の中をずんずん進んだ、 電気と閃く星を著け、 黒い海馬に衛られて、狂へる小舟は走つてゐた、 七月が、丸太ン棒で打つかとばかり 燃える漏斗のかたちした紺青の空を揺るがせた時、 私は慄へてゐた、五十里の彼方にて ベヘモと渦潮の発情の気色がすると、 ああ永遠に、青き不動を紡ぐ海よ、 昔ながらの欄干に倚る欧羅巴が私は恋しいよ。 私は見た! 天にある群島を! その島々の 狂ほしいまでのその空は漂流ふ者に開放されてた、 底知れぬこんな夜々には眠つてゐるのか、もう居ないのか おゝ、百万の金の鳥、当来の精力よ! だが、惟へば私は哭き過ぎた。曙は胸抉り、 月はおどろしく陽はにがかつた。 どぎつい愛は心蕩かす失神で私をひどく緊めつけた。 おゝ! 竜骨も砕けるがよい、私は海に没してしまはう! よし今私が欧羅巴の水を望むとしても、それははや 黒い冷たい林の中の瀦水で、其処に風薫る夕まぐれ 子供は蹲んで悲しみで一杯になつて、放つのだ 五月の蝶かといたいけな笹小舟。 あゝ浪よ、ひとたびおまへの倦怠にたゆたつては、 綿船の水脈ひく跡を奪ひもならず、 旗と炎の驕慢を横切りもならず、 船橋の、恐ろしい眼の下をかいくぐることも、出来ないこつた。  虱捜す女 嬰児の額が、赤い憤気に充ちて来て、 なんとなく、夢の真白の群がりを乞うてゐるとき、 美しい二人の処女は、その臥床辺に現れる、 細指の、その爪は白銀の色をしてゐる。 花々の乱れに青い風あたる大きな窓辺に、 二人はその子を坐らせる、そして 露滴くふさふさのその子の髪に 無気味なほども美しい細い指をばさまよはす。 さて子供は聴く気づかはしげな薔薇色のしめやかな蜜の匂ひの するやうな二人の息が、うたふのを、 唇にうかぶ唾液か接唇を求める慾か ともすればそのうたは杜切れたりする。 子供は感じる処女らの黒い睫毛がにほやかな雰気の中で まばたくを、また敏捷いやさ指が、 鈍色の懶怠の裡に、あでやかな爪の間で 虱を潰す音を聞く。 たちまちに懶怠の酒は子供の脳にのぼりくる、 有頂天になりもやせんハモニカの溜息か。 子供は感ずる、ゆるやかな愛撫につれて、 絶え間なく泣きたい気持が絶え間なく消長するのを。  母音 Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは赤、母音たち、 おまへたちの穏密な誕生をいつの日か私は語らう。 A、眩ゆいやうな蠅たちの毛むくぢやらの黒い胸衣は むごたらしい悪臭の周囲を飛びまはる、暗い入江。 E、蒸気や天幕のはたゝめき、誇りかに 槍の形をした氷塊、真白の諸王、繖形花顫動、 I、緋色の布、飛散つた血、怒りやまた 熱烈な悔悛に於けるみごとな笑ひ。 U、循環期、鮮緑の海の聖なる身慄ひ、 動物散在する牧養地の静けさ、錬金術が 学者の額に刻み付けた皺の静けさ。 O、至上な喇叭の異様にも突裂く叫び、 人の世と天使の世界を貫く沈黙。 ──その目紫の光を放つ、物の終末!  四行詩 星は汝が耳の核心に薔薇色に涕き、 無限は汝が頸より腰にかけてぞ真白に巡る、 海は朱き汝が乳房を褐色の真珠とはなし、 して人は黒き血ながす至高の汝が脇腹の上……  烏 神よ、牧場が寒い時、 さびれすがれた村々に 御告の鐘も鳴りやんで 見渡すかぎり花もない時、 高い空から降ろして下さい あのなつかしい烏たち。 厳しい叫びの奇妙な部隊よ、 木枯は、君等の巣を襲撃し! 君等黄ばんだ河添ひに、 古い十字架立つてる路に、 溝に窪地に、 飛び散れよ、あざ嗤へ! 幾千となくフランスの野に 昨日の死者が眠れる其処に、 冬よ、ゆつくりとどまるがよい、 通行人等がしむみりせんため! 君等義務の叫び手となれ、 おゝわが喪服の鳥たちよ! だが、あゝ御空の聖人たちよ、夕暮迫る檣のやうな 檞の高みにゐる御身たち、 五月の頬白見逃してやれよ あれら森の深みに繋がれ、 出ること叶はず草地に縛られ、 しようこともない輩のため!      飾画篇  静寂 アカシヤのほとり、 波羅門僧の如く聴け。 四月に、櫂は 鮮緑よ! きれいな靄の中にして フヱベの方に! みるべしな 頭の貌が動いてる 昔の聖者の頭のかたち…… 明るい藁塚はた岬、 うつくし甍をとほざけて 媚薬取り出しこころみし このましきかな古代人…… さてもかの、 夜の吐き出す濃い霧は 祭でもなし 星でなし。 しかすがに彼等とどまる ──シシリーやアルマーニュ、 かの蒼ざめ愁しい霧の中、 粛として!  涙 鳥たちと畜群と、村人達から遐く離れて、 私はとある叢林の中に、蹲んで酒を酌んでゐた 榛の、やさしい森に繞られて。 生ツぽい、微温の午後は霧がしてゐた。 かのいたいけなオワズの川、声なき小楡、花なき芝生、 垂れ罩めた空から私が酌んだのは── 瓢の中から酌めたのは、味もそつけもありはせぬ 徒に汗をかゝせる金の液。 かくて私は旅籠屋の、ボロ看板となつたのだ。 やがて嵐は空を変へ、暗くした。 黒い国々、湖水々々、竿や棒、 はては清夜の列柱か、数々の船著場か。 樹々の雨水砂に滲み 風は空から氷片を、泥池めがけてぶつつけた…… あゝ、金、貝甲の採集人かなんぞのやうに、 私には、酒なぞほんにどうでもよいと申しませう。  カシスの川 カシスの川は何にも知らずに流れる   異様な谷間を、 百羽の烏が声もて伴れ添ふ……   ほんによい天使の川波、 樅の林の大きい所作に、   沢山の風がくぐもる時。 すべては流れる、昔の田舎や   訪はれた牙塔や威儀張つた公園の 抗ふ神秘とともに流れる。   彷徨へる騎士の今は亡き情熱も、 此の附近にして人は解する。   それにしてもだ、風の爽かなこと! 飛脚は矢来に何を見るとも   なほも往くだらう元気に元気に。 領主が遣はした森の士卒か、   烏、おまへのやさしい心根! 古い木片で乾杯をする   狡獪な農夫は此処より立去れ。  朝の思ひ 夏の朝、四時、 愛の睡気がなほも漂ふ 木立の下。東天は吐き出だしてゐる    楽しい夕べのかのかをり。 だが、彼方、エスペリイドの太陽の方、 大いなる工作場では、 シャツ一枚の大工の腕が    もう動いてゐる。 荒寥たるその仕事場で、冷静な、 彼等は豪奢な屋敷の準備 あでやかな空の下にて微笑せん    都市の富貴の下準備。 おゝ、これら嬉しい職人のため バビロン王の臣下のために、 ヹニュスよ、偶には打棄るがいい    心驕れる愛人達を。    おゝ、牧人等の女王様!  彼等に酒をお与へなされ  正午、海水を浴びるまで 彼等の力が平静に、持ちこたへられますやうに。  ミシェルとクリスチイヌ 馬鹿な、太陽が軌道を外れるなんて! 失せろ、洪水! 路々の影を見ろ。 柳の中や名誉の古庭の中だぞ、 雷雨が先づ大きい雨滴をぶつけるのは。 おゝ、百の仔羊よ、牧歌の中の金髪兵士達よ、 水路橋よ、痩衰へた灌木林よ、 失せろ! 平野も沙漠も牧野も地平線も 雷雨の真ツ赤な化粧だ! 黒犬よ、マントにくるまつた褐色の牧師よ、 目覚ましい稲妻の時を逃れよ。 ブロンドの畜群よ、影と硫黄が漂ふ時には、 ひそかな私室に引籠るがよい。 だがあゝ神様! 私の精神は翔んでゆきます 赤く凍つた空を追うて、 レールと長いソローニュの上を 飛び駆ける空の雲の、その真下を。 見よ、千の狼、千の蛮民を まんざらでもなささうに、 信仰風な雷雨の午後は 漂流民の見られるだらう古代欧羅巴に伴れてゆく! さてその後刻には月明の晩! 曠野の限りを、 赤らむだ額を夜空の下に、戦士達 蒼ざめた馬を徐かに進める! 小石はこの泰然たる隊の足下で音立てる。 ──さて黄色い森を明るい谷間を、 碧い眼の嫁を、赤い額の男を、それよゴールの国を、 さては可愛いい足の踰越祭の白い仔羊を、 ミシェルとクリスチイヌを、キリストを、牧歌の極限を私は想ふ!  渇の喜劇      Ⅰ    祖先 私達はおまへの祖先だ、   祖先だよ! 月や青物の 冷こい汁にしとど濡れ。 私達の粗末なお酒は心を持つてゐましたぞ! お日様に向つて嘘偽のないためには 人間何が必要か? 飲むこつてす。 小生。──野花の上にて息絶ゆること。 私達はおまへの祖先だ、   田園に棲む。 ごらん、柳のむかふを水は、 湿つたお城のぐるりをめぐつて ずうつと流れてゐるでせう。 さ、酒倉へ行きますよ、 林檎酒もあればお乳もあります。 小生。──牝牛等呑んでる所へゆく。 私達はおまへの祖先。   さ、持つといで 戸棚の中の色んなお酒。 上等の紅茶、上等の珈琲、 薬鑵の中で鳴つてます。 ──絵をごらん、花をごらん。 私達は墓の中から甦つて来ますよ。 小生。──骨甕をみんな、割つちやへばよい。      Ⅱ    精神 永遠無窮な水精は、   きめこまやかな水分割て。 ヹニュス、蒼天の妹は、   きれいな浪に情けを含めよ。 ノルヱーの彷徨ふ猶太人等は、   雪について語つてくれよ。 追放されたる古代人等は、   海のことを語つてくれよ。 小生。──きれいなお魚はもう沢山、      水入れた、コップに漬ける造花だの、    絵のない昔噺は      もう沢山。    小唄作者よ、おまへの名附け子、      水螅こそは私の渇望、    憂ひに沈み衰耗し果てる      口なき馴染みのかの水螅。      Ⅲ    仲間 おい、酒は浜辺に   浪をなし! ピリツとくる奴、苦味酒は   山の上から流れ出す! どうだい、手に入れようではないか、 緑柱めでたきかのアプサン宮…… 小生。──なにがなにやらもう分らんぞ。    ひどく酔つたが、勘免しろい。    俺は好きだぞ、随分好きだ、    池に漬つて腐るのは、    あの気味悪い苔水の下    漂ふ丸太のそのそばで。      Ⅳ    哀れな空想 恐らくはとある夕べが俺を待つ 或る古都で。 その時こそは徐かに飲まう 満足をして死んでもゆかう、 たゞそれまでの辛抱だ! もしも俺の不運も終焉り、 お金が手に入ることでもあつたら、 その時はどつちにしたものだらう? 北か、それとも葡萄の国か?…… ──まあまあ今からそんなこと、 空想したつてはじまらぬ。 仮りに俺がだ、昔流儀の 旅行家様になつたところで、 あの緑色の旅籠屋が 今時あらうわけもない。      Ⅴ    結論 青野にわななく鳩、 追ひまはされる禽獣、 水に棲むどち、家畜どち、 瀕死の蝶さへ渇望はもつ。 さば雲もろとも融けること、 ──すがすがしさにうべなはれ、 曙が、森に満たするみづみづし 菫の上に息絶ゆること!  恥 刃が脳漿を切らないかぎり、 白くて緑くて脂ぎつたる このムツとするお荷物の さつぱり致そう筈もない…… (あゝ、奴は切らなけあなるまいに、 その鼻、その脣、その耳を その腹も! すばらしや、 脚も棄てなけあなるまいに!) だが、いや、確かに 頭に刃、 脇に砂礫を、 腸に火を 加へぬかぎりは、寸時たりと、 五月蠅い子供の此ン畜生が、 ちよこまかと 謀反気やめることもない モン・ロシウの猫のやう、 何処も彼処も臭くする! ──だが死の時には、神様よ、 なんとか祈りも出ますやう……  若夫婦 部屋は濃藍の空に向つて開かれてゐる。 所狭いまでに手文庫や櫃! 外面の壁には一面のおはぐろ花 そこに化物の歯茎は顫へてゐる。 なんと、天才流儀ぢやないか、 この消費、この不秩序は! 桑の実呉れるアフリカ魔女の趣好もかくや 部屋の隅々には鉛縁。 と、数名の者が這入つて来る、不平面した名附親等が、 色んな食器戸棚の上に光線の襞を投げながら、 さて止る! 若夫婦は失礼千万にも留守してる そこでと、何にもはじまらぬ。 聟殿は、乗ぜられやすい残臭を、とゞめてゐる、 その不在中、ずつとこの部屋中に。 意地悪な水の精等も 寝床をうろつきまはつてゐる。 夜の微笑、新妻の微笑、おゝ! 蜜月は そのかずかずを摘むのであらう、 銅の、千の帯にてかの空を満たしもしよう。 さて二人は、鼠ごつこもするのであらう。 ──日が暮れてから、銃を打つ時出るやうな 気狂ひじみた蒼い火が、出さへしなけれあいいがなあ。 ──寧ろ、純白神聖なベツレヘムの景観が、 この若夫婦の部屋の窓の、あの空色を悩殺するに如かずである!  忍耐 或る夏の。 菩提樹の明るい枝に 病弱な鹿笛の音は息絶える。 しかし意力のある歌は すぐりの中を舞ひめぐる。 血が血管で微笑めば、 葡萄の木と木は絡まり合ふ。 空は天使と美しく、 空と波とは聖体拝受。 外出だ! 光線が辛いくらゐなら、 苔の上にてへたばらう。 やれ忍耐だの退屈だのと、 芸もない話ぢやないか!……チエツ、苦労とよ。 ドラマチックな夏こそは 『運』の車にこの俺を、縛つてくれるでこそよろし、 自然よ、おまへの手にかゝり、 ──ちつとはましに賑やかに、死にたいものだ! ところで羊飼さへが、大方は 浮世の苦労で死ぬるとは、可笑しなこつた。 季節々々がこの俺を使ひ減らしてくれゝばいい。 自然よ、此の身はおまへに返す、 これな渇きも空腹も。 お気に召したら、食はせろよ、飲ませろよ。 俺は何にも惑ひはしない。 御先祖様や日輪様にはお笑草でもあらうけど、 俺は何にも笑ひたかない たゞこの不運に屈托だけはないやうに!  永遠 また見付かつた。 何がだ? 永遠。 去つてしまつた海のことさあ 太陽もろとも去つてしまつた。 見張番の魂よ、 白状しようぜ 空無な夜に就き 燃ゆる日に就き。 人間共の配慮から、 世間共通の逆上から、 おまへはさつさと手を切つて 飛んでゆくべし…… もとより希望があるものか、 願ひの条があるものか 黙つて黙つて勘忍して…… 苦痛なんざあ覚悟の前。 繻子の肌した深紅の燠よ、 それそのおまへと燃えてゐれあ 義務はすむといふものだ やれやれといふ暇もなく。 また見付かつた。 何がだ? 永遠。 去つてしまつた海のことさあ 太陽もろとも去つてしまつた。  最も高い塔の歌 何事にも屈従した 無駄だつた青春よ 繊細さのために 私は生涯をそこなつたのだ、 あゝ! 心といふ心の 陶酔する時の来らんことを! 私は思つた、忘念しようと、 人が私を見ないやうにと。 いとも高度な喜びの 約束なしには 何物も私を停めないやう 厳かな隠遁よと。 ノートルダムの影像をしか 心に持たぬ惨めなる さもしい限りの 千の寡婦等も、 処女マリアに 祈らうといふか? 私は随分忍耐もした 決して忘れもしはすまい。 つもる怖れや苦しみは 空に向つて昨日去つた。 今たゞわけも分らぬ渇きが 私の血をば暗くする。 忘れ去られた 牧野ときたら 香と毒麦身に着けて ふくらみ花を咲かすのだ、 汚い蠅等の残忍な 翅音も伴ひ。 何事にも屈従した 無駄だつた青春よ、 繊細さのために 私は生涯をそこなつたのだ。 あゝ! 心といふ心の 陶酔する時の来らんことを!  彼女は埃及舞妓か? 彼女は埃及舞妓か?……かはたれどきに 火の花と崩れるのぢやあるまいか…… 豪華な都会にほど遠からぬ 壮んな眺めを前にして! 美しや! おまけにこれはなくてかなはぬ ──海女や、海賊の歌のため、 だつて彼女の表情は、消え去りがてにも猶海の 夜の歓宴を信じてた!  幸福   季節が流れる、城寨が見える、   無疵な魂なぞ何処にあらう?   季節が流れる、城寨が見える、 私の手がけた幸福の 秘法を誰が脱れ得よう。 ゴオルの鶏が鳴くたびに、 「幸福」こそは万歳だ。 もはや何にも希ふまい、 私はそいつで一杯だ。 身も魂も恍惚けては、 努力もへちまもあるものか。   季節が流れる、城寨が見える。 私が何を言つてるのかつて? 言葉なんぞはふつ飛んぢまへだ!   季節が流れる、城寨が見える!  飢餓の祭り   俺の飢餓よ、アンヌ、アンヌ、    驢馬に乗つて失せろ。 俺に食慾があるとしてもだ 土や礫に対してくらゐだ。 Dinn! dinn! dinn! dinn! 空気を食はう、 岩を、炭を、鉄を食はう。 飢餓よ、あつちけ。草をやれ、   音の牧場に! 昼顔の、愉快な毒でも   吸ふがいい。 乞食が砕いた礫でも啖へ、  教会堂の古びた石でも、  洪水の子の磧の石でも、  寒い谷間の麺麭でも啖へ!  飢餓とはかい、黒い空気のどんづまり、    空鳴り渡る鐘の音。  ──俺の袖引く胃の腑こそ、    それこそ不幸といふものさ。  土から葉つぱが現れた。  熟れた果肉にありつかう。  畑に俺が摘むものは  野蒿苣に菫だ。    俺の飢餓よ、アンヌ、アンヌ、    驢馬に乗つて失せろ。  海景 銀の戦車や銅の戦車、 鋼の船首や銀の船首、 泡を打ち、 茨の根株を掘り返す。 曠野の行進、 干潮の巨大な轍は、 円を描いて東の方へ、 森の柱へ波止場の胴へ、 くりだしてゐる、 波止場の稜は渦巻く光でゴツゴツだ。      追加篇  孤児等のお年玉      Ⅰ 薄暗い部屋。 ぼんやり聞こえるのは 二人の子供の悲しいやさしい私話。 互ひに額を寄せ合つて、おまけに夢想で重苦しげで、 慄へたり揺らいだりする長い白いカーテンの前。 戸外では、小鳥たちが寄り合つて、寒がつてゐる。 灰色の空の下で彼等の羽はかじかんでゐる。 さて、霧の季節の後に来た新年は、 ところどころに雪のある彼女の衣裳を引摺りながら、 涙をうかべて微笑をしたり寒さに慄へて歌つたりする。      Ⅱ 二人の子供は揺れ動くカーテンの前、 低声で話をしてゐます、恰度暗夜に人々がさうするやうに。 遠くの囁でも聴くやう、彼等は耳を澄ましてゐます。 彼等屡々、目覚時計の、けざやかな鈴の音には びつくりするのでありました、それはりんりん鳴ります 鳴ります、 硝子の覆ひのその中で、金属的なその響き。 部屋は凍てつく寒さです。寝床の周囲に散らばつた 喪服は床まで垂れてます。 酷しい冬の北風は、戸口や窓に泣いてゐて、 陰気な息吹を此の部屋の中までどんどん吹き込みます。 彼等は感じてゐるのです、何かゞ不足してゐると…… それは母親なのではないか、此のいたいけな子達にとつて、 それは得意な眼眸ににこにこ微笑を湛へてる母親なのではないでせうか? 母親は、夕方独りで様子ぶり、忘れてゐたのでありませうか、 灰を落としてストーブをよく燃えるやうにすることも、 彼等の上に羊毛や毬毛をどつさり掛けることも? 彼等の部屋を出てゆく時に、お休みなさいを云ひながら、 その晨方が寒いだらうと、気の付かなかつたことでせうか、 戸締めをしつかりすることさへも、うつかりしてゐたのでせうか? ──母の夢、それは微温の毛氈です、 柔らかい塒です、其処に子供等小さくなつて、 枝に揺られる小鳥のやうに、 ほのかなねむりを眠ります! 今此の部屋は、羽なく熱なき塒です。 二人の子供は寒さに慄へ、眠りもしないで怖れにわななき、 これではまるで北風が吹き込むための塒です……      Ⅲ 諸君は既にお分りでせう、此の子等には母親はありません。 養母さへない上に、父は他国にゐるのです!…… そこで婆やがこの子等の、面倒はみてゐるのです。 つまり凍つた此の家に住んでゐるのは彼等だけ…… 今やこれらの幼い孤児が、嬉しい記憶を彼等の胸に 徐々に徐々にと繰り展げます、 恰度お祈りする時に、念珠を爪繰るやうにして。 あゝ! お年玉、貰へる朝の、なんと嬉しいことでせう。 明日は何を貰へることかと、眠れるどころの騒ぎでない。 わくわくしながら玩具を想ひ、 金紙包みのボンボン想ひ、キラキラきらめく宝石類は、 しやなりしやなりと渦巻き踊り、 やがて見えなくなるかとみれば、またもやそれは現れてくる。 さて朝が来て目が覚める、直ぐさま元気で跳ね起きる。 目を擦つてゐる暇もなく、口には唾が湧くのです、 さて走つてゆく、頭はもぢやもぢや、 目玉はキヨロキヨロ、嬉しいのだもの、 小さな跣足で床板踏んで、 両親の部屋の戸口に来ると、そをつとそをつと扉に触れる、 さて這入ります、それからそこで、御辞儀……寝巻のまんま、 接唇は頻つて繰返される、もう当然の躁ぎ方です!      〓(「IIII」) あゝ! 楽しかつたことであつた、何べん思ひ出されることか…… ──変り果てたる此の家の有様よ! 太い薪は炉格の中で、かつかかつかと燃えてゐたつけ。 家中明るい灯火は明り、 それは洩れ出て外まで明るく、 机や椅子につやつやひかり、 鍵のしてない大きな戸棚、鍵のしてない黒い戸棚を 子供はたびたび眺めたことです、 鍵がないとはほんとに不思議! そこで子供は夢みるのでした、 戸棚の中の神秘の数々、 聞こえるやうです、鍵穴からは、 遠いい幽かな嬉しい囁き…… ──両親の部屋は今日ではひつそり! ドアの下から光も漏れぬ。 両親はゐぬ、家よ、鍵よ、 接唇も言葉も呉れないまゝで、去つてしまつた! なんとつまらぬ今年の正月! ジツと案じてゐるうち涙は、 青い大きい目に浮かみます、 彼等呟く、『何時母さんは帰つて来ンだい?』      Ⅴ 今、二人は悲しげに、眠つてをります。 それを見たらば、眠りながらも泣いてると諸君は云はれることでせう、 そんなに彼等の目は腫れてその息遣ひは苦しげです。 ほんに子供といふものは感じやすいものなのです!…… だが揺籃を見舞ふ天使は彼等の涙を拭ひに来ます。 そして彼等の苦しい眠に嬉しい夢を授けます。 その夢は面白いので半ば開いた彼等の唇は やがて微笑み、何か呟くやうに見えます。 彼等はぽちやぽちやした腕に体重を凭せ、 やさしい目覚めの身振りして、頭を擡げる夢をばみます。 そして、ぼんやりした目してあたりをずつと眺めます。 彼等は薔薇の色をした楽園にゐると思ひます…… パツと明るい竃には薪がかつかと燃えてます、 窓からは、青い空さへ見えてます。 大地は輝き、光は夢中になつてます、 半枯の野面は蘇生の嬉しさに、 陽射しに身をばまかせてゐます、 さても彼等のあの家が、今では総体に心地よく、 古い着物ももはやそこらに散らばつてゐず、 北風も扉の隙からもう吹込みはしませんでした。 仙女でも見舞つてくれたことでせう!…… ─二人の子供は、夢中になつて、叫んだものです…おや其処に、 母さんの寝床の傍に明るい明るい陽を浴びて、 ほら其処に、毛氈の上に、何かキラキラ光つてゐる。 それらみんな大きいメタル、銀や黒のや白いのや、 チラチラ耀く黒玉や、真珠母や、 小さな黒い額縁や、玻璃の王冠、 みれば金字が彫り付けてある、『我等が母に!』と。 〔千八百六十九年末つ方〕  太陽と肉体 太陽、この愛と生命の家郷は、 嬉々たる大地に熱愛を注ぐ。 我等谷間に寝そべつてゐる時に、 大地は血を湧き肉を躍らす、 その大いな胸が人に激昂させられるのは 神が愛によつて、女が肉によつて激昂させられる如くで、 又大量の樹液や光、 凡ゆる胚種を包蔵してゐる。 一切成長、一切増進!           おゝ美神、おゝ女神! 若々しい古代の時を、放逸な半人半山羊神たちを。 獣的な田野の神々を私は追惜します、 愛の小枝の樹皮をば齧り、 金髪ニンフを埃及蓮の中にて、接唇しました彼等です。 地球の生気や河川の流れ、 樹々の血潮が仄紅に 牧羊神の血潮と交り循つた、かの頃を私は追惜します。 当時大地は牧羊神の、山羊足の下に胸ときめかし、 牧羊神が葦笛とれば、空のもと 愛の頌歌はほがらかに鳴渡つたものでした、 野に立つて彼は、その笛に答へる天地の 声々をきいてゐました。 黙せる樹々も歌ふ小鳥に接唇し、 大地は人に接唇し、海といふ海 生物といふ生物が神のごと、情けに篤いことでした。 壮観な市々の中を、青銅の車に乗つて 見上げるやうに美しかつたかのシベールが、 走り廻つてゐたといふ時代を私は追惜します。 乳房ゆたかなその胸は顥気の中に 不死の命の霊液をそゝいでゐました。 『人の子』は吸つたものです、よろこんでその乳房をば、 子供のやうに、膝にあがつて。 だが『人の子』は強かつたので、貞潔で、温和でありました。 なさけないことに、今では彼は云ふのです、俺は何でも知つてると、 そして、眼をつぶり、耳を塞いで歩くのです。 それでゐて『人の子』が今では王であり、 『人の子』が今では神なのです! 『愛』こそ神であるものを! おゝ! 神々と男達との大いなる母、シベールよ! そなたの乳房をもしも男が、今でも吸ふのであつたなら! 昔青波の限りなき光のさ中に顕れ給ひ 浪かをる御神体、泡降りかゝる 紅の臍をば示現し給ひ、 森に鶯、男の心に、愛を歌はせ給ひたる 大いなる黒き瞳も誇りかのかの女神 アスタルテ、今も此の世におはしなば!      Ⅱ 私は御身を信じます、聖なる母よ、 海のアフロヂテよ!──他の神がその十字架に 我等を繋ぎ給ひてより、御身への道のにがいこと! 肉、大理石、花、ヹニュス、私は御身を信じます! さうです、『人の子』は貧しく醜い、空のもとではほんとに貧しい、 彼は衣服を着けてゐる、何故ならもはや貞潔でない、 何故なら至上の肉体を彼は汚してしまつたのです、 気高いからだを汚いわざで 火に遇つた木偶といぢけさせました! それでゐて死の後までも、その蒼ざめた遺骸の中に 生きんとします、最初の美なぞもうないくせに! そして御身が処女性を、ゆたかに賦与され、 神に似せてお造りなすつたあの偶像、『女』は、 その哀れな魂を男に照らして貰つたおかげで 地下の牢から日の目を見るまで、 ゆるゆる暖められたおかげで、 おかげでもはや娼婦にやなれぬ! ──奇妙な話! かくて世界は偉大なヹニュスの 優しく聖なる御名に於て、ひややかに笑つてゐる。      Ⅲ もしかの時代が帰りもしたらば! もしかの時代が帰りもしたらば!…… だつて『人の子』の時代は過ぎた、『人の子』の役目は終つた。 かの時代が帰りもしたらば、その日こそ、偶像壊つことにも疲れ、 彼は復活するでもあらう、あの神々から解き放たれて、 天に属する者の如く、諸天を吟味しだすであらう。 理想、砕くすべなき永遠の思想、 かの肉体に棲む神性は 昇現し、額の下にて燃えるであらう。 そして、凡ゆる地域を探索する、彼を御身が見るだらう時、 諸々の古き軛の侮蔑者にして、全ての恐怖に勝てる者、 御身は彼に聖・贖罪を給ふでせう。 海の上にて荘厳に、輝く者たる御身はさて、 微笑みつゝは無限の『愛』を、 世界の上に投ぜんと光臨されることでせう。 世界は顫へることでせう、巨大な竪琴さながらに かぐはしき、巨いな愛撫にぞくぞくしながら…… ──世界は『愛』に渇ゑてゐます。御身よそれをお鎮め下さい、 おゝ肉体のみごとさよ! おゝ素晴らしいみごとさよ! 愛の来復、黎明の凱旋 神々も、英雄達も身を屈め、 エロスや真白のカリピイジュ 薔薇の吹雪にまよひつゝ 足の下なる花々や、女達をば摘むでせう!      〓(「IIII」) おゝ偉大なるアリアドネ、おまへはおまへの悲しみを 海に投げ棄てたのだつた、テエゼの船が 陽に燦いて、去つてゆくのを眺めつつ、 おゝ貞順なおまへであつた、闇が傷めたおまへであつた、 黒い葡萄で縁取つた、金の車でリジアスが、 驃馯な虎や褐色の豹に牽かせてフリジアの 野をあちこちとさまよつて、青い流に沿ひながら 進んでゆけば仄暗い波も恥ぢ入るけはひです。 牡牛ゼウスはイウロペの裸かの身をば頸にのせ、 軽々とこそ揺すぶれば、波の中にて寒気する ゼウスの丈夫なその頸に、白い腕をイウロペは掛け、 ゼウスは彼女に送ります、悠然として秋波を、 彼女はやさしい蒼ざめた自分の頬をゼウスの顔に さしむけて眼を閉ぢて、彼女は死にます 神聖な接唇の只中に、波は音をば立ててます その金色の泡沫は、彼女の髪毛に花となる。 夾竹桃と饒舌な白蓮の間をすべりゆく 夢みる大きい白鳥は、大変恋々してゐます、 その真つ白の羽をもてレダを胸には抱締めます、 さてヹニュス様のお通りです、 めづらかな腰の丸みよ、反身になつて 幅広の胸に黄金をはれがましくも、 雪かと白いそのお腹には、まつ黒い苔が飾られて、 ヘラクレス、この調練師は誇りかに、 獅の毛皮をゆたらかな五体に締めて、 恐いうちにも優しい顔して、地平の方へと進みゆく!…… おぼろに照らす夏の月の、月の光に照らされて 立つて夢みる裸身のもの 丈長髪も金に染み蒼ざめ重き波をなす これぞ御存じアリアドネ、沈黙の空を眺めゐる…… 苔も閃めく林間の空地の中の其処にして、 肌も真白のセレネエは面帕なびくにまかせつつ、 エンデミオンの足許に、怖づ怖づとして、 蒼白い月の光のその中で一寸接唇するのです…… 泉は遐くで泣いてます うつとり和んで泣いてます…… 甕に肘をば突きまして、若くて綺麗な男をば 思つてゐるのはかのニンフ、波もて彼を抱締める…… 愛の微風は闇の中、通り過ぎます…… さてもめでたい森の中、大樹々々の凄さの中に、 立つてゐるのは物云はぬ大理石像、神々の、 それの一つの御顔に鶯は塒を作り、 神々は耳傾けて、『人の子』と『終わりなき世』を案じ顔。 〔一八七〇、五月〕  オフェリア      Ⅰ 星眠る暗く静かな浪の上、 蒼白のオフェリア漂ふ、大百合か、 漂ふ、いともゆるやかに長き面帕に横たはり。 近くの森では鳴つてます鹿遂詰めし合図の笛。 以来千年以上です真白の真白の妖怪の 哀しい哀しいオフェリアが、其処な流れを過ぎてから。 以来千年以上ですその恋ゆゑの狂ひ女が そのロマンスを夕風に、呟いてから。 風は彼女の胸を撫で、水にしづかにゆらめける 彼女の大きい面帕を花冠のやうにひろげます。 柳は慄へてその肩に熱い涙を落とします。 夢みる大きな額の上に蘆が傾きかかります。 傷つけられた睡蓮たちは彼女を囲繞き溜息します。 彼女は時々覚まします、睡つてゐる榛の 中の何かの塒をば、すると小さな羽ばたきがそこから逃れて出てゆきます。 不思議な一つの歌声が金の星から堕ちてきます。      Ⅱ 雪の如くも美しい、おゝ蒼ざめたオフェリアよ、 さうだ、おまへは死んだのだ、暗い流れに運ばれて! それといふのもノルヱーの高い山から吹く風が おまへの耳にひそひそと酷い自由を吹込んだため。 それといふのもおまへの髪毛に、押寄せた風の一吹が、 おまへの夢みる心には、ただならぬ音とも聞こえたがため、 それといふのも樹の嘆かひに、夜毎の闇の吐く溜息に、 おまへの心は天地の声を、聞き落すこともなかつたゆゑに。 それといふのも潮の音が、さても巨いな残喘のごと、 情けにあつい子供のやうな、おまへの胸を痛めたがため。 それといふのも四月の朝に、美々しい一人の蒼ざめた騎手、 哀れな狂者がおまへの膝に、黙つて坐りにやつて来たため。 何たる夢想ぞ、狂ひし女よ、天国、愛恋、自由とや、おゝ! おまへは雪の火に於るがごと、彼に心も打靡かせた。 おまへの見事な幻想はおまへの誓ひを責めさいなんだ。 ──そして無残な無限の奴は、おまへの瞳を震駭させた。      Ⅲ 扨詩人奴が云ふことに、星の光をたよりにて、 嘗ておまへの摘んだ花を、夜毎おまへは探しに来ると。 又彼は云ふ、流れの上に、長い面帕に横たはり、 真ツ白白のオフェリアが、大きな百合かと漂つてゐたと。 〔一八七〇、六月〕  首吊人等の踊り 愛嬌のある不具者=絞首台氏のそのほとり、 踊るわ、踊るわ、昔の刺客等、 悪魔の家来の、痩せたる刺客等、 サラヂン幕下の骸骨たちが。 ビエルヂバブ閣下事には、ネクタイの中より取り出しめさるゝ 空を睨んで容子振る、幾つもの黒くて小さなからくり人形、 さてそれらの額の辺りを、古靴の底でポンと叩いて、 踊らしめさるゝ、踊らしめさるゝ、ノエル爺の音に合せて! 機嫌そこねたからくり人形事には華車な腕をば絡ませ合つて、 黒い大きなオルガンのやう、昔綺麗な乙女達が 胸にあててた胸当のやう、 醜い恋のいざこざにいつまで衝突合ふのです。 ウワーツ、陽気な踊り手には腹もない 踊り狂へばなんだろとまゝよ、大道芝居はえてして長い! 喧嘩か踊りかけぢめもつかぬ! 怒り立つたるビエルヂバブには、遮二無二ヴィオロン掻きめさる! おゝ頑丈なそれらの草履、磨減ることとてなき草履よ!…… どのパンタンも、やがて間もなく、大方肌著を脱いぢまふ。 脱がない奴とて困つちやをらぬ、悪くも思はずけろりとしてる。 頭蓋の上には雪の奴めが、白い帽子をあてがひまする。 亀裂の入つたこれらの頭に、烏は似合ひのよい羽飾り。 彼等の痩せたる顎の肉なら、ピクリピクリと慄へてゐます。 わけも分らぬ喧嘩騒ぎの、中をそは〳〵往つたり来たり、 しやちこばつたる剣客刺客の、厚紙の兜は鉢合わせ。 ウワーツ、北風ピユーピユー、骸骨社会の大舞踏会の真ツ只中に! 大きい鉄のオルガンさながら、絞首台氏も吼えまする! 狼たちも吠えてゆきます、彼方紫色の森。 地平の果では御空が真ツ赤、地獄の色の真ツ赤です…… さても忘れてしまひたいぞえ、これら陰気な威張屋連中、 壊れかゝつたごつごつ指にて、血の気も失せたる椎骨の上 恋の念珠を爪繰る奴等、陰険な奴等は忘れたいぞえ! 味もへちまも持つてるもんかい、くたばりきつたる奴等でこそあれ! さもあらばあれ、死人の踊の、その中央で跳ねてゐる 狂つた大きい一つの骸骨、真ツ赤な空の背景の前。 息も激しく苛立ちのぼせ、後脚跳ねかし牡馬の如く、 硬い紐をば頸には感じ、 十の指は腰骨の上、ピクリピクリと痙攣いたし、 冷笑によく似た音立て、大腿骨ギシギシ軋らす、 さていま一度、ガタリと跳ねる、骨の歌声、踊りの際中、 も一度跳ねる、掛小舎で、道化が引ツ込む時するやうに。 愛嬌のある不具者=絞首台氏のそのほとり、 踊るわ、踊るわ、昔の刺客等、 悪魔の家来の痩せたる刺客等、 サラヂン幕下の骸骨たちが。 〔一八七〇、六月〕  タルチュッフの懲罰 わくわくしながら、彼の心は、恋慕に燃えて 僧服の下で、幸福おぼえ、手袋はめて、 彼は出掛けた、或日のことに、いとやさしげな 黄色い顔して、歯欠けの口から、信心垂らし 彼は出掛けた、或日のことに──⦅共に祈らん⦆── と或る意地悪、祝福された、彼の耳をば手荒に掴み 極悪の、文句を彼に、叩き付けた、僧服を じめじめの彼の肌から引ツ剥ぎながら。 いい気味だ!……僧服の、釦は既に外されてゐた、 多くの罪過を赦してくれた、その長々しい念珠をば 心の裡にて爪繰りながら、聖タルチュッフは真ツ蒼になつた。 ところで彼は告解してゐた、お祈りしてゐた、喘ぎながらも。 件の男は嬉々として、獲物を拉つてゆきました。 ──フツフツフツ! タルチュッフ様は丸裸か。 〔一八七〇、七月〕  海の泡から生れたヴィナス ブリキ製の緑の棺からのやうに、褐色の髪に ベトベトにポマード附けた女の頭が、 古ぼけた浴槽の中からあらはれる、どんよりと間の抜けた その顔へはまづい化粧がほどこされてゐる。 脂ぎつた薄汚い頸、幅広の肩胛骨は 突き出てゐるし、短い脊中はでこぼこだ。 皮下の脂肪は、平らな葉のやう、 腰の丸みは、飛び出しさうだ。 脊柱は少々赤らんでゐる、総じて異様で ぞつとする。わけても気になる 奇態な肉瘤。 腰には二つの、語が彫つてある、Clara Venus と。 ──胴全体が大きいお尻を、動かし、緊張め、 肛門の、潰瘍は、見苦しくも美しい。  ニイナを抑制するものは       彼曰く── そなたが胸をばわが胸の上に、    そぢやないか、俺等は行かうぜ、 鼻ン腔アふくらましてヨ、    空ははればれ 朝のお日様アおめへをうるほす    酒でねえかヨ…… 寒げな森が、血を出してらアな    恋しさ余つて、 枝から緑の雫を垂れてヨ、    若芽出してら、 それをみてれアおめへも俺も、    肉が顫はア。 苜蓿ン中おめへはブツ込む    長エ肩掛、 大きな黒瞳のまはりが青味の    聖なる別嬪、 田舎の、恋する女ぢやおめへは、    何処へでも まるでシャンペンが泡吹くやうに    おめへは笑を撒き散らす、 俺に笑へよ、酔つて暴れて    おめへを抱かうぜ こオんな具合に、──立派な髪毛ぢや    嚥んでやらうゾ 苺みてエなおめへの味をヨ、    肉の花ぢやよ 泥棒みてエにおめへを掠める    風に笑へだ 御苦労様にも、おめへを厭はす    野薔薇に笑へだ、 殊には笑へだ、狂つた女子、    こちのひとへだ!…… 十七か! おめへは幸福。    おゝ! 広エ草ツ原、 素ツ晴らしい田舎!    ──話しなよ、もそつと寄つてサ…… そなたが胸をばわが胸の上にだ、    話をしいしい ゆつくりゆかうぜ、大きな森の方サ    雨水の滝の方サ、 死んぢまつた小娘みてエに、    息切らしてヨウ おめへは云ふだろ、抱いて行つてと    眼エ細くして。 抱いてゆくともどきどきしてゐるおめへを抱いたら    小径の中へヨ、 小鳥の奴めアゆつくり構へて、啼きくさるだろヨ    榛ン中で。 口ン中へヨ俺ァ話を、注ぎ込んでやら、    おめへのからだを 締めてやらアな子供を寝かせる時みてエにヨウ、    おめへの血は酔ひ 肌の下をヨ、青ウく流れる    桃色調でヨ そこでおめへに俺は云はアな、    ──おい! とね、──おめへにヤ分らア 森は樹液の匂ひでいつぱい、    おてんと様ア 金糸でもつてヨ暗エ血色の、森の夢なざ    ぐツと飲まアナ。 日暮になつたら?……俺等ア帰らア、    ずうツとつゞいた白い路をヨ、 ブラリブラリと道中草食ふ    羊みてエに。 青草生エてる果物畑は、    しちくね曲つた林檎の樹が、 遠方からでも匂ふがやうに、    強エ匂ひをしてらアな! やんがて俺等は村に著く、    空が半分暗エ頃、 乳臭エ匂ひがしてゐようわサ    日暮の空気のそン中で、 臭エ寝藁で一杯の、    牛小屋の匂いもするベエよ、 ゆつくりゆつくり息を吐エてヨ    大ツきな背中ア 薄明で白ウくみえてヨ、    向ふを見ればヨ 牝牛がおつぴらに糞してらアな、    歩きながらヨ。 祖母は眼鏡エかけ    長エ鼻をヨ 弥撒集に突ツ込み、鉛の箍の    ビールの壺はヨ 大きなパイプで威張りくさつて    突ン出た唇から煙を吐き吐き、 しよつちう吐エてる奴等の前でヨ、    泡を吹いてら、 突ン出た唇奴等もつともつとと、    ハムに食ひ付き、 火は手摺附の寝台や    長持なんぞを照らし出してヨ、 丸々太つてピカピカしてゐる    尻を持つてる腕白小僧は 膝ついて、茶碗の中に突つ込みやがらア    その生ツ白エしやツ面を その面を、小せエ声してブツクサ呟く    も一人の小憎の鼻で撫でられ その小僧奴の丸い面に    接唇とくらア、 椅子の端ツこに黒くて赤エ    恐ろし頭した 婆々はゐてサ、燠の前でヨ    糸紡ぐ── なんといろいろ見れるぢやねエかヨ、    この荒家の中ときた日にヤ、 焚火が明アく、うすみつともねエ    窓の硝子を照らす時! 紫丁香花咲いてる中の    こざつぱりした住居ぢや住居 中ぢや騒ぎぢや    愉快な騒ぎ…… 来なよ、来なつてば、愛してやらあ、    わるかあるめエ 来なツたら来なよ、来せエしたらだ……       彼女曰く── だつて職業はどうなンの? 〔一五、八、一八七〇〕  音楽堂にて シャルルヸル・ガアルの広場 貧弱な芝地になつてる広場の上に、 木も花も、何もかもこぢんまりした辻公園に、 暑さにうだつた市民たち、毎木曜日の夕べになると、 恋々と、愚鈍を提げて集つて来る。 軍楽隊は、その中央で、 ファイフのワルツの演奏中、頻りに軍帽を振つてゐる。 それを囲繞く人群の前の方には気取屋連が得意げで、 公証人氏は安ピカの、頭字入のメタルに見入つてゐる際中。 鼻眼鏡の金利生活先生達は、奏楽の、調子の外れを気にします。 無暗に太つた勤人達等は、太つた細君連れてゐる、 彼女の側に行きますは、いと世話好きな先生達、 彼女の著物の裾飾と来ちや、物欲しさうに見えてます。 隠居仕事に、食料を商る連中の何時も集る緑のベンチ、 今日も彼等はステッキで砂を掻き掻き大真面目 何か契約上のこと、論議し合つてゐるのです、 何れお金のことでせう、扨『結局……』と云つてます。 お尻の丸味を床几の上に、どつかと据ゑてるブルジョワは、 はでな釦を附けてゐるビール腹したフラマン人、 オネン・パイプを嗜んでゐる、ボロリボロリと煙草はこぼれる、 ──ねえ、ホラ、あれは、密輸の煙草! 芝生の縁では無頼漢共が、さかんに冷嘲してゐます。 トロンボオンの節につれ、甘アくなつた純心の いとも気随な兵隊達は子守女と口をきかうと まづその抱ゐてる赤ン坊をあやします。 ──私は学生よろしくの身装くづした態なんです、 緑々としたマロニヱの、下にははしこい娘達、 彼女等私をよく知つてゐて、笑つて振向いたりします その眼付にはいやらしい、要素も相当あるのです。 私は黙つてゐるのです。私はジツと眺めてる 髪束が風情をあたへる彼女等の、白い頸。 彼女等の、胴衣と華車な装飾の下には、 肩の曲線に打つづく聖らの背中があるのです。 彼女等の靴も私はよく見ます、靴下だつてよく見ます。 扨美しい熱もゆる、全身像を更めて、私は胸に描きます。 彼女等私を嗤ひます、そして低声で話し合ふ。 すると私は唇に、寄せ来る接唇を感じます。 〔一八七〇、八月〕  喜劇・三度の接唇 彼女はひどく略装だつた、 無鉄砲な大木は 窓の硝子に葉や枝をぶツつけてゐた。 意地悪さうに、乱暴に。 私の大きい椅子に坐つて、 半裸の彼女は、手を組んでゐた。 床の上では嬉しげに 小さな足が顫へてゐた。 私は視てゐた、少々顔を蒼くして、 灌木の茂みに秘む細かい光線が 彼女の微笑や彼女の胸にとびまはるのを。 薔薇の木に蠅が戯れるやうに、 私は彼女の、柔かい踝に接唇した、 きまりわるげな長い笑ひを彼女はした、 その笑ひは明るい顫音符のやうにこぼれた、 水晶の擢片のやうであつた。 小さな足はシュミーズの中に 引ツ込んだ、『お邪魔でしよ!』 甘つたれた最初の無作法、 その笑は、罰する振りをする。 かあいさうに、私の唇の下で羽搏いてゐた 彼女の双の眼、私はそおつと接唇けた。 甘つたれて、彼女は後方に頭を反らし、 『いいわよ』と云はんばかり! 『ねえ、あたし一寸云ひたいことあつてよ……』 私はなほも胸に接唇、 彼女はけた〳〵笑ひ出した 安心して、人の好い笑ひを…… 彼女はひどく略装だつた、 無鉄砲な大木は 窓の硝子に葉や枝をぶツつけてゐた 意地悪さうに、乱暴に。 〔一八七〇、九月〕  物語      Ⅰ 人十七にもなるといふと、石や金ではありません。 或る美しい夕べのこと、──灯火輝くカフヱーの ビールがなんだ、レモナードがなんだ?── 人はゆきます遊歩場、緑色濃き菩提樹の下。 菩提樹のなんと薫ること、六月の佳い宵々に。 空気は大変甘くつて、瞼閉じたくなるくらゐ。 程遠き街の響を運ぶ風 葡萄の薫り、ビールの薫り。      Ⅱ 枝の彼方の暗い空 小さな雲が浮かんでる、 甘い顫へに溶けもする、白い小さな 悪い星奴に螫されてる。 六月の宵!……十七才!……人はほろ酔ひ陶然となる。 血はさながらにシャンペンで、それは頭に上ります。 人はさまよひ徘徊し、羽搏く接唇感じます 小さな小さな生き物の、羽搏く接唇……      Ⅲ のぼせた心はありとある、物語にまで拡散し、 折しも蒼い街灯の、明りの下を過ぎゆくは 可愛いい可愛いい女の子 彼女の恐い父親の、今日はゐないをいいことに。 扨、君を、純心なりと見てとるや、 小さな靴をちよこちよこと、 彼女は忽ちやつて来て、 ──すると貴君の唇の上の、単純旋律やがて霧散する。      〓(「IIII」) 貴君は恋の捕虜となり、八月の日も暑からず! 貴君は恋の捕虜となり、貴君の恋歌は彼女を笑まし。 貴君の友等は貴君を去るも、貴君関する所に非ず。 ──さても彼女は或る夕べ、貴君に色よい手紙を呉れる。 その宵、貴君はカフヱーに行き、 ビールも飲めばレモナードも飲む…… 人十七にもなるといふと、遊歩場の 菩提樹の味知るといふと、石や金ではありません。 〔一八七〇、九月二十三日〕  冬の思ひ 僕等冬には薔薇色の、車に乗つて行きませう     中には青のクッションが、一杯の。 僕等仲良くするでせう。とりとめもない接唇の     巣はやはらかな車の隅々。 あなたは目をば閉ぢるでせう、窓から見える夕闇を     その顰め面を見まいとて、 かの意地悪い異常さを、鬼畜の如き     愚民等を見まいとて。 あなたは頬を引ツ掻かれたとおもふでせう。 接唇が、ちよろりと、狂つた蜘蛛のやうに、     あなたの頸を走るでせうから。 あなたは僕に云ふでせう、『探して』と、頭かしげて、 僕等蜘蛛奴を探すには、随分時間がかかるでせう、     ──そいつは、よつぽど駆けまはるから。 一八七〇、十月七日、車中にて。  災難 霰弾の、赤い泡沫が、ひもすがら 青空の果で、鳴つてゐる時、 その霰弾を嘲笑つてゐる、王の近くで 軍隊は、みるみるうちに崩れてゆく。 狂気の沙汰が搗き砕き 幾数万の人間の血ぬれの堆積を作る時、 ──哀れな死者等は、自然よおまへの夏の中、草の中、歓喜の中、 甞てこれらの人間を、作つたのもおゝ自然!── 祭壇の、緞子の上で香を焚き 聖餐杯を前にして、笑つてゐるのは神様だ、 ホザナの声に揺られて睡り、 悩みにすくんだ母親達が、古い帽子のその下で 泣きながら二スウ銅貨をハンケチの 中から取り出し奉献する時、開眼するのは神様だ 〔一八七〇、十月〕  シーザーの激怒 蒼ざめた男、花咲く芝生の中を、 黒衣を着け、葉巻咥へて歩いてゐる。 蒼ざめた男はチュイルリの花を思ふ、 曇つたその眼は、時々烈しい眼付をする。 皇帝は、過ぐる二十年間の大饗宴に飽き〳〵してゐる。 かねがね彼は思つてゐる、俺は自由を吹消さう、 うまい具合に、臘燭のやうにと。 自由が再び生れると、彼は全くがつかりしてゐた。 彼は憑かれた。その結ばれた唇の上で、 誰の名前が顫へてゐたか? 何を口惜しく思つてゐたか? 誰にもそれは分らない、とまれ皇帝の眼は曇つてゐた。 恐らくは眼鏡を掛けたあの教父、教父の事を恨んでゐた、 ──サン・クルウの夕べ夕べに、かぼそい雲が流れるやう その葉巻から立ち昇る、煙にジツと眼を据ゑながら。 〔一八七〇、十月〕  キャバレ・ヹールにて 午後の五時。 五六日前から、私の靴は、路の小石にいたんでゐた、 私は、シャルルロワに、帰つて来てゐた。 キャバレ・ヹールでバタサンドヰッチと、ハムサンドヰッチを私は取つた、 ハムの方は少し冷え過ぎてゐた。 好い気持で、緑のテーブルの、下に脚を投出して、 私は壁掛布の、いとも粗朴な絵を眺めてた。 そこへ眼の活々とした、乳房の大きく発達した娘が、 ──とはいへ決していやらしくない!── にこにこしながら、バタサンドヰッチと、 ハムサンドヰッチを色彩のある 皿に盛つて運んで来たのだ。 桃と白とのこもごものハムは韮の球根の香放ち、 彼女はコップに、午後の陽をうけて 金と輝くビールを注いだ。 〔一八七〇、十月〕  『皇帝万歳!』の叫び共に贏ち得られたる  花々しきサアルブルックの捷利 三十五サンチームにてシャルルロワで売つてゐる色鮮かなベルギー絵草紙 青や黄の、礼讃の中を皇帝は、 燦たる馬に跨つて、厳しく進む、 嬉しげだ、──今彼の眼には万事が可い、── 残虐なることゼウスの如く、優しきこと慈父の如しか。 下の方には、歩兵達、金色の太鼓の近く 赤色の大砲の近く、今し昼寝をしてゐたが、 これからやをら起き上る。ピトウは上衣を着終つて、 皇帝の方に振向いて、偉いなる名に茫然自失してゐる。 右方には、デュマネエが、シャスポー銃に凭れかゝり、 丸刈の襟頸が、顫へわななくのを感じてゐる、 そして、『皇帝万歳!』を唱へる。その隣りの男は押黙つてゐる。 軍帽は恰も黒い太陽だ!──その真ン中に、赤と青とで彩色された いと朴訥なボキヨンは、腹を突き出し、ドツカと立つて、 後方部隊を前に出しながら、『何のためだ?……』と云つてるやうだ。 〔一八七〇、十月〕  いたづら好きな女 ワニスと果物の匂ひのする、 褐色の食堂の中に、思ふ存分 名も知れぬベルギー料理を皿に盛り、 私はひどく大きい椅子に埋まつてゐた。 食べながら、大時計の音を聞き、好い気持でジツとしてゐた。 サツとばかりに料理場の扉が開くと、 女中が出て来た、何事だらう、 とにかく下手な襟掛をして、ベルギー・レースを冠つてゐる。 そして小さな顫へる指で、 桃の肌へのその頬を絶えずさはつて、 子供のやうなその口はとンがらせてゐる、 彼女は幾つも私の近くに、皿を並べて私に媚びる。 それからこんなに、──接唇してくれと云はんばかりに── 小さな声で、『ねえ、あたし頬に風邪引いちやつてよ……』 シヤルルロワにて、一八七〇、十月。      附録  失はれた毒薬(未発表詩) ブロンドとまた褐の夜々、 思ひ出は、ああ、なくなつた、 夏の綾織はなくなつた、 手なれたネクタイ、なくなつた。 露台の上に茶は月が、 漏刻が来て、のんでゆく。 いかな思ひ出のいかな脣趾 ああ、それさへものこつてゐない。 青の綿布の帷幕の隅に 光れる、金の頭の針が 睡つた大きい昆虫のやう。 貴重な毒に浸されたその 細尖よ私に笑みまけてあれ、 私の臨終にいりようである!  後記  私が茲に訳出したのは、メルキュル版千九百二十四年刊行の「アルチュル・ランボオ作品集」中、韻文で書かれたものの殆んど全部である。たゞ数篇を割愛したが、そのためにランボオの特質が失はれるといふやうなことはない。  私は随分と苦心はしたつもりだ。世の多くの訳詩にして、正確には訳されてゐるが分りにくいといふ場合が少くないのは、語勢といふものに無頓着過ぎるからだと私は思ふ。私はだからその点でも出来るだけ注意した。  出来る限り逐字訳をしながら、その逐字訳が日本語となつてゐるやうに気を付けた。  語呂といふことも大いに尊重したが、語呂のために語義を無視するやうなことはしなかつた。      ★  附録とした「失はれた毒薬」は、今はそのテキストが分らない。これは大正も末の頃、或る日小林秀雄が大学の図書館か何処かから、写して来たものを私が訳したものだ。とにかく未発表詩として、その頃出たフランスの雑誌か、それともやはりその頃出たランボオに関する研究書の中から、小林が書抜いて来たのであつた、ことは覚えてゐる。──テキストを御存知の方があつたら、何卒御一報下さる様お願します。      ★  いつたいランボオの思想とは?──簡単に云はう。パイヤン(異教徒)の思想だ。彼はそれを確信してゐた。彼にとつて基督教とは、多分一牧歌としての価値を有つてゐた。  さういふ彼にはもはや信憑すべきものとして、感性的陶酔以外には何にもなかつた筈だ。その陶酔を発想するといふこともはや殆んど問題ではなかつたらう。その陶酔は全一で、「地獄の季節」の中であんなにガンガン云つてゐることも、要するにその陶酔の全一性といふことが全ての全てで、他のことはもうとるに足りぬ、而も人類とは如何にそのとるに足りぬことにかかづらつてゐることだらう、といふことに他ならぬ。 繻子の色した深紅の燠よ、 それそのおまへと燃えてゐれあ 義務はすむといふものだ、  つまり彼には感性的陶酔が、全然新しい人類史を生むべきであると見える程、忘れられてはゐるが貴重なものであると思はれた。彼の悲劇も喜劇も、恐らくは茲に発した。  所で、人類は「食ふため」には感性上のことなんか犠牲にしてゐる。ランボオの思想は、だから嫌はれはしないまでも容れられはしまい。勿論夢といふものは、容れられないからといつて意義を減ずるものでもない。然しランボオの夢たるや、なんと容れられ難いものだらう!  云換れば、ランボオの洞見したものは、結局「生の原型」といふべきもので、謂はば凡ゆる風俗凡ゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した以上、忘れられもしないが又表現することも出来ない、恰も在るには在るが行き道の分らなくなつた宝島の如きものである。  もし曲りなりにも行き道があるとすれば、やつとヹルレーヌ風の楽天主義があるくらゐのもので、つまりランボオの夢を、謂はばランボオよりもうんと無頓着に夢みる道なのだが、勿論、それにしてもその夢は容れられはしない。唯ヹルレーヌには、謂はば夢みる生活が始まるのだが、ランボオでは、夢は夢であつて遂に生活とは甚だ別個のことでしかなかつた。  ランボオの一生が、恐ろしく急テムポな悲劇であつたのも、恐らくかういふ所からである。      ★  終りに、訳出のその折々に、教示を乞うた小林秀雄、中島健蔵、今日出海の諸兄に、厚く御礼を申述べておく。 〔昭和十二年八月二十一日〕 底本:「中原中也全訳詩集」講談社文芸文庫、講談社    1990(平成2)年9月10日第1刷発行    2007(平成19)年1月10日第9刷発行 底本の親本:「中原中也全集 5」角川書店    1968(昭和43)年4月10日初版発行 初出:「ランボオ詩集」野田書房    1937(昭和12)年9月15日初版発行 ※原題は底本では、「ŒVRES D'ARTHUR RIMBAUD」と表記されています。 ※ルビのうち括弧()付きのものは、底本の親本「中原中也全集」編纂者によるものである。 (例)恰度 ※ママ注記のうち括弧()付きのものは、「中原中也全訳詩集」編集者によるものである。 (例)臘燭 ※(1)~(2)は注釈番号です。底本では、直前の文字の右横に、ルビのように付いています。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:オーシャンズ3 校正:L.P.S. 2009年4月12日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。