わかしとおゆと 折口信夫 Guide 扉 本文 目 次 わかしとおゆと 動詞形容詞一元論のたちばは、おもに、形式のうへにあるのだが、中には、意味のうへにまでも立入つて、其説を主張する人がある。今いはうとするわかしとおゆとの如きは、其屈強な材料なのである。 意味において、形容詞わか・しに対して居るお・ゆが、動詞であるのを見ても、一元なることは考へがたくないといふ。しかし、わかしとおゆとは意味において、しつくり、むかひあうては居らぬ、と、いふと、或はかういふかも知れぬ。それは、形式がちがつて居るからさう感じるので、さまを示すも、わざをあらはすも、もと〳〵、似たりよつたりのもので、形容詞と動詞とにわかれて居なかつた時代から、ある過程を経た今日のありさまでみれば、なるほど、非常にちがつたものゝ様にも思はれよう。けれど、一元渾沌の時代を推論し得る者には、さのみ、むつかしい問題ではない、といふかも知れぬ。自分は、形容詞動詞一元論を、否定せう、とは思はぬが、尠くとも、わかしとおゆとについては、愚見を陳述する必要を認める。 前に、わか・しとお・ゆとは、しつくりと、むかひあうては居らぬというたが、これはさまとわざとのちがひばかりではない。お・ゆに対しては、わか・ゆといふことばが、古く、見えて居る。 わか・しのわかが、生得の体言であるか、否かは問題であるが、自分は、これはある種類の用言からほかの種類の用言にうつらうとする際に、一時的に体言となつたものであらうと思ふ。 久活・志久活を通じて、形容詞の語根は、多く、ほかの体言なり、用言なりから転じたものゝ多いことは、事実である。自分の考から見ると、高・深・浅・優・近の様なものも、ある用言からほかの用言に転じる際に出来た、一時的の体言にすぎぬ、といふことになるのではあるけれど、今は、これ等についていふ場合でないから、わかだけに、述べる事にする。 自分は、わかといふ語の源に溯つて、わ・くといふ動詞に想到した。 これまでよんだ、きはめてすこしの本のうちでは、まだわ・くといふ動詞に逢着することが出来なかつた。けれども必ず、あつた語に相違ないと信じて居る。 わき─いらつこ わき─いかづち わく─ご などの、わき・わくは、どうも、音転ではない様で、おい─びと、といふのと、わき─いらつこ、といふのとは、語気から見ても、おなじく、連用言のやうだし、わく─ごのわくは、なぐ─矢、いく─弓矢などの如く、連体法のらしく、思はれる。 更に、推量の歩を進めれば、賀茂の別雷神のわけには、若といふ意が、含まつて居はすまいか。神名帳に、賀茂別雷神社、亦若雷とあるのは、有力な証拠である。之を別の字義にばかりかゝはつて説くのは、どうであらうか。上代の人名などに、生成的のものが多いから、このわけなども、或は、其辺から来たもので、わかとかわきとかわくとかの音転で、わけとなつたのであらう。 わ・くといふ動詞こそ見えざれ、い─わ・くといふ語は、立派に、文献の上に存して居る。 い─わ・くの仮字遣については、いわくか、いはくか定め兼ねて居る様であるが、どうしても、いわくと書くのが、本当だらうと思ふ。 い─わ・くのいは、い─行・く、い─宣・る、い─去・る、い─這・ふなどのいで、接頭語である。 即、い─わ・くといふ塩梅に、出来た語で、立派に、わ・くのあつたことが、推定せられるではないか。い─わ・くのいわに弱の意があるとするのは、い─わ・くであると説くのに劣る。い─わ・くから、いわけ─な・しが出て居る。な・しが無しでないことは、勿論である。 このわ・くが、形容詞接尾語しをよんで、久活形容詞となる際に、わかといふ体言の形をとつたのである。 わ・くは形容詞にうつつたばかりでなく、動詞にも再び転じて居る。 お・す が おそ(<す)・ふ(おすひといふ、名詞がある) よ・す が よそ(<す)・る               ┌・つ むく・む が うごも(<む)┤               └・る             ┌・む な・ぐ が なご(<ぐ)┤             └・る およ・ぶ、つく が およぼ・す、つく・す 右に示した場合の様なのは、自分は、之を、終止名詞法とよぶ。終止名詞法があると共に、うか─〳〵、ちら─〳〵、さや─になどの如き、あの韻をもつた名詞法がある。 さか・る うか・ぶ さま・す さか・ゆ(ゑみ─さ・くなどのさ・くから) 等も亦、その類であらう。 ともかく、わ・くが動詞接尾語の一つなるゆに接して、わか・ゆとなる。 わか・ゆのわかは、わか・しの語根から出たのではなくて、わ・くとゆとが、直接にひつついたものらしい。 さて、わか・ゆに対して、お・ゆがある如く、わか・しに対しては、何があるかといふと、語は、必しも、対照的に発達するものでないから、わか・しに対して、お・ゆの形容詞がなければならぬ、といふ筈はないが、これも、考へる事は、さのみ、難くはない。即、おほし、おほきしの意のお・しがこれである。 論理的観念の乏しかつた古人は、すく─な・いとか、みじ─か・いとか、わか・いとか、ちひ─さ・いとかいふ、すべて、少といふ概念に包括せられる語を、一括して、おほ・しといふ語にむかへて居る。 お・しがを・しにむかへられて居る事は、おとをとで、大小をあらはした例に徴しても、明かである。 同時に、お・しが、わか・しに対するのも、不思議でない。 人は、或は、お・しといふ様な形容詞はない、といふかもしれぬ。けれども、記紀を見れば、おし─ころ─わけ(忍許呂別)、おし─くま─わう(忍熊王)、おし─は─の─みこ(押歯皇子)などゝいふ語が多く見えて居る。 このお・しについて、古事記伝には、大の意に解かれて居る。然るに、橘曙覧は、これを難じて、「大の意なるをおし、といふことあるまじく、はた、そのこゝろならむには、直に、大の字をかゝるべきなり。おなじ意なる語に、文字を様々に、かへてかゝれざる、古事記の文躰なればなり。」(囲炉裡譚)というて、忍人命、押勝などゝ、押、忍の字があてゝあるから、つまり、たけく、いさましく、威徳の盛なるを表はしたものである、とやうにいうて居るが、これは聊か考へすぎて居りはすまいか。自分は、やはり、本居翁の引用せられた、熊野忍隅命を大隅命とし、凡河内が大河内と書いてある例を証拠として、おしと、おほしの近い事を主張する。 景行紀四年の条に、仍喚二八坂入媛一、為レ妃、生二七男六女一。云々。第三曰二忍之別皇子一、云々、第五曰二大酢別皇子一。とあるのに、記の方には、大酢別皇子がのつて居らぬところから、古事記伝には、「按ふに、此は、忍之別と一ツ王なるが、二柱になれるなり。其は、上に云る如く、忍之別の之ノ字は衍にて忍別なる、其忍は大の意なれば、淤富斯と、淤富須と、御名の伝への、聊かの差よりまぎれて、二柱にはなれるものなり。かの億計天皇の御名、大脚とも、大為ともある例をも思ふべし。されば、(中略)此記に、大酢別の無きも宜なり。」と説明してある。これも、参考すべき事である。 万葉十一に、「山しろの泉の小すげ凡浪に妹が心をわがおもはなくに」とある凡の字は、また、おほともよんで居る。「凡有者かもかくもせむをかしこみとふりたき袖をしのびたるかも」など、あるのから見ても、凡河内が大河内となるのが、あたりまへで、お・しと、おほ・しの、近い事がわかるではないか。 さうして、また、単に、おしの語根おばかりを用ゐて居る場合がある。大足彦忍代別天皇(記に、淤斯呂和気)、忍坂(於佐箇廼おほむろやに、神武紀)の如き。此事は、お・しが他の語につゞく時に、しを失うたのである、ともいへるが、景行紀に、押別命を忍之別皇子(通釈には、忍足として、やはり、おしとよませて居る)と書いてあるところから見ると、おといふ、語根そのものに、大の意があることが、書紀の出来た時代には、まだ、わかつて居たものと見える。 忍許呂別、押別命、押勝、忍の海といふ風の語法は、いかし穂、うつし身、めぐし子、こひしの人、などゝ、おなじであるが、此語の活用の鈍い事は、自分とても認めて居るが、さりとて、これを、わか・しと対して居る語でないと、一概に却ける、といふわけにはゆかない。 現に、すこ・し、おほ─き・しの如きも、活用は不完全ではあるけれど、すでに副詞の状態から形容詞の範囲にふみこんで居る。古代の形容詞には、この様な、活用の鈍いものゝ、多かつたことはいふまでもない。 時代が進むにつれて、すこ・しは、くときとにはたらく様になり、おほ・しから転じた、おほき・しは、く、し、けれの三段にはたらく様になつたが、お・しは、途中で亡びてしまうて副詞の状態から、まだ全く、離れる事が出来なかつたおもかげをのこして居る。 すこ・しの如きは、終止形は完全でないが、類推作用はくときとに、之を、はたらかして居る。すこしく、すこしきをあやまりだ、と、排してしまふのはよくはあるまい。 お・しは、記紀以後には、殆んど、用ゐられて居らぬ。だから、曙覧の様な考も出たのであるが、今一層、研究すれば、おもしろい結果を獲ることゝ信ずる。 お・しと、おほ・しとの関係について、おほ・しは、おしの間に、ほが入りこんだものか、但しは、おほ・しのほがはぶかれて、お・しとなつたものか、断言しがたい。 のみならず、おほといふことばは、非常に意味が広く、そのまゝ、または濁つておぼ、となつて、色々のことばをつくつて居るあたりから見ると、特別に、発達したものとも思はれるし、お・しのおについても、前にいうたとほり、それ自ら、大の意をもつて居る様であるしするから、いづれをいづれ、とも定められぬ。 以上述べ来たところで、自分は、わか・しとお・ゆとは、決して対へてとくべき性質の語ではないといふことゝ、おしといふ、副詞の状態を脱せない、わかしに対ふべき古語を推定したつもりである。 その後、伴信友の瀬見小河を見ると、「別は若の義にて、称へたるなり。古事記に、宇遅能和紀郎子とあるを、書紀に菟道稚郎子とあるなど思ひあはすべし。狭衣物語に、篠のわき葉とあるも若葉なり。さて、此神名、世に和計伊加豆知と唱へなれたるにあはせて、かの分二穿屋甍一而升二於天一とあるにより、或は、鳴神となりて、雲を別けて、天にのぼりませる由などより、別雷の義なり、といはむは、古意ならず。」とあつた。参考にもとつけそへておく。 底本:「折口信夫全集 12」中央公論社    1996(平成8)年3月25日初版発行 初出:「同窓 第九号」    1908(明治41)年6月 ※底本の題名の下に書かれている「明治四十一年六月「同窓」第九号」はファイル末の「初出」欄に移しました ※複数行にかかる中括弧には、けい線素片をあてました。 入力:門田裕志 校正:仙酔ゑびす 2008年8月11日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。