唱導文学 ──序説として── 折口信夫 Guide 扉 本文 目 次 唱導文学 ──序説として── 唱導文学といふ語は、単なる「唱導」の「文学」と言ふ事でなく、多少熟語としての偏傾を持つて居るのである。事実において、唱導文学は、説経文学を意味しなければならぬのであるが、わが国民族文学の上には、特に説経と称するものがあり、又其が唱導文学の最大なる部分にもなつてゐる。だが、その語自身、あまり特殊な宗教──仏教──的主題を含んでゐる為、其便利な用語例を避けて、わざ〳〵、選んだ字面であつたのである。其れが今日では、既に多少普遍化して来て、又語らざるに、却て仏教的な説経文学の意義に考へられかけて居る。実は、もうさうなつてもよい、と考へてゐる私である。元、漂遊者の文学、巡游伶人の文学などゝ命けて、考察を続けて来た間に、その頃此国の文学史家が、徐ろにとり入れかけたのが、もうるとん氏の文学論及び文学史に関する諸論文であつた。右の先輩の文学に対する態度は、其前から盛んであつた仏蘭西の民俗学的な研究法から、甚しく影響を受けたものであつた。其だけにおなじく、民俗学的態度に拠る事の多い私どもの研究法からは、極めて些細な点までも、差異が見え透いた。あめりか流に常識化したやりくちが、如何にも気易げに感ぜられたのであつた。そのもうるとん氏を立てる方々の間に、漂流文学と言ふ術語が喜ばれ出した時期があつた。で其混乱を避ける為に、わざと唱導文学の字面を採ることにもしたのであつた。だから、宗教以前から、その以後までを包含してゐる訣なのだ。 殊に民俗文学の発生を説く事に力を入れたい、と言ふ私自身の好みからは、是非とも此点を明らかにしておかうと考へる。さうして同時に、「非文学」及び「文学」を伝承、諷誦する事によつて、徐々に文学を発生させ、而も此同じ動向を以て、文学を崩壊させて行く、団体の宗教的な運動を中心として見ると謂つたところを、放さないで行きたいものである。       文学は旅行する 題目の少し、効果的である事は恥しいが、殆ど宿命的に、唱導文学には、旅行と言ふことがついて廻つて居たのである。まづ発生の第一歩からして、さうであつた。さうして、「非文学」が次第に、文学となつて行つて居る間にも、一方絶えず、旅行が文学となつて居た。其ほど文学は、旅行そのものであつた。私は実際口のすつぱくなるほど、異人の文学と言ふものを説いて来た。常世と称する異郷から、「まれびと」と言ふべき異人が週期的に、此土を訪れたのである。さうしてその都度、儀礼と呪詞とを齎らした。儀礼が大体において、祭祀となり、芸術的には、演劇と舞踊と、又若干の奇術とを分化した。呪詞は常に、同一詞章のくり返されてゐる間に、次第に小区分を生じ、種々の口頭伝承を分化した。何故文学が、非文学から生じたかと言ふ事の、第一条件となるものは、さうした来訪者の口唱する呪詞の固定である。だが、其よりも先に大切な事は、その人々は、実は旅行者でなく、ある邑落と不即不離の関係で、生活してゐる者でなければならなかつた。此言ひ方は実は少々、錯乱を含んでゐる。同じ村の生活者の一部が、週期的の来訪時と考へられた時期に、恰も遥かな──譬へば通例、海彼岸に在ると考へられた──国土から出発して来向つたもの、と信仰的に考へられて居た。これが多分、最古くからの正しい形で、亦最後世までも俤を存したものと見える。其に対して、或は今一つ前の姿と誤認せられ易いのは、次に言ふものである。其邑落と、平常に何の交渉もない社会生活を続けて居て、単に祭祀の短い期においてのみ、訪問して来る団体の出る、別殊の部落──多くは、訪れを受ける村よりは、小い組織の村と考へられてゐたらしい──があつた。要するに、後代まで山奥或は、岬・島陰の僻陬に構へた隠れ里から、里の祝福を述べる為に、年暦の新なる機会毎に来訪すると言ふ形の、部落があつたのである。此意味において、古代日本民族の中心となつてゐた邑落に対して、海部或は山人の住みかと言ふものが、多くは指顧する事の出来る様な近い距離に、構へられる様にもなつた。其為こそ、伝襲的に愈々盛んになつた文学上の題目、海士や山賤の生活があつたのである。後に段々、単に文学者の優美に触れるものとしてよりか、扱はれなかつたとしても、言語伝承として、其形骸だけでも久しく存続した訣なのだ。此意味のものも、最古い姿においては存外、邑落自身の民の派出して生じたものと見られるのである。つまり祭祀の時の神として来向ふ若干の神人が、臨時に山中・海島に匿れて物忌みの後、神に扮装して来ると言ふ風が、半定住の形を採つたのである。即、さうした里離れた地における隔離生活が、段々延長せられて行つて、遂にはある邑落に関聯深い特殊な儀礼奉仕の部落が成立する様になる。とゞのつまり、祭儀の為の奴隷村と言つた形を採つて、村同士の関係が固定したまゝ、永続する様になつて行く。而も更に次に言はうとする形の団体と、部落以外の人からは同一視せられて、邑落との関係が、非常に自由になつて行く。数個の邑落と交渉を生じ、更に幾つとも知れぬ檀那村を生じて、祝福を職業とする乞食者となつて行つたものもある。だから実際は、山部・海部の種族と言ふでふ、元日本民族の分岐者であつたのが、多いのではないかと思ふ。さうして其を逆に、俘虜・新降の徒、即異神を奉じて、其力を以て、宮廷及び地方的権威者を祝福するものだ、と信じられる様になつたものゝ方が、多かつたのではないかと考へる。 第三は、真の旅行団体、巡游伶人とも言ふべきものである。此こそ今挙げたものと、前後の関係を交錯して居るのである。判然と言ひわける事は、却て不自然で、謬つた結果に陥る訣なのである。先住民或は、後住族が、何時までも国籍を持つことなく、移動をくり返す事、あまりに古代日本中心民族と、生活様式を異にして居た。さうして、その訪問する邑落の範囲は、極めて広く遠く及んでゐた為に、中世武家盛んなる時に及んで、漸く人中に韜晦して了ふものが出来ても、尚その落伍者は、過去千年以前からの流転の形を保つて居た。さうして今も恐らくは、さうした種族の後と思はれる者が、南島の海士の中に、又旧日本の山伝ひをする剽悍な部族として残つてゐるものと考へられて居る。 古代からの素朴な考へ方からすれば、此形式のものばかりを考へてゐたのである。現実に存在するもの、と信じたのである。此は真実もあり、錯誤もあつたに違ひない。だが、かうした種族の存在を考へるに到つた元は、その人々と同じくして、もつと畏しいものとして迎へられた神々の群行であつたのだ。週期的に異神の群行があつて、邑落を訪れ、復来むまでの祝福をして通るものと信じてゐた事にある。此信仰が深まると共に、時として忽然極めて新なる神々の来臨に遭ふ事も、屡であつた。さうした定期のをも、臨時のをも、等しく漠たる古代からの考へ方で信じてゐたのである。畏しくして、又信頼すべきものとしてゐた。其等の神の持ち来した詞章は勿論、舞踊・演劇の類は、時を経ると共に、此土の芸術として形を著しく固めて行つた次第である。たとひ此等の異人の真の来訪のない時代にも、村々の宿老は、新しく小邑落の生活精神としての呪術を継承する新人を養成する為に、秘密結社を断やす事なき様に努めて来た。其処で、ある期間の禁欲生活を経た若者たちは、その解放を意味する儀礼としての祭祀において、神群行の聖劇を行つた。行道或は地霊克服を内容としての演劇であつた。又苛酷な訓練や、使役の反覆、憑霊状態に入る前後の動作、さう謂つたものが次第に固定し、意識化せられて芸能となつて来た。つまり其等の信仰の原体は、「常世の稀人(賓客)」なる妖怪であつた。さうして、合理化しては、邑落の祖先なる考妣二体を中心とする多数の霊魂であるとした。我が国古風の祭祀では、その古義を存するもの程、其多くの群行する賓客を迎へる設備をしたものである。藤原の氏の長者権の移動を示すものとして、考へられてゐた朱器・台盤の意義を、私は古くから、此賓客を饗応する権力即「あるじ」たる力を獲る事にあるとして居た。近頃、村田正言学士が、此「二種の神器」の外に、蒭量と言ふもののある事を教へてくれた。まだ円満な解釈に達しないが、字から見れば、「くさはかり」又は「ひくさちぎり」とでも言ふべき、古代の重さを見る計量器──即、恐らくは其容れ物──であつたらしい事は察せられる。さすれば、馬の飼葉を与へる事を意味してゐるものがありさうに思はれる。       其駒 その駒ぞや われに草乞ふ。草はとり飼はむ。みづはとり 草はとり飼はむや──其駒 さゝ(ひ)のくま 日前川に駒とめて、しばし飲へ。かげをだに(我よそに)見む ──古今集 昼目 又、 いづこにか 駒をつながむ。あさひこがさすや 岡べのたま篠のうへに。たま篠のうへに ──神楽 昼目 此岡に 草刈る小子。然な刈りそね。ありつゝも 君が来まさむ御馬草にせむ──万葉巻七 類例は、煩はしい程ある。我々は昔から唯の処女が、恋人を待ち兼ねての心いそぎの現れと見て、単にいぢらしいものゝ類型と考へて来た。だが古い思案はちよつと待て、と云ひたくなる。私どもの長く最親しい同伴者西角井正慶君の新著「神楽研究」は劃期的の良書である。此章では、暫らく西角井君と二人分しやべらして頂くつもりである。神楽の「昼目歌」は、勿論其直前の「朝倉」に引き続いての朝歌である。詳しく言へば、吉々利々で、明星を仰いで、朝歌は初まるのである。さうして、実はもう朝倉だけで、神楽は夜の物の、「遊び上げ」になつてよいのである。だから、其を延長したものとして、昼目歌が続く訣である。御覧のとほり、昼目・其駒、実質的には変りはない。其他に、本によつて、色んな歌のついて来るのは、「名残り遊び」で、庭浄めに過ぎない。即、朝倉・昼目・其駒、一つ物の分化したゞけに過ぎないので、神楽は実に、茲きりの物だつたのだらう。此等を通じて見える精神は、「神上げ」であり、「名残惜しみ」に過ぎない。だから、神の乗り物の脚遅からむことを望むことが、同時に神を満足させる事になるのである。神送りはいづれも、さうするのであつた。だから、駒を主題として、「おなごり惜しの。また来て賜れ」の発想を、古今集の神楽歌の「さゝのくま」では、名残り惜しみの義に片寄せて用ゐて居たのだ。神楽のは、「つながむ」で其が示されて居るつもりで謡はれたのだらうが、全体としては、神讃めと言つた形に近い。さうして何だか支離滅裂な気分歌である。万葉のは、待つ間のある一日の感懐と言ふやうに見えるが、ほんたうならば、こんな表現はしない筈である。段々類型が偏傾を生じて、かうさせたのである。若しも之を神楽などに利用すれば、今度来る時への誓約として利いて来る。草苅る事を禁ずる形式の歌は、此型を外にして、まだ幾つかの違つた形を持つて居る。ともかくも、遠旅を来た賓客に対して、「その駒」に蒭飼ふ事は、歓待の一表出である。「其駒」自体の様に、何処に目的のあるやら、だから、腑の抜けた様な歌が、生彩を放つて来る訣である。 田楽は、恐らく固有の「田遊」と踏歌・呪師芸能の色んな形に混合したものと思はれる。だが単に庭或は、座敷芸と考へてはならない。群行即道行きの練り物であり、又「門入り」を主とするものであつた事は訣る。即、練道の途次、立ち寄つて、芸能の一部を演じて行く家々があつた。水駅・飯駅・蒭駅など呼んだところから見ると、旅人の駅路を来るに擬したものと思つてよい。飯駅は、その家では屯食にでもありつくのだらう。水駅は、人の上にも解せられるが、主として、馬に飲ふ駅舎に見立てたのだらう。蒭駅は勿論、馬に飼ふ干草をくれる処との考へである。だから考へると、蒭量を藤氏の氏上相承の宝とした訣もわかつて来る。秣と称して、実は馬に扮した人の纏頭となる物が与へられたのでもあらうか。が古くは、やはり想像にも能はぬ事だが、馬糧の草籠の類が用ゐられたのであらう。「蒭」は、ひくさではあるが、秣・莝の様に、まくさとは訓まれないのが本道だ。馬糧にも使ふが、用途は外にもあつた。諏訪社には祭礼に廻る木並びに其他の地物があつた。此を「湛」と称へてゐる。此解釈も区々だが、大体において、神長官の順廻する所なのは、確かだ。其一つに「ひくさ湛」と言ふのゝあるのは、やはり蒭に関したものなのではないかと思ふ。かうして、主たる目的の家に達すると、賓客の外出入り禁断の中門で、最力のこもつた芸能を、演じなければならなかつた。其為こそ、後世ちらばらになつた諸国の田楽でも、凡皆「中門口」と称する曲目は、名だけでも失はず居た。此が田楽の「能」として、俤を残したと思はれるのは、名だけ伝つた「熱田春敲門の能」と称するものである。此中門は、外廓の門を入つて、更に内庭に入らうとする所にあつた。宮殿と後に言ふ「寝殿」へ通る入り口である。群行神なればこそ、中門を入らうとして此口において、芸を奏したのである。万葉巻十六の「乞食者詠」の「蟹」の歌に、「ひむがしの中の御門ゆ参入り来ては……」とあるのは、祝言職者の歌である為、中門口を言うてゐるのである。後には、中門も、東西に開き、泉殿・釣殿を左右に出す様に、相称形を採る様になつたが、古くはどちらかに一つ、地形によつて造られて居たものと思はれる。だから場合によつては、南が正面にも、北が其になる事も、あつたであらう。又、宮廷の如きは、四方の門を等しく重く見るのが旧儀であつて、其が次第に、南面思想に引かれて行つたものらしい所を見ると、宮廷内郭の玄輝門或は、其正北、外廓に当る朔平門に関して考へねばならぬ。其北の最外郭にあるのは、古くから不開御門と呼ばれた偉鑒門である。即、正南門の朱雀門に、対当する建て物であつた。彼通称を得た理由としては、花山院御出家に際して、此門から遁れ出られた事の不祥を説いて居るが、此は民俗的な考へ方だけに、史実でない事が思はれる。       北御門 普通、社寺或は民家で、「あけずの門」と称する物は、必祭日或は、元旦などに、神を迎へる為に開く為のみの用途を持つて居たもの、と言ふ事は、明らかである。其だけに、此宮門正北の不開門も、昔は時を定めて稀に開く事があつた事と思はれる。北方の諸門は、皇后・中宮その他、後宮の出入所になつて居た。だから従つて偉鑒門も、後宮に関係深かつたものだ、と思はれる。所謂不開門になつてからは、その為事を達智門に譲ることになつた。宮廷に行はれた四種の鎮魂儀礼の中、鎮魂祭は、大倭宮廷の旧儀である。其外、清暑堂の御神楽と、内侍所の御神楽とでは、自ら性質が違つて居り、尚その他にも幾種類同様なものが練り込んだか知れないが、其中俤の察せられるのは、北御門の御神楽なるものゝ存在である。唯、其が独立して居たものやら、この神楽の一部分やら訣らぬ事である。恐らくこの神楽歌の名称には其北方から、宮廷に参入して来た姿を留めて居るのではないか。結局「承徳三年書写古謡集」に並記せられた介比乃神楽(気比神楽)と一続きのものであるまいか。宮廷において北御門と正式に呼ぶ事の出来るのは、此門だけである。私は曾て、偉鑒門外で警蹕をかけ、反閇を行うた神楽のあつた事を想像する。たとへば、ある神に属する神楽は、応天門──勿論朱雀門を過ぎて──豊楽院の後房なる清暑堂に入り来つたとも考へられる。此歴史を守つたのが、清暑堂の御神楽となつた。西角井君の「研究」に拠つて物を言へば、明らかに単に、数種の宮廷神楽の一つの名称を言ふ事にとつてよいのだ。清暑堂焼亡の後も、他の殿舎の辺りで、「清暑堂御神楽」と言ふ名で行はれてよい訣なのである。此は、大内裡全体に対して行はれたものと考へる。内侍所の御神楽は、今すこし小規模で、至尊平常起臥の構内に関係したものと思はれる。言ふまでもなく、神楽奉奏の為に、神参入するのでなく、神入り来つた事の条件として、神楽が奉仕せられた訣である。後に本末顛倒して、神楽の為に時を設ける様になつたが、結局神楽は、元宮廷内で発生したものでなく、冬期の祭日に、外から入り来る異人の反閇所作であつた事が考へられる。神楽次第からすると、内侍所の御神楽は、人長の警蹕からはじまる。二声「鳴り高し」をくり返すと言ふ。即、群行神の主神が、茲に出現した形である。警蹕の本義から見れば、かうした形は第二次以下のものではあるが、ともかくも風俗歌譜で見ると、一つの歌詞のやうにまでなつて居たのだ。「音なせそや。みそかなれ。大宮近くて、鳴り高し。あはれの。鳴り高し」「あなかま。従者等や。みそかなれ。大宮近くて、鳴り高し。あはれの。鳴り高し」。此から見ると、「鳴り高し」の意義が思はれる。宮門においてする警蹕なのである。内侍所御神楽は、伝来を尋ねると、確かに石清水八幡出のものである。だが、此由緒は、清暑堂の御神楽と混淆して居ないとも限らない。「韓神」の歌、或は枯荻をかざし舞ふ所作などが、重要視せられ、ある種の神楽によると、韓神歌が重複したりしてゐる。其から見ると、平安京城の地主神たる薗・韓神の宮廷祝福の為に、参入した事を暗示してゐるのでないかと思ふ。 どれがどれと言ふ風に、三種の神遊以外に更にあつたと思はれる宮廷神楽を明確に分たうとする事が、不自然であり、現に其目安となつてゐる歌詞さへ、混乱してゐるのだから、出来ない相談でもある。が、北御門の神楽の所属は、ある神楽謂はゞ、中門口の芸であつた所から、詞章が少かつたのか、又全然別殊のものか、今後も、尚問題になる事と思ふ。 椎柴に 幡とりつけて、誰が世にか 北の御門と いはひ初めけむ──北御門の末歌 三島木綿肩にとりかけ、誰が世にか 北の御門と いはひそめけむ──本 八平盤を手にとり持ちて、誰が世にか 北の御門と いはひ初めけむ──末 此後の二首は普通は、下の句は「我韓神のからをぎせむや」となつてゐる。どちらかが替へ文句である。全体から見て訣るやうに、韓神の歌の下の句の自由性を模倣し、上句をその儘にしておいたのが「北御門」の伝文の方らしい。即、替へ歌である。韓神の歌を転用して居る点から見ても、──却て近い関係を説く論理もなり立ちさうだが──韓神とは、別の遊行神に属する神楽だと思はれる。 神楽はその奏上次第から見て、正しく宮廷外の神の練道芸能である。つまり一種の野外劇になつて行く傾向を示してゐる。だが、偶然、日本の神事の特色として、大家に練り込むと言ふ慣例のあつたのに引かれて、謂はゞ「庭の芸能」と言ふ形を主とする事になつて行つた訣だ。だから此形の外に、ぺいぜんとの形式を採つた部分もあつた事が、辿れるやうになる事と思ふ。さすれば、踏歌や、田楽と極めてよく似て居て、唯、ある差異があつたと言ふ事になる。即、神楽では、謡ひ物としては、短歌形式が主要視せられた事が、其一つである。其二は、古くから「神遊び」と称せられてゐたものに似て居て、同一の見方に這入ることが出来た事、さうして其が其特徴たる「かぐら」の名を発揮して来たこと。だから最初「かぐら神楽」など言ふ名で呼ばれて居た事を考へて見る方が、古態を思ひ易くてよい。第三は、其巡行の中心として所謂「かぐら」なるものが行進の列に加つて居た事。さうして其神座に据ゑた神体が、異風なものであつたらしい事。さうして、其神座に居る神の実体は、後の神楽には、閑却せられて了ふ様になつたらしい。だから神楽も、古いものほど、神体を据ゑた神座なるものを中心とした群行だつたに違ひない。神楽では、安曇ノ磯良を象つた鬼面幌身の神楽獅子に近いものだつたのではないか。 才ノ男が、宮廷以外は、多く人形を用ゐたらしい処から見ると、神楽の形も想像が出来ると思ふ。此事は却て逆に神自身が、偶像に近い形のもので、之を持ち出す事によつて、俄かに、威霊が活躍し出すと謂つたものではなかつたかと思ふ。たとへば神楽と最関係深い八幡神布教状態から見ても知れる様に、高良山神──武内宿禰と説く──に象つたと称する人形を先頭に立てゝ歩いたのであつた。その為、高良の大太良男大太良女ノ神が、世間に知られて、大太郎法師と言ふものゝ信仰が行はれた訣である。八幡神を直に人形身で示した証拠がなくとも、其最側近なる神を偶像を以て表し、又其を緩慢にでも操る事によつて、一種の効果を齎したものとすれば、石清水系統に神座のあつた事が考へられる。八幡神の如きも、大いに遊行する神であつて、宇佐から上つて、東大寺の大仏を拝した如きは、聖武天皇の朝の事で、其群行と主神の如何様なるものであつたかゞ、判断出来る訣である。       巡游伶人 神楽の神が旅をして、而もある種の文学を生みひろげて行く事を語つた。北御門へ来る神楽は、恐らく北方からくる神であつて、或はおなじ八幡に仮託せられる様になつたとしても、気比の神らしい処が見えるのである。八幡神が、誉田天皇の御事と定まつて来たのも、単なる紀氏の僧行教などのさかしらよりも早く、神楽によつて、合理的な説明が試みられてゐたのかも知れない。 「優婆塞が行ふ山の椎が本」など言ふ語は、譬へば後世の所謂法印神楽などに関聯する所が多い様に見える。だが歌などは、何とでも説明出来るが、まあかうした歌を用ゐるやうになつたゞけ、遅い時代の游行神の文学の姿を示したものと、言ふ事が出来る訣である。一体神楽は、かうした旅行異人の齎した文学としては、様式こそ昔ながらなれ、内容は新しくなつてゐるのである。極めて古い物は、呪詞の形を採つてゐたのに、平安朝になると、かうした歌の形を主とするやうになつてゐたのである。而も此後といへども幾回、幾百回、かう言ふ儀礼がくり返されたか知れないのである。さうして、転じては又「今様」を主とする時代さへも、やつて来たのである。其が変じて武家時代の初頭には、「宴曲」などがその意味においての主要なものになり代り、又一転して、説経の伴奏琵琶が勢力を得るやうになつて、説経が永く本流となるやうになり、而も其が分岐して、浄瑠璃を生じる事となつた。かうして盲目の唱導者が、漸く著しくなつて行つた。 私どもは今、顧みて神楽以前、日本文学の発生時代の事を語つてよい時に達した様である。 最初に色々あげた形のうち、遠旅を来るとしたものが、此論文では主要なものとならなければならぬ。従つて、此咄し初めに、神楽を主題とした訣でもあるのだ。此は単に出て来る本貫の、遥かだと言ふには止らない。旅の途次、種々の国々邑落に立ち寄つて、呪術を行ふ事を重点において考へるのである。神としての為事と言ふ事は勿論、或は神に扮してゐると言ふ事をすら忘却する様になる。すると、人間としての為事即、祝言職だと言ふ意識が明らかに起つて来る。祝福することを、民族の古語では──今も、教養ある人には突如として言つても感受出来る程度に識られてゐる──「ほく」或は「ほかふ」と言つて居た。二つながら濁音化して、「ほぐ」「ほがふ」と言ふ風にも訓まれて来てゐる。その名詞は、「ほき」又は「ほかひ」である。だから祝言職が、人に口貰ふ事を主にする様になつてからは、語その物が軽侮の意義を含むやうになつて来た。その職人を「ほきひと」「ほかひゞと」と称したのが、略せられて、「ほきと」を経た形は「ほいと」となり、──陪堂の字を宛てるのは、仏者・節用集類のさかしらである。──又単に「ほかひ」と称せられる事になつた。此等の者の職業は、だから一面、極めて畏怖すべきものを持つて居て、其過ぎ行く邑落において、怨み嫉みを受ける事を避けると共に、呪術を以て、よい結果を与へ去つて貰はうとした心持ちが、よく訣る。即、既に神その物でなくなつてゐたとしても、神を負ふ者であり、神を使ふ者である。だから大概は、食物を多く喰はせ、又は持ち還らせる事によつて、其をねぎらひ、あたせられざらむことを期してゐた。だから当然多くの檀那場を廻ることになつたのである。乞食者の字面を「ほかひゞと」に宛てゝ居るのは、必ずしも正確に当つて居ないのである。此方から与へると言つた意味の方が多いのだ。かう言ふ生活法を採つて居るからと言つて、必ずすべてが前述の如き流離の民の末とは言へない。ある呪術ある村人が、其生活法を嫻つてさうした一団を組織した例も多いのである。彼等の間には、勢ひ、食物の貯蔵に関する知識が発達した。かれいひ(かれひ・干飯)や、鮓は、其一例である。又その旅行具が次第に、世間人に利用せられる様になつた。所謂「行器」を訓む所の「ほかひ」である。倭名鈔などには、外居の字を宛てゝ居るが、此頃すでに、は行・わ行両音群の融通が行はれて居たからで、義は自ら別である。何故なら、「ほかひ」には、脚のないものが沢山あつたのである。外居は、所謂猫足なる脚の外に向つた所から言ふのだとする説は、成り立たないのである。乞食者が携へ又は、荷つて廻つた重要な器具だつたからである。後世に到るまでの、此器の用途を考へると、第一は巡游神伶団の、神器及び恐らくは、本尊の容れ物であつたらしい。本尊容れで、他の用途に使はれたものは、「ほかひ」以前か、又同時にか、尚一つ考へられる。即、櫛笥である。此笥に関する暗示は、柳田国男先生既に書かれてゐる。恐らく魂の容器だつたものが、神聖な「髪揚げ」の品を収める所となつたのだ。同時に櫛以外の物も這入つて居り、而も尚元の用途は忘れられなかつたのであらう。而も行器に収められてゐると信じられてゐた本尊は、後世の印象を分解して行けば、甚幻怪なものであらう。武家時代に入つて、行器は久しく首桶に使はれた。東京芝大神宮の行器──ちぎ・ちげ又は、ちぎ櫃と言ふ──は、大久保彦左用ゐる所の首桶だと言ふ。而も食物容れだと言ふ事は、其処でも忘られては居ない。其上、今も祭礼・婚葬の儀礼の食物は、之に盛つて贈る風が、関東・東山の国々には行はれて居て、ほかい・ほけなど称へてゐる。一方又、梓巫女の携へてゐる筥は、行器とは形は違つてゐるが、此中に犬の首が入れてあるのだなどゝ伝へてゐる。巡游神伶の持ち物の中には、本尊と信ぜられた、ある神体の一部が這入つてゐるものだ、と言ふ外部の固い推測が、長く持ち伝へられるだけの、信仰的根柢があつたには違ひないのである。 祝言の乞食者が持ち廻つた神器が、又謂はゞ一種の神座でもある訣であり、同時に食器であり、更に運搬具でもあつたのだ。之を垂下し、又枴で担ひ、或は頭上に戴いても歩いて居た。時としては、之に腰を卸して祝言を陳べる様な事もあつた。武家時代に残存してゐた桂女などは、「ほかひ」を携へて「ほかひ」して歩いた「ほかひゞと」の有力な残存者であつた訣である。「ほかひ」に宛てるに行器の字を以てし、又普通人の旅行にも、之が模造品を持ち歩いた処を見ても、如何に神人の游行の著しかつたかゞ察せられる訣だ。而も此「巡伶」の人々が、悉くほかひなる行器を持つて居た訣でもなからうし、同じく「ほかひゞと」と言はれる人々の間にも、別殊の神の容器を持つた者のある事が考へられる。つまり、何種類とも知れぬ、「ほきと」「ほかひゞと」が、古くは国家確立前から、新しくは中世武家の初中期までも、鮮やかな形において、一種唱導の旅を続けて居たのである。さうした団体が、五百年、千年の間に、さしたる変化もあつたらしくないやうに、内容の各方面も、時代の影響は濃厚に受ける部分はありながら、又一方殆罔極の過去の生活を保存して居た事も、思はねばならないのである。       ことほぎ 神座を持つて廻つて、遂に神楽と言ふ一派の呪術芸能を開いたものでも、亦「ほかひ」である点では一つであつた。唯大倭宮廷に古くあつた鎮魂術の形式上の制約に入つて、舞踏を主として、反閇の効果を挙げようとしたのが、かぐらであり、「言ひ立て」によつて、精霊を屈服させようとする事と、精霊が「言ひ立て」をして、服従を誓ふのと、此二つの形を一つにごつたにして持つものが、「ほかひ」であつたとは言へる。さうして、ほかひの中、所作を主としたものが「ことほぎ」であつた。凡、「ほかひ」と謂はれるもの、此部類に入らないものはない。つまり純乎たる命令者もなく、突然な服従と謂つたものもない訣で、両方の要素を持つた精霊の代表者の様な者を、常に考へて居たのである。だから、宮廷、社会の為に、精霊を圧へに来ることは、常世の賓客の様でありながら、実に其地方の地主なる神及び、その眷属なる事が多い。私は、神楽・東遊などに条件的に数へられてゐた陪従──加陪従もある──などは、伴神即、眷属の意義だと信じてゐるのだ。此等の地主神──客神・摩陀羅神・羅刹神・伽藍神なども言ふ──は、踏歌節会の「ことほぎ」と等しい意味の者で、怪奇な異装をして、笑ふに堪へた口状を陳べる。殊に尾籠な哄笑を目的として、誇張による性欲咄と、滑稽・皮肉を列ね言ふのであつた。だから、詞章から言へば、いはひごと──鎮護詞──と言ふべきものを元として、其を更にくづして唱へたものらしい。「歌」物語以外において、日本文学の滑稽の出発点を求めれば、此点を第一に見ねばなるまい。態度としての滑稽は、「歌」ばかりからは出て来ない訣だからである。歌物語における滑稽は、歌諺類を、すべての人をして、信じ難い方法で以て、而も強ひて巧みに説明する技巧から出て来るのである。だが、其外に確かに、今挙げた別途の笑ひの要素が含まれてゐる。 かうした「いはひ詞」を持つて、諸国の檀那場を廻る様になる。其が、進むと千秋万歳である。此は、平安朝に早く現れて、而も人の想像する程の変化もなく、近代の万歳芸に連接してゐるのである。 併しさうした笑ひを要素とした祝言職以外に、もつと古風な呪芸者の群れがある。自団の呪術──主として禊祓の起原に関聯した叙事詩を説く事によつて其術の効果の保証せられるものと信じて居た──を持つて廻つた、各所の霊地の神人団が、其だ。此に信仰の宣布と共に、新地の開拓と言ふ根本的目的を持つて居た。つまりある信仰の拡まる事は、其国土の伸びる事となるのだ。 天子の奉為の神人団としては、其朝々に親𥄨申した舎人たちの大舎人部──詳しく言へば、日置大舎人部、又短く換へて言ふと、日置部日祀部など──の宣教する範囲、天神の御指定以外に天子の地となる。皇后の為にも、同様の意義において、私部が段々出来て行つた。かうして次第に、此他の大貴族の為に、飛び〳〵に認可せられた私有地が出来て来る。さう言つた地には、此に其建て主又は、其邑落に信奉せられてゐる呪法の起原の繋る所の叙事詩の主人公──元来の土地所有者の生涯の断片に関して語り伝へたものである。さうして、同一起原を説く土地の間において、歴史的関係が結ばれて来る訳である。 過去の人及び神を中心として、種々の信仰網とも言ふべきものが、全国に敷かれて居たのである。之を行うたのは、誰か。言ふまでもなく、巡游伶人である。而も、其中最その意味の事業を、無意識の間に深く成就して行つたのは、何れの団体であらう。其は、海部の民たちである。 之を外にしては、大体において、山部と称へてよい種類の、山の聖水によつてする禊ぎを勧める者が多く游行した様に思はれる。 まきもくの 穴師の山の山びとと 人も見るかに、山かづらせよ 穴師神人の漂遊宣教は、播磨風土記によつて知られるが、同時に此詞章が、神楽歌採物「蘰」のものである事を思ふと、様々な事を考へさせられる。山人が旅をする事の外に、近い里の祭儀に参加したのである。さうして祝福の詞を述べた事が屡あつた。此は、奈良都以前から行はれて居た事で、更に持ち越して、平安朝においてすら、尚大社々々の祭りに、山人の来ること、日吉・松ノ尾・大原野の如き、皆其であつた。 海部と言ひ、山人と言ひ、小曲を謡ふやうになつたと言ふ事は、同時に元長い詞章のあつた事を示してゐるとも言へる。呪詞又は叙事詩に替るに、其一部として発生した短歌が用ゐられることになつたので、之を謡ふことが、長章を唱へるのと同等の効果あるものと考へられたのである。だが同時に、小曲の説明として、長章が諷唱せられる事があるやうになつた。即順序は、正に逆である。かう言ふ場合に、之を呼んで「歌の本」と称してゐた。歌の本辞(もとつごと)言ひ換へれば、歌物語の古形であつて、また必しも歌の為のみに有するものと考へられて居なかつた時代の形なのだ。 古く溯る程、歌よりも、その本辞たる叙事詩或は、呪詞の用ゐられることが、原則的に行はれてゐた。歌の行はれる様になると、同時に「諺」が唱へられたらしい。「諺」は、半意識状態に人の心を導く一種の謎の様な表現を古くから持つたもので、同時にある諷諭・口堅めの信仰を含んでゐるものでもあつた。簡単な対句的な形式の中に、古代人としての深い知識を含んでゐるものでもあつた。だから、諺に対しては、ある解説を要する場合が多く、其解説者としての宿老が、何処にも居つたのである。其で諺については、どうしても説話が発達しないでは居なかつた。歌と呪詞・叙事詩との関係を、寧逆にしたのが諺の場合である。所謂歌から生じた後の歌物語なるものは、諺とその説話との関係を見倣つて進んで来たのだと言ふことが出来る。諺の最諺らしい表現をせられる時は、即「謎」に近づいて来る。と言ふより、謎は此から出たと言ふのが、正しいであらう。懸け合ひすることを、祭祀の儀礼の重要な部分とするのが、古代の習慣であつた。神及び精霊の間に、互に相手方の唱和を阻止する様な技巧が積まれて来てゐた。即応する事が出来ねば負けとなる訣である。元来は真の頓才による問答であつたらうが、次第に固定して双方ともにきまつたものをくり返す様になつた事である。唯、僅かづゝの当意即妙式な変化と、順序の飛躍とがあつたに過ぎないであらう。 歌物語においては、如何にも真実らしく感じる所から、自然悲劇的な内容を持つものが多くなつて行くが、諺物語においては、次第に周知の伝承を避け、而も意表に出るを努める所から、嘘話としての効果をねらふ様になり、喜劇的な不安な結末を作る方に傾くのである。       早歌 (いづれぞや。とうどまり。彼崎越えて) 本」何処だい。行き止りは。末」そんなこつちや駄目だ。あの崎越えてまだ〳〵。 (み山の小黒葛。くれ〳〵。小黒葛) 本」山のつゞらで言へば、末」もつと繰れ〳〵。山の小つゞら。 (鷺の頸とろむと。いとはた長ううて) 本」鷺の首をしめようとすると。末」ところが又むやみに長くつて (あかゞり踏むな。後なる子。我も目はあり。先なる子) 本」踵のあかぎれを踏んでは困る。うしろの人間よ。末」言ふな。おれだつて、目がついてるぞ。先に行く奴め。 (舎人こそう。しりこそう。われもこそう。しりこそう) 本」若い衆来い。ついて来い。末」手前も来い。ついて来い。 (あちの山。せ山。せ山のあちのせ) 本」向うの山だから、其で背山だ。末」背山でさうして、向うのせ山。 (近衛のみかどに、巾子おといつ。髪の根のなければ) 本」陽明門の前で、冠の巾子をぽろりと落した。末」為方がないぢやないか。髪のもとゞりがないから。 (をみな子の才は、霜月・師走のかいこぼち) 本」そんなら問はう。婦人の六芸に達したと言ふのは。末」十一、十二月に、少々降る雨雪で、役にも立たぬ。 (あふりどや。ひはりど。ひはりどや、あふり戸) 本」ばた〳〵開く戸。(其も困るが)つつぱつてあかぬ 末」(此奴も困り者だ)。つつぱり戸に、ばた〴〵戸。 (ゆすりあげよ。そゝりあげ。そゝりあげよ。ゆすりあげ) 本」戸ならばゆすつてあげろ。しやくつてあげろ。末」しやくつてあげろ。ゆすつてあげろ。 (谷からいかば、岡からいかむ。岡から行かば、谷から行かむ) 本」お前が谷から行くとすりや、おれは高みから行かう。末」お前が高みから行くとすりや、おれは谷から行かう。 (これからいかば、かれからいかむ。かれからいかば、これからいかむ) 本」お前が此処をば通るなら、おれは向うを通る。末」お前が向うを通るなら、おれは此処を通る。 かうした口訳を作ることは、くどい事だし、尚、当然誤訳もあるだらうし、私自身に別説もある。これは頓作問答だから、早歌と言つたのだが、歌と言ふほどの物でもなからう。その中「近衛御門云々」は即座の応酬だらうし、「女子の才云々」は諺だつたらう。 神楽の歌詞から、神楽の原義は固より、その過程を引き出さうとする事の無謀であることは、勿論の事である。其だけ替へ歌が、沢山這入つて来てゐる訣だ。だが、早歌を見ると、如何にも山及び遠旅の印象が、明らかに出てゐる。其上に、「近衛御門に巾子落いつ」などになると、踏歌に出る仮装者の高巾子や、其に関聯して中門口の行事などが思ひ浮べられる。謡ひ方も勿論早かつたであらうが、其は問答に伴ふ懸け合ひの早さであり、頓作問答としての意義を含んでゐるのである。人長・才男の問答で、其早歌が流行した結果、白拍子歌にまで入りこんで、幾つもの今様を懸け合ひで連ねて行くところから、宴曲の早歌が出て来たものと考へられる。ともかくも、神楽においては、才ノ男は、これで引きこみになる訣で、全体の趣きから見ても、名残惜しみの様子が見えてゐる。 海部の伝承は、記紀・万葉を見ても、其物語歌の性質から見て、或は、その名称から見て察する事の出来るものが多い。更に大きな一群としては、海語部の手を経て宮廷に入つたものと思はれるものがあるのである。此には多少の疑問はあり乍ら、私どもにとつては、既に一応の検査ずみになつて居るのである。現在の処では、山人及び山部に属する人々の伝承は、鎮魂とその舞踊とが名高くなつて、其詞章の長いものは、わりに失はれたものが多い様に見える。今度の試みにおいて、西角井君の為事を記念する意味において、神楽を主題にしたのも、実にこゝに一つの焦点を結ばうとした理由もあるのだ。日本紀には、「山」について、却て大きな伝承群のあつたらう趣きを示してゐる。応神帝崩後、額田ノ大中彦、倭ノ屯田・屯倉を自由にしようとなされて、是屯田は元来「山守ノ地」だから、我が地だと言はれた。大中彦は、大山守尊の同母弟だからと言ふが、実は一つの資格なのだ。大鷦鷯尊、倭ノ直祖麻呂を召し上げて、其正否を問はれた時、「私は存じません。唯、臣の弟吾子籠、此事を知れり」と奏上した。其で、韓国に使して居た同人を急に呼び寄せられた。吾子籠の御答へには「倭の屯田は天子の御田です。天子の皇子と申しても掌る事は許されぬ事になつて居ます」と答へたのは、倭ノ直氏人の中、神聖な物語を継承する資格即語部たる選ばれた力が吾子籠にあつたのだ。さうして、倭氏であるだけに、「山」に関係が深かつたのである。山神に仕へる資格を持つた倭国造家の人である。これも単に唯、保証人と謂つた為事だけなら、わざ〴〵韓国から、氏人の中、限られた者の呼び寄せられる理由はなかつた筈だ。 かうした「山の伝承」が、山人、山部及びその類の神人の間にあつたのが、早く詞章を短縮した歌殊に短歌の方に趣いたのは、神遊詞章の特殊化であつた。私などは、海部が其豊富な海の幸と、広い生活地を占めてゐる為の発展力を、何処までも伸して、神遊びまでも、平安朝に到つて自家のものを推し出して来たが、元は、「山神楽」が重要なものだつたと思ふ。「採物」を見ても、殆山及び山人、山の水に関係ある物ではないか。 あまりに物を対比的に見ることは、誤つたしうちに違ひないが、私は後世式にかう言はう。海部の浄瑠璃、山部の小唄。即前者は、平安期の末まで、長い叙事詩を持ち歩き、後者は早く奈良朝又は其前にすら短歌を盛んに携行したものと見られるのである。たとへば、山部宿禰赤人、高市連黒人、皆山ノ部に関係深い人々である。柿本ノ朝臣人麻呂にしてからが、倭の和邇氏の分派であり、其本貫、其同族を参考にしても、山に関係が深いのである。かう言ふ見方は、必しも正確を保する事は出来ない。が、一応は考へに置いて見る必要がある。       ひと言 私の言ふべき事は、単に緒についたまでゞある。此等の海及び山の流離民が、国中を漂遊して、叙事詩、抒情詩を撒布して歩いた形から、其が諸国に諸種の文芸を発生する事を述べるのは、此からである。其上、其中心は、何と謂つても、都の流行である。此芸能者の交迭が、色々な文学・芸能を、宗教的に説経的に生んで行く事を、もつと落ちついて咄す筈であつた。だが、其に入る前に制限は、既に遥かにのり越してゐる。是非なくこゝに筆を擱く。だが、日本の唱導文学は、此後何時までも、江戸の末期までも、形こそ変へたれ、主題は一つ。神──及び仏──の流離転生を説くものゝ、種々な形の変化である。さうして、其が近代ほど貴人となり、又理想的雛男となり易るだけであつた。さうして、江戸期において、ほゞ大きな四つの区分、説経・浄瑠璃・祭文・念仏が目につくが、此が長く続いた叙事詩の末である。其他にも幾多の芸能文学が出没したが、すべて皆奴隷宗教家の口舌の上に転がされることによつて維持せられて来た事も、一つの忘るべからざる事実である。 底本:「折口信夫全集 4」中央公論社    1995(平成7)年5月10日初版発行 初出:「日本文学講座 第二巻」改造社    1934(昭和9)年8月 ※底本の題名の下に書かれている「昭和九年八月、改造社「日本文学講座」第二巻」はファイル末の「初出」欄に移しました。 入力:門田裕志 校正:仙酔ゑびす 2009年9月1日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。