ふるさと 島崎藤村 Guide 扉 本文 目 次 ふるさと 一 雀のおやど ふるさとの後に    はしがき 父さんが遠い外國の方から歸つた時、太郎や次郎への土産話にと思ひまして、いろ〳〵な旅のお話をまとめたのが、父さんの『幼きものに』でした。あの時、太郎はやうやく十三歳、次郎は十一歳でした。 早いものですね。あの本を作つた時から、もう三年の月日がたちます。太郎は十六歳、次郎は十四歳にもなります。父さんの家には、今、太郎に、次郎に、末子の三人が居ます。末子は母さんが亡くなると間もなく常陸の方の乳母の家に預けられて、七年もその乳母のところに居ましたが、今では父さんの家の方へ歸つて來て居ます。三郎はもう長いこと信州木曾の小父さんの家に養はれて居まして、兄の太郎や次郎のところへ時々お手紙なぞをよこすやうになりました。三郎はことし十三歳、末子がもう十一歳にもなりますよ。 父さんの家ではよく三郎の噂をします。三郎が居る木曾の方の話もよく出ます。あの木曾の山の中が父さんの生れたところなんですから。 人はいくつに成つても子供の時分に食べた物の味を忘れないやうに、自分の生れた土地のことを忘れないものでね。假令その土地が、どんな山の中でありましても、そこで今度、父さんは自分の幼少い時分のことや、その子供の時分に遊び廻つた山や林のお話を一册の小さな本に作らうと思ひ立ちました。あの『幼きものに』と同じやうに、今度の本も太郎や次郎などに話し聞かせるつもりで書きました。それがこの『ふるさと』です。    一 雀のおやど みんなお出。お話しませう。先づ雀のおやどから始めませう。 雀、雀、おやどはどこだ。 雀のお家は林の奧の竹やぶにありました。この雀には父さまも母さまもありました。樂しいお家の前は竹ばかりで、青いまつすぐな竹が澤山に竝んで生えて居ました。雀は毎日のやうに竹やぶに出て遊びましたが、その竹の間から見ると、樂しいお家がよけいに樂しく見えました。 そのうちに、雀の好きなお家の前には竹の子が生えて來ました。母さまのお洗濯する方へ行つて見ますと、そこにも竹の子が出て來てゐました。 『あそこにも竹の子。ここにも竹の子。』 と雀はチユウチユウ鳴きながら、竹の子のまはりを悦んで踊つて歩きました。 僅か一晩ばかりのうちに竹の子はずんずん大きくなりました。雀が寢て起きて、また竹やぶへ遊びに行きますと、きのふまで見えなかつたところに新しい竹の子が出て來たのがあります。きのふまで小さな竹の子だと思つたのが、僅か一晩ばかりで、びつくりするほど大きくなつたのがあります。 雀はおどろいて、母さまのところへ飛んで行きました。母さまにその話をして、どうしてあの小さな竹の子があんなに急に大きくなつたのでせうと尋ねました。すると母さまは可愛い雀を抱きまして、 『お前は初めて知つたのかい、それが皆さんのよく言ふ「いのち」(生命)といふものですよ。お前たちが大きくなるのもみんなその力なんですよ。』 と話してきかせました。    二 五木の林   太郎よ、次郎よ、お前達は父さんの生れた山地の方のお話を聞きたいと思ひますか。 檜木、椹、明檜、槇、𣜌──それを木曾の方では五木といひまして、さういふ木の生えた森や林があの深い谷間に茂つて居るのです。五木とは、五つの主な木を指して言ふのですが、まだその他に栗の木、杉の木、松の木、桂の木、欅の木なぞが生えて居ます。樅の木、栂の木も生えて居ます。それから栃の木も生えて居ます。太郎や次郎は一度父さんに隨いて、三郎の居る木曾の小父さんの家を訪ねたことが有りましたらう。あの小父さんの家の前から、木曽川の流れるところを見て來ましたらう。小父さんの家のある木曾福島町は御嶽山に近いところですが、あれから木曽川について十里ばかりも川下に神坂村といふ村があります。それが父さんの生れた村です。    三 山の中へ來るお正月 父さんも昔はお前達と同じやうに、お正月の來るのを樂みにした子供でしたよ。 お正月が來る時分になると、父さんの生れたお家では自分のところでお餅をつきました。そのお餅は爐邊につゞいた庭でつきましたから、そこへ爺やが小屋から杵をかついで來ました。臼もころがして來ました。お餅にするお米は裏口の竈で蒸しましたから、そこへも手傳ひのお婆さんが來て樂しい火を焚きました。 やがて蒸籠といふものに入れて蒸したお米がやはらかくなりますとお婆さんがそれを臼の中へうつします。爺やは杵でもつて、それをつき始めます。だんだんお米がねばつて來て、お餅が臼の中から生れて來ます。爺やは力一ぱい杵を振り上げて、それを打ちおろす度に、臼の中のお餅には大きな穴があきました。お婆さんはまた腰を振りながら、爺やが杵を振り上げた時を見計つては穴のあいたお餅をこねました。 『べつたらこ。べつたらこ。』 その餅つきの音を聞くと、父さんは子供心にもお正月が山の中のお家へ來ることを知りました。    四 子供の時分 これから父さんはお前達に、自分の子供の時分のことをお話しようと思ひます。 父さんの幼少な時分には、今のやうに少年の雜誌といふものも有りませんでした。お前達のやうに面白いお伽噺の本や、可愛いらしい繪のついた雜誌なぞを讀むことも出來ませんでした。讀んで見たくも、なんにもさういふお伽噺の本や雜誌が無いんでせう、おまけに、父さんの生れたところは山の中の田舍でせう、そのかはり、幼少な時分の父さんには、見るもの聞くものがみんなお伽噺でした。    五 荷物を運ぶ馬 『もし〳〵、お前さんは今歸るところですか。』 父さんがお家の門の外に出て見ますと馬が近所の馬方に引かれて父さんの見て居る前を通ります。この馬は夕方になると、きつと歸つて來るのです。 『さうです。今日は荷物をつけて隣の村まで行つて來ました。』 とその馬が父さんに言ひました。 『お前さんの首には好い音のする鈴がついて居ますね。』 と父さんが言ますと、馬は首をふりながら、 『えゝ。私が歩く度にこの鈴が鳴ります。私はこの鈴の音を聞き乍らお家の方へ歸つてまゐります。馬も荷物をつけて行く時はなか〳〵骨が折れますが、一日の仕事をすまして山道を歸つて來るのは樂みなものですよ。』 さう馬が言つて、さも自慢さうに首について居る鈴を鳴らして見せました。父さんのお家の前は木曾街道と言つて、鐵道も汽車もない時分にはみんなその道を歩いて通りました。高い山の上でおまけに坂道の多い所ですから荷物はこの通り馬が運びました。どうかすると五匹も六匹も荷物をつけた馬が續いて父さんのお家の前を通ることもありました。男や女の旅人を乘せた馬が馬方に引かれて通ることもありました。父さんの聲を掛けたのは、近所に飼はれて居る馬で、毎日々々隣村の方へ荷物を運ぶのがこの馬の役目でした。 馬が自分のお家へ歸つた時分に父さんはよく馳け出して行つて見ました。 『御苦勞。御苦勞。』 と馬方は馬を褒めまして、馬の脊中にある鞍をはづしてやつたり馬の顏を撫でゝやつたりしました。それから馬方は大きな盥を持つて來まして、馬に行水をつかはせました。 『どうよ。どうよ。』 と馬方が言ひますと、馬は片足づゝ盥の中へ入れます。馬の行水は藁でもつて、びつしより汗になつた身體を流してやるのです。父さんは馬方の家の前に立つて、樂さうに行水をつかつて貰つて居る馬を眺めました。そして、馬の行水の始まる時分には山の中の村へ夕方の來ることを知りました。それに氣がついては、父さんは自分のお家の方へ歸りませうと思ひました。    六 奧山に燃える火 父さんの田舍では、夕方になると夜鷹といふ鳥が空を飛びました。その夜鷹の出る時分には、蝙蝠までが一緒に舞ひ出しました。 『蝙蝠──來い、來い。』 と言ひながら、父さんは蝙蝠と一緒になつて飛び歩いたものです。どうかすると狐火といふものが燃えるのも、村の夕方でした。 『御覽狐火が燃えて居ますよ。』 と村の人に言はれて、父さんはお家の前からそのチラ〳〵と燃える青い狐火を遠い山の向ふの方に望んだこともありました。あれは狐が松明を振るのだとも言ひましたし、奧山の木の根が腐つて光るのを狐が口にくはへて振るのだとも言ひました。父さんは子供で、なんにも知りませんでしたが、あの青い美しい不思議な狐火を夢のやうに思ひました。父さんの生れたところは、それほど深い山の中でした。    七 水の話 父さんの田舍は木曾街道の中の馬籠峠といふところで、信濃の國の一番西の端にあたつて居ました。お正月のお飾りを片付ける時分には、村中の門松や注連繩などを村のはづれへ持つて行つて、一緒にして燒きました。村の人はめい〳〵お餅を竿の先にさしてその火で燒いて食べたり、子供のお清書を煙の中に投げこんで、高く空にあがつて行く紙の片を眺めたりしました。火の氣と、煙とで、お清書が高くあがれば、それを書いたものの手があがると言ひました。松の燃える煙と一緒になつてお清書が高く、高くあがつて行くのは丁度凧でもあげるのを見るやうでした。その正月のお飾を集めて燒く村のはづれまで行きますと、その邊にはびつくりするほど大きな岩や石が田圃の間に見えました。そこからはもう信濃と美濃の國境に近いのです。父さんの田舍は信濃の山國から平な野原の多い美濃の方へ降て行く峠の一番上のところにあつたのです。 さういふ岩や石の多い峠の上に出來たお城のやうな村ですから、まるで梯子段の上にお家があるやうに、石垣をきづいては一軒づゝお家が建てゝありました。どちらを向いても坂ばかりでした。父さんがお隣の酒屋の方へ上つて行くにも坂、お忠婆さんといふ人の住む家の方へ降りて行くにも坂でした。 この田舍は水に不自由なところでした。谷の底の方まで行けば山の間を流れて來る谷川がなくもありませんが、人家の近くにはそれもありませんでした。そこで峠の方から清水を引いて、それを溜める塲所が造つてあつたのです。何といふ好い清水が長い樋を通つて、どん〳〵流れて來ましたらう。父さんが輪でも廻しながら遊びに行つて見ますと、流れて來た水が大きな箱の中に澄んで溜まつて居ます。その水が箱から溢れて村の下の方へ流れて行きます。天秤棒で兩方の肩に手桶をかついだ近所の女達がそこへ水汲に集まつて來ます。水の不自由なところに生れた父さんは特別にその清水のあるところを樂く思ひました。みんなが威勢よく水を汲んだり擔いだりするのを見るのも樂く思ひました。そればかりではありません。父さんが子供の時分から水といふものを大切に思ひ、ずつと大きくなつても水の流れて居るのを見るのが好きで、水の音を聞くのも好きなのは、斯うして水に不自由な田舍に生れたからだと思ひます。 父さんのお家には井戸が掘つてありました。その井戸は柄杓で水の汲めるやうな淺い井戸ではありません。釣いても、釣いても、なか〳〵釣瓶の上つて來ないやうな、深い〳〵井戸でした。 父さんの祖母さんの隱居所になつて居た二階と土藏の間を通りぬけて、裏の木小屋の方へ降て行く石段の横に、その井戸がありました。そこも父さんの好きなところで、家の人が手桶をかついで來たり、水を汲んだりする側に立つて、それを見るのを樂く思ひました。父さんの幼少な時分にはお家にお雛といふ女が奉公して居まして、半分乳母のやうに父さんを負つたり抱いたりして呉れたことを覺えて居ます。そのお雛は井戸から石段を上り、土藏の横を通り、桑畠の間を通つて、お家の臺所までづゝ水を運びました。    八 凧 山の中の田舍では、近所に玩具を賣る店もありません。村の子供は凧なぞも自分で造りました。 父さんはまだ幼少かつたものですから、お家の爺やに手傳つて貰ひまして、造作なく出來る凧を造りました。紙と絲とはお祖母さんが下さる、骨の竹は裏の竹籔から爺やが切つて來て呉れる、何もかもお家にある物で間に合ひました。爺やが青い竹を細く削つて呉れますと、それに父さんが御飯粒で紙を張りつけまして、鯣のかたちの凧を造りました。みんなのするやうに、凧の尾には矢張紙を長く切つてさげました。 末子は學校の先生から手工を習ひませう、自分で紙の箱などを造るのは、上手に出來ても出來なくても、樂みなものでせう。父さんが自分で凧を造つたのは、丁度お前達の手工の樂みでしたよ。細い竹や紙でこしらへたものが、だん〳〵凧ののかたちに成つて行つた時は、どんなに父さんも嬉しかつたでせう。父さんはその凧に絲目をつけまして、田圃の方へ持つて行きました。 『風よ、來い、來い、凧揚れ。』 と言つて、近所の子供も手造りにした凧を揚げに來て居ます。田圃側の枯れた草の中には、木瓜の木なぞが顏を出して居まして、遊び廻るには樂い塲所でした。 『あゝ好い風が來ました。この風に早く揚げて下さい。』 と凧が言ひました。父さんが大急ぎで糸を出しますと、凧は左右に首を振つたり、長い紙の尾をヒラ〳〵させたりしながら、さも心持よささうに揚つて行きました。 凧は空の方に居て、父さんにいろ〳〵な注文をします。『あゝわたしは面喰ひそうになりました。もつと絲をたぐつて下さい。』と言ふ時には、父さんは凧の注文する通りに絲をたぐつてやります。『今度は左の方へ傾ぎさうになりました。早く右の方へ糸を引いて下さい。』と言ふ時には、父さんはまた凧の言ふ通りに右の方へ糸を引いてやります。そのうちに凧は風をうけて、高く高く、のして行きました。 『凧さん、よく揚りましたね。そんなに高いところへ揚つたらそこいらがよく見えませう。』 と父さんが下から尋ねますと、凧は高い空から見える谷底の話をしました。 『凧さん、何が見えます。ほうぼうのお家が見えますか。』 『えゝ、石の載せてあるお家の屋根から、竹藪まで見えます。馬籠の村が一目に見えます。荒町の鎭守の杜まで見えます。』 『お祖父さんの好きな惠那山は奈何でせう。』 『惠那山もよく見えます。もつと向ふの山も見えます。高い山がいくつも〳〵見えます。その山の向ふには、見渡すかぎり廣々とした野原がありますよ。何か光つて見える河のやうなものもありますよ。』 『それはきつとお隣の國です。』 父さんの生れた田舍は美濃の方へ降りようとする峠の上にありましたから、お家のお座敷からでもお隣の國が山の向ふの方に見えました。極くお天氣の好い日には、遠い近江の國の伊吹山まで、かすかに見えることがあると、祖父さんが父さんに話して呉れたこともありました。 『お蔭で、高いところから見物しました。』 と凧が言ひました。 父さんも凧を揚たり、凧の話を聞いたりして、面白く遊びました。自分の造つた凧がそんなによく揚つたのを見るのも樂みでした。 『凧も見物で草臥れました。もうそろ〳〵降して下さい。』 と凧が言ふものですから、父さんが絲をたぐりますと、凧はフハ〳〵フハ〳〵空を舞ふやうにして、田圃のところまで嬉しさうに降りて來ました。    九 猿羽織 猿羽織と言つて、父さんの田舍の子供は、お猿さんの着る袖の無い羽織のやうなものを着ました。寒くなるとそれを着ました。その猿羽織を着て雪の中を飛んで歩くのは、丁度木曾の山の中のお猿さんが、雪の中を飛んで歩くやうなものでした。    十 雪は踊りつゝある 父さんの田舍では、何處の家でも板で屋根を葺いて、風や雪をふせぐために大きな石が並べて屋根の上に載せてありました。なんと、あの石を載せた板屋根は山の中の住居らしいでせう。山には大きな檜木の林もありますから、その厚い檜木の皮を板のかはりにして、小屋の屋根なぞを葺くこともありました。雪が來ればさういふお家の屋根も埋まつてしまひ、畠も白くなり、竹藪も寢たやうになつてしまひます。 元気な雀は、そんな歌に頓着なしで、自分のお宿も忘れれたやうに雪と一緒に踊つて歩きます。 坂路の多い父さんの村では、氷滑りの出來る塲所が行く先にありました。村の子供はみな鳶口を持つて凍つた坂路を滑りました。この氷滑りが雪の日の樂みの一つで、父さんも爺やに造つて貰つた鳶口を持出しては近所の子供と一緒に雪の降る中で遊びました。積つた雪を凍つた土の上に集めて、それを下駄の齒でこするうちには、白いタヽキのやうな路が出來上ります。鳶口を手にしながら坂の上の方から滑りますと、ツーイ〳〵と面白いやうに身體が行きました。もしか滑り損ねて鳶口で身體を支へ損ねた塲合には雪の中へ轉げこみます。さういふ度に子供同志の揚げる笑ひ聲を聞くのも樂みでした。自分の着物についた雪をはらつて復滑りに行くのも樂みでした。どうかすると凍つて鏡のやうに光つて來ます。その上に白く雪でも降かゝると氷滑りの塲所とも分らないことがあります。村の人達が通りかゝつて、知らずに滑つて轉ぶことなぞもありました。 父さんはお前達のやうに、竹馬に乘つて遊び廻ることも好きでした。雪の日には殊にそれが樂みでした。大黒屋の鐵さん、問屋の三郎さんなどゝといふ近所の子供が、竹馬で一緒になるお友達でした。そんな日でも、馬が荷物をつけ、合羽を着た村の馬方に引かれて雪の路を通ることもありました。父さんが竹馬の上から 『今日は。』 と言ひますと、お馴染の馬は鼻から白い氣息を出して笑ひながら 『やあ、今日は、お前さんも竹馬ですね。』 と挨拶しました。美濃の中津川といふ町の方から、いろ〳〵な物を脊中につけて來て呉れるのも、あの馬でした。時には父さんの村なぞに無いめづらしい玩具や、父さんの好きな箱入の羊羹を隣の國の方から土産につけて來て呉れるのも、あの馬でした。 『雪が降つて樂みでせうね。』 と馬が言ひましたが、雪が降れば馬でも嬉しいかと父さんは思ひました。山の中へ來る冬やお正月には、お前達の知らないやうな樂さもありますね。氷滑りや竹馬で凍へた手をお家の爐邊の火にあぶるのも樂みでした。    一一 庄吉爺さん お前達は荒神さまを知つて居ませう。ほら、臺所の竈の上に祭る神さまのことを荒神さまと言ひませう。あゝして火を鎭める神さまばかりでなく、父さんの田舍では種々なものを祭りました。 繭玉のかたちを、しんこで造つてそれを竹の枝にさげて、お飼蠶さまを守つて下さる神さまをも祭りました。病氣で倒れた馬のためには、馬頭觀音を祭りました。歩いて通る旅人の無事を祈るためには、道祖神を祭りました。 父さんは爺やに連れられて、山の神さまへお餅をあげに行つた事を覺えて居ます。湯舟澤といふ方へ寄つた山のはづれに、山の神さまが祭つてありました。その小さな祠の前に、米の粉で造つたお餅をあげて來ました。その邊は、どつちを向いても深い山ばかりで、爺やにでも隨いて行かなければ、とても幼少な時分の父さんが獨りで行かれるところではありませんでした。 山や林は父さんの故郷です。父さんのやうに大きくなつても、忘れずに居るのは、その故郷です。父さんは爺やに連れられて深い林の方へも行つて見ました。そこへ行くと爺やの伐つた木がありました。松葉の積んだのもありました。爺やはその木を背負つたり、松葉を背負つたりして、お家の木小屋の方へ歸つて來るのでした。 この爺やは庄吉といふ名で、父さんの生れない前からお家に奉公して居ました。 『よ、どつこいしよ。』 と爺やは山からかついで來た木をおろしました。木小屋のなかでそれを割りました。この爺やの大きな手は寒くなると、皸が切れて、まるで膏藥だらけのザラ〳〵とした手をして居ましたが、でもその心は正直な、そして優しい老人でした。 爺やは山から伐つて來た木を木小屋にしまつて置いて、焚つけにする松葉もしまつて置いて、要るだけづゝお家の爐邊へ運びました。赤々とした火が毎日爐邊で燃えました。曾祖母さん、祖父さん、祖母さん、伯父さん、伯母さんの顏から、奉公するお雛の顏まで、家中のものゝ顏は焚火に赤く映りました。その樂い爐邊には、長い竹の筒とお魚の形と繩とで出來た煤けた自在鍵が釣るしてありまして、大きなお鍋で物を煮る塲所でもあり家中集まつて御飯を食べる塲所でもありました。父さんの田舍では寒くなると毎朝芋焼餅といふものを燒いて、朝だけ御飯のかはりに食べました。蕎麥の粉に里芋の子をまぜて造つたその燒餅の焦げたところへ大根おろしをつけて焚火にあたりながらホク〳〵食べるのは、どんなにおいしいでせう。その蕎麥の香ひのする燒きたてのお餅の中から大きな里芋の子なぞが白く出て來た時は、どんなに嬉しいでせう。爺やは御飯の時でも、なんでも、草鞋ばきの土足のまゝで爐の片隅に足を投げ入れましたが、夕方仕事の濟む頃から草鞋をぬぎました。爐邊にある古い屏風の側が爺やの夜なべをする塲所ときまつて居ました。爺やはその屏風の側に新しい藁なぞを置いて、父さんのために小さな草履を造つたり、自分ではく草鞋を造つたりしました。爺やのお伽話はその時に始まるのでした。 父さんはこの好きな老人から、畠よりあらはれた狸や狢の話、山で飛び出した雉の話、それから奧山の方に住むといふ恐ろしい狼や山犬の話なぞを聞きましたが、そのうちに眠くなつて、爺やの話を聞きながら爐邊でよく寢てしまひました。    一二 草摘みに 父さんの幼少な時分には、お錢といふものを持たせられませんでしたから、それが癖になつて、お錢は子供の持つものでないと思つて居ましたし、巾着からお錢を出して自分の好きなものを買ふことも知りませんでした。お家からお錢を貰つて行つて何か買ふのは、村の祭禮の時ぐらゐのものでした。 そのかはり、お庭にある柿や梨なぞが生りたての新しい果物を父さんに御馳走して呉れました。祖母さんが朴の木の葉で包んで下さる𤍠い握飯の香でも嗅いだ方が、お錢を出して買つたお菓子より餘程おいしく思ひました。お家の外を歩き廻つても、石垣のところには黄色い木苺の實が生つて居るし、竹籔のかげの高い榎木の下には、香ばしい小さな實が落ちて居ました。村のはづれには「けんぽ梨」といふ木もあつて、高い枝の上に珊瑚珠のやうな實が生る時分には木曽路を通る旅人はめづらしさうに仰向いて見て行きましたが、その實も取れば食べられて甘い味がしました。そればかりではありません、山にある木の葉、田圃にある草の中にも『食べられるからおあがり。』と言つてくれるのもありました。 「スイ葉」と言つて、青い木の葉の生で食べられるものもありました。草では「いたどり」や「すいこぎ」が食べられましたが、あの「すいこぎ」の莖を採つて來てお家で鹽漬をして遊ぶこともありました。 『手をお出し。私もおいしいものを上げますよ。』 父さんが石垣の側を通る度に、蛇苺が左樣言つては父さんを誘ひました。蛇苺は毒だと言ひます。それを父さんも聞いて知つて居ました。あの眼のさめるやうな紅い蛇苺の實が甘いことを言つてよく父さんを誘ひましたが、そればかりは觸りませんでした。 父さんの幼少い時分に抱いたり背負つたりして呉れたお雛は、斯ういふ山家に生れた女でした。筍の皮を三角に疊んで、中に紫蘇の葉の漬けたのを入れて、よくそれを父さんに呉れたのもお雛でした。それを吸へば紫蘇の味がして、チユー〳〵吸ふうちに、だん〳〵筍の皮が赤く染つて來るのも嬉しいものでした。このお雛は村の髮結の娘でした。お雛のお父さんは數衛といふ名で、男の髮結でしたが、村中で一番汚いといふ評判の人でした。その汚い髮結の家のお雛に育てられると言つて、父さんは人に調戯れたものです。 『やあ數衛の子だ。』 こんなことを言つて惡戯好きな人達は父さんまで汚い髮結の子にしてしまひました。しかし、お雛は幼少い時分の父さんをよく見て呉れました。お雛の歌ふ子守唄は父さんの一番好きな唄でした。それを聞きながら、父さんはお雛の背中で寢てしまふこともありました。 父さんが獨りでそこいらを遊び廻る時分にはお雛に連れられてよく蓬を摘みに行つたこともあります。あたゝかい日の映つた田圃の側で、蓬を摘むのは樂みでした。それをお家へ持つて歸つて來て、臼でつけば草餅が出來ました。    一三 燕の來る頃 燕の來る頃でした。 澤山な燕が父さんの村へも飛んで來ました。一羽、二羽、三羽、四羽──とても勘定することの出來ない何十羽といふ燕が村へ着いたばかりの時には、直ぐに人家へ舞ひ降りようとはしません。離れさうで離れない燕の群は、細長い形になつたり、圓い輪の形になつたりして、村の空の高いところを揃つて舞つて居ます。そのうちに一羽空から舞ひ降りたかと思ふと、何十羽といふ燕が一時に村へ降りて來ます。そして互に嬉しさうな聲で鳴き合つて、舊い馴染の軒塲を尋ね顏に、思ひ〳〵に分れて飛んで行きます。父さんのお家へ飛んで行くのもあれば、お隣の大黒屋へ飛んで行くのもあれば、そのまた一軒置いてお隣の八幡屋の方へ飛んで行くのもあります。ずつと坂の下の方の三浦屋という宿屋の方へ飛んで行くのもあります。村で染物をする峯屋へも、俵屋のお婆さんの家へも、和泉屋の和太郎さんのお家へも飛んで行きました。父さんが村役塲の前を通りますと、そこへ來て羽を休めて居る燕もありました。燕は役塲の前に建てゝある木の標柱を眺めて、さも〳〵遠い旅行をして來たやうな顏をして居ました。 『長野縣西筑摩郡木曾神坂村』とその木の標柱には書いてあるのです。父さんは燕の話を聞いて見たいと思ひまして、いろ〳〵に話しかけましたが、まるでこの燕は異人でした。一向に言葉が通じませんでした。 『もしもし、燕さん、お前さんは一年に一度づゝ、この村へ來るではありませんか。遠い國の方へ行つて居て、日本の言葉も忘れたのですか。』と父さんが言ひますと、燕は懷かしい國の言葉で物を言ひたくても、それが言へないといふ風で、唯、ペチヤ、クチヤ、ペチヤ、クチヤ、異人さんのやうな解らないことを言ひました。 燕は嬉しさうに父さんを見て尻尾の羽を左右に振ながら、遠い空から漸くこの山の中へ着いたといふ話でもするらしいのでした。それを國の言葉で言へば、『皆さん、お變りもありませんか、あなたのお家の祖父さんもお健者ですか。』と尋ねるらしいのでしたが燕の言ふことは早口で、 『ペチヤ、クチヤ、ペチヤ、クチヤ。』 としか父さんには聞えませんでした。 斯うした言葉の通じない燕も、村に住み慣れて、家々の軒に巣をつくり、くちばしの黄色い可愛い子供を育てる時分には、大分言葉がわかるやうになりました。燕が父さんのところへ來て何を言ふかと思ひましたら、こんなことを言ひました。 『私共は遠い國の方から參るものですから、なか〳〵言葉が覺えられません、でも、あなたがたが親切にして下さるのを、何より有難く思ひます。鶫といふ鳥や鶸といふ鳥は、何百羽飛んで參りましても、みんな網や黐に掛つてしまひますが、私共にかぎつて軒先を貸して下すつたり巣をかけさせたりして下さいます。それが嬉しさに、斯うして毎年旅をして參るのです。』    一四 永昌寺 『今日は。』 と狐が永昌寺の庭へ來て言ひました。永昌寺とは、父さんの村のお寺です。そのお寺に、桃林和尚といふ年とつた和尚さんが住んで居ました。この僧侶は心の善い人でした。 『お前は何しに來ました。』 と桃林和尚が尋ねますと、狐の言ふことには、 『わたしはお寺を拜見にあがりました。』 父さんが初めてあがつた小學校も、この和尚さんの住むお寺の近くにありました。小學校の生徒に狐がついたと言つて、一度大騷ぎをしたことがありました。父さんはその時分はまだ幼少くてなんにも知りませんでしたが、その狐のついたといふ生徒は口から泡を出し、顏色も蒼ざめ、ぶる〴〵震へてしまひました。何度も〳〵も名前を呼ばれて、漸くその生徒は正氣に復つた事がありました。桃林和尚はその話も聞いて知つて居りましたから、いづれ狐がまた何か惡戯をするためにお寺へ訪ねて來たに違ひないと、直に感づきました。 『和尚さん、和尚さん、こちらは大層好いお住居ですね。この村に澤山お家がありましても、こちらにかなふところはありません。村中第一の建物です。こんなお住居に被入しやる和尚さんは仕合せな方ですね。』 斯う狐は言ひました。狐は調戯ふつもりでわざと桃林和尚の機嫌を取るやうにしましたが、賢い和尚さんはなか〳〵その手に乘りませんでした。 『ハイ、御覽の通り、村では大きな建物です。しかしこのお寺は村中の人達の爲めにあるのです。私はこゝに御奉公して居るのです。お前さんは私がこの住居の御主人のやうなことを言ひますが私は唯こゝの番人です。』 斯う桃林和尚が答へましたので、狐は頭を掻き〳〵裏の林の方へこそ〳〵隱れて行きました。 桃林和尚が御奉公して居た永昌寺は、小高い山の上にありました。そのお寺の高い屋根は村中の家の一番高いところでした。狐が來て言つた通り、村中一番の建築物でもありました。そこで撞く鐘の音は谷から谷へ響けて、何處の家へも傳はつて行きました。その鐘の音は、年とつた和尚さんの前の代にも撞き、そのまた前の代にも撞いて來たのです。もう何百年といふことなく、古い鐘の音が山の中で鳴つて居たのです。 永昌寺のある山の中途には、村中のお墓がありました。こんもりと茂つた杉の林の間からは、石を載せた村の板屋根や、柿の木や、竹籔や、窪い谷間の畠まで、一目に見えました。そこには父さんのお家の御先祖さま達も、紅い椿の花なぞの咲くところで靜かに眠つて居りました。    一五 お茶をつくる家 雀が父さんのお家へ覗きに來ました。丁度お家ではお茶をつくる最中でしたから、雀がめづらしさうに覗きに來たのです。 『お前さんのお家ではお茶をつくるんですか。』 と雀が言ひますから、 『えゝ、私の家ではお茶を買つたことが有りません。毎年自分の家でつくります。』 と父さんが話してやりました。その時、父さんが雀に、あの大きなお釜の方を御覽と言つて見せました。そこではお家の畠で取れたお茶の葉を煮て居る人があります。あの莚の上を御覽と言つて見せました。そこではお釜から出したお茶の葉をひろげて團扇であほいで居る人があります。あの焙爐の方を御覽と言つて見せました。そこでは火の上にかけたお茶の葉を兩手で揉んで居る人があります。 『チユウ、チユウ。』 とめづらしいことの好きな雀が鳴きました。そしてめづらしいことでさへあれば、雀は喜びました。 お家では祖母さんや伯母さんやお雛まで手拭を冠りまして、伯父さんや爺やと一緒に働きました。近所から手傳ひに來て働く人もありました。好いお茶の香がするのと、家中でみんな働いて居るので、父さんも雀と一緒にそこいらを踊つて歩きました。 父さんのお家ではこのお茶ばかりでなく食べる物も着る物も自分のところで造りました。お味噌も家で造り、お醤油も家で造り、祖母さんや伯母さんの髮につける油まで庭の椿の樹の實を絞つて造りました。林にある小梨の皮を取つて來て、黄色い汁で絲まで染めました。父さんの子供の時分には祖母さんの織つて下さる着物を着、爺やの造つて呉れる草履をはいて、それで學校へ通ひました。さうして、この手造りにしたものゝ樂みを父さんに教へて呉れたのは、祖母さんでした。 祖母さんは働くことが好きで、みんなの先に立つてお茶もつくりましたし、着物も根氣に織りました。祖母さんは隣村の妻籠といふところから、父さんのお家へお嫁に來た人で、曾祖母さんほどの學問は無いと言ひましたが、でもみんなに好かれました。林檎のやうに紅い祖母さんの頬ぺたは、家中のものゝ心をあたゝめました。 祖母さんの着物を織る塲所はお家の玄關の側の板の間と定つて居ました。そのお庭の見える明るい障子の側に祖母さんの腰掛て織る機が置いてありました。 『トン〳〵ハタリ、トンハタリ。』祖母さんの筬が動く度に、さういふ音が聞こえて來ます。父さんが玄關の廣い板の間に居て、その筬の音を聞きながら遊んで居りますと、そこへもよくめづらしいもの好きの雀が覗きに來ました。    一六 梨や柿はお友達 父さんのお家の庭にはいろ〳〵な木が植てありました。父さんはその木を自分のお友達のやうに想つて大きくなりました。お前達の祖父さんのお部屋の前にあつた古い大きな松の樹も、表の庭にあつた椿の木もみんな父さんのお友達でした。その椿の木の側には梨の木もあつて、毎年大きな梨がなりました。 あの青い梨の實のなつた樹の下へは父さんもよく見に行つたものです。 『もう食べてもいゝかい。』 と父さんが梨の木に聞きに行きますと 『まだ早い、まだ早い。』 と梨の木は言つて、なか〳〵食べてもいゝとは言ひませんでした。そして、その梨の實が大きくなつて、色のつく時分には、丁度御祝言の晩の花嫁さんのやうに、白い紙袋をかぶつて了ひました。これは蜂が來て梨をたべるものですから、蜂をよけるために紙袋をかぶせるのです。お勝手の横には祖父さんの植ゑた桐の木がありました。その桐の木の下は一面に桑畑でした。お隣の高い石垣や白い壁なぞがそこへ行くとよく見えました。桑の實の生る時分には父さんは桑の木の側へ行つて 『食べてもいゝかい。』 とたづねますと、桑の木は見かけによらない優しい木でした。 『あゝ、いゝとも。いゝとも。』 と言つて呉れました。父さんはうれしくて、あの桑の木に生る紫色の可愛い小さな實を枝からちぎつて口に入れました。 土藏の前には、柿の木もありました。父さんはよくその柿の木の下へ行つて遊びました。柿の木はまた梨や桐の木とちがつて、にぎやかな木で、父さんが遊びに行く度に何かしら集めたいやうなものが木の下に落ちて居ました。柿の花の咲く時分に行くと、あの甘い香ひのする小さな花が一ぱい落ちて居ます。實の生る時分に行くと、あの蔕のついた青い小さな柿が澤山落ちて居ます。そろ〳〵木の葉の落ちる時分に行くと大きな色のついた柿の葉がそこにもこゝにも落ちて居ます。父さんはそれを拾集めるのが樂みでした。それに他のお家の柿の木へは登らうと思つても登れませんでしたが、自分のお家の柿の木ばかりは惡い顏もせずに登らせて呉れました。父さんは枝から枝をつたつて登つて、時にゆすつたりしても柿の木は怒りもしないのみか、『もつと遊んでお出。もつと遊んでお出。』 と父さんに言ひました。    一七 鳥獸もお友達 山の中に育つた父さんは、いろいろな木をお友達のやうに思つて大きくなつたばかりではありません。お前達の好きなお伽話の本や雜誌の中に出て來るやうな、鳥や獸まで幼少い時分の父さんにはお友達でした。 お家にはおいしい玉子を御馳走して呉れる鷄が飼つてありました。父さんが裏庭に出て、桐の木の下あたりを歩き廻つて居ますと、その邊には鷄も遊んで居ました。 『コツ、コツ、コツ。』 と鷄は父さんを見かける度に挨拶します。時には鷄はお友達のしるしにと言つて、白い羽や茶色な羽の拔けたのを父さんに置いて行つて呉れることもありました。 めづらしいお客さまでもある時には、父さんのお家では鷄の肉を御馳走しました。山家のことですから、鷄の肉と言へば大した御馳走でした。その度にお家に飼つてある鷄が減りました。あの締められた首を垂れ眼を白くしまして、羽をむしられる鷄を見て居ますと、父さんはお腹の中でハラ〳〵しました。これはお客さまの御馳走ですから仕方が無いと思ひましたが、近所のお家では、鬪鷄や鷄を締殺して煮て食ふといふことをよくやりました。村には隨分惡戲の好きな人達がありました。さういふ人達は生きて居る鬪鷄の毛をむしりまして、煮て食ふ前に追ひ廻して面白がつたものです。あの赤はだかに毛を拔かれた鳥がヒヨイ〳〵飛び歩くのを見るほど、むごいものは無いと思ひました。父さんは子供心にも、そんな惡戲をする村の人達を何程憎んだか知れません。 お家の土藏には年をとつた白い蛇も住んで居りました。その蛇は土藏の『主』だから、かまはずに置けと言つて、石一つ投げつけるものもありませんでした。不思議にもその年とつた蛇は動物園にでも居るやうに温順しくして居てついぞ惡戲をしたといふことを聞きません。父さんはめつたにその蛇を見ませんでしたが、どうかすると日の映つた土藏の石垣の間に身體だけ出しまして、頭も尻尾も隱しながら日向ぼつこをして居るのを見かけました。 この土藏について石段を降りて行きますと、お家の木小屋がありました。木小屋の前には池があつて石垣の横に咲いて居る雪の下や、そこいらに遊んで居る蜂や蛙なぞが、父さんの遊びに行くのを待つて居ました。裏木戸の外へ出て見ますと、そこにはまたお稻荷さまの赤い小さな社の側に大きな栗の木が立つて居ました。風でも吹いて栗の枝の搖れるやうな朝に父さんがお家から馳出して行つて見ますと『誰も來ないうちに早くお拾ひ。』と栗の木が言つて、三つづゝ一組になつた栗の實の毬と一緒に落ちたのを父さんに拾はせて呉れました。高いところを見ると、ワンと口を開いた栗の毬が枝の上から父さんの方を笑つて見て居まして、わざと落ちた栗の在る塲所も教へずに、父さんに探し廻らせては悦んで居りました。 『あんなところに落ちて居るのが、あれが見えないのかナア。』とは栗の毬がよく父さんに言ふことでした。栗の木は花からして提灯をぶらさげたやうに滑稽な木でしたし、どうかすると青い栗虫なぞを落してよこして、人をびつくりさせることの好きな木でしたが、でも父さんの好きな木でした。    一八 榎木の實 お家の裏にある榎木の實が落ちる時分でした。父さんはそれを拾ふのを樂みにして、まだあの實が青くて食べられない時分から、早く紅くなれ早く紅くなれと言つて待つて居ました。 爺やは山へも木を伐りに行くし畑へも野菜をつくりに行つて、何でもよく知つて居ましたから、 『まだ榎木の實は澁くて食べられません。もう少しお待ちなさい。』とさう申しました。 父さんは榎木の實の紅くなるのが待つて居られませんでした。爺やが止めるのも聞かずに、馳出して木の實を拾ひに行きますと、高い枝の上に居た一羽の橿鳥が大きな聲を出しまして、 『早過ぎた。早過ぎた。』と鳴きました。 父さんは、枝に生つて居るのを打ち落すつもりで、石ころや棒を拾つては投げつけました。その度に、榎木の實が葉と一緒になつて、パラ〳〵パラ〳〵落ちて來ましたが、どれもこれも、まだ青くて食べられないのばかりでした。 そのうちに復た父さんは出掛けて行きました。『大丈夫、榎木の實はもう紅くなつて居る。』と安心して、ゆつくり構へて出掛けて行きました。木の實を拾ひに行きますと、高い枝の上に居た橿鳥がまた大きな聲を出しまして、  『遲過ぎた。遲過ぎた。』と鳴きました。 父さんは、しきりと木の下を探し廻りましたが、紅い榎木の實は一つも見つかりませんでした。ゆつくり出掛けて行くうちに、木の下に落ちて居たのを皆な他の子供に拾はれてしまひました。父さんがこの話を爺やにしましたら、爺やがさう申しました。 『一度はあんまり早過ぎたし、一度はあんまり遲過ぎました。丁度好い時を知らなければ、好い榎木の實は拾はれません。私がその丁度好い時を教へてあげます。』と申しました。 ある朝、爺やが父さんに『さあ早く拾ひにお出なさい、丁度好い時が來ました。』と教へました。その朝は風が吹いて、榎木の枝が搖れるやうな日でした。父さんが急いで木の下へ行きますと、橿鳥が高い木の上からそれを見て居まして、 『丁度好い。丁度好い。』と鳴きました。 榎木の下には、紅い小さな球のやうな實が、そこにも、こゝにも、一ぱい落ちこぼれて居ました。父さんは木の周圍を廻つて、拾つても、拾つても、拾ひきれないほど、それを集めて樂みました。 橿鳥は首を傾げて、このありさまを見て居ましたが、 『なんとこの榎木の下には好い實が落ちて居ませう。澤山お拾ひなさい。序に、私も一つ御褒美を出しますよ。それも拾つて行つて下さい。』と言ひながら青い斑の入つた小さな羽を高い枝の上から落してよこしました。 父さんは榎木の實ばかりでなく、橿鳥の美しい羽を拾ひ、おまけにその大きな榎木の下で、『丁度好い時。』まで覺えて歸つて來ました。    一九 木曾の蠅 木曾は蠅の多いところです。 木曾には毎年馬市が立つくらゐに、諸方で馬を飼ひますから、それで蠅が多いといひます。 蠅は何にでも行つて取りつきます。荷物をつけて通る馬にも取りつけば、旅人の着物にも取りつきます。蠅は誰とでも直ぐ懇意になりますが、そのかはり誰にでもうるさがられます。こんなうるさい蠅でも、道連れとなれば懐かしく思はれたかして、木曾の蠅のことを發句に讀んだ昔の旅人もありましたつけ。    二○ 蚋 似て、違ふもの──蠅と蚋。蠅はうるさがられ、蚋は恐がられて居ます。蚋は人をも馬をも刺します。あの長くて丈夫な馬の尻尾の房々とした毛は、蚋を追ひ拂ふのに役に立つのです。父さんが幼少な時分に晝寢をして居ますと、どうかするとこの蚋に食はれることが有りました。その度に、お前達の祖父さんが大きな掌で、蚋を打ち懲して呉れました。    二一 木曾馬 木曾のやうに山坂の多いところには、その土地に適した馬があります。いくら體格の好い立派な馬でも、平地にばかり飼はれた動物では、木曾のやうな土地には適しません。そこで、石ころの多い坂路を歩いても疲れないやうな強い脚の力が、木曾生れの馬には自然と具はつて居るのです。 木曾馬は小いが、足腰が丈夫で、よく働くと言つて、それを買ひに來る博勞が毎年諸國から集まります。博勞とは馬の賣買を商賣にする人のことです。木曾の山地に育つた眼付の可愛らしい動物がその博勞に引かれながら、諸國へ働きに出るのです。    二二 御嶽參り 『チリン〳〵。チリン〳〵。』 山が夏らしくなると、鈴の音が聞えるやうに成ります。御嶽山に登らうとする人達が幾組となく父さんのお家の前を通るのです。馬に乘るか、籠に乘るか、さもなければ歩いて旅をした以前の木曾街道の時分には、父さんの生れた神坂村も驛の名を馬籠と言ひました。汽車や電車の着くところが今日のステエシヨンなら、馬や籠の着いた父さんの村は昔の木曾街道時分のステエシヨンのあつたところです。ほら、何々の驛といふことをよく言ふでは有りませんか。木曾の山の中にあつた小さな馬籠驛でも、言葉の意味に變りは無いのです。丁度、お隣りで美濃の國の方から木曽路へ入らうとする旅人のためには、一番最初の入口のステエシヨンにあたつて居たのが馬籠驛です。 御嶽參りが西の方から斯の木曾の入口に着くには、六曲峠といふ峠を越して來なければなりません。そこが信濃と美濃の國境で、父さんの村のはづれに當つて居ます。馬籠の驛まで來れば御嶽山はもう遠くはない、そのよろこびが皆の胸にあるのです。あの白い着物に、白い鉢巻をした山登りの人達が、腰にさげた鈴をちりん〳〵鳴らしながら多勢揃つて通るのは、勇しいものでした。    二三 芭蕉翁の石碑 お前達は芭蕉翁の名を聞いたことが有りませう。あの芭蕉翁の木曾で讀んだ發句が石に彫りつけてあります。その古い石碑が馬籠の村はづれに建てゝあります。美濃の國境に近いところに、それがあります。 『朝を思ひ、また夕を思ふべし。』 と芭蕉翁は教へた人です。    二四 お百草 御嶽山の方から歸る人達は、お百草といふ藥をよく土産に持つて來ました。お百草は、あの高い山の上で採れるいろ〳〵な草の根から製した練藥で、それを竹の皮の上に延べてあるのです。苦い〳〵藥でしたが、お腹の痛い時なぞにそれを飮むとすぐなほりました。お藥はあんな高い山の土の中にも藏つてあるのですね。    二五 檜木笠 麥藁でさへ帽子が出來るのに、檜木で笠が造れるのは不思議でもありません。 木曾は檜木の名所ですから、あの木を薄い板に削りまして、笠に編んで冠ります。その笠の新しいのは、好い檜木の香氣がします。木曾の檜木は材木として立派なばかりでなく、赤味のある厚い木の皮は屋根板の代りにもなります。まあ、あの一ト擁へも二擁へもあるやうな檜木の側へ、お前達を連れて行つて見せたい。    二六 ふるさとの言葉 山や林は父さんのふるさとですと、お前達にお話しましたらう。山や林ばかりでなく、言葉も父さんのふるさとです。邊鄙な山の中の村ですから、言葉のなまりも鄙びては居ますが、人の名前の呼び方からして馬籠は馬籠らしいところが有ります。たとへば、末子のやうなちひさな女の子を呼ぶにも、 『末さま。』 と言つたり、もつと親しい間柄で呼ぶ時には、 『末さ』 と言つたりしまして、鄙びた言葉の中にも何處か優しいところが無いでもありません。 父さんの田舍には『どうねき』などといふ言葉もあります。もう仕末におへないやうな人のことを『どうねき』と言ひます。こんな言葉は木曾にだけ有つて、他の土地には無いのだらうかと思ひます。それから、『わやく』といふやうな言葉もあります。『いたずらな子供』といふところを『わやくな子供』などゝ言ひます。 ふるさとの言葉はこひしい。それを聞くと、父さんは自分の子供の時分に歸つて行くやうな氣がします。お前達の祖父さんでも、祖母さんでも、みんなその言葉の中に生きていらつしやるやうな氣がします。    二七 お百姓の苗字 父さんの田舍の方には働くことの好きなお百姓が住んで居ます。今でこそあの人達に苗字の無い人はありませんが、昔は庄吉とか、春吉とかの名前ばかりで、苗字の無い人達が澤山あつたさうです。明治のはじめを御維新の時と言ひまして、あの御維新の時から、どんなお百姓でも立派な苗字をつけることに成つたさうです。 父さんのお家にも出入のお百姓がありまして、お餅をつくとか、お茶をつくるとかいふ日には、屹度お手傳ひに來て呉れました。あの人達はお前達の祖父さんのことを『お師匠さま、お師匠さま』と呼んで居ました。あの人達が苗字をつける時のことを今から思ひますと、 『お師匠さま、孫子に傳はることでございますから、どうかまあ私共にも好ささうな苗字を一つお願ひ申します。』 斯うもあつたらうかと思ひます。そして、大脇の脇の字を分けて貰ふとか、蜂谷の谷の字を分けて貰ふとかして、いろ〳〵な苗字が村にふえて行つたらうかと思ひます。    二八 狐の身上話 お稻荷さまは五穀の神を祀つたものですとか。五穀とは何と何でせう。米に、麥に、粟に、黍に、それから豆です。粟は粟餅の粟、黍はお前達のお馴染な桃太郎が腰にさげて居る黍團子の黍です。父さんのお家の裏にも、斯のお百姓の神樣が祀つてありました。赤い鳥居の奧にある小さな社がそれです。二月初午の日には、お家の爺やが大きな太鼓を持出して、その社の側の櫻の枝の木に掛けますと、そこへ近所の子供が集まりました。父さんもその太鼓を叩くのを樂みにしたものです。 お前達はあの繪馬を知つて居ますか。馬の繪をかいた小さな額が諸方の社に掛けてあるのを知つて居ますか。あの額の中には『奉納』といふ文字と、それを進げた人の生れた年なぞが書いてあるのに氣がつきましたか。父さんのお家の裏に祀つてあるお稻荷さまの社にも、あの繪馬がいくつも掛つて居ました。それから、白い狐の姿をあらはした置物も置いてありました。その白狐はあたりまへの狐でなくて、寶珠の玉を口にくはへて居ました。 『お前さんがお稻荷さまですか。』 と父さんがその狐にきいて見ました。さうしましたら白狐の答へるには、 『どうしまして。私はお稻荷さまの使ひですよ。この社の番人ですよ。私もこれで若い時分には隨分いたずらな狐でして、諸方の畠を荒しました。一體、私の幼少な時分には、ごく弱かつたものですから、この白狐はこれでも育つかしら、と皆に言はれたくらゐださうです。その私を可哀さうに思つて、親狐は私の言ふなりに育てゝ呉れましたとか。私は他の言ふことなぞを聞かないで、自分のしたい事をしました。鷄が食べたければ、鷄を盜んで來ました。そんな眞似をして、もう我儘一ぱいに振舞つて居りますうちに、だん〴〵私は獨りぼつちに成つてしまひました。誰も私とは交際はなくなりました。私の眼が覺める時分には、誰も私の言ふことを本當にして呉れる者はありませんでした。御覽の通り、私は今、お稻荷さまの社の番人をして居ます。私のやうな狐でも生れ變つたやうになれば、斯うして社の番人をさせて頂けるのです。私がもう若い時分のやうな惡戯な狐でない證據には、この私の口を御覽になつても分ります。私がお稻荷さまのお使ひをして歩く度に、この口にくはへて居る寶珠の玉が光ります。』 とさう申しました。    二九 生徒さん、今日は 村の學校の生徒が石垣の間の細い道を歸つて來ますと、こちらの石垣から向ふの石垣の方へ通りぬけようとする鼠がありました。丁度、村では惡戯をした鼠の噂が傳はつて居る頃でした。いかにそゝツかしい山家の鼠でも、そこに寢て居る女の人の鼻を間違へて、お芋かなんかのやうに食べようとしたなんて、そんなことはめつたに聞かない惡戯ですから。 學校の生徒に逢つた鼠は賢い鼠でした。他所の鼠の惡戯から、自分までその仕返しをされては堪らないと思ひましたから、先づ自分の鼻を大事さうにおさへて居まして、それから斯う挨拶しました。 『生徒さん、今日は。』    三○ 黒い蝶蝶 ある日のことでした。父さんはお家の裏木戸の外をさん〴〵遊び廻りまして、木戸のところまで歸つて來ますと、高い枳殼の木の上の方に卵でも産みつけようとして居るやうな大きな黒い蝶々を見つけました。 いろ〳〵な可愛らしい蝶々も澤山ある中で、あの大きな黒い蝶々ばかりは氣味の惡いものです。あれは毛蟲の蝶々だと言ひます。何の氣なしに父さんはその蝶々を打ち落すつもりで、木戸の内の方から長い竹竿を探して來ました。ほら、枳殼といふやつは、あの通りトゲの出た、枝の込んだ木でせう。父さんが蝶々をめがけて竹竿を振る度に、それが枳殼の枝を打つて、青い葉がバラ〳〵落ちました。 そのうちに蝶々は父さんの竹竿になやまされて、手傷を負つたやうでしたが、まだそれでも逃げて行かうとはしませんでした。そこいらにはもう誰も人の居ない頃で、木戸に近いお稻荷さまの小さな社から、お家の裏手にある深い竹籔の方へかけて、何もかも、ひつそりとして居ました。大きな蝶々だけが氣味の惡い黒い羽をひろげて、枳殼のまはりを飛んで居ました。それを見ると、父さんはその蝶々を殺してしまはないうちは安心の出來ないやうな氣がして、手にした竹竿で、滅茶々々に枳殼の枝の方を打つて置いて、それから木戸の内へ逃げ込みました。 未だに父さんはあの時のことを忘れません。母屋の石垣の下にある古い池の横手から、ひつそりとした木小屋の前を通り、井戸の側の石段を馳け登るやうにしまして、祖母さん達の居る方へ急いで歸つて行つた時のことを忘れません。 それにつけても、父さんはある亞米利加人の話を思ひ出します。 その亞米利加人がまだ子供の時分に龜の子を打つた話を思ひ出します。生れて初めて『惡い』といふ事をほんたうに知つた、自分で惡いと思ひながら復た棒を振上げ〳〵して龜の子を打つのに夢中になつてしまつた、あんな心持は初めてだ、さう亞米利加人の話の中に書いてあつたことを思ひ出します。その亞米利加人が母親から言はれた言葉を引いて、あれが自分の『良心の眼ざめ』だ、自分が一生の中のどんな出來事でもあんなに深く長續きのして殘つたものはない、とその話にも言つてありましたつけ。     三一 梨の木の下 子供が片足づゝ揚げて遊ぶことを、東京では『ちん〳〵まご〳〵』と言ひませう。土地によつては『足拳』と言ふところも有るさうです。父さんの田舍の方ではあの遊びのことを『ちんぐら、はんぐら』と言ひます。 問屋の三郎さんは近所の子供の中でも父さんと同い年でして、好い遊び友達でした。父さんがお家の表に出て遊んで居りますと、何時でも坂の上の方から降りて來て一緒に成るのは、この三郎さんでした。二人は片足づゝ揚げまして、坂になつた村の往来を『ちんぐら、はんぐら』とよく遊びました。 ある日の夕方の事、父さんは何かの事で三郎さんと爭ひまして、この好い遊び友達を泣かせてしまひました。三郎さんの祖母さんといふ人は日頃三郎さんを可愛がつて居ましたから、大層立腹して、父さんのお家へ捩じ込んで來たのです。問屋の祖母さんと言へば、なか〳〵負けては居ない人でしたからね。 父さんはお家へ歸ればきつと叱られることを知つて居ましたから、しょんぼりと門の内まで歸つて行きました。お家には廣い板の間の玄關と、田舍風な臺所の入口と、入口が二つになつて居ましたが、その臺所の入口から見ますと、爐邊ではもう夕飯が始まつて居ました。ところが誰も父さんに『お入り』と言ふ人がありません。『早く御飯をおあがり』と言つて呉れる者も有りません。父さんは自分のしたことで、こんなに皆を怒らせてしまつたかと思ひました。そのうちに、 『お前はそこに立つてお出で。』 といふ伯父さんの聲を聞きつけました。あのお前達の伯父さんが、父さんには一番年長の兄さんに當る人です。父さんは問屋の三郎さんを泣かせた罰として、庭に立たせられました。あか〳〵と燃える樂しさうな爐の火も、みんなが夕飯を食べるさまも、庭の梨の木の下からよく見えました。爺やは心配して、父さんを言ひなだめに來て呉れましたが、父さんは誰の言ふ事も聞き入れずに、みんなの夕飯の濟むまでそこに立ちつくしました。 斯ういう塲合に、いつでも父さんを連れに來て呉れるのはあのお雛で、お雛は父さんのために御飯までつけて呉れましたが、到頭その晩は父さんは食べませんでした。 愚かな父さんは、好い事でも惡い事でもそれを自分でして見た上でなければ、その意味をよく悟ることが出來ませんでした。そのかはり、一度懲りたことは、めつたにそれを二度する氣にならなかつたのは、あの梨の木の下に立たせられた晩のことをよく〳〵忘れずに居たからでありませう。    三二 翫具は野にも畠にも 父さんの幼少い時のやうに山の中に育つた子供は、めつたに翫具を買ふことが出來ません。假令、欲しいと思ひましても、それを賣る店が村にはありませんでした。 翫具が欲しくなりますと、父さんは裏の竹籔の竹や、麥畠に乾してある麥藁や、それから爺やが野菜の畠の方から持つて來る茄子だの南瓜だのゝ中へよく探しに行きました。 爺やが畠から持つて來る茄子は、父さんに蔕を呉れました。その茄子の蔕を兩足の親指の間にはさみまして、爪先を立てゝ歩きますと、丁度小さな沓をはいたやうで、嬉しく思ひました。 南瓜も父さんに、蔕を呉れました。 『御覽、私の蔕の堅いこと。まるで竹の根のやうです。これをお前さんの兄さんのところへ持つて行つて、この裏の平らなところへ何か彫つてお貰ひなさい。それが出來たら、紙の上へ押して御覽なさい。面白い印行が出來ますよ。』 と南瓜が教へて呉れました。 裏の竹籔の竹は父さんに竹の子を呉れました。それで竹の子の手桶を造れ、と言つて呉れました。 『こいつも、おまけだ。』 と細く竹の割つたのまで呉れてよこしました。その細い竹を削りまして、竹の子の手桶に差しますと、それで提げられるやうに成るのです。水も汲めます。父さんは表庭の梨の木や椿の木の下あたりへ小さな川のかたちをこしらへました。寄せ集めた砂や土を二列に盛りまして、その中へ水を流しては遊びました。竹の子の手桶で提げて行つた水がその小さな川を流れるのを樂みました。 麥畠に熟した麥は、父さんに穗先の方の細い麥藁と、胴中の方の太い麥藁とを呉れました。 『是をどうするんですか。黄色い麥藁でなけりや不可んですか。』 と父さんが聞きましたら、麥の言ふには、 『ナニ、青いんでもかまひませんが、なるなら黄色い方がいゝ。麥は熟するほど丈夫ですからね。この細い麥藁の穗先の方を輕く折つてお置きなさい。氣をつけてしないと、折れて、とれてしまひますよ。それから太い麥藁の節のある下のところを一寸ばかりお前さんの爪でお裂きなさい。これも氣をつけてしないと、みんな裂けてしまひますよ。太い麥藁には必ず一方に節のあるのが要ります。それが出來ましたら、細い方の麥藁を太い麥藁の裂けたところへ差し込むやうになさい。』 成程麥の言ふ通りにしましたら、子供らしい翫具が出來ました。細い麥藁を下から引く度に、麥の穗先が動きまして、『今日は、今日は』と言ふやうに見えました。 父さんは、種々な翫具が野にも畠にもある事を知りました。竹籔から取つて來た青い竹の子、麥畠から取つて來た黄色い麥藁で、翫具を手造にする事の言ふに言はれぬ樂しい心持を覺えました。 畠の隅に堤燈をぶらさげたやうな酸醤が、父さんに酸醤の實を呉れまして、その心を出してしまつてから、古い筆の軸で吹いて御覽と教へて呉れました。筆の軸は先の方だけを小刀か何かで幾つにも割りまして、朝顏のかたちに折り曲げるといゝのです。その受口へ玉のやうにふくらめた酸醤をのせ、下から吹きましたら、輕い酸醤がくる〳〵と舞ひあがりました。そして朝顏なりの管の上へ面白いやうに落ちて來ました。    三三 旅の飴屋さん 父さんの村へも、たまには飴屋さんが通りました。旅の飴屋さんは、天平棒でかついて來た荷を村の石垣の側におろして、面白をかしく笛を吹きました。 なんと、飴屋さんの上手に笛を吹くこと。飴屋さんは棒の先に卷きつけた飴を父さんにも賣つて呉れまして、それから斯う言ひました。 『さあ、おいしい飴ですよ。これを食べて、おとなしくして居て下さると、復た私が飴をかついで來てあげますよ。』 日に燒けて旅をして歩く斯の飴屋さんは、何處か遠いところからかついで來た荷を復た肩に掛けて、笛を吹き〳〵出掛けました。 あの飴屋さんの吹く笛は、そこいらの石垣へ浸みて行くやうな音色でした。    三四 水晶のお土産 ある日、父さんは人に連れられて梵天山といふ方へ行きました。赤い躑躅の花なぞの咲いて居る山路を通りまして、その梵天山へ行つて見ますと、そこは水晶の出る山でした。父さんはめづらしく思ひまして、あちこちと見て歩いて居ますと、路ばたに大きな岩がありました。その岩が父さんに、彼處を御覽、こゝを御覽、と言ひまして、半分土のついた水晶がそこいらに散らばつて居るのを指して見せました。 『あそこにも水晶の塊がありますよ。』 とまた岩が父さんに指して見せました。その水晶は千本濕地といふ茸のかたまつて生えたやうに、枝に枝がさしたやうになつて居まして、その枝の一つ一つが、みんな水晶の形をして居ました。 『こんなところから水晶が出るんですか。』 と父さんが聞きましたら、 『えゝ、さうです。水晶はみんな斯うして生れて來ます。人は遠いところにばかり眼をつけて、足許に落ちて居る寶石を知らずに居ますよ。さういふお前さんは、この山は初めてゞすか。よく來て下さいました。山の土産に、あそこに落ちて居る美しい水晶でも一つ拾つて行つて下さい。』 斯うその岩が答へました。 父さんはそこいらを探し廻りまして、眼についた水晶の中でも一番光つたのを土産に持つて歸りました。    三五 雄鷄の冒險 若い雄鷄がありました。 他の鷄と同じやうに、この雄鷄も人の家に飼はれて大きくなりました。小さな雛ツ子の時分から、雄鷄は自分で飛べないものとばかり思つて居ましたが、だん〴〵大きくなるうちに、自分に生えて居る羽を見てびつくりしました。 雄鷄はまだ若くて元氣がありましたから、こんな立派な羽があるなら一つこれで飛んで見たいと思ふやうに成りました。そこで林の方へ出掛けて行きまして、他の鳥と同じやうに飛ばうとしました。林には百舌が遊んで居ました。百舌は雄鷄の方を見ては笑ひました。そこへ鶸も舞つて來ました。鶸は雄鷄の方を見て、百舌と同じやうに笑ひました。何度も何度も雄鷄は木の枝へ上りまして、そこから飛ばうとしましたが、その度に羽をばた〴〵させて舞ひ降りてしまひました。 百舌には笑はれる、鶸にも笑はれる、そのうちに雄鷄は餌を欲しくなりましたが、林の中にある木の實や虫はみんな他の鳥に早く拾はれてしまひました。誰も雄鷄のために米粒一つまいて呉れるものも有りませんでした。でも、この雄鷄は若かつたものですから、どうかして飛んで見たいと思ひまして、木の枝へ上つて行つては羽をひろげました。その度に舞ひ降りるばかりでした。 雄鷄はもう高い聲で閧をつくるやうな勇氣も挫けまして、 『クウ〳〵、クウ〳〵。』 と拾ふ餌もなくて鳴きました。 そこへ山鳩が通りかゝりました。山鳩は林の中に聞き慣れない鷄の鳴聲を聞きつけまして、傍へ飛んで來ました。百舌や鶸とちがひ、山鳩は見ず知らずの雄鷄をいたはりました。 『もうすこしの辛抱──もうすこしの辛抱──』 と鳴いて、山鳩は林の奧の方へ飛んで行きました。 饑えた雄鷄は一生懸命に餌を探しはじめました。他の鳥に拾はれないうちに、自分で木の實や虫を見つけるためには、否でも應でも飛ばなければ成りませんでした。その時になつて、初めて雄鷄の羽が動いて來ました。そして餌らしい餌にありつきました。 雄鷄はこの林へ飛びに來て見て、鷹があんな高い空を舞つて歩くのも、自分で餌を見つけに行くのだといふことを知りました。    三六 たなばたさま 三月、五月のお節句は、樂しい子供のお祭です。五月のお節句には、父さんのお家でも石を載せた板屋根へ菖蒲をかけ、爺やが松林の方から採つて來る笹の葉で粽をつくりました。七月になりますと、又、たなばたさまのお祭の日が山の中の村へも來ました。 たなばたさまのお祭に飾る竹は、あれは外國の田舍家で飾るといふクリスマスの木にも比べて見たいやうなものです。墨や紅を流して染めた色紙、または赤や黄や青の色紙を短册の形に切つて、あの青い竹の葉の間に釣つたのは、子供心にも優しく思はれるものです。    三七 巴且杏 巴且杏の生る時分には、お家の裏のお稻荷さまの横手にある古い木にも、あの實が密集つて生りました。父さんは自分の子供の時分と、あの巴且杏の生る時分とを、別々にして思ひ出せないくらゐです。巴且杏は李より大きく、味も李のやうに酸くはありません。あの木は、先の方の少し尖つて角の出たやうな、見たばかりでもおいしさうに熟したやつを毎年どつさり父さんに御馳走して呉れましたつけ。    三八 鰍すくひ 父さんの兄弟の中に三つ年の上な友伯父さんといふ人がありました。この友伯父さんに、隣家の大黒屋の鐵さん──この人達について、父さんもよく鰍すくひと出掛けました。 胡桃、澤胡桃などゝいふ木は、山毛欅の木なぞと同じやうに、深い林の中には生えないで、村里に寄つた方に生えて居る木です。漆の葉を大きくしたやうなあの胡桃の葉の茂つたところは、鰍の在所を知らせるやうなものでした。何故かといひますに、胡桃の生えて居るところへ行つて見ますと、きまりでその邊には水が流れて居ましたから。父さん達は笊を持つて行きまして、石の間に隱れて居る鰍を追ひました。 もしかして笊のかはりに釣竿をかついで、何かもつと他の魚をも釣りたいと思ふ時には、爺やに頼んで釣竿を造つて貰ひました。 斯ういふ遊びにかけては、友伯父さんはなか〳〵𤍠心でした。なにしろ父さんの村には釣の道具一つ賣る店もなかつたものですから、釣竿の先につける糸でも何でもみんな友伯父さんが爺やに手傳つて貰つて造りました。糸は栗の木の虫から取りました。その栗の木の虫から取れた糸を酢に浸けて、引き延ばしますと、木小屋の前に立つ爺やの手から向ふの古い池の側に立つ友伯父さんの手に屆くほどの長さがありました。それを日に乾して、釣竿の糸に造ることなどは、友伯父さんも好きでよくやりました。 斯の釣の道具を提げて、友伯父さん達と一緒に復た胡桃の木の見える谷間へ出掛けますと、何時でも父さんは魚に餌を取られてしまふか、さもなければもう面倒臭くなつて釣竿で石の間をかき廻すかしてしまひました。そしてお家の方へ歸つて來る度に、 『釣竿ばかりでは、魚は釣れませんよ。』 と爺やに笑はれました。    三九 祖母さんの鍵 お前達の祖母さんのことは、前にもすこしお話したと思ひます。祖母さんは、父さんが子供の時分の着物や帶まで自分で織つたばかりでなく、食べるもの──お味噌からお醤油の類までお家で造り祖母さんが自分の髮につける油まで庭の椿の實から絞りまして、物を手造りにすることの樂みを父さんに教へて呉れました。『質素』を愛するといふことを、いろ〳〵な事で父さんに教へて見せて呉れたのも祖母さんでした。祖母さんはよく𤍠い鹽のおむすびを庭の朴の木の葉につゝみまして、父さんに呉れました。握りたてのおむすびが彼樣すると手にくツつきませんし、その朴の葉の香氣を嗅ぎながらおむすびを食べるのは樂みでした。 この祖母さんと言へば、廣い玄關の側の板の間で機を織りながら腰掛けて居る人と、味噌藏の側の土藏の前に立つて大きな鍵を手にして居る人とが、今でもすぐに父さんの眼に浮んで來ます。祖母さんの鍵は金網の張つてある重い藏の戸を開ける鍵で、紐と板片をつけた鍵で、いろ〳〵な箱に入つた器物を藏から取出す鍵でした。祖母さんがおよめに來た時の古い長持から、お前達の祖父さんの集めた澤山な本箱まで、その藏の二階にしまつて有りました。祖母さんはあの鍵の用が濟むと、藏の前の石段を降りて、柿の木の間を通りましたが、そこに父さんがよく遊んで居たのです。味噌藏の階上には住居に出來た二階がありました。そこがお前達の曾祖母さんの隱居部屋になつて居ました。    四○ 祖父さんの好きな御幣餅 木曾の御幣餅とは、平たく握つたおむすびの小さいのを二つ三つぐらゐづゝ串にさし、胡桃醤油をかけ、爐の火で燒いたのを言ひます。その形が似て居るから御幣餅でせう。人々は爐邊に集りまして、燒きたてのおいしいところを食べるのです。 お前達の祖父さんは、この御幣餅が好きでした。日頃村の人達から『お師匠さま、お師匠さま。』と親しさうに呼ばれて居たのも、この御幣餅の好きな祖父さんでした。 祖父さんは學問の人でしたから、『三字文』だの『勸學篇』だのといふものを自分で書いて、それを少年の讀本のやうにして、幼少な時分の父さんに教へて呉れました。山の中にあつた父さんのお家では、何から何まで手製でした。手習のお手本から讀本まで、祖父さんの手製でした。    四一 お隣りの人達 お隣りの大黒屋は酒を造る家でした。そこの家でお風呂が立てば父さんのお家へ呼びに來ましたし、父さんのお家でお風呂が立てばお隣りからも呼ばれて入りに來ました。田舍のことで、日が暮れてからお隣りまでお風呂を呼ばれに行くにも、祖母さん達は提灯つけて通ひました。二軒の家のものは、それほど親しく往つたり來たりしましたから、子供同志も互に親しい遊び友達でした。それに、お隣りの鐵さんでも、その妹のお勇さんでも、祖父さんのお弟子として父さんのお家へ通つて來ました。父さんのお家の方から見ますと、大黒屋は一段と高い石垣の上にありまして、その石垣のすぐ下のところまで父さんのお家の桑畠が續いて居ましたから、朝日でもさして來るとお隣りの家の白い壁がよく光りました。 父さんはこゝでお前達に、自分の生れたお家のこともすこしお話しようと思ひます。父さんのお家は昔は本陣と言ひまして、村でも舊い〳〵お家でした。父さんの幼少な時分には、昔のお大名が木曽路を通る時に泊まつたといふ古い部屋まで殘つて居ました。部屋々々には、いろ〳〵な名前が昔からつけてありまして、上段の間、奧の間、中の間、次の間、それから寛ぎの間なぞといふのが有りました。祖父さんはいつでも書院に居ました。父さんもその書院に寢ましたが、曾祖母さんが獨りで寂しいといふ時には離れの隱居部屋へも泊りに行くことが有りました。祖父さんの書院の前には、白い大きな花の咲く牡丹があり、古い松の樹もありました。月のいゝ晩なぞには松の樹の影が部屋の障子に映りました。この書院から中の間へつゞく廊下のあたりは、父さんのよく遊んだところです。中の間はお家のなかでも一番明るい部屋でして、遠く美濃の國の方の空までその部屋から見えました。祖母さんや伯母さんが針仕事をひろげるのもその部屋でしたし、父さんが武者繪の敷寫しなどをして遊ぶのもその部屋でしたし、お隣りのお勇さんが手習に來て祖父さんの書いたお手本を習ふのもその部屋でした。 お隣りの鐵さんは、父さんのお家の友伯父さんと同い年ぐらゐで、一緒に遊ぶにも父さんの方がいくらか弟のやうに思はれるところが有りました。近所の子供の中で、遊んで氣の置けないのは、問屋の三郎さんに、お隣りのお勇さんでした。この人達は父さんと同い年でした。祖父さんは字を書くことが好きで、赤い毛氈の上へ大きな紙をひろげて、夜遲くなるまで何かよく書きましたが、その度に眠い眼をこすり〳〵蝋燭を持たせられるのはお勇さんや父さんの役目でした。 末子よ。お前は『おばこ』といふ草の葉を採つて遊んだことが有りますか。あの草の葉は糸にぬいて、みんなよく織る真似をして遊びませう。お隣りのお勇さんもあの『おばこ』を採つて來て織ることを樂みにするやうな幼い年頃でした。    四二 屋號 どこの田舍にもあるやうに、父さんの村でも家毎に屋號がありました。大黒屋、俵屋、八幡屋、和泉屋、笹屋、それから扇屋といふやうに。 笹屋とは笹のやうに繁る家、扇屋とは扇のやうに末の廣がる家といふ意味からでせう。でも笹屋と言つてもそれを『笹の家』と思ふものもなく、扇屋と言つても『扇の家』と思ふものはありません。屋號といふものは、その家々の符牒のやうに思はれて居るものでした。    四三 お墓參りの道 村の人達──殊に女の人達の通る裏道は並んだ人家に添ふて村の裏側に細くついて居ました。父さんのお家の裏木戸から、竹籔について廻りますと、その細い裏道へ出ました。祖母さんに連れられて、父さんはよくその道をお墓の方へ通ひました。 お墓へ行く道は、村のものだけが通る道です。旅人の知らない道です。田畠に出て働く人達の見える樂しい靜かな道です。 父さんのお家のお墓は永昌寺まで登る坂の途中を左の方へ曲つて行つたところにありました。これが誰だ、あれが誰だ、と言つて祖母さんの教へて呉れるお墓の中には、戒名の文字を赤くしたのが有りました。その赤い戒名はまだこの世に生きて居る人で、旦那さんだけ亡くなつた曾祖母さんのやうな人のお墓でした。祖母さんは古い苔の生えたお墓のいくつも並んだ石壇の上を綺麗に掃いたり、水をまいたりして、 『御先祖さま、今日は。』 と言ふやうにお花を上げました。祖母さんがお墓の竹箒を立てかけて置くところは大きな杉の木の根キでしたが、その杉の木の間から馬籠の村が見えました。 お墓にある御先祖さまは永昌院殿と言ひました。永昌寺のお寺と同じ名でした。あの御先祖さまが馬籠の村も開けば、お寺も建てたといふことです。あれは父さんのお家の御先祖さまといふばかりでなく、村の御先祖さまでもあるといふことです。 なんと、あの御先祖さまのやうに、開かうと思へばこんな村も開けて行きますし、建てようと思へば永昌寺のやうなお寺が建つて、それが父さんの代まで續いて來て居ます。先づ、思へ。何もかもそこから始まります。御先祖さまがさう思つてこんな山の中へ村を開きはじめたといふことには、大きな力がありますね。    四四 蜂の子 地蜂といふ蜂は、よく〳〵土のにほひが好きと見えまして、地べたの中へ巣をかけます。土手の側のやうなところへ巣の入口の穴をつくつて置きます。 蜜蜂、赤蜂、土蜂、熊ン蜂、地蜂──木曾のやうな山の中にはいろ〳〵な蜂が巣をかけますが、その中でも大きな巣をつくるのは熊ン蜂と地蜂です。熊ン蜂は古い土塀の屋根の下のやうなところに大きな巣をかけますが、地蜂の巣もそれに劣らないほどの堅固なもので、三階にも四階にもなつて居て、それが漆の柱で支へてあります。こんなに地蜂の巣は大きいのですが、地蜂の親といふものは小さな蜂で、熊ン蜂の半分もありません。あの小さな建築技師が三階も四階もある巣を建てゝ、一階毎に澤山な部屋を造るのですから、そこには餘程の協せた力といふものが入つて居るのでせう。 父さんの田舍の方ではあの蜂の子を佃煮のやうにして大層賞美すると聞いたら、お前達は驚くでせうか。一口に蜂の子と言ひましても、木曾で賞美するのは地蜂の巣から取つた子だけです。蜂の親は食べませんが、どうかするとあの巣の中からは親に成りかけたのが出て來ます。それを食べます。お前達はそこいらに居る蜂が庭なぞへ飛んで來て花の蕋を出たり入つたりするのを見かけるでせう。それからあの黄色い蓋のしてある蜂の巣の見事に出來たのを見かけることも有るでせう。蜂は汚いものでは有りません。もしお前達が木曾でいふ『蜂の子』を食べ慣れて、あたゝかい御飯の上にのせて食べる時の味を覺えたら、 『父さん、こんなにおいしものですか。』 と言ふやうに成るでせう。 ある日、友伯父さんは裏の木小屋の近くにある古い池で蛙をつかまへました。土地のものが地蜂の巣を見つけるには、先づ蛙の肉を餌にします。それを友伯父さんはよく知つて居ましたから、細い竿の先に蛙の肉を差し、飛んで來る蜂の眼につきさうな塲處に立てゝ、別に餌にする小さな肉には紙の片をしばりつけて出して置きました。丁度釣をするものが魚を待つて居るやうに、友伯父さんは蜂の來るのを待つて居ました。蛙の肉を食べに來た蜂は餌をくはへて巣の方へ飛んで行きますが、その小さな蛙の肉についた紙の片で巣の行衛を見定めるのです。斯うして友伯父さんは近所の子供達と一緒に、ある地蜂の巣を見つけたことが有りました。地蜂の巣を取りに行くものは、巣の出入口へ火藥を打ち込んで、澤山な親蜂が眼を廻して居る間に獲物を手に入れるのだと聞きました。そして巣を持つて逃げ歸るのだと聞きました。どうかすると蘇生つた蜂に追はれて刺されたといふ人の話も聞きました。さうなると鐵砲をかついで獸を打ちに行くも同じやうなものです。    四五 青い柿 『もうお前さんはそんなに赤くなつたのですか。』 とまだ青くて居る柿が、お隣りの柿に言ひました。この青い柿と、赤い柿とは、お百姓の家の庭にある二本の柿の木の枝に生つて居ました。 赤い柿は青い柿を慰めようと思ひまして、 『さう、力を落すものでは有りません。お前さんだつても今に、私のやうに好い色がつきますよ。』 と言ひましたら、青い柿は首を振りまして、 『いえ、あのお猿さんが蟹にぶつけたのも、きつと私のやうな澁い柿で、自分で取つて食べたといふのはお前さんのやうな甘い柿ですよ。』 と力を落したやうに言ひました。 お百姓は庭へ見廻りに來まして、赤い柿を大きな笊に入れて持つて行つてしまひました。その木の枝の高い上の方には、たつた一つだけ柿の赤いのが殘つて居ました。殘つた赤い柿が高いところからお隣りの柿を見ますと、まだ一つも色のついたのが有りませんでしたから、 『どうしてお前さんは、そんなに愚圖々々して居るんですか。』 と尋ねました。さう言はれると、青い柿はまた力を落したやうに、 『澁い柿は何時までたつても澁いと言ひますよ。さういへば節分の日に、棒を持つた人が來て、『さあ、生ると申すか、生らぬと申すか』と言つて、柿の木を打ちませう。その時、もう一人の人が柿の木に代つて、『生ります、生ります』と答へますね。あの棒で強く打たれゝば打たれるほど、柿は甘くなるとかき聞きました。どうも私は節分の日に、棒で打たれ方が足りなかつたと思ひます。』と答へました。 柿の好きなお百姓の子供は青い柿を見に來ましたが、取つて食べて見る度に澁さうな顏をして、食べかけのを捨てゝしまひました。それからお隣りの赤い柿の方へ行つて、たつた一つだけ高いところに殘つて居たのを長い竿で落しました。もうお隣りの木の枝には一つも赤い柿がありません。それを見ると、青い柿は自分獨り取殘されたやうに、よけいに力を落しました。 そのうちに、お百姓が復た庭へ見廻りに來ました。今度は青い柿の生つた木の下へ來まして、斯う聲を掛けました。 『御覽、甘い柿はもう一つもなくなつてしまひました。今度はお前さんの番に廻つて來ましたよ。どんな柿の澁いのでも、霜が來れば甘くなります。皮をむいて軒下に釣るして置いても甘くなります。澁い柿はもつとそこに辛抱してお出なさい。そして時の力といふのをお待ちなさい。』    四六 小鳥の先達 小鳥の來る頃になりますと、いろ〳〵な種類の小鳥が山を通りました。 鶫、鶸、獦子鳥、深山鳥、頬白、山雀、四十雀──とても數へつくすことが出來ません。あの足の色が赤くて、羽に青い斑の入つた斑鳩も、他の小鳥の中にまじつて、好きな榎木の實を食べに來ました。 木曾の山の中は小鳥の通り路だと言ふことでして、毎朝々々、夜のあけがたには驚くばかり澤山な小鳥の群が山を通ります。その中でも、群をなして多く通るのは鶫、鶸などです。 この小鳥の群には、必ず一羽づゝ先達の鳥があります。その鳥が空の案内者です。澤山に隨いて行く鳥の群は案内する鳥の行く方へ行きます。もしかして案内する鳥が方角を間違へて、鳥屋の網にでもかゝらうものなら、隨いて行く鳥は何十羽ありましても皆同じやうにその網へ首を突込んでしまひます。 『さあ、皆さん、お支度は出來ましたか。』 そんなことを案内する小鳥が言つて、澤山な鳥仲間の先に立つて出掛けるのだらうと思ひます。 鳥にも先達はありますね。    四七 鳥屋 村の人達に連れられて、山の上の方の鳥屋へ遊びに行つた時のことをお話しませう。 鳥屋は小鳥を捕るために造つてある小屋のことです。何方を向いても山ばかりのやうなところに、その小屋が建てゝあります。屋根の上は木の葉で隱して、空を通る小鳥の眼につかないやうにしてあります。その小屋の周圍に、細い丈夫な糸で編んだ鳥網の大きなのが二つも三つも張つてあるのです。網を張つた高い竹竿には鳥籠が掛つて居ました。その中には囮が飼つてありまして、小鳥の群が空を通る度に好い聲で呼びました。 『もし〳〵、鶫さん。』 この囮になる鳥の呼聲は、春先から稽古をした聲ですから、高い空の方までよく徹りました。それを聞きつけた小鳥の先達が好い聲に誘はれて降りて來ますと、他の小鳥も同じやうに空から舞ひ降りて來ます。 その時、降りて來た小鳥をびつくりさせるものは、急に横合から飛出す薄黒いものと、鷹の羽音でもあるやうなプウ〳〵唸つて來る音です。 『これは堪らん。』 と小鳥の先達は張つてある網の中へ飛び込みます。他の小鳥もあはてまして、みんな網の中へ飛び込みます。鳥屋で捕れる小鳥はこんな風にして網にかゝりますが、小鳥をびつくりさせたのは他のものでも有りません。横合から飛出した薄黒いものは、鳥屋で人の振る竹竿の先についた古い手拭か何かの布でした。鷹の羽音でもあるやうに唸つて來た音は、その竹竿を手にした人が口端を尖らせてプウ〳〵何か吹く眞似をして見せた聲でした。 鳥屋で捕れる小鳥は、一朝に六十羽や七十羽ではきかないと言ひました。この小鳥の捕れる頃には、村の子供はそろ〳〵猿羽織を着ました。急に降つて來て、また急に止んでしまふやうな雨も、深い林を通りました。    四八 爐邊 爺やが山から茸を採つて來たり、栗を拾つて來たりする頃は、お家の爐邊の樂しい時でした。 爺やは爐で栗を燒いて、友さんや父さんに分けて呉れるのを樂みにして居ました。ある晩、爺やが裏のお稻荷さまの側から拾つて來た大きな栗を爐にくべまして、おいしさうな燒栗のにほひをさせて居ますと、それを爐邊の板の上で羨ましさうに見て居た澁柿がありました。 『庄吉爺さん、栗の澁が燒けてそんなに香ばしさうになるものなら、一つ私も燒いて見て呉れませんか。』 とその澁柿が言ひました。 爺やは父さんの見て居る前で、爐邊にある太い鐵の火箸を取出しました。それで澁柿に穴をあけました。栗を燒くと同じやうにその澁柿を爐にくべました。そのうちに、𤍠い灰の中に埋まつて居た柿の穴からは、ぷう〳〵澁を吹出しまして、燒けた柿がそこへ出來上りました。 『さあ、私も食べて見て下さい。』 とその柿が父さんに御馳走して呉れるのを貰ひまして、黒く燒けた柿の皮をむきましたら、軒下に釣るして乾した柿でもなく、霜に逢つて甘くなつた柿でもなく、その爐邊でなければ食べられないやうな、おいしい變つた味の柿でした。    四九 山の中へ來る冬 東京で『ネツキ』といふ子供の遊びのことを父さんの田舍では『シヨクノ』と言ひます。山の中は山の中なりに子供の遊びにも流行がありまして、一頃『シヨクノ』が村中に流行りました。どこの田圃側へ行つて見ても、どこの畠の隅へ行つて見ても、子供といふ子供の集まつて居るところでは、その遊びが始まつて居ました。 枯々とした裏庭に出て、父さん達は『シヨクノ』の遊びにする細い木を探したり、それを手ごろの長さに切つたり、地べたへよく打ちこめるやうに先の方を尖らせたり、時にはもう幾度か勝負をした揚句に土のついて齒のこぼれたやつを削り直したりして遊びました。父さん達がそんな子供らしいことをして居る間に、爺やはまた木曾風な背負梯子を肩にかけ、鉈を腰に差しまして、木の枝をおろすために林の方へと出掛けました。 山の中へ來る冬は、斯うして冬ごもりの支度にかゝる爺やのところへも、『シヨクノ』の遊びに夢中になつて居る父さん達のところへも一緒にやつて來ました。 黒い枯枝や黒い木の見えるお家の裏の桑畠の側で、毎朝爺やはそこいらから集めて來た落葉を焚きました。朝の焚火は、寒い冬の來るのを樂しく思はせました。    五○ 木曾の燒米 木曾の燒米といふものは青いやわらかい稻の香氣がします。 『お師匠さまが好きだから。』 と言つて、お勇さんの家からも、つきたての燒米をよく祖父さんのところへ貰ひました。父さんのお家の祖父さんは好きな燒米をかみながら、本を讀んで居たやうな人かと思ひます。 お勇さんの家では毎年酒を造りましたから、裏の酒藏の前の大きな釜でお米を蒸しました。それを『うむし』と言つて、重箱につめては父さんのお家へも分けて呉れました。あの『うむし』も、父さんの子供の時分に好きなものでした。    五一 屋根の石と水車 屋根の石は、村はづれにある水車小屋の板屋根の上の石でした。この石は自分の載つて居る板屋根の上から、毎日々々水車の廻るのを眺めて居ました。 『お前さんは毎日動いて居ますね。』 と石が言ひましたら、 『さういふお前さんは又、毎日座つたきりですね。』 と水車が答へました。この水車は物を言ふにも、ぢつとして居ないで、廻りながら返事をして居ました。 風や雪で水車小屋の埋まつてしまひさうな日が來ました。石は毎日座つて居るどころか、どうかすると風に吹き飛ばされて、板屋根の上から轉がり落ちさうに成りました。水車は毎日動いて居るどころか、吹きつける雪に埋められまして、まるで車の廻らなくなつてしまつたことも有りました。 この恐ろしい目に逢つた後で、屋根の石と水車とが復た顏を合せました。石はもう水車に向つて、 『お前さんは毎日動いて居ますね。』 とは言はなくなりました。水車も、もう屋根の石に向つて、 『お前さんは毎日座つたきりですね。』 とは言はなくなりました。    五二 炬燵 いろ〳〵な話の出る山家のあたゝかい炬燵。 鳥がとまりに行くところは木です。子供が冷いからだを温めに行くところは、家のものゝ顏の見られる炬燵です。    五三 唄の好きな石臼 石臼ぐらゐ唄の好きなものは有りません。石臼ぐらゐ、又、居眠りの好きなものも有りません。 冬の夜長に、粉挽き唄の一つも歌つてやつて御覽なさい。唄の好きな石臼は夢中になつて、いくら挽いても草臥れるといふことを知りません。ごろ〳〵ごろ〳〵石臼が言ふのは、あれは好い心持だからです。もつと、もつと、と唄を催促して居るのです。 そのかはり、すこし手でもゆるめてやつて御覽なさい。居眠りの好きな石臼は何時の間にか動かなくなつて居ます。そして何時までゞも居眠りをして居ます。 父さんのお家の石臼は青豆を挽くのが自慢でした。それを黄粉にして、家中のものに御馳走するのが自慢でした。山家育ちの石臼は爐邊で夜業をするのが好きで、皸や『あかぎれ』の切れた手も厭はずに働くものゝ好いお友達でした。    五四 冬の贈り物 峠の上から村の小學校へ通ふ生徒がありました。近いところから通ふ他の生徒と違ひまして、子供の足で毎日峠の上から通ふのはなか〳〵骨が折れました。でも、この生徒は家から學校まで歩いて行く路が好きで、降つても照つても通ひました。 寒い、寒い日に、この生徒が遠路を通つて行きますと、途中で知らないお婆さんに逢ひました。 『生徒さん、今日は。』 とそのお婆さんが聲を掛けました。お婆さんは通り過ぎて行つてしまはないで、 『生徒さん、今日も學校ですか。この寒いのに、よくお通ひですね。毎日々々さうして精出して下さると、このお婆さんも御褒美をあげますよ。』 と言ひました。 知らないお婆さんは見かけによらない優しい人でして、學校通ひをする生徒がかじかんだ手をして居ましたら、それをお婆さんは自分の手で温めて呉れました。 『まあ、斯樣なかじかんだ手をして、よく寒くありませんね。そのかはり、お前さんが遠路を通ふものですから、丈夫さうに成りましたよ。御覽、お前さんの頬ぺたの色の好くなつて來たこと。』 とさう言ひました。 生徒は知らない人から斯樣なことを言はれたものですから、そのお婆さんをよく見ましたら、右の手には山からでも伐つて來たやうな細い木の杖をついて、左の手には籠を提げて居ました。籠の中には、青々とした蕗の蕾が一ぱい入つて居ました。そのお婆さんは、まるでお伽話の中にでも出て來さうなお婆さんでした。 『お前さんは誰ですか。』 と生徒が尋ねましたら、お婆さんはニツコリしながら、提げて居る籠の中の蕗の蕾を見せまして 『私は「冬」といふものですよ。』 と生徒に言つて聞かせました。夫から、こんな事も言ひました。 『お家へ歸つたら、父さんや母さんに見てお貰ひなさい。お前さんの頬ぺたの紅い色もこのお婆さんのこゝろざしですよ。』    五五 少年の遊学 父さんは九つの歳まで、祖父さんや祖母さんの膝下に居ましたがその歳の秋に祖父さんのいゝつけで、東京へ學問の修業に出ることに成りました。父さんは友伯父さんと一緒にお家の伯父さんに連られて行くことに成りました。 『二人とも東京へ修業に行くんだよ。』 と伯父さんに言はれて、父さんは子供心にも東京のやうなところへ行かれることを樂みに思ひました。父さんより三つ年長の友伯父さんが、その時やうやく十二歳でした。 今から思へば祖母さんもよくそんな幼少な兄弟の子供を東京へ出す氣になつたものですね。その時の父さんは今の末子より年が二つも下でしたからね。 この東京行は、父さんが生れて初めての旅でした。父さんが荷物の用意といへば、小さな翫具の鞄でした。それは美濃の中津川といふ町の方から翫具の商人が來た時に、祖母さんが買つて呉れたものでした。 『お前が東京へ行く時には、この鞄へ金米糖を一ぱいつめてあげますよ。』 と祖母さんは言ひました。父さんもその小さな鞄に金米糖を入れてもらつて、それを持つて東京に出ることを樂みにしたやうなそんな幼少な時分でした。    五六 祖父さんと祖母さんのおせんべつ 祖母さんは、おせんべつのしるしにと言つて、東京へ出る父さんのために羽織や帶を織つて呉れました。 『トン〳〵ハタリ、トンハタリ。』 と祖母さんは例の玄關の側にある機に腰掛けまして、羽織にする黄八丈の反物と、子供らしい帶地とを根氣に織つて呉れました。 『トン〳〵ハタリ、トンハタリ。』 その祖母さんのおせんべつが織れる時分には、父さんが生れて初めての旅に出る時も近くなつて來ました。 祖父さんは、父さんに書いた物を呉れました。好きな燒米でも食べながら田舍で本を讀まうといふ祖父さんのことですから、父さんが東京へ行つてから時々出して見るやうにと言ひまして、少年のためになるやうな教訓を七枚ばかりの短冊に書いて呉れました。それを紙に包みまして、紙の上にも父さんを送る言葉を書いて呉れました。 『これは大事にして置くがいゝ。東京へ行つたら、お前の本箱のひきだしにでも入れて置くがいゝ。』 と言つて呉れました。それが祖父さんのおせんべつでした。    五七 伯父さんの床屋 東京をさして學問に行かうといふ頃の友伯父さんも、父さんも、まだ二人とも馬籠風に髮を長くして居ました。友伯父さんはもう十二歳でしたから、そんな山の中の子供のやうな髮をして行つて東京で笑はれては成らないと、お家の人達が言ひました。 そこで友伯父さんだけは頭を五分刈にして行くことに成りました。ところが、村には床屋といふものが有りません。仕方なしに、伯父さんが裏の桐の木の下へ友伯父さんを連れて行きまして、伯父さんが自分で床屋をつとめました。 面白い床屋がそこへ出來ました。腰掛はお家の踏臺で間に合ひ、胸に掛ける布は大きな風呂敷で間に合ひました。床屋をつとめる伯父さんの鋏は、祖母さん達が針仕事をする時に平常使ふ鋏でした。 この伯父さんは若い時分から神坂村の村長をつとめたくらゐの人でしたが、なにしろ床屋の方は素人でしたから、友伯父さんの髮をヂヨキ〳〵とやるうちに、長いところと短いところが出來て、すつかり奇麗に刈りあげるのはなか〳〵大變な仕事でした。 鷄は驚いて、桐の木の下に頭をさげて居る友伯父さんの方へ飛んで來ました。そして、髮を刈つて貰つて居る友伯父さんの側で鳴きました。長いことお馴染の友伯父さんが東京へ行つてしまふので、お家の鷄もお別れを惜んで居たのでせう。    五八 お別れ 山家では何かある度にお客さまをして、互に呼んだり呼ばれたりします。いよ〳〵父さん達が東京行の日もきまりましたので、お隣りのお勇さんの家では父さん達をお客さまにして呼んで呉れました。その晩は伯父さんも友伯父さんも呼ばれて行きましたが、『押飯』と言つて鳥の肉のお露で味をつけた御飯の御馳走がありましたつけ。 父さんはお雛の家へも遊びに行つて見ました。幼少い時分から父さんを抱いたり負つたりして呉れたあのお雛の家へも、もう遊びに行かれないかと思ひまして、お別れを告げるつもりもなく遊びに行く氣になつたのです。お雛の父親の名は數衛と言つて村でもきたないので評判な髮結ですとは、前にもお話して置いたと思ひます。日頃父さんはそのきたない髮結の子に育てられたと言つて村の人達にからかはれて居ましたから、數衛の家へ遊びに行くところを誰かに見つけられたら、復た人にからかはれると思ひました。そこで父さんはお墓參りに行く道の方から、成るべく知つた人に逢はない田圃の側を通りまして、こつそりと出掛けて行きました。 數衛の家は村の中でもずつと坂の下の方にありました。父さんの小學校友達に扇屋の金太郎さんといふ子供がありましたが、その金太郎さんの家よりもまだずつと下の方でした。父さんが遊びに行きましたら、數衛は大層よろこびまして、爐にかけたお鍋で菜飯をたいて呉れました。それからお茄子の味噌汁をもこしらへまして、お別れに御馳走して呉れました。藁で編んだ莚の敷いてある爐邊で、數衛のこしらへて呉れた味噌汁はお茄子の皮もむかずに入れてありました。たゞそれが輪切りにしてありました。しかし父さんは後にも前にも、あんなおいしい味噌汁を食べたと思つたことは有りません。    五九 さやうなら お家を出る日が來ました。 その前の日に、曾祖母さんは友伯父さんと父さんを側へ呼びましてお家の爐邊でいろ〳〵なことを言つて聞かせて呉れました。父さんはこの年とつた曾祖母さんがお膳にむかひながら、お別れの涙を流したことをよく覺えて居ます。でも曾祖母さんはしつかりとした氣象の人で、父さん達がお家を出る日には、もう涙を見せませんでした。 伯父さんに附いて東京へ行く父さんの道連には、吉さんといふ少年もありました。吉さんはお隣りの大黒屋の子息さんで、鐵さんやお勇さんの兄さんに當る人でした。この人は父さん達と違ひまして、眼の療治に東京まで出掛けるといふことでした。なにしろ父さんはまだ九歳の少年でしたから、草鞋をはくといふ事も出來ません。そこで爺やが小さな麻裏草履を見つけて來まして、踵の方に紐をつけて呉れました。 父さんはその新しい草履をはいた足で、お家の臺所の外に遊んで居る鷄を見に行きました。大きな玉子をよく父さんに御馳走して呉れた鷄は、 『コツ、コツ、コツ、コツ。』 とお名殘を惜しむやうに鳴きました。 その邊にはお馴染の桐の木も立つて居ました。その桐の木は背こそ高くても、まだ木の子供でして、 『いよ〳〵東京の方へ行くんですか。私も大きくなつてお前さんを待つて居ます。御覽、あそこにはお前さんに桑の實を御馳走した桑の木も居ます。お前さんのよく登つた柿の木も居ます。あの土藏の横手の石垣の間には、土藏の番をする年とつた蛇が居て、今でも居眠りをして居ます。私達はみんなお前さんのお友達です。私達をよく覺えて居て下さいよ。』 と言ひました。 父さんはその草履で、表庭の門の内にある梨の木の側へも行きました。 『まあ、好い草履を買つて貰ひましたね。その草履には紐が結んでありますね。お前さんが大きくなつて歸つて來たら、私もまた大きな梨をどつさり御馳走しますよ。』 とその梨の木が言ひました。 伯父さんは父さん達を引連れまして、日頃親しくする近所の家々へ挨拶に寄りました。大黒屋へ寄れば小母さん達が家の外まで出て見送り、俵屋へ寄ればお婆さんが出て見送つて呉れました。八幡屋、和泉屋、丸龜屋、まだその他にも伯父さんの挨拶に寄つた家は澤山ありましたが、その度に父さん達は坂になつた村の道を峠の上の方へ登つて行きました。 馬籠の村はづれまで出ますと、その峠の上の高いところにも耕した畠がありました。そこにも伯父さんに聲を掛けるお百姓がありました。父さんが遊び廻つた谷間と、谷間の向ふの林も、その邊からよく見えました。山と山の重なり合つた向ふの方には、祖父さんの好きな惠那山が一番高い所に見えました。祖父さんも、祖母さんも、さやうなら。馬籠も、さやうなら。惠那山も、さやうなら。    六〇 峠の馬の挨拶 馬籠の村はづれには、杉の木の生えた澤を境にしまして、別に峠といふ名前の小さな村があります。この峠に、馬籠に、湯舟澤と、それだけの三ヶ村を一緒にして神坂村と言ひました。 『名物、栗こはめし──御休處。』 こんな看板を掛けた家が一軒しかない程、峠は小さな村でした。そこに住む人達はいづれも山の上を耕すお百姓ばかりでした。その村にも伯父さんが寄つて挨拶して行く家がありましたが、入口の柱のところに繋がれて居た馬は父さん達の方を見まして、 『お揃ひで、東京の方へお出掛けですか。』 と聲を掛けました。この馬は背中に荷物をつけて父さんのお家へ來たこともある馬でした。 やがて父さんは伯父さんの後に附いて、めづらしい初旅に上りました。父さんが歩いて行く道を木曽路とも、木曾街道ともいふ道でした。    六一 初旅 『もし〳〵、お前さんの草履の紐が解けて居ますよ。』 と路ばたに咲いて居た龍膽の花が父さんに聲を掛けて呉れました。龍膽は桔梗に似た小さな草花で、よく山道なぞに咲いて居るのを見かけるものです。 父さんがその小さな紫いろの花の前で自分の草履の紐を結ばうとして居りますと、伯父さんは父さんの側へ來て、腰を曲めて手傳つて呉れました。慣れない旅ですから、おまけに馬籠から隣村の妻籠へ行く二里の間は石ころの多い山道ですから、父さんの草履の紐はよく解けました。その度に伯父さんが足をとめては紐を結んで呉れました。    六二 木曽川 隣村の妻籠には、お前達の祖母さんの生れたお家がありました。妻籠の祖父さんといふ人もまだ達者な時分で、父さん達をよろこんで迎へて呉れました。そこで、初の日は妻籠に泊りまして翌朝また伯父さんに連れられて出掛けました。 妻籠の吾妻橋といふ橋の手前まで行きますと、鶺鴒が飛んで居ました。その鶺鴒はあつちの大きな岩の上へ飛んだり、こつちの大きな岩の上へ飛んだりして、 『どうです。妻籠には大きな川があるでせう。』 と言つて見せました。 父さんも、そんな大きな川を見るのは初めてでした。青い、どろんとした水は渦を卷いて、大きな岩の間を流れて居ました。 『これが木曽川ですか。』 と父さんが尋ねましたら、鶺鴒は尻尾を振つて、 『いえ、これは蘭の山奧の方から流れて來る川です。木曽川へ入る川です。』 と教へて呉れました。 吾妻橋の手前で見た川が大きいと思ひましたら、木曽川はそれよりも大きな川でした。    六三 御休處 何といふ深い山や谷が父さんの行く先にありましたらう。父さんは木曽川の見える谷間について、林の中を歩いて行くやうなものでした。どうかすると晝間でも暗いやうな檜木や杉のしん〳〵と生えて居るところを通ることもありました。あゝこれが三留野といふところか、これが須原といふところか、と思ひまして、初めて見る村々が父さんにはめづらしく思はれました。何もかも父さんには初めてゞした。高い山の上の方から村はづれの街道のところまで押し寄せて來て居る黒い岩だの石だのを見るのも初めてゞした。 父さんが東京へ出る時分には、鐵道のない頃ですから、是非とも木曽路を歩かなければ成りませんでした。もう好い加減歩いて行つて、谷がお仕舞になつたかと思ふ時分には、また向ふの方の谷間の板屋根から煙の立ち登るのが見えました。さういふ煙の見えるところにかぎつて、旅人の腰掛けて休んで行く休茶屋がありました。 『御休處』 として、白いところに黒い太い字で書いてある看板は、父さん達にも寄つて休んで行けと言ふやうに見えました。さういふ休茶屋には、きまりで『御嶽講』の文字を染めぬいた布がいくつも軒下に釣るしてありました。 樂しい御休處。父さんが祖母さんから貰つて來た金米糖なぞを小さな鞄から取出すのも、その御休處でした。塲處によりましては、冷い清水が樋をつたつて休茶屋のすぐ側へ流れて來て居ます。さういふ清水はいくらでも父さんに飮ませて呉れました。    六四 寢覺の蕎麥屋 寢覺といふところには名高い蕎麥屋がありました。 木曽路を通るもので、その蕎麥屋を知らないものはないと、伯父さんが父さん達に話して呉れました。そこは蕎麥屋とも思へないやうな家でした。多勢の旅人が腰掛けて、めづらしさうにお蕎麥のおかはりをして居ました。伯父さんは父さん達にも山のやうに盛りあげたお蕎麥を奢りまして、草臥れて行つた足を休ませて呉れました。    六五 浦島太郎の釣竿 寢覺には、浦島太郎の釣竿といふものが有りました。それも伯父さんの話して呉れたことですが、浦島太郎の釣をしたといふ岩もありました。それから、あの浦島太郎が龍宮から歸つて來まして自分の姿をうつして見たといふ池もありました。 木曾の人は昔からお伽話が好きだつたと見えますね。岩にも、池にも、釣竿にも、こんなお伽話が殘つて、それを昔から言ひ傳へて居ます。    六六 棧橋の猿 『もし〳〵、お前さんの背中に負つて居るのは何ですか。』 木曾の棧橋といふところの休茶屋に飼つてあるお猿さんが、そんなことを父さんに尋ねねました。 父さんは小さな鞄を風呂敷包にしまして、それを自分の背中に負つて居ましたから、 『お猿さん、これは祖母さんがおせんべつに呉れてよこしたのです。途中で退屈した時におあがりと言つて、祖母さんが呉れてよこした金米糖です。わたしはこれから東京へ修業に行くところですが、この棧橋まで來るうちに、金米糖も大分すくなくなりました。』 とお猿さんに話して聞かせました。 このお猿さんの飼つてあるところは高い崖の下でした。橋の下を流れる木曽川がよく見えて、深い山の中らしい、景色の好いところでした。街道を通る旅人は誰でもその休茶屋で休んで行くと見えて、お猿さんもよく人に慣れて居ました。 父さんが東京へ行く話をしましたら、お猿さんも羨ましさうに、 『わたしも一つ金米糖でも頂いて、皆さんのお供をしたいものです。御覽の通り、わたしはこの棧橋の番人でして、皆さんのお供をしたいにも、こゝを置いては行かれません。まあ、この山の中の土産話に、そこにある古い石でもよく見て行つて下さい。これから東京へお出になりましたら、その石に發句が一つ彫つてあつたとお話し下さい。その發句をつくつたのは昔の芭蕉翁といふ人だとお話し下さい。』 と言ひました。 伯父さんも、吉さんも、友伯父さんも、みんなお猿さんの側へ來まして、崖の下にある古い石碑の文字を讀みました。それには、 『かけはしやいのちをからむ蔦かづら』 としてありました    六七 山越し やがて、父さんは伯父さんに連れられて、『みさやま峠』といふ山を越しにかゝりました。 父さんも馬籠のやうな村に育つた子供です。山道を歩くのに慣れては居ます。それにしても、『みさやま峠』は見上げるやうな險しい山坂でした。大人の足でもなか〳〵骨が折れるといふくらゐのところでした。何故、伯父さんがそんな山越しにかゝつたかといふに、早く皆を連れて馬車のあるところまで出たいと考へたからです。木曾は山に圍まれた深い谷間のやうなところですから、どうしても峠一つだけは越さなければ成らなかつたのです。何と言つても父さんはまだ幼少かつたものですから、友伯父さんや吉さんのやうには歩けませんでした。 『さあ、金米糖を出すから、もつと早くお歩き。』 と伯父さんに言はれましても、父さんの足はなか〳〵前へ進まなくなりました。 伯父さんの金米糖に勵まされて、復た父さんも石ころの多い山坂を登つて行きましたが、そのうちに日が暮れかゝりさうに成つて來ました。伯父さんはもう困つてしまつて、父さんの締めて居る帶に手拭を結ひつけ、その手拭で父さんを引いて行くやうにして呉れました。    六八 沓掛の温泉宿 今だに父さんはあの『みさやま峠』の山越しを忘れません。草臥れた足をひきずつて行きまして、日暮方の山の裾の方にチラ〳〵チラ〳〵燈火のつくのを望んだ時の嬉しかつた心持をも忘れません。 その燈火のついて居るところが、沓掛の温泉宿でした。    六九 乘合馬車 沓掛まで行きましたら、やうやくその邊から中仙道を通ふ乘合馬車がありました。 それから父さんは伯父さんや吉さんや友伯父さんと一緒に東京行の馬車に乘りまして、長い長い中仙道の街道を晝も夜も乘りつゞけに乘つて行きました。やがて馬車がある町を通りました時に、父さんは初めて消防夫の梯子登りといふものを見ました。高い梯子に乘つた人が町の空で手足を動かして居ました。父さんは馬車の上からそれを眺めて、子供心にめづらしく思つて行きました。伯父さんの話で、そこが上州の松井田といふ町だといふことも知りました。またそれから飽きるほど乘つて行くうちに、馬車はある川の岸へ出ました。川にかけた橋の落ちた時とかで、伯父さんでも誰でも皆その馬車から降りて、水の淺い所を渉りました。 父さんは馬丁の背中に負さつて、川を越しました。その川は烏川といふ川だと聞きました。 まあ、父さんも、どんなに幼少い子供だつたでせう。東京行の馬車の中には、一緒に乘合せた他所の小母さんもありました。その知らない小母さんが旅の袋からお菓子なぞを出しまして、それを父さんにおあがりと言つて呉れたこともありました。いくら乘つても乘つても、なか〳〵東京へは着かないものですから、しまひには父さんも馬車に退屈しまして、他所の小母さんに抱かれながらその膝の上に眠つてしまつたことも有りました。    七〇 終の話 こんな風にして父さんは自分の生れたふるさとを幼少な時分に出て來たものです。それから長い年月の間を置いては、木曾へ歸つて見ますと、その度にあの山の中も變つて居ました。しかし父さんの子供の時分に飮んだふるさとのお乳の味は父さんの中に變らずにありますよ。 太郎よ、次郎よ、お前達も大きくなつたら父さんの田舍を訪ねて見て下さい。       ふるさとの後に この本は前に出した『幼きものに』と姉妹のやうにして出します。あの佛蘭西土産には、父さんのお話ばかりでなく、佛蘭西の方で聞いて來たいろ〳〵なお話も入れて置きましたが、この『ふるさと』には父さんのお話ばかりを集めました。この本が出來ましたら、木曾の伯父さんの家に勉強して居る三郎のところへも一册送りたいと思ひます。 父さんはこの少年の讀本を書かうと思ひ立つた頃に、別につくつて置いたお話が一つあります。それは『兄弟』のお話です。それをこの本の後に添へようと思ひます。 こゝにそのお話があります。 早く眼がさめても何時までも寢て居るのがいゝか、遲く眼がさめてもむつくり起きるのがいゝか、そのことで兄弟が爭つて居ました。 そこへこの兄弟の祖父さんが來まして、 『まあ、お前達は何をそんなに爭つて居るのです。』 と尋ねました。 兄が言ふには、 『祖父さん、私は早く眼がさめました。そのかはり何時までも寢て居ました。弟は遲く眼がさめました。そのかはり私より先に起きました。私達は今そのことで言ひ合つて居るところです。』 『私は遲く眼がさめても、兄さんのやうに長く寢て居ないで、むつくり起きた方がいゝと思ひます。』 と弟が言ひました。すると、兄が言ふには、 『弟があんなことを言つて威張つて居ます。そのくせ、私が早く眼のさめた時分には、弟はまだなんにも知らないでグウ〴〵グウ〴〵と眠つて居ました。私は鷄の鳴いたのを知つて居ます。夜の明けたのも知つて居ます。』 『そんなことを言つて兄さんが威張つても、何時までも兄さんのやうに寢て居たら、眼がさめないのも同じことです。』 とまた弟が言ひました。 祖父さんはこの兄弟の爭ひを聞いて笑ひ出しました。さうして斯う言ひました。 『馬鹿な兄弟だ。お前達がそんなことを言つて爭つて居るうちに、太陽さまはもう出てしまつたぢやないか。』 (終) 底本:「名著複刻 日本児童文学館 11」ほるぷ出版    1973(昭和48)年3月初版発行 底本の親本:「ふるさと」實業之日本社    1920(大正9)年12月5日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※疑問点の確認にあたっては、「島崎藤村全集 第十六卷」新潮社、1951(昭和26)年3月15日発行を参照しました。 入力:Nana ohbe 校正:林 幸雄 2004年1月21日作成 2004年2月19日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。