万葉集研究 折口信夫 Guide 扉 本文 目 次 万葉集研究      一 万葉詞章と踏歌章曲と 万葉集の名は、平安朝の初め頃に固定したものと見てよいと思ふ。この書物自身が、其頃に出来てゐる。此集に絡んだ、第一の資料は古今集の仮名・真名両序文である。これを信じれば、新京の御二代平城天皇の時に出来た事になるのである。従つて此集の名も、大体此前後久しからぬ間に、纏つたものと見てよさゝうである。 詩句と歌詞とを並べた新撰万葉集や、古今集の前名を「続万葉集」と言つた事実や、所謂古万葉集の名義との間に、何の関係も考へずにすまして来てゐる。茲に一つの捜りを入れて見たい。新撰万葉集は、言ふ迄もなく、倭漢朗詠集の前型である。其編纂の目的も、ほゞ察せられるのである。此と、古今集とを比べて見ると、似てゐる点は、歌の上だけではあるが、季節の推移に興を寄せた所に著しい。此と並べて考へられるのは、万葉集の巻八と十とである。等しく景物事象で小分けをして、其属する四季の標目の下に纏め、更に雑歌と相聞と二つ宛に区劃してゐる。分類は細かいが、此を古今集に照しあはせて見ると、後者に四季と恋の部の重んぜられてゐる理由が知れる。私は、続万葉集なる古今は、此型をついだものと信じてゐる。一方新撰万葉集の系統を見ると、公任の倭漢朗詠集よりも古く、応和以前に、大江維時の「千載佳句」がある。此系統をたぐれば、更に奈良盛期になつたらしい、万葉人の詩のみを集めたと言つてよい──更に、漢風万葉集と称へてよい──懐風藻などもある。 万葉集と懐風藻と、千載佳句と朗詠集との間にあつた、微妙な関係が、忘れきりになつて居さうでならぬ。懐風藻で見ても、宴遊・賀筵の詩が十中七八を占めてゐる。此意味で、万葉巻八・十なども、宴遊の即事や、当時諷誦の古歌などから出来てゐる、と見る事が出来ると思ふ。其を、四季に分けたのは、四季の肆宴・雅会の際の物であつたからである。而も、雑と相聞とに部類したのは、理由がある。 相聞は、かけあひ歌である。八・十の歌が必しも皆まで、此から言ふ成因から来たとは断ぜられまいが、尠くとも起原はかうである。宮廷・豪家の宴遊の崩れなる肆宴には、旧来の習慣として、男女方人を分けての唱和があつた。さうして乱酔舞踏に終るのであつた。さう言ふ事情から、宴歌と言へば、相聞発想を条件としたのである。古風に謂ふと、儀式の後に直会があり、此時には、伝統ある厳粛な歌を謡うて、正儀の意のある所を平俗に説明し、不足を補ふことを主眼とした。此際の歌詠が、古典以外に、即興の替へ唱歌を以てせられたのが、雑歌である。 其が更に、宴座のうたげとなると、舞姫其他の列座の女との当座応酬のかけあひとなる。古代に溯るほど、かうした淵酔行事は、度数が尠くなる。恐らく厳冬の極つて、春廻る夜の行事に限られたのであらうが、飛鳥朝から、次第に其回数を増し、宴遊を以て宮廷の文化行事の一つと考へる様になつて、宴遊・行幸・賀筵が行はれた。 直会には、主上及び家長の寿の讃美を、矚目の風物に寄せて陳べる類型的な歌を生み出す。茲に、四季の譬喩歌が出来るのである。其が次第に、唯朗らかであれば、事足ると言ふ祝言の気分から、叙景詩に近く変じて行つた。宴座のうたげになると、さうした正述心緒・寄物陳思の方法が、恣に表現せられて来る。かうして四季相聞は出来る。 巻十は、かうした謡ひ棄てられた宴歌の類聚であつて、更に他の機会の応用に役立てようとしたのであらう。巻八の方は、其が宮廷並びに豪家の穏座・宴座の間に発せられた、当時著名なものゝ記録で、大伴家持の手記を経たものらしい。 此等の歌は、表面にこそ、祝福の意の見えないのもある。併し元来、主上・家長の健康と、宮室の不退転を呪する用途を持つてゐるものであつた。恰も踏歌の章曲が次第に、後世断篇化して朗詠となつて、祝賀の文を失うても、尚さうした本義は失はなかつた様に、四季雑歌・相聞は、千秋万歳の目的で謡はれたのだ。 其最古い形は、上元の踏歌である。踏歌の詞章には、奈良朝には、宮廷詩なる大歌が謡はれた事もあるが、平安の初めには、漢詞曲が誦せられた様に見える。延暦十二年の奠都の際の男・女の章曲が、其である。けれども、後世の淵酔の郢曲類を参照すれば、公式のものが其で、其他に崩れとして、国文脈の律文を謡つた事は推定してよい様だ。だから踏歌の曲としては、漢詩賦を用ゐるが、淵酔舞踏の詞としては、短歌其他を使うた事が察せられる。漢文脈の方は、後に「万春楽」と称する程、其句をくり返したのだが、国文脈の物は「あらればしり」と言ふ位『よろづ代あられ』を囃し詞に用ゐる様になつた。 此踏歌の詩賦から朗詠が生れて来ることは、既に述べた。此朗詠の前型と見るべき物の、歌と対照せられてゐる新撰万葉集の存在は、踏歌に詩歌の並び行はれたことを示すものである。而も、其詩を列ねた集の名を「千載佳句」と言うてゐるのは、考へねばならぬことである。踏歌から出て、帝徳を頌し聖寿を呪するものなるが為の名である。さうして其が更に、他の淵酔にも用ゐられた。万葉集の編纂が、平安初めにあるとすれば、其題号の由来も、踏歌其他の宴遊の用語に絡めて説いてよい。 万葉集の名義について、万詞又は万代の義とする議論は、王朝末の歌学者からくり返されて来た。而も今は、もう空論に達してゐる。疑ひもなく、万代の義である。だが、万代に伝ふべき歌集の義と信じられてゐるのは、尚考へ直さねばならぬ。私は、千載佳句に対して、天子・皇居の万葉を祝する詞章と言ふ用語が、平安朝初期には、あつたのだらうとの仮説を持つ。後に、万春楽と言ふが如きである。此語、踏歌章曲の一部としての、歌詞の名として通用した処から、舞踏歌の総称となつてゐたのであらう。さうして、次第に四季の風物と述懐とを示す歌集を、万葉集と言ふ事になつたものと見る。 初めは専ら謡ひ物として、後には半以上鑑賞用の作物にも、通用する名となつたのではあるまいか。私の推定が幸に正しくば、此集編纂当時は、まだ謡ひ物としての「万葉」の集であつたのであらう。して見れば、万葉集の最新しい時代の意義に叶うた巻は、八・十である。だが、万葉詞曲には、尚古い形が、宮廷及び氏々に残つてゐた。踏歌章曲以前の万葉を、此に加へて編纂しようとした成蹟が、現存の万葉集である。 此意味における万葉の用語例を拡充すれば、宮廷詩と言ふ事になる。宮廷の祭事儀式に用ゐられた伝来の歌詞及び、民間から採用せられた詞曲は、すべて此にこもる。      二 万葉集の大歌 記・紀に見えた大歌──歌・振をこめて──と、万葉の一・二に残つた宮廷詩との差異は、下の二つである。彼は、呪詞・叙事詩──物語──から游離又は、脱落したものが、其母胎なる詞章の裏書きによつて呪力を持つてゐ、此は、其原曲から独立した様式といふ意識の上に立つてゐる事である。伝来の大歌の改作・替へ歌でなくとも、威力は自由に詞章の上に寓るものと考へた事である。尤、古物語を背景に持つたものもあるが、尠くとも其を引き放して考へることが出来たのである。 仁徳朝・雄略朝などの伝説ある歌も載せてゐるが、大体に於て、飛鳥末、即舒明・皇極朝頃からの記録である。此時代は、大歌の転機であつた。日本紀や万葉自身を見ても、宮廷詞人──秦大蔵造万里・野中川原史満・間人連老──らしいものが出かけてゐる。代作詞人の作物が宮廷詩として行はれたものゝ記録を採用したらしい。而も、一・二を通じて、其序と歌との間に、半数以上境遇・地理・時代・作者の矛盾や錯誤を指摘出来る。後世の書き留めな事は明らかだ。が、巻末の体裁に、長皇子が、書いたらしい様子を見せてゐるから、奈良朝の初期に成書となつて居たものと見られる。恐らく右の皇子の編纂であらう。さうして奈良前の物を、大歌の本格と見てゐた事が察せられる。 此二巻にとりわけ明らかな事実で、万葉集全体に亘るものは、歌と鎮魂法との関係である。鎮魂歌は、舞踊を伴ふ歌詠で、正式にはふりと言ふべきであるが、宮廷伝来の詞曲には、うたと称へてゐる。此巻々の雑歌・相聞・挽歌は皆、明らかに其手段として、謡はれたものなることが見えてゐる。此意味に於て、此二巻は、宮廷人の信仰生活を、鮮やかに見せてゐる。 三・四・六の巻は、古今集の前型とも言ふべき、古風・近代様を交へ録したもので、此が、私人或は、其一族の歌集にも、其伝来正しく、最重々しい編輯法とせられてゐたのではないか。して見れば、此は、大伴氏長の家の集であり、大伴古今和歌集とも言ふべきものであらう。さうして出来た目的は、年頭朝賀の寿詞奏上同様、氏族の歌に含まれた鎮魂的効果を聖躬に及ぼさうとしたのではあるまいか。だから、三・四・六は、大伴氏に流用した宮廷詩の「大歌」古曲及び、現代の族長の身辺の恋愛・誓約・病災除却のすべて鎮魂に属する歌曲伝来の久しい考へ方から、此歌集を献ることが、服従を誓ひ、聖寿を賀する事になつたのであらう。 此両巻は、家持が、主上に献つたものと見てよい。が、或は皇太子伝としての位置から見て、其後み申した早良太子──或は、他の男女皇子──の為の指導書として上つたものとも、文学史的には考へられる。平安の女房日記や、其歌物語が、宮廷貴族の子女教育に用ゐられたり、男子の手に書かれたものでも、倭名鈔や、口遊などが、修養書に使はれた例の古いものではあるまいか。かうして見れば、以前持つてゐた大伴氏に繋る、両度の疑獄の為に、没収せられた家財の一部として、此等の巻及び巻五並びに、巻十七以下の四巻等が、歌儛所に入つたものとする私の考へ方は近世式な合理観である。一説として採用して下さつた澤瀉さんにはすまないが、潔く撤回して了ふ。東宮坊の資材となつて残つたのが、第二の太子安殿皇子の教材となり、平城天皇となられても、深く浸みついてゐた「奈良魂」の出所は、此等の巻々などにありさうに思ふ。 巻第五は、族長としての宴遊詞・其他の鎮魂詞といふ意味から出て、文学態度を多くとり入れたものである。憶良の私生活の歌詞の多いのも、此巻が憶良の手で旅人の作物の整理せられたものと見てよい。だから序引の文詞は憶良の作で、歌だけは、恐らく旅人の自作であらう。さうした歌書を献る事が、長上に服従を誓ふと共に、眷顧を乞ふ所以にもなるのであつた。「あがぬしのみ魂たまひて」の歌に、其間の消息が伝つてゐる。さうすると、巻五の体裁や、発想法の上にある矛盾も解けるのである。 巻五は、憶良の申し文とも言ふべき、表に旅人を立て、内に自らを陳べた哀願歌の集である。此巻などになると、二・三・六其他には隠れた家集の目的が、露骨に出てゐると見てよい。 かうして見ると、三・四には、全体として諷諭鎮魂・暗示教化の目的が見えると言へる。巻五には、魂の分割を請ふ意味が、家集進上の風と絡んでゐる様である。皆形を変へても、鎮魂の目的を含まないものはない。      三 ふり くにぶり うた 万葉や記・紀に「門中のいくりにふれたつ……」「下つ瀬に流れふらふ」「中つ枝に落ちふらはへ」など、ふるの系統の語の、半分意義あり、半分はないと言つた用法を、類型的にくり返してゐるのは、何故であらう。此は全く、たまふりの信仰から出来た多くの詞章が、其ふると言ふ語の俤を、どこかに留めて居るのである。たまふるを略してふると言ふ。此ふると言ふ語は、外来の威霊を、身に、密着せしめると言ふ用語例である。内在魂の游離を防ぎ鎮めると言ふたましづめの信仰以前からあつたのだ。 此まな──外来魂──信仰は、国々の君の後なる族長・神主なる国造等の上にもあつた。其国を圧服する威力は、霊の「来りふる」より起るとした。其為の歌舞が、国の霊ふり歌及び舞である。此がくにぶりと言ふ語の原義である。同時に、ふりは、舞姿或は歌曲を単独にいふ古語でなかつた事が知れよう。霊ふりには、歌謡・舞踏を相伴ふものとして、二つの行為を一つにこめ、ふりの略語が用ゐられる様になつたのは、古代の事である様だ。 此宮廷の直下に在る大和の外の地方は、宮廷直属のあがたに対して、くにと言ひ分けてゐた。旧来の地方信仰によつて、其地方の君主としての威力と、民とを失はないでゐる半属国の姿を持ち続けてゐる。さうした服従者の勢力の、尚残つてゐる土地としてのくにの観念は、大化の改新の時代まで、抜けきつては居なかつた。かう言ふ国々のまななる威霊を献り、聖躬にふらしめる。と同時に、其国を圧服する権力が、天子に生ずると言ふ信仰が、風俗歌の因となつた。国々の鎮魂歌舞を意味するくにぶりの奏上が、同時に服従の誓約式を意味する。かうして、次第に天子の領土は、拡つて行つた。大臣・国造奏賀の後、直会の座で、寿詞の内容と違うた詞章で言ひ直し、寿詞にあつたかも知れない誤りを直し改める大直日神の神徳を予期する神事を行ふ。其時に謡はれたものが、くにぶりの根元である。 此が、伝来不明で、後期王朝に始つた様に思はれ易い、和歌会の儀式にもなつたのだ。歌垣と同じ形式が古く行はれてゐたと見えて、歌の唱和があつた。此が歌合せを分化して行つた。歌の本末を、国々から出た采女の類の女官──巫女──と同国出の舎人とがかけ合ひする様になつて来たものと見るが正しいと思ふ。帳内資人など言ふ、貴族の家に賜つた随身の舎人の中にも、壬生忠岑の様な歌人が出た。大体歌合せの召人として武官の加はる風は、遠因があつたのである。王朝末になつて、宮廷仙洞の武官の中から、作家が頻りに頭を出したのも、やはり此舎人が国ぶりの歌舞に加はる旧習から出たとするのが正しいだらう。和歌会は、殆ど神事であつた。此方面になると、歌の唱和や、論争が主となつて、舞は踏歌の方に専ら行ふことになつた。踏歌も、国ぶり演奏も、同時に行はれたものが、男女同演の歌垣から変じた痕跡をふり棄てた。 片哥の様式は、あまりに古風で、単純で、声楽的にも、内容から見ても、変化がない。一・二の句の音脚を増して、一句の音脚を、大して変動を起させずに謡はれる歌詞がかなり古代──記録の年代を信ずれば、神武天皇の高佐士野の唱和に見えてゐる──から発生しかけて居た。其が意識せられて、別殊の新様式となつたのは、飛鳥の都の末から藤原朝へかけての事らしい。其完全な成立を助けたのは、長章の歌曲の末を、くり返して謡ひ乱める形である。此が段々反歌として、本末の対立部分と明らかに認められ出す機運と時代を一つにした。影響が相互関係で、次第に細やかになつて来た。そこに、今まで久しく無意識にくり返してゐた様式の成立と、声楽要素の変化が急速に来たものらしい。 長曲又は小曲でも、奇数の句で最後の句を反乱すると三句の片哥の形である。結んでゐるものは、其が、対句辞法が盛んに行はれる時代になると、最後の一聯と、結句だけでは不足感が出て来る。そこで、二聯と結句とを、反乱する様になる。人麻呂の長歌などは、殊に其措辞法の上の癖から、結末の五句が、一つの完全な文章になつたのも多いし、なりかけてゐるのも沢山ある。反歌はすでに、一つの様式として認められて居ながら、まだその発生期の俤が、長歌の結びの句に残つて居た。      四 うたの時代 記・紀ですら、ふりと言ふべきものを、うたに入れて居る。大体大歌と称するものは、其用途から見て、殆どすべてふりに属するものとしてよいのであるが、かうした称呼をとつてゐるのは、ふりよりもうたが尊いとの考へからである。他民族出の詞章で、殊に近代に大歌に編入せられたものをのみ、ふりと言ふ様だ。 うたを語根にした動詞のうたふが、古く分化して、所謂四段のものと、下二段活用のものとになつてゐる。前者は、うたを対象としての動作即謡ふである。後者は訴ふの原形となつた。此は謡ふに対する役相であるが、神事を課せられる者には、公式に臨む臣民の動作として、能相風に考へられてゐる。祓ふる・卜ふるの例である。謡ふ事によつて、神又は神人の処置判決を待つ式である。 元来うたは、奏上式のふりに対するもので、宣下するものであつた。神の叙事詩の抒情部分を言ふもので、呪詞におけること──ことわざ──の発達したものである。ことの端的で直接なのに対して、うたは、幾分婉曲に暗示の効果に富むものらしい。神及び神人の宣るのりとを和らげたもので、儀式で言へば、直会の時の詞である。此を口誦するのは、神の資格に於てするのであつた。此が歌垣の庭の中心行事となつた。相聞唱和の風が盛んになるのも、うたにはふりが酬いられねばならなかつたからである。 歌に対するふりの和せられる式の逆になつたのが、うたへで、神に問ひかける形をとるのだ。巫女から神に、女から男に、臣から君へまづ言ひかけてゐるのは、多く此部類に入る。出雲振根の「たまもしづし」の歌・三重采女・仁徳記の「つゝきの宮」の歌・赤猪子の歌など、うたへである。「よごとにも一詞、あしきことにも一詞、ことさかの神」と名のつた一言主神のあるのを見れば、のりわけの詞は短かつたものであらう。      五 相聞 二人でかけあはせた本末の片哥を続けて、一体の歌と考へられると、旋頭歌の形式はなりたつ。だから、又、旋頭歌を唱和した様な形式さへ出来てゐた。又、旋頭歌として独立したものでも、自問自答の形をとつてゐるのが普通である。片哥の内に、短歌の胚胎せられてゐる間に、旋頭歌はまづ一つの詩形として認められてゐた。 一体、片哥は、何かの事情で一つ伝つて居るものもあるが、此は正しくないので、必組み唄として二首以上、──問答唱和を忘れたものは──連吟せられたのである。さうしたものゝ中には、片哥も短歌に近いものも、入りまじつてゐた。其で、片哥から短歌の分離する以前には、短歌も組み唄の形で、数首続けて謡はれた。記・紀の大歌に、短歌一首独立したものゝあるのは、此も亦、伝来や記録が完全でなかつたのだ。 短歌も相聞の詞として、一首づゝ対立し、又は数首組んで唱和せられた間に、特に記憶の価値あるものがとり放して口ずさまれる様になつた。さうして一首孤立した短歌も、謡はれ作られする様になつたのである。うたへの時の歌は、長曲や、片哥もあつたが、次第に、短歌に近づいて来た様である。殊に万葉集に見られる事実は、男女のちぎりの場合に、此形が最多く用ゐられた事である。 男女の初めてのちぎりにも、又其後も、神の意思をうたへの方式で申して神慮を問ふ。此時は、答へは歌によらず兆しで顕れる。うけひの形である。若しうたへの詞なる歌に、過ちや偽りのあつた時は反自然・非現実的な現象が、兆しとして目前に現れよ。かう言つた表現をとつた歌が、相聞の歌の中に違うた領域を開いて来た。此うたへから出た民間のうたが此までの相聞唱和の内容のない、うはついた歌の中に、多少の誠実味を開いて来た。 宮廷のうたと称するものゝ外に、かうしたうたへの詞句をうたと言ふ様になり、相聞或は恋愛歌が、民間のうたの本体と考へられる事になつた。さうして其傾向と勢を一つにしたのは、短歌様式の流行であつた。恐らく、藤原の都から奈良京へかけてが、短歌の真に独立した時代と思はれる。かうした短歌全盛の気運は都よりも、寧、地方から動いて来たものと思はれる。      六 東歌 東歌は、奈良朝時代だけのものでも、万葉集限りのものでもなかつた。古今集にも見え、更に降つて平安中期以後にも行はれた。東遊の詞曲及び、風俗歌が其である。此三種の東歌は時代の違ふに連れて、其姿態も、用途も変つて来てゐる。が、其本来の意義は、推定出来る。 東遊を、東国の舞踊と言ふのには、異論はあるまい。此は、東国舞踊の中、特別に発達した地方のものが固定したのに違ひない。恐らく駿河・相摸に跨る地方の神遊びと思はれる。足柄阪の東西では、同じ東人の国も、事情が違つてゐる。此峠から先は、東の中の東である。だから此み阪の神の向背は、殊に、宮廷にとつては大問題である。足柄の神の歌舞を奏して、宮廷の為の鎮斎とし、神に誓約させる事は、最意義のある事である。東遊「一歌」の詞章には、万葉の「わをかけ山のかづの木の」の句の固定したものが這入つてゐるのを見ても、縁の深さが思はれる。万葉集巻十四を見ても、相摸国歌の足柄歌は、一部類をなしてゐる位である。 平安中期の東遊は、かうした事情で、足柄の神遊びの固定したものらしい。古今集の東歌は、大歌所の歌の一部或は、殆ど同等として扱ひを受けてゐたもの、と考へてよい。此と並んだ……ふりや神遊びの歌と似た神事・儀式の関係はあつたものに違ひない。唯、一つを東遊、一つを東歌と言うたのは、片方が舞踊を主として、声楽方面は東風俗なる「風俗歌」を分化してゐたからである。風俗歌が短歌を本位とせないのは、東の催馬楽と言つた格にあつたからである。古今集のは、まだ祭儀関係は想像出来るが、万葉の十四の東歌になると、さうした輪廓さへも辿られない。だが、恒例又は臨時に、諸方の風俗の奏上せられた本義を推して見れば、巻十四の蒐集の目的は略わかる。其中には固より、都からの旅行者の作もあらう。或は東人の為に代作したものもあらう。漫然と東風の歌と感じてとり収めたのもあらう。が、一度は、東人の口に謡はれたものが、大部分であらう。東の国々の風俗の短歌の伝承久しいものや、近時のものや、他郷の流伝したものや、さうした歌の宮廷で一度奏せられたあづまぶりの詞曲が残つたものらしい。 隼人舞や、国栖の奏などは、宮廷の歴史から離すことの出来ぬ古いものになつてゐる。其他の旧版図の国々のくにぶり、就中悠紀・主基の国俗などゝは、性質が違ふ。新附の叛服常ない国である。そのくにぶりは重く扱はねばならぬはずである。其奏せられる場合を仮定して見ると、荷前貢進の際であらうと考へられる。「東人の荷前のはこの荷の緒にも……」など言ふ様に、都人の注意を惹いたほどの異風をして来たのである。悠紀・主基の国々の威霊なる稲魂が御躬に鎮る為に、風俗を奏するのを思へば、東人の荷前の初穂を献るに、東ぶりの歌舞が行はれなかつたと考へるのは、寧不自然である。 奈良朝における東歌は、さうした宮廷の年中行事の結果として集つた歌詞の記録であつたのだらう。十四の方は、雅楽寮などに伝へたものらしい。其を新しくまねたのが、巻二十の東歌である。ちやうど一・二に対して三・四があり、十三に対して十六が出来た様に、やはり家持のした為事であつた。 防人として徴発せられた東人等に、歌を作らせたのは、単純な好奇心からではない。其内容は別の事を言うてゐても、歌を上る事が、宮廷の命に従ふといふ誓ひになつてゐたのである。思ふに、家持の趣味から、出た出来心ではなく、かう言ふ防人歌は、常に徴されたのであらう。十四の中には、防人歌と記してないものゝ中にも、防人のが多くあらうし、又宮廷に仕へた舎人・使丁等の口ずさみもあるのであらう。十四の東歌の概して二十のものよりも巧なのは、創作意識に囚はれてゐないからである。其中に、真の抒情詩と見做すべきものは一つもないと言へる。叙情詩系統の情史的境遇を仮想した物や、劇的な誇張の情熱的に見えるものばかりである。 東人がなぜ、特別な才能を短歌に持つてゐたか。其は或は、東歌として残つたものが多く、其中から選択せられたものだからかも知れぬ。併し、やはり、短歌の揺籃なる嬥歌会──歌垣の類──や、神の妻訪ひの式などが短歌興立期の最中に、まだ信仰深く行はれて居た為と言ふことも、理由になるであらう。      七 律文における漢文学素地 巻九は、澤瀉さんも言はれた通り、宮廷詩集の古体を準拠として編纂したものらしいが、一・二と違ふ点は、大歌の匂ひの薄いことだ。其替りに、ある階級の色彩が濃く出てゐる。其は巻五と似て、其に古風な味を持たしたものである。万葉の巻々の体裁で見れば、此は、高橋虫麻呂の編纂かとも思はれる。左註によつて、虫麻呂並びに田辺福麻呂の歌集に出てゐる歌を知る事が出来るだけで、本文には二人ともに署名がない。無名の作家の歌として挙げたと見るよりも、編者自身、自作に名を記さなかつたものとすべきであらう。さすれば、やはり、一つの家集で、古来の歌を集めた後に自作を書き添へたのであらう。 但、虫麻呂と福麻呂二人共名を記さないのは、どう言ふわけか。或は福麻呂の家集に、とりこまれた虫麻呂の作物の意なのかも知れない。傾向のよく似た作風ではあるが、一つに見て了ふ事も出来ない。尚其他にも、短歌の中には、左註すらないものが多い。此なども、巻九の原本編纂当時に、作者はわかつてゞもゐた様な書き方らしくもある。だが、短歌の方は虫麻呂の歌ではなく、黒人などに近い様だ。 とにかく、万葉集中、一番自由な手記らしい巻である。姓のみ書いたり、名だけ記したりしてゐる。碁檀越と思はれる人を碁師と敬称し、藤原宇合の事をぶつゝけに宇合卿と記したりしてゐる。一処に勤務した官僚たちが、事務的に書きこんだ物かとも考へられる。「或云藤原北卿宅作」など言ふ左註がある処から見ると、宇合の家にあつた集と云ふ事が、万葉集編纂の当時には明らかだつたので、本文は、宇合卿と略記のまゝで、追記には重々しく書いたとも解せられる。何にしても、此巻は、漢文学嗜きな北家藤原氏から出た材料とも言はれる程、大伴家出の物や他の巻々とは面目を異にしてゐる。古代の人の外は、漢文学に造詣ある人々の作物を手記したものらしく思はれる。とにかく、人麻呂以後の宮廷詞人には学者階級の代作歌人めいた人々の歌に、交友の人の作などを、記録したものである様だ。 高橋虫麻呂は、漢学・漢文学に達した学者であつたらしく思はれる人である。巻十六の竹取翁歌の如きは、明らかに、学者の作だといふ事がわかる。虫麻呂の物語歌なども、此人の一方学者であることを示す。私は今、宮廷詞人の発生を説かうと思ふ。先に述べた野中ノ川原ノ史満の、中大兄太子の愛妃を悼む歌を献つたとあるのは、皇太子の為の代作であらう。 山川に鴛鴦二つ居て たぐひよく たぐへる妹を 誰か率往けむ(孝徳紀) 幹毎に花は咲けども、何とかも 愛し妹がまた咲き出来ぬ(孝徳紀) 帰化人の後の漢文学修養から、此だけ新鮮な作物が出来たのだ。 秦大蔵ノ造万里も、帰化人の後である。斉明天皇が、彼をして、孫王を悼む御製を永遠に伝へさせようとせられたと言ふのも、実は、歌を代作せしめて、永く謡へと命ぜられたのであらう。国文脈の伝承古詞模作は、飛鳥朝の末に飛躍した。而もそれは、内部からばかりでは、展開出来なかつた。宣命・祝詞・寿詞の類は勿論、歌詞に到るまでも、新しい表現法を開くには、漢文学の素養深い学者の力を借りて居た。彼等は漢文の文書を草すると共に、国文脈の文章・歌を作つた。彼等の中には新しく帰化した者も居た。其子孫は固より、学者・学僧等が、此為事に当つた。其最初に役所の形をとつたのは、撰善言司であつた。持統天皇三年の事である。文武の代に律令を撰定したのも、此司の人々であつた。律令の外にも、宣命・寿詞の新作は、此よごとつくりのつかさの為事であつたらしい。其後、奈良朝になつて、宣命の続々と発せられたのも、この司設立以来の事らしい。此等は皆、古伝承の呪詞の類型をなぞりながら、新しい表現法を拓いて行つたのであつた。国・漢両様の文章を書くのが、万葉時代の文人であつた。懐風藻と万葉集と、共通の作者の多いのも不思議ではない。此等の学者は亦、晋唐小説に習うて、日本の古物語を漢訳した。同時に長歌の形を以て、新しい叙事詩に飜作もした。又宴遊には詩賦と倭歌とを自由に作つた。此は、奈良朝を通じて尚行はれた学者の技能であつた。 藤原宮御井歌・藤原宮役民歌を作つたらしい柿本人麻呂の如きも、唯歌ばかりに精進して居つた者とはきめられない。高市黒人に到つては、露はに漢文学の影響が出て居る。其叙景や、旅思を表すのに、空前の境地を見出したのは、確かに覊旅宴遊の詩賦で洗煉したものゝ現れである。巻九・巻五の、宇合・旅人を繞る人々を見れば、此論が呑みこめるであらう。      八 代作詩 宮廷詞人の多くが、漢文学素養ある者であつたことは、不思議だが事実である。が、同時に、皇族・貴族の作物と伝へるものが、多く代作であらうと言ふ事は、やはり事実らしい。皇極・斉明天皇の作物の如きは、記・紀・万葉、皆、名作ばかりである。而も、先に言つた様な事情を考へると、代作と言ふ事になりさうだ。巻一の宇智の大野の歌の如きも、間人連老をして献らしめた歌と言ふ序が、老の代作なる事を示してゐると見る方がよい。人麻呂に纏つて、代作問題を考へると、殆ど万葉集中の作者のすべてに色々な疑ひが湧く。 (い) 宮廷詩として人麻呂の作と認められてゐる物 (ろ) 人麻呂の作と認められながら、歌の対象たる人物との関係の誤解せられたもの (は) 他人の歌でありながら、其歌を作らせ、又は実際に謡つた人の作物となつた物 (に) 他人の為に代作した歌から、人麻呂の境遇を推測せられてゐるもの (ほ) 人麻呂の作でなくて、其作物ときめられたもの (へ) 人麻呂の作でゐて、民謡になつたもの 有名な詞人であり、代作歌人であつた為に、かうした誤解が重つて来る。第一期の宮廷詩即記・紀の大歌は、巫覡の空想と言ふ事を考へに入れると、伝説上の作者は信ぜられぬ。第二期の大歌は万葉集の真作者と伝説上の作者とは別人であるのが大部分である。 かうした代作を役とする宮廷詞人は、何時まで存続したか。それは大歌に新作の詞章を常に用ゐて居た間は、続いたであらう。併し、この意味に於ける新しい大歌の外に、記・紀伝承の固定した大歌の勢力は、残つてゐた。平安朝になると、万葉集の新大歌はすべて姿を消した。さうして此期の大歌は、旧大歌の亡び残りや、新しく加つたものなどがあつて、神事よりも、宮廷の儀式の際に用ゐられる様になつた。 だから、第三期の大歌は、形は旧大歌をついで居ても、内容は、非常に偏して了うてゐる。中には踏歌の淵酔の曲に近いものさへ出来た。第二期の大歌の中、荘重なものは、多分挽歌としての用途を最後として、消え去つたであらう。雅楽の勢力が増して、大歌の領分は狭められて了うたのである。しかも、奈良の盛期に於て、その徴候は既に顕れて居る。大歌類の中、奈良朝末までくり返されたのは、奏寿の賀歌としての短歌である。第三期の大歌の直会用に固定する原因は、早く茲にあつた。      九 創作態度 創作態度が、宮廷詞人の代作物をこしらへる間に発生するものなる事は、既に納得のいつた事と思ふ。さうして此を整へたのは、漢文学素養だと言うた。万葉集の文学的態度は、宴遊歌及び其拡張なる室寿・覊旅の歌にはじまると言うてよい。叙事分子の多い抒情詩から、客観態度を見出すまでには、矚目風物を譬喩化する古くからの発想癖を脱却せねばならなかつた。譬喩する替りに、象徴に近づける努力も積まれた。人間以外に自然界の、詠歎の対象とし認めた事は、極めて自然な展開ではあるが、漢文学の叙景法の影響も考へねばならぬ。叙景に徹せず抒情に戻る表現上の不確実性を、ある点まで截り放つたのは、漢詩からの黙会である。 自然描写をはじめて行うたのは、黒人である。人麻呂には、其に達した物はあつても、まだ意識しての努力ではなかつた。黒人には、又一種の当時としては、進んだ──併し正しくない──文学上の概念があつた。体様の違うた作物を作らうとする和歌式の上の計画もあつたらしい。けれども多くは其に煩されない作物を残した。彼は自然描写をし遂げた。一方又、静かな夜陰の心境を作物の上に見出した。此は彼以前からも兆してゐたものだが、彼に具体化せられて、後之をまねぶ者が多くなつた。赤人の「夜のふけゆけば楸生ふる……」なども其だ。 此は、古代人の旅泊に寝て、わが魂の静安を欲する時の呪歌の一類から転成したもので、万葉集より後には、類例を見なくなつたものである。 山部赤人は亦、宮廷詞人の一人らしいが、長歌及び抒情短歌は人麻呂をなぞり、叙景詩は黒人を写してゐる。が、其を脱却して、個性を表す様になつた。彼の長所とせられ、古今集以後に影響を与へた、四季雑歌・相聞歌は、自然を人生の一部として変造を加へ、特殊な生活態度を空想する事を、文学態度とする様になつた。彼の態度は正しくないが、ともかく創作意識は、茲まで上つて来た。 大伴旅人は享楽的な分子を交へ、山上憶良は、功利的な目的を露はに出してゐるが、ともかくも、文学として歌を扱うてゐる。高橋虫麻呂などの学者も、さうした態度は明らかになつて来てゐる。けれども、みな長歌には、情熱を持続する事が出来ないでゐる。長歌が文学的燃焼を致さない時代になつてゐたのである。旅人は、外見には、虫麻呂よりも徹底して、漢風をとりこんだ。が、創作動機から見れば、純粋な抒情詩人である。叙事脈の表現は、此人になると跡を絶つて居る。学者らしい臭みは少しもなく、誇張のない情熱の文学として初めて見るべきものである。 其子の家持になると、文学によつて、人間の孤独性を知りかけてゐる。彼の作品には、宮廷詞風の方便として作られたものと、純文学作品とがある。後の者では文学其物よりも、文学のよい感化を見せてゐる。彼の歌で山柿の風を学んだらしい長詩は、如何にも擬古文らしい屈托がある。相聞往来の歌も、特色がない。彼一己の身辺を陳べたものには、黒人系統の心境が見える。而も平凡な生活から普遍の寂しさに思ひ到つてゐたらしい処は、近代文学に似てゐる。      一〇 万葉学に一等資料のないこと こゝまで、私の議論について来て頂いた方々に、私は、かう言ふ信頼を感じて、多分さしつかへがないであらう。私は、何も珍しいことを言ひたがつてゐるのではない。唯平安中期の初めにすでに、万葉の各方面の本旨が誤解せられて居た。或は正しく伝へられて居たにしても、平安末期以後の歌学者の曲解が加つて、長く純粋な元の意義が隠れて了うた事を信じてゐるが故に、従来の、源・藤二流の六条家の直観説を、整頓調節するだけでは、満足出来なかつた事が訣つて貰へる事と考へる。 言はゞ、此集に関しては、真の一等資料と言ふべきものが欠けてゐる。古今序の外は、何れも〳〵単なる学統の権威を保つ為の衒ひに過ぎないものであつた。かうした非学術的な後世歌学者の準拠を、我々の準拠とすることは、到底出来ない事なのである。かうした場合、万葉の研究は万葉自身を解剖するか、万葉前後の文壇或は世間の伝承を参酌しての研究が、或は今までの窮塞を通ずる事になるであらう。かうして、私は王朝末以来の学者が行うた仮説以外に、もつと正しいに近い推定を置く事が出来る。さうして又、其が新しい時代の幾多の補助学を負ふ者の権利であると信じてやつて来た事を、快くうけ容れて下さる事と信じる。くり返して言ふ。万葉集研究の徒にとつて迷惑な事は、何よりも、一等資料のない事である。かうした場合、万葉自身の分解に加ふるに、文学史的見解、及び民俗学的推理の業蹟が、大きなものであることを悟らねばならぬ。 私は、万葉人の歌を作り又、伝へた心持ちを考へた。さうして、其が従来の考へ方では、受納しきれない部分の多い事を説いた。或は倖にして、文学意識や、態度の発生した形を覓め得たかも知れない。さうしてうた及び、其同義語の本義と転化とを示し得た様にも感じてゐる。さうして或は、宮廷と民間とにおける文学の相違及び其歩みよりの俤を、読者に描いて頂けたかも知れない。さうして尚幾分でも、長い万葉集時代における中心推移を髣髴せしめ得たかも知れぬと、微かな自得を感じてゐる。私は常に、老いた対象を捐てゝゐる。理会に叶ひ難い文章も、若い感受性に充ちた朗らかな胸を予想してかゝつてゐるのである。      一一 万葉びとの生活 此語は、私が言ひ出して、既に十五年になる。けれども一度も、行き徹つた論を発表しないで来た。私は今は、其輪廓だけでも書き留めておきたい。私の言ふ万葉人なる語は、万葉の中心となつてゐる時代即、飛鳥末から藤原・奈良初期、其から奈良盛時、此に次ぐに奈良末の平安生活の予覚の動いて居る時代の、宮廷並びに世間の内生活の推移と伝統・展開とをこめて言ふのである。純粋の感情表現物の記録と言へない事は固よりだが、内生活の記念とも見るべき歌謡から、生活の諸相を抽象しようとするのである。 君と、女君と、大身と、民人との生活が、どう言ふぐあひに歌に張りついて──と言ふのが最適当だ──残つたかを見たいと思ふ。        君 皇子尊 記・紀に現れた君は、神自体である時期は、常にくり返され、其が、長くもあつた。万葉においては、既に「神の生活」から次第に遠ざかつて居られる。而も、至上神或は其子として、日のみ子と言ふ讃へ詞は用ゐられてゐる。又「神ながら」と言ふ語も、此時期の初めに著しくなつて来る。だから、直に内容は譬喩表現に近づいて、「神自体」よりも「神さながら」となり、更に「神意によるもの」と言ふ義を生じた。かむからと、殆ど同義に用ゐたものが、万葉には最多くなつてゐる。君の言行に限つて言ふ詞が、自然庶物に内在する神徳の頌辞とさへなつた。 君の居処なる「天の下」──天の直下──及び其附近に居るものは、君の外には神はなかつた。其が、精霊の優勢なものをも、神と称する様になつた為である。さうして、君の本地身たる至上神と、君との関係に血族観を深めて行つて、神格と人格との間に、時代を置いて考へる様になつた。 其でも宮廷詞人の作物には、伝承詞章による発想を守つてゐるものが多い。だから、其章句から直に、当時、神自体観の存在した事の証明は出来ない。君は如何なる威霊をも、鎮斎して内在力とする事が出来るとの信仰が、早く種々の異教を包括する様になつた。が、此初期になると、君の仰ぐべきものに、第一義のものとして仏法が現れ、従来の信仰は、其一分派としての神道を以て称せられる様になつた。君の生活が「神ながら」と言ふ修飾辞を生むだけ、神を離れてゐたからである。聖徳太子を上宮法王と言ひ、又降つて奈良の道鏡にも、其先蹤による称号を与へられたのも、此為であつた。君以外に、信仰上に、最高執務者を設けたのである。女君の配逑なる君のない場合である。 かうした時は多くは、血統最近くて神聖な性格を具へた男子が択ばれて、政務を、宰つ。此は、ひつぎの・みこと言はれた方々である。通常臣下のみこともちと区別する為に、略称したみことを名の末につける。古代から、皇子の中、みことを以て呼ばれる人と、さうでないのとあるのは、男君・女君に拘らず、最上のみこともちなる皇子・王だけにつけてゐる。其みこと名が、次第に限られて、執政或は摂政としての皇子だけにつく様になるのが、飛鳥朝の傾向であつた。さうして遂に、一人のみこの・みこと──ひつぎの・みこは数人ある──が、摂政皇太子の義となつた。日並知皇子尊・高市皇子尊などの尊号の、万葉に見える次第である。        女君 中皇命 皇子尊が、女君の摂政としてあるのは異例で、君と女君と相双ひて在る場合が、普通である。君の為に、信仰上の力を以て助けるのである。君が、教権を遠のいた為である。神と君との中なる尊者なる為の名、なかつ・すめらみことを以て呼ばれる。すめらみことは、天子に限る用語例ではない。神聖なるみこともちの義であつて、広義に於ては、皇后・皇太子にも言ふ事が出来たのである。君の闕けて女君ばかり位にある時を、なかつすめらみことと言ふのではなかつた。古くは唯、皇女或は皇后とのみ書いてゐる事もあるが、飛鳥朝からは明らかに、天皇と申上げてゐる。唯、其君との血の極めて近く、宮廷の神のみこともちたるに最適当な古代風のなからひに在つた女君を、中皇命とよびわけた様であつた。 だから、后の中にも、中皇命・大后・后などの区別があつたのである。皇后として後、天位に上られたのは、皆中天皇だつた方であらう。さうして、君いまさぬ後も、中天皇の資格で居られたのである。さうして見ると、唯男君から男君への、中つぎのすめらみことと言ふ事は出来ない。此古風が後々まで印象して、平安初期以後長く行はれた「中宮」の尊称の因を開いたのである。さうして、其神事をとり行はれた処が、「中宮院」の名を留めたのである。 中皇命を中皇女とあるのは、誤りではなからう。鏡王女とある──額田女王ではない。其姉の方と見るべきである──のと、同じ記入例である。中ツ皇(=たかつすめらみこと)鏡王(=かゞみのおほきみ)など書くと、男帝・男王とまちがへられるからの註で、特別に女性の義を表す字をつけぬ書き方が多かつた為である。額田女王を、万葉に専ら額田王と書くのは、名高くて、男王と誤解する気づかひがなかつたからなのも反証である。 君・女君相双うて「何々宮御宇天皇」の資格があられたのだ。其故、君なき後も、其資格は失せない。御双方の中皇命の身に残るのであつた。崗本宮御宇天皇は、舒明・皇極両皇を指すのである。皇極朝を後崗本宮御宇としたのは、後代の考へ方である。さうして、男君在さぬ後も、中皇命として居られた。崗本宮・後崗本宮に通じて、中皇命とあるのは、誤伝ではない。御妃の中、他氏他郷の大身の女子なる高級巫女の、結婚した他郷の君の為に、自家の神の威力と示教とを、夫に授けて其国を治めさせる様になつたのが、きさきの古い用語例に入るものらしい。 此に后の字を宛てゝ、古風を没却する事になり、王氏・他氏の女に通じて、きさき或は中宮など言ふ習はしを作つた。古代は、中皇命は王氏の出、きさきは他氏の女子、君の御禊を掌る聖職を以て奉仕したものらしい。常寧殿の后町ノ井や、御湯殿の下から出たと言ふ蚶気絵と言ふ笙の伝説などを考へ併せると、愈きさきと御禊との関係が考へられる(民俗学篇第一冊「水の女」参照)。 かうした為来りが、后妃の歌に、水に関する作を多く作り出したと見える。万葉で見ても、巻二の天武天皇・藤原夫人の相聞、天智天皇大喪の時の后・妃・嬪等の歌、又持統八年最勝会の夜の歌など、かうした方面からも見るべきであらう。此が記・紀になると、すせり媛・とよたま媛・やまとたけるの命の后王子らの歌・仁徳后の志都歌返歌・大春日皇后の歌など、皆夫君に奉る歌は、水の縁を離れない。殊にすせり媛のは、衣を解き放ける様を、志都歌返歌は、禊ぎの瀬を求める風を、最後のは、禊ぎと竹と楽器との関係を述べる古詞から出た事を見せてゐる。 万葉の皇族・貴族の相聞・挽歌にも、水の縁の深いのは、水を扱ふ貴族の婦人との唱和が、次第に、さうした発想法を生み出したものと言へよう。        巫女としての女性 中天皇・斎宮其他、后妃からの女官に到るまですべて、巫女として宮廷の神及び神なる君に仕へてゐた。氏長・国造の家々にも亦、かうした巫女が充ちてゐた。此等の外にも、国々邑々の成女は、すべて巫女たる事が、唯一の資格であつた。だから宮廷に出入した女性たちの生活を、女房・女官などの後世風の考へ方で、単純に見てはならぬ。後宮の職員は、平安初期までも、巫女としての自覚は失はなかつたのだ。叙事詩・民謡に出て来た有名・無名の地方の万葉女も、やはりさうした観念を底に持つてゐた。この事実は、男性が創作詩に踏み入つた時代になつても、変らず見えてゐる。相聞は殊にさうだし、挽歌その他のものにも通じてゐる気分である。 物語歌に見えた真間のてこな・蘆屋の海辺村処女其他は、前代以来の伝説上の人で、あの種の巫女の人の妻となる事を避けた信仰の印象であつた。村家の娘を訪れる新嘗の夜の情人を仮想した二首の東歌などもある。成女戒を受けた村女の、祭の夜に神を待つた習俗の民謡化したものだ。此夜の客が、神であつて所謂一夜夫なるものであつた。歌垣・嬥歌会・新室の寿の唱和は、民間の歌謡の発達の常なる動力であつた。元は、男方は神として仮装し来り、女方は精霊の代表たる巫女の資格において、これに対抗し、これを迎へ、これに従うたのである。此が相聞歌の起りである事は述べた。 此かけあひ行事に、謡ひ勝たう、負かされじとする処から、「女歌」はとりわけ民間に伸びた。神と巫女との対立の本意を忘れた地方も、万葉人以前からあつた。かうした間に、類型が類型のまゝに次第に個性味を帯びて来た。又一方唱和問答の機智的技巧は、愈進んで来た。女性の歌は常にかうして、男の歌を予期してゐるのであつた。万葉を見ても、女性の作に、殆ど一つとして相聞贈答の意味を離れたものゝない事実は明らかである。女歌に特殊な境地のある事は固より、其発想法には、伝習的な姿が見られるのは、尤である。 女歌は、異性を対象とする関係上、すべて恋愛式発想法によつて居る。だから、簡単に真の恋愛的交渉を歌から考へ出す事は出来ない。だから万葉には、相聞といふが、恋歌とは記さなかつた。古義によつて言ふこひ歌は、求婚する男のするものであつた。其が女歌にも入つて来たが、その発想法の上には、真仮の区別のないものが多い。こひ歌と見えるものは、大抵前代の叙事詩から脱落したものが多かつた。此が民謡として行はれた。 男のこひ歌に対しても、女歌は従順でないものが多い。或は外柔内剛なうけ流しが多かつた。相聞・挽歌・民謡などにある女歌らしいのゝ情熱的なものも、大抵古詞以来の類型か、叙事詩の変造か、誇張した抒情かである事は、早く言うた。唯、其間に真実味の出て来て居るのは、後朝の詞や、見ず久の心を述べる男の歌に対へたものである。此とて果して、作者自身の物か、保護者又は後見婦人の歌か知れないのが多い。家持に与へた叔母大伴ノ阪上ノ郎女の歌には、女大嬢の心持ちになつて作つたものが多いのであらう。又、大嬢の家持に答へた歌と言ふのも、郎女の代作と考へられぬではない。 とにかく、唯の相聞態度では、男の心に添はない事を意識した作も、後ほど出て来て居る。 でも、中臣宅守・茅上郎女の歌などは、恐らく、其近代の情史的創作であらうと述べたとほり、こひ歌らしくないものである。真の意味の恋歌は万葉末期に出て来たと言うてよからう。前代の物で、こひ歌らしく見えるものは、大抵魂ごひの歌或は、旅中鎮魂の作だつたのである。 女歌は恋愛発想による外、方法はなかつたのである。巫女としての久しい任務が、かう言ふ変態な表現上の論理を形づくらせたのであつた。 短歌様式は、殊に「女歌」に於て、発達したものと見る事は正しいと思ふ。宮廷生活においては、女歌のもて囃される機会が多かつた。一つは踏歌宴遊に、一つは風俗歌会──歌会の原形──などに、男方を緘黙させる様な才女が、多く現れたのである。春秋の物諍ひを判じた額田女王の長歌の如きも、さうした場合に群作を抜いた伝説のあつたものであらう。一人だけ、歌で判じたのではない。真の女性の作物は、長歌としても、十聯以上に及ぶものは古くから稀であつた。そこに、鋭く統一せられて出て来るものがあるのである。阪上郎女の如きは、長い作も創作してゐるが、此は奈良末の復古熱から出た擬古文に過ぎない。此人などは、恐らく女として漢文学を学んだ早い頃の人らしく思はれるが、平安中期までも、女は、唯古風を守るばかりであつた。 併し其は極めて稀だつた。宮廷及び貴族の家庭に仕へた女たちは、専ら万葉仮名の最標音的なものを用ゐて、主君・公子女の言行を日録して居たであらう。それが次第に草体になつて、平安京の女房の仮名文学に展開して行つたのであらう。かうした女官等の作物は、記録せられずに消えたものが多いのであらう。女歌は、多く口頭に伝誦せられて、多くの作者知らずの歌となつたと見てよい。此等の中に、幸に分類せられて書き残されたものが、巻十或は七の中などには、多いのであらう。かうした種類が、平安朝にも多かつた。新撰万葉・古今集・古今六帖などの無名の作、又は平安の物語・日記によくある、出処不明の引き歌は、大抵其当時々々に喧伝せられた、即興歌なのであらう。 平安の宮廷では、日常神事に与る者ほど、地位低くなつた。采女は下級の女官となり、奈良朝までの采女は、女房として高く位づけられた。けれども巫女であつた姿は留めて居た。宮廷貴族内庭の私的な事務に与り、主公に直接なる補助役・弁理者となり、訓化者となつた為である。かうした為事は、万葉時代にはまだ、巫女としての宮女の勤めであつた。女房の日記が、旧事・歌物語の外に、私事を多く交へる様になつて、段々、女房文学が栄えたのである。自作をも書きとめるやうになつたものを、後人──或は後には当時の人も──が歌だけを抄出したのが、女房家集である。其他、物語を抜き、人物事件や年中臨時の行事に関するものを書き出したのもあつて、物語・日記・有職書などが現れる様になつた。皆女房日記の内容であつたものだ。 かうした家集の中には、誇張や、衒ひや、記憶違ひなどもあるはずである。其に第一、対人関係は、後人の発想法とは異なるものが多い。万葉以前からの「女歌」の論理を考へないでは、男女関係の誤解せられる様なものが多い。とにもかくにも平安の女房文学の中から、歌は放しては考へられない。前代の風俗・歌を中心に綴つた説話記録が、歌物語となり、自分の身辺の応酬を記した部分が日記歌として行はれるやうになり、其が更に単独な物語や、家集・日記・世代歴史を生む様になつた。時世が移つて、女房の教養が浅くなると、女歌は固より、すべての女房文学は、隠者階級の手に移つて了ふ。平安朝末のあり様である。此間の「女」の時代は実は、奈良以前からの、長い宮廷巫女生活の成果である。        妹の魂結び 家々の成女戒を経た女たちは、巫女である。其故、呪術を行ふ力を持つてゐた。愛人や、夫の遠行には、家族の守護霊でもあり、自身の内在魂でもあるものを分割して与へる。男の衣装の中に、秘密の結び方のたまの緒で結び籠めて置く。さうして、旅中の守りとした。後には、女の身にも男の魂を結びとめて置く様になつたのだ。 此緒は、解くと相手の身に変事が起るのである。だから互に、物忌みを守つて居ねばならぬ。其たまの緒に限らず、霊物の逸出を禦ぐ為に結び下げて置くものを、ひもと言ふ。此は外物の犯さぬ様に、示威するものらしい。紐は、身にとり周らさずともよい。懸けるかつけるかしてあればよい。此変化したのが、いれひもであり、したひもなのである。こまにしき・からにしきなど、紐の枕詞に近い誇称は、悪を却ける為の、讃辞であつたらしい。必しも、ひもの古義には、下佩びを直に指す処はない。 難波津に御船泊てぬと聞え来ば、ひもときさけて、立ちはしりせむ(巻五) とある憶良の歌は、恋人を待ち得た性の焦燥を言ふのではない。此は、長者の霊の游離を防ぐために、男もすることになつてゐたのだ。 こま錦 ひもとき易之 天人の妻どふ宵ぞ。我も偲ばむ(巻十) の歌なども、直に閨ごとの予期を言うてゐるのではない。 易之は「かへし」と訓むべきなのかも知れぬ。遠く別れて居た者の、我が土地──難波津は、大和の国の内と観じたのだ──家に還り来ると、物忌みは解除せられるのだ。其双方の身にぢかにつく下袴・裳などにした物が、ふもだしの禁欲衣などにもつく処から一つに考へられて行つたのだ。だから必しも、紐が下佩びは勿論、貞操帯の意義でもなかつたのである。記・紀から見えるひもの信仰は、もつと広いものであつた。妻・愛人の結ひつけた守護霊の籠められた紐の緒が、ついて居る以上、此に憚る風も生じたのである。下袴の紐をさう言ふ欲望の物忌みの標とする考へが行はれてゐた訣ではない様だ。 かう言ふ訣で、旅行者の歌には、妻の魂の逸出せぬ様にとの考へで、此ひもを問題にするものが多かつたのだ。其が、妻を偲ぶ歌心を展開して来たのである。又同時に、郷家の寝床に、我が魂の一部は、分離して留るものと信じてゐた。其為に家や床や枕を言ふ風が出来て居た。 たま藻刈る 澳べは漕がじ。しきたへの枕のあたり 忘れかねつも(巻一) 此宇合の歌なども、今日は頻に家の我が枕のある床の様子が、目に浮んで思ひ去りにくい。かう言ふ時は、凶事があるものだと、舟行を恐れてゐるのである。        魂はやす行事 東国では、旅行者の魂を木の枝にとり迎へて祀る風があつたらしい。此も妹のする事だつたらしい。此をはやしと言ふ。 あらたまの塞側のはやしに、汝を立てゝ、行きかつましゞ。いもを さきだたね(巻十四) 上ツ毛野さぬのくゝたち折りはやし、我は待たむゑ。言し来ずとも(巻十四) きべは、村の外囲ひの柵塁の類である。あらたまは枕詞。遠江麁玉郡辺で流行した為に、地名を枕詞にして「き」を起したのだ。きべは地名説はわるい。村境で、魂はやしの式を行ふのである。木を伐つて、此に魂を移すからはやしである。処が、此はやすには、分霊を殖し、分裂させる義があるのだ。「旅出の別れの式に、妹よ。汝を立ち見送らしめては、行き敢へまじ。妹よ。先だち還れ」。此に近い意だらう。後の者は、上野の民謡故、さぬ──又、さつ──なる木を言ふ為に、地名の佐野にかけたのだ。茎立ちは草の若茎と考へられ易いが、木の萌え立ちの心の末になる部分だらう。其を折つて魂はやすのである。──をるはくり返す義か──「旅の人の伝言よ。其は此頃来通はず。かうして続くとしても、我は、魂はやしによつて、迎への呪ひをして居ようよ」。かう説くのが、ほんとうだらう。すると、 家場中のあすはの神に 木柴さし、我は斎はむ。帰り来までに(巻二十) すると、此こしばも、神に奉ると言はぬ処から見ると、霊を対象にしたのだ。あすはの神は竃神だから竃の事にもなる。竃に──或はかまどの前方にか──はやしの木柴(?)を立て定めて、旅人我の魂を浄め籠めて置かう。帰り来る時まで──ひきよせられて還り来る様にの意か──此歌、旅行者自身の歌と伝へたのは、誤りであらう。此歌の意も、神を斎ふと言ふ様にならないでよく訣る。又、幼稚だが、極めて近代的なと思はれてゐる、 まつのけの なみたる見れば、いはひとの 我を見おくると、立たりし もころ(巻二十) と言ふのも、道中に松の並み木を見た歌として鑑賞出来ぬ様になる。靡並而有ではない様だ。松の木の靡き伏すばかり、老い盛え木垂るを見るに、松の木の枝の靡き伏す斎戸に──斎殿か、家人又は斎人か──旅の我を後見る──家に残つた人の遠方から守らうとして、立てたりしはやしの松の、其まゝの姿である。家の魂の鎮斎処の、我が為のはやしの木の勢盛んにある様の俤と信じられる。さすれば、家なる我が魂は、鎮り、栄えて居るのだ。かう言ふ旅人の「枕のあたり忘れかねつも」一類の不安は、旅泊の鎮魂の場合に起り勝ちなのであつた。 もころ男は、同等・同格・同輩の男と言ふ風に、大和辺では固定して居る。が、此は、卜の卦の示現する様式の一つらしい。将来の運命や、遠処の物や、事情の現状を、其まゝ見る事と思はれる。旅泊の鎮魂歌のあたりの矚目と、遠地の郷家の斎戸の様とを兼ねて表してゐるもので、叙景と瞑想風な夜陰の心境望郷の抒情詩とが、此から分れ出ようとする複雑な、古式の発想法である。 私ははやすと言ふ語について、別に言うて居る。祇園林・松囃子・林田楽などのはやしが、皆山の木を伐つて、其を中心にした、祭礼・神事の牽き物であつた。山・山車の様な姿である。此牽き物に随ふ人々のする楽舞がすべてはやしと言はれたのだ。「囃し」など宛てられる意義は、遥かに遅れて出来たのである。山の木を神事の為に伐る時に、自分霊を持つものとして、かう言うたのである。「七草囃し」と言ふのも、春の行事に、嘉詞を用ゐるのだ。大根・人参の茎を、切り放すことを、上野下野辺で、はやすと言ふのも「さぬのくゝたち」の歌の場合の、古用例だとは言へないが、おもしろい因縁である。 ふるの内容の深いやうに、はやすも木を伐り迎へ、鎮魂するまでの義を含んでゐた。其が後世は、更に拡つて行つたのだ。はやすわざは、初めから終りまで妹のするのではない様だ。が、大嘗の悠紀・主基の造酒児なる首席巫女の、野の茅も、山の神木も、まづ刃物を入れるのを見れば、さうした形も、想像出来る。        霊の放ち鳥 漢土の天子諸侯の生活には、林池・苑囿を荘厳するのが、一つの要件であつた。さうして、奇獣を囹にし、珍禽を放ち飼うた。此先進国の林池の娯しみは、我が国にも模倣せられた様に見える。蘇我氏の旧林泉の没収せられたものらしい飛鳥京の「島の宮」は、泉池・島渚の風情から出た名らしい。而も、此が代表となつて、林苑を「しま」と言ふ様になり、又山斎を之に対して「やま」と言ふ様になつたらしい。我が国造庭術史上に記念せられるはずの宮地であつた。 其離宮に居て、摂政太子として、日並知皇子尊と国風の諡を贈られたのは、草壁皇子である。其薨後、其宮の舎人等の吟じたと思うてよい二十三首の挽歌は──人麻呂の代作らしい──此島の宮と、墓所檀の岡との間を往来して、仕へる期間も終りに近づいた頃に謡うた鎮魂歌らしいが、島の宮の池の放ち鳥を三首まで詠じてゐる。 島の宮、上の池なる放ち鳥、荒びな行きそ。君まさずとも み立たしの島をも家と棲む鳥も、荒びな行きそ。年かはるまで 塒たて飼ひし雁の子、巣立ちなば、檀の岡に飛び帰り来ね(巻二) と鳥に将来の希望を述べてゐる。此は皆、皇子尊の愛玩せられたものだから、其によつて感傷を発したものと言うて了へば、其までゞある。が、天智の崩御の時も「わが大君の念ふ鳥立つ」と、湖水の游鳥を逐ひ立てぬ様に心せよ、と言ふ風な皇后の御歌がある。鳥に寄せて悲しみを陳べた歌は、他にも多い。 此は唯遺愛の鳥だからと言ふやうに見えたが、尚古い形から展開した発想法であつた。鳥殊に水鳥は、霊魂の具象した姿だと信じた事もある。又其運搬者だとも考へられた。而も魂の一時の寓りとも思うて居た。事代主神がしてゐたと言ふ「鳥之遨游」も、ほむちわけの鵠の声を聞いて、物言はうとしたのも、皆水鳥を以て、鎮魂の呪術に使うた信仰の印象である。やまとたけるの白鳥──又は八尋白千鳥に化したと言ふのも霊魂の姿と考へた為であつた。鵠・鶴・雁・鷺など、古代から近代に亘つて、霊の鳥の種類は多い。殊に鵠と雁とは、寿福の楽土なる常世国の鳥として著れてゐた。雁は、仁徳帝とたけし・うちの宿禰の唱和だと言ふ、宮廷詩本宜歌の主題となつた。雁が卵を生んだ事を以て、瑞祥と見たのである。島の宮の雁の子と言ふのは、名は雁と称へてゐるが、名だけを然呼んだのであらう。恐らく鴨と雁との雑種で、家鴨に近いものではなかつたか。平安朝にも、雁の子を言つてゐる。鴨の卵らしい。島の宮のも、寿を祝ぐ為の目的から、伝来どほりの名を負せた代用動物だと定めてよい。 常にも水鳥を飼うて、此を見る事で、魂の安定をさせようとしたのだ。臨時には篤疾・失神・死亡などの際に、魂ごひの目的物とせられたのである。出雲の国造の呪法では、鵠が用ゐられた。蘇我氏の雁によるのと相対してゐる。国造の代替りに、二年続けて「神賀詞」奏上の為に参朝した。其貢物は皆国造家の「ことほぎ」料であるが、其中、白鵠の生御調は、殊に重要な呪物であつた。鵠の「玩び物」と称へてゐる。此は、鵠に内在する威霊を、聖躬に斎ひこめようとするので、其を日常眺めて魂の発散を圧へようと言ふのである。鵠の白鳥も次第に他の白羽の鳥を代用する様になつて来た。鷺などが、其である。 雁がね・たづ──鵠・鶴・鴻に通じた名──がねと特別に、其鳴を注意したのは、其高行く音に聴き入つた処から出たのである。鳴く音の鳥として遂には、之鳴と言ふを接尾語風に扱うて、たづや雁その物を表す様になつたのであらう。島の宮の水鳥も、古義の玩び物としての用途と漢風の林池の修飾とする文化模倣とが調和して、原義は忘れて行つたものである。其で、歌の上もやはり、さうした時代的合理化が這入つて来て「念ふ鳥」だの遺愛の「放ち鳥」などゝ言ふ風に、表は矛盾なく、形を整へてゐるが、ほぎ歌・鎮護詞・魂ごひ歌などの展開の順序を知つてかゝると、長い年月の変化が語られる。後世人の理会力や、感受性に毫も障らぬ様に整頓せられてゐる、詞章・歌曲の表現法が、思ひもかけぬ発生過程を持つてゐる事に思ひ到るであらう。        すめみま 記・紀すでにさうした解釈を主として居り、後世の学者又其を信じてゐる所の皇孫即すめみまとする語原説は、尠くとも神道の歴史の第二次以下の意義しか知らぬものである。続紀宣命などを見ても、みまは聖躬の義で、宮廷第一人なる御方の御身──即、威霊の寓るべき御肉身──の義であつた。其が、宣命の原型からあつた形を二様に分岐して、記・紀に趣く伝承では、新しい合理化によつて、聖孫の義としたのだ。其一方を継いだ宣命の擬古文では、聖躬とした。だから、第二人称の敬称みましは、此と関係のあるものに違ひないと思ふ。 此みま或はおほ・みまなる御肉身とまななる威霊とは、常に放しては考へられないものであつた。此外来魂の名が、最古く「ひ」であつた。其がすべての霊的のものの上に拡つて行つた後、分化した。原形は「日」となり、変形したものに、直日・禍津日・つくよみ・山つみ・海つみなどのひ・みとなつて、かみに歩みよる筋路を作つた。此ひを躬に触らしめ得た方が、ひのみこであつた。此ひを継承せられるのが、大倭の君であつた。 他の邑君・村酋の中にも、此信仰は、ある部分共通し、又次第に感染して行つた。かうした場合、此をよと称へた。後にひが固定すると、よが代用せられ、更によの意義が、よの截り替への時期を意味する様になつて、一生一代の義になつた。でも、荒世昭・和世昭など言ふ用例を見ると、よには魂の義が熟語として残つてゐたのだ。さうすると、身を意味するみと言ふ語も、生民を意味するひとといふ語も、等しく威力を寓した肉体をさすものである。 我々の万葉びとの生活を書いた本旨は、民人の生活は邑々の酋君の生活の拡張であり、日のみ子の信仰行事の、一般化であると言ふ事である。ひとは確かに、ある選民である。「と」の原義は、不明だが、記・紀を見ても、神と人との間のものゝ名に、常に使はれてゐる。此ひとの義が、転化して国邑の神事に与る実行的な神人の義になつた。神意をみこともちて、天の直下の世界──天の下──に出現せられた君の為に、其伴人として働くものが、ひとだつたのである。だから近代まで、村人は、必ひととならねばならなかつた。 青人草・天のますひとの伝承は、記・紀以前語部の合理化を経てゐる。が、とかく「ひと」と言ふ観念に入るものは、神事に奉仕する為に、出現するものゝ義に過ぎなかつた。沖縄語は偶然、此を傍証してゐる。神よりも霊を意味するすぢ・せぢ・しぢなど言ふ古語は、国君の義ともなつた。其が、名詞化の語尾aを採ると、すぢゃあとして、人間の義となる。神事の第一人から転じて、すべての神人に及んだのである。 わが古代のひとも其で、神人の長なる君からの延長である。此ひとの内に、性によつて区別があつた。こは男性であり、めは女性であつた。此は、きとみとの対立と同様であらう。君は、常に威霊を受けて復活する。さう言ふ信仰から、前代の君は、後継の君と毫も変らぬ同一人であつた。此思想は、天照大神に対して、御歴代の神及び君が、すめみまだ──第二義の──とせられてゐるのにも現れてゐる。此が最合理的に、将又神学化した表現は、日並知皇子尊の殯宮の時の歌(人麻呂)にある。 天地のはじめの時の(山田孝雄氏説)……神はかり はかりし時に、天照らすひるめの命、天をばしろしめすと、あしはらのみづほの国を、天地の国よりあひのきはみ、しろしめす神の命と、天ぐもの八重かきわけて、神くだりいませまつりし、高ひかる日の皇子は、飛鳥の浄見原に、神ながらふとしきまして、聖祖のしきます国と、天の原岩門を開き、神あがり、あがり往ましぬ。(こゝまでは、天武天皇の御事) 天武は、大神の直系として扱はれてゐる。天地のはじめの時の、第一のみこともちなる君も、信仰上には区別のないわけだ。 此が下々にも及んでゐる。国の組織が出来てからは、大倭国内の豪族は、皆大身を意味する敬称を以て、君から遇せられた。さうした人々の間にも普通になり、大倭宮廷の諸部民なるかきべ、大身の部民なるともべにも、一貫して行はれた。邑国の神事を行ふ人々は、をとこであり、之に対して奉仕する巫女はをとめと称せられた。        をとめ・をとこ をとめ・をとこには、万葉では未通女・壮夫など言ふ字を宛てるのが、まづ普通の様だが、「通」は男に通婚せぬ義か、精通期に達せぬ事を示すのか、判断し難いと思ふ。をとこもわくこ期を脱したものらしいが、をとめよりは社会人らしく扱うてゐるらしい。だが、此も一般的には誤解である。 wot は、復活する・元に戻るの義で、常に交替して神事に奉仕する男子・女子が、wot-ko, wot-me なのであつた。 藤原の大宮づかへ 現れ続がむ をとめが伴は、ともしきろかも(巻一) の歌を見ても、宮中の巫女の交る替る現出して大宮仕へをする信仰が窺へる。 此をとめになり替る事は、ある年限があつたのである。此神役の資格を得て、はじめてをとめである。此までには、成女戒を授かるのが条件である。 成女戒を受けたをとめは、実に神の嫁となる資格が出来たのである。其に到るまでの生活が虔しまれた。男とても、之を犯す事は触穢として避けねばならなかつた。此期に達した少女たちは、恐らく木綿花或は、鳥毛を以て飾つた鉢巻をしたらしい。此が、はねかづらである。 はねかづら 今する妹を、うら若み、いざ、率川の音のさやけさ(巻七) はねかづら 今する妹をうらわかみ、笑みゝ、怒りみ、つけしひも解く(巻十一) はねかづら 今する妹を、夢に見て、心のうちに恋ひわたるかも(家持──巻四) はねかづら 今する妹はなかりしを。いかなる妹ぞ、こゝだ恋ひたる(童女──巻四) 詳細な説明は、今はさけたい。「はねかづらいまする」と言ふ類型の行はれた中の万葉に残つたものである。はねかづらと言ふだけで、村の神事の資格を得る成女戒を待つ少女と言ふ事が、知れてゐたのである。男の成年戒にも、後期王朝に、黒幘をつける風を残したのは、形から見てはねかづらである。 かうした持戒の間の禁欲生活の後、をとことなり、をとめとなる。 唯をとこは、性の解放を祭りの当夜から許されるが、をとめは、神の外には逢ふ事が出来ぬ為、をとめと言へば、夫を持たぬ女、処女・未通女と考へられる様になつたのだ。 斎宮をはじめ、中皇命は、神のをとめとして、人間のせの君はなかつた。祭時に神として現れる霊物のみが、其つまであられた。かうした信仰が、国邑の巫女から家々の巫女の上にも及んで、上も下も一つのをとめの生活を形づくつたのだ。        大臣・庶民 をとことなる事は、貴公子の間には、容易ではなかつた。だから、いつまでもをぐな──おきなに対した語──又は、わくごと称せられてゐた。君とならねば、完全な資格が出来ない。君の家に於ては、みこ・おほきみが、近代まで一つの人格と認められなかつた歴史因子を見せてゐる。後次第に、ひつぎのみこ・皇子の尊など言ふ名で、半成人の資格を認めて来る様になつた。でも、其すら前代の中皇命の皇子のみこともちに過ぎなかつた。万葉以前に見える、をぐな名・わくご名或は、わけ──別──など言ふのは、此である。即宮廷・豪家の子弟の中には八拳鬚胸前に到るまでも、ほむちわけ・ほむたわけ・やまとをぐな(記紀)又は、久米の若子(万葉)など言はれてゐねばならなかつた。此等が記念すべき事蹟や、宮廷・豪族の歴史の上に衝動を起す事件を齎すと、各部の村民や、団体を以て、其名の伝へられるやうになる。小氏(複姓)の分裂も、実はかうした神事職によつて、聖格を得ようとした為である。 後期王朝では、上流の公卿を上達部といふ。此は、疑ひもなく宮廷を神社と見做し、伴曲長及び臣のつめる処を、かむだちと称へたからだ。伊勢神宮で、庤の字を宛て、他の社々でも、神館と称してゐる。神の為の台盤所の義である。古代には、其人たちの侍する内廷の控へ所であつたのだらう。「め」は元より「べ」に通ずる集団人の義である。此中から、君の座床近く、夜昼祗候するものが、まちぎみ・まへつぎみである。まへつぎみの中にも、旧豪族の人々の交る様になつてから、此を大まへつぎみと言ふ様になつた。おみは、君から多少遠慮を持つた臣・従者への称へであり、大まへつ君は、全然君の配下としての称である。 此等のおみの家々又は、国々の神主国造の家々には、宮廷と似た伝承が行はれてゐた。さうして其小氏なる家々にも、配下たる村々の民の上にも、次第に宮廷の信仰生活が影響し、又混同を生じた。或地方では、禊ぎを主とするのに、ある国々では祓へを以ておなじ様な事件を解決した。其混乱は、吉事を待つ為の禊ぎを、凶事を贖ひ棄てる方便の祓へと一つにして行ふ様になる。 祓へを行ふ地方で行れた、五月雨期の男女神人の禁欲生活が、雨障又は、霖忌であつた。其を、合理化したのが、大祓式であつた。村のをとことなるはずの──成年戒を受ける──人々の、田植以前の物忌みが、其であつた。其を、次第に向上させて、宮廷伝来の呪詞から出来たものと信じた。 天つ罪は、田植ゑに臨む、村の仮装神人及び巫女──早処女──の、長期の物忌み生活から出た起原説明物語であつた。此等は、民人──殊に出雲人など──の生活の反映である。すさのをの命は田を荒す神であつた。さうして其が、祓への結果田を荒さぬ誓ひを立てた事を、出雲国造の国で行うたのである。其旧事が直に、地上の呪法となるのだ。村の田に出て来る神々の行ひは、だから、豪族の風を移した村々の神人の歌舞である。此時、此に接する巫女たちの挙動も亦、其写しに過ぎない。 私の話は、万葉集の内容の発生の輪廓と、万葉びとの生活の基礎となつた信仰生活とを完全に書きゝらずに了うた。だが、此論文に、若し多少の効果を予期する事が出来るなら、過去の研究は、過去の記述ばかりでは、完う出来ない。近代までの引き続きを、常に考慮に入れて置かねばならぬといふ自覚を抱いて頂いた点にあると思ふ。 底本:「折口信夫全集 1」中央公論社    1995(平成7)年2月10日初版発行 底本の親本:「『古代研究』第二部 国文学篇」大岡山書店    1929(昭和4)年4月25日発行 初出:「日本文学講座 第一九巻」    1928(昭和3)年9月 ※底本の題名の下に書かれている「昭和三年九月「日本文学講座」第一九巻」はファイル末の「初出」欄に移しました。 入力:門田裕志 校正:仙酔ゑびす 2007年9月6日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。