鳥影 石川啄木 Guide 扉 本文 目 次 鳥影 其一 一 二 三 四 五 其二 一 二 三 四 五 其三 一 二 三 其四 一 二 三 四 五 六 七 八 九 一〇 其五 一 二 三 四 其六 一 二 三 第七 一 二 三 其八 一 二 三 四 五 其九 一 二 三 四 五 六 七 其十 一 二 三 四 其十一 一 二 三 四 五 六 七 八 其十二 其十三 一 二 其一 一  小川靜子は、兄の信吾が歸省するというふので、二人の妹と下男の松藏を伴れて、好摩の停車場まで迎ひに出た。もと〳〵鋤一つ入れたことのない荒蕪地の中に建てられた小さい三等驛だから、乘降の客と言つても日に二十人が關の山、それも大抵は近村の百姓や小商人許りなのだが、今日は姉妹の姿が人の目を牽いて、夏草の香に埋もれた驛内も常になく艶めいてゐる。  小川家といへば、郡でも相應な資産家として、また、當主の信之が郡會議員になつてゐる所から、主なる有志家の一人として名が通つてゐる。總領の信吾は、今年大學の英文科を三年に進んだ。何と思つてか知らぬが、この暑中休暇を東京で暮すと言つて來たのを、故家では、村で唯一人の大學生なる吾子の夏毎の歸省を、何よりの誇見で樂みにもしてゐる、世間不知の母が躍起になつて、自分の病氣や靜子の縁談を理由に、手酷く反對した。それで信吾は、格別の用があつたでもなかつたが、案外温しく歸ることになつたのだ。  午前十一時何分かに着く筈の下り列車が、定刻を三十分も過ぎてるのに、未だ着かない。姉妹を初め、三四人の乘客が皆もうプラットフォームに出てゐて、逈か南の方の森の上に煙の見えるのを、今か今かと待つてゐる。二人の妹は、裾短かな、海老茶の袴、下髮に同じ朱鷺色のリボンを結んで、譯もない事に笑ひ興じて、追ひつ追はれつする。それを羨まし氣に見ながら、同年輩の見窄らしい裝をした、洗洒しの白手拭を冠つた小娘が、大時計の下に腰掛けてゐる、目のショボ〳〵した婆樣の膝に凭れてゐた。  驛員が二三人、驛夫室の入口に倚つ懸つたり、蹲んだりして、時々此方を見ながら、何か小聲に語り合つては、無遠慮に哄と笑ふ。靜子はそれを避ける樣に、ズッと端の方の腰掛に腰を掛けた。銘仙矢絣の單衣に、白茶の繻珍の帶も配色がよく、生際の美しい髮を油氣なしのエス卷に結つて、幅廣の鼠のリボンを生温かい風が煽る。化粧つてはゐないが、七難隱す色白に、長い睫毛と恰好のよい鼻、よく整つた顏容で、二十二といふ齡よりは、誰が目にも二つか三つ若い。それでゐて、何處か恁う落着いた、と言ふよりは寧ろ、沈んだ處のある女だ。  六月下旬の日射がもう正午に近い。山國の空は秋の如く澄んで、姫神山の右の肩に、綿の樣な白雲が一團、彫出された樣に浮んでゐる。燃ゆる樣な、好摩が原の夏草の中を、驀地に走つた二條の鐵軌は、車の軋つた痕に激しく日光を反射して、それに疲れた眼が、逈か彼方に快い蔭をつくつた、白樺の木立の中に、蕩々と融けて行きさうだ。  靜子は眼を細くして、恍然と兄の信吾の事を考へてゐた。去年の夏は、休暇がまだ二十日も餘つてる時に、信吾は急に言出して東京に發つた。それは靜子の學校仲間であつた平澤清子が、醫師の加藤と結婚する前日であつた。清子と信吾が、餘程以前から思ひ合つてゐた事は、靜子だけがよく知つてゐた。  今度歸るまいとしたのも、或は其、己に背いた清子と再び逢ふまいとしたのではなからうかと、靜子は女心に考へてゐた。それにしても歸つて來るといふのは嬉しい、恁う思返して呉れたのは、細々と訴へてやつた自分の手紙を讀んだ爲だ、兄は自分を援けに歸るのだと許り思つてゐる。靜子は、今持上つてゐる縁談が、種々の事情から兩親始め祖父までが折角勸めるけれど、自分では奈何しても嫁く氣になれない、此心をよく諒察つて、好く其間に斡旋してくれるのは、信吾の外にないと信じてゐるのだ。 『來た、來た。』と、背の低い驛夫が叫んだので、フォームは俄かに色めいた。も一人の髯面の驛夫は、中に人のゐない改札口へ行つて、『來ましたよウ。』と怒鳴つた。濃い煙が、眩しい野末の青葉の上に見える。 二  凄じい地響をさせて突進して來た列車が停ると、信吾は手づから二等室の扉を排けて身輕に降り立つた。乘降の客や驛員が、慌しく四邊を驅ける。汽笛が澄んだ空氣を振はして、汽車は直ぐ發つた。  荷札扱ひにして來た、重さうな旅行鞄を、信吾が手傳つて、頭の禿げた松藏に背負してる間に、靜子は熟々其容子を見てゐた。ネルの單衣に涼しさうな生絹の兵子帶、紺キャラコの夏足袋から、細い柾目の下駄まで、去年の信吾とは大分違つてゐる。中肉の、背は婷乎として高く、帽子には態と徽章も附けてないから、打見には誰にも學生と思へない。何處か厭味のある、ニヤケた顏ではあるが、母が妹の靜子が聞いてさへ可笑い位自慢してるだけあつて、男には惜しい程肌理が濃く、色が白い。秀でた鼻の下には、短い髭を立ててゐた。それが怎やら老けて見える。老けて見えると同時に、妹の目からは、今迄の馴々しさが顏から消え失せた樣にも思はれる。輕い失望の影が靜子の心を掠めた。 『何を其麽に見てるんだ、靜さん?』 『ホホ、兄樣少し老けたわね。』と靜子は莞爾する。 『あゝ之か?』と短い髭を態とらしく捻り上げて、『見落されるかと思つて心配して來たんだ。ハハハ。』 『ハハハ。』と松藏も聲を合せて、背の鞄を搖り上げた。 『怎だ、重いだらう?』 『何有、大丈夫でごあんす。年は老つても、』と又搖り上げて、『さあ、松藏が先に立ちますべ。』  連立つて停車場を出た。靜子は、際どくも清子の事を思浮べて、杖形の洋傘を突いた信吾の姿が、吾兄ながら立派に見える、高が田舍の開業醫づれの妻となつた彼の女が、今度この兄に逢つたなら、甚麽氣がするだらうなどと考へた。  二町許りも構内の木柵に添うて行くと、信號柱の下で踏切になる。小川家へ行くには、此處から線路傳ひに南へ辿つて、松川の鐵橋を渡るのが一番の近道だ。二人の妹は、早く歸つて阿母さんに知らせると言つて、足並揃へてズン〳〵先に行く。松藏は大胯にその後に跟いた。  信吾と靜子は、相並んで線路の兩側を歩いた。梅雨後の勢ひのよい青草が熱蒸れて、眞正面に照りつける日射が、深張の女傘の投影を、鮮かに地に印した。靜子は、この夏は賑やかに樂く暮せると思ふと、逢つたら先づ話して置かうと考へてゐたことも忘れて、もう怡々した心地になつた。 『皆が折角待つてることよ。』 『然うか。實は此夏少し勉強しようと思つたんだがね。』 『勉強は家でだつて出來ない事なくつてよ。其麽にお邪魔しないわ。』 『それも然うだが、子供が大勢ゐるからな。』 『だつて阿母さんが那麽に待つてますもの。』 『その阿母さんの病氣ツてな甚麽だい? タント惡いんぢやないだらう?』 『えゝ、其麽に惡かアないんですけど……。』 『臥てゐるか?』 『臥たり起きたり。例のリウマチに、胃が少し惡いんですつて。』 『胃の惡いのは喰ひ過ぎだ。朝から煙草許り喫んでゐて、怠屈まぎれに種々な物を間食するから惡いんだよ。』 『でもないでせうが、一體阿母さんは丈夫ぢやないのね。』 『若い時の應報さ。』 『まあ!』と眼を大きく睜つた。母のお柳は昔盛岡で名を賣つた藝妓であつたのを、父信之が學生時代に買馴染んで、其爲に退校にまでなり、家中反對するのも諾かずに無理に落籍さしたのだとは、まだ女學校にゐる頃叔母から聞かされて、譯もなく泣いた事があつた……が、今迄遂ぞ恁麽言葉を兄の口から聞いた事がない。靜子は、宛然自分の祕密でも言ひ現された樣な氣がして、さつと面を染めた。 三  信吾も少し言過ぎたと思つたかして直ぐに、 『だが何か服藥はしてるだらうね?』 『えゝ。……加藤さんが毎日來て診て下さるのよ。』 『然うか。』と言つて、また態とらしく、『然うか、加藤といふ醫師があつたんだな。』  靜子はチラリと兄の顏を見た。 『醫師が毎日來る樣ぢや、餘り輕いんでもないんだね?』 『然うぢやないのよ。加藤さんは交際家なんですもの。』 『フム、交際家か!』と短い髭を捻つて、 『其麽風ぢや相應に繁昌つてるんだらう?』 『えゝ、宅の方へ𢌞診に來る時は、大抵自轉車よ。でなけや馬に乘つて來るわ。』 『ほう、景氣をつけたもんだな。そして何か、もう子供が生れたのか?』 『……まだよ。』と低い聲で答へて目を落した。 『それぢや清子さんも暇があつて可いんだらう。』 『えゝ。』 『女は子供を有つと、もう最後だからな。』  靜子は妙にトチッて、其儘口を噤んで了つた。人は長く別れてゐると、その別れてゐた月日の事は勘定に入れないで、お互ひにまだ別れなかつた時の事を基礎に想像する。靜子は、清子が加藤と結婚した事について、少からず兄に同情してゐる。今度歸つて來て、毎日來る加藤と顏を合せるのも、兄は甚麽に不愉快な思ひをするだらう、などとまで狹い女心に心配もしてゐた。そして、何かしらそれに關した事を言出されるかと、宛然自分の持つてゐる鋭い刄物に對手が手を出すのを、ハラ〳〵して見てゐる樣な氣がしてゐたが、信吾の言葉は、故意かは知れないが餘りに平氣だ、餘りに冷淡だ。今迄の心配は杞憂に過ぎなかつた樣にも思ふ。又、兄は自ら僞つてるのだとも思ふ。そして、心の底の何處かでは、信吾がモウ清子の事を深く心にとめても居ないらしい口吻を、何となく不滿に感じられる。その素振を見て取つて、信吾は亦自分の心を妹に勝手に忖度されてる樣な氣がして、これも默つて了つた。  二人は並んで歩いた。蒸す樣な草いきれと、乾いた線路の土砂の反射する日光とで、額は何時しか汗ばんだ。靜子の顏は、先刻の怡々した光が消えて、妙に眞面目に引緊つてゐた。妹共はもう五六町も先方を歩いてゐる。十間許り前を行く松藏の後姿は、荷が重くて屈んでるから、大きい鞄に足がついた樣だ。  稍あつてから信吾は、『あの問題は、一體奈何なつてるんだい?』と妹を見返つた。 『あの問題ツて、……松原の方?』と兄の顏を仰ぐ。 『あゝ。餘程切迫してるのかい?』 『さうぢや無いんですれど……。』 『手紙の樣子ぢや然う見えたんだが。』 『さうぢや無いんですけど。』と繰返して、『怎せ貴兄の居る間に、何とか決めなけやならない事よ。』 『然うか、それで未だ先方には何とも返事してないんだね?』 『えゝ。兄樣の歸つてらしやるのを待つてたんだわ。』  信吾は少し言ひ淀んで、『昨日發つ時にね、松原君が上野まで見送りに來て呉れたんだ……。』  靜子は默つて兄の顏を見た。松原政治といふのは、近衞の騎兵中尉で、今は乘馬學校の生徒、靜子の縁談の對手なのだ。 四 『發つ四五日前にも、』と信吾は言葉を次いだ。『突然訪つて來て大分夜更まで遊んで行つた。今度の問題に就いちや別段話もなかつたが、(俺も二十七ですからねえ。)なんて言つてゐたつけ。』  靜子は默つて聞いてゐた。 『休暇で歸るのに見送りなんか爲て貰はなくつても可いと言つたのに、態々俥でやつて來てね。麥酒や水菓子なんか車窓ン中へ抛り込んでくれた。皆樣に宜敷つて言つてたよ。』 『然うでしたか。』と氣の無さ相な返事である。 『皆樣にぢやない靜さんにだらうと、餘程言つてやらうかと思つたがね。』 『まあ!』 『ナニ唯思つた丈さ。まさか口に出しはしないよ。ハッハハ。』  この松原中尉といふのは、小川家とは遠縁の親戚で、十里許りも隔つた某村の村長の次男である。兄弟三人皆軍籍に身を置いて、三男の狷介と云ふのが靜子の一歳下の弟の志郎と共に士官候補生になつてゐる。  長男の浩一は、過る日露の役に第五聯隊に從つて、黒溝臺の惡戰に壯烈な戰死を遂げた。──これが靜子の悲哀である。靜子は、女學校を卒へた十七の秋、親の意に從つて、當時歩兵中尉であつた此浩一と婚約を結んだのであつた。  それで翌年の二月に開戰になると、出征前に是非盃事をしようと小川家から言出した。これは浩一が、生きて歸らぬ覺悟だと言つて堅く斷つたが、靜子の父信之の計ひで、二月許りも青森へ行つて、浩一と同棲した。  浩一の遺骨が來て盛んな葬式が營まれた時は、母のお柳の思惑で、靜子は會葬することも許されなかつた。だから、今でも表面では小川家の令孃に違ひないが、其實、モウ其時から未亡人になつてるのだ。  その夏休暇で歸つた信吾は、さらでだに内氣の妹が、病後の如く色澤も失せて、力なく沈んでるのを見ては、心の底から同情せざるを得なかつた。そして慰めた。信吾も其頃は感情の荒んだ今とは別人のやうで、血の熱かい眞摯な二十二の若々しい青年であつたのだ。  九月になつて上京する時は、自ら兩親を説いて靜子を携へて出たのであつた。兄妹は本郷眞砂町の素人屋に室を並べてゐて、信吾は高等學校へ、靜子は某の美術學校へ通つた。當時少尉の松原政治が、兄妹に接近し初めたのは、其後間もなくの事であつた。 『姉さん。』と或時政治が靜子を呼んだ。靜子はサッと顏を染めて俯向いた。すると、『僕は今迄一度も、貴女を姉さんと呼ぶ機會がなかつた。これからもモウ機會がないと思ふと、實に殘念です。』と眞面目になつて言つた事がある。靜子も其初め、亡き人の弟といふ懷しさが先に立つて、政治が日曜毎の訪問を喜ばぬでもなかつた。  何日の間にかパッタリと足が止つた。其間に政治は同僚に捲込まれて酒に親む事を知つた。そして一昨年の秋中尉に昇進してからは、また時々訪ねて來た。然しモウ以前の單純な、素朴な政治ではなかつた。或時は微醺を帶びて來て、些々擽る樣な事を言つた事もある。又或時は同じ中隊だといふ、生半可な文學談などをやる若い少尉を伴れて來て、態と其前で靜子と親しい樣に見せかけた。そして、靜子が次の間へ立つた時、『怎だ、仲々美いだらう?』と低い聲で言つたのが襖越しに聞こえた。靜子は心に憤つてゐた。  昨年の春、母が産後の肥立が惡くて二月も患つた時、看護に歸つて來た儘靜子は再び東京に出なかつた。そして、此六月になつてから、突然政治から結婚の申込みを受けたのだ。 『それで、兄樣は奈何思つて?』と、靜子は、並んで歩いてゐる信吾の横顏を眤と見つめた。 五 『奈何つて言つた所で、問題は頗る簡單だ。』 『然う?』と靜子は兄の顏を覗く樣にする。 『簡單さ。本人が厭なら仕樣がないぢやないか。』 『そんなら可いけど……。』と莞爾する。 『だがまあ、お父さんやお母さんの意見も聞いて見なくちやならないし、それに祖父さんだつて何か理窟を言ふだらうしね。』 『ですけど、私奈何したつて嫁かないことよ。』 『そう頭つから我を張つたつて仕方がないが、マア可いよ、僕に任して置けや心配する事は無い。お前の心はよく解つてるから。』 『眞箇?』 『ハハハ。まるで小兒みたいだ。』と信吾は無造作に笑ふ。  靜子も聲を合せて笑つたが、『ま、嬉しい。』と言つて額の汗を拭く。顏が晴やかになつて、心持や聲も華やいだ。 『兄樣、アノ面白い事があつてよ。』 『何だ?』 『叔父さんが私に同情してるわ。』 『叔父さんて誰? 昌作さんか?』 『えゝ。』と言つて、さも可笑相な目附をする。昌作といふのは父信之の末の弟、兄妹には叔父に違ひないが、齡は靜子よりも一つ下の二十一である。 『今度の事件にか?』 『然うよ。過日奧の縁側で、祖母さんと何か議論してるの。そして靜子々々つて何か私の事言つてる樣なんですからね、惡いと思つたけど私立つて聞いたことよ。そしたら、(結婚といふものは戀愛によつて初めて成立するもので、他から壓制的に結びつけようとするのは間違だ。)なんて、それあ眞面目よ。すると祖母さんが、(あああゝ然うだらうともさ。)が可笑しいぢやありませんか。壓制的なんて祖母さんに解るもんですかねえ。ホホホヽヽ。』 『そして奈何した。』 『奈何もしやしないけど、面白かつたわ。そして折角祖父さん許り攻撃してるのよ。舊時代の思想だの何のつてね……お父さんやお母さんの事は言へないもんだから。』 『フム、然うか。……それで奈何する氣なんだらう、今後。』 『南米に行きたいんですつて。』 『南米に? そんな事で學校も廢したんだな。』 『それ許りぢやないわ。今年卒業するのでしたのを落第したんですもの。』 『中學も卒業せずに南米に行つたつて奈何なるもんか。それに旅費だつて大分費る。』 『全體で二百圓あれア可んですつて。』 『何處から出す積りだらう。家ぢや出せまいし……。』 『出せないことは無いと思ふわ。』 『だつて餘り無謀な計畫だ。』 『……ですけど、お母さんも少し酷いわね、昌作叔父さんに。私時々さう思ふ事があつてよ。』 『それや昌作さんが惡いんだ。そして今は何をしてるだらう? 唯遊んでるのか?』 『歌を作つてるのよ。新派の歌。』 『歌? 那麽格好してて歌作るの? ハハハ。』 『仲々得意よ。そして少し天狗になつてるけど、眞箇に巧いと思ふのもあるわ。』 『莫迦な。其麽事してるから駄目なんだ。少し英語でも勉強すれや可いのに。』  この時、重い地響が背後に聞えた。二人は同時に振返つて見て、急がしく線路の外に出た。信吾の乘つて來た列車と川口驛で擦違つて來た、上りの貨物列車が、凄じい音を立てて、二人の間を飛ぶが如くに通つた。 其二 一  人通りの少い青森街道を、盛岡から北へ五里、北上川に架けた船綱橋といふを渡つて六七町も行くと、若松の並木が途絶えて見すぼらしい田舍町に入る。兩側百戸足らずの家並の、十が九までは古い茅葺勝で、屋根の上には百合や萱草や桔梗が生えた、昔の道中記にある澁民の宿場の跡がこれで、村人はただ町と呼んでゐる。小さいながらも呉服屋、菓子屋、雜貨店、さては荒物屋、理髮店、豆腐屋まであつて、素朴な農民の需要は大抵此處で充される。町の中央の、四隣不相應に嚴しく土塀を繞した酒造屋と向ひ合つて、大きな茅葺の家に村役場の表札が出てゐる。  役場の外に、郵便局、駐在所、登記所も近頃新しく置かれた。小學校は、町の南端れ近くにある。直徑尺五寸もある太い丸太の、頭を圓くして二本植ゑた、それが校門で、右と左、手頃の棒の先を尖らして、無造作に鋼線で繋いだ木柵は、疎らで、不規則で、歪んで、破れた鎧の袖を展べた樣である。  柵の中は、左程廣くもない運動場になつて、二階建の校舍が其奧に、愛宕山の鬱蒼した木立を背負つた樣にして立つてゐる。  日射は午後四時に近い。西向の校舍は、後ろの木立の濃い緑と映り合つて殊更に明るく、授業は既に濟んだので、坦かな運動場には人影もない、夏も初の鮮かな日光が溢れる樣に流れた。先刻まで箒を持つて彷徨つてゐた、年老つた小使も何處かに行つて了つて、隅の方には隣家の鷄が三羽、柵を潜つて來てチョコ〳〵遊び𢌞つてゐる。  と、門から突當りの玄關が開いて、女教師の日向智惠子はパッと明るい中へ出て來た。其拍子に、玄關に隣つた職員室の窓から賑やかな笑聲が洩れた。  クッキリとした、輪廓の正しい、引緊つた顏を眞正面に西日が照すと切のよい眼を眩しさうにした。紺飛白の單衣に長過ぎる程の紫の袴──それが一歩毎に日に燃えて、靜かな四邊の景色も活きる樣だ。齡は二十一二であらう。少し鳩胸の、肩に程よい圓みがあつて、歩き方がシッカリしてゐる。  門を出て右へ曲ると、智惠子は些と學校を振返つて見て、『氣障な男だ。』と心に言つた。故もない微笑がチラリと口元に漂ふ。  家々の前の狹い淺い溝には、腐れた水がチョロ〳〵と流れて、縁に打込んだ杭が朽ちて白い菌が生えた。屋根が低くて廣く見える街路には、西並の家の影が疎な鋸の齒の樣に落ちて、處々に馬を脱した荷馬車が片寄せてある。鷄が幾群も、其下に出つ入りつ、零れた米を土埃の中に漁つてゐた。會つて頭を下げる小兒等に、智惠子は一々笑ひ乍ら會釋を返して行く。  一人、煮絞めた樣な淺黄の手拭を冠つて、赤兒を背負つた十一二の女の兒が、とある家の軒下に立つて妹らしいのと遊んでゐたが、智惠子を見ると、鼻のひしやげた顏で卑しくニタ〳〵笑つて、垢だらけの首を傾げる。智惠子は側へ寄つて來た。 『先生!』 『お松、お前また此頃學校に來なくなつたね?』と、柔かな物言ひである。 『これ。』と背中の兒を搖つて、相變らずニタ〳〵と笑つてる。子守をするので學校に出られぬといふのだらう。 『背負つてでも可いからお出なさい。ね、子供の泣く時だけ外に出れば可いんだから。』  お松はそれには答へないで、『先生ア今日お菓子喰つてらけな。皆してお茶飮んで……。』 『ホホヽヽ。』と智惠子は笑つた。『何處から見てゐたの?……今日はお客樣が被來たから然うしたの。お前さんの家でもお客さんが行つたらお茶を出すんでせう?』 『出さねえ。』  信吾は歸省の翌々日、村の小學校を訪問したのであつた。 二  智惠子の泊まつてゐる濱野といふ家は町でもズット北寄りの──と言つても學校からは五六町しかない──寺道の入口の小さい茅葺家がそれである。智惠子が此家の前まで來ると、洗晒しの筒袖を着た小造りの女が、十許りの女の兒を上り框に腰掛けさせて髮を結つてやつて居た。  それと見た智惠子は直ぐ笑顏になつて、溝板を渡りながら、 『只今。』 『先生、今日は少し遲う御座んしたなッす。』 『ハ。』 『小川の信吾さんが、學校にお出で御座んしたらう?』 『え、被來てよ。』と言つた顏は心持赧かつた。『それに、今日は三十日ですから少し月末の調べ物があつて……。』と何やら辯疏らしく言ひながら、下駄を脱いで、 『アノ、郵便は來なくて小母さん?』 『ハ、何にも……然う〳〵、先刻靜子さんがお出でになつて、アノ、兄樣もお歸省になつたから先生に遊びに被來て下さる樣にツて。』 『然う? 今日ですか?』 『否。』と笑を含んだ。『何日とも被仰らな御座んした。』 『然うでしたか。』と安心した樣に言つて、『祖母さんは今日は?』 『少し好い樣で御座んす。今よく眠つてあんすから。』 『夜になると何日でも惡くなる樣ね。』と言ひながら、直ぐ横の破れた襖を開けて中を覗いた。薄暗い取散らかした室の隅に、臥床が設けてあつて、汚れた布團の襟から、彼方向の小い白髮頭が見えてゐる。枕頭には、漆の剥げた盆に茶碗やら、藥瓶やら、流通の惡い空氣が、藥の香と古疊の香に濕つて、氣持惡くムッとした。  智惠子は稍暫しその物憐れな室の中を見てゐたが、默つて襖を閉めて、自分の室に入つて行つた。  上り口の板敷から、敷居を跨げば、大きく焚火の爐を切つた、田舍風の廣い臺所で、其爐の横の滑りの惡い板戸を明けると、六疊の座敷になつてゐる。隔ての煤けた障子一重で、隣りは老母の病室──疊を布いた所は此二室しかないのだ。  東向に格子窓があつて、室の中は暗くはない。疊も此處は新しい。が、壁には古新聞が手際惡く貼られて、眞黒に煤けた屋根裏が見える、壁側に積重ねた布團には白い毛布が被つて、其に並んだ箪笥の上に、枕時計やら鏡臺やら、種々な手𢌞りの物が整然と列べられた。  脱いだ袴を疊んで、桃色メリンスの袴下を、同じ地の、大きく菊模樣を染めた腹合せの平生帶に換へると、智惠子は窓の前の机に坐つて、襟を正して新約全書を開いた。──これは基督信者なる智惠子の自ら定めた日課の一つ、五時間の授業に相應に疲れた心の兎もすれば弛むのを、恁うして勵まさうとするのだ。  展かれたのは、モウ手癖のついてゐる例の馬太傳第二十七章である。智惠子は心を沈めて小聲に讀み出した。縛られた耶蘇がピラトの前に引出されて罪に定められ、棘の冕を冠せられ、其面に唾せられ、雨の樣な嘲笑を浴びて、遂にゴルゴダの刑場に、二人の盜人と相並んで死に就くまでの悲壯を盡した詩──『耶蘇また大聲に呼はりて息絶えたり。』と第五十節迄讀んで來ると、智惠子は兩手を強く胸に組合せて、稍暫し默祷に耽つた。何時でも此章を讀むと、言ふに言はれぬ、深い〳〵心持になるのだ。  軈て智惠子は、昨日來た友達の手紙に返事を書かうと思つて、墨を磨り乍ら考へてゐると、不圖、今日初めて逢つた信吾の顏が心に浮んだ。……  丁度此時、信吾は學校の門から出て來た。 三  長過ぎる程の紺絣の單衣に、輕やかな絹の兵子帶、丈高い體を少し反身に何やら勢ひづいて學校の門を出て來た信吾の背後から、 『信吾さん!』と四邊憚からぬ澄んだ聲が響いて、色褪せた紫の袴を靡かせ乍ら、一人の女が急ぎ足に追驅けて來た。 『呀!』と振返つた信吾は笑顏を作つて、『貴女もモウ歸るんですか?』 『ハ、其邊まで御同伴。』と馴々しく言ひ乍ら、羞む色もなく男と並んで、『マア私の方が這麽に小さい!』  矢張女教師の神山富江といつて、女にして背の低い方ではないが、信吾と並んでは肩先までしか無い。それは一つは、葡萄色の緒の、穿き減した低い日和下駄を穿いてる爲でもある。肉の緊つた青白い細面の、醜い顏ではないが、少し反齒なのを隱さうとする樣に薄い脣を窄めてゐる。かと思へば、些細の事にも其齒を露出にして淡白らしく笑ふ。よく物を言ふ眼が間斷なく働いて、解けば手に餘る程の髮は黒い。天賦か職業柄か、時には二十八といふ齡に似合はぬ若々しい擧動も見せる。一つには未だ子を持たぬ爲でもあらう。  富江には夫がある。これも盛岡で學校教師をしてゐるが、人の噂では二度目の夫だとも言ふ。それが頗る妙で、富江が此村に來てからの三年の間、正月を除いては、農繁の休暇にも暑中の休暇にも、盛岡に歸らうとしない。それを怪んで訊ねると、 『何有、私なんかモウお婆さんで、夫の側に喰附いてゐたい齡でもありません。』と笑つてゐる。對手によつては、女教師の口から言ふべきでない事まで平氣で言つて、恥づるでもなく冗談にして了ふ。  村の人達は、富江を淡白な、さばけた、面白い女として心置なく待遇つてゐる。殊にも小川の母──お柳にはお氣に入りで、よく其家にも出入する。其麽事から、この町に唯一軒の小川家の親戚といふ、立花といふ家に半自炊の樣にして泊つてゐるのだ。服裝を飾るでもなく、本を讀むでもない。盛岡には一文も送らぬさうで、近所の内儀さんに融通してやる位の小金は何日でも持つてゐると言ふ。  街路は八分通り蔭つて、高聲に笑ひ交してゆく二人の、肩から横顏を明々と照す傾いた日もモウ左程暑くない。 『だが何だ、神山さんは何日見ても若いですね。』と揶揄ふ樣に甘つたるく舌を使つて、信吾は笑ひながら女を見下した。 『奢りませんよ。』と言ふ富江の聲は訛つてゐる。『ホヽヽ、いくら髭を生やしたつて其麽年老つた口は利くもんぢやありませんよ。』 『呀、また髭を……。』 『寄つてらつしやい。』と富江は俄かに足を留めた。何時しか己が宿の前まで來たのだ。 『次にしませう。』 『何故? モウ虐めませんよ。』 『御馳走しますか?』 『しますとも……。』 と言つてる所へ、家の中から四十五六の汚らしい裝をした、内儀さんが出て來て、信吾が先刻寄つて呉れた禮を諄々と述べて、夫もモウ歸る時分だから是非上れと言ふ。夫の金藏といふ此家の主人は、二十年も前から村役場の書記を勤めてゐるのだ。  信吾がそれを斷つて歩き出すと、 『信吾さん、それぢや屹度押しかけて行きますよ。』 『あゝ被來い、歌留多なら何時でもお相手になつて上げるから。』 『此方から教へに行くんですよ。』と笑ひ乍ら、富江は薄暗い家の中へ入つて行つた。  と、信吾は急に取濟した顏をして大胯に歩き出したが、加藤醫院の手前まで來ると、フト物忘れでもした樣に足を緩めた。 四  今しもその、五六軒彼方の加藤醫院へ、晩餐の準備の豆腐でも買つて來たらしい白い前掛の下女が急ぎ足に入つて行つた。 『何有、たかが知れた田舍女ぢやないか!』と、信吾は足の緩んだも氣が附かずに、我と我が撓む心を嘲つた。人妻となつた清子に顏を合せるのは、流石に快くない。快くないと思ふ心の起るのを、信吾は自分で不愉快なのだ。  寄らなければ寄らなくても濟む、別に用があるのでもないのだ。が、狹い村内の交際は、それでは濟まない。殊には、さまでもない病氣に親切にも毎日𢌞診に來てくれるから是非顏出しして來いと母にも言はれた。加之、今日は妹の靜子と二人で町に出て來たので、其妹は加藤の宅で兄を待合して一緒に歸ることにしてある。 『疚しい事があるんぢやなし……。』と信吾は自分を勵ました。『それに加藤は未だ𢌞診から歸つてゐまい。』と考へると、『然うだ。玄關だけで挨拶を濟まして、靜子を伴れ出して歸らうか。』と、つい卑怯な考へも浮ぶ。 『清子は甚麽顏をするだらう?』といふ好奇心が起つた。と、 『私はあの、貴方の言葉一つで……。』と言つて眤と瞳を据ゑた清子の顏が目に浮んだ。──それは去年の七月の末加藤との縁談が切迫塞つて、清子がとある社の杜に信吾を呼び出した折のこと。──その眼には、「今迄この私は貴方の所有と許り思つてました。恁う思つたのは間違でせうか?」といふ、心を張りつめた美しい質問が涙と共に光つてゐた。二人の上に垂れた楓の枝が微風に搖れて、葉洩れの日影が清子の顏を明るくし又暗くしたことさへ、鮮かに思出される。  稚い時からの戀の最後を、其時、二人は人知れず語つたのだ。……此追憶は、流石に信吾の心を輕くはしない。が、その時の事を考へると、『俺は強者だ。勝つたのだ。』といふ淺間しい自負心の滿足が、信吾の眼に荒んだ輝きを添へる……。  取濟ました顏をして、信吾は大胯に杖を醫院の玄關に運んだ。  昔は町でも一二の濱野屋といふ旅籠屋であつた、表裏に二階を上げた大きい茅葺家に、思切つた修繕を加へて、玄關造にして硝子戸を立てた。その取つてつけた樣な不調和な玄關には、『加藤醫院』と鹿爪らしい楷書で書いた、まだ新しい招牌を掲げた。──開業醫の加藤はもと他村の者であるが、この村に醫者が一人も無いのを見込んで一昨年の秋、この古家を買つて移つて來た。生れ村では左程の信用もないさうだが、根が人好きのする男で、技術の巧拙より患者への親切が、先づ村人の氣に入つた。そして、村長の娘の清子と結婚してからは馬を買ひ自轉車を買ひ、田舍者の目を驚かす手術臺やら機械やらを置き飾つて、隣村二ヶ村の村醫までも兼ねた。  信吾が落着いた聲で案内を乞ふと、小生意氣らしい十七八の書生が障子を開けた。其處は直ぐ藥局で、加藤の弟の代診をしてゐる愼次が、何やら薄紅い藥を計量器で計つてゐた。 『や、小川さんですか。』と計量器を持つた儘で、『さ何卒お上り下さいまし。』と無理に擬ねた樣な訛言を使つた。  そして『姉樣、姉樣。』と聲高く呼んで、『兄もモウ歸る時分ですから。』 『ハ、有難う。妹は參つてゐませんですか?』  其處へ横合ひの襖が開いて清子が出て來た。信吾を見ると、『呀。』と抑へた樣な聲を出して、膝をついて、『ようこそ。』と言ふも口の中。信吾はそれに挨拶をし乍らも、頭を下げた清子の耳の、薔薇の如く紅きを見のがさなかつた。 『さ何卒。靜さんも待つてらつしやいますから。』 『否、然うしては……。』と言はうとしたのを止して、信吾は下駄を脱いだ。處女らしい清子の擧動が、信吾の心に或る皮肉な好奇心を起さしめたのだ。 五  二十分許り經つて、信吾兄妹は加藤醫院を出た。  一筋町を北へ、一町許り行くと、傾き合つた汚ならしい、家と家の間から、家路を左へ入る、路は此處から、水車場の前の小橋を渡つて、小高い廣い麥畑を過ぎて、阪を下りて、北上川に架けられた、鶴飼橋といふ吊橋を渡つて十町許りで大字川崎の小川家に行く。落ちかけた夏の日が、熟して割れた柘榴色の光線を、青々とした麥畑の上に流して、眞正面に二人の顏を彩つた。  信吾は何氣ない顏をして歩き乍らも心では清子の事を考へてゐた。僅か二十分許りの間、座には靜子も居れば、加藤の母も愼次も交る〳〵挨拶に出た。信吾は極く物慣れた大人振つた口をきいた。清子は茶を薦め菓子を薦めつゝ唯淑かに、口數は少なかつた。そして男の顏を眞正面には得見なかつた。  唯一度、信吾は對手を「奧樣」と呼んで見た。清子は其時俯いて茶を注いでゐたが、返事はしなかつた。また顏も上げなかつた。信吾は女の心を讀んだ。  清子の事を考へると言つても、別に過ぎ去つた戀を思出してゐるのではない。また豫期してゐた樣な不快を感じて來たのでもない。寧ろ、一種の滿足の情が信吾の心を輕くしてゐる。一口に言へば、信吾は自分が何處までも勝利者であると感じたので。清子の擧動がそれを證明した。そして信吾は、加藤に對して少しの不快な感を抱いてゐない、却つてそれに親しまう、親しんで而して繁く往來しよう、と考へた。  加藤に親しみ、清子を見る機會を多くする、──否、清子に自分を見せる機會を多くする。此方が、清子を思つては居ないが、清子には何時までも此方を忘れさせたくない。それ許りでなく、猫が鼠を嬲る如く敗者の感情を弄ばうとする、荒んだ戀の驕慢は、も一度清子をして自分の前に泣かせて見たい樣な希望さへも心の底に孕んだ。 『清子さんは些とも變らないでせう。』と何かの序に靜子が言つた。靜子は、今日の兄の應待振の如何にも大人びてゐたのに感じてゐた。そして、兄との戀を自ら捨てた女友が、今となつて何故那麽未練氣のある擧動をするだらう。否、清子は自ら恥ぢてゐるのだ、其爲に臆すのだ、と許り考へてゐた。 『些とも變らないね。』と信吾は短い髭を捻つた。『幸福に暮してると年は老らないよ。』 『さうね。』  其話はそれ限になつた。 『今日隨分長く學校に被居たわね。貴兄智惠子さんに逢つたでせう?』 『智惠子? ウン日向さんか。逢つた。』 『何う思つて、兄樣は?』と笑を含む。 『美人だね。』と信吾も笑つた。 『顏許りぢやないわ。』と靜子は眞面目な眼をして、『それや好い方よ心も。私姉樣の樣に思つてるわ。』と言つて、熱心に智惠子の性格の美しく清い事、其一例として、濱野(智惠子の宿)の家族の生活が殆んど彼女の補助によつて續けられてゐる事などを話した。  信吾は其話を、腹では眞面目に、表面はニヤ〳〵笑ひ乍ら聽いてゐた。  二人が鶴飼橋へ差掛つた時、朱盆の樣な夏の日が岩手山の巓に落ちて、夕映の空が底もなく黄橙色に霞んだ。と、丈高い、頭髮をモヂャ〳〵さした、眼鏡をかけた一人の青年が、反對の方から橋の上に現れた。靜子は、 『アラ昌作叔父さんだわ。』と兄に咡く。 『オーイ。』と青年は遠くから呼んだ。 『迎ひに來た。家ぢや待つてるぞ。』  言ふ間もなく踵を返して、今來た路を自暴に大胯で歸つて行く。信吾は其後姿を見送り乍ら、愍れむ樣な輕蔑した樣な笑ひを浮べた。靜子は心持眉を顰めて、『阿母さんも酷いわね。迎ひなら昌作さんでなくたつて可いのに!』と獨語の樣に呟いた。 其三 一  曉方からの雨は午少し過ぎに霽つた。庭は飛石だけ先づ乾いて、子供等の散らかした草花が生々としてゐる。池には鯉が跳ねる。池の彼方が芝生の築山、築山の眞上に姿優しい姫神山が浮んで空には斷れ〴〵の白雲が流れた。──それが開放した東向の縁側から見える。地上に發散する水蒸氣が風なき空氣に籠つて、少し蒸す樣な午後の三時頃。 『それで何で御座いますか、えゝ、お食事の方は? 矢張お進みになりませんですか?』と言ひ乍ら、加藤は少し腰を浮かして、靜子が薦める金盥の水で眞似許り手を洗ふ。今しもお柳の診察──と言つても毎日の事でホンの型許り──が濟んだところだ。 『ハア、怎うも。……それでゐて恁う、始終何か喰べて見たい樣な氣がしまして、一日口按排が惡う御座いましてね。』とお柳も披つた襟を合せ、片寄せた煙草盆などを醫師の前に直したりする。  痩せた、透徹るほど蒼白い、鼻筋の見事に通つた、險のある眼の心持吊つた──左褄とつた昔を忍ばせる細面の小造りだけに遙と若く見えるが、四十を越した證は額の小皺に爭はれない。 『胃の所爲ですな。』と頷いて、加藤は新しい手巾で手を拭き乍ら坐り直した。 『で何です、明日からタカヂヤスターゼの錠劑を差上げて置きますから、食後に五六粒宛召上つて御覽なさい。え? 然うです。今までの水藥と散劑の外にです。碎くと不味う御座いますから、微温湯か何かで其儘お嚥みになる樣に。』と頤を突出して、喉佛を見せて嚥み下す時の樣子をする。  見るからが人の好さ相な、丸顏に髭の赤い、デップリと肥つた、色澤の好い男で、襟の塞つた背廣の、腿の邊が張り裂けさうだ。  茶を運んで來た靜子が出てゆくと、奧の襖が開いて、卷莨の袋を掴んだ信吾が入つて來た。 『や、これは。』と加藤は先づ挨拶する、信吾も坐つた。 『ようこそ。暑いところを毎日御足勞で……。』 『怎う致しまして。昨日は態々お立寄り下すつた相ですが、生憎と芋田の急病人へ行つてゐたものですから失禮致しました。今度町へ被來たら是非何卒。』 『ハ、有難う。これから時々お邪魔したいと思つてます。』と莨に火を點る。 『何卒さう願ひたいんで。これで何ですからな、無論私などもお話相手には參りませんが、何しろ狹い村なんで。』 『で御座いますからね。』とお柳が引取つた。『これが(頤で信吾を指して)退屈をしまして、去年なんぞは貴方、まだ二十日も休暇が殘つてるのに無理無體に東京に歸つた樣な譯で御座いましてね。今年はまた私が這麽にブラ〳〵してゐて思ふ樣に世話もやけず、何彼と不自由をさせますもんですから、もう昨日あたりからポツ〳〵小言が始りましてね。ホヽヽ。』 『然うですか。』と加藤は快活に笑つた。 『それぢや今年は信吾さんに逃げられない樣に、成るべく早くお癒りにならなけや不可ませんね。』 『えゝもうお蔭樣で、腰が大概良いもんですから、今日も恁うして朝から起きてゐますので。』 『何ですか、リウマチの方はもう癒つたんで?』と信吾は自分の話を避けた。 『左樣、根治とはまあ行き難い病氣ですが、……何卒。』と信吾の莨を一本取り乍ら、『撒里矢爾酸曹達が阿母さんのお體に合ひました樣で……。』とお柳の病氣の話をする。  開放した次の間では、靜子が茶棚から葉鐵の鑵を取出して、麥煎餅か何か盆に盛つてゐたが、それを持つて彼方へ行かうとする。 『靜や、何處へ?』とお柳が此方から小聲に呼止めた。 『昌作さん許へ。』と振返つた靜子は、立ち乍ら母の顏を見る。 『誰が來てるんだい?』と言ふ調子は低いながらに譴める樣に鋭かつた。 二 『山内樣よ。』と、靜子は温なしく答へて心持顏を曇らせる。 『然うかい。三尺さんかい!』とお柳は蔑む色を見せたが、流石に客の前を憚つて、『ホホホヽ。』と笑つた。 『昌作さんの背高に山内さんの三尺ぢや釣合はないやね。』 『昌作さんにお客?』と信吾は母の顏を見る。其間に靜子は彼方の室へ行つた。 『然うだとさ。山内さんて、登記所のお雇さんでね、月給が六圓だとさ。何で御座いますね。』と加藤の顏を見て、『然う言つちや何ですけれど、那麽小さい人も滅多にありませんねえ、家ぢや子供らが、誰が教へたでもないのに三尺さんといふ綽名をつけましてね。幾何叱つても山内さんを見れや然う言ふもんですから困つて了ひますよ。ホホヽヽ。七月兒だつてのは眞箇で御座いませうかね?』 『ハッハヽヽ。怎うですか知りませんが、那麽に生れついちやお氣の毒なもんですね。顏だつても綺麗だし、話して見ても色ンな事を知つてますが……。』 『えゝえゝ。』とお柳は俄かに眞面目臭つた顏をして、 『それやもう山内さんなんぞは、體こそ那麽でも、兎に角一人で喰つて行くだけの事をしてらつしやるんだから立派なもので御座いますが、昌作叔父さんと來たらまあ怎うでせう! 町の人達も嘸小川の剩れ者だつて笑つてるだらうと思ひましてね。』 『其麽ことは御座いません……。』 と加藤が何やら言はうとするのを、お柳は打消す樣にして、 『學校は勝手に廢めて來るし、あゝして毎日碌々してゐて何をする積りなんですか。私は這麽性質ですから諄々言つて見ることも御座いますが、人の前ぢや眼許りパチパチさしてゐて、カラもう現時の青年の樣ぢやありませんので。お宅にでも伺つた時は何とか忠告して遣つて下さいましよ。』 『ハハヽヽ。否、昌作さんにした所で何か屹度大きい御志望を有つて居られるんでせうて。それに何ですな、譬へ何を成さるにしても、あの御體格なら大丈夫で御座いますよ。……昌作さんも何ですが(と信吾を見て)失禮乍ら貴君も好い御體格ですな。五寸……六寸位はお有りでせうな? 何方がお高う御座います?』  氣の無い樣な顏をして煙りを吹いてゐた信吾は、『さあ、何方ですか。』と、吐月峯に莨の吸殼を突込む。 『何方ももう背許り延びてカラ役に立ちませんので、……電信柱にでも賣らなけや一文にもなるまいと申してゐますんで。ホホヽヽヽ。』と、お柳は取つて附けた樣に高笑ひする。加藤も爲方なしに笑つた。  十分許り經つて加藤は自轉車で歸つて行つた。信吾は玄關から直ぐ書齋の離室へ引返さうとすると 『信吾や、まあ可いぢやないか。』と言つて、お柳は先刻の座敷に戻る。 『お父樣は今日も役場ですか?』と、信吾は縁側に立つて空を眺めた。 『然うだとさ、何の用か知らないが……町へ出さへすれや何日でも昨晩の樣に醉つぱらつて來るんだよ。』と、我子の後姿を仰ぎ乍ら眉を顰める。 『爲方がない、交際だもの。』と投げる樣に言つて、敷居際に腰を下した。 『時にね。』とお柳は顏を和げて、『昨晩の話だね。お父樣のお歸りで其儘になつたつけが、お前よく靜に言つてお呉れよ。』 『何です、松原の話?』 『然うさ。』と眼をマヂ〳〵する。  信吾は霎時庭を眺めてゐたが、『まあ可いさ。休暇中に決めて了つたら可いでせう?』と言つて立上る。 『だけどもね……。』 『任して置きなさい。俺も少し考へて見るから。』と叱り附ける樣に言つて、まだ何か言ひたげな母の顏を上から見下した。そして我が室へは歸らずに、何を思つてか昌作の室の方へ行つた。 三  穢苦しい六疊室の、西向の障子がパッと明るく日を受けて、室一杯に莨の煙が蒸した。  信吾が入つて來た時、昌作は、窓側の机の下に毛だらけの長い脛を投げ入れて、無態に頬杖をついて熱心に喋つてゐた。  山内謙三は、チョコナンと人形の樣に坐つて、時々死んだ樣に力のない咳をし乍ら、狡さうな眼を輝かして温なしく聞いてゐる。萎えた白絣の襟を堅く合せて、柄に合はぬ縮緬の大幅の兵子帶を、小さい體に幾𢌞りも捲いた、狹い額には汗が滲んでゐる。  二人共、この春徴兵檢査を受けたのだが、五尺足らずの山内は誰が目にも十七八にしか見えない。それでゐて何處か擧動が老人染みてもゐる。昌作の方は、背の高い割に肉が削けて、漆黒な髮を態とモヂャ〳〵長くしてるのと、度の弱い鐵縁の眼鏡を掛けてるのとで二十四五にも見える。 『……然うぢやないか、山内さん。俺はあの時、奈何してもバイロンを死なしたくなかつた。彼にして死なずんばだな。山内さん、甚麽偉い事をして呉れたか知れないぢやないか! それを考へると俺は、夜寢てゝもバイロンの顏が……』と景氣づいて喋つてゐた昌作は、信吾の顏を見ると神經的に太い眉毛を動かして、『實に偉い!』と俄かに言葉を遁がした。そして可厭な顏をして、口を噤んだ。  信吾はニヤ〳〵笑ひ乍ら入つて來て、無造作に片膝を附く。と見ると山内は喰かけの麥煎餅の遣場に困つた樣に臆病らしくモヂ〳〵して、顏を赧めて頭を下げた。 『貴方は山内さんですね?』と信吾は鷹揚に見下す。 『ハ。』と又頭を下げて、其拍子に昌作の方をチラと偸視む。 『何です、昌作さん? 大分氣焔の樣だね。バイロンが怎うしたんです?』と信吾は矢張ニヤ〳〵して言ふ。 『怎うもしない。』と、昌作は不愉快な調子で答へた。 『怎うもしない? ハヽヽ。何ですか、貴方もバイロンの崇拜者で?』と山内を見る。 『ハ、否。』と喉が塞つた樣に言つて、山内は其狡さうな眼を一層狡さうに光らして、短かい髭を捻つてゐる信吾の顏をちらと見た。 『然うですか。だが何だね、バイロンは最う古いんでさ。あんなのは今ぢや最う古典になつてるんで、彼國でも第三流位にしきや思つてないんだ。感情が粗雜で稚氣があつて、獨で感激してると言つた樣な詩なんでさ。新時代の青年が那麽古いものを崇拜してちや爲樣が無いね。』 『眞理と美は常に新しい!』と、一度砂を潜つた樣にザラザラした聲を少し顫はして、昌作は倦怠相に胡座をかく。 『ハッハヽヽ。』と、信吾は事も無げに笑つた。『だが何かね? 昌作さんはバイロンの詩を何れ〳〵讀んだの?』  昌作の太い眉毛が、痙攣ける樣にピリヽと動いた。山内は臆病らしく二人を見てゐる。 『讀まなくちや爲樣が無い!』と嘲る樣に對手の顏を見て、 『讀まなくちや崇拜もない。何處を崇拜するんです?』 と揶揄ふ樣な調子になる。 『信吾や。』と隣の室からお柳が呼んだ。『富江さんが來たよ。』  昌作はジロリと其方を見た。そして信吾が山内に挨拶して出てゆくと、不快な冷笑を憚りもなく顏に出して、自暴に麥煎餅を頬張つた。  次の間にはお柳が不平相な顏をして立つてゐて、信吾の顏を見るや否や、『何だねえお前、那麽奴等の對手になつてさ! 九月になれや何處かの學校へ代用教員に遣るつて阿父樣が然う言つてるんだから、那麽愚物にや構はずにお置きよ。お前の方が愚物になるぢやないか!』と、險のある眼を一層激しくして譴める樣に言つた。  彼方の室からは子供らの笑聲に交つて、富江の躁いだ聲が響いた。 其四 一  遠くから見ただけの人は、智惠子をツンと取濟した、愛相のない、大理石の像の樣に冷い女とも思ふ。が、一度近づいて見ては、その滑かな美しい肌の下に、ぱつちりとした黒味勝の眼の底の、温かい心を感ぜずには居られぬ。  同情の深い智惠子は、宿の子供──十歳になる梅ちやんと五歳の新坊──が、もう七月になつたのに垢染みた袷を着て暑がつてるのを、例もの事ながら見るに見兼ねた。今日は幸ひ土曜日なので、授業が濟むと直ぐ歸つた。そして、歸途に買つて來た──一圓某の安物ではあるが──白地の荒い染の反物を裁つて、二人の單衣を仕立に掛つた。  障子を開けた格子窓の、直ぐ下から青い田が續いた。其青田を貫いて、此家の横から入つた寺道が、二町許りを眞直に、寶徳寺の門に隱れる。寺を圍んで蓊鬱とした杉の木立の上には、姫神山が金字塔の樣に見える。午後の日射は青田の稻のそよぎを生々照して、有るか無きかの初夏の風が心地よく窓に入る。壁一重の軒下を流れる小堰の水に、蝦を掬ふ子供等の叫び、さては寺道を山や田に往き返りの男女の暢氣の濁聲が手にとる樣に聞える──智惠子は其聞苦しい訛にも耳慣れた。去年の秋轉任になつてから、もう十ヶ月を此村に過したので。  隣室からは、床に就いて三月にもなる老女の、幽かな呻き聲が聞える。主婦のお利代は盥を門口に持出して、先刻からパチャ〳〵と洗濯の音をさしてゐる。智惠子は白い布を膝に披げて、餘念もなく針を動かしてゐた。  子供の衣服を縫ふ──といふ事が、端なくも智惠子をして亡き母を思出させた。智惠子は箪笥の上から、葡萄色天鵞絨の表紙の、厚い寫眞帖を取下して、机の上に展いた。  何處か俤の肖通つた四十許りの品の良い女の顏が寫されてゐる。智惠子はそれに懷し氣な眼を遣り乍ら針の目を運んだ。亡き母!……智惠子の身にも悲しき追憶はある。生れたのは盛岡だと言ふが、まだ物心附かぬうちから東京に育つた……父が長いこと農商務省に技手をしてゐたので……十五の春御茶の水女學校に入るまで、小學の課程は皆東京で受けた。智惠子が東京を懷しがるのは、必ずしも地方に育つた若い女の虚榮と同じではなかつた。十六の正月、父が俄かの病で死んだ。母と智惠子は住み慣れた都を去つて、盛岡に歸つた。──唯一人の兄が縣廳に奉職してゐたので。──浮世の悲哀といふものを、智惠子は其の時から知つた。間もなく母は病んだ。兄には善からぬ行ひがあつた。智惠子は學校にも行けなかつた。教會に足を入れ初めたのは其頃で。  長患ひの末、母は翌年になつて遂に死んだ。程なく兄は或る藝妓を落籍して夫婦になつた。智惠子は其賤き女を姉と呼ばねばならなかつた。遂に兄の意に逆つて洗禮を受けた。  智惠子は堅くも自活の決心をした。そして、十八の歳に師範學校の女子部に入つて、去年の春首尾克く卒業したのである。兄は今青森の大林區署に勤めてゐる。  父は嚴しい人で、母は優しい人であつた。その優しかつた母を思出す毎に智惠子は東京が戀しくてならぬ。住居は本郷の弓町であつた。四室か五室の廣からぬ家ではあつたが、……玄關の脇の四疊が智惠子の勉強部屋にされてゐた。衡門から筋向ひの家に、それは〳〵大きい楠が一株、雨も洩さぬ程繁つた枝を路の上に擴げてゐた。──靜子に訊けば、それが今猶殘つてゐると言ふ。 『那の邊の事を、怎う變つたか詳しく小川さんの兄樣に訊いて見ようか知ら!』とも考へてみた。そして、『訊いた所で仕方がない!』と思返した。  と、門口に何やら聲高に喋る聲が聞えた。洗濯の音が止んだ。『六錢。』といふ言葉だけは智惠子の耳にも入つた。 二  すると、お利代の下駄を脱ぐ音がして、輕い跫音が次の間に入つた。  何やら探す樣な氣勢がしてゐたが、鏗りと銅貨の相觸れる響。──霎時の間何の物音もしない、と老女の枕元の障子が靜かに開いて、窶れたお利代が顏を出した。 『先生、何とも……。』と小聲に遠慮し乍ら入つて來て、『あの、これが來まして……。』と言ひにくさうに膝をつく。 『何です!』と言つて、見ると、それは厚い一封の手紙、(濱野お利代殿)と筆太に書かれて、不足税の印が捺してある。 『細かいのが御座んしたら、あの、一寸二錢だけ足りませんから……。』 『あ、然う?』と皆まで言はせず輕く答へて、智惠子はそれを出してやる。お利代は極り惡氣にして出て行つた。  智惠子は不圖針の手を留めて、『子供の衣服よりは、お錢で上げた方が好かつたか知ら!』と、考へた。そして直ぐに、『否、まだ有るもの!』と、今しも机の上に置いた財布に目を遣つた。幾何かの持越と先月分の俸給十三圓、その内から下宿料や紙筆油などの雜用の拂ひを濟まし、今日反物を買つて來て、まだ五圓許りは殘つてるのである。  お利代は直ぐ引返して來て、櫛卷にした頭に小指を入れて掻き乍ら、 『眞箇に何時も〳〵先生に許り御迷惑をかけて。』と言つて、潤みを有つた大きい眼を氣の毒相に瞬く。左の手にはまだ封も切らぬ手紙を持つてゐた。 『まあ其麽こと!』と事も無げに言つたが、智惠子は心の中で、此女にはもう一錢も無いのだと考へた。 『今夜あの衣服を裁縫へて了へば、明日幾何か取れるので御座んすけれど……唯四錢しか無かつたもんですから。』 『小母さん!』と智惠子は口早に壓附ける樣に言つた。そして優しい調子で、 『私小母さんの家の人よ。ぢやなくつて?』  初めて聞いた言葉ではないが、お利代は大きい眼を瞠つて昵と智惠子の顏を見た。何と答へて可いか解らないのだ。  母は早く死んだ。父は家産を倒して行方が知れぬ。先夫は良い人であつたが、梅といふ女兒を殘して之も行方知れず(今は凾館にゐるが)二度目の夫は日露の戰に從つて歸らずなつた。何か軍律に背いた事があつて、死刑にされたのだといふ。七十を越した祖母一人に子供二人、己が手一つの仕立物では細い煙も立て難くて、一昨年から女教師を泊めた。去年代つた智惠子にも居て貰ふことにした。この春祖母が病み附いてからは、それでも足らぬ。足らぬ所は何處から出る? 智惠子の懷から!  言つて見れば赤の他人だ。が、智惠子の親切は肉身の姉妹も及ばぬとお利代は思つてゐる。美しくつて、優しくつて、確固した氣立、温かい情……かくまで自分に親しくしてくれる人が、またと此世にあらうかと、悲しきお利代は夜更けて生活の爲の裁縫をし乍らも、思はず智惠子の室に向いて手を合せる事がある。智惠子を有難いと思ふ心から、智惠子の信ずる神樣も有難いものに思つた。 『あの……小母さん。』と智惠子は稍躊躇ひ乍ら、机の上の財布を取つて其中から紙幣を一枚、二枚、三枚……若しや輕蔑したと思はれはせぬかと、直ぐにも出しかねて右の手に握つたが、 『あの、小母さん、私小母さんの家の人よ。ね。だからあの毎日我儘許りしてるんですから惡く思はないで頂戴よ。ね。私小母さんを姉さんと思つてゐるんですから。』 『それはもう……』と言つて、お利代は目を落して疊に片手をついた。 『だからあの、惡く思はれる樣だと私却つて濟まないことよ。ね。これはホンのお小遣よ。祖母さんにも何か……』と言ひ乍ら握つたものを出すと、俯いたお利代の膝に龍鍾と霰の樣な涙が落ちる。と見ると智惠子はグッと胸が迫つた。 『小母さん!』と、出した其手で矢庭に疊に突いたお利代の手を握つて、『神よ!』と心に叫んだ。『願はくば御惠を垂れ給へ!』と瞑ぢた其眼の長い睫毛を傳つて、美しい露が溢れた。 三 『あゝ。』といふ力無い欠伸が次の間から聞えて、『お利代、お利代。』と、嗄れた聲で呼び、老女が目を覺まして、寢返りでも爲たいのであらう。  智惠子はハッとした樣に手を引いた。お利代は涙に濡れた顏を擧げて、『は、只今。』と答へたが、其顏に言ふ許りなき感謝の意を湛へて、『一寸』と智惠子に會釋して立つ。急がしく涙を拭つて、隔ての障子を開けた。  其後姿を見送つた目を其處に置いて行つた手紙の上を移して、智惠子は眤と呼吸を凝した。神から授つた義務を果した樣な滿足の情が胸に溢れた。そして、『私に出來るだけは是非して上げねばならぬ!』と自分に命ずる樣に心に誓つた。 『あゝゝ、よく寢た。もう夜が明けたのかい、お利代?』と老女の聲が聞える。 『ホホヽヽ、今午後の三時頃ですよ祖母さん。お氣分は?』 『些とも平生と變らないよ。ナニか、先生はもうお出掛けか?』 『否、今日は土曜日ですから先刻にお歸りになりましたよ。そしてね祖母さん、あの、梅と新坊に單衣を買つて來て下すつて、今縫つて下すつてるの。』 『呀、然うかい。それぢやお前、何か御返禮に上げなくちや不可ないよ。』 『まあ祖母さんは! 何時でも昔の樣な氣で……。』 『ホヽヽ。然うだつたかい。だがねお利代、お前よく氣を附けてね、先生を大事にして上げなけれや不可ないよ。今度の先生の樣に良い人はお前、何處へ行つたつて有るものぢやないよ。』と子供にでも訓へる樣に言ふ。  智惠子はそれを聞くと、又しても眼の底に涙の鍾るを覺えた。 『ア痛、ア痛、寢返りの時に限つてお前は邪慳だよ。』と、今度はお利代を叱つてゐる。智惠子は氣が附いた樣に、また針を動かし出した。  五分許り經つてお利代が再び入つて來た時は、何を泣いてか其頬に新しい涙の痕が光つてゐた。 『お氣分が宜い樣ね?』 『は。もう夜が明けたかなんて恍けて……。』と少し笑つて、『皆先生のお蔭で御座います。』 『まあ小母さんは!』と同情深い眼を上げて、『小母さんは何だわね、私を家の人の樣にはして下さらないのね?』 『ですけれど先生、今もあのお祖母さんが、先生の樣な人は何處に行つても無いと申しまして……。』 と、流石は世慣れた齡だけに厚く禮を述べる。 『辛いわ、私!』と智惠子は言つた。 『何も私なんかに然う被仰る事はなくてよ、小母さんの樣に立派な心掛を有つてる人は、神樣が助けて下さるわ。』 『眞箇に先生、生きた神樣つたら先生の樣な人かと思ひまして。』 『まあ!』と心から驚いた樣な聲を出して、智惠子は涼しい眼を瞠つた。『其麽事被仰るもんぢやないわ。』 『は。』と言つてお利代は俯いた。今の言葉を若しやお世辭とでも取られたかと思つたのだらう。手は無意識に先刻の手紙に行く。 『あら小母さん、お手紙御覽なさいよ。何處から?』 『は。』と目を上げて、『凾館からですの。……あの梅の父から。』と心持極り惡氣に言ふ。 『ま、然う?』と輕く言つたが、惡い事を訊いたと心で悔んだ。 『あの、先月……十日許り前にも來たのを、返事を遣らなかつたもんですから……』 と言つてる時、門口に人の氣勢。 『日向さんは?』 『靜子さんですよ。』と咡いたお利代は急いで立つ。 『小母さん、これ。』と智惠子は先刻の紙幣を指さしたのでお利代は『それでは!』と受取つて室を出た。 四  挨拶が濟むと、靜子は直ぐ、智惠子が片附けかけた裁縫物に目をつけて、『まあ好い柄ね。』 『でも無いわ。』 『貴女ンの?』 『まさか! 這麽小さいの着られやしないわ。』と、笑ひ乍ら縫掛けのそれを抓んで見せる。 『梅ちやんの?』と少し聲を潜めた。 『え、新坊さんと二人の。』 『然う?』と言つて、靜子は思ひあり氣な眼附をした。無論、智惠子が買つてくれたものと心に察したので。  智惠子は身の周圍を取片附けると、改めて嬉しげな顏をして、『よく被來つたわね!』 『貴女は些とも被來つて下さらないのね?』 『濟まなかつたわ。』と何氣なく言つたが、一寸目の遣場困つた。そして、微笑んでる樣な靜子の目と見合せると色には出なかつたが、ポッと顏の赧むを覺えた。靜子清子の外には友も無い身の(富江とは同僚乍ら餘り親しくなかつた。)小川家にも一週に一度は必ず訊ねる習慣であつたのに、信吾が歸つてからは、何といふ事なしに訪ねようとしなかつた。 『今日はお忙しくつて?』 『否。土曜日ですもの、緩りしてらつしつても可いわね』 『可けないの。今日は私、お使ひよ。』 『でもまあ可いわ。』 『あら、貴女のお迎ひに來たのよ。今夜あの、宅で歌留多會を行りますから母が何卒ッて。……被來るわね?』 『歌留多、私取れなくつてよ。』 『まあ、貴女御謙遜ね?』 『眞箇よ。隨分久しく取らないんですもの。』 『可いわ。私だつて下手ですもの。ね、被來るわね?』 と靜子は姉にでも甘える樣な調子。 『然うね?』と智惠子は、心では行く事に決めてゐ乍ら、餘り氣の乘らぬ樣な口を利いて、 『誰々? 集るのは?』 『十人許しよ。』 『隨分大勢ね?』 『だつて、宅許りでも選手が三人ゐるんですもの。』 『オヤ、その一人は?』と智惠子は調戲ふ樣に目で笑ふ。 『此處に。』と頤で我が胸を指して、『下手組の大將よ。』と無邪氣に笑つた。  智惠子は、信吾が歸つてからの靜子の、常になく生々と噪いでゐることを感じた。そして、それが何かしら物足らぬ樣な情緒を起させた。自分にも兄がある。然し、その兄と自分との間に、何の情愛がある?  智惠子は我知らず氣が進んだ。『何時から? 靜子さん。』 『今直ぐ、何にも無いんですけど晩餐を差上げてから始めるんですつて。私これから、清子さんと神山さんをお誘ひして行かなけやならないの。一緒に行つて下すつて? 濟まないけど。』 『は。貴女となら何處までゞも。』と笑つた。  軈て智惠子は、『それでは一寸。』と會釋して、『失禮ですわねえ。』と言ひ乍ら、室の隅で着換へに懸つたが、何を思つてか、取出した衣服は其儘に、着てゐた紺絣の平常着へ、袴だけ穿いた。  其後姿を見上げてゐた靜子は、思出す事でもあるらしく笑を含んでゐたが少し小聲で、 『あの、山内樣ね。』 『え。』と此方へ向く。 『アノウ……』と、智惠子の眞面目な顏を見ては惡いことを言出したと思つたらしく、心持極り惡氣に頬を染めたが、『詰らない事よ。……でも神山さんが言つてるの。あの、少し何してるんですつて、神山さんに。』 『何してるつて、何を?』 『あら!』と靜子は耳まで紅くした。 『まさか!』 『でも富江さん自身で被仰つたんですわ。』と、自分の事でも辯解する樣に言ふ。 『まあ彼の方は!』と智惠子は少し驚いた樣に目を瞠つた。それは富江の事を言つたのだが、靜子の方では、山内の事の樣に聞いた。  程なくして二人は此家を出た。 五  二人が醫院の玄關に入ると、藥局の椅子に靠れて、處方簿か何かを調べてゐた加藤は、やをら其帳簿を伏せて快活に迎へた。 『や、婦人隊の方は少々遲れましたね、昌作さんの一隊は二十分許り前に行きましたよ。』 『然うで御座いますか。あの愼次さんも被來つて?』 『は。弟は歌留多を取つた事がないてんで弱つてましたが、到頭引つ張られて行きました。まお上がんなさい。こら、清子、清子。』  そして、清子の行く事も快く許された。 『貴君も如何で御座いますか?』と智惠子が言つた。 『ハッハヽヽ、私は駄目ですよ、生れてから未だ歌留多に勝つた事がないんで……だが何です、負傷者でもある樣でしたら救護員として出張しませう。』  清子が着換の間に、靜子は富江の宿を訪ねたが、一人で先に行つたといふ事であつた。  三人の女傘が後になり先になり、穗の揃つた麥畑の中を睦し氣に川崎に向つた。丁度鶴飼橋の袂に來た時、其處で落合ふ別の道から山内と出會した。山内は顏を眞赤にして會釋して、不即不離の間隔をとつて、いかにも窮屈らしい足取で、十間許り前方をチョコ〳〵と歩いた。  程近い線路を、好摩四時半發の上り列車が凄じい音を立てゝ過ぎた頃、一行は小川家に着いた。噪いだ富江の笑聲が屋外までも洩れた。岩手山は薄紫に矒けて、其肩近く靜なる夏の日が傾いてゐた。  富江の外に、校長の進藤、準訓導の森川、加藤の弟の愼次、農學校を卒業したといふ馬顏の沼田、それに巡囘に來た松山といふ巡査まで上り込んで、大分話が賑つてゐた。其處へ山内も交つた。  女組は一まづ別室に休息した。富江一人は彼室へ行き此室へ行き、宛然我家の樣に振舞つた。お柳は朝から口喧しく臺所を指揮してゐた。  晩餐の際には、嚴めしい口髭を生やした主人の信之も出た。主人と巡査と校長の間に持上つた鮎釣の自慢話、それから、此近所の山にも猿が居る居ないの議論──それが濟まぬうちに晩餐は終つて巡査は間もなく歸つた。  軈て信吾の書齋にしてゐる離室に、歌留多の札が撒かれた。明るい五分心の吊洋燈二つの下に、入交りに男女の頭が兩方から突合つて、其下を白い手や黒い手が飛ぶ。行儀よく並んだ札が見る間に減つて、開放した室が刻々に蒸熱くなつた。智惠子の前に一枚、富江の前に一枚……頬と頬が觸れる許りに頭が集る。『春の夜の──』と山内が妙に氣取つた節で讀上げると、 『萬歳ツ。』と富江が金切聲で叫んだ。智惠子の札が手際よく拔かれて、第一戰は富江方の勝に歸した。智惠子、信吾、沼田、愼次、清子の顏には白粉が塗られた。信吾の片髭が白くなつたのを指さして、富江は聲の限り笑つた。一同もそれに和した。沼田は片肌を脱ぎ、森川は立襟の洋服の釦を脱して風を入れ乍ら、乾き掛つた白粉で皮膚が痙攣る樣なのを氣にして、顏を妙にモグ〳〵さしたので、一同は又笑つた。 『今度は復讐しませう。』と信吾が言つた。 『ホホヽヽ。』と智惠子は唯笑つた。 『新しく組を分けるんですよ。』と、富江は誰に言ふでもなく言つて、急しく札を切る。 六  二度目の合戰が始つて間もなくであつた。靜子の前の「たゞ有明」の札に、對合つた昌作の手と靜子の手と、殆んど同時に落ちた。此方が先だ、否、此方が早いと、他の者まで面白づくで騷ぐ。 『敗けてお遣りよ。昌作さんが可哀想だから。』と見物してゐたお柳が喙を容れた。不快な顏をして昌作は手を引いた。靜子は氣の毒になつて、無言で昌作の札を一枚自分の方へ取つた。昌作はそれを邪慳に奪ひ返した。其合戰が濟むと、昌作は無理に望んで讀手になつた。そして到頭終ひまで讀手で通した。  何と言つても信吾が一番上手であつた。上の句の頭字を五十音順に列べた其配列法が、最初少からず富江の怨みを買つた。しかし富江も仲々信吾に劣らなかつた。そして組を分ける毎に、信吾と敵になるのを喜んだ。二人の戰ひは隨分目覺ましかつた。  信吾に限らず、男といふ男は、皆富江の敏捷い攻撃を蒙つた。富江は一人で噪ぎ切つて、遠慮もなく對手の札を拔く、其拔方が少し汚なくて、五囘六囘と續くうちに、指に紙片で繃帶する者も出來た。そして富江は、一心になつて目前の札を守つてゐる山内に、隙さへあれば遠くからでも襲撃を加へることを怠らなかつた。其度、山内は上氣した小さい顏を擧げて、眼を三角にして怨むが如く富江の顏を見る。『オホヽヽ。』と、富江は面白氣に笑ふ。靜子と智惠子は幾度か目を見合せた。  一度、信吾は智惠子の札を拔いたが、汚なかつたと言つて遂に札を送らなかつた。次いで智惠子が信吾のを拔いた。 『イヤ、參りました。』と言つて、信吾は強ひて、一枚貰つた。  其合戰の終りに、信吾と智惠子の前に一枚宛殘つた。昌作は立つて來て覗いてゐたが、氣合を計つて、 『千早ふる──』と叫んだ。それは智惠子の札で、信吾の敗となつた。 『マア此人は!』と、富江はしたゝか昌作の背を平手で擲しつけた。昌作は赤くなつた顏を勃とした樣に口を尖らした。  可哀想なは愼次で、四五枚の札も守り切れず、イザとなると可笑しい身振をして狼狽く。それを面白がつたのは嫂の清子と靜子であるが、其狼狽方が故意とらしくも見えた。滑稽でもあり氣の毒でもあつたのは校長の進藤で、勝敗がつく毎に鯰髭を捻つては、『年を老ると駄目です喃。』と啣してゐた。一度昌作に代つて讀手になつたが、間違つたり吃つたりするので、二十枚と讀まぬうちに富江の抗議で罷めて了つた。  我を忘れる混戰の中でも、流石に心々の色は見える。靜子の目には、兄と清子の間に遠慮が明瞭と見えた。清子は始終敬虔くしてゐたが、一度信吾と並んで坐つた時、いかにも極り惡氣であつた。その清子の目からは亦信吾の智惠子に對する擧動が、全くの無意味には見えなかつた。そして富江の阿婆摺れた調子、殊にも信吾に對する忸々しい態度は、日頃富江を心に輕んじてゐる智惠子をして多少の不快を感ぜしめぬ譯にいかなつた。  九時過ぎて濟んだ、茶が出、菓子が出る。殘りなく白粉の塗られた顏を、一同は互ひに笑つた。消さずに歸る事と誰やらが言出したが、智惠子清子靜子の三人は何時の間にか洗つて來た。富江が不平を言ひ出して、三人に更めて附けようと騷いだが、それは信吾が宥めた。そして富江は遂に消さなかつた。森川は上衣の釦をかけて、乾いた手巾で顏を拭いた。宛然厚化粧した樣になつて、黒い齒の間に一枚の入齒が、殊更らしく光つた。妖怪の樣だと言つて一同がまた笑つた。  軈てドヤ〳〵と歸路についた。信吾兄妹も鶴飼橋まで送ると言つて一同と一緒に戸外に出た。雲一つなき天に片割月が傾いて、靜かにシットリとした夜氣が、相應に疲れてゐる各々の頭腦に、水の如く流れ込んだ。 七  淡い夜霧が田畑の上に動くともなく流れて、月光が柔かに濕うてゐる。夏もまだ深からぬ夜の甘さが、草木の魂を蕩かして、天地は限りなき靜寂の夢を罩めた。見知らぬ郷の音信の樣に、北上川の水瀬の音が、そのしつとりとした空氣を顫はせる。  男も女も、我知らず深い呼吸をした。各々の疲れた頭腦は、今までの華やかな明るい室の中の樣と、この夜の村の靜寂の間の關係を、一寸心に見出しかねる……と、眼の前に歌留多の札がちらつく。歌の句が片々に混雜つて、唆るやうに耳の底に甦る。『あの時──』と何やら思出される。それが餘りに近い記憶なので却つて全體まで思出されずに消えて了ふ。四邊は靜かだ。濕つた土に擦れる下駄の、音が取留めもなく縺れて、疲れた頭が直ぐ朦々となる。霎時は皆無言で足を運んだ。  田の中を逶つた路が細い。十人は長い不規則な列を作つた。最先に沼田が行く。次は富江、次は愼次、次は校長……森川山内と續いて、山内と智惠子の間は少し途斷れた。智惠子のすぐ後ろを、丈高い信吾が歩いた。  智惠子は甘い悲哀を感じた。若い心はウットリとして、何か恁う、自分の知らなんだ境を見て歸る樣な氣持である。詰らなく騷いだ! とも思へる。樂しかつた! とも思へる。そして、心の底の何處かでは、富江の阿婆摺れた噪ぎ方が、不愉快でならなかつた。そして、何といふ譯もなしに直ぐ後ろから跟いて來る信吾の跫音が心にとまつてゐた。  其姿は、何處か、夢を見てゐる人の樣に悄然とした、髮も亂れた。  先づ平生の心に歸つたのは富江であつた。『ね、沼田さん。あの時そら貴方の前に「むべ山」があつたでせう? あれが私の十八番ですの。屹度拔いて上げませうと思つて待つてると、信吾さんに札が無くなつて、貴方が「むべ山」と「流れもあへぬ」を信吾さんへ遣つたでせう? 私厭になつちまひましたよ。ホホヽヽ。』と、先刻の事を喋り出した。『ハハヽヽ。』と四五人一度に笑ふ。 『森川さんの憎いつたらありやしない。那麽に亂暴しなくたつて可いのに、到頭「聲きく時」を裂いちまつた……。』 と、富江は氣に乘つて語り繼ぐ。  信吾は、間隔を隔つてゐる爲か、何も言はなかつた。笑ひもしなかつた。其心は眼前の智惠子を追うてゐた。そして、其後の清子の心は信吾を追うてゐた。其又後ろの靜子の心は清子を追うてゐた。そして、四人共に何も言はずに足を運んだ。  路が下田路に合つて稍廣くなつた。前の方の四五人は、甲高い富江の笑聲を圍んで一團になつた。町歸りの醉漢が、何やら呟き乍ら蹣跚とした歩調で行き過ぎた。  と、信吾は智惠子と相並んだ。 『奈何です、此靜かな夜の感想は?』 『眞箇に靜かで御座いますねえ。』と、少し間をおいて智惠子は答へる。 『貴女は何でせう、歌留多なんか餘りお好きぢやないでせう?』 『でもないんで御座いますけれど……然し今夜は、眞箇に樂しう御座いました。』と遠慮勝に男を仰いだ。 『ハハヽヽ。』と笑つて信吾は杖の尖でコツ〳〵石を叩き乍ら歩いたが、 『何ですね。貴女は基督教信者で?』 『ハ。』と低い聲で答へる。 『何か其方の本を貸して下さいませんか? 今迄つい宗教の事は、調べて見る機會も時間もなかつたんですが、此夏は少し遣つて見ようかと思ふんです。幸ひ貴女の御意見も聞かれるし……。』 『御覽になる樣な本なんぞ……あの、私こそ此夏は、靜子さんにでもお願ひして頂いて、何か拜借して勉強したいと思ひまして……。』 『否、別に面白い本も持つて來ないんですが、御覽になるなら何時でも……。すると何ですか、此夏は何處にも被行らないんですか?』 『え。まあ其積りで……。』  路は小さい杜に入つて、月光を遮つた青葉が風もなく、四邊を香はした。 八  仄暗い杜を出ると、北上川の水音が俄かに近くなつた。 『貴女は小説はお嫌ひですか?』と、信吾は少し唐突に問うた。其の時はもう肩も摩れ〳〵に並んでゐた。 『一概には申されませんけれど、嫌ひぢや御座いません。』と落着いた答へをして閃と男の横顏を仰いだが、智惠子の心には妙に落着がなかつた。前方の人達からは何時しか七八間も遲れた。後ろからは清子と靜子が來る。其跫音も何うやら少し遠ざかつた。そして自分が信吾と並んで話し乍ら歩く……何となき不安が胸に萠してゐた。  立留つて後の二人を待たうかと、一歩毎に思ふのだが、何故かそれも出來なかつた。 『あれはお讀みですか、風葉の「戀ざめ」は?』と信吾はまた問うた。 『あの發賣禁止になつたとか言ふ……?』 『然うです。あれを禁止したのは無理ですよ。尤もあれだけじや無い、眞面目な作で同じ運命に逢つたのが隨分ありますからねえ。折角拵へた御馳走を片端から犬に喰はれる樣なもんで……ハハヽヽ。「戀ざめ」なんか別に惡い所が無いぢやないですか?』 『私はまだ讀みません。』 『然うでしたか。』と言つて、信吾は未だ何か言はうと唇を動かしかけたが、それを罷めてニヤ〳〵と薄笑を浮べた。月を負うて歩いてるので、無論それは女に見えなかつた。  信吾は心に、何ういふ連想からか、かの「戀ざめ」に描かれてある事實──否あれを書く時の作者の心持、否、あれを讀んだ時の信吾自身の心持を思出してゐた。  五六歩歩くと、智惠子の柔かな手に、男の手の甲が、木の葉が落ちて觸る程輕く觸つた。寒いとも温かいともつかぬ、電光の樣な感じが智惠子の腦を掠めて、體が自ら剛くなつた。二三歩すると又觸つた。今度は少し強かつた。  智惠子は其手を口の邊へ持つて來て輕く故意とらしからぬ咳をした。そして、礑と足を留めて後ろを振返つた。清子と靜子は肩を並べて、二人とも俯向いて、十間も彼方から來る。  信吾は五六歩歩いて、思切り惡さうに立留つた。そして矢張り振返つた。目は、淡く月光を浴びた智惠子の横顏を見てゐる。コツ〳〵と、杖の尖で下駄の鼻を叩いた。其顏には、自ら嘲る樣な、或は又、對手を蔑視つた樣な笑が浮んでゐた。  清子と靜子は、霎時は二人が立留つてゐるのも氣附かぬ如くであつた。清子は初めから物思はし氣に俯向いて、そして、物も言はず、出來るだけ足を遲くしようとする。 『濟まなかつたわね、清子さん、恁麽に遲くしちやつて。』と、も少し前に靜子が言つた。 『否。』と一言答へて清子は寂しく笑つた。 『だつて、お宅ぢや心配してらつしやるわ、屹度。尤も愼次さんも被來たんだから可いけど……。』 『靜子さん!』と、稍あつてから力を籠めて言つて、昵と靜子の手を握つた。 『恁うして居たいわ、私。……』 『え?』 『恁うして! 何處までも、何處までも恁うして歩いて……。』  靜子は譯もなく胸が迫つて、握られた手を強く握り返した。二人は然し互ひに顏を見合さなかつた。何處までも恁うして歩く! 此美しい夢の樣な言葉は華かな歌留多の後の、疲れて矒乎として、淡い月光と柔かな靄に包まれて、底もなき甘い夜の靜寂の中に蕩けさうになつた靜子の心をして、譯もなき咄嗟の同情を起さしめた。 『此女は兄に未練を有つてる!』といふ考へが、瞬く後に靜子の感情を制した。厭はしき怖れが、胸に湧いた。然しそれも清子に對する同情を全くは消さなかつた。女は悲しいものだ! と言ふ樣な悲哀が、靜子に何も言ふべき言葉を見出させなかつた。 『怎うです。少し早く歩いては?』と信吾が呼んだ。二人は驚いて顏を擧げた。 九  其夜、人々に別れて智惠子が宿に着いた時はもう十時を過ぎてゐた。  ガタピシする入口の戸を開けると、其處から見通しの臺所の爐邊に、薄暗く火屋の曇つた、紙笠の破れた三分心の吊洋燈の下で、物思はし氣に悄然と坐つて裁縫をしてゐたお利代は、『あ、お歸りで御座いますか。』と忙しく出迎へる。 『遲くなりまして、新坊さんももうお寢み?』 『は、皆寢みました。先生もお泊りかと思つたんですけれど……。』と言ひ乍ら先に立つて智惠子の室に入つて、手早く机の上の洋燈を點す。臥床が延べてあつた。  お泊りかと思つたといふ言葉が、何故か智惠子の耳に不愉快に響いた。今迄お利代の坐つてゐた所には、長い手紙が擴げたなりに逶迤つてゐた。ちらとそれを見乍ら智惠子は室に入つて、『マア臥床まで延べて下すつて、濟まなかつたわ、小母さん。』 『何の、先生。』と笑顏を見せて、『面白う御座んしたでせう?』 『え……。』と少し曖昧に濁して、『私疲れちやつたわ。』と邪氣なく言ひ乍ら、袴も脱がずに坐る。 『誰方が一番お上手でした?』 『皆樣お上手よ。私なんか今迄餘り歌留多も取つた事がないもんですから、敗けて許り。』と莞爾する。ほつれた髮が頬に亂れてる所爲か、其顏が常よりも艶に見えた。  成程智惠子は遊戯などに心を打込む樣な性格でないと思つたので、お利代は感心した樣に、『然うでせうねえ!』と大きい眼をパチ〳〵する。  それから二人は、一時間前に漸々寢入つたといふ老女の話などをしてゐたが、お利代は立つて行つて、今日凾館から來たといふ手紙を持つて來た。そして、 『先生、怎うしたものでせうねえ?』と愁はし氣な、極り惡氣な顏をして話し出した。其手紙はお利代の先夫からである。以前にも一度來た。返事を出さなかつたので又來た。梅といふ子が生れた翌年不圖行方知れずになつてからもう九年になる。其長い間の詫を細々書いて、そして、自分は今凾館の或商會の支店を預る位の身分になつたから、是非共過去の自分の罪を許して、一家を擧げて凾館に來てくれと言つて來たのである。そして、自分の家出の後に二度目の夫のあつた事、それが死んだ事も聞知つてゐる。生れた新坊は矢張り自分の子と思つて育てたいと優しくも言葉を添へた。──  身を入れて其話を聞いてゐた智惠子は、愼しいお利代の口振りの底に、此悲しい女の心は今猶その先夫の梅次郎を慕つてゐる事を知つた。そして無理もないと思つた。  無理もないと思ひつゝも、智惠子の心には思ひもかけぬ怪しき陰翳がさした。智惠子は心から此哀れなる寡婦に同情してゐた。そして自己に出來るだけの補助をする──人を救ふといふことは樂しい事だ。今迄お利代を救ふものは自己一人であつた。然し今は然うでない!  誰しも恁麽場合に感ずる一種の不滿を、智惠子も感ぜずに居れなかつた。が、すぐにそれを打消した。 『で御座いますからね。』お利代は言葉をついだ。『まあ何方にした所で、祖母さんの病氣を癒すのが一番で御座いますがね。……何と返事したものかと思ひまして。』 『然うね。』と云つて、智惠子は睫毛の長い眼を瞬いてゐたが、『忝ないわ、私なんかに御相談して下すつて。……あの小母さん、兎も角今のお家の事情を詳しく然う言つて上げた方が可かなくつて? 被行る方が可いと、まあ私だけは思ふわ。だけど怎うせ今直ぐとはいかないんですから。』 『然うで御座いますねえ。』とお利代は俯向いて言つた。實は自分も然う思つてゐたので。 一〇 『然うなすつた方が可いわ、小母さん。』と智惠子は俯向いたお利代の胸の邊を昵と瞶めた。 『然うで御座いますねえ。』と同じ事を繰返して、稍あつてお利代は思ひ餘つた樣な顏をあげたが、『怎うせ行くとしましても、それやまあ祖母さんが何うにか、あの快癒つてからの事で御座いますから、何時の事だか解りませんけれども、何だかあの、生れ村を離れて北海道あたりまで行つて、此先何うなることかと思ふと……。』 『それやね、決めるまでにはまあ、間違ひはないでせうけれど、先方の事も詳しく何して見てから……』 『其處ンところはあの、確乎だらうと思ひますですが……今日もあの、手紙の中に十圓だけ入れて寄越して呉れましたから……。』 『おや然うでしたか。』と言つたが、智惠子はそれに就いての自分の感想を成るべく顏に現さぬ樣に努めて、 『兎も角お返事はお上げなすつた方が可いわ。矢張り梅ちやんや新坊さんの爲には……。』と、智惠子はお利代の思つてゐる樣な事を理を分けて説いてみた。説いてるうちに、何か恁う、自分が今善事をしてると云つた樣な氣持がして來た。 『然うで御座いますねえ。』と、お利代は大きい眼を屡叩き乍ら、未だ瞭りと自分の心を言出しかねる樣で、『恁うして先生のお世話を頂いてると、私はもう何日までも此儘で居た方が幾ら樂しいか知れませんけれども。』 『私だつて然う思うわ、小母さん、眞箇に……。』と言ひかけたが、何かしら不圖胸の中に頭を擡げた思想があつて言葉は途斷れた。『神樣の思召よ。人間の勝手にはならないんですわね。』 『先生にしたところで、』と、お利代は智惠子の顏をマヂマヂと瞶め乍ら、『怎うせ、御結婚なさらなけれやなりませんでせうし……。』 『ホヽヽヽ。』と智惠子は輕く笑つて、『小母さん、私まだ考へても見た事が無くつてよ。自分の結婚なんか。』  話題はそれで逸れた。程なくしてお利代が出てゆくと、智惠子はやをら立つて袴を脱いで、丁寧にそれを疊んでゐたが、何時か其の手が鈍つた。そして再び机の前に坐ると、昵と洋燈の火を瞶めて、時々氣が附いた樣に長い睫毛を屡叩いてゐた。隣室では新坊が眼を覺まして何かむづかつてゐたが、智惠子にはそれも聞えぬらしかつた。  智惠子の心は平生になく混亂つてゐた。お利代一家のことも考へてみた。お利代の悲しき運命、──それを怎うやら恁うやら切拔けて來た心根を思ふと、實に同情に堪へない、今は加藤醫院になつてる家、あの家が以前お利代の育つた家、──四年前にそれが人手に渡つた。其昔、町でも一二の濱野屋の女主人として、十幾人の下女下男を使つた祖母が、癒る望みもない老の病に、彼樣して寢てゐる心は怎うであらう! 人間の一生の悲痛が時あつて智惠子の心を脅かす。……然し、此悲しきお利代の一家にも、思懸けぬ幸福が湧いて來た! 智惠子は神の御心に委ねた身乍らに、獨ぼツちの寂しさを感ぜぬ譯にいかなかつた。  行末怎うなるのか! といふ眞摯な考への横合から、富江の躁いだ笑聲が響く。つと、信吾の生白い顏が頭に浮ぶ、──智惠子は嚴肅な顏をして、屹と自分を譴める樣に唇を噛んだ。『男は淺猿しいものだ!』と心で言つて見た。青森にゐる兄の事が思出されたので。──嫂の言葉に返事もせず、竈の下を焚きつけ乍らも聖書を讀んだ頃が思出された。亡母の事が思出された。東京にゐる頃が思出された。  遂に、あの頃のお友達は今怎うなつたらうと思ふと、今の我身の果敢なく寂しく頼りなく張合のない、孤獨の状態を、白地に見せつけられた樣な氣がして、智惠子は無性に泣きたくなつた。矢庭に兩手を胸の上に組んで、長く〳〵祈つた。長く〳〵祈つた。……  侘しき山里の夜は更けて、隣家の馬のゴト〳〵と羽目板を蹴る音のみが聞えた。 其五 一  何日しか七月も下旬になつた。  かの歌留多會の翌日信吾は初めて智惠子の宿を訪ねたのであつた。其時は、イプセンの飜譯一二册に、『イプセン解説』と題して信吾自身が書いた、五六頁許りの評論の載つてゐる雜誌を態々持つて行つて貸して、智惠子からはルナンの耶蘇傳の飜譯を借りた。それを手初めに信吾は五六度も智惠子を訪ねた。  信吾は智惠子に對して殊更に尊敬の態度を採つた。時としては、もう幾年もの親しい友達の樣な口も利くが、概して二人の間に交換される會話は、恁麽田舍では聞かれた事のない高尚な問題で、人生とか信仰とか創作とかいふ語が多い。信吾は好んで其麽問題を擔ぎ出し、對手に解らぬと知り乍ら六ヶ敷い哲學上の議論までする。氣をつけて聞けば、其謂ふ所に、或は一貫した思想も意見も無かつたかも知れぬ。又、其好んで口にする泰西の哲人の名に就いて彼自身の有つてゐる知識も疑問であつたかも知れぬ。それは兎も角、信吾が其麽事を調子よく喋る時は、血の多い人のする樣に、大仰に眉を動したり、手を振つたり、自分の言ふ事に自分で先づ感動した樣子をする。 『僕は不思議ですねえ。恁うして貴女と話してると、何だか自然に眞面目になつて、若々しくなつて、平生考へてる事を皆言つて了ひたくなる。この二三年は何か恁う不安があつて、言はうと思ふこともつい人の前では言へなかつたりする樣になつてゐたんですが……實に不思議です。自分の思想を聞いてくれる人がある、否、それを言ひ得るといふ事が、既に一種の幸福を感じますね。』 と或時信吾は眞面目な口振で言つた。然しそれは、或は次の如く言ふべきであつたかも知れぬ。 『僕は不思議ですねえ。恁うして貴女と話してると、何だか自然に芝居を演りたくなつて來て、つい心にない事まで言つて了ひます。』  智惠子の方では、信吾の足繁き訪問に就いて、多少村の人達の思惑を心配せぬ譯にいかなかつた。狹い村だけに少しの事も意味あり氣に囃し立てるのが常である。萬一其麽事があつては誠に心外の至りであると智惠子は思つた。それで成るべく寡言に、隙のない樣に待遇つてゐるが、腑に落ちぬ事があり乍らも信吾の話が珍しい。我知らず熱心になつて、時には自分の考へを言つても見るが、其麽時には、信吾は大袈裟に同感して見せる。歸つた後で考へてみると、男には矢張り氣障な厭味な事が多い。殊更に自分の歡心を買はうとすることろが見える。『那した性質の人だ!』と智惠子は考へた。  智惠子を訪ねた日は、大抵その足で信吾は富江を訪ねる。富江は例に變らぬ調子で男を迎へる。信吾はニヤニヤ心で笑ひ乍ら川崎の家へ歸る。  暑氣は日一日と酷しくなつて來た。殊にも今年は雨が少なくて、田といふ田には水が十分でない。日中は家の中でさへ九十度に上る。  今朝も朝から雲一つ無く、東向の靜子の室の障子が、カッと眩しい朝日を受けて、晝の暑氣が思ひやられる。靜子は朝餐の後を、母から兄の單衣の縫直しを吩咐つて、一人其室に坐つた。  ちらと鳥影が其障子に映つた。 『靜さん、其單衣はね……。』と言ひ乍ら信吾が入つて來た。 『兄樣、今日は屹度お客樣よ。』 『何故?』 『何故でも。』と笑顏を作つて、『そうら御覽なさい。』  その時また鮮かな鳥影が障子を横ざまに飛んだ。 『ハハヽヽ。迷信家だね。事によつたら吉野が今日あたり着くかも知れないがね。』 二 『あら、四五日中にお立ちになるつて昨日の手紙ぢやなかつたの?』 『然うさ。だがあの男の豫定位あてにならないものは無いんだ。雷みたいな奴よ、雲次第で何時でも鳴り出す……。』と信吾は其處に腰を下して、 『オイ、此衣服は少し短いんだから、長くして呉れ。』 『然う?』と、靜子は解きかけたネルの單衣に尺を使つて見て、『七寸……六分あるわ。短かゝなくつてよ、幾何電信柱さんでも。』 『否短い。本人の言ふ事に間違ひつこなしだ。そら、其處に縫込んだ揚があるぢやないか。それ丈下して呉れ。』 『だつて兄樣、さうすれば九寸位になつてよ。可いわ、そんなら八寸にしときませう。』『吝だな。も少し負けろ。』 『ぢや八寸一分?』 『もつと負けろ、氣に合はないから着ないと言つたら怎うする?』 『それは御勝手。』 『其麽風でお嫁に行かれるかい?』 『厭よ、兄樣。』と信吾を睨む眞似をして、『だつて一分にすると、これより五分長くなるわ。可いでせう? その吉野さんて方、この春兄樣と京都の方へ旅行なすつた方でせう?』 『うん。』と笑ひ乍ら、手を延ばして、靜子の机の上から名に高き女詩人の『舞姫』を取る。本の小口からは、橄欖色の栞の房が垂れた。 『長くお泊りになるんでせう?』 『八月一杯遊んで行く約束なんだがね。飽きれば何日でも飛び出すだらう、彼奴の事だから。』と横になつて、 『オイ、此本は昌作さんのか?』と頁を飜る。 『え。兄樣何か持つてらつしやらなくつて、其方のお書きになつたの。』 『否、遂買はなかつたが、この「舞姫」のあとに「夢の華」といふのがあるし、近頃また「常夏」といふのが出た筈だ。』 『あら其方のぢやなくつてよ。其方ンなら私も知つてるわ。……その吉野さんのお書きになつたの?』 『吉野が?』と妹の顏を見て、『彼奴の詩は道樂よ。時々雜誌に匿名で出したのだけさ。本職は矢張洋畫の方だ。』 『然う?』と靜子は鋏の鈴をころ〳〵鳴らし乍ら、『展覽會なんかにお出しなすつて?』 『一度出した。あれは美術學校を卒業した年よ。然うだ、一昨年の秋の展覽會──そうら、お前も行つて見たぢやないか? 三尺許りの幅の、「嵐の前」といふ畫があつたらう?』 『然うでしたらうか?』 『あれだ、夕方の暗くなりかゝつた室の中で、青白い顏をした女が、厭やな眼附をして、眞白い猫を抱いてゐたらう? 卓子の上には擴げた手紙があつて、女の頭へ蔽被さる樣に鉢植の匂ひあらせいとうが咲いてゐた。そして窓の外を不愉快な色をした雲が、變な形で飛んでゐた。』 『見た樣な氣もするわ。それでなんですの「嵐の前」?』 『然うよ、その畫の意味はあの頃の人に解らなかつたんだ。日本のコロウよ、仲々偉い男だ。』 『コロウつて何の事?』 『ハッハヽヽ。佛蘭西の有名な畫家だ。』 『然う!』と言ひは言つたが、日本のコロウと云ふ意味は無論靜子に解りつこはない。唯偉い事を言つたのだと思つて、『其麽方なら何故其後お出しにならないのでせう?』 『然うさ、まあ自重してるんだらう。彼奴が今度描いたら屹度滿都の士女を驚かせる! 俺には近頃いろんな友人が出來たが、吉野君なんか其中でもまあ話せる男だ。』と、暗に自分の偉くなつた事を吹聽する樣な調子で言ふ。 『姉樣、姉樣。』と叫び乍ら、芳子といふ十二三の妹がどたばた驅けて來た。 『何ですねえ、其麽に驅けて!』 『でも。』不平相な顏をして、『日向先生が被來たんだもの!』 『おや!』と靜子は兄の顏を見た。先程障子に映つた鳥影を思ひ出したので。 三  二三日經てば小學校も休暇になる。平生宿直室に寢泊りしてゐる校長の進藤は、もう師範出のうちでも古手の方で、今年は盛岡に開かれた體操と地理歴史教授法の夏期講習會に出席しなければならなかつた。それで、休暇中の宿直は森川が引受ける事になつて、これは土地の者の齋藤といふ年老つた首席教員と智惠子と富江の三人は、それ〴〵村内に受持を定めて、兎角亂れ易い休暇中の兒童の風紀の、校外取締をすることになつた。富江は今年も矢張盛岡の夫の家へは歸らないで。智惠子にも歸るべき家が無かつた。無い譯ではない。兄夫婦は青森にゐるけれど、智惠子にはそれが自分の家の樣な氣がしない。よしや歸つたところで、あたら一月の休暇を不愉快に過して了ふに過ぎぬのだ。同窓の親しい友から、何處かの温泉場にでも共同生活をして樂しい夏を暮さうではないか、と言つて來たのもあるが、宿のお利代の心根を思ふと、別に譯もなくそれが忍びなかつた。結局智惠子は、八月二日に大澤の温泉で開かれる筈の師範時代の同級會に出席する外には、何處にも行かぬことに決めた。  それで智惠子は、誰しも休暇前に一度やる樣に、八月一日に自分の爲すべき事の豫定を立てたものだ。そのうちには色々の事に遮られて何日となく中絶してゐた英語の獨修を續ける事や、最も好きな歴史を繰返して讀む事や、色々あつたが、信吾の持つて歸つた書を成るべく澤山借りて讀まうといふのも其一つであつた。  今日は折柄の日曜日、讀み了へたのを返して何か別の書を借りようと思つてまだ暑くならぬ午前の八時頃に小川家を訪ねたのだ。  直ぐ歸る筈だつたのが無理に引き留められて、晝餐も御馳走になつた。午後はまた餘り暑いといふので、到頭四時頃になつて、それでも留めるのを漸くに暇乞して出た。田舍の素封家などにはよくある事で、何も珍しい事のない單調な家庭では、腹立しくなるまで無理に客を引き留める、客を待遇さうとするよりは、寧ろそれによつて自分らの無聊を慰めようとする。  平生の例で靜子が送つて出た。糊も萎えた大形の浴衣にメリンスの幅狹い平常帶、素足に庭下駄を突掛けた無雜作な扮裝で、己が女傘は疊んで、智惠子と肩も摩れ摩れに睦しげに列んだ。智惠子の方も平常着ではあるが、袴を穿いてゐる。何時しか二人はモウ鶴飼橋の上に立つた。  此處は村での景色を一處に聚めた。北から流れて來る北上川が、觀音下の崖に突當つて西に折れて、透徹る水が淺瀬に跳つて此吊橋の下を流れる。五六町行つて、川はまた南に曲つた。この橋に立てば、川上に姫神山、川下は岩手山、月は東の山にのぼり、日は西の峰に落つる。折柄の傾いた赤い日に宙に浮んだ此橋の影を、虹の影の如く川上の瀬に横たへて。  南岸は崖になつてゐるが、北の岸は低く河原になつて、楊柳が密生してゐる。水近い礫の間には可憐な撫子が處々に咲いた。  二人は鋼線を太い繩にした欄干に靠れて西日を背に受け乍ら、涼しい川風に袂を嬲らせて。 『そうら、彼は屹度昌作さんよ。』と、靜子は今しも川上の瀬の中に立つてゐる一人の人を指さした。鮎を釣けてゐるのであらう、編笠を冠つた背の高い男が、腰まで水に浸つて頻りに竿を動かしてゐる。種鮎か、それとも釣つたのか、ヒラリと銀色の鰭が波間に躍つた。 『だつて、昌作さんが那麽!』と智惠子も眸を据ゑた。 『あら、鮎釣には那麽扮裝して行くわ、皆。……昌作さんは近頃毎日よ。』と言つてる時、思ひがけなくも礫々といふ音響が二人の足に響いた。  一臺の俥が、今しも町の方から來て橋の上に差懸つたのだ。二人は期せずして其方に向いたが、 『あら!』と靜子は聲を出して驚いて忽ち顏を染めた。女心は矢よりも早く、己が服裝の不行儀なのを恥ぢたので。 四  近づく俥の音は遠雷の如く二人の足に響いて、吊橋は心持搖れ出した。  洋服姿の俥上の男は、麥藁帽の頭を俯向けて、膝の上に寫生帖に何やら書いてゐる──一目見て靜子は、兄の話で今日あたり來るかも知れぬと聞いた吉野が、この人だと知つた。好摩午後三時着の下り列車で着いて、俥だから線路傳ひの近道は取れず、態々本道を澁民の町へ廻つて來たものであらう。智惠子も亦、話は先刻聞いたので、すぐそれと氣が附いた。 『お孃樣、お孃樣許のお客樣を乘せて來ただあ。』と、車夫の元吉は高い聲で呼びかけ乍ら轅を止めて、 『あれがはあ、小川樣のお孃樣でがんす。』と、車上の人に言ふ。顏一杯に流れた汗を小汚い手拭でブルリと拭つた。  智惠子は、自分がその小川家の者でない事を現す樣に、一足後へ退つた。その時、傍の靜子の耳の紅くなつてゐた事に氣がついた。 『あ、然うですか。』と、車上の人は鉛筆を持つた手で帽子を脱つて、 『僕は吉野滿太郎です。小川が──小川君が居ませうか?』と武骨な調子でいふ。 『は。』と靜子は塞つた樣な聲を出して、『あの、今日あたりお着き遊ばすかも知れないと、お噂致して居りました。』 『然うですか。ぢや手紙が着いたんですね?』と親しげな口を利いたが、些と俯向加減にして立つてゐる智惠子の方を偸み視て、 『失禮しました、俥の上で。……お先に。』と挨拶する。 『私こそ……。』と靜子は初心らしく口の中で言つて頭を下げた。 『どつこいしよ。』と許り、元吉は俥を曳出す。二人は其後を見送つて呆然立つてゐた。  吉野は、中背の、色の淺黒い、見るから男らしく引緊つた顏で、力ある聲は底に錆を有つた。すぐ目に附くのは、眉と眉の間に深く刻まれた一本の皺で烈しい氣象の輝く眼は、美術家に特有の何か不安らしい働きをする。  俥が橋を渡り盡すと、路は少し低くなつて、繁つた楊柳の間から、新らしい吉野の麥藁帽が見える。橋はその時まで、少し搖れてゐた。 『私、甚麽に困つたでせう、這麽扮裝をしてゐて!』と靜子は初めて友の顏を見た。 『其麽に! 誰だつて平常には……』と慰め顏に言つて、 『貴女の許は、これからまた賑かね。』  其れはほんの、うつかりして言つたのだが、智惠子の眼は實際羨ましさうであつた。 『あら、だから貴女も毎日被來いよ。これからお休みなんですもの。』 『有難う。』と言つて、『私もうお別れするわ。何卒皆樣に宜しく!』 『一寸。』とその袂を捉へて、『可いわよ智惠子さん、も少し。』 『だつて。那麽に日が傾いちやつた。』と西の空を見る。眼は赤い光を宿して星の樣に若々しく輝いた。 『構はないぢやありませんか、智惠子さん。家へ被來いな又!』 『この次に。』と智惠子は沈着いた聲で言つて、『貴女も早くお歸りなすつたが可いわ。お客樣が被來つたぢやありませんか。』と妹にでも言ふ樣に。 『あら、私のお客樣ぢやなくつてよ。』と、靜子は少し顏を染めた。心では、吉野が來た爲に急いで歸つたと思はれるのが厭だつたので。  それで、智惠子が袂を分つて橋を南へ渡り切るまでも、靜子は鋼線の欄に靠れて見送つてゐた。  智惠子は考へ深い眼を足の爪先に落して、歸路を急いだが、其心にあるのは、例の樣に、今日一日を空に過したといふ悔ではない。神は我と共にあり! と自ら慰め乍らも、矢張靜子が何がなしに羨まれた。が、宿の前まで來た頃は、自分にも解らぬ一種の希望が胸に湧いてゐた。  で、家に入るや否や、お利代に泣き附いて何か強請つてゐる五歳の新坊を、矢庭に兩手で高く差上げて、 『新坊さん、新坊さん、新坊さん、何うしたんですよう。』と手荒く擽つたものだ。  新坊は、常にない智惠子の此擧動に喫驚して、泣くのは礑と止めて不安相に大きく目を睜つた。 其六 一  靜子の縁談は、最初、隨分性急に申込んで來て、兎に角も信吾が歸つてからと返事して置いたのが、既に一月、怎うしたのか其儘になつて、何の音沙汰もない、自然、家でも忘られた樣な形勢になつてゐた。  結句それが、靜子にとつては都合がよかつた。母のお柳が、別に何處が惡いでなくて、兎角優れぬ勝の、口小言のみ喧しいのへ、信吾は信吾で朝晩の惣菜まで、故障を言ふ性だから、人手の多い家庭ではあるが、靜子は矢張一日何かしら用に追はれてゐる。それも一つの張合になつて、兄が歸つてからというふもの、靜子はクヨ〳〵物を思ふ心の暇もなかつた。  一體この家庭には妙な空氣が籠つてゐる。隱居の勘解由はもう六十の阪を越して體も弱つてゐるが、小心な、一時間も空には過されぬと言つた性なので、小作に任せぬ家の周圍の菜園から桑畑林檎畑の手入、皆自分が手づから指揮して、朝から晩まで戸外に居るが、その後妻のお兼とお柳との仲が兎角面白くないので、同じ家に居ながらも、信之親子と祖父母や其子等(信之には兄弟なのだが)とは、宛然他人の樣に疎々しい。一家顏を合せるのは食事の時だけなのだ。  それに父の信之は、村方の肝煎から諸附合、家にゐることとては夜だけなのだ。從つて、癇癪持のお柳が一家の權を握つて、其一顰一笑が家の中を明るくし又暗くする。見やう見まねで靜子の二人の妹──十三の春子に十一の芳子、まだ七歳にしかならぬ三男の雄三といふのまで、祖父母や昌作、その姉で年中病床にゐるお千世などを輕蔑する。其麽間に立つてゐる温なしい靜子には、それ相應に氣苦勞の絶えることがない。實際、信吾でも歸つて色々な話をしてくれたり、來客でもなければ、何の樂みもないのだ。尤も、靜子は譬へ甚麽事があつても、自分で自分の境遇に反抗し得る樣な氣の強い女ではないのだが。  畫家の吉野滿太郎が來たのは、又しても靜子に一つの張合を増した。吉野の、何處か無愛相な、それでゐてソツのない態度は、先づ家中の人に喜ばれた。左程長くはないが、信吾とは隨分親密な間柄で(尤も吉野は信吾を寧ろ弟の樣に思つてるので)この春は一緒に畿内の方へ旅もした。今度はまた信吾の勸めで一夏を友の家に過す積りの、定つた職業とてもない、暢氣な身上なのだ。  言ふまでもなく信吾は、この遠來の友を迎へて喜んだ。それで取敢へず離室の八疊間を吉野の室に充てゝ、自分は母屋の奧座敷に机を移した。吉野と兄の室の掃除は、下女の手傳もなく主に靜子がする。兎角、若い女は若い男の用を足すのが嬉しいもので。  それ許りではない、靜子にはも一つ吉野に對して好感情を持つべき理由があつた。初めて逢つた時それは氣が附いたので。吉野は顏容些とも似ては居ないが、その笑ふ時の目尻の皺が、怎うやら、死んだ浩一──靜子の許嫁──を思ひ出させた。  生憎と、吉野の來た翌日から、雨が續いた。それで、客も來ず、出懸ける譯にもいかず、二日目三日目となつては吉野も大分退屈をしたが、お蔭で小川の家庭の樣子などが解つた。昌作も鮎釣にも出られず、日に幾度となく吉野の室を見舞つて色々な話を聞いたが、畫の事と限らず、詩の話、歌の話、昌作の平生飢ゑてる樣な話が多いので、もう早速吉野に敬服して了つた。  降りこめた雨が三十一日(七月)の朝になつて漸く霽つた。と、吉野は、買物旁々、舊友に逢つて來ると言つて、其日の午後、一人盛岡に行くことになつた。 二  雨後の葉月空が心地よく晴れ渡つて、目を埋むる好摩が原の青草は、緑の火の燃ゆるかと許り生々とした。  小川の家では折角下男に送らせようと言つて呉れたのを斷つて、教へられた儘の線路傳ひ、手には洋杖の外に何も持たぬ背廣扮裝の輕々しさ、畫家の吉野は今しも唯一人好摩停車場に辿り着いた。  男神の如き岩手山と、名も姿も優しき姫神山に挾まれて、空には塵一筋浮べず、溢るゝ許りの夏の光を漂はせて北上川の上流に跨つた自然の若々しさは、旅慣れた身ながらも、吉野の眼には新しかつた。その色彩の單純なだけに、心は何となき輕快を覺え、唆かす樣な草葉の香りを胸深く吸つては、常になき健康を感じた。日頃、彼の頭腦を支配してゐる種々の形象と種々の色彩の混雜つた樣な、何がなしに氣を焦立たせる重い壓迫も、彼の老ゆることなき空の色に吸ひ取られた樣で、彼は宛然、二十前後の青年の樣な足取で、ついと停車場の待合所に入つた。  眩い許りの戸外の明るさに慣れた眼には、人一人居ない此室の暗さは土窟にでも入つた樣で、暫しは何物も見えず、ぐら〳〵と眩暈がしさうになつたので、吉野は思はず知らず洋杖に力を入れて身を支へた。手巾を出して顏の汗を拭き乍ら、衣嚢の銀時計を見ると、四時幾分と聞いた發車時刻にもう間がない。急いで盛岡行の赤切符を買つて改札口へ出ると、 『向側からお乘りなさい。』 と教へ乍ら背の低い驛夫が鋏を入れる。チラと其時、向側のプラットホームに葡萄茶の袴を穿いた若い女の立つてゐるのが目についた。それは日向智惠子であつた。  智惠子の方でも其時は氣が附いて居たが、三四日前に橋の上で逢つた限り、名も知り顏も知れど、口一つ利いたではなし、さればと言つて、乘客と言つては自分と其男と唯二人、隱るべき樣もないので、素知らぬ振も爲難い。夏中逗留するといへば、怎うせ又顏を合せなければならぬのだ。  それで、吉野が線路を横切つて來るのを待つて、少し顏を染め乍ら輕くS卷の頭を下げて會釋した。 『や、意外な處でお目に懸ります。』と餘り偶然な邂逅を吉野も少し驚いたらしい。 『先日は失禮致しました。』 『怎うしまして、私こそ……。』と、脱つた帽子の飾紐に切符を揷みながら、『フム、小川の所謂近世的婦人が此女なのだ!』と心に思つた。  そして、體を捻つて智惠子に向ひ合つて、『後で靜子さんから承つたんですが、貴女は日向さんと被仰るんですね?』 『は、左樣で御座います。』 『何れお目に懸る機會も有るだらうと思つてましたが、僕は吉野と申します。小川に居候に參つたんで。』 『お噂は、豫て靜子さんから承つて居りました。』 『來たよう。』と驛夫が向側で叫んだので、二人共目を轉じて線路の末を眺めると、遠く機關車の前部が見えて、何やらキラ〳〵と日に光る。 『今日は何處まで?』 『盛岡までゝ御座います。』 『成程、學校は明日から休暇なさうですね。何ですか、お家は盛岡で?』 『否。』と智惠子は愼しげに男の顏を見た。『學校に居りました頃からの同級會が、明後日大澤の温泉に開かれますので、それであの、盛岡のお友達をお誘ひする約束が御座いまして。』 『然うですか。それはお樂しみで御座いませう。』と鷹揚に微笑を浮べた。 『貴方は何處へ?』 『矢張りその盛岡までゝす。』  吉野は不圖、自分が平生になく流暢に喋つてゐたことに氣が附いた。  列車が着くと、これは青森上野間の直行なので車内は大分込んでゐる。二人の外には乘る者も、降りる者もない。漸くの事で、最後の三等車に少しの空席を見附けて乘込むと、その扉を閉め乍ら車掌が號笛を吹く。慌しく汽笛が鳴つて、ガタリと列車が動き出すと、智惠子はヨロヨロと足場を失つて思はず吉野に凭り掛つた。 三  吉野は窓際へ、直ぐ隣つて智惠子が腰を掛けたが、少し體を動かしても互いの體温を感ずる位窮屈だ。女は、何がなしに自分の行動──紹介もなしに男と話をした事──が、はしたない樣な、否、はしたなく見られた樣な氣がして、「だつて、那麽切懸だつたんだもの。」と心で辯疏して見ても、怎やら氣が落着かない。乘合の人々からジロ〳〵顏を見られるので、仄りと上氣してゐた。  北上山系の連山が、姫神山を中心にして、左右に袖を擴げた樣に東の空に連つた。車窓の前を野が走り木立が走る。時々、夥しい草葉の蒸香が風と共に入つて來る。  程なく列車が轟と音を立てゝ松川の鐵橋に差かゝると、窓外を眺めて默つてゐた吉野は、『あ、あれが小川の家ですね。』 と言つて窓から首を出した。線路から一町程離れて、大きい茅葺の家、その周圍に四五軒農家のある──それが川崎の小川家なのだ。  首を出した吉野は、直ぐと振返つて、 『小川の令妹が出てますよ。』 『あら。』と言つて、智惠子も立つたが、怎う思つてか、外から見られぬ樣に、男の後ろに身を隱して、そつと覗いて見た。  靜子は妹共と一緒に田の中の畦道に立つて、手巾を振つてゐる。妹共は何か叫んでるらしいが、無論それは聞えない。智惠子は無性に心が騷いだ。  帽子を振つてゐた吉野が、再び腰を掛けた時は、智惠子は耳の根まで紅くして極り惡る氣に俯向いてゐた。靜子の行動が、偶然か、はた心あつて見送つたものか、はた又吉野と申合せての事か、それは解らないが、何れにしても智惠子の心には、萬一自分が男と一緒に乘つてゐる事を、友に見られはしないかといふ心配が、強く動悸を打つた。吉野はその、極り惡る氣な樣子を見て、『小川の所謂近代的婦人も案外初心だ!』と思つたかも知れない。  その實男も、先刻汽車に乘つた時から、妙に此女と體を密接してゐることに壓迫を感じてゐるので、それを紛らかさうとして、何か話を始め樣としたが、兎角、言葉が喉に塞る。其麽筈はないと自分で制しながらも、斷々に、信吾が此女を莫迦に讃めてゐた事、自分がそれを兎や角冷かした事を思出してゐたが、腰を掛けるを切懸に、 『貴女は、何日お歸りになります?』と何氣なく口を切つた。 『三日に、あの歸らうと思つてます。』 『然うですか。』 『貴方は?』 『僕は何日でも可いんですが、矢張り三日頃になるかも知れません。』と言つたが不圖思ひついた事がある樣に、 『貴女は盛岡の中學に圖畫の教師をしてる男を御存じありませんか? 渡邊金之助といふ?』 『存じて居ります。』と、智惠子は驚いた樣な顏をする。 『貴方はあの、あの方と同じ學校を……?』 『然うです。美術學校で同級だつたんですが、……あゝ御存知ですか! 然うですか!』と鷹揚に頷いて、『甚麽で居るんでせう? まだ結婚しないでせうか?』 『え、まだ爲さらない樣ですが。』と、睜つた眼を男に注いで、『貴方はあの、渡邊さんへ被行るんで御座いますか。』 『え、突然訪ねて見ようと思ふんですがね。』と、少し腑に落ちぬ樣な目附をする。 『まあ、左樣で御座いますか!』と一層驚いて、『私もあの、其家へ參りますので……渡邊さんの妹樣と私と、矢張り同じ級で御座いまして。』 『妹樣と? 然うですか! これは不思議だ!』と吉野も流石に驚いた。 『あの、久子さんと被仰います……。』 『然うですか! ぢや何ですね、貴女と僕と同じ家に行くんで! これは驚いた。』 『マア眞箇に!』と言ひ乍ら、智惠子は忽ち或る不安に襲はれた。靜子の事が心に浮んだので。 第七 一  宿直の森川は一日の留守居を神山富江に頼んで、鮎釣に出懸けた。  休暇になつてからの學校ほど伽籃堂に寂しいものはない。建物が大きいのと平生耳を聾する樣な喧騷に充ちてるのとで、日一日、人ツ子一人來ないとなると、俄かに荒れはてた樣な氣がする。常には目立たぬ塵埃が際立つて目につく。職員室の卓子の上も、硯箱や帳簿やら、皆取片附けられて了つて、其上に薄く塵が落ちた。  懶いチクタクの音を響かせてゐる柱時計の下で、富江は森川の歸りを待つ間の退屈に額に汗をかきながら編物をしてゐた。暑い盛りの午後二時過、開け放した窓から時々戸外を眺めるが、烈々たる夏の日は目も痛む程で、うなだれた木の葉にそよとの風もなく、大人は山に、子供らは皆川に行つた頃だから、四邊が妙に靜まり返つてゐる。其處へブラリと昌作が、遣つて來た。 『暑いでせう外は。先刻から眠くなつて〳〵爲樣のないところだつたの。』と富江は椅子を薦める。年下の弟でも遇らふ樣な素振りだ。  それに慣れて了つて、昌作も挨拶するでもなく、『暑い暑い』と帽子も冠らずに來た髮のモヂャ〳〵した頭に手を遣つて、荒い白絣の袖を肩に捲り上げた儘腰を下した。 『森川君は?』 『鮎釣に行つたの。釣れもしないくせに。』 『すると何だな、貴女が留守役を仰附かつてゐたんだな。ハハヽヽ好い氣味だ。』 『口の惡い! 何が好い氣味なもんですか。其麽事を言ふとお茶菓子を買ひませんよ。』と睨んで見せる。 『フム。』と昌作は妙に濟し込んで、『御勝手に。』 『まあ口許りぢやない人が惡くなつたよ、子供の癖に!』と言ひながら、手を延ばして呼鈴の綱を引いて、 『然う〳〵、一昨日は御馳走樣。お客樣はまだ歸つてらつしやらないの?』 『あーい。』と彼方で眠さうな聲。 『まだ。今日か明日歸るさうだ。吉野樣がゐないと俺は薩張り詰らないから、今日は莫迦に暑いけれども飛出して來たんだ。』 『生憎と日向樣もまだ歸らないの。』と富江は調戲ふ眼附で青年の顏を見た。其處へ白髮頭の小使が入つて來て用を聞いたので、女は何かお菓子を買つて來いと命ずる。 『そら、到頭買うんだ。』と昌作はしたり顏。 『私が喰べるのですよ、誰が昌作さんなんかに上げるもんですか。』と減らず口を叩いて、 『よ、昌作さん、ハイカラの智惠子さんもまだ歸らないの。』 『フム。』 『何がフムですか。昌作さんの歌を大變賞めてるから、行つて御禮を被仰よ。』 『フム。家の信吾ぢやないし。』 『え? 信吾さんが?』 『知らない。』 『信吾さんが行くの? マア好い事聞いた。ホホヽヽヽヽ、マア好い事聞いた。』 と、富江は彈けた樣に一人で騷いで、 『マア好い事聞いた、信吾さんが智惠子さんの許へ行くの。今度逢つたらうんと揶揄つて上げよう。ホホヽヽ。』  昌作は冷かに其顏を眺めてゐたが、 『可けない〳〵。其麽話、吉野さんの前なんかで言つちや可けませんぞ。』 『あら、怎うして?』と忙しい眼づかひをする。 『だつて、詰らないぢやないですか。』 『詰らない? 言ひますよ私。』 『詰らない! 第一吉野さんの前で其麽事が言へますか? 豪い人だ。信吾の友達には全く惜しい人だ。』 『まあ、大層見識が高くなつたのね?』  すると昌作は、忽ち不快な顏をして默つた。 『其麽に豪いの、その方は?』 『時にですな、』と昌作は附かぬ事を言ひ出した。『今日は貴女に用を頼まれて來たんだ。』 『オヤ、誰方から?』  其時小使が駄菓子の袋を恭しく持つて入つて來た。 二 『當てゝ御覽なさい。』と昌作はしたり顏に拗ねる。  其顏を、富江はマジ〳〵と見てゐたが、小使の出てゆくのを待つて、 『信吾さんから?』  ピクリと昌作の眉が動いた。そして眼鏡の中で急しく瞬きをし乍ら顏を大きく横に振る。 『そんなら、誰方?』 『無論、貴女の知つた人からだ。』と小憎らしく濟したものだ。 『懊つたい!』と自暴に體を顫はせて、 『よ、誰方からつてばさ。』 『ハッハハ、解りませんか?』と、何處までも高く踏んで出る。 『好いわ、もう聞かなくつても。』 『それぢや俺が困る。實はですね。』 『知りません。』 『登記所の山内君からだ。以前貴女から「戀愛詩評釋」といふ書を借りたことがあるさうだ。それを又讀みたいから俺に借りて來て呉れと言ふんですがね。』 『オヤ、何故御自分で被來らないでせう?』 『だつて寢てるんだもの。』 『ぢやもう、床に就いたの?』と低めに言つて、胡散臭い眼附をする。 『一昨日俺と鮎釣に行つて、夕立に會つたんですよ。それで以て山内は弱いから風邪を引いたんだ。』 『あら昌作さん、山内さんは肺病だつたんぢや有りませんか?』 『肺病?』と正直に驚いた顏をしたが『嘘だ!』 『嘘なもんですか。始終那麽妙な咳をしてゐたぢやありませんか。……加藤さんがそ言つてるんですもの。』 『肺病だと?』 『え。』と氣がさした樣に聲を落して、『だけど私が言つたなんか言つちや厭よ。よ、昌作さん貴方も傳染らない樣に用心なさいよ。』 『莫迦な! 山内は那麽小さい體をしてるもんだから、皆で色々な事を言ふんだ。俺だつて咳はする──。』 『馬の樣な咳を。ホホヽヽ。』と富江は笑つて、『誰がまた、那麽一寸法師さんを一人前の人待遇にするもんですか。』  そして取つて附けた樣にホホヽヽと又笑つた。 『だから不可ない。』と昌作は錆びた聲に力を入れて、『體の大小によつて人を輕重するといふ法はない。眞箇に俺は憤慨する。家の奴等も皆然うだ。』 『然うでないのは日向のハイカラさん許りでせう!』  昌作は聞かぬ振をして、『英吉利の詩人にポープといふ人が有つた。その詩人は、佝僂で跛足だつたさうだ。人物の大小は體に關らないさ。』と、三文雜誌でゞも讀んだらしい事を豪さうに喋る。 『大層力んで見せるのね。だけれど山内樣は別に大詩人でもないぢやありませんか?』 『それは別問題だ。……』と正直に塞つて、『それは然うと、今言つた書を貸して下さい。』 『家に置いてあるの。』 『小使を遣つて取寄せて呉れるさ。』と頼む樣な調子で。 『肺病患者なんかに!』獨言つ樣に言つて、『あのね、昌作さん。』と可笑しさを怺へた樣な眼附をする。『恁う言つて下さいな山内さんに。あのね、評釋なんか無くつて解るぢやありませんかつて。』 『え? 何ですつて?』と昌作は眞面目に腑に落ちぬ顏をする。 『ホホヽヽヽ。』と、富江は一人高笑ひをした。そして『書はね、後で誰かに屆けさせますよ。』  一時間程經つて、昌作は、來た時の樣にブラリと、帽子も冠らず、單衣の兩袖を肩に捲くり上げて、長い體を妙に氣取つて、學校の門を出た。  そして川崎道の曲角まで來た時、二三町彼方から、深張りの橄欖色の傘をさした、海老茶の袴を穿いた女が一人、歩いて來るのに目をつけた。『ハハア、歸つて來たナ。』と呟いて、足を淀めたが、ついと横路へ入る。  三日前に畫家の吉野と同じ汽車に乘合せて、大澤温泉に開かれた同級會へ行つた智惠子は、今しも唯一人、町の入口まで歸つて來た。 三  小川家の離室には、畫家の吉野と信吾とが相對してゐる。吉野は三十分許り前に盛岡から歸つて來た所で、上衣を脱ぎ、白綾の夏襯衣の、その鈕まで脱して、胡座をかいた。  その土産らしい西洋菓子の凾を開き茶を注いで、靜子も其處に坐つた。母屋の方では、キヤッ〳〵と妹共の騷ぐのが聞える。 『だからね。』と吉野は其友渡邊の噂を續けた。 『僕は中學の畫の教師なんかやるのが抑も愚だと言つて遣つたんだ。奴だつて學校にゐた時分は夢を見たものよ。尤も僕なんかより遙と常識的な男でね。靜物の寫生なんかに凝つたものだ。だが奴が級友の間でも色彩の使ひ方が上手でね、活きた色彩を出すんだ。何色彩を使つても習慣を破つてるから新しいんだよ。何時かの展覽會に出した風景と靜物なんか黒人仲間ぢや評判が好かつたんだよ。其奴が君、遊びに來た中學生に三宅の水彩畫の手本を推薦してるんだからね。……僕は悲しかつたよ。否悲しいといふよりは癪に障つたよ。何といふのかな、那麽具合で到頭埋もれて了ふのを。平凡の悲劇とでも言ふかな……。』 『だつて君。』と信吾は委細呑込んだと言つた樣な顏をして、『其人にだつて家庭の事情てな事が有らあな。一年や二年中學の教師をした所で、畫才が全然滅びるつて事も無からうさ。』 『それがよ、家庭の事情なんて事がてんで可くない。生活問題は誰にしろ有るさ。然し藝術上の才能は然うは行かない。其奴が君、戰つても見ないで初めつから生活に降參するなんて、意氣地が無いやね。……とまあ言つて見たんさ、我身に引較べてね。』 『ハハヽヽ。君にも似合はんことを言ふぢやないか。』とゴロリ横になる。  其處へ、庭に勢ひのいゝ下駄の音がして、昌作が植込の中からヒョックリと出て來た。今しも町から歸つて來たので。 『やあ、お歸りになりましたな。』と吉野に聲をかける。 『否、も少し先に。今日も貴方は鮎釣でしたか?』 『否。』と無造作に答へて縁側に腰を掛けた。『吉野さん、貴方、日向さんと同じ汽車でしたらう?』 『え?』と靜子が聞耳を立てる。 『然う、然う。』と、吉野は今迄忘れてゐたと言つた樣に言つて、靜子の方に向いた。『それ、過日橋の上に貴女と二人立つてゐた方ですね。あの方と今日同じ汽車に乘りましたよ。』 『あら智惠子さんと。然うでしたか! よくお解りになりましたね。』と莞爾、何氣なく言つた。 『否その、何です、今話した渡邊の家で紹介されたんです。渡邊の妹君と親友なんださうで、偶然同じ家に泊つた譯なんです。』と、吉野は急しく眼をぱちつかせ乍ら、無意識に煙草に手を出す。 『オヤ然うでしたの!』 『然うかい!』と信吾も驚いて、『それは奇遇だつたな。實に不思議だ。』 『別段奇遇でも無からうがね。唯逢つただけよ。』と、吉野は顏にかゝる煙草の煙に大仰に眉を寄せる。 『昌作さんは何ですか、日向さんと逢つて來たの?』と信吾が横になつた儘で問うた。 『否。歸つて來た所を遠くから見ただけだ。』 『よつぽど遠くからね? ハヽヽ。』  昌作はムッとした顏をして、返事はせずに、吉野の顏色を覗つた。  然うしてる所へ、母屋の方には賑かな女の話聲。下女が前掛で手を拭きながらバタ〳〵驅けて來て 『若旦那樣、お孃樣、板垣樣の叔母樣が盛岡からお出アンした。』 『アラ今日被來たの。明日かと思つたら。』と、靜子は吉野に會釋して怡々下女の後から出て行く。 『父の妹が泊懸に來たんだ。一寸行つて會つてくるよ。』 と信吾も立つた。昌作は何時の間にか居ない。  吉野は眉間の皺を殊更深くして、ぢつと植込の邊に瞳を据ゑてゐた。 其八 一  智惠子は渡邊の家に一泊して、渡邊の妹の久子といふのと翌一日大澤の温泉に着いたのであつた。その夕方までには、二十幾名の級友大方臨溪館といふ温泉宿の二階に、縣下の各地方から集つた。  兎角女といふものは、學校にゐる時は如何に親しくしても、一度別れて了へば心ならずも疎くなり易い。それは各々の境遇が變つて了ふ爲めで、智惠子等のそれは、卒業してからも同じ職業に就いてるからこそ、同級會といふ樣なものも出來るのだ。三年の月日を姉と呼び妹と呼んで一棟の寄宿舍に起臥を共にした間柄、校門を辭して散々に任地に就いてからの一年半の間に、身に心に變化のあつた人も多からうが、さて相共に顏を合せては、自から氣が樂しかつた寄宿舍時代に歸つた。數限りなき追憶が口々に語られた。氣輕な連中は、階下の客の迷惑も心づかず、その一人が彈くヴアイオリンの音に伴れてダンスを始めた。恁くて此若い女達は翌二日の夜更までは何も彼も忘れて樂みに醉うた。缺席したのは四人、その一人は死に、その一人は病み、他の二人は懷姙中とのことで。──結婚したのはこの外にも五六人あつた。  各々の任地の事情が、また、事細かに話し交された。語るべき友の乏しいという事、頭腦の舊い校長の惡口、同じ師範出の男教員が案外不眞面目な事、師範出以外の女教員の劣等な事、これらは大體に於て各々の意見が一致した。中に一人、智惠子の村の加藤醫師と遠縁の親戚だといふのがあつた。その女から、智惠子は清子に宛てた一封の手紙を托された。  その手紙を屆けるべく、智惠子は澁民に歸つた翌日の午前、何氣なく加藤醫院を訪れたのであつた。  玄關には、腰掛けたのや、上り込んだのや、薄汚ない扮裝をした通ひの患者が八九人、詰らな相な顏をして、各自に藥瓶の數多く並んだ棚や粉藥を分量してゐる小生意氣な藥局生の手先などを眺めてゐた。智惠子が其處へ入ると、有つ丈の眼が等しく其美しい顏に聚つた。 『奧樣は?』 『ハイ。』と答へて、藥局生は匙を持つた儘中に入つてゆく。居並ぶ人々は狼狽へた樣に居住ひを直した。諄々と挨拶したのもあつた。  今朝髮を洗つたと見えて、智惠子は房々とした長い髮を、束ねもせず、緑の雲を被いだ樣に、肩から背に豐かになびかせた。白地に濃い葡萄色の矢絣の新しいセルの單衣に、帶は平常のメリンス、そのきちんとしたお太鼓が搖めく髮に隱れた。  少し手間取つて、倉皇と小走りに清子が出て來た。 『まあ日向先生、何日お歸りになりましたの? さ何卒。』 『は有難う。昨日夕方に歸りました許りで。』 『お樂みでしたわねえ。さ何卒お上り下さいまし、……あの小川さんのお客樣も被來てますから。』 『は?』と智惠子は、脱ぎかけた下駄を止めた。 『吉野さんとか被仰る、畫をお描きになる……貴女にも盛岡でお目にかゝつたとか被仰つてで御座いますよ。』 『あの、吉野さんが?』 『え。宅が小川さんで二三度お目にかゝりました相で、……昌作さんとお二人。ま何卒。』 『は有難う。あのう……』と言ひ乍ら智惠子は懷から例の手紙を取出して、手短に其由來を語つて清子に渡した。 『ま然うでしたか。それは怎うも。……それは然うと、さ、さ。』と。手を引く許りにする。 『あの一寸學校に行つて見なければなりませんから、何れ後で。』 『あら、日向樣、其麽貴女……。』と、清子が捉へる袂を、スイと引いて、 『眞箇よ、奧樣。何れ後で。』  智惠子は逃げる樣にして戸外に出た、と、忽ち顏が火の樣に熱つて、恐ろしく動悸がしてるのに氣がついた。 二  加藤の玄關を出た智惠子は、無意識に足が學校の方へ向つた。莫迦に胸騷ぎがする。 「何故那麽に狼狽へたらう?」恁う自分で自分に問うて見た。 「何故那麽に狼狽へたらう? 吉野さんが被來てゐたとて! 何が怖かつたらう! 清子さんも可笑しいと思つたであらう! 何故那麽に狼狽たらう? 何も譯が無いぢやないか!」  理由は無い。  智惠子は一歩毎に顏が益々上氣して來る樣に感じた。何がなしに、吉野と昌作が後ろから急ぎ足で追驅けて來る樣な氣がする。それが、一歩々々に近づいて來る……  其麽事は無い、と自分で譴めて見る、何時しか息遣ひが忙しくなつてゐる。  取留めもなく氣がそはついてるうちに歩くともなくもう學校の門だ。つと入つた。  職員室の窓が開いて、細い竿釣が一間許り外に出てゐる。宿直の森川は、シャツ一枚になつて、一生懸命釣道具を弄つてゐた。  不圖顏を上げると、 『オヤ、日向さん、何時お歸りになりました?』 『は、あの、昨日夕方に。』と、外に立つて頭を下げる。洗ひ髮がさらりと肩から胸へ落つる。智惠子は、うるさい樣にそれを手で後ろにやつた。 『面白かつたでせう? さ、まあお上りなさい。』 『否、あの。』と息が少し切れる。『あの私宛の手紙でも參つてゐませんでせうか?』 『奈何でしたか! あ、來ませんよ、神山樣の方の間違です。まあお上りなさい。』 『は有難う御座います。一寸あの、一寸、後ろの山へ行つて見ますから。』 『山へ? 茸狩はまだ早いですよ。ハヽヽ。ま可いでせう?』 『は、何れ明日でも。』と行掛ける。 『あ、日向樣、貴女に少しお願ひがありますがねえ。』 『何で御座いますか?』 『何有眞の些とした事ですがね。』と、森川は笑つてゐる。 『何で御座いますか、私に出來る事なら……。』と智惠子は何時になく焦かし相な顏をした。 『出來る事ですとも。』また笑つて、『その何ですよ、過日、否昨日か、神山樣にも一日お願ひしたんですがね。その、私は鮎釣に行きますから、御都合の可い時一日學校に被來つて下さいませんか?』 『は、可う御座いますとも。何日でも貴方の御出懸けになる時は、あの大抵の日は小使をお寄越し下されば直ぐ參ります。』 『然うですか。ぢやお願ひ致しますよ、濟みませんが。』 『何日でも……。』と言つて智惠子は、足早に裏の方に𢌞つた。  裏は直ぐ雜木の山になつて、下暗い木立の奧がこんもりと仰がれる。校舍の屋根に被さる樣になつた青葉には、楢もあれば、栗もある。鮮やかな色に重なり合つて。  便所の後ろになつてゐる上り口から、智惠子はスタスタと坂を登つた。  木立の中から、心地よく濕つた風が顏へ吹く。と、そのこんもりした奧から樂しさうな晝杜鵑の聲。  聲は小迷ふ樣に、彼方此方、梢を渡つて、若き胸の轟きに調べを合せる。  智惠子は躍る樣な心地になつて、つと青葉の下蔭に潜り込んだ。 三  やゝ急な西向の傾斜、幾年の落葉の朽ちた土に下駄が沈んで、緑の屋根を洩れる夏の日が、處々、虎斑の樣に影を落して、そこはかとなく搖めいた。細き太き、數知れぬ樹々の梢は參差として相交つてゐる。  唆かす樣な青葉の香が、頬を撫で、髮に戲れて、夏蔭の夢の甘さを吹く。 『ククヽヽクウ』と、すぐ頭の上、葉隱れた晝杜鵑が啼く。醉つた樣な、樂しい樣な、切ない樣な、若い胸の底から漂ひ出る樣な聲だ。その聲が、ク、ク、ク、と後を刻んで、何處ともなき青葉の戰ぎ!  と、少し隔つた彼方から、『ククヽヽクウ』と同じ聲が起る。 『ククヽヽクウ。ククヽヽクウ。』と、後の方からも。 『漂へる聲』とライダル湖畔の詩人が謳つた。それだ、全くそれだ。甘き青葉の香を吸ひ、流れるこの鳥の聲を聞いては、身は詩人でなくても、魂が胸を出て、聲と共にそこはかとなく森の下蔭を小迷ふてゆく思ひがする。  聲の所在を覓むる如く、キョロ〳〵と落着かぬ樣に目を働かせて、徑もなき木陰地の濕りを、智惠子は樹々の間を其方に拔け此方に潜る。夢見る人の足取とは是であらう。髮は肩に亂れ、胸に波打ち、はら〳〵と顏にも懸る。それを拂はうとするでもない。  故もなく胸が騷いでゐる。醉つた樣な、樂しい樣な、切ない樣な……宛ら葉隱れの鳥の聲の、何か定めなき思ひが、總身の脈を亂してゐる。 『ククヽヽクウ』と鳥の聲。 「私ほど辛い悲いものはない!」  恁う譯のないことを、何がなしに心に言つてみた。何が辛いのか、何が悲しいのか、それは自分では解らない。たゞ然う言つて見たかつたのだ。言つた所で、別に辛くも悲しくもない。 「吉野さんが町に、加藤の家に來てゐる。」智惠子に解つてるのは之だけだ。  初めて逢つたのは鶴飼橋の上だ。その時の、俥の上の男の容子は、今猶明かに心に殘つてゐる。然し言葉を交したでもない。友の靜子は耳の根迄紅くなつてゐた。その靜子は又、自分とあの人が端なくも汽車に乘合せて盛岡に行く時、田圃に出て手巾を振つた。靜子の底の底の心が、何故か自分に解つた樣な氣がする。 『何故あの時、私はあの人の後ろに隱れたらう?』恁う智惠子は自分に問うて見る。我知らず顏が紅くなる。  其晩、同じく久子の家に泊つた。久子兄妹とあの人と自分と、打伴れて岩手公園に散歩した。甘き夏の夜の風を、四人は甚麽に嬉しんだらう! 久子の兄とあの人との會話が、解らぬ乍らに甚麽に面白かつたらう! 『君は天才なんだ。』恁う久子の兄が幾度か眞摯に言つた。何かの話の時、『矢張り女といふものは全く放たれる事が出來ん。男は結局一人ぽつちよ、死ぬまで。』とあの人が言つた!  翌日久子と大澤に行つて、昨日午前再び下小路なる久子の家まで歸つた。 『日向樣は何日お歸りになります!』恁うあの人が言つた。 『明日になさいな、ねえ!』と久子が側から言つた。 『吉野さんも然う遊ばせな何卒。』 『否、僕は今日午後に發ちます。』  遂に同じ汽車で歸つて、再會を約して好摩が原で別れた。 『それだけだ。』と智惠子は言つて見た。何が(それだけ)なのか解らぬ。(それだけ)が何れだけなのか解らぬ。  解つてるのは、その吉野が今昌作と二人加藤の家にゐる事だけだ。或はもう、加藤の家を出たかも知れぬ。出て而して、何處へ? 何處へ? 『ククヽヽクウ。』といふ聲は遙と後ろに聞えた。智惠子は何時しか雜木の木立を歩み盡きて、幾百本の杉の暗く茂つた、急な坂の上に立つてゐた。  きつと其下の方を見て居たが、何を思つてか、智惠子は忙しく其急な坂を下り始めた。 四  ダラ〳〵と急な杉木立の、年中日の目を見ぬ仄暗い坂を下り盡すと、其處は町裏の野菜畑が三角形に山の窪みへ入込んで、其奧に小さな柾葺の屋根が見える。大窪の泉と云つて、杉の根から湧く清水を大きい据桶に湛へて、雨水を防ぐ爲に屋根を葺いた。町の半數の家々ではこの水で飯を炊ぐ。  蓊欝と木が蔽さつてるのと、桶の口を溢れる水銀の雫の樣な水が、其處らの青苔や圓い石を濡らしてるのとで、如何な日盛りでも冷い風が立つて居る。智惠子は不圖渇を覺えた。まだ午飯に餘程間があると見えて、誰一人水汲が來てゐない。  重い柄杓に水を溢れさせて、口移しに飮まうとすると、サラリと髮が落つる。髮を被いた顏が水に映つた。先刻から斷間なしに熱つてるのに、四邊の青葉の故か、顏が例より青く見える。  智惠子は二口許り飮んだ。齒がキリ〳〵する位で、心地よい冷さが腹の底までも沁み渡つた。と、顏の熱るのが一層感じられる。『怎うして青く見えたか知ら!』と考え乍ら、裏畑の細徑傳ひ急ぎ足に家へ歸つた。 『誰方も被來らなくつて?』 『否。』とお利代は何氣ない顏をしてゐる。『あら、何處へ行つてらしつたんですか? お髮に木の葉が附いて。』 『然う?』と手を遣つて見て、『學校の後ろの山を歩いて見ましたの。』 『お一人で!』 『否、子供達と。』と、うつかり言つたが、智惠子は妙に氣が引けた。 『先生、俺も行きたいなア。』と梅ちやんが甘える。 『俺も、俺も。』と新坊は氣早に立ち上つて雀躍する。 『ホホヽヽ。もう行つて來たの。この次にね。』と言ひ乍ら、智惠子は己が室に入つた。 「來なかつた!」と思ふと、ホッと安心した樣な氣持だ。と又、今にも來るかといふ新しい心配が起る。戸外を通る人の跫音が、忙しく心を亂す。戸口の溝の橋板が鳴る度、押へきれぬ程動悸がする。 「奈何したといふのだらう?」と自分の心が疑はれる。莫迦な! と叱つても矢張り氣が氣でない。強ひて書を讀んで見ても、何が書いてあつたか全然心に留らない。新坊が泣き出しでもすると譯もなく腹立しくなる。幾度も幾度も室の中を片附けてゐるうちに、午食になつた。 『小母さん、私の顏紅くなつて?』と箸を動かしながら訊いた。 『否。些とも。』 『然う? ぢや平生より青いんでせう。』 『否、何ともありませんよ。怎うかなすつたんですか?』 『怎うもしないんですけど、何だかホカ〳〵するわ。目の底に熱がある樣で……。』 『暑いところを山へなんか被行つたからでせうよ。今日はこれから又甚麽に蒸しますか!』  何がなしに氣が急いて、智惠子はさつさと箸を捨てた。何をするでもなく、氣がそは〳〵して、妙な暗さが心に湧いて來る。「怎うもしないのに!」自分に辯疏して見る傍から、「屹度加藤さんで午餐が出て、それから被來る。」といふ考が浮ぶ。髮を結はう、結はうと何囘と無く思ひ附いたが、箪笥の上の鏡に顏を寫しただけ。到頭三時近くなつた。 「世の中が詰らない!」と言つた樣な失望が、漠然と胸に湧く。自省の念も起る。氣を紛らさうと思つて二人の子供を呼んだ。智惠子の拵へてくれた浴衣をだらしなく着た梅ちやんと、裸體に腹掛をあてた新坊が喜んで來た。 『何か話をして上げませう? 新坊さんは桃太郎が好き?』 『嫌。』と頭を振つて、『山さ行く。』 『先生、山さ連れてつて。』と梅ちやんも甘えかゝる。 『ホホヽヽ、何方も山へ行きたいの? 山はこの次にね……。』 と言つてる所へ、入口に人の訪るゝ氣勢。智惠子は屹と口を結んだ。俄かに動悸が強く打つ。 五  胸を轟かして待つた其人では無くて訪ねて來たのは信吾であつた。智惠子は何がなしにバツが惡く思つた。  信吾は常に變らぬ容子乍らも、何處か落着ぬ樣で、室に入ると不圖氣がさした樣に見𢌞して坐つたが、今まで客のあつたとも見えぬ。 『吉野君が來なかつたですか?』 『否。』と對手の顏色を見る。 『來ない? 然うですか、何處へ行つたかなア。はてナ、』と、信吾は是非逢はねばならぬ用でもある樣に考へる。 『あの、お一人でお出懸けになつたんで御座いますか?』 『昌作と二人です、今朝出たつ限まだ歸らないんですが、多分貴女ン許かと思つて伺つたんです。』  何故此家に居ると思つたか、此家に來ると其人が言つて出たのか、又、若し眞に用があるのなら、午前中確かに居た筈の加藤へ行つて聞けば可い。言ひ方は樣々あつたが、智惠子は膝に目を落して、唯『否。』と許り。  危ない藝當を行つてるといふ樣な氣がして、心が咎める。 『はてナ。』と、信吾はまた大袈裟に考へ込む態を見せて、『實は何です、家に親類の者が來てゐて僕は今朝出られなかつたんですが、一寸今、用が出來たもんですから探しに來たんです。』 『何方か外にお尋ねになつたんで御座いますか?』 『否、』と信吾は少し困つて、『……眞直に此方へ。』 『此家へ被來るとでも被仰つて、お出懸けになられたんで御座いますか?』 『然うぢやないんですが、唯、多分然うかと思つたんで。』 『奈何してで御座いますか?』 『ハッハハ。』と、男は突然大きく笑つた。『違ひましたね。それぢや何處へ行つたかなア!』  智惠子は默つて了つた。 『盛岡でお逢ひになつたんですつてね、吉野に?』 『え。渡邊さんといふお友達の家に參りましたが、その方の兄さんとお親しい方だとかで……あの、些とお目に懸つたんで御座います。』 「巧く言つてやがらア、畜生奴!」と心の中。『甚麽男です、貴女の見る所では?』  智惠子は不快を感じて來た。『奈何ツて、別に……。』 『僕はあゝした男が大好ですよ。僕の知つてる美術家連中も少くないが、吉野みたいな氣持の好い、有望な男は居ませんよ……。』と、信吾は誇張した言方をして、女の顏色を見る。 『然うで御座いますか。』と言つた限、智惠子は眞面目な顏をしてゐる。  話は遂にはずまなかつた。智惠子には若しや恁うしてる所へ其人が來はせぬかといふ心配がある。そして、其人に關する事を言ひ出されるのが、何がなしに侮辱されてる樣な氣がする。信吾は信吾で、妙に皮肉な考へ許り頭に浮んだ。  それでも、四十分許り向ひ合つてゐて不圖氣が附いた樣にして信吾はその家を辭した。 『畜生奴!』恁う先づ心に叫んだ。  元が用があつて探しに來たのでも無いのだから、その儘家路を急いだ。母は二三日前からまた枕に就いた。父は留守。其處へ饒舌の叔母が子供達と共に泊りに來たのが、今朝も信吾は其叔母に捉まつて出懸けかねた。吉野は昌作を伴れて出懸けた。午後になつて父が歸ると、信吾は何となく吉野と智惠子の事が氣に掛つた。それは一つは退屈だつた爲めでもある。  も一つには、その二人が自分の紹介も待たずして知己になつたのが、譯もなく不愉快なのだ。隱して置いた物を他人に勝手に見られた樣な感じが、信吾の心を焦立せてゐる。 『今日は奈何して、あゝ冷淡だつたらう?』と、智惠子の事を考へ乍ら、信吾は強く杖を揮つて、路傍の草を自暴に薙ぎ倒した。 其九 一  叔母一行が來て家中が賑つてる所へ夕方から村の有志が三四人、門前寺の梁に落ちたといふ川鱒を持つて來て酒が始つたので、病床のお柳までが鉢卷をして起きるといふ混雜、客自慢の小川家では、吉野までも其席に呼出した。燈火の點く頃には、少し酒亂の癖のある主人の信之が、向鉢卷をしてカッポレを踊り出した。  朝から昌作の案内で町に出た吉野の歸つた時は、先に歸つた信吾が素知らぬ顏をして、客の誰彼と東京談をしてゐた。無理強ひの盃四つ五つ、それが悉皆體中に循つて了つて、聞苦しい土辯の川狩の話も興を覺えた。眞紅な顏をした吉野は、主人のカッポレを機に密乎と離室に逃げ歸つた。  其縁側には、叔母の子供等や妹達を對手に、靜子が何やら低く唱歌を歌つてゐた。 『あゝ、悉皆醉つちやつた。』恁う言つて吉野は縁に立つ。 『御迷惑で御座いましたわね。お苦しいんですか其麽に?』  燈火に背いた其笑顏が、何がなしに艶に見えた。涼しい夜風が遠慮なく髮を嬲る。庭には植込の繁みの中に螢が光つた。子供達は其方にゆく。 『飮みつけないもんですからね。然し氣持よく醉ひましたよ。』と言ひ乍ら、吉野は庭下駄を穿いた。其實、顏がぽつぽつと熱るだけで、格別醉つた樣な心地でもない。 『夜風に當ると可う御座いますわ。』 『え、些と歩いて見ませう。』と、酒臭い息を涼しい空に吹く。月の無い頃で、其處此處に星がちらついた。 『靜や、靜や。』と母屋の方からお柳の聲がした。  吉野はブラリ〳〵と庭を拔けて、圃路に出た。追駈ける樣な家の中の騷ぎの間々に、靜かな麥畑の彼方から水の音がする。暗を縫うて見え隱れに螢が流れる。  夜涼が頬を舐めて、吉野は何がなしに一人居る嬉しさを感じた。恁うした田舍の夜路を、何の思ふことあるでもなく、微醉の足の亂れるでもなく、しつとりとした空氣を胸深く吸つて、ブラリ〳〵と辿る心地は、渠が長く〳〵忘れてゐた事であつた。北上川の水音は漸々近くなつた。足は何時しか、町へ行く路を進んでゐた。  轟然たる物の響の中、頭を壓する幾層の大厦に挾まれた東京の大路を、苛々した心地で人なだれに交つて歩いた事、兩國近い河岸の割烹店の窓から、目の下を飛ぶ電車、人車、駈足をしてる樣な急しい人々、さては、濁つた大川を上り下りの川蒸汽、川の向岸に立列んだ、強い色彩の種々の建物などを眺めて、取り留めもない、切迫塞つた苦痛に襲れてゐた事などが、怎うやらずつと昔の事、否、他人の事の樣に思はれる。  吉野は、今日町に行つて加藤で御馳走になつた事までも、既う五六日も十日も前の事の樣に思はれた。自分が餘程以前から此村にゐる樣な氣持で、先刻逢つて酒を強ひられた許りの村の有志──その中には清子の父なる老村長もゐた──の顏も、可也古くからの親しみがある樣に覺えた。  いつしか高畠の杜を過ぎて、鶴飼橋の支柱が夜目にそれと見える樣になつた。急に高まつた川瀬の音が、靜かな、そして平かな心の底に、妙にしんみりした響きを傳へる。  と、その川瀬の音に交つて、子供らの騷ぐ聲が聞え出した。  橋の袂まで來た。不圖子供らの聲に縺れて、低い歌が耳に入る。 『……かーみはーあーいーなり。』  仄白い人の姿が、朧氣に橋の上に立つてゐる。 二  橋の上の仄白い人影、それは智惠子であつた。  信吾の歸つた後の智惠子は、妙に落膽して氣が沈んだ。今日一日の己が心が我ながら怪まれる。 『奈何したといふのだらう? 私はあの人を、思つてる……戀してるのか知ら!』 『否!』と強く自ら答へて見た。自分は假にも其麽事を考へる樣な境遇ぢやない、兩親はなく、一人ある兄も手頼りにならず、又成らうともせぬ。謂はゞこの世に孤獨の自分は、傍目もふらずに自活の途を急がねばならぬ。それだのに、何故這麽……?  懊れに懊れて待つた其人の、遂に來なかつた失望が、冷かに智惠子の心を嘲つた。二度と這麽事は考へまい! と思ふ傍から、『矢張り女は全く放たれる事が出來ない。男は結局孤獨だ、死ぬまで。』と久子の兄に言つた其人の言葉などが思出された。書を讀む氣もしない。學校へ行つてオルガンでも彈かうと考へても見た。うつかりすると取り留めのない空想が湧く……。  日が暮れると、近所の女小供が螢狩に誘ひに來た。案外氣輕に智惠子はそれに應じて宿の二人の子供をも伴れて出た。出る時、加藤の玄關が目に浮んだ。其處には數々の履物に交つて赤革の夏靴が一足脱いであつた。小川のお客樣も來てゐると清子の言つたその時、智惠子は、あ、これだ! と其靴に目を留めたつけ!  村で螢の名所は二つ、何方に爲ようと智惠子が言ひ出すと、子供らは皆舟綱橋に伴れてつて呉れと強請んだ。 『彼方には男生徒が澤山行つてるから、お前達には取れませんよ。』恁う智惠子が言つた。女兒等は、何有男に敗けはしないと口々に騷いだが、結句智惠子の言葉に從つて鶴飼橋に來た。  夏の夜、この橋の上に立つて、夜目にも著き橋下の波の泡を瞰下し、裾も袂も涼しい風にはらめかせて、數知れぬ囁きの樣な水音に耳を澄した心地は長く〳〵忘られぬであらう。南岸の崖の木々の葉は、その一片々々が光るかと見えるまで、無數の螢が集つてゐて、それが時を計つて、ポーッと一度に青く光る。川水も青く底まで透いて見える。と、一度にスッと暗くなる。また光る、また消える、また光る……。其中から、迷ひ出る樣に風に隨つて飛ぶのが、上から下から、橋の下を潜り、上に立つ人の鬢を掠める。低く飛んだのが誤つて波頭に呑まれてその儘あへなく消えるものもある。  低くなつた北岸の川原にも、圓葉楊の繁みの其方此方、青く瞬く星を鏤めた其隅々には、暗に仄めく月見草が、しと〳〵と露を帶びて、一團づゝ處々に咲き亂れてゐる。  女兒等は直ぐ川原に下りて、キャッ〳〵と騷ぎ乍ら流れる螢を追つてゐる。智惠子は何がなしに、唯何がなしに橋の上にゐたかつた。其麽事は無い! と否み乍らも、何がなしに、若しや、若しや、といふ朦乎した期待が、その通り路を去らしめなかつた。  今日一日の種々な心持と違つた、或る別な心持が、新しく智惠子の心を領した。そこはかとなき若き悲哀──手頼りなさが、消えみ明るみする螢の光と共に胸に往來して、他にとも自分にとも解らぬ、一種の同情が、自と呼吸を深くした。  幸福とは何か? 這麽考へが浮んだ。神の愛にすがるが第一だ、と自分に答へて見た。不圖智惠子は、今日一日全く神に背いて暮した樣な氣がして來た。『神に遁れる、といふ樣な事も有得るですね。』と、何時だつたか信吾の言つた言葉も思ひ出された。智惠子の若い悲哀は深くなつた。遂に讃美歌を歌ひ出した。 『……やーみ路をー、てーらせりー、かーみはーあーいーなりー。』 「愛」といふ語が何がなく懷しかつた。そして又繰り返した。『……あーいーなり……。』  下駄の音が橋に傳はつた。智惠子は鋭敏にそれを感じて、つと振返つた。が、待構へてでも居た樣に、不思議に動悸もしない。其人とは蟲が知らしたのだが……。 三 『日向樣ぢやありませんか?』恁う言つて、吉野は近づいて來た。 『まア、貴方で御座いましたか! 昨日は失禮致しました。』 『僕こそ。』と言ひながら、男は少し離れて鋼線の欄干に靠れた。『意外な所で又お目にかゝりましたね。貴女お一人ですか?』 『否、子供達に強請まれて螢狩に。貴方も御散歩?』 『え。少し酒を飮まされたもんですから、密乎逃げ出して來たんです。實に好い晩ですねえ!』 『えゝ。』  不圖話が斷れた。橋の下の川原には女兒等が夢中になつて螢を追つてゐる。  智惠子は胸を欄干に推當てた故か、幽かに心臟の鼓動が耳に響く。其間にも崖の木の葉が、光り又消える。 『貴女は、時々被來るんですか、此處等に?』 『否。……滅多に夜は出ませんですけれど。……今日は餘り暑かつたもんで御座いますから!』 『あゝ然うですか!』  話はまた斷れた。 『隨分澤山な螢で御座いますねえ!』と、今度は智惠子が言つた。 『えゝ、東京ぢや迚も見られませんねえ。』 『左樣で御座いませうねえ。』 『あ、貴女は以前東京に被居たんですつてねえ?』 『え。』 『餘程以前ですか?』 『六七年前までで御座います。』 『然うでしたか!』と、吉野はまた何か言はうとしたが、立ち入つた身の上の話と氣が附いて、それなり止めた。  二人は又接穗なさに困つた。そして長い事默してゐた。吉野は既う顏の熱りも忘られて、醉ひ醒めの侘しさが、何がなしの心の望と戰つた。つい四五日前までは不見不知の他人であつた若い美しい女と、恁うして唯二人人目も無き橋の上に並んでゐると思ふと、平生烈しい内心の壓迫を享け乍ら、遂今迄その感情の滿足を圖らなかつた男だけに、言う許りなき不安が、「男は死ぬまで孤獨だ!」という渠の悲哀と共に、胸の中に亂れた。  若しも智惠子が、渠の嘗て逢つた樣な近づき易い世の常の女であつたなら、渠は直ぐに強い輕侮の念を誘ひ起して自ら此不安から脱れたかも知れぬ。然し眼前の智惠子は渠の目には餘りに清く餘りに美しく、そして、信吾の所謂、近代的女性で無いことを知つた丈に、其不安の興奮が強かつた。自制の意が醉ひ醒めの侘しさを掻き亂した。豐かな洗髮を肩から背に波打たせて、眤と川原に目を落して、これも烈しく胸を騷がせてゐる智惠子の歴然と白い横顏を、吉野は不思議な花でも見る樣に眺めてゐた。  と、飛び交ふ螢の、その一つが、スイと二人の間を流れて、宙に舞ふかと見ると、智惠子の肩を辷つて髮に留つた。パッと青く光る。 『あ、』と吉野は我知らず聲を立てた。智惠子は顏を向ける。其拍子に螢は飛んだ。 『今螢が留つたんです、貴女の髮に。』 『まア!』と言つて、智惠子は暗ながら颯と顏を染めた。今まで男に凝視られてゐたと思つたので。  で、二人の目は期せずして其一疋の螢の後を追うた。フラ〳〵と頭の上に漂うて、風を喰つた樣に逆まに川原に逃げる。 『あれ、先生の方から!』と、子供の一人が其螢を見附けたらしく、下から叫んだ。 『あれ! あれ!』 『先生! 先生!』と女兒等は騷ぐ、螢はツイと逸れて水の上を横ざまに。 『先生! 下へ來て取つて下ンせ!』と一人が甘えて呼ぶ。 『今行きますよ。』と智惠子は答へた。下からは口を揃へて同じ事を言ふ。 『行つて見ませう!』恁う吉野が言つて欄干から離れた。 『は、參りませう。』 『御迷惑ぢやないんですか貴女は?』 『否』と答へる聲に力が籠つた。『貴方こそ?』 四  晝は足を燬く川原の石も、夜露を吸つて心地よく冷えた。處々に咲き亂れた月見草が、闇に仄かに匂うてゐる。その間を縫うて、二人はそこはかとなく小迷うた。 『その感想──孤獨の感想がですね。』と、吉野は平生の興奮した調子で語り續けてゐた。 『大都會の中央の、轟然たる百萬の物音の中にゐて感ずる時と、恁うした靜かな村で感ずる時と、それア違ひますよ。矢張り何ですかね、新しい文明はまだ行き渡つてゐないんで、一歩都會を離れると、世界にはまだ〳〵ロマンチックが殘つてるんですね。畢竟夢が殘つてるんですね。』 『は!』 『夢を見る暇も無い都會の烈しい戰爭の中で、間斷なしの壓迫と刺戟を享けながら、切迫塞つた孤獨の感を抱いてゐる時ほど、自分の存在の意識の強い事はありませんね。それア苦しいですよ。苦しいけれど、矢張り新しい生活は其烈しい戰爭の中で營まれるんですね。……が、です、田舍へ來ると違ひます。田舍にはロマンチックが殘つてます。夢が殘つてます、叙情詩が殘つてます。先刻も一人歩いてゐて然う思つたんですが、この靜かな廣い天地に自分は孤獨だ! と感じてもですね、それが何だか恁う、嬉しい樣な氣がするんです。切迫塞つた苦しい、意識を刺戟する感じでなくて、餘裕のある、叙情的な調子のある……畢竟周圍の空氣がロマンチックだから、矢張り夢の樣な感じですね。……僕は苦しくつて堪らなくなると何時でも田舍に逃げ出すんです。今度も然うです、畢竟、僕自身にもまだロマンチックが澤山殘つてます。自分の藝術から言へば出來るだけそれを排斥しなきや不可い。然しそれが出來ない! 抽象的に言ふと、僕の苦痛が其努力の苦痛なんです、そして結局の所──』と激した調子で續けて來て、 『結局の所、何方が個人の生存──少くとも僕一個人の生存に幸福であるか解らない!』と聲を落した。  智惠子は眤と俯向いて、出來る丈け男の言ふ事を解さうと努めながら歩いてゐた。 『貴女は寂しい──孤獨だと思ふことがありますか?』 と、突然吉野が問うた。 『御座います!』と、智惠子は低く力を籠めて言つて、男の横顏を仰いだ。 『貴女は親兄弟にも友人にも言へない樣な心の聲を何に發表されるんです? 歌にですか、涙にですか?』 『神樣に……。』 『神樣に!』と、男は鸚鵡返しに叫んだ。『神樣に! 然うですねえ、貴女には神があるんですねえ!』 『僕にはそれが無い! 以前にはそれを色彩と形に現せると思つてゐたんですが、又、實際幾分づゝ現してゐたんですが、それがもう出來なくなつた。』と言ひ乍ら、吉野は無雜作に下駄を脱ぎ裾を捲つて、ヒタ〳〵と川原の石に口づけてゐる淺瀬にザブ〳〵と入つて行く。 『モウパッサンといふ小説家は自己の告白に堪へかねて死んだと言ひますがねえ……アヽ氣持が好い、怎うです、お入りになりませんか?』 『は。』と言つて智惠子は莞爾笑つた。そして、矢張り跣足になり裾を遠慮深く捲つて、眞白な脛の半ばまで冷かな波に沈めた。 『まア、眞箇に……!』  吉野は膝頭の隱れる邊まで入つて行く。二人は暫し言葉が斷れた。螢が飛ぶ。子供らも二人の態を見て、我先にと裾を捲つて水に入つた。  相對した彼岸の崖には、數知れぬ螢がパーッと光る。川の面が一面に燐でも燃える樣に輝く。 『あれッ!』『あれッ、新坊さんが!』と魂消つた叫聲が女兒らと智惠子の口から迸つた。五歳の新坊が足を浚はれて、呀といふ間もなく流れる。と見た吉野は、突然手を擧げて智惠子の自ら救はんとするを制した。 『大丈夫!』唯一言、手早く尻をからげてザブ〳〵と流れる子供の後を追ふ。子供は刻々中流へ出る、間隔は三間許りもあらう。水は吉野の足に絡る。川原に上つた子供らは聲を限りに泣き騷いだ。 五  川底の石は滑かに、流れは迅い。岸の智惠子が俄かの驚きに女兒等の泣き騷ぐも構はず、はら〳〵してる間に、吉野は危き足を踏みしめて十二三間も夜川の瀬を追驅けた。波がザブ〳〵と腰を洗つた。  螢の光と星の影、處々に波頭の蒼白く飜へる間を、新坊はツブ〳〵と流れて行く。  グイと手を延ばすと、小さい足が捉つた。 『大丈夫!』と吉野は聲高く呼んだ。 『捉りましたか?』と智惠子の聲。 『捉つた!』  吉野は、濡れに濡れて呼吸も絶えたらしい新坊の體を、無造作に抱擁へて川原に引返した。其處へ、騷ぎを聞いて通行の農夫が一人、提灯を下げて降りて來た。 『何したべ? 誰が死んだがナ?』 『何有、大丈夫!』と、吉野は水から上つた。丁度橋の下である。 『新坊さん、新坊さん!』と、智惠子は慌てゝ子供に手を添へて、『まア眞箇に! 怎うしませう!』と顫へてゐる。 『大丈夫ですよ!』と吉野は落着いた聲で言つて、子供の兩足を持つて逆樣に、小さい體を手荒く二三度振ると、吐出した水が吉野の足に掛つた。  女兒等は恐怖に口を噤んで、ブル〳〵顫へて立つてゐる。小さいのはシク〳〵泣いてゐた。 『瀬が迅えだでなナ! これやはア先生許の子供だナ。』 と、農夫は提灯を翳した。  と、吉野は手早く新坊の濡れた着衣を脱がせて、砂の上に仰向に臥せた。そして、それに跨る樣にして、徐々と人工呼吸を遣り出す。  可憐な小さい體を、提灯の火が薄く照らした。  智惠子は、シッカリと吉野の脱ぎ捨てた下駄を持つた手を、胸の上に組んで、口の中で何か祈祷をしながら、熱心に男のする態を見て居た。  大きい螢が一疋、スイと子供の顏を掠めて飛んだ。 『畜生!』恁う言つて農夫がそれを拂つた。 『ワア──』と、眠りから覺めた樣な鈍い泣聲が新坊の口から洩れた。 『新坊さん!』と、智惠子は驚喜の聲を揚げて、矢庭に砂の上の子供に抱着いた。 『生きた! 生きた!』と女兒等も急に騷ぐ。  新坊の泣き聲も高くなつた。眼も開いた。 『死んだんぢやないんだよ、初めつから。』と、吉野もホッと安心した樣な顏を上げて、笑ひながら女兒等を見𢌞はした。 『はア、大丈夫だ。』と農夫も安心顏。 『何とはア、此處ア瀬が迅えだで、子供等にや危ねえもんせえ。去年もはア……』と、暢氣に喋り立てる。 『わア──』と新坊はまた泣く。 『その着物を絞つて下さい、日向樣、いや、それより温めてやらなくちや。』と、吉野は裙やら袖やら濡れた己が着物の帶を解いて、肌と肌、泣く兒をピッタリと抱いて前を合せる。 『私抱きませう。』と智惠子が言つた。 『構ひません。冷くて氣持が好いですよ。さ、もう泣かなくて可い、好い兒だ! 好い兒だ!……イヤ、恁うしてるよりや家へ歸つて寢かした方が好い。然う爲ませう日向樣! 此儘お送りしますから。温めなくちや、惡い!』 『そンだ、其方が好うがんす。』と農夫も口を添へる。 『濟みません、貴方!』と智惠子は心を籠めて言つて、 『私がうつかりしてゐて這麽事になつて……。』 『然うぢやない、僕が惡いんです。僕が先に川に入つて見せたんだから!』 『否、私……夢見る樣な氣持になつてゐて、つい……。』  その顏を、吉野はチラと見た。 六  星影疎らに、川瀬の音も遠くなつた。熟した麥の香が、暗い夜路に漂うてゐる。  先に立つ女兒等の心々は、まだ何か恐怖に囚はれてゐて、手に手に小い螢籠を携へて、密々と露を踏んでゆく。譯もなく歔欷げてゐる新坊を、吉野は確乎と懷に抱いて、何か深い考へに落ちた態で、その後に跟いた。  智惠子は、片手に濡れた新坊の着物を下げて、時々心配顏に子供の顏を覗き乍ら、身近く吉野と肩を並べた。胸は感謝の情に充溢になつてゐて、それで、口は餘り利けなかつた。 『阿母樣!』と、新坊は思い出し樣に時々呼んで、わアと力なく泣く。 『もう泣かないの、今阿母樣の處へ伴れてつて下さるわ。ねえ、新坊さん、もう泣かないの。』と、智惠子は横合から頻りに慰める。 『眞箇に私、……貴方が被來らなかつたら、私奈何したで御座いませう!』 『其麽事はありません。』 『だつて私、萬一の事があつたら、宿の小母さんに甚麽にか……』 『日向樣!』と吉野は重々しい調子で呼んだ。『僕は貴女に然う言はれると、心苦しいです。誰だつてあの際あの場處に居たら、あれ位の事をするのは普通ぢやありませんか?』 『だつて、此兒の生命を救けて下すつたのは、現在貴方ぢや御座いませんですか!』 『日向樣!』と吉野は又呼んだ。『も少し眞摯に考へて見ませう……若しあの際、彼處に居たのが貴女でなくて別の人だつたらですね、僕は同じことを行るにしても、もつと違つた心持で行つたに違ひない。』 『まあ貴方は、……』 『言つて見れば一種の僞善だ!』  然う言ふ顏を、智惠子は暗ながら眤と仰いだ。何か言はうとしても言へなかつた。 『僞善です!』と、男は自分を叱り附ける樣に重く言つた。渠は今、自分の心が何物かに征服される樣に感じてゐる。それから脱れ樣として恁麽事を言ふのだ。『僞善です! 人が善といふ名の附く事をする、その動機は二つあります。一つは自分の感情の滿足を得る爲め、畢竟自分に甘える爲め、も一つは他に甘える爲めです。』 『貴方は──』と言ふより早く、智惠子の手は突然男の肩に捉まつた。烈しい感動が、女の全身に溢れた。強く強く其顏を男の二の腕に摩り附けて、 『貴方は……貴方は……』と言ひ乍ら、火の樣な熱い涙が瀧の如く、男の肌に透る。  吉野は礑と足を留めて、屹と脣を噛んだ。眼も堅く閉ぢられた。 『わア──』と、驚いた樣に新坊が泣く。  はしたない事をした、といふ感じが矢の如く女の心を掠めた。と、智惠子は、も一度『貴方は!』迸しる樣に言つて、肩に捉つた手を烈しく男の首に捲いた。 『先生!』と、五六間前方から女兒等が呼ぶ。 『行きませう!』と男は促した。 『は。』と云ふも口の中。身も世も忘れた態で、顏は男の體から離しともなく二足三足、足は男に縺れる。 『日向樣』と男は足を留めた。 『お許し下さい!』と絶え入る樣。 『僕は東京へ歸りませう!』と言ふ目は眤と暗い處を見てゐる。 『……何故で御座います?』 『……餘り不思議です、貴女と僕の事が。』 『…………』 『歸りませう! 其方が可い。』 『遣りません!』と智惠子は烈しく言つて、男の首を強く絞める。 『あゝ──』と吉野は唸る樣に言つた。 『お、お解りになりますまい、私のこ、心が……』 『日向さん!』と、男の聲も烈しく顫へた。『其言葉を僕は、聞きたくなかつた!』  矢庭に二つの唇が交された。熟した麥の香の漂ふ夜路に、熱かい接吻の音が幽かに三度四度鳴つた。 七  其夜、母に呼ばれて母屋へ行つた靜子が、用を濟まして再び庭に出て來た時は、もう吉野の姿が見えなかつた。植込の蔭、築山の上、池の畔、それとなく尋ね廻つて見たが、矢張り見えなかつた。  客は九時過ぎになつて歸つた。父の信之は醉倒れて了つた。お柳は早くから座を脱して寢てゐたが、 『靜や、吉野樣はもうお寢みになつたのかえ。』 『否、醉つたから散歩して來るつて出てらしつてよ。』 『何時頃?』 『二時間も前だわ。何處へ被行たでせう!』 『昌作さんとかえ?』 『否、お一人。松藏でもお迎ひにやつて見ませうか?』 『然うだねえ。』 『大丈夫だよ。』と言ひ乍ら、赤い顏をした信吾が入つて來た。 『彼奴の事だ、橋の方へでも行つてブラ〳〵してるだらう。それより俺は頭が痛くて爲樣がないから寢かして呉れよ。』 『お先に?』 『歸つたら然う言つて呉れ。そして床を延べて置いてやれ、あゝ醉つた!』  で、靜子は下女に手傳はして、兄を寢せ、座敷を片附けてから、一人離室に入つた。夜氣が濕りと籠つて、人なき室に洋燈が明るく點いてゐる。  一枚だけ殘して雨戸を閉め、散亂つた物を丁寧に片寄せて、寢具も布き、蚊帳も吊つた。不圖靜子は、「智惠子さん許へ被行たのかしら!」といふ疑ひを起した。「だつて、夜だもの。」「然し。」「豈夫。」といふ考へが霎時胸に亂れた。 「それにしても奈何なすつたらう!」靜子は、何がなしに此室に居て見たい樣な氣がした。で、夏座布團を布いた机の前に坐つて、心持洋燈の火を細くした。 『秋になつたら私が此室にゐる樣にしようか知ら!』  机の上には、書が五六册。不圖其中に、黒い表紙の寫生帳が目に附いた。靜子は何氣なく其れを取つて、或所を披いた。  と、靜子の眼は輝いた。顏が染つた。人なき室をキョロ〳〵と見廻して又それを熱心に見る。──鉛筆の走書の粗末ではあるが、書かれてあるのは擬ひもなく靜子自身の顏ではないか!  Erste Eindruck(第一印象)と、獨逸語で其上に書かれた。それは然し、何の事やら靜子には解らなかつた。  靜子は、氣がさした樣に、俄かにそれを閉ぢて以前の書の間に重ねた。そして、逃げる樣に室を出た。心はそこはかとなく動いて、若々しい皷動が頻りに胸を打つた。  次の頁にも、その次の頁にも、智惠子の顏の書かれてあることは、靜子は遂に知らなかつた。  間もなく庭に下駄の音がした。靜子は妙に躊躇つた上で、急いで又離室に來た。一枚殘した雨戸から、丁度吉野が上るところ。 『怎うも遲くなつちやつて。』 『否。お歸り遊ばせ。』  恁う云つたが、男の顏を見る事は出來なかつた。俯向いた顏は仄りと紅かつた。急いで洋燈を明るくする。 『實に濟みませんでした。這麽に遲くなる積りぢやなかつたんですが……』 『否、貴方。あの、兄はお酒を過して頭痛がすると言つて、お先に……』 『然うですか。僕は悉皆醒めちやつた。もう何時頃でせう?』 『十時、で御座いませう。』  吉野はどかりと机の前に坐つた。と靜子は、今し方自分が其處に坐つた事が心に浮んで、『お寢み遊ばせ。』と言ふより早く障子を閉めて縁側に出た。吉野はグタリと首を垂れて眼を瞑つた。着衣はシットリと夜氣に萎えてゐる。裾やら袖やら、川で濡らした此着衣を、智惠子とお利代が強つて勸めて乾かして呉れたのだ。その間、吉野は誰の衣服を着てゐたか! 「智惠子! 智惠子!」と吉野の心は叫んだ。密と左の二の腕に手を遣つて見た。其處に顏を押附けて何と言つた⁉ 『貴方は……貴方は……!』 其十 一  吉野が新坊の命を救けた話は、翌朝朝飯の際に吉野自身の口から、簡單に話された。  同じ話がまた、前夜其場に行合せた農夫が、午頃何かの用で小川家の臺所に來た時、稍詳しく家中の耳に傳へられた。老人達は心から吉野の義氣に感じた樣に、それに就いて語つた。信吾と靜子は、顏にも言葉にも現されぬ或る異つた感じを抱かせられた。  昌作はまた、若しもそれが信吾によつて爲された事なら甚麽にか不愉快を感じたらうが、何がなしに蟲の好く吉野だつたので、その豪いことを誇張して繼母などに説き聞せた。そして、かの橋下の瀬の迅い事が話の起因で、吉野に對つて頻りに水泳に行く事を慫慂めた。昌作の吉野に對する尊敬が此時からまた加つた。  其翌日か翌々日、叔母と其子等は盛岡に歸つて行つた。この叔母は、數ある小川家の親戚の中でも、殊更お柳と氣心が合つてゐた。といふよりは、夫が非職の郡長上りか何かで、家が餘り裕かで無いところから、お柳の氣褄を取つては時々恁うして遣つて來て、その都度家計向の補助を得てゆくので。お柳は、松原からの縁談がもう一月の餘もバタリと音沙汰がないのを内々心配してゐたので、密かにこの叔母に相談した。女二人の間には人知れず何事かの手筈が決められた。叔母は素知らぬ顏をして歸つて了つた。  叔母を送つて好摩の停車場に行つた下男と下女は、新しい一人の人を小川家に導いて歸つた。それは他ではない、信之の次男、靜子とは一歳劣りの弟の、志郎といふ士官候補生だ。  志郎は兄弟中の腕白者、お柳の氣には餘り入らぬが、父の信之からは此上なく愛されてゐる。靜子と縁談の持上つてゐる松原家の三男の狷介とは小さい時からの親友で、一緒に陸軍に志し試驗も幸ひと同時に及第して士官學校に入つた。一日から二十日間の休暇を一週間許り仙臺に遊んで、確とした前知らせもなく歸つて來たのだ。  或る日、母のお柳は志郎を呼んで、それとなく松原中尉の噂を訊いてみた。その返事は少からずお柳を驚かせた。 『松原の政治か! 彼奴ア駄目だよ、阿母樣、狷介なんかも兄貴に絶交して遣らうなんて云つてゐた。』 『奈何してだい、それはまた?』 『奈何してつて、那麽馬鹿はない。それや評判が惡いよ、此年の春だつけかなア、下宿してゐた素人屋の娘を孕ませて大騷ぎを行つたんだよ。友人なんか仲に入つて百五十圓とか手切金を遣つたそうだ。那麽奴ア吾々軍人の面汚しだ。』  お柳は猶その話を詳しく訊いた上で、その事は當分靜子にも誰にも言ふなと口留めした。  志郎は淡白な軍人氣質、信吾を除いては誰とも仲が好い、緩々話をするなんかは大嫌ひで、毎日昌作と共に川にゆく、吉野とも親しんだ。──  常ならぬ物思ひは、吉野と信吾と靜子の三人の胸にのみ潜んだ。そして、三人とも出來るだけそれを顏に表さぬ樣に努めた。智惠子の名は、三人とも怎うしたものか成るべく口に出すことを避けた。  吉野は醫師の加藤と親んで、寫生に行くと言つては、重ねて其家を訪ねた。  智惠子は唯一度、吉野も信吾も居らぬ時に遊びに來たツ限であつた。  暑い〳〵八月も中旬になつた。螢の季節も過ぎた。明日は陰暦の盂蘭盆といふ日、夕方近くなつて、門口から噪いだ聲を立てながら神山富江が訪ねて來た。 二  富江が來ると、家中が急に賑かになつて、高い笑聲が立つ。暑さ盛りをうつら〳〵と臥てゐたお柳は今し方起き出して、東向の縁側で靜子に髮を結はしてる樣子。その縁側の邊から、富江の聲が霎時聞えてゐたが、何やら鋭く笑ひ捨てゝ、縁側傳ひに足音が此方へ來る。  信吾も晝寢から覺めた許り、不快な夢でも見た後の樣に、妙に燻んだ顏をして胡座を掻いてゐた。富江の聲や足音は先刻から耳についてゐる。が、心は智惠子の事を考へてゐた。  或は一人、或は吉野と二人、信吾は此月に入つてからも三四度智惠子を訪ねた。二人の話はもう以前の樣に逸まなくなつた。吉野が來てからの智惠子は、何處となく變つた點が見える。さればと言つて別に自分を厭ふ樣な樣子も見せぬ。  かの新坊の溺死を救けた以來、吉野が一人で、或は昌作を伴れて、智惠子を訪ねることも、信吾は直ぐに感附いたゐた。二人の友人の間には何日しか大きい溝が出來た。信吾は苛々して不快な感情に支配されてゐる。  いつそ結婚を申込んでやらうか、と考へることがないでもない。が、信吾は左程までに深く智惠子を思つてるのでもないのだ。高が田舍の女教員だ! といふ輕侮が常に頭にある。確乎した女だとも思ふ。確固した、そして美しい女だけに、信吾は智惠子をして他の男──吉野を思はしめたくない。何といふ理由なしに。自分には智惠子に思はれる權利でもある樣に感じてゐる。「吉野を歸して了ふ工夫はないだらうか!」恁麽考へまでも時として信吾を惱ました。  そして又、靜子の吉野に對する素振も、信吾の目に快くはなかつた。總じて年頃の兄が年頃の妹の男に親しまうとするのを見るのは、樂しいものではない。平生戀といふものに自由な信條を抱いてる男でも、其麽場合には屹度自分の心の矛盾を發見する。 『戸籍上は兎も角、靜子はもう未亡人ぢやないか!』  信吾の頭には恁麽皮肉さへも宿つてゐる。これと際立つところはないが靜子が吉野の事といへば何より大事にしてゐる、それが唯癪に障る。理由もなく不愉快に見える──。 『まア、起きてらつしつたんですか!』と、富江は開け放した縁側に立つた。 『貴女でしたか!』 『オヤ、別の人を待つてゐたの?』 『ハッハハ。不相變不減口を吐く! 暑いところを能くやつて來ましたね。』 『貴方が晝寢してるだらうから、起して上げようと思つて。』 『屹度神山さんが來ると思つたから、恁うしてチャンと起きて待つてたんですよ。』 『其麽事誰方から習つて? ホホヽヽまア何といふ呆然した顏! お顏を洗つて被來いな。』と言ひ乍ら、遠慮なく坐つた。 『敵はない、敵はない。それぢや早速仰せに從つて洗つて來るかな。』 『然うなさいな。もう日が暮れますから。』と言つて、無雜作に其處に落ちてゐる小形の本を取る。  立ち上つた信吾は、『ア、其奴ア可けない。』と、それを取返さうとする。  娘らしい態をして、富江は素早く其手を避けた。『何ですの、これ? 小説?』  黄ろい本の表紙には、 〝True Love〟 と書かれた。文科の學生などの間に流行つてゐる密輸入のアメリカ版の怪しい書だ。 『ハッハハ。』と信吾は手を引込ませて、『まア小説みたいなもんでサ。』 『みたいなナンテ……確乎教へたつて好いぢやありませんか? 私は讀めるんぢやなし……。』 『それが讀めたら面白いですよ。』と、信吾はニヤ〳〵笑つてゐる。 『日向樣の眞似をして私も英語をやりませうか?』と言つて、富江は皮肉に笑つてる眼で男を仰いだ。  そして直ぐ何か思出した樣に聲を落して、『然う〳〵信吾さん、面白い話がありますよ。』 『甚麽?』 『まアお顏を洗つてらつしやいな。』 三  顏を洗つて來た信吾は、氣も爽々した樣で、ニヤ〳〵笑ひながら座についた。 『あら、貴方のお髭は洗つても落ちませんね。』 『冗談ぢやない。それより何です、面白い話といふのは?』 『詰らない事ですよ。』 『其麽に自重せなくても可いぢやないですか?』 『其麽に聞きたいんですか?』 『貴女が言ひ出して置いた癖に。』 『ホホヽヽ。そんなら言ひませうか。』 『聞いて上げませう。』 『あのね……』と、富江は探る樣な目附をして、笑ひ乍ら眞正面に信吾を見てゐる。  信吾は、其話が屹度智惠子の事だと察してゐる。で、恁う此女に顏を見られると、擽られる樣な、かつがれてる樣な氣がして、妙に紛らかす機會がなくなつた。 『何です?』と、少し苛々した調子で言つた。 『ホホヽヽ。』と富江は又笑つた。『或る人がね。』 『或る人ツて誰?』 『まア。』 『可し〳〵。その或る人が怎うしたんです?』 『あの方をね。』と離室の方を頤で指す。 『吉野を。』と信吾の眼尻が緊つた。 『ホホヽヽ。』 『吉野を怎うしたんです?』 『……ですとサ。ホホヽヽ。』 『豈夫? 神山樣の口にや戸が閉てられない。』と言つて、何を思つてか膝を搖つて大きく笑つた。  目的が外れたといふ樣に、富江は急に眞面目な顏をして、『眞箇ですよ。』 『豈夫? 誰が其麽事言つたんですか?』 『矢張り聞きたいんでせう?』 『聞きたいこともないが……然し其奴ア珍聞だ。』 『珍聞?』と、また勝誇つた眼附をして、『貴方も餘程頓馬ね!』 『怎うして?』 『怎うしてだと! ホヽヽヽ。』と、持つてゐる書で信吾の膝を突く。 『それより神山さん、誰が其麽事言つたんですか?』 『確かな所から。』 『然し面白いなア。ハッハハ。眞箇だつたら實に面白い。可し〳〵、一つ吉野に揶揄つてやらう。』と一人態と面白さうに言ふ。 『其麽に面白くつて?』 『面白いさ。宛然小説だ!』 『然うね。この話は誰より一番信吾さんに面白いの。ね、然うでせう?』 『それはまた、怎うした譯です?』 『ね、然うでせう? 然うでせう?』 と、男を壓迫る樣に言つて探る樣な眼を異樣に輝かした。そして、彈機でも外れた樣に 『ホホヽヽ。』と笑つた。 『ハハヽヽ。』と、信吾も爲方なしに笑つて、『實に詭辯家だな神山さんは!』 『詭辯家? 怎うせ然うよ。今の話も私が拵へたんだから!』 『否、其意味ぢやないんですよ。誰です、それを言つたのは?』  其顏を嘲る樣に眤と見て、『矢張り氣に懸るわね、信吾さん!』 『莫迦な!』と言つたが、女に自分の心を探られてゐるといふ不快が信吾の頭を掠めた。『それより奈何です、その吉野の方へ行つてみませんか?』 『行きませう。』  信吾はつと立つて縁側に出ると、『吉野君』と大きく呼んだ。 『何だ?』と落着いた返事。 『晝寢してたんぢやないのか! 今神山さんが來たが、其方へ行つても可いか?』 『來たまへ。』 『行きませう。』と富江を促して、信吾は先に立つ。富江は何か急に考へることでも出來た樣な顏をして、默つてその後に跟いた。縁側傳ひ、蔭つた庭の植込に蜩が鳴き出した。 四  今年の春の巴里のサロンの畫譜を披いて、吉野は何か昌作に説明して聞かしてゐた。  一通りの挨拶が濟むと、富江はすぐ立つて、壁に立掛けてある書きかけの水彩畫を見る。信吾はゴロリと横になつて、その畫のことを吉野と語る。 『昌作さん。』と富江が呼びかけた。『貴方昨日町へ被行つて?』 『行つた。山内へ見舞に。』 『奈何でしたの、御病氣は?』と笑つてゐる。 『それや可哀想ですよ。臥たり起きたりだが、今年中に死ぬかも知れないなんて言つてるもの。』 『其麽に惡いかねえ。それや可哀想だ。何しろあの體だからなア。』と、信吾は別に同情した風もなく言ふ。 『盛岡に歸るさうだ。四五日中に。』 『昌作さん。』と富江は又呼んだ。そして急しく吉野と信吾の顏を見𢌞して、 『好い物上げませうか、貴方に?』 『何です?』 『好い物なら僕も貰ひたいな。』 『信吾さんにはいや。ねえ昌作樣、上げませうか?』 『何だらうな!』と昌作は躊躇する。 『二人が喧嘩しちや可けないから僕が貰ひませうか?』 と吉野は淡白に笑ふ。 『ねえ昌作さん、誰方にも見せちや可けませんよ。』 『可し、志郎と二人で見る。』 『否、貴方一人で見なくちや可けないの。』と言ひながら、富江は何やら袂から出して掌に忍ばせて昌作に渡す。  昌作は極り惡るさうにそれを受けた。そして、『可し、可し。』と言ひながら庭下駄を穿いて、『オイ、志郎! 好い物があるぞ。』と聲高に母屋の方へ行く。 『あら可けませんよ。人に見せちや。』と富江は其後ろから叫んで、そして、面白さうにホホホヽと笑つた。  二人は好奇心に囚はれた。『何です、何です?』と信吾が言ふ。 『何でもありませんよ。』と、濟し返つて、吉野の顏をちらと見た。 『怪しいねえ、吉野君。』 『ハツヽヽ。』 『豈夫! 信吾さんたら眞箇に人が惡い。』と何故か富江は少し愼しくしてゐる。  其處へ、色のいゝ甜瓜を盛つた大きい皿を持つて、靜子が入つて來た。『餘り甘味しくないんですけど……。』 『何だ? 甜瓜か! 赤痢になるぞ。』と信吾が言つた。 『マ兄樣は!』と言つて、『眞箇でせうか神山樣、赤痢が出たつてのは?』 『眞箇には眞箇でせうよ。隔離所は三人とか收容したつてますから。ですけれど大丈夫ですわねえ、餘程離れた處ですもの。』 『ハヽヽヽ。神山さんが大丈夫ツてのなら安心だ。早速やらうか。』と信吾が最先に一片摘む。  軈て、裾短かの筒袖を着た志郎と昌作が入つて來た。 『やあ志郎さん、今まで晝寢ですか?』と吉野が手巾に手を拭き乍ら言つた。 『否、僕は晝寢なんかしない。高畑へ行つて號令演習をやつて來て、今水を浴つたところです。』 『驚いた喃。君は實に元氣だ!』  昌作は何か亢奮してる態で、肩を聳かして胡座をかいた。 『何だい彼物は、昌作さん?』と信吾が訊く。 『莫迦だ喃!』と昌作は呟く樣に言つて、眤と眼鏡の中から富江を見る。『然し俺は山内に同情する。』  富江は笑ひながら、『あら可けませんよ、此處で喋つては。』 『僕も見た。』と志郎は口を入れた。『オイ昌作さん、皆に報告しようか?』 『言へ、言へ。何だい?』と信吾は弟を唆かす。昌作は默つて腕組をする。 『言はう。』と志郎は快活に言つて、『あれは肺病で將に死せんとする山内謙三の艶書です。終り。』 『まア、志郎さんは酷い!』と、流石に富江も狼狽する。 『艶書?』と、皆は一度に驚いた。 『それが怎うしたの、志郎さん!』と靜子が訊く。  呆れてゐる信吾の顏を富江は烈しい目で凝視めてゐた。 其十一 一  前日に富江が來て、急に夕方から歌留多會を開くことになり、下男の松藏が靜子の書いた招待状を持つて町に馳せたが、來たのは準訓導の森川だけ。智惠子は病氣と言つて不參。到頭肺病になつて了つた山内には、無論使者を遣らなかつた。  智惠子の來なかつたのは、來なければ可いと願つた吉野を初め、信吾、靜子、さては或る計畫を抱いてゐた富江の各々に、歌留多に氣を逸ませなかつた。其夜は詰らなく過ぎた。  靜子の生涯に忘るべからざる盆の十四日の日は、晴々と明けた。風なく、雲なく、麗かな靜かな日で、一年中の愉樂を盆の三日に盡す村人の喜悦は此上もなかつた。  村に禪寺が二つ、一つは町裏の寶徳寺、一つは下田の喜雲寺、何れも朝から村中の善男善女を其門に集めた。靜子も、母お柳の代理で、養祖母のお政や子供等と共に、午前のうちに參詣に出た。  その歸路である。靜子は妹二人を伴れて、寶徳寺路の入口の智惠子の宿を訪ねた。智惠子は、何か氣の退ける樣子で迎へる。 『怎うなすつたの、智惠子さん? 風邪でもお引きなすつて?』 『否、今日は何とも無いんですけれど、昨晩丁度お腹が少し變だつた所でしたから……折角お使を下すつたのに、濟みませんでしたわねえ。』 『心配しましたわ、私。』と、靜子は眞面目に言つた。『貴女が被來らないもんだから、詰らなかつたの歌留多は。』 『あら其麽事は有りませんわ。大勢被行つたでせう、神山さんも?』 『けれどもねえ智惠子さん、怎うしたんだか些とも氣が逸まなかつてよ。騷いだのは富江さん許り……可厭ねあの人は!』 『……那麽人だと思つてれヤ可いわ。』  靜子は、その富江が山内の艶書を昌作に呉れた事を話さうかと思つたが、何故か二人の間が打解けてゐない樣な氣がして、止めて了つた。三十分許り經つて暇乞をした。  二人は相談した樣に、吉野のことは露程も口に出さなかつた。  靜子が家へ歸ると、信吾は待ち構へてゐたといふ風に自分の室へ呼んで、そして、何か怒つてる樣な打切棒な語調で智惠子の事を訊いた。  靜子は有の儘に答へた。 『然うか!』と言つた信吾の態度は、宛然、其麽事は聞いても聞かなくても可いと言つた樣であつたが、靜子は征矢の如く兄の心を感じた。そして、何といふ事なしに、『兄樣に宜しくと言つてよ、智惠子樣が!』と言つて見た。智惠子は何とも言つたのではないが。 『然うか!』と、信吾は又卒氣なく答へた。晝飯が濟むと、フラリと一人出て、町へ行つた。  信吾が出かけて間もなくである。月の初めに子供らを伴れて來た、盛岡の叔母が、見知らぬ一人の老人を伴れて來た。叔母は墓參の爲めと披露した。連の男は松原家から頼まれて來たのだとは直ぐ知れた。言ふまでもなく靜子の縁談の事で。  父の信之、祖父の勘解由、母お柳、その三人と松原家の使者とは奧の間で話してゐる。叔母も其席に出た。靜子は今更の樣に胸が騷ぐ。兄の居ないのが恨めしい。若しや此話から、自分と死んだ浩一との事が吉野に知れはしまいかと思ふと、その吉野にも顏を見せたくなかつた。  室に籠つたり、臺所へ行つたり、庭に出たり、兎角して日も暮れかゝつた。信吾はそれでも歸つて來ない。夕方から一緒に盆踊を見に行く筈だつたのだが。  晩餐の時、媒介者が今夜泊るのだと叔母から話された。信吾は全く暗くなつても歸らぬ。母お柳の勸めで、兄とは町へ行つて逢ふことにして、靜子は吉野と共に妹達や下女を伴れて踊見物に出ることになつた。 二  丁度鶴飼橋へ差掛つた時、圓い十四日の月がゆら〳〵と姫神山の上に昇つた。空は雲一片なく穩かに晴れ渡つて、紫深く黝んだ岩手山が、くつきり夕照の名殘の中に浮んでゐる。  仄りと暗い中空には、弱々しい星影が七つ八つ、青ざめて瞬いてゐた。月は星を呑んで次第〳〵に高く上る。町からはもう太鼓の響が聞え出した。  たとへ何を言つたとて妹共には解る筈がない。吉野と肩を並べて歩みを運ぶ靜子の心は、言ふ許りなく動悸いてゐた。家には媒介者が來てゐる。松原との縁談は靜子の絶對に好まぬ所だ。その話の成行が恁うして歩いてゐ乍らも心に懸らぬではない。否、それが心に懸ればこそ、靜子は種々の思ひを胸に疊んだ。 「若し此人(吉野)が自分の夫になる人であつたら! 否、若し此人が現在自分の夫であつたら!」  月明かに靜かな四邊の景色と、遠い太鼓の響とは、靜子の此心持に適合しかつた。靜子は妹共の罪なき言葉に吉野と聲を合して笑ひ乍ら、何がなき心強さと嬉しさを禁ずることが出來なかつた。よし何事が次いで起らなかつたにしても、靜子は此夜の心持を忘れる事は出來ぬであらう。  松原からの縁談は、その初め、當の對手の政治に對する嫌惡の情と、自分が其人の嫂であつたことに就ての、道徳的な考へやら或る侮辱の感やらで、靜子は兄に手頼つて破談にしようとした。が、一度吉野を知つてからの靜子は、今迄の理由の外に、も一つ、何と自分にも解らぬが、兎にも角にも心の底に強い頼みが出來た。  丁度橋の上に來た時である。 『此處で御座いましたわねえ、初めてお目に懸つたのは!』  恁う靜子は慣々しく言つてみた。月は其夢みる樣な顏を照した。 『然うでしたねえ!』と吉野は答へた。そして、何か思出した樣に少し俯向いて默つた。  その態度は、屹度あの時の事を詳しく思ひ出してるのだと靜子に思はせた。靜子も強ひて其時の事を思ひ出して見た。二人が今、互ひに初めて逢つた時を思ひ出してるといふ感が、女の心に言ふ許りなき滿足を與へた。  が、吉野の胸にあつたのは其事ではなかつた。渠は、信吾が屹度智惠子の家にゐると考へた。そして今自分らが訪ねて行つたら、何と信吾が嘘を吐いて、夕方までに歸らなかつた申譯をするだらうと想像してゐた。  町に入ると、常ならぬ華やかな光景が、土地慣れぬ吉野の目に珍しく映つた。家々の軒には、怪し氣な畫や「豐年萬作」などの字を書いた古風の行燈や提灯が掲げてある。街路の兩側には、門々に今を盛りと樺火が焚いてある。其赤い火影が、一筋町の賑ひを樂しく照して、晴着を飾つた往來の人の顏が何れも〳〵醉つてる樣に見える。  町は樂し氣な密話に充ちた。寄太皷の音は人々の心を誘ふ。其處此處に新しい下駄を穿いた小兒らが集つて、樺火で煎餅などを燒いてゐる。火が爆ぜて火花が街路に散る。年長な小兒らは勢ひ込んで其列んだ火の上を跳ねてゆく。丁度夕餉の濟んだところ。赤い着物を着て女兒共は打ち連れて太皷の音を的にさゞめいて行く。  町も端れの智惠子の宿の前には、消えかゝつた樺火を取卷いて四五人の小兒等がゐた。 『梅ちやん! 梅ちやん!』と妹共が先ず驅け寄る。其後から靜子は、『梅ちやん、先生は?』と優しく言ひながら近づいた。  靜子は直ぐ氣が附いた。梅ちやんの着てゐる紺絣の單衣は、それは嘗て智惠子の平常着であつた! あな我が君のなつかしさよ、      まみゆる日ぞまたるる。 君は谷の百合、峰のさくら、      うつし世にたぐひもなし。  家の下からは幽かに讃美歌の聲が洩れる。信吾は居ない! 恁う吉野は思つた。 『先生! 先生!』と梅ちやんは門口から呼ぶ。 三  智惠子に訊くと、信吾は一時間許り前に歸つたといふ。 『まア何處へ行つたんでせうねえ。夕方までに歸つて、私達と一緒に又出かける筈でしたのよ。これから何處へ行くとも言はなかつたんでせうか?』 『否、何んとも、別に。』と言つて、智惠子は意味ありげに、目で吉野を仰いで、そして俯向いた。 『歩いてゐたら逢ふでせうよ。』と吉野は鷹揚に言つた。 『怎うです。日向さんも被行いませんか、盆踊を見に?』 『は、……まアお茶でも召し上つて……』 『直ぐ被行いな、智惠子さん。何か御用でも有つて?』 と靜子も促す。 『否。』 『行きませう! 僕は盆踊は生れて初めてなんです。』 と、吉野はもう戸外へ出る。  で、智惠子は一寸奧へ行つて、帶を締直して來て、一緒に往來に出た。  樺火は少し頽れた。踊がもう始まつたのであらう。太皷の音は急に高くなつて、調子に合つてゐる。唄の聲も聞える。人影は次第々々にその方へながれて行く。  提灯を十も吊した加藤醫院の前には大束の薪がまだ盛んに燃えてゐて、屋内は晝の如く明るく、玄關は開け放されてゐる。大形の染の浴衣に水色縮緬をグル〳〵卷いた加藤を初め、清子、藥局生、下女、皆玄關に出て往來を眺めてゐた。 『やア、皆樣お揃ひですナ。』と、加藤から先づ聲をかける。 『お涼みですか。』と吉野が言つて、一行はゾロ〳〵と玄關に寄つた。 『Guten Abend, Herr Yosino! ハハヽヽヽ。』と、近頃通信教授で習つてるといふ獨逸語を使つて、加藤は肥つた體を搖ぶる、晩酌の後で殊更機嫌が可いと見える。 『さ、まァお上りなさい、屹度被來ると思つたからチャンと御馳走が出來てます。』 『それは恐れ入つた。ハハヽヽ。』  傍では、靜子が兄の事を訊いてゐる。 『先刻一寸被行つてよ。晩にまた來ると被仰つて直ぐお歸りになりましたわ。』と清子が言つた。 『うん、然う〳〵。』と加藤が言つた。 『吉野さん、愈々盆が濟んだら來て頂きませう。先刻信吾さんにお話したら夫れは可い、是非書いて貰へと被仰つてでしたよ。是非願ひませう。』 『小川君にお話しなすつたですか! 僕は何日でも可いんですがね。』 『眞箇に、小川さんに被居るよりは御不自由で被居いませうが、お書き下さるうちだけ是非何卒……』と清子も口を添へる。そして靜子の方を向いて、 『あの、何ですの、宅があの阿母樣の肖像を是非吉野さんに書いて頂きたいと申すんで、それで、お書き下さる間、宅に被行つて頂きたいんですの。』 『大丈夫、靜子さん。』と加藤が口を出す。 『お客樣を横取りする譯ぢやないんです。一週間許り吉野さんを拜借したいんで……直ぐお返ししますよ。』 『ホヽヽ、左樣で御座いますか!』と愛相よく言つたものゝ、靜子の心は無論それを喜ばなかつた。  吉野は無理矢理に加藤に引張り込まれた。女連は霎時其處に腰を掛けてゐたが、軈て清子も一緒になつて出た。  町の丁度中程の大きい造酒家の前には、往來に盛んに篝火を焚いて、其周圍、街道なりに楕圓形な輪を作つて、踊が始まつてゐる。輪の内外には澤山の見物。太皷は四挺、踊子は男女、子供らも交つて、まだ始まりだから五六十人位である。太皷に伴れて、手振り足振り面白く歌つて𢌞る踊には、今の世ならぬ古色がある。揃ひの浴衣に花笠を被つた娘等もある。編笠に顏を隱して、醉つた身振りの可笑しく、唄も歌はず踊り行く男もある。月は既に高く昇つて、樂し氣に此群を照した。女連は、睦し氣に語りつ笑ひつし乍ら踊を見てゐた。  と、輕く智惠子の肩を叩いた者があつた。靜子清子が少し離れて誰やら年増の女と挨拶してる時。 四  振向くと、何時醫院から出て來たか吉野が立つてゐる。 『あら!』と智惠子は恁う小聲に言つて、若い血が顏に上つた。何がなしに體の加減が良くないので、立つてゐても力が無い。幾挺の太皷の強い響きが、腹の底までも響く。──今しもその太皷打が目の前を過ぎる。  吉野は無邪氣に笑つた。  二人は並んで立つた、立並ぶ見物の後ろだから人の目も引かぬ。 (私ーとー)と、好い聲で一人の女が音頭を取る。それに續いた十人許りの娘共は、直ぐ聲を合せて歌ひ次いだ。── (──お前ーはーア御門ーのーとびーらーア、朝ーにーイわかーれーてエ、ー晩に逢ふ──)  同じ樣な花笠に新しい浴衣、淡紅色メリンスの襷を端長く背に結んだ其娘共の中に、一人、背の低い肥つたのがあつて、高音中音の冴えた唄に際立つ次中音の調子を交へた。それが態と道化た手振りをして踊る。見物は皆笑ふ。  ドヽドンと、先頭の太皷が合を入れた。續いた太皷が皆それを遣る。調子を代へる合圖だ。踊の輪は淀んで唄が止む、下駄の音がゾロ〳〵と縺れる。 (ドヾドコドン、ドコドン──)と新しく太皷が鳴り出す。──ヨサレ節といふのがこれで。──淀んだ輪がまたそれに合せて踊り始める。何處やらで調子はづれた高い男の聲が、最先に唄つた── (ヨサレー茶屋のかーア、花染ーの──たす──き──イ──) 『面白いですねえ。』と、吉野は智惠子を振返つた。『宛然古代に歸つた樣な氣持ぢやありませんか!』 『えゝ。』智惠子は踊にも唄にも心を留めなかつた樣に、何か深い考へに落ちた態で惱まし氣に立つてゐた。  と見た吉野は、『貴女何處かまだ惡いんぢやないんですか? お體の加減が。』 『否、たゞ少し……』  俄かに見物が笑ひどよめく。今しも破蚊帳を法衣の樣に纏つて、顏を眞黒に染めた一人の背の高い男が、經文の眞似をしながら巫山戯て踊り過ぎるところで。 『吉野さん!』智惠子は思ひ切つた樣に恁う囁いた。 『何です?』 『あの……』と、眤と俯向いた儘で、『私今日、あの、困つた事を致しました!』 『……何です、困つた事ツて?』  智惠子は不圖顏を上げて、何か辛さうに男を仰いだ。 『あの、私小川さんを憤らして歸してよ。』 『小川を⁉ 怎うしたんです?』 『そして、瞭然言つて了ひましたの。……貴方には甚麽に御迷惑だらうと思つて、後で私……』 『解りました、智惠子さん!』恁う言つて、吉野は強く女の手を握つた。『然うでしたか!』と、がつしりした肩を落す。  智惠子はグンと胸が迫つた。と同時に、腹の中が空虚になつた樣でフラ〳〵とする。で男の手を放して人々の後に蹲んだ。  目の前には眞黒な幾本の足、彼方の篝火がその間から見える。──智惠子は深い谷底に一人落ちた樣な氣がして涙が溢れた。 『あら、先刻から被來つて?』と後ろに靜子の聲がした。  吉野の足は一二尺動いた。 『今來た許りです。』 『然うですか! 兄は怎うしたんでせう、今方々探したんですけれど。』 『學校ですよ、屹度。』と清子が傍から言ふ。 『オヤ、日向さんは?』と、靜子は周圍を見𢌞す。  智惠子は立ち上つた。 『此處にゐらしつたわ!』 『立つてると何だかフラ〳〵して、私蹲んでゐましたの、先刻から。』 『然う! まだお惡いんぢやなくつて。』と靜子は思ひ遣り深い調子で言つた。そして(惡いところをお誘ひしたわねえ)(家へ歸つてお寢みなすつては?)と、同時に胸に浮んだ二つの言葉は、何を憚つてか言はずに了つた。 『何處かお惡くつて?』と、清子は醫師の妻。 『否、少し……も少し見たら私歸りますわ。』 五  さうしてる間にも、清子は嫁の身の二三度家へ行つて見て來た。その度、吉野に來て一杯飮めと加藤の言傳てを傳へた。  信吾は來ない。  月は高く昇つた。其處此處の部落から集つて來て、太皷は十二三挺に増えた。笛も三人許り加つた。踊の輪は長く〳〵街路なりに楕圓形になつて、その人數は二百人近くもあらう。男女、事々しく裝つたのもあれば、平常服に白手拭の頬冠をしたのもある。十歳位の子供から、醉の紛れの腰の曲つたお婆さんに至るまで、夜の更け手足の疲れるも知らで踊る。人垣を作つた見物は何時しか少くなつた。──何れも皆踊の輪に加つたので──二箇所の篝火は赤々と燃えに燃える。  月は高く昇つた。  強い太皷の響き、調子揃つた足擦れの音、華やかな、古風な、老も若きも戀の歌を歌つてゐる此境地から、不圖目を上げて其靜かな月を仰いだ心持は、何人も生涯に幾度となく思浮べて、飽かずも其甘い悲哀に醉はうとするところであらう。──殊にも此夜の智惠子は思ふ人と共にゐる樂みと、體内の病苦と、唆る樣な素朴な烈しい戀の歌と、そして、何がなき頼りなさに心が亂れて、その沈んで行く氣持を強い太皷の響に掻き亂される樣に感じながら、踊りには左程の興もなく、心持眉を顰めては眤と月を仰いでゐた。  怒りと嘲りを浮べた信吾の顏が、時々胸に浮んだ。智惠子は、今日その信吾の厚かましくも言ひ出でた戀を、小氣味よく拒絶して了つたのだ。  立つたり蹲んだりしてる間に、何がなしに腹が脹つて來て、一二度輕く嘔吐を催すやうな氣分にもなつた。早く歸つて寢よう、と幾度か思つた。が、この歡樂の境地に──否、靜子と共に吉野を一人置いて行くことが、矢張り快くなかつた。居たとて別に話──智惠子は今日の出來事を詳しく話したかつた──をする機會もないが、矢張り一寸でも長く男と一緒にゐたかつた。  軈て、下腹の底が少しづゝ痺れる樣に痛み出した。それが段々烈しくなつて來る。  隙を見て、智惠子は思ひ切つてつと男の傍へ寄つた。 『私、お先に歸ります。』 『其麽に惡くなりましたか?』 『少し……少しですけれどもお腹がまた痛んでくる樣ですから。』 『可けませんねえ! 怎うです加藤さんに被行つたら?』 『否、ホンの少しですから……あの、明日でも彼來つて下さいませんか? 何卒。』 『行きます、是非。』と言つて、吉野は強く女の手を握つた。女も握り返した。 『好い月ですわねえ!』  智惠子は猶去り難げに恁う言つた。そして、皆にも挨拶して一人宿の方へ歸つてゆく。月を浴びた其後姿を、吉野は少し群から離れた所に蹲んで、遠く見送つてゐた。  智惠子は痛む腹に力を入れて、堅く齒を喰縛りながら、幾回か後ろを振返つた。町の賑ひは踊の場所に集つて、十間離れたらもう人一人ゐない。霜の置いたかと許り明るい月光に、所々樺火の跡が黒く殘つて、軒々の提灯や行燈は半ば消えた。  天心の月は、智惠子の影を短く地に印した。太皷の音と何十人の唄聲とは、その月までも屆くかと、風なき空に漂うてゆく。──華やかな舞樂の場から唯一人歸る智惠子は、急に己が宿が厭になつた。  と言つて、足は矢張り宿の方へ動く。送つて來てくれぬ男を怨めしくも思つた。あの人が東京へ歸ると、屹度今夜のことを手紙に書いて寄越すだらうと思つた。そして、二人の間に取交された約束が、唯一生忘るまいといふ事だけなのを思つて、智惠子は今夜といふ今夜、初めて切實に、それだけでは物足らぬことを感じた。智惠子も女である。力強き男の腕に抱かれたら、あはれ、腹の痛みも忘れようものを!  二町許り來る、と智惠子は俄かに足を早めた。不圖、怺へきれぬ程に便氣を催して來たので。 六  程なく吉野や靜子等も歸路に就いた。信吾には遂に逢はなかつた。吉野は智惠子の病氣の氣に懸らぬではないが、寄つて見る譯にも行かぬ。  それから小一時間も經つた。  富江の宿の裏口が開いて、月影明るい中へヒョクリと信吾が出た。續いて富江も出た。 『好い月!』恁う富江が言つた。信吾は自ら嘲る樣な笑ひを浮べて、些と空を仰いだが別に興を催した風もない。ハヽヽと輕く笑つた。  太皷の響と唄の聲が聞える、四邊は森として、何處やらで馬の強く立髮を振る音。 『一寸、其麽に濟まさなくたつて可いわよ。』 『疲れた!』と、信吾は低く呟く樣に言つた。 『マ酷い! 散々人を虐めて置いて。』 『ハヽヽ。ぢや左樣なら!』 『一寸々々、眞箇よ明日の晩も。』 『ハヽヽ。』と男は又妙に笑つてスタ〳〵と歩き出す。富江は家へ入つた。  人なき裏路を自棄に急ぎながら、信吾は淺猿しき自嘲の念を制することが出來なかつた。少し下向いた其顏は不愉快に堪へぬと言つた樣に曇つた。 『莫迦!』と聲を出して罵つた。それは然し誰に言つたのでもない。  信吾の心が生れてから今日一日ほど動搖した事がない。また今日一日ほど自分で見識を下げたと思つたことはない。彼は智惠子を訪うと、初めは盛んに氣焔を吐いた。現代の學者を糞味噌に罵倒し盡し、言葉を極めて美術家仲間の内幕などを攻撃した。そして甚麽話の機會からか、智惠子を口説いてみた。彼は有らゆる美しい言葉を並べた。女は眤と俯向いてゐた。  最後に信吾は言つた。 『智惠子さん、貴女は哀れな僕の述懷を、無論無意味には聞いて下さらないでせうね?』 『…………』 『智惠子さん!』と、情が迫つた樣に聲を顫した。『僕は貴女から何の報酬を望むのではありません。智惠子さん、唯、唯、です、僕は貴女から、僕が常に貴女の事を思つても可いと許して頂けば可いんです、それだけです。それさへ許して頂けば、僕の生涯が明るくなります……。』 『小川さん!』と女は屹と顏をあげた。其顏は眉毛一本動かなかつた。『私の樣なものゝことを然う言つて下さるのはそれや有難う御座いますけれど。』 『は⁉』 『何卒その事は二度と仰しやつて下さらない樣にお願ひします。』  信吾は眤と腕を組んだ。 『失禮な事を申す樣ですが……』 『ウ、……何故でせう?』 『……別に理由はありませんけれど……。』 『あゝ、貴女には僕の切ない心がお解りにならないでせう!』と、さも落膽した樣に言つて、『然しです、何か理由が、然う被仰るからには有らうぢやありませんか? それを話して戴く譯にはいかないんですか?』 『…………』 『智惠子さん! ぼくがこれだけ恥を忍んで言つたのに、理由なくお斷りになるとは餘りです、餘りに侮辱です。』 『ですけれど……』 『そんならです。』と、信吾は今迄の事は忘れて新らしい仇の前にでも出た樣に言つた。其眼は物凄く輝いた。 『僕は唯一つ聞かして頂きたい事があります。智惠子さん、怎うでせう、聞かして下さいますか?』 『……私の知つてをります事ならそれは……』 『無論御存じの事です。』と信吾は肩を聳かした。『話は全然別の事です。僕は僕の一切を犧牲にして、友人たる貴女と吉野の幸福を祝ひます。』  智惠子は胸を刺されたやうにピクリとした。然し一寸も動かなかつた。顏色も變へなかつた。 『怎うです。』と男は更に突込んだ。『貴女は僕の祝ひを享けて下さいますか、それを聞かして下さい。』 『…………』 『僕は今言つた事を凡て取消して、友人としての眞心からお二人の爲に祝ひます。怎うです、享けて下さいますか?』 『…………』 『何卒享けて下さい!』と信吾は毒々しく迫る。  智惠子の顏はクワッと許り紅くなつた。そして、『有難う御座います。』と明かに言放つた。 七  智惠子の宿から出た信吾の心は、強い屈辱と憤怒と、そして、何かしら弱い者を虐めてやつた時の樣な思ひに亂れてゐた。恁うなると彼は、今日自分の遣つた事は、豫じめ企んで遣つたので、それが巧く思ふ壺に嵌つて智惠子に自白さしたかの樣に考へる。我と我を輕蔑まうとする心を、強ひて其麽風に考へて抑へて見た。  信吾は、成るべく平靜な態度をして、その足で直ぐ加藤醫院を訪ね、學校を訪ねた。彼は夕方までに歸つて、吉野や妹共と一緒に踊を見物に出る約束を忘れてはゐなかつた。が、何の意味もなく、フンと心で笑つてそれを打消した。  其時の信吾は、平常よりも餘程機嫌が好い樣に見えた。然し彼は、詰らぬ世間話に大口を開いて笑へば笑ふ程、何か自分自身を嘲つてる樣な氣がして來て、心にも無い事を一口言へば一口言ふ丈、胸が苛立つて來る。高い笑聲を殘して、彼は遂に學校から飛び出した。  もう日暮近い頃であつた。  自嘲の念は烈しく頭を亂した。何故那麽事をいつたらう? 莫迦な、もう智惠子の顏を見ることが出來なくなつた! と彼は悔いた。何故もつと早く、──吉野の來ないうちに言はなかつたらう⁈ 『畜生奴! 到頭白状させてやつた。』恁う彼は口に出して言つて見た。が、矢張り彼は女から享けた拒絶の耻辱を、全く打消すことが出來なかつた。よし彼女を免職させる樣にしてやらうか! 否、それよりは何うかして吉野を追拂はう!  彼の心は荒れに荒れた。町端れから舟綱橋まで、國道を七八町滅茶苦茶に歩いて、そして、恐ろしい復讐を企てながら歸るともなく歸つて來た。が、彼は人に顏を見られたくない。町端れから又引返して、今度は舊國道を門前寺村の方へ辿つた。  月が昇つた。  途斷れ〳〵に、町へ來る近村の男女に會つた。彼は然しそれに氣がつかぬ。何時しか彼は吉野との友情を思ひ出してゐた。 『何有! 知らん顏をしてゐればそれで濟む。豈夫智惠子が言ひは爲まい。』と彼は少し落着いて來た。 『然し。』と彼は又しても吉野が憎くなる。『あの野郎奴、(有難う御座います。)とはよくも言ひやがたつた!』  信吾の憤りは再發した。(有難う御座います。)その言葉を幾度か繰返して思ひ出して、遂に、頭髮を掻き挘りたい程腹立たしく感じた。そして、彼の癖の、ステッキを強く揮つて、自暴にヒュゥと空氣を切つた。 『信吾さん!』と女の聲。彼は驚いた樣に顏を上げると、富江が白地の浴衣に月影を滴らせて、近づいて來る。草履を穿いてるのか足音がしない。 『信吾さん!』と富江は又呼んだ。 『あ、神山さんでしたか!』と一寸足を留めて、直ぐまた歩き出さうとする。 『まア、何處へ被行るの?』  答もせずに信吾は五六歩歩いて、そしてグルリと自暴に體を向直した。 『ハハヽヽ。何處へ行つたんです貴女こそ?』 『生徒の家へ招待れて、門前寺の……一人で散歩するなんて氣が利かないぢやありませんか、貴方は!』 『貴女だつて一人ぢやないか!』 『ホヽヽ、どうして智惠子樣を誘つて上げなかつたの?』 『莫迦な!』 『あら、月夜の散歩にはハイカラさんの手でも曳かなくちや詰らないぢやありませんか? 眞箇に!』 『何を言ふんです。』と信吾は苛々しく言つた。そして、突然富江の手を取つて、『僕は貴女の迎ひに來たんだ!』 『まア巧い事を!』と富江は左程驚いた風もなく笑つてゐる。  信吾は、女の餘りに平氣なのが癪に障つた。そして、不圖怖ろしい考へが浮んだ。物言はずに女の手を堅く握る。  富江も暫しは口を利かないで、唯笑つてゐた。そして、『私の手なんか駄目よ、信吾さん! 女の手の樣ぢやないでせう?』 『…………』 『私は女ぢやないんですよ。』 『富江樣。』と言ひながら、信吾は無遠慮に女の肩に手をかけた。『そんなら貴女は第三性ですか? ハハヽヽ。』 『あ重い!』と言つたが逃げ樣ともせぬ。そして、急に眞面目な顏をして眤と男の顏を見ながら、『眞箇よ。私石女なんですもの。子供を生まない女は女ぢやないんでせう?』そして、袂を口にあてゝ急にホホヽヽと笑ひ出した。  其夜は信吾は十時過までも富江の宿にゐた。宿の主人の老書記は臨時に隔離病舍に詰めてゐる。主婦や子供らは踊に行つて留守であつた。  で、彼が家へ歸つてくると、玄關の戸がもう閉つてゐた。信吾は何がなしにわが家ながら閾が高い樣な氣がして、成るべく音を立てぬ樣にして入つた。 八  家に入つた信吾の心は、妙に臆んでゐた。彼は富江と別れて十幾町の歸路を、言ふべからざる不愉快な思ひに追はれて來た。烈しい××××××××××××しい疲勞が、今日一日の苛立つた彼の心を彌更に苛立たせた。 『淺猿しい、淺猿しい!』と、彼は幾度か口に出して自分を罵つた。彼はもう此儘人知れず何處かへ行つて了ひたい樣な氣がした。飽くを知らざる富江の餓ゑた顏を思出すと、言ふべからざる厭惡の念が起る。そして又、段々家へ近附くにつれて、戀仇の吉野に對する自暴腹な怒りが強く發した。其怒りが又彼を嘲る。信吾は人に顏を見られたくなかつた。  で、成るべく音立てぬ樣に縁側傳ひに自分の室に行く。家中もう寢て了つたと見えて、森としてゐた。と、離室に續く縁側に輕い足音がして、靜子が出て來た。四邊は薄暗い。 『あら兄樣、遲かつたわねえ。何處に居たんですか、今迄?』 『何處でも可いぢやないか!』と、聲は低く、然し慳貪だ。 『まア!』  信吾は、わが仇の吉野の室に妹が行つてゐたと思ふと、抑へきれぬ不快な憤怒が洪水の樣に頭に溢れた。 『貴樣こそ何處に行つてるんだ? 夜夜中人が寢て了つてから!』  靜子は驚いて目を丸くして立つてゐる。それが、何か嚴しく詰責でもされる樣で、信吾の憤怒は更に燃える。 『莫迦野郎! 何處に行つてるんだ?』と言ふより早く一つ靜子を擲つた。  靜子は矢庭に袂を顏にあてた。 『兄樣……其樣……』 『此方へ來い。』と、信吾は荒々しく妹の手を引張つて、自分の室に入るとドッと突倒した。 『此畜生! 親や兄の眼を晦まして、……』 『わツ。』と靜子は倒れた儘で聲をあげた。先刻町から歸つてから、待てども〳〵兄が歸らぬ。母も叔母も何とも言つてくれぬだけ媒介者との話の成行が氣にかゝつた。自分から聞かれる事でもなく、手頼るは兄の信吾、その信吾が今日媒介者が來たも知らずにゐると思ふと、もう心配で〳〵堪らなくなつて、今も密と吉野の室に行つて、その歸りの遲きを何の爲かと話してゐたのである。  靜子は故なき兄の疑ひと怒が、口惜しい、恨めしい、辯解をしようにも喉が塞つて、たゞ堅く〳〵袖を噛んだが、それでも泣き聲が洩れる。 『莫迦野郎!』と、信吾は又しても唸る樣に言つて、下唇を喰縛り、堅めた兩の拳をブルブル顫はせて、恐しい顏をして突立つてゐる。  靜子は死んだ樣に動かない。 『よし。』と信吾はまた唸つた。『貴樣はもう松原に遣る。貴樣みたいなものを家に置くと、何をするか知れない。』 『マ。』と言つて、靜子はガバと起きた。『兄樣……其松原から今日人が來て……それで……』  手荒く襖が開いて、次の間に寢てゐる志郎と昌作が入つて來た。 『怎うしたんだい兄樣?』 『默れ!』と信吾は怒鳴つた。『默れ! 貴樣らの知つた事か。』  そして、亂暴に靜子を蹴る、靜子は又ドタリと倒れて、先よりも高くわツと泣く。 『何だ?』と言ひ乍ら父の信之も入つて來た。『何だ? 夜更まで歩いて來て信吾は又何を其麽に騷ぐのだ?』 『糞ツ。』と云ひさま、信吾は又靜子を蹴る。 『何をするッ、此莫迦!』と、昌作は信吾に飛びつく。志郎も兄の胸を抑へる。 『何をするツ、貴樣らこそ。』と、信吾はもう無中に咆り立つて、突然志郎と昌作を薙倒す。 『こらツ』と父も聲を勵して、信吾の肩を掴んだ。『何莫迦をするのだ! 靜は那方へ行け!』 『糞ツ。』と許り、信吾は其手を拂つて手負猪の樣な勢ひで昌作に組みつく。 『貴樣、何故俺を抑へた⁉』 『兄樣!』 『信吾ツ!』  ドタバタと騷ぐ其音を聞いて、別室の媒介者も離室の吉野も驅けつけた。帶せぬ寢卷の前を押へて母のお柳も來る。 『畜生! 畜生!』と信吾は無暗矢鱈に昌作を擲つた。 其十二  智惠子は、前夜腹の痛みに堪へかねて踊から歸つてから、夜一夜苦しみ明した。お利代が寢ずに看護してくれて、腹を擦つたり、温めたタオルで罨法を施つたりした。トロ〳〵と交睫むと、すぐ烈しい便氣の塞迫と腹痛に目が覺める。翌朝の四時までに都合十三回も便所に立つた。が、別に通じがあるのではない。 夜が清々と明放れた頃には、智惠子はもう一人で便所にも通へぬ程に衰弱した。便所は戸外にある。お利代が醫者に驅附けた後、智惠子は怺へかねて一人で行つた。行くときは壁や障子を傳つて危な氣に下駄を穿かけたが、歸つて來てそれを脱ぐと、もう立つてる勢ひがなかつた。で、臺所の板敷を辛と這つて來たが、室に入ると、布團の裾に倒れて了つた。抉られる樣に腹が痛む。子供等はまだ起きてない。家の中は森としてゐる。窓際の机の上にはまだ洋燈が曚然點つてゐた。  智惠子は堅く目を瞑つて、幽かに唸りながら、不圖、今し方戸外へ出た時まだ日の出前の水の樣な朝光が、快く流れてゐた事を思ひ出した。 「もう夜が明けた。」と覺束なく考へると、自分は何日からとも知れず、長い〳〵間恁うして苦しんでゐた樣な氣がする。程經てから前夜の事が思ひ出された。それも然し、ずつとずつと以前の事のやうだ。 「今日あの方が來て下さるお約束だつた! 然うだ、今日だ、もう夜が明けたのだもの!……。すると今日は盆の十五日だ。昨日は十四日……然うだ、今日は十五日だ!」  喧しく雀が鳴く。智惠子はそれを遙と遠いところの事の樣に聞くともなく聞いた。 『先生……先生!』と遠くで自分を呼ぶ。不圖氣がつくと、自分は其處で少し交睫みかけたらしい。お利代は加藤醫師を伴れて來て、心配氣な顏をして起してゐる。 『先生、まア恁麽所に寢て、お醫師樣が被來いましたよ。』 『まア濟みません。』然う言つてお利代に手傳はれ乍ら臥床の上に寢せられた。  室には夜ツぴて點けておいた洋燈の油煙やら病人の臭氣やらがムッと籠つてゐた。お利代は洋燈を消し、窓を明けた。朝の光が涼しい風と共に流れ込んで、髮亂れ、眼凹み、皮膚の澤なく弛んだ智惠子の顏が、もう一週間も其餘も病んでゐたものゝ樣に見えた。  加藤は先ず概略の病状を訊いた。智惠子は痛みを怺へて問ふがまゝに答へる。 『不可ませんなア!』と醫師は言つた。そして診察した。  脈も體温も少し高かつた。舌は荒れて、眼が充血してゐる。そして腹を見た。 『痛みますか?』と、少し脹つてゐる下腹の邊を押す。 『痛みます。』と苦し氣に言つた。 『此處は?』 『其處も。』 『フム。』と言つて、加藤は腹一帶を輕く擦りながら眉を顰めた。  それからお利代を案内に裏の便所へ行つて見た。 「赤痢だ!」と智惠子は其時思つた。そして吉野に逢へなくなるといふ悲みが湧いた。  智惠子の病氣は赤痢──然も稍烈しい、チブス性らしい赤痢であつた。そして午前九時頃には擔架に乘せられて隔離病舍に收容された。お利代の家の門口には「交通遮斷」の札が貼られて、家の中は石炭酸の臭氣に充ち、軒下には石灰が撒かれた。  丁度智惠子が隔離病舍に入つた頃、小川の家では、信吾が遲く起きて、そして、今日の中に東京に歸らして呉れと父に談判してゐた。父は叱る、信吾は激昂する。結局「勝手になれ」と言ふ事になつて、信吾は言ひがたい不愉快と憤怒を抱いてふいと發つた。それは午後の二時過。  吉野は加藤との約束があるので、留まる事になつた。そして直ぐにも加藤の家に移る積りだつたが、色々と小川家の人達に制められて、一日だけ延ばした。小川家には急に不愉快な、そして寂しい空氣が籠つた。  日が暮れると、吉野は一人町へ出た。そして加藤から智惠子の事を訊かされた。吉野は直ぐ智惠子の宿を訪ねた。町には矢張り樺火が盛んに燃えてゐた。彼は裏口から𢌞つて霎時お利代と話した。そして、石炭酸臭い一封の手紙を渡された、それは智惠子が鉛筆の走り書。──恁う書いてあつた。  御心配下さいますな。決して御心配下さいますな。お目にかゝれないのが何より──病の苦痛より辛う御座います。吉野樣、何卒私がなほるまでこの村にゐて下さい。何卒、何卒。  屹度四五日で癒ります。あなたは必ず私のお願ひを聞いて下さる事と信じます。 ちゑ よしの樣まゐる 其十三 一  智惠子の容體は、最初隨分危險であつた。隔離病舍に收容された晩などは知覺が朦朧になり、妄語まで言つた位。てつきりチブス性の赤痢と思つて加藤も弱つたのであるが、三日許りで危險は去つた。そして二十日過になると、赤痢の方はもう殆んど癒つたが、體が極度に衰弱してゐるところへ、肺炎が兆した。そして加藤の勸めで、盛岡の病院に入ることになつた。  吉野は病める智惠子と共に澁民を去つた。彼は有ゆるものを犧牲に拂つても、必ず智惠子を助けねばならぬと決心してゐた。  信吾去り、志郎去り、智惠子去り、吉野去つて二月の間に起つた種々の事件が、一先づ結末を告げた。  八月も末になつた。そして、靜子は新しく病を得た。  靜子の縁談は本人の希望通りに破れて了つた。この事で最も詰らぬ役を引受けたのは例の叔母で、月の初めに來た時、お柳からの祕かの依頼で、それとなく松原家を動かし、媒介者を同伴して來るまでに運んだのであるが、來て見るとお柳の態度は思ひの外、對手の松原中尉の不品行(志郎から聞いた)を楯に、到頭破談にして了つた。  靜子は、何處といふことなく體が良くなかつた。加藤は神經衰弱と診察した。そして、毎日散歩ながら自分で藥取に行く樣に勸めた。で、日毎に午前九時頃になると、何がなしに打沈んだ顏をして靜子は、白ハンカチに包んだ藥瓶を下げて町にゆく姿が、鶴飼橋の上に見られた。  そして靜子は、一時間か二時間、屹度清子と睦しく話をして歸る。  或る日の事であつた。二人は醫院の裏二階の瀟洒した室で、何日もの樣に吉野の噂をしてゐた。  靜子は怎うした機會からか、吉野と初めて逢つた時からの事を話し出して、そして、かの寫生帖の事まで仄めかした。  清子は熱心にそれを聞いてゐた。 『靜子さん。』と清子は、眤と友の俯向いた顏を見ながら、しんみりした聲で言つた。『私よく知つてるわ。貴女の心を!』 『あら!』と言つて靜子は少し顏を赤めた。『何? 清子さん私の心つて?』 『隱さなくても好かなくつて、靜子さん?』 『…………』  默つて俯向いた靜子の耳が燃える樣だ。清子は、少し惡い事を云つたと氣がついて、接穗なくこれも默つた。 『清子さん。』と、稍あつてから靜子は言つた。其眼は濕んでゐた。『私……莫迦だわねえ!』 『あら其麽! 私惡い事言つて……。』 『ぢやなくつてよ。私却つて嬉しいわ……。』 『…………』  清子の眼にも涙が湧いた。 『ねえ、清子さん!』と又靜子は鼻白んで言つた。『詰らないわねえ、女なんて!』 『眞箇よ、靜子さん。』と、清子は全く同感したといふ樣に言つて、友の手を取つた。 『然う思つて、貴女も?』と、清子の顏を見るその靜子の眼から、美しい涙が一雫二雫頬に傳つた。 『靜子さん!』と、清子は言つた。『貴女……私の事は誤解してらつしやるわね!』  然う言つて、突然靜子の膝に突伏した。 『あら、貴女の事ツて何?』 二  二人は暫時言葉が無かつた。  靜子はそれを、屹度兄の信吾の事と察した。が、兄の事を思ふだけに、何と訊いて可いか解らなかつた。  稍あつてから、『え? 何の事私が誤解してるツて?』と靜子が又言ふ。 『言はずに置くわ、私。』と、思ひ切り惡く言つて、清子は漸く首を上げる。 『あら何うして?』 『兄の事……ぢやなくつて?』  清子は羞し氣に俯向いた。 『清子さん、私何も貴女の事惡くなんか思つてやしなくつてよ。』 『あら然うぢやなくつてよ。それは私だつて能く知つててよ。』  二人は懷し氣に眼を見合せた。 『私此の家に嫁た事、貴女可怪いと思つたでせう?』と稍あつて清子は極り惡相に言つた。 『でもないわ……今になつては。』と、靜子は心苦し氣である。靜子は、あの事あつて以來兄信吾の心が解りかねた。そして、その兄の不徳を、今一つ聞かねばならぬといふ氣がすると、流石に兄妹であれば辛くない譯に行かぬ。が、又、目の前の清子を見ると、この世に唯一の自分の友が此人だと言ふ限りない慕しさが胸に湧いた。 『濟まないわ、このお話するのは!』 『マ清子さん!……貴女其麽に……私になら何だつて言つて下すつたつて可いわ。貴女許りよ、私姉さんの樣に思つてるのは!』 『……私ね……眞箇の姉妹になりたかつたの、貴女と。』然う言つて清子は靜子の手を握る。 『解つてよ。』と、靜子は聞えるか聞えぬかに言つて、眤と眼を瞑ぢた。其眼から涙が溢れる。 『嬉しいわ、私は。』と清子は友の手を強く引く。二人の涙は清子の膝に落ちた。  そして言つた。『私信吾さんに逢つて頂いてよ、此方の方の話があつた時……忘れないわ、去年の七月二十三日よ、鶴飼の上の觀音樣の杜で。』 『…………』 『私甚麽に……男の方は矢張り氣が強いわねえ!』 『何と言つて其時、兄が?』 『……此家へ來る事を勸めて下すつたわ、あの、兄樣は。』 『マ然う!』靜子は強く言つて。そして、『濟まなかつたわ清子樣、眞箇に私……今迄知らなかつたんですもの。』と言うなり、清子の膝に泣伏した。 『何も其樣に!』と清子も泣聲で言つて、そして二人は相抱いて暫く泣いた。 『詰らないわね、女なんて!』と、稍あつて靜子はしみじみ言ふ。 『眞箇ねえ』と清子は應じた。  二人の親しみは増した。  九月が來た。  信吾の不意に發つて以來、富江は長い手紙を三四度東京に送つた。が、葉書一本の返事すらない。そして富江は不相變何時でも噪いでゐる。  肺を病んだ五尺足らずの山内は、到頭八月の末に盛岡に歸つて了つた。聞けば智惠子吉野と同じ病院に入つたといふ。  濱野の家──智惠子の宿では、祖母の病が惡くもならず癒くもならぬ。  お利代は一生懸命裁縫に勵んでゐる。時には智惠子から習つた讃美歌を、小聲で小供らに歌つて聞かしてる事もある。村では好からぬ噂を立てた。それはお利代も智惠子に感化れて、耶蘇信者になつたので、早く祖母の死ぬ事を毎晩神に祈つてゐるといふので。──そして、祖母の死ぬのを待つて凾館の先の夫の許へ行くのだ、と傳へられた。  快く晴れた或日の午前であつた。昌作は浮かぬ顏をして町を歩いてゐた。そして郵便局の前へ來ると、懷から二枚の葉書を出してポストに入れた。──昌作は米國に行くことも出來ず、明日發つて十里許りの山奧の或小學校の代用教員に赴任することになつた。──その葉書は盛岡の病院なる智惠子と山内に宛てたもの。山内には手短く見舞の文句と自身の方の事を書いたが、智惠子への一枚には、氣取つた字で歌一首。 『秋の聲まづ逸早く耳に入るかゝる性有つ悲むべかり』  澁民村に秋風が見舞つた。 附記。この一篇は作者が新聞小説としての最初の試作なりき。囘を重ぬる六十囘。時歳末に際して豫期の如く事件を發展せしむる能はず、茲に一先づ擱筆するに到れるは作者の多少遺憾とする所なり。他日若し幸ひにして機會あらば、作者は稿を改めて更に智惠子吉野を主人公としたる本篇の續篇を書かむと欲す。 底本:「石川啄木作品集 第三巻」昭和出版社    1970(昭和45)年11月20日発行 初出:「東京毎日新聞」    1908(明治41)年11月1日~12月30日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「坂」と「阪」、「昵」と「眤」、「回」と「囘」、「鼓」と「皷」、「廻」と「𢌞」の混在は底本通りです。 ※初出時の表題は「鳥影」です。 入力:Nana ohbe 校正:林 幸雄 2007年1月16日作成 2014年8月23日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。