鳥影 石川啄木 Guide 扉 本文 目 次 鳥影 (一)の一 (一)の二 (一)の三 (一)の四 (一)の五 (二)の一 (二)の二 (二)の三 (二)の四 (二)の五 (三)の一 (三)の二 (三)の三 (四)の一 (四)の二 (四)の三 (四)の四 (四)の五 (四)の六 (四)の七 (四)の八 (四)の九 (四)の十 (五)の一 (五)の二 (五)の三 (五)の四 (六)の一 (六)の二 (六)の三 (七)の一 (七)の二 (七)の三 (八)の一 (八)の二 (八)の三 (八)の四 (八)の五 (九)の一 (九)の二 (九)の三 (九)の四 (九)の五 (九)の六 (九)の七 (十)の一 (十)の二 (十)の三 (十)の四 (十一)の一 (十一)の二 (十一)の三 (十一)の四 (十一)の五 (十一)の六 (十一)の七 (十一)の八 (十二) (十三)の一 (十三)の二 (一)の一  小川静子は、兄の信吾が帰省するといふので、二人の小妹と下男の松蔵を伴れて、好摩の停車場まで迎ひに出た。もと〳〵、鋤一つ入れたことのない荒蕪地の中に建てられた、小さい三等駅だから、乗降の客と言つても日に二十人が関の山、それも大抵は近村の百姓や小商人許りなのだが、今日は姉妹の姿が人の目を牽いて、夏草の香に埋もれた駅内に、常になく艶いてゐる。  小川家といへば、郡でも相応な資産家として、また、当主の信之が郡会議員になつてゐる所から、主なる有志家の一人として名が通つてゐる。信吾は其家の総領で、今年大学の英文科を三年に進んだ。何と思つたか知らぬが、この暑中休暇は東京で暮す積だと言つて来たのを、故家では、村で唯一人の大学生なる吾子の夏毎の帰省を、何よりの誇見にて楽みにもしてゐる、世間不知の母が躍起になつて、自分の病気や静子の縁談を理由に、手酷く反対した。それで信吾は、格別の用があつたでもないのか、案外穏しく帰ることになつたのだ。  午前十一時何分かに着く筈の下り列車が、定刻を三十分も過ぎてるのに、未だ着かない。姉妹を初め、三四人の乗客が皆もうプラツトフオームに出てゐて、逈か南の方の森の上に煙の見えるのを、今か今かと待つてゐる。二人の小妹は、裾短かな海老茶の袴、下髪に同じ朱鷺色のリボンを結んで、訳もない事に笑ひ興じて、追ひつ追はれつする。それを羨まし気に見ながら、同年輩の、見悄らしい装をした、洗晒しの白手拭を冠つた小娘が、大時計の下に腰掛けてゐる、目のシヨボ〳〵した婆様の膝に凭れてゐた。  駅員が二三人、駅夫室の入口に倚懸つたり、蹲んだりして、時々此方を見ながら、何か小声に語り合つては、無遠慮に哄と笑ふ。静子はそれを避ける様に、ズツと端の方の腰掛に腰を掛けた。銘仙矢絣の単衣に、白茶の繻珍の帯も配色がよく、生際の美しい髪を油気なしのエス巻に結つて、幅広の鼠のリボンを生温かい風が煽る。化粧つてはゐないが、さらでだに七難隠す色白に、長い睫毛と格好のよい鼻、よく整つた顔容で、二十二といふ齢よりは、誰が目にも二つか三つは若い。それでゐて、何処か恁う落着いた、と言ふよりは寧ろ、沈んだ処のある女だ。  六月下旬の日射が、もう正午に近い。山国の空は秋の如く澄んで、姫神山の右の肩に、綿の様な白雲が一団、彫出された様に浮んでゐる。燃ゆる様な好摩が原の夏草の中を、驀地に走つた二条の鉄軌は、車の軋つた痕に烈しく日光を反射して、それに疲れた眼が、逈か彼方に快い蔭をつくつた、白樺の木立の中に、蕩々と融けて行きさうだ。  静子は眼を細くして、恍然と兄の信吾の事を考へてゐた。去年の夏は、休暇がまだ二十日も余つてる時に、信吾は急に言出して東京に発つた。それは静子の学校仲間であつた平沢清子が、医師の加藤と結婚する前日であつた。清子と信吾が、余程以前から思ひ合つてゐた事は、静子だけがよく知つてゐる。  今度帰るまいとしたのも、或は其、己に背いた清子と再び逢ふまいとしたのではなからうかと、静子は女心に考へてゐた。それにしても帰つて来るといふのは嬉しい、恁う思返して呉れたのは、細々と訴へてやつた自分の手紙を読んだ為だ、兄は自分を援けに帰るのだと許り思つてゐる。静子は、目下持上つてゐる縁談が、種々の事情があつて両親始め祖父までが折角勧めるけれど、自分では奈何しても嫁く気になれない、此心をよく諒察つて、好く其間に斡旋してくれるのは、信吾の外にないと信じてゐるのだ。 『来た、来た。』と、背の低い駅夫が叫んだので、フオームは俄かに色めいた。も一人の髯面の駅夫は、中に人のゐない改札口へ行つて、『来ましたよウ。』と怒鳴つた。濃い煙が、眩しい野末の青葉の上に見える。 (一)の二  凄じい地響をさせて突進して来た列車が停ると、信吾は手づから二等室の扉を排けて、身軽に降り立つた。乗降の客や駅員が、慌しく四辺を駆ける。滊笛が澄んだ空気を振はして、滊車は直ぐ発つた。  荷札扱ひにして来た、重さうな旅行鞄を、信吾が手伝つて、頭の禿げた松蔵に背負してる間に、静子は熟々其容子を見てゐた。ネルの単衣に涼しさうな生絹の兵子帯、紺キヤラコの夏足袋から、細い柾目の下駄まで、去年の信吾とは大分違つてゐる。中肉の、背は亭乎として高く、帽子には態と記章も附けてないから、打見には誰にも学生と思へない。何処か厭味のある、ニヤケた顔ではあるが、母が妹の静子が聞いてさへ可笑い位自慢にしてるだけあつて、男には惜しい程肌理が濃く、色が白い。秀でた鼻の下には、短い髯を立てゝゐた。それが怎やら老けて見える。老けて見えると同時に、妹の目からは、今迄の馴々しさが顔から消え失せた様にも思はれる。軽い失望の影が静子の心を掠めた。 『何を其麽に見てるんだ、静さん?』 『ホホ、少し老けて見えるわね。』と静子は嫣乎する。 『あゝ之か?』と短い髭を態とらしく捻り上げて、『見落されるかと思つて心配して来たんだ。ハハハ。』 『ハハハ。』と松蔵も声を合せて、背の鞄を揺り上げた。 『怎だ、重いだらう?』 『何有、大丈夫でごあんす。年は老つても、』と復揺り上げて、『さあ、松蔵が先に立ちますべ。』  連立つて停車場を出た。静子は、際どくも清子の事を思浮べて、杖形の洋傘を突いた信吾の姿が、吾兄ながら立派に見える、高が田舎の開業医づれの妻となつた彼の女が、今度この兄に逢つたなら、甚麽気がするだらうなどと考へてゐた。  二町許りも構内の木柵に添うて行くと、信号柱の下で踏切になる。小川家へ行くには、此処から線路伝ひに南へ辿つて、松川の鉄橋を渡るのが一番の近道だ。二人の小妹は、早く帰つて阿母さんに知らせると言つて、足調揃へてズン〳〵先に行く。松蔵は大跨にその後に跟いた。  信吾と静子は、相並んで線路の両側を歩いた。梅雨後の勢のよい青草が熱蒸れて、真面に照りつける日射が、深張の女傘の投影を、鮮かに地に印した。静子は、逢つたら先づ話して置かうと思つてゐたことも忘れて、この夏は賑やかに楽く暮せると思ふと、もう怡々した心地になつた。 『皆が折角待つてることよ。』 『然うか。実は此夏少し勉強しようと思つたんだがね。』 『勉強は家でだつて出来ない事なくつてよ。其麽にお邪魔しないわ。』 『それも然うだが、小供が大勢ゐるからな。』 『だつて阿母さんが那麽に待つてますもの。』 『その阿母さんの病気ツてな甚麽だい? タント悪いんぢやないだらう?』 『えゝ、其麽に悪いといふ程ぢやないんですけど……。』 『臥てゐるか?』 『臥たり起きたり。例のリウマチに、胃が少し悪いんですつて。』 『胃の悪いのは喰過ぎだ。朝ツから煙草許り喫んでゐて、躰屈まぎれに種々な物を間食するから悪いんだよ。』 『でもないでせうが、一体阿母さんは丈夫ぢやないのね。』 『若い時の応報さ。』 『まあ!』と目を大きく睜つた。母のお柳は昔盛岡で名を売つた芸妓であつたのを、父信之が学生時代に買馴染んで、其為に退校にまでなり、家中反対するのも諾かずに無理に落籍さしたのだとは、まだ女学校にゐる頃叔母から聞かされて、訳もなく泣いた事があつたが、今迄遂ぞ恁麽言葉を兄の口から聞いた事がない。静子は、宛然自分の秘密でも言現された様な気がした。 (一)の三  信吾も少し言過ぎたと思つたかして直ぐに、 『だが何か? 服薬はしてるだらうね?』 『ええ。……加藤さんが毎日来て診て下さるのよ。』 『然うか。』と言つて、また態とらしく、『然うか、加藤といふ医師があつたんだな。』  静子はチラリと兄の顔を見た。 『医師が毎日来る様ぢや、余り軽いんでもないんだね?』 『然うぢやないのよ。加藤さんは交際家なんですもの。』 『フム、交際家か!』と短い髯を捻つて、 『其麽風ぢや相応に繁昌つてるんだらう?』 『ええ、宅の方へ廻診に来る時は、大抵自転車よ。でなけや馬に騎つて来るわ。』 『ホウ、景気をつけたもんだな。そして何か、モウ小児が生れたのか?』 『……まだよ。』と低い声で答へて目を落した。 『それぢや清子さんも暇があつて可いんだらう。』 『ええ。』 『女は小児を有つと、モウ最後だからな。』  静子は妙にトチツて、其儘口を噤んで了つた。人は長く別れてゐると、その別れてゐた月日の事は勘定に入れないで、お互ひにまだ別れなかつた時の事を基礎に想像する。静子は、清子が加藤と結婚した事について、少からず兄に同情してゐる。今度帰つて来て、毎日来る加藤と顔を合せるのも、兄は甚麽に不愉快な思ひをするだらう、などとまで狭い女心に心配もしてゐた。そして、何かしらそれに関した事を言出されるかと、宛然、自分の持つてゐる鋭い刃物に対手が手を出すのを、ハラ〳〵して見てゐる様な気がしてゐたが、信吾の言語は、故意かは知れないが余りに平気だ、余りに冷淡だ。今迄の心配は杞憂に過ぎなかつた様にも思ふ。又、兄は自ら偽つてるのだとも思ふ。そして、心の底の奈辺かでは、信吾がモウ清子の事を深く心にとめても居ないらしい口吻を、何となく不満足に感じられる。  その素振を見て取つて、信吾は亦自分の心を妹に勝手に忖度されてる様な気がして、これも黙つて了つた。  二人は並んで歩いた。蒸す様な草いきれと、乾いた線路の土砂の反射する日光とで、額は何時しか汗ばんだ。静子の顔は、先刻の怡々した光が消えて、妙に真面目に引緊つてゐた。小妹共はモウ五六町も先方を歩いてゐる。十間許り前を行く松蔵の後姿は、荷が重くて屈んでるから、大きい鞄に足がついた様だ。  稍あつてから信吾は、 『あの問題は、一体奈何なつてるんだい?』と妹を見かへつた。 『あの問題ツて、……松原の方?』と兄の顔を仰ぐ。 『ああ。余程切迫してるのかい?』 『さうぢや無いんですけど……。』 『手紙の様子ぢや然う見えたんだが。』 『さうぢや無いんですけど。』と繰返して、『怎せ貴兄の居る間に、何とか決めなけやならない事よ。』 『然うか、それで未だ先方には何とも返事してないんだね?』 『ええ。兄様の帰つてらつしやるのを待つてたんだわ。』  信吾は少し言淀んで、『昨日発つ時にね、松原君が上野まで見送りに来て呉れたんだ。……』  静子は黙つて兄の顔を見た。松原政治といふのは、近衛の騎兵中尉で、今は乗馬学校の生徒、静子の縁談の対手なのだ。 (一)の四 『発つ四五日前にも、』と信吾は言葉を次いだ。『突然訪つて来て大分夜更まで遊んで行つた。今度の問題に就いちや別段話もなかつたが、(俺もモウ二十七ですからねえ。)なんて言つてゐたつけ。』  静子は黙つて聞いてゐた。 『休暇で帰るのに見送なんか為て貰はなくツても可いと言つたのに、態々俥でやつて来てね。麦酒や水菓子なんか車窓ン中へ抛り込んでくれた。皆様に宜敷ツて言つてたよ。』 『然うでしたか。』と気の無さ相な返事。 『皆様にぢやない静さんにだらうと、余程言つてやらうかと思つたがね。』 『マア!』 『ナニ唯思つた丈さ。まさか口に出しはしないよ。ハツハハ。』  この松原中尉といふのは、小川家とは遠縁の親籍で、十里許りも隔つた某村の村長の次男である。兄弟三人皆軍籍に身を置いて、三男の狷介と云ふのが、静子の一歳下の弟の志郎と共に、士官候補生になつてゐる。  長男の浩一は、過る日露の役に第五聨隊に従つて、黒溝台の悪戦に壮烈な戦死を遂げた。──これが静子の悲哀である。静子は、女学校を卒へた十七の秋、親の意に従つて、当時歩兵中尉であつた此浩一と婚約を結んだのであつた。  それで翌年の二月に開戦になると、出征前に是非盃事をしようと小川家から言出した。これは浩一が、生きて帰らぬ覚悟だと言つて堅く断つたが、静子は父信之の計ひで、二月許りも青森へ行つて、浩一と同棲した。  浩一の遺骨が来て盛んな葬式が営まれた時は、母のお柳の思惑で、静子は会葬することも許されなかつた。だから、今でも表面では小川家の令嬢に違ひないが、其実、モウ其時から未亡人になつてるのだ。  その夏休暇で帰つた信吾は、さらでだに内気の妹が、病後の如く色沢も失せて、力なく沈んでるのを見ては、心の底から同情せざるを得なかつた。そして慰めた。信吾も其頃は、感情の荒んだ今とは別人の様で、血の熱かい真率な、二十二の若々しい青年であつたのだ。  九月になつて上京する時は、自ら両親を説いて、静子を携へて出たのであつた。兄妹は本郷真砂町の素人屋に室を並べてゐて、信吾は高等学校へ、静子は某の美術学校へ通つた。当時少尉の松原政治が、兄妹に接近し始めたのは、其後間もなくの事であつた。 『姉さん、』と或時政治が静子を呼んだ。静子はサツと顔を染めて俯向いた。すると、『僕は今迄一度も、貴女を姉さんと呼ぶ機会がなかつた。これからもモウ其機会がないと思ふと、実に残念です。』と真摯になつて言つた事がある。静子も其初め、亡き人の弟といふ懐しさが先に立つて、政治が日曜毎の訪問を喜ばぬでもなかつた。  何日の間にかパツタリと足が止つた。其間に政治は、同僚に捲込まれて酒に親む事を知つた。そして一昨年の秋中尉に昇進してからは、また時々訪ねて来た。然しモウ以前の単純な、素朴な政治ではなかつた。或時は微醺を帯びて来て、些々擽る様な事を言つた事もある。又或時は同じ中隊だといふ、生半可な文学談などをやる若い少尉を伴れて来て、態と其前で静子と親しい様に見せかけた。そして、静子が次の間へ立つた時、『怎だ、仲々美いだらう?』と低い声で言つたのが襖越しに聞こえた。静子は心に憤つてゐた。  昨年の春、母が産後の肥立が悪くて二月も患つた時、看護に帰つて来た儘静子は再び東京に出なかつた。そして、此六月になつてから、突然政治から結婚の申込みを享けたのだ。 『それで、兄様は奈何思つて?』と、静子は、並んで歩いてゐる信吾の横顔を眤と見つめた。 (一)の五 『奈何ツて言つた所で、問題は頗る簡単だ。』 『然う?』と静子は兄の顔を覗く様にする。 『簡単さ。本人が厭なら仕様がないぢやないか。』 『そんなら可いけど…………』と嫣乎する。 『だがマア、お父さんやお母さんの意見も聞いて見なくちやならないし、それに祖父さんだつて何か理屈を言ふだらうしね。』 『ですけど、私奈何したつて嫁かないことよ。』 『そう頭ツから我を張つたつて仕方がないが、マア可いよ、僕に任して置けや心配する事は無い。お前の心はよく解つてるから。』 『真箇?』 『ハハハ。まるで小児みたいだ。』と信吾は無造作に笑ふ。  静子も声を合せて笑つたが、『マ嬉しい。』と言つて額の汗を拭く。顔が晴やかになつて、心持か声も華やいだ。 『兄様、アノ面白い事があつてよ。』 『何だ?』 『叔父さんが私に同情してるわ。』 『叔父さんて誰? 昌作さんか?』 『ええ。』と言つて、さも可笑相な目付をする。昌作といふのは父信之の末の弟、兄妹には叔父に違ひないが、齢は静子よりも一つ下の二十一である。 『今度の事件にか?』 『然うよ。過日奥の縁側で、祖母さんと何か議論してるの。そして静子々々ツて何か私の事言つてる様なんですからね、悪いと思つたけど私立つて聞いたことよ。そしたら、(結婚といふものは恋愛によつて初めて成立するもので、他から圧制的に結びつけようとするのは間違だ。)なんて、それあ真面目よ。すると祖母さんが(ああ〳〵然うだらうともさ。)が可笑しいぢやありませんか。圧制的なんて祖母さんに解るもんですかねえ。ホホヽヽヽ。』 『そして奈何した?』 『奈何もしやしないけど、面白かつたわ。そして折角祖父さん許り攻撃してるのよ。旧時代の思想だの何のツてね……お父さんやお母さんの事は言へないもんだから。』 『フム、然うか。……それで奈何する気なんだらう、今後。』 『南米に行きたいんですツて。』 『南米に? そんな事で学校も廃したんだな。』 『許りぢやないわ。今年卒業するのでしたのを落第したんですもの。』 『中学も卒業せずに南米に行つたつて奈何なるもんか。それに旅費だつて大分費る。』 『全体で二百円あれア可んですツて。』 『何処から出す積だらう。家ぢや出せまいし……。』 『出せないことは無いと思ふわ。』 『だつて余り無謀な計画だ。』 『…………ですけど、お母さんも少し酷いわね、昌作叔父さんに。私時々さう思ふ事があつてよ。』 『それや昌作さんが悪いんだ。そして今は何をしてるんだらう? 唯遊んでるのか?』 『和歌を作つてるのよ。新派の和歌。』 『和歌? 那麽格好してて和歌を作るのか? ハハハ。』 『仲々得意よ。そして少し天狗になつてるけど、真箇に巧いと思ふのもあるわ。』 『莫迦な。其麽事してるから駄目なんだ。少し英語でも勉強すれや可いのに。』  この時、重い地響が背後に聞えた。二人は同時に振返つて見て、急がしく線路の外に出た。信吾の乗つて来た列車と川口駅で擦違つて来た、上りの貨物列車が、凄じい音を立てて、二人の間を飛ぶが如くに通つた。 (二)の一  通行少き青森街道を、盛岡から北へ五里、北上川に架けた船綱橋といふを渡つて六七町も行くと、若松の並木が途断えて見すぼらしい田舎町に入る。両側百戸足らずの家並の、十が九までは古い茅葺勝で、屋根の上には百合や萱草や桔梗が生えた、昔の道中記にある渋民の宿場の跡がこれで、村人はたゞ町と呼んでゐる。小さいながらも呉服屋、菓子屋、雑貨店、さては荒物屋、理髪店、豆腐屋まであつて、素朴な農民の需要は大抵此処で充される。町の中央の、四隣不相応に厳しく土塀を繞した酒造屋と対合つて、大きい茅葺の家に村役場の表札が出てゐる。  役場の外に、郵便局、駐在所、登記所も近頃新しく置かれた。小学校は、町の南端れ近くにある。直径尺五寸もある太い丸太の、頭を円くして二本植ゑた、それが校門で、右と左、手頃の棒の先を尖らして、無造作に鋼線で繋いだ木柵は、疎らで、不規則で、歪んで、破れた鎧の袖を展べた様である。  柵の中は、左程広くもない運動場になつて、二階建の校舎が其奥に、愛宕山の欝蒼した木立を背負つた様にして立つてゐる。  日射は午後四時に近い、西向の校舎は、後の木立の濃い緑と映り合つて殊更に明るく、授業は既に済んだので、坦かな運動場には人影もない、夏も初の鮮かな日光が溢れる様に流れた。先刻まで箒を持つて彷いてゐた、年老つた小使も何処かに行つて了つて、隅の方には隣家の鶏が三羽、柵を潜つて来てチヨコ〳〵遊び廻つてゐる。  と、門から突当りの玄関が開いて、女教師の日向智恵子はパツと明るい中へ出て来た。其拍子に、玄関に隣つた職員室の窓から賑やかな笑声が洩れた。  クツキリとした、輪廓の正しい、引緊つた顔を真面に西日が照す。切のよい眼を眩しさうにした。紺飛白の単衣に長過ぎる程の紫の袴──それが一歩毎に日に燃えて、静かな四囲の景色も活きる様だ。齢は二十一二であらう。少し鳩胸の、肩に程よい円みがあつて、歩方がシツカリしてゐる。  門を出て右へ曲ると、智恵子は些と学校を振返つて見て、『気障な男だ。』と心に言つた。故もない微笑がチラリと口元に漂ふ。  家々の前の狭い浅い溝には、腐れた水がチヨロ〳〵と流れて、縁に打込んだ杭が朽ちて白い菌が生えた。屋根が低くて広く見える街路には、西並の家の影が疎な鋸の歯の様に落ちて、処々に馬を脱した荷馬車が片寄せてある。雛が幾群も幾群も、其下に出つ入りつ零れた米を土埃の中に猟つてゐた。会つて頭を下げる小児等に、智恵子は一々笑ひ乍ら会釈を返して行く。  一人、煮絞めた様な浅黄の手拭を冠つて、赤児を背負つた十一二の女の児が、とある家の軒下に立つて妹らしいのと遊んでゐたが、智恵子を見ると、鼻のひしやげた顔で卑しくニタ〳〵と笑つて、垢だらけの首を傾る。智恵子は側へ寄つて来た。 『先生!』 『お松、お前また此頃学校に来なくなつたね?』と、柔かな物言ひである。 『これ。』と背中の児を揺つて、相不変ニタ〳〵と笑つてる。子守をするので学校に出られぬといふのだらう。 『背負つてでも可いからお出なさい。ね、子供の泣く時だけ外に出れば可いんだから。』  お松はそれには答へないで、『先生ア今日お菓子喰つてらけな。皆してお茶飲んで……。』 『ホホヽヽ。』と智恵子は笑つた。『何処から見てゐたの?……今日はお客様が被来たから然うしたの。お前さんの家でもお客さんが行つたらお茶を出すんでせう?』 『出さねえ。』  信吾は帰省の翌々日、村の小学校を訪問したのであつた。 (二)の二  智恵子の泊つてゐる浜野といふ家は町でもズツと北寄の──と言つても学校からは五六町しかない──寺道の入口の小い茅葺家がそれである。智恵子が此家の前まで来ると、洗晒しの筒袖を着た小造の女が、十許りの女の児を上框に腰掛けさせて髪を結つてやつて居た。  それと見た智恵子は直ぐ笑顔になつて、溝板を渡りながら、 『只今。』 『先生、今日は少し遅う御座んしたなツす。』 『ハ。』 『小川の信吾さんが、学校にお出で御座んしたらう?』 『え、被来てよ。』と言つた顔は心持赧かつた。『それに今日は三十日ですから少し月末の調べ物があつて……。』と何やら弁疎らしく言ひながら、下駄を脱いで、『アノ、郵便は来なくつて、小母さん?』 『ハ、何にも……然う〳〵、先刻静子さんがお出になつて、アノ、兄様もお帰省になつたから先生に遊びに被来て下さる様にツて。』 『然う? 今日ですか?』 『否。』と笑を含んだ。『何日とも被仰らな御座んした。』 『然うでしたか。』と安心した様に言つて、『祖母さんは今日は?』 『少し好い様で御座んす。今よく眠つてあんすから。』 『夜になると何日でも悪くなる様ね。』と言ひながら、直ぐ横の破れた襖を開けて中を覗いた。薄暗い取散らかした室の隅に、臥床が設けてあつて、汚れた布団の襟から、彼方向の小い白髪頭が見えてゐる。枕頭には、漆の剥げた盆に茶碗やら、薬瓶やら、流通の悪い空気が、薬の香と古畳の香に湿つて、気持悪くムツとした。  智恵子は稍霎しその物憐れな室の中を見てゐたが、黙つて襖を閉めて、自分の室に入つて行つた。  上り口の板敷から、敷居を跨げば、大きく焚火の炉を切つた、田舎風の広い台所で、其炉の横の滑りの悪い板戸を開けると、六畳の座敷になつてゐる。隔ての煤びた障子一重で、隣りは老母の病室──畳を布いた所は此二室しかないのだ。  東向に格子窓があつて、室の中は暗くはない。畳も此処は新しい。が、壁には古新聞が手際悪く貼られて、真黒に煤びた屋根裏が見える、壁側に積重ねた布団には白い毛布が被つて、其に並んだ箪笥の上に、枕時計やら鏡台やら、種々な手廻りの物が整然と列べられた。  脱いだ袴を畳んで、桃色メリンスの袴下を、同じ地の、大きく菊模様を染めた腹合せの平生帯に換へると、智恵子は窓の前の机に坐つて、襟を正して新約全書を開いた。──これは基督教信者なる智恵子の自ら定めた日課の一つ。五時間の授業に相応に疲れた心の兎もすれば弛むのを、恁うして励まさうとするのだ。  展かれたのは、モウ手癖のついてゐる例の馬太伝第二十七章である。智恵子は心を沈めて小声に読み出した。縛られた耶蘇がピラトの前に引出されて罪に定められ、棘の冕を冠せられ、其面に唾せられ、雨の様な嘲笑を浴びて、遂にゴルゴタの刑場に、二人の盗賊と相並んで死に就くまでの悲壮を尽した詩──『耶蘇また大声に呼りて息絶たり。』と第五十節迄読んで来ると、智恵子は両手を強く胸に組合せて、稍暫し黙祷に耽つた。何時でも此章を読むと、言ふに言はれぬ、深い〳〵心持になるのだ。  軈て智恵子は、昨日来た朋友の手紙に返事を書かうと思つて、墨を磨り乍ら考へてゐると、不図、今日初めて逢つた信吾の顔が心に浮んだ。………  恰度此時、信吾は学校の門から出て来た。 (二)の三  長過ぎる程の紺絣の単衣に、軽やかな絹の兵子帯、丈高い体を少し反身に何やら勢ひづいて学校の門を出て来た信吾の背後から、 『信吾さん!』 と四辺憚からぬ澄んだ声が響いて、色褪せた紫の袴を靡かせ乍ら、一人の女が急足に追駆けて来た。 『呀!』と振返つた信吾は笑顔を作つて、『貴女もモウ帰るんですか?』 『ハ、其辺まで御同伴。』と馴々敷言ひ乍ら、羞む色もなく男と並んで、『マア私の方が這麽に小い!』  矢張女教師の、神山富江といつて、女にして背の低い方ではないが、信吾と並んでは肩先までしか無い。それは一つは、葡萄色の緒の、穿き減した低い日和下駄を穿いてる為でもある。肉の緊つた青白い細面の、醜い顔ではないが、少し反歯なのを隠さうとする様に薄い唇を窄めてゐる。かと思へば、些細の事にも其歯を露出にして淡白らしく笑ふ。よく物を言ふ眼が間断なく働いて、解けば握に余る程の髪は漆黒い。天賦か職業柄か、時には二十八といふ齢に似合はぬ若々しい挙動も見せる。一つには未だ子を有たぬ為でもあらう。  富江には夫がある。これも盛岡で学校教師をしてゐるが、人の噂では二度目の夫だとも言ふ。それが頗る妙で、富江が此村へ来てからの三年の間、お正月を除いては、農繁の休暇にも暑中の休暇にも、遂ぞ盛岡に帰らうとしない。それを怪んで訊ねると、 『何有、私なんかモウお婆さんで、夫の側に喰付いてゐたい齢でもありません。』と笑つてゐる。対手によつては、女教師の口から言ふべきでない事まで平気で言つて、恥づるでもなく戯談にして了ふ。  村の人達は、富江を淡白な、さばけた、面白い女として心置なく待遇つてゐる。殊にも小川の母──お柳にはお贔負で、よく其家にも出入する。其麽事から、この町に唯一軒の小川家の親籍といふ、立花といふ家に半自炊の様にして泊つてゐるのだ。服装を飾るでもなく書を読むでもない。盛岡には一文も送らぬさうで、近所の内儀さんに融通してやる位の小金は何日でも持つてゐると言ふ。  街路は八分通り蔭つて、高声に笑ひ交してゆく二人の、肩から横顔を明々と照す傾いた日もモウ左程暑くない。 『だが何だ、神山さんは何日見ても若いですね。』と揶揄ふ様に甘つたるく舌を使つて、信吾は笑ひながら女を見下した。 『奢りませんよ。』と言ふ富江の声は訛つてゐる。『ホヽヽ、いくら髯を生やしたつて其麽年老つた口は利くもんぢやありませんよ。』 『呀、また髯を……。』 『寄つてらツしやい。』 と富江は俄かに足を留めた。何時しか己が宿の前まで来たのだ。 『次にしませう。』 『何故? モウ虐めませんよ。』 『御馳走しますか?』 『しますとも……。』 と言つてる所へ、家の中から四十五六の汚らしい装をした、内儀さんが出て来て、信吾が先刻寄つて呉れた礼を諄々と述べて、夫もモウ帰る時分だから是非上れと言ふ。夫の金蔵といふ此家の主人は、二十年も前から村役場の書記を勤めてゐるのだ。  信吾がそれを断つて歩き出すと、 『信吾さん、それぢや屹度推しかけて行きますよ。』 『ああ被来い、加留多なら何時でもお相手になつて上げるから。』 『此方から教へに行くんですよ。』と笑ひ乍ら、富江は薄暗い家の中へ入つて行つた。  と、信吾は急に取済した顔をして大跨に歩き出したが、加藤医院の手前まで来ると、フト物忘れでもした様に足を緩めた。 (二)の四  今しもその、五六軒彼方の加藤医院へ、晩餐の準備の豆腐でも買つて来たらしい白い前掛の下婢が急足に入つて行つた。 『何有、たかが知れた田舎女ぢやないか!』と、信吾は足の緩んだも気が付かずに、我と我が撓む心を嘲つた。人妻となつた清子に顔を合せるのは、流石に快くない。快くないと思ふ心の起るのを、信吾は自分で不愉快なのだ。  寄らなければ寄らなくても済む、別に用があるのでもないのだ。が、狭い村内の交際は、それでは済まない。殊には、さまでもない病気に親切にも毎日廻診に来てくれるから、是非顔出しして来いと母にも言はれた。加之、今日は妹の静子と二人で町に出て来たので、其妹は加藤の宅で兄を待合して一緒に帰ることにしてある。 『疚しい事があるんぢやなし……。』と信吾は自分を励ました。『それに、加藤は未だ廻診から帰つてゐまい。』と考へると、『然うだ。玄関だけで口上を済まして、静子を伴出して帰らうか。』と、つい卑怯な考へも浮ぶ。 『清子は甚麽顔をするだらう?』と、好奇心が起つた。と、 『私はアノ、貴君のお言葉一つで……。』と言つて眤と瞳を据ゑた清子の顔が目に浮んだ。──それは去年の七月の末、加藤との縁談が切迫塞つて、清子がトある社の杜に信吾を呼び出した折のこと。──その眼には、「今迄この私は貴君の所有と許り思つてました。恁う思つたのは間違でせうか?」といふ、心を張つめた美しい質問が涙と共に光つてゐた。二人の上に垂れた楓の枝が微風に揺れて、葉洩れの日影が清子の顔を明るくし又暗くしたことさへ、鮮かに思出される。  稚い時からの恋の最後を、其時、二人は人知れず語つたのだ。……此追憶は、流石に信吾の心を軽くはしない。が、その時の事を考へると、「俺は強者だ。勝つたのだ。」といふ浅猿しい自負心の満足が、信吾の眼に荒んだ輝きを添へる……。  取済ました顔をして、信吾は大跨に杖を医院の玄関に運んだ。  昔は町でも一二の浜野屋といふ旅籠屋であつた、表裏に二階を上げた大きい茅葺家に、思切つた修繕を加へて、玄関造にして硝子戸を立てた。その取てつけた様な不調和な玄関には、『加藤医院』と鹿爪らしい楷書で書いた、まだ新しい招牌を掲げた。──開業医の加藤は、もと他村の者であるが、この村に医者が一人も無いのを見込んで一昨年の秋、この古家を買つて移つて来た、生村では左程の信用もないさうだが、根が人好のする男で、技術の巧拙よりは患者への親切が、先づ村人の気に入つた。そして、村長の娘の清子と結婚してからは馬を買ひ自転車を買ひ、田舎者の目を驚かす手術台やら機械やらを置き飾つて、隣村二ヶ村の村医までも兼ねた。  信吾が落着いた声で案内を乞ふと、小生意気らしい十七八の書生が障子を開けた。其処は直ぐ薬局で、加藤の弟の代診をしてゐる慎次が、何やら薄紅い薬を計量器で計つてゐた。 『や、小川さんですか。』と計量器を持つた儘で、『さ何卒お上り下さいまし。』と、無理に擬ねた様な訛言を使つた。  そして、『姉様、姉様。』と声高く呼んで、『兄もモウ帰る時分ですから。』 『ハ、有難う。妹は参つてゐませんですか?』  其処へ横合の襖が開いて清子が出て来た。信吾を見ると、『呀。』と抑へた様な声を出して、膝をついて、『ようこそ。』と言ふも口の中。信吾はそれに挨拶をし乍らも、頭を下げた清子の耳の、薔薇の如く紅きを見のがさなかつた。 『さ何卒。静子さんも待つてらつしやいますから。』 『否、然うしては……。』と言はうとしたのを止して、信吾は下駄を脱いだ。処女らしい清子の挙動が、信吾の心に或る皮肉な好奇心を起さしめたのだ。 (二)の五  二十分許り経つて、信吾兄妹は加藤医院を出た。  一筋町を北へ、一町許り行くと、傾き合つた汚らしい、家と家の間から、家路が左へ入る。路は此処から、水車場の前の小橋を渡つて、小高い広い麦畑を過ぎて、坂を下りて、北上川に架けられた、鶴飼橋といふ吊橋を渡つて、十町許りで大字川崎の小川家に行く。落ちかけた夏の日が、熟して割れた柘榴の色の光線を、青々とした麦畑の上に流して、真面に二人の顔を彩つた。  信吾は何気ない顔をして歩き乍らも、心では清子の事を考へてゐた。僅か二十分許りの間、座には静子も居れば、加藤の母や慎次も交る〴〵挨拶に出た。信吾は極く物慣れた大人振つた口をきいた。清子は茶を薦め菓子を薦めつゝ唯雅かに、口数は少なかつた。そして男の顔を真面には得見なかつた。  唯一度、信吾は対手を「奥様」と呼んで見た。清子は其時俯いて茶を注いでゐたが、返事はしなかつた。また顔も上げなかつた。信吾は女の心を読んだ。  清子の事を考へると言つても、別に過ぎ去つた恋を思出してゐるのではない。また、予期してゐた様な不快を感じて来たのでもない。寧ろ、一種の満足の情が信吾の心を軽くしてゐる。一口に言へば、信吾は自分が何処までも勝利者であると感じたので。清子の挙動がそれを證明した。そして信吾は、加藤に対して些の不快な感を抱いてゐない、却てそれに親まう、親んで而して繁く往来しよう、と考へた。  加藤に親み、清子を見る機会を多くする、──否、清子に自分を見せる機会を多くする。此方が、清子を思つては居ないが、清子には何日までも此方を忘れさせたくない。許りでなく、猫が鼠を嬲る如く敗者の感情を弄ばうとする、荒んだ恋の驕慢は、モ一度清子をして自分の前に泣かせて見たい様な希望さへも心の底に孕んだ。 『清子さんは些とも変らないでせう。』と何かの序に静子が言つた。静子は、今日の兄の応待振の如何にも大人びてゐたのに感じてゐた。そして、兄との恋を自ら捨てた女友が、今となつて何故那麽未練気のある挙動をするだらう。否、清子は自ら恥ぢてるのだ、其為に臆すのだ、と許り考へてゐた。 『些とも変らないね。』と信吾は短い髯を捻つた、『幸福に暮してると年は老らないよ。』 『さうね。』  其話はそれ限になつた。 『今日随分長く学校に被居たわね。貴兄智恵子さんに逢つたでせう?』 『智恵子? ウン日向さんか。逢つた。』 『何う思つて、兄様は?』と笑を含む。 『美人だね。』と信吾も笑つた。 『顔許りぢやないわ。』と静子は真面目な目をして、『それや好い方よ心も。私姉様の様に思つてるわ。』と言つて、熱心に智恵子の性格の美しく清い事、其一例として、浜野(智恵子の宿)の家族の生活が殆んど彼女の補助によつて続けられてゐる事などを話した。  信吾は其話を、腹では真面目に、表面はニヤ〳〵笑ひ乍ら聴いてゐた。  二人が鶴飼橋へ差掛つた時、朱盆の様な夏の日が岩手山の巓に落ちて、夕映の空が底もなく黄橙色に霞んだ。と、背高い、頭髪をモヂヤ〳〵さした、眼鏡をかけた一人の青年が、反対の方から橋の上に現れた。静子は、 『アラ昌作叔父さんだわ。』と兄に囁く。 『オーイ。』と青年は遠くから呼んだ。 『迎ひに来た。家ぢや待つてるぞ。』 言ふ間もなく踵を返して、今来た路を自暴に大跨で帰つて行く。信吾は其後姿を見送り乍ら、愍む様な軽蔑した様な笑ひを浮べた。静子は心持眉を顰めて、 『阿母さんも酷いわね。迎ひなら昌作さんでなくたつて可いのに!』と独語の様に呟いた。 (三)の一  暁方からの雨は午少し過ぎに霽つた。庭は飛石だけ先づ乾いて、子供等の散らかした草花が生々としてゐる。池には鯉が跳ねる。池の彼方が芝生の築山、築山の真上に姿優しい姫神山が浮んで空には断れ〳〵の白雲が流れた。──それが開放した東向の縁側から見える。地から発散する水蒸気が風なき空気に籠つて、少し蒸す様な午後の三時頃。 『それで何で御座いますか、えゝ、お食事の方は? 矢張お進みになりませんですか?』と言ひ乍ら、加藤は少し腰を浮かして、静子が薦める金盥の水で真似許り手を洗ふ。今しもお柳の診察──と言つても毎日の事でホンの型許り──が済んだところだ。 『ハア、怎うも。…………それでゐて恁う、始終何か喰べて見たい様な気がしまして、一日口案配が悪う御座いましてね。』とお柳も披つた襟を合せ、片寄せた煙草盆などを医師の前に直したりする。  痩せた、透徹るほど蒼白い、鼻筋の見事に通つた、険のある眼の心持吊つた──左褄とつた昔を忍ばせる細面の小造だけに遙と若く見えるが、四十を越した證は額の小皺に争はれない。 『胃の所為ですな。』と頷いて、加藤は新しい紛帨に手を拭き乍ら坐り直した。 『で何です、明日からタカヂヤスターゼの錠剤を差上げて置きますから、食後に五六粒宛召上つて御覧なさい。え? 然うです。今までの水薬と散剤の外にです。噛砕くと不味う御座いますから、微温湯か何かで其儘お嚥みになる様に。』と頤を突出して、喉仏を見せて嚥下す時の様子をする。  見るからが人の好さ相な、丸顔に髯の赤い、デツプリと肥つた、色沢の好い男で、襟の塞つた背広の、腿の辺が張裂けさうだ。  茶を運んで来た静子が出てゆくと、奥の襖が開いて、巻莨の袋を攫んだ信吾が入つて来た。 『や、これは。』と加藤は先づ挨拶する、信吾も坐つた。 『ようこそ。暑いところを毎日御足労で……。』 『怎う致しまして。昨日は態々お立寄下すつた相ですが、生憎と芋田の急病人へ行つてゐたものですから失礼致しました。今度町へ被来たら是非何卒。』 『ハ、有難う。これから時々お邪魔したいと思つてます。』 と莨に火を点る。 『何卒さう願ひたいんで。これで何ですからな、無論私などもお話相手とは参りませんが、何しろ狭い村なんで。』 『で御座いますからね。』とお柳が引取つた。『これが(頤で信吾を指して)退屈をしまして、去年なんぞは貴下、まだ二十日も休暇が残つてるのに無理無体に東京に帰つた様な訳で御座いましてね。今年はまた私が這麽にブラ〳〵してゐて思ふ様に世話もやけず、何彼と不自由をさせますもんですから、もう昨日あたりからポツ〳〵小言が始りましてね。ホヽヽヽ。』 『然うですか。』と加藤は快活に笑つた。 『それぢや今年は信吾さんに逃げられない様に、可成早くお癒りにならなけや不可ませんね。』 『えゝモウお蔭様で、腰が大概良いもんですから、今日も恁うして朝から起きてゐますので。』 『何ですか、リウマチの方はモウ癒つたんで?』と信吾は自分の話を避けた。 『左様、根治とはマア行き難い病気ですが、……何卒。』と信吾の莨を一本取り乍ら、『撒里矢爾酸曹達が尊母さんのお体に合ひました様で……。』とお柳の病気の話をする。  開放した次の間では、静子が茶棚から葉鉄の罐を取出して、麦煎餅か何か盆に盛つてゐたが、それを持つて彼方へ行かうとする。 『静や、何処へ?』とお柳が此方から小声に呼止めた。 『昌作さん許へ。』と振返つた静子は、立ち乍ら母の顔を見る。 『誰が来てるんだい?』と言ふ調子は低いながらに譴める様に鋭かつた。 (三)の二 『山内様よ。』と、静子は穏しく答へて心持顔を曇らせる。 『然うかい。三尺さんかい!』とお柳は蔑む色を見せたが、流石に客の前を憚つて、 『ホホヽヽ。』と笑つた。『昌作さんの背高に山内さんの三尺ぢや釣合はないやね。』 『昌作さんにお客?』と信吾は母の顔を見る。  其間に静子は彼方の室へ行つた。 『然うだとさ。山内さんて、登記所のお雇さんでね、月給が六円だとさ。何で御座いますね。』と加藤の顔を見て、『然う言つちや何ですけれど、那麽小い人も滅多にありませんねえ、家ぢや小供らが、誰が教へたでもないのに三尺さんといふ綽名をつけましてね。幾何叱つても山内さんを見れや然う言ふもんですから困つて了ひますよ。ホホヽヽ。七月児だつてのは真個で御座いませうかね?』 『ハツハヽヽ。怎うですか知りませんが、那麽に生れついちやお気毒なもんですね。顔だつても綺麗だし、話して見ても色ンな事を知つてますが……。』 『えゝえゝ。』とお柳は俄かに真面目臭つた顔をして、『それやモウ山内さんなんぞは、体こそ那麽でも、兎に角一人で喰つて行くだけの事をしてらつしやるんだから立派なもので御座いますが、家の昌作叔父さんと来たらマア怎うでせう! 町の人達も嘸小川の剰れ者だつて笑つてるだらうと思ひましてね。』 『其麽ことは御座いません……。』 と加藤が何やら言はうとするのを、お柳は打消す様にして、 『学校は勝手に廃めて来るし、那して毎日碌々してゐて何をする積りなんですか。私は這麽性質ですから諄々言つて見ることも御座いますが、人の前ぢや眼許りパチクリ〳〵さしてゐて、カラもう現時の青年の様ぢやありませんので。お宅にでも伺つた時は何とか忠告して遣つて下さいましよ。』 『ハハヽヽ。否、昌作さんにした所で何か屹度大きい御志望を有つて居られるんでせうて。それに何ですな、譬へ何を成さるにしても、あの御体格なら大丈夫で御座いますよ。……昌作さんもナンですが、(と信吾を見て)失礼乍ら貴君も好い御体格ですな。五寸……六寸位はお有りでせうな? 何方がお高う御座います?』  気の無い様な顔をして煙を吹いてゐた信吾は、 『さあ、何方ですか。』と、吐月峯に莨の吸殻を突込む。 『何方もモウ背許り延びてカラ役に立ちませんので、……電信柱にでも売らなけや一文にもなるまいと申してゐますんで。ホホヽヽヽ。』と、お柳は取つて付けた様に高笑ひする。加藤も為方なしに笑つた。  十分許り経つて加藤は自転車で帰つて行つた。信吾は玄関から直ぐに書斎の離室へ引返さうとすると、 『信吾や、先ア可いぢやないか。』と言つて、お柳は先刻の座敷に戻る。 『お父様は今日も役場ですか?』と、信吾は縁側に立つて空を眺めた。 『然うだとさ、何の用か知らないが……町へ出さへすれや何日でも昨晩の様に酔つぱらつて来るんだよ。』と、我子の後姿を仰ぎ乍ら眉を顰める。 『為方がない、交際だもの。』と投げる様に言つて、敷居際に腰を下した。 『時にね。』とお柳は顔を柔げて、『昨晩の話だね、お父様のお帰りで其儘になつたつけが、お前よく静に言つてお呉れよ。』 『何です、松原の話?』 『然うさ。』と眼をマヂ〳〵する。  信吾は霎時庭を眺めてゐたが、 『マア可いさ。休暇中に決めて了つたら可いでせう?』と言つて立上る。 『だけどもね…………。』 『任して置きなさい。俺も少し考へて見るから。』と叱付ける様に言つて、まだ何か言ひたげな母の顔を上から見下した。  そして我が室へは帰らずに、何を思つてか昌作の室の方へ行つた。 (三)の三  穢苦しい六畳間の、西向の障子がパツと明るく日を享けて、室一杯に莨の煙が蒸した。  信吾が入つて来た時、昌作は、窓側の机の下に毛だらけの長い脛を投げ入れて、無態に頬杖をついて熱心に喋つてゐた。  山内謙三は、チヨコナンと人形の様に坐つて、時々死んだ様に力のない咳をし乍ら、狡さうな眼を輝かして穏しく聞いてゐる。萎えた白絣の襟を堅く合せて、柄に合はぬ縮緬の大幅の兵子帯を、小い体に幾廻も捲いた、狭い額には汗が滲んでゐる。  二人共、この春徴兵検査を受けたのだが、五尺不足の山内は誰が目にも十七八にしか見えない。それでゐて何処か挙動が老人染みてもゐる。昌作の方は、背の高い割に肉が削げて、漆黒な髪を態とモヂヤ〳〵長くしてるのと、度の弱い鉄縁の眼鏡を掛けてるのとで二十四五にも見える。 『……然うぢやないか、山内さん。俺は那時、奈何してもバイロンを死なしたくなかつた。彼にして死なずんばだな。山内さん、甚麽偉い事をして呉れたか知れないぢやないか! それを考へると俺は、夜寝ててもバイロンの顔が……』と景気づいて喋つてゐた昌作は、信吾の顔を見ると神経的に太い眉毛を動かして、 『実に偉い!』と俄かに言葉を遁がした。そして可厭な顔をして、口を噤んだ。  信吾はニヤ〳〵笑ひ乍ら入つて来て、無雑作に片膝を付く。と見ると山内は喰かけの麦煎餅の遣場に困つた様に、臆病らしくモヂ〳〵して、顔を赧めて頭を下げた。 『貴君は山内さんですね?』と、信吾は鷹揚に見下す。 『ハ。』と復頭を下げて、其拍子に昌作の方をチラと偸視む。 『何です、昌作さん? 大分気焔の様だね。バイロンが怎うしたんです?』と信吾は矢張ニヤ〳〵して言ふ。 『怎うもしない。』と、昌作は不愉快な調子で答へた。 『怎うもしない? ハヽヽ。何ですか、貴君もバイロン崇拝者で?』と山内を見る。 『ハ、否。』と喉が塞つた様に言つて、山内は其狡さうな眼を一層狡さうに光らして、短かい髯を捻つてゐる信吾の顔を閃と見た。 『然うですか。だが何だね、バイロンは最う古いんでさ。辺麽のは今ぢや最う古典になつてるんで、彼国でも第三流位にしきや思つてないんだ。感情が粗雑で稚気があつて、独で感激してると言つた様な詩なんでさ。新時代の青年が那麽古いものを崇拝してちや為様が無いね。』 『真理と美は常に新しい!』と、一度砂を潜つた様にザラ〳〵した声を少し顫して、昌作は倦怠相に胡坐をかく。 『ハツハヽヽ。』と信吾は事も無げに笑つた。『だが何かね? 昌作さんはバイロンの詩を何れ〳〵読んだの?』  昌作の太い眉毛が、痙攣ける様にピリリと動いた。山内は臆病らしく二人を見てゐる。 『読まなくちや為様が無い!』と嘲る様に対手の顔を見て、 『読まなくちや崇拝もない。何処を崇拝するんです?』と揶揄ふ様な調子になる。 『信吾や。』と隣の室からお柳が呼んだ。 『富江さんが来たよ。』  昌作はヂロリと其方を見た。そして信吾が山内に挨拶して出てゆくと、不快な冷笑を憚りもなく顔に出して、自暴に麦煎餅を頬張つた。  次の間にはお柳が不平相な顔をして立つてゐて、信吾の顔を見るや否や、 『何だねお前、那麽奴等の対手になつてさ! 九月になれや何処かの学校へ代用教員に遣るツて、阿父様が然言つてるんだから、那麽愚物にや構はずにお置きよ。お前の方が愚物になるぢやないか!』と、険のある眼を一汐険しくして譴める様に言つた。  彼方の室からは子供らの笑声に交つて、富江の噪いだ声が響いた。 (四)の一  遠くから見ただけの人は、智恵子をツンと取済した、愛相のない、大理石の像の様に冷い女とも思ふ。が、一度近づいて見ては、その滑かな美しい肌の下、晴朗とした黒味勝の眼の底の、温かい心を感ぜずには居られぬ。  同情の深い智恵子は、宿の子供──十歳になる梅ちやんと五歳の新坊──が、モウ七月になつたのに垢染みた袷を着て暑がつてるのを、例の事ながら見るに見兼ねた。  今日は幸ひの土曜日、授業が済むと直ぐ帰つた。そして、帰途に買つて来た──一円某の安物ではあるが──白地の荒い染の反物を裁つて、二人の単衣を仕立に掛つた。  障子を開けた格子窓の、直ぐ下から青田が続いた。其青田を貫いて、此家の横から入つた寺道が、二町許りを真直に、宝徳寺の門に隠れる。寺を囲んで蓊欝とした杉の木立の上には、姫神山が金字塔の様に見える。  午後の日射は青田の稲のそよぎを生々と照して、有か無かの初夏の風が心地よく窓に入る。壁一重の軒下を流れる小堰の水に、蝦を掬ふ小供等の叫び、さては寺道を山や田に往返りの男女の暢気な濁声が手にとる様に聞える──智恵子は其聞苦しい訛にも耳慣れた。去年の秋転任になつてから、モウ十ヶ月を此村に過したので。  隣室からは、床に就いて三月にもなる老女の、幽かな呻声が聞える。主婦のお利代は、盥を門口に持出して、先刻からバチヤ〳〵と洗濯の音をさしてゐる。  智恵子は白い布を膝に被けて、余念もなく針を動かしてゐた。  小供の衣服を縫ふ──といふ事が、端なくも智恵子をして亡き母を思出させた。智恵子は箪笥の上から、葡萄色天鵞絨の表紙の、厚い写真帖を取下して、机の上に展いた。  何処か俤の肖通つた、四十許の品の良い女の顔が写されてゐる。  智恵子はそれに懐し気な眼を遣り乍ら針の目を運んだ。亡き母!……智恵子の身にも悲しき追憶はある。  生れたのは盛岡だと言ふが、まだ物心付かぬうちから東京に育つた──父が長いこと農商務省に技手をしてゐたので──十五の春御茶水の女学校に入るまで、小学の課程は皆東京で受けた。智恵子が東京を懐しがるのは、必ずしも地方に育つた若い女の虚栄と同じではなかつた。  十六の正月、父が俄かの病で死んだ。母と智恵子は住み慣れた都を去つて、盛岡に帰つた。──唯一人の兄が県庁に奉職してゐたので。──浮世の悲哀といふものを、智恵子は其時から知つた。間もなく母は病んだ。兄には善からぬ行為があつた。智恵子は学校にも行けなかつた。教会に足を入れ初めたのは其頃で。  長患ひの末、母は翌年になつて遂に死んだ。程なくして兄は或る芸妓を落籍して夫婦になつた。智恵子は其賤き女を姉と呼ばねばならなかつた。遂に兄の意に逆つて洗礼を受けた。  智恵子は堅くも自活の決心をした。そして、十八の歳に師範学校の女子部に入つて、去年の春首尾克く卒業したのである。兄は今青森の大林区署に勤めてゐる。  父は厳しい人で、母は優しい人であつた。その優しかつた母を思出す毎に智恵子は東京が恋しくてならぬ。住居は本郷の弓町であつた。四室か五室の広からぬ家であつたが、……玄関の脇の四畳が智恵子の勉強部屋にされてゐた。衡門から筋向ひの家に、それは〳〵大きい楠が一株、雨も洩さぬ程繁つた枝を路の上に拡げてゐた。──静子に訊けば、それが今猶残つてゐると言ふ。 『那の辺の事を、怎う変つたか詳しく小川さんの兄様に訊いて見ようか知ら!』とも考へてみた。そして、「訊いた所で仕方がない!」と思返した。  と、門口に何やら声高に喋る声が聞えた。洗濯の音が止んだ。『六銭。』といふ言葉だけは智恵子の耳にも入つた。 (四)の二  すると、お利代の下駄を脱ぐ音がして、軽い跫音が次の間に入つた。  何やら探す様な気勢がしてゐたが、鏗りと銅貨の相触れる響。──霎時の間何の物音もしない、と老女の枕頭の障子が静かに開いて、窶れたお利代が顔を出した。 『先生、何とも……。』と小声に遠慮し乍ら入つて来て、 『アノ、これが来まして……。』と言悪気に膝をつく。 『何です?』と言つて、見ると、それは厚い一封の手紙、(浜野お利代殿)と筆太に書かれて、不足税の印が捺してある。 『細かいのが御座んしたら、アノ、一寸二銭だけ足りませんから……。』 『あ、然う?』と皆まで言はせず軽く答へて、智恵子はそれを出してやる。  お利代は極悪気にして出て行つた。  智恵子は不図針の手を留めて、 「小供の衣服よりは、お銭で上げた方が好かつたか知ら!」と考へた。そして直ぐに、「否、まだ有るもの!」と、今しも机の上に置いた財布に目を遣つた。幾何かの持越と先月分の俸給十三円、その内から下宿料や紙筆油などの雑用の払ひを済まし、今日反物を買つて来て、まだ五円許りは残つてるのである。  お利代は直ぐ引返して来て、櫛巻にした頭に小指を入れて掻き乍ら、 『真箇に何時も〳〵先生に許り御迷惑をかけて。』と言つて、潤みを有つた大きい眼を気毒相に瞬く。左の手にはまだ封も切らぬ手紙を持つてゐた。 『まあ其麽こと!』と事も無げに言つたが、智恵子は心の中で、此女にはモウ一銭も無いのだと考へた。 『今夜那の衣服を裁縫へて了へば、明日幾何か取れるので御座んすけれど……唯四銭しか無かつたもんですから。』 『小母さん!』と智恵子は口早に圧付ける様に言つた。そして優しい調子で、 『私小母さんの家の人よ。ぢやなくつて?』  初めて聞いた言葉ではないが、お利代は大きい眼を瞠て眤と智恵子の顔を見た。何と答へて可か解らないのだ。  母は早く死んだ。父は家産を倒して行方が知れぬ。先夫は良い人であつたが、梅といふ女児を残して之も行方知れず(今は函館にゐるが)。二度目の夫は日露の役に従つて帰らずなつた。何か軍律に背いた事があつて、死刑にされたのだといふ。七十を越した祖母一人に小供二人、己が手一つの仕立物では細い煙も立て難くて、一昨年から女教師を泊めた。去年代つた智恵子にも居て貰ふことにした。この春祖母が病付いてからは、それでも足らぬ。足らぬ所は何処から出る? 智恵子の懐から!  言つて見れば赤の他人だ。が、智恵子の親切は肉身の姉妹も及ばぬとお利代は思つてゐる。美しくつて、優しくつて、確固した気立、温かい情……かくまで自分に親くしてくれる人が、またと此世にあらうかと、悲しきお利代は夜更けて生活の為の裁縫をし乍らも、思はず智恵子の室に向いて手を合せる事がある。智恵子を有難いと思ふ心から、智恵子の信ずる神様をも有難いものに思つた。 『アノ……小母さん。』と智恵子は稍躊躇ひ乍ら、机の上の財布を取つて其中から紙幣を一枚、二枚、三枚……若しや軽蔑したと思はれはせぬかと、直ぐにも出しかねて右の手に握つたが、 『アノ、小母さん、私小母さんの家の人よ。ね。だからアノ、毎日我儘許りしてるんですから悪く思はないで頂戴よ。ね。私小母さんを姉さんと思つてるんですから。』 『それはモウ……。』と言つて、お利代は目を落して畳に片手をついた。 『だからアノ、悪く思はれる様だと私却て済まないことよ。ね。これはホンのお小遣よ。祖母さんにも何か……』 と言ひ乍ら握つたものを出すと、俯いたお利代の膝に龍鍾と霰の様な涙が落ちる。と見ると智恵子はグツと胸が迫つた。 『小母さん!』と、出した其手で矢庭に畳に突いたお利代の手を握つて、 『神よ!』  と心に呼んだ。『願くば御恵を垂れ給へ!』瞑ぢた其眼の長い睫毛を伝つて、美しい露が溢れた。 (四)の三 『あゝゝ。』といふ力無い欠呻が次の間から聞えて、『お利代、お利代。』と、嗄れた声で呼び、老女が眼を覚まして、寝返りでも為たいのであらう。  智恵子はハツとした様に手を引いた。お利代は涙に濡れた顔を挙げて、 『ハ、只今。』 と答へたが、其顔に言ふ許りなき感謝の意を湛へて、『一寸。』と智恵子に会釈して立つ。急しく涙を拭つて、隔ての障子を開けた。  其後姿を見送つた目を、其処に置いて行つた手紙の上に移して、智恵子は眤と呼吸を凝した。神から授つた義務を遂たした様な満足の情が胸に溢れた。そして、「私に出来るだけは是非して上げねばならぬ!」と、自分に命ずる様に心に誓つた。 『あゝゝ、よく寝た。モウ夜が明けたのかい、お利代?』 と老女の声が聞える。 『ホホヽヽ、今午後の三時頃ですよ祖母さん。御気分は?』 『些とも平生と変らないよ。ナニか、先生はモウお出掛か?』 『否、今日は土曜日ですから先刻にお帰りになりましたよ。そしてね祖母さん、アノ、梅と新坊に単衣を買つて来て下すつて、今縫つて下すつてるの。』 『呀、然うかい。それぢやお前、何か御返礼に上げなくちや不可ないよ。』 『まあ祖母さんは! 何時でも昔の様な気で……。』 『ホヽヽ。然うだつたかい。だがねお利代、お前よく気を付けてね、先生を大事にして上げなけれや不可ないよ。今度の先生の様に良い人はお前、何処に行つたつて有るものぢやないよ。』と小供にでも訓へる様に言ふ。  智恵子はそれを聞くと、又しても眼の底に涙の鍾るを覚えた。 『ア痛、ア痛、寝返の時に限つてお前は邪慳だよ。』と、今度はお利代を叱つてゐる。智恵子は気が付いた様に、また針を動かし出した。  五分間許り経つてお利代が再び入つて来た時は、何を泣いてか其頬に新しい涙の痕が光つてゐた。 『御気分が宜い様ね?』 『ハ。モウ夜が明けたかなんて恍けて……。』と少し笑つて、『皆先生のお蔭で御座います。』 『マア小母さんは!』と同情深い眼を上げて、『小母さんは何だわね、私を家の人の様にはして下さらないのね?』 『ですけれど先生、今もアノお祖母さんが、先生の様な人は何処に行つても無いと申しまして……。』と、流石は世慣れた齢だけに厚く礼を述べる。 『辛いわ、私!』と智恵子は言つた。 『何も私なんかに然う被仰る事はなくつてよ、小母さんの様に立派な心掛を有つてる人は、神様が助けて下さるわ。』 『真箇に先生、生きた神様つたら先生の様な人かと思ひまして……。』 『マア!』と心から驚いた様な声を出して、智恵子は清しい眼を瞠つた。『其麽事被仰るもんぢやないわ。』 『ハ。』と言つてお利代は俯いた。今の言葉を若しやお諂辞とでも取られたかと思つたのだらう。手は無意識に先刻の手紙に行く。 『アラ小母さん、お手紙御覧なさいよ。何処から?』 『ハ?』と目を上げて、『函館からですの。……アノ、梅の父から。』と心持極悪気に言ふ。 『マア然う?』と軽く言つたが、悪い事を訊いたと心で悔んで。 『アノ先月……十日許り前にも来たのを、返事を遣らなかつたもんですから……』 と言つてる時、門口に人の気勢。 『日向さんは?』 『静子さんですよ。』と囁いてお利代は急いで立つ。 『小母さん、これ。』と智恵子は先刻の紙幣を指さしたのでお利代は『それでは!』と受取つて室を出た。 (四)の四  挨拶が済むと、静子は直ぐ、智恵子が片付けかけた裁縫物に目をつけて、 『まあ好い柄ね。』 『でも無いわ。』 『貴女ンの?』 『正可! 這麽小いの着られやしないわ。』と、笑ひ乍ら縫掛のそれを抓んで見せる。 『梅ちやんの?』と少し声を潜めた。 『え、新坊さんと二人の。』 『然う?』と言つて、静子は思ひ有気な眼付をした。無論、智恵子が買つて呉れたものと心に察したので。  智恵子は身の周囲を取片付けると、改めて嬉気な顔をして、 『よく被来つたわね!』 『貴女は些とも被来つて下さらないのね?』 『済まなかつたわ。』と何気なく言つたが、一寸目の遣場に困つた。そして、微笑んでる様な静子の目と見合せると色には出なかつたが、ポツと顔の赧むを覚えた。静子清子の外には友も無い身の、(富江とは同僚乍ら余り親くしなかつた。)小川家にも一週に一度は必ず訪ねる習慣であつたのに、信吾が帰つてからは、何といふ事なしに訪ねようとしなかつた。 『今日お多忙しくつて?』 『否、土曜日ですもの、緩りしてらしつても可いわね?』 『可けないの。今日は私、お使者よ。』 『でもマア可いわ。』 『アラ、貴女のお迎ひに来たのよ。今夜アノ、宅で加留多会を行りますから母が何卒ツて。……被来るわね?』 『加留多、私取れなくつてよ。』 『マア、貴女御謙遜ね?』 『真箇よ。随分久く取らないんですもの。』 『可いわ。私だつて下手ですもの。ね、被来るわね?』と静子は姉にでも甘へる様な調子。 『然うね?』と智恵子は、心では行く事に決めてゐ乍ら、余り気の乗らぬ様な口を利いて、『誰々? 集るのは?』 『十人許よ。』 『随分多勢ね?』 『だつて、宅許りでも選手が三人ゐるんですもの。』 『オヤ、その一人は?』と智恵子は調戯ふ様に目で笑ふ。 『此処に。』と頤で我が胸を指して、『下手組の大将よ。』と無邪気に笑つた。  智恵子は、信吾が帰つてからの静子の、常になく生々と噪いでゐることを感じた。そして、それが何かしら物足らぬ様な情緒を起させた。自分にも兄がある。然し、その兄と自分の間に、何の情愛がある?  智恵子は我知らず気が進んだ。『何時から? 静子さん。』 『今直ぐ、何物も無いんですけど晩餐を差上げてから始めるんですつて。私これから、清子さんと神山さんをお誘ひして行かなけやならないの、一緒に行つて下すつて? 済まないけど。』 『ハ。貴女となら何処までゞも。』と、笑つた。  軈て智恵子は、『それでは一寸。』と会釈して、『失礼ですわねえ。』と言ひ乍ら、室の隅で着換に懸つたが、何を思つてか、取出した衣服は其儘に、着てゐた紺絣の平常着へ、袴だけ穿いた。  其後姿を見上げてゐた静子は、思出す事でもあるらしく笑を含んでゐたが、少し小声で、『アノ山内様ね。』 『え。』と此方へ向く。 『アノウ……』と、智恵子の真面目な顔を見ては悪いことを言出したと思つたらしく、心持極悪気に頬を染めたが、『詰らない事よ。…………でも神山さんが言つてるの。アノ、少し何してるんですつて、神山さんに。』 『何してるつて、何を?』 『アラ!』と静子は耳まで紅くした。 『正可!』 『でも富江さん自身で被仰つたんですわ。』と、自分の事でも弁解する様に言ふ。 『マア彼の方は!』と智恵子は少し驚いた様に目を瞠つた。それは富江の事を言つたのだが、静子の方では、山内の事の様に聞いた。  程なくして二人は此家を出た。 (四)の五  二人が医院の玄関に入ると、薬局の椅子に靠れて、処方簿か何かを調べてゐた加藤は、やをら其帳簿を伏せて快活に迎へた。 『や、婦人隊の方は少々遅れましたね、昌作さんの一隊は二十分許り前に行きましたよ。』 『然うで御座いますか。アノ慎次さんも被来て?』 『ハ。弟は加留多を取つた事がないてんで弱つてましたが、到頭引張られて行きました。マお上んなさい。コラ、清子、清子。』  そして、清子の行く事も快く許された。 『貴君も如何で御座いますか?』と智恵子が言つた。 『ハツハヽヽ、私は駄目ですよ、生れてから未だ加留多に勝つた事がないんで……だが何です、負傷者でもある様でしたら救護員として出張しませう。』  清子が着換の間に、静子は富江の宿を訪ねたが、一人で先に行つたといふ事であつた。  三人の女傘が後になり先になり、穂の揃つた麦畑の中を、睦気に川崎に向つた。恰度鶴飼橋の袂に来た時、其処で落合ふ別の道から来た山内と出会した。山内は顔を真赤にして会釈して、不即不離の間隔をとつて、いかにも窮屈らしい足調で、十間許り前方をチヨコ〳〵と歩いた。  程近き線路を、好摩四時半発の上り列車が凄じい音を立て過ぎた頃、一行は小川家に着いた。噪いだ富江の笑声が屋外までも洩れた。岩手山は薄紫に矒けて、其肩近く静なる夏の日が傾いてゐた。  富江の外に、校長の進藤、準訓導の森川、加藤の弟の慎次、農学校を卒業したといふ馬顔の沼田、それに巡廻に来た松山といふ巡査まで上込んで、大分話が賑つてゐた。其処へ山内も交つた。  女組は一先別室に休息した。富江一人は彼室へ行き此室へ行き、宛然我家の様に振舞つた。お柳は朝から口喧しく台所を指揮してゐた。  晩餐の際には、厳い口髯を生やした主人の信之も出た。主人と巡査と校長の間に持上つた鮎釣の自慢話、それから、此近所の山にも猿が居る居ないの議論──それが済まぬうちに晩餐は終つて巡査は間もなく帰つた。  軈て信吾の書斎にしてゐる離室に、加留多の札が撒かれた。明るい五分心の吊洋燈二つの下に、入交りに男女の頭が両方から突合つて、其下を白い手や黒い手が飛ぶ。行儀よく並んだ札が見る間に減つて、開放した室が刻々に蒸熱くなつた。智恵子の前に一枚、富江の前に一枚……頬と頬が触れる許りに頭が集る。『春の夜の──』と山内が妙に気取つた節で読上げると、 『万歳ツ。』と富江が金切声で叫んだ。智恵子の札が手際よく抜かれて、第一戦は富江方の勝に帰した。智恵子、信吾、沼田、慎次、清子の顔には白粉が塗られた。信吾の片髯が白くなつたのを指さして、富江は声の限り笑つた。一同もそれに和した。沼田は片肌を脱ぎ、森川は立襟の洋服の鈕を脱して風を入れ乍ら、乾き掛つた白粉で皮膚が痙攣る様なのを気にして、顔を妙にモグ〳〵さしたので、一同は復笑つた。 『今度は復讐しませう。』と信吾が言つた。 『ホホヽヽ。』と智恵子は唯笑つた。 『新しく組を分けるんですよ。』と、富江は誰に言ふでもなく言つて、急しく札を切る。 (四)の六  二度目の合戦が始つて間もなくであつた。静子の前の「ただ有明」の札に、対合つた昌作の手と静子の手と、殆んど同時に落ちた。此方が先だ、否、此方が早いと、他の者まで面白づくで騒ぐ。 『敗けてお遣りよ。昌作さんが可哀想だから。』と、見物してゐたお柳が喙を容れた。  不快な顔をして昌作は手を引いた。静子は気毒になつて、無言で昌作の札を一枚自分の方へ取つた。昌作はそれを邪慳に奪ひ返した。其合戦が済むと、昌作は無理に望んで読手になつた。そして到頭終末まで読手で通した。  何と言つても信吾が一番上手であつた。上の句の頭字を五十音順に列べた其配列法が、最初少からず富江の怨嗟を買つた。然し富江も仲々信吾に劣らなかつた。そして組を分ける毎に、信吾と敵になるのを喜んだ。二人の戦ひは随分目覚ましかつた。  信吾に限らず、男といふ男は、皆富江の敏捷い攻撃を蒙つた。富江は一人で噪ぎ切つて、遠慮もなく対手の札を抜く、其抜方が少し汚なくて、五回六回と続くうちに、指に紙片で繃帯する者も出来た。  そして富江は、一心になつて目前の札を守つてゐる山内に、隙さへあれば遠くからでも襲撃を加へることを怠らなかつた。其度、山内は上気した小い顔を挙げて、眼を三角にして怨むが如く富江の顔を見る。『ホホヽヽ。』と、富江は面白気に笑ふ。静子と智恵子は幾度か目を見合せた。  一度、信吾は智恵子の札を抜いたが、汚なかつたと言つて遂に札を送らなかつた。次で智恵子が信吾のを抜いた。 『イヤ、参りました。』 と言つて、信吾は強ひて一枚貰つた。  其合戦の終りに、信吾と智恵子の前に一枚宛残つた。昌作は立つて来て覗いてゐたが、気合を計つて、 『千早ふる──』 と叫んだ。それは智恵子の札で、信吾方の敗となつた。 『マア此人は?』 と、富江はシタタカ昌作の背を平手で擲しつけた。昌作は赤くなつた顔を勃とした様に口を尖らした。  可哀相なは慎次で、四五枚の札も守り切れず、イザとなると可笑い身振をして狼狽く。それを面白がつたのは嫂の清子と静子であるが、其狼狽方が故意とらしくも見えた。滑稽でもあり気毒でもあつたのは校長の進藤で、勝敗がつく毎に、鯰髯を捻つては、 『年を老ると駄目です喃。』 と喞してゐた。一度昌作に代つて読手になつたが、間違つたり吃つたりするので、二十枚と読まぬうちに富江の抗議で罷めて了つた。  我を忘れる混戦の中でも、流石に心々の色は見える。静子の目には、兄と清子の間に遠慮が明瞭と見えた。清子は始終敬虔くしてゐたが、一度信吾と並んで坐つた時、いかにも極悪気であつた。その清子の目からは亦信吾の智恵子に対する挙動が、全くの無意味には見えなかつた。そして富江の阿婆摺れた調子、殊にも信吾に対する忸々しい態度は、日頃富江を心に軽んじてゐる智恵子をして多少の不快を感ぜしめぬ訳にいかなかつた。  九時過ぎて済んだ、茶が出、菓子が出る。残りなく白粉の塗られた顔を、一同は互ひに笑つた。消さずに帰る事と、誰やらが言出したが、智恵子清子静子の三人は何時の間にか洗つて来た。富江が不平を言出して、三人に更めて付けようと騒いだが、それは信吾が宥めた。そして富江は遂に消さなかつた。森川は上衣の鈕をかけて、乾いた紛帨で顔を拭いた。宛然厚化粧した様になつて、黒い歯の間の一枚の入歯が、殊更らしく光つた。妖怪の様だと言つて一同がまた笑つた。  軈てドヤ〳〵と帰路についた。信吾兄妹も鶴飼橋まで送ると言つて一同と一緒に戸外に出た。雲一つなき天に片割月が傾いて、静かにシツトリとした夜気が、相応に疲れてゐる各々の頭脳に、水の如く流れ込んだ。 (四)の七  淡い夜霧が田畑の上に動くともなく流れて、月光が柔かに湿うてゐる。夏もまだ深からぬ夜の甘さが、草木の魂を蕩かして、天地は限りなき静寂の夢を罩めた。見知らぬ郷の音信の様に、北上川の水瀬の音が、そのシツトリとした空気を顫はせる。  男も女も、我知らず深い呼吸をした。各々の疲れた頭脳は、今までの華やかな明るい室の中の態と、この夜の村の静寂の間の関係を、一寸心に見出しかねる…………と、眼の前に加留多の札がチラつく。歌の句が断々に、混雑つて、唆るやうに耳の底に甦る。『那の時──』と何やら思出される。それが余りに近い記憶なので、却つて全体まで思出されずに消えて了ふ。四辺は静かだ。湿つた土に擦れる下駄の音が、取留めもなく縺れて、疲れた頭脳が直ぐ朦々となる。霎時は皆無言で足を運んだ。  田の中を逶つた路が細い。十人は長い不規則な列を作つた。最先に沼田が行く。次は富江、次は慎次、次は校長……森川山内と続いて、山内と智恵子の間は少し途断れた。智恵子のすぐ背後を、背高い信吾が歩いた。  智恵子は甘い悲哀を感じた。若い心はウツトリとして、何か恁う、自分の知らなんだ境を見て帰る様な気持である。詰らなく騒いだ! とも思へる。楽しかつた! とも思へる。そして、心の底の何処かでは、富江の阿婆摺れた噪ぎ方が、不愉快で不愉快でならなかつた。そして、何といふ訳もなしに直ぐ背後から跟いて来る信吾の跫音が、心にとまつてゐた。  其姿は、何処か、夢を見てゐる人の様に悄然とした髪も乱れた。  先づ平生の心に帰つたのは富江であつた。 『ね、沼田さん。那時ソラ、貴君の前に「むべ山」があつたでせう? 那が私の十八番ですの。屹度抜いて上げませうと思つて待つてると、信吾さんに札が無くなつて、貴君が「むべ山」と「流れもあへぬ」を信吾さんへ遣たでせう? 私厭になつ了ひましたよ。ホホヽヽ。』と、先刻の事を喋り出した。『ハハヽヽ。』と四五人一度に笑ふ。 『森川さんの憎いツたらありやしない。那麽に乱暴しなくたつて可のに、到頭「声きく時」を裂いツ了つた。……』 と、富江は気に乗つて語り亜ぐ。  信吾は、間隔が隔つてゐる為か、何も言はなかつた。笑ひもしなかつた。其心は眼前の智恵子を追うてゐた。そして、其後の清子の心は信吾を追うてゐた。其又後の静子の心は清子を追うてゐた。そして、四人共に何も言はずに足を運んだ。  路が下田路に合つて稍広くなつた。前の方の四五人は、甲高い富江の笑声を囲んで一団になつた。町帰りの酔漢が、何やら呟き乍ら蹣跚とした歩調で行き過ぎた。  と、信吾は智恵子と相並んだ。 『奈何です、此静かな夜の感想は?』 『真箇に静かで御座いますねえ。』と、少し間を置いて智恵子は答へる。 『貴女は何でせう、加留多なんか余りお好きぢやないでせう?』 『でもないんで御座いますけれど……然し今夜は、真箇に楽う御座いました。』と遠慮勝に男を仰いだ。 『ハハヽヽ。』と笑つて信吾は杖の尖でコツ〳〵石を叩き乍ら歩いたが、 『何ですね。貴女は基督教信者で?』 『ハ。』と低い声で答へる。 『何か其方の本を、貸して下いませんか? 今迄遂宗教の事は、調べて見る機会も時間もなかつたんですが、此夏は少し遣つて見ようかと思ふンです。幸ひ貴女の御意見も聞かれるし……。』 『御覧になる様な本なんぞ……アノ、私こそ此夏は、静子さんにでもお願して頂いて、何か拝借して勉強したいと思ひまして……。』 『否、別に面白い本も持つて来ないんですが、御覧になるなら何時でも……。すると何ですか、此夏は何処にも被行らないんですか?』 『え。先ア其積りで……。』  路は小い杜に入つて、月光を遮つた青葉が風もなく、四辺を香はした。 (四)の八  仄暗い杜を出ると、北上川の水音が俄かに近くなつた。 『貴女は小説はお嫌ひですか?』と、信吾は少し突然に問うた。其の時はモウ肩も摩れ〳〵に並んでゐた。 『一概には申されませんけれど、嫌ひぢや御座いません。』 と落着いた答へをして閃と男の横顔を仰いだが、智恵子の心には妙に落着がなかつた。前方の人達からは何時しか七八間も遅れた。背後からは清子と静子が来る。其跫足も怎やら少し遠ざかつた。そして自分が信吾と並んで話し乍ら歩く……何となき不安が胸に萌してゐた。  立留つて後の二人を待たうかと、一歩毎に思ふのだが、何故かそれも出来なかつた。 『あれはお読みですか、風葉の「恋ざめ」は?』と信吾はまた問うた。 『アノ発売禁止になつたとか言ふ……?』 『然うです。あれを禁止したのは無理ですよ。尤もあれだけぢや無い、真面目な作で同じ運命に逢つたのが随分ありますからねえ。折角拵へた御馳走を片端から犬に喰はれる様なもんで……ハハヽヽ。「恋ざめ」なんか別に悪い所が無いぢやないですか?』 『私はまだ読みません。』 『然うでしたか。』と言つて、信吾は未だ何か言はうと唇を動かしかけたが、それを罷めてニヤ〳〵と薄笑を浮べた。月を負うて歩いてるので、無論それは女に見えなかつた。  信吾は心に、怎ういふ連想からか、かの「恋ざめ」に書れてある事実──否あれを書く時の作者の心持、否、あれを読んだ時の信吾自身の心持を思出してゐた。  五六歩歩くと、智恵子の柔かな手に、男の手の甲が、木の葉が落ちて触る程軽く触つた。寒いとも温かいともつかぬ、電光の様な感じが智恵子の脳を掠めて、体が自ら剛くなつた。二三歩すると又触つた。今度は少し強かつた。  智恵子は其手を口の辺へ持つて来て、軽く故意とらしからぬ咳をした。そして、礑と足を留めて背後を振返つた。清子と静子は肩を並べて、二人とも俯向いて十間も彼方から来る。  信吾は五六歩歩いて、思切悪気に立留つた。そして矢張振返つた。目は、淡く月光を浴びた智恵子の横顔を見てゐる。コツ〳〵と杖の尖で下駄の鼻を叩いた。  其顔には、自ら嘲る様な、或は又、対手を蔑視つた様な笑が浮んでゐた。  清子と静子は、霎時は二人が立留つてゐるのも気付かぬ如くであつた。清子は初から物思はし気に俯向いて、そして、物も言はず、出来るだけ足を遅くしようとする。 『済まなかつたわね、清子さん、恁麽に遅くしちやつて。』 と、モ少し前に静子が言つた。 『否。』と一言答へて清子は寂しく笑つた。 『だつて、お宅ぢや心配してらつしやるわ、屹度。尤も慎次さんも被来たんだから可けど……。』 『静子さん!』と、稍あつてから力を籠めて言つて、眤と静子の手を握つた。 『恁うして居たいわ、私。……』 『え?』 『恁うして! 何処までも、何処までも恁うして歩いて……。』  静子は訳もなく胸が迫つて、握られた手を強く握り返した。二人は然し互ひに顔を見合さなかつた。何処までも恁うして歩く! 此美しい夢の様な語は華かな加留多の後の、疲れて矒乎として、淡い月光と柔かな靄に包まれて、底もなき甘い夜の静寂の中に蕩けさうになつた静子の心をして、訳もなき突差の同情を起さしめた。 『此女は兄に未練を有つてる!』といふ考へが、瞬く後に静子の感情を制した。厭はしき怖れが胸に湧いた。  然しそれも清子に対する同情を全くは消さなかつた。女は悲いものだ! と言ふ様な悲哀が、静子に何も言ふべき言葉を見出させなかつた。 『怎うです。少し早く歩いては?』 と信吾が呼んだ。二人は驚いて顔を挙げた。 (四)の九  其夜、人々に別れて智恵子が宿に着いた時はモウ十時を過ぎてゐた。  ガタビシする入口の戸を開けると、其処から見透しの台所の炉辺に、薄暗く火屋の曇つた、紙笠の破れた三分心の吊洋燈の下で、物思はし気に悄然と坐つて裁縫をしてゐたお利代は、 『あ、お帰りで御座いますか。』 と急しく出迎へる。 『遅くなりまして。新坊さんもモウお寝み?』 『ハ、皆寝みました。先生もお泊りかと思つたんですけれど……。』と、  先に立つて智恵子の室に入つて、手早く机の上の洋燈を点す。臥床が延べてあつた。  お泊りかと思つたといふ言葉が、何故か智恵子の耳に不愉快に響いた。  今迄お利代の坐つてゐた所には、長い手紙が拡げたなりに逶迤つてゐた。閃とそれを見乍ら智恵子は室に入つて、 『マア臥床まで延べて下すつて、済まなかつたわ、小母さん。』 『何の、先生。』と笑顔を見せて、『面白う御座んしたでせう?』 『え……。』と少し曖昧に濁して、『私、疲れちやつたわ。』 と邪気なく言ひ乍ら、袴も脱がずに坐る。 『誰方が一番お上手でした?』 『皆様お上手よ。私なんか今迄余り加留多も取つた事がないもんですから、敗けて許り。』と嫣乎する。ほつれた髪が頬に乱れてる所為か、其顔が常よりも艶に見えた。  成程智恵子は遊戯などに心を打込む様な性格でないと思つたので、お利代は感心した様に、 『然うでせうねえ!』と大きい眼をパチ〳〵する。  それから二人は、一時間前に漸々寝入つたといふ老女の話などをしてゐたが、お利代は立つて行つて、今日函館から来たといふ手紙を持つて来た。そして、 『先生、怎うしたものでせうねえ?』と、愁し気な、極悪気な顔をして話し出した。  その手紙はお利代の先夫からである。以前にも一度来た。返事を出さなかつたので再来た。梅といふ子が生れた翌年不図行方知れずなつてからモウ九年になる。その長々の間の詫を細々書いて、そして、自分は今函館の或商会の支店を預る位の身分になつたから、是非共過去の自分の罪を許して、一家を挙げて函館に来てくれと言つて来たのである。そして、自分の家出の後に二度目の夫のあつた事、それが死んだ事も聞知つてゐる。生れた新坊は矢張自分の子と思つて育てたいと優くも言葉を添へた。──  身を入れて其話を聞いてゐた智恵子は、謹慎しいお利代の口振の底に、此悲しき女の心は今猶その先夫の梅次郎を慕つてゐる事を知つた。そして無理もないと思つた。  無理もないと思ひつゝも、智恵子の心には思ひもかけぬ怪しき陰翳がさした。智恵子は心から此哀れなる寡婦に同情してゐた。そして自己に出来るだけの補助をする──人を救ふといふことは楽い事だ。今迄お利代を救ふものは自己一人であつた。然し今は然うでない!  誰しも恁麽場合に感ずる一種の不満を、智恵子も感ぜずに居れなかつた。が、すぐにそれを打消した。 『で御座いますからね。』とお利代は言葉をついだ。『マア何方にした所で、祖母さんの病気を癒すのが一番で御座いますがね。……何と返事したものかと思ひまして。』 『然うね。』と云つて、智恵子は睫毛の長い眼を瞬いてゐたが、『忝ないわ、私なんかに御相談して下すつて。……アノ小母さん、兎も角今のお家の事情を詳しく然言つて上げた方が可かなくつて? 被行る方が可と、マア私だけは思ふわ。だけど怎せ今直ぐとはいかないんですから。』 『然うで御座いますねえ。』とお利代は俯向いて言つた。実は自分も然う思つてゐたので。 (四)の十 『然うなすつた方が可わ、小母さん。』と、智恵子は俯向いたお利代の胸の辺を眤と睇めた。 『然うで御座いますねえ。』と同じ事を繰返して、稍あつてお利代は思ひ余つた様な顔をあげたが、『怎うせ行くとしましても、それやマア祖母さんが奈何にか、アノ快癒つてからの事で御座いますから、何時の事だか解りませんけれども、何だかアノ、生れ村を離れて北海道あたりまで行つて、此先奈何なることかと思ふと……。』 『それやね、決めるまでにはマア、間違ひはないでせうけれど、先方の事も詳しくナンして見てから……。』 『其処ンところはアノ、確乎だらうと思ひますですが……今日もアノ、手紙の中に十円だけ入れて寄越して呉れましたから……。』 『おや然うでしたか。』と言つたが、智恵子はそれに就いての自分の感想を可成顔に現さぬ様に努めて、『兎も角お返事はお上げなすつた方が可いわ。矢張梅ちやんや新坊さんの為には……。』と、智恵子はお利代の思つてゐる様な事を理を分けて説いてみた。説いてるうちに、何か恁う、自分が今善事をしてると云つた様な気持がして来た。『然うで御座いますねえ。』とお利代は大きい眼を瞬き乍ら、未だ明瞭と自分の心を言出しかねる様で、『恁うして先生のお世話を頂いてると、私はモウ何日までも此儘で居た方が、幾等楽しいか知れませんけれども。』 『私だつて然う思ふわ、小母さん、真箇に……。』と言ひかけたが、何かしら不図胸の中に頭を擡げた思想があつて言葉は途断れた。『神様の思召よ。人間の勝手にはならないんですわね。』 『先生にしたところで、』と、お利代は智恵子の顔をマヂ〳〵と睇め乍ら、『怎せ御結婚なさらなけやなりませんでせうし……。』 『ホヽヽ。』と智恵子は軽く笑つて、 『小母さん、私まだ考へても見た事が無くつてよ。自分の結婚なんか。』  話題はそれで逸れた。程なくしてお利代が出てゆくと、智恵子はやをら立つて袴を脱いで、丁寧にそれを畳んでゐたが、何時か其の手が鈍つた。そして再び机の前に坐ると、眤と洋燈の火を睇めて、時々気が付いた様に長い睫毛を瞬いてゐた。隣室では新坊が目を覚まして何かむづかつてゐたが、智恵子にはそれも聞こえぬらしかつた。  智恵子の心は平生になく混乱つてゐた。お利代一家のことも考へてみた。お利代の悲しき運命、──それを怎やら恁うやら切抜けて来た心根を思ふと、実に同情に堪へない、今は加藤医院になつてる家、あの家が以前お利代の育つた家、──四年前にそれが人手に渡つた。其昔、町でも一二の浜野屋の女主人として、十幾人の下女下男を使つた祖母が、癒る望みもない老の病に、彼様して寝てゐる心は怎うであらう! 人間の一生の悲痛が、時あつて智恵子の心を脅かす。……然し、この悲しきお利代の一家にも、思懸けぬ幸福が湧いて来た! 智恵子は、神の御心に委ねた身ながらに、独ぼツちの寂しさを感ぜぬ訳にいかなかつた。  行末怎うなるのか! といふ真摯な考への横合から、富江の躁いだ笑声が響く。ツと、信吾の生白い顔が脳に浮ぶ、──智恵子は厳粛な顔をして、屹と自分を譴める様に唇を噛んだ。 「男は浅猿しいものだ!」 と心で言つて見た。青森にゐる兄の事が思出されたので。──嫂の言葉に返事もせず、竈の下を焚きつけ乍らも聖書を読んだ頃が思出された。亡母の事が思出された。東京にゐた頃が思出された。  遂に、那の頃のお友達は今怎うなつたらうと思ふと、今の我身の果敢なく寂しく頼りなく張合のない、孤独の状態を、白地に見せつけられた様な気がして、智恵子は無性に泣きたくなつた。矢庭に両手を胸の上に組んで、長く〳〵祈つた。長く〳〵祈つた。……  佗しき山里の夜は更けて、隣家の馬のゴト〳〵と羽目板を蹴る音のみが聞えた。 (五)の一  何日しか七月も下旬になつた。  かの加留多会の翌日、信吾は初めて智恵子の宿を訪ねたのであつた。其時は、イプセンの翻訳一二冊に、『イプセン解説』と題して信吾自身が書いた、五六頁許りの、評論の載つてゐる雑誌を態々持つて行つて貸して、智恵子からはルナンの耶蘇伝の翻訳を借りた。それを手初めに信吾は五六度も智恵子を訪ねた。  信吾は智恵子に対して殊更に尊敬の態度を採つた。時としては、モウ幾年もの親い友達の様な口も利くが、概して二人の間に交換される会話は、這麽田舎では聞かれた事のない高尚な問題で、人生とか信仰とか創作とかいふ語が多い。信吾は好んで其麽問題を担ぎ出し、対手に解らぬと知り乍ら六ヶ敷い哲学上の議論までする。心して聞けば、其謂ふ所に、或は一貫した思想も意見も無かつたかも知れぬ。又、其好んで口にする泰西の哲人の名に就いて彼自身の有つてゐる智識も疑問であつたかも知れぬ。それは兎も角、信吾が其麽事を調子よく喋る時は、血の多い人のする様に、大仰に眉を動したり、手を振つたり、自分の言ふ事に自分で先づ感動した様子をする。 『僕は不思議ですねえ。恁うして貴女と話してると、何だか自然に真摯になつて、若々しくなつて、平生考へてる事を皆言つて了ひたくなる。この二三年は何か恁う不安があつて、言はうと思ふことも遂人の前では言へなかつたりする様になつてゐたんですが……実に不思議です。自分の思想を聞いてくれる人がある、否、それを言ひ得るといふ事が、既に一種の幸福を感じますね。』 と或時信吾は真摯な口振で言つた。然しそれは、或は次の如く言ふべきであつたかも知れぬ。 『僕は不思議ですねえ。恁うして貴女と話してると、何だか自然に芝居を演りたくなつて来て、遂心にない事まで言つて了ひます。』  智恵子の方では、信吾の足繁き訪問に就いて、多少村の人達の思惑を心配せぬ訳にいかなかつた。狭い村だけに少しの事も意味あり気に囃し立てるが常である。万一其麽事があつては誠に心外の至りであると智恵子は思つた。それで可成寡言に、隙のない様に待遇つてはゐるが、腑に落ちぬ事があり乍らも信吾の話が珍しい。我知らず熱心になつて、時には自分の考へを言つても見るが、其麽時には、信吾は大袈裟に同感して見せる。帰つた後で考へてみると、男には矢張気障な厭味な事が多い。殊更に自分の歓心を買はうとするところが見える。 『那した性質の人だ!』 と智恵子は考へた。  智恵子を訪ねた日は、大抵その足で信吾は富江を訪ねる。富江は例に変らぬ調子で男を迎へる。信吾はニヤ〳〵心で笑ひ乍ら川崎の家へ帰る。  暑気は日一日と酷しくなつて来た。殊にも今年は雨が少なくて、田といふ田には水が充分でない。日中は家の中でさへ九十度に上る。  今朝も朝から雲一つ無く、東向の静子の室の障子が、カツと眩しい朝日を享けて、昼の暑気が思ひやられる。静子は朝餐の後を、母から兄の単衣の縫直しを呍咐つて、一人其室に坐つた。  ちらと鳥影が其障子に映つた。 『静さん、其単衣はね……。』と言ひ乍ら信吾が入つて来た。 『兄様、今日は屹度お客様よ。』 『何故?』 『何故でも。』と笑顔を作つて、『ソーラ御覧なさい。』  その時また鮮かな鳥影が障子を横ざまに飛んだ。 『ハハヽヽ。迷信家だね。事によつたら吉野が今日あたり着くかも知れないがね。』 (五)の二 『アラ、四五日中にお立ちになるツて昨日のお手紙ぢやなかつたの?』 『然うよ。だが那の男の予定位アテにならないものは無いんだ。雷みたいな奴よ、雲次第で何時でも鳴り出す……。』 と信吾は其処に腰を下して、 『オイ、此衣服は少し短いんだから、長くして呉れ。』 『然う?』と、静子は解きかけたネルの単衣に尺を用つて見て、『七寸……六分あるわ。短かなくつてよ、幾何電信柱さんでも。』 『否短い。本人の言ふ事に間違ツコなしだ。ソラ、其処に縫込んだ揚があるぢやないか。それ丈下して呉れ。』 『だつて兄様、さうすれば九寸位になつてよ。可わ、そんなら八寸にしときませう。』 『吝だな。モ少し負けろ。』 『ぢや八寸一分?』 『モット負けろ、気に合はないから着ないツて言つたら怎うする?』 『それは御勝手。』 『其麽風でお嫁に行かれるかい?』 『厭よ、兄様。』と信吾を睨む真似をして、『だつて一分にすると、これより五分長くなるわ。可いでせう? その吉野さんて方、この春兄様と京都の方へ旅行なすつた方でせう?』 『呍。』と言ひ乍ら、手を延ばして、静子の机の上から名に高き女詩人の「舞姫」を取る、本の小口からは、橄欖色の栞の房が垂れた。 『長くお泊りになるんでせう?』 『八月一杯遊んで行く約束なんだがね。飽きれば何日でも飛び出すだらう、彼奴の事だから。』と横になつて、 『オイ、此本は昌作さんのか?』と頁を翻る。 『え。兄様何か有つてらツしやらなくつて、其方のお書きになつたの。』 『否、遂買はなかつたが、この「舞姫」のあとに「夢の華」といふのがあるし、近頃また「常夏」といふのが出た筈だ。』 『あら其方のぢやなくつてよ。其方ンなら私も知つてるわ。……その吉野さんのお書きになつたの?』 『吉野が?』と妹の顔を見て、『彼奴の詩は道楽よ。時々雑誌に匿名で出したのだけさ。本職は矢張洋画の方だ。』 『然う?』と清子は鋏の鈴をコロ〳〵鳴らし乍ら、『展覧会なんかにお出しなすつて?』 『一度出した。アレは美術学校を卒業した年よ。然うだ、一昨年の秋の展覧会──ソーラ、お前も行つて見たぢやないか? 三尺許りの幅の、「嵐の前」といふ画があつたらう?』 『然うでしたらうか?』 『アレだ。夕方の暗くなりかゝつた室の中で、青白い顔をした女が可厭な眼付をして、真白な猫を抱いてゐたらう? 卓子の上には披げた手紙があつて、女の頭へ蔽被さる様に鉢植の匂ひあらせいとうが咲いてゐた。そして窓の外を不愉快な色をした雲が、変な形で飛んでゐた。』 『見た様な気もするわ。それでナンですの、「嵐の前」?』 『然うよ、その画の意味は那の頃の人に解らなかつたんだ。日本のモロウよ、仲々偉い男だ。』 『モロウて何の事?』 『ハツハヽヽ。仏蘭西の有名な画家だ。』 『然う!』と言ひは言つたが、日本のモロウと云ふ意味は無論静子に解りツコはない。唯偉い事を言つたのだと思つて、『其麽方なら何故其後お出しにならないでせう?』 『然うさ、マア自重してるんだらう。彼奴が今度画いたら屹度満都の士女を驚かせる! 俺には近頃色ンな友人が出来たが、吉野君なんか其中でもマア話せる男だ。』と、暗に自分の偉くなつた事を吹聴する様な調子で言ふ。 『姉様、姉様。』と叫び乍ら、芳子といふ十二三の妹がドタバタ駆けて来た。 『何ですねえ、其麽に駆けて!』 『でも、』と不平相な顔をして、『日向先生が被来たんだもの!』 『おや!』と静子は兄の顔を見た。先程障子に映つた鳥影を思出したので。 (五)の三  二三日経てば小学校も休暇になる。平生宿直室に寝泊して居る校長の進藤は、モウ師範出のうちでも古手の方で、今年は盛岡に開かれた体操と地理歴史教授法の夏期講習会に出席しなければならなかつた。それで、休暇中の宿直は準訓導の森川が引受ける事になつて、これは土地の者の斎藤といふ年老つた首座教員と智恵子と富江の三人は、それ〴〵村内に受持を定めて、兎角乱れ易い休暇中の児童の風紀の、校外取締をすることになつた。富江は今年も矢張盛岡の夫の家へは帰らないので。智恵子にも帰るべき家が無かつた。無い訳ではない、兄夫婦は青森にゐるけれど、智恵子にはそれが自分の家の様な気がしない。よしや帰つたところで、あたら一月の休暇を不愉快に過して了ふに過ぎぬのだ。同窓の親い友から、何処かの温泉場にでも共同生活をして楽しき夏を暮さうではないかと言つて来たのもあるが、宿のお利代の心根を思ふと、別に理由もなくそれが忍びなかつた。結局智恵子は、八月二日に大沢の温泉で開かれる筈の師範時代の同級会に出席する外には、何処にも行かぬことに決めた。  それで智恵子は、誰しも休暇前に一度やる様に、八月一月に自分の為すべき事の予定を立てたものだ。そのうちには、色々の事に遮られて何日とはなく中絶してゐた英語の独修を続ける事や、最も所好な歴史を繰返して読む事や、色々あつたが、信吾の持つて帰つた書を可成沢山借りて読まうといふのも其一であつた。  今日は折柄の日曜日、読了へたのを返して何か別の書を借りようと思つて、まだ暑くならぬ午前の八時頃に小川家を訪ねたのだ。  直ぐ帰る筈だつたのが無理に引留められて、昼餐も御馳走になつた。午後はまた余り暑いといふので、到頭四時頃になつて、それでも留めるのを漸くに暇乞して出た。田舎の素封家などにはよくある事で、何も珍しい事のない単調な家庭では、腹立しくなるまで無理に客を引き留める、客を待遇さうとするよりは、寧ろそれによつて自分らの無聊を慰めようとする。  平生の例で静子が送つて出た。糊も萎えた大形の浴衣にメリンスの幅狭い平常帯、素足に庭下駄を突掛けた無雑作な扮装で、己が女傘は畳んで、智恵子と肩も摩れ〳〵に睦しげに列んだ。智恵子の方も平常着ではあるが、袴を穿いてゐる。何時しか二人はモウ鶴飼橋の上に立つた。  此処は村での景色を一処に聚めた。北から流れて来る北上川が、観音下の崖に突当つて西に折れて、透徹る水が浅瀬に跳つて此吊橋の下を流れる。五六町行つて、川はまた南に曲つた。この橋に立てば、川上に姫神山、川下に岩手山、月は東の山にのぼり、日は西の峰に落つる。折柄の傾いた赤い日が宙に浮んだ此橋の影を、虹の影の如く川上の瀬に横たへて。  南岸は崖になつてゐるが、北の岸は低く河原になつて、楊柳が密生してゐる。水近い礫の間には可憐な撫子が処々に咲いた。  二人は鋼線を太い繩にした欄干に靠れて西日を背に享け乍ら、涼しい川風に袂を嬲らせて。 『ソーラ、彼は屹度昌作さんよ。』と、静子は今しも川上の瀬の中に立つてゐる一人の人を指さした。鮎を釣けてゐるのであらう、編笠を冠つた背の高い男が、腰まで水に浸つて頻りに竿を動かしてゐる。種鮎か、それとも釣つたのか、ヒラリと銀色の鰭が波間に躍つた。 『だつて、昌作さんが那麽!』と智恵子も眸を据ゑた。 『アラ、鮎釣には那麽扮装して行くわ、皆。……昌作さんは近頃毎日よ。』 と言つてる時、思ひがけなくも轢々といふ音響が二人の足に響いた。  一台の俥が、今しも町の方から来て橋の上に差懸つたのだ。二人は期せずして其方に向いたが、 『アラ!』と静子は声を出して驚いて忽ち顔を染めた。女心は矢よりも早く、己が服装の不行儀なのを恥ぢたので。 (五)の四  近く俥の音は遠雷の如く二人の足に響いて、吊橋は心持揺れ出した。  洋服姿の俥上の男は、麦藁帽の頭を俯向けて、膝の上の写真帖に何やら書いてゐる──一目見て静子は、兄の話で今日あたり来るかも知れぬと聞いた吉野が、この人だと知つた。好摩午後三時着の下り列車で着いて、俥だから線路伝ひの近道は取れず、態々本道を渋民の町へ廻つて来たものであらう。智恵子も亦、話は先刻聞いたので、すぐそれと気が付いた。 『お嬢様、お嬢様許のお客様を乗せて来ただあ。』と、車夫の元吉は高い声で呼びかけ乍ら轅を止めて、 『あれがハア、小川様のお嬢様でがンす。』と俥上の人に言ふ。顔一杯に流れた汗を小汚い手拭でブルリと拭つた。  智恵子は、自分がその小川家の者でない事を現す様に、一足後へ退つた。その時、傍の静子の耳の紅くなつてゐる事に気がついた。 『あ、然うですか。』と、俥上の人は鉛筆を持つた手で帽子を脱つて、 『僕は吉野満太郎です。小川が──小川君が居ませうか?』 と武骨な調子で言ふ。 『ハ。』と静子は塞つた様な声を出して、『アノ、今日あたりお着き遊ばすかも知れないと、お噂致して居りました。』 『然うですか。ぢや手紙が着いたんですね?』と親げな口を利いたが、些と俯向加減にして立つてゐる智恵子の方を偸視んで、 『失礼しました、俥の上で。……お先に。』と挨拶する。 『私こそ……。』と静子は初心に口の中で言つて頭を下げた。 『ドツコイシヨ。』と許り、元吉は俥を曳出す。二人は其背後を見送つて呆然立つてゐた。  吉野は、中背の、色の浅黒い見るから男らしく引緊つた顔で、力ある声は底に錆を有つた。すぐ目に付くのは、眉と眉の間に深く刻まれた一本の皺で、烈しい気性の輝く眼は、美術家に特有の、何か不安らしい働きをする。  俥が橋を渡り尽すと、路は少し低くなつて、繁つた楊柳の間から、新しい吉野の麦藁帽が見える。橋はその時まで、少し揺れてゐた。 『私、甚麽に困つたでせう、這麽扮装をしてゐて!』と静子は初めて友の顔を見た。 『其麽に! 誰だつて平常には……』と慰め顔に言つて、 『貴女の許は、これからまた賑かね。』  其は真の、ウツカリして言つたのだが、智恵子の眼は実際羨まし相であつた。 『アラ、だから貴女も毎日被来いよ。これからお休暇なんですもの。』 『有難う。』と言つて、『私モウお別れするわ。何卒皆様に宜敷!』 『一寸。』とその袂を捉へて、『可いわよ、智恵子さん、モ少し。』 『だつて。那麽に日が傾いちやつた。』と西の空を見る。眼は赤い光を宿して星の様に若々しく輝いた。 『構はないぢやありませんか、智恵子さん。家へ被来いな再!』 『この次に。』と智恵子は沈着いた声で言つて、『貴女も早くお帰りなすつたが可いわ。お客様が被来つたぢやありませんか。』と妹にでも言ふ様に。 『アラ、私のお客様ぢやなくつてよ。』と、静子は少し顔を染めた。心では、吉野が来た為に急いで帰つたと思はれるのが厭だつたので。  それで、智恵子が袂を分つて橋を南へ渡り切るまでも、静子は鋼線の欄に靠れて見送つてゐた。  智恵子は考へ深い眼を足の爪先に落して、帰路を急いだが、其心にあるのは、例の様に、今日一日を空に過したといふ悔ではない。神は我と共にあり! と自ら慰め乍らも、矢張、静子が何がなしに羨まれた。が、宿の前まで来た頃は、自分にも解らぬ一種の希望が胸に湧いてゐた。  で、家に入るや否や、お利代に泣付いて何か強請つてゐる五歳の新坊を、矢庭に両手で高く差上げて、 『新坊さん、新坊さん、新坊さん、奈何したんですよウ。』 と手荒く擽つたものだ。  新坊は、常にない智恵子の此挙動に喫驚して、泣くのは礑と止めて不安相に大く眼を睜つた。 (六)の一  静子の縁談は、最初、随分性急に申込んで来て、兎も角も信吾が帰つてからと返事して置いたのが、既に一月、怎うしたのか其儘になつて、何の音沙汰もない、自然、家でも忘られた様な形勢になつてゐた。  結局それが、静子にとつては都合がよかつた。母のお柳が、別に何処が悪いでなくて、兎角優れぬ勝の、口小言のみ喧しいのへ、信吾は信吾で朝晩の惣菜まで、故障を言ふ性だから、人手の多い家庭ではあるが、静子は矢張日一日何かしら用に追はれてゐる。それも一つの張合になつて、兄が帰つてからといふもの、静子はクヨ〳〵物を思ふ心の暇もなかつた。  一体この家庭には妙な空気が籠つてゐる。隠居の勘解由はモウ六十の坂を越して体も弱つてゐるが、小心な、一時間も空には過されぬと言つた性なので、小作に任せぬ家の周囲の菜園から桑畑林檎畑の手入、皆自分が手づから指揮して、朝から晩まで戸外に居るが、その後妻のお兼とお柳との関係が兎角面白くないので、同じ家に居ながらも、信之親子と祖父母や其子等(信之には兄弟なのだが)とは、宛然他人の様に疎々しい。一家顔を合せるのは食事の時だけなのだ。  それに父の信之は、村方の肝煎から諸交際、家にゐることとては夜だけなのだ。従つて、癇癪持のお柳が一家の権を握つて、其一顰一笑が家の中を明るくし又暗くする。見よう見まねで、静子の二人の妹──十三の春子に十一の芳子、まだ七歳にしかならぬ三男の雄三といふのまで、祖父母や昌作、その姉で年中病床についてゐるお千世などを軽蔑する。其麽間に立つてゐる温和しい静子には、それ相応に気苦労の絶えることがない。実際、信吾でも帰つて色々な話をしてくれたり、来客でもなければ、何の楽みもないのだ。尤も、静子は譬へ甚麽事があつても、自分で自分の境遇に反抗し得る様な気の強い女ではないのだが。  画家の吉野満太郎が来たのは、又しても静子に一つの張合を増した。吉野の、何処か無愛相な、それでゐてソツのない態度は、先づ家中の人に喜ばれた。左程長くはないが、信吾とは随分親密な間柄で、(尤も吉野は信吾を寧ろ弟の様に思つてるので)この春は一緒に畿内の方へ旅もした。今度はまた信吾の勧めで一夏を友の家に過す積りの定つた職業とてもない、暢気な身上なのだ。  言ふまでもなく信吾は、この遠来の友を迎へて喜んだ。それで不取敢離室の八畳間を吉野の室に充てて、自分は母屋の奥座敷に机を移した。吉野と兄の室の掃除は、下女の手伝もなく主に静子がする。兎角、若い女は若い男の用を足すのが嬉しいもので。  それ許りではない、静子にはモ一つ吉野に対して好感情を持つべき理由があつた。初めて逢つた時それは気が付いたので。吉野は顔容些とも似ては居ないが、その笑ふ時の目尻の皺が、怎うやら、死んだ浩一──静子の許嫁──を思出させた。  生憎と、吉野の来た翌日から、雨が続いた。それで、客も来ず、出懸ける訳にもいかず、二日目三日目となつては吉野も大分退屈をしたが、お蔭で小川の家庭の様子などが解つた。昌作も鮎釣にも出られず、日に幾度となく吉野の室を見舞つて色々な話を聞いたが、画の事と限らず、詩の話、歌の話、昌作の平生飢ゑてる様な話が多いので、モウ早速吉野に敬服して了つた。  降りこめた雨が三十一日(七月)の朝になつて漸々霽つた。と、吉野は、買物旁々、旧友に逢つて来ると言つて、其日の午後、一人盛岡に行くことになつた。 (六)の二  雨後の葉月空が心地よく晴渡つて、目を埋る好摩が原の青草は、緑の火の燃ゆるかと許り生々とした。  小川の家では折角下男に送らせようと言つて呉れたのを断つて、教へられた儘の線路伝ひ、手には洋杖の外に何も持たぬ背広扮装の軽々しさ、画家の吉野は今しも唯一人好摩停車場に辿り着いた。  男神の如き岩手山と、名も姿も優しき姫神山に挾まれて、空には塵一筋浮べず、溢るゝ許りの夏の光を漂はせて、北上川の上流に跨つた自然の若々しさは、旅慣れた身ながらに、吉野の眼にも新しかつた。その色彩の単純なだけに、心は何となき軽快を覚え、唆かす様な草葉の香りを胸深く吸つては、常になき健康を感じた。日頃、彼の頭脳を支配してゐる、種々の形象と種々の色彩の混雑つた様な、何がなしに気を焦立せる重い圧迫も、彼の老ゆることなき空の色に吸ひ取られた様で、彼は宛然、二十前後の青年の様な足調で、ツイと停車場の待合所に入つた。  眩い許りの戸外の明るさに慣れた眼には、人一人居ない此室の暗さは土窟にでも入つた様で、暫しは何物も見えず、グラ〳〵と眩暈がしさうになつたので、吉野は思はず知らず洋杖に力を入れて身を支へた。紛帨を出して額の汗を拭き乍ら、衣嚢の銀時計を見ると、四時幾分と聞いた発車時刻にモウ間がない。急いで盛岡行の赤切符を買つて改札口へ出ると、 『向側からお乗りなさい。』 と教へ乍ら背の低い駅夫が鋏を入れる。チラと其時、向側のプラツトホームに葡萄茶の袴を穿いた若い女の立つてゐるのが目についた。それは日向智恵子であつた。  智恵子の方でも其時は気が付いて居たが、三四日前に橋の上で逢つた限、名も知り顔も知れど、口一つ利いたではなし、さればと言つて、乗客と言つては自分と其男と唯二人、隠るべき様もないので、素知らぬ振も為難い。夏中逗留するといへば、怎うせ又顔を合せなければならぬのだ。  それで、吉野が線路を横切つて来るのを待つて、少し顔を染め乍ら軽くS巻の頭を下げて会釈した。 『や、意外な処でお目に懸ります。』と余り偶然な邂逅を吉野も少し驚いたらしい。 『先日は失礼致しました。』 『怎うしまして、私こそ……。』と、脱つた帽子の飾紐に切符を揷みながら、『フム、小川の所謂近世的婦人が此女なのだ!』と心に思つた。  そして、体を捻つて智恵子に向ひ合つて、 『後で静子さんから承つたんですが、貴女は日向さんと被仰るんですね?』 『ハ、左様で御座います。』 『何れお目に懸る機会も有るだらうと思つてましたが、僕は吉野と申します。小川に居候に参つたんで。』 『お噂は、予て静子さんから承つて居りました。』 『来たよウ。』と駅夫が向側で叫んだので、二人共目を転じて線路の末を眺めると、遠く機関車の前部が見えて、何やらキラ〳〵と日に光る。 『今日は何処まで?』 『盛岡までで御座います。』 『成程、学校は明日から休暇なさうですね。何ですか、お家は盛岡で?』 『否。』と智恵子は慎謹げに男の顔を見た。『学校に居りました頃からの同級会が、明後日大沢の温泉に開かれますので、それでアノ、盛岡のお友達をお誘ひする約束が御座いまして。』 『然うですか。それはお楽みで御座いませう。』と鷹揚に微笑を浮べた。 『貴君は何処へ?』 『矢張その盛岡までです。』  吉野は不図、自分が平生になく流暢に喋つてゐたことに気が付いた。  列車が着くと、これは青森上野間の直行なので車内は大分込んでゐる。二人の外には乗る者も、降りる者もない。漸々の事で、最後の三等車に少許の空席を見付けて乗込むと、その扉を閉め乍ら車掌が号笛を吹く。慌しく滊笛が鳴つて、ガタリと列車が動き出すと、智恵子はヨラ〳〵と足場を失つて、思はず吉野に凭掛つた。 (六)の三  吉野は窓側へ、直ぐ隣つて智恵子が腰を掛けたが、少し体を動しても互の体温を感ずる位窮屈だ。女は、何がなしに自分の行動──紹介もなしに男と話をした事──が、はしたない様な、否、はしたなく見られた様な気がして、『だつて、那麽切懸だつたんだもの。』と心で弁疎して見ても、怎やら気が落着かない。乗合の人々からジロ〳〵顔を見られるので、仄りと上気してゐた。  北上山系の連山が、姫神山を中心にして、左右袖を拡げた様に東の空に連つた。車窓の前を野が走り木立が走る。時々、夥しい草葉の蒸香が風と共に入つて来る。  程なく列車が轟と音を立てて松川の鉄橋に差かかると、窓外を眺めて黙つてゐた吉野は、 『ア、那家が小川の家ですね。』 と言つて窓から首を出した。線路から一町程離れて、大きい茅葺の家、その周囲に四五軒農家のある──それが川崎の小川家なのだ。  首を出した吉野は、直ぐと振返つて、 『小川の令妹が出てますよ。』 『アラ。』と言つて、智恵子も立つたが、怎う思つてか、外から見られぬ様に、男の背後に身を隠して、密と覗いて見たものだ。  静子は小妹共と一緒に田の中の畔路に立つて、紛帨を振つてゐる。小妹共は何か叫んでるらしいが、無論それは聞えない。  智恵子は無性に心が騒いだ。  帽子を振つてゐた吉野が、再び腰を掛けた時は、智恵子は耳の根まで紅くして極悪気に俯向いてゐた。静子の行動が、偶然か、はた意あつて見送つたものか、はた又吉野と申合せての事か、それは解らないが、何れにしても智恵子の心には、万一自分が男と一緒に乗つてゐる事を、友に見られはしないかといふ心配が、強く動悸を打つた。吉野はその、極悪気な様子を見て、『小川の所謂近代的婦人も案外初心だ!』と思つたかも知れない。  その実男も、先刻汽車に乗つた時から、妙に此女と体を密接してゐることに圧迫を感じてるので。  それを紛らかさうとして、何か話を始め様としたが、兎角、言葉が喉に塞る。其麽筈はないと自分で制しながらも、断々に、信吾が此女を莫迦に讃めてゐた事、自分がそれを兎や角冷かした事を思出してゐたが、腰を掛けるを切懸に、 『貴女は何日お帰りになります?』と何気なく口を切つた。 『三日に、アノ帰らうと思つてます。』 『然うですか。』 『貴方は?』 『僕は何日でも可いんですが、矢張三日頃になるかも知れません。』と言つたが、不図思ひついた事がある様に、『貴女は盛岡の中学に図画の教師をしてゐる男を御存じありませんか? 渡辺金之助といふ?』 『存じて居ります。』と、智恵子は驚いた様な顔をする。『貴方はアノ、那の方と同じ学校を……?』 『然うです。美術学校で同級だつたんですが、……あゝ御存じですか! 然うですか!』と鷹揚に頷いて、『甚麽で居るんでせう? まだ結婚しないでせうか?』 『え、まだ為さらない様ですが。』と、睜つた眼を男に注いで、『貴方はあの、渡辺さんへ被行るんで御座いますか。』 『え、突然訪ねて見ようと思ふンですがね。』と、少し腑に落ちぬ様な目付をする。 『マア、左様で御座いますか!』と一層驚いて、『私もアノ、其家へ参りますので……渡辺さんの妹様と、私と矢張同じ級で御座いまして。』 『妹様と? 然うですか! これは不思議だ!』と吉野も流石に驚いた。 『アノ、久子さんと仰います……。』 『然うですか! ぢや何ですね、貴女と僕と同じ家に行くんで! これは驚いた。』 『マア真箇に!』と言ひ乍ら、智恵子は忽ち或る不安に襲れた。静子の事が心に浮んだので。 (七)の一  宿直の森川は一日の留守居を神山富江に頼んで、鮎釣に出懸けた。  休暇になつてからの学校ほど伽藍堂に寂しいものはない。建物が大きいのと、平生耳を聾する様な喧騒に充ちてるのとで、日一日、人ツ子一人来ないとなると、俄かに荒れはてた様な気がする。常には目立たぬ塵埃が際立つて目につく、職員室の卓子の上も、硯箱やら帳簿やら、皆取片付けられて了つて、其上に薄く塵が落ちた。  懶いチクタクの音を響かせてゐる柱時計の下で、富江は森川の帰りを待つ間の退屈を、額に汗をかきながら編物をしてゐた。暑い盛りの午後二時過、開け放した窓から時々戸外を眺めるが、烈々たる夏の日は目も痛む程で、うなだれた木の葉に習との風もなく、大人は山に、子供らは皆川に行つた頃だから、四周が妙に静まり返つてゐる。其処へブラリと昌作が遣つて来た。 『暑いでせう外は。先刻から眠くなつて〳〵為様のないところだつたの。』と富江は椅子を薦める。年下の弟でも遇ふ様な素振だ。  それに慣れて了つて、昌作も挨拶するでもなく『暑い〳〵。』と帽子も冠らずに来た髪のモヂヤ〳〵した頭に手を遣つて、荒い白絣の袖を肩に捲り上げた儘腰を下した。 『森川君は?』 『鮎釣に行つたの。釣れもしないくせに。』 『すると何だな、貴女が留守役を仰付かつて弱つてゐたんだな。ハハヽヽ好い気味だ。』 『口の悪い! 何が好い気味なもんですか。其麽事を言ふとお茶菓子を買ひませんよ。』と睨んで見せる。 『フム。』と昌作は妙に済し込んで、『御勝手に。』 『マア口許りぢやない人が悪くなつたよ、小供の癖に!』 と言ひながら、手を延ばして呼鈴の綱を引いて、『然う〳〵、一昨日は御馳走様。お客様はまだ帰つてらつしやらないの?』 『アーイ。』と彼方で眠さうな声。 『まだ。今日か明日帰るさうだ。吉野様がゐないと俺は薩張詰らないから、今日は莫迦に暑いけれども飛出して来たんだ。』 『生憎と日向様もまだ帰らないの。』と富江は調戯ふ眼付で青年の顔を見た。其処へ白髪頭の小使が入つて来て用を聞いたので、女は何かお菓子を買つて来いと命ずる。 『ソラ、到頭買ふンだ。』と昌作はシタリ顔。 『私が喰べるのですよ、誰が昌作さんなんかに上げるもんですか。』と不減口を叩いて、『よ、昌作様、ハイカラの智恵子さんもまだ帰らないの。』 『フム。』 『何がフムですか。昌作様の歌を大変賞めてるから、行つて御礼を被仰よ。』 『フム。家の信吾ぢやないし。』 『え? 信吾さんが?』 『知らない。』 『信吾様が行くの? マア好い事聞いた。ホホヽヽヽ、マア好い事聞いた。』 と、富江はハヂケた様に一人で騒いで、 『マア好い事聞いた、信吾様が智恵子様の許へ行くの。今度逢つたらウント揶揄つて上げよう。ホホヽヽ。』  昌作は冷かに其顔を眺めてゐたが、 『可けない〳〵。其麽話、吉野様の前なんかで言つちや可けませんぞ。』 『アラ、怎うして?』と忙しい眼づかひをする。 『だつて、詰らないぢやないですか。』 『詰らない? 言ひますよ私。』 『詰らない! 第一吉野様の前で其麽事が言へますか? 豪い人だ。信吾の友達には全く惜しい人だ。』 『マア、大層見識が高くなつたのね?』  すると昌作は、忽ち不快な顔をして黙つた。 『甚麽に豪いの、その方は?』 『時にですな、』と昌作は付かぬ事を言ひ出した。『今日は貴女に用を頼まれて来たんだ。』 『オヤ、誰方から?』  其時小使が駄菓子の袋を恭しく持つて入つて来た。 (七)の二 『当てて御覧なさい。』と昌作はシタリ顔に拗ねる。  其顔を、富江はマジ〳〵と見てゐたが、小使の出てゆくのを待つて、 『信吾様から?』  ピクリと昌作の眉が動いた。そして眼鏡の中で急がしく瞬きをしながら顔を大きく横に振る。 『そんなら、誰方?』 『無論、貴女の知つた人からだ。』と小憎らしく済したものだ。 『懊つたい!』と自暴に体を顫はせて、 『よ、誰方からツてばサ。』 『ハツハハ、解りませんか?』と、何処までも高く踏んで出る。 『好いわ、モウ聞かなくつても。』 『それぢや俺が困る。実はですね。』 『知りません。』 『登記所の山内君からだ。以前貴女から「恋愛詩評釈」といふ書を借りたことがあるさうだ。それを再読みたいから俺に借りて来て呉れと言ふンですがね。』 『オヤ、何故御自分で被来らないでせう?』 『だつて寝てるんだもの。』 『ぢやモウ、病床に就いたの?』と低目に言つて、胡散臭い眼付をする。 『一昨日俺と鮎釣に行つて、夕立に会つたんですよ。それで以て山内は弱いから風邪を引いたんだ。』 『アラ昌作さん、山内様は肺病だつてンぢや有りませんか?』 『肺病?』と正直に驚いた顔をしたが、『嘘だ!』 『嘘なもんですか。始終那麽妙な咳をしてゐたぢやありませんか。……加藤さんが然言つてるんですもの。』 『肺病だと?』 『え。』と気がさした様に声を落して、 『だけど私が言つたなんか言つちや不可よ。よ、昌作様、貴方も伝染らない様に用心なさいよ。』 『莫迦な! 山内は那麽小い体をしてるもんだから、皆で色々な事を言ふンだ。俺だつて咳はする──。』 『馬の様な咳を。ホホヽヽ。』と富江は笑つて、『誰がまた、那麽一寸法師さんを一人前の人待遇にするもんですか。』  そして取つて付けた様にホホヽヽと再笑つた。 『だから不可い。』と昌作は錆びた声に力を入れて、『体の大小によつて人を軽重するといふ法はない。真箇に俺は憤慨する。家の奴等も皆然うだ。』 『然うでないのは日向のハイカラ様許りでせう?』  昌作は聞かぬ振をして、『英吉利の詩人にポープといふ人が有つた。その詩人は、佝僂で跛足だつたさうだ。人物の大小は体に関らないサ。』と、三文雑誌ででも読んだらしい事を豪さうに喋る。 『大層力んで見せるのね。だけれど山内様は別に大詩人でもないぢやありませんか!』 『それは別問題だ。……』と正直に塞つて、『それは然うと、今言つた書を貸して下さい。』 『家に置いてあるの。』 『小使を遣つて取寄せて呉れるサ。』と頼む様な語調。 『肺病患者なんかに!』と独言つ様に言つて、 『アノね、昌作さん。』と可笑しさを怺へた様な眼付をする。『恁う言つて下さいな、山内様に。アノね、評釈なんか無くたつて解るぢやありませんかツて。』 『え? 何ですツて?』と昌作は真面目に腑に落ちぬ顔をする。 『ホホヽヽヽ。』と富江は一人高笑ひした。そして、『書はね、後刻で誰かに届けさせますよ。』  一時間程経つて、昌作は、来た時の様にブラリと、帽子も冠らず、単衣の両袖を肩に捲り上げて、長い体を妙に気取つて、学校の門を出た。  そして川崎道の曲角まで来た時、三町彼方から、深張の橄欖色の女傘をさした、海老茶の袴を穿いた女が一人、歩いて来るのに目をつけた。『ハハア、帰つて来たナ。』と呟いて、足を淀めたが、ツイと横路へ入る。  三日前に画家の吉野と同じ滊車に乗合せて、大沢温泉に開かれた同級会へ行つた智恵子は、今しも唯一人、町の入口まで帰つて来た。 (七)の三  小川家の離室には、画家の吉野と信吾とが相対してゐる。吉野は三十分許り前に盛岡から帰つて来た所で、上衣を脱ぎ、白綾の夏直衣の、その鈕まで脱して、胡坐をかいた。  その土産らしい西洋菓子の函を開き、茶を注いで、静子も其処に坐つた。母屋の方では、キヤツ〳〵と小妹共の騒ぐのが聞える。 『だからね。』と吉野は其友渡辺の噂を続けた。 『僕は中学の画の教師なんかやるのが抑も愚だと言つて遣つたんだ。奴だつて学校にゐた時分は夢を見たものよ。尤も僕なんかより遙と常識的な男でね。静物の写生なんかに凝つたものだ。だが奴が級友の間でも色彩の使ひ方が上手でね、活きた色彩を出すんだ。何色彩を使つても習慣を破つてるから新しいんだよ。何時かの展覧会に出した風景と静物なんか、黒人仲間ぢや評判が好かつたんだよ。其奴が君、遊びに来た中学生に三宅の水彩画の手本を推薦してるんだからね。……僕は悲しかつたよ。否悲しいといふよりは癪に障つたよ。何といふのかな、那麽具合で到頭埋もれて了ふのを。平凡の悲劇とでも言ふのかな……。』 『だつて君。』と信吾は委細呑込んだと言つた様な顔をして、『その人にだつて家庭の事情てな事が有アな。一年や二年中学の教師をした所で、画才が全然滅びるツて事も無からうさ。』 『それがよ、家庭の事情なんて事が縦頭可くない。生活問題は誰にしろ有るさ。然し芸術上の才能は然うは行かない。其奴が君、戦つても見ないで初めツから生活に降参するなンて、意気地が無いやね。……とマア言つて見たんさ、我身に引較べてね。』 『ハハヽヽ。君にも似合はんことを言ふぢやないか。』とゴロリ横になる。  其処へ、庭に勢ひよき下駄の音がして、昌作が植込の中からヒヨクリと出て来た。今しも町から帰つて来たので。 『ヤア、お帰りになりましたな。』と吉野に声をかける。 『否、モ少し先に。今日も貴君は鮎釣でしたか?』 『否。』と無雑作に答へて縁側に腰を掛けた。『吉野さん、貴方、日向さんと同じ滊車でしたらう?』 『え?』と静子が聞耳を立てる。 『然う、然う。』と、吉野は今迄忘れてゐたと言つた様に言つて、静子の方に向いた。『ソレ、過日橋の上に貴女と二人立つてゐた方ですね。あの方と今日同じ滊車に乗りましたよ。』 『アラ智恵子さんと。然うでしたか! よくお解りになりましたね。』と嫣乎、何気なく言つた。 『否ソノ、何です、今話した渡辺の家で紹介されたんです。渡辺の妹君と親友なんださうで、偶然同じ家に泊つた訳なんです。』と、吉野は急しく眼をパチつかせ乍ら、無意識に煙草に手を出す。 『オヤ然うでしたの!』 『然うかい!』と信吾も驚いて、『それは奇遇だつたな。実に不思議だ。』 『別段奇遇でも無からうがね。唯逢つただけよ。』と、吉野は顔にかゝる煙草の煙に大仰に眉を寄せる。 『昌作さんは何ですか、日向さんに逢つて来たの?』と信吾が横になつた儘で問うた。 『否。帰つて来た所を遠くから見ただけだ。』 『よツぽど遠くからね? ハヽヽ。』  昌作はムツとした顔をして、返事はせずに、吉野の顔色を覗つた。  然うしてる所へ、母屋の方には賑かな女の話声。下女が前掛で手を拭きながらバタ〳〵駆けて来て、 『若旦那様、お嬢様、板垣様の叔母様が盛岡からお出アンした。』 『アラ今日被来たの。明日かと思つたら。』と、静子は吉野に会釈して怡々下女の後から出て行く。 『父の妹が泊懸に来たんだ。一寸行つて会つてくるよ。』 と信吾も立つた。昌作は何時の間にか居ない。  吉野は眉間の皺を殊更深くして、眤と植込の辺に瞳を据ゑてゐた。 (八)の一  智恵子は渡辺の家に一泊して、渡辺の妹の久子といふのと翌一日大沢の温泉に着いたのであつた。その夕方までには、二十幾名の級友大方臨渓館といふ温泉宿の二階に、県下の各地方から集つた。  兎角女といふものは、学校にゐる時は如何に親くても、一度別れて了へば心ならずも疎くなり易い。それは各々の境遇が変つて了ふ為で、智恵子等のそれは、卒業してからも同じ職業に就いてるからこそ、同級会といふ様なものも出来るのだ。三年の月日を姉と呼び妹と呼んで一棟の寄宿舎に起臥を共にした間柄、校門を辞して散々に任地に就いてからの一年半の間に、身に心に変化のあつた人も多からうが、さて相共に顔を合せては、自から気が楽しかつた寄宿舎時代に帰つた。数限りなき追憶が口々に語られた。気軽な連中は、階下の客の迷惑も心づかず、その一人が弾くヴアイオリンの音に伴れてダンスを始めた。恁くて此若い女達は翌二日の夜更までは何も彼も忘れて楽みに酔うた。欠席したのは四人、その一人は死に、その一人は病み、他の二人は懐妊中とのことで。──結婚したのはこの外にも五六人あつた。  各々の任地の事情が、また、事細かに話し交された。語るべき友の乏しいといふ事、頭脳の旧い校長の悪口、同じ師範出の男教員が案外不真面目な事、師範出以外の女教員の劣等な事、これらは大体に於て各々の意見が一致した。  中に一人、智恵子の村の加藤医師と遠縁の親籍だといふのがあつた。その女から、智恵子は清子に宛てた一封の手紙を托された。  その手紙を届けるべく、智恵子は渋民に帰つた翌日の午前、何気なく加藤医院を訪づれたのであつた。  玄関には、腰掛けたのや、上込んだのや、薄汚い扮装をした通ひの患者が八九人、詰らな相な顔をして、各自に薬瓶の数多く並んだ棚や粉薬を分量してゐる小生意気な薬局生の手先などを眺めてゐた。智恵子が其処へ入ると、有たけの眼が等しく其美しい顔に聚つた。 『奥様は?』 『ハイ。』と答へて、薬局生は匙を持つた儘中に入つてゆく。居並ぶ人々は狼狽へた様に居住ひを直した。諄々と挨拶したのもあつた。  今朝髪を洗つたと見えて、智恵子は房々した長い髪を、束ねもせず、緑の雲を被いだ様に、肩から背に豊かになびかせた。白地に濃い葡萄色の矢絣の新しいセルの単衣に、帯は平常のメリンス、その整然としたお太鼓が揺めく髪に隠れた。  少し手間取つて、匇皇と小走りに清子が出て来た。 『マア日向先生、何日お帰りになりましたの? サ何卒。』 『ハ有難う。昨日夕方に帰りました許りで。』 『お楽みでしたわねえ。サ何卒お上り下さいまし、……アノ小川様のお客様も被来てますから。』 『ハ?』と智恵子は、脱ぎかけた下駄を止めた。 『吉野さんとか被仰る、画をお描きになる……貴女にも盛岡でお目にかゝつたとか被仰つてで御座いますよ。』 『アノ、吉野さんが?』 『え。宅が小川様で二三度お目にかゝりました相で、……昌作様とお二人。マ何卒。』 『ハ有難う、アノウ……。』と言ひ乍ら、智恵子は懐から例の手紙を取出して、手短に其由来を語つて清子に渡した。 『マ然うでしたか。それは怎うも。……それは然うと、サ、サ。』と、手を引く許りにする。 『アノ一寸学校に行つて見なければなりませんから、何れ後で。』 『アラ、日向様、其麽貴女……。』と、清子が捉へる袂を、スイと引いて、 『真箇よ、奥様。何れ後で。』  智恵子は逃げる様にして戸外に出た、と、忽ち顔が火の様に熱つて、恐ろしく動悸がしてるのに気がついた。 (八)の二  加藤の玄関を出た智恵子は、無意識に足が学校の方へ向つた。莫迦に胸騒ぎがする。 『何故那麽に狼狽へたらう?』  恁う自分で自分に問うて見た。 『何故那麽に狼狽へたらう? 吉野様が被来てゐたとて! 何が怖かつたらう! 清子様も可笑いと思つたであらう! 何故那麽に狼狽へたらう? 何も理由が無いぢやないか!』  理由は無い。  智恵子は一歩毎に顔が益々上気て来る様に感じた。何がなしに、吉野と昌作が背後から急足で追駆けて来る様な気がする。それが、一歩々々に近づいて来る……………  其麽事は無い、と自分で譴めて見る、何時しか息遣ひが忙しくなつてゐる。  取留もなく気がソワついてるうちに歩くともなくモウ学校の門だ。衝と入つた。  職員室の窓が開いて、細い釣竿が一間許り外に出てゐる。宿直の森川は、シヤツ一枚になつて、一生懸命釣道具を弄つてゐた。  不図顔を上げると、 『オヤ日向様、何日お帰りになりました?』 『ハ、アノ、昨日夕方に。』と、外に立つて頭を下げる。洗ひ髪がさらりと肩から胸へ落つる。智恵子は、うるさい様にそれを手で後にやつた。 『面白かつたでせう? さ、マアお上りなさい。』 『否、アノ。』と息が少し切れる。『アノ私宛の手紙でも参つてゐませんでせうか?』 『奈何でしたか! あ、来ませんよ、神山様の方の間違です。マお上りなさい。』 『ハ有難う御座います。一寸アノ、一寸、後の山へ行つて見ますから。』 『山へ? 茸狩はまだ早いですよ。ハハヽヽ。マ可いでせう?』 『ハ、何れ明日でも。』と行掛る。 『ア、日向様、貴女に少許お願ひがありますがねえ。』 『何で御座いますか?』 『何有、真の些した事ですがね。』と、森川は笑つてゐる。 『何で御座いますか、私に出来る事なら……。』と智恵子は何時になく悶かし相な顔をした。 『出来る事ですとも。』まだ笑つて、 『その何ですよ、過日、否昨日か、神山様にも一日お願ひしたんですがね。ソノ、私は鮎釣に行きますから、御都合の可い時一日学校に被来てゐて下さいませんか?』 『ハ、可う御座いますとも。何日でも貴方の御出懸になる時は、アノ大抵の日は小使をお寄越し下されば直ぐ参ります。』 『然うですか。ぢやお願ひ致しますよ、済みませんが。』 『何日でも……。』と言つて、智恵子は足早に裏の方に廻つた。  裏は直ぐ雑木の山になつて、下暗い木立の奥がコンモリと仰がれる。校舎の屋根に被さる様になつた青葉には、楢もあれば栗もある。鮮かな色に重なり合つて。  便所の後になつてゐる上口から、智恵子はスタ〳〵と坂を登つた。  木立の中から、心地よく湿つた風が顔へ吹く。と、そのコンモリした奥から愉しさうな昼杜鵑の声。  声は小迷ふ様に、彼方此方、梢を渡つて、若き胸の轟きに調を合せる。  智恵子は躍る様な心地になつて、ツト青葉の下蔭に潜り込んだ。 (八)の三  やや急な西向の傾斜、幾年の落葉の朽ちた土に心地よく下駄が沈んで、緑の屋根を洩れる夏の日が、処々、虎斑の様に影を落して、そこはかとなく揺めいた。細き太き、数知れぬ樹々の梢は参差として相交つてゐる。  唆かす様な青葉の香が、頬を撫で、髪に戯れて、夏蔭の夢の甘さを吹く。 『ククヽヽクウ』と、すぐ頭の上、葉隠れに昼杜鵑が啼く。酔つた様な、愉しい様な、切ない様な、若い胸の底から漂ひ出る様な声だ。その声が、ク、ク、ク、と後を刻んで、何処ともなき青葉の瑲ぎ!  と、少し隔つた彼方から、『ククヽヽクウ』と同じ声が起る。 『ククヽヽクウ、ククヽヽクウ。』と、背後の方からも。 『漂へる声』とライダル湖畔の詩人が謳つた。それだ、全くそれだ。甘き青葉の香を吸ひ、流れるこの鳥の声を聞いては、身は詩人でなくても、魂が胸を出て、声と共にそこはかとなく森の下蔭を小迷うてゆく思ひがする。  声の在所を覓むる如く、キヨロ〳〵と落着かぬ様に目を働かせて、径もなき木蔭地の湿りを、智恵子は樹々の間を其方に抜け此方に潜る。夢見る人の足調とは是であらう。髪は肩に乱れ、胸に波打ち、ハラ〳〵と顔にも懸る。それを払はうとするでもない。  故もなく胸が騒いでゐる。酔つた様な、愉しい様な、切ない様な……宛然葉隠の鳥の声の、何か定めなき思ひが、総身の脈を乱してゐる。 『ククヽヽクウ』と鳥の声。 「私ほど辛い悲しいものはない!」  恁う理由のないことを、何がなしに心に言つてみた。何が辛いのか、何が悲しいのか、それは自分では解らない。ただ然う言つて見たかつたのだ。言つた所で、別に辛くも悲しくもない。 『吉野さんが町に、加藤の家に来てゐる。』智恵子に解つてるのは之だけだ。  初めて逢つたのは鶴飼橋の上だ。その時の、俥の上の男の挙動は、今猶明かに心に残つてゐる。然し言葉を交したのでもない。友の静子は耳の根迄紅くなつてゐた。その静子は又、自分とアノ人が端なくも滊車に乗合せて盛岡に行く時、田圃に出て紛帨を振つた。静子の底の底の心が、何故か自分に解つた様な気がする。 『何故那時、私はアノ人の背後に隠れたらう?』恁う智恵子は自分に問うて見る。我知らず顔が紅くなる。  其晩、同じ久子の家に泊つた。久子兄妹とアノ人と自分と、打伴れて岩手公園に散歩した。甘き夏の夜の風を、四人は甚麽に嬉しんだらう! 久子の兄とアノ人との会話が、解らぬ乍らに甚麽に面白かつたらう! 『君は天才なんだ。』恁う久子の兄が幾度か真摯に言つた。何かの話の時、 『矢張女といふものは全く放たれる事が出来ん。男は結局一人ぼつちよ、死ぬまで。』 とアノ人が言つた!  翌日久子と大沢に行つて、昨日午前再び下小路なる久子の家まで帰つた。 『日向様は何日お帰りになります?』恁うアノ人が言つた。 『明日になさいな、ねえ!』と久子が側らから言つた、『吉野様も然う遊ばせな何卒。』 『否、僕は今日午後に発ちます。』  遂に同じ汽車で帰つて、再会を約して好摩が原で別れた。 『それだけだ。』と智恵子は言つて見た。何が(それだけ)なのか解らぬ。(それだけ)が何れだけなのか解らぬ。  解つてるのは、その吉野が今昌作と二人加藤の家にゐる事だけだ。或はモウ、加藤の家を出たかも知れぬ。出て而して、何処へ? 何処へ? 『ククヽヽクウ。』といふ声は遙と背後に聞えた。智恵子は何時しか雑木の木立を歩み尽きて、幾百本の杉の暗く茂つた、急な坂の上に立つてゐた。  佶と其下の方を見て居たが、何を思つてか、智恵子は急しく其急な坂を下り初めた。 (八)の四  タラ〳〵と急な杉木立の、年中日の目を見ぬ仄暗い坂を下り尽すと、其処は町裏の野菜畑が三角形に山の窪みへ入込んで、其奥に小かな柾葺の屋根が見える。大窪の泉と云つて、杉の根から湧く清水を大きい据桶に湛へて、雨水を防ぐ為に屋根を葺いた。町の半数の家々ではこの水で飯を炊ぐ。  蓊欝と木が蔽つてるのと、桶の口を溢れる水銀の雫の様な水が、其処らの青苔や円い石を濡らしてるのとで、如何な日盛でも冷い風が立つてゐる。智恵子は不図渇を覚えた。まだ午食に余程間があると見えて、誰一人水汲が来てゐない。  重い柄杓に水を溢れさせて、口移しに飲まうとすると、サラリと髪が落つる。髪を被いた顔が水に映つた。先刻から断間なしに熱つてるのに、周辺の青葉の故か、顔が例よりも青く見える。  智恵子は二口許り飲んだ。歯がキリ〳〵する位で、心地よい冷さが腹の底までも沁み渡つた。と、顔の熱るのが一層感じられる。『怎して青く見えたか知ら!』と考へ乍ら、裏畑の細径伝ひ急ぎ足に家へ帰つた。 『誰方も被来らなくつて?』 『否。』とお利代は何気ない顔をしてゐる。『アラ、何処へ行つてらしつたんですか? お髪に木の葉が附いて。』 『然う?』と手を遣つて見て、『学校の後の山を歩いて見ましたの。』 『お一人で!』 『否、子供達と。』と、ウツカリ言つたが、智恵子は妙に気が引けた。 『先生、俺も行きたいなア。』と梅ちやんが甘える。 『俺も、俺も。』と新坊は気早に立ち上つて雀躍する。 『ホホヽヽ。モウ行つて来たの。この次にね。』と言ひ乍ら、智恵子は己が室に入つた。  来なかつた! と思ふと、ホツと安心した様な気持だ。と又、今にも来るかといふ新しい心配が起る。戸外を通る人の跫音が、急しく心を乱す。戸口の溝の橋板が鳴る度、押へきれぬ程動悸がする。 『奈何したといふのだらう?』と自分の心が疑はれる。莫迦な! と叱つても矢張気が気でない。強ひて書を読んで見ても、何が書いてあつたか全然心に留らない。新坊が泣出しでもすると訳もなく腹立しくなる。幾度も〳〵室の中を片付けてるうちに、午食になつた。 『小母さん、私の顔紅くなくつて?』と箸を動しながら訊いた。 『否。些とも。』 『然う? ぢや平生より青いんでせう。』 『否、何ともありませんよ。怎うかなすつたんですか?』 『怎うもしないんですけれど、何だかホカ〳〵するわ。目の底に熱がある様で……。』 『暑いところを山へなんか被行つたからでせうよ。今日はこれから又甚麽に蒸しますか!』  何がなしに気が急いて、智恵子は早々と箸を捨てた。何をするでもなく、気がソワ〳〵して、妙な陰翳が心に湧いて来る。『怎うもしないのに!』と自分に弁疏して見る傍から、「屹度加藤さんでお午餐が出て、それから被来る。」といふ考へが浮ぶ。髪を結はう、結はうと何回となく思付いたが、箪笥の上の鏡に顔を写しただけ。到頭三時近くなつた。 『世の中が詰らない!』と言つた様な失望が、漠然と胸に湧く。自省の念も起る。気を紛らさうと思つて二人の小供を呼んだ。智恵子の拵へてくれた浴衣をダラシなく着た梅ちやんと、裸体に腹掛をあてた新坊が喜んで来た。 『何か話をして上げませう? 新坊さんは桃太郎が好き?』 『嫌。』と頭を振つて、『山サ行く。』 『先生、山サ連れてつて。』と梅ちやんも甘えかゝる。 『ホホヽヽ、何方も山へ行きたいの? 山はこの次にね……。』 と言つてる所へ、入口に人の訪るる気勢。智恵子は佶と口を結んだ。俄かに動悸が強く打つ。 (八)の五  胸を轟かして待つた其人では無くて訪ねて来たのは信吾であつた。智恵子は何がなしにバツが悪く思つた。  信吾は常に変らぬ態度乍らも、何処か落着かぬ様で、室に入ると不図気がさした様に見巡して坐つたが、今まで客のあつたとも見えぬ。 『吉野君が来なかつたですか?』 『否。』と対手の顔色を見る。 『来ない? 然うですか、何処へ行つたかなア。ハテナ、』と、信吾は是非逢はねばならぬ用でもある様に考へる。 『アノ、お一人でお出懸になつたんで御座いますか?』 『昌作と二人です、今朝出たつ限まだ帰らないんですが、多分貴女ン許かと思つて伺つたんです。』  何故此家に居ると思つたか、此家に来ると其人が言つて出たのか、又、若し真に用があるのなら、午前中確かに居た筈の加藤へ行つて聞けば可い。言ひ方は様々あつたが、智恵子は膝に目を落して、唯、 『否。』と許り。  危険い芸当を行つてるといふ様な気がして、心が咎める。 『ハテナ。』と、信吾はまた大袈裟に考へ込む態を見せて、『実は何です、家に親類の者が来てゐて僕は今朝出られなかつたんですが、一寸今、用が出来たもんですから探しに来たんです。』 『何方か他にお尋ねになつたんで御座いますか?』 『否、』と信吾は少許困つて、『……真直に此方へ。』 『此家へ被来るとでも被御つて、お出懸になられたんで御座いますか?』 『然うぢやないんですが、唯、多分然うかと思つたんで。』 『奈何してで御座いますか?』 『ハツハハ。』と、男は突然大きく笑つた。『違ひましたね。それぢや何処へ行つたかなア!』  智恵子は黙つて了つた。 『盛岡でお逢ひになつたんですつてね、吉野に?』 『え。渡辺様といふお友達の家に参りましたが、その方の兄さんとお親い方だとかで……アノ、些とお目に懸つたんで御座います。』 『巧く言つてやがらア、畜生奴!』と、心の中。『甚麽男です、貴女の見る所では?』  智恵子は不快を感じて来た。 『奈何ツて、別に……。』 『僕は、那した男が大好ですよ。僕の知つてる美術家連中も少くないが、吉野みたいな気持の好い、有望な男は居ませんよ……。』と、信吾は誇張した言方をして、女の顔色を見る。 『然うで御座いますか。』と言つた限、智恵子は真面目な顔をしてゐる。  話は遂にはづまなかつた。智恵子には若しや恁うしてる所へ其人が来はせぬかといふ心配がある。そして、其人に関する事を言ひ出されるのが、何がなしに侮辱されてる様な気がする。信吾は信吾で、妙に皮肉な考へ許り頭脳に浮んだ。  それでも、四十分許り対向つてゐて、不図気が付いた様にして信吾はその家を辞した。 『畜生奴!』  恁う先づ心に叫んだ。  元が用があつて探しに来たのでも無いのだから、その儘家路を急いだ。母は二三日前からまた枕に就いた。父は留守。其処へ饒舌家の叔母が小供達と共に泊りに来たのが、今朝も信吾は其叔母に捉まつて出懸けかねた。吉野は昌作を伴れて出懸けた。午後になつて父が帰ると、信吾は何となく吉野と智恵子の事が気に掛つた。それは一つは退屈だつた為でもある。  モ一つには、その二人が自分の紹介も待たずして知己になつたのが、訳もなく不愉快なのだ。秘して置いた物を他人に勝手に見られた様な感じが、信吾の心を焦立せてゐる。 『今日は奈何して、那麽冷淡だつたらう?』と、智恵子の事を考へ乍ら、信吾は強く杖を揮つて、路傍の草を自暴に薙倒した。 (九)の一  叔母一行が来て家中が賑つてる所へ、夕方から村の有志家が三四人、門前寺の梁に落ちたといふ川鱒を携つて来て酒が始つたので、病床のお柳までが鉢巻をして起きるといふ混雑、客自慢の小川家では、吉野までも其席に招致した。燈火の点く頃には、少し酒乱の癖のある主人の信之が、向鉢巻をしてカツポレを踊り出した。  朝から昌作の案内で町に出た吉野の帰つた時は、先に帰つた信吾が素知らぬ顔をして、客の誰彼と東京談をしてゐた。無理強ひの盃四つ五つ、それが全然体中に循つて了つて、聞苦しい土弁の川狩の話も興を覚えぬ。真紅な顔をした吉野は、主人のカツポレを機に密乎と離室に逃げ帰つた。  其縁側には、叔母の小供等や小妹達を対手に、静子が何やら低く唱歌を歌つてゐた。 『アヽ、全然酔つちやつた。』  恁う言つて吉野は縁に立つ。 『御迷惑で御座いましたわね。お苦しいんですか其麽に?』  燈火に背いた其笑顔が、何がなしに艶に見えた。涼しい夜風が遠慮なく髪を嬲る。庭には植込の繁みの中に螢が光つた。小供達は其方にゆく。 『飲みつけないもんですからね。然し気持よく酔ひましたよ。』 と言ひ乍ら、吉野は庭下駄を穿いた。其実、顔がポツポと熱るだけで、格別酔つた様な心地でもない。 『夜風に当ると可う御座いますわ。』 『え、些と歩いて見ませう。』と、酒臭い息を涼しい空に吹く。月の無い頃で、其処此処に星がチラついた。 『静や、静や。』と母屋の方からお柳の声。  吉野はブラリ〳〵と庭を抜けて、圃路に出た。追駈ける様な家の中の騒ぎの声の間々に、静かな麦畑の彼方から水の音がする。暗を縫うて見え隠れに螢が流れる。  夜涼が頬を舐めて、吉野は何がなしに一人居る嬉しさを感じた。恁うした田舎の夜路を、何の思ふことあるでもなく、微酔の足の乱れるでもなく、シツトリとした空気を胸深く吸つて、ブラリ〳〵と辿る心境は、渠が長く〳〵忘れてゐた事であつた。北上川の水音は漸々近くなつた。足は何時しか、町へ行く路を進んでゐた。  轟然たる物の音響の中、頭を圧する幾層の大廈に挾まれた東京の大路を、苛々した心地で人なだれに交つて歩いた事、両国近い河岸の割烹店の窓から、目の下を飛ぶ電車、人車、駈足をしてる様な急しい人々、さては、濁つた大川を上り下りの川蒸気、川の向岸に立列んだ、強い色彩の種々の建物、などを眺めて、取留もない、切迫塞つた苦痛に襲れてゐた事などが、怎うやら遙と昔の事、否、他人の事の様に思はれる。  吉野は、今日町に行つて加藤で御馳走になつた事までも、既う五六日も十日も前の事の様に思はれた。自分が余程以前から此村にゐる様な気持で、先刻逢つて酒を強ひられた許りの村の有志──その中には清子の父なる老村長もゐた──の顔も、可也古くからの親みがある様に覚えた。  いつしか高畠の杜を過ぎて、鶴飼橋の支柱が、夜目にそれと見える様になつた。急に高まつた川瀬の音が、静かな、そして平かな心の底に、妙にシンミリした響きを伝へる。  と、その川瀬の音に交つて、小供らの騒ぐ声が聞え出した。  橋の袂まで来た。不図小供らの声に縺れて、低い歌が耳に入る。 『……かーみはーあーいーなりー。』  仄白い人の姿が、朧気に橋の上に立つてゐる。 (九)の二  橋の上の仄白い人影、それは智恵子であつた。  信吾の帰つた後の智恵子は、妙に落胆して気が沈んだ。今日一日の己が心が我ながら怪まれる。 『奈何したといふのだらう? 私はアノ人を、思つてる…………恋してるのか知ら!』 『否!』と強く自ら答へて見た。自分は仮にも其麽事を考へる様な境遇ぢやない、両親はなく、一人ある兄も手頼にならず、又成らうともせぬ。謂はばこの世に孤独の自分は、傍目もふらずに自活の途を急がねばならぬ。それだのに、何故這麽…………?  懊れに懊れて待つた其人の、遂に来なかつた失望が、冷かに智恵子の心を嘲つた。二度と這麽事は考へまい! と思ふ傍から、『矢張女は全く放たれる事が出来ない。男は結局孤独だ、死ぬまで。』と久子の兄に言つた其人の言葉などが思出された。書を読む気もしない。学校へ行つてオルガンでも弾かうと考へても見た。ウツカリすると取留のない空想が湧く……。  日が暮れると、近所の女児共が螢狩に誘ひに来た。案外気軽に智恵子はそれに応じて、宿の二人の小供をも伴れて出た。出る時、加藤の玄関が目に浮んだ。其処には数々の履物に交つて赤革の夏靴が一足脱いであつた。小川のお客様も来てゐると清子の言つたソノ時、智恵子は、ア、これだ! と其靴に目を留めたつけ!  村の螢の名所は二つ、何方に為ようと智恵子が言出すと、小供らは皆舟綱橋に伴れてつて呉れと強請んだ。 『彼方には男生徒が沢山行つてるから、お前達には取れませんよ。』  恁う智恵子が言つた。女児等は、何有男に敗けはしないと口々に騒いだが、結句智恵子の言葉に従つて鶴飼橋に来た。  夏の夜、この橋の上に立つて、夜目にも著き橋下の波の泡を瞰下し、裾も袂も涼しい風にハラめかせて、数知れぬ耳語の様な水音に耳を澄した心境は長く〳〵忘られぬであらう。南岸の崖の木々の葉は、その一片々々が光るかと見えるまで、無数の螢が集つてゐて、それが、時を計つてポーツと一度に青く光る。川水も青く底まで透いて見える。と、一度にスツと暗くなる。また光る、また消える、また光る…………。其中から、迷ひ出る様に風に随つて飛ぶのが、上から下から、橋の下を潜り、上に立つ人の鬢を掠める。低く飛んだのが誤つて波頭に呑まれてその儘あへなく消えるものもある。  低くなつた北岸の川原にも、円葉楊の繁みの其方此方、青く瞬く星を鏤めた其隅々には、暗に仄めく月見草が、しと〳〵と露を帯びて、一団づゝ処々に咲き乱れてゐる。  女児等は直ぐ川原に下りて、キヤツ〳〵と騒ぎ乍ら流れる螢を追つてゐる。智恵子は何がなしに、唯何がなしに橋の上にゐたかつた。其麽事は無い! と否み乍らも、何がなしに、若しや、若しや、といふ朦乎した期待が、その通路を去らしめなかつた。  今日一日の種々な心境と違つた、或る別な心境が、新しく智恵子の心を領めた。そこはかとなき若い悲哀──手頼なさが、消えみ明るみする螢の光と共に胸に往来して、他にとも自分にとも解らぬ、一種の同情が、自と呼吸を深くした。  幸福とは何か? 這麽考へが浮んだ。神の愛にすがるが第一だ、と自分に答へて見た。不図智恵子は、今日一日全く神に背いて暮した様な気がして来た。『神に遁れる、といふ様な事も有得るですね。』と、何時だつたか信吾の謂つた言葉も思出された。智恵子の若い悲哀は深くなつた。遂に讃美歌を歌ひ出した。 『……やーみ路をー、てーらせりー、かーみはーあーいーなりー。』 「愛」といふ語が何がなく懐しかつた。そして又繰り返した。『……あーいーなりー……。』  下駄の音が橋に伝はつた。智恵子は鋭敏にそれを感じて、ツと振返つた。が、待構へてでも居た様に、不思議に動悸もしない。其人とは虫が知らしたのだが……。 (九)の三 『日向様ぢやありませんか?』  恁う言つて、吉野は近いて来た。 『マア、貴方で御座いましたか! 昨日は失礼致しました。』 『僕こそ。』と言ひながら、男は少許離れて鋼線の欄干に靠れた。『意外な所で再お目にかかりましたね。貴女お一人ですか?』 『否、小供達に強請まれて螢狩に。貴方も御散歩?』 『え。少し酒を飲まされたもんですから、密乎逃げ出して来たんです。実に好い晩ですねえ!』 『えゝ。』  不図話が断れた。橋の下の川原には、女児等が夢中になつて螢を追つてゐる。  智恵子は、胸を欄干に推当てた故か、幽かに心臓の鼓動が耳に響く。其間にも崖の木の葉が、光り又消える。 『貴女は、時々被来るんですか、此処等に?』 『否。……滅多に夜は出ませんですけれど。……今日は余り暑かつたもんで御座いますから!』 『あゝ然うですか!』  話はまた断れた。 『随分沢山な螢で御座いますねえ!』と、今度は智恵子が言つた。 『えゝ、東京ぢや迚も見られませんねえ。』 『左様で御座いませうねえ。』 『ア、貴女は以前東京に被居たんですつてね?』 『え。』 『余程以前ですか?』 『六七年前までゝ御座います。』 『然うでしたか!』と、吉野はただ何か言はうとしたが、立入つた身上の話と気が付いて、それなり止めた。  二人は又接穂なさに困つた。そして長い事黙してゐた。吉野は既う顔の熱りも忘られて、酔醒の佗しさが、何がなしの心の要求と戦つた。ツイ四五日前までは不見不知の他人であつた若い美しい女と、恁うして唯二人人目も無き橋の上に並んでゐると思ふと、平生烈しい内心の圧迫を享け乍ら、遂今迄その感情の満足を図らなかつた男だけに、言ふ許りなき不安が、『男は死ぬまで孤独だ!』といふ渠の悲哀と共に、胸の中に乱れた。  若しも智恵子が、渠の嘗て逢つた様な近づき易き世の常の女であつたなら、渠は直ぐに強い軽侮の念を誘ひ起して、自ら此不安から脱れたかも知れぬ。然し眼前の智恵子は、渠の目には余りに清く余りに美しく、そして、信吾の所謂近代的女性で無いことを知つた丈に其不安の興奮が強かつた。自制の意が酔醒の佗しさをかき乱した。豊かな洗髪を肩から背に波打たせて、眤と川原に目を落して、これも烈しく胸を騒がせてゐる智恵子の歴然と白い横顔を、吉野は不思議な花でも見る様に眺めてゐた。  と、飛び交ふ螢の、その一つが、スイと二人の間を流れて、宙に舞ふかと見ると、智恵子の肩を辷つて髪に留つた。パツと青く光る。 『ア、』と吉野は我知らず声を立てた。智恵子は顔を向ける。其機会に螢は飛んだ。 『今螢が留つたんです、貴女の髪に。』 『マア!』と言つて、智恵子は暗ながら颯と顔を染めた。今まで男に凝視られてゐたと思つたので。  で、二人の目は期せずして其一疋の螢の後を追うた。フラ〳〵と頭の上に漂うて、風を喰つた様に逆まに川原に逃げる。 『アレ、先生の方から!』 と、小供の一人が其螢を見付けたらしく、下から叫んだ。 『アレ! アレ!』 『先生! 先生!』  と女児らは騒ぐ、螢はツイと逸れて水の上を横様に。 『先生! 下へ来て取つて下ンせ!』と一人が甘えて呼ぶ。 『今行きますよ。』と智恵子は答へた。下からは口を揃へて同じ事を言ふ。 『行つて見ませう!』恁う吉野が言つて欄干から離れた。 『ハ、参りませう。』 『御迷惑ぢやないんですか貴女は?』 『否。』と答へる声に力が籠つた。『貴方こそ?』 (九)の四  昼は足を〓(「燬」の「臼」に代えて「白」)く川原の石も、夜露を吸つて心地よく冷えた。処々に咲き乱れた月見草が、暗に仄かに匂うてゐる。その間を縫うて、二人はそこはかとなく逍遙うた。 『その感想──孤独の感想がですね。』と、吉野は平生の興奮した語調で語り続けてゐた。『大都会の中央の轟然たる百万の物音の中にゐて感ずる時と、恁うした静かな村で感ずる時と、それア違ひますよ。矢張何ですかね、新しい文明はまだ行き渡つてゐないんで、一歩都会を離れると、世界にはまだ〳〵ロマンチツクが残つてるんですね。畢竟夢が残つてるんですね。』 『ハ!』 『夢を見る暇もない都会の烈しい戦争の中で、間断なしの圧迫と刺戟を享けながら、切迫塞つた孤独の感を抱いてる時ほど、自分の存在の意識の強い事はありませんね。それア苦しいですよ。苦しいけれど、矢張新しい生活は其烈しい戦争の中で営まれるんですね。……が、です、田舎へ来ると違ひます。田舎にはロマンチツクが残つてます。夢が残つてます、叙情詩が残つてます。先刻も一人歩いてゐて然う思つたんですが、この静かな広い天地に自分は孤独だ! と感じてもですね、それが何だか恁う、嬉しい様な気がするんです。切迫塞つた苦しい、意識を刺戟する感想でなくて、余裕のある、叙情的な調子のある……畢竟周囲の空気がロマンチツクだから、矢張夢の様な感想ですね。……僕は苦しくつて怺らなくなると何時でも田舎に逃出すんです。今度も然うです、畢竟、僕自身にもまだロマンチツクが沢山残つてます。自分の芸術から言へば出来るだけそれを排斥しなきや不可い。然しそれが出来ない! 抽象的に言ふと、僕の苦痛が其努力の苦痛なんです。そして結局の所──』と激した語調で続けて来て、 『結局の所、何方が個人の生存──少くとも僕一個人の生存に幸福であるか解らない!』と声を落した。  智恵子は眤と俯むいて、出来る丈男の言ふ事を解さうと努めながら歩いてゐた。 『貴女は寂しい──孤独だと思ふことがありますか?』と、突然吉野が問うた。 『御座います!』と、智恵子は低く力を籠めて言つて、男の横顔を仰いだ。 『貴女は親兄弟にも友人にも言へない様な心の声を何に発表されるんです? 唱歌にですか、涙にですか?』 『神様に……。』 『神様に!』と、男は鸚鵡返しに叫んだ。『神様に! 然うですねえ、貴女には神があるんですねえ!』 『…………』 『僕にはそれが無い! 以前にはそれを色彩と形に現せると思つてゐたんですが、又、実際幾分づゝ現してゐたんですが、それがモウ出来なくなつた。』と言ひ乍ら、吉野は無造作に下駄を脱ぎ、裾を捲つて、ヒタ〳〵と川原の石に口づけてゐる浅瀬にザブ〳〵と入つて行く。 『モウパツサンといふ小説家は、自己の告白に堪へかねて死んだと言ひますがねえ……アヽ、気持が好い、怎うです、お入りになりませんか?』 『ハ。』と言つて智恵子は嫣乎笑つた。そして、矢張跣足になり裾を遠慮深く捲つて、真白き脛の半ばまで冷かな波に沈めた。 『マア、真箇に……!』  吉野は膝頭の隠れる辺まで入つて行く。二人は暫し言葉が断れた。螢が飛ぶ。小供らも二人の態を見て、我先にと裾を捲つて水に入つた。  相対した彼岸の崕には、数知れぬ螢がパーツと光る。川の面が一面に燐でも燃える様に輝く。 『アレツ!』『アレツ、新坊様が!』と魂消つた叫声が女児らと智恵子の口から迸しつた。五歳の新坊が足を浚はれて、呀といふ間もなく流れる。と見た吉野は、突然手を挙げて智恵子の自ら救はんとするを制した。 『大丈夫!』  唯一言、手早く尻をからげてザブ〳〵と流れる小供の後を追ふ。小供は刻々中流へ出る、間隔は三間許りもあらう。水は吉野の足に絡る。川原に上つた小供らは声を限りに泣騒いだ。 (九)の五  川底の石は滑かに、流は迅い。岸の智恵子が俄かの驚きに女児らの泣騒ぐも構はずハラ〳〵してる間に、吉野は危き足を踏しめて十二三間も夜川の瀬を追駆けた。波がザブ〳〵と腰を洗つた。  螢の光と星の影、処々に波頭の蒼白く翻へる間を、新坊はヅブ〳〵と流れて行く。  グイと手を延ばすと、小い足が捉つた。 『大丈夫!』と吉野は声高く呼んだ。 『捉りましたか?』と智恵子の声。 『捉つた!』  吉野は、濡れに濡れて呼吸も絶えたらしい新坊の体を、無造作に抱擁へて川原に引返した。其処へ、騒ぎを聞いて通行の農夫が一人、提灯を携げて下りて来た。 『何したべ? 誰が死んだがナ?』 『何有、大丈夫!』 と、吉野は水から上つた。恰度橋の下である。 『新坊さん、新坊さん!』と智恵子は慌てて小供に手を添へて、『まア真箇に! 怎うしませう!』と顫へてゐる。 『大丈夫ですよ。』 と吉野は落着いた声で言つて、小供の両足を持つて逆様に、小い体を手荒く二三度揮ると、吐出した水が吉野の足に掛つた。  女児等は恐怖に口を噤んで、ブル〳〵顫へて立つてゐる。小いのはシク〳〵泣いてゐた。 『瀬が迅えだでなア! これやハア先生許の小供だナ。』 と、農夫は提灯を翳した。  と、吉野は手早く新坊の濡れた着衣を脱がせて、砂の上に仰向に臥せた。そして、それに跨る様にして、徐々と人工呼吸を遣り出す。  可憐な小い体を、提灯の火が薄く照らした。  智恵子は、シツカリと吉野の脱ぎ捨てた下駄を持つた手を、胸の上に組んで、口の中で何か祈祷をしながら、熱心に男のする態を見てゐた。  大きい螢が一匹、スイと小供の顔を掠めて飛んだ。 『畜生!』  恁う言つて農夫がそれを払つた。 『ワア──』 と、眠から覚めた様な鈍い泣声が新坊の口から洩れた。 『新坊さん!』と、智恵子は驚喜の声を揚げて、矢庭に砂の上の小供に抱着いた。 『生きた! 生きた!』と女児等も急に騒ぐ。  新坊の泣き声も高くなつた。眼も開いた。 『死んだんぢやないんだよ、初めツから。』と、吉野もホツと安心した様な顔を上げて、笑ひながら女児等を見巡はした。 『ハア、大丈夫だ。』と農夫も安心顔。 『何とハア、此処ア瀬が迅えだで、小供等にや危ねえもんせえ。去年もハア……』と、暢気に喋り立てる。 『ワア──』と新坊はまだ泣く。 『その着物を絞つて下さい、日向様、イヤ、それより温めてやらなくちや。』と、吉野は裾やら袖やら濡れた己が着物の帯を解いて、肌と肌、泣く児をピツタリと抱いて前を合せる。 『私抱きませう。』と智恵子。 『構ひません。冷くて気持が好いですよ。サ、モウ泣かなくて可い、好い児だ! 好い児だ!……イヤ、恁うしてるよりや家へ帰つて寝かした方が好い。然う為ませう日向様! 此儘お送りしますから。温めなくちや、悪い!』 『そンだ、其方が好うがンす。』と農夫も口を添へる。 『済みません、貴方!』と、智恵子は心を籠めて言つて、『私がウツカリしてゐて這麽事になつて……。』 『然うぢやない、僕が悪いんです。僕が先に川に入つて見せたんだから!』 『否、私……夢見る様な気持になつてゐて、つい……。』  その顔を、吉野はチラリと見た。 (九)の六  星影疎らに、川瀬の音も遠くなつた。熟した麦の香が、暗い夜路に漂ようてゐる。  先に立つた女児等の心々は、まだ何か恐怖に囚はれてゐて、手に手に小い螢籠を携へて、密々と露を踏んでゆく。訳もなく歔欷げてゐる新坊を、吉野は確乎と懐に抱いて、何か深い考へに落ちた態で、その後に跟いた。  智恵子は、片手に濡れた新坊の着物を下げて、時々心配顔に小供の顔を覗き乍ら、身近く吉野と肩を並べた。胸は感謝の情に充溢になつてゐて、それで、口は余り利けなかつた。 『阿母様!』 と、新坊は思出した様に時々呼んで、ワアと力なく泣く。 『モウ泣かないの、今阿母様の処へ伴れてつて下さるわ。ねえ、新坊様、モウ泣かないの。』 と、智恵子は横合から頻に慰める。 『真箇に私、……貴方が被来らなかつたら、私奈何したで御座いませう!』 『其麽事はありません。』 『だつて私、万一の事があつたら、宿の小母さんに甚麽にか……。』 『日向様!』 と吉野は重々しい語調で呼んだ。 『僕は貴女に然う言はれると、心苦しいです。誰だつて那の際那の場処に居たら、那麽位の事をするのは普通ぢやありませんか?』 『だつて、此児の生命を救けて下すつたのは、現在貴方ぢや御座いませんですか!』 『日向様!』と吉野は再呼んだ。『モ少許真摯に考へて見ませう……若し那の際、那処に居たのが貴女でなくて別の人だつたらですね、僕は同じ行動を行るにしても、モツト違つた心持で行つたに違ひない。』 『まあ貴女は、……』 『言つて見れば一種の偽善だ!』  然う言ふ顔を、智恵子は暗ながら眤と仰いだ。何か言はうとしても言へなかつた。 『偽善です!』と、男は自分を叱付ける様に重く言つた。渠は今、自分の心が何物かに征服される様に感じてゐる。それから脱れ様として恁麽事を言ふのだ。『偽善です! 人が善といふ名の付く事をする、その動機は二つあります。一つは自分の感情の満足を得る為、畢竟自分に甘える為、も一つは他に甘える為です。』 『貴方は──』 と言ふより早く、智恵子の手は突然男の肩に捉つた。強烈い感動が、女の全身に溢れた。強く〳〵其顔を男の二の腕に摩り付けて、 『貴方は……貴方は……』 と言ひ乍ら、火の様な熱い涙が滝の如く、男の肌に透る。  吉野は礑と足を留めて、佶と脣を噛んだ。眼も堅く閉ぢられた。 『ワア──』と、驚いた様に新坊が泣く。  はしたない事をした、といふ感じが矢の如く女の心を掠めた。と、智恵子は、モ一度、 『貴方は!』 と迸しる様に言つて、肩に捉つた手を烈しく男の首に捲いた。 『先生!』と、五六間前方から女児等が呼ぶ。 『行きませう!』と男は促した。 『ハ。』と云ふも口の中。身も世も忘れた態で、顔は男の体から離しともなく、二足三足、足は男に縺れる。 『日向様!』と男は足を留めた。 『お許し下さい!』と絶入る様。 『僕は東京へ帰りませう!』 と言ふ目は眤と暗い処を見てゐる。 『……何故で御座います?』 『……余り不思議です、貴女と僕の事が。』 『…………』 『帰りませう! 其方が可い。』 『遣りません!』と智恵子は烈しく言つて、男の首を強く絞める。 『あゝ──』と吉野は唸る様に言つた。 『お、お解りに、なりますまい、私のこ、心が……。』 『日向様!』と、男の声も烈しく顫へた。『其言葉を、僕は、聞きたくなかつた!』  矢庭に二つの顔が相触れた。熟した麦の香の漂ふ夜路に、熱かい接吻の音が幽かに三度四度鳴つた。 (九)の七  其夜、母に呼ばれて母屋へ行つた静子が、用を済まして再び庭に出て来た時は、モウ吉野の姿が見えなかつた。植込の蔭、築山の上、池の畔、それとなく尋ね廻つて見たが、矢張見えなかつた。  客は九時過になつて帰つた。父の信之は酔倒れて了つた。お柳は早くから座を脱して寝てゐたが、 『静や、吉野様はモウお寝みになつたのかえ。』 『否、酔ツたから散歩して来るツて出てらしツてよ。』 『何時頃?』 『二時間も前だわ。何処へ被行たでせう?』 『昌作さんとかえ?』 『否、お一人。松蔵でもお迎ひにやツて見ませうか。』 『然うだねえ。』 『大丈夫だよ。』 と言ひ乍ら、赤い顔をした信吾が入ツて来た。 『彼奴の事た、橋の方へでも行つてブラ〳〵してるだらう。それより俺は頭が痛くて為様がないから、寝かして呉れよ。』 『お先に?』 『帰つたら然う言つて呉れ。そして床を延べて置いてやれ、あゝ酔つた!』  で、静子は下女に手伝はして、兄を寝せ、座敷を片付けてから、一人離室に入つた。夜気が湿りと籠つて、人なき室に洋燈が明るく点いてゐる。  一枚だけ残して雨戸も閉め、散乱つた物を丁寧に片寄せて、寝具も布き、蚊帳も吊つた。不図静子は、 『智恵子様許へ被行つたのか知ら!』といふ疑ひを起した。『だつて、夜だもの。』『然し。』『豈夫。』といふ考へが霎時胸に乱れた。 『それにしても奈何なすつたらう?』  静子は、何がなしに此室に居て見たい様な気がした。で、夏座布団を布いた机の前に坐つて、心持洋燈の火を細くした。 『秋になつたら私が此室にゐる様にしようか知ら!』  机の上には、書が五六冊。不図其中に、黒い表紙の写生帳が目に付いた。静子は何気なく其を取つて、或所を披いた。  と、静子の眼は輝いた。顔が染まつた。人なき室をキヨロ〳〵と見巡して再それを熱心に見る。──鉛筆の走書の粗末ではあるが、書かれてあるのは擬ひもなく静子自身の顔ではないか!  Erste Eindruck(第一印象)と、独逸語で其上に書かれた。それは然し、何の事やら静子には解らなかつた。  静子は、気がさした様に、俄かにそれを閉ぢて以前の様に書の間に重ねた。そして、逃げる様に室を出た。心はそこはかとなく動いて、若々しい鼓動が頻りに胸に打つた。  次の頁にも、その次の頁にも、智恵子の顔の書かれてあることは、静子は遂に知らなかつた。  間もなく庭に下駄の音がした。静子は妙に躊躇つた上で、急いで再離室に来た。一枚残した雨戸から、恰度吉野が上るところ、 『怎うも遅くなつちやつて。』 『否。お帰り遊ばせ。』  恁う云つたが、男の顔を見る事は出来なかつた。俯向いた顔は仄りと紅かつた。急いで洋燈を明るくする。 『実に済みませんでした。這麽に遅くなる積ぢやなかつたんですが……。』 『否、貴方。アノ、兄はお酒を過して頭痛がすると言つて、お先に……。』 『然うですか。僕はスツカリ醒めちやつた。モウ何時頃でせう?』 『十時、で御座いませう。』  吉野はドカリと机の前に座つた。ト静子は、今し方自分が其処に座つた事が心に浮んで、 『お寝み遊ばせ。』 と言ふより早く障子を閉めて縁側に出た。吉野はグタリと首を垂れて眼を瞑つた。着衣はシツトリと夜気に萎えてゐる。裾やら袖やら、川で濡らした此着衣を、智恵子とお利代が強つて勧めて乾かして呉れたのだ。その間、吉野は誰の衣服を着てゐたか! 『智恵子! 智恵子!』 と吉野の心は叫んだ。密と左の二の腕に手を遣つて見た。其処に顔を押付けて、智恵子は何と言つた⁉ 『貴方は……貴方は……!』 (十)の一  吉野が新坊の生命を救けた話は、翌朝朝飯の際に吉野自身の口から、簡単に話された。  同じ話がまた、前夜其場に行合せた農夫が、午頃何かの用で小川家の台所に来た時、稍詳しく家中の耳に伝へられた。成年者達は心から吉野の義気に感じた様に、それに就いて語つた。信吾と静子は、顔にも言葉にも現されぬ或る異つた感想を抱かせられた。  昌作はまた、若しもそれが信吾によつて為された事なら甚麽にか不愉快を感じたらうが、何がなしに虫の好く吉野だつたので、その豪いことを誇張して継母などに説き聞せた。そして、かの橋下の瀬の迅い事が話の起因で、吉野に対つて頻りに水泳に行く事を慫慂めた。昌作の吉野に対する尊敬が此時からまた加つた。  其翌日か翌々日、叔母と其子等は盛岡に帰つて行つた。この叔母は、数ある小川家の親籍の中でも、殊更お柳と気心が合つてゐた。といふよりは、夫が非職の郡長上りか何かで、家が余り裕かで無いところから、お柳の気褄を取つては時々恁うして遣つて来て、その都度家計向の補助を得てゆくので。お柳は、松原からの縁談がモウ一月の余もバタリと音沙汰がないのを内々心配してゐたので、密かにこの叔母に相談した。女二人の間には人知れず何事かの手筈が決められた。叔母は素知らぬ顔をして帰つて了つた。  叔母を送つて好摩の停車場に行つた下男と下女は、新しい一人の人物を小川家に導いて帰つた。それは外ではない、信之の次男、静子とは一歳劣りの弟の、志郎といふ士官候補生だ。  志郎は兄弟中での腕白者、お柳の気には余り入らぬが、父の信之からは此上なく愛されてゐる。静子と縁談の持上つてゐる松原家の三男の狷介とは小い時からの親友で、相共に陸軍に志し試験も幸ひと同時に及第して士官学校に入つた。一日から二十日間の休暇を一週間許り仙台に遊んで、確とした前知らせもなく帰つて来たのだ。  或日、母のお柳は志郎を呼んで、それとなく松原中尉の噂を聞いてみた。その返事は少からずお柳を驚かせた。 『松原の政治か! 彼奴ア駄目だよ、阿母様、狷介なんかも兄貴に絶交して遣らうなんて言つてゐた。』 『奈何してだい、それはまた?』 『奈何してツて、那麽馬鹿はない。それや評判が悪いよ、此年の春だつけかナア、下宿してゐた素人屋の娘を孕ませて大騒ぎを行つたんだよ、友人なんか仲に入つて百五十円とか手切金を遣つたさうだ。那麽奴ア吾々軍人の顔汚しだ。』  お柳は猶その話を詳しく訊いた上で、その事は当分静子にも誰にも言ふなと口留した。  志郎は淡白な軍人気質、信吾を除いては誰とも仲が好い。緩々話をするなんかは大嫌ひで、毎日昌作と共に川にゆく、吉野とも親んだ。──  常ならぬ物思ひは、吉野と信吾と静子の三人の胸にのみ潜んだ。そして、三人とも出来るだけそれを顔に表さぬ様に努めた。智恵子の名は、三人とも怎うしたものか可成口に出すことを避けた。  吉野は医師の加藤と親んで、写生に行くと言つて出ては、重ねて其家を訪ねた。  智恵子は唯一度、吉野も信吾も居らぬ時に遊びに来たツ限。  暑い〳〵八月も中旬になつた。螢の季節も過ぎた。明日は陰暦の盂蘭盆といふ日、夕方近くなつて、門口から噪いだ声を立てながら神山富江が訪ねて来た。 (十)の二  富江が来ると、家中が急に賑かになつて、高い笑声が立つ。暑熱盛りをうつら〳〵と臥てゐたお柳は今し方起き出して、東向の縁側で静子に髪を結はしてる様子。その縁側の辺から、富江の声が霎時聞えてゐたが、何やら鋭く笑ひ捨てて、縁側伝ひに足音が此方へ来る。  信吾も昼寝から覚めた許り、不快な夢でも見た後の様に、妙に燻んだ顔をして胡坐を掻いてゐた。富江の声や足音は先から耳についてゐる。が、心は智恵子のことを考へてゐた。  或は一人、或は吉野と二人、信吾は此月に入つてからも三四度智恵子を訪ねた。二人の話はモウ以前の様に逸まなくなつた。吉野が来てからの智恵子は、何処となく変つた点が見える。さればと言つて別に自分を厭ふ様な様子も見せぬ。  かの新坊の溺死を救けた以来、吉野が一人で、或は昌作を伴れて、智恵子を訪ねることも、信吾は直ぐに感付いてゐた。二人の友人の間には何日しか大きい溝が出来た。信吾は苛々した不快な感情に支配されてゐる。  いつそ結婚を申込んでやらうか、と考へることがないでもない。が、信吾は左程までに深く智恵子を思つてるのでもないのだ。高が田舎の女教員だ! といふ軽侮が常に頭脳にある。確固した女だとも思ふ。確固した、そして美しい女だけに、信吾は智恵子をして他の男──吉野を思はしめたくない。何といふ理由なしに。自分には智恵子に思はれる権利でもある様に感じてゐる。『吉野を帰して了ふ工夫はないだらうか!』這麽考へまでも時として信吾を悩ました。  そして又、静子の吉野に対する素振も、信吾の目に快くはなかつた。総じて年頃の兄が、年頃の妹の男に親まうとするを見るのは、楽いものではない。平生恋といふものに自由な信条を抱いてる男でも、其麽場合には屹度自分の心の矛盾を発見する。 『戸籍上は兎も角、静子はモウ未亡人ぢやないか!』  信吾の頭脳には恁麽皮肉さへも宿つてゐる。これと際立つところはないが、静子が吉野の事といへば何より大事にしてゐる、それが唯癪に障る。理由もなく不愉快に見える──。 『マア、起きてらつしつたんですか!』と、富江は開け放した縁側に立つた。 『貴女でしたか!』 『オヤ、別の人を待つてゐたの!』 『ハツハハ。相不変不減口を吐く! 暑いところを能くやつて来ましたね。』 『貴方が昼寝してるだらうから、起して上げようと思つて。』 『屹度神山さんが来ると思つたから、恁うしてチヤンと起きて待つてたんですよ。』 『其麽事誰方から習つて? ホホヽヽ、マア何といふ呆然した顔! お顔を洗つて被来いな。』と言ひ乍ら、遠慮なく座つた。 『適はない、適はない。それぢや早速仰せに従つて洗つて来るかな。』 『然うなさいな。モウ日が暮れますから。』と言つて、無造作に其処に落ちてゐる小形の本を取る。  立ち上つた信吾は、 『ア、其奴ア可けない。』と、それを取返さうとする。  娘らしい、態をして、富江は素早く其手を避けた。 『何ですの、これ? 小説?』  黄い本の表紙には、〝True Love〟と書かれた。文科の学生などの間に流行てゐる密輸入のアメリカ版の怪しい書だ。 『ハツハハ。』と信吾は手を引込ませて、『マア小説みたいなもんでサ。』 『みたいなナンテ……確乎教へたつて好いぢやありませんか? 私は読めるんぢやなし……。』 『それが読めたら面白いですよ。』と、信吾はニヤ〳〵笑つてゐる。 『日向様の真似をして私も英語をやりませうか?』と言つて、富江は皮肉に笑つてる眼で男を仰いだ。  そして直ぐ何か思出した様に声を落して、『然う〳〵、信吾さん、面白い話がありますよ。』 『甚麽?』 『マアお顔を洗つてらつしやいな。』 (十)の三  顔を洗つて来た信吾は、気も爽々した様で、ニヤ〳〵笑ひながら座についた。 『アラ、貴方のお髯は洗つても落ちませんね。』 『戯談ぢやない。それより何です、面白い話といふのは?』 『詰らない事ですよ。』 『其麽に自重せなくても可いぢやないですか?』 『其麽に聞きたいんですか?』 『貴女が言ひ出して置いた癖に。』 『ホホヽヽ。そんなら言ひませうか。』 『聞いて上げませう。』 『アノネ……』と、富江は探る様な目付をして、笑ひ乍ら真面に信吾を見てゐる。  信吾は、其話が屹度智恵子の事だと察してゐる。で、恁う此女に顔を見られると、擽られる様な、かつがれてる様な気がして、妙に紛らかす機会がなくなつた。 『何です!』 と少し苛々した語調。 『ホホヽヽ。』と富江は再笑つた。『或人がね。』 『或人ツて誰?』 『マア。』 『可し〳〵。その或人が怎うしたんです?』 『アノ方をね。』と離室の方を頤で指す。 『吉野を。』と信吾の眼尻が緊つた。 『ホホヽヽ。』 『吉野を怎うしたんです?』 『……ですとサ。ホホヽヽ。』 『豈夫! 神山様の口にや戸が閉てられない。』 と言つて、何を思つてか膝を揺つて大きく笑つた。  目的が脱れたといふ様に、富江は急に真面目な顔をして、 『真箇ですよ。』 『豈夫? 誰が其麽事言つたんですか?』 『矢張聞きたいんでせう?』 『聞きたいこともないが、……然し其奴ア珍聞だ。』 『珍聞?』と、また勝誇つた眼付をして、『貴方も余程頓馬ね!』 『怎うして?』 『怎うしてだと! ホヽヽヽ。』と、持つてゐる書で信吾の膝を突く。 『それより神山様、誰が其麽事言つたんですか?』 『確かな所から。』 『然し面白いなア。ハツハハ。真箇だつたら実に面白い。可し〳〵、一つ吉野に揶揄つてやらう。』と、一人態と面白さうに言ふ。 『其麽に面白くつて?』 『面白いさ。宛然小説だ!』 『然うね。この話は誰より一番信吾様に面白いの。ね、然うでせう?』 『それはまた、怎うした訳です?』 『ね、然うでせう? 然うでせう?』 と、男を圧迫る様に言つて探る様な眼を異様に輝かした。そして、弾機でも脱れた様に、 『ホホヽヽ。』と笑つた。 『ハハヽヽ。』と、信吾も為方なしに笑つて、『実に詭弁家だな神山様は!』 『詭弁家? 怎うせ然うよ、今の話も私が拵へたんだから!』 『否、其意味ぢやないんですよ。誰です、それを言つたのは?』  其顔を嘲る様に眤と見て、『矢張気に懸るわね、信吾様!』 『莫迦な!』と言つたが、女に自分の心を探られてゐるといふ不快が信吾の脳を掠めた。『それより奈何です、その吉野の方へ行つてみませんか?』 『行きませう。』  信吾はツト立つて縁側に出ると、 『吉野君。』 と大きく呼んだ。 『何だ?』と落着いた返事。 『昼寝してたんぢやないのか! 今神山さんが来たが、其方へ行つても可いか?』 『来たまへ。』 『行きませう。』と富江を促して、信吾は先に立つ。富江は何か急に考へる事でも出来た様な顔をして、黙つてその後に跟いた。縁側伝ひ、蔭つた庭の植込に蜩が鳴き出した。 (十)の四  今年の春の巴里のサロンの画譜を披いて、吉野は何か昌作に説明して聞かしてゐた。  一通りの挨拶が済むと、富江はすぐ立つて、壁に立掛けてある書きかけの水彩画を見る。信吾はゴロリと横になつて、その画のことを吉野と語る。 『昌作さん。』と富江が呼びかけた。『貴方昨日町へ被行つて?』 『行つた。山内へ見舞に。』 『奈何でしたの、御病気は?』と笑つてゐる。 『それや可哀想ですよ。臥たり起きたりだが、今年中に死ぬかも知れないなんて言つてるもの』 『其麽に悪いかねえ。それや可哀想だ。何しろ那の体だからなア。』と信吾は別に同情した風もなく言ふ。 『盛岡に帰るさうだ。四五日中に。』 『昌作さん。』と富江は再呼んだ。そして急しく吉野と信吾の顔を見巡して、 『好い物上げませうか、貴方に?』 『何です?』 『好い物なら僕も貰ひたいな。』 『信吾さんには可厭。ねえ昌作様、上げませうか?』 『何だらうな!』と昌作は躊躇する。 『二人が喧嘩しちや可けないから僕が貰ひませうか?』と吉野は淡白に笑ふ。 『ねえ昌作様、誰方にも見せちや可けませんよ。』 『可し、志郎と二人で見る。』 『否、貴方一人で見なくちや可けないの。』と言ひながら、富江は何やら袂から出して、掌に忍せて昌作に渡す。  昌作は極悪気にそれを受けた。そして、 『可し、可し。』と言ひながら庭下駄を穿いて、 『オイ、志郎! 好い物があるぞ。』 と声高に母屋の方へゆく。 『あら可けませんよ、人に見せちや。』と富江は其後から叫んで、そして、面白さうにホホヽヽと笑つた。  二人は好奇心に囚れた。 『何です、何です?』と信吾が言ふ。 『何でもありませんよ。』と、済し返つて、吉野の顔をチラと見た。 『怪しいねえ、吉野君。』 『ハツハハ。』 『豈夫! 信吾さんたら真箇に人が悪い。』と何故か富江は少し慎しくしてゐる。  其処へ、緑美しき甜瓜を盛つた大きい皿を持つて、静子が入つて来た。 『余り甘味くないんですけれど……。』 『何だ? 甜瓜か! 赤痢になるぞ。』と信吾。 『マ兄様は!』と言つて、『真箇でせうか神山様、赤痢が出たつてのは?』 『真箇には真箇でせうよ。隔離所は三人とか収容したつてますから。ですけれど大丈夫ですわねえ、余程離れた処ですもの。』 『ハヽヽ。神山様が大丈夫ツてのなら安心だ。早速やらうか。』と信吾が真先に一片摘む。  軈て、裾短かの筒袖を着た志郎と昌作が入つて来た。 『ヤア志郎さん、今迄昼寝ですか?』と吉野が紛帨に手を拭き乍ら言ふ。 『否、僕は昼寝なんかしない。高畑へ行つて号令演習をやつて来て、今水を浴つたところです。』 『驚いた喃。君は実に元気だ!』  昌作は何か亢奮してる態で、肩を聳かして胡坐をかいた。 『何だい彼物は、昌作さん?』と信吾が訊く。 『莫迦だ喃!』と昌作は呟く様に言つて、眤と眼鏡の中から富江を見る。『然し俺は山内に同情する。』  富江は笑ひながら、『アラ可けませんよ、此処で喋つては。』 『僕も見た。』と志郎が口を入れた。『オイ昌作さん、皆に報告しようか?』 『言へ、言へ。何だい?』と信吾は弟を唆かす。昌作は黙つて腕組をする。 『言はう。』と志郎は快活に言つて、『アレは肺病で将に死せんとする山内謙三の艶書です。終り。』 『マア、志郎さんは酷い!』と、流石に富江も狼狽する。 『艶書?』と、皆は一度に驚いた。 『それが怎うしたの、志郎様!』と静子が訊く。  呆れてゐる信吾の顔を富江は烈しい目で凝視めてゐた。 (十一)の一  前日富江が来て、急に夕方から加留多会を開くことになり、下男の松蔵が静子の書いた招待状を持つて町に走せたが、来たのは準訓導の森川だけ。智恵子は病気と言つて不参。到頭肺病になつて了つた山内には、無論使者を遣らなかつた。  智恵子の来なかつたのは、来なければ可いと願つた吉野を初め、信吾、静子、さては或る計画を抱いてゐた富江の各々に加留多に気を逸ませなかつた。其夜は詰らなく過ぎた。  静子の生涯に忘るべからざる盆の十四日の日は、朗々と明けた。風なく、雲なく、麗かな静かな日で、一年中の愉楽を盆の三日に尽す村人の喜悦は此上もなかつた。  村に禅寺が二つ、一つは町裏の宝徳寺、一つは下田の喜雲寺、何れも朝から村中の善男善女を其門に集めた。静子も、母お柳の代理で、養祖母のお政や小供らと共に、午前のうちに参詣に出た。  その帰路である。静子は小妹二人を伴れて、宝徳寺路の入口の智恵子の宿を訪ねた。智恵子は、何か気の退ける様子で迎へる。 『怎うなすつたの、智恵子さん? 風邪でもお引きなすつて?』 『否、今日は何とも無いんですけれど、昨晩恰度お腹が少し変だつた所でしたから……折角お使者を下すつたのに、済みませんでしたわねえ。』 『心配したわ、私。』と、静子は真面目に言つた。『貴女が被来らないもんだから、詰らなかつたの加留多は。』 『アラ其麽事は有りませんわ。大勢被行つたでせう、神山様も?』 『けどもねえ智恵子様、怎うしたんだか些とも気が逸まなかつてよ。騒いだのは富江さん許り……可厭ねアノ人は!』 『……那麽人だと思つてれヤ可いわ。』  静子は、その富江が山内の艶書を昌作に呉れた事を話さうかと思つたが、何故か二人の間が打解けてゐない様な気がして、止めて了つた。三十分許り経つて暇乞をした。  二人は相談した様に、吉野のことは露程も口に出さなかつた。  静子が家へ帰ると、信吾は待ち構へてゐたといふ風に自分の室へ呼んで、そして、何か怒つてる様な打切棒な語調で、智恵子の事を訊いた。  静子は有の儘に答へた。 『然うか!』 と言つた信吾の態度は、宛然、其麽事は聞いても聞かなくても可いと言つた様であつたが、静子は征矢の如く兄の心を感じた。そして、何といふ事なしに、 『兄様に宜敷と言つてよ、智恵子様が!』 と言つて見た。智恵子は何とも言つたのではないが。 『然うか!』と、信吾は再卒気なく答へた。  そして、昼飯が済むと、フラリと一人出て、町へ行つた。  信吾が出かけて間もなくである。月の初めに子供らを伴れて来た盛岡の叔母が、見知らぬ一人の老人を伴れて来た。叔母は墓参の為と披露した。連の男は松原家から頼まれて来たのだとは直ぐ知れた。言ふまでもなく静子の縁談の事で。  父の信之、祖父の勘解由、母お柳、その三人と松原家の使者とは奥の間で話してゐる。叔母も其席に出た。静子は今更の様に胸が騒ぐ。兄の居ないのが恨めしい。若しや此話から、自分と死んだ浩一との事が吉野に知れはしないかと思ふと、その吉野にも顔を見せたくなかつた。  室に籠つたり、台所へ行つたり、庭に出たり、兎角して日も暮れかかつた。信吾はそれでも帰つて来ない。夕方から一緒に盆踊を見に行く筈だつたのだが。  晩餐の時、媒介者が今夜泊るのだと叔母から話された。信吾は全然暗くなつても帰らぬ。母お柳の勧めで、兄とは町へ行つて逢ふことにして、静子は吉野と共に小妹達や下女を伴れて踊見物に出ることになつた。 (十一)の二  恰度鶴飼橋へ差掛つた時、円い十四日の月がユラ〳〵と姫神山の上に昇つた。空は雲一片なく穏かに晴渡つて、紫深く黝んだ岩手山が、歴然と夕照の名残の中に浮んでゐる。  仄りと暗い中空には、弱々しい星影が七つ八つ、青びれて瞬いてゐた。月は星を呑んで次第〳〵に高く上る。町からはモウ太鼓の響が聞え出した。  たとへ何を言つたとて小妹共には解る筈がない。吉野と肩を並べて歩みを運ぶ静子の心は、言ふ許りなく動悸いてゐた。家には媒介者が来てゐる。松原との縁談は静子の絶対に好まぬ所だ。その話の発落が恁うして歩いてゐ乍らも心に懸らぬではない。否、それが心に懸ればこそ、静子は種々の思ひを胸に畳んだ。 『若し此人(吉野)が自分の夫になる人であつたら! 否、若し此人が現在自分の夫であつたら!』  月明かに静かな四辺の景色と、遠き太鼓の響とは、静子の此心境に適合しかつた。静子は小妹共の罪なき言葉に吉野と声を合して笑ひ乍ら、何がなき心強さと嬉しさを禁ずることが出来なかつた。よし何事が次いで起らなかつたにしても、静子は此夜の心境を忘れる事は出来ぬであらう。  松原からの縁談は、その初め、当の対手の政治に対する嫌悪の情と、自分が其人の嫂であつたことに就ての、道徳的な思慮やら或る侮辱の感やらで、静子は兄に手頼つて破談にしようとした。が、一度吉野を知つてからの静子は、今迄の理由の外に、モ一つ、何と自分にも解らぬが、兎にも角にも心の底に強い頼みが出来た。  恰度橋の上に来た時である。 『此処で御座いましたわねえ、初めてお目に懸つたのは!』  恁う静子は慣々しく言つてみた。月は其夢みる様な顔を照した。 『然うでしたねえ!』 と吉野は答へた。そして、何か思出した様に少許俯向いて黙つた。  その態度は、屹度那の時の事を詳しく思出してるのだと静子に思はせた。静子も強ひて其時の事を思出して見た。二人が今、互ひに初めて逢つた時を思出してるといふ感が、女の心に言ふ許りなき満足を与へた。  が、吉野の胸にあつたのは其事ではなかつた。渠は、信吾が屹度智恵子の家にゐると考へた。そして今自分らが訪ねて行つたら、何と信吾が嘘を吐いて、夕方までに帰らなかつた申訳をするだらうと想像してゐた。  町に入ると、常ならぬ花やかな光景が、土地慣れぬ吉野の目に珍しく映つた。家々の軒には、怪気な画や「豊年万作」などの字を書いた古風の行燈や提灯が掲げてある。街路の両側には、門々に今を盛りと樺火が焚いてある。其赤い火影が、一筋町の賑ひを楽しく照して、晴着を飾つた徂来の人の顔が何れも〳〵酔つてる様に見える。  町は悦気な密語に充ちた。寄太鼓の音は人々の心を誘ふ。其処此処に新しい下駄を穿いた小児らが集つて、樺火で煎餅などを焼いてゐる。火が爆ぜて火花が街路に散る。年長な小児らは勢ひ込んで其列んだ火の上を跳ねてゆく。恰度夕餉の済んだところ。赤い着物を着た女児共は、打連れて太鼓の音を的にさゞめいて行く。  町も端れの智恵子の宿の前には、消えかかつた樺火を取巻いて四五人の小児等がゐた。 『梅ちやん! 梅ちやん!』 と、小妹共が先づ駆け寄る。其後から静子は、 『梅ちやん、先生は?』 と優しく言ひながら近づいた。  静子は直ぐ気が付いた。梅ちやんの着てゐる紺絣の単衣、それは嘗て智恵子の平常着であつた! あな我が君のなつかしさよ、    まみゆる日ぞまたるる。 君は谷の百合、峰のさくら、    うつし世にたぐひもなし。  家の中からは幽かに讃美歌の声が洩れる。信吾は居ない! 恁う吉野は思つた。 『先生! 先生!』と、梅ちやんは門口から呼ぶ。 (十一)の三  智恵子に訊くと、信吾は一時間許り前に帰つたといふ。 『マア何処へ行つたんでせうねえ。夕方までに帰つて、私達と一緒に再出かける筈でしたのよ。これから何処へ行くとも何とも言はなかつたんでせうか?』 『否、何とも別に。』と言つて、智恵子は意味有気な目で吉野を仰いで、そして俯向いた。 『歩いてゐたら逢ふでせうよ。』と吉野は鷹揚に言つた。『怎うです。日向様も被行いませんか、盆踊を見に?』 『ハ。……マアお茶でも召上つて……。』 『直ぐ被行いな、智恵子様。何か御用でも有つて?』と静子も促す。 『否。』 『行きませう! 僕は盆踊は生れて初めてなんです。』と、吉野はモウ戸外へ出る。  で、智恵子は一寸奥へ行つて、帯を締直して来て、一緒に往来に出た。  樺火は少許頽れた。踊がモウ始まつたのであらう、太鼓の音は急に高くなつて、調子に合つてゐる。唄の声も聞える。人影は次第々々にその方へながれて行く。  提灯を十も吊した加藤医院の前には大束の薪がまだ盛んに燃えてゐて、屋内は昼の如く明るく、玄関は開放されてゐる。大形の染の浴衣に水色縮緬をグル〳〵巻いた加藤を初め、清子、薬局生、下女、皆玄関に出て往来を眺めてゐた。 『ヤア、皆様お揃ひですナ。』と、加藤から先づ声をかける。 『お涼みですか。』と吉野が言つて、一行はゾロ〳〵と玄関に寄つた。 『Guten Abend, Herr Yoshino! ハハヽヽ。』と、近頃通信教授で習つてるといふ独逸語を使つて、加藤は太つた体を揺ぶる。晩酌の後で殊更機嫌が可いと見える。 『サ、マアお上りなさい、屹度被来ると思つたからチヤンと御馳走が出来てます。』 『それは恐入つた。ハハヽヽ。』  傍では、静子が兄の事を訊いてゐる。 『先刻一寸被行つてよ。晩にまた来ると被仰つて直ぐお帰りになりましたわ。』と清子が言ふ。 『ウン、然う〳〵。』と加藤が言つた。 『吉野さん、愈々盆が済んだら来て頂きませう。先刻信吾さんにお話したら夫れは可い、是非書いて貰へと被仰つてでしたよ。是非願ひませう。』 『小川君にお話しなすつたですか! 僕は何日でも可いんですがね。』 『真箇に、小川様に被居るよりは御不自由で被居いませうが、お書き下さるうちだけ是非何卒……。』と清子も口を添へる。そして静子の方を向いて、 『アノ、何ですの、宅がアノ阿母様の肖像を是非吉野様に書いて頂きたいと申すんで、それで、お書き下さる間、宅に被行つて頂きたいんですの。』 『太丈夫、静子様。』と加藤が口を出す。 『お客様を横取りする訳ぢやないんです。一週間許り吉野様を拝借したいんで……直ぐお返ししますよ。』 『ホヽヽ、左様で御座いますか!』と愛想よく言つたものの、静子の心は無論それを喜ばなかつた。  吉野は無理矢理に加藤に引張込まれた。女連は霎時其処に腰を掛けてゐたが、軈て清子も一緒になつて出た。  町の恰度中央の大きい造酒家の前には、往来に盛んに篝火を焚いて、其周囲、街道なりに楕円形な輪を作つて、踊が初まつてゐる。輪の内外には沢山の見物。太鼓は四挺、踊子は男女、小供らも交つて、まだ始まりだから五六十人位である。太鼓に伴れて、手振足振面白く歌つて廻る踊には、今の世ならぬ古色がある。揃ひの浴衣に花笠を被つた娘等もある。編笠に顔を蔽して、酔つた身振の可笑く、唄も歌はずに踊り行く男もある。  月は既に高く上つて、楽気に此群を照した。女連は、睦気に語りつ笑ひつし乍ら踊を見てゐた。  と、軽く智恵子の肩を叩いた者があつた。静子清子が少し離れて誰やら年増の女と挨拶してる時。 (十一)の四  振向くと、何時医院から出て来たか吉野が立つてゐる。 『アラ!』  智恵子は恁う小声に言つて、若い血が顔に上つた。何がなしに体の加減が良くないので、立つてゐても力が無い。幾挺の太鼓の強い響きが、腹の底までも響く。──今しもその太鼓打が目の前を過ぎる。  吉野は無邪気に笑つた。  二人は並んで立つた、立並ぶ見物の後だから人の目も引かぬ。 (私──と──) と、好い声で一人の女が音頭をとる。それに続いた十人許りの娘共は、直ぐ声を合せて歌ひ次いだ。 (──お前─は─ア御門─の─とび─ら─ア、朝─に─イわか─れ─てエ、晩に逢ふ──)  同じ様な花笠に新しい浴衣、淡紅色メリンスの襷を端長く背に結んだ其娘共の中に、一人、背の低い太つたのがあつて、高音中音の冴えた唄に際立つ次中音の調子を交へた、それが態と道化た手振をして踊る。見物は皆笑ふ。  ドヾドンと、先頭の太鼓が合を入れた。続いた太鼓が皆それを遣る。調子を代へる合図だ。踊の輪は淀んで唄が止む、下駄の音がゾロ〳〵と縺れる。 (ドヾドコドン、ドコドン──) と新しく太鼓が鳴り出す。──ヨサレ節といふのがこれで。──淀んだ輪がまたそれに合せて踊り始める。何処やらで調子はづれた高い男の声が、最先に唄つた── (ヨサレ─茶屋のか─アかア、花染─の─たす─き─イ──) 『面白いですねえ。』と、吉野は智恵子を振返つた。『宛然古代に帰つた様な気持ぢやありませんか!』 『えゝ。』  智恵子は踊にも唄にも心を留めなかつた様に、何か深い考へに落ちた態で、悩まし気に立つてゐた。 と見た吉野は、 『貴女何処かまだ悪いんぢやないんですか! お体の加減が。』 『否、たゞ少許……』  俄かに見物が笑ひどよめく。今しも破蚊帳を法衣の様に纏つて、顔を真黒に染めた一人の背の高い男が、経文の真似をしながら巫山戯て踊り過ぎるところで。 『吉野様!』  智恵子は思切つた様に恁う囁いた。 『何です?』 『アノ……』と、眤と俯向いた儘で、 『私今日、アノ、困つた事を致しました!』 『……何です、困つた事ツて?』  智恵子は不図顔を上げて、何か辛さうに男を仰いだ。 『アノ、私小川様を憤らして帰してよ。』 『小川を⁈ 怎うしたんです?』 『そして、瞭然言つて了ひましたの。……貴方には甚麽に御迷惑だらうと思つて、後で私……』 『解りました、智恵子様!』  恁う言つて、吉野は強く女の手を握つた。 『然うでしたか!』と、ガツシリした肩を落す。  智恵子はグンと胸が迫つた。と同時に、腹の中が空虚になつた様でフラ〳〵とする。で、男の手を放して人々の後に蹲んだ。  目の前には真黒な幾本の足、彼方の篝火がその間から見える。──智恵子は深い谷底に一人落ちた様な気がした。涙が溢れた。 『アラ、先刻から被来つて?』と背後に静子の声。  吉野の足は一二尺動いた。 『今来た許りです。』 『然うですか! 兄は怎うしたんでせう、今方々探したんですけれど。』 『学校ですよ、屹度。』と清子が傍から言ふ。 『オヤ、日向様は?』と、静子は周囲を見廻す。  智恵子は立ち上つた。 『此処にゐらしつたわ!』 『立つてると何だかフラ〳〵して、私蹲んでゐましたの、先刻から。』 『然う! まだお悪いんぢやなくつて。』と静子は思遣深い調子で言つた。そして(悪いところをお誘ひしたわねえ)(家へ帰つてお寝みなすつては?)と、同時に胸に浮んだ二つの言葉は、何を憚つてか言はずに了つた。 『何処かお悪くつて?』と、清子は医師の妻。 『否、少許……モ少し見たら私帰りますわ。』 (十一)の五  さうしてる間にも、清子は嫁の身の二三度家へ行つて見て来た。その度、吉野に来て一杯飲めと加藤の言伝を伝へた。  信吾は来ない。  月は高く上つた。其処此処の部落から集つて来て、太鼓は十二三挺に増えた。笛も三人許り加はつた。踊の輪は長く〳〵街路なりに楕円形になつて、その人数は二百人近くもあらう。男女、事々しく装つたのもあれば、平常服に白手拭の頬冠をしたのもある。十歳位の小供から、酔の紛れの腰の曲つた老婆様に至るまで、夜の更け手足の疲れるも知らで踊る。人垣を作つた見物は何時しか少くなつた。──何れも皆踊の輪に加つたので──二箇所の篝火は赤々と燃えに燃える。  月は高く上つた。  強い太鼓の響き、調子揃つた足擦の音、華やかな、古風な、老も若きも恋の歌を歌つてゐる此境地から、不図目を上げて其静かな月を仰いだ心境は、何人も生涯に幾度となく思浮べて、飽かずも其甘い悲哀に酔はうとするところであらう。──殊にも此夜の智恵子は、思ふ人と共にゐる楽しみと、体内の病苦と、唆る様な素朴な烈しい恋の歌と、そして、何がなき頼りなさに心が乱れて、その沈んで行く気持を強い太鼓の響に掻乱される様に感じながら、踊りには左程の興もなく、心持眉を顰めては、眤と月を仰いでゐた。  怒りと嘲笑を浮べた信吾の顔が、時々胸に浮んだ。智恵子は、今日その信吾の厚かましくも言出でた恋を、小気味よく拒絶つて了つたのだ。  立つたり蹲んだりしてる間に、何がなしに腹部が脹つて来て、一二度軽く嘔吐を催すやうな気分にもなつた。早く帰つて寝よう、と幾度か思つた。が、この歓楽の境地に──否、静子と共に吉野を一人置いて行くことが、矢張快くなかつた。居たとて別に話──智恵子は今日の出来事を詳しく話したかつた──をする機会もないが、矢張一寸でも長く男と一緒にゐたかつた。  軈て、下腹部の底が少し宛痺れる様に痛み出した。それが段々烈しくなつて来る。  隙を見て、智恵子は思ひ切つてツト男の傍へ寄つた。 『私、お先に帰ります。』 『其麽に悪くなりましたか?』 『少許……少許ですけれどもお腹がまた痛んでくる様ですから。』 『可けませんねえ! 怎うです加藤様に被行つたら?』 『否、ホンの少許ですから……アノ、明日でも被来つて下さいませんか? 何卒。』 『行きます、是非。』と言つて、吉野は強く女の手を握つた。女も握り返した。 『好い月ですわねえ!』  智恵子は猶去り難気に恁う言つた。そして、皆にも挨拶して一人宿の方へ帰つてゆく。月を浴びた其後姿を、吉野は少し群から離れた所に蹲んで、遠く見送つてゐた。  智恵子は痛む腹に力を入れて、堅く歯を喰絞りながら、幾回か背後を振返つた。町の賑ひは踊の場所に集つて、十間離れたらモウ人一人ゐない。霜の置いたかと許り明るい月光に、所々樺火の趾が黒く残つて、軒々の提灯や行燈は半ば消えた。  天心の月は、智恵子の影を短く地に印した。太鼓の響と何十人の唄声とは、その月までも届くかと、風なき空に漂うてゆく。──華やかな舞楽の場から唯一人帰る智恵子は、急に己が宿が可厭になつた。  と言つて、足は矢張宿の方へ動く。送つて来てくれぬ男を怨めしくも思つた。アノ人が東京へ帰ると、屹度今夜のことを手紙に書いて寄越すだらうとも思つた。そして、二人間に取交された約束が、唯一生忘れまいといふ事だけなのを思つて、智恵子は今夜といふ今夜、初めて切実に、それだけでは物足らぬことを感じた。智恵子も女である。力強き男の腕に抱かれたら、あはれ、腹の痛みも忘れようものを!  二町許り来ると、智恵子は俄かに足を早めた。不図、怺へきれぬ程に便気を催して来たので。 (十一)の六  程なくして吉野や静子等も帰路に就いた。信吾には遂に逢はなかつた。吉野は智恵子の病気の気に懸らぬではないが、寄つて見る訳にも行かぬ。  それから小一時間も経つた。  富江の宿の裏口が開いて、月影明るい中へヒヨクリと信吾が出た。続いて富江も出た。 『好い月!』  恁う富江が言つた。信吾は自ら嘲る様な笑ひを浮べて、些と空を仰いだが別に興を催した風もない。ハヽヽと軽く笑つた。  太鼓の響と唄の声が聞える、四辺は森として、何処やらで馬の強く立髪を振る音。 『一寸、其麽に済まさなくたつて可いわよ。』 『疲れた!』と、信吾は低く呟く様に言つた。 『マ酷い! 散々人を虐めて置いて。』 『ハヽヽ。ぢや左様なら!』 『一寸々々、真箇よ明日の晩も。』 『ハヽヽ。』と男は再妙に笑つてスタ〳〵と歩き出す。富江は家へ入つた。  人なき裏路を自棄に急ぎながら、信吾は浅猿しき自嘲の念を制することが出来なかつた。少許下向いた其顔は不愉快に堪へぬと言つた様に曇つた。 『莫迦!』 と声を出して罵つた。それは然し誰に言つたのでもない。  信吾の心が生れてから今日一日ほど動揺した事がない。また今日一日ほど自分で見識を下げたと思つたことはない。彼は智恵子を訪ふと、初めは盛んに気焔を吐いた。現代の学者を糞味噌に罵倒し尽し、言葉を極めて美術家仲間の内幕などを攻撃した。そして甚麽話の機会からか、智恵子を口説いてみた。彼は有らゆる美しい言葉を並べた。女は眤と俯向いてゐた。  最後に信吾は言つた。 『智恵子さん、貴女は哀れな僕の述懐を、無論無意味には聞いて下さらないでせうね?』 『…………』 『智恵子さん!』と、情が迫つたといふ様に声を顫した。『僕は貴女から何の報酬を望むのではありません。智恵子さん、唯、唯、です、僕は貴女から、僕が常に貴女の事を思つても可いと許して頂けば可いんです。それだけです。それさへ許して頂けば、僕の生涯が明るくなります……』 『小川様!』と、女は佶と顔をあげた。其顔は眉毛一本動かなかつた。『私の様なもののことを然う言つて下さるのはそれや有難う御座いますけれど。』 『ハ⁈』 『何卒その事は二度と仰しやつて下さらない様にお願ひします。』  信吾は眤と腕を組んだ。 『失礼な事を申す様ですが……』 『ウヽ……何故でせう?』 『……別に理由はありませんけれど……。』 『あゝ、貴女には僕の切ない心がお解りにならないでせう!』と、サモ落胆した様に言つて、『然しです、何か理由が、然う被仰るからには有らうぢやありませんか? それを話して頂く訳にいかないんですか?』 『…………』 『智恵子さん! 僕がこれだけ恥を忍んで言つたのに、理由なくお断りになるとは余りです。余りに侮辱です。』 『ですけれど……』 『其麽らです、』と、信吾は今迄の事は忘れて新らしい仇の前にでも出た様に言つた。其眼は物凄く輝いた。『僕は唯一つ聞かして頂きたい事があります。智恵子さん、怎うでせう、聞かして下さいますか?』 『……私の知つてをります事ならそれは……』 『無論御存じの事です。』と信吾は肩を聳した。『話は全然別の事です。僕は僕の一切を犠牲にして、友人たる貴女と吉野の幸福を祝ひます。』  智恵子は胸を刺されたやうにビクリとした。然し一寸も動かなかつた。顔色も変へなかつた。 『怎うです、』と男は更に突込んだ。『貴女は僕の祝ひを、享けて下さいますか、それを聞かして下さい。』 『…………』 『僕は今言つた事を凡て取消して、友人としての真心からお二人の為に祝ひます。怎うです、享けて下さいますか?』 『…………』 『何卒享けて下さい!』と信吾は毒々しく迫る。  智恵子の顔はクワツと許り紅くなつた。そして、 『有難う御座います。』 と、明瞭言放つた。 (十一)の七  智恵子の宿から出た信吾の心は、強い屈辱と憤怒と、そして、何か知ら弱い者を虐めてやつた時の様な思ひに乱れてゐた。恁うなると彼は、今日自分の遣つた事は、予じめ企んで遣つたので、それが巧く思ふ壺に嵌つて智恵子に自白さしたかの様に考へる。我と我を軽蔑まうとする心を、強ひて其麽風に考へて抑へて見た。  信吾は、成べく平静な態度をして、その足で直ぐ加藤医院を訪ね、学校を訪ねた。彼は夕方までに帰つて、吉野や妹共と一緒に踊見物に出る約束を忘れてはゐなかつた。が、何の意味もなく、フンと心で笑つてそれを打消した。  其時の信吾は、平常よりも余程機嫌が可い様に見えた。然し彼は、詰らぬ世間話に大口を開いて笑へば笑ふ程、何か自分自身を嘲つてる様な気がして来て、心にも無い事を一口言へば一口言ふだけ、胸が苛立つて来る。高い笑声を残して、彼は遂に学校から飛び出した。  モウ日暮近い頃であつた。  自嘲の念は烈しく頭脳を乱した。何故那麽事を言つたらう? 莫迦な、モウ智恵子の顔を見ることが出来なくなつた! と彼は悔いた。何故モツと早く──吉野の来ないうちに言はなかつたらう⁈ 『畜生奴! 到頭白状させてやつた。』恁う彼は口に出して言つて見た。が、矢張彼は女から享けた拒絶の恥辱を、全く打消すことが出来なかつた。よし、彼女を免職させる様にしてやらうか! 否、それよりは何うかして吉野を追払はう!  彼の心は荒れに荒れた。町端れから舟綱橋まで、国道を七八町滅茶苦茶に歩いて、そして、恐ろしい復讐を企てながら帰るともなく帰つて来た。が、彼は人に顔を見られたくない。町端れから再引返して、今度は旧国道を門前寺村の方へ辿つた。  月が上つた。  途断々々に、町へ来る近村の男女に会つた。彼は然しそれに気がつかぬ。何時しか彼は吉野との友情を思出してゐた。 「何有! 知らん顔をしてゐればそれで済む。豈且智恵子が言ひは為まい。」と彼は少し落着いて来た。 「然し、」と彼は復しても吉野が憎くなる。「アノ野郎奴、(有難う御座います。)とはよくも言ひやがつた!」  信吾の憤りは再発した。(有難う御座います。)その言葉を幾度か繰返して思出して、遂に、頭髪を掻挘りたい程腹立たしく感じた。そして、彼の癖の、ステツキを強く揮つて、自暴にヒユウと空気を切つた。 『信吾様!』 と女の声。彼は驚いた様に顔を上げると、富江が白地の浴衣に月影を滴らせて、近いて来る。草履を穿いてるのか足音がしない。 『信吾様!』と富江は再呼んだ。 『あ、神山様でしたか!』と一寸足を留めて、直ぐまた歩き出さうとする。 『マア、何処へ被行るの?』  答もせずに信吾は五六歩歩いて、そしてグルリと自暴に体を向直した。 『ハハヽヽ。何処へ行つたんです貴女こそ?』 『生徒の家へ招待れて、門前寺の…………一人で散歩するなんて気が利かないぢやありませんか、貴方は!』 『貴女だつて一人ぢやないか!』 『ホヽヽ。怎うして智恵子様を誘つて上げなかつたの?』 『莫迦な!』 『あら、月夜の散歩にはハイカラ様の手でも曳かなくちや詰らないぢやありませんか? 真箇に!』 『何を言ふんです。』と信吾は苛々しく言つた。  そして、突然富江の手を取つて、『僕は貴女の迎ひに来たんだ!』 『マア巧い事を!』と、富江は左程驚いた風もなく笑つてゐる。  信吾は、女の余りに平気なのが癪に障つた。そして、不図怖ろしい考へが浮んだ。物言はずに女の手を堅く握る。  富江も暫しは口を利かないで、唯笑つてゐた。そして、 『私の手なんか駄目よ、信吾様! 女の手の様ぢやないでせう?』 『…………』 『私は女ぢやないんですよ。』 『富江様、』と言ひながら、信吾は無遠慮に女の肩に手をかけた。『そんなら貴女は第三性ですか? ハハヽヽ。』 『あ重い!』と言つたが逃げ様ともせぬ。そして、急に真面目な顔をして眤と男の顔を見ながら、『真箇よ、私石女なんですもの。子供を生まない女は女ぢやないでせう?』  そして、袂を口にあてて急にホホヽヽと笑ひ出した。  其夜信吾は十時過までも富江の宿にゐた。宿の主人の老書記は臨時に隔離病舎に詰めてゐる。主婦や子供らは踊に行つて留守であつた。  で、彼が家へ帰つてくると、玄関の戸がモウ閉つてゐた。信吾は何がなしにわが家ながら閾が高い様な気がして、可成音を立てぬ様にして入つた。 (十一)の八  家に入つた信吾の心は、妙に臆んでゐた。彼は富江と別れて十幾町の帰路を、言ふべからざる不愉快な思ひに追はれて来た。強烈い肉の快楽を貪つた後の浅猿しい疲労が、今日一日の苛立つた彼の心を愈更に苛立たせた。『浅猿しい、浅猿しい!』と、彼は幾度か口に出して自分を罵つた。彼はモウ此儘人知れず何処かへ行つて了ひたい様な気がした。飽くを知らざる富江の餓ゑた顔を思出すと、言ふべからざる厭悪の念が起る。そして又、段々家へ近付くにつれて、恋仇の吉野に対する自暴腹な怒りが強く発した。其怒りが又彼を嘲る。信吾は人に顔を見られたくなかつた。  で、可成音立てぬ様に縁側伝ひに自分の室に行く。家中モウ寝て了つたと見えて、森としてゐた。  と、離室に続く縁側に軽い足音がして、静子が出て来た。四辺は薄暗い。 『アラ兄様、遅かつたわねえ。何処に居たんですか、今迄?』 『何処でも可いぢやないか!』と、声は低く、然し慳貪だ。 『マア!』  信吾は、わが仇の吉野の室に妹が行つてゐたと思ふと、抑へきれぬ不快な憤怒が洪水の様に脳に溢れた。 『貴様こそ何処に行つてるんだ? 夜夜中人が寝て了つてから!』  静子は驚いて目を丸くして立つてゐる。それが、何か厳しく詰責でもされる様で、信吾の憤怒は更に燃える。 『莫迦野郎! 何処に行つてるんだ?』と言ふより早く一つ静子を擲つた。  静子は矢庭に袂を顔にあてた。 『兄様……其様……。』 『此方へ来い。』と、信吾は荒々しく妹の手を引張つて、自分の室に入るとドツと突倒した。 『此畜生! 親や兄の眼を晦まして、…………』 『ワツ。』と静子は倒れた儘で声をあげた。先刻町から帰つてから、待てども〳〵兄が帰らぬ。母も叔母も何とも言つてくれぬだけ媒介者との話の発落が気にかかつた。自分から聞かれる事でもなく、頼るは兄の信吾、その信吾が今日媒介者が来たも知らずにゐると思ふと、モウ心配で心配で怺らなくなつて、今も密と吉野の室に行つて、その帰りの遅きを何の為かと話してゐた所。  静子は故なき兄の疑ひと怒が、悔しい、恨めしい、弁解をしようにも喉が塞つて、たゞ堅く〳〵袖を噛んだが、それでも泣声が洩れる。 『莫迦野郎!』と、信吾は再しても唸る様に言つて、下唇を喰絞り、堅めた両の拳をブル〳〵顫はせて、恐しい顔をして突立つてゐる。  静子は死んだ様に動かない。 『よし。』と信吾はまた唸つた。『貴様はモウ松原に遣る。貴様みたいなものを家に置くと、何をするか知れない。』 『マ。』と言つて、静子はガバと起きた。『兄様……その松原から今日人が来て……それで……』  手荒く襖が開いて、次の間に寝てゐる志郎と昌作が入つて来た。 『怎うしたんだい兄様?』 『黙れ!』と信吾は怒鳴つた。『黙れ! 貴様らの知つた事か。』  そして、乱暴に静子を蹴る、静子は又ドタリと倒れて、先よりも高くワツと泣く。 『何だ?』と言ひ乍ら父の信之も入つて来た。『何だ? 夜更まで歩いて来て信吾は又何を其麽に騒ぐのだ?』 『糞ツ。』と云ひさま、信吾は再静子を蹴る。 『何をするツ、此莫迦!』と、昌作は信吾に飛びつく。志郎も兄の胸を抑へる。 『何をするツ、貴様らこそ。』と、信吾はモウ夢中に咆り立つて、突然志郎と昌作を薙倒す。 『コラツ。』と父も声を励して、信吾の肩を攫んだ。『何莫迦をするのだ! 静は那方へ行け!』 『糞ツ。』と許り、信吾は其手を払つて手負猪の様な勢ひで昌作に組みつく。 『貴様、何故俺を抑へた⁈』 『兄様!』 『信吾ツ!』  ドタバタと騒ぐ其音を聞いて、別室の媒介者も離室の吉野も馳けつけた。帯せぬ寝巻の前を押へて母のお柳も来る。 『畜生! 畜生!』と、信吾は無暗矢鱈に昌作を擲つた。 (十二)  智恵子は、前夜腹の痛みに堪へかねて踊から帰つてから、夜一夜苦み明した。お利代が寝ずに看護してくれて、腹を擦つたり、温めたタヲルで罨法を施つたりした。トロ〳〵と交睫むと、すぐ烈しい便気の塞迫と腹痛に目が覚める。翌朝の四時までに、都合十三回も便所に立つた。が、別に通じがあるのではない。  夜が清々と明放れた頃には、智恵子はモウ一人で便所にも通へぬ程に衰弱した。便所は戸外にある。お利代が医師に駆付けた後、智恵子は怺へかねて一人で行つた。行くときは壁や障子を伝つて危気に下駄を穿かけたが、帰つて来てそれを脱ぐと、モウ立つてる勢がなかつた。で、台所の板敷を辛と這つて来たが、室に入ると、布団の裾に倒れて了つた。抉られる様に腹が痛む。小供等はまだ起きてない。家の中は森としてゐる。窓側の机の上にはまだ洋燈が朦然点つてゐた。  智恵子は堅く目を瞑つて、幽かに唸りながら、不図、今し方戸外へ出た時まだ日出前の水の様な朝光が、快く流れてゐた事を思出した。 『モウ夜が明けた。』 と覚束なく考へると、自分は何日からとも知れず、長い〳〵間恁うして苦んでゐた様な気がする。程経てから前夜の事が思出された。それも然し、ズツト〳〵以前の事の様だ。 「今日アノ方が来て下さるお約束だつた! 然うだ、今日だ、モウ夜が明けたのだもの!…………。スルト今日は盆の十五日だ。昨日は十四日……然うだ、今日は十五日だ!」  喧しく雀が鳴く。智恵子はそれを遙と遠いところの事の様に聞くともなく聞いた。 『先生! 先生!』と遠くで自分を呼ぶ。不図気がつくと、自分は其処で少し交睫みかけたらしい。お利代は加藤医師を伴れて来て、心配気な顔をして起してゐる。 『先生、まア恁麽所に寝て、お医師様が被来いましたよ。』 『マア済みません。』  然う言つてお利代に手伝はれ乍ら臥床の上に寝せられた。  室には夜ツぴて点けておいた洋燈の油煙やら病人の臭気やらがムツと籠つてゐた。お利代は洋燈を消し、窓を明けた。朝の光が涼しい風と共に流れ込んで、髪乱れ、眼凹み、皮膚の沢なく弛んだ智恵子の顔が、モウ一週間も其余も病んでゐたものの様に見えた。  加藤は先づ概略の病状を訊いた。智恵子は痛みを怺へて問ふがまゝに答る。 『不可ませんナア!』 と医師は言つた。そして診察した。  脈も体温も少し高かつた。舌は荒れて、眼瞼が充血してゐる。そして腹を見た。 『痛みますか?』と、少し脹つてゐる下腹の辺を押す。 『痛みます。』と苦気な声。 『此処は?』 『其処も。』 『フム。』と言つて、加藤は腹一帯を軽く擦りながら眉を顰めた。  それからお利代を案内に裏の便所へ行つて見た。 「赤痢だ!」と、智恵子は其時思つた。そして吉野に逢へなくなるといふ悲哀が湧いた。  智恵子の病気は赤痢──然も稍烈しい、チフス性らしい赤痢であつた。そして午前九時頃には担荷に乗せられて、隔離病舎に収容された。お利代の家の門口には「交通遮断」の札が貼られて、家の中は石炭酸の臭気に充ち、軒下には石灰が撒かれた。  丁度智恵子が隔離病舎に入つた頃、小川の家では、信吾が遅く起きて、そして、今日の中に東京に帰らして呉れと父に談判してゐた。父は叱る、信吾は激昂する。結局「勝手になれ」と言ふ事になつて、信吾は言ひがたき不愉快と憤怒を抱いてフイと発つた。それは午後の二時過。  吉野は加藤との約束があるので、留まる事になつた。そして直ぐにも加藤の家に移る積りだつたが、色々と小川家の人達に制められて、一日だけ延ばした。小川家には急に不愉快な、そして寂しい空気が籠つた。  日が暮れると、吉野は一人町へ出た。そして加藤から智恵子の事を訊かされた。  吉野は直ぐ智恵子の宿を訊ねた。町には矢張樺火が盛んに燃えてゐた。彼は裏口から廻つて霎時お利代と話した。そして石炭酸臭い一封の手紙を渡された。  それは智恵子が鉛筆の走り書。──恁う書いてあつた。 御心配下さいますな。決して御心配下さいますな。お目にかかれないのが何より──病の苦痛より辛う御座います。吉野様、何卒私がなほるまでこの村にゐて下さい。何卒、何卒。 屹度四五日で癒ります。あなたは必ず私のお願ひを聞いて下さる事と信じます。 ちゑ よしの様まゐる (十三)の一  智恵子の容体は、最初随分危険であつた。隔離病舎に収容された晩などは知覚が朦朧になり、妄言まで言つた位。適切チフス性の赤痢と思つて加藤も弱つたのであるが、三日許りで危険は去つた。そして二十日過になると、赤痢の方はモウ殆んど癒つたが、体が極度に衰弱してるところへ、肺炎が兆した。そして加藤の勧めで、盛岡の病院に入ることになつた。  吉野は病める智恵子と共に渋民を去つた。彼は有らゆるものを犠牲に払つても、必ず智恵子を助けねばならぬと決心してゐた。  信吾去り、志郎去り、智恵子去り、吉野去つて、夏二月の間に起つた種々の事件が、一先づ結末を告げた。  八月も末になつた。そして、静子は新しく病を得た。  静子の縁談は本人の希望通りに破れて了つた。この事で最も詰らぬ役を引受けたのは例の叔母で、月の初めに来た時、お柳からの密かの依頼で、それとなく松原家を動かし、媒介者を同伴して来るまでに運んだのであるが、来て見るとお柳の態度は思ひの外、対手の松原中尉の不品行(志郎から聞いた)を楯に、到頭破談にして了つた。  静子は、何処といふことなく体が良くなかつた。加藤は神経衰弱と診察した。そして、毎日散歩ながら自分で薬取に行く様に勧めた。で、日毎に午前九時頃になると、何がなしに打沈んだ顔をした静子が、白ハンケチに包んだ薬瓶を下げて町にゆく姿が、鶴飼橋の上に見られた。  そして静子は、一時間か二時間、屹度清子と睦しく話をして帰る。  或日の事であつた。二人は医院の裏二階の瀟洒した室で、何日もの様に吉野の噂をしてゐた。  静子は、怎うした機会からか、吉野と初めて逢つた時からの事を話し出して、そして、かの写生帖の事までも仄めかした。  清子は熱心にそれを聞いてゐた。 『静子さん。』と清子は、眤と友の俯向いた顔を見ながら、しんみりした声で言つた。『私よく知つてるわ、貴女の心を!』 『アラ!』と言つて静子は少し顔を赤めた。『何? 清子さん、私の心ツて?』 『隠さなくても可かなくつて、静子さん?』 『………………』  黙つて俯向いた静子の耳が燃える様だ。清子は、少し悪い事を言つたと気がついて、接穂なくこれも黙つた。 『清子さん。』と、稍あつてから静子は言つた。其眼は湿んでゐた。『私……莫迦だわねえ!』 『アラ其麽! 私悪い事言つて……。』 『ぢやなくつてよ。私却つて嬉しいわ……。』 『………………』  清子の眼にも涙が湧いた。 『ねえ、清子さん!』と又静子は鼻白んで言つた。『詰らないわねえ、女なんて!』 『真箇よ、静子さん。』と、清子は全く同感したといふ様に言つて、友の手を取つて。 『然う思つて、貴女も?』と、清子の顔を見るその静子の眼から、美しい涙が一雫二雫頬に伝つた。 『静子さん!』と、清子は言つた。『貴女…………私の事は誤解してらつしやるわね!』  然う言つて、突然静子の膝に突伏した。 『アラ、貴女の事ツて何に?』 (十三)の二  二人は暫時言葉が無かつた。  静子はそれを、屹度兄の信吾の事とは察した。が、兄の事を思ふだけに、何と訊いて可いか解らなかつた。  稍あつてから、 『え? 何の事私が誤解してるツて?』と静子が再言ふ。 『言はずに置くわ、私。』と、思切り悪く言つて、清子は漸々首を上げる。 『アラ怎うして?』 『兄の事……ぢやなくつて?』  清子は羞し気に俯向いた。 『清子さん、私何も、貴女の事悪くなんか思つてゐやしなくつてよ。』 『アラ然うぢやなくつてよ。それは私だつて能く知つててよ。』  二人は懐し気に目を見合せた。 『私此の家に嫁た事、貴女可怪いと思つたでせう?』と、稍あつて清子は極悪相に言つた。 『でもないわ……今になつては。』と、静子は心苦し気である。静子は、アノ事あつて以来兄信吾の心が解りかねた。そして、その兄の不徳を、今又一つ聞ねばならぬといふ気がすると、流石に兄妹であれば辛くない訳に行かぬ。が、又、目の前の清子を見ると、この世に唯一人の自分の友が此人だと言ふ許りなき慕しさが胸に湧いた。 『済まないわ、このお話するのは!』 『マ清子さん!……貴女其麽に……私になら何だつて言つて下すつたつて可いわ。貴女許りよ、私姉さんの様に思つてるのは!』 『……私ね……真箇の姉妹になりたかつたの。貴女と。』  然う言つて清子は静子の手を握る。 『解つてよ。』と、静子は聞えるか聞えぬかに言つて、眤と眼を瞑ぢた。其眼から涙が溢れる。 『嬉しいわ、私は。』と清子は友の手を強く引く。二人の涙は清子の膝に落ちた。  そして言つた。『私信吾さんに逢つて頂いてよ、此方の方の話があつた時……忘れないわ、去年の七月二十三日よ、鶴飼橋の上の観音様の杜で。』 『………………』 『私甚麽に……男の方は矢張気が強いわねえ!』 『何と言つて其時、兄が?』 『……此家へ来る事を勧めて下すつたわ、アノ、兄様は。』 『マ然う!』と静子は強く言つた。そして、 『……済まなかつたわ清子様、真箇に私……今迄知らなかつたんですもの。』と言ふなり、清子の膝に泣伏した。 『何も其様に!』と清子も泣声で言つて、そして二人は相抱いて暫泣いた。 『詰らないわねえ、女なんて!』と、稍あつて静子はしみ〴〵言ふ。 『真箇ねえ!』と清子は応じた。  二人の親みは増した。  九月が来た。  信吾の不意に発つて以来、富江は長い手紙を三四度東京に送つた。が、葉書一本の返事すらない。そして富江は相不変何時でも噪いでゐる。  肺を病んだ五尺不足の山内は、到頭八月の末に盛岡に帰つて了つた。聞けば智恵子吉野と同じ病院に入つたといふ。  浜野の家──智恵子の宿では、祖母の病気が悪くもならず癒くもならぬ。  お利代は一生懸命裁縫に励んでゐる。時には智恵子から習つた讃美歌を、小声で小供らに歌つて聞かしてる事もある。村では好からぬ噂を立てた。それは、お利代も智恵子に感化れて、耶蘇信者になつたので、早く祖母の死ぬ事を毎晩神に祈つてるといふので。──そして、祖母の死ぬのを待つて函館の先の夫の許へ行くのだ、と伝へられた。  快く晴れた或日の午前であつた。昌作は浮かぬ顔をして町を歩いてゐた。そして郵便局の前へ来ると、懐から二枚の葉書を出してポストに入れた。──昌作は米国に行くことも出来ず、明日発つて十里許りの山奥の或小学校の代用教員に赴任することになつた。──その葉書は盛岡の病院なる智恵子と山内に宛てたもの。──山内には手短く見舞の文句と自身の方の事を書いたが、智恵子への一枚には、気取つた字で歌一首。 『秋の声まづ逸早く耳に入るかゝる性有つ悲むべかり。』  渋民村に秋風が見舞つた。 (大尾) (附記。この一篇は作者が新聞小説としての最初の試作なりき。回を重ぬる六十回、時歳末に際して予期の如く事件を発展せしむる能はず茲に一先づ擱筆するに到れるは作者の多少遺憾とする所なり。他日若し幸ひにして機会あらば、作者は稿を改めて更に智恵子吉野を主人公としたる本篇の続篇を書かむと欲す。} 〔「東京毎日新聞」明治四十一年十一月~十二月〕 底本:「石川啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房    1978(昭和53)年10月25日初版第1刷発行    1993(平成5)年5月20日初版第7刷発行 底本の親本:「東京毎日新聞」    1908(明治41)年11月1日~11月31日、12月2日~12月30日 初出:「東京毎日新聞」    1908(明治41)年11月1日~11月31日、12月2日~12月30日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、219-上-14の「十ヶ月」をのぞいて、大振りにつくっています。 ※「真箇」と「真個」の混在は、底本通りです。 ※「欖の14かく目の「一」が「丶」」は「デザイン差」と見て「欖」で入力しました。 ※初出時の表題は「鳥影」です。 入力:Nana ohbe 校正:川山隆 2008年10月22日作成 2018年11月6日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。