顔 岸田國士 Guide 扉 本文 目 次 顔 舞台は、ホールを兼ねただゞつ広い日光室の一隅。─正面、硝子戸を距てて、やゝ遠く別棟の食堂が見え、左手は、庭の芝生へ降りる扉。右手... 女  あなた、このホテルへははじめてぢやないのね。 男 女 菅沼るい 京野精一 土屋園子 ある海浜の寂れたホテル 四月のはじめ。晴れた静かな夕刻。 舞台は、ホールを兼ねただゞつ広い日光室の一隅。──正面、硝子戸を距てて、やゝ遠く別棟の食堂が見え、左手は、庭の芝生へ降りる扉。右手、いつぱいに奥へあがる階段──二階は客室である。その階段の降り口から、右へ、玄関へ続く薄暗い別のホール。 窓ぎはに、整然と、椅子テーブルが並び、テーブルには、鉢植の草花。室の中央に、ピンポン台。 階段の横に、大型の電気蓄音機。 一組の男女が、階段を降りて来る。 男は四十五六、女は二十八九、夫婦のやうにも見え、夫婦でないやうにも見える。男は頑丈な体格の、苦学生上りの役人とでも云ひたい風貌を備へ、女は、素人風をした商売女と云へば云へよう。二人は、一つのテーブルを夾んで腰をおろす。 室内は、外が暗くなるのにつれて暗くなる。やがて、食堂に燈火がつく。 女  あなた、このホテルへははじめてぢやないのね。 男  どうして……。 女  でも、あんまり勝手をよく知つてらつしやるから……。それに……。 男  海がどつちに見えるかぐらゐ、すぐわかるさ。 女  さうぢやないんですよ。あの、女中頭つていふのかしら、部屋を案内したお婆さんね。なんだか、馴れ馴れしい口の利き方をしてたぢやありませんか。 男  あゝ、あゝいふ奴はよくゐるよ。いや、宿屋には限らない。客商売つていふもんは、そこが骨さ。初めて買物をした店で、毎度ありがたうつて云ふぢやないか。 女  …………。 男  二人とも知らないところへ行きたいといふから、わざわざこんなところへ出かけて来たんだ。それほど名案でもなかつた。時節外れの海岸は、まあ、こんなもんさ。 女  ほんとに、あなたつて、どうしてさう、方々をお歩きになつたの? あたしが行きたいと思ふところを、みんな知つてるつておつしやるから、いやになるわ。 男  お前は、また、どうして、さう、何処も彼処も知らないんだ? 廊下で鈴を鳴らす音。食堂が開いた報らせである。 女  ちよつと、顔をなほして来ますわ。 男  部屋は十七号だよ。さ、鍵を持つてかなけれや……。 女、階段を上つて行く。その間に、女中頭の菅沼るい(五十歳)白い毛糸のジャケツを、肥つたからだに軽く羽織つて勿体らしく右手のホールから現はれる。男に会釈して、蓄音機の蓋を開け、レコードを択り、賑やかなタンゴをかける。そして、傍らの椅子に腰をおろし、眼をつぶつて聴き入る。 帳場の方から、「サン・ルームの電気!」といふマネーヂャアらしい声。 菅沼るいは、ハッとして、起ち上り、急いでスヰッチをひねる。こつちを見てゐる男と、視線が会ふ。 るい  海がいゝ塩梅に静かでございます。 男  ホテルも静かだね。 るい  はい、でも、一昨日までは、お部屋が足りないくらゐでございました。 男  ほう、そんなこともあるかね。 るい  新婚旅行のお客様が、大層お見えになります。それと、お子様がたの学校休みで……。こちらは、御家庭向きになつてをりますもんですから……。 男  君は永くゐるの、このホテルに……? るい  はい、まる四年になります。只今も、そのことを考へてをりましたんです。此処へ参りましたのが、私の、五十一の春……と申しますと、変でございますが、やはり、時節が今頃で、玄関前の桜が、ちらほらと咲きかけてをりました。 男  話が面白さうだね。僕は君の様子をみて、何か変つた生活をして来た人のやうに思つたのだが、すると、此処へ来るまでは、船にでも乗つてゐたの? るい  どうしてそんなことがおわかりになります。 男  別にわかるわけぢやないが、その洋装の着こなしは、板についたところがある。どうしても、亜米利加通ひの船でなけれや見られないよ。 るい  恐れ入りました。その船には、十六年乗つてをりました。あの時分のことは、一生忘れられません。 女が、化粧をすまして、階段を降りて来る。 男  食事にするかい。 女  えゝ、あなたは? 男  何時でもいゝよ。 男、起ち上つて、歩き出す。 二人の姿が消える。 入れ違ひに、若い男が二階から降りて来る。京野精一(二十一)である。 るい  ピンポンのお相手をいたしませうか。 京野  今日は疲れた。また歩き過ぎたよ。(椅子にかける) るい  そんなにお弱いやうには見えませんがねえ。でも、御無理を遊ばしちやいけませんよ。折角御養生にいらしてるんですから……。 京野  家庭教師みたいなことを云ふなよ。 るい  あら、ほんとに今日は、不思議な日ですわ。 京野  どうしてだい? るい  みなさんで、あたくしの前身をおあてになるんですもの。 京野  君の前身なんか僕にや興味はないよ。家庭教師だつて、ホテルのハウス・キイパアだつて、大した変りはないだらう。 るい  お煙草でございますか。取つて参りませう。 京野  いゝよ、いゝよ。バアは開いてるだらうな。 起つて、右手にはひる。 長い間。 やがて、また、二階から、三十八九の、和服に現代風の好みをみせた女が、気取つた足取りで降りて来る。土屋園子夫人である。 るい  御退屈でございませう、奥さま。 夫人  いゝのよ。どうせ、退屈をしに来たんですもの。(腰をおろす) るい  お話相手もなくつて、ほんとに……。 夫人  さう云へば、今の書生さん、時々話をしかけたさうにするんだけど、あれ、どういふ人? るい  あら、まだ御存じないんでございますか。あの方、京野子爵の若様でいらつしやいますんですよ。 夫人  と、称してるんぢやなくつて? るい  飛んでもない。始終、お邸の方々がお見えになります。さつぱりした、いゝ方でございますよ。 夫人  学校は何処? るい  さあ、それは伺ひませんでしたけれど、もうたしか、大学へいらつしやる頃でございませうね。 夫人  あゝいふのにさへなつてくれなけれや……。 るい  なんでございますつて? 夫人  いゝえ、こつちのことよ。どら、あたしも一度東京へ帰つて、坊やの顔でもみて来ませう。 るい  ほんとに、時々はね。あちら様でもお淋しくつていらつしやいませう。 夫人  あなた、子供さんは? るい  それが、わたくし、結婚つていふものを致しませんのです。これには、いろいろわけがございましてね。さきほども、あの御夫婦連れの、旦那様の方にお話しいたしましたんですけれど、わたくし、此処へ参りますまで、ずつと船へ乗つてをりましたもんですから……。 夫人  船へ? あゝ、道理で……。 るい  いえ、それがでございますよ。その船へは、あれで十六年でございますが、その前は、ある英国の方の御家庭に、ずつと御子様附をいたしてをりました。それが、十八の年からでございます。 夫人  でも、お嫁に行かうと思へば行けたでせうに……。 るい  さうは参りませんのですね。若い頃は、お嫁に行くなんてことを忘れてゐたんでございませうか、それに気がついた時は、もう、年を取り過ぎてをりましたんです。をかしな話もあればあるもんぢやございませんか。 夫人  まつたくね。 るい  それはさうと、船に乗つてをります頃が、花でございました。いゝえ、別に、そんな意味ぢやないんでございますけど、生活が楽しいと申しますか、仕事は荒うございますが、一番、人様のために尽し甲斐のある気がいたしました。航海の度毎にお客様のお顔は変りますけれど、ホテルのやうに頻繁ではございませんし、わたくしみたいなものでも、みなさまが重宝がつて下さいますんで、毎日、張合ひがございました。暴風雨にでもなりますと、あつちでも、こつちでも、御用が殖えます。船にお弱い方は、かう申しちやなんですが、あたくしを頼りに遊ばして、殊に、御婦人方は、なんでもわたくしでなければといふ風におつしやつて下さいますんで、こちらも、お世話をするのに、一所懸命なところがございました。船が最後の港へ着きますと、わたくしは、何時も、泣くんでございます。 夫人  船員なんていふのには、相当頼母しい男がゐさうぢやないの。 るい  それや、ゐないこともございません。でも、こつちは、三十を過ぎたお婆さんでございますもの。 夫人  三十を過ぎたお婆さん……。 るい  妙なもんで、多勢の男の中で一緒に働いてをりますと、そのうちの誰にも特別に親しくはできなくなります。 夫人  こつちはさうでも、向うから、誰かが親しくして来るでせう。 るい  まあ、お察しのいゝ……。では、恥ぢを申上げませうか。 夫人  云つて頂戴。云ひ悪いことなら、云はなくたつていゝのよ。 るい  奥さまには、秘す必要なんかございません。わたくしも、女ですもの。そんなことが一度ぐらゐあつたつて不思議はございますまい。申上げますわ。 夫人  おや、おや、大変なことになりさうね。 るい  いえ、いえ、決してそんなんぢやございません。奥様方のお耳にいれゝば、きつと、お吹き出しになるやうな話でございます。──えゝと、あれはたしか、わたくしが船へ乗りました翌年でございますから、三十一の年でございます。でも、その前のことをちよつとお話しておかなければ、わたくしつていふ人間がおわかりにならないと存じますけれど……。それも長くなつて、御迷惑でございませうね。まあ、どうして、今日はかう、お喋りがしたいんでせう。どなたかが聴いてゐて下さりさへすれば、生れてから今日までのことを、残らず云つてしまひたい気がいたします。 夫人  おつしやいな。聴いててあげるわ。なんて、うそよ、聴かして頂戴……。それとも、食事のあとで、ゆつくり伺はうかしら……。 るい  どちらでも結構でございます。 夫人  それぢや、途中で失礼するかも知れないけれど、よくつて? るい  あらまあ、奥様、そんなにお改りになつちや、わたくし、舌が硬ばつてしまひますわ。 夫人  蓄音機は、かけたまゝでいゝの? るい  これは、わたくしの受持で、食事の時間中、かけ続けてゐなければなりませんのです。さて、何処から始めたらよろしうございますか……わたくし、生れは、伊勢でございます。両親は、わたくしが七つの時に横浜へ出て参りました。 夫人  ちよつと、そんなところからなの? まあ、いゝわ。えゝ、よくつてよ。 るい  すみません。どうか御辛抱を……。横浜に参りまして、魚商を始めましたんですが、わたくしの覚えてをりますんでは、相当手広く商ひをしてゐたやうでございます。お蔭で、わたくしも、当時、珍しく小学校へも通つたりいたしまして、幾分、読み書きも覚えたんでございますが……なにしろ、時節が時節、周囲が周囲でございますから、異人さんと云へば、そこに使はれてゐるものまで羽振りがいゝといふわけで、わたくしの両親も、つい、一人娘のわたくしを、奉公にまで出す気になりましたんです。それを、どうしたものか、わたくしがいやがりまして……。なるほど、たまには、さういふ娘たちのうちで、よくない噂を立てられたりしたものもゐましたせゐでせうが、母など、口を酸くして勧めますものを、たゞ、いやいやで四五年を過してしまひました。 それが、ふとしたことから、急に気が折れまして……と申しますのは、その頃、姉妹のやうにいたしてをりました、近所の、おはつさんといふ娘が、わたくしに相談もせず、何処かの男と駈落をしてしまつたんでございます。まあ、そんなことから、家にゐてもつまらなくなりまして、幸ひ、たつてといふお話もあり、本牧の、ジョオジ・クレプトンさんとおつしやる、銀行家の御家庭へ上る決心をいたしましたんです。お子様が、十三を頭に、お三方いらつしやいました。旦那様は、今の言葉で申上げますと、立派な紳士、奥様は、貴族出のお方とかで、上品な、几帳面なお方でございました。一番上はお嬢さまで、次は坊つちやま、末のカザリンさまが、むろんお嬢さまで、これが、日本流のお八つ……そのお守を、わたくしが仰せつかりました。ちつともおむづかりにならないので、それや、驚きましたですよ。手がかゝらないと申しちやなんですが、半日、お庭で、にこにこ遊んでいらつしやいます。まるで、お人形さんでございますよ。そこへ行くと、日本のお子様方は、どうしてあゝ御無理をおつしやるんでございませうね。こちらへも随分立派な方々がお見えになりますけれど、お子様をお連れになると、お母さまや、お女中さんは、お子様の機嫌を取る工夫ばかりなすつてらつしやいます。見てゐて、お気の毒でございますわ。これは、とんだわき道へはひりました。 夫人  (欠伸を噛みしめる) るい  (それに気づかず)それで、その末のお嬢さまが、二十におなりになるまで、お傍についてをりましたんですが、その間、どなたからも叱られたといふことは一度もございません。これはわたくしの自慢になりますか、御主人の自慢になりますか、存じませんけれど、さういふわたくしは、まつたく仕合せだつたと申すんでございませう。お嬢さまが、大きくおなり遊ばす間に、自分も年を取ることを忘れてゐたくらゐでございますもの……。 夫人  (微かに笑ふ) るい  はい? 夫人  いゝえ、なんにも……。 るい  さういふ風で、上のお嬢さまは、こちらで、ある外交官におかたづきになり、次の坊つちやまは、香港の学校を卒業なすつて、そこの商館へお勤めになる……そして、最後に、わたくしのお附きしてをりましたカザリンさまが、いよいよお年頃におなり遊ばしたので、それを機会に、お国の御親戚へお預けになるといふことになりました。多分、御縁談の都合もおありになつたんだと存じます。それで、そのお国までのお伴を、わたくし、させていたゞきましたんです。このわたくしが、ひとりでそんな大役を仰せつかつたんでございますから、なんと申しますか、もう、自分のことなど構つてはをられません。四十幾日といふ船の中で、それこそ、夜もろくろく寝ずじまひでございました。私がマルセイユといふ港へ着き、そこへ倫敦からのお出迎へがございまして、わたくし、ほつといたしましたんですが、その船でまた日本へ帰つて参ります時は、精がなくて精がなくて、どなたの前でも、つい涙がこぼれるんでございます。事情を御存じの事務長さんや、チーフ・メートさんが、いろいろ御深切におつしやつて下さいますし、わたくし、たうとう、それから、御主人にお暇をいたゞいて、馴れないことではございますが、その船で働いてみることにいたしましたの。縁と申すものは不思議なものでございますね。夢にも考へてをりません船の上の、云はゞ命がけといふ仕事でございませう。それが、ぴつたりわたくしの性に合ひましたんです。海が荒れるくらゐ平気でございました。殿方でさへ、召上りものが進まないといふ日に、わたくし、却つて、御飯が余計いたゞける始末で、みなさんから笑はれたんでございますけれど、ほんとに、海上生活つて申すものは、よろしうございますね。毎日毎日が、云ふに云はれない楽しみでございましてね。先々の港が眼に浮びます。始終、明日を待つやうな気持は、陸にゐてはわかりません。殊にわたくしどものやうに、自分の望みといふものがないものには、せめて、行先のあてでもなければ、その日その日が真つ暗でございます。かうしてをりましても、明日のことは、考へようにも考へられないぢやございませんか……。(そつとハンケチを出して涙を拭く。が、調子は前よりも朗らかに)ですけれど、わたくし、今でも時々、このホテルが、船の中みたいに思へることがございますんですよ。ほら、波の音が聞えませう。燈火を消して、寝台に寝てをりますと、なんですか、自分のからだが、部屋ごと動いて行くやうな気がいたしますの。いゝえ、さういふ時ばかりぢやございません。廊下の掃除を見廻つたり、かうやつて、こゝで蓄音機をかけたりしてをりますときでさへ、急に、今度は、何処の港へはひるんだつけ、などと、とてつもないことを考へ出すことがございますんです。そんな時は、娘時代のやうに、動悸が高くなつたりして、自分でも可笑しいくらゐでございますよ。それで、近頃は、自分でわざとさういふ気分を作り出すやうにいたしてをりますの。割にうまく行くんでございますよ。窓から不意に、外の芝生が見えたりいたしますと、今度は、逆に、がつかりすることがございます。 夫人  どうして船をおよしになつたの? るい  それがでございますよ。奥さま……わたくし、怪我をいたしましてね、こゝの骨を(胸を押へ)二本、ポキリと折られてしまひましたんですの。 夫人  まあ、危い。何処かから落ちでもして……? るい  いゝえ、ロープに足をすくはれたんでございます……。荷物を揚げますときにね……綱がございませう……あれでよく、やられるんでございますよ。 夫人  それでも、船は懲りませんか? るい  自分の過ちでございますもの。 夫人  さう、さう、さつきの、肝腎のお話は……? るい  なんでございましたつけ……あゝ、わたくしのロマンスでございますか。……(笑ふ) 夫人  (これも、釣り込まれて笑ふ)御自分のロマンスとおつしやるからには、よつぽど自信がおありなのね。 るい  (また笑ひこけ)奥さま、いけません……。ぢや、もう、それは申上げません。 夫人  あら、そんなことつてないでせう。前置きだけ聴かしといて……。 るい  それも、長たらしくね……。いえ、別に前置きのつもりぢやなかつたんでございますけど……話が、から下手でございましてね……。余計なことばかり申上げました。 夫人  いゝえ、どういたしまして……。では、そろそろ、本筋に……。 るい  これは、まつたく、内証話でございますよ。いゝえ、内証にもなんにも、これまで誰にも話したことなんかないんでございますけれど、奥さまに、たつた一言、「お前の気持はわかる」と、さうおつしやつていたゞきたいばかりに……。でも、あんまりなお話でございますからね……。まあ、旧いことといふだけが、幾分、お聴きづらくなく、聴いていたゞけるかと存じます。 先程も申上げました通り、船の中では、お客様を除けば、女と申しましても、わたくしの外、六人つていふ人数でございました。そのうち、亭主持ちが二人、あとの三人は、二十を越したばかりといふ娘つこでございませう。やかましく云はれながら、蔭で何をいたしてをりますか、わかりやいたしません。それに、一方が、御承知の荒くれでございます。わたくしどもの前でさへ、ずゐぶん眼にあまることもございました。さういふ中で、年も年でございましたけれど、わたくしだけには、誰一人、戯談を云ひかけるものもございませんでした。それでも、三十五つて申せば、ねえ、奥さま、世帯を持ちませんだけに、まだ、心も、からだも、そんなにお婆さんにはなつてをりません。さういふ人たちのふしだらな真似を、一方では苦々しく思ひながら、一方では、実のところ、まあ、嫉けるとでも申しますんですか……。御免遊ばせ、こんな言葉使ひをいたしまして……。お笑ひになりますけれど、それは、譃ぢやございません。今ですから、申上げられますんです。 夫人  それで笑つたんぢやないんですよ。あなたの率直なお話が、いゝ気持なんですわ。 るい  はい、率直も、度が過ぎてはと存じますけれど、今日は、真つ裸になつてみる気でございます。後がどんなにせいせいするだらうと思ひますと、もう恥も外聞もございません。それに、奥さまのやうな、お優しい、物事のよくおわかりになる方に、洗ひ浚ひ聞いていたゞけるなら、ちつとも心残りはございませんです。 で、まあ、そんなわけで、一年ばかりは過ぎてしまひました。その時分の、妙に、焦ら焦らした気持を、もつと、上手に、はつきり申上げたいんですけれど、なんですか、自分では可笑しくつて、口には出せません……。十六七から二十頃までの、あの……憧れ……とか、申しますんですか……あんな心持に似てはをりますが、何処かずつとさし迫つた、いやに刺々しい気分なんでございますね。時によると、捨鉢なことも云つてみたいやうな、それでゐて、控へ目なところも見せたいといふ、なにしろ、考へれば考へるほど、やゝこしい気持でございます。それも、まあ、自分はどんなことがあつても、ほかのもののやうな真似はしないつもりでをりましたんですから、その点、別世界の人間であつていゝ筈なんでございますけれど、わたくしと幾つも違はない亭主持ちの女でさへ、やれ、誰それが変な眼附をしたとか、やれ、どのお客様が、背中へ手をおまはしになつたとか、そんな噂話を得意になつてしてゐるのを聞きますと、それは、こつちに隙があるからだと窘めてやりたいほどですのに、若しそんなことでも云はうものなら、向うは、きつとわたくしに、「いやさうぢやない、あんたに誰もそんなことをしないのは、あんたが……」と云ひかけて、くすくすと笑ふだらうつていふ気がいたしますんです。なるほど、その先は、云はれなくつても、わかつてゐる筈でございます。それに気がつかないほど、わたくしも馬鹿ではございませんし、それには、正直な鏡つていふものもございます。いえ、それだけは、わたくしも承知してをりました。でも、そこは、奥さま、世の中で、自分が一番醜いと思ふ女はございますまい。自惚でもなんでも、さうは思ひたくないのが人情でございませう。「よし、そんなら……」といふ気に、幾度なりましたか、しかし、それ以上に、自分でどうするといふ工夫がつかないんですから、しやうがございません。男の前へ出ますと、知らず知らず畏まつた調子になつてしまふんでございます。これでも、年を取るだけ取り、女だか男だかわからなくなりますと、もうそんなことは気に病みませんけれど、その時分は、なんと云つても辛うございました。たまに男の方から、なんでもないお愛想を云つていたゞきますと、もう、それだけで、気持が浮き立つといふ情けない状態が、あれでも、二年ほどは続きましたか……。丁度、その頃でございました。船がシンガポールを出まして二日目の晩でございます。あんまり蒸しますので、そつと、寝間着のまゝ、人つ気のない、艫の方の下甲板へ上つてみました。帆を巻いて積んだ上へ、ボートの底が低く垂れてをります。誰も見てゐないつもりで、少しはだけた胸へ、その陰で、いつぱいに風をいれました。無造作に止めた髪が、ぱつと肩へ散りかゝつて、それがそのまゝ、後ろへ靡くんでございます。空は晴れて、星がいつぱい出てをりました。あの辺の星と申しますのが、お聞き及びでもございませうが、妙にピカピカと光るんでございまして、色も、日本で見るのとはまるで違ひます。こんなところで、お星様の話など、をかしいとお思ひ遊ばすか存じませんけれど、そのお星様をみてをりますと、心の汚れをすつかり忘れてしまふやうな気がいたしますんです。以前、お嬢様のお伴をして教会へ参りました時も、あのオルガンに合せて、みなさまがお唱ひになる讃美歌を、なるほど魂が清らかになると思つて伺つたことがございますが、それとは違つた、もつと晴れ晴れした、かういふところがうまく云へませんのですけれど、自分はもともと清浄無垢な人間だといふやうな、うれしい得意な気持になるんでございませうか。一生、男の肌に触れないでゐることが、どんなに仕合せなことかと、そん時も、つくづく思つたんでございます。「さあ、あたしのからだは、あなただけに捧げます」──こんな風なことを口の中で申しながら、両手をひろげて、眼の前の、海と空とを抱く真似をいたしました。そして、大きく呼吸を吸ひ込むと、もうぢつとしてはゐられずに、欄干の上へいきなり、俯伏せになつてしまつたんでございますよ……。しばらく、さうして、波の裂ける音を聞いてをりました。 そのうちに、だんだんまた、わけのわからない悲しみがこみ上げて参ります。 これではいけないと思ひまして、また、空の方へ、眼をうつしました。このはずみに、ひよろひよろと後ろへよろめいて、そこに積んでございました帆の上へ、軽く尻餅をついたと思ひますと、自分ながら大胆でございました。それをいゝことに、その上へ、今度は、仰向けに、寝そべつてしまつたんでございます。 その時でございました。ちらと、黒い影が、頭の上をかすめた瞬間に、大きな男の両腕が、眼の前へ伸びて参りました。 声を立てようといたしましたが、男の顔を見ると、もう声が出ませんのです。 見覚えのない顔でございますけれど、若い、逞ましい顔でございました。浅黄色の上着で、火夫だといふことだけわかりました。一口も口を利かず、たゞそのからだだけで迫つて来る力に、わたくしは、取りひしがれてしまひました。「あんたは、だれ? え、だれなのさ」……わたくしは、たゞ、さう呻きつゞけました。意気地のないことでございました。でも、外に、どうしやうもございません。わたくしは、夢の中で、男の後ろ姿に叫びかけました。「ちよつと、待つて……。あたしを、どうする気なのさ……ねえ、待つて頂戴……もう一度、顔を……あんたの……それぢや、名前を聞かして……名前だけ……」(彼女は、そこで、たうとう、泣き崩れる。夫人は、これも、感動を抑へきれず、そつと、袖口で、眼をおさへる) やゝ長き間。 るい  御免遊ばせ、奥さま……。こんなに、取乱す筈ぢやございませんでした。 夫人  それで、その男は、どうしたの? るい  翌日、わたくしは、機関室を、隅から隅まで訪ねて廻りました。うろ覚えに覚えてゐる顔を、どうかして見つけ出さうと思ひましたんです。駄目でございました。石炭で真黒になつた同じやうな顔が、眼だけ光らして、わたくしの方を、迂散臭く見てゐるだけでございます。それからは、港に着きますたんびに、船員たちの出入口に立つて、一人一人、顔を検べてもみました。皆目、見当がつきません。 夫人  ぢや、若し、その男を見つけ出したら、あんた、どうするつもりだつたの……。 るい  それがでございますよ、奥さま、わたくしに、どうすることができませう……。それや、むろん、ありつたけ恨みも云ふつもりでをりました。場合によつては、復讐をしてやるくらゐの考へもございました。しかし、いよいよ、相手がわからないとなりますと、たゞ、ひと目、会ひさへすればといふ気になり、今、「おれだ」と名乗つてくれゝば、なにもかも赦してやらうとまで思ひましたんです。 ですが、それも望みがないとわかつた時、わたくしは、もう、生きてゐる心地がいたしませんでした。誰よりも、自分が憎らしうございました。今日は死なう、明日は死なうで、なんど、海の底をのぞき込んだことでございませう。しかし、いよいよといふ間際に、いつも、男の姿が眼に浮びますんです。 「何処かにゐるんだ」──さう考へますと、また、どうしても、決心が鈍つてしまひます……。さうかうしてゐるうちに、月日はずんずんたつてしまひました。 あんなに死にたいと思つたことが、不思議なくらゐに、すべてを諦めてしまつたんでございます。さういたしますと、過ぎ去つたあの出来事を、一生のうちの、忌はしい記憶にしたくないと思ふやうになりました。したくないと申しますと変でございますが、自然、別の眼で、あのことを見るやうになつたんでございます。つまり、生涯に、たつた一度の経験とでも申しますか、それは、考へやうによつて、わたくしには、尊い思ひ出なんでございますから……。いえ、別に、それを自慢にいたすんぢやございません。悲しい女の運命は、さういふところにも慰めが欲しいんだと、お思ひ下さいませ。あゝ、長々と、お喋りをいたしました。ほんとに、よく御辛抱下さいました。もう、大分、時間がたちましてございませう? 奥さま御食事は……? 夫人  かまひません。まだ早いんですから……。 るい  それでは、奥さま、こんな話をお聴き下さいました序に、ひとつ、奥さまの御意見をおつしやつて下さいませんでせうか。 夫人  意見ですつて? るい  いゝえ、ね、奥様、今の、その男でございますがね、ほんとに、どうお思ひ遊ばします? 今更、どつちでもいいやうなもんでございますけれど、ひとつ、参考までに、奥様のやうな方のお考へを伺つておきたいと思ひまして……失礼でなければどうぞ、是非、御腹蔵なく……。 夫人  その男の、態度についてですか? 意見つておつしやるのは……? るい  はい、まあ、態度と申しますか、その気持でございますね。わたくしに対しましての。 夫人  さあ、それは、あんたのお考へ通りでいゝんぢやありませんか。どう考へなけれやならないつていふ問題でなく、人によつて、どう考へてもいゝ問題だと思ひますね。あなたは、なかなか、哲学者よ。 るい  学者なんて、滅相なことでございますけれど、いろいろ考へてみるのは好きでございましてね。 夫人  えゝ、まあ、議論はよしませう。(さう云つて、大儀さうに横を向く) るい  はい……。わたくし、ちよつと、失礼いたします。今夜、九時にお着きになるお客様がございますので、お部屋の支度をさせて参ります。 夫人  さあ、どうぞ……。 るいの姿が右手に消えると、そこへ京野が食後の煙草を喫ひながら現はれる。 夫人は静かに起ち上つて、左手の窓ぎはに歩を運ぶ。 京野はさりげなく、そつちへ近づいて行く。 二人はしばらく、同じやうな姿勢で窓の外を見てゐる。 京野  失礼ですが、奥さんは、小倉三郎君のお姉さんぢやいらつしやいませんか。 夫人  いゝえ。 京野  さうですか。それはどうも……。小倉といふのは僕の友人なんですが、丁度その姉さんが土屋といふ姓になつてゐるといふ話で思ひ出したんです。 夫人  土屋なんていふのは、ざらにありますわ。 京野  さうでせうか。でも、同胞のやうに似てゐるといふのは、さうざらにはありませんよ。また、失礼かも知れませんが、小倉つていふのは、奥さんそつくりですからね。 夫人  無理に似せておしまひにならなくつても、ようござんすわ。御退屈でしたら、お話のお相手ぐらゐ、してさしあげますわ。(腰をおろす。笑ふ) 京野  いやだなあ、さう皮肉に出られちや……。しかし、小母さんだつておんなじレコードには聴き飽きてらつしやる筈ですよ。 夫人  ちよつと、お待ちなさい。人のことを小母さんだなんて、あなたは、いつたい、おいくつ? 京野  僕、二十一です。小母さんは? 夫人  不良ね、あなたは。 京野  あの婆あが、なにか喋つたんでせう。 夫人  婆あつて、だれ? 京野  僕から御注意申上げときますが、あの婆あに、話をしかけると、うるさうござんすよ。僕の母に云はせると、少し頭へ来てやしないかつていふんですが、そんなこと、お気づきになりませんか。 夫人  なるほど、人を気狂ひにしてしまふつていふのは、便利ですわね、でも、気狂ひが、ほんとのことを云ふ場合だつてありますし、どこからがさうだとは、云ひきれませんわ。今、実は、あの人の、身の上話つていふのを聴かされたんですの。あなた、お聴きになつた? 京野  いゝえ、僕には聴かせませんが、僕の母には、何時か、やつたさうですよ。閉口したつて、さう云つてました。母はまた、その話を、誰かからも聞いたつて云ひますから、つまり、常習犯なんですね。 夫人  道理で、手に入つたもんでしたわ。しかし、譃ぢやないでせうね。 京野  さうなると、譃の方が面白いんぢやないですか。 夫人  あゝ、変な気持だ……。あたくし、食事をすまして来ますわ。 夫人が去つた後、京野は、椅子に腰をおろす。 菅沼るいが、あたふたと現はれ、再び蓄音機の傍らに陣取る。 眼をつぶつて、レコードに聴き入る。 京野  おい、婆さん、もういゝ加減に止めろよ。だあれも聴いてやしないや、そんなもの。 るい  でも、九時までが時間でございますから……。 京野  よし、よし、ぢや、かまはないから、もつと騒々しいやつをかけてくれ。 るいは、蓄音機を止め、レコードをヂャズにかけかへる。 るい  若様は、賑やかなことがお好きさうに見えますが、それでは、なほさら、御病気が苦におなり遊ばしませう。このホテルも、夏場はあの通り込み合ひますんですが、夏はまた夏で、ほかへお出かけ遊ばすんでございませう。 京野  (返事をしないで、煙草の煙を吹き上げてゐる) るい  折角、お馴染みになりましたお客様が、ぷいとお発ちになつてしまふのは、ほんとに心細うございます。これが船でございますと、前もつて、お別れする日がわかつてをります。いろいろのお世話も、その日までといふ心組みで、万事、手ぬかりも少うございますが、まだおいで下さるものと思つてゐた方が、不意に今日帰るなどとおつしやられますと、何かしら、ドキンと胸に応へます。きつと、「さあ、しまつた」と思ふことがございますんです。今夜はシーツをお代へしようと思つてゐたのにとか、明日は、お望み通りのお部屋が空くのにとか、そんなことが、妙に何時までも気にかゝりますんです。 京野  …………。 最初の、夫婦連れが、これも食事を済ましてはひつて来る。 左手の椅子に、並んで腰をかける。二人は、時々、るいの方を見る。 京野は、扉をあけて、庭の方に降りる。帳場の方で、呼鈴が鳴る。 るいは、慌てて、その方へ行く。 女  (るいの後姿を見送つて)やつぱり、さうですか? 男  さうらしいね。えらく肥つたが、何処かに見覚えがあるよ。 女  船に乗つてゐたつていふんなら、さうにちがひないわ。向うは、気がつかないかしら……? 男  だつて、お前、口を利いたこともなし、一度や二度、多勢の中で顔を見たぐらゐぢや、さう特別に覚えてゐるわけがないさ。向うは、そこへ行くと、僅か五六人の女のうちだ。その一人一人が、噂に上るんだ。あいつは、たしか一番年増で、一番不縹緻だつた。そこへもつて来て、変に行儀がいゝと来てるから、男たちは、そばへ寄りつきもしないのさ。 女  あの人、幾つぐらゐだつたの、その頃は? 男  さあ、あれで、三十にもなつてたかな。おれは、間もなく、その船を降りちまつたから、あとのことは知らないが、十六年も船にゐたといふんだから、辛抱は大したもんだ。なるほど、年を繰つてみると、丁度、その時分だ。おれは、やつと、二十になつたばかりさ。雄図勃々といふ時代だ。石炭倉の中で、英語をコツコツやつてた頃だ。 女  そんなら、女の話どころぢやなかつたでせう。 男  さうよ。だから、ほかの奴が、誰はかう彼はかうと、女の名前を云ふんだが、おれは、いちいち、名なんか覚えてやしない。ところが、あいつの名だけは、不思議に覚えてゐる……今でも……。 女  なんていふの? 男  待て……(考へて)おるい……おるい……さうだ。たしか、おるいだ。 女  あなた、さう云つて、訊いて御覧なさい。 男  そんなことを訊いてなんになる。お前の亭主が昔□□丸の火夫だつたつていふことが、あいつに知れるだけだ。 女  今はさうぢやないんだからいゝぢやないの。 男  なるほど、火夫が出世をして税関吏になつた。あの女は、昔のおれに、火夫のおれに会ひたかつたと云ふよ。さうだらう、あいつにしてみれば、このおれに、以前のことを知られてゐるのが、ちよつと、やりきれないかも知れん。向うで気がつかない以上、黙つててやるのがほんたうだらう。 女  何処で誰に遇ふかわからないものね。 男  お前なんかには、それが、なんかの運り合せみたいに思へるんだらう。四半世紀、限られた土地の上を経巡つてみろ。到る処で、嘗て何かしら交渉のあつた人間にぶつかる。両方で、それを覚えてないことが多いだけだ。 この時、るいが、また現はれる。 るい  風呂へは、何時頃お召しになります? 男  君たちが手のすいた時でいゝよ。 るい  わたくしどもは、そのためにをりますんでございますから……。 男  さうか、却つて、手が早くすかないわけだね。ぢや、こつちで勝手にするから、かまはずにやすみ給へ。 るい  わたくしどもは、十時半に退けでございますから……。 土屋夫人が、はひつて来る。一旦、二階へ上り、再び降りる。ホールへ行き、新聞の綴りを取つて来て、中央の椅子にかける。彼女が、その新聞を読んでゐる間に、夫婦の女の方が、何か男に耳打ちをして二階に上る。 京野が、外から帰つて来る。夫人は、顔をあげて、その方を見る。 京野  ちよつと、いらしつて御覧なさい。いゝものをお目にかけますから……。 夫人  外へですの? 京野  外つて、すぐ前の亭ですよ。 夫人  なんでせう……。 両人、扉から外に出る。 部屋には、るいと、男と、二人きりである。時々、二人の視線が合ふ。 長い間。 男  今の奥さんは、どういふ人? るい  歌をお詠みになる方ださうでございます。始終、お一人でお出かけになりますんですが、旦那様はなんでも、東京でお勤めになつてらつしやるやうでございます。 男  (夫人の置いて行つた新聞を取り上げ、それを読みはじめる) るい  こちらへは、しばらく御滞在でございますか。 男  うん、まあ、ゐられるだけゐてみよう。 るい  どうぞ、御ゆつくり遊ばして……。そのうちに、浜で、松露や、防風が取れますし、釣りもなかなか面白いさうでございます。 男  釣りは、なんだい? るい  烏賊でございますよ。 男  あゝ、烏賊か。 るい  おなじホテルでも、海岸のホテルにをりますと、さういふお話ができますので、わたくし、ほんとにうれしいんでございますよ。海はよろしうございますね。これで、船に乗つてをります頃は、そんなでもございませんでしたけれど、陸へ上りますと、海が恋しうございます。それに、海の上でみる空は、また格別でございますからね。御承知でございませうが、夜、甲板に出て、星を見てをりますと、世の中の苦労を忘れてしまひます。第一、あの星の下で、人間が醜い争ひをするなどとは考へられません。さきほども、土屋様の奥さまに聴いていたゞきましたのですが、たとひ、そこで、わたくしを欺し、わたくしに背いた男がゐましたにしましても……。 この時、土屋夫人が、京野と共に扉をあけてはひつて来る。 京野  明日、あの鳥が生き返つてゐたら、僕の勝ですよ。 夫人  えゝ、よろしいわ。あなたに勝たしてあげたいの、あたしは……。むろん、あの鳥のためによ。 京野  さうでせう。ぢや、おやすみなさい。 夫人  さよなら……。 京野は、ひとりで、二階に上つて行く。 夫人は、さつきの椅子にかける。 男  新聞を拝借してゐます。 夫人  よろしいんですの。 るい  奥さま、わたくし、今日は、まつたく、どうかしてゐるんでございますね。さつき、あんなお喋りをしたからでございませうか……。なんですか、胸騒ぎがしてしやうがございません。それに、かう肥つてをりますと、何時なんどき、心臓をやられるかわからないつて、お医者様もおつしやいましてすから……。 夫人  気をつけた方がいゝわ、あんまり思ひつめるのがよくないんだわ……。 るい  はい、それはもうわかつてをります。ですから、近頃は、なにも考へませんのです。からだもなるだけ使ひません。かうして、楽な仕事ばかりさせていたゞいてては済まないんでございますけれど……。 九時が鳴る。るいは、レコードを外す。彼女は、夫人と、男に、恭しく会釈をしてその場を去らうとする。 男、それを見送る。 夫人は、ぢつと、二人の様子をみてゐる。 食堂の燈火が消える。 男  少し病院ですね、このホテルは……。 夫人  (驚いて、男の顔を見る) 男  新聞、御覧になりますか。 夫人  いゝえ……。 夫人は、起ち上る。そして、そのまゝ、階段を昇りはじめる。 男は、左の扉をあけて、外に出る。 やがて、るいが現はれる。電気のスヰッチをひねる。部屋が薄暗くなる。 そこへ、男がはひつて来る。 彼女は、丁度扉の鍵をかけようとしてゐたのだ。 彼女は、「あ」と、ひと声、それは、軽い陳謝の意味に過ぎない。 男は、そのまゝ、部屋を横ぎつて二階に上る。 彼女は、鍵をかけ終つて、静かに、しかし、勿体らしく、部屋の中をひと廻りしてから、やつと右手のホールへ姿を消す。 波の音と共に── 幕 底本:「岸田國士全集5」岩波書店    1991(平成3)年1月9日発行 底本の親本:「職業」改造社    1934(昭和9)年5月17日発行 初出:「中央公論 第四十七年第五号」    1932(昭和7)年5月1日発行 入力:kompass 校正:門田裕志 2008年3月19日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。