里の春、山の春 新美南吉 Guide 扉 本文 目 次 里の春、山の春  野原にはもう春がきていました。  桜がさき、小鳥はないておりました。  けれども、山にはまだ春はきていませんでした。  山のいただきには、雪も白くのこっていました。  山のおくには、おやこの鹿がすんでいました。  坊やの鹿は、生まれてまだ一年にならないので、春とはどんなものか知りませんでした。 「お父ちゃん、春ってどんなもの。」 「春には花がさくのさ。」 「お母ちゃん、花ってどんなもの。」 「花ってね、きれいなものよ。」 「ふウん。」  けれど、坊やの鹿は、花をみたこともないので、花とはどんなものだか、春とはどんなものだか、よくわかりませんでした。  ある日、坊やの鹿はひとりで山のなかを遊んで歩きまわりました。  すると、とおくのほうから、 「ぼオん。」 とやわらかな音が聞こえてきました。 「なんの音だろう。」  するとまた、 「ぼオん。」  坊やの鹿は、ぴんと耳をたててきいていました。やがて、その音にさそわれて、どんどん山をおりてゆきました。  山の下には野原がひろがっていました。野原には桜の花がさいていて、よいかおりがしていました。  いっぽんの桜の木の根かたに、やさしいおじいさんがいました。  仔鹿をみるとおじいさんは、桜をひとえだ折って、その小さい角にむすびつけてやりました。 「さア、かんざしをあげたから、日のくれないうちに山へおかえり。」  仔鹿はよろこんで山にかえりました。  坊やの鹿からはなしをきくと、お父さん鹿とお母さん鹿は口をそろえて、 「ぼオんという音はお寺のかねだよ。」 「おまえの角についているのが花だよ。」 「その花がいっぱいさいていて、きもちのよいにおいのしていたところが、春だったのさ。」 とおしえてやりました。  それからしばらくすると、山のおくへも春がやってきて、いろんな花はさきはじめました。 底本:「ごんぎつね 新美南吉童話作品集1」てのり文庫、大日本図書    1988(昭和63)年7月8日第1刷発行 底本の親本:「校定 新美南吉全集」大日本図書 入力:めいこ 校正:もりみつじゅんじ 2002年12月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。