おせん 邦枝完二 Guide 扉 本文 目 次 おせん   虫     一 「おッとッとッと。そう乗出しちゃいけない。垣根がやわだ。落着いたり、落着いたり」 「ふふふ。あわててるな若旦那、あっしよりお前さんでげしょう」 「叱ッ、静かに。──」 「こいつァまるであべこべだ。どっちが宰領だかわかりゃァしねえ」  が、それでも互の声は、ひそやかに触れ合う草の草ずれよりも低かった。 「まだかの」 「まだでげすよ」 「じれッてえのう、向う臑を蚊が食いやす」 「御辛抱、御辛抱。──」  谷中の感応寺を北へ離れて二丁あまり、茅葺の軒に苔持つささやかな住居ながら垣根に絡んだ夕顔も白く、四五坪ばかりの庭一杯に伸びるがままの秋草が乱れて、尾花に隠れた女郎花の、うつつともなく夢見る風情は、近頃評判の浮世絵師鈴木晴信が錦絵をそのままの美しさ。次第に冴える三日月の光りに、あたりは漸く朽葉色の闇を誘って、草に鳴く虫の音のみが繁かった。 「松つぁん」 「へえ」 「たしかにここに、間違いはあるまいの」 「冗談じゃござんせんぜ、若旦那。こいつを間違えたんじゃ、松五郎めくら犬にも劣りやさァ」 「だってお前、肝腎の弁天様は、かたちどころか、影も見せやしないじゃないか」 「御辛抱、御辛抱、急いちゃァ事を仕損じやす」 「ここへ来てから、もう半時近くも経ってるんだよ。それだのにお前。──」 「でげすから、あっしは浅草を出る時に、そう申したじゃござんせんか。松の位の太夫でも、花魁ならば売り物買い物。耳のほくろはいうに及ばず、足の裏の筋数まで、読みたい時に読めやすが、きょうのはそうはめえりやせん。半時はおろか、事によったら一時でも二時でも、垣根のうしろにしゃがんだまま、お待ちンならなきゃいけませんと、念をお押し申した時に、若旦那、あなたは何んと仰しゃいました。当時、江戸の三人女の随一と名を取った、おせんの肌が見られるなら、蚊に食われようが、虫に刺されようが、少しも厭うことじゃァない、好きな煙草も慎むし、声も滅多に出すまいから、何んでもかんでもこれから直ぐに連れて行け。その換りお礼は二分まではずもうし、羽織もお前に進呈すると、これこの通りお羽織まで下すったんじゃござんせんか。それだのに、まだほんの、半時経つか経たないうちから、そんな我儘をおいいなさるんじゃ、お約束が違いやす。頂戴物は、みんなお返しいたしやすから、どうか松五郎に、お暇をおくんなさいやして。……」 「おっとお待ち。あたしゃ何も、辛抱しないたいやァしないよ。ええ、辛抱しますとも、夜中ンなろうが、夜が明けようが、ここは滅多に動くンじゃないけれど、お前がもしか門違いで、おせんの家でもない人の……」 「そ、それがいけねえというんで。……いくらあっしが酔狂でも、若旦那を知らねえ家の垣根まで、引っ張って来る筈ァありませんや。松五郎自慢の案内役、こいつばかりゃ、たとえ江戸がどんなに広くッても──」 「叱ッ」 「うッ」  帯ははやりの呉絽であろう。引ッかけに、きりりと結んだ立姿、滝縞の浴衣が、いっそ背丈をすっきり見せて、颯と簾の片陰から縁先へ浮き出た十八娘。ぽつんと一本咲き初めた、桔梗の花のそれにも増して、露は紅より濃やかであった。  明和戌年秋八月、そよ吹きわたるゆうべの風に、静かに揺れる尾花の波路。娘の手から、団扇が庭にひらりと落ちた。     二  顔を掠めて、ひらりと落ちた桔梗の花のひとひらにさえ、音も気遣う心から、身動きひとつ出来ずにいた、日本橋通油町の紙問屋橘屋徳兵衛の若旦那徳太郎と、浮世絵師春信の彫工松五郎の眼は、釘着けにされたように、夕顔の下から離れなかった。  が、よもやおのが垣根の外に、二人の男が示し合せて、眼をすえていようとは、夢想もしなかったのであろう。娘は落ちた団扇を流し目に、呉絽の帯に手をかけると、廻り燈籠の絵よりも速く、きりりと廻ったただずまい、器用に帯から脱け出して、さてもう一廻り、ゆるりと廻った爪先を縁に停めたその刹那、俄に音を張る鈴虫に、浴衣を肩から滑らせたまま、半身を縁先へ乗りだした。 「南無大願成就。──」 「叱ッ」  あとには再び虫の声。  京師の、花を翳して過す上臈達はいざ知らず、天下の大将軍が鎮座する江戸八百八町なら、上は大名の姫君から、下は歌舞の菩薩にたとえられる、よろず吉原千の遊女をすぐっても、二人とないとの評判娘。下谷谷中の片ほとり、笠森稲荷の境内に、行燈懸けた十一軒の水茶屋娘が、三十余人束になろうが、縹緻はおろか、眉一つ及ぶ者がないという、当時鈴木春信が一枚刷の錦絵から、子供達の毬唄にまで持て囃されて、知るも知らぬも、噂の花は咲き放題、かぎ屋のおせんならでは、夜も日も明けぬ煩悩は、血気盛りの若衆ばかりではないらしく、何ひとつ心願なんぞのありそうもない、五十を越した武家までが、雪駄をちゃらちゃらちゃらつかせてお稲荷詣でに、御手洗の手拭は、常に乾くひまとてないくらいであった。  橘屋の若旦那徳太郎も、この例に漏れず、日に一度は、判で捺したように帳場格子の中から消えて、目指すは谷中の笠森様、赤い鳥居のそれならで、赤い襟からすっきりのぞいたおせんが雪の肌を、拝みたさの心願に外ならならなかったのであるが、きょうもきょうとて浅草の、この春死んだ志道軒の小屋前で、出会頭に、ばったり遭ったのが彫工の松五郎、それと察した松五郎から、おもて飾りを見るなんざ大野暮の骨頂でげす。おせんの桜湯飲むよりも、帯紐解いた玉の肌が見たかァござんせんかとの、思いがけない話を聞いて、あとはまったく有頂天、どこだどこだと訪ねるまでもなく、二分の礼と着ていた羽織を渡して、無我夢中は、やがてこの垣根の外となった次第。──百匹の蚊が一度に臑にとまっても、痛さもかゆさも感じない程、徳太郎の眼は、野犬のようにすわっていた。 「若旦那」 「黙って。──」 「黙ってじゃァござんせん。もっと低くおなんなすって。──」 「判ってるよ」 「そんならお速く」 「ええもういらぬお接介。──」  おおかた、縁から上手へ一段降りて戸袋の蔭には既に盥が用意されて、釜で沸した行水の湯が、かるい渦を巻いているのであろうが、上半身を現わにしたまま、じっと虫の音に聴きいっているおせんは、容易に立とうとしないばかりか、背から腰へと浴衣の滑り落ちるのさえ、まったく気づかぬのであろう。三日月の淡い光が青い波紋を大きく投げて、白珊瑚を想わせる肌に、吸い着くように冴えてゆく滑らかさが、秋草の上にまで映え盛ったその刹那、ふと立上ったおせんは、颯と浴衣をかなぐり棄てると手拭片手に、上手の段を二段ばかり、そのまま戸袋の蔭に身を隠した。 「あッ」 「たッ」  辱も外聞も忘れ果てたか、徳太郎と松五郎の口からは、同時に奇声が吐きだされた。     三 「おせんや」 「あい」 「何んだえ、いまのあの音は。──」 「さァ、何んでござんしょう。おおかた金魚を狙う、泥棒猫かも知れませんよ」 「そんならいいが、あたしゃまたおまえが転びでもしたんじゃないかと思って、びっくりしたのさ。おまえあって、あたし、というより、勿体ないが、おまえあってのお稲荷様、滅多に怪我でもしてごらん、それこそ御参詣が、半分に減ってしまうだろうじゃないか。──縹緻がよくって孝行で、その上愛想ならとりなしなら、どなたの眼にも笠森一、お腹を痛めた娘を賞める訳じゃないが、あたしゃどんなに鼻が高いか。……」 「まァお母さん。──」 「いいやね。恥かしいこたァありゃァしない。子を賞める親は、世間には腐る程あるけれど、どれもこれも、これ見よがしの自慢たらたら。それと違ってあたしのは、おまえに聞かせるお礼じゃないか。さ、ひとつついでに、背中を流してあげようから、その手拭をこっちへお出し」 「いいえ、汗さえ流せばようござんすから……」 「何をいうのさ。いいからこっちへお向きというのに」  二十二で伜の千吉を生み、二十六でおせんを生んだその翌年、蔵前の質見世伊勢新の番頭を勤めていた亭主の仲吉が、急病で亡くなった、幸から不幸への逆落しに、細々ながら人の縫物などをさせてもらって、その日その日を過ごして早くも十八年。十八に家出をしたまま、いまだに行方も知れない伜千吉の不甲斐なさは、思いだす度毎にお岸が涙の種ではあったが、踏まれた草にも花咲くたとえの文字通り、去年の梅見時分から伊勢新の隠居の骨折りで、出させてもらった笠森稲荷の水茶屋が忽ち江戸中の評判となっては、凶が大吉に返った有難さを、涙と共に喜ぶより外になく、それにつけても持つべきは娘だと、近頃、お岸が掌を合せるのは、笠森様ではなくておせんであった。 「おせん」 「あい」 「つかぬことを訊くようだが、おまえ毎日見世へ出ていて、まだこれぞと思う、好いたお方は出来ないのかえ」 「まあ何かと思えばお母さんが。──あたしゃそんな人なんか、ひとりもありァしませんよ」 「ほほほほ。お怒りかえ」 「怒りゃしませんけれど、あたしゃ男は嫌いでござんす」 「なに、男は嫌いとえ」 「あい」 「ほんにまァ。──」  この春まで、まだまだ子供と思っていたおせんとは、つい食違って、一つ盥で行水つかう折もないところから、お岸はいまだにそのままのなりかたちを想像していたのであったが、ふとした物音に駆け着けたきっかけに、半年振で見たおせんの体は、まったく打って変わった大人びよう。七八つの時分から、鴉の生んだ鶴だといわれたくらい、色の白いが自慢は知れていたものの、半年見ないと、こうも変るものかと驚くばかりの色っぽさは、肩から乳へと流れるほうずきのふくらみをそのままの線に、殊にあらわの波を打たせて、背から腰への、白薩摩の徳利を寝かしたような弓なりには、触ればそのまま手先が滑り落ちるかと、怪しまれるばかりの滑らかさが、親の目にさえ迫らずにはいなかった。  嫌いな客が百人あっても、一人は好きがあろうかと、訊いて見たいは、娘もつ親の心であろう。     四 「若旦那」 「何んとの」 「何んとの、じゃァござんせんぜ。あの期に及んで、垣根へ首を突込むなんざ、情なすぎて、涙が出るじゃァござんせんか」 「おやおや、これはけしからぬ。お前が腰を押したからこそ、あんな態になったんじゃないか、それを松つぁん、あたしにすりつけられたんじゃ、おたまり小法師がありゃァしないよ」 「あれだ、若旦那。あっしゃァ後にいたんじゃねえんで。若旦那と並んで、のぞいてたんじゃござんせんか。腰を押すにも押さないにも、まず、手が届きゃァしませんや。──それにでえいち、あの声がいけやせん。おせんの浴衣が肩から滑るのを、見ていなすったまでは無事でげしたが、さっと脱いで降りると同時に、きゃっと聞こえた異様な音声。差し詰志道軒なら、一天俄にかき曇り、あれよあれよといいもあらせず、天女の姿は忽ちに、隠れていつか盥の中。……」 「おいおい松つぁん。いい加減にしないか。声を出したなお前が初めだ」 「おやいけねえ。いくら主と家来でも、あっしにばかり、罪をなするなひどうげしょう」 「ひどいことがあるもんか。これからゆっくりかみしめて、味を見ようというところで、お前に腰を押されたばっかりに、それごらん、手までこんなに傷だらけだ」 「そんならこれでもお付けなんって。……おっとしまった。きのうかかあが洗ったんで、まるっきり袂くそがありゃァしねえ」 「冗談いわっし、お前の袂くそなんぞ付けられたら、それこそ肝腎の人さし指が、本から腐って落ちるわな」 「あっしゃァまだ瘡気の持合せはござせんぜ」 「なにないことがあるものか。三日にあげず三枚橋へ横丁へ売女を買いに出かけてるじゃないか。──鼻がまともに付いてるのが、いっそ不思議なくらいなものだ」 「こいつァどうも御挨拶だ。人の知らない、おせんの裸をのぞかせた挙句、鼻のあるのが不思議だといわれたんじゃ、松五郎立つ瀬がありやせん。冗談は止しにして、ひとつ若旦那、縁起直しに、これから眼の覚めるとこへ、お供をさせておくんなさいまし」 「眼の覚めるとことは。──」 「おとぼけなすっちゃいけません。闇の夜のない女護ヶ島、ここから根岸を抜けさえすりゃァ、眼をつぶっても往けやさァね」 「折角だが、そんな所は、あたしゃきょうから嫌いになったよ」 「なんでげすって」 「橘屋徳太郎、女房はかぎ屋のおせんにきめました」 「と、とんでもねえ、若旦那。おせんはそんななまやさしい。──」 「おっと皆までのたまうな。手前、孫呉の術を心得て居りやす」 「損五も得七もありゃァしません。当時名代の孝行娘、たとい若旦那が、百日お通いなすっても、こればっかりは失礼ながら、及ばぬ鯉の滝登りで。……」 「松っぁん」 「へえ」 「帰っとくれ」 「えッ」 「あたしゃ何んだか頭痛がして来た。もうお前さんと、話をするのもいやンなったよ」 「そ、そんな御無態をおいいなすっちゃ。──」 「どうせあたしゃ無態さ。──この煙草入もお前に上げるから、とっとと帰ってもらいたいよ」  三日月に、谷中の夜道は暗かった。その暗がりをただ独り鳴く、蟋蟀を踏みつぶす程、やけな歩みを続けて行く、若旦那徳太郎の頭の中は、おせんの姿で一杯であった。     五 「ふん、何んて馬鹿気た話なんだろう。こっちからお頼み申して来てもらった訳じゃなし。若旦那が手を合せて、たっての頼みだというからこそ、連れて来てやったんじゃねえか、そいつを、自分からあわてちまってよ。垣根の中へ突ンのめったばっかりに、ゆっくり見物出来るはずのおせんの裸がちらッとしきゃのぞけなかったんだ。──面白くもねえ。それもこれも、みんなおいらのせえだッてんじゃ、てんで立つ瀬がありゃしねえや。どこの殿様がこさえたたとえか知らねえが、長い物にゃ巻かれろなんて、あんまり向うの都合が良過ぎるぜ。橘屋の若旦那は、八百蔵に生き写しだなんて、つまらねえお世辞をいわれるもんだから、当人もすっかりいい気ンなってるんだろうが、八百蔵はおろか、八百屋の丁稚にだって、あんな面があるもんか。飛んだ料簡違いのこんこんちきだ」  誰にいうともない独言ながら、吉原への供まで見事にはねられた、版下彫の松五郎は、止度なく腹の底が沸えくり返っているのであろう。やがて二三丁も先へ行ってしまった徳太郎の背後から、浴びせるように罵っていた。 「おいおい松つぁん」 「えッ」 「はッはッは。何をぶつぶついってるんだ。三日月様が笑ってるぜ」 「お前さんは。──」 「おれだよ。春重だよ」  うしろから忍ぶようにして付いて来た男は、そういいながら徐ろに頬冠りをとったが、それは春信の弟子の内でも、変り者で通っている春重だった。 「なァんだ、春重さんかい。今時分、一人でどこへ行きなすった」 「一人でどこへは、そっちより、こっちで訊きたいくらいのもんだ。──お前、橘屋の徳さんにまかれたな」 「まかれやしねえが、どうしておいらが、若旦那と一緒だったのを知ってるんだ」 「ふふふ。平賀源内の文句じゃねえが、春重の眼は、一里先まで見透しが利くんだからの。お前が徳さんとこで会って、どこへ行ったかぐらいのこたァ、聞かねえでも、ちゃんと判ってらァな」 「おやッ、行った先が判ってるッて」 「その通りだ、当てやろうか」 「冗談じゃねえ、いくらお前さんの眼が利いたにしたって、こいつが判ってたまるもんか。断っとくが、当時十六文の売女なんざ、買いに行きゃァしねえよ」 「だが、あのざまは、あんまり威張れもしなかろう」 「あのざまたァ何よ」 「垣根へもたれて、でんぐる返しを打ったざまだ」 「何んだって」 「おせんの裸を窺こうッてえのは、まず立派な智恵だがの。おのれを忘れて乗出した挙句、垣根へ首を突っ込んだんじゃ、折角の趣向も台なしだろうじゃねえか」 「そんなら重さん、お前さんはあの様子を。──」 「気の毒だが、根こそぎ見ちまったんだ」 「どこで見なすった」 「知れたこった。庭の中でよ」 「庭の中」 「おいらァ泥棒猫のように、垣根の外でうろうろしちゃァいねえからの。──それ見な。鬼童丸の故智にならって、牛の生皮じゃねえが、この犬の皮を被っての、秋草城での籠城だ。おかげで画嚢はこの通り。──」  懐中から取り出した春重の写生帳には、十数枚のおせんの裸像が様々に描かれていた。     六  松五郎は、狐につままれでもしたように、しばし三日月の光に浮いて出たおせんの裸像を、春重の写生帳の中に凝視していたが、やがて我に還って、あらためて春重の顔を見守った。 「重さん、お前、相変らず素ばしっこいよ」 「なんでよ」 「犬の皮をかぶって、おせんの裸を思う存分見た上に写し取って来るなんざ、素人にゃ、鯱鉾立をしても、考えられる芸じゃねえッてのよ」 「ふふふ、そんなこたァ朝飯前だよ。──おいらぁ実ァ、もうちっといいことをしてるんだぜ」 「ほう、どんなことを」 「聞きてえか」 「聞かしてくんねえ」 「ただじゃいけねえ、一朱だしたり」 「一朱は高えの」 「なにが高えものか。時によったら、安いくらいのもんだ。──だがきょうは見たところ、一朱はおろか、財布の底にゃ十文もなさそうだの」 「けちなことァおいてくんねえ。憚ンながら、あしたあさまで持越したら、腹が冷え切っちまうだろうッてくれえ、今夜は財布が唸ってるんだ」 「それァ豪儀だ。ついでだ、ちょいと拝ませな」 「ふん、重さん。眼をつぶさねえように、大丈夫か」 「小判の船でも着きゃしめえし、御念にゃ及び申さずだ」  財布はなかった。が、おおかた晒しの六尺にくるんだ銭を、内ぶところから探っているのであろう。松五郎は暫しの間、唖が筍を掘るような恰好をしていたが、やがて握り拳の中に、五六枚の小粒を器用に握りしめて、ぱっと春重の鼻の先で展げてみせた。 「どうだ、親方」 「ほう、こいつァ珍しい。どこで拾った」 「冗談いわっし。当節銭を落す奴なんざ、江戸中尋ねたってあるもんじゃねえ。稼えだんだ」 「版下か」 「はんははんだが、字が違うやつよ。ゆうべお旗本の蟇本多の部屋で、半を続けて三度張ったら、いう目が出ての俄分限での、急に今朝から仕事をするのがいやンなって、天道様がべそをかくまで寝てえたんだが蝙蝠と一緒に、ぶらりぶらりと出たとこを、浅草でばったり出遭ったのが若旦那。それから先は、お前さんに見られた通りのあの始末だ。──」 「そいつァ夢に牡丹餅だの。十文と踏んだ手の内が、三両だとなりゃァ一朱はあんまり安過ぎた。三両のうちから一朱じゃァ、髪の毛一本、抜くほどの痛さもあるまいて」 「こいつァ今夜のもとでだからの」 「そんなら止しなっ聞しちゃやらねえ」 「聞かせねえ」 「だすか」 「仕方がねえ、出しやしょう」  すると春重は、きょろりと辺を見廻してから、俄に首だけ前へ突出した。 「耳をかしな」 「こうか」 「──」 「ふふ、ほんとうかい。重さん。──」 「嘘はお釈迦の御法度だ」  痩た松五郎の眼が再び春重の顔に戻った時、春重はおもむろに、ふところから何物かを取出して松五郎の鼻の先にひけらかした。     七  足もとに、尾花の影は淡かった。 「なんだい」 「なんだかよく見さっし」  八の字を深くしながら、寄せた松五郎の眼先を、ちらとかすめたのは、鶯の糞をいれて使うという、近頃はやりの紅色の糠袋だった。 「こいつァ重さん、糠袋じゃァねえか」 「まずの」 「一朱はずんで、糠袋を見せてもらうどじはあるめえぜ。──お前いまなんてッた。おせんの雪のはだから切り取った、天下に二つと無え代物を拝ませてやるからと。──」 「叱ッ、極内だ」 「だってそんな糠袋。……」 「袋じゃねえよ。おいらの見せるなこの中味だ。文句があるンなら、拝んでからにしてくんな。──それこいつだ。触った味はどんなもんだの」  ぐっと伸ばした松五郎の手先へ、春重は仰々しく糠袋を突出したが、さて暫くすると、再び取っておのが額へ押し当てた。 「開けて見せねえ」 「拝みたけりゃ拝ませる。だが一つだって分けちゃァやらねえから、そのつもりでいてくんねえよ」  そういいながら、指先を器用に動かした春重は、糠袋の口を解くと、まるで金の粉でもあけるように、松五郎の掌へ、三つばかりを、勿体らしく盛り上げた。 「こいつァ重さん。──」 「爪だ」 「ちぇッ」 「おっとあぶねえ。棄てられて堪るものか。これだけ貯めるにゃ、まる一年かかってるんだ」  松五郎の掌へ、おのが掌をかぶせた春重は、あわてて相手の掌ぐるみ裏返して、ほっとしたように眼の前へ引き着けた。 「湯屋で拾い集めた爪じゃァねえよ。蚤や蚊なんざもとよりのこと、腹の底まで凍るような雪の晩だって、おいらァじっと縁の下へもぐり込んだまま辛抱して来た苦心の宝だ。──この明りじゃはっきり見分けがつくめえが、よく見ねえ。お大名のお姫様の爪だって、これ程の艶はあるめえからの」  三日月なりに切ってある、目にいれたいくらいの小さな爪を、母指と中指の先で摘んだまま、ほのかな月光に透した春重の面には、得意の色が明々浮んで、はては傍に松五郎のいることをさえも忘れた如く、独り頻りにうなずいていたが、ふと向う臑にたかった藪蚊のかゆさに、漸くおのれに還ったのであろう。突然平手で臑をたたくと、くすぐったそうにふふふと笑った。 「重さん、お前まったく変り者だの」 「なんでよ」 「考えても見ねえ。これが金の棒を削った粉とでもいうンなら、拾いがいもあろうけれど、高が女の爪だぜ。一貫目拾ったところで、瘭疽の薬になるくれえが、関の山だろうじゃねえか。よく師匠も、春重は変り者だといってなすったが、まさかこれ程たァ思わなかった」 「おいおい松つぁん、はっきりしなよ。おいらが変り者じゃァねえ。世間の奴らが変ってるんだ。それが証拠にゃ。願にかけておせんの茶屋へ通う客は山程あっても、爪を切るおせんのかたちを、一度だって見た男は、おそらく一人もなかろうじゃねえか。──そこから生れたこの爪だ」  一つずつ数えたら、爪の数は、百個近くもあるであろう。春重は、もう一度糠袋を握りしめて、薄気味悪くにやりと笑った。   朝     一  ちち、ちち、ちちち。  行燈はともしたままになっていたが、外は既に明けそめたのであろう。今まで流し元で頻りに鳴いていた虫の音が、絶えがちに細ったのは、雨戸から差す陽の光りに、おのずと怯えてしまったに相違ない。  が、虫の音の細ったことも、外が白々と明けそめて、路地の溝板を踏む人の足音が聞えはじめたことも、何もかも知らずに、ただ独り、破れ畳の上に据えた寺子屋机の前に頑張ったまま、手許の火鉢に載せた薬罐からたぎる湯気を、千切れた蟋蟀の片脚のように、頬を引ッつらせながら、夢中で吸い続けていたのは春重であった。  七軒長屋のまん中は縁起がよくないという、人のいやがるそんまん中へ、所帯道具といえば、土竈と七輪と、箸と茶碗に鍋が一つ、膳は師匠の春信から、縁の欠けた根ごろの猫脚をもらったのが、せめて道具らしい顔をしているくらいが関の山。いわばすッてんてんの着のみ着のままで蛆が湧くのも面白かろうと、男やもめの垢だらけの体を運び込んだのが、去年の暮も押し詰って、引摺り餅が向ッ鉢巻で練り歩いていた、廿五日の夜の八つ時だった。  ざっと二年。きのうもきょうもない春重のことながら、二十七のきょうの若さで、女の数は千人近くも知り尽くしたのが自慢なだけに、並大抵のことでは興味が湧かず、師匠の通りに描く美人画なら、いま直ぐにも描ける器用な腕が却って邪間になって、着物なんぞ着た女を描いても、始まらないとの心からであろう。自然の風景を写すほかは、画帳は悉く、裸婦の像に満たされているという変り様だった。  二畳に六畳の二間は、狭いようでも道具がないので、独り住居には広かった。そのぐるりの壁に貼りめぐらした絵の数が、一目で数えて三十余り、しかも男と名のつく者は、半分も描いてあるのではなく、女と、いうよりも、殆ど全部が、おせんの様々な姿態に尽されているのも凄まじかった。  その六畳の行燈の下に、机の上から投げ出されたのであろう、腰の付根から下だけを、幾つともなく描いた紙片が、十枚近くもちらばったのを、時おりじろりじろりとにらみながら、薬罐の湯気を、鼻の穴が開きッ放しになる程吸い込んでいた春重は、ふと、行燈の芯をかき立てて、薄気味悪くニヤリと笑った。 「ふふふ。わるくねえにおいだ。──世間の奴らァ智恵なしだから、女のにおいは、肌からじかでなけりゃ、嗅げねえように思ってるが、情ねえもんだ。この爪が、薬罐の中で煮えくり返る甘い匂を、一度でいいから嗅がしてやりてえくれえのもんだ。紅やおしろいのにおいなんぞたァ訳が違って、魂が極楽遊びに出かけるたァこのことだろう。おまけにただの駄爪じゃねえ。笠森おせんの、磨きのかかった珠のような爪様だ。──大方松五郎の奴ァ、今時分、やけで出かけた吉原で、折角拾ったような博打の金を、手もなく捲揚げられてることだろうが、可哀想にこうしておせんの脚を描きながらこの匂をかいでる気持ァ、鯱鉾立をしたってわかるこッちゃァあるめえて。──ふふふ。もうひと摘み、新しいこいつをいれ、肚一杯にかぐとしようか」  春重は傍らに置いた紅の糠袋を、如何にも大切そうに取上げると、おもむろに口紐を解いて、十ばかりの爪を掌にあけたが、そのまま湯のたぎる薬罐の中へ、一つ一つ丁寧につまみ込んだ。 「ふふふ、こいつァいい匂だなァ。堪らねえ匂だ。──笠森の茶屋で、おせんを見てよだれを垂らしての野呂間達に、猪口半分でいいから、この湯を飲ましてやりてえ気がする。──」  どこぞの秋刀魚を狙った泥棒猫が、あやまって庇から路地へ落ちたのであろう。突然雨戸を倒したような大きな音が窓下に聞えたが、それでも薬罐の中に埋められた春重の長い顔はただその眉が阿波人形のように、大きく動いただけで、決して横には向けられなかった。     二 「おたき」 「え」 「隣じゃまた、いつもの病が始まったらしいぜ。何しろあの匂じゃ、臭くッてたまらねえな」 「ほんとうに、何んて因果な人なんだろうね。顔を見りゃ、十人なみの男前だし絵も上手だって話だけど、してることは、まるッきり並の人間と変ってるんだからね」 「おめえ。ちょいと隣へ行って来ねえ」 「何しにさ」 「夜のこたァ、こっちが寝てるうちだから、何をしても構わねえが、お天道様が、上ったら、その匂だけに止めてもらいてえッてよ。仕事に行ったって、えたいの知れぬ匂が、半纏にまでしみ込んでるんで、外聞が悪くッて仕様がありやァしねえ」 「女じゃ駄目だよ。お前さん行って、かけ合って来とくれよ」 「だからね。おいらァ行くな知ってるが、今もそいった通り、帳場へ出かけてからがみっともなくて仕様がねえんだ。あんな匂の中へ這入っちゃいかれねえッてのよ」 「あたしだっていやだよ。まるで焼場のような匂だもの。きのうだって、髪結のおしげさんがいうじゃァないか。お上さんとこへ結いに行くのもいいけれど、お隣の壁越しに伝わってくる匂をかぐと、仏臭いような気がしてたまらないから、なるたけこっちへ、出かけて来てもらいたいって。──いったいお前さん、あれァ何を焼く匂だと思ってるの」 「分ってらァな」 「何んだえ」 「奴ァ絵かきッて振れ込みだが、嘘ッ八だぜ」 「おや、絵かきじゃないのかい」 「そうとも。奴ァ雪駄直しだ」 「雪駄直し。──」 「それに違えねえやな。でえいち、外にあんな匂をさせる家業が、ある筈はなかろうじゃねえか。雪駄の皮を、鍋で煮るんだ。軟らかにして、針の通りがよくなるようによ」 「そうかしら」 「しらも黒もありァしねえ。それが為に、忙しい時にゃ、夜ッぴて鍋をかけッ放しにしとくから、こっちこそいい面の皮なんだ。──この壁ンところ鼻を当てて臭いで見ねえ。火事場で雪駄の焼け残りを踏んだ時と、まるッきり変りがねえじゃねえか」 「あたしゃもう、ここにいてさえ、いやな気持がするんだから、そんなとこへ寄るなんざ、真ッ平よ。──ねえお前さん。後生だから、かけ合って来とくれよ」 「おめえ行って来ねえ」 「女じゃ駄目だというのにさ」 「男が行っちゃァ、穏やかでねえから、おめえ行きねえッてんだ」 「だって、こんなこたァ、どこの家だって、みんな亭主の役じゃないか」 「おいらァいけねえ」 「なんて気の弱い人なんだろう」 「臭えからいやなんだ」 「お前さんより、女だもの。あたしの方が、どんなにいやだか知れやしない。──昔ッから、公事かけ合は、みんな男のつとめなんだよ」 「ふん。昔も今もあるもんじゃねえ。隣近所のこたァ、女房がするに極ッてらァな。行って、こっぴどくやっ付けて来ねえッてことよ」  壁一重隣の左官夫婦が、朝飯の膳をはさんで、聞えよがしのいやがらせも、春重の耳へは、秋の蝿の羽ばたき程にも這入らなかったのであろう。行燈の下の、薬罐の上に負いかぶさったその顔は、益々上気してゆくばかりであった。     三 「重さん。もし、重さんは留守かい。──おやッ、天道様が臍の皺まで御覧なさろうッて真ッ昼間、あかりをつけッ放しにしてるなんざ、ひど過ぎるぜ。──寝ているのかい。起きてるんなら開けてくんねえ」  どこかで一杯引っかけて来た、酔いの廻った舌であろう。声は確に彫師の松五郎であった。 「ふふふふ。とうとう寄りゃがったな」  首をすくめながら、口の中でこう呟いた春重は、それでも爪を煮込んでいる薬罐の傍から顔を放さずに、雨戸の方を偸み見た。陽は高々と昇っているらしく、今さら気付いた雨戸の隙間には、なだらかな日の光が、吹矢で吹き込んだように、こまいの現れた壁の裾へ流れ込んでいた。 「春重さん。重さん。──」  が、それでも春重は返事をしずに、そのまま鎌首を上げて、ひそかに上りはなの方へ這い寄って行った。 「おかしいな。いねえはずァねえんだが。──あかりをつけて寝てるなんざ、どっちにしても不用心だぜ。おいらだよ。松五郎様の御登城だよ」 「もし、親方」  突然、隣の女房おたきの声が聞こえた。 「ねえお上さん。ここの家ァ留守でげすかい。寝てるんだか留守なんだか、ちっともわからねえ」 「いますともさ。だが親方、悪いこたァいわないから、滅多に戸を開けるなァお止しなさいよ。そこを開けた日にゃ、それこそ生皮の匂で、隣近所は大迷惑だわな」 「生皮の匂ってななんだの、お上さん」 「おや、親方にゃこの匂がわからないのかい。このたまらないいやな匂が。……」 「判らねえこたァねえが、こいつァおまえ、膠を煮てる匂だわな」 「冗談じゃない。そんな生やさしいもんじゃありゃァしない。お鍋を火鉢へかけて、雪駄の皮を煮てるんだよ。今もうちで、絵師なんて振れ込みは、大嘘だって話を。……」  がらッと雨戸が開いて、春重の辛い顔がぬッと現れた。 「お早よう」 「お早ようじゃねえや。何んだって松つぁんこんな早くッからやって来たんだ」 「早えことがあるもんか。お天道様は、もうとっくに朝湯を済まして、あんなに高く昇ってるじゃねえか。──いってえ重さん。おめえ、寝てえたんだか起きてたんだか、なぜ返事をしてくれねえんだ」 「返事なんざ、しちゃァいられねえよ。──いいからこっちへ這入ンねえ」  不機嫌な春重の顔は、桐油のように強張っていた。 「へえってもいいかい」 「帰るんなら帰ンねえ」 「いやにおどかすの」 「振られた朝帰りなんぞに寄られちゃ、かなわねえ」 「ふふふ。振られてなんざ来ねえよ。それが証拠にゃ、いい土産を持って来た」 「土産なんざいらねえから、そこを締めたら、もとの通り、ちゃんと心張棒をかけといてくんねえ」 「重さん、おめえまだ寝るつもりかい」 「いいから、おいらのいった通りにしてくんねえよ」  松五郎が不承無承に、雨戸の心張棒をかうと、九尺二間の家の中は再び元通りの夜の世界に変って行った。 「上ンねえ」  が、松五郎は、次第に鼻を衝いてくる異様な匂に、そのままそこへ佇んでしまった。     四  行燈はほのかにともっていたものの、日向から這入って来たばかりの松五郎の眼には、家の中は真ッ暗闇であった。 「松つぁん、何んで上らねえんだ」 「暗くって、足もとが見えやしねえ」 「不自由な眼だの。そんなこっちゃ、面白い思いは出来ねえぜ」 「重さん、おめえ、ずっと起きて何をしてなすった」 「ふふふ。こっちへ上りゃァ、直ぐに判るこッた。──まァこの行燈の傍へ来て見ねえ」  漸く眼に慣れて来たのであろう。行燈の輪が次第に色を濃くするにつれて、狭いあたりの有様は、おのずから松五郎の前にはっきり浮き出した。 「絵をかいてたんじゃねえのかい」 「絵なんざかいちゃァいねえよ。──おめえにゃ、この匂がわからねえかの」 「膠だな」 「ふふ、膠は情ねえぜ」 「じゃァやっぱり、牛の皮でも煮てるのか」 「馬鹿をいわッし。おいらが何んで、牛の皮に用があるんだ。もっともこの薬罐の傍へ鼻を押ッつけて、よく嗅いで見ねえ」 「おいらァ、こんな匂は真ァ平だ」 「何んだって。この匂がかげねえッて。ふふふ。世の中にこれ程のいい匂は、またとあるもんじゃねえや、伽羅沈香だろうが、蘭麝だろうが及びもつかねえ、勿体ねえくれえの名香だぜ。──そんな遠くにいたんじゃ、本当の香りは判らねえから、もっと薬罐の傍に寄って、鼻の穴をおッぴろげて嗅いで見ねえ」 「いってえ、何を煮てるのよ」 「江戸はおろか、日本中に二つとねえ代物を煮てるんだ」 「おどかしちゃいけねえ。そんな物がある訳はなかろうぜ」 「なにねえことがあるものか。──それ見ねえ。おめえ、この袋にゃ覚えがあろう」  鼻の先へ付き付けた紅の糠袋は、春重の手の中で、珠のように小さく躍った。 「あッ。そいつを。……」 「どうだ。おせんの爪だ。この匂を嫌うようじゃ、男に生れた甲斐がねえぜ」 「重さん。おめえは、よっぽどの変り者だのう」  松五郎は、あらためて春重の顔を見守った。 「変り者じゃァねえ。そういうおめえの方が、変ってるんだ。──四角四面にかしこまっているお武家でも、男と生れたからにゃ、女の嫌いな者ッ、ただの一人もありゃァしめえ。その万人が万人、好きで好きでたまらねえ女の、これが本当の匂だろうじゃねえか。成る程、肌の匂もある。髪の匂もある。乳の匂もあるにァ違えねえ。だが、その数ある女の匂を、一つにまとめた有難味の籠ったのが、この匂なんだ。──三浦屋の高尾がどれほど綺麗だろうが、楊枝見世のお藤がどんなに評判だろうが、とどのつまりは、みめかたちよりは、女の匂に酔って客が通うという寸法じゃねえか。──よく聞きなよ。匂だぜ。このたまらねえいい匂だぜ」 「冗談じゃねえ。おいらァいくら何んだって、こんな匂をかぎたくッて、通うような馬鹿気たこたァ。……」 「あれだ。おめえにゃまだ、まるッきり判らねえと見えるの。こいつだ。この匂が、嘘も隠しもねえ、女の匂だってんだ」 「馬鹿な、おめえ。──」 「そうか。そう思ってるんなら、いまおめえに見せてやる物がある。きっとびっくりするなよ」  春重はこういいながら、いきなり真暗な戸棚の中へ首を突っ込んだ。     五  じりじりッと燈芯の燃え落ちる音が、しばしのしじまを破ってえあたりを急に明るくした。が、それも束の間、やがて油が尽きたのであろう。行燈は忽ち消えて、あたりは真の闇に変ってしまった。 「いたずらしちゃァいけねえ。まるっきりまっ暗で、何んにも見えやしねえ」  背伸びをして、三尺の戸棚の奥を探っていた春重は、闇の中から重い声でこういいながら、もう一度、ごとりと鼠のように音を立てた。 「いたずらじゃねえよ。油が切れちゃったんだ」 「油が切れたッて。そんなら、行燈のわきに、油差と火口がおいてあるから、速くつけてくんねえ」 「どこだの」 「行燈の右手だ」  口でそういわれても、勝手を知らない暗の中では、手探りも容易でなく、松五郎は破れ畳の上を、小気味悪く這い廻った。 「速くしてもらいてえの」 「いまつける」  探り当てた油差を、雨戸の隙間から微かに差し込む陽の光を頼りに、油皿のそばまで持って行った松五郎は、中指の先で冷たい真鍮の口を加減しながら、とッとッとと、おもく落ちた油を透かして見たが、さてどうやらそれがうまく運ぶと、これも足の先で探り出した火口を取って、やっとの思いで行燈に灯をいれた。  ぱっと、漆盆の上へ欝金の絵の具を垂らしたように、あたりが明るくなった。同時に、春重のニヤリと笑った薄気味悪い顔が、こっちを向いて立っていた。 「松つぁん。おめえ本当に、女の匂は、麝香の匂だと思ってるんだの」 「そりゃァそうだ。こんな生皮のような匂が女の匂でたまるもんか」 「そうか。じゃァよくわかるように、こいつを見せてやる」  編めば牛蒡締くらいの太さはあるであろう。春重の手から、無造作に投げ出された真ッ黒な一束は、松五郎の膝の下で、蛇のようにひとうねりうねると、ぐさりとそのまま畳の上へ、とぐろを巻いて納まってしまった。 「あッ」 「気味の悪いもんじゃねえよ。よく手に取って、その匂を嗅いで見ねえ」  松五郎は行燈の下に、じっと眼を瞠った。 「これァ重さん、髪の毛じゃねえか」 「その通りだ」 「こんなものを、おめえ。……」 「ふふふ、気味が悪いか。情ねえ料簡だの、爪の匂がいやだというから、そいつを嗅がせてやるんだが、これだって、髢なんぞたわけが違って、滅多矢鱈に集まる代物じゃァねえんだ。数にしたら何万本。しかも一本ずつがみんな違った、若い女の髪の毛だ。──その中へ黙って顔を埋めて見ねえ。一人一人の違った女の声が、代り代りに聞えて来る。この世ながらの極楽だ。上はお大名のお姫様から、下は橋の下の乞食まで、十五から三十までの女と名のつく女の髪は、ひと筋残らずはいってるんだぜ。──どうだ松つぁん。おいらァ、この道へかけちゃ、江戸はおろか、蝦夷長崎の果へ行っても、ひけは取らねえだけの自慢があるんだ。見ねえ、髪の毛はこの通り、一本残らず生きてるんだから。……」  松五郎の膝もとから、黒髪の束を取りあげた春重は、忽ちそれを顔へ押し当てると、次第に募る感激に身をふるわせながら、異様な声で笑い始めた。 「重さん。おれァ帰る」 「帰るンなら、せめて匂だけでも嗅いできねえ」  が、松五郎は、もはや腰が坐らなかった。     六 「ああ気味が悪かった。ついゆうべの惚気を聞かせてやろうと思って、寄ったばっかりに、ひでえ目に遇っちゃった。変り者ッてこたァ知ってたが、まさか、あれ程たァ思わなかった。──あんな奴につかまっちゃァ、まったくかなわねえ」  弾かれた煎豆のように、雨戸の外へ飛び出した松五郎は、酔いも一時に醒め果てて、一寸先も見えなかったが、それでも溝板の上を駆けだして、角の煙草屋の前まで来ると、どうやらほっと安心の胸を撫でおろした。 「だが、いったいあいつは、何んだってあんな馬鹿気たことが好きなんだろう。爪を煮たり、髪の毛の中へ顔を埋めたり、気狂じみた真似をしちゃァ、いい気持になってるようだが、虫のせえだとすると、ちと念がいり過ぎるしの。どうも料簡方がわからねえ」  ぶつぶつひとり呟きながら、小首を傾げて歩いて来た松五郎は、いきなりぽんと一つ肩をたたかれて、はッとした。 「どうした、兄ィ」 「おおこりゃ松住町」 「松住町じゃねえぜ。朝っぱらから、素人芝居の稽古でもなかろう。いい若え者がひとり言をいってるなんざ、みっともねえじゃねえか」  坊主頭へ四つにたたんだ手拭を載せて、朝の陽差を避けながら、高々と尻を絡げたいでたちの相手は、同じ春信の摺師をしている八五郎だった。 「みっともねえかも知れねえが、あれ程たァ思わなかったからよ」 「何がよ」 「春重だ」 「春重がどうしたッてんだ」 「どうもこうもねえが、あいつァおめえ、日本一の変り者だぜ」 「春重の変り者だってこたァ、いつも師匠がいってるじゃねえか。今さら変り者ぐれえに、驚くおめえでもなかろうによ」 「うんにゃ、そうでねえ。ただの変り者なら、おいらもこうまじゃ驚かねえが、一晩中寝ずに爪を煮たり、束にしてある女の髪の毛を、一本一本しゃぶったりするのを見ちゃァいくらおいらが度胸を据えたって。……」 「爪を煮るたァ、そいつァいってえ何んのこったい」 「薬罐に入れて、女の爪を煮るんだ」 「女の爪を煮る。──」 「そうよ。おまけにこいつァ、ただの女の爪じゃァねえぜ。当時江戸で、一といって二と下らねえといわれてる、笠森おせんの爪なんだ」 「冗談じゃねえ。おせんの爪が、何んで煮る程取れるもんか、おめえも人が好過ぎるぜ。春重に欺されて、気味が悪いの恐ろしいのと、頭を抱えて帰ってくるなんざ、お笑い草だ。おおかた絵を描く膠でも煮ていたんだろう。そいつをおめえが間違って。……」 「そ、そんなんじゃねえ。真正間違いのねえおせんの爪を紅の糠袋から小出しに出して、薬罐の中で煮てるんだ。そいつも、ただ煮てるんならまだしもだが、薬罐の上へ面を被せて、立昇る湯気を、血相変えて嗅いでるじゃねえか。あれがおめえ、いい心持で見ていられるか、いられねえか、まず考えてくんねえ」 「そいつを嗅いで、どうしようッてんだ」 「奴にいわせると、あのたまらなく臭え匂が本当の女の匂だというんだ。嘘だと思ったら、論より証拠、春重の家へ行って見ねえ。戸を締め切って、今が嬉しがりの真ッ最中だぜ」  が、八五郎は首を振った。 「そいつァいけねえ。おれァ師匠の使いで、おせんのとこまで行かにゃならねえんだ」     七  隈取りでもしたように眼の皮をたるませた春重の、上気した頬のあたりに、蝿が一匹ぽつんととまって、初秋の陽が、路地の瓦から、くすぐったい顔をのぞかせていた。 「おっといけねえ。春重がやってくるぜ」  煙草屋の角に立ったまま、爪を煮る噂をしていた松五郎は、あわてて八五郎に目くばせをすると、暖簾のかげに身を引いた。 「隠れるこたぁなかろう」 「そうでねえ。おいらは今逃げて来たばかりだからの。見付かっちァことだ」 「そんなら、そっちへ引っ込んでるがいい。もののついでに、おれがひとつ、鎌をかけてやるから。──」  蛙のように、眼玉ばかりきょろつかせて暖簾のかげから顔をだした松五郎は、それでもまだ怯えていた。 「大丈夫かの」 「叱ッ。そこへ来たぜ」  出合頭のつもりかなんぞの、至極気軽な調子で、八五郎は春重の前へ立ちふさがった。 「重さん、大層早えの」  びくっとしたように、春重が爪先で立ち止った。 「八つぁんか」 「八つぁんじゃねえぜ、一ぺえやったようないい顔色をして、どこへ行きなさる」 「柳湯への」 「朝湯たァしゃれてるの」 「しゃれてる訳じゃねえが、寝ずに仕事をしてたんで、湯へでも這入らねえことにゃ、はっきりしねえからよ」 「ふん、夜なべたァ恐れ入った。そんなに稼いじゃ、銭がたまって仕方があるめえ」 「だからよ。だから垢と一緒に、柳湯へ捨てに行くところだ」 「ほう、済まねえが、そんな無駄な銭があるんなら、ちとこっちへ廻して貰いてえの。おれだの松五郎なんざ、貧乏神に見込まれたせいか、いつもぴいぴい風車だ。そこへ行くとおめえなんざ、おせんの爪を糠袋へ入れて。……」 「なんだって八つぁん、おめえ夢を見てるんじゃねえか。爪だの糠袋だの、とそんなことァ、おれにゃァてんで通じねえよ」 「えええ隠しちゃァいけねえ。何から何まで、おれァ根こそぎ知ってるぜ」 「知ってるッて。──」 「知らねえでどうするもんか。重さん、おめえの夜あかしの仕事は、銭のたまる稼ぎじゃなくッて、色気のたまる楽しみじゃねえか」 「そ、そんなことが。……」 「嘘だといいなさるのかい。証拠はちゃんと上ってるんだぜ。おせんの爪を煮る匂は、さぞ香ばしくッて、いいだろうの」 「そいつを、おめえは誰から聞きなすった」 「誰から聞かねえでも、おいらの眼は見透しだて。──人間は、四百四病の器だというが、重さん、おめえの病は、別あつらえかも知れねえの」  春重は、きょろりとあたりを見廻してから、一段声を落した。 「ちょいと家へ寄らねえか。おもしろい物を見せるぜ」 「折角だが、寄ってる暇がねえやつさ。これから大急ぎで、おせんの見世まで行かざァならねえんだ」 「おせんの見世へ行くッて、何んの用でよ」 「何んの用だか知らねえが、春信師匠が、急に用ありとのことでの」  八五郎は、春信から預った結文を、ちょいと懐中から窺かせた。   紅     一  ゆく末は誰が肌触れん紅の花  ばせを 「おッとッと、そう一人で急いじゃいけねえ。まず御手洗で手を浄めての。肝腎のお稲荷さんへ参詣しねえことにゃ、罰が当って眼がつぶれやしょう」 「いかさまこれは早まった。こかァ笠森様の境内だったッけの」 「冗談じゃごわせん。そいつを忘れちゃ、申訳がありますめえ。──それそれ、何んでまた、洗った手を拭きなさらねえ。おせんは逃げやしねえから、落着いたり、落着いたり」 「御隠居、そうひやかしちゃいけやせん。堪忍堪忍」 「はッはッはッ、徳さん。お前の足ッ、まるッきり、地べたを踏んじァいねえの」  こおろぎの音も細々と明け暮れて、風に乱れる芒叢に、三つ四つ五つ、子雀の飛び交うさまも、いとど憐れの秋ながら、ここ谷中の草道ばかりは、枯野も落葉も影さえなく、四季を分たず咲き競うた、芙蓉の花が清々しくも色を染めて、西の空に澄み渡った富岳の雪に映えていた。  名にし負う花の笠森感応寺。渋茶の味はどうであろうと、おせんが愛想の靨を拝んで、桜貝をちりばめたような白魚の手から、お茶一服を差し出されれば、ぞっと色気が身にしみて、帰りの茶代は倍になろうという。女ならでは夜のあけぬ、その大江戸の隅々まで、子供が唄う毬唄といえば、近頃「おせんの茶屋」にきまっていた。  夜が白々と明けそめて、上野の森の恋の鴉が、まだ漸く夢から覚めたか覚めない時分、早くも感応寺中門前町は、参詣の名に隠れての、恋知り男の雪駄の音で賑わいそめるが、十一軒の水茶屋の、いずれの見世に休むにしても、当の金的はかぎ屋のおせんただ一人。ゆうべ吉原で振り抜かれた捨鉢なのが、帰りの駄賃に、朱羅宇の煙管を背筋に忍ばせて、可愛いおせんにやろうなんぞと、飛んだ親切なお笑い草も、数ある客の中にも珍しくなかった。 「はいお早う」 「ああ喉がかわいた」  赤い鳥居の手前にある。伊豆石の御手洗で洗った手を、拭くのを忘れた橘屋の若旦那徳太郎が、お稲荷様への参詣は二の次ぎに、連れの隠居の台詞通り、土へつかない足を浮かせて、飛び込んで来たおせんの見世先。どかりと腰をおろした縁台に、小腰をかがめて近寄ったのは、肝腎のおせんではなくて、雇女のおきぬだった。 「いらっしゃいまし。お早くからようこそ御参詣で。──」 「茶をひとつもらいましょう」 「はい、唯今」  三四人の先客への遠慮からであろう。おきぬが茶を汲みに行ってしまうと、徳太郎はじくりと固唾を呑んで声をひそめた。 「おかしいの。居りやせんぜ」 「そんなこたァごわすまい。看板のねえ見世はあるまいからの」 「だが御隠居。おせんは影もかたちも見えやせんよ」 「あわてずに待ったり。じきに奥から出て来ようッて寸法だろう」 「朝飯とお踏みなすったか」 「そうだ。それともお前さんのくるのを知って、念入りの化粧ッてところか」 「嬉しがらせは殺生でげす。──おっと姐さん。おせんちゃんはどうしやした」 「唯今ちょいとお詣りに。──」 「どこへの」 「お稲荷様でござんすよ」 「うむ、違いない。ここァお稲荷様の境内だっけの」  徳太郎は漸く安心したように、ふふふと軽く内所で笑った。     二  橘屋の若旦那徳太郎が、おせんの茶屋で安心の胸を撫でおろしていた時分、当のおせんは、神田白壁町の鈴木春信の住居へと、ひたすら駕籠を急がせた。 「相棒」 「おお」 「威勢よくやんねえ」 「合点だ」 「そんじょそこらの、大道臼を乗せてるんじゃねえや。江戸一番のおせんちゃんを乗せてるんだからの」 「そうとも」 「こうなると、銭金のお客じゃァねえ。こちとらの見得になるんだ」 「その通りだ」 「おれァ、一度、半蔵松葉の粧おいという花魁を、小梅の寮まで乗せたことがあったっけが、入山形に一つ星の、全盛の太夫を乗せた時だって、こんないい気持はしなかったぜ」 「もっともだ」 「垂を揚げて、世間の仲間に見せてやりてえくれえのものだの」 「おめえばかりじゃねえ。そいつァおいらもおんなじこッた」 「もし姐さん」と、後の方から声がかかった。 「あい」 「どうでげす。駕籠の垂を揚げさしちァおくんなさるめえか」 「堪忍しておくんなさい。あたしゃ内所の用事でござんすから。……」 「折角お前さんを乗せながら、垂をおろして担いでたんじゃ、勿体なくって仕方がねえ。憚ンながら駕籠定の竹と仙蔵は、江戸一番のおせんちゃんを乗せてるんだと、みんなに見せてやりてえんで。……」 「どうかそんなことは、もういわないでおくんなさい」 「評判娘のおせんちゃんだ。両方揚げて悪かったら、片ッ方だけでもようがしょう」 「そうだ、姐さん。こいつァ何も、あっしらばかりの見得じゃァごあんせんぜ。春信さんの絵で売り込むのも、駕籠から窺いて見せてやるのも、いずれは世間へのおんなじ功徳でげさァね。ひとつ思い切って、ようがしょう」 「どうか堪忍。……」 「欲のねえお人だなァ。垂を揚げてごらんなせえ。あれ見や、あれが水茶屋のおせんだ。笠森のおせんだと、誰いうとなく口から耳へ伝わって白壁町まで往くうちにゃァ、この駕籠の棟ッ鼻にゃ、人垣が出来やすぜ。のう竹」 「そりゃァもう仙蔵のいう通り真正間違えなしの、生きたおせんちゃんを江戸の町中で見たとなりゃァ、また評判は格別だ。──片ッ方でもいけなけりゃ、せめて半分だけでも揚げてやったら、通りがかりの人達が、どんなに喜ぶか知れたもんじゃねえんで。……」 「駕籠屋さん」 「ほい」 「あたしゃもう降りますよ」 「何んでげすッて」 「無理難題をいうんなら、ここで降ろしておくんなさいよ」 「と、とんでもねえ。お前さんを、こんなところでおろした日にゃ、それこそこちとらァ、二度と再び、江戸じゃ家業が出来やせんや。──そんなにいやなら、垂を揚げるたいわねえから、そうじたばたと動かねえで、おとなしく乗っておくんなせえ。──だが、考げえりゃ考げえるほど、このまま担いでるな、勿体ねえなァ」  駕籠はいま、秋元但馬守の練塀に沿って、蓮の花が妍を競った不忍池畔へと差掛っていた。     三  東叡山寛永寺の山裾に、周囲一里の池を見ることは、開府以来江戸っ子がもつ誇りの一つであったが、わけても雁の訪れを待つまでの、蓮の花が池面に浮き出た初秋の風情は、江戸歌舞伎の荒事と共に、八百八町の老若男女が、得意中の得意とするところであった。  近頃はやり物のひとつになった黄縞格子の薄物に、菊菱の模様のある緋呉羅の帯を締めて、首から胸へ、紅絹の守袋の紐をのぞかせたおせんは、洗い髪に結いあげた島田髷も清々しく、正しく座った膝の上に、両の手を置いたまま、駕籠の中から池のおもてに視線を移した。  夜が明けて、まだ五つには間があるであろう。ひと抱えもあろうと想われる蓮の葉に、置かれた露の玉は、いずれも朝風に揺れて、その足もとに忍び寄るさざ波を、ながし目に見ながら咲いた花の紅が招く尾花のそれとは変った清い姿を、水鏡に映すたわわの風情。ゆうべの夢見が忘れられぬであろう。葉隠れにちょいと覗いた青蛙は、今にも落ちかかった三角頭に、陽射しを眩ゆく避けていた。 「駕籠屋さん」  ふと、おせんが声をかけた。 「へえ」 「こっち側だけ、垂を揚げておくんなさいな」 「なんでげすッて」 「花が見とうござんすのさ」 「合点でげす」  先棒と後との声は、正に一緒であった。駕籠が地上におろされると同時に、池に面した右手の垂は、颯とばかりにはね揚げられた。 「まァ綺麗だこと」 「でげすからあっしらが、さっきッからいってたじゃござんせんか。こんないい景色ァ、毎朝見られる図じゃァねえッて。──ごらんなせえやし。お前さんの姿が見えたら、つぼんでいた花が、あの通り一遍に咲きやしたぜ」 「ちげえねえ。葉ッぱにとまってた蛙の野郎までが、あんな大きな眼を開きゃァがった」 「もういいから、やっておくんなさい」 「そんなら、ゆっくりめえりやしょう。──おせんちゃんが垂を揚げておくんなさりゃ、どんなに肩身が広いか知れやァしねえ。のう竹」 「そうともそうとも。こうなったら、急いでくれろと頼まれても、足がいうことを聞きませんや。あっしと仙蔵との、役得でげさァね」 「ほほほほ、そんならあたしゃ、垂をおろしてもらいますよ」 「飛んでもねえ。駕籠に乗る人かつぐ人、行く先ァお客のままだが、かついでるうちァ、こっちのままでげすぜ。──それ竹、なるたけ往来の人達に目立つように、腰をひねって歩きねえ」 「おっと、御念には及ばねえ。お上が許しておくんなさりゃァ、棒鼻へ、笠森おせん御用駕籠とでも、札を建てて行きてえくらいだ」  いうまでもなく、祝儀や酒手の多寡ではなかった。当時江戸女の人気を一人で背負ってるような、笠森おせんを乗せた嬉しさは、駕籠屋仲間の誉れでもあろう。竹も仙蔵も、金の延棒を乗せたよりも腹は得意で一ぱいになっていた。 「こう見や。あすこへ行くなァおせんだぜ」 「おせんだ」 「そうよ。人違えのはずはねえ。靨が立派な証拠だて」 「おッと違えねえ。向うへ廻って見ざァならねえ」  帳場へ急ぐ大工であろう。最初に見つけた誇りから、二人が一緒に、駕籠の向うへかけ寄った。     四 「風流絵暦所鈴木春信」  水くきのあとも細々と、流したように書きつらねた木目の浮いた看板に、片枝折の竹も朽ちた屋根から柴垣へかけて、葡萄の蔓が伸び放題の姿を、三尺ばかりの流れに映した風雅なひと構え、お城の松も影を曳きそうな、日本橋から北へ僅に十丁の江戸のまん中に、かくも鄙びた住居があろうかと、道往く人のささやき交す白壁町。夏ならば、すいと飛びだす迷い蛍を、あれさ待ちなと、団扇で追い寄るしなやかな手も見られるであろうが、はや秋の声聞く垣根の外には、朝日を受けた小葡萄の房が、漸く小豆大のかたちをつらねた影を、真下の流れに漂わせているばかりであった。  池と名付ける程ではないが、一坪余りの自然の水溜りに、十匹ばかりの緋鯉が数えられるその鯉の背を覆って、なかば花の散りかけた萩のうねりが、一叢ぐっと大手を広げた枝の先から、今しもぽたりと落ちたひとしずく。波紋が次第に大きく伸びたささやかな波の輪を、小枝の先でかき寄せながら、じっと水の面を見詰めていたのは、四十五の年よりは十年も若く見える、五尺に満たない小作りの春信であった。  おおかた銜えた楊枝を棄てて、顔を洗ったばかりなのであろう。まだ右手に提げた手拭は、重く濡れたままになっていた。 「藤吉」  春信は、鯉の背から眼を放すと、急に思いだしたように、縁先の万年青の葉を掃除している、少年の門弟藤吉を呼んだ。 「へえ」 「八つぁんは、まだ帰って来ないようだの」 「へえ」 「おせんもまだ見えないか」 「へえ」 「堺屋の太夫もか」 「へえ」 「おまえちょいと、枝折戸へ出て見て来な」 「かしこまりました」  藤吉は、万年青の葉から掃除の筆を放すと、そのまま萩の裾を廻って、小走りにおもてへ出て行った。 「今時分、おせんがいないはずはないから、ひょっとすると八五郎の奴、途中で誰かに遇って、道草を食ってるのかも知れぬの。堺屋でもどっちでも、早く来ればいいのに。──」  濡れた手拭を、もう一度丁寧に絞った春信は、口のうちでこう呟きながら、おもむろに縁先の方へ歩み寄った。すると、その額の汗を拭きながら駆け込んで来たのは、摺師の八五郎であった。 「行ってめえりやした」 「御苦労、御苦労。おせんはいたかの」 「へえ。居りやした。でげすが師匠、世の中にゃ馬鹿な野郎が多いのに驚きやしたよ。あっしが向うへ着いたのは、まだ六つをちっと回ったばかりでげすのに、もうお前さん、かぎ屋の前にゃ、人が束ンなってるじゃござんせんか。それも、女一人いるんじゃねえ。みんな、おいらこそ江戸一番の色男だと、いわぬばかりの顔をして、反りッかえってる野郎ぞっきでげさァね。──おせんちゃんにゃ、千人の男が首ッたけンなっても、及ばぬ鯉の滝のぼりだとは、知らねえんだから浅間しいや」 「八つぁん。おせんの返事はどうだったんだ。直ぐに来るとか、来ないとか」 「めえりやすとも。もうおッつけ、そこいらで声が聞えますぜ」  八五郎は得意そうに小首をかしげて、枝折戸の方を指さした。     五  枝折戸の外に、外道の面のような顔をして、ずんぐり立って待っていた藤吉は、駕籠の中からこぼれ出たおせんの裾の乱れに、今しもきょろりと、団栗まなこを見張ったところだった。 「やッ、おせんちゃん。師匠がさっきから、首を長くしてお待ちかねだぜ」  朱とお納戸の、二こくの鼻緒の草履を、後の仙蔵にそろえさせて、扇で朝日を避けながら、静かに駕籠を立ち出たおせんは、どこぞ大店の一人娘でもあるかのように、如何にも品よく落着いていた。 「藤吉さん。ここであたしを、待ってでござんすかえ」 「そうともさ、肝腎の万年青の掃除を半端でやめて、半時も前から、お前さんの来るのを待ってたんだ。──だがおせんちゃん。お前は相変らず、師匠の絵のように綺麗だのう」 「おや、朝ッからおなぶりかえ」 「なぶるどころか。おいらァ惚れ惚れ見とれてるんだ。顔といい、姿といい、お前ほどの佳い女は江戸中探してもなかろうッて、師匠はいつも口癖のようにいってなさるぜ。うちのお鍋も女なら、おせんちゃんも女だが、おんなじ女に生れながら、お鍋はなんて不縹緻なんだろう。お鍋とはよく名をつけたと、おいらァつくづくあいつの、親父の智恵に感心してるんだが、それと違っておせんさんは、弁天様も跣足の女ッぷり。いやもう江戸はおろか日本中、鉦と太鼓で探したって……」 「おいおい藤さん」  肩を掴んで、ぐいと引っ張った。その手で、顔を逆さに撫でた八五郎は、もう一度帯を把って、藤吉を枝折戸の内へ引きずり込んだ。 「何をするんだ。八つぁん」 「何もこうありゃァしねえ。つべこべと、余計なことをいってねえで、速くおせんちゃんを、奥へ案内してやらねえか。師匠がもう、茶を三杯も換えて待ちかねだぜ」 「おっと、しまった」 「おせんちゃん。少しも速く、急いだ、急いだ」 「ほほほほ。八つぁんがまた、おどけた物のいいようは。……」  駕籠を帰したおせんの姿は、小溝へ架けた土橋を渡って、逃れるように枝折戸の中へ消えて行った。 「ふん、八五郎の奴、余計な真似をしやァがる。おせんちゃんの案内役は、いっさいがっさい、おいらときまってるんだ。──よし、あとで堺屋の太夫が来たら、その時あいつに辱をかかせてやる」  手の内の宝を奪われでもしたように、藤吉は地駄ン駄踏んで、あとから、土橋をひと飛びに飛んで行った。  鉤なりに曲った縁先では、師匠の春信とおせんとが、既に挨拶を済ませて、池の鯉に眼をやりながら、何事かを、声をひそめて話し合っていた。 「八つぁん、ちょいと来てくんな」 「何んだ藤さん」  立って来た八五郎を、睨めるようにして、藤吉は口を尖らせた。 「お前、あとから誰が来るか、知ってるかい」 「知らねえ」 「それ見な。知らねえで、よくそんなお接介が出来たもんだの」 「お接介たァ何んのこッた」 「おせんちゃんを、先に立って連れてくなんざ、お接介だよ」 「冗談じゃねえ。おせんちゃんは、師匠に頼まれて、おいらが呼びに行ったんだぜ。──おめえはまだ、顔を洗わねえんだの」  顔はとうに洗っていたが、藤吉の眼頭には、目脂が小汚なくこすり付いていた。     六  赤とんぼが障子へくっきり影を映した画室は、金の砂子を散らしたように明るかった。  広々と庭を取ってはあるが、僅かに三間を数えるばかりの、茶室がかった風流の住居は、ただ如何にも春信らしい好みにまかせて、手いれが行き届いているというだけのこと、諸大名の御用絵師などにくらべたら、まことに粗末なものであった。  その画室の中ほどに、煙草盆をはさんで、春信とおせんとが対座していた。おせんの初な心は、春信の言葉にためらいを見せているのであろう。うつ向いた眼許には、ほのかな紅を差して、鬢の毛が二筋三筋、夢見るように頬に乱れかかっていた。 「どうだの、これは別に、おいらが堺屋から頼まれた訳ではないが、何んといっても中村松江なら、当時押しも押されもしない、立派な太夫。その堺屋が秋の木挽町で、お前のことを重助さんに書きおろさせて、舞台に上せようというのだから、まず願ってもないもっけの幸い。いやの応のということはなかろうじゃないか」 「はい、そりゃァもう、あたしに取っては勿体ないくらいの御贔屓、いや応いったら、眼がつぶれるかも知れませぬが。……」 「それなら何んでの」 「お師匠さん、堪忍しておくんなさい。あたしゃ知らない役者衆と、差しで会うのはいやでござんす」 「はッはッは、何かと思ったら、いつもの馬鹿気たはにかみからか。ここへ堺屋を招んだのは、何もお前と差しで会わせようの、二人で話をさせようのと、そんな訳合じァありゃしない。松江は日頃、おいらの絵が大好きとかで、板おろしをしたのはもとより、版下までを集めている程の好き者仲間、それがゆうべ、芝居の帰りにひょっこり寄って、この次の狂言には、是非とも笠森おせんちゃんを、芝居に仕組んで出したいとの、たっての望みさ。どういう筋に仕組むのか、そいつは作者の重助さんに謀ってからの寸法だから、まだはっきりとはいえないとのことだった、松江が写したお前の姿を、舞台で見られるとなりゃ、何んといっても面白い話。おいらは二つ返事で、手を打ってしまったんだ。──そこで、善は急げのたとえをそのまま、あしたの朝、ここへおせんに来てもらおうから、太夫ももう一度、ここまで出て来てもらいたいと、約束事が出来たんだが、──のうおせん。おいらの前じゃ、肌まで見せて、絵を写させるお前じゃないか、相手が誰であろうと、ここで一時、茶のみ話をするだけだ。心持よく会ってやるがいいわな」 「さァ。──」 「今更思案もないであろう。こうしているうちにも、もうそこらへ、やって来たかも知れまいて」 「まァ、師匠さん」 「はッはッは。お前、めっきり気が小さくなったの」 「そんな訳じゃござんせぬが、あたしゃ知らない役者衆とは。……」 「ほい、まだそんなことをいってるのか。なまじ知ってる顔よりも、はじめて会って見る方に、はずむ話があるものだ。──それにお前、相手は当時上上吉の女形、会ってるだけでも、気が晴れ晴れとするようだぜ」  ふと、とんぼの影が障子から離れた。と同時に藤吉の声が、遠慮勝ちに縁先から聞えた。 「師匠、太夫がおいでになりました」 「おおそうか。直ぐにこっちへお通ししな」  じっと畳の上を見詰めているおせんは、たじろぐように周囲を見廻した。 「お師匠さん、後生でござんす。あたしをこのまま、帰しておくんなさいまし」 「なんだって」  春信は大きく眼を見ひらいた。     七  たとえば青苔の上に、二つ三つこぼれた水引草の花にも似て、畳の上に裾を乱して立ちかけたおせんの、浮き彫のような爪先は、もはや固く畳を踏んではいなかった。 「ははは、おせん。みっともない、どうしたというんだ」  春信の、いささか当惑した視線は、そのまま障子の方へおせんを追って行ったが、やがて追い詰られたおせんの姿が、障子の際にうずくまるのを見ると、更に解せない思いが胸の底に拡がってあわてて障子の外にいる藤吉に声をかけた。 「藤吉、堺屋の太夫に、もうちっとの間、待っておもらい申してくれ」 「へえ」  おおかた、もはや縁先近くまで来ていたのであろう。藤吉が直ぐさま松江に春信の意を伝えて、池の方へ引き返してゆく気配が、障子に映った二つの影にそれと知れた。 「おせん」 「あい」 「お前、何か訳があってだの」 「いいえ、何も訳はござんせぬ」 「隠すにゃ当らないから、有様にいって見な、事と次第に因ったら、堺屋は、このままお前には会せずに、帰ってもらうことにする」 「そんなら、あたしの願いを聞いておくんなさいますか」 「聞きもする。かなえもする。だが、その訳は聞かしてもらうぜ」 「さァその訳は。──」 「まだ隠しだてをするつもりか。あくまで聞かせたくないというなら、聞かずに済ませもしようけれど、そのかわりおいらはもうこの先、金輪際、お前の絵は描かないからそのつもりでいるがいい」 「まァお師匠さん」 「なァにいいやな。笠森のおせんは、江戸一番の縹緻佳しだ。おいらが拙い絵なんぞに描かないでも、客は御府内の隅々から、蟻のように寄ってくるわな。──いいたくなけりゃ、聞かずにいようよ」  いたずらに、もてあそんでいた三味線の、いとがぽつんと切れたように、おせんは身内に積る寂しさを覚えて、思わず瞼が熱くなった。 「お師匠さん、堪忍しておくんなさい。あたしゃ、お母さんにもいうまいと、固く心にきめていたのでござんすが、もう何事も申しましょう。どっと笑っておくんなさいまし」 「おお、ではやっぱり何かの訳があって。……」 「あい、あたしゃあの、浜村屋の太夫さんが、死ぬほど好きなんでござんす」 「えッ。菊之丞に。──」 「あい。おはずかしゅうござんすが。……」  消えも入りたいおせんの風情は、庭に咲く秋海棠が、なまめき落ちる姿をそのまま悩ましさに、面を袂におおい隠した。  じッと、釘づけにされたように、春信の眼は、おせんの襟脚から動かなかった。が、やがて静かにうなずいたその顔には、晴れやかな色が漂っていた。 「おせん」 「あい」 「よくほれた」 「えッ」 「当代一の若女形、瀬川菊之丞なら、江戸一番のお前の相手にゃ、少しの不足もあるまいからの。──判った。相手がやっぱり役者とあれば、堺屋に会うのは気が差そう。こりゃァ何んとでもいって断るから、安心するがいい」     八  勢い込んで駕籠で乗り着けた中村松江は、きのうと同じように、藤吉に案内されたが、直ぐ様通してもらえるはずの画室へは、何やら訳があって入ることが出来ぬところから、ぽつねんと、池の近くにたたずんだまま、人影に寄って来る鯉の動きをじっと見詰めていた。  師の歌右衛門を慕って江戸へ下ってから、まだ足かけ三年を経たばかりの松江が、贔屓筋といっても、江戸役者ほどの数がある訳もなく、まして当地には、当代随一の若女形といわれる、二代目瀬川菊之丞が全盛を極めていることとて、その影は決して濃いものではなかった。が、年は若いし、芸は達者であるところから、作者の中村重助が頻りに肩を入れて、何か目先の変った狂言を、出させてやりたいとの心であろう。近頃春信の画で一層の評判を取った笠森おせんを仕組んで、一番当てさせようと、松江が春信と懇意なのを幸い、善は急げと、早速きのうここへ訪ねさせての、きょうであった。 「太夫、お待遠さまでござんしょうが、どうかこちらへおいでなすって、お茶でも召上って、お待ちなすっておくんなまし」  藤吉にも、何んで師匠が堺屋を待たせるのか、一向合点がいかなかったが、張り詰めていた気持が急に緩んだように、しょんぼりと池を見詰めて立っている後姿を見ると、こういって声をかけずにはいられなかった。 「へえ、おおきに。──」 「太夫は、おせんちゃんには、まだお会いなすったことがないんでござんすか」 「へえ、笠森様のお見世では、お茶を戴いたことがおますが、先様は、何を知ってではござりますまい。──したが若衆さん。おせんさんは、もはやお見えではおますまいかな」 「つい今し方。──」 「では何か、絵でも習うていやはるのでは。──」 「さァ、大方そんなことでげしょうが、どっちにしても長いことじゃござんすまい。そこは日が当りやす。こっちへおいでなすッて。……」  ふと踵を返して、二足三足、歩きかかった時だった。隅の障子を静かに開けて、庭に降り立った春信は、蒼白の顔を、振袖姿の松江の方へ向けた。 「太夫」 「おお、これはお師匠さんは。早からお邪間して、えろ済みません」 「済まないのは、お前さんよりこっちのこと、折角眠いところを、早起きをさせて、わざわざ来てもらいながら、肝腎のおせんが。──」 「おせんさんが、なんぞしやはりましたか」 「急病での」 「えッ」 「血の道でもあろうが、ここへ来るなり頭痛がするといって、ふさぎ込んでしまったまま、いまだに顔も挙げない始末、この分じゃ、半時待ってもらっても、今朝は、話は出来まいと思っての、お気の毒だが、またあらためて、会ってやっておもらい申すより、仕方がないじゃなかろうかと、実は心配している訳だが。……」 「それはまア」 「のう太夫。お前さん、詫はあたしから幾重にもしようから、きょうはこのまま、帰っておくんなさるまいか」 「それァもう、帰ることは、いつでも帰りますけれど、おせんさんが急病とは、気がかりでおますさかい。……」 「いや、気に病むほどのことでもなかろうが、何せ若い女の急病での。ちっとばかり、朝から世間が暗くなったような気がするのさ」 「へえ」  春信の眼は、松江を反れて、地に曳く萩の葉に移っていた。   雨     一 「おい坊主、火鉢の火が消えちゃってるぜ。ぼんやりしてえちゃ困るじゃねえか」  浜町の細川邸の裏門前を、右へ折れて一町あまり、角に紺屋の干し場を見て、伊勢喜と書いた質屋の横について曲がった三軒目、おもてに一本柳が長い枝を垂れたのが目印の、人形師亀岡由斎のささやかな住居。  まだ四十を越していくつにもならないというのが、一見五十四五に見える。髷も白髪もおかまいなし、床屋の鴨居は、もう二月も潜ったことがない程の、垢にまみれたうす汚なさ。名人とか上手とか評判されているだけに、坊主と呼ぶ十七八の弟子の外は、猫の子一匹もいない、たった二人の暮しであった。 「おめえ、いってえ弟子に来てから、何年経つと思っているんだ」 「へえ」 「へえじゃねえぜ。人形師に取って、胡粉の仕事がどんなもんだぐれえ、もうてえげえ判っても、罰は当るめえ。この雨だ。愚図々々してえりゃ、湿気を呼んで、みんなねこンなっちまうじゃねえか。速くおこしねえ」 「へえ」 「それから何んだぜ。火がおこったら、直ぐに行燈を掃除しときねえよ。こんな日ァ、いつもより日の暮れるのが、ぐっと早えからの」 「へえ」 「ふん。何をいっても、張合いのねえ野郎だ。飯は腹一杯食わせてあるはずだに。もっとしっかり返事をしねえ」 「かしこまりました」 「糠に釘ッてな、おめえのこった。──火のおこるまで一服やるから、その煙草入を、こっちへよこしねえ」 「へえ」 「なぜ煙管を取らねえんだ」 「へえ」 「それ、蛍火ほどの火もねえじゃねえか。何んで煙草をつけるんだ」  相手は黙々とした少年だが、由斎は、たとえにある箸の揚げおろしに、何か小言をいわないではいられない性分なのであろう。殆んど立続けに口小言をいいながら、胡坐の上にかけた古い浅黄のきれをはずすと、火口箱を引き寄せて、鉄の長煙管をぐつと銜えた。  勝手元では、頻りにばたばたと七輪の下を煽ぐ、団扇の音が聞えていた。  その団扇の音を、じりじりと妙にいら立つ耳で聞きながら、由斎は前に立てかけている、等身大に近い女の人形を、睨めるように眺めていたが、ふと何か思い出したのであろう。あたり憚らぬ声で勝手元へ向って叫んだ。 「坊主。坊主」 「へえ」 「おめえ、今朝面を洗ったか」 「へえ」 「嘘をつけ。面を洗った奴が、そんな粗相をするはずァなかろう。ここへ来て、よく人形の足を見ねえ。甲に、こんなに蝋が垂れているじゃねえか」  恐る恐る仕事場へ戻った。坊主の足はふるえていた。 「こいつァおめえの仕事だな」 「知りません」 「知らねえことがあるもんか。ゆうべ遅く仕事場へ蝋燭を持って這入って来たなァ、おめえより外にねえ筈だぜ。こいつァただの人形じゃねえ。菊之丞さんの魂までも彫り込もうという人形だ。粗相があっちゃァならねえと、あれ程いっておいたじゃねえか」     二  廂の深さがおいかぶさって、雨に煙った家の中は、蔵のように手許が暗く、まだ漸く石町の八つの鐘を聞いたばかりだというのに、あたりは行燈がほしいくらい、鼠色にぼけていた。  軒の樋はここ十年の間、一度も換えたことがないのであろう。竹の節々に青苔が盛り上って、その破れ目から落ちる雨水が砂時計の砂が目もりを落ちるのと同じに、絶え間なく耳を奪った。  への字に結んだ口に、煙管を銜えたまま、魅せられたように人形を凝視し続けている由斎は、何か大きく頷くと、今し方坊主がおこして来た炭火を、十能から火鉢にかけて、独りひそかに眉を寄せた。 「坊主。おめえ、表の声が聞えねえのか」 「誰か来ておりますか」 「来てる。戸を開けて見ねえ」 「へえ」 「だが、こっちへ通しちゃならねえぜ」  半信半疑で立って行った坊主は、背をまるくして、雨戸の隙間から覗いた。 「おや、あたしでござんすよ」 「おお、おせんさん」  坊主は、たてつけの悪い雨戸を開けて、ぺこりと一つ頭をさげた。そこには頭巾で顔を包んだおせんが、傘を肩にして立っていた。 「親方は」 「仕事なんで。──」 「御免なさいよ」 「ぁッいけません。お前さんをお上げ申しちゃ、叱られる」 「ほほほほ、そんな心配は止めにしてさ」 「でもあたしが親方に。──」 「坊主」と、鋭い声が奥から聞えた。 「へえ」 「いまもいった通りだ。たとえどなたでも、仕事場へは通しちゃならねえ」 「親方」と、おせんは訴えるように声をかけた。 「どうかきょうだけ、堪忍しておくんなさいよ」 「いけねえ」 「あたしゃお前さんに、断られるのを知りながら、もう辛抱が出来なくなって、この雨の中を来たんじゃござんせんか。──後生でござんす。ちょいとの間だけでも。……」 「折角だが、お断りしやすよ。あっしゃァお前さんから、この人形を請合う時、どんな約束をしたかはっきり覚えていなさろう。──のうおせんちゃん。あの時お前は何んといいなすった。あたしゃ死んでる人形は欲しくない。生きた、魂のこもった人形をこさえておくんなさるなら、どんな辛抱でもすると、あれ程堅く約束をしたじゃァねえか。──江戸一番の女形、瀬川菊之丞の生人形を、舞台のままに彫ろうッてんだ。なまやさしい業じゃァねえなァ知れている。あっしもきょうまで、これぞと思った人形を、七つや十はこさえて来たが、これさえ仕上げりゃ、死んでもいいと思った程、精魂を打込んだ作はしたこたァなかった。だが、今度の仕事ばかりァそうじゃァねえ。この生人形さえ仕上げたら、たとえあすが日、血へどを吐いてたおれても、決して未練はねえと、覚悟をきめての真剣勝負だ。──お前さんが、どこまで出来たか見たいという。その心持ァ、腹の底から察してるが、ならねえ、あっしゃァ、いま、人形を塗ってるんじゃァねえ。おのが魂を血みどろにして、死ぬか生きるかの、仕事をしてるんだからの」  由斎の声を聞きながら、ひと足ずつ後ずさりしていたおせんは、いつか磔にされたように、雨戸の際へ立ちすくんでいた。     三  ひと目でいい、ひと目でいいから会いたいとの、切なる思いの耐え難く、わざと両国橋の近くで駕籠を捨てて、頭巾に人目を避けながら、この質屋の裏の、由斎の仕事場を訪れたおせんの胸には、しとど降る雨よりしげき思いがあった。  年からいえば五つの違いはあったものの、おなじ王子で生れた幼なじみの菊之丞とは、けし奴の時分から、人もうらやむ仲好しにて、ままごと遊びの夫婦にも、吉ちゃんはあたいの旦那、おせんちゃんはおいらのお上さんだよと、度重なる文句はいつか遊び仲間に知れ渡って、自分の口からいわずとも、二人は真ぐさま夫婦にならべられるのが却てきまり悪く、時にはわざと背中合せにすわる場合もままあったが、さて、吉次はやがて舞台に出て、子役としての評判が次第に高くなった時分から、王子を去った互の親が、芳町と蔵前に別れ別れに住むようになったばかりに、いつか会って語る日もなく二年は三年三年は五年と、速くも月日は流れ流れて、辻番付の組合せに、振袖姿の生々しさは見るにしても、吉ちゃんおせんちゃんと、呼び交わす機はまったくないままに、過ぎてしまったのであった。  女形といえば、中村富十郎をはじめ、芳沢あやめにしろ、中村喜代三郎にしろ、または中村粂太郎にしろ、中村松江にしろ、十人いれば十人がいずれもそろって上方下りの人達である中に、たった一人、江戸で生れて江戸で育った吉次が、他の女形を尻目にかけて、めきめきと売出した調子もよく、やがて二代目菊之丞を継いでからは上上吉の評判記は、弥が上にも人気を煽ったのであろう。「王子路考」の名は、押しも押されもしない、当代随一の若女形と極まって、出し物は何んであろうと菊之丞の芝居とさえいえば、見ざれば恥の如き有様となってしまった。  したがって、人気役者に付きまとう様々な噂は、それからそれえと、日毎におせんの耳へ伝えられた。──どこそこのお大名のお妾が、小袖を贈ったとか。何々屋の後家さんが、帯を縫ってやったとか。酒問屋の娘が、舞台で揷した簪が欲しさに、親の金を十両持ち出したとか。数えれば百にも余る女出入の出来事は、おせんの茶見世へ休む人達の間にさえ、聞くともなく、語るともなく伝えられて、嘘も真も取交ぜた出来事が、きのうよりはきょう、きょうよりは明日と、益々菊之丞の人気を高くするばかり。  が、おせんの胸の底にひそんでいる、思慕の念は、それらの噂には一切おかまいなしに日毎につのってゆくばかりだった。それもそのはずであろう。おせんが慕う菊之丞は、江戸中の人気を背負って立った、役者の菊之丞ではなくて、かつての幼なじみ、王子の吉ちゃんその人だったのだから。──  何某の御子息、何屋の若旦那と、水茶屋の娘には、勿体ないくらいの縁談も、これまでに五つや十ではなく、中には用人を使者に立てての、れッきとしたお旗本からの申込みも二三は数えられたが、その度毎に、おせんの首は横に振られて、あったら玉の輿に乗りそこねるかと人々を惜しがらせて来た腑甲斐なさ、しかも胸に秘めた菊之丞への切なる思いを、知る人とては一人もなかった。  名人由斎に、心の内を打ちあけて、三年前に中村座を見た、八百屋お七の舞台姿をそのままの、生人形に頼み込んだ半年前から、おせんはきょうか明日かと、出来上る日を、どんなに待ったか知れなかったが、心魂を傾けつくす仕事だから、たとえなにがあっても、その日までは見に来ちゃァならねえ、行きますまいと誓った言葉の手前もあり、辛抱に辛抱を重ねて来たとどのつまりが、そこは女の乱れる思いの堪え難く、きのうときょうの二度も続けて、この仕事場を、ひそかに訪れる気になったのであろう。頭巾の中に瞠った眼には、涙の露が宿っていた。 「親方。──もし親方」  もう一度おせんは奥へ向って、由斎を呼んで見た。が、聞えるものは、わずかに樋を伝わって落ちる、雨垂れの音ばかりであった。  軒端の柳が、思い出したように、かるく雨戸を撫でて行った。     四 「若旦那。──もし、若旦那」 「うるさいね。ちと黙ってお歩きよ」 「そう仰しゃいますが、これを黙って居りましたら、あとで若旦那に、どんなお小言を頂戴するか知れませんや」 「何んだッて」 「あすこを御覧なさいまし。ありゃァたしかに、笠森のおせんさんでござんしょう」 「おせんがいるッて。──ど、どこに」  薬研堀の不動様へ、心願があっての帰りがけ、黒八丈の襟のかかったお納戸茶の半合羽に奴蛇の目を宗十郎好みに差して、中小僧の市松を供につれた、紙問屋橘屋の若旦那徳太郎の眼は、上ずッたように雨の中を見詰めた。 「あすこでござんすよ。あの筆屋の前から両替の看板の下を通ってゆく、あの頭巾をかぶった後姿。──」 「うむ。ちょいとお前、急いで行って、見届けといで」 「かしこまりました」  頭のてっぺんまで、汚泥の揚がるのもお構いなく、横ッ飛びに飛び出した市松には、雨なんぞ、芝居で使う紙の雪ほどにも感じられなかったのであろう。七八間先を小きざみに往く渋蛇の目の横を、一文字に駆脱けたのも束の間、やがて踵を返すと、鬼の首でも取ったように、喜び勇んで駆け戻った。 「どうした」 「この二つの眼で睨んだ通り、おせんさんに違いござんせん」 「これこれ、何んでそんな頓狂な声を出すんだ。いくら雨の中でも、人様に聞かれたら事じゃァないか」 「へいへい」 「お前、あとからついといで」  目はしの利いたところが、まず何よりの身上なのであろう。若旦那のお供といえば、常に市どんと朋輩から指される慣わしは、時にかけ蕎麦の一杯くらいには有りつけるものの、市松に取っては、寧ろ見世に坐って、紙の小口をそろえている方が、どのくらい楽だか知れなかった。  が、そんな小僧の苦楽なんぞ、背中にとまった蝿程にも思わない徳太郎の、おせんと聞いた夢中の歩みは、合羽の下から覗いている生ッ白い脛に出た青筋にさえうかがわれて、道の良し悪しも、横ッ降りにふりかかる雨のしぶきも、今は他所の出来事でもあるように、まったく意中にないらしかった。 「ちょいと姐さん。いえさ、そこへ行くのは、おせんちゃんじゃないかい」  それと呼び止めた徳太郎の声は、どうやら勝手のわるさにふるえていた。 「え」  くるりと振り向いたおせんは、頭巾の中で、眼だけに愛嬌をもたせながら、ちらりと徳太郎の顔を偸み見たが、相手がしばしば見世へ寄ってくれる若旦那だと知ると、あらためて腰をかがめた。 「おやまァ若旦那、どちらへおいででござんす」 「つい、そこの不動様へ、参詣に行ったのさ。──そうしてお前さんは」 「お母さんの薬を買いに、浜町までまいりました。」 「浜町。そりゃァこの雨に、大抵じゃあるまい。お前さんがわざわざ行かないでも、ちょいと一言聞いてれば、いつでもうちの小僧に買いにやってあげたものを」 「有難うはござんすが、親に服ませるお薬を人様にお願い申しましては、お稲荷様の罰が当ります」 「成る程、成る程、相変らずの親孝行だの」  徳太郎はそういって、ごくりと一つ固唾を飲んだ。     五  当代の人気役者宗十郎に似ていると、太鼓持の誰かに一度いわれたのが、無上に機嫌をよくしたものか、のほほんと納まった色男振りは、見る程の者をして、ことごとく虫ずの走る思いをさせずにはおかないくらい、気障気たっぷりの若旦那徳太郎ではあったが、親孝行の話を切ッかけに、あらたまっておせんを見詰めたその眼には、いつもと違った真剣な心持が不思議に根強く現れていた。 「お前さんは、これから何か、急な御用がお有かの」 「あい、肝腎のお見世の方を、脱けて来たのでござんすから、一刻も速く帰りませぬと、お母さんにいらぬ心配をかけますし、それに、折角のお客様にも、申訳がござんせぬ」 「お客の心配は、別にいりゃァすまいがの。しかし、お母さんといわれて見ると。……」 「何か御用でござんすかえ」 「なァにの。思いがけないところで出遭った、こんな間のいいことは、願ってもありゃァしないからひとつどこぞで、御飯でもつき合ってもらおうと思ってさ」 「おや、それは御親切に、有難うはござんすが、あたしゃいまも申します通り、風邪を引いたお母さんと、お見世へおいでのお客様がござんすから。──」 「この雨だ。いくら何んでも、お客の方は、気になるほど行きもしまい。それとも誰ぞ、約束でもした人がお有りかの」 「まァ何んでそのようなお人が。──」 「そんなら別に、一時やそこいら遅くなったとて、案ずることもなかろうじゃないか」 「お母さんが首を長くして、薬を待ってでございます」 「これ、おせんちゃん」 「ああもし。──」 「お手間を取らせることじゃない。ちと折いって、相談したい訳もある。ついそこまで、ほんのしばらく、つき合っておくれでないか」 「さァそれが。……」 「おまえ、お袋さんの、薬を買いに行ったとは、そりゃ本当かの」 「えッ」 「本当かと訊いてるのさ」 「何んで、あたしが嘘なんぞを。──」 「そんならその薬の袋を、ちょいと見せておくれでないか」 「袋とえ。──」 「持ってはいないとおいいだろう。ふふふ。やっぱりお前は、あたしの手前をつくろって、根もない嘘をついたんだの、おおかた好きな男に、会いに行った帰りであろう。それと知ったら、なおさらこのまま帰すことじゃないから、観念おし」 「あれ若旦那。──」 「いいえ、放すものか、江戸中に、女の数は降る程あっても、思い詰めたのはお前一人。ここで会えたな、日頃お願い申した、不動様の御利益に違いない。きょうというきょうはたとえ半時でもつき合ってもらわないことにゃ。……」  押えた袂を振り払って、おせんが体をひねったその刹那、ひょいと徳太郎の手首をつかんで、にやり笑ったのは、傘もささずに、頭から桐油を被った彫師の松五郎だった。 「若旦那、殺生でげすぜ」 「ええ、うるさい。余計な邪間だてをしないで、引ッ込んでおくれ」 「はははは。邪間だてするわけじゃござんせんが、御覧なせえやし。おせんちゃんは、こんなにいやだといってるじゃござんせんか。若旦那、色男の顔がつぶれやすぜ」  過日の敵を討ったつもりなのであろう。松五郎はこういって、髯あとの青い顎を、ぐっと徳太郎の方へ突きだした。     六 「はッはッは。若旦那、そいつァ御無理でげすよ。おせんは名代の親孝行、薬を買いに行ったといやァ、嘘も隠しもござんすまい。ここで逢ったが百年目と、とっ捕まえて口説こうッたって、そうは問屋でおろしませんや。──この近所の揚弓場の姐さんなら知らねえこと、かりにもお前さん、江戸一番と評判のあるおせんでげすぜ。いくら若旦那の御威勢でも、こればッかりは、そう易々たァいきますまいて」  おせんを首尾よく逃してやった雨の中で、桐油から半分顔を出した松五郎は、徳太郎をからかうようにこういうと、我れとわが鼻の頭を、二三度平手で引ッこすった。  腹立たしさに、なかば泣きたい気持をおさえながら、松五郎を睨みつけた徳太郎の細い眉は、止め度なくぴくぴく動いていた。 「市公」  思いがけない出来事に、茫然としていた小僧の市松が、ぺこりと下げた頭の上で、若旦那の声はきりぎりすのようにふるえた。 「馬鹿野郎」 「へえ」 「なぜおせんを捕まえないんだ」 「お放しなすったのは、若旦那でございます」 「ええうるさい。たとえあたしが放しても、捕まえるのはお前の役目だ。──もうお前なんぞに用はない。今すぐここで暇をやるから、どこへでも行っておしまい」 「ははは。若旦那」と、松五郎が口をはさんだ。「そいつァちと責めが強過ぎやしょう。小僧さんに罪はねえんで。みんなあなたの我ままからじゃござんせんか」 「松つぁん、お前なんぞの出る幕じゃないよ。黙ってておくれ」 「そうでもござんしょうが、市どんこそ災難だ。何んにも知らずにお供に来て、おせんに遭ったばっかりに、大事な奉公をしくじるなんざ、辻占の文句にしても悪過ぎやさァね。堪忍してやっとくんなさい。──こう市どん。おめえもしっかり、若旦那にあやまんねえ」 「若旦那、どうか御勘弁なすっておくんなさいまし」 「いやだよ。お前は、もう家の奉公人でもなけりゃ、あたしの供でもないんだから、ちっとも速くあたしの眼の届かないとこへ消えちまうがいい」 「消えろとおっしゃいましても。……」 「判らずやめ。泥の中へでも何んでも、勝手にもぐって失せるんだ」 「へえ」  尻ッ端折りの尾骶骨のあたりまで、高々と汚泥を揚げた市松の、猫背の背中へ、雨は容赦なく降りかかって、いつの間にか人だかりのした辺の有様に、徳太郎は思わず亀の子のように首をすくめた。 「もし、若旦那」  円く取巻いた中から、ひょっこり首だけ差し伸べて、如何にも憚った物腰の、手を膝の下までさげたのは、五十がらみのぼて振り魚屋だった。  徳太郎は、偸むように顔を挙げた。 「手前でございます。市松の親父でございます」 「えッ」 「通りがかりの御挨拶で、何んとも恐れいりますが、どうやら、市松の野郎が、飛んだ粗相をいたしました様子。早速連れて帰りまして、性根の坐るまで、責め折檻をいたします。どうかこのまま。手前にお渡し下さいまし」 「おッとッとッと。父つぁん、そいつァいけねえ。おいらが悪いようにしねえから、おめえはそっちに引ッ込んでるがいい」  松五郎が親爺を制している隙に、徳太郎の姿は、いつか人込みの中へ消えていた。     七 「政吉、辰蔵、亀八、分太、梅吉、幸兵衛。──」  殆んどひといきに、二三日前に奉公に来た八歳の政吉から、番頭の幸兵衛まで、やけ半分に呼びながら、中の口からあたふたと駆け込んで来た徳太郎は、髷の刷毛先に届く、背中一杯の汚泥も忘れたように、廊下の暖簾口で地駄ン駄踏んで、おのが合羽をむしり取っていた。 「へい、これは若旦那、お早いお帰りでございます」  番頭の幸兵衛は、帳付の筆を投げ出して、あわてて暖簾口へ顔を出したが、ひと目徳太郎の姿を見るとてっきり、途中で喧嘩でもして来たものと、思い込んでしまったのであろう。頭のてッ辺から足の爪先まで、見上げ見おろしながら、言葉を吃らせた。 「ど、どうなすったのでございます」 「番頭さん、市松に直ぐ暇をだしとくれ」 「市松が、な、なにか、粗相をいたしましたか」 「何んでもいいから、あたしのいった通りにしておくれ。あたしゃきょうくらい、恥をかいたこたァありゃしない。もう口惜しくッて、口惜しくッて。……」 「そ、それはまたどんなことでございます。小僧の粗相は番頭の粗相、手前から、どのようにもおわびはいたしましょうから、御勘弁願えるものでございましたら、この幸兵衛に御免じ下さいまして。……」 「余計なことは、いわないでおくれ」 「へい。……左様でございましょうが、お見世の支配は、大旦那様から、一切お預かりいたして居ります幸兵衛、あとで大旦那様のお訊ねがございました時に、知らぬ存ぜぬでは通りませぬ。どうぞその訳を、仰しゃって下さいまし」 「訳なんぞ、聞くことはないじゃないか。何んでもあたしのいった通り、暇さえ出してくれりゃいいんだよ」  駄々ッ子がおもちゃ箱をぶちまけたように、手のつけられないすね方をしている徳太郎の耳へ、いきなり、見世先から聞え来たのは、松五郎の笑い声だった。 「はッはッは、若旦那、まだそんなことを、いっといでなさるんでござんすかい。耳寄りの話を聞いてめえりやした。いい智恵をお貸し申しやすから、小僧さんのしくじりなんざさっぱり水に流しておやんなさいまし」  中番頭から小僧達まで、一同の顔が一齊に松五郎の方へ向き直った。が、徳太郎は暖簾口から見世の方を睨みつけたまま、返事もしなかった。 「もし、若旦那。悪いこたァ申しやせん。お前さんが、鯱鉾立をしてお喜びなさる、うれしい話を聞いてめえりやしたんで。──ここで話しちゃならねえと仰しゃるんなら、そちらへ行ってお話しいたしやす。着物もぬれちゃァ居りやせん。どうでげす。それともこのまま帰りやしょうか」  被っていた桐油を、見世の隅へかなぐり棄てて、ふところから取出した鉈豆煙管へ、叺の粉煙草を器用に詰めた松五郎は、にゅッと煙草盆へ手を伸ばしながら、ニヤリと笑って暖簾口を見詰めた。 「松つぁん」 「へえ」 「若旦那が、こっちへとおいなさる」 「そいつァどうも。──」 「おっと待った。その足で揚がられちゃかなわない。辰どん、裏の盥へ水を汲みな」  番頭の幸兵衛は、壁の荒塗りのように汚泥の揚がっている松五郎の脛を、渋い顔をしてじっと見守った。 「ふふふ、松五郎は、見かけに寄らねえ忠義者でげすぜ」  独り言をいって顎を突出した松五郎の顔は、道化方の松島茂平次をそのままであった。     八  行水でもつかうように、股の付根まで洗った松五郎が、北向の裏二階にそぼ降る雨の音を聞きながら、徳太郎と対座していたのは、それから間もない後だった。瓦のおもてに、あとからあとから吸い込まれて行く秋雨の、時おり、隣の家から飛んで来た柳の落葉を、貼り付けるように濡らして消えるのが、何か近頃はやり始めた飛絣のように眼に映った。  銀煙管を握った徳太郎の手は、火鉢の枠に釘着けにされたように、固くなって動かなかった。 「ではおせんにゃ、ちゃんとした情人があって、この節じゃ毎日、そこへ通い詰めだというんだね」 「まず、ざっとそんなことなんで。……」 「いったい、そのおせんの情人というのは、何者なんだか、松つぁん、はっきりあたしに教えておくれ」 「さァ、そいつァどうも。──」 「何をいってんだね。そこまで明かしておきながら、あとは幽霊の足にしちまうなんて、馬鹿なことがあるもんかね。──お前さんさっき、何んといったい。若旦那が鯱鉾立して喜ぶ話だと、見世であんなに、大きなせりふでいったじゃないか。あたしゃ口惜しいけれど聞いてるんだよ。どうせその気で来たんなら、あからさまに、一から十まで話しておくれ。相手の名を聞かないうちは、気の毒だが松つぁん、ここは滅多に動かしゃァしないよ」 「ちょ、ちょいと待っとくんなさい、若旦那。無理をおいいなすっちゃ困りやす」 「何が無理さ」 「何がと仰しゃって、実ァあっしゃァ、相手の名前まじァ知らねえんで。……」 「名前を知らないッて」 「そうなんで。……」 「そんなら、名前はともかく、どんな男なんだか、それをいっとくれ。お武家か、商人か、それとも職人か。──」 「そいつがやっぱり判らねえんで。──」 「松つぁん」  徳太郎の声は甲走った。 「へえ」 「たいがいにしとくれ。あたしゃ酔狂で、お前さんをここへ通したんじゃないんだよ。おせんが隠れて逢っているという、相手の男を知りたいばっかりに、見世の者の手前も構わず、わざわざ二階へあげたんじゃないか。名を知らないのはまだしものこと、お武家か商人か、職人か、それさえ訳がわからないなんて、馬鹿にするのも大概におし。──もうそんな人にゃ用はないから、とっとと消えて失せとくれよ」 「帰れと仰しゃるんなら、帰りもしましょうが、このまま帰っても、ようござんすかね」 「なんだって」 「若旦那。あっしゃァなる程、おせんの相手が、どこの誰だか知っちゃいませんが、そんなこたァ知ろうと思や、半日とかからねえでも、ちゃァんと突きとめてめえりやす。それよりも若旦那。もっとお前さんにゃ、大事なことがありゃァしませんかい」 「そりゃ何んだい」 「まァようがす。とっとと消えて失せろッてんなら、あんまり畳のあったまらねえうちに、いい加減で引揚げやしょう。──どうもお邪間いたしやした」 「お待ち」 「何か御用で」 「あたしの大事なことだという、それを聞かせてもらいましょう」  が、松五郎はわざと頬をふくらまして、鼻の穴を天井へ向けた。   帯     一  祇園守の定紋を、鶯茶に染め抜いた三尺の暖簾から、ちらりと見える四畳半。床の間に揷した秋海棠が、伊満里の花瓶に影を映した姿もなまめかしく、行燈の焔が香のように立昇って、部屋の中程に立てた鏡台に、鬘下地の人影がおぼろであった。  所は石町の鐘撞堂新道。白紙の上に、ぽつんと一点、桃色の絵の具を垂らしたように、芝居の衣装をそのまま付けて、すっきりたたずんだ中村松江の頬は、火桶のほてりに上気したのであろう。たべ酔ってでもいるかと思われるまでに赤かった。 「おこの。──これ、おこの」  鏡のおもてにうつしたおのが姿を見詰めたまま、松江は隣座敷にいるはずの、女房を呼んで見た。が、いずこへ行ったのやら、直ぐに返事は聞かれなかった。 「ふふ、居らんと見えるの。このようによう映る格好を、見せようとおもとるに。──」  松江はそういいながら、きゃしゃな身体をひねって、踊のようなかたちをしながら、再び鏡のおもてに呼びかけた。 「おせんが茶をくむ格好じゃ、早う見に来たがいい」 「もし、太夫」  暖簾の下にうずくまって、髷の刷毛先を、ちょいと指で押えたまま、ぺこりと頭をさげたのは、女房のおこのではなくて、男衆の新七だった。 「新七かいな」 「へえ」 「おこのは何をしてじゃ」 「さァ」 「何としたぞえ」 「お上さんは、もう一時も前にお出かけなすって、お留守でござります」 「留守やと」 「へえ」 「どこへ行った」 「白壁町の、春信さんのお宅へ行くとか仰しゃいまして、──」 「何んじゃと。春信さんのお宅へ行った。そりゃ新七、ほんまかいな」 「ほんまでござります」 「おこのがまた、白壁町さんへ、どのような用事で行ったのじゃ。早う聞かせ」 「御用の筋は存じませぬが、帯をどうとやらすると、いっておいででござりました」 「帯。新七。──そこの箪笥をあけて見や」  あわてて箪笥の抽斗へ手をかけた新七は、松江のいいつけ通り、片ッ端から抽斗を開け始めた。 「着物も羽織も、みなそこへ出して見や」 「こうでござりますか」 「もっと」 「これも」 「ええもういちいち聞くことかいな。一度にあけてしまいなはれ」  ぎっしり、抽斗一杯に詰った衣装を、一枚残らず畳の上へぶちまけたその中を、松江は夢中で引ッかき廻していたが、やがて眼を据えながら新七に命じた。 「おまえ、直ぐに白壁町へ、おこのの後を追うて、帯を取って戻るのじゃ」 「何んの帯でござります」 「阿呆め、おせんの帯じゃ。あれがのうては、肝腎の芝居がわやになってしまうがな」  剃りたての松江の眉は、青く動いた。     二  その時分、当のおこのは、駕籠を急がせて、月のない柳原の土手を、ひた走りに走らせていた。  欝金の風呂敷に包んで、膝の上に確と抱えたのは、亭主の松江が今度森田屋のおせんの狂言を上演するについて、春信の家へ日参して借りて来た、いわくつきのおせんの帯であるのはいうまでもなかった。  鉄漿も黒々と、今朝染めたばかりのおこのの歯は、堅く右の袂を噛んでいた。  当時江戸では一番だという、その笠森の水茶屋の娘が、どれ程勝れた縹緻にもせよ、浪速は天満天神の、橋の袂に程近い薬種問屋「小西」の娘と生まれて、何ひとつ不自由も知らず、我まま勝手に育てられて来たおこのは、たとい役者の女房には不向にしろ、品なら縹緻なら、人には引けは取らないとの、固い己惚があったのであろう。仮令江戸に幾千の女がいようともうちの太夫にばかりは、足の先へも触らせることではないと、三年前に婚礼早々大阪を発って来た時から、肚の底には、梃でも動かぬ強い心がきまっていた。  この秋の狂言に、良人が選んだ「おせん」の芝居を、重助さんが書きおろすという。もとよりそれには、連れ添う身の異存のあろうはずもなく、本読みも済んで、愈稽古にかかった四五日は、寝る間をつめても、次の間に控えて、茶よ菓子よと、女房の勤めに、さらさら手落はなく過ぎたのであったが、さて稽古が積んで、おのれの工夫が真剣になる時分から、ふと眼についたのは、良人の居間に大事にたたんで置いてある、もみじを散らした一本の女帯だった。  買った衣装というのなら、誰に見しょうとて、別に邪間になるまいと思われる、その帯だけに殊更に、夜寝る時まで枕許へ引き付ての愛着は、並大抵のことではないと、疑うともなく疑ったのが、事の始まりというのであろうか。おこのが昼といわず夜といわず、ひそかに睨んだとどのつまりは、独り四畳半に立籠もって、おせんの型にうき身をやつす、良人の胸に巻きつけた帯が、春信えがくところの、おせんの大事な持物だった。  カッとなって、持ち出したのではもとよりなく、きのうもきょうもと、二日二晩考え抜いた揚句の果てが、隣座敷で茶を入れていると見せての、雲隠れが順よく運んで、大通りへ出て、駕籠を拾うまでの段取りは、誰一人知る者もなかろうと思ったのが、手落といえばいえようが、それにしても、新七が後を追って来ようなぞとは、まったく夢にも想わなかった。 「駕籠屋さん。済まんが、急いどくれやすえ」 「へいへい、合点でげす。月はなくとも星明り、足許に狂いはござんせんから御安心を」 「酒手はなんぼでもはずみますさかい、そのつもりで頼ンます」 「相棒」 「おお」 「聞いたか」 「聞いたぞ」 「流石にいま売だしの、堺屋さんのお上さんだの。江戸の女達に聞かしてやりてえ嬉しい台詞だ」 「その通り。──お上さん。太夫の人気は大したもんでげすぜ。これからァ、何んにも恐いこたァねえ、日の出の勢いでげさァ」 「そうともそうとも、酒手と聞きいていうんじゃねえが、太夫はでえいち、品があるッて評判だて。江戸役者にゃ、情ねえことに、品がねえからのう」 「おや駕籠屋さん。左様にいうたら、江戸のお方に憎まれまッせ」 「飛んでもねえ。太夫を誉めて、憎むような奴ァ、みんなけだものでげさァね」 「そうとも」  柳原の土手を左に折れて、駕籠はやがて三河町の、大銀杏の下へと差しかかっていた。  夜は正に四つだった。     三  白壁町の春信の住居では、今しも春信が彫師の松五郎を相手に、今度鶴仙堂から板おろしをする「鷺娘」の下絵を前にして、頻りに色合せの相談中であったが、そこへひょっこり顔を出した弟子の藤吉は、団栗眼を一層まるくしながら、二三度続けさまに顎をしゃくった。 「お師匠さん、お客でござんす」 「どなたかおいでなすった」 「堺屋さんの、お上さんがお見えなんで」 「なに、堺屋のお上さんだと。そりゃァおかしい。何かの間違いじゃねえのかの」 「間違いどころじゃござんせん。真正証銘のお上さんでござんすよ」 「お上さんが、何んの用で、こんなにおそく来なすったんだ」  ついに一度も来たことのない、中村松江の女房が、訪ねて来たと聞いただけでは、春信は、直ぐさまその気になれなかったのであろう。絵の具から眼を離すと、藤吉の顔をあらためて見直した。 「何の御用か存じませんが、一刻も早くお師匠さんにお目にかかって、お願いしたいことがあると、それはそれは、急いでおりますんで。……」 「はァてな。──何んにしても、来たとあれば、ともかくこっちへ通すがいい」  藤吉が、あたふたと行ってしまうと、春信は仕方なしに松五郎の前に置いた下絵を、机の上へ片着けて、かるく舌うちをした。 「飛んだところへ邪間が這入って、気の毒だの」 「どういたしやして、どうせあっしゃァ、外に用はありゃァしねえんで。……なんならあっちへ行って待っとりやしょうか」 「いやいや、それにゃァ及ぶまい。話は直ぐに済もうから、構わずここにいるがいい」 「そんならこっちの隅の方へ、まいまいつぶろのようンなって、一服やっておりやしょう」  ニヤリと笑った松五郎が、障子の隅へ、まるくなった時だった。藤吉に案内されたおこのの姿が、影絵のように縁先へ現れた。 「師匠、お連れ申しました」 「御免やすえ」 「さァ、ずっとこっちへ」  欝金の包を抱えたおこのは、それでも何やら心が乱れたのであろう。上気した顔をふせたまま、敷居際に頭を下げた。 「こないに遅う、無躾に伺いまして。……」 「どんな御用か、遠慮なく、ずっとお通りなさるがいい」 「いいえもう、ここで結構でおます」  行燈の灯が長く影をひいた、その鼠色に包まれたまま、石のように硬くなったおこのの髪が二筋三筋、夜風に怪しくふるえて、心もち青みを帯びた頬のあたりに、ほのかに汗がにじんでいた。 「そうしてお上さんは、こんな遅く、何んの用でおいでなすった」 「拝借の、おせん様の帯を、お返し申しに。──」 「なに、おせんの帯を。──」 「はい」 「それはまた何んでの」  春信は、意外なおこのの言葉は、思わず眼を瞠った。 「御大切なお品ゆえ、粗相があってはならんよって、速うお返し申すが上分別と、思い立って参じました」 「では太夫はこの帯を、芝居にゃ使わないつもりかの」 「はい。折角ながら。……」  おこのは、そのまま固く唇を噛んだ。     四 「ふふふふ、お上さん」  じっとおこのの顔を見詰めていた春信は、苦笑に唇を歪めた。 「はい」 「お前さんもう一度、思い直して見なさる気はないのかい」 「おもい直せといやはりますか」 「まずのう」 「なぜでおます」 「なぜかそいつは、そっちの胸に、訊いて見たらば判ンなさろう。──その帯は、おせんから頼まれて、この春信が描いたものにゃ違いないが、まだ向うの手へ渡さないうちに、太夫が来て、貸してくれとのたッての頼み、これがなくては、肝腎の芝居が出来ないとまでいった挙句、いや応なしに持って行かれてしまったものだ。おせんにゃもとより、内所で貸して渡した品物、今更急に返す程なら、あれまでにして、持って行きはしなかろう。お上さん。お前、つまらない料簡は、出さないほうがいいぜ」 「そんならなんぞ、わたしがひとりの料簡で。……」 「そうだ。これがおせんの帯でなかったら、まさかお前さんは、この夜道を、わざわざここまで返しにゃ来なさるまい。太夫が締めて踊ったとて、おせんの色香が移るという訳じゃァなし、芸人のつれあいが、そんな狭い考えじゃ、所詮うだつは揚がらないというものだ。余計なお接介のようだが、今頃太夫は、帯の行方を探しているだろう。お前さんの来たこたァ、どこまでも内所にしておこうから、このままもう一度、持って帰ってやるがいい」 「ほほほ、お師匠さん」  おこのは冷たく額で笑った。 「え」 「折角の御親切でおますが、いったんお返ししょうと、持って参じましたこの帯、また拝借させて頂くとしましても、今夜はお返し申します」 「ではどうしても、置いて行こうといいなさるんだの」 「はい」 「そうかい。それ程までにいうんなら、仕方がない、預かろう。その換り、太夫が借りに来たにしても、もう二度と再び貸すことじゃないから、それだけは確と念を押しとくぜ」 「よう判りました。この上の御迷惑はおかけしまへんよって。……」 「はッはッはッ」と、今まで座敷の隅に黙りこくっていた松五郎が、急に煙管をつかんで大笑いに笑った。 「どうした松つぁん」 「どうもこうもありませんが、あんまり話が馬鹿気てるんで、とうとう辛抱が出来なくなりやしたのさ。──師匠、ひとつあっしに、ちっとばかりしゃべらしておくんなせえ」 「何んとの」 「身に降りかかる話じゃねえ。どうせ人様のことだと思って、黙って聴いて居りやしたが。──もし堺屋さんのお上さん、つまらねえ焼きもちは、焼かねえ方がようがすぜ」 「なにいいなはる」 「なにも蟹もあったもんじゃねえ。蟹なら横にはうのが近道だろうに、人間はそうはいかねえ。広いようでも世間は狭えものだ。どうか真ッ直向いて歩いておくんなせえ」 「あんたはん、どなたや」 「あっしゃァ松五郎という、けちな職人でげすがね。お前さんの仕方が、あんまり情な過ぎるから、口をはさましてもらったのさ。知らなきゃいって聞かせるが、笠森のおせん坊は、男嫌いで通っているんだ。今さらお前さんとこの太夫が、金鋲を打った駕籠で迎えに来ようが、毛筋一本動かすような女じゃねえから安心しておいでなせえ。痴話喧嘩のとばっちりがここまでくるんじゃ、師匠も飛んだ迷惑だぜ」  松五郎はこういって、ぐっとおこのを睨みつけた。     五  暗の中を、鼠のようになって、まっしぐらに駆けて来た堺屋の男衆新七は、これもおこのと同じように、柳原の土手を八辻ヶ原へと急いだが、夢中になって走り続けてきたせいであろう。右へ行く白壁町への道を左へ折れたために、狐につままれでもしたように、方角さえも判らなくなった折も折、彼方の本多豊前邸の練塀の影から、ひた走りに走ってくる女の気配。まさかと思って眼をすえた刹那瞼ににじんだ髪かたちは、正しくおこのの姿だった。  新七は、はッとして飛び上った。 「おお、お上さん」 「あッ。お前はどこへ」 「どこへどころじゃござりません。お上さんこそ今時分、どちらへおいでなさいました」 「わたしは、お前も知っての通り、あの絵師の春信さんのお宅へ、いって来ました」 「そんならやっぱり、春信師匠のお宅へ」 「お前がまた、そのようなことを訊いて、何んにしやはる」 「手前は太夫からのおいいつけで、お上さんをお迎えに上ったのでござります」 「わたしを迎えに。──」 「へえ。──そうしてあの帯をどうなされました」 「何、帯とえ」 「はい。おせんさんの帯は、お上さんが、お持ちなされたのでござりましょう」 「そのような物を、わたしが知ろかいな」 「いいえ。知らぬことはございますまい。先程お出かけなさる時、帯を何んとやら仰しゃったのを、新七は、たしかにこの耳で聞きました」 「知らぬ知らぬ。わたしが春信さんをお訊ねしたのは帯や衣装のことではない。今度鶴仙堂から板おろしをしやはるという、鷺娘の絵のことじゃ。──ええからそこを退きなされ」 「いいや、それはなりません。お上さんは、確に持ってお出なされたはず。もう一度手前と一緒に、白壁町のお宅へ、お戻りなすって下さりませ」 「なにいうてんのや。わたしが戻ったとて、知らぬものが、あろうはずがあるかいな。──こうしてはいられぬのじゃ。そこ退きやいの」  おこのが払った手のはずみが、ふと肩から滑ったのであろう。袂を放したその途端に、新七はいやという程、おこのに頬を打たれていた。 「あッ。お打ちなさいましたな」 「打ったのではない。お前が、わたしの手を取りやはって。……」 「ええ、もう辛抱がなりませぬ。手前と一緒にもう一度、春信さんのお宅まで、とっととおいでなさりませ」  ぐっとおこのの手首をつかんだ新七には、もはや主従の見さかいもなくなっていたのであろう。たとえ何んであろうと、引ずっても連れて行かねばならぬという、強い意地が手伝って、荒々しく肩に手をかけた。 「これ、新七、何をしやる」 「何もかもござりませぬ。あの帯は、太夫が今度の芝居にはなくてはならない大事な衣装、手前がひとりで行ったとて、春信さんは渡しておくんなさいますまい。どうでもお前様を一緒に連れて。──」 「ええ、行かぬ。何んというてもわしゃ行かぬ」  星のみ光った空の下に、二つのかたちは、犬の如くに絡み合っていた。 「ふふふふ。みっともねえ。こんなことであろうと思って、後をつけて来たんだが、お上さん、こいつァ太夫さんの辱ンなるぜ」 「えッ」 「おれだよ。彫職人の松五郎」     六  留めるのもきかずに松五郎が火のようになって出て行ってしまった後の画室には、春信がただ一人おこのの置いて行った帯を前にして、茫然と煙管をくわえていたが、やがて何か思いだしたのであろう。突然顔をあげると、吐きだすように藤吉を呼んだ。 「藤吉。──これ藤吉」 「へえ」  いつにない荒い言葉に、あわてて次の間から飛んで出た藤吉は、敷居際で、もう一度ぺこりと頭を下げた。 「何か御用で」 「羽織を出しな」 「へえ。──どッかへお出かけなさるんで。……」 「余計な口をきかずに、速くするんだ」 「へえ」  何が何やら、一向見当が付かなくなった藤吉は、次の間に取って返すと、箪笥をがたぴしいわせながら、春信が好みの鶯茶の羽織を、捧げるようにして戻って来た。 「これでよろしいんで。……」  それには答えずに、藤吉の手から羽織を、ひったくるように受取った春信の足は、早くも敷居をまたいで、縁先へおりていた。 「師匠、お供をいたしやす」 「独りでいい」 「お一人で。……そんなら提灯を。──」  が、春信の心は、やたらに先を急いでいたのであろう。いつもなら、藤吉を供に連れてさえ、夜道を歩くには、必ず提灯を持たせるのであったが、今はその提灯を待つ間ももどかしく、羽織の片袖を通したまま、早くも姿は枝折戸の外に消えていた。 「藤吉。──藤吉」 「へえ」  奥からの声は、この春まで十五年の永い間、番町の武家屋敷へ奉公に上っていた。春信の妹梶女だった。 「ここへ来や」 「へえ」  お屋敷者の見識とでもいうのであろうか。足が不自由であるにも拘らず、四十に近い顔には、触れば剥げるまでに濃く白粉を塗って、寝る時より外には、滅多に放したことのない長煙管を、いつも膝の上についていた。 「お兄様は、どちらにお出かけなされた」 「さァ、どこへおいでなさいましたか、つい仰しゃらねえもんでござんすから。……」 「何をうかうかしているのじゃ。知らぬで済もうとお思いか。なぜお供をせぬのじゃ」 「そう申したのでござんすが、師匠はひどくお急ぎで、行く先さえ仰しゃらねえんで。……」 「直ぐに行きゃ」 「へ」 「提灯を持って直ぐに、後を追うて行きゃというのじゃ」 「と仰しゃいましても、どっちへお出かけか、方角も判りゃァいたしやせん」 「まだ出たばかりじゃ。そこまで行けば直ぐに判ろう。たじろいでいる時ではない。速う。速う」  この上躊躇していたら、持った煙管で、頭のひとつも張られまじき気配となっては、藤吉も、立たない訳には行かなかった。  提灯は提灯、蝋燭は蝋燭と、右と左に別々につかんだ藤吉は、追われるように、梶女の眼からおもてに遁れた。     七  鏡のおもてに映した眉間に、深い八の字を寄せたまま、ただいらいらした気持を繰返していた中村松江は、ふと、格子戸の外に人の訪れた気配を感じて、じッと耳を澄した。 「もし、今晩は。──今晩は」 (おお、やはりうちかいな)  そう、思った松江は、次の座敷まで立って行って、弟子のいる裏二階へ声をかけた。 「これ富江、松代、誰もいぬのか。お客さんがおいでなされたようじゃ」  が、先刻新七におこのの後を追わせた隙に、二人とも、どこぞ近所へまぎれて行ったのであろう。もう一度呼んで見た松江の耳には、容易に返事が戻っては来なかった。 「ええけったいな、何んとしたのじゃ。お客さんじゃというのに。──」  口小言をいいながら、自ら格子戸のところまで立って行った松江は、わざと声音を変えて、低く訊ねた。 「どなた様でござります」 「わたしだ」 「へえ」 「白壁町の春信だよ」 「えッ」  驚きと、土間を駆け降りたのが、殆ど同時であった。 「お師匠さんでおましたか。これはまァ。……」  がらりと開けた雨戸の外に、提灯も持たずに、独り蒼白く佇んだ春信の顔は暗かった。 「面目次第もござりませぬ。──でもまァ、ようおいでで。──」 「ふふふ。あんまりよくもなかろうが、ちと、来ずには済まされぬことがあっての」 「そこではお話も出来ませんで。……どうぞ、こちらへお通り下さりませ」 「しかし、わたしが上っても、いいのか」 「何を仰しゃいます。狭苦しゅうはござりますが、御辛抱しやはりまして。……」 「では遠慮なしに、通してもらいましょうか。……のう太夫」  座敷へ上って、膝を折ると同時に、春信の眼は険しく松江を見詰めた。 「今更あらためて、こんなことを訊くのも野暮の沙汰だが、おこのさんといいなさるのは、確にお前さんの御内儀だろうのう」 「何んといやはります」  松江のおもてには、不安の色が濃い影を描いた。 「深いことはどうでもいいが、ただそれだけを訊かしてもらいたいと思っての。あれが太夫の御内儀なら、わたしはこれから先、お前さんと、二度と顔を合わせまいと、心に固く極めて来たのさ」 「えッ。ではやはり。……」 「太夫。つまらない面あてでいう訳じゃないが、お前さんは、いいお上さんを持ちなすって、仕合だの。──帯はたしかにわたしの手から、おせんのとこへ返そうから、少しも懸念には、及ばねえわな」 「どうぞ堪忍しておくれやす」 「お前さんにあやまらせようと思って、こんなにおそく、わざわざひとりで出て来た訳じゃァさらさらない。詫なんぞは無用にしておくんなさい」 「なんで、これがお詫せいでおられましょう。愚なおこのが、いらぬことを仕出来しました心なさからお師匠さんに、このようないやな思いをおさせ申しました。堺屋、穴があったら這入りとうおます」  松江は、われとわが手で顔を掩ったまま、暫し身じろぎもしなかった。  霜の来ぬ間に、早くも弱り果てた蟋蟀であろう。床下にあえぐ音が細々と聞かれた。   月     一 「──そら来た来なんせ、土平の飴じゃ。大人も子供も銭持っておいで。当時名代の土平の飴じゃ。味がよくってでがあって、おまけに肌理が細こうて、笠森おせんの羽二重肌を、紅で染めたような綺麗な飴じゃ。買って往かんせ、食べなんせ。天竺渡来の人参飴じゃ。何んと皆の衆合点か」  もはや陽が落ちて、空には月さえ懸っていた。その夕月の光の下に、おのが淡い影を踏みながら、言葉のあやも面白おかしく、舞いつ踊りつ来懸ったのは、この春頃から江戸中を、隈なく歩き廻っている飴売土平。まだ三十にはならないであろう。おどけてはいるが、どこか犯し難いところのある顔かたちは、敵持つ武家が、世を忍んでの飴売だとさえ噂されて、いやが上にも人気が高く、役者ならば菊之丞、茶屋女なら笠森おせん、飴屋は土平、絵師は春信と、当時切っての評判者だった。 「わッ、土平だ土平だ」 「それ、みんな来い、みんな来いやァイ」 「お母ァ、銭くんな」 「父、おいらにも銭くんな」 「あたいもだ」 「あたしもだ」  軒端に立つ蚊柱のように、どこからともなく集まって来た子供の群は、土平の前後左右をおッ取り巻いて、買うも買わぬも一様にわッわッと囃したてる賑やかさ、長屋の井戸端で、一心不乱に米を磨いでいたお上さん達までが、手を前かけで、拭きながら、ぞろぞろつながって出てくる有様は、流石に江戸は物見高いと、勤番者の眼の玉をひっくり返さずにはおかなかった。 「──さァさ来た来た、こっちへおいで、高い安いの思案は無用。思案するなら谷中へござれ。谷中よいとこおせんの茶屋で、お茶を飲みましょ。煙草をふかそ。煙草ふかして煙だして、煙の中からおせんを見れば、おせん可愛や二九からぬ。色気程よく靨が霞む。霞む靨をちょいとつっ突いて、もしもしそこなおせん様。おはもじながらここもとは、そもじ思うて首ッたけ、烏の鳴かぬ日はあれど、そもじ見ぬ日は寝も寝つかれぬ。雪駄ちゃらちゃら横眼で見れば、咲いた桜か芙蓉の花か、さても見事な富士びたえ。──さッさ買いなよ買わしゃんせ。土平自慢の人参飴じゃ。遠慮は無用じゃ。買わしゃんせ。買っておせんに惚れしゃんせ」  手振りまでまじえての土平の唄は、月の光が冴えるにつれて、愈益々面白く、子供ばかりか、ぐるりと周囲に垣を作った大方は、通りがかりの、大人の見物で一杯であった。 「はッはッはッ。これが噂の高い土平だの。いやもう感心感心。この咽では、文字太夫も跣足だて」 「それはもう御隠居様。滅法名代の土平でござんす。これ程のいい声は、鉦と太鼓で探しても、滅多にあるものではござんせぬ」 「御隠居は、土平の声を、始めてお聞きなすったのかい」 「左様」 「これはまた迂濶千万。飴売土平は、近頃江戸の名物でげすぜ」 「いや、噂はかねて聞いておったが、眼で見たのは今が初めて。まことにはや。面目次第もござりませぬて」 「はははは。お前様は、おなじ名代なら、やっぱりおせんの方が、御贔屓でげしょう」 「決して左様な訳では。……」 「お隠しなさいますな。それ、そのお顔に書いてある」  見物の一人が、近くにいる隠居の顔を指した時だった、誰かが突然頓狂な声を張り上げた。 「おせんが来た。あすこへおせんが帰って来た」     二 「なに、おせんだと」 「どこへどこへ」  飴売土平の道化た身振りに、われを忘れて見入っていた人達は、降って湧いたような「おせんが来た」という声を聞くと、一齊に首を東へ振り向けた。 「どこだの」 「あすこだ。あの松の木の下へ来る」  斜めにうねった道角に、二抱えもある大松の、その木の下をただ一人、次第に冴えた夕月の光を浴びながら、野中に咲いた一本の白菊のように、静かに歩みを運んで来るほのかな姿。それはまごう方ない見世から帰りのおせんであった。 「違えねえ。たしかにおせんだ」 「そら行け」  駆け出す途端に鼻緒が切れて、草履をさげたまま駆け出す小僧や、石に躓いてもんどり打って倒れる職人。さては近所の生臭坊主が、俗人そこのけに目尻をさげて追いすがるていたらく。所詮は男も女もなく、おせんに取っては迷惑千万に違いなかろうが、遠慮会釈はからりと棄てた厚かましさからつるんだ犬を見に行くよりも、一層勢い立って、どっとばかりに押し寄せた。 「いやだよ直さん、そんなに押しちゃァ転ンじまうよ」 「人の転ぶことなんぞ、遠慮してたまるもんかい。速く行って触らねえことにゃ、おせんちゃんは帰ッちまわァ」 「おッと退いた退いた。番太郎なんぞの見るもンじゃねえ」 「馬鹿にしなさんな。番太郎でも男一匹だ。綺麗な姐さんは見てえや」 「さァ退いた、退いた」 「火事だ火事だ」  人の心が心に乗って、愈調子づいたのであろう。茶代いらずのその上にどさくさまぎれの有難さは、たとえ指先へでも触れば触り得と考えての悪戯か。ここぞとばかり、息せき切って駆け着けた群衆を苦笑のうちに見守っていたのは、飴売の土平だった。 「ふふふふ。飴も買わずに、おせん坊へ突ッ走ったな豪勢だ。こんな鉄錆のような顔をしたおいらより、油壺から出たよなおせん坊の方が、どれだけいいか知れねえからの。いやもう、浮世のことは、何をおいても女が大事。おいらも今度の世にゃァ、犬になっても女に生れて来ることだ。──はッくしょい。これァいけねえ。みんなが急に散ったせいか、水ッ洟が出て来たぜ。風邪でも引いちゃァたまらねから、そろそろ帰るとしべえかの」 「おッと、飴屋さん」 「はいはい、お前さんは、何んであっちへ行きなさらない」 「行きたくねえからよ」 「行きたくないとの」 「そうだ。おいらはこれでも、辱を知ってるからの」 「面白い。人間、辱を知ってるたァ何よりだ」 「何より小より御存じよりか。なまじ辱を知ってるばかりに、おいらァ出世が出来ねえんだよ」 「お前さんは、何をしなさる御家業だの」 「絵かきだよ」 「名前は」 「名前なんざあるもんか」 「誰のお弟子だの」 「おいらはおいらの弟子よ。絵かきに師匠や先生なんざ、足手まといになるばッかりで、物の役にゃ立たねえわな」  そういいながら、鼻の頭を擦ったのは、変り者の春重だった。     三 「おッとッとッと、おせんちゃん。何んでそんなに急ぎなさるんだ。みんながこれ程騒いでるんだぜ。靨の一つも見せてッてくんねえな」 「そうだそうだ。どんなに待ったか知れやァしねえよ。おめえに急いで帰られたんじゃ、待ってたかいがありゃァしねえ」  それと知って、おせんを途中に押ッ取りかこんだ多勢は、飴屋の土平があっ気に取られていることなんぞ、疾うの昔に忘れたように、我れ先にと、夕ぐれ時のあたりの暗さを幸いにして、鼻から先へ突出していた。  が、いつもなら、人にいわれるまでもなく、まずこっちから愛嬌を見せるにきまっていたおせんが、きょうは何んとしたのであろう。靨を見せないのはまだしも、まるで別人のようにせかせかと、先を急いでの素気ない素振に、一同も流石におせんの前へ、大手をひろげる勇気もないらしく、ただ口だけを達者に動かして、少しでも余計に引止めようと、あせるばかりであった。 「もし、そこを退いておくんなさいな」 「どいたらおめえが帰ッちまうだろう。まァいいから、ここで遊んで行きねえ」 「あたしゃ、先を急ぎます。きょうは堪忍しておくんなさいよ」 「先ッたって、これから先ァ、家へ帰るより道はあるめえ。それともどこぞへ、好きな人でも出来たのかい」 「なんでそんなことが。……」 「ねえンなら、よかろうじゃねえか」 「でもお母さんが。──」 「お袋の顔なんざ、生れた時から見てるんだろう。もう大概、見あきてもよさそうなもんだぜ」 「そうだ、おせんちゃん。帰る時にゃ、みんなで送ってッてやろうから、きょう一ン日の見世の話でも、聞かしてくんねえよ」 「お見世のことなんぞ、何んにも話はござんせぬ。──どうか通しておくんなさい」 「紙屋の若旦那の話でも、名主さんのじゃんこ息子の話でも、いくらもあろうというもんじゃねえか」 「知りませんよ。お母さんが風邪を引いて、独りで寝ててござんすから、ちっとも速く帰らないと、あたしゃ心配でなりませんのさ」 「お袋さんが風邪だッて」 「あい」 「そいつァいけねえ。何んなら見舞に行ってやるよ」 「おいらも行くぜ」 「わたしも行く」 「いいえ、もうそんなことは。──」  少しも長く、おせんを引き止めておきたい人情が、互の口を益々軽くして、まるく囲んだ人垣は、容易に解けそうにもなかった。  すると突然、はッはッはと、腹の底から絞り出したような笑い声が、一同の耳許に湧き立った、 「はッはッは。みんな、みっともねえ真似をしねえで、速くおせんちゃんを、帰してやったらどんなもんだ」 「おめえは、春重だな」 「つまらねえ差し出口はきかねえで、引ッ込んだ、引ッ込んだ」 「ふふふ。おめえ達、あんまり気が利かな過ぎるぜ。おせんちゃんにゃ、おせんちゃんの用があるんだ。野暮な止めだてするよりも、一刻も速く帰してやんねえ」 「馬鹿ァいわッし。そんなお接介は受けねえよ」  一同の視線が、春重の上に集まっている暇に、おせんは早くも月の下影に身を隠した。     四 「お母さん」 「おや、おせんかえ」 「あい」  猫に追われた鼠のように、慌しく駆け込んで来たおせんの声に、折から夕餉の支度を急いでいた母のお岸は、何やら胸に凶事を浮べて、勝手の障子をがらりと明けた。 「どうかおしかえ」 「いいえ」 「でもお前、そんなに息せき切ってさ」 「どうもしやァしませんけれど、いまそこで、筆屋さんの黒がじゃれたもんだから。……」 「ほほほほ。黒が尾を振ってじゃれるのは、お前を慕っているからだよ。あたしゃまた、悪いいたずらでもされたかと思って、びっくりしたじゃァないか。何も食いつくような黒じゃなし、逃げてなんぞ来ないでも、大丈夫金の脇差だわな。──こっちへおいで。頭を撫で付けてあげようから。……」 「おや、髪がそんなに。──」  母の方へは行かずに、四畳半のおのが居間へ這入ったおせんは、直ぐさま鏡の蓋を外して、薄暮の中にじっとそのまま見入ったが、二筋三筋襟に乱れた鬢の毛を、手早く掻き揚げてしまうと、今度はあらためて、あたりをぐるりと見廻した。 「お母さん」 「あいよ」 「あたしの留守に、ここに誰か這入りゃしなかったかしら」 「おやまァ滅相な。そこへは鼠一匹も滅多に入るこっちゃァないよ。──何んぞ変わったことでもおありかえ」 「さァ、ちっとばかり。……」 「どれ、何がの。──」  障子の隙間から、顔を半分窺かせた母親を、おせんはあわてて遮った。 「気にする程でもござんせぬ。あっちへ行ってておくんなさい」 「ほんにまァ、ここへは来るのじゃなかったッけ」  三日前の夜の四つ頃、浜町からの使いといって、十六七の男の子が、駕籠に乗った女を送って来たその晩以来、お岸はおせんの口から、観音様への願かけゆえ、向う三十日の間何事があっても、四畳半へは這入っておくんなさいますな。あたしの留守にも、ここへ足を入れたが最後、お母さんの眼はつぶれましょうと、きつくいわれたそれからこっち、何が何やら分らないままに、おせんの頼みを堅く守って、お岸は、鬼門へ触るように恐れていた座敷だったが、留守に誰かが這入ったと聞いては、流石にあわてずにいられなかったらしく、拵らえかけの蜆汁を、七厘へ懸けッ放しにしたまま、片眼でいきなり窺き込んだのであろう。  部屋の中は、窓から差すほのかな月の光で、漸く物のけじめがつきはするものの、ともすれば、入れ換えたばかりの青畳の上にさえ、暗い影が斜めに曳かれて、じっと見詰めている眼先は、海のように深かった。  母は直ぐに勝手へ取って返したと見えて、再び七厘の下を煽ぐ渋団扇の音が乱れた。  暗い、何者もはっきり見えない部屋の中で、おせんはもう一度、じっと鏡の中を見詰めた。底光のする鏡の中に、澄めば澄む程ほのかになってゆく、おのが顔が次第に淡く消えて、三日月形の自慢の眉も、いつか糸のように細くうずもれて行った。 「吉ちゃん。──」  ふと、鏡のおもてから眼を放したおせんの唇は、小さく綻びた。と同時に、すり寄るように、体は戸棚の前へ近寄った。 「済みません。ひとりぽっちで、こんなに待たせて。──」  そういいながら、おせんのふるえる手は襖の引手を押えた。     五  部屋の中は益々暗かった。  その暗い部屋の片隅へ、今しもおせんが、辺に気を配りながら、胸一杯に抱え出したのは、つい三日前の夜、由斎の許から駕籠に乗せて届けてよこした、八百屋お七の舞台姿をそのままの、瀬川菊之丞の生人形であった。  おせんは抱えた人形を、東に向けて座敷のまん中に立てると、薄月の光を、まともに受けさせようがためであろう。音せぬ程に、窓の障子を徐に開け始めた。  庭には虫の声もなく、遠くの空を渡る雁のおとずれがうつろのように、耳に響いた。 「吉ちゃん。──いいえ、太夫、あたしゃ会いとうござんした」  生きた相手にいう如く、如何にもなつかしそうに、人形を仰いだおせんの眼には、情の露さえ仇に宿って、思いなしか、声は一途にふるえていた。 「──朝から晩まで、いいえ、それよりも、一生涯、あたしゃ太夫と一緒にいとうござんすが、なんといっても、お前は今を時めく、江戸一番の女形。それに引き換えあたしゃそこらに履き捨てた、切れた草鞋もおんなじような、水茶屋の茶汲み娘。百夜の路を通ったとて、お前に逢って、昔話もかなうまい。それゆえせめての心から、あたしがいつも夢に見るお前のお七を、由斎さんに仕上げてもらって、ここまで内緒で運んだ始末。お前のお宅にくらべたら、物置小屋にも足りない住居でござんすが、ここばっかりは、邪間する者もない二人の世界。どうぞ辛抱して、話相手になっておくんなさいまし、──あたしゃ、王子で育った十年前も、お見世へ通うきょうこの頃も、心に毛筋程の変りはござんせぬ。吉ちゃんと、おせんちゃんとは夫婦だと、ままごと遊びにからかわれた、あの春の日が忘れられず、枕を濡らして泣き明かした夜も、一度や二度ではござんせんし。おせんも年頃、好きなお客の一人くらいはあろうかと、折節のお母さんの心配も、あたしの耳には上の空。火あぶりで死んだお七が羨ましいと、あたしゃいつも、思い続けてまいりました。──太夫、お前は、立派なお上さんのその外に、二つも寮をお持ちの様子。引くてあまたの、御贔屓筋もござんしょうが、あたしゃこのままこがれ死んでも、やっぱりお前の女房でござんす」  思わず知らず、我れとわが袖を濡らした不覚の涙に、おせんは「はッ」として首を上げたが、どうやら勝手許の母の耳へは這入らなかったものか、まだ抜け切らぬ風邪の咳が二つ三つ、続けざまに聞こえたばかりであった。  しばしおせんは、俯向いたまま眼を閉じていた。その眼の底を、稲妻のように、幼い日の思い出が突ッ走った。 「おせんや」  母の声が聞かれた。 「あい」 「この暗いのに、行燈もつけずに」 「あい。さして暗くはござんせぬ」 「何をしておいでだか知らないが、支度が出来たから御飯にしようわな」 「あい、いまじきに」 「暗い所に一人でいると、鼠に引かれるよ」  隣座敷では、母が燈芯をかき立てたのであろう。障子が急に明るくなって、膳立をする音が耳に近かった。  よろめくように立上ったおせんは、窓の障子に手をかけた。と、その刹那、低いしかも聞き慣れない声が、窓の下から浮き上った。 「おせん」 「えッ」 「驚くにゃ当らねえ。おいらだよ」  おせんは、火箸のように立ちすくんでしまった。     六 「ど、どなたでござんす」 「叱っ、静かにしねえ。怪しいものじゃねえよ。おいらだよ」 「あッ、お前は兄さん。──」 「ええもう、静かにしろというのに。お袋の耳へへえッたら、事が面倒ンなる」  そういいながら、出窓の縁へ肘を懸けて、するりと体を持ちあげると、如何にも器用に履いた草履を右手で脱ぎながら、腰の三尺帯へはさんで、猫のように青畳の上へ降り立ったのは、三年前に家を出たまま、噂にさえ居所を知らせなかった兄の千吉だった。──藍微塵の素袷に算盤玉の三尺は、見るから堅気の着付ではなく、殊に取った頬冠りの手拭を、鷲掴みにしたかたちには、憎いまでの落着があった。  まったく夢想もしなかった出来事に、おせんは、その場に腰を据えたまま、直ぐには二の句が次げなかった。 「おせん。おめえ、いくつンなった」 「十八でござんす」 「十八か。──」  千吉はそういって苦笑するように頷いたが、隣座敷を気にしながら、更に声を低めた。 「怖がるこたァねえから、後ずさりをしねえで、落着いていてくんねえ。おいらァ何も、久し振りに会った妹を、取って食おうたァいやァしねえ」 「あかりを、つけさせておくんなさい」 「おっと、そんな事をされちゃァたまらねえ。暗でもてえげえ見えるだろうが、おいらァ堅気の商人で、四角い帯を、うしろで結んで来た訳じゃねえんだ。面目ねえが五一三分六のやくざ者だ。おめえやお袋に、会わせる顔はねえンだが、ちっとばかり、人に頼まれたことがあって、義理に挟まれてやって来たのよ。おせん、済まねえが、おいらの頼みを聞いてくんねえ」 「そりゃまた兄さん、どのようなことでござんす」 「どうのこうのと、話せば長え訳合だが、手ッ取早くいやァ、おいらァ金が入用なんだ」 「お金とえ」 「そうだ」 「あたしゃ、お金なんぞ。……」 「まァ待った。藪から棒に飛び込んで来た、おいらの口からこういったんじゃ、おめえがかぶりを振るのももっともだが、こっちもまんざら目算なしで、出かけて来たという訳じゃねえ。そこにゃちっとばかり、見かけた蔓があってのことよ。──のうおせん。おめえは通油町の、橘屋の若旦那を知ってるだろう」 「なんとえ」 「徳太郎という、始末の良くねえ若旦那だ」 「さァ、知ってるような、知らないような。……」 「ここァ別に白洲じゃねえから、隠しだてにゃ及ばねえぜ。知らねえといったところが、どうでそれじゃァ通らねえんだ。先ァおめえに、家蔵売ってもいとわぬ程の、首ッたけだというじゃねえか」 「まァ兄さん」 「恥かしがるにゃァ当らねえ。何もこっちから、血道を上げてるという訳じゃなし、おめえに惚れてるな、向う様の勝手次第だ。──おせん。そこでおめえに相談だが、ひとつこっちでも、気のある風をしちゃあくれめえか」 「えッ」 「おめえも十八だというじゃァねえか。もうてえげえ、そのくれえの芸当は、出来ても辱にゃァなるめえぜ」  千吉は、たじろぐおせんを見詰めながら、四角く坐って詰め寄った。     七 「もし、兄さん」  月は雲に覆われたのであろう。障子を漏れる光さえない部屋の中は、僅かに隣から差す行燈の方影に、二人の半身を淡く見せているばかり、三年振りで向き合った兄の顔も、おせんははっきり見極めることが出来なかった。  その方暗の中に、おせんの声は低くふるえた。 「兄さん」 「え」 「帰っておくんなさい」 「何んだって。おいらに帰れッて」 「あい」 「冗談じゃねえ。用がありゃこそ、わざわざやって来たんだ。なんでこのまま帰れるものか。そんなことよりおいらの頼みを、素直にきいてもらおうじゃねえか。おめえさえ首を縦に振ってくれりゃァ、からきし訳はねえことなんだ。のうおせん。赤の他人でさえ、事を分けて、かくかくの次第と頼まれりゃ、いやとばかりゃァいえなかろう。おいらァおめえの兄貴だよ。──血を分けた、たった一人の兄貴だよ。それも、百とまとまった金が入用だという訳じゃねえ。四半分の二十五両で事が済むんだ」 「二十五両。──」 「みっともねえ。驚く程の高でもあるめえ」 「でも、そんなお金は。……」 「だからよ。初手からいってる通り、おめえやお袋の臍くりから、引っ張り出そうたァいやァしねえや。狙いをつけたなあの若旦那、橘屋の徳太郎というでくの棒よ。ふふふふ。何んの雑作もありァしねえ。おめえがここでたった一言。おなつかしゅうござんす、とかなんとかいってくれさえすりァ、おいらの頼みァ聴いてもらえようッてんだ。お釈迦が甘茶で眼病を直すより、もっとわけねえ仕事じゃねえか」 「それでもあたしゃ。心にもないことをいって。……」 「そ、その料簡がいけねえんだ。腹にあろうがなかろうが、武士は戦略、坊主は方便、時と場合じゃ、人の寝首をかくことさえあろうじゃねえか。──さ、ここに筆と紙がある。いろはのいの字とろの字を書いて、いろよい返事をしてやんねえ」  千吉がふところから取出したのは、巻紙と矢立であった。  おせんは、あわてて手を引ッ込めた。 「堪忍しておくんなさい」 「何もあやまるこたァありゃァしねえ。暗くッて書けねえというンなら、仕方がねえ。行燈をつけてやる」 「もし。──」  今度はおせんが、千吉の手をおさえた。 「何をするんだ」 「あたしゃ、どうでもいやでござんす」 「そんならこれ程までに、頭をさげて頼んでもか」 「外のこととは訳が違い、あたしゃ数あるお客のうちでも、いの一番に嫌いなお人、たとえ嘘でも冗談でも、気の済まないことはいやでござんす」 「おせん。おめえ、兄貴を見殺しにするつもりか」 「何んとえ」 「おめえがいやだとかぶりを振りゃァ、おいらは人から預かった、大事な金を落としたかどで、いやでも明日は棒縛りだ。──そいつもよかろう。おめえはかげで笑っていねえ」 「兄さん」 「もう何んにも頼まねえ。これから帰って縛られようよ」  千吉は、わざとやけに立上って窓辺へつかつかと歩み寄った。  突然隣座敷から、お岸のすすり泣く声が、障子越しに聞えて来た。   文     一 「若旦那、もし、油町の若旦那」 「おお、お前は千吉つぁん」 「そんなに急いで、どこへおいでなせえやす」 「お前のとこさ」 「何、あっしンとこでげすッて。──あっしンとこなんざ、若旦那においでを願うような、そんな気の利いた住居じゃござんせん。火口箱みてえな、ちっぽけな棟割長屋なんで。……」 「小さかろうが、大きかろうが、そんなことは考えちゃいられないよ」 「何んと仰しゃいます」 「あたしゃお前に頼んだ返事を、聞かせてもらいに、往くところじゃないか」 「はッはッは。それでわざわざお運び下さろうッてんでげすか。これぁどうも恐れいりやした。そのことなら、どうかもう御心配は、御無用になすっておくんなさいまし」 「おお、そんなら千吉さん、おせんの返事を。──」 「憚りながら、いったんお引受け申しやした正直千吉、お約束を違えるようなこたァいたしやせん」 「済まない。あたしはそうとは思っていたものの、これがやっぱり恋心か。ちっとも速く返事が聞き度くて、帳場格子と二階の間を、九十九度も通った挙句、とうとう辛抱が出来なくなったばっかりに、ここまで出向いて来た始末さ。そうと極ったら、どうか直ぐに色よい返事を聞かせておくれ」 「ま、ま、待っておくんなせえやし。そんなにお急ンならねえでも、おせんの返事は、直ぐさまお聞かせ申しやすが、ここは道端、誰に見られねえとも限りやせん。筋の通ったいい所で、ゆっくりお目にかけようじゃござんせんか」 「そりゃもう、いずれおまんまでも食べながら、ゆっくり見せてもらおうが、まず文の上書だけでも、ここでちょいと、のぞかせておくれでないか」 「御安心くださいまし。上書なんざ二の次三の次、中味から封じ目まで、おせんの手に相違はございません。あいつァ七八つの時分から、手習ッ子の仲間でも、一といって二と下ったことのねえ手筋自慢。あっしゃァ質屋の質の字と、万金丹の丹の字だけしきゃ書けやせんが、おせんは若旦那のお名前まで、ちゃァんと四角い字で書けようという、水茶屋女にゃ惜しいくらいの立派な手書き。──この通り、あっしがふところに預かっておりやすから、どうか親船に乗った気で、おいでなすっておくんなせえやし」 「安心はしているけれど、ちっとも速く見たいのが人情じゃないか。野暮をいわずに、ちょいとでいいから、ここでお見せよ」 「堪忍しておくんなさい。道ッ端ではお目にかけねえようにと、こいつァ妹からの、堅い頼みでござんすので。……」 「はてまァ、何んという野暮だろうのう」 「どうか察しておやンなすって。おせんにして見りゃ、自分から文を書いたな始めての、いわば初恋とでも申しやしょうか。はずかしい上にもはずかしいのが人情でげしょう。道ッ端で展げたとこを、ひょっと誰かに見られた日にゃァ、それこそ若旦那、気の弱いおせんは、どんなことになるか、知れたもんじゃござんせん。野暮は承知の上でござんす。どうか、ここンところをお察しなすって……」  谷中から上野へ抜ける、寛永寺の土塀に沿った一筋道、光琳の絵のような桜の若葉が、道に敷かれたまん中に佇んだ、若旦那徳太郎とおせんの兄の千吉とは、折からの夕陽を浴びて、色よい返事を認めたおせんの文を、見せろ見せないのいさかいに、しばし心を乱していたが、この上の争いは無駄と察したのであろう。やがて徳太郎は細い首をすくめた。 「あたしゃ気が短いから、どこへ行くにしても、とても歩いちゃ行かれない。千吉つぁん、直ぐに駕籠を呼んでもらおうじゃないか」 「合点でげす」  千吉は二つ返事で頷いた。     二  徳太郎と千吉とが、不忍池畔の春草亭に駕籠を停めたのは、それから間もない後だった。  徳太郎は女中の案内も待たず、駆け込むように千吉の手をとって、奥の座敷へ連れ込んだ。 「さ、千吉さん」 「へえ」 「早くお見せ」 「何をでござんす」 「おや、何をはあるまい。おせんのふみじゃないか」 「おそうだ。これはすっかり忘れて居りやした」 「お前は道端じゃ見せられないというから、わざわざ駕籠を急がせて、ここまで来たんだよ。さ大事な文を、少しでも速く見せてもらいましょう」 「お見せいたしやす」 「口ばっかりでなく、速くお出しッたら」 「出しやす。──が、ちょいとお待ちなすっておくんなさい。その前に、あっしゃァ若旦那に、ひとつお願い申してえことがござんすので。……」 「何んだえ、あらたまって。──」 「実ァその、おせんの奴から。……」 「なに、おせんから、あたしに頼みとの」 「へえ」 「そんならなぜ、もっと早くいわないのさ」 「申上げたいのは山々でござんすが、ちと厚かましい筋だもんでげすから、ついその、あっしの口からも、申上げにくかったような訳でげして」 「馬鹿な。つまらない遠慮なんか、水臭いじゃないか。そんな遠慮はいらないから、いっとくれ。あたしでかなうことなら、どんな願いでも、きっと聞いてあげようから。……」 「そりゃどうも。おせんに聞かしてやりましたら、どれ程喜ぶか知れやァしません。──ところで若旦那」 「なにさ」 「そのお願いと申しますのは」 「その頼みとは」 「お金を。──」 「何んのことかと思ったら、お金かい。憚りながら、あたしァ江戸でも人様に知られた、橘屋の徳太郎、おせんの頼みとあれば、決していやとはいわないから、かまわずにいって御覧。たとえどれ程の大金でも、あれのためなら、首は横にゃ振らないつもりだよ」 「へえへえ、どうも恐れいりやした。いやもう、おせん、おめえよく捕ったぞ。これ程の鼠たァ、まさか思っちゃ。……」 「これ千吉つぁん、何をおいいだ。あたしのことを鼠とは。……」 「ど、どういたしやして、鼠なんぞた申しゃしません。若旦那にはこれからも、鼠のように、チウ義をおつくし申せと、こう申したのでございます」 「お前は口が上手だから。……」 「口はからきし下手の皮、人様の前へ出たら、ろくにおしゃべりも出来る男じゃござんせんが、若旦那だけは、どうやら赤の他人とは思われず、ついへらへらとお喋りもいたしやす。──ねえ若旦那。どうかおせんに、二十五両だけ、貸してやっておくんなせえやし」 「何、二十五両。──」 「江戸で名代の橘屋の若旦那。二十五両は、ほんのお小遣じゃござんせんか」  千吉はそういいながら、ふところ深くひそませた、おせんのふみを取りだした。    ありがたく存じ候 かしこ            せん  より  若旦那さま  ふみのおもては、ただこれだけだった。     三  朝っぱらの柳湯は、町内の若い者と、楊枝削りの御家人と道楽者の朝帰りとが、威勢のよしあしを取まぜて、柘榴口の内と外とにとぐろを巻いたひと時の、辱も外聞もない、手拭一本の裸絵巻を展げていたが、こんな場合、誰の口からも同じように吐かれるのは、何吉がどこの賭場で勝ったとか、どこそこのお何が、近頃誰にのぼせているとか、さもなければ芝居の噂、吉原の出来事、観音様の茶屋女の身の上など、おそらく口を開けば、一様におのれの物知りを、少しも速く人に聞かせたいとの自慢からであろう。玉のような汗を額にためながら、いずれもいい気持でしゃべり続ける面白さ。中には、顔さえ洗やもう用はねえと、流しのまん中に頑張って、四斗樽のような体を、あっちへ曲げ、こっちへ伸して、隣近所へ泡を飛ばす暇な隠居や、膏薬だらけの背中を見せて、弘法灸の効能を、相手構わず吹き散す半病人もある有様。湯屋は朝から寄合所のように賑わいを見せていた。 「長兄イ。聞いたか」 「何を」 「何をじゃねえ、千吉がしこたま儲けたッて話をよ」 「うんにゃ。聞かねえよ」 「迂濶だな」 「だっておめえ、知らねえもなァ仕方がねえや。──いってえ、あの怠け者が、どこでそんなに儲けやがったたんだ」 「どこッたっておめえ、そいつが、てえそうないかさまなんだぜ」 「ふうん、奴にそんな器用なことが出来るのかい」 「相手がいいんだ」 「椋鳥か」 「ちゃきちゃきの江戸っ子よ」 「はァてな、江戸っ子が、奴のいかさまに引ッかかるたァおかしいじゃねえか」 「いかさまッたって、おめえ、丁半じゃねえぜ」 「ほう、さいころじゃねえのかい」 「女が餌だ」 「女。──」 「相手を釣って儲けたのよ」 「そいつァ尚更初耳だ。──その相手ッてな、どこの誰よ」 「油町の紙問屋、橘屋の若旦那だ」 「ほう、そいつァおもしれえ」 「あれだ。おもしれえは気の毒だぜ。千吉は妹のおせんを餌にして、若旦那から、二十五両という大金をせしめやがったんだ」 「なに二十五両だって」 「どうだ。てえしたもんだろう」 「冗談じゃねえ。二十五両といやァ、小判が二十五枚だぜ。こいつが二両とか、二両二分とかいうンなら、まだしも話の筋が通るが、二十五両は飛んでもねえ。あいつの首を引換にしたって、借りられる金じゃァねえぜ。冗談も休み休みいってくんねえ」 「ふん、知らねえッてもなァおッかねえや。おいらァ現にたった今、この二つの眼で、睨んで来たばかりなんだ。山吹色で二十五枚、滅多に見られるかさじゃァねえて」 「ふふふふ、金の字。その話をもうちっと委しく聞かせねえか」  そういいながら、柘榴口から、にゅッと首を出したのは、絵師の春重だった。 「春重さん、お前さんいたのかい」 「いたから顔を出したんだがの。大分話が面白そうじゃねえか」  春重は、もう一度ニヤリと笑った。     四 「ふふふふ、金の字、なんで急に唖のように黙り込んじゃったんだ。話して聞かせねえな。どうせおめえの腹が痛む訳でもあるめえしよ」  柘榴口から流しへ出て来た春重の様子には、いつも通りの、妙な粘りッ気が絡みついていて、傘屋の金蔵の心持を、ぞッとする程暗くさせずにはおかなかった。 「てえした面白え話でもねえからよ」 「なに面白くねえことがあるもんか。二十五両といやァ、おいらのような貧乏人は、まごまごすると、生涯お目にゃぶら下がれない大金だぜ。そいつをいかさまだかさかさまだかにつるさげて、物にしたと聞いちゃァ、志道軒の講釈じゃねえが、嘘にも先を聞かねえじゃいられねえからの。──相手が橘屋の若旦那だったてえな、ほんまかい」 「おめえさん、それを聞いてどうしようッてんだ」  顔をしかめて、春重を見守ったのは、金蔵に兄イと呼ばれた左官の長吉であった。 「どうもしやァしねえがの。そいつがほんまなら、おいらもちっとばかり、若旦那に借りてえと思ってよ」 「若旦那に借りるッて」 「まずのう。だが安心しなよ。おいらの借りようッてな、二十五両の三十両のという、大それた訳のもんじゃねえ。ほんの二分か一両が関の山だ。それも種や仕かけで取るようなけちなこたァしやァしねえ。真証間違いなしの、立派な品物を持ってって、若旦那の喜ぶ顔を見ながら、拝借に及ぼうッてんだ」 「そいつァ駄目だ」 「なんだって」 「駄目ッてことよ。橘屋の若旦那は、たとえお大名から拝領の鎧兜を持ってッたって、金ァ貸しちゃァくれめえよ。──あの人の欲しい物ァ、日本中にたったひとつ、笠森おせんの情より外にゃ、ありゃァしねッてこった」 「だから、そのおせんの、身から分けた物を、おいらァ買ってもらいに行こうッてえのよ」 「身から分けた物。──」 「そうだ。他の者が望んだら、百両でも譲れる品じゃねえんだが、相手がおせんに首ッたけの若旦那だから、まず一両がとこで辛抱してやろうと思ってるんだ」 「春重さん。またお前、つまらねえ細工物でもこしらえたんだな」 「冗談じゃねえ、こしらえたもンなんぞた、天から訳が違うンだぜ」 「訳が違うッたって、そんな物がざらにあろうはずもなかろうじゃねえか」 「ところが、あるんだから面白えや」 「そいつァいってえ、なんだってんだい」 「爪よ」 「え」 「爪だってことよ」 「爪」 「その通りだ。おせんの身についてた、嘘偽りのねえ生爪なんだ」 「馬、馬鹿にしちゃァいけねえ。いくらおせんの物だからッて、爪なんざ、何んの役にもたちゃァしねえや。かつぐのもいい加減にしてくんねえ」 「ふん、物の値打のわからねえ奴にゃかなわねえの。女の身体についてるもんで、年が年中、休みなしに伸びてるもなァ、髪の毛と爪だけだぜ。そのうちでも爪の方は、三日見なけりゃ目立って伸びる代物だ。──指の数で三百本、糠袋に入れてざっと半分よ。この混じりッけのねえおせんの爪が、たった小判一枚だとなりゃ、若旦那が猫のように飛びつくなァ、磨ぎたての鏡でおのが面を見るより、はっきりしてるぜ」  春重のまわりには、いつか、ぐるりと裸の人垣が出来ていた。     五 「千の字。おめえ、いい腕ンなったの」 「ふふふ」 「笑いごっちゃねえぜ。二十五両たァ、大束に儲けたじゃねえか」 「どこで、そいつを聞いた」 「壁に耳ありよ。さっき、通りがかりに飛び込んだ神田の湯屋で、傘屋の金蔵とかいう奴が、てめえのことのように、自慢らしく、みんなに話して聞かせてたんだ」 「あいつ、もうそんな余計なことを喋りゃがったかい」 「喋ったの、喋らねえの段じゃねえや。紙屋の若旦那をまるめ込んで。──」  下総武蔵の国境だという、両国橋のまん中で、ぼんやり橋桁にもたれたまま、薄汚い婆さんが一匹五文で売っている、放し亀の首の動きを見詰めていた千吉は、通りがかりの細川の厩中間竹五郎に、ぽんと背中をたたかれて、立て続けに聞かされたのが、柳湯で、金蔵がしゃべったという、橘屋の一件であった。  が、もう一度竹五郎が、鼻の頭を引ッこすって、ニヤリと笑ったその刹那、向うから来かかった、八丁堀の与力井上藤吉の用を聞いている鬼七を認めた千吉は、素速く相手を眼で制した。 「叱ッ。いけねえ。行っちめえねえ」 「合点だ」  するりと抜けるようにして、竹五郎が行ってしまうと、はやくも鬼七は、千吉の眼の前に迫っていた。 「千吉。おめえ、こんなとこで、何をうろうろしてるんだ」 「へえ。きょうは親父の、墓詣りにめえりやした。その帰りがけでござんして。……」 「墓詣り」 「へえ」 「いつッから、そんな心がけになったんだ」 「どうか御勘弁を」 「勘弁はいいが、──丁度いい所でおめえに遭った。ちっとばかり訊きてえことがあるから、つきあってくんねえ」 「へえ」 「びくびくするこたァありゃしねえ。こいつあこっちから頼むんだから、安心してついて来ねえ」  鬼七と呼ばれてはいるが、名前とはまったく違った、すっきりとした男前の、結いたての髷を川風に吹かせた格好は、如何にも颯爽としていた。  折柄の上潮に、漫々たる秋の水をたたえた隅田川は、眼のゆく限り、遠く筑波山の麓まで続くかと思われるまでに澄渡って、綾瀬から千住を指して遡る真帆方帆が、黙々と千鳥のように川幅を縫っていた。  その絵巻を展げた川筋の景色を、見るともなく横目で見ながら、千吉と鬼七は肩をならべて、静かに橋の上を浅草御門の方へと歩みを運んだ。 「千吉、おめえ、おせんのところへは出かけたろうの」 「どういたしやして。妹にゃ、三年この方、てんで会やァいたしません」 「ふふふ。つまらねえ隠し立ては止めねえか。いまもいった通り、おいらァおめえを、洗い立てるッてんじゃねえ。こっちの用で訊きてえことがあるんだ。悪いようにゃしねえから、はっきり聞かしてくんねえ」 「どんな御用で。……」 「おせんのとこへ、菊之丞が毎晩通うッて噂を聞き込んだんだが、そいつをおめえは知ってるだろうの」  こう訊きながら、鬼七の眼は異様に光った。     六  鬼七の問は、まったく千吉には思いがけないことであった。──子供の時分から好きでこそあれ、嫌いではない菊之丞を、おせんがどれ程思い詰めているかは、いわずと知れているものの、今では江戸一番の女形といわれている菊之丞が、自分からおせんの許へ、それも毎晩通って来ようなぞとは、どこから出た噂であろう。岡焼半分の悪刷にしても、あんまり話が食い違い過ぎると、千吉は思わず鬼七の顔を見返した。 「何んで、そんな不審そうな顔をするんだ」 「何んでと仰しゃいますが、あんまり親方のお聞きなさることが、解せねえもんでござんすから。……」 「おいらの訊くことが解せねえッて。──何が解せねえんだ」 「浜村屋は、おせんのところへなんざ、命を懸けて頼んだって、通っちゃくれませんや」 「おめえ、まだ隠してるな」 「どういたしやして、嘘も隠しもありゃァしません。みんなほんまのことを申上げて居りやすんで。……」 「千吉」 「へ」 「おめえ、二三日前に行った時、おせんが誰と話をしてえたか、そいつをいって見ねえ」 「話でげすって」 「そうだ。おせん一人じゃなかったろう。たしか相手がいたはずだ」 「お袋が、隣座敷にいた外にゃ、これぞといって、人らしい者ァいやァいたしません」 「ふふふ、お七はいなかったか」 「お七ッ」 「どうだ、お七の衣装を着た浜村屋が、ちゃァんと一人いたはずだ。おめえはその眼で見たじゃねえか」 「ありゃァ親方。──」 「あれもこれもありゃァしねえ。おいらはそいつを訊いてるんだ」 「人形じゃござんせんか」 「とぼけちゃいけねえ。人間を人形と見違える程、鬼七ァまだ耄碌しちゃァいねえよ。ありゃァ菊之丞に違えあるめえ」 「確にそうたァ申上られねえんで。……」 「おめえ、眼が上ったな。判った。──もういいから帰ンな」 「有難うござんすが、──親方、あれがもしか浜村屋だったら、どうなせえやすんで。……」 「どうもしやァしねえ」 「どうもしねンなら、何も。──」 「聞きてえか」 「どうか、お聞かせなすっておくんなせえやし」 「浜村屋は、役者を止めざァならねえんだ」 「何んでげすッて」 「口が裂けてもいうじゃァねえぞ。──南御町奉行の、信濃守様の妹御のお蓮様は、浜村屋の日本一の御贔屓なんだ」 「ではあの、壱岐様からのお出戻りの。──」 「叱っ。余計なこたァいっちゃならねえ」 「へえ」 「さ、帰ンねえ」 「有難うござんす」  千吉は、ふところの小判を気にしながら、ほっとして頭を下げた。  襟に当る秋の陽は狐色に輝いていた。     七  無理やりに、手習いッ子に筆を握らせるようにして、たった二行の文ではあったが、いや応なしに書かされた、ありがたく存じ候かしこの十一文字が気になるままに、一夜をまんじりともしなかったおせんは、茶の味もいつものようにさわやかでなく、まだ小半時も早い、明けたばかりの日差の中を駕籠に揺られながら、白壁町の春信の許を訪れたのであった。  弟子の藤吉から、おせんが来たとの知らせを聞いた春信は、起き出たばかりで顔も洗っていなかったが、とりあえず画室へ通して、磁器の肌のように澄んだおせんの顔を、じっと見詰めた。 「大そう早いの」 「はい。少しばかり思い余ったことがござんして、お智恵を拝借に伺いました」 「智恵を貸せとな。はッはッは。これは面白い。智恵はわたしよりお前の方が多分に持合せているはずだがの」 「まァお師匠さん」 「いや、それァ冗談だが、いったいどんなことが持上ったといいなさるんだ」 「あのう、いつもお話しいたします兄が、ゆうべひょっこり、帰って来たのでござんす」 「なに、兄さんが帰って来たと」 「はい」 「よく聞くお前の話では、千吉とやらいう兄さんは、まる三年も行方知れずになっていたとか。──それがまた、どうして急に。──」 「面目次第もござんせぬが、兄さんは、お宝が欲しいばっかりに、帰って来たのだと、自分の口からいってでござんす」 「金が欲しいとの。したがまさか、お前を分限者だとは思うまいがの」 「兄さんは、あたしを囮にして、よその若旦那から、お金をお借り申したのでござんす」 「ほう、何んとして借りた」 「いやがるあたしに文を書かせ、その文を、二十五両に、買っておもらい申すのだと、引ッたくるようにして、どこぞへ消え失せましたが、そのお人は誰あろう、通油町の、橘屋の徳太郎さんという、虫ずが走るくらい、好かないお方でござんす」 「そんなら千吉さんは、橘屋の徳さんから、その金を借りて。──」 「はい。今頃はおおかた、どこぞお大名屋敷のお厩で、好きな勝負をしてでござんしょうが、文を御覧なすった若旦那が、まッことあたしからのお願いとお思いなされて、大枚のお宝をお貸し下さいましたら、これから先あたしゃ若旦那から、どのような難題をいわれても、返す言葉がござんせぬ。──お師匠さん。何としたらよいものでござんしょう」  まったく途方に暮れたのであろう。春信の顔を見あげたおせんの瞼は、露を含んだ花弁のように潤んで見えた。 「さァてのう」  腕をこまねいて、あごを引いた春信は、暫し己が膝の上を見詰めていたが、やがて徐に首を振った。 「徳さんも、人の心の読めない程馬鹿でもなかろう。どのような文句を書いた文か知らないが、その文一本で、まさか二十五両の大金は出すまいよ」 「それでも兄さんは、ただの二字でも三字でも、あたしの書いた文さえ持って行けば、お金は右から左とのことでござんした」 「そりゃ、いつのことだの」 「ゆうべでござんす」  おせんがもう一度、顔を上げた時であった。突然障子の外から、藤吉の声が低く聞えた。 「おせんさん、大変なことができましたぜ。浜村屋の太夫が、急病だってこった」  おせんは「はッ」と胸が詰まって、直ぐには口が听けなかった。   夢     一  子、丑、寅、卯、辰、巳、──と、客のない上りかまちに腰をかけて、独り十二支を順に指折り数えていた、仮名床の亭主伝吉は、いきなり、息がつまるくらい荒ッぽく、拳固で背中をどやしつけられた。 「痛ッ。──だ、だれだ」 「だれだじゃねえや、てえへんなことがおっ始まったんだ。子丑寅もなんにもあったもんじゃねえ。あしたッから、うちの小屋は開かねえかも知れねえぜ」  火事場の纏持のように、息せき切って駆け込んで来たのは、同じ町内に住む市村座の木戸番長兵衛であった。  伝吉はぎょっとして、もう一度長兵衛の顔を見直した。 「な、なにがあったんだ」 「なにがも、かにがもあるもんじゃねえ、まかり間違や、てえした騒ぎになろうッてんだ。おめえンとこだって、芝居のこぼれを拾ってる家業なら、万更かかり合のねえこともなかろう。こけが秋刀魚の勘定でもしてやしめえし、指なんぞ折ってる時じゃありゃァしねえぜ」 「いってえ、どうしたッてんだ、長さん」 「おめえ、まだ判らねえのか」 「聞かねえことにゃ判らねえや」 「なんて血のめぐりが悪く出来てるんだ。──浜村屋の太夫が、舞台で踊ってたまま倒れちゃったんだ」 「何んだッてそいつァおめえ、本当かい」 「おれにゃ、嘘と坊主の頭ァいえねえよ。──仮にもおんなじ芝居の者が、こんなことを、ありもしねえのにいって見ねえ。それこそ簀巻にして、隅田川のまん中へおッ放り込まれらァな」 「長さん」 「ええびっくりするじゃねえか。急にそんな大きな声なんざ、出さねえでくんねえ」 「何をいってるんだ。これがおめえ、こそこそ話にしてられるかい。おいらァ誰が好きだといって、浜村屋の太夫くれえ、好きな役者衆はねえんだよ。芸がよくって愛嬌があって、おまけに自慢気なんざ薬にしたくもねえッてお人だ。──どこが悪くッて、どう倒れたんだか、さ、そこをおいらに、委しく話して聞かしてくんねえ」  どやしつけられた、背中の痛さもけろりと忘れて、伝吉は、元結が輪から抜けて足元へ散らばったのさえ気付かずに夢中で長兵衛の方へ膝をすり寄せた。 「丁度二番目の、所作事の幕に近え時分だと思いねえ。知っての通りこの狂言は、三五郎さんの頼朝に、羽左衛門さんの梶原、それに太夫は鷺娘で出るという、豊前さんの浄瑠璃としっくり合った、今度の芝居の呼び物だろうじゃねえか。はねに近くなったって、お客は唯の一人だって、立とうなんて料簡の者ァねえやな。舞台ははずむ、お客はそろって一寸でも先へ首を出そうとする。いわば紙一重の隙もねえッてとこだった。どうしたはずみか、太夫の踊ってた足が、躓いたようによろよろっとしたかと思うと、あッという間もなく、舞台へまともに突ッ俯しちまったんだ。──客席からは浜村屋ッという声が、石を投げるように聞こえて来るかと思うと、御贔屓の泣く声、喚く声、そいつが忽ち渦巻になって、わッわッといってるうちに、道具方が気を利かして幕を引いたんだが、そりゃおめえ、ここでおれが話をしてるようなもんじゃァねえ、芝居中がひっくり返るような大騒ぎだ。──そのうちに頭取が駆け着ける、弟子達が集まるで、倒れた太夫を、鷺娘の衣装のまま楽屋へかつぎ込んじまったが、まだおめえ、宗庵先生のお許しが出ねえから、太夫は楽屋に寝かしたまま、家へも帰れねえんだ」 「よし、お花、おいらに羽織を出してくんねえ」  伝吉は突然こういって立上った。     二 「お前さん、どこへ行くんだよ。真ッ昼間ッからお見世を空けて出て行ったんじゃ、お客様に申訳がないじゃないか。太夫さんとこへお見舞に行くなら、日が暮れてからにしとくれよ。──ようッてば」  下剃一人をおいて出られたのでは、家業に障ると思ったのであろう。一張羅の羽織を、渋々箪笥から出して来たお花は、亭主の伝吉の袖をおさえて、無理にも引止めようと顔を窺き込んだ。  が、伝吉は、いきなり吐きだすようにけんのみを食わせた。 「馬鹿野郎。何をいってやがるんだ。亭主のすることに、女なんぞが口を出すこたァねえから黙って引ッ込んでろ。外のことならともかく、太夫が急病だッてのを、そのままにしといたんじゃ、世間の奴等になんていわれると思うんだ。仮名床の伝吉の奴ァ、ふだん浜村屋が好きだの蜂の頭だのと、口幅ッてえことをいってやがるくせに、なんてざまなんだ。手間が惜しさに見舞にも行かねえしみッたれ野郎だ、とそれこそ口をそろえて悪くいわれるなァ、加賀様の門よりもよく判ってるぜ。──つまらねえ理屈ァいわねえで、速く羽織を着せねえかい。こうなったり一刻だって、待てしばしはねえんだ」  お花の手から羽織を引ッたくった伝吉は、背筋が二寸も曲がったなりに引ッかけると、もう一度お花の手を振りもぎって、喧嘩犬のように、夢中で見世を飛び出した。 「待ちねえ、伝さん」  長兵衛は背後から声をかけた。 「何んの用だ」 「用じゃァねえが、おかみさんもああいうンだから、晩にしたらどうだ。どうせいま行ったって、会えるもんでもねえンだから。──」 「ふん、おめえまで、余計なことはおいてくんねえ。おいらの足でおいらが歩いてくんだ。どこへ行こうが勝手じゃねえか」 「ほう、大まかに出やァがったな。話をしたなァおれなんだぜ。行くんなら、せめておれの髯だけでもあたッてッてくんねえ」 「髯は帰って来てからだ」 「帰って来てからじゃ、間に合わねえよ」 「間に合わなかったら、どこいでも行って、やってもらって来るがいいやな。──ええもう面倒臭え、四の五のいってるうちに、日が暮れちまわァ」  前つぼの固い草履の先で砂を蹴って、一目散に駆け出した伝吉は、提灯屋の角まで来ると、ふと立停って小首を傾げた。 「待てよ。こいつァ市村座へ行くより先に、もっと大事なところがあるぜ。──そうだ。まだおせんちゃんが知らねえかもしれねえ。こんな時に人情を見せてやるのが、江戸ッ子の腹の見せどこだ。よし、ひとつ駕籠をはずんで、谷中まで突ッ走ってやろう」  大きく頷いた伝吉は、折から通り合せた辻駕籠を呼び止めて、笠森稲荷の境内までだと、酒手をはずんで乗り込んだ。 「急いでくんねえよ」 「ようがす」 「急病人の知らせに行くんだからの」 「合点だ」  返事は如何にも調子がよかったが、肝腎の駕籠は、一向突ッ走ってはくれなかった。 「ちぇッ。吉原だといやァ、豪勢飛びゃァがるくせに、谷中の病人の知らせだと聞いて、馬鹿にしてやがるんだろう。伝吉ァただの床屋じゃねえんだぜ。当時江戸で名高え笠森おせんの、襟を剃るなァおいらより外にゃ、広い江戸中に二人たねえんだ」  伝吉が駕籠の中で鼻の頭を引ッこすってのひとり啖呵も、駕籠屋には少しの効き目もないらしく、駕籠の歩みは、依然として緩やかだった。     三  床屋の伝吉が、笠森の境内へ着いたその時分、春信の住居で、菊之丞の急病を聞いたおせんは無我夢中でおのが家の敷居を跨いでいた。 「お母さん」 「おやおまえ、どうしたというの、何かお見世にあったのかい」  今ごろ帰って来ようとは、夢にも考えていなかったお岸は、慌しく駆け込んで来たおせんの姿を見ると、まず、怪我でもしたのではないかと、穴のあく程じッと見詰めながら、静かに肩へ手をかけたが、いつもと様子の違ったおせんは、母の手を振り払うようにして、そのまま畳ざわりも荒く、おのが居間へ駆け込んで行った。 「どうおしだよ、おせん」 「お母さん、あたしゃ、どうしよう」 「まァおまえ。……」 「吉ちゃんが、──あの菊之丞さんが、急病との事でござんす」 「なんとえ。太夫さんが急病とえ。──」 「あい。──あたしゃもう、生きてる空がござんせぬ」 「何をおいいだえ。そんな気の弱いことでどうするものか。人の口は、どうにでもいえるもの。急病といったところが、どこまで本当のことかわかったものではあるまいし。……」 「いえいえ、嘘でも夢でもござんせぬ。あたしゃたしかに、この耳で聞いて来ました。これから直ぐに市村座の楽屋へお見舞に行って来とうござんす。お母さん、そのお七の衣装を脱がせておくんなさいまし」 「えッ、これをおまえ」 「吉ちゃんが、去年の芝居が済んだ時、黙って届けておくんなすったお七の衣装、あたしに着ろとの謎でござんしょう」 「それでもこれは。──」 「お母さん」  おせんは、部屋の隅に立てかけてある人形の傍へ、自分から歩み寄ると、いきなり帯に手をかけて、まるで芝居の衣装着けがするように、如何にも無造作に衣装を脱がせ始めた。 「お止し」 「いいえ、もう何んにもいわないでおくんなさい。あたしゃお七とおんなじ心で、太夫に会いに行きとうござんす」  ばらりと解いたお七の帯には、夜毎に焚きこめた伽羅の香りが悲しく籠って、静かに部屋の中を流れそめた。 「ああ。──」  おせんはその帯を、ずッと胸に抱きしめた。 「おせんや」  お岸は優し眼をふせた。 「あい」 「おまえ、一人で行く気かえ」 「あい」  衣装を脱がせて、襦袢を脱がせて、屏風のかげへ這入ったおせんは、素速くおのが着物と着換えた。と、この時格子戸の外から降って湧いたように、男の声が大きく聞えた。 「おせんさん、仮名床の伝吉でござんす。浜村屋の太夫さんが、急病と聞いて、何より先にお知らせしてえと、駕籠を飛ばしてやってめえりやした。笠森様においでがねえんでこっちへ廻って来やした始末。ちっとも速く、葺屋町へ行っとくンなせえやし」 「親方、その駕籠を、待たせといておくんなさい」 「合点でげす」  おせんの声は、いつになく甲高かった。     四  人目を避けるために、わざと蓙巻を深く垂れた医者駕籠に乗せて、男衆と弟子の二人だけが付添ったまま、菊之丞の不随の体は、その日の午近くに、石町の住居に運ばれて行った。  が、たださえ人気の頂点にある菊之丞が、舞台で倒れたとの噂は、忽ち人から人へ伝えられて、今は江戸の隅々まで、知らぬはこけの骨頂とさえいわれるまでになっていた。他目からは、どう見ても医者の見舞としか想われなかった駕籠の周囲は、いつの間にやら五人十人の男女で、百万遍のように取囲んで、追えば追う程、その数は増して来るばかりであった。 「ちょいとお前さん、何んだってあんなお医者の駕籠に、くッついて歩いているのさ」 「なんだ神田の、明神様の石の鳥居じゃないが、お前さんもきがなさ過ぎるよ。ありゃァただのお医者様の駕籠じゃないよ」 「だってお辰つぁん、どう見たって。……」 「叱ッ、静かにおしなね。あン中にゃ、浜村屋の太夫さんが乗ってるんだよ」 「浜村屋の太夫さん。──」 「そうさ。きのう舞台で倒れたまま、今が今まで、楽屋で寝てえたんじゃないか。それをお前さん、どうでも家へ帰りたいと駄々をこねて、とうとうあんな塩梅式に、お医者と見せて帰る途中だッてことさ」 「おやまァ、そんならそこを退いとくれよ」 「なぜ」 「あたしゃ駕籠の傍へ行って、せめて太夫さんに、一言でもお見舞がいいたいンだから。……」 「何をいうのさ。太夫は大病人なんだよ。ちっとだッて騒いだりしちゃァ、体に障らァね。一緒について行くなァいいが、こッから先へは出ちゃならねえよ」 「いいから退いとくれッたら」 「おや痛い、抓らなくッてもいいじゃないか」 「退かないからさ」 「おや、また抓ったね」  髪結のお辰と、豆腐屋の娘のお亀とが、いいのいけないのと争っているうちに、駕籠は更に多くの人数に取巻かれながら、芳町通りを左へ、おやじ橋を渡って、牛の歩みよりもゆるやかに進んでいた。  菊之丞の駕籠を一町ばかり隔てて、あたかも葬式でも送るように悵然と首を垂れたまま、一足毎に重い歩みを続けていたのは、市村座の座元羽左衛門をはじめ、坂東彦三郎、尾上菊五郎、嵐三五郎、それに元服したばかりの尾上松助などの一行であった。  いずれも編笠で深く顔を隠したまま、眼をしばたたくのみで、互に一言も発しなかったが、急に何か思いだしたのであろう。羽左衛門は、寂しく眉をひそめた。 「松助さん」 「はい」 「お前さんは、折角だが、ここから帰る方がいいようだの」 「なぜでございます」 「不吉なことをいうようだが、浜村屋さんはひょっとすると、あのままいけなくなるかも知れないからの」 「ええ滅相な。左様なことがおますかいな」  そういって眼をみはったのは嵐三五郎であった。 「いや、わたしとて、太夫に元のようになってもらいたいのは山々だが、今までの太夫の様子では、どうも難かしかろうと思われる。縁起でもないことだが、ゆうべわたしは、上下の歯が一本残らず、脱けてしまった夢を見ました。情ないが、所詮太夫は助かるまい」  羽左衛門はそういって、寂しそうに眉をひそめた。     五  夢から夢を辿りながら、更に夢の世界をさ迷い続けていた菊之丞は、ふと、夏の軒端につり残されていた風鈴の音に、重い眼を開けてあたりを見廻した。  医者の玄庵をはじめ、妻のおむら、座元の羽左衛門、三五郎、彦三郎、その他の人達が、ぐるりと枕許に車座になって、何かひそひそと語り合っている声が、遠い国の出来事のように聞えていた。 「おお、あなた。──」  最初におむらが、声をかけた。が、菊之丞の心には、声の主が誰であるのか、まだはっきり映らなかったのであろう。きょろりと一度見廻したきり、再び眼を閉じてしまった。  玄庵は徐かに手を振った。 「どなたもお静かに。──」 「はい」  急に水を打ったような静けさに還った部屋の中には、ただ香のかおりが、低く這っているばかりであった。  玄庵は、夜着の下へ手を入れて、かるく菊之丞の手首を掴んだまま首をひねった。 「先生、如何でございます」 「脈に力が出たようじゃが。……」 「それはまァ、うれしゅうござんす」 「だが御安心は御無用じゃ。いつ何時変化があるか判らぬからのう」 「はい」 「お見舞の方々も、次の間にお引取りなすってはどうじゃの、御病人は、出来るだけ安静に、休ませてあげるとよいと思うでの」 「はいはい」と羽左衛門が大きくうなずいた。「如何にも御もっともでございます。──では、ここはおかみさんにお願い申して、次へ下っていることにいたしましょう」 「それがようござる。及ばずながら愚老が看護して居る以上、手落はいたさぬ考えじゃ」 「何分共にお願い申上げます」  一同は足音を忍ばせて、襖の開けたてにも気を配りながら、次の間へ出て行った。  暫し、鉄瓶のたぎる音のみが、部屋のしじまに明るく残された。 「御内儀」  玄庵の声は、低く重かった。 「はい」 「お気の毒でござるが、太夫はもはや、一時の命じゃ」 「えッ」 「いや静かに。──ただ今、脈に力が出たようじゃと申上げたが、実は他の方々の手前をかねたまでのこと。心臓も、微かに温みを保っているだけのことじゃ」 「それではもはや」  おむらの、今まで辛抱に辛抱を重ねていた眼からは、玉のような涙が、頬を伝って溢れ落ちた。  やがて、香煙を揺がせて、恐る恐る襖の間から首を差出したのは、弟子の菊彌だった。 「お客様でございます」 「どなたが」 「谷中のおせん様」 「えッ、あの笠森の。……」 「はい」 「太夫は御病気ゆえ、お目にかかれぬと、お断りしておくれ」  するとその刹那、ぱっと眼を開いて菊之丞の、細い声が鋭く聞えた。 「いいよ。いいから、ここへお通し。──」     六  初霜を避けて、昨夜縁に上げられた白菊であろう、下葉から次第に枯れてゆく花の周囲を、静かに舞っている一匹の虻を、猫が頻りに尾を振ってじゃれる影が、障子にくっきり映っていた。  その虻の羽音を、聞くともなしに聞きながら、菊之丞の枕頭に座して、じっと寝顔に見入っていたのは、お七の着付もあでやかなおせんだった。  紫の香煙が、ひともとすなおに立昇って、南向きの座敷は、硝子張の中のように暖かい。  七年目で会った、たった二人の世界。殆んど一夜のうちに生気を失ってしまった菊之丞の、なかば開かれた眼からは、糸のような涙が一筋頬を伝わって、枕を濡らしていた。 「おせんちゃん」  菊之丞の声は、わずかに聞かれるくらい低かった。 「あい」 「よく来てくれた」 「太夫さん」 「太夫さんなぞと呼ばずに、やっぱり昔の通り、吉ちゃんと呼んでおくれな」 「そんなら、吉ちゃん。──」 「はい」 「あたしゃ、会いとうござんした」 「あたしも会いたかった。──こういったら、お前さんはさだめし、心にもないことをいうと、お想いだろうが、決して嘘でもなけりゃ、お世辞でもない。──知っての通り、あたしゃどうやら人気も出て、世間様からなんのかのと、いわれているけれど、心はやっぱり十年前もおなじこと。義理でもらった女房より、浮気でかこった女より、心から思うのはお前の身の上。暑いにつけ、寒いにつけ、切ない思いは、いつも谷中の空に通ってはいたが、今ではお前も人気娘、うっかりあたしが訪ねたら、あらぬ浮名を立てられて、さぞ迷惑でもあろうかと、きょうが日まで、辛抱して来ましたのさ」 「勿体ない、太夫さん。──」 「いいえ、勿体ないより、済まないのはあたしの心。役者家業の憂さ辛さは、どれ程いやだとおもっても、御贔屓からのお迎えよ。お座敷よといわれれば、三度に一度は出向いて行って、笑顔のひとつも見せねばならず、そのたび毎に、ああいやだ、こんな家業はきょうは止そうか、明日やめようかと思うものの、さて未練は舞台。このまま引いてしまったら、折角鍛えたおのが芸を、根こそぎ棄てなければならぬ悲しさ。それゆえ、秋の野に鳴く虫にも劣る、はかない月日を過ごして来たが、……おせんちゃん。それもこれも、今はもうきのうの夢と消えるばかり。所詮は会えないものと、あきらめていた矢先、ほんとうによく来てくれた。あたしゃこのまま死んでも、思い残すことはない。──」 「もし、吉ちゃん」 「おお」 「しっかりしておくんなさい。羞かしながら、お前がなくてはこの世の中に、誰を思って生きようやら、おまえ一人を、胸にひそめて来たあたし。あたしに死ねというのなら、たった今でも、身代りにもなりましょう。──のう吉ちゃん。たとえ一夜の枕は交さずとも、あたしゃおまえの女房だぞえ。これ、もうし吉ちゃん。返事のないのは、不承知かえ」  一膝ずつ乗出したおせんは、頬がすれすれになるまでに、菊之丞の顔を覗き込んだが、やがてその眼は、仏像のようにすわって行った。 「吉ちゃん。──太夫さん。──」 「お、せ、ん──」 「ああ、もし」  おせんは、次第に唇の褪せて行く菊之丞の顔の上に、涙と共に打ち伏してしまった。  隣座敷から、俄に人々の立つ気配がした。     七  二代目瀬川菊之丞の死が報ぜられたのは、その日の暮れ方近くだった。江戸の民衆は、去年の吉原の大火よりも、更に大きな失望の淵に沈んだが、中にも手中の珠を奪われたような、悲しみのどん底に落ち込んだのは、菊之丞でなければ夜も日もあけない各大名や旗本屋敷の女中達だった。  殊に、この知らせを受けて、天地が覆えった程の驚愕を覚えたのは、南町奉行本多信濃守の妹お蓮であろう。折から夕餉の膳に対おうとしていたお蓮は、突然手にした箸を取落すと、そのまま狂気したように、ふらふらッと立上って、跣足のまま庭先へと駆け降りて行った。  二三人の侍女が、直ぐさまその後を追った。 「もし、お嬢様。お危のうござります」 「何をするのじゃ。放しや」 「どちらへおいで遊ばします」 「知れたことじゃ。これから直ぐに、浜村屋の許へまいる」 「これはまあ、滅相なことを仰しゃいます」 「何が滅相なことじゃ、わらわがまいって、浜村屋の病気を癒して取らせるのじゃ。──邪間だてせずと、そこ退きゃ」 「なりませぬ」 「ええもう、退きゃというに、退かぬか」  手荒く突き退けられた一人の侍女は、転びながらも、お蓮の裾を確と押えた。 「お嬢様。お気をお静め遊ばしまして。……」 「いらぬことじゃ。放せ」 「いいえお放しいたしませぬ。今頃お出まし遊ばしましては、お身分に係わりまする。もしまた、たってお出まし遊ばしますなら、一応わたくし共から御家老へ、その由お伝えいたしませねば。……」 「くどいわ。放せというに、放さぬか」  夢中で振り払ったお蓮の片袖は、稲穂のように侍女の手に残って、惜し気もなく土を蹴ってゆく白臘の足が、夕闇の中にほのかに白かった。 「もし、お嬢様。──」  池を廻って、築山の裾を走るお蓮の姿は、狐のように速かった。 「それ、向うから。──」 「あちらへお廻り遊ばしました」  男気のない奥庭に、次第に数を増した女中達は、お蓮の姿を見失っては一大事と思ったのであろう。老も若きもおしなべて、庭の木戸へと歩を乱した。  が、必死に駆け着けた庭の木戸には、もはやお蓮の姿は見られなかった。 「お嬢様。──」 「お待ち遊ばせ」  しかも、年に一度も、駆けたことなどのないお蓮は、庭木戸を出は出たものの、既に脚が釣るまでに疲れ果てて、口の中で菊之丞の名を呼びながら、今はもはや堪えられない歩みを、いずくへとのあてもなしに、無理から先へ先へと運んでいた。 「──浜村屋、待ちや。わらわを置いて、そなたばかりがどこへ行く。──そりゃ聞こえぬぞ。わらわも一緒じゃ。そなたの行きやるところなら、地獄の極へなりと、いといはせぬ。連れて行きゃ。速う連れて行きゃ」  二十一で坂部壱岐守へ嫁いで八年目に戻って来た。既に三十の身ではあったが、十四五の頃から早くも本多小町と謳われたお蓮は、まだ漸く二十四五にしか見えず、いずれかといえば妖艶なかたちの、情熱に燃えた眼を据えて、夕闇の中を音もなく歩いてゆく様は、ぞッとする程凄かった。     八  いずこの大名旗本の屋敷に、如何なる騒ぎが持上っていようとも、それらのことは、まったく別の世界の出来事のように、菊之丞の家は、静かにしめやかであった。  座元をはじめ、あらゆる芝居道の人達はいうまでもなく、贔屓の人々、出入のたれかれと、百を越える人数は、仕切りなしに押し寄せて、さしも豪奢を誇る住居も所狭きまでの混雑を見ていたが、しかも菊之丞の冷たいむくろを安置した八畳の間には、妻女のおむらさえ入れないおせんがただ一人、首を垂れたまま、黙然と膝の上を見詰めていた。  ふと、おせんの固く結んだ唇から、低い、微かな声が漏れた。 「吉ちゃん。おかみさんや、ほかの人達にお願いして、あたしがたった一人、お前の枕許へ残してもらったのは、十年前の、飯事遊びが、忘れられないからでござんす。──みんなして、近所の飛鳥山へ、お花見に出かけたあの時、いつもの通り、あたしとお前とは夫婦でござんした。幔幕を張りめぐらした、どこぞの御大家の中へ、迷い込んだあたし達は、それお前も覚えてであろ。絵にあるような綺麗な、お嬢様に何やかやと御馳走を頂戴した挙句、お化粧直しの幕の隅で、あたしはお前に、お前はあたしに、互にお化粧をしあって、この子達、もう小十年も経ったなら、きっと惚れ惚れするように美しくなるであろうと、お世辞にほめて頂いた、あの夢のような日のことが、いまだにはっきり眼に残って……吉ちゃん。あたしゃ今こそお前に、精根をつくしたお化粧を、してあげとうござんす。──紅白粉は、家を出る時袱紗に包んで持って来ました。あたしの遣いふるしでござんすが、この紅筆は、お前が王子を越す時に、あたしにおくんなすった。今では形見。役者衆の、お前のお気に入るように出来ますまいけれど、辛抱しておくんなさい。せめてもの、あたしの心づくしでござんす」  北を枕に、静かに眼を閉じている菊之丞の、女にもみまほしいまでに美しく澄んだ顔は、磁器の肌のように冷たかった。  白粉刷毛を持ったおせんの手は、名匠が毛描きでもするように、その上を丹念になぞって行った。  眼、口、耳。──真白に塗りつぶされたそれらのかたちが、間もなく濡手拭で、おもむろにふき清められると、やがて唇には真紅のべにがさされて、菊之丞の顔は今にも物をいうかと怪しまれるまでに、生々と蘇った。  おせんは、じッとその顔に見入った。 「吉ちゃん。──もし、吉ちゃん」  次第におせんの声は、高かった。呼べば答えるかと思われる口許は、心なしか、寂しくふるえて見えた。 「──あたしゃ、これから先も、きっとおまえと一緒に、生きて行くでござんしょう。おまえもどうぞ、魂だけはいつまでも、あたしの傍にいておくんなさい。あたしゃ千人万人の人からいい寄られても、死ぬまで動きはいたしませぬ。──もし、吉ちゃん。……」  ぽたりと落ちたおせんの涙は、菊之丞の頬をぬらした。 「これはまァ折角お化粧したお顔へ。……」  おせんはもう一度、白粉刷毛を手に把った。と、次の間から聞えて来たのは、妻女のおむらの声だった。 「おせんさん」 「は、はい。──」 「お焼香のお客様がお見えでござんす。よろしかったら、お通し申します」 「はい、どうぞ。──」  あわてて枕許から引き下がったおせんの眼に、夜叉の如くに映ったのは、本多信濃守の妹お蓮の剥げるばかりに厚化粧をした姿だった。  おせん (おわり) 底本:「大衆文学代表作全集 19 邦枝完二集」河出書房    1955(昭和30)年9月初版発行    1955(昭和30)年11月30日8刷発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:伊藤時也 校正:松永正敏 2007年4月13日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。