黒百合 泉鏡花 Guide 扉 本文 目 次 黒百合 序 一       序  越中の国立山なる、石滝の奥深く、黒百合となんいうものありと、語るもおどろおどろしや。姫百合、白百合こそなつかしけれ、鬼と呼ぶさえ、分けてこの凄じきを、雄々しきは打笑い、さらぬは袖几帳したまうらむ。富山の町の花売は、山賤の類にあらず、あわれに美しき女なり。その名の雪の白きに愛でて、百合の名の黒きをも、濃い紫と見たまえかし。     明治三十五年寅壬三月        一 「島野か。」  午少し過ぐる頃、富山県知事なにがしの君が、四十物町の邸の門で、活溌に若い声で呼んだ。  呼ばれたのは、知事の君が遠縁の法学生、この邸に奇寓する食客であるが、立寄れば大樹の蔭で、涼しい服装、身軽な夏服を着けて、帽を目深に、洋杖も細いので、猟犬ジャム、のほうずに耳の大いのを後に従え、得々として出懸ける処、澄ましていたのが唐突に、しかも呼棄てにされたので。  およそ市中において、自分を呼棄てにするは、何等の者であろうと、且つ怪み、且つ憤って、目を尖らして顔を上げる。 「島野。」 「へい、」と思わず恐入って、紳士は止むことを得ず頭を下げた。 「勇美さんは居るかい。」と言いさま摺れ違い、門を入ろうとして振向いて言ったのは、十八九の美少年である。絹セルの単衣、水色縮緬の帯を背後に結んだ、中背の、見るから蒲柳の姿に似ないで、眉も眦もきりりとした、その癖口許の愛くるしいのが、パナマの帽子を無造作に頂いて、絹の手巾の雪のような白いのを、泥に染めて、何か包んだものを提げている。  成程これならば、この食客的紳士が、因ってもって身の金箔とする処の知事の君をも呼棄てにしかねはせぬ。一国の門閥、先代があまねく徳を布いた上に、経済の道宜しきを得たので、今も内福の聞えの高い、子爵千破矢家の当主、すなわち若君滝太郎である。 「お宅でございます、」と島野紳士は渋々ながら恭しい。 「学校は休かしら。」 「いえ、土曜日なんで、」 「そうか、」と謂い棄てて少年はずッと入った。 「ちょッ。」  その後を見送って、島野はつくづく舌打をした。この紳士の不平たるや、単に呼棄てにされて、その威厳の幾分を殺がれたばかりではない。誰も誰も一見して直ちに館の飼犬だということを知って、これを従えた者は、知事の君と別懇の者であるということを示す、活きた手形のようなジャムの奴が、連れて出た己を棄てて、滝太郎の後から尾を振りながら、ちょろちょろと入ったのであった。 「恐れるな。小天狗め、」とさも悔しげに口の内に呟いて、洋杖をちょいとついて、小刻に二ツ三ツ地の上をつついたが、懶げに帽の前を俯向けて、射る日を遮り、淋しそうに、一人で歩き出した。 「ジャム、」  真先に駈けて入った猟犬をまず見着けたのは、当館の姫様で勇美子という。襟は藤色で、白地にお納戸で薩摩縞の単衣、目のぱッちりと大きい、色のくッきりした、油気の無い、さらさらした癖の無い髪を背へ下げて、蝦茶のリボン飾、簪は挿さず、花畠の日向に出ている。        二  この花畠は──門を入ると一面の芝生、植込のない押開いた突当が玄関、その左の方が西洋造で、右の方が廻廊下で、そこが前栽になっている。一体昔の大名の別邸を取払った幾分の造作が残ったのに、件の洋風の室数を建て増したもので、桃色の窓懸を半ば絞った玄関傍の応接所から、金々として綺羅びやかな飾附の、呼鈴、巻莨入、灰皿、額縁などが洩れて見える──あたかもその前にわざと鄙めいた誂で。  日車は莟を持っていまだ咲かず、牡丹は既に散果てたが、姫芥子の真紅の花は、ちらちらと咲いて、姫がものを言う唇のように、芝生から畠を劃って一面に咲いていた三色菫の、紫と、白と、紅が、勇美子のその衣紋と、その衣との姿に似て綺麗である。 「どうして、」  体は大いが、小児のように飛着いて纏わる猟犬のあたまを抑えた時、傍目も触らないで玄関の方へ一文字に行こうとする滝太郎を見着けた。 「おや、」  同時に少年も振返って、それと見ると、芝生を横截って、つかつかと間近に寄って、 「ちょいとちょいと、今日はね、うんと礼を言わすんだ、拝んで可いな。」と莞爾々々しながら、勢よく、棒を突出したようなものいいで、係構なしに、何か嬉しそう。  言葉つきなら、仕打なら、人の息女とも思わぬを、これがまた気に懸けるような娘でないから、そのまま重たげに猟犬の頭を後に押遣り、顔を見て笑って、 「何?」 「何だって、大変だ、活きてるんだからね。お姫様なんざあ学者の先生だけれども、こいつあ分らない。」と件の手巾の包を目の前へ撮んでぶら下げた。その泥が染んでいる純白なのを見て、傾いて、 「何です。」 「見ると驚くぜ、吃驚すらあ、草だね、こりゃ草なんだけれど活きてるよ。」 「は、それは活きていましょうとも。草でも樹でも花でも、皆活きてるではありませんか。」という時、姫芥子の花は心ありげに袂に触れて閃いた。が、滝太郎は拗ねたような顔色で、 「また始めたい、理窟をいったってはじまらねえ。可いからまあ難有うと、そういってみねえな、よ、厭なら止せ。」 「乱暴ねえ、」 「そっちアまた強情だな、可いじゃあないか難有う……と。」 「じゃアまああっちへ参りましょう。」  と言いかけて勇美子は身を返した。塀の外をちらほらと人の通るのが、小さな節穴を透して遙に昼の影燈籠のように見えるのを、熟と瞻って、忘れたように跪居る犬を、勇美子は掌ではたと打って、 「ほら、」  ジャムは二三尺飛退って、こちらを向いて、けろりとしたが、衝と駈出して見えなくなった。 「活きてるんだな。やっぱり。」といって滝太郎一笑す。  振向いて見たばかり、さすがこれには答えないで、勇美子は先に立って鷹揚である。        三 「いらっしゃいまし。」  縁側に手を支えて、銀杏返の小間使が優容に迎えている。後先になって勇美子の部屋に立向うと、たちまち一種身に染みるような快い薫がした。縁の上も、床の前も、机の際も、と見ると芳い草と花とで満されているのである。ある物は乾燥紙の上に半ば乾き、ある物は圧板の下に露を吐き、あるいは台紙に、紫、紅、緑、樺、橙色の名残を留めて、日あたりに並んだり。壁に五段ばかり棚を釣って、重ね、重ね、重ねてあるのは、不残種類の違った植物の標本で、中には壜に密閉してあるのも見える。山、池、野原、川岸、土堤、寺、宮の境内、産地々々の幻をこの一室に籠めて物凄くも感じらるる。正面には、紫の房々とした葡萄の房を描いて、光線を配らった、そこにばかり日の影が射して、明るいようで鮮かな、露垂るばかりの一面の額、ならべて壁に懸けた標本の中なる一輪の牡丹の紅は、色はまだ褪せ果てぬが、かえって絵のように見えて、薄暗い中へ衝と入った主の姫が、白と紫を襲ねた姿は、一種言うべからざる色彩があった。 「道、」 「は、」と、答をし、大人しやかな小間使は、今座に直った勇美子と対向に、紅革の蒲団を直して、 「千破矢様の若様、さあ、どうぞ。」  帽子も着たままで沓脱に突立ってた滝太郎は、突然縁に懸けて後ざまに手を着いたが、不思議に鳥の鳴く音がしたので、驚いて目を睜って、また掌でその縁の板の合せ目を圧えてみた。 「何だい、鳴るじゃあないか、きゅうきゅういってやがら、おや、可訝いな。」 「お縁側が昔のままでございますから、旧は好事でこんなに仕懸けました。鶯張と申すのでございますよ。」  小間使が老実立っていうのを聞いて、滝太郎は恐入った顔色で、 「じゃあ声を出すんだろう、木だの、草だの、へ、色々なものが生きていら。」 「何をいってるのよ。」と勇美子は机の前に、整然と構えながら苦笑する。 「どう遊ばしましたの。」 取為顔の小間使に向って、 「聞きねえ、勇さんが、ね、おい。」 「あれ、また、乱暴なことを有仰います。」と微笑みながら、道は馴々しく窘めるがごとくに言った。 「御容子にも御身分にもお似合い遊ばさない、ぞんざいな言ばっかし。不可えだの、居やがるだのッて、そんな言は御邸の車夫だって、部屋へ下って下の者同士でなければ申しません。本当に不可ませんお道楽でございますねえ。」 「生意気なことをいったって、不可えや、畏ってるなあ冬のこッた。ござったのは食物でみねえ、夏向は恐れるぜ。」 「そのお口だものを、」といって驚いて顔を見た。 「黙って、見るこッた、折角お珍らしいのに言句をいってると古くしてしまう。」といいながら、急いで手巾を解いて、縁の上に拡げたのは、一掴、青い苔の生えた濡土である。  勇美子は手を着いて、覗くようにした。眉を開いて、艶麗に、 「何です。」  滝太郎は背を向けてぐっと澄まし、 「食いつくよ、活きてるから。」        四 「まあ、若様、あなた、こっちへお上り遊ばしましな。」と小間使は一塊の湿った土をあえて心にも留めないのであった。 「面倒臭いや、そこへ入り込むと、畏らなけりゃならないから、沢山だい。」といって、片足を沓脱に踏伸ばして、片膝を立てて頤を支えた。 「また、そんなことを有仰らないでさ。」 「勝手でございますよ。」 「それではまあお帽子でもお取り遊ばしましな、ね、若様。」  黙っている。心易立てに小間使はわざとらしく、 「若様、もし。」 「堪忍しねえ、炫いやな。」  滝太郎はさも面倒そうに言い棄てて、再び取合わないといった容子を見せたが、俯向いて、足に近い飛石の辺を屹と見た。渠は炫いといって小間使に謝したけれども、今瞳を据えた、パナマの夏帽の陰なる一双の眼は、極めて冷静なものである。小間使は詮方なげに、向直って、 「お嬢様、お茶を入れて参りましょう。」  勇美子は余念なく滝太郎の贈物を視めていた。 「珈琲にいたしましょうか。」 「ああ、」 「ラムネを取りに遣わしましょうか。」 「ああ、」とばかりで、これも一向に取合わないので、小間使は誠に張合がなく、 「それでは、」といって我ながら訳も解らず、あやふやに立とうとする。 「道、」 「はい。」 「冷水が可いぜ、汲立のやつを持って来てくんねえ、後生だ。」  といいも終らず、滝太郎はつかつかと庭に出て、飛石の上からいきなり地の上へ手を伸ばした、疾いこと! 掴えたのは一疋の小さな蟻。 「おいらのせいじゃあないぞ、何だ、蟻のような奴が、譬にも謂わあ、小さな体をして、動いてら。おう、堪忍しねえ、おいらのせいじゃあないぞ。」といいいい取って返して、縁側に俯向いて、勇美子が前髪を分けたのに、眉を隠して、瞳を件の土産に寄せて、 「見ねえ。」  勇美子は傍目も触らないでいた。  しばらくして滝太郎は大得意の色を表して、莞爾と微笑み、 「ほら、ね、どうだい、だから難有うッて、そう言いねえな。」 「どこから。」といって勇美子は嬉しそうな、そして頭を下げていたせいであろう、耳朶に少し汗が染んで、眶の染まった顔を上げた。 「どこからです、」 「え、」と滝太郎は言淀んで、面の色が動いたが、やがて事も無げに、 「何、そりゃ、ちゃんと心得てら。でも、あの余計にゃあ無いもんだ。こいつあね、蠅じゃあ大きくって、駄目なの、小さな奴なら蜘蛛の子位は殺つけるだろう。こら、恐いなあ、まあ。」  心なく見たらば、群がった苔の中で気は着くまい。ほとんど土の色と紛う位、薄樺色で、見ると、柔かそうに湿を帯びた、小さな葉が累り合って生えている。葉尖にすくすくと針を持って、滑かに開いていたのが、今蟻を取って上へ落すと、あたかも意識したように、静々と針を集めて、見る見る内に蟻を擒にしたのである。  滝太郎は、見て、その験あるを今更に驚いた様子で、 「ね、特別に活きてるだろう。」        五 「何でも崖裏か、藪の陰といった日陰の、湿った処で見着けたのね?」 「そうだ、そうだ。」  滝太郎は邪慳に、無愛想にいって目も放さず見ていたが、 「ヤ、半分ばかり食べやがった。ほら、こいつあ溶けるんだ。」 「まあ、ここに葉のまわりの針の尖に、一ツずつ、小さな水玉のような露を持っててね。」 「うむ、水が懸って、溜っているんだあな、雨上りの後だから。」 「いいえ、」といいながら勇美子は立って、室を横ぎり、床柱に黒塗の手提の採集筒と一所にある白金巾の前懸を取って、襟へあてて、ふわふわと胸膝を包んだ。その瀟洒な風采は、あたかも古武士が鎧を取って投懸けたごとく、白拍子が舞衣を絡うたごとく、自家の特色を発揮して余あるものであった。  勇美子は旧の座に直って、机の上から眼鏡を取って、件の植物の上に翳し、じっと見て、 「水じゃあないの、これはこの苔が持っている、そうね、まあ、あの蜘蛛が虫を捕える糸よ。蟻だの、蚋だの、留まると遁がさない道具だわ。あなた名を知らないでしょう、これはね、モウセンゴケというんです、ちょいとこの上から御覧なさい。」と、眼鏡を差向けると、滝太郎は何をという仏頂面で、 「詰らねえ、そんなものより、おいらの目が確だい。」といって傲然とした。  しかり、名も形も性質も知らないで、湿地の苔の中に隠れ生えて、虫を捕獲するのを発見した。滝太郎がものを見る力は、また多とすべきものである。あらかじめ書籍に就いて、その名を心得、その形を知って、且ついかなる処で得らるるかを学んでいるものにも、容易に求猟られない奇品であることを思い出した勇美子は、滝太郎がこの苔に就いて、いまだかつて何等の知識もないことに考え到って、越中の国富山の一箇所で、しかも薄暗い処でなければ産しない、それだけ目に着きやすからぬ不思議な草を、不用意にして採集して来たことに思い及ぶと同時に、名は知るまいといって誇ったのを、にわかに恥じて、差翳した高慢な虫眼鏡を引込めながら、行儀悪くほとんど匍匐になって、頬杖を突いている滝太郎の顔を瞻って、心から、 「あなたの目は恐いのね。」と極めて真面目にしみじみといった。  勇美子は年紀も二ツばかり上である。去年父母に従うてこの地に来たが、富山より、むしろ東京に、東京よりむしろ外国に、多く年月を経た。父は前に仏蘭西の公使館づきであったから、勇美子は母とともに巴里に住んで、九ツの時から八年有余、教育も先方で受けた、その知識と経験とをもて、何等かこの貴公子に見所があったのであろう、滝太郎といえばかねてより。……        六 「よく見着けて採って来てねえ、それでは私に下さるんですか、頂いておいても宜しいの。」 「だから難有うッて言いねえてば、はじめから分ってら。」と滝太郎は有為顔で嬉しそう。 「いいえ、本当に結構でございます。」  勇美子はこういって、猶予って四辺を見たが、手をその頬の辺へ齎らして唇を指に触れて、嫣然として微笑むと斉しく、指環を抜き取った。玉の透通って紅い、金色の燦たるのをつッと出して、 「千破矢さん、お礼をするわ。」  頤杖した縁側の目の前に、しかき贈物を置いて、別に意にも留めない風で、滝太郎はモウセンゴケを載せた手巾の先を──ここに耳を引張るべき猟犬も居ないから──摘んでは引きながら、片足は沓脱を踏まえたまま、左で足太鼓を打つ腕白さ。 「取っておいて下さいな。」  まるで知らなかったのでもないかして、 「いりやしねえよ。さあ、とうとう蟻を食っちゃった、見ねえ、おい。」  勇美子は引手繰られるように一膝出て、わずかに敷居に乗らないばかり。 「よう、おしまいなさいよ。」といったが、端なくも見えて、急き込む調子。 「欲かアありませんぜ。」 「お厭。」 「それにゃ及ばないや。」 「それではお礼としないで、あの、こうしましょうか、御褒美。」と莞爾する。 「生意気を言っていら、」  滝太郎は半ば身を起して腰をかけて言い棄てた。勇美子は返すべき言葉もなく、少年の顔を見るでもなく、モウセンゴケに並べてある贈物を見るでもなく、目の遣り処に困った風情。年上の澄ました中にも、仇気なさが見えて愛々しい。顔を少し赤らめながら、 「ただ上げては失礼ね、千破矢さん、その指環。」 「え、」と思わず手を返した、滝太郎の指にも黄金の一条の環が嵌っている。 「取替ッこにしましょうか。」 「これをかい。」 「はあ、」  勇美子は快活に思い切った物言いである。  滝太郎は目を円にして、 「不可え。こりゃ、」 「それでは、ただ下さいな。」 「うむ。」 「取替えるのがお厭なら。」 「止しねえ、お前、お前さんの方がよッぽど可いや、素晴しいんじゃないか。俺のこの、」  と斜に透かして、 「こりゃ、詰らない。取替えると損だから、悪いことは言わないぜ、はははは、」と笑ったが、努めて紛らそうとしたらしい。  勇美子は燃ゆるがごとき唇を動かして、動かして、 「惜しいの、大事なんですか。」 「うむ、大事なんだ。」といい放って、縁を離れてそのまますッくと立った。 「帰ったら何か持たして寄越さあ、邸でも、庫でも欲しかあ上げよう、こいつあ、後生だから堪忍しねえ。」  勇美子も慌しく立つ処へ、小間使は来て、廻縁の角へ優容に現れた。何にも知らないから、小腰を屈めて、 「お嬢様、例の花売の娘が参っております。若様、もうお忘れ遊ばしたでしょう、冷水は毒でございますよ。」        七  場末ではあるけれども、富山で賑かなのは総曲輪という、大手先。城の外壕が残った水溜があって、片側町に小商賈が軒を並べ、壕に沿っては昼夜交代に露店を出す。観世物小屋が、氷店に交っていて、町外には芝居もある。  ここに中空を凌いで榎が一本、梢にははや三日月が白く斜に懸った。蝙蝠が黒く、見えては隠れる横町、総曲輪から裏の旅籠町という大通に通ずる小路を、ひとしきり急足の往来があった後へ、もの淋しそうな姿で歩行いて来たのは、大人しやかな学生風の、年配二十五六の男である。  久留米の蚊飛白に兵児帯して、少し皺になった紬の黒の紋着を着て、紺足袋を穿いた、鉄色の目立たぬ胸紐を律義に結んで、懐中物を入れているが、夕涼から出懸けたのであろう、帽は被らず、髪の短かいのが漆のようで、色の美しく白い、細面の、背のすらりとしたのが、片手に帯を挟んで、俯向いた、紅絹の切で目を軽く押えながら、物思いをする風で、何か足許も覚束ないよう。  静かに歩を移して、もう少しで通へ出ようとする、二間幅の町の両側で、思いも懸けず、喚! といって、動揺めいた、四五人の小児が鯨波を揚げる。途端に足を取られた男は、横様にはたと地の上。 「あれ、」という声、旅籠町の角から、白い脚絆、素足に草鞋穿の裾を端折った、中形の浴衣に繻子の帯の幅狭なのを、引懸けに結んで、結んだ上へ、桃色の帯揚をして、胸高に乳の下へしっかと〆めた、これへ女扇をぐいと差して、膝の下の隠れるばかり、甲斐々々しく、水色唐縮緬の腰巻で、手拭を肩に当て、縄からげにして巻いた茣蓙を軽げに荷った、商帰り。町や辻では評判の花売が、曲角から遠くもあらず、横町の怪我を見ると、我を忘れたごとく一飛に走り着いて、転んだ地へ諸共に膝を折敷いて、扶け起そうとする時、さまでは顛動せず、力なげに身を起して立つ。 「どこも怪我はしませんか。」と人目も構わず、紅絹を持った男の手に縋らぬばかりに、ひたと寄って顔を覗く。 「やあい、やあい。」 「盲目やあい、按摩針。」と囃したので、娘は心着いて、屹と見て、立直った。 「おいらのせいじゃあないぞ、」 「三年先の烏のせい。」  甲走った早口に言い交わして、両側から二列に並んで遁げ出した。その西の手から東の手へ、一条の糸を渡したので町幅を截って引張合って、はらはらと走り、三ツ四ツ小さな顔が、交る交る見返り、見返り、 「雁が一羽懸った、」 「懸った、懸った。」 「晩のお菜に煮て食おう。」と囃しざま、糸に繋ったなり一団になったと見ると、大な廂の、暗い中へ、ちょろりと入って隠れてしまった。   新庄通れば、茨と、藤と、 藤が巻附く、茨が留める、   茨放せや、帯ゃ切れる、       さあい、さんさ、よんさの、よいやな。  と女の子のあどけないのが幾人か声を揃えて唄うのが、町を隔てて彼方に聞える。  二人は聞いて立並んで、黙って、顔を見て吻と息。        八 「小児衆ですよ、不可ません。両方から縄を引張って、軒下に隠れていて、人が通ると、足へ引懸けるんですもの、悪いことをしますねえ。」 「お雪さん、」と言いかけて、男はその淋しげな顔を背けた。声は、足を搦んで僵された五分を経ない後にも似ず、落着いて沈んでいる。 「はい、どこも何ともなさいませんか。」  お雪と呼ばれた花売の娘は、優しく男の胸の辺りで百合の姿のしおらしい顔を、傾けて仰いで見た。 「いえ、何、擦剥もしないようだ。」と力なく手を垂れて、膝の辺りを静に払く。 「まあ、砂がついて、あれ、こんなに、」と可怨しそうに、袖についた埃を払おうとしたが、ふと気を着けると、袂は冷々と湿りを持って、塗れた砂も落尽くさず、またその漆黒な髪もしっとりと濡れている。男の眉は自から顰んで、紅絹の切で、赤々と押えた目の縁も潤んだ様子。娘は袂に縋ったまま、荷を結えた縄の端を、思わず落そうとしてしっかり取った。 「今帰るのかい。」 「は……い。」 「暑いのに随分だな。」  思入って労う言葉。お雪は身に染み、胸に応えて、 「あなた。」 「ああ、」 「お医者様は、」  問われて目を圧えた手が微に震え、 「悪い方じゃあないッていうが、どうも捗々しくは行かぬそうだ。なりたけまあ大事にして、ものを見ないようにする方が可いっていうもんだから、ここはちょうど人通の少い処、密と目を塞いで探って来たので、ついとんだ羂に蹈込んださ、意気地はないな、忌々しい。」  とさりげなく打頬笑む。これに心を安んじたか、お雪もやや色を直して、 「どうぞまあ、お医者様を内へお呼び申すことにして、あなたはお寝って、何にもしないでいらっしゃるようにしたいものでございますね。」 「それは何、懇意な男だから、先方でもそう言ってくれるけれども、上手なだけ流行るので隙といっちゃあない様子、それも気の毒じゃあるし、何、寝ているほどの事もないんだよ。」 「でも、随分お悪いようですよ。そしてあの、お帰途に湯にでもお入りなすったの。」  考えて、 「え、なぜね。」 「お頭が濡れておりますもの。」 「む、何ね、そうか、濡れてるか、そうだろう。医者が冷してくれたから。」と、詰られて言開をする者のような弱い調子で、努めて平気を装って言った。 「冷しますと、お薬になるんですか。」と袂を持つ手に力が入ると、男は心着いて探ってみたが、苦笑して 「おお、湿った手拭を入れておいたな、だらしのない、袂が濡れた。成る程女房には叱られそうなこッた。」 「あれ、あんなことをいっていらっしゃるよ。」と嬉しそうに莞爾したが、これで愁眉が開けたと見える。 「御一所に帰りましょうか。」 「別々に行こうよ、ちっと穏でないから。いや、大丈夫だ。」 「気を着けて下さいましよ。」        九  男女が前後して総曲輪へ出て、この町の角を横切って、往来の早い人中に交って見えなくなると、小児がまた四五人一団になって顕れたが、ばらばらと駈けて来て、左右に分れて、旧のごとく軒下に蹲んで隠れた。  月の色はやや青く、蜘蛛はその囲を営むのに忙しい。  その時旅籠町の通の方から、同じこの小路を抜けようとして、薄暗い中に入って来たのは、一人の美少年。  パナマの帽を前下り、目も隠れるほど深く俯向いたが、口笛を吹くでもなく、右の指の節を唇に当て、素肌に着た絹セルの単衣の衣紋を緩げ──弥蔵という奴──内懐に落した手に、何か持って一心に瞻めながら、悠々と歩を移す。小間使が言った千破矢の若君という御容子はどこへやら、これならば、不可えの、居やがるのと、いけぞんざいなことも言いそうな滝太郎。 「ふん。」  片微笑をして、また懐の中を熟と見て、 「おいらのせいじゃあないぞ。」と仇口に呟いた。 「やあい、やい」 「盲目やあい。」  小児は一時に哄と囃したが、滝太郎は俯向いたまま、突当ったようになって立停ったばかり、形も崩さず自若としていた。  膝の辺りへ一条の糸が懸ったのを、一生懸命両方から引張って、 「雁が一羽懸った、」 「懸った、懸った、」と夢中になり、口々に騒ぎ立つのは、大方獲物が先刻のごとく足を取られたと思ったろう。幼いものは、驚破というと自分の目を先に塞ぐのであるから、敵の動静はよくも認めず、血迷ってただ燥ぐ。  左右を眗して、叱りもしない、滝太郎の涼しやかな目は極めて優しく、口許にも愛嬌があって、柔和な、大人しやかな、気高い、可懐しいものであったから、南無三仕損じたか、逃後れて間拍子を失った悪戯者。此奴羽搏をしない雁だ、と高を括って図々しや。 「ええ、そっちを引張んねえ。」 「下へ、下へ、」 「弛めて、潜らせやい。」 「巻付けろ。」  遊軍に控えたのまで手を添えて、搦め倒そうとする糸が乱れて、網の目のように、裾、袂、帯へ来て、懸っては脱れ、また纏うのを、身動きもしないで、彳んで、目も放さず、面白そうに見ていたが、やや有って、狙を着けたのか、ここぞと呼吸を合わせた気勢、ぐいと引く、糸が張った。  滝太郎は早速に押当てていた唇を指から放すと、薄月にきらりとしたのは、前に勇美子に望まれて、断乎として辞し去った指環である。と見ると糸はぷつりと切れて、足も、膝も遮るものなく、滝太郎の身は前へ出て、見返りもしないで衝と通った。  そのまま総曲輪へ出ようとする時、背後ではわッといって、我がちに遁げ出す跫音。  蜘蛛の子は、糸を切られて、驚いて散々なり。 「貰ったよ。」  滝太郎は左右を眗し、今度は憚らず、袂から出して、掌に据えたのは、薔薇の薫の蝦茶のリボン、勇美子が下髪を留めていたその飾である。        十  土地の口碑、伝うる処に因れば、総曲輪のかの榎は、稗史が語る、佐々成政がその愛妾、早百合を枝に懸けて惨殺した、三百年の老樹の由。  髪を掴んで釣し下げた女の顔の形をした、ぶらり火というのが、今も小雨の降る夜が更けると、樹の股に懸るというから、縁起を祝う夜商人は忌み憚って、ここへ露店を出しても、榎の下は四方を丸く明けて避ける習慣。  片側の商店の、夥しい、瓦斯、洋燈の灯と、露店のかんてらが薄くちらちらと黄昏の光を放って、水打った跡を、浴衣着、団扇を手にした、手拭を提げた漫歩の人通、行交い、立換って賑かな明い中に、榎の梢は蓬々としてもの寂しく、風が渡る根際に、何者かこれ店を拡げて、薄暗く控えた商人あり。  ともすると、ここへ、痩枯れた坊主の易者が出るが、その者は、何となく、幽霊を済度しそうな、怪しい、そして頼母しい、呪文を唱える、堅固な行者のような風采を持ってるから、衆の忌む処、かえって、底の見えない、霊験ある趣を添えて、誰もその易者が榎の下に居るのを怪しまぬけれども、今夜のはそれではない。  今灯を点けたばかり、油煙も揚らず、かんてらの火も新しい、店の茣蓙の端に、汚れた風呂敷を敷いて坐り込んで、物馴れた軽口で、 「召しませぬか、さあさあ、これは阿蘭陀トッピイ産の銀流し、何方もお煙管なり、お簪なり、真鍮、銅、お試しなさい。鍍金、ガラハギをなさいましても、鍍金、ガラハギは、鍍金ガラハギ、やっぱり鍍金、ガラハギは、ガラハギ。」  と尻ッ刎の上調子で言って、ほほと笑った。鉄漿を含んだ唇赤く、細面で鼻筋通った、引緊った顔立の中年増。年紀は二十八九、三十でもあろう、白地の手拭を姉さん被にしたのに額は隠れて、あるのか、無いのか、これで眉が見えたらたちまち五ツばかりは若やぎそうな目につく器量。垢抜して色の浅黒いのが、絞の浴衣の、糊の落ちた、しっとりと露に湿ったのを懊悩げに纏って、衣紋も緩げ、左の手を二の腕の見ゆるまで蓮葉に捲ったのを膝に置いて、それもこの売物の広告か、手に持ったのは銀の斜子打の女煙管である。  氷店の白粉首にも、桜木町の赤襟にもこれほどの美なるはあらじ、ついぞ見懸けたことのない、大道店の掘出しもの。流れ渡りの旅商人が、因縁は知らずここへ茣蓙を広げたらしい。もっとも総曲輪一円は、露店も各自に持場が極って、駈出しには割込めないから、この空地へ持って来たに違いない。それにしても大胆な、女の癖にと、珍しがるやら、怪むやら。ここの国も物見高で、お先走りの若いのが、早や大勢。  婦人は流るるような瞳を廻らし、人だかりがしたのを見て、得意な顔色。 「へい、鍍金は鍍金、ガラハギはガラハギ、品物に品が備わりませぬで、一目見てちゃんと知れる。どこへ出しても偽物でございますが、手前商いまする銀流しを少々、」と言いかけて、膝に着いた手を後へ引き、煙管を差置いて箱の中の粉を一捻し、指を仰向けて、前へ出して、つらりと見せた。 「ほんの纔ばかり、一撮み、手巾、お手拭の端、切ッ屑、お鼻紙、お手許お有合せの柔かなものにちょいとつけて、」  婦人は絹の襤褸切に件の粉を包んで、俯向いて、真鍮の板金を取った。  お掛けなさいまし、お休みなさいましと、間近な氷店で金切声。夜芝居の太鼓、どろどろどろ、遥に聞える観世物の、評判、評判。        十一 「訳のないこと、子供衆でも誰でも出来る。ちょいと水をつけておいて、柔かにぐいぐいとこう遣りさえすりゃ、あい、鷹化して鳩となり、傘変わって助六となり、田鼠化して鶉となり、真鍮変じて銀となるッ。」 「雀入海中為蛤か。」と、立合の中から声を懸けるものがあった。  婦人はその声の主を見透そうとするごとく、人顔をじろりと見廻わし、黙って莞爾して、また陳立てる。 「さあさあ召して下さい、召して下さいよ。御当地は薬が名物、津々浦々までも効能が行渡るんでございますがね、こればかりは看板を掛けちゃ売らないのですよ。一家秘法の銀流、はい、やい、お立合のお方は御遠慮なく、お持合せのお煙管なり、お簪なり、これへ出してお験しなさいまし、目の前で銀にしてお慰に見せましょう、御遠慮には及びません。」  といってちょいと句切り、煙管を手にして、莨を捻りながら、動静を伺って、 「さあさあ、誰方でもどうでござんす。」  若い同士耳打をするのがあり、尻を突いて促すのがあり、中には耳を引張るのがある。止せ、と退る、遣着けろ、と出る、ざまあ見ろ、と笑うやら、痛え、といって身悶えするやら、一斉に皆うようよ。有触れた銀流し、汚い親仁なら何事もあるまい、いずれ器量が操る木偶であろう。 「姉や。」  この時、人の背後から呼んだ、しかしこれは、前に黄な声を発して雀海中に入ってを云々したごとき厭味なものではない。清しい活溌なものであった。  婦人は屹と其方を見る、トまた悪怯れず呼懸けて、 「姉や、姉や。」 「何でございますか、は、私、」 「指環でも出来るかい。」 「ええ、出来ますとも、何でもお出しなさいましよ。」 「そう、」と極めてその意を得たという調子で、いそいそずッと出て、店前の地へ伝法に屈んだのは、滝太郎である。遊好の若様は時間に関らず、横町で糸を切って、勇美子の頭飾をどうして取ったか、人知れず掌に弄んだ上に、またここへ来てその姿を顕した。  滝太郎は、さすがに玉のような美しい手を握って、猶予わず、売物の銀流の粉の包、お験しの真鍮板、水入、絹の切などを並べた女の膝の前に真直に出した。指環のきらりとするのを差向けて、 「こいつを一つ遣ってくんねえな。」  立合の手合はもとより、世擦れて、人馴れて、この榎の下を物ともせぬ、弁舌の爽な、見るから下っ腹に毛のない姉御も驚いて目を睜った。その容貌、その風采、指環は紛うべくもない純金であるのに、銀流しを懸けろと言うから。 「これですかい。」 「ちょいと遣っておくんな。」 「結構じゃありませんかね。」 「お銭がなくっちゃあ不可ねえか、ここにゃ持っていねえんだが、可かったらつけてくんねえ。後で持たして寄越すぜ。」  と真顔でいう、言葉つき、顔形、目の中をじっと見ながら、 「そんな吝じゃアありませんや。お望なら、どれ、附けて上げましょう。」と婦人は切の端に銀流を塗して、滝太郎の手を密と取った。 「ようよう、」とまた後の方で、雀海中に入った時のごとき、奇なる音声を発する者あり。        十二 「可いぜ、可いぜ、沢山だ、」と滝太郎はやや有って手を引こうとする、ト指の尖を握ったのを放さないで、銀流の切を摺着けながら、 「よくして上げましょう、もう少しですから。」 「沢山だよ。」 「いいえ、これだけじゃあ綺麗にはなりません。」と婦人は急に止めそうにもない。 「さあ、大変。」 「お静に、お静に。」 「構わず、ぐっと握るべしさ、」 「しっかり頼むぜ。」  などと立合はわやわやいうのを、澄したもので、 「口切の商でございます、本磨にして、成程これならばという処を見せましょう、これから艶布巾をかけて、仕上げますから。」 「止せ。」  滝太郎の声はやや激して、振放そうとして力を入れる。押えて動かさず、 「ま、もうちっと辛抱をなさいましな、これから裏の方を磨きましょうね。」  婦人はこういいつつ、ちらちらと目をつけて、指環の形、顔、服装、天窓から爪先まで、屹と見てはさりげなく装うのを、滝太郎は独り見て取って、何か憚る処あるらしく、一度は一度、婦人が黒い目で睨む数の重るに従うて、次第に暗々裡に己を襲うものが来り、近いて迫るように覚えて、今はほとんど耐難くなったと見え、知らず知らず左の手が、片手その婦人に持たれた腕に懸って、力を添えて放そうとする。肩は聳え、顔には薄く血を染めて、滝太郎は眉を顰めた。 「可いッてんだい。」 「お待ち!」とばかりで婦人も商売を忘れて、別に心あって存するごとく、瞳を据えて面を合せた。  ちょうどその時、四五十歩を隔てた、夜店の賑かな中を、背後の方で、一声高く、馬の嘶くのが、往来の跫音を圧して近々と響いた。  と思うと、滝太郎は、うむ、といって、振向いたが、吃驚したように、 「義作だ、おう、ここに居るぜ。」 「ちょいと、」 「ええ、」 「あれ、」といって振返された手を押えた。指の間には紅一滴、見る見る長くなって、手首へ掛けて糸を引いて血が流れた。 「姉さん、」 「どうなすった。」  押魂消た立合は、もう他人ではなくなって、驚いて声を懸ける。滝太郎はもう影も見えない。  婦人は顔の色も変えないで、切で、血を押えながら、姉さん被のまま真仰向けに榎を仰いだ。晴れた空も梢のあたりは尋常ならず、木精の気勢暗々として中空を籠めて、星の色も物凄い。 「おや、おや、おかしいねえ、変だよ、奇体なことがあるものだよ。露か知らん、上の枝から雫が落ちたそうで、指が冷りとしたと思ったら、まあ。」 「へい、引掻いたんじゃありませんか。」 「今のが切ったんじゃないんですかい。」 「指環で切れるものかね、御常談を、引掻いたって、血が流れるものですか。」 「さればさ。」 「厭だ、私は、」と薄気味の悪そうな、悄げた様子で、婦人は人の目に立つばかり身顫をして黙った。榎の下寂として声なし、いずれも顔を見合せたのである。        十三 「何だね、これは。」 「叱、」と押えながら、島野紳士のセル地の洋服の肱を取って、──奥を明け広げた夏座敷の灯が漏れて、軒端には何の虫か一個唸を立ててはたと打着かってはまた羽音を響かす、蚊が居ないという裏町、俗にお園小路と称える、遊廓桜木町の居まわりに在り、夜更けて門涼の団扇が招くと、黒板塀の陰から頬被のぬっと出ようという凄い寸法の処柄、宵の口はかえって寂寞している。──一軒の格子戸を背後へ退った。  これは雀部多磨太といって、警部長なにがし氏の令息で、島野とは心合の朋友である。  箱を差したように両人気はしっくり合ってるけれども、その為人は大いに違って、島野は、すべて、コスメチック、香水、巻莨、洋杖、護謨靴という才子肌。多磨太は白薩摩のやや汚れたるを裾短に着て、紺染の兵児帯を前下りの堅結、両方腕捲をした上に、裳を撮上げた豪傑造り。五分刈にして芋のようにころころと肥えた様子は、西郷の銅像に肖て、そして形の低い、年紀は二十三。まだ尋常中学を卒業しないが、試験なんぞをあえて意とするような吝なのではない。  島野を引張り着けて、自分もその意気な格子戸を後に五六歩。 「見たか。」  島野は瘠ぎすで体も細く、釣棹という姿で洋杖を振った。 「見た、何さ、ありゃ。門札の傍へ、白で丸い輪を書いたのは。」 「井戸でない。」 「へえ。」 「飲用水の印ではない、何じゃ、あれじゃ。その、色事の看板目印というやつじゃ。まだ方々にあるわい。試みに四五軒見しょう、一所に来う、歩きながら話そうで。まずの、」  才子と豪傑は、鼠のセル地と白薩摩で小路の黄昏の色に交り、くっ着いて、並んで歩く。  ここに注意すべきは多磨太が穿物である。いかに辺幅を修せずといって、いやしくも警部長の令息で、知事の君の縁者、勇美子には再従兄に当る、紳士島野氏の道伴で、護謨靴と歩を揃えながら、何たる事! 藁草履の擦切れたので、埃をはたはた。  歩きながら袂を探って、手帳と、袂草と一所くたに掴み出した。 「これ見い、」  紳士は軽く目を注いで、 「白墨かい。」 「はははは、白墨じゃが、何と、」 「それで、」と言懸けて、衣兜に堆く、挟んでおく、手巾の白いので口の辺をちょいと拭いた。 「うむ、おりゃ、近頃博愛主義になってな、同好の士には皆見せてやる事にした。あえてこの慰を独擅にせんのじゃで、到る処俺が例の観察をして突留めた奴の家には、必ず、門札の下へ、これで、ちょいとな。」 「ふん、はてね。」 「貴様今見たか、あれじゃ、あの形じゃ。目立たぬように丸い輪を付けておくことにしたんじゃ。」 「御趣向だね。」 「どうだ、今の家には限らずな、どこでも可いぞ、あの印の付いた家を随時窺って見い。殊に夜な、きっと男と女とで、何かしら、演劇にするようなことを遣っとるわ。」        十四  多磨太は言懸けて北叟笑み、 「貴様も覚えておいてちと慰みに覗いて見い。犬川でぶらぶら散歩して歩いても何の興味もないで、私があの印を付けておく内は不残趣味があるわい。姦通かな、親々の目を盗んで密会するかな、さもなけりゃ生命がけで惚れたとか、惚れられたとかいう奴等、そして男の方は私等構わんが、女どもはいずれも国色じゃで、先生難有いじゃろ。」  ぎろりとした眼で島野を見ると、紳士は苦笑して、 「変ったお慰だね、よくそして見付けますなあ。」 「ははあ、なんぞ必ずしも多く労するを用いん。国民皆堕落、優柔淫奔になっとるから、夜分なあ、暗い中へ足を突込んで見い。あっちからも、こっちからも、ばさばさと遁出すわ、二疋ずつの、まるでもって螇蚸蟷螂が草の中から飛ぶようじゃ。其奴の、目星い処を選取って、縦横に跡を跟けるわい。ここぞという極めが着いた処で、印を付けておくんじゃ。私も初手の内は二軒三軒と心覚えにしておいたが、蛇の道は蛇じゃ、段々その術に長ずるに従うて、蔓を手繰るように、そら、ぞろぞろ見付かるで。ああ遣って印をして、それを目的にまた、同好の士な、手下どもを遣わす、巡査、探偵などという奴が、その喜ぶこと一通でないぞ。中には夜行をするのに、あの印ばかり狙いおる奴がある。ぐッすり寐込んででもいようもんなら、盗賊が遁込んだようじゃから、なぞというて、叩き起して周章てさせる。」 「酷いことを!」  島野は今更のように多磨太の豪傑面を瞻った。 「何に其等はほんの前芸じゃわい。一体何じゃぞ、手下どもにも言って聞かせるが、野郎と女と両方夢中になっとる時は常識を欠いて社会の事を顧みぬじゃから、脱落があってな、知らず知らず罪を犯しおるじゃ。私はな、ただ秘密ということばかりでも一種立派な罪悪と断ずるで、勿論市役所へ届けた夫婦には関係せぬ。人の目を忍ぶほどの中の奴なら、何か後暗いことをしおるに相違ないでの。仔細に観察すると、こいつ禁錮するほどのことはのうても、説諭位はして差支えないことを遣っとるから、掴み出して警察で発かすわい。」 「大変だね。」 「発くとの、それ親に知れるか、亭主に知れるか、近所へ聞える。何でも花火を焚くようなもので、その途端に光輝天に燦爛するじゃ。すでにこないだも東の紙屋の若い奴が、桜木町である女と出来合って、意気事を極めるちゅうから、癪に障ってな、いろいろ験べたが何事もないで、為方がない、内に居る母親が寺参をするのに木綿を着せて、汝が傾城買をするのに絹を纏うのは何たることじゃ、という廉をもって、説諭をくらわした。」 「それで何かね、警察へ呼出しかね。」 「ははあ、幾ら俺が手下を廻すとって、まさかそれほどの事では交番へも引張り出せないで、一名制服を着けて、洋刀を佩びた奴を従えて店前へ喚き込んだ。」 「おやおや、」 「何、喧嘩をするようにして言って聞かせても、母親は昔気質で、有るものを着んのじゃッて。そんなことを構うもんか、こっちはそのせいで藁草履を穿いて歩いてる位じゃもの。」  さなり、多磨太君の藁草履は、人の跡を跟けるのに跫音を立てぬ用意である。        十五 「それからの、山田下の植木屋の娘がある、美人じゃ。貴様知ってるだろう、あれがな、次助というて、近所の鋳物師の忰と出来た。先月の末、闇の晩でな、例のごとく密行したが、かねて目印の付いてる部じゃで、密と裏口へ廻ると、木戸が開いていたから、庭へ入った。」 「構わず?」 「なに咎めりゃ私が名乗って聞かせる、雀部といえば一縮じゃ。貴様もジャムを連れて堂々濶歩するではないか、親の光は七光じゃよ。こうやって二人並んで歩けばみんな途を除けるわい。」  島野は微笑して黙って頷いた。 「はははは、愉快じゃな。勿論、淫魔を駆って風紀を振粛し、且つ国民の遊惰を喝破する事業じゃから、父爺も黙諾の形じゃで、手下は自在に動くよ。既にその時もあれじゃ、植木屋の庭へこの藁草履を入れて掻廻わすと、果せるかな、螇蚸、蟷螂。」 「まさか、」 「うむ、植木屋の娘と其奴と、貴様、植込の暗い中に何か知らん歎いておるわい。地面の上で密会なんざ、立山と神通川とあって存する富山の体面を汚すじゃから、引摺出した。」 「南無三宝、はははは。」 「挙動が奇怪じゃ、胡乱な奴等、来い! と言うてな、角の交番へ引張って行って、吐せと、二ツ三ツ横面をくらわしてから、親どもを呼出して引渡した。ははは、元来東洋の形勢日に非なるの時に当って、植込の下で密会するなんざ、不埒至極じゃからな。」 「罪なこッたね、悪い悪戯だ、」と言懸けて島野は前後を見て、杖を突いた、辻の角で歩を停めたので。 「どこへ行こうかね。」  榎の梢は人の家の物干の上に、ここからも仰いで見らるる。 「総曲輪へ出て素見そうか。まあ来いあそこの小間物屋の女房にも、ちょいと印が付いておるじゃ。」 「行き届いたもんですな。」 「まだまだこれからじゃわい。」 「さよう、君のは夜が更けてからがおかしいだろうが、私は、その晩くなると家が妙でないから失敬しよう。」 「ははあ、どこぞ行くんかい。」 「ちょいと。」 「そんなら行け。だが島野、」と言いながら紳士の顔を、皮の下まで見透かすごとくじろりと見遣って、多磨太はにやり。  擽られるのを耐えるごとく、極めて真面目で、 「何かね、」 「注意せい、貴様の体にも印が着いたぞ。」 「え!」と吃驚して慌てて見ると、上衣の裾に白墨で丸いもの。 「どうじゃ。」 「失敬な、」とばかり苦い顔をして、また手巾を引出した。島野はそそくさと払い落して、 「止したまえ。」 「ははは、構わん、遣れ。あの花売は未曾有の尤物じゃ、また貴様が不可なければ私が占めよう。」 「大分、御意見とは違いますように存じますが。」 「英雄色を好むさ。」と傲然として言った。二人が気の合うのはすなわちここで、藁草履と猟犬と用いる手段は異なるけれども、その目的は等いのである。  島野は気遣わしそうに見えて、 「まさか、君、花売が処へは、用いまいね、何を、その白墨を。」 「可いわい、一ツぐらい貴様に譲ろう。油断をするな、那奴また白墨一抹に価するんじゃから。」        十六 「貴方御存じでございますか。」 「ああ、今のその話の花か。知ってはいない、見たことはないけれどもあるそうだ。いや、有るに違いはないんだよ。」  萱の軒端に鳥の声、という侘しいのであるが、お雪が、朝、晩、花売に市へ行く、出際と、帰ってからと、二度ずつ襷懸けで拭込むので、朽目に埃も溜らず、冷々と濡色を見せて涼しげな縁に端居して、柱に背を持たしたのは若山拓、煩のある双の目を塞いだまま。  生は東京で、氏素性は明かでない。父も母も誰も知らず、諸国漫遊の途次、一昨年の秋、この富山に来て、旅籠町の青柳という旅店に一泊した。その夜賊のためにのこらず金子を奪われて、明る日の宿料もない始末。七日十日逗留して故郷へ手紙を出した処で、仔細あって送金の見込はないので、進退谷まったのを、宜しゅうがすというような気前の好い商人はここにはない。ただし地方裁判所の検事に朝野なにがしというのが、その為人に見る所があって、世話をして、足を留めさせたということを、かつて教を受けた学生は皆知っている。若山は、昔なら浪人の手習師匠、由緒ある士がしばし世を忍ぶ生計によくある私塾を開いた。温厚篤実、今の世には珍らしい人物で、且つ博学で、恐らく大学に業を修したのであろうと、中学校の生意気なのが渡りものと侮って冷かしに行って舌を巻いたことさえあるから、教子も多く、皆敬い、懐いていたが、日も経たず目を煩って久しく癒えないので、英書を閲し、数字を書くことが出来なくなったので、弟子は皆断った。直ちに収入がなくなったのである。  先生葎ではございますが、庭も少々、裏が山続で風も佳、市にも隔って気楽でもございますから御保養かたがたと、たって勧めてくれたのが、同じ教子の内に頭角を抜いて、代稽古も勤まった力松という、すなわちお雪の兄で、傍ら家計を支えながら学問をしていたが、適齢に合格して金沢の兵営に入ったのは去年の十月。  後はこの侘住居に、拓と阿雪との二人のみ。拓は見るがごとく目を煩って、何をする便もないので、うら若い身で病人を達引いて、兄の留守を支えている。お雪は相馬氏の孤児で、父はかつて地方裁判所に、明決、快断の誉ある名士であったが、かつて死刑を宣告した罪囚の女を、心着かず入れて妾として、それがために暗殺された。この住居は父が静を養うために古屋を購った別業の荒れたのである。近所に、癩病医者だと人はいうが、漢方医のある、その隣家の荒物屋で駄菓子、油、蚊遣香までも商っている婆さんが来て、瓦鉢の欠けた中へ、杉の枯葉を突込んで燻しながら、庭先に屈んでいるが、これはまたお雪というと、孫も子も一所にして、乳で育てたもののように可愛くてならないので。  一体、ここは旧山の裾の温泉宿の一廓であった、今も湯の谷という名が残っている。元治年間立山に山崩があって洪水の時からはたと湧かなくなった。温泉の口は、お雪が花を貯えておく庭の奥の藪畳の蔭にある洞穴であることまで、忘れぬ夢のように覚えている、谷の主とも謂いつべき居てつきの媼、いつもその昔の繁華を語って落涙する。今はただ蚊が名物で、湯の谷といえば、市の者は蚊だと思う。木屑などを焼いた位で追着かぬと、売物の蚊遣香は買わさないで、杉葉を掻いてくれる深切さ。縁側に両人並んだのを見て嬉しそうに、 「へい、旦那様知ってるだね。」        十七 「百合には種類が沢山あるそうだよ。」  ささめ、為朝、博多、鬼百合、姫百合は歌俳諧にも詠んで、誰も知ったる花。ほしなし、すけ、てんもく、たけしま、きひめ、という珍らしい名なるがあり。染色は、紅、黄、透、絞、白百合は潔く、袂、鹿の子は愛々しい。薩摩、琉球、朝鮮、吉野、花の名の八重百合というのもある。と若山は数えて、また紅絹の切で美しく目を圧え、媼を見、お雪を見て、楽しげに、且つ語るよう、 「話の様子では西洋で学問をなすったそうだし、植物のことにそういう趣味を持ってるなら、私よりは、お前のお花主の、知事の嬢さんが、よく知ってお在だろうが、黒百合というのもやっぱりその百合の中の一ツで、花が黒いというけれども、私が聞いたのでは、真黒な花というものはないそうさ。」 「はい、」しばらくして、「はい、」媼は返事ばかりでは気が済まぬか、団扇持つ手と顔とを動かして、笑傾けては打頷く。 「それでは、あの本当はないのでございますか。」とお雪は拓の座を避けて、斜に縁側に掛けている。 「いえ、無いというのじゃあないよ。黒い色のはあるまいと思うけれども、その黒百合というのは帯紫暗緑色で、そうさ、ごくごく濃い紫に緑が交った、まあ黒いといっても可いのだろう。花は夏咲く、丈一尺ばかり、梢の処へ莟を持つのは他の百合も違いはない。花弁は六つだ、蕊も六つあって、黄色い粉の袋が附着いてる。私が聞いたのはそれだけなんだ。西洋の書物には無いそうで、日本にも珍らしかろう。書いたものには、ただ北国の高山で、人跡の到らない処に在るというんだから、昔はまあ、仙人か神様ばかり眺めるものだと思った位だろうよ。東京理科大学の標本室には、加賀の白山で取ったのと、信州の駒ヶ嶽と御嶽と、もう一色、北海道の札幌で見出したのと、四通り黒百合があるそうだが、私はまだ見たことはなかった。  お雪さん、そしてその花を欲しいというお嬢さんは、どういう考えで居るんだね。」 「はい、あのこないだからいつでもお頼みなさいますんでございますが、そういう風に御存じのではないのですよ。やっぱり私達が、名を聞いております通、芝居でいたします早百合姫のことで、富山には黒百合があるッていうから、欲しい、どんな珍らしい花かも知れぬ。そして仏蘭西にいらしった時、大層御懇意に遊ばした、その方もああいうことに凝っていらっしゃるお友達に、由緒を書いて贈りたいといってお騒ぎなんでございます。お請合はしませんけれども、黒百合のある処は解っておりますからとそう言って参りましたが、太閤記に書いてあります草双紙のお話のような、それより外当地でもまだ誰も見たものはないのでございますから、どうかしら、怪しいと存じました。それでは、あの、貴方、処に因って、在る処には、きっと有るのでございますね。」  とお雪は膝に手を置いて、ものを思うごとく、じっと気を沈めて、念を入れて尋ねたのである。その時、白地の浴衣を着た、髪もやや乱れていたお雪の窶れた姿は、蚊遣の中に悄然として見えたが、面には一種不可言の勇気と喜の色が微に動いた。 「おお、燻る燻る、これは耐りませぬ、お目の悪いに。」  一団の烟が急に渦いて出るのを、掴んで投げんと欲するごとく、婆さんは手を掉った。風があたって、𤏋とする下火の影に、その髪は白く、顔は赤い。黄昏の色は一面に裏山を籠めて庭に懸れり。  若山は半面に団扇を翳して、 「当地で黒百合のあるのはどこだとか言ったっけな。」        十八 「ねえ、お婆さん。」  お雪は、黒百合が富山にある、場所の答を、婆さんに譲って、其方を見た。  湯の谷の主は習わずして自から這般の問に応ずべき、経験と知識とを有しているので、 「はい、石滝の奥には咲くそうでござります。」  若山は静かに目を眠ったまま、 「どんな処ですか。」 「蛍の名所なのね。」とお雪は引取る。 「ええ、その入口迄は女子供も参りまする、夏の遊山場でな、お前様。お茶屋も懸っておりまするで、素麺、白玉、心太など冷物もござりますが、一坂越えると、滝がござります。そこまでも夜分参るものは少い位で、その奥山と申しますと、今身を投げようとするものでも恐がって入りませぬ。その中でなければ無いと申しますもの、とても見られますものではござりますまい。」婆さんは言って、蚊遣を煽ぐ団扇の手を留めて、その柄を踞った膝の上にする。 「それでは滝があって蛍の名所、石滝という処は湿地だと見えるね。」 「それはもう昼も夜も真暗でござります。いかいこと樹が茂って、満月の時も光が射すのじゃござりませぬ。  一体いつでも小雨が降っておりますような、この上もない陰気な所で、お城の真北に当りますそうな。ちょうどこの湯の谷とは両方の端で、こっちは南、田〓(「なべぶた/(田+久)」)も広々としていつも明うござりますほど、石滝は陰気じゃで、そのせいでもござりましょうか、評判の魔所で、お前様、ついしか入ったものの無事に帰りました例はござりませぬよ。」 「その奥に黒百合があるんですッて、」お雪は婆さんの言を取って、確めてこれを男に告げた。  若山はややあって、 「そりゃきっとあるな、その色といい、形といい、それからその昔からの言い伝で、何か黒百合といえば因縁事の絡わった、美しい、黒い、艶を持った、紫色の、物凄い、堅い花のように思われるのに、石滝という処は、今の談では、場処も、様子もその花があって差支えないと考える。もっとも有ることはあるのだから、大方黒百合が咲いてるだろう。夏月花ありという時節もちょうど今なんだけれども、何かね、本当にあるものなら、お前さん、その嬢さんに頼まれたから、取りにでも行こうというのか。」と落着いて尋ねて、渠は気遣わしく傾いた。 「…………」お雪はふとその答に支えたが、婆さんはかえって猶予わない。 「滅相な、お前様、この湯の谷の神様が使わっしゃる、白い烏が守ればといって、若い女が、どうして滝まで行かれますものか。取りにでも行く気かなぞと、問わっしゃるさえ気が知れませぬてや。ぷッ、」と、おどけたような顔をして婆は消えかかった蚊遣を吹いた。杉葉の瓦鉢の底に赤く残って、烟も立たず燃え尽しぬ。 「お婆さん、御深切に難有う。」  とうっかり物思に沈んでいたお雪は、心着いて礼をいう。 「あいあい、何の。もう、お大事になされませ、今にまたあの犬を連れた可厭しいお客がござって迷惑なら、私家へ来て、屈んで居ッさい。どれ、店を開けておいて、いかいこと油を売ったぞ、いや、どッこいな。」と立つ。        十九  帰りたくなると委細は構わず、庭口から、とぼとぼと戸外へ出て行く。荒物屋の婆はこの時分から忙しい商売がある、隣の医者が家ばかり昔の温泉宿の名残を留めて、徒らに大構の癖に、昼も夜も寂莫として物音も聞えず、その細君が図抜けて美しいといって、滅多に外へ出たこともないが、向うも、隣も、筋向いも、いずれ浅間で、豆洋燈の灯が一ツあれば、襖も、壁も、飯櫃の底まで、戸外から一目に見透かされる。花売の娘も同じこと、いずれも夜が明けると富山の町へ稼ぎに出る、下駄の歯入、氷売、団扇売、土方、日傭取などが、一廓を作した貧乏町。思い思い、町々八方へ散ばってるのが、日暮になれば総曲輪から一筋道を、順繰に帰って来るので、それから一時騒がしい。水を汲む、胡瓜を刻む。俎板とんとん庖丁チョキチョキ、出放題な、生欠伸をして大歎息を発する。翌日の天気の噂をする、お題目を唱える、小児を叱る、わッという。戸外では幼い声で、──蛍来い、山見て来い、行燈の光をちょいと見て来い! 「これこれ暗くなった。天狗様が攫わっしゃるに寝っしゃい。」と帰途がけに門口で小児を威しながら、婆さんは留守にした己の店の、草鞋の下を潜って入った。  草履を土間に脱いで、一渡店の売物に目を配ると、真中に釣した古いブリキの笠の洋燈は暗いが、駄菓子にも飴にも、鼠は着かなかった、がたりという音もなし、納戸の暗がりは細流のような蚊の声で、耳の底に響くばかりなり。 「可恐しい唸じゃな。」と呟いて、一間口の隔の障子の中へ、腰を曲げて天窓から入ると、 「おう、帰ったのか。」 「おや。」 「酷い蚊だなあ。」 「まあ、お前様。まあ、こんな中に先刻にからござらせえたか。」 「今しがた。」 「暗いから、はや、なお耐りましねえ。いかなこッても、勝手が分らねえけりゃ、店の洋燈でも引外してござれば可いに。」  深切を叱言のごとくぶつぶつ言って、納戸の隅の方をかさかさごそりごそりと遣る。 「可いから、可いから。」といって、しばらくすると膝を立直した気勢がした。 「近所の静まるまで、もうちっと灯を点けないでおけよ。」 「へい。」 「覗くと煩いや。」 「それでは蚊帳を釣って進ぜましょ。」 「何、おいら、直ぐ出掛けようかとも思ってるんだ。」 「可いようにさっしゃりませ。」 「ああ、それから待ちねえこうだと、今に一人此家へ尋ねて来るものがあるんだから、頼むぜ。」 「お友達かね。お前様は物事じゃで可いけれど、お前様のような方のお附合なさる人は、から、入ってしばらくでも居られます所じゃあござりませぬが。」  言いも終らず、快活に、 「気扱いがいる奴じゃねえ、汚え婦人よ。」 「おや!」と頓興にいった、婆の声の下にくすくすと笑うのが聞える。 「婆ちゃん、おくんな。」と店先で小児の声、繰返して、 「おくんな。」 「おい。」 「静に………」といって、暗中の客は寝転んだ様子である。        二十  婆が帰った後、縁側に身を開いて、一人は柱に凭って仰向き、一人は膝に手を置いて俯向いて、涼しい暗い処に、白地の浴衣で居た、お雪は、突然驚いたようにいった。 「あれ星が飛びましたよ。」  湯の谷もここは山の方へ尽の家で、奥庭が深いから、傍の騒しいのにもかかわらず、森とした藪蔭に、細い、青い光物が見えたので。 「ああ、これから先はよくあるが、淋しいもんだよ。」  と力なげに団扇持った手を下げて、 「今も婆さんが深切に言ってくれたが、お雪さん、人が悪いという処へ推して行くのは不可ない。何も、妖物が出るの、魔が掴むのということは、目の前にあるとも思わないが、昔からまるで手も足も入れない処じゃあ、人の知らない毒虫が居て刺そうも知れず、地の工合で蹈むと崩れるようなことがないとも限らないから。」 「はい、」 「行く気じゃあるまいね。」とやや力を籠めて確めた。 「はい、」と言懸けて、お雪は心に済まない様子で後を言い残して黙ったが、慌しく、 「蛍です。」  衝と立った庭の空を、つらつらと青い糸を引いて、二筋に見えて、一つ飛んだ。 「まあ、珍らしい、石滝から参りました。」  この辺に蛍は珍らしいものであった、一つ一つ市中へ出て来るのは皆石滝から迷うて来るのだといい習わす。人に狩り取られて、親がないか、夫がないか、孤、孀婦、あわれなのが、そことも分かず彷徨って来たのであろう。人可懐げにも見えて近々と寄って来る。お雪は細い音に立てて唇を吸って招きながら、つかつかと出て袂を振った、横ぎる光の蛍の火に、細い姿は園生にちらちら、髪も見えた、仄に雪なす顔を向けて、 「団扇を下さいなちょいと、あれ、」と打つ。蛍は逸れて、若山が上の廂に生えた一八の中に軽く留まった。 「さあ、団扇、それ、ははは……大きな女の嬰児さんだな。」と立ちも上らず坐ったまま、縁側から柄ばかり庭の中へ差向けたが、交際にも蛍かといって発奮みはせず、動悸のするまで立廻って、手を辷らした、蛍は、かえってその頭の上を飛ぶものを、振仰いで見ようともせぬ、男の冷かさ。見当違いに団扇を出して、大きな嬰児だといって笑ったが、声も何となくもの淋しい。お雪は草の中にすッくと立って、じっと男の方を視めたが、爪先を軽く、するすると縁側に引返して、ものありげに──こうつんとした事は今までにはなかったが──黙って柄の方から団扇を受取り、手を返して、爪立って、廂を払うと、ふッと消えた、光は飜した団扇の絵の、滝の上を這うてその流も動く風情。  お雪は瞻って、吻と息を吐いて、また腰を懸けて、黙って見ていた、目を上げて、そと男の顔を透かしながら、腰を捻じて、斜に身を寄せて、件の団扇を、触らぬように、男の胸の辺りへ出して、 「可愛いでしょう、」といった声も尋常ならず。 「何か、石滝の蛍か、そうか。」といって若山は何ともなしに微笑んだが、顔は園生の方を向いて、あらぬ処を見た。涼しい目はぱッちりと開いていたので、蛍は動いた。団扇は揺れて、お雪の細い手は震えたのである。        二十一 「歩きますわ、御覧なさいな。」と沈んだ声でいいながら、お雪は打動かす団扇の蔭から、儚ない一点の青い灯で、しばしば男の顔を透かして差覗く。  男はこの時もう黙ってしまい、顔を背けて避けようとするのを、また、 「御覧なさいな、」と、人知れずお雪は涙含んで、見る見る、男の顔の色は動いた。はッと思うと、 「止せ!」  若山は掌をもてはたと払ったが、端なく団扇を打って、柄は力のない手を抜けて、庭に落ちた。 「あれ、」といってお雪は顔を見ながら、と胸を衝いて背後に退る。  渠は膝を立直して、 「見えやあしない。」 「ええ!」 「僕の目が潰れたんだ。」  言いさま整然として坐り直る、怒気満面に溢れて男性の意気熾に、また仰ぎ見ることが出来なかったのであろう、お雪は袖で顔を蔽うて俯伏になった。 「どうしたならどうしたと聞くさ、容体はどうです目が見えないか、と打出して言えば可い。何だって、人を試みるようなことをして困らせるんだい、見えない目前へ蛍なんか突出して、綺麗だ、動く、見ろ、とは何だ。残酷だな、無慈悲じゃあないか、星が飛んだの、蛍が歩くのと、まるで嬲るようなもんじゃあないか。女の癖に、第一失敬ださ。」  と、声を鋭く判然と言い放つ。言葉の端には自から、かかる田舎にこうして、女の手に養われていらるべき身分ではないことが、響いて聞える。 「そんな心懸じゃあ盲目の夫の前で、情郎と巫山戯かねはしないだろう。厭になったらさっぱりと突出すが可いじゃあないか、あわれな情ないものを捕えて、苛めるなあ残酷だ。また僕も苛められるようなものになったんだ、全くのこッた、僕はこんな所にお前様ほどの女が居ようとは思わなんだ。気の毒なほど深切にされる上に、打明けていえば迷わされて、疾く身を立てよう、行末を考えようと思いながら、右を見ても左を見ても、薬屋の金持か、せいぜいが知事か書記官の居る所で、しかも荒物屋の婆さんや近所の日傭取にばかり口を利いて暮すもんだからいつの間にか奮発気がなくなって、引込思案になる所へ、目の煩を持込んで、我ながら意気地はない。口へ出すのも見ともないや。お前さんに優しくされて朝晩にゃ顔を見て、一所に居るのが嬉しくッて、恥も義理も忘れたそうだ。そっちじゃあ親はなし、兄さんは兵に取られているしよ、こういっちゃあ可笑しいけれども、ただ僕を頼にしている。僕はまた実際杖とも柱とも頼まれてやる気だもんだから、今目が見えなくなったといっちゃあ、どんなに力を落すだろう。お前さんばかりじゃない、人のことより僕だって大変だ。死んでも取返しのつかないほど口惜しいから、心にだけも盲目になったと思うまい、目が見えないたあいうまいと、手探の真似もしないで、苦しい、切ない思をするのに、何が面白くッてそんな真似をするんだな。されるのはこっちが悪い、意気地なしのしみったれじゃアあるけれども。」  お雪の泣声が耳に入ると、若山は、口に蓋をされたようになって黙った。        二十二 「お雪さん。」  ややあって男は改めて言って、この時はもう、声も常の優しい落着いた調子に復し、 「お雪さん、泣いてるんですか。悪かった、悪かった。真を言えばお前さんに心配を懸けるのが気の毒で、無暗と隠していたのを、つい見透かされたもんだから、罪なことをすると思って、一刻に訳も分らないで、悪いことをいった。知ってる、僕は自分極めかも知らないが、お前さんの心は知ってる意だ。情無い、もう不具根性になったのか、僻も出て、我儘か知らぬが、くさくさするので飛んだことをした、悪く思わないでおくれ。」  その平生の行は、蓋し無言にして男の心を解くべきものがあったのである。お雪は声を呑んで袂に食着いていたのであるが、優しくされて気も弛んで、わっと嗚咽して崩折れたのを、慰められ、賺されてか、節も砕けるほど身に染みて、夢中に躙り寄る男の傍。思わず縋る手を取られて、団扇は庭に落ちたまま、お雪は、潤んだ髪の濡れた、恍惚した顔を上げた。 「貴方、」 「可いよ。」 「あの、こう申しますと、生意気だとお思いなさいましょうが、」 「何、」 「お気に障りましたことは堪忍して下さいまし、お隠しなさいますお心を察しますから、つい口へ出してお尋ね申すことも出来ませんし、それに、あの、こないだ総曲輪でお転びなすった時、どうも御様子が解りません、お湯にお入りなさいましたとは受取り難うございますもの、往来ですから黙って帰りました。が、それから気を着けて、お知合のお医者様へいらっしゃるというのは嘘で、石滝のこちらのお不動様の巌窟の清水へ、お頭を冷しにおいでなさいますのも、存じております。不自由な中でございますから、お怨み申しました処で、唯今はお薬を思うように差上げますことも出来ませんが、あの……」  と言懸けて身を正しく、お雪はあたかも誓うがごとくに、 「きっとあの私が生命に掛けましても、お目の治るようにして上げますよ。」と仇気なく、しかも頼母しくいったが、神の宣託でもあるように、若山の耳には響いたのである。 「気張っておくれ、手を合わして拝むといっても構わんな。実に、何だ、僕は望がある、惜い体だ。」といって深く溜息を吐いたのが、ひしひしと胸に応えた。お雪は疑わず、勇ましげに、 「ええ、もう治りますとも。そして目が開いて立派な方におなりなさいましても、貴方、」 「何だ。」 「見棄てちゃあ、私は厭。」 「こんなに世話になった上、まだ心配を懸けさせる、僕のようなものを、何だって、また、そういうことを言うんだろう。」 「ふ、」と泣くでもなし、笑うでもなし、極悪げに、面を背けて、目が見えないのも忘れたらしい。 「お雪さん。」 「はい。」 「どうしてこんなになったろう、僕は自分に解らないよ。」 「私にも分りません。」 「なぜだろう、」  莞爾して、 「なぜでしょうねえ。」  表の戸をがたりと開けて、横柄に、澄して、 「おい、」        二十三  声を聞くとお雪は身を窘めて小さくなった。 「居るか、おい、暗いじゃないか。」 「唯今、」 「真暗だな。」  例の洋杖をこつこつ突いて、土間に突立ったのは島野紳士。今めかしくいうまでもない、富山の市で花を売る評判の娘に首っ丈であったのが、勇美姫おん目を懸けさせたまうので、毎日のように館に来る、近々と顔を見る、口も利くというので、思が可恐しくなると、この男、自分では業平なんだから耐らない。  花屋の庭は美しかろう、散歩の時は寄ってみるよ、情郎は居ないか、その節邪魔にすると棄置かんよ、などと大上段に斬込んで、臆面もなく遊びに来て、最初は娘の謂うごとく、若山を兄だと思っていた。  それ芸妓の兄さん、後家の後見、和尚の姪にて候ものは、油断がならぬと知っていたが、花売の娘だから、本当の兄もあるだろうと、この紳士大ぬかり。段々様子が解ってみると、瞋恚が燃ゆるようなことになったので、不埒でも働かれたかのごとく憤り、この二三日は来るごとに、皮肉を言ったり、当擦ったり、つんと拗ねてみたりしていたが、今夜の暗いのはまた格別、大変、吃驚、畜生、殺生なことであった。  かつてまた、白墨狂士多磨太君の説もあるのだから、肉が動くばかりしばしも耐らず、洋杖を握占めて、島野は、 「暗いじゃあないか、おい、おい。」とただ忙る。 「はい、」と潤んだ含声の優しいのが聞えると、𤏋と摺附木を摺る。小さな松火は真暗な中に、火鉢の前に、壁の隅に、手拭の懸った下に、中腰で洋燈の火屋を持ったお雪の姿を鮮麗に照し出した。その名残に奥の部屋の古びた油団が冷々と見えて、突抜けの縁の柱には、男の薄暗い形が顕われる。  島野は睨み見て、洋杖と共に真直に動かず突立つ。お雪は小洋燈に灯を移して、摺附木を火鉢の中へ棄てた手で鬢の後毛を掻上げざま、向直ると、はや上框、そのまま忙しく出迎えた。  ちょいと手を支いて、 「まあ、どうも。」 「…………」島野は目の色も尋常ならず、尖った鼻を横に向けて、ふんと呼吸をしたばかり。 「失礼、さあ、お上りなさいまし、取散らかしまして、汚穢うございますが、」と極り悪げに四辺を眗すのを、後の男に心を取られてするように悪推する、島野はますます憤って、口も利かず。 (無言なり。) 「お晩うございましたのね。」と何やらつかぬことを言って、為方なしにお雪は微笑む。 「お邪魔をしましたな。」という声ぎっすりとして、車の輪の軋むがごとく、島野は決する処あって洋杖を持換えた。 「お前ねえ、」  邪気自から膚を襲うて、ただは済みそうにもない、物ありげに思い取られるので、お雪は薄気味悪く、易からぬ色をして、 「はい。」 「あのな、」と重々しく言い懸けて、じろじろと顔を見る。 「どうぞ、まあ、」 「入っちゃあおられん。」 「どちらへか。」 「なあに。」 「お急ぎでございますか。」と畳に着く手も定まらない。 「ちょっと出てもらおう、」 「え、え。」 「用があるんだ。」        二十四 「後を頼むとって、お前様、どこさ行かっしゃる。」  ちょいとどうぞと店前から声を懸けられたので、荒物屋の婆は急いで蚊帳を捲って、店へ出て、一枚着物を着換えたお雪を見た。繻子の帯もきりりとして、胸をしっかと下〆に女扇子を差し、余所行の装、顔も丸顔で派手だけれども、気が済まぬか悄然しているのであった。 「お婆さん、私は直帰るんですが、」 「あい、」 「どうぞねえ、」と何やら心細そうで気に懸ると、老人の目も敏く、 「内方にゃ御病気なり、夜分、また、どうしてじゃ。総曲輪へ芝居にでも誘われさっせえたか。はての、」  と目を遣ると、片蔭に洋服の長い姿、貧乏町の埃が懸るといったように、四辺を払って島野が彳む。南無三悪い奴と婆さんは察したから、 「何にせい、夜分出歩行くのは、若い人に良くないてや、留守の気を着けるのが面倒なではないけれども、大概なら止にさっしゃるが可かろうに。」  と目で知らせながら、さあらず言う。 「いえ、お召なんでございます。四十物町のお邸から、用があるッて、そう有仰るのでございますから。」 「四十物町のお花主というと、何、知事様のお邸だッけや。」 「お嬢様が急に、御用がおあんなさいますッて。」 「うんや、善くないてや。お前様が行く気でも、私が留めます。お嬢様の御用とって、お前、医者じゃあなし、駕籠屋じゃあなし、差迫った夜の用はありそうもない。大概の事は夜が明けてからする方が仕損じが無いものじゃ。若いものは、なおさら、女じゃでの、はて、月夜に歩いてさえ、美しい女の子は色が黒くなるという。」 「はい、ですけれども。」 「殊に闇じゃ、狼が後を跟けるでの、たって止めにさっせえよ。」と委細は飲込んだ上、そこらへ見当を付けたので、婆さんは聞えよがし。  島野は耐えかねてずッと出て、老人には目も遣らず、 「さあ、」 「…………」黙って俯向く。 「おい、」とちと大きくいって、洋杖でこと、こと、こと。  お雪は覚悟をした顔を上げて、 「それじゃあお婆さん。」 「待たっせえ、いや、もし、お前様、もし、旦那様。」  顧みもせず島野は、己ほどのものが、へん、愚民にお言葉を遣わさりょうや!  婆さんも躍気になって、 「旦那様、もし。」 「おれか。」 「へい、婆がお願でござります、お雪が用は明日のことになされ下さりませ。内には目の不自由な人もござりますし、四十物町までは道も大分でござりますで。」 「何だ、お前は。」 「へい、」 「さあ、行こう。」  お雪は黙って婆さんの顔を見たが、詮方なげで哀である。 「お前様、何といっても、」と空しく手を掉って、伸上った、婆は縋着いても放したくない。 「知事様のお使だ。」と島野が舌打して言った。  これが代官様より可恐しく婆の耳には響いたので、目を睜って押黙る。  その時、花屋の奥で、凜として澄んで、うら悲しく、 雲横秦嶺家何在 雪擁藍関馬不前  と、韓湘が道術をもって牡丹花の中に金字で顕したという、一聯の句を口吟む若山の声が聞えて止んだ。  お雪はほろりとしたが、打仰いで、淋しげに笑って、 「どうぞ、ねえ。」        二十五  恩になる姫様、勇美子が急な用というに悖い得ないで、島野に連出されたお雪は、屠所の羊の歩。 「どういう御用なんでございましょう。いつも御贔屓になりますけれども、つい、お使なんぞ下さいましたことはございませんのに、何でしょうね、馴れませんこッてすから、胸がどきどきして仕様がありません。」  島野は澄まして冷かに、 「そうですか。」 「貴下御存じじゃあないのですか。」 「知らないね。」と気取った代脉が病症をいわぬに斉しい。  わざと打解けて、底気味の悪い紳士の胸中を試みようとしたお雪は、取附島もなく悄れて黙った。  二人は顔を背け合って、それから総曲輪へ出て、四十物町へ行こうとする、杉垣が挟んで、樹が押被さった径を四五間。 「兄さんに聞いたら可かろう。」島野は突然こう言って、ずッと寄って、肩を並べ、 「何もそんなに胸までどきつかせるには当らない、大した用でもなかろうよ。たかがお前この頃情人が出来たそうだね、お目出度いことよ位なことを謂われるばかりさ。」 「厭でございます。」 「厭だって仕方がない、何も情人が出来たのに御祝儀をいわれるたッて、弱ることはないじゃあないか。ふん、結構なことさね、ふん、」  と呼吸がはずむ。 「ほんとうでございますか。」 「まったくよ。」 「あら、それでは、あの私は御免蒙りますよ。」  お雪は思切って立停まった、短くさし込んだ胸の扇もきりりとする。 「御免蒙るッて、来ないつもりか。おい、お嬢様が御用があるッて、僕がわざわざ迎に来たんだが、御免蒙る、ふん、それで可いのか。──御免蒙る──」 「それでも、おなぶり遊ばすんですもの、私は辛うございます。」 「可いさ、来なけりゃ可いさ、そのかわり、お前、知事様のお邸とは縁切だよ。宜かろう、毎日の米の代といっても差支えない、大切なお花主を無くする上に、この間から相談のある、黒百合の話も徒為になりやしないかね。仏蘭西の友達に贈るのならばって、奥様も張込んで、勇美さんの小遣にうんと足して、ものの百円ぐらいは出そうという、お前その金子は生命がけでも欲いのだろう、どうだね、やっぱり御免を蒙りまするかね。」といって、にやにやと笑いけり。  お雪は深い溜息して、 「困っちまいました、私はもうどうしたら可いのでございましょうねえ。」  詮方なげに見えて島野に縋るようにいった。お雪は止むことを得ず、その懐に入って救われんとしたのであろう。  紳士は殊の外その意を得た趣で、 「まあ、一所に来たまえ。だから僕が悪いようにゃしないというんだ。え、どこかちょっと人目に着かない処で道寄をしようじゃあないか、そしていろいろ相談をするとしよう。またどんな旨い話があろうも知れない。ははは、まずまあ毎日汗みずくになって、お花は五厘なんていって歩かないでも暮しのつくこッた。それに何さ、兄さんとかいう人に存分療治をさせたい、金子も自から欲くなくなるといったような、ね、まあまあ心配をすることはないよ、来たまえ!」といって、さっさっと歩行き出す。お雪は驚いて、追縋るようにして、 「貴下、どちらへ参るんでございます。」        二十六 「心得てるさ、ちっとも気あつかいのいらないように万事取計らうから可いよ。向うが空屋で両隣が畠でな、聾の婆さんが一人で居るという家が一軒、……どうだね、」と物凄いことをいう。この紳士は権柄ずくにおためごかしを兼ねて、且つ色男なんだから極めて計らいにくいのであります。  勇美子の用でも何でもない。大方こんなこととは様子にも悟っていたが、打着けに言われたので、お雪も今更ぎょっとした。 「路も遠うございますから、晩くなりましょう、直ぐあの、お邸の方へ参っちゃあ不可ませんか。」 「何、遠慮することはないさ。」  これだもの。………… 「いいえ、」といったばかり。お雪は遁帰る機掛もなし、声を立てる数でもなし、理窟をいう分にも行かず、急にお腹が痛むでもない。手もつけられねば、ものも言われず。  径ややその半を過ぎて、総曲輪に近くなると、島野は莞爾かに見返って、 「どうだ、御飯でも食べて、それからその家へ行くとしようか。」  お雪はものもいい得ない。背後から大きな声で、 「奢れ奢れ、やあ、棄置かれん。」と無遠慮に喚いてぬいと出た、この野面を誰とかする。白薩摩の汚れた単衣、紺染の兵子帯、いが栗天窓、団栗目、ころころと肥えて丈の低きが、藁草履を穿ちたる、豈それ多磨太にあらざらんや。  島野は悪い処へ、という思入あり。 「おや、どちらへ。」 「ははあ、貴公と美人とが趣く処へどこへなと行くで。奢れ! 大分ほッついたで、夕飯の腹も、ちょうど北山とやらじゃわい。」 「いいえさ、どこへ行くんです。」と島野は生真面目になって押えようとする、と肩を揺って、 「知事が処じゃ。」 「今ッからね。」 「うむ、勇美子さんが来てくれいと言うものじゃでの。」 「へい、」と妙な顔をする。  多磨太、大得意。 「何よ、また道寄も遣らかすわい。向うが空屋で両隣は畠だ、聾の婆が留守をしとる、ちっとも気遣はいらんのじゃ、万事私が心得た。」 「驚いたね。」 「どうじゃ、恐入ったか。うむ、好事魔多し、月に村雲じゃろ。はははは、感多少かい、先生。」 「何もその、だからそういったじゃアありませんか。君、僕だけは格別で。」 「豈しからん、この美肉をよ、貴様一人で賞翫してみい、たちまち食傷して生命に係るぞ。じゃから私が注意して、あらかじめ後を尾けて、好意一足の藁草履を齎らし来った訳じゃ、感謝して可いな。」  島野は苦々しい顔色で、 「奢ります、いずれ奢るから、まあ、君、君だって、分ってましょう。それ、だから奢りますよ、奢りますよ。」 「豚肉は不可ぞ。」 「ええ、もうずっとそこン処はね。」 「何、貴様のずっとはずっと見当が違うわい。そのいわゆるずっとというのは軍鶏なんじゃろ、しからずんば鰻か。」 「はあ、何でも、」と頷くのを、見向もしないで。 「非ず、私が欲する処はの、熊にあらず、羆にあらず、牛豚、軍鶏にあらず、鰻にあらず。」 「おやおや、」 「小羊の肉よ!」 「何ですって、」 「どうだ、螇蚸、蟷螂、」といいながら、お雪と島野を交る交る、笑顔で眗しても豪傑だから睨むがごとし。        二十七  島野は持余した様子で、苦り切って、ただ四辺を見廻すばかり。多磨太は藁草履の片足を脱いで、砂だらけなので毛脛を擦った。 「蚋が螫す、蚋が螫すわ。どうじゃ、歩き出そうでないか。堪らん、こりゃ、立っとッちゃあ埒明かん、さあ前へ行ね、貴公。美人は真中よ、私は殿を打つじゃ、早うせい。」  島野は堪りかねて、五六歩傍へ避けて目で知らせて、 「ちょいと、君、雀部さん、ちょいと。」 「何じゃ、」と裾を掴み上げて、多磨太はずかずかと寄る。  島野は真顔になって、口説くように、 「かねて承知なんじゃあないか、君、ここは一番粋を通して、ずっと大目に見てくれないじゃあ困りますね。」と情なそうにいった。 「どうするんかい、」 「何さ、どうするッて。」 「貴公、どこへしょびくんじゃ、あの美人をよ、巧く遣りおるの。うう、」と団栗目を細うして、変な声で、えへ、えへ、えへ。 「しょびくたって何も君、まったくさ、お嬢さんが用があるそうだ。」 「嘘を吐けい、誰じゃと思うか、ああ。貴公目下のこの行為は、公の目から見ると拐帯じゃよ、詐偽じゃな。我輩警察のために棄置かん、直ちに貴公のその額へ、白墨で、輪を付けて、交番へ引張るでな、左様思え、はははは。」 「串戯をいっちゃあ不可ません。」 「何、構わず遣るぞ。癪じゃ、第一、あの美人は、私が前へ目を着けて、その一挙一動を探って、兄じゃというのが情男なことまで貴公にいうてやった位でないかい。考えてみい、いかに慇懃を通じようといって、貴公ではと思うで、なぶる気で打棄っておいたわ。今夜のように連出されては、こりゃならんわい。向面へ廻って断乎として妨害を試みる、汝にジャムあれば我に交番ありよ。来るか、対手になるか、来い、さあ来い。両雄並び立たず、一番勝敗を決すべい。」  と腕まくりをして大乗気、手がつけられたものではない。島野もここに至って、あきらめて、ぐッと砕け、 「どうです、一ツ両雄並び立とうではありませんか、ものは相談だ。」と思切っていう。多磨太は目を睜って耳を聳てた。 「ふむ、立つか、見事両雄がな。」 「耳を、」肩を取って、口をつけ、二人は木の下蔭に囁を交え、手を組んで、短いのと、長いのと、四脚を揃えたのが仄かに見える。お雪は少し離れて立って、身を切裂かるる思いである。  当座の花だ、むずかしい事はない、安泊へでも引摺込んで、裂くことは出来ないが、美人の身体を半分ずつよ、丶丶丶の令息と、丶丶の親類とで慰むのだ。土民の一少婦、美なりといえどもあえて物の数とするには足らぬ。 「ね、」 (笑って答えず。)  多磨太は頷いて身を退いて、両雄いい合わせたように屹とお雪を見返った。  径に被さった樹々の葉に、さらさらと渡って、裙から、袂から冷々と膚に染み入る夜の風は、以心伝心二人の囁を伝えて、お雪は思わず戦悚とした。もう前後も弁えず、しばらくも傍には居たたまらなくなって、そのまま、 「島野さん、お連様もお見え遊ばしたし、失礼いたしますから、お嬢様にはどうぞ、」も震え声で口の裡、返事は聞きつけないで、引返そうとする。 「待ちなさい、」 「待て、おい、おい、おい、待て!」といいさま追い縋って、多磨太は警部長の令息であるから傍若無人。 「あれ、」と遁げにかかる、小腕をむずと取られた。形も、振も、紅、白脛。        二十八 「踠くない、螇蚸、わはは、はは、」多磨太は容赦なくそのいわゆる小羊を引立てた。 「あれ、放して、」 「おい、声を出しちゃあ不可、黙っていな、優しくしてついてお出。あれそれ謂っちゃあ第一何だ、お前の恥だ。往来で見ッともない、人が目をつけて顔を見るよ。」と島野は落着いたものである。多磨太は案を拍たないばかりで、 「しかり、あきらめて覚悟をせい。魚の中でも鯉となると、品格が可いでな、俎に乗ると撥ねんわい。声を立てて、助かろうと思うても埒明かんよ。我輩あえて憚らず、こうやって手を握ったまま十字街頭を歩くんじゃ。誰でも可い、何をすると咎めりゃ、黙れとくらわす。此女取調の筋があるで、交番まで引立てる、私は雀部じゃというてみい、何奴もひょこひょこと米搗虫よ。」 「呑気なものさね、」と澄まし切って、島野は会心の微笑を浮べた。 「さあ、行こう、何も冥途へ連れて行くんじゃあないよ。謂わばまあ殿様のお手が着くといったようなものさ。どうして雀部や私を望んだって、花売なんぞが、口も利かれるもんじゃあない、難有く思うが可いさ。」  法学生の堕落したのが、上部を繕ってる衣を脱いだ狼と、虎とで引挟み、縛って宙に釣ったよりは恐しい手籠の仕方。そのまま歩き出した、一筋路。少い女を真中に、漢が二人要こそあれと、総曲輪の方から来かかって歩を停め、間を置いて前屈みになって透かしたが、繻子の帯をぎゅうと押えて呑込んだという風で、立直って片蔭に忍んだのは、前夜榎の下で、銀流の粉を売った婦人であった。  お雪は呼吸さえ高うはせず、気を詰めて、汗になって、 「まあ、この手を放して、ねえ、手を放して、」と漫である。 「可いわ、放すから遁げちゃあならんぞ、」 「何、逃げれば、捕える分のことさ、」  あらかじめ因果を含めたからと、高を括って、手を放すと半ば夢中、身を返して湯の谷の方へ走ろうとする。 「やい、汝!」  藁草履を蹴立てて飛着いて、多磨太が暗まぎれに掻掴む、鉄拳に握らせて、自若として、少しも騒がず、 「色男!」といって呵々と笑ったのは、男の声。呆れて棒立になった多磨太は、余りのことにその手を持ったまま動かず、ほとんど無意識に窘んだ。 「島野か、そこに居るのは。島野、おい、島野じゃないか。」  紳士はぎょっとして、思わず調子はずれに、 「誰、誰です。」 「己だ、滝だよ。おい、ちょいと誰だか手を握った奴があるぜ。串戯じゃあない、気味が悪いや、そういってお前放さしてくんな。おう、後生大事と握ってやがらあ。」  先刻荒物屋の納戸で、媼と蚊の声の中に言を交えた客はすなわちこれである。媼は、誰とも、いかなる氏素性の少年とも弁えぬが、去年秋銃猟の途次、渋茶を呑みに立寄って以来、婆や、家は窮屈で為方がねえ、と言っては、夜昼寛ぎに来るので、里の乳母のように心安くなった。ただ風変りな貴公子だとばかり思ってはいるが、──その時お雪が島野に引出されたのを見て、納戸へ転込んで胸を打って歎くので、一人の婦人を待つといって居合わせたのが、笑いながら駆出して湯の谷から救に来たのであった。        二十九  子爵千破矢滝太郎は、今年が十九で、十一の時まで浅草俵町の質屋の赤煉瓦と、屑屋の横窓との間の狭い路地を入った突当りの貧乏長家に育って、納豆を食い、水を飲み、夜はお稲荷さんの声を聞いて、番太の菓子を噛った江戸児である。  母親と祖父とがあって、はじめは、湯島三丁目に名高い銀杏の樹に近い処に、立派な旅籠屋兼帯の上等下宿、三階造の館の内に、地方から出て来る代議士、大商人などを宿して華美に消光していたが、滝太郎が生れて三歳になった頃から、年紀はまだ二十四であった、若い母親が、にわかに田舎ものは嫌いだ、虫が好かぬ、一所の内に居ると頭痛がすると言い出して、地方の客の宿泊をことごとく断った。神田の兄哥、深川の親方が本郷へ来て旅籠を取る数ではないから、家業はそれっきりである上に、俳優狂を始めて茶屋小屋入をする、角力取、芸人を引張込んで雲井を吹かす、酒を飲む、骨牌を弄ぶ、爪弾を遣る、洗髪の意気な半纏着で、晩方からふいと家を出ては帰らないという風。  滝太郎の祖父は母親には継父であったが、目を閉じ、口を塞いでもの言わず、するがままにさせておくと、瞬く内に家も地所も人手に渡った。謂うまでもなく四人の口を過ごしかねるようになったので、大根畠に借家して半歳ばかり居食をしたが、見す見す体に鉋を懸けて削り失くすようなものであるから、近所では人目がある、浅草へ行って蔵前辺に屋台店でも出してみよう、煮込おでんの汁を吸っても、渇えて死ぬには増だという、祖父の繰廻しで、わずか残った手廻の道具を売って動をつけて、その俵町の裏長屋へ越して、祖父は着馴れぬ半纏被に身を窶して、孫の手を引きながら佐竹ヶ原から御徒町辺の古道具屋を見歩いたが、いずれも高直で力及ばず、ようよう竹町の路地の角に、黒板塀に附着けて売物という札を貼ってあった、屋台を一個、持主の慈悲で負けてもらって、それから小道具を買揃えて、いそいそ俵町に曳いて帰ると、馴れないことで、その辺の見計いはしておかなかった、件の赤煉瓦と横窓との間の路地は、入口が狭いので、どうしても借家まで屋台を曳込むことが出来ないので、そのまま夜一夜置いたために、三晩とは措かず盗まれてしまったので、祖父は最後の目的の水の泡になったのに、落胆して煩い着いたが、滝太郎の舌が廻って、祖父ちゃん祖父ちゃん、というのを聞いて、それを思出に世を去った。  後は母親が手一ツで、細い乳を含めて遣る、幼児が玉のような顔を見ては、世に何等かの大不平あってしかりしがごとき母親が我慢の角も折れたかして、涙で半襟の紫の色の褪せるのも、汗で美しい襦袢の汚れるのも厭わず、意とせず、些々たる内職をして苦労をし抜いて育てたが、六ツ七ツ八ツにもなれば、膳も別にして食べさせたいので、手内職では追着かないから、世話をするものがあって、毎日吾妻橋を越して一製糸場に通っていた。  留守になると、橋手前には腕白盛の滝太一人、行儀をしつけるものもなし、居まわりが居まわりなんで、鼻緒を切らすと跣足で駆歩行く、袖が切れれば素裸で躍出る。砂を掴む、小砂利を投げる、溝泥を掻廻す、喧嘩はするが誰も味方をするものはない。日が暮れなければ母親は帰らぬから、昼の内は孤児同様。親が居ないと侮って、ちょいと小遣でもある徒は、除物にして苛めるのを、太腹の勝気でものともせず、愚図々々いうと、まわらぬ舌で、自分が仰向いて見るほどの兄哥に向って、べらぼうめ!        三十  その悪戯といったらない、長屋内は言うに及ばず、横町裏町まで刎ね廻って、片時の間も手足を静としてはいないから、余りその乱暴を憎らしがる女房達は、金魚だ金魚だとそういった。蓋し美しいが食えないという意だそうな。  滝太はその可愛い、品のある容子に似ず、また極めて殺伐で、ものの生命を取ることを事ともしない。蝶、蜻蛉、蟻、蚯蚓、目を遮るに任せてこれを屠殺したが、馴るるに従うて生類を捕獲するすさみに熟して、蝙蝠などは一たび干棹を揮えば、立処に落ちたのである。虫も蛙となり、蛇となって、九ツ十ウに及ぶ頃は、薪雑棒で猫を撃って殺すようになった。あのね、ぶん撲るとね、飛着くよ。その時は何でもないの、もうちッと酷くくらわすと、丸ッこくなってね、フッてんだ。呻っておっかねえ目をするよ、恐いよ。そこをも一ツ打つところりと死ぬさ。でもね、坊はね、あのはじめの内は手が震えてね、そこで止しちゃッたい。今じゃ、化猫わけなしだと、心得澄したもので。あれさ妄念が可恐しい、化けて出るからお止しよといえば、だから坊はね、おいらのせいじゃあないぞッて、そう言わあ。滝太郎はものの命を取る時に限らず、するな、止せ、不可いと人のいうことをあえてする時は、手を動かしながら、幾たびも俺のせいじゃないぞと、口癖のようにいつも言う。  井戸端で水を浴びたり、合長屋の障子を、ト唾で破いて、その穴から舌を出したり、路地の木戸を石磈でこつこつやったり、柱を釘で疵をつけたり、階子を担いで駆出すやら、地蹈鞴を蹈んで唱歌を唄うやら、物真似は真先に覚えて来る、喧嘩の対手は泣かせて帰る。ある時も裏町の人数八九名に取占められて路地内へ遁げ込むのを、容赦なく追詰めると、滝は廂を足場にある長屋の屋根へ這上って、瓦を捲くって投出した。やんちゃんもここに至っては棄置かれず、言付け口をするも大人げないと、始終蔭言ばかり言っていた女房達、耐りかねて、ちと滝太郎を窘なめるようにと、夜に入ってから帰る母親に告げた事がある。  しかるに、近所では美しいと、しおらしいで評判の誉物だった母親が、毫もこれを真とはしない。ただそうですか済みませんとばかり、人前では当らず障らずに挨拶をして、滝や、滝やと不断の通り優しい声。  それもその筈、滝は他に向って乱暴狼藉を極め、憚らず乳虎の威を揮うにもかかわらず、母親の前では大な声でものも言わず、灯頃辻の方に母親の姿が見えると、駆出して行って迎えて帰る。それからは畳を歩行く跫音もしない位、以前の俤の偲ばるる鏡台の引出の隅に残った猿屋の小楊枝の尖で字をついて、膝も崩さず母親の前に畏って、二年級のおさらいをするのが聞える。あれだから母親は本当にしないのだと、隣近所では切歯をしてもどかしがった。  学校は私立だったが、先生はまたなく滝太郎を可愛がって、一度同級の者と掴合をして遁げて帰って、それッきり、登校しないのを、先生がわざわざ母親の留守に迎に来て連れて行って、そのために先生は他の生徒の父兄等に信用を失って、席札は櫛の歯の折れるように透いて無くなったが、あえて意にも留めないで、ますます滝太郎を愛育した。いかにか見処があったのであろう。        三十一  しかるに先生は教うるにいかなる事をもってしたのであるか、まさかに悪智慧を着けはしまい。前年その長屋の表町に道普請があって、向側へ砂利を装上げたから、この町を通る腕車荷車は不残路地口の際を曳いて通ることがあった。雨が続いて泥濘になったのを見澄して、滝太が手で掬い、丸太で掘って、地面を窪めておき、木戸に立って車の来るのを待っていると、窪は雨溜で探りが入らず、来るほどの車は皆輪が喰い込んで、がたりとなる。さらぬだに持余すのにこの陥羂に懸っては、後へも前へも行くのではないから、汗になって弱るのを見ると、会心の笑を洩らして滝太、おじさん押してやろう、幾干かくんねえ、と遣ったのである。自から頼む所がなくなってはさる計もしはせまい、憎まれものの殺生好はまた相応した力もあった。それはともかく、あの悪智慧のほどが可恐しい、行末が思い遣られると、見るもの聞くもの舌を巻いた。滝太郎がその挙動を、鋭い目で角の屑屋の物置みたような二階の格子窓に、世を憚る監視中の顔をあてて、匍匐になって見ていた、窃盗、万引、詐偽もその時二十までに数を知らず、ちょうど先月までくらい込んでいた、巣鴨が十たび目だという凄い女、渾名を白魚のお兼といって、日向では消えそうな華奢姿。島田が黒いばかり、透通るような雪の肌の、骨も見え透いた美しいのに、可恐しい悪党。すべて滝太郎の立居挙動に心を留めて、人が爪弾をするのを、独り遮って賞めちぎっていたが、滝ちゃん滝ちゃんといって可愛がること一通でなかった処。……  滝太郎が、その後十一の秋、母親が歿ると、双葉にして芟らざればなどと、差配佐次兵衛、講釈に聞いて来たことをそのまま言出して、合長屋が協議の上、欠けた火鉢の灰までをお銭にして、それで出合の涙金を添えて持たせ、道で鳶にでも攫われたら、世の中が無事で好い位な考えで、俵町から滝太郎を。  一昨日来るぜい、おさらばだいと、高慢な毒口を利いて、ふいと小さなものが威張って出る。見え隠れにあとを跟けて、その夜金竜山の奥山で、滝さん餞別をしようと言って、お兼が無名指からすっと抜いて、滝太郎に与えたのが今も身を離さず、勇美子が顔を赤らめてまで迫ったのを、頑として肯かなかった指環なのである。  その時、奥山で餞した時、時ならぬ深夜の人影を吠える黒犬があった。滝さんちょいとつかまえて御覧とお兼がいうから、もとより俵町界隈の犬は、声を聞いて逃げた程の悪戯小憎。御意は可しで、飛鳥のごとく、逃げるのを追懸けて、引捕え、手もなく頸の斑を掴んで、いつか継父が児を縊り殺した死骸の紫色の頬が附着いていた処だといって今でも人は寄附かない、ロハ台の際まで引摺って来ると、お兼は心得て粋な浴衣に半纏を引かけた姿でちょいと屈み、掌で黒斑を撫でた、指環が閃いたと見ると、犬の耳が片一方、お兼の掌の上へ血だらけになって乗ったのである。人間でもわけなしだよ、と目前奇特を見せ、仕方を教え、針のごとく細く、しかも爪ほどの大さの恐るべき鋭利な匕首を仕懸けた、純金の指環を取って、これを滝太郎の手に置くと、かつて少年の喜ぶべき品、食物なり、何等のものを与えてもついぞ嬉しがった験のない、一つはそれも長屋中に憎まれる基であった滝太郎が、さも嬉しげに見て、じっと瞶めた、星のような一双の眼の異様な輝は、お兼が黒い目で睨んでおいた。滝太郎は生れながらにして賊性を亨けたのである。諸君は渠がモウセンゴケに見惚れた勇美子の黒髪から、その薔薇の薫のある蝦茶のリボン飾を掏取って、総曲輪の横町の黄昏に、これを掌中に弄んだのを記憶せらるるであろう。        三十二 「滝さん、滝さん、おい、おい。」 「私かい、」と滝太歩を停めて振返ると、木蔭を径へずッと出たのは、先刻から様子を伺っていた婦人である。透かして見るより懐しげに、 「おう来たのか、おいら約束の処へ行ってお前の来るのを待ってたんだけれども、ちょいと係合で歩に取られて出て来たんだ。路は一筋だから大丈夫だとは思ったが、逢い違わなければ可いと思っての。」 「そう、私実は先刻からここに居たんだよ。路先を切って何か始まったから、田舎は田舎だけに古風なことをすると思ってね、旅稼の積でぐッとお安く真中へ入ってやろうかと思ってる処へ、お前さんがお出だから見ていたの。あい、おかしくッて可うござんした。ここいらじゃあ尾鰭を振って、肩肱を怒らしそうな年上なのを二人まで、手もなく追帰したなあ大出来だ、ちょいと煽いでやりたいわねえ、滝さんお手柄。」 「馬鹿なことを謂ってらあ、何もこっちが豪いんじゃあねえ。島野ッてね、あのひょろ長え奴が意気地なしで、知事を恐がっていやあがるから、そこが附目よ。俺に何か言われちゃあ、後で始末が悪いもんだから、同類の芋虫まで、自分で宥めて連れて行ったまでのこッた。敵が使ってる道具を反対にこっちで使われたんだね、別なこたあねえ、知事様がお豪いのでござりますだ。」といって事も無げに笑った。 「それじゃあ滝さん、毒をもって毒を制するとやらいうのかい。」 「姉や、お前学者だなあ、」 「旦那、御串戯もんですよ。」と斉しく笑った。  身装は構わず、絞のなえたので見すぼらしいが、鼻筋の通った、眦の上った、意気の壮なることその眉宇の間に溢れて、ちっともめげぬ立振舞。わざと身を窶してさるもののように見らるるのは、前の日総曲輪の化榎の下で、銀流しを売っていた婦人であって──且つ少かりし時、浅草で滝太郎に指環を与えた女賊白魚のお兼である。もとより掏賊の用に供するために、自分の持物だった風変りな指環であるから、銀流を懸けろといって滝太が差出したのを、お兼は何条見免すべき。  はじめは怪み、中は驚いて、果はその顔を見定めると、幼立に覚えのある、裏長屋の悪戯小憎、かつてその黒い目で睨んでおいた少年の懐しさに、取った手を放さないでいたのであったが。十年ばかりも前のこと、場所も意外なり、境遇も変っているから、滝太郎の方では見忘れて、何とも覚えず、底気味が悪かった。  横町の小児が足搦の縄を切払うごときは愚なこと、引外して逃るはずみに、指が切れて血が流れたのを、立合の衆が怪んで目を着けるから、場所を心得て声も懸けなかったほど、思慮の深い女賊は、滝太郎の秘密を守るために、仰いでその怪みを化榎に帰して、即時人の目を瞞めたので。  越えて明くる夜、宵のほどさえ、分けて初更を過ぎて、商人の灯がまばらになる頃は、人の気勢も近寄らない榎の下、お兼が店を片附ける所へ、突然と顕れ出で、いま巻納めようとする茣蓙の上へ、一束の紙幣を投げて、黙っててくんねえ、人に言っちゃ悪いぜとばかり、たちまち暗澹たる夜色は黒い布の中へ、機敏迅速な姿を隠そうとしたのは昨夜の少年。四辺に人がないから、滝さんといって呼留めて、お兼は久ぶりでめぐりあったが、いずれも世を憚って心置のない湯の谷で、今夜の会合をあらかじめ約したのであった。        三十三  二人は語らい合って、湯の谷の媼が方へ歩き出した。  お兼は四辺を眗して、 「そりゃそうと、酷い目に逢いそうだった姉さんはどうしたの。なんだかお前さんと、あの肥った、」 「芋虫か、」 「え、じゃあ細長い方は蚯蚓かい。おほほほほ、おかしいねえ、まあ、その芋虫と、蚯蚓とお前さんと。」 「厭だぜ、おいら虫じゃあねえよ。」と円に目を睜ってわざと真顔になる。 「御免なさいまし、三人巴になってごたごたしてるので、つい見はぐしたよ、どうしたろう。」 「何か、あの花売の別嬪か。」 「高慢なことをいうねえ、花売だか何だか。」 「うむ、ありゃもう疾くに帰った。俺ら可いてことよと受合って来たけれども、不安心だと見えてあとからついて来たそうで、老人は苦労性だ。挨拶だの、礼だの、誰方だのと、面倒臭えから、ちょうど可い、連立たして、さっさと帰しちまった。」 「何しろ可かったねえ。喧嘩になって、また指環でも揮廻しはしないかと、私ははらはらして見ていたんだよ。ほんとにお前さん、あれを滅多に使っちゃあ悪うござんす。」 「蝮の針だ、大事なものだ。人に見せて堪るもんか、そんなどじなこたあしやしないよ。」 「いかがですか、こないだ店前へ突出したお手際では怪しいもんだよ。多勢居る処じゃあないかね。」 「誰がまた姉や、お前だと思うもんか。あの時はどきりとした、ほんとうだ、縛られるかと思った。」 「だからさ、私に限らず、どこにどんな者が居ないとも限らないからね、うっかりしちゃあ危険だよ。」 「あい、いいえ、それが何だ、知事のお嬢さんがね、いやに目をつけて指環を取換えようなんて言うんだ。何だか機関を見られるようで、気がさすから、目立たないのが可かろう、銀流でもかけておけと、訳はありゃしねえ、出来心で遣ったんだ、相済みません。」といって、莞爾として戯にその頭を下げた。 「沢山お辞儀をなさい、お前さん怪しからないねえ。そりゃ惚れてるんだろう、恐入った?」 「おお、惚れたんだか何だか知らねえが、姫様の野郎が血道を上げて騒いでるなあ、黒百合というもんです。」 「何だとえ。」 「百合の花の黒いんだッさ、そいつを欲しいって騒ぐんだな。」 「へい、欲しければ買ったら可さそうなもんじゃあないか。」 「それがね、不可ねえんだ、銭金ずくじゃないんだってよ。何でも石滝って処を奥へ蹈込むと、ちょうど今時分咲いてる花で、きっとあるんだそうだけれど、そこがまた大変な処でね、天窓が石のような猿の神様が住んでるの、恐い大な鷲が居るの、それから何だって、山ン中だというに、おかしいじゃあねえか、水掻のある牛が居るの、種々なことをいって、まだ昔から誰も入ったことがないそうで、どうして取って来られるもんだとも思やしないんだってこッた。弱虫ばかり、喧嘩の対手にするほどのものも居ねえ処だから、そン中へ蹈込んで、骨のある妖物にでも、たんかを切ってやろうと、おいら何するけれども、つい忙いもんだから思ったばかし。」 「まあ、大層お前さん、むずかしいのね、忙いって何の事だい。」 「だから待ちねえ、見せるてこッた、うんと一番喜ばせるものがあるんだぜ。」 「ああ、その滝さんが見せるというものは、何だか知らないが見たいものだよ。」        三十四  滝太郎はかつて勇美子に、微細なるモウセンゴケの不思議な作用を発見した視力を誉えられて、そのどこで採獲たかの土地を聞かれた時、言葉を濁して顔の色を変えたことを──前回に言った。  いでそのモウセンゴケを渠が採集したのは、湯の谷なる山の裾の日当に、雨の後ともなく常にじとじと、濡れた草が所々にある中においてした。しかもお雪が宿の庭続、竹藪で住居を隔てた空地、直ちに山の裾が迫る処、その昔は温泉が湧出たという、洞穴のあたりであった。人は知らず、この温泉の口の奥は驚くべき秘密を有して、滝太郎が富山において、随処その病的の賊心を恣にした盗品を順序よく並べてある。されば、お雪が情人に貢ぐために行商する四季折々の花、美しく薫のあるのを、露も溢さず、日ごとにこの洞穴の口浅く貯えておくのは、かえって、滝太郎が盗利品に向って投げた、花束であることを、あらかじめここに断っておかねばならぬ。  さて、滝太郎がその可恐しい罪を隠蔽しておく、温泉の口の辺で、精細式のごときモウセンゴケを見着けた目は、やがてまた自分がそこに出没する時、人目のありやなしやを熟と見定める眼であるから、己の視線の及ぶ限は、樹も草も、雲の形も、日の色も、従うて蟻の動くのも、露のこぼるるのも知らねばならないので、地平線上に異状を呈した、モウセンゴケの作用は、むしろ渠がいまだかつて見も聞きもしなかったほど一層心着くに容易いのであった。あたかも可し、さる必用を要する渠が眼は、世に有数の異相と称せらるる重瞳である。ただし一双ともにそうではない、左一つ瞳が重っている。  そのせいであったろう。浅草で母親が病んで歿る時、手を着いて枕許に、衣帯を解かず看護した、滝太郎の頸を抱いて、(お前は何でもしたいことをおしよ、どんなことでもお前にはきっと出来るのだから、)といったッきり、もう咽喉がすうすうとなった。  その上また母親はあらかじめ一封の書を認めておいて、不断滝太郎から聞き取って、その自分の信用を失うてまで、人の忌嫌う我児を愛育した先生に滝太郎の手から託さするように遺言して、(私が亡くなった後で、もしも富山からだといって人が尋ねて来たら、この手紙を渡して下さい。開けちゃあ不可ません、来なかったらばそのままで破って下さい、きっとお見懸け申してお頼み申します。)と言わせたのである。  やや一月ばかり経つと、その言違わず果して富山からだといって尋ねて来たのが、すなわち当時の家令で、先代に託されて、その卒去の後、血統というものが絶えて無いので、三年間千破矢家を預っていて今も滝太郎を守立ててる竜川守膳という漢学者。  守膳は学校の先生から滝太郎の母親の遺書を受取ったが、その時は早や滝太郎が俵町を去って二月ばかり過ぎた後であったので、泰山のごとく動かず、風采、千破矢家の傳たるに足る竜川守膳が、顔の色を変えて血眼になって、その捜索を、府下における区々の警察に頼み聞えると、両国回向院のかの鼠小憎の墓前に、居眠をしていた小憎があった。巡行の巡査が怪んで引立て、最寄の警察で取調べたのが、俵町の裏長屋に居たそれだと謂って引渡された。  田舎は厭だと駄々を捏ねるのを、守膳が老功で宥め賺し、道中土を蹈まさず、動殿のお湯殿子調姫という扱いで、中仙道は近道だが、船でも陸でも親不知を越さねばならぬからと、大事を取って、大廻に東海道、敦賀、福井、金沢、高岡、それから富山。        三十五  湯の谷の神の使だという白烏は、朝月夜にばかり稀に見るものがあると伝えたり。  ものの音はそれではないか。時ならず、花屋が庭続の藪の際に、かさこそ、かさこそと響を伝えて、ややありて一面に広々として草まばらな赤土の山の裾へ、残月の影に照らし出されたのは、小さい白い塊である。  その描けるがごとき人の姿は、薄りと影を引いて、地の上へ黒い線が流るるごとく、一文字に広場を横切って、竹藪を離れたと思うと、やがて吹流しに手拭を被った婦人の姿が顕れて立ったが、先へ行く者のあとを拾うて、足早に歩行いて、一所になると、影は草の間に隠れて、二人は山腹に面した件の温泉の口の処で立停った。夏の夜はまだ明けやらず、森として、樹の枝に鳥が塒を蹈替える音もしない。 「跟いておいで、この中だ。」と低声でいった滝太郎の声も、四辺の寂莫に包まれて、異様に聞える。  そのまま腰を屈めて、横穴の中へ消えるよう。  お兼は抱着くがごとくにして、山腹の土に手をかけながら、体を横たえ、顔を斜にして差覗いて猶予った。 「滝さん、暗いじゃあないか。」  途端に紫の光一点、𤏋と響いて、早附木を摺った。洞の中は広く、滝太郎はかえって寛いで立っている。ほとんどその半身を蔽うまで、堆い草の葉活々として冷たそうに露を溢さぬ浅翠の中に、萌葱、紅、薄黄色、幻のような早咲の秋草が、色も鮮麗に映って、今踏込むべき黒々とした土の色も見えたのである。 「花室かい、綺麗だね。」 「入口は花室だ、まだずっと奥があるよ。これからつき当って曲るんだ、待っといで、暗いからな。」  燃え尽して赤い棒になった早附木を棄てて、お兼を草花の中に残して、滝太郎は暗中に放れて去る。  お兼は気を鎮めて洞の口に立っていたが、たちまち慌しく呼んだ。 「ちょいと……ちょいと、ちょいと。」  音も聞えず。お兼は尋常ならず声を揚げて、 「滝さん、おい、ちょいと、滝さん。」 「おう、」と応えて、洞穴の隅の一方に少年の顔は顕れた。早く既に一個角燈に類した、あらかじめそこに用意をしてあるらしい灯を手にしている。  お兼は走り寄って、附着いて、 「恐しい音がする、何だい、大変な響だね。地面を抉り取るような音が聞えるじゃあないか。」  いかにも洞の中は、ただこれ一条の大瀑布あって地の下に漲るがごとき、凄じい音が聞えるのである。  滝太郎は事もなげに、 「ああ、こりゃね、神通川の音と、立山の地獄谷の音が一所になって聞えるんだって言うんだ。地底がそこらまで続いているんだって、何でもないよ。」  神通は富山市の北端を流るる北陸七大川の随一なるものである。立山の地獄谷はまた世に響いたもので、ここにその恐るべき山川大叫喚の声を聞くのは、さすがに一個婦人の身に何でもない事ではない。  お兼は顔の色も沈んで、滝太郎にひしと摺寄りながら、 「そうかい、川の音は可いけれど地獄が聞えるなんざ気障だねえ。ちょいと、これから奥へ入ってどうするのさ、お前さんやりやしないか。私ゃ殺されそうな気がするよ、不気味だねえ。」 「馬鹿なことを!」        三十六 「いいえ、お前さん、何だか一通じゃあないようだ、人殺もしかねない様子じゃあないか。」さすがの姉御も洞中の闇に処して轟々たる音の凄じさに、奥へ導かれるのを逡巡して言ったが、尋常ならぬ光景に感ずる余り、半ばは滝太郎に戯れたので。 「おいで、さあ、夜が明けると人が見るぜ。出後れた日にゃあ一日逗留だ、」と言いながら、片手に燈を釣って片手で袖を引くようにして連込んだ。お兼は身を任せて引かれ進むと、言うがごとく洞穴の突当りから左へ曲る真暗な処を通って、身を細うして行くとたちまち広し。 「まだまだ深いのかい。」 「もう可い、ここはね、おい、誰も来る処じゃあねえよ。おいらだって、余程の工面で見着け出したんだ。」  滝太郎はこう言いながら、手なる燈を上げて四辺を照らした。  と見ると、処々に筵を敷き、藁を束ね、あるいは紙を伸べ、布を拡げて仕切った上へ、四角、三角、菱形のもの、丸いもの。紙入がある、莨入がある、時計がある。あるいは銀色の蒼く光るものあり、また銅の錆たるものあり、両手に抱えて余るほどな品は、一個も見えないが、水晶の彫刻物、宝玉の飾、錦の切、雛、香炉の類から、印のごときもの数えても尽されず、並べてあった。その列の最も端の方に据えたのが、蝦茶のリボン飾、かつて勇美子が頭に頂いたのが、色もあせないで燈の影に黒ずんで見えた。傍には早附木の燃さしが散ばっていたのである。  地獄谷の響、神通の流の音は、ひとしきりひとしきり脈を打って鳴り轟いて、堆いばかりの贓品は一個々々心あって物を語らんとするがごとく、響に触れ、燈に映って不残動くように見えて、一種言うべからざる陰惨の趣がある。お兼はじっと見て物をも言わぬ、その一言も発しないのを、感に耐えたからだとも思ったろう。滝太郎は極めて得意な様子でお兼の顔を見遣りながら、件のリボン飾を指して、 「これがね、一番新しいんだぜ。ほら、こないだ総曲輪で、姉やに掴まった時ね、あの昼間だ、あの阿魔、知事の娘のせいでもあるまいが、何だか取難かったよ、夜店をぶらついてる奴等の簪を抜くたあなぜか勝手が違うんだ。でもとうとう遣ッつけた、可い心持だった、それから、」  と言って飜って向うへ廻って、一個の煙草入を照らして見せ、 「これが最初だ、富山へ来てから一番前に遣ったのよ。それからね、見ねえ。」  甚しいかな、古色を帯びた観世音の仏像一体。 「これには弱ったんだ、清全寺ッて言う巨寺の秘仏だっさ。去年の夏頃開帳があって、これを何だ、本堂の真中へ持出して大変な騒ぎを遣るんだ。加賀からも、越後からもね、おい、泊懸の参詣で、旅籠町の宿屋はみんな泊を断るというじゃあねえか。二十一日の間拝ませた。二十一日目だったかな、おいらも人出に浮かされて見に行ったっけ。寺の近所は八町ばかり往来の留まる程だったが、何が難有えか、まるで狂人だ。人の中を這出して、片息になってお前、本尊の前へにじり出て、台に乗っけて小さな堂を据えてよ、錦の帳を棒の尖で上げたり下げたりして、その度にわッと唸らせちゃあ、うんと御賽銭をせしめてやがる。そのお前、前へ伸上って、帳の中を覗こうとした媼があったさ。汝血迷ったかといって、役僧め、媼を取って突飛ばすと、人の天窓の上へ尻餅を搗いた。あれ引摺出せと講中、肩衣で三方にお捻を積んで、ずらりと並んでいやがったが、七八人一時に立上がる。忌々しい、可哀そうに老人をと思って癪に障ったから、おいらあな、」  活気は少年の満面に溢れて、蒼然たる暗がりの可恐しい響の中に、灯はやや一条の光を放つ。        三十七 「晩方で薄暗かったし、鼻と鼻と打つかっても誰だか分らねえような群衆だから難かしいこたあねえ。一番驚かしてやろうと思って、お前、真直に出た。いきなり突立って、その仏像を帳の中から引出したんだから乱暴なこたあ乱暴よ。媼やゆっくり拝みねえッて、掴みかかった坊主を一人引捻って転めらせたのに、片膝を着いて、差つけて見せてやった。どうして耐ったもんじゃあねえ。戦争の最中に支那が小児を殺したってあんな騒をしやあしまい。たちまち五六人血眼になって武者振つくと、仏敵だ、殺せと言って、固めている消防夫どもまで鳶口を振って駈け着けやがった。」  光景の陰惨なのに気を打たれて、姿も悄然として淋しげに、心細く見えた女賊は、滝太郎が勇しい既往の物語にやや色を直して、蒼白い顔の片頬に笑を湛えていたが、思わず声を放って、 「危いねえ!」 「そんなこたあ心得てら。やい、おいらが手にゃあ仏様持ってるぜ、手を懸けられるなら懸けてみろッて、大な声で喚きつけた。」 「うむ、うむ、」とばかりお兼は嬉しそうに頷いて聞くのである。 「おいらが手で持ってさいその位騒ぐ奴等だ、それをお前こっちへ掴んでるからうっかり手出ゃならねえやな。堂の中は人間の黒山が崩れるばかり、潮が湧いたようになってごッた返す中を、仏様を振廻しちゃあ後へ後へと退って、位牌堂へ飛込んで、そこからお前壁の隅ン処を突き破って、墓原へ出て田圃へ逃げたぜ。その替り取れようとも思わねえ大変なものをやッつけた。今でもお前、これを盗まれたとってどの位探してるか知れねえよ。富山の家が五六百焼けたってあんなじゃあるめえと思う位、可い心持じゃあねえか。姉や、それだがね、おらあこんなことを遣ってからはじめてだ、実は恐かった、殺されるだろうと思ったよ。へん、おいらアのせいじゃないぜ、大丈夫知れッこなしだ、占めたもんだい、この分じゃあ今に見ねえ、また大仕事をやらかしてやらあな。」  血も迸しらんばかり壮だった滝太郎の面を、つくづく見て、またその罪の数を眗して、お兼はほっという息を吐いた。  歎息して、力なげにほとんどよろめいたかと見えて、後ざまに壁のごとき山腹の土に凭れかかり、 「滝さん、まあ、こうやって、どうする意だねえ。いいえ、知ってるさ。私だって、そうだったが、殊にお前さん銭金に不自由はなし、売ってどうしようというんじゃあない、こりゃ疾なんだ。どうしても止められやしないんだろうね。」  言うことは白魚のお兼である。滝太郎は可怪い目をして、 「誰がお前、これを止しちゃッて何がつまるもんか。おらあ時とすると筵を敷いて、夜一夜この中で寝て帰ることがある位だ。見ねえ、おい、可い心持じゃあねえか、人にも見せてやりたくッてしようがねえんだけれど、下らない奴に嗅つけられた日にゃ打破しだから、ああ、浅草で別れた姉やぐらいなのがあったらと、しょッちゅう思っていねえこたあなかったよ。おいら一人も友達は拵えねえんだ、総曲輪でお前に、滝やッて言われた時にゃあ、どんなに喜んだと思うんだ、よく見て誉めてくんねえな。」  ずッと寄ると袖を開いて、姉御は何と思ったか、滝太郎の頸を抱いて、仰向の顔を、 「どれ、」  燈は捧げられた、二人はつくづくと目を見合せたのであった。お兼は屹と打守って、 「滝さん、お前さんは自分の目がどんなに立派なものだか知ってるかね。」        三十八 「お前さんの母様が亡なんなすった時も、お前にゃあ何でもしたいことが出来るからってとお言いだったと聞いちゃあいたがね、まあ、随分思切ったこったね。何かい、ここで寝ることがあるのかい。」 「ああ、あの荒物屋の媼っていうのが、それが、何よ、その清全寺で仏像の時の媼なんだから、おいらにゃあ自由が利くんだ。邸からじゃあ面倒だからね、荒物屋を足溜にしちゃあ働きに出るのよ。それでも何や彼や出入に面倒だったり、一品々々捻くっちゃあ離れられなくって、面白い時はこの穴ン中で寝て行かあ。寝てるとね、盗んで来たここに在る奴等が、自分が盗られた時の様子を、その道筋から、機会から、各々に話をするようで、楽ッたらないんだぜ。」 「それでまあよくお前さん体が何ともないね。浅草に餓鬼大将をやってお在の時とは違って、品もよくおなりだし、丸顔も長くなってさ、争われない、どう見ても若殿様だ。立派なもんだ。どうして、お前さんのその不思議な左の目の瞳子に見覚がなかった日にゃあ、名告られたって本当に出来るもんじゃあない、その替り、こら、こんなに、」  と手を取って、お兼は掌に据えて瞻りながら、 「節もなくなって細うなったし、体も弱々しくって、夜露に打たれても毒そうではないか。」 「不景気なことを言ってらあ。麦畠の中へ引くりかえって、青天井で寝た処で、天窓が一つ重くなるようなんじゃあないよ、鍛えてあらあな。」と昂然たり。 「そうかい、体はそれで可いとした処で、お前さんのような御身分じゃあ、鎖を下ろした御門もあろうし、お次にはお茶坊主、宿直の武士というのが控えてる位なもんじゃあないか。よくこうやって夜一夜出歩かれるねえ。」 「何、そりゃおいら整然と旨くやってるから、大概内の奴あ、今時分は御寝なっていらっしゃると思ってるんだ。何から何まで邸の事をすっかり取締ってるなあ、守山てって、おいらを連れて来た爺さんだがね、難かしい顔をしてる割にゃあ解ってて、我儘をさしてくれらあね。」 「成程ね、華族様の内をすっかり預って、何のこたあない乞食からお前さんを拾上げたほどの人だから、そりゃお前さんを扱うこたあ、よく知っているんだろう。」 「ああ、ただもう家名を傷けないようにって、耳懊く言って聞かせるのよ。堅い奴だが、おいら嫌いじゃあねえ。」 「ふむ、それでお前さん、盗賊をすりゃ世話は無いじゃあないか。」と言って、心ありげに淋しい笑を含んだのである。 「おいら何もこれを盗って、儲けようというんじゃあなし、ただ遊んで楽むんだあな。犬猫を殺すのも狩をするのも同一こッた。何、知れりゃ華族だ、無断に品物を取って来た、代価は幾干だ、好な程払ってやるまでの事じゃあねえか。」 「あんな気だから納まらないよ。ほんとに私もあの時分に心得違いをしていたから、見処のあるお前さん、立派な悪党に仕立ててみようと、そう思ったんだがね。滝さんお聞き、蛇がその累々した鱗を立てるのを見ると気味が悪いだろう、何さ、恐くはないまでも、可い心持はしないもんだ。蟻でも蠅でも、あれがお前、万と千と固っていてみな、厭なもんだ。松の皮でもこう重り重りして堆いのを見るとね、あんまり難有いもんじゃあない、景色の可い樹立でも、あんまり茂ると物凄いさ。私ゃもう疾にからそこへ気が着いて厭になって、今じゃ堅気になっているよ。ね、お前さん、厭な姿は、蛇が自分でも可い心持じゃあなかろうではないか。蚊でも蚤でも食ったのが、ぶつぶつ一面に並んでみな、自分の体でも打棄りたいやな。私ゃこうやってお前さんがここに盗んだものを並べてあるのを見ると、一々動くようで蛇の鱗だと思って、悚然とした。」        三十九 「野暮は言わない、私だって何も素人じゃあなし、お前さんの病な事も知ってるから、今めかしい意見をするんじゃないが、世の中にゃもッと面白い盗賊のしようがありそうなもんじゃないか。時計だの、金だの、お前さんが嬉しがって手柄そうにここに並べて置くものは、こりゃ何だい! 私に言わせると吝さ、端のお鳥目でざら幾干でもあるもんだ。金剛石だって、高々人間が大事がって秘っておくもんだよ、慾の固だね。金と灰吹は溜るほど汚いというが、その宝を盗んで来るのは、塵芥溜から食べ荒しをほじくり出す犬と同一だね、小汚ない。  そんなことより滝さん、もっと立派な、日本晴の盗賊がありやしないかしら。  主の棲む淵といえば誰も入ったものはあるまい。昔から人の入らない処なら、中にまたどんな珍らしい不思議なものがあろうも知れない。譬にも竜の腭には神様のような綺麗な珠があるというよ。何そんなものばかりじゃあない、世の中は広いんだ、富山にばかりも神通川も立山もあるじゃあないか。大海の中だの、人の行かない島などには、宝にしろ景色にしろ、どんな結構なものがあろうも知れぬ、そして見つかれば大びらに盗んで可いのさ。  ただそれは難かしい。島へ行くには船もいろうし、山の奥へ入るには野宿だってしなけりゃならない。お前さんはお金子が自由だろう、我儘が出来るじゃあないか。気象はその通だし、胆玉は大いし、体は鍛えてある、まあ、第一、その目つきが容易じゃあない。火に焼れず、水に溺れずといったような好運があるようだ。好なことが何でも出来るッて、母様が折紙をつけて下すった体だよ、私が見ても違いはないね。  金目の懸った宝なんざ、人が大切がって惜しむもので、歩るくにも坐るにも腰巾着につけていようが、鎖を下ろしておこうが、土の中へ埋めてあろうが、私等が手にゃあお茶の子さ。考えて御覧、どんなに厳重にして守ったって、そりゃ人間の猿智慧でするこッた、現にお前さん、多勢黒山のような群集の中で、その観音様を一人で引揚げて来たじゃあないか。人の大事にするものを取って来るのは何でもないが、私がいう宝物は、山の霊、水の精、また天道様が大事に遊ばすものもあろう。人は誰も咎めないが、迂濶にお寄越しはなさらない、大風で邪魔をするか、水で妨げるか、火で遮るか。恐い獣に守らしておきもしようし、真暗な森で包んであろうも知れず、地獄谷とやら、こんな恐い音のする、その立山の底に秘くしてあるものもあろう。近い処が、お前さんが前刻お話の、その黒百合というものだ、つい石滝とかの山を奥へ入るとあるッていうのに、そら、昔から人が足蹈をしない処で、魔処だ。入っちゃあならない、真暗だ、天窓が石のような可恐い猿が居る、それが主だというじゃあないか。この国中捌いてる知事の嬢さんが欲しくっても、金でも権柄ずくでも叶わないというだろう。滝さんどうだね、そんなものを取って来ちゃあ。  一番何でもそういったものを、どしどし私たちが頂戴をすることにしようじゃないか。私ばかりでない、まだ同一心の者が、方々に隠れている、その苧環の糸を引張ってさ、縁のあるものへ結びつけて、人間の手で網を張ろうという意でね、こうやって方々歩いている。何、私なんざ、ほんの手先の小使だ、幾らも、お前さんの相談相手があるんだから、奮発をしてお前さん、連判状の筆頭につかないか。」  意気八荒を呑む女賊は、その花のごとき唇から閃いてのぼる毒炎を吐いた。洞穴の中に、滝太郎が手なる燈の色はやや褪せたと見ると、件の可恐い響は音絶えるがごとく、どうーどうーどうーと次第に遠ざかって、はたと聞えなくなったようである。        四十 「もう夜明だ、姉や、分ったい、うむ、早く出よう。そして、おいらもう、この穴へは入るまい。」  滝太郎は決然として答えた。お兼は嬉しげに手を取って、 「滝さん、それでこそお前さんだ、ああ、富山じゃあ良い事をした、お庇様で発程栄がする。」 「お前、もうちっとこっちに居てくんねえな。おいら勝手に好な真似はしてるけれど、友達も何もありゃしないやな。本当は心細くッて、一向詰らないんだぜ。」 「気の弱いことをいうもんじゃあない、私はこれから加州へ行って、少し心当があるんだし、あそこへは先へ行って待合わせている者がある。そうしちゃあいられないんだから、また逢おうよ。そしてお前さんの話をして、仲間の者を喜ばせよう。何の、味方にしようと思えば、こっちのものなんざ皆味方さ。不残敵になったって難かしい事はないのだもの。」 「うむ、そんならそうよ。」と頷いて身を開いた、滝太郎は今森として響も止んだ洞穴の中に耳を澄したが、見る見る顔の色が動いて、目が光った。 「や、山の上で蜩が鳴かあ、ちょッ、あいつが二三度鳴くと、直ぐに起きやあがる。花屋の女は早起だ、半日ここに居て耐るもんかい。」  ふッと燈を消すと同時に、再びお兼の手をしっかと取って、 「姉や、大丈夫だ、暗い内に、急いで。さあ、」  温泉の口なる、花室の露を掻潜って、山の裾へ出ると前後になり、藪について曲る時、透かすと、花屋が裏庭に、お雪がまだ色も見え分かぬ、朝まだき、草花の中に、折取るべき一個の籠を抱いて、しょんぼりとして立っていた。髪艶かに姿白く、袖もなえて、露に濡れたような風情。推するに渠は若山の医療のために百金を得まく、一輪の黒百合を欲して、思い悩んでいるのであろう。南天の下に手水鉢が見えるあたりから、雨戸を三枚ばかり繰った、奥が真四角に黒々と見えて、蚊帳の片端の裾が縁側へ溢れて出ている。ト見る時、また高らかに蜩が鳴いた。 「そらね、あれだから。」  と苦笑する。滝太郎と囁き合い、かかることに馴れて忍の術を得たるごとき両個の人物は、ものおもうお雪が寝起の目にも留まらず、垣を潜って外へ出ると、まだ閉切ってある、荒物屋の小店の、燻った、破目や節穴の多い板戸の前を抜けて、総井戸の釣瓶がしとしとと落つる短夜の雫もまだ切果てず、小家がちなる軒に蚊の声のあわただしい湯の谷を出て、総曲輪まで一条の径にかかり、空を包んだ木の下に隠れて見えなくなった。 「それじゃあ滝さん、もう、ここから帰っておくれ、ちょうど人目にもかからないで済んだ。」  早朝町はずれへ来て、お兼は神通川に架した神通橋の袂で立停ったのである。雲のごときは前途の山、煙のようなは、市中の最高処にあって、ここにも見らるる城址の森である。名にし負う神通二百八間の橋を、真中頃から吹断って、隣国の方へ山道をかけて深々と包んだ朝靄は、高く揚って旭を遮り、低く垂れて水を隠した。色も一様の東雲に、流の音はただどうどうと、足許に沈んで響く。  お兼は立去りあえず頭を垂れたが、つと擬宝珠のついた、一抱に余る古びた橋の欄干に目をつけて、嫣然として、振返って、 「ちょいと滝さん、見せるものがある。ね、この欄干を御覧、種々な四角いものだの、丸いものだの、削った爪の跡だの、朱だの、墨だので印がつけてあるだろう、どうだい、これを記念に置いて行こうか。」        四十一  折から白髪天窓に菅の小笠、腰の曲ったのが、蚊細い渋茶けた足に草鞋を穿き、豊島茣蓙をくるくると巻いて斜に背負い、竹の杖を両手に二本突いて、頤を突出して気ばかり前へ立つ、婆の旅客が通った。七十にもなって、跣足で西京の本願寺へ詣でるのが、この辺りの信者に多いので、これは飛騨の山中あたりから出て来たのが、富山に一泊して、朝がけに、これから加州を指して行くのである。  お兼は黙って遣過ごして、再び欄干の爪の跡を教えた。 「これはね、皆仲間の者が、道中の暗号だよ。中にゃあ今真盛な商売人のもあるが、ほらここにこの四角な印をつけてあるのが、私が行ってこれから逢おうという人だ、旧海軍に居た将官だね。それからこうあっちに、畝々した線が引張ってあるだろう、これはね、ここから飛騨の高山の方へ行ったんだよ。今は止めていても兇状持で随分人相書の廻ってるのがあるから、迂濶な事が出来ないからさ。御覧よ、今本願寺参が一人通ったろう。たしかあれは十四五人ばかり一群なんだがね、その中でも二三人、体の暗い奴等が紛れ込んで富山から放れる筈だよ。倶利伽羅辺で一所になろう、どれ私もここへ、」  と言懸けて、お兼は、銀煙管を抜くと、逆に取って、欄干の木の目を割って、吸口の輪を横に並べて、三つ圧した。そのまま筒に入れて帯に差し、呆れて見惚れている滝太郎を見て、莞爾として、 「どうだい、こりゃ吃驚だろう。方々の、祠の扉だの、地蔵堂の羽目だの、路傍の傍示杭だの、気をつけて御覧な、皆この印がつけてあるから。人の知らない、楽書の中にこの位なことが籠ってるから、不思議だわね。だから世の中は面白いものだよ。滝さん、お前さんの目つきと、その心なら、ここにある印は不残お前さんの手下になります、頼もしいじゃあないか。」 「うむ、」といって、重瞳異相の悪少は眠くないその左の目を擦った。 「加州は百万石の城下だからまた面白い事もあろう、素晴しい事が始まったら風の便にお聞きなさいよ。それじゃあ、あの随分ねえ。」 「気をつけて行きねえ。」 「あい、」 「………」 「おさらばだよ。」  その効々しい、きりりとして裾短に、繻子の帯を引結んで、低下駄を穿いた、商売ものの銀流を一包にして桐油合羽を小さく畳んで掛けて、浅葱の切で胴中を結えた風呂敷包を手に提げて、片手に蝙蝠傘を持った後姿。飄然として橋を渡り去ったが、やがて中ほどでちょっと振返って、滝太郎を見返って、そのまま片褄を取って引上げた、白い太脛が見えると思うと、朝靄の中に見えなくなった。  やがて、夜が明け放れた時、お兼は新庄の山の頂を越えた、その時は、裾を紮げ、荷を担ぎ、蝙蝠傘をさして、木賃宿から出たらしい貧しげな旅の客。破毛布を纏ったり、頬被で顔を隠したり、中には汚れた洋服を着たのなどがあった、四五人と道連になって、笑いさざめき興ずる体で、高岡を指して峠を下りたとのことである。  お兼が越えた新庄というのは、加州の方へ趣く道で、別にまた市中の北のはずれから、飛騨へ通ずる一筋の間道がある。すなわち石滝のある処で、旅客は岸伝に行くのであるが、ここを流るるのは神通の支流で、幅は十間に足りないけれども、わずかの雨にもたちまち暴溢て、しばしば堤防を崩す名代の荒河。橋の詰には向い合って二軒、蔵屋、鍵屋と名ばかり厳しい、蛍狩、涼をあての出茶屋が二軒、十八になる同一年紀の評判娘が両方に居て、負けじと意気張って競争する、声も鶯、時鳥。 「お休みなさいまし、お懸けなさいまし。」        四十二  その蔵屋という方の床几に、腰を懸けたのは島野紳士、ここに名物の吹上の水に対し、上衣を取って涼を納れながら、硝子盃を手にして、 「ああ、涼しいが風が止んだ、何だか曇って来たじゃあないか、雨はどうだろうな。」  客の人柄を見て招の女、お倉という丸ぽちゃが、片襷で塗盆を手にして出ている。 「はい、大抵持ちましょうと存じます。それとも急にこうやって雲が出て参りましたから、ふとすると石滝でお荒れ遊ばすかも分りません。」 「何だね、石滝でお荒れというのは。」 「それはあの、少しでも滝から先へ足踏をする者がございますと、暴風雨になるッて、昔から申しますのでございますが。」  島野は硝子盃を下に置いた。 「うむ、そして誰か入ったものがあるのかね。」 「今朝ほど、背負上を高くいたして、草鞋を穿きましてね、花籃を担ぎました、容子の佳い、美しい姉さんが、あの小さなお扇子を手に持って、」と言懸ると、何と心得たものか、紳士は衣袋の間から一本平骨の扇子を抜出して、胸の辺りを、さやさや。 「はあ、それが入ったのか。」 「さようでございます。その姉さんは貴方、こないだから、昼間参りましたり、晩方来ましたりいたしましては、この辺を胡乱々々して、行ったり来たりしていたのでございますがね。今日は七日目でございます。まさかそんなことはと存じておりますと、今朝ほどここの前を通りましてね、滝の方へ行ったきり帰りません、きっと入りましたのでございましょう。」 「何かね、全くそんな不思議な処かね。」 「貴方、お疑り遊ばすと暴風雨になりますよ。」といって、塗盆を片頬にあてて吻々と笑った、聞えた愛嬌者である。島野は顔の皮を弛めて、眉をびりびり、目を細うしたのは謂うまでもない。 「それは可いが姉さん、心太を一ツ出しておくれな。」 「はい、はい。」 「待ちたまえ、いや、それともまた降られない内に帰るとするかね。」 「どういたしまして、降りませんでも、貴方川留でございますよ。」  方二坪ばかり杉葉の暗い中にむくむくと湧上る、清水に浸したのを突にかけてずッと押すと、心太の糸は白魚のごときその手に搦んだ。皿に装って、はいと来る。島野は口も着けず下に置いて、 「そうして何かい、ついぞまだそこへ行った者を見たことはないのか。」 「いいえ、私が生れましてから始めてでございますが、貴方どうでございましょう、つい少しばかり前にいらっしゃいました、太った乱暴な、書生さんが、何ですか、その姉さんがここへ参りましたことを御存じの様子で、どうだとお聞きなさいますから、それそれ申しますと、うむといったッきり駈出して、その方もまだお帰になりません。」 「え、そりゃ何か、目の丸い、」 「はい、お色の黒い、いがぐり天窓の。もうもう貴方のようじゃあございませんよ、おほほほ。」 「いや!」とばかりでこの紳士、何か早や、にたりとしたが、急に真面目になって、 「ちょッ、しようがないな。」 「貴方御存じの方なんですか。」 「うむ、何だよ、その娘の跡を跟けまわしてな、から厭がられ切ってる癖に、狂犬のような奴だ、来たかい! 弱ったな、どうも、汝一人で。」 「何でございます。」 「いえさ、連は無かったのか。」        四十三 「ただお一人でございましたよ、豪そうなお方なんです。それに仕込杖なんぞ持っていらっしゃいましたから、私達がかれこれ申上げた処で、とてもお肯入れはなさりますまいと、そう思いまして黙って見ておりましたが、無事にお帰りなされば可うございますがね。」  島野は冷然として、 「何、犬に食われて死にゃあ可いんだ。」 「だって、姉さんはお可哀そうじゃございませんか。」 「そりゃお互様よ。」 「あれ、お安くございませんのね。でも、あの、二度あることは三度とやら申しますから、今日の内また誰かお入りなさりはしまいかと言って、内の父様も案じておりますから、貴方またその姉さんをお助けなさろうの何のッて、あすこへいらっしゃるのはお止し遊ばしまし。」 「だが、その滝の傍までは行っても差支が無いそうじゃないか。」 「そこまでなら偶に行く人もございますが、貴方何しろ真暗だそうですよ。もうそこへ参りました者でも、帰ると熱を煩って、七日も十日も寝る人があるのでございます。」 「熱はお前さんを見て帰ったって同一だ、何暗いたッて日中よ、構やしない。きっとそこらにうろついているに違いない、ちょっと僕は。おい、姉さん帰りに寄ろう。」 「お気をお着け遊ばしていらっしゃいましよ。」  島野は多磨太が先じたりと聞くより、胸の内安からず、あたふた床几を離れて立ったが、いざとなると、さて容易な処ではない。ほぼ一町もあるという、森の彼方にどうどうと響く滝の音は、大河を倒に懸けたように聞えて、その毛穴はここに居る身にもぞッと立った。島野は逡巡して立っている。  折から堤防伝いに蹄の音、一人砂烟を立てて、斜に小さく、空を駆けるかと見る見る近づき、懸茶屋の彼方から歩を緩めて、悠然と打って来た。茶屋の際の葉柳の下枝を潜って、ぬっくりと黒く顕われたのは、鬣から尾に至るまで六尺、長の高きこと三尺、全身墨のごとくにして夜眼一点の白あり、名を夕立といって知事の君が秘蔵の愛馬。島野は一目見て驚いて呆れた。しっくりと西洋鞍置いたるに胸を張って跨ったのは、美髯広額の君ではなく、一個白面の美少年。頭髪柔かにやや乱れた額少しく汗ばんで、玉洗えるがごとき頬のあたりを、さらさらと払った葉柳の枝を、一掴み馬上に掻遣り、片手に手綱を控えながら、一蹄三歩、懸茶屋の前に来ると、件の異彩ある目に逸疾く島野を見着けた。 「島野、」と呼懸けざま、飜然と下立ったのは滝太郎である。  常にジャムを領するをもって、自家の光彩を発揮する紳士は、この名馬夕立に対して恐入らざるを得ないので、 「おや、千破矢様、どうして貴方、」と渋面を造って頭を下げる。その時、駿足に流汗を被りながら、呼吸はあえて荒からぬ夕立の鼻面を取って、滝太郎は、自分も掌で額の髪を上げた。 「おい、姉や。」 「はい、」 「水を一杯、冷いのを大急だ。島野、可い処でお前に逢ったい。おいら、お前ン処の義作の来るまで、あすこの柳にでも繋いでおこうと思ったんだけれど、お前が居りゃあ世話はねえ。この馬返すからな、四十物町まで持って行ってくんねえ、頼むぜ、おい。」  呆れたものいいと、唐突の珍客に、茶屋の女どもは茫乎。        四十四  島野は、時というとこの苦手が顕れるのを、前世の因縁とでもいいたげな、弱り果てて、 「へい、その馬を持って帰れとおっしゃるんですか。」  と不平らしい顔をした。 「そうよ。」 「一体その何でございますが、私はどうも一向馬の方は心得ませんもんですから。」 「大丈夫だ。こう、お前一ツ内端じゃあねえか、知己だろう、暴れてくれるなって頼みねえ、どうもしやあしねえやな。そして乗られなかったら曳いて行くさ。だからちったア馬に乗ることも心懸けておくこッた、女にかかり合っているばかりが芸じゃあねえぜ。どうだ、色男。」と高慢なことを罪もなくいって、滝太郎は微笑んだ。 「失敬な。」も口の裡で、島野は顔を見らるると極悪そうに四辺をきょろきょろ。茶店の女は、目の前にほっかりと黒毛の駒が汗ばんで立ってるのを憚って、密と洋盃を齎らした。右手をのべて滝太郎が受ける時、駒は鬣を颯と振った。あれと吃驚して女は後へ。若君は轡を鳴らして、しっかと取りつつ、冷水の洋盃を長く差伸べて、盆に返し、 「沢山だ。おい、可いか、島野、預けるぜ。」  屹と向直って、早く手綱を棄てようとする。島野は狼狽えて両手を上げて、 「若様どうぞ、そりゃ平に、」とばかり、荒馬を一頭背負わされて、庄司重忠にあらざるよりは、誰かこれを驚かざるべき。見得も外聞も無しに恐れ入り、 「平に御容赦てッたような訳なんです。へい、全く不可ません。それにちっと待合わせるものもあるんでございますから。」  と窮したる笑顔を造って、渠はほとんど哀を乞う。  滝太郎は黙って頷くと斉しく、駒の鼻頭を引廻らした。蹄の上ること一尺、夕立は手綱を柳の樹に結えられて嘶いた。 「島野、おい、島野。」  この声を聞くごとに、実のこッた、紳士はぞッとする位で。 「へい、御用ですか。」 「お前、待合わせるものがあるッて、また別嬪じゃあねえか、花売のよ。」 「御串戯を、」と言ったが、内心抉られたように、ぎっくりして、穏ならず。  滝太郎は戯にいったばかり。そのまま茶屋の女を見返り、 「何ぞ食べるものをくれねえか、多い方が可いぜ。」 「姉さんおいしいものを、早く、冷たくして上げるが可い。」と、島野はてれ隠しに世辞をいった。 「はい、西瓜でも切りましょうか。心太、真桑、何を召あがります。」 「そんな水ッぽいもんじゃあねえや、べらぼうめ、そこいらに在る、有平だの、餡麺麭だの、駄菓子で結構だ。懐へ捻込んで行くんだから紙にでも包んでくんな。」と並べた箱の中に指しをする。 「どちらへいらっしゃいます。」 「石滝よ。」  驚いたのは茶店の女ばかりではない、島野も思わず顔を視める。 「兵粮だ、奥へ入って黒百合を取って来ようというんだから、日が暮れようも分らねえ。ひもじくなるとそいつを噛らあ、どうだ、お前、勇美さんに言いねえ、土産を持って行ってやるからッてよ。」 「途方もない、若様。それを取ろうッて、実はつい先刻だそうです。あの花売の女も石滝へ入ったんです。」 「うむ、」といった滝太郎の顔の色は動いた。滝の響を曇天に伝えて聞える、小川の彼方の森の方を、屹と見て、すっくと立って、 「あの阿魔がかい、そいつあ危え!」  先立って二度あることは三度とやら、見通の法印だった、蔵屋の亭主は奥から慌しく顔を出して、 「そりゃこそ、また一人。」        四十五 「やあ、島野さん、千破矢の若様はどうしました。」 「義作じゃないか、一体ありゃあどうしたんだね。お前、魔物が夕立に乗って降って来たから、驚いたろうじゃあないか。」と半は独言のようにぶつぶついう。  被った帽も振落したか、駆附けの呼吸もまだはずむ、お館の馬丁義作、大童で汗を拭き、 「どうしたって、あれでさ、お前様、私ゃ飛んでもねえどじを行ったで。へい、今朝旦那様をお役所へ送ってね、それからでさ、獣を引張って総曲輪まで帰って来ると、何に驚いたんだか、評判の榎があるって朝っぱらから化けもしめえに、畜生棹立になって、ヒイン、え、ヒインてんで。」 「暴れたかね。」 「あばれたにも何も、一体名代の代物でごぜえしょう、そいつがお前さん、盲目滅法界に飛出したんで、はっと思う途端に真俯向に転ったでさ。」 「おやおや、道理で額を擦剥いてら。」  義作は掌でべたべたと顔を撫でて、 「串戯じゃあがあせん、私ゃ一期で、ダーだと思ったね、地ん中へ顔を埋めてお前さん、ずるずると引摺られたから、ぐらぐらと来て気が遠くなったんで。しばらくして突立って、わってッて追い駆けると、もうわいわいという騒ぎで、砂煙が立ってまさ。あれから旅籠町へ抜けて、東四十物町を突切って、橋通りへ懸って神通を飛越そうてえ可恐い逸れ方だ。南無三宝、こりゃ加州まで行くことかと息切がして蒼くなりましたね。鳥居前のお前さん、乱暴じゃあがあせんか、華族様だってえのにどうです、もっともまああの方にゃあ不思議じゃねえようなものの、空樽の腰掛だね、こちとらだって夏向は恐れまさ、あのそら一膳飯屋から、横っちょに駆出したのが若様なんです。え、滝先生、滝公、滝坊、へん滝豪傑、こっちの大明神なんで。」とぐっと乗り、拳を握って力を入れると、島野は横を向いて、 「ふむ。」 「どうです、威勢が可いじゃがあせんか。突然畜生の前へ突立ったから、ほい、蹴飛ばされるまでもねえ、前足が揃って天窓の上を向うへ越すだろうと思うと、ひたりと留ったでさ。畜生、貧乏動をしやあがる腮の下へ、体を入れて透間がねえようにくッついて立つが早いか、ぽんと乗りの、しゃんしゃんさ。素人にゃあ出来やせん。義作、貸しねえ貸しねえてって例の我儘だから断りもされず、不断面倒臭くって困ったこともありましたっけが、先刻は真のこった、私ゃ手を合わせました。どうしてお前さんなんざ学者で先生だっていうけれど、からそんな時にゃあ腰を抜かすね。へい。何だって法律で馬にゃあ乗れませんや、どうでげす。」 「はい、お茶を一ツ。」  大気焔の馬丁は見たばかりで手にも取らず、 「おう、そんなもなあ、まだるッこしい。今に私ゃそこに湧いてるのに口をつけて干しちまうから打棄っておきねえ。はははは、ええ島野さん。おいらこれから石滝へ行くから、お前あとから取りに来ねえ、夕立はちょいと借りるぜって、そのまま乗出したもんだからね、そこいら中騒いでた徒に相済みませんを百万だら並べたんで。転んだ奴あ随分あったそうだけれど、大した怪我人もなし、持主が旦那様なんですから故障をいう奴もねえんで、そっちゃ安心をして追駈けて来ましたが、何は若様はどちらへ行ったんで。」 「じゃあ、その何だろう、馬騒ぎで血逆上がしたんだろう、本気じゃあないな。兵粮だって餡麺麭を捻込んで、石滝の奥へ、今の前橋を渡ったんだ、ちょうど一足違い位なもんだ。」 「やッ、」というて目を睜る義作と一所に吃驚したのは、茶店の女で、向うの鍵屋の当の敵、お米といって美しいのが、この折しも店先からはたはたと堤防へ駆出したことである。故こそあれ腕車が二台。        四十六 「もしもしちょいとどうぞ、どうぞちょいとお待ち遊ばして。」と路を遮ったので、威勢の可い腕車が二台ともばったり停る。米は顔を赤らめて手を膝に下げて、 「恐入ります、御免下さいまし。どちらの姫様ですか存じませんが、どうぞあちらへいらっしゃいましたら、私どもへお休み遊ばして下さいまし、後生でございます。」  先に腕車に乗ったのは、新しい紺飛白に繻子の帯を締めて、銀杏返に結った婦人。 「何だね、お前さん。」 「はい、鍵屋と申します御休憩所でございますが、よそと張合っておりますので。  今朝から向にばかりお客がございます処へ、またお馬に召した立派な若様がお立寄でございました。あのお倉さんというのが、それはもうこれ見よがしで、私は居ても立ってもいられません。あんまり悔しゅうございますから、どんなにお叱り遊ばしても宜うございます、お見懸け申しましてお願い申します。助けると思召して後生でございます、私どもへ。」  とおろおろ声で泣くようにいう。 「おや、じゃああのお茶屋の姉さんかい。」 「はい、さようでございます。」 「それでは御馳走をしてくれますか、」と背後の腕車で微笑みながらいったのは、米が姫様と申上げた、顔立も風采もそれに叶った気高いのが、思懸けず気軽である。  女はかえって答もなし得ず、俯向いてただお辞儀をした。 「それじゃ若衆さん。」 「おう、鍵屋だぜ。」 「あい、遣んねえ。」  車夫は呼交わしてそのまま曳出す。米は前へ駆抜けて、初音はこの時にこそ聞えたれ。横着にした、楫棒を越えて、前なるがまず下りると、石滝界隈へ珍しい白芙蓉の花一輪。微風にそよそよとして下立った、片辺に引添い、米は前へ立ってすらすらと入るのを、蔵屋の床几に居た両人、島野と義作がこれを差覗いて、慌しくひょいと立って、体と体が縒れるように並んで、急足につかつかと出た。 「お嬢様。」 「へい、お道どん、御苦労だね。」 「おや、義作さん、ここに。」  勇美子は店さきに入ろうとしたが、不意に会った内の者を顧みて、 「島野さんも来ていたの。」 「ええ、僕は大分久しい前からなんです。義作君はたった今、その馬が放れました一件で。」 「実は何でございます、飛んだ疎匆をいたしやして、へい。ねえ、お道どん、こういう訳なんだ、実は、」 「はあ、そりゃもう、路で聞きましたよ、飛んだことだったね、でもまあ可い塩梅に。」 「御家来さん、危うがしたな。」 「しかし怪我アしなさらなくって何よりだったよ。」と車夫どもは口々なり。お道もまた、 「そうねえ。」 「ええ、もう私ゃ怪我なんぞ厭やしませんが、何、皆千破矢の若様のお庇なんで、へい。」 「ちょいとどうなすったの、滝太郎さんは。」と姫は四辺を見て、御意遊ばす。 「お馬はあすこに居るじゃあないかね。」 「お嬢様、何ですか、その事でこちらへお越しなんですか。」 「何あのお雪のことなの。」 「姉さん、花売なんだがね、十八九でちょっとそういった風な女を見当りはしなかったかい。」  お道に聞かれて米が答えようとするのを、ちゃっと引取ったのは今両人が鍵屋の女客に引付けられて、店から出るのに気を揉んで、あとからついて出て立っている蔵屋の女。 「その人なら、存じております、今朝ほどでございました。」 「私だって知ってます。」と、米はつんとして倉を流盼。        四十七 「貴方の黒百合を採りたいって、とうとう石滝へ入ったそうです。」と、島野が引取って慎重にこれを伝える。  勇美子はその瞳を屹と凝らしたが、道は聞くと斉しく、顔の色を変えた。 「お嬢様、どういたしましょう。」 「困ったね、少しお待ち、あの、お前だち誰も中の様子を知らないかい。」 「はい、ちっとも。」 「あの、少しも存じません。」 「それはもう誰も知ったものはござりますまい。」  と車夫の一人。 「島野さん、義作さん、どうしたら可いでしょう。お嬢様が御褒美をお賭けなすったのを、旦那様がお聞遊ばすと、もっての外だ、間違いに怪我でもさせたらどうする、外の内の者とは違うぞ、早く留めろと有仰るの。承わると実に御道理な事だから、早速あの娘にそういおうと思って、昨日のことなんです、またこないだからふッとお邸には来ないもんですから、昨日その金子は只でお遣わしになることになって、それを持って私があそこへ、あの湯の谷の家へ行くと居ないんです。荒物屋から婆さんが私の姿を見ると、駆けて出て、取次いで、その花のことについて相談をされたのは私ばかり、はじめは滅相なと思ったが、情を察すると無理はないので、泣の涙で合点しました。今日あたりはもう参ったかも知れませぬ、することが天道様の思召に叶ったら無事で帰って参りましょう。内に居る書生さんの旦那にはごく内々だから黙っておいて、とこういうことです。実はと訳をいって、お金子は預けておこうとすると、それは本人へ直にといって承知しません。無理もないと引返して、夜も寝ないで今朝、起きがけに行くともう居ないんです。また婆さんが出て、昨夜は帰りました、その事をいって聞かせると、なおのことそのお情に預っては、きっと取って来て差上げずにはと、留めるのも肯かないで行ったといいます。  ええ、何の知事様から下さるものを、家一つ戴いて何程の事があろう、痩我慢な行過ぎだと、小腹が立って帰りましたが、それといって棄てておかれぬ、直ぐにといってお嬢様が、ちょうどまたお加減が悪い処、かれこれして遅くなりましたけれども、お体のお厭いもなく遠方をお出懸けになったのに、まあ飛んだことをしちまったんでございますねえ。」  と道は落着かず胡乱々々する。  一同顔を見合せた。  義作一名にやりにやり 「可うがす、何、大概大丈夫でしょう、心配はありますまいぜ。諺にも何でさ、案ずるより産むが易いって謂いまさ。」 「何だね、お前さん。」とそこどころではない、道は窘めるがごとくにいった。  義作あえてその(にやり)なるものを止めず。 「いえ、女ってえものは、またこれがその柔よく剛を制すといった形でね。喧嘩にも傍杖をくいません、それが証拠にゃあ御覧じろ、人ごみの中でもそんなに足を蹈つけられはしねえもんだ。」 「ちょいとお黙り。高慢なことをお言いでない、お嬢様がいらっしゃるよ。」 「ですからさ、そっちにお嬢様がいらっしゃりゃ、こっちにゃあまた滝公、へん、滝の野郎てえ豪傑がついてまさ。」 「あれだもの。」 「どうでえ阿魔、一言もあるめえ恐入ったか。」 「義作さん可加減におしな。お嬢様は御心配を遊ばしていらっしゃるんですよ。」 「だから、その御心配には及びますめえッてこった。難かしい事あない、娘さい無事なら可いんでしょう。そこは心得てまさ、義作が心得たといっちゃあ、馬に引摺られたからとあって御信仰が薄いでしょうが、滝大明神が心得てついてます。今も島野さんに承わりゃ、あとからついて入んなすったそうで、何、またあの豪傑が行きさえすりゃ、」といいかけて、額を押え、 「や、天狗が礫を打ちゃあがる。」  雨三粒降って、雲間に響く滝の音が乱れた。風一陣!        四十八 「女中さん、降って来そうでございます、姫様におっしゃって、まあ、お休みなさいましな」と米は程合を見計らう。 「ああ、そういたしましょうねえ、お嬢様。」  黙って敏活の気の溢れた目に、大空を見ておわした姫様は、これに頷いて御入があろうとする。道はもとより、馬丁義作続いて島野まで、長いものに巻かれた形で、一群になって。米は鍵屋あって以来の上客を得た上に、当の敵の蔵屋の分二名まで取込んだ得意想うべく、わざと後を圧えて、周章てて胡乱々々する蔵屋の女に、上下四人をこれ見よがし。 「お懸けなさいまし、」と高らかに謂った。  蔵屋の倉は堪りかねて、睨めながら米を摺抜けて、島野に走り寄った。 「旦那様、若衆様とお二方は、どうぞ私どもへお帰りを願いとう存じます。」 「そうだ、忘れ物もあるし後で寄るよ。」 「はい、お忘物はこちらへ持って参りましても宜しゅうございます。申兼ねますがどうぞいらっしゃって下さいまし、拝むんでございます、あの、後生になるのでございます。」 「可いじゃあないか、何も後にだってよ。」  義作が仔細を心得て、 「競争をしてるんでさ、評判なんで。おい、姉さん、御主人様がこちらへお褥が据るから、あきらめねえ、仕方がねえやな。いえさ、気の毒だ、私あ察するがね、まあ堪忍しなさい。」 「それでもどうぞ姫様にお願い遊ばして。」 「何をいうんですよ、馬鹿におしなさいねえ。」  と米は傍から押隔てると、敵手はこれなり、倉は先を取られた上に、今のお懸けなさいましで赫となっている処。 「止してくれ、人、身体に手なんぞ懸けるのは、汚れますよ。」 「何を癩が。」 「磔め。」と角目立ってあられもない、手先の突合いが腕の掴合いとなって、頬の引掻競。やい、それと声を懸けるばかりで、車夫も、馬丁も、引張凧になった艶福家島野氏も、女だから手も着けられない。 「留めておやり。道や、」 「ちょいと、串戯じゃあないよ、お前様方はどうしたもんです。これお放し、あれさ、お放しというに、両方とも恐しい力だ。こっちはお嬢様がそれどころじゃあないのだのに、お前さんまでがお気を揉ませ申すんだよ。可加減におし、あれさ、可いやね、そんなら私が素裸になって着物を地に敷いて、その上へ貴女を休ませ申すまでも、お前達の世話にゃあならない、どちらへも休みはしないからそう思っておくれ。」とすっきりいった。両人は左右に分れたが、そのまま左右から、道の袖を捉まえて、ひしと縋って泣出したのである。道は弱って手を束ねてぼんやりとするのを見て、勇美子は早やばらばらと音のする雨も構わず、手を両人の背にかけて、蔵屋と、鍵屋と、路傍に二軒ならんだのに目を配って、熟と見たまい、 「二人とも聞きな、可いことを教えてあげよう、しょッちゅうそんなことをしていては、どちらにも好いことはないよ。こうおし、お前の処のお客は註文のあった食物をお前の処から持運ぶし、お前の処のお客はお前の店から持って行くことにして、そして一月がわりにするの。可いかい、怨みっこ無しに冥利の可い方が勝つんだよ。」 「おや、お嬢様、それでは客と食物を等分に、代り合っていたします。それでいてお茶代が別にあったり何かすると、どちらが何だか分らないで、怨はいつの間にか忘れてしまいましょう。なるほどその事たよ。さあ、二人とも、手を拍ったり。」 「やあ、占めろ。」といって、義作は景気よく手を拍った。女は両人、晴やかな勇美子の面を拝んだ。  折柄荒増る風に連れて、石滝の森から思いも懸けず、橋の上へ真黒になって、転けつ、まろびつ、人礫かと凄じい、物の姿。        四十九  あれはと見る間に早や近々と人の形。橋の上を流るるごとく驀直に、蔵屋へ駆込むと斉しく、床几の上へ響を打たせて、どたりと倒れたのは多磨太である。白墨狂士は何とかしけむ、そのままどたどたと足を挙げて、苦痛に堪えざる身悶して、呻吟く声吠ゆるがごとし。  鍵屋の一群はこれを見て棄て置かれず、島野に義作がついて店前へ出向いて、と見ると、多磨太は半面べとり血になって、頬から咽喉へかけ、例の白薩摩の襟を染めて韓紅。 「君、どうしたんです。」と島野は驚いたが、薄気味の悪さうに密と手をとって、眉を顰めた。  鍵屋では及腰に向うを伺い、振返って道が、 「あれ、怪我をしておりますようです、どうしたんでございましょう。」  勇美子も夜会結びの鬢を吹かせ、雨に頬を打たせて厭わず、掛茶屋の葦簀から半ば姿をあらわして、 「石滝から来たのじゃあなくって。滝さんとお雪はどうしたろうね、」とこれは心も心ならない。道はずッと出て手招をした。 「義作さん、おおい、ちょいとお出よ、お出よ。」 「へッ、」と云って、威勢よく飛んで帰る。 「何だね、どうしたのさ、あれ大変呻吟くじゃあないか。」 「え、雀部さんの多磨太なんで、から仕様が無えんです。何だそうで、全体心懸が悪うがすよ。ありゃね、しょッちゅう、あの花売を追懸廻していたんで、今朝も、お前、後を跟けて石滝へ入ったんだと。え何、力になろうの、助けてやろうという贅沢なんじゃあねえんでさ。お道どん、お前の前だけれどもう思い切ってるんだからね、人の入らねえ処だし、お前、対手はかよわいや。そこでもってからに、」といいかけて、ちょっと姫様を見上げたので声を密めた。 「だね、それ、狼って奴だ。お前、滝の処はやっぱり真暗だっさ。野郎とうとう、めんないちどりで、ふん捕えて、口説こうと、ええ、そうさ、長い奴を一本引提げて入ったって。大刀を突着けの、物凄くなった背後から、襟首を取ってぐいと手繰つけたものがあったっさ。天狗だと思って切ってかかったが、お前、暗試合で盲目なぐりだ。その内、痛えという声がする、かすったようだけれども、手応があったから、占めたと、豪くなる途端にお前。」  義作は左の耳から頬へかけて掌ですぺりと撫でて、仕方を見せ、苦笑をして、 「片耳ざくり、行って御覧じろ、鹿が角を折ったように片一方まるで形なしだ。呻吟くのはそのせいさ、そのせいであの通りだ。急所じゃがあせんッて、私もそう言ったんで、島野さんも、生命にゃあ別条はないっていうけれどね、早く手当をしてくれ、破、破、破傷風になるって騒ぐんで、ずきりずきりと脈を打っちゃあ血が湧くのが肝にこたえるって掙いてね、真蒼です。それでも見得があるから、お前、松明をつけて行って見ろ、天狗の片翼を切って落とした、血みどろになった鳶の羽のようなものが落ちてたら、それだと思えなんて、血迷ってまさ。大方滝太郎様にやられたんでしょう、可い気味だ、ざまあ! はははは。やあ、苦しがりやあがって、島野さんの首っ玉へ噛りついた。あの人がまた、血を見ると癲癇を起すくらい臆病だからね。や、慌ててら、慌ててら、それに一張羅だ、堪ったもんじゃあねえ。躍ってやあがる、畜生、おもしれえ!」とばかりで雨を潜って、此奴人の気も知らず剽軽なり。 「道、滝さんが怪我をなさりやしないのか。」 「さようでございますね、」と、顔と顔。        五十 「小主公お久振でござりました、よく私の声にお覚えがござりますな。へい、貴方がお目の悪いことも、そのために此家の女が黒百合を取りに参りましたことも、早いもので、二日前のことだそうですが、もう市中で評判をいたしております。もっともことのついでに貴方のお噂がござりませんと、三年越お便は遊ばさず、どこに隠れてお在なさりますか、分りませんのでござりました。目がお見えなさらないというだけは不吉じゃあござりましたが、東京の方だというし、お年の比なり御様子なり、てっきり貴方に違いないと、直ぐこちらへ飛んで参り、向うのあの荒物屋で聞いてお尋ね申しました。小主公、何は措きまして御機嫌宜しく。」 「慶造、何につけても、お前達にもう逢いたくはなかったよ。」  と若山は花屋の奥に端近く端座して、憂苦に窶れ、愁然として肩身が狭い。慶造と呼ばれたのは、三十五六の屈竟な漢、火水に錬え上げた鉄造の体格で、見るからに頼もしいのが、沓脱の上へ脱いだ笠を仰向けにして、両掛の旅荷物、小造なのを縁に載せて、慇懃に斉眉く風あり。拓の打侘びたる言を聞いて、憂慮わしげにその顔を見上げたが、勇気は己が面に溢れつつ、 「御心中お察し申しますが、人間は四百四病の器、病疾には誰だって勝たれませぬ、そんなに気を落しなさいますな。小主公、良いお音信がござりますぜ、大旦那様もちょうどこの春、三月が満期で無事に御出獄でござりました。こちらでも新聞がござりますなら、疾くに御存じでござりましょう。」  若山は色を動かして、 「そうか、私はまた何も彼も思切って、わざと新聞なぞは耳に入れないように勤めているから、そりゃちっとも知らずに居た、御無事に。……そうかい、けれども慶造、私はお目にかかられまい。」と額に手を翳して目を蔽うたのである。 「なぜでございます、目をお損いになりましたせいでござりますか。」 「むむ、何それもあるけれども、私が考で、家を売り、邸を売り、父様がいらっしゃる処も失くなしたし。」 「それは御心配ござりません、貴下が放蕩でというではなし、御望がおあり遊ばしたとはいえ、大旦那様が迷惑をお懸け遊ばした方々の債主へ、少しずつお分けになったのでござりますもの、拓はよくしたとおっしゃったのを、私が直に承わりましてござります。」 「そして今どこにいらっしゃるんだな。」 「へい、組合の方でお引取申しました。海でなり、陸でなり、一同旗上げをいたします迄はしばらくおかくれでござります。貴方もこういう処はお立退になって、それへ合体が宜しゅうござりましょう。ちょうどこの国へ参りがけに加州を通りまして、あすこであの白魚の姉御にも逢いました。」 「何、お兼に逢った、加賀といえばつい近所へ来ているのか。」 「さようでござります、この頃盛に工事を起しました、倶利伽羅鉄道の工夫の中へ交り込んで、目星いのをまた二三人も引抜いて同志につけようッて働いておりますんで。一体富山でしばらく働いたそうでござりますに、貴方をお見着け申さなんだのは、姉御が一代の大脱落でござりましょう。その代り素ばらしいのを一名、こりゃ、華族で盗賊だと申しますから、味方には誂向き、いざとなりゃ、船の一艘ぐらい土蔵を開けて出来るんでござります。金主がつけば竜に翼だ、小主公、そろそろ時節到来でござりましょうよ。」と慶造が勇むに引代え、若山は打悄れて、ありしその人とは思われず。渠は非職海軍大佐某氏の息、理学士の学位あって、しかも父とともに社会の暗雲に蔽われた、一座の兇星であるものを!        五十一  慶造は言効なしとや、握拳を膝に置き、面を犯さんず、意気組見えたり。 「小主公、貴方はなぜそう弱くおなんなすったね、病なんざ気で勝つもんです。大方何でしょう、そんな引込思案をなさいますのは、目のためじゃあござりますまい。かえってその御病気のために、生命も用らないという女のあるせいでしょう。可うがす、何そりゃ好いた女のためにゃあ世の中を打棄るのも、時と場合にゃ男の意地でさ、品に寄っちゃあ城を一百一束にして掌に握るのと違わねえんでございましょうが、何ですぜ、野郎の方で、はあと溜息をついて女児の膝に縋るようじゃあ、大概の奴あそこで小首を傾げまさ。汝のためならばな、兜も錣も何ちも用らない、そらよ持って行きねえで、ぽんと身体を投出してくれてやる場合もあります代りにゃ、女の達引く時なんざ、べらんめえ、これんばかしの端をどうする、手の内ア受けねえよ、かなんかで横ッ面へ叩きつけるくらいでなくッちゃあ、不可ませんや。=苦労しもする、させもする=ていのはそりゃあ心意気でさ。」  慶造は威勢よくぽんと一ツ胸を叩いた。 「ここにあるこッてす。顔へ済まねえをあらわして、さも嬉しそうに難有え、苦労させるなんて弱い音を出して御覧じろ、奴さんたちまちなめッちまいますぜ。殊に貴方だ、誰だと思ってるんだ、お言の一ツも懸けられりゃ勿体ねえと心得るが可い位の扱いで、結構でがす。もっとも、まあこうやって女の手一つで立過して、そんな恐ねえ処へ貴方のために参ったんだ、憎くはありません、心中者だ。ですが、そりゃ私どもはじめ世間で感心する事で、当の対手は何の女ッ子の生命なんざ、幾つ貰ったって髢屋にも売れやしねえ、そんな手間で気の利いた香の物でも拵えろと、こういった工合でなくッちゃ色男は勤まりませんよ。何でも不便だ、可愛いと思うほど、手荒く取扱って、癇癪を起してね、横頬を撲りのめしてやりさえすりゃ惚れた奴あ拝みまさ。貴方も江戸児じゃあがあせんか。いえさ、若山さんの小主公でしょう。女の心中立を物珍らしそうに、世の中にゃあ出ねえの、おいらこれッきりだのと、だらしのねえ、もう、情婦を拵えるのと、坊主になるのとは同一ものじゃあございませんぜ。しかしまあ盲目におなんなすったから、按摩にゃあかけがえのねえ女だと、拝んでるんでしょう。でれでれとするのはお金子のある分だ、貴方のなんざ、女に縋るんだから堪りませんや。え、もし、そんなこッちゃあ女にだって愛想をつかされますぜ。貴方ほどの方がどういうもんです。いや、それとも按摩さんにゃあ相当か。」と、声を激ましていいながら、慶造は、目の見えぬ、窶れた若山の面を見守って、目には涙を湛えていた。 「慶造!」と一喝した、渠は蒼くなって、屹と唇を結んだ。 「ええ、」 「用意が出来たらいつでも来い、同志の者の迎なら、冥途からだって辞さないんだ。失敬なことをいう、盲人がどうした、ものを見るのが私の役か、いざといって船出をする時、船を動かすのは父上の役、錨を抜くのは慶造貴様の職だ。皆に食事をさせるのはお兼じゃあないか。水先案内もあるだろう、医者もあろう、船の行く処は誰が知ってる、私だ、目が見えないでも勝手な処へ指揮をしてやる、おい、星一ツない暗がりでも燈明台なんぞあてにするには及ばんから。」  と説き得て、拓は片手を背後へついて、悠然として天井を仰いだ。 「難有うござります。おお、小主公。」と、慶造は思わず縁側に額をつけた。        五十二 「いやもう久ぶりで癇癪をお起しなすって、こんな心持の可いことはござりません。私ゃ変な癖で、大旦那と貴方の癇癪声さえ聞きゃ、ぐっとその溜飲の下りますんで。へい、それで私も安心でござります、ついお心持を丈夫にしようとッて前のように太平楽は並べましたものの、私も涙が出ます、実は耐えておりました。」  慶造は情なさそうに笑いながら、 「大旦那様はそんなにも有仰ゃりますまいが、貴方の御病気の様子を奥様がお聞きなすって御覧じろ、大旦那様の一件で気病でお亡り遊ばしたようなお優しい、お心弱い方がどんなにお歎きでござりましょう。今じゃあ仏様で、草葉の蔭から、かえって小主公をお守りなすっていらっしゃるんで、その可愛い貴方のためにそういう処へ参りました娘なら、地獄だって、魔所だって、きっとお守りなさいましょうから、御心配にゃあ及びますまい。望の黒百合の花を取ってやがて戻って参りましょうが、しかし打遣っちゃあおかれません、貴方に御内縁の嬢さんなら、私にゃ新夫人様。いや話は別で、そうかといって見ております訳ではござりません。殊に千破矢様というのがその後へおいでなすったという風説、白魚の姉御がいった若様なんで、味方の大将を見殺にはされません。もっとも直ぐにその日、一昨日でござりますな、少からぬ係合の知事様の嬢さんも、あすこの茶屋まで駈着けましたそうで。あれそれと小田原をやってる処へ、また竜川とかいう千破矢の家の家老が貴方、参ったんだそうで、御主人の安否は拙者がか何かで、昔取った杵柄だ、腕に覚えがありますから、こりゃ強うがす、覚悟をして石滝へ入ろうとすると、どうでございましょう。四五間しかないそうですが、泥水を装って川へ一時に推出して来た、見る間に杭を浸して、早や橋板の上へちょろちょろと瀬が着く騒。大変だという内に、水足が来て足を嘗めたっていうんです。それがために皆が一雪崩に、引返したっていいますが、もっとも何だそうで、その前から風が出て大降になりました様子でござりますな。」 「ああ、その事は昨日知事の内から、道とかいう女中が来て私にいった。ちょいちょい見舞ってくれるんだ、今日もつい前に帰ったから聞いているよ。」 「それからはまるで三日、富山中は真暗で、止むかと思うと滝のように降出します。いや神通が切れた、郷屋敷田圃の堤防が崩れた、牛の淵から桜木町へ突懸る、四十物町が少し引くかと思うと、総曲輪が湖だという。それに、間を置いちゃあ大雨ですから市中は戦です。壁が壊れたり、材木が流れたりしますんですが、幸いまだ家が流れる程じゃあないので、ちょうど石滝の方は橋が出たという噂ですから、どうにか路は歩行かれましょう。お目に懸って、いよいと貴方でございます日にゃあ、こっちの嬢さんは御主人なり、一方にゃあ姉御がいった若様もいらっしゃる。どうでございましょう、この辺は水は大丈夫でございますか、もしそれが心配だと貴方ばかりではお目の御不自由、と打遣っちゃあ参られませんが。」 「慶造、六十年近くもここに居る荒物屋の婆さんがいうんだ、水には大丈夫だそうだから、私には構わんでも可い。」  心安く言ったので、慶造は雀躍をして、 「それじゃあ後髪を引かれねえで、可うがす。お二人の先途を見届けて参りましょう。小主公お気を着けなすって、後ともいわず直ぐに、」  といった。折からの雨はまた篠を束ねて、暗々たる空の、殊に黄昏を降静める。  慶造は眉を濡らす雫を払って、さし翳した笠を投出すと斉しく、七分三分に裳をぐい。 「してこいなと遣附けろ、や、本雨だ、威勢が可いぜえ。」        五十三  開戸から慶造が躍出したのを、拓は縁に出て送ったが、繁吹を浴びて身を退いて座に戻った、渠は茫然として手を束ぬるのみ。半は自分の体のごときお雪はあらず、余の大降に荒物屋の媼も見舞わないから、戸を閉め得ず、燈を点けることもしないで、渠はただ滝のなかに穴あるごとく、雨の音に紛れて物の音もせぬ真暗な家の内に数時間を消した。夜も初更を過ぎつと覚しい時、わずかに一度やや膝を動かして、机の前に寄ったばかり。三日の内にもかばかり長い間降詰めたのは、この時ばかりであった。おどろおどろしい雨の中に、遠く山を隔てた隣国の都と思うあたり、馳違う人の跫音、ものの響、洪水の急を報ずる乱調の湿った太鼓、人の叫声などがひとしきりひとしきり聞えるのを、奈落の底で聞くような思いをしながら、理学士は恐しい夢を見た。  こはいかに! 乾坤別有天。いずこともなく、天麗かに晴れて、黄昏か、朝か、気清しくして、仲秋のごとく澄渡った空に、日も月の形も見えない、たとえば深山にして人跡の絶えたる処と思うに、東西も分かず一筋およそ十四五町の間、雪のごとく、霞のごとく敷詰めた白い花。と見ると卯の花のようで、よく山奥の溪間、流に添うて群生ずる、のりうつぎ(サビタの一種)であることを認めた  時にそよとの風もなく、花はただ静かに咲満ちて、真白な中に、ここかしこ二ツ三ツ岩があった。その岩の辺りで、折々花が揺れて、さらさらと靡くのは、下を流るる水の瀬が絡まるのであろう、一鳥声せず。  理学士は、それともなく石滝の奥ではないかと、ふと心着いて恍惚となる処へ、吹落す疾風一陣。蒼空の半を蔽うた黒い鳥、片翼およそ一間余りもあろうと思う鷲が、旋風を起して輪になって、ばッと落して、そのうつぎの花に翼を触れたと見ると、あッという人の叫声。途端に飜って舞上った時に、粉吹雪のごとくむらむらと散って立つ花片の中から、すっくと顕れた一個の美少年があった。捲り手の肱を曲げて手首から、垂々と血が流れる拳を握って、眦の切上った鋭い目にはッたと敵を睨んだが、打仰ぐ空次第に高く、鷲は早や光のない星のようになって消えた。  少年は、熟とその勁敵の逸し去ったのを見定めた様子であったが、そのまま滑かな岩に背を支えて、仰向けに倒れて、力なげに手を垂れて、太く疲れているもののようである。  やや有って、今少年が潜んでいた同じ花の下から密と出たのはお雪であった。黒髪は乱れて頸に縺れ頬に懸り、ふッくりした頬も肉落ちて、裾も袂もところどころ破れ裂けて、岩に縋り草を蹈み、荊棘の中を潜り潜った様子であるが、手を負うた少年の腕に縋って、懐紙で疵を押えた、紅はたちまちその幾枚かを通して染まったのである。  お雪は見るも痛々しく、目も眩れたる様して、おろおろ声で、 「痛みますか、痛みますか。」というのが判然聞える。  眠れるか、少年はわずかにその頭を掉ったが、血は留らず、圧えた懐紙は手にも耐らず染まったので、花の上に棄てた。一点紅、お雪は口を着けてその疵口を吸ったのである。  唇が触れた時、少年は清しい目を睜って屹と見たが、また閉じて身動きもせず、手は忘れたもののようにお雪がするままに任せていた。  両人が姿を見ると、我にもあらず、理学士が肉は動いたのである。        五十四  しばらくするとお雪は帯の端を折返して、いつも締めている桃色の下〆を解いて、一尺ばかり曳出すと、手を掛けた衣は音がして裂けたのである。  その切で疵を巻いて、放すと、少年はほとんど無意識のごとく手を曲げて胸に齎して咽喉のあたりへ乗せたが、疲れてすやすやと睡った様子。顔のあたり、肩のあたり、はらはらと、来て、白く溜って、また入乱れて立つは、風に花片が散るのではない、前に大鷲がうつぎの森の静粛を破って以来、絶えず両人の身の辺に飛交う、花の色と等しい、小さな、数知れぬ蝶々で。  お雪は双の袂の真中を絞って持ち、留まれば美しい眉を顰める少年の顔の前を、絶えず払い退け、払い退けする。その都度死装束として身装を繕ったろう、清い襦袢の紅の袂は、ちらちらと蝶の中に交って、間あれば、おのが肩を打ち、且つ胸のあたりを払っていたが、たちまち顔を顰めて唇を曲げた。二ツ三ツ体を捩ったが慌しい、我を忘れて肌を脱いだ、単衣の背を溢れ出づる、雪なす膚にも縺るる紅、その乳のあたりからも袂からも、むらむらとして飛んだのは、件の白い蝶であった。  我身半はその蝶に化したるかと、お雪は呆れ顔をして身内を見たが、にわかに色を染めて密と少年を見ると、目を開かず。  お雪は吻と息を吐いて、肌を納めようとした手を動かすに遑なく、きゃッといって平伏した。声に応じて少年はかッぱと刎ね起きて押被さり、身をもってお雪を庇う。娘の体は再び花の中に埋もれたが、やや有って顕れた少年の背には、凄じい鈎形に曲った喙が触れた。大鷲は虚を伺って、とこうの隙なく蒼空から襲い来ったのであった。  倒れながら屹とその面を上げると、翼で群蝶を掻乱して、白い烟の立つ中で、鷲は颯と舞い上るのを、血走った目に瞶めながら少年は衝と立った。思わず胸に縋るお雪の手を取って扶けながら、行方を睨むと、谷を隔てて遥に見えるのは、杉ともいわず、栃ともいわず、檜ともいわず、二抱三抱に余る大喬木がすくすく天をさして枝を交えた、矢来のごとき木間々々には切倒したと覚しき同じほどの材木が積重なって、横わって、深森の中自から径を造るその上へ、一列になって、一ツ去れば、また一ツ、前なるが隠るれば、後なるが顕れて、ほとんど間断なく牛が歩いた。いずれも鼻頭におよそ三間余の長綱をつけて、姿形も森の中に定かならず、牛曳と見えるのが飛々に現れて、のッそり悠々として通っていたのであるが、今件の大鷲が、風を起して一翼に谷を越え、その峰ある処、件の森の中へあからさまに入ったと思うと、牛は宙に躍って跳狂うのが、一ツならず、二ツならず、咄嗟の間に眼を遮って七ツ数えると止んだ。 「しっかりしねえ、もう可いぜ。」といって、少年は手を放した。  お雪は血の気を失った顔を、恐る恐る上げて仰いだが、少年を見ると斉しく身を顫わした。 「あらまたお背中を、ちょいと大変でございますよ。」 「可いッてことよ、こればかしが何だ。」といったが、あわれ身を支えかねたか、またどっさりと岩に腰を掛ける。  お雪は失心の体で姿を繕うこともせず。両膝を折って少年の足許に跪いて、 「この足手纏さえございませねば、貴方お一方はお助り遊ばすのに訳はないのでございます。」  と、いう声も身も顫えたのである。        五十五 「私はどういたしましょう、花も取って頂きました上に、この山に入りましてから貴方ばかり酷い目にお逢わせ申して、今までに、生命をお取られ遊ばすかと思いましたことが幾たびあったでございましょう。体も疵に遊ばして庇って下さいますから、勿体ない、私は一ヶ所擦剥きました処もございません。たとい前の世の約束事でも、これまでに御恩を受けますことはないのでございます。どうぞ私を打遣ってお逃げなすって下さいまし、お願でございます。貴方にこうして頂きますより殺されます方がどんなに心安いか分りません。失礼ながらお可哀そうで、片時もこんな恐い処に貴方をお置き申したくはございませんから。」と、嗚咽していう声も絶断。  少年はかえってつッけんどんに、 「生意気な講釈をするない、手前達の知ったこッちゃあねえや、見殺しにされるもんか。しかし、おい、おいらも、まさかこれほどとは思わなかったが、随分手に余る上に、ものは食わずよ。どこへ出て可いか方角が分らねえし、弱った。活きてる内ゃ助けてやらあ、不可なかったら覚悟しねえ。おいら父様はなし、母様は失くなったし、一人ぼッちで心細かったっけが、こんな時にゃあさっぱりだ、情なくも何ともねえが、汝は可哀そうだな。」といって、さすがの少年が目に暗涙を湛えて、膝下に、うつぎの花に埋もれて蹲る清い膚と、美しい黒髪とが、わななくのを見た。この一雫が身に染みたら、荒鷲の嘴に貫かれぬお雪の五体も裂けるであろう。  一言の答えも出来ない風情。  少年も愁然として無言で居たが、心すともなく極めて平気な調子で、 「しょうがねえやな、おい、そうしたら一所に死のうぜ。」と、自から頷くがごとく顔を傾けていった。  理学士は夢中ながら、おのが命をもって与えんとして、三年の間朝夕室を同じゅうした自分の口からも、かほどまでに情の籠った、しかも無邪気な、罪のないことをいい得なかったことを思って、ひしと胸を打たるるがごとくに感じたのである。  我にもあらず、最後を取乱したお雪の耳にも、かかる言は聞えたのであろう。 「勿体のうございます。」と、神に謝するがごとくにいった。 「その意で諦めねえ。おい、そう泣くのは止せ、弱虫だと見ると馬鹿にするぜ、ももんがあ。」といって大空を。 「はい、もう泣きはいたしません。私が先へ覚悟をしておりましたものを、お可恥しゅうございます。」と、手をついて面を上げた。そして顔と顔を見合せた時、少年はほとんど友白髪まで添遂げた夫婦のごとく、事もなげに冷い玉かと見えるお雪の肩に手を掛けて、 「助かったら何よ、おいらが邸へ来ねえ、一所に楽をしようぜ、面白く暮そうな。」と、あたかも死を賭にしたこの難境は、将来のその楽のために造られた階梯であるように考えるらしく、絶望した窮厄の中に縷々として一脈の霊光を認めたごとく、嬉しげに且つ快げにいって莞爾とした。いまわの際に少年は、刻下無意識になった恋人に対して、為に生命を致すその報酬を求めたのではない。繊弱小心の人の、知死期の苦痛の幾分を慰めんとしたのである。  拓は夢に、我は棄てられるのであろうと思った、お雪は自分を見棄てるであろうと思った。少年がその時のその意気、その姿、その風情は、たとい淑徳貞操の現化した女神であっても、なお且つ、一糸蔽える者なきその身を抱かれて遮ぎり難く見えたから。        五十六  理学士はまた心から、十の我に百を加えても、なお遥かにその少年に及ばないことを認めたのである。  たとえば己が目は盲いたるに、少年の眼は秋の水のごとく、清く澄んで星のごとく輝くのである。我はお雪の供給に活きて、渠をして石滝の死地に陥らしめたのに、少年はその優しき姿と、斗大の胆をもって、渠を救うために目前荒鷲と戦っている。しかも事の行懸りから察し、人の語る処に因れば、この美少年は未見の知己、千破矢滝太郎に相違ない。千破矢は華族だ、今渠が来れ、共にこの労を慰めんといったのは、すなわちお雪を高家の室となさんという心である。されば少年がその意気と、その容貌と、風采と、その品位をもってして誰がこれを諾わざるべき。拓が身をもってお雪と地位をかえたとすれば、直ちに我を棄てて渠に愛を移すのは、世に最も公平なことであると思って、満身の血が冷くなった。けれどもあえて数の多量なるものが、愛を購い得るのではなかった。お雪は少年が優しく懸けた、肩の手を静かに払って、颯と赤らむ顔とともに、声の下で、 「はい、私はあのお邸へ上ります訳には参りませんのでございます。」  恐る恐るいうおもはゆげな状を、少年は瞻りながら、事もなげにいった。 「なぜだ。」 「内に拓さんという方がございます、花を欲しいと存じましたのも、皆その人のためなんですから。」と死を極めたものの、かえってかかることを憚らず言って差俯向く。  少年は屹となって、たちまち顔色を変えたのである。  理学士はこの時少年のいうことを聞こうとして、思わず堅唾を飲んだ。  夢中の美少年に憤った色が見え、 「おいら、島野とは違うぜ。今までな、おい、欲い思ったものは取らねえこたあねえ、しようと思ったことをしねえこたあなかったんだ。可いじゃあないか、不可ねえッて? 不可ねえか。うむそうか、可いや、へん、おいら詰らねえことをしたぜ。」  と投げるようにいって、大空を恍惚りと瞶めた風情。取留めのない夢の想で、拓はこの時少年がお雪に向ってなす処は、一つ一つ皆思うことあって、したかのごとく感じられて、快活かくのごとき者が、恋には恐るべき神秘を守って、今までに秋毫も、さる気色のなかったほど、一層大いなる力あることを感じて、愕然とした。同時に今までは、お雪を救うために造られた、巌に倚る一個白面、朱唇、年少、美貌の神将であるごとく見えたのが、たちまち清く麗しき娘を迷わすために姿を変じた、妄執の蛇であると心着いたが、手も足も動かず、叫ばんとする声も己が耳には入らなかった。  鷲がその三回目の襲撃を試みない瞬間、白い花も動かず、二人は熟として石に化したもののように見えた。やがて少年は袂を探って、一本の花を取出した。学識ある理学士が夢中の目は、直ちにそれを黒百合の花と認めたのである。  これがためにこそ餓えたり、傷付いたれ、物怪ある山に迷うたれ。荒鷲には襲わるる、少年の身に添えて守っていたと覚ゆるのを、掴むがごとく引出して、やにわに手を懸けて挘り棄てようとした趣であった。けれども、お雪が物いいたげに瞳を動かして、衝と胸を抱いて立ったのを、卑むがごとく、嘲けるがごとく、憎むがごとく、はた憐むがごとくに熟と見て、舌打して、そのまま黒百合をお雪の手に与えると斉しく、巌を放れてすっくと立って、 「不可ねえや、お前良人があるんなら、おいら一所に死ぬのは厭だぜ。じゃあ、おい勝手にしねえ。」  といい棄てて、身を飜すとたちまち歩き去った。        五十七  我が手働かず、足動かず、目はただ天涯の一方に、白き花に埋もれたお雪を見るばかり。片手をもって抱き得るような、細い窶れた妻の体を、理学士はいかんともすることならず。  お雪は黒百合の花を捧げて、身に影も添わず、淋しく心細げに彳んでいたが、およそ十歩を隔てて少年が一度振返って見た時、糸をもて操らるるかと二足三足後を追うたが、そのまま素気なく向うを向いてしまったので、力無げに歩を停めた、目には暗涙を湛えたり。  やがて後姿に触れて、ゆさゆさと揺ぶられる、のりうつぎの花の梢は、少年を包んで見えなくなった。  これをこそは待ち得たれ、黒い星一ツ遥か彼方の峰に現れたと見ると、風に乗って矢のごとくに颯と寄せた。すわやと見る目の前の、鷲の翼は四辺を暗くした中に、娘の白い膚を包んで、はたと仰向に僵れた。 「あれえ、」  叫ぶに応じて少年は、再び猛然として顕れたが、宙を飛んで躍りかかった。拳を握って高く上げると、大鷲の翼を蹈んで、その頸を打ったのである。 「畜生、おれが目に見えねえように殺せやい!」  と怒気満面に溢れて叱咤した。少年はほとんど身を棄てて、その最後の力を尽したのであろう。  黒雲一団渦く中に、鷲は一双の金の瞳を怒らしたが、ぱっと音を立てて三たび虚空に退いた。二ツ三ツ四ツ五ツばかり羽は斑々として落ちて、戦の矢を白い花の上に残した。  少年が勇威凜々として今大鷲を搏った時の風采は、理学士をして思わず面を伏せて、僵れたる肉一団何かある、我が妻をもてこの神将に捧げんと思わしめたのである。  かくして少年ははた掌を拍って塵を払ったが、吐息を吐いて、さすがに心弛み、力落ちて、よろよろと僵れようとして、息も絶々なお雪を見て、眉を顰めて、 「ちょッ、しようのねえ女だな。」  やがて手をかけて、小脇に抱上げたが、お雪の黒髪は逆に乱れて、片手に黒百合を持ったのを胸にあてて、片手をぶらりと垂れていた。大鷲は今の一撃に怒をなしたか、以前のごとく形も見えぬまでは遠く去らず、中空に凧のごとく居って、やや動き且つ動くのを、屹と睨んでは仰いで見たが、衝と走っては打仰ぎ、走っては打仰ぎ、ともすれば咲き満ちたうつぎの花の中に隠れ、顕れ、隠れ、顕れて、道を求めて駆けるのを、拓は追慕うともなく後を跟けて、ややあって一座の巌石、形蟇の天窓に似たのが前途を塞いで、白い花は、あたかも雪間の飛々に次第に消えて、このあたりでは路とともに尽きて見えなくなる処に来た。  もとより後は見も返らず、少年はお雪を抱いたまま、ひだを蹈み、角に縋って蝙蝠の攀ずるがごとく、ひらりひらりと巌の頂に上った。この巌の頂は、渠を載せて且つ歩を巡らさしむるに余あるものである。  時に少年の姿は、高く頭上の風に鷲を漾わせ、天を頂いて突立ったが、何とかしけむ、足蹈をして、 「滝だ! 滝だ!」と言って喜びの色は面に溢れた。ただ聞く、どうどうと水の音、巌もゆらぐ響である。  少年はいと忙しく瞳を動かして、下りるべき路を求めたが、衝と端に臨んで、俯向いて見る見る失望の色を顕した。思わず嘆息をして口惜しそうに、 「どこまで祟るんだな、獣め。」        五十八  少年を載せた巌は枝に留まった梟のようで、その天窓大きく、尻ッこけになって幾千仭とも弁えぬ谷の上へ、蔽い被さって斜に出ている。裾を蹈んで頭を叩けば、ただこの一座山のごとき大奇巌は月界に飛ばんず形。繁れる雑種の喬木は、梢を揃えて件の巌の裾を包んで、滝は音ばかり森の中に聞えるのであった。頂なる少年は、これを俯し瞰して、雲の桟橋のなきに失望した。しかるに倒に伏して覗かぬ目には見えないであろう、尻ッこけになった巌の裾に居て、可怪い喬木の梢なる樹々の葉を褥として、大胡坐を組んだ、──何等のものぞ。  面赭く、耳蒼く、馬ばかりなる大きさのもの、手足に汚れた薄樺色の産毛のようで、房々として柔かに長い毛が一面の生いて、人か獣かを見分かぬが、朦朧としてただ霧を束ねて鋳出したよう。真俯向になって面を上げず、ものとも知らぬ濁みたる声で、 「猿の年の、猿の月の、猿の日に、猿の年の、猿の月の、猿の日に、猿の年の、猿の月の、猿の日に、」と支干を数えて呟きながら、八九寸伸びた蒼黒い十本の指の爪で、件の細々とした、突けば折れるばかりの巌の裾をごしごしごしごしと掻挘る。時に手を留めてその俯向いた鼻先と思う処を、爪をあつめて巌の欠を掘取ると見ると、また掻きはじめた。その爪の切入るごとに、巌はもろくぼろぼろと欠けて、喰い入り喰い入り、見る内に危く一重の皮を残して、まさに断切れて逆さまに飛ばんとする。  あれあれ、とばかりに学士は目も眩れ、心も消え、体に悪熱を感ずるばかり、血を絞って急を告げようとする声は糸より細うして己が耳にも定かならず。可恐しきものの巌を切る音は、肝先を貫いて、滝の響は耳を聾するようであった。  羽撃聞えて、鷲は颯と大空から落ちて来た。頂高く、天近く、仰げば遥かに小さな少年の立姿は、狂うがごとく位置を転じて、腕白く垂れたお雪の手が、空ざまに少年の頭に縋ると見た。途端に巌は地を放れて山を覆えるがごとく、二人の姿はもんどり打って空に舞い、滝の音する森の中へ足を空に陥ったので、あッと絶叫したが、理学士は愕然として可恐い夢から覚めたのである。  拓は茫然自失して、前のまま机に頬杖を突いた、その手も支えかねて僵れようとしたが、ふと闇のままうとうとと居眠ったのに、いつ点いたか、見えぬ目に燈が映えるのに心着いた。  確かに傍に人の気勢。        五十九 「誰だ、」と極めて落着いて言ったが、声は我ながら異常なものであった。  急に答がないので、更に、 「誰だ。」 「はい、」と幽かに応えた。  理学士が一生にただ一度目を開いて見たいのは、この時の姿であった、今のは疑も無いお雪である。  これを聞いて渠は思わず手を差延べて、抱こうとしたが、触れば消失せるであろうと思って、悚然として膝に置いたが、打戦く。 「遅くなりまして済みませんでした、拓さん。」  と判然、それも一言ごとに切なく呼吸が切れる様子。ありしがごとき艱難の中から蘇生って来た者だということが、ほぼ確かめらるると同時に、吃驚して、 「おお、お雪か、お前! そして千破矢さんはどうした、」と数分時前、夢に渠と我とともにあった少年の名をいった。  お雪はその時答えなかった。  理学士は繰返してまた、 「千破矢さんはどうしたんだ、」と、これは何心なく安否を聞いたのであったが、ふと夢の中の事に思い当った。お雪の答が濁ったのを、さてはとばかり、胸を跳らして口を噤む。  しばらくして、 「送って来て下さいましたよ。」 「そして⁈」 「あの、お向の荒物屋に休んでいらっしゃいます。」 「そうか、」といったが、我ながら素気なく、その真心を謝するにも、怨をいうにも、喜ぶにも、激して容易くは語も出でず。あまりのことに、活きて再び家に帰って、現のごとき男を見ても直ぐにはものも言懸けなかった、お雪も同じ心であろう。ものいう目にも、見えぬ目にも、二人斉しく涙を湛えて、差俯向いて黙然とした。人はかかる時、世に我あることを忘るるのである。  框に人の跫音がしたが、慌しく奥に来て、壮な激しい声は、沈んで力強く、 「遁げろ、遁げねえか、何をしとる!」  お雪は薄暗い燈の影に、濡れしおれた髪を振って、蒼白い顔を上げた。理学士の耳にも正に滝太郎の声である、と思うも疾しや! 「洪水だ、しっかりしろ。」  お雪は半ば膝を立てて、滝太郎の顔を見るばかり。 「早くしねえかい、べらぼうめ。」と叱るがごとくにいって、衝と縁側に出た、滝太郎はすっくと立った。しばらくして、あれといったが、お雪は蹶起きようとして燈を消した。 「周章てるない、」といって滝太郎は衝と戻って、やにわにお雪の手を取った。 「助けてい!」と言いさまに、お雪は何を狼狽えたか、扶けられた滝太郎の手を振放して、僵れかかって拓の袖を千切れよと曳いた。        六十  お雪は曳いて、曳き動かして、 「どうしましょう、あれ、早く貴方、貴方。」  拓は動じないで、磐石のごとく坐っているので、思わず手を放して、一人で縁側へ出たが、踏辷ったのか腰を突いた。しばらくは起きも得なかったが、むっくと立上ると柱に縋って、わなわなと顫えた。ただ森として縁板が颯と白くなったと思うと、水はひたひたと畳に上った。 「ええ、」といって学士も立った。 「可恐しい早さだ、放すな!」と滝太郎は背をお雪に差向ける。途端に凄じい音がして、わっという声が沈んで聞える。 「お雪! お雪。」  学士も我を忘れて助を呼んだのである。 「あれ、若様、拓さんは、拓さんは目が見えません。」 「うむ、」 「助けて下さい、拓さんは目が見えません。」 「二人じゃあ不可ねえや、」 「内の人を、私の夫を。」 「おいら、お前でなくっちゃあ、」 「厭、厭ですよ、厭ですよ、」と、捕うる滝太郎の手を摺抜ける。 「だって、汝の良人なら、おいらにゃあ敵だぜ。」 「私は死んでしまいます。」 「へへ、駄目だい、」と唾するがごとく叫んで、滝太郎は飛んで拓に来た。 「滝だ、大丈夫だ。」 「お雪には義理があるんです、私に構わず、」といって、学士は身を退って壁にひたりと背をあてた。 「あれ、拓さん、」とばかり身を急るお雪が膝は、早や水に包まれているのである。 「いや、いけない、」と学士は決然として言放った。  滝太郎は真中に立って、件の鋭い目に左右を眗して瞳を輝かした。 「ええ二人ともつかまんな。構うこたあねえ、可けなけりゃ皆で死のう。」  雨は先刻に止んで、黒雲の絶間に月が出ていた。湯の谷の屋根に処々立てた高張の明が射して、眼のあたりは赤く、四方へ黒い布を引いて漲る水は、随処、亀甲形に畝り畝り波を立てて、ざぶりざぶりと山の裾へ打当てる音がした。拓を背にし、お雪を頸に縋らせて、滝太郎は面も触らず件の洞穴を差して渡ったが、縁を下りる時、破屋は左右に傾いた。行くことわずかにして、水は既に肩を浸した。手を放すなといって滝太郎が水を含んで吐いた時、お雪は洪水の上に乗上って、乗着いて、滝太郎に頬摺したが、 「拓さん堪忍して。」  声を残して、魚の跳るがごとく、身を飜して水に沈んだ。遥かにその姿の浮いた折から、荒物屋の媼なんど、五七人乗った小舟を漕寄せたが、流れて来る材木がくるりと廻って舷を突いたので、船は波に乗って颯と退いた。同時に滝太郎の姿も水に沈んだが、たちまち水烟を立てて抜手を切ったのである。拓とともに助かったのは言うまでもない。  その夜湯の谷で溺れたのが十七人、……お雪はその中の一人であった。  水は一晩で大方退いて、翌日は天日快晴。四十物町はちょろちょろ流れで、兵粮を積んだ船が往来する。勇美子は裾を引上げて濁水に脛を浸しながら、物珍らしげに門の前を歩いていた。猟犬ジャムはその袖の下を、ちゃぶちゃぶと泳ぎ、義作は夕立の背を干して、傍に立っていた、水はやや駒の蹄を没するばかり。それでも瀬を造って、低い処へ落ちる中に、流れて来たものがある、勇美子が目敏く見て、腕捲りをして採上げたのは、不思議の花であった。形は貝母に似て、暗緑帯紫の色、一つは咲いて花弁が六つ、黄粉を包んだ蘂が六つ、莟が一つ。  数年の後、いずこにも籍を置かぬ一艘の冒険船が、滝太郎を乗せて、拓お兼等が乗組んで、大洋の波に浮んだ時は、必ずこの黒百合をもって船に号けるのであろう。 明治三十二(一八九九)年六~八月 底本:「泉鏡花集成2」ちくま文庫、筑摩書房    1996(平成8)年4月24日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第四巻」岩波書店    1941(昭和16)年12月25日第1刷発行 ※底本の誤植は親本を参照して直しました。 入力:もんむー 校正:門田裕志 2005年3月16日作成 2007年9月6日修正 青空文庫作成ファイル: 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