田沢稲船 長谷川時雨 Guide 扉 本文 目 次 田沢稲船        一  赤と黄と、緑青が、白を溶いた絵の具皿のなかで、流れあって、虹のように見えたり、彩雲のように混じたりするのを、 「あら、これ──」  絵の具皿を持っていた娘は呼んだ。 「山田美妙斎の『蝴蝶』のようだわ。」  乙姫さんの竜の都からくる春の潮の、海洋の霞が娘の目に来た。  山田美妙斎は、尾崎紅葉、川上眉山たちと共に、硯友社を創立したところの眉毛美しいといわれた文人で、言文一致でものを書きはじめ『国民の友』へ掲載した「蝴蝶」は、いろいろの意味で評判が高かったのだ。  源平屋島の戦いに、御座船をはじめ、兵船もその他も海に沈みはてたとき、やんごとなき御女性に仕えていた蝴蝶という若い女も、一たん海の底に沈んだが、思いがけず、なぎさに打上げられた。それは春の日のことで、霞める浦輪には、寄せる白波のざわざわという音ばかり、磯の小貝は花のように光っている閑かさだった。見る人もなしと、思いがけなく生を得た蝴蝶は、全裸になった──そのあたりを思いだしたのだ。 「あたし、小説を書こう。」  十七の娘、田沢錦子は、薬指ににじむ、五彩の色をじっと見ながら、自分にいった。  空はまっ青で、流れる水はふくらんでいる──  何処にか、雪消の匂いを残しながら、梅も、桜も、桃も、山吹さえも咲き出して、蛙の声もきこえてくれば、一足外へ出れば、野では雉子もケンケンと叫び、雲雀はせわしなくかけ廻っているという、錦子が溶きかけている絵具皿のとけあった色のような春が、五月まぢかい北の国の、蝶の舞い出る日だった。  むかしの、出羽の郡司の娘、小町の容色をひく錦子も、真っ白な肌をもっている、しかも、十七の春であれば、薄もも色ににおってくる血の色のうつくしさに、自分でも見とれることもあるのだった。その生々しさが湧きあがったとき、この娘は、  ──なんて拙いんだろう。 と、自分の描く絵が模写にすぎないのを、腹立たしくなっていた。  ──この色は出やあしない。こんな、綺麗な色は、ちっとも出やあしないじゃないか、残念だが──  彼女は、自分の腕に喰いつくこともあった。と、そこにパッとにじみだして開いてくる命の花のはなやぎを、どんなふうに色に出したら写せるかと、瞶めながら匕をなげた。  匕を投げたといえば、錦子はお医者さまの娘だ。徳川時代には、お匕といえば、御殿医であることがわかり、医者が匕を投げたといえば病人が助からぬということであるし、匕を持つといえば内科医のことだった。これは漢法医が多く、漢薬は、きざんであったのを、盛りあわせて煎じるから、医者は薬箱をもたせ、薬箱には、柄の永い、細長い平たい匕──連翹の花片の小がたのかたちのをもっていたものだ。  錦子の家は出羽の西田川郡であったが、庄内米、酒田港と、物資の豊かな、鶴岡の市はずれではあり、明治廿年代で西洋医学をとり入れた医院だったから、文化の低い土地では、比較的新智識の家族で、名望もあった。  ──あたしの画はまずい。 と、思う下から、山田美妙斎の小説は、なんと素ばらしく、女の肉体の豊富さを描きつくしているのだろうと、口惜しいほどだった。  錦子は、水に濡れ浸った蝴蝶の、光るような、なめらかな肌が、目の前にあるように、眼をよせて眺めていた。小説の中の蝴蝶も、自分の年とおなじ位だと思うと、彼女は自分の肌を、美妙斎に、描写されたように恥しかった。それは、いつぞや、自分のことを言ってやった文に、  ──体に、脂があると見えて、お風呂にはいった時も、川で泳いだときも、水から出て見ると、水晶の玉のように、パラパラと水をはじいてしまって──  そんなふうに、書いたこともあった気もするのだ。  ──ええ、泳ぎますとも、まっぱだかで──とも書いたようだ。  ──田沢湖は秋田です。うつくしい郡司の娘が、恋人を慕って身を投げたという湖は、それは先生、田沢という姓名からのお誤りでしょう。田沢いなぶねは、ピンピンしています。此処には、近くでは、大岸の池というのがあります。あたくし、真っ白な鵬に乗った、あたくしの水浴の姿を描きたいのですが、駄目ですわ──  そんなふうにも書いたことがあったようだったが──どうだろう、「蝴蝶」は、もっと前に出ているのだ──  錦子が、いくら呟いても仕方なかった。彼はとうとう大きな溜息をした。  錦子は、絵の具皿の中から、白と紅とが解けあったところを、指のさきに掬いとると、傍の絵絹の上へ、くるりと、女の腰の輪かくを一息に丸く描いて、その次には、上の方へもっていってポチリと点を打った盛り上をおいた。  その反対の方へむけて、腕の曲折を、ふっくらとつくると、それは、思いがけない生々しさで錦子の前へ、若い女が横たわって、羞恥を含んでいる── 「おお、蝴蝶どの、そなたの姿はわらわによう似ていられる──」  歌舞伎役者のせりふもどきで錦子は、満足した自分の体も、そこへ、その通りの姿態で肘を枕にして、ころがった。  ──小説にしようか、絵の修業をしようか──まとまりようのない空想が、あとからあとから湧いてくる。つい、うっとりとしていると、 「あら、これ、何なの?」  妹がその絵を、見ているのは好いが、その後から母も来る様子なのに、錦子は慌てた。 「その、小説の口絵を、真似たのよ。」  そう言って妹はごまかせても、母親の眼は恐い。絵の具が乾かないで、生々して見えるその尻の恰好は、娘の尻の肉つきそのままであることを母親は、一目で見破るであろう。乳首の出ぬ丸いさしぢちは?  ──おお、まあ、なんてこの娘は、いやな── と、呆れて、眼を反むけながら角立てるに違いはない。  いつも、いつも、お前はなんて早熟ているのだろうと呟く母親には、見られたくなかったので、錦子は跳おきると、乳房は朝㒵にしてしまい、腰の丸味は盥にしてしまった。  錦子は、まったくませていた。売出しの小説作家、山田美妙斎に文通しだした。だが、小説「蝴蝶」の書かれたのは、二、三年前だが、近頃になって、「蝴蝶」の出ていた、『国民の友』の新年附録を、探し出して読みふけり、すっかり魅了され、心酔しつくしてしまった。そして、急に、グイグイ引き寄せられる気持ちになっている。錦子が動かされたのも無理はないほど、美妙斎の「蝴蝶」は、発表された当時も世評が高かったのだ。そのころ仲たがいをしていた尾崎紅葉さえ、宛名を、蝴蝶殿へとした公開状で、 かくすべき雪の肌をあらはしてまことにどうも須磨の浦風 と、一首ものしたように、それには挿絵に、渡辺省亭の日本画の裸体が、類のないことだったので、アッといわせもしたのだった。  河井酔茗氏の『山田美妙評伝』によると、美妙斎は東京神田柳町に生れ、十歳の時には芝の烏森校から、巴小学校に移り、神童の称があったという。十三歳に府立二中に入学したが、学科はそっちのけで、『太平記』や、『平家物語』をはじめ、江戸時代の草双紙の中では馬琴に私淑したとある。芝に生れた尾崎紅葉とは、二中の時おなじ学校で、紅葉が三田英学校から大学予備門にはいると、二級の時に美妙斎が四級にはいり、旧交があたためられて、二人は文学で立とうという決心をあかし合い、しかも、芝からでは遠いというので、美妙斎の家は、学校に近い駿河台に引越して、紅葉も寄宿し、八畳の室に、二人が机を並べ、そのうちに、おなじ予備門の学生石橋思案も同居し、文壇を風靡した硯友社はその三人に、丸岡九華氏が加わって創立され、『我楽多文庫』第一号が出たのは明治十八年五月二日だと考証されている。  その石橋思案氏が、後に脳をわずらわれたが、稲舟女史の話を私にしてくだされたのだった。  錦子は自分のしたことがおかしくなって、クックッ忍び笑いを洩らしながら、 ひとり さける のばら あわれ あかぬ いろを たれか すてん のばら のばら あかき のばら── と唄いかけた。この詩も、美妙の「野薔薇」というのの一節だったが、妹は、後に立った母親に言った。 「姉さんて、妙な人ねえ。お琴を弾いても、唄わないくせに、ねえ。」  けれど、その妹が、敵は幾万ありとても、すべて烏合の勢なるぞ──という軍歌が、おなじ人が、早く作ったものだということは知らないでいた。 「錦子は、お父さんのお許しが出そうなので跳んでいるのだよ。」 と、母は、錦子の室の中を見廻して言った。 「姉さんがいなくなると、さびしいねえ。」  錦子は、母親が現われたのでさっきからの、躍るような──火花が指のさきから散るような気持を、凝と堪えて、握りしめた手を胸におしつけていたが、思わず 「あら! 東京へ行ける。」 と、感情の、顔に出るのを、さとられまいとしながら、せかせか言った。 「でもね、本当に、美術学校って、女も入学出来るのだろうかって、お父さんは御心配なさってたが。」 「出来ないはずないでしょ。済生学舎(医学校)だって、早くっから、女を入れたのでしょ。」 「そうらしいけれどね。」  母は、娘を、非凡な才智をもつものと見ている。それは、雪深い国では、何処にもちょっと見当らない、薫りの高い一輪の名花だった。  この娘を東京へ出して、思うままに修業をさせたら──それこそ小野の小町などは、明治の、才色兼備の娘に名誉を譲るだろう。  そう思う母人の生れ育った時代は、幕末、明治と進歩進取の世に生れあわせていた。奥羽の各藩もさまざまの艱苦の後、会津生れの山川捨松は十二歳(後の東大総長山川健次郎男の妹、大山巌公の夫人、徳冨蘆花の小説「不如帰」では、浪子──本名信子さんといった女の後の母に当る人)、津田英語塾の創立者津田梅子女史は九歳、その他、七、八人の、十七、八歳を頭にした一行と、海外へ留学した最初の人を出したりして、その後も、何やかと、幕末からつづいた、新旧の、女丈夫たちに刺戟されて来ているので、東京では、もうすっかり急進欧化の反動期にはいっているときに、奥羽の隅の家庭人は、かえって、そのころになって動いていた。 「あたしも、なるたけ、出してあげたいと、骨を折っているけれど──」  彼女は、娘の描いた、おとなしい絵を手にとって眺めて沈呻した。  ──この娘はもっと強い子だが──  琴を弾かせても黙って弾いている。あれは、あの時、胸のなかに、何か、物足らない思いが一ぱいに詰まっているのだ。この娘は、何も言わないが、どんなことを考えているか知れたものではないと、母親には、それが心配なのだ。  けれど、錦子が琴をかき鳴らしても唄わないのは、邪念があったのではない。琴の糸の奏で出すあやは、彼女の空想を一ぱいにふくらませ、どの芽から摘んでいいかわからない想いが湧上るのだ。どう整理してよいか、まだ、そのわけが分明としないものが醗酵しかけてくるのだ。だから彼女は、うっとりとしたような、不機嫌のような、押だまったままでいるのだ。だがとうとう、錦子は、朝夕眺めた、鳥海山も羽黒山も後にして、出京することになった。        二  山田武太郎と表札の出ている、美妙斎の住居を訪れた、みちのく少女のいなぶねは、田舎娘が来たのかと、気にもかけなかったであろう美妙に、ハッと目を瞶らせた。  美妙は、たしか二十歳ごろから四、五年の間、女学生向きの『いらつめ』という月刊雑誌を出したりして、若い女性たちとも、顔をあわせることも多くあったし、その時分も、浅草公園裏の薄茶の店の、石井おとめとの関係もあったのだが、この小説家志願娘には心をひかれた。  ──いなにはあらぬいなぶねの──  そんな句も、詩人美妙の胸には、ふと浮かんだかも知れない。 「稲舟って好い名だな。錦子さんでも好いけれど、最上川がそばなのでしょう。みちのくというと、最上川だの、名取川だの、衣川だの、北上川だのって、なつかしい川の名が多い。父が、ずっと、あっちにいたからかも知れないが──」  美妙は、無口な娘を前にして、そんなことをいった。  美妙斎のお父さんは、維新前後奥州の方にいっていて、美妙の武太郎は明治元年の夏留守中に生れたのだった。その後、長野県の方にお父さんは警部をつとめていて、美妙は、やかましい祖母さんと、お母さんに育てられた、内気な、おとなしい息子だった。  父親が懐しかった少年時を思出して、美妙は、あっちの方の川の名など数えたりして見た。 「絵はやめてしまうのですか?」 「ええ。」 「小説を書こうというの?」 「ええ。」  十七でしたね、と訊いてから美妙はおもしろい暗合を思い出していた。  十七という年齢は、才女に、なにか不思議なつながりを持つのか、中島湘煙女史(自由党の箱入娘とよばれた岸田俊子)も、十七歳のとき宮中へ召され、下田歌子女史も、まだ平尾鉐子といった時分、十七で宮中官女に召され、歌子という名をたまわったのだ。そのほかにと考えながら、 「田辺龍子(三宅龍子・雪嶺氏夫人)さんも十七位だったかな、小説を書きはじめたのは、そうだ、木村曙女史も十七からだ。」 と、日本の、明治の、巾幗小説家たちの、創世期時代の人々の名をあげたが、それは、そんな古いことではなかったから、錦子も、おぼろげながら知っていた。 「あたくしに、書けましょうか。」  唐人髷の、艶やかなのと、花櫛ばかりを見せているように、うつむいてばかりいる娘は、その時顔をあげて、正面に美妙斎と眼を合わせた。  生際の、クッキリした、白い額が、はずかしさに顔中赤味をさしたので、うつくしく匂った。女らしさがすぎるほど、女らしい女だった。  肉附きの好い丸顔で──着物は何を着ていたかわからないが、彼女が次の年に「白薔薇」を書いたなかに、赤襟、唐人髷の美しいお嬢さまが、九段の坂の上をもの思いつつ歩く姿を、人の目につく黄八丈の、一ツ小袖に藤色紋縮緬の被布をかさね──とあるのは、尤も当時の好みであったから、それを応用しても間違いはなかろう。唐人髷が大好きだったことは友達が知っている。  美妙斎は二十七になった美丈夫だ。白皙、黒髪、長身で、おとなしやかな坊ちゃん育ちも、彼の覇気は、かなり自由に伸びて、雑誌『都の花』主幹として、日本橋区本町の金港堂書店から十分な月給をとっていたうえに、創作の収入も多かった。  裄を、いくら伸して見ても、女の着物の仕立は、一尺七寸五、六分より裄は出ない。  大柄な娘というのではないが、錦子はシックリした肉附きだ。丸い肩の上に、五分ほどつまんだ肩上げが、地方から出て来た娘々して、何処か鄙びているのを、美妙は、掘りたての、土の着いている竹の子のように、皮を剥いていった下の、新鮮なものを感じていた。  立った姿も、思いがけなく、すんなりしているのに、この娘のアクをおとしたならば、素晴らしいと見た。  この娘が、無口でいて、体で、何か雄弁に語っているのに気がつくと、紙へ書かせたならば、無口なだけに、案外大胆なことを書くのではないかと思ったのだろう。 「絵を習うよりは、君は、書いた方が好いかも知れないね」 と、力を入れてやっても好いふうに言った。  アクをおとしたならば、と美妙は錦子を見たが、そういう美妙もアクのある好みの方だった。何かの好みが、紅葉とは違っていた。  それは、紅葉は町の子であって、美妙は神田ッ子でも、警部さんの息子で、家庭が、京阪でいうモッサリしていたからでもあろうが、大学予備門にいた、十九歳ごろから、小説で売出してからでも、長靴好きでよく穿いていたということだ。  だがまた、それは、明治の初期から二十年ころまではそうしたふうがハイカラだったのだ。ハイカラ──高襟は、もっと、ずっと後日で生れた言葉だが、言い現すのに都合が好いから借用する。芝居の、黙阿弥もので見てもわかるが、房っさりした散髪を一握り額にこぼして、シャツを着て長靴を穿いているのが、文明開化人だ。しかも、金巾のポッサリした兵児帯を締て、ダラリと尻へ垂らしている。これも後には、白か紫の唐縮緬になり、哀れなほど腰の弱い安縮緬や、羽二重絞りの猫じゃらしになったが、どんな本絞りの鹿の子でも、ぐいと締る下町ッ子とは、何処か肌合が違っている。しかし、絞りをしめだしたのもずっとあとだ。  とはいえ、年少にて名をなした、美妙斎の額は、叡智に輝いていた。  ことに、その時分は、紅葉、眉山、思案、九華と、硯友社創立時の友達たちを向うに廻して、金は這入るが、「蝴蝶」を発表当時ほど言文一致派の気焔は上らないで、西鶴研究派の方が、頭角を出して来たうえに、言文一致は、二葉亭四迷の「浮くさ」の方が、山田より前だのあとだのと論つらわれたり、幸田露伴の「五重の塔」や「風流仏」に、ぐっと前へ出られてしまってはいたが、美妙斎の優男に似合ぬ闘志さかんなのが、錦子には誰よりも勝ったものに見えもすれば、スタイルも好きだった。 「先生。」 と、彼女は、離れともない思慕もまじえて、 「あたくし、一生懸命になります。当今どんな方たちが、女で、小説をお書きになってらっしゃいます。」  座蒲団の隅を折りながら、うつむきがちに、それでも、ハッキリと言った。 「さあ! 樋口一葉という人が、勉強しているというが──三宅龍子、小金井喜美子、若松賤子──その人たちかな。あなたのように、書こうとしている女はあるでしょうよ。」 「その方たち、どういう方なのでございます。」 「小金井喜美子さんは、森鴎外さんの妹さんです。」 「あ。あの『舞姫』をお書きになった、鴎外先生の?」 「小金井さんは、ふらんすの翻訳。若松賤子は英語もので、両方とも強かりしている。若松賤子は明治女学校の校長さんの夫人で、巌本嘉志子というのが本名だ。」  美妙斎は眼を窓の外にやって、この娘を送ってやりながら散歩してもいい日だと思っている。  窓は八畳の室にあって、八、九年前には、学生だった紅葉山人が同居して、机を並べて、朝から晩まで文学談をやっていたということや、北向きだから冬は寒いということまで、窓をあけてお茶の水の土手を見渡しながら、美妙斎はへだてなく語った。  そんなに気の合った紅葉が、たった三、四日で、飯田町の祖父母の宅へ越していってしまったのは、窓が北向きで、寒いばかりではなかった。長く、後家同様に暮している山田の母親と、その姑にあたる、とても口やかましい祖母とがいて、おとなしい孫息子を、引っかかえすぎるのに、煩さくなって越したのだが、その事だけは、美妙斎はいわなかった。  神田川にそそぐお茶の水の堀割は、両岸の土手が高く、樹木が鬱蒼として、水戸家が聘した朱舜水が、小赤壁の名を附したほど、茗渓は幽邃の地だった。  徳川幕府の士人の大学、昌平黌聖堂の森は、まだ面影を残し、高等師範学校の塀は見えるが、かかったばかりのお茶の水橋は、細く、すっと、好い恰好だ。錦子も立って眺めた。鶯がささ鳴きをし、目白が枝わたりをしている。人声もきこえぬ静かさで、何処からか謡の鼓の音がきこえてくる。 「君は、やっぱり一ツ橋の女子職業学校にしましたか?」  美妙斎は錦子を、傍におきたい慾望をもって言った。  東京見物をするならばと誘われたが、錦子は、麹町の女学校に、おなじ郷里から来ている友達が、外まで迎えに来てくれているはずだからと断った。  帰りがけに、書いて持って来ていた小説を、美妙の机の横において、目を通してくれといった。山田の門口まで迎いに来ていたのは進藤孝子という仲のよい友達で、その女の生家も、鶴岡市の医者だった。  錦子と孝子が逢えば、話はいつも詩のことだった。孝子は新体詩を好んだので、美妙が、美しい詩ばかりでなく、「貧」というのでは、紙屑買いをうたっているといえば、錦子は、坑夫の詩もあるし、車夫の小説もあると負けずに言う。  この二人が文壇の見立を探しだして、面白がって、くらべっこをした。 「凌雲閣登壇人(未来の天狗木葉武者)ってのがあるわ。浅草公園、十二階のことでしょ。」  錦子が展げると、孝子が首をのばして、 「エレベエタア休止中、螺旋階にて登りし人──とあるわ。」 と、読みだした。 「頂上十二階までが、春のや主人──坪内逍遥よ。それから、森鴎外、森田思軒、依田学海、宮崎三昧道人。」 「あたしにも読ましてよ。」 と錦子は引きとって、 「エレベエタアにて一分間に登りし人、頂上十二階まで紅葉山人、露伴子、美妙斎主人──いいわね。」  錦子は、苺のような色の濡れた唇で、 「十一階が二葉亭だわ。それと、漣山人。十階に広津柳浪と江見水蔭よ。五階目通過中に川上眉山人がいる。いい気味だわ。」 「どうして。」 と孝子は笑った。 「硯友社だからでしょ。」 「投書家って、よく何か知っているものね。ねえ、この凌雲閣の登りかたで、古い人のことも解るわねえ。」  それは錦子のいう通りだった。彼女たちが見ている十二階登壇人の続きには、  開業以前、建築中より登壇したる人というのに、末松青萍、福地桜痴、矢野竜渓、末広鉄腸がある。  夫松さんは伊藤博文の愛婿で、若い時から非常な秀才と目されていた人だったという。明治十二、三年時分──もっと早くからかも知れない──演劇改良、国立劇場設立をとなえている。桜痴居士は、現今の歌舞伎座を創立し、九代目団十郎のために、いわゆる腹芸の新脚本を作り、その中で今でも諸方でやる「春雨傘」が、市川家十八番の「助六」をきかせて、蔵前の札差町人、大口屋暁雨の侠気と、男達釣鐘庄兵衛の鋭い気魄を持って生れながら、身分ちがいの故に腹を切るという、その頃では、まだ濃厚に残っていた差別待遇を諷した作を残している。  その芝居へ出てくる、葛城太夫と、丁山という二人の遊女が、吉原全盛期の、おなじ張と意気地をたっとぶ女を出して、太夫と二枚目、品位と伝法との型を対立させて見せてくれた。そしてそれには丁度よく美しく品位ある中村歌右衛門や、故人の沢村源之助という、伝法肌な打ってつけの役者がいた。  末広鉄腸は、早く「渓間の姫百合」を出して、明治小説界の最も先駆者だが、その人たちは学者であり、政治家であり、社会人としても重きをなしていたから、十二階の高さにも、建築前に達していたというのであろう。  事務員に黒岩涙香小史がいる。『万朝報』の建立者で、ユーゴーの「ミゼラブル」や、その他「モンテ・クリスト」をはじめ、沢山の翻訳があって、ああしたものを、その頃の一般大衆にも読ませてくれた恩人だった。  奥山閣から──花屋敷とよばれた中にあった、宇治の鳳凰堂のような五層楼──凌雲閣を睨む人に正直正太夫の緑雨醒客のあるのも面白い。  上野山から眺めている連中のなかには、不知庵主人内田魯庵があり、漢詩の大家で、業病にかかり妹の曾恵子を熱愛していた義弟勇三郎がその病の特効薬だときいて、他人の尻肉を斬りとったりしたのち、死刑になった事件を引き起したりした、気の毒な野口寧斎がある。 「ちょっと、ちょっと、これ見ない? 見たくなければ見せない。」 と、孝子が、ヒラヒラと見せびらかした一枚には「明治文学界八犬士」の見立がある。滝沢馬琴の有名な作、八犬伝の八犬士の気質風貌を、明治文壇第一期の人々に見立てたのだ。 「あら! 犬江親兵衛が美妙斎よ。」 と、錦子はよろこんだ。親兵衛は一番若くって、ピチピチしている人物だった。  その親兵衛が美妙で、色ならば緑、草木ならば豊後梅だとある。 「豊後梅は、実が大きくって、生で食べても、梅干にしてもおいしい。」 「そんな、自慢ばかりしていないで、他のも読んでよ。」 と、孝子は笑った。  犬山道節が森鴎外で、色は黒、花では紫苑。犬飼現八は森田思軒で、紫に猿猴杉。犬塚信乃が尾崎紅葉で緋色と芙蓉。犬田小文吾が幸田露伴、栗とカリン。大法師が坪内逍遥で白とタコ。 「緑は、すっきりしていて好いけれど──もうちっと。」 と錦子が色に不服をいうと、孝子が「花見立」というのから、 「桃よ、美妙斎は桃よ、紅葉は桜見立よ。」 と選りだした。        三  錦子は出京してから、一ツ橋の学校にも近いので、神田猿楽町の親戚の家に泊っていた。  小さい家ではあったが、黒塀の中から、深張りの洋傘をさしたりして、錦子が出てくると、附近には法律学校や医学校の書生が多かったので、目をひいた。  駿河台の山田の家とはいくらも距離がなかったから、自然と足近くなっていった。美妙は文学者の話をよくしてくれた。そのうちに、手を入れてやった錦子の小説を、発表してくれるとも言った。  駿河台の東紅梅町には、尼古来教会が落成して間もなかった。あんな高台へ、あんな高い建築を許して勿体なくも皇居のお屋根まで見えると、憤慨するものもあったほど巍然とした、石の壁と、銅瓦の、塔の屋根は尖っているが円く、妙致を極めたものだった。 「昔だと、南蛮寺とでも、いったのでしょうね。これがニコライ寺さ。露西亜の国教です。日本へ伝道に来た坊さんの名をとって呼んでるけれど、ほんとは、基督復活聖堂というのですと。」 と、広壮な、寺院の廻りを、並んで歩きながら、美妙斎は、鐘楼の高さを、百二十五尺あるのだと語りながら、 「そういえば、あなたの髪の毛は赤いね。」 と、洗い髪をそのまま、チョンピンにして、白い大幅のリボンを、額の上へ、大きな蝶のように結んで、紫の袴を胸高に穿いている錦子を凝と見て、 「稲舟なんていうより、君がそうしていると、この建築物によく似合っている。ほんとに好い、ほんとに好い。」 と、すこし離れて、透して見るようにした。 「おかしな女だ。日本髷を結うと黒い毛なのにね。」 「いいえ、赤っ毛なんですわ。」  錦子が、はずかしがって項垂れると、頸から背中の生毛が金色に覗かれた。  片翳りの、午後の街ではあったが、人っこ一人通らない閑静さで、蜥蜴が、チョロチョロと歩道を横ぎってゆくほどだった。美妙斎はおさえきれないように、いたずらっぽく錦子の髪の毛をひっぱった。  見る見る、錦子の耳朶が、葉鶏頭のような鮮紅の色になって、躰をギュッと縮め、いよいよ俯向いてしまった。  と、片側の赤煉瓦の、寮舎──ニコライ寺の学寮──の窓から、讃美歌が洩れて来て、オルガンの合奏もきこえだしたので、美妙斎は錦子を抱えるようにして歩き出した。  そんなことがあってから後だった。孝子に逢うと、錦子は、 「嫌になっちまうわ。」 と呟やいた。 「学校でね、跡見玉枝先生が、あたしの絵のことをね、あんまり濃艶すぎるって仰しゃるのよ。それだけなら好いけれど、ベタベタしているって言うんですもの──」 「絵がなの?」  孝子が問いかえしたことは、それは、女生徒の間にも、女教師たちの間にも、不言不語に考えられていることなのだ。彼女が描く絵はとにかくとして、出京当時にくらべると、びっくりするほど急に女づくって、毎日々々綺麗になってゆくのが、目に立つのだった。 「あたし、種々なことを覚えようと思ってるのよ、山田先生に教えて頂いて──」 と、錦子はいった。 「ちょいと、文学者たちって、紅さまだの、美さまだのって、手紙に書いてたのね。あたし、紅より、っていう手紙見て、ちょいと怒ったことがあるの。そうしたら、紅葉さんですって。」  六月の日が照りはじめると、稗蒔屋や、風鈴屋や、金魚売、苗売の声が、節面白く季節を町に触れ流してゆくようになった。  本郷台も駿河台も、すっかり青葉になって、お茶の水橋はまっさおな間に、細く白く見えるようになり、下ゆく水は、覗かなければ見えなくなった。夜は、関口の方から蛍が飛んで来て、時鳥も鳴きすぎた。  その頃、どうかすると美妙が、じりじりしているのを、錦子は見逃さなかった。小説は「萩の花妻名誉の一本」を発表してもらえることになっていた。  そうした日の、ある夕ぐれ、青葉の匂いを嗅いで、そぞろ歩きをしようと、当然帰途は美妙斎におくってもらうつもりで訪ねると、留守だった。  賢そうなお母さんが出て来て、まああがれ、まあ上れと進めた。  美妙斎がお母さん孝行なことは、話をしていてもわかるので、錦子もお母さんの進めに逆らわなかった。 「あなたは、他家へはお出になられないのでしょうね。御惣領では──」 と、なんとなく、お嫁にゆかれるのかというような、口うらをひかれた。 「お宅は、お妹御さんおひとりですか?」 ともいった。  錦子は、美妙のお母さんのいう意味を、意識しながら、自分には優しくしてくれる祖母がいるので、大概な願いは叶うのだというように言った。  すると、継母ではないのかときかれたので、錦子はどぎまぎした。そんなはずはないとうち消した。 「でもね、財産のあるお家の、家督を捨て、いくらあなたが物好きでも……」 と、お母さんは考えるように言うのだった。  錦子は、ふと、暗い気がした。美妙は好きで好きで堪らないが、このお母さんや、もっと強いおばあさんがいる、この家の者にはなりきれないと思うのだった。  そんなこと、自分だけの考えだと思っていたらば、このお母さんも、何か、そんな事を考えているのだなと思えた。  それは、錦子が感じた通りだったのだが、お母さんの方は、息子も厭いでなさそうな娘で、丁度好さそうだと思うが、この娘が自分に代って炊事や、掃除などをするだろうかと考えるのだった。嫁は使いよい女中をかねなければならないというのが、その人たちの女庭訓であったのだ。  錦子は、美妙は師の君ででもよいが、もっと深い交渉も持ちたかった。だが、この家庭の嫁となることは躊躇された。彼女は美妙に愛されて──それよりもっと愛されたいものが芽ぐんでいる。それは、一度根ざしたら、その生涯であろう芸術の芽だった。 「ここいらあたりで身を固めさせたい。」  賢なる母親は、あんまり年若く名をなした息子の盛名が、昨今、すこしなまっているので、なんとなく前途を危惧していた。地方の豪家と縁を結んでおけば──そんな下心がないともいわれなかった。 「武太郎は孝行ですよ。言文一致とかで書きだした時も、まっさきにあたしに読んできかせましたのですよ。あたしが、そこが、いけないといえばきっと直しました。」  おお、それは、と錦子は眼をパチパチさせた。これは大変、自分のものも、そんなふうに差図されては堪らないと案じた。だが、 「先生は、ほんとに美しい、よいお声でございますわねえ。」 と、長い袂を、膝の上に、乗せたりかえしたりして、どうして、暇を告げようかとしていた。 「山形の方もお寒いのでしょうね、山田の父の出は、岩手県の山田と申すところですの。いいえ、あたしたちは知りませんけれど。」  美妙の母親は、江戸生れの者には、肌合が違う重っくるしさを、仲たがいをして離れている夫からとおなじにこの娘からも受取りながら、 「でも、あたしも医者の娘ですよ。」 と笑った。東洋のシェクスピヤというような、輝かしいあだ名のあった天才を生んで、しかもその独り子が、色白で美しくって、親孝行で、口答えもしないで、他家の女の子より優しくしてくれる、めったにない息子を持っただけに錦子が、ムンズリと押黙ってしまうと、うちとけて話かけたくても、だんだん渋ったくなる気がして、そう長くは引き止めなかった。  それに、美妙がお酒好きで、飲みだすと帰りが遅くなるし女遊びをする様子も知っているだけに、 「何処へ寄りましたかねえ。あの人は、種んなことを考えているので、お友達のところへ行くと長いから。」 と、錦子に、帰るしおを与えた。  錦子は、青葉の中を、美妙と、そぞろ歩きしようという、当が外れただけではない重っくるしさを抱えてぽっくりを引きずって歩いた。  美妙斎の、特長のある長い顎も、西欧の詩人や学者のように、耳の辺で、房さりと髪を縮らせた魅惑も、逢わない時はことさらに強く思いうかべられて、こういう時には、ああいう眼をする。ああした時には、額よりも顎の方が光ると、チラチラと眼にうかぶのだが──あの人は好きで好きでならないが、彼家のお嫁さんにと考えると、気が進まないのだった。  それに、樋口一葉が、好い小説を書出したので、自分ももっと勉強しなければいけないと思っていることを、意地わるく、しつこく思いだしたりした。美妙に逢っていると、励まされるのでそんなに屈託しなかったが── 「樋口夏子は苦労しているもの。だからって、あなたが、求めて、あの女とおんなじ苦労をしなくっても好い。あなたは、あなたのものが生れてくるさ。それに、僕がこんなに大事にしていれば、一葉は、かえって田沢錦子をうらやむかもしれない、いや、僕を好きなのではないが、あの女にも、恋はあろうさ。」  そんなようにもいわれた。一葉は、あの細っこい体で、一文菓子の仕入れにも行くのだそうだが、客好きで、眉山などから聞くと不断は無口だが、文学談になると姐御のようになる。そうすると、青い顔の頬の上が真赤になって、顔が綺麗になるということだ。浅草の、大音寺前という吉原に近いところで荒物店を出すとかいうから、そのうちに吉原を素見しながら、あの辺を通って見ようといったりして、 「そんな生計も、書くための、命をささえる代なのだろう。」 と、それは、思いやりのある暗い眼つきをしたが──ああ、やっぱり、競べものにはならないのだ。好い気になって、のんきな気持ちで聴いていたが── (じゃあ、あたしは、何を目的に、一生懸命になったら好いのだ。)  自問自答すると、(恋愛)という答えしか出なかった。そしてまた、その目標は美妙斎だと思わないわけにはいかなかった。  錦子が神保町へおりてくると、広い間口をもった宿屋の表二階一ぱいに、書生たちが重なって町を見おろしていた。この附近は下宿屋が門並といっていいほどあって、手すりに手拭がどっさりぶらさがっていたり、寝具を干してある時もあるが、夕方などは、書生の顔が鈴なりになっているのだった。  書生たちが見おろしていたのは、ヨカヨカ飴屋が来ているからだったが、飴屋は、錦子を見ると調子づいた。  ヨカヨカ飴屋は二、三人連で、一人が唄うと二人が囃した。手拭で鉢巻きをした頭の上へ、大きな盥のようなものを乗せて、太鼓を叩いているが、畳つきの下駄を穿いた、キザな着物を東からげにして、題目太鼓の柄にメリンスの赤いのや青いきれを、ふんだんに飾りにしている、ドギツい、田舎っぽいものだった。  ドドンガ、ドドンガと太鼓を打って、サイコドンドン、サイコドンドンと囃した。錦子が通ると錦子に呼びかけるように、  ──お竹さんもおいで、お松さんも椎茸さんも姐ちゃんも寄っといで。といやらしく言って、  ──恋の痴話文ナ、鼠にひかれ猫をたのんで取りにやる。ズイとこきゃ──と一人が唄うと、サイコドンドン、サイコドンドンとやかましく囃したてた。  二階から書生どもはワッと笑いたてた。  錦子はカッとして、どんどん寄宿している叔父の家へ帰ってくると、一層不機嫌になっていた。孝子のところから手紙が来ているといわれても、ちっとも嬉しくなかった。  それでも手紙は気になった。急いであけて見ると、 ──先達ての「見立」の続きをお知らせいたします。あなたの好きな方のお名もありますから、早くお知らせいたしたく、お目にかかるまでとっておけないので手紙にしました。お礼をおっしゃい。 「文壇女性見立」 女教師鴎外、芸妓紅葉、女生徒漣、女壮士正太夫、権妻美妙、女役者水蔭、比丘尼露伴、後室逍遥、踊の師匠眉山、町家の女房柳浪。 それからね、衆議院議員見立には、山田美妙斎は改進党の島田しゃべ郎(三郎)よ。偉いのは田辺竜子と小金井貴美子と、若松賤子の三人が、女でも、その仲間にはいっていました。 「当世作者忠臣蔵見立」というのでは、 由良之助が春のや(逍遥)で、若狭之助が鴎外で、かおよ御前が柳浪、勘平が紅葉で、美妙はおかるよ。力弥が漣山人なの。定九郎が正太夫なのは好いわね。  錦子は、おかるが美妙というところで、クスンと鼻で笑ったが、嬉しくなくはないが、なんとなく浮きたたなかった。  その晩の出来ごとで、もひとつ錦子を悲しませたことが出来た。  二、三年前から女の髪剪りがはやっていたが、最初は、黒い歯の鋭い虫が噛みきるのだといって下町の女たちは、極度に恐れて、呪文を書いた紙をしごいて、髪に結びつけたりしていたが、そのうちに、なんでもそれは、通り魔のようなもので、知らないうちに髷を切られたり、顔を斬られたりするのだといった。  美しい娘で、外に立っていたらば、突然、痛いと思うと、頬ぺたから血がにじみだしたというようなことは、眼につきやすい女に多かった。  錦子が、朝目ざめて見ると、唐人髷がころりと転がりおちた。  ハッと唇の色を変えて、錦子は顫えあがったが、いたずらものが忍び込んだ形跡もないので家の者たちは神業だと、禍のせいにした。他分、表で斬られたのを、枕につくまで落ちずについていたのであったろう。だが錦子は、いやあな予感がしたのだった。  七面鳥の錦嬢という名を、近所の書生たちからつけられたのは、唐人髷を切られてからだった。  短かい髪を二ツに割けて、三ツ編のお下げにし、華やかな洋装となった錦子の学校通いは、神田、本郷の書生さんたちの血を沸騰させた。美妙斎の食指のムズムズしないわけはない。  ──今日錦嬢と── という文字は、美妙斎の日記二十四年の末からはじまっている。二十五年にいたっては、ますます頻繁だ。  ある時は、上野摺鉢山──あの、昼も小暗く大樹の鬱蒼としていた、首くくりのよくある場所──上野公園のなかでも、とくに摺鉢山。ある時は九段──これも、日中あまり人通りがなかった場所だ。ある時は根津の旗亭での食事。  ここで、一言筆者が申したいのは現今、どなたの稲舟研究にも、十九で死んだことになっているが、わたしは二十三歳と信じていた。ずっと前に書いた小伝にも根拠があって二十三と書いたのだが、この稿をはじめる時、あまり他の年譜を信じすぎて、自分の思いあやまりかと諸説にしたがい、末年を十九にとったために、年に無理が出来て来た。で、美妙が錦子の肩上げを見たところは十七であったが十八にしていただきたい。もっとも、錦子の生れた地方も、他の、みちのくの国々とおなじに、丸年で──満幾歳で数えていたとすれば、こじつけられないこともない。  写真も古い『文芸倶楽部』に出ていたのは、何処やら野暮くさいが、二十三の春にうつした婚礼の丸髷のは、聡明で、しとやかで、柔らかみがあり、品のある顔と、しなやかな姿だった。  さて、傍見をしないで、急ぎましょう。  十九になった錦子は、小暗い木蔭の道路での、美妙斎の肘の小突き工合や、指の握りかた、その他のあしらいの荒っぽさや、丁寧さが、女の心を掴むのに、活殺自在であることを、なんとなく感知した。  側にいても、身が縮まるような悦びは、それはもう、とうに過ぎさった日となった。今は、美妙が接する女は、自分ばかりでないのを知って悲しかった。  ──あたしはこんなことを仕に来たのではない。  そんなふうに、冷たく自分を叱ることもある。  ──こんなことで、一葉に負けない小説が書けるか──  悦びといまいましさと、切なさが、幻燈の花輪車のように、赤く黄色く青く、くるくると廻る──そんな時に、国許へ帰れと呼びかえされた。 「お父さんが、あんなに、お前の、書いたり読んだりするのを嫌がって、厳しくなさったのを、学校を勉強するからと出してあげたのだ。」  それがまあ、とんでもない女になって──と、可愛がった祖母までが怒っているという。  七面鳥とは、派手に美しい錦子の洋服姿であり、昨日の優美な娘風と、一夜に変ったスタイルを、書生たちは言現したのであろうが、錦子は、たしかにその頃から、沈んだり、はしゃいだりすることが多くなった。 「あたし、郷里へ帰らなきゃならないのよ。だけど、いいわ。あっちにいて、思いっきり勉強するの、好いもの書くわ。」  そう言って泣かれた友達は、それも好いかも知れないと慰めて、 「なにしろ、あんまりあなた、美妙斎が好きすぎるもの。『いらつ女』に書いてる女にも何かあるんだって? 困るわねえ、浅草にもだってね。」  自分の好きな男は、他女も好きなのだ──そんなふうに簡単に錦子に考えられたろうか?  錦子はこんなふうに思うこともある。阿古屋姫とは誰だろう──そもじは阿古屋の貝にもまさった宝と、何かに書いてあったが誰だろう。あたしかしら?  ──甘いささやき──  銀蜂がブンブン言っているのでも、郷里へ帰った錦子は、ものごとが手につかなかった。  だが、ふと、美妙の手許にあった、薄すべったい、青黒い表紙の雑記帳を、一ひらめくって見た、厭な思い出もおもいださないことはない。表紙うらに鉛筆のはしり書きで、 奈まじいにあひ見る事のつれなきに さりともあはで返されもせず  廿四年十一月六日作とあった。あれが、わたしへの、ほんとの美妙の心ではないかとも思い、いえ、そんなことは決してないはずだとも打消した。  しかし、どうも、それは、はずでばかりはなかったようだ。人の心は微妙であるから、なんとも他からはっきりは定められないが、美妙斎はそのころから関係のあった、浅草公園の女、石井留女を、九月尽日に落籍して、その祝賀を、その、おなじ雑記帳へも書いているのだ。  この女の人を、後におっぽりだしたので、『万朝報』でたたかれて、美妙斎は失脚の第一歩を踏んだのだったが、留女を落籍した日は暴風の日であって、一直から料理をとって祝った。茶碗もりや、鯛の頭附きの焼もので、赤の飯で囃したてたのだ。その後、この女のところへであろうが、別荘、別荘、と別荘行きを毎夜記しつけてある。もとより、錦嬢とあってることも、その他の女とのこともある。  これは、稲舟にも入用なことだ。稲舟の田沢錦子は、今日までの記録では、不良少女のようにいわれているけれど、そうした留女のような莫連女と同棲したからこそ美妙は、錦子のモダンな性格が一層慕わしかったのかも知れない。  錦子はまた出京した。そしてまた帰った。どうしても郷里に凝としていられない気持ち──無論美妙斎からの手紙もある。それよりも彼女が出たいのだ。  錦子がそうしているうちに、郷里で、彼女を恋いしたうものが出来た。それに、東京に来てから、墨田川へ身を投げようとしたような、発作を起したこともあった。  錦子に思いを寄せた郷里の男のことは、いなぶねの死後に出た秘書──美しい水茎のあとで、改良半紙に書かれた「鏡花録」によって僅の人が知っているだけだ。墨田川投身も、知ってるものはすけない。  その間に書いたものが、稲舟の文壇初舞台といってもよい小説「医学終業」だ。  だが、錦子が煩悶に煩悶した三、四年の間を、美妙と留女との歓楽はつづいて、前川──浅草花川戸の鰻屋──に行き、亀井戸の藤から本所四ツ目の植文の牡丹見物としゃれ、万梅──浅草公園伝法院わきの一流割烹店──で食事をし、歌舞伎座見物の帰りは、銀座で今広の鶏をたべるといったふうだった。  美妙という人が、どんな生活をしていたかということが、稲舟はどうして死んだか、ということと、袷の裏表になるのだが、紙数をとるから、そんな事ばかりは書いていられない。塩田良平氏が美妙の日記を研究発表されるということであるから、やがて世に知れるであろう。  とはいえ、世の中は悲しくも面白いものだ。その二十六年には、十二階に百美人の写真が出たのだ。あの、市村羽左衛門との情話で名高い、新橋の洗い髪のお妻が、髪結銭もなく、仕方なしに、髪をあらったままで写した写真が百美人一等当選だったのを、美妙が六銭の入場料をはらって見て、そしてお留のところへいっている。        四  近いうちに、どうしても東京へも一度行くという音信が、孝子のところへ、錦子から届いた。  郷里の実家に、落附こうとすればするほどあたしはジリジリしてくる。どうして好いのか、笑って見たり、怒って見たり、疳癪をおこしてばかりいる。  あたしは、こんな事をしていて好いのかと、自分の胸を掻き毮っている。郷里へ帰ったからって、好いものは書けやしない。やッぱりあたしは、美妙のそばにいなければいけないのだ。  あなたは、美妙の評判がよくないと仰しゃるが、それは、あの人を女が好くので妬まれるのです。それにこのごろ、紅葉の方が小説を多く書いて、美妙が休みがちなので、そんな噂をするのでしょう。  実は、美妙からも出て来ないかといって下さるから、あたしはどうしても出京します。  ──そんなふうな手紙が幾度か繰返されてくるうちに、ある日、錦子は、孝子の前へ笑って立った。 「いけない娘になってしまって──自分でも、我儘だと思うけれど、なんだかジリジリして。」 と、謝るように孝子を見る眼に、矯羞をうかべた。 「あなたを、大層思っていた人が郷里に、あったというではないの。」 「あんなの、なんでもないのよ。種々なこという人随分あったけれど、戯談半分なのよ。」 と、錦子は友達の真面目なのを、ごまかしてしまおうとした。 「でも、その人は、結婚を申込んだというのじゃないの。お父さんもお母さんも、御承知なのでしょ。」 「でも、どうとでも、お前の心のままにしろというから、否だといったの。だから、それは何でもないのよ。もともと友達のつもりだったのだから。」  そうはいったが錦子も、その男が、青くなったり、赤くなったりして涙ぐんだのを思い出すと気とがめもするのだった。 「あたし、一生独立しようと心に誓って、はじめは、医者になろうかと思ったのですけれど、それもだめだったし、画師になろうかとも思ったのですけれど、それも駄目。やっぱり、もともと好きな文学でと思ってるのですの。けれど、それも下手の横好きというんでしょ。自分ながら才がないので、気をもんじゃって、それで始終むしゃくしゃしているのですの。だから、この頃は写真師にでもなろうかと考えていますからって断ったの。無理じゃあないでしょ。」 と言いたした。その裏に、美妙にひかれるもののある事をさとられまいとして、雄弁だった。 「色は白いけれど変なのよ、猫背なのよ、桜津っていうので、うちの女中なんか殿様だの御前だのってほど、華族の若様ぜんとしているのよ。桜津三位中将って渾名なの。」 「それはあなたが附けたのでしょ。」 と孝子もおかしいけれど叱るようにいった。 「嘘よ、お正月の歌がるたをした時、負けたんで額に墨で黛を描かれたからよ。」  いたずらっぽくはいったが、その男は漢学の造詣も深く、書家でもあった。錦子が、北斎の描いたという楊貴妃の幅が気に入って、父にねだって手に入れた時、それにあう文字を額にほしいと思って、『文選』や『卓氏藻林』や、『白氏文集』から経巻まで引摺りだして見たが、気に入った句が拾いだせないので、疳癪をおこし、取りちらかした書籍を、手あたり次第に引っつかんで投りだしたとき、ふとした動機で桜津が思いちがいをしたのだった。 「あたしね、怒りっぽくなったり飽っぽくなったりするって言ったでしょ。その時も、欠伸しながら写真帳を枕にして、だらしなく寝ころんでいたの。そしてね、おっ放り出した本を引きよせて見ると、大好な長恨歌の、夕殿蛍飛思悄然という句が、すぐあったじゃないの。だから、それ書いて頂戴って、桜津に頼んだの。それをね、すっかり思いちがいしてしまったのよ。」 と、錦子は桜津という男が、何をたのんでも、はっきりしない男だから、一ヶ月もたたなければ書いて来まいと思っていたらば、すぐに書いて来て、嬉しそうにニタニタしながら、不出来ですがといったのは好いが、こんな珍本を見つけましたからって、おいていった和本のなかへ、艶書を入れて来たりして、それからは、一日に二度も来るようになったのだと、困ったというふうに話した。  孝子は、錦子が、随分変ったなあと、しげしげと見詰めていた。自分でも手紙に、我儘になったと書いてはよこしたが、東京へ出してもらいたいために、親たちに厭がられるようにしたのではないかとさえ思った。小説が書けないということと、恋心というものが、そんなに悪どい苦しみだとは、孝子には察しもつかなかったが、桜津が自分への思慕だと、思いちがいをした、長恨歌の、夕殿蛍飛思悄然という句を選みだしたということには、そんなものかなあという、仄な、ほんのりとした、くゆりを、思いしみないでもなかった。 「だけど、あなた、山田さんと結婚する?」 「そんなこと、考えてもいないわ。」  そうはいっても、錦子は悩ましげだった。 「小説書いて、独立出来る?」 「だから、あたし、医学終業という題のは、そう思って出京した娘が、女義太夫になってしまうことに書いて見たの。」  ふと、二人の眼のなかには、桜の花と呼ばれた娘義太夫の竹本綾之助や、藤の花の越子や、桃の花の小土佐が乗っている人力車の、車輪や泥除けに取りついたり、後押をしたりして、懸持ちの席亭から席亭へと、御神輿のように、人力車を担いでゆくようにする、贔屓の書生たちが、席へ陣取ると、前にいっている仲間と一緒になって、下足札で煙草盆を叩いて、三味線にあわせて調子をとり、綾之助なら綾之助が、さわりのところで首を振ると、ドウスルドウスルと叫ぶという、女芸人たちの、ばからしいほどな、素晴らしい人気を思いうかべてもいた。 「でも、あたし、どうしても、やって見るつもりなの。」  錦子は自分の胸に、たしかめるように、噛みしめるように言っているのが、孝子には悲しくきかれた。 「女がなんかしていこうっての、きっと、厭なことも多いでしょうよ。どんな厭なことでも、忍耐出来る?」 「どんなことだって、堪えるわ。」  その時、そうは言いきった錦子だったけれど、美妙斎との交渉が深まってくると、堪えきれないことが沢山あった。  おとなしい錦子が、書くものや、上っ面だけではあろうが、なんとなく莫蓮になって来た。美妙斎の影響だと、孝子は思わないではいられなかった。 「あたしの写真をね、どうしてそんな場所へもってらっしゃったのか、芸妓が拾ってね、あてつけだって怒ったの。お嬢さんへって宛名で、随分しどいこと書いてよこしたのですって。あたしそれ見せてもらって、小説のなかへ入れるわ。」 とも錦子はいったりした。こんど来て見ると、美妙斎が、改進新聞社の勤めもやめてしまい、金港堂の『都の花』も廃刊になり、家の中が苦しそうだともいった。  改良半紙へ罫を引いた下敷を入れて、いなぶねと署名したまま題も置かず、一行も書けない白紙へむかって、錦子は呻吟っている日がつづいた。  墨を摺って、細筆を幾たび濡らしても、筆さきも硯の岡も、乾いて、墨がピカピカ光ってしまうだけだった。  錦子は、そんな、ムシャクシャしたあとで、そんなにまで書けない自分を嘆きに、美妙斎の書斎を訪ずれると、今夜も留守、今夜も留守という日がつづいた。  錦子は、肩懸けでも編んで、気持ちをまぎらそうとしたが、毛糸を編む手許になんぞ心は集中されなんかしなかった。ウーとうなると、グイと糸をひっぱって、編棒で突きさしたりして、丸い毛糸の玉を、むしゃくしゃに捻りあげてしまった。 「おそろしくヒステリーになってるね。」 と、そんなあとで逢うと、美妙はハグラかすように言う。 「随分お留守ですのね。」 「ええね。」  美妙はしゃあしゃあと答えて、 「別荘行きも、もうお止めさ。」 と、うふ、うふと胸のなかで、自分だけで笑って、別荘なんぞ、何処にあるのかと聞くと、 「それは言えんさ、それにもう、すでに過去のことだ。」  いきなり、錦子の両の頬のえくぼを、両方の人差指で、はさむようにキュッと押して、 「怒ってるの。」 と顔をもっていった。  その手を払って、錦子は顔を反した。細った横顔にも、弾力のない頬の肉にも、懊悩のかげはにじみ出ているのだが、美妙は、手のうらをかえすように別のことを冷たく言った。 「此処の家も、もう越すんだ。」  錦子はそれをきくと、拗てなんぞいられなくなって、すぐその話の筋へ引きこまれていった。 「君は何故っていうのですか。何故ってね。僕は、このごろ四面楚歌さ。貧乏になったのも知ってるでしょう。何にも目ぼしい作書いてないものね。そりゃあ、演劇改良会をつくろうと思って、脚本なんぞ書いたりしてはいるがね、白い眼を剥いてる奴があるから──落目さ。そりゃあ、僕だって、このままでないという事は、自信はあるけれども。」 「どうしても、このお家を、お離れにならなければ、いけませんの。」  不自由なく育った錦子には、住居を売って立退くということは、没落ということを、眼で見ることだと思った。 「あたしが、いけなかったのでしょうか。」 と、自分の責のように、家のなかを見廻した。小説修業の女弟子などが出はいりするのが、美妙が軽薄才子のように罵られる種なのではないかと案じた。 「そんなことは、どうでもいいさ。この辺はね、金満家の住居や、別荘には──別荘って、妾宅だよ。」 とニヤリとして、 「閑静で、便利でもって来いの土地さ。景色は好いし、われわれふぜいのボロ家は、だんだんなくなるさ。」  だから、今日は書斎の整理をすこし手伝ってもらおうかといった。 「ここのお室、なつかしくって──」  錦子が湿っぽくなるのを、 「君がはじめて来てくれたのは、二十四年だったかね。そうそう、君をおくった帰途に、巡査に咎められたことがあったっけなあ。」 「あら、そんなことなんか、なかったわ。」  錦子は思い出にカッカする頬をおさえた。 「あるよ、山下町だったかでも査公に一ぺん咎められたし、たしかこの家の門前でも咎められたよ。咄さなかったかねえ、自分の家へ、盗人にはいる奴もないじゃないか。」  フッと、莨の煙を、錦子に吹きかけたが 「ハア? 違ったかな。すると、あれは静嬢だったかな。そうだ、思い出した、前の日に伯母さんにぶたれたと言ったっけ。」  こともなげに言いはしたが、錦子の血がサッと逆流するのを意地わるくはかるように、 「なにを妙な顔をしてんのさ。そんな女、今ごろいるもんかね。みんな追っぱらっちゃった。」  バタバタそこらの書籍を引っぱり出して抛り出しながら、 「あ、こんないたずら書きがしてある。見たまえ。」  眼をよせて考えこんでしまっている錦子の手をグイと引っぱって差しつけたのは、  労役を恥ぬを妻とする。芸妓前髪を気にする。と二行にならべて書いてある美妙の落書したものだった。  間もなく、小石川久堅町に越すと、美妙が浅草公園の女を騙したという風説がやかましくなった。長い間だましていて、二千円からの金を奪ったというような悪評がたったのだった。  赤い紙の、四頁だった『万朝報』は大変売れる新聞だった。そこの記事にそうしたことが載っていたのを、美妙が反駁した。  妖艶の巣窟の浅草公園で、ことに腕前の凄いといわれたおとめのことは、種にしようと思ったから近づいたのだ。三五年の研究で、人事千百がわかったから、久し振りで書こうとおもっていたところだ。そこへ新聞記事になって紹介されたのは、好い前触れ太鼓だから、責めもしない、怒りもしない。丁度よいから早速そのままを昨日から書出した。  というのだった。それを文士モラル問題として、手厳しく、というより致命的にやっつけたのが、『早稲田文学』だった。 「裸蝴蝶」の問題の時には、  ──これより先、裸美の画坊間の絵草紙屋に一ツさがり、遂に沢山さがる。道徳家慨き、美術家呆れ、兵士喜んで買い、書生ソッと買う。而してその由来を『国民の友』の初刷に帰する者あり。吾人かつてゾラの仏国に出でたるを仏国の腐敗に帰せしものあるを聞けり。由来すると説くものを聞かず──  と「小羊漫言」に『早稲田文学』の総帥坪内逍遥は書いたが、おとめ問題での美妙の反駁文には手厳しかった。「小説家は実験を名として不義を行うの権利ありや」という表題で仮借なくやった。  かなり誤っている記事であろうが、それを明らかに正誤もしないで、恬然、また冷然、否むしろ揚々として自得の色あるはどうか、文壇に著名なる氏が、一身に負える醜名は、小説壇全体の醜声悪名とならざるを期せざるなりと責め、──いわゆる実験とは如何、不義醜徳を観察するの謂か、みずからこれを行うの謂か、もし後者なりとせば、窃盗の内秘を描かんとするときは、まず窃盗たり、姦婦の心術を写さんとするときは、みずからまず姦通を試みざるべからず── と、悪虐を描くためには、悪虐し、殺人にはみずから殺人するか、そんな世間法な賊は、文壇にどんな功があろうとも齢するを屑よしとしない。特にそんな奴には警察が厳重にしてくれ。だが科学者のいう所の観察であろうと信じている。アジソンの「スペクテートル」における観察者の義であろうと思う。ならば、観察者は清浄無垢の傍観者であり、潔白雪の如くなるべきやと、堂々とやった。  美妙も思いがけなかったであろうが、錦子は泣くに泣けない激しい失望だった。  浅草公園の売茶の店は、仁王門のわきの、粂の平内の前に、弁天山へ寄って、昔の十二軒の名で、たった二軒しか残っていなかった。  観音堂裏には、江崎写真館の前側に、二、三軒あった。あとは池の廻りや花屋敷の近所に、堅気な茶店で吹きさらしの店さきに、今戸焼の猫の火入れをおいて、牀几を出していた。  銘酒屋は、十九年の裏田圃(六区)が、赤い仕着の懲役人を使用して埋め立てられてから出来た、新商売だった。  石井とめという女は、売茶女だとも、銘酒屋女だともいうが、ともかく美妙は、おとめを二百円の身の代金をだして、月三十円かの手当をやり、物見遊山にも連れ廻り、着ものもかってあてがった──後のことは分らないが、はじめの支出を書いた日記を、錦子に開いて見せて、 「僕が、こんなことで厭になったのなら仕方がないが、君だけは、小説家としての僕を、知ってくれるはずだが──」 と、怨みっぽくさえいうのだった。  他人が見捨るなら、あたしは──という、不思議な反抗心が、一度は美妙に失望した錦子に、美妙を救おうという気を起させた。  そして、そう思ったことが錦子にとって、今までにない楽しさをもって来た。天涯孤立となった美妙は、錦子を、いなぶね女史として無二の話相手にしだした。錦子にとっては嬉しいことばかりだった。愛されるばかりでなく、急に一人の文学者として、美妙に遇されるようになったのだから──  人の噂も七十五日、あれまでにやられると美妙斎も復活しだした。稲舟も『文芸倶楽部』が博文館から発行されると、前に書いてあった「医学終業」を出して、目をつけられるようになった。「白ばら」は最初ての閨秀作家号に載るし、「小町湯」や美妙との合作もつづいて発表された。  稲舟の作品は、美妙を離れないともいわれた。美妙に、令嬢気質を捨てろとでもいわれたためか、お転婆な、悪達者だともいわれ、莫蓮女のようにさえ評判された。美妙との関係がそうさせたのでもあるし、そんな、ゴシップ的ばかりでなしに、女流作家のなかでの人気ものにした。  二人の結婚は、誰が見ても、するのが当然のようになっていながら、おそろしく気にされていたが、錦子がその相談に郷国へ帰ると、すぐあとから美妙斎が追っかけていって、近くの旅館に宿をとって、嫁にもらって行きたいと切り出した。  美妙斎は居催促でせがむし、錦子はなんでもやってくれという。めんくらった親たちや祖母は、やっと、一家が帰依している学識のある僧侶に相談して、町の人がその問題に興味をもちはじめたのを防いだが、相続人だから千円のお金を附けたということを、町では噂した。  新婚の夫妻となって、作並温泉から帰って来たのは二十八年の暮も、大晦日の三、四日前だった。  それと、前か後かわからないが、箪笥二十円、ボンネット七十円、夜具ふとん八十円何がいくらと、八十銭のあしだまで書きならべて、新聞紙であまり書きたてるから、披露しないわけにはゆかない、これだけの品代金を、金で送ってくれと、錦子は生家に四百何十円かをせびった。  来客には派手な社会の者もあり、見られても恥かしくないようにしたい。今は離れの一室に籠っているが笑われたくないとか、山田家で立かえるとしても、悠暢に遊ばせている金ではないとか、披露の式は都下の新聞紙にも掲載されるだろうから、その費用の領収証は取り揃えてお目にかけるというような下書きは、美妙が書いて渡した。  華やかな嵐を捲起したこの新夫婦、稲舟美妙の結合は、合作小説「峰の残月」をお土産にして喝采された。  しかしまた、別種の暴風雨が、早くも家のなかに孕みだしていたのだ。  世間的に美妙が蟄伏していた時には、心ならずも彼女たちも矛を伏せていた、おかあさんとおばあさんは、美妙の復活を見ると、あの輝かしかった天才息子を、大切な孫を、嫁女が奪ってしまって、しかも、肩をならべて文学者面をするのが気にいらない。 「僕を可愛がっているんだから──」 と、美妙はとりなすが、美妙が大祖と称するところの、八十五歳の養祖母おます婆さんは、木乃伊のごとき体から三途の川の脱衣婆さんのような眼を光らせて、姑およしお婆さんの頭越しに錦子を睨めつけた。  美妙の父吉雄が、およしの妹とずっと同棲していて、帰らないというのも、この大祖お婆さんがいるからだということを、錦子は嫌というほど悟らせられた。  だが、そうした女傑が、二人も鎮座することは、錦子も承知の上だった。その覚悟はしていたのだが、耐えられないのは、日本橋に出ている芸妓に、美妙の子供が出来かけている──ということだ。狭い家庭内で、三人の女に泥渦を捏ねかえさせないではおかなかったのだ。  錦子は半狂乱のようになった。そんな時期だったのだろう。錦子は墨田川へ身を投げようとした。──墨田川! それは、ふうちゃんが水をみつめていた、あの橋の上流だ。  結婚してたった四月、お金を無心にやられたのだともいうし、離縁されて帰されたのだともいい、体の悪いのを案じて出京した母親が、連れもどったのだともいわれているが、そのうちのどれにしても帰りにくかった古里へ、錦子は帰らなければならなかったのだが、故郷にも待っている冷たい眼は、傷心の人を撫てはくれない。  憂鬱の半年、身をひきむしってしまいたいような日々を、人形を抱いて見たり投りだしたり、小説を書けば、「五大堂」のように、没身心中を思ったりして、錦子はだんだんに労れていった。  事あれかしの世間は、我儘娘の末路、自由結婚、恋愛三昧の破綻を呵責なく責めて、美妙に捨られた稲舟は、美妙を呪って小説「悪魔」を書いていると毒舌を弄した。  錦子は、そうまでされても美妙をかばった。そんなものは書いていないということを、紅葉の文芸欄といってもよい、『読売新聞』によって、「月にうたう懺悔の一節」を発表してもらったが、自分が悪かったということばかりいっている、しどろもどろの長歌みたいなものだった。  恋とはそうしたものか、そんな中でも、美妙へは消息していた。手紙では人目が煩さいので、書籍の行間に、切ない思いを書き入れては送った。  秋の早いみちのくに、九月の風がサッと吹きおろすと、ホロホロッと白露は乱れ散った。それを見ていた錦子の、張り切っていた気持ちに崩れが来て、白い粉の薬を飲んだのが廿三の彼女の一期の終りだった。花をさして、机の上に一本の線香をくゆらして──  私は、今日耳にしたのだが、その時、錦子を絶息から甦えらせて、四、五日保たせたのは、錦子の許婚の人で、それから、その医師は、はやったということだ。  この、明治二十九年には稲舟をさきに、一葉も散り、若松賤子も死んでいる。生前、さほどいじめなくてもよかった稲舟への同情は、再び美妙へのモラル問題となった。それは直に、日本橋の妓を正妻にしたからかも知れない。  今は、七十を越して、比丘尼のように剃髪している石井とめ女を、途中で見かけたという便りを叔父からもらったが、この章を終るまでに探ね出せなかったので、錦子との交錯は不明だ。 底本:「新編 近代美人伝(下)」岩波文庫、岩波書店    1985(昭和60)年12月16日第1刷発行    1993(平成5)年8月18日第4刷発行 底本の親本:「春帯記」岡倉書房    1937(昭和12)年10月発行 初出:「東京朝日新聞」    1937(昭和12)年3月27日~4月21日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:川山隆 2007年9月5日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。