一世お鯉 長谷川時雨 Guide 扉 本文 目 次 一世お鯉        一 「そりゃお妾のすることじゃないや、みんな本妻のすることだ。姉さんのしたことは本妻のすることなのだ」  六代目菊五郎のその銹た声が室の外まで聞える。  真夏の夕暮、室々のへだての襖は取りはらわれて、それぞれのところに御簾や几帳めいた軽羅が垂らしてあるばかりで、日常の居間まで、広々と押開かれてあった。  打水をした庭の縁を二人三人の足音がして、白地の筒袖の浴衣を着た菊五郎が書生流に歩いて来ると、そのあとに楚々とした夏姿の二人。あっさりと水色の手柄──そうした感じの、細っそりとした女は細君の屋寿子で、その後は、切髪の、黄昏の色にまがう軽羅を着て佇んだ、白粉気のない寂しげな女。 「ほんとに姉さんつまらないや、そんなことをしたって」  主人はそういって、今までのつづきであったらしい会話のきりをつけた。  切髪の女は、なよやかに、しかも悩ましいほほえみを洩した。すなおな、黒々とした髪を、なだらかな、なまめかしい風もなく髻を堅く結んで切下げにしていた。年頃は三十を半ばほどとは考えさせるが、つくろわねど、この美貌ゆえ若くも見えるのかも知れない。といって、その実は老させて見せているかも知れない。ほんのりと、庭の燈籠と、室内にもわざと遠くにばかり灯させたのが、憎い風情であった。 「お鯉さんです」  そうであろうとは思っていたが──  切髪の女は小さい白扇をしずかに畳んで胸に差した──地味な色合──帯も水色をふくんだ鼠色で、しょいあげの色彩も目立たない。白い扇の、帯にかくれたさきだけが、左の乳首の下あたりに秋の蝶のとまったようにぴったりと……  黒い夜空ににおいそめた明星のように、チラリチラリと、眼をあげるたびに、星のような瞳が輝き、懐しいまたたきを見せる。唇と、眼とに、無限の愛敬を湛えて、黒いろ絽の、無地の夏コートを着て、ゆかしい印象を残してその女は去った。 「ほんとにあの女は、良い人間すぎてね」  それは誰れやらの老女の歎息であった。  一世お鯉──それは桂さんのお鯉さんと呼ばれた。二世お鯉──それも姐さんの果報に負けず西園寺さんのお鯉さんと呼ばれた。照近江のお鯉という名は、時の宰相の寵姫となる芽出度き、出世登竜門の護符のようにあがめられた。登り鯉とか、出世の滝登りとか、勢いのいいためしに引く名ではあるが、二代揃っての晴れ業は、新橋に名妓は多くとも、かつてなき目覚しいこととされた。  照近江のお鯉──あの、華やかに、明るく、物思いもなげな美しかった女が、あの切髪姿の、しおらしい女人かと思いめぐらすときに、あまりに違った有様に、もしや違った人の頁を繰って見たのではないかという審しみさえも添った。  わたしの心に記憶する頁──それには絵もある。またおぼえ書きもある。みんな岡目から見たもの聞いたものにすぎないが、わたしはその人自身から聞くよりさきに、その覚え書きも持出して見ようとしている。  奠都三十年祭が、全市こぞって盛典として執行されたおり、種々の余興が各区競って盛大に催された。とりわけ花柳界の気組は華々しかった。世はよし、時は桜の春三月なり、聖天子万機の朝政を臠すによしとて、都とさだめたもうて三十年、国威は日に日に伸びる悦賀をもうし、万民鼓腹して、聖代を寿ぐ喜悦を、公にも、しろしめせとばかり、あるほどの智恵嚢を絞り趣向して、提灯と、飾物と、旗と幔幕と、人は花の巷を練り歩くのであった。ことにそのなかに、面白き思附き、興ある見物として大名行列があった。それは旧大名の禄高多く、格式ある家柄の参覲交代の道中行列にならい、奥向の行列もつくったのであった。衣裳調度は出来るだけ華美に、めざましいほどに調えられた。その人数には、俳優、芸妓、旦那衆、画家、芸人、噺家、たいこもち、金に糸目をつけぬ、一流の人たちが主な役柄に扮し、お徒歩、駕籠のもの、仲間、長持かつぎの人足にいたるまで、そつのないものが適当に割当てられ、旧幕時代の万事を知るものが、その身分々々によって肝煎りをした。真にまたと見ることの出来ぬと思われるほどの思いつきで、赤や浅黄の無垢を重ね、上に十徳を着たお坊主までついて、銀の道具のお茶所まで従がっていった。  その行列が通るのをわたしは柳橋で見た。勿論土地の売れっ妓たちは総縫の振袖や、袿を着た、腰元や奥女中に、他の土地の盛り場の妓たちと交っていたので、その通行のおりには大変な人気であった。  柳橋の裏河岸の、橋のたもとから一、二軒目に表二階に手摺のある、下にちょいと垣を結うた粋な妾宅があった。裏へ抜ければ、じきに吉川町へ出て、若松家という古い看板の芸妓家へとゆくことが出来るようになっていた。妾宅のあるじは若松家の初代小糸といった女で、お丸さんという名であった。その時分若松屋には三代目の小糸という雛妓も、お丸という二代目も出ていた。──(そのお丸さんはいま、稀音屋六四郎の細君になっている)妾宅の方のお丸さんは、すらりとした人で、黒ちりめんの羽織のよく似合う、そんな日でも、別にめかしてもいなかったが、人好きのする美人で、足尾の古河市兵衛氏の囲いものだった。その二階に招ばれて、わたしは綺麗な女たちを面うつりするほど多く眺めた。  その行列の、美しい御殿女中のなかに、照近江のお鯉も交っていたのか、ほどなく、わたしは一枚の彩色麗しい姿絵を手にした。桜のもとに短冊をもっている高島田の、総縫の振袖に竪矢の字、鼈甲の花笄も艶ならば、平打の差しかたも、はこせこの胸のふくらみも、緋ぢりめんの襦袢の袖のこぼれも、惚々とする姿で、立っているのだった。  それ以来、わたしの心のおぼえ帳には、美しき女お鯉の名が消されぬものとして残った。        二 「横浜の野沢屋さんの大奥さんからのおつかいものでございますの。なんでも六代目さんなんぞは、「お母さん」というふうにお呼びなすってるようですね。尊敬めてなので御座いましょうけれどね」  その遣いものが、衣服の時があり、手道具の時があり、褥の時があり、種々さまざまであるけれども、使いは同じ人にさせているということを、女小間物屋さんは語った。 「羽左衛門さんのところと、梅幸さんのところと、それから六代目さん。六代目さんは附属なんですね。そりゃ火鉢だってなんだって、拵えておあげになるのです。たいした檀那でございますよ」  泉鏡花さんの「辰巳巷談」に出てくる沖津のような、江戸ッ子で歯ぎれのよい、女でも良いものばかりを誂えられて納めようというお〆さんが、自分の吐いた煙のなかで、ちょいとさげすみ笑いをしたが、 「だが、お鯉さんは好い気風でしてね。馬鹿だなんていう奴がドサの慾張りなんですよ。そりゃ利ればなれがよくってね、横浜からの遣いものなんざ、貰うとすぐに、来たもの徳で、こんなものやろうかってやっちゃうんですからね、さっぱりしたものでさあ。知れたってすこしも恐れるんじゃないから好いでしょう。あたしゃあ好きでしたね。お使いにたって持ってくときもありましたが、見ていてグッと溜飲がさがっちゃうので、かまうもんですか、やっちゃいなさいよ。旦那がやかましく仰しゃりゃ、またこしらえさせますからさって、唆しかけたものでさあ」 といいながら、器用に、ポンと音をさせて煙管の吸殻を吐月峰へはたいた。 「けれどお鯉さんもたいていじゃなかったのですよ。一体無頓着なのに、橘屋ときたら、そのころはしどい借金だったのですからね。厭きもあかれもしやあしないでしょうが、母親が承知しない。それゃ羽左衛門のおっかさんは実に好い人で、どっちでも向いていろという方を向いている人でしたけれど、お鯉さんの方のが承知しやあしません。もともと市村へやったのは、浮気をさせておいては、いつまでも止めないから、一度嫁にやってしまおう、そしたら、なんぼなんでも、いくら惚れてるからって、あの貧乏じゃお尻が落附くまい、かえって思いきらせるには好いからって魂胆で嫁ったんだって言いますものね。嘘じゃあないでしょうよ、なにしろ強かりしていますからね、養母っていう方が。──ええ、二人ありますとも、お母さんを二人しょってるのですから、あの女も大変ですよ。おまけにお母さん次第になるのだから」  売れっ妓のお鯉が、洗い髪のおつまが坐らなければならなかった市村の家の、長火鉢の前におさまった当時の様子が、お〆さんの言葉によって見える。おつまは失意の女として、三十間堀のある家の二階から、並木の柳の葉かげ越しに、お鯉が嫁入りの、十三荷の唐草の青いゆたんをかけた荷物を、見送っていたのだときいている。やがてお鯉も、自分と同じ運命になるだろうと思ったと言ったというが、お鯉もまた二、三年すると、そこの、長火鉢の前の座布団の主として辛抱することが出来なかった。恋女房であろうとも、家の者となればあしらいも違う、まして人気商売ということによって、いかな口実もつくられる。その上に内所は苦しい、お鯉のお宝は減るばかりだった。そこで見て見ぬふりもならぬとなったのは、養われなければならないという二人の老母の、ひそひそ話の結果であった。  去るものは疎し──別離は涙か、嘲罵か、お鯉は昔日よりも再勤の後の方が名が高くなった。羽左衛門のお鯉さん、桂さんのお鯉さんとよばれる一代の寵妓となった。先夫が人気の頂上にあった羽左衛門であることも、後の旦那が総理大臣陸軍大将であることも、渦巻の模様の中心となった流行ッ児の俳優──ニコポン宰相の名を呼ばれ、空前とせられた日露戦争中の大立物──お鯉の名はいやが上に喧伝された。 「どうしてどうして現今のおはるさん(羽左衛門の細君の名)は働きものです。それは自分の持って来たものはあるけれど、どうしても養母さんが強かりしているから、なくなさせやしません。あの細君が来てから、不義理はみんなかえしたのです」  羽左衛門が年少で、技芸も未熟であり、給料も薄く、そして家には先代以来の借財が多かった時分に、身の皮まで剥いて尽したのが洗い髪のおつまである。ままにならぬ世を果敢なんだ末に、十八の若旦那市村は、身まで投げたほどだった。おつまはその心にほだされて、ありとある事を仕尽したが、結局はお鯉が嫁入りするようになった。もうそのころ羽左衛門は昔日の若造でもなければ、負債があるとはいえ、ひっぱり凧の青年俳優であった。またその次の細君の時代は、羽左衛門の一生に、一番覇を伸しかけた上り口からで、好運な彼女は、前の人たちの苦心の結果を一攫してしまったのであった。 「お鯉さんときたら、あんまり慾がなくって、だらしないくらいでしたからね、あれじゃとても羽左衛門は立ちませんでしたあね。なんしろ手当り次第にやっちまうのでしたからね。誰れか下の者が訪ねてゆくでしょう「お前に何かやりたいねえ」というと、何処からか到来物らしい、新しいラッコの帽子を、そらきた、とやるのですからね。一事が万事で大変でさあね」  猫背な三味線の師匠は、小春日和の日を背中にうけた、ほっこりした気分で、耳の穴を、観世縒でいじりながら、猫のようにブルブルと軽く身顫いをした。人気俳優の家庭を知っていることに聴手が興味をもつであろうと思って、そのくせ自分はキョトンとして居睡りの出そうな長閑な顔をしていた。  すると、太棹の張代えを持って来て見せていた、箱屋とも、男衆とも、三味線屋ともつかない唐桟仕立の、声のしゃがれた五十あまりの男がその相手になって、 「なにしろかまわずお金も借りたというじゃありませんか」 といって、サワリを一生懸命に直していた。 「そりゃあまあ、本当だか嘘だか知らないがね」 「いいえ、旦那の知らない借金が、いつの間にか増えているんだそうですよ。あのずぼらやさんが吃驚なんだから、輪をかけた呑気な女だったと見えますね」 「これを着ておいでっていうと、紋付だろうがなんだろうが、其処にあるのを手あたりまかせだったというからね」 「お気に入ると儲かったのだがね」  しゃがれた声はカラカラと高く笑った。 「しかし、たいしたものだって言いますよ。麻布のお宅というのはね、あの女の居間の天井は、古代更紗で張ってあるのですとさ、それが一寸何円てしようっていうのだから剛勢じゃありませんか、何しろ女に生れなけりゃ駄目ですね」 「だが、やっぱり二人老母が附いてるのだろう」 「そいつが厄介ですね、別にすぐそばに一軒、家が建っていますがね」  わたしはぼんやりと、そんなことも聞いていた。  やがて日露戦争は終局に近づいたが、それに従って国内の景況は不穏になって来た。いわれなき講和、償われぬ要求であると、内閣不信任は喧しい喧噪となった。寵妾お鯉の家に大臣は隠れているといって、麻布の妾宅焼打ちを、宣伝するものがあった。日比谷には騒擾が起り、電車焼打ちがあって、市内目抜きの場所の交番、警察署、御用新聞社の打壊しなどがはじまり、忠良なために義憤しやすき民衆は狂暴にされ、全市に戒厳令が布かれて三々五々、銃をもち剣を抜いた兵士が街路に屯し、市中を巡羅するようになった。無辜の民の幾人かは死し、傷つけられ、監獄につながれたりした。その騒動に、お鯉は何処にかくれていたか、もとより彼女の家は附近に隙間なく護衛が配置されてあった。  その頃のお鯉は出世の絶頂で、勢いは隆々としていた。多くの政客も無論出入していた。大阪の利者岩下は最も頻繁に伺候していた一人である。  秋風一度吹いて、天下の桂の一葉は散った。その大樹のかげによって生ていたものは多かった。そして凋落をまぬがれなかった。被うものがなければ日の目はあからさまである。冷たい霜も降る、しぐれもわびしく降りかかる。木枯も用捨なく吹きつける。さしもに豪華をうたわれた岩下氏もある事件に蹉跌して囹圄につながれる運命となった。名物お鯉も世の憂きをしみじみとさとらなければならなくなった。  五万円の遺産分配──それは名のみ、お鯉のために分けられたというよりは、公爵の遺児で、表面夫人の手には引きとられぬきわに出来た、泰三、正子、の六歳と九歳になる子たちを、引取って育てていたからのことであった。お鯉はそのために切髪とならなければならず、思いもかけぬ子に母とよばれなければならぬことになった。そうした考慮が、お鯉自身から生れようか、生れるはずがないのである。  柳橋に、一藤井という、芸妓を多勢抱えている家があった。そこの、あんまり名も知れない抱え芸妓のひとりが、どうしたことか桂公のおとしだねだということが知れた。そんな始末もお鯉がするようになった。妹ともよんでよい年頃の女に母と呼ばれて、お鯉はどんな気がしたであろう。その女をともかく一角の令嬢仕立にするまでお鯉の手許においた、そして嫁入りをさせて安心したといった。しかしやがて五万円は諸々の人の手によって手易く失われてしまった。 「お妾のする仕方じゃない」  それらを考えるときに、その言葉が生てくる。  そのころのお鯉の生活の逼迫が、お〆さんの口から、ちらりと洩らされたことがある。 「金にあかしてこしらえたものも、こうやって二束三文に手離しておしまいなさるんですよ。お気の毒さまですね、お邸こそ以前のままですけれど、おはなしになりませんやね。いまじゃ米屋が強面で催促していることもありますものね」  お〆さんにも多少の感慨はあるか、金の義歯のチラリと光る歯で、四分一の細い吸口をくわえたまま、眉間にたて皺を二本よせて、伏目になっていた。 「お髪のものもなにも、あれじゃもう入りません。けれどおかわいそうです。あの気性じゃたいへんです」  その折り、麻布の家に一人の青年がいて、その人が一人お鯉のことに誠実を尽してやっているといった。またしばらくたってから来ると、こんどはその青年が、下にもおかずもてなされているらしいことを語った。 「食事でもなんでもお上通りで、お鯉さんとひとつに食るのですよ。あの方が身を立てあげればだが、お鯉さんもそれまでにはまた一苦労ですね」 と、隠居たちが派手なしきたりや、お鯉自身もどんなに困っても昔時の通りだということを、どうしようもないように呟くように話した。  お〆さんは、お鯉の真実の親は、ほんとは誰だか分らないのだとも言った。清元倉太夫の子だというがそれは貰いっ児で、浜町花屋敷の弥生の女中をしていた女が、藁の上から貰った子を連れて嫁入ったのだとも言った。 「お鯉さんは清元が上手ですよ、養父さんがしこんだんですからね。十三くらいに、弥生さんの手伝いをしていて、それから花柳界へ出たのです。豪勢な出世もしたかわりに、これからが寂しいでしょうね、肩の荷のなくなった時分にゃ、もう老込んでしまいますからね」  名物お鯉の後日譚は、膾になっても生作りのピチピチとした生の好いものでなければならないと、わたしはひそかに願っていた。すると、かなしいことにお鯉は永平寺の坊さんの、大黒になったという腥さい噂を聞いた。おやおやと落胆してしまった。  願うのではないが、有為の青年と、真に目覚た、いままでの生涯に、夢にも知らなかった誠実を糧にして、遺産は子供と母親たちに残して、共に掌に豆をこしらえるふうになってしまったときいたならば、わたしはどんなに悦んだであろう、それこそお鯉さん万歳をとなえたかも知れない。しかし、いかに、暖かい褥にじっとしていたいからとて、母親の御意のままになるがよいとて、人もあろうに出家の外妾とは、どうした心の腐りであろうと、好きな女であるだけに厭さが他人ごとではないような気がした。とはいえ坊さんにだからとて恋がないとはいえないと弁護をして見ても、お鯉がその青年を捨てまで、または捨られたとしても、それにかえるに老年の出家を選もう訳がない。そこにはどうしても物質から来た賤しい目的が絡まなければならない。  彼女は大森にいると伝えられた。生麦にかくれているとつたえられた。鎌倉に忍んでいると伝えられた。  多恨なる美女よ、涙なしに自身の過去しかたをかえりみ、語られるであろうか。わたしはあまりに遠くから聴き、また見た記憶のまぼろしばかりを記しすぎた。近づいてあきらかに今日の彼女を知らなければ心ない噂と、遠目の彼女で全体をつくってしまう恐れがある。折よくも彼女は彗星のようにわたしたちの目の前に現われた。銀座のカフェー、ナショナルは彼女が新に開いた店だということである。わたしは其処へいって、親しく、近しく、彼女の口から物語られる彼女を知ろうと思う。        三  大正九年も終る暮の巷を、夕ぐれ時に銀座の、盛な人渦の中を、泳ぐというより漂ってわたしはいった。  クリスマス前の銀座は、デコレーションの競いで、ことに灯ともし時の眩ぐるしさは、流行の尖端を心がけぬものは立入るべからずとでもいうほど、すさまじい波が響みうねっている。これが大都会の潮流なのだろうと、しみじみと思わせられながらわたしはゆく──  今年の花時、花が散るとすぐあとへ押寄せてきた、世界大戦後の大不況のドン底の年末だとは、銀座へ来て、誰れが思おう、時計に、毛皮に、宝石に、ショールに、素晴らしい高価を示している。そしてその混雑の中を行く人は、手に手に買物を提げている。高等化粧料を売る資生堂には人があふれている。それも婦人ばかりではない、男が多かった。関口洋品店は流行のショールがかけつらねられて、明るさはパリーなどを思わせるようで、その店も人でざわざわしていた。美濃常では、帽子や、手袋や、シャツや、どれが店員なのか客なのか、見分けられないほどに黒く白かった。わたしはその中をぼんやりと歩いた。  華やかな笑い声がきこえる。はっと我にかえると羞明しい輝きの中にたっている自分を見出した。そして前には美しいショールの女の五、六人が、中を割って、わたしを通して行きすぎた。すぐまたその後へ、キチンとした洋服の、すこしも透のない若紳士の群れが来る。わたしはしどろもどろである。乾いて来た洗髪にピンがゆるんで、束髪がくずれてくる煩さが、しゃっきりして歩かなくってはならない四辺と、あんまり不似合なのに気がつくと、とって帰したいようになった。  三丁目で、こんな店も銀座通りにあるかと思うような、ちょっとした小店で、眉毛を剃ったおかみさんが、露地口の戸の腰に雑巾をかけていた。聞きよかろうと思って、カフェーナショナルは何処ですかと問うと、 「知りませんねえ、そんな家は。カフェーっていう洋食やならありますけれど」  わたしはまた、銀座通りの店にこうした女房さんもあるのかと、お礼を言って離れた。  尾張町の交番でたずねると、交番の巡査は知らないと言った。すると直傍に、青に白の線のある腕章をつけた交通巡査がいて、 「あるある、出雲町の交番の裏だ」 と深切におしえてくれた。わたしはこのごろ、こうした事を巡査や交番で聞くことが、大層自然になって、すこしも気まりが悪かったり、嫌な思いをすることがなくなった。ただ、裏という言葉をハッキリ聞いておかなかったのを不安に思った。  間もなく出雲町の角の交番の前へたったわたしは、丁寧におじぎをしていた。 「この交番の裏ときいて参りましたが、この横町に御座いましょうか?」  すると若い、いかにも事務に不馴れのような巡査は、全く当惑したように固くなって、わざわざ帳面など繰りひろげて見たりしてくれた。わたしは光りの流れてくる資生堂(食堂)の明るい店内を見ていた。白い着物が寸分の絶間なく動く、白い皿が光る、ホークとスプーンとがきらめく、熱い飲料の湯気が暖かそうにたつ、豊かそうに人が出たりはいったりする。わたしもあそこへ腰をかけて、疲れを癒して、咽喉もうるおして、髪でもかきあげて訪ねるところへゆくとしよう。それにあすこで聞けば直に分るであろうと、そうしようとすると、 「向うの横へ曲って、そして右へいってごらんなさい。たしかそんな家があった気がする」  親切に、一生懸命考えてくれて、すこし曖昧ではあるが、そうらしいからと教えてくれた。それを聞くとわたしは、裏というのは後を意味しているであろうことや、資生堂の暖かそうな飲料は、理窟なしに捨ててしまって「違っているぞ」と承知しながら、その方へむかって歩みを運ぶのであった。  築地の海軍工場がひけたのであろう。暗い方から明るい方へと、黒い服のかたまりが押して来た。せまい歩道の上は、この人たちの列で、気の弱いものは圧倒され、たじろいで、立って待っていなければならなかった。若い娘たちは、下駄の歯をならして、おなじように厚いショールを前に垂らして、声高に話合ってゆく。まるで疲れを知らないようであるが、あの明るい町を突っ切って、暗い道にひとりひとり散らばってからは、どんな心持ちであろう。現在のわたしがそうした状態なのだが──  三十間堀に巡査の教えた家があろうはずはなかった。わたしはぐるりと廻って新橋のたもとへ出た。そこの角にあるカフェーの横の扉に、半身を見せて佇んでいる給仕女があったので、ためらわずに近寄ってきくと、その娘は気軽くて優しかった。こちらからゆけば資生堂の一、二軒手前で、交番のじき後になっていることを、すこし笑いながら言って指差して知らせてくれた。わたしも微笑ましくなった。若い娘さんに若い巡査さん、どっちも良い人で、好意をもってくれたことを感じた。娘さんにお礼をいって、笑いながら別れて、ぐるりと廻って交番の近くまで帰ってゆくのに、先刻おしえてくれた巡査の目にとまりたくないと思った。折角の好意が無になって、妙なものになるであろうと思い思い行った。  冬靄が紫にうるんだような色の絹のカーテンが、一枚ガラスの広い窓に垂れかけられて、しっとりと光っているところに金文字でカフェーナショナルと表わしてあった。外飾りなど見るひまもなく、周章て、扉の口へとびこんだ。カフェーへだとて、飲料がほしければはいりそうなものであるが、若い人の、歓楽境のようにされてるそうしたところへは、女人はまず近よらない方がいいという、変な頑固なものが、いつかわたしのめんどくさがりな心に妙な根をはっているので、不思議なはにかみを持って扉の中へはいった。  下足にお客でないことを断って来意を通じてもらうと他の者が出て来た。また繰返していうと、こんどは絣の羽織に袴をつけた、中学位な書生さんが改めて取次ぎに出た。わたしはぼんやりしながら、三度目の繰返しをした。当の主人公は知っていても、此処の周囲の人たちは、変な来訪者だと怪訝に思ったに無理はない。  分前髪の、面立ちのりりしい、白粉のすこしもない、年齢よりはふけたつくりの、黒く見えるものばかりを着た、しっとりとした、そのくせ強かりとしたところのある、一目に教育のあることの知れる婦人が出て、あいにく逢えないことを詫び、明日の時間のことについて、二言三言丁寧な挨拶がかわされた。わたしはその方との打合せでほっとした。カーテンのうしろの卓には、お客もあったであろう、二階の階段の下には、一かたまりになって美麗な女たちもいた。いつまでも硝子戸を後にして立っているわたしの背は、歩道からまる見えであると思うと、厚かましい気がしてならなかった。  さてわたしは此処で、明日にうつるまえに一筆しておかなければならないのは、お鯉を書こうとするに、その人の近事をあまりしらなすぎる。わたしはナショナルで応待した婦人を、店の商業の方には、すこしも関係のない、子たちの家庭教師であろうと、勝手にそう思っていた。あとで人にはなすと、『都新聞』を読まないのかと言われた。わたしは『都新聞』を読んでいなかったので困ったが、お鯉さんの妹で、大変強かりもののおかみさんが、帳場を一切処理しているというから、その婦人でしょうと、その人は言った。勿論それはあとで書くことと前後して、わたしも妹御だと知ったあとゆえ驚きはしなかったが、わたしはこれから、この奇しき姉妹と卓をかこんで、打解けた物語をしたあらましを書いて見よう。        四  その日は前の日と違って、雨がかなり激しく降っていた。ずっと前に降った雪が解け残って、裏町の日かげなどに汚なくよごれて凍っているのを、洗いながすように、さほど寒くない雨であった。気温は冬としてはゆるんでいた。わたしは人力車を約束の十一時までに着くように急がせた。  まだ店の窓にはすっかり白い幕が下げてあって、扉の片っぽだけ白い布があげてあった。朝のことゆえ遠慮なく戸口を開けてはいり案内を乞うた。  店の中は──白い布を、扉の半開きだけあげた店の中は、幕開き前とでもいうように混沌としている。睡眠気分三、夜明け気分七──昼間がちらと、差覗いているといった光景であった。わたしは思いがけぬ「カフェーの朝の間」というところを見て、劇場の舞台の準備を眺めているような気持ちで佇んでいた。  昨夜は気がつかなかったが、大方外に立てかけられてあったのであろう。クリスマスデナー開催の立札の、框張りの大きなのが立かけてある。食券三円云々としるしてあった。階段の上り口には赤い紙に白く、「世直し忘年会、有楽座において」とした広告ビラが張ってあった。  鳥打ち帽に縞の着物の、商人の手代らしい人も人待ち顔に立っていた。奥の方から用談のはてたらしい羽織を着た男が出て来て、赤い緒の草履を高下駄に穿き直して出ていった。わたしは取次ぎをまって佇んでいた。  何処の珈琲店にもある焦茶の薄絹を張った、細い煤竹の骨の、帳と対立とを折衷したものが、外の出入りの目かくしになって、四鉢ばかりの檜葉や槙の鉢植えが、あんまり勢いよくはなく並べられている。その後には白蝋石の小卓が幾個か配置されてある。その卓のとっつきの一つで、小柄な娘がナフキンを馴れた手附きでせっせと畳んでいる。頸に湿布の繃帯をして、着流しの伊達まきの上へ、緋の紋ちりめんの大きな帯上げだけをしょっている女は、掃き寄せを塵取りにとったりして働いていた。やがて、お酒と、煙草と、夜更しと、おしゃべりとで、声がつぶれてしまったのであろうと思われる、不思議な調子の若い男が、短衣で出て来て、キャラキャラした声で来意をたずねた。  短衣の小男は人気者と見えて、すこしの間にみんなから話しかけられていた。階段の下の、酒場の掃除をしている二、三人の娘たちは、その男の名をケンチャン、ケンチャンと呼んでいた。  酒場の娘の一人はこんなことをいっていた。 「随分飲んだわ、なんとかいっちゃ一ぱい、かんとかいっちゃあ一ぱい……」 「……あたしね、一万円あれば八千円で帯を買って、あとの二千円は……とかする」  ケンチャンがその時なかなか面白いことを言ったに違いなかった。みんな元気に機嫌よく笑ったが、聞きつけないものには、何をいっているのか、あんまりな上声で、まるでわからなかった。すると、ナフキンをたたんでいた娘が、 「ライオンは多田さんという人がいるのよ、そりゃ面白いってっちゃないの、(よくって多田さん、それじゃこれ無代よ、無代よ)ってみんなが言うのよ」  それが、言う人には非常に興味ありげであった。そのとき黒い服を、ちゃんと身につけた給仕長らしい男が迎えに出た。そしてわたしは二階に導かれた。  表二階の食堂を通りぬけると、間の室は二階の給仕娘の控室であるらしかった。  裏階段のあるところで、四、五人が着物を着たり身づくろいをしていた。わたしは其処も通りぬけて、奥まった別室へ通された。  手はこびの暖炉がはこばれた、温いお茶もある、新聞もある、心地よい長椅子もある。しかし土曜の午後を楽しんで鶴見へ一緒にゆく事になっているちいさい甥が、学校でさぞ待っているであろうと思えば、心閑かにしている間が、おしい気がするのだった。室の隅には二枚折りの金屏に墨絵、その前には卓に鉢植の木瓜が一、二輪淡紅の蕾をやぶっていた。純白な布の上におかれた、小花瓶の、猖々緋の真紅の色を、見るともなく見詰めていた。  控間では一時騒めいていたが、 「貴女もお湯にいらっしやる」 「ええ」 「じゃ御一緒に行きますから待ってて頂戴な」  静かになった。すると、此家でか、または裏の家でか、下の方の裏で物音がした。 「お風呂がもう沸きますが……」 「自動車になさいますか、おくるまになさいますか?」  下男といった調子に聞えた。やがて何処からともなく、お皿やホークの音が、時々ガチャガチャと聞えた。  もう朝じゃあない、此店では商業をはじめたな、と思ったときに戸はノックされた。        五  美しいお鯉──わたしは手箱に秘めてあったものが、ほどへて開いて見たおりに、色も褪ずにそのままあったように、安心と、悦びと、満足の軽い吐息が出るのを知った。  お鯉さんは朝のままで、髪も結いたてではなかった。別段おめかしもしていなかった。無地の、藍紫を加味したちりめんの半襟に、縞のふだん着らしいお召と、小紋に染めたような、去年から今年の春へかけて流行ったお召の羽織で、いったいに黒ずんだ地味なつくりであった。  かわらないのは眉から額、富士額の生際へかけて、あの人の持つ麗々しい気品のある、そして横顔の可愛らしさ、わたしは訪ねて来て、近々と見ることの甲斐のあったのをよろこんだ。  それに、わたしの目をひいたのは第一に束髪であった。かつてわたしが、束髪のお鯉を見たときは安藤てる子さんとして紹介されたので、桂公爵に仕え麻布に住んでいたおりのことであった。  思出はさまざまに、あとからあとからと浮みあがってくる、その折お鯉は何事も思うままで、世の憂きことなどは知ろうようもないと思われた時代である。花の三月、日本橋倶楽部で催された竹柏園の大会の余興に、時の総理大臣侯爵桂大将の、寵娘の、仕舞を見る事が出来るのを、人々は興ありとした。金春流の名人、桜間左陣翁が、見込みのある弟子として骨を折っておしえているというこの麗人が、春日の下に、師翁の後見で「熊野」を舞うというのであった。 「熊野」とは、「熊野」とは──その意味の深いことよ。  うつくしき人は、白き襟に、松と桜と、濃淡色彩よき裾模様の、黒の着附けであった。輝くばかりの面に、うらうらと霞めるさまの眉つき──人々は魅しさられた。 ──春前に雨あつて花の開くる事早し。秋後に雲無うして落葉遅し。山外に山あつて山尽きず。路中に道多うして道極まりなし「山青く山白くして雲来去す。」人楽しみ人愁ふ。これ皆世上の有様なり……  ひるがえる袖、ひらめく扇。時と人のよくあって、古えを今に見る思いがした。  噂というものは、いかにあろうとも、軽率な侮蔑を、同性の人にむかって投附けるほど、向う見ずな勇気をもたないわたしは、ともすれば、その人の心の真を知らないものが、反感をもって眺めるであろうと思う束髪を見て、かえって気が楽になったように思った。なぜならば、切髪というものは、昔は知らず今の時代では、空々しく思われないでもないと、日頃思っていたからで、形において、夫にさきだたれた独身者であるということを、証明する必要のないものは、かえって人目に立って、異様な粧いをこらす結果とあまり違わないことになるからだった。ことにとやかくと、人が噂にのぼせたがるものがそうした姿かたちをするのは、猶更注意をひきやすいと思っていた。  わたしはこう言った。 「貴女が今までに、あんまり間違ったことを言われるとお思いになったことをきかせて下さい。新聞や雑誌に、お名前の出たところはたいてい読みましたが、そういうものはみんな忘れる事にしました。聞噛ったことを興味で書かれてはたまりませんし、読む人は、他人の苦痛はいくらでも忍耐が出来ますから、面白い方をよろこびますものね」  彼女は答えた。 「本当に──最初はくやしいと思っても、段々馴れて、それに反抗心も出て、勝手になんでも言うが好い、いくらでも書くが好いという気になって、意地悪になってしまって……」        六  彼女の頬は、暖炉や飲料のためではなくカッと血の気がさした。それを見ると、わたしは気持ちがすがすがしくなって、お鯉は生ている、生作りの膾だと、急に聞く方も、ぴんとした。 「あたしは貴女にいろいろ聞きたいことがあるのですが、みんな後にしてしまって、桂さんに御死別になったあとのことが──さぞ、世評は誤解だらけでしょうから、ありのままのことをお話して頂きたいのです」  わたしが無作法にも、訪問記者のようなことを言出したのは、あの頃──桂侯爵の逝去ののち、愛妾お鯉に、いくら面会をもとめても家人が許さなかったというような新聞記事を見ていたからであった。気の弱いわたしはそこまで立入った問は心がゆるさなかったので、その真偽は聞きもらしたが、思いがけない面白い──面白いといってはすまない、その人にとれば、いままで、善を悪として伝えられ、白を黒と発表されていた事柄なのだった。お鯉という女の真意は、かくのごとく清く滞らないものであるということを語るには、ありのままを記そう。  この女も意気の女だった。何もかも振りおとして、重荷をはらってしまおうと思うと、慾も徳も考えない気短な、煩さがりやの、金銭に恬淡な感情家なのだった。わたしは、自分にも、共通の弱点のあることを考えてほほえんだ。痛快にも思った。  人はあるいはいうかも知れない。些細な感情などに動かされて、利害を忘れ、長き後の悔を残すと──けれど、もしそういう人があったならば、わたしは誇らしく面をあげていうであろう。冷徹な理性の人にも失敗はある。感情に激しやすくっても失敗はある。いずれが是、いずれが非と誰れが定められよう。感情の複雑な人ほど、美人は人間的の美をますと──  彼女は白い手に銀の小刀をとった。赤い柿の皮が細く綺麗につながってゆく。エメラルドは指に碧く、思出は彼女の頭の中をくるくると赤く、まざまざと巻返えされていると見える。彼女の眼の色は早春の朝のように澄んで冷たく、初夏の宵の、明星のように瞳は熱っぽく輝いた。 「わたしに残して下さった遺産は七万円からあったのです。それから三人の子供をわたしの子にしていたのです。そうして残されたものが、わたしのものではないように、他人がとやこういって、肝心のわたしが頭をさげて利息をすこしばかり貰いにゆくという、おかしな事がありましょうか?」  そんなばかなことをと、誰しもがその時答えるであろう。ましてわたしには、数字は違っているが、そんな運命にあって、二人の男の子を抱いて、物価騰貴のおりから苦しんでいる妹を持っているので、他人ごとならず感じられた。此処にもそうした女性があるのか、女というものはどうしてこうまで虐げられ、自己の権利を蹂躙されるものかと怒りがこみあげてくるのであった。  そのおり令妹のしげ子さんがはじめて口をはさんだ。 「わたしは姉ともう五年一所に暮しています。はじめは、姉が寂しい気持ちのドン底にいた時に、わたしというものを思出して呼びよせたのです。わたしと姉とは、まるで育ちも境遇も違うので、行ってもどんなものかと思ったのでしたが、来て見ると、聞くと見るとは大違いなので離れる事が出来なくなりました。あの時は、全く姉は孤立で、真に心淋しかったのだろうとよく思出します。世の中の噂のようなことが本当ならば、わたしは志望した道を投捨てまで、五年間もこうして姉さんをたすけていやあしません。姉さんの犠牲になって、こうした商業の帳附けや監督になんぞなりはしません」 と、しんみりと言った。全く彼女にはそう思えたに違いない。秋田で育って県の女学校にはいり、女医を志望していた人には、あまりな商業ちがいである。 「全くこの妹には気の毒だったのですけれど──この妹でもいてくれなくっちゃ、──この家業だって、ビールか葡萄酒でなくっては、西洋のお酒の名さえ分らないのではねえ」  お鯉は眼をふせて面伏せそうに笑ったが、 「わたしにしてもよくよくだったのです。姉さんが気の毒でとても離れられなかったので、一緒にいろいろ心配もしましたが、その頃のことはわたしも知りませんでしたけれど、あとで聞いて見ると、姉は、自分の事は自分でする、他人の差図やお世話にはなりたくないと思っていたらしかったのですね」 という令妹の言葉に頷いて、 「ええ、そうなの。そうではないの、あの方だって、誰の差図をうけろのどうのとは仰しゃらなかったし、もともと遺産といっても、あの方がおなくなりになってから、御本邸の方の財産をへらして分けて頂くのでもなんでもなかったのですもの」 「では、もともと貴女のものとしてあったのですか?」  わたしはもうへだてもわすれて、率直に自分の聞きたい方に急いだ。 「広太郎という御子息がありましたの、その方の事は大層信用していらっしゃったので、俺が死んだらば、直にこの手紙を子息のところへもってゆけ、そうすれば、何にも言わなくっても、すっかり分るようになっていると仰しゃって、表書きにその方の名前を書いた文が出来ていましたのですけれど、その方のほうが先へおなくなりになってしまったので、それで面倒くさくなったのです。すった、もんだで、一年半というものは実に嫌な月日をおくりました。その間の苦しみって、困ったの困らないのって、お話にゃなりません。何しろその金へは手が附けられないのですものね。三人の子供と、二人の老母と、十人の召使いとがいて、以前の家に住んでいたのですもの」  おお、その時であろう、お鯉さんが貧乏していると伝えられ、あるものをみな手離しているといわれ、それはみんな彼女のふしだらからだなぞと噂されたのは── 「それもね、わたしが強情で、井上さんと喧嘩をしたからですの。だって強情にもなりますわ、意地も悪くなりますわ、困らしたらば彼女頭をさげてくるだろうと、弱いものいじめをなさるから、わたしはどうしても屈服することが出来なくなって、苦しい意地も張るようになったのです」 「では、その財産をどうしようと先方ではいったのです?」 「利息だけで暮らせ、それを毎月貰いに来いというのです。それには大変な個条書きが附いていて、それで承知ならば実印を押せというじゃありませんか。その個条書きったら、ほんとにばかばかしくって、とてもあたしには、さようで御座いますか、承知いたしましたとはいえないのですもの。今度出しておいてお目にかけましょうね、その個条書きっていうのを、あたしはちゃんと取ってあります。あんまりおかしいから、あたしは立派に張って巻物にしておこうと思っていますわ。しかも、あたしは押しゃあしないけれど、立会人になった、立派なお歴々の判はおしてあるのですの」 「随分ばかげた事ではありませんか、そんな騒ぎをして、後に渡してよこした時は、七万からのものが五万いくらかになっていましたって」 と、しげ子さんもいった。私も、 「井上伯とか侯とかは、そんなばかばかしいことでもしていなければ用もなかったのでしょうか、一体まあ立会人ていうのが誰なのです。随分世の中には暇な人が多いと見えますね、たのまれもしないことを」 「本当に頼まれもしないことをです。残していって下さった方は、頼みもなんにもしないことなのに」 「やろうというのは、その者に充分につかわせたいからなのは分っているじゃありませんか。何だって余計なことをしたものでしょうね」 「本当に貴女の仰しゃる通りよ。そのお金だって、いちどきに沢山儲ける実業家ではなし、大臣は貧乏だったから、なかなかあれでも心にかけて積んでおいて下さったのです。よけいなものが出来ると、これはお前の分にして銀行へ入れておいてやろうといったり、臨時のことで株券なんぞが手にはいると、お前のものにしておいてやるからといって、その場で下さるものを銀行へ入れておいただけだったのです。ですから当然自分のものだと思っていたのです。それをいくら問いあわせても返事をしてくれずにほっておいたのちに、井上さんへ呼ばれるといまの話──個条書きの一件なのです。 一 貞操を守る事、 一 子供の教育を自儘になさざる事、 一 犯りに外出いたすまじき事、  そんなことを読みあげて判をおせって……」  語るものも、聞くものも、顔を見合せて失笑した。 「あたし夫人じゃない、妾ですっていってやったの」  なんという簡にして要を得た、痛快な答えではないか?        七 「そうすると怒ったのおこらないのって、あの有名な癇癪玉でしょう、それを破裂させたのです。馬鹿ッ、貴様はッて怒鳴ったのですけれど、あたしゃあ怖いことはないから言ってやりましたわ。第一貞操を守る事なんて、そんなこととても出来ません。わたくしは若いのですし、旦那はおかくれになったのですから、これからのことはわたくしの自由では御座いませんか、そんなお約束はうっかり出来ません。出来ることならばいたしますが、わたくしにはとても出来ないと思いますからいたしません。明日の心さえ自分でわからないほどですもの、長い一生をかけて、どうしてそんな、とんでもないお約束が出来るものですかって、いってやったんです」  それは甚く雪の降った日のことであったという。座には早川千吉郎、益田なにがし、その他錚々の顔触れが居並んでいた。その中へ引きいだされた彼女は、慾を捨ていたのでそれが何よりもの味方で心強かった。彼女はこじれた金などはもう取りたくなかった。それよりも早く自由な身になって桎梏から逃れたかった。  雷が鳴る──はらはらしたのは仲にたつ人々であった。世外侯の額の筋がピカピカとすると、そりゃこそお出なすったとばかりに、並居る人たちは恐れ入って平伏する。そして小声で、悪いようには計らわないから、御尤もと頷ずいてしまえとすすめる。 「あなた方は、あの方を怒らしてしまうと後の恐いことがあるからでしょう。あたしはちっとも恐かないから嫌だ」  ここにおいてお鯉の目には明治の元勲井上老侯もなければ、財界の巨頭たちもないのであった。たかが女一人を──その財産を、自由を、子供の教育を、何もかもを、女と侮って、寄ってたかって、何のために押えつけようとするのであろう。それも旦那の生前に頼まれていたとでもいうのならいざ知らず、横合から飛出して来たおせっかいである。  千金の壺だといっても、その真価を知らぬものには三文にもあたいしない代物としか見えない。さすがの老侯も物質尊重のお歴々には、あがめたてまつられている御本尊であるが、お鯉にとっては、おせっかいな世話やき爺に過ぎない。世外どころか、おせっかいにも、他家の台所の帳面まで取りよせて、鼻つまみをされる道楽があった。天下の台所の世話やき、お目附けは結構でも、老いては何とやらの譬え、ついには他人の妾の台所まで気にするようになられたものと見える。  さはあれ引っ込みのつかなくなったのは、実に思いがけない事であろう。天下に、この俺にむかって楯をつくものがあろうかと思っている鼻さきを、嫌というほどにへし折って、そのあげくの口上がこれである。 「面倒くそうございますから、なにもかもみんな御前に差上げます」  そして目録を書いてある遺書を、さっさとおいてお鯉は帰ってしまった。  お鯉の家の門前は急に人足が茂くなった。手をかえ品をかえ、温顔に恐面に、さまざまの人が、さまざまの策略をめぐらして訪問するのであった。慰問使、媾和使、降伏説得使なのである。鯉の頭は猶更下ろうとはしない。その多くのなかに異色ある者が二人あった。男女互に一人ずつ、共に有名な人物である。  女は当代の名物女とゆるされた故「喜楽」の女将おきんであった。男は政界の名物法螺丸と綽名をよばれた、杉山茂丸という人である。  杉山は度々仲にはいって足をはこぶうちにお鯉のいうことに耳を傾けるようになった。そしてその方が理窟のあることだと同情してしまった。つまり説得するものが説破されたのである。この人はお鯉の利益になるように説くようになった。そこで、喜楽の女将が、我こそと手ぐすねをひいて出て来たのだ。自分でなければ、ああひぞってしまった女を、説附ける腕はないと信じて現われた。  喜楽の女将の一喝にあえば、多くの芸妓は縮みあがってしまう勢いがあった。流行妓になるのも、よい姐さんになるのも、お披露目に出た時、女将の目にとまって、具合よく引っぱり廻され、運の綱を握るようにしむけてくれるからである。で、たいていな妓は、喜楽の女将の言うことに逆らわなかった。けれども、そのおりのお鯉は、とてもそうした威しでは駄目だと炯眼な女将は見てとった。  ある日女将は輪袈裟をかけ、手に数珠をかけて訪ねて来た。切髪となっていたお鯉は、越前永平寺禅師となって、つい先の日遷化された日置黙仙師について受戒し参禅していたが、女将もその悟道の友であった。ものものしくも、いしくも思いついた姿でやって来た女将は、 「今日は平日のあたしじゃあない。この姿を見て下さい。この袈裟の手前としても、いざこざなしに話をしましょう」 といった。それに答えたお鯉は、 「本当に女将さんよくその姿で来て下さった。それならば、あたしは貴女を、真に打解けてよい人だと思って、ほんとうにはなし好いわ。貴女だって、まさか、そうしてまで来てくださって、皆とおんなじようなことはおっしゃるまいから」  そういうと女将は変な顔をしてしまった。そして、これはしまったというように、 「そんな事いっちゃ、あたい困っちゃうね。そんなつもりじゃなかったのだよ。こうして来たらば、あたしのいうことを何でも聞くかと思ってさ」 と化の皮を現わしてしまった。 「そりゃあいけないわ女将さん。ふだんの姿だとあたしにも義理があるけれど、袈裟をかけていて下さるとほんとに話好いのだから。第一あなたも苦労人じゃないか、先方のいうことばかりを聞いて、こっちになって考えてくれないからですよ。よく思って見ておくんなさい。誰が一番可哀そうなの、旦那には離れるし、これからさきどうしてゆこうと苦労しているものの身になって考えて御覧なさい。貞操を守れったって、はい守りましょうといって守れなかったらどうするの、かえって恥じゃありませんか? そんなことは約束するものじゃありますまい。それから子供のことだって、十二人もある子供で、腹違いが多いから、お前の子として育って来たものを、また他の者の手へ渡しては子供が可哀そうだからと、すっかりあたしの子になさったのを、誰に教育をたのもうというのでしょう。犯りに外出をいたさぬ事というのも、あんまり人を人間でないように思っているじゃありませんか、旦那の在世のうちだって、一々本邸へ電話をかけて、許しをうけなければ一足も外へ踏みだせなかったので、つい面倒くさいから芝居ひとつ見ないようになってたじゃありませんか。これからこそ、気楽にして暮したいと思うのに、なんだかんだと煩さい事を聞くのも、それもお金があるからだと、つくづくほしくなくなっちゃったんです。もともとあたしのものなのだから井上の御前にあげましょうって言うだけなのですわ」 「そう言われればそうだけれど、あたいは困っちゃったね」  困っちゃったと口にはいっても、言われないとこまでも女将の胸には梁みたのであろう。なぜならば、わたしは或折この女将の洩した歎息と、述懐を聞いたことがある。 「あたしはありとある愁い経験をもっていて、いろいろな涙の味を知りつくしている。だから、どんな芝居を見ても面白い、感動する。なぜならそのどれにも共鳴するものを噛みつくしているからだ」 といったようなことであった。あの根上りの飛上った小さな丸髷が、あの人の一面を代表しているようには見えたが、あの髷の下にも、真実はかたまって残っていたのである。彼女もまた動いてしまった。        八  そんなこんなで麻布を引払い、大井の方へ移った。大井の里の家は、かなり手広なのと、すこしはなれて、梅や桃を多く植廻した小家との一軒をもっていた。狭い方のへ老母たちが住い、広い方へ子供とお鯉と、秋田から出京したしげ子とが住んだ。 「姉は子供が好きだったので、みんな慕っていましたが、今では三人とも手離してしまって、淋しいのを紛らすために六歳になる女の子を貰って育てています」 「柳橋から来ていた大きいのは縁附きました。も一人の女の子は十二の時に、桂二郎さんに引とられこの間それも縁附きました。その子は幼少いうちから手塩にかけたので、わたしを何処までも母だと思っているのです。二郎さんのところへ訪ねていったら、あたしの事を、あちらの御夫婦へ大層気兼するので、気が痛んで来て、それから行かないようにしましたの。あれを手離した時のさびしさといったら……」  暗然と、聞くものの胸にもにじむものがある。 「男の子は安藤の家督にしてあるのですけれど、その子の母に連合があって、生みの母の縁から深く附合うようになったところ、なにしろその子の義父だというので、何かと家の事へも手を出したがるし口も出すのです。それやこれやの迷惑は一通りじゃなかったので、種々と世間からもあたしが誤解されたり、大井の広い家も売ってしまうようになって、そのかわりに、家ごとその子も先方へ持っていったのです」 「五万円のうち一万二千円ずつ三人の子につけて渡したのですからあまったのは幾らもありはしません。それで桂さんの死後、ざっと十年たらず今日まで過して来たのですね。もう今は残っていません、何にもなくなったから商業をはじめたのですね、ねえ、姉さん」 「母もなくなりますし、残っていた養母も去年なくなりました。木からおちた柿のように、ほんとの一人ぼっち──けれど此妹がいてくれたので……」  暫時、三人は黙した。ケンチャンが白いものを着て、髪の毛にも櫛の歯を見せて、すましかえって熱い珈琲をはこんで来た。三人はだまって角砂糖を入れて掻廻した。 「姉の考えでは、残しておいて下さったもののあるうちは、何にもしないで、旦那の余光で暮してゆこうとしていたらしかったのです。そうだとは言いませんが、どうもそういう考えらしかったのです。何にもなくなった時に、その時にお鯉にかえるのだと思っていたのだと思います」 「あたし、みんなに生別れたり死別れたりして、何もかもなくなってしまった時に、今日から自分の生活になるのだと、しみじみと思いましたよ。けれど、待合や、料理店をはじめると、分明した区別がないので、あんな風になったと思われますから、はじめるならいっそ、みんなから見張ってもらっているこんな商業の方が好いと思って、ここの株式の専務ということになりました」 「貞操を守れの、守らせるの、いや守れないのといったって、姉の所行はわたしは見て来ています。こうして立派に過して来たのですから」  しげ子さんは客が来て中座した。そのおりをよき時と、そこにいられては聞きにくいことをきいた。  四谷で生れていまもあの辺に住んでいる女から、お鯉の生家は、いま三河屋という牛肉屋のある向角であったということを聞いたことがあったので、さまざまに取沙汰されている、この女の生れを聞定めようとした。そしてしげ子さんのことも──。するとその事が本当であって、三河屋が親切にその家のあとも引取ってくれたのだといった。 「家の退転時が来たのでしょうか、漆屋というものは、漆のあわせかたがむずかしいもので、秘伝のようになっていたそうです。わたしを生ませた父が養子に来て死ぬころまでに、数代つづいたますやの店もいけなくなりました。妹の父が来ても家をゆずらなければならなくなって、わたしは安藤へ養女にやられ、妹は両親と、秋田の鉱山へいってしまったのです。後に母が病身になったと聞いたのでわたしの方へ母を引取りましたのです。秋田には多勢の子供がありますから、あたしにはたった一人の妹を無理に貰って、実家の片岡の方の家をつがせることにしました。おかげさまと、どうやらこの店もやってゆけます。株式をやめて、わたくしの店にしてしまうような相談もあります。一、二年もしてやってゆけば、妹に譲って、わたしはわたしの何か仕事をはじめようと思っています」  長椅子の方へ来て、くつろいでこんな打明けばなしをしてから、御免なさいといって、はじめて巻煙草の一本をつまんだ。  お鯉さんのこれからの生活は、かなり色の褪た、熱のないものであろうとその時わたしは思った。彼女は羽左衛門と、三下り、また二上りの、清元、もしくは新内、歌沢の情緒を味わう生活をもして来た。巨頭宰相の寵愛を一身にあつめ、世の中に重く見られる人たちをも、価値なきものと見なすような心の誇りも知って来た。いかなるものが現われ来て、この後の彼女を満足させるほどその生活を豊富にするであろうか? それは疑問だ。何にしても彼女の過去が、あんまり光彩がありすぎた。あざやかすぎた。  とはいえそれを救うのは、純潔なる魂の持主、熱烈な情熱と、愛情でなければならない。彼女が、生来まだかつて知らぬ、清純な恋そのものでなくてはならない。が、悲しいことに、いたずらに費消された彼女の情熱は、真純さを失って、彼女の外見のかたちよりは若さを消耗している。  彼女が子供好きで、子供がなくてはさびしくていられないという心持ちは察しることが出来る。子供ほど彼女の複雑な気持ちを害さないものはないであろう。彼女の真の慰安は──友達は、無邪気な子供よりほかないであろう。  お鯉さんとはなしをしているうちに、その声に、いろいろと苦労をした人だと思わせられる響きを感じた。美人と境遇と声音──これもこの後心附けなければいけないと思った。それから、お鯉さんには、わたしが気にかける二本の横筋が咽喉にあった。ほんにこの筋のある美女で苦労を語らない人はない。  考えると人生はさびしい。そしてむやみに果敢なくなる。 ──大正十年一月── 昭和十年附記 昨年赤坂田町の待合「鯉住」の女将として、お鯉さんが某重大事件の、最初の口火としての偽証罪にとわれ、未決に拘禁されたのは世人知るところであり、薙髪して行脚に出た姿も新聞社会面を賑わした。おお! 何処までまろぶ、露の玉やら── 底本:「新編 近代美人伝(上)」岩波文庫、岩波書店    1985(昭和60)年11月18日第1刷発行    1993(平成5)年8月18日第4刷発行 底本の親本:「近代美人伝」サイレン社    1936(昭和11)年2月発行 初出:「婦人画報」    1921(大正10)年1~3月 入力:門田裕志 校正:noriko saito 2007年4月10日作成 青空文庫作成ファイル: 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