島原の乱雑記 坂口安吾 Guide 扉 本文 目 次 島原の乱雑記    一 三万七千人  島原の乱で三万七千の農民が死んだ。三万四千は戦死し、生き残つた三千名の女と子供が、落城の翌日から三日間にわたつて斬首された。みんな喜んで死んだ。喜んで死ぬとは異様であるが、討伐の上使、松平伊豆守の息子、甲斐守輝綱(当時十八歳)の日記に、さう書いてあるのである。「剰至童女之輩喜死蒙斬罪是非平生人心之所致所以浸々彼宗門也」と。  三千人の女子供がひそんでゐたといふ空濠は、今も尚、当時のまゝ残つてゐる。丁度、原城趾の中央あたり、本丸と二の丸のあひだ、百五十坪ぐらゐの穴で、深さは二丈余。今、空濠の底いちめん、麦がみのつてゐた。又、本丸や二の丸には、ぢやが芋と麦が。  原城趾は、往昔の原形を殆どくづしてゐない。有明の海を背に、海に吃立した百尺の丘、前面右方に温泉岳を望んでゐる。三万七千人戦死の時、このあたりの数里四方は住民が全滅した。布津、堂崎、有馬、有家、口之津、加津佐、串山の諸村は全滅。深江、安徳、小浜、中木場、三会等々は村民の半数が一揆に加担して死んだ。だから、落城後、三万七千の屍体をとりかたづける人足もなく、まして、あとを耕す一人の村民の姿もなかつた。白骨の隙間に雑草が繁り、なまぐさい風に頭をふり、島原半島は無人のまゝ、十年すぎた。十年目に骨を集め、九州諸国の僧をよびよせ、数夜にわたつて懇に供養し、他国から農民を移住せしめた。だから、今の村民は、まつたく切支丹に縁がない。移住者達は三万七千の霊を怖れ、その原形をくづすことを慎んだのかも知れぬ。原形のまゝ、畑になつてゐるのである。  私は城趾の入口を探して道にまよひ、昔は天草丸といつた砦の下にあたる浜辺の松林で、漁夫らしい人に道をきいた。返事をしてくれなかつた。重ねてきいたら、突然ぢやけんに、歩きだして行つてしまつた。子供達をつかまへてきいたが、これも逃げて行つてしまつた。すると、十四五間も離れた屋根の下から、思ひもよらぬ女の人が走りでゝ来て、ていねいに教へてくれた。宿屋で、何か切支丹のことを聞きださうとしたが、主婦は、私の言葉が理解できないらしく、やゝあつてのち、このあたりではキリスト教を憎んでゐます、と言つた。    二 原因  島原の乱の原因は、俗説では切支丹の反乱と言はれてきたが、今日、一般の定説では、領主の苛斂誅求による農民一揆と言はれてゐる。天草四郎が松平伊豆守に当てた陣中の矢文にも、領主松倉長門守の重税を訴へ「近代、長門守殿内検地詰存外の上、剰へ高免の仰付けられ、四五年の間、牛馬書子令文状、他を恨み身を恨み、落涙袖を漫し、納所仕ると雖も、早勘定切果て──」と書いてゐる。  然し、重税の内容がどのやうなものであつたか、この文章からは分らない。牛馬書子令文状といふものがどのやうなものであるか、それすらも分らないのだ。又、日本に残る記録には、之に就て語るものが、まつたくない。たゞ、教会側に、ポルトガルの船長ヂュアルテ・コレアの手記があり、これによつて、推察しうるにすぎない。コレアは、一揆の当時、大村の牢屋にゐたのである。  コレアの手記によれば、農民は米、大麦、小麦で一般租税を払ひ、更に Nono と Canga のいづれかを収めなければならなかつた。そのうへ、煙草一株につき冥加として葉の極上の部分を選んで半分とられ、又、それらの物品が揃はぬときは、茄子一本につき何個といふ割当の賦課か、或ひは、何物かの年貢を納めねばならなかつた。(パジェスの鮮血遺書では、物品の代りに女をとられたと言ひ、これが島原の乱の直接の原因となつたと述べてゐる)  ノノ及びカンガとは何物か。パジェスによれば、ノノは九分の一税、カンガはポルトガル語で牛の軛を意味するが、然し、多分日本語の何かではあるまいか、と言つてゐる。日本語であるとすれば、ノノは恐らく「布」であらうが、カンガとは? 布に相応するカンガとして、これをカイコ(島原地方ではカイゴといふ)であらうといふ説が妥当のやうである。カイゴは繭の意である。  現に、島原地方は養蚕の甚だ盛大な土地で、温泉岳の山麓は見はるかす桑の葉の波であつた。然し、そのやうな事実に就て手掛りをもとめるとすれば、他面、この地方は牛の甚だ多い所で、現在、牛を飼はぬといふ農家が殆どない。私は朝の眠りを牛の声に妨げられ、旅行のバスも屡々牛のために妨げられた。一概に断定はできない。  そこで、純然たる農民一揆であるかと言へば、これが又、決して、さうは断定できぬ。明らかに、切支丹の陰謀もあつた。  切支丹の陰謀は、主として、天草に行はれてゐた。小西の旧臣、天草甚兵衛を中心に、浪人どもを謀主とし、甚兵衛の子、四郎を天人に祭りあげて事を起さうといふのである。彼等はまづひとつの伝説をつくりあげて愚民の間に流布させた。それは、今から二十六年前(といへば、家康の切支丹禁令のことであらう)天草郡三津浦に居住の伴天連を追放のとき、末鑑といふ一巻の書物を残して行つた。時節到来の時、取出して世に広めよ、と言ふのである。その書物によると「向年より五々の暦数に及んで日域に一人の善童出生し不習に諸道に達し顕然たるべし、然に東西雲焼し枯木不時の花咲諸人の頭にクルスを立海へ野山に白旗たなびき天地震動せば万民天主を尊時至るべきや」云々。丁度、源右衛門といふ村民の庭に紫藤の枯木から花が咲き、それも紫の咲くべき木に白が咲いた、さういふ事実にあてはまるやうに作つた伝説であつた。  この地下運動はその年(一六三七年)の旧六月から表面に現れ、彼等は天草一円に切支丹の説教をはじめ、又、島原半島へも、及んだ。天使と担がれた天草四郎は、伝説の中の生き神様になるだけの天質があつたのだ。美貌と、神童の叡智であつた。彼は自ら、壇上に立つて説教し、諸方に信者ができた。  十月二十五日、島原領有馬村を発火点として一揆が起きた。その十日前、十月十五日に、天草の方では次のやうな廻文が廻つてゐるのである。  態と申進候天人天降り被成供せんちよふむていは天主様より火のすいちよ被成候間何者なりとも吉利支丹に成候はゞ爰許へ早々可有御越候村々庄野乙名草々御越可有候島中に此状御廻可有候せんちよ坊にてもきりしたんに成候はゞ被成御免候恐惶謹言。   丑十月十五日 寿庵  右早々村々へ御廻し可被成候天人の御使に遣申候間村中の者に御中付可被成候吉利支丹に成不申候はゞ日本六十六ヶ国共に天主様より御足にていんへるのに踏込なされ候間其分御心得なさるべく候天草の内大矢野に此中被成御座候四郎様と申は天人にて御座候其分可有御心得候  一加津佐村の寿庵と申人も則天人の御供なされ候間寿庵手前より先々へ遣申候  つまり、島原半島には農民一揆の気運がたかまり、天草島では切支丹反乱の準備がすゝんでゐた。一揆は島原半島で爆発したが、農民だけでは収まりがつかなくなつて、天草の切支丹組に助勢をもとめ四郎を大将として原の廃城にたてこもることゝなり、一揆は、切支丹の色が濃くなつた。結局、最後には、切支丹反乱の形態になつたのである。  徳川時代には、島原の乱といへば、切支丹騒動と一口に言つた。ところが、明治以後には、農民一揆と訂正され、切支丹の陰謀が不当に忘れられようとしたのである。これは一に教会側の宣伝と、切支丹学者の多くがキリスト教徒であるため、切支丹に有利な解釈をとりがちであつた為である。コレアの手記に拠る限り、島原の乱は純然たる農民一揆の如くであるが、コレアの手記に偏して日本の記録を無視することは不当である。コレアの手記はむしろ、参考にとゞまるものでしかあるまい。  私が長崎図書館を訪れたとき、館長は、貴重な資料の蒐集をとりだして説明してくれたが、そのなかに、これは教会側の記録ですが、と言つて、取出したものに、小さなパンフレットがあつた。裏を返すと昭和四年発行、大浦天主堂とあり、一部五銭であつた。今も教会に売つてゐるから、もとめて御帰りなさいと言はれた。  私が泊つてゐたイーグルホテルは、丁度、大浦天主堂の真下なのだ。ホテルをでゝ、坂道を四五十秒も歩くと、もう、天主堂の前である。翌日、私は天主堂へ登つて行つた。  私は門番にパンフレットのことをきいた。あゝ、その本はね、昔はこゝでも売つてゐたが、今は本の係りの佐々木といふ人が取扱つてゐますから、上の入口でその人を呼出してきゝなさい、と教へてくれた。私は石段を登り、中段の入口でその人を呼出した。  私が来意をつげると、その人の眼に狼狽の色が走つた。「そんな本は出版したことがありません」彼は言つた。 「いゝえ。出版されてゐます。私は昨日図書館で見てきたのです。図書館長が現に売つてゐるからと言つてゐます。私は怪しいものではありません」  私は自分が小説家であること、又、この旅行の目的が島原の乱を小説にするためであることを説明して、名刺をだした。私の名刺に、彼は顔をそむけた。まるで、それが悪魔の護符であるやうな、愚昧な人の怖れであつた。さうして、名刺を受取るために、一本の指を差出さうとすらしなかつた。「では、ちよつと、調べてきます」彼は思ひきつて、言ひ、僧房の奥へ消えた。  まもなく彼は出てきたが、やつぱり、ないと言つた。 「明治時代にそんなものを出版したこともあつたさうですけど」 「いゝえ、昭和四年です。現に、下の門番も知つてゐますよ」 「それは何かの間違ひでせう」  私はあきらめた。さうして、上の天主堂へ登つてもいいかときいた。どうぞ、御自由に、と彼は答へた。私は彼に別れて天主堂へ登る。現存する日本最古の天主堂。国宝建造物である。疑ひは神の子にあり、私は呟きながら、天主堂の扉をくゞつた。  この天主堂は千八百六十五年(慶応元年)二月十九日落成した。その年の三月十七日のことであつた。正午頃十四五人の男女が訪ねてきたが、常の見物人とは何やら様子が変つてゐるので、プチジャン神父は彼等を堂内へ伴ひ入れ、ひそかに彼等の様子を見てゐると、彼等はマリヤの像を認め、あゝ、サンタマリヤと口々に叫ぶや跪いて祈念の姿勢をするではないか。さてこそ三百年の禁令をくゞりぬけた切支丹の子孫であつたかとプチジャンは狂喜し、いづこの人々であるかと問へば、長崎郊外浦上の者で、浦上村は村民すべてが三百年今尚ひそかに切支丹を奉じてゐると答へた。折から、他の見物の人がやつて来たので、彼等はつと神父の旁を離れ、見物人のやうな顔して彼方此方を眺めはじめた。──これが、日本に於ける切支丹復活の日であつたのである。その後、天草に、五島に、切支丹の子孫は続々と現れてきた。  この大浦の天主堂で、日本の切支丹が復活した。その建物は、今も尚、往昔のまゝ、こゝにある。彼等はどの柱に、どの祭壇に、マリヤの像を認めたか。さうして、見物の人がやつてきたとき、彼等は神父の旁をつと離れて、どの柱の下を、そ知らぬ風で歩いたであらうか。その復活の当日から、この神の子達は、宿命の疑惑を宿してゐた。禁令三百年、無数の鮮血をくゞりぬけて伝承した信仰に、悲しむべき疑ひが凍りついてゐたことも又やむを得ない。さう思へば、私の癇癪もいくらか和いでよかつた。とは言へ、何か割切れない不快が残り、釈然とはできなかつた。疑ひは神の子にあり、私は祭壇に向つてわざと呟いたが、何よりも困つたことには、さつき彼が受取らなかつたので、行先を失つた名刺が私の指にぶらさがつてゐることだつた。仕方がないので、それを千切つて、掃き清められた床の上へバラまいて、帰つてきた。    三 科学戦  一揆軍は原の廃城にこもつて、十二月朔日から籠城にかゝり、八日には小屋掛を終り、十二月廿日に第一回目の戦争。落城は翌年二月二十八日であつた。  始めは一揆軍有勢で、正月朔日には幕府方の総大将板倉重昌が鉄砲に乳下を射抜かれて戦死した。幕府方の戦死は莫大であつたが、一揆軍は極めて少数の犠牲者しか出さなかつた。後者には鉄砲が整備してゐたからである。又、棒火矢といふものを用ひた。筒に矢をこめて打つたのである。当時の鉄砲は十匁玉とか廿匁玉とか言ひ、今のラムネ玉よりもよつぽど大きな玉であつた。  幕府方は鉄砲に辟易し、石火矢(大砲のこと)で対抗したが、当時の大砲は実戦の役に立たなかつた。板倉重昌に代つた松平伊豆守は石火矢台といふものを築かせて大砲をすゑ、井楼をつくつて、こゝから敵状を偵察して大砲を打たせたが、駄目だつた。石火矢台も現存してゐるが、城との距離は二百米ぐらゐしかない。それでも、とゞかなかつたのである。なぜ、とゞかなかつたかと言ふと、当時大砲といふものは、敵に実害を与へるよりも、その大仰な形や音響によつて、敵を畏れしめ、戦はずして降服せしめる戦法から製作されたからである。だから、弾丸は徒に大きく、一丁も飛びはしなかつた。今、長崎の大波止に、この時用ひたといふ砲丸がある。重さ千三十二斤、玉の廻り五尺八寸。これを実際使用するには長さ九間口径三尺の筒と三千斤の火薬がいるといふが、それでも一間とは飛ばず、多分、筒の中をころ〳〵ところがつて、筒の口からいきなり地面へドシンと落ちるだけだといふ。  正月十日、オランダ船をつれてきて、海上から砲撃させた。この弾丸はとゞいた。この時から、幕府方は有勢になつたのである。二十八日にオランダ船は平戸へ帰つたが、大砲だけは借りうけ、石火矢台にすゑて、射撃した。とはいへ、敵に与へた損害は、決して大きくなかつたのだ。むしろ、味方たるべき紅毛人が幕府方に加担したことによつて、精神的な被害が大きかつた。さうして、砲丸よりも、旧式な一本の弓矢が、更に大きな被害を与へた。正月十六日、四郎が本丸で碁を打つてゐると、敵の矢が飛んできてその袖をぬいた。生きた神なる四郎にすら矢が当るといふので、陣中の動揺限りなく、遂に脱走する者数名が現れたのである。  二月二十二日。伊豆守は二十一日の戦争に死んだ敵兵の腹をさかしめ、腹中の物が青草の類ばかりで米食の跡のないことを見届け、総攻撃を決意した。このことは、伊豆の子供の日記にある。つまり、解剖学まで応用し、科学の粋をつくした力戦苦闘なのである。さうして、弓の矢がとゞいたのに、大砲の玉がとゞかなかつたといふ結果を残してゐるのである。    四 忍術使ひ  これも甲斐守輝綱の日記から。  この戦争に、忍術使ひが登場した。二月十五日、甲賀者を城中に忍びこませたのである。忍術使ひは近江の甲賀から呼びよせたものであつた。忍術使ひは失敗した。九州の言葉が分らぬうへに、切支丹の用語や称名を全然知らなかつたからである。忽ち看破され、慌てゝ逃げた。それでも忍びこんだ印に、塀に立てた旗をぬいて担ぎだしたが、石で強か頭をどやされ、決して見事な忍術ぶりではなかつた。切支丹の用語ぐらゐは暗記してから忍びこめばいゝのに、と、往昔猿飛佐助のファンであつた私は大いに我が光輝ある忍術道のために悲しんだが、之が、さうはいかないのである。今日では、それに相応の訳語があるが、当時は適訳がなかつたので、でうす(神)はらいそ(天国)いんへるの(地獄)くるす(十字架)といふ風に、こんな名詞まで外国語のまゝ用ひてゐた。こんちりさん、さからめんと、ゑけれぢや、どみんごす、などゝ、千にも近い南蛮語がそのまゝ使用されてゐては、九字を切つても、まに合はない。  一方、一揆軍も大いに妖術を用ひたと言はれた。俗書では、天草四郎も忍術使ひになつてゐるのだ。そのうへ、金鍔次兵衛が登場したとも言はれてゐる。蓋し金鍔次兵衛は、青史にその名をとゞめる切支丹伴天連妖術使ひの張本人で、この伴天連が実際島原の乱に登場すれば話は面白くなるのだけれども、あいにく彼はその直前に長崎で捕はれ、一揆の直前十二月六日、穴に吊されて刑死してゐる。だから、一揆に関係はない。  金鍔次兵衛は洗礼名をトマスと言ひ、姓は落合であるらしい。大村の生れ。父レオ小右衛門、母クララは共に殉教者であつた。彼は有馬のセミナリヨで勉学し、特にラテン語にその天才を現したが、一六二二年大殉教の年、二十二歳でマニラへ渡り、アウグスチノ会の司祭に補せられた。金鍔次兵衛は日本の渾名で、教会の記録ではトマス・デ・サン・オウグスチノとよばれてゐる。  一六三〇年。布教のため故国へ潜入。神出鬼没の大活躍をはじめたのである。彼は先づ長崎奉行竹中采女の馬廻り役に入込んだ。潜入の伴天連多しといへども、堂々日本の役人に化けおはせたのは彼一人である。しかも竹中采女は切支丹逮捕の総元締であるに於てをや。彼は自由に牢屋へ出入することができ、大村に入牢してゐたアウグスチノ会の布教長グチエレスと連絡し、通信を運んだり、給金をさいて給養したりした。一六三二年グチエレスが刑死の後は、アウグスチノ会の神父が彼一人となつたので、独力信徒の世話につとめ、近隣を忍び歩いて告白をきゝ慰問につとめた。一六三三年、露顕した。然し、彼の遁走力は洵に稀世のものであつた。たつた一人のトマス次兵衛を捕へるために、九州諸藩の軍勢数万人が出動したのである。嘘のやうな話であるが、それですら、つかまらなかつた。  大村領戸根村脇崎の塩焼が次兵衛を山中にかくまつてゐるといふ密告があつたので、大村藩はこゝに総動員を行つた。大村藩所蔵の「見聞集」によれば、家老大村彦右衛門を大将に、少数の城内留守番を残して、士分は言ふまでもなく、足軽から土民に至るまで、十五歳から六十歳に至る全人口をかり集めたのである。そのうへ、佐賀、平戸、島原の三藩から援軍をもとめ、長崎浦上から大村湾一帯にかけて山関を張り、一歩一人の列を守つて山狩りをはじめたのである。山狩りの味方同志が同志討ちの危険があるので「佐嘉勢者腰に藁注連平戸勢者大小鞘に白紙三つ巻島原勢者左の袖に白紙大村勢は背三縫に隈取紙を付け各列を定め出歩之刻限を極め暮に及相図を以て押止り其所に居て篝を焼夜中交替して不寝番を勤往来を改禁す」三十五日かゝつて山の端から端に及び、浦上から海へつきぬけてしまつたけれども、次兵衛を捕へることができなかつた。次兵衛はそのとき早くも江戸へ逐電し、今度は江戸城の大奥へ忍びこんで、お小姓組の間に伝道しはじめてゐたのである。江戸で布教の感化があらはれ、信者がふへたが、役人に嗅ぎつけられて、又、長崎へ舞ひ戻り、一六三五年から三七年まで再び長崎に大騒動をまき起した。切支丹伴天連妖術使ひの張本人(昔の本にはかう書いてある)金鍔次兵衛(次太夫とも云ふ)の名は日本中に鳴りとゞろいてしまつたのである。どうして金鍔次兵衛と呼ばれたかといふと、次兵衛は何か事あるとき、刀の鍔に手をあてゝ、何事か思入れよろしくやるのが例であつた。その鍔に切支丹妖術の鍵があると思はれたのである。多分刀の鍔に十字架でもはめ込んでゐたのだらうと言はれてをり、現にさういふ拵への刀が発見されてゐるといふことである。そこで金鍔次兵衛の名が生れた。一六三七年、長崎郊外の戸町番所に近い山中の横穴に住んでゐるのを密告によつて捕へられ、十二月六日、穴に吊るされて死んだ。十二月六日のくだりを記録によつて調べると、原城では十二月朔日に立籠つた一揆軍が矢狭間を明け堀をほり、この工事が完成して妻子を城内へ引入れた日であり、その翌日には天草甚兵衛が手兵二千七百をひきつれて入城してゐる。一方、討伐の上使松平伊豆守は、やうやく箱根を発足し神原に泊つた日であつた。箱根は終日豪雨であつたさうだ。然し、次兵衛の死んだ十二月六日はパジェスの記事によつたもので、太陽暦であり、日本の記録は太陰暦による日附であるから、同じ日でない。十二月六日は、多分、陰暦の十月十四日に当るのであらう。とすれば、島原一揆の起る直前で、(一揆の蜂起は十月二十五日)即ち、全然一揆には関係なかつたのだ。  私が島原へでかける前日、長崎のことに精通した人がゐるから、一度戸塚の大観堂へ立寄るやうに、といふ話であつた。私は大観堂へでかけた。最初、折から遊びに来てゐた早稲田の野球の指方選手が教へてくれた。長崎へ着き次第、本屋へかけつけ「市民読本」といふのを買つて読むといゝ、さういふ話であつた。あいにくのことに、この本は、もう長崎に一冊もなかつたのである。  次に指方選手よりも、もつと精通した人が、駈けつけてくれた。この人の精密極る案内図によつて、私は楽な旅行をたのしむことができたのである。 「郊外に戸町といふ所があつて」その人は説明した。「大波止から渡船で行くのですが、そこには、怪しげな遊廓があります」  私はそれを覚えてゐた。私の旅行は切支丹の資料の調査のためであつたが、旅行の日程といふものが、目的のための目的だけで終始一貫しないことを、神の如くに看抜いてゐる説明ぶりであつたのである。  私は長崎へついて、まつさきに、数種の案内書と地図を買つた。目当の土地へつき、知らない土地を目の前にして、地図をひろげるぐらゐ幸福な時はない。  戸町──あ。怪しげな遊廓のある所だな。私はニヤリとして地図を視つめる。すると、金鍔谷。私は飛上るほど驚いた。さうだつけ。金鍔次兵衛がつかまつたのは、戸町であつた。私は慌てゝ、案内書をめくつた。やつぱり、さうだ。金鍔次兵衛のつかまつた所なのである。そればかりではなかつた。金鍔次兵衛が最後にひそんでゐた横穴が、現に、そのまゝ残つてゐるのだ。  私は長崎へついたその足で、まつさきに戸町へでかけて行つた。金鍔次兵衛の隠れ家だつた横穴には、不動様が置かれてゐた。たゞ、それだけのこと。来てみた所で、何の変哲があらう道理もないではないか。私はむしろ私の好奇心に呆気にとられて、変哲もない金鍔谷に、苦笑の眼をそゝいでゐた。長崎に見るべきものは外に沢山あらうのに、先づまつさきに金鍔谷へ駈けつけたのが、分らなかつた。我がことながら、阿呆らしかつた。地図をひらいて、金鍔谷をみつけると、叩かれたやうに、飛出してしまつたのである。長崎といふ所は、東京と支那のまんなかへんで、時間も、東京と支那のまんなかあたりであるらしい。東京で七時といへば薄暗らかつたが、長崎では、疲れきつた太陽がまだ光つてゐる。始めは、化かされてゐるやうな、厭な気がした。私が戸町で七時の時計と七時の太陽を見た時は、まだ長崎へついたばかりであつたから、一さう、変に空虚を感じた。私は、怪しげな遊廓をひやかさずに、長崎へ戻つた。さうして、チャンポン屋で渋い酒をのみながら、金鍔次兵衛ともあらう豪の者が、原城へ入城もしないで、あんな穴ぼこの中でつかまるとは、返す〴〵も残念至極だと、酩酊に及んでしまつたのである。 底本:「坂口安吾全集 03」筑摩書房    1999(平成11)年3月20日初版第1刷発行 底本の親本:「現代文学 第四巻第八号」大観堂    1941(昭和16)年9月25日発行 初出:「現代文学 第四巻第八号」大観堂    1941(昭和16)年9月25日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。 入力:tatsuki 校正:noriko saito 2008年10月15日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。