麓 坂口安吾 Guide 扉 本文 目 次 麓 1 2 1 「ごらんなさい。あの男ですよ」  村役場の楼上で老村長と対談中の鮫島校長は早口に叫んで荒涼とした高原を指さした。  なだらかに傾斜する見果てない衰微。白樺の葉は落ちて白い木肌のみ冷めたい高原の中を、朽葉を踏み、紆るやうに彷徨ふ人影が見えた。 「毎日ああして放課後の一二時間も枯枝のなかをぶら〳〵してゐるのですよ。椿といふ、あれが先刻お話した赤い疑ひのある訓導です。間違ひの起きないうちに、出来れば二学期の終りに転任させたいものですがね。うまく欠員のある学校がみつかるといいのだが……」 「はつきりした左傾の証拠はあるかね?」  老村長はぶつきらぼうに訊いた。 「必ずしも。はつきりしたことは言へませんが。この間違ひに限つて一度おきたら取返しのつかない怖ろしいことになりますからね。学校も。村も」  校長は分別くさい顔付をして、その顔付をでつぷりした上体ごと村長の前へ突き延した。  老村長は顔をそむける。その分別くさい顔付は見たくもないと言ふやうに。そして茫漠と夕靄のおりそめてきた高原の奥を眺めふける。  窓硝子に迫まる重苦しい冬空。冬空の涯は遠景の奥で夕靄につづき、そして地上へ茫漠と垂れ落ちてゐた。そこでは大いなる山塊も古い記憶の薄さとなり、靄の底へ消え沈もうとしてゐた。流れ寄る黄昏にせばめられた荒涼。なほ大股にうねる人影が隠見した。 「はつきりしない嫌疑であの男を転任させるのは儂は好まない。左傾する者はどこへ行つても左傾する。そして一人の校長先生が迷惑する。一人の校長先生がな。同じことではないか」と呟いた。 「今夜僕の家へあの男をよこしたまへ。儂はあの男と話してみやう。万事はそれからで遅くない」  老村長はたどたどしい足どりで帰つていつた。  猪首の校長もぶり〳〵しながら学校へ戻る。外へ出ると興奮してゐる。なんて物好きな、わけの分らない老耄なんだ、あいつは!  老村長は氷川馬耳といつた。五十五だが六十五にも七十にも見え、老衰が静かな哀歌となつてゐる。彼の顳顬の奥では、彼自身の像が希望と覇気を失ふて、永遠に孤独の路を帰へらうとする無言の旅人に変つてゐる。  馬耳老人は家へ帰つた。村の旧家であるが貧困のために極度の節約をしてゐたので、がらんどうの大廈には火気と人の気配が感じられなかつた。  弟の妻、三十になる都会の女。爽やかな美貌の女が出迎へにでて、帽子と外套をとる。 「今夜は来客がありますからね。闘犬のやうな荒々しい若者がくる筈だから……」  馬耳は病妻の寝室へ行つた。病妻は挨拶のために数分も費して僅かに頭の位置をうごかす。その部屋の縁側へ出て、いつものやうに馬耳は籐椅子に腰をおろした。  妻が病んでもう三年。彼が此の椅子に腰を下して遠い山脈と遥かの空を無心に仰ぎだしてから、もはや三年すぎてゐる。  病妻もやがて死ぬだらう。そして、妻は死んだといふ言葉となり、一つの概念となることによつて彼を悲しますかも知れない。今、生きてゐても死のやうな病妻。言葉も動作も、そして存在すらも已に失つてゐるかのやうな妻。已に現実の中で彼女は死滅し、彼女は已に無のやうであるが、やがて、彼女は死んだといふ言葉となり、一片の言葉となることによつて現実のなかへ彼女は寧ろ蘇生する。さうして、馬耳を悲しますに違ひない。  弟の妻、三十になる都会の女が縁側の籐椅子へお茶を運んできた。そして、病妻の寝室の隣り部屋、彼女の部屋へ帰つていつた。馬耳は彼女に、今夜は来客がありますよ、闘犬のやうな荒々しい若者がな、と言つたのである。そして、白樺の高原を踏む荒い単調な跫音に就て考へた。  籐椅子に凭れずに、尠し上体を前こごみにすると、隣の部屋に編み物をする弟の妻、ことし三十になる女の半身が見えるのである。もう二尺籐椅子を前へ動かすと、こごまずにも女の全身が見えるであらう。併し馬耳にはその勇気がない。この三年、それは長い習慣によつて定められ、庭の立木や妻の寝姿への角度を通して然あるべきやうに慣れてしまつた古い場所で、もし椅子を二尺動かしたなら、恥と叱責に満ちた傷口のやうな真空が二尺の場所へ発生して、寒い冬空へ混乱を、そして馬耳へ混乱を与へるに違ひない。  馬耳は籐椅子に身をもたせ、女の姿が見えない位置に身を置いたとき、安心して隣室の方をながく眺め、編み物をする白い手頸を想像した。さうして、前こごみとなり、隣室のなかが見える時には庭の黄昏を眺め、高原を踏む荒い跫音を考へた。 「今宵、荒々しい闘牛士の訪れ」  馬耳は考へる。自分はなぜ椿と呼ぶ若い教師に会ふ気持になつたのだらう。何を話し、何を尋ねるつもりなのだ。  恐らく──彼は思つた。  ──若い生き生きした世界に興味を感じてゐるのだ……  左傾。彼はそれを憎む気持になれなかつた。理論は問題にならないのだ。迫害のなかにも自分の情熱を守らうとする白熱した生活力が、彼には不思議な驚きに見え、讃歎に見えた。馬耳は自分に失はれた若い生き生きした世界に就て考へてみる。  もう二尺籐椅子を前へ動かしたら、女の姿が見えるのである。  女の夫は毎日二連銃を肩にして猟にゆく。女の夫は前文部参与官であつた。内閣が変り閑地について彼は実家へ遊びに来てゐた。そして、自慢のエアデルを従へ、濡れた冬空の下では鈍い灰色にぶす〳〵と光る銃身を提げて毎日高原を歩き黄昏に帰つてきた。前参与官は龍夫と呼んだ。龍夫には肥つた腹と、よく刈り込まれた鼻髭があつた。鼻髭は濡れた白樺の林を歩き潤んだ朽葉をひそ〳〵と踏んで、冬空の隙間を通つてゐるに相違ない。ときどき高原の奥から鉄砲の音がきこえてくるのである。  もう二尺前へ動けば女の姿が見える。女は編み物をしてゐる。ときどき雑誌を読んでゐることもあるが、今は毎日猟に行く龍夫のために温いセエターを急いでゐるので、終日白い手頸を動かしてゐる。ときどき手を休めて、左手の拇指を帯にはさめ、充血して表情を忘れた顔をまつすぐに挙げて、冷めたい庭先を見てゐることがあるかも知れない。そしてその時鉄砲の音がきこえたなら、女は大理石の彫像となつて幽かな微笑を泛べるに違ひない。  きりつめた生活ではまだ炬燵をかけるにやや早い初冬なので、馬耳は弟夫妻のためにも小さな火鉢で我慢してもらつてゐるが、それだけの乏しい火気では少し膝を崩しても寒さが身にしむに相違なく、部屋の空気が僅かにちり〳〵と揺れてさへ痛むやうに冷めたいだらう。女はさういふ環境のため、殊更堅く、つめたく、寒々と端坐してゐるに相違ないのに、その洞窟のやうに広く冷めたい部屋のなか、その中央に竦むやうに動かずにゐて、女は、なんといふ生き生きとした多彩のものを燻蒸してゐるのであらうか?  女には秘密の香気と秘密の色彩と、そして秘密の流れがある。流れは静かな花粉となつて舞ひ、そしてめぐり、無数の絹糸の細さとなつて空気の隙間をひそ〳〵と縫ひ、部屋の片隅に流れ寄ると壁と空気の間を伝ひ、そして、花やかな靄となつて縁側の方へ漂ふてくる。  女。……隣部屋には秘密の靄を燻蒸する一人の女がゐるのである。  そして、籐椅子へ凭れたまゝ直ぐさま横へ顔をそらせば、そこにも──一つの「もの」がある。それは昔女であつた。それはこの三年越しそこに睡むり、そして馬耳はそれのみを女と信じ、それから受ける全ての思ひ、たとへば冷淡な死と悲しい無関心さへ女の属性の一つであると信じつゝ、決して疑念の起らなかつたもはや現実には死滅した「もの」がゐる。それはもう一つの「もの」に還つてゐる。馬耳は悲しい心を感じた。  ──悲しい妻よ。お前の生涯は不幸であつた。私のやうに……  ──悲しい妻よ。お前は男を知らなかつたに違ひない。なぜなら、私も亦お前のやうに生命のない「もの」だつたから……  馬耳には漢民族の鼻髭があつた。それは垂れ、そして死んでゐた。  龍夫には良く刈り込まれた鼻髭があつた。そしてそれは男の飾りであつた。装飾のある男。そして、男。馬耳は龍夫に男を感じた。時雨に濡れた高原を踏み、濡れた冬空の下では濡れた灰色にぶす〳〵光る二連銃を担ひ、静かに白樺の間を通る鼻髭を思つた。冷めたい部屋に端坐して多彩なものを燻しながら濡れた鼻髭を思ふ一人の女。そして馬耳に、男と女の静寂な秘密が分つてきた。……  その黄昏。──  もう高原も茫漠とした靄の底へ沈んでから。龍夫は漸く帰つてきた。  龍夫は裏門をくゞり、玄関へは廻らずに、築山をぬけて、庭先から、馬耳と籐椅子のある縁側へ辿りついた。  龍夫は縁側の前に立ち止り、そして佇み、出迎への女と籐椅子の馬耳を代る代る眺め廻して笑ふのである。二人の顔を剽軽に眺め、ながいあいだ笑つてゐた。そして漸く女が笑ひだしたとき、肥つた男は声をたてゝ哄笑し、漸く馬耳がその意味を悟つたとき、笑ふ男は後手に廻して背中に隠しておいた大きな獲物をあらわして、縁側の上へそつと置き、そして置き乍ら、笑ふ顔を突きあげて二人の顔を交互に眺め、置き終へて、冬空高く哄笑した。  縁側の上に、柔らかい、そして重みあるコトリといふ物音がした。音がしたのである。柔らかい、まるみのある物音が。そして多彩な羽毛に覆はれた大きな肉塊が床板の上に絵となつてゐた。  笑ふ男の背中から取り出された円みある柔らかい音。馬耳はその音に新鮮な力を、そして甘美な新鮮そのものを感じた。見知らなかつた微妙な世界が、また一つ展らかれたのだ。馬耳は新鮮な音に就て反芻した。 「うまく、とれたな……」  馬耳は笑つた。そして三人は声をたてゝ笑ひだした。茫漠たる黄昏の靄のなかにて、哄笑する三人のひとびと。  女は雉を膝へ載せ、綺麗な鳥ね、これ雉なのねと言ひながら、塵紙をだして掌についた血を拭ひ、わりに血の出ないものね、これつぽちかしらと呟いた。そして鳥を持ちあげて傷口をしらべ、これつぽつちか出ないんだわと又膝へのせて、綺麗な鳥だわ、それにちつとも怖くないのねと男の顔を媚びるやうに見上げた。 「怖いものか。生きてゐるより、よつぽど無邪気ぢやないか」 「ほんとうにさうね」  女は顔をかゞやかして答へた。  馬耳は静かに立ち上る。そして黄昏の庭を見る。馬耳は又不思議に新鮮な言葉をきいた。そして新鮮な言葉を反芻する。生きてゐるよりも無邪気ぢやないかといふ男の言葉。馬耳はその言葉に異様な同感を覚え、同感の奥深くに死んだ鳥の多彩な羽毛を思ひ浮べて、それを確かに綺麗だと思つた。そして、指の又の凝血を拭ふ女の花車な指つきを感じた。 「アポロン! アポロン!」  龍夫は縁側に腰をおろして、エアデルを呼ぶ。犬は夕靄の彼方から龍夫の足もとへ走つてくる。  ──HALLOO──  ──HALLOO──  黄昏が帰滅へ誘ふ遥かな言葉。茫々たる愁ひが流れる。愁ひは枯れ果てた高原を舞ひめぐり、静かな興奮となつて馬耳の胸に一とひらの冷めたい血液を落した。犬が夕靄のなかを走つてゐる。そして、夜が落ちた。  その夜、果して珍客が来た。  珍客は生活に窶れ、太い皺が彼の額を走つてゐた。彼の顔立は教育のない農夫のやうな鈍感な印象を与へるが、その大きな厚い唇は強情な意志を表はして、くひまがつてゐた。併し彼の眼は痛々しく憶病であつた。そして、鋤を握るにふさわしい頑健な骨格をしてゐた。武骨な青年は額に垂れる毛髪を掻きあげながら、怒るやうな顔付をして、堅く坐についてゐた。 「君は左翼に関係してゐるのではないかね?」  村長は気軽な笑ひを泛べながら、いきなり斯う訊ねた。青年は吃驚して馬耳の顔を視凝めたが、 「べつに関係してゐません。それに」──青年は疑ぐり深い目付をして考へながら言つた。 「たとへ関係してゐたにしても、関係してゐないと言ふでせう」  馬耳は青年の返事があまり生真面目で突きつめてゐたので、寧ろびつくりしたほどであつた。そして左翼といふことを世間話の気軽さに考へてゐた自分に気付いた。 「成程、僕のきゝかたが悪かつたね。併し君、儂は左翼といふものを、とりわけ愛してもゐないが、とりわけ憎んでもゐないね。あちらの部屋には前文部参与官がゐるが……」  馬耳は笑ひ出した。笑ひをひとり愉しむやうに、窶れた頬に細い筋肉がふるへた。  併し馬耳の笑ひは青年教師を親しますよりも脅やかすことに役立つた。教師は怪訝な面持で、わけが分らないと自答するやうに馬耳の顔を見凝めてゐたが、愚直な顔に猜疑と、つづいて臆病な怒りをあらわした。 「君はマルクスを読むかね?」 「読みました」 「それで、感想は?」  椿は幾分激昂した顔色の底で疑ぐり深く考へをまとめてゐるやうに見えたが、 「誰が読んでも現在よりはいいと言ふでせう」  彼はぶり〳〵して答へた。  椿教師は生真面目な情熱的な青年のやうに見受けられた。いはば融通が利かないとか血のめぐりが悪いとか呼ばれがちな、頭脳の閃きによつて人を感動せしめることの絶対にないたちの人間である。そして、この種の人間が生活苦にもまれると得てして成りがちのやうに、彼は何事に対しても憶病な猜疑と、結局は物の役に立たない狡猾とを一応は働かせて物の真相を見破らうと努力する。そして自分では狡猾に立ち廻つたつもりでゐながら、結局自分の底を割るほかに仕方のないたちの人間なのだ。  椿はむつとした顔付の奥で、自分の態度を狡猾にまとめやうとあせつた。併し結局狡猾に擬装した怒りの中へ我知らず捲き込まれてゐた。 「いつたい、何のためにこんなことを訊ねるのです?」  老人は部屋の一ヶ所へ茫然と目を置いて、ゆるく煙草をくゆらせてゐた。そして煙を噛むやうに、いつまでも口をもく〳〵やつてゐた。 「併し僕はコンミュニストではありません。理想的にはより以上のものを望んでゐますが、現実的には殆んど僅かの向上でも感激することのできる愚かな生活人ですよ。僕は犬の生活を寧ろ望むでせう。「理性的」といふ尤もらしい人間の特権を僕はあまり有難がらないのです。理性のおかげで僕等は痛みを感じつづけてゐるやうなものです。さうかと言つて、僕等が理性的であるまいとしたら、なまじひに人間であるおかげで、犬よりもひどくやつつけられるでせうからね。僕の言ふことも極端かも知れませんが、併し僕は人間の憎悪や愛にあきあきしてしまつたのです。あきあきしたといふことは、つまり僕がどんなにしても其れから脱けきれないと言ふことですよ。なまじ斯んなてあひが──むろん僕もそのてあひですが、仮面を被つて偽善的な共同生活を営むよりも、いつそむきだしの動物同志になつたらとさへ思ふのです。むろん僕が醜い動物でなかつたら、斯んな浅間敷いことを考へる筈はないでせう」  椿は自分の興奮に負けてゐた。 「貴方は何のために僕を呼び寄せたのです。左翼の嫌疑で転任させるためですか?」 「心配することはない……」  老村長はたど〳〵しい手付で煙管に煙草をつめながら呟いたが、軽い笑ひを泛べた頬からは、尚もぐ〳〵と口を動かすたびにほの白い煙が零れてゐた。  椿は唇を歪めて、しつかりした皮肉な冷笑を刻んでみせたいと思つた。併し不安とも安心ともつかない妙に勝手の違つた感じが、彼の興奮や思惑をうまく軌道へのせなかつた。彼は荒々しく毛髪を掻きあげた。 「君はどんな書物を読んでゐるかね。いや、君の思想系統を探索するのではないから安心したまへ。儂も長い一生の、いはばディレッタントで、人にひけをとらないほど読書生活に身をくすぼらせてきたのだが、儂が一生読み捨ててきた精神科学、歴史・文学・哲学・宗教、皆たわいないものだと思ふやうになつてね──」  老人は打ち解けた友達に話すやうに好機嫌な微笑を泛べて、腰を落した。 「儂は自然科学の知識に乏しいことを近頃歎いておる。精神科学──人間を単位にした学問には所詮解決は見当るまいと思はれるが。結局、人間の年齢といふものが余儀なく人間を解決してくれる。そして死ぬる。僕には数字や記号や分子の方が生き生きとしてゐるやうでね──」  老人は音にだしてくつ〳〵笑つた。 「儂等老人が今更数学を学びだすわけにもゆかないが。君等若い人達は皆ひと通り自然科学の知識があるだらうね。羨しいことだ」 「いいえ、僕はまるで学問のない男です」  若い教師は告白するやうな激しさで言つた。 「僕は理想といふものを持たないのです。言ひ訳けではありませんが、自分のくだらない生活苦にせめられてその日その日の小さな満足を求めるほかに、大きな明日を考へる根気さへないのです。生活に負けるといふこと、理想のない生活といふものが、どんなに人間を卑しくするかといふことを痛感してゐるのですが、一度自分の周囲を見、自分の醜さ、弱さ、汚なさを考へるとき、大きなものを追ふ勇気は持てなくなるのです。小さな今日に縋りつくだけで勢一杯になるのです。理想は人を慰めるでせう。そして人を屈辱から救ひ出してくれるでせう。併し僕は犬の生活を望むだけの卑屈な敗残者ですよ」  馬耳は青年の荒々しい語気が、水に投げられた小石のやうに、落ちて消え落ちて消える大きな夜を感じながら、ながく煙管をかみしめてゐた。そして、白樺の高原をうねる荒い単調な跫音に就て考へた。 「君は毎日白樺の林を歩くさうだが、ああいふ時に何を考へてゐるのかね?」 「あれはただ同僚に顔を合はせたくないからです。生活を豊富にしない集団に媚びるのは凡そ無意味ですからね。傷をうけるか、人を傷つけるか、そのどちらかです。無意味な集団よりは孤独の方が豊富であたたかいに違ひないのです。僕はなるべく職員室にゐないやうにしてゐるのです。その代り、僕は同僚のひけたあとで仕事をします。誰もゐない部屋、沢山人のゐるべくして誰もゐない部屋、そして、ゐない人々によつて荒らし残された乱雑の中で一人ぼんやり坐つてゐると、はぢめて何かシインとした静かなものが分りかけてくるのですよ。それは意味のあるもの、はつきりしたもの、積極的なものではないのです。たとへば。椿了助……さう言つて、僕の名を呼ぶ幽かな気配が、静かな呟きが、乱雑な部屋のどこからともなく聞えてくるのです。たとへば、投げ捨てられた紙屑の皺の間から。柱時計の裏側から、書籍の頁の間から。さうです。僕はがつかりしたやうに、ほつと溜息をつくのですよ。懐しい自分といふものに、随分久振りでめぐり会つたものだといふ和やかな気持になるのです。母、ふるさと、睡り、揺籃、そんな懐しい一聯の歴史に似た優しい気配が、この和やかな孤独のとき、僕を豊富にするために其の美くしい窓を展らいてくれます。一人とり残された孤独の時は僕がしみじみ懐かしい自分に還へる時間です。僕の一番幸福なときは、その時ですよ」  青年は初めてはにかむやうな、親しみのある微笑を泛べて、臆病に老人の顔を見上げた。 「君のやうな若い生き生きとした青年でさへ──」  馬耳は無心に煙草をつめてゐた。 「──若い生き生きした人でさへ、人間の生活はさういふものかね……」  馬耳は煙管に火を点けて、長いあいだ口へ運ばずに火鉢の上で玩んでゐた。 「どうしたわけで、また君は左傾の嫌疑なぞを受けたものかね?」 「それは──」  青年は臆病な上眼をあげたが、唇を歪めて自分さへ嘲るやうな冷笑を泛べた。 「ある女教師に校長が惚れてゐるためかも知れませんね。それに、僕は校長と昔から意見が合はないのです」  老人は返事の代りに煙管を叩いた。そして幾分伏眼にして、口をもく〳〵動かしながら煙を噛むやうにして吐き出してゐた。 「その婦人と君は恋仲かね?」 「いいえ、僕が好いてゐるだけです」  青年は笑はうとして其の表情を失つた。 「僕は黙つてゐるのです。そして黙つてゐる方が愉しい苦痛に富んでゐるやうに思はれるのです。僕は自分の醜い容貌や風采や、才能や生活にも自信の持てない男です。併し、人間の感情は、自分とのバランスを飛躍して、勝手に飛び去つてしまふのですね。僕に今必要なのは宗教ですよ。むづかしい、ひねくれた教義は僕にとつて空文に等しいもので問題にならないですが、抑制するといふ悲惨な形式が、僕の唯一の住宅に見えます。あの暗いみぢめな、宗教に本質的な傷ましさが僕にしみじみするのです。僕は最近魚鱗寺の房室へ下宿を移したのです」 「若い生き生きした人でも……」  馬耳は又煙を吐いて、その口を長いあいだもく〳〵動かしてゐた。  笑ふ男の背中から取り出された円るみのある柔らかい音。そして、生きてゐるよりも可愛いではないかといふ鼻髭。指の又の凝血を拭ふ花車な女の指つき。多彩な羽毛に隠された傷口は花びらよりも小さく、冬空よりも冷めたかつたに違ひない。  ある冷めたい朝のことであつた。高原の冷気が濡れた流れとなつて冷え冷えと運ばれてくる庭先で、馬耳は女と立話を交したことがあつた。まだ朝靄がこめてゐて、間近い人像も深い水中のものに見えた静かな早朝のことである。女はひつそりした水底から浮かびでてくる。模糊として遠く高原の靄へ掠れてゐる其の輸廓を近づけてきて、そして女は朝の挨拶を述べた。早朝の挨拶。挨拶は冷え冷えとした花粉をつけて、冷めたい朝霞の隙間を縫ひ、もや〳〵と揺れちらめいて馬耳の顳顬へ漂ふてきて、細い数多の絹糸となり、頸から耳、耳から肩へ舞ひめぐり、足に泌み、地肌を這ふて流れていつた。 「君はなぜ動物にならないかね!」  馬耳は危ふくさう言ひかけてやめた。  或ひは此の青年の言ふやうに、動物になれないことが人間の最大の不幸であるかも知れないと思はれもした。併し若さは? そして男。已に自分の失つた「男」──或ひは一生持たなかつたかも知れない「男」、此の地上で唯一の奇蹟に思はれる若い生命を恵まれた此の青年が。……自分の生涯は「もの」であつた、併し若い人々が現に「もの」であることは夢のやうな話だ。激しい生命にめぐまれた此の若者が、結局自分と同じやうな「もの」であると言ふことは、馬耳にとつて信じられないことであつた。  青年を玄関へ送つて出たとき、馬耳は其処の暗がりを利用して遂に言つた。 「君はなぜ動物にならないのかね! 動物になりたまへ。動物に!」  青年は驚く。そして理解することが出来なかつた。彼は訝しげに馬耳を見凝め、それから茫然と振向き、むつつり口を噤んで靴の紐を結んでゐた。  やがて青年は立ち上る。垂れ落ちた毛髪を無意識に荒々しく掻きあげてゐる。そして、睡りから覚めきらぬやうな険しい顔付のまま、不器用に四十五度の敬礼をした。 「又遊びに来たまへ。僕は君のやうな若い人と話すことが大好きになつたよ」  木訥な青年教師は持前の荒々しさで闇の方へ振向いた。そして、やや項垂れがちに、大股に暗闇の奥へ歩き去つた。  馬耳はふと自分にかへる。大いなる虚しさ。異様な落胆に似た寂寥がひろがりはぢめてゐる。馬耳は寂寥を噛むやうにする。馬耳は沓脱へ降り、戸に閂をおろした。尨大な夜の深さが、馬耳の虚しい寂寥を漂白するために、ひえびえと身体を通過していつた。  馬耳は茫然として病妻の寝室へはいつた。  歴史よりも尚遠い旅の果から帰つてきたやうに、長いあいだ中絶してゐた懐しい現実の中へ、ふと戻りついた気持になる。心が、そして侘しさが彼の中へ帰つて来た。  酸つぱい、そして疲れきつた電燈。鈍い光が眼に見えない無数の吹雪となり、虚しい畳の上へひそ〳〵と降りしきつてゐた。そして、鈍い光の吹雪のために頬肉が殺がれてしまつたかのやうな「もの」が、その巣の中で野獣の眼を覚した。 「もの」は馬耳を迎へるために、光の中の死面を動かさうと試みる。懐しい二つの「もの」が顔を見合はせた。馬耳は枕元へ坐つた。 「お客様はお帰りになりましたか?」 「ああ、今帰つたところだよ。気分はどうかね? 儂はね……」  馬耳は暫く口を噤んでゐた。 「──お前は気の毒な一生だつた」  病人は、もう、表情の変化さへ失ふほど衰弱しきつてゐた。そして心の感動を長い長い言葉の中絶によつて表現した。長い沈黙ののち、病人は呟いた。 「私は満足して死んでゆけますよ。三年前には日光へも参詣してきたし、今夜は大好きな胡蘿蔔も食べることが出来たし……」  時間経て、馬耳の老衰した頬に古い古い昔の泪が滲み溢れてきた。  あまりの悲しさに、馬耳は慟哭したいやうな、無限の激しさを感じる。  二つの「もの」は長いあいだ、その痩せ衰へた手を握りあつてゐた。 2  翌る朝。  食事を終へて縁側の籐椅子に休んでゐると、隣室の賑やかな笑声が馬耳の耳もとへ響いてきた。男の笑ひと、女の笑ひ。笑ひ声の中では男と女がもつれあひ、さうして、縺れた沢山の糸の中を笑ひ声がうねつていつた。  すると、猟の服装を調へた龍夫が、肥つた腹の震幅と笑ふ鼻髭を縁側へせりだしてきた。 「兄さん、ちよつと来てみないかね」  あら、いやですよと言ふ、それから、女の忍び笑ふ匂ひのある波紋が動いて来た。  馬耳は立ち上る。ふふむ。よぼ〳〵した痩躯が馬耳の前進につれて引摺られてゆく。そして馬耳は隣室の内部を覗き込んだ。  二連銃、ケース、脱ぎ捨てた着物の乱雑。ところで、乱雑の上に浮いた薄暗い空間では、女が派手な洋服を身に纏ふて冷めたい浮彫りになつてゐた。女は洋装して、併し格別羞ぢらわずに首をまつすぐに馬耳へ向けて、微笑してゐたのである。 「なるほど──」  馬耳は眼を円くして観照する。沈黙。それから、けたたましい笑ひの合唱へ三体の立像が紛れてしまふ。 「実はね、東京をたつ時から、自分でも猟についてくる心算で、これを拵へておいたのさ。先生、女学校卒業以来はぢめての洋装だから、今まではにかんで着なかつたんだね」 「今日からは、秋さんも猟に出かけるのかね?」 「ええ!」  女は少年の新鮮さで、笑ひながら叫んだ。そして、少しもはにかまずに、部屋の乱雑をととのへはぢめた。その活溌な動きは此の人の和服の中には見当らなかつた。老人は其の新鮮な変化に暫く感心して見とれた。 「鳥のおつこちるところが見たいんですわ。濡れた綿のやうな空の奥から、長い頸を下へまつすぐに延して、翼を張りひろげて、驀地に墜落するのですつて。どんなに素敵でせう……」 「はつはつは。猟は鉄砲を打つときの緊張だよ。それから、獲物を探してのそ〳〵ぶらついてゐる時の変に間の抜けたあの一途な気持だ。所詮鉄砲を持たずに猟の壮快を味ふのは無理な話だが……」  龍夫は便々たる腹をゆすつて振向く。はつはつは。また一頻り笑ひ残して縁側へ腰をおろし、靴を履きはぢめた。 「アポロン! アポロン!」  エアデルは尾を振つて龍夫のゲートルに絡みかかる。縁側に濡れた灰色の二連銃が横たわり、死せる眼のやうに疲れた銃身を光らせてゐた。  その冷めたい床板の上で──昨日の黄昏には、まるみのある柔らかい物音がした。わりに血の出ないものね。女の目の高さに持ち上げられた、柔らかい、そして大きな羽毛の塊まり。そして、柔軟な肉塊のもつ深さある明暗。──  白い花車な指の又に残された凝血が女を猟に駆り立てるのだらうか? 「肉刺をでかして、歩けなくなるんぢやないかね?」 「いいわ、跣足で帰るから!」  再び少年は叫んだ。  馬耳は籐椅子に凭れる。そして、微笑しながら、二人の男女が築山を越えて、裏門から白樺の高原へ消えてゆくのを見送つた。男の肩に鈍く輝き、鈍く揺れる二連銃。空は今日も水のやうに重かつた。  もう、二尺、籐椅子を動かしても女は見えない。鳥のやうに、少年のやうに、理性の向ふへ飛び去つてしまつた、女は。  女に置き捨てられた空虚な部屋といふものには、どういふ残忍な秘密が育てられて舞ひ、そして静かに狂ひめぐつてゐるものだらうか? 匂ひと色彩ある靄が残されて舞ひ、それが冷えた流れとなり、ひそ〳〵と眼に泌みながら上から下へ、下から上へ、舞ひのぼり、舞ひめぐり、舞ひおりて、夥しい花粉となつて散りしいてゐないだらうか?  馬耳は静かに立ち上る。そして、跫音のしないやうに、舞ひ落ちた秘密な粉を踏み躙ることのないやうに、女に残された空虚な部屋へ這入つてみた。  衣桁にかけられた若々しい色彩。そして、部屋の片隅に、埋火を隠した小さな火鉢が、馬耳の寒い空虚な心と睨み合ふために、探るやうな疑ひの目を凍らせてゐた。  馬耳は考へる。併し考へが泛ばない。そして、顔をそむけて、鈍く重たい暗灰色の空を眺めた。それは枯れ果てた庭の中へも、冷めたい土の低さへまで、堪えがたい虚しさをぎつしり詰めてゐた。少年よ、足裏の肉刺に血の滲むことを怖れるな。柔らかい明暗もてる鳥の屍体にながい頬ずりを惜しむな。  馬耳は衰へた腕をくねらせて、よぼ〳〵に老ひ果てた欠伸を洩らした。  馬耳は役場へ出勤した。  隣の学校から、授業時間の静粛と、音のある規律の進行が流れてきて、冬空にまぢり、冷めたい感触を低く鋭くするのである。  猪首の脂ぎつた校長が、サーカスの動物のやうにキョロ〳〵して、吏員に愛嬌をふりまきながら這入つてきたが、老村長を見ると、急に分別くさい苦労人の顔付をした。この男にも、エネルギッシュな、そして粗暴な鼻髭があつた。 「椿は、どうでしたか? お訪ねしたと言つてゐましたが……」 「一晩面白く話し込んだよ」 「無遠慮な、図々しい男ですからね。乱暴な、困つた奴ですよ」  そして、悲哀のしるしに、厚い唇を、したがつて粗野な鼻髭を、頬肉の一方へそらした。 「赤沢の学校で、幸ひこの暮に一人欠員があるといふ話ですが……」 「小心な、きまじめな男だよ。あれは君、国家にとつて危険な人物ではないね。尤も、校長先生にとつて、どういふ危険人物か儂には分らないがね──」  馬耳は煙草をくゆらして、いつものやうに口をごも〳〵やつてゐた。 「佐野梶子といふ女教師は君の第二号かね?」  鮫島校長は孔のあいた顔をした。拳が張りきつた膝の上でふるへた。 「そんなことを言つたのですか。あいつ!」  校長は落付こう落付こうとした。そして、脂汗を滲ませた。彼は煙草を掴みだして火を点けやうとしたが、唇と指と、鼻髭と煙草が一時に荒々しく揺れ、動いた。 「さういふ悪辣な奴ですよ。あいつが、その女教師と怪しいのです。何をやりだすか見当のつかない無法な男ですからね。間違ひのないうちにと、私は考へてゐたのです。怪しからん奴ですよ。ぜひとも転任させてしまはなければ、私は職責をつくすわけにいきませんから」 「鮫島君は、いくつだね?」  馬耳は煙を吐きながら天井を見凝めてゐた。それから、遠い高原へ目をそらす。遥かな荒涼を吸ひ入れながら、そして、煙草を吸ひ入れた。彼は跣足の少年に就て考へてゐた。 「ちやうど四十です」 「ほう、若いんだね。まだ青年のうちだね。鮫島君の教育方針では、人間の心にすむ動物はどういふことになるのだね? おさへつけるか、殺すか、それとも秩序の中へ馴らすのかね?」  校長は呑みこめない顔をした。しかし、決意のひらめきを眼にみせると、気忙しく口を開いた。 「あなたは誤解してゐられるのですよ。椿の言ふことは嘘ですよ。私は恥を持たない教育者であることを、自負できるのですよ」 「儂はね、これはいたづらごとだが、こんなことを考へてみたのだがね。人間の心に棲む動物を勝手気儘に野放しにしてみる。そこで人間は動物になりきれると君は思ふかね。結局成りきれまい。この全てを許された動物共は、先づ自分の思ひ通りに何んでもやりたいと思ふだらうが、結局彼等が最初になし得ることは矢張り約束をつくることではないのかね? 厭々ながら自分の欲望を犠牲にして、他人から受ける圧迫に掣肘を加へやうと試みる。そこで自己防衛の約束ごとから、またシチ面倒な文化が初まるのではないかね? 文化の進歩につれて、個人の快楽は必然的に減少する。そこで動物がなくなるかね? なくならない。僕はなくなるまいと思ふのだがね。儂は文化に興味がない。儂の年齢では、文化それ自身の革命なぞには、もう興を惹かれない。儂には動物の革命騒ぎが直接に正直で面白い。所詮あり得ない無稽のことではあるが、僕らの年齢になると、空想でしか及ばない破壊的な考へが、むやみに面白うなつてね……」  校長は苛々してゐた。そして、老人の繰言が耳につかなかつた。溢れる言葉を切り出したいために、眼つきが鋭く張りつてゐたが、馬耳の言葉が終らうとしないので、険しい表情を、視線を、持ちこたへることに苦悶してゐたのである。 「人間は諦らめがかんじんですよ」  彼は急き込んで自分の言葉を刻印した。 「諦らめの中には、思ひがけない満足といふ収穫もありますからね。私は、然し、あの椿を憎まずにゐられません。教育者に大切なのは何よりも人格ですよ。一校の平和、ひいては村の平和といふことを考へて下さい。あれは、嘘をつく、卑しい、危険な人物ですからね」 「儂らの文化といふものは、儂らの弱さが自分を護らうとして、結局よけいに自分を苦しめることになつた、いはば墓穴のやうに思はれてね。幸福の量に於て犬と人間を比較するに、儂には寧ろ犬の方がね……」  馬耳はくつ〳〵笑ひだした。笑ひは馬耳の筋肉を伝ひ、虫の蠕動となつて、彼の全身を這ひおりていつた。馬耳は椿に就て考へる。荒々しく毛髪を掻きあげる広い乱暴な手に就て考へた。 「君、椿君を転任さすのは止したまへ。儂は賛成できないね。若い同志が恋仲になることは差支へない。人間に許されたことが、教師に限つて悪い筈はないのでね。そして、君も、動物になりたまへ」  校長のでつぷりした猪首が、間もなく役場から現れる。校門の中へ、冬を押し切つて曲り込んだ。  職員室には一年級受持の河野老人が一人ぽつねん坐してゐた。書物をしてゐた。一年級は放課後であつた。  鮫島校長は故意に荒々しく椅子を引寄せて腰をおろした。 「君のやうな老人にも楽しみがあるかね? 君なんぞ死んでもいい年だね。生きてゐて役に立たない連中が、のさばつてゐる。のさばつてゐるよ」  鮫島は激しく舌打ちした。  河野老人はとりあわなかつた。皺の深い顔の奥に自然のままの表情がある。そして、手を休めると、とつぜん愉しげに笑ひだした。 「いや、七人も子供があると、これで並大抵ではありませんよ。年頃の娘に男ができてゐるのですが、あなた、嫁がすわけにいきませんからねえ。女は結婚すると他人になりますよ。ねえ、あなた、さうですとも。うちの生計を助けてはくれませんからな……」 「因業な親爺さ。娘は君のくたばるのを待ちかねてゐるぜ」 「ふつふつふ。先の長い者には辛抱して貰はにやなりませんよ。ところがねえ、あなた、あいつ、ずいぶん怒つてゐるよ……」  鮫島は新聞紙をびりびりやぶいて鼻をかむ。その紙へ汚ならしく痰を吐きこむ。それを投げた。  彼は毛筆を執りあげて、半紙一面にべたべた記るした。「用談あり、居残るべし」。それを梶子の机上へべつたり貼りつける。 「若い奴らのやることは、青くさくつて、見ちやゐられないよ。ねえ、河野君」  鮫島は杖を振り担いで外へ出た。興奮が短い脚の歩速をはやめる。  黒谷村字黒谷は、黒谷川に沿ふて一列に流れてゐた。冬が家ごとに呟きを与へ、疲れた呪ひと、無関心が流されてゐた。  鮫島は橋を渡つた。暗い谷底から、きりたつた岩塊が冬空へ走りこむ。山々も痩せ淋れて、黒い記号でしかなかつた。 「畜生め! どいつもこいつも!」  鮫島は引き裂くやうに叫んだ。表情の凄さが、心に意識されながら変つてゆく。仕方がないのだつた。  猪首の男は間道へそれ、山毛欅の杜へふみこんだ。深い奥手まで我慢して歩いた。冷えたものが張りつめてゐる、たまらない静寂だつた。そして男は、一本の幹をとつぜん殴りつけてゐた。もはや狂人となつて、打ちまくつてゐるのであつた。手と杖と飛びちりさうな激しさが分つた。痛さが彼を満足させる。殴りやむ。そして歩き出してゐた。跫音。落ち敷いた厚い朽葉へ靴がぬかつた。空は穴。杜は無数の枯枝となり、冬空へ撒き散らされてゐるのだ。  ──俺を苦しめる奴は、(たまらない苦しさだ、にがさだ)こんな真面目な、小心な、正直な人間を苦しめる奴は、ほんとうに、今にみんな殺されてしまふがいい。  鼻髭は口笛を吹いた。ステッキを振り廻して、ひつそりした山を越えた。妙見山といふのだつた。そして、黒谷村字萩川へ辿りつく。落付いた足どりで、土塀をめぐらした大きな邸宅へ這入つていつた。  村一番の資産家、石毛唯人の屋敷であつた。 「成程、困つた奴がゐるものだね」  資産家は鷹揚に身体を動かした。 「いづれ、折を見て転任させるがいいさ。さしあたつて、急ぐこともあるまいよ。どんな五月蠅い奴にせよ、平教員の一人二人に君の辣腕が鈍るわけでもあるまいぢやないか」  石毛唯人はふとつてゐた。四十四五の大男だが、身体に不似合な細い音声と、ねつとりした語調であつた。石毛は白昼から酒を命じたが、鮫島は呑めないたちの男であつた。 「馬耳老人も気のいい男だが、一理窟こねたがる悪癖でね。中央でも、それで物笑ひの種になる。今に村の物笑ひにならねばいいがね。まさか、それほどの莫迦でもないか……」  石毛は意味ありげに鮫島へ視線をおくつて、笑ひだした。全ての表情が露骨であつた。  馬耳と石毛は政党を異にしてゐた。そのために、村の行政は屡々不便を感じたが、村人は馴れきつてゐる。文句の代りに、陰の嘲笑で全ては終つた。むろん嘲笑と呼ぶものにも、本来優越を誇る根拠は全然ない。 「いや、あの話だがね──」  鮫島は緊張して資産家の顔を見上げたが、資産家は落付きはらつてゐた。 「一応考へてはみたがね、君の言ふやうには出来がたい。実はね、むろん私としては正妻のつもりでゐるがね、ごらんの通り子供の多い家ではあり、それも子供が、大きいのは丁度嫁さんと同じ年配にもなつてゐるから、やはり従前の話どほり、別居するのが都合いい。形はちよつと妾のやうだが、結局どちらにも具合のいい話であるし、私さへ正妻のつもりなら、万事それでよろしいでないか」  教育者は身体全体で躊躇を示した。 「私は教育者ですよ──」語気が彼を真剣な顔付にした。つづいて、落付のある、やわらぎを与へた。 「人は形式で判断しますよ。噂ほど不親切なものもありませんからね。女にしろ、第一がさうです。なに、難かしいとは言ふものの、さきは生活の苦労も世間の内幕も心得てゐる職業婦人のことですから、口先で理想の夫だとか何だとか述べたてるほど面倒でもないのですよ。案外内心では気楽な奥様を望んでゐるものです。それも一種の虚栄心のことですから、万事は形式問題ですよ。飾らずに言ひますが、この結婚は貴方よりも金と身分が花婿ですからね。妾の形式ぢや、第一女が承知しませんよ。それに私が困るのです。妾を周旋したことになりますからね。人はさう見るでせう。人は他人の出来事を不親切に弥次半分に取扱ひたがるものですよ。教育者としての私の立場は、それで、おしまひです」 「──分つてゐる」  資産家はとりあわなかつた。そして眼で露骨に言はせた、分つてゐる。そして、いはば一種の猥褻な笑ひを、笑ひ出した。 「私が呑みこんだ。それが何よりの保証ぢやないかね? 私の保証は蔭口よりも不安心かね?……」  再び教育を冒涜した笑ひが校長の目を露骨に覗き込んだが、校長は半ば頷きながら、だが仕方なささうに笑ひを合はした。 「それは、むろん分りますよ」  そして、また厳格な顔付にかたまつた。 「私の怖れるのは教育の尊厳といふことですよ。私の身分は貴方の保証で微動もしません。それはよく分りますよ。併し人の蔭口は教育の尊厳を傷けます。人に人格を疑はれながら、口に教育を説くことは自分にも不愉快ですし、事績もあがりませんからね。心に疚しくないにしろ、一度ひろまつた蔭口には、正当な弁解も役に立たないものですからね」 「わかつてゐる。お礼は沢山さしあげるよ。君に迷惑のかかるやうにはしない。真面目な教育者にね」  石毛は笑ひだした。 「いい女は誰にでも好かれるものさ。鮫島君。さうでないか? 君さへ、真面目な校長先生さへ、あの女にさうだといふ評判が専らだよ。いいよ、いいよ。あたりまへの話ぢやないかね。いい女は誰にでも好かれる。いいかね、ところで人間は誰に惚れる権利もあるよ。人間は綺麗なものが何んでも好きだ。それに一々こだわつてゐられない。君は苦労人だからね。何んでも呑みこんでゐる人だ。つまらん自分にこだわる青二才とは、わけの違ふことがよく分つてゐる。それを見込んでお頼みするのさ。蛇の道は蛇さね」  石毛は肥つた身体を斜めにして笑ひだした。鮫島も笑ひを合せた。そして、故意に肯定するやうな、冷えた笑ひを刻んでみせた。そして、裏の否定を見せるやうにした。 「噂の弁解はしませんがね……」  眼に暗示と、諦らめたやうな弱さを見せる。それから大袈裟に笑つた。 「なに、女より慾ですからね」  それから、こはばるやうに、みるみる厳格な顔付にまた変つた。 「冗談でなく──」  鮫島は声をあらためた。 「とにかく、私としては出来るだけのことはやりますよ。併し成否は受けあへませんよ。形式が形式ですからね。併し之はくどいやうですが、事実の上では、あくまで本妻といふことにして頂かねばなりません。内容さへ正当な夫婦なら、私は教育者として、形式はどうあらうとも、恥なく努力できますからね」 「くどいね」  石毛の顔は角立つた。 「母の違つた子供が沢山ゐる。大きい子供は新らしい母親と同じぐらゐの年配になつてゐると言へば、別居の理由は立派に成り立つぢやないか」 「むろんですよ」  鮫島はすぐ話題を変えた。そして、それから、はしやぎだした。  鮫島が資産家の家を辞したとき、午過ぎて疲れきつた冬空が、澱み腐れて、重かつた。そして黄昏が近かつた。  ──莫迦ものめ! 結局俺が、どいつもこいつも、莫迦扱ひにしてゐるのが、分らないのか!  目当なく癇癪が走りだす。それにも拘らず、不可能と無関心が空間の総量となつて感じられるやうだつた。絶望につながる苛立たしさ。やりきれない鈍感な空であつた。収拾しがたい虚しさが呼吸にまで満ちてくる。そして舌にざら〳〵した。  俺は嘲笑つてゐるのだ!  山の沈黙は堪えがたかつた。彼は苛立たしい空虚を紛らすために、遠廻りして、人家のある本道のみを歩いた。丘の上、道の下、畑を越えて、人家はぽつ〳〵零れてゐた。  学校にまだ居残つてゐる筈の梶子を思ひだすたびに、不器用な、素知らぬ顔を装ふて足を速めねばならなかつた。 「ほうい。相変らず元気だね。あんまり亭主を可愛がるなよ!」  鮫島は村人の姿を見かけるたびに叫んだ。  ときどき藁屋根の下へ立ち寄り、真つ暗い屋内へ猪首を突き入れて冗談を言つた。家毎に粗朶の煙が眼に痛かつた。 「御精がでるね。大分ためこんだね。借りにくるからね。はつは」 「いやはや……」  暗闇の一角から、返事は何処も同じやうな単調極まる抑揚だつた。囲炉裏に粗朶がちろちろ燃えてゐる。そして湯が、せめてぎんぎんたぎつてゐた。 「一服しておいでなさい。いつも忙しいね、先生は」  放課後であつた。寒村の放課後は、路傍に乱雑なだらしなさが漂ふものであるが、冬空にも、道に時折群童がたむろしてゐて、ただ寒々と彳んでゐた。鮫島は突然子供を抱き上げたり、一人の頭を撫でて過ぎたり、笑ひながら振返つて歩き去つたりした。  そして又、若い娘にたわむれた。 「いい若い衆が見つかつたかね!」  斯うした鮫島を村人達は軽んじもしたが、愛しもした。そして、どちらかと言へば、彼は村人に愛されてゐたのだ。この節の農村では教育者も幅の利かないものとなつた。失はれた尊厳をつくろふことは、毛嫌ひされる理由とはなつても、畏敬を受ける原因とはならない。寧ろ一面に軽んじられても、親しまれ愛されることが得策である。愛されるうちは、教育それ自身の持つ或る種の尊厳が、軽蔑しきれぬ或るものを付加へてくれるものだ。鮫島校長は斯う考へてゐた。  彼は遂に最後の一軒へ辿りついた。学用品、煙草、駄菓子を商ふ学校前の小店であつた。  何か忘れものをしたやうな、まるで心を忘れてきたやうな。そして、関節の力が失はれてゆくやうだつた。雲となつた混乱が湧きあがつてくる。彼は訝しげに店へはいつた。梶子を思ひ出すまいと努めながら。 「ヂャミパンでも貰ふかな」  彼は店頭でパンを噛つたが、全然味がわからなかつた。自分の啜る茶の音のみ激しく耳につくのであつた。視線は落付を失つてゐた。彼はパンを噛るごとに、破片をぽい〳〵吐きだしてゐた。 「もう、また、雪ですぜの」  老婆は急須の支度を調へて、校長の横に控えてゐた。 「深雪は困りますの。ほんとに、四五尺のことでしたら、しあわせですぞい」 「どつちみち、五尺や六尺の雪ぢや、すまないのでね」  校長の足は立ち上ることを嫌つたが、結局立ち上るほかに仕方もなかつたので、彼の顔付は不安げな歪みに黒ずんでみえた。気まづさが老婆へ伝はつたが、老婆はただ愛想のよい笑顔となつて、 「ほんとに、おかまひしませんで……」  鮫島は激しく校門へ曲り込んでゐた。  已に黄昏。山々は夕靄の底へ沈み落ち、校庭にも、薄く悲しく流れるものが通つてゐた。  鮫島は職員室へ這入つた。室内には已に闇がたちこめてゐたが、森閑として、燈火がなかつた。併しストーブの周囲には、長い沈黙に倦み疲れた二体の像が、衰へきつて並んでゐた。薄明の校庭から、薄く悲しく流れるものが、硝子を通り、部屋の闇へ冷え冷えと運ばれてきた。  鮫島は帽子をかけ、電燈をつけた。まるで其れをするための機械のやうな、不細工な動作であつた。 「今日は河野君の宿直でしたかね?」 「それがねえ、神山君の筈でしたがねえ、あなた、頭痛がなんだやらで私が代りましたよ。いや、冬の宿直はたまらんですよ。一本つけないことには、これで私なぞ、とても睡れたものでありませんよ、はつはつは」  鮫島は頷いた。そして急いで言つた。 「ちよつと、河野君、座をたつてくれたまへ。長くはかかりませんからね」  河野老人と神山教師の代つた理由。二人が代るに就て、教員等が談笑したであらう自分への蔭口が直ぐさま聯想されたので、自分の表情が忽ち醜く歪みかかるのを怖れたから。 「はい〳〵。いや、さつそく。それでは、ごめん」  間もなく河野老人の嗄れた大音が小使室から響いてきた。 「やれ〳〵。いやはや、今日はぜひ一本つけなくちや……」  鮫島はストーブを掻きまわした。小使がお茶を運んできて、出て行つた。 「差向ひですね。四畳半ではないが、ひとつ口説きませうかね、あは……」  彼は忙しく煙草に火をつけた。 「口説いたら、どうします? 逃げますかね? 悲鳴をあげますか? はつはつは。冗談ですよ。貴女も男と一緒に働いてゐるのですから、お分りでせうし、また、分つて貰はねばなりませんがね。随分僕等もみだらな冗談を言ひますよ。それが何んですか。たかが冗談ではありませんか。あまり思ひつめて聞くものではありませんよ。しよつちう顰面を向け合はしてゐるなんて、気の利かない話ぢやありませんかね。汚い冗談をずけ〳〵言ふ奴ほど腹は綺麗かも知れませんね。ほんとですよ。それとも、綺麗ごとがお好きですか」  鮫島は激しく苛々して、自分の言葉を振り棄てるやうに、急に煙草を灰皿へ突き差した。そして顔付を改めた。 「いえ、冗談はさておいて、あなたは結婚しませんかね? 私とではありませんよ、はつはつは」  併し鮫島は慌てて顔を緊き締めねばならなかつた。梶子の顔に表はれた幽かな紅潮が、地獄の赤を見るやうな、激しい怖れを彼に与へた。彼は瞳を散大させて、前言を追駈けながら叫んだ。 「石毛唯人さんですよ。前県会議員の、そして、多額納税者です」  併し急き込んだ言葉の半ばに、梶子の身体が僅かに気配だけ揺らめいたのが分つた。余りに強く、分つた。彼は一気に冷めたい落胆を感じた。ちやうど宣告を待つ人のやうに、もはや口を噤んで次の動作を看守るほかに仕方なかつた。梶子は静かに立ち上つてゐた。青白い、ひきつつた顔付であつた。  梶子は自分の机の方へ歩いていつた。そして、包み物を調べながら、その時漸く怒りを表はして、言つた。 「そのお話はお断りしますわ」 「これからが話ですから、ちよつと、かけて下さい」 「母が待つてゐますから」梶子は冷く言ひ放つた。 「失礼させていただきます」  梶子は歩き去つた。鮫島は虚空に向つて息を吸つた。そして、人形の足どりで、無意識に梶子のあとを追ふていつた。 「後ほどお宅へお伺ひしますよ。お母さんとも相談しておいて下さい」  言葉は洞窟に似た沓脱の闇へ吸ひとられたに過ぎなかつた。ただ一つ小さく潤んだ門燈の外輪へ、梶子は忽ち歩き去つた。そして矩形の外側へ出はづれてしまつた。砂利を打つ跫音さへ一瞬にして静かな闇に置き代へられてゐたのだつた。突然夜が来てゐたのだ。そして自分の彳む場所が、果知れぬ闇のただなかであることが分つてきた。  鮫島は、灯の洩る職員室の方向へ、急にひそ〳〵歩きだしたが、なぜか自分にも分らぬうちにふら〳〵引返して、暗闇の奥へ、廊下を反対の方向へ歩いていつた。そして廊下の突当りの便所へ降る階段へ腰をおろして、手に顔を掩ふた。全てが不可能に見えてゐる、心さへ、そして激しい絶望さへ。あまり静かな怒りであつた。そしてそれ故、堪えがたかつた。 「俺のしてゐることは……」  突然全てを苛立ちの中へ消滅させた。  彼は激しく立ち上る。大股に職員室へ戻つてきた。 「河野君、河野君!」  彼は激しくストーブを掻き廻しながら、叫んだ。それから、火の正面へ河野老人の椅子を据えた。 「河野君。一本つけたまへ。今夜は僕がおごるから。遠慮なく二本でも三本でも……」  彼は老人を親しげに見上げて、哄笑した。小使に酒と蕎麦を命じる。それから鮫島は一人愉しげにはしやぎだした。三十分と続かなかつた。苛立が身体の動きにも表はれてきた。 「君、欲しいものを何んでも取り寄せてくれたまへ。私は帰るからね」  鮫島は帽子を阿弥陀にグイと被つた。杖を振りまわして外へ出た。  大きな夜であつた。宵ではあるが、灯と物音は全く杜絶え、谷川のせせらぎが寧ろ静寂を強めてきた。  彼は歩かねばならなかつた。歩くことが唯一の可能であつたから。  梶子と、その母親に就て考へてみる。すると、もはや他のことを考へてゐるのであつた。それから、考へたいと思ふことを、考へぬうちに揉み消してゐた。  彼は魚鱗寺の山門前へふと現れてゐた。  ひつそり静まつた寺院の奥手を眺めてゐると、絶望に近い悲惨な心を感じてきた。棄鉢と、諦らめと、併し激しい興奮が分つた。そして椿の或る長所がふと判断に浮んだとき、彼は足を速めて山門の奥へ走り込んだ。殆んど敗北の快さを感じた。併し玄関の前へ来て突然足をひるがへしてゐた。全く何事も考へぬうちに、ふと方向を変えて、ひつそりした建物の輪郭をめぐり、裏庭の方へ出た。庭はすぐ澱んだ古沼に続いてをり、古沼を越えて、淋れた丘に墓地があつた。荒涼をたたえた闇の深さが迫つてきた。  房室におろされた雨戸の隙間から、細い光が洩れてゐた。彼はハタ〳〵と窓を叩いた。 「椿君、椿君。ゐますかね?」  鮫島は闇の奥手へ振向いて、深く息を吸ひ入れた。  長い軋りののち、漸く雨戸が開いた。そして、椿ではなしに住職の海洋が痩せ衰へた童顔を突き延して、厚い近眼鏡の底から、しよぼ〳〵した視線を闇の中の男へそそいだ。  海洋は鮫島の挨拶を受けてからも、しよぼ〳〵した視線を相変らず鮫島の上へうろつかせてゐたが、暫くして、 「やあ、これは実に、珍らしいですねえ」  と大声に叫んだ。それから急に目をそらして遥かな闇の奥深くへ、疲れきつた視線を移した。そして鮫島を忘れたやうに、もはや茫然と闇を見つめてゐた。椿が続いて首を突きだした。 「ここから上つていいですか? 表へ廻るのは面倒だからね」  猪首の男は一人哄笑しながら、窓を越えて光の中へ這ひ込んできた。 「学校ぢや裃を着てゐるやうで、肩が凝つて窮屈でね。書生流にザックバランになりたいやね」  鮫島は胡坐を組んで部屋を見廻したが、二人の青年は其れに答へる表情さへ動かさなかつた。冬に漂白されて疲れきつた光が、この部屋にも無気味にじつとり漲つてゐた。 「君に就て噂があるやうですがね。転任といふ、あれは出鱈目な噂ですよ」  鮫島は椿に言つた。 「私も誤解を解くやうに出来るだけ尽力してゐますがね、左傾といふ噂ね、百姓なんざ左傾がどんなものだか無論知りやしないですよ。ですから伝染病を怖れるやうなもので、あれぢやないかと勝手に推量すると、もう本当に其れのやうに脅えてしまふわけですよ。ねえ、さうでせう。問題は、君がちよつと風変りだといふことですよ。無智な百姓は百姓なりの方式で判断しますからね、そのこつにちよつと注意さへすればいいのです。私も出来るだけ誤解を解くやうに尽力してゐますが、相手が相手だから、そのこつを巧くつかんで、なるべく誤解を受けないやうに注意して下さいね」  海洋は壁にぐつたり凭れ、膝小僧を抱えてぼんやり天井を眺めてゐたが、急に何か気がついたのか、鮫島へ視線を向けた。そして厚い近眼鏡の奥から、しよぼ〳〵した眼を見開いて長いこと鮫島を見凝めてゐたが、 「あんた、今日、妙見山を越えてゐたね?」 「石毛さんへ行つたんですよ。どうして、知つてゐるの?」 「スタ〳〵歩いてゐたね。あんた、足が短くて素ばしこいから、時代違ひの飛脚を見るやうな気がしたよ。僕は妙見山の隣山を越えてゐてね、ちやうど杜の中で一服しながら休んでゐたんだけど……」  海洋はそこまで言ふと、急にだらしなく欠伸をして、口を開いたまま天井を見つめてしまつた。 「君は狸の置物にそつくりだよ」  鮫島は突嗟に皮肉な唇を歪めたが、海洋はびつくりしたやうな眼を一度鮫島へ向けただけで、再び物憂げに天井へ眼をかへした。身動きもしなかつた。 「誤解のとけるやうに、きつと尽力しますからね、君も呉々も注意してくれたまへね……」  鮫島は急き込んだ口調で、くど〳〵と椿に話してゐたが、椿は仕方ないやうにうん〳〵頷いてゐた。  鮫島は又窓から這ひ出していつた。靴を結ぶのに、ひどく骨の折れる気持であつた。 「ぢや、おやすみ」  校長は窓際に並んだ二つの立像とは凡そ不似合な丁重さで一礼した。彼は凍りついた顔付を闇の中へ振向けて、足を速めた。  併し山門を出るとたんに、思ひもよらぬ人物に出会つた。校長は化石した。 「…………」  よれ〳〵の二重廻しを身に着けた人影は、暫く校長を見定めてゐたが、 「ああ」  馬耳は軽く会釈した。 「若い人達と無駄話がしたうなつてね。わしは無性に退屈でね」  老人は歩き去らうとした。  校長も諦めて歩き去る気配を見せたが、突然身を飜へして、馬耳に先立つて足速やに歩きだした。 「私も今まで椿君と話込んでゐたのですよ。住職もをりますよ」  彼は真暗な玄関へ駈けこんで叫んだ。 「椿君、椿君!」  百年の知己に対する親しさで、青年教師の出現を彼は迎へた。 「氷川村長がお見えですよ。今そこで会つたものですからね」  校長は馬耳に一礼して直ぐ歩きでた。一町ほど静かに歩いた。突然複雑な混乱が彼を夢中に駈けださせずにおかなかつた。彼は本道をそれ、鋭く間道へ曲り込むと、山峡ひの小径を山の静寂に沿ふて走りはぢめた。走り疲れて倒れることが決意のやうに、彼は走つた。  自宅へ戻りついたとき、鮫島は余程落付を取戻してゐた。不機嫌を表はしてゐたが、激情を抑へるために努力もしてゐた。彼は着物に着代えた。家族の顔を見たくもない気持であつたが、電燈の白々しさ、部屋に張りつめた光の虚しさが疼くやうに不快であつた。結局猛りたたずにゐられなかつた。彼は妻を罵詈打擲して戸外へ出た。杖を振りまわしてゐた。  大きな闇が、目当ない彼の心を慰めてくれた。  結局彼は学校へ現れたが、もはや一つの電燈が校門に小さく薄暗く凍みついてゐるばかりであつた。宿直室の外手へ廻つて窓をコツ〳〵打つてみたが、中に応へる気配がなかつた。跫音を殺して校庭をよぎる。闇にうそぶく。とにかく、目当もなしに歩きつづけねばならなかつた。 ──未完── 底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房    1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行 底本の親本:「桜 五月創刊号~第二号」中西書店    1933(昭和8)年5月1日~7月1日発行 初出:「桜 五月創刊号~第二号」中西書店    1933(昭和8)年5月1日~7月1日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。 入力:tatsuki 校正:伊藤時也 2010年5月19日作成 2016年4月4日修正 青空文庫作成ファイル: 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