村のひと騒ぎ 坂口安吾 Guide 扉 本文 目 次 村のひと騒ぎ  その村に二軒の由緒正しい豪家があつた。生憎二軒も──いや、二軒しか、なかつたのだ。ところが、寒川家の婚礼といふ朝、寒原家の女隠居が、永眠した。やむなく死んだのであつて、誰のもくろみでもなかつたのである。ことわつておくが、この平和な村落では誰一人として仲の悪いといふ者がなく、慧眼な読者が軽率にも想像されたに相違ないやうに、寒川家と寒原家とは不和であるといふ不穏な考へは明らかに誤解であることを納得されたい。  寒原家の当主といふのは四十二三の極めて気の弱い男であつた。この宿命的な弱気男は母親が息を引きとるとたんに、今日は此の村にとつてどういふ陽気な一日であるかといふ気懸りな一事を考へて、よほど狼狽しなければならなかつた。つまり、ひどく担ぎやの寒川家の頑固ぢぢいを思ひ泛べてゴツンと息をのんだのである。 「お峯や……」と、そこで彼は長いこと思案してから急に斯う弱々しい声で女房に呼びかけたが、彼の顔色や肩のぐあいや変なふうにびくついてゐる唇をみると、彼もよほどの決意を堅めたといふことが分るのである。「お前はこういふことに大変くわしいと思ふのだが、あのねえ、お峯や、高貴な方には一日ばかり発喪をおくらすといふことも間々あるやうに言はれとるが……」  ところが、めざとい女房は夫の魂胆をひどく悪く観察してしまつた。とはいふものの、勿論それは半分図星であつたには違ひない。寒原半左右衛門はだらしのない呑み助であつた。ことに他家の振舞酒をのむことが趣味にかなつてゐた。おまけに、凡そ能のない此の男だが金輪際たつた一つの得意があつて、村の衆に怪しげな手踊を披露する此の重大な一事にほかならなかつたのだ。全身にまばゆい喝采を浴びたこの幸福な瞬間がなかつたとしたら、彼はとうの昔に首でもくくつて──いや、これは失礼。極めて小数の人達しか知らない悪い言葉を私はうつかり用ゐたのである。 「おや、この人は変なことをお言ひだよ」と、そこでお峯は怖い顔で半左右衛門を睨みつけた。「胸に手を当ててごらん! わたしたちは高貴な身分どころではありませんからね!」  弱気な半左右衛門が脆くもぺしやんこになつたのは言ふまでもない。  事の起りに就ては医者が悪いといふ意見が専ら村に行はれてゐる。勿論彼の腕前に就ての批難ではない。彼の注射は早くから評判が高かつたので、どんなに熱の高い病人でも譫言や悪夢のなかで注射の針を逃げまわつてゐた。だから、その方面の間違ひは決して起る筈がなかつたのだ。問題は彼の口である。即ち、前段で述べたやうな会話がまだ寒原家の一室で取り交はされてゐる時分に、この宿命的な不幸はもはや村一面に流布してゐた。もし彼の口さへなかつたとしたら──弱気な、そのうへ酒と踊に異常な情熱をもつた諦らめの悪い半左右衛門は、思ひ出してはねちねちと拗ねて、短い秋の一日ぐらいはどうなつたか知れたものではない。  さて、事の意外に驚いたのは、まづ森林寺の坊主であつた。今宵の祝宴に狙ひをつけた最大の野心家はこの坊主であつたかも知れない。言ふまでもなく此奴は呆れた酒好きであつた。おまけに、坊主といふものは宴席で誰よりも幅の利く身分であつて、「てへへん、これは結構な般若湯でげす。やれやれ、わしどもの口には二度と這入るまい因果な奴でな」なぞと言ふことに由つて、一升や二升のお土産は貰へる習慣のものである。ところへ寒川家のおやぢときては実際気前が良かつたのだ。ところが一朝通夜ときたひには──鋭い読者はもはや充分見抜かれたに相違あるまいが、寒原半左右衛門ときては近在稀れなけちん棒であつた。拙! ところで不可解至極な通念によれば、坊主といふものは此の際婚礼をおいて通夜へ廻らねばならないといふ信じ難い束縛のもとに置かれてゐる! こうして、森林寺の坊主が唐突として厭世的煩悶に陥つたことには充分理由があつたのである。  生れつき煩悶には不慣れな性質だつたので、肥満した彼の身体は内心の動揺をうまく押へたり隠したりできなかつた。つまり彼の逞ましい腕はいきなり彼の胸倉を叩いたり、あまり勝手が違ひすぎて施す方法がなかつたので、舌を出したりしたのである。が、劇しい努力の結果として会心の解決が彼を突然雀躍りさせた。身体がいつぺんに軽くなつた思ひがした。そこで彼は大急ぎで小僧を呼び入れたのだ。 「頓珍や。これや。もそつと前へ坐れや。よろこべよ。今夜はお前に一人前の大役を授けるぞよ。(と斯う言つたとき、坊主は思はず嬉しさにニタ〳〵と相好を崩した。)わしは今夜は大切な用向きがあつてな、昼うちだけ寒原さんへお勤めに行くよつてな、お前は今夜わしの代役でお通夜の主僧とおいでなすつたぞよ。ありや〳〵、どうぢやな、てへへん、嬉しくて有難くつてこつたへらんところだらうが……」  と、斯う言はれた小僧は当年十四歳であつた。勿論生れた時から数へてのことで、小僧になつてから十四年も劫を経たわけではなかつたのである。勘の素早い小僧はむつとした。それから、前垂れで頬つぺたをこすりながら、ひどく深刻な、むつかしい顔付をしたのである。そして、 「わたしは、まだろくすつぽ、経文を知らんですがねえ……」と言つた。 「なになに、ええわ、本を読みなされ」 「字が読めんです」 「この大とんちきめ!」と坊主は思はず怒鳴つたが、大事の前で軽率な怒りから身を亡してはならないのである。そこで今度は教訓的な真面目な顔をこしらへた。「小僧といふものはな、習はん経文も読まねばならんもんだぞよ。うへん、ま、仕方がないわ。知つとるだけの経文を休み休み繰り返しておきなされ。WAH! こうしてゐられん! WAH! これよ。衣をもてよ」と斯う叫ぶとあたふたと着代へをして、「頓珍や、よろこべよ、今夜はお前も結構な御馳走をおよばれぢやよ。夕食の仕度はいらんぞよ」と大事な言葉を言ひ残して慌ただしく出掛けて行つた。と、そのとたんに、殆んど入れ違ひといつていい宿命的な瞬間に、五十がらみの村の男──権十と呼ばれる村の顔役が泡をくらつて跳び込んできた。 「和尚さんはどうしたあ! 大変なことができちやつたい! WAWAWA! 村は一大事ぢやよ。和尚さんてば。水をくれえ。お茶がええ。……」  そこで小僧は和尚のたくらみに恨骨髄に徹してゐたので、和尚の運らした不埒な魂胆を権十に洩らしたのである。と、権十は和尚が不在の理由をきき、愕然として顔色を変へたが、すこしも早く、OH! さうだ、といふ凄い見幕を見せると、わつ! とも言はず和尚のあとを追ひはじめた──と、この出来事はここのところで有耶無耶になつて、話はべつに村の一方の恐慌へ飛ぶのである。  まだ朝の十時頃のことであつた。わが帝国の山奥に散在する此等の村で、丁度この刻限がどんなに平穏な人生を暗示するかといふことは想像しただけでも気持のいいものである。とはいへ季節が秋だつたので、山もそれから山ふところの段々畑も黄色かつたり赤ちやけてゐたり、うそ寒い空の中へ冷たい枯枝を叩き込んでゐたりした。いはば荒涼とした眺めであつたが、それにも拘らず田舎はいつも長閑なものだ。時雨が遠方の山から落葉を鳴らして走り過ぎて行くかと思ふと、低迷したどす黒い雲が急にわれて、濃厚な蒼空がその裂け目からのぞいたりした。鈍い陽射しが濡れた山腹の一部分だけさつと照らしてゐるうちに、もう又時雨が山の奥から慌てふためいて駈け出してくる。丁度さういふ時刻だつた。わが勤勉な百兵衛は平楽山の段々畑の頂上から三段目を世話してゐた。すると、突然谷底の窪地から一つの黒い塊が湧きあがつてきて導火線を這ふやうに驀地にせりあがつてきたが、音もたてずに百兵衛の腰へしがみつくと二人は全く一つになつて畑の中へめり込んでゐた。そのはづみに百兵衛は脾腹を強たか蹴りあげられて、秋のさなかへあつさり悶絶しやうとしたが、すると異様な人物は、「とつつあんや、苦しかつたらぢつと我慢しなよ。人は苦しくない時に我慢といふことの出来んもんぢやからな。村は一大事ぢやぞ!」と斯う言つて苦悶の百兵衛を慰めたので、これが倅の勘兵衛であることが分つた。  このやうな、いはば革命を暗示するやうな悲痛な動揺が、已に収穫の終つた藁屋根の下でも、樵小屋の前でも、山峡ひの路上でも電波のやうに移つていつた。実際その瞬間に、ああ此の村はどうなるのだと思はせたに違ひない。村全体が一つの重々しい合唱となつて丁度地底から響くやうに、「斯うしちやあ、ゐられねえ。斯うしちやあ、ゐられねえ」と呻いた。それから、村そのものが一つの動揺となつて、居たり立つたり空間の一ヶ所を穴ぼこのやうに視凝めたり、埋葬のやうにゆるぎだしたり、ぢりぢりと苛立ちはじめたりした。そこで、感じ易い神経をもつた山の狸や杜の鴉がどんなに勝手の違つた思ひをしたかといふことは、彼等が顔色を変えて巣をとびだすと突然夢中に走りはじめたことでも分るのである。  全く、同情ある読者諸兄は彼等の心情に一掬の泪を惜しまないであらうが、彼等は今や一年に一度の、いや、恐らく一生に一度かも知れたものではない山海の珍味を失はふとしてゐるのだ。成程これは残酷だ! 若しも彼等がお通夜帰りに婚礼を訪れたとしたら、担ぎやの頑固ぢぢいは家の子郎党に棍棒を握らせて鏖殺しにするまでは腹の虫がおさまらないに相違ない。といつて、婚礼帰りのほろ酔ひで寒原の神聖を汚したとなると、歇私的里のお峯は悪魔を宿して、初七日を過ぎないうちに借金の催促となり、やがて一聯隊の執達吏が雪ぢかい寒村へおしよせるに違ひない。  誰言ふとなく、学校へ集まれといふ真剣な声が村の一方にあがつた。これは金言のやうに素晴らしい思ひつきの言葉だつた。自分一人の心臓を(いや、胃袋だ!)おさへきれずにゐた幾百万の(とは言へ本当は人口二百三十六名である)村人は、血走つた眼に時雨の糸が殴り込むのを決して構はふとせずに、息をつめて知識の殿堂へ殺到した。遠い山からそれを見ると、勤勉な蟻──物を考へたり声を出したりしないところの、あの怱忙な行列に酷似してゐた。この適例によつてみれば、屡々人に強要されるところの時間正しさと呼ばれるものは、全く一に無類の緊張に由るほかは厳守しがたい美徳の一つであることが分るのである。八方の山陰や谷底から現れた此等の小粒な斑点は実際五分とたたぬうちに一つ残らず校門へ吸ひ込まれたではないか! 村には今わづかに一人の人影を探し出すことも出来ない。そして荒涼たる秋が残つた。  扨て、この日は丁度日曜日であつた。ところで、日曜日といへば、絶対的に、あるひは必死的にさへ学校へ顔出しを憎むところの誠実な先生達が、やはり必死の意気ごみで駈けつけたといふのは! これは何んとしたことなのだ。  村人は雨天体操場に集合した。そして一瞬場内が蒼白になると、職員室で密議を凝らしてゐた村の顔役と教員がブロンズのデスマスクを顔にして黄昏をともなひながら入場した。まづ演壇へ登つたのは言ふまでもなく校長である。彼は劇しい心痛のせいか、全くのぼせてゐたし、そのうへ細まかく顫へてゐた。といふのは、一つは勿論生れつきではあつたが、一つには生憎寒川家には学齢期の児童がなかつたのに比べて、寒原家には大概の組に子供がゐた。この密接な関係からして、先生達は勿論通夜へ! 然り! 出席する余儀ない立場にあつたのである。 「諸君! 何たることである! (と、斯う言ふ時に彼は早くも力一杯卓子を叩きつけた、が、あまり力がはいりすぎて、とたんに彼は茫然として自分自身の口を噤んだ)然り! 何たることである! (そして彼は水をのんだ)実に何たることではないか! 彼女は死んだ! 驚いたではないか! 驚いた! ほんとうに驚いたか! 本当に驚いた! (と、斯ういふ言葉に驚いたのは彼自身であつた。彼は片側の重立ち連へ救ひをもとめる眼差を投げた。しかし彼等は校長の言葉にもはや充分興奮しはじめてゐたので、彼の視線を寧ろ怪訝な表情でもつて見返した。校長は苛々して、併し今度は悲痛な情熱をしぼると、眼さへ瞑つて絶叫しはじめた──)親愛なる諸君! そもそも人間は婚礼の日に死んでいいか! 否否否! しかるに彼女は死んだ! 呆れかへつたではないか! 呆れた! かりに諸君! 諸君は婚礼の日に死にたいと思ふであらうか! 断然否! 余は如何なる日にも死にたいとは思はんのである! しかるに彼女は死んだ! 殆んど奇怪ではないか! 奇怪である! 余はなさけない! 余は営々として育英事業に尽瘁することここに三十有余年、此の如きは真にはじめてのことではないか! 実にはじめてのことである! しかりとせば諸君! 蓋し三十有余年目の奇怪事ではないか! 三十有余年前に果して此の如き事があつたか! 分らない! しからば諸君! 開闢以来の奇怪事かも知れんではないか! WAH! 諸君! 日本が危い! うつかりすると日本は危険だ!」  と、斯う言はれた時に満場の聴衆はドキンとした。それよりもドキンとしたのは校長自身であつた。彼は自分の結論に痛々しく感激して劇しく胸をかきむしつてゐたが、突然身をひるがへして演壇を落下すると、ハラ〳〵と涕泣して椅子に崩れた。生憎偉大な校長は当面の大事には何の名案も与へぬうちに感激しすぎたのである。つづいてざわざわと群衆の頭がゆれはじめた。まつたく、たかだか二百三十六名で未曾有の国難をしよひきることは心細いに違ひない。荷の勝ちすぎた熱情は長続きのしないものだ。彼等の情熱はどうやら当面の村難へ舞ひ戻つたのである。  そこで、芸術家の頭をした一人の青年訓導が、沈着を一人で引受けた足どりで演壇へ登つた。この騒動に落付きといふこと、それだけでも已に甚大な驚異であるから、彼の姿を見ただけで、もう人々は重みのある心強さを感じた。 「みなさん! (と、彼は先づ柔らかい言葉を用ひた)今回の突然の出来事が未曾有の大事であることは偉大な校長先生のお話によつて良くお分りのことと思ひます。が、婚礼の当日お熊さんが亡くなられた不思議な出来事は已にしつかりした事実であつて、婚礼とお通夜と、生憎この二つは今更どうすることも出来ない。そこで、当面の問題として婚礼もよしお通夜もよしといふ便利な手段を考案しなければならんのである。(と斯う言つたとき満場は殆んど夢心持で同感の動揺を起した)私は斯う考へるのである、諸君! (と、今度はきつい言葉を用ひた)婚礼は男女に関する儀式であつて、これは別に問題はないが、本日の亡者はお熊さんと呼ばれ、寒原半左右衛門の母であり、かつまた故一左右衛門の妻であつた事実からしても、私はこれを女と判断したいのである。とすれば、我が国の淳良な風俗によつても、これは必ず女が通夜に行かねばならん! 亡者が女であるならば、何故女が通夜に行かねばならんか? 何んとなれば、彼女が男であるならば男が行かねばならんからである。かつ又彼女が男であるならば男が行つたに相違ないではないか! しかるに彼女は女であつた。故に女が行かねばならんのである! つまり、わが村の婦人はお通夜へ、わが村の男子は婚礼へ、行かねばならんのである!」  と、斯う結んで彼が降壇するときに、満場の男子は嬉しさのあまり思はず額をたたいたりして発狂するところであつた。が、まだ降りきらないうちに、数名の女教員が一斉に壇上へ殺到した。彼女等は口々に男性を罵りながら、自分一人が演説しやうとして、壇上で激しい揉み合ひをはじめた。満場の男女は総立ちになつて、今にも殺伐な事件が起りさうに見えたのである。もしも賢明な医者が現れなかつたとしたら、このおさまりは果してどうなつたか知れたものではない。  医者──この事件の口火を切つた医者──あの男は、軽率な口がわざわひして此の日は国賊のやうに言はれてゐたが、決して悪い人間ではなかつたのである。注射──もちろん其れもある。併し概してこの場合には、注射それ自身の問題であつて、彼自身としては毫も殺人の意志はなかつた。してみれば彼に全く落度はない。実際彼は善人であつた。そして、医学の方では諦らめてゐたが、医学以外のことでは村のために一肌ぬぎたい切実な良心を持つてゐたのだ。──そこで此の好人物は両手を挙げて騒然たる会場を制しながら壇上へ登つた。つづいて、くねくねした物慣れた手つきで掴み合ひの女教員を引き分けたのである。と、この深刻な手つきは、流石の女傑たちも唖然として力を落してしまふほど、精神的魅力に富んでゐた。そこで彼は踊るやうな腰つきで斯う演説をはじめた。 「みなさん! しづまりたまへ! 不肖医学士が演壇に登りましたぞ! 医学士が登壇したからしづまれ! 安心なさい! (と斯う叫んだが、実は本当の医学士ではなかつたのである)みなさんは医学を尊敬しなければなりません。何んとなれば医学は偉大であるからである。それ故医学者を尊敬しなければならんのである。みなさんは素人であるから、素人は偉くない。不肖は医学士であるから、不肖の言葉は信頼しなければならん。そこで(と、彼は一段声を張りあげた)医学の証明するところによれば、寒原家の亡者は一日ぶん生き返つたのである! (と、斯う言われた聴衆は彼の言葉を突瑳に理解することができなかつた)諸君! 偉大極まる医学によれば、人には往々仮死といふことが行はれると定められてある。今朝お熊さんは死んだ。これは事実である。今、お熊さんは生き返つた。これも事実である。明日、お熊さんは死ぬのである。これまた事実以外の何物でもあり得ない。諸君、医学は偉大であるから医学を疑ぐつてはならない。だから医学者を尊敬しなければならん。亡者は一日ぶん生き返つた! お通夜は明晩まで延期しなければならんのである!」  おそらく我が国で医学の偉大さを最も痛切に味つた者は、この時の村人たちに違ひない。すすりなく者もあつた。よろめく者もあつた。校長は、「おお、偉大な、尊敬すべき……」と斯う叫んだまま、医者の手に噛みついて慟哭した。そこで、喜びに熱狂した群衆はお熊さんの蘇生を知らせに寒原家へ練りだした──が、この珍らしい医学的現象の結果、寒原半左右衛門は果してどうなつたか? 「お峯や──」と、一方、それから十分ののちだが、寒原半左右衛門は門のざわめきに吃驚して女房に言ひかけた。「今時分からお通夜の衆が来られたわけではあるまいな。晩飯を出すとなると──わしは別にかまひはしないけれど、ねえ、お峯や……」 「わたしや知りませんよ! わたしや此家の御主人様ではございませんからね! 出さうと出すまいと、あんたの胸一つですよ!」  と、斯う言つてゐるうちに、騒がしいざわめきは庭一杯にぎつしりつまつてゐたのである。「万歳」といふ声もあつた。「お目出度う」と言ふものもあつた。中には、「偉大なる医学」とか「我等の医学士」なぞといふ理解に苦しむ言葉もあつた。まつたく、この村の歴史に於て医学が偉大であつたためしは嘗てなかつたことである。半左右衛門は極度に狼狽した。うつかりすると婚礼と通夜と取り違はれたことかも知れない。なんにせよ、薄気味悪い出来事である。そこで彼はおどおどして玄関へ出て行つたが、衝立から首を延ばしたとたんに、不可解至極な歓声にまき込まれてぼんやりした。 「わしはハッキリ分らんのだが……」と半左右衛門は泣きほろめいて手近かの男に哀訴した。「いつたい、生きたとかお目出度いとか、つまり何かね、わしが斯うして生きてゐるのがお目出度いといふことかね? そんならわしは、わしははつきり言ふが、お目出度いことはない!」 「へえ、まつたくで。(と一人が答へた)旦那の生きてることなんざ、お目出度くもありませんや。ありがたいことには、旦那、隠居が生き返つたと斯ういふわけでね。医学は偉大でげす。ねえ、先生!」 「然り!」と、偉大な医学者は進み出た。「当家の隠居は一日ぶん生き返つたのである。偉大な医学を信頼しなければならん! それ故偉大な医学士を信頼しなければならんのである!」 「婆さんが生き返つたと?」と、半左右衛門は吃驚して斯う訊いたが、「あ! 婆さんが生きた!」と、今度は突然雀躍りした。「婆さんが一日生きた! ありがたい。通夜は明晩にきまつたよ。婆さんが一日ぶん生き返つたとよ!」 「知りませんよ!」とこの時お峯は不機嫌な顔を突き出した。「お前さん方はなんといふ呑んだくれの極悪人の気狂ひどもだらう! うちの婆さんは朝から仏間に冷たくなつて寝てゐるんだよ!」 「それが素人考へといふもんだ!」人々は一斉にいきりたつて怒鳴つた。「医学といふものは偉大なものだ! 素人に分らんからして偉大なものだ!」 「お峯や、心をしつかり持たなければならんよ」と、半左右衛門も斯う女房をたしなめた。「なにせ医学といふもんはたいしたものでな。わしらに理解のつくことでない。偉い先生のお言葉には順はねばならんもんぢや」  と、この言葉は成程語気は弱かつたが、いつもに似ない頑強な攻勢を窺ふことができたのである。恐らく彼は嬉しまぎれに後の祟も忘れてゐるに違ひない。してみると此の場はお峯の敗北である。そこでお峯は棄鉢の捨科白を叩きつけるといふ最も一般的な敗北の公式に順つて、自分の末路を次のやうに結んだ。 「何んだい、藪医者の奴が! 注射で人を殺した偉い先生があるもんかね!」 「いやいや、さういふもんでないぞ。(と。見給へ、半左右衛門はなほも攻勢をつづけるのである!)偉い先生のことだから患者は死ぬだけのことで助かつたといふもんでないか! これが素人であつてみい、どうなることか知れたもんでないぞ」  とたんにお峯は鬼となつて部屋の奥へ消え失せた。──半左右衛門の後日の立場は全く痛々しいものに違ひない。熱狂した群衆の中にさへ半左右衛門に同情を寄せて、ないない気の毒な思ひをした者も二三人はあつたのだ。ところが半左右衛門自身ときては、益々有頂天になりつつあつた。彼は嬉しさのあまり身体の自由がきかなくなつて、滑りすぎる車のやうに、実にだらしなく好機嫌になつたのである。彼は揉み手をしながら、村の衆に斯う挨拶を述べた。 「わしもな、ないない一日ぶんがとこ何んとかしたいと考へとつたが、医学ちうものがこれほど偉大のもんだとは! なにせ学問のないわしのことでな。まさかに生き返るとは思ひよらないことぢやつた。なんとお目出度い話ぢややら……」 「旦那は孝行者ぢやからな。さうあらう……」と、木訥な一人が感激に目をうるませて叫んだ。「何よりお目出度い! これよりお目出度いことはない! 旦那、まづ何よりも祝ひの酒だよ!」  酒! 驚いた! 迂闊にも程があるといふものだ! 吃驚した群衆は慌てふためいて叫んだ。 「祝盃だ! 隠居の誕生日! 酒! 酒々々々々々!」 「しかし……」と、半左右衛門は明らかにうろたへた。それから彼はひどくむつ! として、 「しかし、婆さんは死んどるわな!」と言つた。 「おや! 素人の旦那が! 旦那は何かね。自分の母親を一日早く殺さうといふ魂胆かね!」  と、例の木訥な農夫は殆んど怒りを表はして斯う詰つた。すると駐在所の巡査は、群衆の陰から肩を聳やかして、佩刀をガチャ〳〵いわせたのだ。半左右衛門はしどろもどろとなつたのである。 「わしは別に殺しはせんよ。婆さんは今朝から死んどるといふのに。……」 「おや! 誰が言ひましたかね!」 「医者が──」 「えへん!」  と咳払ひをして医者は空を仰いだ。半左右衛門は口をおさへて、頬に泪を流したのである。進退全く谷まつたのだ。突然、しかし必死の顔をあげると、彼は物凄い形相で慌ただしく群衆を物色しはじめた。そして三河屋の次郎助を見つけると断末魔の声で、 「次郎助や、一番安いのを一升だけ……」  だが、大変耳の悪い群衆は、次郎助へ斯う親切にとりついでやつた。 「いい酒を一樽だとよ!」  諸君、誠実な煩悶にはきつといい報があるものだ。斯うして、誠実な村人は一日に二度の大酒盛にありつくことができたのである。が、寒原半左右衛門といへども決して大損はしなかつた。その夜のまばゆい宴席で、彼は得意の手踊を披露することができた。昼の鬱憤を晴らして、類ひのない幸福に浸ることができたのである。  東京で蒼白い神経の枯木と化してゐた私はゆくりなく此の出来事をきいて、思はず卒倒してしまふほど感激した。全く、こんな豊かな感激と緑なす生命に溢れた物語を私は知らない。私はこの話をききながら、私の心に爽やかな窓が展くのを知つた。そして私は其の窓を通つて、蒼空のやうな夢のさなかへ彷徨ふてゆく私の心を眺めた。生きるといふことは、そして、大変な心痛のなかに生き通すといふことは、こんなふうに、楽しいことなのだ! そして、ハアリキンの服のやうに限りない色彩に掩はれてゐるものである。私は生き方を変えなければならない。そこで私は私の憂鬱を捨てきつてしまふために、道々興奮に呻きながら旅に出た。リュックサックにコニャックをつめて。そして山奥の平和な村へ。  だが私は、目的の段々畑で、案山子のやうに退屈した農夫たちを見ただけだつた。私達の見飽いた人間、あの怖ろしい悲劇役者がゐたのである。村全体がおさまりのない欠伸の形に拡がつてゐた。  そこで諸君は考へる。それが本当の人生だ。あの物語はあり得ない、あれは嘘にちがひないと。断じて! 断々乎として! あれは確かに本当の出来事だ! 私達の慎しみ深い心の袋、つまりは、罪障深い良心と呼ばれるものに訊き合はしても、──いや、これは失礼! 私自身の悪徳を神聖な諸兄に強ひたことは大変私の間違ひであつたが。で、とにかく、私は異常に落胆して私の古巣へ帰つたのだが。それ以来といふものは、あれとこれと、どちらが本当の人生であるかといふに、頭の悪い私には未だにとんと見当がつかないでゐる。ああ。 底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房    1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行 底本の親本:「三田文学 第六巻第一〇号」三田文学会    1932(昭和7)年10月1日発行 初出:「三田文学 第六巻第一〇号」三田文学会    1932(昭和7)年10月1日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。 入力:tatsuki 校正:伊藤時也 2010年5月19日作成 2011年5月20日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。