旧藩情 福沢諭吉 Guide 扉 本文 目 次 旧藩情 旧藩情    旧藩情緒言 一、人の世を渡るはなお舟に乗て海を渡るがごとし。舟中の人もとより舟と共に運動を與にすといえども、動もすれば自から運動の遅速方向に心付かざること多し。ただ岸上より望観する者にして始てその精密なる趣を知るべし。中津の旧藩士も藩と共に運動する者なれども、或は藩中に居てかえって自からその動くところの趣に心付かず、不知不識以て今日に至りし者も多し。独り余輩は所謂藩の岸上に立つ者なれば、望観するところ、或は藩中の士族よりも精密ならんと思い、聊かその望観のままを記したるのみ。 一、本書はもっぱら中津旧藩士の情態を記したるものなれども、諸藩共に必ず大同小異に過ぎず。或は上士と下士との軋轢あらざれば、士族と平民との間に敵意ありて、いかなる旧藩地にても、士民共に利害栄辱を與にして、公共のためを謀る者あるを聞かず。故に世上有志の士君子が、その郷里の事態を憂てこれが処置を工夫するときに当り、この小冊子もまた、或は考案の一助たるべし。 一、旧藩地に私立の学校を設るは余輩の多年企望するところにして、すでに中津にも旧知事の分禄と旧官員の周旋とによりて一校を立て、その仕組、もとより貧小なれども、今日までの成跡を以て見れば未だ失望の箇条もなく、先ず費したる財と労とに報る丈けの功をば奏したるものというべし。蓋し廃藩以来、士民が適として帰するところを失い、或はこれがためその品行を破て自暴自棄の境界にも陥るべきところへ、いやしくも肉体以上の心を養い、不覊独立の景影だにも論ずべき場所として学校の設あれば、その状、恰も暗黒の夜に一点の星を見るがごとく、たとい明を取るに足らざるも、やや以て方向の大概を知るべし。故に今の旧藩地の私立学校は、啻に読書のみならず、別に一種の功能あるものというべし。  余輩常に思うに、今の諸華族が様々の仕組を設けて様々のことに財を費し、様々の憂を憂て様々の奇策妙計を運らさんよりも、むしろその財の未だ空しく消散せざるに当て、早く銘々の旧藩地に学校を立てなば、数年の後は間接の功を奏して、華族の私のためにも藩地の公共のためにも大なる利益あるべしと。これを企望すること切なれども、誰に向てその利害を説くべき路を知らず。故に今この冊子を記して、幸に華族その他有志者の目に触れ、為に或は学校設立の念を起すことあらば幸甚というべきのみ。 一、維新の頃より今日に至るまで、諸藩の有様は現に今人の目撃するところにして、これを記すはほとんど無益なるに似たれども、光陰矢のごとく、今より五十年を過ぎ、顧て明治前後日本の藩情如何を詮索せんと欲するも、茫乎としてこれを求るに難きものあるべし。故にこの冊子、たとい今日に陳腐なるも、五十年の後には却て珍奇にして、歴史家の一助たることもあるべし。   明治十年五月三十日 福沢諭吉 記    旧藩情  旧中津奥平藩士の数、上大臣より下帯刀の者と唱るものに至るまで、凡、千五百名。その身分役名を精細に分てば百余級の多きに至れども、これを大別して二等に分つべし。すなわち上等は儒者、医師、小姓組より大臣に至り、下等は祐筆、中小姓旧厩 格供小姓、小役人格より足軽、帯刀の者に至り、その数の割合、上等は凡そ下等の三分一なり。  上等の内にて大臣と小姓組とを比較し、下等の内にて祐筆と足軽とを比較すれば、その身分の相違もとより大なれども、明に上下両等の間に分界を画すべき事実あり。すなわちその事実とは、  第一、下等士族は何等の功績あるも何等の才力を抱くも、決して上等の席に昇進するを許さず。稀に祐筆などより立身して小姓組に入たる例もなきに非ざれども、治世二百五十年の間、三、五名に過ぎず。故に下等士族は、その下等中の黜陟に心を関して昇進を求れども、上等に入るの念は、もとよりこれを断絶して、その趣は走獣あえて飛鳥の便利を企望せざる者のごとし。また前にいえるごとく、大臣と小姓組との身分は大に異なるがごとくなれども、小姓組が立身して用人となりし例は珍らしからず。大臣の二、三男が家を分てば必ず小姓組たるの法なれば、必竟大臣も小姓組も同一種の士族といわざるを得ず。  また下等の中小姓と足軽との間にも甚しき区別あれども、足軽が小役人に立身してまた中小姓と為るは甚だ易し。しかのみならず百姓が中間と為り、中間が小頭となり、小頭の子が小役人と為れば、すなわち下等士族中に恥かしからぬ地位を占むべし。また足軽は一般に上等士族に対して、下座とて、雨中、往来に行逢うとき下駄を脱いで路傍に平伏するの法あり。足軽以上小役人格の者にても、大臣に逢えば下座平伏を法とす。啻に大臣のみならず、上士の用人役たる者に対しても、同様の礼をなさざるを得ず。また下士が上士の家に行けば、次の間より挨拶して後に同間に入り、上士が下士の家に行けば、座敷まで刀を持ち込むを法とす。  また文通に竪様、美様、平様、殿付け等の区別ありて、決してこれを変ずべからず。また言葉の称呼に、長少の別なく子供までも、上士の者が下士に対して貴様といえば、下士は上士に向てあなたといい、来やれといえば御いでなさいといい、足軽が平士に対し、徒士が大臣に対しては、直にその名をいうを許さず、一様に旦那様と呼て、その交際は正しく主僕の間のごとし。また上士の家には玄関敷台を構えて、下士にはこれを許さず。上士は騎馬し、下士は徒歩し、上士には猪狩川狩の権を与えて、下士にはこれを許さず。しかのみならず文学は下士の分にあらずとて、表向の願を以て他国に遊学するを許さざりしこともあり。  これ等の件々は逐一計うるに暇あらず。到底上下両等の士族は各その等類の内に些少の分別ありといえども、動かすべからざるものに非ず。独り上等と下等との大分界に至ては、ほとんど人為のものとは思われず、天然の定則のごとくにして、これを怪しむ者あることなし。(権利を異にす)  第二、上等士族を給人と称し、下等士族を徒士または小役人といい、給人以上と徒士以下とは何等の事情あるも縁組したることなし。この縁組は藩法においても風俗においても共に許さざるところなり。啻に表向の縁組のみならず、古来士族中にて和姦の醜聞ありし者を尋るに、上下の士族各その等類中に限り、各等の男女が互に通じたる者ははなはだ稀なり。(ただし日本士族の風俗は最も美にして、和姦などの沙汰は極めて稀に聞くところなり。中津藩士ももとより同様なれども、ここにはただ事実の例を示さんがために、その稀に有る者の数を比較したるのみ。)  かつ限ある士族の内にて互に縁組することなれば、縁に縁を重ねて、二、三百年以来今日に至ては、士族はただ同藩の好あるのみならず、現に骨肉の親族にして、その好情の篤きはもとより論を俟たず。然るに今日、試に士族の系図を開てこれを見れば、古来上下の両等が父祖を共にしたる者なし、祖先の口碑を共にしたる者なし。恰も一藩中に人種の異なる者というも可なり。故にこの両等は藩を同うし君を共にするの交誼ありて骨肉の親情なき者なり。(骨肉の縁を異にす)  第三、上等士族の内にも家禄にはもとより大なる差ありて、大臣は千石、二千石、なおこれより以上なる者もあり。上等の最下、小姓組、医師のごときは、十人扶持より少なき者もあれども、これを概するに百石二百石或は二百五十石と唱えて、正味二十二、三石より四十石乃至五、六十石の者最も多し。藩にて要路に立つ役人は、多くはこの百石名目 のみ以上の家に限るを例とす。藩にて正味二、三十石以上の米あれば、尋常の家族にて衣食に差支あることなく、子弟にも相当の教育を施すべし。  これに反して下等士族は十五石三人扶持、十三石二人扶持、或は十石一人扶持もあり、なお下て金給の者もあり。中以上のところにて正味七、八石乃至十餘石に上らず。夫婦暮しなれば格別、もしも三、五人の子供または老親あれば、歳入を以て衣食を給するに足らず。故に家内力役に堪る者は男女を問わず、或は手細工或は紡績等の稼を以て辛うじて生計を為すのみ。名は内職なれどもその実は内職を本業として、かえって藩の公務を内職にする者なれば、純然たる士族に非ず、或はこれを一種の職人というも可なり。生計を求むるに忙わしく、子弟の教育を顧るに遑あらず。故に下等士族は文学その他高尚の教に乏しくして自から賤しき商工の風あり。(貧富を異にす)  第四、上等の士族は衣食に乏しからざるを以て文武の芸を学ぶに余暇あり。或は経史を読み或は兵書を講じ、騎馬槍剣、いずれもその時代に高尚と名る学芸に従事するが故に、自から品行も高尚にして賤しからず、士君子として風致の観るべきもの多し。下等士族は則ち然らず。役前の外、馬に乗る者とては一人もなく、内職の傍に少しく武芸を勉め、文学は四書五経歟、なお進て蒙求、左伝の一、二巻に終る者多し。特にその勉強するところのものは算筆に在て、この技芸に至ては上等の企て及ぶところに非ず。蓋しその由縁は、下等士族が、やや家産の豊なるを得て、仲間の栄誉を取るべき路はただ小吏たるの一事にして、この吏人たらんには必ず算筆の技芸を要するが故に、恰も毎家教育の風を成し、いかなる貧小士族にてもこの技芸を勉めざる者なし。  今を以て考うれば、算筆の芸もとより賤しむべきに非ざれども、当時封建士族の世界にこれを賤しむの風なれば、これに従事する者は自からその品行も賤しくして、士君子の仲間に歯せられざる者のごとし。譬えば上等士族は習字にも唐様を学び、下等士族は御家流を書き、世上一般の気風にてこれを評すれば、字の巧拙を問わずして御家流をば俗様として賤しみ、これを書く者をも俗吏俗物として賤しむの勢を成せり。(教育を異にす)  第五、上士族の内にも小禄の貧者なきに非ざれども、概してこれを見れば、その活計は入に心配なくして、ただ出の一部に心を用るのみ。下士族は出入共に心に関して身を労する者なれば、その理財の精細なること上士の夢にも知らざるもの多し。二人扶持とは一箇月に玄米三斗なり。夫婦に三人の子供あれば一日に少なくも白米一升五合より二升は入用なるゆえ、現に一月二、三斗の不足なれども、内職の所得を以て麦を買い粟を買い、或は粥或は団子、様々の趣向にて食を足す。これを通語にて足し扶持という。食物すでに足るも衣服なかるべからず。すなわち家婦の任にして、昼夜の別なく糸を紡ぎ木綿を織り、およそ一婦人、世帯の傍に、十日の労を以て百五十目の綿を一反の木綿に織上れば、三百目の綿に交易すべし。これを方言にて替引という。  一度は綿と交易してつぎの替引の材料となし、一度は銭と交易して世帯の一分を助け、非常の勉強に非ざれば、この際に一反を余して私家の用に供するを得ず。娘の嫁入前に母子ともに忙しきは、仕度の品を買てこれを製するがために非ず、その品を造るがためなり。或はこれを買うときは、そのこれを買うの銭を作るがためなり。かかる理財の味は、上士族の得て知るところに非ず。この点より論ずれば上士も一種の小華族というて可なり。廃藩の後、士族の所得は大に減じて一般の困迫というといえども、もしも今の上士の家禄を以てこれを下士に附与して下士従来の活計を立てしめなば、三、五年の間に必ず富有を致すことあるべし。(理財活計の趣を異にす)  廃藩の後、藩士の所得大に減ずるとは、常禄の高を減じたるをいうに非ず。中津藩にして古来度々の改革にて藩士の禄を削り、その割合を古に比すればすでに大に減禄したるがごとくなるを以て、維新の後にも諸藩同様に更に減少の説を唱えがたき意味もあり、かつ当時流行の有志者が藩政を専にすることなくして、その内実は禄を重んずるの種族が禄制を適宜にしたるが故に、諸藩に普通なる家禄平均の災を免がれたるなり。然りといえども常禄の外に所得の減じたるものもまた甚だ大なり。中津藩歳入の正味はおよそ米にして五万石余、このうち藩士の常禄として渡すものは二万石余に過ぎずして、残およそ三万石は藩主家族の私用と藩の公用に供するものなり。  この公用とは所謂公儀(幕府のことなり)の御勤、江戸藩邸の諸入費、藩債の利子、国邑にては武備城普請、在方の橋梁、堤防、貧民の救済手当、藩士文武の引立等、これなり。名は藩士の所得に関係なきがごとくなれどもその実は然らず。譬えば江戸汐留の藩邸を上屋舗と唱え、広さ一万坪余、周囲およそ五百間もあらん。類焼の跡にてその灰を掻き、仮に松板を以て高さ二間許りに五百間の外囲をなすに、天保時代の金にておよそ三千両なりという。この他、平日にても普請といい買物といい、また払物といい、経済の不始末は諸藩同様、枚挙に遑あらず。もとより江戸の町人職人の金儲なれども、その一部分は間接に藩中一般の賑たらざるを得ず。また国邑にて文武の引立といえば、藩士の面々は書籍も拝借、馬も鉄砲も拝借なり。借用の品を用いて無月謝の教師に就く、これまた大なる便利なり。なかんずく役人の旅費ならびに藩士一般に無利足拝借金歟、または下だされ切りのごときは、現に常禄の外に直接の所得というべし。また藩の諸役所にて公然たる賄賂の沙汰は稀なれども、自から役徳なるものあり。江戸大阪の勤番より携帰る土産の品は、旅費の残にあらざれば所謂役徳を積たるものより外ならず。  俗官汚吏はしばらく擱き、品行正雅の士といえども、この徳沢の範囲を脱せんとするも、実際においてほとんど能すべからざることなり。藩にて廉潔の役人と称し、賄賂役徳をば一切取らずとて、人もこれを信じ自からこれを許す者あれども、町人がこの役人へ安利にて金を貸し、または態と高利にてその金を預り、または元値を損して安物を売る等、様々の手段を用いてこれに近づくときは、役人は知らず識らずして賄賂の甘き穽に陥らざるを得ず。蓋し人として理財商売の考あらざれば、到底その品行を全うすること能わざるものなり。以上枚挙の件々はいずれも皆藩士常禄の他に得るところのものなれども、今日に至てはかかる無名間接の利益あることなし。藩士の困迫する一の原因なり。  第六、上士族は大抵婢僕を使用す。たといこれなきも、主人は勿論、子弟たりとも、自から町に行て物を買う者なし。町の銭湯に入る者なし。戸外に出れば袴を着けて双刀を帯す。夜行は必ず提灯を携え、甚しきは月夜にもこれを携る者あり。なお古風なるは、婦女子の夜行に重大なる箱提灯を僕に持たする者もあり。外に出でて物を買うを賤しむがごとく、物を持つもまた不外聞と思い、剣術道具釣竿の外は、些細の風呂敷包にても手に携うることなし。  下士はよき役を勤て兼て家族の多勢なる家に非ざれば、婢僕を使わず。昼間は町に出でて物を買う者少なけれども、夜は男女の別なく町に出るを常とす。男子は手拭を以て頬冠りし、双刀を帯する者あり、或は一刀なる者あり。或は昼にても、近処の歩行なれば双刀は帯すれども袴を着けず、隣家の往来などには丸腰無刀の ことなるもあり。また宴席、酒酣なるときなどにも、上士が拳を打ち歌舞するは極て稀なれども、下士は各隠し芸なるものを奏して興を助る者多し。これを概するに、上士の風は正雅にして迂闊、下士の風は俚賤にして活溌なる者というべし。その風俗を異にするの証は、言語のなまりまでも相同じからざるものあり。今、旧中津藩地士農商の言語なまりの一、二を示すこと左のごとし。         上士     下士      商       農 見て呉れよと みちくれい  みちくりい  みてくりい   みちぇくりい いうことを 行けよという いきなさい  いきなはい  下士に同じ   下士に同じ ことを           又いきない          又いきなはりい 如何せんかと どをしよをか どをしゆうか どげいしゆうか 商に同じ いうことを                又どをしゆうか  この外、筆にも記しがたき語風の異同は枚挙に遑あらず。故に隔壁にても人の対話を聞けば、その上士たり、下士たり、商たり、農たるの区別は明に知るべし。(風俗を異にす)  右条々のごとく、上下両等の士族は、権利を異にし、骨肉の縁を異にし、貧富を異にし、教育を異にし、理財活計の趣を異にし、風俗習慣を異にする者なれば、自からまたその栄誉の所在も異なり、利害の所関も異ならざるを得ず。栄誉利害を異にすれば、また従て同情相憐むの念も互に厚薄なきを得ず。譬えば、上等の士族が偶然会話の語次にも、以下の者共には言われぬことなれどもこの事は云々、ということあり。下等士族もまた給人分の輩は知らぬことなれども彼の一条は云々、とて、互に竊に疑うこともあり憤ることもありて、多年苦々しき有様なりしかども、天下一般、分を守るの教を重んじ、事々物々秩序を存して動かすべからざるの時勢なれば、ただその時勢に制せられて平生の疑念憤怒を外形に発すること能わず、或は忘るるがごとくにしてこれを発することを知らざりしのみ。  中津の藩政も他藩のごとく専ら分を守らしむるの趣意にして、圧制を旨とし、その精密なることほとんど至らざるところなし。而してその政権はもとより上士に帰することなれば、上士と下士と対するときは、藩法、常に上士に便にして下士に不便ならざるを得ずといえども、金穀会計のことに至ては上士の短所なるを以て、名は役頭または奉行などと称すれども、下役なる下士のために籠絡せらるる者多し。故に上士の常に心を関するところは、尊卑階級のことに在り。この一事においては、往々事情に適せずして有害無益なるものあり。誓えば藩政の改革とて、藩士一般に倹約を命ずることあり。この時、衣服の制限を立るに、何の身分は綿服、何は紬まで、何は羽二重を許すなどと命を出すゆえ、その命令は一藩経済のため歟、衣冠制度のため歟、両様混雑して分明ならず。恰も倹約の幸便に格式りきみをするがごとくにして、綿服の者は常に不平を抱き、到底倹約の永久したることなし。  また今を去ること三十余年、固め番とて非役の徒士に城門の番を命じたることあり。この門番は旧来足軽の職分たりしを、要路の者の考に、足軽は煩務にして徒士は無事なるゆえ、これを代用すべしといい、この考と、また一方には上士と下士との分界をなお明にして下士の首を押えんとの考を交え、その実はこれがため費用を省くにもあらず、武備を盛にするにもあらず、ただ一事無益の好事を企てたるのみ。この一条については下士の議論沸騰したれども、その首魁たる者二、三名の家禄を没入し、これを藩地外に放逐して鎮静を致したり。  これ等の事情を以て、下士の輩は満腹、常に不平なれども、かつてこの不平を洩すべき機会を得ず。その仲間の中にも往々才力に富み品行賤しからざる者なきに非ざれども、かかる人物は、必ず会計書記等の俗役に採用せらるるが故に、一身の利害に忙わしくして、同類一般の事を顧るに遑あらず。非役の輩は固より智力もなく、かつ生計の内職に役せられて、衣食以上のことに心を関するを得ずして日一日を送りしことなるが、二、三十年以来、下士の内職なるもの漸く繁盛を致し、最前はただ杉檜の指物膳箱などを製し、元結の紙糸を捻る等に過ぎざりしもの、次第にその仕事の種類を増し、下駄傘を作る者あり、提灯を張る者あり、或は白木の指物細工に漆を塗てその品位を増す者あり、或は戸障子等を作て本職の大工と巧拙を争う者あり、しかのみならず、近年に至ては手業の外に商売を兼ね、船を造り荷物を仕入れて大阪に渡海せしむる者あり、或は自からその船に乗る者あり。  もとより下士の輩、悉皆商工に従事するには非ざれども、その一部分に行わるれば仲間中の資本は間接に働をなして、些細の余財もいたずらに嚢底に隠るることなく、金の流通忙わしくして利潤もまた少なからず。藩中に商業行わるれば上士もこれを傍観するに非ず、往々竊に資本を卸す者ありといえども、如何せん生来の教育、算筆に疎くして理財の真情を知らざるが故に、下士に依頼して商法を行うも、空しく資本を失うか、しからざればわずかに利潤の糟粕を嘗るのみ。  下士の輩は漸く産を立てて衣食の患を免かるる者多し。すでに衣食を得て寸暇あれば、上士の教育を羨まざるを得ず。ここにおいてか、剣術の道場を開て少年を教る者あり(旧来、徒士以下の者は、居合い、柔術、足軽は、弓、鉄砲、棒の芸を勉るのみにて、槍術、剣術を学ぶ者、甚だ稀なりき)。子弟を学塾に入れ或は他国に遊学せしむる者ありて、文武の風儀にわかに面目を改め、また先きの算筆のみに安んぜざる者多し。ただしその品行の厳と風致の正雅とに至ては、未だ昔日の上士に及ばざるもの尠なからずといえども、概してこれを見れば品行の上進といわざるを得ず。  これに反して上士は古より藩中無敵の好地位を占るが為に、漸次に惰弱に陥るは必然の勢、二、三十年以来、酒を飲み宴を開くの風を生じ(元来飲酒会宴の事は下士に多くして、上士は都て質朴なりき)、殊に徳川の末年、諸侯の妻子を放解して国邑に帰えすの令を出したるとき、江戸定府とて古来江戸の中津藩邸に住居する藩士も中津に移住し、かつこの時には天下多事にして、藩地の士族も頻りに都会の地に往来してその風俗に慣れ、その物品を携えて帰り、中津へ移住する江戸の定府藩士は妻子と共に大都会の軽便流を田舎藩地の中心に排列するの勢なれば、すでに惰弱なる田舎の士族は、あたかもこれに眩惑して、ますます華美軽薄の風に移り、およそ中津にて酒宴遊興の盛なる、古来特にこの時を以て最とす。故に中津の上等士族は、天下多事のために士気を興奮するには非ずして、かえってこれがためにその懶惰不行儀の風を進めたる者というべし。  右のごとく上士の気風は少しく退却の痕を顕わし、下士の力は漸く進歩の路に在り。一方に釁の乗ずべきものあれば、他の一方においてこれを黙せざるもまた自然の勢、これを如何ともすべからず。この時に下士の壮年にして非役なる者(全く非役には非ざれども、藩政の要路に関らざる者なり)数十名、ひそかに相議して、当時執権の家老を害せんとの事を企てたることあり。中津藩においては古来未曾有の大事件、もしこの事をして三十年の前にあらしめなば、即日にその党与を捕縛して遺類なきは疑を容れざるところなれども、如何せん、この時の事勢においてこれを抑制すること能わず、ついに姑息の策に出で、その執政を黜けて一時の人心を慰めたり。二百五十余年、一定不変と名けたる権力に平均を失い、その事実に顕われたるものは、この度の事件をもって始とす。(事は文久三癸亥の年に在り)  この事情に従て維新の際に至り、ますます下士族の権力を逞うすることあらば、或は人物を黜陟し或は禄制を変革し、なお甚しきは所謂要路の因循吏を殺して、当時流行の青面書生が家老参事の地位を占めて得々たるがごとき奇談をも出現すべきはずなるに、中津藩に限りてこの変を見ざりしは、蓋し、また謂れなきに非ず。下等士族の輩が、数年以来教育に心を用るといえども、その教育は悉皆上等士族の風を真似たるものなれば、もとよりその範囲を脱すること能わず。剣術の巧拙を争わん歟、上士の内に剣客甚だ多くして毫も下士の侮を取らず。漢学の深浅を論ぜん歟、下士の勤学は日浅くして、もとより上士の文雅に及ぶべからず。  また下士の内に少しく和学を研究し水戸の学流を悦ぶ者あれども、田舎の和学、田舎の水戸流にして、日本活世界の有様を知らず。すべて中津の士族は他国に出ること少なく他藩人に交ること稀なるを以て、藩外の事情を知るの便なし。故に下等士族が教育を得てその気力を増し、心の底には常に上士を蔑視して憚るところなしといえども、その気力なるものはただ一藩内に養成したる気力にして、所謂世間見ずの田舎者なれば、他藩の例に傚てこれを実地に活用すること能わず。かつその仲間の教育なり年齢なり、また門閥なり、おおよそ一様同等にして抜群の巨魁なきがために、衆力を中心に集めて方向を一にするを得ず。ついに維新の前後より廃藩置県の時に際し今日に至るまで、中津藩に限りて無事静穏なりし由縁なり。もしもこの際に流行の洋学者か、または有力なる勤王家が、藩政を攪擾することあらば、とても今日の旧中津藩は見るべからざるなり。今その然らざるは、これを偶然の幸福、因循の賜というべし。  中津藩はすでにこの偶然の僥倖に由て維新の際に諸藩普通の禍を免かれ、爾後また重ねてこの僥倖を固くしたるものあり。けだしそのこれを固くしたるものとは市学校の設立、すなわちこれなり。明治四年廃藩のころ、中津の旧官員と東京の慶応義塾と商議の上、旧知事の家禄を分ち旧藩の積金と合して洋学の資本となして、中津の旧城下に学校を立ててこれを市学校と名けたり。学校の規則もとより門閥貴賤を問わずと、表向の名に唱るのみならず事実にこの趣意を貫き、設立のその日より釐毫も仮すところなくして、あたかも封建門閥の残夢中に純然たる四民同権の一新世界を開きたるがごとし。  けだし慶応義塾の社員は中津の旧藩士族に出る者多しといえども、従来少しもその藩政に嘴を入れず、旧藩地に何等の事変あるも恬として呉越の観をなしたる者なれば、往々誤て薄情の譏は受るも、藩の事務を妨げその何れの種族に党するなどと評せられたることなし。故にこの市学校を設立するにも、真に旧藩地一般のためにするの事実明白にして、何等の陋眼をもってこれを視るも、上士を先にするというべからず、下士を後にするというべからず、その目的とするところは正しく中津旧藩の格式りきみを制し、これを制了して共に与に日本社会の虚威を圧倒せんとするもののごとくにして、藩士のこの学校に帰すると否とはその自然に任したりしに、士族の上下に別なく漸く学に就く者多く、なかんずく上等士族の有力なる人物にて、その子弟を学校に入るる者も少なからず。  すでに学校に心を帰すれば、門閥の念も同時に断絶してその痕跡を見るべからず。市学校は、あたかも門閥の念慮を測量する試験器というも可なり。(余輩もとより市学校に入らざる者を見て悉皆これを門閥守旧の人というに非ず。近来は市校の他に学校も多ければ、子弟のために適当の場所を選ぶは全く父母の心に存することにして、これがため、敢てその人物を軽重するにはあらざれども、真に市校に心を帰して疑わざる者は、果して門閥の念を断絶する人物なるが故に、本文のごとくこれを証するのみ。)下等士族の輩が上士に対して不平を抱く由縁は、専ら門閥虚威の一事に在て、然もその門閥家の内にて有力者と称する人物に向て敵対の意を抱くことなれども、その好敵手と思う者が首として自から門閥の陋習を脱したるが故に、下士は恰も戦わんと欲して忽ち敵の所在を失うたる者のごとし。敵のためにも、味方のためにも、双方共に無上の幸というべし。故にいわく、市学校は旧中津藩の僥倖を重ねて固くして真の幸福となしたるものなり。  余輩の所見をもって、旧中津藩の沿革を求め、殊に三十年来、余が目撃と記憶に存する事情の変化を察すれば、その大略、前条のごとくにして、たとい僥倖にもせよ、または明に原因あるにもせよ、今日旧藩士族の間に苦情争論の痕跡を見ざるは事実において明白なり。(今年数十名の藩士が脱走して薩に入りたるは、全くその脱走人限りのことにして、爾余の藩士に関係あることなし。)然りといえども、今日の事実かくのごとくにして、果して明日の患なきを期すべきや。これを察せざるべからず。今日の有様を以て事の本位と定め、これより進むものを積極となし、これより退くものを消極となし、余輩をしてその積極を望ましむれば期するところ左のごとし。  すなわち今の事態を維持して、門閥の妄想を払い、上士は下士に対して恰も格式りきみの長座を為さず、昔年のりきみは家を護り面目を保つの楯となり、今日のりきみは身を損じ愚弄を招くの媒たるを知り、早々にその座を切上げて不体裁の跡を収め、下士もまた上士に対して旧怨を思わず、執念深きは婦人の心なり、すでに和するの敵に向うは男子の恥るところ、執念深きに過ぎて進退窮するの愚たるを悟り、興に乗じて深入りの無益たるを知り、双方共にさらりと前世界の古証文に墨を引き、今後期するところは士族に固有する品行の美なるものを存して益これを養い、物を費すの古吾を変じて物を造るの今吾となし、恰も商工の働を取て士族の精神に配合し、心身共に独立して日本国中文明の魁たらんことを期望するなり。  然りといえども、その消極を想像してこれを憂うれば、また憂うべきものなきに非ず。数百年の間、上士は圧制を行い、下士は圧制を受け、今日に至てこれを見れば、甲は借主のごとく乙は貸主のごとくにして、未だ明々白々の差引をなさず。また上士の輩は昔日の門閥を本位に定めて今日の同権を事変と視做し、自からまた下士に向て貸すところあるごとく思うものなれば、双方共に苟も封建の残夢を却掃して精神を高尚の地位に保つこと能わざる者より以下は、到底この貸借の念を絶つこと能わず。現に今日にても士族の仲間が私に集会すれば、その会の席順は旧の禄高または身分に従うというも、他に席順を定むべき目安なければ止むを得ざることなれども、残夢の未だ醒覚せざる証拠なり。或は市中公会等の席にて旧套の門閥流を通用せしめざるは無論なれども、家に帰れば老人の口碑も聞き細君の愚痴も喧しきがために、残夢まさに醒めんとしてまた間眠するの状なきにあらず。これ等の事情をもって考るに、今の成行きにて事変なければ格別なれども、万に一も世間に騒動を生じて、その余波近く旧藩地の隣傍に及ぶこともあらば、旧痾たちまち再発して上士と下士とその方向を異にするのみならず、針小の外因よりして棒大の内患を引起すべきやも図るべからず。  しかのみならず、たといかかる急変なくして尋常の業に従事するも、双方互に利害情感を別にし、工業には力をともにせず、商売には資本を合せず、却て互に相軋轢するの憂なきを期すべからず。これすなわち余輩の所謂消極の禍にして、今の事態の本位よりも一層の幸福を減ずるものなり。けだし人事の憂患、消極の域内に在るの間は、未だその積極を謀るに遑あらざるなり。  今消極の憂を憂てこれを防ぐにもせよ、積極の利を謀てこれを求るにもせよ、旧藩地にて有力なる人物は必ずこれを心配することならん、またこれを心配して実地に従事するについては様々の方便もあらん、また様々の差支もあらん、不如意は人生の常にしてこれを如何ともすべからず。故に余輩の注意するところは、未だ積極に及ばずして先ずその消極の憂を除くの路に進まんと欲するなり。すなわちその路とは他なし、今の学校を次第に盛にすることと、上下士族相互に婚姻するの風を勧ることと、この二箇条のみ。  そもそも海を観る者は河を恐れず、大砲を聞く者は鐘声に驚かず、感応の習慣によって然るものなり。人の心事とその喜憂栄辱との関係もまた斯のごとし。喜憂栄辱は常に心事に従て変化するものにして、その大に変ずるに至ては、昨日の栄として喜びしものも、今日は辱としてこれを憂ることあり。学校の教は人の心事を高尚遠大にして事物の比較をなし、事変の原因と結果とを求めしむるものなれば、一聞一見も人の心事を動かさざるはなし。  地理書を見れば、中津の外に日本あり、日本の外に西洋諸国あるを知るべし。なお進て、天文地質の論を聞けば、大空の茫々、日月星辰の運転に定則あるを知るべし。地皮の層々、幾千万年の天工に成りて、その物質の位置に順序の紊れざるを知るべし。歴史を読めば、中津藩もまたただ徳川時代三百藩の一のみ。徳川はただ日本一島の政権を執りし者のみ。日本の外には亜細亜諸国、西洋諸洲の歴史もほとんど無数にして、その間には古今英雄豪傑の事跡を見るべし。歴山王、ナポレオンの功業を察し、ニウトン、ワット、アダム・スミスの学識を想像すれば、海外に豊太閤なきに非ず、物徂徠も誠に東海の一小先生のみ。わずかに地理歴史の初歩を読むも、その心事はすでに旧套を脱却して高尚ならざるを得ず。いわんや彼の西洋諸大家の理論書を窺い、有形の物理より無形の人事に至るまで、逐一これを比較分解して、事々物々の原因と結果とを探索するにおいてをや。読てその奥に至れば、心事恍爾としてほとんど天外に在るの思をなすべし。この一段に至て、かえりみて世上の事相を観れば、政府も人事の一小区のみ、戦争も群児の戯に異ならず、中津旧藩のごとき、何ぞこれを歯牙に止るに足らん。  彼の御広間の敷居の内外を争い、御目付部屋の御記録に思を焦し、艴然として怒り莞爾として笑いしその有様を回想すれば、正にこれ火打箱の隅に屈伸して一場の夢を見たるのみ。しかのみならず今日に至ては、その御広間もすでに湯屋の薪となり、御記録も疾く紙屑屋の手に渡りたるその後において、なお何物に恋々すべきや。また今の旧下士族が旧上士族に向い、旧時の門閥虚威を咎めてその停滞を今日に洩らさんとするは、空屋の門に立て案内を乞うがごとく、蛇の脱殻を見て捕えんとする者のごとし。いたずらに自から愚を表して他の嘲を買うに過ぎず。すべて今の士族はその身分を落したりとて悲しむ者多けれども、落すにも揚るにも結局物の本位を定めざるの論なり。平民と同格なるはすなわち下落ならんといえども、旧主人なる華族と同席して平伏せざるは昇進なり。下落を嫌わば平民に遠ざかるべし、これを止むる者なし。昇進を願わば華族に交るべし、またこれを妨る者なし。これに遠ざかるもこれに交るも、果してその身に何の軽重を致すべきや。これを是れ知らずして自から心を悩ますは、誤謬の甚しき者というべし。故に有形なる身分の下落昇進に心を関せずして、無形なる士族固有の品行を維持せんこと、余輩の懇々企望するところなり。ただこの際において心事の機を転ずること緊要にして、そのこれを転ずるの器械は、特に学校をもって有力なるものとするが故に、ことさらに藩地徳望の士君子に求め、その共に尽力して学校を盛にせんことを願うなり。  中津の旧藩にて、上下の士族が互に婚姻の好を通ぜざりしは、藩士社会の一大欠典にして、その弊害はほとんど人心の底に根拠して動かすべからざるもののごとし。今日に至ては稀に上下相婚する者もなきに非ざれども、今後ますますこの路を開くべきの勢を見ず。上士の残夢未だ醒めずして陰にこれを忌むものあれば、下士は却てこれを懇望せざるのみならず、士女の別なく、上等の家に育せられたる者は実用に適せず、これと婚姻を通ずるも後日生計の見込なしとて、一概に擯斥する者あり。一方は婚を以て恩徳のごとく心得、一方はその徳を徳とせずしてこれを賤しむの勢なれば、出入の差、甚だ大にして、とても通婚の盛なるべき見込あることなし。  然りといえども、世の中の事物は悉皆先例に傚うものなれば、有力の士は勉めてその魁をなしたきことなり。婚姻はもとより当人の意に従て適不適もあり、また後日生計の見込もなき者と強いて婚すべきには非ざれども、先入するところ、主となりて、良偶を失うの例も少なからず。親戚朋友の注意すべきことなり。一度び互に婚姻すればただ双方両家の好のみならず、親戚の親戚に達して同時に幾家の歓を共にすべし。いわんや子を生み孫を生むに至ては、祖父を共にする者あり、曾祖父を共にする者あり、共に祖先の口碑をともにして、旧藩社会、別に一種の好情帯を生じ、その功能は学校教育の成跡にも万々劣ることなかるべし。 底本:「明治十年丁丑公論・瘠我慢の説」講談社学術文庫、講談社    1985(昭和60)年3月10日第1刷発行    1998(平成10)年2月20日第10刷発行 ※旧字の「與・餘・竊」は、底本のママとしました。 入力:kazuishi 校正:田中哲郎 2006年11月7日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。