露肆 泉鏡花 Guide 扉 本文 目 次 露肆        一  寒くなると、山の手大通りの露店に古着屋の数が殖える。半纏、股引、腹掛、溝から引揚げたようなのを、ぐにゃぐにゃと捩ッつ、巻いつ、洋燈もやっと三分心が黒燻りの影に、よぼよぼした媼さんが、頭からやがて膝の上まで、荒布とも見える襤褸頭巾に包まって、死んだとも言わず、生きたとも言わず、黙って溝のふちに凍り着く見窄らしげな可哀なのもあれば、常店らしく張出した三方へ、絹二子の赤大名、鼠の子持縞という男物の袷羽織。ここらは甲斐絹裏を正札附、ずらりと並べて、正面左右の棚には袖裏の細り赤く見えるのから、浅葱の附紐の着いたのまで、ぎっしりと積上げて、小さな円髷に結った、顔の四角な、肩の肥った、きかぬ気らしい上さんの、黒天鵝絨の襟巻したのが、同じ色の腕までの手袋を嵌めた手に、細い銀煙管を持ちながら、店が違いやす、と澄まして講談本を、ト円心に翳していて、行交う人の風采を、時々、水牛縁の眼鏡の上からじろりと視めるのが、意味ありそうで、この連中には小母御に見えて──  湯帰りに蕎麦で極めたが、この節当もなし、と自分の身体を突掛けものにして、そそって通る、横町の酒屋の御用聞らしいのなぞは、相撲の取的が仕切ったという逃尻の、及腰で、件の赤大名の襟を恐る恐る引張りながら、 「阿母。」  などと敬意を表する。  商売冥利、渡世は出来るもの、商はするもので、五布ばかりの鬱金の風呂敷一枚の店に、襦袢の数々。赤坂だったら奴の肌脱、四谷じゃ六方を蹈みそうな、けばけばしい胴、派手な袖。男もので手さえ通せばそこから着て行かれるまでにして、正札が品により、二分から三両内外まで、膝の周囲にばらりと捌いて、主人はと見れば、上下縞に折目あり。独鈷入の博多の帯に銀鎖を捲いて、きちんと構えた前垂掛。膝で豆算盤五寸ぐらいなのを、ぱちぱちと鳴らしながら、結立ての大円髷、水の垂りそうな、赤い手絡の、容色もまんざらでない女房を引附けているのがある。  時節もので、めりやすの襯衣、めちゃめちゃの大安売、ふらんねる切地の見切物、浜から輸出品の羽二重の手巾、棄直段というのもあり、外套、まんと、古洋服、どれも一式の店さえ八九ヶ所。続いて多い、古道具屋は、あり来りで。近頃古靴を売る事は……長靴は烟突のごとく、すぽんと突立ち、半靴は叱られた体に畏って、ごちゃごちゃと浮世の波に魚の漾う風情がある。  両側はさて軒を並べた居附の商人……大通りの事で、云うまでも無く真中を電車が通る……  夜店は一列片側に並んで出る。……夏の内は、西と東を各晩であるが、秋の中ばからは一月置きになって、大空の星の沈んだ光と、どす赤い灯の影を競いつつ、末は次第に流の淀むように薄く疎にはなるが、やがて町尽れまで断えずに続く……  宵をちと出遅れて、店と店との間へ、脚が極め込みになる卓子や、箱車をそのまま、場所が取れないのに、両方へ、叩頭をして、 「いかがなものでございましょうか、飛んだお邪魔になりましょうが。」 「何、お前さん、お互様です。」 「では一ツ御不省なすって、」 「ええ可うございますともね。だが何ですよ。成たけ両方をゆっくり取るようにしておかないと、当節は喧しいんだからね。距離をその八尺ずつというお達しでさ、御承知でもございましょうがね。」 「ですからなお恐入りますんで、」 「そこにまたお目こぼしがあろうッてもんですよ、まあ、口明をなさいまし。」 「難有う存じます。」  などは毎々の事。        二  この次第で、露店の間は、どうして八尺が五尺も無い。蒟蒻、蒲鉾、八ツ頭、おでん屋の鍋の中、混雑と込合って、食物店は、お馴染のぶっ切飴、今川焼、江戸前取り立ての魚焼、と名告を上げると、目の下八寸の鯛焼と銘を打つ。真似はせずとも可い事を、鱗焼は気味が悪い。  引続いては兵隊饅頭、鶏卵入の滋養麺麭。……かるめら焼のお婆さんは、小さな店に鍋一つ、七つ五つ、孫の数ほど、ちょんぼりと並べて寂しい。  茶めし餡掛、一品料理、一番高い中空の赤行燈は、牛鍋の看板で、一山三銭二銭に鬻ぐ。蜜柑、林檎の水菓子屋が負けじと立てた高張も、人の目に着く手術であろう。  古靴屋の手に靴は穿かぬが、外套を売る女の、釦きらきらと羅紗の筒袖。小間物店の若い娘が、毛糸の手袋嵌めたのも、寒さを凌ぐとは見えないで、広告めくのが可憐らしい。  気取ったのは、一軒、古道具の主人、山高帽。売っても可いそうな肱掛椅子に反身の頬杖。がらくた壇上に張交ぜの二枚屏風、ずんどの銅の花瓶に、からびたコスモスを投込んで、新式な家庭を見せると、隣の同じ道具屋の亭主は、炬燵櫓に、ちょんと乗って、胡坐を小さく、風除けに、葛籠を押立てて、天窓から、その尻まですっぽりと安置に及んで、秘仏はどうだ、と達磨を極めて、寂寞として定に入る。 「や、こいつア洒落てら。」  と往来が讃めて行く。  黒い毛氈の上に、明石、珊瑚、トンボの青玉が、こつこつと寂びた色で、古い物語を偲ばすもあれば、青毛布の上に、指環、鎖、襟飾、燦爛と光を放つ合成金の、新時代を語るもあり。……また合成銀と称えるのを、大阪で発明して銀煙草を並べて売る。 「諸君、二円五十銭じゃ言うたんじゃ、可えか、諸君、熊手屋が。露店の売品の値価にしては、いささか高値じゃ思わるるじゃろうが、西洋の話じゃ、で、分るじゃろう。二円五十銭、可えか、諸君。」  と重なり合った人群集の中に、足許の溝の縁に、馬乗提灯を動き出しそうに据えたばかり。店も何も無いのが、額を仰向けにして、大口を開いて喋る……この学生風な五ツ紋は商人ではなかった。  ここらへ顔出しをせねばならぬ、救世軍とか云える人物。 「そこでじゃ諸君、可えか、その熊手の値を聞いた海軍の水兵君が言わるるには、可、熊手屋、二円五十銭は分った、しかしながらじゃな、ここに持合わせの銭が五十銭ほか無い。すなわちこの五十銭を置いて行く。直ぐに後金の二円を持って来るから受取っておいてくれい。熊手は預けて行くぞ、誰も他のものに売らんようになあ、と云われましたが、諸君。  手附を受取って物品を預っておくんじゃからあ、」 と俯向いて、唾を吐いて、 「じゃから諸君、誰にしても異存はあるまい。宜しゅうございます。行っていらっしゃいと云うて、その金子を請取ったんじゃ、可えか、諸君。ところでじゃ、約束通りに、あとの二円を持って、直ぐにその熊手を取りに来れば何事もありませんぞ。  そうら、それが遣って来ん、来んのじゃ諸君、一時間経ち、二時間経ち、十二時が過ぎ、半が過ぎ、どうじゃ諸君、やがて一時頃まで遣って来んぞ。  他の露店は皆仕舞うたんじゃ。それで無うてから既に露店の許された時間は経過して、僅に巡行の警官が見て見ぬ振という特別の慈悲を便りに、ぼんやりと寂しい街路の霧になって行くのを視めて、鼻の尖を冷たくして待っておったぞ。  処へ、てくりてくり、」  と両腕を奮んで振って、ずぼん下の脚を上げたり、下げたり。 「向うから遣って来たものがある、誰じゃろうか諸君、熊手屋の待っておる水兵じゃろうか。その水兵ならばじゃ、何事も別に話は起らんのじゃ、諸君。しかるに世間というものはここが話じゃ、今来たのは一名の立派な紳士じゃ、夜会の帰りかとも思われる、何分か酔うてのう。」        三 「皆さん、申すまでもありませんが、お家で大切なのは火の用心でありまして、その火の用心と申す中にも、一番危険なのが洋燈であります。なぜ危い。お話しをするまでもありません、過失って取落しまする際に、火の消えませんのが、壺の、この、」  と目通りで、真鍮の壺をコツコツと叩く指が、掌掛けて、油煙で真黒。  頭髪を長くして、きちんと分けて、額にふらふらと捌いた、女難なきにしもあらずなのが、渡世となれば是非も無い。 「石油が待てしばしもなく、𤏋と燃え移るから起るのであります。御覧なさいまし、大阪の大火、青森の大火、御承知でありましょう、失火の原因は、皆この洋燈の墜落から転動(と妙な対句で)を起しまする。その危険な事は、硝子壺も真鍮壺も決して差別はありません。と申すが、唯今もお話しました通り、火が消えないからであります。そこで、手前商いまするのは、ラジーンと申して、金山鉱山におきまして金を溶かしまする処の、炉壺にいたしまするのを使って製造いたしました、口金の保助器は内務省お届済みの専売特許品、御使用の方法は唯今お目に懸けまするが、安全口金、一名火事知らずと申しまして、」 「何だ、何だ。」  と立合いの肩へ遠慮なく、唇の厚い、真赤な顔を、ぬい、と出して、はたと睨んで、酔眼をとろりと据える。 「うむ、火事知らずか、何を、」と喧嘩腰に力を入れて、もう一息押出しながら、 「焼けたら水を打懸けろい、げい。」  と噯をするかと思うと、印半纏の肩を聳やかして、のッと行く。新姐子がばらばらと避けて通す。  と嶮な目をちょっと見据えて、 「ああいう親方が火元になります。」と苦笑。  昔から大道店に、酔払いは附いたもので、お職人親方手合の、そうしたのは有触れたが、長外套に茶の中折、髭の生えた立派なのが居る。  辻に黒山を築いた、が北風の通す、寒い背後から藪を押分けるように、杖で背伸びをして、 「踊っとるは誰じゃ、何しとるかい。」 「へい、面白ずくに踊ってるじゃござりません。唯今、鼻紙で切りました骸骨を踊らせておりますんで、へい、」 「何じゃ、骸骨が、踊を踊る。」  どたどたと立合の背に凭懸って、 「手品か、うむ、手品を売りよるじゃな。」 「へい、八通りばかり認めてござりやす、へい。」 「うむ、八通り、この通か、はッはッ、」と変哲もなく、洒落のめして、 「どうじゃ五厘も投げてやるか。」 「ええ、投銭、お手の内は頂きやせん、材あかしの本を売るのでげす、お求め下さいやし。」 「ふむ……投銭は謝絶する、見識じゃな、本は幾干だ。」 「五銭、」 「何、」 「へい、お立合にも申しておりやす。へい、ええ、ことの外音声を痛めておりやすんで、お聞苦しゅう、……へい、お極りは五銅の処、御愛嬌に割引をいたしやす、三銭でございやす。」 「高い!」  と喝って、 「手品屋、負けろ。」 「毛頭、お掛値はございやせん。宜しくばお求め下さいやし、三銭でごぜいやす。」 「一銭にせい、一銭じゃ。」 「あッあ、推量々々。」と対手にならず、人の環の底に掠れた声、地の下にて踊るよう。 「お次は相場の当る法、弁ずるまでもありませんよ。……我人ともに年中螻では不可ません、一攫千金、お茶の子の朝飯前という……次は、」  と細字に認めた行燈をくるりと廻す。綱が禁札、ト捧げた体で、芳原被りの若いもの。別に絣の羽織を着たのが、板本を抱えて彳む。 「諸人に好かれる法、嫌われぬ法も一所ですな、愛嬌のお守という条目。無銭で米の買える法、火なくして暖まる法、飲まずに酔う法、歩行かずに道中する法、天に昇る法、色を白くする法、婦の惚れる法。」        四 「お痛え、痛え、」  尾を撮んで、にょろりと引立てると、青黒い背筋が畝って、びくりと鎌首を擡げる発奮に、手術服という白いのを被ったのが、手を振って、飛上る。 「ええ驚いた、蛇が啖い着くです──だが、諸君、こんなことでは無い。……この木製の蛇が、僕の手練に依って、不可思議なる種々の運動を起すです。急がない人は立って見て行きたまえよ、奇々妙々感心というのだから。  だが、諸君、だがね、僕は手品師では無いのだよ。蛇使いではないのですが、こんな処じゃ、誰も衛生という事を心得ん。生命が大切という事を弁別えておらん人ばかりだから、そこで木製の蛇の運動を起すのを見て行きたまえと云うんだ。歯の事なんか言って聞かしても、どの道分りはせんのだから、無駄だからね、無駄な話だから決して売ろうとは云わんです。売らんのだから買わんでも宜しい。見て行きたまえ。見物をしてお出でなさい。今、運動を起す、一分間にして暴れ出す。  だが諸君、だがね諸君、歯磨にも種々ある。花王歯磨、ライオン象印、クラブ梅香散……ざっと算えた処で五十種以上に及ぶです。だが、諸君、言ったって無駄だ、どうせ買いはしまい、僕も売る気は無い、こんな処じゃ分るものは無いのだから、売りやせん、売りやせんから木製の蛇の活動を見て行きたまえ。」  と青い帽子をずぼらに被って、目をぎろぎろと光らせながら、憎体な口振で、歯磨を売る。  二三軒隣では、人品骨柄、天晴、黒縮緬の羽織でも着せたいのが、悲愴なる声を揚げて、殆ど歎願に及ぶ。 「どうぞ、お試し下さい、ねえ、是非一回御試験が仰ぎたい。口中に熱あり、歯の浮く御仁、歯齦の弛んだお人、お立合の中に、もしや万一です。口の臭い、舌の粘々するお方がありましたら、ここに出しておきます、この芳口剤で一度漱をして下さい。」  と一口がぶりと遣って、悵然として仰反るばかりに星を仰ぎ、頭髪を、ふらりと掉って、ぶらぶらと地へ吐き、立直ると胸を張って、これも白衣の上衣兜から、綺麗な手巾を出して、口のまわりを拭いて、ト恍惚とする。 「爽かに清き事、」  と黄色い更紗の卓子掛を、しなやかな指で弾いて、 「何とも譬えようがありません。ただ一分間、一口含みまして、二三度、口中を漱ぎますと、歯磨楊枝を持ちまして、ものの三十分使いまするより、遥かに快くなるのであります。口中には限りません。精神の清く爽かになりますに従うて、頭痛などもたちどころに治ります。どうぞ、お試し下さい、口は禍の門、諸病は口からと申すではありませんか、歯は大事にして下さい、口は綺麗にして下さいまし、ねえ、私が願います、どうぞ諸君。」 「この砥石が一挺ありましたらあ、今までのよに、盥じゃあ、湯水じゃあとウ、騒ぐにはア及びませぬウ。お座敷のウ真中でもウ、お机、卓子台の上エでなりとウ、ただ、こいに遣って、すぅいすぅいと擦りますウばかりイイイ。菜切庖丁、刺身庖丁ウ、向ウへ向ウへとウ、十一二度、十二三度、裏を返しまして、黒い色のウ細い砥ウ持イましてエ、柔こう、すいと一二度ウ、二三度ウ、撫るウ撫るウばかりイ、このウ菜切庖丁が、面白いようにイ切まあすウる、切れまあすウる。こいに、こいに、さッくりさッくり横紙が切れますようなら、当分のウ内イ、誰方様のウお邸でもウ、切ものに御不自由はございませぬウ。このウ細い方一挺がア、定価は五銭のウ処ウ、特別のウ割引イでエ、粗のと二ツ一所に、名倉の欠を添えまして、三銭、三銭でエ差上げますウ、剪刀、剃刀磨にイ、一度ウ磨がせましても、二銭とウ三銭とは右から左イ……」  と賽の目に切った紙片を、膝にも敷物にもぱらぱらと夜風に散らして、縞の筒袖凜々しいのを衝と張って、菜切庖丁に金剛砂の花骨牌ほどな砥を当てながら、余り仰向いては人を見ぬ、包ましやかな毛糸の襟巻、頬の細いも人柄で、大道店の息子株。  押並んで、めくら縞の襟の剥げた、袖に横撫のあとの光る、同じ紺のだふだふとした前垂を首から下げて、千草色の半股引、膝のよじれたのを捻って穿いて、ずんぐりむっくりと肥ったのが、日和下駄で突立って、いけずな忰が、三徳用大根皮剥、というのを喚く。        五  その鯉口の両肱を突張り、手尖を八ツ口へ突込んで、頸を襟へ、もぞもぞと擦附けながら、 「小母さん、買ってくんねえ、小父的買いねえな。千六本に、おなますに、皮剥と一所に出来らあ。内が製造元だから安いんだぜ。大小あらあ。大が五銭で小が三銭だ。皮剥一ツ買ったってお前、三銭はするぜ、買っとくんねえ、あ、あ、あ、」  と引捻れた四角な口を、額まで闊と開けて、猪首を附元まで窘める、と見ると、仰状に大欠伸。余り度外れなのに、自分から吃驚して、 「はっ、」と、突掛る八ツ口の手を引張出して、握拳で口の端をポン、と蓋をする、トほっと真白な息を大きく吹出す……  いや、順に並んだ、立ったり居たり、凸凹としたどの店も、同じように息が白い。むらむらと沈んだ、燻った、その癖、師走空に澄透って、蒼白い陰気な灯の前を、ちらりちらりと冷たい魂が徜徉う姿で、耄碌頭布の皺から、押立てた古服の襟許から、汚れた襟巻の襞襀の中から、朦朧と顕れて、揺れる火影に入乱れる処を、ブンブンと唸って来て、大路の電車が風を立てつつ、颯と引攫って、チリチリと紫に光って消える。  とどの顔も白茶けた、影の薄い、衣服前垂の汚目ばかり火影に目立って、煤びた羅漢の、トボンとした、寂しい、濁った形が溝端にばらばらと残る。  こんな時は、時々ばったりと往来が途絶えて、その時々、対合った居附の店の電燈瓦斯の晃々とした中に、小僧の形や、帳場の主人、火鉢の前の女房などが、絵草子の裏、硝子の中、中でも鮮麗なのは、軒に飾った紅入友染の影に、くっきりと顕れる。  露店は茫として霧に沈む。  たちまち、ふらふらと黒い影が往来へ湧いて出る。その姿が、毛氈の赤い色、毛布の青い色、風呂敷の黄色いの、寂しい媼さんの鼠色まで、フト判然と凄い星の下に、漆のような夜の中に、淡い彩して顕れると、商人連はワヤワヤと動き出して、牛鍋の唐紅も、飜然と揺ぎ、おでん屋の屋台もかッと気競が出て、白気濃やかに狼煙を揚げる。翼の鈍い、大きな蝙蝠のように地摺に飛んで所を定めぬ、煎豆屋の荷に、糸のような火花が走って、 「豆や、煎豆、煎立豆や、柔い豆や。」  と高らかに冴えて、思いもつかぬ遠くの辻のあたりに聞える。  また一時、がやがやと口上があちこちにはじまるのである。  が、次第に引潮が早くなって、──やっと柵にかかった海草のように、土方の手に引摺られた古股引を、はずすまじとて、媼さんが曲った腰をむずむずと動かして、溝の上へ膝を摺出す、その効なく……博多の帯を引掴みながら、素見を追懸けた亭主が、値が出来ないで舌打をして引返す……煙草入に引懸っただぼ鯊を、鳥の毛の采配で釣ろうと構えて、ストンと外した玉屋の爺様が、餌箱を検べる体に、財布を覗いて鬱ぎ込む、歯磨屋の卓子の上に、お試用に掬出した粉が白く散って、売るものの鰌髯にも薄り霜を置く──初夜過ぎになると、その一時々々、大道店の灯筋を、霧で押伏せらるる間が次第に間近になって、盛返す景気がその毎に、遅く重っくるしくなって来る。  ずらりと見渡した皆がしょんぼりする。  勿論、電燈の前、瓦斯の背後のも、寝る前の起居が忙しい。  分けても、真白な油紙の上へ、見た目も寒い、千六本を心太のように引散らして、ずぶ濡の露が、途切れ途切れにぽたぽたと足を打って、溝縁に凍りついた大根剥の忰が、今度は堪らなそうに、凍んだ両手をぶるぶると唇へ押当てて、貧乏揺ぎを忙しくしながら、 「あ、あ、」  とまた大欠伸をして、むらむらと白い息を吹出すと、筒抜けた大声で、 「大福が食いてえなッ。」        六 「大福餅が食べたいとさ、は、は、は、」  と直きその傍に店を出した、二分心の下で手許暗く、小楊枝を削っていた、人柄なだけ、可憐らしい女隠居が、黒い頭巾の中から、隣を振向いて、掠れ掠れ笑って言う。  その隣の露店は、京染正紺請合とある足袋の裏を白く飜して、ほしほしと並べた三十ぐらいの女房で、中がちょいと隔っただけ、三徳用の言った事が大道でぼやけて分らず……但し吃驚するほどの大音であったので、耳を立てて聞合わせたものであった。  会得が行くとさも無い事だけ、おかしくなったものらしい。 「大福を……ほほほ、」と笑う。  とその隣が古本屋で、行火の上へ、髯の伸びた痩せた頤を乗せて、平たく蹲った病人らしい陰気な男が、釣込まれたやら、 「ふふふ、」  と寂しく笑う。  続いたのが、例の高張を揚げた威勢の可い、水菓子屋、向顱巻の結び目を、山から飛んで来た、と押立てたのが、仰向けに反を打って、呵々と笑出す。次へ、それから、引続いて──一品料理の天幕張の中などは、居合わせた、客交じりに、わはわはと笑を揺る。年内の御重宝九星売が、恵方の方へ突伏して、けたけたと堪らなそうに噴飯したれば、苦虫と呼ばれた歯磨屋が、うンふンと鼻で笑う。声が一所で、同音に、もぐらもちが昇天しようと、水道の鉄管を躍り抜けそうな響きで、片側一条、夜が鳴って、哄と云う。時ならぬに、木の葉が散って、霧の海に不知火と見える灯の間を白く飛ぶ。  なごりに煎豆屋が、かッと笑う、と遠くで凄まじく犬が吠えた。  軒の辺を通魔がしたのであろう。  北へも響いて、町尽の方へワッと抜けた。  時に片頬笑みさえ、口許に莞爾ともしない艶なのが、露店を守って一人居た。  縦通から横通りへ、電車の交叉点を、その町尽れの方へ下ると、人も店も、灯の影も薄く歯の抜けたような、間々を冷い風が渡る癖に、店を一ツ一ツ一重ながら、茫と渦を巻いたような霧で包む。同じ燻ぶった洋燈も、人の目鼻立ち、眉も、青、赤、鼠色の地の敷物ながら、さながら鶏卵の裡のように、渾沌として、ふうわり街燈の薄い影に映る。が、枯れた柳の細い枝は、幹に行燈を点けられたより、かえってこの中に、処々すっきりと、星に蒼く、風に白い。  その根に、茣蓙を一枚の店に坐ったのが、件の婦で。  年紀は六七……三十にまず近い。姿も顔も窶れたから、ちと老けて見えるのであろうも知れぬ。綿らしいが、銘仙縞の羽織を、なよなよとある肩に細く着て、同じ縞物の膝を薄く、無地ほどに細い縞の、これだけはお召らしいが、透切れのした前垂を〆めて、昼夜帯の胸ばかり、浅葱の鹿子の下〆なりに、乳の下あたり膨りとしたのは、鼻紙も財布も一所に突込んだものらしい。  ざっと一昔は風情だった、肩掛というのを四つばかりに畳んで敷いた。それを、褄は深いほど玉は冷たそうな、膝の上へ掛けたら、と思うが、察するに上へは出せぬ寸断の継填らしい。火鉢も無ければ、行火もなしに、霜の素膚は堪えられまい。  黒繻子の襟も白く透く。  油気も無く擦切るばかりの夜嵐にばさついたが、艶のある薄手な丸髷がッくりと、焦茶色の絹のふらしてんの襟巻。房の切れた、男物らしいのを細く巻いたが、左の袖口を、ト乳の上へしょんぼりと捲き込んだ袂の下に、利休形の煙草入の、裏の緋塩瀬ばかりが色めく、がそれも褪せた。  生際の曇った影が、瞼へ映して、面長なが、さして瘠せても見えぬ。鼻筋のすっと通ったを、横に掠めて後毛をさらりと掛けつつ、ものうげに払いもせず……切の長い、睫の濃いのを伏目になって、上気して乾くらしい唇に、吹矢の筒を、ちょいと含んで、片手で持添えた雪のような肱を搦む、唐縮緬の筒袖のへりを取った、継合わせもののその、緋鹿子の媚かしさ。        七  三枚ばかり附木の表へ、(一くみ)も仮名で書き、(二せん)も仮名で記して、前に並べて、きざ柿の熟したのが、こつこつと揃ったような、昔は螺が尼になる、これは紅茸の悟を開いて、ころりと参った張子の達磨。  目ばかり黒い、けばけばしく真赤な禅入を、木兎引の木兎、で三寸ばかりの天目台、すくすくとある上へ、大は小児の握拳、小さいのは団栗ぐらいな処まで、ずらりと乗せたのを、その俯目に、ト狙いながら、件の吹矢筒で、フッ。  カタリといって、発奮もなく引くりかえって、軽く転がる。その次のをフッ、カタリと飜る。続いてフッ、カタリと下へ。フッフッ、カタカタカタと毛を吹くばかりの呼吸づかいに連れて、五つ七つたちどころに、パッパッと石鹸玉が消えるように、上手にでんぐり、くるりと落ちる。  落ちると、片端から一ツ一ツ、順々にまた並べて、初手からフッと吹いて、カタリといわせる。……同じ事を、絶えず休まずに繰返して、この玩弄物を売るのであるが、玉章もなし口上もなしで、ツンとしたように黙っているので。  霧の中に笑の虹が、溌と渡った時も、独り莞爾ともせず、傍目も触らず、同じようにフッと吹く。  カタリと転がる。 「大福、大福、大福かい。」  とちと粘って訛のある、ギリギリと勘走った高い声で、亀裂を入らせるように霧の中をちょこちょこ走りで、玩弄物屋の婦の背後へ、ぬっと、鼠の中折を目深に、領首を覗いて、橙色の背広を着、小造りなのが立ったと思うと、 「大福餅、暖い!」  また疳走った声の下、ちょいと蹲む、と疾い事、筒服の膝をとんと揃えて、横から当って、婦の前垂に附着くや否や、両方の衣兜へ両手を突込んで、四角い肩して、一ふり、ぐいと首を振ると、ぴんと反らした鼻の下の髯とともに、砂除けの素通し、ちょんぼりした可愛い目をくるりと遣ったが、ひょんな顔。  ……というものは、その、 「……暖い!……」を機会に、行火の箱火鉢の蒲団の下へ、潜込ましたと早合点の膝小僧が、すぽりと気が抜けて、二ツ、ちょこなんと揃って、灯に照れたからである。  橙背広のこの紳士は、通り掛りの一杯機嫌の素見客でも何でもない。冷かし数の子の数には漏れず、格子から降るという長い煙草に縁のある、煙草の脂留、新発明螺旋仕懸ニッケル製の、巻莨の吸口を売る、気軽な人物。  自から称して技師と云う。  で、衆を立たせて、使用法を弁ずる時は、こんな軽々しい態度のものではない。  下目づかいに、晃々と眼鏡を光らせ、額で睨んで、帽子を目深に、さも歴々が忍びの体。冷々然として落着き澄まして、咳さえ高うはせず、そのニコチンの害を説いて、一吸の巻莨から生ずる多量の沈澱物をもって混濁した、恐るべき液体をアセチリンの蒼光に翳して、屹と試験管を示す時のごときは、何某の教授が理化学の講座へ立揚ったごとく、風采四辺を払う。  そこで、公衆は、ただ僅に硝子の管へ煙草を吹込んで、びくびくと遣ると水が濁るばかりだけれども、技師の態度と、その口上のぱきぱきとするのに、ニコチンの毒の恐るべきを知って、戦慄に及んで、五割引が盛に売れる。  なかなかどうして、歯科散が試験薬を用いて、立合の口中黄色い歯から拭取った口塩から、たちどころに、黴菌を躍らして見せるどころの比ではない。  よく売れるから、益々得意で、澄まし返って説明する。  が、夜がやや深く、人影の薄くなったこうした時が、技師大得意の節で。今まで嚔を堪えたように、むずむずと身震いを一つすると、固くなっていた卓子の前から、早くもがらりと体を砕いて、飛上るように衝と腰を軽く、突然ひょいと隣のおでん屋へ入って、煮込を一串引攫う。  こいつを、フッフッと吹きながら、すぺりと古道具屋の天窓を撫でるかと思うと、次へ飛んで、あの涅槃に入ったような、風除葛籠をぐらぐら揺ぶる。        八  その時きゃっきゃっと高笑、靴をぱかぱかと傍へ外れて、どの店と見当を着けるでも無く、脊を屈めて蹲った婆さんの背後へちょいと踞んで、 「寒いですね。」  と声を掛けて、トントンと肩を叩いてやったもので。 「きゃっきゃっ、」とまた笑うて、横歩行きにすらすらすら、で、居合わす、古女房の背をドンと啖わす。突然、年増の行火の中へ、諸膝を突込んで、けろりとして、娑婆を見物、という澄ました顔付で、当っている。  露店中の愛嬌もので、総籬の柳縹さん。  すなわちまた、その伝で、大福暖いと、向う見ずに遣った処、手遊屋の婦は、腰のまわりに火の気が無いので、膝が露出しに大道へ、茣蓙の薄霜に間拍子も無く並んだのである。  橙色の柳縹子、気の抜けた肩を窄めて、ト一つ、大きな達磨を眼鏡でぎらり。  婦は澄ましてフッと吹く……カタリ……  はッと頤を引く間も無く、カタカタカタと残らず落ちると、直ぐに、そのへりの赤い筒袖の細い雪で、一ツ一ツ拾って並べる。 「堪らんですね、寒いですな、」  と髯を捻った。が、大きに照れた風が見える。  斜違にこれを視めて、前歯の金をニヤニヤと笑ったのは、総髪の大きな頭に、黒の中山高を堅く嵌めた、色の赤い、額に畝々と筋のある、頬骨の高い、大顔の役人風。迫った太い眉に、大い眼鏡で、胡麻塩髯を貯えた、頤の尖った、背のずんぐりと高いのが、絣の綿入羽織を長く着て、霜降のめりやすを太く着込んだ巌丈な腕を、客商売とて袖口へ引込めた、その手に一条の竹の鞭を取って、バタバタと叩いて、三州は岡崎、備後は尾ノ道、肥後は熊本の刻煙草を指示す…… 「内務省は煙草専売局、印紙御貼用済。味は至極可えで、喫んで見た上で買いなさい。大阪は安井銀行、第三蔵庫の担保品。今度、同銀行蔵掃除について払下げに相成ったを、当商会において一手販売をする、抵当流れの安価な煙草じゃ、喫んで芳ゅう、香味、口中に遍うしてしかしてそのいささかも脂が無い。私は痰持じゃが、」  と空咳を三ツばかり、小さくして、竹の鞭を袖へ引込め、 「この煙草を用いてから、とんと悩みを忘れた。がじゃ、荒くとも脂がありとも、ただ強いのを望むという人には決してこの煙草は向かぬぞ。香味あって脂が無い、抵当流れの刻はどうじゃ。」  と太い声して、ちと充血した大きな瞳をぎょろりと遣る。その風采、高利を借りた覚えがあると、天窓から水を浴びそうなが、思いの外、温厚な柔和な君子で。  店の透いた時は、そこらの小児をつかまえて、 「あ、然じゃでの、」などと役人口調で、眼鏡の下に、一杯の皺を寄せて、髯の上を撫で下げ撫で下げ、滑稽けた話をして喜ばせる。その小父さんが、 「いや、若いもの。」  という顔色で、竹の鞭を、ト笏に取って、尖を握って捻向きながら、帽子の下に暗い額で、髯の白いに、金が顕な北叟笑。  附穂なさに振返った技師は、これを知ってなお照れた。 「今に御覧じろ。」  と遠灯の目ばたきをしながら、揃えた膝をむくむくと揺って、 「何て、寒いでしょう。おお寒い。」  と金切声を出して、ぐたりと左の肩へ寄凭る、……体の重量が、他愛ない、暖簾の相撲で、ふわりと外れて、ぐたりと膝の崩れる時、ぶるぶると震えて、堅くなったも道理こそ、半纏の上から触っても知れた。  げっそり懐手をしてちょいとも出さない、すらりと下った左の、その袖は、何も支えぬ、婦は片手が無いのであった。        九  もうこの時分には、そちこちで、徐々店を片附けはじめる。まだ九時ちっと廻ったばかりだけれども、師走の宵は、夏の頃の十二時過ぎより帰途を急ぐ。  で、処々、張出しが除れる、傘が窄まる、その上に冷い星が光を放って、ふっふっと洋燈が消える。突張りの白木の柱が、すくすくと夜風に細って、積んだ棚が、がたがた崩れる。その中へ、炬燵が化けて歩行き出した体に、むっくりと、大きな風呂敷包を背負った形が糶上る。消え残った灯の前に、霜に焼けた脚が赤く見える。  中には荷車が迎に来る、自転車を引出すのもある。年寄には孫、女房にはその亭主が、どの店にも一人二人、人数が殖えるのは、よりよりに家から片附けに来る手伝、……とそればかりでは無い。思い思いに気の合ったのが、帰際の世間話、景気の沙汰が主なるもので、 「相変らず不可ますまい、そう云っちゃ失礼ですが。」 「いえ、思ったより、昨夜よりはちっと増ですよ。」 「また私どもと来た日にゃ、お話になりません。」 「御多分には漏れませんな。」 「もう休もうかと思いますがね、それでも出つけますとね、一晩でも何だか皆さんの顔を見ないじゃ気寂しくって寝られません。……無駄と知りながら出て来ます、へい、油費えでさ。」  と一処に団まるから、どの店も敷物の色ばかりで、枯野に乾した襁褓の光景、七星の天暗くして、幹枝盤上に霜深し。  まだ突立ったままで、誰も人の立たぬ店の寂しい灯先に、長煙草を、と横に取って細いぼろ切れを引掛けて、のろのろと取ったり引いたり、脂通しの針線に黒く畝って搦むのが、かかる折から、歯磨屋の木蛇の運動より凄いのであった。  時に、手遊屋の冷かに艶なのは、 「寒い。」と技師が寄凭って、片手の無いのに慄然としたらしいその途端に、吹矢筒を密と置いて、ただそれだけ使う、右の手を、すっと内懐へ入れると、繻子の帯がきりりと動いた。そのまま、茄子の挫げたような、褪せたが、紫色の小さな懐炉を取って、黙って衝と技師の胸に差出したのである。  寒くば貸そう、というのであろう。……  挙動の唐突なその上に、またちらりと見た、緋鹿子の筒袖の細いへりが、無い方の腕の切口に、べとりと血が染んだ時の状を目前に浮べて、ぎょっとした。  どうやら、片手無い、その切口が、茶袋の口を糸でしめたように想われるのである。 「それには及ばんですよ、ええ、何の、御新姐。」と面啖って我知らず口走って、ニコチンの毒を説く時のような真面目な態度になって、衣兜に手を突込んで、肩をもそもそと揺って、筒服の膝を不状に膨らましたなりで、のそりと立上ったが、忽ちキリキリとした声を出した。 「嫁娶々々!」  長提灯の新しい影で、すっすと、真新しい足袋を照らして、紺地へ朱で、日の出を染めた、印半纏の揃衣を着たのが二十四五人、前途に松原があるように、背のその日の出を揃えて、線路際を静に練る……  結構そうなお爺さんの黒紋着、意地の悪そうな婆さんの黄色い襟も交ったが、男女合わせて十四五人、いずれも俥で、星も晴々と母衣を刎ねた、中に一台、母衣を懸けたのが当の夜の縁女であろう。  黒小袖の肩を円く、但し引緊めるばかり両袖で胸を抱いた、真白な襟を長く、のめるように俯向いて、今時は珍らしい、朱鷺色の角隠に花笄、櫛ばかりでも頭は重そう。ちらりと紅の透る、白襟を襲ねた端に、一筋キラキラと時計の黄金鎖が輝いた。  上が身を堅く花嫁の重いほど、乗せた車夫は始末のならぬ容体なり。妙な処へ楫を極めて、曳据えるのが、がくりとなって、ぐるぐると磨骨の波を打つ。        十  露店の目は、言合わせたように、きょときょとと夢に辿る、この桃の下路を行くような行列に集まった。  婦もちょいと振向いて、(大道商人は、いずれも、電車を背後にしている)蓬莱を額に飾った、その石のような姿を見たが、衝と向をかえて、そこへ出した懐炉に手を触って、上手に、片手でカチンと開けて、熟と俯向いて、灰を吹きつつ、 「無駄だねえ。」  と清い声、冷かなものであった。 「弘法大師御夢想のお灸であすソ、利きますソ。」  と寝惚けたように云うと斉しく、これも嫁入を恍惚視めて、あたかもその前に立合わせた、つい居廻りで湯帰りらしい、島田の乱れた、濡手拭を下げた娘の裾へ、やにわに一束の線香を押着けたのは、あるが中にも、幻のような坊様で。  つくねんとして、一人、影法師のように、びょろりとした黒紬の間伸びた被布を着て、白髪の毛入道に、ぐたりとした真綿の帽子。扁平く、薄く、しかも大ぶりな耳へ垂らして、環珠数を掛けた、鼻の長い、頤のこけた、小鼻と目が窪んで、飛出した形の八の字眉。大きな口の下唇を反らして、かッくりと抜衣紋。長々と力なげに手を伸ばして、かじかんだ膝を抱えていたのが、フト思出した途端に、居合わせた娘の姿を、男とも女とも弁別える隙なく、馴れてぐんなりと手の伸びるままに、細々と煙の立つ、その線香を押着けたものであろう。  この坊様は、人さえ見ると、向脛なり踵なり、肩なり背なり、燻ぼった鼻紙を当てて、その上から線香を押当てながら、 「おだだ、おだだ、だだだぶだぶ、」と、歯の無い口でむぐむぐと唱えて、 「それ、利くであしょ、ここで点えるは施行じゃいの。艾入らずであす。熱うもあすまいがの。それ利くであしょ。利いたりゃ、利いたら、しょなしょなと消しておいて、また使うであすソ。それ利くであしょ。」と嘗め廻す体に、足許なんぞじろじろと見て商う。高野山秘法の名灸。  やにわに長い手を伸ばされて、はっと後しざりをする、娘の駒下駄、靴やら冷飯やら、つい目が疎いかして見分けも無い、退く端の褄を、ぐいと引いて、 「御夢想のお灸であすソ、施行じゃいの。」  と鯰が這うように黒被布の背を乗出して、じりじりと灸を押着けたもの、堪ろうか。 「あれえ、」  と叫んで、ついと退く、ト脛が白く、横町の暗に消えた。  坊様、眉も綿頭巾も、一緒くたに天を仰いで、長い顔で、きょとんとした。 「や、いささかお灸でしたね、きゃッ、きゃッ、」  と笑うて、技師はこれを機会に、殷鑑遠からず、と少しく窘んで、浮足の靴ポカポカ、ばらばらと乱れた露店の暗い方を。……  さてここに、膃肭臍を鬻ぐ一漢子!  板のごとくに硬い、黒の筒袖の長外套を、痩せた身体に、爪尖まで引掛けて、耳のあたりに襟を立てた。帽子は被らず、頭髪を蓬々と抓み棄てたが、目鼻立の凜々しい、頬は窶れたが、屈強な壮佼。  渋色の逞しき手に、赤錆ついた大出刃を不器用に引握って、裸体の婦の胴中を切放して燻したような、赤肉と黒の皮と、ずたずたに、血筋を縢った中に、骨の薄く見える、やがて一抱もあろう……頭と尾ごと、丸漬にした膃肭臍を三頭。縦に、横に、仰向けに、胴油紙の上に乗せた。  正面の肋のあたりを、庖丁の背でびたびたと叩いて、 「世間ではですわ、めっとせいはあるが、膃肭臍は無い、と云うたりするものがあるですが、めっとせいにも膃肭臍にも、ほんとのもんは少いですが。」  無骨な口で、 「船に乗っとるもんでもが……現在、膃肭臍を漁った処で、それが膃肭臍、めっとせいという区別は着かんもんで。  世間で云うめっとせいというから雌でしょう、勿論、雌もあれば、雄もあるですが。  どれが雌だか、雄だか、黒人にも分らんで、ただこの前歯を、」  と云って推重なった中から、ぐいと、犬の顔のような真黒なのを擡げると、陰干の臭が芬として、内へ反った、しゃくんだような、霜柱のごとき長い歯を、あぐりと剥く。 「この前歯の処ウを、上下噛合わせて、一寸の隙も無いのウを、雄や、(と云うのが北国辺のものらしい)と云うですが、一分一寸ですから、開いていても、塞いでいても分らんのうです。  私は弁舌は拙いですけれども、膃肭臍は確です。膃肭臍というものは、やたらむたらにあるものではない。東京府下にも何十人売るものがあるかは知らんですがね、やたらむたらあるもんか。」  と、何かさも不平に堪えず、向腹を立てたように言いながら、大出刃の尖で、繊維を掬って、一角のごとく、薄くねっとりと肉を剥がすのが、──遠洋漁業会社と記した、まだ油の新しい、黄色い長提灯の影にひくひくと動く。  その紫がかった黒いのを、若々しい口を尖らし、むしゃむしゃと噛んで、 「二頭がのは売ってしもうたですが、まだ一頭、脳味噌もあるですが。脳味噌は脳病に利くンのですが、膃肭臍の効能は、誰でも知っている事で言うがものはない。  疑わずにお買い下さい、まだ確な証拠というたら、後脚の爪ですが、」  ト大様に視めて、出刃を逆手に、面倒臭い、一度に間に合わしょう、と狙って、ずるりと後脚を擡げる、藻掻いた形の、水掻の中に、空を掴んだ爪がある。  霜風は蝋燭をはたはたと揺る、遠洋と書いたその目標から、濛々と洋の気が虚空に被さる。  里心が着くかして、寂しく二人ばかり立った客が、あとしざりになって……やがて、はらはらと急いで散った。  出刃を落した時、赫と顔の色に赤味を帯びて、真鍮の鉈豆煙草の、真中をむずと握って、糸切歯で噛むがごとく、引啣えて、 「うむ、」  と、なぜか呻る。  処へ、ふわふわと橙色が露われた。脂留の例の技師で。 「どうですか、膃肭臍屋さん。」 「いや、」  とただ言ったばかり、不愛想。  技師は親しげに擦寄って、 「昨夜は、飛んだ事でしたな……」 「お話になりません。」 「一体何の事ですか、」 「何やいうて、彼やいうて、まるでお話しにならんのですが、誰が何を見違えたやら、突然しらべに来て、膃肭臍の中を捜すんですぞ、真白な女の片腕があると言うて。」…… 明治四十四(一九一一)年二月 底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房    1995(平成7)年10月24日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第十三卷」岩波書店    1941(昭和16)年6月30日発行 入力:門田裕志 校正:土屋隆 2006年1月30日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。