悪獣篇 泉鏡花 Guide 扉 本文 目 次 悪獣篇        一  つれの夫人がちょっと道寄りをしたので、銑太郎は、取附きに山門の峨々と聳えた。巨刹の石段の前に立留まって、その出て来るのを待ち合せた。  門の柱に、毎月十五十六日当山説教と貼紙した、傍に、東京……中学校水泳部合宿所とまた記してある。透して見ると、灰色の浪を、斜めに森の間にかけたような、棟の下に、薄暗い窓の数、厳穴の趣して、三人五人、小さくあちこちに人の形。脱ぎ棄てた、浴衣、襯衣、上衣など、ちらちらと渚に似て、黒く深く、背後の山まで凹になったのは本堂であろう。輪にして段々に点した蝋の灯が、黄色に燃えて描いたよう。  向う側は、袖垣、枝折戸、夏草の茂きが中に早咲の秋の花。いずれも此方を背戸にして別荘だちが二三軒、廂に海原の緑をかけて、簾に沖の船を縫わせた拵え。刎釣瓶の竹も動かず、蚊遣の煙の靡くもなき、夏の盛の午後四時ごろ。浜辺は煮えて賑かに、町は寂しい樹蔭の細道、たらたら坂を下りて来た、前途は石垣から折曲る、しばらくここに窪んだ処、ちょうどその寺の苔蒸した青黒い段の下、小溝があって、しぼまぬ月草、紺青の空が漏れ透くかと、露もはらはらとこぼれ咲いて、藪は自然の寺の垣。  ちょうどそのたらたら坂を下りた、この竹藪のはずれに、草鞋、草履、駄菓子の箱など店に並べた、屋根は茅ぶきの、且つ破れ、且つ古びて、幾秋の月や映し、雨や漏りけん。入口の土間なんど、いにしえの沼の干かたまったをそのままらしい。廂は縦に、壁は横に、今も屋台は浮き沈み、危く掘立の、柱々、放れ放れに傾いているのを、渠は何心なく見て過ぎた。連れはその店へ寄ったのである。 「昔……昔、浦島は、小児の捉えし亀を見て、あわれと思い買い取りて、……」と、誦むともなく口にしたのは、別荘のあたりの夕間暮れに、村の小児等の唱うのを聞き覚えが、折から心に移ったのである。  銑太郎は、ふと手にした巻莨に心着いて、唄をやめた。 「早附木を買いに入ったのかな。」  うっかりして立ったのが、小店の方に目を注いで、 「ああ、そうかも知れん。」と夏帽の中で、頷いて独言。  別に心に留めもせず、何の気もなくなると、つい、うかうかと口へ出る。 「一日大きな亀が出て、か。もうしもうし浦島さん──」  帽を傾け、顔を上げたが、藪に並んで立ったのでは、此方の袖に隠れるので、路を対方へ。別荘の袖垣から、斜に坂の方を透かして見ると、連の浴衣は、その、ほの暗い小店に艶なり。 「何をしているんだろう。もうしもうし浦島さん……じゃない、浦子さんだ。」  と破顔しつつ、帽のふちに手をかけて、伸び上るようにしたけれども、軒を離れそうにもせぬのであった。 「店ぐるみ総じまいにして、一箇々々袋へ入れたって、もう片が附く時分じゃないか。」  と呟くうちに真面目になった、銑太郎は我ながら、 「串戯じゃない、手間が取れる。どうしたんだろう、おかしいな。」        二  とは思ったが、歴々彼処に、何の異状なく彳んだのが見えるから、憂慮にも及ぶまい。念のために声を懸けて呼ぼうにも、この真昼間。見える処に連を置いて、おおいおおいも茶番らしい、殊に婦人ではあるし、と思う。  今にも来そうで、出向く気もせず。火のない巻莨を手にしたまま、同じ処に彳んで、じっと其方を。  何となくぼんやりして、ああ、家も、路も、寺も、竹藪を漏る蒼空ながら、地の底の世にもなりはせずや、連は浴衣の染色も、浅き紫陽花の花になって、小溝の暗に俤のみ。我はこのまま石になって、と気の遠くなった時、はっと足が出て、風が出て、婦人は軒を離れて出た。  小走りに急いで来る、青葉の中に寄る浪のはらはらと爪尖白く、濃い黒髪の房やかな双の鬢、浅葱の紐に結び果てず、海水帽を絞って被った、豊な頬に艶やかに靡いて、色の白いが薄化粧。水色縮緬の蹴出の褄、はらはら蓮の莟を捌いて、素足ながら清らかに、草履ばきの埃も立たず、急いで迎えた少年に、ばッたりと藪の前。 「叔母さん、」  と声をかけて、と見るとこれが音に聞えた、燃るような朱の唇、ものいいたさを先んじられて紅梅の花揺ぐよう。黒目勝の清しやかに、美しくすなおな眉の、濃きにや過ぐると煙ったのは、五日月に青柳の影やや深き趣あり。浦子というは二十七。  豪商狭島の令室で、銑太郎には叔母に当る。  この路を去る十二三町、停車場寄の海岸に、石垣高く松を繞らし、廊下で繋いで三棟に分けた、門には新築の長屋があって、手車の車夫の控える身上。  裳を厭う砂ならば路に黄金を敷きもせん、空色の洋服の褄を取った姿さえ、身にかなえば唐めかで、羽衣着たりと持て囃すを、白襟で襲衣の折から、羅に綾の帯の時、湯上りの白粉に扱帯は何というやらん。この人のためならば、このあたりの浜の名も、狭島が浦と称えつびょう、リボンかけたる、笄したる、夏の女の多い中に、海第一と聞えた美女。  帽子の裡の日の蔭に、長いまつげのせいならず、甥を見た目に冴がなく、顔の色も薄く曇って、 「銑さん。」  とばかり云った、浴衣の胸は呼吸ぜわしい。 「どうしたんです、何を買っていらしったんです。吃驚するほど長かった。」  打見に何の仔細はなきが、物怖したらしい叔母の状を、たかだか例の毛虫だろう、と笑いながら言う顔を、情らしく熟と見て、 「まあ、呑気らしい、早附木を取って上げたんじゃありませんか。」  はじめて、ほッとした様子。 「頂戴! いつかの靴以来です。こうは叔母さんでなくッちゃ出来ない事です。僕もそうだろうと思ったんです。」 「そうだろうじゃありませんわ。」 「じゃ、早附木ではないんですか。」        三 「いいえ、銑さんが煙草を出すと、早附木がないから、打棄っておくと、またいつものように、煙草には思い遣りがない、監督のようだなんて云うだろうと思って、気を利かして、ちょうど、あの店で、」  と身を横に、踵を浮かして、恐いもののように振返って、 「見附かったからね、黙って買って上げようと思って入ったんですがね、お庇で大変な思いをしたんですよ。ああ、恐かった。」  とそのままには足も進まず、がッかりしたような風情である。 「何が、叔母さん。この日中に何が恐いんです。大方また毛虫でしょう、大丈夫、毛虫は追駈けては来ませんから。」 「毛虫どころじゃアありません。」  と浦子は後見らるる状。声も低う、 「銑さん、よっぽどの間だったでしょう。」 「ざッと一時間……」  半分は懸直だったのに、夫人はかえってさもありそうに、 「そうでしたかねえ、私はもっとかと思ったくらい。いつ、店を出られるだろう、と心細いッたらなかったよ。」 「なぜ、どうしたんですね、一体。」 「まあ、そろそろ歩行きましょう。何だか気草臥れでもしたようで、頭も脚もふらふらします。」  歩を移すのに引添うて、身体で庇うがごとくにしつつ、 「ほんとに驚いたんですか。そういえば、顔の色もよくないようですよ。」 「そうでしょう、悚然として、未だに寒気がしますもの。」  と肩を窄めて俯向いた、海水帽も前下り、頸白く悄れて連立つ。  少年は顔を斜めに、近々と帽の中。 「まったく色が悪い。どうも毛虫ではないようですね。」  これには答えず、やや石段の前を通った。  しばらくして、 「銑さん、」 「ええ、」 「帰途に、またここを通るんですか。」 「通りますよ。」 「どうしても通らねば不可ませんかねえ、どこぞ他に路がないんでしょうか。」 「海ならあります。ここいらは叔母さん、海岸の一筋路ですから、岐路といっては背後の山へ行くより他にはないんですが、」 「困りましたねえ。」  と、つくづく云う。 「何ね、時刻に因って、汐の干ている時は、この別荘の前なんか、岩を飛んで渡られますがね、この節の月じゃどうですか、晩方干ないかも知れません。」 「船はありますか。」 「そうですね、渡船ッて別にありはしますまいけれど、頼んだら出してくれないこともないでしょう、さきへ行って聞いて見ましょう。」 「そうね。」 「何、叔母さんさえ信用するんなら、船だけ借りて、漕ぐことは僕にも漕げます。僕じゃ危険だというでしょう。」 「何でも可うござんすから、銑さん、貴郎、どうにかして下さい。私はもう帰途にあの店の前を通りたくないんです。」  とまた俯向いたが恐々らしい。 「叔母さん、まあ、一体、何ですか。」と、余りの事に微笑みながら。        四 「もう聞えやしますまいね。」  と憚る所あるらしく、声もこの時なお低い。 「何が、どこで、叔母さん。」 「あすこまで、」 「ああ! 汚店へ、」 「大きな声をなさんなよ。」と吃驚したように慌しく、瞳を据えて、密という。 「何が聞えるもんですか。」 「じゃあね、言いますけれど、銑さん、私がね、今、早附木を買いに入ると、誰も居ないのよ。」 「へい?」 「下さいな、下さいなッて、そういうとね。穴が開いて、こわれごわれで、鼠の家の三階建のような、取附の三段の古棚の背のね、物置みたいな暗い中から、──藻屑を曳いたかと思う、汚い服装の、小さな婆さんがね、よぼよぼと出て来たんです。  髪の毛が真白でね、かれこれ八十にもなろうかというんだけれど、その割には皺がないの、……顔に。……身体は痩せて骨ばかり、そしてね、骨が、くなくなと柔かそうに腰を曲げてさ。  天窓でものを見るてッたように、白髪を振って、ふッふッと息をして、脊の低いのが、そうやって、胸を折ったから、そこらを這うようにして店へ来るじゃありませんか。  早附木を下さいなッて、云ったけれど聞えません。もっともね、はじめから聞えないのは覚悟だというように、顔を上げてね、人の顔を視めてさ。目で承りましょうと云うんじゃないの。  お婆さん、早附木を下さい、早附木を、といった、私の唇の動くのを、熟と視めていたッけがね。  その顔を上げているのが大儀そうに、またがッくり俯向くと、白髪の中から耳の上へ、長く、干からびた腕を出したんですがね、掌が大きいの。  それをね、けだるそうに、ふらふらとふって、片々の人指ゆびで、こうね、左の耳を教えるでしょう。  聞えないと云うのかね、そんなら可うござんす。私は何だか一目見ると、厭な心持がしたんですからね、買わずと可いから、そのまま店を出ようと思うと、またそう行かなくなりましたわ。  弱るじゃありませんか、婆さんがね、けだるそうに腰を伸ばして、耳を、私の顔の傍へ横向けに差しつけたんです。  ぷんと臭ったの。何とも言えない、きなッくさいような、醤油の焦げるような、厭な臭よ。」 「や、そりゃ困りましたね。」と、これを聞いて少年も顰んだのである。 「早附木を下さい。 (はあ?) (早附木よ、お婆さん。) (はあ?)  はあッて云うきりなの。目を眠って、口を開けてさ、臭うでしょう。 (早附木、)ッて私は、まったくよ。銑さん、泣きたくなったの。  ただもう遁げ出したくッてね、そこいら眗すけれど、貴下の姿も見えなかったんですもの。  はあ、長い間よ。  それでもようよう聞えたと見えてね、口をむぐむぐとさして合点々々をしたから、また手間を取らないようにと、直ぐにね、銅貨を一つ渡してやると、しばらくして、早附木を一ダース。  そんなには要らないから、包を破いて、自分で一つだけ取って、ああ、厄落し、と出よう、とすると、しっかりこの、」  と片手を下に、袖をかさねた袂を揺ったが、気味悪そうに、胸をかわして密と払い、 「袂をつかまえたのに、引張られて動けないじゃありませんか。」 「かさねがさね、成程、はあ、それから、」        五 「私ゃ、銑さん、どうしようかと思ったんです。  何にも云わないで、ぐんぐん引張って、かぶりを掉るから、大方、剰銭を寄越そうというんでしょうと思って、留りますとね。  やッと安心したように手を放して、それから向う向きになって、緡から穴のあいたのを一つ一つ。  それがまたしばらくなの。  私の手を引張るようにして、掌へ呉れました。  ひやりとしたけれど、そればかりなら可かったのに。 (御新姐様や)」  と浦子の声、異様に震えて聞えたので、 「ええ、その婆が、」 「あれ、銑さん、聞えますよ。」と、一歩いそがわしく、ぴったり寄添う。 「その婆が、云ったんですか。」  夫人はまた吐息をついた。 「婆さんがね、ああ。」 (御新姐様や、御身ア、すいたらしい人じゃでの、安く、なかまの値で進ぜるぞい。)ッて、皺枯れた声でそう云うとね、ぶんと頭へ響いたんです。  そして、すいたらしいッてね、私の手首を熟と握って、真黄色な、平たい、小さな顔を振上げて、じろじろと見詰めたの。  その握った手の冷たい事ッたら、まるで氷のようじゃありませんか。そして目がね、黄金目なんです。  光ったわ! 貴郎。  キラキラと、その凄かった事。」  とばかりで重そうな頭を上げて、俄かに黒雲や起ると思う、憂慮わしげに仰いで視めた。空ざまに目も恍惚、紐を結えた頤の震うが見えたり。 「心持でしょう。」 「いいえ、じろりと見られた時は、その目の光で私の顔が黄色になったかと思うくらいでしたよ。灯に近いと、赤くほてるような気がするのと同一に。  もう私、二条針を刺されたように、背中の両方から悚然として、足もふらふらになりました。  夢中で二三間駈け出すとね、ちゃらんと音がしたので、またハッと思いましたよ。お銭を落したのが先方へ聞えやしまいかと思って。  何でも一大事のように返した剰銭なんですもの、落したのを知っては追っかけて来かねやしません。銑さん、まあ、何てこッてしょう、どうした婆さんでしょうねえ。」  されば叔母上の宣うごとし。年紀七十あまりの、髪の真白な、顔の扁い、年紀の割に皺の少い、色の黄な、耳の遠い、身体の臭う、骨の軟かそうな、挙動のくなくなした、なおその言に従えば、金色に目の光る嫗とより、銑太郎は他に答うる術を知らなかった。  ただその、早附木一つ買い取るのに、半時ばかり経った仔細が知れて、疑はさらりとなくなったばかりであるから、気の毒らしい、と自分で思うほど一向な暢気。 「早附木は? 叔母さん。」と魅せられたものの背中を一つ、トンと打つようなのを唐突に言った。 「ああ、そうでした。」  と心着くと、これを嫗に握られた、買物を持った右の手は、まだ左の袂の下に包んだままで、撫肩の裄をなぞえに、浴衣の筋も水に濡れたかと、ひたひたとしおれて、片袖しるく、悚然としたのがそのままである。大事なことを見るがごとく、密とはずすと、銑太郎も覗くように目を注いだ。 「おや!」 「…………」        六  黒の唐繻子と、薄鼠に納戸がかった絹ちぢみに宝づくしの絞の入った、腹合せの帯を漏れた、水紅色の扱帯にのせて、美しき手は芙蓉の花片、風もさそわず無事であったが、キラリと輝いた指環の他に、早附木らしいものの形も無い。  視詰めて、夫人は、 「…………」ものも得いわぬのである。 「ああ、剰銭と一所に遺失したんだ。叔母さんどの辺?」  と気早に向き返って行こうとする。 「お待ちなさいよ。」  と遮って上げた手の、仔細なく動いたのを、嬉しそうに、少年の肩にかけて、見直して呼吸をついて、 「銑さん、お止しなさいお止しなさい、気味が悪いから、ね、お止しなさい。」  とさも一生懸命。圧えぬばかりに引留めて、 「あんなものは、今頃何に化っているか分りませんよ、よう、ですから、銑さん。」 「じゃ止します、止しますがね。」  少年は余りの事に、 「ははははは、何だか妖物ででもあるようだ。」と半ば呟いて、また笑った。 「私は妖物としか考えないの、まさか居ようとは思われないけれど。」 「妖物ですとも、妖物ですがね、そのくなくなした処や、天窓で歩行きそうにする処から、黄色く畝った処なんぞ、何の事はない婆の毛虫だ。毛虫の婆さんです。」 「厭ですことねえ。」と身ぶるいする。 「何もそんなに、気味を悪がるには当らないじゃありませんか。その婆に手を握られたのと、もしか樹の上から、」  と上を見る。藪は尽きて高い石垣、榎が空にかぶさって、浴衣に薄き日の光、二人は月夜を行く姿。 「ぽたりと落ちて、毛虫が頸筋へ入ったとすると、叔母さん、どっちが厭な心持だと思います。」 「沢山よ、銑さん、私はもう、」 「いえ、まあ、どっちが気味が悪いんですね。」 「そりゃ、だって、そうねえ、どっちがどっちとも言えませんね。」 「そら御覧なさい。」  説き得て可しと思える状して、 「叔母さんは、その婆を、妖物か何ぞのように大騒ぎを遣るけれど、気味の悪い、厭な感じ。」  感じ、と声に力を入れて、 「感じというと、何だか先生の仮声のようですね。」 「気楽なことをおっしゃいよ!」 「だって、そうじゃありませんか、その気味の悪い、厭な感じ、」 「でも先生は、工合の可いとか、妙なとか、おもしろい感じッて事は、お言いなさるけれど、気味の悪いだの、厭な感じだのッて、そんな事は、めったにお言いなさることはありません。」 「しかしですね、詰らない婆を見て、震えるほど恐がった、叔母さんの風ッたら……工合の可い、妙な、おもしろい感じがする、と言ったら、叔母さんは怒るでしょう。」 「当然ですわ、貴郎。」 「だからこの場合ですもの。やっぱり厭な感じだ。その気味の悪い感じというのが、毛虫とおなじぐらいだと思ったらどうです。別に不思議なことは無いじゃありませんか。毛虫は気味が悪い、けれども怪いものでも何でもない。」 「そう言えばそうですけれど、だって婆さんの、その目が、ねえ。」 「毛虫にだって、睨まれて御覧なさい。」 「もじゃもじゃと白髪が、貴郎。」 「毛虫というくらいです、もじゃもじゃどころなもんですか、沢山毛がある。」 「まあ、貴下の言うことは、蝸牛の狂言のようだよ。」と寂しく笑ったが、 「あれ、」  寺でカンカンと鉦を鳴らした。 「ああ、この路の長かったこと。」        七  釣棹を、ト肩にかけた、処士あり。年紀のころ三十四五。五分刈のなだらかなるが、小鬢さきへ少し兀げた、額の広い、目のやさしい、眉の太い、引緊った口の、やや大きいのも凜々しいが、頬肉が厚く、小鼻に笑ましげな皺深く、下頤から耳の根へ、べたりと髯のあとの黒いのも柔和である。白地に藍の縦縞の、縮の襯衣を着て、襟のこはぜも見えそうに、衣紋を寛く紺絣、二三度水へ入ったろう、色は薄く地も透いたが、糊沢山の折目高。  薩摩下駄の小倉の緒、太いしっかりしたおやゆびで、蝮を拵えねばならぬほど、弛いばかりか、歪んだのは、水に対して石の上に、これを台にしていたのであった。  時に、釣れましたか、獲物を入れて、片手に提ぐべき畚は、十八九の少年の、洋服を着たのが、代りに持って、連立って、海からそよそよと吹く風に、山へ、さらさらと、蘆の葉の青く揃って、二尺ばかり靡く方へ、岸づたいに夕日を背。峰を離れて、一刷の薄雲を出て玉のごとき、月に向って帰途、ぶらりぶらりということは、この人よりぞはじまりける。 「賢君、君の山越えの企ては、大層帰りが早かったですな。」  少年は莞爾やかに、 「それでも一抱えほど山百合を折って来ました。帰って御覧なさい、そりゃ綺麗です。母の部屋へも、先生の床の間へも、ちゃんと活けるように言って来ました。」 「はあ、それは難有い。朝なんざ崖に湧く雲の中にちらちら燃えるようなのが見えて、もみじに朝霧がかかったという工合でいて、何となく高峰の花という感じがしたのに、賢君の丹精で、机の上に活かったのは感謝する。  早く行って拝見しよう、……が、また誰か、台所の方で、私の帰るのを待っているものはなかったですか。」  と小鼻の左右の線を深く、微笑を含んで少年を。  顔を見合わせて此方も笑い、 「はははは、松が大層待っていました。先生のお肴を頂こうと思って、お午飯も控えたって言っていましたっけ。」 「それだ。なかなか人が悪い。」広い額に手を加える。 「それに、母も、先生。お土産を楽しみにして、お腹をすかして帰るからって、言づけをしたそうです。」 「益々恐縮。はあ、で、奥さんはどこかへお出かけで。」 「銑さんが一所だそうです。」 「そうすると、その連の人も、同じく土産を待つ方なんだ。」 「勿論です。今日ばかりは途中で叔母さんに何にも強請らない。犬川で帰って来て、先生の御馳走になるんですって。」  とまた顔を見る。  この時、先生愕然として頸をすくめた。 「あかぬ! 包囲攻撃じゃ、恐るべきだね。就中、銑太郎などは、自分釣棹をねだって、貴郎が何です、と一言の下に叔母御に拒絶された怨があるから、その祟り容易ならずと可知矣。」  と蘆の葉ずれに棹を垂れて、思わず観念の眼を塞げば、少年は気の毒そうに、 「先生、買っていらっしゃい。」 「買う?」 「だって一尾も居ないんですもの。」  と今更ながら畚を覗くと、冷い磯の香がして、ざらざらと隅に固まるものあり、方丈記に曰く、ごうなは小さき貝を好む。        八  先生は見ざる真似して、少年が手に傾けた件の畚を横目に、 「生憎、沙魚、海津、小鮒などを商う魚屋がなくって困る。奥さんは何も知らず、銑太郎なお欺くべしじゃが、あの、お松というのが、また悪く下情に通じておって、ごうなや川蝦で、鰺やおぼこの釣れないことは心得ておるから。これで魚屋へ寄るのは、落語の権助が川狩の土産に、過って蒲鉾と目刺を買ったより一層の愚じゃ。  特に餌の中でも、御馳走の川蝦は、あの松がしんせつに、そこらで掬って来てくれたんで、それをちぎって釣る時分は、浮木が水面に届くか届かぬに、ちょろり、かいず奴が攫ってしまう。  大切な蝦五つ、瞬く間にしてやられて、ごうなになると、糸も動かさないなどは、誠に恥入るです。  私は賢君が知っとる通り、ただ釣という事におもしろい感じを持って行るのじゃで、釣れようが釣れまいが、トンとそんな事に頓着はない。  次第に因ったら、針もつけず、餌なしに試みて可いのじゃけれど、それでは余り賢人めかすようで、気咎がするから、成るべく餌も附着けて釣る。獲物の有無でおもしろ味に変はないで、またこの空畚をぶらさげて、蘆の中を釣棹を担いだ処も、工合の可い感じがするのじゃがね。  その様子では、諸君に対して、とてもこのまま、棹を掉っては帰られん。  釣を試みたいと云うと、奥様が過分な道具を調えて下すった。この七本竹の継棹なんぞ、私には勿体ないと思うたが、こういう時は役に立つ。  一つ畳み込んで懐中へ入れるとしよう、賢君、ちょっとそこへ休もうではないか。」  と月を見て立停った、山の裾に小川を控えて、蘆が吐き出した茶店が一軒。薄い煙に包まれて、茶は沸いていそうだけれど、葦簀張がぼんやりして、かかる天気に、何事ぞ、雨露に朽ちたりな。 「可いじゃありませんか、先生、畚は僕が持っていますから、松なんぞ愚図々々言ったら、ぶッつけてやります。」  無二の味方で頼母しく慰めた。 「いやまた、こう辟易して、棹を畳んで、懐中へ了い込んで、煙管筒を忘れた、という顔で帰る処もおもしろい感じがするで。  それに咽喉も乾いた、茶を一つ飲みましょう。まず休んで、」  と三足ばかり、路を横へ、茶店の前の、一間ばかり蘆が左右へ分れていた、根が白く濡地が透いて見えて、ぶくぶくと蟹の穴、うたかたのあわれを吹いて、茜がさして、日は未だ高いが虫の声、艪を漕ぐように、ギイ、ギッチョッ、チョ。 「さあ、お掛け。」  と少年を、自分の床几の傍に居らせて、先生は乾くと言った、その唇を撫でながら、 「茶を一つ下さらんか。」  暗い中から白い服装、麻の葉いろの巻つけ帯で、草履の音、ひた──ひた、と客を見て早や用意をしたか、蟋蟀の噛った塗盆に、朝顔茶碗の亀裂だらけ、茶渋で錆びたのを二つのせて、 「あがりまし、」  と据えて出し、腰を屈めた嫗を見よ。一筋ごとに美しく櫛の歯を入れたように、毛筋が透って、生際の揃った、柔かな、茶にやや褐を帯びた髪の色。黒き毛、白髪の塵ばかりをも交えぬを、切髪にプツリと下げた、色の白い、艶のある、細面の頤尖って、鼻筋の衝と通った、どこかに気高い処のある、年紀は誰が目も同一……である。        九 「渺々乎として、蘆じゃ。お婆さん、好景色だね。二三度来て見た処ぢゃけれど、この店の工合が可いせいか、今日は格別に広く感じる。  この海の他に、またこんな海があろうとは思えんくらいじゃ。」  と頷くように茶を一口。茶碗にかかるほど、襯衣の袖の膨らかなので、掻抱く体に茶碗を持って。  少年はうしろ向に、山を視めて、おつきあいという顔色。先生の影二尺を隔てず、窮屈そうにただもじもじ。  嫗は威儀正しく、膝のあたりまで手を垂れて、 「はい、申されまする通り、世がまだ開けませぬ泥沼の時のような蘆原でござるわや。  この川沿は、どこもかしこも、蘆が生えてあるなれど、私が小家のまわりには、また多う茂ってござる。  秋にもなって見やしゃりませ。丈が高う、穂が伸びて、小屋は屋根に包まれる、山の懐も隠れるけに、月も葉の中から出さされて、蟹が茎へ上っての、岡沙魚というものが根の処で跳ねるわや、漕いで入る船の艪櫂の音も、水の底に陰気に聞えて、寂しくなるがの。その時稲が実るでござって、お日和じゃ、今年は、作も豊年そうにござります。  もう、このように老い朽ちて、あとを頂く御菩薩の粒も、五つ七つと、算えるようになったれども、生あるものは浅間しゅうての、蘆の茂るを見るにつけても、稲の太るが嬉しゅうてなりませぬ、はい、はい。」  と細いが聞くものの耳に響く、透る声で言いながら、どこをどうしたら笑えよう、辛き浮世の汐風に、冷く大理石になったような、その仏造った顔に、寂しげに莞爾笑った。鉄漿を含んだ歯が揃って、貝のように美しい。それとなお目についたは、顔の色の白いのに、その眠ったような繊い目の、紅の糸、と見るばかり、赤く線を引いていたのである。 「成程、はあ、いかにも、」  と言ったばかり、嫗の言は、この景に対するものをして、約半時の間、未来の秋を想像せしむるに余りあって、先生は手なる茶碗を下にも措かず、しばらく蘆を見て、やがてその穂の人の丈よりも高かるべきを思い、白泡のずぶずぶと、濡土に呟く蟹の、やがてさらさらと穂に攀じて、鋏に月を招くやなど、茫然として視めたのであった。  蘆の中に路があって、さらさらと葉ずれの音、葦簀の外へまた一人、黒い衣の嫗が出て来た。  茶色の帯を前結び、肩の幅広く、身もやや肥えて、髪はまだ黒かったが、薄さは条を揃えたばかり。生際が抜け上って頭の半ばから引詰めた、ぼんのくどにて小さなおばこに、櫂の形の笄さした、片頬痩せて、片頬肥く、目も鼻も口も頤も、いびつ形に曲んだが、肩も横に、胸も横に、腰骨のあたりも横に、だるそうに手を組んだ、これで釣合いを取るのであろう。ただそのままでは根から崩れて、海の方へ横倒れにならねばならぬ。  肩と首とで、うそうそと、斜めに小屋を差覗いて、 「ござるかいの、お婆さん。」  と、片頬夕日に眩しそう、ふくれた片頬は色の悪さ、蒼ざめて藍のよう、銀色のどろりとした目、瞬をしながら呼んだ。  駄菓子の箱を並べた台の、陰に入って踞んで居た、此方の嫗が顔を出して、 「主か。やれもやれも、お達者でござるわや。」  と、ぬいと起つと、その紅糸の目が動く。        十  来たのが口もあけず、咽喉でものを云うように、顔も静と傾いたるまま、 「主もそくさいでめでたいぞいの。」 「お天気模様でござるわや。暑さには喘ぎ、寒さには悩み、のう、時候よければ蛙のように、くらしの蛇に追われるに、この年になるまでも、甘露の日和と聞くけれども、甘い露は飲まぬわよ、ほほほ、」  と薄笑いした、また歯が黒い。 「おいの、さればいの、お互に砂の数ほど苦しみのたねは尽きぬ事いの。やれもやれも、」と言いながら、斜めに立った廂の下、何を覗くか爪立つがごとくにして、しかも肩腰は造りつけたもののよう、動かざること如朽木。 「若い衆の愚痴より年よりの愚痴じゃ、聞く人も煩さかろ、措かっしゃれ、ほほほ。のう、お婆さん。主はさてどこへ何を志して出てござった、山かいの、川かいの。」 「いんにゃの、恐しゅう歯がうずいて、きりきり鑿で抉るようじゃ、と苦しむ者があるによって、私がまじのうて進じょうと、浜へ鱏の針掘りに出たらばよ、猟師どもの風説を聞かっしゃれ。志す人があって、この川ぞいの三股へ、石地蔵が建つというわいの。」  それを聞いて、フト振向いた少年の顔を、ぎろりと、その銀色の目で流眄にかけたが、取って十八の学生は、何事も考えなかった。 「や、風説きかぬでもなかったが、それはまことでござるかいの。」 「おいのおいの、こんな難有い奇特なことを、うっかり聞いてござる年紀ではあるまいがや、ややお婆さん。  主は気が長いで、大方何じゃろうぞいの、地蔵様開眼が済んでから、杖を突張って参らしゃます心じゃろが、お互に年紀じゃぞや。今の時世に、またとない結縁じゃに因って、半日も早うのう、その難有い人のお姿拝もうと思うての、やらやっと重たい腰を引立てて出て来たことよ。」  紅糸の目はまた揺れて、 「奇特にござるわや。さて、その難有い人は誰でござる。」 「はて、それを知らしゃらぬ。主としたものは何ということぞいの。  このさきの浜際に、さるの、大長者どのの、お別荘がござるてよ。その長者の奥様じゃわいの。」 「それが御建立なされるかよ。」 「おいの、いんにゃいの、建てさっしゃるはその奥様に違いないが、発願した篤志の方はまた別にあるといの。  聞かっしゃれ。  その奥様は、世にも珍らしい、三十二相そろわしった美しい方じゃとの、膚があたたかじゃに因って人間よ、冷たければ天女じゃ、と皆いうのじゃがの、その長者どのの後妻じゃ、うわなりでいさっしゃる。  よってその長者どのとは、三十の上も年紀が違うて、男の児が一人ござって、それが今年十八じゃ。  奥様は、それ、継母いの。  気立のやさしい、膚も心も美しい人じゃによって、継母継児というようなものではなけれども、なさぬなかの事なれば、万に一つも過失のないように、とその十四の春ごろから、行の正しい、学のある先生様を、内へ頼みきりにして傍へつけておかしゃった。」  二人は正にそれなのである。        十一 「よいかの、十四の年からこの年まで、四五六七八と五年の間、寝るにも起るにも附添うて、しんせつにお教えなすった、その先生様のたんせいというものは、一通の事ではなかったとの。  その効があってこの夏はの、そのお子がさる立派な学校へ入らっしゃるようになったに就いて、先生様は邸を出て、自分の身体になりたいといわっしゃる。  それまで受けた恩があれば、お客分にして一生置き申そうということなれど、宗旨々々のお祖師様でも、行きたい処へ行かっしゃる。無理やりに留めますことも出来んでのう。」 「ほんにの、お婆さん。」 「今度いよいよ長者どのの邸を出さっしゃるに就いて、長い間御恩になった、そのお礼心というのじゃよ。何ぞ早や、しるしに残るものを、と言うて、黄金か、珠玉か、と尋ねさっしゃるとの。  その先生様、地蔵尊の一体建立して欲しいと言わされたとよ。  そう云えば何となく、顔容も柔和での、石の地蔵尊に似てござるお人じゃそうなげな。」  先生は面を背けて、笑を含んで、思わずその口のあたりを擦ったのである。 「それは奇特じゃ、小児衆の世話を願うに、地蔵様に似さしった人は、結構にござることよ。」 「さればその事よ。まだ四十にもならっしゃらぬが、慾も徳も悟ったお方じゃ。何事があっても莞爾々々とさっせえて、ついぞ、腹立たしったり、悲しがらしった事はないけに、何としてそのように難有い気になられたぞ、と尋ねるものがあるわいの。  先生様が言わっしゃるには、伝もない、教もない。私はどうした結縁か、その顔色から容子から、野中にぼんやり立たしましたお姿なり、心から地蔵様が気に入って、明暮、地蔵、地蔵と念ずる。  痛い時、辛い時、口惜い時、怨めしい時、情ない時と、事どもが、まああってもよ。待てな、待てな、さてこうした時に、地蔵菩薩なら何となさる、と考えれば胸も開いて、気が安らかになることじゃ、と申されたげな。お婆さん、何と奇特な事ではないかの。」 「御奇特でござるのう。」 「じゃでの、何の心願というでもないが、何かしるしをといわるるで思いついた、お地蔵一体建立をといわっしゃる。  折から夏休みにの、お邸中が浜の別荘へ来てじゃに就いて、その先生様も見えられたが、この川添の小橋の際のの、蘆の中へ立てさっしゃる事になって、今日はや奥さまがの、この切通しの崖を越えて、二つ目の浜の石屋が方へ行かれたげじゃ。  のう、先生様は先生様、また難有いお方として、浄財を喜捨なされます、その奥様の事いの。  少い身そらに、御奇特な、たとえ御自分の心からではないとして、その先生様の思召に嬉し喜んで従わせえましたのが、はや菩薩の御弟子でましますぞいの。  七歳の竜女とやらじゃ。  結縁しょう。年をとると気忙しゅうて、片時もこうしてはおられぬわいの、はやくその美しいお姿を拝もうと思うての。それで、はい、お婆さん、えッちらえッちら出て来たのじゃ。」 「おう、されば、これから二つ目へおざるかや。」 「さればいの、行くわいの。」 「ござれござれ。私も店をかたづけたら、路ばたへ出て、その奥様の、帰らしゃますお顔を拝もうぞいの。」  赤目の嫗は自から深く打頷いた。        十二  時に色の青い銀の目の嫗は、対手の頤につれて、片がりながら、さそわれたように頷いたが、肩を曲げたなり手を腰に組んだまま、足をやや横ざまに左へ向けた。 「帰途のほどは宵月じゃ、ちらりとしたらお姿を見はずすまいぞや。かぶりものの中、気をつけさっしゃれ。お方くらい、美しい、紅のついた唇は少ないとの。薄化粧に変りはのうても、膚の白いがその人じゃ、浜方じゃで紛れはないぞの、可いか、お婆さん、そんなら私は行くわいの。」 「茶一つ参らぬか、まあ可いで。」 「預けましょ。」 「これは麁末なや。」 「お雑作でござりました。」  と斉しく前へ傾きながら、腰に手を据えて、てくてくと片足ずつ、右を左へ、左を右へ、一ツずつ蹈んで五足六足。 「ああ、これな、これな。」  と廂の夕日に手を上げて、たそがれかかる姿を呼べば、蘆を裾なる背影。 「おい、」とのみ、見も返らず、ハタと留まって、打傾いた、耳をそのまま言を待つ。 「主、今のことをの、坂下の姉さまにも知らしてやらしゃれ、さだめし、あの児も拝みたかろ。」  聞きつけて、件の嫗、ぶるぶると頭を掉った。 「むんにゃよ、年紀が上だけに、姉さまは御生のことは抜からぬぞの。八丈ヶ島に鐘が鳴っても、うとい耳に聞く人じゃ。それに二つ目へ行かっしゃるに、奥様は通り路。もう先刻に拝んだじゃろうが、念のためじゃ立寄りましょ。ああ、それよりかお婆さん、」  と片頬を青く捻じ向けた、鼻筋に一つの目が、じろりと此方を見て光った。 「主、数珠を忘れまいぞ。」 「おう、可いともの、お婆さん、主、その鱏の針を落さっしゃるな。」 「御念には及ばぬわいの。はい、」  と言って、それなり前途へ、蘆を分ければ、廂を離れて、一人は店を引込んだ。磯の風一時、行くものを送って吹いて、颯と返って、小屋をめぐって、ざわざわと鳴って、寂然した。  吻々吻と花やかな、笑い声、浜のあたりに遥に聞ゆ。  時に一碗の茶を未だ飲干さなかった、先生はツト心着いて、いぶかしげな目で、まず、傍なる少年の並んで坐った背を見て、また四辺を眗したが、月夜の、夕日に返ったような思いがした。  嫗の言が渠を魅したか、その蘆の葉が伸びて、山の腰を蔽う時、水底を船が漕いで、岡沙魚というもの土に跳ね、豆蟹の穂末に月を見る状を、目のあたりに目に浮べて、秋の夜の月の趣に、いつか心の取られた耳へ、蘆の根の泡立つ音、葉末を風の戦ぐ声、あたかも天地の呟き囁くがごとく、我が身の上を語るのを、ただ夢のように聞きながら、顔の地蔵に似たなどは、おかしと現にも思ったが、いつごろ、どの時分、もう一人の嫗が来て、いつその姿が見えなくなったか、定かには覚えなかった。たとえば、そよそよと吹く風の、いつ来て、いつ歇んだかを覚えぬがごとく、夕日の色の、何の機に我が袖を、山陰へ外れたかを語らぬごとく。  さればその間、およそ、時のいかばかりを過ぎたかを弁えず、月夜とばかり思ったのも、明るく晴れた今日である。いつの程にか、継棹も少年の手に畳まれて、袋に入って、紐までちゃんと結えてあった。  声をかけて見ようと思う、嫗は小屋で暗いから、他の一人はそこへと見遣るに、誰も無し、月を肩なる、山の裾、蘆を裀の寝姿のみ。 「賢、」  と呼んだ、我ながら雉子のように聞えたので、呟して、もう一度、 「賢君、」 「は、」  と快活に返事する。 「今の婆さんは幾歳ぐらいに見えました。」 「この茶店のですか。」 「いや、もう一人、……ここへ来た年寄が居たでしょう。」 「いいえ。」        十三 「あれえ! ああ、あ、ああ……」  恐かった、胸が躍って、圧えた乳房重いよう、忌わしい夢から覚めた。──浦子は、独り蚊帳の裡。身の戦くのがまだ留まねば、腕を組違えにしっかと両の肩を抱いた、腋の下から脈を打って、垂々と冷い汗。  さてもその夜は暑かりしや、夢の恐怖に悶えしや、紅裏の絹の掻巻、鳩尾を辷り退いて、寝衣の衣紋崩れたる、雪の膚に蚊帳の色、残燈の灯に青く染まって、枕に乱れた鬢の毛も、寝汗にしとど濡れたれば、襟白粉も水の薫、身はただ、今しも藻屑の中を浮び出でたかの思がする。  まだ身体がふらふらして、床の途中にあるような。これは寝た時に今も変らぬ、別に怪しい事ではない。二つ目の浜の石屋が方へ、暮方仏像をあつらえに往った帰りを、厭な、不気味な、忌わしい、婆のあらもの屋の前が通りたくなさに、ちょうど満潮を漕げたから、海松布の流れる岩の上を、船で帰って来たせいであろう。艪を漕いだのは銑さんであった、夢を漕いだのもやっぱり銑さん。  その時は折悪く、釣船も遊山船も出払って、船頭たちも、漁、地曳で急がしいから、と石屋の親方が浜へ出て、小船を一艘借りてくれて、岸を漕いでおいでなさい、山から風が吹けば、畳を歩行くより確なもの、船をひっくりかえそうたって、海が合点するものではねえと、大丈夫に承合うし、銑太郎もなかなか素人離れがしている由、人の風説も聞いているから、安心して乗って出た。  岩の間をすらすらと縫って、銑さんが船を持って来てくれる間、……私は銀の粉を裏ごしにかけたような美しい砂地に立って、足許まで藍の絵具を溶いたように、ひたひた軽く寄せて来る、浪に心は置かなかったが、またそうでもない。先刻の荒物屋が背後へ来て、あの、また変な声で、御新姐様や、といいはしまいかと、大抵気を揉んだ事ではない。……  婆さんは幾らも居る、本宅のお針も婆さんなら、自分に伯母が一人、それもお婆さん。第一近い処が、今内に居る、松やの阿母だといって、この間隣村から尋ねて来た、それも年より。なぜあんなに恐ろしかったか、自分にも分らぬくらい。  毛虫は怪しいものではないが、一目見ても総毛立つ。おなじ事で、たとえ不気味だからといって、ちっとも怪しいものではないと、銑さんはいうけれど、あの、黄金色の目、黄な顔、這うように歩行いた工合。ああ、思い出しても悚然とする。  夫人は掻巻の裾に障って、爪尖からまた悚然とした。  けれどもその時、浜辺に一人立っていて、なんだか怪しいものなぞは世にあるものとは思えないような、気丈夫な考えのしたのは、自分が彳んでいた七八間さきの、切立てに二丈ばかり、沖から燃ゆるような紅の日影もさせば、一面には山の緑が月に映って、練絹を裂くような、柔な白浪が、根を一まわり結んじゃ解けて拡がる、大きな高い巌の上に、水色のと、白衣のと、水紅色のと、西洋の婦人が三人。──  白衣のが一番上に、水色のその肩が、水紅色のより少し高く、一段下に二人並んで、指を組んだり、裳を投げたり、胸を軽くそらしたり、時々楽しそうに笑ったり、話声は聞えなかったが、さものんきらしく、おもしろそうに遊んでいる。  それをまたその人々の飼犬らしい、毛色のいい、猟虎のような茶色の洋犬の、口の長い、耳の大きなのが、浪際を放れて、巌の根に控えて見ていた。  まあ、こんな人たちもあるに、あの婆さんを妖物か何ぞのように、こうまで恐がるのも、と恥かしくもあれば、またそんな人たちが居る世の中に、と頼母しく。……  と、浦子は蚊帳に震えながら思い続けた。        十四  ざんぶと浪に黒く飛んで、螺線を描く白い水脚、泳ぎ出したのはその洋犬で。  来るのは何ものだか、見届けるつもりであったろう。  長い犬の鼻づらが、水を出て浮いたむこうへ、銑さんが艪をおしておいでだった。  うしろの小松原の中から、のそのそと人が来たのに、ぎょっとしたが、それは石屋の親方で。  草履ばきでも濡れさせまいと、船がそこった間だけ、負ってくれて、乗ると漕ぎ出すのを、水にまだ、足を浸したまま、鷭のような姿で立って、腰のふたつ提げの煙草入を抜いて、煙管と一所に手に持って、火皿をうつむけにして吹きながら、確かなもんだ確かなもんだと、銑さんの艪を誉めていた。  もう船が岩の間を出たと思うと、尖った舳がするりと辷って、波の上へ乗ったから、ひやりとして、胴の間へ手を支いた。  その時緑青色のその切立ての巌の、渚で見たとは趣がまた違って、亀の背にでも乗りそうな、中ごろへ、早薄靄が掛った上から、白衣のが桃色の、水色のが白の手巾を、二人で、小さく振ったのを、自分は胴の間に、半ば袖をついて、倒れたようになりながら、帽子の裡から仰いで見た。  二つ目の浜で、地曳を引く人の数は、水を切った網の尖に、二筋黒くなって砂山かけて遥かに見えた。  船は緑の岩の上に、浅き浅葱の浪を分け、おどろおどろ海草の乱るるあたりは、黒き瀬を抜けても過ぎたが、首きり沈んだり、またぶくりと浮いたり、井桁に組んだ棒の中に、生簀があちこち、三々五々。鴎がちらちらと白く飛んで、浜の二階家のまわり縁を、行きかいする女も見え、簾を上げる団扇も見え、坂道の切通しを、俥が並んで飛ぶのさえ、手に取るように見えたもの。  陸近なれば憂慮いもなく、ただ景色の好さに、ああまで恐ろしかった婆の家、巨刹の藪がそこと思う灘を、いつ漕ぎ抜けたか忘れていたのに、何を考え出して、また今の厭な年寄。……  ──それが夢か。── 「ま、待って、」  はてな、と夫人は、白き頸を枕に着けて、おくれ毛の音するまで、がッくりと打かたむいたが、身の戦くことなお留まず。  それとも渚の砂に立って、巌の上に、春秋の美しい雲を見るような、三人の婦人の衣を見たのが夢か。海も空も澄み過ぎて、薄靄の風情も妙に余る。  けれども、犬が泳いでいた、月の中なら兎であろうに。  それにしても、また石屋の親方が、水に彳んだ姿が怪しい。  そういえば用が用、仏像を頼みに行くのだから、と巡礼染みたも心嬉しく、浴衣がけで、草履で、二つ目へ出かけたものが、人の背で浪を渡って、船に乗ろうとは思いもかけぬ。  いやいや思いもかけぬといえば、荒物屋の、あの老婆。通りがかりに、ちょいとほんの燐枝を買いに入ったばかりで、あんな、恐ろしい、忌わしい不気味なものを、しかも昼間見ようとは、それこそ夢にも知らなかった。  船はそのためとして見れば、巌の婦人も夢ではない。石屋の親方が自分を背負って、世話をしてくれたのも、銑さんが船を漕いだのも、浪も、鴎も夢ではなくって、やっぱり今のが夢であろう。  ──「ああ、恐しい夢を見た。」──  と肩がすくんで、裳わなわな、瞳を据えて恐々仰ぐ、天井の高い事。前後左右は、どのくらいあるか分らず、凄くて眗すことさえならぬ、蚊帳に寂しき寝乱れ姿。        十五  果して夢ならば、海も同じ潮入りの蘆間の水。水のどこからが夢であって、どこまでが事実であったか。船はもう一浪で、一つ目の浜へ着くようになった時、ここから上って、草臥れた足でまた砂を蹈もうより、小川尻へ漕ぎ上って、薦の葉を一またぎ、邸の背戸の柿の樹へ、と銑さんの言った事は──確に今も覚えている。  艪よりは潮が押し入れた、川尻のちと広い処を、ふらふらと漕ぎのぼると、浪のさきが飜って、潮の加減も点燈ごろ。  帆柱が二本並んで、船が二艘かかっていた。舷を横に通って、急に寒くなった橋の下、橋杭に水がひたひたする、隧道らしいも一思い。  石垣のある土手を右に、左にいつも見る目より、裾も近ければ頂もずっと高い、かぶさる程なる山を見つつ、胴ぶくれに広くなった、湖のような中へ、他所の別荘の刎橋が、流の半、岸近な洲へ掛けたのが、満潮で板も除けてあった、箱庭の電信ばしらかと思うよう、杭がすくすくと針金ばかり。三角形の砂地が向うに、蘆の葉が一靡き、鶴の片翼見るがごとく、小松も斑に似て十本ほど。  暮れ果てず灯は見えぬが、その枝の中を透く青田越しに、屋根の高いはもう我が家。ここの小松の間を選んで、今日あつらえた地蔵菩薩を──  仏様でも大事ない、氏神にして祭礼を、と銑さんに話しながら見て過ぎると、それなりに川が曲って、ずッと水が狭うなる、左右は蘆が渺として。  船がその時ぐるりと廻った。  岸へ岸へと支うるよう。しまった、潮が留ったと、銑さんが驚いて言った。船べりは泡だらけ。瓜の種、茄子の皮、藁の中へ木の葉が交って、船も出なければ芥も流れず。真水がここまで落ちて来て、潮に逆って揉むせいで。  あせって銑さんのおした船が、がッきと当って杭に支えた。泡沫が飛んで、傾いた舷へ、ぞろりとかかって、さらさらと乱れたのは、一束の女の黒髪、二巻ばかり杭に巻いたが、下には何が居るか、泥で分らぬ。  ああ、芥の臭でもすることか、海松布の香でもすることか、船へ搦んで散ったのは、自分と同一鬢水の……  ──浦子は寝ながら呼吸を引いた。──  ──今も蚊帳に染む梅花の薫。──  あ、と一声退こうとする、袖が風に取られたよう、向うへ引かれて、靡いたので、此方へ曳いて圧えたその袖に、と見ると怪しい針があった。  蘆の中に、色の白い痩せた嫗、高家の後室ともあろう、品の可い、目の赤いのが、朦朧と踞んだ手から、蜘蛛の囲かと見る糸一条。  身悶えして引切ると、袖は針を外れたが、さらさらと髪が揺れ乱れた。  その黒髪の船に垂れたのが、逆に上へ、ひょろひょろと頬を掠めると思うと──(今もおくれ毛が枕に乱れて)──身体が宙に浮くのであった。 「ああ!」  船の我身は幻で、杭に黒髪の搦みながら、溺れていたのが自分であろうか。  また恐しい嫗の手に、怪しい針に釣り上げられて、この汗、その水、この枕、その夢の船、この身体、四角な室も穴めいて、膚の色も水の底、おされて呼吸の苦しげなるは、早や墳墓の中にこそ。呵呀、この髪が、と思うに堪えず、我知らず、ハッと起きた。  枕を前に、飜った掻巻を背の力に、堅いもののごとく腕を解いて、密とその鬢を掻上げた。我が髪ながらヒヤリと冷たく、褄に乱れた縮緬の、浅葱も色の凄きまで。        十六  疲れてそのまま、掻巻に頬をつけたなり、浦子はうとうととしかけると、胸の動悸に髪が揺れて、頭を上へ引かれるのである。 「ああ、」  とばかり声も出ず、吃驚したようにまた起直った。  扱帯は一層しゃらどけして、褄もいとどしく崩れるのを、懶げに持て扱いつつ、忙しく肩で呼吸をしたが、 「ええ、誰も来てくれないのかねえ、私が一人でこんなに、」  と重たい髷をうしろへ振って、そのまま仰ざまに倒れそうな、身を揉んで膝で支えて、ハッとまた呼吸を吐くと、トントンと岩に当って、時々崖を洗う浪。松風が寂として、夜が更けたのに心着くほど、まだ一声も人を呼んでは見ないのであった。 「松か、」  夫人は残燈に消え残る、幻のような姿で、蚊帳の中から女中を呼んだ。  けれども、直ぐに寐入ったものの呼覚される時刻でない。  第一(松、)という、その声が、出たか、それとも、ただ呼んで見ようと心に思ったばかりであるか、それさえも現である。 「松や、」と言って、夫人は我が声に我と我が耳を傾ける。胸のあたりで、声は聞えたようであるが、口へ出たかどうか、心許ない。  まあ、口も利けなくなったのか、と情なく、心細く、焦って、ええと、片手に左右の胸を揺って、 「松や、」と、急き調子でもう一度。 (松や、)と細いのが、咽喉を放れて、縁が切れて、たよりなくどこからか、あわれに寂しく此方へ聞えて、遥か間を隔てた襖の隅で、人を呼んでいるかと疑われた。 「ああ、」とばかり、あらためて、その(松や、)を言おうとすると、溜息になってしまう。蚊帳が煽るか、衾が揺れるか、畳が動くか、胸が躍るか。膝を組み緊めて、肩を抱いても、びくびくと身内が震えて、乱れた褄もはらはらと靡く。  引掴んでまで、撫でつけた、鬢の毛が、煩くも頬へかかって、その都度脈を打って血や通う、と次第に烈しくなるにつれ、上へ釣られそうな、夢の針、汀の嫗。  今にも宙へ、足が枕を離れやせん。この屋根の上に蘆が生えて、台所の煙出しが、水面へあらわれると、芥溜のごみが淀んで、泡立つ中へ、この黒髪が倒に、髻から搦まっていようも知れぬ。あれ、そういえば、軒を渡る浜風が、さらさら水の流るる響。  恍惚と気が遠い天井へ、ずしりという沈んだ物音。  船がそこったか、その船には銑太郎と自分が乗って……  今、舷へ髪の毛が。 「あッ、」と声立てて、浦子は思わず枕許へすッくと立ったが、あわれこれなりに嫗の針で、天井を抜けて釣上げられよう、とあるにもあられず、ばたり膝を支くと、胸を反らして、抜け出る状に、裳を外。  蚊帳が顔へ搦んだのが、芬と鼻をついた水の香。引き息で、がぶりと一口、溺るるかと飲んだ思い、これやがて気つけになりぬ。  目もようよう判然と、蚊帳の緑は水ながら、紅の絹のへり、かくて珊瑚の枝ならず。浦子は辛うじて蚊帳の外に、障子の紙に描かれた、胸白き浴衣の色、腰の浅葱も黒髪も、夢ならぬその我が姿を、歴然と見たのである。        十七  しばらくして、浦子は玉ぼやの洋燈の心を挑げて、明くなった燈に、宝石輝く指の尖を、ちょっと髯に触ったが、あらためてまた掻上げる。その手で襟を繕って、扱帯の下で褄を引合わせなどしたのであるが、心には、恐ろしい夢にこうまで疲労して、息づかいさえ切ないのに、飛んだ身体の世話をさせられて、迷惑であるがごとき思いがした。  且つその身体を棄てもせず、老実やかに、しんせつにあしらうのが、何か我ながら、身だしなみよく、床しく、優しく、嬉しいように感じたくらい。  一つくぐって鳩尾から膝のあたりへずり下った、その扱帯の端を引上げざまに、燈を手にして、柳の腰を上へ引いてすらりと立ったが、小用に、と思い切った。  時に、障子を開けて、そこが何になってしまったか、浜か、山か、一里塚か、冥途の路か。船虫が飛ぼうも、大きな油虫が駈け出そうも料られない。廊下へ出るのは気がかりであったけれど、なおそれよりも恐ろしかったのは、その時まで自分が寝て居た蚊帳の内を窺って見ることで。  蹴出しも雪の爪尖へ、とかくしてずり下り、ずり下る寝衣の褄を圧えながら、片手で燈をうしろへ引いて、ぼッとする、肩越のあかりに透かして、蚊帳を覗こうとして、爪立って、前髪をそっと差寄せては見たけれども、夢のために身を悶えた、閨の内の、情ない状を見るのも忌わしし、また、何となく掻巻が、自分の形に見えるにつけても、寝ていて、蚊帳を覗うこの姿が透いたら、気絶しないでは済むまいと、思わずよろよろと退って、引くるまる裳危く、はらりと捌いて廊下へ出た。  次の室は真暗で、そこにはもとより誰も居ない。  閨と並んで、庭を前に三間続きの、その一室を隔てた八畳に、銑太郎と、賢之助が一つ蚊帳。  そこから別に裏庭へ突き出でた角座敷の六畳に、先生が寝ている筈。  その方にも厠はあるが、運ぶのに、ちと遠い。  件の次の明室を越すと、取着が板戸になって、その台所を越した処に、松という仲働、お三と、もう一人女中が三人。  婦人ばかりでたよりにはならぬが、近い上に心安い。  それにちと間はあるが、そこから一目の表門の直ぐ内に、長屋だちが一軒あって、抱え車夫が住んでいて、かく旦那が留守の折からには、あけ方まで格子戸から灯がさして、四五人で、ひそめくもの音。ひしひしと花ふだの響がするのを、保養の場所と大目に見ても、好いこととは思わなかったが、時にこそよれ頼母しい。さらばと、やがて廊下づたい、踵の音して、するすると、裳の気勢の聞ゆるのも、我ながら寂しい中に、夢から覚めたしるしぞ、と心嬉しく、明室の前を急いで越すと、次なる小室の三畳は、湯殿に近い化粧部屋。これは障子が明いていた。  中から風も吹くようなり、傍正面の姿見に、勿、映りそ夢の姿とて、首垂るるまで顔を背けた。  新しい檜の雨戸、それにも顔が描かれそう。真直に向き直って、衝と燈を差出しながら、突あたりへ辿々しゅう。        十八  ばたり、閉めた杉戸の音は、かかる夜ふけに、遠くどこまで響いたろう。  壁は白いが、真暗な中に居て、ただそればかりを力にした、玄関の遠あかり、車夫部屋の例のひそひそ声が、このもの音にハタと留んだを、気の毒らしく思うまで、今夜はそれが嬉しかった。  浦子の姿は、無事に厠を背後にして、さし置いたその洋燈の前、廊下のはずれに、媚かしく露われた。  いささか心も落着いて、カチンとせんを、カタカタとさるを抜いた、戸締り厳重な雨戸を一枚。半ば戸袋へするりと開けると、雪ならぬ夜の白砂、広庭一面、薄雲の影を宿して、屋根を越した月の影が、廂をこぼれて、竹垣に葉かげ大きく、咲きかけるか、今、開くと、朝の色は何々ぞ。紺に、瑠璃に、紅絞り、白に、水紅色、水浅葱、莟の数は分らねども、朝顔形の手水鉢を、朦朧と映したのである。  夫人は山の姿も見ず、松も見ず、松の梢に寄る浪の、沖の景色にも目は遣らず、瞳を恍惚見据えるまで、一心に車夫部屋の灯を、遥に、船の夢の、燈台と力にしつつ、手を遣ると、……柄杓に障らぬ。  気にもせず、なお上の空で、冷たく瀬戸ものの縁を撫でて、手をのばして、向うまで辷らしたが、指にかかる木の葉もなかった。  目を返して透かして見ると、これはまた、胸に届くまで、近くあり。  直ぐに取ろうとする、柄杓は、水の中をするすると、反対まえに、山の方へ柄がひとりで廻った。  夫人は手のものを落したように、俯向いて熟と見る。  手水鉢と垣の間の、月の隈暗き中に、ほのぼのと白く蠢くものあり。  その時、切髪の白髪になって、犬のごとく踞ったが、柄杓の柄に、痩せがれた手をしかとかけていた。  夕顔の実に朱の筋の入った状の、夢の俤をそのままに、ぼやりと仰向け、 「水を召されますかいの。」  というと、艶やかな歯でニヤリと笑む。  息とともに身を退いて、蹌踉々々と、雨戸にぴッたり、風に吹きつけられたようになって面を背けた。斜ッかいの化粧部屋の入口を、敷居にかけて廊下へ半身。真黒な影法師のちぎれちぎれな襤褸を被て、茶色の毛のすくすくと蔽われかかる額のあたりに、皺手を合わせて、真俯向けに此方を拝んだ這身の婆は、坂下の藪の姉様であった。  もう筋も抜け、骨崩れて、裳はこぼれて手水鉢、砂地に足を蹈み乱して、夫人は橋に廊下へ倒れる。  胸の上なる雨戸へ半面、ぬッと横ざまに突出したは、青ンぶくれの別の顔で、途端に銀色の眼をむいた。  のさのさのさ、頭で廊下をすって来て、夫人の枕に近づいて、ト仰いで雨戸の顔を見た、額に二つ金の瞳、真赤な口を横ざまに開けて、 「ふァはははは、」 「う、うふふ、うふふ、」と傾がって、戸を揺って笑うと、バチャリと柄杓を水に投げて、赤目の嫗は、 「おほほほほほ、」と尋常な笑い声。  廊下では、その握られた時氷のように冷たかった、といった手で、頬にかかった鬢の毛を弄びながら、 「洲の股の御前も、山の峡の婆さまも早かったな。」というと、 「坂下の姉さま、御苦労にござるわや。」と手水鉢から見越して言った。  銀の目をじろじろと、 「さあ、手を貸され、連れて行にましょ。」        十九 「これの、吐く呼吸も、引く呼吸も、もうないかいの、」と洲の股の御前がいえば、 「水くらわしや、」  と峡の婆が邪慳である。  ここで坂下の姉様は、夫人の前髪に手をさし入れ、白き額を平手で撫でて、 「まだじゃ、ぬくぬくと暖い。」 「手を掛けて肩を上げされ、私が腰を抱こうわいの。」  と例の横あるきにその傾いた形を出したが、腰に組んだ手はそのままなり。  洲の股の御前、傍より、 「お婆さん、ちょっとその鱏の針で口の端縫わっしゃれ、声を立てると悪いわや。」 「おいの、そうじゃの。」と廊下でいって、夫人の黒髪を両手で圧えた。  峡の婆、僅に手を解き、頤で襟を探って、無性らしく撮み出した、指の爪の長く生伸びたかと見えるのを、一つぶるぶると掉って近づき、お伽話の絵に描いた外科医者という体で、震く唇に幽に見える、夫人の白歯の上を縫うよ。  浦子の姿は烈しく揺れたが、声は始めから得立てなかった。目は睜いていたのである 「もう可いわいの、」  と峡の婆、傍に身を開くと、坂の下の姉様は、夫人の肩の下へ手を入れて、両方の傍を抱いて起した。  浦子の身は、柔かに半ば起きて凭れかかると、そのまま庭へずり下りて、 「ござれ、洲の股の御前、」  といって、坂下の姉様、夫人の片手を。  洲の股の御前も、おなじく傍から夫人の片手を。  ぐい、と取って、引立てる。右と左へ、なよやかに脇を開いて、扱帯の端が縁を離れた。髪の根は髷ながら、笄ながら、がッくりと肩に崩れて、早や五足ばかり、釣られ工合に、手水鉢を、裏の垣根へ誘われ行く。  背後に残って、砂地に独り峡の婆、件の手を腰に極めて、傾がりながら、片手を前へ、斜めに一煽り、ハタと煽ると、雨戸はおのずからキリキリと動いて閉った。  二人の婆に挟まれ、一人に導かれて、薄墨の絵のように、潜門を連れ出さるる時、夫人の姿は後ざまに反って、肩へ顔をつけて、振返ってあとを見たが、名残惜しそうであわれであった。  時しも一面の薄霞に、処々艶あるよう、月の影に、雨戸は寂と連って、朝顔の葉を吹く風に、さっと乱れて、鼻紙がちらちらと、蓮歩のあとのここかしこ、夫人をしとうて散々なり。         *     *     *     *     *  あと白浪の寄せては返す、渚長く、身はただ、黄なる雲を蹈むかと、裳も空に浜辺を引かれて、どれだけ来たか、海の音のただ轟々と聞ゆるあたり。 「ここじゃ、ここじゃ。」  どしりと夫人の横倒。 「来たぞや、来たぞや、」 「今は早や、気随、気ままになるのじゃに。」  何処の果か、砂の上。ここにも船の形の鳥が寝ていた。  ぐるりと三人、三つ鼎に夫人を巻いた、金の目と、銀の目と、紅糸の目の六つを、凶き星のごとくキラキラと砂の上に輝かしたが、 「地蔵菩薩祭れ、ふァふァ、」と嘲笑って、山の峡がハタと手拍子。 「山の峡は繁昌じゃ、あはは、」と洲の股の御前、足を挙げる。 「洲の股もめでたいな、うふふ、」  と北叟笑みつつ、坂下の嫗は腰を捻った。  諸声に、 「ふァふァふァ、」 「うふふ、」 「あはははは。」 「坂の下祝いましょ。」  今度は洲の股の御前が手を拍つ。 「地蔵菩薩祭れ。」  と山の峡が一足出る、そのあとへ臀を捻って、 「山の峡は繁昌じゃ。」 「洲の股もめでたいな、」とすらりと出る。  拍子を取って、手を拍って、 「坂の下祝いましょ。」  据え腰で、ぐいと伸び、 「地蔵菩薩祭れ。」 「山の峡は繁昌じゃ、」 「洲の股もめでたいな、」 「坂の下祝いましょ、」 「地蔵菩薩祭れ。」  さす手ひく手の調子を合わせた、浪の調、松の曲。おどろおどろと月落ちて、世はただ靄となる中に、ものの影が、躍るわ、躍るわ。        二十  ここに、一つ目と二つ目の浜境、浪間の巌を裾に浸して、路傍に衝と高い、一座螺のごとき丘がある。  その頂へ、あけ方の目を血走らして、大息を吐いて彳んだのは、狭島に宿れる鳥山廉平。  例の縞の襯衣に、その綛の単衣を着て、紺の小倉の帯をぐるぐると巻きつけたが、じんじん端折りの空脛に、草履ばきで帽は冠らず。  昨日は折目も正しかったが、露にしおれて甲斐性が無さそう、高い処で投首して、太く草臥れた状が見えた。恐らく驚破といって跳ね起きて、別荘中、上を下へ騒いだ中に、襯衣を着けて一つ一つそのこはぜを掛けたくらい、落着いていたものは、この人物ばかりであろう。  それさえ、夜中から暁へ引出されたような、とり留めのないなり形、他の人々は思いやられる。  銑太郎、賢之助、女中の松、仲働、抱え車夫はいうまでもない。折から居合わせた賭博仲間の漁師も四五人、別荘を引ぷるって、八方へ手を分けて、急に姿の見えなくなった浦子を捜しに駈け廻る。今しがた路を挟んだ向う側の山の裾を、ちらちらと靄に点れて、松明の火の飛んだもそれよ。廉平がこの丘へ半ば攀じ上った頃、消えたか、隠れたか、やがて見えなくなった。  もとより当のない尋ね人。どこへ、と見当はちっとも着かず、ただ足にまかせて、彼方此方、同じ処を四五度も、およそ二三里の路はもう歩行いた。  不祥な言を放つものは、曰く厠から月に浮かれて、浪に誘われたのであろうも知れず、と即ち船を漕ぎ出したのも有るほどで。  死んだは、活きたは、本宅の主人へ電報を、と蜘蛛手に座敷へ散り乱れるのを、騒ぐまい、騒ぐまい。毛色のかわった犬一疋、匂の高い総菜にも、見る目、齅ぐ鼻の狭い土地がら、俤を夢に見て、山へ百合の花折りに飄然として出かけられたかも料られぬを、狭島の夫人、夜半より、その行方が分らぬなどと、騒ぐまいぞ、各自。心して内分にお捜し申せと、独り押鎮めて制したこの人。  廉平とても、夫人が魚の寄るを見ようでなし、こんな丘へ、よもや、とは思ったけれども、さて、どこ、という目的がないので、船で捜しに出たのに対して、そぞろに雲を攫むのであった。  目の下の浜には、細い木が五六本、ひょろひょろと風に揉まれたままの形で、静まり返って見えたのは、時々潮が満ちて根を洗うので、梢はそれより育たぬならん。ちょうど引潮の海の色は、煙の中に藍を湛えて、或は十畳、二十畳、五畳、三畳、真砂の床に絶えては連なる、平らな岩の、天地の奇しき手に、鉄槌のあとの見ゆるあり、削りかけの鑪の目の立ったるあり。鑿の歯形を印したる、鋸の屑かと欠々したる、その一つ一つに、白浪の打たで飜るとばかり見えて音のないのは、岩を飾った海松、ところ、あわび、蠣などいうものの、夜半に吐いた気を収めず、まだほのぼのと揺ぐのが、渚を籠めて蒸すのである。  漁家二三。──深々と苫屋を伏せて、屋根より高く口を開けたり、家より大きく底を見せたり、ころりころりと大畚が五つ六つ。        二十一  さてこの丘の根に引寄せて、一艘苫を掛けた船があった。海士も簑きる時雨かな、潮の潵は浴びながら、夜露や厭う、ともの優しく、よろけた松に小綱を控え、女男の波の姿に拡げて、すらすらと乾した網を敷寝に、舳の口がすやすやと、見果てぬ夢の岩枕。  傍なる苫屋の背戸に、緑を染めた青菜の畠、結い繞らした蘆垣も、船も、岩も、ただなだらかな面平に、空に躍った刎釣瓶も、靄を放れぬ黒い線。些と凹凸なく瞰下さるる、かかる一枚の絵の中に、裳の端さえ、片袖さえ、美しき夫人の姿を、何処に隠すべくも見えなかった。  廉平は小さなその下界に対して、高く雲に乗ったように、円く靄に包まれた丘の上に、踏はずしそうに崖の尖、五尺の地蔵の像で立ったけれども。  頭を垂れて嘆息した。  さればこの時の風采は、悪魔の手に捕えられた、一体の善女を救うべく、ここに天降った菩薩に似ず、仙家の僕の誤って廬を破って、下界に追い下された哀れな趣。  廉平は腕を拱いて悄然としたのである。時に海の上にひらめくものあり。  翼の色の、鴎や飛ぶと見えたのは、波に静かな白帆の片影。  帆風に散るか、露消えて、と見れば、海に露れた、一面大なる岩の端へ、船はかくれて帆の姿。  ぴたりとついて留まったが、飜然と此方へ向をかえると、渚に据った丘の根と、海なるその岩との間、離座敷の二三間、中に泉水を湛えた状に、路一条、東雲のあけて行く、蒼空の透くごとく、薄絹の雲左右に分れて、巌の面に靡く中を、船はただ動くともなく、白帆をのせた海が近づき、やがて横ざまに軽くまた渚に止った。  帆の中より、水際立って、美しく水浅葱に朝露置いた大輪の花一輪、白砂の清き浜に、台や開くと、裳を捌いて衝と下り立った、洋装したる一人の婦人。  夜干に敷いた網の中を、ひらひらと拾ったが、朝景色を賞ずるよしして、四辺を見ながら、その苫船に立寄って苫の上に片手をかけたまま、船の方を顧みると、千鳥は啼かぬが友呼びつらん。帆の白きより白衣の婦人、水紅色なるがまた一人、続いて前後に船を離れて、左右に分れて身軽に寄った。  二人は右の舷に、一人は左の舷に、その苫船に身を寄せて、互に苫を取って分けて、船の中を差覗いた。淡きいろいろの衣の裳は、長く渚へ引いたのである。  廉平は頂の靄を透かして、足許を差覗いて、渠等三人の西洋婦人、惟うに誂えの出来を見に来たな。苫をふいて伏せたのは、この人々の註文で、浜に新造の短艇ででもあるのであろう。  と見ると二人の脇の下を、飜然と飛び出した猫がある。  トタンに一人の肩を越して、空へ躍るかと、もう一匹、続いて舳から衝と抜けた。最後のは前脚を揃えて海へ一文字、細長い茶色の胴を一畝り畝らしたまで鮮麗に認められた。  前のは白い毛に茶の斑で、中のは、その全身漆のごときが、長く掉った尾の先は、舳を掠めて失せたのである。        二十二  その時、前後して、苫からいずれも面を離し、はらはらと船を退いて、ひたと顔を合わせたが、方向をかえて、三人とも四辺を眗して彳む状、おぼろげながら判然と廉平の目に瞰下された。  水浅葱のが立樹に寄って、そこともなく仰いだ時、頂なる人の姿を見つけたらしい。  手を挙げて、二三度続ざまに麾くと、あとの二人もひらひらと、高く手巾を掉るのが見えた。  要こそあれ。  廉平は雲を抱くがごとく上から望んで、見えるか、見えぬか、慌しく領き答えて、直ちに丘の上に踵を回らし、栄螺の形に切崩した、処々足がかりの段のある坂を縫って、ぐるぐると駈けて下り、裾を伝うて、衝と高く、ト一飛低く、草を踏み、岩を渡って、およそ十四五分時を経て、ここぞ、と思う山の根の、波に曝された岩の上。  綱もあり、立樹もあり、大きな畚も、またその畚の口と肩ずれに、船を見れば、苫葺いたり。あの位高かった、丘は近く頭に望んで、崖の青芒も手に届くに、婦人たちの姿はなかった。白帆は早や渚を彼方に、上からは平であったが、胸より高く踞まる、海の中なる巌かげを、明石の浦の朝霧に島がくれ行く風情にして。  かえって別なる船一艘、ものかげに隠れていたろう。はじめてここに見出されたが、一つ目の浜の方へ、半町ばかり浜のなぐれに隔つる処に、箱のような小船を浮べて、九つばかりと、八つばかりの、真黒な男の児。一人はヤッシと艪柄を取って、丸裸の小腰を据え、圧すほどに突伏すよう、引くほどに仰反るよう、ただそこばかり海が動いて、舳を揺り上げ、揺り下すを面白そうに。穉い方は、両手に舷に掴まりながら、これも裸の肩で躍って、だぶりだぶりだぶりだぶりと同一処にもう一艘、渚に纜った親船らしい、艪を操る児の丈より高い、他の舷へ波を浴びせて、ヤッシッシ。  いや、道草する場合でない。  廉平は、言葉も通じず、国も違って便がないから、かわって処置せよ、と暗示されたかのごとく、その苫船の中に何事かあることを悟ったので、心しながら、気は急ぎ、つかつかと毛脛長く藁草履で立寄った。浜に苫船はこれには限らぬから、確に、上で見ていたのをと、頂を仰いで一度。まずその二人が前に立った、左の方の舷から、ざくりと苫を上へあげた。……  ざらざらと藁が揺れて、広き額を差入れて、べとりと頤髯一面なその柔和な口を結んで、足をやや爪立ったと思うと、両の肩で、吃驚の腹を揉んで、けたたましく飛び退いて、下なる網に躓いて倒れぬばかり、きょとんとして、太い眉の顰んだ下に、眼を円にして四辺を眺めた。  これなる丘と相対して、対うなる、海の面にむらむらと蔓った、鼠色の濃き雲は、彼処一座の山を包んで、まだ霽れやらぬ朝靄にて、もの凄じく空に冲って、焔の連って燃るがごときは、やがて九十度を越えんずる、夏の日を海気につつんで、崖に草なき赤地へ、仄に反映するのである。  かくて一つ目の浜は彎入する、海にも浜にもこの時、人はただ廉平と、親船を漕ぎ繞る長幼二人の裸児あるのみ。        二十三  得も言われぬ顔して、しばらく棒のごとく立っていた、廉平は何思いけん、足を此方に返して、ずッと身を大きく巌の上へ。  それを下りて、渚づたい、船を弄ぶ小児の前へ。  近づいて見れば、渠等が漕ぎ廻る親船は、その舳を波打際。朝凪の海、穏かに、真砂を拾うばかりなれば、纜も結ばず漾わせたのに、呑気にごろりと大の字形、楫を枕の邯鄲子、太い眉の秀でたのと、鼻筋の通ったのが、真向けざまの寝顔である。  傍の船も、穉いものも、惟うにこの親の子なのであろう。  廉平は、ものも言わずに駈け歩行いた声をまず調えようと、打咳いたが、えへん! と大きく、調子はずれに響いたので、襯衣の袖口の弛んだ手で、その口許を蔽いながら、 「おい、おい。」  寝た人には内証らしく、低調にして小児を呼んだ。 「おい、その兄さん、そっちの児。むむ、そうだ、お前達だ。上手に漕ぐな、甘いものだ、感心なもんじゃな。」  声を掛けられると、跳上って、船を揺ること木の葉のごとし。 「あぶない、これこれ、話がある、まあ、ちょっと静まれ。  おお、怜悧々々、よく言うことを肯くな。  何じゃ、外じゃないがな、どうだ余り感心したについて、もうちッと上手な処が見せてもらいたいな。  どうじゃ、ずッと漕げるか。そら、あの、そら巌のもっとさきへ、海の真中まで漕いで行けるか、どうじゃろうな。」  寄居虫で釣る小鰒ほどには、こんな伯父さんに馴染のない、人馴れぬ里の児は、目を光らすのみ、返事はしないが、年紀上なのが、艪の手を止めつつ、けろりで、合点の目色をする。 「漕げる? むむ、漕げる! 豪いな、漕いで見せな〳〵。伯父さんが、また褒美をやるわ。  いや、親仁、何よ、お前の父さんか、父爺には黙ってよ、父爺に肯くと、危いとか悪戯をするなとか、何とか言って叱られら。そら、な、可いか、黙って黙って。」  というと、また合点々々。よい、と圧した小腕ながら艪を圧す精巧な昆倫奴の器械のよう、シッと一声飛ぶに似たり。疾い事、但し揺れる事、中に乗った幼い方は、アハハアハハ、と笑って跳ねる。 「豪いぞ、豪いぞ。」  というのも憚り、たださしまねいて褒めそやした。小船は見る見る廉平の高くあげた手の指を離れて、岩がくれにやがてただ雲をこぼれた点となンぬ。  親船は他愛がなかった。  廉平は急ぎ足に取って返して、また丘の根の巌を越して、苫船に立寄って、此方の船舷を横に伝うて、二三度、同じ処を行ったり、来たり。  中ごろで、踞んで畚の陰にかくれたと思うと、また突立って、端の方から苫を撫でたり、上からそっと叩きなどしたが、更にあちこちを眗して、ぐるりと舳の方へ廻ったと思うと、向うの舷の陰になった。  苫がばらばらと煽ったが、「ああ」と息の下に叫ぶ声。藁を分けた艶なる片袖、浅葱の褄が船からこぼれて、その浴衣の染、その扱帯、その黒髪も、その手足も、ちぎれちぎれになったかと、砂に倒れた婦人の姿。        二十四 「気を静めて、夫人、しっかりしなければ不可ません。落着いて、可いですか。心を確にお持ちなさいよ。  判りましたか、私です。  何も恥かしい事はありません、ちっとも極りの悪いことはありませんです。しっかりなさい。  御覧なさい、誰も居ないです、ただ私一人です。鳥山たった一人、他には誰も居らんですから。」  海の方を背にして安からぬ状に附添った、廉平の足許に、見得もなく腰を落し、裳を投げて崩折れつつ、両袖に面を蔽うて、ひたと打泣くのは夫人であった。 「ほんとうに夫人、気を落着けて下さらんでは不可ません。突然海へ飛込もうとなすったりなんぞして、串戯ではない。ええ、夫人、心が確になったですか。」  声にばかり力を籠めて、どうしようにも先は婦人、ひとえに目を見据えて言うのみであった。  風そよそよと呼吸するよう、すすりなきの袂が揺れた。浦子は涙の声の下、 「先生、」と幽にいう。 「はあ、はあ、」  と、纔かに便を得たらしく、我を忘れて擦り寄った。 「私、私は、もう死んでしまいたいのでございます。」  わッとまた忍び音に、身悶えして突伏すのである。 「なぜですか、夫人、まだ、どうかしておいでなさる、ちゃんとなさらなくッては不可んですよ。」 「でも、貴下、私は、もう……」 「はあ、どうなすった、どんなお心持なんですか。」 「先生、」 「はあ、どうですな。」 「私が、あの、海へ入って死のうといたしましたのより、貴下は、もっとお驚きなさいました事がございましょう。」 「……………………」  何と言おうと、黙って唾を呑む。 「私が、私が、こんな処に船の中に、寝て、寝て、」  と泣いじゃくりして、 「寝かされておりましたのに、なお吃驚なさいましてしょうねえ、貴下。」 「……ですが、それは、しかし……」とばかり、廉平は言うべき術を知らなかった 「先生、」  これぎり、声の出ない人になろうも知れず、と手に汗を握ったのが、我を呼ばれたので、力を得て、耳を傾け、顔を寄せて、 「は、」 「ここは、どこでございます。」 「ここですか、ここは、一つ目の浜を出端れた、崖下の突端の処ですが、」 「もう、夜があけましたのでございますか。」 「明けたですよ。明方です、もう日が当るばかりです。」  聞くや否や、 「ええ!」とまた身を震わした。浦子はそれなり、腰を上げて立とうとして、ままならぬ身をあせって、 「恥かしい、私、恥かしいんですよ。先生、どうしましょう、人が見ます。人が来ると不可ません、人に見られるのは厭ですから、どうぞ死なして下さいまし、死なして下さいましよ。」 「と、ともかく。ですからな、夫人、人が来ない内に、帰りましょう。まだ大して人通もないですから。疾く、さあ、疾く帰ろうではありませんか。お内へ行って、まず、お心をお鎮めなさい、そうなさい。」  浦子は烈しく頭を掉った。        二十五  為ん術を知らず黙っても、まだ頭をふるのであるから、廉平は茫然として、ただ拳を握って、 「どうなさる。こうしていらしっては、それこそ、人が寄って来るか分りません。第一、捜しに出ましたのでも四人や八人ではありません。」  言いも終らず、あしずりして、 「どうしましょう、私、どうしましょうねえ。どうぞ、どうぞ、貴下、一思いに死なして下さいまし、恥かしくっても、死骸になれば……」  泣くのに半ば言消えて、 「よ、後生ですから、」  も曇れる声なり。  心弱くて叶うまじ、と廉平はやや屹としたものいいで、 「飛んだ事を! 夫人、廉平がここに居るです。決して、決して、そんな間違はさせんですよ。」 「どうしましょうねえ、」  はッと深く溜息つくのを、 「……………………」  ただ咽喉を詰めて熟と見つつ、思わず引き入れられて歎息した。  廉平は太い息して、 「まあ、貴女、夫人、一体どうなさった。」 「訳を、訳をいえば貴下、黙って死なして下さいますよ。もう、もう、もう、こんな汚わしいものは、見るのも厭におなりなさいますよ。」 「いや、厭になるか、なりませんか、黙って見殺しにしましょうか。何しろ、訳をおっしゃって下さい。夫人、廉平です。人にいって悪い事なら、私は盟って申しませんです。」  この人の平生はかく盟うのに適していた。 「は、申します、先生、貴下だけなら申します。」 「言うて下さるか、それは難有い、むむ、さあ、承りましょう。」 「どうぞ、その、その前に先生、どこへか、人の居ない、谷底か、山の中か、島へでも、巌穴へでも、お連れなすって下さいまし。もう、貴下にばかりも精一杯、誰にも見せられます身体ではないんです。」  袖を僅に濡れたる顔、夢見るように恍惚と、朝ぼらけなる酔芙蓉、色をさました涙の雨も、露に宿ってあわれである。 「人の来ない処といって、お待ちなさい、船ででもどちらへか、」  と心当りがないでもなかった。沖の方へ見え初めて、小児の船が靄から出て来た。  夫人は時にあらためて、世に出たような目ざししたが、苫船を一目見ると、目ぶちへ、颯と──蒼ざめて、悚然としたらしく肩をすくめた、黒髪おもげに、沖の方。 「もし、」 「は、」 「参られますなら、あすこへでも。」  いかにも人は籠らぬらしい、物凄じき対岸の崖、炎を宿して冥々たり。 「あんな、あんなその、地獄の火が燃えておりますような、あの中へ、」 「結構なんでございます、」と、また打悄れて面を背ける。  よくよくの事なるべし。 「参りましょうか。靄が霽れれば、ここと向い合った同一ような崖下でありますけれども、途中が海で切れとるですから、浜づたいに人の来る処ではありません。  御覧なさい、あの小児の船を。大丈夫漕ぐですから、あれに乗せてもらいましょう、どうです。」  夫人は、がッくりして頷いた、ものを言うも切なそうに太く疲労して見えたのである。 「夫人、それでは。」 「はい、」  と言って礼心に、寂しい笑顔して、吻と息。        二十六 「そんな、そんな貴女、詰らん、怪しからん事があるべき次第のものではないです。汚れた身体だの、人に顔は合わされんのとお言いなさるのはその事ですか。ははははは、いや、しかし飛んだ目にお逢いでした。ちっとも御心配はないですよ。まあ、その足をお拭きなさい。突然こんな処へ着けたですから、船を離れる時、酷くお濡れなすったようだ。」  廉平は砥に似て蒼き条のある滑かな一座の岩の上に、海に面して見すぼらしく踞んだ、身にただ襯衣を纏えるのみ。  船の中でも人目を厭って、紺がすりのその単衣で、肩から深く包んでいる。浦子の蹴出しは海の色、巌端に蒼澄みて、白脛も水に透くよう、倒れた風情に休らえる。  二人は靄の薄模様。 「構わんですから、私の衣服でお拭きなさい。  何、寒くはないです、寒いどころではないですが、貴女、裾が濡れましたで、気味が悪いでありましょう。」 「いえ、もう潮に濡れて気味が悪いなぞと、申されます身体ではありません。」と、投げたように岩の上。 「まだ、おっしゃる!」 「ははは、」と廉平は笑い消したが、自分にも疑いの未だ解けぬ、蘆の中なる幻影を、この際なれば気もない風で、 「夢の中を怪しいものに誘い出されて、苫船の中で、お身体を……なんという、そんな、そんな事がありますものかな。」 「それでも私、」  と、かかる中にも夫人は顔を赧らめた。 「覚えがあるのでございますもの。貴下が気をつけて下すって、あの苫船の中で漸々自分の身体になりました時も、そうでした、……まあ、お恥かしい。」  といいかけて差俯向く、額に乱れた前髪は、歯にも噛むべく怨めしそう。 「ですが、ですが、それは心の迷いです。昨日あたりからどうかなさって、お身体の工合が悪いのでしょう。西洋なぞにも、」  言の下に聞き咎め、 「西洋とおっしゃれば、貴下は西洋の婦人の方が、私のつかまっておりました船の中を覗いて見て、仔細がありそうに招いたのを、丘の上から御覧なすって、それでお心着きになりましたって。  その時も、苫を破って獣が飛んで行ったとおっしゃるではございませんか。  ですから私は、」  と早や力なげに、なよなよとするのであった。 「いや、」  と当なしに大きく言った、が、いやな事はちっともない。どうして発見したかを怪しまれて、湾の口を横ぎって、穉児に船を漕がせつつ、自分が語ったは、まずその通。 「ですけれども、何ですな。」 「いいえ」  今度は夫人から遮って、 「もう昨日、二つ目の浜へ参りました途中から、それはそれは貴下、忌わしい恐ろしい事ばかりで、私は何だか約束ごとのように存じます。  三十という年に近いこの年になりますまで、少い折から何一つ苦労ということは知りませんで、悲しい事も、辛い事もついぞ覚えはありません、まだ実家には両親も達者で居ます身の上ですもの。  腹の立った事さえござんせん、余り果報な身体ですから、盈れば虧くるとか申します通り、こんな恐しい目に逢いましたので。唯今ここへ船を漕いでくれました小児たちが、年こそ違いますけれども、そっくり大きいのが銑さん、小さい方が賢之助に肖ておりましたのも、皆私の命数で、何かの因縁なんでございましょうから。」  いうことの極めて確かに、心狂える様子もないだけ、廉平は一層慰めかねる。        二十七  夫人はわずかに語るうちも、あまたたび息を継ぎ、 「小児と申しても継しい中で、それでも姉弟とも、真の児とも、賢之助は可愛くッてなりません。ただ心にかかりますのはそれだけですが、それも長年、貴下が御丹精下さいましたお庇で、高等学校へ入学も出来ましたのでございますから、きっと私の思いでも、一人前になりましょう。  もう私は、こんな身体、見るのも厭でなりません。ぶつぶつ切って刻んでも棄てたいように思うんですもの、ちっとも残り惜いことはないのですが、慾には、この上の願いには、これが、何か、義理とか意気とか申すので死ぬんなら、本望でございますのに、活きながら畜生道とはどうした因果なんでございましょうねえ。」  と、心もやや落着いたか、先のようには泣きもせで、濁りも去った涼しい目に、ほろりとしたのを、熟と見て、廉平堪りかねた面色して、唇をわななかし、小鼻に柔和な皺を刻んで、深く両手を拱いたが、噫、我かつて誓うらく、いかなる時にのぞまんとも、我心、我が姿、我が相好、必ず一体の地蔵のごとくしかくあるべき也と、そもさんか菩薩。 「夫人、どうしても、貴女、怪い獣に……という、疑は解けんですか。」 「はい、お恥かしゅう存じます。」と手を支いて、誰にか詫び入る、そのいじらしさ。  眼を閉じたが、しばらくして、 「恐るべきです、恐るべきだ。夢現の貴女には、悪獣の体に見えましたでありましょう。私の心は獣でした。夫人、懺悔をします。廉平が白状するです。貴女に恥辱を被らしたものは、四脚の獣ではない、獣のような人間じゃ。  私です。  鳥山廉平一生の迷いじゃ、許して下さい。」と、その襯衣ばかりの頸を垂れた。  夫人はハッと顔を上げて、手をつきざまに右視左瞻つつ、背に乱れた千筋の黒髪、解くべき術もないのであった。 「許して下さい。お宅へ参って、朝夕、貴女に接したのが因果です。賢君に対して殆んど献身的に尽したのは、やがて、これ、貴女に生命を捧げていたのです。  未だ四十という年にもならんで、御存じの通り、私は、色気もなく、慾気もなく、見得もなく、およそ出世間的に超然として、何か、未来の霊光を認めておるような男であったのを御存じでしょう。  なかなか以て、未来の霊光ではなく、貴女のその美しいお姿じゃった。  けれども、到底尋常では望みのかなわぬことを悟ったですから、こんど当地の別荘をおなごりに、貴女のお傍を離れるに就いて、非常な手段を用いたですよ。  五年勤労に酬いるのに、何か記念の品をと望まれて、悟も徳もなくていながら、ただ仏体を建てるのが、おもしろい、工合のいい感じがするで、石地蔵を願いました。  今の世に、さような変ったことを言い、かわったことを望むものが、何……をするとお思いなさる。  廉平は魔法づかいじゃ。」  と石上に跣坐したその容貌、その風采、或はしかあるべく見えるのであった。  夫人は、ただもの言わんとして唇のわななくのみ。 「貴女も、昨日、その地蔵をあつらえにおいでの途中から、怪しいものに憑かれたとおっしゃった。……  すべて、それが魔法なので、貴女を魅して、夢現の境に乗じて、その妄執を晴しました。  けれども余りに痛しい。ひとえに獣にとお思いなすって、玉のごときそのお身体を、砕いて切っても棄てたいような御容子が、余りお可哀相で見ておられん。  夫人、真の獣よりまだこの廉平と、思し召す方が、いくらかお心が済むですか。」  夫人はせいせい息を切った。        二十八 「どうですか、余り推つけがましい申分ではありますが、心はおなじ畜生でも、いくらか人間の顔に似た、口を利く、手足のある、廉平の方が可いですか。」  口へ出すとよりは声をのんで、 「貴下、」 「…………」 「貴下、」 「…………」 「貴下、ほんとうでございますか。」 「勿論、懺悔したのじゃで。」  と、眉を開いてきっぱりという。  膝でじりりとすり寄って、 「ええ、嬉しい。貴下、よくおっしゃって下さいました。」  としっかと膝に手をかけて、わッとまた泣きしずむ。廉平は我ながら、訝しいまで胸がせまった。 「私と言われて、お喜びになりますほど、それほどの思をなさったですか。」 「いいえ、もう、何ともたとえようはござんせん。死んでも死骸が残ります、その獣の爪のあと舌のあとのあります、毛だらけな膚が残るのですもの。焼きましても狐狸の悪い臭がしましょうかと、心残りがしましたのに、貴下、よく、思い切ってそうおっしゃって下さいました。快よく死なれます、死なれるんでございますよ。」 「はてさて、」 「………………」 「じゃ、やっぱり、死ぬのを思い止まっちゃ下さらん。」  顔を見合わせ、打頷き、 「むむ、成程、」  と腕を解いて、廉平は従容として居直った。 「成程、そうじゃ。貴女ほどのお方が、かかる恥辱をお受けなさって、夢にして、ながらえておいでなさる筈ではないのじゃった。  懺悔をいたせば、悪い夢とあきらめて、思い直して頂けることもあろうかと思ったですが、いかにも取返しのつかんお身体にしたのじゃった、恥入ります。  夫人、貴女ばかりは殺しはせんのじゃ。」 「いいえ、飛んだことをおっしゃいます。殿方には何でもないのでございますもの、そして懺悔には罪が消えますと申します、お怨みには思いません。」 「許して下さるか。」 「女の口から行き過ぎではございますが、」 「許して下さる。」 「はい、」 「それではどうぞ、思い直して、」 「私はもう、」  と衝と前褄を引寄せる。岩の下を掻いくぐって、下の根のうつろを打って、絶えず、丁々と鼓の音の響いたのが、潮や満ち来る、どッと烈しく、ざぶり砕けた波がしら、白滝を倒に、颯とばかり雪を崩して、浦子の肩から、頭から。 「あ、」と不意に呼吸を引いた。濡れしおたれた黒髪に、玉のつらなる雫をかくれば、南無三浪に攫わるる、と背を抱くのに身を恁せて、観念した顔の、気高きまでに莞爾として、 「ああ、こうやって一思いに。」 「夫人、おくれはせんですよ。」と、顔につららを注いで言った。打返しがまたざっと。 「潵がかかる、潵がかかる、危いぞ。」  と、空から高く呼わる声。  靄が分れて、海面に兀として聳え立った、巌つづきの見上ぐる上。草蒸す頂に人ありて、目の下に声を懸けた、樵夫と覚しき一個の親仁。面長く髪の白きが、草色の針目衣に、朽葉色の裁着穿いて、草鞋を爪反りや、巌端にちょこなんと平胡坐かいてぞいたりける。  その岩の面にひたとあてて、両手でごしごし一挺の、きらめく刃物を悠々と磨いでいたり。  磨ぎつつ、覗くように瞰下して、 「上へ来さっしゃい、上へ来さっしゃい、浪に引かれると危いわ。」  という。浪は水晶の柱のごとく、倒にほとばしって、今つッ立った廉平の頭上を飛んで、空ざまに攀ずること十丈、親仁の手許の磨ぎ汁を一洗滌、白き牡丹の散るごとく、巌角に飜って、海面へざっと引く。 「おじご、何を、何をしてござるのか。」と、廉平はわざと落着いて、下からまず声を送った。 「石鑿を研ぐよ。二つ目の浜の石屋に頼まれての、今度建立さっしゃるという、地蔵様の石を削るわ。」 「や、親仁御がな。」 「おお、此方衆はその註文のぬしじゃろ。そうかの。はて、道理こそ、婆々どもが附き纏うぞ。」  婆々と云うよ、生死を知らぬ夫人の耳に、鋭くその鑿をもって抉るがごとく響いたので、 「もし、」と両膝をついて伸び上った。 「婆とお云いなさいますのは。」 「それ、銀目と、金目と、赤い目の奴等よ。主達が功徳での、地蔵様が建ったが最後じゃ。魔物め、居処がなくなるじゃで、さまざまに祟りおって、命まで取ろうとするわ。女子衆、心配さっしゃんな、身体は清いぞ。」  とて、鑿をこつこつ。 「何様それじゃ、昨日から、時々黒雲の湧くように、我等の身体を包みました。婆というは、何ものでござるじゃろう。」と、廉平は揖しながら、手を翳して仰いで言った。  皺手に呼吸をハッとかけ、斜めに丁と鑿を押えて、目一杯に海を望み、 「三千世界じゃ、何でも居ようさ。」 「どこに、あの、どこに居ますのでございますえ。」 「それそれそこに、それ、主たちの廻りによ。」 「あれえ、」 「およそ其奴等がなす業じゃ。夜一夜踊りおって騒々しいわ、畜生ども、」  とハタと見るや、うしろの山に影大きく、眼の光爛々として、知るこれ天宮の一将星。 「動くな!」  と喝する下に、どぶり、どぶり、どぶり、と浪よ、浪よ、浪よ渦くよ。  同時に、衝とその片手を挙げた、掌の宝刀、稲妻の走るがごとく、射て海に入るぞと見えし。  矢よりも疾く漕寄せた、同じ童が艪を押して、より幼き他の児と、親船に寝た以前の船頭、三体ともに船に在り。  斜めに高く底見ゆるまで、傾いた舷から、二人半身を乗り出して、うつむけに海を覗くと思うと、鉄の腕、蕨の手、二条の柄がすっくと空、穂尖を短に、一斉に三叉の戟を構えた瞬間、畳およそ百余畳、海一面に鮮血。  見よ、南海に巨人あり、富士山をその裾に、大島を枕にして、斜めにかかる微妙の姿。青嵐する波の彼方に、荘厳なること仏のごとく、端麗なること美人に似たり。  怪しきものの血潮は消えて、音するばかり旭の影。波を渡るか、宙を行くか、白き鵞鳥の片翼、朝風に傾く帆かげや、白衣、水紅色、水浅葱、ちらちらと波に漏れて、夫人と廉平が彳める、岩山の根の巌に近く、忘るるばかりに漕ぐ蒼空。魚あり、一尾舷に飛んで、鱗の色、あたかも雪。 ==篇中の妖婆の言葉(がぎぐげご)は凡て、半濁音にてお読み取り下されたく候== 明治三十八(一九〇五)年十二月 底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房    1995(平成7)年10月24日第1刷発行 底本の親本:「鏡花全集 第九卷」岩波書店    1942(昭和17)年3月30日発行 ※誤植の確認には底本の親本を参照しました。 入力:門田裕志 校正:土屋隆 2006年11月15日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。