漂泊 石川啄木 Guide 扉 本文 目 次 漂泊      一  曇ツた日だ。  立待崎から汐首の岬まで、諸手を拡げて海を抱いた七里の砂浜には、荒々しい磯の香りが、何憚らず北国の強い空気に漲ツて居る。空一面に渋い顔を開いて、遙かに遙かに地球の表面を圧して居る灰色の雲の下には、圧せられてたまるものかと云はぬ許りに、劫初の儘の碧海が、底知れぬ胸の動揺の浪をあげて居る。右も左も見る限り、塩を含んだ荒砂は、冷たい浪の洗ふに委せて、此処は拾ふべき貝殻のあるでもなければ、もとより貝拾ふ少女子が、素足に絡む赤の裳の艶立つ姿は見る由もない。夜半の満潮に打上げられた海藻の、重く湿ツた死骸が処々に散らばツて、さも力無げに逶迤つて居る許り。  時は今五月の半ば。五月といへば、此処北海の浦々でさへ、日は暖かに、風も柔らいで、降る雨は春の雨、濡れて喜ぶ燕の歌は聞えずとも、梅桃桜ひと時に、花を被かぬ枝もなく、家に居る人も、晴衣して花の下ゆく子も、おしなべて老も若きも、花の香に酔ひ、人の香に酔ひ、酔心地おぼえぬは無いといふ、天が下の楽しい月と相場が定ツて居るのに、さりとは恁うした日もあるものかと、怪まれる許りな此荒磯の寂寞を、寄せては寄する白浪の、魂の台までも揺がしさうな響きのみが、絶間もなく破ツて居る。函館に来て、林なす港の船の檣を見、店美しい街々の賑ひを見ただけの人は、いかに裏浜とはいひ乍ら、大森浜の人気無さの恁許りであらうとは、よも想ふまい。ものの五町とも距たらぬのだが、齷齪と糧を争ふ十万の市民の、我を忘れた血声の喧囂さへ、浪の響に消されてか、敢て此処までは伝はツて来ぬ。──これ然し、怪むべきでないかも知れぬ、自然の大なる声に呑まれてゆく人の声の果敢なさを思へば。  浪打際に三人の男が居る。男共の背後には、腐れた象の皮を被ツた様な、傾斜の緩い砂山が、恰も「俺が生きて居るか、死んで居るか、誰も知るまい、俺も知らぬ。」と云ふ様に、唯無感覚に横はツて居る。無感覚に投げ出した砂山の足を、浪は白歯をむいて撓まず噛んで居る。幾何噛まれても、砂山は痛いとも云はぬ、動きもせぬ。痛いとも云はず、動きもせぬが、浪は矢張根気よく撓まず噛んで懸る。太初から「生命」を知らぬ砂山と、無窮に醒めて眠らぬ潮騒の海との間に、三人の──生れたり死んだりする三人の男が居る。インバネスを着て、薄鼠色の中折を左の手に持ツて、螽の如く蹲んで居る男と、大分埃を吸ツた古洋服の釦は皆脱して、蟇の如く胡坐をかいた男とは、少し間を隔てて、共に海に向ツて居る。褶くちやになツた大島染の袷を着た、モ一人の男は、両手を枕に、足は海の方へ投げ出して、不作法にも二人の中央に仰向になツて臥て居る。  千里万里の沖から吹いて来て、この、扮装も違へば姿態も違ふ三人を、皆一様に吹きつける海の風には、色もなければ、心もない。風は風で、勝手に吹く。人間は人間で、勝手なことを考へる。同じ人間で、風に吹かれ乍ら、三人は又三人で、勝手な所を見て勝手なことを考へて居る。  仰向の男は、空一面に彌漫つて動かぬ灰雲の真中を、黙つて瞶めて居る。螽の如く蹲んだ男は、平たい顔を俯向けて、右手の食指で砂の上に字を書いて居る──「忠志」と書いて居る。書いては消し、消しては復同じ字を書いて居る。忠志といふのは此男の名である。何遍も消しては、何遍も書く。用の少い官吏とか会社員とかが、仕様事なしの暇つぶしに、よく行る奴で、恁麽事をする男は、大抵弾力のない思想を有ツて居るものだ。頭脳に弾機の無い者は、足に力の這入らぬ歩行方をする。そして、女といふ女には皆好かれたがる。女の前に出ると、処嫌はず気取ツた身振をする、心は忽ち蕩けるが、それで、煙草の煙の吹き方まで可成真面目腐ツてやる。何よりも美味い物が好で、色沢がよいものだ。此忠志君も、美味い物を食ふと見えて平たい顔の血色がよい。  蟇の如く胡坐をかいた男は、紙莨の煙をゆるやかに吹いて、静かに海を眺めて居る。凹んだ眼窩の底に陰翳のない眼が光ツて、見るからに男らしい顔立の、年齢は二十六七でがなあらう。浮いたところの毫もない、さればと云ツて、心欝した不安の状もなく、悠然として海の広みに眼を放る態度は、雨に曝され雪に撃たれ、右から左から風に攻められて、磯馴の松の偏曲もせず、矗乎と生ひ立ツた杉の樹の様に思はれる。海の彼方には津軽の山が浮んで、山の左から汐首の岬まで、灰色の空を被いだ太平洋が、唯一色の強い色を湛へて居る。──其水天髣髴の辺にポツチリと黒く浮いてるのは、汽船であらう。無論駛ツて居るには違ひないが、此処から見ては、唯ポツチリとした黒い星、動いてるのか動かぬのか、南へ駛るのか北へ向くのか、少しも解らぬ。此方へ来るなと思へば、此方へ来る様に見える。先方へ行くなと思へば、先方へ行く様に見える。何処の港を何日立つて、何処の港へ何日着くのか。立ツて来る時には、必ず、アノ広い胸の底の、大きい重い悲痛を、滞りなく出す様な汽笛を、誰憚らず鳴らした事であらう。其勇ましい唸きの声が、真上の空を劈ざいて、落ちて四周の山を動し、反ツて数知れぬ人の頭を低れさせて、響の濤の澎湃と、東に溢れ西に漲り、甍を圧し、樹々を震はせ………………………弱り弱ツた名残の音が、見えざる光となツて、今猶、或は、世界の奈辺かにさまよふて居るかも知れぬ。と考へて来た時、ポツチリとした沖の汽船が、怎やら少し動いた様に思はれた。右へ動いたか左へ寄ツたか、勿論それは解らぬが、海に浮んだ汽船だもの動かぬといふ筈はない、必ず動いて居る筈だと瞳を据ゑる。黒い星は依然として黒い星で、見ても見ても、矢張同じ所にポツチリとして居る。一体何処の港を何日立ツて、何処の港へ行く船だらうと、再繰返して考へた。錨を抜いた港から、汽笛と共に揺ぎ出て、乗ツてる人の目指す港へ、船首を向けて居る船には違ない。 『昨日君の乗ツて来た汽船は、』と、男は沖を見た儘で口を開く。『何といふ汽船だツたかね。』 『午前三時に青森を出て、六時間にして函館港の泥水に、錆びた錨を投げた船だ。』と、仰向の男が答へる。 『名前がさ』 『知らん。』 『知らん?』 『呍。』 『自分の乗ツた船の名前だぜ。』と、忠志君は平たい顔を上げて、たしなめる様に仰向の男を見る。 『だからさ。』 『君は何時でも其調子だ。』と苦い顔をしたが、『あれア陸奥丸です。随分汚ない船ですよ。』と胡坐の男に向いて説明する。 『あ、陸奥ですか。あれには僕も一度乗ツた事がある。余程以前の事たが………………………』 『船員は、君、皆男許りな様だが、あら怎したもんだらう。』と仰向の男が起き上る。  胡坐の男は沖の汽船から目を離して、躯を少し捻つた。『…………さうさね。海上の生活には女なんか要らんぢやないか。海といふ大きい恋人の胞の上を、縦横自在に駛け廻るんだからね。』 『海といふ大きい恋人! さうか。』と復仰向になツた。灰色の雲は、動くでもない動かぬでもない。遙かに男の顔を圧して、照る日の光を洩さぬから、午前か午後か、それさへも知る由のない大気の重々しさ。  胡坐の男は、砂の上に投げ出してある紙莨を一本とツて、チヨと燐寸を擦つたが、見えざる風の舌がペロリと舐めて、直ぐ滅えた。復擦つたが復滅えた。三度目には十本許り一緒にして擦る。火が勢よく発した所を手早く紙莨に移して、息深く頬を凹ませて吸うた煙を、少しづつ少しづつ鼻から出す。出た煙は、出たと見るまもなく海風に散ツて見えなくなる。  黙つて此様を見て居た忠志君の顔には、胸にある不愉快な思が、自づと現れて来るのか、何様渋い翳が漲ツて、眉間の肉が時々ピリ〳〵と動いた。何か言はうとする様に、二三度口を蠢かしてチラリ仰向の男を見た目を砂に落す。『同じ事許り繰返していふ様だが、実際怎も、肇さんの為方にや困ツて了ふね。無頓着といへば可のか、向不見といへば可のか、正々堂々とか赤裸々とか君は云ふけれど、露骨に云へや後前見ずの乱暴だあね。それで通せる世の中なら、何処までも我儘通してゆくも可さ。それも君一人ならだね。彼麽に年老ツた伯母さんを、………………………今迄だツて一日も安心さした事ツて無いんだが、君にや唯一人の御母さんぢやないか、此以後一体怎する積りなんだい。昨宵もね、母が僕に然云ふんだ。君が楠野さん所へ行ツた後にだね、「肇さんももう二十三と云へや小供でもあるまいに姉さんが什麽に心配してるんだか、真実に困ツちまふ」ツてね。実際困ツ了ふんだ。君自身ぢや痛快だツたツて云ふが、然し、免職になる様な事を仕出かす者にや、まあ誰だツて同情せんよ。それで此方へ来るにしてもだ。何とか先きに手紙でも来れや、職業の方だツて見付けるに都合が可んだ。昨日は実際僕喫驚したぜ。何にも知らずに会社から帰ツて見ると、後藤の肇さんが来てるといふ。何しにツて聞くと、何しに来たのか解らないが、奥で昼寝をしてるツて、妹が君、眼を丸くして居たぜ。』 『彼麽大きな眼を丸くしたら、顔一杯だツたらう。』 『君は何時でも人の話を茶にする。』と忠志君は苦り切つた。『君は何時でも其調子だし、怎せ僕とは全然性が合はないんだ。幾何云ツたツて無駄な事は解ツてるんだが、伯母さんの……………………君の御母さんの事を思へばこそ、不要事も云へば、不要心配もするといふもんだ。母も云ツたが、実際君と僕程性の違ツたものは、マア滅多に無いね。』 『性が合はんでも、僕は君の従兄弟だよ。』 『だからさ、僕の従兄弟に君の様な人があるとは、実に不思議だね。』 『僕は君よりズツト以前からさう思つて居た。』 『実際不思議だよ。………………』 『天下の奇蹟だね。』と嘴を容れて、古洋服の楠野君は横になツた。横になツて、砂についた片肱の、掌の上に頭を載せて、寄せくる浪の穂頭を、ズツト斜めに見渡すと、其起伏の様が又一段と面白い。頭を出したり隠したり、活動写真で見る舞踏の歩調の様に追ひ越されたり、追越したり、段々近づいて来て、今にも我が身を洗ふかと思へば、牛の背に似た碧の小山の頂が、ツイと一列の皺を作ツて、真白の雪の舌が出る。出たかと見ると、其舌がザザーツといふ響きと共に崩れ出して、磯を目がけて凄まじく、白銀の歯車を捲いて押寄せる。警破やと思ふ束の間に、逃足立てる暇もなく、敵は見ン事颯と退く。退いた跡には、砂の目から吹く潮の気が、シーツと清しい音を立てて、えならぬ強い薫を撒く。 『一体肇さんと、僕とは小児の時分から合はなかツたよ。』と忠志君は復不快な調子で口を切る。『君の乱暴は、或は生来なのかも知れないね。そら、まだお互に郷里に居て、尋常科の時分だ。僕が四年に君が三年だツたかな、学校の帰途に、そら、酒屋の林檎畑へ這入ツた事があツたらう。何でも七八人も居たツた様だ。………………』 『呍、さうだ、僕も思出す。発起人が君で、実行委員が僕。夜になツてからにしようと皆が云ふのを構ふもんかといふ訳で、真先に垣を破ツたのが僕だ。続いて一同乗り込んだが、君だけは見張をするツて垣の外に残ツたツけね。真紅な奴が枝も裂けさうになツてるのへ、真先に僕が木登りして、漸々手が林檎に届く所まで登ツた時、「誰だ」ツてノソノソ出て来たのは、そら、あの畑番の六助爺だよ。樹下に居た奴等は一同逃げ出したが、僕は仕方が無いから黙ツて居た。爺奴嚇す気になツて、「竿持ツて来て叩き落すぞ。」ツて云ふから、「そんな事するなら恁して呉れるぞ。」ツて、僕は手当り次第林檎を採ツて打付けた。爺喫驚して「竿持ツて来るのは止めるから、早く降りて呉れ、旦那でも来れあ俺が叱られるから。」と云ふ。「そんなら降りてやるが、降りてから竿なんぞ持ツて来るなら、石打付けてやるぞ。」ツて僕はズルズル辷り落ちた。そして、投げつけた林檎の大きいのを五つ六つ拾ツて、出て来て見ると誰も居ないんだ。何処まで逃げたんだか、馬鹿な奴等だと思ツて、僕は一人でそれを食ツたよ。実に美味かツたね。』 『二十三で未だ其気なんだから困ツ了うよ。』 『其晩、窃と一人で大きい笊を持ツて行ツて、三十許り盗んで来て、僕に三つ呉れたのは、あれあ誰だツたらう、忠志君。』  忠志君は、苦い顔をして横を向く。 『尤も、忠志君の遣方の方が理屈に合ツてると僕は思ふ。窃盗と云ふものは、由来暗い所で隠密やるべきものなんだからね。アハヽヽヽ。』 『馬鹿な事を。』 『だから僕は思ふ。今の社会は鼠賊の寄合で道徳とかいふものは其鼠賊共が、暗中の隠密主義を保持してゆく為めの規約だ。鼠賊をして鼠賊以上の行為なからしめんが為めには法律といふ網がある。滑稽極まるさ、自分で自分を縛る繩を作ツて太陽の光が蝋燭の光の何百万倍あるから、それを仰ぐと人間の眼が痛くなるといふ真理を発見して、成るべく狭い薄暗い所に許り居ようとする。それで、日進月歩の文明はこれで厶いと威張る。歴史とは進化の義なりと歴史家が説く。アハヽヽヽヽ。  学校といふ学校は、皆鼠賊の養成所で、教育家は、好な酒を飲むにも隠密と飲む。これは僕の実見した話だが、或る女教師は、「可笑しい事があツても人の前へ出た時は笑ツちや不可ません。」と生徒に教へて居た。可笑しい時に笑はなけれあ、腹が減ツた時便所へ行くんですかツて、僕は後で冷評してやツた。………………尤もなんだね、宗教家だけは少し違ふ様だ。仏教の方ぢや、髪なんぞ被らずに、凸凹の瘤頭を臆面もなく天日に曝して居るし、耶蘇の方ぢや、教会の人の沢山集ツた所でなけれあ、大きい声出して祈祷なんぞしない。これあ然し尤もだよ。喧嘩するにしても、人の沢山居る所でなくちや張合がないからね。アハヽヽ。』 『アハヽヽヽ。』と、楠野君は大声を出して和した。 『処でだ。』と肇さんは起き上ツて、右手を延して砂の上の紙莨を取ツたが、直ぐまた投げる。『這麽社会だから、赤裸々な、堂々たる、小児の心を持ツた、声の太い人間が出て来ると、鼠賊共、大騒ぎだい。そこで其種の声の太い人間は、鼠賊と一緒になツて、大笊を抱へて夜中に林檎畑に忍ぶことが出来ぬから、勢ひ吾輩の如く、天が下に家の無い、否、天下を家とする浪人になる。浪人といふと、チヨン髷頭やブツサキ羽織を連想して不可が、放浪の民だね、世界の平民だね、──名は幾何でもつく、地上の遊星といふ事も出来る。道なき道を歩む人とも云へる、コスモポリタンの徒と呼んで見るも可。ハ………。』 『そこでだ、若し後藤肇の行動が、後前見ずの乱暴で、其乱暴が生得で、そして、果して真に困ツ了ふものならばだね、忠志君の鼠賊根性は怎だ。矢張それも生得で、そして、ウー、そして、甚だ困つて了はぬものぢやないか。怎だい。従兄弟君、怒ツたのかい。』 『怒ツたツて仕様が無い。』と、稍霎時してから、忠志君が横向いて云ツた。 『「仕様が無い」とは仕様が無い。それこそ仕様が無いぢやないか。』 『だツて、実際仕様が無いから喃。』 『然し君は大分苦い顔をして居るぜ。一体その顔は不可よ。笑ふなら腸まで見える様に口をあかなくちや不可。怒るなら男らしく真赤になツて怒るさ。そんな顔付は側で見てるさへ気の毒だ。そら、そら、段々苦くなツてくる。宛然洋盃に一昨日注いだビールの様だ。仕様のない顔だよ。』 『馬鹿な。君は怎も、実際仕様がない。』 『復「仕様がない」か。アハヽヽヽ。仕様がない喃。』  話が間断れると、ザザーツといふ浪の音が、急に高くなる。楠野君は、二人の諍ひを聞くでもなく、聞かぬでもなく、横になツた儘で、紙莨を吹かし乍ら、浪の穂頭を見渡して居る。鼻から出る煙は、一寸許りのところで、チヨイと渦を巻いて、忽ち海風に散ツてゆく。浪は相不変、活動写真の舞踏の歩調で、重り重り沖から寄せて来ては、雪の舌を銀の歯車の様にグルグルと捲いて、ザザーツと怒鳴り散らして颯と退く。退いた跡には、シーツと音して、潮の気がえならぬ強い薫を撒く。      二  程経てから、『折角の日曜だツたのに……』と口の中で呟いて、忠志君は時計を出して見た。『兎に角僕はお先に失敬します。』と、楠野君の顔色を覗ひ乍ら、インバネスの砂を払ツて立つ。  対手は唯『然ですか。』と謂ツただけで、別に引留めやうともせぬので、彼は聊か心を安んじたらしく、曇ツて日の見えぬ空を一寸背身になツて見乍ら、『もう彼是十二時にも近いし、それに今朝父親が然言ツてましたから、先刻話した校長の所へ、これから廻ツて見ようかと思んです。尤も恁いふ都会では、女なら随分資格の無い者も用ツてる様だけれど、男の代用教員なんか可成採用しない方針らしいですから、果して肇さんが其方へ入るに可か怎か、そら解りませんがね。然し大抵なら那の校長は此方のいふ通りに都合してくれますよ。謂ツちや変だけれど、僕の父親とは金銭上の関係もあるもんですからね。』 『ああ然ですか。何れ宜敷御尽力下さい。後藤君が此函館に来たについちや、何にしろ僕等先住者が充分尽すべき義務があるんですからね。』 『……まあ然です。兎に角僕は失敬します。肇さんも昼飯までには帰ツて来て呉れ給へ。ぢや失敬。』  忠志君は急歩に砂を踏んで、磯伝ひに右へ辿ツて行く。残ツた二人は黙ツて其後姿を見て居る。忠志君は段々遠くなツて、目を細うくして見ると、焦茶のインバネスが薄鼠の中折を被ツて立ツて居る様に見える。 『あれが僕の従兄なんだよ、君。』と肇さんが謂ふ。 『頭が貧しいんだね。』  忠志君の頭の上には、昔物語にある巨人の城廓の様に、函館山がガツシリした諸肩に灰色の天を支へて、いと厳そかに聳えて居る。山の中腹の、黒々とした松林の下には、春の一刷毛あざやかに、仄紅色の霞の帯。梅に桜をこき交ぜて、公園の花は今を盛りなのである。木立の間、花の上、処々に現れた洋風の建築物は、何様異なる趣きを見せて、未だ見ぬ外国の港を偲ばしめる。  不図、忠志君の姿が見えなくなツた。と見ると、今迄忠志君の歩いて居た辺を、三台の荷馬車が此方へ向いて進んで来る。浪が今しも逆寄せて、馬も車も呑まむとする。呀と思ツて肇さんは目を見張ツた。砕けた浪の白漚は、銀の歯車を巻いて、見るまに馬の脚を噛み、車輪の半分まで没した。小さいノアの方舟が三つ出来る。浪が退いた。馬は平気で濡れた砂の上を進んで来る。復浪が来て、今度は馬の腹までも噛まうとする。馬はそれでも平気である、相不変ズン〳〵進んで来る。肇さんは驚きの目を睜ツて、珍らし気に此状を眺めて居た。 『怎だえ、君、函館は可かね。』と、何時しか紙莨を啣へて居た楠野君が口を開いた。 『さうさね。昨日来たばかしで、昼寝が一度、夜寝が一度、飯を三度しか喰はん僕にや、まだ解らんよ。……だがね。まあ君那を見給へ。そら、復浪が来た。馬が輾ぶぞ。そうら、……処が輾ばないんだ。矢張平気で以て進んで来る。僕は今急に函館が好になつたよ。喃、君、那麽豪い馬が内地になんか一疋だツて居るもんか。』 『ハハヽヽヽ』と楠野君は哄笑したが、『然しね君、北海道も今ぢや内地に居て想像する様な自由の天地ではないんだ。植民地的な、活気のある気風の多少残ツてゐる処もあるかも知れないが、此函館の如きは、まあ全然駄目だね。内地に一番近い丈それ丈不可。内地の俗悪な都会に比して優ツてるのは、さうさね、まあ月給が多少高い位のもんだらう。ハハヽヽヽ。』 『そんなら君は何故三年も四年も居たんだ。』 『然いはれると立瀬が無くなるが、……詰り僕の方が君より遙かに意気地が無いんだね。……昨夜も話したツけが、僕の方の学校だツて、其内情を暴露して見ると実際情け無いもんだ。僕が這入ツてから既に足掛三年にもなるがね。女学校と謂へや君、若い女に教へる処だらう。若い女は年をとツて、妻になり、母になる。所謂家庭の女王になるんだらう。其処だ、君。僕は初めに其処を考へたんだ。現時の社会は到底破壊しなけりやならん。破壊しなけやならんが、僕等一人や二人が、如何に声を大きくして叫んだとて、矢張駄目なんだね。それよりは、年の若い女といふものは比較的感化し易い、年若い女に教へる女学校が、乃ち僕等の先づ第一に占領すべき城だと考へたね。若い女を改造するのだ。改造された女が、妻となり母となる。家庭の女王となる、……なるだらう、必ず。詰り唯一人の女を救ふのが、其家庭を改造し、其家庭の属する社会を幾分なりとも改造することが出来る訳なんだ。僕は然思ツたから、勇んで三十五円の月給を頂戴する女学校の教師になツたんだ。』 『なツて見たら、燐寸箱の様だらう。学校といふものは。』 『燐寸箱! 然だ、燐寸箱だよ、全たく。狭くて、狭くて、全然身動きがならん。蚤だつて君、自由に跳ねられやせんのだ。一寸何分と長の定ツた奴許りが、ギツシリとつめ込んである。僕の様なもんでも、今迄何回反逆を企てたか解らん。反逆といツても、君の様に痛快な事は自分一人ぢや出来んので、詰り潔く身を退く位のものだね。ところが、これでも多少は生徒間に信用もあるので、僕が去ると生徒まで動きやしないかといふ心配があるんだ。そこが私立学校の弱点なんだね。だから怎しても僕の要求を聴いてくれん。様々な事をいツて留めるんだ。留められて見ると妙なもんで、遂また留まツて行ツて見ようといふ様な気にもなる。と謂ツた訳でグズ〳〵此三年を過したんだが、考へて見れや其間に自分のした事は一つもない。初めは、新聞記者上りといふので特別の注目をひいたもんだが、今ぢやそれすら忘られて了ツた。平凡と俗悪の中に居て、人から注意を享けぬとなツては、もう駄目だね。朝に下宿を出る時は希望もあり、勇気もある。然しそれも職員室の扉を開けるまでの事だ。一度其中へ這入ツたら、何ともいへぬ不快が忽ちにこみ上げてくる。何の顔を見ても、鹿爪らしい、横平な、円みのない、陰気で俗悪な、疲れた様な、謂はば教員臭い顔ばかりなんぢやないか。奴等の顔を見ると、僕は恁う妙に反抗心が昂まツて来て、見るもの聞くもの、何でも皆頭から茶化して見たい様な気持になるんだ。』 『茶化す?』 『呍、真面目になツて怒鳴る元気も出ないやね。だから思ふ存分茶化してやるんだ。殊に君、女教員と来ちや全然箸にも棒にもかかツたもんぢやない。犬だか猫だか、雀だか烏だか、……兎も角彼等が既に女でないだけは事実だね。女でなくなツたんだから人間でもないんだ。謂はば一種の厭ふべき変性動物に過ぎんのだね。……それで生徒は怎かといふに、情無いもんだよ君、白い蓮華の蕾の様な筈の、十四十五といふ少女でさへ、早く世の中の風に染ツて、自己を偽ることを何とも思はん様になツて居る。僕は時々泣きたくなツたね。』 『呍、解る、解る。』 『然し、何だよ、君が故郷で教鞭を採る様になツてからの手紙には、僕は非常に励まされた事がある。嘗ては自らナポレオンを以て任じた君が、月給八円の代用教員になつたのでさへ一つの教訓だ。況してそれが、朝は未明から朝読、夜は夜で十一時過ぎまでも小児等と一緒に居て、出来るだけ多くの時間を小児等のために費すのが満足だと謂ふのだから、宛然僕の平生の理想が君によつて実行された様な気がしたよ。あれや確か去年の秋の手紙だツたね、文句は僕がよく暗記して居る、そら、「僕は読書を教へ、習字を教へ、算術を教へ、修身のお話もするが、然し僕の教へて居るのは蓋し之等ではないだらうと思はれる。何を教へて居るのか、自分にも明瞭解らぬ。解らぬが、然し何物かを教へて居る。朝起きるから夜枕につくまで、一生懸命になツて其何物かを教へて居る。」と書いてあツたね。それだ、それだ。完たくそれだ、其何物かだよ。』 『噫、君、僕は怎も様々思出されるよ。……だが、何だらうね、僕の居たのは田舎だツたから多少我儘も通せたやうなものの、恁いふ都会めいた場所では、矢張駄目だらうね。僕の一睨みですくんで了ふやうな校長も居まいからね。』 『駄目だ、実際駄目だよ。だから僕の所謂改造なんていふ漸進主義は、まだるツこく効果が無いのかも知れんね。僕も時々然思ふ事があるよ。「明朝午前八時を期し、予は一切の責任を負ふ決心にてストライキを断行す。」といふ君の葉書を読んだ時は、僕は君、躍り上ツたね。改造なんて駄目だ。破壊に限る。破壊した跡の焼野には、君、必ず新しい勢ひの可い草が生えるよ。僕はね。宛然自分が革命でも起した様な気で、大威張で局へ行ツて、「サカンニヤレ」といふ那の電報を打ツたんだ。』  肇さんは俯向いて居て、暫し黙して居たが、 『ストライキか。アハハヽヽヽ。』と突然大きな声を出して笑ツた。大きな声ではあツたが、然し何処か淋しい声であツた。 『昨夜君が帰ツてから、僕は怎しても眠れなかツた。』と楠野君の声は沈む。『一体村民の中に、一人でも君の心を解してる奴があツたのかい。』 『不思議にも唯一人、君に話した役場の老助役よ。』 『血あり涙あるを口癖にいふ老壮士か。』 『然だ。僕が四月の初めに辞表を出した時、村教育の前途を奈何と謂ツて、涙を揮ツて留めたのも彼、それならばといツて僕の提出した条件に、先づ第一に賛成したのも彼。其条件が遂に行はれずして、僕が最後の通告を諸方へ飛ばし、自ら令を下して全校の生徒を休学せしめた時から、予定の如く免職になり、飄然として故郷の山河を後にした時まで、始終僕の心を解して居てくれたのは、実に唯彼の老助役一人だツたのだ。所謂知己だね。』 『呍、それや知己だね。……知己には知己だが、唯一人の知己だね。』 『怎して二人と無いもんだらう。』 『呍。……。』 『一人よりは二人、二人よりは三人、三人よりは四人、噫。』と、肇さんは順々に指を伏せて見たが、 『君。』と強く謂ツて、其手でザクリと砂を攫んだ。『僕も泣くことがあるよ。』と声を落す。 『呍。』 『夜の九時に青森に着いて、直ぐ船に乗ツたが、翌朝でなけれや立たんといふ。僕は一人甲板に寝て、厭な一夜を明かしたよ。』 『……………………。』 『感慨無量だツたね。……真黒な雲の間から時々片破月の顔を出すのが、恰度やつれた母の顔の様ぢやないか。……母を思へば今でも泣きたくなるが。……終にや山も川も人間の顔もゴチヤ交ぜになつて、胸の中が宛然、火事と洪水と一緒になツた様だ。……僕は一晩泣いたよ、枕にして居た帆綱の束に噛りついて泣いたよ。』 『呍』 『海の水は黒かツた。』 『黒かツたか。噫。黒かツたか。』と謂つて、楠野君は大きい涙を砂に落した。『それや不可。止せ、後藤君。自殺は弱い奴等のする事た。……死ぬまで行れ。否、殺されるまでだ。……』 『だから僕は生きてるぢやないか。』 『噫。』 『死ぬのは不可が、泣くだけなら可だらう。』 『僕も泣くよ。』 『涙の味は苦いね。』 『呍。』 『実に苦いね。』 『呍。』 『恋の涙は甘いだらうか。』 『呍。』 『世の中にや、味の無い涙もあるよ。屹度あるよ。』      三 『君の顔を見ると、怎したもんだか僕あ気が沈む。奇妙なもんだね。敵の真中に居れや元気がよくて、味方と二人ツ限になると、泣きたくなツたりして。』  肇さんは恁云ツて、温和い微笑を浮かべ乍ら、楠野君の顔を覗き込んだ。 『僕も然だよ。日頃はこれでも仲々意気の盛んな方なんだが、昨夜君と逢ツてからといふもの、怎したもんか意気地の無い事を謂ひたくなる。』 『一体何方が先に弱い音を吹いたんだい。』 『君でもなかツた様だね。』 『君でもなかツた様だね。』 『何方でも無いのか。』 『何方でも無いんだ。ハハヽヽヽヽ。』と笑つたが、『胸に絃があるんだよ。君にも、僕にも。』 『これだね。』と云ツて、楠野君は礑と手を拍つ。 『然だ、同じ風に吹かれて一緒に鳴り出したんだ。』  二人は声を合せて元気よく笑ツた。 『兎も角壮んにやらうや。』と楠野君は胸を張る。 『呍。やるとも。』 『僕は少し考へた事もあるんだ。怎せ君は、まあ此処に腰を据ゑるんだらう。』 『喰ひ詰めるまで置いて貰はう。』 『お母さんを呼ばう。』 『呍。呼ばう。』 『呼んだら来るだらう。』 『来てから何を喰はせる。』 『那麽心配は不要よ。』 『不要こともない。僕の心配は天下にそれ一つだ。今まで八円ぢや仲々喰へなかツたからね。』 『大丈夫だよ。那麽事は。』 『然かえ。』 『まあ僕に委せるさ。』 『呍、委せよう。』 『忠志君の話の方が駄目にしても、何か必ず見付かるよ。』 『然か。』 『君は英語が巧い筈だツけね。』 『筈には筈だツけが、今は怎だかな。』 『まあ可さ。但し当分は先づ食ツて行けるだけでも、仕方がないから辛抱するさ。』 『委せたんだから、君が可い様にしてくれるさ。』 『秋まで辛抱してくれ給へ。そしたら何か必ず行らう、ね君。』 『呍。やるとも。』と云ツて、肇さんは復仰向になつた。  会話が断れると、浪の音が急に高くなる。楠野君は俄かに思出したと云ツた様に、一寸時計を出して見たが、 『あ、もう十二時が遂に過ぎて居る。』と云ツて、少し頭を拈ツて居たが、『怎だ君、今夜少し飲まうぢやないか。』 『酒をか?』 『これでも酒の味位は知ツてるぞ。』 『それぢや今は教会にも行かんだらう。』 『無論。……解放したんだ。』 『教会から信仰を。』 『一切の虚偽の中から自己をだ。』 『自己を! フム、其自己を、世の中から解放して了ふことが出来んだらうか。』 『世の中から?』 『然だ、世の中から辞職するんだ。』 『フム、君は其麽に死といふことを慕ふのかね。……だが、まあ兎に角今夜は飲まうや。』 『呍。飲まう。』 『幾杯飲める?』 『幾杯でも飲めるが、三杯やれば真赤になる。』 『弱いんだね。』 『オイ君、函館にも芸妓が居るか。』 『居るとも。』 『矢張黒文字ツて云ふだらうか。』 『黒文字とは何だい。』 『ハハア、君は黒文字の趣味を知らんのだね。』 『何だ、其黒文字とは?』 『小楊枝のこツた。』 『小楊枝が怎したと云ふンだ。』 『黒文字ツて出すんださうだ。』 『小楊枝をか?』 『然さ、クドイ男だ喃。』 『だツて解らんぢやないか。』 『解ツてるよ、芸妓が黒文字ツて小楊枝を客の前に出すんだ。』 『だからさ、それに何処に趣味があるんだ。』 『楊枝入は錦かなんかの、素的に綺麗なものなさうだ。それを帯の間から引張り出して、二本指で、一寸と隅の所を拈ると、楊枝入の口へ楊枝が扇形に頭を並べて出すんださうだ。其楊枝が君、普通の奴より二倍位長いさうだぜ。』 『出す時黒文字ツて云ふんだね。』 『さうだ。』 『面白いことを云ふね。』 『面白いだらう。』 『何処で那麽ことを覚えたんだ?』 『役場の書記から聞いた。』 『ハハア、兎も角今夜は飲まうよ。』      四 『怎だ、ソロソロ帰るとしよう。』と云ツて、楠野君は傍らに投げ出してあツた風呂敷を引張り寄せた。風呂敷の中から、大きな夏蜜柑が一つ輾げ出す。『アまだ一つ残ツて居たツた。』 『僕はまだ帰らないよ。君先きに行ツて呉れ給へ。』 『一緒に行かうや。一人なら路も解るまい。』 『大丈夫だよ。』 『だツて十二時が過ぎて了ツたぢやないか。』 『腹が減ツたら帰ツてゆくよ。』 『さうか。』と云ツたが、楠野君はまだ何となく危む様子。 『大丈夫だといふに。……緩くり昼寝でもしてゆくから、構はず帰り給へ。』 『そんなら余り遅くならんうちに帰り給へ。今夜は僕の方で誘ひに行くよ。』  古洋服を着た楠野君の後姿が、先刻忠志君の行ツたと同じ浪打際を、段々遠ざかツてゆく。肇さんは起き上ツて、凝然と其友の後姿を見送ツて居たが、浪の音と磯の香に犇々と身を包まれて、寂しい様な、自由になツた様な、何とも云へぬ気持になツて、いひ知らず涙ぐんだ。不図、先刻の三台の荷馬車を思出したが、今は既に影も見えない。此処まで来たとは気が付かなかツたから、多分浪打際を離れて町へ這入ツて行ツたのであらう。一彎の長汀ただ寂莫として、砕くる浪の咆哮が、容赦もなく人の心を劈ざく。黒一点の楠野君の姿さへ、見る程に見る程に遠ざかツて行く。肇さんの頭は低く垂れた。垂れた頭を起すまいとする様に、灰色の雲が重々しく圧へつける。 (未完) 〔(一)は「紅苜蓿」明治四十年七月号、(二)~(四)は生前未発表・明治四十年八月稿〕 底本:「石川啄木全集 第三巻 小説」筑摩書房    1978(昭和53)年10月25日初版第1刷発行    1993(平成5年)年5月20日初版第7刷発行 初出:(一)「紅苜蓿 第七冊」    1907(明治40)年7月号 ※生前未発表、1907(明治40)年8月執筆の(二)~(四)の本文を、底本は、市立函館図書館保管自筆原稿「金字塔」によっています。 入力:Nana ohbe 校正:林 幸雄 2008年8月8日作成 2009年3月27日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。