旧聞日本橋 蕎麦屋の利久 長谷川時雨 Guide 扉 本文 目 次 旧聞日本橋 蕎麦屋の利久  角の荒物屋が佐野吾八さんの代にならないずっと前──私たちまだ宇宙にブヨブヨ魂が漂っていた時代──そこは八人芸の○○斎という名人がいたのだそうで、上げ板を叩いて「番頭さん熱いよ」とうめ湯をたのんだり、小唄をうたったりすると、どうしても洗湯の隣りに住んでる気がしたり、赤児が生れる泣声に驚かされたりしたと祖母がはなしてくれた。  この祖母が、八十八の春、死ぬ三日ばかり前まで、日髪日風呂だった。そういうと大変おしゃれに聞えるが、年寄のいるあわれっぽさや汚ならしさがすこしもなく、おかげで家のなかはすがやかだった、痩せてはいたが色白な、背の高い女で、黒じゅすの細い帯を前帯に結んでいた、小さいおちょこで二ツお酒をのんで、田所町の和田平か、小伝馬町三丁目の大和田の鰻の中串を二ツ食べるのがお定りだった。  祖母のお化粧部屋は蔵の二階だった。階下は美しい座敷になっていたが、二階は庭の方の窓によせて畳一畳の明りとりの格子がとってあり、大長持やたんすその他の小引出しのあるもので天井まで一ぱいだった。中央の畳に緋毛氈を敷き、古風な金の丸鏡の鏡台が据てあった。  三階の棟柱には、彼女の夫の若かった時の手跡で、安政三年長谷川卯兵衛建之──と美事な墨色を残している。その下で八十の彼女は、日ごとに、六ツ折りの裾に絵をかいた障子屏風を廻らし黒ぬりの耳盥を前におき、残っている歯をお歯黒で染めた。銭亀ほどのわりがらこに結って、小楊子の小々太い位なのではあるが、それこそ水の垂れそうな鼈甲の中差と、みみかきのついた後差しをさした。鏡台の引出しには「菊童」という、さらりとした薄い粉白粉と、しょうえんじがお皿に入れてあった。鶏卵の白味を半紙へしいたのを乾かして、火をつけて燃して、その油燻をとるのに、元結でつるしたお小皿をフラフラさせてもたせられていたことがあった。ある時、お皿の半分だけしか真黒にならなかったが、アンポンタンらしい理屈を考えた。どうせ、毎日おばあさんが拭いてゆくのだからと──今思えば、それが眉墨であったのだが──  祖母は身だしなみが悪い女を叱った。 「おしゃれではないたしなみだ、おれは美女だと己惚れるならおやめ。」  文化生れのこの人は、江戸で生れはしなかったが、江戸の爛熟期の、文化文政の面影を止めていた。万事がのびやかで、筒っぽのじゅばんなど、どんなに寒くても着なかった。  ある年九月廿日、芝の神明様のだらだら祭りに行くので、松蔵の俥に、あたしは祖母の横に乗せられていた。紺ちりめんへ雨雲を浅黄と淡鼠で出して、稲妻を白く抜いた単に、白茶の唐織を甲斐の口にキュッと締めて、単衣には水色太白の糸で袖口の下をブツブツかがり、その末が房になってさがっているのを着ていた。日陰町のせまい古着屋町を眺めながら、ある家の山のように真黒な、急な勾配をもった大屋根が、いつも其処へ来ると威圧するように目にくるのを避けられないように、まじまじ見詰めながら通った。  祖母は伊勢朝長の大庄家の生れで、幼少な時、童のする役を神宮に奉仕したことがあるとかで神明様へは月参りをした。よくこの人の言ったのに、五十鈴河は末流の方でもはいってはいけない、ことに女人はだが──夏の夜、そっと流れに身をひたすと、山の陰が抱いてるように暗いのに、月光は何処からか洩ってきて浴る水がキラリとする。瀬が動くと、クスクスと笑うものがあるので、誰と低くきくと、あたしだよと答えるのは姉さんで、そっと這うようにして上陸る──  その折こうも言った。香魚は大きい、とってきてすぐ焼くと、骨がツと放れて、その香のよいことと──  あたしは先年、神路山が屏風のようにかこんだ五十鈴河のみたらしの淵で、人をおそれぬ香魚が鯉より大きく肥っているのを見た。昔は、そのおちこぼれが、伊勢の人に香よき自慢の香魚を与えたのであろう。  帰途は、めっかち生芽とちぎ箱がおみやげ、太々餅も包まれている。で、この祖母の道楽は、彼女の掴んでいた道徳は、一視同人ということで、たまたまの外出はその点で彼女を自由にさせくつろがせたものと見える。また、彼女の気性を知っている者たちは、逆らわずにそのままに彼女の厚意をうけいれた。 「御隠居さん、今日は松田ですか?」  俥の上と下で、帰りのお夜食の寄りどころが定まった。お夜食といっても五時になるやならずであろうが──そこで。京橋ぎわの(日本橋の方からゆけば京橋を渡って)左側、料理店松田へ寄った。巾の広い階子段をあがって二階へ通った。 「松さんはよいものをおとり。」  顔馴染の女中さんは、ニコニコしてなるたけ涼しいところへ座らせようと、茣座の座ぶとんを持ってウロウロした。どの広い座敷も、みんな一ぱいなので、やっと、通り道ではあるが、縁側についたてで垣をつくってくれた。  八十に近い祖母と、六ツ位の女の子と、松さんとは親密に車座になった。祖母のお膳には大きな香魚の塩焼が躍っている。松さんは心おきなく何か一生懸命に話したり願ったり、食べたりしている。あたしが所在なくしていると、若い女中が来て、噴水の金魚をごらんといった。  松田はいろんなことで有名になっているが、噴水と金魚もたしかによびもののひとつであったのであろう。あたしは余念なく眺めていたが、 「嬢っちゃん、早くこちらへ来て──」 と顫えた声で言った女中さんに引っぱられて祖母のいる場処へかえった。  と、どうしたことか、他の女中がお膳をはこんで裏二階の隅の方の室へ席をうつそうとしているところだった。近くにいた支那人の一団が、喧しくがやがや言って席を代えさせまいとしたが、祖母はグングン傍を通っていった。  別の部屋へかわってからも、隣席の人たちが妙にあたしを見て、首をひねったり、何かいったり、うなずいたりした。帰りには、松田の人たちに守られて、俥のおいてある裏口の方から出された。 「大丈夫です。みんな表梯子の方ばかり見張っていますから。」 と送り出した人たちは言った。松さんは大急ぎで俥をひいて駈出した。 「おそろしやおそろしや、この子を支那人が浚おうとして──」 と、俥をおりると祖母は家の者に言った。  赤ん坊のころ、若い母親の不注意から、釣らんぷの下へ蚊帳を釣って寝させておいたら、どうした事か洋燈がおちて蚊帳の天井が燃えあがった。てっきり赤ン坊は焼け死ぬものと誰もが思ったが、小さい布団のまま引摺り出されて眠っていたという子は、支那人の人浚いの難からも逃れたのだった。そのアンポンタンが、どうした事か音に好ききらいが激しくって、蕎麦屋のおばあさんを困らしたが──  丁度ここに、いつぞや『婦人公論』へ書いた短文をはさもう。  隣家の蕎麦屋で粉をふるう音が、コットンコットンと響いてくると、あたしは泣出したものです。住居蔵の裏が、せまい露地ひとつへだてて、そばやの飛離れた納屋があったので、お昼過ぎると陰気なコットンコットンがはじまる。神経質な子供だったと見えて昼寝していても寝耳に聴附けて泣出したのです。両親や祖母が困ったと言っていたのは、後日できいた思出でしょうが、そのふるいの音も厭だったに違いありませんが、その家全体が子供心にきらいだったのではないかと思われます。どうも暗い小さなそばやらしかったのです。「利久」といって、主人になった息子とお媼さんだけで、そのお媼さんが、骨だった顔の、ボクンとくぼんだ眼玉がギョロリとしていて、肋骨の立った胸を出して、大肌ぬぎで、真暗なところに麺棒をもってこねた粉をのばしていると、傍に大釜があって白い湯気が立昇っていたり、また粉をふるっている時は──宅の物置のつづきのさしかけで、角の小さな納屋の窓から、そのお媼さんの皺がれた肩には、汚ない濡れ手拭が肩掛のように結びつけられてあって、白髪まじりの毛がそそげ立って、斑にはげた黒い歯で笑われると、とても泣かずにはいられなかったのです。夏の、重っくるしい風のない蔵座敷のなかに寝せつけられて、そのコットン、コットンをきくときっと泣出した覚えはあっても、それが火のつくような泣方で、手もつけられなかったときくと、今ではその媼さんに気の毒な気がしますが、じきにその媼はコレラで死んでしまって、その店もなくなってしまいました。  ある時、祖母の従兄だというおじいさんが伊勢から訪ねてきたことがありました。おじいさんはもう九十歳だといいました。祖母は八十ばかりでした。この二人は人世五十年以上逢わなかった様子で、しきりに懐しがっていました。わたしはそのおじいさんの赤とんぼ位のちょん髷が、光った頭にくっついているのを、西洋人を見るより珍らしく見ていました。二階の広間で御馳走をして、深川でもと芸者をしていたという二人の血びきのおたけさんという女を呼んで、人交ぜしないで御酒を飲んでいましたが、やがておじいさんが太鼓をたたき、女のひとが三味線を弾いて、祖母が踊りはじめました。子供は行くのでないといわれて、そっと梯子段のところから覗いていると、しまいには二人の老人が浮れて、伊勢音頭を踊っているかげが、庭にむかった、そとの暗い廊下の障子にチラチラと動いていました。その手ぶりのよさ──わたしは最近伊勢の古市までいって、備前屋で音頭を見せてもらいましたが、とてもとても、幼目にのこる二人の老人のあの面白さは、面影も見ることが出来なかったのです。  こんな事を書いたらまだいくらもあるでしょうが、町で生れた子には、自然からうけた印象のすけないことがものたりません。  利久の納屋はあたしの家の物置と一ツ棟で、二ツに仕切って使っていた。丁度庭裏の井戸のところに窓があって、井戸をはさんでの釜場になっていた。  激しいコレラの流行った最終だというが、利久はお媼さんがコレラで死ぬとすぐに倒産れた。万さんという息子は日雇人夫になったが、そののち、角の荒物屋へ酔って来ていた。焼酎をうんと飲んで死んだと、荒物屋佐野さんの十三人目の、色の黒い、あぶらぎった背虫のように背を丸くしたおかみさんが宅へ知らせに来た。佐野さんは時々面白い話をした。おかみさんをとりかえるたんびに、だんだん悪くなって、こんな汚ない女にとうとうなってしまったといった。そういわれても怒らずに、おかみさんは、糊を煮ていた。お天気のよい日、朝の間に、御不浄の窓から覗くと、襟の後に手拭を畳んであててはいるが、別段たぼの油が着物の襟を汚すことはなさそうなほど、丸くした背中まで抜き衣紋にして、背中の弘法さまのお灸あとや、肩のあんま膏を見せて、たすきがけでお釜の中のしめ糊を掻き廻していた。〓(「の<小さい「り」」)とした看板がかけてあって、夏の午前は洗濯ものの糊つけで、よく売れるので忙しがっていた。平日でも細い板切れへ竹づッぽのガンクビをつけたのをもって、お店から小僧さんが沢山買いに来た。  コレラは門並といってよいほど荒したので、葛湯だの蕎麦がきだの、すいとんだの、煮そうめんだの、熱いものばかり食べさせられた。病人の出た家の厠は破して莚をさげ、門口へはずっと縄を張って巡査が立番をした。  深川芸妓だったおたけさんもコレラで死んだ。背の高い、反り身な、色の白い、額の広い女で祖母の姪だけに何処かよく似ていた。辻車に乗って来て、気分がわるいと言った。それなら早く帰る方がよいだろうと、その車で出たが、車屋がすぐ引返してきて、お客様が変だとおろした。  門から這入って、庭を通って来て、渡り縁に腰をかけたが、今出ていった時とは、すっかり相恰が変って、額を紫っぽく黄色く、眼はボクンと落ちくぼみ、力なく見開いている。なぜ引返したといっても辻車では仕方がなかった。住居は遠くもない鉄砲町なので、車夫は沢山のお礼をもらって病人を送っていった。  幾日かたった。おたけさんの開いていた氷屋の店は、ガランとして乾いていた。軍鶏屋をはじめたのがいけなくなって氷店になったのだった。道楽ものの兄が二人いたが、その一人と母親とが伝染て、二、三日のうちに三人もいなくなってしまった。  この西川屋一家も以前は大門通りに広い間口を持っていた。蕎麦屋の利久の斜向いに──現今でも大きな煙草問屋があるが、その以前は、呉服用達しの西川屋がいたところである。そこの主人はあたしの祖母の兄で、早くから江戸に出ていた。先妻に縹緻よしの娘を生ませたが、奥女中上りの後妻が継児いじめをするので、早くから祖母の手にひきとられ、年下のあたしの父の許婚となった。  後妻は由次郎、鉄五郎、おたけさんを生んだ。父親が歿なると、男振りのよい忰たちは直に店をつぶしてしまった──尤もそれには御維新の瓦解というものがあった故もあろうが──二人の忰はありったけの遊びをして、由次郎はコレラでなくても長くは生きないようになっていた。  鉄さんが鉄公になったころは散々で、もう仕たい三昧の果だった。賭博場を軽げ歩き、芸妓屋の情夫さんになったり、鳥料理の板前になったり、俥宿の帳附けになったり、頭の家に厄介になったり、遊女を女房にしたりしているうちに、すっかり遊人風になり金がなくなると、蛆虫のように縁類を嫌がらせた。  この男、あたしの目に触れだしたのは、越前堀のお岩稲荷の近所に何にかに囲われていたころだった。染物屋の張場のはずれに建った小家で、茄子の花が紫に咲いていた。白っぽくって四角い顔のお婆さんが、鉄の悪口をグショグショと祖母に語っていた。でも、その時分鉄さんは、父に用事を言いつけられると、ヘイ、と分明り返事をして、小気味よく小用をたしていた──尤もむずかしい仕事ではない、家のなかの雑用だが──彼は見かけだけは稜々たる男ぶりだった。ちょっと類のすくない立派な顔と体をもっていた。面長な顔に釣合った高い鼻、大きなきれの長い眼、一口に苦味走った男だったが、心根は甘かったものと見える。母親が、夜になると忍ぶようにして勝手口からたずねてくると、祖母の膝の前にうずくまって恵みを願っている。その女が帰ってしまうと祖母は溜息をついて、 「えらい女をもらってしまって、あの女のために西川屋もつぶれた。あの女の心がけがわるいからだが──」  だが、奥女中姿の裲褂で嫁に来た時はうつくしかったと、不便がって貢いでいた。  ある日祖母は、例によって私をつれて、山の手の坂のある道を行った。富坂というところだと松さんは言った。露路へはいりながら、しどい場処ですといって番地と表札をさがしたが、西川鉄五郎の家はどうしても知れないので空家のような家で聞くと、細い細い声で返事をした。 「此処でございます、此処でございます。」  祖母は松さんに手をとられてはいっていった。畳もなければ根太も剥いである。 「御隠居さん」  戸棚を細目にあけてそう言ったのは、二、三日前の晩、袢纏を紐でしばって着てきて、台所で叱られていた女だった。 「座るところはなくともよいから出ておいで。」  祖母はそう言ったが、やがて、モゾモゾと半裸体の女が這い出してきた。 「やれやれ、まあ!」  呆れた祖母は、俥に乗せてきた包みを松さんに取りにやった。 「お前をそんなにして投りだしておいて、鉄の人非人は何処へいった。」 というと、褌ひとつで戸棚から、 「面目も御座いません。」 と這出してきた。そして、祖母が救いに来たのだと知ると、一昨日の晩、女が死ぬような病気で、どっと寝ておりますといったのは、二人ともすっかり忘れてしまって、裸でも元気な調子でともかくやりきれないという事を、子供のあたしにも面白くきかせるほど巧みにしゃべりたてた。 「よし、よし。貴様はのたれ死しようと勝手だが、女子はそうはゆかぬ。」  祖母がいるうちに、米屋からは米がはこばれ、炭屋からは炭がきた。松さんが運んだ包みから出た着物を女は着た。  鉄さんは景気よく根太のつくろいをして、戸棚の中に敷いていた花莚をおき、松さんは膝掛けを敷いて祖母とあたしのいるところをつくった。  こんな処へ来ても、人ぎらいをしない祖母は、てんやから食物をとって、みんなで会食した。酒が廻ると鉄さんは、どんなふうにして大屋をこまらせてやったとか、畳は売ってしまって、根太は薪のかわりに燃したと雄弁にまくしたてて叱られた。  家にかえっても何にも言わないので、祖母はあたしを可愛がった。妹は外でおとなしく、帰るとすぐ告げ口をするので、猫かぶりだといって、いつもおいてきぼりにされていた。言いつけ口は嫌いだが、決してもの事を隠しだてするひとではなかったから、帰るとすぐその晩か、遅くもあくる夜は、松さんの俥が荷物ばかりを積んで、再びなまけ者の住居を訪れるのだった。 「無駄だけれど──」 と言いながら母は布団やその他のものを積ませた。  だが、鉄さん自身が浅間しい姿で、地虫のように台所口につくばった時、祖母は決してゆるさなかった。同情の安売りはしなかった。取次ぎが、ぜひ御隠居様にお目にかかりたいと申ますと伝えたとき、台所の敷居に手をつくようなことをせず、表から来いと言わせた。  彼女は卑屈を嫌ったが、決して貧乏を厭いはしない。ところが、哀れな鉄さんは、卑屈をいやしまず貧乏を鼻白んだ。彼は何時までもウジウジ屈んでいた。祖母は堪らなくなったと見えて台所口へゆくと柄酌に水をくんで鉄さんの頭からあびせかけた。 「とっととゆけ、用があらば伯母の家だ、表からはいれ。」  そう怒鳴った。ブツブツ口小言をいっていた母が、かえって気の毒がって小銭を与えたりした。  鉄面皮な甥は、すこしばかり目が出ると、今戸の浜金の蓋物をぶるさげたりして、唐桟のすっきりしたみなりで、膝を細く、キリッと座って、かまぼこにうにをつけながら、御機嫌で一杯いただいていた。そんな日にはいやに青い髭だと思った。  この男、晩年に中気になった。身状が直ってから、大きな俥宿の親方がわりになって、帳場を預かっていたので、若いものからよくしてもらっているといった。それでも若い衆におぶさって一度逢いたいからと這入って来た時に、みぐるしくはなかった。大きな男が、ろれつの廻らぬ口で何か言いながら、はいはいした顔を出した時、みんなびっくりした。 「お前なぞ、そんないい往生が出来るなんて──よく若い者が面倒見てくれるな。」  父がそう言うと、 「全く──裸で湯の帰りに吉原へ女郎買いにいったりした野郎が──全く、若いものがよくしてくれます。」 と言った。逢いたいにも逢いたかったが、世話になる部屋の若い者に礼をしてくれと頼むのだった。  さて、  イッチク、タイチク、タエモンドンの乙姫さまが、チンガラホに追われて── などと、大きな声で唄いつれていたアンポンタンも小学校へあがる時季が来た。そのころは勝手なもので、六歳でも許したものだった。尋常代用小学校といっても小さく書いてあるだけで、源泉学校だけの方が通りがよかった。重に珠算と習字と読本だけ、御新造さんも手伝えば、お媼さんもお手助けをしていた。  引出しが二つ並んでついた机を松さんが担いで、入門料に菓子折を添え、母に連れられて学校の格子戸をくぐった。先生は色の黒い菊石面で、お媼さんは四角い白っちゃけた顔の、上品な人で、昔は御祐筆なのだから手跡がよいという評判だった。御新さんはまだ若くって、可愛らしい顔の女だった。  格子戸をはいると左に、別に障子を入れた半住居の座敷があって、その上の二階は客座敷になっていた。先生は怖いから大変年をとった人だと思ったが、多分三十位だったかも知れない。お媼さんは先生のことを秋山が秋山がと言った。  翌日からみんなと机をならべるのだった。お昼すこし前になると、おみやげのお菓子を配った。今朝登校のときに松さんがもって来た大袋四ツが持出されて、うまい具合に分配されてゆくのだった。世話やきの子供が幾人かで、全校の生徒の机の上に、落雁を一個二個ずつ配ると、こんどは巻せんべを添えて廻る。その次は瓦煎餅という具合にして撒ききるのだ。  母の覚え書きがあるから記しておこう。 於保手習初メ 金五十銭に砂糖折 外に子供衆へ菓子五十銭分。 そのほか覚。 一月年玉分    五十銭 七月盆 礼    五十銭 試験       七十銭 月謝       三十銭 年暮       玉子折 年玉       五十銭 外に暑寒  なんと安価なものではないか。しかし、お豆腐は一丁五厘であったのを、お豆腐やの前で読んだから知っている。お米のねだんは知らないから書くことが出来ない。  試験が割合にかかるのは、試験ということは学校へお赤飯を食べにゆくことだと思ったほどだから、お手数だったと見える。近所の小学校の校長たちがむずかしい顔をして控えている前へいって試験されるので、なるべく級の中から出来そうなのが前の方にならび、他校の校長の眼の前でやった。前々日に下ざらいは出来ているのであるが、秋山先生の弟子煩悩は有名で、自分の方が終日ハラハラしていた。みんなその日はめかしていった。三枚重ねを着て、さしこみのついている鼈甲の簪や、前がみざしをさしている娘は、褄を折返してキチンと座っていた。男の子は長い袖の黒紋附の羽織、袴を穿いていた。  黒いぬり盆へお赤飯とおにしめが盛りつけられた。出来ない男の子は、食べてしまうとそっと釣にいって、いつまでも帰って来なかったりした。校長さんたちの分は、大皿のお刺身などがとってあった。  洋算などは、大概なところで秋山先生が一人に答えをいわせ、 「出来たか。」 というとみんなが手をあげる。それで済みなのだった。他の老人の校長などは居ねむりをしていた。  暮のお席書きの方が、試験よりよっぽど活気があった。十二月にはいると西の内一枚を四つに折ったお手本が渡る。下の級は、寿とか、福とか、むずかしくなると、三字、五字、七字──南山寿とか、百尺竿頭更一歩進とかいうのだった。  課業はすっかりやめてしまって、その手習にばかりかかる。そしてお墨すりだ。  ──あたしのは丸八の柏墨だ。  ──あたしのは高木のいろは墨だ。  ──だめだ、いろは墨は、弘法様のでなくっちゃいけない。  そんな事を各自に言って墨を摺る。短かくなると竹の墨ばさみにはさんでグングンと摺る。それを大きな鉢に溜めてゆくと、上級の子がまたそれを濃く摺り直す。  ──こうやると好い香になる。と梅の花を入れる子もあった。早く濃くなるようにと、墨をつけて柔らかくしておくものもあった。  ──ばりこになるよ。とそれを嫌がるものもある。  商家の町なので年の暮はなんとなく景気がよい。学校へも、お砂糖の折だの、みかんの箱だの炭俵だの、供餅だのが沢山もちこまれる。お席書がすめばその日から休みで、かえりには蜜柑がもらえる。  二枚書いて、一枚は学校にずらりと張りつけ、一枚は家へもって帰る。親たちは、居間や、客間や、または、あたしの家などは玄関へ自慢で張る。  この秋山先生も書もらしてはならない人だ、学校そのものもまた! そして年の暮のことどもも──  柏墨の「丸八」は大伝馬町三丁目の老舗で、立派な土蔵造くりの店だった。紀文に張りあった奈良奈の家だのなんのときいていた。「大晦日草紙」とかいったように覚えているが、くさ双紙に、若い旦那の色里通いを、悪玉がおだてている絵があって、お嫁さんが泣いているのを見たとき、丸八の先代のことだとかいった。後に、春の絵の本を見たら、香字という大尽に張りあう高総という大尽のことがあった。それも多分「丸八」のはなしだとかきいていた。その事実は知らないがとにかく、そんなにまで豪奢な、派手なことがあったうちと見える。 底本:「旧聞日本橋」岩波文庫、岩波書店    1983(昭和58)年8月16日第1刷発行    2000(平成12)年8月17日第6刷発行 底本の親本:「旧聞日本橋」岡倉書房    1935(昭和10)年2月 入力:門田裕志 校正:小林繁雄 2003年4月2日作成 2012年5月19日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。