夢殿殺人事件 小栗虫太郎 Guide 扉 本文 目 次 夢殿殺人事件   一、密室の孔雀明王  ──(前文略)違法とは存じましたけれども、貴方様がお越しになるまで、所轄署への報告を差控える事に致しました。と申しますのは、まことにそれが、現世では見ようにも見られない陀羅尼の奇蹟だからで御座います。  ある金剛菩薩の歴然とした法身の痕跡を残して、高名な修法僧は無残にも裂き殺され、その側に尼僧の一人が、これもまた不思議な方法で絞り殺されているので御座います。そればかりではなく、現場には、この世にない香気が漂い、梵天の伎楽が聴こえ、黄金の散華が一面に散り敷かれているのです。ああ法水様、申す迄もなく終局には、この真理中の真理が大焔光明と化して、十方世界に無遍の震動を起すに相違御座いませんけれども……、まずそれに先き立って、貴方様の卓越した推理法に依り、奇蹟を否定しようとする凡ゆる妄説を排除して頂きたく、御願いする次第で御座います──。  恐らく読者諸君は、盤得沙婆のこの一書を指して、如何にも狂信者らしい、荒唐無稽を極めた妄覚と嗤うに相違ない。が、事実それには、微塵の虚飾もなかったのだ。その三十分後には、法水麟太郎と支倉検事の二人が、北多摩軍配河原の寂光庵に到着していて、まさにそこで、疑う方なく菩薩の犯跡を留めている二つの屍体に直面したのだった。それが恰度、爐中さながらにうだり切った八月十三日午後三時の陽盛り──事件発見から数えて、その二時間に当っていた。  扨ここで、寂光庵に就き掻い摘んだ説明をして置こうと思う。この尼僧寺は、婦人の身で文学博士の肩書を持ち、自ら盤得沙婆と号する工藤みな子の建設に係わるものであって、あまねく高識な尼僧のみを集め、瑜伽大日経秘密一乗の法廓として、ひろく他宗に教論談義を挑みかけていた。所が最近になって、この異様な神秘教団に不可解な人物が現われた、と云うのは、推摩居士と称する奇蹟行者の出現だった。それが奇怪至極にも、尼寺の鉄則を公然と踏み躪っているばかりではなく、推摩居士は竜樹の再身と称して、諸菩薩の口憑や不可思議な法術をも行い、次第に奇蹟行者の名を高めるに至った。しかも、それ等一切の行を御廉一重の奥で行って、決して本体を見せなかったのであったが、それが却って、神秘感を深める効果ともなって、渇仰の信徒が日に増し殖えて行った。その矢先折も折から、到底この世にあろうとは思われぬ不可思議な殺人事件が、寺内の夢殿に起った。そして、端なくもそれが起因となって、推摩居士の本体が曝露されるに至ったのである。  寂光庵は、新薬師寺を髣髴とする天平建築だった。その物寂びた境域には、一面に菱が浮かんでいる真蒼な池の畔を過ぎて、檽子の桟が明らかになって来ると、軒端の線が、大海を思わせるような大きな蜒りを作って押し冠さって来るのだ。その金堂が、五峯八柱櫓のように重なり合った七堂伽藍の中央になっていて、方丈の玄関には、神獣鏡の形をした大銅鑼が吊されていた。そして、その音が開幕の合図となって、愈法水は、真夏の白昼鬼頭化影の手で織りなされた、異様な血曼荼羅を繰り拡げて行く事になった。  法水は庵主盤得尼の切髪を見て、この教団が有髪の尼僧団なのを知った。盤得尼は五十を越えていても脂ぎって艶々しく、凡てが圧力的だった。見詰めていると、顔全体が異様に昂って来る感じがするけれども、そこにまた、冷酷な性格を充分満せないような、何んとなく秘密っぽい画策的な、まるで魔女のような暗い影が揺めいているようにも思われるのだった。間もなく、法水は案内されて、本堂の横手口にある室に入った。そこは、左右に廊下を置いていて、書院一つ隔てた外縁の檽子窓からは、幽暗な薄明りが漂って来る。入ると、盤得尼は正面の扉を指差して、 「此処で御座います」と男のような声で云った。「夢殿と申しまして、以前は寺院楽と黙行の修行所に当てて居りましたのですが、最近では此処で、推摩居士が祈祷と霊通を致すようになりまして……」  そこには、黒漆塗の六枚厨子扉があって、青銅で双獅子を刻んだ閂の上には、大きな錠前がぶら下っていた。盤得尼が錠前を外し扉を開くと、正面には半開きになっている太格子の網扉があって、その黒い桟の内側には、西の内を張った檽子障子が、格の間に嵌められてあった。然し、その重い網扉がけたたましい車金具の音と共に開かれ、鉄気が鼻頭から遠ざかると同時に、密閉された熱気でムッと噎せ返るような臭気を、真近に感じた。前方は二十畳敷程の空室で、階下の板敷と二階の床に当る天井の中央には、関東風土蔵造り特有とも云う、細かい格子の嵌戸が切ってあった。そして、双方の格子戸から入って来る何処かの陽の余映を、周囲の壁が、鈍い銅色で重々しく照り返していて、またその弱々しい光線が、正面の壁に打衝ると、そこ一面にはだかっている十一面千手観音の画像に、異様な生動が湧き起されて来るのだった。所が、その画像を見詰めながら、法水が一足閾を跨いだとき、右手にある階段の上り口に、それは異様なものが突っ立っているのに気が付いた。その薄ら茫やりとした暗がりの中には、地図のような血痕の附いた行衣を着て、一人の僧形をした男が直立している。そして、その男は、両手をキチンと腰につけたまま膝をついていて、正面に烱々たる眼光を放っているのだ。然し、眼が暗さに慣れるにつれて、更に驚くべきものを見た、と云うのは、その男の両足は、膝蓋骨から三寸ほど下の所で切断されていて、その木脚のような二本の擂木が、壁に背を凭せ全身を支えて突っ立っているのだった。「これが推摩居士なので御座います」と、この凄惨な場面に適わしからぬような、恍とりとした声で、盤得尼が云った。ああ、なんと皮肉な事であろうか、殺された当の人物と云うのが、奇蹟行者だったのだ。「所が、正午頃夢殿に入られてから発見される一時十五分迄の間と云うものは、一向に何んの物音もなく、それに、嗄れ声一つ聴こえませんのでしたが……」  推摩居士の年齢は略々盤得尼と頃合だけれども、その相貌からうける印象と云えば、まず悉くが、打算と利慾の中で呼吸している、常人以外のものではなかった。鋭く稜形に切りそがれた顴骨、鼠色の顎鬚──と数えてみても、一つは性格の圭角そのもののようでもあり、またもう一つからは、浅薄な異教味や、喝するような威々しさを感ずるに過ぎなかった。総体として、唵の聖音に陶酔し、方円半月の火食供養三昧に耽る神秘行者らしい俤は、その何処にも見出されないのであった。所が、その相貌とは反対に、推摩居士の表情姿体を観察して行くと、それには、恐怖驚愕などと云うような、殺人被害者固有の表出を全く欠いていた。そればかりか、何んとなく非現世的な夢幻的なものに包まれていて、その清洌な陶酔に輝いている両眼、唇の緩やかな歪みなどを見ると、そこから漲り溢れて来る異様なムードは、この血腥い情景を瞬間忘却させてしまい、それはてっきり、歓喜とか憧憬とか云ったら似付かわしいのであろうか、全く敬虔な原始的な、子供っぽい宗教的情緒に外ならぬのであった。恐らく、到底この世にあり得ようとは思われぬ、或る異常な情景が、推摩居士の眼前に現われ出たのであろう。そして、彼の視覚世界が最終の断末魔に至るまで、その何ものかの上に、執着していたのを物語るのではないだろうか。然し肱だけの行衣に平ぐけの帯を締めた血みどろの身体は、コチコチに硬直していて、体温は既に去っていた。法水は屍体の大腿部を見詰めていた眼を返して、血に染んだ右掌を拭き、そこに何やら探している様子だったが、やがて、行衣に現われている四つの大血痕の下を調べ始めた。すると、そこから、心臓をギュッと掴まれたような駭きとともに、犯人の異形な呪文が現われ出たのだった。  そこで、四つの創形を云うと、そのうちの二つは左右上膊部の外側、即ち肩口から二寸ほど下方にあって、残り二つは、左右腰骨の突起部、即ち大臀筋の三角部だった。何れも、人体横側の最高凸出部であり、その位置も左右ともに等しく、尚、その上下の一対が、垂直線の両端に位しているのが注目されるが、何よりの駭きと云うのは、明瞭な字紋様の創形と、それに到底人間業とは思われない──恰度精巧な轆轤で、刳り上げたような一致が現われている事であって、またその二つが、左右とも微細な点に至るまで符合しているのだった。それをなお詳細に云うと、上膊部のものは、最初上向きになった鋭い鉤様のものを打ち込んだらしく、創底が三糎程の深さになっていて、それを上方に向けて刳りながら次第に浅くなって行き、全体が六糎程の長さで、の形になって終っている。次に腰辺のものは、の形をなしていて、全長は前者よりも稍長く、深さは略等しいと云って差支えなかったが、疑問は、それのみには止まらなかったのである。いずれも、傷の末端が、V字型をせずに、不規則な星稜形をなしていて、何か棒状のもので掻き上げたような、跡を留めているのだった。即ち、以上四つの創傷に就いて、その生因を瞼の裏に並べてみると、てっきり首尾を異にしているとしか思われぬような──まるで猫の爪みたいに、自由自在な隠現をするかのような兇器を、想像するより外にないのだった。法水は盤得尼を振り向いて、彼には稀らしいくらい、神経的な訊き方をした。 「何んとなく僕には、これが梵字のように思われてならないのですが」 「明らかにそうで御座います。これは、(訶)と(囉)の二つで御座いまして、双方ともに、神通誅戮と云う意味が含まれて居ります」  と盤得尼は、妙に皮肉にともとれる微笑を湛えて云い返した。 「成程」法水は幾分蒼ざめた顔をして頷いたが、再び屍体に視線を向け始めた。屍体の周囲には、四個所の傷口から滴り落ちた僅かなものだけが、ところどころ点滴を作っているだけであって、全身には大出血特有の不気味な羸痩が現われ、弛んだ皮膚は波打って、それが薄気味悪く、燐光色に透き通って見えるのだった。左は中指右は無名指が第二関節からない両手の甲は、骨の間がすっかり陥没して居て、指頭が細く尖って異様に光っているばかりではなく、膝蓋骨から下の擂木は、殆んど円錐状をなす迄に萎え細っていた。それから推して考えてみるに、夢殿の何処かには、恐らく大量の血液が残っていて、推摩居士は其処から運ばれたに違いなかった。けれども、一方四つの創傷が、それぞれに大血管や内臓を避けているのを考えると、血友病が到底あろう道理のない身体に、どうして斯かる大出血が起されたものか──その点が頗る疑問に思われるのだった。と云って、その四つ以外には針先程の傷もなくて、法水は簡単に全身を調べ終ってしまった。それを見て盤得尼が云った。 「これで、すっかりお解りになりましたでしょう。尼寺の鉄則を何故推摩居士だけに許していたか……。御覧の通りこの方は男でもなければ女でも御座いません。つまり、そうなりましたと云うのは、日独戦争の折炸裂弾をうけて、両足と或る器官を失ってしまったからなので御座います。然し不思議な事には、それ以後此の方に、竜樹菩薩の化影が現われるようになりました」 「それは庵主、この太腿で、一目瞭然たるものなんですよ」法水が白々し気に云い返した。「内側へ捻れているでしょう。これで下肢が完全ですと、恰度馬の足のような形が見られるのです。それを内飜馬足とか云いましてね、たしか外傷性のヒステリヤには、一番多く見る現象なんですよ。そうすると、変則な強直をしている点に、第一説明が付きますし、何より犯人が、その無意識状態を利用した許りか、日頃不思議な法術の種になっている悪魔の爪(中世紀の所謂魔女に現われ た宗教性ヒステリー現象)を、却って逆用した事がお判りになりましょう。然しこの梵字の創跡だけは、人間の手では到底不可能な芸でしょうな」 「悪魔の爪⁉ そうなりますかね」盤得尼は怒りに顫えながらも嘲弄の響きを罩めて、「そうすると、あれは一体どうなるのでしょうか、お気付きになりませんか? 階段の頂上から此処までの間に、血の滴り一つないのですよ。ねえ法水さん、血みどろの推摩居士は、大体どう云う方法に依って此処まで運ばれて来たのでしょうね? それに、どう考えたって、自分の着衣に血を移すような愚かな自殺的行為を、第一犯人のする気遣いがないでは御座いませんか」  事実盤得尼の云う通りだった。それまで二人ともそれに気付かなかったのは、光線の加減で五、六段から上が血溜りのように見えたからだった。それから、法水は階下の調査を始めたけれども、床の嵌戸に附いている錆付いた錠前を壊して、床下から数片の金泥を拾い上げたのみの事だった。そうして調査が、赭岩ばかりで出来た海底のように、仄暗い階下から離れて、階段の上に移された。  然し、階段の中途まで来ると、さしもの彼も思わず棒立ちになってしまった。パッと眼を打って来た金色の陽炎に眩まされて、殺人現場と云う意識がフッ飛んでしまったばかりでなく、先刻盤得尼の手紙を読んで妄覚と笑ったものが、今や彼の眼前で、寒天のように凝り固まって行こうとしている。そこに横たわっている尼僧の屍体も玉幡も経机も、すべて金泥の花弁に埋もれていて、散り敷いた数百の小片からは、紫磨七宝の光明が放たれているのだ。ああ、まさにこれこそ、観無量寿経や宝積経に謳われている、阿弥陀仏の極楽世界なのであろうか⁉  階上は階下と同様無装飾の室だった。階段を上り切った右手の壁には、鉄格子を嵌めた小窓が一つあって、残り三方は得斎塗りの黒壁で囲まれていた。また、降り口の突き当りには、もう一つ階段が作られているのだが、それは屋根裏の三階に続いているものであって、その部分だけが切り込まれ、右側には、壁に添うた突出床が出来ている。と云うのは、三階の床が、所謂神馬厩作りだからである。従って、そこの床寄り約四分の一ばかりの間が、長方形に切り取られているので、振り仰ぐと上層の暗がりの中に、巨大な竜体のような梁が、朧げに光って見えるのだった。さて法水は、散り敷かれている金泥の小片を、一々手に取って調べたけれども、表面に血痕が附着しているのも、またしていないのもあって、その二様のものが雑然と入り乱れている始末なので、最早血痕の原型を回復する事は不可能に違いないのだった。けれども、打ち倒れている四流の玉幡を見ると、それが、ところどころ僅か許り、金泥の斑点を残しているままで、殆んど赤裸に引ん剥かれ、曼陀羅の干茎が露き出しになっている。それからだけでも、この無数の片々が、以前玉幡の衣だった事は明らかであるけれども、一方、金泥の上には踏んだ跡がなく、曼陀羅の肌にも掻傷一つないと云う始末だった。一体、金泥は如何なる方法に依って剥ぎ取られ、そして散華が起されたのだろうか!  法水は、金泥を一個所に掻き集めて、調査を始めた。床には血の点々が僅か残っているだけであったが、此処で、階上の室内に於ける配置を云うと……、中央には、階下から眺めた通りに格子形の嵌戸が切ってあって、その後方には、膝蓋骨の下部にビッタリ付くように作られてある、推摩居士の義足が二本並んでいた。前方には、竹帙形に編んだ礼盤が二座、その左端に火焔太鼓が一基、その根元に笙が一つ転がっている。二つの礼盤の中央には、五鈷鈴や経文を載せた経机が据えられ、右の座の端には、古渡りらしい油時計が置かれてあった。それは、目盛の附いた、円鐘形の硝子筒の中に油を充たして、中部の油が、長柄の端にある口芯まで流れて行き、その点火に伴う油の減量に依って、時を知る仕掛なのである。が、その時は既に灯は消え、不思議な事に目盛は二時を指していた。そして、礼盤の突当りに掲げてある、「五秘密曼陀羅」の一幅を記せば、配置の説明の全部が終るのである。  尼僧浄善の屍体は、両眼を睜き、階段の方を頭に足首を礼盤の上に載せて、四肢を稍はだけ気味に伸ばしたまま仰向けに横たわっていた。三十恰好で大して美しくはないけれども、その平和な死顔には、静思とでも云いたい、厳かなものが漂っているように思われた。それに、未だ硬直がなく、体温も微かに残っていたけれども、何より、二つの驚くべき跡が印されてあったのだ。その一つは四肢の妙な部分に索痕があると云う事で、各々上膊部の中央と、膝蓋骨から二寸許り上の大腿部に残されていた。それから次は、更に異様なものであって、咽喉から両耳の下にかけて、そこを扼したように見える、四本の華奢な指股様の跡が深く喰い入っていて、それが二筋宛並んで印されてあった。しかも、その四つが同時に行われたと云う事は、一つの血痕の上に各々の端が載っていて、そこが少しも乱れていないのでも判るのだった。また、それ以外には擦り傷一つなかったのである。 「こりゃ酷い!」法水が辛っと出たような声で、「軟骨が滅茶滅茶になっているばかりじゃない、頸椎骨に脱臼まで起っているぜ。どうして、吾々には想像も付かぬような、恐ろしい力じゃないか。だが、決してこれは、固い重量のある物体を載せた跡じゃない。紛れもない人間の指をかけた跡なんだよ」と云ってから検事を振り向いて、「所で支倉君、この屍体の死因には、到底正確な定義は附けられんと思うね。成程、皮下出血や腫張があって、扼殺の形跡は歴然たるものなんだ。所が、一方不思議な事には、窒息死に必ずなくてはならぬ痙攣の跡がない。そして抵抗した形跡もなく、此の通り平和な顔をして死んでいるんだ。おまけに、推摩居士の行衣にある瓢箪形の血痕と、浄善の襟に散っている二つを比較してみると、片方は血漿が黄色く滲み出ていてあの形を作っている。所が、この屍体になると、それが全く見られないのだ。つまり、その一事から推しても、推摩居士から、浄善に及ぶまでの間と云うのが、決して直後とは云われない時間だった事が証明されるだろう。然し、そうなると、そこに当然新しい疑題が起って来て、一体その間、浄善は何をしていたと云う事になってしまうぜ」 「では、毒物が……」検事が自説を述べようとするのを、法水は抑えて、 「所が支倉君、ここに途方もない逆説があるのだよ。と云うのは、全くあり得ないような事だけれども、この女にはたしか、絶命するまで意識があったに違いないのだ。だから、もし解剖して、腺に急激な収縮を起すような毒物が証明されない日には、恐らく浄善は、その間人間最大の恐怖を味わっていた事になるだろうね。ねえ、薄気味悪い話じゃないか。痲痺した体で眼だけを睜って、その眼で、自分の首に手が掛かるまでの、惨らしい光景を凝然と眺めていたんだからね」と更に屍体の眼球を擦ってみて、結論を述べた。 「見給え、水分が少しもない。そして、恰度木を擦っているようじゃないか。大体屍体の粘膜と云えば、死後に乾燥するのが通例だろう。だが、二時間やそこいらで斯んなに酷いのは、恐らく異例に属する事だぜ。それに、眼球の上に落ちた血滴が少しも散開していない。そうすると、涙腺が極度に収縮しているのが判るだろう。つまりその凡てが、異常な恐怖心理の産物であって、血管や腺の末管が、急激に緊縮してしまうからなんだ。然し、またそうかと云って、その間浄善が失神していたのでないと云う事は、痙攣の跡がない──と云う一事だけでも、瞭然たるものなんだよ」  然し、立ち上ると法水は、ブルッと胴慄いして、明らかにその顔色には、容易ならぬ例題に直面しているのを、語るものがあった。 「だが支倉君、そんな事よりも、あれだけの血が一体何処へ行ってしまったのだろう?」 「ウン、確かに体外血量の測定をする必要はあると思うね。吸うのもいいだろうが、吸血鬼でも人間じゃ、立ち所に恐ろしい生理が起ってしまうぜ」と検事が尤もらしく呟くのを、法水は嘲けり返すように見て、 「所が、此の事件には、ポルナで働いたチームケ教授は要らないのだよ。此処に散らばっている金泥全部を集めた所で、恐らく二百瓦とはあるまいからね」  と暫く莨を口から放したまま考えていたが、やがて法水は玉幡の一つを取り上げた。玉幡は四本とも同型のもので、幅二尺高さ七尺ばかり、上から三分の一までの部分は、ビルマ風の如意輪観音が半跏を組んでいる繍仏になっていて、顔を指している右手の人差指だけが突出し、それには折れないように、薄い銅板を菱形にして巻いてあった。そしてその下に、中央には、日の丸形の円孔が空いている、細かい網代織りの方旛が、五つ連なっていた。重量は非常に軽く一本が六、七百匁程度で、それが普通の曼陀羅より余程太い所を見ると、たしかに蓮の繊維ではなく、何か他の植物の干茎らしいと思われた。尚、盤得尼の云う所に依ると、始めから終りまで、結び目なしの継ぎ合せた一本ものだと云う事だったのである。然し、試みにその一つを、三階の突出床から、礼盤の前方にかけて張ってある紐に結び付けてみても、床から五寸余りも隙いてしまう。更に法水は、玉幡の裾の太い襞の部分を取り上げて、それを浄善の扼痕に当てがってみたが、形状が非常に酷似しているにも拘らず、太さも全長も、到底比較にならぬ程小さいのだった。法水は、他からもそれと判る失望の色を泛べて、それから悠ったりと室内を歩き始めたが、やがて火焔太鼓の背後の壁に、一つの孔を見付けて盤得尼に問うた。 「伝声管で御座います。礼盤の右手は浄善、左手の火焔太鼓に寄った方が推摩居士の座になって居りまして、つまり、推摩居士に現われる竜樹の御言葉を、書院の中にある管の端から聴くので御座います。今日は、それが普光尼の番で御座いました」とそれに次いで、盤得尼は左の通り事件発生当時の情況を語り始めた。  ──推摩居士に兆候が現われたので、盤得尼と浄善が夢殿の中へ連れ込み、盤得尼は油時計に、零時の目盛まで油を充たして点火し、夢殿を出たのが零時五分。そうすると、扉を出ると同時に笙が鳴り始めたけれども、火焔太鼓の音は聴こえず、その笙も二、三分鳴り続けたのみで、その後は一時十五分に、智凡尼が変事を発見するまで、物音一つしなかったと云うのである。尚、尼僧達の動静に就いて云えば、盤得尼が自室に、普光は書院に、寂連は遙か離れた経蔵に、智凡は本堂の飾り変えをしていたと云うのみの事であって……、更に、事件を境にして夢殿内に起っていた変化と云えば、小窓が開かれていた事と、油時計が一時三十分を指して消えている──と云う二つに過ぎないのだった。  以上の聴取を終ると、法水は再び動き始めた。 「それでは支倉君、床に付いている推摩居士の皮膚の跡を探すとするかな」  所が、その捜査は空しく終ってしまい、真夏の汗ばむ陽盛りに、鏡板の上に付いていなければならぬ筈の、何物をも発見されなかった。が、最後に至って、検事の眼が床の一点に凍り付いてしまった。彼が無言のまま指差した個所を、横合から透して見たとき、法水は、自分の心動を聴いたような心持がした。左手の推摩居士が坐っていた礼盤から始まって、三階へ行く階段の方角へ点々と連なっているのが、中央の塊状を中心に、前方に三つ後方に一つ、それぞれに鏃形をした、四星形の微かな皮紋であって、その形は、疑うべくもない巨鳥の趾跡だった。しかも、前方から歩んで来て、礼盤の縁で止まっている。それを逆に辿って行くと、遂に三階の階段を上り切ってしまって、突出床から壁に添うて敷かれてある、竹簀の前で停まっていた。検事は前方の壁面を見上げて思わず声を窒めた。それ迄バラバラに分離していた多くの謎が、そこで渾然と一つの形に纏まり上っている。梵字形の創傷も、流血の消失も、浄善の咽喉に印された不可解な扼痕も……それ等凡て一切合財のものが、孔雀に駕し四本の手を具えた、「孔雀明王」の幽暗な大画幅の中に語られているのではないか。高さ四尺幅三尺程の大幅の中には、画面一杯に羽を拡げた印度孔雀に、駕し左右四つの手に、各宝珠を捧げ説法の印を結んだ異形の女身仏が、背上の蓮台の上に趺座しているのだ。それは、如何にも密教臭い、病理的なヒステリカルな暗い美しさだった。しかも、輪羽の中芯を、密陀僧の朱が核のような形で彩取っていて、その楕円形をした鮮かな点列だけが、暗い、血を薄めたような闇の中から泛かび上っていた。然し、そう云った秘密仏教特有の、喝するような鬼気と云うのが、この場合、単なる雰囲気にのみ止まってはいなかったのである。その中には、犯行にとどめられている様々異様な特徴が、一々符合し具体化されていて、それが幾つとなく、数え上げられて行くのだった。 「成程、素晴らしい犯人の制作です。これでは、画中から孔雀が脱け出して階段を下り、そうして鋭い爪で推摩居士を掻き毮ったばかりではなく、更に、四本の手を伸ばした背上の菩薩が、浄善の首を絞めた──と云うより外にないでしょう」と一端法水は、夢見るような調子で呟いたけれども、それからすぐ、冷然と盤得尼に微笑み掛けた。「所が、庵主、この童話劇の結論は、結局菩薩の殺人と云う仮定に行き着いてしまうでしょう。然し、考えれば考える程、却って僕は、その逆説的な解釈の方に、惹かれて行ってならないのですよ」 「承わりましょう──一体何を仰言りたいのです」  盤得尼は屹然と額を上げた。 「要するに、接神妄想なんですよ。これは、ボーマンの『宗教犯罪の心的伝染』と云う著述の中にある事実ですが、十六世紀の始めチューリッヒの羅馬加特力教会に、所謂奇蹟が現われたのです。ある八月の夕方、会堂の聖像が忽然と消え失せてしまって、その代り、創痕から何まで聖像と寸分も異ならない肉身の耶蘇が、十字架の下に神々しい屍体を横たえているのです。しかも、その創痕と云うのが、皮膚の外部から作った傷ではなくて、斑紋様に、内部から浮き上っているものなのです。従って、当然市中は大変な騒ぎとなりましたが、更に不思議な事には、翌朝になると、その耶蘇の屍体が何時の間にか消え失せてしまっていて、旧通、木製の耶蘇が十字架にかかっているのでした。所が、その後三世紀も奇蹟として続いて来たこの謎を、十九世紀の末になって、遂にジャストローが解いたのです。多分、聖痕と云う心理学用語を御存知でしょうが、あのフランス・カレッジの先生は、一人の田舎娘を見出して、それから聖像凝視が因で起る、一種の変態心理現象を発見したからなんですよ。で、そうなって………」と云いかけた法水の顔には、殺気とでも云いたいものが、メラメラと盛り上って来た。「そうなって、当時の瑞西を考えると、新教アナバプチスト派の侵入をうけていて、加特力の牙城が危胎に瀕していたのですからね。ですから、何んとはなしにその奇蹟と云うのが、司教の奸策ではないかと思われて来るのですよ。そうして、此の事件にも、私は奸悪な接神妄想を想像しているのです」  その間盤得尼は、ただ呆れたようになって、相手の顔を見詰めていたが、キュッと皮肉な微笑を泛かべて云い放った。 「そうしますと法水さん、その司教と置き換えられた私は、一体何処から入って何処から出た事になるのでしょうか。実を申しますと、今も入口の網扉を私は故意と半開きにして置いたのですよ。あの網扉の音は河原までも響きますし、厨子扉には、当時もやはり錠前が下りていたのです。それに、智凡尼が入った時には、二階で笙を吹いている者がありました。ねえ法水さん、この夢殿は密室だったのですよ。密閉された室の中で、一体孔雀明王と供奉鳥以外に誰がいた事になりましょうかね」  密室、しかもその中で、大量の血が消え失せてしまっている──。流石の法水も、ハタと行き詰まって、まざまざとその顔には、羞恥と動揺の色が現われた。   二、火焔太鼓の秘密  盤得尼が去ってから、尚も三階の一劃を調べたけれども、そこには何一つ発見されなかった。そして、再び二階に下りると、法水は油時計を指差して云った。 「判ったのは、たったこれだけさ。一時十五分に発見した時消えていたと云う油時計が、何故二時を指しているか──なんだ。その気狂い染みた進み方からして、犯人が小窓を開いた時刻が判るのだがね」 「そうすると、多分消えたのは、金泥が散った時じゃないだろうか」 「うん、まずそうだろうと思うが……」と法水は気のない頷き方をして、「所で、問題はこの油容器の内側にあるんだが……、現に今も見る通り、除れ易い足長蚊の肢が一本、油の表面から五分許り上の所に引っ掛かっているだろう。肢鉤の方が上になっていて、右の方へ斜に横倒しになっている。所が、胴はその方向にはなくて、却って反対側に──肢から一寸許り離れた左の方で、これは、油の表面に浮かんでいるんだ。それから考えると、容器の辺りを、胴体が何周りかした事が判るじゃないか。つまり、還流が起った証拠なんだよ。大体油時計そのものが、頗る温度に敏感であって、夜中燈火兼用以外には使えない代物なんだ、だから、当然それに、陽が当った場合を想像しなくてはならんと思うね。つまり、それを一口に云うと、油の減量につれて、蚊の屍体が肢鉤のある点まで下って来たとき──その時、犯人は小窓を開いたのだ。そうすると、陽差が容器の下方に落ちて、熱した油が上層に向う事になるから、当然表面の縁に、還流が起らねばならないだろう。おまけに、油の流出が次第に激しくなって行くので、時刻が飛んでもない進み方をしてしまったのだ。だから支倉君、犯人が小窓を開いたのは、十二時四十分前後だと云えるんだよ」 「成程。然し、犯人が窓を開いた意志と云うのは、恐らくそれだけじゃないと思うね。或は、兇器を捨てるためにか……」  それを法水は、力のない笑い声を立てて遮った。 「では、探して見給え──決してありっこないからね。梵字の形が、左右符合しているのを見ただけでも、とうに僕は、人間の手で使うものでない──と云う定義を、この事件の兇器に下しているんだ。それよりも支倉君、孔雀の趾跡が一体どうして附けられたか──じゃないか。たとえば、推摩居士を歩かせたにした所で、たかが膝蓋骨の、三角形ぐらい印されるだけだからね」 「すると、何か君は?」 「うん、これは非常に奇抜な想像なんだが、さしずめ僕は、推摩居士に逆立ちをさせたいんだよ。それも掌を全部下ろさずに、指の根元で全身を支えるんだ」 「冗談じゃない」検事は呆れたような顔になって叫んだ。 「所が支倉君」と法水は真剣に顔を引き緊め、一歩一歩階段を下りながら云い始めた。「大体、其処以外には、何処ぞと云って、推摩居士の肉体に理論上ああ云う作用を、現わす部分がないのだからね。と云うのは、第二関節以下しかない、推摩居士の右の中指と左の無名指に、所謂光指が現われているからなんだ。その根元に弾片をうけて神経幹が傷付いているので、君も先刻見た通りに、指尖が細く尖って青白く光っているんだ。然し、戦地病院などでは大神経幹と違い、決して包鞘手術などをやる気遣いはないのだけれども、傷口さえ治れば、日常の動作には事欠かないようになってしまうのだ。つまりそこに、レチェヷンが神経代償機能と名付けた現象が起るからなんだよ。繊維だけが微かに触れ合っている周囲の神経が、栄養や振動を伝えてくれて、その瀕死の代償をしてくれるからなんだ。所が、これは、外傷性ヒステリー患者の、実験報告にも現われている事だけれど……、周囲の神経が痲痺してしまうと、時偶その遮断されている神経のみが、他の筋肉からの振動をうけ、実に不思議千万な動作を演ずる事がある。それなんだよ支倉君、そこに奇想天外な趣向を盛る事が出来れば、或は推摩居士がいきなり逆立ちして、あの孔雀の趾跡を残しながら、歩き出しはすまいかと思われるんだ」  それから夢殿を出ると、その足で普光尼の室へ赴いた。普光尼はとうに意識を取り戻していたが、激しい疲労のために起き上る事は出来なかった。四十に近い、思索と理智に及んだ顔立ちで、顎を布団の襟に埋めながらも、正確な調子で答えて往った。 「誅戮などと云う怖ろしい世界が、御仏の掌の中にあろうとは思われませんでした。私は推摩居士が悲し気に叫ぶ声を聴いたのです」 「なに、声をお聴きでしたか?」 「そうです。夢殿から庵主が出る網扉の音が聴こえて、それから間もなくの事でした。笙が鳴り出すと、それにつれてドウと板の間を踏むような音が聴こえました。そして、その二度目が聴こえると同時に、ブーンと云う得体の判らない響きがして、それなり笙も止んでしまったのです。それから二十分ほど後になってから、推摩居士が四本の手と叫ぶのを聴きましたが、二階のはそれだけで、今度は階下の伝声管から響いて参りました」 「すると、伝声管は二本あるのですね」 「ええ、階下の方は、恰度階段の中途で、横板と壁との間にありまして、それは、鳥渡判らない場所なので御座います。それで推摩居士が、今度は低い声で云うのでした」普光尼は幽かに声を慄わせ、異様な光を瞳の中に漂わせた。「宝珠は消えたが、まだ孔雀は空にいる──と斯う仰言るのでしたが、それから間もなく、二階で軽いものが飛び散るような音が始まりましたが、それが止みますと、今度はまた笙が鳴り出して──いいえ、無論それには、息を入れる所謂間が御座いましたのですわ。所が、その音は網扉が開くと同時に、パタリと止んでしまったのです。もう、これ以上、お耳に入れる事は御座いませんが」 「有難う。所で、推摩居士の屍体を御覧になりましたか?」と法水は、突然異様な質問を発した。 「ハア、先刻寂蓮さんと一所に……。それで、すっかり疲れてしまいましたのですが」 「すると貴女は、推摩居士の行衣の袖に、何を御覧になりましたね」 「サア一向に……。私、そんな事はてんで存じません」と普光尼は、いきなり突慳貪に云い放って、ふと首を向け変え夜具の襟に埋めてしまった。 「二本の伝声管か……」廊下に出ると、法水は意味あり気な口吻を洩らしたが、側の室が眼に入ると検事に向って、「どうだね支倉君、ここにある天平椅子にかけて、残りの訊問をする事にしようじゃないか」  最初に呼んだ寂蓮尼は、まさにゴッツオリの女だった。まだ二十六、七だろうけれども、見ていると透通ってでも行きそうな、何んとなく人間的でない、崇高な非現世的なものが包んでいるように思われた。所が、図書掛りを勤めているこの天使のような女は、事件当時経蔵にいた旨を述べ終ると、推摩居士の死因に就いて、驚くべき説を云い出したのである。 「推摩居士は、御自分で美しい奇体な墓場をお作りになって、その中で、仮死の状態に入られたのではないかと思いますわ。やがて屹度、あの方は蘇えるに違い御座いません。それから、浄善さんの死因に就いては、智凡さんが確かりした説を持っていらっしゃいますが」 「なに仮死ですって。たしか貴女は、いま仮死と云われましたね」検事は眼を円くして聴き咎めた。 「左様で御座います。現実その証拠には、内臓が損われて居りませんし、また、事実些程の出血がなかったにも拘らず、てっきり大出血を思わせるような虚脱状態が現われて居ります」と寂蓮尼はキッパリと云い切ってから、「そうしますと貴方は、ハニッシュの天啓録をお読みにはならなかったのですね。瑜珈式呼吸法は? ベエゼルブブの呪術は? ダルヴィラやタイラーの著述は如何で御座いますか」 「遺憾ながら、いずれもまだ読んでは居りません」と法水は、アッサリ、ブッ切ら棒な調子で答えたけれども、続いて俄然挑むような態度に変って、「所が寂蓮さん、もう後六時間と経たぬ間に、推摩居士の内臓は寸断されなければならないのですよ」 「エッ、解剖を!」寂蓮尼はのけぞらんばかりに驚いたらしく、彼女の全身に、まるで眩暈を感じた時のそれのような動揺が起って行った。「何故生体に刀を入れる必要があるのです。庵主が大吉義神呪経の吸血伝説を信じているように、貴方がたも大変な誤ちを冒そうとして居ります。それこそ、適法の殺人者ですわ」 「それが、証拠の虚実を決定するものだとすれば……、一向構わんではありませんか」法水は冷然と云い放った。「たしか、ヴォルテールでしたね。ストリキニーネさえ混ぜれば、呪文でも人間を殺せる──と云ったのは」  寂蓮尼は顔一杯に凄愴な隈を作って、憎々し気に法水を凝視めていたが、やがて、襖を荒々しくたて切って、室を出てしまった。 「ねえ支倉君、たしかあの女は、推摩居士の巫術の方に興味を持っているんだよ。どうやら、此の寺が二派に分れているとは思わんかね。そこに動機がある……」  法水がそう云った時、智凡尼が入って来た。その、薄髭が生えて男のような骨格をした女は、座に着くと莨を要求してスパスパやりながら、 「莫迦らしいとはお思いになりませんか。推摩居士が、真実竜樹の化身ですのなら、何故南天の鉄塔を破った時のように、七粒の芥子を投げて、密室を破らなかったのでしょう」 「成程、それは面白い説ですね。所で貴女は、浄善の死因に就いて何か御存知なようですが」 「実は、誰にも云いませんでしたが、私、犯人の姿を見たのですわ」 「何んですって⁉」検事は思わず莨を取り落したが、智凡尼は静かに語り始めた。 「済んだ合図の笙が鳴ったので、鍵箱から厨子扉の鍵を出して、網扉を明けますと、天井の格子に何か急いで複雑な動作をしているような影が映りました。そして、鳴っていた笙がピタリと止んでしまったのです。然しその時は、側の推摩居士に気が付いたので、私は暫くその場に立ち竦んで居りました。けれども、間もなく気を取り直して、階段の上まで上ってみますと、浄善さんはあられもない姿で、両袖で顔を覆って仰向けになって居りました。ああそうそう、その時階下には誰も居りませんでしたが……」 「そうしてみると、現在の浄善とは、屍体の状態が異う事になる」と云って検事が法水を見ると、法水も慄毛立った顔になっていた。 「浄善がその時まだ生きていたか、それとも屍体が動いたか──だよ。けれども、強直が来ない前は微動する訳もない筈だぜ」 「そうです。生きていた浄善は、その後に殺されたのですわ」智凡尼はグイと刳るような語気で云った。「だって、推摩居士が魔法のような殺され方をしているのを、眼前に見ながら、その側で凝っとしていると云う訳はないでしょう。それに、私がそれからすぐ飛び出して、その旨を庵主に告げると、庵主は夢殿に入ったきりで、暫く出て来なかったのですからね。私と寂蓮さんはその後に見に行ったのですが、その時は、浄善さんの姿勢が変ったと云うだけの事で、他にはこれぞと云う異状も御座いませんでした。つまり、浄善さんが推摩居士を殺して、その浄善を庵主が殺したのですわ。此の論理には、ともかく中断が御座いませんわね。多分それで、庵主は一番いい夢を見る、阿片を造る積りだったのでしょう」  そして、智凡尼はゲラゲラ笑いながら、出て行ってしまった。法水も同時に立ち上った。 「僕は鳥渡経蔵を見て来るからね。君は、盤得尼から浄善の屍体に就いて、詳細な要点を聴取しといてくれ給え」  それから一時間程経って、二度目の網扉の音がしたかと思うと、再び法水が現われた。そして、検事と獣のような顔で、睨み合っている老尼に慇懃な口調で云った。 「御安心下さい。智凡尼の偏見が、これですっかり解けましたよ。支倉君、やはり浄善は、発見した際には死んでいたのだ」と一冊の書物を卓子の上に置いて、「貴女が蒐められた書籍の中に、大変参考になるものがありましたよ。これは、ロップス・セントジョンの『ウエビ地方の野猟』なんです」 「それで、何か?」 「その中に斯う云う記述があるのです。──予の湖畔に於ける狩猟中に、朝食のため土人の一人が未明羚羊猟をせり。然るに、クラーレ毒矢にて射倒したる一匹を、捕獲したる鬣狗の檻際へ置けるに、全身動かず死したりと思いし羚羊の眼が、俄かに瞳孔を動かし恐怖の色を現わしたり──と。ねえ支倉君、浄善は最初に、微量のクラーリンを塗った矢針で斃されたんだよ。つまり、羚羊と同じに、運動神経が痲痺して動けなくなったまでの事で、その眼は凝然と、怖ろしい殺人模様を眺めていたんだ」 「冗談じゃない」検事は此処ぞと一矢酬いた。「一体、何処に外傷があるんだ」 「それが、襟足にある短かい髪の毛の中なんだよ」と法水が掌を開くと、その中から、四寸程の頭髪の尖を、巧妙な針に作ったものが現われた。「所で、僕がどうして発見したかと云うに、普光が笙の鳴っている間に聴いたと云う、妙な音響からなんだ。板の間を踏むような、ドウと云う音が二度ばかりして、その二度目の直後に、ブーンと唸るような音が聴こえたと云ったね。では、仮りにそれを、太鼓の両側の皮を、内側から強く引緊めて置いて、全然振動を、起させないようにしたのを打ったとしよう。そして、二度目にその緊縛が解けたとしたら、凹みの戻った振動でもって、恰度そう云うような唸りが起りはしないだろうかね。案の状、その思い付きからして火焔太鼓を調べて見ると、果して其処に、三つ針穴程の孔が明いていた。つまり、そのうちの二つは、皮の両側を引き緊めた糸の痕であって、またもう一つのには、二度目の撥で糸が切れ、両側とも旧の状態に戻った時に、その反動を利用する、簡単な針金製の弩機が差し込まれてあったのだよ」  そうして、浄善の死因に関する時間的な矛盾が一掃されてしまうと、法水は再び、盤得尼に云った。 「とにかく、その発見からだけでも、貴女に対する疑惑は稀薄になります。つまり、智凡が見たと云うのは、笙を吹いていた犯人の影と云う事になりますが、さてそうなると、浄善の屍体を動かした犯人が、その場は三階へ隠れたにしてもです。一体どうして、それから、あの場所を脱出したものか──問題は再び密室で行き詰まってしまうのですよ」 「それが取りも直さず、孔雀明王の秘蹟では御座いませんか?」と盤得尼は、透かさず眉を張って尚も執拗に奇蹟の存在を主張するのだった。それを、法水は冷笑で酬い返した。 「然し、この点だけは、誤解なさらないで頂きたいのです。貴女にしても、ただ智凡尼の推測から解放されたと云うだけで、つまり、謬説から遁れたと云う事は、正しい推定から影を消したと云う事にはなりませんからね。大体他の三人にしたところが、当時の動静を、的確に証明するものがない始末ですから。いずれ、僕が密室を切開した際に、改めて四人の顔を、膿の上へ映してみる事にしましょう」  盤得尼が出て行ってしまうと、法水は衣袋から一枚の紙片を取り出した。それには、次のような文字が認められてあった。 黄色い斑点の中に赤黒い蝙蝠──盤得尼 全部暗褐色の瓢箪──寂蓮尼 真黒な英仏海峡附近の地図──智凡尼 普光尼は答えず。 「成程、心理試験か……」検事が訊ねるともなしに呟くと、この一葉の上に、法水が狂的な憑着をかけているのが判った。 「うん、推摩居士の行衣の右袖に、瓢箪形の血痕があったっけね。その印象を、僕は求めたのだよ。で、これを見ると、各自が一番印象をうけた時の位置と、大凡の時刻が判るんだ。盤得尼のは階段を下りながら、正面から光線をうけた時眺めたものなんだ。寂蓮と智凡は横手からだが、陽差の位置に依って、眼に映った色彩が異っている。扨、これからどう云う結論が生れるか、今はまだ皆目見当がつかないのだがね。然しこれだけ集めるのに、僕は大変な犠牲を払ってしまったよ。寂蓮尼に、推摩居士の屍体を解剖しないと約束してしまったのだ」   三、吸血菩薩の本体  それから三日後に、法水と検事は再び寂光庵に赴いた。が、それまでに彼が得た情報と云えば、穴蔵に横たえた推摩居士の屍体に、瑜珈式仮死を信じている寂蓮尼が凄惨な凝視を始めた──と云う事のみだった。その食事も採らず一睡もしない光景からは、聴くだけでも、慄然とするような鬼気を覚えるであろう。二人が寂光庵に着いた頃は、恰度雷雨の前提をなす、粘るような無風帯の世界であった。が、入るとすぐに普光尼を呼んだ。然し、法水だけは、案内の尼僧が去ると同時に室から出て、普光尼が来てから大分経って戻って来た。 「僕は貴女だけに聴いて頂いて、当時貴女が、伝声管から聴き洩らした音を憶い出して頂きたいのです。所で、その前に、犯人が一体どう云う方法で、密室から脱出したものか──それをまず、お話する事にしましょう」  ああ、法水は何時の間にか、密室の謎を解いていたのだ。彼が語り始めた犯人の魔術とは、一体何んであったろうか? 「僕がこの説を組立てる事が出来たのは、多数の手や首を持っている、所謂多面多臂仏の感覚からなのです。所で、御承知の通り夢殿には、階下の正面に、殆んど等身大と思われる十一面千手観音の画像が掲っています。そして、僕がその感覚に気付いたと云うのは、恰度事件当日四時半頃の事なのでした。その時表面の厨子扉には、横手の檽子窓が黒漆の上に映って居りました。所が、それから網扉を開くと、正面の千手観音に不思議な運動が起るのを見たのです。と云うのは、最初厨子扉に映った檽子を見詰めて、それから網扉に嵌まっている縦桟の格障子を見たからなんです。つまり檽子窓の残像が縦桟の間に挾まって──そうした時に網扉を開いたのですから、当然一つの実像と一つの残像とが交錯して、そこに所謂驚盤現像(縦穴の並んでいる円筒を廻転させると、内部の物体が動くように見える活動写真的現像)が起らねばなりません。然しその現象は、網扉が眼前から去ると同時に、当然止むだろうと思うでしょうが、事実は、その後も暫く続いて居りました。多分、視軸に影響して廻転が続くので、それにつれて、やはり以前通りに動いたのでしょう。すると、眼前の十一面千手観音にどう云う現象が起ったと思いますね。臂を上方に立てている肩口の七本と、下に向けている腰辺の四本が……、各々が一本の手になってしまって、その手を左右に振っているかのような錯視が現われたのです。つまり、残像の列と符合している縦の線が、目撃者に動いたように見えたからなんですが、同時にそれにつれて、全身の線や襞が、不気味な躍動を始めて来ました。ですから、僕がそれと気が付いた時、これが密室を開く鍵ではないかと思ったのですよ。けれども、発見当時の刻限は恰度反対でして、生憎檽子窓から陽差が遠ざかっていたのです。ですから、改めてそこに、新しいフィルターを探さねばならなくなりました。所が、画像に運動感を与え、一人の白衣を被った人物を、その眩影の中に隠してしまう──と云う不可思議な作用が、階上にある浄善の屍体の中にあったのですよ」 「君は、何を云うんだ?」検事は思わず度を失って叫んだ。 「そうなんだ支倉君。あの屍体──いや動けない生体が、自転したからなんだよ。たしか君は、四肢の妙な部分に索痕が残っていたのを憶えて居るだろうね。あんな所を何故犯人が縛ったかと云えば、精神の激動中に四肢の一部を固く縛って血行を妨げると、その部分に著しい強直が起るからなんだ。それと同じような例が、刑務所医の報告にもある事で、死刑執行前に殆んど知覚を失っている囚人の手首を縛ると、全部の指が突張ってピインと強直してしまうそうだがね。この事件でも犯人は奇怪な圧殺をする前に、浄善の手足に紐を結び付けて置いたのだよ。それを詳しく云うと、まず両膝と両肘を立てて、腕は上膊部の下方、肢は大腿部の膝蓋骨から少し上の所を、俗に云うお化け結びで緊縛して置いたのだ。それから、その緊縛を右膝と左腕、右腕は左膝と結び付けて、その二本の紐を中央で絡めグイと引緊めたので、浄善は頗る廻転に便宜な、まるで括猿みたいな恰好になってしまった。そうして置くと、やがて強直が始まるにつれて、当然関節の伸びる方向が違うからね。二本の紐が反対の方向に捻れて行って、浄善の身体が廻転を始めたのだ。そして、強直が極度になってピインと突っ張ってしまう頃には、それに加速度も加わって、まるで独楽のような旋廻になってしまったのだよ。そう判ると、格子扉から落ちて来る唯一の光線の中で、宛ら映写機のフィルターのように旋廻していたものがあった──それが取も直さず、浄善だったと云う事が判るだろう。勿論それが、千手観音に運動錯覚を起させて、目撃者に細かい識別を失わせてしまったのだ。事実、犯人は至極簡単な扮装で、画像の前に、像の衣の線と符合するように立っていたのだったよ。そして、それ以前に、まず屍体を廻転させて、それが頂点に達した時紐を解いたのだ──無論加速度で、暫くは廻転が止まなかったと、思わなければならないだろう。それから犯人は、笙の鳴り出す時刻に近附いたので、頃やよしと階下に下りて行った。所が、智凡尼は入るとすぐ、千手観音の画像が不気味な躍動をしているのを、発見したのだったけれども、これは屡出逢う事で、とうに脳裡の盲点になっていたのだから、当然気にしなかったと同時に、その時階下が、誰もいない空室だったと誤信してしまった。で、その一瞬後に、階上に動いている影を発見したのだったけれども、嵌格子を斜下から眺めて、そこに影らしい珍しいものが、チラッと映じたのみの事で、それをすぐに確かめようとはしなかった。と云うのは、横手にある異形な推摩居士を発見したからなんだよ。それから推して考えると、推摩居士を階段の上り口に下ろしたと云うのは、その殆んど全部の目的が、フィルターの正体を曝露させないために、すぐ目撃者の注意を、惹くためだったに相違ない。斯うして、精密な仕掛を種に錯視を起させて、やがて智凡尼が二階へ上った隙に、明け放した網扉から脱け出したのだが……。さて、残った謎と云うのは、笙がどうして鳴らされたか──と云う一事なんだよ。階下に潜んでいる犯人が、階上の笙を吹けると云う道理はないし、それとも、事実二階に人間がいたとすれば、密室の中へ、更にもう一つの密室が築かれてしまうのだよ」 「ウン、浄善の姿勢が変ったと云う事だけは、不自然に作られた強直が絶命後に緩和するからね。それは、それで解るにしても……」と検事が合槌を打った時に、青白い光が焼刃のように閃いて雷鳴が始まった。雷の嫌いな法水は、鳥渡顔色を変えたが、そのためか一層蒼白になって、凄じい気力を普光尼に向けた。 「そこで、私は最後の断案を下したいのですが、それを云う前に、先日秘かに試みた心理試験の結果をお話する事にしましょう。と云うのは、推摩居士の行衣にある瓢箪形の血痕を、各人各様に見た印象が素因なのです。所が、貴女だけは、それを知らない──と答えましたっけね。私は、あれ程特異な形を知らないと云う言葉に、異様な響きを感じて、早速その分析を始めました。そして気がついたのは、私と貴女とでは、目的とするものが全然異なっていると云う事なんです。言葉を換て云えば、貴女は私の術中にまんまと陥ってしまったのですよ。実を云うと、あの心理試験を用いた真実の目的と云うのは、決して瓢箪形の血痕にあるのではなくて、寧ろ智凡尼が英仏海峡附近の地図と云った、下の血痕との間に挾まれている溝にあったのです。貴女が知らないと答えたのは、あのU字形の溝なんですよ。ねえ普光さん、聯想と云うものは、非常に正確な精神化学なんですよ。あの二つの伝声管を繋いだとしたら、それがU字管になるでしょうからね。するとU字管には色々な現象が想像されますが、さしずめ、一本の伝声管の端に銛を作ったと仮定しましょう。そして、それに空気を激突させるような仕掛を側に置いたとしたら、そこでは下らない雑音に過ぎないものが、管の気柱を振動させて二階の孔からどう云う音響となって飛び出しますか──その事はとっくに御承知の事と思われます。いや、笙の蜃気楼を作った貴女の魔術を、私が此処でくどくど説明する必要はないのですよ。とうに貴女は、それを問わず語らずのうちに告白してしまっているのですからね」  法水論理と巧妙なカマに掛かって、普光尼は一溜りもなく、その場に崩れ落ちてしまうものと思われた。所が意外にも、彼女の態度が見る見る硬くなって行って、やがて厳粛な顔をして立ち上った。 「いいえ、どうあろうと一向に構いませんわ。仮令、私が犯人にされた所で、菩薩にあるまじき邪悪の跡に、反証を挙げてさえ頂ければ……。けれども、孔雀明王が残した吸血の犯跡が、依然として謎である以上は、貴方の名誉心のために払わされる犠牲が、余りに高価過ぎやしないかと思われるのです。それよりも、寂蓮尼が期待している推摩居士の復活の方が、どうやら真実に近附いて行きそうですわ。この暑熱の些中に、一向腐敗の兆が見えて来ないのですから」  斯うして、法水の努力も遂に徒労に終って、階下の密室が解けたと思うと、その一階上に、更に新しいものが築かれてしまった。が、法水は一向に頓着する気色もなく、その日は他の誰にも遇わず、経蔵の再調査だけをして、囂々たる大雷雨の中を引上げて行った。所が、それから五日目の夜、突然検事が招かれたので法水の私宅を訪れると、彼は憔悴し切った頬に会心の笑を泛かべて云った。 「やはり支倉君、僕は考える機械なんだね。書斎に籠ると、妙に力が違って来るように思われるんだ。とうとう孔雀明王の四本の手を捥いでやったよ。然し、それは偶然思い付いたのでなくて、例の浄善尼がした不思議な旋廻が端緒だったのだ」  それから、法水の説き出し行く推理が、さしも犯人が築いた大伽藍を、見る見る間に崩して行った。そして、夢殿殺人事件は、漸くその全貌を白日下に曝されるに至った。 「所で、君にしろ誰にしろ、結局行き詰まってしまうにしてもだ。浄善尼が奇術的な廻転をした事が判ると、一応は、飛散した金泥に遠心力と云う事を考えるだろうね。そして、あの四本の玉幡が気になって来るのだが、あんな軽量なものには、たとえばそれを廻転させたにしても、結局それだけの分離力のない事が明らかなんだからね。あの一番手近な方法を、残り惜し気に断める事になってしまう。けれども、あの玉幡に、重量と膨脹とを与えたとしたらどうなるだろう」 「なに、重量と膨脹を!」検事は眩惑されたような顔になって叫んだ。 「うん、そうなんだ支倉君、結局そう云う仮定の中に、犯人の怖ろしい脳髄が隠されていたのだよ。とにかく、順序よく犯行を解剖して行く事にしよう。所で、事件の直前から、犯人が夢殿の中に潜伏していたと云う事は、当時各自の動静に、確実な不在証明が挙がらなかったのを見ても明らかだろう。だが、却ってそれが、この場合逆説的な論拠になるとも云えるんだ。そして、何処に隠れていたかと云う事は、あの当時の夢殿が、油火一つの神秘的な世界だったのだから、それは改めて問う迄もない話だろう。所で、浄善の昏倒と推摩居士の発作が適確なのを確かめると、犯人は四本の玉幡を合せて、繍仏の指に凸起のある方を内側にして方形を作り、それを三階の突出床の下に吊して置いたのだ。そして、愈画中の孔雀明王を推摩居士の面前に誘き寄せたのだが……、そうすると支倉君、あの神通自在な供奉鳥は、忽ちに階段を下り、夢中の推摩居士に飛び掛かったのだよ」  そう云ってから法水は、唖然とした検事を尻眼にかけて立ち上り、書棚から一冊の報告書めいた綴りを抜き出した。そして、それを卓上に置き、続けた。 「もとより画中の孔雀が抜け出すと云う道理はないけれども、それが孔雀明王の出現と云えるのには他に理由がある。と云うのは、推摩居士の異様な歩行が始まったからなんだ。君は、ヒステリー痲痺患者の手足に刺戟を与えると、様々不思議な動作を演ずると云う事実を知っているだろう。然しその前に、所謂体重負担性断端──それを詳しく云うと、義足を要する肢のどの部分が、足蹠のように体重を負担するか、その点を是非知っていて貰いたいのだ。で、推摩居士にはそれが何処にあるかと云うと、現に義足を見れば判る通りで、腓骨の中央で切断されている擂木の端にはなく、却って、膝蓋骨の下の腓骨の最上部にある。そして、それ以下の擂木は、義足の中でブラブラ遊んでいるのだ。つまり、足蹠の作用をするものの所在が、非常に重大な点なのであって、無論犯人は、その部分に刺戟を与えたのだったよ。それは云う迄もなく、正気ならば、膝蓋骨を下につけて歩くに違いない。けれども、夢中裡の歩行では、永い間の習慣からして、体重をかけていた腓骨の最上部を床に触れ、それを足蹠の意識にした直立の感覚で歩くのが当然なんだ。恐らく、さぞや重心を無視した滑稽な歩き方をした事だろうがね。然し義足を外した推摩居士には、それが一番自然な状態なんだよ。そうすると、推摩居士の足は栄養が衰えていて、目立った羸痩を示しているのだから、当然、その部分の菱形を中心にして、三稜形をした骨端と、膝蓋骨の下端に当る部分とが合したもの──それが、てっきり孔雀の趾跡のように見えはしないだろうか。そして、礼盤から離れて行った跡が、恰度前方から孔雀が歩んで来た跡に符合したと云う訳なんだよ」 「ああ」検事は溜らなく汗を拭いて、「だが、どうして推摩居士は三階へ上って行ったんだ?」  法水は卓上の一書をパラパラとめくって、最後に指で押えた頁を検事に突き付けた。 「支倉君、君はヒステリー患者の五官のうちで、何が一番最後に残るか──、それが視覚だと云う事を知っているかね。また、その中でも赤色だけは、発作中でさえも微弱に残っているのだ。勿論、巫術などでは、巧な扮飾を施して、それを恐ろしい鬼面に捏っち上げるのだが、現在僕の手に、それを証明する恰好な文献があるのだ。とにかく、その件りを読んでみよう。──(一九一六年十月、メッツ予備病院に於いてドユッセンドルフ驃騎兵聯隊附軍医ハンス・シュタムラアの報告)余の実験は、該患者に先登症状なる震顫を目撃せしに始まる。まず円筒形の色彩板を持ち出して、それを紫より緩く廻転を始めたるに、最終の赤色に至りて、同人は突如立ち上り、その赤色を凝視しつつ色彩板の周囲を歩み始めたり。此処に於いて、余は新規の実験を思い出し、同人の面前に赤色の布を掲げて、銃器を両壁に並べし通路の中に導き入れたり。然るに、その際興味ある現象を目撃せりと云うは、余が屡赤布を側の壁際へ寄せたるに、同人もまたそれに応じて、埋もれんばかりに身体を片寄せるかと思えば、また銃器に触れると、同時に身体を離し、その儘静止する事もありき。その現象は数回に渉り同一の実験を繰返して、結局確実なるを確かめたり。即ち、全身に斑点状の知覚あるためにして、その部分が銃器に触れたる際には、横捻が起らざりしものと云うべし)──」  読み終ると、法水は椅子を前に進め、徐に莨に火を点じてから、云い続けた。 「所で支倉君、そこに推摩居士を導いたものと、もう一つ、傷跡に梵字の形を残したものがあったのだ。勿論、犯人が、赤色の灯を使って、推摩居士を導いた事は云う迄もないだろう。そして、三階の階段口にある突出床から、下に方形の孔を開いている玉幡の中へ落し込んだのだ。また、それ以前に犯人は、繍仏の指の先に、隠現自在な鉤形をした兇器を嵌め込んで置いたのだが、その兇器は、その場限りで消え失せてしまったのだよ。で、最初まず、如何にして梵字形の傷跡が出来たか──それを説明しよう。一口に云えば、最初に向き合った二つの鉤が、推摩居士の腰部に突き刺り、それが筋肉を抉り切ってしまうと、続いて二度目の墜落が始まって、それまで血を嘗めていなかった残り二つの鉤が、今度は両の腕に突っ刺ったのだ。つまり、そこには到底信ぜられない、廻転がなければならない。けれども、それは勿論外力を加えたものではなくて、その自転の原因と云うのは、推摩居士の身体に現われた、斑点様の知覚にある事なんだよ。最初腰に刺さった二本がどうなったかと云うと、体重が加わって筋肉を上方に引裂いて行くうちに、左右のどっちかが、知覚のある斑点の部分に触れたのだ。そうすると、当然その部分に触れる度毎に、それから遠ざかろうとして身体を捻るだろうから、偶然そうして描かれて行った梵字様の痕跡が、左右寸分の狂いもなく、符合してしまったのだよ。つまり一口に云えば、推摩居士の自転が、轆轤の役を勤めたと云う事になるのだけれど、最後に筋肉をかき切って支柱が外れた際──その時、捻った余力で直角に廻転して墜落したのだった。そして、その肩口をハッシと受け止めたと云うのが、残り二側の玉幡だったのだよ」 「そうすると、傷の両端が違っているのは?」 「それでは支倉君、硬度の高い割合に、血液のような弱性のアルカリにも溶けるものを、君は幾つ数える事が出来るね。例えば、烏賊の甲のような、有機石灰質を主材に作ったとしたら、その鉤は血中で消えてしまって、脱け出した時には、それが繍仏の硬い指尖に化けてしまうだろう。然し、その変化の中に、驚くべき吸血具が隠されていたのだ」そうして、法水の推理が愈眼目とする点に触れて行ったが、その真相を聴いた検事は、思わず開いた口が塞がらなかった。どうしてあの時、曼陀羅を一本だけでも切ってみなかったのだろうか。 「つまり、一番複雑に思われるものが一番簡単なんだよ。あの曼陀羅を作った原植物と云うのが、毬華葛の干茎だからさ。シディの呪術には、あの茎とテグス植物の針金状の根とが、非常に巧みに使われていて、それを馬鹿な馬来人が驚いている始末だがね。あの茎の内部にある海綿様繊肉質は血であろうと何んであろうと、苟しくも液体ならば、凡て容赦しない。つまり、あの曼陀羅と云うのは数千本の茎を嵌め込みにした結び目なしのものなんだから、その最後の一寸にまでも、繍仏の指頭から推摩居士の血液を啜り込む事が出来たのだよ。勿論そう云う吸血現象があったがために、下方に流れた血が少なかったのだ。だが支倉君、当然そうなると、そこに重量と膨脹と云う観念が起って来るだろう。実は、浄善尼を扼殺した四本の手も、同様其の中に蠢いていたのだよ。で、血を吸い尽した曼陀羅の干茎が、無気味に膨脹すると云う事は、斯う判れば、改めて云う迄もない事だろう。けれども、一方全長に於いても、恐らく五分の一以上も伸びたに違いないと云うのは、階段に血痕を残さず、推摩居士を上り口に下ろしたのを見ても判る事なんだ。つまり浄善尼は、重量の加わった玉幡の裾を咽喉に当てられ、おまけに、猛烈な廻転までもさせられてしまったので、結局それが、頸椎骨の脱臼までも惹き起す原因になってしまったのだよ。そこで、犯人はどうしたかと云うと、玉幡を吊した紐の片方を、階段の上層の壁に持って行って、膨らんで推摩居士をしっくりと包んでいる、玉幡を動かして行った。そして、四つの幡を合せた剔り紐を引き抜いて、予め両脇に廻らして置いた紐を徐々に下ろして行ったのだ。それから、吊り紐を旧通の位置にしてから、その裾を二列に合せて、四つの幡の裾を浄善の咽喉に当てたのだがね。然し、その頃から、干茎中の血液が次第に消失して行ったのだったけれど、それは前以って、自分の着衣に血痕を残さないため、犯人が小窓を開いて置いたからなんだ。当然そこからは、灼熱せんばかりの日光が差込んで来る。ねえ支倉君、血液の九〇%以上は水分なんだぜ。それが蒸発した後は、無論以前と大差ない重量になってしまうのだ。然し、その減量と収縮は、僕等が到着する迄の、二時間余りの時間内に終ってしまったのであって、発見した際に尼僧達は、玉幡の膨脹には気が付かなかったのだ。そうしてから、犯人は、愈最後の幕切れになって、あの金色燦然たる大散華を行ったのだよ。と云うのは、無論浄善の廻転にある事だが、その時尼僧の咽喉に喰い入っていた玉幡が、どう云う状態にあったかと云うと、急激な膨脹と収縮が相次いで起ったために、表面の金泥が浮き上って剥離しかかっていた所なので、あの猛烈な遠心力が、一気に振り飛ばしてしまったのだ。だが、そうした玉幡の廻転は、階下にいる推摩居士にも影響して、その瀕死の視覚に映じたものがあった。君は推摩居士が、「宝珠は消えたが、まだ孔雀は空にいる」と云った言葉を憶えているだろう。可成り神秘感を唆る文句だけれども、その正体と云うのは、一種の異常視覚に過ぎないのだ。つまり、格子戸の桝目に映った火焔太鼓の楕円形が、玉幡の円孔の現滅につれて、或は孔雀の輪羽のように見えたり、また円孔が現われない時には、その二つ三つだけが残ったりして、結局推摩居士に、そう云う錯視を起させたに違いないのだよ」  検事は聴くだけでも相当疲労を覚えたらしく、彼は夢の中のような声を出した。 「すると密室は? 君が切り開いた中にもう一つあったのは?」 「それは、密室と云うよりも、笙がどうして自然に鳴ったかなんだよ」法水は几帳面な訂正をして、「それから犯人は、笙に仕掛を施して、その後に、玉幡を切り落してから階下へ下りたのだがね。所で君は、酒精寒暖計を知っているかね──細い管中の酒精が熱で膨脹すると云うのを。つまり犯人は、笙の吹き口に酒精を詰めて、それを縦にした根元を日光へ曝したのだ。そうすると当然膨脹した酒精は、中の角室の空気を圧し出して弁を唸らせる。所が、その一部が管中から吹き出てしまうので、それが竹質に吸収されて、膨脹は一端止み酒精は下降する。つまり、それが何遍となく繰返されるので、吹手が息を入れるような観が起る。そして、やがてそのうちに、酒精は跡方もなく消え失せてしまったのだ。だが支倉君、斯うして犯行の全部が判ってしまうと、犯人がヒステリー患者の奇怪な生理を遺憾なく利用したと云うばかりでなく、たった一つの小窓に、千人の神経が罩められていた事が判るだろう」  検事は息を詰めて最後の問を発した。 「そうすると犯人は──一体犯人は誰なんだ?」 「それが、寂蓮尼なんだよ」と法水は沈んだ声で答えて、熱した頬を冷やすように窓際へ寄せた。 「たしか、あの日に寂蓮尼が、大吉義神呪経の中にある、孔雀吸血の伝説と云う言葉を云ったっけね。所が、調べてみると、その経文の何処にもそんな章句はない。けれども、僕は経蔵の索引カードの中から、異様な暗合を発見したのだ。と云うのは、いつぞやの『ウエビ地方の野猟』と、大吉義神呪経の図書番号とが、入れ違いになっている事なので、意外にも片方になかった記述が、セントジョンの著述にある挿話から発見されたのだよ。それは、ケラット土人の伝説なんだ。孔雀が年老いて来ると、舌に牙のような角質が生えるそうだが、それを他の生物の皮膚に突き刺し、血液の中に浸して置くと、その角質が忽ち、ポロリと欠け落ちてしまう──と云うのだがね。すると支倉君、推摩居士に加えた殺人方法が、そこから暗示されているとしか思われまい。つまり、寂蓮が示威的な嘘を作ったものには、自分だけしか知らない、入れ違っている図書番号の聯想が現われたからなんだ。然し、動機は一言にして云い尽せるよ。奇蹟の翹望なんだ。ユダ(ユダの叛逆は耶蘇に再生の奇蹟を見んがためと云われる)、グセフワ(奇蹟を見んがために、ラスプチンを刺そうとした露西亜婦人)、そして寂蓮さ。けれども、あれほど偉い女が、水分を失った屍体が木乃伊化する事実を、知らぬ筈はないと思うがね。それさえも忘れさせて、あの凝視を続けている所を見ても、神秘思想と云うものの怖しさが……、どんな博学な人間でさえも、気狂い染みた蒼古観念の、ドン底に突き落してしまう事が判るだろう。ねえ支倉君、もう永い事はあるまいから、あの女には○○○○○待ってやる方がいいよ。それが、この陰惨な事件にある、ただ一つの希望なんだからね」 底本:「小栗虫太郎全作品4 二十世紀鉄仮面」桃源社    1979(昭和54)年3月15日発行 底本の親本:「二十世紀鉄仮面」桃源社    1971(昭和46)年11月15日初版 初出:「改造」改造社    1934(昭和9)年1月号 入力:ロクス・ソルス 校正:Juki 2006年7月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。