百三十二番地の貸家 岸田國士 Guide 扉 本文 目 次 百三十二番地の貸家 第一場 第二場 人物 宍戸第三 毛谷啓 同京子 目羅冥 同宮子 甲斐加代子 婦人 第一場 東京近郊の住宅地──かの三間か四間ぐらゐの、棟の低い瓦家──「貸家」と肉太に書いた紙札が、形ばかりの門柱を隔てて、玄関の戸に麗々しく貼つてある。四月上旬の午後。 その門の前で、立ち止つた夫婦連れ、結婚一二年、今に今にと思ひながら、知らず識らず生活にひしがれて行く無産知識階級の男女である。 毛谷  この家だらうね。 京子  さうでせう。 毛谷  番地が書いてないね。 京子  これですよ。大家さんは何処か聞いてみませう。 毛谷  同番地としてあつたんだから、その隣がさうかも知れないね。表札を見て来てごらん。宍戸だよ。 京子  (帰つて来て)ちがひますわ。そいぢや、向うかしら……。 京子  さうぢやなくつて? 若しかしたら、裏かも知れないわ。(裏へ廻らうとする) 毛谷  待て、待て。一寸、外側だけでも見てからにしようぢやないか。庭は、これで沢山だね。 京子  さうね。市中のことを思へばね。 毛谷  これが、八畳と六畳かな。便所がそこと……。日当りは好ささうだね。 京子  それやもう……。あたし、お台所さへ気に入つたら、すぐにでも借りますわ。 毛谷  さうまあ急ぐなよ。しかし、今日は草臥れた。 京子  でも、散歩だと思へば、なんでもないぢやありませんか。あなたは、すぐに草臥れておしまひになるから駄目よ。お天気だつて、四月にしちや上出来ですわ。 毛谷  僕は何時でも草臥れてるやうなもんだ。近頃は……。さうすると、玄関と、もう一間あるわけだね。三畳か四畳半だらうね。なるほど……これならいゝや。 京子  停車場だつて、さう遠くはないでせう。今日はずゐぶん廻り路をしたからですけれど……。 毛谷  三十五円ていふところだらうな。少し辛いね。 京子  さあ、話次第では三十円にするでせう。 毛谷  間部のうちが、あれで、四十円だからね。尤も、先生は煙草も喫はない。円本も買はない……。元来、店に建てた家だからね。 京子  奥さんも、おめかしをしないでせう。兎に角、大家さんに話してみませうよ。 毛谷  なんて話すんだい。 京子  その前に、中を見せて貰はなくちや、あなた……。 毛谷  あ、さうか。隣で訊けばわかるだらう。 (この時、裏から宍戸第三、薪を割る鉈を持つてあらはれる) 宍戸  あなた方、何か御用ですか。 毛谷  はあ、実は、この家を見たいんですが……。 宍戸  あなた方がお住ひになるんですか。(二人を見上げ見下しする) 毛谷  さうです。僕達夫婦です。 宍戸  お二人きりですか。 京子  二人きりですわ。女中をそのうち置かうと思つてますけど……。 宍戸  その外にあとから、どなたか外においでになるやうなことはありますまいな。 毛谷  今の処、ありません。 宍戸  お子さんは……? 毛谷  子供は、まだありません。だから、二人きりですよ。 宍戸  近々お出来になるやうなことはありませんか。 毛谷  さあ、それは保証出来ませんな。子供が出来ちやいけないんですか。 宍戸  お出来にならない方が結構ですな。 毛谷  僕達もその方が結構なんですが、あなたは、お子さんは……。 宍戸  わたしには子供なんかありません。五年前に、女房と別れてから、ずつと独り暮しですが、子供がなくつて仕合せです。御商売は?…… 毛谷  会社へ勤めてゐます。(名刺を出す)かういふ者です。 宍戸  なるほど……失礼ですが、月給は幾らお取りですか。 毛谷  さういふことまでお話しなくちやならないんですか。 京子  あの、宅では、月給だけをあてにして暮してるんぢやございませんの。ですからお家賃の方も……。 宍戸  いや、さういふつもりで伺つたのぢやありません。わたしも、この家を人様にお貸ししてはゐるやうなものの、その上りだけで暮してゐる男ぢやないのです。高が三十円や四十円、と云つたところで、そのうちの幾分は、暮しのたしにすることはしますが、三十円が二十五円になつても、それやかまはないのです。 毛谷  (京子に)申分ないぢやないか。 宍戸  それがですな。わたくしの方は、お貸しする方の収入に応じて、頂けるだけ頂く方針なんで、つまり、原則として、収入の四分の一だけ……。 京子  四分の一つて申しますと……。 毛谷  百円の収入なら二十五円と云ふわけですな。 宍戸  さやう。処で、今、奥さんのお話では、月給の外に収入がおありのやうですから、さういふお方は、やはりその全収入の四分の一。 毛谷  いや、実は、僕達としましても……。 宍戸  二百円なら五十円、五百円なら百二十五円……。 京子  まあ……。 宍戸  それでいゝわけぢやありませんか。ねえ。それで高いとお思ひになるなら、ほかの家をお借りになればいゝわけでせう。(奥へ行きかける) 毛谷  それやまあ、さうです。 宍戸  (帰つて来て)その代り一旦お貸しした上は、わたしも、うちの者同様に思つて頂きたい。お役に立つことなら何でもします。今もこの通り薪割りをしてゐたくらゐで、まだ力仕事なら若いものに負けません。それに、晩なんかは、なんにもすることがなくつて、ぶらぶらしてゐますから、芝居や活動にいらつしやる時は、お留守番を仰せつかります。此の辺はわりに物騒ですから、家を空けておいでになることはよくない。 毛谷  (念を押すやうに)こゝは、百三十二番地ですね。 宍戸  さうです。新聞で御覧になりましたか。今日はこれで三組、あなた方のやうな若い御夫婦が、家を見に来られました。この家を建ててから七年になりますが、最初の二年、自分で住んだきりです。あとの五年間は、ずつと人に貸してありました。それが、みんな、若い御夫婦ばかりです。一番はじめが軍人さんで、今台湾に行つておいでになる鬼頭さん。その次が、これは、わたしの眼鏡違ひで、飛んだ奴に借りられて了つたのですが、なんでも、小説を書いてるとか書いてないとかいふ青瓢箪、その嬶といふのが、また髪をかう、お河童さんにしやがつて、風呂敷のやうな洋服を着てゐるんですから、なんとも、はや、お話にならん。これは半年で逐ひ出しました。その次が、先達までおいでになつた大学の先生で、それ、何と云ひましたつけな……。 毛谷  さあ。 宍戸  いえ、つまり、その英語みたいな本をね、ビール箱に三つも持つておいででした。若い、可愛らしい奥さんと一緒でね。仲がいゝにもなんにも、朝起きると、二人で、もう歌を唱ふんです。わたしも、たうとう、その歌を覚えちまひましたよ。「恋はやさし、野辺の花よ……」 京子  ほんとに、まあ、お上手ですわ。 毛谷  しかし、ちつと流行遅れですね。 宍戸  チエツ、素晴しい夫婦もあればあるもんですよ。それがどうでせう。わたしは、一日に一度、その御夫婦のお顔を見ないと、夜、眠られなくなつて了つたんです。弱りましたな。別に、毎日、用があるわけぢやなし、なに、用さへ作れば、一とまたぎの処にゐるんですが、大家なんていふものは、これで、肩身の狭いもので、うつかり顔を出せば、煩さい、何しに来た、といふやうな目で見られる。それでも、どうかして、二人のお顔が見たい。話声が聞えるとぢつとしてゐられない。家の中が静かだと胸がドキドキすると云つたやうな風に、もうかうなると、見栄も外聞もなくなる。「御免下さい。つまらんものですが、お一つ」と、煎餅を一袋、干柿を一串、毎晩のやうに持つて行つたものです。 毛谷  お話中ですが、家の中を一寸見せて頂けますまいか。 宍戸  はい、只今。わたしは、もと、鉄道院に出てゐましたのですが、少しばかり金を蓄めて、役をまあ退いたやうなわけですが、その金で、第一にこの家を建て、細々ながら恩給で暮して行くつもりでゐたのです、処が、不意に、女房に死なれて、なんの楽しみもなくなつたものですから、自分は、裏の空地に、バラツクのやうなものを作つて、其処に住み、この家は、まあ、気持のいゝ方にお貸しして、何とか面倒を見てもあげ、早く云へば、(二人を見較べ)鶏でも飼ふやうなつもりで、余生を送れば、いくらか気も紛れるだらうと思ひましてね。 京子  あたくしたち、少し急ぐんですけれど……。 宍戸  (帯の間から鍵を出し、玄関の戸の錠を外し)さあ、どうぞ……。掃除はちやんとしてあります。畳替も、この春にしたばかりですから……。 一同、家の中にはひる。 毛谷  この家は、何時から空いてゐるんですか。 宍戸  つい、先達、空いたばかりです。 毛谷  先達といひますと……。 宍戸  つい、この間です。 毛谷  しますと……。 宍戸  十日ばかりにもなりますか……。 毛谷  それにしちや、なんだか、埃つぽいですね。 宍戸  この辺は、埃がなかなかひどいですからな……。なに、すぐに掃除はできますよ。(縁側の雨戸を繰る) 毛谷  (天井を見ながら)十日ぐらゐぢやありますまい。 宍戸  さあ、それとも一月にもなりますかな。なにしろ、今年になつてからですから……。 毛谷  大分住み荒してありますね。 宍戸  それと云ふのが、お二人とも、暢気な方で、わたしが、たまに、お留守中、掃除をするくらゐなものですから……。 毛谷  襖なんか、ひどく破れてますね。 宍戸  それがですよ。お二人で、鬼ごつこをなさるんですからね。この六畳を茶の間にして、八畳を、客間兼書斎といふ風に使つておいででした。おやすみになるのも、やはり八畳で……。わたし共は、北枕といふことは決してしませんが、お二人とも、こつち枕でしてね、こつちが北です。 京子  夏は涼しいでせうかね。 宍戸  えゝ、それや、もう……。こつちの窓を明けておやすみになれば……。そこが、わたしの住居ですが、ですから、用心は大丈夫です。 京子  以前のかたは、夏、窓を明けておやすみになつたんですか。 宍戸  蒸し暑い晩なんかは、さうしないと、眠られないなんておつしやつてね。なに、用心は大丈夫ですよ。さういふわけで、折角お馴染になつてゐましたのに、なんでも、お国からお母さんやなにかをお呼びになるんで、こゝでは狭すぎるつておつしやつてね、目黒の方へお越しになつたものですから、どうかして、この次にお貸しする方も、前のやうな方をと思ひましてね。今まで、沢山、見に来た方も、こつちから、お断りしたのが多いやうなわけで……。 毛谷  ぢや、僕達は及第したわけですか。 宍戸  まあ、かう云つちやなんですが、お二人とも、お人柄のやうだし……。 京子  なかなか、お口がうまくつていらつしやるわ。 宍戸  なにしろ、こればかりは運でしてね。こつちがいくらいゝと思つても……。 毛谷  向うで気に入らなければね。 宍戸  さやう。向うでいゝと思つても、こちらで真平といふのがあつたりして……。 毛谷  この家は、これで、建坪はいくらです。 宍戸  二十坪半です。便所が寝られるくらゐ広いんです。 京子  この三畳は何に使はうかしら……。女中はまだ見つからないし……。 宍戸  箪笥なんかお置きになつちや如何です。前の方は、さうなすつておいででしたよ。なんでも、奥さんのお里が大分いゝらしい様子で、箪笥なんか立派なものでしたな。ここの処に衣桁があつて、始終、目の覚めるやうな着物が、取替へ引替へ掛かつてゐましたつけ……。それから、ここに鏡台が置いてありましたな。奥さんが、朝晩、丹念にお化粧をなさる。それを、あつちから、旦那さんが見てをられるんです。時々、紙を丸めて、奥さんの肩にぶつつけたりなんかなさるんですよ。はゝゝゝゝ。 京子  いやですわねえ。 毛谷  どうしよう。 京子  さあ。 宍戸  どうか、わたしには御遠慮なく、いろいろ、御相談をなすつて下さい。御都合で、お家賃の方はどうにでもなにしますから……。どうせ、かうして空いてるもんですし……。なに、十円や十五円、どつちになつたつてかまやしません。 京子  でも……。 宍戸  わたしはね、同じことなら、あなた方のやうな、若い御夫婦にはひつて頂きたいんです。第一、陽気でさね。 毛谷  駄目ですよ。もう、僕たちぢや……。 宍戸  そんなことはありません。失礼ですが、おいくつです。 毛谷  (笑つてゐて答へない) 宍戸  奥さんは……? 京子  そんなことをお聞きになつて、どうなさるんですの。 宍戸  いや、兎に角、あなた方の時代は花ですよ。わたしもね、これで、鉄道院に勤めてゐます頃は、それ、よく、旅行をしませう。旅先では、どうしたつて、やあ、なんのかんのと云つて……。 毛谷  それでは、よく考へてお返事をすることにしませう。 宍戸  はあ。 毛谷  どうもお邪魔しました。 宍戸  ぢや、どうか一つ、よくお考へになつて……。 京子  御免下さい。 両人、外に出で、門のところから、それぞれ家を振りかへる。宍戸は、戸締りをし始める。 毛谷  うるさい大家もあつたもんだなあ。 京子  寂しいのね。 毛谷  前にゐた奴つていふのは、よつぽど、だらしがない奴と見えるね。 京子  何もかも、あけすけなのね。だけど、よく見といたものね、いろんなことを……。いやな、お爺さん。でも、家は、気に入つたわ。あなたは、どう。 毛谷  家賃をいくらにするのか知らないけれど、あの調子ぢや、二十五円ぐらゐにしさうぢやないか。 京子  さうよ、さうなら、随分、安いわ。 毛谷  安いさ。惜しいやうな気もするな。 京子  ね、さうでせう。いくらか、聞いてみるだけ聞いてみといたら? 毛谷  うん、しかし、来て見て、あゝ煩さく附き纏はれちや、やりきれないね。 京子  こつちが相手にしなければいゝんだわ。留守番なんか頼むからいけないのよ。あたしたちは、外へだつて、そんなに出ないんだし、世話になることなんか、ありやしないわ。もう、きめたつと……。 毛谷  それもさうだね。兎に角、聞くだけ聞いといてみよう。(引返す。玄関に出て来る宍戸に)あのう……若し、拝借するとして、家賃の方はいくらぐらゐにして頂けるんですか。それを伺つとかないと……。 宍戸  さやうですな。まあ、一つ、その辺は、適当に御相談しようぢやありませんか。今までのお宅は、どういふ風で……。 毛谷  今までは、これより少し狭くつて、二十五円出してゐたんですが……。 宍戸  どちらですか。 毛谷  市内です。 宍戸  市内は、どちら……? 毛谷  あの……本郷です。 宍戸  本郷……? ぢや、まあ、この辺と同じやうなもんですな。それぢや、三十円といふことにしようぢやありませんか。 毛谷  ですけれど……。 宍戸  いえ。それでかまひません。さつきも云ひましたやうに、十円や十五円は……。 毛谷  ですから……。 宍戸  まあ、まあ、さうして置いて、畳ぐらゐをそちらで持つていただけば……。 毛谷  いえ、さうぢやないんです。こつちもまだ薄給の身ですし……。 宍戸  いくらお取りですか。 毛谷  九十円ばかりしか取つてゐません。 宍戸  それに、一方の御収入が……。 毛谷  いや、あれは、実は、家内の方の何でして、今月からは、当にできない事情があるもんですから……。 宍戸  よろしい。それぢや、二十五円にしませう。その代り、考へた上でなんておつしやらないで、いますぐに、決めていただかうぢやありませんか。別に、お考へになる余地はないでせう。奥さんも御一緒なんだし、奥さんは、大分気に入つておいでのやうですな。 毛谷  いや、さういふわけでもありませんが、家賃さへ安くしていただければ、と云ふんで……。 宍戸  二十五円は安いでせう。 京子  (近づき)どういふお話なんですの。 宍戸  二十五円でも高いとおつしやるんです、旦那さんは……。 京子  それで、敷金の方はどうしたら、よろしいんでせう。 宍戸  あなたの方は、どういふ御都合ですか。 京子  あの、でも、おつしやつていたゞいた方がよろしいんですの。 宍戸  ぢや、敷金なしとしませう。 京子  あら。 毛谷  さうですか。 宍戸  今晩からでもいらつしやい。わたしは、今から掃除にかゝります。 京子  一寸、それぢや、もう一度、よく見せて頂きますわ。 毛谷  なあんだ。 宍戸  どうぞ、どうぞ……。(また鍵を外す) 京子  (はひりながら)お台所がどういふ風になつてましたかしら……。 宍戸  これで、家賃を取るために家を貸してゐる人は知りませんが、わたしなんかのやうに楽しみに人を置いてるものには、年寄りがゐて念仏を唱へたり、子供にギヤアギヤア泣かれたりしては、全く引き合ひませんからな。出来ることなら、あなた方のやうな、新婚の夢まどらかな若夫婦で、それも……。 毛谷  僕達は、もう新婚ぢやありませんよ。 宍戸  いや、それにしても、まだ世の中の苦労にはそれほど揉まれておいでにならんでせう。 毛谷  どうして、どうして……。 宍戸  つまり、夫婦が顔を合はせても、きつと何かしら云ひたいことのある時代、お互に、飽かず感情の火を点し合つてゐる時代、さういふ時代の御夫婦に、わたしは、この家をお貸ししたいんですよ。その御夫婦の生活が、云はば、今のわたしの、ほんたうの生活なのかも知れません。 毛谷  (出て来た妻に)どうだい。兎に角、一度帰つて相談することにしよう。 京子  さうね、でも……。 宍戸  お決め下さるなら、早い方が結構です。手附もなにもいりませんから、お約束だけなすつて置いて下さい。 京子  ぢや、折角あゝおつしやつて下さるんですから、さうしたら、どう? 毛谷  さうだね。そんなら、明日は日曜だから、早速なにするとして……。(小声で妻に話しかけ、紙入から紙幣を取り出し)ぢや、兎に角、これだけお渡ししときます。 宍戸  いや、そんなことはなさらんでよろしい。男同志がお約束をしたんですから、明日来て下さりさへすれば、そんなものは頂かなくつても同じことです。 毛谷  そんなら……。(紙幣を蔵ひ)明日、間違ひなく……。 宍戸  (きつきの名刺を更めて見たる後)毛谷啓さんですな。よろしうございます。(戸の鍵をかけかける) 毛谷  どうも、御邪魔しました。 京子  御免下さい。 宍戸  あ、では、お待ちしてゐます。これから、早速、畳を拭きませう。(家のなかにはひる) 毛谷  どうも少し、変だね、あの大家は……。 京子  今時珍しいわ。でも、敷金なしだとすると、百五十円浮いて来るわね。 毛谷  あれは無いものとしとかなくちや駄目だよ。 京子  無いものと思つて、洋服をお作りになつたら……、今度こそ。 毛谷  それはさうと、鶏を飼はう、鶏を……。 京子  鶏だけれど、あたし、このシヨールぢや、もう暑いわ。 両人の姿が消える。 第二場 その翌日──夕刻 貸家札が剥がしてある。雨戸が開いてゐる。帯とハタキとを肩にかついで、シヤツ一枚の宍戸第三が縁側に腰かけてゐる。 表札──それは並み外れて大きな表札、「毛谷啓」としてある。 家の中には、勿論、道具らしいものは、一つも置かれてない。 そこへ、通りかゝつた一組の夫婦、毛谷夫婦より、一層生活の疲れが見える男女、この光景をいぶかしげに見てゐるが、やがて、男が声をかける。 目羅  この家は、もう塞がつたんですか。 宍戸  塞がりました。いや、それと云ふのが、まだなのです。何か御用ですか。 目羅  此処は百三十二番地ですね。実は昨日の新聞を見て来たんですが、まだ空いてるなら、一寸、中を見せて頂けませんか。 宍戸  お住ひになるのは、あなた方ですか。 目羅  えゝ。 宍戸  お二人きりですか。 目羅  実は、家内の妹を国から呼び寄せましたので、少し広い家を借りたいと思ひまして……。 宍戸  すると、お三人ですね。で、その妹さんとおつしやるのは、奥さんよりもお若い方ですか。 目羅  家内と八つ違ひです。 宍戸 なるほど……。学校をお出になつて、嫁入口を探しにおいでになるわけですな。 宮子  いゝえ、上の学校へはひりますんですの、女子大学へ……。 宍戸  女子大学へね。(考へて)奥さんのお妹さんですね。こいつは、一つ、お断りしませう。 目羅  どうしてですか。 宍戸  わたしは、なるだけ、夫婦つきりのお方にお貸ししたいのです。でないと、三角関係は、どうもやゝこしくつていけません。いや、そんなこともおありになりますまいが若し間違ひでも起ると、これで、わたしが第一心配しなくちやならんですからなあ。年を取つてから、目のあたり、人間の争ひを見せられるのはかなひません。 宮子  まあ、そんなことを心配してらつしやるんですか。宅に限つて……。 宍戸  お宅に限つてと、奥さんはおつしやるが、わたしは、これでまだ耄碌はしてゐません。しかし、こゝで一度悲しみに遭へば墓の中までその悲しみを背負つて行かなければならない年なんです。うつかりしたことはできませんよ。(着物を着はじめる) 目羅  ぢや、どうしても駄目なんですか。 宍戸  お名前は……。 目羅  目羅冥です。 宍戸  は……? メラメエさん……。 宮子  目羅が姓で、冥が名ですの。 宍戸  へえ。御商売は……。 目羅  役所に勤めてゐます。 宍戸  お役所は……。 目羅  鉄道の方です。 宍戸  鉄道の方……? それぢや、まあ、おあがりなさい。(縁側からあがり)これが六畳と八畳、玄関が二畳で、そこは三畳です、ひろい便所がついてゐます。鉄道は、どちらです。 目羅  本省にゐます。(上る) 宮子  (続いて)まあ、この襖は、どうしたんでせう。 宍戸  わたしも、鉄道院にゐたことがあります。それぢや、まあ、同僚といふ処でさ。 一同奥に姿を消す。この時、二十前後の女学生風の女が、あたりを見廻しながらはひつて来る。 加代子  姉さま、姉さま。 宮子  まあ、早かつたのね。どうしたの。 加代子  都留さんてばね、姉さまや兄さまを連れてらつしやいつていふの。今日は家を見に来たんだからつていつても、お母さんと一緒になつて、どうしても連れて来いつて聞かないのよ。どうなさる? 宮子  いゝわよ。どうせお世辞にさう云つてるんだから……あたし、そんな女中が三人も居る家へ行くのは、いやよ。 加代子  ねえ、あんな立派な家、あたしも、上るのいやだわ。行かなかつたらよかつたわね。番地があんまり近いもんだから、つい、訪ねてみる気になつて……。 宮子  そんな人を、これからお友達にもつと、余計な苦労をしなくちやならないわよ。学校だけのお交際なら仕方がないけれど……。それはさうと、この家……どう。三畳があなたの勉強部屋よ。 加代子  あら、三畳なの。女中部屋ね。 宮子  沢山よ、それで……。生意気云ふと、承知しなくつてよ。 加代子  ぢや、姉さまのお部屋は? 宮子  姉さんの部屋つて、別にないわ。お茶の間があるつきりよ。 加代子  つまらないわ。めいめいのお部屋がなくつちや……。 宮子  そんな贅沢云つて、あなた……。これでいくらだと思ふ、家賃……。 加代子  知らない。二十五円……。 宮子  冗談云つちや駄目よ。四十円よ。すまないけど……。 加代子  まあ……。そいで決めたの。 宮子  さあ、まだ兄さんが、なんておつしやるか……。多分決まるでせう。あたしや、もう、何処だつていゝの。(だるさうにしやがむ) 加代子  えゝと、こゝへ、白いカーテンをかけるのね。お庭には草花を植ゑませうね。このお座敷は、明るくつて、いゝわ。兄さまがいらつしやらない時は、あたし、此処で御本を読んでもいゝでせう。 宮子  それや、かまはないわ。お掃除は加代ちやんの受持よ。 加代子  今までだつてさうぢやないの。あたし、額は、みんな、こつちへ掛けよう。ミレエの「晩鐘」は、どこがいゝかしら……。すこし陰になつてるところがいゝんだけれど……。 宮子  何処へでも好きなところへお掛けなさい。あたしは、昼寝さへ出来ればいゝんだから……。 加代子  姉さまぐらゐ、家のことをかまはない人、あたし、見たことないわ。それと、お座敷へ着物を脱ぎつぱなしにしつこなしよ。これから……。 宮子  うるさいわよ。そんなことばかり云つてないで、あなたのお部屋を見て来たら……? 加代子  それよりこの襖は取り替へるんでせう。どういふ模様にするの。あたしに択らして下さらないかしら……。 この時、奥より、目羅、続いて宍戸が現れる。 宍戸  奥さんが、朝晩丹念にお化粧をなさる。それを、あつちから旦那さんが見てをられるんです。時々紙を丸めて奥さんの肩に……。 目羅  あゝ、さうですか。どうも少し気に入らない処がありますから、折角ですが、ほかを探しませう。 宍戸  何処がお気に入らないんですか。 目羅  それを云つても仕方がありますまい。おい、行かう。 宮子  やつぱり、いけないんですの。 目羅  いけない。(歩く) 加代子  あらどうして? 宍戸  家賃の点なら、もう少し引いて差し上げてもよろしいですよ。 目羅  いや、それには及びません。どうもお手間を取らせました。(外へ出る) 宍戸  ポンプを取りつけるのはわけありませんよ。 目羅  (どんどん出て行く。宮子と加代子は下駄を穿いて後を追はうとする) 宍戸  (宮子の前に立ち塞がり)ねえ、奥さん、大概のことなら、我慢をなすつて、一つ、はひつてみて下さいませんか。此の方が、お妹さんですか。なるほど……。御不自由なことがあれば、云つてさへ下されば、何時でも御要求に応じます。わたしは、金儲けに家を貸してゐるんぢやないんです。これはおわかりでせう。この家に住んで下さる方がないことは、わたしに取つて、たゞ一つの楽しみを奪はれてゐることです。それもどんな方でもいゝなら文句はありません。あなた方のやうな御夫婦、ことに、かういふお嬢さんをくはへて、若々しい三つの命が、わたしの建てた家のなかで、すこやかに育つて行くのを見るのは、まつたくうれしいのです。ねえ、さうでせう。お嬢さん。家賃なんかいりません。明日から来て下さい。いや、今晩からでもよろしい。 宮子  (夫の方に)ねえ、あなた……。(妹に)一寸、兄さまを呼んで来て頂戴。 宍戸  無理を申してすみませんが、わたしは、もう、この人ツ気のない家を、この上見てゐるのは苦しいんです。あなた方になら、只でお貸しします。はひつてさへ下されば鐚一文、頂かうとは思ひません。 宮子  (夫が戻つて来ないので、その後を追ひながら)ねえ、あなた……。あゝまでおつしやるんだから……。 目羅  おい、あいつの目を見ろ、目を……。 宍戸  (垣根の中から)ぢや、家賃は、二十五円にして置きます。敷金はいりません。それならどうです。 三人は、それには答へずさつさと行つてしまふ。 宍戸  (しばらくその後を見送つた後)馬鹿な奴だなあ、こんな安い家が何処へ行つたつてあるもんか。 この時、四十前後の婦人がその前を通りかかる。 婦人  一寸、お尋ねいたしますが、百三十二番地の宍戸さんつておつしやるお宅はどの辺でございませう。 宍戸  わたしが宍戸です。家を見においでになつたんですか。 婦人  はい、御手数ですけれども……。 宍戸  いや、いや、決して……では、あなたですか、おはひりになるのは……。 婦人  はい。わたくしなんでございます。 宍戸  御家族は? 婦人  わたくしと下女一人、それきりでございます。 宍戸  なるほど……それは結構で──。いや、若い御夫婦などにお貸しすると、家をだいなしにされましてな、あなたがたのやうなおかた、しかも、女中さんまでおありになるといふのでは、わたしの方では、一番有りがたいわけなんです。ほかに、お子さんなどはおありにならないんでせうな。 婦人  はあ、それもお話をすれば永くなりますが、一人娘がをりましたんです、只今一寸、事情がございまして、わきへ参つてをりますんで……。 宍戸  いや、御事情は略〻お察しします。で、失礼ですが、お連れ合ひは……。 婦人  それが、ある事情から、別になつてゐるんでございますが……。 宍戸  はゝあ、すると、なんですか。やはり時々……。 婦人  はあ、いえ、まあ、さういふわけなんでございます。 長い間。 宍戸第三は、ここで頗る困惑の体である。決断を急がうと思へば思ふほど、思案に迷ふのである。 婦人  お差支へございませんければ、一寸、中を見せて頂きたいんですが……。 宍戸  えゝ、それやもう……。(先に立つて歩き出す。相変らず考へ込んでゐる) 婦人  お家賃は……。 宍戸  わたしも、五年前に家内を失くしましてね、今、実は、この裏に、一人で住んでゐるんですが……。いやはや、お話になりません。 婦人  まあ、さやうですか。お子さまもおありにならないんでございますか。 宍戸  家内がをります頃は、この家に住んでゐましたんですが……。どうか、お上り下さい。(上る) 婦人  はあ、有りがたうございます。なかなかいゝお間取りでございますね。これで、おいくらに。 宍戸  今までをられた方は、若い御夫婦でしたが、それや、実によく出来た方でしてね。 婦人  さういふ方は少うございますわね。 宍戸  全くです。 婦人  ──、失礼でございますが、お家賃の方は……。 宍戸  なあに、いくらだつてようござんすよ。(しみじみと)永くゐて下さりさへすれば、三十円でも四十円でもかまひません。わたしも、これで、お上から頂戴するものもあるししますから、別に、家賃をあてにして、どうかうと云ふわけぢやありませんのでね。 婦人  この辺は物騒ぢやございませんかしら……女ばかりで……。 宍戸  いや、その御心配は御無用です。(窓を開け、外を指し)あそこが、わたしの住ひです。すまひと云ふほどのもんぢやありませんが、雨風をしのぐだけにはしてあるんです。あそこにゐれば、この家のなかの物音は手に取るやうにきこえます。いざと云へば、この窓から……なに、そんなことはめつたにありやしませんよ。ですが、まあ、安心しておやすみになれるわけです。こゝへお寝になりますか。それとも、六畳になさいますか。 婦人  さあ……その辺のことは、またいづれ……。 宍戸  なにね、そんなこともうかゞつて置けば、またなにかの役に立つと思ひましてね。道具類はたくさんおありでせうな。 婦人  いゝえ、大して……。 宍戸  それぢや、この押入は夜具だけになすつて、細いものは、六畳と三畳に半間づつ押入がありますから……。 婦人  なんですか、すこし広すぎるやうな気もいたしますけれど……。 宍戸  ひろいのはせまく使へます。せまいのはひろくは使へません。 婦人  なにしろ、女ばかりなものですから。 宍戸  なに、その御心配は御無用。ぢや、何時から、おいで下さいますか。 婦人  一度帰つて、相談いたしませんと……。 宍戸  御相談……。はあ……。しかし、なんですよ。いろんな方に相談をなすつたところで、結局、あなたがお住ひになるんですからな。いや、(気まづげに)かまひません。どなたにでも御相談なさい。(荒々しく)わたしはね。人から相談を受ければ、どんな心配でもしますが、ほかの人に相談されることは大嫌ひなんです。わたしの家内にも、時々、さういふ癖がありましたよ。どうもこれは、女の、よくない癖です。 婦人  (あつけに取られて、下駄を履く) 宍戸  (驚いて)もうお帰りですか。(嘆願するやうに)もう何も、おつしやることはないんですか。それぢや、おわかりになりましたね。 婦人  はあ、わかりました。どうも、お邪魔さま……。 婦人這々の体にて、逃れ去る。 宍戸  (部屋中を歩きまはり)わかつとらん、あの女……わかつとるもんか。紙を丸めて、それからどうする。天井へぶつつけるのか。(そつと、襖の隙間から、次の間を覗く。それから、また、忍び足で縁側の方へ来る)えゝいつ。畜生。(腕組みをする。あたりを見廻はし泣き声で)また日が暮れやがつた。 ──幕── 底本:「岸田國士全集2」岩波書店    1990(平成2)年2月8日発行 底本の親本:「昨今横浜異聞」四六書院    1931(昭和6)年2月10日発行 初出:「婦人公論 第十二年第三号」    1927(昭和2)年3月1日 入力:tatsuki 校正:門田裕志 2012年1月4日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。